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2009年     1月号
Essay……
BOX版(ネットストーレッジ)……



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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 1月 30日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●三日酔い闘病記

++++++++++++++++++

息子が、アメリカのNAPAのワインを、
みやげにもってきてくれた。

「あぶないかな?」と思いつつ、それを
フルーツ・ジュースで割って飲んでしまった。

飲みやすかった。
おいしかった。
で、調子にのって、その翌日も、飲んでしまった。
今度は、コップ3分の1ほどを、それを野菜
ジュースで薄めて飲んだ。

が、これが悪夢の始まりだった。
三日酔いの始まりだった。

++++++++++++++++++

翌朝、実はその日、愛知県のほうへ、グルメ観光に行く予定だったが、はげしい頭痛で
目が覚めた。
旅行は、そのままキャンセル。
頭痛だけではない。
症状を列挙してみる。

目が回る。
じっと見ているだけで、目の奥が痛くなる。
動きのあるものを見つめていると、吐き気を催す。
音がだめ。
音楽もだめ。
それがガンガンと頭に響く。

頭を動かすと、同じように吐き気を催す。
脈数を計ってみると、105〜110もある。
こめかみを指で触れてみると、そこでドクン、ドクンしているのがわかる。

食欲はなし。
インターネットで調べてみると、「水分補給がいい」とあった。
しかし胃そのものが、水分を受けつけない。
アレルギー反応を示している。
少しお茶を口にしてみたが、そのままゲーッ!

加えて、下痢、また下痢。
昨日だけでも、10回近く、トイレへ走った。
腸全体も、アレルギー反応を示している。
(これは素人判断だが……。)

昼過ぎになって、息子が二日酔いの薬を買ってきてくれた。
「2000円のワインを飲んで、薬代が2000円では、
赤字だね」と、おかしなことを言いながら、薬をのむ。
胃の不快感は、しばらくすると、軽くなった。
そこではじめて、ぬるいお湯に、蜂蜜を溶かして飲む。

が、食欲は、ゼロ。

起きていても目が回る。
しかたないので、そのままふとんの中へ。
こうして私は、約24時間も、つづけて眠ることに……。
ときどき体を起こしたが、24時間というのは、すごい。

そして三日目の今朝、やっとパソコンに電源を入れた。
頭を動かすと目が回るので、頭は椅子に固定したまま。
今朝になって、お茶を2杯飲むことができた。
が、飲んだとたん、またあの頭痛。
摂取した水分で、血管が拡張したためらしい。
それが神経を圧迫した。
片頭痛のときの頭痛に似ている(?)。

が、何よりもつらかったのは、厭世気分。
「二日酔いになると、厭世気分が増大する」という。
「生きていることそのものが、いやになる」……というのは、少し大袈裟だが、
しかしそれに近い。
犬のハナを見ても、いつものような愛情を感じない。
そこにいるのは、ただの動物。
あれこれグチを言うと、ワイフがこう言った。
「二日酔いを私のせいにしないでよ」と。

いつだったか、友人のT氏がこう言ったのを思いだした。
「酒で、憂(う)さが晴れるというのは、ウソだよ。
そのときは、酒で自分を忘れることができても、そのあと、何倍も、落ち込むよ」よ。

二日酔いと厭世気分。
悶々とした不快感。
暗く沈んだ夕方の景色を見ただけで、気分が落ち込む。
しかたないので、また床に横になる。
あとはこの繰り返し。

そして今。
こうしてキーボードを叩いているだけで、頭が痛くなる。
先ほど飲んだお茶が、胃の中でガボガボしている。
風邪をひいているわけでもないのに、背中がゾクゾクする。

だから称して、三日酔い。
酒と縁を切って、もう14年になる。
その私が、またまた失敗を繰り返してしまった。

だからこう誓う。
もう2度と、酒は飲まないぞ!、と。

12月31日。
大みそか。
何たるザマ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
二日酔い 三日酔い)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●三日酔いから学んだこと

++++++++++++++++++

二日酔いの症状のひとつに、「厭世的気分」
(ウィキペディア百科事典)というのが
ある。

「厭世」というのは、「世の中をいやなものと
思うこと」(広辞苑)とある。

++++++++++++++++++

●飲めないワイン

43、44歳のころ、私は村の祭りに呼ばれ、そこでビールを飲んでしまった。
断りきれなかった。
まるで砂を飲むかのような感触だった。
コップにすれば、3分の1も飲まなかった。
が、それがあの悪夢のような三日酔いの始まりだった。

で、以来、アルコールとは縁を切った。
宴会の席などでも、「飲めません」と最初に断るようにした。

が、まったく飲まないわけではない。
ときどき、ワイフから分けてもらい、大さじにいっぱいほどをなめることはある。
しかしその程度。

が、先日、息子がアメリカから帰ってきた。
みやげにNAPAのワインをもってきた。
私は、フルーツ・ジュースで、それを薄めて飲んだ。
「あぶないかな?」とは思ったが、おいしかった。

で、翌日は、さらに量をふやし、コップ3分の1ほどのワインを、野菜ジュースで
割って飲んだ。
これもまたおいしかった。
しかしこれが三日酔い、実際には、四日酔いの始まりだった。

●下痢

厭世的気分は、その翌日、つまり12月30日から始まった。
(ワインを飲み始めたのが、12月28日。)

今回は頭痛はそれほどひどくはなかったが、吐き気と腹部の膨満感、それに下痢。
とくに下痢がひどかった。

しかもその下痢の色が、(赤)→(緑)→(白)→(黄色)と変化していくのには、
驚いた。
「まるで道路の信号みたい」と私は笑ったが、それには理由がある。

赤い便が出たのは、ワイン、もしくは、二日酔い用の飲み薬が赤かったため。
緑色の便が出たのは、緑色の胃腸薬を飲んだため。
つづいて白い便が出たのは、もう腹の中には何もなくなってしまったためではないか。
いや、少し牛乳を飲んだ。
それがそのまま出てきた(?)。
で、少しずつ体が回復して、黄色い便が出るようになった。

●厭世的気分

「厭世」というのは、「世の中をいやなものと思うこと」(広辞苑)とある。
たしかにそうで、それは二日酔いの最中から始まった。
最初に、「アレッ?」と思ったのは、犬のハナに対しての接し方が変わったこと。
庭へ出ると、いつものようにハナが私の足元にじゃれてきた。
が、そのハナに対して、「かわいい」とか、そういう感情がわいてこなかった。
ただの(犬)。
そんな感じだった。

つづいてワイフや息子たちにも、それが広がっていった。
居間でいっしょにいるときも、「そこに人がいるだけ」という感じになった。
あれこれと気になることはあったが、「どうでもいい」という気分ばかりが先に立った。

投げやり?
無責任?
無関心?
自暴自棄?

12月30日は、そういうわけで、ほぼ24時間、床の中にいた。
が、横になってばかりは、いられない。
夜中に起きて、書斎に入った。
で、そのとき、厭世的気分がどういうものであるか、それを知った。
ふと、死んでしまおうかとさえ思った。

息子たちはもちろんのこと、ワイフにしても、私の苦しみなど、どこ吹く風。
そんな雰囲気で、そのときそれぞれの部屋で眠っていた。
おまけに腹の膨満感がひどく、掛け布団が、ひどく重く感じられた。
そこでワイフに「布団が重い」とこぼすと、ワイフは、「二日酔いを
私のせいにしないでよ」と怒った。

それでますます私は、落ち込んでしまった。

●気分は作られるもの

で、今日は1月2日。
やっと食欲も戻ってきた。
(そうそう、体重は、64キロ台から、62キロ台へと、激減!)

今も少し、厭世的気分は残っている。
こうして文章を打ちながらも、だれとも顔を合わせたくないと思っている。
ワイフにも、息子たちとも顔を合わせたくない。
ただひとり、ぼんやりとしていたい。

言うなれば、うつ状態の気分に似ている。
ただうつ状態のときとちがうのは、ものごとを悪い方へ、悪い方へとは考えないこと。
うつ状態になると、ひとつのことが頭の中に張りつき、それについて悶々と悩むように
なる。
しかし二日酔いには、それはない。
一方的な落ち込み。
一方的な厭世気分。

そこで私は発見した。
「気分というのは、作られるもの」と。

●脳のCPU

脳のCPU(中央演算装置)がいかれるから、自分で自分をおかしい(?)と自覚
するのは、むずかしい。
たとえばサングラスにしても、それをしばらくかけたままにしておくと、赤色はそれ
なりに赤色に見え、青色はそれなりに青色に見えるようになってくる。
さらに長くかけていると、サングラスをかけていることそのものを忘れてしまう。

それに似たような現象が起きてくる。

一度厭世的気分に襲われると、そうである(私)が正しいと思い込んでしまう。
世の中はいやなものという前提で、ものごとを考え始めてしまう。
そしてそれまでの自分を、否定するようになる。
「今まで楽しかったのは、みんな、自分がそう思い込んでいただけだ」と。

心にサングラスがかかっていることすら、忘れてしまう。
つまり私たちがいう(心)というのは、(作られるもの)ということになる。
そしてこのことは、重要な教訓を私たちに教えている。

「心を信じすぎては、だめだ」という教訓である。

たとえば……。

「私は死にたい」という感情にしても、本当にその人がそう思っているのではなく、
そう思うように、脳が勝手にその人を仕向けているだけ。
おそらく、脳内の脳間伝達物質が、何らかの作用を起こしているのだろう。
つまりそういった感情が生まれたとしても、それは(私)ではない。
(作られた私)でしかない。

では、どうするか?

●これから買い物

1月2日。
あちこちのショッピングセンターでは、初売りが始まる。
私とワイフは、これから全快祝いをかねて、その初売りに行ってくる。
ほしいものは、昨夜、チラシに丸印を描いておいた。

予算は、XX万円。
手当たり次第に買ってくる。
まったくの無駄買いである。
しかしそういうことをして、パッと気分を晴らす。
たしかに今の私は正常ではない。
だから、そうする。
そうして、脳みそを一度、正常にもどす。

大切なことは、厭世的気分にせよ、うつ状態であるにせよ、さらには自殺願望が
あるにせよ、それは(本来の私)ではないと知ること。
そんな気分になるのは、最期の最期でよい。

……以上、今回の三日酔いで学んだこと。
喪中とはいえ、みなさん、新年明けまして、おめでとうございます。
(少し、不謹慎かな?)

(付記)
今日の収穫。
羽毛布団、ハードディスク(320GB)、SDカード2枚、
圧力なべ、電熱レンジ、5000円の福袋、洗浄装置付きシェーバーほか、数点。
しめてXX万円弱。



【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【2009年まで、あと1日】

●BLOG

数日前、楽天BLOGへのアクセス数が、(楽天BLOGだけで)、1600件を超えた。
アクセスランキングでも、上位14〜5位に入った。
その数字を見ながら、しばらく手の動きを休める。
「どんな人が読んでくれているのだろう?」と。
が、そこにあるのは、数字だけ。
「1600」という数字だけ。

そこで「1600」を、30倍してみる。
1600x30=4万8000件となる。
約5万件ということになる。
「5万件」というと、実感がわいてくる。

本でも、5万部も売れれば、ベストセラーとまではいかなくても、そこそこに
評判の高い本ということになる。
もの書きとしては、それなりの収入が得られる数字ということになる。

HPやBLOGが、私の生きがいとなって、もう7、8年になる。
この間、電子マガジンも、1100号を超えた。
願わくは、2009年も、今のままつづけたい。
HPもBLOGも、そして電子マガジンも!
私の今の生活は、(ものを書くこと)で、回っている。
その努力が、少しずつだが、報われてきたように思う。

読者のみなさん、ありがとうございました。
2009年も、よろしくお願いします。


●2008年を振り返って……

2008年、実兄と母が、相次いで、他界した。
兄については、それなりに覚悟をしていたが、母は、そうではなかった。
まわりの介護士さんたちも、「100歳までは生きられますよ」と言ってくれていた。
つまりそれくらい、元気だった。
体の故障も、なかった。
ホームでも、薬をのんでいなかったのは、母だけだった。

が、2月の終わりに、脳梗塞を起こしてからは、そのまま寝たきりになってしまった。
毎月のように、ホームへ呼び出されるようになった。
そして兄は8月に、つづいて母は10月に、この世を去った。

そのときは、長く感じられた毎日だったが、振り返ってみると、あっという間だった。
母にしても、約2年、この浜松にいたことなるが、その実感は、まったくない。
こと母についていえば、時間は止まったまま。
そしてその時間は、すっぽりと抜けてしまっている。
思い出といっても、断片的なもの。
その断片が、みな、同じ。
何枚も何枚も同じ絵が重なり、1枚の絵になってしまった。

で、時おり、さみしくなることはある。
ふと「兄や母は、何だったのだろう」と思うことはある。
あるいは「つぎは、私」と、心細くなることもある。
が、それ以上に、ほっとした気持ちも否定できない。
この安堵感は、いったい、どうしたものか。

最後に兄を見舞ったときには、兄は、胃に穴をあけ、そこから食物を
摂取していた。
あまりにも痛々しい姿に、驚いた。
声をかけると、細いまぶたの中で、三角の目が、左右に動いた。

母のばあいは、私は、経済的重圧感というよりは、社会的重圧感に苦しんだ。
とくにこの40年間、そうだった。
心理学の世界にも、「家族自我群」という言葉がある。
私はそれに苦しんだ。
が、けっして、母を恨んでいたわけではない。
母は母で、あの時代を懸命に生きた。
あの時代を、そのひとつ前の時代を背負いながら、懸命に生きた。

「家意識」「家父長意識」「権威主義」「親絶対教」などなど。
私は母の心理を解きほぐすことで、それがどういうものであるかを知った。
反面教師というよりは、母は教師そのものだった。

しかしそれも終わった。
長くつづいた重圧感だったが、ともかくも、終わった。
私にとっては、長い長い、40年間だった。
いや、本当は、60年間だったかもしれない。
父が酒を飲んで暴れ始めたのは、私が3、4歳くらいのときだった。
ゆうつつで、暗い毎日だった。
幼児だった私にも、それがよくわかった。
そういう生活の中で、兄が犠牲になった。

もし私が兄だったら、私も兄と同じ運命をたどっていたことだろう。
心の傷は同じ。
どこもちがわない。
だから兄の葬儀のとき、私はうれしかった。
兄が死んだことがうれしかったのではない。
兄が、私の心の傷を持ち去ってくれたようで、うれしかった。
どこかで、「浩司、あの世までもっていってやるよ」と言ってくれたようで、
うれしかった。

そう、母も、そう言っていた。
ある夜、私が横で添い寝をしてやっているとき、ふと、母がこう言った。
私が「何がいややった?」と聞いたときのこと。
母は、「父ちゃんの酒はいややった」と。
母も、同じような傷を受けていた。

ともかくも、それも終わった。
そしてあの時代は、遠い、遠い、暗闇の中に消えた。
裸電球が、どんどんと遠ざかり、そのまま小さな点となって、消えた。
私にとって、「終わった」というのは、そういうことをいう。

2009年からは、私は私の人生を、思う存分、生きてみたい。
「家」や「家族」にとらわれることなく、思う存分、生きてみたい。
が、残り少ないというか、気がついてみたら、もうあと10年、ないかもしれない。
がんばろう!
がんばるしかない!
がんばります!
……ということで、2009年まであと2時間10分。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【12月29日】

●息子が帰ってきた

++++++++++++++++++++

夜遅く、三男が東京から帰ってきた。
夕食後、2時間ほど、あれこれ話す。

「エアバスと、767はどう見分けるか」とか、
「GEのエンジンと、ロールスロイスのエンジンはどうちがうか」とか、
さらに「ブラジルの航空機メーカーは、どうしてすぐれているか」とか、など。

B−777は、2基のエンジンをつけているが、1基だけで、1万1000ポンド
もの推力があるそうだ。
(そう言われても、ピンとこないが……。)
だから1基だけで、じゅうぶん離陸とのこと。

「1基が故障しても、楽に片肺飛行できるということだね」と念を押すと、
「そのため垂直尾翼が大きくなる」と。

今度の787の納期引渡しが遅れているのも、そのあたりに本当の理由があるらしい。
エンジンを担当したGE社が、予定より大型のエンジンを製作してしまった。
(エンジンを大型にする)→(垂直尾翼大きくする)→(重量が変化する)→
(設計の全面見直し)と。

言い忘れたが、片肺飛行のとき、垂直尾翼が小さいと、飛行機をコントロール
することができなくなる。
エンジンの推力と垂直尾翼の大きさは、比例する。

ほかにもこんな話を聞いた。

コックピットでは、3系統の電源が用意されているそうだ。
どれかひとつでも故障すれば、自動的につぎつぎと電源が作動する。
が、その3系統とも故障したら……?

そのときは、B−777の場合は、コックピット下の窓が開き、
風力で発電機を回して電力起こすそうだ。
なお水平儀など、飛行に絶対必要な機器については、7段階まで、予備が
用意されているそうだ。

「コンピュータにOSが7つ、ついているようなものだね」と私が言うと、
「まあ、そんなとこ」と息子は言った。

飛行機の話は、いつ聞いても楽しい。
J社のカレンダーを、みやげにもってきてくれた。

++++++++++++++++++++

●40%が債務不履行状態

現在、韓国の企業の約40%が、債務不履行状態にあるという(東亜N報・
12・29)。
そのパーセンテイジは、日増しに大きくなっている(同)。
先の97年危機のときは、50数%だったというから、かなり危険な状況に
近づきつつある。

が、その一方で、韓国は、今度は「対馬(つしま)は韓国の領土だ。
文献もそろっている」と言い出した。
竹島(独島)どころではない。
対馬、だぞ!

今はまだよい。
もし日韓の経済関係が逆転するようなことにでもなれば、「九州まで……」とまでは
言わないにしても、きわめて強硬な姿勢で、日本に臨んでくるはず。
そのことは、先のN前大統領時代を思い出してみればわかるはず。
そんな韓国を、どうして日本が救済しなければならないのか。

小泉総理は、日韓間で、100億ドルのスワップ協定を結んだ。
それを今度のAS総理は、300億ドルにふやし、さらに倍増しようとしている。
「スワップ協定」というのは、資金の融通制度をいう。
どちらか一方が債務不履行に陥ったとき、資金を融通しあう。
借りたときの為替レートで、借りたほうは、あとあとゆっくりと、お金を返せばよい。
それがスワップ協定である。

しかしこれほど不平等な協定はない!

大企業(日本)と、中企業(韓国)が、資金の融通を相互に約束しあうようなもの。
韓国にとっては、大助かりだが、日本にとっては、ほとんど役にたたない。
経済規模そのものがちがう。
仮に500億ドルもあれば、それで韓国は立ち直ることができる。
が、日本にとっては、500億ドルなど、(もし日本がデフォルトを宣言すれば
の話だが)、焼け石に水。

AS総理のことだから、こと韓国に対しては慎重な姿勢を見せるかと思っていたが、
韓国の大統領に会ったとたん、ホイホイとそれを決めてしまった。
「おバカ首相」(週刊B春)と言われるゆえんは、こんなところにもある。
一貫性が、まったくない!


●緊迫するパレスチナ問題

イスラエル軍の空爆で、300人近くのガザ地区の人たちが死んだという。
何度も書くが、この戦争は、ただの領土問題が原因ではない。
宗教がからんだ宗教戦争である。
だからやっかい。
宗教がからむと、人は、命までかけるようになる。

小さな家庭の中でさえ、宗教が理由で離婚騒動をしている夫婦となると、
ゴマンといる。
実際、離婚した人も多い。
たいていはある日突然、妻がどこかの新興宗教団体に身を寄せるところから、
それは始まる。
最初は夫に隠れて、静かに信仰している。
が、そのうち、おおっぴらにやるようになる。
「信仰は個人の自由」などというような、なまやさしいものではない。
妻は、夫の価値観、哲学、人生観すべてを、否定するようになる。
価値のないものとして、退けてしまう。
が、この程度ですめば、まだよいほう。

やがて妻は、とんでもないことを言い出す。
「あなたと私は、前世の因縁では結ばれていなかったのよ」とか、何とか。

妻だけではない。
夫のほうが入信するケースもある。
ある夫は、こう言って、日々に、おびえていた。

「私の妻は悪魔の手先だ。妻といっしょにいるだけで、私はやがて地獄に落ちる」と。

実際、そのような相談を、その夫の妻の側から受けたことがある。

私「本気であなたの夫は、そんなことを信じているのですか」
妻「そうです。本気です。宗教の話になると、体をガタガタ震わせて、おびえます」
私「どうしてあなたにおびえるのですか」
妻「私のことを、悪魔と思い込んでいるからです」
私「どうして?」
妻「私がその宗教に反対しているからです」と。

こう書くと、かなり「?」な夫を想像するかもしれない。
が、妻の話では、国立大学の理科系の学部を出た、ごくふつうのサラリーマンとのこと。
そのときは、どこかの設計事務所で、機械設計をしていた。

パレスチナ問題は、その延長線上にある。
だから、やっかい。
複雑。
アメリカのライス国務長官程度の人が、停戦を呼びかけて、それで停戦できるような
戦争ではない。
(ライス氏にしても、またあのヒル氏にしても、そういうことがまるでわかっていない。)

今はまだロケット弾程度による攻撃ですんでいるが、核兵器が登場するのは、
時間の問題。
イランは今、急ピッチで核兵器の製造をつづけている。
シリアもそうだろう。
ロシアの核兵器が使われる心配もある。
宗教戦争であるだけに、妥協がない。
もしそうなれば、それこそまさにハルマゲドン!

いちばんよい方法は、イスラエルが負けを認めて、あの地から出て行くこと。
2000年前の聖地を理由に、あの地に居座っていること自体、おかしい。
どこかに土地を買って、そこに集団移住するということは、できないものか。
……と言っても、イスラエルも建国してから、もう60年近くになる。
「いつまで戦争をやっているのだろう」と思うと同時に、「この戦争は、まだまだ
つづくだろうな」と思う。

宗教戦争というのは、そういうもの。
「妥協」という言葉は、通用しない。

(イギリスの植民地を、イギリスから買い取る形で、現在のイスラエルは、
あの地にイスラエルという国を建国した。
パレスチナ人を追い出して建国したというところが、まずかった。)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【散歩】

+++++++++++++++++

「運動不足」。
この言葉がこのところ、恐ろしいものに
聞こえるようになった。

運動不足イコール、不健康。
不健康イコール、病気へとつながっていく。

+++++++++++++++++

●冬の山荘

今日は、山荘のまわりを散歩した。
距離は、ぐるりと一周して、4〜5キロ。
山坂はあるが、「歩こう会」の基準では、初心者コースということになる。
ゆっくりとあるいて、1時間。
ふだんなら、運動にならない運動である。

が、こうした山の散歩は、冬場しかできない。
少し暖かくなると、ハチやヘビが出る。
今はイノシシの季節だが、イノシシとなら、まだ対峙できる。
まっすぐイノシシに向かって、杖を向ければよい。
あるいは棒で払えばよい。

しかし相手がハチのばあいは、打つ手がない。
ヘビもこわい。
だから山の散歩は、冬場だけ。
もっともこのあたりでは、冬といっても、どこかまだ秋の風情(ふぜい)が
残っている。
枯れた木々の間で、まだ葉も落とさず、冬の陽光を浴びて、黄金色に輝いている
のもある。
それに少し歩くと、背中がほんのりと熱くなってくる。
寒さも、消える。
冬というよりは、晩秋。
ここ浜松では、このまま冬らしい冬もなく、やがてすぐ春になる。

村道から脇道へそれる。
そこからさらに進むと、杉林。
「すごい落ち葉ね」とワイフが、数度、同じセリフを繰り返す。
私は杖でその落ち葉を適当に払いながら、先へ進む。
大木が、根をむきだしにしたまま、一列に横に並んでいる。
その横を、カサカサと、大きな音を立てて、歩く。
深々とした感触。
それを足で左右に払う。
波を切るような爽快感。

山道は、谷の下にあるUさんの庭端のところで、再び、通りに出る。
「下りるのは楽だけど……。帰りがたいへんだね」と私。
杖を持ちなおす。
腹に力を入れなおす。

この4日間で食べたものといえば、おかゆ一杯と、スープ一皿。
それに今日になって、やっと焼いた秋刀魚(さんま)一匹と、ご飯を茶碗に半分。
出てくる(力)もない。
それにしてもひどい二日酔いだった。
三日酔いが、そのまま四日酔いになってしまった。

●悲壮感

とにかく運動をするしかない。
私の年齢になると、楽しむというよりは、そこに悲壮感が漂うようになる。
数日も運動をサボっていると、そのまま体がサビついてしまう。
頭のサエも消えてしまう。
文が書けなくなってしまう。

「あと9年。何とか、9年はがんばる」と私。
しかしこのところ、その自信がなくなってきた。
ときどき「まだ9年もあるのかア」と思ったり、「無理かもしれない」と思ったりする。
とくにここ数日は、今まで経験したことのない厭世気分に包まれた。
二日酔いの症状のひとつという。
ふと「このまま死んでしまったら、楽だろうな」と思う。
やはり厭世気分(?)。

が、それに負けたら、おしまい。
少しぐらい調子が悪くても、そこは気力。
気力で、自分を立てなおす。
ということで、あえて、今日は散歩に出た。

歩きながら、うしろから、ワイフが何度も「あなた、だいじょうぶ?」と
声をかけてくれる。
が、それに答えて、返事のしようがない。
何と答えたら、よいのか。
だいじょうぶなわけがない。

……が、ともかくも、無事散歩は終わった。
山荘へ戻ると、細い息が、ハーハーと喉を鳴らしているのがわかった。
足は宙に浮いたような感じ。
軽いめまいもある。

途中、私とワイフは、自分の畑からいくつかのミカンをもぎとった。
まったく野生のままのミカン。
そのためサルも手を出せない。
固くて、皮もめくれない。
そのミカンを、山荘の横のイスに座って、食べた。

食べながら、「やはり散歩は無理だったかな」と、思った。
弱気な自分が顔を出した。
しかしそれはワイフには、言わなかった。

●一羽の鳶(トンビ)

白い雲の間に、最初に黒い小さな点を見つけたのは、私だった。
ワイフは、長いすに座り、反対側の空に消える飛行機を、目で追いかけていた。
私はそれを飛行機と思った。
が、飛行機にしては、小さすぎる。
それに今は、真冬。
肌を刺すような冷気が、谷底から枯れた草木を揺らしている。
上空は、もっと冷たいはず。

「トンビかなあ?」と言うと、ワイフも、「そうねえ……」と。
しかし確信はもてなかった。
私はぼんやりとその黒い点をながめていた。
高さは、その横のM山とくらべても、600メートル近くはある。
そんな高いところを、鳶が飛ぶだろうか。
ぽっかりと浮かんだ白い雲の下あたりを、ゆっくりと右や左に飛んでいた。

「あんなところから餌をさがしているのかしら?」とワイフ。
「まさか!」と私。
二日酔いの後遺症だと思うが、まだ頭のを振ると、胸の奥がむかつく。

私「トンビも、自分を試しているのかもしれないよ」
ワ「かもめのジョナサンみたいね」
私「トンビは、頭がいいから、そういうことを考えてもおかしくない」
ワ「自分の限界を知りたいのね」と。

と、そんとき、その黒い点が、M山の方向に向かって、急に動き出した。
風に乗ったというよりは、急降下だった。
ものすごいスピードだった。

私「あれじゃあ、時速100キロは出ているよ」
ワ「速いわねえ……」
私「今度は、スピードに挑戦しているみたい」
ワ「あら、やっぱりトンビだった」
私「トンビだな」と。

天空を真一文字に横切ったあと、鳶は、M山の頂上あたりで、ゆっくりと小さな
円を描いたあと、M山の向こう側へ、消えた。

それを見届けたあと、ワイフがこう言った。
「部屋に入って、お茶でものみましょう」と。
私はイスから立ち上がると、ワイフのうしろにつづいた。

●山荘

山荘へ入ると、日本間にあるコタツに電源を入れた。
もってきたミニ・パソコンを開いた。
台所で、ワイフがお茶をわかす音がする。
静かな夕刻。
穏やかな夕刻。

私はたった今見かけた、鳶のことを書く。
しかし集中力がつづかない。
眠い。
体がだるい。
指が重い。
タイプミスがつづく。

「たった4日なのに……」と、私。
そう、たった4日間、パソコンに向かっていなかっただけ。
が、もうこんな状態。
脳みそがサビつくのは、本当に早い。

気がつくと、いつの間にかワイフは、お茶を飲むのをやめ、となりで
スヤスヤと眠っていた。
こたつのふとんを、目一杯自分のほうに引き寄せていた。

何もかもいっしょにやってきた、ワイフ。
すっかりバーさん顔になってしまった、ワイフ。
そう思いながら、横のふとんをもちあげて、ワイフにかけてやる。

……ここまで書いたとき、村のチャイムが5時を知らせた。
「あら、もう5時……」と独り言を言ったあと、大きなあくびを1度したあと、
ワイフは、今度は、本当に居眠りモードに入ってしまった。
こうなると、あと1〜2時間は、起きない。

「晃子へ、今日は、散歩につきあってくれて、ありがとう!」。

P.S.

明日は、散歩の距離を、2倍に延ばすぞ!
明後日は、そのまた2倍!
我ら、ヤング・オールド・マンは、絶対に負けない!


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++はやし浩司

●老化の確認

+++++++++++++++++

こんなことは、50代のころにはなかった。
しかし60代になると、だれと会っても、
まず老化の確認から始まる。

「この人は、だいじょうぶかな?」と。

++++++++++++++++

というのも、認知症にしても、ある日突然、
人はそうなるのではない。
徐々に、徐々に、しかも少しずつ、10年単位という
長い時間をかけて、そうなる。

それに認知症といっても、千差万別。
定型はない。
程度の差もある。

たとえば話し方が、妙にかったるくなる人。
反応が鈍くなる人。
繊細な会話ができなくなる人。
ときどきぼんやりする人。

さらにおかしな行動を見せるようになる人もいる。

がんこになったり、わがままになったり……。
家の中に引きこもってしまう人もいる。
見苦しいまでにケチになったり、こまかいことを言う人もいる。
が、本当にこわいのは、そのことではない。

加齢とともに、それまでその人を隠していた仮面がはずれる。
自分を飾ろうという気力そのものが、弱くなる。
とたん、その人の(地)が、表にそのまま出てくる。
モロに出てくる。
そのとき、それなりの人格が備わっている人は、恐れることはない。
しかしそれが備わっている人は、少ない。

「60歳を過ぎたら、円熟の境地に達する」というのは、ウソ。
自分がその年齢に達してみて、それがわかった。
むしろ、この年齢を境に、あさましいほどまでに貪欲になる人がいる。
一片の哲学ももちえず、「世間体」という渦の中で、自分を見失う人もいる。

ウソだと思うなら、電車や観光バスの中で、ゲラゲラ、ギャーギャーと
騒ぎまくる、あのオバチャンたちを見ればよい。
大半の人たちは、みな、ああなる。
油断すると、みな、ああなる。
ああなったあと、それぞれがボケ老人の道へと入っていく。

だからというわけでもないが、久しぶりに会ったりすると、まず、
「この人は、だいじょうぶかな?」と思うところから、会話が始まる。
「どこかおかしいところはないかな?」とも。

だからといって、そういう人たちを、どうこう思うわけではない。
差別するわけではない。
私自身だって、おかしい(?)。
おかしくない人は、いない。
現に、昨日やおとといの私は、「死んでも構わない」と思っていた。
うつ病と診断されても、おかしくない状態だった。

大切なことは、それぞれの(おかしさ)を認めあいながら、接すること。
相手がかったるい話し方をするなら、こちらも、それに合わせて、かったるく
話せばよい。
繊細な会話ができないなら、こちらも、それをしなければよい。
相手に合わせて、おおざっぱな話をして、それですませばよい。

そう言えば、今年の正月、小さな事件が起きた。

親戚のG氏から年賀状が届いた。
私の家が喪中であることは、よく承知のはず。
最初は、「まちがいかな?」と思ったが、しかしG氏は昔から、冠婚葬祭には
うるさい人。
まちがえるはずはない。
で、よくよく思い出してみると、葬儀の席でも、法要の席でも、どこか妙な
行動が気になった。
会話そのものが、間延びしたような感じ。
ア〜〜ウ〜〜、と。
反応も鈍かった。
僧侶の読経に合わせて、何かしら踊るようなしぐさをして見せた。
それにもらった香典も、会食1食分にもならないような、小額だった、などなど。

だからいって、G氏があぶない……ということではない。
先にも書いたように、多かれ少なかれ、私たちの年代は、みな、あぶない。
G氏を批判しても、意味はない。
まさに「明日は、わが身」。
4、5年後には、私も、同じようなことをするようになるかもしれない。
非常識なことをしながら、それが非常識とも、わからなくなる(?)。
つまりこうして相手の脳みその中身を確かめながら、つき合う。
そしてその人はその人として、そっと暖かく見守る。

それが私たちの年代ということになる。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 1月 28日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ゆとり教育

+++++++++++++++++

時として、外国から日本をながめてみたほうが、
日本のことがよくわかる。
韓国の東亜N報は、つぎのように伝える。

+++++++++++以下、東亜N報より+++++++++++++++++++


日本は、小中学校に続き、高校教育にも「脱ゆとり教育」を導入することを決めた。
日本の文部科学省は22日、国語、英語、数学を大幅に強化する内容を盛り込んだ新たな
高校学習指導要領の改正案を発表した。 

改正案は、「英語の授業は英語で行うのが基本」と明示した上で、「生活で使われる英語」
の習得を目標にし、高校3年間、生徒に教える英単語数も1300語から1800語へ約
40%増やすことにした。 

(中略)

また、科学と数学は、これまで「ゆとり教育」路線に沿って、「○○は(難しいので)教え
ない」とし、教育内容に制限を置いた規定を撤廃し、学校や教師の判断で難度の高い授業
もできるようにした。 

高校の授業時数も現行基準の週30単位時間(1単位時間は50分)の越えてもよいとし
た。 

新たな高校学習指導要領は、これから各界の意見を汲み上げる過程を経て、来年3月に告
示され、13年度入学生から適用される。
ただし、科学と数学は12年度入学生から先に適用される。

+++++++++++以上、東亜N報より+++++++++++++++++++


教育は、国の要(かなめ)。
理由は、簡単。
国は、人によって作られる。
人なくして、国は成りたたない。

「ゆとり教育」なるものが、いかに日本の教育を後退させたかは、今さら説明するまでも
ない。
教育全体が、小学校も、中学校も、そして高校も、だらしなくなってしまった。
たとえば小2で習う掛け算にしても、今では、(教えるだけ)。
本当に教えるだけ。
「覚えたい人は、覚えなさい。覚えたくない人は、覚えなくても結構です」と。
それでおしまい。

ほんの10年、20年前には、先生たちは、子どもたちに残り勉強をさせてでも、掛け算
の九九を暗記させた。
それでも暗記できない子どもは、宿題につづく宿題で暗記させた。
子どもが泣いても、暗記させた。
この段階で掛け算ができないと、そのあと、算数の学習すべてに影響がおよぶ。

一事が万事。
こういう緊張感が、今、消えてしまった。
ゴムにたとえるなら、伸びて、ゆるんでしまった感じ。
私たちが受けた教育がよいとは思わないが、私たちは中学2年生で、三角関数を学んだ。
サイン、コサイン、タンジェントという、あれである。
それがどんどんと削られ、今に見る教育になった。

この責任は、いったい、だれが負うのか?

教育というのは、そのときはわからない。
結果が出るのは、20年後とか30年後。

つい先日の報道によれば、国民1人あたりのGDPは、とうとう世界13位になってしま
った。
「日本は先進国だ」「金持ちだ」と言っていたのは、当の昔の話。
先進国中でも最下位。

日本の(ゆとり教育)を、いちばん喜んだのは、おそらく隣の韓国ではなかったか。
「これで日本を追い抜ける!」と。

そこで(ゆとり教育)の見直しが始まったが、一度ゆるんだゴムは、もとには戻らない。
ここ10年〜15年は、日本の1人あたりのGDPは、さらにさがる。
今から、覚悟しておこう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ゆとり教育 国の要)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●神棚を整理する

++++++++++++++++++

先日、実家に帰って、神棚を整理してきた。
何しろ、それが3つもある。
大黒様、稲荷様、それに八幡神社の神様。
大きな神棚で、その中に神札などが、祖父母の
時代から、3代分、ぎっしりとつまっていた。

ダンボール箱に詰めかえたら、ちょうど1杯分に
なった。

その道に詳しい人に相談すると、○○神社へもっていけとか、
一度お祓(はら)いをしてもらってから、処分したらいいとか言う。

しかし、どうしたらよいものか。

++++++++++++++++++

●信仰論

神であるにせよ、仏であるにせよ、さらにキリスト教でいう神であるにせよ、
信仰は、(教え)でするもの。
モノや形でするものではない。
モノや形に拝んでも意味はない。
あの釈迦だって、「私に似せて偶像を作るな」(法句経)と教えている。

が、か弱き人間たちは、それでは自分を支えることができない。
そこかしこで偶像を立て、それに向かって信仰する。
その結果のひとつが、大黒様であり、稲荷様ということになる。
仏教でいう仏像も、その類(たぐい)かもしれない。

が、だからといって、私は、それを否定しているわけではない。
人はみな、それぞれ。
それぞれの人が、幸福を求めて、それぞれの道を歩む。
その方法はみなちがう。
心の拠(よ)り所として、それぞれの神や仏を信仰する。
それはそれとして、そっとしておいてやることこそ、大切。
「あなたはまちがっている」とか、「あなたがしていることは、おかしい」などとは、
言ってはならない。
言う必要もない。

●バチ論

私は、ずっと無神論で通してきた。
家には仏壇もなければ、神棚もなかった。
よく墓参りもしたし、初詣もした。
全国の神社や仏閣へ行けば、手を合わせて、拝んだ。
しかしそこまで。

が、今度、私の家に仏壇が入った。
それについては、前にも書いた。
が、冒頭に書いた、神棚までは考えていなかった。
そこで、ハタとどうするか、困ってしまった。
「どうしよう?」「どうしたらいい?」と。
で、その道に詳しい人に相談すると、あれこれと教えてくれた。
中には、「それをしないと、バチが当たりますよ」と言った人もいた。

しかし(バチ)などというものは、ない。
そんなことをいちいち考えている神や仏がいるとしたら、その神や仏は、
エセと考えてよい。
インチキでもよい。
よくカルト教団では、「この教団を抜けると、バチが当たる」と教えるが、
もしそうなら、その教団自体が、魔の巣窟と考えてよい。
勇気を出して遠ざかったらよい。

だいたいバチを与えるほどの、パワーがあるなら、そのパワーは、もっと
別のところに使えばよい。
常識で考えれば、そうなる。

こうしてその箱は、私の居間の隅に置かれた。
1か月、2か月と過ぎた。

●処分

で、私は私のやり方で、処分した。
その日は、午後までワイフは家にいなかった。
クラブとその忘年会で、家をあけた。

帰ってきてからワイフが、私にこう聞いた。
「あの箱は、どうしたの?」と。
私は、それに答えて、「知らない」と言った。
ついでに、「お前にはバチは当たらないから……」と。
ワイフもそれ以上のことは聞かなかった。

のどかな、白い日差しがまぶしい午後のことだった。
私は居間で茶を飲みながら、栗の木から枯れ葉が舞い落ちるのを
ぼんやりとながめていた。

祖父母や両親、それに兄には、それぞれの思いがあったことだろう。
それはわかる。
わかるが、こんなことで心を煩(わずら)わすのは、私の代でやめにしたい。
どこまでいっても、私は私。
息子たちは息子たち。
そんな私をまちがって言うというのなら、それを言う神や仏のほうがまちがっている。
先にも書いたように、そんな私にバチを与えるようなパワーがあるなら、
そのパワーを、たとえば、アフリカや中東で、戦争で苦しんでいる人たちのために
使えばよい。

繰り返すが、信仰はモノに向かってするものではない。
形でもない。
信仰は(教え)に従ってするもの。
(教え)に始まって、(教え)で終わる。
もしその(教え)がないとするなら、それこそその信仰は(イワシの頭)。

……それにしても、日本も日本だが、世界へ行くと、珍奇な宗教が多いのには、
驚かされる。
マレーシアのアモック(悪霊)信仰、マレーシアのラタ信仰、アイヌのイム信仰、
北アメリカ先住民のウェンディゴ信仰、アフリカ、ポリネシアのブードー教などなど。
それぞれの国の人たちもまた、それぞれの信仰をしながら、自分を支えている。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●信仰

+++++++++++++++++

世界にはいろいろな信仰がある。
その多くは、(おかしな現象)が起きると、
それを(何かのたたり)と考え、それを
(信仰)へと結びつけていく……という
プロセスを経て生まれる。

+++++++++++++++++

信仰論(宗教論ではない)を考えていて、興味深いのは、
それぞれの国の信仰は、それぞれの文化や、伝統、さらには
風土的特徴と結びついているとうこと。
とくに風土。

どこの国のどの宗教とは、ここには書けないが、ある国では、
ある季節のある時期になると、女性を中心に、おかしな症状が
現れる。

別人格になってしまい、理性のコントロールがきかなくなってしまう、など。
奇妙な動作で踊りだすこともあり、ときに村全体の女性たちが、集団で
踊りだすこともあるという。

そこでその国では、それを悪霊のたたりとして、独特の
悪霊信仰が生まれた。
そのときの動作が、ある動物のそれと似ていることから、
その国でも、その動物を信仰の中心に置いている。
ついで、その信仰から祭りが生まれ、文化や伝統も生まれている。

が、こうした症状は、精神医学の世界では、「ヒステリー」という
言葉を使って説明される。
集団で起これば、「集団ヒステリー」ということになる。
が、それぞれに原因があることが、最近、科学的につきとめられている。
(日本語でいう「ヒステリー」というときの意味とはちがい、またよく
混同されるので、最近では、精神医学の世界では、あまり使われなくなった。
以前は、同じような症状を、転換症状とか解離症状とか呼んでいた。)

たとえばその国では、冬の間、国全体が氷と雪に閉ざされ、その
国の人たちは、極端なカルシウム不足に陥る。
その結果、とくに出産直後の女性たちが、カルシウム不足による
ヒステリー症状を示すようになる。

この話と似たような現象は、日本のみならず、世界中で起きている。

(おかしな現象)が起きると、それを(何かのしわざ)と考え、それを
(信仰)へと結びつけていく。
言うなれば、(思いこみ)の世界ということになる。

こうした信仰には、当然のことながら、(教え)はない。
つまり私たちがいう、「宗教」とは、一線を画すものである。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
宗教 信仰 宗教と信仰 思い込み 迷信 信仰論 ヒステリー 集団ヒステリー)

●ただし「宗教といえども、その99%は、思い込みによるもの」(はやし浩司)。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●冬休み

+++++++++++++++

明日から私も冬休みに入る。
そこで決意。
毎年、ほぼ例外なく、私は冬休みが
終わるころには、運動不足が重なって、
体重がふえる。
そして休み明けに自転車に乗るのだが、
そのとき、体がそれについてこない。
ふだんなら何でもない坂道ですら、
降りて歩く。
そこで今年こそは、その愚を繰り返したくない。

……ということで、明日からではなく、
実は昨日から、運動量をふやした。
今日も、とりあえず、片道、7キロを
歩いた。
仕事の帰りはどうしようかと、今の
ところ迷っているが、たぶん、歩くことに
なるだろう。
(12月26日記)

+++++++++++++++++

●映画「ワールド・オブ・ライズ(?の世界)」

+++++++++++++++++

デュカプリオ主演の『ワールド・オブ・ライズ(?の世界)』を見てきた。
原題は、「Body of Lies」。
久々に迫力のあるスパイ映画を見た。
そんな感じの映画だった。
星は4つの★★★★。

ただ題名の翻訳がおかしい。
「ボデイ・オブ・ライズ」のままでよかったのではないか?
「ワールド・オブ・ライズ」というと、何かしら「?の博覧会」というイメージを
もってしまう。

映画は、謀略に謀略を重ねるアメリカCIAを中心に、ストーリーが展開する。
迫力はそれなりにあるが、あちこちで、「?」と思った。
私の友人にこんな人たちがいた。

1人は、メルボルン大学時代の友人で、大学を中退して、イギリスの諜報専門学校
へ転学していった。
そのまま諜報部員になるということだった。
オーストラリアの友人たちは何とも思っていなかったようだが、私は驚いた。
諜報専門学校?
日本では、そういうコースは、さがしても見つからない。

もう1人は、I国のアメリカ大使館直属の諜報部員をしていた。
同じカレッジにいたが、その友人とは、その10数年後、東京で会ったことがある。
そのときホテルに彼を訪ねると、彼は胸のホルスターに拳銃をもっていた。
それを無造作に、ベッドの上に投げ置いた。
私は驚いたが、彼にしてみれば、何でもない行為だったようだ。

現実にワールド・オブ・ライズのような世界はある。
しかし今、諜報活動といっても、スパイどうしが拳銃をバンバンと撃ちあうようなことは、
しない(?)。
諜報活動そのもののやり方が、変わってきた……と、私は思う。
何しろ、私とはまったく無縁の世界の話である。
だからこれ以上のことはわからない。
ただ映画のはじめに、「これはフィクションだが、実際にあったことに基づいている」
というような説明があったような気がする。

ありえない話ではないが、現実にあんなことがあれば、私ならたった数日で、
PTSD(心的外傷後ストレス症候群)になってしまうだろう。
再起不能の精神病患者になってしまうかもしれない。
やはりあれは、映画の世界の話ということにしておこう。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●暖房器具(Heating System of Fu-ton (Japanese Thick Blenket)

++++++++++++++++++++

最近の家は、密閉性がよいため、部屋暖房
が常識化している。
しかし私の家は、築40年のボロ家。
隙間風が、あちこちから入ってくる。
で、冬になると、暖房方法に苦労する。
とくに寝床になっている、ふとん。

今年の冬は、電気毛布(かけふとん)と、
電気敷き毛布を併用している。
床につく1時間ほど前に電源を入れ、床に入る
ときに電源を切る。
しかしそれでもこのところ、寒いと感ずることがある。
そこで一案!

ふとん乾燥機を購入してきた。
これで一度ふとんを乾燥させる。
床につく30分〜1時間前に、電源を入れる。
が、これがたいへん、暖かい。
つまりうまくいった。

が、それだけではない。
数日前、風呂から出たあと、散歩をしてしまった。
「まずい」とは思いつつ、それをしてしまった。
で、そのあと、予感どおり、鼻かぜをひいてしまった。
ゾクゾクとした悪寒もあり、腰のあたりも
痛くなってきた。

こうなるとふつうの暖房方法では、ふとんは
暖まらない。
そこでふとん乾燥機を、毛布と、かけぶとんの間にはさみ、
そのまま寝た。

しかしこれがよかった。

というのも、人間は眠っているときも、肌を通して、
皮膚呼吸をしている。
そのため通気性の悪いふとんだと、そのまま
寝苦しくなってしまう。
寝るときはできるだけ薄着で、ふとんも通気性の
よいものがよい。

この点、ふとん乾燥機はよい。
通気性がよいどころか、通気そのものをしてくれる。
もちろん暖かい。
それに電熱器が発する、あの電磁波特有の
不快感もない。
さわやかで、軽い風がふとんの中に入ってくるような感じ。

そのときは、額に汗がじんわりと出てくるような
熱さだったが、これがよかった。
朝起きると、鼻かぜは治っていた!

そこで提案。

電気毛布、電気敷きぶとんもよいが、この方法、
つまりふとん乾燥機方式で、ふとんを暖める
製品を開発してほしい。
外から暖かい空気を注入しながら、ふとんを
暖めるという方式である。

ふとんの温もりも自然で、寝心地もよい。
もちろん通気性もよく、厚いふとんで感ずるような
寝苦しさもない。

モーターによる騒音もあるが、あの程度の騒音
なら、気にならない。
飛行機のエンジン音、あるいは車のエンジン音
のようで、かえって快眠を誘うのではないか。

(注:ふとん乾燥機をふとんの暖房に使って
いる人も多いかと思うが、しかし熱くなりすぎるので、
注意する。
ふとんの中で汗をかくほどだと、今度は、眠って
いる間に、脱水状態になるかもしれない。
高血圧の人や、血栓性の何かの病気をもっている
人は、注意してほしい。)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

【撤退する外国企業、規制緩和の必要性】

●この現実を、知っているか?

++++++++++++++++++++

日本の証券取引所から、外国企業の撤退が
つづいている。
現在、東京証券取引所の上場している外国企業は、
「16社と、ピークだった1991年(127社)の
8分の1減少した」
(時事通信・08・12・27)。

かつては127社あったのが、現在は、たったの16社。
(2002年には36社。3分の1に減った。
さらにそれから2分の1以下に減ったことになる。)

その理由として第一にあげられるのが、
「日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、
コストに見合う上場メリットが見いだせないこと」(同)
ということ。

+++++++++++++++++++

時事通信(12・27)は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、時事通信より++++++++++

外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍になっ
た。株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、コ
ストに見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を掛けている。東証上
場の外国企業は16社とピークだった1991年(127社)の8分の1に減少した。 
(時事通信・12・27)

++++++++++以上、時事通信より++++++++++

日本から逃げた外資企業は、どこは行ったか?
今さら言うまでもなく、その行き先は、シンガポール。
すでに10年ほど前から、アメリカへ入ってくるアジアの経済ニュースは、
シンガポール経由。
東京ではない。
シンガポール。
東京の経済ニュースすら、シンガポール経由である。
いったい、こうした事実を、日本人はどれほど知っているのか。
深刻にとらえているのか。

言葉の問題だけではない。

シンガポールには、アメリカ本土とそっくりそのまま同じ、アメリカ人向けの
医療機関が整っている。
医療保険も、そのまま使える。

だからアメリカ人ならだれしも、アジアのどこかに拠点を構えるとしたら、
東京ではなく、シンガポールを選ぶ。
逆の立場で、考えてみればわかる。

もしあなたがヨーロッパに、あなたの会社の支店を作ろうと考えたとする。
そのときあなたは、言葉もちがい、医療制度もちがう、A国を選ぶだろうか。
それとも、言葉はそのまま使え、医療制度が同じ、B国を選ぶだろうか。

日本の証券取引所は、投資者保護(?)という名目のため、「経営情報の開示」
も含めて、ほとんどの書類を、日本語に翻訳することを義務づけている。
が、この負担が大きい。
日本における経費の大半が、翻訳にかかるという話を聞いたことがある。

だったら、翻訳を義務づけるのをやめればよいということになるのだが……。

こんなことをしていれば、そのうち日本の証券取引所から、外資系企業は
消えることになる。
(事実、すでに消えかかっているが……。)

日本がアジアの経済の中心地という話は、とうの昔の話。
「国際化」などという言葉は、この日本では、絵に描いた餅(もち)の
ようなもの。
日本のどこを、どのようにとったら、そう言えるのか。

東京へ行くにも、へき地の成田空港で降りなければならない。
どうして羽田空港であっては、いけないのか?

もう一度、私が6年前に書いた原稿を読んでみてほしい。

++++++++++++++++++

●日本から逃げる外資

 今日、1月4日、日本の株価は、戦後最大とも言える、大暴落を経験した。終値で61
6円安。それについて、東証のS社長は、欧米やアジアの主要株式相場に比べて日本株が
出遅れていることに触れ、「(日本株の低迷は東京市場が)投資したい場所としての魅力を
失いつつあることを示唆しているようにも映る」と危機感を募らせたという(日本経済新
聞)。

 この記事を読んで、数年前に書いた原稿を思い出した。つぎのが、それである。日付は、
2002年になっている。

+++++++++++++++

【みんなで考えよう、日本の教育改革】(Open the door and liberate the market)

More and more foreign enterprises are going out of Japan. In 1990, there used to be 125 
enterprises in Tokyo Exchange Market but in 2002 there were only 36 enterprises. The 
number of enterprises are decreasing. The reason is very simple. It costs a lot of money 
for translation from their languages to Japanese. We should open the door to the world 
and liberate the market. Or more and more foreign enterprises will go out of Japan. 
Here is my article which I wrote 6 years ago in 2002.

