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はやし浩司のメインHP 電子マガジン総合INDEX
2009年     4月号
Essay……
BOX版(ネットストーレッジ)……




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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   29日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●09年3月28日

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BW教室にもテーマ音楽がある。
私のHPの、トップページに収録してある。
(あるいは「BW公開教室」より。)

私の二男が高校生のとき、作曲、演奏したものである。
短いが、すばらしい曲である。
(多分に親バカ的評価だが……。)
何度聴いてもあきないし、聴けば聴くほど、
心が温まってくる。

で、勝手に、私が私のHPのテーマ音楽にして
しまった。
一度、二男に、「いいか?」と聞くと、「いいよ」
と言ってくれた。

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●親の後悔

その曲を聴くたびに、息子がもっていた感性に、驚く。
薄々は気がついていたが、そのときは、私のほうに、それだけの理解力がなかった。
作曲は息子の趣味だったし、息子はその範囲で遊んでいるだけと思っていた。
が、私はまちがっていた。
先にも書いたように、聴けば聴くほど、その向こうにすばらしい感性が光っているのを
知る。
今の私なら、もし身近に、そういう高校生がいたら、迷わず作曲家の道を進むよう、
アドバイスするだろう。
親も説得する。
しかし私は、それをしなかった。
息子の将来にしても、ありきたりのものしか考えていなかった。
「大学を出て……」「就職して……」と。
が、私は、息子のそういう感性を、もっと伸ばすべきだった。
またその努力すべきだった。
今、そういう後悔が、シクシクと胸をしめつける。
HPのテーマ音楽として使っているが、実のところ、聴くたびに申し訳ないことをした
という気分に襲われる。

【HPのテーマ・音楽は、以下のアドレスから……】

http://www.youtube.com/watch?v=akhdJvb4pkM

<object width="425" height="344"><param name="movie" 
value="http://www.youtube.com/v/akhdJvb4pkM&hl=ja&fs=1"></param><param 
name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" 
value="always"></param><embed 
src="http://www.youtube.com/v/akhdJvb4pkM&hl=ja&fs=1" 
type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>


●説明会

今日は、幼児教室の説明会をした。
「中日ショッパー」という広告紙が、たびたび無料で教室の宣伝してくれた。
そのこともあって、今年は例年の2倍の親たちが、説明会に来てくれた。
うれしかった。
プラス、疲れた。
40回も経験しているはずなのに、説明会だけは、いまだに疲れる。

で、その中に、1人、孫の芽衣そっくりな女の子がいた。
名前をOさんといった。
最初から最後まで、ずっと気になっていた。
「入ってくれればいいな」と思いながら、私の教育方針を説明した。
ともかくも、この1年は、(もうけもの)。
仕事ができるだけでも、御の字。
感謝しなければいけない。

で、Oさんは入会してくれた。
うれしかった。
お母さんはどこか心配そうだったが、私が「いい子ですよ」と言うと、
安心したような表情を浮かべてくれた。
「すばらしい子にしますよ」と言いかけたが、それは言わなかった。
そんなことは、当然のこと。
だから言わなかった。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●態度の類似性

+++++++++++++++++

『類は友を呼ぶ』という。
『似たもの夫婦』ともいう。
人を、たがいに親近させるものは、
「類似性」ということになる。

その類似性について、シュプランガー
という学者は、つぎの6つのもの(「態度」)
に分けて考えた(参考:「性格心理学」
ナツメ社)。

(1)理論型
(2)審美型
(3)社会型
(4)経済型
(5)政治型
(6)宗教型

つまり同じ「型」が同じ者どうしは、
それぞれ、親しくなりやすいということ。
わかりやすく言えば、科学者は科学者
どうし。
芸術家は芸術家どうし、それぞれ
親しくなりやすいということ。

が、「型」がちがうと、親しくなるといっても、
そこには限界があるということらしい。
(型がちがっても、親しく交際している人も
いるが……。)

要するに、まとめて簡単に言えば、
やはり『類は友を呼ぶ』ということになる。

で、私はこれらのほかに、
親しくなる要因として、(あくまでも
親しくなる要因としてだが、)

(7)趣味型(趣味が同じ)
(8)同族型(同族意識、同窓意識)
(9)同目的型(同じ目的をもっている)

の3つを付け加えたい。

+++++++++++++++++

もっとも親近性といっても、内容もレベルも異なる。
「近所づきあい」程度のレベルから、「命を分けあう」レベルまである。
また器用な人になると、それぞれの人と、別の顔を使い分けながら、
親しくなることもある。
おそらくシュプランガーという学者は、きわめて高度な親近性を
問題にしたのだろう。
私のような凡人がつくる人間関係とは、レベルがちがう(?)。

が、ここでふと考えが止まってしまう。
では、いったい、「親友とは何か?」と。
さらに「友とは何か?」と。
あるいは、「妻は、友なのか」と。
(もちろんその反対に、「夫は、友なのか」でもよい。)

ちょうど1年前に、こんな原稿を書いた。

+++++++++++++++++

●夫婦円満のコツ

+++++++++++++++++

夫婦も長い間いっしょにいると、
たがいに相手に合わせようとする。
いがみあっているよりは、妥協できる
ところは妥協し、相手に合わせたほうが
よいと考えるようになる。
そのほうがストレスもたまらない。

こうして夫婦の間には、同調関係
が生まれる。

+++++++++++++++++

仲がよい夫婦でいるためには、たがいに好感をもっていなければならない。
これは必要条件だが、しかしそれだけではじゅうぶんではない。

たとえばこんな例で考えてみよう。

夫は、岐阜県出身で、岐阜S高校の野球チームを応援。
妻は、静岡県出身で、静岡A高校の野球チームを応援。

夏の甲子園で、岐阜S高校と静岡A高校が対戦することになった。

こういうとき夫婦として、いろいろな解決策が考えられる。

(1) 妥協…どちらかがどちらかに、合わせる。
(2) 合理化…「たかが高校野球」と考え、対立を避ける。
(3) 受容…たがいにたがいを認めあう。

これは実際、ある知人から聞いた話だが、日本人男性と結婚した
ブラジル人女性がいた。
その夫婦のばあい、ワールドカップで日本とブラジルが対戦したとき、
そのまま対立関係になってしまったという。
(実際には、妻は、ブラジル人が集まる会場で、ブラジルを応援し、
夫は家で、子どもたちと日本を応援したという。)

が、スポーツならまだしも、宗教がからむと、ことは簡単ではない。
とくに妻が、どこかのカルト教団(狂信的な信仰をする団体)に
入信したようなばあい、である。

こういうケースのばあい、(2)の合理化は、むずかしい。(3)の
受容についても、たいてい妻のほうが一方的に夫の価値観を否定する
ようになるので、それもむずかしい。

残るのは、(1)の妥協ということになるが、妻のほうが夫に妥協する
ということは、信仰そのものがもつ性質上、ありえない。
夫の側の一方的な妥協が強いられる。

が、その妥協に失敗すると、ストレスは急速に増大し、やがて限界を超える。
具体的には、「離婚」という言葉が、夫婦の間から出てくるようになる。
これは夫だけの問題ではない。
中には、「離婚はぜったいだめ」と教えるカルト教団もある。
妻自身も、信仰と離婚のはざまで、もがき苦しむことになる。

実際、その処理に失敗して、42歳という若さで、亡くなってしまった
男性がいる。
くも膜下出血だったという。
その話を聞いたとき、私はその背後で起きた、壮絶な家庭内宗教戦争を想像した。

さらによくあるケースとしては、不倫がある。

夫婦、どちらか一方の不倫が発覚したようなばあいを考えてみよう。

こういうケースでは、(1)の妥協ということは考えられない。
「あなたが不倫をしたから、私も不倫をしてきます」というわけにはいかない。
そこで(2)の合理化、もしくは(3)の受容ということになる。

合理化というのは、高校野球と同じように、「たかが不倫ではないか」と考え、
自分を納得させることをいう。
受容というのは、「夫婦といっても、たがいに束縛しあうのはよくない」などと
考えて、相手の行為を認めることをいう。
しかしそれにはかなり高度な、精神的操作が必要である。
昔、見たフランス映画に、そういうテーマを扱ったのがあった。

晩年に近づいた男性が、若い女性と結婚した。
しかし男性は、性的な満足感を妻に与えることができなかった。
そこで男性は妻の不倫を容認することによって、夫婦の愛情をさらに昇華させた。

……以上のケースは、いわば特殊な例ということになる。
こういうケースは別として、私たちは日常生活において、つねに、選択を迫られる。
妥協か、合理化か、さもなくば受容か、と。

それがじょうずに処理できる夫婦を、(仲のよい夫婦)といい、そうでない
夫婦を、そうでないという。
表面的な様子だけを見て、たとえば夫婦げんかが少ないから、仲がよいとか、
少ないからそうでないとか判断してはいけない。

あとは、たがいに前だけを見ながら、前に向かって進む。
夫婦というのは、けっして見つめあってはいけない。
それが夫婦円満のコツということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 夫婦論 夫婦円満)

+++++++++++++++++++

しかしやはり長い目で見ると、「態度の類似性」が、親近感の基本になっているのが、
わかる。
夫や妻にしてもそうで、もし夫婦円満をめざすなら、「類似性」の追求が、
そのカギを握ることになる。
だから西洋ではこう言う。

『夫婦はけっして、見つめあってはいけない。互いに手を取り、前を見て歩く』と。

で、私も今や、満61歳。
ジー様になってしまった。
そういう自分を振り返ってみると、いつも孤独との闘いだったような気がする。
友といっても、数えるほどしかいない。
「命を分かちあえる友」となると、ワイフくらいしかいない。
しかしワイフは、シュプランガーの説く「態度の類似性」の「型」の
どれにも当てはまらない。
私が考えた3つの「型」にも、当てはまらない。
あるいは「友」と考えているのは、私の思いあがりにすぎないのかもしれない。

実際には、相互に依存しているだけ。
あるいはひょっとしたら、「共依存関係」かもしれない(ゾーッ!)。
さらに「支配と服従関係」かもしれない(さらに、ゾーッ!)。

が、さらに恐ろしいことに、このところ孤独感が和らぐどころか、強くなって
いるように感ずる。
だれと話していても、「そんなことは、Aという学者が、遠い昔に説明しているの
になあ」とか、「その問題の奥には、もっと別の問題があるのになあ」と、
そんなふうに考えてしまう。
とたん、その人との間に、(距離)を感じてしまう。
ときに、その人を、超え難いほど遠くに感ずることもある。
「この人に、私の考えを説明したら、10年はかかるだろうな」と。
あるいは「分かりあうのは、永遠に不可能だろうな」と。

だからやはり、「型」ということになる。
おもしろい考え方だと思う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
シュプランガー 態度 態度の類似性 夫婦円満 親友論 親しみ)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●3月28日(M党のOZ党首、立ち木問題)

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●M党のOZ党首

M党のOZ党首が、「続投する」と、自らの意思を表明した。
しかしこの表明で一番、胸をなでおろしているのが、J党。
M党による政権交代は、これで事実上、不可能になった。
国民の約80%は、OZ党首の「説明」に納得していない(C新聞)。
私も納得していない。

さらに驚くべき発言がつづいた。

M党内部で、公然とOZ氏批判をした国会議員がいた。
それに対して、OZ派の国会議員(M党)が、「自分を何様だと思っているのか」と、
かみついた(テレビ報道)。

ヘ〜〜エ?

M党という政党は、そういう政党だったの?
同僚の国会議員に対して、「何様だと思っているのか」は、ない。
要するに、「だれのおかげで国会議員になれたと思っているのか。
生意気言うな!」という意味らしい。
この言葉は、そっくりそのまま、M党・OZ派のみなさんに送りたい。


●立ち木問題で、知事が辞任(?)

これまたおかしな、前代未聞のできごとが、この静岡県で起きた。
たかが(失礼!)、立ち木問題程度のことで、知事が辞任を表明した。
ことの発端は、立ち木。
はじめから終わりまで、立ち木。

今度開港する静岡空港の滑走路の先に、150本程度の立ち木がある。
滑走路の、ちょうど真正面に、である。
(その周辺の場所には、木はなく、その部分だけに、剃り残したヒゲのように
立っている。)
そのため開港は遅れ、プラス1億円程度の改修費がかかった。
それについて、立ち木の地権者のO氏は、「知事の辞任が条件」と、静岡県側に迫った。
つまり「知事が辞任しないかぎり、立ち木は切らない」と。
それを受けて、静岡県知事が辞任を表明した。

ここで再び、民主主義・論。
私権の保護は、民主主義の根幹である。
それは認める。
しかし私権とっても、絶対的なものではない。
(保護しなければならないものかどうか)という観点から、フィルターがかかる。
そのフィルターをくぐりぬけないかぎり、世論の支持を得ることはできない。
もし私権を無制限に保護するとなると、空港どころか、道路一本、建設できなくなって
しまう。

そこで立ち木。
たかが立ち木(失礼!)。
その立ち木を切ることで、地権者にどんな被害が及ぶというのか。
地権者の生活に、どれほどの損害を与えるというのか。

一方、静岡県側は、すでに改修費に、県は1億1000万円も支出している。
この先、さらに1億円程度の追加費用が見込まれている(C新聞)。
開港の遅れによる被害も、相当な額に達している。

それについて、地権者のO氏は、こう述べているという。

「週明けの30日に、実務レベルの話し合いに入りましょう」と。
つまり「立ち木をこちらが切るか、県に切ってもらうか。切り方はどうするか。
そんな具体的な話を詰めていきたい」(C新聞・09・3・28)と。

「実務レベルの話し合い」(?)。
たかが立ち木、150本を切り倒すために、「実務レベルの話し合い」(?)。
どこか、「?」。
私には、理解できない。

繰り返すが、たかが立ち木(失礼!)。
その上で、「(立ち木を切るには)、知事の辞任が条件」とは!

静岡空港には、いろいろ問題はある。……あった。
当初、はげしい反対運動が起きたのも事実。
その間に、いろいろな(わだかまり)ができたのも、わかる。
ここまでこじらせてしまった県側にも、問題がないとは言わない。
しかし空港は、完成した。
……してしまった。

で、やはりどう考えても、たかが立ち木(失礼!)。
私も、農地を一度、宅地に転換するとき、杉の木を、数百本植えた経験がある。
そしてその6年後、5〜8メートルを超える杉の木を、切り倒した経験がある。
切り倒すだけなら、半日でできる。
また立ち木そのものには、それほどの財産的価値はない。
このあたりでも、20〜30年木で、一反(300坪)、50〜70万円が相場。

いろいろ言いたいことはあるが、ここまで。
「こんなことがあっていいのかなあ?」と思ったところで、おしまい。
あとは、みなさんが胸の奥で考えていることと、同じ。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●口のうまい人(Those who flatter)

+++++++++++++++++++++

ふつう、「口のうまい人」というときは、
つぎの2つの意味が含まれる。

ひとつは、(自分のことをよく思わせるために)、
口がうまいことをいう。

もうひとつは、(他人の悪口を言うのに)、
口がうまいことをいう。

ほかにも、お世辞がうまい、おじょうずがうまい、
おだてる、へつらう、など。
ぺらぺらとしゃべって、相手の心を、自分の
思うがまま、誘導していく。

最近、こんな会話を、ある女性(60歳)とした。
その女性が、こう言った。

「あのAさん(65歳)って、義母の介護では
苦労なさったんですってねエ……。何でも
献身的な介護だったそうですよ」と。

そこですかさず私が、「その話は、だれに聞きましたか?」
と聞くと、「Aさんです」と。

Aさんという女性は、私もよく知っている。
口のうまい人で、たとえば他人の悪口を言うときも、
さも同情しているかのような言い方で、言う。

「Bさんって、本当に、かわいそう……。
私、もう、かわいそうで、その話を聞いて、涙が
出そうになりましたア……。
いえね、ひとり息子のX男君がね、無免許で
車を運転して、逮捕されてしまったんですって……。
あんな若いのに、もう前科がついてしまったんですって……。
私、かわいそうで、かわいそうで……」と。

涙声にはなるが、しかし涙は、ぜったいに出さない。

そんな人の話を真に受けて、「苦労なさったんですってね」は、
ない。
つまり、ウソ!

++++++++++++++++++

口のうまい人には、注意したほうがよい。
それだけ悪口を言うのにも、たけている。
つまり両刃の剣(?)。

だからあなたの近くに、口のうまい人がいたら、すかさず、こう思ったらよい。
「別のところでは、私の悪口を言っているぞ」と。
それには、理由がある。

口のうまい人は、つねに、自分の心を偽っている。
あるいは自分の心が、どこにあるかもわからない。
(口がうまい)という能力には、たけているが、その分だけ、思考力が浅い。
ものの考え方が、享楽的、刹那(せつな)的、欲望的。
その場の雰囲気に合わせて、言っていることの内容が、クルクル変化する。
もちろんウソも多い。
あるいは事実とウソを、巧みに混ぜる。

だから相手によっては、今度は、あなたを、酒の肴(さかな)にする。
悪口だろうがなんだろうが、知っていることは、何でも利用する。

心理学的に言えば、心の開けない人、つまり基本的不信関係にある人とみてよい。
他人と良好な人間関係を結べない。
結べない分だけ、孤独。
だから外の世界へ出て行っては、そこでシッポを振る。
見た目は、社交的で、派手。
しかしれは、あくまでも仮面。
そのため当の本人は、疲れる。
神経疲れを起こす。
あとは、この繰り返し。

このことは、その反対の位置にいる人を見れば、わかる。
たとえば私のワイフ。
私のワイフほど、口べた女性は、そうはいない。
真正直というか、バカ正直というか……?
私のほうが、今でも、ときどきワイフにこう言うときがある。
「もう少し、おじょうずを言ったらどうだ!」と。

この世の中、ある程度は、口がうまくないと、うまく生きていかれない。
とくに商売の世界では、そうである。
それはわかるが、ことプライベートな世界では、やはりあるがままに生きた方が
よい。
そのほうが楽。
言うなれば、口のうまい人は、心の中は、ゴミだらけ。
ゴミがない分だけ、心が軽い。

で、先に書いたAさんだが、今では、だれにも相手にされていない。
みな、(私も含めて)、適当に調子を合わせているだけ。
どこまでも、どこまで、あわれで、かわいそうな女性である。
それを感じているのか、Aさんは、ますます口がうまくなる。
あとは、この悪循環。
自分で自分の墓穴を、どんどんと深くしていく。

(付記)

口のうまい人には、いろいろな特徴がみられる。
「布石」「玉石混交」が、それら。

「布石」というのは、あからじめ、別の話題の中に、重要なキーワードを混ぜる
ことをいう。
ちょうど碁に例えるなら、周辺に、ポンポンと言葉をはさんでおく。
どうでもよいような話をしながら、その間ごとに、こう言う。
「近所に、ひとり暮らしの老人がいましてね……」
「私、見るにみかねて……」
「その老人の息子がね、勝手に借家を売ってしまったんですって……」と。
そしておもむろに、こう切り出す。
「だから私、その老人のために、必要な仕事を、してあげてますのよ」と。

「玉石混交」というのは、ペラペラとどうでもよい話をしながら、その中に、
重要な話を混ぜていく。
相手が反論したり、質問できないような状態を作っておいて、それで了解を
取りつけたようにして、会話を終える。
そしてあとになって、その相手が、「話がちがいますよ」などと言ったりすると、
「あら、あなた、この前、了解してくれたではありませんか。
それを今になって、ダメだと言われても、私は困ります……」と。

こうした口のうまい人への対処方法は、ただひとつ。
そのつど会話をさえぎりながら、自分の意見をしっかりと伝えること。
けっして遠慮してはいけない。
ためらってはいけない。
それができないなら、そういう口のうまい人とは、話はしないこと。
あるいは徹底して聞き役に回り、あとは無視してすます。

私のばあいは、「ちょっと待ってくださいよ」というような言い方をして、
その人の意思や、思惑を確認するようにしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
口のうまい人 お世辞のうまい人 へつらう人 基本的不信関係)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●通俗性

+++++++++++++++++++++

通俗的な人は多い。
多いだけではない。
加齢とともに、さらに多くなる。
パワーをましてくる。

たとえば主夫業についても、問答無用式にこう言う。
「そりゃあ、林君、男は仕事だよ。仕事をしてこそ、
男だよ」と。

父親像についても、「父親というのはね、家の中で
デンとしているのがいいんだよ。一家の大黒柱
なんだから」と。

親論についても、「親は親だからな。どんなことがあっても、
親には逆らっちゃいけないよ。生んで育ててくれたんだからさ」と。

国家論についても、「国あっての民だろ。日本は、一民族、
一国家。この純潔さこそが、大切なんだよ」と。

こうした通俗性とは、どう闘えばよいのか。
またどうして人々は、加齢とともに、ますます通俗的に
なっていくのか。

通俗性を主張する人は、「過去」「伝統」を背負っているから強い。
自分で考えて、そう言うのではない。
「昔から、人間はこうだ」という論陣を張る。
それが転じて、「人間は、こうあるべきだ」となる。

++++++++++++++++++++++

●通俗的になる人たち

60歳を過ぎると、とたんに多くなるのが、通俗的な人たち。
思考回路そのものが、過去へ過去へと、回帰していく。
その理由として、最大のものは、脳みその退化である。
こんな例で考えてみよう。

たとえば英単語。
20代のころまでに覚えた英単語というのは、しっかりと脳みその中に残っている。
今でも、即座に、思い出せる。
しかし50代ともなると、そうはいかない。
覚えるのもたいへんだが、すぐ忘れる。
記銘力、保持力、その双方が衰える。
衰えるならまだしも、バケツの底に穴があいたような状態になる。
その穴から、知恵や知識が容赦なく、流れ出ていく。
英単語もそうだ。

それもたとえるなら、タマネギの皮のようなもの。
外側からどんどんと、はがれて落ちていく。
つまり新しい記憶ほど、早く、はがれ落ちていく。

最後に残るのは、中心部にある、古い記憶のみということになる。
このことは、介護センターにいる老人たちを見ればわかる。
あの人たちはみな、過去の話ばかりしている。
子どものころの話とか、若いころの話ばかりしている。

●例外はない

こうして考えてみると、人は、加齢とともに、通俗的になるのではなく、
若いころ身につけた、(常識?)に戻っていくということがわかる。
あるいはそのあと身につけた、知識や知恵が、はがれ落ちてしまう。
わかりやすく言えば、バカになっていくということだが、それではあまりにも失礼。
しかしそれほど、まちがってはいない。

というのも、20代以後、結構、国際的な場で活躍した人ですら、通俗的になって
いく人は、いくらでもいる。
大企業で、要職を経験したような人でも、通俗的になっていく人は、いくらでも
いる。
もちろん、小さな世界だけで生きてきた人ほど、通俗的になる。
が、やはり特別な人だけが、通俗的になっていくわけではない。

●精進(しょうじん)

では、通俗性と闘うためには、どうすればよいのか。
そのためには、何が通俗的で、何が通俗的でないかを、判断しなければならない。
たとえば「男は仕事だよ。女が仕事に口を出すのは、まちがっている」と主張する
人がいる。
「どんな親でも、親は親だからな。逆らうのはよくない」と主張する人でもよい。
(今でも、ちゃんと、いるぞ!)

そういった通俗的なものの考え方をする人に出会うと、私のばあい、絶望感に近い
ものを感じてしまう。

そういう人たちの、ガリガリになった石頭を変えるのは、まず不可能。
順に説明しようにも、それよりも早く、脳みその老化が進んでしまう。
仮に新しい思想を話しても、そういったものほど、早く、忘れてしまう。
だから、私のばあい、「そうですねエ〜」とか言って、逃げてしまう。

が、他人は他人、私は私。

では、あなたはどうか?
この文章を読んでいる、あなたは、どうか?

そこで出てくる言葉が、「精進(しょうじん)」。
私たちは常に、前に向かって進む。
脳みその底に穴があき、そこから知識や知恵が流れ出ていくなら、それ以上のものを、
毎日補充していく。
通俗性と闘うには、それしかない。
けっして通俗的であることに甘んじてはいけない。
甘んじたとたん、あなたの思想は後退する。
つまりそれ自体が、一歩、死に近づいたことを意味する。

●息(いき)ると、生(い)きる

60歳を過ぎて、「ただ息(いき)ているだけ」という人は、少なくない。
またそういう生き方を、理想の生き方と誤解している人は、多い。
ほとんどが、そうではないか。
「老後は、旅行を楽しむよ」
「孫の成長を見守るよ」
「思う存分、庭いじりをしてみたい」と。

しかしこの年齢になると、仮に1年も遊んでしまうと、もう元(もと)に戻れなくなる。
1年遊んだあと、「仕事に復帰」ということは、まずありえない。
つまり脳みその硬直化は、それくらい早いスピードで、その人を襲う。
息(いき)始めたとたん、その人は、ただ息(いき)る人になってしまう。
この私も、こうして何らかの形で、毎日文章を書いているからこそ、書ける。
が、数日も書かないでいたりすると、調子を取り戻すのに苦労する。
今年の正月がそうだった。

私は、あの恐ろしい、三日酔いにかかった。
暮れの12月30日の午後から、正月2日まで、はげしい頭痛と吐き気に苦しんだ。
体重が、62キロ台まで減ってしまった。
(ふだんは、64〜66キロ台。)

で、正月だから……ということで、そのあとパソコンに向かったが、頭の中が
モヤモヤするだけで、どうしても文章が書けなかった。
さらにこんなこともある。

私にも夏休みや春休みがある。
その休みの間、たった1週間でも、子どもたちから離れると、育児論が書けなく
なってしまう。
これは本当のことである。
けっしてオーバーなことを言っているのではない。

子育て論というのは、毎日子どもを見ていてはじめて、書ける。

●「損」

私も、考えることをやめたとたん、その時点から、通俗的になっていく。
というのも、これは、大脳連合野が司る、(思考)の問題ではないからである。
脳みそそのものの、器質的変化によるものだからである。

そういう意味では、老化は、例外なく、だれのところにもやってくる。
今、「私はだいじょうぶ」などと、高をくくっているあなたのところにも、やってくる。
ひょっとしたら、肉体の老化よりも、脳みその老化のほうが、早いのでは?
体はピンピンとしているのに、考え方そのものが、通俗性のかたまりといった人は、
少なくない。

何らかの形で、若い人たちと接点をもっている人は、まだよい。
しかしその接点をなくすと、さらに老化は進む。
それがよいことなのか、悪いことなのかということになれば、悪いことに決まっている。
「悪い」というより、「損」と考えたほうがよいかもしれない。
与えられた時間は同じでも、その時間を2倍、3倍として生きることもできる。
が、老化に身を任せてしまうと、それこそ、10年を1年にして生きるようになって
しまう。
だから、「損」。

たった一度しかない人生。
だったら、思う存分、密度の濃い人生を生きる。

●さあ、通俗性と闘おう

通俗的に生きることは、楽なこと。
みなと同じことを考え、同じことをすればよい。
しかし、まだあなたの人生が終わったわけではない。
60歳であれば、20年は、ある。
50歳であれば、30年は、ある。

20年といえば、生まれてから、成人するまでの年月に等しい。
生き方によっては、あなたは、もう一度、青春時代を経験することもできる。
あの世で生まれ変わることを願うくらいなら、現実にそこにある20年を
大切にしたほうがよい。
あの世などという、あるともないともわからないものに、希望を託すほうが、
どうかしている。

さあ、あなたも勇気を出して、通俗性と闘おう。
そういう前向きな姿勢の中から、生きるエネルギーもわいてくる。
そしてあなたの周囲で通俗的なことを口にする人がいたら、あなたは鼻先で、
フンと笑ってやればよい。

今の私が、そうしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
通俗性 通俗的な生き方 通俗的な考え方 通俗的な人たち はやし浩司 人生論 
老後の人生論)


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●認知症の問題
 
++++++++++++++++

認知症というと、認知症になった人だけが
問題になる。
気の毒なこととは、思う。
かわいそうとは、思う。
「私はなりたくない」とは、思う。
しかし我らその年齢の者たちは、認知症に
なることによって、周囲の人たちに、
多大な迷惑をかけることを忘れてはいけない。

++++++++++++++++

●たいへんな被害!

A氏(今年55歳)の近くに、認知症の老人(男性)が、1人住んでいる。
はっきりとした診断名はわからないが、Aさんは、「ピック病ではないか」と言っている。
アルツハイマー病に似ているが、脳のある部分だけは、そのまま。
会って話をしてみると、ふつうの人と、とくに大きなちがいは感じない。
しかし、やること、なすこと、これが、めちゃめちゃ。

道路に車を止めておいたりすると、クギかコインで、傷をつける。
ナンバープレートに、落書きする。
あるいはすぐパトカーを呼ぶ。

さらにパチンコを使って、窓ガラスを割る。
自転車のタイヤに穴をあける。
飼い犬に石を投げる。
屋根に牛乳瓶を投げる、などなど。

一度は、庭先に放火されたこともあるという。
このときはさすがのAさんも、堪忍袋の緒が切れて、警察を呼んだという。

ほかにもいろいろあるが、Aさんは、こう言う。
「犯人は、隣のX氏(今年83歳)ということはわかっているのですが、
なにしろ、証拠がないのです」と。

X氏は、毎日、毎晩、Aさんの家をのぞいているらしい。
そしてスキをうかがって、その間に、悪さをするらしい。
Aさんは、防犯用のカメラをつけたが、電源を入れていないときを見計らって、
するという。
先ほども書いたように、脳のある部分は、かなり正常(?)ということになる。

で、一度、Aさんは、息子氏(現在40歳、独身、同じH市に住む)に
相談したことがある。
が、かえってその息子氏は、怒ってしまったという。
「うちの親父はがんこだが、そんなことをするような人ではない。
親の悪口を言うやつは、許さない」と。

私自身も、認知症になるのはいやだが、しかしなったらなったとき。
が、それ以上にいやなのは、認知症になることによって、みなに、迷惑をかけること。
私のばあい、こうしてものを書くのを趣味(道楽?)にしているから、
そのうち、とんでもないことを書くようになるかもしれない。
四方八方から、名誉毀損で訴えられるようになるかもしれない。
そうなったら、どうしたらよいのか。

怒った息子たちが、私のパソコンを、片っ端から破壊するかもしれない。
想像するだけでも、ゾーッとすることだが、ありえない話ではない。

認知症というと、それにかかった人だけが問題になるが、その人によって
迷惑を蒙る人たちもいるということ。
それを忘れてはいけない。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●新年度(2009年度)

+++++++++++++++++

毎年、1月1日を、新年度としている
人は多い。
しかし私にとっては、4月1日が、
新年度。
毎年、4月1日を迎えると、緊張感が
ググーッとわいてくる。
今が、そうだ。

+++++++++++++++++

●2009年度

前にも書いたが、私は55歳を過ぎるころから、60歳に向けて、
仕事を縮小することばかりを考えていた。
楽隠居とまではいかなくても、60歳を過ぎたら、仕事もほどほどに、
と考えていた。

が、その考え方は、まちがっていた。
その第一。
満60歳の誕生日を迎えた、その翌日のこと。
その日が、それまでの日々と、どこもちがわないことに驚いた。
(ちがうわけはないのだが……。)
満60歳の誕生日に向けて、自分の体が、どんどんと締めつけられて
いくように感じた。
「還暦だ」「退職だ」と。

いくら「私はちがう!」と叫んでも、そういう声は、弱い。
「あと1か月……」「あと10日……」「あと1日……」と。

で、その翌日、何も変わらなかった。
まったくいつもと同じように、その日が始まった。
だからうれしかった。

その第二。

今度は、満61歳の誕生日を迎えたときのこと。
ワイフと長男が、誕生日を祝ってくれた。
ささやかな3人だけのパーティだった。
そのとき、私は、はっきりと実感した。
「1年、得した!」と。

満60歳で私の人生が終わったとする。
(何も終わったわけではないが……。)
その満60歳から、それまでと同じように仕事ができた。
1年間、何も変わらず、仕事ができた。
だから「得した!」と。

友人のS君は、ちょうど満50歳のときにがんを患い、
それ以後、ずっと、闘病生活をつづけている。
そのS君も、同じようなことを言った。

「林君、人生は50年だよ。だからそれからの1年、1年は、
もうけものなんだよ」と。
そのときは、「そんなものかなあ」と思っていたが、満61歳の
誕生日のとき、S君の言った意味が、しみじみと理解できた。

これからは、1年、1年が、もうけもの、と。

●さて新年度!

もうけものの1年。
その1年を、どう使うか。
あとは、使い方の問題ということになる。
ぼんやりと過ごすのも、1年。
あと1年しかないと思って生きるのも、1年。

しかし1年たってみたとき、「得した!」と言えるようにするためには、
やはり緊張感をもって生きたほうがよい。
明日も、今日と同じ。
来週も、今週と同じ。
来月も、今月と同じ……。
そんな1年に、どんな意味があるというのか。
そんな1年を過ごして、そのあと、「得した!」と言えるのか。

……ということで、2009年度を迎えた。
今年度も、同じように、迎えることができた。
その2009年度にあたって、今、私は誓う。

2008年度よりも、暴れてやる!、と。

2009年、新しくBW教室へ入ってくるみなさんへ、

どうか期待していてください。
今までの経験すべてを、惜しみなく、みなさんのお子さんに注ぎます。
みなさんのお子さんを、すばらしい子どもに、します。
まあ、見ててください、はやし浩司の実力。
40年、ダラダラと生きてはこなかった。

お任せください。
約束します。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【家族】

++++++++++++++++++++++

今朝は、どこかの男と、言い争っている夢を見た。
私はかなり興奮していた。
そのせいか、起きると、軽い頭痛がした。
今、あまり精神状態は、よくないようだ。
理由はわかっている。

近く、実家の寺で、法事がある。
父の33回忌である。
私は若いころから、「実家へ帰る」となっただけで、
精神状態が、たいへん不安定になる。
家族自我群による「幻惑」によるものと考えてよい。
本能に近い部分にまで、「刷り込み」がなされて
いるため、それを克服するのは、容易なことではない。

満61歳になった今でも、その「幻惑」はつづく。

+++++++++++++++++++++

●家族自我群

今の今も、家族による束縛感、呪縛感に苦しんでいる人は多い。
家族であるがゆえに、わだかまりや、こだわりも、増幅する。
またそれから逃れることもできない。
できないから、悶々と、いつ晴れるともない、苦しみの中でもがく……。
こうした呪縛感を総称して、「家族自我群」という。
またそれから生まれる苦しみを総称して、「幻惑」という。
先にも書いたように、本能に近い部分にまで刷り込みがなされているため、
その自我群から、自ら解放することは、容易なことではない。

●家族

「家族」というと、甘い響きがそこに漂う。
そうである人には、そうかもしれない。
しかしその家族も、どこかで歯車が狂うと、そのままバラバラになる。
なって、今度は、重圧感となって、その人を襲う。
家族イコール、「安住の場」とは、かぎらない。
「家族である」という、安易な『デアル論』だけで、
容赦なく、その人を攻撃する。
幸運にしても、そういった苦しみを知らない人には、
自我群の説明をしても、意味はない。
理解することすら、むずかしい。

●入浴

……ここまで書いて、朝風呂に入ってきた。
軽い偏頭痛のばあい、朝風呂に入ると、そのまま治る。
これにも、理由がある。
偏頭痛は、血管が拡張して起こる。
拡張した血管が、その周囲を取り巻く神経を圧迫する。
それで偏頭痛が起こる。

若いころは、このメカニズムがわからず、苦労した。
プラス苦しんだ。
ひどいときには、「頭を切り落としてくれ!」と叫ぶほど、
痛かった。
が、メカニズムがわかれば、対処の仕方もわかる。

やや熱めの風呂に入って、一度、血圧をあげる。
瞬間、偏頭痛はひどくなるが、5〜10分もすると、今度は
血管が収縮を始める。
それで偏頭痛は、消える。
今朝、目が覚めたときの頭痛は、偏頭痛だった。

●自我群と闘うために

家族自我群と闘うためには、まず、そのメカニズムを知る。
何度も書くが、これは本能に近い部分にまで刷り込みがなされているから、
それと闘うのは、容易なことではない。
理性や知性で、割り切ることはむずかしい。
が、「幻惑」は、読んで字のごとく、「幻惑」。
「幻(まぼろし)」。
実体があるわけではない。

私のばあい……という言い方はおかしいが、あるときから、そこにある
運命を受け入れることにした。
自分の境遇をのろっても、しかたない。
嘆いても、始まらない。
だったら、そこにある運命を、そのまま受け入れる。
とたん、心が、ウソのように軽くなったのを覚えている。

●今……

今、私が苦しんだ、家族自我群による幻惑は、ウソのように消えた。
母が他界し、つづいて兄が他界し、「家」そのものが、消えた。
残るのは、実家という「古家」と「法事」のみ。
しかしそれらは、もう(心の問題)ではない。

が、すべての呪縛から解放されたというわけではない。
実家の周辺には、親類が住んでいる。
近所の人たちとのつきあいもある。
伯父、伯母、それに叔母もいる。
しかし我が身を振り返ってみれば、その私も61歳。
正直なところ、「もう、いいかげんにしてほしい!」と叫びたい。
が、こうなったら、居直って生きるしかない。
「どうでもなれ」と、投げ捨てて生きるしかない。

●幻惑に苦しんでいる人へ

私のBLOGへの検索・ワードを見ると、「家族による苦しみ」
についてのものが、多い。
(BLOGによっては、どんな言葉を検索して、アクセスして
きたかが、わかるようになっている。)

つまりそれだけ、この問題は、深刻ということ。
またそれで悩んでいる人も、多いということ。
逆に、そういう人たちをアクセスしてみると、そのBLOGには、
こう書いてあったりする。
「親を殺してやりたい!」と。

それは殺意というよりは、自分の体にしみ込んだ(体質)そのものを
消し去りたいという思いから、発するものと考えてよい。
あえて言うなら、自己嫌悪。
はげしい自己嫌悪。
それが転じて、「殺してやりたい!」となる。

しかしけっして、あせってはいけない。
時間はかかるかもしれないが、この問題は、時間が解決してくれる。
時間がたてば、かならず、解決する。
だから……。
それまでがんばって、がんばって、生き抜くこと。
健康だけを大切に、生き抜くこと。
それで解決する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
家族自我群 自我群 幻惑 家族とのわだかまり こだわり はやし浩司 確執 
親子の確執。)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●権力の魔力(Power of Devil)

+++++++++++++++++++++

M党のOZ氏が、「続投する」と言っている。
いわく、
「自身が収賄罪など犯罪に手を染めたという事実はないと申し上げてきた。主張してきた
ことが事実であると明らかになった」(Nikkei)と。

本当かな?

一方、側近中の側近であった、第一秘書は、そのまま起訴。
それについて、T次席検事は、「ダミー団体の名義を利用する巧妙な方法で、国会議員の政
治団体が建設業者から多額の寄付を受けてきた事実を国民の目から覆い隠した重大、悪質
な事案」と説明。

わかりやすく言えば、OZ氏は、「私は関係ない」と。
が、こんな言葉でだまされるほど、国民は、バカではない。
第一秘書のした「巧妙な行為」(T次席検事)を指示したのは、だれか?
そんなことは、その(マネー)が、最終的にすべて、どこへ向かったかをみれば
わかるはず。
N建設からだけでも、何しろ3億円近い献金である。
そんな献金の流れを、「知らなかった」では、すまされない。
つまりOZ氏のイメージは、それほどまでに、悪い。
悪いにもかかわらず、「続投する」と。

これではますます、M党イコール、OZ氏というイメージが定着してしまう。
同時に、今、あのOZ氏に、さわやかな清潔さを感ずる人がいるだろうか。
当の本人は、街頭に出て、笑顔を作りながら握手戦術を繰り返している。
「涙までこぼして、無実を訴えている」(C新聞)という。
言いかえると、それほどまでに(権力の座)は、おいしいものなのか?

+++++++++++++++++++

●権力

昔、何かの講義の場で、ある教授がこう言った。
「金がほしかったら、弁護士になれ。勉強したかったら、裁判官になれ。権力が
ほしかったら、検事になれ」と。

この3職をまとめて、「法曹(ほうそう)」という。

検事がどのように権力を行使しているかは知らないが、しかし検事ともなると、
電話一本で、警察を自由に動かすことができる。
暴力団の親分でも、検事の前では、借りてきた猫の子のようにおとなしい。
が、政治の世界ともなると、こうした「力」が、何十倍、何百倍も強くなる。
今回、AS首相は外遊を繰り返しているが、一回の外遊で、5〜7億円の費用が
かかるという。
もちろん飛行機は、政府専用機。

そういう世界にいる人から見れば、N建設からの献金、3億円など、まさにハシタ金。
OZ氏自身も、実はそう思っているのではないか?
「どうして、それっぽっちで?」と。
あるいは「みんなやってるじゃ、ないか?」と。

●物欲

話はそれるが、物欲を満たしたからといって、それで精神が高揚するということは
ありえない。
大脳生理学上で考えても、ありえない。
たとえば今、あなたが欲しいものをどんどんと手に入れたとする。
しかしそのことと、精神の高揚とは、まったく関係ない。
「私はすばらしい人間になった」と思ったとしても、それは錯覚。

物欲というのは、あくまでも脳の中のホルモンの作用によるもの。
ドーパミンが線条体を刺激して、条件反射が起きる。
物欲が起きる。
が、それを満たしたところで、いい気分にはなるかもしれないが、大脳の精神活動に
影響を与えるなどということは、大脳生理学で考えても、ありえない。

ひとつの例として、超高級な衣服を着た、女性を見ればよい。
超高級車に乗っている、男性を見ればよい。
さらに、古今東西の独裁者たちを見ればよい。
すべての物欲を満たしたはずなのに、ロクなのが、いない。

権力、またしかり。

●誤解と錯覚

もうおわかりのことと思う。
権力者イコール、人格者ではない。
ないが、みな、権力者イコール、人格者と誤解してしまう。
錯覚してしまう。
金持ちイコール、成功者と誤解するのに似ている。
一般世間の人たちだけではない。
当の本人ですら、誤解してしまう。
錯覚してしまう。

ふつうなら自分の側近中の側近が、逮捕、起訴されたら、それに恥じて、
……というより、その側近の罪をかぶってでも、身を引く。
「部下に責任をかぶせるのは、つらい。私がかぶります」と。
それを「私は知らなかった」「私は関係ない」と、別のところでは笑顔を
ふりまく。
このおかしさ。
この異常さ。
権力の魔力にとりつかれると、そういう常識まで失ってしまう。
OZ氏がどうのこうのというよりは、その向こうにある権力の魔力に、改めて、
驚く。

「AS首相よ、OZ氏よ、そうまでしても、権力の座にしがみつきたいか!」

しかし考えようによっては、かわいそうな人たちである。
あれほどまでの人たちに囲まれながら、心の中は、カラッポ。
まわりの人たちの心も、カラッポ。
そこにあるのは、孤独だけ。
みながチヤホヤするのは、そのオコボレがほしいから。
チヤホヤする人たちにしても、その程度の人。
だからそこにあるのは、孤独だけ。

誤解と錯覚の世界だけに住んでいると、そういう人の心までわからなくなる(?)。

まあ、あえて言うなら、OZ氏よ、引退しなさい。
M党の未来のために、引退しなさい。
あなたが続投すればするほど、結局は、J党のAS首相を勢いづかせるだけ。
人間の心の醜さを、世に残すだけ。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●映画『オーストラリア』(Ausutralia)

++++++++++++++++++

昨夜、わざわざ隣町まで行って、
映画『オーストラリア』を見てきた。
浜松の映画館でも上映していたが、先週で打ち切り。
それで隣町まで。

で、星はもちろん5つの、★★★★★。
職業がら、子どもが救出されるシーンに、私は弱い。
涙、ポロポロ。
みなが再会して、さらに涙、ポロポロ。
このところ、何かにつけて、涙もろくなった。
(「肝」機能が衰退しているためかもしれない。東洋医学。)

オーストラリア英語といっても、州によってちがう。
『オーストラリア』の中で使われていた英語は、
北部オージィ?
NSW英語ともちがったし、メルボルン郊外の
カントリー英語ともちがった。
しかし久々に、生の(?)、オーストラリア英語を
耳にして、うれしかった。

ところでオーストラリアでは、
「牛や羊を、(追う)」ことを、droveという。
「drive」の過去形ということになるが、「drove」は、
現在形として使う。
そこで「牛や羊を追う人」を、「drover」という。
主人公の男の名前が、その「ドローバー」だった。

その英語を聞きながら、昔、その単語の意味を
一生懸命教えてくれた、友人のことを思い出していた。
……というより、友人の顔が浮かんできた。

ところどころに、オーストラリアのブッシュ・ソング
が流れ、気分は、最高!
それで星は、5つ。
オーストラリアに何かの思い出のある人には、
たまらない映画だと思う。

家に帰ってきたのが、夜中の11時半過ぎ。
そのまま床に入って、眠った。

+++++++++++++++++++

●Acid Milk

映画館から帰ってくるとき、大きく「Acid Milk, YY」と書いた車と
すれちがった。
それを見て、ワイフと2人で笑った。

英語で、「Acid Milk」というと、「覚せい剤」を意味する。
それについては、こんな思い出がある。

学生時代、メルボルン港に、サクラ丸という、日本商品の見本市船が入港した。
三井物産の支店長から、アルバイトの学生を、30人ほど集めてほしい
という依頼を受けた。
もちろん私も、アルバイトをさせてもらった。
そこでのこと。

あの「カルピス」の試飲コーナーもあった。
しかしみな、遠巻きにしてながめているだけで、だれも飲まない。
それもそのはず。
「ピス」は、そのまま「小便」を意味する。
だから「カルピス」は、「牛の小便」となる。
さらに「これは何だ?」と聞かれたとき、「乳酸飲料」を直訳すると、
やはり、「Acid Milk」となる。
オーストラリア人が、飲むわけがない!

これは余談。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【年齢論】

●ニコール・キッドマン

+++++++++++++++++

ニコール・キッドマンの美貌については、
今さら、語るまでもない。
しかし映画『オーストラリア』の中の
ニコール・キッドマンは、円熟した女性の美しさ
というか、これからの大女優への変身を
期待させるような美しさを、たたえていた。

女性が本当に美しくなるのは、やはり
30〜35歳前後ではないか。
ニコール・キッドマンもそれくらいの
年齢だと思うが、確かなことはわからない。
たいていの女優は、この年齢を境に、
スクリーンから消えていく。
若さと肉体だけを売り物にしている女優ほど、
そうだ。
が、この年齢をうまく通り過ぎた女優は、
そののち、大女優へと変身していく。
メリル・ストリープも、その1人。
ニコール・キッドマンは、その年齢を
うまく通り過ぎた。

つぎの作品も、かならず、見る。

+++++++++++++++++

●35歳という年齢

男性のことは、よくわからない。
しかし女性は、35歳を過ぎると、急速に老けていく。
40歳になるころには、老人顔になる。
もう少しわかりやすく言うと、40歳を過ぎると、
その女性が老人になったとき、どんな顔になるか、
それが簡単に想像できるようになる。
30歳以前の女性では、それがわからない。
(何も老人顔になるのが、悪いと言うのではない。
どうか、誤解のないように!)

で、この時期、その女性が、いわゆるオバチャンに
なるかどうかが、決まる。
(もちろんオバチャンにならないほうが、よいに
決まっているが……。)

教養があるとかないとか、文化性があるとかないとか、
そういうことではない。
その方向づけがあるかどうかということ。
つまりこの時期からの方向づけが、その女性のそれからを
決める。
この時期に、本を読んだり、美術を鑑賞したり、
より広い世界を見たりする習慣があるかないかということ。
その習慣がしっかりしている人は、そののち、高い
知性と理性を光らせることができる。
そうでなければ、そうでない。
そのまま、あのオバチャンになっていく。

つまらない世間話にうつつを抜かし、家族のグチを
いつまでも話しつづける。
厚化粧ばかりを塗り重ねるが、頭の中は、カラッポ。
電車やバスの中でも、まわりの人にお構いなく、
ペチャクチャ・ペチャクチャ、ゲラゲラ、ギャーギャー、と。
物欲と食欲と性欲のかたまり。
そんなオバチャンになっていく。

で、あとはお決まりの老人コース。
つまり女性にとっては、(男性にとっても、そうかも
しれないが……)、35歳から40歳までが、人生の
大きな節目になっている。
言うなれば、それまでの年代は、その時期の基礎づくり
の年代ということになる。

●品性

ついでに、品性というのは、(落差)の問題。
自分がより高い品性をもって、それまでの自分が低かったことを知る。
が、その品性には、上限はない。
(現在の自分)に、けっして満足してはいけない。
満足したとたん、その日を境に、品性は、下落する。
それはちょうど健康論に似ている。

健康のための運動をやめたとたん、その人の健康は下落する。

が、(そこにいる人)には、それがわからない。
知性も理性も、そして品性も、より高い人からは、低い人がわかる。
しかし低い人からは、高い人がわからない。
わかりやすく言えば、賢い人からは、バカがわかる。
が、バカからは賢い人がわからない。
(ここでいう「バカ」とは、「バカなことをする人のこと」(「フォレスト・ガンプ」)
をいう。知的な意味で、バカというのではない。誤解のないように!)

