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2009年     7月号
Essay……
BOX版(ネットストーレッジ)……





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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 7月 31日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●幼児教育のコツ

++++++++++++++++++

幼児を教えるときの、最大のコツは、
教える側が、それを楽しむこと。
「教えよう」という気持ちは、そこそこに。
とにかく、童心に返って、楽しむ。
楽しんで楽しんで、その渦(うず)の中に、子どもを
巻き込んでいく。

あとの判断は、子どもに任す。
どう判断し、それをどう生かすかは、子どもの問題。
教える側の、私の問題ではない。

++++++++++++++++++

●私にとってのBW教室

 「来たくれば来ればいい」「来なくてもかまわない」。
そこまで割り切らないと、幼児教室はつづかない。
子どもに媚(こび)を売っても、無駄。
親に媚を売っても、無駄。 
子どもが親の手を引っ張って、やってくる。
そうでなければ、まず子どもがいやがる。
ついで親も、それを理由にして、やめる。
「子どもがいやがりますから……」と。

 よく職場が苦痛という人がいる。
しかし私のばあい、職場が、ストレス発散の場所。
子どもたちといっしょになって、ワーワーと騒いでいるだけで、気が晴れる。
気分がスカッとする。

 もちろん(仕事)だから、それなりの(効果)は期待される。
が、そこは心配、無用!
子どもたちのほうが、勝手に伸びてくれる。
『楽しく学ぶ子は、よく学ぶ』。
成績のことを書くのは気が引けるが、みな、ぞれぞれの学校でトップクラスの
成績を収めている。
が、それだけではない。
どの子どもも、小中学校で、リーダー格となって、活躍している。

 なぜ、そうなるか?

 それには、一度、『BW公開教室』の動画を見てほしい。
「はやし浩司のHP」→「最前線の子育て論byはやし浩司」→「公開教室」
へと、進んでくれればよい。

 とくに比較してほしいのは、BWへやってきたばかりの年少児、年中児の子ども
たちと、BW教室で、1〜2年、訓練を受けた年長児や小1児の子どもたちの動画。
迫力がちがう。
つまり指導の仕方によって、子どもたちは、ここまで伸びる!

 (たぶんに宣伝ぽいが、そういう下心は、もうない!
自分のしていることに、自信があるから、今回、こうして公開することにした!)

●「やりたい!」「やってやる!」

 子どもの側からみて大切なことは、(やる気)。
何か新しい問題を出したとしよう。
そういうとき、「やりたい!」とか、「やってやる!」とか言って食いついてくれば、
それでよし。
そうでなければ、そうでない。
中には、「やってやろうじやないか!」「林(=私)を負かしてやる!」とか言う子どもも
いる。
そういう子どもは、伸びる。
またそういう子どもにする。

 つまりおとなの優位性を押しつけないように。
またときには、バカな先生のフリをして、子どもに自信をもたせる。
そのサジ加減が、こうした子どもたちの指導の、醍醐味でもある。
おもしろい!

 つまりそういう子どもたちにするから、学校でもリーダー格となって活躍する。
言い換えると、今、そうでない子どもが多すぎる。
飼いならされたペット(失礼!)のような子どもたちばかり。
たくましさそのものに、欠ける。
だからよけいに目立つ。

●2009年6月

 公開教室に、はじめて、ファンメールが届いた。
外山さんというお父さんからのもの。
「娘が、喜んで見ています」と。

 うれしかった。
励まされた。
「とくに女学生の先生が好きです」と。

 私はときどき女学生の先生のフリをする。
それが気に入られたようだ。
だから早速、昨日、そのフリをして動画に収めた。
(公開教室、6月号に収録。)

 実のところ、公開教室と言いながら、子どもたちに見てほしい。
親や教職に就いている人には、見てほしくない。
ぜったい見てほしくないのは、同業者!
とくに幼児教育関係の本を書いている、インチキ・ライターたち!

 先日もネットサーフィンしていたら、どこかの幼稚園の幼児教室が、
私の持論の一つである、『友を責めるな、行為を責めよ』をテーマにして
講座を開いていた。
(『友を責めるな 行為を責めろ』で、検索してみるとよい。
「よ」と「ろ」のちがいだが、どこの幼稚園か、それですぐわかるはず。)

 ほかに『やればできるはずは禁句』というタイトルで、本を書いている人も
いる。
新聞の広告によれば、何10万部も売れているとか。
これも私の持論。
もう20年近くも前に書いた本に、そのまま使っている。
どこのどういう人が、そういうことをしているかも、インターネットで検索して
みればわかるはず。

 こうした持論は、何百人も、何百人も子どもと接してみて、はじめてそこに
浮かびあがってくるもの。
学者や医師が、つかめるような話ではない。

 まだ、ある!

 『いじめられっ子は、やさしくなる』とかいうのもある。
私は、「背中にチョークで落書きされた中学生」を例にあげたが、その本の
中では「カバンにチョークで落書きされた中学生」になっていた。

 偶然の一致?

 どうしてみな、こういうずるいことをするのだろう。
だからそういう連中には、見てほしくない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
友を責めるな、行為を責めよ 友を責めるな 行為を責めろ はやし浩司 
いじめられっ子 チョークでいたずら書き はやし浩司 やればできるはず 
やればできる やればできるは禁句 やればできるはずは禁句)

●6月27日

 少し頭が熱くなった。
今朝の私は、少し神経がピリピリしているようだ。
昨夜寝る前に見たビデオがよくなかった。
殺人がテーマのビデオだった。

 寝る前に、ああいうビデオを見るのはよくない。
寝つきも悪い。
寝起きもよくない。

 それに今朝、体重を計ったら、61・5キロ。
努力した甲斐があった。
かなり血糖値はさがっているはず。
だからピリピリする。
こういうときは、夫婦喧嘩に気をつけよう。

 ……ということで、今日も始まった!


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(17)

●文字の前に運筆練習を

 文字を書くようになったら、(あるいはその少し前から)、子どもには運筆練習をさせる
とよい。一時期、幼児教育の世界では、ぬり絵を嫌う時期もあったが、今改めてぬり絵の
よい点が見なおされている。子どもはぬり絵をすることで、運筆能力を発達させる。

ためしにあなたの子どもに丸(○)を描かせてみるとよい。運筆能力の発達した子どもは、
きれいな(スムーズな)丸を描く。そうでない子どもは多角形に近い、ぎこちない丸を描
く。言うまでもなく、文字は複雑な曲線が組み合わさってできている。その曲線を描く力
が、運筆能力ということになる。またぬり絵でも、運筆能力の発達している子どもは、小
さな四角や形を、縦線、横線、あるいは曲線をうまく使ってぬりつぶすことができる。そ
うでない子どもは、横線なら横線だけで、無造作なぬり方をする。

 ところでクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは、親指、人差し指、それ
に中指ではさむようにしてもつ。鉛筆は、中指の横腹に鉛筆を置き、親指と人差し指で支
えてもつ。鉛筆をもつようになったら、一度、正しい(?)もち方を練習するとよい。(と
くに正しいもち方というのはないが、あまり変則的なもち方をしていると、長く使ったと
き、手がどうしても疲れやすくなる。)ちなみに年長児で約50%が鉛筆を正しく(?)も
つことができる。残りの30%はクレヨンをもつようにして鉛筆をもつ。残りの20%は、
それぞれたいへん変則的な方法で鉛筆をもつ。

 さらに一言。一度あなた自身が鉛筆をもって線を描いてみてほしい。そのとき指や手、
さらには腕がどのように変化するかを観察してみてほしい。たとえば横線は手首の運動だ
けで描くことができる。しかし縦線は、指と手が複雑に連動しあってはじめて描くことが
できる。さらに曲線は、もっと複雑な動きが必要となる。何でもないことのように思う人
もいるかもしれないが、幼児にとって曲線や円を描くことはたいへんな作業なのだ。

 「どうもうちの子は文字がへただ」と感じたら、紙と鉛筆をいつも子どものそばに置い
てあげ、自由に絵を描かせるようにするとよい。ぬり絵が効果的なことは、ここに書いた
とおりである。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(18)

●権威主義は断絶のはじまり

 「私は親だ」というのが、親意識。この親意識が強いと、子どもはどうしても親の前で
いい子ぶるようになる。もう少しわかりやすく言うと、仮面をかぶるようになる。その仮
面をかぶった分だけ、子どもの心は親から離れる。

 親子の間に亀裂を入れるものに、3つある。リズムの乱れと相互不信、それに価値観の
ズレ。このうち価値観のズレの一つが、ここでいう親の権威主義である。もともと権威と
いうのは、問答無用式に相手を従わせるための道具と考えてよい。「男が上で女が下」「夫
が上で妻が下」「親が上で子が下」と。もっとも子どもも同じように権威主義的なものの考
え方をするようになれば、それはそれで親子関係はうまくいくかもしれない。が、これか
らは権威がものを言う世界ではない。またそういう時代であってはならない。

 そこであなた(あなたの夫)が権威主義者かどうか見分ける簡単な方法がある。それに
は電話のかけ方をみればよい。権威主義的なものの考え方を日常的にしている人は、無意
識のうちにも人間の上下関係を判断するため、相手によって電話のかけ方がまるで違う。
地位や肩書きのある人には必要以上にペコペコし、自分より「下」と思われる人には、別
人のように尊大ぶったりいばってみせたりする。

このタイプの人は、先輩、後輩意識が強く、またプライドも強い。そのためそれを無視し
たり、それに反したことをする人を、無礼だとか、失敬だとか言って非難する。もしあな
たがそうなら、一度あなたの価値観を、それが本当に正しいものかどうかを疑ってみたら
よい。それはあなたのためというより、あなたの子どものためと言ったほうがよいかもし
れない。

 日本人は権威主義的なものの考え方を好む民族である。その典型的な例が、あの「水戸
黄門」である。側近のものが三つ葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すると、周囲
のものが皆頭をさげる。ああいうシーン見ると、たいていの日本人は「痛快!」と思う。
しかしそれが痛快と思う人ほど、あぶない。このタイプの人は心のどこかでそういう権威
にあこがれを抱いている人とみてよい。ご注意! 


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(19)

●頭をよくする方法

 もう一五年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」という雑誌に、こんな論文が
載った。「ガムをかむと頭がよくなる」と。この世界ではもっとも権威ある雑誌である。で、
その話を母親たちの席で話すと、「では……」と言って、それを実行する人が何人か出た。

で、その結果だが、たとえばN君は、数年のうちに本当に頭がよくなってしまった。I君
もそうだった。これらの子どもは、年中児のときからかみ始め、小学1、2年になるころ
には、はっきりとわかるほどその効果が表れてきた。N君もI君も、幼稚園児のときは、
ほとんど目立たない子どもだった。どこかボーッとしていて、反応も鈍かった。が、小学
2年生のころには、10人中、1,2番を争うほど、積極的な子どもになっていた。

 で、それからもこの方法を、私は何10人(あるいはそれ以上)もの子どもに試してき
たが、とくに次のような子どもに効果がある。どこか知恵の発育が遅れがちで、ぼんやり
しているタイプの子ども。集中力がなく、とくに学習になると、ぼんやりとしてしまう子
どもなど。

 ガムをかむことによって、あごの運動が脳神経によい刺激を与えるらしい。が、それだ
けではない。この時期まだ昼寝グセが残っている子どもは多い。子どもによっては、昼ご
ろになると、急速に集中力をなくしてしまい、ぼんやりとしてしまうことがある。が、ガ
ムをかむことによって、それをなおすことができる。5,6歳になってもまだ昼寝グセが
残っているようなら、一度ガムをかませてみるとよい。

 なおガムといっても、菓子ガムは避ける。また1つのガムを最低でも30分はかむよう
に指導する。とっかえひっかえガムをかむ子どもがいるが、今度は甘味料のとり過ぎを心
配しなければならない。息を大きく吸い込んだようなとき、大きなガムをのどにひっかけ
てしまうようなこともある。走ったり、騒いでいるようなときにはガムをかませないなど
の指導も大切である。もちろんかんだガムは、紙に包んでゴミ箱に入れるというマナーも
守らせるようにしたい。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(20)

●子どもに子どもの育て方を

 子どもに子どもの育て方、つまりあなたから見れば孫の育て方を教えるのが子育て。「あ
なたがおとなになり親になったら、こういうふうに子どもを育てるのですよ」「こういうふ
うに子どもを叱るのですよ」と。つまり子どもに子育ての見本を見せる。見せるだけでは
足りない。しっかりと体にしみこませておく。

 10年ほど前だが、厚生省が発表した報告書に、こんなのがあった。「子育ては本能では
なく、学習である」と。つまり人間というのは(ほかの高度な動物もそうだが)、自分が親
に育てられたという経験があってはじめて、自分が親になったとき子育てができる。

たとえば一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。人間はなお
さらで、つまり子育てというのは、本能でできるのではなく、「学習」によってできるよう
になる。が、それだけではない。もしあなたがあなたの子どもに将来、心豊かで温かい家
庭を築いてほしいと願っているなら(当然だが……)、今あなたはここで、心豊かで温かい
家庭とはどういうものかを子どもに見せておかねばならない。あるいはそういう環境で子
どもを包んであげる。さらに「父親とはこういうものです」「母親とはこういうものだ」と、
その見本を見せておく。そういう経験が体にしみこんでいて子どもははじめて、自分が親
になったとき、自然な形で子育てができるようになる。

 そこで問題はあなた自身はどうだったかということ。あなたは心豊かで温かい家庭で育
てられただろうか。もしそうならそれでよし。しかしそうでないなら、一度あなたの子育
てを見なおしてみたほうがよい。あなたの子育てはどこかぎこちないはずである。

たとえば極端に甘い親、極端にきびしい親、あるいは家庭をかえりみない親というのは、
たいてい不幸にして不幸な家庭に育った人とみてよい。つまりしっかりとした「親像」が
入っていない。が、問題はそのことではなく、そのぎこちなさが、親子関係をゆがめ、さ
らにそのぎこちなさを次の世代に伝えてしまうこともある。しかしあなた自身がその「過
去」に気づくだけで、それを防ぐことができる。まずいのはその「過去」に気づくことな
く、それにいつまでも振り回されること。そしてそのぎこちなさを次の世代に伝えてしま
うことである。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【精神的一貫性】(Consistency of our Thought)
Can we be the same under any condition of the circumstances? If so, it is OK, but if it 
ins't, it is not OK.)

++++++++++++++++++++++++++++++

「精神的一貫性」というのは、つまり思想的同一性のことをいう。
状況が大きく変わっても、いつも同じ思想をもちつづけることをいう。
簡単に言えば、「信念」ということになるが、信念ともややちがう。
「思想的一貫性」というか、「人間的な一貫性」とか、状況に影響を
受けない「一貫性」をいう。

が、こう書くと、「何だ、そんなことか」と思う人も多いかと思う。
「そんなことなら、だれにでもできる」と。
しかしそう断言するのは、ちょっと待ってほしい。

たとえば暴力団の男性がいる。
それらしい風体に、それらしい服装。
見るからにそういう人と、わかる。
が、そんな人でも、家庭では、よき夫であり、よき父親であったりすることが多い。
常識も通ずる。
冗談も通ずる。
ちょっとふつうの人とはちがうかなという印象を与えるかもしれないが、
(ふつうの人)と、どこもちがわない。
そういう人を見ると、「なんだ、この世には悪人などいない」と、だれしも思う。
(何も暴力団の構成員がみな、悪人と言っているのではない。誤解のないように!)

が、私の言いたいのは、その逆。
そんな(ふつうの人)でも、状況が変わると、コワ〜イ男性に変身したりする。
「泣く子も黙る……」というのは、大げさかもしれないが、そういう男性に
変身したりする。
一喝されただけで、ふつうの人なら、それだけで震えあがる。

家庭ではよき夫であり、父親である。
しかし取り巻く環境が変わると、コワ〜イ男性に変身する。
つまり暴力団のこの男性には、「人間的な一貫性」がないということになる。
(あまりよい例でなくて、ごめん!)

+++++++++++++++++++++++++++++++

●一貫性の確立

 自分の中に、いかにして一貫性を構築するか。
簡単なことのようで、それが難しい。
私たちはそのときどきの(縁)に応じて、変化する。
自分を作り変える。
よい人間に作り変えることもあるが、ときには、(縁)に応じて、悪い人間に作り
変えることもある。

 たとえば私がたいへんよく知っていた人に、KY氏という人がいた。
私が子どものころ、すでに60歳くらいだった。
そのKY氏は、あの関東軍七三一部隊で、教授を務めていた。
(研究部隊ということで、内部では、「教授」という肩書になっていた。)
関東軍七三一部隊がどんな部隊であったかについては、今さらここに書くまでもない。

 が、私が知るかぎり、KY氏は、穏やかで、やさしい人だった。
私が子どものころには、近くの川に魚釣りに連れていってくれたこともある。
碁の打ち方を教えてくれたこともある。
そのKY氏が関東軍七三一部隊の教授であったことは、幸いにも(?)、KY氏が
亡くなってから、10年ほどしたときのことである。
私はそのとき30歳くらいになっていた。

 そのKY氏を思い浮かべながら、いまだに、それが信じられないでいる。
私が知っていたKY氏から、関東軍七三一部隊で教授職をしていたKY氏は、
とても想像できない。
はたしてその両者は、同一人物だったのか。

中国のハルピンでは、関東軍七三一部隊は、身の毛もよだつような悪業を重ねていた。
関東軍七三一部隊では、中国人や朝鮮人、さらにはロシア人まで、生きたまま解剖して
いたという。
教授職だったKY氏が、善人だったとは、とても思えない。
が、日本へ帰ってきてからは、一転、私が知るかぎり、仏様のような人間になっていた!
そういうKY氏を思い浮かべると、「この世の中には悪人はいない」「悪いのは戦争だ」
ということになる。
戦争が、KY氏をして、KY氏のような人間にした、と、
が、同時に、このことを反対に言うと、こうなる。
「どんな善人でも、戦争に行くと、悪人になる」と。

 もしKY氏に一貫性があったら、関東軍七三一部隊に入隊したとしても、
それをよしとしなかったはず。
反対に、日本へ帰ってきてからも、鬼のような人間のままであったはず。
が、そのつど、KY氏は、大きく変化した。
(善人)から(悪人)、その(悪人)からまた(善人)へと。

 つまりこれが私が言う、「精神的一貫性」ということになる。

●ナチスドイツ
 
 ナチスドイツは、あのアウシュビッツだけでも、1200万人以上ものユダヤ人を
虐殺した。
第二次大戦で死んだ日本人が、300万人。
日本人が殺した外国人が、300万人。
合計しても、1200万人には、とても及ばない。

 そういう事実を知ると、日本人なら、みなこう言う。
「私たちは、そういうことはしない」と。
「日本人は、そんな残虐なことはしない」とも。
しかし本当に、そうか。
そう断言してよいだろうか。
少なくともあなたには、そういう自信はあるだろうか。
(残念ながら、私には、ない。)

 もし仮に、東南アジアからの不法移民が、この日本に、100万人単位で住んでいたら、
どうだろうか。
その数が、200万人、300万人……となり、さらに1000万人、2000万人と
なったら、どうだろうか。
しかもそうした不法移民が、日本の経済を牛耳るようになったとしたら……。
彼らは日本の文化風習には同化せず、自分たちの言葉を話し、自分たちの宗教を信ずる。

 そういう状況になったときでも、あなたは、「人間はみな、平等だ」と言って、平然と
していられるだろうか。
ヒットラーが政権を握る前のドイツは、まさにそういう状況だった。
(だからといって、ナチスドイツのした行為を正当化しているのではない。
誤解のないように!)