●遅れた教育改革

 2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。こ
の数はピーク時の約3分の1(90年は125社)。さらに2003年に入って、マクドナ
ルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、
コスト高の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用
しない国だから、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)に
よる情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとす
れば。今どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ
二を争うしまつ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試
験で、日本人の成績は、165か国中、150位・99年)。

日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や
理科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。
今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レ
ベルの問題で、正解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそ
うだ。

●日本の現状

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、1000
近い分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。し
かし日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大には1人もいない。ちなみにアメ
リカだけでも、250人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。

「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たい
へんお粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の
参観日(小一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まる
でプロレスの授業でした」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立
高校の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを
言った。いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。
すると別の教師が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているの
がいる」と。そこで私が「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「み
んな、自動車の教習本を読んでいる」と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。
日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生
はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本のばあい、
疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を
支えている。

もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも
崩壊する。確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内
閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、26%もいる(2
000年)。98年の調査よりも8%もふえた。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌク
と生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比では
ない。護送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、20年先、30年先を見越して、「形」
を作らねばならない。

が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに
10年以上も前から、小学3年生からコンピュータの授業をしている。メルボルン市に
ある、ほとんどのグラマースクールでは、中学1年で、中国語、フランス語、ドイツ語、
インドネシア語、日本語の中から、1科目選択できるようになっている。

もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、
コンピュータの科目もある。芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さ
らに環境保護の科目もある。

もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科
目の一つとのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。 

 さらにこんなニュースも伝わっている。外国の大学や高校で日本語を学ぶ学生が、急減
しているという。カナダのバンクーバーで日本語学校の校長をしているM氏は、こう教え
てくれた。「どこの高等学校でも、日本語クラスの生徒が減っています。日本語クラスを
閉鎖した学校もあります」と。こういう現状を、日本人はいったいどれくらい知っている
のだろうか。

●規制緩和が必要なのは教育界

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。も
っとはっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。地方に任すものは地方
に任す。せめて県単位に任す。

だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかし
い。日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、
それこそまさに世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をの
さばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良
な会社人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会
社のために命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から
生まれた。が、これからはそういう時代ではない。

日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのよ
うな教育観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。

 いや、こうした私の意見に対して、D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「ま
だ日本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。つまり小学校での英
語教育は、ムダ、と。しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく
旅行していないのに、外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、
火星に探査機を送るのはムダ」と。

私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかり
とした日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論を深める前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校
では、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている。たとえば
ルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、4歳児か
ら子どもを預かり、コンピュータの授業をしている。

近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている知人にそのことについて聞くと、こう教
えてくれた。「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを
育てるのが、教育の目標だ」と。

事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べてい
る。「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること」(長野県経営者
協会会合の席)と。オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達し
ていて、子どもたちは学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こ
ういう時代に、「英語を教える必要はない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文
法学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者
になるには、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体
系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立たない。

こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはも
っとかわいそうだ。たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使
って、いかにして自分の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、3人称単
数だの、そんなことばかりにこだわっているから、子どもたちはますます英語嫌いにな
る。ちなみに中学1年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、
一年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なも
のなのか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切
なものなのか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つ
というのか。

こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生
活を営む上で必要な基礎学力だ」と。もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それが
どう必要なのか」、それを説明してほしい。「なぜ中学1年で一次方程式を学び、3年で
二次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないのか」と、それを説明してほしい。その
説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子どもたちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなけ
ればいけないのかと思う」と、疑問に感じているという(ベネッセコーポレーション・「第
3回学習基本調査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さてさきほどの話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がな
い。こういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから
英語を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子ど
もがいる。早くから学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人が
いる。早くから教える必要はないという人もいる。

大切なことは、それぞれの自由にすればよい。今、何が問題かと言えば、学校の先生が
やる気をなくしてしまっていることだ。雑務、雑務、その上、また雑務。しつけから家
庭教育まで押しつけられて、学校の先生が今まさに窒息しようとしている。

ある教師(小学5年担任、女性)はこう言った。「授業中だけが、体を休める場所です」
と。「子どもの生きるの死ぬのという問題をかかえて、何が教材研究ですか」とはき捨て
た教師もいた。

そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。またそ
れができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもあ
りき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。

また教師の雑務について、たとえばカナダでは、教師から雑務を完全に解放している。
教師は学校での教育には責任をもつが、教室を離れたところでは一切、責任をもたない
という制度が徹底している。教師は自分の住所はおろか、電話番号すら、親には教えな
い。

だからたとえば親がその教師と連絡をとりたいときは、親はまず学校に電話をする。す
るとしばらくすると、教師のほうから親に電話がかかってくる。こういう方法がよいの
か悪いのかについては、議論が分かれるところだが、しかし実際には、そういう国のほ
うが多いことも忘れてはいけない。

+++++++++++++++

 6年前に書いた原稿だが、この6年の間に、日本の教育も大きく変わった。しかし、そ
れでは不十分。

 同じように、日本の経済構造も、旧態依然のまま。東証のS社長の言葉が、それを如実
に表している。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●さわやかに生きるために

++++++++++++++++++

1人、気になる人(男性、55歳)がいる。
去年、離婚したという。
3人の子どもがいたが、子どもたちはみな、
妻とともに、T県の実家に移り住んだという。
その上、昨年、コンピュータの改造事務所を
開いたが、今度の大不況で、あえなく閉鎖。
おまけに、持病の糖尿病が悪化。
「腎臓の透析を受けなければならなくなるかも」
とのこと。
55歳といえば、まだ若い。

電話での、一方的な、かつボソボソとした言い方だったので、
返事のしようがなかった。
が、それからちょうど1か月。
その人のことが、やたらと気になるようになった。

++++++++++++++++++

●気になる

相手のことが気になる……ということには、いろいろな意味がある。
心配して気になることもある。
好奇心で気になることもある。
こういうとき、どちらなのだろうと、ふと迷う。
心配しているのか、それとも好奇心からなのか、と。
迷うが、そこまで。

どうであるにせよ、こういうばあい、そっとしておいてやることこそ、大切。
相手のほうから、相談でもあれば話は別。
こちらから、電話をかけて、聞きだすようなことはしてはいけない。
そんな残酷なことはしてはいけない。
また、そんな残酷なことは、私にはできない。

●そこで私のこと

私も過去において、つらいことがあった。
きびしい時もあった。
そういうときのことを思い出してみると、ほとんどの人たちは、
私たちをそっとしておいてくれた。
それはそれでありがたかった。
が、中には、私たちのことを聞きだそうと、わざと近づいてきた人もいた。
たとえば理由もなく、1000円とか2000円の菓子を送り届けてきたりした。
私が礼の電話を入れるのを見込んで、つまりそれをきっかけに、私の家の内情を
さぐろうとした(?)。

が、そういうことが平気でできる人というのは、相当の悪(ワル)と考えてよい。
人間性そのものが崩壊している。
反対の立場になってみると、それがよくわかる。

●仮に……

先に書いた人の(不幸)について、興味がないと言えば、ウソになる。
奥さんとも、何度か会ったことがある。
子どもの教育のことで、相談にのってやったこともある。
コンピュータの改造事務所を開いたと聞いたとき、私も、何か仕事を
頼もうと考えたこともある。
しかしそれ以上のことを知ったところで、それがどうなのか。
私が金銭的に援助するとか、治療費を負担するというのであれば、
それはそれ。
しかし私には、そのつもりはない。
またこちらから、「援助しようか」と話しかけるのも、失礼。

が、仮に私がこんなことをしたらどうだろうか。
好奇心が増大し、その人が今ごろどうしているか、知りたくなったとする。
そこで私は、まず、1000円かそこらの菓子を送る。
相手は、それに礼を言ってくるはず。
送った理由を聞かれたら、「いろいろ君には世話になったから」とか、何とか言えばよい。
で、相手が話に乗ってきたら、「その後は、どう?」と聞けばよい。

しかしそれができるというのは、先にも書いたように、相当の悪(ワル)と考えてよい。
少なくとも、私にはできない。

●酒の肴(さかな)

が、世の中には、他人の不幸を酒の肴にして、楽しむ人がいる。
さも同情したフリをしながら、ああでもない、こうでもないと、他人の不幸話に
花を咲かせる。
中には、「あいつも、かわいそうだよな」と、沈んだ声で言いながら、その人の
悪口を言いふらしたりする。
このタイプの人は、元来ゴシップ好き。
情報を得るために、用もないのに電話をかけてきたりする。
探りを入れてきたりする。
「林君、昨夜、君の夢を見たよ」とか、何とか言って……。

こういう人に、こちらの内情をうっかり話したりすると、その話は、あっという間に、
みなに伝わってしまう。
「あの林は……」と。

●あなたに告げ口をする人は……

『あなたに告げ口をする人は、あなたのことを、また別のだれかに告げ口する』。
イギリスの格言だが、そういう人のことを、「つげ口屋(タトラー)」という。
英語国の世界では、もっとも軽蔑されるべき人間の1人ということになっている。

そこであなたの周囲を見回してみてほしい。
あなたの周囲にも、1人や2人、かならずそういう人がいるはず。
で、私のばあいだが、私に何か告げ口をしてくる人がいたら、こう思うようにしている。
「ああ、この人は、つぎに私のことを、だれかに告げ口をするぞ」と。
つまり相手にしない。
遠ざかる。

好きか、嫌いかということになれば、私は(告げ口)が、大嫌い。
だから子どもを指導するときも、だれかが告げ口をしてきたら、すかさず、
こう言い返すようにしている。

「ぼくは告げ口が嫌いだ。聞きたくない」と。

●そっとしておく

今の今も、不幸のどん底であえいでいる人は、多い。
しかしその人がその人なりにがんばっているなら、そっとしておいてやることこそ大切。
またそれが思いやりというもの。
いわんやその人の不幸を、酒の肴にしてはいけない。
そんな残酷なことを、してはいけない。

これはたがいの人間関係をさわやかにするための、大鉄則ということになる。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 1月 26日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●アメリカ人の子ども観

 国民性のちがいなのか? アメリカでは、「恥ずかしがり屋」の子どもを、問題児ととら
える。英語では、「ナーバス(nervous)」「シャイ(shy)」という。

 「日本では、恥ずかしがるのは、美徳(virtue)だ」と話すと、そのアメリカ人
の先生(小学校)は、かなり驚いていた。国がちがうと、子どもの見方も、大きくちがう
ようだ。

 そのためか、アメリカでは、ワーワーと自己主張する子どもほど、(できのよい子ども)
ととらえる。反対に、静かで、謙遜する子どもを、(できの悪い子ども)ととらえる。

 もちろん教育にも、大きな影響を与えている。

 アメリカでは、いつも先生が生徒に、「どう思う?」「それはすばらしい」と言って、授
業を進める。日本では、「わかったか?」「ではつぎ!」と言って、授業を進める。

 「教育」と言っても、中身は、まるでちがう。そういうことも考えて、子どもの教育を
考える。(もちろんそれぞれに、一長一短があるが……。)


●右は妹、左はぼく!

 母親は、男児の育児にとまどう?

 ある母親からだが、こんな相談があった。

 小学五年生の男の子だが、「いまだに、私のおっぱいに、さわりたがります」と。

 妹は、4歳。

 そこで母親は、「右が妹、左がお兄ちゃん」と決めているそうだ。私はその相談を受けた
とき、その母親の胸を、まじまじと見てしまった。

 「どうして?」と聞いたら、何を勘違いしたのか、その母親は、左の胸を前に突きだし
ながら、こう言った。「左のほうが、ほら、少し大きいでしょう!」と。

 そのあたりの年齢になると、母親も、やや羞恥心をなくすようだ。胸の豊満な母親だっ
たので、ハハハと笑いながら、内心では、その子ども(兄)が、うらやましく思った。そ
してこう思った。

 「私だって、男だぞ!」と。

 もうこの年齢になると、私を「男」と見てくれる母親はいない。自分でも、それがよく
わかる。まあ、あきらめるか! 

私は56歳。ヤング・オールド・マンだ! 略して、YOM。(私がつくった、新語)

【YOMの特徴】

 老人にもなりきれず、しかし青春にも決別できない、中途半端な年代層。ときどき、老
人になった自分を知り、ときどき、それに反抗してみる。

 ちょうど中間反抗期の子どもの心理的変化に似ている。ときどき、おとなぶってみたり、
反対に幼児がえりを起こしてみる。どっちつかずの不安定な年齢。

 YOMについては、あとで、もう少し、掘りさげて考えてみることにする。おもしろそ
うなテーマだ。


●改心

 ふと、今、思い出した。

 昔、子どものころ見た、チャンパラ映画の中で、「改心」という言葉がよく使われたのを、
思い出した。

 とんでもない極悪人が、あるとき、ふとしたことがきっかけで、心を入れかえ、それ以
後は、別人のように、善人になったりすることをいう。

 子どもながらに、「心というのは、そういうものかなあ」と思ったことがある。

 しかしそれからほぼ、半世紀。私は、そういうふうに、改心した人を見たことがない。
人間の心というのは、いわば体にしみついた「シミ」のようなもので、そう簡単には、変
えられない。

何らかの方法で、ごまかすことはできても、それは化粧のようなもの。しかし、化粧は、
化粧。何らかのきっかけで、すぐボロが出る。もしそんなことが簡単にできるなら、精
神科の医師などいらないということになる。

 私だって、「心の質」は、それほど、よくない。もともと小ズルイ男で、小心者。(私と
つきあう人は、そういう意味で、用心したほうがよい。ホント!)

 そういう私が、かろうじて「私」なのは、私には、ドン底経験があるからだ。

 幼稚園講師になって、すべてをなくしたと感じたとき、私は死ぬことさえ、考えた。毎
晩、「浩司、死んではダメだ」と、自分に言って聞かせた。

 そのときのこと。私は、人間は、ドン底を経験すると、二種類に分かれることを学んだ。
そのまま悪人になっていく人間と、善人になっていく人間である。私はあのドン底経験の
あと、自分でもおかしいと思うほど、まじめになった。

 タバコもやめたが、女遊びもやめた。ウソをつくのも、約束を破るのも、ごまかすのも
やめた。何もかもやめた。やめて、ただひたすら、まじめ(?)に生きるようになった。

 そんな私だが、しかし、では、私の質が変ったかというと、そういうことはない。ただ
ごまかしているだけ。自分でも、それがよくわかる。ふと油断すると、もともとの私が、
すぐ顔を出す。

 今は、そういう私と戦っているだけ。押さえこんでいるだけ。だから、やはり、「改心」
などということは、ないと思う。

チャンパラ映画の中では、よく使われたテーマだが、ああいうことは、ありえない。そ
れが、この半世紀を生きて私が知った、結論である。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【疑惑症】

●子どもの潔癖症(疑惑症)

++++++++++++++++++

子どもの手洗いグセについての
相談が届いています。

掲載許可がいただけましたので、少し
改変して、お届けします。

++++++++++++++++++

初めて相談をさせていただきます。
よろしくお願いします。

幼稚園に通う長男のことです。
もともと、人見知りをしない子で、愛想も良くいつも
ニコニコと元気のよい子だったのですが、この8月頃ごろから
急に、よく手を洗う様になり、特に幼稚園から帰ると、1時間くらいの間に5〜6回、多い
時は10回くらい手を洗うようになりました。

本人に聞くと、手が汚いから・・とか、手が臭うから・・と言って洗っていました。誰か
に臭うと言われたのか聞くと、そうじゃないと言います。でも、元々気にしない子で、い
つもこちらから、洗いなさいと言わないと洗わない子でしたのに、やたらと気にする様に
なりました。しかも、しょっちゅう、手の匂いを嗅いで確認しています。

朝も幼稚園に行くのも嫌がり、ぐずったり、メソメソとすぐ泣くようになりました。先生
に聞くと、幼稚園でも同様のようです。それ以来、なるべく長男が手を洗うときはついて
行って、一緒に洗ってあげたり、匂いがないか確認をしたりするようにしました。

すると、手を異常に洗うことはなくなったのですが、今度は、手を全然洗いたがらなくな
り、手が汚れないために、なるべく手を使わず足を使ったり、お菓子などは、犬食いをし
たり、片手にウエットティッシュを持って、拭きながら食べたりするようになりました。

しかも、匂いは相変わらずしょっちゅう嗅いでいます。何か触ったり、物を食べたりした
時も・・・。

メソメソするのも相変わらずで、ちょっと怒られたり、嫌な事があると、泣き出します。
一度泣くと、こちらから傍に行って、抱きしめたりするまでずーっと泣き続けます。それ
以外の時は、愛想も今は以前の様によく、元気も良いです。先生のHPを見させていただ
いて、もしかして疑惑症というものではないかと、心配になり、またどのような対応をし
てあげれば良いのか、教えて頂きたく相談させて頂きました。

幼稚園の先生にも、相談してみたのですが、今までウチの子の様な行動をとる子がいなか
ったとかで、先生も頭を悩ませているようでした。9月までは、幼稚園でも、もの凄く元気
いっぱいでいつもニコニコしていたらしく、先生にもよく褒めて頂いたくらいなので、先
生も驚いているようです。

ぜひ、良い対応がありましたら、教えて頂きたいと思います。宜しくお願いします。
(滋賀県M町、IKより)

【はやし浩司より、IKさんへ】

「長男」とありますから、下にお子さんがいらっしゃるのでしょうか。
ひとつのきっかけとして、下のお子さんが生まれたことが原因で、神経症に
なった可能性があります。

子どもの神経症による症状は、千差万別です。
定型がありません。

検索エンジンを使って、「はやし浩司 神経症」もしくは、「はやし浩司 手洗いグセ」を
検索してみてください。
あわせて、「はやし浩司 赤ちゃん返り」も参考にしてみてください。

また様子からみると、幼稚園の指導、もしくは友人関係に何らかの問題があるようにも
感じます。
先生が神経質であるとか、友だちとの間にトラブルがあるとか、など。

もう一つ気になるのは、「もともと、人見知りをしない子で、愛想も良くいつも
ニコニコと元気のよい子だったのですが……」という部分です。

子どもは人見知りするのが当たり前。
また見知らぬ人に対して、愛想が悪いのが当たり前。
そういう前提で考えてください。

愛情飢餓状態の中で子どもが育つと、一見、このように、人見知りしない、
愛想のよい子どもになることがあります。
どこかで親の愛情に不安を感じていないか、一度、観察してみてください。
またその「根」は、深いと思ってください。

(注:「子どもの疑惑症」については、私のHPの「子育て・あいうえお(3)」に
詳しく書いておきました。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの手洗いグセ 疑惑症 潔癖症 神経症 手洗い癖 はやし浩司)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

こんにちは。
以前、疑惑症の事で、先生に相談させていただいた者です。
5歳の長男の事で相談をさせていただきました。
メールを何処に送ってよいのかわからず、、相談コーナーのこちらに送らせていただきまし
た。
先生、ありがとうございました。
お陰様で、5歳の長男ですが、以前の元気が良く、活発な子に、戻りました。
先生がおっしゃっていましたように、スキンシップを濃厚にしたり、食事を気をつけたり
しましたら、本当に2ヶ月ほどで、よくなりました。
幼稚園も楽しいらしく、先日ありました発表会では、元気いっぱい演技もしていました。
あれほど心配しました、手洗い癖も殆どなくなり、
時々匂いを気にする事もありますが、こちらがほっておくと、すぐ気にならなくなるよう
ですし、手を汚したくないからと、犬食いをすることもなくなりました。幼稚園でも同様
のようで、以前の息子に戻ったと幼稚園の先生にも、言われています。
先日は、仲の良い友達をうちに連れてきたりもしていました。本当にありがとうございま
した。
メルマガもいつも読ませていただいています。
これからも、参考にさせていただきたいと思います。

(はやし浩司より)

勝手にメールを載せましたが、こちらこそ、ありがとうございました。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【代理ミュンヒハウゼン症候群】(Personality Disorder)

++++++++++++++

献身的な介護者を装いながら、
その裏で、被介護者を虐待する。
相手は夫であったり、祖父母で
あったりする。
兄弟のこともある。
自分の子どもであることも多い。

++++++++++++++

12月24日に、こんなニュースがヤフー・ニュースサイトに載っていた。

+++++++++++++以下、ヤフー・ニュースより++++++++++++++

病気で入院している五女(1歳10カ月)の点滴に異物を混入し殺害しようとしたとして、
K府警捜査1課と川端署は24日、岐阜県S市の無職の女(35)を、殺人未遂容疑で逮
捕した。女は「子供の病気が悪化すれば付き添ってやれると思った」と供述し、殺意を否
認しているという。

(中略)

 23日午後5時半ごろ、女が点滴の管を触ったり、ポケットから何かを取り出したりす
る仕草がビデオに映ったことから、警察官が職務質問し、所持品から注射器を発見。24
日になって、腐りやすいようスポーツドリンクを混ぜた水を7〜10日放置し、混入した
ことを認めたという。

 府警によると、逮捕された女は、人の注意を引きつけるために病気の症状をまねる精神
疾患の一種ではないかと医療関係者から指摘されていた。この疾患では、子供を病人に仕
立て、献身的な介護者を演じることもあると報告されているという。(ヤフーニュース08
1224)

+++++++++++++以下、ヤフー・ニュースより++++++++++++++

このニュースの中で注目すべき点は、終わりあたりに書いてある、「人の注意を引きつける
ために、病気の症状をまねる精神疾患の一種ではないかと医療関係者から指摘されていた。
この疾患では、子供を病人に仕立て、献身的な介護者を演じることもあると報告されてい
るという」という部分。

典型的な「代理ミュンヒハウゼン症候群」と呼ばれる、精神疾患のひとつである。
近年、虚偽性人格障害(演技性人格障害)※の一種として位置づけられ、治療の対象に
もなっている。

●フリをする母親

昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシ
ャーという学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。
ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた男爵の名に由来する。
ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病
院へ連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。
そういう母親を、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という(以上、参考、「心理学用語辞典」
かんき出版)。

このタイプの母親というか、女性は、多い。

自分に対して(演技する)のが、ミュンヒハウゼン症候群。
子どもなど、だれかを代理させて(演技する)のが、代理ミュンヒハウゼン症候群。
しかし代理になる対象は、けっして(子ども)だけではない。
実の親、兄弟ということもある。
また(病院)だけが舞台とはかぎらない。
家庭や介護センターなどでも、ある。

「ミュンヒハウゼン症候群」と私の立場では断言できないが、私の知っている女性(当時
50歳くらい)に、一方で、姑(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的
に仕える、(よい嫁)を演じていた人がいた。

その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。
しかしたった一人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談していた人がいた。
それがその姑の実の長女(当時50歳くらい)だった。

そのため、その女性は、姑と長女が話しあうのを、何よりも、警戒した。
当然のことながら、その長女を、嫌った。

さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせてい
た女性(当時60歳くらい)もいた。

虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」というようなこと
を、一方で言いながら、子どもが病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、
しおらしく、さすって見せるなど。

「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。
仮面をかぶっているというより、人格そのものが、バラバラ。
何を考えているか、それがつかめない。
どこか不気味。
そんな印象をもつ。

もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうで
ないのか、わからなくなってしまう。
たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮してしまっている。
母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える気力もない。
あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。

●私の知っている例

ヤフー・ニュースにもあるように、このタイプの女性は、(圧倒的に女性が多い)、
(1)他人の注意をひくため
(2)他人の同情をかうため
(3)他人から自分を、高く評価してもらうために、そうする。

今回の事件は、母親が実の子どもに対してした事件である。
点滴の中に、腐った水を注入していたという。
しかし殺すのが目的ではない。
(殺すなら、そんな回りくどい方法は、とらない。
またその度胸もない。
元来、気の小さい人とみる。)
このタイプの女性は、献身的な介護ぶりを演じ、それでもって自分をよく見せる
のが、目的である。

私が知っているケースに、実の弟に対して、それを繰り返していた女性(当時、
60歳くらい)がいた。
私が見舞いに行ったりすると、私たちが見ている前で、大げさに背中をさすって
みせたり、かいがいしく看病している様子をみせたりした。
が、それがどこか演技ぽい(?)。
あるいはその周辺から聞こえてくるうわさと、どうも一致しない(?)。

(たとえば献身的なボランティア活動をしていると本人は言うのだが、その一方で、10
0円、200円単位のお金のことで、ケチケチするなど。)

で、しばらく連絡を取らないでいたりすると、その女性のほうから電話がかかってきて、
看病で苦労しているというような話を、長々とする。
ささいなことでも、大げさに言う。
たとえば「歯ブラシがなくなってしまったので、冬の寒い日だったが、あちこちの店
を回って、買ってきた」とか、など。
そういうことをこと細かく話す。
ついでに「実の息子が東京にいるのだが、何もしない」とこぼしたりする。

そこで「それはたいへんですね」「あなたは偉い」と私が言っている間は、どこか機嫌がよ
い。
しかし批判めいたことを言ったりすると、そのままパニック状態になってしまう。
そのときも、「今では歯ブラシなど、コンビニでも売っていますよ」と私が言うと、
急に理由にもならない理由をつけて、怒りだしてしまった。

で、その弟氏は、10年ほど前にある病気で亡くなったが、葬儀場から出棺というとき、
その女性は、気が狂ったように大泣きしてみせた。
サメザメと泣くというよりは、ギャーギャーと泣きわめくといったふうだった。
が、そのあと、初七日の法事も同日の夕刻にしたのだが、逆に躁状態になってしまった。
喪主は、その弟氏の息子が一応、務めていたが、無視。
自分が葬儀の喪主であるかのように、はしゃいでいた。

●ごくふつうの人

これは代理ミュンヒハウゼン症候群の人に共通することと言ってもよいかもしれないが、
どの人も、一対一で会って話すと、ごくふつうの人という印象を受ける。
どこか「?」という印象をもつこともあるが、会っているときには、わからない。
「おしゃべりな人」「よく気がつく人」という印象をもつことが多い。
こちらが代理ミュンヒハウゼン症候群ではないかと疑いながら観察してみたとき、
はじめてそれがわかる。
もちろん代理ミュンヒハウゼン症候群という言葉すら知らない人も多い。

(ただし人前では献身的な介護者を演ずるため、まわりの人たちは、「やさしい人」「でき
た人」「人格者」という評価をくだすことが多い。)

共通する特徴を列挙してみる。

(1)人格のつかみどころがない(どういう人なのか、よくわからない。)
(2)わざとらしい介護、看病を繰り返す(人が見ているときだけ、それをする。)
(3)自己中心性が強く、一貫性がない(いつも目立った言動を繰り返す。)
(4)世間体、見栄、体裁にこだわる(いつも他人の目を気にしている。)
(5)口がうまく、依存性が強い(相手にへつらう、相手の機嫌をとる。)
(6)自分への批判を許さない(批判されたとき、パニック状態になる。)

が、何よりも最大の特徴は、(5)「私は私」という生きざま、あるいは哲学が
ないということ。
そういったものをもつだけの、知的能力もない。
が、ここでも誤解してはいけないことは、情報量が多いとか、頭の回転が速いとか、
そういうのは、ここでいう知的能力ではない。

たとえばその病気については、医者も驚くほどの知識をもっていたりする。

ここでいう知的能力というのは、深い思考性、深い洞察力、他人との共鳴性に
裏づけられた、哲学的な一貫性をいう。
わかりやすく言えば、その人らしい生きざまをいう。
またそれがないから、結果として、代理ミュンヒハウゼン症候群としての症状を
示すことになる。

……と書くと、このタイプの人は、全面的に加害者かというと、そうでもない。
同時に、このタイプの人自身も、何らかのトラウマをかかえていると考えてよい。
過去における心のキズが遠因となって、代理ミュンヒハウゼン症候群的な症状を
引き起こすようになったと考える。

なおウィキペディア百科事典によれば、演技性人格障害※については、つぎのような
特徴をあげている。

(1)他人から美化され注目されることを望む
(2)自分は他人に対して関心を払わない。
(3)他人を尊敬することもしない。
(4)他人の心身の痛みを理解できない、とある。

(注※:以下、ウィキペディア百科事典より抜粋)

●虚偽性人格障害

この障害の持ち主は、自分の病気の遍歴を劇的に語るが、詳細に問われるとその中身が急
に曖昧で、一貫性が無くなる。また、病気に関してきわめて聞き手の興味を持たせる話を
することが多い。

一般的に医学用語や病院に関する知識が豊富であり、これらの用語を駆使して嘘の病状を
訴える空想虚言癖を持つ事が多い。最初に訴えた症状が陰性だと分かると新たな訴えを始
め、虚偽症状を作り出す。また病院によって、症状を否定・虚偽だと通告されると、即座
に退院し、別の病院へ放浪したりすることもある。

この症状をもつ人の根本的な動機は、被虐嗜好や幼児期の満たされなかった愛情を満たす
ことであり、そのため、一般の人が避ける手術などを、世話をしてもらえるという理由で、
積極的に受けたがる。

しかし、嘘はいつまでも通用せず、矛盾した検査結果などで作為的な身体症状である事が
暴露される。反応は、多くの場合逃げ出す事で、他の病院で新たな身体症状を作り上げて
入院するといったことを繰り返す。医者は、治療の努力を裏切られた事から怒りをもつ事
が多い。身体症状領域だけでなく、精神病領域でも約0.7%の虚偽性障害の人がいる。

この障害では、本人だけでなく子供などを利用する場合があり、そのときも騙すための手
口は同じである。騙すための手段や、不必要な手術を経ることによって、実際に子供がダ
メージを負う事が多く、死に至る場合もある。母親と引き離すことによって"病状"は回復す
る。これは『代理ミュンヒハウゼン症候群』と呼ばれる。

●演技性人格障害

演技性人格障害(えんぎせいじんかくしょうがい)は、日常生活の中において役者の演技
のような行動をし、その結果自分が注目の的とならなければ大きなストレスを受けるため、
自己破壊的な行動や、或いは自己破壊的なまでに挑発的な性行動を取ったりする精神疾患
である。

もともと人は、ウィリアム・シェイクスピアが「物みな舞台、人みな役者」(『お気に召す
まま』)と表現したように、職業人として、家庭人として、友人として、或いは行きずりの
他人としてのペルソナを場合によって被り分けるものである。だが本症に於いては、こう
したペルソナの使い分けができず、ある一つのペルソナにこだわる事によって社会生活に
支障を来たす。

9割が女性であるが、これに対し反社会性人格障害では生涯罹患率が、それぞれの文化圏で
本症と同程度であり、こちらは9割が男性である(他に、いずれの疾患も「他人から美化
され注目されることを望むが、自分は他人に対して関心を払わず、他人を尊敬することも
しない」、「他人の心身の痛みを理解できない」などの病像が似ている)ことから、同じ疾
患が性差として現れた物であるという解釈もあり、その原因となる神経伝達物質や遺伝子
の探索が行われている。

演技性人格障害と関連する精神疾患にプソイドロギア・ファンタスティカ、いわゆる病的
虚言症がある。自分を実際以上に見せるために、あらゆる妄想虚言を吐く、一群の病者で
ある。有名人や権力者と知り合いであるかのように、会話中にはネーム・ドロッピングを
行う。高い知性を伴えば、スタンドプレイの好きな、権力志向の人物と言う評価内に納ま
る事もあるが、多くは周囲との利害を調整できず、詐欺などの犯罪を犯すこともある(以
上、ウィキペディア百科事典より抜粋)。

+++++++++++++++++

同じ代理ミュンヒハウゼン症候群でも、相手が子どものばあいは、まだ対処もしやすい。
しかし相手が祖父母や両親、さらには兄弟のばあいは、介入そのものが、むずかしい。
家庭の事情が複雑にからんでいることが多い。
またそれ以外に介護者(看護者)がいないというケースもある。
子どものように強制的に保護施設に収容するということができない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
代理ミュンヒハウゼン症候群 虚偽性人格障害 演技性人格障害 虐待)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●36歳!

+++++++++++++++++++++

数日前、タレントのIAという女性が、
自宅で死んでいるのが見つかったという。
AV女優で売り出した女性である。
享年、36歳。
その年齢を聞いて、あまりの若さに、私は驚いた。
死因は病死か自殺か、今のところ不明。
私は、「IA」という名前を、『クレヨンしんちゃん』
を読んでいたときに知った。
クレヨンしんちゃんは、そのIAのファンだった。
(あるいは父親のヒロシのファンだったかもしれない。)
私はそのとき、『野原家の子育て論』という本を書いて
いた。
「野原」というのは、クレヨンしんちゃんの姓
である。

++++++++++++++++++++

こう書くと不謹慎に思われるかもしれないが、(実際、不謹慎だが……)、女性がもっとも
美しく輝くのは、35歳前後ではないだろうか。
このころ、女性は、肉体的にもっとも充実した時期を迎える。
これは私の個人的な好みというよりは、世間の常識的ではないか。
ただしその35歳を過ぎると、女性は1年ごとに急速に、変化する。
急速にというより、急激に、である。
40歳を超えたとたん、おばあさん顔になる(失礼!)。
私は職業を通して、そうした女性の変化を、ずっと目(ま)の当たりに見てきた。

で、そのIAというタレントは、36歳だったという。
ネットニュースには顔写真が紹介されていたが、たしかに見覚えがある。
細い顔の、美しい女性である。
『クレヨンしんちゃん野原家の子育て論』(三一書房)という本を書いていたとき、
その名前が出てきた。
それで、私はその女性に興味をもつようになった。
IAは、父親のヒロシが好きなタレントだったように記憶している。
クレヨンしんちゃんが好きなタレントだったかもしれない。
(調べてまで書くような話ではないので、いいかげんなまま、ごめん!)

で、またまた私は、「自分が36歳のときは何をしていたか」と考えてしまう。
自分の年齢ではそれがわからないが、三男が3歳くらいのときといえば、わかる。
計算してみると、そうなる。
壁にそのころみんなでディズニーランドへ行ったときの写真が張ってある。

私には、遠い遠い昔の、幻のように消えた過去だが、IAというタレントにとっては、
(今が現実)なのだろう。

ワイフの話では、結婚はしていなかったらしい。
また体調を崩していたともある(週刊誌の見出し)。
芸能界からは、昨年の終わりごろ、引退していたという。
いろいろあって、こういうことになったらしい(?)。

しかしこういうことは言える。
36歳といえば、それまでに作りあげた土台の上で、いよいよ自分の花を
咲かせる年齢。
仮に失敗しても、やり直しができる。
そのころの1年は、50代、60代の人の、2年分、あるいは3年分はある。
それに先にも書いたように、女性がもっとも美しく輝く年齢でもある。
けっして死に急ぐような年齢ではない。

私たちが知りえない、(何か)がIAというタレントにあったにちがいない。
その事情は深く、そして複雑。
もし自殺ということであれば、なおさらだ。
私のような部外者が、いくら推理しようとしても、推理しきれるものではない。
だからこの話は、ここまで。

ただ、生きようによっては、人は他人の2倍、生きることができる。
中身を濃くすれば、3倍、4倍と長く、生きることができる。
繰り返すが、決して、死に急いではいけない。
苦しくても、つらくても、たった一度しかない人生。
たった一度しかないなら、じっくりと最後の最後まで見届けてやろうではないか。
そのときが来たら、人はどうせ否応(いやおう)なしに死ぬ。
死ねば、どうせこの世のもろとも、私たちは消える。

36歳という年齢は、人生の結論を出すには、あまりにも若すぎる。


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●ネームドロッピング

++++++++++++++++++

それとなく会話の中に、有名人の名前を
混ぜ、それでもって、「自分は有名人と
親交がある」「……あった」と相手に思わせる
ことを、「ネームドロッピング」というらしい。

私はこの言葉を、今日、はじめて知った。

……と書くと、「何だ、林浩司は、
そんな言葉すら知らなかったのか」と
思われそうだが、事実は事実。

虚偽性人格障害者と呼ばれる人が、この手法を
よく用いるそうである。
そしてそれが犯罪に結びつくと、詐欺師と
いうことになる。

+++++++++++++++++++

しかし私には、その反対の経験がある。
名前を出したくても、出せなかった。
出したところで、だれも本気にはしなかっただろう。
今でこそ、「ネームドロッピング」という言葉もあるが、ネームドロッピングそのもの。
だれしもみな、そう思ったことだろう。

私はSH氏に後見人(身元引受人)になってもらい、オーストラリアへ渡った。
1970年の3月のことである。
SH氏というのは、現在の皇后陛下の父君である。
そのSH氏は、そういう関係もあって、留学する前も、そしてそのあとも、電話一本で、
気軽に会ってくれた。
会うといつも、東京商工会議所の横の路地にあるそば屋へ、私を連れていってくれた。
そばのたいへん好きな人だった。

が、そのSH氏の名前をこうして書くようになったのは、私が47歳も過ぎてからのこと。
そのころから猛烈に本を書き始めた。
それまでは、名前を口にするだけでも、畏(おそ)れ多かった。
その状況は、今でも変わらない。

先日も友人と電話で話しているとき、何かの話のついでに、SH氏が話題になった。
そのときもつい、口がすべりそうになった。
しかし言えば言ったで、まさにネームドロッピング。
その友人は、そう思っただろう。
だから言わなかった。

で、詐欺師といっても、いろいろある。
相手を意図的に騙そうとする詐欺師もいれば、その意識もないまま騙そうとする
詐欺師もいる。
前者はまだ救われるが、後者は、人格障害の一つで、虚偽性人格障害とも呼ばれる。
もちろん軽重はある。
軽い人は、「境界性〜」という名前がつく。
「パーソナル障害」と呼ぶときもある。

このタイプの人は、頭の中で虚構の世界を作りあげ、虚構が虚構であることさえ、
わからなくなってしまう。
「私の父親は、SH氏」「だから私も皇族」と。
本人自身が本気でそう信じているから、相手も騙されやすい。
(?をついているという)スキがない。

しかし世の中には、ネームドロッピングの、(ネーム)そのものの人もいる。
そういう人が詐欺を働くときもある。
アメリカで起きた、元Nダック会長による詐欺事件である。
被害額は数兆円にのぼるとされる。
数兆円である。
仮に2兆円として、1万円札が100枚で1センチの高さになるとして計算
してみると、何と、その高さは、20キロメートル!
それもそうだろう。
「元Nダック会長」と言えば、だれだって信用してしまう。
そんな人がまさか詐欺を働くとは、だれも思わない。

話はそれたが、虚偽性人格障害と位置づけられる人は、このネームドロッピングという
手法をよく用いるそうである。
有名人の名前を、会話の中に織り込むのは、ほどほどに!、ということになる。
かえってあなたの人格を疑われることになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ネームドロッピング 虚偽性人格障害 パーソナル障害 ペルソナ人格障害)


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●感覚的世相論

+++++++++++++++++++

7年ほど前、息子の結婚式のため、アメリカへ行った。
そのときアメリカ人が、目の玉が飛び出るような
大豪邸に住んでいるのを知って、驚いた。
それこそ、(こういう書き方は失礼ということは
よく知っているが)、そこらの銀行員ですら、
映画『ホームアローン』に出てくるような大豪邸に
住んでいた。

また去年、友人のお嬢さんの結婚式に出席するため、
オーストラリアのメルボルンへ行った。
そこでホテルの料金を聞いて、これまた驚いた。
メルボルン市内のごくふつうのホテルですら、
一泊4万円〜5万円。
少し高級なホテルになると、7万円〜8万円。

日本人の私にとっては、もうメチャメチャな料金と
言ってもよい。
そう、そのメチャメチャが、今度の大不況で、是正
されつつある(?)。

++++++++++++++++++++

日本のバブル経済が最盛期のころのこと。
私は近くのデパートへ、ワイフの誕生日プレゼントを買いに行った。
そこで私は、小さな財布(さいふ)ですら、1つ、4万〜5万円もすることを知った。
それを手に取り、「私が1日働いても、こんな財布1つ買えないのか」と、
自分が情けなくなった。

が、そのバブル経済は崩壊した。
当然である。
東京では、小さな、それこそ10坪とか20坪とかいう土地が、1億円、2億円で
取り引きされていた。
メチャメチャというが、それにも程度というものがある。
そんなメチャメチャが、いつまでもつづくはずがない。
ないことは、(現実の自分の生活)を、そこに置いてみると、わかる。
いつかどこかで、何らかの形で、是正される。
その動きは、必ず、生まれる。
これが私がいう「感覚的未来論」である。

その感覚的未来論を使って、今回の大不況を評価してみると、こうなる。
ただしどこか、過激?
そういう見方もあるという程度に、読んでほしい。

(1)自動車産業

今では、ほんの300〜500メートル先のショッピングセンターに行くにも、
車に乗っていく人は多い。
その一方で、「太りすぎた」「運動不足だ」「ダイエットだ」と騒ぐ。
基本的な部分で、どこか狂っている。
その狂いが収まるまで、自動車産業は衰退する。
もっともだからといって、車社会を否定しているのではない。
しかしこうした矛盾は、あちこちで感じる。
たとえば車そのものにしても、たった1人や2人の人間を運ぶために、
丸々部屋ごと、いっしょに運んでいるようなもの。
これをエネルギーの無駄づかいと言わずして、何という?

(2)外国為替

対オーストラリア・ドルの為替レートがおかしいことは、ホテル代をみただけでもわかる。
昨年は、1豪州ドルが、110円前後だった。
それが今は、60円前後にまで下がっている。
この為替レートで計算すると、ホテル代は、約半額になったことになる。
1泊2万〜2万5000円。
それでも安いとは思わないが、ほぼリーズナブル。
「円高になった」と世間は騒いでいるが、適正になったと考えても、おかしくない。

(3)景気判断

世の中には今、モノがあふれかえっている。
私が住む浜松市にしても、今度周辺の市町村と合併して、政令都市になった。
これはあくまでも一説だが、なぜ周辺都市がすなおに合併に応じたかというと、
ゴミの処分場の問題があったから、という。

が、ゴミの捨て場がないほど、モノがあふれかえるほうが、おかしい。
ゴミの処分場が満杯になるほど、モノがあふれかえるほど、おかしい。
が、一方で、どんどんとモノを製造している。
そのモノが売れなくなったとたん、景気が悪くなったという。
多くの人は失業し、中には生活するための住居もないという。
しかし考えてみれば、これほどおかしな話はない。
つまり、この(おかしさ)が是正されるまで、景気は悪くなる。

(4)世界情勢

1時間働いて、アメリカドルで、70ドル(日本円で7000円、
GM、フォードの会社員)という国もあれば、1か月働いて、たったの2ドル(日本円で
200円、北朝鮮・開城で働く労働者の実質的な受け取り額)という国もある。

これは両極端なケースだが、こうした不均衡があるかぎり、世界情勢は不安定のまま
つづく。
それが臨界点に達したとき、あるいはその下でどす黒い欲望が渦巻いたとき、戦争が
起きる。

今回の不況で、金持ちの国というよりは、国に関係なく、金持ちが、総じておおきな
損失をこうむっている。
「戦争を選ぶか、大不況を選ぶか」ということになれば、賢明な人なら、大不況を
選ぶだろう。
(過去の歴史の中では、大不況を打破するために、大国は外国に向けて戦争をしかけて
いった。今回も、それがないとは、だれも言えない。)

(5)食糧問題

食糧問題ほど、需要と供給の関係がはっきりしている問題はない。
限界を超えて、食糧は生産できない。
生産できる食糧以上に、それを消費する人間はふえない。
10億人分の食糧しか生産できないのなら、10億人しか生きられない。
が、現実はかなりいびつである。

世界の3分の1以上が、現在、食糧難に苦しんでいる。
その一方で、ありあまる食糧を、食い散らしている国民もいる。
これも一説だが、日本人がペットに与える食糧をすべてアフリカへ送ったとすると、
それでアフリカの食糧問題は解決すると言われている。

この(おかしさ)がつづくかぎり、世界は安定しない。

(6)宇宙開発

人間はぜったいに、宇宙の住人にはなれない。
人工衛星を飛ばし、地球、あるいは太陽系の一角を、ごく少数の人間が、探検的に
行き来はできるようにはなるかもしれないが、そこまで。

理由は明白。
もし人間が宇宙へ出られるほどの科学技術を手にしたとすると、(現に今がそうだが……)、
同時にさらに大型の破壊兵器を手にすることになる。
人間にとって、(あくまでも人間についてだが)、科学技術の進歩と、破壊技術の
進歩は、比例関係にある。
これだけ科学技術が進歩した今でも、世界中のいたるところで、戦争はつづいている。
そんな人間が宇宙へ出たらどうなるか。
今度は、宇宙で戦争をするようになる。
が、その戦争は、すさまじい破壊力をもった兵器でなされる。
つまりたがいに生き残ることはできない。
だから人間は、宇宙の住人となることは、将来的に、ありえない。

(7)温暖化

温暖化は解決しない。
そのことがわからなければ、目を宇宙にやればよい。
もし知的生物がいるとするなら、この宇宙は、今ごろは宇宙人だらけになっているはず。
何千、何万という、大小さまざま、形もさまざまな宇宙人が、まるで東京の
ラッシュアワーのように宇宙を行き交っているはず。

しかし現実の宇宙は、静か。
静かということは、ほとんどゼロ。

もう少し確率論的に言うと、1000分の1の星が、地球のような惑星をもっていた
とする。
その地球のような惑星のうち、1000分の1が、やや知的な生物をもっていたとする。
……と順に考えていっても、この銀河系だけでも……、おそらく、何万、何十万という
知的生物がいることになる。
そしてその知的生物が、1万年単位で進化し、宇宙へ飛び出したとすると、今ごろは、
「ラッシュアワーのように」になっているはず。

が、現実に、いない。
いないということは、つまり知的生物は、それ自体、自滅プログラムを内包している
ということになる。
よい例が火星である。
だから人類の自滅プログラムは、すでに起動されている。
それが温暖化ということになる。

(注:もし宇宙人がいるとするなら、その宇宙人は、きわめて平和主義的な生物
と考えてよい。
でなければ、この宇宙では、生き残れなかったはず。)

(8)宗教

宗教と信仰は、別。
宗教はそれ自体、哲学であり、学問である。
しかし信仰には、それがない。
だから一般の人は、宗教は、宗教プロに任せ、それを信仰するという形で、宗教の
片鱗(へんりん)に参加している。

しかし信仰には、理屈は必要ない。
そこはまさに、『イワシの頭も信心から』という世界である。
これから先、世界が不安定になればなるほど、宗教と信仰の2極化が進むだろう。
同時に無数のカルトも、勢力を伸ばす。
すでにUFOや、地球温暖化にかこつけたカルトの存在も、確認されている。
信者となって信仰するのは、その人の勝手。
それなりの理由があって、人は、信仰に走るようになる。
しかしこれだけは覚えておいたほうがよい。
けっして、人間ロボットだけには、なってはいけない。
おかしいものは、おかしいと思う心だけは、なくしてはいけない。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 1月 23日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●チン問答(正方形)

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ましかく(真四角)を見せて、子どもたち(年長児)に、
「この形は何ですか?」と聞くと、中に、「正方形!」と
答える子どもがいる。

私「ウヌ、何だって? シェイホウケイ?」
子「シェイホウケイじゃないよ、さしすせその、セイホウケイ」
私「セホウケイ?」
子「だからさあ、セイホウケイだってばさア」
私「ホウケエ?(=遠州地方の方言で、「そうですか?」の意)」
子「……?」と。

私はこういうやり取りが、大好き。
子どもたちの脳みそを、ひっかき回すことができる。

++++++++++++++++++++

子どもにとって、(おとなにとっても、そうだが)、大切なことは、自分で考えること。
その習慣があること。
その力があること。

それがないと、知識はただの知識で終わってしまう。
あるいは中には、(物知りな子ども)イコール、(頭のいい子)と誤解している人がいる。
しかしこれは誤解。
たいへんな誤解。

今どき情報などというものは、インターネットを介せば、いくらでも手に入る。
情報イコール、知識。
大切なのは、その情報を、自分の力で、いかに加工し、知恵として消化するかということ。
それをしないでいると、あっという間に、情報の洪水の中に溺れてしまう。
私の知人の中にも、こんな女性(55歳くらい)がいる。

たいへんな物知りで、何かを質問すると、こちらの話をじゅうぶん聞かないうちから、
ペラペラといろいろ話し始める。
しかしよく聞いていると、情報が脳みその表面をかすっているだけ。
中身がないというより、深みがない。
情報の洪水の中に溺れるというのは、そういうことをいう。

さて幼児の話に戻る。

掛け算の九九をペラペラと口にしたからといって、その子どもに、算数の力があるという
ことにはならない。
さらにお経をペラペラと口にしたからといって、その子どもに、仏教がわかっているとは
かぎらない。
(おとなの中にも、いるぞ! 知ったかぶりというか、それでもって、優越感を覚えて
いるような人だ。)

では、どうすれば、子どもをして、(考える子ども)にすることができるか?
しかしこれは教育の問題ではなく、家庭環境の問題。
親の習慣の問題。
親にその(力)がなくて、どうして子どもにその(力)をもてと言うことができるのか。
結局は、そこへ行き着く。

たとえば子どもがあなたに何かを話しかけたとする。
そのとき大切なことは、子どもの言葉に耳を傾け、それについて考えてやること。
そして自分なりの意見を、それに添(そ)えてやること。
そういう親の習慣を見ながら、子どもは、(考える力)を身につける。

で、冒頭の話に戻る。
どこかの幼稚園では、子どもに掛け算の九九を教えている。
暗記させている。
そして「ましかく」を、「正方形」と言うように、指導している。
しかしこんなのは、幼児教育でも何でもない。
サルの訓練でも、そこまでしない。

「4つの角があるから、四角」「それがきれいに並んでいるから、ましかく」と、
どうしてそういうふうに、教えないのか。
それでよいではないか。
「方形」というのは、「四角形」をいう(広辞苑)。
だから「正方形」というのは、「どちらの方角から見ても同じに見える、四角形」という
ことになる。
しかしそこまで「セイホウケイ」の意味のわかる子どもは、いない。
だから私は、こう言って、子どもたちをからかう。

私「セイホウケイ……ねえ。どこかで聞いたような名前だなあ」
子「先生、正方形も知らないの?」
私「だからさ、どこかで聞いたような気がする。正方形というのは、ましかくのことか?」
子「そうだよ。ましかくのことだよ」
私「フ〜〜〜ン、知らなかったなあ。覚えておくよ」と。


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●ウソをつく

+++++++++++++++++++

犬でも、ウソをつく。
うちのハナが、そうだ。
何かかまってほしいときに、かまってやらないと、ウソをつく。

ワンワンと軽くほえたあと、庭の端まで行って、じっと
体を固める。
「そこに何かがいる」という素振りをして見せる。

ハナの心理をよく知っているから、だまされたフリを
して、庭の端に立つ。
じっと体を固めて、その先を見る。

私「何かいるか?」
犬「……」
私「何かいるか?」と。

こうするとハナのほうも、バツが悪いのか、さらに右へ走ったり、
左へ走ったりして、身を固める。
(身を固めるのは、ポインター種の猟犬の特徴と聞いている。)

こうしてハナは、私をかつぐ。
私は、かつがれたフリをする。
これを発達心理学的に解釈すると、こうなる。

子どもというのは、ウソをつくことで、おとなの優位性を破ろうとする。
年齢的には、2歳前後から始まるとされる。
よく知られているのが、?寝、?泣き。

?寝、?泣きをすることによって、おとなを操作する。
それがおとなの優位性の打破につながる。
で、こういうとき大切なことは、それを「ウソ」と決めつけ、子どもを叱っては
いけないということ。
「ああ、うちの子は、おとなの優位性を打破しようとしている」と考えて、
一歩、退いてやる。
そのおおらかさが、子どもを伸ばす。

反対におとなの優位性に押し込められてしまうと、(あるいはおとなの優位性を
押しつけ過ぎると)、子どもはハキのない子どもになってしまう。
ひどいばあいには、おとなになりきれないおとなになったり、おとなになることに
恐怖心を抱いたりする。
赤ちゃん返りならぬ、幼児返りをする子どもも、珍しくない。

時には子どもに負けてやる。
「おとなを負かした」という自負心が、自信につながる。
未来に向かって、前向きな姿勢も、そこから生まれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子どもの? 子供の? ?と優位性 おとなの優位性 発達心理)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●発想の転換(ロメオ・シンドローム、ジュリエット・シンドローム)

+++++++++++++++++++

ワイフがこう言った。
「今年も、あと少しで終わりね」と。
カレンダーを垣間見ながら、そう言った。
言い方が、どこか暗かった。
沈んでいた。

そこで私はこう言った。
「そういう、うしろ向きな言い方をしてはだめだ。
そういうときは、『もうすぐ新しい年ね』と
言わなくちゃア」と。

こういうのを発想の転換という。
「あと少し……」と言うよりは、「もうすぐ……」と
言ったほうが、心がずっと軽くなる。
明るくなる。
(12月22日記)

+++++++++++++++++++

●私は71歳だ

子どもたちに、「ぼくは51歳だ」というと、子どもたちはすかさず「ウソだ、
ウソだ」と騒ぐ。
中に私の生年月日を知っている子どもがいて、(たぶん、親がそう教えているのだろうが)、
「先生は、本当は61歳だよ」と言うのもいる。

自分の年齢をごまかすということは、よくある。
私も少し前まで、10歳ほど、年齢を引いて、子どもたちに言っていた。
「ぼくは、51歳だよ」と。
しかしこういうウソは、疲れる。
どこかで無理をしなければならない。
(本当の年齢は、1947年生まれ、今年、満61歳。)

そこで最近は、こう言うようにしている。
「あのね、本当は、71歳なんだよ」と。
ときどき「81歳だよ」と言うときもある。

すると子どもたちは、「そんなジジイには見えないよ。……先生は、ぼくのパパ
くらいかな」とか言う。

●年齢をごまかす

自分の年齢を若く言うか、それとも、古く言うかで、生き方そのものが変ってくる。
最近、そんな発見をした。

自分の年齢を若く言う人は、「まだ若いから、仕事ができる」と人に思わせたいのかも
しれない。
あるいは若い女性(あるいは男性)に、相手にしてもらいたいという潜在的な
願望があって、そう言うのかもしれない。
それに若さと決別するには、それなりの勇気がいる。
が、中には、異常なまでに、(若さ)にこだわる人もいる。
タレントの中には、40歳を過ぎているはずなのに、どう見ても20代後半かな(?)
と思うような人もいる。
このタイプの人は、自分の年齢を受け入れることができない。
だからそれに抵抗する。
ホルモン剤を顔に注入し、化粧に化粧を重ねる。
整形手術などというのは、この世界では常識。

そういう心理状態を総称して、「ロメオ・シンドローム」、あるいは
「ジュリエット・シンドローム」※という。
私がつけた名前である。

で、女性のばあいは、化粧で年齢をごまかす。
(最近では、こうしたごまかしを、「アンチ・エイジング(抗年齢)」と呼ぶ。)
そのつじつま合わせのために、年齢という(数字)もごまかす。
しかしこの方法は、無意味。

仮に35歳のとき、30歳に見られても、5年後の40歳のときには、35歳に
見られるだけ。
そのつど5歳ほど年齢をごまかすことはできても、10歳は、無理。
それに(若さ)というのは、外見や年齢という数字では決まらない。
中身だ。
中身で決まる。

だったら、35歳だったら、35歳と正直に言いながら、生きればよい……ということに
なる。
が、現実には、だれしも若く見られたい。

が、そこで発想の転換。

●人生、50年

少し前、がんで闘病生活をしている大学の友人が、電話でこう言った。
「ぼくはね、50歳すぎてからの人生は、1年ごと、もうけものと思うようにしているよ」
と。

そのとき彼は、織田信長の話をした。
織田信長は、「人生、50年」と言ったとか。
だから「それからの命は、(もうけもの)」と。
「50歳で、がんで死ぬことを考える必要はない。
悲観的になることはない。
50歳で死んだと思って、残りの人生を楽しく生きる」と。

だったら、これはあくまでも私のばあいだが、「51歳」と言うよりは、「71歳」と
言ったほうが、よいということになる。
「71歳なのだが、61歳の人のように、若々しい」と。
そのほうが、感謝の念も強くなる。
生き方にも、力が入る。
あるいは余命を計算しながら、「残りの人生は、よくて10年」と、生きていることその
ものを大切にするようになる。

それに先にも書いたように、私が「ぼくは71歳だ」と言っても、だれも信用しないだろう。
「あなたは、どう見ても、71歳には見えない」と。
しかし「51歳だ」と言うと、みなが、疑う。

●1年ごと、(もうけもの)

2008年も無事、終わろうとしている。
いろいろあったが、私や私の家族は、ともかくも無事だった。
仕事も楽しかった。
やりがいもあった。
これを(もうけもの)と言わずして、何と言う?
つまりそういう意識をもつためにも、「71歳」と言う。

「71歳」と言えば、60歳から計算すると、11年も「もうけた」ということになる。
その分だけ、心を広くすることもできる。
が、それだけではない。

「71歳」と言うことによって、人生を先取りすることができる。
ジジ臭くなれということではない。
71歳らしく生きろということでもない。
71歳の人が、61歳の人のように、あるいは51歳の人のように、
若々しく生きたところで、おかしくない。

それに本当に71歳になったとき、10年分、前もって心の準備しておくことができる。
81歳になったときも、そうだろう。
91歳になったときも、そうだろう。
そのつど、10年分、得をしたような気分になる。
その(得をした)という気分こそが、大切。

●私は71歳なのだ

「私は71歳」と思うことによって、71歳の高齢者の人たちと、同じレベルに
自分を置く。
そして自分にこう言って聞かせる。
「ぼくは71歳だけど、中身は61歳」と。

そのほうが、ずっと楽しい。
無理をして、51歳のまねをするような、うしろめたさというか、イヤミがない。
ウソはウソだが、「51歳」と言うときは、他人を欺くため。
しかし「71歳」と言うときは、自分を欺くため。
むしろ他人を楽しませるかもしれない。

簡単に言えば、「年齢を若く言って無理をするより、年齢を古く言って、余裕を
もって生きたほうがいい」ということ。

あとのことは、天命に任せる。
そのときが来たら、そのとき。
ジタバタしない。
……ということで、最近、私は子どもたちから年齢を聞かれるたびに、「ぼくは71歳だよ」
と答えることにしている。

(付記)
「♪もういくつ寝ると、お正月……」という歌は、前向きな歌ということになる。
しかしジー様、バー様は、(私も含めて)、暗い顔をして、こう歌う。
「♪もういくつ寝ると、今年もおしまい……」と。
しかしそれではいけない。
いけないということで、このエッセーを書いた。

さあ、ここは童心に返って、『お正月』の歌を、明るく、楽しく歌ってみよう。

♪もういくつ寝ると、お正月
 お正月には、凧あげて、コマを回して遊びましょう。
 早く来い来い、お正月

(付記)
ところであなたはどうだろうか?
新年が近づくたびに、「今年も、もうおしまい?」とか、「もうお正月?」とか
言って、暗い顔をするだろうか。
もしそうなら、あなたはすでに、片足を棺おけにつっこんでいるようなもの!