先日もある女性と、電話で話していたときのこと。
このところどこか認知症気味(?)。
どうでもよい家族のグチを、何度も繰り返し話していた。
そこで私が、「ぼくは、そんなバカではないと思います」と言うと、
何を勘違いしたのか、突然金切り声で、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

そこで釈迦は。「精進(しょうじん)」という言葉を使って、
日々の弛(たゆ)まぬ研鑽(けんさん)の重要性を説いた。
その努力を怠ったとたん、その人は、そのまま元の
世界に逆戻りしてしまう。

……と書くと、「そんなたいへんなこと、できない!」と
思う人もいるかもしれない。
しかし実は、それは楽しいことでもある。
たとえて言うなら、心の旅。
未知の世界を、ひとりで旅をするような、そんな感じがする。
その旅に出るか出ないかは、あとは、勇気だけ。
一歩、踏み出してみれば、あとは、なんでもない。

『心を解き放て! 体はあとからついてくる!』(アメリカの格言)。

……と書くと、「じゃあ、林、あなたはどうなのだ!」と言われそうな
気がする。
「お前だって、偉そうなこと言えるクチではないだろ!」と。

そう、その通り。
が、海抜3000メートルの山から、4000メートルの山には登ることは
できないが、300メートルの山から、400メートルくらいの山なら、
登ることができる。
無理はしていないし、無理をする必要もない。

それに品性を磨くということは、だれのためでもない。
自分のためである。
たとえばそうでない人たちから、一歩抜き出ると、そういう人たちが、
低いところにいるのが、たしかにわかる(失礼!)。
しかしそのために品性を磨くのではない。
またそれがわかったところで、意味はない。
というのも、高低といっても、あくまでも相対的なもの。
自分より、より高い品性をもった人は、いくらでもいる。

つまり品性を磨くといっても、それは、あくまでも自分のため。
他人を見下すため、ではない。
またそういうふうに見下してはいけない。
人は人、私は私。

ただ、相手にしないというようなことは、ある。
相手にならないというようなことも、ある。
つきあいたくないというか、つきあっても、ムダというように、
考えることはある。

で、数日前には知らなかったことを、今日、知る。
数日前にはわからなかったことが、今日、わかる。
それは原野で、小さな宝石を見つけるのに似ている。
それがまた「心の旅」を楽しくさせる。

その人の品性は、あくまでも、その結果。
結果として、その人の身につく。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●実家への仕送り

++++++++++++++++++++

現在、東南アジアや南米からの労働者たちは、
収入の多くを、故郷の実家へ仕送りしているという。
学生時代からの友人であるM君が、そう言った。
しかし本当に、そうだろうか?
そういう話を聞くと、「すごいことだ」と、
みな思う。
しかし本当にそう思ってよいのだろうか。

++++++++++++++++++++

10年前、20年前なら、そうだったかもしれない。
しかし今は、時代が変わった。
世界も変わった。
そういうこともあって、私は「?」と思っている。
いったい、何パーセントの人が、平均、いくら
仕送りしているというのか?

それに南米からの労働者といっても、ほとんどが、家族連れ。
私が知る限り、単身で出稼ぎに来ている人は、ゼロ。
あの人たちの家族観には独特のものがあり、離れて暮らす
ということは、ありえない。
「家族あっての仕事」と考えている。

が、中には、故郷の両親に……という人もいるかも
しれない。
とくに中国系の労働者たちは、そうかもしれない。
結婚前の独身の労働者たちも、そうだ。
しかし、そういう人たちも、今では、意外と少ないのではないか?
故郷の実家に送金するというよりは、故郷の自分の銀行に
送金している?
私には、そう見える。

で、同時に、こう思う。
「そういう話を美化してはいけない」と。

仕送りをしたことがある人ならともかくも、
一度も仕送りをしたことがない人は、
こういう話を美化してはいけない。

実家への仕送りなど、美談でも何でもない。
若いときから、収入の約半分を、実家に
仕送りをつづけてきた私が、そう言うのだから、
まちがいない。

だれが送りたくて、送るかア!
金銭的負担というより、その社会的負担感には
相当なものがある。
重圧感と言ってもよい。

あなたが親なら、子どもに仕送りなど、させてはいけない。
あなたが子どもなら、親に仕送りなど、してはいけない。
そんなことをしても、無駄。
最初は感謝し、感謝されるが、それも時間の問題。
1年、2年とたつと、それが当たり前になる。
5年、10年とたつと、逆に、親のほうが子に、
請求するようになる。
子は親に、請求されるようになる。

こうした依存、被依存関係ができたら最後、
(仕送り)は、仕送りでなくなってしまう。
義務になってしまう。

私のばあいも、最初のころはともかくも、
やがてそれが当たり前になり、実家の母たちも、
私からの仕送りを前提にして、生活を考えるようになった。

しかも母には母のプライドがあったのだろう。
私が送ったお金で生活しながら、親類や近所の
人たちには、「先祖からの財産で生活している」と
言っていた。

が、それだけではない。

実家からさらに、母の実家へと、お金が流れるようになった。
母の実家を継いだ、母の弟氏(=伯父)には、定職がなかった。
こんなことを書くと、伯父は怒るかもしれないが、事実は事実。
母の直筆のメモも残っている。

また、それで親の子の絆が太くなるということは、まずない。
世の中には、親をだます子どもは多いが、子をだます親もいる。
マネーがからんでいるから、親子でも、人間関係は
ドロドロとしたものになる。

親は親で生きる。
子どもは子どもで生きる。
子どもを出稼ぎの道具として使うくらいなら、もとから子どもなど
生まないこと。

子どもに生活費を仕送りさせながら、「私はいい息子をもって、
幸せ」は、ない!
よい人間関係があれば、まだ救われる。
しかし親子関係だって、壊れるときには壊れる。
壊れても、そこで仕送りを止めるわけにはいかない。
あとに残るのは、その重圧感だけ。
その重圧感と、闘わねばならない。

一方、欧米では、親子でも、経済は他人と考える。
夫婦でも、他人と考える。
それがよいことなのか、悪いことなのか、わからない。
議論もあると思うが、こと「実家への仕送り」という話については、
私は聞いたことがない。
中にはあるかもしれないが、私は聞いたことがない。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●老後の統合性

+++++++++++++++++

老後の統合性については、何度も
書いてきた。
(すべきこと)と、(していること)を
一致させる。
それを「統合性」という。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)。
それをする。

が、「退職しました。これからゴビの砂漠へ
行って、ヤナギの木を植えてきます」と
いうわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、
身につかない。
長つづきしない。
生きがいも生まれない。

その統合性の準備は、満40歳くらいから
始めるとよいという。
「40歳は、人生の正午」と言われている。
が、それでも遅いかもしれない。

統合性の下地を作るだけでも、10年とか
20年とか、かかる。
そうした地道な下地があってはじめて、統合性の
確立ができる。

++++++++++++++++++

●愛他的自己愛者(偽善者)

それにしても愛他的自己愛者が多いのには驚かされる。
つまり偽善者。
自分をよく見せるために、ボランティア活動や、慈善事業をしたりする。
派手なパフォーマンスを繰り返す。
が、見抜くのは、簡単。
どこかへん?
どこか矛盾している?
そう感じたら、愛他的自己愛者と考えてよい。

たとえばもう25年近くも前になるだろうか。
田丸謙二先生の家に遊びに行ったら、1人の女性がたまたま、遊びに来ていた。
当時、50歳くらいではなかったか。
話を聞くと、東南アジアの難民キャンプで、難民たちの世話をしているという。
その女性といっしょに、私のワイフも含めて、みなで夕食を食べた。
そういう(本物の女性)に一度でも会うと、「私はアフリカで……」というような
人が、いかにインチキかわかる。
本物の絵を見たあと、夜店で売っているような絵を見るようなもの。

その女性のばあいも、日本にいたのは数日だけ。
たしかそのつぎの日には、カンボジアだったか、タイへ戻るということだった。
つまりそういう人には、一貫性がある。
すご味がある。
その人の人生を貫く、太い柱のようなものを感ずる。

言い忘れたが、その女性は、左手に大きな包帯を巻いていた。
何かの活動をしているときに、怪我したということだった。
(今、思い出したが、怪我したから、一時帰国したということだった。
ワイフにこの話をしたら、ワイフが、「お医者さんだったわね」と言った。
そう、医師だった。)

が、世の中には、一方でテレビのタレントをしながら、こうしたボランティア活動(?)
を売り物にしている人たちがいる。
そこに至るプロセスがあれば、まだ理解できる。
若いころからホームレスの世話をしてきたとか、孤児のめんどうをみてきたとか、など。
が、そうした人たちは、ある日突然、降ってわいたような話に乗って、難民救済運動
を始めたりする。
団体は団体で、そういう人たちを利用して、募金を集める。

しかし難民救済という活動がいかにたいへんなものであるかは、恐らく、それを実際に
したことがある人でないとわからないだろう。
私にもわからない。
しかし難民キャンプにいる人たちは、私たちが想像を絶するような生活をしている。
多くはやせこけ、重い皮膚病にかかり、体の一部はすでに腐り始めている……。
そういう人たちを素手で抱きあげ、体を湯で洗ってやる……。
きれいごとだけで、できるような活動ではない。
それが救済活動である。

さらに言えば、一方で数十万円もするような衣装で身を包みながら、
他方で、難民救済活動をしているだと?

テレビに出るたびに、2時間近くもかけて化粧をしながら、他方で、
難民救済活動をしているだと?

中には、写真撮影のためだけに、難民キャンプで子どもを抱いた人もいた。
その人は、写真撮影が終わるとすぐ、手や体を消毒していたという。
ある週刊誌にそれがすっぱ抜かれ、問題になったことがある。

もしふつうの人が、まともな神経で、そんなことを繰り返していたら、
それだけで精神がバラバラになってしまうはず。
つまり偽善をつづけるにも、それなりの体力と気力がいる。
好きでもない相手と、ともに生活するようなもの。
ストレスがたまって、気がへんになる。

で、身近でもこんなことがあった。
その女性は、ボランティア活動として、近所の独居老人の世話をしている
ということだった。
しかしその一方で、ある日、私の知人の家に怒鳴り込んできたという。
何でも知人の家にある高い木から落ちる枯れ葉で、樋(とい)が詰まって
しまうというのだ。

その知人は、こう言った。
「独居老人の世話をするという高邁な精神の持ち主が、他方で、枯れ葉程度の
ことで、大騒ぎする。
矛盾しているとは、思いませんか」と。

そう、矛盾している。
たしかに矛盾している。
そういう矛盾を感じたら、ここでいう愛他的自己愛者と考えてよい。
つまり自分を飾るために、また人からよい人と思われたいがために、
ボランティア活動をしているだけ。
ボランティア活動を利用しているだけ。

で、この話には、まだつづきがある。
この女性が、やがて実父の介護をするようになった。
が、表ではすばらしい娘を演じながら、その裏で、実父を虐待していた。
毎度、食事は、ご飯と味噌汁だけ。
昼間は、部屋に鍵をかけて閉じ込めていた。
が、親類の人が見舞いに来たりすると、みなの前で実父の背中をさすって
みせていた。
すばらしい娘を演じてみせていた。
代理ミュンヒハウゼン症候群というと、母親と子の関係を想像するかもしれないが、
何も、母親と子の関係だけではない。
場所も、病院内だけとは、かぎらない。
陰で親を虐待しながら、すばらしい娘を演じている女性となると、
それこそゴマンといる。

だからその知人は、こう言った。
「ああいうのを化けの皮をかぶった、タヌキというのです」と。

話を戻す。

愛他的自己愛者は、悪人より、タチが悪い。
悪人は、人をだまして、お金を奪う。
愛他的自己愛者は、善人ぶって、人の心を奪う。
弱い人を利用しながら、それを自分の名声や利益につなげていく。
何もアフリカまで行かなくても、本当にボランティア活動なるものがしたかったら、
まず身近なところから、始めてみたらよい。
街中で寝泊りするホームレスの人たちの世話でもよい。
孤児の世話を、親代わりになってしてみるのもよい。
そういう積み重ねをしたあと、アフリカへ行けばよい。
それができないというのなら、つまり、見せかけだけのボランティア活動なら、
すぐやめたらよい。

(補記)
世の中には、「やらないよりは、やったほうがいい」という意見もある。
「偽善であろうがなかろうが、やらないよりは、やったほうがいい」という意見もある。
が、偽善は偽善。
偽善が本物に変わることは、まず、ない。
偽善が本物になるためには、まずドス黒い心を、一度、真っ白にしなければならない。
だったら最初から真っ白な人のほうが、まだよい。
何もしないで、遠くからながめている人のほうが、まだよい。
できなければできないと、正直に言っている人のほうが、まだよい。
そういう人たちのほうが、より(善)に近いことになる。

この世で最大の罪は、弱者を利用して、それを食い物にすること。
偽善者が、そうだ。
そういう人たちがいるから、戦争が始まり、犠牲者が生まれる。
難民が生まれる。
言うなれば、偽善者たちが、その一方で、別の新たな犠牲者を生み出しているようなもの。
私たちは、見かけの(善)に、だまされてはいけない。

先に書いた、写真撮影のあと、手や体を消毒した人にしても、いまだに
看板だけは背負っているらしい。
が、そのあと、何らかの活動をしているという話は聞いたことがない。
「私財を投げ打って……」という話も、聞いたことがない。

私たちは、だまされただけなのか?
また、それで終わってよいのか?


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●ミサイルを迎撃してはいけない!(Urgent Warning)
(We should NOT intercept the North Korean's Missile!)

+++++++++++++++++

あんなK国など、相手にしては、いけない。
国力は山陰地方の小さな県ひとつにも及ばない。
小さな国である。
アジアのみならず、世界でも最貧国のひとつに
なっている。

そんな国と、日本は、心中するつもりなのか。
しかも相手は、すでにまともな論理が通ずる
国ではない。

今ここで、それがミサイルであるにせよ、
それを迎撃すれば、日本とK国は、
そのまま交戦状態に入る。

たとえば漁船で、核爆弾を東京湾へ持ち込まれたら、
そのあと、日本は、どうなる?

カラのミサイル一発でも、東京の中心部に
撃ち込まれたら、日本は、どうなる?

そのときから日本は、大混乱。
日本の経済は、マヒ状態になる。

人工衛星のはずは、ない。
世界中の人は、それを知っている。
しかし彼らは、異常な思い込みによって、
それを「人工衛星」と主張している。
つまりその(思い込み)を基に、
日本に戦争をしかけてくる。

少し前、アメリカの政府高官は、K国を
「Mad Dog(狂った犬)」と
評した。

だったら、なおさら、相手にしてはいけない。

ミサイルにはまだ、核弾頭は積んでいない。
だったら、彼らのやりたいようにさせ、
そのあと、国際世論を、反K国に誘導する。
彼らを、国際世論で、兵糧攻めにする。

あんなガラクタに近いミサイルのために、
数100億円〜もかけた、迎撃ミサイルを
撃って、どうする?

相手は、「相手にしてほしい」「相手にしてほしい」
と、駄々をこねている子どもと同じ(ライス)。

ここは、冷静になろう。
一度、迎撃したら、日本もあとへ引けなくなる。
ブッシュのイラク戦争を見れば、それがわかる。

だから、迎撃、反対!
あんな国は、本気で相手にしてはいけない。
また、その価値もない。

さあ、日本人よ、おとなになろう!

2009−3−27記


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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●外国人労働者(Foreign Workers in Japan)

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日本には不法就労者も含めて、約90万人の
外国労働者がいると推計されている(「朝日キーワード」)。
経済協力開発機構(OECD)によると、
「人口減の進む日本の現状の労働力人口を維持するために
は、年間50万人の外国人労働者の受け入れが必要」
(同)という。

そこで「外国人労働者」について、基礎的な部分から、
学習しなおしてみたい。

+++++++++++++++++++++

●「朝日キーワード」(2009年→10)より

(1)本来政府は、「単純労働者には外国人の雇用を認めない」という方針を堅持してきた。
しかし実質的な単純労働者である、(1)研修、技能実習生や、(2)日系人へ依存度の
高まりが、「開国」論を後押ししている。

(2)しかし建前はどうであれ、1980年以降、国内の労働者不足を背景に、
いわゆる3K(汚い、危険、きつい)の仕事を中心に、(1)観光ビザや、(2)
学生ビザ、(3)研修ビザによる入国が目立つようになった。

(3)日本経団連の考え方……単純労働者については慎重だが、高度人材や留学生、
看護婦など一定の資格をもつ「中度人材」の活用を提言している。

(4)日本商工会議所の基本的な考え方……単純労働者を認める新たな制度が必要と
提言。それを受けて、自民党内では、(1)3年に限って単純労働者を受け入れ、
再入国は認めない制度の創設、(2)移民庁を新設して、1000万人程度の移民を
目指し、定住を認めるの、2つの提言がなされている。

(5)現実問題として、外国人労働者を抜きにして、製造業現場は成りたたない。
劣悪、低賃金の温床となっている、研修・技能実習制度を見直すことの必要性では、
各界の主張は一致している。

(6)しかし外国人労働者が増加すると、(1)社会的コストが増大する。(2)賃金
低下や失業者の増大につながる。(3)将来的には社会保障費の負担も増大するなどの
問題点もある。

(7)欧米諸国では、労働力の不足を補おうと、外国人労働者を積極的に受け入れた
時期もあるが、行動経済成長が終わると、一転、規制に転じている。しかし流入は
つづき、結果として不法滞在者がふえる結果となった。このため外国人労働者に頼る
よりは、(1)女性や、(2)高齢者の活用を優先すべきという意見が根強くある。

(8)移民に関する問題は、国民の合意が必要であるから、性急な結論は出せない。

以上が、「朝日キーワード」の要旨である。

++++++

用語の解説

++++++

外国人労働者の問題を考えるにあたって、専門用語の解説をしておきたい。

●外国人研修制度・技能実習制度

本来は、外国人労働者の技能の研修を目的としたものであった。
当初は大企業を中心に活用されたが、1990年以降は、中小企業へと
ワクが広げられた。
1年目は研修。
2〜3年目は、実習生として働く。
実習生については、低賃金で雇用できるため、中小企業を中心に、拡大したが、
その一方で、劣悪な労働環境、賃金の不払いなどの問題が増加した。
短銃労働者を受け入れる、合法的な手段として使われている(以上、同書、参考)。

●実数

2006年度に来日した研修生は、9万3000人
うち中国人が、6万2000人で、7割を占める。
ベトナム、インドネシアからの研修生が、これにつづく(同書)。

●インドネシアからの介護士の受け入れ

07年に調印された、日本・インドネシアの経済連携協定(EPA)により、
インドネシア人の介護福祉士、看護師の約200人が、08年8月に来日。
いずれも、インドネシアの介護士や看護師の有資格者。
東京、大阪など5か所の研修所で、半年間研修を受けたのち、全国の病院や
介護施設で、国家試験合格を目指す。
3年以内に合格すれば、無制限で日本で働くことができる。
不合格のばあいは、帰国が条件となっている。
介護士不足という現状の中で、歓迎するムードもあるが、教育の負担が大きく、
敬遠される傾向もある。

●日系人労働者

1989年に、入管法が改正された。
それによって、日本人移民の子、孫らが取得できる、勤労制限のない「定住者」の
資格が認められた。
定住者は、それまで認められなかった工場作業などへの就労が可能になった。

●日系人労働者の数

06年末、ブラジル国籍者の数……約31万人。
自動車工場が集積する、(1)群馬県太田市、大泉町、(2)静岡県浜松市、
(3)愛知県豊田市などでは、地域に欠かせない労働力となっている。

●不安定な職場

大半は派遣労働者である。
日本語も母国語も両方とも、じゅうぶん取得できない子どもの増加。
生活習慣をめぐる地域社会の人たちとの摩擦。
地方税や社会保険の未納などが、問題となっている。
(以上、「朝日キーワード」を要約)

++++++++++++++++++

●教育現場より

教育現場では、外国人労働者の子弟への評判は、残念ながら、たいへん悪い。
「教育」に対する基本的な認識のちがいがある。
外国人労働者は、ある日、突然、子どもを学校へ連れてくる。
「日本語を教えてやってほしい」というのが、その理由である。

しかしどんなに急いでも、各種手続きで、1週間ほどかかる。
また外国人労働者の子弟用のカリキュラムは用意されていない。
特別教室を組むなどの予算も用意されていない。

したがって、現状の教育システムの中で、普通学級に編入させるという方法で
対処している。
が、静岡県の菊川町などでは、約8〜10%の児童が、外国人労働者の
子弟である。
こうなると、「授業そのものが、成りたたなくなる」(K小学校校長談)。

が、「やめるのも早い」と。
ある日突然、生徒が消えることも珍しくない。
そこで担任があれこれ連絡を取ってみると、「新潟へ引っ越した」とか、など。

こうした無神経な入学、転向は、日本の教育的風土になじまない。
またそれによって受ける、教師の負担感、挫折感には、相当なものがある。

+++++++++++++++++

2年ほど前(2007)に書いた
原稿を、再掲載する。

+++++++++++++++++

●8〜10%が、外国人の子ども(Foreign Workers in Japan)

 先日、静岡県のK町にある小学校で、講演をさせてもらった。そこで聞いた話だが、その小
学校では、8〜10%の子どもが、外国人という。

The school master of the school, where I made a speech, told me that 8~10% of its school 
children are foreigners.

 現在、この日本には、80万人(04年、厚生労働省)の外国人がいるという。これ以外に、
相当数の、不法入国者がいると言われている。が、こうした労働者を、責めることはできない。

Now we have 800 thousand foreign workers in Japan according to the government 
statistics, 
and more we have so-called illegal immigrants.

 2020年には、日本の労働者は、12%前後、減少すると言われている(OECD)。日本
の産業構造そのものが、大きく変化する。つまり日本は、こうした外国からの労働者を必要と

る。またそういう前提で、外国労働者を考えなければならない。

By the year of 2020, we would have lost 12% workers and suffer from the lack of workers, 
which might cause a serious social problem. We need foreign workers and we have no choice 
but welcome them for us.

 が、問題がないわけではない。

But there are some problems.

 多くは「研修生」の名目で日本へやってくるが、実際には、さらに安い賃金で、働かされてい
る。検定試験に合格すれば、今度は「実習生」となるが、その段階で、会社をクビになるという
ケースもある。

In most cases the come to Japan as "trainees students" but as a matter of fact they are 
forced to work as a labor with less (in most cases, half) payment. After one year course of 
training, they meet a test and if the can pass it, they are admitted as a "Worker", but some 
of 
them are fired and forced to go back to their countries.

 彼らの間では、「日本人はずるい」と、言われている。ちなみに、「人身売買報告書」(アメリ
カ国務省発行、07年度版)によれば、日本だけが先進国の中で、上から2番目の「Tiel2」
になっているそうだ(「日本の論点08」)。外国人に対する法整備や対策が、それだけ遅れてい
るということ。

They say "Japanese are sneaky". According to the Tiel Standard, issued by USA 
government, 
Japan is ranked as a second. Japan is only one country among leading countries of the 
world 
because of the lack of legal services and etc.

 一方、学校教育という現場での対応も、後手後手に回っている。外国人専用の指導者を置
いて
いる学校は、大規模校にかぎられている。そのほかは、特別なカリキュラムすら用意していな
い。

Also at schools there are few schools which prepares them with special teaching programs 
for those children. (Only some big schools with a big number of children have special 
trainers for those children.)

 講演をさせてもらったK町の小学校にしても、「何ら対策をとっていません」とのことだった。
つまり日本語を話せない外国人を、そのまま普通学級に編入させている。外国人の子どもにし

も不幸なことだが、同時に、教育レベルの低下は、避けられない。

As to the school where I made a speech last time, there is no such a program for those 
children. Foreign childrens who have no knowledge of the Japanese language are also being 
taught as a normal children at usual classes. This may cause a kind of teaching troubles as 
well as to cause to lower the level of education.

 これから先、日本の少子高齢化は加速する。それが是か非かと、論じているヒマはない。私

ちは、外国人労働者を必要とする。また外国人労働者がいなければ、日本そのものの存在
が、お
びやかされる。

We would have more and more aged people together with less and less young people in the 
near future. We need therefore more and more foreign workers soom and without them 
Japan would meet the crisis of collapse.

 2020年まで、あと12年。間に合うか、日本!

We have only 12 years before the year of 2020. Are we ready?

++++++++++++++++

【現状の把握】

浜松市における外国人労働者の現状については、把握していない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
外国人労働者 研修生 技能研修生 日系人労働者 はやし浩司 菊川町 教育現場)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●イヤ〜ナ気分

++++++++++++++++++++

たった今、書店から帰ってきたところ。
イヤ〜ナ気分。
本当に、イヤ〜ナ気分。
経済雑誌コーナーに並ぶ雑誌の表題を見ただけで、
気が滅入った。

「証券業界、金融業界の危機」
「不動産大不況」
「淘汰されるホテル・旅館業」
「マンション業界、総崩れ」などなど。

つまり、みーんな、ダメということらしい。

こうなったら、ヤケクソ。
貯金をはたいてでも、遊びまくってやる!、と。

まあ威勢はいいが、すぐ声はしぼんでしまう。
そんなとき、行きつけの弁当屋で新聞を見ると、
「10兆超の追加経済対策として財政出動」(C新聞トップ)とあった。

「10兆円を超える、お金をバラまく」という意味。
わかりやすく言えば、10兆円分、インフレが
進むということ。
この先、日銀の印刷機だけが、フル回転で回り始める。
世界中が、我も我もと、印刷機を回し始めた。
日本も、負けじと印刷機を回し始めた。

気がついてみたら、お金の価値が半分になっている。
この数年で、そうなる可能性は高い。

「うちはタンス預金だから、だいじょうぶ」などと
言っている人も、結局は、半分は、政府に
吸い取られることになる。

お金があっても地獄。
なければ、さらに地獄。
別の雑誌には、こうあった。
「これから景気は、二番底に向かう」
「アメリカの不況は、20年つづく」と。

++++++++++++++++++++

●自転車店業界

私の実家は、自転車屋だった。
だからどうしても、自転車屋に、ひいきしたくなる。
がんばってほしいと思う。
しかし、今、どこも元気がない。
人影もなく、暗く沈んでいる。
こういう時代だから、自転車がもっと売れてよいはず。
健康にも、よい。
しかし実際に売れているのは、大型店のみ。
大量生産の安い自転車のみ。
個人の自転車屋は、どこも、青息吐息。
この浜松でも、店じまいするところが、ふえてきた。

今になって、大型店を規制する県も出てきた(G県G市ほか)。
しかし遅すぎた。
今度の大不況を乗り切れる自転車店は、いったい、どれだけあるというのか。
仮に生き残ったとしても、あとは鉄がさびるように、少しずつ衰退していくだけ。

私の父は、客が来ても、その客を平気で待たせて、別の客と将棋をさしていた。
当時は「盆暮れ払い(8月と12月にツケを払う)」が、常識だった。
そんな牧歌的な温もりが、今は、消えた。
それでよいのか?
それでよかったのか?

多くの個人商店が姿を消した今、最期の砦(とりで)が、自転車屋だった。
その自転車屋まで、今、最後のともし火を消そうしている。
切なくも、言いようのないさみしさ。
このさみしさは、いったい、どこから来るのか。
祖父や父ががんばって守ってきたものは、何だったのか。
今、そんなことを改めて考える。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
不況下の自転車店業界 自転車屋 街の自転車屋 自転車屋不況 消える自転車店)

(追記)
死んで残るもの、死んで残らないもの。
私の実家は、祖父、父、兄と、三代つづいた自転車屋だが、残ったものは何か。
今、そんなことを考えている。
もともと小売業だから、祖父や父が、創造的に作り上げたというものは、何もない。
四輪自転車を開発したとか、新型の高速自転車を開発したとか、そういうことで
あれば、話は別。
またそういうものであれば、残る。
が、何もない。
その点が、こうした小売業の悲しいところ。
ただひたすら問屋から商品を卸してもらい、それを店先に並べる。
店にやってきた客に、それを売る。
この繰り返し。

が、何もないわけではない。
実は、もっと大切なものを、祖父や父は、残した。
それが「街の文化」ということになる。
私が子どものころ感じた、あの祭りの(楽しさ)と言い換えてもよい。
町内の旅行会で感じた、あの(温もり)と言い換えてもよい。
町内で、組ごとに道路に店を出した。
盆踊りをした。
あの(にぎわい)こそが、町の文化ということになる。

みながそれぞれの人たちと、有機的につながっていて、たがいに
助けあったり、慰めあったりしていた。
祖父や父は、それを残した。

残念ながら、兄を最後に、私の実家の自転車屋はつぶれた。
しかしその文化は、残っている。
もしその文化まで消してしまうようなことになったら、本当に、祖父や父の人生は、
ムダになってしまう。
何としても、それだけは、避けたい。
でないと、……つまり今、この世界を生きている人たちの人生まで、
ムダになることになる。

さあ、あなたも勇気を出して、自分にこう問いかけてみよう。
「私は、何のために生きているのか」と。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●心の盲点

++++++++++++++++++++

信仰の自由とはいうが、その信仰にも
いろいろある。
特定の宗教団体を攻撃するためではないので、
数値などは、おおまかなものにとどめる。

つまり精神病の患者を調べてみたら、
M教というカルト教団に属する信者の罹患率が、
そうでない人たちの、3〜4倍前後もあったという※。

またあるアメリカの研究者が、内々に調査した
ところ、M教というカルト教団の信者のうち、
16%が「入院が妥当」な状態である。
さらにそのうちの44%が精神病であり、
50%が慢性的な精神病と診断されたという※。

++++++++++++++++++++

これについては、2つのケースが考え方ができる。
もともと精神に何らかの問題がある人たちが、より多く、その教団に入信したという
ケース。
もうひとつは、その教団で信仰するうちに、より多くの信者が、精神を病むようになった
というケース。
そのレポートは、その両方の可能性があると、レポートを結んでいる。

ただE教では、身内にそうした患者が出るのを隠そうとする傾向が強いので、
実際には、患者はもっと多いはず、とも。
E教というのは、日本でも多数の信者をかかえ、いろいろな問題を引き起こしている。
が、身内で、たとえば夫や妻が、そうした宗教に走ることによる悲劇には、想像を
絶するものがある。
最悪のばあいは、離婚もしくは、どちらか一方の自殺ということにもなりかねない。
あるいは家庭内の争いが原因で、どちらか一方が、重篤な病気になるというケースも
ある。
私の知っている人(夫)に、妻がE教の熱心な信者になったあと、まもなく、
くも膜下出血で急逝した人がいる。
その話を聞いたとき、その向こうに、壮絶な家庭内宗教戦争を想像した。
けっして、軽く考えてはいけない。
「宗教戦争」であるだけに、たがいに「命」までかける。

で、これは私の意見だが、こうした宗教に走る人というのは、特殊な人たちではない。
ごくふつうの、どこにでもいるような、そしてしっかりとした常識をもっていそうな
人たちが、ある日突然、入信したりする。
そして一度、入信してしまうと、視野が極端に狭くなる。
(これに対して、入信した人本人は、たいてい「世界が広くなった」と言う。)

私はいろいろあって、そういう信者たちを何百例も見てきた。
けっして大げさなことを書いているのではない。
私は過去に、その種の本を、何冊も書いてきた。
で、その結果だが、私は脳みその中に、人間にはもともとそういう欠陥というか、
ポケットのようなものがあるのではないかと考えるようになった。
脳のほかの部分とは隔離された、別の小部屋か、思考回路のようなもの。
ある日突然、そのポケットの中に、スポンと入ってしまう。

くだらない例としては、血液型による性格判断がある。
最近では、スピリチュアルブームというのがある。
占いや、まじないを信じている人となると、何百万人もいる。

こうした(信仰)が基礎となって、それがその先で、カルトと結びついていく。
きっかけは、いろいろある。
たいていは何らかの不幸が、きっかけとなることが多い。
ここで「家庭内宗教戦争」という言葉を使ったが、どちらか一方が宗教に走ったから、
家庭が崩壊したというよりは、もともと崩壊状態だったとも考えられる。
そういう家庭を立て直そうと、どちらか一方が必死になった結果、宗教に走るという
ケースもある。

が、一度入信してしまうと、あとは人間ロボットとして、その教団の言いなりとなって
働く。

そこで最初のレポートに話を戻す。

オーストラリアという国を考えるなら、キリスト教徒といっても、カトリック系もあれば、
プロテスタント系もある。
そういう中でも、M教だけの信者だけに、特異な(差)が見られたという。
その教団では自殺を禁止しているにもかかわらず、自殺者もそうでない人たちより多いと
いう。
さらに驚いてはいけないのは、その教団では、医師による治療を拒否しているため、
そのため年間約3000人の人たちが、死んでいるという。
もちろんその中には、子どもも多い。

では、どうするか?

私たちの脳みその中には、そういうポケットがあることを、前もって知っておく
ということ。
それを知っておくだけでも、予防にはなる。
そして自分が入りそうになったら、「これがポケット」と、自分で自分をコントロールする。

それにしても罹患率が3〜4倍というのは、見過ごせない。
この点から考えても、あのM教なる宗教団体には、じゅうぶん、注意した方がよい。

(注※:参考資料)(日本M協会の案内書より抜粋)
「……M教団の精神疾患罹患率に関する5つのオリジナルな既刊の研
究のうち、最も新しいのがスペンサー(1975)である。スペンサーは、
西オーストラリアの精神病院に入院した全患者7,546人について、1971年
1月から1973年12月までの36ヶ月間調査した。患者が自己申告した宗教の加
入状況のデータから、活発なM教団の50人が含まれているという数字
を得た。M教団の統計によれば、西オーストラリアには1974年
には約4,000人の信者が居住している。1974年の人口総計は1,068,500人
である。スペンサーはこれらの数値を用いて、一般の入院者数の比率と
M教団の入院者数の比率を比較した。全疾患について見ると、人口全
体に対して一年あたり1000人中2.54人の比率であるのに対し、M教団
1,000人中4.17人、つまりM教団が1.54倍高いという結果に
なった。妄想性分裂病のレベルは人口全体では0.38、M教団では
1.4であり、一般と比較すると3.68倍高いことが分かる。神経症は人口
全体に対する増加数が一番小さく、人口全体に対する比率は0.39であった
が、M教団に対する比率は0.76(1.95倍)であった。つまり、こ
れらの数値によれば、分裂病の発病率はM教団の場合、一般と比べ
てほぼ3倍、妄想型分裂病は約4倍高いと言える」(1975・スペンサー)。

(注※)
「……(M教団の信者のうち)、16%が「入院が妥当」な状態である。さらにそのうちの
44%が精神病であり、50%が慢性的な精神病と診断された」(1949・ペスカー)


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●仮面(ペルソナ)の下に

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世の中には、「いかにも私はよくできた人間でございます」というような、
様子をして見せる人がいる。
穏やかな表情、やわらかい物腰、控え目な態度、やさしいものの言い方……。
しかしそういう人は、たいてい仮面をかぶっていると思ってよい。
そういう人はそういう人で、年季が入っている。
簡単には見抜けない。
そういう人間に見せかけるために、10年単位の積み重ねをしている。
が、仮面は仮面。
しかしこれは本人自身の問題でもある。

脱ぎ方を忘れると、精神そのものが、バラバラになってしまう。
若いうちはともかくも、やがて歳を取り、気力が弱くなってくると、ボロが出る。
そういう人は、多い。

+++++++++++++++++++++++++++++

子どもでも、(いい子)ほど、要注意。
集団の中では、おとなしく、目立たない。
幼稚園でも、先生の指示にはすなおで、だまってそれに従う。
自分から声をあげて騒ぐといったこともない。
まさに(いい子)といった様子をして見せる。
意図的にそうしているというよりは、そういう様子が定着してしまっている。

で、心理学には、「抑圧」という言葉がある。
子どもは、(おとなもそうだが)、心理的な抑圧状態がつづくと、心の中に別室をつくり、
そこへ不満や怒り、悲しみや苦しみを閉じこめる。
閉じこめることによって、心のバランス(?)を保つ。

だから幼児期に(いい子)だった子どもほど、思春期前夜くらいから、別人のように、
暴れたり、暴言を吐いたりするようになる。
「こんなオレにしたのは、テメエだろう!」「コノヤロー!」と。
おとなだと、20年前、30年前の話を、つい先日のできごとのようにして、
怒ったりする。
「あのとき、お前はア!」と。
その典型的な例が、家庭内暴力である。

思春期に激しい家庭内暴力を繰り返す子どもほど、幼児期には(いい子)だったという
ケースが多い。
ほとんどがそうであると、断言してよい。
だから子どもでも、表面的な様子だけを見て、判断してはいけない。
だいたい5歳や6歳の子どもに、(よくできた子)など、いるはずがない。
いたら、仮面をかぶっていると考えてよい。

おとなも、またしかり。

「いかにも私はよくできた人間でございます」として見せる人ほど、要注意。
しかし人格の完成度は、別の尺度で測る。
そういう姿を見て、「この人はすばらしい人」と思ってはいけない。
よい例が、どこかのカルト教団の信者たちである。
ああいう人たちもまた、「いかにも私はよくできた人間でございます」というような
様子をして見せる。

どこかへん?
どこかおかしい?
どこか不気味?

しかし心に別室を作ると、その程度では、すまない。
それが高ずると、二重人格性をもつようになる。
どちらの自分が本当の自分か、わからなくなってしまうこともある。
ふだんは、「別室の中の自分は、ニセモノ」と思う。
しかし別室の中の自分が優勢になってくると、「ふだんの自分は、ニセモノ」と思う。
これを繰り返しているうちに、人格がバラバラになってしまう。

「よくできた人」というのは、人格の完成度の高い人のことをいう。
が、人格を完成させるというようなことは、簡単にはできない。
研鑽に研鑽を重ね、日々にその努力をした人だけが、人格を完成させることができる。
しかしそういう人は少ない。
はっきり言えば、私も含めて、そこらのオジチャンやオバチャンが、仮面を
かぶったところで、それは化けの皮。
見る人が見たら、すぐわかる。

……ここまでこの原稿を読み聞かせたら、ワイフがこう言った。
「音楽でも美術でも、本物を知っている人は、ニセモノにだまされないわ。
それと同じじゃ、ないかしら?」と。

まったく、同感。
だったら、自分を飾ることはない。

やはり人間は、自然体で生きる。
ありのままをさらけ出して生きる。
よくても、悪くても、それが「私」ということになる。

ついでに言うなら、これはこわいことでもある。
(さらけ出して生きる)に足りる(自分)を、どこかで作りあげて
いかねばならない。
その努力を怠ると、それこそ、それだけの人間になってしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●消息

++++++++++++++++++++

若いときは、前しか見なかった。
前しか見えなかった。
しかし最近は、その様子が大きく
変わってきた。
友人と話していても、いろいろな
人たちの消息が話題になる。
「あの人は、どうなった」
「この人は、どうなった」と。

が、それだけではない。
私たちには、「先」がない。
先がない分だけ、(消息)イコール、
(その人の人生の結末)ということになる。
その(結末)だけが、大きく、
浮かびあがってくる。

+++++++++++++++++++

●行方不明

ことの発端は、同窓会名簿の知らせだった。
「名簿を編集するにあたって、消息不明の人の情報を知らせてほしい」と。
見ると、そこには、数名の名前が連ねてあった。
私がよく知っていた女性の名前も、そこにあった。
一時は、この浜松市にも住んでいたこともある。
が、それも、30年以上も前の話。
今は、知らない。
10年ほど前、同窓生に会ったとき、その女性の名前も出たが、みな、
「今は、どうしているか知らない」と。
今、生きていれば、私と同じ年齢の、満61歳。
夫は、6歳年上と聞いていたから、満67歳。

しかし私が書けるのは、ここまで。
消息を調べようと思えば、できるが、それは相手の女性に対して、
失礼というもの。
世の中には、そっと生きていたいと願っている人も多い。
他人である私が、それを調べて、どうなる?
どうする?
またみなが、住所や連絡先を知ったところで、どうなる?
どうする?

逆の立場でそれを考えてみれば、わかる。

私は死んでも、だれにもそれを知らせたくない。
親戚にも、知らせたくない。
そのようにワイフや息子たちには伝えてある。
消息にしても、そうだ。

母の介護をしていたときも、そうだ。
ある人から電話があった。
母の様子を詳しく知っていた。
「どなたに聞きましたか?」とたずねると、
「Mさんから……」と。
Mさんは、毎日のように私のHPをのぞいては、みなに連絡していた。

こんなことを書くと、矛盾しているように思う人もいるかもしれない。
私は、自分の消息をたずねられるのが、いやだ。
だからHPやBLOGで、自分の現状を公開しながらも、いわゆる
(スパイ)のために、私のHPやBLOGをのぞかれるのが、
不愉快でならない。

中には、そういう人がいる。
用もないのに、私のHPやBLOGをのぞいては、私の内情をさぐろうとする。
さぐっては、それを、たがいに話題にしあっている。

私のHPやBLOGは、私の書いたことを必要とする人たちのためのもの。
もし、今、あなたがスパイ目的で、私のHPやBLOGをのぞいているとするなら、
そういうハレンチなことは、即刻、やめてほしい。

つまりそういう気持ちがあるから、私は、他人の人生はのぞきたくない。
関心はあるが、しかしそこまで。

●死者に時間はない

それでも何かの話題の中で、その人の消息を耳にすることはある。
メルボルン大学にいたころ、領事のI氏には、たいへん世話になった。
で、たまたま外務省の役人にそのことを話すと、あとでこう教えてくれた。
「あの方は、在フィリッピンの日本大使館の大使を最後に、19xx年に、
亡くなっています」と。

あるいは最近も、学研で世話になった、NN氏に電話で連絡を取ると、
「FKさんは、2年前に亡くなりました」と。

年数という数字の上では、「10年」「20年」ということになる。
しかしその実感が、ほとんど、ない。
死んだ人にとっては、10年も20年も同じ。
1年でも30年でも同じ。
時間が、そこで止まってしまう。
それを聞く私たちにしても、そうだ。
10年も20年も同じ。
1年でも30年でも同じ。

同じように、私が死んだときもそうだ。
だれかが私の死を、5年後に知ったところで、また10年後に知ったところで、
同じ。
死んだ人には、時間はない。
死んだ人は、死んだ人。

だったら、あえて知らせなくても、相手が知ったときが、私が死んだときと
考えてくれればよい。

●人生の結論

ともあれ、繰り返しになるが、(先)がないという点で、(消息)イコール、
(人生の結末)ということになる。
映画にたとえるなら、ラストシーン。
観客も疲れてきたころの、ラストシーン。
「まだつづきがあります」と言ったところで、みなが席を立ち始める。
60代という年齢は、そういう年齢である。

経済的に成功した人。
失敗した人。
家族に恵まれた人。
恵まれなかった人。
世界へ出て行った人。
ずっと地元に残った人、などなど。
その中には、もちろん消息不明の人たちもいる。

ただ誤解してはいけないのは、消息不明だから、敗残者というわけではない。
実は、私も30代のはじめまで、同窓生の間では、「消息不明」となっていた。
それもそのはず。
私の住所の番号がちがっていた。
(住所も、「入野町」ではなく、「八野町」になっていた。)
私の住所の番号は、5桁。
このあたりでは、いまだに昔の農地番号を使っている。
地番が、届け順になっている。
だから番号からは、場所がわからない。
その番号が、名簿上では、4桁になっていた。

が、同窓生イコール、みな仲間というわけではない。
とくに進学校のような学校ではそうだ。
私はやがて、中に、「あの林は、行方不明だ」と、半ば喜んでいた人たちがいたのを
知り、がく然としたことがある。

そういうこともあって、それぞれの人には、それぞれの事情があると思うようになった。
同時に、行方不明だからといって、その人を詮索するのは、正しくない。
そう思うようになった。

冒頭に書いた女性にしてもそうだ。
消息を知ったからといって、連絡を取るつもりはない。
これから先、旧交を温めるつもりもない。
どちらが先に死ぬかは知らないが、静かにたがいの最期を迎えるだけ。

しかし、だ。
みなさん!
私の人生は、これから!
ハハハ。
まだまだ結末を迎えたわけではない。
ジジ臭い話は、ここまで。
私の人生の結論は、まだ出たわけではない。
これから先、もうひと暴れする。
消息をたずねてくれる人がいたら、そのあとでよい。

だから、もう一度。
ハハハ。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●3月24日(火曜日)

●WBC

今日、WBC戦で、日本が韓国に勝ち、優勝した。

よかった!
うれしかった!
涙が出てきた!

10回の表。
ランナーを2人置いて、バッターボックスにイチロー。
ツーストライクと追い込まれたあと、イチローが、ピッチャーの右を抜けるヒット。
痛快なヒット。
日本が、2点勝ち越して、優勝!

私はプロ野球はあまり見ないが、生涯に置いて、
2度、感動して、涙を出した。
イチローが、マリナーズで、ヒット最多数を記録したとき。
そして、今回!

よかった!
うれしかった!
涙が出てきた!

今回、日本チームは、「侍・ジャパン」と名づけられた。
「侍」というのは、もちろんイチローをさす。
「原・ジャパン」でもなく、「長島・ジャパン」でもなく、「侍・ジャパン」。

そのイチローは、今回のWBCで、不調に苦しんだ。
それがよくわかった。
しかし最初から最後まで、イチローあっての、「侍・ジャパン」。
あのバットの構えは、まさに侍を連想させる。

が、「イチロー・ジャパン」では、原監督に、失礼。
だから「侍・ジャパン」になった(?)。

が、イチローに対する風当たりは、強かった。
元阪神監督の、NM氏は、「イチローをはずせ」「イチローがチームの
重荷になっている」などというようなことを言っていた(ネット・ニュース)。
さらに「イチローはマリナーズの中では、嫌われ者」「口をきいてくれる人も
いない」とまで!

私は昔から、あのNM氏の発言には、いつも嫌悪感を覚える。
ついでにMN氏の妻には、さらに強い嫌悪感を覚える。
が、今回、NM氏の暴言には、(まさに暴言と断言してもよいが)、あきれた。

勝っても負けても、イチローあっての、「侍・ジャパン」。
だれしもイチローを見たかった。
イチローの活躍を見たかった。
不調でも、何でもよい。
イチローを見たかった。
そのイチローが不調で、日本が負けたとしても、だれも文句は言わない。

が、その不調を、最後の最後で、イチローは、みごとに吹き飛ばしてくれた。
日本を優勝に導いてくれた。
しかも相手は、敵意丸出しの韓国。
いくら反日国家とはいえ、あそこまで露骨に敵意をむき出しにされると、
見ているほうも、不愉快。
もし日本が負けていたら、「勝った」「勝った」と騒ぐ以上に、「日本をやっつけた!」と、
国をあげて狂喜したにちがいない。

しかし日本が、勝った。
インチキなし。
掛け値なし。
正真正銘の実力。
イチローには、心から感謝したい。

よかった!
うれしかった!
涙が出てきた!

そんなわけで、今日一日、本当に気分がよかった。
元気がわいてきた。

ありがとう!

しかし一言。
「侍」という言葉は、あまり好きではない。
何かもっと、別のネーミングななかったのか。
野球を通して、封建時代の昔に、引きずりこまれるような錯覚を覚える。
どうして今、この時代に、「侍」なのか?
けっして、あの時代を美化してはいけない。
50年後のWBCで、「官僚・ジャパン」と言うのと、同じ!
(ちょっと言いすぎかな?)

……それにしても、球史に残る名勝負だった。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●「あなたを訴えます」

++++++++++++++++

先週、「あなたを訴えます」というメールが届いた。
読むと、「マルチ商法は、詐欺商法ではない。
マルチ商法を詐欺商法と決めてかかる
あなたの原稿は、営業妨害である。よって、訴えます」と。

++++++++++++++++

そこで調べてみると、ウィキペディア百科事典には、こうあった。
「……マルチ商法は、違法ではないが、政府の監視対象になっている」と。
「一般世間では、マルチ商法とネズミ講商法と混同している人が多い」とも。

私もその1人。
(マルチ商法)イコール、(ネズミ講商法)と思っていた。
マルチ商法そのものは、違法ではない。
誤解していた。
それは認める。
が、ウィキペディア百科事典によるまでもなく、その(差)は、紙一重。
マルチ商法でも、会員が、さらにその下に会員を呼び込むことによって、
利益をあげる。

で、その私を訴える?
「どうぞご勝手に!」と思ったが、返事は書かなかった。
私が書いたことが、刑事訴訟法が定めるところの構成要件に該当するならともかくも、
私は……、

(1)個々の企業を特定したわけではない。
(2)個々の企業に、具体的に損害を与えたわけではない。
(3)マルチ商法は、違法ではないが、監視対象になっているのは、事実。
私は「違法」とは、どこにも書いてない。
(4)どこの企業であるにせよ、自ら、「うちの商法は、マルチ商法です」と、自ら公表
   している企業は、ない。
(4)原稿の中で、「健康食品」という言葉を使ったが、どういう健康食品か、それを特定
したわけではない。
(5)そうした商法で、法外な利益を取られ、被害者が出ているのは、事実。
その原稿は、先日、経営者らが逮捕された、「円T」事件にからんで、
書いたもの。
「円T」事件では、経営者らが、健康食品を使って、詐欺商法を繰り返していた。

が、私の原稿を読んだその人物は、かなり頭に来たらしい。
が、もしそうなら、その人物は、自分のしていることを、マルチ商法と、
自認したことになる。
それともどこかで火がつくのを、恐れている?
どうであるにせよ、こんなことで「訴えます」とは?

で、今のところ、訴状は届いていない。
弁護士に相談したところで、取り合ってもらえるはずがない。
こう見えても、私は一応、法科出身。
そのあたりの心得は、じゅうぶん、もっている。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●できそこないの息子や娘をもった幸せ

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ソクラテスは、こう言った。
「悪妻をもつと、夫は哲学者になる」と。

これをもじると、こうなる。
「愚息をもつと、親は、勤勉家になる」と。

+++++++++++++++++++++

妻が悪妻だと、夫は人生を悩み、苦しむ。
毎日のように、人生を後悔し、反省する。
その結果、夫は、人生を見つめ、命を見つめ、心を見つめる。
つまり哲学者になる。

言い換えると、ソクラテスの妻は、かなりの悪妻だったらしい。
が、それはさておき、「愚息をもつと、親は、勤勉家になる」というのも、
これまた正しい。

愚息かどうかは別にして、私がもっとも仕事に励んだのは、息子たちが
大学生のころのことだった。
学費が、20万円〜30万円単位で、毎月のようにどこかへ消えていった。
で、そのたびに、私は「歯をくいしばって、がんばった」。
もう少し正直に書くと、そのつど、「ちくしょう」「ちくしょう」と思って仕事をした。

私にはたいへんな時期だったが、言い換えると、そうした逆境(?)が、
かえって仕事をするバネ(原動力)になった。
もしそういうことがなければ、私は、ああまで仕事をしなかっただろう。

……というような話を、学生時代からの友人からも聞いた。

その友人には、2人の子ども(長男、長女)がいる。
長男は、結婚して東京に住んでいるが、長女のほうは結婚をせず、友人夫婦と同居して
いる。
それだけではない。
一応キャリアウーマンとして働いているが、給料は1円も、家には入れていないという。
すべて遊興費+衣服代+化粧代に使っている。

ときどき娘を説教するらしいが、実際には、娘の収入を、友人のほうが補っているという。
それについて、友人は、こう言った。

「林君、そんなわけで、ぼくも70歳まで働くことにしたよ」と。
私が「ぼくは70歳まで、現役」と宣言したときのことである。

わかるかな?