●ドイツ人vs日本人

 「私たち日本人は、ナチスドイツがしたようなことはしない」と言うのは簡単。
「私たちはドイツ人とは、ちがう」と。
しかしそれだけの精神的一貫性を、私たち日本人は、ほんとうにもっているだろうか。
が、私の印象では、もし日本が同じような状況になったとしたら、ひょっとしたら
日本は、ナチスドイツがしたよりも、もっとひどいことをするかもしれない。
悲しいかな、日本には、それだけの文化的な蓄積すらない。
忘れてならないのは、ゲーテやシラー、さらにはベートーベンを生み出したドイツですら、
そんなことをしたということ。

 そこで精神的一貫性。
精神的一貫性が確立していれば、まわりの状況が変わったとしても、私は私でいられる。
そうでなければ、そうでない。
一貫性のない人は、まわりの状況に応じて、そのつど主義主張まで、変えてしまう。
カメレオンのように、周囲の色に合わせて、自分の色まで変えてしまう。
考えようによっては、これほど、恐ろしいことはない。
どう恐ろしいかは、先に書いたとおりである。

●精神的一貫性の確立
 
 実は今、私は精神的一貫性の確立について、悩んでいる。
考えようによっては、それほど深刻な問題ではないかもしれない。
しかし悩んでいる。

 私は昨年、実兄と実母を、あいついで亡くした。
2度の葬儀と、それにつづく法要の数々。
四九忌まで、毎週1回ずつの法要、そして百か日忌。
が、それが今度は、1周期!
来年には、また3回忌。
(仏教では、死んだ前の日から年数を数え始めるため、2年目に、3回忌をする。)

 が、こうした法要の根拠は、鎌倉時代にできた『地蔵十王経』という、偽経である。
まっかな偽教である。
どこの寺も、偽教ということを百も承知の上で、それを根拠に法要を私たちに強いてくる。
しかしこうした法要そのものが、私の主義主張と、まっこうから対立する。
「長いものには巻かれろ」式の妥協をすることも考えた。
しかし妥協を繰り返すのも、このところ、疲れた。
だから「悩む」ということになる。

●ケチ
 
 こう書くと、「ケチ」と誤解する人がいるかもしれない。
しかし今、介護費用も、相当な額になった。
当時、救急車で一回、病院へ運ばれただけで、それだけで、15万円前後の費用がかった
(08年)。
救急車は無料だが、病院での検査、治療費などなど。
(無駄な検査の多いのには、驚いた!※)
で、救急車で運ばれると、たいてい特別の個室をあてがわれる。
「大部屋があいていないので、個室で」となる。
この費用が大きい。
1泊するだけでも、3万円弱。
数泊しれば、10万円。
帰りも救急車というわけにはいかない。
寝台つきのタクシーを使うと、料金メーターの数字が、1000円単位であがっていく。
それで15万円前後ということになる。

 そこへもってきて、葬儀。
今、全国平均で、1回の葬儀にかかる費用は、240万円前後。
香典でまかなえる人も多いと聞くが、私のばあいは、香典で集まったのは、実兄のときも、
実母のときも、40万円程度でしかなかった。
あとは私の持ち出しということになった。

が、それで終わったわけではない。
今では、一回の法事ごとに、寺に支払う布施にしても、5万円が相場。
初盆ともなると、いくら安くあげても、数10万円はかかる。

生きている人間にお金を使うのは当然としても、どうして死んだ人間にまで、こうまで
お金を払いつづけなければならないのか。

いや、お金にこだわっているわけではない。
死者にそれだけのお金を使うくらいなら、その分、今、生きている人たちのために
使いたい。
事実、私は息子たちの学費については、一円たりとも惜しんだことはない。

 私はケチではない。
こうした儀式そのものが、私の主義主張に反している!

●私たちは、だいじょうぶか?

 精神的一貫性を保つのは、容易なことではない。
戦地に赴く兵士にしても、そうだ。
先に書いたKY氏にしても、兵士になる前は、私やあなたとどこもちがわない、
ごくふつうの人だったにちがいない。
が、そういう状況に包まれたとたん、その人は、その人になる。
精神的一貫性そのものが、どこかへ吹き飛んでしまう。

 では、私はだいじょうぶなのか?
あなたは、だいじょうぶなのか?

●ではどうしたらよいのか

 では、精神的一貫性を保つためには、どうしたらよいのか。
それについては、2つの方法がある。

(1)適当に妥協して生きる。
(2)徹底的に自分の主義、主張を貫く。

 たとえば法事にしても、私は、そのつど、「旅行の一環」と位置づけてきた。
法事に行くたびに、それを利用して、あちこちを旅行した。
地元の旅館に泊まるのも楽しかった。
「法事」と構えると、疲れる。
角が立つ。

 が、先にも書いたように、このところ妥協するのにも、疲れを覚えるようになった。
そこで「悩む」ということになるが、これについては、今まで書いたとおりである。
そこで(2)の徹底的に自分の主義、主張を貫くということになる。
法事というのは、しなければならないものではない。
だれかに義理立てしてまで、しなければならないようなものではない。
私は私。
そういう私を、あれこれ言う人がいたら、言わせておけばよい。

 ということで、母の1周忌を最後に、私は縁を切る。
「縁」と言っても、「寺との縁」のことではない。
不確かで、あやふやな自分と「縁」を切る。
その上で、妥協できることについては、妥協する。 
適当にやって、それですますこところは、すます。
それが私にとっての、精神的一貫性ということになる。

●終わりに……
 
 精神的一貫性を保つためには、確固たる信念と哲学をもたねばならない。
が、もつだけでは足りない。
それを自分の中で、熟成させなければならない。
が、熟成させるだけでも足りない。
自分のもつ文化性を高め、その文化性で、自分の心を包まねばならない。
本を読み、芸術をたしなむ。
信念と哲学が、自分を支える強いバネとなるのは、そのあとのことである。

と、同時に、妥協できる部分については、妥協する。
まわりの人たちがそれで安心するなら、妥協する。
お金の問題ではない。
それが人間が、本来的にもつ(やさしさ)ということになる。
また、その(やさしさ)を忘れてはいけない。

……ということで、精神的一貫性についてのエッセーを終わる。
精神的一貫性をもつことが、いかに難しいかということを、このエッセーを通して
読者の方にわかってもらえれば、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
精神的一貫性 精神的統一性 信念と哲学 はやし浩司 一貫性の確立)

(※付記)

救急車で運ばれると、まず検査。
また検査。
検査につぐ検査。
そこである日、私は担当のドクターにこう言った。
「検査していただけるのは、ありがたいですが、その結果、治療していただけるのですか?」
と。
するとそのドクターは、わざわざ私を応接室へ招いて、こう言った。
「治療はしません」「延命処置もしません」と。

そこで私が、「じゃあ、検査しても意味ないではないですか」と言うと、
あっさりと、「そうですね」と。
要するに、老人が、病院の金儲けの道具にされていた。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●消息

 昨日薬局で、20年ぶりに、Mさんという人と会った。
1年ほど、いっしょに仕事をした仲間である。
年齢の話になったとき、「ぼくのほうが、林君より、一回り年上だったのか」と
言った。
歳は、71〜2歳ということになる。

 立ち話だったが、当時の人たちの消息を聞くことができた。

(社長)ともによく知っている社長の名前が出た。
ある貿易会社の社長をしていた。
その社長はそのあと、重い精神病を患い、4、5年前に他界したという。
「あの人は注射で殺されたようなものだね」と、Mさんは言った。
病院で暴れたため、いつも注射を打ちつづけられたから」と。

(社長の奥さん)よい人だった。
親切な人だった。
その奥さんも、やはり4、5年前に、他界したという。
最期は脳腫瘍だったという。

(YGさん)その会社で営業部長をしていたのが、YGさん。
テニスで国体にも出たような人だった。
で、ある高校で顧問として指導していたが、そこで女子高校生と関係をもって
しまった。
それで東京へ追放。
……という話は、表の話で、実は、「幼女に性的いたずらをして、刑務所に
入っていた」とのこと。
私にはよくしてくれた人なので、信じられなかった。

(社長の子どもたち)社長には、2人の息子と、1人の娘がいた。
娘のほうは知らないが、2人の息子は、ともに高校を強制退学。
結婚して、それぞれ2人の子どもをもうけたが、浮気が原因で2人とも、離婚。
今は、その子どもたちの養育費すら払えないほど、生活が困窮しているという。

(社長の兄弟たち)社長の兄弟は、2人、いた。
Mさんは、その兄弟たちについては知らないといった。
ただ1人の弟の妻は、電車に飛び込んで、自殺したという。
「新聞にも出ていたから、林君も知っているだろ?」とMさんは言ったが、
私は知らなかった。

 言い忘れたが、Mさんは、その会社で、専務をしていた。
私はときどきその会社で、貿易の手伝いをしていた。

私「当時は、全盛期だったのに……」
M「そうなんだよ。社長が使う電話の電話料金だけで、月に300万円もあった」
私「300万円……?」
M「電話魔でね。一日中、世界中に電話をかけていた」
私「知らなかった……。金払いのいい人とは思っていた。
シンガポールへ電報をその場で打ってやっただけで、チップだといって、10万円を
くれたこともあります」と。

 で、その会社は、そのあとまもなく倒産。
Mさんとは、1、2度、街の中で会ったことがある。
が、それからさらに20年。

 今は、ある会社の経理顧問をしながら、収入を得ているという。
10分ほどの立ち話だったが、人生の重みをズシリと感じた。

 『おごれるもの、久しからず』か?


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司
 
●私の、うつ病薬

++++++++++++++++++++

ダイエットと同時に、徐々に私を襲ってきたのが、
うつ病。
脳間伝達物質が不足し、それが脳の機能を低下させる。
行動力が落ちる。
頭の回転が鈍る。
悶々とした気分がつづき、ときに厭世(えんせい)的になる。
血糖値が低下するから、慢性的な低血糖状態にもなる。
ささいなことで、キレやすく、カッとなりやすい。

が、薬がないわけではない。
私のばあい、新しい電子製品を買うと、どういうわけか、
気が晴れる。
そのままうつ状態を脱することができる。

+++++++++++++++++++++

●次期パソコン

 秋に、最新型のパソコンを買う。
そのころWINDOW7も、発売になる。
64ビットマシンで、人間にたとえるなら、脳みそが4人分ついたようなパソコンである。
(実際には、8つの仕事を同時にこなす。)
いまどき、1テラバイトのハードディスクは、常識。
う〜〜ん。
そういう目標があるから、今は、パソコンを買うこともできない。
こういうときはパソコンでも買うのが、いちばんよいのだが……。

(この間、半日!)

 で、結局、1テラバイトのハードディスクを、今、買ってきた。
値段は、8700円。
韓国のS社製のものもあった。
こちらは値段は7000円だったが、回転数が遅いので、やめた。
(+あのような反日国家の製品を買うのは、どうも気が進まない。)

 今夜、ハードディスクの取り換え作業をするつもり。
毎年夏になると、ハードディスクが1台くらいは、壊れる。
その予防のため。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●パソコンの修理

+++++++++++++++++++

昨日、1テラバイトのハードディスクを買ってきた。
1テラバイト=1000GBである。

ちょうど10年前、10GBのハードディスクのパソコンが売りに出された。
それを知って、私たちは驚いた。
が、今は、1テラバイト!
それを現在、メインで使っているパソコン(ビスタ)の
ハードディスク(300Gバイト)と、つけ替えることにした。

で、夜になって仕事が一段落したところで、作業、開始!
(その前に、元のハードディスクのエラーチェックと、
新しいハードディスクへのコピーを、すませておいた。
かかった時間は、3時間+2時間の、計5時間。)

そこからは、ハードディスクを入れ替え、配線をしなおすだけの
簡単な作業のはずだった。
が、ここでまたまた失敗。

不自然な姿勢で、ぐいと力を入れて配線を押し込んだとたん、端子が割れてしまった。
ゾ〜〜〜ッ!
マザーボードのばあい、ほんの一部でも欠けたら、マザーボードごとすべて、
取り替えなければならない。
破損したのは、コネクターのコードほうだった。
しかしマザーボードのほうも、同時に、破損したかもしれない。

恐る恐る電源を入れる……。
ハラハラ、ドキドキ……。
やはり、パソコンが、立ち上がらなくなってしまった。
いろいろ試してみたが、やはりだめだった。

……冷や汗、タラタラ……。
……冷や汗、タラタラ……。

途中からワイフが手伝ってくれたが、ウンともスンとも動かない。
1年半ほど前にも、同じ失敗をした。
そのときは、マザーボード側の端子を破損してしまった。
ピンが一本、折れただけだったが、マザーボード全体を交換しなければならなかった。

そのときの悪夢が、フラッシュ・バック!
修理には最低でも、2〜3週間はかかる。
仮にリカバリーということにでもなれば、すべてイチから再セットしな
ければならない。

ドキドキ、ハラハラ……。

しかたないので、隣に置いてある、別のパソコン(XP)に電源を入れた。
しばらくそれ使うしかない。
ア〜〜〜ア!

(こういうときのため、データは、2重、3重と、べつの場所に保存してある。
だからデータが失うということはない。
しかし気分は重い。)

 で、今日は日曜日。
朝起きると一番に、もう一度、パソコンを点検。
古いパソコンのコネクターを抜いてきて、壊れたコネクターと交換してみた。
が、何と、である!
あっさりとパソコンが起動したではないか!

 これには驚いた+うれしかった!

 ……ということで、今日は、ついでに書斎を大掃除。
書斎の机の位置を替えた。

 パソコンという化け物は、それなりに、ほどほどに動いているなら、
けっして冒険してはいけない。
いじってはいけない。
いちばんこわいのは、知ったかぶり。
知ったかぶりして、あちこちいじると、とたんに故障する。


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

●視野の狭い女性

+++++++++++++++++++++++

あるとき、1組の夫婦が、ある寺にやってきた。
そして寺の住職にこう言った。
「私の家は、何かに、たたられている。
ついてはお祓(はら)いをしてほしい」と。

そこで住職がその夫婦の話に、耳を傾けるところとなった。

+++++++++++++++++++++++

●つづく不幸(?)

 たいした不幸という不幸ではない。
どこにでもある話である。
しかしその夫婦には不幸だった。
こういう話である。

 その夫婦には、2人の息子と1人の娘がいた。
が、2人の息子は、それぞれ高校時代に、傷害事件を起こし、2人とも強制退学。
1人の娘は、やはり高校を卒業すると、15歳年上の男性と、駆け落ち。
よくある話である。
それを「たたり」と言うには、少し無理がある。

 で、それからほぼ10年。
2人の息子は結婚。それぞれ2人の子どもをもうけた。
その夫婦にとっては、孫ということになる。
娘は、そのまま静岡市に定住。
2人の子どもができた。
が、ここから、つぎの「たたり?」が始まる。

 息子の両方とも、結婚後5〜7年で、離婚。
そのまま定職にも就かず、実家を出たり入ったり……。
その夫婦が養育費の連帯保証人になっていたこともあり、夫婦のところに、
養育費の督促が届くようになった。

 が、「世間体が悪い」という理由で、その夫婦は、2人の息子を自分の家には住まわせ
なかった。
もちろん養育費も払わなかった。

●私のところへ

その住職は、私を紹介した。
住職と私は、20年来のつきあいがある。
で、それからしばらくして、その夫婦は、私のところへ、相談にやってきた。
夫婦の年齢は、ともに58歳(当時)。
夫の職業は、大手の自動車会社勤務。
妻は、パートで、当時できたばかりの老人ホームで、給食の手伝いをしていた。

 が、相談といっても、相談にならなかった。
妻のほうは多弁だった。
一方的に、ペラペラと、しゃべりつづけた。
が、その妻とは正反対に、夫は静かな人だった。
長い間、東北地方にある研究所へ単身で赴任していたという。
3人の子どもたちは、少年、少女時代、父親との接触は、ほとんどなかった。

 妻はこう言った。
「これだけ苦労して、育ててやったのに……」
「あれだけ、いろいろ世話をしてやったのに……」
「私は、どれほど苦労したかわからない」
「息子の嫁や孫たちは、私に苦労ばかりかけていた」と。

 2人の息子が、高校を強制退学になったことについても、
「息子たちは悪くない」
「学校の教師の誤解によるもの」
「警察が私たちの言い分を聞いてくれなかった」
「大きな怪我をしたのは、むしろ息子たちのほうだ」と。

 妻のほうは、本当に、よくしゃべった。

●反論

 子どもは家族の(代表)にすぎない。
子どもに問題が起きたら、家庭環境のどこかに問題があると考える。
それが2例、3例とつづいたら、なおさらである。

 私の印象では、父親の存在が、たいへん希薄だった。
とするなら、原因は、母親の育児姿勢にある。
が、母親は、「私は正しい」、
「私はまちがったことは何もしていない」の一点張り。
聞く耳すらもっていなかった。
私が何かを問いかけると、即座に、その数倍の反論がはね返ってきた。

私「養育費は払ったほうがいいですね」
妻(私の話をさえぎって)、「私は孫の世話を、xxxxx」
「誕生には、xxxxx」「病気になったときには、xxxxx」と。
それをことこまかく説明した。
つまり「私には、払う必要はない」、
「むしろ私のほうが、慰謝料をもらいたいくらいだ」と。

しかし先にも書いたように、一度しゃべり始めると、止まらない。
それを聞いている私のほうが、気が変になりそうだった。

●視野

 それぞれの人には、それぞれの視野というものがある。
その視野は、みなちがう。
と、同時に、その視野には、広い、狭いのちがいがある。
もちろんその視野は広ければ広いほどよい。
しかしその妻は、異常なまでに、狭かった。

 一方、夫のほうはというと、かなりの権威主義者。
話の随所で、「男だから……」「女だから……」「親だから……」という
『ダカラ論』を、ときどき、口にした。

 こういうケースのばあい、「相談」と言いながら、実際には、相談にならない。
私は黙って、妻の愚痴を聞くだけ。
「そうですね」「そうですね」と。
で、「お祓い」ということになった。

●住職への報告
 
 その夜遅く、私は住職に電話した。
報告の電話である。
その夫婦にとっては深刻な問題かもしれないが、教育的には大きな問題ではない。
今どき強制退学にしても、離婚にしても、珍しくもなんともない。
おおげさに考える必要はない。
それに袋小路に入ったわけではない。
妻が勝手に袋小路に入ったと思い込んでいるだけ。
問題になるとしたら、「世間体」ということになる。
夫も妻も、その世間体に苦しんでいた。

 ただ気になったのは、夫のほうは一見静かな人のようだったが、キレやすく
一度キレると、自分をコントロールできないようなタイプの人だったということ。
住職がそれを私に話してくれた。
「あの方は、怒ると、『テメエ!』『このヤロー』という言葉を使いますよ」と。
私が「信じられませんね」と言うと、住職は、カラカラと笑った。

 つまりこういうことらしい。
夫は権威主義者。
昔からの男尊女卑思想を強くもっていた。
妻は、多動型の多弁性がり、人の話を聞かない。
万事にこまかく、うるさい。
過干渉ママに加えて、情緒がかなり不安定だった。
精神安定剤を常用しているという。
そういった家庭環境が、長い時間をかけて、3人の子どもして、そういう子どもにした。

●では、どうするか?

 視野を広くするためには、より賢くなるしかない。
日ごろから、自分の文化性を磨き、高めていく。
より多くの情報に接し、見聞を広めていく。
これは世間体と闘うための鉄則でもある。

 が、残念ながらその母親には、その教養もあやしかった。
人格の完成度が低く、ものの考え方が自己中心的で、それに加えて、わがままだった。
ああでもない、こうでもないと、愚痴を並べるだけ。
話にならなかった。
私が、「〜〜してはどうでしょうか」と何かを提案しても、「そんなのは無駄」
「やってみた」「息子は黙っているだけで、返事もしない」と、
間髪を入れず、それを否定した。

 で、住職は乞われるまま、その数日後、その夫婦のためにお祓いをした。
私が「ご住職もたいへんですね」と言うと、「はあ、これもお努めの一つですから」と。

 視野の狭い人というのは、そういう女性のことをいう。
そうそう何かの話のついでに、「ビデオなんかは、見たことがありますか?」と
聞いたら、「見ません」ときっぱりと言った。
「本も読んだことがない」とも。
理由を聞くと、「読むと、頭が痛くなるから」と。
自分で自分の視野を狭くしている。
そのことにさえ、その女性は気づいていなかった。

 が、これは何も女性だけの問題ではない。
男性もまた、結婚して子どもをもうけたら、そのときから、ただひたすら学習、あるのみ。
その努力を忘れてはいけない。
忘れたとたん、その女性のようになる。

(09年06月記)
(注:この話はフィクションで、いくつかの古い話をひとつにまとめたものです。)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●静岡県・知事選(民主主義の危機)(改)

++++++++++++++++

静岡県の知事選が始まった。
4氏が立候補している。
保守系(前副知事)が1人。
野党系が候補統一に失敗し、今のところ
保守系候補が有利。

同時に、昨日、こんなニュースが伝わってきた。
何でもJ党が、宮崎県のA知事に、衆院選挙
への出馬を要請したという。
が、驚くべき発言が、そのA知事の口から出た。
「総裁候補にしてくれるなら、受ける」と。
A知事というのは、元、お笑いタレント。

それに対して、野党がいっせいに、反発。
「J党も、ここまで落ちぶれたのか」(亀井氏)と。

そう、J党は、ここまで落ちぶれた!