同じ1年でも、やりたいことを思う存分しながら、有意義に過ごした人は、
その1年を長く感ずる。
新年が来ることを、喜ぶことができる。
そうでない人は、そうでない。
大切なのは、前向きに生きること。
中身の濃い人生を送ること。
が、ふと油断すると、すぐうしろ向きになってしまう。
わかりやすい例が、同窓会。

50歳を過ぎると、とたんに同窓会の回数がふえる。
心理学でも、こうした現象を、「回顧性」という言葉を使って説明する。
過去を懐かしむことが、多くなる。

その反対の位置にあるのが、「展望性」という言葉。
未来に向かって夢や希望をいだきながら、生きることをいう。
その回顧性と展望性は、満55歳くらいのときに、クロス交差するという。
つまり満55歳くらいのときに、前向きな生き方と、うしろ向きな生き方が、交差する。
それからは生き方そのものが、うしろ向きになる。

が、回顧性など、くそ食らえ!
回顧性にしばられるようになると、未来よりも過去ばかりを気にするようになる。
過去の肩書きや、学歴、名誉、地位にしがみついて生きる人もいる。
もっと言えば、そういう人たちは、「年齢の奴隷」ということになる。
若かったころの自分から、自分を解放することができない。

今は今。
年齢という数字にまどわされてはいけない。
私たちは、どこまでも前向きに生きる。
死ぬまで前向きに生きる。
けっしてうしろ向きになってはいけない。
いつか書いたが、年齢というのは、ただの数字。
そんな数字に、どんな意味があるというのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
前向きな人生 展望性 回顧性 後ろ向きな人生 ロメオ シンドローム 
ロメオ症候群 ジュリエットシンドローム ジュリエット・シンドローム)

(注※)ロメオ・シンドローム……若かりしころの自分に、人生の基点を置く。
それから遠ざかることに、強迫観念をもつ。そのため(若さ)の
維持に何よりも注意を払う。自分をロメオに見立て、常にそこに悲劇性を
もたせる。『ピーターパン・シンドローム』を、(おとなになりきれない、
おとな)とするなら、『ロメオ・シンドローム』は、(加齢を受け入れ
ることができないおとな)ということになる。そのため年配者や老人をことさら
嫌ったりする。あるいは年配者や老人の価値観、思想を、ことさら否定したり
する。顔にシワやシミ、白髪が現われたりすると、人一倍、狼狽(ろうばい)
したりする。ロメオ・シンドロームというのは、(ピーターパン・シンドローム
もそうだが)、結局は、その人の精神的未熟性に起因すると考えられる。

 
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【学歴制度】

●5か条の御誓文

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1868年、明治維新で生まれた新政府は、
明治天皇の名前で、『5か条の御誓文』、つまり
政治の方針を定めた。

5か条の御誓文というのは、つぎのような
ものであった。

一、政治のことは、会議を開き、みんなの意見を聞いて決めよう。
一、みんなが心を合わせ、国の政策を行おう。
一、みんなの志が、かなえられwるようにしよう。
一、これまでのよくないしきたりを改めよう。
一、新しい知識を世界に学び、国を栄えさせよう

+++++++++++++++++++++

明治維新の中でもっとも大切なのは、『四民平等』ではなかったか。
天皇一族は「皇族」、公家や大名は「華族」、武士は「士族」、そのほかは「平民」となった。
それぞれの割合は、

人口3313万人のうち、
華族、神宮、僧……0・9%
士族     ……5・5%
平民    ……93・6%

この数字を見て、9年前に書いた原稿を思い出した。
日本人が平等になったというのは、ウソと考えてよい。
そのかわり明治政府は今に残る学歴制度を作りあげた。

++++++++++++++++++++++++++

●子どもの希望

 98年から99年にかけて、日本青年研究所が、興味ある調査をしている。「将来、就(つ)
きたい職業」についてだが、国によって、かなり、ちがうようだ。

★日本の中学生
    公務員
    アルバイト(フリーター)
    スポーツ選手
    芸能人(タレント)

★日本の高校生
    公務員
    専門技術者  
    (以前は人気のあった、医師、弁護士、教授などは、1割以下)

★アメリカの中高校生
    スポーツ選手
    医師
    商店などの経営者 
    会社の管理者
    芸術家
    弁護士などの法律家

★中国の中学生
    弁護士や裁判官
    マスコミ人
    先端的技術者
    医師
    学者

★中国の高校生
    会社経営者
    会社管理者
    弁護士

★韓国の中学生
    教師
    芸能人
    芸術家

★韓国の高校生
    先端的技術者
    教師
    マスコミ 

 調査をした、日本青少年研究所は、「全般的に見ると、日本は、人並みの平凡な仕事を
選びたい傾向が強く、中国は経営者、管理者、専門技術者になりたいという、ホワイトカ
ラー志向が強い。韓国は特技系の仕事に関心がある。米国では特技や専門技術系の職業に
人気があり、普通のサラリーマンになる願望が最も弱い」と、コメントをつけている。

この不況もあって、この日本では、公務員志望の若者がふえている。しかも今、どんな公
務員試験でも、競争率が、10倍とか、20倍とかいうのは、ザラ。さらに公務員試験を
受けるための予備校まである。そういう予備校へ、現役の大学生や、卒業生が通っている。

 今では、地方の公務員ですら、民間の大企業の社員並みの給料を手にしている。もちろ
ん退職金も、年金も、満額支給される。さらに退職後の天下り先も、ほぼ100%、確保
されている。

 知人の一人は満55歳で、自衛隊を退職したあと、民間の警備会社に天下り。そこに5
年間勤めたあと、さらにその下請け会社の保安管理会社に天下りをしている。ごくふつう
の自衛官ですら、今、日本の社会の中では、そこまで保護されている。(だからといって、
その人個人を責めているのではない。誤解のないように!)
 
もちろん、仕事は楽。H市の市役所で働いている友人(○○課課長)は、こう言った。「市
役所の職員など、今の半分でもいいよ。三分の一でも、いいかなあ」と。

 これが今の公務員たちの、偽らざる実感ではないのか。

 こういう現実を見せつけられると、つい私も、自分の息子たちに言いたくなる。「お前も、
公務員の道をめざせ」と。

 本来なら、公務員の数を減らして、身軽な行政をめざさねばならない。しかしこの日本
では、今の今ですら、公務員、準公務員の数は、ふえつづけている。数がふえるだけなら
まだしも、公務員の数がふえるということは、それだけ日本人が、公務員たちによって管
理されることを意味する。自由が奪われることを意味する。

 恐らく、国民が、公務員たちによって、ここまで管理されている国は、この日本をおい
て、ほかにないだろう。ほとんどの日本人は、日本は民主主義国家だと思っている。しか
し本当に、そうか。あるいは、今のままで、本当によいのか。日本は、だいじょうぶなの
か。

あなたが公務員であっても、あるいは公務員でなくても、そういうことには関係なく、
今一度、「本当に、これでいいのか」と、改めて考えなおしてみてほしい。
(040302)(はやし浩司 将来の職業 職業意識 アメリカの高校生 公務員志望)

【付記】
ついでに同じく、その調査結果によれば、「アメリカと中国の、中高校生の、ほぼ全員
の子どもが、将来の目標を『すでにはっきり決めている』、あるいは『考えたことがあ
る』と答えた。日本と韓国では2割が『考えたことがない』と答えている」という。

 アメリカや中国の子どもは、目的をもって勉強している。しかし日本や韓国の子どもに
は、それがないということ。

 日本では、大半の子どもたちは今、大学へ進学するについても、「入れる大学の、入れ
る学部」という視点で、大学を選択している。いくら親や教師が、「目標をもて」と、ハ
ッパをかけても、子どもたちは、こう言う。「どうせ、なれないから……」と。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない……という現状のほうが、おかしいのであ
る。

 人生には、無数の道がある。幸福になるにも、無数の道がある。子どもの世界も、同じ。
そういう道を用意するのも、私たち、おとなの役目ではないだろうか。

 現在の日本の学校教育制度は、子どもを管理し、単一化した子どもを育てるには、たい
へん便利で、能率よくできている。しかし今、それはあちこちで、金属疲労を起こし始め
ている。現状にそぐわなくなってきている。明治や大正時代、さらには軍国主義時代なら、
いざ知らず、今は、もうそういう時代ではない。

 それにもう一つ重要なことは、何も、勉強というテーマは、子ども時代だけのものでは
ないということ。仮に学生時代、勉強しなくても、おとなになってから、あるいは晩年に
なってから勉強するということも、重要なことである。

 私たちはともすれば、「子どもは勉強」、あるいは「勉強するのは子ども」と片づける
ことによって、心のどこかで「おとなは、しなくてもいい」と思ってしまう。

 たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい!」と怒鳴る親は多いが、自分に向って、
「勉強しなさい!」と怒鳴る親は少ない。こうした身勝手さが生まれるのも、日本の教育
制度の欠陥である。

 つまりこの日本では、もともと、「学歴」が、それまでの身分制度の代用品として使わ
れるようになった。「勉強して知性」をみがくという、本来の目的が、「勉強して、いい
身分を手に入れる」という目的にすりかわってしまった。

 だから親たちは、こう言う。「私は、もう終わりましたから」と。私が、「お母さん、
あなたたちも勉強しないといけませんよ」と言ったときのことである。

 さあ、あなたも、勉強しよう。

 勉強するのは、私たちの特権なのだ。新しい世界を知ることは、私たちの特権なのだ。
なのに、どうして今、あなたは、それをためらっているのか?

【付記2】

 江戸時代から明治時代にかわった。そのとき、時の為政者たちは、「維新」という言葉を
使った。「革命」という意味だが、しかし実際には、「頭」のすげかえにすぎなかった。

 幕府から朝廷(天皇)への、「頭」のすげかえである。

 こうして日本に、再び、奈良時代からつづいた官僚政治が、復活した。

 で、最大の問題は、江戸時代の身分制度を、どうやって、合法的かつ合理的に、明治時
代に温存するかであった。ときの明治政府としては、こうした構造的混乱は、極力避けた
かったにちがいない。

 そこで「学歴によって、差別する」という方式をもちだした。

 当時の大卒者は、「学校出」と呼ばれ、特別扱いされた。しかし一般庶民にとっては、教
科書や本すら、満足に購入することができなかった。だから結局、大学まで出られるのは、
士族や華族、一部の豪族にかぎられた。明治時代の終わりでさえ、東京帝国大学の学生の
うち、約75〜80%が、士族、華族の師弟であったという記録が残っている。

 で、こうした「学校出」が、たとえば自治省へ入省し、やがて、全国の知事となって、
派遣されていった。選挙らしいものはあったが、それは飾りにすぎなかった。

 今の今でも、こうした「流れ」は、何も変わっていない。変っていないことは、実は、
あなた自身が、一番、よく知っている。たとえばこの静岡県では、知事も、副知事も、浜
松市の市長も、そして国会議員の大半も、みな、元中央官僚である。(だから、それがまち
がっていると言っているのではない。誤解のないように!)

 ただ、日本が本当に民主主義国家かというと、そうではないということ。あるいは大半
の日本人は、民主主義というものが、本当のところ、どういうものかさえ知らないのでは
ないかと思う。

 つまり「意識」が、そこまで高まっていない? 私もこの国に住んで、56年になるが、
つくづくと、そう思う。

++++++++++++++++++++++
つぎの原稿は、1997年に、私が中日新聞に
発表した原稿です。
大きな反響を呼んだ原稿の一つです。

若いころ(?)書いた原稿なので、かなり過激
ですが、しかし本質は、今も変わっていないと
思います。
++++++++++++++++++++++

●日本の学歴制度

インドのカースト制度を笑う人も、日本の学歴制度は、笑わない。どこかの国のカルト
信仰を笑う人も、自分たちの学校神話は、笑わない。その中にどっぷりとつかっている
と、自分の姿が見えない。

 少しかたい話になるが、明治政府は、それまでの士農工商の身分制度にかえて、学歴制
度をおいた。

 最初からその意図があったかどうかは知らないが、結果としてそうなった。

 明治11年の東京帝国大学の学生の75%が、士族出身だったという事実からも、それ
がわかる。そして明治政府は、いわゆる「学校出」と、そうでない人を、徹底的に差別し
た。

 当時、代用教員の給料が、4円(明治39年)。学校出の教師の給料が、15〜30円、
県令(今の県知事)の給料が250円(明治10年)。

 1円50銭もあれば、一世帯が、まあまあの生活ができたという。そして今に見る、学
歴制度ができたわけだが、その中心にあったのが、官僚たちによる、官僚政治である。

 たとえて言うなら、文部省が総本山。各県にある教育委員会が、支部本山。そして学校
が、末寺ということになる。

 こうした一方的な見方が、決して正しいとは思わない。教育はだれの目にも必要だった
し、学校がそれを支えてきた。

 しかし妄信するのはいけない。どんな制度でも、行き過ぎたとき、そこで弊害を生む。
日本の学歴制度は、明らかに行き過ぎている。

 学歴のある人は、たっぷりとその恩恵にあずかることができる。そうでない人は、何か
につけて、損をする。

 この日本には、学歴がないと就けない仕事が、あまりにも多い。多すぎる。親たちは日
常の生活の中で、それをいやというほど、肌で感じている。だから子どもに勉強を強いる。

 もし文部省が、本気で、学歴社会の打破を考えているなら、まず文部省が、学歴に関係
なく、職員を採用してみることだ。

 過激なことを書いてしまったが、もう小手先の改革では、日本の教育は、にっちもさっ
ちもいかないところまで、きている。

 東京都では、公立高校廃止論、あるいは午前中だけで、授業を終了しようという、午後
閉鎖論まで、公然と議論されるようになっている。それだけ公教育の荒廃が進んでいると
いうことになる。

 しかし問題は、このことでもない。

 学歴信仰にせよ、学校神話にせよ、犠牲者は、いつも子どもたちだということ。今の、
この時点においてすら、受験という、人間選別の(ふるい)の中で、どれほど多くの子ど
もたちが、苦しみ、そして傷ついていることか。そしてそのとき受けた傷を、どれだけ多
くのおとなたちが、今も、ひきずっていることか。それを忘れてはいけない。

 ある中学生は、こう言った。

 「学校なんか、爆弾か何かで、こっぱみじんに、壊れてしまえばいい」と。

 これがほとんどの子どもの、偽らざる本音ではないだろうか。ウソだと思うなら、あな
たの、あるいはあなたの近所の子どもたちに、聞いてみることだ。

 子どもたちの心は、そこまで病んでいる。
(はやし浩司 華族 士族 東京帝国大学 自治省)

++++++++++++++++++++++++

●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。

たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、
自分の鼻先を指さす。(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)

そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻
先をさす。しかし年中児になると、それが乱れる。つまりこの部分については、子ども
は年中児から年長児にかけて、いつの間にか、教えられなくても教えられてしまうこと
になる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解さ
れるが、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるか
に多い。どれくらいの割合かと言われれば、一対一〇〇、あるいは一対一〇〇〇、さらに
はもっと多いかしれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教
えずして教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子ども
というのは、「教えることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しか
しむしろ子どもの教育にとって重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大
半の子どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てる
というのでもない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以
上にエリート意識をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはって
いく。

先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行
士になるという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。全員(一〇人)がこう言っ
た。「どうせ、なれないもんね」と。「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別の
ところで、別のことを学んでしまう。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろう
か。そして子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいる
だろうか。それを少しだけここで考えてみてほしい。
(はやし浩司 もの言わぬ 従順な民 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評
論 幼児教育 子育て はやし浩司 学歴制度 学歴社会)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●従兄弟(いとこ)

++++++++++++++++++

昨夜、従兄弟(いとこ)と、電話で1時間ほど、話す。
このところいつも、健康談義になる。
その従兄弟は、人一倍、健康に気をつかっている。
話を聞くだけで、よい勉強になる。

++++++++++++++++++

●健康

健康というのは、作るものではなく、守るもの。
しかも健康であるときには、健康の価値がわからない。
それを失ったとき、はじめて、その価値がわかる。

従兄弟は、機会を見つけては、体を鍛えている。
趣味は登山、水泳、競歩、自転車……。
まさに何でもござれのスーパーマン。
私と同じ歳だが、そのため今でも筋肉が隆々としている。

加えて健康診断は、欠かしたことがない。
脳ドックから、最近は前立腺がんの検査まで。
話の内容からして、毎月のように何らかの検査を受けているらしい。
親しい友人に、ドクターがいるという。
そのドクターから、いろいろアドバイスを受けている。

一方、私は、検査という検査が、嫌い。
嫌いというより、あきらめている。
もし(がん)と診断されたら、そのときは、そのとき。
「年貢の納めどき」と考えて、仕事もやめる。
やめなければならない。
闘病生活を繰り返すくらいなら、死んだほうがまし。
私はずっと、そういう考え方をしてきたし、これからもその考えは変わらない。

前立腺がんにしても、おとなしいがんだそうだ。
じょうずにつきあえば、10〜15年は生きられるという。
そのころには、ちょうど寿命も尽きる。

ただしそれには、条件がある。

ぐうたらな生活をしていて、「そのときは、そのとき」は、ない。
常に健康に気をつかう。
努力する。
やれることは、何でもやる。

私も、やれることは、何でもやっている。
寒い夜でも、サイクリングを欠かしたことがない。
つまりそれでも病気になるとしたら、あきらめるしかない。
あきらめもつく。
つまり日ごろから、そういう状態にしておく。

●不況

ついでに、不況の話になった。
が、この不況下でも、10万〜20万円の自転車に乗っている人がいるという。
「ぼくのは、2万円だ」と言うと、笑っていた。

私「ぼくはどんな自転車でも、乗りこなすことができるよ」
従「ぼくは、今、7万円の自転車に乗っている。いい自転車は、足腰がしっかりと
している」
私「ぼくは、それは感じない」
従「ベンツにしても、BMWにしても、高速を走ってみるとわかる。スーッと、
アクセルが地面になじんでいくのがわかる」
私「そういうものかなあ」
従「そういうものだよ。自転車もそうだ」と。

ところで従兄弟の友人たちも、今度の株価の暴落で、大損をしたらしい。
「も」というのは、私も損をしたし、従兄弟も損をしたということ。
損をしなかった人は、いないのではないか。
理由がある。

銀行へ現金を預けておいても、すずめの涙ほどの利息しかつかない。
そこである程度の小銭をもっている人は、証券会社へ走った。
利息もよい。
世界には、5〜10%もの利息をつけてくれる国がある。……あった。
為替でも稼げる。
1ドル110円のとき買って、120円になったとき売れば、プラス約9%の
利息、ということになる。

が、今度のサブプライム・ショック、それにリーマンブラザーズ・ショック。
打つ手もなかった。
「まさか」「まさか」と思っているうちに、世界の株価は、どんどんとさがっていった。
あまりにも急激だった。
ほとんどの人は、売る機会を失ってしまった。
結果、資産を3〜4割失った人は、いくらでもいる。
平均して、5割?
中には、資産を、10分の1にしてしまった人もいる。

その影響が出てくるのは、これから。
倒産、失業、自己破産などなど。
犯罪もふえるだろう。
それを想像するだけで、そら恐ろしくなる。

2009年は、はたしてどんな年になることやら?
従兄弟も、それを心配していた。

●浜松の外国人

浜松市には、ブラジル人を中心に、約3万人の外国人が住んでいる。
仕事をしている。
そういう人たちが、今回の大不況で仕事をなくし、寮などを追い出されている。
……と書くと、「たいへんだな」と思う。
またこう書くからとって、みながみな、そうであると言っているのではない。
たしかに職を失い、寮などを追い出される人もいる。
しかしここ数年、そういう外国人たちの存在感が大きくなったのは、事実。

10年前には、まだ車をもっている人は少なかった。
しかし今は、みな、大型の車を運転し、猛スピードで道路を走ったりしている。
交通法規がちがうのか、日本の交通ルールを守らない。
そういった人たちの(たまり場)のようなところがあって、夜中まで騒ぐ。
アパートによっては、外国人に占拠されてしまったところもある。

で、これはあくまでも私の印象だが、彼らは日本へ来て、日本で働きながら、
少しばかり、日本に同化しようという努力が足りないのではないか?
外国人は、外国人どうしが集まってしまい、日本人の社会に入ってこない。
もちろん言葉も覚えない。
習慣も覚えない。
もちろん町内の自治活動などには、参加しない。
本当はそうではないのかもしれないが、私には、そう見える。

たとえばどこの小学校へ言っても、校長たちは、異口同音にこう言う。
「彼らはある日突然、子どもをつれてきて、『この子に日本語を教えてくれ』という。
そこでボランティアの人たちの力を借りて、特別レッスンをほどこす。
しかしまたある日突然、学校をやめていく。
家に連絡しても、まわりの人たちが、『今度、新潟に引越しました』と言うだけ。
現状では、外国人を教えるためのカリキュラムも、予算もない。
学校教育自体が、危機的状況にあります」と。

そういう人たちが、「職を失った」「寮を追い出された」「だから何とかしろ」と
言っても、どうもピンとこない。
同情心というのが、わいてこない。

これは外国の人にとっても不幸なことだが、私たち日本人にとっても、不幸なことである。

彼らも、この日本で生きていかねばならない。
日本は、彼らの労働力を必要としている。
私たちは、たがいに、仲よくしたほうがよい。

そんなわけで、一言。
日本へ来るなら来るで、それなりの覚悟と準備をしてきてほしい。
あるいは日本の社会に、もう少し敬意を表してほしい。

そうそうついでに一言。
いろいろな人に話しかけてみたが、英語を話せる人は、ほとんどいない。
これもひとつの問題点ではないか。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●大型自転車店

+++++++++++++++++++++++++++

関西地方を中心に、「AS」という大型自転車店がある。
「サイクル・ベース」という名前がついている。
全国に約150店舗を構え、常時、800台前後の
自転車を並べている。
この浜松市にも、2店舗、ある。
折からの自転車ブームに乗り、店舗数もさることながら、
売り上げ高も急激に伸びている。
売る上げも、前年度比17%増の、173億円(08年2月)。
ふつう自転車の利益率は、30〜35%と言われている。
個人の自転車店(従業員2人以下)でも、40%前後と言
われている、
そういう中で、ASは、50%前後の利益率を確保しているという。
(日経ビジネス)
それだけ値段が高いかというと、事実は、逆。
中間マージンを排しているため、かえって安い!
中国を中心に、自社ブランドの製品を開発している。

そのASに入ってみてまず驚くのは、品数の多さ。
まるで遊園地のようにカラフルである。
そういうのを見ると、……というより、私が若いころ頭の中で
描いていた自転車店そっくりなので、驚く。
私も商社マンだったころ、すでに同じような商売を考えていた。
1971〜2年のころである。

++++++++++++++++++++++++++++

●がんばれ、町の自転車店!

私の実家も自転車屋だった。
しかし子どものころから、いつもこう考えていた。
「どうせ商売をするなら、大きいほうが勝ち」と。
しかも全国ネットで、大量に仕入れて、薄利多売で勝負する。

M物産という商社にいたときから。そしてそのあと10年ほど。
あちこちで貿易の顧問をしていたときから、私は密かに、大型自転車店の
構想を考えていた。

当時は中国本土までは行けなかったが、台湾、香港で、自転車の製造を
始めつつあった。
品質は、おせじにも、よいとは言えなかった。
しかし値段が安かった。
私自身も、香港や台湾へ行ったついでに、向こうの自転車を、20〜30台、
実家へ仕入れてやったことがある。
おとな用の自転車でも、5000円前後で仕入れ、店で、7000〜8000円で、
売ることができた。
(品質が悪すぎて、かえって評判を落としてしまった面もあるが……。)

が、それから20〜30年。
ASという名前の自転車店を知った。
ふつうなら、悔しいと思わなければならないはずだが、私にはそれはない。
私の夢を実現してくれた、ASの経営者の方たちに、むしろ敬意を表したい。

で、こういう店ができると、町の個人の自転車屋は、大打撃を受ける。
もし私が今でも自転車店を経営していたら、そのままつぶれてしまっただろう。
が、それでも、ASに恨みをもつことはなかっただろう。
規模そのものがちがう。
それには、こんな話がある。

自転車屋には、ランクがある。
いちばん小さい、田舎町の自転車店。
それよりやや大きい、町の自転車店。
さらに大きい、町の自転車店。
さらに大きな、中堅の自転車店。

自転車店の世界には、大型店というのは、ない。……なかった。

どんぐりの背比べというか、わずかの(ちがい)の中で、「うちの店は大きい」
「あの店は小さい」と、張りあっている。……いた。
縄張り意識も強かった。
私には、それがバカげて見えるほど、おかしかった。
大きな中堅の自転車店といっても、従業員は1〜2人。
妻や祖父母がそれを手伝っていた。

言うなれば、小さな、どうしようないほど小さな世界で、それぞれが張りあっていた。
そういうところへ、ASというとてつもないほど大きな店が現われた。
勝つとか、負けるとか、そういうレベルの話ではない。
みなが大八車を引きながら、たがいに足の引っ張りあいをしていたところへ、
大型トラックがやってきた。
そんな感じである。

自転車業は技術職と言う人もいるが、昔とちがって、今では自転車は、
完成品として各店に届けられる。
(私が子どものころには、自転車は、スポークで車輪を組み立てるところから、
手作業だった。)
また自転車業には、自転車技師の認定書が必要と言われているが、あんなものは
あってもなくても、同じようなもの。
自転車店組合が、自分たちの職業を権威づけるために、資格試験にまで
祭りあげた。
そのあたりの経緯(いきさつ)を私は知っているが、私の祖父も、父も、
あえてその試験を受けなかった。
きっとプライドが許さなかったのだろう。

現に大半の自転車屋では、妻や、年老いた祖父母が、修理を手伝っている。
言い換えると、今までの自転車店は、あまりにも居心地のよい世界に、
安住しすぎた。
つまりなぜ、今まで自転車店業界が無風地帯であったかというと、(技術)の
問題ではなく、(油)の問題だった。
自転車店というのは、どこでもそうだが、トイレのドアのノブまで油で黒く
なっている。
パンクの修理にしても、やり方をまちがえると、服やズボンが、油で汚れてしまう。
一般の人は、それを嫌った。

つまりこの点だけクリアできれば、自転車店といっても、ほかの商店と、どこも
ちがわない。
が、Sの店内は、明るく、清潔。
油臭さが、どこにもない。

そういうASに対抗する方法があるとするなら、自転車店の店主が、きわめて
専門的な知識人になることでしかない。
健康哲学とか、自転車工学とか、あるいは自然哲学とか、そういうものをもって、
勝負する。
自前でサイクリング・クラブを運営するのもよいだろう。
ただの(もの売り屋)ではないという、差別化。
マニアを相手にした、高級店化。
それを前面に押し出すしかない。

が、それもしないというのであれば、市場から退散するしかない。
かなりきびしい意見を書いたが、これは町の自転車店のために書いた。
ASだけではない。
ここ5年前後で、あなたの町にも、大型店がやってくる。
その準備と覚悟だけは、しておいたほうがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●過剰な妥協(Excessive Compromise by C. Rice and C. Hill toward North Korea)

Nobody denies in Japan, that C. Rice and C. Hill has done too much excessive 
compromise toward North Korea, or these two people are too innocent to be cheated by 
them during the conferences. What they have done is just to give them money, oil, food, 
music and time. The biggest show was the "Explosion Show of Junk Yard in Yonbyon", 
which means nothing to them. 

+++++++++++++++++

C・ライスとC・ヒルのコンビが、
K国に対して、「過剰な妥協」をしたのは、
だれの目にも明らか。

この5年間で、この2人がしたことは、
K国に、マネー、原油、食糧、音楽、それに
時間を与えたことだけ。
あとは、もとからガラクタだったヨンビョンの
核施設の爆破ショーを演じて見せただけ。

それに対して、当のC・ライスは、
「80%は合意していた」と、わけのわからない
ことを言っている。
何をもって、「80%」というのか?

++++++++++++++++++

時事通信、08年12月22日は、つぎのように伝える。

『ライス米国務長官は21日、NBCテレビのインタビュー番組で、「もちろんK国を信用
していない」と述べ、K国の非核化をめぐる交渉で、米政府がK国の約束を信頼して過剰
に譲歩しているとの批判に反論した。

 ライス長官は「誰もK国を信頼していないからこそ、核検証の枠組みを交渉している」
と指摘。「枠組みの80%は合意したが、K国は科学的手続きの要素を明確にする最後の2
0%に同意しようとしない」と述べ、核検証枠組みの文書化失敗は、K国側に原因がある
と強調した』(時事通信・12月22日)と。

この報道を読んで、まず気になったのが、「80%」という数字。
いかにもアメリカ人らしい発想だが、同時に、何をもって「80%」というのか。
外交交渉は、すべて結果で決まる。
その結果が何もない今、「80%は合意した」とは、どういうことなのだろう。
まさか原油の提供が、80%済んだということでもあるまい。

各検証枠組みの文書化失敗は、K国にあるのではない。
米朝2か国だけで、秘密会議を開いてきた、C・ライスとC・ヒルにある。
6か国協議を形骸化してしまった。
結果として、C・ヒルは、K国に、いいように、もてあそばれてしまった。
しかもあろうことか、C・ライスは、この日本を脅した。
「K国援助に加われ。さもなくば、K国をテロ支援国家リストからはずす」と。

が、日本はそれに応じず、K国は、テロ支援国家リストからはずされてしまった。
さらにその前には、「拉致問題を6か国協議からはずせ」と迫ったこともある。
拉致問題については、C・ヒルが話し合った形跡は、ゼロ。
成果も、もちろんゼロ。
さらに最近に至っては、「日本は日本で、勝手にやれ」とまで、言いだした。

C・ライスは、頭のよい女性かもしれないが、自分の能力を過信するあまり、独断と
偏見だけで、K国との外交を進めてしまった。
加えてC・ヒルの(思いこみ外交)。
「アメリカはここまでしたのだから、K国も、応じてくれるはず」と。
よい例が、08年の正月に、K国に派遣した、ニューヨーク・フィル。
いったい、あれは何だったのか?

いまだにC・ヒルは、こう言って、K国をかばっている。
「原油の提供が完了すれば、K国は、核検証に応じてくるはず」と。
さらにその原油支援についても、支援中断は、5か国も承諾していると、
ここでもまた(思いこみ外交)を展開した。

これに対して、中国、ロシアは、「これからも支援をつづける」と表明。
日本と韓国は、「そんな話は聞いていない」と表明。
いったい、C・ヒルの脳みそは、どうなっているのか。

現在、日米関係は、こと日本側でみるかぎり、最悪の状態になっている。
その責任の大半は、C・ライスとC・ヒルにあることは、言うまでもない。

それにしても、「80%」?
K国の核開発関連施設は、ヨンビョンだけではないというのは、常識なのだが……。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 1月 21日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●教えていて、空しさを感ずるとき

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私は子どもを教えるようになって、言いようのない
空しさを味わうことがある。
何度かある。
今、記憶にあるのは、3度。
うち2度は、私が進学塾で講師をしているとき、経験した。
そのたびに、「もう、こんな子どもは教えたくない」と
思った。
「こんな子どもに知恵をつけさせたくない」と思ったこともある。

+++++++++++++++++++++

●3度の事件

(1度目)

ある日授業を終えて、控え室へ行くと、そこに4、5人の中学生がいた。
私がいつも使っているコップが、テーブルの上にあった。
授業の前に注いだお茶が、そのままになっていた。

私は空いている席に座り、お茶をそのまま飲んだ。
が、どこかおかしな雰囲気。
中学生たちが、みな、私を見おろしながら、ニヤニヤと笑っているではないか。
とたん、気がついた。
「何をした!」と強く言うと、その中の1人がこう言った。
「先生、変な味、しない?」と。

もう一度「何をした!」と、強く聞くと、J君という中学生(中2)が、
ニヤニヤと笑ったまま、悪びれた様子もなく、こう言った。
「殺虫剤を入れておいた」と。
見ると片手に、市販のスプレー式の殺虫剤をもっていた。

私はJ君をにらみながら、「お前がしたのか!」と聞くと、「そうだ」と。
私は即刻、J君にこう叫んだ。
「お前はしていいことと、悪いことの区別もつかないのか」
「お前のようなヤツは、進学など、やめてしまえ」
「この塾へは、2度と来るな」
「あとで塾長に話しておく」と。

結局、J君はそのあとも、進学塾をやめなかった。
塾長が、反対に、私をたしなめた。

(2度目)

2度目も、その進学塾でのことだった。
ある日、2人の中学生の進学相談に応じていた。
1人はM君(中3男子)、もう1人はAさん(中3女子)。
そのとき私とM君は、ちょうどテーブルをはさんで、対峙する位置に座っていた。
それを横からAさんが、見ていた。
M君は、あれこれと勉強のことや、進学のこと、学校での成績などを私に話していた。
そのときは一方的な会話だったので、私は軽く目を閉じ、M君の言葉にうなずいていた。

その瞬間のこと。
あろうことか、あるいは何を思ったのか、M君が自分のもっていたシャープペンシルを、
さっと前に出し、私の顔とテーブルの間に立てた。
それを知らない私は、うなずくと同時に、パシンとシャープペンシルがメガネの
端のところではじけるのを感じた。
と、同時にシャープペンシルの先が私の眉の付け根に突き刺さった。

そこに細い動脈があった。
血しぶきが、顔面に散った。
「何てことするんだ!」と叫ぶ間もなく、M君はその場で土下座した。
「ごめんなさい」「ごめんなさい」と。

今でもそのときの傷あとが、右目の付け根あたりに残っている。

(3度目)

これは最近、経験した。
インフルエンザが、あちこちで流行(はやり)始めている。
鳥インフルエンザも、うわさされている。
そこで私の教室では、その対策というか準備のため、咳をする子どもには、
徹底してマスクをつけさせるようにしている。

が、ときどき「どうしてエ?」と、反発してくる子どももいる。
そういうとき私は、「今から練習しておかないと、いざというときにできないだろ」と、
説明することにしている。

が、レッスンも終わりかけたころ、R君(小2)が、私のところへつかつかとやってきた。
何か用かなと思っていると、R君は突然マスクを下へさげると、同時に、大きな咳を
私にぶっかけた。
顔にR君の唾液が飛び散るのを、私は感じた。

「何てことをするんだ!」と、そのときも、そう叫んだ。

●共通する(常識はずれ)

こうした子どもに共通する症状としては、つぎのようなものがある。

(1)親の過干渉などにより、(あるいは口うるさい家庭環境などにより)、自分で
考えて判断するという習慣に欠けている。

(2)善悪のバランス感覚にうとく、日ごろから何かにつけて、突飛もないことを、
平気でする。

(3)叱られじょうずで、こちらが怒ったりすると、すかさずしおらしい様子をして
みせる。いかにも反省していますといった様子になる。

原因は、(1)にも書いたように、家庭環境にある。
日ごろから親が、(とくに母親が)、がみがみと、一方的に子どもにものを言う。
子どもに話しかけるというよりは、命令口調が多い。
子どもの気持ちを確かめるようなことをしていない。
子どもは子どもで、叱られじょうずというか、その場をうまく切り抜けようとする。

そういう家庭でのやり取りが、乳幼児期からつづいている。

ただJ君(1度目)のように、知的能力にやや問題があるケースもある。
善悪の正確な判断ができない。
突発的に、(とんでもないこと)をする。

これは幼稚園で経験したことだが、コンセントに粘土をつめていた子ども(年長
男児)や、絵の具を溶かして色水を作り、それを2階のベランダから下の子どもたちに
かけていた子ども(年長男児)もいた。
同じように、善悪の判断にうとい子どもとみる。

が、問題は、こうした子どもたちを、どう指導するか、だ。
中学生くらいになると、実際のところ、手遅れ。
幼稚園の年長児でもむずかしい。
というのも、これは指導の問題ではなく、家庭環境の問題。
もっと言えば、親の問題。

子どもを指導することはできても、親を指導するのはむずかしい。
実際には、不可能。
第一、親にその自覚がない。
第二、家庭教育に干渉すると、ときとして思わぬトラブルに巻き込まれる。
第三、親が自分のもつ子育て観を変えるのは、よほどのことがないかぎり不可能。
とくに私立幼稚園や進学塾では、子ども自身のもつ問題よりも、経営が優先する。
先に書いたJ君の事件にしても、私は「退塾させてください」とかけあったが、
塾長がそれに応じてくれなかった。

しかし……。
放置しておけば、このタイプの子どもは、さらに大きな事件を引き起こすようになる。
そういう事件を起こしてはじめて、親はそれに気がつく。
いや、気づく親は、まだよいほうかもしれない。

ある子ども(小6)は、学校で先生の車に石をぶつけて、ドアにキズをつけてしまった。
保険会社から補償金を得るため、先生は、すぐ警察を呼んで、調書をとってもらった。
が、これに親が猛反発。
「そんなことで警察を呼ぶなんて!」と。
それを見ていたほかの子どもたちは、みな、「あの子はわざと石を投げた」と証言した。
しかし親は、最後の最後まで自分の子どもの言い分だけを鵜呑みにし、「うちの子は、
足で蹴っただけ。その石が飛んでいってしまっただけ」と言い張っていた。

ある子ども(高1男子)は、郵便局前にキーをつけたまま放置してあったバイクを
盗むと、そのまま無免許運転で逃げてしまった。
そしてたまたま通りにいた別の友人をうしろに乗せると、郊外へ。
そこでバイクを山肌に激突させ、友人に大怪我をさせてしまった。

いろいろと、この種の事件は、多い。
少子化が進んで、一般的な傾向として、親はますます子どもに干渉するようになった。
その結果、勉強はそこそこにできるものの、常識はずれの子どもが多くなった。
日ごろから、(1)自分で考え、(2)自分で行動し、(3)自分で責任を取るという
習慣そのものがない。
それがわからなければ、一度、「はやし浩司の自由の三原則」を読んでみてほしい。
HPのどこかに収録してある。

ともかくも、こうした事件が起きるたびに、言いようのない空しさを覚える。
少し大げさに聞こえるかもしれないが、ときに、「教育とは何か」と、そこまで
考えてしまう。

●勉強より大切なもの

勉強より大切なものがある。
それが(常識)ということになる。
その常識をさておいて、勉強はない。
いくら勉強ができても、その常識がなければ、何にもならない。

ここでいう常識とは、善悪の判断が正確にできることをいう。
してよいことと、してはいけないことの判断が、正確にできる。
私は「善悪のバランス感覚」と呼んでいる。
それを教えずして、何が教育かということになる。

ついでに言えば、これは教育の問題ではない。
先にも書いたように、家庭教育の問題である。
さらに言えば、親の育児姿勢の問題である。
親自身が、日ごろからルールを破るだけ破っておいて、子どもに向かって、
「悪いことをしてはだめ」は、ない。
それこそ親の身勝手というもの。

この原稿を読んで、「そういえばうちの子も……」と感じたら、あなた自身の
育児姿勢を一度反省してみてほしい。
この問題だけは、親自身が自ら気づき、自ら反省するしか、解決方法はない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
自由の3原則 常識はずれ 常識はずれの子供 常識外れ 善悪のバランス感覚 
親の過干渉 過干渉児 はやし浩司 善悪の判断)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司


●A still tongue makes a wise head. (沈黙はその人を賢くする。)

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『沈黙は金なり』とか、『沈黙の価値のわからぬ者は、
しゃべるな』ともいう。
よい聞き手は、じょうずな話し手ということになる。

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ADHD児というと、男児ばかりと思っている人は多い。
しかし女児にもADHD児はいる。
男児と少し症状がちがうが、出現率は、
ほぼ同数とみられている。
約5%。

女児によくみられる特徴は、多弁性。
よくしゃべる。
間断なく、よくしゃべる。
しゃべらなければ相手に悪いとでも思っているかのように、よくしゃべる。
相手の話を静かに聞くということができない。
できないばかりか、つぎつぎと話が別のところに展開していく。

あまりにもうるさいので注意する。
しかし効果は、数秒から、長くて10秒前後。
そのあとまたしゃべり始める。

私「ちょっと静かにしていてくれないか」
子「ちょっとだけ?」
私「ちょっとでいい」
子「じゃあ、ちょっとだけ静かにしている」
私「だから口を閉じてくれないか」
子「口を閉じていればいいの?」
私「そうだ」
子「でも口を閉じていると、苦しいのよねえ」と。

強く叱ったりすると、そのときだけ、申し訳なさそうな表情を
してみせる。
涙を目にためることもある。
しかし効果はそこまで。

子どもだけではない。
こうした症状は、おとなになってからも残る。
老人になってからも残る。

つぎつぎとこまかい話をし始める。
ときに同じ話を、何度も繰り返す。
頭の回転は速い。
反応も速い。
こちらの話をほんの少し聞いただけで、またしゃべり始める。
ペチャペチャ、クチャクチャと……。

私「冬休みのことだけど……。どこかへ旅行に行くの?」
子「まだ決まっていないけど、先生はどこかへ行くの?」
私「日帰りだけど、福井と紀伊半島へ行く……」
子「先生は車で行くの、電車で行くの?」
私「……?」
子「雪が降るところは、どこだっけ?」
私「バスで行くよ」
子「私はやっぱり、ディズニーランドのほうがいいかな」と。

特徴としては、
(1)会話をつかむことができない。
(2)視線がフワフワとして、定まらない。
(反対に不自然にボーッとするときがある。)
(3)相手の話を聞かない、など。

話の内容は、たいていは事実の羅列(られつ)のみ。
深い思考力はない。
考えてものを言うということもない。
脳に飛来した情報を、音声に換えているだけ。

もしあなたがこのタイプなら、この諺(ことわざ)は重要。
『沈黙はその人を賢くする』。
自己管理能力を鍛えることで、この問題は、克服することができる。

(付記)
多くの親は、よくしゃべる子どもについて、それだけ頭がよいからそうなのだと考える。
しかし頭のよしあしは、思考力の深さで決まる。
思考力の深い子どもほど、相手の言ったことを頭の中で反芻(はんすう)するため、
見た目には静か。

英語にも、『深い川は静かに流れる』という諺がある。

ところで賢人と愚人のちがいを知っているだろうか。
ここに書いたことと関係ないが、こんな諺がある。

『Wise men learn by other men's mistakes: fools by their own. 
(賢人は、他人の失敗で学び、愚人は、自分の失敗で学ぶ)』と。

これをもじると、こうなる。

『賢人は考えてから、ものをしゃべり、愚人はしゃべってから、ものを考える』と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
女児のADHD児 多弁児 多弁な子供 よくしゃべる子供 よくしゃべる子ども)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●日本の復権

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●日本の銀行が、世界の10行以内に、3つも!

右も左も、暗いニュースばかり……。
あれも悪い、これも悪い、と。
しかしものごとは、暗い面ばかりを見ていてはいけない。
暗い面ばかりを見ていると、気が滅入る。
そこで逆転の発想!
この大不況を、逆転の発想で、利用することもできる。

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たとえば(日本)という国を世界の中で見たとき、
日本も暗いが、世界は、もっと暗い。
たとえば世界は真っ暗で、手探りでも進めないような
状況だが、日本だけには、まだ薄明かりが灯(とも)っている。
まず、つぎの数字を見てほしい。

三菱UFJファイナンシャル・グループは、モルガン・スタンレーに、9000億円
みずほファイナンシャル・グループは、メリルリンチに、1300億円
三井住友ファイナンシャル・グループは、バークレイズに、1000億円、
それぞれ出資している(08)。
この活力こそが、日本のパワーということになる。

さらに、日本の銀行は、一時は世界の市場から締め出され、
アジアのサラ金と成り下がってしまった。
が、ここに来て、急に風向きが変わってきた。
つまり日本の銀行が、復権をかけて、今一度、世界の市場に躍(おど)り出てきた。

世界におけるマーケット・シェアも、

みずほファイナンシャル・グループ……4・0%(世界第6位、前年度第16位)
三井住友ファイナンシャル・グループ……3・9%(世界第7位、前年度第18位)
三菱UFJファイナンシャル・グループ……3・4%(世界第8位、前年度第20位)

へと、順位を伸ばしている。

わかるかな?
日本の銀行団が、世界の10行以内に、3つも入った!
(以上、2008年1〜9月期・トムソン・ロイター調べ:出典、日経ビジネス)

ただし出資については、それぞれ相互につながりが深く、出資先が潰れてしまっては
元も子もなくなってしまう。
だから出資した、という色彩もないわけではないが、こんな芸当は、ほかのどこの
国の銀行にもまねできない。
わかりやすく言えば、日本の銀行団が、モルガン・スタンレー(シェア11・7%、世界
1位)や、メリルリンチやバークレイズを自分の支配下に置いたことになる。

●大不況は、日本は経験済み

かつてGE(ゼネラル・エレクト社)と言えば、家電メーカーの王者だった。
私が学生時代のときも、そうだった。
しかしそのGEが、モノを作らなくなって、もう30年近くになる。
海外に生産拠点を移すこともしなかった。
そこでGEが取った手段は、外国製、とくに日本製に自社のブランドをつけて、
アメリカ国内で売るという方法だった。
しかしこの方法は、すぐ、行き詰った。

一方、この日本は、とくにバブル経済崩壊以後、生産拠点を海外へ移すことで、
生き延びてきた。
つまりここが(日本)と(外国)のちがうところ。

アメリカにしても、EUにしても、さらにアジア各国にしても、自国の
マーケットの範囲でしか、活動してこなかった。

「世界規模の経済危機によって、厳しい経営を強いられているのは、
何も日本企業だけではない。
海外に目を転じれば、むしろ拡大する自国経済圏に依存し、助けられてきた
アメリカ、欧州、アジアの企業の傷のほうが深刻だ」(日経ビジネス・徹底予測
09・p59、田村俊二)ということになる。

同氏は一例として、GM(ゼネラル・モーターズ)をあげる。

さらにいくら外国もがんばっているとはいえ、日本製はいまだに、高品質の
代名詞になっている。
その地位は、揺るいでいない。
たとえば自動車にしても、韓国の現代社は、品質面では日本車とほとんど
差がないほどまでに追い上げてきている(現代社、弁)。
しかし日本製か韓国製かということになれば、世界の人たちは迷わず、日本製を
選んでいる。
具体的には、日本製は販売台数を伸ばし、韓国製は、その分だけ、販売台数を
減らしている。
今回のサブプライム・ショックとリーマン・ショックが起きる直前には、トヨタは、
販売台数1000万台を記録した。

こうした日本のパワーは、まだ随所に残っている。
これもわかりやすく言えば、日本も苦しいが、世界は、もっと苦しんでいるということ。
つまりその分だけ、日本の力は、相対的に強いということ。
それをうまく利用すれば、強者はさらに強者になることができる。

●ゼロ金利のアメリカ

つい先ごろ(08年12月)、アメリカは、史上初のゼロ金利政策を実行した。
これもわかりやすく言えば、アメリカは、無制限にドル印刷機を回し始めたということ。
その点、基軸通貨というのは、強い。
それをほしがる人(国)があれば、いくらでも印刷機を回すことができる。
しかしそれにも限度がある。

「(史上初のゼロ金利策を取ったということは)、アメリカは自分たちが生き残るためには、
他国を犠牲にしても構わないという姿勢です」(筑波大学名誉教授・小林弥六氏、日刊
ゲンダイ・12・20)ということになる。

もちろん日本は、その影響をモロに受ける。
今まで日本は、貿易などで稼いだお金をせっこらせっこらと、ドルに換えていた。
ドルに換えることで、アメリカのドルを買い支えてきた。
が、そのドルが、今、紙くずとまではいかないにしても、それに近い状態になりつつ
ある。

「年内に1ドル=70円台、さらに来年(09)には、1ドル=50円台を覚悟しなくて
はならない」(日刊ゲンダイ)と。

1ドル=100円が、1ドル=50円になるということは、アメリカの貿易赤字が、
半分になることを意味する。
半面、日本のドル資産も、半減することを意味する。
日本にとっては、たいへんなことだが、しかしここで誤解してはいけないのは、
日本のドル資産がマイナスになるのではないということ。

今まで1000万円の預金をもっていた人が、500万円になったからといって、
それはそれ。
何とか500万円だけは、残る。

そこで世界は今、アメリカドル一辺倒の経済体制から脱却し、「共通通貨」の創設を
めざして動き始めている。
世界の人たちが、「もうアメリカドルに振り回されるのは、ゴメン」と。
それは当然だとしても、そういう(流れ)の中で、世界でただ一国、つまり
日本だけが、ドル基軸通貨維持を表明している。
しかもそれをわざわざアメリカまで行って表明したのが、日本のAS総理。
「おバカ総理」(週刊B春)と揶揄(やゆ)されている、あのAS総理である。
(本当におバカだと、私も思う。)

一時的には、つまり今までの日米関係の(流れ)からして、そう言わざるをえない
気持ちもわかるが、これだけ煮え湯を飲まされたのだから、少しは賢くなったら
どうか。

つまりこれは食うか食われるかのバトルである。
日本だけがいい子になっていてはいけない。
その素振りを見せたとたん、日本は世界の餌食になってしまう!

●がんばれ日本、負けるな日本!

ここから先は、かなり過激な意見になる。
しかし今、日本は、外国を助ける必要はない。
そんなことを考える余裕もない。
まったく、ない。

たとえば日本は、韓国との間のスワップ協定を、それまでの100億ドルから、
300億ドルに、さらにそれを倍増させようとしている。
スワップ協定というのは、簡単に言えば、資金の融通制度。
融通制度といっても、一方的な融通制度。
常識で考えてみれば、それがわかるはず。

日本が韓国に資金を融通することはあっても、韓国が日本に資金を融通するなどという
ことはありえない。
経済規模そのものがちがう。
もし日本が金融危機に陥れば、当然韓国も金融危機に、連鎖的に陥る。
どうしてこの日本が、そんな韓国を助けなければならないのか?

こうしたお人よし政策は、もうやめたらよい。
ほかにも日本は戦後、世界中にお金をばらまいてきた。
遠くはアフリカに、まで!
しかしそうした世界が、日本に何をしてくれた?
バブル経済が崩壊し、日本が青い息吐息で苦しんでいたころ、日本に救いの手を
差し伸べてくれた国が、あったか?
中国ですら、それまでの円借款をやめると言っただけで、猛反発したではないか。
韓国にいたっては、「千載一遇のチャンス」とばかり、日本の追い落とし作戦を
展開した。
あの金大中が、毎朝、(毎朝だぞ!)、そのための経済閣議を開いたというのは、
有名な話である。

(1)韓国には、この市場から退散してもらう。
韓国が最悪の反日国家であることを忘れてはならない。
(2)日本も共通通貨をめざし、その仲間に入る。
アメリカの一極支配から脱却する。
(3)中国以外の新興国に、生産拠点を移す。
中国の台頭をこれ以上、許してはいけない。

簡単に言えば、日本もなりふり構わず、自国の利益を優先させる。
繰り返すが、これはただのバトルではない。
日本が生き残るか、消滅するかのバトルである。
もしこのバトルに日本が敗れるようなことがあれば、日本はそのとき、本当に
太平洋の海溝に沈むことになる。

●心配の種

もちろん心配の種もいくつかある。
先に日本の銀行団が、アメリカの銀行に出資していると書いたが、もし出資先の
銀行が倒産ということにでもなれば、日本の銀行も連鎖倒産ということになりかねない。

またドルが、本当に1ドル=50円ということになり、それが長期に渡ってつづいた
とすると、日本の輸出企業は壊滅的な打撃を受けることになる。
1年とか2年ならまだしも、それが5年ともなるようなことになると、その先のことは、
私にもわからない。
中には「5年もつづかない」と書いている人もいるが、日本は、あのバブル経済崩壊
以後、その後遺症に、10年近くも苦しんだ。
「5年」という数字も、ありえないことではない。

さらに心配なことは、こうした経済崩壊が、各国の政情を不安定にするということ。
日本はともかくも、中国、朝鮮半島で、何が起こってもおかしくないという
状況になる。

たとえば今までの歴史の常として、アメリカやロシア、さらには中国が、
戦争という手に打って出てくるかもしれない。
今、もっとも危険視されている国は、イランであり、アフガニスタンであり、そして
北朝鮮ということになる。

仮に朝鮮半島有事ということになれば、戦争そのものは短期間ですむとしても、日本は
莫大な補償費をアメリカに支払わなければならなくなるだろう。
朝鮮半島の復興費も、日本に重くのしかかってくる。

その前に、日本のどこかで核兵器が爆発することだって、考えられる。
「まさか!」と思う人もいるかもしれないが、戦争に、(まさか)は常識。
ドイツのソ連侵攻も、その(まさか)だった。
日本の真珠湾攻撃も、その(まさか)だった。
(まさか)の連続が、戦争。
それを忘れてはいけない。
またその警戒と準備を、怠ってはいけない。

つまりこうした(心配ごと)をうまくクリアすれば、日本は再度、世界の経済大国
として躍り出ることができる。
復権することができる。
つまりこれこそが、まさに逆転の発想ということになる。
(08年12月20日記)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●スケベな話

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「ミニパソコンは、やはり老人向けではないな」と言うと、
ワイフが「どうして?」と。

そこで私が、「若い娘のクリxxスみたいで、文字が小さくて読みづらい」と。
とっさの思いつきだった。
するとワイフが、「あらそう? じゃあ、歳を取ると、どうなるの?」と。

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私「歳を取ると、大きくなるのかな?」
ワ「あらそう? 私、知らなかったわ」
私「ふつうなら、こういうとき、ワイフというのは、『どうしてそんなこと
知っているの』と言うもんだよ。ぼくがお前なら、そう言う」と。

若いころ、オーストラリアで聞いたジョークにこんなのがあった。
初夜のとき、妻がバージンかどうか見分ける簡単な方法があるという。
その方法というのは、自分のぺxスに、青い色を塗っておくのだそうだ。
それを見て、妻が、「どうしてあなたのは青いの?」と聞いたら、その妻は
バージンではないということになる……のだそうだ。

さらにオーストラリアには、昔、『トークバック』という、よく知られた
ラジオ番組があった。
もっとも気の利いたジョークを言った人に、賞が与えられるという番組である。
が、この話を書く前に、英語の勉強。

英語の単語の「ハード(hard)」には、2つの意味がある。
「硬(かた)い」という意味と、「難しい」という意味である。
オーストラリアでは、「難しい」と言うとき、「ハード」という言葉をよく使う。
「It's hard. (それは難しい)」と。

そのとき1人の女性がラジオに登場した。
そこでキャスターがこう聞いた。

「あなたははじめて夫に会ったとき、あなたは夫に何と言いましたか?」と。
それに答えて、やや年配の女性が、ウーンと考えた様子を見せたあと、
こう答えた。
「It's a hard one.(難しい問題ね)」と。
しかしこの答が、全豪中に、大爆笑を起こした。
そしてその女性の言った言葉が、その年のジョーク・No 1に選ばれた。

あなたには、その理由がわかるだろうか。


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●緑内障の検査

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先日あるテレビを見ていたら、「家庭でできる
緑内障の検査法」というのを紹介していた。

緑内障の恐ろしさは、よく知っている。
たった一晩で全盲になってしまった人(男性、40歳
くらい)もいる。

公認会計士で、目を酷使したため、片方の
視力を失ってしまった人(同窓生)もいる。

目は大切にしなければならない。

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で、その検査法というのは、目で前方の1点を凝視しながら、
指先(親指と人さし指)を、パチパチさせながら、目の前で
円を描くというものだった。
腕を軽く伸ばしたまま、半径20センチ前後の円を描くようにして、
手を回すのだそうだ。
そのとき指先がときどき消えてしまうようなことがあれば、
緑内障ということになる。

で、あまり深く考えないで、テレビに出てきたドクターの
言うままに、私もまねをしてみた。
とたん、ゾーッ!
指先が、あちこちで消えるではないか!
それまで眠かった頭が、急に冴えてしまった。
「もしや、緑内障!」と。

しかしもう一度試してみると、今度は見える。
しかし確かに先ほどは、見えなかった。
見えなかったということは、視野が欠けていることを示す。
しかしそんなことというのは、あるのだろうか。

で、何度も試してみて、なぜ指先がときどき消えたかがわかった。
実は私はメガネをかけたまま、その検査法を試してみた。
指先が、メガネの縁(ふち)や柄(え)と重なったとき、
当然のことながら、指先はその死角に入る。
鼻の陰に入ったときもそうだ。

結局「ナーンダ」ということで、この話は、おしまい。
しかし目の大切さだけは、再認識できた。

ところで先に書いた、たった一晩で全盲になってしまった人の話。
これは事実である。
その男性の実家が、火事になった。
男性は1階で寝ていて、難をのがれたが、彼の母親は2階で寝ていて、
そのまま焼死してしまった。
何とも痛ましい事故だったが、その翌朝、起きてみると、その人は
自分の目が見えなくなっているのに気づいたという。

極度のストレスが、緑内障を起こしたと考えられる。
ストレスは、こわい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
緑内障 全盲)


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●6か国協議、決裂!