「愚息をもてば、親は勤勉家になる」の意味?

平凡は美徳だが、平凡な生活からは何も生まれない。
同じように、平和は美徳だが、平和な生活からは、緊張感そのものが生まれない。
私もワイフとときどき、こんな会話をする。

「もし息子たちがみな、近くに住んでいて、『お父さん』『お母さん』と、いろいろ
世話をしてくれたら、ぼくたちは、それに甘えて、仕事をしなくなってしまう
だろうね」と。
「早めにボケてしまうかもしれない」とも。

それが期待できないから、私はがんばる。
がんばるしかない。
つまりそれが生きるバネになっている。
だから少しきびしい言い方をすると、こうなる。

『人は追い詰められてはじめて、生きるパワーを発揮する』と。
英語の格言にも、『空の飛び方は、崖から突き落とされてから学べ』というのがある。
ぬるま湯につかっていたら、人生はそこまで。

だから、みなさん!

みなさんの息子や娘が、できの悪い息子や娘であったら、それを喜ぼうではないか。
感謝しようではないか。
そういう息子や娘をもったおかげで、私たちは、がんばることができる。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●愛すること

++++++++++++++++++++

人は、だれかに愛されて、「愛」を知る。
不幸にして、不幸な環境に生まれ育ち、
愛されることを知らずに育った人は、
人を愛することができない。
「愛」というおおげさなものでなくてもよい。
「好き」という感情でもよい。
だれかを好きになっても、すなおな気持ちで、
「好きです」と言えない。

++++++++++++++++++++

●実感しにくい感情

「愛」ほど、実感しにくい感情はない。
「喜・怒・哀・楽」の4つの感情と比較してみても、それがわかる。
「愛」はいつもそこにあるのだが、そこにあるときは、空気のようなもの。
それに気づくこともない。

子どもにしても、何か問題が起きたとき、とたん、愛の感情が爆発する。
ふだんは、騒々しくて、わずらわしい子どもでも、病気になったとたん、
その(思い)は、一変する。

で、夫婦のばあいは、どうか。
いっしょにいるときは、口争いばかりしている。
いがみあっている。
しかしそんな夫婦でも、相手が病気になったり、事故にあったりすると、
とたんに、相手のことを心配したりする。

「愛」というのは、相手を「許し、忘れる」こと。
その度量の深さによって、愛の深さが決まる。

●愛はたがいに深めあうもの

そんなわけで、(少し結論が性急すぎると思うが)、人はたがいに愛され、愛しあい
ながら、「愛」を深めていく。
言い換えると、人に愛してもらいたかったら、まず先に、人を愛する。
「好き」という感情でもよい。
みなに好かれたかったら、まず、好きになる。
私は、このことを幼児を教えていて、知った。

幼児というのは、心の鏡(かがみ)のようなもの。
心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。
日本語のことわざにも、「魚心あれば、水心」というにがある。

「この子はいい子だ」と思っていると、子どものほうも、私のことを「いい人だ」と
思う。
子どもを好きになれば、子どもも私を好きになる。
ほかにもたとえば、子どもを指導するとき、指導そのものを、楽しむ。
私が「楽しい」と思っていると、子どものほうも、「楽しい」と思う。
そんなわけで、まず、自分が楽しむ。
子どもは、あとからついてくる。

●愛が通じない人

しかし中には、愛が通じない人もいる。
私たちが「自己愛者」と呼んでいる人たちである。
あるいは「偽善者(愛他的自己愛者)」でもよい。

このタイプの人は、他人の愛を、自分の利益に結びつけてしまう。
あるいは自分を飾るための道具として、利用してしまう。
言うなれば、心のさみしい人ということになる。
が、さらに、最近、こんなことを発見した。

愛を熟成するにも、賞味期限(?)がある、と。
つまりある年齢以上になると、その人自身がもつ情感が硬直し、
愛を熟成できなくなる。
そればかりか、かえって退化することもある。
認知症などの脳の病気にかかると、さらにその傾向がはっきりしてくる。
私の母にしても、晩年は、口癖のように、「ありがとう」「ありがとう」と
言っていた。
が、それは口癖。
そこに(感謝の念)があって、そう言っていたわけではない。

だから「愛」を熟成させるなら、若ければ若いほど、よい。
年齢的には、思春期前後まで。
とくに大切なのが、乳幼児期ということになる。
そのころ周囲の人たちに深く愛された人は、自らも愛を熟成させることができる。
そうでなければそうでない。
いわゆる心の冷たい人になる。

相手の話に同情したフリをする。
相手の話を理解したフリをする。
しかし心の中では、乾いた風が吹いているだけ。

そこでこんなことが言える。

50歳を過ぎたら、つねに相手を選んで話す、ということ。
それを誤ると、かえってこちらのほうが、相手にもてあそばれてしまう。
あるいはときに、傷つくこともある。
またそういう人ほど、口がうまい。
長い時間をかけて、自分をよい人間に見せるための方法を身につけている。
何かを相談したりすると、同情したフリをして、「それはたいへんですねエ〜」と、
言ったりする。
私はこのことを、母の介護を通して、知った。

●Yさん(60歳、女性)

こう書くからといって、Yさんを責めているのではない。
YさんはYさんなりに、力になってくれた。
それには感謝している。
しかしこんなことがあった。

私が母の介護のことを話すと、Yさんは、こう言った。
「親の介護は、たいへんですから。本当に、そうですよ」と。

私はよき理解者を得たような気分になり、あれこれ相談した。
が、である。
そのあと私は、ふと気がついたが、Yさん自身は、親の介護を経験していないはず。
父親は脳内出血で、倒れてから数日後に他界している。
母親も同じようにして他界している。
そのときYさんは、遠くにいて、看病もしていなかったはず。
どうしてそういう人が、親の介護のたいへんさを理解できるのか。

やがて私はYさんが、私から聞きだした話を、あちこちの人に話しているのを知った。
言うなれば、私の家の不幸話を、「酒の肴(さかな)」にしていた。
それを知ったとき、私は、大きなショックを受けた。
Yさんは、たいへん心のさみしい女性ということになる。
どうしてそうなったかはわからないが、ともかくも、そういう女性である。

●愛は捨て身

が、希望がないわけではない。
他人は他人。
しかし私やあなた自身は、30歳を過ぎてからでも、また40歳を過ぎてからでも、
「愛」を深めることができる。
大切なのは、「自分に気がつくこと」。

人から愛されない。
人を愛することができない。
どうであるにせよ、そういう自分であることに気がつくこと。
すべてはここから始まるが、それに気がついたとたん、その先に道が見えてくる。

方法は簡単。
まず、人を愛すること。
「許して、忘れる」こと。
最初は犠牲的であっても、かまわない。
形だけでも、かまわない。
見返りを求めず、ただ一方的に「許して、忘れる」。
それだけを繰り返す。

相手が夫や妻なら、それを実行しやすい。
息子や娘、さらには家族なら、実行しやすい。
それを繰り返していると、5年単位、10年単位で、あなたの周辺の人たちの様子が
変わってくる。
それは根気比べのようなもの。
とくに相手が家族なら、裏切られても、裏切られても、ただひたすら、がまん。
そのおおらかさが、相手の心を溶かす。
ついで、あなたの心を溶かす。

●愛することのすばらしさ

私はキリスト教徒ではない。
またキリスト教でいう「愛」とは、ちがったものかもしれない。
しかし人を愛するすばらしさは、愛することよりも、愛されたときの喜びとなった
とき、わかる。
人を深く愛することができる人は、人に愛されたとき、その愛を、何倍も、何十倍も
温かく感ずることができる。
その喜びは、ほかの世界で得られる喜びとは、まったくちがったもの。
ほかの世界では、ぜったいに、味わうことのできないもの。
生きる喜びに、直接つなげることができる。
そういう喜びである。

さらに……。

その喜びだけは、より深くなってはじめて、それまでの喜びが薄っぺらいものであった
ことを知る。
深くなればなるほど、そうで、それには際限がない。
(そこまで言い切る自信は、まだないが、私はそう確信している。)

裏を返して言うと、「私は愛されている」「私は人を愛している」と思っている人でも、
さらに努力によって、その「愛」を、よりすばらしいものにできるということ。
今の(状態)に、けっして満足していてはいけない。
「いけない」というよりは、「それでは、もったいない」。

たった一度しかない人生。
繰り返しができない人生。
だったら奥の奥まで、歩いて行ってみる。
生きる醍醐味は、そういうところから、生まれる。

「愛」というのは、「生きるテーマ」にして、なんら遜色がない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●老後なんて、クソ食らえ!

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私はそのつもりはなくても、まわりの
人たちが、私を、「老人」と決めてかかる。
「老人」「老人」と。
いくら「私はちがう!」と叫んでも、
そういう声は、みなの耳には入らない。
反対に、こう言い返される。
「あなたは還暦を過ぎた」「あなたは退職者だ」
「もうすぐ年金族だ」と。

60歳になるとき、小学生たちですら、
私にこう言った。
「先生も、退職だね」と。
たぶん親たちから、そう聞かされていたのだろう。
しかし、だ。
老後なんて、クソ食らえ!

どうしてこの私が老人にならなければ
ならないのか。
老人でなければならないのか。
まだ61歳だぞ!

++++++++++++++++++

●仕事をふやす

ここ4〜5年、半分は意図的に、しかし半分は、体力の限界を感じた
こともあり、仕事の量を減らしてきた。
講演にしても、遠方の講演は、断ってきた。
しかし、どうして?

私の結論は、こうだ。
私は、死ぬまで仕事をする。
「悠々自適な老後生活」とは、いったい、何だ!
何をすればよいのだ!
どうやって時間を過ごせばよいのだ!

私の実家の近くに、満55歳で定年退職したあと、ほぼ30年間、
遊んで暮らしている人がいる。
(本当に、遊んでばかりいる!)

人には、それぞれの生き方がある。
その人の生き様に干渉するつもりはない。
批判するつもりもない。
しかしこの30年間を振り返ってみて、その老人は、(まさにそういう人の
ことを「老人」と呼ぶにふさわしいが)、30年間を1日にして生きてきただけ。

人づきあいも、ほとんどしない。
外出も、ほとんどしない。
近所の仕事も、ほとんどしない。

娘が1人いるが、近所の人の話でも、この30年間、その娘は、一度も、
実家へ帰っていないという。
親子の間で、何か大きな確執があったらしい。

いくら(遊んで暮らす)といっても、それでよいのか。
それがあるべき老後の姿なのか。

●老後の放棄

そこにある老後を認め、自ら老人になるか。
それとも老後を放棄して、生涯、現役で通すか。
結局は、択一の問題ということになる。

で、この数年、私は、擬似老後を体験してきた。
老後を予想しながら、その生き方を模索してきた。
数年、年上の人たちや、あるいはさらにその年上の人たちの生き様を
観察させてもらった。
その結果だが、私には、やはり「老後は、向かない」。
「老人らしく生きろ」と言われても、私にはできない。
だから「老後を放棄する」を選んだ。

具体的には、この4月から、再び仕事量をふやした。
2008年度を、100とするなら、2009年度は、120くらいにする。
さらに2010年度は、140くらいにまで、もっていく。

「人生、50年」ではなく、「人生は、60歳から」。
だからときどき、ワイフにこう言う。
「仕事の最中に、くも膜下出血か、心筋梗塞、あるいは脳梗塞で
倒れても、ぼくには、延命処置は不要」と。

それまで現役で働ければ、御の字。
それ以上に、何を望むのか。
何を望むことができるのか。

●健康

本当にラッキーなことに、繰り返すが、本当にラッキーなことに、私は健康だ。
昨日も、OZ先生(医大の泌尿器科の権威)に会ったとき、
「0・7でした」と告げると、OZ先生は、こう言ってくれた。
「じゃあ、この2、3年は、検査を受けなくてもいいですね」と。

OZ先生というのは、前立腺がんのPSA検査法を
日本に広めたドクターである。
「0・7」というのは、「まったく異常がない」という数値らしい。

で、あと心配なのが、大腸がんだが、それも今回、(−)だった。

とたん、元気がモリモリとわいてきた。
やる気が出てきた。
考えようによっては、30歳のころより、健康かもしれない。
仕事だって、今のほうが、しやすい。
子育てからも、親の介護からも、実家のめんどうからも、解放された。
みな、「はやし浩司」という名前を出すだけで、私がどんな仕事を
しているか、わかってくれる。

私にとって、「現役」ということは、「健康」ということになる。

●墓石

もちろん仕事だけが人生ではない。
「生きる」ということは、ただ「息(いき)る」ことではない。
「生きる」ということは、私のばあい、生きた証(あかし)を、つぎの世代に
残すことを意味する。

そのために墓石を残すこともよいだろう。
しかし私は、それでは満足できない。
墓石に刻まれた名前だけが、「私」ではない。

私は私。
だれにも束縛されず、自由に生きてきた。
たいしたことはできなかったが、自分だけの道を歩いてきた。
あとに残ったのは、細い道かもしれないが、それが私の道。
この道が、何かの役に立つようなら、それを残したい。
それが私の墓石ということになる。
目には見えないが、それが墓石ということになる。

……その墓石を、自分なりにどうやって作っていくか?
それもこれからの人生の中で、やり遂げていかねばならない。

●再び、「老後なんて、クソ食らえ!」

老後を急ぐ人も、多い。
満60歳で、隠居生活に入った人もいる。
旅行三昧(ざんまい)の人もいる。
孫の世話に明け暮れている人もいる。

これも繰り返しになるが、私は私、人は人。
その人が、それでハッピーなら、それはそれでよい。
私やあなたが、「それはおかしい」とか、「まちがっている」などとは、
口が裂けても言ってはならない。

また私の生き方が正しいとか、そういうことでもない。
私には、私の無数の(糸)がからんでいる。
その中でもとくに太い糸は、私の(過去という糸)である。
私は子どものころ、(貧乏)を何よりも、恐れた。
(貧乏になっていく)という恐怖感をいつも感じていた。
だから、それが転じて、私は(仕事の虫)になった。
今も、その亡霊は、色濃く残っている。

だから「生涯、現役」というと、かっこよく聞こえるかもしれないが、
本当のところ、人生が下り坂になるのが、こわいだけなのかもしれない。
収入が減少し、まわりの世界が小さくなっていく……。
それがこわいだけなのかもしれない。

しかしそれが私の(糸)なら、受け入れるしかない。
まちがっているとか、正しいとか言う前に、(おかしいことは事実だが)、
それも私の一部。
今さら、フランス人がバカンスを過ごすように、のんびりと生きろと
言われても、私には、できない。

だからあえて再び、こう叫ぶ。
「老後なって、クソ食らえ!」と。

「クソ、食らえ!」という言葉は、尾崎豊が「卒業」の中で使った
言葉である。
私よりずっと若い人だったが、あの人の歌には、いろいろと教えられた。
これは余談。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●ボケの恐怖

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このところ、ときどき、自分の脳みそが
信じられなくなるときがある。
「本当に信じていいのだろうか?」と、
自分でそう思うときがある。

たとえば、つい先ほども、明日の計画を
立てた。
そのときも、「明日まで、覚えているだろうか」と。

そこでそれをメモにして、そこに残す。
「○○を修理、△に電話、□をする」と。

若いころは、こんなことはしなかった。
メモなどというものは、まったく必要なかった。
が、それを忘れるということでもないが、
ふと、不安になる。
「忘れるんじゃないか」と。

+++++++++++++++++

●ボケの始まり?

だからといって、具体的に何かを失敗したということではない。
今のところ、そういう失敗は、していない。
しかしこのところ、自分で自分の脳みそが信じられなくなってきた。

近くにボケ老人や、認知症、さらにはアルツハイマー病の人がいるせいかも
しれない。
脳みその構造やしくみが、若いころよりも、よくわかってきた。
それでそう思うようになった(?)。

たとえて言うなら、だれかに「明日、20キロ歩いてみませんか?」と
声をかけられたときのような気分に似ている。
「10キロはだいじょうぶと思うが、20キロとなると……」と。

歩こうと思えば、20キロくらいなら歩ける。
しかし仮に、その前夜、眠られなかったら、どうするのか?
風をひいたら、どうするのか?
体の調子が悪かったら、どうするのか、と。

同じように、頭を使うときも、「ぜったい、だいじょうぶ」という
確信がもてなくなった。
それがそのまま不安感となって、戻ってくる。

●ボケとの戦い

私は子どもたちと、よく競争をする。
算数や数学の問題を解きあったりする。
パズルを解きあうことも、多い。

昔は遊び半分だったが、今は、ちがう。
どこか真剣勝負。
が、ここで誤解してはいけないのは、そういう問題が解けるからといって、
だいじょうぶということにはならない。

数学の先生だって、認知症になる人は、なる。
では、どこがちがうか。

たとえばアルツハイマー病のばあい、その前兆症状として、(1)繊細さが
なくなる、というのがある。
繊細な会話ができない、繊細な感情表現ができない、など。
(2)怒りっぽくなり、暴力や暴言が多くなるというのもある。
要するに、心の余裕を失うということらしい。
むしろ、そちらのほうが、心配。

たとえば私の知人の妻(現在、65歳くらい)は、最近、アルツハイマー病
と診断されたという。
その女性のばあい、電話で話しても、会話はいつも一方的。
自分の言いたいことだけを、繰り返し、しかもくどくどと言って、それで
おしまい。
こちらの話には、耳も傾けようとはしない。
どうしても(3)ものの考え方が、自己中心的になる。

では、どうすればよいのか。

数学の問題を解くような知的な作業はともかくも、繊細さや、心の余裕、
さらには自己中心的になることから、自分を守るためには、どうしたら
よいのか。
また仮にそうした能力が低下しているとしたら、それを知る方法は、
あるのか。

●繊細さ

……目の前には、春の陽光を浴びた、森の木々が、白い光をあたりに
反射させている。
葉にあたる白い光が、まぶしい。
そういう景色を見ながら、「繊細さとは何か」を考える。

で、ひとつのヒントだが、ここに書いた妻のばあい、昔から気になっている
ことがある。
ひとつは、本を読まないこと。
DVD(ビデオ)を見ないこと。
もちろん映画館へ足を運ぶことはない。
ゆいいつ文化的なこととしては、布を切りつないで描く、パッチワーク
(キルト)を趣味にしていたことがある。
しかし展覧会に作品を出すとか、そういうことはしなかった。
いつも「私には時間がない」と言っていた。

そういう生活習慣が、その妻をして、アルツハイマー病にしたとも考えられる。
最近読んだ本の中でも、「アルツハイマー病は、生活習慣病と考えていい」※と
いうようなことが書いてあった。
(あるいは、その反対も考えられる。
アルツハイマー病の初期の、そのまた初期症状として、(4)がんこになったり、
(5)興味や好奇心を失うということもある。)

言い換えると、こうは言えないだろうか。
たとえばすばらしい映画を見ても、感動しなくなったら、おしまい。
逆に言えば、すばらしい映画などを見て、おおいに感動する。
そうすることによって、繊細さを維持する。

映画でなくても、美しい景色でもよい。
他人の話でもよい。
そういうものを見たり聞いたりしながら、そのつど感動していく。
つまり数学の問題やパズルで、知的能力を刺激するように、
感情もまた、そのつど刺激する。
そういう形で、繊細さを維持する。

その結果として、がんこになったり、自己中心的なったりすることから、
自分を守ることができる。

が、「心の余裕」については、どうか?
それについては、また別の機会に考えてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●心の余裕

+++++++++++++++++++

先日、観光バスで旅行をしたときのこと。
うしろの席の女性が、ペチャペチャとしゃべり始めた。
甲高い声だから、かなり気になった。

で、バスが高速道路に入ってしばらくしたあと、
私は、ていねいな言い方で、こう言った。
「もう少し、小さい声で話していただけると、うれしいのですが」と。

これは余談だが、こういうばあい、男性というのは、すかさず、
「すまん、すまん」とか言って、それを改めてくれる。
が、女性というのは、そうでない。
たいてい気分を悪くしたというような表情をしてみせ、逆にこちらをにらみ返してくる。

そのときもそうだった。

で、一日の観光も終わり、帰りのバスになった。
そのときも、その女性たちは、しゃべりつづけていた。
口先だけで軽く話すため、男性のように、いくら話しても
喉が枯れるということはないらしい。

が、今度は、私は、ややきつい言い方をして、それを注意した。

「バスの中で、静かに休んでいる人もいます。
もう少し小さい声で話してください」と。

すると、すかさず1人の女性が、こう言った。
「私ら、おしゃべりが楽しみで、旅行、来ているのよ、ねエ〜?」と。

私は無視した。
それまでの会話の内容からして、相手にするような人たちではなかった。
相手にもならなかった。
それに私は「しゃべってはいけない」と言っているのではない。
「小さい声でしゃべってほしい」と言っただけである。

心に余裕のない人というのは、そういう女性たちをいう。
やわらかさが、ない。
ユーモアのセンスも、ない。
少し批判めいたことを言われただけで、カッとなる。

で、問題は、どうして、そうなるか、ということ。
ふつうなら、(つまり私なら?)、そういうふうに注意されたら、すかさず、
「ああ、ごめんなさい」と言って、笑い返すだろう。
以後、おしゃべりを慎むだろう。
しかし心に余裕のない人は、そうでない。

どこかギスギスしている。
ピリピリしている。
カリカリしている。
相手をやさしくする、包容力がない。
しかもそういうタイプは、女性に、多い。

●低劣なオバチャン

一方、いやみを言われた私は、どうか?
実は、私もそれほど心の余裕のある人間ではない。
子どものころは、喧嘩早いということで、通っていた。
が、そのばあいは、笑って、無視することができた。
(もう少し若ければ、喧嘩していたかもしれない。)
が、喧嘩はしなかった。

それには、先にも書いたように、それまで彼女たちの会話を聞いて
いたからである。

あまりにも低俗。
あまりにも低劣。
かいま聞こえてくる話の内容に、ただただあきれるばかり……。

一言ごとに、そう感じていた。
はっきり言えば、英語で言えば、「ノー・ブレイン」。

「世の中には、こういう低劣な人もいるんだな」と、むしろ、そちらの
ほうに感心していた。
つまりその時点で、私は、「彼女たちを相手にしない」という姿勢が
作られていた。
だから気にしなかった。

最後にバスをおりるときも、その女性は、私にこう言った。
「おだいじに、さようなら」と。
再び、イヤミである。
強い視線を感じたが、私は無視した。
完全に無視した。

私が相手にしなければならないような人たちではない。
が、これが(心の余裕)ということか。

●昇華する

要するに、心の余裕をつくるためには、自分自身を昇華させるしかない。
わかりやすく言えば、相手を飲み込めるほどまで、自分を高める。
その結果として、包容力をもつ。

言い換えると、心の余裕というのは、その人のもつ徳性と深く結びついている。
そしてその徳性というのは、日々の研鑽の中で養われるもの。
で、これも健康論と似ている。
健康のための運動を怠ったとたん、その人はその時点から不健康になっていく。
同じように、日々の研鑽を怠ったとたん、その人はその時点から、特性を
失っていく。

で、日々の研鑽とは何か。
いつも智力の窓をあけ、考えること。
自ら考えること。
相手が、取るに足らない、つまらない人間に見えるまで、自分を高めること。
それができたとき、心の余裕が生まれる。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●映画『ワルキューレ』

++++++++++++++++

昨夜遅く、トム・クルーズ主演の『ワルキューレ』を見てきた。
星は4つの★★★★。
暗殺映画に必要な緊迫感が、やや欠けるかなという点で、
星を4つにした。

映画を見ながら、「では、この日本ではどうだったのか」と、
そればかりを考えていた。
ドイツには、ヒットラーという独裁者を生んだが、それまでに培(つちか)った
文化というものがある。
シラー、ベートーベン、ゲーテなどなど。
ワーグナーもその1人。
「ワルキューレ」は、そのワーグナーが作曲した曲名。
そこからヒットラー暗殺計画が始まる。

その文化の蓄積が、ヒットラーの独裁にブレーキをかけようとした。
そのようにも解釈できる。
が、ここから先が、日本とはちがうところ。
暗殺計画は失敗し、トム・クルーズが演ずるクラウス・フォン・シュタウフェンベルク
は処刑される。
が、現在、そのシュタウフェンベルクは、ドイツでは英雄視されているという。
そののちドイツは廃墟と化し、350万人ものドイツ人が死んでいる。
ユダヤ人を虐殺したという汚名は、今の今も消えていない。

日本ではこうした暗殺計画は生まれなかったし、また残念ながら、
それだけの周囲文化というか、そういうものがなかった。
また仮にあったとしても、そういう人たちは逆族として、排斥されていただろう。

映画を見ながら、別の心でそんなことを考えていた。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●野次馬

+++++++++++++++++++++

他人の失敗談ほど、役に立つものはない。
それは認める。
しかしその失敗談を、けっして「酒の肴」、つまり、
話の種にしてはいけない。
それが相手の耳に入ったとき、それはそのまま
その人との人間関係の終焉を意味する。

そこで、この世界の大鉄則。
『他人の不幸について、ぜったいに野次馬になっては
いけない』。

その不快感というより、悲しみは、それをされたもので
ないとわからない。

+++++++++++++++++++++

どんな人にも、ぜったいに他人に触れられたくない問題というのがある。
ない人は、ない。
たいていはその奥で、深い悲しみや苦しみに結びついている。
が、世の中には、無神経な人というのがいる。
用もないのに電話をかけてきたりして、こちらの内情をさぐろうとする。
さぐっては、それをおもしろおかしく脚色し、他人に伝える。

それをするのは、その人の勝手かしれない。
しかしそれをされた者の怒りや絶望感は、想像を絶する。

だからそこに不幸な人がいたら、そっとしておいてやることこそ、肝要。
相手から相談でもないかぎり、ぜったいに首をつっこんではいけない。
聞き出そうとしてもいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●それをしたら、おしまい

+++++++++++++++++++

世の中には、「それをしたら、おしまい」と
いうような話は、多い。
その中のひとつが、これ。
農家の人が栽培している農作物を盗むこと。

しかし現実には、いる。
今日、ドライブの途中で、道路わきに車を
止め、畑から、甘夏(みかん)を盗んで
いる人を見かけた。
「まさか!」「ありえない!」と思ったが、
雰囲気からして、その土地の持ち主では
ないことはわかった。

急いで3つ、4つと取り、それを上着のジャンパーで
包んでいた。

+++++++++++++++++++

私も山荘に住むようになって、13年になる。
その間、「これだけは……」と思って、守っていることがある。
それはどんなことがあっても、またどんなばあいでも、
農家の人たちの作った農作物には、手をつけないということ。
農作物だけではない。
農家の人たちは、空いた土地に、いろいろな果物の木を植える。
その時期になると、それが実をつける。
ときには、(たいていそうだが)、そのまま実が熟し、地面に落ちる。

こういう土地では、農家の人が切った木一本、手をつけてはいけない。
花一輪、ちぎってはいけない。
不文律というよりは、常識。
その常識を破ったら、おしまい。

仮に、……というより、近所の人たちはよく私にこう言う。
「林さん、ポンカンが熟したら、取って食べていいですよ」と。
しかし私はそういう申し出には、ありがとうとは言っても、
応じたことは一度もない。

たとえばこんなケースで考えてみよう。
Aさんの畑の横には、ビワの木がある。
そのAさんが、「ビワを取ってもいい」と言う。
そういうとき、もし私がビワを取っている姿を、Bさんが見たら、
Bさんは、どう思うだろうか。
私は許可をもらっているから……と思っていても、Bさんの目には、
盗んでいるように見える。
またそう誤解されても、文句は言えない。

だから、ぜったいに、手をつけてはいけない。
木一本、花一輪、手をつけてはいけない。
「それをしたら、おしまい」。
私はそのまま、村の社会から、はじき飛ばされてしまう。
もともとそういう気持ちは、みじんもないが、さらに心して、その常識を
守っている。

が、である。
今日、その畑から、甘夏を盗んでいる人を見かけた。
年齢は40歳くらいか。
男性である。
車の中には、妻らしき女性も乗っていた。

通りすがりだったので、私が見たのはその瞬間だけだったが、しかし思わず
こう言った。
「それをするようになったら、世の中も、おしまい」と。

農家の人たちは、私たちを信頼して、農作物を作っている。
その気になれば、私たちは、何だって盗める。
野菜にしても、果物にしても、あるいは農業用の道具にしても……。
しかし私たちは、それをしない。
しないから農家の人たちは、安心して、作物を作ることができる。
それは人間が最低限守らなければならない、常識である。

しかしこうした常識が破られるようになったら……。
農家の人たちは、私たちに対して自衛をしなければならない。
フェンスを建てたり、するなど。
しかしそれをすれば、不信感が不信感を呼ぶ。
人間関係そのものが、破壊される。
さみしい社会になる。
つまり「おしまい」。

もう少し早く気がつけば、私は車をおりて、その男性に問いただして
いたかもしれない。
「盗んでいる」と気がついたときには、かなり離れてしまっていた。
しかし……。
盗んだ人は、「得した」と思っているかもしれないが、同時に、もっと
大切なものを失っている。
それに気づくかどうかは、その人の問題だが、もし気づかなければ、
その人の人生の末路は、あわれ。
そういうことが平気でできる人は、そうはいない。
まさに一事が万事。
そういう人生を送る。

ところで、よく道路端で、「一袋、100円」とか、「300円」とかいう、
果物を売っている無人の店を見かける。
箱だけの小さな店である。
今ごろだと、レモンやポンカンなどを売っている。
ほしい人は、小銭を横の缶に入れ、それをもっていく。

そこで一度、そういう店を出している農家の人に、こう聞いたことがある。
「正直に払っている人は、どれくらいですか」と。
すると、その人(=私が親しくしている農家の友人)は、こう話してくれた。
「だいたい、7割ですよ」と。

つまり1000円分の野菜などを置いておいても、実際、払っていくのは、
700円と。
残りの300円は、つまり「盗み」の被害ということになる。
私はその話を聞いて、「そんなものだろうな」と思った。

が、もしその被害が、500円とか、700円とかになったら、そういう店も
消えるだろう。
店を出す人がいなくなる。
が、反対に、それが1000円そのままになったら、そのときこそ、
この日本は、本当にすばらしい国ということになる。
またそういう国をめざさねばならない。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●パソコンの不調

MSIのミニパソが、ずっと調子が悪かった。
それについては、少し前に書いた。
文字入力が、混乱する。
カーソルの位置が、混乱する。
が、原因がわかった。
つまり、タッチパッドの感度がよすぎた。
手を近づけただけで反応してしまう。
指が触れなくても、たとえば手の魚腹(親指の付け根)が
近づいただけで、反応してしまう。
ナルホド!
たった今、パソコンショップの店員さんに、
(敬意をこめて、「店員さん」と呼ぶ)、
そう教えてもらった。

謎が解けた。
ほっとした。
と、同時に、みんなに知らせてやらなければならないという
思いにかられた。

【MSI Wind Notebookの不調について】

(症状)

「た」と打ちたくて、ローマ字入力すると、「tあ」となってしまう。
ときどき「ENTERキー」を叩くと、カーソルの位置が、とんでもないところに
飛んでしまう。

(原因)

タッチパッドの感度がよすぎて、手が静電気を帯びていたりすると、それに勝手に
タッチパッドが、反応してしまう。

(対処方法)

MSIのミニパソには、タッチパッドの感度調整機能がないので、薄い紙をあてて使う。

(MSI Wind Notebook 不調 文字 文字入力 カーソルの飛び
 ローマ字入力 不具合 msi U100 タッチパッド 感度 感度調整)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●3月22日(日曜日)(North Korean's Missile)
We will not let ourselves shoot down the North Korean's Missile, which they want us to 
do so. It is a kind of trap. Or a war will break out between two countries, which we do 
not want.

++++++++++++++++

朝から雨の、冴(さ)えない日曜日。
気温も一転、冬に逆戻り。
寒い!

朝風呂に入って、食事をする。
ところで今は、たまねぎの収穫期。
このあたりは、生のたまねぎに、醤油や
かつお節をかけて食べる。
それがおいしい。
昨夜から立てつづけに、食べている。

+++++++++++++++++

●パソコンの修理

数か月前に購入した、MSIのミニ・パソコンの調子が、どうもよくない。
かたかな変換が、うまくできない。
たとえば、「たちつてと」と打とうとすると、
「tあtいtうtえtお」となってしまう。

先ほど、ディスクのエラー・チェックをすましたところ。
ほかにもいろいろしてみた。

「T」のキーが、不良なのかもしれない。
あまりこんな状態がつづくようなら、一度、ショップへ
もっていくつもり。
今しばらく、様子をみることにしよう。

●K国のミサイルを迎撃してはいけない!

もしK国のミサイルを迎撃したら、それこそ、彼らの思うツボ。
彼らはそれを利用して、国内を引き締める。
が、それだけではすまない。
彼らに、日本攻撃の口実を与えてしまう。
つまり日本とK国は、戦争状態に突入する。

もちろん「力」の差は歴然としている。
勝つか、負けるかという話ではない。
日本は、あんな国を相手にしてはいけないということ。
戦争など、してはいけないということ。
仮に東京に、一発でもミサイルが撃ちこまれたら、
それがただのカラのミサイルであっても、日本の経済は、
その時点から、マヒする。

日本の経済構造というより、日本の国家構造は、それほどまでに
ぜい弱。
たとえて言うなら、無菌状態。
美しいドレスを着た女性が、インクの瓶を投げつけられたような
ばあいを考えてみればよい。
日本中が、パニック状態になってしまう。
今の日本には、そうしたパニックをはね返すだけの耐性はない。

一方、K国は、それを口実に、何をしてくるかわからない。
報復にと、種子島の宇宙開発センターに、ミサイルを打ち込んでくる
可能性も高くなる。
彼らは、核兵器はもちろん、生物兵器、化学兵器ももっている。
が、それ以上に警戒しなければならないのは、
彼らの思考回路が、私たちの思考回路とはちがうということ。
私たちが考える論理が、そのまま通ずる相手ではない。

またAS首相は、こうした危機をうまく利用して、再々度、権力の維持を
図ろうとしている。
愛読書が、『ゴルゴ13』であることを、忘れてはいけない。
まともな思考能力がないことは、数々の失言で、すでに実証済み。
おまけに支持率は10%そこそこ。
そんなK国と、AS首相がまとものぶつかったら、この日本は、
どうなる?
今、日本は、戦後最大の危機を迎えつつある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
K国のミサイル 北朝鮮ミサイル 迎撃 反対 報復 過剰反応 戦争)
09年3月22日記―ミサイルの発射は、4月4日と予想されている。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ある相談より】

++++++++++++++++++++

京都市に住んでいる、KHさん(母親)から、
こんなメールが届いています。
掲載の許可がもらえましたので、掲載します。
学校の先生とのトラブルに悩んでいる人たちの
ために、参考になれば、うれしいです。

++++++++++++++++++++

【KHさんより、はやし浩司へ】

先日、いつものように、STさんが、私の家に長女(小5)を迎えに来ました。
STさんとは、転勤で近くに越してきてから、もう3年のつきあいになります。
見ると、私の家の玄関先で熱があると言って、ふらふらしていました。
長女が、「大丈夫? 帰ったほうがいいんじゃないの? それに、もしインフルエンザだっ
たら、みんなに移すから、帰ったほうがいいよ」と言っていましたが、そのままSTさん
は、登校していきました。

すると、そういうやり取りをしながら、お互いヒートアップし、学校に着くころには、長
女も、「みんなに移ったら、責任取れるの?」と強い口調になり、その友達は「うるっせー!
うちが、インフルエンザでも、みんなに移したって、かまわんやんか!!」と言い放ち、
長女とけんかになってしまいました。

周りにいた子は、「帰れよ、みんなに移ったらどうするんだよ」「帰ったほうがいいよ、今
日は新入生を迎えるための準備集会があるから、余計みんなに広がるから」と、それぞれ
に、言いだして大騒ぎになってしまいました。

そこへ、やってきた担任の先生(40歳、女性)が、「なに、やってるんですか? みんな
でSTさんをいじめて」と、長女だけ残され、説教されて、集会にも遅れて参加となりま
した。

集会の間も、長女は担任にずっと、にらまれて、楽しいだしものも、全く楽しめなかった
そうです。

その日の放課後、長女たちは、友達数人と、公園に遊びに行きましたが、その時点で私は
そんなことがあったなどと全く知りませんでした。

翌日、学校の帰りがすごく遅かったので、聞いてみると「先生に、ずっと叱られていた。
今日電話がある」と言うのです。

聞くと、昨日、STさんに、長女がみんなでいじめをしたから、先生がクラス皆の前で立
たせて、叱られたと言います。

しかも、今までのつきあいの中で、今まで、うちの長女にされて嫌だったこと、傷つけら
れたことを、紙に書き出させて、レポート1枚ほどを、みんなの前で読み上げさせられた
といいます。

長女とSTさんは、お互い勝ち気で激しい喧嘩もよくしますが、毎日のように約束もして
遊んだり、うちにもよくあそびにきていました。
STさんの家族もよく知っています。
さっぱりと仲直りをするところが、とてもいい関係だと、私も長女も、思っていました。
STさんのお母さんも、いつもそうおっしゃっていました。

ですから、その時は、腹が立ったり、傷つくことがあったとしても、そのつど切り捨てて、
割り切ってつき合ってきたつもりです。

でも、長女が覚えていない過去のけんかを、長々と書いてあり、しかも「こう言われたの
で傷ついた」「こういわれて、いやだった」と、結果だけを書いてあるので、長女も全く、
理不尽で、自分の意見を述べようとしても、「言いわけがましい!」と、全く聞き入れても
らえなかったとのことです。

言い争いは、星の数ほどしていますから、長女も言い分があったのだと思います。
でも、一言も聞き入れられず、帰ってきたようです。

先生は、その手紙を読み「あなたは、そんなことをして楽しいんですか?」「皆の圧力を使
って、そこまでして、STさんを家に帰らせたかったんですか? 新入生を祝う会に出さ
せたくなかったんですか?」と、言ったそうです。

STさんは、声をあげて泣きわめき、長女にいじめられていたと、答えたそうです。
それを見て、長女はものすごく・・ショックを受けてきたようです。

完全に、一方的な展開で、長女が加害者で、STさんは被害者みたいな図式になり、周り
のクラスメイトも親しい子は、理解して支えてくれましたが、よく事情を知らない子は、
長女を白い目で見たり、無視をするようになりました。

これを聞き、すぐSTさんの家に電話し、言葉で傷つけていたことは、こちらにも非があ
ると思い、お詫びをしました。
すると、「みんな今学期も最後だし、別にね、移したっていいと思って、最後の集会だった
から本人も行きたがったので、行かせたのよ」とのこと。

結局、過去のけんかのことまで全部書かせていたのは、このお母さんだったということが
わかりました。

しかも、仲良く公園で遊んだ日の夜に、です。

STさんは、どんな気持ちで長女の悪口をあれだけ書いたのかと思いました。

そのあと、先生に電話して事情を聞くと、みんなでよってたかって、STさんに帰れとい
って、いじめていたということでした。

今回のことと、過去のけんかと何が関係ありますか?、と聞いたら、担任は黙っていまし
た。

その後、いつもは、精神的に強い長女もあまりにショックが大きく、何を聞いても、激し
く怒鳴られた時のことはあまり覚えておらず、ただみんなの前で「私は人間として最低な
ことをしてしまいました。ごめんなさい」と、詫びさせられたそうです。
「私がぜんぶ、悪者でいいんだよ、もう・・おかあさんと・・」と、うちで、泣きじゃく
りました。

翌日、主人と校長先生と担任に話を聞きに行きました

どうしてこういうことになっているのか、本当にことが知りたかったからです。
あくまで、感情を抜いて冷静に・・・気持ちを保って行きました。
すると、校長先生は、担任の言葉に絶句されました。
「あなた、そんなことを言ったのですか?」と・・。

主人が、「長女が言ったことが間違いならば、熱があるとわかって学校に来ていた子供への
対応の仕方を教えて下さい。熱がある人に、帰ったほうがいいよということが、間違いだ
ったと長女はとらえています。
私は、長女の言葉の使い方は、間違いがあったかもしれませんが、方向として正しかった
のではないかと思います」と。

そのあと、担任からは、本人の前でと、みんなの前で謝罪がありましたが、なぜここまで
のことになったのか、理解できないです

ただ、長女に関して、先生は、最初から否定的な目で見ていたということなのでしょうか。

ちなみに、今は元気に学校に通っていますが
STさんは、何もなかったように話しかけてくるそうです。
長女は、「STさんにすぐ殴られたり、乱暴なことを言われたりも、今まで通りあるけど、
言い返すと先生にまた怒られるし、STさんにも、またあとから何か言われるから我慢し
ている、もう本当は、しゃべりたくないけど、しゃべらないとまた言われるから」と、話
しています。
でも、プライベートでは、完全に距離を置くようになってしまったようです。

とはいえ、長女も反省すべき点は多々あり、主人と3人で何日も話し合いを重ね、なにを
気をつけていかねばならないかと・・話しあい、これを学びととらえ、前向きにやっと元
気を取り戻しました

周りに、「おまえは間違ってないぞ」と言ってくれる男の子がいたことも、心強かったと言
っています。

この担任の先生は、京都でも一番の大学を出ていて、プライドが高いことで有名でしたが、
過去にも何度か失言でトラブルを起こしていると聞きました。

こんな先生が担任になったのも、なにか意味があるのだろうと、前向きにとらえ、学びに
つなげたいと思いましたが、他のクラスにまで、学級崩壊したとうわさが飛んで、長女が
白い目で見られるのが少し心配です。

【はやし浩司より、KHさんへ】

担任の先生の、(思い込み)(独断)(偏見)(過剰反応)(一人芝居)などなど。
そればかりが目立ち、たいへん残念な事件ですね。
担任の先生に、もう少し思慮深さがあったら……と、つい考えてしまいます。

ただ、あえて擁護するなら、この時期、学校の教師は、たいへん忙しい。
目が回るどころか、あたふたするだけで、息つく暇もないといった状況です。
その忙しさは、たぶん、親たちはもちろん、外部の人たちには、理解しがたいものです。
そういう中、今回のような事件が起きた。
担任の先生は、「いじめ!」と、身を固めてしまったのかもしれません。
(どこの学校でも、いじめ問題、体罰問題については、みな、過剰反応する傾向が
あります。)
「一人ひとりの児童の心を大切に」と思っていても、現実にはむずかしい……というより、
不可能と考えてもよいのではないでしょうか。
このあたりでも、文科省の指導通りに教育をしたら、一週間の間に、(空き時間=休める
時間)は、2〜3時間しかないというのが、現状です。

言いかえると、子どもの心を守るのは親と考えて、今回、KHさんが取られた行動は、
適切だったということになります。
冷静に校長と話し合いができた点が、何よりもすばらしいです。
また問題そのものは解決したと考えて、あとは(時の流れ)に任すことです。
ジタバタしたり、騒いでも、この種の問題は、どうにもなりません。
KHさんとしては、納得のいかない点や、不快な思いもあると思いますが、
ここはひたすら、(がまん)。

「白い目で見られること」についても、(時の流れ)に任すことです。
こういうケースでは、騒いだ人ほど一見、得をするように見えますが、実際には、
それを判断するのは、周囲の人たちです。
私も、母の介護をしているとき、あれこれと私を批判している人もいましたが、
結果としてみると、かえってそういう人のほうが、今は、だれにも相手にされて
いません。
やるべきことを、淡々とやって、あとは(時の流れ)に任す、です。

またSTさんや、STさんの母親との関係についても、同じようなことが言えます。
私もこういった仕事をしている関係上、そのつど、いろいろなトラブルに巻き込まれます。
こちらにそのつもりはなくても、向こうから、トラブルが襲いかかってくることも
あります。

ですから、いつも「如水淡交」。
水のようにサラサラと、淡く交際するという意味です。
みながみなというわけではありませんが、一部に、そういった親がいるのも事実です。
表では親しくしていても、裏では、足を引っ張るような親です。
そういう意味では、親というより、教育の底流では、ドス黒い人間の欲望が、渦を
巻いている(?)。
その渦に巻き込まれてしまうと、とんでもないことになります。
子どもはともかくも、あなたがSTさんと距離を置くようになったことについても、
当然の結果かと思います。
私なら、そういう親とは、つきあいません。

大切なことは、娘さんが、これから先も、楽しく学校へ通うことです。
そのためにも、ここは一度、身を引いて、(がまん)。
静かに、(時の流れ)に身を任せます。

が、あえて言えば、KHさんには、大事件だったかもしれませんが、この種の事件は、
まさに日常茶飯事。
近くの学校でも、言ったの、言わないのがこじれて、裁判沙汰になった事件もあります。
その裁判が数年もつづいたといいます。
どちらが正しいとか、正しくないとかということではなく、そうした騒動の中で、
いかに子どもたちの心に傷がついたことか。
それを思うと、やはりとても残念な事件だったということになります。

あとは娘さんとおいしいものでも食べて、早く忘れましょう!
「みなにいい顔はできない」(イギリスの教育格言)と。

(追記、KHさんより)

原稿を読ませていただきました。
お忙しいのに、本当にありがとうございます。
感謝いたします。

載せていただいても、結構です
どなたかの、役に立てれば幸いに思います。

はやしさんの、アドバイスも、大変ありがたいです。
本当にうれしかったです。
心から感謝しています。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●従兄弟(いとこ)
My Cousin

私の従兄弟に、ものすごく頭のよい人がいる。
超一級の頭脳の持ち主である。
私は子どものころから、その人だけには、一目置いている。
たとえば子どものころ、みなで集まって、小型のモーターを作ったことがある。
7〜8人の従兄弟で、それぞれが1つずつ、作った。
しかし電池をつないだとき、回ったのは、その従兄弟のモーターだけだった。
たぶん、その従兄弟はモーターを作りながら、その原理を解明していたに
ちがいない。

が、学歴はない。
G県の山奥で生まれ育った。
家庭も貧しかった。
が、もしその従兄弟が、都会に住み、それなりに恵まれた環境で
育っていたら、彼はまちがいなく、ドクターになっていただろう。
へき地(当時)に住んでいただけでに、独学で医学を学んでしまった。
私はその従兄弟を、陰ながら尊敬してきた。

「陰ながら」というのは、歳が私より、5〜6歳、年上で、
親しくつきあうには、恐れ多い相手だった。
その従兄弟と、このところ、電話でよく話す。
昨夜も、電話で1時間ほど、話した。

心理学にせよ、教育学にせよ、要点をズバズバ見抜いているのには、
いつもながら驚く。
で、私はこう考えた。
今の今も、こうしたすぐれた人材が、その環境に恵まれなかったというだけで、
社会の隅に埋もれてしまっているのではないか、と。
本来なら、こういう人材を学校の教師が見出し、家庭環境に関係なく、
学歴を身につけさせることこそ、重要。
これを日本の損失と言わずして、何と言う。

昨夜も、電話で話しながら、こう思った。
「今、この従兄弟が、大都市の大病院の院長をしていても、おかしくない」と。
もちろん、それは言わなかったが、従兄弟は従兄弟で、懸命にあれこれ話して
くれた。
その懸命さが、私はうれしかった。

沼津から礼のつもりで、海産物を送った。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●3月19日

+++++++++++++++++++++

春のような陽気。
鴨江寺(かもえじ)の彼岸会も始まった。
こういう日は、心までウキウキしてくる。

+++++++++++++++++++++

●Goo−Blog

このところGoo−Blogだけでも、アクセスが、毎日、1500〜2000件
もある。
数10万もあるBLOGの中でも、アクセス数順位で、1000〜2000番前後を
キープしている。
今週中には、1000番以内に入るかもしれない。
Goo−Blogでは、毎日の集計のほかに、週ごとの集計もしてくれる。
週ごとの順位でも、1000番以内に入るかもしれない。

ほかに、「はてなBLOG」「楽天BLOG」も、発行している。
こちらのほうは、アクセス数は、Goo−Blogの、約半数というところか。
それでも合計すると、1日、3000件程度となる。
これにHPへのアクセス数を加えると、1日、5000〜6000件。
実際には、HPのトップページを経由しないでアクセスしてくる人も多いので、
(むしろ、そちらのほうが多いのでは?)、
1日、1万件前後ということになる。

がぜん、やる気が出てきた。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●経済危機のつぎは、食糧危機?