++++++++++++++++++

●民主主義の危機

 どうしてAS氏のような人が、総理大臣?
 どうしてAZ氏のような人が、宮崎県の県知事?
「あんな人物が?」と言ってもよい。
……良識のある人なら、みな、そう思っている。

 「選挙で選ばれたのだから、民衆の代表」ということになるが、もしそうなら、
それこそ民主主義政治の欠陥と断言してもよい。
知名度や家柄だけで議員が決まるとしたら、選挙そのものが意義をなくす。
もっとも、民主主義が生まれたころには、(マスコミ)は、まだ存在していなかった。
かくもマスコミが選挙に影響を与えるなどとは、だれも予想していなかった。
が、今は、ちがう。
その一例が、宮崎県知事ということになる。

このあたりで、一度、(知名度)と(選挙)の関係について、だれかが断をくだして
おかないと、日本のみならず、世界中がメチャメチャになってしまう。

 もっともそれに対抗する方法がないわけではない。
有権者である私たちが、より賢くなることである。
が、それよりも先に、民主主義の欠陥ばかりが、肥大化する。
良識をもった人たちの良識など、こうした欠陥の前では、嵐の中のローソクのようなもの。
その結果が、AS総理大臣ということになる。
AZ宮崎県県知事ということになる。

 何が、総裁候補だ!
バカも休み休み言え……と書きたいが、今、日本の民主主義政治は、そこまで堕落して
いる。

●落下傘候補

 これは何も静岡県のことだけにかぎらない。
今、全国の都道府県+大都市では、落下傘のように、中央の官庁から候補者がおりてきて、
県や大都市で、要職の選挙戦を繰り広げる。
選挙などというものは、いわば(飾り)のようなもの。
当選すれば、そのまま要職に。
落選すれば、また元の職場に復帰。
 称して「落下傘候補」という。

 「中央から来た」というだけで、何でもありがたがる、この田舎根性。あさましさ。
一方、「中央から来てやった」という、この中央集権意識、あさましさ。
この両者の(あさましさ)が合体して、今の日本がある。

 たしかにこうした落下傘候補は、中央官庁とのパイプは太い。
だから巨額の建設資金を中央から、呼び込むことができる。
その結果が、サッカー場であり、空港ということになる(静岡県)。
しかしそれで潤ったのは、建設業界だけ。
残ったのは、場違いなほど立派な箱モノと、この先延々とつづく、赤字、また赤字。
当然、その赤字は、県民が負担することになる。

 この浜松市にしても、駅前に、これまた立派な、アクトタワーという建物がある。
建設費は2000億円とも3000億円とも言われている。
いったい、どれだけの税金が投入されたのか、されなかったのか、いまだもって、
よくわからない。
が、そのアクトタワーが生み出している利益など、ほとんどない。
市は、(公務員だから)、職員の人件費などはすべて棚にあげて、「黒字になった」
とさかんに宣伝している。
しかし「黒字」程度では、私たちは納得しない。
当時、2000億円を、年率5%で貯金しても、毎年、50億円の利息が手に入った
はず。
つまりそれ以上のものを稼いで、はじめて「黒字」と言ってほしい。

 もうバカげた箱モノ作りはやめよう。
それがいかにバカげているかは、あの簡保センターを見ればわかるはず。
数10億円もかけて作った箱モノが、たったの数万円!
こうして私やあなたの税金が、日々に、ドブへ、ドブへと捨てられている!

(参考)

時事通信はつぎのように伝える。

『自民党の古賀誠選対委員長は23日(090623)、宮崎県庁でAZ夫知事と会談し、
「今の自民党にない新しいエネルギーが欲しい」と次期衆院選への出馬を要請した。これ
に対し、知事は「わたしを次期総裁候補として、次の衆院選を戦う覚悟があるのか」と条
件を提示し、即答を避けた』と。

これに対して、JIJICOMは、次のように伝える。

『…… 「ここまで落ちたか、もの悲しい」―。国民新党の亀井静香代表代行は24日の
記者会見で、自民党の古賀誠選対委員長がAZ宮崎県知事に次期衆院選への出馬を要請し
たことについて、自民党が落ちぶれたと嘆いてみせた。

 亀井氏は「自民党は人材がいないということを天下にさらした」と指摘し、「わらにもす
がる思いで(AZ氏に)頼る(つもりの)ようだが、大いに最後のあがきをおやりになれ
ばいい」。衆院選後の政権交代を疑わないだけに、「自民党もそれなりの終えんを迎えても
らいたい。散るも桜。散り際が良ければまた芽が吹く」とも語った』と。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(13)

●自分を知る

 多動児(AD・HD児)と呼ばれる子どもがいる。診断基準のひな形が、2001年の
春にできたばかりである。現在の今も、その指導法については、思考錯誤の段階と考えて
よい。それはともかくも、実際には、このタイプの子どもは、20名のうち約1人の割で
いる。が、問題はこのことではない。

 D君(中2)の男の子がいた。私はその子を、幼稚園の年中児のときから、中学3年ま
で教えた。多動児だった。そのため、本当に苦労した。親も苦労した。学校の先生も苦労
した。どう苦労したかは、教えたものでないとわからないだろう。

が、その子も、小学高学年になるころには落ち着きはじめ、中学生になるころには、騒々
しさは残ったものの、まあ、ふつうの子どもという感じになった。そのD君にこう話しか
けたときのこと。私がそれとなく、「君は、小学生のころ、腕白で、みんなに迷惑をかけた
のだが、それを覚えているか」と聞くと、D君は、こう言った。「いいや、ぼくは何もして
ない。みんな、ぼくのことを目の敵にして、ぼくばかり叱った」と。そこであれこれ遠ま
わしな言い方で、D君自身に問題がなかったのかを聞いてみたが、D君は「なかった。ぼ
くはふつうだった」と。

 私はD君を前にして、考え込んでしまった。D君はまるで自分のことがわかっていなか
った。おそらく彼が教職の道を選んで、教師になって、多動児について学んでも、「自分が
そうだった」とは決して思わないだろう。いや、私が考え込んだのは、実のところD君の
ことではない。自分のことだ。私は私のことは一番よく知っていると思っている。しかし
そう思っているのは、自分だけ。実のところ、自分のことはまったくわかっていないので
は……、と。

 自分を知るということは、本当にむずかしい。方法がないわけではないが、それについ
てはまた別の機会に書く。ともかくも、私はD君を前にして、本当に考え込んでしまった。
「人間というのは、そういうものか」と。D君はそれを私に教えてくれた。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(14)

●音読と黙読は違う

 小学3年生くらいになると、読解力のあるなしが、はっきりしてくる。たとえば算数の
文章題。読解力のない子どもは、問題を読みきれない、読みまちがえる、など。あちこち
の数字を集めて、めちゃめちゃな式を書いたりする。親は「どうしてうちの子は、問題を
よく読まないのでしょう」とか、「そそっかしくて困ります」とか言うが、ことはそんな簡
単なことではない。

 話は少しそれるが、音読と、黙読とでは、脳の中でも使う部分がまったく違う。音読は、
一度自分の声で文章を読み、その音を聞いて文の内容を理解する。つまり左脳がそれをつ
かさどる。一方黙読は文字を図形として認識し、その図形の意味を判断して文の内容を理
解する。

つまり右脳がそれをつかさどる。音読ができるから黙読ができるとは限らない。ちなみに
文字を覚えたての幼児は、黙読では文を読むことができない。そんなわけで子どもが文字
をある程度読むことができるようになったら、黙読の練習をさせるとよい。方法は、「口を
とじて本を読んでごらん」と指示する。

ある研究団体の調査によれば、黙読にすると、小学校の低学年児で、約30%程度、読解
力が落ちることが」わかっている(国立国語研究所)。

 ではどうするか。もしあなたの子どもの読解力が心配なら、方法は二つある。一つは、
あえて音読をさせてみる。たとえば先の文章題でも、「声を出して問題を読んでごらん」と
言って、問題を声を出させて読ませてみる。読んだ段階で、たいていの子どもは、「わかっ
た!」と言って、問題を解くことができる。

が、それでも効果があまりないときは、こうする。問題そのものを、別の紙に書き写させ
る。子どもは文字(問題)を一度文字で書くことによって、文字の内容を「音」ではなく、
「形」として認識するようになる。少し時間はかかるが、黙読が苦手な子どもには、もっ
とも効果的な方法である。

 読解力は、すべての科目に影響を与える。文章の読解力を訓練しただけで、国語はもち
ろんのこと、算数や理科、社会の成績があがったということはよくある。決して軽くみて
はいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(15)

●計算力は早数えで

 計算力は、早数えで決まる。たとえば子ども(幼児)の前で手をパンパンと叩いてみせ
てほしい。早く数えることができる子どもは、5秒前後の間に、20回前後の音を数える
ことができる。そうでない子どもは、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えるため、どう
しても遅くなる。

 そこで子どもが1〜30前後まで数えられるようになったら、早数えの練習をするとよ
い。最初は、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」でも、少し練習すると、「イチ、ニ、サン…
…」になり、さらに「イ、ニ、サ……」となる。さらに練習すると、ものを「ピッ、ピッ、
ピッ……」と、信号にかえて数えることができるようになる。これを数の信号化という。

こうなると、5秒足らずの間に、20個くらいのものを、瞬時に数えることができるよう
になる。そしてこの力が、やがて、計算力の基礎となる。たとえば、「3+2」というとき、
頭の中で、「ピッ、ピッ、ピッ、と、ピッ、ピッで、5」と計算するなど。

 要するに計算力は、訓練でいくらでも早くなるということ。言いかえると、もし「うち
の子は計算が遅い」と感じたら、計算ドリルをさせるよりも先に、一度、早数えの練習を
してみるとよい。ただし一言。

 計算力と算数の力は別物である。よく誤解されるが、計算力があるからといって、算数
の力があるということにはならない。たとえば小学1年生でも、神業にように早く、難し
い足し算や引き算をする子どもがいる。親は「うちの子は頭がいい」と喜ぶが、(喜んで悪
いというのではない)、それは少し待ってほしい。

計算力は訓練で伸びるが、算数の力を伸ばすのはそんな簡単なことではない。子どもとい
うのは、「取った、取られた」「ふえた、減った」「多い、少ない」「得をした、損をした」
という日常的な経験を通して、算数の力を養う。またそういう刺激が、子どもをして、算
数ができる子どもにする。そういう日常的な経験も忘れないように!


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(16)

●はだし教育を大切に

 以前、動きがたいへんすばやい子ども(年長男児)がいた。ドッチボールをしても、い
つも最後まで残っていた。そこで母親に秘訣を聞くと、こう話してくれた。「乳幼児期は、
ほとんど、はだしで過ごしました。雨の日でもはだしだったので、近所の人に白い目で見
られたこともあります」と。その子どもは2歳になるときには、うしろ向きにスキップし
て走ることができたそうだ。

 子どもの敏捷(びんしょう)さを養うには、はだしがよい。子どもというのは足の裏か
らの刺激を受けて、その敏捷性を養う。反対に分厚い底の靴に、分厚い靴下をはいて、ど
うして敏捷性を養うことができるというのか。

一つの目安として、階段をおりる様子を観察してみればよい。敏捷な子どもは、スタスタ
とリズミカルに階段をおりることができる。そうでない子どもは、手すりにつかまって1
段ずつ、恐る恐るおりる。階段をリズムカルにおりられない子どもは、年中児で10人に
1人はいる。あるいは傾いた土地や、川原の石ころの間を歩かせてみればよい。

敏捷性のある子どもは、ピョンピョンと平気で飛び跳ねるようにして歩くことができる。
そうでない子どもはそうでない。もしあなたの子どもの敏捷性が心配なら、今日からでも
遅くないから、はだしにするとよい。あるいはよくころぶ(※)とか、動作がどこか遅い
というようなときも、はだしにするとよい。(分厚い靴や分厚い靴下をはきなれた子どもは、
はだしをいやがるが、そうであるならなおさら、はだしにしてみる。)

 この敏捷性はあらゆる運動の基本になる。言い換えると、もともと敏捷さがあまりない
子どもに、あれこれ運動をさせてもあまり上達は望めない。

(※……ころびやすい子どものばあい、敏捷性だけでは説明がつかないときもある。そう
いうときは歩く様子をまうしろから観察してみる。X脚になって足が互いにからむようで
あれば、一度小児科のドクターに相談してみるとよい。)
 

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

「私」って、何だろう?】(2)

++++++++++++++++++

今、私はここにいる。
ここにいて、頭蓋骨の中から、外の世界を
ながめている。
下のほうには、自分の鼻先が見える。
メガネのワクも、焦点が合っているわけではないが、
見える。
その向こうにはパソコンの画面。
周囲の雑多な電子機器の数々……。

この頭蓋骨の中にいる私が、「私」ということになる。

++++++++++++++++++

●精子と卵子

 若い男性のばあい、1回の射精で、約1億個の精子が放出される。
約1億個、である。
 一方、女性のほうは、毎月新しい卵子を排出する。
毎月、である。
 その精子と卵子が結合して、1人の人間が誕生する。
確率論的に言えば、1人の人間が「私」になるためには、男性側が毎月10回、射精した
としても、10年の間では、1200億個。
それに女性の卵子の数、120回(10年分)をかけると、約14兆分の1の確率という
ことになる。

 約14兆分の1、である。
もしそのとき、卵子に到達する精子が、ほんの1つ、ずれていたとしても、また結合する
時期が、1か月ずれていたとしても、「私」は、この世の中に、いなかったことになる。

●必然的な結果

 一方、外から見たらどうだろうか。
そこに一組の夫婦がいる。
その夫婦が、セックスをして、子どもをもうけたとする。
その夫婦からすれば、子どもが生まれるのは、必然的な結果ということになる。

 話をわかりやすくするために、川原に向かって小石を投げたばあいを考えてみよう。
投げた石は、重力の法則にしたがって、やがて下に落ちる。
どれかの石に当たる。
必ず、当たる。

 しかし当てられたほうの石からみると、それは何百万分の1の確率で、「当たった」
ということになる。
(川原の広さにもよるが……。)
つまり石を投げれば、必ず、どれかの石に当たる。
しかし川原の石から見れば、「私」という自分の石に当たるのは、偶然の、そのまた
偶然ということになる。

●もし……

 そこでさらにこう考えてみる。
仮に、卵子に結合した精子が、「私」の精子ではなく、その横を泳いでいた別の精子だった
ら、「私」はどうなっていただろう。
それでも卵子と精子は結合し、そこで子どもは誕生する。
で、ここでの最大の問題は、そのときそこで誕生する子どもは、「私」であるか、「私」
ではないかということ。

 もちろん「私」ではない。
「私」の兄弟あるいは姉妹かもしれないが、「私」ではない。
このことは、もしあなたに兄弟姉妹がいれば、何でもない疑問ということになる。
あなたの兄弟姉妹が「私」ではないのと同じように、そうして生まれた私は、「私」では
ないということになる。
 つまりほんのわずかだけ、タイミングと時期がずれただけで、私という「私」は
生まれず、別の人間が生まれていたことになる。

 が、親や、その周囲の人たちからみれば、そこにいるのは、(あなた)ということに
なる。
精子のひとつやふたつズレたところで、親や、その周囲の人たちからみれば、それは
ごく微小な誤差でしかない。

 ここが重要な点だから、もう一度、考え直してみる。

●9999万9999人の兄弟・姉妹

 仮に1人の男が、1億個の精子を放出したとする。
その中で卵子にたどりつき、生き残るのは、たった1個。
残りの、9999万9999個の精子は、そのまま死滅することになる。
が、仮に、「それはかわいそうだ」ということで、全世界の女性たちから、
9999万9999個の卵子を集めてきて、人工授精したとする。
そしてそれらの女性の体を使って、9999万9999人の子どもを作ったとする。

 しかしその9999万9999人の子どもは、あなたの兄弟や姉妹かもしれないが、
けっしてあなたではない。
「私」ではない。

●生の人間

 言うなれば生まれた直後の子どもは、(妊娠した直後の子どもでもよいが)、言うなれば、
(生の人間)ということになる。
 性質や気質など、親から引き継ぐものも多いが、一応(生の人間)と考える。
この(生の人間)は、その後の環境によって、(あなた)に作りあげられていく。

 日本で生まれ育てば、日本人らしくなる。
浜松で生まれ育てば、浜松の言葉を話すようになる。
私の家庭のような環境で育てば、まちがいなく、ドラ息子、ドラ娘になる。

 つまりあなたの親を含めて、外の世界から見た(あなた)は、あなた。
卵子と精子が結合するタイミングと時期が、多少程度ずれていたとしても、あなたは
あなた。
 しかしこれだけは、絶対、たしか。
その(あなた)は、けっして「私」ではない。
私という「私」は、私になれないまま、他の9999万9999個の精子とともに、
闇から抜け出ることもなく、そのまま死滅する。
もちろんそれらの精子が、「私」を自覚することはない。

●「私」は奇跡中の奇跡

 こうして考えてみると、「私」というのが今、ここにいるのは、まさに奇跡中の奇跡、
ということになる。
「約14兆分の1の確率で生まれた」と言っても過言ではない。
もしほんの1つでもタイミングがずれていたとしたら、「私」はいない。
だれかほかの人は生まれたかもしれないが、しかしそれは「私」ではない。
今の私とまったく同じ顔をし、同じことをしているかもしれないが、「私」ではない。

 もしタイミングがほんの1つでもタイミングがずれていたとしたら、私は「私」になる
前に、そのまま永遠の闇の中に、葬られていた。
永遠ということは、永遠。

●意識

 というふうに考えていくと、「私」というのは、この頭蓋骨の中から外をながめている、
「意識」ということになる。
頭蓋骨から離れたとたん、それは「私」ではなくなってしまう。
こんな例で考えてみれば、それがわかる。

 コンピュータの技術が進歩して、あなたの脳をそっくりそのままコピーできるように
なったとしよう。
そっくりそのまま、だ。
が、そのままではその脳は、見ることも、聞くことも、話すこともできない。
そこでそのコピーされた脳に、カメラやイヤホン、それにスピーカーを取りつける。
その脳は、あなたの脳とまったく同じだから、他人から見れば、(あなた)かもしれない。
しかしその脳は、けっして、あなたではない。

 あなたがその脳に向かって、名前を聞けば、その脳は、ちゃんとあなたの名前を
言うだろう。
しかし、けっして、あなたではない。
何からなにまで、そっくりあなたと同じであったとしても、あなたではない。
あなたが「私」と言えるのは、そこにあなたの意識があるからだ。

●死後の世界

 こう考えていくと、「死後の世界」という「世界」を考えることすら、無意味に
思えてくる。
死んだら、「世界」はない。
少なくとも「私」という意識は、そこで完全に途絶える。
あなたの肉体や脳を作っている無数の分子は、バラバラに解体され、その一部は、
また別の肉体や脳を作るために、再利用される。
が、だからといって、そこであなたの意識が再生されるというわけではない。
肉体や脳のほとんどは、土となり、植物となり、もろもろの生物に生まれ変わる。

 念のため、申し添えるなら、死んだとたん、意識をもつあなたの脳は、バラバラに
なる。
たとえはよくないかもしれないが、日々に排泄するあの便と同じ。
つまり意識は消える。
中に、スピリチュアル(霊)とか何とか、わかったようなことを言う人もいるが、
その意識だけが肉体から離れて、別の世界に浮遊するなどということは、ありえない。

●思考の限界を超えて……

 このあたりが、人間の思考の限界ということになるのか。
私にしても、この先が、わからない。
だから人間は、その手前で、右往左往する。
「あの世はあるのか」という命題にしても、結論を出すこともできず、今の今も、
迷っている。
またそれを乗り越えて、その先へ進むこともできない。
「その先」というのは、既存の宗教観を乗りこえた、その先という意味である。
宗教を否定しながら、宗教に頼り、宗教に頼りながら、宗教を否定する。
毎日が、その繰り返し。
その先へ、進むことができない。

 実際、宗教の先に見えるのは、広大な、それこそ果てしなくつづく広大な原野。
それを知っただけで、人々は、みな、おびえてしまう。
だからこう考える。
「そんな広大な原野にひとり取り残されるよりは、妥協して安易な道を選んだ
ほうがいい」と。

 いくら冒険好きといっても、できることと、できないことがある。
大宇宙へ、たったひとりで、宇宙船に乗って出かけるようなもの。
想像するだけで、ぞっとする。

 こうしてまたもとの世界に戻ってしまう。
それが「右往左往」ということになる。

●真の勇者

 いつか真の勇者が現れるかもしれない。
「私」という意識を乗り越えて、さらに言えば、あらゆる宗教観を乗り越えて、
広大な原野に道を切り開いてくれる人が、現れるかもしれない。

 が、それは、庭に遊ぶ犬のハナに、コンピュータの原理を理解しろというくらい、
難しいことかもしれない。
仮にこのまま数万年、進化しつづけたとしても、難しいことかもしれない。
同じように、人間が、そこへ到達するためには、長い長い時間がかかるだろう。
しかしだからといって、あきらめるわけにはいかない。
方法がないわけではない。
あのソクラテス流に言うなら、常に「私とは何か」、それを問いつづけること。
それが重要ということになる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW 私論 私とは何か ソクラテス)

(補記)

意識と肉体の分離。
精神と肉体の分離と置き換えてもよい。
常に意識が、肉体を支配し、肉体をコントロールする。
けっして、意識は、肉体にコントロールされてはいけない。

たとえば寒い朝、ジョギングに出かけるときのことを考えてみよう。
あなたは意識の中で、運動の必要性を強く感じている。
が、肉体のほうは、それに抵抗する。
「寒いから、いやだ」「疲れているから、行かない」と。
が、そういう肉体の声に負けてはいけない。
あなたは自分の意思で、ジョギングに出かける。
寒くてつらい思いをするのは、あなたの(意識)のほうではない。
(肉体)のほうである。

もしこのとき意識と肉体の分離がうまくできないと、あなたは肉体のほうの声に
負けてしまうことになる。
そしてこう言うにちがいない。
「そうだ、今日は寒いから、ジョギングにでかけるのをやめよう」と。
しかしそう思って、ジョギングをやめてしまうことは、結局は、
肉体そのものを弱くしてしまうことになる。

基本的に、(肉体)というのは、怠け者。
少しでも疲れたり、痛かったりすると、「休もう」と考える。
そしてあなたの意識を自分の都合のよいように、誘導しようとする。

が、肉体の求める欲望に負けていたら、あなたの意識は、自分の居場所すら、失って
しまうことになる。
肉体あっての意識。
肉体が滅びれば、意識も消える。

これが意識と肉体の関係。
つまり意識と肉体を分離すればするほど、意識は肉体をコントロールしやすくなる。
意識と肉体を分離することの重要さを、これでわかってもらえたことと思う。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●肉体と精神(未完成)

