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2009年     2月号
Essay……
BOX版(ネットストーレッジ)……



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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      2月   27日号
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★★★★★★★★★★HTML版★★★★★★★★★★★
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【Mae's Room(芽衣の部屋)】

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2008年のはじめ、「音楽と私」というコーナーを、
私のウェブサイト(HP)上に、もうけた。

で、今年は、【芽衣の部屋】というのを、もうけた。
この1年をかけて、充実させるつもり。

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私の夢は、一度でよいから、孫を自分の幼児教室で教えてみることだった。
しかしその夢は、前回、はかなく消えた。
孫の誠司が日本へやってきたとき、新しい教材を用意し、それに備えた。
数日前から準備した。
言うなれば、特別教室。
が、その前夜、私と二男が、大喧嘩。
(よくあることです。)
二男は当日、誠司を連れて、名古屋へ行ってしまった。
それで、「消えた」。

もう1人の孫がいる。
現在、満2歳。
しかし今のところ、日本へ来る予定はない。
それで今回、『芽衣の部屋』を、もうけた。
5月の誕生日までに間に合えばよい。
それまでに、完成させる。

『芽衣の部屋』……今までの幼児教室のすべてを、ビデオに撮影し、それを
YOU TUBEを使って、世界に向けて発信する。
子どももいっしょに、楽しめるようにしたい。
当然、いちばん見てほしいのは、芽衣。
しかし期待はしていない。
そのかわり、全世界の子どもたちに、見てほしい。

そうそう三男が、結婚すると言い出した。
その三男に、先日、こう言った。
「一度でいいから、孫をぼくの教室へ連れてこいよ」と。
三男は、すなおにそれに応じてくれた。

「それまで、ぼくは今の仕事をつづけているかな?」と思ったが、それは言わなかった。
それまでがんばるぞオ!!!!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●思考回路

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脳みそというのは、反復性のある行動、思考に
ついては、別回路をつくり、つぎに同じような
行動、思考をするようなとき、その回路にしたがって、
行動したり、思考したりする。
そのほうが、便利だからである。

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このことは、幼児に、同じ絵を何回も描かせてみる
とよくわかる。

たとえば帽子が三角、顔が丸、手と足が「十」に
なった(かかし)を描かせてみる。

「  △
   ○
   十  」

最初はたどたどしく、描き方に迷っていた子どもでも、
4〜10回も描くうちに、描き順が定まってくる。
思考回路が決まってきたことを意味する。

こうした思考回路は、無数にある。
たとえば目の前にあるお茶のコップにしても、それを手に
取るとき、指をどのように使うか、それをいちいち考えて
取る人はいない。
自然な形で、しかも何も考えないで、コップを取ることが
できる。

それが思考回路である。

この思考回路には、大きく、つぎのふたつに分けて考える
ことができる。

(1)手続きや運動に関する思考回路…運動、動作に関する思考回路。
(2)思考のパターンに関する思考回路…ものの考え方、論理の組み立て方。
「固定常識」(はやし浩司)も、それに含まれる。

ここでいう「固定常識」というのは、常識の中でも、傷口のかさぶたのように、
心の中で、固定してしまった常識をいう。

先日もワイフが私のためにと、赤いパンツを買ってきてくれた。
しかしどうも、はき心地が悪い。
子どものころから、「赤は女の色」と、そういう常識を叩き込まれたせいと
考えてよい(?)。
つまり心理学でいえば、私は、そのとき軽い(役割混乱)を起こしたことになる。

役割混乱…「男の子は男の子らしく」「女の子は女の子らしく」と、子どもは
成長の過程で、そうした(役割)を身につけていく。
だれに教えられるというわけではないが、常識(?)として、身につけていく。
しかしこの(役割)が混乱するときがある。
たとえば男の子に赤いスカートをはかせてみるとよい。
ふつう、子どもは、それに抵抗する。
が、それでもはかせてみると、精神状態そのものがたいへん不安定になる。
(実際には、はかないだろうが……。)

今回の赤いパンツがそうである。
つまり思考回路が、混線する。
たとえば自分でパンツを買いにいくときは、意識することもなく、(男らしい色)を、
私は選ぶ。
青とか、茶色とか、など。
それがここでいう「思考のパターンによる思考回路」という。

しかも、だ。
ワイフの買ってきたパンツには、穴がない!
これはどう理解したらよいのか。
男性用のパンツには、穴がある。
そう決めてかかっているのも、実は、「思考のパターンによる思考回路」ということに
なる。

……しかし、こうした思考回路は、そのつど、できるだけ破壊してみたほうがよい。
破壊したとたん、そこに別の世界が広がる。

話は飛躍するが、ときどき映画を見ながら、私は、それを経験する。
たとえば『シクス・センス』『マトリックス』『ミラーズ』など。
これらの映画は、私に強烈な印象を残した。
またそういう映画は、楽しい。
脳みそがひっくり返るような、衝撃を覚える。

言いかえると、思考回路が、そのときひっくり返ったことになる。
先にも書いたように、そこにはいつも、別の世界が広がる。
予想もしなかったような、別の世界である。

…しかし、パンツだけは、やはり男の色がよい。
もしこの垣根を取り払ってしまうと、自分がどうなってしまうか。
それがこわい。
そのうちリカちゃん人形のコスチュームを着て、街を歩くようになるかもしれない。
私なら、そうなりそう(?)。
だからこわい。
(でも、楽しいだろうな?)

(付記)

少し前、二男夫婦が私の家に泊まったときのこと。
二男が、嫁さんの足の爪を、爪切りで切ってやっているのを、見た。
そのときも、私の頭の中の思考回路が、バチバチと火花が飛ぶのを感じた。
この日本では考えられない光景である。
またそういうことをしてやっている夫を見たことがない。
(もちろん私もしてやったことがない。)

そういう点では、二男夫婦を見ていると、よい勉強になる。
彼らは、教えずして、私にいろいろなことを教えてくれる。
で、思考回路が変更され、それ以後、私も、似たような行動を、ワイフに
してやることができるようになった。

「男だから……」とか、「女だから……」とか、『ダカラ論』で、ものごとを
考えてはいけない。

『ダカラ論』そのものが、私がいう「固定常識」ということになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
固定常識 役割形成 役割混乱 常識論 赤いパンツ だから論 ダカラ論 はやし浩司
思考回路 思考パターン)

(追記)

今日も電車の中で、ワイフとこんな会話をした。
もし(あの世)があるとするなら、という前提での話だが、私は、この世こそが、
あの世ではないかと思っている。

つまり本当は、私たちが思っているあの世こそ、リアルな世界で、今、私たちが
生きている(?)、この世が、あの世ではないか、と。
つまり地獄、極楽というのは、(天国、地獄でもよいが)、この世のように、ある、と。

話がわかりにくくなってきたので、こうしよう。

今、私たちが生きている、この世界を、A世界とする。
そして私たちが死んだら行くとされる、あの世(天国)を、B世界とする。

B世界の住人たちは、こんな会話をしている。

X「この世は善人ばかりで、つまらないですなあ。ところで私は、今度、あの世
(A世界)へ、遊びに行ってくることにしましたよ」
Y「どちらの国を選びましたか?」
X「ハハハ、あまり苦労をするのもいやだから、国は、日本という国にしました」
Y「日本ねえ……。そんな国があったのですか」

X「小さな国ですよ。そこでね、私は、思う存分、自由に生きてみたいと思いますよ」
Y「それはいい。あの世(A世界)へ行けば、いろいろと生きる原点のようなものを
体験できるそうですよ」
X「憎しみや悲しみ、喜びや楽しみ……、この世(B世界)には、ないものばかりです」
Y「ところで隣のイエスさん。ご存知ですか? あの方は、向こうでこの世の話をして
きたそうです。今度また、あの世へ行ってみたいと、今、申請を出しているそうですよ」

X「そうですかア。あのイエスさんが、ねえ……。しかしあの世で、この世の話をする
のは、禁止事項ではなかったのですか」
Y「何でも、特別許可をもらったそうです」
X「特別許可ねエ……。私は、もらえそうにもありませんから、ふつうの住民として、
行ってきますよ。まあ、そんなわけで、しばらく、あなたとは連絡を取れませんが、
よろしく」

Y「わかりました。で、何時間ほど、あの世(A世界)へ行ってくるのですか?」
X「一応、申請では、3時間15分ということになっています。向こうの時間では、
76年ということになるそうです」
Y「76年ですかア? みんなあの世へ行ったときは、それを長く感ずるようですが、
帰ってくると、あっという間だったと言いますね。これもおもしろい現象です」
X「そりゃあ、そうですよ。3時間15分ですから……。エート、旅行社がくれた
プログラムによれば、息子が3人できるということになっています」

Y「それはまた、平凡なコースを選びましたねエ」
X「みんなに嫌われて、最期は、どこかの病院でさみしく死ぬという、まあ、そんな
ありきたりのコースですよ」
Y「ハハハ、それもよい経験になりますよ。またあの世(A世界)から帰ってきたら、
みやげ話でもしてください」
X「わかりました。楽しみにしておいてください。で、もうそろそろ行かなくてはいけ
ません。失礼します」
Y「お元気で!」と。

あなたも一度、この世とあの世を、ひっくり返して考えてみては、どうだろうか。
既存の思考回路が、バチバチを音をたてるはず。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●法事

++++++++++++++++++

実は今日は、実家の法事で、郷里の
M市に来ている。
M市では、いつも長良川沿いにある
緑風荘という旅館に泊まることにしている。
今、その緑風荘の一室で、この文章を
書いている。
時は、1月22日木曜日、午前5時。
昨夜、風呂に入ったあと、午後9時ごろ、
床についた。
それで、今朝は、午前3時起き。

++++++++++++++++++

●母の日記

実家を整理しているとき、戸棚から、母の日記が出てきた。
2冊、あった。
日記といっても、「何があった」「だれが来た」とかいう、メモ帳のようなもの。
それを先ほどまで、1時間くらいかけて、読んだ。

それを読んで、いろいろ考えさせられた。
「母も1人の人間として、生きていたのだなあ」という思い。
「老後と懸命に闘っていたのだなあ」という思い。
そういう(思い)が、無数に頭の中で折り重なっては、消えた。

が、それについては、もう少し頭の中を整理してから書いてみたい。
今は、ペンディング……ということにしておきたい。
安易にそれについて書くのは、慎みたい。


●日記

私がこうして書いている文章にしても、日記のようなもの。
しかし私の息子たちは、私の文章を読むようなデリカシー(?)は、もっていない。
「いつか読んでほしい」とは思っているが、期待はしていない。
そういう期待は、とっくの昔に、捨てた。

孫の誠司にしても、芽衣にしても、そうだ。
それともいつか、日本語を読めるようになるのだろうか。
読めるようになっても、まず、私の書いた文章は、読まないだろう……。

それに、こういう仕事をしているせいもあるが、私は、今では、
自分の子どもも、他人の子どもも、区別していない。
そう感ずるようになったのは、40歳も半ばごろではなかったか。
反対に、今、生徒の中には、自分の孫のように感ずる子どもが、何人かいる。
毎週、その子どもに会うのが楽しみ。
みな、男児だが、それは言わない。
私がすべきことは、いつも一歩退いて、その子の成長を見守ること。

で、子どもたち(生徒たち)には、いつもこう言っている。
「ぼくはいろいろなことを書いている。
いつか君たちがおとなになったら、ぼくの書いている文章を読んでね」と。
あとで日付を照合すればよい。
そうすれば、たとえば「ああ、このことは、ぼくのことだ」と、わかるはず。
(ただし名前のアルファベットは、そのつど変えているので、注意。
たとえば、麻生君は、HT君というように。ルールは、ない。)

そういう子どもたちも、ひょっとしたら、何人か出てくるかもしれない。
楽しみというより、どこか、切ない(?)。
こうして私は文章を残し、彼らがそれを読むときは、100%、私はこの世にいない。

……そう言えば、住職が読経してくれているときも、その切なさを、心のどこかで
感じた。
母や兄の死を悼(いた)みながら、生きることにまつわる切なさを感じた。
今は今だが、やがてすぐ、私も、母や兄のように、跡形(あとかた)もなく、消える。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【ザ・ムーン】(In the shadow of the Moon)

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昨夜、仕事の帰りに、深夜劇場へ寄った。
封切りになったばかりの、「ザ・ムーン」を見た。
星は、2〜3個の、★★。

ドキュメンタリー映画としての価値は認める。
が、そこまで。
あとは元宇宙飛行士たちの回顧また回顧。
何割かが、おしゃべり。
それぞれに深みのある言葉だったが、娯楽映画
として見るには、もの足りない。
だから星は、2つ。

圧倒されるような地球の風景もなかった。
月の風景もなかった。
ザラザラした古い画像ばかり……。

++++++++++++++++++

●アポロ11号

アポロ7号は、地球軌道を周回。
アポロ8号は、月軌道を周回。
アポロ9号は、地球軌道を周回。
アポロ10号は、月軌道を周回。
アポロ11号で、アメリカは、人間を月に着陸させることに成功した。
……ということになっているが、アポロ11号は、やらせだったという
疑惑がある。
(ついでに、あのガガーリンも着陸時に、死亡しているという説もあり、
こちらのほうは、半ば常識化している。)
当時は、そういう時代だった。

もちろん映画の中では、元宇宙飛行士たちは、それを強く否定している。
「やらせと言っている人もいるが、そんなに多くの人をだませるはずがない」
というようなセリフも、終わりのほうにあった。

事実、アポロ11号については、世界中の天文台が追跡していたし、
持ち帰った岩石には、地球上にはない鉱物も含まれていた。

で、私の関心は、その一点に集中した。
そのあたりを、目を凝らして見た。
アポロ11号は、果たしてやらせだったのか。
それとも本当に、乗組員たちは、月に行ったのか。
しかしフィルムは古く、また目新しい証拠も写真もなかった。
つまり、つまらなかった!

アポロ11号のニール・アームストロング船長の言葉、
 "That's one small step for a man, one giant leap for mankind."
(これは一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ)は、
あまりにも有名である(ウィキペディア百科事典)。

で、このとき『記念すべき第一歩を記したのは左足である。
アポロ11号が着陸した「静かの海」には、鏡100枚で作られた
一辺が約46cmのレーザー反射鏡が設置された。この反射鏡は
地球から発射されたレーザーを反射させて、地球と月の距離を
測定するために利用されている。地球と月の距離は約38万kmであり、
年に3・8cmずつ距離が増えているという』(同)と。

「反射板があるから、それが行ったという証拠だ」と説く人もいる。
しかしここにも書いたように、その後、アポロ計画は、アポロ17号まで
つづく。
反射板を設置するだけなら、月を周回しているとき、それをそこへ落とすことによっても、
可能である。
それをしたのは、アポロ8号か10号、あるいは12号か、14号、15号かもしれない。
私は、こういうことには、たいへん疑り深い。
もし本当に、アポロ11号が月へ行っていたのなら、やらせ疑惑が出るような
スキはなかったはず。

もし事実であれば、調べれば調べるほど、(事実)の深遠へと、吸い込まれていくはず。
が、それがない(?)。

疑惑の根拠となった事実は、いろいろある。

星条旗が、はためいていた。
影が複数本あった。(あるいはなぜか、修正され、消されていた。)
しかも光源の方向がちがっていた。
飛行士が何かを落としたが、それが地球上でのように、速く落ちた。
たまたま写り込んだ岩石の表面に、きれいな「C」の文字が書いてあった、などなど。

映画なのだから、そういう疑惑に、しっかりと答えてほしかった。
つまりわざわざお金を払って見にいってやったのだから、しっかりと答えてほしかった。

むしろ私は映画を見て、新たな疑問をもった。
それは、こんな疑問だ。

月着陸船から2人の宇宙飛行士が、月の軌道を周回する母船に向かって飛び立つ。
このシーンは有名だから、知っている人も多いことと思う。

一方、今度は母船のほうからの映像。
月の表面から、まるで氷の上をすべる石のように、宇宙船が近づいてくる。
なめらかで、寸部の狂いもない。
それがやがてすぐ、母船とドッキングする。

しかし、だ。
今から40年前に、そんな技術があったのだろうか。
それが新たな疑問。
映画の中にも出てきたが、月着陸船にしても、やっと完成した(?)ばかりの乗り物。
フラフラと飛び回って、墜落するシーンもあった。

月の軌道を回る母船(=地球帰還船)が、時速どれくらいの速さだったかは知らないが、
地球の軌道を回っているときは、秒速10キロ前後だったという。
(秒速10キロだぞ!)
それを手動で発射させた月着陸船が、うまく母船をとらえるということ自体、
不可能と考えてよい。

最近になってやっとミサイル迎撃ミサイルが、実践配備されるようになった。
が、地球上ですら、それは難しい。
何十人、(あるいは何百人もの)、要員がいて、高性能のレーダーで追跡してやっと、
可能なのである。
もちろん高性能のコンピュータも必要だが……。

何か、おかしい?
へん?
謎?
それがあのアポロ11号である。

ついでながら、ウィキペディア百科事典に出てきた、2つの数字に
注目してみた。

38万キロを3・8センチで割ると……

38000000000÷3・8=10000000000年
               =100億年

単純に考えれば、分離説(月は地球から分離したという説)に従えば、
毎年3・8センチずつ月は、100億年をかけて、現在の位置にやって
きたことになる。

しかし地球の歴史は、60〜70億年。
どこかに矛盾を感ずるが、この話はここまで。

つぎは、『007・慰めの報酬』が楽しみ!
必ず、見るぞ!

(付記)
地球の大気は、卵にたとえるなら、外の硬い殻(から)どころか、その内側の薄い膜の
ようなものである。
計算上、そうなる。
その薄い膜の中に大気があり、その下のほうに、人間を含めて、いろいろな動物が
へばりついている。
だから大気もモノも、そして人間も、全体として、分子が姿を変えただけ。
そういう解釈も成り立つ。
しかしそういう発想は、地球を宇宙からながめたことがある人だけにできる。
だれだったかは忘れたが、(映画館の中では、メモを取ることができないので)、
そのようなことを言った宇宙飛行士がいた。
私はその言葉を聞いたとき、心底、その宇宙飛行士がうらやましかった。
そういう発想は、残念ながら、私には、ない。
劇場から出るとき、「なるほど、そうだろうな」と、何度も自分にそう言って聞かせた。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●歯磨き一考

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歯をみがくとき、ほとんどの人は、チューブに
入った、「練り歯磨き粉」(以下、歯磨き粉)を使う。
古風な言い方に聞こえるかもしれないが、それが
正式の呼び名である。

私も、子どものときから、ずっとそれを使っていた。
欠かさず、使っていた。
しかし、この半年ほど、使うのをやめている。
で、その報告。

+++++++++++++++++++

●不要?

歯磨き粉をいつも使っている人は、一度、使わないで、歯を磨いてみるとよい。
しばらく磨いていると、口の中に唾液がたまってくる。
その唾液を吐き出してみる。
そのとき、あなたはギョッとするはず。

歯というのは、驚くほど、食べ物のカスだらけ。
それが汚物のように、(汚物なのだが)、歯にくっついている。
歯を磨くと、そのカスが、ドロドロとはがれてくる。

しかしこのとき、歯磨き粉を使っていると、それがわからない。
わからないまま、歯がきれいになったと思い、それ以上、歯を磨くのをやめてしまう。
つまり汚れが、かえってそのまま残ってしまう。

通っている歯科医のアドバイスもあって、私はこの半年ほど、歯磨き粉の使用を
やめている。
そのかわり、カスが出なくなるまで、歯を磨くようにしている。
時間にすれば、それ以前の2〜3倍にもなっただろうか。
つまりそれくらい長く磨かないと、カスは取りきれない。

もし、どうしても……ということであれば、塩でよい。
塩をつけて磨く。
逆に言うと、なぜ私たちは、歯を磨くとき、歯磨き粉を使うのかということになる。
本来必要もないものを、必要であると思い込まされているだけ(?)。
子どものころ、歯磨き粉を使うと、白い歯になるとかなんとか、そんなコマーシャルも
よく耳にした。

中には、歯磨き粉イコール、(歯の石鹸)のように考えている人がいるかもしれない。
私も、そうだった。
あるいは、歯磨き粉の中には、歯をガードする物質、たとえばフッ素などが
含まれているから、有効と考えている人がいるかもしれない。

どうであるにせよ、汚れが残ったまま、歯磨きをやめてしまったら、意味がない。
そういうことも考えながら、一度、歯磨き粉なしで、歯を磨いてみるとよい。

で、半年たった今、私は、こんな結論を出している。
「歯磨き粉は、必要ない」と。

で、それ以上に大切なことは、歯ブラシを複数本、用意すること。
小さくめで、歯先の短いもの。
長くて、歯先が硬いもの。
ふつうのもの。
それにローリング・ブラシ。
そういった歯ブラシを、そのつど取り替えて使う。

いつも同じ歯ブラシを使っていると、その歯ブラシのクセに応じてでしか、
歯を磨けなくなる。
死角ができる。
しかしそのつど歯ブラシを取り替え、歯の磨き方を変えると、いろいろなし方で、
歯を磨くことができる。
死角ができるのを防ぐことができる。
ついでに歯間ブラシも使うとよいそうだ。
これは先の歯科医の先生が、そう言った。

で、ここではもう一歩、話を先に進める。

歯の重要さは、老人を見れば、わかる。
「歯がなくなれば、入れ歯にすればいい」と思っている人がいるかもしれない。
しかしこれは、とんでもない誤解。

老人になると、入れ歯そのものが、作れなくなる。
入れ歯というのは、そのあとの調整が大切。
その調整ができなくなる。
だから実際には、80歳とか85歳以上になると、入れ歯を作るのは、むずかしい
そうだ(あるケアマネの人の言葉)。

さらに高齢になると、入れ歯をはめたまま眠ってしまったりして、それで命を
落とす人もいるという。
ある女性は、入れ歯を口に入れたまま眠ってしまい、それが喉の奥に入り、
窒息して死んでしまったという。
あるいは舌が、入れ歯を巻き込んでしまい、救急車で病院へ運ばれた人もいる。
入れ歯の事故は、多い。

だからやはり、歯は大切にしたほうがよい。
「たとえ数本でも残っていれば、長生きできます」(ある介護士の言葉)とのこと。
その数本が、目標。
……ということで、このところ、歯の磨き方に神経を使っている。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 
歯の磨き方 歯磨き粉 不要論 入れ歯 老人の入れ歯)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●「赤」という漢字

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「赤」という漢字は、もともとは、
人が火にあぶられている様子を示したものだ
そうだ(「本当は怖ろしい漢字」・彩図社)。

「赤」の上半分は、人間。
下半分は、炎(ほのお)を示しているそうだ。

つまり火にあぶられると、皮膚は赤くめくりあがり、
血管が破れて血が噴き出す……。
そこから「赤」という意味が生まれたという(?)。

残念ながら、にわかには信じがたい話である。
というのも、漢字にまつわるこの種の話は、多い。
私もかつて、何度か、子ども向けの漢字字典の編集に
携わったことがある。
が、それぞれの漢字には、いろいろな説があって、
定説がないことを知った。

「フ〜〜ン」と感心したところで、この話はおしまい。
私も知らなかった。

で、こんなこともある。
私の名前は、「林」。
私は子どものころから、「林」は、「林」と思っていた。
それについて、小4のA君が、「林は、木へんだね」と
言った。

なるほど!
「林」という漢字は、「木へんに、木がくっついたもの」だ。
満61歳になって、はじめて、それに気がついた。

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●「ドンマイ」

数日前、中日新聞のコラムを読んでいたら、こんなことが書いてあった。
「ドンマイ」というのは、「Don't mind(気にするな)」を短くしたものだ、と。
そこでその編集者は、つづけて、こう書いている。

「英語では、Never mindとは言うが、Don't mindとは言わない」と。

本当かな?

こういうとき私は、自分の耳の中をさがす。
すると、いつかだれかが言った言葉が、よみがえってくる。
もちろん英語国の人の言った言葉である。

「Don't mind.」……ちゃんとした英語である。
よく使う。
たぶん、そのコラムを書いた編集者は、外国に住んだ経験がないのだろう。
だからそういうトンチンカンなコラムを平気で書く。

ほかにも、以前、こんなことを書いている人もいた。
英語雑誌の編集を手伝っているときである。

「アメリカでは、I am....とは、言いません。I'm....と言います」と。

私はその原稿を読んで、編集長氏に、「これはおかしい」と言ったが、
取り合ってもらえなかった。
どこかの教授の原稿だったので、遠慮したのだろう。

つまり英語というのは、元来、自由な言葉である。
おととい見た映画、『ザ・ムーン』の中でも、月のことを、
「the Heavenly Body(神聖なボディ)」と呼んでいた宇宙飛行士
がいた。
シェークスピアの時代から、いかに豊かな表現力があるか、それでその人の
英語力が決まる。
知的能力のレベルが決まる。
だから英語で話すときは、思い切って、学校で習ったような表現方法は忘れてしまう
とよい。

たとえば「お会いできてうれしいです」は、「Nice to meet you」だが、
「Nice」の部分を、その場の雰囲気で、いろいろに変えてよい。
またそのほうが、相手に好感をもたれる。

「Great」「Wonderful」「Super」、あるいは品位のある席では、
「It's my privilage」でもよい。

一方、日本語ほど、「型」にこだわる言葉は、ない。
型にはまった言い方をするのが、正しい言い方と、信じて疑わない人も多い。
言いかえると、日本語という言葉は、表現力においては、貧弱。
つまりこの問題は、「Don't mind」と言うかいわないか、という問題ではない。
そういった発想そのものが、実に日本的ということになる。

繰り返す。
「Don't mind」は、立派な英語である。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●1月25日(日曜日)

+++++++++++++++++++

気温は、部屋の中で、摂氏1度。
外に出て、水道をひねってみたが、蛇口が凍りついて、水は
出なかった。
朝風呂に入るつもりだったが、やめた。
このあたりも、今は、渇水期。
水不足。
うちが水を使えば、農家の人たちが困る。

+++++++++++++++++++

帰りに、農協祭に寄ってみた。
いつもになく、混雑していた。
店の数も、数倍、ふえていた。

私とワイフは、米はざし(20円)、焼きソバ(300円)、おでん(150円)、
あんまん(100円)、肉まん(100円)、焼きイカ(150円)、
フランクフルト(100円)、トン汁(100円)を食べた。
全部で、ちょうど1000円。
2人で割って、1人、500円。

みやげに、イチゴとたくあん、じねんじょ(長いも)を買った。

こういう祭見るたびに、私はそのまま童心に返る。
ウキウキしてくる。
が、ひとつ不愉快なことがあった。

政治家の、片山さつき氏(実名)が来ていた。
あの女性は、こうした祭があるたびに、顔を出す。
またそれ以外の顔を、私は知らない。
例によって例のごとく、秘書官を数名連れていた。
こういう祭では、スーツ姿の男性は、よく目立つ。
また、それが彼女のねらい(?)。
ダンナを連れてくれば、まだ印象もよい。
しかしどうして秘書官なのか?
祭に?

先日の夏祭のときは、どこかのテレビ局のカメラマンを
連れてきた。
花火大会の夜だったが、まばゆいばかりのスポットライトを、始終つけたまま。
何がねらいか、ヨ〜クわかる。
彼女から見れば、私たちは田舎のバカに見えるかもしれないが、
私たちから見れば、彼女がバカに見える。
というより、私たちは、彼女が思っているほど、バカではない。

そうそうもう、ひとつ、気づいたことがある。
ポスターの片山さつき氏は、若くて美しい。
しかし実物の片山さつき氏は、xxxxxxxxxxxxxxx。
私とワイフは、あまりの落差に、思わず、笑ってしまった(ゴメン!)。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●老後

++++++++++++++++++++++++++++++

考えるといっても、そのつど、起爆剤(信管)のようなものが必要。
「きっかけ」と言ってもよい。
「マッチ」でもよい。
それがないと、脳みそに火がつかない。
で、今は、その起爆剤がない。
そんな状態。
窓の外は、まったくの冬景色。
しかも夕方。
コタツの椅子から、ぼんやりとそれを眺めている。
眺めながら、ふと母の書いたメモ帳のことを思い出した。

++++++++++++++++++++++++++++++

●母のメモ帳

亡くなった母のメモ帳に、先ほど、1時間ほど、目を通した。
1日、250〜300字程度。
たいていその日の天気で始まり、体の調子、人との交流を記して、それでおしまい。
が、長く読んでいると、不思議なものだ。
ただのメモ帳なのに、老後の不安というか、さみしさが、ひしひしと伝わってくる。
その中から、母の(心)を読み取ることができる。
文というものは、そういうものか。
たとえば、こうある。

「浩司(=私のこと)たちは、今年の正月は、どこかへ旅行に行った。
そのため今年の正月も、J(=兄)と2人だけ。
手の中でB(=手乗り文鳥)が、眠っている。
 昼過ぎになって、Kさん(=近所の友人)が、ちぎり絵のことで寄ってくれた。
 明日の展示会には、ひざが痛いので、出られそうもない……。
みんな、今年も、元気でありますように」(xx年1月1日)と。

母は母で、さみしさと懸命に闘っていた。
さぞかし不安で、心細かったことだろう。
が、それはそのまま私たちの近未来の姿でもある。

母自身もこう書いている。
「みなに、迷惑をかけたくない」
「みなに迷惑をかけている自分が、なさけない」と。

●「どう死ぬか」

老後は、どうがんばったところで、必ずやってくる。
その上、肉体は、不可逆的に衰えていく。
病気や故障が、それに追い討ちをかける。
「家族の温かい愛情に包まれて……」というのが理想の老後かもしれない。
が、包まれていたところで、孤独から逃れることができるというわけではない。

実は、私の中にも、こんな(考え)が芽生え始めている。
まだ小さく、心の闇の中で、息をひそめているが、しかしたしかに芽生え始めている。
「どう生きるか」ではなく、「どう死ぬか」という(考え)である。
今日も、長男に、私の家にある置き物についての説明をした。
「これは見た目には安物に見えるかもしれないが、価値がある物だ。
だからぼくが死んでも大切にするように」と。
これからは、そういう会話が、多くなることと思う。

●老後の旅行

こうした(考え)は、たとえばワイフと旅行をしていても、顔を出す。
美しい景色を見ても、ふと「二度と見ることはないだろうな」とか、「これが最後だろうな」
とか、思う。
先日も、長野県の諏訪湖へ行ってきた。
そのときも、そうだ。

どちらか一方が先に死んだら、この場所を思い出の場所にするのだろうか、と。
つまりワイフが先に死んだら、私は、ワイフとの思い出をたどるために、
ここへ再び来るだろうか、と。

しかしそれはないと思う。
訪れるとしたら、若いときにいっしょに行った場所のほうがよい。
八丈島かもしれない。
香港かもしれない。

さらに同じ旅行でも、若いときにする旅行と、そして今する旅行は、中身がちがう。
楽しむといっても、今は、心を開いて楽しむことができない。
が、悪いことばかりではない。

同じ景色でも、「二度と見ることはないだろうな」と思うだけで、深みがちがう。
若いときは、どこへ行っても、食い散らすようにして、思い出を粗末にした。
むしろそういうときの自分のほうが、愚かに見える。

●息子たちへ

道が明るい未来へとつづく、青春時代。
しかし老後は、その道が、すべて先細り。
さらにその先は、闇に包まれている。

2週間ほど前も、東京の出版社が、ある企画を提示してくれた。
20代、30代のころの私なら、それを小躍りして喜んだことだろう。
しかし、今は、もうない。
そういう喜びが、わいてこない。
「どうぞ、ご勝手に」と。
そんな気分で企画の説明を受けた。

……などなど。
今、母のメモ帳を読みながら、私がしていることもまた、同じような運命を
たどることを知る。
いつかだれか、今、ここに書いていることを読むかもしれない。
私が死んだあとに、だ。
息子たちのうちのだれかかもしれない。
孫たちのだれかかもしれない。

が、だれであるにせよ、私は、こう伝えたい。

私が書いている文章を読んで、「あのパパも、結構、孤独だったんだなあ」とか、
「さみしさと懸命に闘っていたのだなあ」とか、そんなふうには思ってほしくない。
私は私なりに、けっこう、楽しく過ごしている。
見た目には、朗らかで、明るい。
だからこの文章を読んで、自分たちの老後を、暗く、つらいものとは考えてほしくない。
むしろ逆。
私は、すでに、死ぬ準備を始め、死ぬ覚悟を作りつつある。
「死ぬ準備」とか、「死ぬ覚悟」とか書くと、悲壮感がただよう。
が、実際には、そうではない。
あえて言うなら、「満足感」ということになる。
そう、満足感だ。
その満足感が、「死ぬ準備」や「死ぬ覚悟」につながっている。

言い換えると、私は、自分の人生を思う存分、自由に生きた。
今も生きている。
何も思い残すことはない。
あるいは私は、私が生きた以上の人生を、ほかに生きることができただろうか。
私はやるべきことはした。
できることはした。
不完全でボロボロだったかもしれないが、そして息子たちからみれば、いやな
父親だったかもしれないが、それが「私」ということになる。

で、できれば、息子たちも、(孫たちも)、そう生きてほしい。
いつも前向きに!

息子たちよ、孫たちよ、
元気で、暮らせ。
私は母のメモ帳を読みながら、「ああしてやればよかった」「こうしてやればよかった」と
思った。
しかしお前たちは、そんなふうに思う必要はない。
私は、私の母とは、ちがう。
ちがうぞ!
……いらぬ節介かな?


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●行方不明

先日、高校の同窓会の事務局から、通知が届いた。
その中に、10名ほどの名前が記してあり、「現住所などを知っていたら、知らせて
ほしい」とあった。
要するに、「行方不明だから、知っていたら、教えてくれ」と。

うち、数名は、私がよく知っていた人たちであった。
(今は、知らないが……。)

で、おかしなもので、住所のわかっている人よりも、そういう人たちの
ほうが、気になる。
「どこで、どうしているのか」と。
そういう点では、住所には住所としての意味がある。
住所を知っているというだけで、安心感を覚える。

で、本気で調べれば、私にも、わかる。
その人たちがいた会社や、属していた団体を、知っている。
そういう会社や団体を通して聞けば、わかる。
電話連絡だけで、わかる。
しかしどうも、そこまでする気にはなれない。
なぜだろう?

私がそれを知って、同窓会の事務局へ伝えたところで、それがどうだというのか。
それでどうこうなるわけでもない。
ひょっとしたら、その人たちも、あえて知られたくないところにいるのかもしれない。
あるいはそれぞれには、それぞれの深い思いというものが、ある。
そっとしておいてやることのほうが、大切(?)。
それがまた、思いやりというものかも、しれない。

(付記)

その中の1人に、Mさんという女性がいた。
私の郷里でも、かなり裕福な家庭に生まれ育った人である。
当時、自家用車で学校へ来ていた人は、彼女だけだった。
が、その家は、そのあと15、6年で、没落。
彼女の父親が経営していた会社も、倒産した。
その前後に、母親が他界したという話も聞いている。
同窓生の話では、それがショックで、Mさんは、ある
宗教団体に身を寄せることになったという。
狂信的な宗教団体として知られるカルト教団である。
が、そこで行方不明(?)。

私なら……という言い方はおかしいかもしれないが、
私なら、そんなことは気にしない。
仮に実家が倒産しても、それはそれ。
(だからといって、それを気にしてMさんが、同窓会との
連絡を絶ったということではない。誤解のないように。)
どこかの宗教団体に身を寄せたからといっても、それもそれ。
同窓会とは、関係ない。

しかしなぜ、連絡を絶ったのだろう?
連絡を取り合っている友だちはいないのだろうか?
その友だちが、なぜ同窓会の事務局に連絡をしてやらないの
だろうか?

いろいろな思いが、頭の中をかけめぐる。
が、この話は、ここまで。
やはり、そっとしておいてやるのが、いちばん、よい。
同窓会の事務局も、あえて住所を調べる必要もないのでは
ないか。
それが私の今の、率直な気持ちである。
というのも、私自身もいつもワイフや息子たちにこう言って
いる。

「ぼくが死んでも、たとえ兄弟、親類であっても、
知らせるな」と。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●思春期前夜

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今は廃線となった、美濃町線。
かつては岐阜市と美濃市をつないでいた。
その美濃町線の美濃駅は、小さな展示館になっている。
私とワイフは、バスを待つ間、その展示館に入ってみた。
そこにB紙大の看板があって、こう書いてあった。

『チンチン・ビール電車』と。

昔は、美濃町線のことを、このあたりの人たちは、
「チンチン電車」と呼んでいた。
親しみをこめて、そう呼んでいた。
走るとき、そのつど、うしろにいた車掌が、
ひもを引いて、チンチンと小さな鐘を叩いた。
それで「チンチン電車」となった。

しかしどういうわけか、私は、その文句にひかれた。
「チンチン・ビール電車ねエ〜」と。
デジカメで、写真にも撮った。
たぶん、電車の中でビールが楽しめるようにしたのだろう。
文字の背景には、ビールのジョッキが、描かれていた。

++++++++++++++++++++++

●「ノ・ビール電車」

一方、私が今住んでいる浜松市のほうでは、「チンチン」というのは、
チンチン。
男性のあれをさす。

で、昨日、その話を子どもたち(小5、6児)にした。
が、子どもたちは私の話を信じなかった。
それでデジカメの写真を見せてやった。
子どもたちは、それを見て、ゲラゲラと笑った。
が、それはそれ。

ここからは、少し話が、回りくどくなる。
少しがまんして読んでほしい。

そのクラスに、ズバ抜けて聡明な女の子がいる。
小学6年生の子どもである。
学校でもトップというが、実力はそれ以上。
容姿も美しく、いわゆる「モデル系」というタイプ。
静かにしていれば、ブンブンと男たちが群がる。
そんなタイプの女の子である。

が、ひとつだけ、欠点がある。
男勝(まさ)りの女の子で、どこからどう見ても、
男の子ぽい。
女の子らしくない。
「おてんば」という言葉に入りきれないほどの、おてんば。
口の利(き)き方も、男。
態度も、男。
雰囲気も、男。
そのくせ自分が男に扱われると、猛烈に反発する。
名前を、SKさんとしておく。

だからいつもほかの男のたちにからかわれる。
去年の終わりにも、ある男の子が、SKさんにこう言った。
「お前なア、もう少し男の子らしくしろよ」と。
これを聞いて、SKさんは、その男の子に飛びかかっていった。

で、昨日も、同じ男の子が、SKさんにこう言った。
「お前なア、もう少し、女の子らしく笑えよ」と。

……ということで、昨日の会話になった。

A男「お前、本当に、女か?」
SK「女の子だよオ〜。ほら、ちゃんと、ピンクのセーターを着てるでしょ」
B男「ピンクだからといって、女の子とはかぎらないよ」
SK「ピンクは、女の子の色なの」
A男「ぼくのパンツは、ピンクだよ」

SK「ゲーッ、キモイ(気持ち悪い)。あんたのパンツ、ピンク?」
A男「ピンク色に近い、ピンク」
SK「何、それ?」
私 「そうだ。ぼくも、この前まで、赤いパンツをはいていた」
SK「ゲーッ、もっとキモイ」

B男「お前なア、女の子なんだろ。だったら、もっと女の子らしくしたら?」
SK「どうすればいいのさア?」
B男「笑い方を変えるとかさア……」
SK「どう笑えばいいのヨ〜」
B男「ホホホとか、フフフとか、いろいろあるじゃん」

SK「それこそ、キモイ」
C男「お前って、本当に、女かア?」
SK「女の子だってばあ……」
C男「じゃあ、証拠見せろよ」
SK「エッチ、どスケベ、変態! あんたは変態よ」

そのとき、先ほどの「チンチン電車」の話に戻った。

私「チンチン・ビール電車に、『ノ』を入れたら、たいへんなことになる」
男児たち、即座に、ゲラゲラ笑い出す。
「ノ・ビールだってエ、ハハハ」と。
ひっくり返って笑っているのもいた。

それを見て、SKさん、きょとんとするばかり。
SK「どうして、みな笑うの」
A男「ノ・ビールって、おかしくねエのか?」
SK「ゼンゼン……?」
B男「チンチン・ノ・ビール電車って、聞いて、おかしくねエのか?」
SK「どうして、それがおかしいのよオ?」

C男「あのなア、お前って、バカかア?」
SK「バカじゃ、ないわよ」
B男「だからさあ、ハハハ」
私 「あのなア、みんな、笑わないということが、SKさんが女の子という
証拠だ」
男児「そうだ、そうだ。やっぱり、お前は、女だ」

SK「どうして笑わないと、女の子なの?」
みな、さらに腹をかかえて笑い出す。
私 「つづきは、お母さんに聞いてこい」
SK「お母さんなら、わかるの?」
私 「たぶん、ね、ハハハ」と。

A男「でもさあ、先生、どうしてお母さんなら、わかるのよオ?」
私 「それも、お母さんに聞けばいい。ちゃんと話してくれるから」
A男「そうかなあ……」
B男「うちのママだって、笑わないと思うよ」
私 「どうかなア……? ぼくにはわからないが、聞くだけ、聞いてみればいい」

たまたまそこへワイフがやってきた。

簡単に説明すると、ワイフもハハハと笑った。

A男「アッ、先生の奥さんも笑った……!」
SK「奥さん、どうしておかしいの?」
B男「先生の奥さんって、変態かア?」
ワイフ「おかしいわねエ……」
SK「ホント? どこがおかしいの?」と。

思春期前夜の子どもたちというのは、ざっと言えば、こういう状態。
こうして性的興味をふくらませながら、思春期へと突入していく。

私も久しぶりに大声で笑って、気分がすっきりした。
2009年1月23日、金曜日記。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●赤いパンツ

+++++++++++++++++

何を血迷ったのか、ワイフが赤いパンツ
を買ってきた。
赤といっても、濃い、血のような赤。
「これぼくの?」と聞くと、「そうよ」と。

私の世代で、赤いパンツをはくような男はいない。
「赤」は、「女の色」ということに決まっている。

私「フ〜〜ン」
ワ「何が?」
私「赤いパンツなんて、生まれて始めてだよ」
ワ「あら、そう。似合うわよ」
私「そうかなあ……」と。

たしかに作りは男性用。
腰にあたるゴムの部分が太い。
それにちゃんとあの部分が袋のようになっている。
しかし、だ。
肝心の穴がない。

私「なあ、これって、女性用じゃ、ないのかア?」
ワ「ちゃんと、男性用コーナーで買ってきたわよ」
私「店員さんが、まちがえてそこに置いたのじゃ、ないのか?」
ワ「そんなことないわよ」
私「……?」

しかし習慣というのは、恐ろしい。
小便のとき、思わず指先で、穴をさがしてしまう。
しかしもとから穴はない。
そこでパンツを指でさぐる。
で、そのとき、やっと気がつく。
「ああ、このパンツには、穴がないのだ」と。

で、教室で、こんな話をした。
わんぱくで、やりたい放題、したい放題の子どもが1人、いる。
小学3年生。
男児。
名前を、H君という。
そのH君に、それとなく、こう言ってみた。

私「あのなあ、ぼくのパンツ、赤だよ」
H「フン」
私「フンって、信じないのか?」
H「信ずるわけがない」
私「本当なんだ。本当に赤なんだ」
H「そんなわけないよ、先生。ウソをつくなら、もっとマシなウソをつきな」
私「何なら、見せてあげようか」
H「ハハハ」と。

子どもでも、信じない。

で、家に帰って再び、パンツの話。

私「やっぱり、このパンツは、女性用だよ」
ワ「だったら、このふくらみは、何よ?」
私「たしかに袋のようには、なっている。でもね、中には、あの部分が大きくふくらん
でいる女性もいるかもしれないよ」
ワ「そんな女性はいないわよ」
私「そうかなあ……?」と。

最近のパンツは、男性用でも、穴がないのか?
あるいは外国では、男性でも、穴のないパンツをはくのか。
しかしどうやって、用を足すのだろう。
考えれば考えるほど、わからない。

私「どうやって、おしっこをするんだ?」
ワ「横から出すとか、上から出せばいいんじゃない?」
私「あのなあ、それはたいへんだよ。いちいち亀の頭を引き出すように、
外へ引き出さなければならない。めんどうだよ」
ワ「じゃあ、そこに穴をあけてあげましょうか」
私「どうするの?」

ワ「ハサミで切ればいいじゃない?」
私「それはまずいよ。それにこんなパンツをはいていたら、交通事故にもあえない」
ワ「どうして?」
私「医者や看護士が、ぼくのことを変態と思うかもしれないよ」
ワ「今どき、思わないわよ」と。

ともかくも、赤いパンツは、はき心地が、どうもよくない。
落ち着かない。
自分の中にできた思考回路を変えるのは、容易なことではない。

私たちの世代の男たちは、ぜったいに赤いパンツは、はかない。
それが私たちの世代の常識なのだア!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ネット時代のもの書き】

++++++++++++++++++

今、情報の価値が、かぎりなく下がっている。
若い人たちを中心に、「情報はただ」という風潮が、
ますます強くなっている。
「お金を出してまで、買う必要はない」と考える人も多い。
また情報を発信する側も、それをよく知っている。
ただで使われることを前提として、発信する。

そのため、(情報の世界)が大きく変わりつつある。
よい例が、新聞であり、雑誌ということになる。
新聞については、ここ10年近く、発行部数は減る一方。
テレビと並んで、広告収入が、年間1000億円前後から、
この2年間だけをみても、10%前後減っている。

雑誌については、2008年度だけでも、「月刊・現代」を
はじめとして、「主婦の友」「読売ウィークリー」
「PLAYBOY・日本版」などが、休刊となった。
全体としてみても、「1995年の約39億部がピークだったが、
その後は長期低落傾向がつづき、07年には、26億部と、3分の
2に減った」(「朝日キーワード・2009→2010」とのこと。

若い人を中心に、「新聞で得る情報は、インターネットで」という
人がふえている。
私の家でも、「そろそろ夕刊をやめようか」という話も出始めている。
理由が、いくつかある。

たとえば朝刊にしても、毎日目を通すページというのが決まっている。
全体で、30ページ近くあるが、その中でも4〜5ページのみ。
夕刊にいたっては、1〜2ページのみ。
スポーツ欄は、ほとんど読まない。
あとはそのままゴミ箱行き。
無駄といっても、これほど資源の無駄づかいはない。

一方、インターネットからの情報は、速い。
おまけに読みたいときに、選んで読んだり、それに見たりすることができる。
この簡便性は、テレビにもない。

そこで改めて、情報の価値を、いかに利益につなげていくかを
考えてみる。

++++++++++++++++++++++++++

●私のHP(ウェブサイト)

私は多いときには、年間10冊あまりの単行本を出版したことがある。
しかしこの8年間、1冊も出していない。
かわりに、インターネットのほうで、自分の書いた原稿を発表している。
当初は読者数もかぎられていて、新聞や雑誌に原稿を発表することと
比べたら、読者数も少なく、その影響力は、微々たるものだった。
しかし私はインターネットのほうに、それまでになかった魅力を感ずる
ようになった。

それを列挙してみる。

(1)地域性の打破…「もの書きは中央でないと生きていかれない」という
のが、若いころの常識だった。それだけの機会と人脈の交流が、地方
では得られなかった。今、その垣根がはずれた。
(2)独自性の追求…雑誌や新聞に原稿を書くときは、どうしてもそこに
編集者への(へつらい)が入る。しかしこの世界では、(書きたいこと)
が書ける。これこそまさに「言論の自由」。
(3)世界の情報が直接手に入る…若いころは、その国の大使館員からでしか
手に入らなかったような情報が、容易に手に入る。多少のタイム・ラグ
(時間差)はあるが、1日を遅れることはない。
(4)読者数の増加…最近になって、HPやBLOGへのアクセ数が驚異的に
伸びている。08年の2月に、月間10万件。さらに09年に入ってから
は、瞬間的ではあったが、月間30万件を超えるようになった。
(5)無料で書く喜び…収入のない世界で生きる喜びというのがある。言うなれば
ボランティア活動ということか。損得のない世界でものを書くというのは、
それだけで、そのままストレートに生きがいに結びついてくる。
(6)一貫性の追求…とくに育児においては、その人の人生観なり哲学が、混入して
くる。育児論は育児論だけではすまない。育児論を「城」とするなら、人生観
や哲学は、その土台ということになる。その土台まで踏み込んだ育児論を展開
することができる。
(7)大量性の確保…たとえば本の出版では、体裁に合わせて、原稿の量を削ったり、
することが、当然のように行われている。しかしインターネットの世界には、
それがない。毎日書いたままを、同時に、世界に向けて発信できる。
(8)速報性…書いた原稿を、瞬時に、マスコミの世界に配信できる。ものごとが、
瞬時、瞬時に片づいていく。読者の反応が、リアルタイムで返ってくるのも、
   インターネットならではの、利便性ということになる。

が、何よりもすばらしいのは、(1)出版社が介在しないこと(出版社にあたる関門
がない)、(2)本のような配本会社が介在しないこと(自分でリアルタイムに配信
できる)、という点がある。

紙製の単行本のばあい、原稿を書いてから、出版→配本まで、どんなに早くても
2か月はかかる。
ふつう売り込みから出版まで、3〜4か月はみる。
(有名な作家のばあいは、出版社のほうから原稿依頼があるというが、私のばあい、
そういうことは、『東洋医学・経穴編』(学研)をのぞいて、一度もなかった。)
その間、郵送によるやりとりが、数回以上は必要。
出版社へも出向かなくてはならない。
さらにここ30年だけをみても、出版についての条件が、毎年のようにきびしく
なっている。

30年前には、印税も、5%をくだることはなかった。
6〜12%前後、出版と同時に支払ってくれる出版社もあった。
それが今では、印税も売れ高払い。
5%以下というのも、珍しくない。
そのため印税の支払いも、売り上げが確定したあとということで、最低でも
3か月、ふつうは6か月待たされる。
あるいは1年待たされるというのも、珍しくない。

●マネーか名誉か

が、最大の問題は、インターネットでは、それを収入につなげるのが、
たいへんむずかしいということ。
広告収入ということもあるが、実際には、私のばあい、月額4000〜
5000円程度に過ぎない。
(ほかに方法はあるのだろうが、私は試していない。)
そこで私はつぎの択一に迫られた。

「収入を取るか、それとも生きがいを取るか」と。
「ものを書いて、収入を得るか」、それとも「より多くの人に読んでもらうか」
という選択と考えてもよい。
そういえば、昔、A出版社の社長が、私にこう言った。
「金(マネー)を取るか、名誉を取るか、どちらかにしてほしい。
両方というのは、ムシがよすぎる」と。

で、私のばあいは、(生きがい)を取った。
(……と書くと、少しおおげさに聞こえるかもしれない。
実際には、どちらか一方をあきらめることにした。)

それに本を出版していた時代に、あの(めんどうくささ)というか、
限界をよく知っていたこともある。
校正だの訂正だの、いろいろある。
加えて、30年前には、初刷りでも、6000部〜1万2000部がふつうだった。
それが今では、3000部。
この部数は、全国の書店にやっと1〜2冊並ぶか並ばないかという数である。

「だったらすべて無料で提供しよう」と私は考えた。
頭の中には、毎日のように、書きたいことがつぎつぎと浮かんでくる。
本を出版するときのように、たとえば出版社と連絡を取り合っている暇さえない。
書きたいことがつぎつぎと浮かんでくる。
それをパソコンのキーボードをたたいて、吐き出す。
それこそまさに、「肛門期の快感」(フロイト)ということになる。

たとえば量だけをみると、1か月に、40字x36行を1枚として、500〜600
枚は、書いている。
その量は、単行本に換算すると、3〜4冊分ということになる。
ふつう単行本のばあい、120〜140枚で、1冊の本ができる。
それに私のばあい、ひとつのテーマにしばられるのが苦手。
苦手というより、苦痛。
教育論を書きながらも、宗教論や政治論についても、書いている。
若いころは東洋医学にも興味をもった。
最近は、宇宙に興味をもち始めている。

●著作権

問題は、著作権である。
私は過去においても、そして現在も、だれにも原稿の転載、流用を許可していない。
そういう申し出はよくあるが、すべて明確に断っている。
これは私のスタンス(立場)を明確にするために、重要なこと。
どこかでだれかに例外をつくると、それが元で、原稿が四方八方に散ってしまう。
収拾がつかなくなってしまう。
(だからもし、読者のみなさんが、私の書いていることと同じ内容、同じ文章を
見られたら、それはその人が、無断で使用していると考えてほしい。引用についても、
同じ。)

ともかくも、こうした裏話が、育児論、教育論に併せて、一貫性をもって書けるのも、
インターネットのすばらしさということになる。
読む、読まないの選択は、あくまでも読者のみなさんの手にゆだねるしかない。

この先、当然のことながら、「紙」という資源を使った本や雑誌は、衰退することは
あっても、その地位を再び確保するということは、ありえない。
アメリカでは、一時、インターネットに対して、新聞が奮闘した時代もあった。
ちょうど2000年ごろのことで、そうした問題がアメリカでも起きた。
アメリカの有力新聞社が善戦しているのを見て、「インターネット、恐れるに足りず」と
いう、社説をどこかの新聞で読んだこともある。
しかしそれはあくまでも一時的。
現在は世界的にみても、そのあと、新聞も、発行部数、読者数、広告収入ともに、
激減している。

で、最初の話に戻るが、要するに、広告媒体とインターネットをどう結びつけていくか。
それについても、新聞や雑誌とちがい、広告対象をしぼることによって、無駄な広告料を
節約することができる。
読者が若い男性なら、若い男性向けのコマーシャルを、ねらいうちする形で、配信する
ことができる。

しかしこれらのことは、同時に、これからのライター(=もの書き)の世界を、大きく変
えることを意味する。

(1)発信する情報の量そのものが、多くなる。(1人のライターが発信する文書の量が
多くなり、管理するのがむずかしくなる。)
(2)利益を確保する方法、手段が、複雑化する。(本のばあいは、対出版社との交渉
だけで、それ以上のわずらわしさはない。)
(3)自己責任の幅が大きくなる。本のばあいは、出版社、編集者の目を通ることで、
責任を回避することができる。しかしインターネットのばあいは、ライターの
書いた文章が、直接、読者に届くことになる。インターネットの世界には、「炎上」
という言葉がある。書き方をまちがえると、思わぬトラブルの原因となる。