どこかの週刊誌の見出しに、こうあった。
『経済危機のつぎは、食糧危機』と。

私も、以前からそれを心配していた。
というのも、食料不足は、すでに1970年当時から予想されていた。
当時は、気候変動よりも、食料不足のほうが、危惧されていた(ローマ会議)。
それが地球温暖化によって、さらに現実味を帯びてきた。
今の今でさえ、食糧は、絶対的に不足している。
地球の人類の3分の1が、飢餓状態にある。

食糧危機……現実には、食糧の値段が高騰する。
世界的な水不足が、それに拍車をかける。
貧しい国々では、さらに飢餓が広がる。
社会が不安定になる。
人心が荒廃する。
あとはこの悪循環。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●アルツハイマー病

知人の妻が、アルツハイマー病と診断された。
数日前、夫である知人が、そう話してくれた。
妻の年齢は、65歳。
65歳でも「若年性アルツハイマー病」と呼ぶのだそうだ。

が、「おかしい?」と思い出したのは、知人にしても、ここ1、2年とのこと。
それまでは、おかしいと思っても、それを認めたくないという思いが働いて、
自分でそれを打ち消してしまっていたという。
また妻にしても、「お前、最近、おかしいぞ」と声をかけただけで、
激怒し、パニック状態になってしまったという。
夫である知人の言葉を借りるなら、そういうとき、「手がつけられない状態になった」
らしい。

が、会って話をするかぎり、今でも、私のような素人には、ごくふつうの女性に
見える。
とくに大きな変化はない。

最後に会ったのは、昨年の12月(08年)のことだった。
が、そのときも、私とワイフは、ふだんどおりの会話をして、ふだんどおりに別れた。
「本当ですか?」と聞くと、「本当です」と。
「私にはふつうの人に見えます」と言うと、「それがちがうのです」と。
たとえばいっしょに映画を見に行っても、その翌日には、映画の内容はもちろん、
映画に行ったことすら、忘れてしまう、と。

そう言えば……?
思い当たることは、いくつかある。

私が最初におかしいと感じたのは、もう3年近くも前になる。
その女性の名前をMさんとしておく。
いろいろな約束をするのだが、約束を守らないばかりか、約束したこと自体を
忘れてしまう。
私は、当初、「自分に都合が悪いから、忘れたフリをしているのかな?」と思った。
一度は、私のほうが、怒ってしまったこともある。

つぎに、何かのことで、電話番号を電話で伝えたときのこと。
私が、「053−452−80XX」と言ったのだが、受話器の向こうで、
あたふたしている様子が、よくわかった。
何かにメモをしている様子なのだが、そのメモに手間取った。
私は、何度も、ゆっくりと数字を繰り返した。

が、驚いたことに、その翌日、自宅のほうに電話が入り、Mさんは、こう言った。
「昨夜は、息子のことで気が動転していて、電話番号がよく聞き取れませんでした」と。
どこかつっけんどんな言い方だった。

が、それから3年。
病状が少しずつ悪化したらしい。
それが夫である知人の目にも、はっきりとわかるようになった。
知人は、こう言った。
「M(妻)は、あれほどしっかりした女性だったのに……」と。

そう、30代のころのMさんを私はよく知っている。
セカセカとしたところはあったものの、よく気がつき、よくしゃべる人だった。
機転もきき、反応も速かった。
そのMさんが、アルツハイマー病?

この病気だけは、相手を選ばないようだ。
また「今はだいじょうぶ」と思っていても、明日のことはわからない。
東大で、○○部長をしていたような研究者でも、なる人は、なる。
ならない人は、ならない。

で、そういう話を聞くと、私はいつも、「私はだいじょうぶか?」と
考えてしまう。
現在、私は61歳。
その女性も、60歳ごろから、どこかおかしくなったという。
「私には、そういうところがないか?」と。

そこで、先週からの行動を思い出してみる。
先週の土日は、ろ過器の部品を、販売店まで取りに行った。
ろ過器の修理を試みたが、失敗した。
土曜日夜は、山荘に泊まった。
そのときワイフは、ビデオを見ていた。
名前も内容も、思い出せない。
何だったかな?
(この間、数分……。)
ああ、そうだ。
1人のドイツ軍捕虜が、ソ連の強制収容所から脱獄したという映画だった。
数年かけて、9000キロの距離を逃げた。
どこかかったるい映画だった。

で、翌日の月曜日は、町まで歩いたが、途中で疲れて、バスに乗った。
いや、あれは火曜日だったかもしれない。
水曜日は、ワイフと2人で、熱海まで行ってきた。
食べた料理は、私は刺身定食。
ワイフは海苔丼。
ほかにイカの姿焼き。
しめてちょうど、4000円。

……何か記憶が抜けていないだろうか。
あれこれと頭の中をさぐってみる。
もしアルツハイマー病なら、どこかで記憶が抜けているはず。
あるいは抜けていても、それに気がつかないはず。

そこでさらに順を追って、思い出してみる。
「ろ過器の修理をしたあと、何をしたか?」と。

そのあと、朝風呂に入り、朝食を食べた。
朝食は、その前の晩の残りのパンだったかな?
いや、その帰り道、国道沿いにあるファースト・フード店で、私は、
ブタ丼を食べた。
ワイフは、サケ定食を食べた。
そのあと、パソコンショップへ行って、SDカードを2枚、買った……。

抜けた記憶はないだろうか?
いろいろ思い出しているだけで、不安になる。
それにいくら自分ではだいじょうぶと思っていても、他人の脳みその中を
のぞくことはできない。
他人は、もっと鮮明に、覚えているかもしれない。
その基準がわからない。
わからないから、不安になる。

……とまあ、自分のことばかり書いたが、本当の被害者は、夫であるその
知人ということになる。
これから先のことを思うと、私のほうまで気が重くなる。
「たいへんですね」とまでは言うことはできても、その先が言えない。
「がんばってください」と言うのも、失礼。
いいかげんな同情や約束は禁物。
ただこういうことは言える。

アルツハイマー病の初期症状のひとつとして、繊細さが消えるというのがある。
そのため他人に対して、暴言を吐いたりしやすくなるという。
そのため、その周囲の人が、傷つくということも珍しくない。

知人の妻にしても、あるとき、こんなことがあった。
私が、「あなたが先日、○○市とおっしゃったから、○○市のほうへ、連絡
してみましたが……」と言ったときのこと。
突然、その女性は金切り声をあげて、こう叫んだ。
「私は、○○市などとは、一言も言っていません! △△市です。どうして
そういうウソをつく!」と。

私はあまりの過剰反応に、驚いてしまった。
ふつうならそういうとき、「あら、そう? 私、○○市って、言いました? あら、
ごめんなさい。△△市のまちがいです」というような言い方をする。
また、それですます。
それほど、大げさな話ではない。
心の余裕がないというか、その余裕を感じることができなかった。

だから身内にそうした病気の人がいたら、できるだけ早く、親しい人たちには、
それを伝えておいたほうがよい。
それが原因で、それまでの人間関係が破壊されてしまうこともある。

ともあれ、「明日はわが身」。
自分の心配ばかりしていて恐縮だが、この病気ほど、周囲の人たち、とくに
家族に迷惑をかける病気はない。
そのために私は自分の心配をする。
自分がアルツハイマー病になるのは、それはそれでしかたない。
自分でも訳がわからなくなる。
自分が病気ということすら、わからなくなる。
が、周囲の人たちは、ちがう。
それによって、迷惑を受ける。
今の私は、そのほうがつらい。
とくに家族のみなには、迷惑をかけたくない。
だから、自分のことを心配する。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●You'll never walk alone(あなたはけっして、ひとりぼっちではない)

+++++++++++++++++++++

外国で、いろいろな歌手が、この歌を歌っている。
坂本九の歌った、『上を向いて歩こう』に、どこか似ている(?)。

+++++++++++++++++++++

When you walk through a storm
Hold your head up high 
And don't be afraid of the dark
At the end of the storm
There's a golden sky
And the sweet silver song of a lark.

嵐の中を歩くときも、頭を高くあげよう。
暗闇を恐れてはいけない。
嵐のあとには、金色の空が待っている。
ヒバリの澄んださえずりが待っている。

Walk on through the wind
Walk on through the rain
Though your dreams be tossed and blown
Walk on, walk on
With hope in your heart
And you'll never walk alone
You'll never walk alone

風の中を歩きつづけよう。
雨の中を歩きつづけよう。
夢が破れても、歩きつづけよう。
どんどんと歩きつづけよう。
心に希望をもって。
あなたはけっして、ひとりで歩くのではない。
あなたはけっして、ひとりで歩くのではない。

Walk on, walk on
With hope in your heart
And you'll never walk alone
You'll never walk alone

歩きつづけよう。
心に希望をもって。
あなたはけっして、ひとりで歩くのではない。
あなたはけっして、ひとりで歩くのではない。

++++++++++++++++

以下、YOU TUBEの中から、
シゼールと、キャサリン・ジェンキンスが歌っている「You'll never walk alone.」
を収録してみた。

さあ、みなさん、がんばろう!
不況など、ものともせず!

(アクセス)
http://www.youtube.com/watch?v=aJ3hm6io9ow
http://www.youtube.com/watch?v=ffBIOTP5vtg

++++++++++++++++++++

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Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【韓国・3月危機説】(Economy Crisis of South Korera)

++++++++++++++++++++++++++++

アジアでいちばんあぶない国。
それが韓国。
経済専門家で、それを疑う人は、だれもいない。
つい先日には、イギリスのエコノミスト誌は、
「韓国の外貨準備高に対する短期外債の割合は、
102%に達する」と報道した。
ウォン安、輸出の減少、外国投資家の逃避などなど。
韓国経済は、今、急速に悪化している。

そこでささやかれているのが、韓国・3月危機説。
もちろん韓国政府は、その(うわさ)の否定に
躍起になっている。

わかりやすく言えば、Kさんの金融資産が100万円
とすると、1年以内に返済しなければならない借金が、
102万円あるということ(エコノミスト誌)。
差し引き、2万円の負債ということになる。

これに対して、韓国の中央N報は、「まちがった報道である」
とかみついた(09・3・13)。

本当かな?
もう一度、中身を見てみよう。

+++++++++++++++++++++++++++

中央N報は、こう反論する。

『英フィナンシャルタイムズの記事も外債の内容を考慮しない単純計算から出てきたもの
だ。造船業界など為替リスクヘッジのために借り入れたドル(390億ドル)は借金では
ないのに、フィナンシャルタイムズはこれを外債に含めて計算した。これを除けば外貨準
備高に対する流動外債の割合は77%になる』と。

つまり造船業界などが、為替リスクヘッジのために借り入れたドルまで、
借金に組み込んだから、102%になった。
しかしそれは借金ではない、と。

が、現実はどうか。
今年に入って、韓国の造船業界は、キャンセルにつぐキャンセルで、受注ゼロという
状態がつづいている。

それはさておき、こういうことらしい。
造船会社は、将来的に受け取るであろう代金を、ドル建てで先に借りておく。
あとで代金が支払われたら、それで返済すればよい。
そうすれば、仮にウォン安になっても、反対にウォン高になっても、造船会社は、
予定した金額を受け取ることができる。

わかりやすく説明しよう。

あなたはイギリスから、船を建造してくれと頼まれた。
代金は、1億ドル。
1ドルを1000ウォンで計算すると、1000億ウォンとなる。

しかし建造している間に、ウォンが、1ドル900ウォンにまであがったとする。
すると、あなたが受け取る金額は、900億ウォンになってしまう。
つまり100億ウォンの損。

そこであなたは、こうした為替リスクを避けるため、あらかじめ、1億ドルを
外国の銀行から借りておく。
1ドルが1000ウォンのときに借りておけば、1000億ウォンで借りられる。
そして船が完成し、イギリスに引き渡せば、その時点で1億ドルが手に入る。
その1億ドルを、そっくりそのまま外国の銀行へ返せば、為替の変動に関係なく、
あなたは予定どおり、1000億ウォンを手にすることができる。

中央N報は、「そうして借りたお金まで、390億ドルまで、外債(=借金)に
含めるのは、おかしい」と。

ここに韓国の大きな認識のズレがある。
わかるかな?

韓国では、こうして借りた外債は、「投資」と位置づけている。
「これから1億ドルの船を建造する。
そのために1億ドルを、外国の銀行から借りる。
しかしその1億ドルは、借金ではない。
必ず返せるお金である。
つまり投資である」と。

そこで韓国式の統計方法によれば、こうした外債は、資本収支の中では、
「投資」つまり「収入」として組み込まれることになる。
日本式に考えれば、「借金」まで「収入」に組み込んでしまうことになる。

しかし借金は、借金。
投資ではない。
「投資」というのは、投資家が、リスクを負担する。
「借金」というのは、借り手が、リスクを負担する。

たとえばあなたが銀行から1000万円借りて、家を建てたとする。
そしてその家が完成したとき、別人に、1200万円で売却したとする。
銀行へは、売却した1000万円を返せばよい。
200万円の儲けということになるが、銀行から借りた1000万円を、
あなたは「投資」と呼ぶだろうか。

仮に100歩譲って、それを「投資」としたとしよう。
そして中央N報が報ずるように、390億ドルを短期外債(=借金)から
はずしたとしよう。

それでも「韓国の外貨準備高に対する短期外債の割合は、77%に達する」
(韓国政府発表)という。
が、それだけではない。
韓国政府が外国から借り入れている、流動性外債(=借金)も含めると、
その割合は96%にもなるという(中央N報)。
韓国政府は、「為替ヘッジ用のドルを、(流動性外債から)除外すべき」と
主張しているが、そうでも言わないと、それこそ100%を超えてしまうからである。

こういう(現実)を前にして、我が国のAS首相は、頼まれもしないのに韓国まで
のこのこと出かけて行って、総額600億ドルのスワップ協定を結んでしまった。
「韓国が通貨危機に陥っても、600億ドルまで、日本が保証しますよ」と
言ったに等しい。

日韓関係が重要なことは、私にもわかる。
わかるが、一度は、彼らに、頭をさげさせるべきではないのか。
先のWBCの日韓戦でも、韓国は日本に勝つたびに、マウンドに韓国旗を立てた。
「日本、憎し」の気持ちはよくわかる。
わかるが、しかしその一方で、日本の(お人好しぶり)には、あきれてものが言えない。
日本は韓国と、いっしょに心中するつもりでいるのか。
いくら大統領が自由貿易主義派になったからといって、金大中元大統領、ノ前大統領
らの見せたあの露骨な反日政策で、傷ついた私たち日本人の心はどうなるのか。
それでいやされるとでもいうのか。
「いったい、この怒り、どこへ向かうべきなのか」(尾崎豊「卒業」)。

日韓経済戦争は、今の今も、つづいている。
その緊張感だけは、忘れてはいけない。
(09年3月20日記)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【BW公開教室】****************************

BWの様子をどうぞ!
子どもたちvsはやし浩司

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YOU TUBEへのアクセスは、

http://www.youtube.com/watch?v=WCSZx6d1fms

さらにご覧になってくれる人は、
「はやし浩司の公開教室」へ、どうぞ!

http://bwhayashi.ninja-web.net/

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●3月21日

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昨夜、深夜劇場に行こうと思ったが、
疲れていたので、とりやめ。
夜8時50分〜からの『オーストラリア』が、
見たかった。
で、今夜、見に行くつもり。
それに『ワルキューレ』も見たい。

ところで首のうしろが、「凝る」というのは、
よくないそうだ。
それが原因で脳梗塞を起こすこともあるという。
動脈剥離(はくり)といって、動脈の
内側のカスのようなものが、脳に入って、
そこで血管を詰まらせる(用語は、不正確)。
その前兆症状として、後頭部の首の付け根
あたりに、「異変」を感ずるようになるという。

このところ、後頭部の首の付け根あたりを、
重ぼったく感ずることかある。
どの程度を「異変」というのかよくわからないが、
注意しよう。

+++++++++++++++++++

●重ぼったい頭

今朝は、4時ごろ目が覚めたと思う。
ふだんなら、そのまま起きて書斎へ入るのだが、今朝は、そのまま目を閉じていた。
1時間ほど、眠れなかった。
が、そのあと、断続的に2度ほど、眠った。
床から出たのが、午前8時。
そのせいか、頭が重ぼったい。
いや、重ぼったいのは、夢のせいかもしれない。
こういう眠り方をした朝というのは、私はたいへん理屈ぽい夢を見る。
夢の中で、あれこれ考える。
それでその疲れが、残ってしまう。

今朝のは、どこかのショッピングセンターで、ものを買う夢だった。
店全体が、プレイランドのようになっていて、何でも売っていた。
複雑に入り組んだ店だった。
迷路のようになっていたり、その間にエスカレーターがあったり……。
よく「夢には色がない」と言う人がいる。
あるいは「色のついた夢を見る人は、精神がおかしい」と言う人もいる。
が、私の夢は、たいてい色がついている。
今朝のも、赤や青など、色とりどりで、うつくしい夢だった。
たぶん、眠っていながらも、脳細胞は、フル回転していたのだと思う。
だから、疲れが残った。

こういうときは、新しい電子製品を買うのがよい。
脳みそが、フラストレーションを起こしている。
新しい電子製品をいじっていると、頭がスッキリとする。
あとでワイフに相談してみよう。
今、ほしいのは、フルハイビジョン・タイプの、ビデオカメラ。
小型のものが、よい。


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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   17日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●エリクソンの心理発達段階論

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エリクソンは、心理社会発達段階について、
幼児期から少年期までを、つぎのように
区分した。

(1)乳児期(信頼関係の構築)
(2)幼児期前期(自律性の構築)
(3)幼児期後期(自主性の構築)
(4)児童期(勤勉性の構築)
(5)青年期(同一性の確立)
(参考:大村政男「心理学」ナツメ社)

++++++++++++++++++++

●子どもの心理発達段階

それぞれの時期に、それぞれの心理社会の構築に失敗すると、
たとえば子どもは、信頼関係の構築に失敗したり(乳児期)、
善悪の判断にうとくなったりする(幼児期前期)。
さらに自主性の構築に失敗すれば、服従的になったり、依存的に
なったりする(幼児期後期)。

実際、これらの心理的発達は4歳前後までに完成されていて、
逆に言うと、4歳前後までの育児が、いかに重要なものであるかが、
これによってわかる。

たとえば「信頼関係」にしても、この時期に構築された信頼関係が
「基本的信頼関係」となって、その後の子ども(=人間)の生き様、
考え方に、大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係の構築がしっかりできた子ども
(=人間)は、だれに対しても心の開ける子ども(=人間)になり、
そうでなければそうでない。
しかも一度、この時期に信頼関係の構築に失敗すると、その後の修復が、
たいへん難しい。
実際には、不可能と言ってもよい。

自律性や自主性についても、同じようなことが言える。

●無知

しかし世の中には、無知な人も多い。
私が「人間の心の大半は、乳幼児期に形成されます」と言ったときのこと。
その男性(40歳くらい)は、はき捨てるように、こう反論した。
「そんなバカなことがありますか。人間はおとなになってから成長するものです」と。

ほとんどの人は、そう考えている。
それが世間の常識にもなっている。
しかしその男性は、近所でも評判のケチだった。
それに「ためこみ屋」で、部屋という部屋には、モノがぎっしりと詰まっていた。
フロイト説に従えば、2〜4歳期の「肛門期」に、何らかの問題があったとみる。

が、恐らくその男性は、「私は私」「自分で考えてそのように行動している」と
思い込んでいるのだろう。
が、実際には、乳幼児期の亡霊に振り回されているにすぎない。
つまりそれに気づくかどうかは、「知識」による。
その知識のない人は、「そんなバカなことがありますか」と言ってはき捨てる。

●心の開けない子ども

さらにこんな例もある。

ある男性は、子どものころから、「愛想のいい子ども」と評されていた。
「明るく、朗らかな子ども」と。
しかしそれは仮面。
その男性は、集団の中にいると、それだけで息が詰まってしまった。
で、家に帰ると、その反動から、疲労感がどっと襲った。

こういうタイプの人は、多い。
集団の中に入ると、かぶらなくてもよい仮面をかぶってしまい、別の
人間を演じてしまう。
自分自身を、すなおな形でさらけ出すことができない。
さらけ出すことに、恐怖感すら覚える。
(実際には、さらけ出さないから、恐怖感を覚えることはないが……。)
いわゆる基本的信頼関係の構築に失敗した人は、そうなる。
心の開けない人になる。

が、その原因はといえば、乳児期における母子関係の不全にある。
信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の上に、
成り立つ。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。
「私は何をしても許される」という安心感。
親の側からすれば、「子どもが何をしても許す」という包容力。
この両者があいまって、その間に信頼関係が構築される。

●自律性と自主性

子どもの自律性や自主性をはばむ最大の要因はといえば、親の過干渉と過関心が
あげられる。
「自律」というのは、「自らを律する」という意味である。
たとえば、この自律性の構築に失敗すると、子どもは、いわゆる常識はずれな
言動をしやすくなる。

言ってよいことと悪いことに判断ができない。
してよいことと、悪いことの判断ができない、など。

近所の男性(おとな)に向かって、「おじちゃんの鼻の穴は大きいね」と
言った年長児(男児)がいた。
友だちの誕生日に、バッタの死骸を詰めた箱を送った小学生(小3・男児)が
いた。
そういう言動をしながらも、それを「おもしろいこと」という範囲で片づけて
しまう。

また、自主性の構築に失敗すると、服従的になったり、依存的になったりする。
ひとりで遊ぶことができない。
あるいはひとりにしておくと、「退屈」「つまらない」という言葉を連発する。
これに対して、自主性のある子どもは、ひとりで遊ばせても、身の回りから
つぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。

●児童期と青年期

児童期には、勤勉性の確立、さらに青年期には、同一性の確立へと進んでいく
(エリクソン)。

勤勉性と同一性の確立については、エリクソンは、別個のものと考えているようだが、
実際には、両者の間には、連続性がある。
子どもは自分のしたいことを発見し、それを夢中になって繰り返す。
それを勤勉性といい、その(したいこと)と、(していること)を一致させながら、
自我の同一性を確立する。

自我の同一性の確立している子どもは、強い。
どっしりとした落ち着きがある。
誘惑に対しても、強い抵抗力を示す。
が、そうでない子どもは、いわゆる「宙ぶらりん」の状態になる。
心理的にも、たいへん不安定となる。
その結果として、つまりその代償的行動として、さまざまな特異な行動をとる
ことが知られている。

たとえば(1)攻撃型(突っ張る、暴力、非行)、(2)同情型(わざと弱々しい
自分を演じて、みなの同情をひく)、(3)依存型(だれかに依存する)、(4)服従型
(集団の中で子分として地位を確立する、非行補助)など。
もちろんここにも書いたように、誘惑にも弱くなる。
「タバコを吸ってみないか?」と声をかけられると、「うん」と言って、それに従って
しまう。
断ることによって仲間はずれにされるよりは、そのほうがよいと考えてしまう。

こうした傾向は、青年期までに一度身につくと、それ以後、修正されたり、訂正されたり
ということは、まず、ない。
その知識がないなら、なおさらで、その状態は、それこそ死ぬまでつづく。

●幼児と老人

私は母の介護をするようになってはじめて、老人の世界を知った。
が、それまでまったくの無知というわけではなかった。
私自身も祖父母と同居家庭で、生まれ育っている。
しかし老人を、「老人」としてまとめて見ることができるようになったのは、
やはり母の介護をするようになってからである。

センターへ見舞いに行くたびに、あの特殊な世界を、別の目で冷静に観察
することができた。
これは私にとって、大きな収穫だった。
つまりそれまでは、幼児の世界をいつも、過ぎ去りし昔の一部として、
「上」から見ていた。
また私にとっての「幼児」は、青年期を迎えると同時に、終わった。

しかし今度は、「老人」を「下」から見るようになった。
そして自分というものを、その老人につなげることによって、そこに自分の
未来像を見ることができるようになった。
と、同時に、「幼児」から「老人」まで、一本の線でつなぐことができるようになった。

その結果だが、結局は、老人といっても、幼児期の延長線上にある。
さらに言えば、まさに『三つ子の魂、百まで』。
それを知ることができた。

●では、どうするか?

私たちはみな、例外なく、乳幼児期に作られた「私」の上に載っている。
「乗っている」と書くほうが正しいかもしれない。
そのために、「私」を知るためには、まず自分自身の乳幼児期をのぞいてみる。

ほとんどの人は「乳幼児には記憶はない」と思っているが、これはとんでもない誤解。
あの赤ん坊にしても、外の世界から、怒涛のように流れ込んでくる情報をすべて、
記憶している(ワシントン大学、メルツォフ、ほか)。
「記憶として取り出せないだけ」で、記憶として、ぎっしりと詰まっている。
言い換えると、あなたや私は、そのころ作り上げた(自分)に、それ以後、
操られているだけと考えてよい。
自分を知れば知るほど、それがわかってくる。

たとえば先にあげた、「子どものころから、だれにも愛想のいい子」と評されて
いた子どもというのは、私自身のことである。
私は、子どものころ、だれにでもシッポを振り、そのつど、「いい子」と思われる
ことで、自分の立場を取りつくろっていた。
中学へ入ってから猛烈に勉強したが、好きだったからしたわけではない。
どこか自虐的だった。
先にあげた、(1)攻撃型の変形と考えられる。
本来他人に向かうべき攻撃性が、自分に向かった。
が、それは「私」であって、「私」ではなかった。

私自身は、疑い深く、嫉妬深く、それだけに、だれにも心を許さないタイプの
子どもだった。
おとなになってからも、そうだった。
表面的には、だれとでもうまく交際したが、それはあくまでも表面的。
相手が一線を越えて、私の中に踏み込んでくるのを許さなかった。
また相手がたとえ心開いていても、それを理解できなかった。
あるいはその下心を疑った。

そんな私が現在の仕事を通して、自分に気づき、そしてやがてどうあるべきかを
知った。
教えている幼児の中に、自分に似た幼児を発見したのが、きっかけだった。
それが「自己開示」という方法である。

●自己開示

「自分のことを、他人に開示していく」。
「あるがままの自分を、まず他人に語っていく」。
「偽らず、思ったことを言い、文章にして書いていく」。

自己開示にも段階論がある。
最初は、自分の過去から話す。
つづいて心の中を話す。
最終的には、自分にとって、もっとも恥ずかしい話や、さらには性遍歴まで
開示していく。
(もっともそれは、他人といっても、身内のごく親しい人に対してで、
じゅうぶんだが……。)
その段階まで開示してはじめて、それを「自己開示」という。

私のばあいは、こうして文章にすることによって、自己開示をしている。
最初は、家族のことを書き、やがて自分のことを書いた。

……といっても、それにも、10年単位の時間が必要である。
「今日、気がついたから、明日から……」というわけには、いかない。
この問題は、「根」が深い。
乳幼児期の発達心理段階が、「本能」に近いレベルまで、脳の奥にまで
刻み込まれている。
自分の意思や理性の力で、コントロールできるようなものではない。

だから……と書けば、あまりにも見え透いているが、乳幼児期の子育てというのは、
一般で考えられているよりも、はるかに奥が深く、重要である。
それに気がつくかどうかは、ひとえに、「知識」による。
言い換えると、こと子育てに関して言えば、無知そのものが、罪と考えてよい。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 子供
 子供の問題 家庭教育 エリクソン 社会心理学 発達段階論 幼児の自立性 
幼児の自主性 信頼関係 基本的信頼関係 自己開示)

(補記)
こうした発達段階には、連続性がある。
(信頼性の構築)→(自律性の構築)→(自主性の構築)→(勤勉性の構築)
→(自我の同一性の構築)へ、と。
そして青年期前期の(親密性の構築)→後期の(生殖性の構築)→老年期の
(統合性の構築)へとつながっていく。

当初の(信頼性の構築)に失敗すると、自律性、自主性がそこなわれる。
自主性がなければ、勤勉性は生まれない。
さらに(親密性の構築)に失敗しやすくなる。
具体的には、恋愛、結婚へと、自然な形で進めなくなる。
が、最大の問題は、老年期の(統合性の構築)ということになる。
人は、最終的に、(人間としてすべきこと)を発見し、そこへ自分を統合させていく。
この(統合性の構築)に失敗すると、老後そのものが、あわれでみじめなものになる。
悶々とした孤独感と悲哀感を闘いながら、それこそ1年を1日にして過ごすようになる。
何度も書くが、孫の世話と庭いじり。
それがあるべき老後の姿ではない。
理想の老後でもない。

私たちは、命の最後に、その「命」を、つぎの世代の人たちのためにつなげていく。
具体的には、真・善・美の追求がある。
その真・善・美の追求には、(終わり)はない。
それこそ死ぬまで、ただひたすら、精進(しょうじん)あるのみ。
「死」は、その結果としてやってくる。

(補記2)
私たちの世界から見ると、小学1年生ですら、大きな子どもに見える。
いわんや中学生や高校生ともなると、おとなというより、反対に若い父親や母親を
見ていると、高校生と区別できないときがある。
それはともかくも、そうした若い人たちが、たとえば異性との間でうまく恋愛感情が
育てられないとか、あるいは結婚までもちこめない、さらには、夫婦の性生活が
うまく営めないというのは、こうした心理発達段階の過程で、何らかの障害があった
ためと考えてよい。

が、こうした問題(障害)が起きると、どの人も、その時点での修復を試みる。
しかし先ほども書いたように、「根」は、もっと深いところにある。
その「根」まで掘り起こさないと、こうした問題の本質は見えてこない。
また本質を見ることによって、問題の解決の糸口を手にすることができる。
まずいのは、そうした「根」に気づかず、ただいたずらに、振り回されること。

というのも、愛情豊かで、かつ恵まれた環境の中で、スクスクと(?)、
心理的発達を遂げる人のほうが、実際には、少ない。
ほとんどの人が、それぞれの立場で、それぞれの環境の中で、何らかの問題を
かかえながら、おとなになっている。
問題のないおとなのほうが、少ない。
だから問題があるからといって、自分を責める必要もないし、過去をのろう必要も
ない。
(私も一時期、父や母をうらんだことがあるぞ。)

大切なことは、まず、「私」に気がつくこと。
あとは時間が解決してくれる。
「すぐに……」というわけにはいかないが、あとは時間が解決してくれる。

(補記3)
そういう意味でも、幼児教育のおもしろさは、この一点に凝縮される。
子どもを見ながら、いつもそこに「私」を見る。
「私の原点」を見る。
が、幼児を未熟で未完成な人間と見るかぎり、それはわからない。
幼児を「上」からだけ見て、「こうしてやろう」「ああしてやろう」と考えて
いる間は、それはわからない。
幼児に対して謙虚になる。
1人の人間として、認め、そこから幼児を見る。
すると幼児のほうから、「私」を語ってくれる。
「あなたは、こうして『私』になったのですよ」と、幼児のほうから話してくれる。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●散歩

++++++++++++++++++

今日は、自宅から一度佐鳴湖(さなるこ)へ出て、
そこから旧雄踏(ゆうとう)街道沿いに、街まで
歩いた。
途中、佐鳴湖の湖畔には、何十本もの桜の苗木が
新しく植えられていた。
前回通ったときには、それを予告する立て札が立っていた。

「○月○日、河津桜を植えます。○○クラブ」と。
その立て札にあった、河津桜の苗木らしい。
ワイフがそれを見て、「楽しみね」と言った。
私も、「ここなら桜も美しく映えるね」と言った。

++++++++++++++++++

●河津(かわづ)桜

河津桜というのは、伊豆半島にある河津の、そこで咲く早咲き桜のことをいう。
開花の時期が、ふつうの桜より2か月程度、早い。
私も先月(2月中旬)に、その河津まで桜を見に行ってきた。
が、すでに葉桜になるところだった。
色や形は、ふつうの桜といった感じだった。

しかし河津のみなさん、
ここ佐鳴湖のほうが、ローケイションが、はるかによい。
ここで河津桜が満開・・・ということにでもなったら、少なくとも
この浜松から、河津までわざわざ河津桜を見に行く人はいなくなるだろう。
で、やがて河津のみなさんは、こう気がつく。
「浜松に河津桜の苗木を売り渡したのは、失敗だった」と。

●うどん屋

途中で、うどんを食べた。
「花○」という名前の、うどん屋だった。
全国チェーンで、店を展開している。
うまい。
安い。
サービスもよい。

が、そこで私は、ドキッとするようなマジックを見た!
うどんを頼むと、店員さんが、その場でうどんを湯に通してくれるのだが、
その湯船というか、湯槽が、ゴボゴボと沸騰しているのがわかった。
ゴボゴボというよりは、強い火で、ゴーゴーと流れるように、である。
湯槽の幅は1メートル近くある。
その中に店員さんが、生うどんを入れた金網製のこし器をさっと入れる。
そのときのこと。
店員さんが、ときどき手首あたりまで、その湯の中に手を入れる。
「アッ!」「エッ!」と思う間もなく、店員さんは、こし器を手際よく
丼鉢(どんぶりばち)に盛った。

ゾーッ!

手を見ると、それほど赤くない。
やけどをしたふうでもない。
「?」と思っているうちに、気がついた。

そのゴーゴーと沸き立っているのは湯ではなかった。
下のほうからモーターか何かで、湯をかき回していた。
湯の温度は、それほどないはず。

ナーンダと思ったところで、この話は、おしまい。
「なかなか、やるな!」と。

●ビデオカメラ

万歩計を見ると、7000歩ほどになっていた。
「今日は、これくらいでいいだろう」と自分に言ってきかせて、
そこからはバスに乗った。

あとはいつもの通勤。
とくに変わったことはなし。
書くこともなし。
見慣れた景色をぼんやりとながめている間に、バスは、駅前まで着いた。

駅まで行ったのは、少し時間があったから。
駅前のパソコンショップに寄りたかった。

このところねらっているのが、ビデオカメラ。
今は、デジタルカメラで代用しているが、ビデオ撮影用としては、
物足りない。

この世界も、しばらく遠ざかっている間に、格段の進歩を遂げた。
手ぶれ防止付きは、当たり前。
ハイビジョン撮影も、常識。
今ではねらった被写体が動いても、それを自動で追尾してくれるカメラもある。
カタログを見くらべているだけで、楽しい。


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi

●この世vsあの世

+++++++++++++++

またまた同じ話で、ごめん。
前にも書いたが、仮にあの世があるとするなら、
私は、私たちが「この世」と呼んでいる、この世界のほうが、
実は「あの世」ではないかと思っている。
そして私たちが「あの世」と呼んでいる、死後の世界のほうが、
「元の世界」ではないかと思っている。

というのも、私たちが住んでいるこの世のほうにこそ、
天国もあり、地獄もあるからだ。

+++++++++++++++

●あの世がこの世?

人は死んだら、あの世へ行くと言う人がいる。
私は信じていない。
いないが、仮に、「あの世」があるとするなら、
ここでひとつの矛盾が生まれてくる。

あの世には、天国があり、地獄があるという。
ならば、なぜ、今、この世界で、地獄以上の地獄があり、
天国以上の天国があるのか、ということになる。
今さら地獄がどんな世界で、天国がどんな世界かを、
ここに書く必要はない。

そこで私たちが言う「あの世」について考えてみる。
一般的には、「あの世は広大無辺に広く、時の流れもない」という。
となると、そんな世界から見ると、人間が今住んでいるこの世界など、
ちっぽけなもの。
100歳まで生きたとしても、宇宙的規模で見るなら、星のまばたきの
一瞬にもならない。
人類の歴史を、20万年にしても、同じようなもの。

となると「あの世」のほうこそ、「元の世界」と考えたところで、何ら、
おかしくない。
私たちは、「あの世」から「この世」へやってきて、地獄や天国を、
この世で経験している。

●あの世の矛盾

空想の世界で、「あの世」を考えてみる。
が、それは、択一的に考えるなら、
(1)想像を絶するほど、この世とちがう世界。
(2)あるいは、この世とかぎりなく似ているか、同じ世界、ということになる。

中間というのは、考えられない。
人間だけを中心にして、(命)を考えてはいけない。
魚なだって、鳥だって、命。
バクテリアだって、虫だって、命。
人間にだけあの世があると考えてはいけない。
もしそうなら、いつからあの世ができたかという問題に直面する。
1000年前なのか、それとも10万年前なのか?

・・・と、まあ、考えれば考えるほど、矛盾に満ちてくる。

が、逆に、あの世こそが、元の世界で、この世があの世と考えると、
かなりの矛盾が解消される。
どこかの世界に、私たちの知らないまったく異質の世界がある。
その世界から、ときどき、あたかも旅行でもするかのように、
この世に(命)がやってきて、それぞれの世界を体験する。

頭のどこかに、映画『マトリックス』に出てきたような世界を思い浮かべてもらえばよい。

●実益

こんなことを考えて、何の役に立つのかと思う人もいるかもしれない。
しかしそう考えると、この世の見方そのものが、大きく変わる。
たとえば「この世はすべて、幻覚」「大切なのは、この世を生きる、
私やあなたの命」と。

あるいはモノのもつ、無意味さというか、それがよくわかる。
私たちが懸命に追い求めている名誉や地位や財産にしても、命の前では
カスミのようなもの。
カスミにもならないかもしれない。

が、何よりもすばらしいのは、ほんとうに大切にしなければならないものと、
そうでないものを、区別することができるようになること。

さらに言えば、自分の住んでいる世界を地獄にするのも、天国にするのも、
私たちの考え方しだいということになる。

話が飛躍したので、順に説明する。

●希望論

こんな例で考えてみよう。
私の知人の中に、現在、地獄のような(?)、経験をしている人がいる。
ことの発端は、2人の息子の離婚である。

2人の息子が、あいついで離婚した。
詳しい原因はともかくも、それぞれに2人ずつの子ども(孫)がいた。
まだ養育費が必要な子ども(孫)たちであった。

そこで2人の息子は、養育費を毎月支払うことで合意した。
同時に、私の知人(父親)が、その連帯保証人になった。
2人の息子たちが養育費を払えないときは、知人がそれを払うことになった。

が、この不況。
2人の息子は、職を失ってしまった。
養育費が払えなくなった。
とたん、その支払い請求書が、知人のほうに回ってくるようになった。
家庭裁判所で作成した連帯保証契約である。
「払えません」「お金がありません」では、通らない。
最終的には、強制執行力のある請求書である。

知人は、こう言ってがんばっている。
「私は年金生活者だ」「収入がない」と。
さらに「家屋敷を取られたら、何代にもわたってつづいたM家が、
断たれてしまう」と。
しかし土地や家、借家がある以上、こういう言い逃れはできない。
それでその知人は、「地獄のような(?)、経験をしている」、ということに
なる。

しかしこう考えたら、どうだろうか。

大切なのは、命のつながった孫たちの幸福、と。
その幸福を前にしたら、「家」の価値など、取るに足らないもの。
家や財産にこだわるほうが、おかしい。
あるいは自分の息子や娘が、困窮していたら、あなたはどうするだろうか?
それでも、「息子や娘の幸福より、家のほうが大切」と、あなたはがんばる
だろうか。
もしあなたがそう考えるとしたら、
私は「?」マークを100個くらい、並べたい。
相手が孫でも、同じ。
離婚して、連絡が途絶えたとしても、孫は孫。

どうせこの世は、幻覚。
目に見えるすべてのモノは、幻覚。
「命」至上主義で考えれば、モノのもつ空しさ、はかなさが、よくわかる。
それもそのはず。
この世そのものが、あの世、つまり元の世界から見れば、幻覚。
そんな幻覚に心を奪われ、命を粗末にするほうが、どうかしている。

知人は地獄のような経験をしているが、ものの考え方をほんの少し
変えれば、今の世界を、天国にすることもできる。

●研ぎ澄まされた現実論

こう書くと、「林の考え方は、現実的ではない。むしろ現実から遊離している」と
批判されそうである。
しかし実際には、その逆。

私たちは、この現実世界にありながら、あまりにも非現実的なものに毒されすぎている。
たとえばものの価値観、幸福観、人生観、成功・失敗論などなど。
中身にある(現実)を見る前に、外観である(非現実)に、心を奪われてしまっている。
もっと言えば、先にも書いたように、「大切なものを、大切でないと思い込み」「大切で
ないものを、大切」と思い込んでしまっている。

その一例として、「モノ」をあげた。

今では、どの家にも「モノ」があふれかえっている。
モノ、モノ、モノ……で足の踏み場もないような家も多い。
中には、そういう家ほど、「豊か」と誤解している人もいる。
さらに言えば、金持ちイコール、成功者イコール、人格者と誤解している人もいる。
私は、そういう人たちこそ、現実離れしていると言っている。

が、この世を(あの世)と考えることによって、(あくまでも空想の世界での話だが)、
こうした現実から、一度、目をそらすことができる。
そして今一度、何が、本当に大切なのかを知ることができる。
そう、私たちが今、「現実」と思っている世界こそのほうが、「非現実」の世界という
ことになる。
それを知るためにも、一度、「この世」と「あの世」を置き換えてみる。
とたん、その向こうに、「研ぎ澄まされた現実」が見えてくる。

●無

私たちは、「幻想という現実」の中で生きている(?)。
仏教者の中には、それを「無」と表現した人もいる。
「この世はすべて無である」と。
この私にしても、光と分子の織りなす世界で、ただ踊らされているだけ(?)。

そんなわけで、「あの世」こそ、実は、「元の世界」であり、「この世」こそが、
「仮の世界」と考えても、何もおかしくない。

あくまでも「あの世」があるとするなら、という前提での話だが……。
しかしそう考えると、また別の世界が、その向こうに見えてくる。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●Who wants to live forever?

++++++++++++++++++

よく知られた曲に、「Who wants to live forever?(だれが永遠に生きたいか?)」
というのがある。
いろいろなシンガーが歌っているが、私はグレゴリアンが歌うのが、好き。
おごそかで、それに重みがある。

++++++++++++++++++

●どう死ぬか

「だれが永遠に生きたいか?、いや、だれもそんなことを望んでいない」と。
が、もし、私から(考える力)が消えたとしたら……。
「死んでもいい」とは思わないかもしれないが、「生きていても意味はない」と
思うかもしれない。
どこかのオバチャンと、意味のない会話をつづけるようになったら……。
(オバチャンでなくても、オジチャンでもよいが……。)
考えるだけでもゾッとする。

それにいつまでも無駄に生きて、ワイフや息子たちや、その家族の死を見るように
なったら、たぶん、今の私なら、それに耐えられないだろう。
生きていることをのろうようになるかもしれない。

人は、いつも、どう生きるか考える。
しかしそれではいつまでたっても、結論は出てこない。
そこで発想を変えて、どう死ぬかを考える。
その結果として、どう生きるかが決まってくる。

「永遠に生きよう」と思うから、苦しむ。
悩む。
しかし「永遠に生きても無駄」と考えることによって、その先に、生き様(ざま)が
見えてくる。

それがわからなければ、あのオバチャンたちの、とりとめのない、いつまでも
つづく無意味な会話に耳を傾けてみることだ。
(繰り返すが、オバチャンでなくても、オジチャンでもよい。
以下、すべて同じ。)
ペチャペチャ、クチャクチャ……と。
人生の晩年にあって、しかも人生の完成期にあって、その程度の会話しかできない。
そういう自分に恥じることもなく、ただしゃべりつづける。

「隣の息子がね……」「うちのダンナがね……」「娘の婿がね……」と。

●脳みその穴

ある年齢になると、脳みその下に、穴があく。
その穴から、知識や知恵、経験が、ボロボロとこぼれ落ちていく。
もっとも私がそれに気づいたのは、50歳も過ぎてからのことだった。
当時、こんなことがあった。

何かの原稿を書いているとき、「?」と思った。
「以前にも、同じことを書いたことがあるぞ」と。
そこで自分の原稿集をさがしてみると、ほとんど同じ内容の原稿があることを知った。
しかも私にとってショックだったのは、「遠い昔に書いた原稿」と思っていた
その原稿が、ほんの、その数年前に書いた原稿だったことだ。
つまりその数年の間に、自分が書いた原稿の内容すら、忘れてしまっていた。

以来、私はいつも自分の脳みそを疑ってみるようになった。
つまりそれまでの私は、脳みそというのは、進歩することはあっても、退化する
ことはないと信じていた。
とくに私が考えて、自分で書いた文章については、そうだった。
しかし実際には、書いた先から、ボロボロとこぼれ落ちていく。

●穴との戦い

脳みその穴にパッチを当てる方法は、残念ながら、ない。
それは健康法と似ている。
運動をやめたとたん、肉体は衰え始める。
不健康になっいくのを止める方法はない。
それと同じように、穴は穴として認める。
その穴からは、常に一定の知識や知恵、経験は、ボロボロとこぼれ落ちていく。
であるとするなら、それ以上のものを、上から補充していくしかない。
これも健康法と似ている。

放っておいたら、肉体の健康はどんどんと衰えていく。
であるとするなら、それ以上の運動をして、自分の体を鍛えるしかない。
日々の鍛錬こそが、健康法の秘訣ということになる。

が、それには常に、ある種の苦痛がともなう。
寒い朝に、ジョギングに出かけるような苦痛である。
あるいは難解な数学の問題を与えられたときのような苦痛である。
その(苦痛)を乗り越える勇気と努力が必要。
それがなければ、人間は、どんどんと、あのオバチャンになっていく。

●「♪だれが永遠行きたいか?」

「♪だれが永遠に生きたいか?」は、もともとは、SF映画の主題歌では
なかったか。
時代を超えて戦う、勇者と悪魔の戦いの映画だった思う。
映画そのものは、見るに耐えないというか、駄作(失礼!)。
で、主題歌だけが、ひとり歩きの形で、よく知られるようになった。

で、その曲を聴きながら、私はこう考えた。
「オバチャンのようになって、だれが永遠に生きたいか?」と。

……こう書くと、世のオバチャンたちは、怒るかもしれない。
しかしあえて言うなら、私が言うオバチャンというのは、こうした文章を
ぜったいに読まない。
電車やバスの中で、大声で、ギャーギャー、キャハハハと騒ぐことはあっても、
こうした文章は、読まない。
そもそも、そういう向上心をもっていない。
向学心もない。
あるいは、こういう文章を見せても、手で払いのけてしまう。
「私には、そういうものを読んでも、わかりません!」と。

(追記)
先日も、電車の中で、実にそれらしいオバチャンが、2人、こんな会話をしていた。
一部だけだが、こう言った。
「うちのあのバカ○(=弟の名前らしい)ったら、親の一周忌にも来なかった。
親の葬式に来ないようなヤツは、地獄よねエ」
「そうよ。親の一周忌くらい、どんなことがあっても、来るべきよねエ」と。

私の頭の中で、脳細胞がショートするのを感じた。
バチバチ、と。
それでその女性たちの会話に、耳を傾けた。
けっして盗み聞きしたわけではない。
向こうのほうから声が聞こえてきた。

……が、話の内容をコメントするつもりは、まったくない。
あまりにも愚劣で低劣。
言い忘れたが、年齢は2人も50歳くらい。

その話を電車を降りてからワイフにすると、ワイフはこう言った。
「ああいう人たちが、古い常識を、つぎの世代に伝えていくのね」と。
そう、そういう人たちが、(大勢)を作っていく。
そしてそれが大きな流れとなって、つぎの世代に伝わっていく。
が、この(大勢の流れ)を変えることは容易なことではない。
巨大な流れである。

私「そういう流れを変えないかぎり、日本は変わらないよね」
ワ「そうよね。100年後も、200年後も、同じようなことを言う人が
出てくるわ」
私「しかしいつも不思議だと思うのは、そういう女性たちでも、若いときがあった
と思う。そういう若いとき、何をしていたんだろう」
ワ「自分を変える暇など、なかったのよね」と。

本来なら、若い人たちが問題意識をもって、古い因習やタブー、それにカビの生えたよう
な常識を変えていかねばならない。
しかしそれをしないまま、歳だけは取っていく。
そして大半の女性たちは、私が見たようなオバチャンになっていく。

それでいいのか、世の女性たち!
このままでいいのか、世の女性たち!


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●H−島

+++++++++++++++++++++

今日は、静岡県熱海市の沖合い、連絡船で
25分ほどのところにある、H−島へ行ってきた。
島の周囲、約4キロを、ワイフと歩いた。
ゆるい山坂があり、ちょうど季節もよく、
たいへん気持ちよくウォーキングができた。

+++++++++++++++++++++

熱海へはときどき、来る。
講演で来るときは、熱海で、電車を乗り換えることが多い。
が、いつも熱海へ来るたびに、こう思う。
「高いなあ」と。

H−島で、刺身定食を食べた。
それが2000円。
ワイフは、海苔丼を食べた。
それが1000円。
プラス、イカの丸焼き。
それが800円。

観光地とはいえ、まさに東京価格。
食べ物の値段が高いと、急速にその場所への親近感が失せる。
「二度と来ないぞ!」と。

要するに、観光客から、取れるだけ取れ、という発想らしい。
それがわかったとたん、心がそのままスーッと冷える。
食い物のうらみは、恐ろしい!

なお、H−島では、住民の世帯数と人数は、限られているそうだ。
ガイドの女性が、そう話してくれた。
正確な数字は忘れたが、40数世帯と限られていて、跡を継ぐ
長男だけが、島に残ることができるそうだ。
それ以外は、島を出ていかねばならない、と。
つまりそういう形で、住民の数を限定することにより、島民のもつ
既得権を守ろうというわけである。

しかしもしこれが事実とするなら、この「掟(おきて)」は、どう考えても、おかしい。
憲法違反に抵触する可能性すらある。
もし逆に、日本中の村々が、そういう「掟」を作ったら、どうなる?

私はその話を聞いたとき、「憲法違反で訴える人はいないのか?」と思った。
しかし訴えたら、今度は、そういう社会だから、訴えた人は、村八分に遭遇するに
ちがいない。
そういう意味では、日本は、まだ原始国家に近い。
外観だけは近代国家になった。
しかし中身は、昔のまま。

現実に、小さな村になると、外からの移住者を認めないところが多い。
ほとんどの村が、暗黙のうちに、そういう「掟」を定めているのではないのか。
外部からの移住者たいして、いやがらせや、意地悪をするという話は、
私も今まで、たくさん聞いた。

H−島の人にはきびしい意見になるが、「もし、ガイドの言ったことが事実とするなら、
あなたたちがしていることは、日本国憲法で定められた、居住の自由権を侵害している」。
その結果として、刺身定食が2000円であるとするなら、私は抗議したい。

……とまあ、ひとりでがんばっても、どうしようもない。
そんな「掟」があるなら、私は、そんな島に移住したいとは、思わない。
窮屈で、窮屈で、そのうち窒息してしまうだろう。

帰りのバスの中で、ガイドの女性がこう聞いた。
「H−島に住んでみたいと思う人は、いますかア?」と。
しかしそれに答えて、だれも、手をあげなかった。
当然である!