+++++++++++++++++++++

仏教では、「肉体とは棄(す)去らねばならないもの」
(世親・浄土三部経・観無量寿経)と教える。
精神は善であろうとしても、肉体の内側から湧き起きてくる、
もろもろの欲望、つまり煩悩(ぼんのう)が、
その精神をむしばむ。
仏教では、そう考える。

が、肉体を棄て去るということは、精神が宿る
脳そのものまで棄て去ることを意味する。
東洋医学でも、「肉体と精神は、密接不可分のもの」
(黄帝内経)と教える。
たとえば喜怒哀楽などの感情にしても、五臓六腑
の働きと密接に関連しあっている、と。

世親が説いた「棄て去る」というのは、もちろん、
切り捨てるという意味ではない。
「肉体と精神を分離せよ」という意味である。
仏教学者の人たちが聞いたら、吹き出して笑うかも
しれないが、私はそう解釈している。

+++++++++++++++++++++

●大脳生理学

 最近の大脳生理学の発達には、ものすごいものがある。
脳の構造のみならず、その働きまで、リアルタイムで追跡、観察する装置まで
開発されている。

 たとえば自分の意志で行動していると思っていることにしても、実はそれ以前に、
脳の別の部分が、すでに「そうしろ」と命令を下しているということまでわかるように
なった。
つまり私たちは、常に脳の別の部分が下した命令に従って、それを自分の意志と
誤解しながら行動しているにすぎない、と。

 たとえばあなたが台所へ行ったとする。
テーブルの上に、オレンジジュースがあったとする。
するとあなたは、それを飲みたいと思い、コップに注ぐ。
そしてそれを口に入れる。
そのときだれかが、あなたにこう聞いたとする。
「あなたは自分の意思で、ジュースを飲んでいますか?」と。
するとあなたはまちがいなく、こう答えるだろう。
「そうです」と。

 が、事実は、少しちがう。
あなたが台所へ行く前から、すでに脳の別の部分が、あなたの脳にこう命令を
下している。
「のどが渇いたから、何か飲み物を口にせよ」「台所へ行け」と。
あなたはそうした命令を意識することもなく、台所へ向かい、ジュースを口にする。

●ウソ発見器

 ウソ発見器という装置がある。
あの装置を使うと、あなたがいくら意識的に
ウソをついても、ウソ発見器は、それを見抜いてしまう。
脳の奥の反応まで、感知してしまうからである。

 つまり自分で意識できる部分で、いくらウソを言っても、脳の奥深くの意識まで、
だますことはできない。
それをウソ発見器は感知し、「ウソ」と判断する。
たとえばいくら口先で、「私は盗んでいません」と言っても、ウソ発見器は、脳の別の部分
の反応をみて、「ウソ」と判断する。
だから、よほどのことがないかぎり、あのウソ発見器をだますことはできない……そうだ。
(何かの薬をのめば、ウソ発見器をだませるというようなことは、あるらしい。)

 つまり私たちの意識というのは、常に無意識下の脳によって、命令され、作られている。
すべてがそうではないかもしれないが、そのほとんどがそうであると考えてよい。
その第一が、肉体の内側から湧き起きてくる、欲望ということになる。
その欲望が、善なる意識に影響を及ぼす。

●落語

 落語にこんな話があった。
学生時代にそれを聞いたときには、私は腹をかかえて笑った。

 ある寺に、有名な高僧がいた。
しかし歳には勝てない。
日に日に体が衰えていくのを感じた。
そこである日、その寺の後継者を決めることにした。
選りすぐった若い弟子たち10人ほどを一堂に集めて、こう言った。

「これから寺の後継ぎを決める」と。

 そこでその高僧は、若い弟子たちを全員、裸にして、チンxxのあの先に鈴を
つけさせた。
そうしてみなに瞑想をさせていると、そこへ素っ裸の若い女性が何人か入ってきた。

 するとあちこちからチリチリと鈴の音が聞こえだした。
チリチリ、チリチリ……、と。
それを聞いて高僧は、こう思った。
「ああ、どいつもこいつも修行が足りん」と。

 が、1人だけ、鈴の音が聞こえない若い僧がいた。
それを知って高僧は、その若い僧のそばにやってきてこう言った。

「お前こそ、この寺の後継ぎにふさわしい」と。
が、それを聞いて、その若い僧は、こう答えた。

「いいえ、○○様、私の鈴は、とっくにどこかへ飛んでいってしまいました」と。

●煩悩の力
 
 この話は(肉体)の反応がいかに強力であるかを示す例として、おもしろい。
が、似たような話は、多い。
たとえばニコチン中毒がある。
アルコール中毒でもよい。
こうした中毒性は、一度身につくと、それを断ち切るのは容易なことではない。
容易でないことは、みな、知っている。

 が、「私は、だいじょうぶ」と思っている人も、ちょっと待ってほしい。
ニコチン中毒やアルコール中毒とは違うかもかもしれないが、私たちの脳は、
何らかの(中毒)で、がんじがらめになっている。

 マネー中毒、時間中毒、権力中毒などなど。
性欲や食欲、物欲の奴隷となっている人となると、いくらでもいる。
ただ中毒になっていながら、自分でそれに気づくことはない。
ほとんどの人は、「私は正常だ」「ノーマルだ」と思っている。
が、実際には、何かの(中毒)で、がんじがらめになっている。
 
 仏教でいう「煩悩(ぼんのう)」というのは、まさにそれをいう。
先にも書いたように、「肉体の内側から湧き起こる欲望」ということになる。
その欲望は、先にも書いたように、かなり強力なもので、自分の意思でコントロール
するのは、並大抵の努力ではできない。

●東洋医学では

 東洋医学では、肉体と精神とは、密接不可分のものと教える。
そして人間の(意)(志)(思)(慮)(智)は、順に(心・しん)の活動の一部として
生まれると教える。

 「徳、つまり自然の生命力と気の二つが合体して、生が発現する。
その生の基本物質が精であり、精は精神活動の源である魂(こん)と、
肉体活動の源である魄(はく)を生ずる。
この魂と魄は、心のコントロールを受けながら、相互に作用しあい、さまざまな
精神活動を展開する」(「霊枢」・本神篇)と。

意……物事を話す働き
志……意から生ずる思い
思……いろいろ考える力
慮……考え抜いた結果、理想を慕うようになること
智……その理想に達するために人はいろいろな方法を選択するが、その力のこと。

 そしてこれらは、五臓六腑と密接に結びついている。

肝は(魂)、心は(神)、脾は(意)、肺は(魄)、腎は(志)を宿す、と(はやし浩
司著、「目で見る漢方診断」)。

 東洋医学の考え方を、そのまま仏教に当てはめることはできない。
が、参考にはなる。

 その東洋医学でも、「智」を最後に置いているところが、興味深い。

●理想

 世親は、さらにこう教える(浄土三部経)。
「仏陀を思念せよ」と。
わかりやすく言えば、「自分の理想とすべき人物を頭の中で、思い描き、その人物
に近づくように、努力せよ」ということになる。

 世親が説く「仏陀」というのは、真理の会得者ということになる。
が、これはたいへん重要なことである。
そのことは、逆の人たちを接してみると、わかる。
わかるというより、気がつく。

 たとえば愚劣な人と交わっていると、自分まで愚劣になっていくのが、よくわかる。
愚劣な話題に、愚劣な会話。
で、気がついてみると、いつの間にか、その人と同じような口調で、同じようなことを
話している!

 そういう意味でも、自分を高めることは、むずかしい。
しかし下げるのは、簡単。
山を登るのは苦しいが、山を下るのは簡単。
それに似ている。

 ともかくも、世親は、「仏陀を思念せよ」と。
近くに、それにふさわしい人がいれば、その人を思念するのもよい。
が、いないときは、どうするか?
絵画や音楽など、その世界で、道を究めたような人でも、またその作品でも
よいのではないか。
国宝となっているような仏像などをながめるのもよい。
ながめているだけで、厳粛な気持ちになる。

 要するに私たちは、常に高い理想をもち、その理想に近づくよう、努力するという
こと。
それを怠ったとたん、たちまち私たちは愚劣な俗世間の渦の中に、巻き込まれてしまう。

●現実性
 
 さらに世親のすぐれている点は、現実性を忘れなかったこと。
つねに「衆生(人間を含む、あらゆる生物)を観察し、それからでは、自分はどうあるべ
きかを学べ」(「浄土三部経」)と。

 そういう意味でも、私は仏教というのは、もともとたいへん現実的な宗教であったと
考える。
現在でいうところの実存主義に近い、あるいはそれと同じほど、現実的な哲学をもって
いた。
その仏教が、おかしなオカルトに毒されたのは、そこにインドのヒンズー教が混入した
ためである。
輪廻転生論が、その一例である。
「人は死に、また別の何かに生まれ変わる」という、あれである。
しかし法句経を読むかぎり、釈迦は、あの世とか、前世とか、今で言うスピリチュアルな
世界については、一言も述べていない。

●肉体と精神の分離

 話がどんどんと脱線してしまったが、私たちがそこにある真理に到達するため
には、まず、(肉体)から(意識)を解放させなければならない。
たとえば目の前に、山のようなごちそうが並んでいる。
しかも、いくら食べても、無料。

 そういうときあなたなら、どう判断するだろうか。
もしあなたが肉体、つまり欲望の奴隷なら、「食べなければ損(そん)」と考える。
しかしもしあなたの意識が肉体をコントロールしているなら、こう考えるはず。
「食べたら、体を損(そこ)ねる」と。

 食欲にかぎらない。
肉体が求めるあらゆる欲望も、また同じ。
それに溺れてよいことは何もない。

 たとえば昔、『おしん』というテレビドラマがあった。
当時、一世を風靡(ふうび)した、あるスーパーマーケットの創始者をモデルに
したドラマである。
 あの(おしん)は、当初、生きるために働く。
が、それが成功を収めると、今度は、働くために生きるようになる。
全国に支店を展開し、二代目の社長は、全世界にまで進出する。
サクセス・ストーリーとして、日本ではもてはやされた。
が、そのとたん、つまり、(おしん)が働くために生きるようになったとたん、
人々の心は(おしん)から離れ始めた。

 (おしん)が故郷を離れて行くシーンではみな、涙をこぼした。
が、二代目の社長が多額の借金をかかえて倒産したときに、それに対して涙を
こぼす人はいなかった。
 (おしん)は、あるときから欲望の奴隷になってしまった。
とたん、自ら、真理からはずれてしまった(?)。

●最後に……
 
 「私」と思っている部分について、それをよくよく考えてみると、それが
「私」ではないと気がつくことが多い。
たとえて言うなら、見かけの「私」は、タマネギかニンニクのようなもの。
そのタマネギやニンニクから、欲望をはがしていくと、最後に残るものは、
ほとんどない。
細いヒモのようなものでも残っていれば、まだよいほう。
それが「智」ということになるが、まったく何もなくなってしまう人のほうが、
多い。

 このことは逆に、子どもの発達段階を見ているとよくわかる。
純粋無垢だった子どもでも、世俗にさらされるうちに、どんどんと俗化していく。
俗化されながら、自分が俗化していることに気がつく子どもはいない。
「智」をはぐくむ前に、それを包む欲望だけが、どんどんと肥大化していく。
つまりそういう子どもの延長線上に、私たち、おとながいる。

 肉体と意識の分離。
それが真理到達への第一歩となる。
(私がわかったのは、ここまでだが……。)
そのまた第一歩として、今日からでも、食事のとき、あなたは自分にこう問いかけて
みるとよい。

「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損(そん)なのか」と。
食欲にかぎらない。
肉体の内側から湧き起きてくる欲望に、そのつどブレーキをかける。
たったそれだけのことだが、あなたの人生観は、それで大きく変わるはず。

(以上、未完成の原稿のまま……。後日、書き改めることにする。090624)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 肉体と精神 精神と肉体 浄土三部経 世親 はやし浩司 煩
悩)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【判断】(XX児の問題)

++++++++++++++++++++++

親のためか、それとも子どものためか。
ときとして私は、その板ばさみになって、もがく。
けっして、大げさな言い方ではない。
本当に、もがく。

++++++++++++++++++++++

●1本の電話

 ある日の午後、1本の電話がかかってきた。
受話器を取ると、女性の声で、こう言った。
「うちの子を、何としてもS小学校に入れたいのですが……」と。
そのため、私の教室で、指導してほしい、と。
1999年の春のことである。

 こういうケースのばあい、私は即、こう聞き返すことに
している。
「どなたかの紹介でしょうか?」と。
紹介者がいれば、それなりにていねいに応ずる。

「いえ、紹介ではありません。うわさをお聞きしました」
「はあ、うちは受験塾ではありませんが……」と。

 紹介があれば、その人から私の教室の内容を聞いているはず。
そのため、話もしやすい。
そうでなければ、そうでない。
小学校の受験だけを目的に来る生徒は、その場で断ることにしている。

 で、その母親は、娘(4歳児、年中児)を連れて、見学に来ることになった。

●年中児

 年長児と年中児。
その差はたったの1年だが、この時期の1年は、おとなの10年以上の差がある。
たいへん……というより、消耗するエネルギーの量がちがう。
年長児クラスなら、今でも2クラス、つづけて教えられる。
が、年中児クラスになると、1時間でヘトヘトになる。
猛烈に神経をつかう。

 言い換えると、年長児と年中児の月謝が同じというのは、おかしい。
割が合わない。
年中児のばあい、年長児の2倍の月謝でもよい。
3倍でもよい。
また、それくらいの価値はある。
皮肉なことに、小学生を教えるほうがはるかに楽。
中学生を教えるのは、もっと楽。
高校生ともなると、眠っていても、教えられる。

で、年長児になると、子どもも幼児後期から少年期へと移行する。
ある程度の「核」、つまり(つかみどころ)ができてくる。
が、年中児は、「自立」という意味で、たいへん重要な時期である。
子どもの性格そのものを、いじることができる。
わかりやすく言えば、私が意図した通りの子どもに仕上げることができる。

●参観

 その日まで、その子どものことは忘れていた。
ワイフに言って、案内書は送った。
が、名前も忘れていた。

 が、その日、やや遅れて、その子どもが教室へ入ってきた。
名前を、Gさん(年中児)と言った。
レッスンは、すでに始まっていた。
最初の緊張感が和らぎ、子どもたちがそろそろ私のリズムに乗ろうとした、
そのときだった。
私はワイフを促し、Gさんを、席に着かせようとした。

 が、様子がふつうではなかった。
母親のそばを離れなかった。
表情も硬かった。
その瞬間、私は、Gさんが、場面XX児と判断した。

●場面XX児

場面XX児というのは、よく知られた情緒障害児をいう。
家の中や、家族とは、ふつうの会話ができる。
むしろ騒がしいほど、よくしゃべったりする。
が、ひとたび環境(=場面)が変わると、まるで貝殻を閉ざしたかのように、
口を閉じてしまう。

 こうした症状に合わせて、視線を合わせない、体をこわばらせる、視線をはずす、
などの症状が出てくる。
(視線をこちらに向けたまま、動かさない子どももいる。)
が、最大の症状は、心(情意)と、表情が、遊離すること。
怒っているはずなのに、無表情のままか、ニタニタと意味のわからない笑みを
浮かべたりする。

 私はほかの子どもたちを、思いっきり笑わせてみた。
Gさんもつられて笑えばよし。
笑わないまでも、表情を和らげれば、それでよし。
それを目ろんだ。
子どもたちを笑わせるのは、私の得意芸。
「笑えば、子どもは伸びる」が、私の教育の柱にもなっている。

 で、みながゲラゲラと笑っているときも、Gさんは、無表情のままだった。
さらにみながゲラゲラと笑っているときも、表情は変わらなかった。
じっと私を見つめているようだったが、笑わなかった。
が、笑っていないわけではない。
心は笑っていた。
が、それが表情となって、外に出てこなかった。
それがxx児の特徴でもある。

●診断権

 私はドクターではない。
そのため診断権がない。
だから子どもを診断し、診断名を告げることはできない。
しかしXX児かどうかは、数分も観察すれば、わかる。
その瞬間にわかる。
XX児という言葉さえない時代から、私はXX児を指導してきている。
その数、何10例?
あるいはもっと多いかもしれない。
100〜200人と言っても、よい。
ある時期(30代のはじめ)は、そういう子どもたちばかりを教えていたことも
ある。

 XX児という言葉がポピュラーになったのは、そのあとのこと。
が、治す方法がないわけではない。
笑わせる。
大声で笑わせる。
その渦の中に、子どもを巻き込んでしまう。
程度の差こそあるが、軽い場合には、そのまま治ってしまう。
「治す」という言葉は、おおっぴらに使えないが、しかし治ってしまう。

●苦闘

 私はGさんを笑わせようと、苦闘した。
まずほかの子どもたちを笑わせ、その笑いをどんどんと大きくしていく。
そしてその笑いの渦の中に、Gさんを巻き込んでいく。

 ときどき横視現象も見られた。
視線をそらすので、そういうときは、布でできたボールを投げ、キャッチボールをする。
この方法は、集中力の欠ける子どもにも、有効である。
ボールが飛んできたとたん、子どもは、はっと我に返る。

 Gさんにも、2度ほど、ボールを投げてみた。
Gさんは、1度は、無表情のまま、ボールを手で取った。
が、もう1度は、横に座っていた母親が受け取って、私に投げ返した。
ほのぼのとした雰囲気だった。

 が、結局、1時間のレッスンの中で、Gさんは、笑わなかった。
一言もしゃべらなかった。
あとは根気との勝負である。

●幼児教育

 私は実のところ、そういう子どもを教えることのほうが、楽しい。
得意。
何も問題のない子どもを教えるよりは、教えがいがある。
「治った」ということになれば、その喜びも、また大きい。
実際、私はこの方法で、今まで、数えたことはないが、無数の子どもたちを治してきた。
(もちろん親たちの前で、「治す」とか「治した」という言葉を使ったことは、
一度もないが……。)

 私はGさんをながめながら、ムラムラと闘志が湧いてくるのを覚えた。
「治してやろう!」と思った。
「この子を治せるのは、私だけ」と思った。

 だからレッスンが終わったとき、母親にこう聞いた。
「Gさんの問題について、お気づきでしょうか?」と。

 そのとき母親の口から、「XX児」という言葉が出てくれば、話は簡単。
わかりやすい。
私はそれを期待した。
が、母親の答は意外なものだった。

「この子は、家の中ではふつうなのですが、幼稚園などでは、まったくしゃべり
ません。
保育園へ通っていたとき、先生が、たいへん神経質な先生で、こうなってしまい
ました」と。
「神経質な先生で、この子を頭から、抑えつけてしまったようです」とも言った。

 私は、「ハア〜」と答えただけで、そのあと何も答えられなくなってしまった。
で、そのあと、母親は、私にこう言った。
「実は、私もS小学校の出身なのです。だから娘には、どうしてもあの小学校へ
入ってもらわねばなりません」と。

●障害児

 障害児といっても、それは子どもの責任ではない。
親の責任でもない。
それぞれの障害児は、ある一定の割合で出現する。
だから障害児を見るときは、子どもだけを見てはいけない。
親を見てもいけない。
私たちみなが、社会全体の一員として、子どもをみる。
けっして、子どもや親を孤立させてはいけない。
みなが力を合わせて、そういう子どもを暖かい愛情で包む。

 が、重度のXX児ともなると、ふつう学級での指導は、実際問題として、難しい。
そこでこの浜松市でも、市内に拠点校というのを作って、そうした学校で集中的に
そういう子どもを集めて指導している。
「排除する」という発想ではない。
できるだけふつう学級で、ふつう児として学ばせ、プラス・アルファの教育を、
別教室でする。

●限界

 が、最近は、私は自分の体力の限界を感ずることが多くなった。
このタイプの子どもの指導には、体力が必要。
一瞬たりとも、息が抜けない。
緊張の連続。
先ほど、ヘトヘトになると書いたが、ヘトヘト以上のヘトヘトになる。
レッスンが終わったとたん、ヘナヘナと椅子に座り込んでしまうこともある。
それくらい、エネルギーを消耗する。

 が、それを支えてくれるのが、家族ということなる。
Gさんのケースでも、母親が、Gさんの障害について自覚し、その上で私に……、
ということであれば、私も喜んで指導を引き受けただろう。
しかしGさんの母親は、まったくの無知。
無理解。
こういうケースのばあい、指導はたいへん難しい。
理由というより、これにまたその一方で、苦い経験が山のようにある。

●「萎縮させてしまった」

 たいてい数か月もすると、親が子どもの手を引いてやめていく。
「この教室は、効果がなかった!」と。
こんなことがあった。

 A君(年長男児)も、そのXX児だった。
で、何とかA君にしゃべらせようとがんばった。
その日もがんばった。
が、順に当てていっても、A君の番になった。
が、A君はしゃべらなかった。
ジリジリとした瞬間が重なった。
私はあれこれ誘導しながら、何とかA君にしゃべらせようとした。
しかしA君は、意味不明の笑みを浮かべ、口を閉ざしたままだった。

 で、ころあいを見計らって、私はこう言った。
「今日は、調子が悪いんだね」と。
そしてそのまま次の席に座っている子どもに、発言させようとしたその瞬間、
母親のほうがキレた。
「うちの子は、どこも悪くありません!」「A!、帰るのよ!」と、大声で怒鳴って、
そのままA君の手をつかむと、部屋から出て行ってしまった。

 さらにこんなこともあった。
B子さん(年長女児)も、そのXX児だった。
が、B子さんは、口数は少なかったが、それなりに教室の中では楽しそうに
レッスンを受けていた。

 が、ある日突然、父親から電話がかかってきた。
こう言って、怒鳴った。
「お前は、子どもを伸ばすと言いながら、うちの娘を萎縮させてしまった。
どうしてくれる。責任を取ってもらう!」と。

 私は気がつかなかったが、その日は、B子さんの父親が参観に来ていた。
自分の娘がしゃべらないのは、私の指導の仕方が原因と、その父親は考えた……らしい。

●「家で相談してきます」

 だから……。大切なのは、親の理解と協力ということになる。
それがないと、XX児の指導はできない。
またそのために、どこかの専門の機関で、一度、診断名をしっかりとつけてもらう
必要がある。
またそれがどういう障害なのか、しっかりと知ってもらう必要がある。

 その上での指導なら、できる。
が、それがないと、できない。
私は迷った。
「引き受けるべきか、どうか」と。
母親は、「何として、S小学校に」と言っている。
しかしGさんの母親が、私の心を、無残にも叩きつぶしてしまった。
レッスンが終わると、私にこう言った。

「家に帰って、この教室に入会するかどうか、話し合ってきます」と。

 こういう場面で、「この教室へ入れていただけますか?」とか、
「引き受けていただけますか?」と聞く親は、まず、いない。
だからといって、親を責めているのではない。
今は、そういう時代である。
どの親も、「入ってやる」という態度で、私の教室へやってくる。
それはそれでしかたのないことかもしれない。
ここにも書いたように、「今は、そういう時代である」。

●販売拒否?