ともあれ、いろいろ問題が起きているが、私は過渡的な現象ととらえている。
インターネットにしても、10数年前に産声(うぶごえ)をあげ、やっと少年期にたどり
つきつつあるといった状態である。
(あるいはやっとヨチヨチ歩き始めた、乳幼児の段階かもしれない。)
不完全ではあるが、今を見て、将来を判断してはいけない。
これからの可能性を考えるなら、インターネットの世界は、この宇宙を包み込むほどの
広さと大きさがある。
「第二の産業革命」と位置づける人もいる。
それがどんな世界かは、私にもわからない。
が、しかしこれだけは言える。

それがどんな世界であるにせよ、この時代を生きる私たちの思いや考えは、未来永劫に
残るということ。
いくらインターネットが進化しても、それを作るのは、人間だからである。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●いろいろな顔

++++++++++++++++++++++++++

英語のことわざに、『2人の人に、いい顔はできない』というのがある。
このことわざを言いかえると、『人には、いろいろな顔がある』という
意味にもなる。
あるいは『その人の一面だけを見て、その人を判断してはいけない』とも
読める。
こんなことがある。

++++++++++++++++++++++++++

●母の顔

母が他界して、3か月になる。
その間、いろいろな人から、悔やみの言葉をもらった。
ありがたかった。
と、同時に、母にもいろいろな顔があったのを知った。
母のことをよく思っている人もいたし、そうでない人もいた。
悪く思っている人は、いなかった。

しかしそのつど、率直に言えば、「?」という印象をもった。
どこの親も、そうなのかもしれない。
他人の集まる(外)で見せる顔と、肉親が集まる(内)で
見せる顔は、ちがう。
母もそうだった。
どちらが本当の顔で、どちらがニセの顔ということを
論じても意味はない。
またどちらでもよい。
外できびしく、家庭で甘い親は、いくらでもいる。
外でやさしく、家庭できびしい親も、いくらでもいる。

さらに他人の中では、高い評価を受けながら、家庭では
きびしい評価を受ける親がいる。
他人の中では、極悪人と呼ばれながらも、家庭では、
やさしいと評価を受ける親もいる。

だからといって、人それぞれ。
それぞれの人が、それぞれの人を認める。
それぞれの顔を認める。
母にしても、そうだ。
「?」と思っても、その人の心に合わせて、「ありがとう
ございます」と、言う。
またそれですます。

昔、よど号ハイジャック事件で、人質となり、
K国に渡った政治家がいた。
YM運輸政務次官である。
そのあと1週間ほど、オーストラリアのメルボルン市へ、
休養のため、やってきた。
縁あって、そのとき知りあった。
温厚で、やさしい人だった。
知的で、政治家というよりは、学者風の人だった。

が、そのYM氏は、やがて息子氏に腹を刺されて、死ぬ。
何があったのか。
また家庭の事情がどうであったのか。
私には知る由もない。
また知る必要もない。

その反対のこともある。

昔、浜松市の駅前に、暴力団(?)の事務所ができたことがある。
それに対して、周辺の住民の人たちが、追い出し運動を始めた。
子どもの通学が心配ということで、親たちが集団で送り迎えをするようになった。
そのときのこと。
たまたまその暴力団(?)の親分と言われる人の子どもが、
私の教室へ来ていた。

それについて、その祖母にあたる人が、私の家にやってきて、こう言った。

「先生、うちにも小学生の孫がいます。
そんなことするはずがないじゃ、ないですか」と。

「そんなこと」というのは、住民たちが心配しているような(こと)を言った。

「ピケを張って、人の出入りを止めるというのは、いいです。
しかし集団登下校というのは、あまりにもひどいです」と。
その祖母は、玄関先で、おいおいと泣いた。

言いかえると、根っからの悪人はいない。
同時に、善人と呼ばれている人でも、バランスの問題。
善悪のバランスのしっかりしている人を、善人という。
そうでない人を、そうでないという。
でないというのなら、「私は善人」と、自信をもって言える人は、
いったい、どれだけいるだろうか。
一歩退いて、「私は悪人ではない」と、自信をもって言える人は、
いったい、どれだけいるだろうか。

ただ許せないのは、偽善者たち。
陰でこそこそと、小ずるいことをしながら、表では善人のフリをする。
ふだんはタレント業で巨億の富を手にしながら、一方で、慈善運動家として、
テレビに出てきたりする。
一貫性が、ない。
そういう人は、別。

……ということで、結論。
私やあなたが、その人のことをどう思っても、その印象を、他人に
押しつけてはいけない。
「私はそうではないと思います」とも、言ってはいけない。
まわりの人がどう思っても、人、それぞれ。
人には、いろいろな顔がある。
同じように、それを見る人にも、いろいろな印象がある。
それはそれとして、そっとしておいてやる。
それが結局は、あなたという(私)を守ることになる。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●他責型人間vs自責型人間

+++++++++++++++++++

何か失敗したようなとき、すかさず、
だれかに責任を求める人を、他責型人間という。
すかさず自分に責任を求める人を、自責型人間という。

子どもでも、年中児(4〜5歳児)でも、それがわかる。
子どもがお茶をこぼしたとする。
それを母親が、注意したとする。
そのとき、他責型人間(子ども)は、すかさず、
こう言う。
「ママが、こんなところにお茶を置いておくから悪い」と。
いつも責任を他人に転嫁する。

一方自責型人間(子ども)は、すかさず、「ごめん」と言う。
「いつも責任は、自分にある」と考える。

一般論として、(あくまでも一般論だが)、他責型人間は、
悶々とした欲求不満を、持続的にかかえていることが多い。
「自分は正しい」という過剰な思い込みが、他責の
原因になることもある。
しっかりした人という評価を受けやすい。

一方、自責型人間は、その分だけ、うつ病になりやすいと言われている。
自信喪失が根底にあり、人格の「核」形成も、遅れがちになる。
どこかヘラヘラした感じになりやすい。

表面的な様子からだけでは、判断できない。
快活で積極的だから、他責型人間ということにはならない。
静かで落ち着いているから、自責型人間ということにもならない。

それを知るためには、心理テストが必要。
こんな例で考えてみよう。

あなたは今、電車の中にいる。
そのとき緊急の、かつ重要な連絡が、携帯電話に入った。
ベルが鳴った。
あなたは携帯電話で話し始めた。
と、そのとき、横にいた人が、あなたに、「電車の中では
携帯電話はいけませんよ」と、軽く注意した。

そのときあなたなら、どうするだろうか。
ムッとして、その人をにらみ返すだろうか。
「今、すぐ終わりますから」とか、「緊急です」とか
言うだろうか。

それとも、すかさず、「ごめんなさい」とか、「すぐ終わります」とか、
謝罪するだろうか。

前者のようであれば、あなたは他責型人間ということになる。
後者のようであれば、あなたは自責型人間ということになる。

他責型人間か、それとも自責型人間か。
いろいろ調べてみると、(あくまでも私が調べた範囲だが)、
その中間型というのは、ない。
しかもこの「型」は、その人の人格の中核部分に居座るため、
たとえば状況に応じて、他責型になったり、自責型になったり
ということもない。
幼児期に他責型になった子どもは、ずっと、それこそ、
死ぬまで他責型人間のまま。
自責型になった子どもは、ずっと、それこそ死ぬまで
自責型人間のまま。
途中で変化するということも、ない。
(「ない」と断言するのも、危険なことだが……。)

さらに興味深いことに、他責型人間からは、自責型人間が理解できない。
自責型人間からは、他責型人間が理解できない。
ともに自分を基準にして、相手をみる。
相手も自分と同じ人間と、思い込む。
したがってたとえば、夫が他責型、妻が自責型というケースのばあい、
(その反対でもよいが)、どちらか一方が、それに気づくまで、夫婦喧嘩が
絶えないということになる。

夫「謝れ!」
妻「どうして謝らなきゃ、ならないのよ!」と。

(いつも夫婦喧嘩をしている人は、一度、ここに書いたようなことを
参考に、自分を見つめなおしてみるとよい。)

が、さらにもう一言。

自責が過剰になると、相手の失敗まで、自分の責任のように感じてしまう。
こんな例がある。

ある学校で、ある子どもが何かの事件を起こした。
それについて、ある教師は、こう言った。
「警察に出向き、謝罪してきました」と。
そこで私が、「そこまでは学校の責任ではないでしょう」と言うと、
その教師はこう言った。

「新聞などで、少年犯罪が報じられるたびに、胸が痛くなります」と。

自責型人間の中には、そこまで自分を責め人もいる。

……となぜ、今、他責型人間と自責型人間について書くか?

実は、今日の午後、たまたまこんなことがあった。
バスに乗っていて、うとうとと眠っていたときのこと。
私のすぐうしろに座っていた女性のところに電話がかかってきた。
かなり豪快な(?)、着信音が鳴った。
とたん、眠気が消えた。

その女性は、「今、バスの中! もうすぐそこへ着くから待ってエ……」
というようなことを言っていた。
そのときのこと。
ちょうどタイミングよく、つぎの停留所名を言ったあと、
「携帯電話は周りのお客様に迷惑になりますから、スイッチをOFFに
するか、マナーモードに……」というアナウンスが、流れた。
私は、すかさず、「その通り!」と声をあげた。
……あげてしまった。

よほど私の言葉が、その女性のカンに触ったらしい。
しばらくしてバスは、目的地に着いた。
「どんな女性だったか」と思って、立ったついでに、うしろの女性を見た。
私をものすごい目つきで、にらんでいた。
顔中が、鬼バンバというような感じだった。
年齢は、18、9歳ではなかったか。

私は、「ああ、この人は、他責型人間だな」と思った。
それでこの原稿を書いた。

……ところで、私は、完全な自責型人間。
いつも他人を責めてばかりいるが、根は、自責型人間。
自分でも、それがよくわかっている。
だから先に書いたことを繰り返す。

人間というのは、見た目で判断してはいけない。
さて、あなた自身は、どうか?

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
自責 他責 自責型人間 他責型人間 はやし浩司 自責vs他責 自分を責める
他人を責める)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●隠れマザコン

++++++++++++++++++

私の知人に、これまた人も羨(うらや)むような、
親孝行の娘をもった人がいる。
その娘を、娘Aとする。
その娘Aは、結婚して嫁いでいるというのに、「お母さん、お母さん」と
言って、毎週のようにやってきては、菓子を届けたり、
旅行のみやげを届けたりしているという。
知人が、今年、85歳になる。
娘Aは、60歳になる。
だから近所の人は、みな、こう言う。

「あの娘さんは、すばらしい人だ。人間の鑑(かがみ)」と。

しかし、ちょっと、待ったア!

++++++++++++++++++

こういう娘Aのばあい、つぎの2つを疑ってみる。

(1)隠れマザコン
(2)代理ミュンヒハウゼン症候群

ふつうマザコンというと、男性ばかりが問題になる。
しかし女性にも、マザコン、つまりマザーコンプレックスをもった人はいる。
が、母と娘という女性どうしだから、目立たない。
成人した男性が、彼の母親といっしょに入浴すれば、だれしも、おかしいと思う。
しかし女性のばあいには、だれも、おかしいとは思わない。
だから女性のマザコンを、「隠れマザコン」(はやし浩司)と呼ぶ。

また代理ミュンヒハウゼン症候群というと、ふつう虐待が先に問題になる。
「新しいタイプの虐待」と位置づける人もいる。
たとえば子どもを一方で虐待しながら、他方で、よい母親(父親)を演ずるなど。
しかしあえて虐待をしなくても、もともと虚弱な子どもであれば、その子どもを
利用して、よい母親を演ずることもできる。
他人の同情を買いながら、よい母親を演ずる。
みなに、「よくできた、すばらしい母親」と思わせる。
当然、虐待をともなわない、代理ミュンヒハウゼン症候群というのも、ある。

また対象が子どものばあいだけを、代理ミュンヒハウゼン症候群というのではない。
舞台が病院であるとも、かぎらない。
広義には、対象が、兄弟、姉妹、さらには親であっても構わない。
舞台が、施設であっても、さらに家庭であっても構わない。

ことさら苦労している様子を誇張してみせ、他人の同情を買う。
他人からよい人と思われるようにするため、あれこれと工作する。
このタイプの人は、口もうまい。
ここでいう隠れマザコンと私が呼んでいる人も、同様の行動パターンをとる。

冒頭にあげた女性にしても、かなりの高齢で、このところ歩くのもままならない。
そういう母親を支えながら、その娘Aは、通りをいっしょに歩くこともあるという。
それで近所の人たちは、「人間の鑑」と。

しかしそれこそが、その娘Aの望むところ。
他人にそう思われるように、他人の心を誘導する。
操る。

では、本物の(?)、親孝行とは、どこがちがうか?

その第一。
本物の親孝行は、静か。
目立たない。
他人の目を意識しない。
私のような他人の耳に、そういった話は、届いてこない。

また「毎週のように、菓子やみやげを届けている」という話は、母親の言葉ではない。
その娘A自身が、あちこちでそのように自分で吹聴している。
私もその娘Aのことは、よく知っているが、一貫性がない。
それだけの人徳がある人なら、ほかの面でも光るはず。
体の芯からにじみ出てくるような、人間性があるはず。
が、そういった話は、伝わってこない。
むしろ父親の遺産相続問題で、ほかの姉妹と言い争ったとか、実の息子たちとは
絶縁状態にあるとか、など。
そういう話のほうが目立つ。

どこかチグハグ?
おかしい?
へん?
その(チグハグさ)を感じたら、こういう話は、まず疑ってかかったほうがよい。

が、だからといって、その娘Aを責めているのではない。
マザコンであるにせよ、ないにせよ、それで、母と娘が仲よく暮らしていれば、
それでよい。
他人がとやかく言う必要は、ない。

今どきマザコンにしても、隠れマザコンにしても、珍しくもなんともない。
まただからといって、周囲の人たちが、人間の鏡とするなら、それもよい。
ただ、だからといって、操られるまま操られるのは、よくない。
こういう話には、「待ったア!をかける。
それが知性ということになる。
理性ということになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
隠れマザコン 代理ミュンヒハウゼン 親孝行 孝行娘 親孝行の子ども)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●不況の嵐

++++++++++++++++++++

毎月のように内閣府の発表する市況判断は、
下方へ、下方へと訂正される。
まるでジェットコースターか何かに乗っている
かのよう。
今朝の新聞によれば、「急速に悪化」という
言葉も見られた。

++++++++++++++++++++

●個人企業vs会社組織

++++++++++++++++++++++++++++

こういう不況時代になると、原則的には、個人企業が有利。
個人企業といっても、家族だけで経営する零細企業。
固定して支払わなければならない給料そのものがない。
収入が減れば、その分だけ、生活を切り詰めればよい。
が、もっとも、それにも限度がある。

一方、会社組織で運営している企業は、小回りがきかない。
一度赤字に転落すると、そのまま奈落の底へと転落していく。
そこで企業は、社員数を減らしたりして、「種」だけは残そうとする。
いつかまた景気が回復したとき、その種をまいて、再生をねらう。
が、それにもやはり限度がある。

++++++++++++++++++++++++++++

●株価大暴落

もっている株の株価が10分の1どころか、20分の1、30分の1になってしまった
人もいる。
先日、SCという会社の株をもっていて、1億円を、1000万円にしてしまった人の
話を書いた。
泣くに泣けない状態、とか。
「おおげさかな?」と思って調べてみると、SCという会社の株価は、昨年1年間だけで、
たしかに10分の1になっていた。
が、さらに去年の終わりから、今年にかけて、3分の1になっていることがわかった。

もし今でもその人が、その株価を塩漬けにしていたとすると、現在の評価額は、300
万円ということになる。
1億円が300万円である!
同情したくても、同情のしようが、ない。

ほかに財産のある人ではないので、これだけをみても、その人がいかに落ちこんでいる
かは、容易に察しがつく。

●お金で、ジャブジャブ

一方、世界中が、これだけお金(=マネー)を市中にばらまいているのだから、どこかで、
それを集めている人もいるはず。
経済誌などによれば、アメリカ・ドルも、日本・円も、「ジャブジャブの状態」(経済各誌)
だそうだ。
日本だけでも、50兆円。
アメリカも100兆円。
しかしそういうお金は、どこへ消えているのか?

先日も、S氏(会社社長、70歳)と、そういう話になった。

S氏がいうには、金融機関の救済のために使われている、とのこと。
たとえば0・2%という公定歩合がいかに魅力的なものであるかは、具体的に数字を
放り込んでみると、わかる。

1億円借りて、1年間に返す利息は、たったの20万円。
1億円のマンションを買っても、月々の部屋代が、1万7000円程度ということになる。
5000万円のマンションなら、8000円程度。

つまりそういう形で、世界中が、今、お金で、ジャブジャブになっている。

私が「そういうお金は、庶民のところには回ってこないのですか?」と聞くと、
「天井の上をクルクル回っているだけで、下には落ちてこないよ」とのこと。

そんなわけで、この不況のあとにやってくるのは、猛烈なインフレ。
景気が回復のきざしを見せたとたん、そうなる。
結局は、そのツケは、一般の庶民が負うことになる。
これを『踏んだり蹴ったり』と言わずして、何という。

●じっと耐えるしかない

ここはじっと耐えるしかない。
ジタバタしたところで、どうにもならない。
が、こういうことは言える。
零細企業であろうが、大中の企業であろうが、最後までふんばったほうが勝ち。
その間に、ライバル企業(商店)が、力を落としていく。
そして景気の回復とともに、ふんばった企業が先頭に立って、復活する。

……といっても、それまでがたいへん。
どうやって食いつないくのか……?

今回の不況を、「50年来の不況」とか、「100年来の不況」とか言う人がいる。
それほどまでに深刻ということだが、しかし先が見えないわけではない。
人が生きている以上、そこには(動き)がある。
(動き)があれば、そこに経済がある。
小さな光でも、光が見えれば、回復は早い。
経済というのは、いつも先読みで回復する。

10分の1以下になった株価については、もとに戻ることはないにしても、
20〜40%の範囲であれば、もとに戻る可能性は、高い。

まあ、こういうこともあるから、昔からこう言う。
『資産は、分散せよ!』と。

貯金、債権(外債)、国債、金、株……。
ひとつで損をしても、べつのところで儲けていく。
全体として、バランスをとっていく。
それが賢い利殖の仕方ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●不敬罪?(Lese Mejesty?)
The Government of Thailand has sentenced an Australian writer, 3-year long prisoning 
because of the lese majesty. What is the lese majesty now? This is an oppression of 
words, isn'it? Be ashamed, Thailand people!

++++++++++++++++++

『タイの裁判所は19日、著作物のなかでタイ国王を侮辱したとして、
オーストラリア人の作家に禁固3年の刑が言い渡されたという』(TBS-i・News・1月19日)。

++++++++++++++++++

タイで大学講師をしていた、1人のオーストラリア人が、『過去の出版した著作の中に、タ
イ国王を侮辱する表現があったとして、不敬罪の疑いで逮捕、勾留された』(同)という。
その結果、禁固3年の実刑判決がくだされたという。

なお同時に、『タイ当局は昨年以降、王室に批判的と判断したおよそ4000のウェブサイ
トを閉鎖していて、言論弾圧との非難が国内外から出ている』(同)との報道もなされてい
る。

今どき不敬罪?
戦前の日本にもあったが、「敬う」などという心の中の感情まで、法律でしばるところが恐
ろしい。
またそういうふうにして敬われたとしても、当の国王は、それで満足なのだろうか。
私が国王なら、そんなバカげた法律は、自分のほうから願いさげる。

で、日本という国は、意識的には、オーストラリアとタイの中間あたりに位置する。
私たち日本人が、「バカげている」と思う以上に、オーストラリア人は、そう思うだろう。
だいたい、オーストラリア人には、そういう意識そのものがない。

が、それだけではない。
王室に批判的なウェブサイト(ホームページ)が、4000以上も閉鎖されたという。
こうなると、タイという国は、もうデタラメな国と判断してよい。
タイの人たちは、もっと自分に恥じたらよい。
国王を敬わないことを恥じるのではなく、言論の自由がないことを恥じたらよい。

世界から見れば、ちっぽけな国ではないか。
そんな国で、国王だのなんの、不敬罪だのなんのといっている、自分たちのおかしさに、
まず気がついたらよい。

人間に上下があるわけがない。
一人ひとりの人たちが、自由にものを言い、生きる。
国としてのダイナミズムは、そこから生まれる。
またそういうふうにみなが、生き生きと生きている国を、近代国家という。
すばらしい国という。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
近代国家 不敬罪 すばらしい国)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●カタカナ文字(Katakana Words)
In Japan we have three types of Characters. Hiragana, Katakana and Kanzi (=Chinese
Characters). Katakana is mainly used to express the words which come from overseas. 
But nowadays so many Katakana words in our daily life, which confuses our lives.

++++++++++++++++

数日前、サイトカインについて
書いた。

書きながら、一度確かめておかなくては
いけないと思った。
こうした脳内物質について書くときは
いつもそうだが、私が知っているのは、
名前だけ。
現物を見たわけではない。
また見たところで、ただの液体にしか
見えないだろう。

書いていても、不安になる。
それはちょうど、パソコンを相手に、
カタカナ文字を見るときの気分に似ている。
座右に、「パソコン用語辞典」というのが
ある。
が、カタカナ文字だらけで、読んでも
よく意味がわからないときがある。

たとえば……、
「パケット転送:一定のパケット単位に情報をまとめて送る通信方式。一定の長さの
データブロックにしたものをパケットと呼ぶ。宛先や信号順位など(タブデータ)を
パケットに付けて……」(「標準パソコン用語辞典」秀和システム)とある。

ついでに言えば、鳥インフルエンザについても、
そうだ。
ウィルス名を、「H5N1ウィルス」という。
「H5って、何だ」「N1って、何だ」と、
つい言ってしまう。

++++++++++++++++

●サイトカイン

以前自分で書いた原稿の中から、「サイトカイン」という文字を検索してみる。
方法は、大きく分けて、2つある。

(1)原稿集から検索する
ひとつの外付けハードディスクに、今までに書いた原稿が、ひとつのファイルと
して収録してある。
数万ページもある。
それを一度、パソコン上に呼び出して、そこから検索する。
しかしこの方法だと、私の最新鋭のパソコンをもってしても、負担が大きい。
一度画面上で開くと、とたんにパソコンの動きが悪くなる。

(2)インターネットのヤフー、もしくはグーグルの検索機能を使って検索する
   最近は、この方法で検索することが多くなった。
   パソコンへの負担も少ない。
   たとえばサイトカインについて調べたいときは、「はやし浩司 サイトカイン」と
   入力して、検索する。
   この方法でたった今検索してみたが、72件もヒットした(ヤフー検索)。
   その中から、適当な原稿を選ぶ。
   いうなれば、インターネットの世界全体が、私の私設辞書になっている。

で、その「サイトカイン」について。

『ストレスに対する反応は、二種類ある。攻撃型と、防御型である。これは恐らく、人間
が、原始動物の時代からもっていた、反応ではないか。ためしに地面を這う、ミミズの頭
を、棒か何かで、つついてみるとよい。ミミズは、頭をひっこめる。

同じように、人間も、最初の段階で、攻撃すべきなのか、防御すべきなのか、選択を迫ら
れる。具体的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、心拍を速くし、脳や筋肉の活
動が高まる。俗に言う、ドキドキした状態になる。

ある程度のストレスは、生活に活力を与える。しかしそのストレッサー(ストレスの原因)
が、その人の処理能力を超えたようなときは、免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サ
イトカイン)を放出して、脳内ストレスを引き起こすとされる。

そのため副腎機能の更新ばかりではなく、「食欲不振、性機能の低下、免疫機能の低下、低
体温、胃潰瘍などのさまざまな反応」(新井康允氏)が引き起こされるという。その反応は
「うつ病患者のそれに似ている」(同)とも言われている』(Biglobe Blog 最前線の子育て
論byはやし浩司)と。

自分で書いた原稿を読みながら、改めて勉強しなおす。
少しおかしな気分だが、最近は、こういうことが多くなった。
つまりそのために、私は自分の書いた原稿の末尾に、検索用の文字を並べることにして
いる。

ついでに、「H5N1」について。

成美堂出版の「時事用語」によれば、つぎのようにある。

『A型インフルエンザの表面には、HA(ヘマグルチニン)とNA(ノイラミニダーゼ)
という2種類の糖たんぱく質がスパイク状についている。そして、HAは16種類、NA
は9種類ある。H5N1は、HA5型とNA1型をもったウィルスのこと』と。

インフルエンザには、A型、B型、C型の3種類がある。
それは知っている。
(知っているといっても、やはり名前だけだが……。)
その中のA型のひとつが、鳥インフルエンザということになる。
このH5N1の恐ろしいところは、感染すると、いきなり肺の奥に入り込むことだそうだ。
人間にはまだ免疫性がないため、いわゆる「パンデミック」が起こるという。

わかるかな?
パンデミックだぞ。
またまたカタカナ文字。

パンデミック……『短期間に感染症が大流行すること』(同書)とある。
『新型インフルエンザが日本でパンデミックを起こすと、入院患者最大210万人、
死者最大64万人』(同)とか。

ゾーッ!

で、ふと今、思う。
「今、この瞬間には、『パンデミック』という言葉の意味を知っている。
しかしいつまで覚えておられるか」と。
たしかに私の脳みその底には穴があいている。
一方で覚えながら、他方でどんどんと知識が、流れ出ていく。
これは食事と下痢の関係に似ている。

しかし忘れることを恐れていたのでは、何も書けない。
とにかく日々に、精進(しょうじん)あるのみ。

「パンデミック、パンデミック、パンデミック……」と数回復唱して、
この話は、おしまい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
サイトカイン パンデミック はやし浩司 H5N1 鳥インフルエンザ ストレス
ストレス学説)

(付記)

H5N1について、「流行しないのではないか?」という意見も、最近出てきた。
というのも、流行するなら、とっくの昔に大流行しているはずだから、と。
中国やベトナムなどでも感染者が現れてはいるが、人から人への感染したばあいには、
症状はそれほど重くない。
それでそういう意見が、出てきた。
ともかくも、警戒するに越したことはない。
外出時には、マスクを着用する。
マスクはマスト!
(へたなシャレで、ごめん!)


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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      2月   23日号
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●アメリカの教育現場では、今……?(Now in USA!)(=2=)

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Bulletin Board for EDSPC 753
Board Postingsへの投稿記事より

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Unruly student with ADHD
by Hearing Teacher, posted on 5/24/2006 at 17:54.
(無秩序なADHD児)

I work as a related service provider for deaf and hard-of-hearing in 10 schools in 
Brooklyn. One of my students has ADHD and is not medicated. He also is supposed to 
wear hearing aids but does not. His special ed teacher spoke to the mother (he is in 
foster care) about it and she said that she will make him do it (I tried speaking to her 
and never got a response). 
私はブルックリンで聴覚障害、難聴の子どものために10の学校で関連サービスをしてい
る者です。私の生徒の一人がADHD児で、治療を受けています。彼は補聴器をつけるべき
と思われますが、つけていません。彼の特別担任の先生は、それを彼の母親に話していま
すが、そうすることができません。(彼女に私も話そうとしましたが、反応がありません。)

Lately, he began to steal and be physically aggressive. He also whines for change for the 
vending machines right after he eats breakfast with the excuse, "My mother wants 
something." He ran into the cafeteria (he had just finished breakfast) to get a third 
cereal. I had to chase after him to stop him. When I tried to take the spoon away from 
him, he grabbed my wrist. Another teacher had to take him to the office. The student 
started bawling hysterically and wailing "I'm sorry." He continued to cry and scream the 
whole time. What do I do about this situation? 
Thanks. 
Hearing teacher
最近、彼は盗みを始め、肉体的に攻撃的になり始めました。彼はまた、朝食のすぐあとな
どに、「ママが何かを食べたがっている」などという口実を作って、販売機の小銭を、泣き
ながらせびったりします。(食事が終わっているのに)食堂へ走り、三度目のセリール(コ
ーンフレイクのような食べ物)を得ようとします。私は彼を追いかけ、彼を止めなければ
なりません。彼からスプーンを取り上げようとすると、彼は私の手首をつかみます。もう
一人の先生は、彼を事務室へ連れていかねばなりませんでした。その学生は、ヒステリッ
クに泣き叫び、「ごめんなさい」とさめざめと泣きます。彼はずっと、泣いたりわめいたり
します。こういう状況では、どうしたらいいのでしょうか。よろしく。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【極楽浄土論】

●私は極楽行き? 

ときどきこんなことを考える。
私は死んだら、極楽へ行くのだろうか。
それとも地獄へ行くのだろうか、と。

仏教の教えによれば、それを最終的に判断(ジャッジ)するのは、
あの閻魔(えんま)大王だそうだ。
中国でできたニセ経の上に、さらに日本でニセ経を塗り重ね、そういう話ができた。
今では、子どもですら、そんな話は信じない。
幼稚というか、稚拙(ちせつ)。
しかし私は、最近、閻魔大王というのは、ワイフであり、3人の息子たちではないかと
思うようになった。
それには、こんな話がある。

昨年(08年)、実兄と実母が、つづいて他界した。
そのときのこと。
私はこんなことを考えた。
「兄や母は、極楽へ行くのだろうか。それとも地獄へ行くのだろうか」と。
地獄と極楽しかないとなれば、二者択一、ということになる。
地獄と極楽の間には、中間の世界はない。
そこで兄や母のことを、あれこれと思い起こしてみる。

●善人vs悪人

1人の人間を、どう判断するか。
これはたいへん難しい問題である。
というのも、1人の人間には、いろいろな面がある。
相手によっても、印象がちがう。
年代によっても、変化する。

たとえばAさんは、若いころの母をよく知っていて、「勝気な人でした」という。
Bさんは、晩年の母をよく知っていて、「やさしくて、穏やかな人でした」という。
また他人から見た母と、私という子どもから見た母は、まったく違う。
それは善人vs悪人論とも似ている。

善人と悪人とは紙一重。
しかしまったくの善人がいないのと同じように、まったくの悪人もいない。
よく聞く話だが、死刑囚といわれる人の中には、仏様のようになる人もいるという。
さらに私という人間にしても、あるカルト教団の人たちからは、「魔王」と
呼ばれている。
その教団を攻撃する本を、何冊か書いたからである。
さらにあのK国が、日本を支配したら、この私はまっさきに処刑されるだろう。
いつもあの「将軍様」のことを、「金xx」と書いている。
拉致事件に抗議の念をこめて、そうしている。

どこをどのように見て、善人と判断し、悪人と判断するのか。
何しろ、中間がない。
「閻魔大王の仕事も、たいへんだなあ」と思う。

●私であって(私)でない部分

私は自分では、善人とは思っていない。
どちらかというと、悪人かもしれない。
少なくとも、3人の息子たちは、そう思っている。
「パパは仕事ばかりしていた」
「ママを奴隷のように使っていた」
「パパはワンマンで、ぼくたちの話を聞いてくれなかった」と。

ときどきそういう不満を、今になって私にぶつけることがある。
が、私はいつもそういうとき、こう思う。

「私は私で、懸命だったのだ」と。

息子たちに、私が生きた時代の説明をしても意味がない。
「日本は貧しかった」と言っても、その(貧しい時代)そのものを、知らない。
ボットン便所の話をしても、無駄。
息子たちにしてみれば、生まれながらにして、トイレは水洗トイレ。
それしか知らない。
ボットン便所から、水洗トイレになったときのうれしさを知らない。
だからこう言う。
「そんなのは、パパの時代の話で、ぼくたちには関係ない」と。

つまり私という人間にしても、(過去)の無数のしがらみを引きずっている。
私であって、(私)でない部分も多い。
たとえば道路にお金が落ちているのをみると、今でもさっと拾ってしまう……と思う。
(この20〜30年、そういう経験がないので、わからない。)
交番へ届けようなどいう気持ちは、まず起きないだろう。
起きないから、そのジレンマの中で、迷う。
「もらってしまうべきか、それとも交番へ届けるべきか」と。
が、これとてあの戦後の、ひもじい時代を生きたからこそ身についた錆(さび)の
ようなもの。

私が悪いと思う前に、私はあの時代に、責任を求める。
あの時代が悪い。
あの戦争が悪い。

さらに私には、私の生い立ちもからんでくる。
いろいろあった。
その(あった)部分の中で、心もゆがんだ。

重罪といわれる罪を犯した犯罪者にしても、そうだ。
そういう人を、本当に悪人と言い切ってよいのか。
あるいはそう言い切れる人は、どれだけいるのか。

●息子たちが判断する

そこで私のこと。
自分で自分のことを判断するのは、難しい。
ワイフにしても、利害関係が一致しているから、難しい。
そこで、どうしても息子たち、ということになる。
私を判断するのは、息子たち。

息子たちは、(私)を、内側から見ている。
私が外の世界で隠している部分すらも、見ている。
それに人格の完成度も、今となっては、私より高い。
私が見た世界とは、比較にならないほど、広くて大きな世界も見ている。
私を、1人の親というよりは、1人の人間として見ている。

私にしても、閻魔大王などよりも、息子たちに判断(ジャッジ)されるほうが、
よほどよい。
安心できる。
仮に「地獄へ行け」と判断されても、それにすなおに従うことができる。
息子たちがそう言うなら、しかたない。
が、そこでもまた問題が起きる。

私が兄や母に地獄へ行けと言えないように、息子たちもまた、私に地獄へ行けとは
言えないだろう。
たとえ悪人であっても、だ。
それにこんなケースもある。

ある女性の話だが、若いころは、たいへん優雅で気品のある人だったという。
その女性が今は、老人施設に入居して、毎日、毎晩、怒鳴り声をあげているという。
「バカヤロー」「コノヤロー」と。
年齢は、現在、80歳を少し過ぎたところという。

こういうケースでは、どう判断したらよいのか。
その女性は、善人なのか、それとも悪人なのか。
悪人ではないとしても、そんな状態で、極楽へ入ったら、ほかの善人たちが迷惑する
だろう。

●地獄も極楽もない

地獄も極楽もない。
あるはずもない。
だいたい釈迦自身、一言もそんなことを言っていない。
ウソと思うなら、自分で『法句経』を読んでみることだ。
「来世」「前世」にしても、そうだ。

だからそれをもとに、善人論、悪人論を、論じても意味はない。
ただ法体系が未完成だったころなら、地獄論で悪人を脅すこともできたかもしれない。
「悪いことをすると、地獄へ落ちるぞ」と。
それでたいていの人は、黙った。
私が子どものころでさえ、そういう会話を、よく耳にした。

兄は兄として、他界した。
母は母として、他界した。
無数のドラマを残して、他界した。
よいドラマもあれば、悪いドラマもある。
今さら、そんなドラマを問題にしても意味はない。

同じように、今を生きる私たちも、できることと言えば、ただ懸命に生きるだけ。
よいことをしていると思っていても、悪いことをしていることもある。
悪いことをしていると思っていても、よいことをしていることもある。
常に結果は、あとからついてくる。
放っておいても、あとからついてくる。
だからこう思う。

地獄でも極楽でも、どちらでもよい、と。
こんな無意味なことを考えるのは、今日で最後にしたい、と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
地獄 極楽 地獄論 極楽論 善人 悪人)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN 09++++++++++はやし浩司

【浄土論】

神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……? 

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーの
おもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。
そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るという
のもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣
は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできご
とがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広
島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳し
ていたときのことだ。

私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以
来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としてい
る人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事
をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のよ
うな人間に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たります
ように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそ
んなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコ
ーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の
人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは! 
あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年
前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よ
っぽどこちらのほうが奇跡だ。

その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文
明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)
がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。
「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」
と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなること
がある。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、
あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命
令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に
包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事
典・石田瑞麿氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱり
わからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要す
るに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。
悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行け
る」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当た
り前のことではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つま
りそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問
題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。
私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。そ
の教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、
無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N
宗機関誌)と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。ある
いはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようにな
った。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちが
っている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやるこ
とこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤ
ロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「こ
の子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではな
い私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や
仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題の
ある子どもをもつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の
目を通して見ると、そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなか
ったか、と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりする
と、意外とよく理解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」
と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放
す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの
願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力するこ
とをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。人間全
体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめ
てしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考える
のは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーでは
なく、赤い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、
今でもはっきりと覚えている。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●子どもの宗教を考える法(宗教の話は慎重にせよ!)

教師が宗教を語るとき

●宗教論はタブー 

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子
ども(小三男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが
当たったからだ」と。そこで私はこう言った。「バチなんてものは、ないのだよ。それにこ
のところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。

翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てこ
とを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱
心な信者だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人
には、シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。そこ
で「真理というのは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほし
いと思っているところです」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。
が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」の
ことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、
それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひ
もに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。
叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある
宗教教団の熱心な信者だった。

●宗教と人間のドラマ

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うこ
とは許されない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求
める信者がいるから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一
つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のド
ラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国
の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、
それだけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰
している。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

●「さあ、ぼくにはわからない」

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私は
そういうとき「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あ
るいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」
と逃げる。霊魂や幽霊についても、そうだ。ただ念のため申し添えるなら、私自身は、ま
ったくの無神論者。「無神論」という言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、家
相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐ
いは、一切、信じていない。信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」
ということで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だっ
たということも、あとから母に言われて、はじめて知った。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
宗教論 宗教とは 親鸞 回向論 悪人をや)

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「アソ」という名前の総理大臣

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Obama(オバマ)大統領就任式を
迎え、2つのニュース。

ひとつは、福井県小浜市が、就任式に
何かをしようとして、断られたという
ニュース。
もうひとつは、K国が、やはり就任式に
出席を申し込んだが、断られたという
ニュース。

++++++++++++++++++

福井県小浜市の人たちには、申し訳ないが、「オバマ」と日本語で発音しても、
向こうではだれも、「Obama(新大統領)」のこととは、思わないだろう。
発音そのものがちがう。

たとえば近くにアメリカ人がいたら、日本語式の発音で、「プラットフォーム」とか、
「マンション」とか言ってみればよい。
「ゴルフ」でもよい。
日本に長く住んでいるアメリカ人にならともかくも、こうした和式英語は、100%、
通じない。

「Obama」が、「オバマ」になり、「小浜(市)」になった。
その逆でもよい。
それは、よくわかる。
小浜市の人たちは、Obama氏を、なんとか町おこしにつなげたいと思っているの
かもしれない。
その気持ちも、よくわかる。
しかし……。
私の印象では、Obama新大統領は、そうした申し出には、乗ってこないと思う。
日本にとってアメリカは、巨大な国だが、アメリカにとって日本は、そうでない。
アメリカの大学生のほとんどは、日本がどこにあるかさえ知らない。
それにこんな話もある。

日本の地名ほど、外国人を悩ませるものはない。
そこで、日本へやってくる外国人は、日本の地名を、それぞれ自分の知っている単語
に結びつけて覚える。

たとえば「福岡」は、「Fuxx(ひわい語)−Oka」、
「日光」は、「Nicker(ポンド紙幣)」など。
たぶん「小浜」は、「Over−ma(超える・ママ)」というような覚え方を
するのではないか。
「Obama」と発音しても、「小浜」にはならない。

で、彼らが日本語を覚えるときも、この手法をよく使う。

たとえば「こんばんは」は、「Comb ban wah」とか、など。
日本人が外国語を覚えるときのように、カタカナ表示のようなことは、しない。
発音記号で書く外国人など、見たこともない。
そういう点では、英語の単語は豊富。
たいていの日本語は、英語の単語に置き換えることができる。
ちなみに「Comb ban wah(コンバンハ)」は、「くし・禁止・ワー」
という意味。

ところで、逆の話もある。

今の日本の総理大臣は、「アソ」である。
しかし「アソ」というのは、そのままズバリ、「axx−sore」となる。
このばあいは、発音どおり。
つまり「xx・痛い」となる。
「axx」は、ひわい語。
「Fuxx」と並んで、文字で表記することすら、禁止されている。

「アソ」という名前の人は多い。
だからこんなことを書くと、不愉快に思うかもしれない。
それはわかっているが、どうか許してほしい。
私の名前の「ヒロシ」にしても、フランスの元植民地であった国々では、
おかしな意味になる。

彼らは「ヒロシ」を、「イロシ」と発音する。
「h」の発音を抜いてしまう。
たとえばベトナムなどでは、「イロシ」というと、日本語でいう「エロ」、つまり
「スケベ」という意味になる。
だから私の名前の「ヒロシ・ハヤシ」は、「スケベ・ハヤシ」となる。
私は、そういう国々では、「ジョージ・ハヤシ」という名前を使うことにしている。

で、「アソ」。
「アソ」という名前の人は多い。
「阿曾」「阿蘇」「阿曽」「安蘇」など。
「麻生」も、そのひとつ。
そういう人たちには申し訳ないが、(しかし事実だから、どうしようもないが)、
英語国では、先にも書いたように、とんでもない意味になる。
そういう名前の人には、失礼だと思うから、ふつうなら、こんなことは書かない。
しかしそれが今、日本の総理大臣の名前として使われている。

率直に言えば、「アソ」という名前は、国際的なネーミングとしては、
まことにもって、ま・ず・い。
ふつう「axx(アス)」というのは、相手をバカにした言葉として使われる。
「バカヤロー」は、「axx−hole(xxの穴)」となる。

で、昔、日本の天皇が、アメリカを訪問したとき、天皇がこの単語を連発したことで、
話題になった。
天皇は何かの説明を受けるたびに、「アッソー」「アッソー」と言った。
そのたびに向うの人たちは、その言葉に、たいへん戸惑ったという※。

で、同じObama新大統領の就任式についてだが、K国が、式への出席を
申し込んだという話には驚いた。
まるで、トンチンカン。
まったく自分のことがわかっていない。
いったい自分は何様のつもりでいるのか。
あの国のやることなすことすべて、私の理解の範囲を超えている。

(付記)
あのブッシュ大統領でも、アソ総理大臣の名前だけは、すぐに覚えたことと思う。
外人には、たいへん覚えやすい名前である。
しかも一度耳にしたら、ぜったいに忘れない。
余計なことだが……。

(注※)これには、こんなエピソードがある。
NHKの特派員が、当時、天皇の訪米に同行して、アメリカの小学校を訪れた。
そこでのこと。
その特派員が日本人とわかると、子どもたちがみな、両手を合わせて特派員のところへ、
寄ってきて、こう言った。
「アッソー」「アッソー」と。
それを報道しながら、特派員は、こう言った。
「こんなところにも陛下訪米の成果が現れています」と。

が、たまたまそれのテレビを私の横で見ていた、オーストラリアの友人が、こう言って
教えてくれた。

「ヒロシ、ちがうよ。この特派員はバカにされているんだよ」と。

今でも、英語国では、日本人をからかうとき、この言葉を使う。
両手を合わせながら、「アッソー」「アッソー」と。

というわけで、「アソ」という名前についての話は、おしまい。
これ以上のことは、ここには書けない。
意味や使い方などは、あなたのまわりにいる外人に、聞いてほしい。
あくまでも自己責任で……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
axx−sore Axx Sore)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●1月18日(日曜日)(To Mr. Kim Jon HILL of USA)
C. Rice and C. Hill has been only cheated and are cheated now as well by North Korea. 
Only what these two brain-less diplomats have done is to give North Korea、money, oil, 
food, music as well as time. During these five years, North Korea has developed nuclear 
weapons to the level of missiles as reported in the newspaper this morning (Chinichi 
Daily, Jan 18th, 09). They say, "then what did Japan do to deal with North Korea?" We 
did. Especially C. Hill has, however, had no ears to listen to our voices or rather 
betrayed us so often and then therefore we never hesitate to call him, "Kim Jon HILL" 
at the last stage of the negotiations. Moreover he has destroyed the relationship 
between Japan and USA and more and more Japanese have been to dislike USA. No 
more thanks for C. Hill, though C. Hill seems to want to keep playing more in the Far 
East. But we say, "please be back to your office in USA". He seems to have paid no 
attention to the human rights and have achieved nothing for these problems. He had 
worked only for North Korea and pro-North Korean Government of South Korea. Be 
ashamed, C. Kim Jon HILL!
  
+++++++++++++++++

今朝は、寝起きがあまりよくなかった。
こういうときは、サイトカインが、
脳内にかなり充満している(?)。
ストレス性のホルモンである。

どこか気分が重い。
その割に神経がピリピリしている。
考えることすべてが、(怒り)に結びつく。

+++++++++++++++++

●K国のプルトニウム約30キロ

朝刊(中日新聞)のトップの見出しは、これ。
「K国は抽出したプルトニウム30キロを、すでに核兵器化した」と。
だから言わないことではない。
K国の金xxは、約束など守るような男ではないし、またその気など、
当初からみじんも、なかった。
おバカなC・ヒルは、それにだまされただけ。
彼がしたことは、K国に、マネー(BDA)、原油(50万トン)、音楽、
食糧、それに時間を与えただけ。
アメリカの新聞は、「8−0」で、アメリカの負けと報じている。

この中でも、とくに(時間)が痛い。
この5年近くの間に、K国は、かなりのレベルまで、核兵器を完成させたはず。
現に今朝の新聞によれば、「5、6個の核兵器を完成させたはず」と。

……と書くと、日本の責任はどうなのかという議論がある。
「アメリカ任せにしておいて、文句を言うとは何ごとか」と。

実はそのつど、日本はあれこれ文句を言ってきた。
注文もつけてきた。
しかしそうした日本側の意見に耳を貸さなかったのは、C・ヒルであり、
C・ライスということになる。
むしろ日本という最大の同盟国を裏切った。
この罪は重い。

C・ヒルは、オバマ政権下での続投をねらっているらしい。
「K国は85%、核開発放棄をすでに完了した」とか、「原油支援が完了すれば、
K国は核査察に応ずるはず」とか、「?」な発言を繰り返している。
何をもって「85%」というのか。
K国のYにある、核開発関連施設の爆破ショーだけをもって、どうして「完了」と
言えるのか。
また「原油支援が完了すれば……」というのは、どういう意味なのか。
この場に及んでも、C・ヒルまだK国寄りの姿勢を崩していない。

日米関係は、今、悪化の一途をたどっている。
各種の世論調査の結果をみるまでもない。
その第一の責任は、あのC・ヒルにある。

ところで同時に、今朝の新聞によれば、K国は韓国に対して、「全面対決宣言を
した」という。
これについては、韓国にこう言いたい。
「それ、見たことか!」と。

竹島(独島)どころではない。
韓国全土が、K国に乗っ取られようとしている。

(付記)1月19日の参詣新聞は、つぎのように伝える。

『米政府のレフコウィッツ北朝鮮人権問題担当特使は17日、米議会に北朝鮮の人権状況
に関する最終報告を提出し、北朝鮮を「世界で最も人権を侵害している国の1つ」と強く
非難した。そのうえで、「抑圧国家は国内で独裁的な統治をすることを正当化する手段とし
て、外国に敵を作り出している」として、北朝鮮の人権問題と核問題などの安全保障上の
問題を「密接不可分なもの」と位置づけることが必要と強調した。

 米国の人権問題への取り組みに関しては、北朝鮮との交渉で人権問題は「重要な要素」
と北朝鮮人権法で明記されているにもかかわらず、「6カ国協議で人権に関して意味のある
議論が行われず、東アジア各国に人権問題であいまいな印象を与えた」として、同協議米
首席代表のヒル国務次官補(東アジア・太平洋担当)を批判した』と。

C・ヒルが、拉致問題について話し合った形跡は、ゼロ。
もちろん成果も、ゼロ。
そんな同盟国が、どこにある?


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●諏訪湖
My wife and I are to go to Suwa Lake in Nagano Pref., a northern prefecture to 
Hamamatsu-city. It is about 4 hours' ride by bus to the lake where we are about to enjoy 
walking along the lake side. It is our habbit to do this kind of walking almost every two 
or three days these day. Of course it is for our physical exercise.

今日は、諏訪湖畔の「さざなみロード」を、約9キロ歩くことになっている。
スタートは、ガラス館。
ゴールは、下諏訪町。
途中いくつかの美術館や温泉などがあるという。
天気がやや心配だが、楽しみ。

(この原稿は、諏訪に向かうバスの中で書いている。)

昨夜、2人の友人の家を回った。
山荘で取れた八朔(はっさく)を、届けるため。
昨日は、大きなポリ袋で、5つも収穫できた。
1つの袋で10キロほどだから、約50キロの収穫ということになる。
が、それでも全体の3分の1ほど。
残りは来週、収穫するつもり。
今年も大豊作。

ところで友人たちはみな、よい年齢になった。
58〜75歳。
話題と言えばもっぱら、健康談義。
それぞれがそれぞれの方法で、自分の健康に気をつかっている。
そういう話を聞くだけでも、たいへん参考になる。

ところでこんなことに気づいた。
バスは、休憩のため、そのつどサービスエリアで止まる。
中央自動車道を北へ北へと上っているわけだが、そのつど、気温がどんどんと
さがっていくのがわかる。
寒いというよりは、冷たい。
浜松の自宅を出るときは、コートまではいらないと思ったが、ジャンパーを
もってきて正解だった。
この分だと、諏訪湖はかなり寒いらしい。
湖面が凍ると、ワカサギ釣りができるようになるという。

しかし昨夜の睡眠時間は、4時間弱。
眠い。
眠いということで、書くのはここまで。

……一言、追加。

昨夜もそうだったが、一度、眠りそこねると、そのまま頭がさえてしまい、
眠れなくなってしまうことがある。
そういうときは、あせらず、なりゆきに任せるのがよい。
眠くなったら、眠る。
「眠れないとたいへん」と思う必要はない。
一晩や二晩、眠らなくても、体には影響はない。

●付記

バスに乗る前、コンビニによった。
おにぎりを2個、買った。
そこでパッケージに入ったタバコを見た。
それには、こう書いてあった。
「妊婦の喫煙は、胎児に影響を与えます。
早産、死産、低体重児の発生率が、2倍から
3倍になります」(詳細は、記憶によるもの
なので、不正確)と。

しかしこんなことは、すでに35年前には、
わかっていたこと。
私は京都大学の西村教授から、直接、その
話を聞いたことがある(ブラジルで)。
西村教授はこう言った。
「疫学的にはタバコはクロです。ただ人体実験
ができないだけです」と。
つまり「証明ができないだけです」と。

この35年間で、いかに多くの胎児が、タバコの
犠牲になったことか。
いかに多くの親たちが、悲しみにくれたことか。
しかも、実際には、早産、死産というときには、
その中には奇形出産も多く含まれる。
「20人の約1人」(ある産婦人科医)という話も
聞いている。
そういう胎児たちは、早産、死産という形で、
闇から闇へと葬られている。

さらに私の経験だが、両親のうち、どちらかが
ヘビースモーカーのばあい、子どもには、つぎの
ような影響が現れる。

(1)全体に、発育が遅れる。小柄な印象を与える。低体重児は、その後の発育が
遅れがちになる。
(アメリカでは、標準体重・身長に対して、〜〜%という言い方で、
それを表現する。
たとえば標準的な子どもが、身長が100センチ、その子どもが
90センチのときは、発育度「90%」というような言い方をする。)

(2)髪の毛が細い。頭をなでてみると、ツルツルとすべる
ような感じがする。

タバコは、まさに百害あって一利なし。
タバコをすべて禁止にすれば、その分だけ税収が減るが、半面、
医療費が軽減化される。
全体のバランスシートを見れば、国としてはそのほうが得だそうだ。
タバコ1箱、1000円。
おおいに結構。
どこかの国では、タバコの値段をあげたら、喫煙者が急減したという。

また愛煙家団体が訴えているように、タバコは、嗜好品ではない。
コーヒーや、酒とはちがう。
まわりの人たちにとってのみならず、社会にとっても、害毒である。
そういう前提で、タバコを考えるべき。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●統合性の確立

++++++++++++++++++++++++

今日の成果。
私とワイフは、ずっとトップランナーだった。
諏訪湖の湖畔を歩くとき、いつもうしろを見ながら歩いた。
こんなところで順位を競っても意味はない。
わかっているが、私たちは、それを目標にしている。
週に2、3度、10キロ近く歩いているのも、そのため。

それぞれの人には、それぞれの目的がある。
観光を楽しみたい人。
友だちとおしゃべりを楽しみたい人。
ほかにも、いろいろあるだろう。
しかし私たちは、運動のため。
そのためには、タラタラと歩いていたのでは、意味がない。
サクサクと歩く。
汗をかく。
有酸素運動をする。

そのために歩く。
目標は、トップ。
目的地、一番乗り。

++++++++++++++++++++++++++++

●帰りのバスの中で

それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「あなたの人生の縮図みたいね」と。

いつもトップだったというわけではないが、しかしその緊張感は
忘れなかった。
先手、先手で、人の前に立つ。
それは私のように一匹狼で生きていく人間にとっては、鉄則のようなもの。
二番手になったとたん、押しつぶされてしまう。

が、目的地に着いたら、そこで遊ぶ。
時間にも余裕がある。
その周辺の店をのぞいたりする。
これもワイフに言わせると、私の人生の縮図みたいということになる。

私はいつも、まず(すべきこと)を先にする。
それが終わったら、自分の(したいこと)をする。
その余裕がないときは、がまんする。
つまり(すべきこと)が残っているときは、(したいこと)をがまんする。

いつもこの鉄則を守っているというわけではないが……。

●60歳の統合性

(やるべきこと)と、(したいこと)は、基本的にちがう。
(やるべきこと)には、常に、ある種の苦痛がともなう。
できるなら、やらないですまそうとする。
そういうブレーキも働く。
人間は本来、怠けもの。
が、その(苦痛)を乗りこえなければ、(やるべきこと)は、できない。

エリクソンは、人生の正午と言われる満40歳前後から、(やるべきこと)の
基礎を作れというようなことを説いている。
(やるべきこと)を見つけ、その基礎固めをしていく。
それが5年とか10年とかいう年月を経て、その人の中で熟成していく。
何度も書くが、「60歳になりました。明日からゴビの砂漠でヤナギの木を
植える」というわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、身につかない。

(やるべきこと)を見つけ、現実にそれを実行していく。
それを「統合性の確立」という。

●統合性の失敗

私も含めてということになるかもしれないが、こうした統合性の確立に
失敗している人は、多い。
60歳という、年齢の節目に立ってみると、それがよくわかる。

明日は今日と同じ。
来月は今月と同じ。
来年は今年と同じ、と。

家ですることといえば、テレビを見て、雑誌を読んで、あとは眠るだけ。
たまの休みには、野球中継。
雨の日は、パチンコ。
読むのは、スポーツ新聞だけ。
体のためと称して、畑を借りて家庭菜園。
ときどき旅行をしたり、孫の世話をする。
楽しむことイコール、老後のあるべき姿と考えている人も多い。
しかしそれこそ、まさに死の待合室に入ったようなもの。
1か月を1日にして、生きるだけ。
1年を、1か月にして生きるだけ。

そんな人生に、どれほどの意味があるというのか(失礼!)。

●今、40歳前後の方へ、

エリクソンは40歳と言ったが、40歳では遅いかもしれない。
30歳でもよい。
20歳でもよい。
将来に向けて、統合性の確立のため、今からその下地を作っていく。
それは何も老後のためだけではない。
いつか「私は自分の人生を生きた」という実感を、
自分のものにするため。

もしこの統合性の確立に失敗すると、老後そのものがみじめになるだけではない。
自分が生きてきたという証(あかし)、さらには足跡まで、無駄になってしまう。
人生も晩年になって、「私は何をしてきたのだ」と思うことほど、苦しいことは
ない。
(今の私もそうだが……。)
自分の人生を振り返っても、そこには何もない。
いや、いつの間にか、自分に替わって、別の人間が、それをしている。
私がしたことをしている。
私より、ずっとじょうずにしている。
それはそのまま自己否定へとつながってしまう。

●無私無欲

(やるべきこと)は、無私無欲でなければならない。
金銭的な利益、名誉や地位のためというのであれば、それは(やるべきこと)
ではない。
損得勘定をしない。
仮にその結果として、金銭的な利益を得たり、名誉や地位がもたらされた
としても、それはあくまでも結果。
結果であるから、一喜一憂することもない。
淡々とそれを迎える。

仕事で忙しい人もいるだろう。
家事で忙しい人もいるだろう。
子育てで忙しい人もいるだろう。
しかしそういう間でも、統合性のための基礎づくりを忘れてはいけない。
それは長くて苦しい道かもしれない。
先にも書いたように、できればやりたくないことかもしれない。
しかしそれでもつづける。
それがここでいう統合性につながる。

●燃える

一方、70歳を過ぎても若々しい人というのは、たしかにいる。
私の義兄もその1人。

先週訪ねたら、そこにピカピカのベンツが置いてあった。
義兄のベンツは、たしか中古だったはず。
しかし、ピカピカ。

「どうしたの?」と聞いたら、「塗装しなおした」と。
「メッキは磨きなおした。パッチ(ゴム部)は、新品に取り替えた。
シートは、張り替えてもらった」と。

そして先月(08年12月)は、長野県の奥まで、奥さん(=ワイフの
姉)とドライブしてきた、と。
生き様が前向きというか、若々しい。
ゴルフのクラブにしても、自分で設計して、それを業者に作らせたり
している。
趣味はバイクだが、40年前、50年前のバイクを拾ってきては、
それを修理して走らせたりしている。
「夢は、いつかバイクの展示場をかねた喫茶店を開くこと」と。
年齢は、正確には、今年76歳になる。

そういう義兄と話していると、こちらまで若返る。
話がはずむ。

●あなたの未来

あなたの未来を知りたかったら、あなたの両親を見ることだ。
遺伝子学的にも、満20歳くらいまでは、親子といっても、様子は大きくちがう。
が、20歳まで。
満20歳を過ぎると、親子は急速に似てくる。
似てくるというよりは、実際には、同一化する。
子どもが親に似るわけではない。
同一化する。

子どもである(あなたは)は、「私は親とはちがう」「親のようにはならない」と
思っているかもしれない。
が、それは甘い。
世の中には、「進化論」というものもあるが、それは100代とか、1000代
単位で起こることであって、あなたの代の1代や2代くらいでは、起こるはずも
ない。

40代を過ぎれば、あなたもあなたの両親も同じ。
50代を過ぎれば、さらにあなたもあなたの両親も同じ。

こんな例がある。

●反面教師は、未来のあなた

ある女性は若いころから、自分の母親を批判していた。
「私の母は、ずるい」「私の母は、世間体ばかり気にしている」と。
しかしその母親がなくなってしばらくすると、今度はその女性が
母親そっくりの人間になっていた。
こういう例は、いくらでもある。

こうした世代連鎖は、どうすれば防ぐことができるか。
そこで登場するのが、「精進(しょうじん)」ということになる。
日々の絶え間ない研さんのみによって、こうした世代連鎖を断ち切ることができる。

たとえばあなたの父親が、インチキな人だったとしよう。
女遊びは、当たり前。
親戚中から借金を重ね、そのつどそれを踏み倒す。
親をだます子はいるが、あなたの父親は、あなたという子をだます。

あなたはそういう父親を批判する。
父親を反面教師にしながら、自分はそうしないと心に誓う。
「私は父親とはちがう」と言う。
しかし反面教師のこわいところは、ここから始まる。

反面教師とするのは勝手でも、別のところで別の人格を作りあげないと、
結局は、今度はあなたがその反面教師そっくりの人間になる。
理由は明白。
あなたはその反面教師しか、知らないからである。
親子のばあいは、さらによく似る。
自分ではそれはわからないが、他人から見ると、それがわかる。

●私のほうが、マシ?