(補記)
日本国憲法・第22条、『何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の
自由を有する』


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休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

++++++++++++++++++++

ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。

で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、
人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。

といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

++++++++++++++++++++

●みな、かぶっている

たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、
「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、
お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で
作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。

私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。
ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で
作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、
読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。

たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、
(現実)とは、しっかりと切り離すこと。

たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、
「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、
「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、
よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたり
する。

が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、
自分のことを(神)と思いこんでしまう。

が、それだけではすまない。

●シャドウ

このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を
繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。

が、さらに恐ろしいことが起きる。

このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付
しておく。

こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と
言っていた。
が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に
閉じことによって、善人を演じていただけである。

そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。

では、どうするか。

私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、
泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。

この私だって、そうだ。

で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++

【シャドウ論】

++++++++++++++++

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。
するとやがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分
で、自分は善人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも
私は善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体
に演技ぽい。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。
それがシャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、
まあ、それに近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身
近にいる人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の
醜いところをそっくりそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、お
だやかで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜
い欲望が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好
きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、
そのシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができ
た。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単
位の話ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねた
まれると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみ
ならず、自分の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っ
ていました。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚
く、その人をののしっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなか
ったかと思います。母には、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの一
面を、そっくりそのまま受け継いでしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシ
ャドウのもつ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらな
いこと。といっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての
仮面。店員としての仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰っ
て家族を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、
それだけではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受
けつがれてしまう。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ)

++++++++++++++++++

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、
夫としての仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴
られても、にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよ
い。ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、
ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事
件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないこ
とがわかる。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンシ
ョンに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育に
も熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言った
とする。「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰
よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思
って、そう言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウが
つきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断
している人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところ
がある。「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですって
ねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、その
まま学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場
町であったがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断す
る基準が、出身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きつい
でしまう。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れよ
うとしている」と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる
基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』で
ある。佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みご
とな演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさるこ
とながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、
榎津鎮雄との、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれ
とるけん」と言う。そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た
人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印
象を与える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握ら
せる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不
倫関係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、
そっくりそのまま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげ
る原動力になった。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、そ
の仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけ
ならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言え
る。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのま
まの自分を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、
まし。もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子
どもにとっては、好ましいということになる。
(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャド
ウ論 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●嵐

+++++++++++++++++

夕方遅くから、季節はずれの嵐になった。
台風並みの強い風と雨。
窓を打ちつける木立の木々の枝。

例年だと今ごろの1〜3月期は、水の渇水期。
山荘の近くの村々では、「もらい水」といって、
水の出ないところは、水のあるところへ、
水をもらいに行く。
ついでに風呂にも入らせてもらう。

が、今年は、雨が豊富にあるという。
今日の雨で、当分は水の心配もなさそう。

よかった!

+++++++++++++++++

●夢

たった今、うたた寝をした。
夢を見た。
どこかの劇場で、映画を見ていた。
わけのわからない日本映画だった。
それが終わると講演会ということだったが、
私は外に出た。
ゾロゾロと人が歩いていた。
それについていくと、小高い山の上にやってきた。
そこから観覧車が出るところだった。
観覧車といっても、円形の観覧車ではなく、
長くつづいたトロッコのような観覧車だった。
それに乗って山をくだるところで、目が覚めた。

+++++++++++++++++

どうして人は夢を見るのか。
中には夢を見ないという人もいる。
いつも同じような夢を見るという人もいる。
しかし私のばあいは、一度とて、同じ夢を見たことがない。
自分でも感心するほど、奇想天外というか、想像もつかないような
夢を見る。
これは私のどういう精神状態によるものなのか。

あの劇場で見た映画は、どんな映画だったのか。
そのときは、ストーリーらしきものを感じたが、
今は、覚えていない。
夢の内容は、すぐ忘れる。
そのあとトロッコのような観覧車に乗って山をくだったが、
そのとき私は両手に、猫をかかえていた。
よく慣れた頭のよい猫で、人間の子どものようでもあった。
それに映画館へ入る前にも、何かあったようだが、それも思い出せない。

夢というのは、いわば脳の遊びのようなもの。
無意識の世界から、ちょうど池の底からメタンガスがボコボコと
出てくるように、湧いてくる。
どこから出てくるか、わからない。
だからどんな夢を見るかは、そのときの脳の状態による。

またはっきりとした実体験をともなわないから、すぐ忘れる。
こうしてメモにしたときだけ、記憶に残る。
そこで中には、「夢日記」なるものをつけている人がいる。
つまらない実生活の日記を書くよりは、そのほうが楽しいかもしれない。

で、私の夢分析。

映画館にいたとか、観覧車に乗ったというのは、あまり意味がない。
どんな映画だったかが、問題。
それに猫の嫌いな私が、猫をかかえていた?
これは不思議なことだ。
あるいは人間の子どもだったかもしれない。
大きさは、小猫くらい。
茶色い色をしていた。
今の私はきっと、愛情飢餓の状態なのかもしれない。

で、映画の内容は、どうしても思い出せない。
何かの社会映画だったと思う。
私好みの、理屈ぽい映画だった。
「自由になるのだ」というようなことを言いながら、
1人の少女が、クルクルと体を回転させながら、踊っていた。


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi

●自由

今度三男が、友だち5、6人と、カナダのどこかまで、
オーロラを見に行くという。
「オーロラねえ」と思ったところで、思考停止。
フ〜ンと思ったが、うらやましいとは思わなかった。
「寒いところはいやだ」と思った。

そのうち毎週のようにオーロラを見ることができるようになるだろう。
どうして今、わざわざ見に行くのかな?

で、改めて自由とは何か、考えてみる。
自由にも、大きく分けて3つ、ある。
肉体の自由、(2)行動の自由、(3)精神の自由。

肉体の自由といっても、人間の肉体には、いつも限界がある。
たとえば鳥のように、空を飛べるような構造にはなっていない。
反対に、足の骨でも折れば、そのまま歩けなくなる。
しかし歩けないからといって、自由を失ったことにはならない。
歩ける人も、歩けない人も、生物全体からながめれば、たいした
ちがいはない。

つぎに行動の自由。
人間というのは、身勝手な生き物かもしれない。
私だって、カナダまで行って、オーロラを見ることができる。
しかし今は、その気はない。
が、もし、だれかに「君はカナダへ行ってはいけない」と言われたら、
それに対しては、猛反発するかもしれない。
「いつでも行こうと思えば行けるが、行かない」と思うのは、心の余裕。
が、行くつもりはないが、「行ってはダメだ」と言われると、とたんに
窮屈になる。
行動の自由というのは、結局は、その「心の余裕」ということになる。

が、何よりも大切なのは、精神の自由。
魂の自由。
思想の自由。
そして言論の自由。
私のばあい、何でも好き勝手なことを書けることにまさる解放感はない。
言い換えると、好き勝手なことを書いているときの解放感に、まさる解放感
はない。
もしこの解放感を奪われたら・・・。
私はその相手と、命をかけて戦う。
というのも、この解放感を奪われたら、私は死んだも同然。
この先、何を書くか決まっているわけではない。
書きたいことすら、何であるかわからない。
しかしそれでも、命をかけて戦う。

「書こうと思えば、何だって書ける」と思うのは、心の余裕。
それこそが、私の命。
(少し力みすぎかな?)


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi



●3月11日

++++++++++++++++++++

今日は、山荘にある、ろ過器の修理をするつもりだった。
ろ過器というのは、山の水を一度、ろ過するためのもの。

山の水は、自然の水。
どうしてもゴミが混入する。
それで、ろ過器が取り付けた。
そのろ過器のレバーが折れた。
中の芯で折れたから、簡単には直らない。
で、その修理ということになった。
部品を取り寄せてもらい、代金は、7000円弱。

が、その会社の浜松出張所は、浜松市でも、私の家からは
正反対のところにある。
車で行っても、1時間半はかかる。
往復、3時間。
実際には、途中で昼食をとったので、半日かかってしまった。
しかたないので、そのまま帰宅。
プラス昼寝。

ろ過器の修理は、今度の日曜日にすることにした。
こうした作業をいやがる人も多い。
が、私には、楽しい。
無我夢中でできる。
我を忘れて、できる。

……ところで、おととい、庭に畑を作った。
ネギとかいろいろな野菜を植えた。
もう少しすると、ナスとかトマトの苗も売りに出される。
これから春にかけて、何かと忙しい。

そうそう来週、熱海の先にある、初島まで行ってくる。
ワイフも行く。
楽しみ。

+++++++++++++++++++++

●ハナ

うちのハナ(犬)は、バカのような顔をしていて、それでいて、結構、賢い。
約束は守るし、私に忠実。
しっかりとした信頼関係で結ばれている。
私は、ハナにはウソをつかない。
どんな約束も、守る。
(人間の言葉を理解できるとは思わないが、私はそうしている。)

ハナはハナで、私に嫌われるのを、何よりも心配しているといったふう。
強い声で、「ハナ!」と叱ったりすると、そのままシッポをさげて、
小屋に入っていく。

畑を作るときも、「ここには入ってはだめだよ」と、2、3度話しただけで、
それ以後、畑には近寄ろうともしない。
いつもなら、私の目を盗んで、庭中を掘り返すのだが……。

そのハナも、人間にたとえるなら、もう80〜90歳。
このところ急速に、元気がなくなってきた。
ちょっとさみしい。


●水の惑星

++++++++++++++++++

水(H2O)は、温度が、0度〜100度の
範囲では、水だが、それ以下の温度だと、
氷という固体になってしまう。
それ以上だと、水蒸気という気体になってしまう。
もちろん気圧によっても、影響を受けるが、
0〜100度と考えてよい。

が、宇宙の温度には、キリがない。
下はマイナス270度前後。
上は数千度。
太陽の表面温度は、約4000度。
そういう中で、0〜100度という幅は、きわめて狭い。
宇宙的規模で見ると、この地球に水があるということ自体、
奇跡に近い。

……と考えるのは、正しくない。
少し話が脱線するが、許してほしい。

たまたま人間が、水なしでは生きていかれないという事実を先に
もってきて、「水があるのは奇跡」というのは、あまりにも後から理由。
水がなかったら、人間はいなかったことになる。

それに水でなくても、どこかの惑星には、硫黄(いおう)の海で生まれ育った
生物だっているかもしれない。
硫化水素(硫酸)の海でもよい。
二酸化炭素の海でも、液体窒素の海でもよい。
そういうところで生まれ育った生物は、そういう惑星が、もっとも住みやすい
環境ということになる。

そういう惑星に住んでいる生物が、「硫化水素の海があるのは奇跡」とか、
「液体窒素のある海は奇跡」とか言っても、それは後から理由。
こじつけ。

最初に水があって、そこから人間は、何十万年という年月を経て、生まれた。
人間が水を求めて、この地球にやってきたわけではない。
だから「この地球に、水があるのは奇跡」と考えるのは、まちがっている。

話を戻す。

今度、アメリカが、水のある惑星を求めて、探査衛星を飛ばしたという。
つまり目的は、人間のような仲間さがしと考えてよい。
それもそのはず。
液体窒素の海で生まれ育ったような生物とは、いくら知的能力にすぐれていた
としても、仲間にはなれない。(……だろう。)
もし宇宙人が、映画『プレデター』に出てくるような昆虫のような顔をしていたら、
私なら、真っ先に、逃げ出す。
そのプレデターにしても、宇宙的な規模で見れば、人間と同じ。
たとえば珪素を基本にした生物から見れば、区別はつかないだろう。
人間は、炭素を基本にした生物である。

だからやはり、「水の中で生まれ育った生物」ということになる。

が、このことは、ひとつの重大な教訓を、私たちに与えている。

「水」ということを考えるなら、動物はもちろんのこと、植物ですら、
私たちの仲間ということになる。
生物学的な距離をいうなら、きわめて近い。
DNAの構造にしても、(ちがう)というより、ちがいそのものが、ない。
「何も宇宙のかなたまで仲間をさがしに行かなくても……」ということに
なってしまう。

が、それでは、あまりにも夢がない。
科学はロマン。
ロマンなくして、科学はない。
ロマンが、科学の原動力と考えてよい。

宇宙のかなたに水のある惑星が見つかったら、人間は、そこへ移住することが
できるかもしれない。
コロンブスがアメリカ大陸へ向かったように、いつか、新しいコロンブスが、
水の惑星を求めて航海に出るかもしれない。
想像するだけも、楽しい。

が、ここでまたまた考えてしまった。
人間がそれをするのは人間の勝手だが、その逆はないのか、と。
相手の宇宙人だって、(宇宙人がいればという仮定での話だが……)、
同じことを考えているはず。
であるなら、そういう探査機が、地球へ飛んできた可能性もないわけではない。
まだ人間はそこまではしていないが、それには、(生物の種)が積んであった
かもしれない。
その(種)が地球上にばらまかれ、何億年も経て、今のような地球になった(?)。
人間も、そこから生まれた。

またまた楽しくなってきた。

だったら、人間も、生命の(種)を、宇宙中にばらまけばよい。
耐熱性、耐寒性、耐気性……のあるバクテリアのようなものを、小さな金属に
入れて、宇宙のあちこちに飛ばす。
アミノ酸のようなものでもよい。
10万年後とか、100万年後に、それがどこかの惑星にたどりつき、
さらにその数億年後に、ちゃんとした生物になるかもしれない。

つまり私たち人間も、そうして生まれた可能性がないとはいえない。

楽しい。
楽しい。
本当に楽しい。


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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   13日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●不安の構造(Panic Disorder)

「私はこうありたい」「こうあるべき」と描く、(自分像)を、「自己概念」という。
「〜〜をしたくない」というのも、それに含まれる。
その自己概念に対して、現実の私がいる。
これを「現実自己」という。
「自己概念」と「現実自己」が、不一致を起こすと、心は緊張状態になり、
不安定になる。

フロイトの説によれば、こうだ。

これら二つが近接していれば、その人は、落ちついた状態で、自分の道を
進むことができる。しかしこれら二つが遊離し、さらに、その間に超えがたい
ほどの距離感が生まれると、その人の精神状態は、きわめて不安定になる。
ついでに劣等感も、そこから生まれる(フロイト)、と。


不安定になると、ものの考え方が、定まらなくなる。
「自我の同一性」というときは、この両者の同一性をいう。
両者が一致しているときは、その人は安定している。
強い。
が、そうでなければ、心はボロボロの状態になる。
何をしても、落ち着かない。
不安定イコール、不安と考えてよい。

不安は、つぎの4つに分けて考えることができる。

心因的不安(心に何か問題があって起こる不安)
外因的不安(外からの働きかけがあって起こる不安)
身体的不安(身体的に何か問題があって起こる不安)
社会的不安(社会情勢に応じて起こる不安)

……というように、教条的に分けて考えるのは、実のところ、私はあまり好きではない。
たとえば今、多くの人が、自分の生活に不安感を覚えている。
この不況で、財産や職を失った人多い。
そういう人は、「明日はどうなるのだろう」と悩む。
心配だ。
何をしても、手につかない。
足元がすくわれたような状態になる。

●取り越し苦労(予期不安)

同じ不安でも、心に何らかの問題のある人は、取り越し苦労をしやすい。
ああでもない、こうでもないと、先のことばかり心配する。
ふつうの心配とちがうところは、妄想が入り込むということ。
妄想が妄想を呼び、自分でも収拾がつかなくなる。
人によっては、パニック状態(パニック発作)になる。

(うつ)があるから、取り越し苦労するのか、
それとも取り越し苦労をするから、(うつ)になるのかは、わからない。
パニック障害からうつに発展したばあいを、「二次的うつ」という。
あるいは同時進行の形で、(うつ)と取り越し苦労が進行することがある。
どちらにせよ、(うつ)は(うつ)として、別に考える。

が、そういう状態にある人に、「取り越し苦労ですよ」と言っても意味はない。
かえって反発し、あなたの意見を遠ざけてしまう。
コツは、相手に言いたいだけ言わせること。
こちらは聞き役に回り、「そうですね」だけを繰り返す。
反論、否定、注釈は、タブー。
さらにひどくなると、家の中にとじこもったり、部屋の中から出られなくなったり
する(広場恐怖)。
こんなことがあった。

ある女性(65歳)には、2人息子がいたのだが、いろいろあって、
2人とも、離婚してしまった。
昔からの農家ということもあった。
その女性は、「家系が途絶える」と悩み出した。
さらにそれぞれの息子に、2〜3人の子ども(孫)がいたが、
その孫についても、「みなに遺産相続を請求されたら、財産がなくなってしまう」と。

あとは妄想に妄想が重なって、「どうしたらいい」「どうしたらいい」と。
電話がかかってきても、手が震えて受話器さえあげることができなくなってしまった。
夫に理由を聞くと、夫は、こう言った。

「(別れた)嫁から、養育費の請求が来るのではないかと心配している」と。
2人の息子は、家庭裁判所で決められた養育費を、まともに払っていなかった。

●不安は病気

心だって、病気になる。
不安神経症も、その一つ。
いまではパニック障害と呼ぶ。
そういう前提で、「不安」を考えたらよい。

今ではよい薬もある。
治療法も確立している。
不安が抜けないようだったら、近くの心療内科で相談してみたらよい。
私のばあいは、かかりつけのドクター(内科医)から、精神安定剤を
もらっている。
「セxゾx」という名前の、もともとは女性専用の精神安定剤という。

それをときとばあいに応じて、半分に割って、口の中で溶かしてのんでいる。
定量は、1錠もしくは、2錠だそうだが、今のところ半分でよく効く。
「ときとばあい」というのは、軽い片頭痛が起きたようなとき、辺頭痛薬だけでは
効きが悪いようなので、精神安定剤を併用している。
(辺頭痛薬も、定量の半分にして、のんでいる。)

こうした心の病気は、「治そう」と思わないこと。
まずそれに気づいて、あとは、「仲よくつきあう」。
どうせ治らない。
どれも深刻なものはないが、私は自分では、「精神病のデパート」と思っている。
そのつど、いろいろな病気を経験する。
不安神経症(パニック障害)もそのひとつ。

(補記:ウィキペディア百科事典より)

主な症状として、つぎのようにある。
『定型的なパニック障害は、突然生じる「パニック発作」によって始まる。続いてその発
作が再発するのではないかと恐れる「予期不安」とそれに伴う症状の慢性化が生じる。さ
らに長期化するにつれて、症状が生じた時に逃れられない場面を回避して、生活範囲を限
定する「広場恐怖症」が生じてくる』(ウィキペディア百科事典より)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●就任式会場に、UFO?

+++++++++++++++++++++++

今日、週刊誌と月刊誌を、コンビニで買った
1冊は週刊誌の、「プレイボーイ」。
もう1冊は月刊誌の、「プレジデント」。

どうしてプレイボーイかって?
何でもオバマ大統領の就任式会場の上に、UFOが現れたという。
その記事が載っているというので、買った。

プレジデントは、「日本人の給料」というのが、気になった。
知ったところで、どうということはないのだが、気になった。
何の役にもたたない。
どうでもよい。
しかし現状が知りたかった。
「今、この日本は、どうなっているのか」と。

+++++++++++++++++++++++

プレイボーイ誌のUFOに関する記事は、とくに目新しい内容はなかった。
ただひとつ興味深かったのは、UFOというのは、人間の目には見えないように、
機体そのものを、何らかの方法で、カモフラージュしているらしいということ。
目には見えないが、カメラには写る。
では、なぜ、そのとき人間に目撃されたのか?

透明だったが、周囲の雲を反射して、遠くからは、白く見えたらしい。
つまり就任式会場の人たちには見えなかったが、遠くから見ていた人には、見えた。

ありえる話である。

というのも、私が見たUFOもそうだったが、私が見たのと同じUFOを
見たという人も、UFOは、空に溶け込むかのようにして消えていったと言った。
ふつうの飛行機のように、遠ざかって視界から消えたのではなく、「溶け込む
かのようにして」、その向こうの景色と混ざり合って、消えた。
そんなわけで、UFOが、透明であると言っても、私は、驚かない。
そこで私は、考えた。

もし全面が鏡でできた球体を、空高くに浮かべたら、その球体は、
人間の目には、どう見えるかということ。
理屈で考えれば、周囲の空の色をそのまま反射するから、人間の目には
見えないはず。
しかし実際には、太陽の位置によっては、黒い球、もしくは白い球となって、
見えるはず。
金属製の飛行機が、黒く見えたり、白く見えたりするのと同じ。

では空の色と同じ風船では、どうか?
やはり黒い球か、もしくは白い球となって見えるはず。

さらにその風船の中で、電気を灯したらどうか?
空の明るさと同じ強さの電気を灯す。
このばあいは、球は、人間の目には見えないはず。
一度、暇な人は、実験してみたらよい。

では、どうして就任式会場から遠く離れた人には、それが見え、就任式会場の
人たちには、それが見えなかったのか(同誌)?
写真で見るかぎり、結構大きなUFOである。
飛行船のような形をしていて、一方の側には、尾翼や垂直尾翼らしいものがある。
それについて、『プレイボーイ』誌の中で、ある研究家は、こう説明している。
「可視光線をうまくはずしているから」と。
「人間が見ることのできない光で、UFOを包んでいた」と。

なるほど!

私たち人間とは比較にならないほど、高度な知的能力をもった宇宙人である。
それくらいの技術をもっていても、おかしくはない。

で、あくまでも本当に、それがUFOだったという仮定での話だが、ではどうして
オバマ大統領の就任式会場に、UFOが、現れたかということ。
当然何らかの関心があったらから、現れたということになる。
が、ここでまた別の疑問が、いくつかわいてくる。

どうしてそんなことをする必要性があったかということ。
また就任式の日時、場所などの情報を、どうやって手に入れたかということ。

この2つを考え合わせてみると、UFOを操っている宇宙人たちは、
地球上のできごとに、あれこれと気をつかっているということがわかる。
(それとも興味本位かな?)

地球人に見つからないように、こっそりと偵察に来るところが、ニクイ!
どうであるにせよ、このあたりに、宇宙人の(限界)があると考えてよい。
宇宙人といっても、けっして、オールマイティ(全知全能)ではない。
人間が、南極に観測隊を送るように、彼らもまた、地球にそのつど、
観測隊を送り込んできている。

そのことを話すと、ワイフがこう言った。
「だったら、地球温暖化のことも気がついているはず。どうしてそれを
人間に止めさせないのかしら?」と。

私「今は、まだそこまで温暖化が深刻にはなっていないからさ。
しかしいよいよとなったら、宇宙人だって、人間の前に姿を現す。
もっとも、そのときは、人間にとっても、最後のときだろうけどね」
ワ「最後って?」
私「宇宙人は、地球を選ぶか、人間を選ぶかという選択に迫られる。
そのとき宇宙人は、地球を選ぶ可能性が高い。
人間を滅ぼして、地球を救う」
ワ「どうして?」
私「人間は、邪悪だからさ。宇宙人の仲間としては、ふさわしくない。
たぶん彼らなら、そう判断するだろうね」と。
(090309記)

(追記)

YOU TUBEのほうで、そのときのUFOが、画像として紹介されている。
「オバマ就任式 UFO」で検索してみるとよい。

それを見ると、一度、画面を左から右へ、猛スピードで横切っていて、再び、右から
左へと移動しているのがわかる。

白い雲の間をスーッと抜けるように、見え隠れしながら移動している。
もちろん飛行機の類ではない。
が、形がはっきりとしているわけでもない。
ボヤーッとした、モヤのような感じ。
動きを止め、形を分析したYOU TUBEもある。
それを見ると、YOU TUBEのほうでは、飛行船型ではなく、
下の段が黒い影になった、ハンバーガータイプのUFOであることが
わかる。

どうして形が、こうまでちがうのだろう?
プレイボーイ誌は、どこでその写真を入手したのだろう。

(補記)
性善説、性悪説が、よく話題になる。
そのとき、こう考えてみたらどうだろうか。

あなたは、宇宙のどこかで平和に暮らす宇宙人である。
銀河系から銀河系へと、自由に航行する能力ももっている。
その気になれば、太陽のような星など、一瞬にして破壊するだけの能力ももっている。

そんな宇宙人であるとして、もしあなたが、「人間を自分たち宇宙人の仲間として加えるか
どうか」という選択を迫られたら、あなたなら、どう判断するだろうか。
人間を、自分たちと同じ宇宙人の仲間に加えるだろうか。
そして高度な技術や知識を、人間に分け与えるだろうか。
もしそうなら、人間は、「善なる存在」ということになる。

それとも反対に、「人間を仲間に加えるのは危険。人間に、高度な知識や技術を分け与えて
はいけない」と判断するかもしれない。
もしそうなら、人間は、「悪なる存在」ということになる。

さて、あなたの判断は、どちらだろうか。
人間を自分たちの仲間に加えるだろうか。
それとも加えないだろうか。
それで性善説、性悪説の結論は出ると思う。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 子供 子
供の問題 家庭教育 性善説 性悪説 オバマ大統領の就任演説会場 UFO)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●『パッセンジャーズ』を見る

+++++++++++++++++++++++

昨夜、仕事の帰りに深夜劇場に足を運んだ。
『オーストラリア』を見たかったが、時間帯が合わなかった。
それで見たのが、『パッセンジャーズ』。

星は2つの、★★。
『シックス・センス』の前に出ていたら、大ヒットしただろう。
しかし『シックス・センス』の焼き直し版といったところ。
『ミラーズ』のときに感じたような新鮮さも、なし。
だから星は、2つ。

途中、居眠りしそうなほど、かったるかった。
「オカルト映画かな?」と思っていると、やはりオカルト映画だった。
そんな映画。
劇場で見るには、つまらない。
せっかくプレミア・スクリーンで見たのだが……。

さあ、今日も、がんばるぞ!

++++++++++++++++++++

最前線の子育て論byはやし浩司(090311)

●K国のミサイル(K国の陽動作戦)
(A Feint Operation of North Korea)

+++++++++++++++++++++

日本政府は、「K国のミサイル発射は、さしせまった
ものではない」(3月11日)と発表した。

しかし、本当にそうか?
そんなのんきなことを言っていて、だいじょうぶか?

+++++++++++++++++++++

私があの金xxなら、陽動作戦を取る。
陽動作戦……真の意図を隠し、別の行動に出て、敵を
安心させる作戦をいう。
敵の裏をかいて、別の行動に出る。

今回のミサイル発射のための準備行動が、それ。
私が推察するところ、K国は、別のところで、
別のミサイル発射の準備をしている。
たとえばどこか山の奥とか、穴の中とか、で。

CNNは、つぎのように伝える。

『南北関係は、韓国の李明博大統領が従来の政権の、対北朝鮮ゆう和策を後退させる政策
を打ち出してから悪化。K国はこれを受け、韓国と結んだ「政治・軍事の対決状態を解消
する全合意」を無効にするなどと宣言し、敵対姿勢を深めている。また、長距離弾道ミサ
イルの発射実験準備を進めているともされ、日米当局が事態によっては撃墜させる考えを
示したことを受け、K国人民軍当局者は「人工衛星」が迎撃された場合は、報復するとの
声明も発表している』(以上、CNN・090311)。

その一方で、K国はすでに小型核の開発に成功したというニュースも
伝わってきている。

そこで陽動作戦?

逆の立場で考えてみれば、それがわかる。

今では宇宙から、発射場はもちろん、ミサイルの設置、燃料の注入、
発射など、すべて監視されている。
そんなとき、おめおめと、発射場から、ミサイルなど打ち上げるだろうか。
またそんな発射場など、戦略的に、まったく意味がない。
「戦争」ということになれば、イのイチバンに、攻撃目標にされる。
ものごとは常識で考えたらよい。

私が金xxなら、どこか山奥の、その地下にミサイル発射基地をつくる。
現にほかの中距離ミサイルの発射基地は、そのほとんどが地下にある。

近くK国は、成功するかしないかは別として、ミサイルを打ち上げる。
そのときそのミサイルは、別のところから打ち上げる。
「迎撃されれば、恥をかくだけ」(韓国紙)と。

もし現在、予想されている場所からミサイルを打ち上げるとしたら、
迎撃覚悟の打ち上げとみてよい。
アメリカ軍は、「99%、迎撃可能」と断言している(3・11)。

となると、K国の目的は、それを口実に、日米韓の3国に、報復
攻撃をしかけること。
全面戦争をするだけの力も、度胸もない。
しかし「適度な報復攻撃」でじゅうぶん。
それでもって国内の緊張感を高め、金xx体制を強化する。

私の予想では、K国のミサイル発射実験は、失敗する。
理由がある。

何も迎撃ミサイルだけが、「迎撃方法」ではない。
ミサイルというのは、一時的には、燃料で飛ぶものだが、二次的には、
電波誘導で飛ぶもの。
その電波誘導をかく乱したり、妨害電波を発射したり、さらには
ニセ電波を飛ばしたりして、ミサイルを航行不能にすることができる。

K国がミサイルを発射した直後、ミサイルに向けて、妨害電波を
発射する。
それで、ドカ〜〜ン!
見た目には、実験失敗ということになる。
(ひょっとしたら、前回もそうだった可能性がある。)

ともあれ、油断は禁物。
K国の思考回路は、私たちのもっているそれとは、まったくちがう。
私たちがもっている常識で理解できるような国ではない。

原油も食料も、世界から援助してもらいながら、その
一方で、その世界に対して、ミサイルや核兵器で脅す。
私なら、自分に恥じて、とてもそういう行動などできないのだが……。

可能性のひとつとして、K国の陽動作戦に警戒したほうがよい。
あくまでも可能性のひとつとして……。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

3月12日(木曜日)2009年

++++++++++++++++++++

今日は、自宅から教室まで、歩いた。
たった今、教室に着いたところ。
途中で、Dズというレストランで昼食。
それもあって、2時間15分も、かかった。

そのDズで、奇妙な光景を目にした。
3組の女性たちが座って、それぞれが相手の女性に、
何やら、懸命に説明していた。

大きな声だったので、やがて話の内容がわかった。
それぞれが、何かの健康食品を勧めていた。
それを聞きながら、ワイフが「マルチ商法よ」と言った。
あえて説明はいらなかった。
たしかにマルチ商法の勧誘だった。

トイレに立ったとき、ひとつのテーブルを見たら、
家系図のようなものが、広げてあった。
縦、横に、20〜30個の四角が並んでいて、
それぞれに名前らしきものが書きこんであった。
相手の女性から、家族関係、親戚関係を
聞き出しているようだった。

「どうしてそんなものを調べるのだろう?」と
思ったが、そこで思考停止。

マルチ商法では、常に被害者が加害者となり、
また新たな被害者を作る。
あとはこの繰りかえし。
しかしこれだけ騒がれても、まだマルチ商法は
健在らしい。

+++++++++++++++++++++

被害者は加害者に

以前、ある宗教団体から脱会した人がいた。
年齢は、当時45歳くらいではなかったか。
その宗教団体に疑問をもち、脱会したということだった。
で、その人がそれで宗教から遠ざかったかというと、そうではない。
自分で新しい教団を開いた。
教祖になった。
で、ある日、その人に呼ばれて行くと、その人はこう言った。
「100人も信者がいれば、一応、食べていかれますよ」と。

そういう人は珍しいとしても、たいていの人は、宗教から宗教へと
渡り歩くようになる。
一度身についた信仰心(宗教心ではない)は、なかなか消えない。
思考回路というのは、そういうもの。
私は、Dズで、その光景を見たとき、それを思い出した。

マルチ商法。
マルチ商法があるから、被害者がいるのではない。
マルチ商法を支える加害者がいるから、マルチ商法がある。
で、マルチ商法がマスコミなどで叩かれたからといって、
それらの人が、それに気づくわけではない。
むしろ現実は、逆。

マルチ商法で、一度味をしめた人は、つぎのマルチ商法を考える。
あるいは新しいマルチ商法が現れると、イの一番に飛びつく。
マルチ商法というのは、早く飛びついた人ほど、儲かる。
そういう旨味(うまみ)をよく知っている。
そういうしくみになっている。

だからマルチ商法はなくならない。
被害者が加害者となり、新たな被害者をつくる。
最後にババを引いた人だけが、損をする。

しかしどうして家系図を調べていたのだろう?
(家系図だったかどうかは、わからないが・・・。)
その中の金持ち(=カモ)をさがすためだろうか。
それとも別の目的があるのだろうか。
あるいは今、流行しているスピリチュアル(霊感)商法の
ひとつなのだろうか。
私にはわからないが、あやしげなグループだったことにはちがいない。

Dズを出るとき、もう一度、そのグループをながめた。
相変わらず大声で、相手の女性に向かって、何やら説明していた。
まわりの人のことなど、まったく気にならないといったふうだった。

(補記)
マルチ商法が摘発されるとき、いつもトップ、もしくはその直接の
部下だけ。
そこでストップ。
しかしこの方法では、マルチ商法は、なくならない。
本気でなくそうとするなら、そのつぎの段階にいる人たち、つまり
マルチ商法で、だれかを勧誘した人たちまで、逮捕しなければならない。
マルチ商法では、勧誘者イコール、加害者。
そういう人たちは、「私も被害者でした」と主張するだろう。
が、これだけマルチ商法がつづいているのだから、今さら、「知らなかった」
ですまされない。

私も2年ほど前、近M通信事件にからんで、あやうく、その
被害者になるところだった。
私を勧誘したのは、大学の1年、先輩だった。
もしあのときあの話に乗っていたら、私もだまされた。
が、そのとき、その先輩が、「ぼくも被害者だ」では、すまされない。
またそれですんではいけない。
言うなれば、詐欺未遂。
そういう認識を、みなが、もっとしっかりともつべきではないのか。


70歳まで、現役

++++++++++++++++

先日、ワイフとこんな会話をした。
「ぼくは70歳まで、現役で働く。協力してくれるか」と。
ワイフは、快く承知してくれた。

「で、そのために体力づくりをしよう」と声をかけると、
それにも快く承知してくれた。

++++++++++++++++

少し前まで、「65歳まで働こう」と思っていたが、
それを「70歳」にした。
年金など、アテにしていない。
それよりも大切なのは、健康で楽しく仕事ができること。
若いとき、何度か失業保険金をもらえる立場になったことがあるが、
私はもらわなかった。
私のプライドが許さなかった。
たぶん65歳になったときも、同じように考えるだろう。
自信はないが・・・。

ともかくも、今の調子なら、何とか70歳までがんばれそう。
50歳になったときよりも、体の調子はよい。
頭のボケも、今のところ、心配ない。
疲れやすく、昼になると眠くなるが、それは何とかできる。
あとは、今の調子を崩さないようにする。
それだけを考えて、前に進む。

(補記)
「あなたには、もう用はありません。静かに遊んでいてください」と
言われることくらい、つらいことはない。
ほかの人にはどうか知らないが、私には、そうだ。
だから私は健康がつづくかぎり、働く。
働いて、社会との接点を保つ。
もしそれがなくなったら、そのときこそ、私は、ほんとうにおしまい。
何も、肉体の「死」だけが、死ではない。
魂の「死」だってある。
その死とは、闘う。
闘える相手だから、闘う。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●午前3時

今朝は、午前3時起き。
昨夜、頭痛がしたので、午後8時ごろ、眠った。
計算してみると、7時間は、眠ったことになる。
時折、ザーッ、ザーッと雨が降っているのがわかる。
窓の外から、それが聞こえてくる。

このところ「寒い」と感ずることが多いが、それでも、
花の開花などは、全体的に見ると、2週間ほど早いとか。
今さら「暖冬」という言葉など、使いたくない。
先日も、長野の友人が、こう言っていた。
「最近では、めったに雪かきをしなくなりました」と。
子どものころは、毎日のように雪かきをしていたそうだ。

そう言えば、今年は、雪をまったく見ていない。
例年だと、チラチラとだが、1、2度は、雪が降るのだが・・・。


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi

●がんこな女性

++++++++++++++++

がんこな女性がいる。
年齢は、今年、45歳になるという。
夫であるその男性に話を聞くと、
こう話してくれた。

「結婚して20年近くになるが、
自分のほうから、『ごめん』とか、
『そうだね』とかいう言葉を言ったことが、
ない」と。
「一度もないのですか?」と念を押すと、
「ないです」と。
かなりがんこな女性らしい。

子どもでも、似たような症状を示す子どもがいる。
アスペルガー児と呼ばれる子どもなどがそうである。
症状が軽いばあいは、意地っ張りな子ということになる。
何かのことで、殻(から)に入ると、その中に、
閉じこもってしまう。
そのまま固まってしまう。
あとはお決まりの、押し問答。

私「君がしたことだから、謝りなさい」
子「どうして、ぼくが謝らなければならないんだ」
私「自分でしたんだから、謝るべきだ」
子「わざとしたんじゃないから、しかたない」
私「わざとでなくても、君がしたことにはちがいない」
子「先生が、そんなものを、ここに置いておくから悪い」

私「それとこれは、話が別」
子「どこがちがうよ」
私「あのね、こういう話は、『ごめん』と言えば、それですむの」
子「ごめんと言えばいいのか」
私「はいはい、わかりました。ごめん、・・・このバカ!」と。

男児に多いと言われるが、女児にもアスペルガー児の子どもはいる。
頭はよいし、そうでないときは、それなりの常識は通ずる。
が、どこか自己愛者的な自己中心性があり、自分のまちがいや、
ミスを指摘されると、とたんに殻にこもってしまう。
その男性の妻がそうであったというわけではないが、症状から
すると、その可能性がある。

もっともおとなになると、診断名をくだすのは、たいへんむずかしい。
アスペルガーにしても、思春期を境に、外からは症状が、わかりにくくなる。
子ども自身が、自分で自分をコントロールするようになる。
が、その残像のようなものは、残る。

思考の融通性が利かない。
冗談が通じにくい。
がんこになりやすい。
心を許す相手と、そうでない相手を峻別する。
自分のミスや失敗を、認めない。
何か言うと、すぐ切り返してくる、など。

だからその男性は、こう言った。

「一度夫婦喧嘩が始まると、ネチネチといつまでもつづくように
なりました。
妻は私の性格が悪いと言いますが、そうなってしまいました。
ふつうの人なら、『あら、ごめん』ですむような話でも、その場で、
固まってしまうため、あとは私が何を言っても、無視、無視・・・。
そういった状態になります。
先日も、さんざん言い争ったあと、私に、こう言いました。
『ごめん、ごめん、この気ちがい!』と。

同じ夫婦喧嘩でも、いつも同じパターンで始まり、同じパターンを
繰りかえすというようであれば、どちらかの性格的な欠陥に原因が
あるとみてよい。
しかしどちらか一方の側だけに、責任があるというわけではない。
夫婦というのは、長い年月をかけて、たがいに相手の心を作る。

妻のほうは、「私はこういう性格だから、あきらめてよ」と言っている
らしい。
しかし夫のほうは、「無視されたとたん、カッとなります」と言っている。
たがいにたがいのトラウマを作ってしまった。

・・・といっても、この問題は、簡単には解決しない。
その男性の妻が、アスペルガー児であったかどうかはわからないが、
仮にそうであったとしても、それはその女性自身の責任ではない。
恐らくその女性自身も、自分自身のそうした(性格)に気づいていなかった。
今も気づいていない。
また20年前の当時には、「アスペルガー」という言葉すらなかった。
似たような症状の子どもはいるにはいたが、「がんこな子ども」
というような言い方で、教育の世界では処理していた。

最後に、その男性は、こう言った。
「ぼくたちは見合いで結婚しましたが、あんながんこな女とわかっていたら、
結婚はしなかったと思います」と。
言い忘れたが、現在、その夫婦は、離婚の危機に立たされている。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●20万円の損?

++++++++++++++++++

数日前、テレビ(NHK)を見ていたら、
こんなことを言っていた。

「今度の株価の暴落で、国民1人当たり、
約20万円の損失をしたことになります」と。

20万円?
・・・とんでもない!

++++++++++++++++++

同じ番組の中で、最近、退職し、そのとき得た退職金で
株式投資をした男性が紹介されていた。
その男性にしても、400万円以上もの損をしたという。

で、こういうばあいの平均値というのは、意味がない。
幼児も老人も含めて、「1人当たり・・・」となる。
一家の世帯主当たりで計算すると、その数倍〜10倍程度になるのでは。
「一世帯あたり、200万円」と聞いても、私は驚かない。
それに今回の暴落は、何も、株だけではない。
債権全般にも、及んでいる。
為替差損を加えると、損をした人は、もっとふえる。
すでに近くに、一財産を失い、家を明け渡した人さえいる。
これから先、こうした人たちは、爆発的にふえるはず。

が、おかしなことに、危機感と言うか、損失感が、あまりない。
日本中というより、世界中が、ジュータン爆撃を受けたようなもの。
「うちは損をした」という話し方よりも、「うちは被害が少なくてすんだ」という
ような話し方をする。

おかしな話し方である。

数日前も韓国の新聞を読んでいたら、こうあった。
「経済危機度は、韓国のほうが、イギリス、イタリアより下。だから
韓国はだいじょうぶ」と。

「?」。

つまり韓国がデフォルト(債務不履行=国家破綻)するよりも先に、
イギリスやイタリアのほうが先に、デフォルトするから、韓国は、
だいじょうぶ、と。
言うなれば、「隣の家のほうが貧乏だから、うちのほうが金持ち」と言うのに
似ている?
どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほどまで、不況が深刻化している。

で、先に話を戻す。

「1人当たり、20万円」という平均値は、まさに国民だましの数字である。
「20万円」と聞けば、ほとんどの人は、こう思うにちがいない。
「何だ、その程度か」と。
しかし先ほども書いたように、その中には、幼児から老人まで含まれている。
幼稚園の幼児から、介護施設にいる老人までも、だ。
実際に、私の知っている人の中には、1億円の債権を、数か月で、1000万円
にしてしまった人がいる。
その人は、さらに債権を減らしているはず。
その人がもっていた株の株価は、この1年だけでも、20分の1以下になっている。
そういう人も含めて、「1人当たり20万円」は、どう考えてもおかしい。

が、こうした平均値というマジックは、教育の世界にも、よく見られる。
たとえば「中学生は、1人当たり、平均2時間のテレビを見ている」とか、など。
(この「2時間」という数字は、不正確。)

「2時間」と聞くと、ほとんどの人は、「そんなものかなあ?」と思う。
しかし実際には、まったくテレビを見ない子どもがいる一方で、
一日中テレビ漬けの子どもも少なくない。
あるいは50%の子どもが、まったくテレビを見ていなくて、50%の
子どもが4時間見ていても、平均値は、「2時間」となる。
問題は、1日、4〜6時間もテレビを見ている子どもがいるということ。
「2時間」という数字だけを聞くと、その問題の深刻さがわからなく
なってしまう。

同じように、「20万円」という数字だけを見ていると、現在の経済危機の
深刻さがわからなくなってしまう。
が、実際には、今、たいへんなことになっている。
しかもそれが、この先、1年以上もつづきそうな気配になってきた。
(昨年の8月ごろは、今年になれば景気は回復すると言っていた。
昨年の12月には、それが今年の4月ごろになった。
さらに今年になってからは、さらに「1年以上」となった。)

どうでもよいが、今は、みな、あきらめムード。
「お宅は、1000万円ですかア。それはよかったですね。
うちは2000万円の損ですよ」と。

だから私は「20万円」という数字のあとに、「?」をつけた。


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもへの禁止命令 
 
 「〜〜をしてはダメ」「〜〜はやめなさい」というのを、禁止命令という。この禁止命令
が多ければ多いほど、「育て方」がヘタということになる。イギリスの格言にも、『無能な
教師ほど、規則を好む』というのがある。家庭でいうなら、「無能な親ほど、命令が多い」
(失礼!)ということになる。

 私も子どもたちを教えながら、この禁止命令は、できるだけ使わないようにしている。

たとえば「立っていてはダメ」というときは、「パンツにウンチがついているなら、立って
いていい」。「騒ぐな」というときは、「ママのオッパイを飲んでいるなら、しゃべっていい」
と言うなど。また指しゃぶりをしている子どもには、「おいしそうだね。先生にも、その指
をしゃぶらせてくれないか?」と声をかける。禁止命令が多いと、どうしても会話がトゲ
トゲしくなる。そしてそのトゲトゲしくなった分だけ、子どもは心を閉ざす。

 一方、ユーモアは、子どもの心を開く。「笑えば伸びる」というのが私の持論だが、それ
だけではない。心を開いた子どもは、前向きに伸びる。イギリスにも、『楽しく学ぶ子ども
は、もっとも学ぶ』(Happy Learners Learn Best)というのがある。

心が緊張すると、それだけ大脳の活動が制限されるということか。私は勝手にそう解釈し
ているが、そういう意味でも、「緊張」は避けたほうがよい。禁止命令は、どうしてもその
緊張感を生み出す。

 一方、これは予断だが、ユーモアの通ずる子どもは、概して伸びる。それだけ思考の融
通性があるということになる。俗にいう、「頭のやわらかい子ども」は、そのユーモアが通
ずる。以前、年長児のクラスで、こんなジョークを言ったことがある。

 「アルゼンチンの(サッカーの)サポーターには、女の人はいないんだって」と私が言
うと、子どもたちが「どうして?」と聞いた。そこで私は、「だってアル・ゼン・チン!、
でしょう」と言ったのだが、言ったあと、「このジュークはまだ無理だったかな」と思った。

で、子どもたちを見ると、しかし一人だけ、ニヤニヤと笑っている子どもがいた。それか
らもう四年になるが、(というのも、この話は前回のワールドカップのとき、日本対アルゼ
ンチンの試合のときに考えたジョーク)、その子どもは、今、飛び級で二年上の子どもと一
緒に勉強している。反対に、頭のかたい子どもは、どうしても伸び悩む。
 もしあなたに禁止命令が多いなら、一度、あなたの会話術をみがいたほうがよい。
 

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【前回からのつづきです】

++++++++++++++++++++

自我の同一性(アイデンティティ)の構築に失敗すると、
いろいろな場面で、不適応症状を示すようになります。

「こんはずではない」「これは私のしたいことではない」と。
それが進むと、自我の不一致が起こり、さらに進むと、
自我の崩壊が始まります。

最悪のばあいは、無気力症候群に襲われ、ニタニタと
意味のない笑いだけを浮かべながら生活する、など。

では、どうすればよいのでしょうか。
自我の同一性を確立するためには、どうすればよいのでしょうか。

それが「私らしく生きる」ということになります。

つぎの原稿がそれですが、一部、内容がダブりますが、
許してください。

++++++++++++++++++++

●私らしく生きるために……

●不適応障害

 「私は私」と、自分に自信をもって、生活している人は、いったい、どれだけいるだろ
うか。実際には、少ないのでは……。

+++++++++++++++++

 「私は、こうでなければならない」「こうであるべきだ」という輪郭(りんかく)を、「自
己概念」という。

 しかし、現実には、そうはいかない。いかないことが多い。現実の自分は、自分が描く
理想像とは、ほど遠い。そういうことはよくある。

 その現実の自分を、「現実自己」という。

 この(自己概念)と(現実自己)が、一致していれば、その人は、「私は私」と、自分を
確信することができる。自分の道を、進むべき道として、自信をもって、進むことができ
る。そうでなければ、そうでない。

不安定な自分をかかえ、そのつど、道に迷ったり、悩んだりする。が、それだけではす
まない。心の状態も、きわめて不安定になる。

++++++++++++++++++

 Aさん(女性)は、財産家の両親をもつ、夫のB氏と結婚したつもりだった。B氏の両
親は、その地域でも、昔からの土地持ちという話を聞いていた。

 が、実際には、B家は、借金だらけ。しかも大半の土地は、すでに他人のものになって
いた。ここでAさんの夢は、大きく崩れた。

 Aさんは、B氏の夫として、そして良家の奥様として、優雅な生活を設計していた。と
たん、つまり、そういう現実を目の前につきつけられたとき、Aさんの情緒は、きわめて
不安定になった。

 良家の奥様にもなりきれず、さりとて、商家のおかみさんにも、なりきれず……。

 毎晩のように、夫と、はげしい夫婦げんかを繰りかえした。

 ……というような例は、多い。似たようなケースは、子どもの世界でも、よく起こる。

 (こうでなければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)。その両者がう
まくかみあえば、それなりに、子どもというのは、落ちついた様子を見せる。

 しかし(こうでなければならない自分)と(現実の自分)が、大きく食い違ったとき、
そこで不適応症状が現れる。

 不適応症状として代表的なものが、心の緊張感である。心はいつも緊張した状態になり、
ささいなことで、カッとなって暴れたり、反対に、極度に落ちこんだりするようになる。

 私も、高校2年から3年にかけて、進学指導の担任教師に、強引に、文科系の学部へと、
進学先を強引に変えられてしまったことがある。それまでは、工学部の建築学科を志望し
ていたのだが、それが、文学部へ。大転身である!