 が、ここでも問題が起きる。
親のほうは、入会するかどうかは、親の意思だけで決まると思っている。
教育を、自動販売機のように考えている人は多い。
「お金を出してやるから、教えろ」と。

 そうかもしれないが、それをあまり露骨に言われると、教えたいと思う
気持ちは半減する。

 さらにこちらから入会を断わったりすると、デパートで販売拒否にでも
あったかのように、最近の親たちは、怒る。
「どうしてうちの子は入れてもらえないのか」
「理由を言ってほしい」と。

 公立の学校にすら、入学試験というのがある。
私立幼稚園にしても、平均して、年間1億円以上の補助金を受けている(S県)。
が、親たちは、私のような者がそれをするのを許してくれない。

 翌日、私はGさんの家に電話を入れた。
そしてていねいに、こう言った。
「実は、またおいでねとは言いましたが、私の体力的な問題もあり、今回は
お引き受けいたしかねますので、ごめんなさい」と。

 本当はその前に、Gさんの母親が、こう言うのを期待していた。
「娘と相談してみましたが、今回は、入会を見合わせます」と。
しかしGさんの母親は、「娘が喜んでいる」「来週から行きます」と言った。
それで私としては、断わるよりほかになかった。

 で、案の定というか、今まで何度もあったように、Gさんの母親はそのまま
激怒。
声を荒げて、こう怒鳴った。
「理由を言ってください!」「理由を言ってもらわなければ、納得できません!」と。

 私はただ「体力的に自信がありませんから……」を、繰り返すしかなかった。

●方法

 今では、各地域に発達相談センターのようなものがある。
自分の子どもで、(ふつうでない面)を見つけたら、そこで相談するとよい。
子どもの世界では、『無知は罪悪』と考えてよい。
小さな殻(から)にこもってはいけない。

 そしてそこで自分の子どものもつ障害を、冷静に見つること。
先ほども書いたように、だからといって、それは子どもの責任ではない。
親の責任でもない。
社会全体の問題である。
社会全体がともに考え、負担すべき問題である。
けっして、子どもを追いつめてはいけない。
親を追いつめてはいけない。

 ただ無知なままだと、不適切な指導が、かえって子どもを悪い方向に
追いやってしまうことがある。
症状をこじらせてしまう。
だから『無知は罪悪』ということになる。

 Gさんの母親は、電話口の向こうで、電話を切る寸前まで、怒っていた。
一方、私は「すみません」「すみません」だけを繰り返した。
とても残念な事件だったが……。

 その後、Gさんがどうなったかは知らない。
が、似たような事件は、そのあとだけでも、数例あった。

(以上、ここに書いたことは、いくつかの話を混ぜて作った、フィクションです。
ある特定に親子について、書いたものではありません。
また最近、あった事件でもありません。
遠い昔あった事件を思い起こしながら、ひとつのストーリーとして
まとめてみました。
どうか誤解のないように!)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
かん黙児 場面かん黙児 緘黙 緘黙児の指導)

++++++++++++++++++++

2年前(07年)の7月にも同じような
原稿を書いていました。
それをそのまま紹介します。
文章が稚拙ですが、そのまま載せます。

++++++++++++++++++++

●無知、無理解、無学

子育てで、何がこわいかと言って、無知(=親にその知識がない)、無理解(=子どもの
症状について、理解しようとしない)、無学(=親に学ぶ姿勢がない)の3つほど、こわ
いものはない。

 私はドクターではないから、診断名をくだすことはできない。しかしその子どもに、ど
んな障害があるかは、会ったその瞬間に、ある程度わかる。が、それを口に出すことはで
きない。わかっていても、知らぬフリをする。そんなときは、そのため、それとなく、親
に、さぐりを入れる。

 が、そういう親にかぎって、無知、無理解、無学。(失礼!)「できるだけ、避けて通り
たい」という親の気持ちも、理解できないわけではない。「たとえその疑いはあっても、信
じたくない」という親の気持ちも、理解できないわけではない。親としても、つらい。悲
しい。それはよくわかる。

たとえば7、8年前になるが、1人の女の子(小2)がいた。Hさんという名前の女の子
だった。場面かん黙児だった。最初、父親に連れられて私の教室にやってきた。が、父
親は、自分の娘のことを、何も気づいていなかった。

 その日は、何とか、やり過ごした。が、つぎのときには、今度は母親に連れられてやっ
てきた。私は、それとなくさぐりを入れた。(さぐり)というのは、親がどの程度まで、自
分の子どもの問題点を理解しているか、それを知ることをいう。が、何を聞いても、即座
に返ってくるのは、反論ばかり。

私「静かなお子さんですね」
母「家では、ふつうにしゃべります」
私「学校では、どうですか?」
母「友だちとなら、会話できます。しかし、おとなが苦手です」
私「学校の教室では、どんな様子ですか?」
母「しゃべりません。とくに先生との相性が悪いようです」

私「幼児期に、どこかへ相談なさったことがありますか」
母「問題は、ありません。生まれつき、外では、静かな子どもです」
私「外で静かだということにお気づきになったのは、いつですか?」
母「言葉の発達が遅れたからです」
私「遅れたというのは……?」
母「今は、問題、ありません」と。

 その女の子には、かん黙児特有の、(遊離)が見られた。顔の表情と、心の状態(情意)
が不一致した状態をいう。いつもニンマリというか、ニコニコというか、意味のわからな
い笑みを浮かべていた。いやがっているはずのときも、怒っているはずのときも、意味の
わからない笑みを浮かべていた。同じかん黙児でも、こうした遊離が見られたら、(程度に
もよるが……)、症状は重いとみる。あるいは、すでに症状がこじれてしまっているとみる。

 もっと早い段階、たとえば3、4歳ごろにそれに気づき、適切な対処をしていれば、あ
る程度、遊離を防げたかもしれない。軽くすますことができたかもしれない。しかしそれ
は(過去)の話。教育の世界では、(今、そこにある現実)を原点に、ものを考える。親の
過去を責めても、意味はない。

 私はさらにさぐりを入れた。入れながら、親の口から、「かん黙」という言葉が出てくる
のを待った。しかし最後まで、その言葉は出てこなかった。ほんとうに無知なのか? そ
れとも隠しているのか? 私には判断できなかった。

 で、このタイプの子どもの指導のむずかしい点は、(1)集団に溶け込まないこと。(2)
心を開かないから、心の交流ができないこと。(3)ストレスを、内へ内へとためやすいた
め、予期せぬ問題が、発生しやすいこと。そのときすでに、その女の子には、家庭内暴力
的な様子が、始まっていた。母親は、こう言った。

 「学校から帰ってくると、私に向かってはげしい暴力を振るうことがあります」と。

 つまり教える側からすると、腫れ物に触れるかのような、細心で、デリケートな指導が
必要となる。何を考えているか、わからない。それがつかめない。そのため教えるといっ
ても、まさに手さぐりの神経戦。ピンと張り詰めたような神経戦。それが一瞬、一秒とい
う単位でつづく。突然、キレて、暴れ出すこともある。若いときなら、神経戦もできるが、
当時すでに私は50歳を超えていた。神経戦は、つらい。

 が、何よりも大きな問題は、そういう問題がありながらも、親自身が、それに気がつい
ていないこと。気がついていれば、話もできる。指導もできる。が、そこにある問題から、
親が目をそらしてしまっているばあい、指導そのものができない。

またこのタイプの親は、やめるのも、早い。少しやってみて効果がないとわかると、(そ
んなに簡単に効果が現れるということはないのだが……)、「この教室はだめだ」という
ような判断をくだして、子どもの手を引っ張って、そのままやめてしまう。

 その女の子のばあいも、私は、こう言った。「簡単には、いきませんよ。1年とか、2年
とか、あるいはもっとかかるかもしれません」と。しかし母親は、こう反論した。「うちの
子は、慣れれば、だれとでも話をします。話をしないのは、慣れていないだけです」と。「と
にかく、教室へ置いてくれれば、それでいい」とも、言った。

 事実、その女の子は、そのあと数か月程度で、私の教室を去っていった。

 かん黙児……。その中でもとくに指導がむずかしいのは、場面かん黙児。親は、「家では
ふつうです」と、がんばる。子ども自身に問題があるとは、思っていない。だから、その
問題点に気づくこともない。

 だから私は、当時、こう書いた。「親の、無知、無理解、無学ほど、こわいものはない」
と。

(付記)

 かん黙児にかぎらず、情緒そのものに障害がある子どもは、けっして、無理をしてはい
けない。「直そう」とか、「治そう」と考えてはいけない。そういう子どもであることを認
めた上で、その子どもに合った指導をするのがよい。(親にそれを認めさせるまでが、たい
へんだが……。)あとは、時期を待つ。子ども自身がもつ自律能力を待つ。

かん黙児にしても、その年齢がくれば、何ごともなかったかのように、終わる。小3〜
4年生を境に、症状は急速に改善する。(症状をこじらせれば、その時期は、ぐんと遅れる。
あるいは、別の問題を引き起こす。)

 無知、無理解、無学が原因で、たいていの親は、無理をする。この無理が、こわい。「そ
んなはずはない」「うちの子に限って」と、子どもをはげしく叱ったりする。そのため症状
を、かえってこじらせてしまう。子ども自身が自分で立ちなおるのを、遅らせてしまう。

 そこで学校教育の場では、それとなく親に、学校医もしくは専門医の紹介をしたりする。
「一度、専門医に相談してみてはどうですか?」と。
幼稚園であれば、保健所(センター)などにある、「発達相談センター」を紹介したりする。

 こうした働きかけがあったら、親は、すなおにそれに応ずるのも、大切なことではない
だろうか。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 7月 27日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(9)

●親像はぬいぐるみで

 子ども(幼児から小学低学年児)に、母性や父性が育っているかどうかは、ぬいぐるみ
の人形を抱かせてみればわかる。母性や父性が育っている子どもは、ぬいぐるみを手にす
ると、さもいとおしいといった表情で、それを抱く。中には頬をすりよせてくる子どもも
いる。しかしそうでない子どもは、ぬいぐるみをみたとたん、足でキックしたりしてくる。

私が調べたところ、幼稚園の年長児で、男女を問わず、10人のうち8名が、ぬいぐる
みを見せるとうれしそうな顔をし、約2人弱が、反応を示さないか、あるいはキックし
たりするのがわかった。さらに小学校の4、5年児について調べてみると、約80%が、
「ぬいぐるみ大好き」と答え、そのうち約半数が、ごく日常的に多くのぬいぐるみと接
しているのがわかった。

 子育ては本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり親によって育てられた
という経験が身にしみこんでいて、今度は自分が親になったとき、子育てができるように
なる。それを「親像」という。が、不幸にして、不幸な家庭で育てられ、この親像がしっ
かりしていない人がいる。しかし問題は親像がないことではない。むしろ何不自由なく、
親の温かい愛情に恵まれて育った人のほうが少ない。

問題は、その親像のないことに気づかないまま、それに引きまわされ、同じ失敗を何度
も繰り返すことである。ある父親は、私にこう相談してきた。「娘を抱いていても、どれ
だけ抱けばいいのか。どう抱けばいいのか。それがわからない」と。その父親は、彼の
父親を戦争でなくし、母親の手だけで育てられていた。つまり彼の中には「父親像」が
なかった。

 話がそれたが、これだけは言える。ぬいぐるみを見せたとき、いとおしそうな表情を示
す子どもは、将来、やさしいパパやママになることができる。(そうでない子どもは、そう
でなくなるとは言えないが……。)そんなわけでもし心配な点があるなら、子どもにはぬい
ぐるみをもたせるとよい。これには男女の差別はない。またあってはならない。男の子で
も、ぬいぐるみで遊んでいる子どもはいくらでもいる。
 

Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(10)

●一芸を大切に

 子どもには一芸をもたせる。「一芸」というのは、子どもの側からすれば、「これだけは
絶対に人には負けない」というもの。周囲の側からすれば、「このことについては、あいつ
にかなうものはいない」というもの。この一芸が子どもを伸ばす。あるいは子どもを側面
から支える。中には、「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一
度勉強でつまずくと、あとは坂をころげ落ちるかのように、成績がさがる。

 一芸は、見つけるもの。この一芸は、つくろうとしてつくれるものではない。子どもの
日ごろの様子を観察していると、「これは!」というものに気がつく。それが一芸。ある女
の子(1歳)は、風呂の中でも平気で湯にもぐって遊んでいた。

そこで母親がその子どもを水泳教室へ入れてみたが、案の定、「水を得た魚」のように泳ぎ
始めた。また別の男の子(5歳児)は、父親が新車を購入すると、スイッチに興味をもち、
「このスイッチは何だ」と聞きつづけた。そこで私に相談があったので、パソコンを買っ
てあげることをすすめた。この子どもも予想通り、パソコンに夢中になり、やがて小学3
年生になるころには、ベーシック言語で、自分でつくったゲームで遊ぶようになった。

 ただし同じ一芸でも、ゲームがうまいとか、カードをたくさん集めるとかいうのは、こ
こでいう一芸ではない。一芸というのは、将来に向って創造的なもの、あるいは努力と練
習によって、より光る要素のあるものをいう。そういう一芸を子どもの中に見つけたら、
思い切り時間とお金をかける。この「思い切りのよさ」が、子どもの一芸を伸ばす。

 さらにその一芸が、子どもの天職になることもある。ある男の子(高校生)は、ほとん
ど学校へ行かなかった。毎日、近くの公園でゴルフばかりしていた。しかし10年後、会
ってみると、彼はゴルフのプロコーチになっていた。当時私は40歳前後だったが、その
ときすでに、私の年収の何倍ものお金を稼いでいた。同じように中学時代、手芸ばかりし
ている女の子がいた。学校ではほとんど目立たなかったが、今、市内の中心部で、大きな
ブテイックの店を構えている。一芸には、そういう意味も含まれる。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(11)

●過関心は百害のもと

 ある朝、一人の母親から電話がかかってきた。そしてものすごい剣幕でこう言った。い
わく、「学校の席替えをするときのこと。先生が、『好きな子どうし並んでいい』と言った
が、(私の子どものように)友だちのいない子どもはどうすればいいのか。そういう子ども
に対する配慮が足りない。こういうことは許せない。先生、一緒に学校へ抗議に行ってく
れないか」と。

その子どもには、チックもあった。軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が
原因だが、そういうことはこの母親にはわかっていない。もし問題があるとするなら、む
しろ母親のほうだ。こんなこともあった。

 私はときどき、席を離れてフラフラ歩いている子どもにこう言う。「おしりにウンチがつ
いているなら、歩いていていい」と。しかしこの一言が、父親を激怒させた。ある夜、猛
烈な抗議の電話がかかってきた。いわく、「おしりのウンチのことで、子どもに恥をかかせ
るとは、どういうことだ!」と。その子ども(小3男児)は、たまたま学校で、「ウンチも
らし」と呼ばれていた。小学2年生のとき、学校でウンチをもらし、大騒ぎになったこと
がある。もちろん私はそれを知らなかった。

 しかし問題は、席替えでも、ウンチでもない。問題は、なぜ子どもに友だちがいないか
ということ。さらにはなぜ、小学2年生のときにそれをもらしたかということだ。さらに
こうした子どもどうしのトラブルは、まさに日常茶飯事。教える側にしても、いちいちそ
んなことに神経を払っていたら、授業そのものが成りたたなくなる。子どもたちも、息が
つまるだろう。教育は『まじめ7割、いいかげんさ3割』である。子どもは、この「いい
かげんさ」の部分で、息を抜き、自分を伸ばす。ギスギスは、何かにつけてよくない。

 親が教育に熱心になるのは、それはしかたないことだ。しかし度を越した過関心は、子
どもをつぶす。人間関係も破壊する。もっと言えば、子どもというのは、ある意味でキズ
まるけになりながら成長する。キズをつくことを恐れてはいけないし、子ども自身がそれ
を自分で解決しようとしているなら、親はそれをそっと見守るべきだ。へたな口出しは、
かえって子どもの成長をさまたげる。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(12)

●子どもの心を大切に

 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。たとえば神経症にせ
よ恐怖症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、心の問題をどこかに感
じたら、決して無理をしてはいけない。中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と決め
つけて、無理をする人がいる。さらに無理をしないことを、甘やかしと誤解している人が
いる。

しかし子どもの心は、無理をすればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなお
りが遅れる。しかし親というのは、それがわからない。結局は行きつくところまで行っ
て、はじめて気がつく。その途中で私のようなものがアドバイスしても、ムダ。「あなた
本当のところがわかっていない」とか、「うちの子どものことは私が一番よく知っている」
と言ってはねのけてしまう。あとはこの繰り返し。

 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを
繰り返しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出
てくる。もしそんな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そし
てその状態を受け入れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。

よくある例が、子どもの非行。子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗み
や、夜遊びであったりする。しかしこの段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はま
ずいない。たいていの親は強く叱ったり、体罰を加えたりする。しかしこうした一方的
な行為は、症状をますます悪化させる。万引きから恐喝、外泊から家出へと進んでいく。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、
決して美しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく
子どもいる。しかし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、
あなた自身を振り返ってみればよい。あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなに
なっただろうか。あるいはあなたの巣立ちは、美しく、すばらしいものであっただろうか。
そうでないなら、あまり子どもには期待しないこと。昔からこう言うではないか。

『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれないが、子育てというのは、
もともとそういうもの。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの盗癖】

+++++++++++++++++++++

掲示板のほうに、こんな相談が届いている。
息子の盗癖についてのものである。
それについて、考えてみたい。

+++++++++++++++++++++

【Rさんより、はやし浩司へ】(1)

はじめまして。突然のメールで、失礼します。昨年、静岡市YU中学校区の講演
会に出席させて頂きました。まさに今、トンネルの真っ只中にいるため興味深く
時に涙しながら聴かせて頂きました。有難うございました。

  早速ですが長男のことについて相談します。小さいころから活発で元気だけが
とりえの子でした。それが中学に入った年の夏、部活動(テニス部)中に突然倒れる
ようになり病院で起立性調節障害と診断されました。朝、低血圧になり具合が悪
く午後からは嘘のように元気になるという症状で二学期はほとんど学校に行けず
に過ごしました。それをきっかけに部活動の先輩や同級生からいじめを受けるよ
うになり病気自体は三ヶ月ほどで治癒したのですが不登校になってしまいました。

それでも最初のうちは週に1、2日は登校できていましたし、体育大会や文化祭
など授業のない日は必ず参加していました。そんな生活が一年半続きましたが、
二年の三学期はとうとう始業式と終了式に参加しただけでした。ただ、三年にな
って四月末に修学旅行があるためか嘘のように登校し始めて無事修学旅行にも行
ってこられたときには本当に嬉しく思いました。

そんな思いもつかの間で五月からはまた、不登校です。今の生活は、朝具合が悪くご飯も
食べられず他の家族が出払ってしまうとパソコンに向かいオンラインゲームをほぼ一日中
やっています

夜になると明日は必ず学校に行くと言っていますがまたあくる朝になれば体調を崩す毎日
の繰り返しです。学校に行かなきゃいけないことや高校にも行きたい希望を持っているの
にいざ勉強となると集中できず学力は小六程度です。本人のやりたいこととやれることの
ギャップがあまりにも大きくて苦しんでいます。死にたいと洩らしたこともありますが自
殺する勇気すらないと言います。今は廃人同様だと嘆きどうすればいいのかわからない状
態です。
 
私たち親が出来ることはただ信じて待つことだけですか。今は生きていてくれさえすれば
いいぐらいに考えられるようになりましたが正直なところ苦しいです。来年以降のことを
考えると・・・・病院に行くこともスクールカウンセラーに相談することも考えました
が息子は拒絶します。
 
  とりとめも無く書き込んでしまってすみません。ただただ息子の笑顔が見たい
だけなのです。日に日に衰弱していくのがたまらないのです。どうか・・・よろ
しくお願いします。


【Rさんより、はやし浩司へ】(2)

こんにちは。昨日はご多忙中にもかかわらずお電話を頂きまして有難うございました。早
速、仕事から帰った主人にも話しました。
 
一夜たち、今までに無く穏やかな気持ちで息子のことをみている自分がとても嬉しいです。
家族四人で何気なく交わす会話の中に幸せを感じています。
 
まだまだ先は永いと思いますが私は私らしく元気に生きていこうと思います。先生と今出
会えたことに感謝しています。そして貴重なお話をしていただけたことに感謝しています。
本当にありがとうございました。
 
今度メールを送るときには心から笑って話せると思えます。では、また。


【Rさんより、はやし浩司へ】(3)

すみません。今度メールするときは・・・って言ったばかりなのにまた迷いを感じる出来
事がありました。一体、どこまで試されるんだろうと。
 
実は、うちのお金が取られました!
 