しかしこんなことも言える
たぶんに自己弁解がましいが、悩んだり苦しんだりするところに、
実は価値があるのだ、と。

統合性の一致にしても、ほとんどの人は、それが何であるかもわからず、
悶々とした日々を送っている。
しかしその(悶々とすること)自体に価値がある。
というのも、少し前、そういうことをまったく考えない人に出会った。
そのとき私が感じた(落差)というか、(驚き)には、格別なものがあった。

私とて、統合性の確立ができたわけではない。
いまだに、悶々としている。
懸命にさがそうとしている。
が、その男性は、ノー天気というか、統合性の「ト」の字も考えていなかった。

のんき?
無神経?
無頓着?
楽天的?
享楽的?
せつな的?

しばらくいっしょに話したが、打ち返ってくるものが、何もない。
同じように、人生を60年近く生きてきたはずなのに、何もない。
本当に、何もない。

そこで私が、「退職後は何をしているの?」と聞くと、「マンションの守衛を
している」と。
マンションの守衛が悪いというのではない。
で、「休みには何をしているの?」と聞くと、先に書いたような答が返ってきた。

「野球中継があるときは、テレビでそれを見て過ごす」
「休みには魚釣り。雨が降ればパチンコ」と。

本は読まない。
読むのはスポーツ新聞だけ。
音楽は聴かない。
映画も見ない。
あとは孫ができたとかで、ときどき孫の世話をしている、と。

統合性の確立どころか、その入り口にも立っていない(失礼!)。
だからこう思った。
まだ、私のほうが、マシ、と。

●やってくる老後

老後は、確実にやってくる。
あっという間にやってくる。
しかも老後というのは、意外に長い。

60歳から始まったとしても、20年近くある。
幼児が成人するまでの年月に等しい。
しかしこれは、「どう過ごすか」という問題ではない。
「やるべきことをやらないと、死ぬこともできない」という問題である。

現実に私もその年齢になり、老後の入り口に立って、その恐ろしさを
実感しつつある。
仕事がなくなる恐怖。
役目がなくなる恐怖。
だれにも相手にされなくなる恐怖。
こうした恐怖は、そのまま自分をどんどんと小さくしていく。
そんな状態で、この先、20年を、どうやって生きていったらよいのか。
またそんな状態で、生きていかれるはずもない。

まず手始めに、仕事を失ってはいけない。
どんな小さな仕事でも、それにしがみついていく。
それに町内の仕事にしても、それができるなら、どんどんとしていく。
みなの役に立つ。
みなから、役に立つ人間として評価される。

●私の経験

これは私の経験だが、私は今にしてみると、1円もお金をもらわなかったのが、
うれしい。
40代〜55歳くらいまでは、電話相談に明け暮れた。
それ以後は、無料でマガジンを出したり、無料で相談に応じている。
そのときは、「どうしてこんなバカなことをしているのだ」という思いとの
闘いでもあった。
しかしそれが今、少しずつだが、光り始めている。

もしあのとき、そして今、お金を受け取っていたら、私のささやかな
統合性は、その時点で霧散していただろう。

もちろん今していることが、(私のすべきこと)とは、思っていない。
しかし私が今、住んでいる世界では、それしか思いつかない。
それこそ「では、これからゴビの砂漠に行って、ヤナギの木を植えてきます」と
いうようなことは、私にはできない。
だいたい、その下地がない。
だから、やるしかない。
その先に何があるかわからないが、ともかくも、やるしかない。

●最後に……

むずかしい話はさておき、朝起きたとき、(やるべきこと)がそこにあるだけでも、
うれしい。
感謝しなければならない。

その(やるべきこと)が、あなたには、あるだろうか。
あればよし。
そうでなければ、あとは自分の心と体に、ムチを打つしかない。
「楽をしたい」という思いはだれにでもある。
が、その(思い)に敗れたとたん、あなたは一気に、孤独の世界へと落ちていく。

……ということで、明日からまた新しい週が始まる。
「がんばるぞ」と自分に掛け声をかけて、この話は、おしまい。
どうであるにせよ、私は生きていかねばならない。
今までもそうして生きてきたし、今も生きている。
これからもそうして生きていくだろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      2月   20日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(BW方式)(早数え)

+++++++++++++++++++++

幼児期においては、計算練習に先立って、早数えの練習をしておくとよい。
(ひとつ、ふたつ、みっつ……)ではなく、(イチ、ニ、サン……)と。
さらに慣れてくると、(イ、ニ、サ、シ……)となり、(ニ、シ、ロ、ハ……)となる。
ここでいくつかのコツがある。

(1)数の信号化……(イチ、ニ、サン、シ……)ではなく、(ピ、ピ、ピ……)と
頭の中で信号化させる。

(2)黙読化……年長児になったら、「頭の中で数えなさい」、あるいは「口を閉じて
数えなさい」と指示する。声を出させない、口をもぐもぐさせない。

(3)10ずつまとめて数える……(1、2、3,4,5,6,7,8,9,10、
1,2,3,4,5,6,7,8,9,20、1,2,3,4,5,6,7,8,
9,30……)と、(10)(20)(30)と数えさせていく。

方法としては、

(1)手をパンパンとたたいて、それがいくつかを当てさせる。
(2)反対に、子どもに、できるだけ早く、10(あるいは30)を、たたかせる。
そのときも、声を出させない、口を閉じてさせる。

数の信号化ができ、それが早くできるようになれば、あとあと計算力のある子どもに
なる。

たとえば(2+3)は、「ピピと、ピピピで、5」と。

(BW方式 計算力)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●1月15日

【心を開く】

+++++++++++++++++++

xx日に、11〜12キロ、歩くことになっている。
「Y・歩こう会」の例会である。
7〜8キロくらいまでなら、何とか、歩ける。
しかし11〜12キロは、きびしい。
上級者コース。
途中、山道がつづけば、さらにきびしい。

……ということで、今日、ワイフと10キロ近くを歩いてみた。
「これなら何とかだいじょうぶ」と、ワイフは言った。

あとは天気しだい。
新聞の天気予報をみると、今度のxx日は、雨らしい。
だいじょうぶかな?
少し心配になってきた。

++++++++++++++++++++

●基本的信頼関係

基本的な信頼関係の構築に失敗すると、それ以後、その人は心の開けない人になる。
そういった状態を、基本的信頼関係に対して、基本的不信関係という。

何度も書くが、乳児は、絶対的な安心感の上に、基本的信頼関係を構築する。
「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。
「絶対的な安心感」というのは、(絶対的なさらけ出し)と(絶対的な受け入れ)を
をいう。

子どもの側からすれば、安心してすべてを、さらけ出すことができる。
親の側からすれば、何の迷いもなく、すべてを受け入れることができる。
その上で、基本的信頼関係が構築される。
この基本的信頼関係が、成長ともにワクを広げ、友人との信頼関係、先生との
信頼関係、結婚してからは、配偶者との信頼関係へと、発展していく。
先日、こんなシーンを道路で見かけた。

小さな女の子(小2くらい)が、通りで、父親を見つけた。
父親は、自転車に乗っていた。
ブラジル人の親子だと思う。
女の子は、パッと表情を変え、父親に向かって突進していった。
そのまま父親の腕の中に飛び込んでいった。
父親は、娘を力いっぱい抱くと、そのままゆっくりとうしろの荷台に、娘を乗せた。

ほほえましい光景だった。
と、同時に、彼らのもつ愛情表現の豊かさに感心した。
南米から来ている人たちは、そうした行為を、ごく自然な形でできる。
人目を気にせず、できる。
みながみなではないだろうが、日本人の私たちから見ると、オーバーというか、露骨。
親子だけではない。
若いカップルだと、あたりかまわず、抱き合って接吻している。
しかしそういう(さらけ出し)と、(受け入れ)が、自然にできるということだけでも、
すばらしい。

というのも、私たち日本人は、そうした行為を昔から、「はしたない行為」としてきた。
人前ではしてはいけない行為としてきた。
しかしそれは世界の……というより、人間が本来もつ常識ではない。

たった40年前のこと。
私はオーストラリアへ渡ったが、大学のキャンパスの中ですら、若い恋人同士が、
歩きながら接吻し合っていた。
私はそれを見て、心底、驚いた。
が、当時の日本人には、考えられない光景だった。

つまり私たちは、こと親子について言えば、もっと(さらけ出し)を、してよいと
いうこと。
日本の基準というより、世界の基準に合わせる。

私は一度、自転車でそのそばを通りすぎた。
が、すぐに親子の乗った自転車が、私を追い抜いていった。
どこまでも明るく、屈託のない、女の子の表情が美しかった。
父親のうれしそうな表情が、印象的だった。

●夫婦でも……

私たち夫婦は、今から思うと、おかしな夫婦だった。
夫婦でありながら、たがいにどこか遠慮しあっていた(?)。
私は、たとえば実家の恥(?)になるような話は、ワイフに言うべきではないと
考えていた。
ワイフはワイフで、実家にまつわるプライベートな話を、あまりしなかった。
私も聞かなかった。

が、おかしな夫婦といっても、そのときはわからなかった。
自分たちがそうでなくなって、はじめて、あのころの私たちはおかしかったと
感ずるようになった。

もし今でもあのときのままだったら、それに気づかなかっただろう。
30歳を過ぎるころから、私は努めて、ワイフの前でさらけ出しをするようにした。
つづいてワイフも、さらけ出しをするようになった。

それにはこんな事件があった。

ある文士たちが集まる会合に顔を出させてもらったことがある。
そのときのこと。
中央に座っている男性が、私に向かって、突然、こう言った。
「林君、君の奥さんは、君の前で、オナラをするかね?」と。
私はその質問に、一瞬ひるんだ。
が、こう答えた。
「うちのワイフは、そういうことはしません」と。

それに答えて、どっとまわりの男たちが言った。
「かわいそうに」「それは気の毒に」と。

夫の前で、おならが自由にできない妻は、かわいそうというのだ。

私のワイフは、私には、絶対的なさらけ出しをしていなかった。
私は私で、それを絶対的に受け入れてはいなかった。
みなにそう言われるまで、私はそれに気がつかなかった。

●二匹のヤマアラシ

二匹のヤマアラシについては、たびたび書いてきた。

『寒い夜、2匹のヤマアラシが、穴の中で、眠ることになった。しかしたがいに体を近づ
けると、たがいの針が刺さり、痛い。しかし遠ざかれば、寒い。こうして2匹のヤマアラ
シは、一晩中、穴の中で、離れたり、くっついたりを繰りかえした。

この「2匹のヤマアラシ論」は、本来は、人間関係をうまく結べない人が、孤独と、人と
接触することによって起こる苦痛の間を、行ったり来たりするのを説明したものである。

たがいに針を出しあって、たがいに孤独なのに、キズつけあっている。が、さりとて、別
れることもできない……』。

基本的信頼関係がうまく構築できなかった人は、いわゆる心の開けない人になる。
(他人に対して心が開けない)→(さみしい)→(他人の世界に入っていく)→
(神経疲れを起こす)→(他人から離れる)→(さみしい)→(他人の世界に
入っていく)→……、を繰り返す。

こういう状態を、ショーペンハウエルという学者は、「二匹のヤマアラシ」を例に
あげて説明した。
(ここでいうショーペンハウエルについて、私は哲学者のショーペンハウエルのこと
だと誤解していた。しかし心理学者のショーペンハウエルである。)

原因は、母子関係の不全。
子どもとの信頼関係の構築には、母親の育児姿勢が大きく影響する。

こうして基本的信頼関係の構築に失敗した人は、だれに対しても心が開けない分だけ、
孤独になる。
が、ここでいう「孤独」は、ただの「孤独」ではない。
仏教でいう「無間地獄」というにふさわしい孤独である。
人間の魂を押しつぶしてしまうほどの力がある。
が、自分だけならまだしも、そういう人はまわりの人たちをも、孤独にしてしまう。
心を開かない夫と結婚した妻は、どうなるか。
心を開かない妻と結婚した夫は、どうなるか。
さらに不幸はつづく。

心を開かない母親をもった子どもも、また心を開けなくなる。
こうして基本的不信関係は、世代から世代へと、連鎖していく。

●心を開けない人たち

心を他人に対して開けない人は、つねに孤独にさいなまれる。
他人の前では、いつも自分を作ってしまう。
そのため、他人と接すると、精神疲労を起こしやすい。
つぎのような症状があれば、心の開けない人、つまり基本的信頼関係の構築に
失敗した人とみてよい。

(1)集団行動より個別行動を好む。
(2)一見社交的(=仮面)で、他人には逆の評価を受けることが多い。
(3)他人を信頼できない。他人に仕事を任すと、不安。
(4)他人と接していると、神経疲労を起こしやすい。
(5)自分を実際よりよく見せようとすることが多い。
(6)世間体を気にしたり、虚勢を張ることが多い。
(7)「信じられるのは自分だけ」を口にすることが多い。
(8)友人関係は概して希薄で、友人の数も少ない。

が、本当の問題は、心を開けない人がいたとしても、それに自分で気がつくのが、
たいへんむずかしいということ。
ほとんどのばあい、ほとんどの人は、「私はちがう」と思い込んでいる。
というのも、心を開けないまま、それがその人の中で、定着してしまっているということ。
言うなれば、かさぶたの上にかさぶたが重なってしまっていて、元の傷の形すら、
わかりにくくなってしまっている。

まず、自分に気づく。
それがこの問題の最大の関門ということになる。

●心を開く

要するに、さらけ出す。
自分をさらけ出す。
ありのままの自分を、ありのままに表現する。
その第一歩として、言いたいことを言い、やりたいことをやる。
あなたが不完全で未熟であっても、恥じることはない。
あなたはあなた。
どこまでいっても、あなたはあなた。

自分を作ることはない。
自分を飾ることはない。
自分を偽ることはない。

……といっても、いきなり、それをするのはむずかしい。
そこでまず、あなたの妻なり、夫に対して、それをする。
が、それには条件がある。

(1)絶対的なさらけ出しをするということは、同時に、絶対的な
受け入れをしなければならない。
けっして一方的なものであってはいけない。

ただしこうした(絶対的なさらけ出し)と(絶対的な受け入れ)をした
からといって、基本的信頼関係が構築できるというわけではない。
それこそ5年とか、10年とかいう単位の、長い年月が必要。
あとは努力、また努力ということになる。

この問題だけは、本脳に近い部分にまで刷り込まれているから、「正す」と
いっても、容易なことではない。

(そういう点では、『クレヨンしんちゃん』の中に出てくる、みさえ(母親)は、
参考になる。
心を開けない人は、みさえを参考に、心を開く練習をしてみてほしい。
コミック本のVOL1~11前後が、お勧め。
テレビのアニメのほうは、参考にならないので注意。)
  
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
基本的信頼関係 基本的不信関係 心を開く 心が開けない人)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【信頼関係vs不信関係】(Confidential Relationship between Parents and Children)

Can you open your heart to other people including your husband or wife? If not, please 
read this article and know yourself.

++++++++++++++

あなたは他人に対して、心を
開くことができるか?

もしそうでないとするなら、
一度、この原稿を読んでみて
ほしい。

さみしい思いをするのは、あなたの
勝手だとしても、あなたの周囲の
人たちまで、さみしい思いを
しているはず。

++++++++++++++

●乳児期に形成される信頼関係

乳児期においては、母子の関係は、絶対的なものである。
それもそのはず。
乳児は、母親の胎内から生まれ、その母親から乳を受ける。命を育(はぐく)む。
その絶対的な関係を通して、乳児は、母子との間で、信頼関係を結ぶ。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。

こうしてできる太い絆(きずな)を、「ボンディング」と呼ぶ。

この信頼関係が基本となって、乳児はやがて、他人との信頼関係を結ぶことができるよう
になる。
成長するにつれて、その信頼関係を拡大する。
父親との関係、保育園や幼稚園での教師との関係、さらには、友人との関係など。

そういう意味で、この母子との間にできる信頼関係を、「基本的信頼関係」という。

その信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)があってはじめて成り
立つ。

乳児の側からすれば、「どんなことをしても許される」という、疑いすらもたない安心感と
いうことになる。

母親の側からすれば、「どんなことをしても受け入れる」という、疑いすらもたない包容力
ということになる。

が、この信頼関係の構築の失敗する例は、少なくない。
何らかの原因で、この絶対性がゆらぐ。
育児拒否、親の否定的な育児姿勢、無視、冷淡。
夫婦不和、家庭不和、家庭騒動などなど。

子どもの側からすれば、絶対的な安心感をもてなくなる。
母親の側からすれば、絶対的な包容力をもてなくなる。

こうして乳児は、母親に対して不信感をもつようになる。
ただの不信感ではない。
自分の母親ですら信ずることができない。
乳児は、そして子どもは、その不信感を常に抱くようになる。

こうした心理的な状態を、「基本的不信関係」という。
が、一度、その不信関係ができると、子どもは、いわゆる「心の開けない子ども」になる。
その可能性は、きわめて高くなる。

が、不幸は、それで終わるわけではない。

結婚してからも、配偶者にすら、心を開くことができない。
さらに自分の子どもにすら、心を開くことができない。
あなたはそれでよいとしても、あなたの周囲の人も、さみしい思いをする。

そしてそれがさらに世代連鎖して、その子ども自身も、心を開くことができなくなる可能
性も高くなる。

「基本的信頼関係」というのは、そういうもの。
決して、軽く考えてはいけない。

……ということで、今、ここで、もう一度、あなた自身の心の中をのぞいてみてほしい。

あなたは、あなたの子どもや夫を、何の疑いもなく、信じているか?
あなたは、あなたの子どもや夫に、何の疑いもなく、心を開いているか?

反対に、こうも言える。

程度にもよるが、母子との間の基本的信頼関係の構築に失敗した人は、万事に、疑り深く、
猜疑心が強く、ついでに嫉妬心も強い。
もちろん他人に対して心を開けない分だけ、孤独。寂しがり屋。

そこで孤独であることを避けようと、人の中に入っていくが、心を許すことができない。
ありのままの自分をさらけ出すことができない。
自分をつくる。飾る。見栄を張る。虚勢を張る。世間体を気にする。
そのため、人と接触すると、精神疲労を起こしやすい。
人と会うのがおっくうで、会うたびに、ひどく疲れを覚える人というのは、このタイプの
人と、まず疑ってみる。

もしそうなら、まずあなた自身の心の中を静かにのぞいてみるとよい。

あなた自身の乳児期の様子がわかれば、さらによい。
あなたは両親の豊かな愛情に恵まれ、ここでいう基本的信頼関係を構築することができた
か?
あなたの両親は、そういう両親であったか?
先に述べた、ボンディングは、しっかりとできていたか。

もしそうでないとするなら、あなたはひょっとしたら、基本的信頼関係の構築に失敗して
いる可能性がある。
だとするなら、さらに今、あなたは自分の子どもとの関係において、基本的信頼関係の構
築に失敗している可能性がある。

しかしこの問題は、あなた自身の問題というよりは、今度は、あなたの子ども自身の問題
ということになる。

親から子へと世代連鎖していくものは多いが、その中でも、こうして生まれる基本的不信
関係は、深刻な問題のひとつと考えてよい。

たとえば、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子どもは、「母親から保護され
る価値のない、自信のない自己像」(九州大学・吉田敬子・母子保健情報54・06年11
月)を形成することもわかっている。

さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になるこ
ともある。最近の研究によれば、成人してから発症する、うつ病の(種)も、この時期に
形成されることもわかってきている。

わかりやすく言えば、その子どもの心の、あらゆる部分に大きな影響を与えていくという
こと。
だからこの問題は、けっしてあなた自身だけの問題に、とどまらないということ。

基本的信頼関係のできている人は、自然な形で、当たり前のように、心を開くことができ
る。
が、そうでない人は、そうでない。だれに対しても、心を開くことができない。

では、どうするか?

この問題だけは、(1)まず、自分がそういう人間であることに気づくこと。(2)つぎに
機会をとらえて、自分をさらけ出すことに努めること。(3)あとは時間を待つ。時間とい
っても、10年単位、20年単位の時間がかかる。

それについては、何度も書いてきたので、別の原稿を参考にしてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 基本的信頼関係 
ボンディング 母子関係 はやし浩司)

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この原稿に関して、いくつか
お役に立てそうな原稿を
集めてみました。

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【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、
大きなわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者
のケースに集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5〜7か月
くらいから始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断し
てよいと書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のば
あい、好ましいことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役
目だが、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶ
ことができるようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働き
かける、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、
友人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの
関係へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっ
かりしていれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこ
えることができる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれ
ば、前者のケースに集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。
ただ、一度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわ
かれば、あなたは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、
その問題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロー
ルすることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はか
かるが、必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにも
ならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子ども
に与えてはならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもが
それを求めてきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めて
きたときが、与えどき』と覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由を
さぐる。『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、
「わがまま」とか、決めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。
この時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、
この時期に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【父親VS母親】

●母親の役割

 絶対的なさらけ出し、絶対的な受け入れ、絶対的な安心感。この三つが、母子関係の基
本です。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味です。

 母親は、自分の体を痛めて、子どもを出産します。そして出産したあとも、乳を与える
という行為で、子どもの「命」を、はぐくみまず。子どもの側からみれば、父親はいなく
ても育つということになります。しかし母親がいなければ、生きていくことすらできませ
ん。

 ここに母子関係の、特殊性があります。

●父子関係

 一方、父子関係は、あくまでも、(精液、ひとしずくの関係)です。父親が出産にかかわ
る仕事といえば、それだけです。

が、女性のほうはといえば、妊娠し、そのあと、出産、育児へと進みます。この時点で、
女性が男性に、あえて求めるものがあるとすれば、「より優秀な種」ということになります。

 これは女性の中でも、本能的な部分で働く作用と考えてよいでしょう。肉体的、知的な
意味で、よりすぐれた子どもを産みたいという、無意識の願望が、男性を選ぶ基準となり
ます。

 もちろん「愛」があって、はじめて女性は男性の(ひとしずく)を受け入れることにな
ります。「結婚」という環境を整えてから、出産することになります。しかしその原点にあ
るのは、やはりより優秀な子孫を、後世に残すという願望です。

 が、男性のほうは、その(ひとしずく)を女性の体内に射精することで、基本的には、
こと出産に関しては、男性の役割は、終えることになります。

●絶対的な母子関係VS不安定な父子関係

 自分と母親の関係を疑う子どもは、いません。その関係は出産、授乳という過程をへて、
子どもの脳にしっかりと、焼きつけられるからです。

 しかしそれにくらべて、父子関係は、きわめて不安定なものです。

 フロイトもこの点に着目し、「血統空想」という言葉を使って、それを説明しています。
つまり「母親との関係を疑う子どもはいない。しかし父親との関係を疑う子どもはいる」
と。

 「私は、ひょっとしたら、あの父親の子どもではない。私の父親は、もっとすぐれた人
だったかもしれない」と、自分の血統を空想することを、「血統空想」といいます。つまり
それだけ、父子関係は、不安定なものだということです。

●母親の役割

 心理学の世界では、「基本的信頼関係」という言葉を使って、母子関係を説明します。こ
の信頼関係が、そのあとのその子どもの人間関係に、大きな影響を与えるからです。だか
ら「基本的」という言葉を、使います。

 この基本的信頼関係を基本に、子どもは、園の先生、友人と、それを応用する形で、自
分の住む世界を広げていきます。

 わかりやすく言えば、この時期に、「心を開ける子ども」と、「そうでない子ども」が、
分かれるということです。心を開ける子どもは、そののち、どんな人とでも、スムーズな
人間関係を結ぶことができます。そうでなければ、そうでない。

 子どもは、母親に対して、全幅に心を開き、一方、母親は、子どもを全幅に受け入れる
……。そういう関係が基本となって、子どもは、心を開くことを覚えます。よりよい人間
関係を結ぶ、その基盤をつくるということです。

 「私は何をしても、許される」「ぼくは、どんなことをしても、わかってもらえる」とい
う安心感が、子どもの心をつくる基盤になるということです。

 一つの例として、少し汚い話で恐縮ですが、(ウンチ)を考えてみます。

 母親というのは、赤ん坊のウンチは、まさに自分のウンチでもあるわけです。ですから、
赤ん坊のウンチを、汚いとか、臭いとか思うことは、まずありません。つまりその時点で、
母親は、赤ん坊のすべてを受け入れていることになります。

 この基本的信頼関係の結び方に失敗すると、その子どもは、生涯にわたって、(負の遺産)
を、背負うことになります。これを心理学の世界では、「基本的不信関係」といいます。

 「何をしても、心配だ」「どんなことをしても、不安だ」となるわけです。

 もちろんよりよい人間関係を結ぶことができなくなります。他人に心を開かない、許さ
ない。あるいは開けない、許せないという、そういう状態が、ゆがんだ人間関係に発展す
ることもあります。

 心理学の世界では、このタイプの人を、攻撃型(暴力的に相手を屈服させようとする)、
依存型(だれか他人に依存しようとする)、同情型(か弱い自分を演出し、他人の同情を自
分に集める)、服従型(徹底的に特定の人に服従する)に分けて考えています。

どのタイプであるにせよ、結局は、他人とうまく人間関係が結べないため、その代用的な
方法として、こうした「型」になると考えられます。

 もちろん、そのあと、もろもろの情緒問題、情緒障害、さらには精神障害の遠因となる
こともあります。

 何でもないことのようですが、母と子が、たがいに自分をさらけ出しあいながら、ベタ
ベタしあうというのは、それだけも、子どもの心の発育には、重要なことだということで
す。

●父親の役割

 この絶対的な母子関係に比較して、何度も書いてきましたように、父子関係は、不安定
なものです。中には、母子関係にとってかわろうとする父親も、いないわけではありませ
ん。あるいは、母親的な父親もいます。

 しかし結論から先に言えば、父親は、母親の役割にとってかわることはできません。ど
んなにがんばっても、男性は、妊娠、出産、そして子どもに授乳することはできません。
そのちがいを乗り越えてまで、父親は母親になることはできません。が、だからといって、
父親の役割がないわけではありません。

 父親には、二つの重要な役割があります。(1)母子関係の是正と、(2)社会規範の教
育、です。

 母子関係は、特殊なものです。しかしその関係だけで育つと、子どもは、その密着性か
ら、のがれ出られなくなります。ベタベタの人間関係が、子どもの心の発育に、深刻な影
響を与えてしまうこともあります。よく知られた例に、マザーコンプレックスがあります。

こうした母子関係を、是正していくのが、父親の第一の役割です。わかりやすく言えば、
ともすればベタベタの人間関係になりやすい母子関係に、クサビを打ちこんでいくという
のが、父親の役割ということになります。

 つぎに、人間は、社会とのかかわりを常にもちながら、生きています。つまりそこには、
倫理、道徳、ルール、規範、それに法律があります。こうした一連の「人間としての決ま
り」を教えていくのが、父親の第二の役割ということになります。

 (しなければならないこと)、(してはいけないこと)、これらを父親は、子どもに教えて
いきます。人間がまだ原始人に近い動物であったころには、刈りのし方であるとか、漁の
し方を教えるのも、父親の重要な役目だったかもしれません。

●役割を認識、分担する

 「母親、父親、平等論」を説く人は少なくありません。

 しかしここにも書いたように、どんなにがんばっても、父親は、子どもを産むことはで
きません。また人間が社会的動物である以上、社会とのかかわりを断って、人間は生きて
いくこともできません。

 そこに父親と、母親の役割のちがいがあります。が、だからといって、平等ではないと
言っているのではありません。また、「平等」というのは、「同一」という意味ではありま
せん。「たがいの立場や役割を、高い次元で、認識し、尊重しあう」ことを、「平等」と、
言います。

 つまりたがいに高い次元で、認めあい、尊重しあうということです。父親が母親の役割
にとってかわろうとすることも、反対に、母親の役割を、父親の押しつけたりすることも、
「平等」とは言いません。

 もちろん社会生活も複雑になり、母子家庭、父子家庭もふえてきました。女性の社会進
出も目だってふえてきました。「母親だから……」「父親だから……」という、『ダカラ論』
だけでものを考えることも、むずかしくなってきました。

 こうした状況の中で、父親の役割、母親の役割というのも、どこか焦点がぼけてきたの
も事実です。(だからといって、そういった状況が、まちがっていると言っているのでは、
ありません。どうか、誤解のないようにお願いします。)

 しかし心のどこかで、ここに書いたこと、つまり父親の役割、母親の役割を、理解する
のと、そうでないのとでは、子どもへの接し方も、大きく変わってくるはずです。

 そのヒントというか、一つの心がまえとして、ここで父親の役割、母親の役割を考えて
みました。何かの参考にしていただければ、うれしく思います。
(はやし浩司 父親の役割 母親の役割 血統空想)

【追記1】

 母子の間でつくる「基本的信頼関係」が、いかに重要なものであるかは、今さら、改め
てここに書くまでもありません。

 すべてがすべてではありませんが、乳幼児期に母子との間で、この基本的信頼関係を結
ぶことに失敗した子どもは、あとあと、問題行動を起こしやすくなるということは、今で
は、常識です。もちろん情緒障害や精神障害の原因となることもあります。

 よく知られている例に、回避性障害(人との接触を拒む)や摂食障害などがあります。

 「障害」とまではいかなくても、たとえば恐怖症、分離不安、心身症、神経症などの原
因となることもあります。

 そういう意味でも、子どもが乳幼児期の母子関係には、ことさら慎重でなければなりま
せん。穏やかで、静かな子育てを旨(むね)とします。子どもが恐怖心を覚えるほどまで、
子どもを叱ったりしてはいけません。叱ったり、説教するとしても、この「基本的信頼関
係」の範囲内でします。またそれを揺るがすような叱り方をしてはいけません。

 で、今、あなたの子どもは、いかがでしょうか。あなたの子どもが、あなたの前で、全
幅に心を開いていれば、それでよし。そうでなければ、子育てのあり方を、もう一度、反
省してみてください。

【追記2】

 そこで今度は、あなた自身は、どうかということをながめてみてください。あなたは他
人に対して、心を開くことができるでしょうか。

 あるいは反対に、心を開くことができず、自分を偽ったり、飾ったりしていないでしょ
うか。外の世界で、他人と交わると、疲れやすいという人は、自分自身の中の「基本的信
頼関係」を疑ってみてください。

 ひょっとしたら、あなたは不幸にして、不幸な乳幼児期を過ごした可能性があります。

 しかし、です。

 問題は、そうした不幸な過去があったことではありません。問題は、そうした不幸な過
去があったことに気づかず、その過去に振り回されることです。そしていつも、同じ、失
敗をすることです。

 実は私も、若いころ、他人に対して、心を開くことができず、苦しみました。これにつ
いては、また別の機会に書くことにしますが、恵まれた環境の中で、親の暖かい愛に包ま
れ、何一つ不自由なく育った人のほうが、少ないのです。

 あなたがもしそうであるかといって、過去をのろったり、親をうらんだりしてはいけま
せん。大切なことは、自分自身の中の、心の欠陥に気づき、それを克服することです。少
し時間はかかりますが、自分で気づけば、必ず、この問題は、克服できます。
(040409)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

特集【子どもの心】

++++++++++++++++++++++

わがままを言っては、親を困らせる。
このところ、学校へも行っていない。

そんな子どもで悩んでいる、NBさんという
方から、相談がありました。

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【NBさんより、はやし浩司へ】

はやし先生、お忙しいところ長文で失礼します。

万引きをしたあと、ぎくしゃくした息子(小学3年生)との関係のことで、相談したこと
のあるW市(T県)のNBです。ブログにもご回答いただきました。ありがとうございま
した。今回はその後、学校を休んでいる息子のことで、相談します。お時間がある時に、
ご意見いただきたく思います。

息子の現状についてどう考えればいいのでしょう。先生のおっしゃった通り、もう万引き
はしていません。お金の管理も厳重にしているので、盗まれるということもありません。

ただ、公園に友達と行くとウソをついて、前のお金の残りで、コンビニでカードを買った
りしたことが2度ほどありました。5月23日から休み始め、9日ぶりに、今週の月曜に
(授業はなく校外学習でしたが)、行き、また今週いっぱい休む、というような状態です。

月曜の登校は本人が決めて行きました。いろいろ読ませていただき、学校恐怖症というの
ではなく怠学というのでしょうか、まあ呼び名よりも息子の心の中が問題なわけで。万引
きやそれを問いただした時の息子のパニック(泣き叫び万引きを認めずウソで終始)が、
私達にとって大変ショックでした。

そのため当初から、「行きたくなければいいよ」「行かなくてもいいよ」というような言い
方で、対応しています。担任の先生もゆっくり見守る姿勢を示して下さるので、夫も私も
今は本当に見守る気持ちでいます。

振り返れば、何年も前から問題行動が時折あり、それをきちんと気づいてあげられなかっ
た私たちに、原因があります。私への絶対的な安心感を得られないまま、外でも緊張状態
のまま過ごしていたのが、ここにきて万引きや不登校という形で爆発したと考えています。

今は学校が終わる時間までは、たいてい家にいて、(私の外出は、まだ認めてくれません)、
ゲームや読書で過ごし、ほとんどゲームばかりしています。家事を終えてから一緒に遊ん
だり、時々、買い物に行ったりしています。皆が学校から帰ってくると、頻度は減ってき
ましたが、(「どうして休んでるの?」と、聞かれる友達とは遊ばなくなりましたが)、友達
に電話して、遊びに行ったりしています。

「今はちょうど給食の時間だ」とか自分から言ったり、「来週からは学校へ行く」などと言
うこともあります。本人は、内心では、学校へは行かなければとは思っているようです。

宿題などには全く関心ないようです。新聞を取ってくるとか、金魚のえさをやるとかの手
伝いも全くやる気なしです。池で釣ったザリガニを持ち帰り、世話をせず、2匹とも死な
せてしまいました。平気な顔をしています。

それでも私と二人の時はそれなりに穏やかにすごしているのですが、(以前のように口やか
ましく言わないですが)、途方にくれてしまうのは、夫と三人でいる時です。延々と遊びた
がるのです。特に三人で遊びたがります。このひと月で、ますますこだわりが強くなった
ようです。

外で遊べば、とっぷり暗くなるまで帰らない、家では寝ないで遊びたがる。11時くらい
までは、ゲームか他の遊びをすることになります。それも少しずつ、時間帯が遅くなって
きました。

「帰ろう」「寝よう」と言うと、機嫌が悪くなり、時には怒り出します。せっかく楽しんで
いたのに、いつも、最後は怒るか泣くかで終わるわけです。夜は怒り出すと、その時、胸
にある不満をぶちまけ暴れることもあります。ソファをけったりクッションを投げたり壁
をたたいたり。

今の最大の不満は、今週末、お父さんが土曜は仕事、日曜は結婚式で家にいない、という
ことです。前の日曜の夜はこのことを言い出して2時間以上もぐずり、収まったのは、夜
中の2時を過ぎていました。

そのような時はお父さんや私が抱きしめようとしても、「やめて」と言って、怒ります。以
前はそうではなかったのですが。絶対に式になんか行くなとか、会社や、式をあげる人を
罵るような言葉も、次々に出てきたりします。それを聞いていると、私などは最初悲しく、
だんだん腹がたってきてしまいます。

夫には、怒るような口調で「うるさいなあ」と言って、目でたしなめられます。私は本当
にこらえ性がないです。夫は悲しげですが、でも冷静ですね。決してきつく言うことはな
い。興奮して泣いている時は、夜中でも、子どもの面倒をみています。

自分の子であって自分の子でないような気分になってしまい、そう感じる自分にも嫌悪し
たりします。「これでもか」「これでもか」と、息子に要求されているような感じです。夫
もそう感じているらしいですが、三人いるときほど、息子がきつくなるのはどういうこと
なんでしょう。

万引きをした時に夫が始めてお尻をたたいて、本当に初めて、大きな声で叱ったのが関係
しているのでしょうか。夜は、ほおっておいて寝る、というわけにも行かず、寝不足の日々
です。

寝るときはもちろん川の字で。

学校の先生は今の甘えている状態を、「(幼児期の)忘れ物を取りにいってるんですね」と
表現されました。9年間の忘れ物が1ヶ月やそこらで取り戻せるとは思ってはいませんし、
数ヶ月単位で様子を見なければならないんですね。

なのに、本当に今はこれでいいのだろうか?、どう推移するのだろうと、明るくゲームに
興じている様をみていると不安になります。

「お母さんはいつも太陽でいてください」と言われているのですが、実は人に会うのも少
し、おっくうになってきた、今日、このごろです。


【はやし浩司より、NBさんへ】

 息子さんは、(絶対的な安心感)が得られず、いつも、不安な状態にあると考えてくださ
い。つまり心は、いつも緊張状態にあるとみます。絶対的な安心感というのは、「疑いすら
もたない」という意味です。心理学で言えば、あなたと息子さんの関係は、「基本的不信関
係」ということになります。

 で、NBさんは、何とか、息子さんに安心感を与えようと努力していますが、残念なが
ら、息子さんは、あなたの心の奥まで、読んでしまっています。あなた自身が、子育てを
しながら、不安でならない。つまり絶対的な安心感を覚えていないため、それを息子さん
は、感じ取ってしまっているわけです。

 つまりあなたは、「不安だ」「心配だ」と思っている。それがそのまま息子さんに伝わっ
てしまっているというわけです。

 こういうケースでは、『あきらめは、悟りの境地』という格言が、役にたつと思います。
「うちの息子は、こうなんだ」と、あきらめて、受け入れてしまうということです。「ほか
の子とは、ちがう」「このままでは、心配だ」「どうすればいいんだろう」と、悩んでいる
間は、決して、安穏たる日々はやってきません。息子さんにしても、そうです。

 もちろん原因は、息子さんが生まれたとき、息子さんを、全幅に受け入れなかったあな
た自身にあります。が、今さら、それをどうこう悩んでも、しかたのないことです。

 ただこうした子どもの心の問題には、二番底、さらには、三番底があります。形として
は、つまり、症状としては、(家庭内暴力)に似ています。息子さんが、まだ小さいため、
NBさんの管理下というか、コントロール下にありますが、息子さんが、小学校の高学年
児、あるいは、中高校生だとしたら、こうは、簡単には、片づかないはずです。

 私はドクターではないので、これ以上のことは書けませんが、もし今のようなはげしい
不安状態、混乱状態、さらには緊張状態がつづくようなら、一度、心療内科のドクターに
相談なさってみられたらよいでしょう。そのとき、NBさんが、私にくれたメールなどを、
ドクターに読んでもらうとよいでしょう。

 今では、すぐれた薬も開発されています。それによって、息子さんが見せている、一連
の(こだわり)症状も、軽減するはずです。

 家庭では、(1)求めてきたときが、与え時と考えて、スキンシップなど、そのつど、子
どもをすかさず抱いてあげたりします。が、やりすぎてはいけません。そこで大切なこと
は、(2)暖かい無視です。無視すべきところは、無視しながら、子ども自身の自由な時間
には、干渉しないようにします。

 不登校については、学校恐怖症というよりは、怠学に近いと思われます。子どもの言葉
に一喜一憂したり、振りまわされたりしないように、注意してください。このタイプの子
どもの(約束ごと)には、意味がありません。意味がないというより、子ども自身、自分
をコントロールできないでいるのです。

 で、今度は、NBさん側の問題ですが、お気持ちはわかりますが、全体的に過関心かな
……?、という印象をもっています。すべてが、子ども中心に動いてしまっている(?)。
すべてが子どもに集中しすぎているといった感じです。状況としては、しかたないのかも
しれませんが、そのため、NBさん自身が、育児ノイローゼの一歩手前にいるようにも思
います。

 不登校については、今の状況では、すぐには改善しないと思います。NBさんが言って
いるように、どうか、数か月〜半年単位で、考えてみてください。この問題は、根が深い
ということ。コツは、「なおそう」とは思わないこと。「今の状況をこれ以上悪くしないこ
とだけを考えて、対処する」です。

 消極的な対処法にみえるかもしれませんが、無理をすれば、ここでいう二番底、さらに
は三番底へと、子どもが、落ちていきます。今はまだ何とかなりますが、子どもの体が大
きくなったり、腕力がついてくると、そうはいかなくなるということです。

 たまたま別の方から、同じような相談が届いていますので、どうか、参考にしてみてく
ださい。よろしくお願いします。

●掲示板への書きこみから

++++++++++++++++++++++

NBさんから、相談のメールをもらった同じ日、
掲示板にこんな書きこみがあった。

小学2年生の、Mさん(女児)についてのもの
だった。

++++++++++++++++++++++

【掲示板への相談より……】

教員ではありませんが、小学校で子どもと関わる仕事をしています。教員免許は持ってい
ます。

お手伝い先生のような仕事です。大卒後、企業で8年間、勤務し、退職後、初めての職場。
初めての教育の現場です。詳しく書くことができなく、申し訳ありません。不適切なら削
除してください。

現在、ある小2女子児童の担当になっています。(Mさんとしておきます。)・・・と言って
も、日替わりで上から指示されるので、とても不安定です。

Mさんは両親が離婚したあと、4月中旬に転校してきました。前の学校では不登校。現在
は毎日来ていますが、徐々に完全に保健室登校になってきています。

毎朝お母さんが送ってきますが、子どもがお母さんから離れられません。お母さんは、M
さんを、車からぽーんと出し、バン!と閉めて、そのまま帰ってしまいます。そこでMさ
んは、泣き叫び後を追いかけます。

道路でMさんを出すのは危険なのでというような指導が、学校側からあったようです。そ
れからは、お母さんは、Mさんを、学校の中まで中まで送ってきます。が、送ってくると、
Mさんは、抱きついたままお母さんの髪をぎゅーっとつかんで離しません。

そのとき、お母さんの靴を隠す、持ち物を隠す、取り合いになったりすることもあります。
転んだすきに、お母さんは逃げるように、振り返らず去っていきます。

そのあとも、切れ端(ゴミのようなもの)を握り締め、「ママ・・・」と、しくしく泣き、
「それどうするの?」と聞くと、「お守りだから・・・」と。それを聞くと、胸が張り裂け
そうになります。

私にはこの子を抱きしめる事しかできません。背中をさすって、「そう、そう、つらかった
んだね」と、沢山聞いてあげる事しかできません。担任からはくわしく話を聞かせてもら
うこともありません。でも一応、Mさんの担当なのです。

学校の担任の先生は、「早く教室に入りなさい」と言うだけです。クラスの児童からは、常
に、「この学校は、○○なんだぞ!」とか、「○○ちゃんがきたから、席が替わったじゃな
い!」と言われ、みなは、どこかMさんをじゃまにしているような雰囲気です。

私がMさんの担当になる前は、誰も付いていなかったので、たとえば教室前でもじもじし
ていると、担任(女性)から腕をつかまれ、引きずられるように入れられていたそうです。

Mさんが、抵抗すると、担任は、お腹をつねっていたようです。そしてとうとう教室を見
ただけで吐き気が起こすようになったり、担任を見ると逃げたり、隠れたり、さらには、
クラスの児童を見ると、「恐い・・・」と消えそうな声で、つぶやくようになってしまいま
した。

「恐い」にしても、初めの段階では、「集団が恐い」と言っていました。が、最近ではクラ
スの児童に限定されてきたようです。優しい子もふくめて、どの子も恐がっているようで
す。

時限ごとに、Mさんが、「教室へ行ってみる・・・でも無理だったら戻ってもいい?」と言
うので、一緒について行くと、やはり、「恐い・・・やっぱりダメ」という感じです。

また、学校の対応もバラバラです。「今日は1日、この部屋で2人でいていいですよ」とい
うので、それなりにおたがいに楽しそうに、じゃあ、今、国語だから漢字ドリルしようか、
というような調子でやっていると、ガラっ!と、突然開いて、知らない先生が「次! 図
工だよ! 行ける!?」と、Mさんのランドセルを持って行ってしまうのです。

子どもは一気に緊張した顔で、条件反射的に、「はい」と答え、部屋を出る。が、やはり行
けない。そこでその先生が、「はいって言ったじゃない、どうしていけないの?」となじっ
たりします・・・・。と、思ったらまた急に他の先生が入ってきて、保健室にいてもいい
ですよ。いつ来てもいいですよー、と言う始末。

はやし先生。これでこの子はどうなってしまうのでしょう。「ママ、バイバイしないで行っ
ちゃったー」と泣くことから1日が始まり、クルクルと周りの指導が変わり、(私も規則で
12時までしかいっしょに、いられません)、Mさんにしてみれば、親に裏切られ、先生に
裏切られ、友達も・・・というような状況ですよね。

お母さんの話をするときは、赤ちゃん言葉です。以前、過呼吸に近い状態になり驚きまし
た。最近、混乱してくると頭を、自分で、げんこつでボカボカと自分で殴ります。見てい
て恐いくらいです。

本人の話しによると、以前は、お父さんの実家で同居していたそうです。いとこ(中学生)
たちもいたようで、よく殴られたと言います。

そして現在、お母さんにはお友達がいて、私の話ををちっとも聞いてくれない。お友達は
男性で、毎日のように泊まっていくとのこと。

また、反対にMさんのお母さんからの話しでは、家ではまったく甘えない。そんなそぶり
さえ見せない。学校でこんなに離れないなんてウソみたい。帰ったら遊ぶ約束をしてやっ
ているのに、宿題が終わらないから泣いてばかりで、遊べない、ということです。
(高知県在住・KUより)

【KU先生へ、はやし浩司より】

 掲示板の記事を読んで、その内容が、最近経験した、Z君(中2男子)と、あまりにも
酷似しているので、驚きました。

 Z君は、乳幼児のときから、母親の冷淡、無視、育児放棄を経験しています。母親は、「生
まれつき、そうだ」と言いますが、Z君は、見るからに弱々しい感じがします。全体に、
幼く見え、言動も幼稚ぽく、その年齢にふさわしい人格の核(コア・アイデンティティ)
の確立がみられません。

 はきがなく、追従的で、いつも他人の同情をかうような行動をします。かなり強烈なマ
イナスのストロークが、働いているようで、何をしても、「ぼくはできない」「ぼくはだめ
な人間」と言います。

 ほかの子どもたちのいじめの対象にもなっています。母親は、そういうZ君を「かわい
い」「かわいい」とでき愛していますが、その実、Z君を、外へ出したがりません。「外へ
出すと、みなにいじめられるから」を理由にしています。典型的な、代償的過保護ママで
す。

 特徴としては、つぎのようなことがあります。思い浮かんだまま、並べてみます。

(1)自己管理能力がない……薬箱のドリンク剤を一日で、全部(10本ほど)、飲んでし
まう。そのため、ますます母親に強く叱られる。届け物に買ってきた、菓子などを、勝手
に封をあけて、食べてしまったこともある。

(2)特定のものに、強くこだわる……カードゲームのカードをたいへん大切にしている。
それを毎日、戸棚から出し、また並べなおしたりしている。下に、6歳離れた弟がいるが、
弟がそのカードに触れただけで、パニック状態(オドオドとして、混乱状態)になる。

(3)時刻にこだわる……片時も腕時計を身からはなさず、いつも、時計ばかり見ている。
行動も、数分単位で、正確。朝、目をさましても、その時刻(6時半)がくるまで、床の
中でじっと待っている。そのときも、時計ばかり、見ている。メガネをかけているが、寝
るときでさえも、かけたまま。

(4)衝動的な自傷行為……ときどき、壁に頭をうちつけたりする。あるいは、ものを、
壁にぶつけて、壊してしまう。ラジカセが思うようにならなかったときも、かんしゃく発
作を起こして、こわしてしまったこともある。が、満足しているときは、借りてきた猫の
子のようにおとなしく、おだやかだが、ふとしたことで急変。二階へつづく階段から、大
の字のまま、下へ飛び降りたこともある。現在、前歯が2本、欠損しているが、自傷行為
のために、そうなったと考えられる。

(5)異常なまでの依存性……独特の言い方をする。おなかがすいたときも、「〜〜を食べ
たい」というような言い方をしない。「〜〜君は、何も食べなかったから、死んでしまった」
「ぼくは、10日くらいだったら、何も食べなくても、平気」などと言ったりする。自主
的な行動ができず、他人の同情をかいながら、全体に、何かをしてもらうといった生活態
度が目につく。

(6)幼児がえり……しばらく話しあって、打ち解けあうと、とたんに、幼児言葉になる。
年齢的には、4〜5歳くらいの話し方をする。「ママが、ぼくを、たたいた」「○○さん(Z
君の叔母)が、ぼくをバカにした」と。

 母親は、仮面型タイプの人間で、私のような他人の前では、きわめて穏やか。始終、や
さしそうな笑みを浮かべて、さもZ君を心底、思いやっているというようなフリをします。
私が会ったときも、母親は、Z君の背中を、さすりながら、「元気を出そうね」と言ってい
ました。

 このZ君というより、Z君の母親について、問題点をあげたら、キリがありません。代
償的過保護のほか、代理ミュンヒハウゼン症候群、虐待、基本的不信関係、仮面型人間、
ペルソナ……。

 これらの原稿については、このあとに添付しておきますので、どうか、参考にしてくだ
さい。

 で、私もこうした事例に、よく出会います。そしてそのつど、(限界)というか、(無力
感)を味わいます。ここにあげたZ君にしても、最終的に、私が預かるという覚悟ができ
れば、話は別ですが、そうでなければ、結局は、母親に任すしかないということになりま
す。

 またこういう母親にかぎって、私のようなものの話を聞きません。何かを説明しようと
すると、ここにも書いたように、「生まれつきそうだ」とか、「遺伝だ」とか、さらには、「父
親(夫)が、ひどいことをしたからだ」と、他人のせいにします。

 ものの考え方が、きわめて自己中心的なのが、特徴です。もっと言えば、自分の子ども
を、モノ、あるいは奴隷かペットのように考えています。ひとりの人間として、みていま
せん。

 で、30代のころは、そういう子どもばかり預かって、四苦八苦したことがあります。
夜中中、車で、走り回ったこともあります。しかしその結果たどりついたのが、「10%の
ニヒリズム」という考え方です。

 若いころ、どこかの教師が、何かの会議で教えてくれた言葉です。

 決して、全力投球はしない。90%は、その子どものために働いても、残りの10%は、
自分のためにとっておくという考え方です。そうでないと、身も心も、ズタズタにされて
しまいます。今のKU先生、あなたが、そうかもしれません。

 が、ご心配なく。もっと複雑で、深刻なケースを、たくさんみてきましたが、子どもは
子どもで、ちゃんと、大きくなっていくものです。もちろん心に大きなキズを残しますが、
そのキズをもったまま、おとなになっていきます。が、やがて自分で、それを克服してい
きます。つまりそういう人間が本来的にもつ(力)を信じて、やるべきことはやりながら
も、子どもに任すところは、任す。

 あとは、時間が解決してくれます。

 で、Mさんは、明らかに、分離不安ですね。心はいつも緊張状態にあって、その緊張状
態から解放されないでいるとみます。家庭の中でも、心が休まることがないのでしょう。
一応、母親の前では、(いい子?)でいるのでしょうが、それは、本来のMさんの姿でない
ことは、確かなようです。

 (いい子?)でいることで、母親の愛情を取り戻そうとしているのです。私がときどき
書く、「悲しいピエロ」タイプの子どもというのは、このタイプの子どもをいいます。

 が、肝心の母親は、それに気づいていない。つまりここにこの種の問題の悲劇性があり
ます。

 また閉ざされた子どもの心を開くことは、容易なことではありません。1年や2年は、
かかるかもしれません。ちょっとしたことで、また閉じてしまう。この繰りかえしです。
しかしあきらめてはいけません。ただ、このタイプの子どもは、いろいろな方法で、あな
たの心を試すような行動に出てくることがあります。

 急にわがままを言ってみたり、乱暴な行動に出てみたりする、など。こちらの限界を見
極めながら、ギリギリのことをしてくるのが、特徴です。で、そういうときは、まさに根
競べ。とことん根競べをします。子どもの方があきらめて手を引くまで、根競べをします。

 「私はどんなことがあっても、あなたを見放しませんからね」と。

 それに納得したとき、子どもははじめて、あなたに対して心を開きます。

 幸いなことに、Mさんは、あなたというすばらしい先生に、出会うことができました。
何が大切かといって、あなたの今の(思い)ほど、大切なものは、ありません。その(思
い)が、あなたとMさんの絆(きずな)、あるいはMさんの心を支えるゆいいつの柱になっ
ていると思います。

 ところで私は、最近、はじめて、ADHD児の指導を断りました。今までは、むしろそ
ういう子どもほど、求めて教えてきたようなところがあります。

 しかし体力の限界だけは、もうどうしようありません。1〜2時間、接しただけで、も
のすごい疲労感を覚えるようになりました。それで断りました。

 そのとき感じた、敗北感というか、虚脱感には、ものすごいものがありました。悶々と
した気持ちで、数日を過ごしました。

 しかしあなたは、まだ若いし、いくらでも、そういう仕事ができます。どうかあきらめ
ないで、がんばってください。

 繰りかえしますが、あなたのような先生に出会えたことは、Mさんにとっては、本当に
幸いなことです。Mさんにかわって、喜んでいます。どうか、どうか、がんばってくださ
い。応援します。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●1月16日

+++++++++++++++++

昨日、楽天BLOG(1500件)、
GOO−BLOG(600件)ほか、
BLOGだけのアクセス数だけで、
4000件を超えた。
(BLOGは、毎日集計される。)

HPへのアクセス数も、それぞれの
TOP・PAGEだけでも、2000
件前後。

ホームページのばあい、ハイパーリンクで、
それぞれのページに直接アクセスしてくる
人もいるので、実際の数は、わからない。

ちなみにカウンターを設置してある、
「音楽と私」のページへは、300件、ほか。

こうしてみると、昨日1日だけで、
BLOG+HPへのアクセス件数は、1万件を
超えたことになる。
これにマガジンの配信数などを加えると、
1万3000件。
これはものすごいことだと思う。
昨年(08)の2月に、1か月分のアクセス数を
合計してみたら、10万件を超えた。
それが今は、このままだと、30万件!
その数は、平均的な月刊雑誌とほぼ同じ。

1か月で、30万件だぞ!!
このままだと、1年で、360万件!!!