 その時点で、私は、それまで描いていた人生設計を、すべて、ご破算にしなければなら
ななかった。私は、あのときの苦しみを、今でも、忘れない。

……ということで、典型的な例で、考えてみよう。

 Cさん(中2.女子)は、子どものころから、蝶よ、花よと、目一杯、甘やかされて育
てられた。夏休みや冬休みになると、毎年のように家族とともに、海外旅行を繰りかえし
た。

 が、容姿はあまりよくなかった。学校でも、ほとんどといってよいほど、目だたない存
在だった。その上、学業の成績も、かんばしくなかった。で、そんなとき、その学校でも、
進学指導の三者面談が、始まった。

 最初に指導の担任が示した学校は、Cさんの希望とは、ほど遠い、Dランクの学校だっ
た。「今の成績では、ここしか入るところがない」と、言われた。Cさんは、Cさんなりに、
がんばっているつもりだった。が、同席した母親は、そのあとCさんを、はげしく叱った。

 それまでにも、親子の間に、大きなモヤモヤ(確執)があったのかもしれない。その数
日後、Cさんは塾の帰りにコンビニに寄り、門限を破った。そしてあとは、お決まりの非
行コース。

 (夜遊び)→(外泊)→(家出)と。

 中学3年生になるころには、Cさんは、何人かの男とセックスまでするようになってい
た。こうなると、もう勉強どころではなくなる。かろうじて学校には通っていたが、授業
中でも、先生に叱られたりすると、プイと、外に出ていってしまうこともある。

 このCさんのケースでも、(Cさんが子どものころから夢見ていた自分の将来)と、(現
実の自分)との間が、大きく食い違っているのがわかる。この際、その理由や原因など、
どうでもよい。ともかくも、食い違ってしまった。

 ここで、心理学でいう、(不適応障害)が始まる。

 「私はすばらしい人間のはずだ」と、思いこむCさん。しかし現実には、だれも、すば
らしいとは思ってくれない。

 「本当の私は、そんな家出を繰りかえすような、できそこないではないはず」と、自分
を否定するCさん。しかし現実には、ズルズルと、自分の望む方向とは別の方向に入って
いてしまう。

 こうなると、Cさんの生活そのものが、何がなんだかわからなくなってしまう。それは
たとえて言うなら、毎日、サラ金の借金取りに追い立てられる、多重債務者のようなもの
ではないか。

 一日とて、安心して、落ちついた日を過ごすことができなくなる。

 当然のことながら、Cさんも、ささいなことで、カッとキレやすくなった。今ではもう、
父親ですら、Cさんには何も言えない状態だという。

日本語には、『地に足のついた生活』という言葉がある。これを子どもの世界について言
いかえると、子どもは、その地についた子どもにしなければならない。(こうでなければ
ならない自分)と(現実の自分)が一致した子どもにしなければならない。

 得てして、親の高望み、過剰期待は、この両者を遊離させる。そして結局は、子どもの
心をバラバラにしてしまう。大切なことは、あるがままの子どもを認め、そのあるがまま
に育てていくということ。子どもの側の立場でいうなら、子どもがいつも自分らしさを保
っている状態をいう。

 具体的には、「もっとがんばれ!」ではなく、「あなたは、よくがんばっている。無理を
しなくていい」という育て方をいう。

子どもの不適応障害を、決して軽く考えてはいけない。

+++++++++++++++++++++

 「私らしく生きる……」「私は私」と言うためには、まず、その前提として、(こうでな
ければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)、その両者を、うまくかみあ
わせなければならない。

 簡単な方法としては、まず、自分のしたいことをする、ということ。その中から、生き
がいを見つけ、その目標に向って、進んでいくということ。

 子どもも、またしかり。子どものしたいこと、つまり夢や希望によく耳を傾け、その夢
や希望にそって、子どもに目的をもたせていく。子どもを伸ばすということは、そういう
ことをいう。
(はやし浩司 子どもの不適応障害 子どもの不適応障害 現実自己 自己概念)

(注)役割混乱による、不適応障害も、少なくない。


++++++++++++++++++++++

子どもの自尊感情を育てるためには、どうしたらよいか?
もうそろそろその輪郭が見えてきたことと思います。

しかしこれは何も、子どもだけの問題ではありませんね。
私たちおとなも、実は、自尊感情のあるなしで、
毎日、悩み、もがいているのです。

もう一度、自己概念について考えてみたいと思います。

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●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どん
な人間に思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念というこ
とになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。
悪い面については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自
分がそうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズ
レる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な
夫の妻として、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、
すばらしい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにい
れば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿
しか、知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、
笑った。そしてその意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、
私たちはいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目
を気にせよ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも
正確にとらえていく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1)自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2)責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3)自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4)自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5)脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、
その他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いて
みる。そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡
単なので、少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから
見て、どんな母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐ
ためにも、重要なことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思い
こんでいるだけかもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念)


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そこで登場するのが、『マズローの欲求段階説』です。
「私は私らしく生きたい」。
そのためには、どうすればよいのか。

ポイントは、「現実的に生きる」ということです。
この(現実性)を喪失すると、おとなも、子どもも、
非現実的な世界で生きるようになります。

昨今のスピリチュアル・ブームも、その流れの中に
あると考えてよいでしょう。

(自我の同一性の確立ができない)→(現実から逃避する)
→(非現実的な世界に生きようとする)、と。

生き方のひとつのヒントになると思いますので、
紹介します。

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【私らしく生きるための、10の鉄則】(マズローの「欲求段階説」を参考にして)

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●マズローの欲求段階説

 昨日、「マズローの欲求段階説」について書いた。その中で、マズローは、現実的に生き
ることの重要性をあげている。

 しかし現実的に生きるというのは、どういうことか。これが結構、むずかしい。そこで
そういうときは、反対に、「現実的でない生き方」を考える。それを考えていくと、現実的
に生きるという意味がわかってくる。

 現実的でない生き方……その代表的なものに、カルト信仰がある。占い、まじないに始
まって、心霊、前世、来世論などがもある。が、そういったものを、頭から否定すること
はできない。

ときに人間は、自分だけの力で、自分を支えることができなくことがある。その人個人
というよりは、人間の力には、限界がある。

 その(限界)をカバーするのが、宗教であり、信仰ということになる。

 だから現実的に生きるということは、それ自体、たいへんむずかしい、ということにな
る。いつもその(限界)と戦わねばならない。

 たとえば身近の愛する人が、死んだとする。しかしそのとき、その人の(死)を、簡単
に乗り越えることができる人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。ほとんどの
人は、悲しみ、苦しむ。

いくら心の中で、疑問に思っていても、「来世なんか、ない」とがんばるより、「あの世
で、また会える」と思うことのほうが、ずっと、気が楽になる。休まる。

 現実的に生きる……一見、何でもないことのように見えるが、その中身は、実は、奥が、
底なしに深い。

●あるがままに、生きる

 ここに1組の、同性愛者がいたとする。私には、理解しがたい世界だが、現実に、そこ
にいる以上、それを認めるしかない。それがまちがっているとか、おかしいとか言う必要
はない。言ってはならない。

 と、同時に、自分自身についても、同じことが言える。

 私は私。もしだれかが、そういう私を見て、「おかしい」と言ったとする。そのとき私が、
それをいちいち気にしていたら、私は、その時点で分離してしまう。心理学でいう、(自己
概念=自分はこうであるべきと思い描く自分)と、(現実自己=現実の自分)が、分離して
しまう。

 そうなると、私は、不適応障害を起こし、気がヘンになってしまうだろう。

 だから、他人の言うことなど、気にしない。つまりあるがままに生きるということは、(自
己概念)と、(現実自己)を、一致させることを意味する。が、それは、結局は、自分の心
を守るためでもある。

 私は同性愛者ではないが、仮に同性愛者であったら、「私は同性愛者だ」と外に向って、
叫べばよい。叫ぶことまではしなくても、自分を否定したりしてはいけない。社会的通念
(?)に反するからといって、それを「悪」と決めつけてはいけない。

 私も、あるときから、世間に対して、居なおって生きるようになった。私のことを、悪
く思っている人もいる。悪口を言っている人となると、さらに多い。しかし、だからとい
って、それがどうなのか? 私にどういう関係があるのか。

 あるがままに生きるということは、いつも(自己概念)と、(現実自己)を、一致させて
生きることを意味する。飾らない、ウソをつかない、偽らない……。そういう生き方をい
う。


+++++++++++++++++++

では、どうすれば、私は私らしく生きることが
できるか。
子どもは、子どもらしく生きることができるか。

+++++++++++++++++++

●自然で自由に生きる

 不規則がよいというわけではない。しかし規則正しすぎるというのも、どうか? 行動
はともかくも、思考については、とくに、そうである。

思考も硬直化してくると、それからはずれた思考ができなくなる。ものの考え方が、が
んこになり、融通がきかなくなる。

 しかしここで一つ、重要な問題が起きてくる。この問題、つまり思考性の問題は、脳ミ
ソの中でも、CPU(中央演算装置)の問題であるだけに、仮にそうであっても、それに
気づくことは、まず、ないということ。

 つまり、どうやって、自分の思考の硬直性に、気がつくかということ。硬直した頭では、
自分の硬直性に気づくことは、まず、ない。それ以外のものの考え方が、できないからだ。

 そこで大切なのは、「自然で、自由にものを考える」ということ。そういう習慣を、若い
ときから養っていく。その(自由さ)が、思考を柔軟にする。

 おかしいものは、「おかしい」と思えばよい。変なものは、「変だ」と思えばよい。反対
にすばらしいものは、「すばらしい」と思えばよい。よいものは、「よい」と思えばよい。

 おかしなところで、無理にがんばってはいけない。かたくなになったり、こだわったり
してはいけない。つまりは、いつも心を開き、心の動きを、自由きままに、心に任せると
いうこと。

 それが「自然で、自由に生きる」という意味になる。
 

+++++++++++++++++++++

しかし現実には、子どもの自尊感情を
傷つけるだけではなく、破壊する親も少なくないですね。
破壊しながら、破壊しているという事実にすら、
気がついていない。

それについて書いたのが、つぎの原稿です。

+++++++++++++++++++++

●親の希望 vs 現実の子ども

 親が、心の中で希望として描く、子ども像。これを(子ども概念)と呼ぶ。一方、そこ
には、現実の子どもがいる。それを(現実子ども)と呼ぶ。心理学でいう、(自己概念)と、
(現実自己)という言葉にならった。

 そこで私は、この(子ども概念)と(現実子ども)のほかに、もう一つ、(世間評価)を
加える。これも、(自己概念)と(現実自己)のほかに、もう一つ、(世間評価)を、加え
たことに、まねる。他人から見た子ども像ということで、「世間評価」という。

 親が、「うちの子は、こうであってほしい」と願いながら、心の中に描く、子ども像を、
(子ども概念)という。

 勉強がよくできて、スポーツマンで、よい性格をもっていて、人にも好かれる。集団の
中でもリーダーで、できれば、ハンサム。自分という親を尊敬してくれていて、親の相談
相手にもなってくれる……、と。

 しかし現実の子どもは、そうでないことが多い。問題だらけ。園でも学校でも、何かと
トラブルをよく起こす。成績もかんばしくない。できも悪い。性格もいじけているし、反
抗ばかりしている。このところ、勉強、そっちのけで、遊んでばかりいる。

 しかし子どもの姿というのは、それだけでは決まらない。親が知らない世界での評価も
ある。家の中では、ゴロゴロしているだけ。生活態度も悪い。親を親とも思わない言動。
しかしスポーツクラブでは、目だった活躍をしている、とか。

 こういうケースは、よくある。

 そこで、(子ども概念)と、(現実子ども)が、それなりに一致していれば、問題はない。
(子ども概念)と(世間評価)も、それなりに一致していれば、問題はない。しかしこの
三者が、よきにつけ、悪しきにつけ、距離を置いて、遊離すると、そこでさまざまな問題
を引き起こす。

【例1】(以下の例は、すべてフィクションです。実際にあった例ではありません。)

 ある日、小学1年生になったS君のバッグの中を見て、私は驚いた。そうでなくても、
これから先、たいへんだろうなと思っていた子どもである。今でいうLD(学習障害児)
であったかもしれない。そのバッグの中には、難解なワークブックが、ぎっしりと入って
いた。

 このケースでは、親は、S君に対して、過大な期待を抱いていたようである。そのため、
「やらせれば、できる」という信念(?)のもと、難解なワークブックを、何冊も買いそ
ろえた。そして毎日、S君が学校から帰ってくると、最低でも、2時間は、勉強を教えた。

 このS君のケースでは、ここでいう親が心の中で描く(子ども概念)と、(現実子ども)
が、大きくかけ離れていたことになる。

【例2】

 B君は、中学1年生。勉強は嫌い。ときどき、学校もサボる。しかし小学生のときから、
少年野球クラブでは、ずっと、レギュラー(ピッチャー)を務めてきた。その地区では、
B君にまさるピッチャーはいなかった。

 年に4回開かれる、地区大会では、B君の所属するチームは、たいてい優勝した。市の
大会で、準優勝したこともある。

 しかし母親との間では、けんかが絶えなかった。「勉強しなさい!」「うるさい!」と。
あるとき、母親は、「勉強しなければ、野球チームをやめる」とまで言った。が、B君は、
その夜、家を出てしまった。B君が、6年生のときのことである。

 中学生になってから、B君は、部活に野球部を選んだ。しかしその直後、B君は、監督
の教師と衝突してしまい、そのまま野球部をやめてしまった。B君が、グレ始めたのは、
そのときからだった。

 このB君のケースでは、(子ども概念)と(現実子ども)は、それほど遊離していなかっ
たが、親が子どもに対してもっている(子ども概念)と、(世間評価)は、大きくズレてい
た。

【例3】

 私の実家は、以前は、いくつかの借家をもっていた。その中の一つは、表が駐車場で、
裏が一間だけの家になっていた。

 その借家には、父と子だけの二人が住んでいた。母親は、どうなったか知らない。が、
その子というか、高校生が、国立大学の医学部に合格した。父親は、酒に溺れる毎日だっ
たという。

 しばらくしてその父子は、その借家を出たが、私は、その話を、母から聞いて、心底、
驚いた。借家を訪れてみたが、酒のビンがいたるところに散乱していた。

 私が、「どんな子どもでしたか」と近所の人に聞くと、その人は、こう言った。「本当に
すばらしい息子さんでしたよ。毎日、父の酒を買うために、自転車で、酒屋へ通っていま
した」と。

 この父子の関係では、父親に、そもそも(子ども概念)があったかどうかは、疑わしい。
放任と無責任。しかしその子どもの(現実子ども)は、父親のもっていたであろう(子ど
も概念)を、はるかに超えていた。(世間評価)も、である。

【例4】

 新幹線をおりて、バスで、友人の家に向かうときのこと。うしろの席で、あきらかに母
と娘と思われる二人が、こんな会話を始めた。母親は、45歳くらいか。娘は、20歳そ
こそこ。母親というのは、どこかの大病院の院長を夫にもつ、女性らしい。どうやら、娘
の結婚相手をだれにするかという相談のようだった。

母親「Xさんは、いい人だけど、私大卒でしょう。出世は望めないわね」
娘「それにXさんは、もう30歳よ」
母親「Yさんは、K大学で、4年間、講師をしていたそうよ。でもね、ああいう性格だか
ら、お母さんは、薦めないわ」
娘「そうね。同じ意見よ。あの人は、私のタイプじゃないし……」
母親「Zさんは、どう? 患者さんの評判も、いいみたいだし……」
娘「そうね、一度、Zさんと、食事をしてみようかしら。でもZさんには、もう恋人がい
るかもしれないわ」と。

 話の内容はともかくも、二人の会話を聞きながら、私は、いい親子だなあと思ってしま
った。呼吸が、ピタリとあっている。

 最後のこのケースでは、母のもつ(子ども概念)と、(現実子ども)は、一致している。
大病院の後継者を、二人でだれにするか、相談している。このばあいは、(世間評価)は、
ほとんど、問題になっていない。

 ふつう、この三者が、ともに接近していれば、親子関係は、スムーズに流れる。しかし
この三者が、たがいに遊離し始めると、先に書いたように、親子関係は、ギクシャクし始
める。

 何が子どもを苦しめるかといって、親の高望み、つまり過剰期待ほど、子どもを苦しめ
るものは、ない。

 一方。その反対のこともある。すばらしい子どもをもちながら、「できが悪い」と悩んで
いる親である。こういうケースは、少ないが、しかしないわけではない。

 そこであなた自身のこと。

 あなたは今、どのような(子ども概念)をもっているだろうか。そしてその(子ども概
念)は、(現実子ども)と一致しているだろうか。もし、そうならあなたは、今、すばらし
い親子関係を築いているはず。

 が、反対に、そうでなければ、そうでない。やがて長い時間をかけて、あなたの親子関
係は、ギクシャクしたものになる。気がついてみたら、親子断絶ということにもなりかね
ない。一度、(世間評価)も参考にしながら、あなた自身のもっている(子ども概念)を、
修正してみるとよい。


++++++++++++++++++

子どもの自尊感情を育てるために、
家庭教育はどうあったらよいのか。
それについて書いたのが、つぎの
原稿です。

++++++++++++++++++

【特集・子どもの自尊感情を育てるために】

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子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織ということになる。

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●やる気論

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の
中の辺縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが
自分にとって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モル
ヒネ様の物質を分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに
包まれる。それはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけでは
ないようだ。こんな実験がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除
してしまうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているとい
うわけである。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなも
のを好きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝
手に決めてしまうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、
そうした感情ができてしまうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反
応を示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教
室を訪れたとしよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をも
つようになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印
象をもつようになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子
どもは、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、
ますますその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」と
いう言葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしてい
く。反対に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってし
まい、努力の割には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が
分泌される。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみ
よう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があ
るという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミン
にも、同じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアド
レナリンを分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P5
9)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まる
ということ。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚
えたか)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(ど
れだけ楽しんだかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁
桃体が、いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると
考えてよい。「好きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、
その子どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、そ
の向こうにある隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしてい
る。何かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせ
る。そういう印象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が
芽生えていくのを、静かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすること
がある。多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児
教育と考えている。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせて
いるその物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずな
い。(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育
のリズムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。
借金にたとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる
気を見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、
子どもを追いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものが
ない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。
しかしこの日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、
たいていの親は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早
い時期に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉
強はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、
その子どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少し
でも伸びる姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわない
ということ。


+++++++++++++++++++++++

もうおわかりのことと思います。
自尊感情とやる気は、紙にたとえるなら、表と裏のような
ものです。

自分を肯定的にとらえるところから、やる気は生れ、
そのやる気が、また自尊感情を育てていきます。

では、どうすればよいか。
ここに書いたように、「ほめる」です。
ほめて、ほめて、ほめまくる。
それだけでよいのです。
子どもは、(おとなもそうですが)、ほめることによって、
前向きな姿勢をもつようになります。

たとえば子どもがはじめて、文字らしきものを書いたら、
すかさず、ほめる。
へたでも、読めなくても、それでもほめる。
「すごいわね!」と。
そして子どもの書いたものを、一生懸命、読んであげる。
そのとき子どもの脳の中で起きる反応については、
ここに書いたとおりです。

で、こうした方向性をつくるのは、時期的には、
少年少女期に入る前、年齢的には、4・5〜5・5歳まで
ということになります。

つまりこの時期までの教育が、きわめて重要だという
ことです。

小学校1年生で、「84%」しかいないことに驚いた
私の気持ちを理解していただけましたか?
言いかえると、すでにこの段階で、16%の子どもが、
自分を見失っている?
本来なら、この時期なら、100%が、そうであっても
おかしくないのです。

「ほら、音楽教室!」
「ほら、英語教室!」
「ほら、体操教室!」と、子どもを追い立てることによって、
子どもの心をつぶしていることに、じゅうぶん、注意して
ください。

今、年中児でも、ハキがなく、集団の中でも、グズグズしている
子どもが、5〜6人に1人はいます。
中には、そういう子どもほど、「できのいい子ども」と誤解して
いる親さえいます。

おかしいですね。

+++++++++++++++++++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
現実自己 自己概念 自己の同一性 自我の同一性 やる気 マズロー 欲求段階説
はやし浩司 自尊感情 ほめる 強化の原理 弱化の原理 不適応 不適応障害 
燃え尽き 無気力 現実逃避 スピリチュアル スピリチュアルブーム はやし浩司
現実逃避する若者 現実逃避する子供)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもと笑い】

●笑うと健康」裏づけ(組織刺激され血行増進)

 笑うと、血液の流れがよくなるそうだ。それだけではないと思うが、「笑うこと」には、
不思議な力がある。それは私自身が、幼児教育の場で、日常的に実感していることでもあ
る。

今度、アメリカ・メリーランドのマイケル・ミラー医師らが、こんな発表をした。

いわく、「血管の内側にある組織が刺激を受けて、血液の流れがよくなることが、調査で明
らかになった。『笑いは健康にいい』との説が医学的にも裏づけられた形だ。なぜ笑うとこ
の組織が活性化されるのかまでは突きとめられなかったが、同医師は『ストレスからくる
血行障害のリスク、減らすことができる』と、笑いの効用を力説している」と。  
(時事通信・05年3月15日 )

+++++++++++++++++++++

教室での笑いについては、たびたび、書いてきた。

+++++++++++++++++++++

●笑えば、伸びる

 言いたいことを、言う。したいことを、する。これが幼児教室の基本である。おさえる
のは、簡単。その時期がきたら、少しずつ、しめていけばよい。

 今週は、(数)をテーマにした(月曜日クラス)。

 この時期は、(教えよう)(教えてやろう)という気持ちは、控えめに。大切なことは、
子ども自身が、数を好きになること。数を、楽しいと思うようになること。が、それ以上
に、大切なことは、子どもが、自信をもつこと。決して、おとなの優位性をおしつけては
いけない。

 7個のリンゴを、わざとまちがえて数えてみせる。すると子どもたちは、「ちがう、7個
だ!」と叫ぶ。そこで改めて、数えてみせる。そして「ああ、7個だったのかあ?」と、
とぼけてみせる。

 が、その日は、それですんだわけではない。さらに、私を責めた子どもがいた。「あんた、
先生でしょ!」と。そこで私は、こう言ってやった。

 「君、まだ幼稚園児だろ。だったら、そんなにしっかりと勉強しなくていい。もっと、
ぼんやりと勉強しなさい。あのね、幼稚園児というのは、指をしゃぶって、おしりからプ
リプリと、出しながら勉強するものだよ。わかっている?」と。

 すると子どもたちが、ワイワイと反発した。しかしその反発こそが、私のねらいでもあ
る。

 「あのね、わかっていないな。勉強なんてものはね、適当にやればいいの。そんなにし
っかりやると、頭がへんになるよ!」と。

 すると子どもたちは、「ちがう、ちがう」と叫ぶ。つまりそうやって、子どもを、こちら
のペースにのせながら、指導していく。あとは、子ども自身がもつ、伸びる力に任せれば
よい。

 だいたいにおいて、子どもというのは、伸ばそうと思っても伸びるものではない。大切
なことは、子ども自身がもつエネルギーを、うまく利用すること。それをうまく利用すれ
ば、子どもは、伸びる。

 さて、子どもを明るい子どもにするには、方法は、一つしかない。つまり、笑わせる。
大声で、笑わせる。それにまさる方法はない。だから私の教室では、子どもを笑わせるこ
とを、何よりも大切にしている。1時間なら1時間、笑わせぱなしにすることも、珍しく
ない。

 笑うことにより、子どもの心は、開放される。前向きな、学習態度も、そこから生まれ
る。『笑えば、伸びる』、それが私の、この39年間でつかんだ、幼児教育の真髄である。

【追記】

 最近の研究では、ストレスと免疫系の関係などが指摘されているが、それと反対に、「笑
い」には、不思議な力が隠されている。これから先、大脳生理学の分野で、少しずつ、そ
の「力」が解明されていくだろうと思う。

+++++++++++++++++++++++

●私の実験教室「BW教室」

 幼児を教えるようになって、35年になる。この間、私は4つのことを、守った。(1)
すべて授業は公開し、親の参観をいつでも自由にした。(2)教材はすべて手作り。市販の
教材は、いっさい使わなかった。(3)同じ授業をしなかった。(4)新聞広告、チラシ広
告など、宣伝をしなかった。

 まず(1)授業の公開は、口で言うほど、楽なことではない。公開することによって、
教える側は、手が抜けなくなる。教育というのは、手をかけようと思えばいくらでもかけ
られる。しかし手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。それこそプリントを配って、そ
れだけですますこともできる。そこが教育のこわいところだが、楽でない理由は、それだ
けではない。

 授業を公開すれば、同時に子どもの問題点や能力が、そのまま他人にわかってしまう。
とくにこのころの時期というのは、親たちが神経質になっている時期でもあり、子どもど
うしのささいなトラブルが大きな問題に発展することも珍しくない。教える側の私は、そ
ういうとき、トコトン神経をすり減らす。

 (2)の教材についてだが、私は一方で、無数の市販教材の制作にかかわってきた。し
かしそういう市販教材を、親たちに買わせたことは一度もない。授業で使ったこともない。
出版社から割引価格で仕入れて、親たちに買わせれば、それなりの利益もあったのだろう
が、結果として振り返ってみても、私はそういうことはしなかった。本もたくさん出版し
たが、売るにしても、希望者の親のみ。しかも仕入れ値より安い値段で売ってきた。

(3)の「同じ授業をしない」については、二つの意味がある。年間を通して同じ授業を
しないという意味と、もう一つは、毎年、同じ授業をしないという意味である。

この10年は、何かと忙しく、時間がないため、年度ごとに同じ授業をするようになった
部分もあるが、それでもできるだけ内容を変えるようにしている。ただその年の授業の中
では、年間をとおして同じ授業をしない。これには、さらに二つの意味がある。

 そういう形で子どもの心をひきつけておくということ。同じ授業をすれば、子どもはす
ぐあきる。もう一つは、そうすることによって、子どもの知能を、あらゆる方向から刺激
することができる。

 最後に(4)の宣伝については、こうしてインターネットで紹介すること自体、宣伝と
いうことになるので、偉そうなことは言えない。それに毎年、親どうしの口コミ宣伝だけ
というのも、実のところ限界がある。

ある年などは、1年間、生徒(年中児)はたったの3人のままだった。例年だと、親がほ
かの親を誘ってくれたりして、生徒が少しずつふえるのだが、その年はどういうわけだか
ふえなかった。

 私の実験教室の名前は、「BW(ビーダブル)教室」という。「ブレイン・ワーク(知能
ワーク)」の頭文字をとって、「BW」とした。「実験」という名前をつけたのは、ある時期、
大きな問題のある子どもだけを、私の方から頼んで、(そのため当然無料だったが)、来て
もらったことによる。

私の教室は、いつも子どもたちの笑い声であふれている。「笑えば伸びる」が、私の教育モ
ットーになっている。その中でも得意なのは、満四・五歳から満五・五歳までの、年中児
である。興味のある人は、一度訪れてみてほしい。ほかではまねできない、独自の教育を
実践している。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【自尊教育】(前篇)(つづきは、次回です。)

【自尊教育】

++++++++++++++++

東京都教育委員会は、今度、自尊教育を始めるそうです。
どんな教育を考えているのかは知りませんが、しかし自尊教育ほど、
簡単なものはありません。
「ほめる」。
たったそれだけのことで、子どもは、自分に対して肯定的な
評価をくだすようになります。

が、そうでない子どもが多い。
発達心理学的に言えば、「自我の同一性(アイデンティティ)」の
構築に失敗したということになります。

さらに最近では、それが大脳生理学の分野でも、証明されています。
そのカギを握るのが、辺縁系にある、扁桃核(扁桃体)ということに
なります。
「教育」でできる……というよりは、これは「家庭」の問題かな。
さらに言えば、幼児期から少年少女期への移行期(4・5〜5・5歳)
における指導が重要ということになります。

それを書く前に、産経新聞の記事から抜粋させてもらいます。

+++++++++++++以下、産経新聞・090310++++++++++

 日本の子供たちは自分が嫌い−。東京都教育委員会が公立の小中学生、都立高校生を対
象に「自尊感情」について調査したところ、中高生の5〜6割が「自分」を好意的にとら
えていないことが10日、分かった。日本の子供たちの自尊感情の低さはこれまでも指摘
されてきたが、自治体レベルで大規模な調査が行われたのは初めて。都教委は現状を深刻
に受け止め、「自分の存在や価値を積極的に肯定できる子供を育てる」とし、4月から小学
校で試験的に"自尊教育"を実施する。

 都教委は昨年11〜12月、都内の小学生4030人、中学生2855人、高校生58
55人を対象に、自尊感情や自己肯定感をテーマにしたアンケートを行った。 

 調査結果によると、中学生では「自分のことが好きだ」との問いに、「そう思わない」「ど
ちらかというとそう思わない」と否定的に回答した割合が、中1=57%、中2=61%、
中3=52%に上り、全学年で「そう思う」「どちらかというとそう思う」と肯定的に答え
た割合を上回った。高校生でも否定的な考えが目立ち、高1=56%、高2=53%、高
3=47%だった。

 小学生では、小1の84%が肯定的な回答をしたが、学年が上がるにつれてその割合は
低下し、小6では59%となっている。

 このほか、国内外の青少年の意識などを調査・研究している財団法人「日本青少年研究
所」の国際調査(平成14年)でも「私は他の人々に劣らず価値のある人間である」との
問いに「よくあてはまる」と回答した中学生が、アメリカ51・8%、中国49・3%だ
ったのに比べ、日本は8・8%と極端に低かった。

+++++++++++++以上、産経新聞・090310++++++++++

数字が並んでいるので、整理させてもらう。

中学生
「自分のことが好きだ」
「そう思わない」「どちらかというとそう思わない」と答えた子ども
中1……57%、
中2……61%
中3……52%

高校生でも否定的な考えが目立ち、高1……56%
高2……53%
高3……47%

小学生では、小1……84%が肯定的な回答をしたが、学年が上がるにつれてその割合は
低下し、小6では59%となっている。

++++++++++++++++++

以上の数字をまとめると、こうなります。
小学1年生では、84%が、「肯定的だが」、学年が進むと、小学6年生では、それが
59%に低下する。
さらに中学生になると、50%台、高校生になると、40%台に低下するということ。

しかしこの数字を見て私が驚いたのは、小学1年生で、84%しかいないということ。
「小学1年生で、もう84%!」と。
その入口にいる子どもですら、肯定的に自分をとらえている子どもが、84%しかいない
ということに注目してください。

しかし「自尊教育」ほど、簡単なものはないのです。
順に説明してみましょう。

+++++++++++++++++++

「私はこうありたい」「こうあるべき」という(像)を、
「自己概念」といいます。
おとなだけではなく、子どももみな、この自己概念を
描きながら生きています。

それに対して、そこに(現実の自分)がいます。
これを「現実自己」といいます。

この両者が一致した状態を、「自我の同一性が確立した状態」と
いいます。
このタイプのおとなは、(もちろん子どもも)、
外界からの誘惑に対しても、強い抵抗力を示します。
もちろん、自尊感情も強く、現実感覚もしっかりと
しています。

それについて書いたのが、つぎの原稿です。
少し余計なことも書いていますが、どうか
がまんして読んでください。


++++++++++++++++++++

●自我の同一性(アイデンティティ)の確立

●世間的自己

 少し前、(自己概念)と(現実自己)について、書いた。「自分は、こうあるべきだとい
う私」を(自己概念)といい、「現実の私」を(現実自己)という。

 これら二つが近接していれば、その人は、落ちついた状態で、自分の道を進むことがで
きる。しかしこれら二つが遊離し、さらに、その間に超えがたいほどの距離感が生まれる
と、その人の精神状態は、きわめて不安定になる。劣等感も、そこから生まれる(フロイ
ト)。

 たとえば青年時代というのは、(こうであるべき自分)を描く一方、(そうでない自分)
を知り、その葛藤に(かっとう)に苦しむ時代といってもよい。

 そこで多くの若者は、(そうであるべき自分)に向って、努力する。がんばる。劣等感が
あれば、それを克服しようとする。しかしその(そうであるべき自分)が、あまりにもか
け離れていて、手が届かないとわかると、そこで大きな挫折(ざせつ)感を覚える。

 ……というのは、心理学の世界でも常識だが、しかしこれだけでは、青年時代の若者の
心理を、じゅうぶんに説明できない。

 そこで私は、「世間の人の目から見た私」という意味で、(自己概念)と(現実自己)に
ほかに、3つ目に、(世間的自己)を付け加える。

 「私は世俗的他人からどのように評価されているか」と、自分自身を客観的に判断する
ことを、(世間的自己)という。具体的に考えてみよう。

+++++++++++++++++

 A子さん(19歳)は、子どものころから、音楽家の家で育ち、持ち前の才能を生かし
て、音楽学校に進学した。いつかは父親のような音楽家になりたいと考えていた。

 しかしこのところ、大きなスランプ状態に、陥(おち)いっている。自分より経験の浅
い後輩より、技術的に、劣っていると感じ始めたからだ。「私がみなに、チヤホヤされるの
は、父親のせいだ。私自身には、それほどの才能がないのではないか?」と。

 ここで、「父親のような音楽家になりたい」というのは、いわば(自己概念)ということ
になる。しかし「それほどの才能がない」というのは、(現実自己)ということになる。

 しかしAさんは、ここでつぎの行動に出る。自分の父親の名前を前面に出し、その娘で
あることを、音楽学校の内外で、誇示し始めた。つまり自分を取り囲む、世間的な評価を
うまく利用して、自分を生かそうと考えた。「私は、あの○○音楽家の娘よ」と。

 これは私がここでいう(世間的自己)である。

+++++++++++++++++++

 少し話がわかりにくくなってきたので、もう少しかみくだいて説明してみよう。

 世の中には、世間体ばかりを気にして生きている人は、少なくない。見栄、メンツに、
異常なまでに、こだわる。名誉や地位、肩書きにこだわる人も、同じように考えてよい。
自分の生きザマがどこにあるかさえわからない。いつも他人の目ばかりを気にしている。

 「私は、世間の人にどう思われているか」「どうすれば、他人に、いい人に思われるか」
と。

 そのためこのタイプの人は、自分がよい人間に見られることだけに、細心の注意を払う
ようになる。表と裏を巧みに使い分け、ついで、仮面をかぶるようになる。(しかし本人自
身は、その仮面をかぶっていることに、気づいていないことが多い。)

 これは極端なケースだが、こういう人のばあい、その人の心理状態は、(自己概念)と(現
実自己)だけは、説明できなくなる。そもそも(自己)がないからである。

++++++++++++++++++++

 そこで(私)というものを考えてみる。

 (私)には、たしかに、「こうでありたいと願っている私」がいる。しかし「現実の私は
こうだということを知っている私」もいる。で、その一方で、「世間の人の目を意識した私」
もいる。

 これが(自己概念)(現実自己)、そして(世間的自己)ということになる。私たちは、
この三者のはざまで、(私)というものを認識する。もちろん程度の差はある。世間を気に
してばかりしている人もいれば、世間のことなど、まったく気にしない人もいる。

 しかしこの世間体というのは、一度それを気にし始めると、どこまでも気になる。へた
をすれば、底なしの世間体地獄へと落ちていく。世間体には、そういう魔性がある。気が
ついてみたら、自分がどこにもないということにもなりかねない。

 中学生や高校生を見ていると、そういう場面に、よく出あう。

 もう15年ほど前のことだが、ある日、1人の男子高校生が私のところへやってきて、
こう聞いた。

 「先生、東京のM大学(私立)と、H大学(私立)とでは、どっちが、カッコいいでし
ょうかね。(結婚式での)披露宴でのこともありますから」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、披露宴での見てくれを心配していた。つまりその高
校生は、「何かを学びたい」と思って、受験勉強をしていたわけではない。実際には、勉強
など、ほとんどしていなかった。その一方で、現実の自分に気がついていたわけでもない。

 学力もなかったから、だれでも入れるような、M大学とH大学を選び、そのどちらにす
るかで悩んでいた。つまりこれが、(世間的自己)である。

+++++++++++++++++++++++

 これら(自己概念)(現実自己)(世間的自己)の三者は、ちょうど、三角形の関係にあ
る。

 (自己概念)も(自己評価)も、それほど高くないのに、偶然とチャンスに恵まれ、(世
間的自己)だけが、特異に高くなってしまうということは、よくある。ちょっとしたテレ
ビドラマに出ただけで、超有名人になった人とか、本やCDが、爆発的に売れた人などが、
それにあたる。

 反対に(自己概念)も(自己評価)も、すばらしいのに、不運がつづき、チャンスにも
恵まれず、悶々としている人も、少なくない。大半の人が、そうかもしれない。

 さらにここにも書いたように、(自己概念)も(現実自己)も、ほとんどゼロに等しいの
に、(世間的自己)だけで生きている人も、これまた少なくない。

 理想的な形としては、この三角形が、それぞれ接近しているほうがよい。しかしこの三
角形が肥大化し、ゆがんでくると、そこでさまざまなひずみを引き起こす。ここにも書い
たように、精神は、いつも緊張状態におかれ、ささいなことがきかっけで、不安定になっ
たりする。

++++++++++++++++++++++

 そこで大切なことは、つまり親として子どもを見るとき、これら三者が、子どもの心の
中で、どのようなバランスを保っているかを知ることである。

 たとえば親の高望み、過剰期待は、子どものもつ(自己概念)を、(現実自己)から、遊
離させてしまうことに、なりかねない。子ども自身の自尊心が強すぎるのも、考えもので
ある。

 子どもは、現実の自分が、理想の自分とあまりにもかけ離れているのを知って、苦しむ
かもしれない。

 さらに(世間的自己)となると、ことは深刻である。もう20年ほど前のことだが、毎
日、近くの駅まで、母親の自動車で送り迎えしてもらっている女子高校生がいた。「近所の
人に制服を見られるのがいやだから」というのが、その理由だった。

 今でこそ、こういう極端なケースは少なくなったが、しかしなくなったわけではない。
世間体を気にしている子どもは、いくらでもいる。親となると、もっといる。子どもの能
力や方向性など、まったく、おかまいなし。ブランドだけで、学校を選ぶ。

 しかしそれは不幸の始まり。諸悪の根源、ここにありと断言してもよい。もちろん親子
関係も、そこで破壊される。

 ……と話が脱線しそうになったから、この話は、ここまで。

 そこであなた自身は、どうか。どうだったか。それを考えてみるとよい。

 あなたにはあなたの(自己概念)があるはず。一方で、(現実自己)もあるはず。その両
者は、今、うまく調和しているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかしもしそうで
ないなら、あなたは、今、ひょっとしたら、悶々とした毎日を過ごしているかもしれない。

 と、同時に、あなたの(世間的自己)をさぐってみるとよい。「私は世間のことなど、気
にしない」というのであれば、それでよし。しかしよくても悪くても、世間的自己ばかり
を気にしていると、結局は、疲れるのは、あなた自身ということになる。

 (私)を取りもどすためにも、世間のことなど、気にしないこと。このことは、そのま
まあなたの子育てについても、言える。あなたは自分の子どものことだけを考えて、子育
てをすればよい。すべては、子どもから始まり、子どもで終わる。

 コツは、あなたが子どもに抱く(子どもの自己概念)と、子ども自身が抱く(現実自己)
を、遊離させないこと。

その力もない子どもに向かって、「もっと勉強しなさい!」「こんなことで、どうするの!」
「AA中学校へ、入るのよ!」では、結局は、苦しむのは、子ども自身ということにな
る。
(はやし浩司 現実自己 自己概念 世間的自己 世間体)


【つづきは次回……】


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●カルチャー・ショック

++++++++++++++++++

今日、浜名湖を、雄踏(ゆうとう)側から
村櫛(むらくし)海岸まで
歩いてみた。
往復で、ちょうど2時間。
距離にすれば、8〜10キロ。
よい運動になった。

で、その帰り道、ふと見ると、いくつかの
グループが、堤防の手前の空き地で、
サッカーをしていた。
ランニングしている人も、何人かいた。
サイクリングをしている人も、何人かいた。
今ではどこにでもある、見慣れた光景だが、
40年前には、そうではなかった。
たった、40年前、である。

++++++++++++++++++

●驚きの連続

私がオーストラリアへ渡ったのは、1970年。
大阪万博の開かれた年である。

毎日が、驚きの連続だった。
大学生の中には、青いボールペンを使って、青字でメモを取っている
のがいた。
日本では、「ビックス」は、菓子屋で、飴として売られていた。
が、オーストラリアでは、風邪薬だった。
私はカレッジで、乾燥機なるものを生まれてはじめて見たし、
綿棒にしても、そうだ。
ブルーベリーのジャムも、生まれてはじめて食べた。
何よりも驚いたのは、向こうの学生たちが、オレンジを袋単位で
買っていたこと。
日本では、一個売りがふつうだった。

見るもの、聞くもの、すべてが珍しかった。
そんな中、ある日、郊外の友人宅を訪れると、ちょうど土曜日
ということもあって、みなが、戸外でスポーツを楽しんでいた。
その光景を見て、私は、驚いた。
驚いたということは、それまでそういう光景を、日本では
見たことがなかった。

●今でこそ……

今でこそ、日本には、何もかもある。
青いボールペンもある。
綿棒もある。
乾燥機もある。
しかし当時のオーストラリアには、日本にはまだないものが、
山のようにあった。

「サンベイジング(Sun-Bathing)」というのも、そうだった。
まだ春先の寒い日だったが、みなが、サンベイジングに行こうと言った。
今でいう日光浴だが、私はそんな春先に、水着など来たことがない。
言われるままついていくと、海岸で、みなが、日光浴をしていた。

また別の日。
その日は雨が降っていた。
見ると一人の友人が、キャンピングの準備をしているではないか。
「どこへ行くのか?」と聞くと、「キャンプだ」と。
「雨の日に行くのか?」と聞くと、「ぼくは雨が好きだ」と。
オーストラリアは、乾燥大陸。
雨に対する感覚が、私たちのそれとは、ちがっていた。
それはわかるが、「雨の日にキャンプする」という感覚は、日本人の
私には理解できなかった。

ほかにも、ある。
女子学生でブラジャーをしているのは、いなかった。
中には、パンティをはいていないのもいた。
裸に対する感覚も、日本人のそれとは、ちがっていた。

毎日が、この連続。
日本人の私がもっている常識は、ことごとく破壊された。

●常識

で、私はそういう意味では、ラッキーだったと思う。
青年期という、かなり早い段階で、自分の常識を疑うようになった。
このことは、そのあと、日本だけに住み、日本しか知らない人たちの
それとくらべてみると、よくわかる。

私たちがもっている常識などというものは、その国の、その地方の、
その家族の中で、作られたもの。
けっして、世界の常識ではない。
が、そんなことも理解できず、いまだに、その国の、その地方の、
その家族だけにしか通用しない常識にしばられている人は、
ゴマンといる。

が、それだけではない。
それまでの常識をこなごなに破壊された私は、まったく別の常識を、
自分の中でつくりあげることができた。

「できた」というと、大げさな言い方に聞こえるかもしれないが、
今という時代からあの時代をながめると、そう思う。

●職業観

いちばん大きな影響を受けたのが、職業観ということになる。
先日、劇場で、『おくりびと』という映画を見てきた。
よい映画だった。

その中で、1人の男性(公務員)が、主人公の納棺師に向かって、
「まともな仕事をしろ」と言うシーンがあった。
主人公の妻ですら、夫が納棺師であることを知って、家を出る。
こうした職業観というのは、日本独特のもので、世界には、類はない。
日本人は、江戸時代の昔から、職業、それに地位や立場で、その人の
価値を決める。
「私はちがう」と思っている人でも、江戸時代の、あの身分制度という
亡霊を、いまだに引きずっている。

常識をこなごなにすることによって、私は、その向こうに別の常識を
見た。
だから三井物産という会社をやめて、幼稚園の講師になったときも、
まったくといってよいほど、抵抗はなかった。
「やりたいことをする」
「お金に名前はついていない」と。

●意識のちがい

が、そういう常識に縛られている人も、少なくない。
「まともな仕事論」を口にする人は、今でも多い。
しかし(まともな仕事)とは、何か?
そんなものは、今も、昔もない。

たとえば前にも書いたが、オーストラリアでは、銀行員の仕事は、
高卒の仕事ということになっていた(当時)。
日本では、大卒の仕事ということになっていた(当時)。
またオーストラリアでは、4年生の大学の工学部を出た人でないと、
ユンボやブルドーザーを動かすことができなかった(当時)。

さらに私のいちばん仲がよかった友人のD君は、自ら、外交官の
仕事を蹴飛ばしてしまった。
「アメリカやイギリスなら生きたいが、残りの99%の国へは
行きたくない」と。
もともとあの国は移民国家。
「外国へ出る」という意識そのものが、日本人のそれと、180度
ちがっていた。

●偏見との闘い

日本へ帰ってきてからの私は、まず、そうした偏見と闘わねば
ならなかった。
たとえばこの浜松市では、地元の人間の価値を認めなかった(当時)。
何でも、「東京から来た」というだけで、ありがたがった。
田舎根性というか(失礼!)、目が東京のほうばかりに向いていた。
(今でも、その傾向は強いが……。)

逆に、東京の人は、地方の価値を認めていなかった(当時)。
出版社で本を出すときも、地位や肩書きのない私は苦労した。
ごく最近でも、「あなたの本を出してもいいが、○○教授の名前でなら
出してもいいが、どうか?」と打診してきた出版社があった。
40年前の当時には、そうしたインチキが、ごく当たり前のように、
なされていた。

一方、おもしろいことに、東京に住んでいる人は、何でも「外国から来た」という
だけで、ありがたがる。
最近でも、どこかの飲料水会社が、幼児教育を始めるという。
イタリアの幼児教育を、日本へもってくるという。
東京の人たちは、そういう話になら、すぐ飛びつく。

こうした中央集権意識というか、権威主義というのも、やはり日本独特のもの。
それまでの常識を、こなごなに破壊して、はじめてわかる。

●職意識

振り返ってみると、あの当時の常識を、世界の常識と思い込んだまま、
その世界だけで生きてきた人は、かわいそうだと思う。
その世界しか知らない。
そのすぐ外には、まったく別の、もっと広い世界が広がっている。
それにすら、気がつかない。
気がつかないまま、人生を、棒に振った。

たいへん失礼な言い方に聞こえるかもしれないが、多くの人は、
それすら認めようとしない。

で、最近、「職意識」という言葉を耳にすることが多くなった。
「日本人の職意識を変えよう」とか、何とか。
つまり日本人は、「仕事」というと、「就職」、つまりどこかの会社に
入ることしか考えない。
自分で独立して、何かをするということを考えない。

もちろん独立を考える人もいるにはいるが、まだまだ少数派。
いても、親の仕事を引き継ぐ程度。
だからその意識を、根本から変える。
何も大会社に就職して、そこで一生を終えるのが、あるべき人生の
姿ではない。
理想の姿でもない。
そういう人も必要かもしれないが、しかしみながみな、それに従う必要はない。

「私は私」という部分さえ確立できれば、仕事は、そのつぎにやってくる。
その結果として、就職ということもあるかもしれない。
しかし何も就職に縛られることはない。
むしろ『みなと同じことをしていると感じたら、自分が変わるべきとき』
(マーク・トゥエイン)。

あなたがどんな仕事をしていたところで、構わない。
納棺師だって、構わない。
すばらしい仕事ではないか。
もしそういうあなたを笑う人がいたら、反対に笑ってやればよい。
「じゃあ、あなたはどんな人生を歩いているのですか」と。

●再び常識論

私たちがもつ常識といっても、その時代、その時代で、作られるもの。
もちろん今の常識が、正しいというわけではない。
今の常識だって、100年後には、笑い話になるかもしれない。
しかし大切なことは、そういう笑い話になるかもしれないという前提で、
今の常識を、常に疑っていくこと。
けっしてそれを「正しいもの」と思い込んで、立ち止まってはいけない。
立ち止まったとたん、あなたは保守派に変身し、その向こうにある、
もっと広い世界を見失うことになる。

もっとも、それをよしとするなら、それもよし。
しかしそれでは、もったいない。
どうせたった一度しかない人生。
だったら、できるだけ広い世界を見る。
そのほうが楽しいし、おもしろい。

……帰りの車の中で、私とワイフは、そんな会話をした。

私「今では、みな、当たり前のように、ああしてスポーツを楽しんでいる」
ワ「40年前にもあったけど、学校の部活くらいなものだったわ」
私「そうだね。でもね、ぼくが驚いたくらいだから、当時の日本には、
なかったんだよ」
ワ「それだけ日本が豊かになったということ?」
私「そうだろうね」と。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
職意識 職業観 職業の常識 身分制度 就職意識 仕事観)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ひねくれ症状

+++++++++++++++++

心のひねくれた子どもというのは、いる。
10人に1人とか、20人に1人とかはいる。

たとえばこんな会話をする。

私「春になって、気持ちいいね」
子「花粉症になるから、いやだ」
私「そう、それはたいへんだね」
子「たいへんじゃないわよ。苦しいよ」
私「……」と。

あるいは以前、こんな子ども(年長女児)もいた。
私が「今日はいい天気だね」と声をかけると、
キーッとにらみ返して、こう言った。
「いい天気じゃない。あそこに雲がある!」と。

私「雲があっても、いい天気じゃない?」
子「雲があるから、いい天気じゃない」
私「少しくらいあっても、青い空は見えるよ」
子「雲があるから、いい天気とは言わない」と。

++++++++++++++++++++

幼児期から少年少女期にかけて、慢性的な欲求不満がつづくと、それが
抑圧となって、心をゆがめる。
ひねくれ症状もそのひとつ。

私「だれだ、こんなところで水をこぼしたのは!」
子「水じゃ、ない。お茶!」
私「どうしてこぼしたの?」
子「先生が、そんなところに、茶碗を置いておくから悪い」
私「悪いって、こぼしたら、ごめんと言えばいい」
子「わざとじゃないから、謝る必要はない」と。

さらに私は教室では、ノート類はただで渡している。
そのノートをA君(小4)に、「これを使ってね」と言って渡したときのこと。
横にいたB子さん(小4)が、すかさず、こう言った。
「どうせ、100金(100円ショップ)のよ」と。

これには私もカチンときた。
だからB子さんを、たしなめた。
するとB子さんは、こう言った。
「本当のことを言っただけよ。どうして本当のことを言ってはいけないの!」と。

一事が万事。

B子さんが、新しい筆箱をもっていた。
私が「いい筆箱だね」と声をかけると、「安いか高いか、わからないわ」と。
「値段が、わからない」という意味で、そう言った。
すなおに、「うん」とか、「そう」という言葉が出てこない。
そこで私が、B子さんに、「あのね、そういうふうに、相手が言うことを、
否定してはだめだよ」と教えると、すかさずB子さんは、こう言った。
「私は、何も否定なんかしてないわよ」と。

こういうのをパラドックスという。
「否定していないわよ」と言って、相手を否定する。

このタイプの子どもには、一定の特徴がある。

(1)無意識下の言動であるため、「否定している」という意識そのものがない。
(2)自分がまちがえたり、失敗しても、それを最後まで認めない。
(3)「私は絶対に正しい」と思ったまま、カラの中に閉じこもってしまう。
(4)相手の非をすかさず持ち出して、「先生だって、この前……!」と切り返す。

だからこのタイプの子どもと接していると、こちらまで気がへんになる。
相手は子どもなのだが、本気で怒りを覚える。
が、もちろん本人には、否定しているという意識はない。
相手がどうして怒っているかも、理解できない。

「どうして、そんなことで、先生は怒るの!」と言い返してくる。
だから私のほうもムキになって、一言「ごめんと言えばそれですむことだろ」と諭す。
が、それに対しても、「私は何も悪いことをしていないのに、どうして謝らなくては
いけないのよ!」と、言い返す。
こういう状態になると、何を言っても無駄。
そこで強く叱ると、「ごめんと言えばいいのね、じゃあ、言うわよ。『ごめん』」と。

少年少女期に、一度、こういった症状が出てくると、その症状は、おとなに
なってからも、ずっとそのままつづく。
恐らく、老人になって死ぬまで、それがつづく。
ものの考え方の基本として、定着してしまうためと考えてよい。

では、どうすればよいか?