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12月に開かれた、6か国協議は決裂した。
当然である。
K国が、核開発を放棄するはずがないことは、
最初からわかっていた。

またサンプル採取については、もしそんなことを
許してしまえば、K国とシリア、イランの
関係がバレてしまう。

で、C・ヒル氏は、閉会式をまたずして、アメリカに
帰国。
と、同時に、原油支援を中断すると言い出した。
ついては「5か国で合意済み」と。

が、この発言に、中国、ロシアが反発。
日本も韓国も、「そんな話は聞いていない」と。
つまりここでもC・ヒル氏の思い込みによる、
希望的憶測が、またまたひとり歩きしてしまった。

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●思い込み

思い込みのはげしい人というのは、たしかにいる。
ひとつのことを考えたら、朝から晩まで、それだけを考える。
それが頭に張りついて、離れなくなる。
が、それだけではない。
同時に妄想が始まる。
この妄想が、思い込みにつながる。

「こうしたい」「こうでありたい」という願望だけがひとり歩きする。
自分に都合のよい情報だけを取り入れ、それ以外は無視する。
結果として、C・ヒル氏のように、希望的憶測だけで、ものを言うようになる。

今回の6か国協議についても、それに先立って、シンガポールで米朝
代表者会議がなされている。
その席でも、C・ヒル氏は、「有意義な話しあいだった」「今度の会議で
K国は、査察検証に応じてくるはず」と述べていた。
が、結果は、みなさん、ご存知の通り。

結局、この5年近く、日本、韓国、中国、ロシアは、K国というよりは、
C・ヒル氏に振り回されただけ。
そのつどC・ヒル氏は、「今月中に……」「2週間後には……」を繰り返した。
さらにアメリカへ帰ったあと、C・ヒル氏は、こんなことまで述べている。

「原油支援がすべて終了すれば、K国は核査察に応じてくるはず」と。
つまり原油支援を完了させることが、先決、と。

もういい加減にしてほしい。
私はC・ヒル氏の外交能力というよりは、あの頭脳を疑っている。
彼は本当に、まともか?
まともな人間と考えてよいのか?
あそこまで思い込みが激しい人は、そうはいない。
病的でさえある。

で、C・ヒル氏は、自分のクビを、オバマ政権につなぐことだけに腐心していた。
あたかも自分だけがK国との交渉人であるかのような言動が、際立って目立った。
ライス長官も、ブッシュ大統領も、そのため無視(?)。

今ごろ、元国連大使だったボルトン氏は、そういうC・ヒル氏を見ながら、
こう言って笑っていることだろう。
「ザマーミロ!」と。

結局C・ヒル氏がしたことは、過去の失敗を繰り返しただけ。

しかしクリントン次期国務長官は、つぎにだれを交渉人に選ぶのだろう。
たいへん気になるところである。
まさかC・ヒル氏ということはないだろうが、もしC・ヒル氏の再任という
ことにでもなれば、そのときから日米関係は、終焉(しゅうえん)に向かって
ましぐら。
日本としても、これ以上は、妥協できない。


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●ゴーギャン

+++++++++++++++++

タヒチと聞くと、南海の楽園を連想する。
これは多分に、ゴーギャンの描いた絵の影響
と思われる。

ゴーギャンは、あの有名な『我々はどこから
来たのか、我々は何者なのか、我々は
どこへ行くのか』という絵を残している。
右に赤子、左に老女を配しながら、全体に
6〜7人の裸の女性を描いた絵である。

私にはどこか甘い感じの漂う、ロマンチック
な絵に見えた。
そんなこともあって、私は若いころから、
「いつかはタヒチに」と思ってきた。

そんなゴーギャンについて何気なく調べて
いたら、生まれたのが1848年と知った。
「ああ、私が生まれた、ちょうど100年前だ」
と思ったとたん、スーッとゴーギャンの世界に
入ってしまった。

ゴーギャンは、1848年生まれ、1903年没。
私は、1947年生まれ、20??年没。
今年は2008年だから、今のところ、私のほうが、
やや長生きをしていることになる。
ゴーギャンは、55歳で、この世を去った。
死因は、心臓発作と言われているが、その前に
ヒ素を大量に飲んで、自殺未遂をしている。
先の絵を描いた直後のことである。

++++++++++++++++++

そこでさらに調べてみると、ゴーギャンは、2度、タヒチに渡っていることがわかる。
1893年と、1895年の2回である。
1回目は、アルルでのゴッホとの共同生活が失敗に終わったあと。
2回目は、フランスでの苦しい生活に見切りをつけたあと。
とくに2回目は、「完全に世俗的な成功の望みを捨てて」(「世界の名画」PHP)
とある。

私はこういう数字を見ると、すぐ自分の年齢に当てはめてものを考えてしまう。
1893年といえば、ゴーギャンが、45歳のとき。
1895年といえば、ゴーギャンが、47歳のとき。
「私は、45歳のとき、何をしていたか」とか、「47歳のときはどうか」とか。
そういうふうにである。
そして「47歳で、完全に世俗的な成功の望みを捨てたのは、すごいことだ」と
思ってしまう。

(フランス人というのは、早熟なのかな?)

が、ゴーギャンにとって、タヒチというのは、けっして理想の「楽園」ではなかった
ようだ。
むしろタヒチに、失望している(?)。
「タヒチの現実への幻滅と、追い求めた理想が描かれている」(同書)とある。
「だったら、どうして2度もタヒチへ渡ったのかな」とも思うが、それはそれ。
どんな生活にも、よい面もあれば、悪い面もある。
ゴーギャンはゴーギャンなりに、幻滅しながらも、そこでの(現実)を楽しんでいたの
かもしれない。
つまりこれも自分の生活に当てはめて考えてみると、わかる。

たとえば「幻滅」とはいうが、日常生活は、幻滅の連続。
「希望」といっても、冬の日に、ときたま差し込む淡い光のようなもの。
あとはそれに必死になって、しがみつくだけ。
それに……。

当時のタヒチで、ゴーギャンの絵を理解できるような人はいなかったと思う。
ゴーギャンの絵に、お金を払う人もいなかった。
事実、ゴーギャンは、タヒチでは絵の具も満足に買えないような貧乏生活を
送っている。
(フランスでも、そうだったが……。)
芸術家にとって、自分を理解できない人の間で住むことは、苦痛以外の何もの
でもなかったはず。
いくら「世俗的な成功」とは縁を切ったとはいえ、その先、無私、無我の境地に
達するのは、別問題。

私も世俗的な成功と縁を切ることができたのは、55歳前後のこと。
世俗に媚(こび)を売るのをやめたのも、そのころ。
しかし今でも、お金は嫌いではない。
できれば成功したいと願っている。
心のどこかには、「まだまだ……」という思いもある。

だから、ゴーギャンのように自殺までは、考えたことはない。
(ゴーギャンは、妻のもとに残してきた娘のアリーヌの訃報が、自殺未遂の理由
だったとされる。)
しかしこんなことは言える。

私も幼児教育をするようになって、40年近くになる。
その間、実は、孤独との闘いでもあった。
相手は、幼児。
あるいは若い母親。
いくらがんばっても、心のコミュニケーションは、不可能。
今でもときどき、「よくもまあ、こういう幼児や親を相手に、仕事をしてきたものだ」と、
自分で自分に感心するときがある。

とくにお金を求めて仕事をしてきたわけではないが、率直に、いちばんお金にシビア
なのが、この世代の母親たち。
ときどき「バカヤロー」と叫びたくなるようなときもあった。

さてゴーギャンの先の絵をもう一度、よく見てみる。

右端の赤子が(生命の始まり)を象徴し、左端の老女が(死)を象徴している。
そのことは解説書(同書)にも、そのように書いてある。
しかしこの程度の解説を紹介するだけなら、だれにだってできる。
そこで私の解説。

(1)全体に絵が、丸いアーチを描いているのがわかる。
(2)右のほうに、3人の若い娘が描かれている。
(3)暗い色を背景に、母親と娘らしき女性が2人、描かれている。
(4)中央部に、若い女性が天に向かって、果実を手にしようとしている。
(5)左に寄ったところに、青白い神が描かれている。
(6)老女の横に、なまめかしい1人の女性が描かれている。
(7)老女はその左側に描かれている。

これらの絵を右から順に見ていくと、いろいろと気づく点がある。

構図がアーチになっているのは、人生の興隆と衰退を象徴している。
3人の若い娘は、ゴーギャンが若いころ知りあった女性かもしれない。
どこかものほしげな顔が印象的である。
母親と娘らしき女性は、ゴーギャンの妻と、娘のアリーヌかもしれない。
この絵では、中央の女性が、もっとも目立つが、この女性は、世俗的な成功をまさに
手にしようとしているかのようにも見える。
あるいはその象徴?
が、それもすぐさま、夢の中に消える。
そこでゴーギャンは宗教にその救いを求める。
それがその左の、青白い神の絵ということになる。
が、つづいてなまめかしい女性の絵。
これはひょっとしたら、ゴーギャンがタヒチで知りあった女性かもしれない。
どこか意味ありげな顔つきをしている。
で、最後は老女。

部分的に、意味がよくわからないところもある。
それらもゴーギャンの一生に深く関係しているのかもしれない。
ただひとつ、どうでもよいことだが、もっとも右端に犬、もっとも左端にアヒルが
描かれている。
この犬とアヒルは、何を象徴しているのか。

黒い犬のような闇から生まれて、人は最後は、死んで白いアヒルのようになるのか。
まあ、いろいろ考えられるが、ゴーギャンは、この一枚の絵の中に、自分の人生の
すべてを託したという。

こうして考えてみると、偉大な画家というのは、抽象的な観念をどんどんと凝縮し、
それを凝縮しきったところで、具体的なモノや人を使ってそれを表現していることが
わかる。
文章と対比させてみると、それがわかる。

自分の一生を文章で表現するときは、すべてを書かねばならない。
抽象的な観念を凝縮するということはできない。
そんな文章を書いても、だれも理解できないだろう。
一方、絵画は、見る人の心の中で、いかようにも解釈できる。
その(いかようにも)という部分の中で、描いた人の心をふくらますことができる。
またそれができる人を、私たちは画家、つまり芸術家と呼んでいる。

しかし文章ではそれができないのか?
ためしに、私の一生を、文章で表現してみる。
(これはあくまでも遊びとして……。)

+++++++++++++++


暗闇
振り子
父の酒乱
不安と焦燥
わんぱく少年
自己逃避と挑戦
ひたむきな猛進性
同一性の希求と絶望
社会へのしがみつき
現実への迎合と諦め
家族自我群と幻惑
宗教性との葛藤
自己の統合性
俗との決別
自己埋没
物書き
無私


+++++++++++++++

こういうことが、1枚の絵でできるところが、すごい。
しかも翻訳なしで、世界中の人に訴えることができるところが、すごい。
ゴーギャンの絵を見ながら、そんなことを考えた。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 ゴーギャン
我々はどこから来たのか タヒチ)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●冬休み

私にも冬休みがある。
その休みの間、紀伊半島と福井県のほうへ、行く。
昨日、旅行社で、その予約をしてきた。
例年だと、今ごろ申し込んでも、空きがなくて、断られる。
が、今年は、ツアーが中止になったものも多いとか。
不況が大不況になりつつある。
今朝の新聞によれば、日本のT自動車ですら、今年は赤字とか。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●女性特有の心理?

++++++++++++++++++++

こう書くからといって、誤解しないでほしい。
それでお金がほしいとか、そういうふうに
思っているのではない。
不満に思っているわけでもない。
とうの昔に、そういう気持ちは捨てた。
まただからといって、お金を受け取ったことは、
過去において、一度もない。

その上での話。

相談してくる人は、たいてい自分のことだけで
精一杯。
他人の心など思いやる余裕など、どこにもない。
それもよく承知している。

さらにその上で、この原稿を書く。

+++++++++++++++++++

今まで、私は電話による相談も含めて、何百件〜という相談を受けてきた。
あるいはもっと多いかもしれない。
電話による相談は、数年前に打ち切ったが、それでも週に何度か、ある。
すべて無料だったし、これからもお金を受け取るつもりはない。
また相談してきた人に、不平や不満があるわけではない。
相談してくる人は、たいてい追いつめられて、してくる。
そういう事情もよくわかるから、こちらから名前を聞いたり、住所を聞いたり
することもない。
その多くは偽名であったり、住所も正確でなかったりする。
それも承知している。

その上で、この原稿を書く。
まただからといって、どうか、誤解しないでほしい。
そういう人が悪いとか、責めているのではない。
ここではその先というか、中身について書いてみたい。

で、そういう相談を受けて、そのあと、私に礼の手紙や、ものを送ってきてくれた
人は、この10年間で、数人前後しかいない。
しかもその数人というのは、男性が2、3人で、女性が1人だけ。

しかしこれは私の世界の常識ではない。
つまり私の世界では、相手に何かを質問したり、相手の世話になったりしたら、
その直後、あるいはあまり間をおかないうちに、礼状を書いたり、ものを送るのが
常識になっている。
もちろん電話による相談にしても、そうだ。
私自身は、ずっと、そうしてきたし、今もそうしている。

たとえば先月は、N県に住む友人に、移転登記のことでいろいろ相談をした。
そのときも、そのつど、つまり電話ごとに、何らかのもの(名物や菓子)を送った。

が、女性のばあい、(というのも、相談のほとんどは女性からのものなので)、
そうした礼状やものを送ってくれた人は、先にも書いたように、ほとんどいない。
数から考えると、「まったく」ということになる。

どうしてだろう……?、ということで、今朝、ワイフにそのことについて聞いてみた。

私「どうしてだろう?」
ワ「家庭に入った主婦というのは、社会性がないからじゃ、ないかしら?」
私「でもね、何度も相談してきた人もいるよ」
ワ「そうねえ。女性には、そういう常識が働かないのよ、きっと」
私「お前だって、女性だろう……」
ワ「そうねえ……」と。

電話相談のばあいは、内容にもよるが、平均して40分前後。
長いときは、1時間〜1時間30分前後になることがある。
10分や20分以下ということは、ぜったいにない。

そういう電話を数日おきくらいにかけてくる。
が、相談が終わるとそのまま。
事後の報告をしてくれた人も、ほとんどいない。

私「ぼくには、そういう女性の心理が理解できない」
ワ「あなたをきっと、カスミか何かを食べて生きている人のように思って
いるのね。そういう人たちは……」
私「かもしれない。しかしこの世の中には、最低賃金という言葉もあるよ。
ぼくは公人ではないし……」
ワ「言うなれば、それは女性独特の心理かもね」と。

そこであれこれ分析してみようと思うのだが、それができない。
あえて言うなら、女性独特の依存性というか、そういうものではないか。
相手に依存しながら、依存することを当たり前のように思ってしまう。
相手の時間を、1時間使ったとか、2時間使ったとか、そういう意識が
まるでない。
そういうものは、無料と思っている。
(もちろん無料だが……。)

しかしなぜそういう依存性が生まれるのか。
あるいは情報というものを、ただと思い込んでいるのかもしれない。
生活態度が防衛的なのはよくわかるが、しかしなぜそうなってしまうのか。

「???」ということで、この話は、おしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司※

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 1月 19日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●分厚い教科書(Self-Study)

++++++++++++++++++

教科書を厚くすることには、大賛成である。
現行の教科書(小中高)は、あまりにも薄い。
内容がない。
が、何よりも、自分で読んで、自分で理解して、
自分で勉強するようには、できていない。

子どもの学習で大切なのは、「自学」である。
その習慣づけをいかにするか。
そのとき教育の真価が問われる。

++++++++++++++++++

教育再生懇談会が、つぎのような答申を出した(第三次報告)。
TBS−NEWS−iは、つぎのように伝える。

**********以下、TBS・NEWSより***********

AS内閣の教育再生懇談会は、授業を受けることを前提に作られた現在の教科書を、自
習にも適した内容に改めることなどを盛り込んだ第2次報告をまとめ、AS総理に提出
しました。

 教育再生懇談会の第二次報告では、学習指導要領の改訂を受けて、教室で授業を受け
ながら使うことを前提に作られている教科書を、丁寧な記述にして練習問題を増やすな
ど、自学自習に適した内容に改めるよう求めています。

(12月18日)TBS NEWS−i

**********以上、TBS・NEWSより***********

大賛成である。

私も、小学3〜4年生ごろから、生徒に、自学を教えている。
子育てにたとえるなら、子ども自身が親離れするように、(できるように)、
指導する。
具体的には、教科書を自分で学習させ、「わからないところがあったら、
もってきなさい」という指導法に、切り替えている。

こうした指導でもっとも注意しなければならないことは、子どもに依存心を
もたせないこと。
依存性をもたせれば、そのときはそれでよいかもしれないが、中学生になったとき、
あるいは高校生になったとき、さらにあるいは社会人になったとき、そこで
宙ぶらりんになってしまう。

たとえば今、社会人で、自分で勉強している人は、いったい、どれくらいいる
だろうか。
母親でもよい。
中には、「私はもう終わりましたから」と言う人がいる。
「私の勉強時代は終わったから、もう勉強などしなくていい」と。
あるいは勉強というものを、進学のための手段にしか考えていない。
そういう人ほど、(学ぶ)ことに対して、依存性が強いと考えてよい。
「勉強嫌い」というよりは、自学の習慣そのものが、ない。

勉強というのは、教えられてするものではない。
教科書なら教科書でよいが、自分で読んで、自分で理解して、自分で勉強するもの。
それを教えるのが、「教育」ということになる。

ところで私の知人にこんな女性(60歳くらい)がいる。

あることでその女性の家に行ってみたのだが、本という本が、ほとんどない。
雑誌もない。
驚いたことに、DVDの再生装置すらない。
話を聞くと、音楽も聴かないという。
その一方で、世間話はよく知っている。
「あのタレントはどうなった」
「この歌手はどうなった」と。
皇族の話も、詳しい。
毎朝、そういうテレビ番組だけは、しっかりと見ているらしい。

が、ある日、その女性から、認知症の相談を受けた。
その女性の夫の様子が、少しおかしいという。
私は専門家ではないが、さっそくインターネットから資料をダウンロードし、
それをコピーして、その女性に渡した。

で、ワイフにそれを届けさせたのだが、その女性は、資料には目をとおそうと
すらしなかっただけではなく、その資料を手で払いのけてしまったという。
「こんなものを読んでも、私にはわかりません!」と。

自学の習慣のない人は、そういう反応を示す。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【私を知る】

●ためこみ屋(ケチ)

+++++++++++++++++++++

数日前、「ためこみ屋」と呼ばれる人について書いた。
どんどんと、自分の身のまわりに、ものをためこむ人をいう。
「ためこみ屋」というのは、私が考えた言葉ではない。
心理学の本にも出ている。
ちゃんとした言葉(?)である。
時に家中を、ものだらけにしてしまう。
ひどくなると、家の中や外を、ごみの山にしてしまう。

一般的に、ためこみ屋は、ケチである。
ためこみ屋、イコール、ケチ、ケチ、イコール、ためこみ屋と考えてよい。
が、一方的にケチかというと、そうでもない。
ときに突発的に寛大になることがある。
雰囲気にのまれて、大金を無駄にはたいたりする。
こうした現象は、排便論で説明される。

フロイト学説によれば、2〜4歳の肛門期に、何かの問題があって、
そうなるという。
つまり乳幼児にとっては、便は(財産)。
その便をためるという行為が、ものをためるという行為につながる。
しかし同時に、排便の快感も味わう。
それが(突発的に寛大になる)という行為につながる。

もう少し詳しく説明すると、こうなる。
肛門期に、(1)親にきびしい排便のしつけがされた、(2)排便にたいして適切な
指導を受けなかった、(3)排便について、何らかのトラウマができた。
排便だけではない。

とくに注意したいのが、愛情問題。
たとえば下の子どもが生まれたりして、上の子どもが、愛情飢餓状態に
なることがある。
親は「平等にかわいがっています」と言うが、上の子どもにしてみれば、
それまであった(愛情)が、半分に減ったことが不満なのだ。
赤ちゃん返りは、こうして起きる。

そういう経験をした子ども(人)は、生活態度が、防衛的になる。
長男、長女がケチになりやすいという現象は、こうして説明される。

が、こうした現象を知ることによって、私たちは私の中の(私)を
知る手がかりを得ることができる。
あるいはそのヒントを得ることができるようになる。
ここでは、それについて考えてみたい。

++++++++++++++++++++

●私の知人

私は基本的には、ケチではない。
自分で自分をケチと思ったことはない。
しかしそんな私でも、ときどき落ち込んでいるようなとき、パッと
ものを衝動買いすることがある。
とたん、気分がスカッとする。
反対に、ものを衝動買いすることによって、ストレスを発散させることもある。
これも言うなれば、肛門期の名残(なごり)ということになる。

が、それが病的な状態にまで進んでしまうことがある。
だれがみても、(ふつうでないという状態)になることがある。
それがここでいう「ためこみ屋」ということになる。

私の知人に、こんな人(50歳くらい)がいる。
ケチの上に、「超」がつくような人である。
娘が結婚したが、その引き出物として、100円ショップで買ってきた
家庭用品を5〜6個ずつ、箱に入れて渡していた。
(100円ジョップの商品だぞ!)

もちろん小銭に、うるさかった。
小さな菓子屋を経営していたが、妻などは、家政婦くらいにしか
考えていなかった。
すべての行為が、(金儲け)につながっていた。
またそういう目的のために、結婚したようなもの。
妻を使ったというより、こき使った。
そのため妻はやがて、うつ病になり、自殺未遂まで起こしている。

が、悲しいかな、それでその知人が、自分の愚かさに気づいたというわけではない。
妻は1か月ほど入院したのだが、入院費がもったいないという理由で、その知人は、
無理に退院させてしまった。

そのあとのことは知らないが、人づてに聞いたところでは、その知人はケチはケチだが、
ためこみ屋ではないとのこと。
家の中も、それなりに整頓されているとのこと。
しかしそれには、妻の努力があったようだ。
妻が、きれい好きだったということか。
加えてケチが転じて、その知人は、守銭奴になった。
何しろ子どもの学費すら、「もったいない」と言って、ケチったという。

これはあくまでも一般論だが、ためこみ屋の人は、ものを失うことに、強迫観念を
もっていると考えられる。
あるいは時間に対して、異常なまでに執着し、そのため生活そのものが時刻表的
になることが多い。
これは乳幼児期における、神経質な排便指導が原因と言われている。

●人は人

もっともそれでその知人がそれでよいというのなら、それでよい。
私のような他人が、とやかく言ってはならない。
またそんなことをすれば、それこそ、内政干渉。
しかしその知人は、私たちに大切な教訓を与えている。
つまり(私の中の私)である。

ためしにその知人に、こう言ってみたらどうだろうか。
「あなたはあなたですか? 
あなたはあなたの中の、あなたでない部分に
操られているとは思いませんか?」と。

その知人は、まちがいなく、その質問に猛反発するにちがいない。
「私は私だ。私のことは、私がいちばんよく知っている」と。

しかしそうでないことは、ここまで読んでくれた人にはわかるはず。
その知人もまた、(私であって私でない部分)に操られているだけ。
原因はわからないが、いろいろ考えられる。

その知人は、4人いる兄弟姉妹の長男。
昔からの菓子屋。
父親は、道楽三昧(ざんまい)の遊び人だった。
母親は、近所でも有名なほど、勝気な人だった。
そのため長男のしつけには、ことさらきびしかったようだ。
そういう家庭環境の中で、その知人は、その知人のようになった。

言い換えると、自分を知ることは、それほどまでに難しいということ。
しかし知ろうと思えば、知ることは、けっして不可能ではないということ。

●そこで(私)

もしこの文章を読んでいる(あなた)が、ここでいう「ためこみ屋」で、
ケチであるなら、(つまりそういう症状が出ているなら)、一度、自分の心の中を
のぞいてみるとよい。

あなたも、(私であって私でない部分)に気がつくはず。

そして……。

こうして(私)の中から、(私であって私でない部分)を、どんどんと取り除いて
いく。
ちょうどたまねぎの皮をむくように、だ。
そして最後に残った部分が、(私)ということになる。

ただそのとき、恐らくあなたは、(私)がほとんどないことを知るかもしれない。
(私)というのは、たまねぎにたとえるなら、たまねぎの中心部にある、細くて
糸のようなもの。
あるいはもっと小さいかもしれない。
つまりそれくらい、(私)というのは、頼りない。

●スズメはスズメ

だから、さらに……。
ためしに、庭に遊ぶスズメを見てみたらよい。
スズメたちは、恐らく、「私は私」と思って行動しているつもりかもしれない。
しかし北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
どこかで連携しているというわけでもないのに、まったく同じような行動パターンで、
同じように行動している。
もちろんどこかで共通の教育を受けたということでもない。
が、同じ。
私たち人間から見れば、同じ。
つまり(私)というものが、どこにもない。

同じように、アメリカ人も日本人も、人間は人間。
それぞれ「私は私」と思って行動しているが、視点を変えれば、まったく同じような
行動パターンで、同じように行動している。

スズメの中に(私)がないように、実は、私の中にも、(私)というのは、ほとんどない。
「まったくない」とは思わないが、ほとんど、ない。

●ある生徒

たとえばケチな人は、ケチであるということに気がつくか、どうか?
少し話はそれるが、私の生徒のことで、こんな経験をしたことがある。

ある生徒(高2男子)が、私にこう言った。
「生徒会の仕事をするようなヤツは、バカだ」と。
そこで私が理由をたずねると、こう言った。
「そんなことをしていたら、受験勉強ができなくなる」と。

私はその言葉を聞いて、しばらく考え込んでしまった。
たしかにその生徒の言っていることは正しい。
有名大学への進学を考えるなら、1時間でも、時間は惜しい。
生徒会の仕事をしていたら、勉強の時間が犠牲になる。
それはわかる。
しかしその生徒は、受験勉強という、もっと言えば、受験制度の中で、
踊らされているだけ。
もちろんその生徒は、それには気づいていない。
「私は私」と思って、自分で考え、自分で行動している。

さらに言えば、ではその生徒は、何のために勉強しているのか。
何のために高校へ通っているのか。
そういうことまで考えてしまう。

つまりこうした疑問は、そっくりそのままケチな人についても言える。
その知人は、何のためにお金をためているのか。
何のために生きているのか。
そういうことまで考えてしまう。

●私を知る

ではどうすれば、その知人は、どうして自分がそうであることを知ることができるか。
その方法はあるのか。
その知人のことを心配して、こう書いているのではない。
その知人は、その知人でよい。
しかしそれを考えることによって、私たちは自分を知る手がかりを得ることができる。
そのために、その方法を考える。

まず、その知人は、自分がケチであることを知らねばならない。
これが第一の関門。
しかし実際には、そういう人にかぎって、自分がケチとは思っていない。
「自分は堅実な人物」とか、「他人は浪費家」と思っている。
人生観、さらには哲学まで、その上に、作りあげてしまう。
さらに『類は友を呼ぶ』の諺(ことわざ)どおり、そういう人たちはそういう人たちで、
ひとつのグループを作ってしまう。

だからますます「私」がわからなくなってしまう。

言い換えると、私たち自身も、実は同じことをしているのに気がつく。
(私であって私でない部分)が中心にあって、そのまわりを、たまねぎの皮のような
ものが、つぎつぎと重なっている。
そしてつきあう相手も、自分にとって居心地のよい人を選ぶ。
たとえば冒頭に書いたように、私自身はケチではないから、ケチな人間が好きではない。
ケチケチした人のそばにいるだけで、息苦しさを覚えることもある。

しかしそれは本当の(私)なのか?

ケチに気づくことも難しいが、自分がケチでないことに気づくのも難しい。
どちらであるにせよ、どちらがよいということにもならない。
先の高校生について言うなら、現代という社会は、そのほうが、生きやすい。
たしかに「生徒会などをしているヤツは、バカだ」ということになる。

●作られる(私)

で、そういう自分であることに気がついたとする。
つぎに私たちは、いつ、どこで、どのようにしてそういう(私)ができたか、
それを知る。
これが第二の関門。

私はそのためには、精進(しょうじん)あるのみ、と考える。
昨日の私より、今日の私を賢くすることしか、方法はない。
人は、より賢くなって、それまでの自分が愚かだったことを知る。

専門家に相談するという方法もあるかもしれないが、そのレベルまで到達した
専門家をさがすのは、たいへん難しい。
へたをすれば、どこかのカルト教団の餌食(えじき)になるだけ。
占いや、占星術、さらにはスピリチュアルなどというわけのわからないものを、
押しつけられるだけ。

そこで精進。
つねに勉強し、つねに視野を広める。
手っ取り早い方法としては、心理学や哲学を学ぶという方法もある。
が、何よりも大切なことは、自分で考えるということ。
考える習慣を身につけること。
その習慣が、やがて(私)の発見へとつながっていく。

●(私)を知るメリット

もっとも(私)を知ったところで、それがどうした?、と考える人もいるかも
しれない。
(私)を知ったところで、直接、何らかの利益につながるというわけではない。
しかし(私)を知ることによって、私たちは、そこに生きる意味を見出すことができる。
それがわからなければ、反対に、もう一度、庭に遊ぶスズメたちを思い浮かべて
みればよい。

スズメはスズメ。
同じように、人間は人間。
もしそうなら、私たちはスズメと、どこもちがわないということになってしまう。
言い換えると、私たちは(私)を知ることによってのみ、生きる意味そのものを
知ることができる。
そこに生きる意味を見出すことができる。
(私)があって、私たちははじめて、生きることになる。
その実感を手に入れることになる。
そしてそれがわかれば、まさに『朝に知れば、夕べに死すも可なり』ということになる。
「朝に真理を発見できれば、夕方に死んでも悔いはない」という意味である。
もっと言えば、無益に100年生きるより、有益に1日を生きたほうが、よいという
意味である。

(私)を知るということは、そういうことをいう。

●再び、「ためこみ屋」

「ためこみ屋」の人にしても、「ケチ」と周囲の人にうわさされるほどの人にしても、
何らかの心のキズをもった人と考えてよい。
またそう考えることによってのみ、そういう人たちを理解することができる。
(あえて理解してやる必要はないのかもしれないが……。)

しかし先にも書いたように、あなたや私にしても、みな、何らかのキズをもっている。
キズをもっていない人は、いない。
ぜったいに、いない。

大切なことは、まずそのキズに気がつくこと。
そうでないと、あなたにしても、私にしても、いつまでもそのキズに振り回される
ことになる。
同じことを繰り返しながら、繰り返しているという意識すらない。
ないまま、また同じことを繰り返す。

しかしそれこそ、貴重な人生、なかんずく(命)を無駄にしていることになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 ためこみ屋 ケチ
ケチ論 肛門期 フロイト はやし浩司 私論 私を知る)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●フグ刺(さし)を食べる

++++++++++++++++++

いつかどこかで食べたような気はする。
しかしどうも記憶がない。
……ということで、昨夜、フグ刺を
生まれてはじめて(?)、食べた。

丸い皿に、切手のように薄い刺身が、
菊の花のように並んでいた。
それを食べた。

++++++++++++++++++

浜松のT先生が、フグ刺を送ってくれた。
丸い皿に、きれいにそれが盛られていた。
「これがフグ刺かア?」ということで、
昨夜、それを食べた。

味は淡白。
独特の舌ざわり。
「これがフグだ」
「これがフグね」と、家族みんなで食べた。
おいしかった+珍味!

いつかどこかで食べたような気はする。
が、どうも思い出せない。
若いころは、結構、派手な生活をしていたから、
どこかで食べたはず。
味にも、覚えがある。
しかしそれが思い出せない。

どこでだろう?
いつだったかな?

そんなことを懸命に考えながら、食べた。

ワイフが、「病みつきになりそう」と言ったので、
すかさず、私はこう言った。
「こんな高級なものを、好きになってもらっては
困るよオ」と。

まあ、めったに食べられるものではない。
そんなわけで、しっかりと味わいながら、食べた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●官僚天下り、首相が承認(?)

+++++++++++++++++

政府は18日(12月)、省庁による
天下りあっせんを承認する「再就職
等監視委員会」の委員長ポストが定まらない
ことを受けて、監視委員会に代わって、
AS首相が承認する方針を固めたという
(中日新聞・12・19)。
これは官僚の天下りが事実上できなくなっている
状況を回避するためという(同)。
そしてその結果、「……実際には、内閣府
職員に首相の職務を代行させるという」(同)と。

++++++++++++++++++

わかりやすく言えば、AS首相は、「天下り監視センター(正式名:官民
人材交流センター)」を、官僚たちに(=内閣府)に丸投げした。
理由は、委員長が決まらないため、とか?
(委員長人事については、M党が、反対している。)
つまりそれまでの(つなぎ)として発足した「監視委員会」を、事実上、
ギブアップ。
AS首相は、各省庁からあがってくる書類を、ホッチキスで留めるだけ。
それだけの委員会にしてしまった。
つまり「監視」などというのは、まさに「形」だけ。
だったら、何をもって、「監視」というのか?

官僚たちは、今までどおり、何の監視も、制約も受けず、堂々と天下り
できることになる。
しかも表向き、「監視委員会のお墨付き」という、天下の通行手形まで
手にすることができる。
「オレたちは、ちゃんと監視委員会の承諾を得て、天下りしている」と。

しかしこんなバカげた話が、どこにあるのか!
(08年12月19日記)

(付記)AS首相の支持率が、今朝(12月20日)の新聞によれば、
17%前後まで、急落したという。

当然である。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●派遣社員

+++++++++++++++++

今朝の朝刊の見出しは、「トヨタ単体、通期赤字へ」「新車販売500万台
割れ」(中日新聞)。
1面トップの、2つの見出しである。
別のページには、「不況の荒波は想像を超えていた」ともある。

そのため、今、全国で、(もちろんこの浜松でも)、派遣社員や契約社員を
中心に、職を失う人たちが続出している。

……と、ここまで書いて、その先が書けない。
何をどう書くべきなのか?
どう書いたらよいのか?
へたな同情は、そういう人たちに対して、かえって失礼。

……もともとは規制緩和が発端だった。
人材の流動性を確保するためだった。
その結果、企業は派遣社員や契約社員を自由に雇えるようになった。
人事のフレキシビリィティ(柔軟性)が、それで確保できるはずだった。
必要なときだけ、必要な人に働いてもらう。
そういう趣旨から、とくに人材派遣会社も急成長を遂げた。
経済が成長している間は、それでもよかった。
が、それが、今、一転、裏目、裏目に出てきている。

不況になったとき、まっさきにクビを切られるのが、派遣社員の人たち。
その人たちが職を失い、寮を追い出されたりしている。
しかしこれで終わるわけではない。

一般論として、(不況)は、(失業)→(社会不安)→(秩序の崩壊)へと、進む。
日本はまだよいほうだ。
国によっては、国家そのものが破綻し、暴動や略奪に発展することもある。
「私はだいじょうぶ」「日本はだいじょうぶ」と、のんきに構えていたら、
それこそたいへんなことになる。
(事実、今、たいへんなことになりつつあるが……。)

それなりの蓄(たくわ)えがあるならまだしも、そうした人たちほど、
それがない。
まさに「踏んだり蹴ったり」。
だからこの先が書けない。
あまりにも残酷で、この先が書けない。

……ふと目を庭先にやると、ドバト(キジバト)が、白い陽光を浴びて、
ひなたぼっこをしている。
体を丸めて、雑草の上にどっかりと座っている。
何という落差!
そののどかさが、かえって不思議な感じがする。

で、話を戻す。
今回の不況は、すでに7〜8年前に予想されていた。
私も肌で感じていた。
アメリカ経済がおかしいことは、当時からだれの目にも明らかだった。
「このまま進んだら、たいへんなことになるぞ」と。
それを無理に無理を重ねてがんばるから、こういうことになってしまった。
とまあ、過去を悔やんでもしかたない。

ここはじっと我慢のとき。
嵐が過ぎ去るのを、じっと待つしかない。
こういうときというのは、ジタバタした方が負け。
ニクソンショック、オイルショックのときもそうだった。
日本のバブル経済が崩壊したときも、そうだった。
ただひたすら、じっと耐えるしかない。

経済各誌は、その時期を、09年の夏から後半と読んでいる。
カギを握るのが、中国経済ということになるが、このところ
上海B株が、やや上昇に転じてきている。

日本のバブル経済崩壊から日本を救ったのが、実は、中国特需だった。
あの中国特需がなかったら、日本経済は、本当に崩壊していた。
で、今、再び、世界の熱いまなざしが、中国に注がれている。

このまま上海B株が上昇をつづけるかどうか。
上昇をつづけてくれれば、世界経済の復興は早いということになる。
「がんばれ、中国!」、……とは、あまり書きたくないが、日本にその力が
ない以上、ここは、再び、中国に頼むしかない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●アルツハイマー型認知症

+++++++++++++++++++++

ワイフの近くに、「?」と思われる女性がいる。
年齢は、今年、66歳になるのではないか。
いろいろ話を聞いていると、どこかヘン?
症状はすでに4年ほど前から、出ている。
まさに教科書どおりの症状。
その女性の名前を、「Kさん」としておく。
現在、退職した夫と2人暮らし。

+++++++++++++++++++++

たとえばエピソードそのものを忘れてしまう。
昼に何を食べたかを忘れるのは、これはよくあること。
私も、最近、ときどきある。
しかしKさんは、食事をしたこと自体を忘れてしまう。
が、いつもそうであるなら、夫もそれに気づくはず。
そうでないから、夫は、まだ気づいていない(多分?)。
こんなことがあったという。

ワイフがクラブの会費を、Kさんに預けた。
その日、ワイフはクラブには行けなかった。
1週間後に、クラブへ行くと、会費が未納のままになっているのを知った。
Kさんは、クラブに来ていなかった。
そこでワイフがKさんに電話をすると、「会費は青い封筒に入れたまま、
机の上に置いてあります」と言った。
ワイフは、「じゃあ、来週、返してくれればいい」と言った。
そのときは、そのまま電話を切った。

が、翌週もKさんは、クラブを休んだ。
そこで再びKさんに電話をすると、Kさんは、こう言ったという。
「そんなお金のことは知りません」と。
そこでワイフが、「青い封筒に入れて、机の上に置いたと、あなたは言いましたよ」
と告げると、Kさんは、そのままパニック状態になってしまったという。
「ギャーギャーと泣きわめくといったふうで、静かな会話そのものができなかった」と。

ここまででも、(1)エピソード記憶の喪失、(2)尊厳を守るための過剰な反応が、
Kさんに現れているのがわかる。
(できごと)そのものを忘れてしまう。それがエピソード記憶の喪失。
そしてそれを指摘されると、パニック状態になる。それが過剰な反応。

つぎにこんなことがあったという。

最初、Kさんのほうから、その話はもちかけられた。
クラブのクーラーが故障した。
それについて、「修理費用を、2人で出しあって、半々にしよう」ということになった。
ワイフは、それに応じて、電気屋と交渉に入った。

が、それから1、2週間がたったが、Kさんのほうからは、何の連絡もなし。
ときどき同じようなことが以前にもあったので、ワイフはかなり注意していたらしい。
そこでワイフがKさんに、「費用を半分出していただけますか」と話しかけると、
あっさりと、「私は出しません」と。

このように(3)YES/NOが、ある日突然、変わる。
変わるというより、約束したこと自体を忘れてしまう(?)。
あるいは、そのときどきの気分に、大きく左右されてしまう(?)。

が、とうとうワイフをあきれさせるような事件が起きた。

この話は前にも書いたが、クラブの親睦をかねて、どこかへ旅行に行こうということに
なった。
それについて電話をすると、Kさんが、「長野県の下諏訪(しもすわ)にしましょう」
と言った。
ワイフは、それをその場でメモ帳に書きとめた。
が、10分間ほどいろいろと話して、ワイフが、「下諏訪でいいのですね」と念を押すと、
Kさんは、突然怒り出してしまった。
「私は、下諏訪なんて、一言も言っていません。上山田と言ったのです」と。

そこでワイフが、「あら、ちゃんと、メモしたのですが」と答えると、Kさんは、
さらにパニック状態になり、「どうしてそういうウソをつくのですか!
私の母の郷里は、上山田です。まちがえるはずはありません!」と。

たまたまその電話の内容を、Kさんの夫が、Kさんの横で聞いていた。
それでKさんの夫が、「おい、お前、お前は、さっき、下諏訪と言ったぞ」と言ったから、
さあ、たいへん!
今度はその場で、はげしい夫婦喧嘩になってしまった。
ワイフは、Kさんのわめき声を聞いて、そのまま受話器を置いてしまった。

が、その翌日、Kさんからワイフのところに電話があった。
いわく「下諏訪は、父の郷里です。それでまちがえました」と。

こうした(4)つじつま合わせ、とりつくろいも、アルツハイマー型認知症の人に
よく見られる症状のひとつである。
そして(5)あとは自分の殻(から)にこもってしまい、そこから出られなくなって
しまう。
(ふつうの人なら、地名をまちがえたくらいでは、パニック状態にはならない。)

ほかにもKさんには、いろいろ気になる症状が出ている。

ものの言い方が、そのときどきの気分で、つっけんどんになったり、反対に馬鹿
ていねいになったりする、など。
繊細な会話ができなくなった、表情が乏しくなった、生活が貧弱になったなど、という
こともある。
ワイフが仲間と話がはずんでいるようなときども、ひとりポツンと集団からはずれ、
ぼんやりしていることもあるという。
その一方で、しゃべり出したら、止まらない。
同じ話を、何度も何度も繰りかえしたりする、などなど。

今のところ日常生活には支障はないようだ。
夫も気づいていないらしい。
ただKさん自身は、息子の離婚問題もあって、「私はうつ病」と言っているとか。
つまり息子の問題でドタバタしているから、あれこれ、もの忘れするように
なった、と。
しかしこれも、(とりつくろい)と考えることも、できなくなくはない。

私「やはりKさんの夫が気づくべきだよな」
ワ「それがね、ダンナも、どこかおかしいのよ」
私「そりゃあ、たいへんだ」
ワ「私がね、会費のことで、それとなく奥さんが忘れておられるようですと話したら、
ダンナまで、突然怒ってしまったのよ。『そんなはずはない』と、ね」

私「ダンナも、妻の異変を認めたくないのかもしれないね」
ワ「こういうときは、どうしたらいいのかしら?」
私「今度、Kさんの息子さんに会ったら、ぼくのほうから話してみるよ」
ワ「そうね、それがいいわよね」と。

こうして書くと、何でもないような話に聞こえるかもしれないが、ワイフはワイフで、
かなり不愉快な思いをした。
会費についても、そのままになっている。
が、何よりもワイフを不愉快にしたのは、Kさんが、つぎつぎと約束を破ったこと。
これについては、ワイフは、こう言った。
「だから今はね、連絡は何でもメモでするようにしているのよ」と。

アルツハイマー型の痴呆症というと、本人だけの問題と考えている人は多い。
(もちろん本人やその家族の人たちにとっては、深刻な問題だが……。)
しかしその人自身が、その周囲の人たちに、大きな迷惑をかけるということもある。
とくに初期の段階においては、そうである。

繊細な感情が消え、相手に対して、ズケズケとものを言うようになる。
そのズケズケ言うときに、相手をキズつける。
本人はそれでよいとしても、言われたほうは、心底、それに苦しむ。
そういうこともある。

やはりこの病気は、早期発見が何よりも大切。
本人自身にとっても、またまわりの人たちにとっても……。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●映画『地球が静止する日』

++++++++++++++++++++++

昨夜、仕事が終わってから、映画『地球が静止する日』を
見てきた。
封切り初日ということで、劇場には、30〜40人前後の
人が入っていた。
金曜日の夜だったので、まあまあの(入り)ということに
なる。

しかしやや期待はずれ。
星は3つも難しいかなというレベルの、3つ(★★★)。

キアヌ・リーブス主演。

内容は、ありふれたSF映画。
地球を救うためにやってきた宇宙人が、地球を救うために
人類を滅ぼそうとする。
「人類が生き残れば、地球は滅ぶ」とか何とか……。
しかし人間どうし(母子)の深い愛情に心を打たれて、
宇宙人は方針を変える。
……とまあ、そういう、どこかありふれたストーリー。

+++++++++++++++++++++++

『静止する日』というから、私は地球の自転が止まるとか、そういうような映画を
想像していた。
しかしそうではなくて、最後の最後のところで、意味がわかる。
つまり人類は、ありとあらゆるエネルギーの消費をやめる。
それが(静止)ということになる。

しかしどうも、納得できない。
木に竹を接(つ)いだような感じがする。

映画『宇宙大戦争』のときもそうだったが、宇宙人なら、人類を滅ぼすために、
こんな回りくどいやり方はしない。
私が宇宙人なら、人間だけに感染するウィルスのようなものをばらまく。

しかしそれだと地球は、人間の死体だらけになってしまう。
かえって汚染されてしまう。
そこで今回の映画では、超小型の金属製のxxxを登場させる。
(まだ映画を見ていない人のために、あえてxxxとしておく。)
が、それでも、回りくどい。

それにキアヌ・リーブスの登場の仕方が、やや大げさ。
そのあとの展開と、うまく結びつかない。
だから星は、3つ。

そこで改めて、人類滅亡論。

人類が滅んでも、また1億年後くらいに、昆虫などから進化した別の
知的生命体が生まれれば、私は、それはそれでよいと思っている。
ゴキブリ人間でもよい。
そのゴキブリ人間が化石を発掘して、「これが太古の昔、ヒトと呼ばれた人間の
化石です」とで言えば、楽しいではないか。
ゴキブリ人間の子どもたちは、きっと驚嘆の声をあげるにちがいない。
「ヒトって、大きかったんだね」と。

私の意見がおかしいと言うなら、反対に、1億3000年前に話を戻してみるとよい。
恐竜が生きていた時代には、人類の祖先たちは、今のネズミのような動物だった
という。
私が宇宙人なら、ネズミなどには、目もくれなかっただろう。

映画の中で、ひとつだけ、気になるセリフがあった。
正確には思い出せないが、キアノ・リーブスが演ずる宇宙人が、こう言った。
「人間には、死はない。姿を変えるだけ」と。

つまり人間は死んで消えるのではなく、別のものに姿を変えるだけだ、と。

この言葉には、少なからず、私はショックを受けた。
というのも、私は死んだら、(私)は消えると考えていた。
しかし「消える」のではなく、「姿を変える」のだ。

ナルホド!

おもしろい表現なので、心の中に大切にしまっておく。
このつづきは、また別のところで考えてみたい。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 1月 16日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自己愛者( Narcissism person)

+++++++++++++++++

K国への重油支援は、どうやら停止される
方向で動き始めている。
当然である。
が、アメリカへ戻ったC・ヒルは、まだ
こんなことを言っている。
「重油をすべて提供すれば、K国はサンプル
採取に応じてくるはず」と。

いったいあの国務次官補は、どこまで
おめでたいのか?

口頭約束だけで、K国を、テロ支援国家
指定リストから、はずしてしまった。
それについて、ウォールストリート・
ジャーナルは12月16日、「ライスの
対北政策は失敗に終わった」と報じた(※1)。

これまた当然である。
が、それにしても理解に苦しむのが、K国。
常識をはずれた国というのは、ほかにもある。
あるが、あの国の常識は完全に、狂って
いる。

6か国協議決裂の責任を日本に押しつけ、
日本をさして、「招かざる客」(※2)と。

++++++++++++++++++

K国を非難してばかりいてはいけない。
問題は、どうしてこうまで常識をはずれているのか。
そのあたりまで踏み込んで考えないと、K国を理解することができない。

招くも招かないもない。
日本としては、K国など、もとから相手にしたくない。
6か国協議など、出たくもない。
出たくて、出ているわけではない。
つまりこの異常なまでの自己中心性こそが、K国の特徴ということになる。

言うまでもなく独裁国家ほど、独裁者の心理的状態が、そのまま外交政策となって、
表に出てくる。
K国の外交政策イコール、金xxの心理状態と考えてよい。
その上で、ほんの少しでも自分を冷静かつ客観的に見る目をもっていたら、自分に恥じて、
こんな言葉は出てこないはず。
世界中が見るに見かねて、援助を申し出ているのに、「エネルギー支援を留保している
日本は、厄介者」(同)とは!

ハア〜〜〜?

こうした異常なまでの自己中心性が肥大化した人を、心理学の世界では、自己愛者と
定義している。
「自己愛者」というと、どこか甘美な響きをもつが、けっして好ましい人物像ではない。
忌み嫌うべき人物像ということになる。
K国の金xx。
彼こそがまさにその自己愛者の典型ということになる。

自己愛者について書いた原稿を、さがしてみた。

++++++++++++++++++++++

●自己愛者( Narcissism person)
The more he or she is a self-centerness person, the lower his or her mental IQ is.
 
+++++++++++++++++++

自己中心性が極端なまでに肥大化した
状態の人を、自己愛者という。

+++++++++++++++++++

自己中心性(ジコチュー性)が、極端なまでに
肥大化した人を、「自己愛者」という。

自己中心性が強い分だけ、人格の完成度は、低い。

ほかに、たとえば異常なまでの完ぺき主義、
他人の批判を許さないなどの特徴がある。

その自己愛者については、たびたび書いてきたので、
ここでは、その先を書く。
私は、現在、こんな経験をしている。

私の身近にいる知人だが、このところ、認知症と
思われる症状が、急速に進んでいる。
アルツハイマー病の初期症状かもしれない。
ときどき、記憶の一部が、脳みそから欠けるように消えてしまう。

前の晩に何を食べたかを忘れるのは、よくあること。
が、その人のばあい、前の晩に食事をしたことそのものを、
忘れてしまう。

電話で話していても、一方的に、しゃべるだけ。
しゃべるだけならまだしも、しばらくすると、
また同じ話を繰りかえす。

そして私が何か、その人について批判めいたことを
口にすると、その瞬間、狂乱状態になってしまう。
「以前、その話はもう聞きました」と言っただけで、
ギャーッとなってしまう。
「私は、言っていない!」「どうして、そういうウソを言うの!」と。

言い忘れが、その知人というのは、今年、59歳になる。
女性である。
ワイフの長い友人で、いつしか家族ぐるみでつきあうようになった。
が、このところ、ワイフが言うには、「つきあいにくくなってきた」
「10年前には、ああではなかった」とのこと。

つまり、回りくどい言い方になってしまったが、認知症のはじまりには、
ものの考え方が、自己中心的になり、自己愛的な症状が出てくる。
言いかえると、自己中心性が出てきたら、あぶないということ。
(その人が、認知症というわけではない。あくまでも私が、
そう疑っているだけ。念のため。)

認知症になることによって、人格そのものが、崩壊してしまう人がいる。
そう考えれば、認知症の初期症状のひとつとして、ものの考え方が
自己中心的になったところで、何ら、おかしくはない。

+++++++++++++++

もう一作……。

+++++++++++++++

●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どん
な人間に思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念というこ
とになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。
悪い面については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自
分がそうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズ
レる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な
夫の妻として、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、
すばらしい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)
だから「私のそばにいれば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。
そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿
しか、知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、
笑った。そしてその意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、
私たちはいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目
を気にせよ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも
正確にとらえていく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1) 自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2) 責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3) 自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4) 自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5) 脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、
その他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いて
みる。そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡
単なので、少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから
見て、どんな母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐ
ためにも、重要なことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思い
こんでいるだけかもしれない。どうか、ご注意!