アクセスしてくれる人が、みな、好意的という
わけではない。
それはわかっているが、率直に言って、
うれしい。

少しずつだが、私の身のまわりで、何かが
変わりつつある。
今は、そんな感じがする。

++++++++++++++++++

●心を開く

そこでは、ありのままの自分でいられる。
自分を飾ることもない。
神経を使うこともない。
したいことをする。

おならを出す。
鼻くそをほじる。
趣味の本をパラパラとめくり、
そのまま居眠りする。

が、そこに人が入ってくる。
人の気配を感ずる。
突然、心の中が、ざわつく。
緊張する。
心がガードする。
相手が客であれば、笑顔をつくる。
相手が部下であれば、背筋を伸ばして威厳をつくる。
部長であれば、なおさら。

こうしてその人は、人の渦の中に巻き込まれていく。
緊張感の中に、引きずり込まれていく。

そのとき、心が開ける人は、そのまま相手の心の中に
溶け込んでいく。
そうでない人は、心をこわばらせる。
体をこわばらせる。
ストレスが猛烈な勢いとなって、その人を襲う。
疲れる。
息が切れる。

++++++++++++++++++H.Hayashi

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q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      2月   18日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●主夫願望

++++++++++++++++++

このほど家事検定実行委員会が行った
アンケート調査によれば、何と、「専業主夫に
なってもよい」と答えた男性が、30%弱
もいることがわかった。

驚くというよりも、日本も、20〜30年遅れで、
欧米人の意識を追いかけているのが、この
数字でもわかる。

++++++++++++++++++

++++++++++++以下、ヤフー・ニュースより++++++++++

「主夫願望」が最も強いのは東京の男性……。家事の能力をめぐり、家事検定実行委員会
(東京)が行ったアンケート「家事力調査」から、こんな結果が分かった。一方、「好きな
家事はない」と答えた女性は、大阪がトップとなった。

 調査は平成20年(2008)11月、東京、大阪、愛知、北海道、福岡の5都道府県
に住む20〜50代の既婚男女2080人を対象に、インターネットを通じて実施した。

 それによると、「専業主夫になってもよいと思うか」という質問に対し、全体の29・5%
の男性が「思う」と回答。地域別では、東京が31・2%で唯一、3割台にのった。

 男性の一日平均家事時間は地域別では、(1)北海道54・0分(2)大阪49・7分(3)
東京48・4分(4)福岡47・5分(5)愛知45・9分−の順。これを年代別でみる
と、東京の40代が69・8分と断トツだった。調査では、東京は、女性の有職率が最も
高くなっており、共働き世帯が多いことがうかがえ、働き盛りの男性には家事も重要な仕
事となっているようだ。

 ちなみに、「男性が家事をするのはかっこいいと思う」と答えた20代女性は72・7%。
若い独身男性の"婚活"に家事力は必須となりそうだ。

 食器洗浄機と洗濯乾燥機の所有率では、大阪がそれぞれ43・5%、35・6%(平均
32・4%、30・2%)と、いずれも1位だった。大阪の家庭は、家事の効率化に有効
な家電をうまく使っていることがうかがえる。

 ただ、「部屋掃除が嫌い」と答えた女性も大阪が35・1%でトップ。「好きな家事はな
い」という女性も大阪が22・1%で最も多く、実行委員会では「便利な家電で家事を効
率化している大阪人ですが、基本的に面倒なことが多い家事はあまり好きではないのかも
しれません」と分析している。

++++++++++++以上、ヤフー・ニュースより++++++++++

数字を整理してみる。

「専業主夫になってもよいと思うか」……29・5%
(この数値は、都会ほど、やや高い。)
「男性が家事をするのは、かっこいいと思う(20代の女性)」……72・7%

『男は仕事、女は家事』という、日本の伝統的な男女観が、今、大きく崩れつつある。

●家事をまったくしない世代

少し前だが、どこかの調査で、家事をまったくしない男性が、話題になった。
(話題にしたのは、私だけかもしれないが……。)
それによれば、約50%の男性が、家事をまったくしないということがわかった。

一方、10年ほど前、浜松市内の若い夫婦(20〜30代)について調べたところ、
約35%の男性が、積極的に家事を手伝っていることがわかった。
(まったくしない男性も、35%、いた。)

こうした数字を並べてみると、「若い夫ほど、家事を手伝っている」ということに
なるが、その一方で、家事をまったくしない男性も多いということがわかった。
とくに私たちの世代は、そうである。
私も、オーストラリアへ渡ったころ(1970年)、向こうでは、夫が料理をしたり、
食事のあと、洗い物をしているのを見て、驚いたことがある。
しかしそれが今では、当たり前の光景になりつつある……と思っていたら、さらに
一歩進んで、「主夫業」!

●家事をしない世代

恐らく団塊の世代以上の世代の人たちには、主夫業などというものは、考えられない
だろう。
家事を手伝う、家事をするということすら、考えられないだろう。
何か特別な経験をした人なら、そうでないかもしれないが、私たちの世代は、
何もしないと考えてよい。

先日も実家の法事で、私がみなにお茶を出していたら、みなに、「あなたは喪主だから……」
とか、「あなたは男だから……」とか言われて、それを止められてしまった。
夕食の配膳のときも、そうだった。
「浩司さんは、座っていてください」と。

しかしそれこそ、世界の非常識。
この日本では、いまだにそういう非常識が、大手を振って、まかり通っている。

で、その一方で、こんなこともある。

自分の山荘をもったころのこと。
私はうれしくて、あちこちから客人を招いた。
一時は、本気で、民宿の経営者になりたいと思ったこともある。
旅館の売り物をさがしたこともある。
しかし、である。
1、2年もすると、それが苦痛になってきた。
とくに、同じ世代の男性諸君(失礼!)は、苦痛になってきた。

山荘へ来てくれるのはよいのだが、まったく、何もしない。
何も手伝ってくれない。
来たときから、帰るときまで、デンと座っているだけ。
本来なら、客が来てうれしいはずなのだが、そのたびに、疲労こんぱい。
「男は何もしなくていい」と。
今、そういう男性観が、急速に崩れつつある!

●息子も主夫

ということで、今、私の息子も、主夫業をしている。
妻が、日本でいう司法試験に合格し、今、大学のロースクールに通っている。
その少し前には、グーグル社への入社も考えていたが、妻の職業を優先した。
で、ラッキーなことに、息子は、同じ大学で、コンピュータ技師として採用された。

勤務時間はあってないようなもの、とか。
それで2人の子どもの世話と、家事一般は、息子の仕事ということになった。
私は、当初、そういう話があったときから、「いいことだ」と思った。
息子が主夫になることについて、まったく抵抗がなかった。
むしろ息子の妻(=嫁)の偉業に驚いた。
大学の法学部を出たわけではない。
しかも受験のための勉強を、半年あまりでやりこなしたという。
「みなは、1年以上かけて勉強するが、私は半年でした」と。

私は、家庭に入った母親でも、そういうことができるという、アメリカの
しくみに感動した。
日本では、まず考えられないことである。
つまり私たちがいう(主夫業)というのは、それを認める社会的背景があり、
また社会的必要性があって、成り立つ。

●変わる日本

もうこの(流れ)は止めることはできない。
今、この日本は、その大きな(流れ)の中にある。

こう書くと、兄弟の悪口にとらえる人もいるかもしれない。
しかしそれは、いまだに、日本の非常識でもある。
だからあえて書くが、昨年末に、実兄と実母をつづいて亡くした。
が、そのときほど、日本の社会に居座る、封建主義の亡霊を感じたことはない。

何かあるたびに、「あなたは本家(ほんや)だから……」「あなたは男だから
……」「あなたが跡取りだから……」という言葉が飛び交った。

結局、2人の葬儀で、x00万円以上の出費を強いられたが、(これでも
安いほうだそうだが……)、加えて仏壇の購入もあった。
そうした費用の分担については、親類はだれも助けてくれなかった。
実姉にしても、「私は女だから……」とか、「私は林家を出た身分だから」
とか言って、それで終わってしまった。

加えて家父長意識も強く、わずか数歳、年上というだけで、年長風を吹かしたり
する。
叔父風、叔母風というのもある。

(「終わってしまった」という表現は、適切でないかもしれないが、私はそう感じた。
また姉を責めているわけではない。
それがあのあたりの常識である。
姉は姉で、そういった常識に従っただけ。
さらにだからといって、私が不愉快に思っているわけではない。
ああした世界では、『長いものには、巻かれろ』式の生き方こそが、正しい。
いらぬ波風をたてることこそ、禁物。
お金も大切だが、それ以上に、人間関係のほうが大切。)

●みんなで変えよう

これから先、この(流れ)をみんなで加速させよう。
けっして後退させてはいけない。
頭の固い復古主義者たちは、たとえば武士道なるものを取り上げ、「武士道こそ、
日本が世界に誇る、精神的バックボーンである」(某、教師団体)などと説く。

それはそれだが、しかし武士道がもつ負の遺産に目を閉じたまま、一方的に
礼賛(らいさん)するのも、どうか?
危険なことでもある。
事実、「武士は……」がゆがめられ、戦時中は、それが戦時訓になっている。
「生きて虜囚の……」という、あれである。

今、「男だから……」「女だから……」という、『ダカラ論』は、(私は、そう呼んでいる
が……)、音をたてて崩れ始めている。
人間に男も、女もない。
日本人もやっとそれに気づき始めている。
すばらしいことだと思う。
私は、今回の調査で、そう感じた。

が、一言。
調査を、インターネットで行ったというところが、少し気になる。
インターネット世代、あるいはインターネットを積極的に活用している世代、
あるいは人は、まだ限られている。
50代、60代以上で、インターネットを日常的にしている人は、まだ少ない。
だからその点、この調査には、やや信頼性が欠けるのではないかと思う。
ケチをつけて、ごめん!

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
主夫 主夫業 男は仕事 だから論 ダカラ論 封建時代 負の遺産 武士道)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●1月13日(火曜日)

+++++++++++++++++++

何でも最近の宇宙構造論によれば、
この宇宙には、謎のダークマター(暗黒物質)が、
ぎっしりと詰まっているそうだ。

私たちが銀河だの、星だのといっている部分は、
宇宙の中でも、数パーセント(重量比)以下にすぎないとか。

ダークマターとはねエ……。
この宇宙には、私たちが知らない謎が、まだまだ
ぎっしりと詰まっているということらしい。
興味はあるが、「大海を前にして」(アインシュタイン)、
おじけづいてしまう。
これから先、いくら勉強しても、大海の一滴も、
理解できないだろう。

私ができることと言えば、いろいろな学者が書いた
解説書を読みながら、ホホ〜と、感心することくらい
でしかない。

++++++++++++++++++++

●寒い

この宇宙は、その当初、ビッグバンによって誕生した。
この説を疑う人は、いない。
そのときのこと。
この宇宙の温度は、ほんの瞬間だが、10の32乗度K以上になったという。
(正確には、10のマイナス44乗分の1秒に、10の19乗ギガボルトになったという。)
とほうもない高温である。
そういう温度から見ると、10度とか、20度とか、さらに30度とか
いうのは、誤差の範囲。
誤差にもならない。
が、私たち人間は、その誤差にもならないような気温の中で、「寒い」とか、
「暑い」とか言っている。
今朝は、最低気温0度。
予報によれば、最高気温でも、8度程度という。
今までにない寒さである。
庭へ出たとき、その冷気が、ツンと身にしみる。

●宇宙のカビ

地球など、宇宙の中では、チリにもならない存在である。
太陽ですら、小型の星にすぎない。
そんな地球に住む人間を表現して、「人間は地球に生えるカビ」と書いた人もいた。

これに対して、「人間とカビはちがう」と思う人もいるかもしれない。
しかし宇宙という尺度から見ると、人間もカビも同じようなもの。
2メートルの身長でも、2ミリの長さでも、ちがいはない。

地球から太陽までの距離を、1天文単位という。
1天文単位は、約1億5000万キロ(正確には、1億4959万7870キロメートル)。
2メートルを1天文単位で割ると、1・3のマイナス10乗。
2ミリを1天文単位で割ると、1・3のマイナス13乗。
1・3のマイナス10乗も、13乗も、誤差の範囲。

実際、宇宙船などから見ると、人間など、どこにも見えない。
大きな都市が、かろうじて乾いたカビのように見える。
人間とカビを区別するほうが、おかしい。

●歴史

人間の歴史は、たかだか1万年。
時代的には、石器時代から新石器時代に入るころである。
そのころの人間は、そこらの動物とそれほどちがわない生活をしていた。

人間が今の人間のようになったのは、今から5500年ほど前のこと。
そのころ黄河流域に黄河文明が生まれ、今のイラクあたりに、メソポタミア
文明が生まれた。

一方、地球の歴史は、46億年。
人間の歴史を1万年として、46億年で割ると、2・1のマイナス6乗。
つまり100万分の2・1。
よく地球の歴史を、1枚の帯にたとえる人がいる。
それによっても、人間の歴史は、地球の歴史を、10キロメートルの長さの
帯にたとえるなら、たったの2センチちょっとということになる。
人間の祖先(原人)が地球上に生まれてから、50万年としても、ちがいはない。
瞬間の、そのまた瞬間にすぎない。

(ある科学サイトに、地球の歴史を50億年とすると、5000年は、
1万分の1とあった。
しかしこれはまちがい。
50億÷5000=100万。
つまり10のマイナス6乗、100万分の1が正しい。)

ともかくも、瞬間。

●物理の法則

総じてみれば、この世界は、誤差の世界ということになる。
物理学とて、例外ではない。

たとえばこんな話を聞いたことがあるだろう。
時速100キロで走っている電車から、前に向かって、
時速100キロで石を投げれば、(空気の抵抗がないと仮定すると)、
石は、時速200キロで、飛ぶことになる。

反対に時速100キロで走っている電車から、うしろに向かって、
時速100キロで石を投げれば、石は、そこで静止することになる。

しかし実際には、ほんのわずかだが、その数値には狂いがある。
反対に、光速でものが飛び交う世界を想像してみるとよい。
そういう世界では、ここでいうような物理の法則は、すべて崩壊する。

光速で飛ぶ宇宙船から、(実際には、光速で飛ぶ乗り物は不可能だが)、
前に向かって光速で石を投げたとしても、その石は、光速を超えること
はない。
反対のばあいもそうで、石はやはり、光速で、うしろに向かって飛んでいく。
そういう世界を前提にしてものを考えると、私たちの住むこの世界は、
誤差の(かたまり)ということになる。
つまり時速100キロだろうが、1000キロだろうが、光速の世界から
みると、あまりにも小さな値にすぎない。
時速1万キロでもよい。
あまりにも小さな値にすぎない世界であるがために、誤差がわからない。
わからないまま、それを不変の定理として使っている。

●時の流れ

時の流れにしても、そうだ。
たまたま今は、1秒が1秒として、カチカチと時が流れていく。
しかしこの「時」だって、アテにならない。
実際には、長く伸びたり、縮んだりしている。
が、全体として、長く伸びたり、縮んだりしているから、人間の私たち
には、それがわからない。
人間のDNAレベルの生命時計すら影響を受けるから、それでもって、
長生きしたとか、そうでないとか、それもわからない。

もしある人が光速の95%のロケットに乗って、1年間、宇宙を航行して
地球に戻ってきたとする。
これはあくまでも大ざっぱな計算によるものだが、そうすると、地球上では、
約7年間、過ぎていることになる。
10年間、宇宙を航行して地球に戻ってきたとする。
そのときは、地球上では、70年間、過ぎていることになる。

わかりやすく言えば、その人は、10歳しか歳ととっていないのに、地球上の
人は、70歳も歳をとっていることになる。

では、自動車ではどうか。
時速100キロで走ろうが、1000キロで走ろうが、変わりはない。
厳密に言えば、ほんのわずかだが、時間にズレが生ずるはず。
時速1000キロで走れば、その分だけ、時間がゆっくりと進む。
だが、それはあまりにも小さい値なので、わからない。
誤差にもならない。

●誤差の世界

……などなど。
私たちが住むこの世界は、あらゆる場面において、誤差の範囲ということになる。
空間にしても、時間にしても、また歴史にしても……。
こうして考えていくと、人間の存在がどんどんと小さくなっていく。
考えれば考えるほど、小さくなっていく。

が、だからといって、人間がつまらないとか、そういうことを言っているのではない。
むしろ逆。
冒頭に書いた、ダークマター(暗黒物質)にしても、今、それを解明しようと
多くの科学者が懸命になっている。
その一部を発見しただけで、ノーベル賞をもらった学者も多い。
私は、そこに人間の力というか、生きる力というか、尊さを覚える。

そして同時に、こんなことも考える。
そんな人間が、点にもならない小さな点で、そして星のまばたきにもならない、
その瞬間に、いがみあったり、戦争をしたりしている。
その愚かさというか、つまらなさを覚える。

私が知りえた範囲によれば、死ねば、この世もろとも、意識は消える。
天国や極楽、さらには、来世、あの世などというのは、存在しない。
繰り返すが、死ねば、この世もろとも、意識は消える。
そして「私」は終わる。

だからあのアインシュタインは、こう言った。
『この世は、すべて奇跡』と。
その奇跡を生かすか、殺すか、それはすべて私たちの生き方にかかっている。

●この世があの世?

そこで考えるのが、「この世があの世」論。
実は、この世こそが、あの世ではないかということ。
もし(あの世)なるものが、あるとすれば、の話だが……。

あの世は、私が想像するところ、実に殺風景で、つまらないところ。
すべての人が善人で、トラブルを起こす人は、だれもいない。
そんな中、あの世の人たちは、時としてこの世にやってきて、人間の生活を楽しむ。
つまり(この世)という、ありえない世界で、生き物であることを楽しむ。

根拠がないわけではない。

冒頭に宇宙構造論を取り上げた。
その宇宙構造論によれば、これもまた定説として疑う人はいないが、
私たちが住む、この大宇宙は、今の今も膨張しつけているという。
そこでこの大宇宙をながめてみると、この大宇宙の端にある銀河は、(星ではない、銀河
だぞ)、光の速さで、この太陽系から遠ざかっているそうだ。

「光の速さ以上で移動する物質はありえない」という世界にありながら、実は
光の速さ、あるいはそれ以上の速さで遠ざかっているという。
この矛盾を、どう考えたらよいのか。

本来なら光の速さで遠ざかっているのだから、光はこの太陽系(銀河系でもよいが)
には、届かないことになる。
しかしそこは(光)。
宇宙創生期の光も、私たちは、見ようと思えば見ることができる。
しかしこのことを反対に考えれば、この太陽系は、その銀河から見れば、同じように
光の速さ、もしくはそれ以上の速さで、遠ざかっていることになる。

わかるかな?

向こうが遠ざかっているということは、向こうから見れば、私たちのほうが、
遠ざかっていることになる。
こちらから見れば、向こうの世界がありえないというのなら、向こうから見れば、
こちらの世界のほうが、ありえない世界ということになる。

この矛盾を、どう考えたらよいのか。
だから……というわけでもないが、私は、この世が、あの世でも構わないと思っている。
何もこの世がこの世であり、あの世が別にあると考えるほうが、おかしい。

……とまあ、奇想天外なことを書いたが、実は、ここに生きていることのすばらしさが、
隠されている。
この世は、不完全で、だらしないが、この不完全で、だらしないこと自体が、すばらしい。
人間の、そして動物の無数のドラマも、そこから生まれる。
大切なのは、そのドラマ。
そのドラマが、生きることを潤い豊かで、楽しいものにしてくれる。

それがこのエッセーの結論ということになる。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●1月14日

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正月中の運動不足を解消するためもあった。
体重がややリバウンドし始めたこともあった。
で、運動ということになった。

この10日間、ふだんより2倍の運動をした。
1日おきに、10キロ近く歩いた。
毎日、1〜4キロは、ランニングをした。
それに加えて毎日、サイクリングを、2単位。
(1単位は、40分。)

おかげで体は快調。
数日前だが、自分の体が、ウソのように
軽くなっているのを感じた。
何をするにも、スタスタと動くといった感じ。

うれしかった。

で、改めて再確認。
「運動はしなければならない」と。

それにもうひとつ学んだ。
「体の重さを、歳のせいにしてはいけない」と。

++++++++++++++++++

●横浜

今日はこれから横浜へ行ってくる。
仕事で行くのだが、終わったあと、息子に会えるのが楽しみ。
いっしょに食事をすることになっている。


●パソコン

このところ用もないのに、パソコンショップをのぞくことが多くなった。
お目当ては、E社のミニ・パソコン。
10インチモニターつきで、現在の価格は、6万4000円前後。
ひととおりいじったあと、いつも「近く買ってやるからな」と、声をかけている。


●悪夢

今朝、こんな夢を見た。
どこへ逃げても、一匹の子犬が追いかけてくる。
頭のよい犬で、いつも先回りをして、そこにいる。
私とワイフは、タクシーに乗って逃げる。
「ここならいいだろう」と思ってタクシーをおりると、
やはりその犬はそこにいる。
ゾーッ!
言うなれば、ストーカー犬。
しかしそれにしても、頭のよい犬だった。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●秒速30万キロ以上?

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素朴な疑問。
こんな質問をすると、その道の専門家に笑われるだろう。
「あんたも、バカね」と。
しかしこんな疑問が、心をふさぐ。

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たとえば(A)点から、秒速20万キロで遠ざかっている星があったとする。
その真反対の方向に、秒速20万キロで遠ざかっている星があったとする。

わかりやすく説明しよう。名古屋駅から京都に向かって、時速200キロで
走っている新幹線があったとする。
同じ名古屋駅から、東京に向かって、時速200キロで走っている新幹線が
あったとする。
このばあい、2つの新幹線は、たがいに時速400キロで遠ざかっていることになる。
(あくまでも平面で、互い一直線に京都→名古屋→東京が並んでいるばあいだが……。)

同じように、先の2つの星は、20万+20万で、たがいに40万キロで遠ざかって
いることになる。

そこで一方の星から他方の星を見ると、他方の星は、秒速40万キロで遠ざかって
いることになる。

宇宙には、(起点)も(終点)もないわけだから、こちらの星を起点にすると、
相手の星は、秒速40万キロで遠ざかっていることになる。
(宇宙では、あらゆる点が起点であり、あらゆる点が終点という。
地球上に起点や終点がないのと、同じように、だ。)

光速より速く進む物体は、ありえないわけだから、この現象を、どう説明したら
よいのか。
光の速さを秒速30万キロとしても、10万キロもオーバーしている。

が、不思議なことに、ここからがまたまたわからないところだが、秒速40万キロ
で遠ざかっている星は、こちら側には、見えないことになる。
が、実際には見えるという。
(あるいは見えないのか?)
ニュートン力学は、この宇宙では、つぎつぎと否定される。

どうしてだろう。
この謎をどう考えたらよいのだろう。

ひとつの仮説だが、やはりこの宇宙には、(中心)があるということ。
どこかわからないが、どこかにあるということ。
が、今までいろいろな本を読んできたが、(宇宙の中心)という言葉には、
出会ったことがない。
(これは私の不勉強によるものかもしれないが……。)

さらに言えば、宇宙が平面と考えるから、こういう矛盾が生ずる。
そこで宇宙が、凸面、あるいは凹面にゆがんでいると考える。
つねに毎秒30万キロ以上、相互に離れないような宇宙を考える。
そう考えないと、この矛盾を解くことはできない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●横浜

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たった今、横浜駅で、息子と別れたところ。
今は、新幹線の中でこの文章を書いている。

「横浜は暑い」。
それが横浜の印象。
都会には、都会の熱気というものがある。
地方にはない、熱気である。
厚いコートを着て、マフラーをして、手袋をはめている
自分が、バカに見える。
しかし寒いよりは、暑いほうがよい。
私は子どものころから、寒いのが苦手。

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●都会

横浜は大都会。
大都会というより、東京そのもの。
昔、オーストラリアから来た友人がこう言った。
「日本では、駅と駅の間が、離れていないのが不思議」と。
つまり都会がそのまま連続して、隣の東京につながっている。

そう言えば、2年前に来た友人も似たようなことを言っていた。
「日本では、木と木の間にすき間がないのが、不思議」と。
木と木がくっついているのが、不思議、と。

その私だが、息子との関係もあって、横浜が好き。
息子が大学生のときから、縁がある。
その、息子は今、羽田に住んでいる。
帰りに、みやげに、横浜のシューマイを買った。
横浜へ来ると、みやげはいつも、シューマイ。
この習慣は、40年以上、変わっていない。


●東洋医学

若いころ東洋医学に燃えた。
そのころ私は、西洋科学的なものの見方が定着していたので、
東洋医学は、衝撃的だった。
以来、10数年、私は東洋医学の虜(とりこ)になった。

本も何冊か、書いた。

しかし記憶では、37歳のときに、筆を折った。
数冊の本を残して、それまでに買い求めた本は、すべて捨てた。
以来、東洋医学とは、ほとんど縁がない。
ないまま、20数年が過ぎた。

が、私のことを覚えてくれている人が何人かいることを知った。
失った過去かもしれないが、そういう人に出会うと、その過去が戻ってきたようで、
うれしい。

というのも、私はある時期まで、東洋医学に身を染めたことを後悔した。
7年間もかかって書いた本もある。
東洋医学・経穴編という本がそれである。
当時の私は、時間を無駄にしたという思いを、振り切ることができなかった。
いろいろ理由はある。
あるが、それを書いても、意味がない。
どうせグチになるだけ。

で、今日、その本をもとに、新しい企画の話で、横浜へ行ってきた。
何でも、経穴の位置を押すと、音と映像で、その場所を示したり、その経穴
の効用を示したりする。
そういう装置の開発だそうだ。

G社で教材を開発していたころの自分を思い出す。
楽しかった。
ああ、私は企画屋だった。
いろいろな話をしながら、そんな自分を思い出した。
20代のころは、日テレの『11PM』や、NETの『アフターヌーン・ショー』
という番組の企画を書いていた。
『3時のあなた』というのも、あった。
テレビ局の名前は忘れたが、フジテレビだったか(?)。
番組の名前すら、覚えている人は、今では、ほとんどいないが……。

企画ほど、楽しい仕事はない。
夢がそのまま実現する。
しかしお金にはならない。
アイデアの世界だから、アイデアはアイデアのまま終わってしまう。
著作権で保護されない世界。
それが企画の世界。


●夕食

息子と、横浜駅にあるレストランで、会席料理を食べた。
あの会席料理という料理は、いつ食べてもそうだが、食べたという実感が
ないまま、終わってしまう。

今朝のことだが、私は、白いご飯に、かつお節の削り粉をのせ、醤油をかけて
食べた。
俗にいう(ネコ・マンマ)というのである。
私には、ああいう料理のほうが、性(しょう)に合っている。
またああいう料理のほうが、(料理と言えるかどうかわからないが)、お・い・し・い。

一人前、3500円。
息子も、きっとどこかで、夕食を食べなおすだろう。
私も家に帰って、食べなおすつもり。

ハハハ。


●激ヤセ

私の知人に、85〜88キロ台から、72キロ前後まで、激ヤセした人がいる。
本人は、「散歩をして、やせた」と言っている。
年齢は66歳。

で、私もそれに倣(なら)って散歩を始めた。
たしかに効果はあるようだ。
が、しかし最低でも10キロ前後は歩かないといけない。
それもときどきでは、効果はない。
その知人は、どれくらいの距離を、またどれくらいの頻度で歩いたかは知らない。
しかしそれにしても、80キロ台から70キロ台にしたのは、すごい。
よほどの覚悟と意志がないと、なかなか達成はむずかしい。

が、その一方で、(もちろんその知人がそうというわけではないが)、すい臓がんや、
前立腺がんという恐ろしい病気もある。
そういった病気では、激やせに似た症状が出るという。
たとえばすい臓がんのばあい、激やせに併せて、突然、糖尿病になったりするそうだ。
前立腺がんのばあいは、無症状のまま10年単位で、過ぎることもあるそうだ。
が、元来、おとなしいがんで、それほどあわてなくても、よいとのこと。
少し前、日本でも有数の、権威のあるドクターと会食をさせてもらった。
そのドクターがそう言っていた。

その知人は、「散歩で……」と言っているが、しかし散歩だけで、そんなに
やせるものだろうか。
心配がないわけではない。
ないが、しかし当然、そういった検査もしているだろう。

で、私のことが、正月に三日酔いをしている間、2〜3キロやせた。
3〜4日間、ほとんど何も食べなかった。
それで減量成功!

あとはこの体重を維持するだけ。
しかしそれにしても、おなかが、すいたナア……。


●新幹線

今は静岡駅を出て、つぎの浜松駅に向かっている。
一度、三島駅で乗り換えた。
三島駅から、静岡、浜松にも止まる、「ひかり」。

新幹線の運行も、わかりにくくなってきた。
サービスの向上というよりは、効率の向上をめざした(?)。
つまり東京→三島行き(三島止まり)をつくり、そのあと、三島→静岡→浜松でも止まる
ひかりを走らせる。
なかなか頭がよい。

計算づくというか、巧妙。
つまりこうすれば、どの列車も、乗車率80%前後を確保できる。
客からの文句も、出ない。


●夜行列車

夜行列車には、独特のムードというか、哀愁が漂う。
10年前もそうだったし、20年前もそうだった。
今も、そうだ。

窓の外の景色をながめていると、つんとした孤独感を覚えることもある。
暗闇の中を、細い光だけが、つぎつぎと現れては消える。
それをぼんやりとながめていると、人生そのものを感ずる。

で、こうした景色を見られるのも、あと何年だろう。
10年か?
運がよければ、20年か?

若いころは、東京へ行くことには、いつも夢が伴った。
しかし今は、ない。
「今さら……」という気持ちが、先立ってしまう。

そう言えば、数か月前、同じ横浜で、ラジオ日本で、トーク番組を作らせて
もらった。
そのときのディレクターが、ふとこんなことを漏らした。
「あと20年、早く知り合いになればよかったですね」と。
つまり私の年齢で、ラジオ番組にデビューするのは、遅すぎる、と。

もっとも私にはその気はまったくなかった。
そのディレクターの言ったことは、そのまま聞き流すことができた。
「今さら有名になったところで、それがどうした!」と。

それよりも大切なことは、今の自分を燃焼させること。
知りたいことは、まだ山のようにある。
そのための時間は、あまりにも短い。
(少し、肩に力が入りすぎているかな……。)


●帰宅

帰るべきところがあるというのは、よいこと。
帰ることができるところがあるというのは、よいこと。
「家族」というのは、それをいう。

今日も一日、終わった。
完全燃焼とまではいかなかったが、やるべきことはした。
そう言って、自分をなぐさめる。

明日から、またがんばろう。
そうそう、明日もまたワイフと10キロ、歩くつもりでいる
……ワイフときたら、足が痛いくせに、こう言った。
「10キロくらい、平気よ。何でもないわ」と。

私も負けず嫌いだが、ワイフは、もっと負けず嫌い。
明日は、どうかな……?


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【代理ミュンヒハウゼン症候群】(追記、090115)

+++++++++++++++++

私は、代理ミュンヒハウゼン症候群について、
すでに4、5年前から、書いてきた。
そのこともあって、このところBLOGへの
アクセスが急増している。
たとえば「はてなBLOG」のばあい、
どういう検索ワードを使って、そのBLOGへ
アクセスしてきたかが、一覧表になって示される。
その中でも、とくにここ1か月ほど多いのが、
「代理ミュンヒハウゼン症候群」。

その代理ミュンヒハウゼン症候群については、
すでにたびたび書いてきたので、ここでは
省略する。
ここでは、その先というか、中身を考えて
みたい。

+++++++++++++++++++

●殺意の認定

刑法上、代理ミュンヒハウゼン症候群が問題になるのは、(1)殺意の認定、(2)それに
つづく実行行為、そして(3)結果として、何らかの結果(殺人、傷害)などの結果が起
きたばあいである。

殺意だけでは、殺人罪の構成要件には該当しない。
よく知られた例に、「わら人形」がある。
いくらその人が、だれかを憎み、毎晩わら人形を神社の柱に打ちつけたとしても、殺人罪
で起訴することはできない。

が、何らかの実行行為が伴ったとき、たとえば刃物を買って、そのだれかに襲いかかった
ようなケース。
今度は、その時点で相手に何ら危害がなくても、殺人未遂罪が適応される。
が、こういうケースもある。

殺意はあいまいだが、しかし実行行為があり、結果として致傷、あるいは殺人につながる
ようなケースである。
こうしたケースでは、「未必(みひつ)の故意」が適応される。
「相手に危害を及ぼうそうという積極的な意思はなかったが、しかしその可能性は予見し
ていた」というようなケースである。
それに対して、まったくその意思がないばあいは、過失致傷罪、過失致死罪が適応される。

●代理ミュンヒハウゼン症候群

岐阜県関市の1人の母親が、今、代理ミュンヒハウゼン症候群による行為障害者ではない
かと疑われている(08年12月〜)。
実の娘の点滴の中に、腐った水などを混入し、よってその娘の病気を長引かせたという。
(ほかの娘たちを死に至らしめたという疑いもかけられているようだが……)。

この事件で注意しなければならないのは、動機が何であれ、もちろん代理ミュンヒハウゼ
ン症候群によるものであるかどうかも含めて、それ自体は、刑法上は、問題とされないと
いうこと。
仮に虐待によるものであるとしても、「虐待罪」で問われることはない。
「虐待罪」そのものが、存在しない。
同じように、「代理ミュンヒハウゼン症候群罪」という罰則が、刑法上にあるわけではない。

しかも、代理ミュンヒハウゼン症候群といっても、その多くは目立った虐待を伴わない。
たまたま病弱な子どもがいて、その世話を、かいがいしくして見せながら、「いい母親」「す
ばらしい母親」を演ずることもある。

つまり代理ミュンヒハウゼン症候群というときは、第三者に向かって、「私はすばらしい人
間である」ということを印象づけるのを目的とする。
みなに、「あなたはよくできた人だ」「すばらしい人だ」と、同情される。
同情されることによって、自分の立場を作りあげる。

そのため代理ミュンヒハウゼン症候群といっても、対象となる被害者は、子どもとはかぎ
らない。
親や兄弟、ということもある。
また舞台は、何も病院とはかぎらない。
家庭や施設などでもある。
またこうした行為は、秘密裡になされることが多い。
今回、岐阜県関市で起きた事件についても、その女性の夫は、妻をかばっている(?)。
「信じられない。精神的に混乱していたのではないか」(中日新聞)と。
さらに「(警察に)誘導されてしまったのではないか」(同)と、むしろ警察の捜査に不信
感を表明している。

(新相はこれから明らかになるだろうが……。)

それほどまでに、その女性の行為が巧みだったのか、それとも、夫が無知無学なのかはわ
からない。
あるいは夫が弁明しているように、事件そのものが、警察によるでっちあげなのかもしれ
ない。
しかし一般論として、代理ミュンヒハウゼン症候群かどうかは、きわめてその身近にいて、
またその知識がないと、わからない。

●ある女性のケース

ある女性(当時60歳くらい)は、明らかに実の父親を虐待していた。
その数年前、父親は脳梗塞を起こし、体の運動もままならなくなっていた。
いちばん近くに住んでいた娘の家に、引き取られることになった。

食事をこぼす。
便をもらす。
ものを不注意で壊す、など。
そのつどその女性は、父親をはげしく叱った。
ふつうの叱り方ではない。
ヒステリックな金きり声をあげて、叱った。

こんなこともあった。
家で遊ばせておくのは、もったいない(?)ということで、父親に内職をさせたこともあ
る。
簡単な仕事だったが、半身不随の父親には、できるはずもない仕事だった。
が、その父親は、その女性(実娘)が命ずるまま、その仕事をこなした。
が、ある日、何があったのかは知らないが、父親は、その仕事(電気部品)を、家の前を
流れる小川に投げ捨ててしまった。
その女性は、激怒した。
それ以後、食事は、ほぼ3食、ごはんと味噌汁だけ。
ときにごはんと、魚を焼いたようなものだけ。
ベッドを汚すからという理由で、父親は紙おむつをあてがわれていたが、その紙おむつを
取り替えないということも、つづいた。

……という話なら、今では、どこにでもある。
珍しくない。
またこれだけなら代理ミュンヒハウゼン症候群という言葉は出てこない。

代理ミュンヒハウゼン症候群といわれるためには、つぎの行動、つまりそれを利用して、
ことさら自分の立場をつくるという行為が必要である。
他人から、「あなたはよくやっている」「すばらしい人だ」と思われることで、自分の立場
をつくる。

こうして内々では、父親を虐待しながら、外部に向かっては、自分はすばらしい女性であ
ることを、演技した。
たとえば親類、あるいは実の妹や弟がその父親を見舞いにやってきたりすると、やさしく
て思いやりのある娘を演じて見せたりした。
ベッドに横たわる父親の横に、片時も離れず、ずっといた。
(実際には、自分の虐待を、父親が話すのを恐れて、離れることができなかったのではな
いか?)
そしてそのつど、父親の背中をやさしくさすってみたり、口に飲み物を含ませたりしてい
た。
そして見舞う人に対しては、長々と、そしてくどくどと、その苦労話を言って聞かせたり
した。
もちろん(?)、そのときだけは、父親に、洗濯のゆきとどいた、清潔な服を着せたりして
いた。
弟や妹が何もしないことを、それとなく訴えた。
(実際には、弟と妹は、それぞれ毎月5万円ずつ出しあって、その女性を助けていたのだ
が……。)
で、見舞いに行った人は、みな、こう言った。
「あのXさん(=女性の名)は、すばらしい女性だ」「仏様のような人だ」と。

●代理ミュンヒハウゼン症候群

さらに注意しなければならないのは、程度の問題もあるということ。
浜松市内の病院に勤務する精神科のドクターが、最近、こう教えてくれた。

「代理ミュンヒハウゼン症候群で、精神科へやってくるような患者は、明らかに様子がち
がうから、それとわかる」と。
つまり様子からして、ふつうではない、と。
また今回の事件のように、明白に、殺意が感じられる行為があったばあいのみを、代理ミ
ュンヒハウゼン症候群としているとのこと。
またそれがないばあいには、代理ミュンヒハウゼン症候群としては扱わない、とも。

そこで私が、「しかし治療法など、ないでしょう? どうするのですか?」と聞くと、その
ドクターは、あっさりとそれを認めた。
「ないから、10年単位のカウンセリングということになります」と。

で、岐阜県関市の女性が起こした事件が、代理ミュンヒハウゼン症候群と決めつけてよい
かどうかは、今のところ不明である。

新聞の報道などでも、「専門家の中には、代理ミュンヒハウゼン症候群によるものではない
かと疑う人もいる」というような書き方をしている。
それもそのはず。
刑法上にも、代理ミュンヒハウゼン症候群罪という罪があるわけではない。
刑法上では、あくまでも未必の故意、もし殺意の認定がされれば、殺人罪、もしくは殺人
未遂罪で、当の女性を訴追するしかない。

また精神医学の分野でも、人格障害、もしくは行為障害として、治療に当たるしかない。
代理ミュンヒハウゼン症候群というのは、あくまでもその中の類型のひとつにすぎない。
(繰り返すが、「代理ミュンヒハウゼン症候群」というのは、診断名ではない。
あくまでも類型名でしかない。)

●刑法上の罪vs精神医学上の診断名

わかりやすく言えば、他人の同情を買い、それでもって自分の立場をつくり、そのために
必要とあれば、虐待をともなう一連の行為を繰り返すことを、「代理ミュンヒハウゼン症候
群」という。

今回は対象となった相手が、実の子どもであった。
点滴の中に、腐った水を混入させた(?)。
しかし殺す目的があったというよりは、(よくできた、すばらしい母親)を演ずるために、
そうした(?)……、という点で、「代理ミュンヒハウゼン症候群」が疑われている。

報道されている事実だけからすると、先にも書いたように、刑法上では、未必の故意によ
る殺人未遂罪が適応される可能性が高い。
が、そこまで。

繰り返すが、「代理ミュンヒハウゼン症候群罪」というのは存在しない。
「代理ミュンヒハウゼン症候群」というのは、また病名ではない。
診断名として確立しているわけでもない。
診断名として確立するためには、診断基準が示されなければならない。
さらに言えば、治療法が確立されているわけではない。

が、つぎのことだけは、覚えておくとよい。

●新しい虐待

教育の世界で、代理ミュンヒハウゼン症候群が問題になり始めたのは、ここ4、5年のこ
とと考えてよい。
「どうもおかしい?」というケースが、児童相談所の相談員の間から、聞こえ始めたのも、
そのころである。
それに並行して、「新しいタイプの虐待」、もしくは「新しい虐待」という言葉も使われる
ようになった。

うわべでは、たいへんよい母親に見えるのだが、子どもに虐待された痕跡が見られる。
怪我や病気を繰り返す。
子どもの病院通いがつづく。
が、母親に会って面談すると、おだやかで、やさしい。
が、どこか一貫性がない。
つかみどころがない。
そのつど質問すると、母親はペラペラと、言い訳したり、とりつくろったりする。
子どもの世話について、苦労話を、あれこれする、などなど。

「一貫性がない」というのは、行動や言動が、ちぐはぐなことをいう。
一方で献身的で、自己犠牲的な母親を演じながら、それでいて、学校でのボランティア活
動などには参加しない。
子どもの病気については、涙をこぼしながら話すにもかかわらず、治療費を滞納する。
教師が病院へ行くと、やさしい母親を演じて見せるが、近所の子どもの話では、毎晩その
母親の怒鳴り声が聞こえる、など。

さらに言うことが、そのつど変化する。
たとえば「治療費がたいへん」とこぼすから、学校側が、児童保険の適用を申請する。
が、つぎの相談では、今度は、勉強の遅れを問題にする、など。
「そのつど、話の内容がころころと変わるからたいへんでした」と、それを話してくれた
教師は、そう言った。

●見かけにだまされない

代理ミュンヒハウゼン症候群にかぎらず、母親というのは、見かけだけで判断してはいけ
ない。
天才的に、演技がうまい母親(女性)も多い。
うまいというより、ふつうの人なら、まず、だまされる。
岐阜県関市で起きた事件にしても、先にも書いたように、そばにいる夫は、まったくそれ
に気づいていなかったようだ。

私も最近、それらしいケースに遭遇したことがある。
そこでそれとなくその夫(=子どもの父親)に、打診してみたが、その夫は、私の話の一
部さえ聞こうとしなかった。
そのまま激怒してしまった。

またこれはあくまでも私の印象だが、当の女性ですら、自分のしている行為が何であるか
もわかっていないのではないかということ。
もちろん虐待しているという意識はない。
つまり病気でいえば、「病識」そのものがない。
「私は正しいことをしている」「私はすばらしい母親(娘、嫁)である」と、自らをそう信
じ込ませている。

したがって一連の自分の行為についても、罪の意識はまるでない。
(どこかに罪の意識が残っていれば、まだ話もできるのだが……。)
そういう点で、先に、精神科のドクターが言ったように、「明らかに、おかしい」という状
態になる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
代理ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン 虐待 子供の虐待 行動障害 行
為障害 人格障害)

【付記】(1)

良好な人間関係の構築ができない人は、(1)攻撃型、(2)服従型、(3)依存型、(4)
同情型のいずれかのパターンをともなった、行動に出る。
代理ミュンヒハウゼン症候群は、この中の、(4)同情型ということになる。
他人に同情してもらうことにより、自分の立場を確立する。

よくあるケースが、人に会うたびに、自分が病気であり、体が弱いことを訴えるもの。
弱々しく、今にも死にそうな声で、相手に訴えかけることもある。
話すことといえば、自分の病気のことばかり。
さらにそれが進むと、自傷行為をともなうこともある。
わざと壁に頭をぶつける、わざと高いところから飛び降りる、わざと道路でころんでみせ
る、など。
そういう行為をすることで、他人の同情を引き寄せる。

私は「同情」をつぎの3つのパターンに分類する。

(1)自己同情型(弱々しい自分を演ずるという意識がないまま、演ずる。)
(2)代理ミュンヒハウゼン症候群
(3)自傷型(本能的な部分で、衝動的に行動するので、自己管理能力が機能しない。)

どうであるにせよ、意図的な行為というよりは、無意識下の行為であるため、本人に客観
的にそれを自覚させることは、たいへん難しい。

先にあげた父親を虐待しながら、その一方で、すばらしい娘を演じている女性にしても、
当の本人は、演じているという意識もないのではないか。
ごく自然な行為(?)として、それをしている。
またそれを指摘すると、(実際には指摘できないが)、たいていこのタイプの女性は、烈火
のごとく怒り出す。
「私がこんなに苦労しているのに!」と。
実際には、結局はその人が世話や介護をするしかないという状況があり、ある一定の範囲
にある間は、代理ミュンヒハウゼン症候群が疑われても、黙認する。

一般的には、代理ミュンヒハウゼン症候群というと、女性の問題と考えてよい。
圧倒的に、女性によるケースが多い。
ミュンヒハウゼン氏というのは、男性だったが……。

【付記】(2)

こうした代理ミュンヒハウゼン症候群と自ら闘うためには、自己の文化性を日ごろから高
める。
音楽を聴いたり、本を読んだりする。
より高度な人と接し、より高度な情報を吸収する。
そういう行為を繰り返して、自己の文化性を高める。
もちろん良好な人間関係の構築に努める。
小さな殻(から)の中に閉じこもり、そこで自分の(ゆがみ)を極端化させるのは、たい
へん危険なことと考えてよい。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの社会適応性】

子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
(2)自己認知力
(3)自己統制力
(4)粘り強さ
(5)楽観性
(6)柔軟性

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の
高い子どもとみる(「EQ論」)。

 順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーター
が、「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲
しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、
その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さ
らにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、
権威主義、世間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私
は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているか
わからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっ
きりしない。優柔不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っ
ていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示
すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子
どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらに
ためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけ
のために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわ
らず、お菓子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口
にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統
制力の弱い子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制
力に分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界
を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題
のある子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気に
なる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ
子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向き
に、ものを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしな
ところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、
悩んだりすることもある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲
気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観
的と言えば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」
と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。
さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、
しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、
考える人もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考
える前に、それについて、書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++++

●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚
園へ行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。

そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。しか
し幼稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながら
に、それはずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚
園にいることになった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さん
が、「お兄ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。
そこで母親はもう一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザ
を食べたという。

「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。
 
今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。
心理学の世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとか
いう。少し昔の日本人は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこ
か暴力的で、私は好きではないが……。)

教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとし
ている。ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がき
かなくなることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、
がんこ。また「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。

がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法
で対処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大
切にする。

++++++++++++++++++

 心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことに
こだわり、そこから一歩も、抜け出られなくなる。

 よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常
なこだわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。

 ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先
生に、一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、な
ど。

 こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(が
んこさ)を示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わが
まま」と決めてかかって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめ
る。症状をこじらせる。

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、
臨機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔
軟な子どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」という
が……。)

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここ
でいう人格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。

【子ども診断テスト】

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた
子どもとみる。

(はやし浩司 社会適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度 はや
し浩司 金権教)

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ミニ・パソコンの故障

+++++++++++++++++++

愛用のミニパソが、立ち上がらなくなった。
電源ボタンを押しても、画面は真っ暗なまま。
そこでメーカーに問い合わせると、BIOSを
再インストールをしてくれ、とのこと。

BIOSの再インストールだって!
ゾーッ!

そこでHP上での指示に従って、

(1)BIOSファイルをダウンロード、解凍、保存。
(2)それを手持ちのUSBメモリーにコピー。
(3)そのメモリーを挿したまま、FnキーとEscキーを押しながら、
電源ボタンを押す。
(4)しばらくして、パソコンが起動→再起動。
(5)以上の手順を経て、修理完了!

私にもできた、BIOSの再インストール。
ハハハ。
しかしBIOS(バイオス)とは何か?
まったくわかっていないところが、おそろしい。
わかっていないまま、「直った」「直った」と喜んでいる
自分が、おそろしい。

(補記)「BIOS」というのは、Basic Input-Output Systemのことだそうだ。
「基本的な入出力を行うルーチンの集まり。あらかじめキーボードやディスク装置の
ような入出力装置のBIOSを規格化しておくと、様々なコンピュータ環境で、同一の
プログラムを動作させることができる」(標準パソコン用語事典・秀和システム)と
ある。

+++++++++++++++++++

【死の受容】

●「これで起こされることもない」

先日テレビを見ていたら、こんなシーンがあった。
ある男性が40数歳の若さで、アルツハイマー病を宣告された。
そのときのこと。
その男性は、こう言った。
「ああ、これで毎朝、思う存分、寝ていられる。起こされることもないと思った」と。

同じような経験だが、私も一度脳腫瘍を疑われて、開頭寸前のところまで
いったことがある。

実はそのとき、私も、同じように思った。
「これで今の仕事から解放される」と。

当時の私は、メチャメチャ忙しかった。
休みは月に1度あるかないかというような状態だった。

●死の受容

そのときがくれば、死の受容は意外と簡単なことではないかということ。
今は元気だから、死ぬのがこわい。
死の宣告をされたときの、自分がこわい。
しかしそれも一時的なもの。
そのときが来たら、そのとき。

ところで数日前、映画『ゴースト』で主役をした男優の記事が、どこかの
ニュースサイトに載っていた。
何でも今、すい臓がんで、闘病中とか。
『ゴースト』に出ていたときのような精悍さは、どこにもなかった。
細胞のひとつひとつから、水分をしぼり取ったような顔つきだった。
その男優はこう言っているという。
「悔しい。怒りがあふれてくる」(記事)と。

年齢は54歳とか。
(まちがっていたら、ごめん!)