まず、自分に気がつくこと。
そのためには、自分の少年少女期を、静かに振り返ってみる。
不平不満もなく、いつも明るく、すがすがしい毎日を送っていただろうか。
それとも、いつも何か悶々とした毎日を送っていただろうか。
あるいはツッパリ症状があっただろうか。
そういったところから、自分を見つめなおしてみる。

あとは時間に任せるしかない。
10年とか、20年とか、それくらいはかかる。
今日気がついたから、来週にはなおるという問題ではない。
「心」というのは、そういうもの。
だから昔の人は、こう言った。

『三つ子の魂、百まで』と。

大切なことは、あなたはそうであっても、子どもには、そういう不幸な
経験をさせないということ。
愛情豊かで、心の温まる家庭を用意する。
それは子どもをツッパらせないためだけではない。
子どもの心をつくるための、親の義務と考えてよい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●結婚はしてみたけれど……(認知的不協和)

++++++++++++++++

結婚はしてみたけれど、こんなハズではなかった……という
夫婦は多い。
心理学でいえば、「認知的不協和」ということになる。

++++++++++++++++

「個人のもつ認知に矛盾やアンバランスが生じたことを、
アメリカの心理学者のフェスティンガーは、認知的不協和と
名づけた」(大村政男著「心理学」ナツメ社、P172)とある。

日常的によく経験する。

先日もあるところへ旅行した。
その旅行先で、昼食にとある食堂へ入った。
しかし立派だったのは、店構えだけ。
値段ばかり高く、まずかった。

で、その食堂を出て、しばらく歩くと、そこに
行列のできた食堂が何軒かあった。
レジの前には、順番待ちの客が、ズラリと並んでいた。
それを見て、「こういうところで食べればよかった」と、
少なからず、後悔した。
言うなれば、これも認知的不協和?

しかしこれが結婚相手となると、ことは深刻。
子どもができれば、なおさらである。
そういうとき、人間は、認知的不協和から
「脱出」するため、4つのパターンから、
その一つを選ぶ(参考:同書)。

(1)この人しか私にはいないと、自分を納得させ、ほかの人と比較しない。
(2)離婚はしたくないので、がまんする。
(3)相手を育てるのは私と考え、ともに前向きに努力する。
(4)相手のよいところをさがし、それだけを評価するようにする。

この4つのパターンは、「心理学」を参考に、私が適当に考えたものである。
が、結婚生活というのは、実際には、もう少し複雑。
そのつど、この4つのパターンが、交互に、あるいは同時に、夫婦を襲う。
ときに自分を納得させ、ときにがまんし、また別のときには、あきらめる……。
この連続。

が、まずいのは、何と言ってもストレス。
認知的不協和も、ある一定の限度内なら、生活のスパイスとなる。
が、その限度を超えると、とたんにストレスとなって、その人を襲う。
おおまかにいえば、つぎのサイクルを踏む。

(平穏期)→(緊張期)→(爆発)→(沈静期)→(平穏期)……と。

しかしこれもどちらかというと、仲がよい夫婦のばあい。
ずっと(平穏期)のままという夫婦も、(緊張期)のままという夫婦もいるにはいるが、
そういう夫婦のほうが、あ・ぶ・な・い。
ただ周期の長さには、個人差がある。
2〜3か月ごとに(爆発)を迎え、大喧嘩する夫婦もいる。
1〜2年ごとに(爆発)を迎えるという夫婦もいる。
あるいは小刻みなサイクルを繰り返しながら、大きなサイクルを繰り返すという
夫婦もいる。
若い夫婦ほど、サイクルが短いということになるが、それにも個人差がある。

要するに夫婦喧嘩(=爆発)も、しかたの問題ということ。
だから昔から、こう言う。
『夫婦喧嘩は、犬も食わぬ』と。
つまり何でも食べる犬でも、夫婦喧嘩は食べない、と。
「仲のよい夫婦ほど夫婦喧嘩をし、一時的ですぐ和合するから、仲裁に入るのは
愚かである」(広辞苑)という意味。

大切なことは、こう考えること。
どんな夫婦にも、認知的不協和はつきもの。
あとは、どううまくつきあっていくかということ。
それが夫婦ということになる。

(付記)
最近、気がついたが、結果として離婚していく夫婦には、ある共通のパターンがある。
同時にそれぞれが、離婚に向かうというケースは、少ない。
そのとき、先に離婚を覚悟するほうを、離婚側とする。
どちらかというと不本意ながら、離婚をさせられるほうを、被離婚側とする。

ふつうは被離婚側が気がつかないうちに、離婚側が、離婚を覚悟を決めてしまう。
そしてある程度……というか、その覚悟がしっかりできた段階で、離婚側が、
被離婚側に、離婚話を持ち出す。
「離婚する」「離婚させてください」と。

定年離婚と呼ばれる離婚には、こうしたケースが多い。

で、そのときのこと。
離婚側のほうには、微妙な変化が現れる。
相手が夫であれ、妻であれ、(妻であることのほうが多いが……)、

(1)電話などでの応対が、ぞんざいになる。
(2)きめのこまかい交際をしなくなる。(何かものを送っても、礼のあいさつがない。)
(3)小さな悪口を、それとなく会話にまぜる。
(4)軽蔑したような表現が多くなる。
(5)会話の内容が事務的になり、しっくりとかみ合わなくなる。

で、しばらくそういう状態がつづき、部外者が「?」と思っていると、そのまま
離婚……ということになる。
たとえば数年前、私はある知人に電話をした。
その知人は、その町の中心部で事務所を開いたのだが、それがすぐ行き詰ってしまった。
そのことを知っていたので、その知人の妻に電話をしたとき、「ご主人も、たいへんですね」
と私は言った。
それに対して知人の妻は、「……あの人は、何をしても、ドジばっかり……」と。
小さい声だったが、どこか吐き捨てるような言い方だった。

で、あとで知ったのだが、そのすぐあと、知人夫婦は離婚していた。

一般論からいうと、(あるいは私の経験論ということになるが)、年齢が若いときに、
ラブラブの状態で結婚した人ほど、皮肉なことに、認知的不協和は起こりにくい。
一方、晩婚型で、計算高く結婚した人ほど、認知的不協和は起こりやすい。
年齢が高い分だけ、それだけ相手をよく見ているかというと、そうでもない。
あるいは、いくら知ったつもりでいても、人間を知りつくすのは、それほどまでに
むずかしいということ。
このことは、結婚歴40年近い、私にとっても、そうである。
いまだにワイフについて、わからないところがある。
(ワイフにしても、そうだろう。)

だからやはり結婚というのは、電撃に打たれるような衝撃を感じて、何も考えず、
ラブラブのまま、結婚するのがよいということになる。
盲目的な結婚が悪いというのではない。
どうせ、みな、盲目なのだから……。

♪Wise men say, only fools rash in. But I can't help falling love with you…

(愚かモノだけが、結婚に突進すると賢者は言う。しかし私はあなたに恋をするのを
止めることができない……。)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●働いた経験のある女性(母親)、ない女性(母親)

+++++++++++++++++++++

「無私の愛」とは言うが、しかし男性(父親)と、
女性(母親)とでは、とらえ方が、微妙にちがう(?)。

いくら「無私」とはいっても、たとえば、子どもを育てるには、
それなりのお金がかかる。
そのお金についてだが、働いたことがある人と、そうでない
人とでは、お金に対する感覚が、微妙にちがう。
働いている男性(父親)は、それがよいことか、
悪いことかという話は別にして、
そこに金銭的価値を混入する。
働いた経験のない女性(母親)は、金銭的価値をあまり
考えない。

+++++++++++++++++++++

●日本の常識

ときどき男たちの間で、こんなことが話題になる。
「働いたことのある女性(母親)と、働いたことのない女性(母親)は、
微妙にちがう」と。

働いたことのある女性は、(時間)と(金銭)を結びつけることができる。
しかし働いたことのない女性は、それができない。

たとえばその女性(母親)のために何かをしてやったとする。
そのとき、働いたことがある女性は、(してもらったこと)を、
時間や金銭に換算して評価する。
「2時間、働いてもらったから、2000円くらいのお礼はしなければ
ならない」と。
しかし働いたことのない女性(母親)は、それができない。
「相手は、私が魅力的だから(?)、してくれた」と思う(?)。
まあ、そこまでは思わないにしても、たいていにっこりと笑って、
「ありがとう」だけですんでしまう。

私も以前は、いろいろな場面で育児相談を受けていた。
そういうとき相手が職をもった父親だと、そのつど、ポンポンと、
反応が返ってくる。
金銭的な反応だけではない。
何かの協力を申し出られることもある。
「先生、今度、いっしょに釣りに行きませんか」
「いい店がありますから、食事でもどうですか」とか、など。

が、女性(母親)には、それがない。
ないばかりか、金銭感覚そのものが、うとい。
こんなことがあった。

●みやげなし(?)

久しぶりにその人の息子夫婦が、赴任先の仙台から帰ってきた。
3歳になる孫もいっしょだった。
そのときのこと。
息子夫婦は、手ぶらで帰ってきた。
しかしこれは日本の常識ではない。
世界の常識でもない。
そこでその人が、「いくら親子でも、手ぶらで帰ってくるやつがいるか」と、
息子を叱った。

これに息子が猛反発。
「パパは、みやげがほしかったのか!」「そのために、ぼくを呼んだのか!」と。

で、そこへ母親が割り込んできた。
割り込んできて、息子の味方をした。
「見返りを求めるなんて、おかしいわよ!」と。

言い忘れたが、息子夫婦が仙台から帰ってくるについて、旅費は、
すべて父親が負担した。
そういうこともあって、父親もキレた。
「みやげ程度のことを、見返りとは言わない。常識だア!」と。

あなたなら、この話を聞いて、どう思うだろうか?
私は(男性)だから、父親の言い分のほうが正しいと思う。
いくら何でも、手ぶらは失礼。
親子の間でも、失礼。
しかし私のワイフなどは、母親の言い分のほうが正しいと言う。
ワイフも、私と結婚して以来、一度も働いた経験がない。
言うなれば、「お金は天から降ってくるもの」と思い込んでいる。

●当たり前

最近の若い人たちは、独特の考え方をする。
たとえば高校や大学へ行くことについて、それを感謝している若い人は、
まず、いない。
口では「ありがとう」と言うが、それはあくまでも儀礼。
「行くのが当たり前。そのために、親が学費を出すのは、当たり前」と、
そういうふうに考える。

当たり前ということは、当たり前。

一方、父親のほうはどうかというと、いくら「無私の愛」といっても、
そこまで割り切ることはできない。
今、都会へ1人の子どもを大学生として送ると、生活費だけで、1000万円
程度(4年間)はかかる。加えて学費。4年間で、計2000〜3000万円の
出費ということになる。
(これでも実際には、安いほう。)

働いている男性なら、それがどういう額か、わかる。
わかるから、「当たり前」という考え方には、少なからず、抵抗を覚える。
が、女性(母親)には、それがわからない。
とくに働いたことのない女性(母親)には、それがわからない。
子どもといっしょになって、「当たり前よねえ」などと言ったりする。

●親、貧乏盛り

『子ども大学生、親、貧乏盛り』というのは、私が考えた格言である。
子どもが大学生になると、親は、爪に灯をともすようにして、学費を工面する。
懸命に笑顔をつくりながら、「金はあるか? 足りなかったら言えよ」とは、
言うものの、懐(ふところ)のさみしさが、ふと言葉を詰まらせる。

しかしその結果……というより、今の若い人が、どうしてそこまで
ドライに割り切ることができるのか、私には不思議でならない。
中には、「金だけを出せば、それで親の義務が果たせたとでも言うのか」とか、
さらに「日本も、アメリカのような奨学金制度を作ればいいじゃないか」とか、
言う若い人もいる。
だからある父親は、こう言った。

「あのね、親はね、苦労してまで、息子や娘を大学などに出すものじゃ
ないですよ」と。
つまり「出してやっても、むなしいだけ」と。
「損」という言い方には語弊があるが、「損」と。

●学歴は個人的利益(?)

要するに、日本の教育制度が、おかしいということ。
学歴を、個人的な利益と結びつけて考える傾向もある。
だからその負担は、個人、つまり各家庭の親がすべき、と。
本来なら、学歴は、万人のためのものでなければならない。
もっと言えば、頭のよい人は、その頭を、万人のために使ってこそ、
頭のよい人ということになる。

が、この日本では、学歴というのは、あくまでも個人の利益を
追求するための道具でしかない。
だから隣人が、息子の学費で四苦八苦していても、だれも同情しない。
だれも助けない。
また制度そのものも、おかしい。
日本も奨学金制度を拡充すべきだが、いまだにその制度は、貧弱で、
奨学金といっても、「小遣い程度」でしかない。
結局、そのシワ寄せは、大学生をもつ親のところにのしかかってくる。

●私の息子たち

私も3人の息子たちを育てたが、こと学費に関しては、損得の計算を
したことはない。
惜しみなく、出してきた。
出してきたが、今になって、ときどき、「あそこまでやる必要はあったのか」
と思うことはある。
たとえば息子たちに買ってやったパソコンにしても、いつも、私が
もっているのより、高性能のものだった。
家を建てたときも、自分たちの書斎よりも、子ども部屋のほうを優先させた。
しかしそういった親心というのは、少なくとも私の息子たちを見るかぎり、
まったくといってよいほど、伝わっていない。
私の息子たちにしても、どちらかというと、みやげなどもたず、
手ぶらでくるタイプである。

●結論

話は大きく脱線したが、結局は(苦労)を、どのように理解するかということ。
そこに行き着く。
私のワイフも、ときどきこう言う。
「家庭に入った主婦だって、たいへんなのよ」と。
しかし本当に、そうだろうか?
そう言いきってよいのだろうか?

たとえば朝、夫婦喧嘩をしたばあいを考えてみたらよい。
何かのことで、怒鳴りあったとする。
そういうとき女性(母親)は、そのまま部屋に入って、中からカギをかえば、
それですむ。
ふとんをかぶって寝ていれば、それですむ。
しかし仕事をしている男性は、そうはいかない。
どんなに気分が悪くても、身支度を整えて、会社に向かわねばならない。
会社で人に会えば、笑顔を作らねばならない。
それから受けるストレスには、相当なものがある。

だから男性(父親)と女性(母親)とでは、微妙なちがいが出てくる。
いくら「無私の愛」といっても、男性と女性とでは、とらえ方がちがう。
(働いたことのある女性)と、(働いたことのない女性)とでは、
とらえかたがちがう。

「見返りを求めない」といっても、(みやげ)など、見返りにもならない。
私は結婚する前から、またワイフに納得してもらった上で結婚したが、
収入の約半分を、実家に仕送りしていた。
27歳くらいのときから、生活費や法事の費用、さらには商品の仕入れの費用など、
すべて私が負担した。
そういうのを、私の世界では、「見返り」という。
繰り返すが、「みやげ」程度で、「見返り」などと、おおきな顔をしてほしくない。
今の若い人たちには、それを理解するのは、むずかしいことだろうが……。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●ポスト・介護

+++++++++++++++++++

今朝、目を覚ます前に、こんな夢を見た。

実家の店先に、母(08年他界)と、祖父(他界)が
いっしょにいた。
それを見て、つまり母が祖父を見て、こう言った。
「じいちゃんは、もう死んだはずなのに、どうしてここにいるの?」と。
それを聞いて、祖父が照れくさそうに笑った。
私も笑った。
で、私はこう言った。
「母ちゃん、あんただって、死んだはずだよ」と。
それを聞いて、母が笑った。
私も笑った。

で、奥の部屋のほうへ行くと、そこに兄(08年他界)がいた。
兄は、階段の上から、下へおりてくるところだった。
そこへ10人前後の人たちが、ドヤドヤと入ってきた。
どこかの仏教教団の人たちという。
その人たちが、こう言った。
「あんたの兄さんのために、お経をあげさせてくれ」と。
それに答えて、私は「勝手になさるなら、どうぞ」と。
するとその教団の人たちは、レコードをかけ始めた。
「あなたの兄さんが好きだった曲です」と。
私は「?」と思っていたが、かけられた曲は、美空ひばりの『悲しい酒』。
「よく知っているなあ」と私は感心した。

見ると、みなが、どこで集めてきたのか知らないが、サクラの花びらを、
パラパラと空に向かってまいていた。
それが雪のように美しかった。
それを見て、兄が照れくさそうに笑った。
私も笑った。

++++++++++++++++++++

●夢判断

生きているときは、兄の夢など、ほとんど見たことがない。
が、死んでからは、よく出てくる。
母にしても、そうだ。
しかしどういうわけか、兄にしても、母にしても、いつも笑っている。
今朝の夢にしても、そうだ。
死んだ母に、「あんただって……」と言ったとき、母は笑っていた。
「そうやったなあ」というような顔だった。

この話を朝食のときワイフにすると、ワイフはこう言った。
「『ウラメシ〜』と出てこられるとつらいけど、笑って出てくるというのは、
いいことね」と。

●介護

母の介護にしても、兄の介護にしても、金銭的な負担は、すべて私がした。
いろいろそのつど、思ったことはあるが、グチをだれかに告げたことはなかった。
ワイフにすら、告げたことがない。
だいたい、グチぽいことすら、考えたことがない。

兄が廊下でクソを落としたときも、むしろ笑って、それを始末することができた。
母の便の始末は、すべて私がした。
しかしそれを「イヤ」と思ったことは、一度もない。

介護というのは、そういうもの。
「イヤ」と思えば、負担になる。
受け入れてしまえば、何ともない。

ただ兄にせよ、母にせよ、施設に入ったときには、解放感を覚えた。
しかしその解放感とて、予想していたものではない。
施設へ入ったあと、それまでの介護が、ウソのように楽になった。
それで解放感を覚えた。

が、それで心理的圧迫感が消えたわけではない。
日帰りの旅行をするときですら、一度、施設に電話を入れて、様子を
聞かねばならなかった。
そういう圧迫感はあった。
が、それとて、母が他界して、はじめてわかったこと。
圧迫感から解放されて、それまでその圧迫感があったことを知った。

●ウラメシ〜

ワイフが言うには、「ウラメシ〜」と、化けて出てこられたら……?
介護の仕方によっては、「ウラメシ〜」と、母や兄が夢の中に出てくることだって、
考えられる。
それは深層心理によるもので、いくら表面的に献身的な介護をしていたとしても、
心の奥がそれにともなっていないばあいには、「ウラメシ〜」となる。
その可能性は高い。

私「ほら、何かの本で読んだけど、あの金xxは、夜な夜な、何かにうなされて
いるそうだ」
ワ「何十万人もの人を殺しているからね」
私「怖ろしいと思うよ。それこそ人影を見ただけで、おびえたりする」
ワ「安眠できないわね」
私「だから一晩中起きて、酒を飲んでいるそうだ」と。

●今、介護で苦労している人へ

これは私からのささやかなアドバイスということになる。
まず、「運命は、受け入れる」。
そのときはいろいろあるだろう。
たいへんなことも、わかる。
しかし運命というのは、受け入れてしまえば、なんでもない。
が、一度逆らうと、運命は悪魔となって、あなたに襲いかかってくる。
ちょっとしたことでも、それが何十倍も、何百倍も、大きな負担となって、
あなたに襲いかかってくる。

ある女性は、痴呆症になった義父が、男性用の小便トイレで、ウンチを
しただけで、パニック状態になってしまった。
ギャーギャーと泣きわめいて、あちこちに電話をかけていた。

私はその話を聞いて、「ぼくのところでは、よくあること」と思った。
幼稚園でも教室でも、子どもたちが、ときどき、それをする。
小便器のほうに、ウンチをする。
庭で放し飼いにしている犬のハナだって、そうだ。
朝起きると、ハナのウンチの世話をするのが、日課になっている。
しかしそうした始末を、不愉快に思ったことはない。
それが「運命」だからである。

●最大限、してやる

近くあの世へ行く人がいたら、できるかぎり親切にしてやるのがよい。
後悔することがあるとするなら、「それをしてやらなかった自分」という
ことになる。

今になって、「もっとやってやればよかった」「ああしてやればよかった」と
思うことはある。
そういう後悔は残さないほうがよいが、しかしそれはだれしも思うことだそうだ。
義姉が、そう話してくれた。

まずいのは、あとで「ウラメシ〜」と出てくるようなことをすること。
幽霊などいない。
それはわかっているが、しかし心の中から消すのも、むずかしい。
いるとするなら、私やあなたの心の奥に、(いる)ということになるが、
そういう幽霊を作らないこと。

もし今朝の夢の中で、母や兄が、それに祖父が、暗く、つらそうな顔を
して出てきたとしたら、それは私自身が罪の意識を感じているからに
ほかならない。
罪の意識が悪夢を作る。
が、幸いなことに、みな、笑っている。
いつも夢の中では、笑っている。
もともとおかしな、どこかひょうきんな家族だった。
それでそういう夢を見る。

それにしても、あのサクラの花びらをまいてくれたのは、どこの教団の
人たちなのだろう。
1人、2人は、見覚えのある人だったが、どこのだれだったかまでは、
思い出せない。
おもしろい夢だった。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●洗脳コマーシャル

++++++++++++++++++

3月8日。
パッとしない日曜日。
曇天。
肌寒い。
体の動きも、鈍い。
体重もふえた。
危険水域の、67キロ弱。
今日は食事を減らし、運動量をふやす。
昼から、浜名湖周辺を歩いてみる。

++++++++++++++++++

ところで昨夜、WBC日韓戦を見た。
結果は、日本のコールド勝ち。
それはそれとして、Aビール会社の
コマーシャルには、驚いた。
表と裏が入れ替わるたびに、Aビールの
コマーシャル、またコマーシャル。
それが繰り返し、流される。
「これでもか!」「これでもか!」といったよう。
野球以上に、Aビールのコマーシャルが、
脳に張りついてしまった。

恐ろしい力である。
「こんなコマーシャルばかり見ていたら、
ビール好きの人はたまらないだろうね」と私。

脳の中で条件反射運動が起こり、みな、
Aビールを買い求めるようになる。
ドーパミンが、線条体をガンガンと刺激する。
そうでなくても、ビール好きの人には、
受容体ができあがっている。
コマーシャルの泡を見ただけで、ググーッと、
ビールが飲みたくなるはず。

いいのかなあ……?
酒もタバコも、基本的には、同じ。
アルコールに、害がないとは言わせない。
みながみな、適度に飲んでいるわけではない。
アルコール中毒、ニコチン中毒という言葉もある。
その先には、薬物依存もある。
タバコのコマーシャルと同じように、
アルコールのコマーシャルも、自粛すべきではないのか。
何も飲まなければ、生きていかれないというようなものでもない。

私の知人にも、ヘビースモーカーならぬ、ヘビードリンカー
という人が、何人かいる。
30代、40代のころは、それがわからなかった。
が、50代になると、その(ちがい)が、はっきりしてくる。
どこかふつうの人たちとは、ちがう。

飲んでないときも、ろれつが回らない。
繊細な会話ができない。
それに会話のスピードが、かみ合わない、など。
「ア〜〜、ウ〜〜、アウ〜〜、エ〜〜」という、
間投詞でもない、感動詞でもない、うめき声も
多くなる。
「ア〜〜、エ〜ト、ソノ〜、ですナ〜、私イ〜〜」と。
つまり脳みその機能が、低下する。

ところでそのコマーシャル。

(1)感覚的なものであればあるほど、よい。
(2)繰り返し流せば流すほど、よい。
(3)理屈ぽいものは、だめ。かえって逆効果。
(4)有名人を使えば使うほど、よい。

昨日見たAビールのコマーシャルは、この基準を
すべて満たしていた。
つまり、基準通りの、コマーシャル。
あのコマーシャルで、いったい、どれだけの人が
洗脳されたことか。
おまけにコールド勝ち。
否応なしに、コマーシャルの効果は高められたはず。
店先で、Aビールを見ただけで、ググーッと、
「勝った」という快感(?)が、よみがえってくる。
思わず、Aビールに手がのびる。

「いいのかなあ?」
「いいはずないよなあ……」と思いつつ、テレビから離れた。

(補記)
みなさん、
みなさんは、「私は私」と思っているかもしれませんが、
みなさんは、いつもだれかに、そして何かに操られているのですよ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
テレビコマーシャル コマーシャルの効果 マスメディア 洗脳 洗脳コマーシャル
条件反射 線条体)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●『おくりびと』(A Japanese Movie "Okuri-bito", a film given an Oscar.)

++++++++++++++

少し無理をして、映画『おくりびと』を、劇場で見てきた。
「無理をして」というのは、時間がなく、
あれこれ仕事をやりくりして、という意味。

星は、3つの★★★。
笑った。
何度か、ゲラゲラと、口を押さえて笑った。
しかし涙の部分は、ついていけなかった。
映画の最初の部分で、結末が予想できてしまった。
「この映画は、父親の葬儀をしなければ、しめくくれないぞ」と。
そんなわけで、涙がポロポロ……というわけにはいかなかった。

++++++++++++++

「オスカー受賞作品だぞ。どうしてそれが星が3つなのだ!」と、
叱られそうだが、だからこそ、あえて星は3つにした。
(5つもつけたら、私が賞に迎合したことになる!)

全体に、劇団ぽさが残る映画。
演技がおおげさで、りきみ過ぎ。
納棺師という職業をけなす風呂屋の男にしても、
また葬儀屋の女事務員にしても、顔と表情だけで演技している。
最後に、父親の遺体を棺桶におさめる男たちの演技も、わざとらしい。
脇をかためる俳優たちが、もう少し、自然に演技していれば、
星は4つ。

あとは画像が暗く、予算もかけていない。
「どこか発展途上国の映画」という印象ももった。

もう一言。
死んだ父親が、息子(納棺師)がくれた石を握ったまま
死んでいたという話は、デキスギ。
どこか『一杯のかけそば』風。
「お涙、頂戴」という重要なシーンだが、このシーンは、
映画の途中で、予想できてしまった。

似たような映画に、『マジソン群の橋』がある。
最後のシーンで、フランチェスカが、ロバートの遺品から、
メモを見つけて涙をこぼすシーンがある。
あのときは予想していなかっただけに、涙を誘った。

……とまあ、けなしてばかりいてはいけない。
日本映画の中では、群を抜いてよい映画であることは事実。
劇場まで足を運んで見る価値は、じゅうぶんある。

実のところ、その2日前に、ウィル・スミスの『7つの贈り物』を見た。
その疲れが残っていたのかもしれない。
頭の中で、2つの映画が、ダブってしまった。
『7つの贈り物』も、似たような「お涙、頂戴映画」だが、
これも、星は3つの、★★★。
あえて比較するなら、『7つの贈り物』は、おとなの映画。
『おくりびと』は、おとなになる前の、未成熟なおとなの映画。
セックスシーンだけを見ても、それがわかる。

今週は、いよいよ『オーストラリア』を見る。
楽しみ。
待ってましたア!


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●王と女王(論)(King & Queen)

+++++++++++++++++

シロアリのおもしろい生態が、また
ひとつ、新たに明らかになった。

シロアリの世界には、(王)(女王)
(兵アリ)(働きアリ)の4種類がいる。
それについては、よく知られている。
で、その(女王)についてだが、女王アリは、
「単為発生で自分の分身を産むこともある」
ということがわかった。
読売新聞は、つぎのように伝える(09年
3月)。

『女王の命は永遠? 日本に多いシロアリ「ヤマトシロアリ」の女王は、自分の死後の後
継者となる新女王を、王と交配しない単為発生で産むことを、岡山大の松浦健二准教授(昆
虫生態学)らが発見した。新女王はこれまで、王と女王の娘と考えられてきたが、実は自
分自身の"分身"で、女王の座を守り続けていた。17日から盛岡市などで始まる日本生態学
会で発表する』(以上、読売新聞)と。

わかりやすく言えば、女王は、王と交配しなくても、
自ら、女王を産むこともあるという。
それを「単為発生」という。
もっとわかりやすく言えば、王とのSックスなしで、
自分の分身を産む。

ほかの王、兵アリ、働きアリは、王と女王との交配によって
生まれるが、女王だけは、ちがう。

さらに記事には、こうある。

++++++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++++++

シロアリは最初に1匹ずつの王と女王が巣を作り、働きアリや兵アリ、生殖能力を持つ羽
アリなどを産む。

 松浦准教授らが、ヤマトシロアリの生態や遺伝子を詳しく調べたところ、女王は通常、
王と交配して産卵するが、うち2〜5%は単為発生で産み、それが新女王になることがわ
かった。

 巣が大きくなると、働きアリなどを増やす必要が出てくるが、女王だけでは産卵数が不
足しがちになると、新女王たちが王と交配し、家族を増やす。20〜30年生きる王に比
べて女王の寿命は5〜10年と短いが、分身がさらに分身を産むため、巣が存続する限り、
初代女王と同じ遺伝子の女王が君臨し続けることになる。

++++++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++++++

記事をよく読むと、「単為発生する女王もいるが、
もちろん王と交配して生まれる女王もいる」ということがわかる。
まっ、ごちゃごちゃ!
それにしても、おもしろい世界だ。

人間の世界にたとえるなら、妻が勝手に自分の分身を作って、
自分の仕事を手伝わせるようなもの。
夫のほうにすれば、古い女房が死んでも、また新しい女房が
そこにいるわけだから、いつまでも、新しい女房と、
新婚生活を楽しむことができるということになる。
これなら女房の寿命が、夫の3分の1〜4分の1でも、
かまわない。

が、ここで私は、重大なことに気がついた。
(おおげさかな?)

●王と女王論

人間は、勝手に「王」とか、「女王」とかいう名前をつける。
が、もちろん、シロアリが、それを意識しているわけではない。
またそういう上下意識があるわけではない。
上下関係があるわけでもない。

そこで私は、ハタと考え込んでしまった。
「王アリ」とか「女王アリ」とか呼ぶが、それは正しくないのでは
ないか、と。
女王アリについて言えば、「卵を生産する生産アリ」と呼ぶ方が、
正確ではないのか。

王アリにしても、そうだ。
実際には、「種アリ」。
「種馬」の「種」と同じ。
もっと言えば、「生殖アリ」。
毎日、毎晩、Sックスをして、子どもをつくってばかりいる。
一見、うらやましく見えるが、けっして楽な世界ではない。
そういうアリを、「王」とか、「女王」とか、呼んでよいものか。

が、私たちは、「王」とか、「女王」とかいう言葉にまどわされる。
人間世界における「王」や「女王」を、そのままその言葉の上に重ね合わせてしまう。
王アリだから、すごいとか、女王アリだから、すごいとか。
しかしもし私がシロアリなら、兵アリや働きアリのほうが、
よっぽど気が楽。
Sックスはできないが、できないからといって、どうということはない。

……と考えて、また私は、新しい事実に気がついた。

●Sックス論

健康な男女なら、みな、Sックスが好きなはず。
Sックスを嫌う人はいない。
が、「好き」とか、「嫌い」とか言っても、自分でそう考えて、
そう思っているわけではない。
脳の奥深くから発せられる、信号によって、そう思わされて
いるだけ。
操られているだけ。

少し考えてみれば、それがわかる。

男にしても女にしても、生殖器官というのは、排泄器官の
すぐ横にある。
小便と生殖器官は、いっしょくたになっている。
あのあたりは、臭いし、汚い。

「汚い」という言い方にも、問題があるが、ともかくも汚い。
そういう感覚を乗り越えなければ、Sックスなどできない。
よほど強い命令がなければ、Sックスなどしない。
「臭いからいやだ」とか、「汚いからいやだ」とか、
そんなことを言っていたら、おしまい。
Sックスをしなければ、つまりその時点で、人間は、
絶滅することになる。

だから毎日、毎晩、Sックスばかりしている、王アリや
女王アリを、うらやましいと思ってはいけない。
考えてみれば、それはたいへんなこと。
もしそれこそ、1時間おきに妻から、Sックスを求められたら、
あなたならどうする?
体がもたない。
しかしそれが王の仕事というのなら、私なら、
さっさと王の座をおりる。

●「汚い」とは?

さらに新しい事実を発見!
先に、排泄器官は、「汚い」と書いた。
しかし「汚い」という言葉ほど、主観的なものはない。
何をもって、人は、「汚い」といい、「汚くない」というのか。

若くて健康的な男女なら、そしてムードが盛りあがってくれば、
相手の生殖器官を、一晩中でも、なめていたいと思うだろう。
そういうとき、そこが汚い場所とは、だれも思わない。
臭(にお)いすら、気にならなくなる。

汚いといえば、バイ菌やウィルスのついた食器のほうが、
よっぽど汚い。
しかしバイ菌やウィルスは、目には見えない。
いくらそこにあっても、それを「汚い」と思う人はいない。

こうして考えてみると、「汚い」というのは、人間がもつ
文化性と、深く関わっているのがわかる。
つまり人間が、勝手に、そう思い込んでいるだけ。
現に、人間のクソを、おいしそうに食べる動物や虫は、
いくらでもいる。
(反対に、人間だって、魚介類のクソを、「うまい」と
言って食べているぞ。)

●人間の勝手

話を戻す。
王アリにしても女王アリにしても、人間が勝手に、そう位置づけているだけ。
人間の王や女王にしても、そうだ。
Sックスにしても、それが楽しいことだと思っている人も多いが、
そう思い込まされているだけ。
「汚い」という言葉にしても、そうだ。
いわんや、王は偉いとか、女王は偉いとか、そんなふうに考えるのは、
おかしい。
上下意識にしても、そうだ。
人間が、勝手に、自ら、そう作りあげているだけ。

またSックスについて言えば、私は50歳を少し過ぎたころ、
男女の区別ができなくなってしまった。
あとで聞いたら、それが男性の更年期症候群のひとつと知った。
が、同時に、私は性欲から解放された。
あのとき感じた解放感は、ほかにはない。
言いかえると、そのとき、私は、それまでの私が、
いかに性の奴隷であったかを知った。
そんなわけで、Sックスができるから、幸福とか、できないから不幸とか、
そんなふうに考えるのは、正しくない。

シロアリの生態についての記事を読んでいて、私は、そんなことを
考えた。
それにしても興味深い世界ではないか。
ホント!

(注:BLOGでは、使用禁止用語というものが、あります。
その用語を使うと、原稿のアプロードそのものができません。
そこであの行為を、「Sックス」と表記しました。
「Sックス」というのは、「人間の交尾行為」を言います。)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●信頼関係

++++++++++++++++++++

教育は親と教師、子どもと教師の間の
信頼関係にはじまり、信頼関係に終わる。
信頼関係がなかったら、教育の基盤
そのものが、崩壊する。
教育そのものが、成り立たない。

++++++++++++++++++++

●要するに安心感

では、信頼関係とは何か。
要するに、安心感ということになる。
親の側の安心感だけではない。
教師の側の安心感もある。
が、その信頼関係が崩れると、冗談すら言えなくなる。
そういった状態になる。
間に子どもをはさむため、些細な冗談でも、
誤解が誤解を生み、それがとんでもないほうに、進んでしまう。
そういう例は多い。

が、それだけではない。
教師がいちばん困るのは、親に、「最近、うちの子は
どうでしょうか?」と聞かれること。
そういう質問を受けると、戸惑ってしまう。
何をどの程度まで答えてよいのか、それがわからない。
まさかそういうとき、「○○さんは、学習障害の
心配があります」などと言うことはできない。
で、そういうときは、すかさず、教師の側から、
さぐりを入れる。
「おうちでは、いかがですか?」と。

その内容に応じて、教師も、親の質問に答える。
そのプロセスを怠ると、たいへんなことになる。

で、その信頼関係には、段階がある。
概して言えば、教師という立場にある人は、親を
信用していない。
年配の教師であればあるほど、そうではないか。
仮に9人の親と信頼関係を結ぶことができても、
残り1人の親が、その信頼関係を粉々に破壊する。
そこで教師は、「やっぱり、親は信用できない」
となる。

それに親といっても、10人いれば、みな、ちがう。
生活基盤もちがえば、教養もちがう。
性格もちがえば、教育観もちがう。
心の問題をかかえた親も多い。
だから教師は、最大公約数的な範囲で、親とつきあう。
つまり人間関係を縮小する。

●「バカと何よ!」

こんな例がある。
ある小学校で、ある教師が、ある母親と、何かの会合の
資料の整理をしていた。
そのときはふだんと変わらない、和気あいあいとした
雰囲気だったという。
で、そのとき、ふと、その教師が、こうもらした。
「今、塾へ、週に3つも、4つも子どもを通わせている、バカな
親がいる」と。

「バカ」という言葉を使ったのがまずかった。
一方、いまどき、3つや4つ、塾へ通っている子どもは、
珍しくない。
で、この話は、数日のうちに親たち全員に伝わってしまい、
それこそ大騒動になってしまった。
「バカとは何よ!」と。

結局その教師は、任期途中で、他校へと転校していくことになった。
が、もしこの段階でも、教師と親の間に、信頼関係が
できていれば、それほどまでにおおごとにはならなかったはず。
ただの世間話、もしくは雑談として、その場で終わったはず。

●信頼関係の構築

一方、親の側も、教師を信頼していない。
とくに何か問題のある子どもの親ほど、教師を信頼していない。
これは教育の宿命のようなものかもしれない。
ある教師(小学校)は、こう話してくれた。

「できる子どもの親は、学校や教師を信頼してくれる。
できない子どもの親ほど、学校や教師を信頼してくれない」と。

信頼関係のあるなしも、子どもの(でき・ふでき)で決まるらしい。
しかしそれが親心というものか。

●では、どうするか?

「おかしい?」「へん?」と思ったら、すぐ確認すること。
学校なり、教師に、直接連絡するのがよい。
間に人を置かない。
これは学校や教師との信頼関係を構築するときの、
大原則と考えてよい。
それには、いくつかのコツがある。

(1)子どもの前では、学校や先生の批判は、タブー。

子どもの前では、学校や先生の批判は、タブー。
批判をするなら、子どもの耳には届かない、別の世界で、する。
また子どもが学校や先生の悪口を言ったときも、そうだ。
けっして相槌を打ってはいけない。
相槌を打てば、今度はそれが親の言葉として、学校や教師に
伝わってしまう。

親は「子どもは何も言わないだろう」と思っているかも
しれないが、子どもというのは、隠しごとができない。
こういった話は、ほぼ100%、学校や教師に伝わると考えてよい。
子どもが、たとえば先生の悪口を言ったら、すかさず、
「あなたたちが悪いからよ」と、それをたしなめる。
これは子どものためでもある。
親が先生を批判したりすると、子どもは、その先生に、
それ以後、従わなくなる。
つまり教育の基盤そのものが、崩壊する。

(2)子どもどうしのトラブルは、1にがまん、2に様子を見て、
3に、1、2歳年上の子どもをもつ親に相談する。

子供どうしで何かトラブルがあったときは、1にがまん。
2に様子を見て、3に、1,2歳年上の子どもをもつ親に相談する。
たいてい「うちも、そうでしたよ」というような返答をもらって、
そのまま問題は解決する。

(3)親どうしのつきあいは、如水淡交。

園によっては、親どうしの交流を勧め、たとえば子どもの
預かりを、相互にしているところもある。
親どうし、4〜5人で1組のグループをつくり、
その間で、相互の子どもを預かり、寝泊りさせているという。
「他人の家で、他人の釜の飯を食べるのは必要」という
ことでそうしているが、危険な側面がないわけではない。

そこまでする必要があるのかという疑問。
また園が、そこまで家庭に干渉してもよいものかという疑問。
親どうしの交流を深めるなら、子どもが通っている
幼稚園(学校)とは別の幼稚園(学校)に通っている
子どもの親とするのがよい。
親どうしの問題は、一度こじれると、それはそのまま
そのまま子どもの世界に入り込んでしまう。
そこで「如水淡交」。
幼稚園(学校)の行事は、水のように、かつ淡々とする。
親どうしのつきあいは、水のように、かつ淡々とする。

(4)負けるが勝ち

教師とのトラブルにせよ、親とのトラブルにせよ、
『負けるが勝ち』。
ほかの世界ならともかくも、間に子どもがいることを
忘れてはいけない。
大切なことは、子どもが楽しく、幼稚園(学校)へ
通うこと。……通えること。
友だちと仲よく過ごすこと。……過ごせること。
また負けることによって、あなた自身を大きくする
ことができる。
そういうことも考えて、『負けるが、勝ち』。
親がカリカリして、子どもによい影響を与えるはずはない。

最後に一言。
信頼関係というのは、1か月や2か月、半年や1年で、
構築できるものではない。
1年単位のつきあいの中で熟成されるもの。
だからあせらないこと。
ジタバタしないこと。
まずしっくりと周囲を観察する……そんな心構えも、
子どもの教育には、欠かせない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●みんな孤独(Loneliness)
Everybody is lonely, but the cause itself is inside himself. We mistake what is important 
to be not important or what is not important to be not important. The wider world is 
just beyond yourself.

+++++++++++++++++

ある母親が、私にこう言った。
「私は、孤独です」と。

私はその言葉に、はっと驚いた。
そうまで自分の心をすなおに表現できる人は、
そういない。

が、その母親だけではない。
みな、そうだ。
本当のところ、私だって孤独。
懸命に隠してはいるが、孤独。

その孤独。
孤独ほど、怖しいものはない。
あのイエス・キリストでさえ、孤独に
苦しんだという(マザーテレサ)。

+++++++++++++++++++

なぜ、私たちは孤独なのか。
理由も、原因も、実は私たち内部にある。
もっとはっきり言えば、私たちそのものが、その原因を作っている。
しかしそれに気がつかない。
気がつかないまま、右往左往している。

が、問題は、なぜ孤独かではなく、どうしてそれを作り出している
原因に気がつかないか、ということ。
日々の生活の中で、その生活に追われるあまり、大切なものを、
大切でないと思いこみ、大切でないものを、大切と思いこんで
しまっている。
そのため、孤独の原因そのものが、わからない。
見えない。

地位や名誉のむなしさは、言うに及ばない。
いくら豪華な生活をしたからといって、孤独を癒すことはできない。
むしろかえって孤独になる。
が、そういうものを、大切なものと思いこんでしまっている。
だから孤独の原因がわからない。

ふと気がついてみると、そこには、だれもいない。
ゆいいつの希望は、「明日になれば……」と思うこと。
しかし明日になっても、明後日になっても、来年になっても、
そこには、だれもいない。

端的に言えば、私たちの生きざまそのものが、狂っているということ。
その(狂い)に気がつかないまま、それを「よし」と受け入れてしまっている。

たとえば、ほんの30年前には、観光バスに乗れば、まずみなが、
自己紹介をした。

ほんの50年前には、乗り合いバスに乗れば、見知らぬものどうしでも、
会話を始めた。

今は、それがない。
みな、自分のことしか、考えていない。
自分の家族のことしか、考えていない。
いつも「得か、損か」、そんなことしか考えていない。

孤独と闘うためには、まず失ったものを取り返すこと。
何が大切で、何がそうでないかを、見極めること。
それをしないでおいて、「私は孤独」は、ない。

みな孤独だが、その孤独は自ら作りあげたもの。
自ら孤独の世界に、自分を追い込んで、その中で右往左往しているだけ。
そのすぐ外には、広い、広い、どこまでも広い世界がある。
それに気がつかないでいるだけ。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●3月2日(月曜日)

++++++++++++++++++++

このところ花粉症による症状が、出ている。
目がかゆい、鼻水が出る。
それほどひどくはないが、しかし不快。

++++++++++++++++++++

●田丸謙二先生(Mr. Kenzi Tamaru, the great scholar)

昨夜は遅くまで、先生のビデオの編集をしていた。
先生は、若いときに、奥さんを亡くされた。
昨日も、奥さんの写真を見ながら、「長い間、待たせてごめんね」と
言っていた。
さみしそうだった。
で、奥さんの写真を、ビデオにまとめることにした。

それを今朝、完成させた。
そのままYOU TUBEにUPLOAD。
アドレスを、先生に送る。

すぐ返事が届いた。
「何度も見ていると、心が温まってきます」とあった。
うれしかった。
先生に喜んでもらえた。
みやげにもらった「はとサブレー(鎌倉の銘菓)」を
食べならが、メールを読んだ。

来週から、先生のHPの整理を始める。
私のもうひとつの仕事。
それは先生の名前を、永遠に残すこと。
インターネットを利用すれば、それができる。


●オープン・オフィス(open Office)

私はずっと、ワープロソフトに、MS社の「ワード」を使ってきた。
しかし値段が高い。
最小構成でも、2万円前後もする(パソコンショップでのバルク品)。
正規に買えば、もっと高額。

そこで少しずつだが、オープン・オフィスを使い始めている。
無料のソフトである。

が、驚いたことに、ことワープロに関するかぎり、ワードで編集した
原稿を、そのまま読み書き、訂正できる。
それだけではない。
使い勝手も、ワードよりも、よい。

現在、オープン・オフィスは、V3・0まで、無料配布されている。
ほかにも無料ソフトとして、「ゾーホー」や「ロータス・シンフォニー・
1・2」などがある。

どうしてこんなソフトが無料で使えるんだろ?

……と思いつつ、これからは、少しずつ、ワードからオープン・オフィスに移行
していく。
1、2年で、オープン・オフィスに乗り換える。
何といっても、タダ(無料)というところが、魅力的。
同時に、こう思った。

「今まで、1台ごとに、パソコンにMSオフィスを購入していた自分が
バカみたい」と。

なおオープン・オフィスでは、MSオフィス2007のファイルが、
自由に読み書きもできる。
エクセル、パワーポイントと同等の、「カルク」「インプレス」のほか、
「ベース(データベース)」「ドロー(描画ソフト)」も付随している。
もちろん2000、XP、ビスタに対応。
PDF機能までついているので、オープン・オフィスを導入していない
相手にも、原稿を送ることができる。

オープン・オフィスのダウンロードは、
http://ja.openoffice.org/
より。

(補記)

オープン・オフィスの使い方としては、2台目用として、導入するのが
よいのでは?
メインパソコンには、MSオフィスを導入しておき、(何といっても、
まだ主流だから)、2台目のパソコンから、オープン・オフィスを
導入する。

●たった「30メートル」!

K国がまたまたわけのわからないことを言い出した。
アメリカ軍の兵士が、国境を侵害しているという。
そこで「われわれは、戦争をする準備を整えている」と。

が、K国の言い分を読んで、思わず笑ってしまった。
「アメリカ軍の兵士が、30メートルも領土を侵害した」※と。

別のところには、「傲慢なアメリカ軍が、100メートルも領土を侵害した」と
ある。

私は、「30キロ」「100キロ」のまちがいではないかと思った。
30キロとか、100キロなら、まだ話もわかる。
しかし30メートル(?)。
100メートル(?)。
仮に100メートルにしても、そんな程度のことで、戦争までする
必要があるのか。
またそれによって、いったい、どんな法益が守られるというのか。

似たような話だが、こんなことを耳にした。

私の近所に、「道路」にたいへんうるさい老人がいる。
どこかの工事車が道に止まっただけで、すぐパトカーを呼びつける。
先日も、ある人が、その老人に告発された。
(これは本当の話!)

理由は、角から、2メートル60センチにところに、車が停車したから、と。
交通法規では、角から3メートル以内には、車を止めてはいけない
ことになっている。
つまり「40センチ、違反している」と。
(そのあたりは、団地の奥で、駐車禁止区域にはなっていない。念のため。)

その老人は、写真まで撮って、それを浜松市の中央署に送り届けた。
が、一応、法規違反は、法規違反。
警察としても、無視するわけにはいかなかったらしい。
仮に3メートルにしても、そんな程度のことで、告発までする必要があるのか。
またそれによって、いったい、どんな法益が守られるというのか。

どこか頭のおかしい人は、そういうことが平気でできる。
つまり現在のK国も、その老人と同じ。
たかが30メートルや、100メートルくらいのことで、ギャーギャーと
大げさに騒ぐほうが、おかしい。
狂っている。
狂っているから、そのおかしさが、わからない。

では、どうするか。

あの国は、世界に相手にしてもらいたい。
もらいたいがため、騒いでいる。
だったら、無視すればよい。
「敵がしてほしいことを、しない」、
「敵がしてほしくないことを、する」。
これが国際政治の常識。

K国のミサイルを、迎撃ミサイルで撃ち落すという話もあるが、
そんなことをしてはいけない。
する必要もない。
ああいう国だから、へたに撃ち落せば、そのあと何をしてくるか
わかったものではない。
昔から、『XXXXに刃物』とも言う。
その危険があるから、ここは忍耐。
ただひたすらがまん。
静観。

日本は、国際の場に、K国のミサイル問題を持ち出せばよい。
世界を味方に、K国を締めあげればよい。
もともと相手にする価値などない。
いっしょに心中しなければならないような、相手でもない。

わかったか、AS首相!
早まったことを、するな!