(はやし浩司 自己概念 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教
育 子育て はやし浩司 自己概念 現実自己 アイデンティティ)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自分を知る

 自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。

 同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)があ
る。

 この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」
ということになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。

 (他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなること
によって、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろ
な人と、広く交際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる(※)。

 問題は、ここでいう(盲点)である。

 しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さ
くなると考えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小
さいということになる。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)

 このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。

 幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、
みんな、勉強ができるようになる」と考えている。

 しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く
人もいるが、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味で
ある。

 が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。

 その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こ
ちらが教えたいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで
水をすくうような感じの子どももいる。

 そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がつい
ていない部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。

 子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているということを、親自身が気がつ
いていれば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がついて
いないときは、指導のし方そのものが、ない。

 親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。
そして私に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして
子どもが逆立ちしてもできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」
と言う。私に向っては、「できるようにしてほしい」と言う。

 こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさ
がる。

 言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)
が大きいということになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐ
はぐになりやすいということになる。子育てで失敗しやすいということになる。

 自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらに
むずかしい。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなお
してみてはどうだろうか。

(注※)

 (自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親し
くなることで、それを知ることができる。

 そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっ
と言えば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それが
できる人は、ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをし
てみる。コツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判される
たびに、カリカリしていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。

 一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判さ
れただけで、狂乱状態になる人さえいる。

++++++++++++++++++

さて話を戻す。

K国というより、金xxが、常識を取り戻すためには、金xx自身が、一度、
金王朝というカプセルから出て、世界を見てみる必要がある。
あるいはひょっとしたら、金xxには、それなりの常識があるのかもしれない。
とすると、取り巻き連中が悪い(?)。
そういう連中が、一度、外国を渡り歩いてみたらよい。

そうすれば、自分たちの置かれた立場や、世界が自分たちをどう見ているかが、
少しはわかるはず。

……と言っても、これは簡単なことではない。
自己愛者にしても、自分でそれに気づくことは、まず、ない。
自分では正常と思っている。
その多くは、「他人のほうがおかしい」とか、「他人も同じ」と思っている。
加齢が進めばなおさらで、ますます自分の殻(カプセル)に閉じこもるようになる。

で、自己愛者の特徴の一つとして、批判されただけで、烈火のごとく怒りだす。
たとえば日本をさして、「厄介者」と、自分では言いたい放題のことを言っておきながら、
もし日本がK国をさして、「厄介者」と言ったら、どうなるか?
それを少しだけ、頭の中で想像してみたらとよい。

つまりまるで自分のことが、わかっていない。

……となると、あのC・ヒルは、いったいどういう人物かということになる。
私は、彼もまた、その自己愛者ではないのか。
「私がしていることは正しい」という、狂信的とも言える信念だけで、突っ走って
しまった。
だからK国の金xxを、盲目的に信じてしまった。
その結果が、「今」ということになる。

(注※1)アメリカのウォールストリート・ジャーナルは16日、コンドリーザ・ライス国
務長官がK国の核廃棄よりも外交的進展という面を優先視したため、過去4年間の対北朝
鮮政策は失敗に終わったと批判した(朝鮮N報)。

(注※2)K国のK国労働党機関紙「労働新聞」は16日、6カ国協議に関する論評で、
核施設無能力化の見返りとなる経済・エネルギー支援を拉致問題を理由に留保している日
本について、「招かれざる客、厄介者であり、協議のテーブルに残る必要はない」と非難、
あらためて「日本排除論」を展開した。K国中央通信が伝えた。
 論評はまた「日本は6カ国協議を通じた朝鮮半島核問題解決を妨害し、核問題を理由に
軍事大国化を目指そうとしている」と主張した。(共同通信)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日の格言

+++++++++++++++++

Death is the great leveller.
(死ねば、みな、同じ。)

+++++++++++++++++

「leveller」というのは、(皆を平等にするもの)という意味。
つまりどんな人でも、死ねば同じ、イコール、平等、ということ。
わかりきったことだが、それを受け入れるのは難しい。
「私だけは……」と思いたい気持ちもわかるが、例外はない。

で、金持ちも貧乏人も、地位のある人もない人も、名誉のある人もない人も、死ねば同じ。
つまり「Death makes us all equal(死は皆を平等にする)」。

ところで最近、私はこんなことを強く思う。
「死んだ人の時計は止まる」と。

たとえば私の隣人にR氏という人がいた。
亡くなって、もう5年以上になるが、その間、R氏についての時計は止まったまま。
ときどき「もう5年になるのか」と驚くときがある。

そう、私の記憶の中にあるR氏は、5年前のまま。
R氏との思い出にしても、ガラスの箱の中に閉じ込められたようになっている。
外から見えるには見えるが、断片的にしか見えない。
そこでじっとしているだけ。
外には出てこない。
言い換えると、私が死んだら、そのとき、私についての時計は止まる。
あなたが死んだら、そのとき、あなたについての時計は止まる。

こうして人はどこからともなくやってきて、またどこかへと去っていく。
この不思議さ。
この切なさ。

しかし元気なときというのは、それがわからない。
あえて(死)に背を向けて生きる。
(死)を蹴飛ばしながら生きる。
「金持ちになりたい」「地位や名誉がほしい」と。

しかしその果てに(死)が待っているとしたら、人は何のために生きているのか
ということになる。

少し前、郵便局でこんな会話を耳にした。
どこかの女性(90歳くらい)が、年金をおろしたらしい。
手には100万円ほどの札束を握っていた。
それについて、局員の男性が、大きな声でこう言っていた。

「あのね、おばあちゃん、ここでは1000万円までしか貯金はできないの。
国債も、1000万円までしか、買えないの」と。

それを理解できたのかどうかは知らないが、その女性はお金を手さげに入れて、
郵便局を、ヨタヨタと歩きながら出て行った。
足は大きく外側へわん曲し、腰も曲がっていた。
歩くのもままならないといったふうだった。

それを見てワイフは、「だいじょうぶかしら?」と言った。
私は、「何のために?」と言った。

お金がないのも困るが、しかしお金というのは、元気なときに使ってこそ、生きる。
「どうせ皆、平等になる」というのなら、なおさらである。
地位や名誉にしてもそうだ。

私も最近、こんな経験をした。
私が発行しているメルマガ(電子マガジン)が、2008年度の「マガジン・オブ・
ザ・イヤー」に選ばれた。
6万3000誌もあるということだから、名誉なことにはちがいない。
しかしその喜びというのが、ほとんどといってよいほど、わいてこなかった。
10年前、あるいは20年前の私なら、飛び上がって喜んだことだろう。
あるいは出版の世界だったら、どさっと大金が舞い込んできたことだろう。
しかしそこはインターネットの世界。
何も変わらない。
何も起こらない。
もちろんお金は入ってこない。
「HPのどこかで、宣伝してみよう」とは考えたが、「家族で祝賀会」というところ
までは考えなかった。

(死)という限界をそこに感ずるようになると、そういうことはどうでもよくなる。
私は私。
書きたいから書いているだけ。
それを他人がどう評価しようが、私の知ったことではない。
言い換えると、人は死に近づくにつれて、一次曲線的に、平等になっていく。
死がやってきたからといって、そのときストンと、平等になるわけではない。
すでに今、この瞬間、少しずつ平等に向かって、進んでいる。

だからこの格言をもう少し正確に書き換えると、こうなる。

「加齢は、人をより平等にする」と。
英語になおすと、「Aging makes man more equal」。

そしてこうも言える。

「死は、時計を止める」と。
英語になおすと、「Death stops the man's clock」。

ホント!
死んだ人は、本当に静かだ。
何も語らない。
何も動かない。
私も、あなたも、やがてすぐそうなる。
これには、先に書いたように、例外はない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●耳鳴り

++++++++++++++++++

私は子どものころ、慢性中耳炎に悩んだ。
ときに苦しんだ。
ジ〜ンジ〜ン鳴りつづける耳鳴り。
それが風邪などと重なると、耳が熱くなり、
ひどいときには、顔中がほてったりした。

が、今は、皮肉なことにそちらの耳は聴力を失い、
耳鳴りは収まったかのようにみえる。
しかし風邪ぽくなったりすると、耳鳴りが始まる。

ジ〜ンジ〜ン、と。
夏などは、セミの鳴き声と区別ができないときがある。

今が、そうだ。
この数日間、どうも風邪が抜けない。
治ったかと思うと、また風邪をひいたりしている。

しかし慣れというのは、怖しい。
それほどまでの耳鳴りでありながら、仲よく同居している。
それほど気にならない。
実際には、まったく気にならない。

+++++++++++++++++++

これほどの耳鳴りがしながらも、私には(静寂)というものがどういうものか、
わかる。
考えてみれば、これは不思議なことではないか。
たとえば今、今の窓の外の木々は、小雨に打たれてやさしく葉を揺らしている。
深い緑の木々をおおうように、まだ残った黄色い葉が、そこかしこで、ゆらゆらと
はためいている。

その手前では、水たまりの表面が、ポツン、ポツンと、無数の円を描いている。

もちろん音は聞こえない。
音を出していたとしても、耳鳴りの音で、かき消されてしまっているだろう。
しかし私は、そこに(静寂)を感ずることができる。
風の音や雨のしたたる音を、感ずることができる。
なぜだろう?

ひとつには、音波でできる音と、心の中でできる音を、自分自身が区別している
ためではないか。
さらに言えば、音というのは、耳で聞くものではなく、心で聞くもの。
どんなすばらしい音楽でも、自分の心が同調しなければ、ただの騒音にすぎない。
音楽か騒音か、それを区別するのが、(心)ということになる。
そしてそれがちょうど反対の状態になったのが、今の私ということになる。

音波の音は聞こえていないが、あるいは耳鳴りの中から都合のよい音を選び出して、
それを耳の中で聞いている。
聞こえてはいないはずなのだが、聞こえるような感じがする。

サーサー……。
ハラハラ……。
ポツン、ポツン……と。

私はそういう景色を見ながら、心地よい睡魔を感じている。
先ほどのんだ風邪薬のせいかもしれない。
コタツのほどよい暖かさが、眠気を誘っているのかもしれない。

そのときふと時計が気になった。
見ると、x時x分。

仕事に出かける時刻。
フ〜〜〜ッと長いため息をついたあと、腹に力を入れて立ちあがる。
とたん、またあの耳鳴り。
思い出したように耳の中で鳴り始めた。

今日もがんばろう。
仕事、開始!
風邪なんかに、負けてはおれない!


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●どうなる内閣人事局(Bureaucratic Government)

++++++++++++++++++++

官僚たちの天下りにメスを入れ、それを
一元的に管理することによって、天下りを
是正しようとして考えられたのが、
内閣人事局。
しかし今、その内閣人事局が、まさに
骨抜きにされようとしている。

++++++++++++++++++++

今までは、各省庁ごとに、いわば縦割り的に、
かつ慣習的に(官僚の天下り)が、なされてきた。
たとえば文科省だけでも2000近い、外郭団体がある。
官僚たちは退職すると、(あるいはそれ以前から)、
こうした天下り先を渡り歩くことで、莫大な
利益を得ていた。

が、それではいけないと、安倍内閣、福田内閣の両内閣は、
新しい人事院の創設をもくろんだ。
「内閣人事局」構想というのが、それである。

内閣人事局というのは、各省庁の幹部人事を、一元的に
管理し、それによって、従来の天下りにともなう
弊害をなくそうという趣旨で考えられた。
つまり一度、すべての天下り先を人事局に集め、
適材適所で人材を再配置しよう、と。

しかしこれが実施されると、各省庁は、独自の
天下り先(=権益)を失うことになる。

そこで官僚たちによる逆襲が始まった(?)。
その目的とするところは、内閣人事局の骨抜き。
その中身は、大きく、つぎの2つに分けられる。

(1)事実上、内閣人事局を、官僚主導型の組織にする。
(2)内閣人事局の人員を最小限(10人〜20人)にし、ただ単なる
事務組織にする。

内閣人事局を官僚主導型の組織にすれば、従来通りの天下りが可能になる。
また組織を小さくすればするほど、組織はただ単なる事務機関にする
ことができる。

そういう点では、AS総理は、まことに都合がよかった。
ちまたでは「おバカ総理」(週刊B春)と、揶揄(やゆ)されている。
官僚の言いなり……とまではいかないにしても、あのAS総理に、
そこまで期待する方が無理。
新聞などの報道を見ていても、AS総理周辺からは、公務員制度改革
の「コ」の字も聞こえてこない。

そういうAS総理を横目で見ながら、官僚たちが、「一刻も早く」と、
内閣人事院の創設を急ぎ始めている。
たとえば内閣人事院の創設を目的とする作業部会は、ほぼ1日おきという
ハイペースで行われている(08年11月)。
内閣人事院の創設に反対なら、急ぐ必要はないはず(?)。
この一見すると矛盾した動きこそが、官僚が得意とする、お家芸である。

急げば急ぐほど、いいかげんなものができる。
その(いいかげんさ)こそが、官僚にとっては、重要なのである。

幹部人事の一元化はどうする?
給与の弾力化はどうする?
昇格、降格人事はどうする?
人事の配分はどうする?
だれがどういう基準で決める?

そういう議論はいっさい、すっ飛ばして、内閣人事院の誕生!
作業部会にしても、計8回、延べ20時間程度行われただけ。
が、それこそまさに官僚たちの思うつぼ。
週刊誌などの記事によると、内閣人事院の人員は、10人程度。
多くても20人程度とささやかれている。
たったそれだけの人員で、巨大な官僚組織の人事を管理できるわけがない。
つまり(できるわけがない)という組織にすることが、官僚たちの
目的ということになる。

日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
少しぐらいつついた程度では、ビクともしない。
改めて官僚たちのもつ(力)に驚く。
(08年12月18記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
内閣人事局 官僚制度 天下り)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●2008年度一般会計予算(The Japanese National Budget)

+++++++++++++++++++

2008年度の日本の一般会計予算は、
つぎのようであった。

歳入、つまり国の税収は、83・1兆円。
うち借金(公債金)が、25・3兆円。

歳出、つまり国の支出は、83・1兆円。
うち借金返済のための支出(国債費)が、20・2兆円。

+++++++++++++++++++

一家の家計にたとえると、こうなる。

月給が、57・8万円。
しかしそれでは生活できないので、毎月、30・5万円の借金。
計、88・3万円の生活。
(結構、よい生活ができるぞ!)

が、借金もたまってきた。
その返済に、毎月、24・3万円。
だから実際に使えるのは、62・9万円。
(以上、収入、支出のパーセントを、万円に置き換えた。)

これだけみても、日本の経済は、かなりあぶない!
月給が、57・8万円なら、その範囲で生活をすればよい。
ふつうなら、そう考える。
しかし日本の財務省には、そういう考えは、みじんもない。
結果、たまりにたまった借金(国債)が、約553兆円!
国民1人あたり、約433万円!
(参考:「時事用語」成美堂出版)

公務員の給料だけで、40兆円近くもあるのだから、
当然、そのあたりから削減すべき。
結局こうした借金は、つぎの世代の人たちの負担となって
跳ね返ってくる。
が、それだけではすまない。

すでに「老人粗大ゴミ論」が、声高に叫ばれるようになっている。
ウソだと思うなら、若い人たちのBLOGをのぞいてみるとよい。
そこには、かなり辛辣(しんらつ)な言葉で、老人論が
語られている。

長生きすればするほど、私たちは、ゴミ扱いを受けるようになる。
が、それもそのはず。
やがて人口の3分の1が、満65歳以上になる(2050年)※。
医療費、介護費の負担だけで、日本経済は破産してしまう。
そうなったとき、若い人たちに向かって、「私たちのめんどうを
みてほしい」とは、とても言えない。

中には、「私には貯金があるから……」と思っている人もいるかも
知れない。
が、このまま進めば、2050年ごろには、貨幣価値は
今の3分1〜5分の1以下になっているはず。
若い人の数、そのものが少ない。
どうやったら、2人の人が、1人の老人を支えることができるというのか。
つまりお金の問題ではなく、現実に無理、ということ。
すでに今、とくに後期高齢者に対して、医療機関が医療を拒否する
という話が、あちこちから伝わってきている。

実は私の母(当時91歳)もそうだった。
センターから救急車で病院へ運ばれたとき、担当の医師はこう言った。
「検査はしますが、延命処置はもうしません」と。
私たち夫婦が戸惑っていると、「天命ですから」とも。

それでもまだよいほうかもしれない。
私の義兄は、前立腺がんの手術を受けたとき、やはり担当の医師は
こう言ったという。
「75歳以上は、手術をしません」と。

どうやらそのあたり、つまり74〜75歳前後に、医療機関では、
ひとつの線引きがなされつつあるようである。
これから先、その線引きが、下がることはあっても、上がることはない。
「65歳以上は、どんどん、死んでもらいます」と。

すべての責任を公務員にかぶせることはできない。
また一人一人の公務員に責任があるわけではない。
しかし本気で、行政改革を進めないと、この日本は、たいへんなことになる。
この不況すら、どこ吹く風。
民間企業では、首切り、リストラ、人員削減が、嵐のように巻き起こっている。
が、そういう話は、公務員の世界からは、まったく聞こえてこない。
聞こえたとしても、せいぜい、採用人員の削減程度。

繰り返すが公務員の人経費だけで、40兆円と言われている。
国家税収のほとんどが、公務員の人件費で消えている。
まず、この異常さを、正すべき。
外国なら、とっくの昔に、暴動が起きているだろう。
しかしその一方で、公務員の数が多いから、それもできない。
あなたの身内や、近い知人の中にも、1人や2人は、かならずいる。
ひょっとしたら、あなた自身も、そうかもしれない。

2008年度の一般会計予算を見ていたら、ムラムラと、
そんな怒りが、心の中にわいてきた。
『怒ったときは愚痴を言うな』。
……ということで、この話は、ここまで。

(注※)
高齢化率(満65歳以上の老人)
2008年……22・0%
2050年……35・7%


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「有能」vs「有用」?

+++++++++++++++++++

昨日朝早く、目覚まし時計についていた
ラジオにスイッチを入れた。
とたん、こんな声が聞こえてきた。
雰囲気からして、どこかの宗教団体提供の
番組だったかもしれない(?)。

こう言った。

「有能な人間より、有用な人間になれ」
「有用な人間こそが、出世できる……」と。

「有能」という言葉と、「有用」という言葉が
交互に、何度も出てきた。

私はこの説教(?)を聞いて、頭の中で脳神経が
バチバチとショートするのを感じた。

++++++++++++++++++++

●私は私

私は私、人は人。
私には私の考えがあり、人には人の考えがある。
大切なことは、それぞれの人の考えを尊重すること。
それぞれの人の考えを参考に、さらに自分の考えを
積み重ねること。
が、ときに人の話を聞いたとき、頭の中で脳神経が
バチバチとショートするのを感ずることもある。
昨日の朝もそうだった。

あるラジオ局が、こんな説法をしていた。
「有能な人間より、有用な人間であれ。
それが出世への道である……」と。
どこか無機質で、単調な言い方だった。
その言い方から、私はスポンサーは、どこかの
宗教団体でなかったか。
(確認はしていない。)

●有能と有用

有能と有用。
似たような言葉だが、どちらかを取れと言われれば、
私なら「有能」を取る。
「有用」という言葉を聞くと、そこにどうしても他人の目
を感じてしまう。
たしかに他人との協調性は大切だが、それは集団とか、
もしくは組織の中での話。
有用という言葉も、そういうところでは生きる。
しかし「有用」だけを考えていると、私が私でなくなってしまう。
私は、それを心配する。

具体的に考えてみよう。

●社会で役に立つ人間

少し前まで、「社会で役立つ人間づくり」が、教育の柱に
なっていた。
学校の卒業式などでも、この言葉がよく使われた。
しかしこの言葉は、戦前の「お国のために役立つ人間」に
ルーツを求めることができる。
「お国」が「社会」になった。
「お国のため」が、「社会のため」になった。
それに「役立つ」がくっついた。
こういう例は多い。
そしてこうした考え方の中から、日本独特のあの出世主義が生まれた。

●出世主義vs家族主義

この日本では、地位役職にある人を、「偉い人」という。
そうでない人は、「偉い人」とは言わない。
しかし英語には、「偉い人」にあたる単語すらない。
あえて言うなら、「respected man」という言葉がある。
日本語に訳すと「尊敬される人」ということになる。

しかし「尊敬される人」というときには、地位や役職は関係ない。
地位や役職がなくても、尊敬される人は尊敬される。
地位や役職があっても、尊敬されない人は尊敬されない。

とくに私たち団塊の世代は、子どものころからこの「出世」という
言葉に踊らされた。
「立派な人になってください」
「偉い人になってください」と。

しかしこうした出世主義は、1990年ごろから、急速に、しかも
音を出して崩れ始めた。
日本人の意識が急速に変化し始めた。
家族主義の台頭である。
このころから「仕事よりも家族が大切」と考える人が、急速にふえ始めた。
それを決定的にというか、強烈に印象づけたのが、あの山一證券の倒産劇で
ある。

山一證券が倒産したとき、社長ともあろう人物が、テレビカメラに向かって、
「みんな、私が悪いのです」と、泣きじゃくってみせた。
それは私たちに大きな衝撃を与えた。

●子どもの世界では

集団教育という場では、協調性は、必要不可欠。
それはわかる。
浜松市内にあるS小学校(ゆいいつ入試を実施している小学校)の入試説明会でも、
この言葉が、まず最初に、使われる。
「当校は、教育研修校であります。
いろいろな先生が研修にやってきます。
そのため協調性のある子どもを求めます」と。

しかしその一方で、集団が苦手という子どももいるのも事実。
原因はいろいろある。
理由もいろいろある。
子ども自身の心の問題がからんでいることもある。
それはそれとして、こうした傾向は幼稚園の年中児くらいになると、
はっきりとしてくる。

そういう子どもを無理に、集団に押し込めるのも、どうか。
その子どもにとっては、苦痛以外の何ものでもない。
多くの親たちは、「うちの子が集団になじめないのは、慣れていないから」と
考える。
しかしこれは(慣れ)の問題ではない。
無理をしても意味はない。
無理をすれば、かえって逆効果。
子どもはますます集団になじめなくなってしまう。
そういうこともあって、現にアメリカでは、学校へ行かないで、
自宅で教育を受けるホームスクーラーが、1990年の終わりに100万人を超えた。
その後もどんどんとふえて、現在、200万人を超えていると推定される。

●よき家庭人

一方、欧米では、『よき家庭人づくり』が、教育の柱になっている。
アメリカでもオーストラリアでも、「Good Family Man(よき家庭人)」という。
フランスでもドイツも、そう言う。

あるいはアメリカでもオーストラリアでは、どの学校へ行っても、
「Independent」という文字がよく目につく。
「独立した」という意味である。
恩師の田丸謙二先生も、論文の中で、よく「Independent Thinker」という
言葉をよく使う。
「独創的な思考力をもった人」と、私は解釈している。

むしろ集団に背を向けて生きることこそ、大切と。
あのマーク・トゥエインもこう書いている。

『他人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるべきとき』
(トム・ソーヤ)と。

もちろん弊害がないわけではない。
オーストラリアに住む友人は、こういった。
「オーストラリアでは、大企業が育たない。
その理由のひとつが、(Independent)という言葉にある」と。

「オーストラリアの若者たちは、高校を卒業したりすると、
車一台と電話一本で、仕事を始める。
それが今、問題になっている」と。

●協調性

だからといって、協調性がなくてもよいというわけではない。
他人とのかかわりの中では、協調性なくして、円滑な人間関係を結ぶことは
できない。
しかしそれより大切なのは、「共鳴性」(EQ論)である。
それについて書くのはここでの目的ではないので、省略する。

しかし「協調性」を問題にする国というのは、そうはない。
教育の世界でも、「子どもに合わせた教育」を考える国は多いが、
「集団(国)に合わせた教育」を考えるのは、独裁国家か、それに類する
国でしかない。

つまり「社会に役立つ人間」というところから、「有用」という言葉が生まれた。
(その逆でもよいが……。)

こういう背景を忘れて、一方的に「有用」という言葉を使うのは、
危険なことでもある。
戦前の日本を見れば、それがわかる。

●結論

生き方にもいろいろあり、職業にもいろいろある。
1人の個人を見たばあいでも、いろいろな場面がある。
「有用」という言葉が生きる場面もある。
「有能」という言葉が生きる場面もある。
一方、「有用」という言葉が、ほとんど無視される場面もある。
「有能」という言葉が、ほとんど無視される場面もある。

それに「有能」といっても、それが生かされない場面もある。
せっかく有能であっても、それを認める環境が整わないと、かえって
苦しむのは、その個人ということにもなる。

が、結論として、こういうことは言える。
「有能」は、一生かかっても、その人が追求すべきテーマとなりうる。
しかし「有用」ばかり気にしていると、かえってその人は自分を
見失ってしまう
少なくとも、一生かかって追求すべきテーマではない。
ほどほどに、ということになる。

が、あえて言うなら、私たちは、有能な人がもっと認められる社会を、
もっと目指さねばならない。
今の日本の社会は、「有用」ばかりが重んじられ、「有能」が、あまりにも
無視されすぎている。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●裁判員制度

+++++++++++++++++

「法意識」という言葉がある。
簡単に言えば、「法に対する意識」ということになる。
しかし日本人ほど、法意識の希薄な国民というのは、
そうはいない。
このことは、たとえば冠婚葬祭、ひとつみただけでも
わかる。
とくに葬儀。

すべてが、ナーナーというか、いいかげん。
安易な『ダカラ論』ばかりが、優先する。
「あなたは男だから」「私は女だから」とか、
「昔から、こうだから」「世間は、こうだから」とか、
そのときどきにおいて、自分の都合のよいように、
『ダカラ論』を並べる。
法というものが、日常生活にしみ込んでいない。
法を持ち出して、合理的に考えるという習慣が
身についていない。

「法は私たちが作った」という意識も希薄だが、
「法を守る」とか、「法に従って」という意識も希薄。
日常生活は、多くのばあい、「世俗」という、別の尺度で
動いている。
それが悪いというわけではないが、法律は法律。
学問としても体系化されている。
で、こういう国民が、裁判員になったら、どうなるか。

「被告は、親の葬儀にも顔を出さなかったような
悪人であります。
しかも長男のくせに、二男に親のめんどうをみさせて
いました。
人間のクズです。
したがって刑を、2倍にするのが妥当です」と。

そんな極端なことはないにしても、日本人に人を裁くほどの
法意識が育っているかということになると、それはどうか?
私は、疑問に思う。

++++++++++++++++++

2009年5月から、刑事裁判において、いよいよ裁判員制度による
裁判が始まる。
裁判員が参加するばあい、裁判長を含む裁判官3人と、裁判員6人、計9人で
審理を行う。
裁判官と裁判員は、立場は同等。
被告人が有罪であるか、無罪であるかを評議する。
有罪であるなら、どのような量刑にするかも評議する。
もし意見が一致しないときは、多数決で結論を出す。

ただしそのばあい、つまり被告人が有罪であると決めるときには、
その中に裁判官が1人以上、含まれていなければならない。
たとえば裁判員6人が有罪、裁判官が3人が無罪というときは、被告人は
無罪となる。

が、反対のばあいは、どうなるのか。

たとえば裁判員6人が無罪、裁判官3人が有罪というときである。
このばあいは、多数決で、無罪となる。
だったら、はじめから裁判員など、不要ということになってしまう。
そのことは、私やあなた自身が、被告人になったばあいを考えてみればわかる。
法の専門家に裁かれるなら、まだ安心感(?)がある。
しかしまったくの素人に裁かれるとなると、話は別。
たとえて言うなら、病院で、医師ではなく素人によって、診断名をつけられるようなもの。

そこでもう一度、原点に立ち返ってみる。
なぜ裁判員制度が、生まれたか?
そこには、こうある。

「判例主義(=前例主義)や硬直した法解釈だけの判決を避けるため」と。
よって「司法への理解と信頼を高めるため」と。

「そうかなア?」とも思ってみたりする。
「そうでもないのではないのかア?」とも思ってみたりする。

「そうかなア?」と思うのは、たしかにそういう部分はある。
裁判官が、どういう人たちかということについては、ここには書けない。
書けないが、しかしどういう人たちかは、司法当局の人たちなら、みな知っているはず。
そういう司法当局の人たちが、「これではまずい」と感じたのかもしれない。

「そうでもないのではないのかア?」と思うのは、判決に温度差が生まれたり、
地域差が生まれたりするのではないかということ。
そのためかえって司法に疑問をもったり、不信感をもつ人がふえるのではないか
ということ。

とくに日本の刑事訴訟法は、『罪刑法定主義』という、大原則を貫いてきた。
またそれがあったからこそ、日本人は、こと刑事裁判については、絶対的な
信頼感を寄せることができた。
「人は法によってのみ裁かれ、法以外のものによって裁かれない」というのが、
それである。
その罪刑法定主義すら、揺るぎかねない。

冒頭に書いたように、たしかに日本人の法意識は、世界の人たちと比べても低い。
それはわかるが、だからといって、「裁判所へ連れてくれば、法意識が高まる」と
考えるのは、あまりにも短絡的。
さらに言えば、「法意識が高まったからといって、それがどうなのか?」という
疑問も残る。

大半の人たちにとっては、法といっても、とくに刑法は無縁のもの。
この私にしても、一応法学士だが、社会へ出てから、一度も刑法の世話になった
ことはない。
それをいきなり、一般の庶民を裁判員に仕立て、判決に加担させるとは!
もう少し(段階)というものを経るべきではなかったのか?

たとえば刑事裁判というのは、

(1)冒頭手続き
(2)証拠調べ手続き
(3)弁論手続きという、プロセスを経る。

そういう各段階で、一般の人たちを参加させるという制度でもよかったのではないのか。
冒頭手続き……たとえば、被告人から直接話を聞いたり、起訴状について不満はないかと
聞いたりする。
証拠調べ手続き……たとえば検事から証拠の内容を聞き、それを吟味したりする。
弁論手続き……たとえば被告人といっしょに、法律面での問題点を考えたり、
アドバイスしたりする、などなど。
そしてそれがある一定限度まで熟成したとき、裁判員制度に切り替えるとか、など。

もっともまずいのは、「いろいろやってはみたが、やはり、裁判員制度は廃止する」
ということになること。
その間に判決が確定した刑事犯の人たちは、どうすればよいのか。
もう一度、判決文をすべて見直すということにでもなれば、それこそたいへんなことに
なる。

最終的には、日本の裁判制度を、アメリカのような陪審員制度にもっていこうとして
いるのかもしれない。
そうならそうで、ドイツ刑法から英米刑法へと、日本の刑法(+刑事訴訟法)の
基盤そのものを変えなければならない。
が、それは、どうするのだろう?

あまりケチをつけてばかりいてはいけないので、ここはしばらく様子見ということに
する。

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3年前に書いた原稿を紹介します。

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●行列のできる法律S談所

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法律が先か、それとも法律はあとか?

法律が先に立つ世界は、まさに闇。

『行列のできる法律S談所』という
番組には、そんな基本的な認識すら
ないのでは?

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 ときどき、『行列のできる法律S談所』という番組を見る。が、あの番組を見るたびに、
「?」と思ってしまう。法律の基本そのものが、わかっていない(?)。

 昨夜(3・5)の番組では、こんなテーマが取りあげられていた。

 結婚前は美しい女性だった。が、結婚後、ガラリと妻の様子が変わった。化粧はせず、
だらしない生活。夫の返事にも、おならで答えるという。しかも新婚1月後で、である。
こういう妻のばあい、離婚はできるかどうか、と。

 いつもの番組である。で、弁護士たちが、「できる」「できない」と議論する。たしか4
人の弁護士のうち、3人は「できない」。1人は「できる」ではなかったか。

 が、この発想そのものが、基本的な部分でまちがっている。私も元、法科の学生。その
立場で、一言、意見を書いてみたい。

 法律があるから、それに人は従うのではない。とくに民法は、そうである。何かの紛争
が起きたとき、その紛争を解決手段として、法律がある。最初に法律ありきという姿勢は、
本来の法の精神に反する。仮に法律に反していても、たがいにそれで納得し、満足してい
るなら、法の出る幕はない。

 しかしあの番組では、いつも先に、法律ありき……という姿勢が目立つ。その影響だろ
うが、私の教室でも、私が何かをするたびに、「慰謝料請求するぞ」「行列のできる法律S
談所に訴えてやる」と言う子どもがふえてきた。

 たとえばその慰謝料にしても、「これこれこういうことをしたから、慰謝料が請求できる」
というのではない。「私は、精神的損害をこうむった。それをつぐなってもらうにはどうし
たらいいか」と考えたあと、法律が登場する。そこではじめて慰謝料を請求するという話
になる。

 弁護士の世界のことは知らないが、こんなことは、法学の世界では、常識。どうしてそ
ういうことをきちんと言う学者が、あの番組には、なぜ出てこないのだろう? あの番組
を見ていると、かえってまちがった法律意識を、子どもたちに植えつけてしまうことにな
りかねない。

 で、夫の会話に、おならで答える妻についてだが、「おならで答えたから、離婚事由にな
る」「ならない」という発想そのものが、ナンセンス。もっと基本的な部分はどうなのかと
いうところまで見て、はじめて、離婚の話になる。民法で定める離婚事由は、つぎのよう
になっている(民法770条、法定離婚事由)。

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夫婦の一方は、左の場合に限り、離婚の訴を提起することができる。

1、配偶者に不貞な行為があったとき。
2、配偶者から悪意で遺棄されたとき。
3、配偶者の生死が3年以上明かでないとき。
4、配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込がないとき。
5、その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。

2 裁判所は、前項第1号乃至第4号の事由があるときでも、一切の事情を考慮して婚
姻の継続を相当と認めるときは、離婚の請求を棄却することができる。

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 つまり(妻のおなら)が、5の「その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき」に
該当するかどうかということ。これについては、たとえば裁判所でも、もろもろの状況
を総合的に判断して、結論を出す。おならだけを見て、判断するということはない。

 で、そのおならで返事をする妻についてだが、すでに夫婦関係が冷え切ってしまってい
るということが考えられる。その冷え切った理由が、妻側にあるとするなら、離婚は可能
であろう。おならは、その一部にすぎない。

 が、冷え切った理由が、妻側に存在しないときは、どうか? 妻にしてみれば、ごくふ
つうの人間として、ふつうの生活をしているつもりかもしれない。化粧をしないというこ
とでも、それ自体は、何でもないこと。夫は、そのふつうの様子が理解できないだけとい
うことになる。で、このばあいは、離婚事由にはならない。むしろ夫のわがままというこ
とになる。

 どちらにせよ、ことの細部をとりあげて、「これは離婚できる」「これは離婚できない」
と論ずるのは、先にも書いたように、ナンセンス。こんな形で法が運用されたら、それこ
そ、この世界は、闇。めちゃめちゃになってしまう。弁護士にもなった人たちだから、そ
んなことは、百も承知のはずと、私は思うのだが……。

 ただ刑法のほうは、そうとばかり言えない面がある。しかし刑法においても、法は、あ
とに来るべきではないのか?

 たとえばこんな事例で考えてみよう。

 一旦停止の4つ角がある。その角の少し入ったところで、2人の婦警たちが、ミニパト
カーを止めて、見張っている。そして一旦停止しないで、4つ角に進入してきた車のドラ
イバーに対して、つぎつぎと違反キップを渡している。

 よく見かけるシーンである。

 このばあいでも、婦警たちは、まず法律ありきという姿勢で、違反者を見張っているの
がわかる。もし本当に、交通ルールをドライバーに守らせようと考えるなら、運転者がそ
の前にわかるように、一旦停止線のところに立って、見張るべきである。

 では、なぜ、一旦停止で車は止まらなければならないのか。それはルールというより、
ドライバー自身の安全のためである。相手の車に、迷惑をかけないためである。ルールは、
それを裏から、補強する。一旦停止の線が描いてなくても、一旦停止が必要と感ずれば、
ドライバーは、そこで一旦停止する。一旦停止の線がないからといって、本線に一旦停止
しないで、飛び出してよいというものではない。

で、仮にそのあたりで、何かの交通事故があったときはじめて、法律が登場する。「あな
たは一旦停止すべきだったのに、一旦停止しなかった。一旦停止して、左右の安全の確
認をすべきだった。が、それをしなかった。つまりあなたのほうに過失がある」と。

 ふつうの人が、ふつうの生活をしていれば、また、それができれば、本来、法などとい
うものは、必要ないのである。仮に、法(民法)に反していても、それで当事者たちが、
納得していれば、これまた法などというものは、必要ないのである。「配偶者の生死が3年
以上明かでないとき、離婚事由になる」という項目についても、「3年たったら、だれ
しも離婚すべき」というのではない。中には、夫の帰りを待ちながら、10年でも、2
0年でも、妻のまま待っている人だっているはず。本来、ユートピアというときの理想
世界では、そういう世界をいう。

 しかしそこで何か紛争が起きる。争いが起きる。そのときはじめて、法が前に出てくる。
それが法なのである。

 はじめに法ありきという発想が、どういうものか、これで理解してもらえただろうか。
……ということで、あの番組には、私は以前から、少し疑問に思うところがあった。あな
たも、一度、そういう視点から、あの番組を見てみるとよい。

【補足】

 法的正義とは何かといえば、それは人間が本来的にもつ良識をいう。良識ある人が、良
識ある行動をしていれば、本来、法など、いらない。不要。が、人間の世界には、良識あ
る人ばかりではない。ときとして、その良識ある人が、何かのトラブルに巻き込まれるこ
とがある。そのとき、その良識ある人を守るために、法が、前に出てくる。それが法律で
ある。

 「〜〜したら、離婚できる」「〜〜したから、慰謝料が請求できる」というように、教条
的に法を運用するのは、本来の法のあり方ではない。「良識ある妻が、夫と別れられなくて
困っています。どうしたらいいでしょう」「良識ある人が、ひどいめにあって苦しんでいま
す。どうしたらいいでしょう」という問題が提起されたとき、法的正義が発揮される。法
律が前に出てくる。

 法は、決して、悪人の味方をしてはいけない。そういう意味でも、法律を、教条的に解
釈するのは、たいへん危険なことでもある。

 繰りかえすが、ああいう番組を見て、子どもたちが、法律というのはこういうものだと、
まちがった先入観をもつのは、たいへん危険なことである。「法に触れなければ、何をして
もよい」というふうに、法を解釈するようになるかもしれない。あるいは法の抜け道をさ
がすようになるかもしれない。もし法律が、そういう形で利用されるようになったら、こ
の世の中は、どうなる。小ズルイ悪人ばかりの世界になってしまう。それを、私は、「闇」
という。

●良識ある善人を守るための法律が、良識ある善人を苦しめるための道具として機能する
とき、その世界は、闇となる。(はやし浩司)

(はやし浩司 離婚 離婚事由 離婚論 法的正義 はやし浩司 家庭教育 育児 育児
評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 裁判員制度 陪審員制度)

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ついでにもう1作……

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【Independent Thinker】 

●ひとりで考える人(Independent Thinker)

 イギリスの哲学者でもあり、文学者でもあった、バートランド・ラッセルは、「宗教論(In 
Religion)」の中でつぎのように書いている。

Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls. It involves 
no effort of independent thought, and seems rational because the teacher knows more 
than his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher unless he is a 
very exceptional man. Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later 
life. It causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established 
in that position... It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that 
there are few who can appreciate it, and that ordinary education can take no account 
of so aristocratic a good. I do not believe this. The joy of mental adventure is far 
commoner in the young than in grown mean and women. Among children it is very 
common, and grows naturally out of the period of make-believe and fancy. It is rare in 
later life because everything is done to kill it during education... The wish to preserve 
the past rather than the hope of creating the future dominates the minds of those who 
control the teaching of the young. Education should not aim at passive awareness of 
dead facts, but at an activity directed towards the world that our efforts are to create
教師の知恵をそのまま、受動的に受けいれるということは、ほとんどの少年少女に対して
は、楽なことであろう。それには、ひとりで考えるindependent thoughtという努力をほ
とんど要しない。

また教師は生徒より、ものごとをよく知っているわけだから、一見、合理的に見える。そ
れ以上に、この方法は、その教師が、とくにおかしなexceptional人でないかぎり、生徒に
とっては、教師に気に入られるための方法でもある。

しかし受動的にものごとを受けいれていくという習慣は、そのあとのその人の人生におい
て、大きな災いdisastrous oneをもたらす。その人は、リーダーを求めさせるようになる。
そしてそれがだれであれ、リーダーとして、その人を受け入れることになる。

子どもには、精神的な冒険mental adventureをする喜びなどというものは、なく、それを
理解する子どももほとんどいないし、ふつうの教育のもつ、貴族主義的なaristocratic教育
のよさが、子どもには、わからないと言う人もいるかもしれない。

しかし私は、そんなことは信じない。精神的な冒険というのは、おとなたちよりも、若い
人たちの間でのほうが、ずっとありふれたことである。幼児たちの間でさえ、ありふれた
ことである。

そしてその精神的な冒険は、幼児期の(ものを信じたり、空想したりする期間)the period 
of make-believe and fancyの中から、自然に成長する。むしろあとになればなるほど、す
べてが教育によって、これがつぶされてkillしまうので、よりまれになってしまう。

若い人たちを教育する教師たちは、どうしても、未来を想像したいと願うより、過去を保
全したいとい願いやすいdominates。子どもの教育は、死んだ事実を受動的に気がつかせ
ることpassive awareness of dead facts,ではなく、私たちの努力がつくりあげる世界に向
って、能動的に向わせることを目的としなければならないthe world that our efforts are to 
create。

バートランド・ラッセル(1872〜1970)……イギリスの哲学者でもあり、ノーベ
ル文学賞受賞者

++++++++++++++++++++はやし浩司

●精神的な冒険(mental adventure) 

 精神的な冒険……つまり、今まで経験したことがない世界に自分自身を置いてみて、そ
のときの精神的な変化を、観察する。そしてその中から、新しいものの考え方や、新しい
自分を発見していく。

 それはとても、おもしろいことである。

 新しい発見に出あうたびに、「今まで、こんなことも知らなかったか」と驚くことがある。
それが自分に関することなら、なおさらである。

 その精神的な冒険について、バートランド・ラッセルは、「教育というのは、死んだ過去
の事実を、子どもたちに気づかせることではなく、私たちが創りあげる、未来に向かって
能動的に向わせることを目的としなければならない」(Education should not aim at 
passive awareness of dead facts, but at an activity directed towards the world that our 
efforts are to create)と書いている(「In Religion」)。

 では、それを可能にする方法は、あるのか。そこでバートランド・ラッセルは、教育論
の中で、「Independent Thought」という言葉を使っている。直訳すれば、「独立した思想」
ということになる。もう少しわかりやすく言えば、「ひとりで、考えること」ということに
なる。

 少し前、恩師のT先生が指摘した、「Independent Thinker」と、同じ意味である。訳せ
ば、「ひとりで考える人」ということになる。

 ……こう書くと、「ナーンダ、そんなことか」と思う人も多いかと思う。しかしそう思う
のは待ってほしい。

 「ひとりで考える」ということは、たいへんなことである。私たちは日常生活の中で、
そのつど、いろいろなことを考えているように見える。しかしその実、何も考えていない。
脳の表面に飛来する情報を、そのつど、加工しているだけ。それはまるで、手のひらで、
頭をさすりながら、その頭の形を知るようなもの。

 ほとんどの人は、その「形」を知ることで、脳ミソの中身まで知り尽くしたと錯覚する。
しかしその実、何もわかっていない。

 それがわからなければ、北海道のスズメと、沖縄のスズメを、見比べてみることだ。そ
れぞれが、別々の行動をしているように見える。一羽のスズメとて、同じ行動をしていな
い。が、その実、(スズメ)というワクを、一歩も超えていない。

 つまり私たち人間も、それぞれが自分で考えて行動しているように見えるが、その実、(人
間)というワクを、一歩も超えていない。北海道のオバチャンも、沖縄のオバチャンも、
電車に乗ると、世間話に、うつつをぬかす。大声でキャーキャーと騒ぎながら、弁当を食
べる。

 つまりそれでは、いつまでも、Independent Thinker(ひとりで考える人)には、なれな
いということ。Independent Thinker(ひとりで考える人)になるためには、人間は、自ら、
そのワクを踏み超えなければならない。

 しかしそれは、きわめて大きな苦痛をともなうものである。北海道のスズメが、スズメ
というワクを超えて、ウグイスたちと同居を始めるとか、あるいは、自分だけ、家の軒先
に巣をつくらないで、土手の洞穴に、巣をつくるようなものである。

 人間として、それができるかどうか。それがIndependent Thinker(ひとりで考える人)
の条件ということにもなる。

 恩師のT先生は、科学(化学)研究の分野で、Independent Thinker(ひとりで考える人)
の重要性を説いている。しかしそれと同じことが、精神生活の分野でも言うことができる。
バートランド・ラッセルは、それを指摘した。

 ありふれた考え方ではない。ありふれた生き方ではない。ありふれたコースにのって、
ありふれた人生を送ることではない。そういうワクの中で生活をすることは、とても楽な
こと。しかしそのワクを超えることは、たいへんなことである。

 しかしそれをするから、人間が人間である、価値がある。人間が人間である、意味があ
る。私も含めてだが、しかしほとんどの人は、先人たちの歩んできた過去を、そのまま繰
りかえしているだけ。

 もちろん、その中身はちがうかもしれない。先日も、ある中学生(女子)に、「先生たち
も、若いころは、ある歌手に夢中になって、その歌手の歌を毎日、聞いていたよ」と言っ
た。

 するとその中学生は、笑いながら、「先生の時代の歌と、今の歌は、ちがう」と言った。

 本当に、そうだろうか。私はこう言った。「歌が何であれ、歌を聞いて感動したという事
実は、私もそうだったし、君もそうだ。私の父親もそうだったし、祖父も、そうだった。
やがて君も母親になって、子どもをもつだろう。その子どもも、同じことをするだろう。
つまり繰りかえしているだけだよ。

 もし、その繰りかえしから抜け出たいと考えるなら、そのワクから自分を解放しなけれ
ばならない。それが、Independent Thinker(ひとりで考える人)ということになるよ」と。

 しかしこれは私自身のテーマでもある。

 ふりかえってみると、私は、何もできなかった。これから先も、何もできないだろう。
私の家の近くには、仕事を退職した年金生活者がたくさん住んでいる。中には、懸命に、
自分の人生を、社会に還元しようとしている人もいるが、たいはんは、5年前、10年前
と同じ生活を繰りかえしているだけ。

 もし彼らの、その5年とか10年とかいう時代をハサミで切り取って、つないだとした
ら、そのままつながってしまう。そういう人生からは、何も、創造的なものは生まれない。

 死んだ過去に固執していてはいけない。大切なことは、未来に向かって能動的に進むこ
とである。

 ついでに、バートランド・ラッセルは、「精神的な冒険」のおもしろさについて、書いて
いる。

 私もときどきする。去年は、F市に住む女性と、精神的な不倫を実験してみた。もちろ
んその女性には、会ったことはない。声を聞いたこともない。私のほうから、お願いして、
そうした。

たった一度だったが、私に与えた衝撃は大きかった。結局、この実験は、相手の女性の
心をキズつけそうになったから、一度で終わったが、しかしそのあと、私は、自分をさ
らけ出す勇気を、自分のものにすることができた。

 だれも考えたことがない世界、だれも足を踏み入れたことがない世界。そこを進んでい
くというのは、実に、スリリングなことである。毎日が、何かの発見の連続である。そし
てそのつど、さらにその先に、目には見えないが、モヤのかかった大原野があることを知
る。

 はからずも、学生時代、私の神様のように信奉した、バートランド・ラッセル。そして
そのあと、性懲りもなく、私のような人間を指導してくれている恩師のT先生。同時に、
Independent Thinker(ひとりで考える人)という言葉を、再認識させてくれた。私はそこ
に何か、目には見えない糸で結ばれた、因縁のようなものを感じた。

 そう、そういう意味では、今日は、私にとっては、記念すべき日になった。

(はやし浩司 Independent Thinker(ひとりで考える人))

++++++++++++++++++++

ところで京都府に住んでいる、SEという方から、
こんなメールが届いています。

「考える」ことについて、最近の大学生
たちの姿勢を、このメールから読みとって
いただければ、うれしいです。

++++++++++++++++++++
 
はやし先生

先日、T先生のご論文を配信いただきましてから、自分で考える教育と
大学教育について、しばらく考えておりました。考えているうちに、いささか
愚痴めいてまいりました。限界はありながらも、その中で自分の最善を尽く
さねばと思うのですが、はやし先生はいかが、思われますでしょうか。

大学教育の現場では以前から、自分で考える力の不足と基礎概念の
理解の不足が問題とされています。

詰め込み教育の弊害と言った場合、「基礎概念は入っているが、それを操作
できない状態」を言うようなイメージがありますが、現場からは、

(1)基礎概念が入っており、その操作もできる学生
(2)基礎概念は入っているが、その操作はできない学生
(3)基礎概念の理解が不十分な学生。ひどい場合には、専門用語を単語
 として知っているだけ
(4)専門用語を全く知らない学生(学習意欲に、何がしかの問題がある)
と、いくつかの場合が、がみられます(もっと細かくできるかもしれませんが)。

(4)に関しては、「受験競争」を中心に据えられた日本の教育制度の弊害も
現れているのではないかと思われますが、

(1)から(3)に関しては、自分で考える力にも相当の段階があって、
基礎概念の定着においても、自分で考える力が大きな役割を演じている
ということが言えるように思います。(概念の論理を自分で追わないといけない
からだろうと思われます)。

大学側も、対話による授業というものを推奨するようになってきましたが、
基礎概念までも対話で教えろと言うに至っては、なにやらゆとり
教育や総合的学習を想起せざるものがあります。

そこで、大学教育において、何ができるのかですが、何より大切なのは、
T先生がお書きのように、教師が自分で考える姿勢を見せるという
ことなのだと思います。

「考える教育」への転換をゼミだけで行なうのはやはり限界があるようです。

かといって現状の大学を前提にする限り、大講義では学生との応答を主にする
のは不可能ですから、教師の見解を明確に示し、考えることの重要性を絶えず
発信するにとどまるのかもしれません。大学だけで何とかできると考えるのは
傲慢ですから、限界を認めざるを得ないのかもしれませんね。

基礎知識の重要性を軽視するわけではありませんが、基礎概念の理解にも関って
来るわけですから、「考える」ということの意義をもっと早くから教えるべきで
はないのかと、切に感じます。

いささか愚痴めいて参りました。
現在新学期の講義の準備をしているのですが、どうしたら「考えさせる」ことができるか、
考えながら準備をしております。

素直な学生たちなので、できるだけのことをしてあげたいと思います。

++++++++++++++++++++++

【SE様へ】

 実は、私も、法科の出身です。教壇に立っておられるSEさんの話を聞きながら、「私も
そうだったのかなあ?」と、当時を思い出しています。

 とくに法学の世界では、基礎概念の「移植」が、絶対的なテーマになっていますから、
そもそも独創的な考え方が許されないのですね。「構成要件の該当性」とか、何とか、そん
な話ばかりでしたから……。

 ですからSEさんの、悩んでおられることは、もっともなことだと思います。

 しかし、ね、私、オーストラリアにいたとき、東大から来ていたM教授(刑法の神様と
言われてしました)とずっと、いっしょに、行動していました。奥さんも、弁護士をして
いました。

 たいへん人格的にも、高邁な方でしたが、私はその教授と行動をともにするうちに、法
学への興味を、ゼロに近いほど、なくしてしまいました。

 もともと理科系の頭脳をもっていましたから……。何となく無理をして、法学の世界へ
入っただけ……という感じでした。それで余計に早く、法学の世界を抜け出てしまったと
いうわけです。

 そのM教授ですが、本当に、まじめというか、本当に、研究一筋というか、私とはまっ
たく、タイプがちがっていました。そういうM教授のもとで、資料を整理したりしながら、
「私はとても、M教授のようには、なれない」と実感しました。

 で、M教授のことを、恩師のT先生も、よく知っていて、ずっとあとになって、その話
をT先生にすると、「そうでしょうねえ。あの先生は、そういう方ですから」と笑っていま
した。学部はちがっても、教授どうしは、教授どうしで、集まることもあるのだそうです。

 話をもどしますが、SEさんが、言っていることで、興味深いと思ったのは、こうした
傾向というのは、すでに高校生、さらには、中学生にも見られるということです。

 たとえば中学生たちは、成績に応じて、進学高校を決めていきます。そして高校生の8
0〜90%前後は、「入れる大学の、入れる学部」という視点で、大学を選び、進学してい
きます。夢や目標は、とうの昔に捨てているわけです。

 もちろん希望も、ない。

 だから大学へ入っても、法学の世界でいえば、法曹(検事、弁護士、裁判官)になりた
いという学生もいますが、大半は、ずっとランクの下の資格試験をねらう。いわんや、純
粋法学をめざして、研究生活に入る学生は、もっと少ない(?)。

 このあたりの事情は、SEさんのほうが、よくご存知かと思います。

 つまりですね、もともと、その意欲がないのです。「学ぶ」という意欲が、です。ただ私
のばあいは、商社マンになって、外国へ出るという、大きな目標がありました。(当時は、
外国へ出るというだけでも、夢になるような時代でした。今では、考えられないと思いま
すが……。)

 そのための法学であり、成績だったわけです。おかげで、「優」の数だけは、学部で二番
目。行政訴訟法だけ落としてしまい、司法試験をあきらめた経緯もあります。成績はよか
ったから、I藤忠と、M物産に入社が内定しました。そのあと、オーストラリアとインド
の国費留学生試験にも合格しました。

 (結果として、オーストラリアのM大へ留学し、そのあとM物産に入社しました。)

 まあ、自分としては、オリンピック選手まではいかないにしても、国体選手のような活
躍をした時代だったと思います。

 が、何しろ、法学を選んだのが、まちがいでした。私は、子どものころから大工になり
たかった。大学にしても、工学部の建築学科に進みたかった。そういう男が、法学ですか
ら、役割混乱もいいところです。もうメチャメチャでした。

 ですからSEさんのメールを読みながら、私はそういう意味では、器用な男でしたから、
のタイプかもしれませんが、こと法学に関しては、自分で考えるという姿勢は、ま
ったくなかったと思います。

 私にとっては、法学というのは、方程式のようなもので、無数の定義をくっつけながら、
結論(解)を出していく……。それが私にとっての法学だったような気がします。(ご存知
のように、勝手な解釈をすること自体、法学の世界では許されませんから……。)

テレビ番組の「行列のできる法律相談所」を見ながら、今になって、「結構、おもしろい
世界だったんだなあ」と感心しているほどです。)

 ただSEさんが、ご指摘のように、対話形式の講義というのは、英米法の講義では、ふ
つうだったように思います。教授が、あれこれと質問をしてきます。質問の嵐です。よく
覚えているのは、こんな質問があったことです。

 「カトリック教会の牧師たちは、小便のあと、3度までは、アレ(Dick)を振って
もよいそうだが、4度はダメだという。それについて、君は、どう思うか」とか、など。

 そういうところから(教条)→(ルール)→(法)へと、学生を誘導していくのですね。
ハハハと笑っている間に、講義だけはどんどんと進んでいく。

 また日本の法学の講義とはちがうなと感じたのは、それぞれの教授が、ほとんど、法学
の話などしなかったこと。(私の英語力にも限界がありましたが……。)「貧困」だとか、「公
害」とか、そんな話ばかりしていたような気がします。

 日本の短期出張(=単身赴任)が、話題になったこともあります。つまり基礎法学は、
自分で勉強しろという姿勢なのですね。学生たちは、カレッジへもどり、そこで先輩たち
から講義を受けていました。

 自分のことばかり書いてすみません。何かの参考になればと思い、書きました。

 以上のことを考えていくと、結局は、結論は、またもとにもどってしまいます。T先生
は、つぎのように書いています。

「日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制が、なぜ必要
なのだろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教え
ることはもちろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに
応じて先生が好きなように教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせ
てもっともっと元気が出るし、化石化してしまった現在の化学が生き返る」と。

 つまりは教育の自由化、ですね。子どもたちがおとなになるためのコースを、複線化、
複々線化する。ドイツやイタリアでしていることが、どうして、この日本では、できない
のでしょうか。

このがんじがらめになったクサリを解かないかぎり、SEさんの問題も含めて、日本の
教育には、明日はないということではないでしょうか。

 返事になったような、ならないような、おかしな返事になってしまいましたが、どうか、
お許しください。

 今日はワイフが風邪気味で、ひとりで5キロ散歩+自転車で7キロを走りました。その
あと、昼寝。夕方になって、頭が少しさえてきました。頭のコンディションを保つだけで
も、たいへんです。ますます使い物にならなくなってきたような感じです。

 
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「ぼくはいいけど、女房のヤツがア……」

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ずるい言い方がこれ。
「ぼくはいいけど、女房がヤツがア、何と言うか……」と。
自分以外の人に責任をかぶせて、自分だけいい人間でいようとする。
そういう言い方をしながら、自分の思い通りに、ことを運ぼうとする。

たとえばこんなふうに、使う。

「おたくの空き地を、使わせていただけませんか?」
「いいですよ」
「代金はいくらほどにすればいいですか?」
「ぼくはお金はいらないけど、女房のヤツがねエ……。あとで連絡しますよ」と。

+++++++++++++++++++++

最近、K国からの脱北者が、覆面インタビューに応じた※。
K国の工作員幹部だったという。
そういう人が脱北し、そうしたインタビューに応ずること自体、異例中の異例という。
その脱北者が、こんなような発言をしている(要約)。

「北には、穏健派も強硬派もない。
金xxが全権を完全に握っている。
(穏健派とか強硬派がいるというのは、見せ
かけにすぎない)」と。

具体的には、各「部」には、日本の「大臣」にあたる「部長」が
いないという。
すべての部長(つまり大臣)は、金xxが兼務している。

この発言でひとつの謎が解けた。
ごく最近まで、6か国協議の席などで、K国の代表は、よくこんな発言をしていた。
「軍部(=強硬派)が、それでは納得しないだろう」
「外交部と軍部は、意見が対立している」とか、など。

あたかもK国内部では、穏健派(外交部)と、強硬派(軍部)が対立している
かのような印象を、まわりの人たちに与えていた。
その言葉に、アメリカも含めて、他の4か国が振り回された。
しかしそれは(まやかし)に過ぎなかった?