「そうだろうな」とか、「そういうものかな」とか、思ったりする。

キューブラー・ロスの『死の受容段階論』を持ち出すまでもない。
人は、いくつかのプロセスを経て、最後は、死を受容するようになる。
そこは実におおらかで、ゆったりとして、満ち足りた世界(?)、だそうだ。
その男優は、ロスの段階論によれば、その一歩手前で、もがき、苦しんでいる(?)。

●大切なことは、完全燃焼

そこで大切なことは、いつ死の宣告をされてもよいように、心の準備だけは
しておくということ。
またそのとき悔いが残らないよう、今、できること、しなければならないことを、
懸命にしておく。
いや、懸命だけでは足りない。
自分を完全燃焼させておく。
それをしないまま、死の宣告を受けたら……?
それこそ、ゾッとする。

一方でぐうたらな生活をしておきながら、「神様、仏様、助けてください」は、ない。

つまり日々の生活の中にこそ、「真の自由」への道が隠されている。
言うまでもなく、「真の自由」とは、「死の恐怖からの解放」をいう。

●統合性

30代や40代の人にしてみれば、60代は、ずっと先の、ありえない
世界のように見えるかもしれない。
私も、そう思っていた。
しかし60代は、あっという間にやってくる。
あなたの人生が、あっという間に、30年、40年、過ぎたように、つぎの
30年、20年も、あっという間にやってくる。

そのとき、統合性の確立している人は、強い。
そうでない人は、そうでない。

統合性……つまり(自分がやるべきこと)と、(現実にしていること)を、
一致させることをいう。
ふつう(やるべきこと)には、苦痛がともなう。
できるなら、しないですませたい。
そういうブレーキも働く。
ふつうのブレーキではない。
強力なブレーキである。
しかし(やるべきこと)をする。

が、現実には、(やるべきこと)は、簡単には見つからない。
10年単位の熟成期間が必要である。
エリクソンという学者は、人生の正午と言われる、40歳くらいから、
それを始めろと説いている。
「60歳になりました。明日からゴビの砂漠で、ヤナギの木でも植えてきます」
というわけにはいかない。

そこに至るには、それなりの下地というものが必要である。
一朝一夕には、できない。
その下地を、10年とか、20年とかかけて、作りあげる。
コツコツと作りあげる。
で、それには条件がある。

無私無欲、無条件プラス、非営利でなければならない。
我欲が混入したとたん、統合性は霧散する。

●あるべき老後

よく言われるように、孫の世話と庭いじり……。
そんな老後は、理想の老後ではない。
あるべき老後でもない。
またそんな老後を求めてはいけない。

何も老人なったからといって、老人らしく生きる必要はない。
年齢という「数字」にしばられることはない。
60歳から統合性の確立をめざしたところで、遅くはない。
しかし大半の人は、それすらもあきらめてしまう。
あきらめて、あとは年金をアテに、旅行をしたり、趣味の会に
顔を出したりする。
つまり死の待合室で顔を並べる。

●死の待合室

「死の待合室」……その待合室に入ると、明日が今日よりよくなるということは、
ありえない。
来年が今年よりよくなるということは、さらにありえない。
病気にビクビクし、小銭にしがみつき、汲々(きゅうきゅう)として生きる。
脳みその底に、大きな穴があいていることにすら、気がつかない。
それまでの知識や経験が、どんどんと下へ下へと、こぼれ出ていく。
簡単に言えば、どんどんとバカになっていく。
が、それだけではない。

若いころは、気力で、自分の人間性をごまかすことができる。
それらしく善人を装うこともできる。
しかし加齢とともに気力が弱くなり、中身の人間性がモロに表に出てくる。
ごまかしがきかなくなる。

こうして死の待合室の住人たちは、ますます愚かになっていく。
醜くなっていく。

●喜びの原点

死んだら、どうなるか?
死後の世界は、どんな世界か?
それを知るには、目を閉じてみるという方法がある。
しかし、閉じるだけでは足りない。
閉じても、モヤモヤとした暗闇が見える。

死後の世界とは、目を閉じた状態で、あなたの頭のうしろの世界ということになる。
あなたの頭のうしろには、何も見えない。
暗闇さえ見えない。
そこはどこまでもつづく(虚)の世界。
それが死後の世界である。

となると、目を閉じたときに見える暗闇の世界ですら、ありがたい。
近くで光が動けば、それをまぶたの裏で追いかけることもできる。
「生きることの原点」はここにある。

息ができる。
音が聞こえる。
においがわかる。
目が見える。
体が動く。

それを生きる原点つる。
喜びの原点とする。
その原点に立ち返れば、世の中のありとあらゆる問題が、ささいで、つまらない
ものに見えてくる。

●「時」こそ「命」

今という「時」こそが「命」。
生きているという
「証(あかし)」。
あとはその「時」を、どう使うかということ。
時を「財産」にたとえるのは、あまり好きではないが、時にまさる財産はない。
が、その「時」は、生まれたその瞬間から、減っていく。
しかも加齢ともに、加速度的に、減っていく。

若いときの1年は、1年だが、50歳も過ぎると、その1年が半年になる。
60歳もすぎると、その1年が、数か月になる。
あっという間に1日は過ぎ、1週間は過ぎ、1か月は過ぎ、1年は過ぎる。
だとするなら、歳をとればとるほど、濃密に生きなければならない。
健康論に似ている。

若いときは1週間に1、2度の運動で、健康を維持できる。
しかし60歳を過ぎたら、それでは足りない。
毎日運動をしても、足りない。
肉体の健康もそうだが、脳みその健康、精神の健康も、同じに考えてよい。

「命とは何か?」と聞かれれば、そんなわけで、私は「時」と答える。
「今」という、この「時」が、財産。
一瞬一秒たりとも、無駄にできる時間は、ない。

……と考えて、明日もがんばるぞ。
がんばってがんばって、がんばりまくるぞ。
あえて急いでまで、死の待合室に顔を並べることはない。

(目標)
明日は、10キロを歩いてみる。
(自宅)→(佐鳴湖の北)→(舘山寺街道)→(バス)→(市内)。
コースは決まった。

【付記】
若いころ、近所に、小銭にうるさく、守銭奴のような女性がいた。
当時、60歳くらいではなかった。
話すことと言えば、お金の話ばかり。
お金の話だけ。
証券会社に出入りしては、「今日は、いくら儲けた」「今日は、いくら損をした」と、
そんな話ばかりをしていた。
印象に残っているのは、ある日、その女性が、株取引で、50万円儲けたという
話だった。
その女性は、その話で有頂天になっていた。

で、今、その女性は80歳近くになっている。
が、それだけお金に執着しながら、現在の状態はどうかというと、あのころと
まったく変わっていない。
相変わらず、貧乏の底を這うような生活をしている。
世間のうわさでは、かなりの財産をもっているということだが、私は、それは、
彼女一流の、作り話ではないかと思っている。
「金持ち」と思わせることで、他人の心を操っている(?)。
そういう人は、多い。

が、仮に金持ちであるとしても、彼女がもっているお金は、まさに死に金。
「何のために?」と問いかけても、その答が返ってこない。
今は、腰も半分、曲がり、歩くこともままならない。
そんな女性が、いまだに、「お金」「お金」と言っている。
そのおかしさ、そして悲しさ。

その呪縛感から解き放たれないかぎり、その女性には、安穏たる日は
やってこない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●金権教

+++++++++++++++++

お金がすべて……。
お金しか、信じない。
そういう人は、多い。
称して、「金権教」という。

+++++++++++++++++

●戦争の後遺症

あの戦争が残した最大の後遺症と言えば、
金権教と考えてよい。
それまでは天皇が神だった。
その天皇が人間宣言をして、神の座をおりた。
とたん、多くの日本人は、行き場を失ってしまった。
心のより所を失ってしまった。
戦後しばらくの間、放心状態になってしまった人も多い。
戦後、雨後の竹の子のように新興宗教が生まれたのも
そのためと考えてよい。

が、中でも最大の新興宗教といえば、金権教ということになる。
「マネー教」と言ってもよい。
「マネーがすべて」「マネーがあれば幸せ」「マネーがあれば、どんな
夢もかなう」と。
基本的には、現在の日本は、いまだにその(流れ)の中にある。

かなり大ざっぱな書き方をしたが、大筋ではまちがっていない。

●仕事第一主義

ひとつの価値観を妄信すると、他の別の価値観が犠牲になる。
これは私の価値観というよりは、私たちの世代に共通した価値観と言ってもよい。
今でこそ、「仕事より家族のほうが大切」と考える人は多い。
しかし私たちが、20代、30代のころは、そうではなかった。
「仕事か家族か」と問われれば、みな、まちがいなく「仕事」を選んだ。
「仕事あっての家族」と考える人もいた。

だから「仕事」という言葉は、それ自体が、トランプでいえば、ジョーカー
の働きをした。

A「明日、会合に出てくれますか?」
B「私は、仕事がありますから」
A「ああ、それなら結構です」と。

戦前の「お国のため」が、「会社のため」になった。
戦前の「兵士」が、「企業戦士」となった。
仕事第一主義は、そこから生まれた。
「会社人間」という言葉も、そこから生まれた。

しかしそれを裏から支えたのが、金権教ということになる。

●ぜいたくが当たり前

お金がなければ、不幸になる。
それは事実。
しかしお金では、幸福は買えない。
それもまた事実。
お金で私たちは欲望を満足させることはできる。
しかしその欲望には、際限がない。

戦後生まれの私たちと、今の人たちを比較するのもどうかと思うが、
いろいろな場面で、私は、その(ちがい)を強く感ずる。
とくに今の若い人たちの(ぜいたく)を見たりすると、ときに、それに
ついていけないときがある。

もう15年近くも前のことだが、こんなことがあった。
息子たちが、スキーに出かけた。
スキーをするということ自体、私たちの世代には、考えられないことだった。
どこかの金持ちの、最高のぜいたくということになっていた。
が、その息子が、手ぶらでスキーにでかけ、手ぶらで、スキーから帰ってきた。
「荷物はどうした?」と聞くと、息子たちは、平然とこう答えた。
「宅急便で送った」と。

私には、その(ぜいたくさ)が理解できなかった。
そこで息子たちを叱ったのだが、少しあとになって、そのことを友人に話すと、
「今は、みな、そうだ」という返事をもらった。

あとは、この繰り返し。
それが無数に積み重なって、現代という時代になった。

●あるのが当たり前

しかし今はよい。
何とか日本の経済は、持ちこたえている。
しかし日本の経済が、後退期に入ったら、どうなるか。

たとえば今では、子ども部屋といっても、完全冷暖房が常識。
夏は、一晩中、冷房をかけっぱなしにしている。
冬は、一晩中、暖房をかけっぱなしにしている。
今の子どもたちに、ボットン便所で用を足せと言っても、できないだろう。
何でも、「あるのが当たり前」という生活をしている。

これではいくらお金があっても、足りない。
足りないから、その負担は、結局は、親に回ってくる。
ざっと見聞きした範囲でも、現在、親から仕送りしてもらっている若い夫婦は、
約50%はいるとみてよい。
結婚式の費用、新居の費用、出産の費用などなど。
さらには子ども(=孫)のおけいこ代まで。

しかしこうした(ゆがんだ生活観)を支えているのも、金権教ということになる。
「お金を出してやれば、親子の絆(きずな)は深まるはず」
「お金を出してやれば、子どもは、それに感謝するはず」と。

子どもについて言えば、クリスマスのプレゼントにせよ、誕生日のプレゼントにせよ、
より高価なものであればあるほど、よいということになっている。

●金権教と闘う

金権教といっても、まさにカルト。
一度自分の体にしみついたカルトを抜くのは、容易なことではない。
長い時間をかけて、その人の人生観、さらには人生哲学になっている。

「あなたはまちがっていますよ」と言っても、意味はない。
その人は、かえって混乱状態に陥ってしまう。
言うなら言うで、それに代わる別の価値観を容易してやらなければならない。
……と書いたが、それは私たち自身の問題でもある。

金権教と闘うといっても、金権教自体と闘っても、意味はない。
自分の中に新しい価値観を構築し、その結果として、金権教と闘う。
金権教を自分の中で、無意味化する。

が、だからといって、マネーを否定せよとか、マネーには意味がないとか、
そんなことを言っているのではない。
現代社会では、マネーに背を向けては、生きていけない。
しかし毒されすぎるのも、危険と、私は言っている。
へたをすれば、人生そのものを、棒に振ってしまう。
事実、そういう人は多い。

そこでもしあなたに子どもがいるなら、育児の場で、金権教と闘ってみよう。

(1)子どもには、ぜいたくをさせない。
(2)子どもには、高価なものを買い与えない。
(3)子どもには、必要なものだけを買い与える。

少しテーマがちがうが、あのバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、
こう書いている。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれ
ど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを
与えられる」と。

要するに、「程度を超えない」ということ。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●映画『ミラーズ』

+++++++++++++++++++

昨日、T町に住む友人を訪ねながら、帰りに劇場で、
映画を見てきた。
隣町まで行って、映画を見るのは、これがはじめて。
主演は……、だったかな?
題名は、『ミラーズ』。
星は、4つの★★★★。

最後の最後のところで、ドキッとした。
久々に、ドキッとした。
ブルース・ウィリス主演の『シックス・センス』
にまさるとも劣らない衝撃だった。

まっ、劇場で見ても損はない映画。

内容は……、最後のどんでん返しが、おもしろい。
映画も終わって、何でこんなシーンがあるのかなあ……
と思っていると……。
ドキッ!!
(この先は書かないでおきますので、あとはみなさん、
自分で映画をご覧になってください。)
ただしR15。

(注)主演は、キーファー・サザーランド。

+++++++++++++++++++

●極楽と地獄

兄が死んで、5ヶ月、母が死んで、3ヶ月になる。
「地蔵十王経」という経典によれば、(この経典は、日本製のまったくの
ニセ経だが)、死んだ人は7日目ごとに10人の大王の審判を受けるという。
10人目は、あのエンマ大王。
その大王の審判を受けて、地獄へ行くか、極楽へ行くかが決まる。
「初七日」とか、「四九日」とかいう法事も、そこから生まれた。

中国では、「七」という数字を嫌うらしい。
一説によると、「七」という漢字は、腹を十の字に切り、その切り口から
血がしたたる様子を表したものという。

で、今日、ワイフとドライブをしながら、こんな会話をした。

私「兄や母は、極楽へ行っただろうか?」
ワ「そうねエ……」と。

で、そのときワイフがおもしろいことを言った。
「極楽と言っても、日本では、おいしいものを食べて、楽しい音楽を聴いて……
という、つまり安楽な世界を言うわね」と。
つまり欲望を満足させてくれる世界を、極楽という、と。

私「となるとね、極楽って、そんなに行きたくないね」
ワ「私も、そんな世界だったら、行きたくないわ」
私「そうだなア。安楽な生活イコール、幸福ということでもないし」と。

たとえば私の母は、何かおいしいものを出してやったりすると、
口癖のように、こう言った。
「極楽や、極楽や……」と。
温泉へ連れていってやったときも、そうだった。
母には母なりの極楽観があったようだ。

では、極楽とは、どんな世界をいうのか。
いろいろ考える。
が、つぎつぎと思い浮かんでは、そのまま消えてしまう。
あえて言うなら、苦しみや悲しみのない世界をいう。
しかし幸福かどうかは、苦しみや悲しみがあってはじめてわかること。
極楽では、どうやってその幸福を実感するのだろう?

私「裸の、ポテポテした体つきの女性が、琵琶(びわ)を弾いているとか……」
ワ「どこかのお寺に、そんな絵が飾ってあったわね」
私「そうだね。しかしポテポテした体つきの女性は、ぼくの好みじゃないよ」
ワ「あら、そう? でもそういう女性は、どこから来たのかしら?」
私「やはり極楽へ来た人ということになるのかな。それとも天女(てんにょ)
かもしれない」

ワ「天女といっても、もとは人間でしょ。それはおかしいわよ」
私「極楽にも、分担があるのかもしれないよ。『君は若くて美しいから、
おっぱいをポロリと出して、琵琶でも弾いていなさい』とか何とか」
ワ「つまりエンターティナーというわけ?」
私「そういうことかなあ……」
ワ「女性をバカにしているわ」と。

このあたりのことを、日本の仏教会は、どのように考えているのだろう。
一度、統一見解というものを、示してほしい。

(1)極楽とはどんな世界を言うのか。(半面、地獄はわかりやすいが……。)
(2)極楽へ行く基準は、あるのか。あるとすれば、その基準を示してほしい。
(3)仏教(=和式仏教)にまつわる男尊女卑観をどう考えているか。
(4)ついでに戒名をつけるのに、なぜ高額の布施が必要なのか。

で、話を戻す。

兄と母は、極楽へ行ったか?
それとも地獄へ行ったか?

私「よいことをしたから、善人というわけではない。悪いことをしなかったから、
善人というわけでもない。善人が善人であるためには、悪と戦わねばならない。
悪と戦ってはじめて、その人は、善人になる」と。

善人ぶることなら、だれにでもできる。
それらしい顔をして、それらしいことを言えばよい。
それらしいボランティア活動をするのもよい。

悪いことをしないから、善人というわけでもない。
もしそうなら、こじんまりと、自分の世界だけで生きればよい。
そうすれば、みな、善人ということになってしまう。

善人が善人であるためには、身近な悪と戦わねばならない。
自分の中に潜む邪悪さと戦うことも大切。
悪と戦って、人は、はじめて善人になる。

そういう意味では、兄にしても、母にしても、自分のしたいことだけをして、
一生を終えた。
とくに悪人というわけではなかったが、しかしここでいう善人の定義には当てはまらない。
地獄へ行くことはないにしても、極楽へ行けるかどうかとなると、私にはわからない。
もっとも、そのために、つまり2人が極楽へ行けるようにするため、法事に法事を重ねる。
親や兄弟が極楽へ行けるようにするのは、残された私たちの努めということになる。

近く母の百か日法要がある。
そのすぐあとには、父の33回忌もある。

しかし、それもよくよく考えてみると、おかしい……?
エンマ大王は、どんな基準で、極楽へ行く人と、地獄へ行く人を決めているのだろう。
観客席で、ワーワーとはやしたてる人が多ければ多いほど、極楽へ行けるとでも
いうのだろうか。

????

そこで登場するのが、輪廻転生論。
人は死ぬと何かに生まれ変わるという、あれである。
この世でよい行いをした人は、生まれ変わったとき、再び人間に生まれることが
できる(?)。
そうでない人は、そうでない(?)。
たとえば動物や虫などに生まれ変わる(?)。
輪廻転生論は、もともとはヒンズー教の教えで、それが釈迦仏教の中に混入した。

しかしこれも、またおかしい。

私はもし生まれ変わることができるとするなら、つぎは鳥に生まれ変わりたい。
そう願っている。
が、チベット密教によれば、鳥に生まれ変わることは、最悪(=地獄)と考えられて
いる。
チベットでは、今でも鳥葬(死者は切り刻まれ、鳥の餌となる)が行われている。
だから鳥は不吉な動物ということになっている。
動物を人間より下等にみる。
しかしそうした生物観は、どこから生まれるのか?

とまあ、考えれば考えるほど、矛盾が生まれてくる。

……ということで、昔、私の祖父が口癖のように言っていた言葉を思い出す。
「地獄も極楽も、この世」と。

この考え方だったら、私もすなおに納得できる。
要は生き様、生き方の問題。
その中身で、地獄も極楽も決まる。

と、考えていたら、本当に、「極R湯」という看板が目についた。
このあたりでも評判の大浴場である。
行った人が、みな、「よかった」と言っている。
私たちも一度は……と思いつつ、その機会がなくて、今日になった。

ワ「今度、行ってみたいわ」
私「そうだな。名前がいい。ぼくの友だちの中にも、常連客が多い」
ワ「極楽みたいだから、極R湯って、言うのよ。ハハハ」
私「ハハハ」と。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
地獄 地獄論 地獄と極楽 極楽論 極楽 地獄 輪廻転生 輪廻転生論)


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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      2月   13日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●アメリカの教育現場では、今……?(Now in USA!)

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Bulletin Board for EDSPC 753
Board Postingsへの投稿記事より

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1st Grader defiant, uncooperative & violent
by Beth Fregoe, posted on 5/13/2008 at 16:29.
(朝鮮的で非協力的、暴力的な1年生)

I am a Paraprofessional who works with a 1st grader who is very difficult to work with. 
He never participates in classroom activities and even eats lunch separate (I eat lunch 
with him every day).
私は1年生の専門教員です。1年生の子供ですが、クラスの活動には参加せず、みなと離
れて昼食をとります。(私が毎日、彼と昼食をとっています。)
It takes a great effort on my part to get him to do ANY school work. He regularly walks 
out of the classroom when he doesn't want to do something. He seems to pay no 
attention to what's going on in the classroom, it's like he's in his own world. 
彼に学校の活動に参加させることに、教師としてたいへん苦労しています。したくないこ
とがあると、教室から出て行ってしまいます。教室で起きていることに、ほとんど注意を
払いません。彼だけの世界に閉じこもっているようです。
When he becomes disruptive and I try to calm him down, he ignores me like I'm not 
even there. He will lay on the floor, kicking the wall or walk over to the door and open & 
shut it. He will bang his head against the wall. Things like that go on daily. 
彼が破滅的になるときは、彼をなだめすかしますが、彼はあたかも私がそこにいないかの
ように無視します。彼は床の上に寝転び、壁をたたいたり、ドアを開けたり閉めたりしま
す。自分の頭を壁にぶつけることもあります。そんなことが毎日あります。
Last week we were working on a project and suddenly he asked me to leave the room 
and when I didn't he started kicking and punching me. From what I've been told, there 
has been no cooperation from his mother in regards to finding out if there is any medical 
reason for this behavior. If anyone has any advice on how I can better handle this child, 
it would be greatly appreciated.
先週、ひとつのプロジェクトに取り組んでいました。そのとき彼が突然、私に部屋を出る
ように頼みました。で私がそれをしないでいると、私を蹴ったり、殴ったりしました。私
が知る限り、彼の行動について、何か医学的な理由があるのではないかということを知る
ために、彼の母親の協力があったということはありません。このような子どもの扱い方に
ついて、だれか、よいアドバイスをくだされば、たいへんうれしく思います。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

Time-out room
by Sarah, posted on 10/5/2006 at 6:43.
(特別学級について)
Hi, 
I am a teacher working in a special school. My school is going to build few time-out 
rooms (they also called them 'cool-down rooms') to deal with challeging children. I am 
feeling very uncomfortable with this idea, can someone share with me your thought 
about this idea. 
私は特別な学校で働いています。私の学校は、問題のある生徒を扱うための、いくつかの
特別学級をもうけようとしています。(ここでは、「冷却教室」と呼んでいます。)私はこの
考えにどうも賛成しません。私の考えに同調してくれる人はいませんか。
Personally, I think that it is a 'coping strategy'for teachers. Will students learn how to 
behave appropriately after being put into these rooms to 'cool down'. In the past, I have 
seen time-out rooms been used very frequently by few teachers. Students learn that we 
have the 'power' to put them in these time-out rooms to 'cool down'when we cannot 
handle their behaviour. 
個人的には、それは教師のための(対処教室)だと思います。生徒たちは、こういう教室
へ入れられたあと、適切に対処する方法を学ぶでしょうか。過去において、何人かの教師
が、特別学級をしばしば使うのを見てきました。生徒たちは、私たちが手に負えなくなる
と、特別学級に入れる「権限」があると学びます。
I do feel that when this option is available, people tend to use it as a solution rather 
than think of other alternative ways to deal with a student's behaviour. Moreover, I 
treat my students the way I would like my own children to be treated at school. I would 
never want them to be lock up in a room, no matter what pretty names are given to 
these rooms.
この学校の方針が実施されると、人々は、生徒たちの行動について、ほかの選択的な方法
を考えるよりも、それを問題解決のための方法として使うと思います。さらに言えば、私
は自分の子どもが学校でそう扱ってほしいと思うような方法で、生徒たちを扱いたいです。
私は、いかに美しい名前がそうした教室に与えられようとも、そういう生徒を部屋に閉じ
込めたくはありません。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【われ、考える。故にわれ、あり】(I think, therefore I am.)

+++++++++++++++++

思考力を失ったとき、人類はほんとうに
滅亡する。

思考するから人間は人間である。
もし思考をしなければ、人間は、
ただのサルになってしまう。

+++++++++++++++++

●科学と哲学

科学が進歩したからといって、哲学が進歩するとはかぎらない。
科学の進歩と、哲学の進歩は、まったく別のもの。
しかし影響がないとは、言えない。
科学的な見方が、哲学に影響を与えるということは、ある。
たとえば最近の脳科学の進歩には、驚くべきものがある。
人間の(心の作用)まで、科学的に説明しようとしている。

では、哲学そのものは、どうだろうか?
たとえば紀元前5世紀ごろ、中国に2人の思想家がいた。
まっ先に思いついたのが、老子(紀元前5世紀)と、荘子(370〜286頃BC)
である。

無為自然(むいしぜん)を説いた老子、安心立命(あんじんりつめい)を
説いた荘子。
いわば現在の自然主義の先駆け的な思想家ということになるが、では、
その後の科学の進歩ほどに、私たちが、彼らの思想を受け継ぎ、進化
させたかというと、それは疑わしい。
2500年もたった今ですら、老子や荘子の思想は、斬新で先駆性がある。
その先駆性があること自体、思想が進歩していないことを示す。

一方、科学はどうか。
科学は確かに進歩しているが、そのつど感動は、一時的なものにすぎない。
ひとつの科学が進歩するたびに、私たちは驚く。
しかししばらくすると、それが当たり前になってしまう。
あとはこの繰り返し。
つまり科学の進歩には、常にループ性がともなう。
進歩を繰り返しながら、同じところをグルグル回る。

こんな経験がある。

●絶え間ないループ状態

私は中学生のとき、はじめてカラーテレビなるものを、見た。
今から思えば、白黒テレビに、原色がついただけのカラーテレビだったが、
驚いたというよりも、あのとき受けた衝撃は、今でも忘れない。

さらに20代の中ごろ、私ははじめてパソコンなるものを、見た。
簡単なプログラムを組むと、それは画面上に、ポツポツと二次曲線を描いてみせた。
そのときは驚いたというよりも、うれしかった。

私は中学生のとき、夏休みの工作に、二次曲線自動描画器というものを考えた。
縦軸と横軸に張った糸を、プーリー(回転コマ)で動かす。
両方の糸が交わったところが、ひとつの点になる。
その点が、二次曲線を描くようにした。
で、私はその交わったところに、小さなボールを取り付けた。
ボールに縦穴と、横穴をあけ、そこに糸を通した。
手でハンドルを回すと、縦軸と横軸に張った糸が、ある一定の割合で移動し、その
ボールが動くはずだった。
しかしそのボールは、うまく動かなかった。
……というより、まったく動かなかったように記憶している。
縦軸の糸と横軸の糸が、相互にからんでしまった。

が、パソコンは、そのときの夢を実現してみせてくれた。
私はパソコンがポツポツと点を画面に描いていくのを、いつまでもじっと見つめていた。

そして今、中学生のときのカラーテレビや、20代のころのパソコンが、
インターネットに置き換わった。

このインターネットのおかげで、私は地方の都市に住むというハンディを克服する
ことができた。
そればかりか、情報を、瞬時に、世界に向けて発信することができるようになった。
しかし……。
これも科学の進歩というなら、まさに(同じこと)の繰り返し。
そのうちインターネットも、テレビのように当たり前になる。
そこで人間はさらなるモノを見つけて、それに感動するにちがいない。
またそうでないと感動しない。

つまりそれがここでいうループ性、ということになる。

●思考と情報

なぜ、こういう現象が起きるのか。
進歩しているようで、実は同じところをぐるぐる回っている。
私たちの身の回りの生活は、たしかに進化している。
豊かになっている。
たとえば写真ひとつとっても、今では瞬時、瞬時に、それを見ることができる。
見ることができばかりか、瞬時に、それを世界中に配信することができる。
携帯電話にしても、そうだ。
今では歩きながらでも、好きなところに電話をかけることができる。

その結果、私たちは、その分だけ、思考が深くなったかといえば、それはない。
その理由にひとつに、思考と情報の混同がある。

●思考と情報

思考と情報は、まったく別のものである。
幼稚園児が掛け算の九九をソラで言ったとしても、その子どもに算数の力(=
考える力)があるとは、だれも思わない。
思考には、つねにある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときの状態を、想像してみればよい。

一方、情報というのは、せんべいを食べながらでも、吸収することができる。
夜のテレビのバラエティ番組を見れば、それがわかる。
いや、番組を見ろというのではない。
そういう番組を見ている、あなた自身を見ろと言っている。

昨夜も、創作料理と称して、何人かのタレントが、珍奇な手料理を披露してみせて
いた。
ギョーザ風のオムレツ、オムレツ風のギョーザ。
そんなような料理だった。
そうした情報を吸収するのには、たいした努力はいらない。
テレビの前で寝転びながら、いっしょにゲラゲラと笑っているだけでよい。

言うなれば、現代社会というのは、まさに情報の洪水。
情報また情報が、怒涛のごとく、日々の生活の中に押し寄せてくる。
と、同時に、私たちは(考える)という習慣を放棄してしまった。
その時間さえない。
あるいは情報の多いこと、イコール、思考と錯覚してしまった。
その結果として、考える力、つまり新しい思想を生み出すということが
むずかしくなってしまった。

●モノ社会への幻想

さらにもうひとつ大きな誤解がある。
物質社会、つまりモノ社会が豊かになればなるほど、心もまた豊かになるという
誤解である。
明確に否定しておきたい。

物質、つまりモノは、人間の心をけっして豊かにはしない。
モノがあれば、便利にはなるが、それは人間の心の豊かさとは、まったくの
別物である。

たとえば旅行をするにも、今ではカーナビを頼りに、迷わず目的地に行く
ことができる。
しかしその分だけ、旅を楽しむ心が豊かになったかといえば、それはない。
大型の高級車に乗っている人ほど、思考力があるかといえば、それはない。
高級マンションに住んでいる人ほど、思考力があるかといえば、それはない。
つい先日、こんな経験をした。

●モノ社会

このあたりでは、第一と第三水曜日が、危険物の収集日ということになっている。
そのこともあって、昨日、私は、居間の横の部屋にあるガラクタを、ほとんど捨てた。
それはかなり勇気のいる作業だった。
2つの勇気が必要だった。
というのも、その中には、長い間、私が趣味としてきた、ラジコン飛行機も、5、6
機あったからである。

購入価格にしても、それぞれにプロポ(送信機)や、サーボ(動作用モータ)が
ついているので、1機あたり、10万円はくだらない。
そういうものを容赦なく、バリバリと破壊し、袋につめた。
これが勇気(1)。

もうひとつは、「2度とラジコン飛行機を飛ばすことはないだろう」という、
つまりは趣味との決別。
残りの人生が10年あるとしても、その10年は、別のことに使いたい。
そういう思いもあって、ラジコン飛行機と周辺機器をすべて捨てた。
これが勇気(2)。

しかしラジコン飛行機だけではない。
私の家にも、モノがあふれかえっている。
モノ、モノ、モノ……。

これだけモノがあふれているのに、ではその分だけ、私は幸福になったかというと、
それはない。
そのつど満足感は味わったかもしれないが、満足感と幸福感は別。
しかもその両方とも、一時的。
せつな的。
その場だけのもの。
わかりきったことだが、モノでは、人間は幸福になれない。
つまりここに、モノ文明、つまり物質文明の限界がある。

●考えるから人間

人間は、考えるからこそ、人間である。
「I think, therefore I am.(我、考える。それ故に、我、あり。)」という言葉もある。
「考えなければ、人間ではない」とさえ断言してもよい。
が、考えなければ、どうなるか。
そこはまさに、「ケータイをもったサル」という世界になる。
少し前だが、こんなことがあった。

角のコンビニを自転車で横切ろうとしたときのこと。
一台の車が、猛スピードでそこへ突っ込んできて、私の真横で急ブレーキを
かけて止まった。
私はあやうく、その車にはねられるところだった。
見ると実にそれらしい2人の若い男女だった。
視線が合ったとき、男のほうは、私に向って、「バ〜カ」と言った。
声は聞こえなかったが、口の動きで、それがわかった。
女のほうは外に視線をはずして、ニヤニヤと笑っていた。

言うなれば、「クルマに乗ったサル」ということか。
そこには一片の知性も理性も感じなかった。
考えない人間というのは、そういう人間をいう。

●では、どうすればよいのか?

それは簡単な自問から始まる。
「おいしいものを食べた」……「だから、それがどうしたの?」
「大きな家を買った」……「だから、それがどうしたの?」
「600万円もする車を買った」……「だから、それがどうしたの?」と。

こうした自問を繰り返していると、ちょうどタマネギの皮が外からはがれて
いくように、自分の心がどんどんと細くなっていくのを感ずる。
「だから、それがどうしたの?」につづく、答の部分がない。
あるいはいくら考えても、その答がつづかない。

が、さらに自問を繰り返す。
「だから、それがどうしたの?」と。

するとあなたは、最後のところで、「私」が浮かびあがってくるのがわかる。
恐ろしく素朴で、恐ろしく小さい、「私」である。
その「私」から見ると、世の中のすべてのモノがつまらなく、取るに足りない
ものであることがわかってくる。

が、ここが原点。
そのあとのことはわからない。
それぞれの人が、それぞれの分野で、自分の道を見だす。
哲学者は、真理を。
宗教家は、善を。
芸術家は、美を。
ただ大切なのは、自問を繰り返すこと。
「だから、それがどうしたの?」と。

あえて言うなら、その悩み、苦しむ過程こそが大切。
その過程を通して、いろいろなドラマが生まれ、それが人間の世界を、
豊かなものにする。

大切なことは、自分で考えること。
結局は、そこへ行き着く。

●荘子の思想

ついでながら、荘子の思想について……。

すべての欲望、さらには自分を束縛するすべての「知」から、自らを解放し、
自然の世界(道)で、自然に溶け込む※。
荘子が説いた「安心立命」を一言で説明すれば、そういうことになる。

が、皮肉なことに、現代文明は、自然を容赦なく破壊する。
自然に溶け込むどころか、自然に背を向けている。
すでに2500年前に、その重要性を説いた人がいたにもかかわらず、
それを今に生かすことさえできないでいる。

……となると、思想とはいったい何かということにもなってしまう。
科学というのは、絶え間なく、その前の科学に積み重ねられていく。
一方、思考というのは、絶え間なく、上書きされていく。
科学のような積み重ねがしにくい。
が、もし今、2500年前の老子や荘子の思想を進化させていたら、
地球温暖化の問題も起きなかったはず。
一方、科学だけが進歩し、自動車がひしめき、飛行機が飛び交うように
なったからこそ、地球の温暖化は進んでしまった。

が、このままもし人間が、「だから、それがどうしたの?」という部分を
置き去りにしたまま、科学の進化だけを独走させてしまったら……?

そのときは、本当に人類は滅亡の危機を迎えることになる。
思考力があれば、人類は生き残ることができる。
思考力を失えば、人類は滅亡する。
飛躍した結論に聞こえるかもしれないが、思考力だけが、人類の滅亡を救う、
ゆいいつの方法ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
科学 哲学 老子 荘子 無為自然 安心立命 思考力 思考のループ)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●1月10日(土曜日)

【老人心理】

+++++++++++++++++++++++

昨夜、こんな話を聞いた。
その家には、84歳になる女性がいるのだが、
他人の前では、弱々しく、やさしく思いやりの
ある人間を演ずるという。
そのため近所の人たちの間では、「仏様」と評されて
いるという。

たとえば孫(26歳)が、嫁(27歳)とひ孫(4歳)を
連れて正月に遊びに来たとする。
いつもならパクパクと夕食をすませるのに、そういうとき
にかぎって、遠慮深く、穏やかな表情でこう言うという。

「私はいらないから、H(=ひ孫)にやってくれ。
私は、食べたくない……」と。

いかにも病人、もしくは今にも死にそうな声で、そう言うという。
そのためその女性を直接世話(=介護)をしている女性(=娘、
64歳)は、こう言う。

「いやになっちゃう……。私が何も食べさせていないような
印象を、みなに与えてしまう」と。

++++++++++++++++++++++++

●4つのタイプ

他人と良好な人間関係が結べなくなると、独特の症状を
示すようになる。

(1)攻撃的に出るタイプ、(2)服従的になるタイプ、(3)依存的になるタイプ、
それに(4)同情を求めるタイプに分かれる。
それが老人になると、顕著に現れるようになる。
夜中じゅう、大声を出して暴れていた老人(男性、75歳くらい)もいた。
妻もいたが、介護に疲れて、二男の家に身を寄せてしまっていた。
しかたないので、長男の嫁にあたる女性(40歳くらい)が、介護をしていたが、
気苦労が重なったのだろう。
1、2年余りで、これ以上やせることはないと思われるほど、やせてしまった。
この老人のばあいは、(1)の攻撃的に出るタイプということになる。

が、この老人のばあいもそうだが、他人に対しては、まるで別人のように振舞って
いた。
つまり攻撃タイプであっても、他人に対しては、服従タイプになったり、依存タイプ
になったりする。
冒頭に書いた84歳の女性のばあいもそうである。

●部屋中、神札だらけ

それほど裕福な家庭ではない。
その女性の介護に当たっているのは、64歳の女性(娘)だが、夫とは死別。
現在は、会計事務所の事務員として生計を立てている。
が、その84歳の女性は美容院へ行くたびに、1万円のチップをはずんでいるという。

もちろん家計は火の車。
そこでその女性は、あちこちから、神札をもらってきては、部屋中にそれを
張りつけているという。
そこで64歳の女性(娘)が、そんなことをしても無意味と言うのだが、それを
言うと、84歳の女性(母親)は、烈火のごとく怒り出すという。

暴言を吐くなどということは、当たり前。
ときに「お前なんか、地獄へ落ちて死んでしまえ!」とさえ言うそうである。

●弱々しい老人(?)

似たような話は、いくらでもある。
こんな話も聞いたことがある。

あるときある女性(娘)のところへ電話がかかってきた。
受話器を取ると、電話口の向こうで、その女性の母親(75歳)が、やはり
今にも死にそうな声で、「助けてくれ」「歩けない」「何も食べていない」と言った
という。

が、その日は、何かの用事があって、その女性は実家(母の住むところ)には
行けなかった。
で、翌日、行ってみると、びっくり。
何とその母親が、スタスタと駅の構内を、友人といっしょに歩いているではないか。
その女性が、我が目を疑ったという。
で、母親に、「お母さん……」と声をかけると、その母親は一瞬、
「しまった!」というような表情をしてみせたという。

●ゆがんだ心理

残念ながらこの日本では、こうした老人心理の研究は、ほとんど進んでいない。
冒頭にあげた4つのタイプにしても、もとはといえば、発達心理学で使われている
分類法である。

しかし高齢になればなるほど、心はゆがむ。
思いつくまま、特徴をいくつかあげてみる。

(1)極端化…その人の性格や性質が極端化する。
(2)愚鈍化…脳の機能が衰え、言動が愚鈍かする。
(3)硬直化…融通性が消え、全般に頑固になる。
(4)悲観化…ものごとを悲観的に考えるようになる。
(5)貪欲化…食欲、性欲、物欲が増大する。
(6)依存化…強度な依存性が現れるようになる。

こうした全般的な症状にあわせて、精神的な病気や、認知症などの障害が
起これば、症状は、さらに複雑になる。

●対処段階論

こうした老人と接するとき、注意しなければならないことがある。
これは私自身の経験でもあるが、その第一は、まともに接しては
いけないということ。

息子や娘の立場で、段階的に考えてみよう。

(1)幻想期…「親である」という幻想を抱きつづける時期。親をことさら美化する。
(2)葛藤期…「そんなはずはない」と親に対する疑問と葛藤する時期。親の失敗を認め
ない。
(3)受諾期…葛藤することに疲れ、現実を受け入れるようになる時期。親を一人の人間
としてみるようになる。
(4)寛容期…1人の老人として認め、親に対して寛容になる時期。現実を受け入れ、老
人介護が、淡々とできるようになる。

たとえばある女性(当時60歳くらい)は、母親が車の中で失禁をしただけで、
パニック状態になってしまった。
自分の母親が、失禁するということ自体、受け入れがたかった。
それまでは「親は絶対」と考え、だれかがその母親を批判しただけで、それに
たいしてムキになって反論していた。

が、こうした葛藤を1、2年繰り返したあと、その女性は、ここでいう受諾期へと
入っていった。

●こわい反面教師

ここで「まともに接してはいけない」というのには理由がある。
まともに接すれば接するほど、その親の性格、性質を引きついでしまうということ。
そのときは反面教師として親を見るが、その親が亡くなったあと、今度はその
人自身が、親そっくりの人間になってしまう。

つまり反面教師にするならするで、それとは別のところで、別の人格を形成する。
その努力を怠ると、反面教師が目の前から消えたとたん、その反面教師そっくりの
人間になる。
そういう例は多い。

たとえばBさん(女性、当時60歳くらい)は、いつも母親の愚痴を言っていた。
母親は軽い脳こうそくを何度か経験したこともあって、善悪の判断ができなくなっていた。
それについて、Bさんは、母親のことを、「ずるい」「うそつき」「約束を守らない」と。

が、母親が15年近く前に亡くなった。
で、今度はBさん自身が、当時の母親の年齢に近づいてきた。
が、年齢とともに、ますます母親に似てきた。
今はBさんの息子や娘たちに、「お母さんはずるい」「うそつき」「約束を守らない」と
言われている。

老後の親は、接する側が、一歩退く。
「どうせ相手は老人」と思うことで、相手をのんでしまう。
あるいは幼児と同列に置く。
そしてあなたはあなたで、高邁な人格をみがく。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
老人心理 老人の心理 老齢心理 依存性 老人の依存性)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●私には理解不能

++++++++++++++++++++

日本をミサイルで脅しておいて、
「のこのこ来るのは、我々のミサイルが
怖いからだ」は、ない。

まず、毎日新聞の記事を読んでほしい。
そこにはこうある(1月10日)。

+++++++++以下、毎日新聞+++++++++++

「日本が6カ国協議にのこのこ来るのは、我々のミサイルが怖いからだ」。北京で昨年12
月に開かれた6カ国協議で、K国首席代表のKK外務次官が、厳しい核計画の検証を求め
る日本へのいら立ちを強め、さまざまな非難を繰り返していたことが分かった。

+++++++++以上、毎日新聞+++++++++++

記事の内容はともかくも、あの国は、どうしてこうまで、いじけているのだろう。
おもしろくない気持ちは、ヨ〜ク、わかる。
世界の最貧国と評され、やることなすこと、すべて失敗。
産業も工業も、壊滅状態。
が、虚栄心だけは、やたらと強い。
(自尊心というよりは、この段階にくると、もう、虚栄心。)
恐らく自分たちが何を考えているのかさえ、わかっていないのだろう。
もちろん自分たちが、どういう立場にあるのかさえも、わかっていない。

日本としては、あんな国、相手にしたくない。
相手にもならない。
できれば日本のことなど忘れて、自分たちで自分の道を進んでほしい。
あるいは素直に、「助けてください」とでも言えば、まだ話もわかる。
が、エネルギー支援について、こうも言っている※。

『日本の負担分を豪州などが肩代わりする案を取り上げて「他国の代理負担に反対しない
日本は恥知らずで無責任だ」などと声を荒らげたという』(同紙)と。

恥知らず?
フ〜〜〜ン。
恥知らず、ね?
が、本当の恥知らずは、どちらなのか?
ここまでいじけてくると、日本としてもどう対応したらよいか、わからない。

しかし本当の問題は、どうしてこうまでいじけているのかということ。
(理解する)といっても、(理解できること)には、幅がある。
その幅を超えると、理解できなくなってしまう。
今のK国は、その(幅)を超えている。

K国がまともな国なら、ミサイルをもっても、こわくない。
まともでないから、こわい。
だからみなが、なだめすかして、何とかしてやろうと考えている。
が、当の本人は、それがわかっていない。
わかっていないばかりか、自分たちは、アメリカ、中国、ロシアと対等と思っている。
どうして日本が、世界が、K国を援助しなければならないのか。
日本ではそういう国のことを、「おめでたい国」という。
K国には、そういう言葉はないのだろうか?

ついでに「恥知らず」について一言。
私たち日本人は、K国のような国のエネルギー支援ができないことを、
恥ずかしいことだとは思っていない。
だいたい、だれに対して、何を恥じるのか。
何か、ピンボケ写真でも見ているかのような錯覚にとらわれる。

で、この記事でひとつだけ気になることがある。
つづく、つぎの部分を慎重に読んでみてほしい。
こうある。

『協議関係者は「K国は検証問題で米国が譲歩しない背後に日本の圧力があると考え、あ
らゆる理屈を動員して日本を排除しようとしている」と指摘している』(同紙)と。

わかるかな?
「アメリカが譲歩しない背後には、日本の圧力ある」と。
K国の代表はそう思っているというのだ。

事実、そのとおりかもしれない。
そうでないのかもしれない。
それはともかくも、だれが、それをK国の代表に伝えたか、である。
毎日新聞によれば、「ヒルとの個別接触の結果」とも、読み取れる。
つまりここでも、あのヒルは、日本を裏切っている。
恐らく個別接触では、ヒルは、こう言っていたにちがいない。

「日本がうるさくてねえ……。私も困っているんですよ。
アメリカとしては、核拡散だけを、お宅に守ってもらえれば、それで
いいのですが……。
日本をなだめるためにも、サンプル採取を認めていただけませんか」と。

その結果が、「のこのこ」となり、「恥知らず」となった。
けっして私の妄想ではない。
以前にも、そういう例がある。

アメリカがK国をテロリスト指定国家を解除するときも、同じような
動きがあった。
あのときもヒルは、日本に拉致問題を一時棚上げにした上、K国の支援に
加わるようにと、日本に迫った。
しかもそれに応じなければ、テロリスト指定国家を解除すると日本を脅し、
日本がそれに応じないとわかると、本当に指定国家を解除してしまった。

結果としてみると、この5年間、ヒルが拉致問題を取り上げた形跡はゼロ。
もちろん成果も、ゼロ。

ちがうかな?

(注※……)『「日本が6カ国協議にのこのこ来るのは、我々のミサイルが怖いからだ」。北
京で昨年12月に開かれた6カ国協議で、北朝鮮首席代表の金桂冠(キムゲグァン)外務
次官が、厳しい核計画の検証を求める日本へのいら立ちを強め、さまざまな非難を繰り返
していたことが分かった。

 同協議は12月8〜11日に首席代表会合が開かれ、2国間接触を交えて核検証方法の
文書化を目指した。

 複数の協議関係者によると、これらの席上で金次官は経済・エネルギー支援の早期履行
を主張。日本の負担分を豪州などが肩代わりする案を取り上げて「他国の代理負担に反対
しない日本は恥知らずで無責任だ」などと声を荒らげたという。

 さらに、米首席代表のヒル米国務次官補との個別接触では、日本との対話を促されたの
に対し、「日本は繰り返しわが国との対話を要求しているが、その理由は何か知っている
か? わが国のミサイルが怖いからだ」と説明したという。

 今回の協議では、議長国・中国が日米の意見を盛り込んだ文書化草案を提示したが、北
朝鮮は「こんな内容なら本国に報告しない」と一切の論議を拒否。これに先立つシンガポ
ールの米朝接触でも米国側の説明を全く聞き入れなかったという。

 協議関係者は「北朝鮮は検証問題で米国が譲歩しない背後に日本の圧力があると考え、
あらゆる理屈を動員して日本を排除しようとしている」と指摘している』(以上、毎日新聞)。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●中国の国家主席?

+++++++++++++++

数日前、食事をしながら、ワイフが
ふとこう言った。
「中国の国家主席って、だれ?」と。

私は即座に答えられなかった。
「エ〜、だれだったけ?」と。

+++++++++++++++

毎日新聞を読んでいる。
ニュースサイトにも目を通している。
しかし中国の国家主席の名前がわからなかった。

ショックだった!

たしかに私の脳みそは、老化している。
ひょっとしたら認知症になりつつあるのかもしれない。
心配が、ムラムラと心を包んだ。

で、こういうときは、(アイウエオ……)順に思い出すようにしている。
カのところで、「カ・コク・ホウ?」。
コのところで、「コ・キン・トウ?」。
「コ・ヨウ・ホウ?」。
勝手な名前が、つぎつぎと出てくる。

ついでにフィリッピンの大統領の名前や、マレーシアの首相の名前も、
思い浮かんでくる。
しかし肝心の中国の国家主席の名前が出てこない……!

そこで今、インターネットを使って調べてみる。

ウィキペディア百科事典には、こうある。
国家主席……胡錦涛(コキントウ)
国務院総理……温家宝(オンカホウ)

記憶というのは、(記銘)→(保持)→(想起)というプロセスを経て、
記憶として残り、思い出すことができる。
中国の国家主席のばあいは、しっかりと記銘していなかった。
ニュースなども適当に読んで、そのままにしておいた。
そこで今、改めて、記銘。

コキントウ、コキントウ……、
オンカホウ、オンカホウ……、と。

コツは、一度、声に出してみるということ。
文字を見ただけでは、記銘力は弱い(?)。

しかし脳みそには、キャパシティ(容量)というものがある。
今ここで、2人の名前を記憶したら、どこかで、別の記憶が消えていくのではないか?
そうでなくても、毎日、約10万個という脳細胞が死滅している。
(20歳を過ぎたら、毎日だぞ!)
私の年齢になったら、もっと多いかもしれない。

どうであるにせよ、放っておいてもよくない。
キャパシティはあるかもしれないが、どんどんと覚えていくしかない。
コキントウ、オンカホウ……、と。

ついでにフィリッピンは、グロリア・マカパガル・アロヨ、
マレーシアは、国王が、ミザン・ザイナル・アビディン、首相が、アブドゥラ・
ビン・アフマッド・バダウィ。

ゾーッ!

「アロヨ」と「バダウィ」という名前だけで、勘弁してもらう。

Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●人間性

+++++++++++++++++

私は正直に書くが、結婚してこのかた、
ごく最近まで、ワイフのバッグの中に
手を入れたことがない。
「最近」というのは、小銭が必要に
なったとき、ワイフのバッグから
財布を取り出したことをいう。

それでも抵抗を感ずる。
しかし世の中には、他人のバッグでも、
そういうことが平気でできる人がいる。

+++++++++++++++++

●無断でバッグを使用

こんな話を、その女性から聞いた。
その女性が、何かのことで家をあけた。
帰ってきてみると、机の上に置いたバッグの位置がずれているのに気がついた。
そこで中を見ると、ものの入れ方が、それ以前とはちがっていた。

そこで夫の母親、つまり姑(しゅうとめ)に、「バッグをどうかしましたか?」と
聞くと、夫の母親は、平然とこう言ってのけたという。

「いいバッグだったから、今日、買い物に行くとき、貸してもらいました」と。

つまり夫の母親は、その女性の部屋に無断で入り、バッグの中身を一度抜いたあと、
それを買い物に使ったというのだ。
そしてその女性が帰ってくる前に、元通りに(?)にして、机の上に置いた。

その女性はこう言った。

「そういうことが平気でできる人というのは、そうはいないと思います」と。

が、一事が万事、万事が一事。
夫の母親は、日常的にそういうことをしているという。
ウソは平気でつく。
約束なんてものは、あってないようなもの。
見栄っぱりで、世間体を気にする。

しかしそういう人の末路は、あわれ。
やがてだれからも相手にされなくなる。
現に今、嫁であるその女性にすら、あきられている。

「そういう人もいるんだなあ」と思ったところで、何と返事してよいか
私はわからなくなってしまった。

そこで決意。
大げさかな?

これからは、たとえ小銭が必要なときでも、ワイフのバッグには手を入れないぞ!


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【団塊世代(1947〜49年生まれ)】

●約677万人!

『……団塊の世代と言われる1947〜49年生まれの人は、06年10月現在、約67
7万人。人口の約5・3%を占める大きな集団だ。青春時代に学生運動を経験した彼らは、
それまでの日本人とは違う意識を持っていると言われる。会社から離れた後の自由な活動
が期待されていた。しかし、どうやら期待はずれ。

(中略)

 総務省労働力調査によると、08年11月現在、60〜64歳男性の就業率は73・6%。
老齢厚生年金の支給開始年齢が段階的に引き上げられることもあり、07年以降も会社で
働いているのだ』(読売新聞・1・9)

++++++++++++++++++++

団塊世代……約677万人
人口の5・3%
60〜64歳の就業率……73・6%

++++++++++++++++++++

●1947年生まれ

++++++++++++++++

団塊の世代は、総じてみれば、たくましい。
家の中では、ほったらかし。
学校では、イワシの缶詰。
「1クラス55人」と言っても、今の若い人たちには、ピンとこないだろう。
私が受験した、金沢大学法学科にしても、入試倍率は、8・9倍。
たくましさの(原点)そのものがちがう。

++++++++++++++++

誤解があるといけないので書いておくが、「学生運動」イコール「共産活動」ではない。
当時を振り返ってみて、ごく一部のリーダーを除いて、主義主張があって学生運動に
参加した者など、ほとんどいない。
「お祭り騒ぎ」とまでは言わないにしても、私たちはみな、それまでの呪縛感からの
解放をめざした。
何かわからなかったが、体中をがんじがらめにしている無数のクサリをはずしたかった。
それが学生運動だった。

だからおかしなことに聞こえるかもしれないが、私の同窓生にしても、そのあと、
共産党員(社会党員でもよいが)になった仲間は、一人もいない。
みな、就職先として、銀行や証券会社、役所や大企業を選んでいった。
またそれぞれの世界で、企業戦士ともてはやされ、その後の高度経済成長を、裏から
支えた。

たしかに私たちの意識はちがう。
どうちがうかは、説明のしようがないが、反対に、今の若い人たちを見ていると、
情けないほど、ひ弱に見える。
だらしなく、頼りなく見える。
こんな状態で、たとえばK国からミサイルでも飛んできたら、どうするのかとさえ
心配になる。
だいたい、今の若い人たちは、天下国家を論じない。
小さな世界で、こぢんまりと生きている。

が、その一方で、私たち団塊の世代には、どくとくの悲劇性がある。
「上に取られ、下に取られ、今は貧乏盛り」。
わかるか?