(注※)韓国・聯合ニュースは、つぎのように伝える(090302)。

++++++++++一部、抜粋+++++++++++++

『……1月5日と21日に、米軍が西海地区北南管理区域の軍事境界線から30メートルの
ラインまで入り、われわれの哨所に向かって写真を撮り、軍事境界線を通過する車両を監
視した』と説明した。このほか、年初から2月20日まででも66回にわたり、人員62人と
車両58台が、北南管理区域の軍事境界線から100メートルの地点に入り、勝手に動き回っ
たと主張している』

++++++++++以上、聯合ニュースより+++++++

●無益の世界

+++++++++++++++++

よく、「毎日原稿を書いていて、収入が
ありますか?」と聞く人がいる。
実は、昨日も、田丸先生が、そう聞いた。

しかし無私無欲で書いているから、楽しい。
だれにもコビを売らず、好き勝手なことが
書ける。
この「自由さ」こそが、大切。
おもしろい。

+++++++++++++++++

では、収入は、どうするか?
老後は、どうするか?
そういう心配はあるにはあるが、そのときは、そのとき。
いさぎよく死ねばよい。
自殺するということではないが、それ以上に
大切なことは、この世に未練を残さないこと。
それまでに、自分を燃やして燃やして、燃やし尽くす。
「死」は、あくまでもその結果としてやってくる。
死を怖れる必要など、まったくない。

どうせ、裸で生まれた体。
死ぬときも裸。
だったら今も、裸で生きればよい。

ワイフもこう言っている。
「お金がなくなったら、家と土地を売ればいいわよ」と。
しかし家と土地がなくなれば、住むところがなくなってしまう……。
そうなれば、あとは、死ぬしかない。
「死」は、あくまでも結果としてやってくるというのは、そういう意味。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●健康診断(Health Check)

++++++++++++++++++

健康診断の結果が届いた。
肝機能検査の1つが、「C」だったほかをのぞいて、
オール「A」。
今年から、前立腺がん+大腸がんの検査もふやした。
こちらも、「A」と、「−」。
前立腺がんは、H大医大の、O先生に勧められて、した。
(O先生、ちゃんとしましたよ!
O先生というのは、PSA検査法を最初に日本に紹介した人である。)

++++++++++++++++++

肝機能検査については、ワイフもまったく同じ結果が出たので、
心配していない。
悪玉コレステロールが、少し多いらしい。
2人とも同じように多いということは、食生活が原因(?)。

「C」というのは、「かかりつけの医院へ行くまでもないが、
しばらく様子をみてほしい」というのである。
ということで、しばらく様子をみることにする。

……ということで、たぶん、今年1年は、だいじょうぶだろう。
健康で過ごせるだろう。
検査結果が届くたびに、そう思う。
ありがたいことだ。
とにかく、健康第一。
この大不況。
生き延びることだけを考えて、前に進む。
(少し、おおげさかな?)


●鎌倉(Kamakura)

今日は、「歩こう会」で、鎌倉まで行ってきた。
建長寺から北側ルートを大きく迂回して、八幡宮まで歩くコースだった。
しかし私とワイフは、建長寺からそのまま南へ。
扇が谷の田丸謙二先生の家に向かった。
先生の自宅は、建長寺から見て、ちょうど山ひとつ分を超えたところにある。
そんなわけで、約束の時刻よりも、2時間も早く、着いた。

今度先生は、足の関節に、人工関節を入れるという。
歩くたびに、右足が痛そうだった。

おかげで予定より、2時間以上も余計に、先生の話を聞くことができた。
が、話題はどうしても、老後論になってしまう。
先生も、「娘たちに迷惑をかけたくない」とさかんに言っていた。
しかし私たち老人族は、生きていること自体、みなに迷惑をかける。
辛らつな言い方をすれば、私たち老人族は、そのときがきたら、
さっさと死ぬのがよい。
しかしそれができないから、苦しい。
生きるのはむずかしいが、死ぬのは、もっとむずかしい。
それが老後というもの。

そうそう先生は、さかんに、私の生活を心配してくれた。
先生から見ると、私のような一匹狼が生きていかれること自体、
不思議でならないらしい。
その気持ちはよくわかる。
うれしい。
しかしどっこい。
私は生きてきたし、生きているし、これからも生きていく。
心配の種や不安なことはたくさんあるが、それはだれにだって、ある。
ない人は、ない。
またそれがあるから、人生は楽しい。
人間は楽しい。

が、今日もさみしかった。
別れるとき、目頭がジンときた。
今度会えるのはいつのことだろう。
そう思ったら、目頭がジンときた。

鉄製の門を閉めたあとは、そのまま振り返ることもなく、
扇が谷をあとにした。


●「抑圧」(pressure)

+++++++++++++

昨日、「抑圧」について書いた。
強烈な欲求不満がつづくと、人(子ども)は、
その欲求不満を、心の中の別室に押し込んで、
それから逃れようとする。
が、それでその欲求不満が解消されるわけではない。
10年とか、20年とか、さらには40年とか、
50年たっても、それが何らかのきっかけで、
爆発することがある。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

++++++++++++++++++

が、こうした「抑圧」は、形こそちがえ、また
大小のちがいもあるが、だれにでもある。
あなたにもある。
私にもある。

だから、何かのことで不満を感じたら、そのつど、
外に向かって吐き出すのがよい。
けっして、心の中にためこまない。
徒然草の中にも、『もの言わぬは、腹ふくるるわざなれ』※
とある。
「言いたいことも言わないでいると、腹の中がふくれてくる」
という意味である。

が、その程度ですめばよい。
ひどいばあいには、心に別室ができてしまう。
本来なら楽しい思い出が上書きされ、不愉快な思い出は消える。
しかし別室に入っているため、上書きされるということがない。
そのまま、それこそ一生、そこに残る。
そして折につけ、爆発する。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

そして10年前、20年前の話を持ち出して、相手を責める。

こうした抑圧された感情を解消するためには、2つの
方法がある。

ひとつは、一度、大爆発をして、すべて吐き出す。
もうひとつは、原因となった、相手が消える。
私のばあいも、親に対していろいろな抑圧があるにはあった。
しかし父は、私が30代のはじめに。
母は、昨年、他界した。
とたん、父や母へのこだわりが消えた。
同時に、私は抑圧から解放された。

親が死んだことを喜んでいるのではない。
しかしほっとしたのは、事実。
それまでに、いろいろあった。
ありすぎてここには書ききれないが、それから解放された。
母は母で、私たちに心配をかけまいとしていたのかもしれない。
しかしどんな生き方をしたところで、私たちは、それですまなかった。
「では、お母さんは、お母さんで、勝手に生きてください。
死んでください」とは、とても言えなかった。

人によっては、「朝、見に行ったら死んでいたという状態でも
しかたないのでは」と言った。
が、それは他人のことだから、そう言える。
自分の親のこととなると、そうは言えない。
いくらいろいろあったにせよ、家族は家族。
いっしょに生きてきたという(部分)まで、消すことはできない。

話が脱線したが、抑圧は、その人の心までゆがめる。
そういう例は、ゴマンとある。
大切なことは、心の別室を作るほどまで、抑圧をためこまないこと。
言いたいことも言えない、したいこともできないというのであれば、
すでにそのとき、その人との人間関係は終わっている。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●知性と通俗

あの夏目漱石も、「知性と通俗」のはざまで、一時、苦しんだ。
小説『こころ』にも、それが表現されている。
たとえばいくら高邁な思想や理念、知性や理性をもっていても、
ときとして、親子、兄弟の醜い騒動に巻き込まれてしまうことがある。
はからずも、そのレベルで、ものを言ったり、騒いだりすることがある。

親の介護問題、遺産の相続問題がからむと、人はさらに通俗的になる。
それこそ知性も理性もかなぐり捨てて……ということになってしまう。
言い換えると、欲望という本能は、それほどまでに強力であるということ。
それを前頭前野だけでコントロールするのは、むずかしい。
むずかしいというより、不可能。
あの夏目漱石ですら、それに苦しんだ。

私の知っている人にも、元国立大学の教授という人がいる。
そんな人でも、ささいな土地の争いに巻き込まれて、隣人と、怒鳴りあいの
大喧嘩をしている。
その人は、ほかに数百坪単位の土地(すべて先祖譲りだったが……)を、
市内のあちこちにもっていた。
にもかかわらず、大喧嘩(?)。
その元教授は、道をはさんで、相手の男性に、「バカヤロー」「コノヤロー」と
罵声を浴びせかけていたという。
それを見た人は、こう言った。
「まるで、暴力団どうしか何かの喧嘩みたいでした」と。

では、どうするか?

2つの方法がある。

(1)それまでに、日ごろから自分の文化性を高めておく。
(2)だれしもそういう問題をかかえている、あるいは人間には、そういう
弱点があるという前提で、自分の姿を、客観的にみる。

できればそういう騒動が起きないよう、前もって準備しておく。
それも今を生きている親の努めかもしれない。

それにもうひとつ。

こうした問題を、親類の間で見聞きしても、あなたは介入しないほうがよい。
仮にうまくいっても、またいかなくても、この種の騒動に巻き込まれると、
大きな(しこり)を残す。
たいていのばあい、あなたとその人たちとの人間関係も、あぶなくなる。
それぞれの家族には、それぞれの複雑で、外からはわからない事情がある。
いくらあなたが想像力を働かせたところで、理解できない部分がある。
だから、身近にそういう問題をかかえた家族や、親類がいたとしても、
そっとしておいてやることこそ賢明。

これは、私という経験者からのアドバイスと思ってもらったらよい。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●危機状況の韓国経済

++++++++++++++++++++

自国の経済誌が、自国の経済を批判している
間は、その国の経済は、安定していると
みてよい。
08年の夏ごろまでの韓国が、そういう状況だった。
しかし08年の終わりごろから、韓国の新聞各紙は、
自国の経済を批判しなくなった。
とくに東亜N報は、それまで歯に衣(きぬ)を
着せない言い方で、韓国経済を批判していた。
が、それ以後、パタリとそれをやめた。
韓国経済は、確実に悪化している。

+++++++++++++++++++++

話をわかりやすくしよう。
たとえばあなたが1億円の貯金をもっていたとする。
A銀行の貯金通帳には、ちゃんと1億円と、その金額が記載されている。

が、もしその1億円が、借金によるものだとしたら……?
あなたは別のB銀行から、1億円を借り、その1億円を、
そのA銀行に記帳していたとしたら……?
はたしてあなたは、それを胸を張って、「これは私の
金融資産です」と言えるだろうか。

韓国がもっている外貨準備高がいくらであるにせよ、
韓国の外貨準備高のうち、102%が、(全額以上だぞ)、
短期外債によるという(エコノミスト)。

「短期外債」というのは、通常、1年以内に返済しなければならない、
外国からの借金をいう。
つまり「借金」。
それが102%もあるという。

韓国という国は、たいへんおもしろい国で、短期外債のような借金まで、
資本収支の上で、つまり「収入」として計上してしまう。
「外国からの借金」を、「外国からの投資」と位置づけているからである。
だから、先に書いたようなことが起こる。
「借金」と「投資」は、見た目には同じでも、中身はまるでちがう。
借金は、借りた人が返済しなければならないもの。
投資は、そのお金を出した人が、(危険負担)をする。

イギリスの週刊誌「エコノミスト」は、つぎのように伝えている。

++++++++++++++

『イギリスの週刊誌「エコノミスト」は先月26日付で「ドミノ理論」という見出しの記
事を掲載し、「今年韓国では外貨準備高に対する短期対外債務の比率が、102%を超え、
新興国17カ国のうち南アフリカ共和国、ハンガリーに次いで、ポーランドとともに通貨
危機に陥る可能性が3番目に高い」と報じた。韓国を国家デフォルトの危機に陥った東欧
のポーランド並みに評価したものだ。

 これに対し金融委員会は直ちに説明資料を示し、昨年末現在で短期対外債務(1511
億ドル)は外貨準備高(2012億ドル)の75%で、今年に入りその比率は低下してお
り、報道は事実と異なると反発した。しかし、3日後の1日付フィナンシャル・タイムズ
は、「韓国の流動対外債務(1年以下の短期対外債務と今年満期が到来する長期対外債務の
合計)が1940億ドルに上り、2000億ドルという外貨準備高と比較すれば、アジア
で最もぜい弱だ」

++++++++++++++

ファイナンシャル・タイムズも、「2000億ドルの外貨準備高のうち、1940億ドル
が、短期外債である」と、書いている。

外貨準備高は、よく国の貯金にたとえられる。
それはまちがいない。
しかしそのうちの大半が、借金によるものとするなら……?

これに対して韓国政府は、猛烈に反論している。
「3月末に満期が来る短期外債は、たいしたことはない」
「3月危機説は、外国のマスメディアのでっちあげ」と。

が、実態はどうか?
韓国は今、借金に借金を重ねる、自転車操業を繰り返している。
これを危機と言わずして、何という?
あの中央N報ですら、つぎのように書いている。

『……外国人の流出懸念vs外為制度改善=外国人の保有債券のうち今月に満期を迎える
のは3兆ウォン(約1860億円)を超える。ここに国内の銀行が返さなくてはならない
外貨借入金も8兆6000億ウォンに達する。外国人が受け取る配当金2兆ウォンも国内
にとどまらずに流出する可能性がある』(090303)と。

しかし笑ってばかりはいられない。
短期外債、その借金を貸している国が、この日本だからである。
もし韓国がコケるような事態になれば、日本の銀行団も、そのままあぶない。
日本は、韓国に、あまりにも深入りしすぎた! ……してしまった!

「世界で3番目に、あぶない国、それが韓国」(エコノミスト)というのは、
事実と考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

老後は、孤独との戦いと言ってもよい。
が、この孤独という大敵は、ごまかすことはできても、
消すことはできない。
いつも、そこにあって、じっと私やあなたを見つめている。

が、こう考えては、どうか。
そこに孤独があるのなら、戦うのをやめて、仲よくつきあう。
もともと人間は、孤独な生き物。
孤独であるのが、当たり前。
生きていること自体が、孤独。
そういう前提で、考える。

友がいない。
信頼すべき家族がいない。
それを「孤独」という。
が、仮にいたとしても、それで孤独が癒されるというわけでもない。
友が死んだり、家族が死んだら、どうなるのか。
孤独がかえって、倍加してしまう。

わかりやすく言えば、「孤独」は、「生」と結びついている。
「生」と結びついているということは、同時に「死」とも結びついている。
「死」がどこまでも「孤独」であるように、人は、その孤独から、
解放されることはない。
皮肉な言い方をすれば、人は死んではじめて、孤独から解放される。

孤独というのは、そういうもの。
だからほとんどの宗教は、仏教でも、キリスト教でも、そしてイスラム教でも、
「生」を「あの世」へつなげることで、「孤独」を解消しようとする。
「死」を否定することによって、「孤独」を解消しようとする。

が、私のような人間は、どうなるのか。
仏教徒といっても、形だけ。
キリスト教にしても、イスラム教にしても、まったくといってよいほど、
縁がない。
だいたい、「あの世」とか「来世」とか「天国」というものを、信じていない。
信じたいという気持ちはあるが、見たこともない世界を信じろと言われても、
私には、できない。
だからますます孤独になる。

……ということで、みんな、孤独。
私も孤独。
あなたも孤独。
いくら名誉や地位があっても、また財産があっても、孤独は、孤独。
孤独でない人は、いない。
もし「私は孤独ではない」と言う人がいたら、その人の脳みそを
疑ってみたらよい。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●K国ミサイルの撃墜、反対!(Ignorance is the best policy for us!)
The Minister of Defence as well as the Prime Minister of Japan has announced that 
Japanese Defence Force will shoot down the missile of North Korea. I, however, strongly 
oppose their ideas. North Korea is a "mad dog" and if we did so, Japan and North Korea 
would be under war and they would do more against us. The best policy, which is the 
worst policy for North Korea, is just ignore the missile and in case they launch it, we 
will put the matter under the international conferences. At this moment we are afraid 
that Mr. T.Asso, the Prime Minister of Japan will utilize this cirisis for his own sake to 
maintain his cabinet. (Sorry for my poor English!)

++++++++++++++++

AS首相が、公然とこう言いだした。
「K国のミサイルは、撃墜する」と※。
これに応じて、防衛相まで、「撃墜する」と(3月3日)。

しかし、待ったア!

++++++++++++++++

K国は、世界に、相手にしてもらいたいがため、
ミサイルを発射する。
だったら、相手にしないことこそ、ベスト。
相手にしたとたん、K国の術にはまる。

肝心の韓国の世論は、「日本が撃墜してくれたらいい」と。
K国の攻撃の矛先を、韓国から日本へ転換させることができる。

また中国とロシアは、「人工衛星なら問題はないはず」と
言いだしている(3月2日)。
だったら、なぜK国は、北極に向けて、人工衛星(?)を
発射しないのか?
中国やロシアは、今まで、北極に向けてミサイルを
発射するのを、許してこなかったではないか。

人工衛星なら、北極、もしくは南極に向けて発射するのが、
常識!
どうしてそれを、東に向けるのか?

一方、AS首相は、今、大ピンチ。
支持率も、10%そこそこ。

今、ここでミサイルを迎撃すれば、そのまま日本とK国は、
戦争状態に突入する。
しかしそれこそ、AS首相の思うつぼ。
その緊張を理由に、AS首相は、さらに政権の座に居座る。

数日前にも書いたが、K国など、相手にしてはいけない。
また相手にしなければならないような国ではない。

たかがガラクタに近いロケットではないか。
そんなロケットを迎撃するために、数十億ドルもするミサイルを、
何発も打ち上げて、どうする?

まるで木彫りの船を沈めるために、数千万円の爆弾を使うようなもの。
これを税金の無駄遣いと言わずして、何という。

ここはK国のしたいようにさせながら、そのあと国際世論を、
反K国にもっていく。
K国にとっては、最悪のシナリオということになる。
が、同時に、それは日本にとっては、最善のシナリオ。

K国も死に体なら、AS首相も死に体。
死に体どうしが、真正面からぶつかったら、どうなるか?
今、日本は、たいへん危険な状況にある。
一部の国粋主義者たちの唱える、愛国心(?)に惑わされては
いけない。

ここは無視。
ただひたすら無視。
けっしてK国のしかける術にはまっていはいけない。
(09年3月4日記)

(注※)
++++++++++++++以下、朝鮮N報より+++++++++++++++

……日本政府はこの日、北朝鮮がミサイルではなく人工衛星を打ち上げた場合でも、これ
を撃墜するという強硬な姿勢を打ち出した。産経新聞によると、浜田靖一防衛相は「たと
え人工衛星だとしても、日本に落下し人命や財産に重大な被害を与え得る物体に対応して
いくのは当然のことだ」と述べたという。また、日本政府は北朝鮮がミサイルを発射した
場合、国連安全保障理事会の非常任理事国として、新たな制裁措置などの決議案を採択す
ることを検討している。

++++++++++++++以上、朝鮮N報より+++++++++++++++


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●民主党の小沢代表(Dirty Man with Dirty Money)
(Dirty money is dirty, since dirty men grasp it. Is Mr. Ichiro Ozawa a dirty man?)

+++++++++++++++++

私も時期が時期だから、「不公正な国家権力」(小沢氏)の発動かと思った。
しかしマネーの流れを知れば知るほど、これはただごとではないと、わかった。
明らかに不正を承知の上で、しかも小沢氏側の主導で、「正当な献金?」(小沢氏)
がなされている。
今朝は、あちこちのニュース・サイトを、じっくりと読んでみた。

+++++++++++++++++

結果、一言。
「これは、まずい!」

小沢民主党代表は、自分への嫌疑をかわすためか、こう語っている。

『今回の検察の強制捜査は、従来からのやり方を超えた異常な手法。政治的にも法律的に
も不公正な国家権力、検察権力の行使だ』(TBS・NEW−i)と。

しかし説得力は弱い。
それ以上に、その向こうに、底なしの闇を感ずる。
何しろ毎年2500万円、総額3億円!
民主党は、小沢氏を信じて、挙党態勢で戦うと言っている。

『次の衆議院選挙は、ここまできたら、小沢代表のもとで戦う決意を固めるべきだと述べ、
小沢代表のもとでの党内の結束を強く訴えました』(同TBS・鳩山幹事長)と。

しかしそれにしても、汚い。

(1)まずN松建設は、外国で裏金を作る。それを不正な手段で日本へ持ち込む。
(2)その裏金を、社員に分配する。
(3)分配した上、それぞれから回収。それを個人献金の仕立てる。
(4)架空の政治団体を通して、最終的には、小沢第一秘書の手元に。

これだけの金額だから、秘書が横取りしたとは考えにくい。
小沢氏が「正当な献金」と主張しているところをみると、最終的には、そのマネーは、
小沢氏の手元に届いたということになる。

しかし「正当な献金」なら、どうしてこうしたわかりにくい迂回ルートを作らねば
ならなかったのか。
しかもその献金は、小沢氏側からの請求書に基づいて、なされたという。
さらに「胆沢ダム受注工作のためだった」(同TBS)とか。
もしそうなら、これは立派な、贈収賄事件である。

民主党は、小沢氏と運命を共有するつもりらしいが、その程度ですめば、まだよい。
小沢氏をかばえばかばうほど、またその時期がズレればズレるほど、民主党にとっても、
まずい。
本当に、まずい。
致命傷になりかねない。

どこか胡散(うさん)臭い小沢氏だったが、「やっぱり、そうだったのか」というのが、
私の印象。
しかしこれはまさに、氷山の一角(?)。
あまりにも巧妙というか、手なれた感じがする。
N松建設だけで、ここまで考えたというのは、ありえない。
小沢氏側から、「ああしてほしい」「こうしなさい」という指示があったと考えるのが、
自然である。

また小沢氏を懸命にかばっている鳩山幹事長を見ていると、ひょっとしたら鳩山氏も
グルかな(?)と勘繰ってしまう。
そういう意味でも、今回の献金疑惑は、底なしの様相を示し始めている。
自民党もああいう党だから、とても残念な事件である。

なお、最後に一言。
小沢氏は、検察の陰謀説を主張しているが、それを判断するのは、小沢氏自身では
ない。
私たち、国民である。
小沢氏が陰謀説を唱えれば唱えるほど、逆効果。
私たちは、かえって小沢氏を疑ってしまう。
で、もしそうなら、つまり怪しいマネーと認識していたのなら、どうしてもっと早く、
返金していなかったのかということにもなる。
(小沢氏は、正当な献金だったと主張しているが……。)
「これから捜査の成り行きをみて、返金する」では、話のスジが通らない。
本当に正当なマネーなら、そこまで言う必要はない。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【おとなしい子どもほど、心配】(子どもは削って、伸ばす)

●抑圧(Excessive Pressure causes Trauma)

Excessive Pressure against children often makes another rooms in children's minds, 
which causes trauma. 

+++++++++++++++++++++++

よくあるケース。
子どもがその年齢になると、親に向かって、こう叫ぶ。
「こんなオレにしたのは、お前だろ!」
「どうしてオレなんかを、産んだ!」
「オレなんか、産んでもらわなかったほうがよかったア!」と。

ふつうの言い方ではない。
親をはげしい口調でののしり、罵倒する。
今にも親につかみかかりそうな雰囲気で、そう言う。
実際そのとき、子どもに、殴られる親も多い。
さらに、ときにそのまま子どもに殺されてしまうことも……(絶句)。

が、この種の罵倒、暴言で、特徴的なのは、子どもが高校生になっても、
20歳になっても、さらに30歳になっても、40歳、50歳に
なっても、それが「ある」ということ。

ふつうの常識で考えれば、10年前、20年前、30年前の話を
もちだすこと自体、理解できない。
が、それだけではない。
さらに理解できないことは、その間、良好な親子関係があったとしても、
それは、ほとんど意味をもたないということ。
途中の記憶、思い出が、そのままどこかへ吹き飛んでしまう。

ある父親は、ときどき、同じようなセリフで、息子に罵倒さるという。
父親はこう言う。
息子といっても、結婚し、子どもも2人いる。
息子の年齢は、40歳を超えている。

「たしかに私は、けっしてほめられるような父親ではありませんでした。
しかし30年近くも前のことに、どうして息子は、こうまでこだわるのでしょう。
その間に、孫が2人、生まれ、それなりによい人間関係を築いてきた
つもりなのですが……」(G県、UT氏)と。

心理学の世界では、こうした現象を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
抑圧の恐ろしさは、そのときはわからない。
10年とか、20年とか……時の流れを超えて、出てくる。
しかも症状が、はげしい!

++++++++++++++++++++++++

●心の別室

はげしい欲求不満がつづくと、人は、とくに子どもは、心の中の別室につくり、
そこに自分の欲求不満を閉じ込める。
閉じ込めることによって、その場をやり過ごす。 
それがトラウマ、つまり心的外傷となることがある。

よく教育の世界では、「おとなしい子どもほど心配」という。
あとあと何かと問題を起こし、指導がむずかしくなることをいう。
つまり親や教師の前で、従順で、おとなしく、それに素直に(?)従う。
一見、できのよい、ものわかりのよい子どもほど、実は心配。
教師の立場でいうなら、教えやすい子どもに見えるかもしれないが、その分だけ、
心をゆがめる。

ここでいう「抑圧」も、そのひとつ。
人は、そして子どもは心の中に別室をつくり、悶々とした自分を、その中に閉じ込める。
閉じ込めることによって、自分の心を守る。

●無時間の世界

ところで心の世界には、原則として、時間はない。
時間が働くのは、(現実)の世界だけ。
たとえば記憶にしても、よく「古い記憶」「新しい記憶」という言葉を使う。
しかし記憶は、時間的経緯の中で、脳の中に「層」になって蓄積されるわけではない。
てんでばらばらに、それぞれの部分に、蓄積される。

(記憶のメカニズムは、複雑で、未解明な部分も多い。)

だから記憶自体には、時間はない。
「古い記憶」「新しい記憶」といっても、デジカメの写真のように、
日付が書き込まれているわけではない。
記憶のどこかに、(09−02−28)とあれば、2009年の2月28日ということが
わかる。
そうした記録は、記憶にはない。

だから10年前の記憶にしても、それが10年前とわかるのは、その記憶の中の
自分の姿や、まわりの様子からである。
それがなければ、わからない。
つまり古い記憶だから、それなりにセピアカラーになるということもない。
つまりは、記憶が鮮明に残っているかどうかは、そのときの印象の強烈さによって決まる。

●呼び起こされる「抑圧」状態

別室に入った記憶は、何らかのきっかけで、呼び起こされる。
それが強烈であればあるほど、呼び起こされたときの反応も、また強烈である。
同じようによくある例が、夫婦喧嘩。

夫婦喧嘩をしながら、20年前、30年前の話を持ち出す人は多い。
結婚当初のこだわりを持ち出し、「どうしてお前は(あなたは)、あのとき……!」と。

もう一方の側にすれば、とっくの昔に忘れてしまってよいような話ということに
なる。
つまり別室に入っているため、その間に、いくら楽しい思い出があったとしても、
別室に入った記憶については、上書きされるということはない。
ずっとそのままの状態で、残る。

具体的な例をあげてみよう。

私の父は今でいうアルコール中毒者だったが、酒が入るたびに、20年前、30年前の
話をもちだして、母を責めた。
こんなことがあった。(……らしい。)

結婚が決まったときのこと。
母が母の家に来てほしいと言った。
それで父が、母の家に行くと、そこに母の兄弟がずらりと並んで待っていたという。
父はそれに驚いた。
で、そのとき母が、兄弟の側に座っていて、父にみなの前で、土下座させたという。
当時は、板間と、一段高くなった、畳の間に分かれていたらしい。
父は酒が入るたびに、こう言っていた。

「どうしてお前は、あのとき、オレに土下座させたア!」と。
父には、それがよほどくやしかったらしい。

●心の病気

心に別室をつくり、そこの抑圧された自分を閉じ込める。
その抑圧された自分が、時間を超えて、何かのきっかけで爆発する。
自分で自分をコントロールできなくなる。
興奮状態になり、怒鳴り散らしたり、暴れたり、暴力を振るったりする。

今では、それ自体が、(心の病気)として考えられるようになった。
症状からすると、パニック障害に似ている。
精神科にせよ、心療内科にせよ、そういうところへ行けば、立派な診断名を
つけてもらえるはず。

●病識

それはともかくも、この病気には、ひとつ、重大な別の問題が隠されている。
「病識」の問題である。
ほとんどのばあい、そういう自分を知りながら、それを病気と自覚している
人は少ない。
(子どもでは、さらにいない。)
つまり病識がない。
そういう病識のない人に、どうやってその病気であることを自覚してもらうか、
それが問題。

それがないと、ドクターであれば、つぎのステップに進めない。
子どもの指導でも、つぎのステップに進めない。
話し合いそのものが、できない。

だからことこの「抑圧」の問題に関して言えば、本人自身が、そういった心の
問題、つまりトラウマ(心的外傷)に気がつくこと。
そのためにそういった人たちの集まる会に出たり、あるいは、私が今、
ここに書いているようなことを自分で読む。
そして自分で自分の中の、(心の別室)に気がつく。

それに気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
自分で自分をコントロールできるようになる。
ドクターにしても、薬で治せるような病気でないため、結局はカウンセリング
で、ということになる。

●「抑圧」自己診断

つぎのような症状があれば、心の別室があると判断してよい。

(1)ふだんはそのことを忘れている。
(2)しかし何かのきっかけで、時間を超えて古い過去をもちだし、パニック状態
になる。理性的なコントロールがきかなくなる。
(3)そのときの記憶が、つい数時間前のできごとであるかのように、鮮明に
呼び戻される。そのときの怒りや不満が、そのまま出てくる。
(4)その過去にこだわり、相手を罵倒したり、相手に暴言を吐いたりする。
ときにはげしい暴力行為をともなうこともある。
(5)パニック状態が終わり、再びふだんの生活にもどると、何ごともなかったかの
ように、また日常的生活が始まる。

診断名については、ドクターに相談して、つけてもらったらよい。
ここでは、「心の病気」とだけしておく。

●子どもの世界では

これで「おとなしい子どもほど心配」という言葉の意味をわかってもらえた
と思う。
子どもというのは、そのつど、言いたいことを言い、したいことをする。
それが子どもの(原点)ということになる。

強圧や威圧で、子どもは、一見、おとなしく従順になるが、それはけっして
子ども本来の姿ではない。
またそういう子どもを、理想の子どもと思ってはいけない。
あるべき子どもの姿と思ってはいけない。

まず好きなように、ワーワーと自己主張させる。
それを原点として、年齢とともに、少しずつ軌道修正していく。

以前、私は『子どもは削って伸ばせ』という格言を考えた。
つまりまず、四方八方に伸ばすだけ、伸ばす。
その上で、好ましくない部分については、削りならが修正していく。
けっして子どもを、盆栽のように、最初から、小さな箱の中に、閉じ込めてはいけない。
この格言の真意は、ここにある。

幼児教育においては、とくに大切なポイントのひとつということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
パニック障害 抑圧 心の別室 子どもの暴言 暴力 抑圧された心 抑圧の暴走 
はやし浩司 子どもは削って伸ばす 心的外傷 心的外傷後ストレス障害 トラウマ
幼児期のトラウマ)

(補記)
私の教室(BW教室)では、子どもたちに言いたいことを言わせ、したい
ことをさせる。
そこからまず、指導を始める。
具遺体的には、大声で、自分の言いたいことを表現させる。
この時期、(心の状態=情意)と(顔の表情)が、一致している子どもを、
「すなおな子ども」という。
うれしいときは、うれしそうな顔をする。
悲しいときは、悲しそうな顔をする。
そうした表情を、自然な形で表現できる子どもを、「すなおな子ども」という。
まず、そういう子どもにすることを目指す。

子どもを抑えるのは、簡単。
伸ばすのは難しいが、抑えるのは簡単。
抑えるのは、子ども自身にそれだけの抵抗力ができてから、ということになる。
年齢的には、年長児の終わりごろ。
それまでは、まず四方八方に伸ばす。

こうした子どもの様子は、私のHPの「BW公開教室」で、見ることができる。
一度、参考にしてみてほしい。
一見騒々しく見える教室だが、子どもたちの伸びやかな様子に、どうか注目!

はやし浩司のHP:
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
→(BW公開教室)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●女性のおしゃべり

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今日、あるレストランへ行ったら、
そこで、7、8人の女性たちのグループが
食事をしていた。

うるさいのなんのいったら、なかった。
ギャ−ギャー、ゲラゲラ、ワッハハハ……、
ペチャペチャ、クチャクチャ、キャーキャー、と。

よく見られる光景である。
傍若無人(ぼうじゃくぶじん)とは、まさに
そういう女性たちのことをいう。
そこでいつもの、私の観察が始まった……。

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Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【無知という罪悪】(改)

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メキシコの作家の、Carlos Fuentes
は、こう言った。

Writing is a struggle against silence.

「書くことは、静寂との闘いである」と。

たしかにそうだ。

何ごともなく、無難に過ごそうと思えば、
それはできる。ひとり、静かに、小さな
部屋の中に、閉じこもっていればよい。

しかし人は、書くことによって、ものを
考え、考えることによって、生きること
ができる。

無知は、それ自体が、罪悪。

この言葉を知ったとき、数年間に書いた
原稿のことを思い出した。

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【無知という「罪悪」】

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「私は知らなかった」では、すまされない。
それが子どもの世界。

無知は、罪悪。そう考えるのは、きびしい
ことだが、しかし親たるもの、親としての
勉強を怠ってはいけない。

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 これだけ情報が濃密に行きかう時代になっても、その情報の外に住んでいる人たちがい
る。自ら情報の外の世界に身を置くことにより、彼らの言葉を借りるなら、「情報がもつわ
ずらわしさから、自分を解放するため」だ、そうだ。

 しかし無知は、今の時代にあっては、罪悪と考えてよい。「知らなかった」では、すまさ
れない。とくに相手が子どものばあい、親の独断と偏見ほど、こわいものはない。症状を
こじらせるだけではなく、ばあいによっては、取りかえしのつかない状態に、子どもを追
いやってしまう。

【ケース1】

その母親は、静かで、おとなしく、従順な子どもほど、「できがいい」と信じていた(?)。
そう信じていたかどうかは、実のところ、はっきりしないが、そのように考えていたこ
とは、子ども(女児・年中児)の指導ぶりを見ていれば、わかる。もともと静かで、…
…というよりハキのない子どもだった。ときにほんの少しでもハメをはずしたりすると、
それを強く叱ったりしていた。

 母親自身も、依存性の強い人だった。こうした依存性は相互的なもので、依存性の強い
子どもをみたら、母親自身も、そのタイプの人と考えてよい。つまり母親が依存的であれ
ばあるほど、子どもの依存性に甘くなる。結果として、子どもも、依存性の強い子どもに
なる。その子どもは、何かできないことや、うまくいかないことがあったりすると、すぐ
「ママ〜、ママ〜」と言って、泣きべそをかいたりしていた。

そういう子どもを見て、その母親は、一方で子どもを抱き寄せながら、同時に、顔をしか
めて叱ったりしていた。が、ここにも書いたように、正すべきは、母親自身のほうにある。

 で、私はそれとなくその子どもの問題点を告げようとした。その子どもは、集団教育の
場では、いい子ぶり、それだけ無理をしていた。子どもらしい、伸びやかさがない分だけ、
ものごとを内へ内へと、ためこんでいた。これは幼児期の子どもにとって、たいへん危険
な兆候と考えてよい。

が、その母親には、それだけの理解力がなかった。問題意識もなかった。私への信頼感も
薄く、私が感じている問題点にも、関心を示さなかった。そればかりか、「この教室は、う
ちの子どもには合わない」というように感じて、年中児の終わりに、教室を去っていった。

 こういうケースは、多い。多いが、私の立場にも限界がある。ここで「危険な兆候」と
書いたが、こういう状態がつづくと、子どもは外の世界で不適応症状を示すようになる。
わかりやすくいえば、環境に適応できなくなり、たとえばそれが不登園、不登校につなが
ったりする。

さらに従順であることをよいことに、無理な学習を押しつければ、かなり早い段階で、燃
え尽きてしまうことも考えられる。実際、その子どもは、(勉強は、よくできた)。年中児
だったが、文字の読み書きなどは、平均児よりもはるかに、よくできた。それだけどこか
で、教えこんでいたためである。

 で、最後まで、その母親とは、静かに話し合う機会はなかった。先にも書いたように、
私への信頼感も薄く、私をその程度の人間にしか見ていなかった。それが私にもよくわか
った。表面的には、私にはていねいだったが、いつもそこまで。「うちの子どものことは、
私がいちばんよく知っている」という態度で、私を軽くはねのけてしまった。

 子どもを伸ばすコツ……というより、子どもは、まず四方八方に、伸ばしてみる。言い
たいことを言わせ、やりたいことをさせる。その上で、少しずつ枝葉を切り落とすように、
抑えるとことは抑えていく。最初から盆栽よろしく、親の設計図に合わせて、子どもを(作
る)ようなことはしてはならない。何十人も、何百人も子どもを育てたことのある親なら、
そういう設計図をもったとしても、よいかもしれない。しかしそんな親はいない。

 そのために子育てでは、いつも(風通し)を考える。風通しのよい子育てをする。ほか
の親との情報交換をし、またそれを受け入れる。まずいのは、隔離された部屋で、マンツ
ーマンの子育てをすること。「私がしていることが、ぜったい正しい」という、独善的、独
断的な子育てほど、恐ろしいものはない。

言うなれば、これも、無知、無学のなせるわざということになる。


【ケース2】

 A君という年長児の子どもがいた。自閉症と診断されたわけではないが、軽い自閉傾向
があった。一度何かのことで、こだわりを見せると、かたいカラの中に入ってしまった。
たとえば幼稚園へ行くときも、青いズボンでないと行かないとか、幼稚園でも、決まった
席でないと、すわらないとか、など。居間の飾り物を動かしただけで、不機嫌になること
もあった。

そのA君は、虫の写真の載っているカードを大切にしていた。いろいろな種類のカードを
もっていたが、その数が、いつの間にか、400枚近くになっていた。A君は、それを並
べたり、箱に入れたりして大切にしていた。

 が、A君の母親は、それが気に入らなかった。母親は、虫が嫌いだった。また母親が、
カードの入っている箱にさわっただけで、A君は、パニック状態になってしまったりした
からである。

 そこである日、A君が幼稚園へ行っている間に、母親は、そのカードが入っている箱を、
倉庫へしまいこんでしまった。が、それを知ったA君は、そのときから、だれが見ても、
それとわかるほど、奇異な様子を見せるようになった。

 ボーッとしていたかと思うと、ひとり、何かを思い出してニヤニヤ(あるいはニタニタ)
と笑うなど。それに気づいて母親が、カードを倉庫から戻したときには、もう遅かった。
A君は、カードには見向きもしなくなってしまったばかりか、反対に、そのカードを破っ
たり、ゴミ箱に捨てたりした。

 それを見て、母親は、A君を強く叱った。「捨ててはだめでしょ」とか、何とか。私が、
「どうしてカードを、倉庫へしまうようなことをしたのですか?」と聞くと、A君の母親
は、こう言った。「だって、ほかに、まだ、100枚近くももっているのですよ。それに私
がしまったのは、古いカードが入った箱です」と。

 自閉傾向のある子どもから、その子どもが強いこだわりをもっているものを取りあげた
りすると、症状が、一気に悪化するということはよくある。が、親には、それがわからな
い。いつもそのときの状態を、「最悪の状態」と考えて、無理をする。

 この無理が、さらにその子どもを、二番底、三番底へと落としていく。が、そこで悲劇
が終わるわけではない。親自身に、「自分が子どもの症状を悪化させた」という自覚がない。
ないから、いくら説明しても、それが理解できない。まさに、ああ言えば、こう言う式の
反論をしてくる。人の話をじゅうぶん聞かないうちに、ペラペラと一方的に、しゃべる。

私「子どもの気持ちを確かめるべきでした」
母「ちゃんと、確かめました」
私「どうやって?」
母「私が、こんな古いカードは、捨てようねと言いましたら、そのときは、ウンと言って
いました」

私「子どもは、そのときの雰囲気で、『うん』と言うかもしれませんが、本当に納得したわ
けではないかもしれません」
母「しかし、たかがカードでしょう。いくらでも売っていますよ」
私「おとなには、ただのカードでも、子どもには、そうではありません」
母「気なんてものは、もちようです。すぐカードのことは忘れると思います」と。

 私の立場では、診断名を口にすることはできない。そのときの(状態)をみて、「ではど
うすればいいか」、それを考える。しかしA君の症状は、そのとき、すでにかなりこじれて
しまっていた。

 ……こうした親の無知が、子どもを、二番底、三番底へ落としていくということは、よ
くある。心の問題でも多いが、学習の問題となると、さらに多い。少しでも成績が上向い
てくると、たいていの親は、「もっと」とか、「さらに」とか言って、無理をする。

 この無理がある日突然、限界へくる。とたん、子どもは、燃えつきてしまったり、無気
力になってしまったりする。印象に残っている子どもに、S君(小2男児)という子ども
がいた。

 S君は、毎日、学校から帰ってくると、1〜2時間も書き取りをした。祖母はそれを見
て喜んでいたが、私は、会うたびに、こう言った。「小学2年生の子どもに、そんなことを
させてはいけない。それはあるべき子どもの姿ではない」と。

 しかし祖母は、さらにそれに拍車をかけた。漢字の学習のみならず、いろいろなワーク
ブックも、させるようになった。とたん、はげしいチックが目の周辺に現われた。眼科で
見てもらうと、ドクターはこう言ったという。「無理な学習が原因だから、塾など、すぐや
めさせなさい」と。

 そのドクターの言ったことは正しいが、突然、すべてをやめてしまったのは、まずかっ
た。それまでS君は、国語と算数の学習塾のほか、ピアノ教室と水泳教室に通っていた。
それらすべてをやめてしまった。(本来なら、子どもの様子を見ながら、少しずつ減らすの
がよい。)

 異常なまでの無気力症状が、S君に現われたのは、その直後からだった。S君は、笑う
こともしなくなってしまった。毎日、ただぼんやりとしているだけ。学校から帰ってきて
も、家族と、会話さえしなくなってしまった。

 祖母から相談があったのは、そのあとのことだった。しかしこうなると、私にできるこ
とはもう何もない。「もとのように、戻してほしい」と、祖母は言ったが、もとに戻るまで
に、3年とか4年はかかる。その間、祖母がじっとがまんしているとは、とても思えなか
った。よくあるケースとしては、少しよくなりかけると、また無理を重ねるケース。こう
してさらに、子どもは、二番底、三番底へと落ちていく。だから、私は指導を断った。

 子どもの世界では、無知は罪悪。そうそう、こんなケースも多い。

 進学塾に、特訓教室というのがある。メチャメチャハードな学習を子どもに強いて、子
どもの学力をあげようというのが、それ。ちゃんと子どもの心理を知りつくした指導者が
それをするならまだしも、20代、30代の若い教師が、それをするから、恐ろしい。ば
あいによっては、子どもの心を破壊してしまうことにもなりかねない。とくに、学年が低
い子どもほど、危険である。

 テストを重ねて、順位を出し、偏差値で、子どもを追いまくるなどという指導が、本当
に指導なのか。指導といってよいのか。世の親たちも、ほんの少しだけでよいから、自分
の理性に照らしあわせて考えてみたらよい。つまり、これも、ここでいう無知の1つとい
うことになる。

 たいへんきびしいことを書いてしまったが、無知は、まさに罪悪。親として、それくら
いの覚悟をもつことは、必要なことではないか。今、あまりにも無知、無自覚な親が、多
すぎると思うので……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
無知 無知という罪悪 無学という罪悪)


Hiroshi Hayashi++++++++Mar.09++++++++++++はやし浩司

●ほめる

読売新聞に、こんな記事が載っていた。

+++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

乳幼児期に親からよくほめられる子供は、他人を思いやる気持ちなどの社会適応力が高
くなることが、科学技術振興機構の長期追跡調査で明らかになった。育児で「ほめる」
ことの重要性が、科学的に証明されたのは初めて。3月7日に東京都内で開かれるシン
ポジウムで発表する。

 筑波大のAM教授(発達保健学)らの研究チームは、2005〜08年、大阪府と三重
県の計約400人の赤ちゃんに対し、生後4か月、9か月、1歳半、2歳半の時点で成
長の度合いを調査した。調査は親へのアンケートや親子の行動観察などを通して実施。
自ら親に働きかける「主体性」や相手の様子に応じて行動する「共感性」など、5分野
25項目で評価した。

 その結果、生後4〜9か月時点で父母が「育児でほめることは大切」と考えている場合、
その子供の社会適応力は1歳半時点で明らかに高くなった。また、1歳半〜2歳半の子
供に積み木遊びを5分間させたとき、うまく出来た子供をほめる行動をとった親は半数
程度いたが、その子供の適応力も高いことも分かった。

 調査では、〈1〉規則的な睡眠習慣が取れている、〈2〉母親の育児ストレスが少ない、〈3〉
親子で一緒に本を読んだり買い物をしたりすることも、子供の適応力の発達に結びつく
ことが示された(読売新聞090228)

+++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

ほめることは、幼児教育の要(かなめ)である。
それを疑う人は、いない。
しかし……?

こんなことは、すでに大脳生理学の分野で、証明されていることではないのか。
人のやさしさを司るのは、辺縁系の中の、扁桃核(扁桃体)と言われている。
たとえば人にほめられたり、やさしくされたりすると、その信号は、扁桃核に送られる。
その信号を受けて、扁桃核は、エンドロフィンやエンケファリンなどの、いわゆる
モルヒネ様のホルモンを分泌する。
その結果、その人(子どもは)は、甘い陶酔感を覚える。
この陶酔感が、(やさしさ)につながる。

以前書いた原稿をさがしてみる。

++++++++++++++++++

●意思

 最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということ
がわかってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。

 たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手
をのばし、それを取って食べようとする。

 そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。

 が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作ら
れ、あなたは、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」
の中に書いてあるが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているとい
うのだ。

たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前
に、すでに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされ
るという。

 (かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうこと
になる。)

 そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな
電気信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数
的にとらえてしまう。

 ……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かと
いうことになってしまう。

 ……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。
私は、あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。

 やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう
思うだろう。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。

 しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事
をする」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従って
いるだけということになる。

 ……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」
に、さからってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対
の行動をしてみよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。

 「私」とは何か?

 ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我
がある。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分というこ
とか。

 このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。

 50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放され
るといってもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よ
くわかるようになる。

 たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包ん
でいたとする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにち
がいない。

 しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるため
に、性欲の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男
性だって、そうだ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、
それがその男性を動かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。

 「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコン
トロールされている。

 ……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思
で、この原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏
の本は読んだが、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。

 が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
 
 考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何
かの命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしま
う。

++++++++++++++++

そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。

子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。

少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。

++++++++++++++++

●子どものやる気

+++++++++++++

子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

++++++++++++++

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の
中の辺縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが
自分にとって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モル
ヒネ様の物質を分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包
まれる。それはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではない
ようだ。こんな実験がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除
してしまうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているとい
うわけである。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなも
のを好きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝
手に決めてしまうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、
そうした感情ができてしまうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反
応を示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教
室を訪れたとしよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をも
つようになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印
象をもつようになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子
どもは、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、
ますますその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」と
いう言葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしてい
く。反対に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってし
まい、努力の割には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が
分泌される。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみ
よう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があ
るという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミン
にも、同じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノルアド
レナリンを分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P5
9)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まる
ということ。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚
えたか)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(ど
れだけ楽しんだかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁
桃体が、いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると
考えてよい。「好きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、
その子どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、そ
の向こうにある隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしてい
る。何かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせ
る。そういう印象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が
芽生えていくのを、静かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすること
がある。多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児
教育と考えている。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせて
いるその物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずな
い。(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育
のリズムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。
借金にたとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる
気を見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、
子どもを追いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものが
ない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。
しかしこの日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、
たいていの親は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早
い時期に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉
強はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、
その子どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少し
でも伸びる姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわない
こと。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ジャン・ダルジーの詩
(People come and go away, as if nothing had happened.)

+++++++++++++++++++++

学生時代、ジャン・ダルジーという人が書いた詩を読んだ。
感動した。
それで彼の書いた詩のいくつかを暗記した。
どれも、簡単な、短い詩だった。
訳者は忘れた。

で、その詩のことを、40歳くらいのとき、市内で画廊を
開いている友人に話すと、友人が、ジャン・ダルジーの
ことを調べてくれた。
が、「ジャン・ダルジーという詩人そのものが、見つからない」
「ジャン・コクトーのことではないか」と。

私もいろいろ調べてみたが、やはり見つからなかった。
ジャン・ダルジーという詩人は本当にいたのか。
私の記憶ちがいによるものなのか。

ジャン・ダルジーの詩を、ここに思い出してみる。
実際には、この数倍は長かったように思うが、
今、思いだせるのは、ここまで。

++++++++++++++++++++++

●人来りて、また去る

人来りて、また去る。
人来りて、また去る。
かくして、私の、あなたの、彼の、彼女の、
そして彼らの人生は去る。

人来りて、また去る。
人来りて、また去る。
あたかもなにごともなかったかのように。

+++++++++++++++++++++

ヤフーの検索エンジンを使って、(ジャン・ダルジー)を調べてみた。
「ジャン・ダルシーのまちがいではありませんか」と表示された。
そこで「ジャン・ダルシー」を調べていみた。
しかしチョコレート職人などの名前は出てきたが、詩人としてのジャン・ダルシーの
名前は出てこなかった。

やはり私の記憶ちがいによるものなのか。

そこで私は、ジャン・ダルジーの詩をもとに、自分なりの詩を作ってみることにした。

+++++++++++++++++

●人来りて、また去る

そこにあなたはいて、私を見る。
ここに私はいて、あなたを見る。
しかしそれもつかの間。
あなたは、そこを去り、風の中に消える。
私はそれを知り、ふと、身を縮める。

かくして私の人生は、去る。
かくしてあなたの人生は、去る。

振り返っても、そこにあるのは、
冬の乾いた風。
それが円陣を描いて、空に舞う。
「もう2度と会うことはないだろうな」と。
私は一歩、ふとためらいながら、足を前に踏み出す。

ああ、人来りて、また去る。
人来りて、また去る。
あたかもなにごとも、なかったかのように。

+++++++++++++++

人との出会いは、淡くて切ないもの。
別れは、さらに淡く切ないもの。
こうして人は人に出会い、そして別れていく。
振り返ったときには、もう、そこにはだれもいない。
私はただただ、新しい出会いを求めて、
足を一歩、前に踏み出す。
風に舞う、あなたの温もりを、肌で感じながら……。

かくして、私の、あなたの、彼の、彼女の、
そして彼らの人生は去る。

あたかもなにごとも、なかったかのように。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司


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