何か自分に都合の悪いことがあると、軍部の責任にする。
「外交部はそれでいいとしても、軍部が何と言いますかねエ〜」と。
そして相手の同情を買いながら、自分たちの思惑通りに、相手を誘導しよう
とする。
つまり他の5か国は、まんまとK国に、してやられた。
恐らく、アメリカの国務次官のC・ヒル氏にしてもそうだろう。
サンプル採取の口頭での約束は、あったかもしれない。
しかし土壇場の本会議では、それがあっさりと否定されてしまった。
いくら親北派のC・ヒル氏にしても、かなり頭にきたにちがいない。
が、そのときK国の代表の金は、C・ヒル氏にこう言ったにちがいない。
(これは私の憶測だが……。)
「私はいいと思って、あのように言いましたが、軍部が強硬で、困っています。
それでNOということになりました」と。

……ということで、元来気が小さく、卑怯(ひきょう)な人ほど、
似たような言い方を多用する。
「私はいいのですが、主人が何と言いますか……」とか、
「私は構わないのですが、近所の人たちが、ね」とか、など。

こんな例もある。
ある母親がこう言った。
「私はどこの高校でもいいと思っているのですが、息子はどうしてもA高校へ
入りたいと言っています。
何とか息子の希望をかなえさせてやりたいのです」と。
そこでその息子に話を聞くと、その息子(中3男子)は、こう言った。
「ぼくは、どこの高校でもいいんだけど、ママがどうしてもA高校にしろって
言っている」と。

問題は、こうした言い方をされたとき、私たちはどうそれに答えたよいのか
ということ。

私のワイフは、これについて、こう言った。
「そういうときは、『ああそう』という言い方しかできないわね」と。

私も相手が、それなりのおとななら、そう言うだろう。
しかし相手が生徒のばあいは、すかさず、たしなめるようにしている。
「君の考えは、どうなんだ。
どういうふうに考えているんだ。
はっきりとそれを言えばいい。
そういうズルい言い方をしてはいけない」と。

6か国協議についていえば、もしK国の代表が、そう言ったら、
こう切り返したらよい。
「だったら、会議の席に、軍部の代表を連れてきなさい」と。

どうであるにせよ、C・ヒル氏は、6か国協議を、形骸化してしまった。
6か国協議を、ただの米朝会議の追認の場にしてしまった。
「話しあうのは、アメリカとK国。
K国を援助するのは、君たち」と。

しかし……。
K国の狡猾(こうかつ)さに、今ごろ気がついても遅い!
5年4か月という、月日はもう、戻ってこない。
この間に、K国は、核兵器開発を、かなりのレベルにまで進めたはず。
その責任は、だれが、どう取るつもりなのか。
……とまあ、話が脱線したので、この話は、ここまで。

(注※、産経新聞より)

「金xx独裁の権力には特徴がある。1つはサイン(署名)統治だ。北のすべての人事や
活動は組織指導部に提議書としてあげられ、批准を受けなければならず、金正日のサイン
がすべての権力を握っている。第2には主要部署の部長(大臣に相当)はすべて空席だ。
組織指導部、宣伝扇動部、統一戦線事業部、党軍事部、国家保衛部などだ。これらの核心
部署は金正日が部長を兼任、権力を統制、掌握している。韓国や日本では《K国の穏健派
と強硬派が対立している》などの報道があるが、ありえない。北朝鮮は社会主義の形式は
取っているが、徹底した個人独裁で争うことは絶対にできない」(産経新聞・08・12.
12)より。

発言したのは、「K国の朝鮮労働党の対南工作機関「統一戦線部」出身で現在、韓国の情報
機関、国家情報院傘下の研究機関でK国分析を担当する張哲賢氏」(同)とのこと。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●余裕のない人

+++++++++++++++++

余裕のない人の心は、いつも緊張状態にある。
表面的な笑顔や表情にだまされてはいけない。
心の状態をみる。
心の状態をみて、判断する。

++++++++++++++++++++

●心の緊張状態

ふつう「情緒不安」というときは、「心の緊張感がとれない状態」をいう。
緊張しているから、そこへ不安や心配ごとが入ってくると、一気に
心は不安定になる。
それが時とばあいに応じて、爆発する。
激怒したり、興奮したり、取り乱したりする。
錯乱状態になる人もいる。

子どもも、また同じ。

学校で何かいやなことがあったりすると、子どもはその緊張状態を
そのまま家に持ち込む。
ささいなことでキレたり、興奮状態になったりする。
そういうときは、表面的な部分だけをみて、子どもを叱ったりしてはいけない。
子どもの心の状態をみる。
心の状態をみて判断し、指導する。

緊張状態になっていると、どこかピリピリとした、トゲトゲしさを感ずる。
それを感じたら、要注意。
方法としては、ひとり、ぼんやりと過ごせる時間と場所を用意する。
あとは、Ca、Mg、Kの多い、食生活に心がける。
わかりやすく言えば、海産物中心の献立に切り替える。
一方で、白砂糖の多い食生活、リン酸食品などは、避ける。
一時的に白砂糖の多い食品を食べると、同時にインシュリンが大量に
分泌され、しばらく時間がたつと、結果的に子どもは、低血糖状態になる。
インシュリンが必要以上に、糖質を分解するためである。
そのため興奮しやすくなったりする。
(ちょっとしたことで、キーキーと金きり声をあげる子どもは、
まずこの低血糖を疑ってみる。)

またリン酸は、体内のカルシウムと結合して、リン酸カルシウムとなる。
リン酸カルシウムは尿として、排泄される。
せっかく摂取したカルシウムが、無駄になってしまう。

これはあくまでも参考的意見だが、こんな知人もいる。
その人(40歳くらい)は、何かのことでイライラしたら、
カルシウムの錠剤をバリバリと口の中で割って食べているという。
戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として、医師によって処方されて
いたという。
(子どもに与えるときは、量に注意すること。)

私たちおとなも、ふとしたきっかけで、よく心が緊張状態になる。
が、少し注意すると、自分でもそれがわかるようになる。
「今日はあぶないぞ」とか、「きょうはだいじょうぶ」とか。
こうして自分をコントロールする。

そこで私が自分に言って聞かせている教訓。

(1)心が緊張しているときは、結論を出さない。
(2)心が緊張しているときは、いやな人とは話をしない。
(3)心が緊張しているときは、判断をワイフに任す。
(4)心が緊張しているときは、じっと嵐が過ぎ去るのを待つ。

私のばあいは、ハーブ系の安定剤が、たいへん効果的。
薬局で売っている市販のものを、常用している。

●心に余裕がない人

余裕のない人の心は、いつも緊張状態にある。
表面的な笑顔や表情にだまされてはいけない。
心の状態をみる。
心の状態をみて、判断する。

このタイプの人は、いつもセカセカとして、落ち着きがない。
ちょっとした会話にも、過剰に反応したりする。
こちらの話を半分も聞かないうちから、反論してきたりする。
それだけ心の中が緊張しているとみる。

いつも神経を周囲に張りめぐらせているといった感じ。
あたりを気にしている。
つまりその分だけ余裕がない。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 1月 12日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの気力

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最近の研究によれば、生命の根源、つまり(生きる
力)の根源は、どうやら脳の中枢部にある、視床下部
というところにあることがわかってきた(アメリカ・
サイエンス誌)。

そこから脳みそ全体に、強力なシグナルが発せられ、
それが脳みそ全体の活動の根源、しいては人間の
生命活動の根源になっている(?)。

+++++++++++++++++++++++

「強力なシグナル」と書いたが、当然、個人差がある。
シグナルの強い人もいれば、弱い人もいる。
そう考えてよいことは、特別養護老人ホームにいる
老人たちを見ればわかる。

先日も久しぶりに、母がいたホームを訪れてみたが、
その中に1人、こんな女性がいる。
年齢は今年95歳になるという。
母が1年半前に入居したときもそうだったが、そのときも、
大きな声で、看護士や介護士さんたちに向かって、こう言って
叫んでいた。
「飯(めし)は、まだかア!」
「わっち(私)は、何も食べておらんぞ!」と。

大半の女性たちは、(そこは女性専用のフロアなので)、
ぼんやりとした表情のまま、時間をつぶしている。
何割かの女性は、大きな車椅子に横になったまま、鼻からチューブを
通して、一日中、眠っている。
そういう中なので、よけいにその女性が目立つ。

恐らく視床下部からの指令を受けて、ドーパミンが大量に分泌され、
それが線条体という組織を刺激しているのだろう。
性欲、食欲など、人間の欲望は、こうして生まれる。

おなじ高齢者なのに、たとえば私の母もそうだったが、
自分の意思をはっきりと持っている人もいれば、そうでない人もいる。
このちがいこそが、シグナルの強弱ということになる。

私という素人が考えた仮説なので、あまりあてにはならないが、
しかしそう考えると、子どもの世界がよく理解できる。

たとえば親の過干渉、あるいは過関心などで精神活動そのものが、
萎縮してしまった子どもがいる。
「萎縮児」とも呼ばれる。
覇気(はき)がなく、おとなしく、静か。
自我の核形成も遅れ、つかみどころがない。
何を考え、何をしたいのかも、よくわからない。
一見、従順で、人なつっこい。
好奇心も弱く、遊びといっても、ごく限られた範囲で、
同じことしかしない。
一部が萎縮しているというよりは、人格全体が萎縮している。

あるいは何らかの原因で燃え尽きてしまった子どもや、
荷をおろしたように無気力になってしまった子どもでもよい。

そういった子どもを見ていると、脳の中枢部、つまり視床下部
あたりから出るシグナルが、弱いのではないかと考えてしまう。
このばあいは、親の過干渉、過関心などで、脳の機能そのものが、
変調したと考えられる。
(本当にそうであるかどうかは、わからないが……。)

つまり私たちが俗に言う、「気力」というのは、そういうものでは
ないか。
「やる気」と言い換えてもよい。

先の女性でいえば、95歳という高齢にもかかわらず、食欲だけは、
異常に旺盛。
それが好ましいことかどうかという判断は別にするとして、視床下部
あたりから出るシグナルが、人一倍強いことだけは、確か。
それがその女性の(生きる力)の根源になっている。
だからまわりの看護士や介護士さんたちは、みな、こう言う。
「こういう人は、100歳まで生きますよ」と。

実は私の母も、今年(08年)の2月ごろまでは、その女性に、
勝るとも劣らないほどの生命力をもっていた。
一個の茶菓子を取り合って、テーブルの向かい側に座っている
別の女性と、ものを投げ合って喧嘩までしていた。
が、2月ごろ、脳梗塞を起こした。
そのあと、別人のように、静かで穏やかになってしまった。
私が見たところ、生命力そのものが、その日を境に、しぼんで
しまったかのように感ずる。

こうしたことから、私たちがいうところの(気力)というのは、
脳の奥深くにある根源的な部分から生まれると考えてよい。
視床下部から発せられるシグナルならシグナルでもよい。
そのシグナルが、やがて(気力)につながっていく(?)。
(そうでないかもしれないが、ここでは、そうであるという
仮定の上で、話を進める。)
そのシグナルが強い人は、あらゆる面で旺盛な気力を示し、そうでない
人は、そうでない。

では、どうすればよいのか。

こと子どもに関していえば、子どもというのは、あるべき環境の
中で、あるべきように育てれば、自然とそういう力を発揮する。
DNAのレベルで、そのようにプログラムされている。

が、ここでいう気力にしても、それをつぶすのは、簡単。
ガミガミ、ガンガンと、子どもを叱りつづければよい。
ついでに親の気分で、罵声を浴びせたり、暴力を振るったりすればよい。
無視、冷淡、育児拒否などがあれば、さらに効果的。
子どもは、確実に萎縮する。
動作そのものが、緩慢になることもある。
(あるいは同じような家庭環境であるにもかかわらず、反対に粗放化する子どももいる。
親の過干渉、過関心に抑えられてしまった子どもが萎縮児、
それに反発し、やり返した子どもが粗放児と考えるとわかりやすい。
同じような環境であるにもかかわらず、兄が萎縮し、弟が粗放化する
というケースは、多い。)

わかりやすく言えば、(気力)を奪うのは、環境ということになる。
とくに親の接し方ということになる。
だから英語では、「教育」を、「education<educe(引き出す)」という。
つまり能力は、すべての子どもが平等にもっている。
あとはそれを(引き出すか、つぶすか)、そのちがいによって、
子どもは伸びたり、反対に萎縮したりする。
それが教育ということになる。

なおここで「脳の機能が変調した」という言葉を使った。
これは私が使い始めた言葉だが、ひとつの例として、夜尿症(おねしょ)
がある。
本来なら睡眠中は、脳の命令によって腎臓での尿の生産が抑制される。
が、脳の機能が変調すると、その抑制に乱れが生ずる。
最近では、それが夜尿症の原因と考えられている。
だから夜尿症にしても、ここに書いた子どもの気力にしても、
(しつけ)によって、どうこうなるような問題ではない。
いわんや叱ったり、説教したりして、なおるような問題ではない。
(心の問題)というより、(大脳生理学の問題)。
そういう前提で、こうした問題を考える。

ずいぶんと荒っぽい書き方をしてしまったが、大筋ではそれほど
まちがっていないと思う。
大切なことは、無理や強制などで、子どものやる気を奪ってしまわないこと。
一度幼児期に萎縮させてしまうと、その後遺症は一生つづくと言っても
過言ではない。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
子どもの気力 子供の気力 子どものやる気 子供のやる気 視床下部 ドーパミン
ドーパミン効果 夜尿症 おねしょ 萎縮する子供 萎縮児 緩慢動作 緩慢行動)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【過去の奴隷たち】

++++++++++++++++++++

全国あちこちに、「ゴミ屋敷」と呼ばれる
家がある。
家の内外、ゴミだらけ。
マスコミでも、ときどき話題になる。
が、ゴミの多い家は少なくない。
家の外には少なくても、家の中はゴミだらけ
という家もある。
あるいは部屋の中がゴミだらけという家もある。

要するに何をゴミにするかということ。
そのモノによって、家の外にもゴミがあふれる
ということにもなる。

たとえば衣服を中心に集める人は、家の中を
衣服でいっぱいにする。
古くて使えそうもないような衣服まで、
そこにある。
以前、破れたズボンまで、たたんでしまっている人もいた。

人それぞれだが、とにかくゴミはゴミ。

+++++++++++++++++++

●肛門期

乳幼児はいくつかの原始的な心理発達段階を経て、少年、少女期へと移行していく。
そのひとつが、「肛門期」。
便をためる快感、便を排出する快感、その2つの快感を同時に経験する(フロイト)。
その「ためる」「捨てる」部分が、未成熟のままおとなになると、
異常なケチになったり、冒頭に書いたように、「捨てられない人」になる。
あるいは時には、見境なく高価なモノを買って、安心したりする。

数年前だが、ある人の家に寄ったとき、私は心底驚いた。
かなり大きな家だったが、玄関先からモノがいっぱい。
1間幅(1・8メートル)の玄関だったが、体を横にしないと、中へは
入れなかった。
モノ、モノ、モノ……。
その向こうにも、モノ、モノ、モノ……。
天井からも、衣服類が、ところ狭しと、吊りさげられていた。

しばらく待っていると、中から人が出てきたが、その人自身も、モノと
モノの間に足を入れながら歩いてやってきた。
ふつうなら、(こういうケースのばあい、「ふつう」という言い方をするのは、
たいへん危険だが……)、使わないもの、価値のないもの、古いものは、
どんどんと捨てる。
が、このタイプの人は、それができない。
いろいろなケースがある。
私が実際見たケースを書いてみる。

(ケース1)
たんすや戸棚には、衣服がぎっしりと詰まっている。
亡くなった祖父母の着物類から、息子や娘が子ども時代に使っていた
衣服類まで。
その人(女性、60歳くらい)のばあいは、そういった衣服をきちんと
箱に入れて、しまっていた。
そして暇なときは、それを出したり、入れたり……。
それだけを毎日のように、繰り返していた。
ときに箱からつぎつぎと出し、足の踏み場もないほどになったりすることもある。

(ケース2)
そういう関係の仕事をしていたこともあり、不用品として出されたものの
中から、まだ使えそうなものを見つけると、片っ端から自分の家の中に
持ち込んでいた。
その人は男性(50歳くらい)で、独身だったが、女性の美容器具まで、
その中には含まれていた。
部屋という部屋には、モノがいっぱい。
そのため窓までモノでふさがってしまい、昼間でも、電気をつけなければ、
部屋から部屋へと歩けないような状態だった。

(ケース3)
自分の趣味のものを買い集めたりしていた。
中古でも、値段が安いと買い集めていた。
その男性(30歳くらい)は、同じものでも、自分が気に入ったものは、
つぎつぎと買い足していた。
部屋の中はモノであふれかえっていたが、部屋のある部分だけを使うため、
その部分の畳は擦り切れて、穴があいていた。
掃除などしたことがないといったふうだった。

ほかにもテレビなどにもよく紹介される人がいる。
たいていは家の外にまでモノがあふれ、ときに近隣の人たちに迷惑を
かける。
社会問題になる。

原因としては、フロイト学説に従えば、乳幼児期における「肛門期」に
問題があったということになる。
この時期に、何らかの原因があって、(たいていは、愛情問題と考えてよい)、
精神的に未発達のまま、おとになになったと考えられる。
たとえば異常にケチな人というのは、その時期に問題があったとみる。
よくあるケースは、下の子ども(弟や妹)が生まれたことにより、
愛情飢餓の状態に置かれるなど。
生活態度そのものも、防衛的になる。

ただ驚くべきことに(ホント!)、冒頭にあげた玄関先にまでモノを置く人にしても、
(ケース1、2、3)の人たちにしても、みな、それぞれ、会って話してみると、
ごくふつうの人であったということ。

ふつうのサラリーマンであったり、通りであえば、こぎれいでサッパリと
した人たちであったりした。
そういう様子だけを見ていると、だれも家の中がそういう状態になっている
とは思わないだろう。
またそういう話をしても、だれも信じないだろう。
つまりはそういうタイプの人たちであった。

●捨てる美学

ガランと何もない部屋。
その居心地のよさは、それを知っている人は、知っている。
それを知っているから、モノを買わない。
不要になったら、すぐ処分する。
が、それができない人は、できない。
それこそ道路に捨ててあるゴミまで拾って、もってきたりする。
そのちがいは、どこからどう生まれるのか?

そこでよく観察してみると、捨てる人も、捨てられない人も、
まさに『チリも積もれば……』という状態で、そうなることがわかる。
ある日、突然、ゴミ屋敷になるわけではない。
仮に、古い衣服を、1週間に1着、部屋のどこかに吊りさげたとする。
1年では、それが50着になる。
10年では、500着になる。
20年では、1000着になる。
こうしていつの間にか、その部屋は衣服で埋まってしまう。
ゴミにしても、そうである。

一方、部屋の中がガランとしている人もそうである。
(ただし潔癖症の人は、別。)
いつも何かを、無意識のまま処分している。
その前に、モノをあまり買わない。

一般論で言えば、戦前から戦後に生まれた人たちは、モノに対して、
独特の執着心をもっている。
モノ=財産という考え方をする。
貧しい時代の遺物と考えてよい。
そのため(まだ使えそうなもの)、(いつか使うかもしれないという
可能性のあるもの)があったりすると、それを捨てることができない。
さらにそれが高じたりすると、同じものがあっても、捨てることができない。
そのため同じものが、いくつもになったりする。

そこで「捨てる美学」。

●捨てる美学

実は私は今年の秋、実兄と実母を、つづいて亡くした。
で、実家は、だれも住んでいない。
そのあと始末にときどき実家へ帰っているが、これが結構、たいへん。
「たいへん」というのは、小さなモノならまだしも、大きなたんすなどの
家具類の始末がたいへん。
母や兄が大切にしていたものだから、それなりに保存しておいてやりたい。
しかしそういったものを、私の家に持ち込むことはできない。
それこそ足の踏み場もなくなってしまう。
しかしそこは心を鬼にするしかない。

捨てるものは、思い切って捨てる。
それがここでいう『捨てる美学』ということになる。
これは私の息子たちに迷惑をかけないためでもある。
が、誤解しないでほしいのは、捨てるのが美学というのではない。
捨てることによって、身辺がスッキリする(=clearになる)。
結果として、気持ちよく家を使うことができる。
それが『美学』ということになる。

●心の病気

こうして考えてみると、モノを捨てられない、モノをためこむという人は、
心に何らかの病気があるとみてよいのではないか。
(もちろん当人たちは、否定し、それに猛反発するだろうが……。)
しかし常識で考えて、ある一線を超えている人は、そうであると考えてよいのでは?

素人の私がこう書くのは、たいへん危険なことは承知している。
しかしふつうの心理状態でないことだけは、確か。
だから今、モノをつぎつぎと買い込んだり、集めたりしている人は、一度、自分自身の
心の中をのぞいてみるとよい。

フロイト理論で考えるなら、年齢的には、2〜4歳前後に、心に影響を与える
ような何らかの大きな事件が、日常的につづいたということになる。
親の無視、冷淡、虐待、育児放棄など。
家庭騒動や離婚問題(離婚が問題と言っているのではない。離婚に至る
騒動が問題と言っている。誤解のないように!)、さらには赤ちゃん返りも
その中に含まれる。

そういう問題が、心をふさぎ、精神の発達を阻害した?
病気と言えるような病気ではなかったかもしれないが、それがおとなになっても、
尾を引いている?

もちろんこの日本では、他人に迷惑さえかけなければ、一応、何をしても
よいということになっている。
それがその人の家であれば、モノで足の踏み場がなくても、それはその人の
勝手。
その人がそれでよい、あるいは住み心地がよいと言うのであれば、それでよい。
他人である私がとやかく言う問題ではない。

というのも、私たち自身も、いろいろな形で、乳幼児期という(過去)を
引きずっている。
私も引きずっているし、あなたも引きずっている。
心の世界では、「正常」とか、「正常な人」という言葉は存在しない。
その定義すら、ない。
ただ大切なことは、いつかどこかで、自分でそれに気がつくということ。
そのために一度は、自分の心の中をのぞいてみるということ。

そういう意味でも、自分を知るということは、難しい。
本当に難しい。

たとえば私の知人の中には、異常なまでにケチな人がいる。
どうケチであるかを説明しても、説明しきれない。
たとえばコンドームでも、何度も洗って使っている。
そういうケチである。

そういう人でも、一度自分の過去をのぞいてみたら、もう少しは
自分の姿を客観的にとらえることができるようになるかもしれない。
そしてそれができれば、自分で自分をコントロールできるように
なるかもしれない。

まずいのは、そういう過去があることも知らず、(あるいは気づかず)、
いつまでもその過去に引きずり回されること。
しかしそれは同時に、自分であって自分でないものに支配されることを
意味する。
言うなれば(過去の奴隷)?
もしそうであるなら、いつまでたっても、真の自由を手にすることはできない。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
はやし浩司 心の奴隷 ゴミ屋敷 ごみ屋敷 ゴミを捨てられない人)

(補記)

ときどき異常なほどまでに、小銭にケチな人がいる。
年齢には関係ない。
「ぼくにはお金がないから……」を、いつも口癖にする。
実際には、1円も払わない。
それでいて財産がないかというと、そうでもない。
結構な遺産を引き継いでいたり、あるいは、市からの補償金を
手に入れたりしている。

そういう人に共通する特徴をあげてみると、まず気がつくのは、
「損になることは、何もしない」という生活態度。
具体的にはボランティア活動のようなことは、いっさいしない。
(中にそれらしきする人もいるが、あくまでも他人の目を意識して、
そうするに過ぎない。)

そこで大切なのが、『損の美学』。
人は、損をすることで、成長する。
心を広くすることができる。
が、それだけではない。
モノ、マネーに対する執着心を消すことができる。
それはすがすがしく、この世を生きるための鉄則でもある。

ただし同じ(損)でも、欲得がからんだ損は、意味がない。
たとえば債券投資で損をしたとか、株の売買で損をしたとかなど。
他人にだまされた損も、含まれる。

ここでいう「損」とは、自己犠牲を伴う損をいう。
たとえばボランティア活動が、それに当たる。
が、欲得がからんだ「損」は、その人をますますケチにする。

無私、無益で損を重ねる。
それが損ともわからないほどまで、損を重ねる。
私がいう『損の美学』というのは、それをいう。

(参考)

ウィキペディア百科事典より、抜粋。

***********以下、ウィキペディア百科事典より*************

フロイトによれば、この時期の小児性欲の中心は肛門である。子供は排便を意識し、コン
トロールの方法を教えられ、適切なときと場所でトイレに行くという「トイレットトレー
ニング(排泄訓練)」が可能になる。時期については諸説あるがおおむね2歳から4歳頃ま
でとされる。この時期の子供には自己中心的、情動的な傾向が強い。そのため自分の欲求
を即座に満たそうとする場合がままある。排泄という肉体的反応を適切に行なえるように
なることで、そうした情動的な性格に対し何らかの影響があるとされる。

この時期の子供に対して親は規則正しく衛生的に排便するように励ますことが求められる。
そうした親からの働きかけが社会的圧力となり、適切な排泄行為をしなければならない、
という抑圧とそれが達成できたときの達成感や充実感を得る。また排便のタイミングを自
分で判断することにより、自信と「ものをあきらめる能力」が発達し、子どもは自律のた
めの重要な一歩を踏み出す。ただし、子供をトイレに無理矢理いかせたり、過度にタイミ
ングや清潔さに厳しすぎると、子供のパーソナリティにさまざまな問題を生じる可能性が
あるともされる(後述の肛門的固着参照)。

+++++++++++++++

●肛門期的性格が固着すると、どんなものでも捨てるのを嫌がるようになることあ
る。そういうひとは、ためこみ屋でけち(典型的な肛門保持)になることがある。
これはトイレを強要するだけではなく、適切な圧力をかけない放任でも起こること
があり、親と子供の性格や関係にもよってまちまちである。 

●規則的にトイレに行くことばかりを強要すると、極度に時間に正確だったり、あ
るいは、常に遅刻するようなタイプの人間になったりする。

●清潔さを強調しすぎると強迫観念的なパーソナリティになり、いつも掃除や整理
を気にする人間になることがある。あるいは、反発していつもだらしない人間にな
ることもある。 

**********以上、ウィキペディア百科事典より*************

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
肛門期 ためこみ屋 けち ごみ屋敷)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【生きる皮肉】

+++++++++++++++++

他人の不幸を笑うものは、
かならずその仕返しを受ける。
仮にあなたが受けなくても、
あなたの子どもが受ける。
仮にあなたの子どもが受けなくても、
あなたの孫が受ける。
かならず受ける。
だから他人の不幸を笑ってはいけない。
笑えば笑った分だけ、
あるいはそれ以上に、
あなたが今度は、自分の言葉で苦しむ
ことになる。

それにはちゃんとした理由がある。

++++++++++++++++

●人間のクズ?

少し前、自分の姪に、(姪に、だぞ!)、「工員は人間のクズ。そういう人と
結婚してはいけない」と諭(さと)した(?)、女性がいた。
(こうした話は、フィクションとして書くことが多いが、これは実話である。)
その話を、ワイフがどこかで聞いて、私に話してくれた。

何という、偏見!
何という、職業観!
私はそれを聞いて、しばらく怒りが収まらなかった。
私の長男も、その工員である。
そこで私なりに、その女性の夫の職業を調べてみた。
どうにもこうにも、怒りが収まらなかった。
そういう言葉を使うのは、どこのだれか、それを知りたかった。
どんなアホか、それを知りたかった。
で、夫の職業は、O市に住む、元役人ということがわかった。
退職前は、国の出先機関の副局長をしていたという。
(ここまでの話は、以前にも書いた。)

が、同じような話を、別の知人からも聞いた。
こんな話である。

その家の長女が選んだ相手は、隣の町の小さな工場で働いていた工員。
が、親はその結婚に、猛反対。
理由など改めてここに書かなくてもよい。
で、その長女は、駆け落ち。
そのあと現在に至るまで、20年間、音信がないという。
その過程でも、いろいろあったらしい。

が、20年たってみると、事情は一変した。
その下に2人の息子がいたが、2人とも、暴力団の事務所に
出入りするようになった。
現在、2人とも刑務所で服役しているという。
しかし親は、そのことを必死で隠そうとしている。

刑務所にいることが問題と書いているのではない。
善人も悪人も紙一重。
悪人といっても、ほんの少し歯車が狂っただけ。
自分の意思とは無関係に、ズルズルとそうなってしまう。
大きくちがうようで、どこもちがわない。

私が書きたいのは、「必死で隠そうとしている」という部分。
たとえば近所で葬儀があったりすると、息子たちの名前で花輪を出していた。
そして近所の人たちには、「仕事で来られない」とか、「中国に出張で出かけている」
などと言っていた。

正直に言えばよいとは書かない。
しかしウソまでつく必要はない。
近くにいなければいないで、よいではないか。
というのも、娘が家出したことも、2人の息子が刑務所で服役しているということも、
近所の人たちは、みな、知っていた。
知らないと思っているのは、当の両親だけ。

しかし(隠す)といっても、ものすごいエネルギーを消耗する。
悶々とした毎日。
いつ晴れるともわからない、心の霧。
つまりその両親を苦しめていたのは、娘でも息子たちでもない。
その両親のものの考え方、ということになる。
その両親は、自分自身がもっている偏見で、苦しんだ。

……というような例は多い。
だからこういうふうにも言える。
未来を作っていくのは、私たち自身であるということ。
しかも知らず知らずのうちに作っていく。

たとえば冒頭に書いた、「人間のクズ」と表現した女性にしても、
たまたま今は、よい(?)かもしれないが、先のことはわからない。
自分の息子や娘が、その工員になるかもしれない。
そうなったとき、その女性は、自分の言った言葉、つまりは
自分自身の偏見と職業観で苦しむことになる。
だれでもない、自分自身の偏見と職業観で、である。

私はその女性の夫の職業を知ったとき、「ナルホド!」と合点した。
同時に、「何を偉そうに!」と思った。
ほんの少し、人生の入り口がよかったというだけで、エリート意識を
もってしまう。
自分たちだけが、特別の人間と思ってしまう。
江戸時代の士農工商の亡霊をいまだに引きずっている。
どこまでも愚かで、哀れな女性である。
笑われるべきは、その女性自身ということになる。

(付記)
「江戸時代は終わった」
「封建時代は関係ない」
「私は近代的な人間」と思っている人も、一度は、立ち止まって、自分を
見つめなおしてみてほしい。
本当に、そうか、と。

今でも封建時代のあの時代を、賛美する人は多い。
武士道こそ日本が誇るべき、精神的バックボーンであると説く人もいる。
しかし、本当に、そうか、と。

私たちは過去の、負の遺産にこそ、目を向けるべきである。
そのひとつが、ここでいう職業観ということになる。
ほかに男尊女卑観、さらには上下意識、権威主義などなど。
いろいろある。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●6万3000誌の中で、「マガジン・オブ・ザ・イヤー」(メルマガ)に選ばれる!

++++++++++++++++++

昨夜、メルマガ社から連絡が届き、
私が発行する電子マガジンが、
2008年度の、「マガジン・オブ・
ザ・イヤー」に選ばれた!

電子マガジンの発行元は、日本には、
10数社あるが、その中でも最大級
なのが、メルマガ。
発行マガジン数は、6万〜6万3000誌
もあるという。

うれしいというより、その実感がない。
もともと無私無益で発行しているから、
よい意味でも、悪い意味でも、「どうでも
よい」と言った感じがしないでもない。
しかし読者あっての電子マガジン。
読者の方たちには、感謝している。
読者の方たちが励ましてくれなかったら、
こうまで長くつづけることはできなかった
だろう。
実際、何度か、途中で、やめようと
思ったことがある。
が、そのたびに、少しずつだが読者の方の
数がふえ、それが大きな励みになった。

選考は、投票によって決まったという。
詳しくはわからないが、ともかくも、
めでたいことにはちがいない。

みなさん、ありがとうございました!

++++++++++++++++++

●新しいデザイン

……ということで、ますます「がんばろう!」という意欲がわいてきた。
メルマガの受賞が、強化の原理として働いている!
で、何をしようかと考えて、まっさきに思い浮かんだのが、ヘッドの
改変!
「ヘッド」、つまり本でいうなら、表紙の部分。
P社製のパソコンには、おまけとして(絵文字)の反対の(文字絵)がついている。
それを少し改変してみる。


 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   彡| ⌒ ⌒ |ミ
q ∩ ∩ XXXXX  ∂ ∂ p m
(″ ▽ | ⌒ ⌒ |″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ 0 ゛)\    厂 ̄
 ┏━━○━━━━━━━○━━━┓
 ┃最前線の育児論byはやし浩司┃
━━━━━━━━━━━━BW

そこでこれを参考にして、自分なりに、いろいろ工夫してみる。

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目を細めれば、「H.HAYASHI」と読める?
これを基本に、飾りを入れてみる。

最前線の子育て論byはやし浩司*********************
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          2009年   月   日号
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しかしどこかつまらない?
どうしたらよいものか?
こういうことは、寝る前、もしくは寝起きに、ふとんの中で考えるのがよい。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 1月 9日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●依存性をつけさせる指導法

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これは進学塾での話。
その進学塾では、生徒が依存性をもてばもつほど、
経営は安定する。
そのためにどうすればよいか、進学塾の経営者は
いつも考えている。
あるいは無意識のちにも、過去のやり方を踏襲する。
わかりやすくいえば、「この塾をやめたら成績が
さがる」という恐怖心をもたせる。
さらに「この塾をやめたら、目的の学校には
入れない」という恐怖心をもたせる。
たとえば三者面談などを通して、意図的では
ないにせよ、数字を並べて、子どもを脅す。
親を脅す。

子どもも親も心理的に不安な状態にあるから、
そのままそれを信じてしまう。
その手法は、カルト教団が信者を獲得する
方法に、たいへんよく似ている。

が、進学塾にしてみれば、それでよいとしても、
子どもにとっては、そうでない。
仮に目的の中学校へ入学できたとしても、
そのあと、そこでプツンしてしまう。
目的の高校へ入学できたとしても、そのあと、
プツンしてしまう。

が、これもカルト教団の信者の心理とよく似ている。
その教団の従順な信者である間は、それなりに
幸福感や充実感を覚えるかもしれない。
しかしカルト教団から離れたとたん、心理的にも、
たいへん不安定な状態になる。
(実際には、一度カルト教団に入信してしまうと、
それから離れるのは、容易なことではない。)

ここでいう(依存性)というのは、それをいう。
では、どうするか?

指導するとしても、依存性をもたせるのは、最小限に。
たとえば私は、小学校の高学年にもなると、いつも
生徒たちには、こう言う。

「自分で勉強しなさい」
「わからないところがあったら、もってきなさい」と。

さらに効果的にするために、小学3、4年生になったら、
小学校5、6年生の間に座らせて、好きな勉強をさせる。
つまりこうして順送りに、(勉強グセ)を、上級生から
下級生に伝える。

この方法は、イギリスのカレッジで、ふつうにされている
方法である。

こうして子どもに依存心をもたせないよう、ついでに、
自学自習の方法を身につけさせる。

しかしこの方法は、進学塾にとっては、まことまずい。
この指導法では、月謝は取れない。
また親たちにも受けが悪い。
「ていねいに教えてくれない」とか「先生は遊んでいる」とか、
言う。
「わからないところがあったら、もってきなさい」という
教え方は、一見、子どもには、たいへん不親切な教え方に
見える。
それはわかるが、では、いわゆる(手取り足取り教育)が、
はたしてそれでよいかというと、けっして、そうではない。
ここに書いたように、子どもに依存心を植えつけてしまう。

むしろ指導法としては、いつか生徒が独立するように、
「こんな先生に習うくらいなら、自分でしたほうがまし」と
思わせるようにしむける。
私はそれを勝手に、「卒業」と呼んでいる。
自分で勉強する方法を身につけた子どもは、あとは自分の
力で伸びていく。
それこそ、(真の力)ということになる。

が、この方法を試しても、伸びない子どもというのは、
たしかにいる。
それこそ、あれこれ指示を与えないと、鉛筆をもつことさえ
しない。
「好きな勉強をしていいよ」と励ましても、何もしない。
時間ツブシ(無駄なことをして、時間をつぶす)、
フリ勉(勉強しているフリだけをする)、
時間殺し(簡単な問題だけを、繰り返しする)などがうまい。

一度こうした症状が、小学4〜5年生くらいまでに出てくると、
そのあと、その子どもが伸びるということはまず期待できない。
大切なことは、子どもがそうならないよう、幼児期から
注意する。
またそれが幼児教育のひとつということになる。

方法としては、「勉強するのは楽しい」「おもしろい」という
意識だけをみながら指導する。
その意識があれば、それでよし。
「覚えた、覚えない」「できるようになった、ならない」は、
この時期、ほとんど意味がない。
だから、昔から、こう言う。
『好きこそ、もののじょうずなれ』と。
英語では『Happy Learners learn Best(楽しく学ぶ子は、よく学ぶ)』
という。

教育はここから始まり、ここで終わる。
ついでに依存心は、子どもを従順にするが、それは子ども本来の
姿ではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子供と依存性 子供の依存心 依存する子ども)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●親子関係

++++++++++++++++

親子関係をざっと分けると、
つぎの9つのタイプになる。

(1)過保護型
(2)過干渉型
(3)でき愛型
(4)過関心型
(5)盲従型
(6)三角型
(7)スパルタ型
(8)放棄型
(9)代償型

+++++++++++++++

親子関係、とくに母子関係を分類すると、つぎのようになる。

(1)過保護型(心配先行型ともいう)
(2)過干渉型(不安先行型ともいう)
(3)でき愛型(親の情緒不安型ともいう)
(4)過関心型(神経質型ともいう)
(5)盲従型(親子関係逆転型ともいう)
(6)三角型(父、母の育児観がバラバラ)
(7)スパルタ型(厳格型ともいう)
(8)放棄型(無責任型ともいう)
(9)代償型(人形子型ともいう)

これらについては、小生の「ママ診断」(無料版、HP収録)にて、
詳しく診断できるようになっている。
興味のある人は、次へ:

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page288.html

要するに、親は、(1)ほどよい親であること。
そのためには、(1)暖かい無視と、(2)求めてきたときが与えどき、この
2つを守る。
さらに言えば、親というのは、自分で失敗してみて、はじめてそれが失敗だった
ことを知る。
そのためには、
(1)いつも自分を客観的に見る目を見失ってはいけない。
(2)他人との交流を通して、子育てを風通しのよいものにする。

まずいのは、自分の住む世界を、カプセルでおおい、独自、独断の世界を作りあげて
しまうこと。
一度こういう状態になると、ものの考え方が極端化しやすくなる。
同じ過保護でも、極端な過保護になったりしやすい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
親子関係 母子関係 母と子)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今、どうして「忠臣蔵」?

+++++++++++++++++

毎年12月になると、どうしていつも忠臣蔵?
昨日(12月11日)も、NHKテレビは、
それについての特集番組を流していた。

忠臣蔵といっても、ただの復讐劇ではないか。
いつになったら、そのおかしさに、日本人は
気がつくのだろう?

以前書いた原稿をさがしてみた。

+++++++++++++++++

●忠臣蔵論

 浅野さん(浅野内匠頭)が、吉良さん(吉良上野介)に、どんな恨みがあったかは知ら
ないが、ナイフ(刀)で切りかかった。傷害事件である。が、ただの傷害事件でなかった
のは、何といても、場所が悪かった。

浅野さんが吉良さんに切りかかったのは、もっとも権威のある場所とされる松之大廊下。
今風に言えば、国会の中の廊下のようなところだった。浅野さんは、即刻、守衛に取り押
さえられ、逮捕、拘束。

 ここから問題である。浅野さんは、そのあと死刑(切腹)。「たかが傷害事件で死刑とは!」
と、今の人ならそう思うかもしれない。しかし三〇〇年前(元禄一四年、一七〇一年)の
法律では、そうなっていた。

が、ここで注意しなければならないのは、浅野さんを死刑にしたのは、吉良さんではない。
浅野さんを死刑にしたのは、当時の幕府である。そしてその結果、浅野家は閉鎖(城地召
しあげ)。今風に言えば、法人組織の解散ということになり、その結果、四二九人(藩士)
の失業者が出た。自治体の首長が死刑にあたいするような犯罪を犯したため、その自治体
がつぶれた。

もともと何かと問題のある自治体だった。わかりやすく言えばそういうことだが、なぜ首
長の交代だけですませなかったのか? 少なくとも自治体の職員たちにまで責任をとらさ
れることはなかった。……と、考えるのはヤボなこと。当時の主従関係は、下の者が上の
者に徹底的な忠誠を誓うことで成りたっていた。今でもその片鱗はヤクザの世界に残って
いる。親分だけを取り替えるなどということは、制度的にもありえなかった。

 で、いよいよ核心部分。浅野さんの子分たちは、どういうわけか吉良さんに復讐を誓い、
最終的には吉良さんを暗殺した。「吉良さんが浅野さんをいじめたから、浅野さんはやむに
やまれず刀を抜いたのだ」というのが、その根拠になっている(「仮名手本忠臣蔵」)。そう
でもしなければ、話のつじつまが合わないからだ。

なぜなら繰り返すが、浅野さんを処刑にしたのは、吉良さんではない。幕府である。だっ
たら、なぜ浅野さんの子分たちは、幕府に文句を言わなかったのかということになる。「死
刑というのは重過ぎる」とか、「吉良が悪いのだ」とか。もっとも当時は封建時代。幕府に
たてつくということは、制度そのもの否定につながる。自分たちが武士という超特権階級
にいながら、その幕府を批判するなどということはありえない。そこで、その矛先を、吉
良さんに向けた。

 ……日本人にはなじみのある物語だが、しかしオーストラリア人にはそうでなかった。
一度、この話が友人の中で話題になったとき、私は彼らの質問攻めの中で、最終的には説
明できなくなってしまった。ひとつには、彼らにもそういう主従関係はあるが、契約で成
りたっている。つまり彼らの論理からすれば、「軽率な振るまいで子分の職場を台なしにし
た浅野さん自身に、責任がある」ということになる。

 さてあなたなら、こうした疑問にどう答えるだろうか。彼らにはたいへん理解しがたい
物語だが、その理解しがたいところが、そのまま日本のわかりにくさの原点にもなってい
る。「日本異質論」も、こんなところから生まれた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
忠臣蔵 忠臣蔵論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●歩く

+++++++++++++++++++

このところ週2度くらいの回数で、
自宅から街までの距離を、ワイフと
歩いている。
で、今日(12月8日)のコースは、
佐鳴湖西岸→富塚(とみつか)→付属中学
→鹿谷(しかたに)→市内。
途中、鹿谷から市役所前まで、バスに
乗った。
歩いた時間は、1時間40分。
距離は、正確にはわからないが、10〜12
キロ前後か。

+++++++++++++++++++

私はときどき街まで、歩いている。
それを見て、最近は、ワイフが同行してくれるようになった。
話し相手ができて、うれしい。

で、今日のメイン・コースは、何と言っても秋たけなわの、佐鳴湖西岸。
私はデジタルカメラで、1〜2分歩くごとに、写真を撮った。
すばらしかった。
風もなく、湖面はまるで鏡のよう。
その湖面に対岸の景色が映って、まるで夢の中のよう。
佐鳴湖はいつ来ても、美しい。

が、そのあと誤算。
佐鳴湖の端にあるパークタウンから、鹿谷のほうへ坂を上ったところで
バスに乗るつもりだった。
しかし歩けども歩けども、バス停がない!
そんなわけで、予定よりも、3〜4キロも余計に歩くはめに。

私たちはいつも、7〜8キロをひとつの目安にしている。
10キロを超えると、とたんに疲労感がます。

今度から、ちゃんとバスコースを調べてから、歩くことにする。

(付記)
私は小学生のころ、毎日、ちがった道を通って、家に帰った。
それが楽しかった。
2〜3時間の寄り道は、当たり前。
今のように、道草を食っても、それをとがめる人はだれもいなかった。
心配する人もいなかった。
私は今で言う「帰宅拒否児」だったかもしれない。
その話をワイフにしながら、「子ども時代に戻ったみたい」と。
だからいつだったか、少し前、子どもの道草についての相談を受けたとき、
私は思わずその母親にこう言ってしまった。
「いいんじゃ、ないですかア〜」と。

今では、道草を食うということは、学校のほうで禁止されている。
都会地域では帰りは、バスか車。
まっすぐ帰る。
都会の子どもたちは遊んで帰るということが、できない。

(付記)「帰宅拒否は、軽症うつの可能性がある」という新聞記事が
目に留まった。
「うつ病の初期症状と考えてよい」とも。
「仕事が終わっても家に帰りたくない」というのであれば、そうかもしれない。
が、私のばあいは、それもあったかもしれないが、遊ぶために、寄り道をした。
カエルをつかまえて、皮をむく。
そのカエルの足を紐(ひも)でくくって、ザリガニをとる。
そういうことを毎日のようにしていた。
で、そういう自分を振り返りながら、今、こう思う。
「最近の子どもたちは、どこでどう遊んでいるのだろう?」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●野生児(データ)

+++++++++++++++++++

1920年、インドのカルカッタの西、
約100キロのジャングルの中で、
2人の少女が見つかった。

推定年齢は、8歳と、1・5歳の、2人の少女である。
オオカミによって育てられていたという
ことで、「オオカミ少女」と呼ばれるようになった。

推定年齢8歳の少女には、「カマラ」、1・5歳の
少女には、「アマラ」という名前が、それぞれ
つけられた。

2人の少女を保護したのは、自らも孤児院を経営して
いた、シング牧師。
彼はその後、妻と2人で、2人の少女を手厚く保護し、
教育を授けた。

妹と思われるアマラは、2か月で言葉を話せるように
なったが、姉と思われるカマラは、2年もかかった
という。

アマラは発見されてから1年後に、病死。
カマラは、17歳まで生きたという。

シング牧師夫婦の教育のおかげで、カマラは、
3年後には2本足で歩くことができるようになったが、
急ぐときは、4つんばいのままであったという。

言葉も覚えたが、それでも17歳までに、覚えた
単語の数は、40語足らずであったという。
が、最後の最後まで、人間らしい感情を取り戻す
ことはなかったという。
ただおなかがすいたときだけ、怒った表情を
して見せたという。
(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
はやし浩司 野生児 インド オオカミ少女 オオカミ姉妹 狼少女 狼姉妹 
カマラ アマラ)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●トイレの話

+++++++++++++++++++

私が中学生のときのことだったと思う。
授業中、先生が、こんな話をしてくれた。
何の授業だったかは覚えていない。
先生がだれだったかも、覚えていない。
が、こんな話だった。

「アメリカ人というのは、大便と小便を
別々にする」と。

どういうわけか、その話が強烈に印象に
残った。
というのも、当時も今も、私も含めて、
日本人というのは、大便と小便を
同時にするというのが、常識だった。

が、それから40数年。
今でもときどき、その話を思い出す。
思い出しながら、トイレに入る。
そしてこう考える。

私はどうなのか?、と。

で、こういうことは言える。
スリッパ型の日本式トイレでは、力の
入れ加減で、どうしても両方を同時にする。

一方、座式型の洋式トイレでは、力の入れ加減が
ちがう。
大便のほうしかできない(?)。
(女性は、どのようにしているか、私は
知らないが……。)
つまり男性は、どうしても別々になってしまう。
大便をしたあと、もう一度、立ちなおし、
小便をする。
中学生のときの先生が言ったように、「大便と
小便を別々にする」。

つまり私もあのとき先生が言った、アメリカ人
のようになってしまった。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●不況

+++++++++++++++++

数日前、昔からの知人が突然やってきた。
以前、あれこれと仕事を頼んだ人である。
その知人が、「何か、仕事はないか?」と。

その知人の父親は、50歳になるころから
糖尿病が悪化して、現在は週に何回かは、
人工透析を受けている。
「仕事は、もうしていない」という。
またその知人も、3人もの子どもをかかえて、
その生活費だけで、たいへん。
「親父のめんどうをみる余裕など、どこにも
ない」と。

かなり切羽(せっぱ)つまった感じがした。
しかし今の私にも、その知人に回せるような
仕事は、ない。
しばらくあれこれ話したあと帰ってもらったが、
元気がなかった。

今、日本中を、大不況という嵐が襲っている。
そしてその嵐は、身を隠す場所すらない、
そういった弱小の人たちを、もろに苦しめ始めている。

たしか父親はまだ60歳前。
国民年金も手に入らない。
そういう人たちは、どうやって生活していけばよいのか。

++++++++++++++++++++

先日、大阪に住む友人と電話で話したとき、その友人は、こう言った。
「日曜日でも、仕事があれば、感謝しなくちゃあ」と。
私が「明日(日曜日)も、仕事です」と、ふと、こぼしたときのこと。

今の世の中、仕事があるというだけでも感謝、感謝、感謝。
ぜいたくは言えない。
その大阪は、不況の真っ只中。
それは知っていたが、この浜松にも、不況の風が吹き始めた。
派遣社員や外国人労働者の首切りが始まっているという。
自営業の人たちも、かなりきびしい状況らしい。
とくに通りに軒を並べる商店街が、元気がない。

で、昨日も書店で、経済誌を片っ端から立ち読みしてみた。
(そう言えば、私もこのところ雑誌の購入費が減ってきた。)
全体を通してみるとこの不況は来年(2009年)いっぱいは
つづきそう。
好転するのは、早くても、来年(2009年)の夏以後〜とか。
さらにもう一段、大不況がやってくると説く学者もいる。
それまでは、どうやらじっとがまんのとき、ということか。

お金で幸福や命は買えない。
しかしお金がないと、人は不幸になる。
病気になっても、治療費が払えない。

私「彼の父親は、どうやって生活しているんだろう?」
ワ「奥さんが働いているみたい」
私「それならいい」
ワ「奥さんは、前から働いているみたい」と。

明日はわが身と思ったところで、この話はおしまい。
不況といっても、降ってわいた天災のような話で、私にはどうしようもない。


●雨(12月9日)

+++++++++++++++++++

久々の雨。
しかもどしゃ降り。
このところ雨が降るたびに、暖かくなったり、
寒くなったりする。
「この雨がやんだらどうなるんだろう?」と、
そんなことを考えながら、ワイパーの向こうの、
薄モヤにかすんだ通りを見ながら、考える。

+++++++++++++++++++

●逆流性胃炎

今日、病院へ言ったら、「逆流性胃炎」と診断された。
昨日、朝食をとったあと、げっぷが、数分おきに出た。
プラス胸焼け。
食道と胃の付け根あたりが、熱をもったような不快感。

夕方薬局で、胃酸を抑える薬を買ってのむ。
症状はそれで消えた。
で、今日、インフルエンザの予防注射を受けた。
そのついでに胃の話をすると、冒頭に書いたように、「逆流性胃炎」と。
要するに胃液が逆流して、食道のほうまで上ってくるらしい。
そこで胸焼けを起こす。

ドクターは、「そのあたりに潰瘍(かいよう)ができたかも?」と言った。
で、薬をもらって、それでおしまい。
しかし……。

加齢とともに、たいしたことはないにしても、いろいろとこまかい病気がふえてくる。
そういえば、恩師のTK先生も、逆流性胃炎で悩んでいる。
そのため夜もよく眠られないとか。
私のばあい、そこまでひどくはないが、持病にしてしまうとこわい。
ここはしっかりと治しておくのがよい。


●友人のがん

1週間ほど前、ほぼ1年半ぶりに、京都に住む友人から電話がかかってきた。
若いころいっしょにインドへ渡った仲間である。
彼はこう言った。
「いやあ、ぼくはね、胃がんだったんだよ」と。
話を聞くと、この8月に検査でわかり、10月に手術をしたという。

同年齢の人の話を聞くと、心底、つんとした冷気が背筋を走る。
(がん)イコール(死)ではないにしても、私たちは、そういう形で
一歩、また一歩と死に近づいていく。

私「ぼくのほうも、いろいろあってねえ」
友「そうかあ」
私「8月に兄貴、10月に母が、つづいて他界してね」
友「そりゃあ、たいへんだったんだね」
私「君のほうこそ、たいへんだっただね」
友「そうなんだよ」と。

こういうとき「ぼくのほうは元気だ」と言うのも、どこか気が引ける。
それに今は元気でも、明日のことはわからない。
そういう不安がいつもあるから、自信をもって、「ぼくは元気だ」とは、
とても言えない。

その母が死んで、もう2か月になる。
それまでの母は、いわば天井のようなもの。
「母が生きている間は、ぼくも生きていられる」という、不思議な安心感があった。
しかしその母が死んだ。
天井がなくなった。
この先、私はひとりで生きていかねばならない。
順番からすれば、つぎに死ぬのは、この私ということになる。

しかし今、私はこう思う。

人間は生きたいと思っても、なかなか生きられるものではない。
死にたいと思っても、これまたなかなか死ねるものではない。
その一方で、死は、乱数にさらに乱数を掛け合わせた
ようにしてやってくる。

健康に注意を払っているから、長生きできるというものでもない。
病気がちだからといって、早死にするわけではない。
もうこの世界は、メチャメチャ。
メチャメチャだから、つかみどころがない。
「今日、元気だから、明日はだいじょうぶだろう」
「今月は元気だから、来月はだいじょうぶだろう」という程度のことでしかない。
いくらがんばっても、来年のことはわからない。

不安と言えば不安だが、その不安感があるからこそ、今日、がんばる。
がんばることができる。

「時間」こそ、真の財産ということになるが、それに修飾語をつけるとしたら、
「健康な時間」ということになる。
その(健康)には、肉体の健康のほか、精神の健康と脳みその健康が含まれる。
それが今、あなたにあるなら、あなたは、それを心底、喜んだらよい。
バンザーイと、歓声をあげたらよい。

で、つぎに大切なことは、その「健康な時間」を、どう使うかということ。
それがわからなければ、こう考えてみたらよい。

仮にあなたの命が、あと7日しかなかったとする。
7日目が終わったとき、あなたの命も、そこで絶える。
もしそういう状況になったら、あなたはどうするだろうか。
何を考え、何をするだろうか。
答は、自(おの)ずと、出てくるのでは……?