私たちは、決して裕福な家庭ではありませんが何とか3年前念願のマイホームを手に入れ
ました。当初は主人の両親と同居していました。今は、両親とは別居しています。
まだ、同居していたころ、最初の事件は起きました。
 
祖父の財布から1000円とりました。それから時々私のバックの中の財布から・・主人
の貯金箱から・・とエスカレートしていきその度に警察につれてってくれだのもう二度と
しないだの死にたいだのと言い月々のお小遣いから少しずつでも返していくことで許して
いました。流石に3度目の時には、現金を鍵つきの箱(耐火金庫ではないけれど金庫と呼ん
でいる)に入れるようにし、もう無いだろうと思っていました。
 
本当に忘れていました。ここのところ穏やかに話ができるようになっていました。だから
前々回の相談メールではふれることも無かったのですが・・・。昨日、いつものように買
い物に行くとき金庫からお金を出そうとして先週銀行からおろしたお金が減っているのに
気づき慌てた様子を見せると息子が「自分がとった」と言いました。

「金庫は組み立て家具なのでねじをはずして中身を出した」と。ショックでした。家中の
お金をそこに入れていたから。いくら学校休んで時間があるとはいえそこまでするとは思
っていなかったから。しかも今回は単位が万単位。主人がコツコツためていた500円貯
金も、かなり持っていかれました。
 
何に使ったのかといえばパソコンのオンラインゲームの課金がほとんど。生活上では全く
派手になるとかではないのでわからなかった部分もあるのですが金庫に入れておけば大丈
夫と思っていたのが間違いだったのか・・・
 
信じたい・・・けど信じられない自分がいます。何度も同じ事を繰り返してその度に泣い
て謝るけど苦しんでいるはずなのに何故また繰り返すのか。うちのお金が取れないと思っ
たとき、外に向かわないかという心配もあります。金額の大小ではないけれどやっぱり悔
しいし悲しいです。こんなとき、どう対応したらいいのでしょうか。とりあえず今ある現
金は今日銀行に持っていってもう家には置かないつもりです。
 
本当にスミマセン。とっても素敵なメールをいただいたのに・・・保存して辛くなったら
読もうと思っていたのに何度読み返しても今、やさしい言葉が出てこない自分が情けない
です。まだまだ母は未熟者です。でも、頑張りたいのです。どうしても息子を救いたいの
です。よろしくお願いいたします。

【はやし浩司より、Rさんへ】

(Rさんには、直接、電話をかけました。
30分ほど、相談にのりました。
そのあとに送信したメールです。)

石原様へ
 
おはようございます。
人生は楽しいですよ。
いろいろなことがありますか。
 
子どもがいろいろ教えてくれるのです。
自分だけが最悪と思わないこと。
みんな外からはわからないだけ。
同じような問題をかかえて、悩んでいます。
 
あとは白い雲が流れていくように、
やがて落ち着きます。
あせらず、ここはおおらかに!
「あなたの分は、私ががんばってあげるからね」と、
やさしい言葉をかけてあげてください。
 
何でもない問題ですから……。
 
息ができる。
目が見える。
音が聞こえる。
そのすばらしさを、ゆっくりとかみしめましょう!
 
では、
 
また何かあれば連絡してください。
 
 
はやし浩司
 
 
【はやし浩司より、Rさんへ】

R様へ
 
こんばんは。
 
息子さんの盗癖は、本人自身でもコントロールできない種類のものと思われます。
アルコール中毒の人がアルコールを求めたり、ニコチン中毒の人が、タバコを
求めたりするのと同じ現象が、脳の中(視床下部→線条体)で起きていると
考えてください。
つまり条件反射的に脳の中で、勝手に反応が起きてしまい、自分でもどうしたら
よいのか、わかっていないのです。
 
ですから、ここは管理を徹底するという方法で対処しますが、この種の盗癖には、
さらに2番底、3番底がありますから、気をつけてください。
対処の仕方をまちがえると、さらにやっかいな盗癖(家の外での窃盗など)へと
つながっていきます。
 
今は、これ以上状況を悪くしないことだけを考えて、穏やかに、かつていねいに
息子さんと接してあげるのがコツです。
 
怒って、感情的になってはいけません。今こそ、親の理性が試されるときと思って
ください。
本来なら、どこかでカウンセリングのようなものを受けるのがよいのですが、
まだそういう制度そのものが、日本のばあい貧弱です。
 
とにかく感情的にならないこと。
温かい無視で息子さんを包みながら、家の事情などを、ていねいに説明されるのが
よいでしょう。
それでも盗癖がつづくようであれば、はっきり言いますが、ある程度の盗みには
目をつむりなさい。
この時期の熱病のようなものですから、数年もすれば落ち着いてきます。
どこの子どもも、みなしてますよ。
ざっとみても、3人に2人くらいはしているのではないでしょうか。
貯金通帳から盗んで使っている子どももいました。
しかも数百万円単位で使っていました(高校女子)。
 
ですから必要以上におおげさに考えないこと。
それがそのまま、たとえば、大きな事件につながるというふうには、考えては
いけません。

幼い時から、ほしいものを買い与えてきたツケが今、出ていると考えてください。
値段的には安いものだったかもしれませんが、息子さんは、それで自分の欲望を
満足させていたわけです。
それが今、表に出てきたというわけです。
つまりその責任は、あなた自身にもあるということです。
息子さんだけを見て、息子さんを責めても、それは酷というものです。
 
繰り返しますが、二番底、三番底が、まだあります。
「今が最悪」とは、思わないこと。
気をつけてください。
そのため、「直そう」とは思わないこと。
「これ以上、悪くしないこと」だけを考えて対処してください。
 
また悪い面ばかり見ないで、健康で、やさしい子どもですから、ここは子どもを信じて
みましょう。
またこんな程度の問題で、めげていてはいけません。
子どもは、上から見てはいけません。
下から見るのです。
昔の人は、こう言いました。
『上見て、きりなし、下見て、きりなし』と。

そこに子どもがいて、ここに自分がいる。
元気で、みながんばっている。
そこを原点にして、子どもの問題をながめます。
何度も言いますが、Rさんがかかえている程度の問題は、何でもありません。
「盗みたかったら、どうぞ」と。
「その分、私がまたがんばるからね」と。
今のところ、金額も、(子どもの額=少額)のようですから、あとは笑って、
『許して、忘れる』です。

いつか子ども自身が、自分のした行為を恥じるように、Rさん自身が、大きく
成長してみせます。
それが子育てのだいご味でもあります。

まずいのは、取り越し苦労に、ぬか喜び。
もう少し長いスパンで、子どもの問題に接してみてください。
「去年よりはよくなった」とか、いうようにです。

きびしいことを書きましたが、あとはひたすら管理、管理です。
私の息子の1人も、同じようなことをしたことがあります。
そのときは、金庫の中に、手紙を入れておきました。

「いくらでも、もって行け。
だけど、こういうことは、やめよう」と、です。
以後、息子は、ぴたりと盗みをしなくなりました。

では、
 
はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●荒れる子ども

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石川県のNさんという母親より、子どもの
(荒れ)についての相談が届いています。
それについて考えてみたいと思います。

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【Nさんより、はやし浩司へ】(1)

はじめまして。時間がなくて、携帯で先生のメルマガ等を読ませていただいていま
した。今回、どうしても力になっていただきたくて、こちらにメールしました。

> 長男が最近荒れています。今小学2年生なのですが、半年ほど前から宿題を嫌がる
ようになり、今では後回し後回しで、結局寝る直前にものすごく雑にやるといった感
じです。

少しでも間違えたり分からなかったりすると、鉛筆を投げ捨ててふてくさ
れ、その後は読めないようなめちゃくちゃな字で怒りながらやったりします。先生の
ブログなどを読むようになり、私の対応がまずかったことに気がついたのですが、今
では手がつけられないような状態になってしまっています。あまり宿題をせかしてや
らせたりしないように、本人の気が向くまで様子を見るようにしているのですが、結
局眠くなってからやるのでよけいに機嫌が悪く、悪循環になっています。

少し前にたくさんほめてちょっとだけやる気がでたこともあったのですが、そこに主人が
いろいろと口うるさく言ったために、またやらなくなってしまいました。昨日は息子が主
人に「一緒に勉強しよう」と言ってやり始めたのですが、また主人が息子がちょっとよ
そ見をするたびに叱るので、最後には大喧嘩になってしまいました。そして今日は主
人が帰ってくるのを見ると、主人の実家(同じ敷地内)に行ってしまい、「パパとご
飯を食べるのはうざいから嫌だ」と言ってなかなか帰ってきませんでした。結局はし
ぶしぶ帰って気きて、一緒にご飯を食べたのですが、私と長男が一日の出来事を話してい
る間に、また主人が子供にうるさく言うので、逃げるように母屋の祖父母のところへ行き
おじいちゃんとお風呂に入ってしまいました。それがまた、主人には面白くないらし
く、その後ずっと不機嫌でした。

実はそういう主人は、子供の頃一度も宿題をやったことがないそうです。主人の父が
プロサッカー選手に育てようと、サッカーの練習以外は必要ないと言って学校の先生にも
「宿題はやりません」と言ったくらいです。主人は自分の反省を生かして息子に勉強させ
ようとしているようなのですが、「勉強しろ」と言われたことがないので、そう言わ
れて勉強をやる気になるのかどうかが分からないのかもしれません。そして、とても
父親風をふかせたがります。

私も主人に時々「それは違うんじゃないの」と言ったりするのですが、主人は全く自分の
やり方を変える気はないようです。最近は主人に対して私も不信感を持つようになり、息
子にとって悪影響ならば離婚したほうがいいのかとまで思うようになりました。主人はこ
ういった先生の本を読むような人ではありませんし、今後も変わらないように思われて、
どうしたら分かってくれるのかと悩んでいます。

最近は少しでも気に入らないと、息子が暴れるようになり、私に暴力をふるうように
なりました。10分もするとけろっとして、「ママ、ごめんね。仲直りしよう」と言
うのですが、その直後にまた思うようにならないことがあると暴れます。これからの思春
期が恐ろしく、不安でいっぱいです。ドラ息子にしてしまった私がいけないのですが、今
すべきことを教えてください。


【Nさんより、はやし浩司へ】(2)

おはようございます。
さっそくのご返事ありがとうございます。朝から返事をいただけたことがうれしく、
涙が出ました。

昨晩は、私もどうしていいかわからず、あせってメールをしたのでうまく内容がまと
まらず、申し訳ありませんでした。肝心なことがいくつかぬけていたので、簡単に補
足します。

●学校でも半年ほど前から授業中に落ち着きがなく、上履きを脱いだり履いたり、何
度も座りなおしたりしています。(参観日に見た限りでは)

●内弁慶で、学校では大人しいのですが、友達はわりと多く、毎日のように帰りに友
達と遊んだりしています。

●ゲームやスポーツで、自分が負けそうになると投げ出す、いわゆるドラ息子です。

●主人は次男に甘く、長男もたまに「パパは○○(弟)には優しいから」と言いま
す。

●小学校に入ったときからですが、最近また「学校を休みたい」と頻繁に言うように
なりました。

以上です。

学校は結局一度も休んでないのですが、休ませたほうがよいのでしょうか。一度休む
と余計に学校に行くのが嫌になる気がしますし、もし休ませたら主人がまたガミガミ
言うのは間違いないので、長男がまた荒れる気がします。

今は学校や家での楽しい話をなるべく長男として、少しずつですが手伝いもやるよう
にさせています。宿題はやらずに学校へいく勇気はないらしく、昨日も怒りながら途
中で寝てしまったので、朝少し早く起こしてやらせました。私に「なんで宿題と学校
の用意をやっておいてくれないの!」と怒っていましたが、少し手伝うことはしても
完全にやってあげるのはまずいと思い、やっていません。

毎日とても迷い、悩みながらの子育てです。でも先生の息子さんも同じように頑張っ
ていると聞いて、少し安心しました。先生の息子さんは、すぐ身近に相談できる人が
いて幸せですね。私は両親にはあまり相談しないので(つまり信頼関係がないので
す)、うらやましく思います。でも私も先生に親切に相談にのっていただけたので、
とてもこころ強いです。

本当にありがとうございました。
先生のアドバイスを参考に、やっていこうと思っています。

7月から次男が保育園に入るので(次男もワガママで手を焼いています)、時間がで
きたら先生の過去のメルマガやブログをゆっくり読みたいと思っています。これから
もたくさんすてきなお話を聞かせてください。楽しみにしています。

【はやし浩司より、Nさんへ】

 思いつくまま、書いてみたいと思います。

●三角関係

発達心理学の世界にも、「三角関係」という言葉があります。
父親と母親の育児方針がバラバラで、子どもとの間に、三角関係ができることをいいます。
(両親が一体化しているときは、三角関係はできません。)

よくあるのは、父親が甘く、母親がきびしいケースです。
Nさんのばあいは、そこへ祖父母の関係が入り、三角関係というより、四角関係(?)
ができあがってしまっているように思います。

こうなると、子どもは、ドラ息子、ドラ娘化します(失礼!)。

とくに、2〜4歳期(エリクソンの説く自律期)に、それがあると、子どもは自分で
自分を律することができなくなります。
わがままで、自分勝手で、欲望のおもむくまま行動するようになるというわけです。
さらに父親が母親の悪口を言ったり、批判したりすると、夫婦の間に、キレツが入ること
もあります。
そして父親と母親、母親と子ども、子どもと父親の間に、三角関係ができるというわけで
す。
子どもが幼いうちはまだしも、一度、この三角関係ができると、子どもは、親の指示に従
わなくなります。

子どもは、何かあると、甘い父親もしくは祖父母のところへ逃げ込み、そこでわがまま
を通すようになるわけです。
しかしこれは過去の話。
つまり原因は、2〜4歳期にあったのでは、私は考えます。
弟さんも、同じような症状が出ているということで、そう判断しました。

問題は、今、どうするか、ですね。

●内弁慶

もうひとつ気になったのは、「内弁慶」という部分です。
外の世界で、自分をすなおに表現できず、その分だけ、不満や不平を、心の内へ内へとた
めこんでいるのではないかということです。
このタイプの子どもは、内弁慶というよりは、突発的にキレたり、暴れたりします。
以前、母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と声をかけただけで、錯乱状態になり、母
親に向かって、包丁を投げつけていた女の子(年長児)がいました。

人間関係が外の世界でうまく結べない子どもは、このように、攻撃型になるタイプと、家
の中に引きこもるタイプに分けて考えます。
ほかに同情型、依存型、服従型などがあります。

●学校恐怖症

こういうケースでは、まず一番心配なのから疑ってみます。
様子からして、お子さんは、要するに学校へ行きたくないのです。
それが基本にあって、さまざまな症状を示しているというわけです。

学校恐怖症の子ども、つまり不登校児のばあい、その前兆症状としてさまざまな神経症的
な症状を示すことが知られています(ジョンソン)。
何か神経症的な症状があれば、注意してください。
(診断シートは、私のHPの中に収録しておきました。)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page080.html

こうした前兆症状がいくつか重なって、そのあと、ある日突然、パニック期(ジョンソン)
へと入っていくわけです。

そうでなければ、この話は無視してください。
学校恐怖症について書いた原稿を、ここに載せておきます。

++++++++++++++++++++++

【子どもが学校恐怖症になるとき】

●四つの段階論 
 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひど
い花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。が、その中でも恐
怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を「怠学(truancy)」
といって区別している。

これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。
心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわ
かりやすくしたのが次である。 

(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦
怠感、吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後
に軽快し、夜になると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。
これを症状の日内変動という。学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめ
る」などと言ったりする。そこでA君を排除すると、今度は「B君がいじめる」と
言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつど移動するのが特徴。 

(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、
狂ったように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」
などと言うと、一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰って
くる車の中では、鼻歌まで歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わ
りように驚いて、「これが同じ子どもか」と思うことが多い。

(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの
攻撃的態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は
残り、どこかピリピリした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的
に激怒したり、暴れたりすることはある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と
会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感をもつ。おののく)の症状を示す
こともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子どもといった感じがす
るため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わからなくな
ってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。

(4)回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、
外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に
繰り返したあと、やがて登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、
月に一週〜二週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。

●前兆をいかにとらえるか 

 要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たい
ていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無
理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。この段階でも、もし親が無理をせず、「そ
うね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。
一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを
考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えら
れている。

 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活
動など不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生
活環境の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えら
れている(「日本教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者
の目を通して、子どもを外の世界から見た区分のし方でしかない。

(参考)

●学校恐怖症は対人障害の一つ 

 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫
ぶ、睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状
が加わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人
恐怖症もこの時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」

「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、19
32年に最初に使い、1941年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命
名したことに始まる。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時の
パニック時期(3)自閉期の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。

●学校恐怖症の対処のし方

 第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこ
の段階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまう
ことである。あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある
子どもの心の問題を見落としてしまう。

しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、第二期の対処のまずさによることが多
い。ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバーでド
アをはずした。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ
連れていった。その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、
子どもをはげしく叱り続けた。

が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、子どもの心に取り
返しがつかないほど大きなキズを残す。もしこの段階で、親が、「そうね、誰だって学校へ
行きたくないときもあるわね。今日は休んで好きなことをしたら」と言ったら、症状はそ
れほど重くならなくてすむかもしれない。

 また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、
「3か月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさ
せなさい」

と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし1週間もたたない
うちに電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱりダメでした」
と。親にすれば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こういうことを繰
り返しているうちに、症状はますますこじれる。

 第三期に入ったら、(1)学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜け
ること。(2)前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないこと
だけを考えて、子どもの様子をみる。(3)最低でも三か月は何も言わない、何もしないこ
と。子どもが退屈をもてあまし、身をもてあますまで、何も言わない、何もしないこと。(4)
生活態度(部屋や服装)が乱れて、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。
とくに子どもが引きこもる様子を見せたら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、
子どもの部屋の掃除をする親もいるが、こうした行為も避ける。

 回復期に向かう前兆としては、(1)穏やかな会話ができるようになる、(2)生活にリ
ズムができ、寝起きが規則正しくなる、(3)子どもがヒマをもてあますようになる、(4)
家族がいてもいなくいても、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。
こうした様子が見られたら、回復期は近いとみてよい。

 要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えるこ
と。そういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早
くする。


●不登校は不利なことばかりではない

 一方、こうした不登校児について、不登校を経験した子どもたち側からの調査もなされ
ている。文部科学省がした「不登校に関する実態調査」(二〇〇一年)によれば、「中学で
不登校児だったものの、成人後に『マイナスではなかった』と振り返っている人が、4割
もいる」という。不登校はマイナスではないと答えた人、39%、マイナスだったと答え
た人、24%など。そして学校へ行かなくなった理由として、

友人関係     ……45%
教師との関係   ……21%
クラブ・部活動  ……17%
転校などでなじめず……14%と、その多くが、学校生活の問題をあげている。  

+++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、Nさんへ】

 以上、心配をかけることばかり書きましたが、こうした子どもの問題には、必ず、二番
底、三番底があるということです。
子どもに何か問題が起きると、ほとんどの親は、(100%!)、「今が最悪」と考え、子ど
もに向かって、子どもを直そうとします。
しかし今は、そういう考え方をしません。
子どもは家族の代表でしかありません。
つまり家族全体で、子どもの問題を考える、です。

 で、対処の仕方をまちがえると、「まだ以前のほうが、症状が軽かった……」ということ
を繰り返しながら、二番底、三番底へと向かっていきます。
たとえばあなたの子どもが、不登校児になったとします。
そうなったとき、あなたはこう思うはずです。
「宿題ぐらい、何だ!」とです。

 さらに何かの大きな心の病気になったとします。
するとあなたはこう思うはずです。
「不登校くらい、何だ!」とです。

 ドラ息子、ドラ娘についてですが、もちろんそうでないほうがよいに決まっています。
しかし今、そうでない子どもをさがすほうが、むずかしいくらいです。
日本の子どもたちは、総ドラ息子化しています。
だからたしかに問題は問題ですが、あまり深刻に考えてはいけません。
あなたのご主人だって、かなりドラ息子ぽいですね(失礼!)。
あなた自身も、「私はドラ娘ではなかった」と自信をもって、言えますか?