上、つまり親に金を取られ、下、つまり子どもに金を取られ、貯金など、ほとんどない。
だから働くしかない。
それが冒頭にあげた、「60〜64歳の就業率……73・6%」という数字である。
つまり私たちは、働くしかない。
むしろ「遊ぶ」ということに、罪悪感すら覚える。
いわんや悠々自適の老後生活など、どう考えたら、頭の中に浮かんでくるのか。

ところで少し前、(2007年問題)が、話題になった。
団塊の世代が大量に退職し始める2007年は、危機的な年になる、と。
しかし現実には、それは起きなかった。
そこで今度は、(2007+5=2012年問題)が話題になりつつある。
しかし私の印象では、2012年問題も、起きないだろう。
本当に問題になるのは、私たちが70歳になったとき。
いくら働きたくても、体そのものがもたない。
だから本当の問題は、2017年にやってくる。

が、悲劇はここから。
そのころになると、満65歳以上の高齢者が、人口の約3分の1になる。
そうなったとき、今度は、容赦なく、ジジ捨て、ババ捨てが始まる。
団塊の世代は、日本のゴミと化し、容赦なく(殺される)。
すでに今、その年齢になると、「天命ですから……」「高齢ですから……」「寿命ですから
……」と、病院でも治療を拒否されるケースがふえている。
数日前も、こんな話を聞いた。

その人の母親(現在、85歳)が、慢性の膀胱炎で苦しんでいる。
排尿のたびに、激痛と闘っている。
そこでその人が病院のドクターとかけあうと、そのドクターはこう言ったという。

「ご高齢ですから……」と。

高齢で慢性化しているから、それを治療する薬もない、と。
これから先、そうした年齢が引き下げられることはあっても、引き上げられることは
ぜったいにない。

だから……。
自分の体は、自分で守る。
健康は、自分で維持する。
少しでも働けるようなら、働く。
死ぬまで働く。

つまりこうした(たくましさ)こそが、私たち団塊の世代の特徴ということになる。
以前書いた、「団塊ブルース」を、紹介する。

++++++++++++++++

●団塊ブルース(Young Old men's Blues)

We, those who were born just after the War are now retiring from our jobs. We have 
been the people who worked for the companies or organizations, in most cases 
sacrificing ourselves. Before the War young people were educated to be obedient soldiers 
but after the War we were educated to be also obedient workers who work for the 
companies and organizations.

Meanwhile we could experience this dynamic change of our country, from the bottom of 
poverty to one of the countries of highest standard. But at the same time we have many 
thing that we have lost. Some people say that "What was my life?", when they are fired 
and retire from the companies.

This is the story about this;

++++++++++++++++

戦前の「国のため」が、戦後は、「会社のため」となった。
それもそのはず。敗戦で日本は大きく変わったが、
ときの文部省だけは、変わらなかった。敗戦と
同時に、クビになった官僚は、ひとりもいない。
制度も、そっくりそのまま残された。

私たちは、戦前とそれほどちがわない教育を、そのまま
受けた。もっと言えば、明治以来の、富国強兵をめざした、
あの教育をそのまま受けた。

結果として、私たちは、当時の私たちになった。
私たち団塊の世代、それにつづく戦後派の人たちは、
何らためらうことなく、企業戦士となっていった。

それは恐ろしいほどの忠誠心であった。
たとえば私が勤めたことがある、M物産という
会社では、当時は、6か月以内の海外出張は、
「短期出張」と呼ばれ、単身赴任が原則だった。

今のようにリッチな時代ではなかった。一度海外に
赴任すれば、最低でも、6か月は、日本に帰って
来られなかった。

が、その単身赴任には、単身赴任のハシゴというの
があった。任地先から、さらに別のところに単身赴任
するということも珍しくなった。中には、こうした
単身赴任のハシゴで、2年近くも、日本を離れて
いた人もいた。私の直接の上司だった、K氏もそうである。

その団塊の世代、それにつづく戦後派の人たちが、
今、つぎつぎと職場を離れている。民間会社だと、
50歳を過ぎるころから、肩たたきが始まる。子会社へ
移動できる人は、まだラッキーなほう。たいていは、
そのまま会社の外へ、放り出された。

で、そのとき、ほとんどの人は、こう気がつく。
「今までの私の人生は、何だったのか?」と。

会社人間の悲しさ。会社を離れれば、存在価値
そのものがない。その世界ではエキスパート
だったかもしれないが、それは社会全体からみると、
小さな、どこまでも小さな特殊分野でしかない。

つぶしがきくとか、応用がきくということは、
まず、ない。

それまで頭をさげていた人まで、顔をそむけるように
なる。それもそのはず。まわりの人たちは、その人
に、頭をさげていたのではない。その人が
もつ肩書き、あるいはその背後にある会社という
組織に頭をさげていた。

退職と同時に、それに気がつく。と、同時に、深い後悔と、
反省の念に包まれる。

「これからオレは、何をすればいいのか?」と。

+++++++++++++++++++++++

●1クラス、55人

 私たちの時代には、1クラス55人が、当たり前だった(中学時代)。「すし詰め教育」
とよく呼ばれた。が、すしでも、あそこまでは詰めない。しかしそうした教育に疑問をい
だく子どもは、いなかった。疑問をいだく親も、いなかった。

 で、あの時代を振り返ってみて、そうした過密教育の弊害は何だったのかと問われると、
それがよくわからない。私は私であり、私たちは、私たちであった。しかしたしかに弊害
はあった。あったはずである。その結果が、今である。

 私たちは社会人になると、何も疑わず、サラリーマンの道を選んだ。今でこそ、「ベンチ
ャー企業」などという言葉があるが、当時、ベンチャー企業のようなものを考える学生は、
まずいなかった。サラリーマンになること。それが第一。しかも都会の大企業ほど、「出世
組」と考えられていた。

●作られた意識

 つまり弊害の第一は、ここにある。こうした意識こそが、あの時代の、あの流れの中で
つくられた意識でしかなかった。しかしそれは「今」という、あとになってわかったこと。
当時の私たちの中で、それに気づいていた人は、いったい、どれだけいただろうか。

 そして結果として、私たちは、会社に貢献し、日本という国の繁栄に貢献した。「貢献し
た」という意識は、ほとんどないかもしれないが、今に見るこの繁栄は、その結果である
ことには、まちがいない。

 もちろん悪い面ばかりではない。日本のみならず、世界の歴史の中でも、生涯にわたっ
て戦争を経験しなかった世代というのは、そうはない。日本だけを見ても、明治以来、日
本は、常に他国との戦争を繰り返してきた。

 それに戦後直後はともかくも、私たちの世代ほど、ダイナミックな変化を経験した世代
もない。日本は、どん底の貧乏国にから、世界でもトップクラスの先進国へと躍り出た。
そんな日本を直接、経験することができた。

●一(社)懸命

 が、同時に、失ったものも多い。「私の人生」というときの、「私」を失った。たいした
冒険もせず、たいした夢も果たせず、たいした結果も出せず、家と会社を往復した。「仕事
のため」と、家族を犠牲にした人も多い。犠牲にしているという意識もないまま、犠牲に
した。家庭を預かる妻にしても、自分が犠牲になっているなどとは思わなかった。

 M物産に話にもどるが、夫が単身赴任で外地へ赴くとき、家族は、みな、あの伊丹空港
(大阪)で夫を見送った。私も、数度、そういう現場に立たされたことがある。そのとき
のこと。「がんばってくるからなあ。あとのことは頼むぞ」と言って夫は、飛行機に乗り込
んだ。「がんばってきてね。うちのことは、心配しないでね」と言って、妻はそれに手を振
った。中に、「お国のため」という言葉を使った人もいたように思う。「会社のため」とい
う言葉だったかもしれない。

 その姿は、まさに、戦前のあの様子を想像させるものだった。戦地におもむく夫。それ
を送る妻。「国」と「会社」のちがいこそあったが、中身は、そのまま。つまり私たちの意
識は、何も変わらなかった。

 それがあの時代の、「弊害」だったということになる。

 が、これについても、それに気づいた人は、少ない。私たちは、それがあるべき道と信
じて、その流れに従った。

 しかし、だ。改めて、問う。私たちの人生は、何だったのか、と。

●自由に生きる

 実際、こんな人がいる。私の友人のT氏・・・「T氏」と書いたのでは、ウソと思われる。
だから、実名を書く。高橋Y氏である。その高橋Y氏の義兄(妻の兄)は、50歳前後で
退職。そのあと単身、マレーシアに渡り、そこでヨットを購入。そのヨットで世界を数周
した。

 以前、その男性について、「今ごろは、フランス人の女性と、インド洋を航海中」と書い
た。高橋Y氏から聞いた話を、そのまま書いた。

 で、今は、タイに向かっているという。タイには、以前買った土地があるそうだ。そこ
にそのまま永住するつもりらしい。この話は、つい先日の、07年12月9日に聞いた話
である。興味がある人がいたら、その男性を紹介してもよい。

 つまり世の中には、そういう人生を、あたかも自由に空を舞う鳥のように送っている人
がいる。そういう人生と比べると、「私の人生は、何だったのか」となる。「まじめ」と言
えば、聞こえはよいが、中身は、ただの「歯車」。
 
 そういう「歯車」に仕立てられながら、仕立てられたという意識すら、ない。ないから、
その弊害に気づくこともない。カルトにハマっている信者が、自分をおかしいと思わない
のと同じ理由で、そういう自分がおかしいとは、思わない。

●「これからは自分のしたいことをするよ」

 先日も、学生時代からの友人のZ君は、こう言った。つい先月、定年で、会社を退職し
た。いわく、「これからは自分のしたいことをするよ」と。

 その言葉の中に、私たち団塊の世代、そしてそれにつづく戦後生まれの人たちの悲しみ、
わびしさ、むなしさが、集約されている。心理学的に言えば、(自己概念)と(現実自己)
を一致させることもできず、悶々とした気持ちで、一生を終えた。自己の同一性の確立さ
えままならなかった。

 その不完全燃焼感には、相当なものがある。割と自由に生きてきた私ですら、その不完
全燃焼感とは、無縁ではない。「何かができたはず」「何かやりのこした」「何かをしたかっ
た」と、ふと我にかえったとき、そう思う。

 が、「これでいいのか?」と叫んだところで、この話は、おしまい。いまさら、どうしよ
うもない。いくら後悔しても、また反省しても、人生は、もどってこない。ただこれから
は、ちがう。これからは、そうであってはいけない。残りの人生がそこにあるなら、それ
に自分をかける。燃やせるものがあれば、それを燃やす。

 ・・・しかし、実のところ、私たちは、そのキバさえ抜かれてしまっている。あのすし
詰め教育の中で、もの言わぬ従順な民に、育てられてしまっている。いまさらキバをむけ
と言われても、そのむきかたすら、わからない。結局は、死ぬまで、まじめ(?)に生き
ていくしかないのか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 団塊世代ブルース ブルー
ス 団塊世代 2007年問題 2012年問題 金沢大学法文学部 法学科 学生運動
団塊ブルース)

+++++++++++++++++

ところで読売新聞は、こんなことも書いている。
何でも退職した団塊の世代に、ボランティア活動を期待していたというが、それが不発に
終わったという。

『「2007年問題」と騒がれた団塊の世代の定年退職。自由になる男たちに、NPOはボ
ランティアとしての活躍を期待し、過疎に悩む自治体は田舎暮らしを呼びかけた。だが、
今、「期待はずれ」の声もあがっている。彼らは今、どこに?

 東京・世田谷区と地元町会などで作る団体「せたがや生涯現役ネットワーク」は、団塊
の世代の地域回帰を促そうと07年に発足した。だが、「予想より反応は少ない」と頭を悩
ませる。地元NPOや町会などの活動が体験できる「地域デビュー」の講座は、年々参加
者が減少。60歳代後半から70歳代が多く、団塊の世代は少ないという』(同、読売新聞)。

バカめ!
私たち団塊の世代をバカにするにも、ほどがある。
何がボランティア活動だ!
バカヤロー!

これについても、以前、つぎのような記事を書いたことがある。
書いた日付は、2007年の1月。
ちょうど2007年問題が話題になっていたころである。

+++++++++++++++++

●団塊世代よ、ボランティアへ!、だってエ!!

++++++++++++++++++++++

今度、浜松市の社会福祉協議会が、団塊の世代を
対象にした、『ボランティア登録制度』を創設した。

しかし、最初に、一言!

何がボランティアだア!

バカにするな!

ボランティアと言えば、聞こえはよいが、
中身は、「ただ働き」。要するに、「団塊世代よ、
ヒマがあったら、ただ働きせよ!」ということ!

私たちが求めているのは、職場だ。きちんと給料の
もらえる職場だ。

バカにするにも、ほどがある。どうせ公務員の若造
たちが創設した制度なのだろう。
が、創設すべきは、職場だ。わかるか? 
職場だ!

自分たちは、満額の退職金と、年金、それに天下り先を
しっかりと確保しておきながら、私たちに向かっては、
「ただで働け!」と。

久々に、私は怒ったぞ!

++++++++++++++++++++++

 新聞記事には、「団塊世代よ、ボランティアへ!」という見出しのあと、こうある(中日
新聞)。

 「団塊の世代、待っています。2007年度から、大幅に定年退職を迎える団塊世代。
彼らの能力や技術を生かしてもらおうと、浜松市社会福祉協議会(市社協)は、シニア世
代に的をしぼった、ボランティア登録制度を開設した。

 福祉施設や特定非営利法人(NPO法人)などの需要を掘り起こし、登録者としての橋
渡しをする。

(中略)

 登録時には各自の得意分野を記録する。市社協の担当者は、『たとえばおもちゃの修理や
福祉施設の庭木手入れ、NPO法人の事務などに、これまでのスキルを生かしてほしい』
という。障害者の手がける農場の手伝いなど、活躍の場は豊富にあると考える。

 市民活動を支援している県西部地域交流プラザPは、『パソコン関連から、会計、労務、
運転手、介助、お年寄りの話し相手まで、NPO法人などの活動を手伝う人材は、慢性的
に不足している』と話す」と。

 何が、おもちゃの修理だ!
 何が、福祉施設の庭木の手入れだ!
 何が、農場の手伝いだ!
 何が、お年寄りの話し相手だ!

 バカにするにも、ほどがある。

 もしすべきことがあるとするなら、自分たちが独占している天下り先を、民間に平等に
分配すべきだ。わかるか? たとえば図書館の館長なら館長でもよい。そういう人材は、
公募で、みなで決めればよい。

 団塊の世代だから、ただで働けだと! いいか、私の周辺にも、元公務員という人たち
が、たくさん住んでいる。中には、地域の活動のために、忙しく働いている人もいる。し
かしそういう人は、少数。

 たいはんは、道路わきのゴミひとつ拾ったことがない。高額な年金を手にして、悠々自
適な老後生活。もし「ただで働け」というのなら、まず、そういう人たちが、率先して、
見本を見せてくれたらよい。

 団塊の世代、とくに私のように、国民年金しかアテにできない人間は、死ぬまで働くし
かない。ボランティア活動などという優雅な道楽をしているヒマはない。もし市の役人が
用意してくれるというのなら、職場だ。きちんとした給料のもらえる職場だ。

 わかるか?

 わからないだろうな?

 30代、40代の若造から見れば、60歳の人間は、どうせ役立たずのジジイに見える
かもしれない。が、それはまちがい。かつてあのバーナード・ショーは、こう言った。『若
者から老人をみると、老人はみな、バカに見えるかもしれない。しかし老人から若者をみ
ると、若者はみな、バカにみえる』と。

 どうせ公務員の若造たちが、額をこすりあわせて創設した制度なのだろうが、これほど、
人をバカにした話もない。久々に、私は、怒ったぞ!

 私は、昭和22年生まれ。団塊の世代、第1号だ!

 わかったかア!


【付記】

 この記事に対して、Bさんという方より、反論のコメントが届いた。それをそのまま紹
介する。

++++++++++++++++++++++++

【Bさんより、はやし浩司へ】

先生、こんばんは♪

きょう、団塊世代にボランティアを と言う記事が載っていたという日記を見て、
メールしています。

話の争点が違うところに行ってしまうかと思いますが、
いくつか私のボランティアの経験をお話させてください。

もとをただせば ボランティアをしたいと思い始めたきっかけは、
私が学生時代に、ブリスベンのあるお宅にホームステイしていたことから始まります。
んもうぅっ…ほんっとうに素敵なご夫婦で、
私の人生観は21歳にして 衝撃的な変化を遂げました。(おおげさかな?ちょっと。)

とにかく彼らのホスピタリティーと言えば、
何を持ってお返しができるのか 全く想像がつかぬほど、
私を娘として 今も愛し続けてくれています。

私はいつか 自分もホストマザーになりたいと思うようになりました。
けれど今はまだ時期が早い。提供できるお部屋もご用意できない。
何か別の手段で この感謝の気持ちを pay forward したかったのです。

ずっとそんな思いを抱き続けていた頃 新聞に静岡県主催の語学ボランティアの
募集の記事を見つけ、思い切って面接を受け、合格し、無事登録の運びとなりました。
当時の私は IT関連の仕事をしていたので 英語を話す行為から少し遠ざかっていたこ
ともあり、

私でお役に立てるのであれば ぜひ 私のホストペアレンツへの お礼の気持ちの形とし
て、何かできることからスタートしたかった。

そして外国人学生のための浜松市内の観光地ガイドの翻訳や、
市内で開かれる外国人の集まる大規模な会議などのアテンド、
静岡市で開かれるお茶に関する資料の翻訳 など、
ときには締め切りに追われながら、それでも受けたことは責任をもってと、
真面目に取り組んできたつもりです。

日本でのボランティアは 無給という考え方がごく一般的で、
でも私は お金をもらうかどうかということよりも、
そんなイベントにほんの少しでも関わって、
私の訳した文章を読んでくださり理解を深めてくださった方、
私のご案内で楽しい時間を過ごしていただいた方、
勿論その場に応じて日本人の方にも対応はしますが、
いずれにせよ、自分のできることが社会で微々なれども役に立っていることの
充実感で、満たされていました。

それに ボランティアスタッフとして出会った方々との交流も
とても楽しく、もう10年近くのお付き合いをさせていただいて
本当に感謝でいっぱいの気持ちです

5年前に行われたエコパスタジアムでの日韓共催FIFAワールドカップ2002の
ボランティアスタッフとしても活動することできました。

県の語学ボランティアの募集のターゲットとして、
ワールドカップへの人材確保ということも大きく取り上げられてはいました。
しかし私は お恥ずかしながら、サッカーに関する知識は非常に乏しく、
国内リーグの選手の方のお名前も数名しか知らないほどでした。

それがサッカーであれ、オペラであれ、緑茶に関する討論会であれ、
私のできることが 海外から日本:浜松に来てくださる方への御礼になれば
それでいいという ただそれだけの気持ちです。

ワールドカップでは これまた予想外にもVIPシートのお客様の通訳、ご案内を
担当することになりました。日本人でよくテレビに映ってるスポーツ選手、解説員など
わずかな方々なら、名前とお顔が一致はしましたが、
国外の王室の方々や、選手のご家族や、国内リーグの監督や、まったくわからない。

失礼なことかもしれませんが、VIPにどんなお客様がみえるかという詳しい情報は、
私たちボランティアには知らされていませんでした。仮に教えていただいたとして、
私にはわからない...。 どの方も皆さん 海外から日本へ訪問してくれた方たち。
楽しいひと時のお手伝いができればそれでいいという気持ちで取り組んでいました。

実際活動はとても楽しかったです。

この活動も他に漏れず無給の活動でした。

でも この活動で出会った仲間たちとはいまでも
静岡スタジアムエコパで催される様々なイベントでボランティアをしよう、という
団体を作っていて 私も時間が許されれば参加しています。
年齢は様々。 私のような主婦層はちょうど真ん中くらいで
大学生もいれば 私の父(65)ほどの年齢の方、
この方々を団塊の世代と言うのでしょうか?
そういう方も、大勢いらっしゃいます。

ボランティアで必ずしも英語が役に立つ場面ばかりとは言えません。
でもまれに、「誰か英語の話せる方〜〜」と呼ばれて、お役に立てたとき、
その外国人の方の安心したお顔、Thanks a lot のお言葉と握手。
それだけで私は じゅうぶん幸福な気持ちを味わうことができます。

いうまでもありませんが 勿論日本人のお客様のお手伝いができたときも
嬉しく思っています。

無給で働かされて...というpoint of view では 味わうことのできない、
かけがえのない感謝の気持ちを味わうことができます。

もし私のしていることを、たとえば仕事としてやってください
という依頼がきたとしても
それはとてもありがたいことですが、今までのような純粋に恩返しをしていきたいという
気持ちとは 少し離れてしまうように思います。

先生もご存知の通り、残念ながら、私の家庭は決して裕福ではありません。
けれど一つ一つの活動やworkを終えた後の達成感は、仕事で味わうものとは、
全く異なるものだと思います。

確かに仕事内容を把握できていない職員の方から、いい加減な説明をされたときは
私も厳しく追及して、ボランティアだからと言っていい加減な応対をするつもりはないと
はっきりお伝えして、活動自体を辞退したこともありました。

主催者側が、「応対しているのはボランティアなのです。無給なのです。」といえば、
ちょっとした美談と責任逃れをすることができるのも否定できないことかもしれません。

けれど私はボランティアを続けます。
私が受ける心の恩恵と充実感があまりにも大きいからです。
ただそれだけのことです。

いつか私がホストマザーになったとき、私のホストペアレンツへ報告したら
きっときっと喜んでくれるに違いありません。
息子(年長児)も ちょっと違った体験ができて いいことなんじゃないかな? と
思っています。

いつもながら長文失礼いたしました
このような駄文でも ご参考になることがあれば掲載していただくことがあれば勿論かま
いません。


【Bさんへ、はやし浩司より】

こんばんは!

うむむむ……。

なるほどっていう感じです。

でも、私はボランティア活動を否定しているのでは
ありません。

団塊の世代=無料で利用できる世代という発想に
反発しているのです。

どうか、どうか、誤解のないように!!!

人は無給で働いてこそ、つまり損得の計算を忘れて
働いてこそ、仕事の醍醐味を味わうことができます。

よくわかっています。

それと、この問題は、別ですね。

誤解のないように!

日本では、役人たちが、日本をリードしていると
思い上がっています。それが気に入らないのです。

官僚制度そのものに腹がたつのです。どういうわけか……。

メール、ありがとうございました。

プライベートな部分を割愛させていただき、
マガジンに掲載させてください。

字句は、マガジン用に統一させていただきますが、それは
お許しくださいね。

では、

おやすみなさい!

はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ボランティア活動 ボランティア登録 ボランティア活動登録制度)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●不愉快な発明品

++++++++++++++++

もっとも不愉快な発明品(?)は、
カラオケだそうだ※。

(1)カラオケ……22%
(2)24時間スポーツチャンネル……17%
(3)テレビゲーム機……12%
(4)携帯電話……11%
(5)目覚まし時計……7%

++++++++++++++++

イギリス政府が、約2500人の大人を対象に行ったアンケートによれば、
もっとも不愉快な発明品は、カラオケ(22%)であったという。

「なるほど」と思ったり、「そうかなあ」と思ったりする。
私は歌を歌うのは好き。
よく歌う。
若いころは、カラオケセットを購入したこともある。
だが、カラオケで使われる曲と、私の好きな曲が、合わない。
それでも……と思って、何曲か練習したこともある。
が、長つづきしなかった。
いつの間にか、カラオケから遠ざかってしまった。

一方、カラオケでへたくそな歌を聞かされることくらい、不愉快なことはない。
その上、よく歌われる曲が、演歌や流行歌であったりする。
「男の道」とか、「女の道」。
酒、夜、涙……。
そういうテーマは、私の肌に合わない。

しかし好きな人は好き。
マイクをもったら、離さないという人も多い。
つまり、人それぞれ。

なお最後の「目ざまし時計……7%」というのは、おもしろい。
実にイギリス人らしい。

ハハハと笑って、この話はおしまい。

(注※)『最も不快な発明品は1位カラオケ、2位は24時間スポーツチャンネル−。英政
府が約2500人の大人を対象に行ったアンケートでこんな結果が浮かび上がった。英各
紙が8日報じた。

 それによると、(1)カラオケ22%(2)24時間スポーツチャンネル17%(3)テ
レビゲーム機12%(4)携帯電話11%(5)目覚まし時計7%−の順になっている。

 インディペンデント紙はカラオケの発明者として日本の井上大佑さん(68)を紹介し、
もし特許を申請していれば1億5000万ドル(136億円)を稼いでいたと指摘した。

 英国では仲間内で楽しめる個室型のカラオケボックスもあるが、ビールを飲みながら会
話を楽しむパブにカラオケが設置されているケースが目立つ。「楽しいのは歌っている人だ
け。周りの人にとっては苦痛」という声が多かった。その一方で「カラオケは埋もれた歌
の才能を発掘した」と評価する声もあった』(以上、産経新聞・1・9)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
カラオケ Karaoke 不愉快な発明品)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●増える外貨

+++++++++++++++++

またまた日本が保有する外貨準備高がふえた。
その額、1兆306億ドル!

よく外貨準備高を貯金にたとえ、増えれば
増えるほど、それでよいと考える人がいる。
国が豊かになったと喜ぶ人がいる。
しかしこれは誤解。
まったくの誤解。

たしかに貧しい時代には、そうだった。
とくに日本が高度成長期に入る前までは、そうだった。
しかし外貨準備高というのは、いわばタンス預金。
必要以上にもっていても、しかたない。

たとえば当のアメリカは、外貨準備高は、ゼロ。
手持ちの外貨は、外国に投資して、はじめて
意味をもつ。

+++++++++++++++++

保有する外貨イコール、貯金ではない。
まずもって、その誤解を解く必要がある。

外貨準備高として保有する外貨は、たとえば為替相場が変動したようなとき、
その調整金として使用するものである。
その額は、ある一定以上あることは望ましいが、必要以上にため込んでも
意味はない。
いわんや1兆306億ドルだと!

言うなれば、紙くずと化した米ドルを、日本が買い支えているようなもの。
絵画にたとえてみると、それがよくわかる。

近くに下手くそな画家がいる。
毎日絵を描いている。
評価は低い。
1枚描いても、30万円にもならない。
が、親類のあなたは、その絵を、今、91万円で買い支えてやっている。
画家は、絵を描く。
それをあなたは買う。
この繰り返しで、あなたの家の倉庫には、その画家の絵が山のようになった。
今の日本が、そういう状態ということになる。

が、その絵は売ることができない。
売りに出したとたん、その画家の絵の価値は、さらに下がる。
20万円にもならないかもしれない。

そこであなたはこう言って、自分をなぐさめる。
「いつかきっとあの画家の絵は、1枚100万円で売れる。
120万円になるかもしれない。
だから私は資産家だ」と。

財務省が1月9日に発表した、12月末の外貨準備高は、1兆ドルを超え、
1兆306億ドルになった。
前月からだけでも、約278億ドルの増加。
過去最高を更新した。

世界の外貨準備高を、米ドルに換算して比較してみると、つぎのようになる。

1位……中国……約1兆7600億ドル
2位……日本……約  9800億ドル
3位……ロシア…約  3050億ドル(以上、08年4月時)

それが今度、日本の外貨準備高が、1兆306億ドル!
もしドルの価値が半減すれば、当然、手持ちの外貨の価値も半減する。
それがこわいから、さらに日本は、ドルを買い支える。
あとはこの悪循環。

いまさら「あの画家の絵は、本当は20万円の価値しかありません」とは、
とても言えない。
しかたないから、91万円で買い支えるしかない。
せっこらせっこらと買い支えるしかない。

それが1兆306億ドル!
外貨準備高が貯金ではないということが、これでわかっていただけたことと思う。

では、どうするか?

本来ならこうした外貨は、銀行を通して、外国に投資してはじめて、生きる。
外国にどんどんと投資して、その利息で稼ぐ。
が、今は、それもできない。
まさに八方塞(ふさ)がり。
ないよりはあったほうがよいのだろうが、今、世界は、ドルを見放し始めている。
そういう中、AS首相だけが、「基軸通貨として米ドルを守る」と、言ってみせた。
そう言わざるをえない気持ちもよくわかるが、そうしたカードは、最後の最後まで
温存すべき。
軽々しく、口にすべき言葉ではない。

私が日本の首相なら、米ドルからの逃避をにおわせながら、つまりアメリカを
ヒヤヒヤさせながら、アメリカを日本にひきつけておく。
アメリカに日本の言うことを聞かせる。
何もあえて、アメリカまで行って、宣言すべきことではない。
おバカ!

(注※)……『財務省が9日に発表した12月末の外貨準備高は、1兆0306億470
0万ドルとなり、前月末から277億8600万ドル増加した。08年3月の1兆015
5億8700万円を超えて、過去最高を更新した。

 外貨準備の増加は2カ月連続だが、米国の債券価格上昇や、ユーロの対ドルでの増価な
どが影響したという。米国10年国債の金利は11月末時点の2.923%から12月末
には2.216%に低下した。また1ユーロは1.2694ドルから1.3972ドルに
上昇した。

 各国の外貨準備高をみると、国際通貨基金(IMF)が公表している直近の4月末で、
1位が中国の1兆0838億SDR、2位が日本の6059億SDR、3位がロシアの3
202億SDR、4位がインドの1881億SDR、5位が台湾の1787億SDRなど
となった。1SDRは1.6238米ドル』(ロイター・1・9)。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「大人ドリル」

++++++++++++++

コンビニで、「大人ドリル」(so-sbooks)
という本を買ってきた。

最近、この種の本を買うことが多くなった。
その中の問題。

==========

【問】下の文の中には、敬語の使い方がまちがっているものがあります。
それはどれですか?
正しい言い方になおしましょう。(p88)

+++++++++++

A ご不用になった古新聞
B 社長はただ今、お戻りになりました。
C 社長がおっしゃられました。
D 資料を拝見いたしました。

+++++++++++

日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
上下の身分関係は、とくにうるさい。
そういう歴史的背景もあって、敬語が生まれた。
が、この問題を読んで、ハタと考え込んでしまった。
順に考えてみよう。

A ご不用になった古新聞

だれがだれに対して言っているのか。
第三者が、その人に、たとえば「ご不用になった古新聞をください」と言っているのか。
私だったら、こういうとき、「ご」はつけない。
「不要になった古新聞をください」と言う。
相手が目上の人でも、また目下の人でも、そう言う。
「不用」に「ご」などつけるだろうか?
「お読みになった古新聞」とは言う。
「お捨てになった古新聞」とは言う。
もしそうなら、「ご不用になった古新聞」は、まちがってはいない。
これは一応、「○」かな?

B 社長はただ今、お戻りになりました。

これもだれがだれに対して言っているかによって、ちがうのでは。
同じ会社の中の社員どうしだったら、そのように言うかもしれない。
しかし外部の人に向って、「お戻りになりました」は、おかしい。
外部の人には、「社長が戻ってきました」でよい。
状況はわからないが、まちがってはいない。
だからこれも一応、「○」。

C 社長がおっしゃられました。

これも(B)と同じ。
外部の人に向って、「おっしゃられました」は、おかしい。
あるいは「おっしゃいました」?
「言われました」?
これは「×」だろうな。

D 資料を拝見いたしました。

正しくは、「資料を拝見させていただきました」ではないのか。
「拝見しました」というと、どこか、威張っている感じがする。
こんな言い方をされたら、私だって、「ムッ」とくる。
とくに相手が、私よりはるかに若くて、力のない連中だったら、そうだろう。
しかしまちがっているわけではない。
どこかのエラーい人に、資料を届けたとする。
その人だったら、私に「資料を拝見いたしました」と言うだろう。
だから一応、「○」。

+++++++++++++++

率直に言って、まだ解答は見ていない。
が、その前に一言。

私は自分の文章を書くとき、敬語は、ほとんど使わない。
相手が天皇でも、「天皇が浜松へ来た」と書く。
だから敬語の使い方が、苦手。
いまだによくわからない。
迷う。

ただ会話では、敬語は使う。
言葉をやわらかくしたり、相手に不快感を与えないために、そうする。
そんなわけで、私は敬語廃止論者の一人と考えてもらってよい。
世界広しといえども、こうした敬語を使っている国は、そうはない。
(ただし敬称は、別。
英語にも「ハイ・エクセランシー」とか「ユア・マジェスティ」とかいう
敬称はある。)

そこで解答を見てみる。
こうある。

++++++++++++++

答は「C」だそうだ。
二重敬語は、相手に対して、失礼、と。
正解は、「おっしゃいました」と。

++++++++++++++

この種の問題は、大学入試でもよく出てくる。
「まちがってはいない」、だから「正しい」と。
しかし状況によっては、「まちがっている」。
そういうときでも、入試問題のような問題では、一応、「○」とする。

一方、解答を書く受験生もそうである。

テストでよい点を取る秘訣。
それは「正しい答を書こうと思うな。まちがった答を書くな」である。

以前、こんなことがあった。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●要領

 中学三年生のテストに、こんな問題が、出た。英語の質問に、英語で答えるという問題
である。ここ五、六年、こうした問題が、急速にふえた。

(1)When is your birthday?(誕生日はいつですか)
(2)What sport do you like?(何のスポーツが好きですか)
(3)Do you like English?(英語が好きですか)
(4)What do you want to do next year?(あなたは来年、何をしたいですか)
(5)Do you come to school on foot or by bus?(あなたは学校へ歩いてきますか、そ
(6)れともバスで来ますか)

 このテストを受けてきた子ども(女子)がこう言った。「何も、書けなかった……」と。
「白紙で出したのか?」と聞くと、「そう……」と。

 そこで理由を聞くと、こう言った。「私の誕生日は、二月。フェブルアリィ(二月)とい
う単語を忘れてしまった。スポーツは、バレーボールが好きだけど、バレーボールという
単語がわからなかった。英語は、好きなときもあるし、嫌いなときもある。話すのは好き
だけど、書くのは嫌い。来年は、これといって、とくにしたことはない。それに私、毎朝、
母に学校まで送ってきてもらっている。英語で何と書けばよいか、わからなかった……」
と。

 私は、こう言った。

 「二月という単語がわからなければ、五月(May)と書けばよい」
 「バレーボールという単語がわからなければ、テニスと書けばよい」
 「英語が好きかと聞かれれば、はいそうですと書けばよい」
 「来年は、富士山へ登りたいと書けばよい」
 「学校へは歩いてくると、そのまま書けばよい」と。

 だから、答は、(My birthday is May 10th.)(I like tennis.)(Yes, I do.)(I want to
climb Mt. Fuji.)(I come to school on foot.)となる。

 それに対して、その子どもはこう言った。「へえエ〜、私、五月生まれじゃ、ない。テニ
スは好きではない。英語も好きとは言えない。富士山なんか、登りたくない。それに学校
へは歩いていかない」と。
 
 そこでさらに私は、こう言った。「あなたの英語の力で、『英語は好きなときもあるし、
嫌いなときもある。話すのは好きだけど、書くのは嫌い』とは、書けない。だったら、ど
うして、Yes, I do.(はい、好きです)と書かないのか。それで丸がもらえる」と。

 「でも、それはウソになるでしょ! ウソは書けない」
 「ウソ? 英語は、バツでなければ、マル。何も、本当のことを書けという問題ではな
い。すなおに簡単に書いて、マルをもらえばよい」
 「誕生日は、二月で五月ではない」
 「たとえそうでも、そんなこと、学校の先生が、いちいち調べるとでも思っているのか。
そんなことはしない。だったら、May(五月)と書いておけばいい。正直に二月と書く必要
はない」

 ……と教えながら、当然のことながら、言いようのない矛盾が、私の心をふさいだ。し
かししょせん、受験勉強などというのは、そういうもの。またそういうことが平気ででき
る子どもほど、よい成績をとる。要領といえば、要領。その要領のよい子どもが、有利。
もっと言えば、受験指導など、教育ではない。だからそれを教えるのは、教師ではない。
先生ではない。ただの指導者。

 しかしこの日本には、歴然とした受験競争がある。また好むと好まざるとにかかわらず、
それが人間選別の関門になっている。要領が悪い子どもほど、つまり正直な子どもほど、
この受験競争の世界では、不利。もちろんすべてがそうであるとは言えないが、しかしそ
ういう面があることも否定できない。この子どものケースでも、何ともあと味の悪い指導
になってしまったが、受験競争には、いつもそういうあと味の悪さがつきまとう。

 その子どもは、それからずっと、顔をふせたまま、何も言わなかった。私も、その子ど
もの気持ちがわかるので、何も言えなかった。気まずい沈黙だけが、最後までつづいた。
(02−12−8)※

●こうした受験競争をスイスイと通りぬけた人が、結局は、社会のリーダーになっていく
というのは、悲劇的ですらある。たとえば高校時代、勉強しかしない、勉強しかできな
い、どこかおかしな子どもほど、スイスイと受験競争を通りぬけていく。中には、よい
点をとるのが、趣味になっているような子どもすらいる。日本では、こういう子どもほ
ど高く評価されるが、本当にそれでよいのか。あなたもそういう視点で、一度、受験勉
強そのものをながめてみてはどうだろうか。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●運命vs智力

+++++++++++++++++++++

私には、(自分で気がついている部分)と、
(自分で気がついていない部分)がある。
一般的には、自己中心性の強い人ほど、
(自分で気がついている部分)が小さく、
(自分で気がついていない部分)が大きい。

問題は、その(自分で気がついていない部分)。
この部分が、その人をして、その人の望まない
方向に操ってしまう。

人にねたまれる。
人にうとまれる。
人に嫌われる。
それが重なっている間に、気がついてみると、
自分がとんでもない立場にいるのを知る。

それを避けるためには、どうしたらよいのか。
その方法は、あるのか。

+++++++++++++++++++++

●運命

1人の人には、無数の(糸)がからんでいる。
生い立ち、過去、経験の糸。
家族、親類、社会、国の糸。
家庭環境、文化、伝統の糸。
性格、性質という糸もある。
性差(男女)という糸、
さらには肉体、健康という糸もある。

そういう無数の糸がからんで、時として、その人の進むべき方向を決めてしまう。
自分の意思で何とかなるばあいもあるが、そうでないときのほうが、多い。
私は、それを「運命」と呼んでいる。
どこかの頭のおかしいオバチャンが説く、あの運命論とは、中身がちがう。

たとえばいくら「私は自由だ」と叫んだところで、そこには限界がある。
仕事もしなければならない。
家族のめんどうもみなければならない。
その(限界)が無数に積み重なって、ここでいう(運命)となることもある。
今の(私)にしても、あくまでもその結果でしかない。

で、ここではさらに話を先に、一歩進める。

そういう無数の(糸)の中に、(自分で気がついていない部分)もある。
自分では気がつかないうちに、原因は自分の中にあるにもかかわらず、自分の意図した
方向とは別の方向に、自分が進んでしまうことがある。

●愛人がいない?!

こんなことがあった。
あるとき、あるところで、40年ぶりくらいに、ある男性に出会った。
で、しばらく話していると、その男性が、自分の失敗談をあれこれと話してくれた。
その中のひとつに、愛人の話があった。

「いやあ、愛人ができてしまってね。別れるのに、苦労したよ」と。

で、驚いたことに、そのあとその男性が、こう言った。
「なあ、林君、君にも、愛人の1人や2人はいるだろう」と。
まるでたたみかけるような、言い方だった。

そこで私が「いない……」と答えると、その男性は、私が驚いた以上に驚いた表情を
見せながら、「いないだってエ?!」と。

男「いない? そんなはずはないだろ! お前にいないはずが、ないだろ!」
私「いないよ」
男「バカ言え。信じられない!」と。

そこで私はその男性と会っていたころのことを思い浮かべた。
結婚する前のことで、そのころの私は、遊びまくっていた。
ガールフレンドも、つねに3、4人はいた。
その男性と、あちこちへいっしょに遊びに行ったこともある。
スケベな話もよくした。
その男性には、私がよほどのプレイボーイに見えたらしい。

が、そんな私が大きく変わったのは、ある事件があってからのことである。
それについて書くのは、ここで目的ではないので、また別の機会にするが、
ともかくも、そのころ、その男性は、私への印象を決めてしまったようだ。

●原因はその女性自身に

逆に、こんな例もある。
少し前、親類のある女性から、ひんぱんに電話がかかってきた。
話を聞くと、兄弟どうし、たがいにはげしく、いがみあっているという。
一方的な話だったが、その女性は、「私は悪くない」「兄弟たちが悪い」というような
ことを訴えた。

しかしその女性が、兄弟たちと仲が悪いのは、その女性に原因があった。
自分勝手で、わがまま。
他人との協調性が、まったくなかった。
話といっても、ここにも書いたように一方的。
ギャーギャーと騒ぐといったふうで、こちらが何かを答えようとする間もなく、
話題がどんどんと変化していった。

が、その女性は、けっして自分に原因があるとは思っていなかった。
自分が、他人から見て、どんな人間に見られているか、それにすら気づいていなかった。

●自分勝手な相談

もうひとつ、わかりやすい例で説明しよう。

もう20年近くも前のことだが、こんなこともあった。
そのときも、ある女性(当時70歳くらい)から電話がかかってきた。
内容は、「息子が離婚することになったが、どうしたらいいか」というものだった。

が、会話がどうもかみあわない。
その女性は、「離婚しても、構わない」と言いつつ、「(嫁と子どもたちが)、
家から出て行かないから困っている」と。
だから「どうすれば、追い出せるか」と。

で、よくよく話を聞くと、結局は、嫁と子どもたちに財産を取られたくない。
そのためには、どうしたらよいかという相談であることがわかった。

しかし常識で考えても、そんな道理は通らない。
当時、子どもたち(=その女性の孫)は、中学生と小学生だった。
慰謝料と養育費の支払いは、当然のことである。
嫁はそれまで働いていて、生活費を、その家に入れていた。
いくら離婚でも、裸で嫁と子どもたちを追い出すわけにはいかない。
そのこともあるから、嫁と子どもたちは、家を出ず、がんばっていた。
そこで私が、あいまいな返事をしていると、その女性は、怒ってそのまま電話を
切ってしまった。

あとで、(5、6年もたってからのことだが)、人づてにその後のことを聞くと、
その女性が、私の悪口を言っているのを知った。

「あの林は、私が相談したのに、親身になってくれなかった」と。

●都合のよい部分vs悪い部分

「私は、こういう人間だ」。
「私は、こういう性格だ」。
「だから、他人にはこう見られている」。
「他人は、私のことをこう思っている」。

……これが(自分で気がついている部分)ということになる。
しかし(私)というのは、それだけがすべてではない。
むしろ(自分で気がついていない部分)のほうが、大きい。

さらにわかりやすくするために、もうひとつの例をあげてみよう。

以前、(してやった部分)と、(してもらった部分)には、大きな差があるという
内容のエッセーを書いたことがある。

人というのは、(自分が他人にしてやった部分)については、過大評価する傾向がある。
一方、(他人からしてもらった部分)については、過小評価する傾向がある。
だから「私は、あの人のめんどうをよくみてやったのに、あの人は何もしてくれない」
と、なる。

つまり自分で自分を評価するとき、人というのは、自分にとって都合のよい部分に
ついては、拡大視する傾向がある。
一方、自分にとって都合の悪い部分については、反対に目を閉じてしまう傾向が
ある。

こういう作業を長い時間繰り返しながら、その人は、自分の中に自分像を作り
あげてしまう。
そしてそれが結果として、(自分で気がついていない部分)を増大させてしまう。

●自己認識能力

そこで(自分で気がついていない部分)を知るには、どうしたらいいかということに
なる。

そこで登場するのが、自己認識能力ということになる。
発達心理学の用語だが、その一例をあげる。

AD・HD児だった男子(当時、中3)がいた。
たいへんなAD・HD児で、幼稚園の先生も、小学校の先生も、そして私も苦労をした。
が、AD・HD児でも、小学3、4年生くらいから、急速に落ち着いてくる。
自己管理能力が育ってくるためである。
この時期を過ぎると、持ち前のバイタリィティがよいほうに作用し、学習面やスポーツ
面で飛躍的に伸びることがある。
その中学生もそうだった。
そのとき浜松市内でも、いちばんという進学校に合格していた。

そこである日、その中学生に、私はこう聞いた。
「君は子どものころ、みんなにめいわくをかけたが、覚えているか?」と。
すると、その子どもは、平然とこう言ってのけた。

「ぼくは、何も悪いことはしていない。
みんなが、ぼくを目の敵(かたき)にして、いじめた」と。

何度か確かめてみたが、彼には、みなに迷惑をかけたという意識は、まったくなかった。
つまり、(自分を知る)ということは、それほどまでに、むずかしい。

●帰宅拒否児

私にことを書く。
私が、子どものころ、帰宅拒否児であったということは、この世界に入って
はじめて知った。

私は小学生のころ、学校からまっすぐ家に帰ったということは、ほとんどなかった。
道草を食うなどということは、当たり前。
それがそのまま、日課になっていた。

だからある日、年長女児をもつ母親から、道草の相談を受けたときには、正直言って、
少し面食らった。
「そんなこと、どうでもいいではないですか」と言いかけたが、それは言わなかった。
で、話を聞いていくと、どうやら家庭に原因のある、帰宅拒否児ということがわかった。
不登校児、あるいは学校恐怖症の子どもの反対側にいる子どもと理解するとわかりやすい。

で、そのとき気がついた。
私自身も、実は、帰宅拒否児だった、と。
それは私にとっては、大きなショックだった。
私は意識しないまま、毎日、自分の行動を決めていた。
(家へ帰るのがいや)という思いがどこかにあって、それが道草に
つながっていた。

●自分を知るために

そこで心理学の世界では、いろいろな方法を使って、(自分で気がついて
いない部分)を、さぐろうとする。
面談方式とか、対話方式というのも、考えられている。
が、いちばん手っ取り早い方法は、親しい友人に、自分のことを語ってもらう
というのがある。
そういう意味では、多くの友人をもつということは、大切なことでもある。
友人が多ければ多いほど、自分の姿が、その中から浮かびあがってくる。
「お前なア、お前のここんとこ、おかしいよ」と言ってくれる友だちがいれば、
すばらしい。
妻でも、子どもでもよい。

が、もうひとつの方法は、心理学の本を読みながら、自己分析していくというもの。
私自身も、自分が、うつ気質であるのを知るのに、ずいぶんと時間がかかった。
それには、こんなエピソードがある。

そのとき私は、不眠に悩んでいた。
朝早く目が覚めてしまい、それが重なって睡眠不足状態になっていた。
仕事にしても、1週間ほど前から気になってしかたなかった。
そこである医院(内科)へ行き、あれこれ相談すると、その医師が、
ズバズバと私の症状を言い当ててくれた。

「さすが、ドクター!」と感心していると、そのドクターはこう言った。
「いや、林さん、実は私もそうなのですよ」と。

●ためこみ屋

(自分で気がついていない部分)といっても、もちろん2種類ある。
(好ましい部分)と、(好ましくない部分)である。

そこでひとつのケースを考えてみたい。

最近、私はある知人(65歳くらい)の男性の家を訪れてみて、たいへん
驚いた。
玄関先から、モノ、モノ、モノであふれかえっていた。
出入りも、そのモノをさけて、しなければならなかった。
天井からも無数の衣服が、つりさげられていた。

いわゆる「ためこみ屋症候群」と呼ばれる、行為障害のひとつである。
このタイプの人は、ひどくなると、ゴミですら、捨てられなくなる。

そこでもしあなたがその場にいたとしたら、あるいはその人の友人で
あるとしたら、あなたはどうやって、その人にその(好ましくない部分)を、
知らせることができるだろうか。
自分で気がつかせるだろうか。

さあ、どうするだろうか?

……といっても、その方法はむずかしい。
実際、私はその知人には、何も言えなかった。
「あなたは、おかしいですよ」などとは、ぜったいに、言えない。
その人は、その人。
だれかに迷惑をかけているわけではない。
その知人は、自分の家の中で、そうしていた。
で、私はそのまま黙って、家に帰った。

が、もしその知人が、ほんの少しでも、自分で本を読む能力と機会が
あったら、どうだろうか。
私のHP、もしくはBLOGでもよい。
どこかで「ためこみ屋」という言葉を見つけるかもしれない。
そしてそれをきっかけに、自分のことを知るかもしれない。

●智力との闘い

こうして考えていくと、(自分で気づかない部分)を知るための最大の武器は、
「智力」ということになる。
知恵、知性でもよい。
そしてその知力は、東洋医学では、つぎのようにして生まれる。
(はやし浩司著、「目で見る漢方診断」より。)

(意)→(志)→(思)→(慮)→(智)と。

なお東洋医学では、精神活動も、肉体活動と密接不可分のものとして
考える。
霊的な、いわゆるスピリチュアルな(精神)というものは、認めていない。
わかりやすく言えば、肉体も病むように、精神もまた病むということ。
(詳しくは、「はやし浩司のHP」より、「目で見る漢方診断」へ。)

そしてその智力が、その人の運命を変えていく。
また運命を変える、武器となりえる。

言いかえると、私たちが日夜肉体の健康を維持するように、精神の健康を
維持する努力を怠ってはいけないということになる。
運命というのがそこにあるとしても、健全な精神があってこそ、私たちは、
それと闘うことができる。

けっして、運命に翻弄(ほんろう)されてはいけない。

……とまあ、大上段な書き方をしてしまったが、大筋ではまちがって
いないと思う。
ともかくも、(自分で気がついていない部分)を知るということは、大切なこと。

そのためのひとつの方法として、精神の健康を保ち、智力をみがく。
結局は、それが運命と闘う、もっとも効果的な方法ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
運命論 運命 自分を知る 精神の健康 智力 自己認識能力)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「貧乏人は、麦を食え!」("The Poor should eat wheat rather than rice.")

++++++++++++++++

今度のST総務官の言葉を読んで、私は即座に、
「貧乏人は麦を食え」という、あの言葉を思い出した。

「所得の多い人は、米を食べ、所得が少ない人は、
麦を食べるという方向にもっていきたい」と、
当時の池田大蔵大臣は国会答弁の中で、そう言い切った(1950)。
そこから「貧乏人は麦を食え」という言葉が生まれたが、
実際に、池田大蔵大臣がそう言ったわけではない。
言ったわけではないが、しかしニュアンスは、同じ。

あえて言われなくても、麦しか食べられない。
そういう人も、当時は、たくさんいた。
私の家も、日常的に米に麦を混ぜて、食べていた。

が、それから半世紀。
職がなくて、困っている人たちを評して、
こう言った政務官がいた。

「本当にまじめに働こうとしている人たちが、
集まっているのかな、という気もした」※と。

言葉の内容はちがっても、発想は同じ。
傲慢(ごうまん)。
かぎりなく、傲慢。
情けないほど、傲慢。
国会議員になるほどの人だから、それだけの
品性がある人と思いたいが、中身は、ただのオジサン。
あるいはそれ以下。

強者と弱者は、けっして平等ではない。
平等感覚を、もってはいけない。
とくに強者は、もってはいけない。
社会の完成度は、その社会がいかに弱者に
やさしいかで決まる。
政治の完成度も、また同じ。

++++++++++++++++

●勝者も敗者も紙一重

あのね、その気はなくても、またその気はあっても、
ズルズルと社会の深みにはまっていく人は、いくらでもいるの。
自分の意思とは無関係に、ね。

勝者も敗者も、紙一重。
ほんのわずかなチャンスをつかんだ人だけが、
あとはスイスイと勝者になっていく。
が、せっかくチャンスをつかんでも、生かし方も知らず、
敗者になっていく人もいる。
あるいは人生の入口で、レールに乗ったというだけで、
あとは一生、安泰な生活をしている人がいる。
乗れなかったというだけで、一生、苦労している人もいる。
大きく違うようで、どこも違わない。

わかるかな、政務官!

あなただって、たまたま今は勝者かもしれないけれど、
つぎの瞬間には、わからないよ。
あなたはよくても、あなたの子どもの代にはわからないよ。
「諸行無常」という言葉もあるしね。

仕事にしても、そう。
いくら働く気はあっても、また働いても、やることなすこと、
裏目、裏目と出て、落ち込んでいく人もいるの。
そのうち、やる気をなくことだって、あるかもしれない。
が、それでも働くしかない。
働き口をさがすしかない。

それにそれぞれの人には、自分ではどうにもならない過去という
ものがあるでしょ。
生い立ちの環境もあるしね。

そういうものをすべて、本人の責任にしてしまうのも、どうかと思うよ。
つまりね、こんなことは常識。
生きている人の常識。

そういう常識もない人が、国のリーダーをしている?
まず、そのおかしさに、政務官自身が気がつくべきではないのかな?

野党のほうは、罷免(ひめん)要求を出す予定とか。
それは当然としても、しかしこれは人間性の問題。
国会議員である前に、政務官、あなたには人間性そのものが欠落している。
わかるかな?

ホームレスの人を棒でたたいて殺した、あの中学生と、同じ。
その中学生がおとなになって、出世して、(←この言葉は
本当に不愉快)、立派なスーツで身を包んだだけ。
(「立派」という言葉も、不愉快だね。
何をもって「出世」といい、何をもって「立派」というのかな?)

私はね、この記事を読んで、「挫折を経験したことがない人は、
こうなるのかな」と思ったよ。
恐ろしいことだね。
考えてみれば……。

貧しい人にというより、国民にもっと謙虚になってほしいね。
ホント!