だれしも、がんのような病気を告知されると、一度は地獄の底へと
叩き落される。
私もそうだった。
私も脳腫瘍を疑われ、開頭手術寸前までいった。
そのとき私は、病院からどの道をどう通って家まで帰ったか、よく
覚えていない。
ワイフが途中で私を拾ってくれたとき、私はまるで幽霊みたいだったと言った。

あと覚えているのは、その夜は、やっと2歳くらいになった長男の寝顔を見ながら、
さめざめと泣いたこと。
ワイフも私も、正座したまま、泣いた。

友人もそうだったとは思わない。
(がん)の受け止め方は、人それぞれ。
深刻に考える人もいれば、そうでない人もいる。
(がん)の種類にも、いろいろある。
それに今では、治療法も、昔とはちがい格段に進歩している。
友人も、電話では、けっこう明るい声をしていた。
「初期に発見できたから、よかった」と言っていた。
私もそれを率直に、喜んだ。

繰り返しになるが、生きるのもたいへん。
さりとて死ぬこともできない。
私たちは、ただひたすら、生かされるまま、生きていくしかない。
いつか、その日が来るまで……。


●もしあと7日の命だったら……

ついでに考える。
もしあと7日の命だったら、どうするか、と。

即座に思いつくことは、身辺の整理。
あとに残されるワイフや息子たちに、迷惑がかかるようなことがあれば、
それを第一に整理する。
つぎに私の(命)は、今までに書いた原稿にある。
それを整理する。
インターネットというすばらしい利器がある。
それにできるだけ、収録しておく。
つまり7日というその間は、整理、また整理で終わるだろう。
言うなれば、人生のあと片づけ。
泣いていても仕方ない。
悔やんでいても仕方ない。
死を恐れていても仕方ない。

どのみち死ぬのなら、やはりあと片づけしかない。
いつか見た映画のように、(したいことをする)というのは、
私の生き方ではない。
またそんなことをしても、空しいだけ。
またそういうふうに思わなくてもよいように、今、この瞬間に、
(したいことをする)。
(やるべきことをする)。
そういう意味でも、私には、一瞬一秒でも、無駄にできる時間はない。
まさに「時間こそが、財産」ということになる。

みなさん、がんばりましょう!


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●C・ヒル(アメリカ国務省国務次官)の希望的憶測(思い込み外交)

++++++++++++++++++

「あと2週間で成果が出る」
「今月の終わりには、返事がくる」
「今度の会談で、解決する」と。
C・ヒルは、今まで、何度、そういう希望的憶測を
述べたことか。

++++++++++++++++++

結局、12月8日から始まった今回の6か国協議は、何ら進展のないまま、休会。
だとするなら、それに先立つあの米朝会談(シンガポール)は、何だったのか。
C・ヒルは、「有意義な会談だった」「成果が出る」と、ひとりではしゃいでいた。

だいたい、一介の外交官が、大統領もしくは、映画スターにでもなったかのように、
マスコミを前にしてペラペラと話す。
そのおかしさを、まず私たちが知るべき。

検証方法についても、事前会談では、「別枠の秘密文書にする」と、C・ヒルは
言っていた。
日本にとっては、とんでもない話である。
いや、その前に、C・ヒルは、「検証は、口頭で了解済み」と、さかんに言っていた。
その言葉の責任は、いったい、だれがとるのか。

成果もないまま、また成果も期待できないまま、希望的憶測だけで、「成果があった」
「成果が期待できる」と。
この繰り返しだけで、5年以上も浪費してしまった。
産経新聞は、「(ヒルの)一方的な思いこみだった」として、
つぎのように伝える(12月12日)。

『米政府は日本側の反対を振り切るかたちで、指定解除に踏み切ったが、サンプル(試料)
採取など、肝心の部分に関しては「口頭了解」にすぎなかった。

 日本の首席代表の斎木昭隆外務省アジア大洋州局長も訪米して、ヒル国務次官補(東ア
ジア・太平洋担当)にこの点について直接、懸念を伝えた。ヒル次官補はニューヨークで
の米朝協議などを通じて、合意に自信を示していたが、結果的には一方的な思い込みだっ
た』と。
つまり妥協に妥協を重ね、譲歩の譲歩を重ねた結果、『同盟国(=日本)との
信頼関係よりも、目先の成果を優先して失敗するという教訓を残したといえそうだ』
(同紙)と。

この5年以上のもの間、何が進展したのか?
K国がしたことは、ガラクタ(ジャンク)と化した、ヨンビョンの核開発関連施設を
爆破してみせただけ。
韓国に亡命したF氏(元K国高官)は、K国は別の場所で核開発をつづけているはず
と発言している。
一方、その間、C・ヒルがしたことといえば、(あの親北派のノ前大統領と
手を組んで)、原油、マネー、食糧、音楽、それに(時間)を、K国に与えただけ。
この中でも(時間)が、いちばん重要。

この5年間で、K国は核兵器開発を、どこまで進めたことやら?
4、5年前には、「核兵器をもっているかどうかわからない」という状況だった。
しかし今は、「5〜6発はもっている」というのが、常識化している。
それをふまえてK国は、「我々を核保有国として認知しろ」とまで言い出している。

さらに馬鹿げたことに、交渉の過程で、C・ヒルは、この日本を脅した。
「K国援助に加われ。さもなければ、K国を、テロ支援指定国家のリストから
はずす」と。
結果的にみると、C・ヒルは、K国をリストからはずし、日本を孤立させて
しまった(08年10月)。
もちろん最近に至るまで、拉致問題を話し合った形跡は、ゼロ。
成果も、もちろんゼロ。
むしろ日本に向かって、「なぜイラン航空の支店が東京にあるのか!」と、
日本にかみついたことさえある。

おバカというか、本人は、何様のつもりでいるのだろう。
繰り返すが、C・ヒルは、ただの役人ではないか!

一方、私たち日本人は、拉致問題を第一に考えている。
「たかが拉致」などと言ってほしくない。
そこに至る過程というものがある。
日本が拉致問題を取りあげるたびに、「拉致問題はない!」と、K国側は、会談中、
席を蹴って出るような演出までしてみせた。
(日本のA新聞社も、片棒を担いでいたぞ!)

が、たしかにK国は、日本人を拉致していた!
小泉=金xx会談で、金xxはそれを認めた。
何人かの拉致被害者たちは、日本へ帰ってきた。
まともな神経の持ち主だったら、まず、自分たちのウソを恥じるだろう。
その(まともな神経)すら、K国の官僚たちにはない(?)。
その拉致問題は、Y・めぐみさんのニセ遺骨問題で、頂点に達した。
私たち日本人の(怒り)も、頂点に達した。
そういう(怒り)を、C・ヒルはまったく理解していない。

6か国協議は休会した。
が、それは同時に、C・ヒルの外交的失敗の総決算でもある。
今朝(12月11日)の朝刊によれば、「K国が一番デーン
としているんだから、変な話」(外務省幹部談話・中日新聞)とある。

そう、何もかもおかしい。
K国もおかしいが、C・ヒルもおかしい。
その(おかしさ)の上に、6か国協議がある。

K国など、本気で相手にしてはいけない。
みんなで無視するのがいちばんよい。
しかし今となっては、それも手遅れ。
あのC・ヒルのおかげで……。

Be ashamed, C. Hill! You are the loser!

当のC・ヒルは、閉会式を待たずして、アメリカに帰った。
「米朝の2か国協議はもうしない」(北京空港で)と。

なお日本に本部を置くC総連は、その機関紙に、「今に見ておれ!」という
文言を載せたという(12月11日)。
C総連の家宅捜査を受けての発言だが、こうした感情的な表現は、きわめて珍しい。
珍しいだけに、私たちは警戒心をゆるめてはいけない。
(12−12日記)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 1月 7日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●口愛期(口唇期)(Pornographic DVD)

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フロイトは、性的エネルギーの
発達段階を、口愛期→肛門期→
男根期→(潜伏期)→性器期の
4段階に分けた。

この世界では、英語のアルファベット
のように、だれでも知っている話
である。

その口愛期について、先日、
ポルノDVDを見ていて、
こんなことを考えた。

++++++++++++++++

ポルノDVDというか、ポルノDVDだが、俗にいう「素人ナンパもの」と呼ばれる、
ポルノDVDである。
「たまにはいいだろう」と思って、DVDショップで、一本を借りた。
(いつも見ているわけではない。どこか弁解がましいが……。)

そのDVDを見ていて、こんなことを考えた。

「素人ナンパもの」というDVDがどういうものであるか、健康な男性なら、
それを知らない人はいないと思う。
街角で男が若い女性を、「モデルになってください」とか、「水着を試着してみて
ください」とか言って、声をかける。
「下着調査です。アンケートに答えてくれるだけで、○万円払います」とか、など。
そう言って近づき、女性を誘惑する。

そのDVDの中で、やや中年風の男(30代)が、ふとこう言っていた。
「30人に声をかければ、1人はOK」と。
30人というが、つぎつぎと声をかけるので、時間にすれば、1時間あまりで
1人ということになる。

こうして男たちは、若い女性をホテルに連れ込む。
少しずつ、女性をその気にさせて、やがて衣服を脱がし始める。
私はそれを見ながら、年頃の娘をもつ親たちは、こういう現実を知ったら、
ショックを受けるだろうなと思った。

が、それは途中まで。
ある一線を超えると、今度は女性のほうが本気になってしまう。
立場が逆転する。
あれほどモジモジしていた女性が、今度は、自ら男性の体を求め始める。
(やらせ)とか(演技)によるものではない。
本気である。
全裸になり、顔を丸出しにし、最後は体内での射精まで許してしまう。
そしてその段階になると、今度は男性のアレを自ら求め、それを口に含む。
含むというよりは、むさぼるように、しゃぶる。
人間というよりは、動物。
女性というよりは、メス。
そんな感じになる。

……といっても、それが悪いことだとは、私は思わない。
人間がなぜ生きるかといえば、フロイトの言葉を借りるまでもなく、
(生存)のためである。
子孫を後世に残すためである。
「性的エネルギー」が人間の生きる力の根源になっているという理論も、
そこから生まれた。

で、男性は女性のアレを、女性は男性のアレを、むさぼるように、しゃぶりあう。
ともに恍惚状態。
が、それこそまさに、「口愛期(口唇期)」!
男も女も、性的行為をしながら、乳幼児期の発達段階を再現している!

フロイトの時代には、もちろんビデオもDVDもなかった。
だからついでにこうも考えた。
「フロイトという人は、ずいぶんとスケベな人だったんだな」と。

自分だけの体験なら、そこまで性的エネルギーなるものを、体系化などできなかったはず。
たとえば私も子どものころ、女性の胸を見ただけでドキドキしたのを覚えている。
いや、そのことよりも、そういうふうになる私が、おかしいのではないかと、
悩んだことがある。
だから、そういうことは人には話さなかった。

が、やがて友だちもみな、自分と同じように考えているのを知った。
しかし、そこまで。
今のように、ビデオもDVDもない時代である。
みなが、どの程度のことをしているかまでは、知らなかった。

が、フロイトはそうした男と女の営みを、実際に何10例も見ていたにちがいない。
そういう経験から、ここに書いたように、ひとつの体系を導いた。……導くことが
できた。
言いかえると、男性が女性のアレを、女性が男性のアレを、それぞれしゃぶりあう。
そういう光景を見ながら、「口愛期」を知った(?)。

現在、フロイトは、その世界では神格化されている。
あちこちの「フロイト・サイト」をのぞいてみたが、私のような不謹慎な意見を
書いているHPやBLOGは、どこにもなかった。

フロイトの写真にしても、そういうことをみじんも思わせないような雰囲気を
漂わせている。
まさに大研究家といった感じ。
だからこんなことを書くと、その世界の人たちに、袋叩きにあうかもしれない。

が、それはそれとして、そのDVDを見ながら、私は、もうひとつのことを発見した。
フロイトは、性的エネルギー(リビドー)が、人間の生きる力の根幹にあると説いた。
そしてそれを満足させる第一段階として、口愛期(口唇期)を説いた。
が、それだけではないのではないか。
それを説明するために、こんな話もある。

男性というのは、(これはあくまでも友人たちの話を総合してのことだが……)、
女性のどこに性的魅力を感ずるかは、みなちがう。
胸や腰が多いが、中には、大きな尻や、体臭に性的魅力を感ずる男性もいる。

で、これは私が1970年に、オーストラリアで、ベトナムから帰ってきた
兵士から、直接聞いた話である。

オーストラリア兵もベトナムで戦闘に参加していたが、前線からサイゴンに帰って
きた兵士たちは、みな、(女)を買いに町へ出たという。
女を買うといっても、セッXが目的ではない。
(BLOGの禁止コードにひかかるため、「セッX」と表記する。)
女の乳房を吸うためである。
みな、一晩中、女たちの胸を吸って、気を休めていた、と。

その姿は、まさに母親の乳房を吸って、心を休める乳幼児の姿であったにちがいない。
つまり口愛期には、2面性がある。

口唇に刺激を受けることで、フロイトが説くように、性的エネルギー(リビドー)を
満足させる部分と、それにもうひとつ。
安心感を覚える部分の2つである。
つまり男性は、(女性も基本的には同じと考えるが)、女性の乳房を吸うことによって、
性的エネルギーを満足させると同時に、安心感を覚える。
それは究極の安心感ともいえるものと考えてよい。
そのことは、DVDの中の男と女を見ればわかる。
その数時間前までは、まったく見知らぬ男であったにもかかわらず、女性のほうは、
体内での射精まで許してしまう!

そうした行為が何を意味するか、その瞬間にでも、女性にわからないはずはない。
が、理性や知性は、そのままどこかへ吹き飛んでしまう。

フロイトは、性的エネルギーの発達段階を、口愛期→肛門期→男根期→(潜伏期)
→性器期の4段階に分けた。
分けながら、それを(満足させる)という観点だけで、考えた。
しかしこれら4つの段階には、もう一つ、重要な要素があるのではないか。
それが(安心感を覚える)という要素である。

で、このことも、実際の私たちの性生活にあてはめて考えてみるとわかる。
セッXにしても、それで満足感を覚えながらも、そのあと、愛しあう夫婦であれば、
たがいに安心感を覚える。
そのままの体位を維持しながら、眠ってしまうこともある。

ただこれは私がDVDを見た範囲で感じたことだが、男というのは、射精と同時に、
急速に、女性の体に興味を失う。
時間にすれば、1〜2分の間に、そうなる。
一方、女性というのは、そのあとも、まだしばらく余韻が残るというか、安心感を
求めて、恍惚の世界をさまよう。
DVDを見た感じでは、5〜10分は、それがつづくのでは?
つまりこの部分が、(安心感を覚える)という部分になる(?)。

天下のフロイト理論にケチをつけたようで、気がひける。
しかも出典(?)が、ポルノDVDとあっては、どうしようもない。
自分でも、それがよくわかっている。
あくまでも余興のひとつとして、このエッセーを読んでほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
口愛期 口唇期 フロイト リビドー リピドー 性的エネルギー)

++++++++++++++++++++

子どもが自慰をするとき

●ある母親からの質問

 ある母親からこんな相談が寄せられた。いわく、「私が居間で昼寝をしていたときのこと。
六歳になった息子が、そっと体を私の腰にすりよせてきました。小さいながらもペニスが
固くなっているのがわかりました。やめさせたかったのですが、そうすれば息子のプライ
ドをキズつけるように感じたので、そのまま黙ってウソ寝をしていました。こういうとき、
どう対処したらいいのでしょうか」(32歳母親)と。

●罪悪感をもたせないように

 フロイトは幼児の性欲について、次の三段階に分けている。(1)口唇期……口の中にい
ろいろなものを入れて快感を覚える。(2)肛門期……排便、排尿の快感がきっかけとなっ
て肛門に興味を示したり、そこをいじったりする。(3)男根期……満四歳くらいから、性
器に特別の関心をもつようになる。

 自慰に限らず、子どもがふつうでない行為を、習慣的に繰り返すときは、まず心の中の
ストレス(生理的ひずみ)を疑ってみる。子どもはストレスを解消するために、何らかの
代わりの行為をする。これを代償行為という。指しゃぶり、爪かみ、髪いじり、体ゆすり、
手洗いグセなど。自慰もその一つと考える。

つまりこういう行為が日常的に見られたら、子どもの周辺にそのストレスの原因(ストレ
ッサー)となっているものがないかをさぐってみる。ふつう何らかの情緒不安症状(ふさ
ぎ込み、ぐずぐず、イライラ、気分のムラ、気難しい、興奮、衝動行為、暴力、暴言)を
ともなうことが多い。そのため頭ごなしの禁止命令は意味がないだけではなく、かえって
症状を悪化させることもあるので注意する。

●スキンシップは大切に

 さらに幼児のばあい、接触願望としての自慰もある。幼児は肌をすり合わせることによ
り、自分の情緒を調整しようとする。反対にこのスキンシップが不足すると、情緒が不安
定になり、情緒障害や精神不安の遠因となることもある。子どもが理由もなくぐずったり、
訳のわからないことを言って、親をてこずらせるようなときは、そっと子どもを抱いてみ
るとよい。最初は抵抗するそぶりを見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。

 この相談のケースでは、親は子どもに遠慮する必要はない。いやだったらいやだと言い、
サラッと受け流すようにする。罪悪感をもたせないようにするのがコツ。

 一般論として、男児の性教育は父親に、女児の性教育は母親に任すとよい。異性だとど
うしても、そこにとまどいが生まれ、そのとまどいが、子どもの異性観や性意識をゆがめ
ることがある。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます!

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【心豊かな人生】

●時を追わない(Don't chase up with Time, or don't haste to live.)

65歳になると、国民年金が、手に入るようになる。
「あと4年かア?」と思ったところで、思考停止。
何も急いで65歳になることはない。
今は今。
そのときは、そのとき。
年金をアテにしてはいけない。
アテにして、急いではいけない。
大切なことは、そのときも、そして70歳になっても、75歳になっても、
健康で、元気に働けること。
それで年金がもらえないというのであれば、それこそ御(おん)の字。
年金を手にするために、仕事をやめるのは、バカげている。
生きがいにブレーキをかけるのは、バカげている。

だからあわてて65歳になる必要はない。
今の(この時)を、懸命に生きる。

♪もういくつ歳取ると、
 年金もらえるの?
 年金もらったら、孫の世話。
 庭をいじって、遊びましょう。
 早く来い、来い、65歳!
(「お正月」のメロディーで。)

そんな人生など、まっぴら、ごめん。


●ゴルゴ13(Our Prime Minister of Japan prefers to read Comics.)

このところコンビニへ行くたびに、コミック『ゴルゴ13』が気になる。
我が国、総理大臣閣下のご愛読書である。
今、驚いたことにどこへ行っても、10〜20冊はそれが並んでいる。
AS首相のおかげで(?)、人気が急上昇している。……らしい。

で、私も若いころは、少しは読んだ。
殺しと女、それに国際政治(?)、プラス、陰謀。
この4つが複雑にからみあいながら、物語は展開する。

おもしろいコミックとは思うが、そこまで。
愛読書にするような本ではない。
テーマがテーマであるだけに、つまり殺人がテーマであるだけに、
いくら読んでも、得るものは何もない(失礼!)。

元総理大臣のNS氏は、そういうAS首相をさして、「AS君はバカだな」と
言ったと伝えられている(中日新聞)。
まったく同感である。

そのせいか、AS首相の国会答弁は、言葉(=日本語という言語)に
なっていない。
なさけないほど、だらしない。
美しい日本語は、どこへ消えたのか?

それについては、何度も書いてきたので、ここではここまで。


●兄弟の確執問題(Troubles between Brothers & Sisters)

++++++++++++++++++++++

このところ、兄弟の確執問題について書くことが
多くなった。
そのせいか、BLOGへの書き込みも多くなった。
相談も、いくつか届いている。
しかし私は、この問題については、詳しくない。
それにそれぞれの家庭には、複雑な事情がある。
そこ至るまでに、これまた複雑な経緯(いきさつ)がある。
表面的な部分だけを見て、あるいは一方的な意見だけを
聞いて、あれこれ判断するのは、慎みたい。

+++++++++++++++++++++

先日、「ぼくは兄弟の縁を切った」という人に出会った。
名前をX氏としておく。
理由をたずねると、「兄貴が、ぼくの妻に手を出したから」と。

しかしこんな話は、身内の人にもできるものではない。
知っているのは、その人だけということになる。
が、その周囲の人たちは、それを知らない。
知らないから、勝手なことを言う。
そういう例も、ある。

前にも書いたが、『兄弟は、他人の始まり』。
兄弟姉妹であるがゆえに、他人以上の他人になることも珍しくない。
たがいに憎しみあっている兄弟姉妹さえ、いる。
X氏にしても、「兄貴を殺してやりたい」と言っている。
が、事情を知らない親類縁者たちは、表面的な部分だけを見て、
「離婚するのは、一家の恥」とか、「兄弟の仲が悪いのはおかしい」とか言って、
X氏を責める。
「何があっても、兄を立てて、家を守るのは、お前の義務」と言ってきた、
叔父もいるとか。

いろいろある。
とにかく、いろいろある。
そこへ両親の介護問題、さらには遺産問題がからんでくると、さらにこじれる。
葬儀場で、兄弟どうしで怒鳴りあいの喧嘩をした人もいる。
兄のほうが、神妙な顔をして参列者に礼の言葉を述べたとき、弟のほうが、
こう言って叫んだという。
「そんなウソは、やめろ!」と。
それでその場で大喧嘩になってしまった。

そこで私やあなたの問題。

仮に今、私やあなたが、兄弟姉妹との仲が悪いといっても、気にすることはない。
悪いのが当たり前という前提で考える。
そのことは、子どもの世界をのぞいてみるとわかる。

たとえば1人の男の子がいる。
生まれたときは、皆が、「蝶よ、花よ」と手をかける。
愛情をかける。
が、つぎの子が生まれると、今度は、そちらに手をかける。
愛情をかける。
こうして上の子どもは、慢性的な飢餓状態に置かれる。
親は、「平等」という言葉を使う。
「兄も弟も平等にかわいがっています」と。
しかし兄にしてみれば、その平等という言葉が許せない。
今まで100あった愛情が、半分の50に減らされたことが不満なのだ。

そこで兄のほうは、仮面をかぶるようになる。
心理学の世界でも、これを「反動形成」という。
弟思いの、よい兄を演ずることによって、親の愛情を自分に寄せようとする。
あるいは反対に、赤ちゃん返りを起こして、情緒そのものが不安定になる
こともある。

こうして兄は、(姉もそうだが……)、生活態度が防衛的になる。
わかりやすく言えば、ケチになる※。
「自分のものは、自分のもの」「弟のものも、自分のもの」と考えるようになる。
ふつうのケチではない。
「1円すらも、損をしたくない」というケチになる。
さらにそれが進むと、生活態度そのものまで防衛的になる。
他人が自分の家の前に車を止めただけで、警察に通報し、パトカーを
呼んでいた人もいた。

が、表面的には仲がよくても、それはあくまでも(表面)。
こうしてたがいに、(他人)になっていく。
長い時間をかけて、(他人)になっていく。

冒頭に書いたX氏にしても、兄のほうは、「弟の妻は、オレのもの」と
考えていたかもしれない。
(もちろんその反対のケース、つまり弟のほうが、兄の妻と関係をもつ
ようなケースもあるが……。)
ふつうなら、そういうふうには考えない。
つまりふつうなら、「弟の妻は、オレのもの」とは考えない。
しかしその(ふつう)が通じなくなるところが、兄弟姉妹の確執の
こわいところでもある。
「他人以上の他人になる」というのは、そういう意味である。

繰り返しになるが、兄弟姉妹だからといって、仲よくしなければならないとか、
そういうふうには考えないほうがよい。
万事、自然体。
あとは居直って生きていく。

(注※)……長男、長女がケチになりやすいことについて、フロイトは、
「肛門期」における発達段階に問題があると説く。
「糞をためる快感」が、「お金を貯める快感」につながっているという。
つまりケチな人は、それだけ精神的に未完成とみてよい。


●午前6時起き(I woke up at 6 o'clock this morning)

今朝は、なんと午前6時に起きた。
窓の外を見ると、うっすらと水色の空が見えた。
今日も快晴。

ストーブにスイッチを入れるとき、気温計を見ると、寝室で6度。
居間で4度。
寒いはず。
分厚い半纏(はんてん)をあおると、コタツに電源を入れた。
今朝(12月7日、日曜日)はここで原稿を書く。

で、こういうときミニパソコンが、大活躍。
何しろ場所を選ばない。
トイレの中でも、(実際、まだトイレの中では使ったことはないが)、
文章を書くこともできる。
あっちへもっていっては、パチパチ。
こっちへもってきては、パチパチ。
そんなことができる。

が、おかしな現象も起きつつある。
ミニパソコンのキーボードは、小さい。
キー幅が、17ミリ前後しかない。
そのミニパソコンをずっと使っていると、ふつうのキーボード(19〜
20ミリ幅)が、
とても広く感じられる。
とくにノートパソコンのが、広く感じられる。
広すぎて、かえって文字が打ちにくい。
数日前だが、そんなふうに感じたこともある。

脳みそのほうに、別の回路ができてしまったためらしい。


●思考回路(Thinking Process)

+++++++++++++++++

同じ動作を繰り返していると、脳みその中に、
ある一定の思考回路ができる。
「思考プロセス」ともいう。

たとえば茶碗を手に取って、茶を飲むときも、
どんなふうに茶碗を手で取るか、それを
いちいち考えてする人はいない。
思考回路ができあがっているからである。

この思考回路には、2種類ある。

(1)運動用の思考回路
(2)思想用の思考回路、である。

++++++++++++++++++

茶碗をどう手に取るかを決めるのは、(1)の
運動用思考回路ということになる。
が、もうひとつ、(2)思想用の思考回路もある。

たとえば小ずるい人は、何をしても小ずるい。
誠実な人は、何をしても誠実。
あるいは私は何か問題が起きると、必ずそれを一度、文章にしてみる。
「文章にする」という思想回路ができあがっているためである。

一方、暴力団の男たちは、(多分?)、何か問題が起きると、
暴力によって、それを解決しようとする。
「暴力によって、問題を解決する」という思考回路ができあがっているためである。


●小ずるい人(Sneaky People)

私の近くにも、小ずるい人がいる。
一事が万事というか、万事が一事というか、何をしても、小ずるい。
こまかいウソを日常的に並べながら、怖しいことに、ウソをついている
という自覚さえない。

「私はあの人に、こう言ってウソを言ってやった」などと、それを自慢げに
話したりする。

そういう人はそういう人。
とくにその人が50歳を過ぎているなら、相手にしないほうがよい。
脳みそそのものが硬直しているため、私やあなたが説教したくらいでは、
どうにもならない。
さらにこの先、そういう人が、自分の愚かさに気がついて、自分で改める
などということは、まずありえない。
ますます脳みそは硬直していく。
つまりますます小ずるくなっていく。

が、ここで注意しなければならないことが、2つある。

(1)小ずるい人とは、つきあわない。
(2)小ずるい人には、小ずるい人たちが集まる。

小ずるい人とつきあっていると、こちらの心まで見苦しくなる。
見苦しくなるだけならまだしも、自分まで同じようなことをするようになる。
とくに「やられたから、やり返す」などということは、してはいけない。
とたん、その相手の魔力に引き込まれてしまう。

つぎに小ずるい人を観察してみるとよい。
たいていその周囲には、小ずるい人たちが集まっている。
『類は友を呼ぶ』の諺(ことわざ)どおり、そのほうが居心地がよいからである。

要するに、そういう人たちとは、遠ざかること。
が、問題は、親子。

私はそういう小ずるい親をもった子どもは、かわいそうと思う。
仮に親とうまくいっても、かわいそう。
親に反発しても、これまたかわいそう。
生き様を示すべき親が、小ずるいとき、子は、自分の生き様をどこに、
どう求めたらよいのか。

こんな例がある。

その母親(当時60歳くらい)は、若いころから、小ずるい人だった。
そのときは、さらに小ずるい人になっていた。

その母親には、1人の娘と1人の息子がいた。
娘とは、たいへん仲がよい。
買い物に行くにも、旅行に行くにも、いつもいっしょに行く。
一方、息子とは、仲が悪い。
息子が結婚をするころから、断絶状態。

そこでその親子をよく観察してみると、娘のほうは、母親以上に
小ずるい女性であることがわかる。
一方、息子のほうは、母親とは正反対なほど、誠実な男性である
ことがわかる。

母親と娘は、たがいに居心地がよい世界に生きていた。
が、息子のほうは、それに反発した。
もちろん2人の姉(娘)と弟(息子)は、たいへん仲が悪い。
そのときですら、10年以上、たがいの連絡はなかったという。

で、その母親は、やがてだれにも相手にされなくなっていった。
見栄とメンツ、それに世間体にこだわった。
かわいそうなくらい、こだわった。
とくに自分と息子の関係を、人によく見せようとこだわった。

……というような例は、多い。
あなたの周辺にも、似たような人が、かならず1人や2人はいるはず。

だから……親である私やあなたは、常に誠実でなければならない。
それは私たち自身が、心豊かで、すがすがしい人生を送るためのみならず、
子どもたちに、その生き様を示すためでもある。

ルールは簡単。

(1)ウソはつかない。(つきたいときは黙っていればよい。)
(2)約束は守る。(できないことは約束しない。)

この2つだけを、守る。
人が見ていても、また見ていなくても、守る。
そのあとのことは、(時間)が判断してくれる。


●世間体という人生観(Those who care about other people)

+++++++++++++++++

世間体を気にする人というのは、
それだけ自分の人生観がないことを
意味する。

つまり世間体に生きる人の脳みその
中は、カラッポ。
だから世間体を気にする。

+++++++++++++++++

21世紀を10年も過ぎたというのに、いまだに世間体を気にしながら
生きている人は、少なくない。
それに見栄、メンツがからむ。
一度そうなると、あとは、底なしのアリ地獄。
ズルズルと、世間体のワナに身を落としてしまう。
いつも他人の目の中で、生きるようになる。

が、一見哲学があるようで、どこにもない。
脳みその中は、カラッポ。
一本、筋が通った生き様、そのものがない。
ないから、そのつど右往左往を繰り返す。
何かあるたびに、あたふたする。
こんな話をワイフから聞いた。

その母親と息子氏は、とっくの昔に断絶状態にあった。
息子氏は当時、すでに30歳を超えていたと思う。
が、冠婚葬祭のときになると、決まって母親から息子氏のところに
電話がかかってきたという。
「いっしょに、行ってくれ」と。
つまり親類縁者の手前、飾りとして、その息子氏を利用していた(?)。

その話をワイフがしながら、ワイフはこう言った。
「そこまで世間体を気にするなんて、おかしいわよ。断絶しているなら
断絶しているで、かまわないと思うは……」と。

さらにこんな悲劇的な話を聞いたこともある。

その家の1人息子が、離婚してしまった。
そのことを気にして、その息子氏の母親は、そのまま精神を病んでしまったという。
その母親もまた、世間体をかまう人だった。
「近所の人に恥ずかしい」という思いが、(これはその母親の勝手な思い込みに
よるものだが……)、そういう結果を呼び込んでしまった。
今どき、離婚など、珍しくもなんともない。
日本人の20〜25%が離婚を経験している。

「私の息子なんか、もう10年間、音信がないのよ」
「私の息子も、今度、離婚しましてね」と。
どうしてそういう話が、ハハハと、明るく笑いながらできないのか?

つまるところ、その人の哲学の問題ということになる。
言い換えると、いかにしてその哲学を自分の中でつくりあげていくか。
それが親としての最大の問題ということになる。
「私は私」「あなたはあなた」という哲学。
簡単そうで、それがむずかしい。


●ミカンジュースとお茶(Orange Juice with Japanese Green Tea)

+++++++++++++++

たった今、ワイフがいつものように
お茶を届けてくれた。
が、一口飲んで、ゲーッ!
「何、これ?」と言うと、ワイフは
こう言った。

「オレンジジュースにお茶を混ぜたの」と。

私はいつも、オレンジジュースをお湯で
3倍くらいに薄めて、飲んでいる。
しかしお茶で薄めたことはない。

私「これこそ、まさに静岡県の飲み物!」
ワ「そうね、その通り!」と。

静岡県民のみなさん、
オレンジジュースをお茶で割って飲もう!
まずくて、とても飲めるようなものでは
ないが、それを飲まない人は、静岡県民
ではない!

ハハハ、それにしても、まずい!
ジュースの甘みと、お茶の苦味が、
口の中で戦争しているよう。

++++++++++++++++++

●嫁・姑戦争(Wars between Step-Mothers and Wives)

+++++++++++++++++++

ワイフがこう言った。
「兄弟姉妹の仲が悪いのは、まだいいほうよ。
離れて暮らしているから……。
嫁・姑戦争となると、もっと悲惨よ。
離婚も別居もできないとなると、嫁のほうは、
死ぬしかないのよ。
実際、それで自殺してしまった嫁だって
いるのよ」と。

自殺……?

私の知人の中にも、そういう人がいる。
近所では事故を装っているが、だれも事故などと
は思っていない。

もっとも嫁・姑戦争が原因というのではない。
直接的な原因は、(心の病気)ということになる。
その(心の病気)になる過程は、それぞれみな、
ちがう。
夫との確執があったかもしれない。
子育てで悩んでいたかもしれない。
金銭的な問題がからんでいたのかもしれない。
それは私たちが知るところではない。
ないが、夫との関係がよければ、妻は自殺など
考えない。

嫁・姑戦争にしても、よほどのマザコンで
ないかぎり、夫は妻のほうを選ぶ。
離婚を避け、母親(姑)と別居する。

+++++++++++++++++++

私たち夫婦は、よく喧嘩する。……した。
(最近は、ぐんと減ったが……。)
そのたびに、「離婚してやる!」「離婚しましょう!」となる。
しかし夜、寝る前までには、仲なおりする。
ともにひとりでは、寝られない。
そういう習慣が身についてしまった。

そういう経験から、「離婚」という言葉を口にする夫婦は、離婚などしない。
男も女も、本気で離婚を考えるときは、だまって考える。
それまでに心の整理をして、準備する。
じっとがまんにがまんを重ねて、ある日、突然、爆発させる。
「定年離婚」を例にあげるまでもない。

が、こんな例もある。

姑が死んだとき、その嫁は、天にも昇るような気分で、それを喜んだ。
しかし葬儀の場では、始終、悲しそうな顔をして見せた。
必死の演技だったと思う。
棺おけに蓋(ふた)をするときなどは、オーオーと大声で泣いて見せた。

ワイフが言うように、毎日が接近戦であるだけに、どちらかが倒れるまで、
戦争はつづく。
さらにこんな例もある。

老人虐待、である。

姑が腰の骨を折り、寝たきりになってから、嫁の逆襲が始まった。
食事を与えない、世話をしない、おむつを替えないなど。
加えて無視、冷淡。
今で言う「老人虐待」である。

その嫁が何よりも恐れたことは、自分の虐待が、姑の息子(=小舅)や、
娘(=小姑)にバレること。
そのため姑の息子や娘が見舞いに来たりすると、片時も離れず、姑の介抱を
してみせたりしていた。
そのときだけ、姑の背中をさすってみせるなど。

姑は嫁の悪口など、まちがっても言えなかっただろう。
言えば、その仕返しに何をされるか、わかったものではない。

……ということで、兄弟姉妹関係はもちろんのこと、その妻や夫とも、
よい関係をつくっておかねばならない。

フ〜〜〜ッと、ため息をついたところで、この話はおしまい。
人間関係って、むずかしい!
ほんとうに、むずかしい!


●墓穴を掘る(His or her own Destiny, made by him or herself)

小ずるい人の話を、先に書いた。
で、そういった小ずるい人は、やがて自分で墓穴を掘っていく。
最後には、みじめで孤独な人生が、そこに待っている。

というのも、その人の人生は、日々の積み重ねで決まる。
それが週となり、月となり、やがて人格となっていく。
小悪だからといって、それをけっして、あなどってはいけない。
小悪が積もりに積もって、その人は悪人になっていく。

そしてその結果は、その人自身がつくりあげていく。
俗にいう『自ら墓穴を掘る』ということになる。
だから昔の人は、こう言った。
「ちゃんと、お天道(てんとう)様が、見ていらっしゃる」と。

だから何も、私やあなたが相手にする必要はない。
大切なことは、そういう人たちとは、つきあわないこと。
つきあっても、得るものは何もない。
ないばかりか、かえってその人の邪気に染まってしまう。
とくに50歳を過ぎたら、人を選ぶ。
選んでつきあう。

これは、心豊かな老後を送るためにも、とても大切なことだと思う。

これから庭に除草剤をまかねばならない。
風はないし、絶好の焚き火日和(びより)。

おはようございます。
ただ今、時刻は、午前8時半。


●Can we trust C. Hill in the 6-nation conference about North Korean nuclear weapons 
development?  The answer should be "No"!

Let's start talking about C. Hill from the basical point of view. Only what he has 
done in the past is that he has just given North Korea, money, oil, music, food and 
time, while he has betrayed Japan each time and at last he rather threatened Japan, 
saying that Japan should join the partnership, or he dissolve the name of North Korea 
from the list of terrorists'nations. And he has done nothing for us. As long as C. 
Hill who is with optimistic lies, hostile to Japan, is a member of the conference,  
the relation between Japan and USA is getting worse and wrose. Therefore we don't  
hesitate to call him, "Kim Jong-Hill".

●私たちは、C・ヒルを信頼できるか? 答は、No」!

C・ヒルは、K国に、マネーと原油と音楽と食糧、それに(時間)を与えただけ。
日本をそのつど裏切りながら、あげくの果てには、日本がK国援助に加わらなければ、K
国をテロリスト支援国家のリストからはずすと、日本を脅した。
彼が日本のためになしたことは、何もない。
希望的憶測だけでものを言い、日本に対する敵対意識をもつC・ヒルが、6か国協議のメ
ンバーである限り、日米関係は、ますます悪化していく。
それ故に私たちは、C・ヒルを、「金・ジョン・ヒル」と呼ぶ。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 1月 5日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●割り箸事故

+++++++++++++++

割り箸がのどの奥に刺さって、
死んだ子どもがいた。
それについて、両親が、医療ミスと、
病院側を訴えた。

その判決が、昨日(08・12・2)
確定した。
判決は、無罪。
両親の気持ちもよく理解できるが、
医師がそこまで予見できたかというと、
それは無理ではなかったか。
医師に問われた罪としては、無罪。

私が陪審員なら、同じように判断した
だろうと思う。

+++++++++++++++

産経新聞(12・3)は、つぎのように伝える。

『東京都杉並区で平成11年、SSちゃん=当時(4)=が割りばしがのどに刺さって死
亡した事故で、医療ミスがあったとして、業務上過失致死罪に問われ、1、2審で無罪と
なったK大学付属病院(東京都M市)耳鼻咽喉(いんこう)科の当時の担当医、NH医師
(40)について、検察当局は上告を断念する方針を決めたもようだ。上告期限の4日に
最終決定する方針だが、憲法違反や判例違反などの上告理由が見当たらないためとみられ、
N医師の無罪が確定する』と。

幼児教育においては、鉛筆は、危険な道具である。
箸や棒も、そうである。
私自身も、「あわや!」という思う場面を、何度も経験している。

鉛筆を口にくわえて遊ぶ子ども。
鉛筆を手にもって走る子ども。
鉛筆をもったまま、「ハイ」と言って手をあげる子ども。

私はそういう子どもを、きびしく指導している。
「ハイ」と言って手をあげたとき、横の子どもの顔を、それでついたりする。
つまり子どもに、鉛筆はもちろん、箸、棒などをもたせたまま、歩いたり、走らせたり
しない。
(実際には、多くの幼稚園では、鉛筆での指導を避けている。)

が、たいへん不幸な事件が起きた。
当時4歳の子どもが、割り箸を口にくわえていて、ころんだ。
その割り箸の一部が、脳の奥まで届き、そのため、その子どもが死んでしまった。
たいへん不幸な事件であり、両親の気持ちを察するに、あまりあるものがある。

が、この事件でとても残念なことは、(子どもが割り箸を口にくわえていた)ことに対する
責任論はどこかへ消えてしまい、医師による医療ミス論(?)だけがひとり歩き
してしまったこと。
(だからといって、親の責任を問うているわけではない。誤解のないように!)

もちろん両親も苦しんだことだろう。
自分たちの不注意を悔んだことだろう。
子を失った悲しみ、つらさというのは、その親でないとわからない。
が、その一方で、医療にも限界がある。
今回の裁判でも、その(限界)が争点になった。
「はたして、そこまで予見は可能だったか」と。

裁判所は、「それは無理だった」という判断をくだしたことになるが、
しかし疑問が残らないわけではない。

こうした医療訴訟では、原告側が勝訴する例は、きわめて少ない。
原告側に立って、医療ミスを証言する専門家、つまり医師そのものがいない。
証言を頼んでも、ほとんどのばあい、仲間意識もあって、断られてしまう。
見方を変えれば、その両親は、こうした医療訴訟の(壁)を破ることが
できなかったということにもなる。

で、話は脱線するが、この記事を読みながら、私はふと、こんなことを考えた。
もしこの事件が、幼稚園とか保育園とかで起きていたとしたら、どうか、と。
そのときは、幼稚園や保育園の過失責任がきびしく問われていたにちがいない。
問われて、当然である。
そしてこのばあいは、幼稚園側なり、保育園側が無罪となる可能性は、きわめて小さい。

……これ以上のコメントはここでは書けないが、これだけは注意したほうがよい。

この事件は、けっして他人ごとですませてはいけないということ。
もしあなたの子どもが、日常的に箸や鉛筆、それに棒などを口にくわえて遊んで
いるようなら、きびしく注意したほうがよい。

これは本当にあった事件だが、昔、鉄製の火箸を両手にもって走っていた
子ども(当時、小学3年生くらい)がいた。
その子どもがころんだ。
両手にもった火箸が、両目につきささってしまった。
そのときのその子どもは、今に至るまで、失明している。

(付記)

私の教室では、鉛筆をもって歩いている子どもを見つけたら、
すかさず手に、チューをすることにしている。
「鉛筆をもって歩いたら、手にチューしてあげるよ」と、
いつも口癖のように言っている。
この方法により、私の教室では、鉛筆をもって歩きまわる子どもは、
ほとんどいない。
禁止命令を出したり、叱ったりするのは、私の教え方ではない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●子どもの携帯電話

++++++++++++++++

携帯電話の普及には、ものすごいものがある。
高校生の3分の1が、1日、3時間以上も
携帯電話を使っているという。

++++++++++++++++

大阪府が、府内の小中高の児童生徒計約1万3600人を対象に実施した調査結果に
よれば、つぎのようである。

1日に3時間以上携帯を使う中学生は18・2%、高校生は29・5%。
『メール受信時、3分以内の返信』を心がけている中学1年生は17・1%、
小6でも16・8%。
1日101回以上メールを送信するのは、最も多かった高1女子では、
8・0%に上った』(読売新聞・08・12・5)と。

つまり高校生の3分の1が、1日、3時間以上携帯を使い、高校1年生の女子のうち、
8%が、101回以上、メールを送信しているという。
授業中、机の下で携帯電話を使ってメールを交換している姿など、今では、
どこの学校でも見られる、ごくふつうの光景である。
しかしそれにしても、3時間とは!
そんなに使わなければならないような理由が、あるのだろうか。

ただこんなことは言える。
電話料が安くなったせいもあるが、私のばあいでも、このところ電話というと、
1時間前後話すのが、ふつうになってしまった。
ダラダラといつまでも話す習慣が身についてしまった。
簡潔に、短く、要点だけを話すという習慣そのものが、消えてしまった。

子どものころは、10分も話していると、横から親に、「やめなさい!」と、
よく言われた。
そのため電話をかけるということは、同時に時間との勝負でもあった。
それが今では、1時間。
電話を早く切ったりすると、かえって失礼ではないかと思うこともある。
相手の様子に合わせて、のんびりと話す。

もちろん電話と携帯電話のメールはちがう。
(声)と(文字)のちがいということになる。
が、である。
先日も、2人の高校生が一緒に歩きながら、たがいにメールを打ちあっている姿を
見かけた。
声では言えないことも、メールだと言えるということか?

そこで大阪府のH知事は、「ケータイ禁止令」なるものを発令した。
しかし今どき、携帯電話を禁止しても意味はない。
問題は携帯電話にあるのではなく、どう使うかという点にある。
つまり「ルールの問題」。

多くの学校では、校内への携帯電話の持ち込みを禁止している。
だったらそういうルールを徹底すればよい。
たとえば玄関のところに、携帯電話の保管場所のようなところを設置するなど。
その一方で、ルールを破ったら、即刻携帯電話を取りあげるとか、など。
緊急のばあいは、教師の許可を得て、携帯電話を使うというルールもある。

私は(ルールの徹底)で、この問題は解決できると思う。
「禁止令」まで出すのは、どこか独裁的。
相手が子どもだからといって、こういう傲慢なことはしてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子供と携帯電話 携帯電話 子どもと携帯電話 禁止命令)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【兄弟姉妹の確執】

++++++++++++++++++++++

BLOGのほうに、こんな書き込み(相談)があった。
ある女性からのものだった。
年齢は、わからない。

で、その人(女性)は、現在、姉との確執に苦しんでいるという。
その人は姉に会うだけで、情緒が不安定になるという。
その姉は現在、実家で、両親と、3人暮らし。
ときどき電話をかけてきて、「親を介護するために、私はがんばっている」とか、
「犠牲になっている」とか、愚痴(ぐち)を言う。
その愚痴が、時として、1〜2時間以上もつづく。
毎月、10万円前後の生活費などを仕送りしているのだが、
「それでは足りない」とも。

そのため法事などで、実家へ帰るのが、苦痛でならないという。
さらに最近では、電話がかかってくるたびに、「姉からではないか」と、
これまた不安になるという。

+++++++++++++++++++

そういう状態になるまでには、いろいろあったらしい。
家庭の事情というのは、複雑。
外から表面的な部分だけを見て、判断してはいけない。
が、かなりの重症である。
といっても、兄弟姉妹で、そういう関係になるのは珍しくない。
おおざっぱにみて、約50%の人たちが、そうであると、私はみている。
反対に、兄弟姉妹が仲がよいというケースは、今、さがさなければ
ならないほど、少ない。

では、どうするか?

この問題だけは、自然体で臨むしかない。
なるようにしかならない。
「兄弟だから……」「姉妹だから……」と自分を縛る必要はない。
(相手は縛ってくるだろうが……。)
自分を縛ってもいけない。

昔からこう言う
『兄弟は他人の始まり』と。

仲が悪いことを、「悪」と決めつけてはいけない。
「仲よくしよう」と考える必要もない。
自分を縛れば縛るほど、窮屈になるだけ。
ストレスもたまる。

むしろ兄弟姉妹のほうが、一度、その関係が崩れると、
他人以上の他人になる。
他人ならたがいに距離を置くことができる。
冷却期間を置くこともできる。
しかし兄弟姉妹となると、それができない。
関係は、ますますこじれる。

兄弟姉妹だけではない。
従兄弟(いとこ)についても、同じ。
が、さらにやっかいなのは、親子。
親をだます子は珍しくないが、世の中には、子をだます親もいる。
そういう親をもったとき、子は、その自我群の中で、悶絶する。

ふつうの苦しみではない。
いつ晴れるともわからない、悶々とした苦しみである。

それにこうした問題には、地域性がある。
たとえば私のワイフは、生まれも育ちも、この浜松市育ち。
7人の兄弟姉妹がいるが、みな、仲がよい。
ほんとうに仲がよい。
何かあると、みな、たがいに助けあう。

が、おもしろいことに、その一方で、従兄弟どうし(=私の息子の代)のつながりが、
きわめて希薄。
交流はほとんど、ない。

一方、私の郷里のG県のほうでは、叔父、叔母、伯父、伯母のつながりが、濃密。
従兄弟どうしのつきあいも、濃密。
(「濃密」といっても、仲がよいということではない。誤解のないように!)
うるさいほど、濃密。
こうした意識のちがいは、その地域だけにずっと住んでいる人には理解できない。

それがわからなければ、外国の人たちとも比較してみるとよい。
日本人の姿が、より鮮明にわかるようになる。

が、意外だったのは、アメリカ人というのは、(家族の輪)をたいへん大切に
しているということ。
二男の嫁のウィルソン一家にしても、みな、仲がよい。
ほんとうに仲がよい。

で、こうしてながめてみると、一般的に、権威主義的な家庭では、親子にせよ、
兄弟姉妹にせよ、その関係がおかしくなりやすいということ。
とくに注意したいのが、悪玉親意識。
親が親風を吹かす家ほど、関係が崩れやすい。
「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と。
恩着せがましいことを口にする親ほど、嫌われる。
家族の絆(きずな)を破壊する。

一方、親が民主的というか、平等主義の家ほど、兄弟姉妹は、仲がよい。
親が、兄弟姉妹の間に立って、うまくその関係を調整している。
「家族を大切にする」というのは、そういうことをいう。

図式化すると、こうなる。

(まずい例)


↓↓↓
子子子

(好ましい例)
子←→親←→子←→親←→子

日本人は、伝統的に、権威主義的なものの考え方をする。
江戸時代の封建制度の亡霊をそのまま引きずっている。
親絶対教の信者も、多い。

しかし今どき、権威主義など、クソくらえ!

【はやし浩司より、Cさんへ】

いただきましたコメントは、お申し出のとおり、公表しません。
ただCさんの家族構成だけは、紹介させてください。

Cさんの家族構成:

姉(郷里のF県在住、老いた両親と同居)、Cさん(隣のY県在住)、弟(東京在住)。
Cさんの家は、庄屋の流れをくむ、昔からの名家。
弟は、親と決裂。
この20年間、一度も郷里へは帰ってきていない。
近くの従兄弟の家まではくるときもあるが、そのまま東京へ帰ってしまう。
内密にCさんとは連絡を取りあっているが、そのことを知っているのは、
Cさんの母親だけ。
Cさんの父親も姉も、そのことを知らない。

私自身も、少し形がちがいますが、同じような状況に立たされています。
……立たされていました。
しかしあるときから、居直ることにしました。
なるようになれと、自分に言って聞かせるようにしました。
兄弟姉妹だから、……と、『ダカラ論』で、自分を責めてはいけません。
責める必要もありません。

仲が悪ければ悪いで、それでよいのです。
(もちろんあえて喧嘩する必要もありませんが……。)
どの家も外から見ると、みんなうまくいっているように見えますが、内情はさまざま。
兄弟姉妹が仲よくいっている家族など、5つに1つもないのでは?
つまりこれは、あなた自身の心のもち方の問題ということになります。
あなた自身が、自ら作り出している問題ということです。

大切なのは、あなた自身が、自らを家族自我群から解き放つことです。
ひとりで生きていく勇気をもつことです。
もっと言えば、「郷里は死んだ」と、自分にそう言って聞かせることです。
あなた自身が、心のどこかで郷里に依存している。
あるいはあなたは自分が悪者になるのを、恐れている(?)。
それが今、あなたを苦しめている(?)。

あなたにとって郷里は大切かもしれませんが、その郷里とは縁を切りなさい。
あなたの姉があなたの悪口を言っているとしても、気にしないこと。
あなたの郷里は、今住んでいる、Y県Y市です。
そこを中心に、ものを考えればよいのです。
英語の格言にも、『2人の人に、いい顔はできない』というのがあります。
これをもじると、『2つの郷里で、いい顔はできない』となります。
あなたのことを悪く言う人がいたら、言わせておけばよいのです。
どうせその程度の人たちなのですから……。

あとは適当につきあって、それですます。
やるべきことはやりながら、深入りはしない。

が、コツがあります。
いくらあなたの姉が愚痴をこぼしたとしても、あなたは夫以外には、愚痴を
こぼしてはいけません。
少し前に書きましたが、『小言を聞いて、怒るな。怒ったときは、小言を言うな』です。
あなたの姉と接するときは、それを肝に銘じてください。
愚痴を言っても、自分が不愉快になるだけ。
後味の悪さが、残るだけ。
問題は何も解決しません。
解決しないばかりか、かえって人間関係を複雑にすることもあります。

あなたのケースでキー・パーソンは、あなたの弟さんということになります。
ひょっとしたら、あなた以上に、あなたの弟は苦しんでいるかもしれません。
一度、弟さんの立場になって、弟さんと話しあってみることです。
それだけでも、気が休まるかもしれません。

しかしやがてすぐ、この問題は解決します。
今は、遅々として、ものごとが進んでいかないように見えるかもしれませんが、
終わってみると、あっという間のできごと。
水が低い場所を求めて、自然と流れていくように、やがて落ち着くところに
落ち着きます。
大切なことは、ジタバタしないこと。
考えすぎないこと。
静かに時の流れの中に、身を任せます。
郷里の人たちだって、あなたが思っているほど、あなたたがたのことを考えてはいません。
遠く離れているから、郷里の人たちの心がわからないだけです。

あなたにとってはつらいことかもしれませんが、将来、あなたの姉が、独居老人に
なったところで、それはしかたのないこと。
またそんな先のことまでは、悩まないこと。
そのときがきたら、そのとき。
そのとき考えればよいのです。
無駄な取り越し苦労はしないこと!