 こうしたドラマを繰り返しながら、子どもは成長し、親は成長するのです。
そのドラマを楽しむ。
そういう広い視野をもつことが大切です。
つまり「突き放すところは、突き放す」です。
しかし温かい無視は、忘れずに……。

●Nさんへのアドバイス

(1)ご主人と対立してはいけません。

 子どもの教育のことで、ご主人と対立してはいけません。
まずご主人の言うことに、耳を傾けることです。
そうでなくても難しいのが子育てです。
ここはあなたのほうが折れて、夫婦は一枚岩で、子育てに対処します。
意外と、ご主人のほうが、あなたを見抜いているかもしれませんよ。

(2)ドラ息子症状について

 ドラ息子症状については、無視します。
口で言ったり、説教したりしても、意味はありません。
無視、です。
黙って聞き、あとは、無視。
けっして感情的になってはいけません。
相手は、子どもですから……。

(3)愛情飢餓

 下に弟がいるということですから、子どもは慢性的な愛情飢餓の状態にあることも考え
られます。
(親にその意識はなくても、弟に親の愛を半分、奪われたという事実が、愛情飢餓状態を
作ります。)
で、こういうときの鉄則は、ただひとつ。
「求めてきたときが、あたえどき」です。
子どもが何かのアクションを起こしてきたら、すかさず、(間髪を入れず)、それに応じて
あげます。
「あとでね……」「待ってね……」は、禁句です。

(4)宿題について

 過負担になっていることはじゅうぶん、考えられます。
(同じ分量でも、子どもによって、とらえ方が違いますので、注意してください。)
ですから(できる範囲でして、それですます)が、原則です。
が、それでも子どもがそれを負担に感ずるようであれば、担任の先生に相談してください。
(担任の先生が、少しきびしすぎるかな?)
ていねいに話せば、先生もわかってくれるはずです。

(5)三角関係について 

 祖父母との同居には、マイナス面もあるいますが、それ以上にプラス面も多いはず。
そういうプラス面を生かして、あなたはあなたで、前向きに生きていけばよいのです。
そういう姿を見て、子どもはまたあなたから、何かを学んでいくはずです。

 ドラ息子の問題は、全体からみれば、マイナーな問題です。
これから先のことを言えば、思春期前後に頂点に達しますが、あなたの子どもへの愛情さ
えしっかりしていれば、大げさな問題には発展しません。
ガミガミ、カリカリしないことだけには、注意してください。
大切なのは、自分で静かに考え、行動させ、責任を取らせることです。
ガミガミ、カリカリすればするほど、子どもは非常識な行動を繰り返すようになります。
もちろん親子の関係も、そこで断絶!

●今、すべきこと……

 今すべきこと……というよりは、どうか自分をしっかりと保ってください。
このままでは育児ノイローゼも時間の問題かな?
ご主人の協力が何よりも重要です。
ですから、けっしてご主人と対立してはいけません。
またあなたがすべてを背負ってはいけません。
ご主人に任すところは任せて、ご主人に責任を取ってもらいなさい!
あなたが深入りすればするほど、ご主人は逃げてしまいます。
あとはこの悪循環……。
そうならないように、注意してください。

 Nさんがそうだというのではありませんが、念のため、育児ノイローゼについて
たまたま先ほど原稿を書きましたので、ここに載せておきます。
参考にしてください。

 あとは子どもといっしょに、第二の人生を楽しむつもりで、楽しむこと。
あなたの思い通りにならないのが、子育て。
そして子ども。
どこの家も、似たような問題をかかえています。
(ちょっと無責任な回答ですみません。
私のように、子育てが終わったものからすると、Nさんのような方が、うらやましいです。
今が、いちばん楽しいときですよ!)

++++++++++++++++++++


●育児ノイローゼに注意

 子育てをしていて育児ノイローゼになる人は多い。圧倒的に母親に多いが、父親がノイ
ローゼになることも、珍しくはない。精神的な打撃によって起こる心的障害のことをノイ
ローゼというが、精神病というほど重くはない。ないが、対処のし方をまちがえると、深
刻な結果を招くことがある。次のような症状が続いたら、育児ノイローゼを疑ってみる。

(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記
憶力の低下)、
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の
喪失、日常活動への興味の喪失)、
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、
(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロー
ルができなくなる(感情障害)、
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。

もっとも育児ノイローゼになっても、本人がそれに気づくことはまずない。脳のCPU
(中央演算部分)が変調するため、本人はそういう状態になりながらも、「自分ではふつ
う」と思い込む。あるいは他人に「異常」を指摘されたりすると、反対に過度の罪悪感
に襲われ、かえって深く落ち込んでしまうこともある。

そこで重要なのが、夫ということになるが、その夫の協力が得られないことが多い。で、
もしここに書いたような症状のうち、いくつかに思い当たることがあれば、「今の状態はふ
つうではない」という前提で、自分のまわりを見なおす必要がある。できれば子育てその
ものから離れる。でないと、(こういうことを書くと、ますます症状がひどくなってしまう
かもしれないが)、子どもに影響が出てくる。そんなわけで、もし症状がひどいようであれ
ば、一度、精神科のドクターに相談してみる。



【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●欲望の奴隷たち

+++++++++++++++++++++++

欲望の奴隷になりながら、奴隷になっていることに
すら気がつかない。
またそれがあるべき、大切な価値観と、信じて
疑わない。

+++++++++++++++++++++++

●成功者の看板

 まさか「私は成功者です」という看板を、胸につけて歩くわけにはいかない。
そこでその手段として、高級車を買う。
そしてその高級車を乗り回す。
……というような人は多い。
(もちろん、その必要性があって高級車に乗っている人もいるが……。
あるいはこれは、そういう車とは縁のない、私のひがみか?)

 もちろん高級車に乗っているから、成功者というわけではない。
また高級車に乗っている人がみな、それを看板にしているというわけでもない。
ただ中には、高級車を、成功者の看板にしている人もいるということ。
あなたの周辺にも、さがせば、そういう人は、1人や2人はかならず、いる。

●欲望の奴隷

 ニコチン中毒やアルコール中毒と同じように、欲望中毒の人は多い。
が、ニコチン中毒やアルコール中毒は、外からわかりやすいが、欲望中毒の人は、
外からはわかりにくい。

それにまわり全体、さらには国全体が、欲望中毒になっていたら、自分の姿は見えない。
「私は私」と思っているうちに、欲望の思うがまま、操られるようになる。
見栄や虚栄の世界に、どっぷりとつかっている。
それでもって、「私は成功者」と思い込んでいる。
またそれでもって「私は偉い」と思い込んでいる。
しかし所詮、欲望は欲望。
そういう人は、欲望の奴隷。

●欲望のメカニズム

 欲望のメカニズムは、単純である。
脳の中心部にある視床下部から、(生きる信号)が発せられる。
その信号を受けて、快楽と欲望を司る、脳間伝達物質であるドーパミンが放出される。
それが線条体を刺激し、そこにそれに反応する受容体があると、猛烈な欲望となって、
その人を襲う。

 アルコール中毒の人が、酒のコマーシャルを見ただけで、ググーッと酒を飲みたくなる
というような現象は、こうして説明される。
ニコチン中毒の人も、同様に考えてよい。
以前は、こうした反応を、「条件反射」という言葉を使って説明した(パバロフ)。

 が、欲望には、大きく分けて2つある。
「〜〜したい」という欲望。
もうひとつは、「〜〜が、ほしい」という欲望。
ここでいう欲望というのは、後者の欲望をいう。

●物欲 

 こうして欲望に対する条件反射が、脳の中に形成される。
性欲、食欲、名誉欲、名声欲などなど。
その中でも、とくにやっかいなのが、物欲。
「物」の中に自分の価値観を、作りあげてしまう。

 これは極端な例だが、「ためこみ屋」と呼ばれる人たちがいる。
手当たりしだい、自分の家の中にためこんだりするから、家の中は、あっという間に、
ゴミの山となる。
2〜4歳期の、いわゆる「肛門期」に、何らかの精神的ショックを受けるとそうなり
やすいという。
ためこみ屋は、他方で、異常なまでのケチになることが多い。

 そういう人たちは、モノと自分を切り離すことができない。
モノと自分がいつも、一体化している。

●意識と肉体

 たとえば今、自分の手をしっかりと見つめてみよう。
そこに見えるのは、たしかに「私の手」である。
しかし「私の手」といっても、(私という意識)とは、一度切り離してみる。
そうすると、そこに見える「私の手」は、私の手であって、私のモノではないことが
わかる。

 これを意識と肉体の分離というが、中には、それができない人がいる。
意識も肉体も、ひとまとめにして、「私」という。
そういう「私観」が、肉体を超えて肥大化したのが、「物欲の奴隷」というふうにも
考えられる。
「私が手で触れたものは、すべて私」と考える。
モノと私が一体化した状態というのは、それをいう。

●私とモノの分離

 物欲の奴隷から、自らを解放するためには、まず「私」とモノを分離する。
その第一歩として、先にも書いたように、じっと自分の手を見つめてみるとよい。
その手を見つめながら、それを見ている「私」という意識と、そこにある「手」という
肉体は、別のものであることを確認する。

 手を包む皮膚、その下の血管、さらには肉、骨……。
手はあなたの意思によって、あなたの意思のままに動かすことはできても、そこにある
手は、「私」ではない。
それに気づけば、あとは簡単。

 まわりのモノを見てほしい。
どれもこれも、ただのモノ。
それぞれには、何らかの意味はあるかもしれないが、それを超えての価値はない。
そこに気づけば、あなたの意識は、モノから解放される。

●私の母

 あれほどまでにお金(=マネー)とモノに執着していた母だったが、晩年の母は
ちがった。
私の家で過ごしているとき、私がふとこう聞いたことがある。
「母ちゃん、お金、ほしいか?」と。
すると母は、こう言った。
「お金で、命は買えん(=買えない)」と。
吐き捨てるような言い方だった。

 その言葉を聞いて、私は少なからず、驚いた。
母がまさか、そんなふうに言うとは、想像もしていなかった。
歩くこともままならなくなり、便をこぼすようになって、母は母なりに、
何かを悟ったのかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090622)

●ふと、こんなことを考えた

(1)教室で……

 親たちが、そこにいる。
その前に、子どもたちが座っている。
それを見た。
そのときふと、それが、不思議に思えた。
どうしてそんなふうに思ったかは、わからない。
が、そう思った。
私は大きな声で、子どもたちに何かを言っていた。
これに答えて、子どもたちも何かを言っていた。
そんな最中、私は、ふと、そんなことを考えた。
おかしなことだが、そんなことを考えた。

 「どうして子どもたちが、ここにいるのだろう」と。
ほんの10年前には、その形すらなかった子どもたちである。
そんな子どもたちがそこにいて、大きな声でしゃべっている。
その子どもたちを見守る母親たちにしても、ほんの30〜40
年前には、その形すらなかった母親たちである。
そんな母親たちがそこにいて、子どもたちの姿を見て、笑っている。
言うなれば、(無)から(無)が生まれて、その(無)が
二重に並んで、そこに座っている。
そしてそれを見る私にしても、100年前には、その形すらなかった。
それがふと、不思議に思えた。


(2)立小便をして……

 そのつど、いつも「どうして?」と思うことがある。
どこの公衆トイレへ行っても、男子トイレの便器のまわりは、いつも汚れている。
男たちのする小便が、その周りに飛び散っている。
便器の中でじょうずに小便をすれば、それほど汚れるものではない。
が、その小便をじょうずにできない人がいる。
それで便器のまわりは、汚れている。

 ……と、長い間、そう考えてきた。
ところが、である。

 先日、太陽を背に、野原で立小便をした。
そのときのこと。
自分のしていた小便を上から注意深く観察すると、それぞれの小便が
丸い玉になって下へ落ちていくのがわかる。
そのことは子どものころから知っていたが、さらによく観察すると、
細かい霧状の小便が、四方八方に散って落ちていくのがわかった。
太陽の光を受けて、それが美しく輝いていた。

 公衆トイレの便器の周辺が汚れるのは、小便をこぼす人がいるからだけではない。
必然的に小便が、飛び散るのだ。
だから便器のまわりは、汚れる。
それがわかった。

 だから……というわけでもないが、便器の構造をいくら改良しても、便器の
まわりは必然的に汚れる。
それは不届きな男たちが、小便をこぼすからではなく、もともと小便というのは、
そういうものなのだ。


(3)排除?

 たとえばここに問題のある子どもがいたとする。
静かな落ち着きがなく、騒がしい。
周囲の子どもたちを巻き込んで、授業そのものを破壊してしまう。

 その子ども自身の責任というよりは、そういう子どもは確率的に
ある一定の割合で出現する。
子ども自身の管理能力を超えたところで、遺伝子が、その子どもを操っている。
だから子どもを叱ったり、責めても、意味はない。
自己認識能力にしても、小学3年生以前の子どもには、ない。
だから説教しても、意味はない。
自分がどういうことをしているか、それを客観的に判断することができない。

 ……で、こうした子どもにぶつかると、教育者は、すぐ「排除」という
ことを考える。
特別クラスを作って、別のクラスに移そう、と。
が、そういう発想では、この問題は、解決しない。
ではどうするか?

逆!
逆のことをする!

 たとえば私の教室でも、そういう子どもがいる。
そういうときは、その子どもを排除しようと考えるのではなく、その子どもを残した
まま、ほかの子どもを、別のクラスに移していく。
問題のある子どもを、ほかのクラスに移したりすると、その子どもは、それを「罰」
ととらえる。
子どもの心理形成にとって、悪い影響を与えることはあっても、よい影響を与える
ことはない。

 そこでたとえば学校教育の場でも、この方法を応用してみてはどうだろうか。
多くの学校では、名称こそみなちがうが、「〜〜特別教室」というのを用意している。
何か、問題のある子どもを、そういうクラスへ入れる。
つまり「排除」する。

 が、もしこういう方法だったら、どうだろう。
逆に、学習態度のよい子ども(能力差別ではなく、あくまでも学習姿勢を見て判断)を、
少しずつ、別のクラスに移していく。

「あなたは、学習態度がいいから、ブルーリボン教室に入ってもいいです」と。
こうして1年くらいをかけて、数人から10数人へと順に児童を移動させていく。
そうすれば、クラスを移動する子どもも、喜んで移動するだろう。
あとに残された子どもも、それを見て、自分なりに努力するようになるかもしれない。

 ……という方法を、実は、私の教室では、ずっと実践している。
そのため、残った子どもが、数人だけというクラスもある。
しかしその数人だけでも、それなりに楽しく学習している。
(できる)(できない)は、問題ではない。
人間関係は、そういうものでは影響を受けない。
たがいに楽しければ、それでよい。

ひとつの参考意見として……。


(4)体重

 現在、体重を63キロ台にキープしている。
2か月で、5キロ以上の減量をしたことになる。
その結果だが、5キロといえば、かなりの重さである。
私はいつも2リットル入りのペットボトルに換算して、重さを換算する。
つまり5キロといえば、ペットボトル2本半分!

 しかしおかしなことに、自分の体が軽くなったという実感が、あまりない。
どうしてだろう?
2か月という期間の中で、徐々にそうなったからだろうか。
というのも、体重というのは、一日の間だけでも、大きく変化する。
就眠前と就眠後だけでも、1キロはちがう。
食後、水をたくさん飲めば、それだけで1キロくらいは、ふえたりする。

 つまり5キロというのは、まだ誤差の範囲ということになる。
それにこうしたダイエットで重要なことは、食事管理だけでしてはいけない。
運動、である。
食事管理と並行して、運動をどうするかが、重要。
というのも、食事だけを減らすと、筋肉のほうが先に萎(な)えてしまう。
おまけに体の抵抗力が落ちるから、いろいろな皮膚病になったりする。

 で、ふと、こんなことを考えた。
反対に、太り始めた人は、逆の現象が起きるのではないか、と。
つまり自分の体重を重く感じないまま、太っていく、と。
先に「5キロは誤差の範囲」と書いたが、その誤差が2回積み重なれば、
10キロとなる。
3回積み重なれば、15キロとなる。
つまりこうして太っていく。


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

●映画『愛を読む人』(The Reader)

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ハンカチを用意して、映画館へ足を運んだ。
思いっきり涙をこぼすつもりだった。
だからワイフにこう言った。
「涙が出なかったら、お金を返してもらう」と。

++++++++++++++++++++

見たのは、ケイト・ウィンスレット主演の、『愛を読む人』。
ものすごい映画だった。
息がつまるというか、演技にしても、迫真の演技。
緊張の連続。
それはその通り。
が、涙は出なかった。
一滴も出なかった。
だから私は星3つ。
ワイフは星4つ。
間を取って、★★★+。

が、どうしてか、「お金を返せ」とは言いにくい。
ものすごい映画だったことは、事実。
しかし娯楽映画でもない。
たとえて言うなら、ギューギューと2時間近く、頭の上から押さえつけられたような感じ。
が、映画としては、おもしろくなかった。

どうしてだろう?
映画館でもらった案内には、「朗読を通した30年にわたる切ない愛の
奇跡に、絶賛の声」とある。
そして各界の著名人たちも、言葉を尽くして、「すばらしい映画」と
評価している。
「涙、涙、涙の繰り返しなので、くれぐれもティッシュのご用意を」
(某モデル)というのもある。

涙もろくなった私。
いつもならボロボロと涙をこぼしたはず。
が、涙は、出なかった。
かといって、先にも書いたように、「お金を返せ!」とも言えなかった。
映画がつまらなかったのか?
それとも私の感性が落ちたのか?

ものすごい映画だということは認める。
たしかに、すごい!
しかしその(ものすごさ)に圧倒されすぎて、かえって涙が引っ込んでしまった。
『愛を読む人』というのは、そういう映画。
「もう一度、見たいか」と聞かれたら、私は、「1回でたくさん」と
答えるだろう。

私には、やはり、ああいう映画は向かない。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

【「私」って、何だろう?】(1)(09年6月22日記)
(意識と肉体の分離)

【菩提心】

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仏教によれば、私たちは煩悩(=欲望)のかたまり
であるという。
煩悩には、たとえば『貪(どん)』『瞋(しん)』『痴(ち)』
などがある。

『貪(どん)』というのは、「貪(むさぼ)ること」をいう。
『瞋(しん)』というのは、「激しく怒(いか)ること」をいう。
『痴(ち)』というのは、「無知なこと」をいう。
そのほかにもいろいろあるが、私たちの肉体は、これらの
煩悩に満ち溢れている。
その煩悩が、自分の内にある『菩提心』(すべての人々を愛すること)
が目覚めるのを邪魔する
世親(300〜400年ごろの人、パキスタン、ペシャワール
あたりの人とされる※)が、そう説いている。

だから世親は、菩提心を呼び起こすためには、心(精神)を、
一度、肉体から切り離さなければならないと説いた(『浄土三部経』)。

+++++++++++++++++++++++++

●精神と肉体

 私は53、4歳のころ、女性に対する興味を、ほとんどなくしてしまった。
女性が、「女」として意識できなくなってしまった。
たとえばある日、テレビで相撲を見ていたときのこと。
相撲取りの胸が、たいへん美しく思えた。
「若い娘の胸より美しい」と思った。
あるいはこんなこともあった。

どこかのレストランで、写真週刊誌を読んでいたときのこと。
後半のほうに、若い女性たちのヌード写真が、たくさん載っていた。
それを見ながら、ふとこう思った。
「今まで、どうしてこんな写真に興味をもったのだろう?」と。

 で、家に帰ってワイフに、こう言った。
「あのなア、お前、今のぼくなら、混浴風呂で若い女性と肩を並べて入っても
平気だぞ」と。
それに答えて、ワイフはこう言った。
「バカねえ……。相手の女性がいやがるわよ」と。

あとでそのことを人に話すと、「男の更年期」と教えてくれた人がいた。
「初老性のうつ病の症状かも」と教えてくれた人もいた。
うつ病になると、性的な関心を失い、似たような症状が出ることがあるそうだ。
が、それはともかくも、私はそのときはじめて、……というより、思春期以来はじめて、
性欲からの解放感を味わった。
さばさばしたというよりは、どこか乾いた砂漠の中に入ったような気分だった。
心が恐ろしく軽くなったのを覚えている。

 と、同時に、それまでの私が、あまりにも性欲の奴隷だったことを知った。
ありとあらゆる面が、「女性」と結びつき、その向こうにある「性」と結びついていた。
それがそのとき、わかった。

●精神と肉体の分離

 たまたま今、私は精神と肉体の分離を、現実に経験している。
(少し、おおげさかな?)
というのも、目下、ダイエット中。
少し油断していたら、体重がいつの間にか68キロ台にまでふえていた。
そこで体重を、63キロ台に落とすことを決意。
それが今の今もつづいている。

 で、食事のとき、私はいつも自分にこう問いかけながら、食べている。
「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損(そん)なのか」と。
たいへん興味深いことに、「損」という感じは、「損(そこ)ねる」とも使う。
「損(そん)」とも使う。
わかりやすく言えば、「体を損(そこ)ねるほど食べたら、かえって損(そん)」
ということになる。
 