(注※)++++++++++以下、読売新聞++++++++++++++

ST総務政務官(自民、衆院当選2回)は5日、総務省の仕事始め式のあいさつで、東京・
日比谷公園の「年越し派遣村」について、「本当にまじめに働こうとしている人たちが集ま
っているのかな、という気もした」と述べた。

 さらに、「『(厚生労働省の)講堂を開けろ』『もっといろんな人が出てこい』(と要求され
る)。学生紛争の時に『学内を開放しろ』『学長よ出てこい』(と学生が要求した)。そうい
う戦術、戦略が、かいま見える気がした」と語った。

+++++++++++++以上、読売新聞+++++++++++++++

私ね、政治家の中でも、もっとも謙虚で、勉強している人と言えば、
私たちの近くにいる、市議会議員たちの人だと思うよ。
無私で質素。

それが県会議員、さらには国会議員となっていくと、だんだん質が
落ちてくる。
その分だけ忙しくなるため、勉強する時間もなくなるのかな。
金銭感覚が麻痺してくるのかな。
それとも権力の奴隷になってしまうのかな。
政治家になる目的そのものが、ちがう。
そんな感じがするよ。

しかし……これもよくよく考えてみれば、私たちの問題かもしれないね。
「出世」とか、「立派」とか、いまだにこんな言葉が、政治の世界では
使われている。
いやだね。
不愉快だね。

もうこんな言葉を使うのを、やめようよ。
つまりね、私たちの意識から変えていかないと、いつまでたってもこういう
政治家が生まれてくるよ。
つぎつぎと生まれてくるよ。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●不況

+++++++++++++++++

昨夜、息子が東京へ戻っていった。
駅まで、見送った。
で、その帰りに、私とワイフは、いつも
行く、お好み焼き屋に寄った。

しかし客は、私たちだけ。
30〜40分ほどいたが、私たちだけ。

不景気になると、まず飲食店が打撃を受ける。
不況ともなると、さらにそう。
大不況ともなると、さらにそう。

お好み焼きを食べながら、かえって
申し訳ない気持ちになった。
いつもならおいしく思うはずのお好み焼きが、
味気なく感じた。

ところで隣の韓国では、すでに3分の1ほどの
飲食店が店を閉じたとか。
何かのニュースで、それを知った。
こんな状態があと数か月もつづいたら、
日本もそうなる。

暗い気持ちで、店を出た。

++++++++++++++++

このあたりでも最大手の進学塾が、今度、月謝をさげることにしたという。
もともと高率の月謝※を取っていたところだから、私は驚かなかった。
「何、言ってるんだ」とさえ、思った。
……ということで、不況の嵐は、塾にまで及び始めている。

が、今度の不況は、まだ序の口。
韓国では、青瓦台の地下室に、(地下室にだぞ)、「非常経済指令室」なるものを
設けたとか。
まさに臨戦態勢。
ワイフはこう言った。
「つい数か月前までは、好景気って言っていたのに……」と。
しかしそれは表向き。
実際には、不況の足音は、昨年(08)の春ごろから、聞こえ始めていた。
書店にその種の本が並び始めたのも、そのころである。

で、この不況は、今年いっぱい、まだつづくとか。
経済界の人たちは、そういう見方をしているらしい。
となると、私たちの生活は、もっと苦しくなる。
いや、いくら苦しくても、先に希望が見えれば、まだ何とかなる。
しかしその希望が消えると、苦しみが倍加する。
「がまんする」といっても、そこには限度というものがある。
とくに家賃や給料を払って経営している飲食店は、そうだろう。

私「ここはふんばってほしいね」
ワ「そうね」と。

家に帰って、今度のイスラエルとハマスとの戦争記事を読む。
イスラエル軍は地上軍を投入し、ハマスの病院や学校、モスクまで、つぎつぎと
破壊しているという。
子どもの犠牲者も多いとか。
ますます暗い気持ちになりながら、ふとこう思う。

「この人たちは、店どころか、家や家族まで失いつつある。
そういう人たちにくらべれば、ぼくたちは、まだ幸福なほう」と。
……ということもあって、今日は、20キロ近くを、歩いてみようと思う。
歩くことにまさる健康法はない。
それにお金もかからない。
不況風なんかに、押しつぶされて、たまるかア!

(注※)塾は、1クラスに生徒が何人いるかを見て、「率」を計算する。
仮に月謝が1万円でも、1クラス30人では、30万円となる。
仮に月謝が2万円でも、1クラス10人では、20万円となる。
このばあい、月謝が1万円の教室のほうが、(もうけ率)が高いことになる。
月謝だけをみて、「高い」「安い」を判断してはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●悪戦苦闘

+++++++++++++++++++

パソコンからは、携帯端末にはメールが
送れる。
しかし携帯端末からは、パソコンにメールが
送れない。
そこで悪戦苦闘すること、約2時間。
携帯端末会社のE社に相談しても、
「?」「?」「?」。

で、やっとわかったことは、私が使っている
プロバイダーのポート番号が、「25」に
なっていること。
そこでプロバイダーに電話をして確かめると、
「ポート番号を2xxに変更してくれ」と。
しかしポート番号って、何?

わけがわからないまま、そして言われるまま、
指示に従って、変更。
で、やっと携帯端末から、パソコンに
メールが送れるようになった。
ホ〜ッ。

こうして私は、またまた勉強した。
しかしなぜ、今、携帯端末かって?
実は、私はその携帯端末をほとんど使っていなかった。
緊急用の携帯電話としてのみ、使っていた。
が、息子が東京から帰ってきて、それを
たくみに使いながら、いろいろなことをしているのを見た。
それを見て、私も使ってみたくなった。
それで箱から取り出し、自分でやってみた。

たしか以前は、携帯端末から自分のパソコンに、
メールを送信できたはず。
しばらく使っていない間に、ポート、つまり
インターネットの信号が入る(ポート=港)が
変更になったらしい。

この世界は、まさに日進月歩。
ついていくだけで、たいへん。

で、今、改めて、マニュアルを読み直している。
「ほう、こんなこともできるのか」と、
感心の連続。
結構、頭の体操に、なりそう。

+++++++++++++++++++++

●ある大富豪の自殺

経済ニュースの中に、こんなのがあった。
何でもドイツの大富豪と言われる男性が、
自殺したという。
今度の不況で、10億ユーロ、つまり約
1250億円の損失をかかえたためという。

日経ニュースは、つぎのように伝える。

+++以下、日経ニュース+++

製薬会社や建設素材メーカーなどの経営者として知られるドイツの大富豪、メルクレ氏
(74)
が自殺したことが、1月6日、明らかになった。
ドイツメディアが一斉に伝えた。
金融市場への投資で最大10億ユーロ(約1250億円)の損失を抱えたとされており、銀行
団と経営再建に向け交渉中だった。
金融危機の犠牲になった格好だ。

+++以上、日経ニュース+++

お気の毒とは思うが、同情心がまったくわいてこない。
なお「ロイター通信によると、米誌フォーブスの08年版世界長者番付で、同氏の資産は
92億ドル(約8600億円)で、ドイツ第5位の富豪だった」(同、日経ニュース)との
こと。

74歳という年齢を考えるなら、1〜2億円もあれば、じゅぶん。
それなりに優雅な老後が送れるはず。
それが、だ。
資産が、8600億円!
報道された数字だけで計算してみても、8600億円―1250億円=7350億円も、
資産が残っていることになる。
7350億円だぞ!
そこらのジーさんが、7350億円ももっていて、どうするの?

もっとも自殺の原因は、もっとほかにあったのかもしれない。
もともとその種の(心の病)をかかえていたのかもしれない。
どうであるにせよ、私には、同情心がまったくわいてこない。
(相手も、私ごときの下賤な人間に、同情されたくはないだろうし……。)

鼻で、フンと笑って、この話はおしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●1月8日(2009)

++++++++++++++++++

昨夜から、「科学と哲学」というテーマで
原稿を書き始めた。
しかし数度書きなおして、ボツ。
うまくまとまらなかった。

おかげで、今日は、原稿書きはなし。
気分転換をかねて、ワイフと、
往復8キロの距離を散歩した。

そうそう昨日は、約4キロをランニング。
それが足に、こたえた。
今朝、起きると、下半身が痛んだ。
しかし運動による筋肉痛は、心地よい。
痛いといっても、静かに休んでいれば、
何ともない。

明日も、運動。
10キロは歩くぞ!
明後日から、いよいよ仕事始め!
2009年度も、がんばるぞ!

++++++++++++++++++

●痴呆症模擬体験

数日前から、携帯電話をいじって、遊んでいる。
イーモバイルの(SH11HT)という機種だが、パソコンとほぼ同じ機能がついている。
小さいが、もちろんキーボードつき。
緊急用の携帯電話として使っていたが、これが結構、おもしろい。
で、いくつかおもしろい経験をした。
そのひとつ。
称して「痴呆症模擬体験」。

痴呆症といっても、大きく分けて、(1)アルツハイマー型痴呆症と、(2)脳血管性
痴呆症がある。
アルツハイマー型痴呆症では、脳全体の神経細胞が死滅する。
そのため大脳皮質部が一様に委縮する。
とくにダメージを受けやすいと言われているのが、前頭葉、側頭葉、頭頂葉。
どれも高度な精神機能を司る部位である。
(一方、後頭葉や、運動野、感覚野は、比較的ダメージが少ないと言われている。)

脳血管性痴呆症は、それが起きた場所によって、症状はさまざま。
どちらにせよ、私たちの年代……というより、私には深刻な問題である。
知人や近親者の中にも、そう診断された人が、何人かいる。
そんなこともあって、このところ「アルツハイマー」という言葉を聞いただけで、
ズキンと、心に響く。
そしてそのつど、「私はだいじょうぶか?」と自問する。

で、アルツハイマー型痴呆症の症状としては、記憶力や推理力の減退などがある。
そのほかにも、たとえば手続き記憶の喪失などもある。
以前はできた、簡単な操作ができなくなるなど。
風呂の沸かし方がわからなくなる。
ご飯の炊き方がわからなくなる。
料理の仕方がわからなくなる、など。

しかしそれは、何も痴呆症の人たちだけの問題ではない。
今日、携帯電話をいじっていて、こんなことがあった。
話せば長くなるので割愛するが、要するに、ほんの少し前にできたことが、つぎの
瞬間には、できなくなったりした。
たとえば何かの操作をするとき、(設定)→(システム)→……と進むときがある。
で、そのときはできたのだが、つぎにあちこちをいじっていて、再び、その
操作が必要になったときのこと。

「エ〜〜、どうだったかな?」と思ったとたん、それがわからなくなってしまった。
それであちこちをタッチペンで、カチカチと叩いていたら、そのうち携帯電話が
フリーズしてしまった。
(携帯電話だって、フリーズすることがあるんだぞ!)

つまり痴呆症の人も、健常な人も(私のことではない。私も、実はあぶない)、
要するにレベルがちがうというだけ。
健常な人から見れば、痴呆症の人がよくわかる。
痴呆症の人を見ながら、「私は健常」と思う。
しかしもっと頭のよい人から見れば、その健常な人だって、痴呆症に見えるはず。

私は軽いパニック状態になってしまった。
「リセットすればいい」ということはわかっていたが、その機種では、リセット
を試したことはない。
「リセットして、今までの設定がすべてパーになったら、どうしよう?」と。

そこでイーモバイル社に電話をすると、「安心してリセットしてください」とのこと。
で、リセットしたあと、またまた悪戦苦闘。
今日になって、何とかほぼすべてをマスターした。
残りは、パソコンとの同期だけ。
しかしこれについては、そこまで必要はないだろう……ということで、今は、
ペンディング。

つまりこうしてアルツハイマー型痴呆症は、進んでいく。
ある日突然、ドカンと痴呆症になるわけではない。
徐々に、少しずつなっていく。
今が、そうかもしれない。
そのうち携帯電話の番号の押し方すら、わからなくなってしまうかもしれない。
さらに自宅の電話番号すら、わからなくなってしまうかもしれない。
さらに数字も読めなくなってしまうかもしれない。

はたして、私は、だいじょうぶか?


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【物欲のメカニズム】

●ビョーキ?

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今朝、新聞のチラシを見ていたら、
エプソン社のミニ・パソコンが、3万9000円で
売りに出ていた(市内、Y店)。

3万円台!
4万円、以下!

それを見ていたら、グググーッと、物欲がわいてきた。
「安い!」と思ったとたん、それが「ほしい!」という欲望に変わった。
が、すでにミニ・パソコンは、2つ、もっている。
HP社の2133、それにAcer社のアスパイア(1)。

2133は、つい先日、1万5000円かけて、
英語キーボードから、日本語キーボードに変更したばかり。
アスパイア(1)は、6セルの増設バッテリーを、別途、購入したばかり。

それにしても、この物欲は、いったい、どこから来るのか?

恐らくドーパミンが、線条体あたりを猛烈に刺激しているのだろう。
アルコール中毒者が、酒のにおいをかいだときの反応と同じ。
ニコチン中毒者が、タバコのコマーシャルを見たときの反応と同じ。
さらに言えば、犬が、餌を見たときに、ヨダレを出すときの反応と同じ。
条件反射が、脳みその中で起きている。

++++++++++++++++++++

●脳みその奴隷

脳みそというのは、私たちの意思とは無関係に、勝手に反応する。
あるいはその逆で、無関係に反応して、意思そのものまで作ってしまう。
私という(私)は、その大部分において、私であって、(私)ではない。
(私)の大部分は、脳みその奴隷。
その奴隷となって、動くだけ。
ニコチン中毒者を例にあげるまでもない。
自分の意思で、タバコを吸っているつもりかもしれないが、実は、吸わされて
いるだけ。
子どもも、また同じ。

●ゲーム脳

年末、子どもたち(小学生)に、「クリスマスには、どんなプレゼントがほしいか」
を聞いてみた。
いろいろな返事が返ってきたが、その中でもいちばん多かったのが、ゲーム機器、
あるいはそのソフト。
今は、そういう時代である。

で、今ごろ多くの子どもたちはそれを手にして、夢中になってゲームをしているに
ちがいない。
そういう子どもたちの脳みその中は、どうなっているのか?

少し前、「ゲーム脳」という言葉が、話題になった。
「ゲームばかりしていると、脳のある特定の部分だけが覚醒し、その他の部分は
眠ったような状態になってしまう」と説く学者が現れた。
それにたいして、「ゲーム脳など、存在しない」と説く学者も現れた。
後者の学者は、現在、ゲームの世界では、カリスマ的な存在となっている。

しかしゲーム脳があるとか、ないとかいう議論そのものが、ナンセンス。
ゲームは、子どもたちの世界に大きな影響を与えている。
(もちろんゲームの内容にも、よるが……。)
そのため様子がおかしくなってしまった子どもとなると、ここにも、そこにも、それこそ
ゴマンといる。
何も脳みそだけの問題ではない。

毎日、2〜4時間も、「殺せ!」「やっつけろ!」「1000点、ゲット!」と
やっていて、子どもの精神が無事ですむはずがない。
ものごとは常識で考えたらよい。

で、そういう子どもの脳みその中でも、同じような反応が起きていると
考えてよい。
新しいゲームが発売になるたびに、猛烈な勢いでドーパミンが分泌され、
それが線条体を刺激する。
とたん、グググーッと、そのソフトがほしくなる。

●脳みその中の反応

そこで大切なことは、(1)自分の脳みその中の反応を、できるだけ客観的に
知ること。
つぎに(2)それを理性の力で、コントロールすること。
理性の力を強くするためには、自ら考える力を養う。
言うまでもなく、考える力というのは、(論理力)と(分析力)で決まる。
それを司るのが、左脳。
そして脳全体をコントロールするのが、前頭前野の連合野ということになる。

もちろん脳みその中を見ることはできない。
しかし脳みその中で、どういう反応が起きているかを、想像することはできる。
その想像を繰り返していると、「ああ、今、ドーパミンが分泌された」
「条件反射が起きている」と、観念的にわかるようになる。
(あくまでも観念的。そういうような感じがするだけだが……。)

たとえば今、あなたはこの文章を見ている。
パソコンのモニターに映った文字を読んでいる。
しかしそれは大脳の後頭部にある、脳みその中のモニターを見ているにすぎない。
最初は、そう言われても、あなたは納得しないかもしれない。
「私は自分の目で、目の前のものを見ている」と。
しかし実際には、そう見えるだけ。
少し訓練すると、何となくそれがわかってくる。
今、あなたが見ているものは、大脳後頭部にある、脳みその中のモニターに
映った像にすぎない。
それを目の前に映った像と、錯覚しているにすぎない。

(脳というのは、そういう意味では、ずいぶんといいかげんなものだが……。)

同じように、あなたが何かをしたいとか、ほしいと思ったときも、そうだ。
少し訓練すると、脳みその中で、反応が、どういう順序で、どのようにして
あなたに作用しているか、何となくそれがわかってくるようになる。

●ブレーキ

そこでブレーキということになるが、今年の正月は、何もあえてブレーキなど、
かける必要はない。
だいたいお金が、ない。
今またパソコンがほしいなどと言おうものなら、ワイフが黙っていないだろう。
それに3つもあっても、しかたない。
今の今ですら、2つのパソコンをもてあましている。
そこで最後の方法。

今朝、息子にこう言った。
「なあ、お前、パパが今使っている、このミニ・パソコンを、あげようか?」と。
すると息子は、あっさりと、こう言った。
「いらない」と。

これで最後の望みも絶たれた。
あとはあきらめて、ぐっとがまんするしかない。
今がそのとき。
自分で自分の脳みそをコントロールするしかない。
ドーパミンの分泌を抑制するしかない。
簡単に言えば、ほかのことに神経を集中して、ミニ・パソコンのことは忘れる。
あとは数日、様子をみる。
「これはビョーキは、ビョーキだ」と、自分に言い聞かせながら……。

(追記)

先日、浜松市市内で、あるドクターの家に、ドロボーが入った(報道)。
現金数百万円のほか、何と高級時計ばかり数千万円分が盗まれたという。
たぶん、そのドクターは、高級時計のコレクターだったにちがいない。
しかし数千万円分というのには、驚いた。
それこそ、時計などというのは、数個あればよい。
それで足りる。
……と考えるのも、ヤボ。
そのドクターは、時計のカタログを見ただけで、脳の中で、ドーパミンが猛烈に
分泌されるのだろう。
それが線条体を刺激して、強烈な条件反射が起きる。
「ほしい」という欲望が、ドドドーッとわいてくる。
自分で自分をコントロールできなくなる。
そしてその結果が、数千万円となった(?)。
つまりは、ドーパミンの力(ドーパミン効果)というのは、それほどまでに
強烈ということになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 はやし浩司
ドーパミン 条件反射 線条体 脳下垂体 視床下部 物欲のメカニズム)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●久能山

+++++++++++++++++

今日は、久能山へ行ってきた。
コースは、つぎのよう。

(日本平)→ロープウェイ→(久能山東照宮)
→(いちご狩り)→(焼津)。

昼食は、寿司バイキング。
私たち夫婦は、回転寿司でも、4〜5皿が限度。
それ以上は、がんばっても食べられない。

だからワイフはこう言った。
「私たちのような客ばかりだったら、店も
もうかるわね」と。

+++++++++++++++++++

●家康

ここ静岡県では、家康の悪口は、タブー。
天皇の悪口を言うようなもの。
今でも、「天皇」と書いただけで、ツンとした
緊張感が走る。
私は、子どものころ、「天皇」と言っただけで、
父に殴られたことがある。
「陛下と言え!」と。

……とまではいかないにしても、実際、
家康の悪口を言う人は、まず、いない。
敬愛の念をこめて、「家康公」とか、
「徳川家康公」と呼ぶ。

しかし私はよそ者。
もともと県外からの移入者。
気にしない。
平気で「家康」と書く。

で、一応、偉人ということになっているが、
私には、家康と、K国のあの独裁者、金xxの区別が
できない。
呼び名も同じ、「将軍様」。
信長にいたっては、さらにそうで、それが
まちがっているというのなら、どこがどう
ちがうか、それをきちんと説明してほしい。

ほとんどの人は、それにつづく300年という
圧制の中で、虐げられた庶民である。
江戸の末期ですら、武士階級は、人口の5〜7%以下。
そのきわめて少数だった特権階級が、富の
ほとんどを独占していた。

家康にしても、彼にとって都合の悪い事実は、
300年という年月の中で、繰り返し抹消された。
痕跡の「コ」の字も残らないほど、抹消された。
そのやり方も、現在のK国と似ている。

そういう事実も忘れて、「徳川家康公」は、ない。

●過去の亡霊

……とまあ、そんなヤボなことを書いても意味はない。
それに世俗にそこまで背を向けると、自分のほうが、はじき飛ばされてしまう。
妥協できるところは適当に妥協しながら、みなと仲よく過ごす。
「極論」は、なにごとにつけても、よくない。

ただ不幸なことに、私たち日本人は、過去において、
ただの一度も、あの江戸時代という封建時代を、
清算していない。
清算しないまま、いまだに、ズルズルと引きずっている。
そのため、いまだに、封建時代の亡霊が、いたるところに残っている。

家制度に始まり、男尊女卑思想、長子制度、家父長意識、
悪玉親意識、上下意識、身分制度などなど。

そうした負の遺産に目を向けることもなく、また自分たちが
庶民、もしくは農民(江戸時代には90%以上が農民だった)
であったことを忘れて、武士道を一方的に礼讃(らいさん)するのも、
どうかと思う。

だからいまだに、私は、こうした封建領主のゆかりの地を訪れるたびに、
ムラムラと疑問が、わいてくる。
もし今のまま、私が江戸時代に生まれていたら、反政府運動を起こして
いたかもしれない。
(由比正雪よろしく、あっという間に逮捕、投獄され、一族もろとも、
処刑されていただろうが……。)

●ゲーム『信長の野望』

……ということで、いつもこんなことを考える。
どこかの城を訪問するたびに、「この城を攻略するには、どこから
どのように攻めたらよいか」と。
実は、今日もそうだった。
(これはたぶんに、ゲーム『信長の野望』の影響かと思う。
少し前まで、私はあのゲームを、時間の合間に、よく楽しんだ。)

日本平へ向かう坂をのぼりながら、どうすれば久能山東照宮を攻略できるか、と。
一度、山火事で消失しているということだから、火攻めが効果的かもしれない。
久能山の下方から、風の強い日に、兵をあげるとか。
しかし東照宮など、攻略しても意味はない。
暴力で相手を破壊することはできても、それに代わる政権をどう樹立するか。
それを忘れて、改革は、ない。
日本の政治は、それでは変わらない。
(現在は、家康が「神様」として祭られているという。
つまり家康の墓所。)

日本平は、標高308メートルということらしい。
そこから東照宮(270メートル)までは、ロープウェイで、下へ。
(東照宮までは、下から石段で、1500段あまり。)
少しわかりにくいので、図示してみる。

                 ○(日本平)308メートル
              /〜〜〜〜
             /
        __●_/(久能山東照宮)270メートル
       /      
____/石段で、東照宮まで、1500段あまり。
海/

やはり国民を教育するしかない。
教育によって、国民の意識を変えていく。
時間はかかるが、そのほうが確実。

……ということで、またまた教育論。

●歴史

なぜ私たちが歴史を学ぶかといえば、過去の失敗や教訓を、未来へ生かすためである。
年号や名前など、暗記しても意味はない。
大切なのは、中身。

なぜ、そうなったか。
そのとき、人は、どうしたか。
その結果、どうなったか。
私たちは、それから何を学ぶか。
それを現在に、どう生かすか。
未来に向かって、どう生かすか。

無反省、無批判なまま歴史を踏襲するのは、むしろ危険なことでもある。
ときに為政者につごうのよいように、操られてしまう。

もちろん歴史は歴史だから、それなりに評価すべことは、評価しなければならない。
しかし信長にせよ、秀吉にせよ、また家康にせよ、忘れてならないことは、
彼らは、何も民衆のために立ち上がった英雄ではないということ。
ただ己の欲望を満たすため、日本を舞台に、国盗り物語を展開したにすぎない。
一般庶民など、奴隷以下。

……日本では、こういう意見を書くこと自体、色眼鏡で見られる。
「あの林は、おかしい」と。
しかしそうした色眼鏡そのものが、日本人特有の民族性によるものと考えてよい。
つまりそれくらい、日本人は、骨の髄の髄まで、魂を抜かれてしまっている。

一方、欧米では、ときの権力と戦った人ほど、英雄となっている。
またそういう人を、称える。
が、この日本では、それすらしない。
そういう人物すら、存在しない。
それも、考えようによっては、あの封建時代からつづく負の遺産という
ことになる。

……と書くと、「林の意見は、過激」と思う人も多いかと思う。
しかし私はおかしいものは、「おかしい」と、言っているだけである。

●いちご狩り

帰りに、久能山下の村で、石垣いちごを、食べた。
海岸沿いに、1500軒あまりの、いちご栽培農園が連なっている。
時期的に、今が食べごろとか。
おいしかった。

そこでのこと。
「40分間、食べ放題」ということだが、入り口には、「持ち帰りはできません」
と明記してある。

にもかかわらず、自分の袋やポケットにいちごを詰めて、持ち帰る人がいるのには、
驚いた。
しかも夫婦で、それをしている人がいた。

考えようによっては、よい夫婦ということになるが、しかしこういうケースでは、
たがいに戒(いまし)めあってこそ、夫婦。
「お前、そんなずるいことをしてはいけない」「あなたも、ね」と。
そういうやりとりが、たがいの人間性を高める。

で、私が見かけた夫婦は、妻が、布製の手提げのバッグの中にそれを入れていた。
夫のほうは、コートの内ポケットにそれを入れていた。
近くの売店では、ワンパック(12個入り)を、700〜800円で売っていた。

私とワイフがあきれてそれを見ていると、その夫婦は少し離れたところで、
あたかもたがいの戦利品を喜びあうように、それを見せあっていた。
言い忘れたが、夫のほうは、70歳くらい。
妻のほうは、66歳くらい。

妻のほうの、セカセカした、落ち着きのない動作が気になった。
こぎれいな服を着ていたが、顔には余裕がなかった。
一事が万事というか、その人の過去が、その表情に集約されているように感じた。

●世俗

だからといって、こうした世俗と自分を隔ててしまうのも、危険なことである。
世俗に染まれということではない。
つねに世俗の身をさらしながら、その中で世俗との接点を保つ。
免疫性を養う。
同じことが、教育論についても言える。

幼稚園の世界でも、問題のある子どもを見ながら、「親のしつけがなっていない」とか、
「親の顔が見てみたい」などと言う教師がいる。
しかしそういう教師というのは、自分で子育てをしたことがない教師とみてよい。
自分で子育てをしてみると、その考えというより、その考え方がまちがっていることを
知る。

思うようにならないのが、子育て。
いくらがんばっても、ときとして、子どもは別の方向へ行ってしまう。
つまり「世俗との接点」というのは、それをいう。
その接点を忘れると、教育観のものが、社会から遊離してしまう。
人生観も、また同じ。

たまたまいちご園で、えげつない夫婦を見た。
しかし彼らが見せた姿こそが、まさに(世俗)ということになる。
私たちはその世俗を離れて、人間、なかんずく、社会的人間ではありえない。

大切なことは、そういう人たちを見ながら、「では私自身はどうか」と、
自分自身を見つめなおすこと。
えげつない他人を見て、同じような部分が自分の中にあることを知ったら、
それと闘う。
闘うことによって、自分をさらに高い位置に置く。

●終わりに

久能山を出て、東名高速道路に入るころには、すでにあたりは、なんとなく暗かった。
時計を見ると、午後3時40分。
空は重い雲に覆われていた。
低い位置にぼんやりとした夕日が輝いていたが、どこか元気がなかった。

横を見ると、ワイフは腕組みをしたまま、目を閉じていた。
まだ風邪の後遺症が残っているようだ。
寿司も、いちごも、あまり食べなかった。
そのつど「食欲がない」と言った。

そうそう久能山東照宮では、私たちは意図的に石段を速く上ったり、下りたりした。
このところの運動不足を補うためもあった。
その疲れが出たのかもしれない。

静かなひととときだった。
今日のバスガイドは、比較的静かなほう。
それがありがたかった。
私も静かに目を閉じた。
ほっとした安堵感を覚えた。

1月x日、月曜日記。


(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
久能山 東照宮 いちご狩り イチゴ狩り 日本平)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●怒り

++++++++++++++++++

新聞に、若年アルツハイマー病にかかった
男性についての記事が載っていた(中日新聞・1・5)。
45歳ごろから異変が現れる。
52歳で、アルツハイマー病と診断されたという。
で、その初期症状として、その男性のばあい、
怒りっぽくなったことが書いてあった。
「なんだと!」「バカにしているのか!」とか、
など。
とくに食事中のとき、怒りっぽくなったという。

+++++++++++++++++++++

●怒りっぽくなる?

この記事を読みながら、ワイフがこう言った。
「アルツハイマー病になると、怒りっぽくなるのかしら?」と。
しかしそれは怒りっぽくなるというよりは、理性のコントロールがきかなくなるため
と考えるほうが正しいのでは?
素人判断なので、正しくないかもしれないが、私はそう思った。

このことはピック症候群による症状と比べてみると、よくわかる。
ピック症候群でも、やはり前頭前野の機能が著しく低下するという。
ただ頭頂葉のほうはそのままであることがあるので、「話すことだけは一人前」
という状態になるらしい。
見た感じ、いつもプリプリと怒ってばかりいるような雰囲気になる。

が、こういう記事を読むたびに、ドキッとするほど、衝撃を受ける。
私というより、私の身近にも、似たような人がいる。

●Dさん(女性、70歳くらい)

このところDさんと連絡を取るのが、不安でならない。
Dさんの夫と、この15年近く、一緒に仕事をしている。
そういう関係もあって、Dさんを無視するわけにもいかない。
が、そのDさん、連絡を取るたびに、様子が大きく変化する。

妙に親切だなと思っていると、つぎのときには、反対に、つっけんどんになるなど。
つかみどころがない。
先日も、電話が終わったあと、私のほうが何かまずいことをしたのではないかと、
心配になってしまった。

で、事件が起きた。
あることで、Dさんに電話をしていると、Dさんが、ことこまかに、あれこれと私に
指示をした。
その上、くどくどと、同じようなことを何度も繰り返した。
そこで私が、「私は、そんなバカではありませんから……」と言うと、Dさんは
突然電話の向こうでヒステリックな声を張り上げて、こう叫んだ。

「私だって、バカではありません!」と。

私は何もDさんが、バカと言ったつもりはなかった。
が、何をどう勘違いしたのか、Dさんは、そのまま怒り出してしまった。

●周囲への影響

新聞の記事では、当然のことながら、そのアルツハイマー病の男性について書いていた。
もちろん、それはそれとして、つまりそうした病気になって、一番苦しんでいるのは、
本人自身。
それはよくわかる。
しかしそれ以上に、あるいはそれと同じくらい、その周りの人たちも、苦しむ。
事実、手記の中には、こうあった。
「(夫が)小刻みに右手を振っているのを見ただけで、怒りがこみあげてきた」と。
その夫の妻の言葉である。

アルツハイマー病は、けっして本人だけの問題ではない。
こんな例もある。
これはある幼稚園の園長から聞いた話である。
その園長が、まだ若いころの話である。

その園長が、(Aさんとしておく)、ある日、そのとき自分が勤めていた幼稚園へ行くと、
当時の園長がつかつかとその園長のところへやってきて、こう言ったという。

「君は、明日から、この園に来なくていい」「君がいると、この幼稚園はつぶれて
しまう」と。

そのときAさんは、頭の中が真っ白になってしまったという。
大学を出て、幼稚園の教師になって、5年目のことだった。
で、Aさんは、そのまま退職。
公立の幼稚園に新しい職場を求めて、再出発をすることになった。
Aさんは、こう言った。

「ずっとあとになって、当時のあの園長がしたことは、アルツハイマー病の
症状のひとつとわかりましたが、そのときはそうではありませんでした。
私は悔しくて悔しくて、それから一か月ほど、夜も体がほてって、眠れません
でした」と。

Aさんをクビにした園長は、その後、アルツハイマー病と診断され、さらにその
少しあと、そのまま亡くなってしまった。

●早期発見、早期対策

ことアルツハイマー病について言えば、早期発見、早期対策が必要なことは、
今さらここに書くまでもない。
が、それは何も、本人のためだけではない。
周りの人たちのためでもある。
とくに初期症状を示すころは、その病気とわかりにくい。
そのため周囲の人たちも、どこか「?」と思いながら、その判断に苦しむ。
苦しみながら、本人の心ない言葉に傷ついたりする。

相手の気持ちにお構いなしに、ズケズケとものを言う。
ふつうなら笑ってすますようなばあいにも、激怒する。
ささいな、どうでもよいことに、強いこだわりを示す。
言っていることが、コロコロと変わる。
気分の変化がはげしい。
「何かをした」というエピソードそのものを、忘れてしまう、など。

これらの症状は、現在のDさんについて、私が感じていることである。
もちろんまだ、Dさんが、アルツハイマー病と決まったわけではない。
「?」とは思っているが、病院で、正式に診断されたわけでもない。
が、ここでも、また別の問題が起きつつある。

私はDさんの夫とは、親しい。
先ほども書いたように、仕事もいっしょにしている。
そこでそのことを、それとなくDさんの夫に伝えようとしているのだが、
Dさんの夫自身に、それを聞く耳がないということ。
その話をしようとしたとたん、Dさんの夫も、怒り出してしまう。

「うちの家内は、思い込みは激しいかもしれないが、頭は、どこも悪くない!」と。

おそらく夫も、何か、心当たりがあるのだろう。
それだからこそ、それを強く否定する。
もしそういう心配が何もないなら、笑ってすませるはずである。

●明日はわが身

こうした問題は、いつも「明日はわが身」と、いつもそのまま自分に直結してくる。
私だけが例外ということはありえない。
ものの名前が浮かんでこないときも、あるいはものを置き忘れても、「もしや!」と、
自分を疑う。
実際には、ものの名前が浮かんでこないようなときには、「アイウエオ、カキクケコ……」
と、順に頭の中で、言葉をさがす。

新聞記事ではあるにせよ、一字一句、一文字も逃さないように、私は読んだ。
なお、その記事の中の男性は、現在は、専門の施設に入り、その中で介護を受けながら、
楽しそうに毎日を過ごしているという。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●医師の偏在問題
                                    

++++++++++++++++

医学部の学生は、6年間の学生生活を

+++++++++++++++++

医師がもうからないというのは、ウソ。
実際には、医師になって2年目程度で、
平均年収は、2000万円を超える。
開業すれば、それこそ上限はない。
保険収入をのぞいて、一日の現金収入だけ
で、100万円を超える開業医は、いくらでも
いる。

が、その分だけ、重労働ということになる。
責任も重い。
それに職場は、3K(臭い、汚い、苦しい)。
それなりの立場が保障されなければ、医師に
なる人など、いなくなってしまう。

「2年目で2000万円」というのも、妥当な
収入ではないか。

が、今、問題になっているのは、そのことではない。
医師が都市部の特定の科目に偏在するようになってしまい、
地域によっては医師が不足したり、大病院においてすら、
診療科目がなくなってしまうようになった。
ではどうするか。

いろいろな改革案が考えられているが、どれもそのまま
社会保障費の高騰に直結する。
「今の制度がもっとも効率的で、安価」(医師会側)
ということであれば、改革は容易ではない。

もうひとの解決策は、医学部の定員を、現在の1・5
倍程度にふやすというのがある。
しかしこれには、現役の医師たちが反対している。
「医師の数がふえれば、その分、取り分が減る」
というわけである。

で、もうひとつの解決策としては、(当然、そのあたりの
ことは、厚生労働省も徹底的に調査しているだろうが)、
イギリスのファミリィ・ドクター制度の導入がある。

それについてはすでに何度も書いてきたので、ここでは
省略するが、しかしこれはそのまま私たち自身の問題
と考えてよい。

これは私だけの印象かもしれないが、今回、母や兄の
末期医療をみながら、こんなことを感じた。
ここ10年、あるいは20年かもしれないが、
医療そのものが、事務化しているということ。
母のときも、92歳という高齢ということもあったが、
担当の医師は、こう言った。
「検査はしますが、延命処置は、もうしません」
「天命と思ってください(=あきらめろ)」と。

兄のときも、こう言われた。
「私は、治る見込みのある患者さんは治療しますが、
そうでない患者さんについては、治療しません」と。
兄のばあい、そのとき(治る見込みのない患者)という
ことになっていた。
年齢は、67歳だった。

で、義兄もこう言った。
「75歳以上になると、がんでも、もう手術してもらえない
ようだ」と。

もちろん年齢によって線引きがあるわけではない。
「75歳」という年齢は、あくまでも義兄の意見である。

(ただし、前立腺がんのような、「おとなしいがん」のばあいは、
75歳以前であれば、できるだけ手術で治療し、75歳以後で
あれば、ホルモン療法を中心にするという話は聞いている。
義兄は、その前立腺がんだった。
年齢はそのとき、ギリギリの74歳だった。)

しかしこれから先、その年齢が引き下げられることはあっても、
引き上げられることは、まず、ない。
しかし医療というのは、本来、そうであってはいけないはず。
「命」に年齢は、関係ないはず。
(……というのも、少しきれいごとすぎるかもしれないが……。)

ともかくも、老人医療にかぎらず、医療が事務化するという
のは、若い人たちにとっても、けっして好ましいことではない。
「やるべきことはやります」「しかしあとは知りません」という
のは、医療本来のあるべき姿ではない。

都市部の、より楽に稼げる科目に医師が集中し始めているというのは、
あくまでも、その結果でしかない。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
医師の偏在 偏在問題)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●他人の不幸話

++++++++++++++++++++

人は、ときとして、心のどこかで他人の
不幸を願うことがある。

『他人の不幸話(悪口)ほど、おもしろいものはない』
と書き残した文人さえいる。
しかしこれほど悪魔的な発想は、そうはない。

++++++++++++++++++++

●他人の不幸

私の周りにも、何人か、不愉快な人たちがいる。
「敵」というふうには思ったことはないが、それを薄めたような人たちである。
で、そういう人たちを思い浮かべながら、冒頭に書いた悪魔的な発想を
もつことがある。
「あんなヤツは、〜〜になってしまえばいい」と。

しかしそういう発想に毒されると、心そのものが腐る。
しばらくそれに浸(ひた)っていると、自分の人間性そのものが低下していくのが
わかる。
が、それだけではない。

『他人の不幸を願った者は、その分だけ、今度は自分が不幸になる』。

これは私が考えた格言だが、それには理由がある。
わかりやすい例でいえば、たとえば、『他人の失敗を笑った人ほど、笑った
分だけ、自分が苦しむ』ということがある。
こんなことがあった。

●出身校

私が住む浜松市では、出身高校でその人の価値を判断するという、イヤ〜ナ
雰囲気がある。……あった。
(最近は、そういう雰囲気は、減ってきたようだが……。)

で、その母親は、ことあるごとに自分がSS高校出身であることを、自慢していた。
それとなく会話の中へ、自分の出身校を、織り込む。
「いえね、今度、SS高校の同窓会がありましてね……」とか、何とか。
そしてその返す刀で、他人を批判するときは、こう言う。
「あの方って、CC高校出身なんですってねエ〜」「あの方は、DD高校出身
だそうですが、よくがんばっておられますわよネ」とか、など。

私が浜松へ来た40年前には、こうした会話は、いたるところで聞かれた。
「江戸時代の身分制度のよう」と、私はそのとき、そう思った。

そんなとき、自分の娘の進学問題が起きてきた。
が、その娘には、その(力)がなかった。
だから夜な夜な、母と娘は、「勉強しなさい!」「うるさい!」の大乱闘を
繰り返すことになった。

●自分のレベル

自分よりレベルの低い人は相手にしない。
そういう人を相手にしていると、いつの間にか、自分までレベルが低く
なってしまう。
つまりその人の不幸を願ったり、悪口を言ったりする人というのは、
そのレベルの低い人ということになる。

またそういう人であるなら、あなたがあえてその人の不幸を願わなくても、
5年、10年という単位で、やがて自ら墓穴を掘っていく。
運命というのは、そういうもの。
つまり運命というのは、自分の知らないところで、自分で自ら、作っていくもの。

もしそれだけのエネルギーがあるなら、もっとほかのことで消耗したほうがよい。
「敵」ということを考えるなら、私やあなたの敵は、国家であり、社会であり、
さらには、この地球ということになる。
そこらの個人を相手にしても、意味はない。
時間の無駄。
愚かでバカな人というのは、どこにでもいる。
1人や2人つぶしたところで、何も変わらない。

たとえば私の近くにも、一生懸命、策をめぐらしながら、私から小銭を奪おうと
考えている人がいる。
そのためにウソを並べたり、インチキを重ねたりしている。
しかしそういう人はそういう人で、無視するのがいちばん、よい。
本気で相手にしたとたん、相手の毒牙にかかってしまう。
たかが小銭ではないか……!

だから……。
『愚かな人のために、祈る』などという高尚なことは私にはできないが、
「あわれな人だ」と同情することくらいなら、私にもできる。
ひょっとしたら、あなたにも、できる。

もしあなたが心のどこかでふと、他人の不幸を望むようなことがあれば、
ここに書いたことを思い出してみてほしい。
けっして、うつむいて、うしろを見てはいけない。
顔をあげて、前を見る。
と、同時に、あなたはその前に、広くて、おおらかな世界を見るはず。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
他人の不幸 悪口 不幸話 はやし浩司 悪口ほど)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●愛他的自己愛者(偽善者)

+++++++++++++++++

私の知人に、こんな女性(当時55歳くらい)がいた。
その女性は、何でも、ボランティア活動として、近所の
独居老人の世話をして回っているという。
そういう話を、その女性から直接、聞いた。

「どんなことをしているのですか?」と聞くと、
その女性は、ことこまかに、あれこれと説明してくれた。
で、あるとき、こんな会話をしたのを覚えている。

私がその話に少なからず感動し、「すばらしいことです」と
言ったときのこと。
その女性は、さらにこう言った。
「いえいえ、私なんか、何でもありません。
私の友人のHさんなんかは、独居老人の入浴を手伝っていますよ。
でね、入浴中に、老人が、便をもらすこともあるそうです。
が、Hさんは、そうした便を、手ですくって、外へ捨てていますよ」と。

さらに驚いたことに、話を聞くと、そのHさんというのは、まだ
20代の後半の男性と言った!

私は当時、この話を聞いて、心底、感動し、エッセーも書き残した。

しかし、である。
どうも、この話は、おかしい。
どこか、へん。

+++++++++++++++++++

その人が善行をなすには、その人自身を支える、(周囲文化)というものが必要である。
たとえば自動車産業というものを考えてみよう。
自動車産業が生まれるためには、それを支える周辺の技術、研究、環境が必要である。
人材ももちろん、育成しなければならない。
そういった(周囲)もないまま、自動車産業だけが、忽然(こつぜん)と、
姿を現すということはありえない。

そこで私は、その女性の周辺に興味をもつようになった。
どういう生い立ちで、どういう人生を送ってきたか、などなど。
またその女性を支えている哲学は何か、とも。

しかし、である。
それから5、6年になるが、どこをどうつついても、その(周囲文化)というものが、
浮かび上がってこない。
それなりの基礎があったとか、経験があったとかいうなら、まだ話がわかる。
また会話をしていて、それなりの(深み)を感ずるというのなら、まだ話がわかる。
しかしそういうものが、まったく、ない。
だいたい、本を読んだことさえないという。
音楽も絵画もたしなまない。

そのうち私は、「どうしてそんな女性が、ボランティア活動?」と、疑問に思うように
なった。
が、やがていろいろな情報が入ってくるようになった。

その女性は、ケチの上に、「超」が三つも四つも重なるような女性である。
子どもの教育費すら、惜しんで出さなかったという。
2人の娘がいたが、「大学を出すと、遠くの男と結婚するから」という理由で、
娘たちには、大学へは行かせなかった。
が、世間体だけは人一倍気にしていた。
見栄っぱりで、虚栄心が強かった。
が、決定的だったのは、その女性が、一方でボランティア活動を他人に吹聴しながら、
その前後から始まった実父の介護では、虐待に近いことをしていたということ。

この話を、私はあるケアマネ(ケア・マネージャー)をしている人から聞いた。
そのときには、「ヘエ〜、あの女性がですか……」と言ったきり、言葉が詰まってしまった。

つまりその女性は、ボランティア活動を、自分を飾るための道具として利用していただけ。
口もうまい。
言葉も巧み。
それとなく会話の中に、自分の善行を織り交ぜながら、相手を煙に巻く。
結果として、他人に、自分はすばらしい人間と思わせる。

「明日、町内の会合があるそうですが、私は行けません。
主人に代わりに行ってもらいます。
私には、一人、近所で、気になっている老人がいますので、その人を見回って
あげなければなりません。
かわいそうな人でね。
子どもは1人いるのですが、数年に1、2度、やってくるかどうかという人です。
あわれなもんです。
先日も、何かの書類が必要だというので、その老人のために、私は半日かけて
書類を集めてやりました」とか、何とか。

つまり一貫性がない。

そこまで親身になって独居老人の世話をしているというのなら、それなりの一貫性が
なければならない。
その一貫性が、こちら側に伝わってこなければならない。
さらに言えば、そこに至るまでのプロセスに、(自然さ)がなければならない。

たとえば以前、ある大学の教授の家を訪問したときのこと。
たまたまそこに、カンボジアの難民キャンプから帰ってきたばかりという女性がいた。
その女性は、左手を怪(けが)したとかで、まだ大きな包帯を幾重にも巻いていた。
「暴動に巻きこまれて、怪我をしました」「それで休暇をもらって、日本へ帰ってきて
います」ということだった。

そういう女性と話していると、(自然さ)を感ずる。
深い人間愛というか、人間味を感ずる。
哲学や人生観を感ずる。
どこにもスキがない。
私がここでいう(一貫性)というのは、それをいう。

で、私たちの世界では、先に書いたような女性のことを、「愛他的自己愛者」、つまり、
「偽善者」という。
もっとも軽蔑すべき人間ということになる。
なるが、先に書いたケアマネの人は、こう言って教えてくれた。

「そういう女性だとわかっていますが、そういう人でも、何かと助かっています」と。
偽善がときには、真善になるということもあるということか。
私には、とてもマネできないことだが……。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【末那識(まなしき)】

●偽善

 他人のために、善行をほどこすことは、気持ちがよい。
楽しい。
そう感ずる人は、多い。
俗にいう、「世話好きな人」というのは、そういう人をいう。
しかしそういう人が、本当に他人のことを思いやって、そうしているかと言えば、それは
どうか?

実は、自分のためにしているだけ……というケースも、少なくない。

このタイプの人は、いつも、心のどこかで、たいていは無意識のまま、計算しながら行動
する。
「こうすれば、他人から、いい人に思われるだろう」「こうすれば、他人に感謝されるだろ
う」と。
さらには、「やってあげるのだから、いつか、そのお返しをしてもらえるだろう」と。

心理学の世界でも、こういう心理的動作を、愛他的自己愛という。
自分をよく見せるために、他人を愛しているフリをしてみせることをいう。
しかしフリは、フリ。
中身がない。仏教の世界にも、末那識(まなしき)という言葉がある。
無意識下のエゴイズムをいう。わかりやすく言えば、偽善。

 人間には、表に現われたエゴイズム(自分勝手)と、自分では意識しない、隠されたエ
ゴイズムがある。
表に現れたエゴイズムは、わかりやすい。自分でも、それを意識することができる。

 しかし、この自分では意識しない、隠されたエゴイズムは、そうでない。
その人の心を、裏から操る。
そういう隠されたエゴイズムを、末那識というが、仏教の世界では、この末那識を、強く
戒める。

 で、日本では、「自己愛」というと、どこか「自分を大切にする人」と考えられがちであ
る。しかしそれは誤解。自己愛は、軽蔑すべきものであって、決して、ほめたたえるべき
ものではない。

 わかりやすく言えば、自己中心性が、極端なまでに肥大化した状態を、「自己愛」という。
どこまでも自分勝手でわがまま。
「この世界は、私を中心にして回っている」と錯覚する。「大切なのは、私だけ。あとは、
野となれ、山となれ」と。

 その自己愛が基本にあって、自己愛者は、自分を飾るため、善人ぶることがある。繰り
かえしになるが、それが愛他的自己愛。つまり、偽善。

 こんな例がある。

●恩着せ

 そのときその男性は、24歳。その日の食費にも、ことかくような貧しい生活をしてい
た。

 その男性から、相談を受けたXさん(女性、40歳くらい)がいた。その男性と、たま
たま知りあいだった、そこでXさんは、その男性を、ある陶芸家に紹介した。
町の中で、クラブ制の窯(かま)をもっていた。
教室を開いていた。その男性は、その陶芸家の助手として働くようになった。

 が、それがその男性の登竜門になった。その男性は、思わぬ才能を発揮して、あれよ、
あれよと思う間に、賞という賞を総なめにするようになった。20年後には、陶芸家とし
て、全国に、名を知られるようになった。

 その男性について、Xさんは、会う人ごとに、こう言っている。

 「あの陶芸家は、私が育ててやった」「私が口をきいてやっていなければ、今でも、貧乏
なままのはず」「私が才能をみつけてやった」と。
そして私にも、こう言った。

 「恩知らずとは、ああいう人のことを言うのね。あれだけの金持ちになっても、私には
1円もくれない。あいさつにもこない。盆暮れのつけ届けさえくれない」と。

 わかるだろうか?