今は、レベルの高い人たちと交際して、旅行をして、音楽を聴いて、本を読んで、
自分を磨いておくことです。
(映画鑑賞も楽しいですよ。)
その心の余裕が、いつかあなたを救ってくれます。
つまりあなたの姉が、やがてバカ(失礼!)に見えてくればしめたもの。
そのときあなたは、あなたの姉を乗り越え、今の問題を解決することができます。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●12月6日

+++++++++++++++++++

このところ怖い夢を見て、夜中に目が覚める
ことがある。
睡眠時無呼吸症候群(SAS)※ではないかと思う。
目が覚めたとき、息が苦しく、ハーハーと深呼吸を
繰り返すので、そう思う。

知人の1人もそうだったが、体重を80キロから
70キロに減らしたら、それが治ったという。
どういう因果関係があるのか、私にはわからないが、
肥満はよくないらしい。
もう少し体重を減らしてみよう。

そういえば、母の四九日忌の法事が終わったあといから、
食事の量がふえた。
体重も、63キロ台から、65キロ台に!

少しリバウンドが、始まっているのかもしれない。

++++++++++++++++++++++

●正直

最近、私にこう言う人がいる。
「お母さんが亡くなって、さぞかし、つらいことでしょう?」と。
で、そういうとき、私も一応、世間体を気にして、「そうですね」「ご心配、
ありがとうございます」と答えるようにしている。……していた。

しかしどうも居心地が悪い。
ウソではないが、しかし私は私の心を偽っている(?)。
母が死んで、「つらい」と思ったことは、この2か月、一度もない。
正直に告白すれば、私は、ほっとしている。
心の重荷が取れたよう。
この安堵感は、どこからくるものなのか。
しかしほっとしているのは、事実。

私と母の関係は、古くは、私が高校生のときに切れている。
それに私はワイフと結婚してからも、マザコン・タイプの男だったが、
それは愛情に根ざしたものではない。
愛情があったから、母を大切にしていたわけではない。
つまりは、母に、そうインプットされていただけ。

加えて母は、92歳だった。
天命とか、寿命とかいう言葉を使う人もいる。
介護もたいへんだったが、兄の分もあり、費用の負担も大きかった。
だから一方で、「100歳までは、しかたないかな」と思いつつも、
「100歳を超えたらどうしよう」とも思っていた。
母が100歳になれば、私は70歳近くになっている。
それまで私のほうが生きているという保証はない。
だからほっとした。
少なくとも、今は、森S一が歌う『おふくろさん』のような心境ではない。
(この先のことはわからないが……。)

ただひとつの(けじめ)として、葬儀、法事だけはしっかりとした。
母の戒名には、「院号」をつけてもらった。
母のためというよりは、親戚縁者の心を休めるために、そうした。
不要な波風を立てるのは、最小限にしたい。
仏壇を新調したのも、そのため。

それからこれは私の性分だが、何でもきちんと、一通りそろっていないと、
気がすまない。
それで今日も、仏壇屋に行って、あれこれと品をそろえてきた。
たとえば「精入れ」の儀式にしても、私の宗派では、赤いローソクが
必要という。
私は先日、それを捨ててしまった。
「クリスマスか何かのローソク」と思ってしまった。
それを住職に電話で話すと、住職は明るい声で笑った。
(ああいう住職となら、この先、仲よくできそう!)
ほかに香をたく道具一式、金ぴかの供物置き、などなど。

で、このエッセーのタイトルは、『正直』。
その正直について、書く。

以前にもその人のことを書いたが、その人の父親も、当時、特別養護老人
ホームに入っていた。
そこで私が「見舞いに行きますか?」と聞くと、その人は笑いながら、
こう言った。
「いいや……。この3か月、行ってないかなあ……。6か月になるかも
しれない」と。

私はその人の言葉に、すがすがしいものを感じた。
ふつうなら、自分が親不幸者と思われるのがいやで、こういうばあい、
適当なウソをつく。
しかしその人は、正直に、そう言った。
その言葉を聞いて、私はその人がますます好きになった。
というのも、中には、表面的な関係だけをみて、相手を判断する人がいる。
「あの人は、親の見舞いにも、きちんと言っていない」
「だから親不孝者だ」と。
そして自分も、その表面的な関係だけをとりつくろって、それでよしとする。

私はそういう偽善が、大嫌い。
偽善者が、大嫌い。
見聞きしただけで、ヘドが出る。

だから私は、これからは正直に言うことにする。
書くときも、そうだ。

私は兄や母が死んで、ほっとしている。
重圧感から解放されて、ほっとしている。
どうして、そう感ずることが悪いことなのか!
(ときどきふと、さみしく思うことはあるが……、しかしその程度。)

(補注※)「睡眠時無呼吸症候群」について

『SAS(睡眠時無呼吸症候群)NET』は、つぎのように説明している。

(病気)

私たちの睡眠を妨げる要因のひとつとして最近注目されている病気に、睡眠時無呼吸症候
群があります。文字どおり、眠っているときに無呼吸状態になる病気で、SAS (Sleep Apnea 
Syndrome)とも呼ばれています。

無呼吸状態とは、呼吸が10秒以上止まっていることを指し、この状態が7時間に30回
以上、あるいは1時間あたり5回以上あると睡眠時無呼吸症候群(SAS)となります。

(原因、睡眠時無呼吸症候群になりやすい人)

太っていてあごや首に脂肪がついている
アデノイドなどの病気により、扁桃が肥大している
花粉症やアレルギーなどで、鼻が詰まりやすい
アゴが小さい
アルコールの摂取により筋肉がゆるんで、のどがふさがりやすくなる


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08+++++++++はやし浩司

●アメリカがデフォルト(債務不履行)に!

+++++++++++++++++

オバマ大統領は、就任直後、デフォルトを
宣言するらしい。
そんなニュースが、あちこちの
経済サイトに載り始めた。

デフォルト、つまり債務不履行=国家破綻。

しかしアメリカがデフォルトしたら、世界経済は、
さらに大きな激震に見舞われることになる。
サブプライム・ショック程度ではすまないだろう。

株価はどん底から、さらにその下のどん底に向かう。
たとえば先日、1億円の財産を1000万円にしてしまった女性がいた。
その女性は、それを嘆いていた。
しかしまだそれでもよいほう。
へたをすれば、その1000万円が、つぎには、
100万円になってしまうかもしれない。

アメリカがデフォルトするというのは、そういう意味である。

++++++++++++++++++

実のところ、今、この瞬間にアメリカがデフォルトしても、何もおかしくない。
アメリカの貿易赤字は、天文学的数字を、何倍も超えている。
しかし一方で、アメリカ・ドルは、基軸通貨としての地位を保っている。
かろうじて、……というか、ほかにそれに代わる通貨が、今のところまだ、ない。
しかしもしアメリカがデフォルトするようなことになると、日本経済もそのまま
奈落の底に叩き落とされることになる。
今まで懸命にためこんできたドル資産が、紙くず同然になってしまう。

で、そのあとのことだが、世界の二極化は一気に進む。
(これは私の素人予測だから、あまり気にしないで、読んでほしい。)
勝ち組と負け組に2つに大きく分かれる。

勝ち組として残るのは、このアジアでは、日本と中国。
残りの国々は、負け組として、アメリカと運命を共にする。
ヨーロッパでは、ドイツとロシアが残る。

が、問題は、そのあと。
負け組の国々の政情が、これまた一気に不安定化する。
むしろ、こちらのほうが怖ろしい。
テロも続発し、規模も拡大するだろう。
テロリストたちが核兵器を使うことも、考えられる。
いちばんあぶないのは、テルアビブ(イスラエル)、東京、ソウル(韓国)、
それにワシントン(アメリカ)。

その対策は、きちんとできているのか?
もしアメリカがデフォルトすれば、日本は後ろ盾を失うことになる。
アジアの中で、孤立することになる。
そのとき日本は、単独で、中国やK国と対峙しなければならない。
その能力は、あるのか。

オバマ大統領は、まず一度、アメリカ経済を清算した上で、
経済再建を考えている。
ひとつの家にたとえるなら、一度自己破産を宣言して、借金をチャラに
した上で、つぎの策を考えている。

……少しずつだが、オバマ大統領の政策が見えてきた。
ズルズルと重荷を背負って大統領職をつづけるよりも、そのほうが楽。
すべての責任はすべて、ブッシュ大統領にかぶせることができる。

その鍵を握るのが、ビッグ3の再建策。
オバマは、ビッグ3を切い捨てたあと、デフォルトを宣言する。
私はそう読んだ。

2009年は、アメリカのみならず、世界経済にとっても、たいへんな
年になりそうである。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●映画『WALL−E』を見る

+++++++++++++++++

昨夜、仕事が終わったとき、ワイフが迎えに来てくれた。
で、それをよいことに、つまり、そのまま2人で映画館へ足を運んだ。
見たのは、『WALL−E』。
アメリカに住む孫が、先日、ワォーリーのおもちゃをもっていたので、
それ以来、ずっと気になっていた。

『WALL−E』は、『ニモ』に似た、子ども向けの映画。
おとなも楽しめるが、やはり、どこか物足りない。
童心に返るといっても、そこには限界がある。
で、星は、3つの★★★。
子どもなら、星を5つつけるだろう。

見所は、ロボットの表情。
ウォーリィはしぐさで、イーバアも目だけで、それぞれの心を
表現していた。
それがちゃんと観客に伝わってくるから、不思議!

が、あまりほめてばかりいては、評論にならないので、ワイフの
意見を紹介する。

(1)登場する人間が、大統領も含めて、みんなバカみたい。
(2)宇宙船に行くときは、ロケット噴射で、帰りは、ワープ航法で、
矛盾している。

つぎに見たい映画は、『地球が静止する日』『ミラーズ』『ザ・ムーン』。
この3本は、必ず映画館で見る!

なお映画に行くとき、少し時間があったので、駅前のBカメラへ。
そこでワイフは、ポータブルのDVDプレーヤーを買った。

さっそく家に帰って、それを使ってみた。
2人でふとんの中で、ロシア映画を見た。
おかげで今朝は、朝から軽い偏頭痛。
朝方(Zミック)を半錠のんで、また寝なおす。

おかげで偏頭痛は消えた。
快適な朝だ。
しかし時計を見ると、午前10時!
こうして私の週末は、はじまった。

(注)「Zミック」(ゾーミック)というのは、偏頭痛用の薬。
たいへんよく効く。
ただし血管を収縮させる副作用があるので、私は加減をみながら、
量を決めて服用している。
また常用は危険とのこと。
医師とよく相談して服用するのがよい。
私のばあい、「あぶないかな?」と思ったときは、4分の1〜8分の1を、
予防的にのんでいる。
(偏頭痛が起こる前には、それなりの前兆があるのでわかる。)
1錠を丸々のむようなことは、めったにない。

なお偏頭痛薬をのむときは、ほかのハーブ系の精神安定剤を同時にのむと
よいのでは……?
私はいつもそうしている。

若いころは、原因もわからず、当然、治療法も薬もなく、偏頭痛に苦しんだ。
一時は脳腫瘍を疑われたこともある。
ここ10年は、すぐれた薬が開発され、私は偏頭痛から解放された。


●仏壇が入る

+++++++++++++++++

今日、私の家に仏壇が入った。
金仏壇といって、金箔が張りめぐらしてある。
私の家の宗派では、その金仏壇を使う。
見た目には、豪華な仏壇である。
ひょっとしたら、私の宗派は、もとは、公家(くげ)専用?

いや、そんなはずはない。
宗祖は、親鸞である。
どうして親鸞を宗祖とする宗派が、こんな豪華な
仏壇を使うのだろう。

ともかくも、何となく一人前になった感じがしたのは、
子どものころから仏壇を見て育ったせいかもしれない。
家も仏壇があって、一人前?
心のどこかで、ふと、そう思った。

+++++++++++++++++

●心の余裕

心の余裕は、お金の余裕と似ている?
ありあまるほどのお金をもっている人は、多少の損失など、気にしない。
昔から『金持ち、喧嘩せず』という。
おおらかに構えて、ハハハと笑ってすます。
(今の私のように……。←これはウソ。)

一方、その日の生活費にこと欠くような人は、当然のことながら、
お金にうるさい。
こまかい。
お金では幸福は買えないが、お金がないと、不幸になる。
「貧乏」といっても、それには限度がある。
食べ物もじゅうぶん買えないとなると、ことは深刻。
また1か月や2か月なら、何とか耐えられるが、1年、2年となると、
そうはいかない。
それが10年もつづいたりすると、ものの考え方そのものが、ゆがんでくる。
そういう意味で、貧乏は、幸福の大敵。

では心の余裕は、どうか?

恩師の田丸謙二先生は、いつもこう言っている。
「レベルの高い人と交際しなさい」と。

先生の言葉には、2つの意味がある。
ひとつは、自分を高めるため。
もうひとつは、心に余裕をもつため。

わかりやすい例で、説明してみよう。

たとえば音楽。
ときとしてすばらしい音楽に出会ったりすると、聴いているだけで
涙がポロポロとこぼれたりする。
それだけで心がシャワーか何かで、洗われていくかのように感じたりする。
崇高な気分になることもある。
このばあいは、すばらしい音楽が、自分を高めたことになる。

同時に、どういうのがすばらしい音楽で、またどういうのが
そうでないかを知ることができる。
音楽を聞き分けることができるようになる。
つまりこれが(心の余裕)ということになる。
重要な問題と、つまらない問題を、的確に判断できるようになる。
つまらない問題は、つまらない問題として、処理できるようになる。

こんなことがあった。

ある法事に顔を出したときのこと。
1人の女性(65歳くらい)が、孫娘に、お茶を出させていた。
一見ほほえましい光景に見えたが、孫娘の横で、その女性はこう言っていた。
「いいこと、お茶碗の絵柄は、相手の人に向けて出すのよ」と。

今どき、そんなことをこまごまと言う人がいるということ自体、
信じられない。
また絵柄といっても、安っぽい、印刷物。
茶碗12個で、1000円程度。
そんな茶碗に、絵柄もなにも、ない。
私はそれを聞いて、思わずフフと笑ってしまった(失礼!)。

「絵柄」というのは、それなりの絵柄をいう。
一客、数十万円もするような茶碗なら、そういうこともあるかもしれない。
そのおかしさがわからなければ、こう言いかえてもよい。

「自動販売機で買ってきたコーヒーなどを人に渡すときは、
ブランド名を相手側に向けて渡すのよ」と。

心の余裕のない人というのは、そういう人のことをいう。

では、どうするか?

心の余裕をつくるためには、日ごろから、音楽に親しんだり、
本を読んだりする。
いつも新しい情報に接し、見聞を広めていく。
レベルの高い人といっても、そうは出会えるものではない。
そのかわりとして、文化や芸術がある。
それ自体は、何の利益ももたらさないが、利益がないからこそ、
価値がある。

反対にこんな人を考えてみればよい。
朝から晩まで、考えることといえば、小銭を稼ぐことだけ。
他人のために働くとしても、どこか打算的。
他人の目を意識して、そうする。
このタイプの人は、当然、心の余裕がない人ということになる。

言うなれば、心の余裕というのは、いざというときのための
心の貯金のようなもの。
その貯金があれば、いざというとき、動ずることなく、そのことに
対処できる。
そうでない人は、そうでない。
『浅瀬に仇波(あだなみ)』というのは、そういう人をさして言う。
つまりささいなことで、大騒ぎする。

もし今、あなたが平和で豊かな生活を楽しんでいるなら、今こそ、
心の余裕を作るときと考えたらよい。
けっして享楽的になったり、その余裕を浪費するようなことをしては
いけない。
(その点も、お金と似ているが……。)
……とまあ、偉そうなことを書いてしまったが、これは私の努力目標
でもある。

この先、何があるかわからない。
田丸謙二先生は、先日、私にこう言った。
「年を取れば取るほど、健康は不可逆的に悪くなります」と。
60歳を過ぎれば、肉体の健康にせよ、精神、脳みその健康にせよ、
今よりよくなることなど、ありえない。
そうなったとき、自分をどう維持するか。
余裕をもって、それに対処できるか。
それとも狼狽(ろうばい)し、あわてふためくか。
これは私たちにとって、たいへん深刻な問題と考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●権威主義(家意識、金権教)

++++++++++++++++++++

実は、私も、若いころは権威主義者だった。
「男は上、女は下」「夫は上、妻は下」と。
しかしこうした権威主義は、オーストラリア
では通用しない。
留学時代を通して、粉々に粉砕されてしまった。

で、今、郷里へ帰るたびに、いまだに権威主義が、
のさばっているのを知る。
たった数歳年上というだけで、年長風を吹かす。
そこでふと、こんなことを考える。

もし私があのままこの郷里に残っていたら、
私は今でも権威主義者のまま、愚かな行為を
繰り返しているだろう、と。

それは私にとっては、ぞっとするほど、
恐ろしいことでもある。

++++++++++++++++++++

●大きな家

親戚が集まった席で、こんな話が出た。
その人の消息を聞くと、「あの人は、○○市で、大きな家を建てなさった」とか、
「今は、郊外に立派な家を建てて、そこに住んでおられる」とか、など。

郷里では、家の大きさが、その人のステータスになっているらしい。
(家の大きさ)が、何かにつけて、話題になる。

……といっても、その感覚が理解できないわけではない。
私の体のどこかにも、そういう感覚が染みついている。
遠い遠い昔の(シミ)かもしれないが、たしかに、それは残っている。
私も子どものころ、大きな家にあこがれた。

しかし家の大きさで、その人の価値が決まるわけではない。
実に愚かでバカげた発想だが、そういう世界にどっぷりとつかっている人には、
それがわからない。
「あの人は偉い」と、「偉い」という言葉を平気でそれに添える。

(たとえば土地区画整理か何かの対象になって、莫大な補償金を手にして大きな家を
建てる人も、少なくない。
私が住んでいるこのあたりにも、そういう人は、多い。
そういう人も、はたして「偉い」というのか。)

(家意識)というのは、それをいう。
(家父長意識)も、そこから生まれる。
まさに権威主義の始まりである。

で、そういうとき、私の頭の中で、バチバチと火花が飛ぶのがわかる。
脳みそがショートする。

●金権教

金権教も似たようなもの。
私のばあい、幸か不幸か、学生時代、世界中から集まった皇族、王族の連中と
寝起きを共にした。
ふつうの金持ちではない。
その国の大使館の館員が、常時護衛につくような金持ちである。
そういう金持ちたちを見ているから、今、多少の金持ちを見ても、驚かない。

友人のP君にしても、今は、レーシングカー・チームをもち、世界中を
飛び回っている。
先日、彼のBLOGを見たら、イギリスで、一台1億1000万円もする、
ロータスEを、10台まとめて購入したとある。
そういう人を、金持ちという。

どうせ金権教を信奉するなら、その程度の金持ちになったらよい。
が、もしそれが無理というのなら、金権教など、早めに捨てたほうがよい。
多少の小銭を集めたくらいで威張っている人を見ると、笑えてくる。

(家意識)も似たようなもの。

話をつづけるが、私の隣の部屋にいた、ディヨン君(偽名だった。本名は
ソルマルディ君)は、現在、ジャカルタの1の1で、王様をしている。
当時は王子だったが、そういう人が(家意識)をもつなら、話はわかる。
そこらの人が、自意識過剰のまま、家意識にこだわるから、おかしい。

が、私の郷里では、いまだにその(家意識)が、残っている。
そしてそれが時折、顔を出す。
私はそういう人たちの話に、どう反応したらよいのか。

一方、恩師の田丸謙二先生の家は、鎌倉市の郊外にある。
今度娘さん夫婦が、隣に家を新築して同居することになったという。
が、少なくとも今現在は、古い、ペンキがはげたような家である。

世界国際触媒学会の会長なども歴任し、天皇陛下とテニスをするような
先生でも、そんな家である。
もし私の郷里の人たちが見たら、「みすぼらしい家」と思うにちがいない。
しかしそう思う方が、バカ。
本物の世間を知らない。
少しは自分に恥じたらよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
家意識、金権教)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●高1の歴史

高校1年のDさんが、こんな問題をもってきた。
世界史の問題である。

【問1】五胡のうち、匈奴の別種といわれる、山西に居住した民族は何か。
【問2】九品中正により豪族の高級官職独占が進み、門閥貴族が出現した。
このことを嘆じた言葉を記せ。
【問3】北魏の村落制度で、均田制実施のための戸籍調査や徴税を担当した
ものを何というか。

残念ながら、私には1問もわからなかった。
とくに問2の、「嘆じた言葉」というのは、わからない。
わからないというより、わかるはずがない。
が、同時にこうも思った。
「こんなことを暗記して、何になるのか」と。
まさに暗記のための暗記。

私が、「こんなむずかしいことをしているの?」と聞くと、その生徒は、「別に……」と。
「教科書を調べれば、すぐわかる」と。

フ〜〜ン?

私も高校生のとき、受験科目に世界史を選んだ。
どこかで一度は、暗記したはず。
しかし脳みそのどこをひっくり返しても、そんなことを暗記した記憶さえない。
完ぺきに忘れてしまっている。
これはどういうことか?

言い換えると、こんな例もある。

ある人(50歳くらい、男性)が「林」を、ローマ字で、「HAYASI」と書いた。
ヘボン式、つまり発音どおりに表記すれば、「HAYASHI」が正しい。
その人はどこかの大学も出ているはず。
私はそのとき、「この人は、ローマ字も正しく書けないのか」と驚いた(失礼!)。

しかしよくよく考えてみれば、これは当然のこと。
大学を出たあと、英語に親しんでいれば、そういうこともなかったかもしれない。
しかしその人は、英語とは無縁の世界に入ってしまった。

一方、私はそのあと、30年近く、高校生に英語を教えてきた。
英語が、多少なりとも、(できる)のは、当たり前。
が、世界史はどうか?

高校を卒業すると同時に遠ざかってしまった。
それが先の結果である。
1問もわからなかった。
が、もしそのあと、世界史に少しでも親しんでいれば、今でも覚えているかも
しれない。

このことは重要な教訓を、私たちに与えている。
つまり『教育とは、学校で学んだことをすべて忘れてしまったあとに、
残っているものをいう』と。
アインシュタインも、同じようなことを言っている。

世界史について言えば、「中国って、すごい国なんだなあ」という思い。
その思いが、「残っている教育」ということになる。
そしてこんなことも言える。

ただの暗記のための暗記科目など、学んでも意味がないということ。
はっきり言えば、時間の無駄。
その無駄のために、高校生たちは、それが教育と信じ込まされて、学校へ
通っている(?)。
このことは幼児を見ればわかる。

年長児でも、掛け算の九九をペラペラと口にする子どもがいる。
親は、「うちの子は、掛け算ができる」と喜んでいるが、それができたからといって、
算数の力(=数を考える力)があるということにはならない。

私はその問題を見ながら、改めて「教育とは何か」、それを考えさせられた。
「九品中正」にしても、何も中国の歴史に学ばなくても、現在の日本を見れば
わかる。
政治家の世襲制は当たり前。
高級官僚たちは、したい放題のことをしている。
この不況下にあって、わが世の春を謳歌している。

私「そんなことは、インターネットで調べれば、即座に答がわかるよ」
生「それじゃ、勉強にならない」
私「あのね、そんなすぐ忘れるようなことを暗記しても、意味はないよ」
生「そんなことを、先生が言ったら、おしまいだよ」
私「でも、ぼくは、そう思う」と。

私が社会科の教師なら、教科書なんか捨てて、みなで、映画『レッド・クリフ』を
見に行く。
そのほうがよほど強いインパクトを子どもたちに与えるはず。
それをきっかけに、私たち夫婦のように、「三国志」に興味をもち、ついでに中国の
勉強をしなおすかもしれない。
あるいは中国を見直すようになるかもしれない。

しかしそれにしても、今、高校では、こんなくだらないことを教えているのだろうか。
実にくだらない。
高校の先生もたいへんだなあと思ったところで、この話は、おしまい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●浜松と岐阜

先ほど、岐阜から浜松へ帰ってきた。
気のせいか、浜松のほうが、ずっと暖かい。
空気そのものがもつ、冷気の重さそのものがちがう。
岐阜のほうでは、体の芯までつんと、冷気が
入ってくる。

それにもう一つ驚いたこと。
岐阜の街の大通りに、「テナント募集」の張り紙をした、
空ビルや空事務所、それに空店が、かなり目立ったこと。
バスからぼんやりとながめていたが、「次々……」
という感じだった。

また駅前の整備が、ほとんどといってよいほど、進んでいなかった。
雑然としていて、どこかさびれた田舎町といったふうだった。

たとえばJRの岐阜駅から、空中回路ができていたが、
仙台駅で見るような、センスのよさはない。
長い横断歩道を、いくつも無造作につなげただけという感じ。

浜松のほうも景気は悪いとはいうものの、岐阜と
くらべたら、はるかに活気がある。
街を歩く人も、どこかハツラツとしている。

(こんなことを書くと、岐阜の人は怒るかもしれない。
しかし怒る前に、一度、浜松のほうまで足を延ばしてみたらよい。
私の言っていることがウソでないと、わかるはず。)

では、なぜこうなってしまったか。

私が学生時代のころは、岐阜市は、既製服の町として知られていた。
駅前には、既製服の問屋が、ところ狭しと、ズラリと並んでいた。
その既製服がだめになった。
だめになったというより、韓国、台湾、中国に追いあげられるようになった。

が、その転換が、うまくできなかった。
それだけ変化が急だったとも言える。
あるいは先見の明がなかったとも言える。
一時は高級品化をねらったというが、バブル経済崩壊で、それが裏目に
出てしまったとも聞いている。

今ではあの柳ケ瀬(歌にもなった、岐阜市第一の歓楽街)は、見る影もない。
そのあたりも今は、空ビル、空事務所、空店が、ズラズラと並んでいる!

では、どうするか?

岐阜市が名古屋市のベッドタウン化するのはしかたないとしても、
岐阜市がだめになると、その周辺の中規模の町がだめになる。
さらにその中規模の町周辺の、小規模の町がだめになる。
よい例が、岐阜市→関市→美濃市の関係である。
それぞれが、その上の町に依存している。
だから岐阜市がだめになると、関市がだめになる。
関市がだめになると、美濃市がだめになる。

美濃市にしても、昔は製紙業の町として栄えたときもあった。
が、今は、さらにその昔にさかのぼって、和紙の町として、
つまり観光で生きるしかない町になってしまった。

ところが岐阜市も、観光都市として生きる道を選んでしまった。
関市については知らないが、美濃市、さらに郡上(ぐじょう)まで
観光として生きる道を選んでしまった。
岐阜市がこのざまだから、あとは共(とも)食い、あるのみ。

「観光」「観光」といっても、いったい、だれが来るのか?
どこから来るのか?

私も観光バスで、そうした観光地をよく回るが、観光客というのは、
それほどお金を落とさない。
使う場所というのも、限られている。
みやげもの屋か、食堂と、決まっている。
金額そのものが、知れている。
さらに言えば、よほどのことがないかぎり、リピートしない。
たいてい1回ポッキリ。
これだけ似たような観光地がふえてくると、「1回でたくさん」となる。

……と書くと、お先真っ暗ということになる(ホント!)。
だったら、私なら、外国をねらう。
外国人観光客をねらう。
とくに中国、台湾からの観光客をねらう。
外国人が来るようになると、それが誘い水となって、日本人もやってくる。
となると、国際性ということになる。
案内書も道案内も、英語での表記は常識。
つまりこうした国際性をもたないかぎり、観光地に未来はない。

しかし美濃市もいろいろ努力はしているようだ。
夕暮れになると、街のあちこちに、和紙でつくった行灯(あんどん)が並ぶ。
今は少し寒いが、春の陽気がもどってくれば、ロマンチックな夜を
かもしだしてくれるはず。

お勧めのコースは、市内、もしくは郊外の旅館に泊まって、町の中を
夕刻から夜にかけて、散策すること。
みやげもの屋もふえた。

ついでに一言。
美濃市へ行ったら、観光マップ(美濃市発行)の、左下隅の家に注目
してほしい。
それが私の実家である。


●長良川

私がいる旅館から、ちょうど真下に長良川が見える。
その長良川が、旅館の下あたりで、ゆるやかに西に曲がる。
そのため、旅館の窓から、長良川上流が、あたかも橋の上に
いるかのように、よく見える。
その先は、郡上踊り(かわさき)でよく知られている郡上(ぐじょう)、
天下の清流として知られている板取川(いたどりがわ)へとつづく。

対岸の山々は、ちょうど紅葉のまっさかりで、色とりどり
の秋の葉が、朝日を浴びて、ゆっくりと光り始めた。
風呂から戻ってきたワイフもそれに気がついて、「あらっ」と言っただけで、
窓の外に見とれていた。

私はこの美濃市で、18年間を過ごした。
高校を卒業するまでの18年間である。
で、この旅館に来て驚いたことに、私の実家が、町の案内マップに載っていた!
いちばん下の隅だったが、私の家とすぐわかった。
そう言えば、一度、市の役人が、あの家を買いたいといってきたという話を、
姉から聞いたことがある。
大正時代の商家として、たいへん珍しい建物だそうだ。

もちろん好んで、その建物を保存しようとして保存してきたわけではない。
それだけの財力がなかったから、そのままにしてきただけ。

そう、あの家は遺産などではない。
遺産として残すためにがんばった家ではない。
あの家は、私の祖父母が住み、両親が住み、兄が住んだ家である。
そこには無数のドラマがある。
そのドラマがしみついている。
繰り返しになるが、「遺産にしたい」などとは、考えたことはない。
もしじゅうぶんなお金があれば、みな、とっくの昔に、家を建てなおして
いただろう。
が、それがなかった。
みな、苦しい家計と戦いながら、細々と今日まで生きてきた。

建物というのは、たとえて言うなら、空箱のようなもの。
観光客は、その空箱だけを見て、それぞれがそれぞれの空想を働かせる。
しかしそれほど、無責任で、いいかげんな見方もない。

私はそのマップを見ながら、「みんなが守ってきたのは、いったい
何なのか」と、考えた。
みんなというのは、私の家族も含めてという意味だが、「いったい何なのか」と。
みんな、どれもこれも、煙のように消えてしまった。

が、その一方で、変わらなかったものもあるはず。
目の前の山々の景色がそうだ。
川の流れがそうだ。
が、私には、それがわからなかった。
子どものころ、そういう変化に、私はまったく気づかなかった。
気づいていたかもしれないが、関心がなかった。
ときどき母が、「紅葉を見に行こう」と誘ってくれたが、私はいつも、
それを断っていた。

が、今、「子どものころも、こんなに美しかったのか」と。

改めて、長良川の美しさに、心を奪われる。

(追記)
その美濃の町から、私たちはバスに乗った。
とたん、窓の外の景色が、まるでタイムトンネルか何かを潜り抜けるように、
パラパラと動き出した。
古い時代から、新しい時代へ。
10年、20年、30年……、と。
祖父や両親がいた時代から、今の時代へ。
不思議な感覚だった。

美濃の町は美しいが、私は子どものころ、いつも息苦しさを覚えていた。
周囲を山に囲まれているだけが、理由ではない。
何をするにも、近所の人や親類の人たちが干渉してきた。
それは(人のやさしさ)であると同時に、(体をしめつけるロープ)の
ようでもあった。

この町では、「私は私」という生き方を許してくれない。
認めてもくれない。
そんなことをすれば、即座に、あの町からはじき飛ばされてしまう。
だからみな、面従腹背というか、仮面をかぶって生きていく。
本音と建前を巧みに使い分けて、生きていく。
腹の中では、「コノヤロー」と思っていても、ニコニコ笑いながら、
「こんにちは!」と言って、声をかけあう。

そういう芸当ができない人は、この町には住めない。

……というよう話を、旅館の仲居さんと話したら、仲居さんは、
こう言って笑った。

「そんなことありませんよ」「みんな、本音で生きていますよ」と。

しかしそれは美濃の町を知らない人か、あるいは美濃の町から一歩も
外へ出たことがない人の言う言葉(失礼!)。
あるいは外国を知らない人の言う言葉(失礼!)。
あるいはきわめて恵まれた家庭環境で育った人の言う言葉(失礼!)。

古い町並みを見て、「すてき!」と思うと同時に、
その町並みの向こうにある、陰の文化を、ほんの少しでも感じ取って
もらえれば、私はうれしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●緑風荘(岐阜県美濃市、緑風荘)

岐阜県美濃市の長良川沿いに、緑風荘(りょくふうそう)という名前の旅館がある。
美濃市では、イチ押しの旅館である。
美濃市というより、この長良川一帯で、と言ったほうがよいかもしれない。
料金も安い。
ビジネス料理で、1泊8500円〜から(08年末)。
窓から、長良川の上流が、一望できる。

私は郷里の美濃市へ行くたびに、この旅館に泊まる。
泊まるたびに、言いようのない喜びを感ずる。
それには、こんな理由がある。

私は子どものころ、その長良川で泳いで育った。
まだ貧しい時代で、旅館に泊まるなどということは、夢のまた夢。
そんな時代に、いつもこのあたりを泳ぎながら、緑風荘を見あげていた。
「いつかは泊まってみたい」と、心のどこかで思っていた。
そのことはよく覚えていないが、今、こうして喜びを感ずるところからして、
そう思っていたことには、まちがいはない。

……実は今、その緑風荘に泊まっている。
今日は、兄と母の法事で、この美濃市にやってきた。
そしていつものように、この緑風荘に泊まった。
繰り返すが、よい旅館である。
料理はおいしいし、サービスもよい。
ここへ来ると、実家へ帰ったかのような安堵感を覚える。

で、ワイフは、すでにイビキをかいて、横で眠っている。
私は暗い電灯のもとで、こうしてパソコンを叩いている。
この雰囲気がよい。
この雰囲気が好き。
この旅館の常連客になって、もう30年近くになる。

岐阜県美濃市、緑風荘。

夏場は、すぐ下の長良川で、終日、泳ぐことができる。
少し料金を追加すると、鮎料理なども食べさせてくれる。
予約は早めに。
(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
岐阜県 美濃市 緑風荘 長良川 和紙の町 和紙 はやし浩司)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●質素革命

冠婚葬祭については、地域差がはげしい。
概して言えば、愛知県、岐阜県は、冠婚葬祭が、派手。
静岡県は、それに比較して、質素。

私はこと冠婚葬祭については、質素にやればよいと考える。
内々の人たちだけが集まって、それを喜んだり、悲しんだりすればよい。
お金をかければ、それでよいというものでもない。
しかしそれには、かなりの勇気が必要。
確固たる人生観が必要。

今回も母の四九日の法要を郷里のM町でしたが、法要が終わったあと、
1人の女性が来て、こう言って怒った。
「水臭いではないか。豊子さん(=私の母)が亡くなったら、亡くなったで、
一言、連絡くらいくれたらいい。どうして連絡してくれなかったのか」と。

しかし実際には、それどころではない。……なかった。
母の介護→臨終→死去→葬儀と、その数日間は、何がなんだかわけがわからない
まま過ぎた。
そういう状態の中で、そんな人たちのことまで、気が回らない。
私は「すみませんでした」「またゆっくりとあいさつに、おうかがいします」と
謝った。
が、実際には、どうでもよかった。

そういうことを言ってくる人は、介護や、葬儀の経験のない人たちである。
またそういう人ほど、私の悪口を陰で言いたてている。
私はそう感じた。

だからといって、人の(つきあい)を軽くせよということではない。
もっと中身を大切にしたらいいと言っている。

たとえば私
は、自分が死んでも、それをだれにも知らせてほしくない。
ワイフや息子たちには、しっかりとそう言い伝えている。
もちろん葬儀など、無用。
それで地獄へ落ちるというのなら、それを教える仏教のほうが、まちがっている。
もしそうなら、何のための仏教かということになる。

だいたいだれも私の死など、気にしないだろう。
喜ぶ人は多いかもしれないが、悲しむのは、私のワイフくらいなもの。
(ワイフだって、喜ぶかもしれない。)
いつか時間がたって、「ああ、あの林は死んでいたのか」で、じゅうぶん。
連絡が1年遅れても、10年遅れても、どこがどうちがうというのか。

どうせ死んだときから、時間は止まる。
10年や20年、あっという間に過ぎてしまう。
たとえばあなたの周辺で亡くなった人のことを、思い浮かべてみてほしい。
「あの人が亡くなって、もう10年!」とか、「もう20年!」とか、驚く。

私の死も含めて、人の死というのは、そういうもの。
もう少し長いスパン(時的間隔)で考えてもよいのではないか。
死んでから、10年後の葬式でも、何もおかしくない。
逆に、こんなこともある。

たとえば学生時代に世話になった人の消息をたずねることがある。
そういうとき、その人が、10年前に、すでに亡くなっていることを知ったりする。
20年前に、すでに亡くなっていることを知ったりする。
しかし10年前でも、20年前でも、「昨日は昨日」。
ここでいう「時間は止まる」というのは、そういうことをいう。

(この文章にしても、私の死後、10年、あるいは20年後に読む人もいるかもしれない。
そのとき、「ああ、あの林は、10年前に死んでいたのか」「20年前に死んだのか」
でも、よいのではないか。)

恩師の田丸謙二先生ですら、直葬を望んでいる。
病院から火葬場への直行を望んでいる。
「葬儀は不要です」と。
それこそ世間が許さないだろうが、田丸謙二先生は、先日メールの中に、そう書いていた。
これからはそういう人たちがふえてくる。
日本のリーダーと呼ばれる人たちが、そういう動きを示しつつある。
過去を踏襲し、過去にしばられているのは、むしろ末端の、いわゆるノーブレインの
人たちである。
自分に考える力のない人ほど、過去にこだわる。
が、それも今、音をたてて崩れ始めている。
この流れは加速することはあっても、逆行することは、もうない。

こと冠婚葬祭については、目下、質素革命、進行中!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●置き物

実家には、いくつかの置き物が残っていた。
床の間に飾ってあったのもある。
箱の中に入っていたものもある。
その置き物を見ながら、こんなことを考えた。

ここに20万円があったとする。
自由に使えるお金である。
そのお金で、つぎのうちのどちらかを買えと
言われたら、あなたはどちらを買うだろうか。

(1)20万円の置き物
(2)20万円の液晶テレビ

置き物なら、家に飾っておくことができる。
いつかまたその値段で、だれかに売ることもできる。

一方液晶テレビなら、買ったその日から、楽しむことができる。
が、価値はどんどんとさがる。
4〜5年も使えば、ほとんど無価値になる。
故障すれば、なおさらである。

お金に余裕があるなら話は別だが、私自身は、置き物には
ほとんどといってよいほど、興味がない。
買うとしても、その中でも最高の1つ買って、それですます。

だから実家に残っていた置き物をながめながら、祖父や母は、
いったい、どういう気持でそういうものを買ったか、理解に
苦しんだ。
(祖母と父は、置き物には、ほとんど興味を示さなかった。)
財産のつもりだったのか?
それとも、家を飾るためだったのか?

もし飾るなら、最高によいものだけをひとつ買い、それで
すませばよい。
値段にして、3000円〜1、2万円のものを、いくつも
集めたところで、あまり意味はない。
よくても悪くても、ガラクタになるだけ。

それに(遺産?)として受け取る側も、実際のところ、困る。
趣味のちがいもある。
たとえばその中の1つに、鉄製の観音像があった。
背丈は40センチほど。
飾るといっても、飾る場所、そのものがない。

そんなわけで「財産」ということで置き物を買うなら、それなりに
売りやすいものを買ったほうがよい。
そうでないなら、……率直に言って、買わないほうがよい。

お金というのは、有効に使う。
「有効」というのは、自分の心の財産となるように使うという意味。
悪い例としては、自宅の玄関先に、キジの剥製(はくせい)や、
鎧兜(よろいかぶと)を飾っている人がいる。
それらがゴチャゴチャと並んでいたりすると、何かいやらしさすら
覚えてしまう。
「オレは金持ちだ」と言わんばかり。
よく「成金趣味」と酷評する人がいるが、私もそう思う。
それなりの文化性をもった人がそうするなら、まだよい。
そうでない人がそうするから、おかしい。
だから「成金趣味」となる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●兄弟・姉妹関係

++++++++++++++++++++

兄弟、姉妹といいながら、他人以上の
他人になる人は、少なくない。

たがいに手の内の、その奥まで
知り尽くしている。
そのため壊れるときは、早い。
しかも、一度壊れると、こなごなになるほど、
壊れる。

++++++++++++++++++++

●60数人の従兄弟(いとこ)

前にも書いたが、私には60数人の従兄弟がいる。
正確に数えたことがないので、実際には、何人いるか、わからない。
父方の兄弟姉妹が、5人。
母方の兄弟姉妹が、13人。
それぞれが、3〜7人の子ども(=従兄弟)をもっている。
それで60数人となる。

もちろんその中には、親しい従兄弟もいれば、そうでない従兄弟もいる。
中には、子どものころ会っただけで、そのまま疎遠になってしまった従兄弟もいる。
しかしそういう従兄弟でも、近況だけは、いろいろなところから伝わってくる。
他人とちがって、そういう情報が、内側から伝わってくる。

で、全体としてみると、兄弟姉妹がほどほどに仲良くしている従兄弟が、約半数。
他人以上の他人になってしまった従兄弟が、約半数。
たいていどの従兄弟も、何らかの問題を、内側にもっている。

もちろんだからといって、それはあくまでも(内側)の話。
親戚どうしがつきあうときは、みな、一応、円満な様子で、顔を出す。
(もちろんそうでない従兄弟もいるが……。)
表立って、いがみあうとか、そういうことはない。
「適当につきあって、それで別れる」。

子どもの世界でも、こうした現象は、珍しくない。
よくある例が、(できのよい兄、姉)と、(自由奔放な弟、妹)。
兄、姉は、できのよい兄、姉を演ずることによって、自分の立場を守ろうとする。
本当は弟や妹が憎いのだが、それを態度で示すと、自分の立場がなくなる。
これを心理学の世界でも、「反動形成」という。
つまりは、兄や姉は、仮面(ペルソナ)をかぶりやすいということ。

兄や姉は、弟や妹が生まれることによって、それまでの自分への愛情が、
半分に減らされる。
それは相当な欲求不満と考えてよい。
嫉妬がからむだけに、扱い方をまちがえると、ことはやっかい。
こうして兄や姉は、生活態度が防衛的になる。
わかりやすく言えば、ケチになる。

この時点から、兄弟、姉妹関係は、ギクシャクし始める。
たいていどこの家でも、兄、姉は、(年長風)を吹かす。
権威主義的なものの考え方をする人ほど、そうである。
それが尾を引いて、(わだかまり)になったり、(こだわり)になったりする。
さらに私の年代になると、介護問題がからんでくる。
親の遺産問題がからんでくる。
こうなると、兄弟姉妹関係は、一気に、崩壊へと向かう。

では、どうすればよいか?

私は結論として、なるようにしかならないと考える。
それまでの関係が長いだけに、それを修復するのは不可能。
だったら、兄弟姉妹といえども、そういうものと割り切る。
「仲が良くなければならない」とか、「仲が悪いから、よくない」とか、
そういうふうに、自分を追いつめる必要はない。

「仲が悪くて、結構」「どうしてそれがいけないことなのか」と、
居直ればよい。
居直って生きる。
「血」にこだわらねばならない理由など、どこにもない。

あとは、やるべきことは事務的にこなしながら、適当につきあえばよい。
あえて、いがみあうことは、ない。
あえて、争うことも、ない。

どこの家庭も、外から見ると、みんなうまくいっているように見える。
しかしそう見えるだけ。
中へ入ってみると、みな、それぞれの問題をかかえて、ドタバタしている。
60数人も従兄弟をもったおかげで、私はそれを知ることができた。

(教訓)

どんな親も、「うちの子どもたちは、だいじょうぶ」と考えている。
「いつか、子どもたちは力を合わせて、家族を支えあってくれるはず」と考えている。
しかしそれは幻想。
幻想以外の何ものでもない。

これはある司法書士をしている人から聞いた話だが、今では遺産相続問題にしても、
本来なら直接的な相続権のない、甥(おい)や姪(めい)から請求されるケースが
ふえているという。

「親父は、無一文で実家を追い出された。その分の遺産を、俺たちによこせ」と。

そこでその司法書士が、「あなたの父親は、ちゃんと遺産相続放棄の手続きをしている」と
説明すると、「遺留分というのが、あるはず」と。

遺産相続放棄をしても、何分の1かは、その放棄に属さない遺産が残る。
「遺留分」というのは、それをいう。
そこで今では、「協議分割」という方法をとることが多い。
「協議した上、全財産を、○○に渡す」という約束をする。
この方法を使えば、遺留分というのは、なくなる。

そこで親たるもの、その時期が近づいてきたら、身のまわりの整理だけは、
きちんとしておいたほうがよい。


●映画『ハッピー・フライト』

++++++++++++++++++

息子のBLOGに、こんな記事が
載っていた。
映画『ハッピー・フライト』は、おもしろい、と。
息子推薦とあれば、見ない手はない。
邦画を見るのは久しぶり。
……見ることにした。

まず、息子のBLOGより。

++++++++++++++++++

【息子のBLOGより】

 『先日、ブラザー3の先輩がチェックアウトされたということで、その祝賀会があり、
東京に帰って来て初めてのブラザー活動に参加してきた。ナパで伝説化していた有名な先
輩方にお会いすることができて、本当に良かった。

『ハッピー・フライト』というANA全面協力の映画の話になって、一人の先輩がすでに
ご覧になっていたのだけれども、この映画が悔しいことに、めちゃめちゃおもしろいらし
いのだ。プロが観ても、細かいところまで再現されていて、かなり楽しめるとのこと。

またしてもライバル会社にしてやられた感じだが、パイロットやパイロットを取り巻く環
境のことを、より多くの人に知っていただけるのは、嬉しいことだ。僕も今度、観に行こ
う。

 ちなみに、昨日ブリッジ訓練がスタートした。やっと。来週からいよいよ777のシミ
ュレーターによる訓練が始まる』(08・11・28)と。

で、午後7時20分からその映画を見に行こうとしたが、
ワイフが、「今夜はやめにしよう」と。
明日は、いろいろある。

……ということで、書斎にこもって、小さな本を1冊分、HPに収録した。
かかった時間は、2時間。
スキャナーでページごとスキャンしたあと、Frickrにアップロード。
それからHTMLタグを引いて、ホームページに張りつける。
結構、手間がかかる。

映画を見ても、2時間。
「同じ2時間かあ」と思って居間へおりていくと、ワイフは、
衣服にアイロンをかけていた。

何でもない夜。
静かな夜。
私は蜂蜜をお湯に溶かす。
それに粉末のゆず湯を少し混ぜる。
最近は、これが好物。
それを飲みながら、夕刊に目を通す。

+++++++++++++++++

(追記)

映画『ハッピー・フライト』を、今夜(12月x日)、見てきた。
星は、2つの★★。
ただし私は、緊張した。
手に汗を握った。
映画の中のコーパイ(副機長)に、息子を重ね合わせてしまった。

以前から部分的な話は、息子から聞いていた。
それがあの映画で、総合された感じ。
たとえば息子はこう言った。
「雨の日などは、タイヤがスリップしないよう、わざと機体を
滑走路にたたきつけて着陸する」と。
映画の中でも、同じようなシーンが出てきた。

雲の裂け目をねらって着陸態勢に入るという話も聞いた。
横風に対しては、機体をななめにして着陸するという話も聞いた。

映画全体としては、演技がややオーバー。
少し茶化しすぎ。
私の息子もそうだが、息子の友人たちしても、俳優のような
チャカチャカしたパイロットは、いない。
みんな静かに落ち着いている。
どっしりとしている。
またそういう性格でないと、少なくとも、ライン・パイロットにはなれない。
あの俳優のようなパイロットだったら、即座に退学になっているはず。

(たとえばコーパイが、帽子をかぶるのをいやがるシーンがあった。
機長はそれを叱っていたが、ああいうことは、ありえない。
きびしい、本当にきびしい訓練を受けているから、航空大学の学生にしても、
帽子に命をかけている。それをかぶることに誇りを感じている。)

映画を見終わったあと、「息子も危険な職業を選んだものだ」と、
少し、こわくなった。
心配になった。
その息子は、今週から、B−777のシミュレーション訓練に入った。
それが終わると、来年からは実機での訓練に入る。
映画の中でも、機長になるためには、10年以上かかるというような
セリフが出てきた。
息子は2009年1月で、5年目に入る。


●怨念の印パ紛争

インドのモンバイで起きた、ホテル襲撃事件では、日本人が1人、犠牲になった。
テロリストたちは、どうやらパキスタンからやってきたらしい。
これでまた、インドとパキスタンの関係はさらに悪化しそう。

カシミール問題を一言で言えば、「水源地問題」。
水がからんでいるだけに、ともに譲らない。
昔、パキスタン人のアーマド君が、そう教えてくれた。

急成長のつづくインド。
政治的混乱がつづくパキスタン。
パキスタンの過激派たちが、インドを混乱させ、それでもって、
インドの成長にブレーキをかけようしているなら、
これはとんでもない、お門(かど)違い。
そんなことをすれば、喜ぶのは中国だけ。


●大井川の上流は、かつては深海の底だった?

かつて大井川の上流は、かつて深海の底だったという(中日新聞)。
数千万年も前の話だが、「ヘエ〜〜」と驚くこと、しばし。

ということは、数千万年後には、日本列島は太平洋の日本海溝の
底に沈むことだって考えられる。
その話をすると、ワイフが「あら、たいへん!」と。

しかしそれは数千万年後の話。
それまで人類が生きていることなど、ありえない。
人類の歴史は、たかだか20〜40万年。

気が遠くなるような話だが、たまには数千年前に思いをはせることも
楽しい。
「ほら、浜松の周辺にも、石灰岩でできた山があるだろ。つまり海の
貝や珊瑚などが蓄積されて、そういう山になった。
このあたりも、海の底だったかもしれない」と。

そう言い終わったあと、「本当にそうかな?」と思った。
石灰岩=海の底と、考えてよいのか。
あとでもう一度、調べてみることにする。

(付記)
ウィキペディア辞典によれば、石灰岩について、こうある。
「フズリナ(紡錘虫)、ウミユリ、サンゴ、貝類、石灰藻などの生物の殻(主成分は炭酸カ
ルシウム)が堆積して出来たもの」と。


●1月

この原稿から、09年1月号の原稿になる。
昨日、12月29日号の発行予約を入れた。
1月は、1月5日から。
実際には、1月2日(金)から、発行するつもり。

2009年は、どんな年になるのだろう。
自分なりに予想してみたい。

まず地球の問題。
温暖化による異常気象が、今年(08年)よりも
ひどくなるだろう。
新型インフルエンザが流行するかもしれない。
景気は、4月ごろから回復するというが、どうかな?
もう一度、ドサンと悪くなったあと、よくなるとしても、
7〜8月以降ではないか。

オバマ大統領が誕生したあと、米朝関係は多少
よくなるだろうが、そのあと、急速に悪化。
金xxの健康も、そのあたりまで。

日本では民主党政権が誕生するだろう。
が、それですべてめでたしというわけではない。
難問、山積。
現在の自民党政権を受け継ぐのも、楽ではない。

我が家は、どうか?

現状維持ができれば、ありがたい。
しかし不況の風は、すぐそこまできている。
こういうときは、じっとがまん。
嵐が過ぎ去るのを、静かに待つ。
ジタバタすれば、かえって自ら墓穴を掘る。

息子たちの健康を祈る。
だれに対して祈るというわけではないが、祈る。

私たち夫婦は、どうか?
あまり自信はないが、健康第一。
肉体の健康+精神の健康+脳みその健康。
ここはたがいに励ましあって、生きていくしかない。

私はどうか?

ウ〜〜〜ン?

私は前向きに生きていく。
うしろ向きな人生は、どうも私流ではない。
たとえば私の年代でも、墓地を用意したり、
家計図を作ったり、過去の友人を訪れあったりしている人たちがいる。
それぞれの人は、それぞれの思いがあってそうする。
もちろん、人、それぞれ。
私の生き方が正しいわけではない。
そういう人たちの生き方が、まちがっているわけでもない。
大切なことは、それぞれがそれぞれの生き方を、尊重すること。

その上で、私は私の生き方をする。
貫く。
私は墓地など、買わない。
家系図など作らない。
ただいつか、友人の消息をさがして回るようなことは、するかもしれない。
しかし今、ではない。
70歳とか80歳になったときに、それをする。

たとえば今、やりたいことが山のようにある。
今の私なら、オーストラリアやニュージーランドへ移住しようと
思えば、それも可能。
そういうことを、一度、真剣に考えてみたい。
ワイフはすでに、その気になっているが……。

とにかく生きている以上、生きていくしかない。
2009年になった以上、2009年を迎えるしかない。
08年の10月に、満61歳になった。
おまけの1年を、無事、過ごすことができた、
で、今は、おまけの2年目。

1日、1日を、感謝しながら、生きていく。


●9000万円を失った人

私の知人(友人ではない)に、今度のサブプライム・ローンショックにつづく
株価の暴落で、9000万円近くを失った人がいる。
「1億円が1000万円になってしまった」と。

少しおおげさな話に感じたので、確かめると、たしかにそうだった。
が、理由がよくわからない。
株式投資だけでは、そこまで損はしないはず。
信用取引にしても、いろいろなセイフティがかかっているはず。
が、話を聞くと、本当に株式投資で、損をしたらしい。

その知人は、どこかの○○セキュリィティ会社に、ほとんど全財産を
つぎこんでしまった。
俗にいう、「一本釣り」という手法である。
株価が下がれば、買う……下がれば、また買う……。
オーソドックスな株の買い方をつづけた。
それをズルズルと、1年近くもつづけた。
そしてその結果、株価が1年の間に10分の1になり、
1億円の財産が、1000万円になってしまった。

「ぼくは、セキュリィティ会社というのは、証券会社のことだとばかり
思っていた」と。

つまりセキュリィティ(警備保障)会社を証券会社とまちがえた(?)。
株の世界では、よくある話である。
しかしだからといって、それが理由ではない。
証券会社の株価だって、このところ、軒並み、値をさげている。

実は私も損をしたが、はじめから、上限を定めていた。
だから、その範囲での被害ですんだ。
一方、資産をこまかく分散していた。
債権投資で損をした分は、金価格の上昇で、補った。
が、この話をしたのが、いけなかった。

「ぼくは金の値段があがったから、プラスマイナス、ゼロになった」と話すと、
とたん、その知人は、情緒が不安定になった。

まずかった!
思慮が足りなかった!

「このヤロー」と、つかみかかってきそうな雰囲気になった。
別に、「ぼくは利口で、あなたはバカだ」と言ったつもりはなかった。
が、相手には、そう聞こえたらしい。

この世界には、金権教の信者が、たくさんいる。
そこにも、ここにも、たくさん、いる。
そういう人たちは、いつも「お金がすべて」という生き方をしている。
そういう人に向かって、私が言ったようなことを言うと、ここに
書いたようなことになる。

じゅうぶん、注意したほうがよい。

(注)
インターネットで調べてみたら、本当に、「○○セキュリティ」という
名前の会社が存在しているのがわかった。

株価もこの2〜3年で、たしかに8分の1から6分の1程度にまで
さがっている。
しかしこの会社と、知人の損失とは、関係ない。
少なくとも、私は確認していない。
誤解のないように!


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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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