 このXさんは、親切な人だった。そこでその男性を、知りあいの陶芸家に紹介した。
が、その親切は、ある意味で、計算されたものだった。
本当に親切であったから、Xさんは、その男性を、陶芸家に紹介したわけではなかった。
それに一言、つけ加えるなら、その男性が、著名な陶芸家になったのは、あくまでもその
男性自身の才能と努力によるものだった。

 ここに末那識(まなしき)がある。

●愛他的自己愛

 この末那識は、ちょっとしたことで、嫉妬、ねたみ、ひがみに変化しやすい。
Xさんが、「恩知らず」とその男性を、非難する背景には、それがある。そこで仏教の世界
では、末那識つまり、自分の心の奥底に潜んで、人間を裏から操(あやつ)るエゴイズム
を、問題にする。

 心理学の世界では、愛他的自己愛というが、いろいろな特徴がある。ここに書いたのは、
偽善者の特徴と言いかえてもよい。

(1)行動がどこか不自然で、ぎこちない。
(2)行動がおおげさで、演技ぽい。
(3)行動が、全体に、恩着せがましい。
(4)自分をよく見せようと、ことさら強調する。
(5)他人の目を、強く意識し、世間体を気にする。
(6)行動が、計算づく。損得計算をいつもしている。
(7)裏切られるとわかると(?)、逆襲しやすい。
(8)他人をねたみやすく、嫉妬しやすい。
(9)他人の不幸をことさら笑い、話の種にする。

 こんな例もある。同じ介護指導員をしている、私の姉から聞いた話である。

●Yさんの仮面

 Yさん(60歳、女性)は、老人介護の指導員として、近所の老人家庭を回っていた。
介護士の資格はもっていなかったから、そのため、無料のボランティア活動である。

 とくにひとり住まいの老人の家庭は、数日ごとに、見舞って、あれこれ世話を焼いてい
た。
もともと世話好きな人ということもあった。

 やがてYさんは、町役場の担当の職員とも対等に話ができるほどまでの立場を、自分の
ものにした。
そして市から、介護指導員として、表彰状を受けるまでになった。

 だからといって、Yさんが、偽善者というわけではない。
またYさんを、非難しているわけでもない。仮に偽善者であっても、そのYさんに助けら
れ、励まされた人は、多い。
またYさんのような親切は、心のかわいたこの社会では、一輪の花のように、美しく見え
る。

 が、Yさんは、実は、そうした老人のために、指導員をしているのではなかった。
またそれを生きがいにしていたわけでもない。
Yさんは、「自分が、いい人間に思われることだけ」を考えながら、介護の指導員として活
動していた。

 みなから、「Yさんは、いい人だ」と言われるために、だ。Yさんにしてみれば、それほ
ど、心地よい世界は、なかった。

 しかしやがて、そのYさんの仮面が、はがれる日がやってきた。

 Yさんが、実父の介護をするようになったのである。

実父は、元気な人だったが、脳梗塞(こうそく)を起こしてしまった。
トイレや風呂くらいは、何とか自分で行けたが、それ以外は、寝たきりに近い状態になっ
てしまった。
年齢は、73歳(当時)。

 最初は、Yさんは、このときとばかり、介護を始めたが、それが1か月もたたないうち
に、今度は、実父を虐待するようになった。
風呂の中で、実父が、大便をもらしたのがきっかけだった。

 Yさんは、激怒して、実父に、バスタブを自分で洗わせた。
実父に対する、執拗な虐待が始まったのは、それからのことだった。

 食事を与えない。与えても、少量にする。
同じものしか与えない。初夏の汗ばむような日になりかけていたが、窓を、開けさせない。
風呂に入らせない。
実父が腹痛や、頭痛を訴えても、病院へ連れていかない、など。

 こうした事実から、介護指導員として活動していたときの、Yさんは、いわば仮面をか
ぶっていたことがわかったという。
ケアマネの人は、こう言った。

 「他人の世話をするのは、遊びでもできるけど、身内の世話となるいと、そうはいかな
いからね」と。

●子育ての世界でも

 親子の間でも、偽善がはびこることがある。無条件の愛とか、無償の愛とかはいうが、
しかしそこに打算が入ることは、少なくない。

 よい例が、「産んでやった」「育ててやった」「言葉を教えてやった」という、あの言葉で
ある。
昔風の、親意識の強い人ほど、この言葉をよく使う。

 中には、子どもに、そのつど、恩を着せながら、その返礼を求めていく親がいる。
子どもを1人の人間としてみるのではなく、「モノ」あるいは、「財産」、さらには、「ペッ
ト」としてみる。
またさらには、「奴隷」のように考えている親さえいる。

 息子(当時29歳)が、新築の家を購入したとき、その息子に向って、「親よりいい生活
をするのは、許せない」「親の家を、建てなおすのが先だろ」と、怒った母親さえいた。

 あるいは結婚して家を離れた娘(27歳)に、こう言った母親もいた。

 「親を捨てて、好きな男と結婚して、それでもお前は幸せになれると思うのか」「死んで
も墓の中から、お前を、のろい殺してやる」と。

 そうでない親には、信じがたい話かもしれないが、事実である。
私たちは、ともすれば、「親だから、まさかそこまではしないだろう」という幻想をもちや
すい。
しかしこうした(ダカラ論)ほど、あてにならないものはない。

 親にもいろいろある。

 もっとも、こうしたケースは、稀(まれ)。
しかしそれに近い、代償的過保護となると、「あの人も……」「この人も……」というほど、
多い。

●代償的過保護

 代償的過保護……。ふつう「過保護」というときは、その奥に、親の深い愛情がある。
愛情が基盤にあって、親は、子どもを過保護にする。

しかし代償的過保護というときは、その愛情が希薄。あるいはそれがない。「子どもを自分
の支配下において、自分の思いどおりにしたい」という過保護を、代償的過保護という。

 見た目には、過保護も、代償的過保護も、よく似ている。
しかし大きくちがう点は、代償的過保護では、親が子どもを、自分の不安や心配を解消す
る道具として、利用すること。
子どもが、自分の支配圏の外に出るのを、許さない。よくある例は、子どもの受験勉強に
狂奔する母親たちである。

 「子どものため」を口にしながら、その実、子どものことなど、ほとんど考えていない。
人格さえ認めていないことが多い。
自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに強要することもある。
世間的な見得、メンツにこだわることもある。

 代償的過保護では、親が子どもの前に立つことはあっても、そのうしろにいるはずの、
子どもの姿が見えてこない。

 つまりこれも、広い意味での、末那識(まなしき)ということになる。
子どもに対する偽善といってもよい。
勉強をいやがる息子に、こう言った母親がいた。

 「今は、わからないかもしれないけど、いつか、あなたは私に感謝する日がやってくる
わよ。SS中学に合格すれば、いいのよ。お母さんは、あなたのために、勉強を強いてい
るのよ。わかっているの?」と。

●教育の世界でも

 教育の世界には、偽善が多い。
偽善だらけといってもよい。
教育システムそのものが、そうなっている。

 その元凶は「受験競争」ということになるが、それはさておき、子どもの教育を、教育
という原点から考えている親は、いったい、何%いるだろうか。
教師は、いったい、何%いるだろうか。

 教育そのものが、受験によって得る欲得の、その追求の場になっている。
教育イコール、進学。
進学イコール、教育というわけである。

さらに私立中学や高校などにいたっては、「進学率」こそが、その学校の実績となっている。
今でも夏目漱石の「坊ちゃん」の世界が、そのまま生きている。
数年前も、関東地方を中心にした、私立中高校の入学案内書を見たが、どれも例外なく、
その進学率を誇っていた。

 SS大学……5人
 SA大学……12人
 AA大学……24人、と。

 中には、付録として、どこか遠慮がちに別紙に刷りこんでいる案内書もあったが、良心
的であるから、そうしているのではない。
毎年、その別紙だけは、案内書とは分けて印刷しているために、そうなっている。

 この傾向は、私が住む、地方都市のH市でも、同じ。
どの私立中高校も、進学のための特別クラスを編成して、親のニーズに答えようとしてい
る。

 で、さらにその元凶はいえば、日本にはびこる、職業による身分差別意識と、それに不
公平感である。
それらについては、すでにたびたび書いてきたのでここでは省略するが、ともかくも、偽
善だらけ。

 つまりこうした教育のあり方も、仏教でいう、末那識(まなしき)のなせるわざと考え
てよい。

●結論

 私たちには、たしかに表の顔と、裏の顔がある。
文明という、つまりそれまでの人間が経験しなかった、社会的変化が、人間をして、そう
させたとも考えられる。

 このことは、庭で遊ぶスズメたちを見ていると、わかる。
スズメたちの世界は、実に単純、わかりやすい。礼節も文化もない。
スズメたちは、「生命」まるだしの世界で、生きている。

 それがよいとか、はたまた、私たちが営む文明生活が悪いとか、そういうことを言って
いるのではない。

 私たち人間は、いつしか、自分の心の奥底に潜む本性を覆(おお)い隠しながら、他方
で、(人間らしさ)を追求してきた。
偽善にせよ、愛他的自己愛にせよ、そして末那識にせよ、人間がそれをもつようになった
のは、その結果とも言える。

 そこで大切なことは、まず、そういう私たち人間に、気づくこと。
「私は私であるか」と問うてみるのもよい。
「私は本当に善人であるか」と問うてみるのもよい。あなたという親について言うなら、「本
当に、子どものことを考え、子どものために教育を考えているか」と問うてみるのもよ
い。

 こうした作業は、結局は、あなた自身のためでもある。あなたが、本当のあなたを知り、
ついで、あなたが「私」を取りもどすためでもある。

 さらにつけたせば、文明は、いつも善ばかりとはかぎらない。
悪もある。その悪が、ゴミのように、文明にまとわりついている。それを払いのけて生き
るのも、文明人の心構えの一つということになる。
(はやし浩司 末那識 自己愛 偽善 愛他的自己愛 愛他的自己像 私論)
(050304)

【補記】

●みんなで偽善者を排斥しよう。偽善者は、そこらの犯罪者やペテン師より、さらに始末
が悪い。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●臨死体験

++++++++++++++++++

それにしても、ひどい三日酔いだった。
風邪の症状も、それに加わった。
そのときのこと。
私は二日酔いの症状のひとつである、
厭世(えんせい)気分というのを味わった。
これはたぶんに、脳内の脳間伝達物質の
変調によるものだと思う。

感情の鈍麻(愛犬がただの犬に見えた)、
空虚感(何をしても根気がつづかず、空しく感じた)、
思考力の低下(何も考えることができなかった)、そして、
厭世気分(何ごとも、どうでもよくなってしまった)。

私は布団の中で、暗い天井を見上げながら、
ふと「死ぬときはこんな気分だろうな」と思った。
「いつ死んでも構わない」という気分にもなった。
しかし、おかしなことに、たいへんおかしなことに、
死ぬことがこわいという思いは、ほとんどなかった。

「思う存分生きてきたではないか」
「これ以上、何ができる」と。

おかしな満足感だった。
つまりこれはまったく私が予想していなかったことである。
私はいつも、こう思っていた。
「私のような往生際(おうじょうぎわ)の悪い
人間は、いざ死ぬというときになると、ギャーギャーと
大騒ぎするだろうな」と。
そのこともあって、死ぬということが、こわい。
……こわかった。
「生きることは、死の恐怖と闘うことである」などと
書いたこともある。

しかしそのときは、ちがった。
「このまま死ねるなら、それはそれで構わない」とさえ、
思った。

言いかえると、「生きたい」という思いも、
「死にたい」という思いも、私でない(私)によって
操作された結果として生まれる(思い)ということになる。

「死にたくない」という思いも、「死ぬのがこわい」という
思いも、同様に考えてよいのでは(?)。
で、私は最終的にはこう思った。
「意外と、そのときはそのときで、死を受容し、
気楽に死ねるのではないか」と。

こういうのは「臨死体験」とは言わないが、
しかし私は、そのとき、死の心理体験をしたことになる。

+++++++++++++++++++

若いころ、恩師の松下哲子(のりこ)先生に、こう聞いたことがある。
先生はそのとき80数歳を過ぎていた。
長い廊下になった縁側に座り、先生に、ふとこう聞いたときのこと。
「先生、人間というのは、歳をとると、死ぬことがこわくなくなるものですか?」と。

松下先生は、縁側で丸い背をかがめながら、こう言った。
「林さん、人間というのは、いくつになっても、死ぬのはこわいもんですよ」と。

私はこの言葉に驚いた。
松下先生は、若いときから幼児教育に情熱を燃やし、それをやり尽くした人である。
そのときも新しい園舎の建築もすませ、まさに円熟の境地に達していたはず。
松下先生の銅像も完成していた。
「松下先生の立場なら、いつ死んでもよいという覚悟ができていてもおかしくないはず」
と、私は考えた。

が、先生は、率直に、「こわい」と言った。
そこでたぶん、こういう会話をしたと思う。
「そういうものですか?」「そういうもんです」と。

だから私は自分に自信がもてなくなってしまった。
松下先生のような人物ですら、そう言った。
私より、何倍も、密度の濃い人生を送った人である。
しかも当時の松下先生は、80歳を過ぎていた。

で、私はそのあとこう思った。
私にも、いつかその日がやってくる。
しかしその日まで、私は死をこわがりながら生きる。
それしかない、と。
(死の克服)というのは、それほどまでにむずかしいことだ、と。

が、それがあっさりと、ひっくり返ってしまった。
たしかに私は厭世気分というのを味わった。
そして死への恐怖感が、一時的であるにせよ、薄らいだ。
薄らいだというより、消えた。
だから少しおかしな言い方に聞こえるかもしれないが、私はこう思った。

「これなら、いけるぞ」と。

つまり、そのときがきたら、意外とあっさりと死ねるのではないか、と。
が、それには条件がある。
そのときまで、生きて生きて、生きまくる。
精一杯、自分を燃焼させる。
「やるだけのことは、やった」という思いが、そのとき、「もう死んでも構わない」
という思いにつながる(?)。

まだここでは(?マーク)をつけたままにしておくが、どうも、そういうことでは
ないだろうか。

……いや、ちがう!

ここまで自分の書いた文章を読みなおしてみて、こう思った。
「生きたい」「死にたくない」という思いは、最近の研究によれば、どうやら
脳下垂体にある視床下部あたりから生まれていることがわかってきた。
そこから強力なシグナルが発せられ、それが「生きたい」という人間のもつ、
根源的な生命力の原泉につながっていく。
フロイトが説いた「性的エネルギー」、あるいはユングが説いた「生的エネルギー」
と同じに考えてよい。
人間にかぎらない。
あらゆる動物も同じと考えてよいが、ともかくも、そのシグナルが弱くなれば、
当然、「生きたい」という意欲も、弱くなってくる。……はず。

私が経験した厭世気分というのは、そのシグナルが変調、もしくは、弱くなった状態と
考えられないだろうか。
で、もしそうなら、何も、それまで生きて、生きて、生きまくるなどと気張らなくても、
だれしも、そのときがきたら、気楽に死の受容ができるということになる。
何もあえて、マズローの死の受容段階論など、とりあげる必要はない。
みな、ゆくゆくは、自ら、死を受容するようになる。

で、「生きたい」という思いが、実は(作られた意識)であるとするなら、
「死にたい」という思いもまた、(作られる意思)ということになる。
要するに、そのときは、そのとき。
そのときがくるまで、とにかく、生きる。
それでよい。
あとは脳のほうが勝手に意思を作ってくれる。
「死にたい」あるいは、「死んでもいい」という意思を勝手に作ってくれる。
そしてそのときは、そのときで、静かに死ねる。
今から、「死ぬのはこわい」などと、クヨクヨと悩む必要はない。
また悩んでも、無駄。

それを私は、この正月にまなんだ。
そしてそれがこのエッセーの結論ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
死の受容 厭世気分 その時 臨死体験 死を受け入れる はやし浩司 マズロー)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●1月5日

+++++++++++++++

今朝は、何と、午前3時起き。
昨日、2時間近くも昼寝をしたのが、
まずかった。
体内時計が、狂った。

こういう朝は、書斎で好き勝手な
ことをするのがよい。
そのうちまた眠くなるだろう。

万事、自然体。
体も心も、自然に任すのが、
いちばんよい。

+++++++++++++++

●風邪

アメリカに住む二男から、電話があった。
話をすると、一家、全員、風邪をひいて、寝ているとのこと。
2人の孫(誠司+芽衣)もだ。

同じくそのとき、ワイフも風邪をひいて、床で寝ていた。
症状からして、インフルエンザではないようだ。
それはそれでよかったが、長男も、三男も、風邪ぎみ。
今、ひとり元気なのが、私だけ。
そんなわけで、昨日は、掃除、料理、洗いもの、買いものなどなど、結構、忙しかった。

それにしても、今年の正月は、最悪。
旅行もキャンセル。
寝正月。
しかしものは考えよう。
「年のはじめに、みな、病気になった。
これは今年一年、健康には注意せよという天の警告」と。

が、夕方になってヨロヨロとワイフが起きてきた。
こういうときはニンニクをラーメンに溶かして食べるのがいちばん。
しかし今日(1・5)、人に会う約束があるので、それは断念。
近くの店で、ラーメンとギョーザ、それにチャーシュー丼を、2人で分けて食べた。


●どちらがバカか?

++++++++++++++++++

Cライス国務長官は、「K国を信ずる人はバカ」と言い切った。
しかし本当のバカは、Cライス、それにCヒル、その2人。

今朝の韓国、中央N報は、つぎのように伝える。

++++++++++++以下、中央N報より一部抜粋+++++++++++++

……任期末ブッシュ大統領はK国をテロ支援国名簿からはずした。ライス国務長官とヒル
6カ国協議代表がその措置を率先した。対価として北核検証の譲歩(試料採取)を得るよ
うだった。2人はK国の口頭の譲歩約束を信じた。それでブッシュ大統領を説得してテロ
支援という不名誉な、かさをはずさせた。しかしK国は贈り物をもらっても約束を守らな
かった。 

  昨年(08年)末、ライス長官は「誰もK国を信じない。ばかがK国を信じる」と言った。
遅れて起こった不信と覚醒だ。しかし北核交渉で彼女が「ばか」であったことを認めたの
と同じことだ。K国の言葉を生半可に信用し、餌だけもっていかれたのがライス長官とヒ
ル次官補だ。

++++++++++++以上、中央N報より一部抜粋+++++++++++++

まったく、同感である。
核開発あってのK国。
核兵器あってのK国。
もし今のK国から、核開発、核兵器を取り除いたら、K国は、世界でも最貧国の小国。
だれにも見向きもされないだろう。
つまりK国は核兵器はおろか、核開発を断念するはずがない。
少なくとも、金xxが、独裁者でいるかぎりは、断念するはずがない。
核兵器は、金xxにとっては、まさに本尊。
権力の象徴。
しかも国全体が、ウソで塗り固められている。
自国の国民すら、平気でだますような独裁者である。
外国の世間知らずの外交官をだますなどいうことは、朝飯前。

中央N報は、「金xxの戦績はみごと!」と、金xxをむしろ称えるような論調で記事を
書いているが、わかりやすく言えば、ライス長官とヒル次官補は、金xxにだまされた
だけ。
もっと言えば、バカだっただけ。

まあ、今となっては、すべてが後の祭りだが、ここにきて、C・ヒル次官補の昇格と、
K国交渉の続投が、決まりそうな雰囲気になってきた。
クリントン国務長官(オバマ政権)が、そうした意向を示しているという報道がつづいて
いる。

K国の3誌が、新年の共同社説で、アメリカ非難を控えたのも、そういう背景があるため
とみてよい。
つまりC・ヒル次官補のための援護射撃。
そのC・ヒル次官補は、昨年(08年)、アメリカに帰ってから、こう言っていた。
「原油支援がすべて終了すれば、K国は、核査察+サンプル採取に応じてくるはず」と。

本当かな?
本当に、そう信じてよいのかな?


●AS首相の国盗(と)り物語

AS首相が、「予算成立まで、(少なくとも4月末まで)、政権の座につく」と言い出した。
私が予想したとおりだった。
どさくさにまぎれて、まず首相の座をしとめる。
「2、3週間だけの、暫定内閣」とか何とか言って、反対派を押さえる。
が、一度なってしまえば、しめたもの。
「経済的混乱」を理由にして、まず政権の座に居座る。
つづいて今度は、「予算成立」を理由にして、さらに政権の座の居座る。

もしそのとき(=予算成立時)、多少でも支持率が上向くようなことでもあれば、
今度はそれを理由に、さらにさらに政権の座にしがみつく。
今のままでは、どうせ死に体。
どうせ死ぬなら、4月でもよい。
AS首相は、おそらく、そう考えているにちがいない。

しかし……。
あのAS首相を見ていると、政治とは何か。
政治家とは何か。
さらには人間とは何か。
そこまで考えさせられる。

権力の亡者というよりは、餓鬼そのもの。
AS首相というより、AS氏という人を見ていると、人間というより、その下の、
つまり人間が動物としてもっている邪悪さを見せつけられているようで、
吐き気すら覚える。

知性や理性がないのは、しかたないとしても、心の余裕すら感じられない。
テレビカメラの前ですら、ガリガリ、セコセコ、チャカチャカしている。
発する言葉すら、ちゃんとした日本語になっていない。
もちろん繊細な会話など、もとから不可能。
「どうしてあんな人物が首相なのか?」と問う前に、「どうしてあんな人物を
首相にしたのか?」と。
アンチAS首相の国民感情が、今、アンチJ党へと向かい始めている。

そのあたりのことが、J党の議員たちも、まるでわかっていない(?)。

私がM党の党首なら、今しばらく、AS首相には、そのまま泳いでもらう。
その期間が長ければ長いほど、つぎの総選挙では、J党は大完敗する。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●セックスレス夫婦が、40%!

++++++++++++++++++++

このほど、日本家族計画協会の北村邦夫氏が、
こんな調査結果を公表した。

で、何と、驚くことなかれ、(驚いているのは、私だけかも
しれないが……)、10代〜40代の夫婦の40%
近くが、セックスレス(1か月間、セックスがない)
という。

その北村氏の調査の特徴は、サンプル数が多いということ。
そのため、信頼性がたいへん高い。

++++++++++++++++++++

●セックスレス

少し前までは、「30%」という数字が、ごく常識的な数字だった。
しかし今回の調査によれば、「36・5%」、つまり四捨五入して、約40%。
何と40%近い夫婦が、今、セックスレスという。

時事通信は、つぎのように伝える。

++++++++++++++以下、時事通信++++++++++++++++

10代−40代夫婦の4割近くが、1カ月以上性交渉のないことが、性の意識や行動に関する
厚生労働省研究班の調査で分かった。理由は「仕事疲れ」が男性のトップ、女性でも3番
目で、調査を担当した日本家族計画協会の北村邦夫常務理事は、「少子化対策を考える上
で、
ワークライフバランス(仕事と生活の調和)が重要」としている。

 調査は昨年9月、16−49歳の男女3000人を無作為に抽出し調査票を直接配布、1468人
から回答を得た。

 既婚者で1カ月間性交渉のない人は36.5%で、前回2年前の調査より1.9ポイント増
加。2001年の28.0%から増加が続いている。

 理由は男性では「仕事で疲れている」が24.6%と多く、「出産後何となく」(13.6%)
「面倒くさい」(9.3%)と続いた。女性は「出産後何となく」(21.0%)「面倒くさい」
(18.8%)「仕事で疲れている」(15.1%)の順だった。(時事通信・09・1・3)

+++++++++++以上、時事通信+++++++++++++++

報道された数字だけではじゅうぶんでないかもしれないが、ここにある数字を
整理してみる。

既婚者で1カ月間性交渉のない人……36.5%
(前回2年前の調査より1.9ポイント増加。
2001年の28.0%から増加が続いている。)

その理由として、

(男性側の理由)

「仕事で疲れている」……24.6%
「出産後何となく」……13.6%
「面倒くさい」……9.3%

(女性側の理由)

「出産後何となく」……21.0%
「面倒くさい」……18.8%
「仕事で疲れている」……15.1%

北村氏が述べているように、2001年の28・0%から、今回の調査の36・5%へと、
数字だけをみると、8・5%も増加しているのには、驚かされる。
50代や60代の夫婦の話ではない。
10代〜40代の夫婦の話である。

また理由として、夫婦は、出産を契機として、セックスレスになることが多いのがわかる。

フ〜〜〜ンと考えたところで、私の偏見的コメント。
なぜ、妻の出産を契機として、夫婦はセックスレスになるのか?

●私の偏見?

最近、夫が妻の出産場所に立ち会うケースがふえている。
夫が出産の介助をすることもある。

ある産婦人科のHPには、「立ち会い出産」と称して、つぎのようにある。

++++++++++++++++++++

最近では、分娩時に家族(ご主人)の立ち会いを容認する医療機関が増えてまいりました。
確かに、近年において妊娠出産は妻のみでなく、夫も共に協力するのが当然であるという
認識が高まり、出産の瞬間を夫婦で体験することが、その後の家族愛の形成にも大きく貢
献するという考えを各医療機関が受け入れての現状だと思われます。(T・Women's 
Clinic)

++++++++++++++++++++

しかし、だ。
これは私の偏見かもしれないが、男である夫は、ああいうものは、あまり見ない方が
よいのではないかと思っている。

生々しいというか、毒々しさを通り越して、血なまぐさい。
血なまぐさすぎる。
というのも、多くの男性にとっては、女体はつねに神秘的で、美しいもの。
またそうであって、どうしていけないのか?
つまりそれがあるから、夫は、夜な夜な妻を抱き、セックスに励むことができる。

たとえば思春期の男子たちは、そういう幻想を無限にふくらませつつ、女体に興味をもつ。
それが夢精や射精につながっていく。

それを、だ。
ドロドロした血や胎盤が、ゾロゾロと噴き出すような出産シーンを見せつけられたら、
男性である夫は、どういう印象をもつようになるだろうか。
ついでにウンチも、オシッコも飛び出す!

女性のばあい、出産と同時に、羞恥心をなくすと言われている。
同じように男性のばあい、「いっぺんに興ざめ」ということにもなりかねない。

●私のばあい

私の時代には、まだ「立ち会い出産」という言葉すらなかった。
産婦人科医院から連絡があり、かけつけてみると、すでに赤子(息子)が、
湯船で洗われたあとだった。

それまでにいろいろあったのだろうが、もちろん私には、知る由もなかった。
「赤ん坊って、本当に赤いんだなあ」というのが、私の第一印象だった。
また、それですんだ。
で、ワイフのほうを見ると、ワイフは浴衣(ゆかた)で身を包み、私のほうを
ながめながら、微笑んでいた。
そういうワイフが、たいへん、なまめかしく見えた。

さらにその前はといえば、私にとっては、女体というのは、神秘そのものだった。
あるときはこう思ったこともある。
「犬って、いいなあ。いつだって、好きなときに交尾ができる」と。
高校生のときには、大きな枕を女体にみたてて、それを抱き、射精したこともある。

で、今は、どうかというと、男女の性差の距離は、たしかに縮まった。
ときどき男と女の(ちがい)がわからなくなるときもある。
しかし神秘性は、まだかすかだが、残っている。
その神秘性が残っているからこそ、今でも、ワイフとセックスを楽しむことができる。

●ケース・バイ・ケース

個人差があるのかもしれないが、私は、「血」が苦手。
どこかの大病院へ見舞いに行ったようなときでも、廊下に血が落ちているのを見ただけで、
ゾッとする。

そういう私が、あの出産シーンを見たら、どうなるか?
実は、何度か、立ち会ったことがある。
20代のころ、針麻酔に興味をもち、ついでそれを使った帝王切開術に興味をもつように
なった。
それであるドクターの助手として、その横で針麻酔器(低周波電流発生装置)や、
オシロスコープの調整をしていた。
通常分娩のときも、データの測定が必要で、立ち会ったことがある。

が、それがひどいなんてものではない。
大便、小便の臭いに混ざって、生臭い血のにおい。
それに加えて消毒のにおい、などなど。
そこはまさに醜悪の世界。
修羅の世界。
女性によっては、ギャーギャーと泣きわめきながら、出産していた。
私は顔をそむけ、口で息をしながら、いつも機器の中に顔をつっこんでいた。

……とまあ、話がとりとめもなく脱線してしまったが、立ち会い出産をしてよいケースと、
そうでないケースもあるのではないか、ということ。

北村邦夫氏の調査結果によると、繰り返すが、「出産を契機にセックスレスに……」という
ケースが多いのも事実。
そしてその一因として、あの出産場での、修羅(しゅら)があるのではないかということ。
私のような気の弱い人間なら、もしあのとき、ワイフの出産シーンを見ていたら、
それだけで、ワイフへの興味をなくしてしまっていたかもしれない。

だからあえて、念を押したい。

「気の弱い男性は、ああいうものは、あまり見ない方がよいのでは」と。

●セックスは重要

夫婦生活において、セックスがいかに重要なものであるかは、今さら改めて
ここに書くまでもない。

肉体の同一性が、精神の同一性を招く。
そしてそれが夫婦の基盤になり、家庭、家族の基盤になる。
セックスレスの問題を、けっして、少子化の問題だけに結びつけてはいけない。
これはきわめて、深刻な問題と考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
セックスレス セックスレス夫婦 出産 立ち会い出産 立会出産)

(付記)
セックスを楽しむために、たとえば、スワッピング・パーティや、ヌーディスト・クラブ
などがある。
私のオーストラリアの友人家族は、若いときから、ヌーディスト・クラブのメンバー
である。
驚いたことに、当時、10代はじめの息子や娘も、それに参加していたということ。
まさに家族ぐるみ。
何度か写真を送ってきてくれたこともあるが、実にあっけらかんとしていていた。
つまり頭の中で想像するような、(いやらしさ)がどこにもなかった。

この日本でも、もっとオープンにセックスを楽しむ機会と場所が、あってもよいのでは?
またそういう会話を、みなでしてもよいのでは?
40%近い夫婦がセックスレスというのは、どう考えても異常である。
その異常さとくらべたら、スワッピング・パーティやヌーディスト・クラブのほうが、
よほど健康的である。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【疑わしきは、罰する】

●心が壊れる子ども(無関心、無表情は要注意)(精神的に不安定な環境が原因?)

 A小学校のA先生(小一担当女性)が、こんな話をしてくれた。「一年生のT君が、ヘビ
をつかまえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタをつ
かまえてきて、ヘビにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にも
こんな経験がある。もう一五年近くも前のことだが、一人の園児(年長男児)の上着のポ
ケットを見ると、きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、
よく見ると、それは虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットの
フチをかませる。かんだところで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったのは、
その虫の頭だった。また別の日。小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)が
いた。まだ子どもの小さなトカゲだった。「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかっ
たが、その直後、その子どもはトカゲを足で踏んで、殺してしまった!

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情
不足)、過干渉(何でも親が決めてしまう)、過関心(息が抜けない)など。威圧的(ガミ
ガミ)な家庭環境や、権威主義的(問答無用の押しつけ)な子育てが、原因となることも
ある。要するに、子どもの側から見て、「精神的に不安定な家庭環境」が、その背景にある
とみる。不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破壊する。
言いかえると、愛情豊かな家庭環境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような温も
りのある子どもになる。心もやさしくなる。

 さて冒頭のA先生は、ヘビに驚いたのではない。ヘビを飼っていることに驚いたのでも
ない。A先生は、生きているバッタをエサにしたことに驚いた。A先生はこう言った。「そ
ういう残酷なことが、平気でできるということが信じられません」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)、無感
動(他人の苦しみや悲しみに鈍感)。情意(喜怒哀楽の情)の動きも平坦になる。よく誤解
されるが、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」がある
からではない。非行に対して、抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、その
ままスーッと仲間に入ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキを
かけることができない。だから結果的に、「悪」に染まってしまう。

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみ
てほしい。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷
なゲームや、銃や戦争。さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家
庭教育のあり方をかなり反省したらよい。子どもの場合、「好きな絵を描いてごらん」と言
って紙と鉛筆を渡すと、心の中が読める。心が壊れている子どもは、おとなが見ても、ぞ
っとするような絵を描く。ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するの
はたいへんむずかしい。子どもの心をつくるのは、四、五歳くらいまでが勝負だ。


●疑わしきは、罰する(流産率、10階以上で39%)(紫外線対策を早急に)

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼
稚園や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。
六歳になっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがま
んしてしまう。反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。原因は、
紙オムツ。最近の紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。子
どもというのは、排尿後の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。たとえ
ば昔の布オムツは、一度排尿すると、お尻が濡れていやなものだった。この「いやだ」と
いう感覚が、子どもの排尿、排便感覚を育てる。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削られてしまった(M誌九八
年)。「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実はスポンサーに遠慮したた
めだ。根拠があるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う人
はいない。紙オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。疑わしいが、はっきりとは言え
ないというようなことである。その一つが住環境。高層住宅に住んでいる子どもは、情緒
が不安定になりやすい……? 実際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。
こんな調査結果がある。たとえば妊婦の流産率は、六階以上では、二四%、一〇階以上で
は、三九%(一〜五階は五〜七%)。流・死産率でも六階以上では、二一%(全体八%)(東
海大学医学部逢坂文夫氏)。マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティブルー(う
つ病)になる妊婦は、一戸建ての居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。
母親ですら、これだけの影響を受ける。いわんや子どもをや。が、さらに深刻な話もある。

 今どき野外活動か何かで、真っ赤に日焼けするなどということは、自殺的行為と言って
もよい。私の周辺でも、何らかの対策をこ講じている学校は、一校もない。無頓着といえ
ば、無頓着。無頓着過ぎる。オゾン層のオゾンが一%減少すると、有害な紫外線が二%増
加し、皮膚がんの発生率は四〜六%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。実際、オ
ーストラリアでは、一九九二年までの七年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、
毎年一〇%ずつふえている。日光性角皮症や白内障も急増している。そこでオーストラリ
アでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用の帽子とサン
グラスの着用を義務づけている。が、この日本では野放し。オーストラリアの友人は、こ
う言った。「何も対策を講じていない? 信じられない」と。ちなみにこの北半球でも、オ
ゾンは、すでに一〇〜四〇%(日本上空で一〇%)も減少している(NHK「地球法廷」)。

 法律の世界では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、
罰する」。子どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて、守れる。害が具体的に出る
ようになってからでは、手遅れ。たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせな
い。紫外線防止用の帽子を着用させる、など。あなたが親としてすべきことは多い。


●疑わしきは、罰する(ふえる排尿異常)(紫外線対策を早急に)

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼
稚園や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。
六歳になっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがま
んしてしまう。反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。原因は、
紙オムツ。最近の紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。子
どもというのは、排尿後の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。たとえ
ば昔の布のオムツは、一度排尿すると、お尻が濡れていやなものだった。この「いやだ」
という感覚が、子どもの排尿、排便感覚を育てる。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削除されてしまった(M誌九
八年)。「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実はスポンサーに遠慮した
ためだ。根拠があるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う
人はいない。紙オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。わかってはいるが、はっきりと
は言えないというようなことである。その一つが住環境。子どもには、高層住宅よりも、
土のにおいのする一戸建ての家のほうが好ましいことは、言うまでもない。実際、高層住
宅が人間の心理に与える影響は無視できない。こんなデータがある。たとえば妊婦の流産
率は、六階以上では、二四%(一〜五階は六〜七%)、帝王切開などの異常分娩率は、二
七%
(一戸建ての居住者は一五%)、妊娠関連うつ病(マタニティブルー)になる女性は、一戸
建ての居住者の四倍(国立精神神経センター、北村俊則氏)など。子どもは当然のことな
がら、母親以上に、住環境から心理的な影響を受ける。が、もっと深刻な話もある。

 日本では昔から、真っ黒に日焼けした顔は、健康のシンボルとされてきた。今でも子ど
もの日焼けについて、何らかの対策をこうじている学校は、ほとんどない。無頓着といえ
ば、無頓着。無頓着過ぎる。オゾン層のオゾンが、一%減少すると、有害な紫外線が二%
増加し、皮膚がんの発生率は四〜六%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。実際、
オーストラリアでは、一九九二年までの七年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、
毎年一〇%ずつふえている。日光性角皮症や白内障も急増している。そこでオーストラリ
アでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用の帽子とサン
グラスの着用を義務づけている。が、この日本では野放し。

オーストラリアの友人は、こう言った。「何もしていないだって? 日本も早急に、対策
をこうずるべきだ」と。ちなみにこの北半球でも、オゾンは、すでに一〇〜四〇%も減
少している(NHK「地球法廷」)。

 そこでどうだろう。私たちの住む地域だけでも、子どもたちに紫外線防止用の帽子とか、
サングラスの着用を試してみたら。害が具体的に出始めてからでは、手遅れ。法律の世界
では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰する」。子
どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて、守れる。


●高層住宅の問題点(「疑わしきは罰する(2)」)(ストレスの発散をじょうずに)

 以前このコラムで、「疑わしきは罰する」を書いた。その中で、「高層住宅の一〇階以上
に住む妊婦の流産率は、三九%」「(マンションなど高層住宅に住む人で)、マタニティブル
ー(妊娠関連うつ病)になる人は、一戸建ての家に住む人の四倍」などと書いた。このコ
ラムは大きな反響を呼んだ。と同時に、多くの人に不安を与えてしまった。しかしそこに
書いたことに、まちがいはない。私はそのコラムを書くにあたって、前もってそれぞれの
研究者と手紙で連絡を取り、元となる論文を入手した。しかもある程度の反響は予測でき
たので、中日新聞東海本社の報道部のI氏に、論文のコピーを渡しておいた。

 ただし流産の原因については、高層住宅とそのまま結びつけることはできない。高層住
宅のもつ問題点を知り、対応策を考えれば、流産は防げる。逢坂氏も流産率が高いことに
ついて、「居住階の上昇に伴い、外に出る頻度(高さによる心理的、生理的、物理的影響)
が減少する」(「保健の科学」第36巻1994別冊783)と述べている。高層階に住ん
でいると、どうしても外出する機会がへる。人との接触もへる。それが心理的なストレス
を増大させる。胎児の発育にも悪い影響を与える。そういういろいろな要因が重なって、
それが流産につながる、と。

このことを言い換えると、高層階に住んでいても、できるだけ外出し、人との交流を深め
るなど、心理的な風通しをよくすれば、流産は防げるということになる。事実、高層階に
なればなるほど、心理的なストレスが大きくなることは、ほかの多くの研究者も指摘して
いる。たとえば平均死亡年齢についても、マンション住人の平均死亡年齢は、五七・五歳。
木造住宅の住人の平均死亡年齢は六六・一歳。およそ九歳もの差があることがわかってい
る(島根大学中尾哲也氏・「日本木材学会」平成七年報告書)。さらにコンクリート住宅そ
のものがもつ問題点を指摘する研究者もいる。マウスの実験だが、木製ゲージ(かご)で
マウスを育てたばあい、生後二〇日後の生存率は、八五・一%。しかしコンクリート製ゲ
ージのばあいは、たったの六・九%。ほかにコンクリート製ゲージで育ったマウスは、生
殖器がより軽い、成長が遅いなどということも指摘されている(静岡大学農学部水野秀夫
氏ほか)。さらに高層住宅にいる幼児は、体温そのものが低く、三六度以下の子どもが多い
(「子どもの健康と生活環境」VOL41、小児科別冊)など。こういう事実をふまえて、私
は、「子どもは当然のことながら、母親以上に、住環境から心理的な影響を受ける」と書い
た。

 こうした事実があるにもかかわらず、日本の政府は、ほとんど対策をとっていない。一
人、「そうは言っても、都会で一戸建てを求めるのは難しいです」「日本の住宅事情を考え
ると、高層住宅を否定することもできません」と言った人もいた。あるいは「こんなこと
を書いて、建設会社からクレームがきませんでしたか」と心配してくれた人もいた。しか
しここから先は、参考にする、しないの問題だから、判断は、読者の方がすればよい。た
だこういうことは言える。あなたや子どもの健康を守るのは、あなた自身であって、国で
はないということ。こうした建設がらみの問題では、国は、まったくあてにならない。


●すさまじい反響

 月※日、「子どもの世界」で、「疑わしきは罰する」を書いた。その中で、私は東海大学
地域保健学の逢坂文夫氏の論文を引用して、「妊婦の流産率は、六階以上では二四%。一〇
階以上では、三九%(一〜五階では、五〜七%)。流・死産率は、六階以上では、二一%(全
体では八%)」などと書いた。わかりやすく言うと、高層住宅の六階以上に住む妊婦のうち、
四人に一人が流産し、五人に一人が流・死産しているということになる。

さらに一〇階以上では、約二人に一人が、流産していることになる。驚くべき調査結果と
いってよい。これについて、それまで経験したことがないほど、読者からすさまじい反響
があった。「事実か?」という問い合わせが多かったが、中には「いいかげんなことを書い
てもらっては困る」というのもあった。私の記事が、かえって高層住宅、日本でいう高層
マンションに住む人たちの不安をかきたてるというのだ。

原稿を書いた経緯

 そこで今回、「疑わしきを罰する」を書くに至った、経緯をここに説明する。まず高層住
宅のもつ危険性については、すでに三〇年以上も前から、欧米では広く議論されているこ
とである。私がメルボルンにいたときすでに、メルボルンでは高層住宅が問題になってい
た。これはあいまいな記憶によるものだが、高層住宅の住人ほど自殺者が多いというのも
あった。一方、この日本でも散発的にではあるが、そのつど指摘されている。そこで私は
インターネットを使って、「高層住宅→心理的影響」という名目で検索してみた。

結果、無数の情報を手に入れることができた。その中でも特に目を引いたのは、A社の情
報コーナーであった。しかしこのA社は、どこか宗教団体的な雰囲気がしたので、私はそ
の中に出ている「事実」と「出典先」だけを取りだし、独自の立場で調べた。結果、今回、
その原稿を書くにあたって、次の四人の研究者、教授、元教授と連絡を直接とることに成
功した。連絡は手紙によるものであり、うち三人(北村、逢坂、中尾氏)は直接、手紙で
返事をくれた。それには元となる論文も同封されていた。一人(水野氏)は、電話で連絡
をとった。

 国立精神神経センター、北村俊則氏
 東海大学医学部地域保健学、逢坂文夫氏
 鳥取大学総合理工学部教授、中尾哲也
 静岡大学名誉教授、水野秀夫氏の四氏である。

 私はこの「子どもの世界」を書くにあたって、実名を使うときは、その人物と事前に連
絡をとり、実名の使用について許可を得るようにしている。そして許可を得たときだけ、
実名を使い、そうでないときは、必要に応じて、アルファベットによるイニシャルを使う
ようにしている。こうした研究者から論文を直接手に入れた後、数値を自分で確認し、な
おかつ、私の元原稿のコピーをこれらの研究者に送った。そのあと、「疑わしきは罰する」
を新聞紙上で発表した。

危険な高層住宅?

 逢坂文夫氏は、横浜市の三保健所管内における四か月健診を受けた母親(第一子のみを
出生した母親)、1615人(回収率、54%)について調査した。結果は次のようなもの
であったという。

 流産割合(全体) …… 7.7%
     一戸建て …… 8.2%
     集合住宅(1〜2階) …… 6.9%
     集合住宅(3〜5階) …… 5.6%
     集合住宅(6〜9階) ……18.8% 
     集合住宅(10階以上)……38.9%

 これらの調査結果でわかることは、集合住宅といっても、1〜5階では、一戸建てに住
む妊婦よりも、流産率は低いことがわかる。しかし6階以上になると、流産率は極端に高
くなる。また帝王切開術を必要とするような異常分娩についても、ほぼ同じような結果が
出ている。一戸建て、14.9%に対して、六階以上では、27%など。

これについて、逢坂氏は次のようにコメントしている。「(高層階に住む妊婦ほど)妊婦の
運動不足に伴い、出生体重値の増加がみられ、その結果が異常分娩に関与するものと推察
される」と。ただし「流産」といっても、その内容はさまざまであり、また高層住宅の住
人といっても、居住年数、妊娠経験(初産か否か)、居住空間の広さなど、その居住形態は
さまざまである。その居住形態によっても、影響は違う。逢坂氏はこの点についても、詳
細な調査を行っているが、ここでは割愛する。興味のある方は、「保健の科学」第36巻1
994別冊781頁以下をご覧になってほしい。

子どもの心理との関連性

 「子どもの世界」の中で、私は、「母親ですらこれだけの影響を受けるのだから、いわん
や子どもをや」と書いた。もちろん集合住宅であることから子どもが直接影響を受けるこ
とも考えられるが、母親が影響を受け、その副次的影響として、子どもが影響を受けるこ
とも考えられる。どちらにせよ、あくまでも「考えられる」という範囲で、私は「疑わし
きは罰する」と書いた。逢坂氏の論文で、私が着目したのはこの点である。逢坂氏は、流・
死産の原因の一つとして、「母親の神経症的傾向割合」をあげ、それについても調査してい
る。

 神経症的傾向割合 全体     …… 7.5%
     一戸建て        …… 5.3%
     集合住宅(1〜2階) …… 10.2%
     集合住宅(3〜5階) ……  8.8%
     集合住宅(6階以上) …… 13.2%

 この結果から、神経症による症状が、高層住宅の6階以上では、一戸建て住宅に住む母
親より、約2.6倍。平均より約2倍多いことがわかる。この事実を補足する調査結果と
して、逢坂氏は、喫煙率も同じような割合で、高層階ほどふえていることを指摘している。
たとえば一戸建て女性の喫煙率、9.0%。集合住宅の1〜2階、11.4%。3〜5階、
10.9%。6階以上、17.6%。

 つまりこれらの調査結果を総合すると、高層住宅の高層階(特に6階以上)に住む母親
は、より神経症による症状を訴え、その症状をまぎらわすため、より喫煙に頼る傾向が強
いということになる。母親ですらそうなのだから、「いわんや子どもをや」ということにな
る。

好ましい木造住宅?

 住環境と人間の心理の関係については、多くの研究者が、その調査結果を発表している。
コンクリート住宅と木造住宅について、静岡大学の水野名誉教授は、マウスを使って興味
深い実験をしている。水野氏の調査によれば、木製ゲージ(かご)でマウスを育てたばあ
い、生後二〇日の生存率は、85.1%。しかしコンクリートゲージで育てたばあいは、
たったの6.9%ということだそうだ。水野氏は、気温条件など、さまざまな環境下で実
験を繰り返したということだが、「あいにくとその論文は手元にはない」とのことだった。

 ただこの調査結果をもって、コンクリート住宅が、人間の住環境としてふさわしくない
とは断言できない。マウスと人間とでは、生活習慣そのものが違う。電話で私が、「マウス
はものをかじるという習性があるが、ものをかじれないという強度のストレスが、生存率
に影響しているのではないか」と言うと、水野氏は、「それについては知らない」と言った。
また私の原稿について、水野氏は、「私はコンクリート住宅と木造住宅の住環境については
調査はしたが、だからといって高層住宅が危険だとまでは言っていない」と言った。水野
氏の言うとおりである。

中尾哲也氏の研究から

 住環境について、鳥取大学の中尾哲也教授は詳しい調査をしている。 
   

●疑わしきは、罰する(2)(高層住宅は危険?)(国はまったくあてならない)

 前々回、『疑わしきは、罰する』で、高層住宅について書いた。私はこの中で、東海大学
医学部地域保健学教室の逢坂文夫氏の研究論文を引用した。そして「妊婦の流産率は、一
〇階以上では、三九%(一〜五階では五〜七%)」などと書いた。このコラムは大きな反響
を呼んだ。「事実か?」という問い合わせも、いくつかあった。が、前々回のコラムを発表
するにあたって、情報の一部を入手したあと、私は逢坂氏、北村両氏に直接手紙を書いて、
内容を確認している。両氏は、わざわざ論文(「保健の科学」94−36別刷)を送り届けてく
れた。その上で、前々回のコラムを発表した。一人、「いいかげんなことを書いてもらって
は困る」と言ってきた読者もいるが、私は決していいかげんなことを書いていない!

 高層住宅が危険な住宅であるという資料は、山のようにある。たとえば平均死亡年齢に
ついても、マンション住人の平均死亡年齢は、五七・五歳。木造住宅の住人の平均死亡年
齢は六六・一歳。およそ九歳もの差があることがわかっている(島根大学中尾哲也氏・「日
本木材学会」平成七年報告書)。さらにコンクリート住宅そのものがもつ問題点を指摘する
研究者もいる。マウスの実験だが、木製ゲージ(かご)でマウスを育てたばあい、生後二
〇日後の生存率は、八五・一%。しかしコンクリート製ゲージのばあいは、たったの六・
九%(静岡大学農学部水野秀夫氏ほか)。ほかにコンクリート製ゲージで育ったマウスは、
生殖器がより軽い、成長が遅いなどということも指摘されている。さらに高層住宅にいる
幼児は、体温が三六度以下の子どもが多いなど。こうした事実があるにもかかわらず、国
は誰に遠慮しているのか、まったく対策をとろうとしない。「環境」ということを考えても、
高層住宅は、決して好ましい建築物とは言えない。オーストラリアのメルボルンでは、す
でに三〇年も前に、大きな社会問題になっていた。

 私は『疑わしきは、罰する』と言っているのである。そしてそれが子どもたちの世界を
守る、一つの方法だと言っているのである。こんな話も紹介しよう。私は二八歳のとき、
国際産婦人科学会の通訳として、南米のアルゼンチンへ行ったことがある。そこでのこと。
ある夜、日本を代表する産婦人科のドクターがこんなことを話してくれた。「新生児の奇形
がふえている。原因はタバコだ。しかし証明できない」(京都大N教授)と。動物実験では
確認できても、人間では人体実験することができない。だから最後の一歩のところで、確
証がとれない、と。当時、日本では、上も下も、「タバコ無害キャンペーン」を展開してい
た。全国の主要な駅前では、専売公社の職員たちがパネルを並べて、「タバコには害はあり
ません」と叫んでいた。今から思うと、何と、おぞましいキャンペーンであったことか!
 
 ここから先は、参考にする、しないの問題だから、判断は、読者の方がすればよい。そ
れでも見晴らしがよい高層階のほうがよいと思えば、それはそれで、その人の勝手だ。私
がとやかく言う問題ではない。ただ一言。私が書いたことが気に入らないからといって、
私を個人攻撃をしても、意味はない。いくら私の口にフタをしようとしても、それはでき
ない。ただこういうことは言える。あなたや子どもの健康を守るのは、あなた自身であっ
て、国ではないということ。こういう問題では、国は、まったくあてにならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
高層住宅 高層マンション 流産率 神経症 発症率 はやし浩司 高層住宅と子供
子供の情緒 高層マンション)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●頭脳・リローディド(再起動)

+++++++++++++++++

昨夜になって、やっと脳みそが回転し始めた。
三日酔いが、抜けた。
よかった!
で、今日は、パソコンの保守。
昨日買ってきたHDに、コピー・コマンダーという
コピーソフトを使って、現在のHDを丸ごとコピー
する。
そしてコピー元のHDと、コピー先のHDを、
置き換える。
コピー元のHDは、そのまま保存。
万が一のときのために、備える。

++++++++++++++++++

●胃が内分泌器官?

昨日読んだニュースで、「おもしろい!」と感じたのがこれ。
何でも胃そのものも、ホルモンを分泌しているという。
しかもそのホルモンというのが、驚くことなかれ、(若返りのホルモン)とか!
その発見者は、今のところノーベル科学賞候補のNo1にあげられているそうだ。

で、数年前、大腿筋も、運動によりホルモンを分泌するという研究成果を読んだことが
ある。
これは大腿筋にかぎらないことかもしれないが、大きな筋肉は、運動すると、ある種の
ホルモンを分泌するという。
そしてそのホルモンも、(若さを保つために)作用するという。
しかしこれは経験則上も、正しい。
60歳を過ぎても、規則正しく、きちんと運動をつづけている人は、若々しい。
肉体的にも、精神的にも、若々しい。

しかし今度は、「胃」という。
胃はただの消化器官だけではないということになる。

Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【モノ論】

●大掃除

私が元気になって、今度は、ワイフが交代で、ダウン。
風邪らしい。
朝から、ずっと床で横になったまま、起きてこない。
「どうしたの?」と聞くと、「体がだるい」と。

今年は喪中ということで、だれも、来ない。
どこへも、行かない。
年末に旅行を計画していたが、これは当日の朝、キャンセル。
これは私の二日酔いが理由だった。
この分だと、1月x日の旅行も、あぶない。
そのことをワイフに言うと、「それまでには治るわよ」と。

息子たちは、夜中じゅう起きていて、いつも昼過ぎに食事をとるために
台所へやってくる。
炊事、洗い物は、私の仕事。
ついでに大掃除も。

我が家にも、モノがあふれかえっている。
これから先、少しずつ、(一部屋ずつ)、モノを整理していく。
つまり思い切って、捨てていく。

●モノ

(モノ)の話が出たので、ついでに……。
正月の新聞には、100枚以上ものチラシが入っていた。
そのほとんどが、モノ、モノ、モノ、またモノ……の広告。
言うなれば、部屋中が、家中が、そして日本中がモノで、あふれかえっている。
足の踏み場もないほど、あふれかえっている。

先ほど、物置を少し整理してみたが、懐中電灯だけで、5〜6個も出てきた。
もちろん1個あれば、じゅうぶん。
そこで思い切って、残りの4〜5個を袋につめた。
こういう(整理)では、容赦なく捨てる。
捨てて、捨てて、捨てまくる。

これは庭木の剪定(せんてい)のときのコツに似ている。
剪定するときも、思い切って、切る。
切って、切って、切りまくる。
遠慮は無用。
放っておいたら、夏までに、庭中が木々の枝で覆いつくされてしまう。

で、そのチラシを見ながら、こう思う。
「こうまで人間に、モノが必要なのか?」と。
答は、もちろんNO!

部屋や家には、(何もない美)というものがある。
そのほうが、すっきりしていて、居心地もよい。
一方、その反対が、ゴミ屋敷ということになる。
ゴミ、ゴミ、ゴミ……ゴミの山。

そこで教訓。

(1)モノは買わない。できるだけ、買わない。
(2)少なくとも2年以上使っていないものは、捨てる。
(3)衣服でも、1着買ったら、別の1着は捨てる。
(4)不便であることを旨とし、不便を感じても、補わない。

実は、私はこのことを、今度実家の整理をしながら、知った。
母は、若いころから、モノへの執着心が強かった。
そういう人だった。

一説によれば、戦時中に貧しい思いをした人ほど、モノ、イコール財産という
考え方をするそうだ。
モノをことさら、大切にする。
しかしひとつまちがえば、そのまま(ため込み屋)になってしまう。
で、母もその1人だった。

実家の箪笥(たんす)という箪笥には、モノがぎっしりと詰まっている。
衣類が中心だが、たとえば風呂敷にしても、数えたわけではないが、数十枚
近くあるのでは……!
今は着ることのない和服も、多い。
祖父母の代からの和服もある。

で、それを整理する私も、たいへん。
呉服屋で買えば、一着、少なくとも10万円以上はするだろう。
が、思い切って、捨てる。
捨てて、捨てて、捨てまくる。
最初は、「もったいない!」と思いが、かなりはげしく抵抗する。
が、それを超えると、今度は、爽快感に変わる。
ポンポンとダンボール箱に、詰める。
が、同時に、モノを集める虚しさを、知る。
母が死んだとき、枕元にあった財産らしい財産といえば、コップと、歯ブラシくらいな
ものだった。
あとは決められた枚数の浴衣と、タオル数枚。

しょせん、財産というのは、そういうもの。
モノというのは、そういうもの。

●大恐慌とは何か?

ところで今、世界中が、大恐慌に苦しんでいる。
株価は暴落し、日本だけでも、約200兆円あまりの金融資産が「消えた」という。
200兆円といえば、国民(成人)1億人で割っても、1人当たり、200万円という
ことになる。
国家税収の約5倍!
4人家族で、800万円。
5人家族で、10000万円。
が、実際には、証券会社などを通して、債権を購入した人も多いから、その数倍以上の
お金が、消えたのではないか。
あまりこういう話はみなしたがらないようだが、知人の中には、退職金のほとんどを
失った人もいる。
追証(証拠追加金)をつぎつぎと取られ、自己破産寸前の人もいる。

が、その中身は何かといえば、結局は、モノ、モノ、モノ……ということになる。
わかりやすく言えば、モノ、モノ、モノ……の世界が、今度、土台から、こけた!
ひっくり返った!
もちろん頂点は、家、自動車、電機製品……。
それが今の大不況ということになる。

もちろんモノといっても、生きていくためには、必要なモノもある。
しかしたいはんは、どうでもよいモノばかり(?)。
たとえばこの書斎の中にも、スキャナーだけでも、4台もある。
DVDレコーダーだけでも、3台もある。
プリンターも、3台。
新製品を追いかけていたら、いつの間にか、そうなってしまった。

だから捨てる。
思い切って捨てる。
今日は、私にとっては、大掃除の日。

……先ほどワイフを見舞ったら、「熱が出てきた」とのこと。
やはり風邪だったようだ。
今度の大恐慌をきっかけに、モノに対する考え方を、少しは改めてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
モノ ため込む ため込み屋 ためこみ屋 取り込み屋 取りこみ屋)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●金xxは、やはり影武者?

+++++++++++++++++++

常識で考えてみよう。
こういうことだ。

正月(09年1月3日)になって、すぐさま、
金xxの動静が、伝えられた。
どこかの軍隊を、視察したらしい。
どこでもよい。
どうせ、ウソ。

が、もしそれほどまでに金xxが元気なら(?)、
彼には、すべきことがあるはず。
まっさきにすべきことである。
とくに、去年(08年)の夏から秋にかけて、
死線をさまよった肉体なら、なおさら。

そのすべきことというのは、言うまでもなく、
後継者選びである。
それをさておいて、軍隊の視察など、ありえない。
今の金xxにとっては、ありえない。

常識で考えれば、そうなる。
つまり現在、各地を視察している金xxなる
将軍様は、影武者。
偽者。

+++++++++++++++++++

ときとして常識は、100の情報より役にたつ。
それがわからなければ、金xxの立場に、自分を置いてみれば、わかる。
こういうことだ。

あなたは絶対的な権力者だ。
それはそれ。
その権力者だったあなたが、大病を患った。
死線をさまよった。
漏れ伝わってきた情報によると、脳内出血、もしくは脳梗塞。
持病の腎臓病、肝臓病、それに心臓病が、一気に、悪化した。

で、手厚い看護のかいがあって、一命をとりとめた。
しかしそれだけでも、そのたった数か月後に、各地を視察したり、
サッカーの試合を観戦したり、あるいは音楽会に顔を出すというのは、
たいへんなこと。
が、仮にそれができるほどまでに回復したとしよう。
元気になったとしよう。
そのとき、あなたは、何を、最大の優先課題とするだろうか。

私やあなたではない。
K国イチの、独裁者である。
「すべてのモノは、私のモノ」「すべての人民は、私の奴隷」を豪語する、独裁者である。
そういうあなたなら、何を、最大の優先課題とするだろうか。

……とまあ、書くだけ、ヤボ。
言わずと知れた、後継者問題である。
その後継者問題に触れず、あなたは、各地の軍隊の視察などするだろうか。
後継者問題だけ片づけておけば、視察は、その後継者に任せればよい。
あなたは、完全看護の桃源郷で、ゆっくりと体を休めればよい。

が、一連の報道は、どこかおかしい。
「将軍様は元気だ」「元気だ」と言うだけで、その周辺の動静が伝わってこない。
しかもK国の外交政策が、どこか薄っぺらくなってきた(?)。
昨年の終わりから、「反韓、親米路線」を強くにじませるようになった。
金xxらしい、あの(いじけ)や(ゆがみ)が感じられない。
言っていることが、通り一遍というか、わかりやすい。
その(わかりやすいところ)が、おかしい?

つまり実権を握った軍部が、だれかの意向を受けて、YES・MAN式に、
動いているだけ。
ノーブレインの状態になっている。
私には、そう見える。
だから、各地を視察している金xxなる将軍様は、影武者、つまりニセモノという
ことになる。

くどいようだが、もし金xxが、視察できるほどまでに元気なら、もっと
金xx色が表に出てきても、おかしくない。
常識で考えれば、そうなる。

(拉致問題に抗議の念をこめて、金xxと記述しています。)


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