 その食欲は、性欲とたいへんよく似ている。
腹がいっぱいになったとたん、食欲はスーッと消える。
性欲もまた同じ。

 回りくどい言い方をしたが、私たちの精神は、常に肉体からの命令によって、
左右される。
食欲にしても、性欲にしても、それらは肉体の反応でしかない。
その肉体の反応が、私たちの精神を操る。
ダイエットをしていると、それがよくわかる。

●肉体の奴隷

 が、もし肉体の反応のまま、精神が操られるとしたら……。
それが『貪(どん)』『瞋(しん)』『痴(ち)』ということになる。
ここでいう『痴』というのは、仏教でいうところの『愚痴(ぐち)』ということになる。
(日本語のグチとは、意味がちがう。
しかしグチを言う人は、基本的に愚かな人とみてよい。)

 操られるなら操られるなで構わないと、思う人も多いかと思う。
そのほうが楽しい、と。
ほしいものは、何でも手に入れる。
食べたいものは、何でも食べる。
したいことをし、行きたいところへ行く。
「それがどうして悪いことなのか」と。

が、しかしそれでは、「真理」に到達することはできない。
菩提心を目覚めさせることはできない。
世親は、それを言った。

●『瞋(しん)』

『瞋(しん)』というのは、「激しい怒り」をいう。
世親がそこまで考えて書いたかどうかは知らないが、怒りといっても、2種類ある。
原子力にたとえるのも、どこか不謹慎な感じがしないでもない。
が、原子力の使い方にも、2種類ある。
原子力発電所として、原子力を利用する方法。
もうひとつは、核爆弾として利用する方法。

 私は(怒り)を否定しない。
たとえば今、私はこうしてモノを書いているが、心の根底にあるのは、(怒り)と
言ってもよい。
社会に対する怒り、国に対する怒り、世界に対する怒り、など。
もちろん自分に対する怒りも、ある。
特定の個人に対する怒りも、ないとは言わない。
(できるだけそうしたことに、モノを書くということを利用したくないが……。)

 そうした(怒り)がなかったら、こうしてモノなど書かないだろう。
つまり私の感じている(怒り)というのは、原子力発電所の中の原子力のようなもの
である。

 これに対して、相手の襟首をつかまえ、「コノヤロー」「バカヤロー」と怒鳴りあうのは、
核爆弾の中の原子力のようなもの、ということになる。

●『痴(ち)』

 賢者からは、愚痴な人がよくわかる。
手に取るように、よくわかる。
しかし愚痴な人からは、賢者がわからない。
「自分と同じくらいだろう」くらいにしか考えない。

 同じように、自分が愚痴な人だったというのは、自分がより賢者になってみて、
はじめてわかる。
それはちょうど山登りに似ている。

 下から見たとき、それほど高くないと思っていても、登ってみると、意外と視野が
広いのに驚く。
また同時に、それまでの自分が、いかに低い位置にいたかを知る。

 さらに言えば、賢者も、愚痴な人も、相対的な(差)でしかない。
賢者の上には、さらなる賢者がいる。
愚痴な人の下には、さらなる愚痴の人がいる。
だから釈迦は、『精進(しょうじん)』という言葉を使った。
「日々に、研鑽あるのみ」「死ぬまで、研鑽あるのみ」と。

 その努力を怠ったとたん、どんな賢者でも、愚痴の世界に向かって、そのまま
まっしぐらに、ころげ落ちていく。

●『時は金なり』

 こうして私たちは、肉体は肉体とし、精神は精神として、分離する。
けっして肉体の奴隷になってはいけない。
奴隷になったとたん、自分を見失う。
見失って、貴重な時間を浪費する。

 『時は金なり』とはいうが、『時(=時間)そのものが、貴重』なのだ。
仮に今、あなたが「あなたの余命は、あと半年です」と宣告されたら、あなたは
どうするだろうか。
あなたは自分の命の短いことをのろい、悶絶するかもしれない。
しかし半年でも、10年でも、20年でも、同じではないか。
人はみな、例外なく、死に向かって、静かな行進をしつづける。
今、病気の人たちだけではない。
健康な人も、だ。

●恐怖心

 これから先については、私は想像で書くしかない。
「生きとし生けるもの、すべてに愛をもつこと」を『菩提心』というが、それが
どういうものなのかは、私にもわからない。
そこがどんな世界かも、知らない。
またそういう世界へ入っていくことに対して、恐怖心もないわけではない。

 そのことは、若いころ、インドのマザーテレサを知ったときにも感じた。
マザーテレサは、私たちのそれとは想像もつかないほど高い境地に達した人だが、
では、それがそのまま私たちの幸福感とつながるのかどうかということに、自信
がもてなかった。

 さらに具体的には、こうも考えた。
「もし私の息子の1人が、マザーテレサの弟子になりたいと言い出したら、それを
親として許すか」「許せるか」と。

 あなたなら、どうするだろうか。
それがここで私がいう、「恐怖心」ということになる。

●『菩提心』

 キリスト教では、愛を説く。
仏教では、慈悲を説く。
イスラム教というと、キリスト教とはまったく異質の宗教と考えている人は多い。
しかしキリスト教とイスラム教は、実際には、兄弟宗教と考えてよい。
この2つは、知れば知るほど、よく似ている。
もちろんイスラム教でも、愛を説く。

 これに対して、『菩提心』というのは、愛に合わせて、「智」も含まれる。
だから世親は、人間の欠陥のひとつとして、『痴』という言葉を使った。
「愛だけでは、人間は完成されない。智が伴って、はじめて人間は完成される」と。
これは私の勝手な判断によるものだが、それほどまちがっていないと思う。

 で、その『智』とは何か。
東洋医学では、(意)→(志)→(思)→(慮)→(智)と順に生み出していくと教える。
日本語にも、「意志」「思慮」という言葉がある。
「智」は、その先にある言葉ということになる。
英語では、sharp(頭が切れる)→clever(頭がよい)→wise(賢い)
というふうに使い分ける。

話はそれたが、簡単に言えば、人間は愛だけではだめ。
知性、理性がともなって、はじめて、愛は愛として光り輝く、というふうにも、
解釈できる。
世親のすごさは、一言で言えば、ここにある。

 要するに、『菩提心』というのは、心の中にある山の中でも、最高峰ということになる。
そこから見える景色は、どんなものか。
そのとき私はどんな境地に包まれるのか。
それは私にもわからないが、死ぬまでに一度は、その山に登ってみたい。
きっとすばらしい世界にちがいない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 世親 浄土三部経 菩提心)

(注※……世親、ウィキペディア百科事典より)

『世親(せしん、サンスクリット、vasubandhu ヴァスバンドゥ、音写:婆藪般豆、婆藪
般頭、旧訳名:天親〈てんじん〉)は、古代インドの仏教僧。現在のパキスタン、ペシャワ
ールの人で、無著の弟。浄土真宗七高僧の第二祖。
初め部派仏教の説一切有部を学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄の無
着から大乗仏教を勧められ、下らない教義を聞いていたと自らの耳をそいで、瑜伽行唯識
学派に入ったといわれている。その後、唯識思想を学び体系化することに勤めた』『300
〜400年ごろの人』とある。


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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
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□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 7月 24日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(5)

●知識と「考えること(思考)」は別

 たいていの親は、知識と思考を混同している。「よく知っている」ことを、「頭のよい子」
イコール、「よくできる子」と考える。しかしこれは誤解。まったくの誤解。たとえば幼稚
園児でも、掛け算の九九をペラペラと言う子どもがいる。しかしそういう子どもを、「頭の
よい子」とは言わない。「算数がよくできる子」とも言わない。

中には、全国の列車の時刻表を暗記している子どももいる。音楽の最初の一章節を聞い
ただけで、曲名を当てたり、車の一部を見ただけで、メーカーと車種をあてる子どもも
いる。しかし教育の世界では、そういうのは能力とは言わない。「こだわり」とみる。た
とえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特定のことがらに、つよい
こだわりをもつことが知られている。

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、考えるこ
と自体を避けようとする。あるいは考えること自体から逃げようとする。一つの例だが、
夜のテレビをにぎわすバラエティ番組がある。ああいった番組の中では、見るからに軽薄
そうなタレントが、思いついたままをベラベラというより、ギャーギャーと騒いでいる。
彼らはほとんど、自分では何も考えていない。脳の、表層部分に飛来する情報を、そのつ
ど適当に加工して言葉にしているだけ。つまり頭の中はカラッポ。

 パスカルは「パンセ」の中で、『人間は考えるアシである』と書いている。この文を読ん
で、「あら、私もアシ?」と言った女子高校生がいた。しかし先にも書いたように、「考え
る」ということは、もっと別のこと。たとえば私はこうして文章を書いているが、数時間
も書いて、その中に、「思考」らしきものを見つけるのは、本当にマレなことだ。(これは
多分に私の能力の限界かもしれないが……。)

つまり考えるということは、それほどたいへんなことで、決して簡単なことではない。
そんなわけで残念だが、その女子高校生は、そのアシですら、ない。彼女もまた、ただ
思いついたことをペラペラと口にしているだけ。

 多くの親は、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」と子どもに知識をつけさせることを、
教育と思い込んでいる。しかし教育とはもっと別のこと。むしろこういう教育観(?)は
子どもから「考える」という習慣をうばってしまう。私はそれを心配する。
 

Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(6)

●いつも前向きの暗示を

 「あなたはどんどんよくなる」「あなたはさらにすばらしい子になる」という、前向きの
暗示が、子どもを伸ばす。前向きに伸びている子どもは、ものごとに積極的で攻撃的。何
か新しいことをしようかと提案すると、「やる」「やりたい」とか言って、くいついてくる。
これは家庭教育の常識だが、しかし問題は、子どもにというより、親にある。

 親自身がまず子どもを信ずること。「うちの子はすばらしい子だ」という思いが、子ども
を伸ばす。心というのはそういうもので、長い時間をかけて、相手に伝わる。言葉ではな
い。そこでテスト。

 あなたが子どもを連れて街の中を歩いていたとする。すると向こうから高校時代の同級
生が歩いてきた。そしてあなたの子どもを一度しげしげと見たあと、「(年齢は)いくつ?」
と聞いたとする。そのときあなたはどのように感ずるだろうか。

 自分の子どもに自身のある親はこういうとき、「まだ」という言葉を無意識のうちに使う。
「まだ5歳ですけど……」と。「うちの子はまだ5歳だけど、すばらしい子どもに見えるで
しょ」という気持ちからそう言う。しかし自分の子どもに自信のない親は、どこか顔をし
かめながら、「もう」という言葉を使う。「もう5歳なんですけどねえ」と。「もう5歳にな
るが、その年齢にふさわしくない」という気持ちからそう言う。

もちろんその中間ということもあるが、もしあなたが後者のようななら、あなたの心をつ
くりかえたほうがよい。でないと、あなたの子どもから明るさがますます消えていく。そ
うなればなったで、子育ては大失敗。ではどうするか。

 子どもというのは、一度うしろ向きになると、どこまでもうしろ向きになる。そして自
ら伸びる芽をつんでしまう。こんな子ども(中学女子)がいた。ここ一番というところに
なると、いつも、「どうせ私はダメだから」と。そこでどうしてそういうことを言うのかと、
ある日聞いてみた。すると彼女はこう言った。

「どうせ、○○小学校の入試で落ちたもんね」と。その子どもは、もうとっくの昔に忘れ
てよいはずの、しかも10年近くも前のことを気にしていた。こういうことは子どもの世
界ではあってはならない。

 そこでどうだろう。今日からでも遅くないから、あなたもあなたの子どもに向かって、「あ
なたはすばらしい子」を言うようにしてみたら……。最初はウソでもよい。しかしあなた
がこの言葉を自然な形で言えるようになったとき、あなたの心は今とは変わっているはず
である。当然、あなたの子どもの表情も明るくなっているはずである。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(7)

●子どもの横を歩く

 親意識の強い人は、「子どものことは私が一番よく知っている」と、何でもかんでも親が
決めてしまう。子どもの意思など、まったくの無視。たとえばおけいこごとを始めるとき
も、またやめるときもそうだ。「来月から、○○音楽教室へ行きますからね」「来月から、
今の教室をやめて、△△教室へ行きますからね」と。子どもは親の意向に振りまわされる
だけ。

 こうした子育てのリズムは、親が子どもを妊娠したときから始まる。ある母親は胎教と
称して、毎日おなかの子どもに、クラッシックや英会話のテープを聞かせていた。また別
の母親は、時計とにらめっこをしながら、その時刻になると赤ちゃんがほしがらなくても、
ミルクを赤ちゃんの口につっこんでいた。さらにこんな会話をしたこともある。ある日一
人の母親が私のところにきて、こう言った。

 「先生、うちの子(小3男児)を、夏休みの間、サマーキャンプに入れようと思うので
すが、どうでしょうか?」と。その子は、ハキのない子どもだった。母親はそれを気にし
ていた。そこで私が「お子さんは行きたがっているのですか?」と聞くと、「それが行きた
がらないので、困っているのです」と。こうしたリズムは、一事が万事。そこでこんなテ
スト。

 あなたの子どもがまだヨチヨチ歩きをしていたころ、(1)あなたは子どもの前を、子ど
もの手を引きながら、ぐいぐいと歩いていただろうか。それとも(2)子どものうしろや
横に回りながら、子どものリズムで歩いていただろうか。(2)のようであれば、よし。し
かしもし(1)のようであれば、そのときから、あなたとあなたの子どものリズムは乱れ
ていたとみる。今も乱れている。そしてやがてあなたは子どもとこんな会話をするように
なる。

 母「あんたは、だれのおかげでピアノを弾けるようになったか、それがわかっているの。
お母さんが毎週、高い月謝を払って、あなたを音楽教室へ連れていってあげたからよ」、子
「いつ、だれが、お前にそんなことをしてくれと頼んだア!」と。

 そうならないためにも、子どもとリズムを合わせる。(子どもはあなたにリズムを合わせ
ることはできないので。)今日からでも遅くないから、子どもの横かうしろを歩く。たった
それだけのことだが、あなたはすばらしい親子関係を築くことができる。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(8)

●方向性は図書館で

 子どもの方向性を知るためには、子どもを図書館へ連れていけばよい。そして数時間な
ら数時間、自由に遊ばせてみる。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを、
静かに観察する。そのときその子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。た
とえばサッカーの好きな子どもは、サッカーの本を読む。乗り物や機械的なものが好きな
子どもは、そういう類の本を読む。この方向性をうまく利用すれば、子どもは伸びるし、
それにさからえば、子どもは伸びない。こんな例がある。

 子どもに「好きな本を1冊買ってあげるから、選びなさい」と言っておきながら、子ど
もが何か本を選んでくると、「こんな本ではダメ。もっとおもしろいのにしなさい」と。こ
ういう親の身勝手さは、子どもの方向性をつぶす。

それがたとえ親の意向に反したものであっても、「おもしろそうね。ママも読んでみたいわ」
と言ってあげる。そして子どもの方向性を前向きに伸ばしてあげる。たとえば本は嫌いで
も、ゲームの攻略本は読むという子どもはいくらでもいる。そういうときは、ゲームの攻
略本を利用して、本のおもしろさを子どもに教えればよい。

 要するに子育てで押しつけは禁物。イギリスの格言にも、「楽しく学ぶ子どもはよく学ぶ」
(Happy learners  learn  best.)というのがある。子どもに何かをさせたかったら、
まず楽しいということを教える。あとは子どもに任せればよい。子どもは自分で伸びる。
また多くの親は、「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、しかしやる、
やらないも、「力」のうち。そういうときは「やってここまで」とあきらめる。このあきら
めが子どもを伸ばす。

 話はそれたが、これからはプロが伸びる時代。そのためには、子どもの一芸を大切にす
る。この一芸が子どもを側面から支え、ばあいによっては、子どもの職業となることもあ
る。そういう意味でも、子どもの方向性は大切にする。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【思考回路】(Thinking Process)

●思考回路

人間の行動の99%以上は、脳の中に
できあがった思考回路に沿ってなされる。

たとえばテーブルの上のリンゴをつかむとき、
それをどうつかむか、いちいち考えてする人はいない。
自然に手は動き、指はリンゴをつかむ。

同じように、今度はまったく新しいものを
つかむときも、それがはじめてのものであっても、
どうつかむか、それをいちいち考えてする人はいない。

脳の中に、すでに(つかむ)という動作について、
思考回路ができあがっているからである。

これは行動、動作に関する思考回路ということになるが、
同じように、思考、感情に関する思考回路もある。

たとえば何かのことで不愉快に思ったとする。
するとそれが何であれ、その人は自分の思考回路に
したがって、その問題を解決しようとする。
たとえば暴力団の人なら、(不愉快)→(暴力で
解決)というふうに、思考を肥大化するかもしれない。

が、ここで誤解してはいけないのは、思考がそのまま
行動につながるというわけではない。
(思考)→(感情の肥大化)と進み、それが臨界点を
超えたとき、(暴力)という行為につながっていく。

具体的に考えてみよう。

●感情の思考回路

たとえば、何かのことで不愉快になったとしよう。
近隣の人が、このところ何かとあなたの様子をうかがって
いる(?)。
あなたはそういう疑惑をもったとする。

するとそれまでにそういう思考回路ができている人は、
(疑惑)→(妄想)→(怒り)というように、感情を発展させていく。

そのとき、そういう思考回路のない人は、(疑惑)そのものを
もたない。
疑惑をもつということは、すでにそれ以前に、そうした思考回路
を作ってしまったということになる。
似たような経験があったというように考えてもよい。

たとえば子どものころ、仲間に意地悪をされたとか、など。
(筆箱がなくなった)→(だれかが隠した)→(いじめられた)と。

あとはその思考回路に従って、(怒り)を増大させる。
(暴力)という結果につながるかどうかは、あくまでも、
その結果、ということになる。

ただ暴力団の人は、(多分?)、暴力の使い方をよく知っているから、
即、「ぶん殴ってやれ!」というように考えるかもしれない。
私のばあいは、何か問題が起きるとすぐ、「文章を書いて解決
しよう」と考える。
それが思考回路ということになる。

●善玉思考回路vs悪玉思考回路

が、思考回路が悪いというのではない。
先に書いた、テーブルの上のリンゴをつかむときにしても、
思考回路ができあがっているため、それをスムーズにつかむことができる。
何も考えないで、つかむことができる。

思考にしても、そうだ。

大切なのは、どういう思考回路に沿って、ものごとを
考えるかということ。
そういう意味で、私は思考回路を、(1)善玉思考回路と、(2)悪玉思考回路
の2つに分けて考える。

(1)善玉思考回路

たとえば目の前に大きな問題が立ちふさがったとする。
たとえば義父の介護問題が起きたとする。
要介護度は3だが、勝手に台所へ入ってきて、いろいろなものを
散らかしてしまう。
ときに居間で、おむつの間から、便を漏らしてしまうこともある。

そういう状況になったとき、介護者であるあなたは、
いろいろな対策を考える。
義父が部屋から出られないようにする。
が、それはかわいそうだから、床からジュータンを取り除く。
台所には、ものを置かない。
おむつは大きなものにする。
簡単な囲いを作って、大切なものにはさわらせないようにするという
方法もある。

こうしてあなたは自分の思考回路に従って行動する。
それを妄想として、肥大化させない。
こういうふうに、前向きにものごとを考えていく思考回路。
それが善玉思考回路ということになる。

(2)悪玉思考回路

これに対して、妄想をどんどんとふくらませていくケースもある。
「こんなことでは、この先、どうなるかわからない」
「床が便で汚れる」
「部屋に閉じ込めておくと、暴れるかもしれない」
「義兄や義姉がそれを見たら、義父を虐待していると騒ぐかもしれない」と。

こうした悪玉思考回路は、ある人には、ある。
ない人には、ない。
以前、同じような経験をして、いやな思いをした人ほど、そういう
悪玉思考回路はできやすい。
心の病気がからんでいるケースもある。
そこでその人は、(いやだ)→(妄想)→(怒り)と、
自分の感情を肥大化させてしまう。

わかりやすく言えば、そういう悪玉思考回路のある人は、
その思考回路に従って、妄想をもちやすく、またそれを肥大化
させやすいということ。

極端なケースかもしれないが、一度、そういったケースを、
暴力を使って解決したことがある人は、即、「暴力で……」と
いうように考えるかもしれない。

が、そうでない人は、そうでない。
「暴力」そのものを思いつかない。

●体罰

よく親の体罰は、子どもに世代連鎖しやすいと言われる。
それも、この悪玉思考回路によって、説明できる。
子どもは、親に体罰を受けることによって、(何か不満がある)
→(怒り)→(体罰)という思考回路を、自分の脳の中に
作ってしまう。

そのため、自分がおとなになり、結婚し、子どもをもうけたとき、
その思考回路に従って、子どもに体罰を加えるようになる。
(心理学の世界では、「学習」という言葉を使って、それを説明する。)

もっとわかりやすい例では、体育系の教師による体罰がある。
体育系の教師自身も、自分が子どものころ、そういう教育を受けた。
その教育を、無意識のまま、繰り返している(?)。
さらにそれ以前はいえば、戦前の軍国主義教育があったかもしれない。
日本軍の指導の仕方は、体罰一辺倒であった。
何があっても、体罰。
何を失敗しても、体罰。
それが体育系の教師の思考回路として、代々、引き継がれた(?)。

●善玉思考回路

大切なことは、悪玉思考回路はつくらないということ。
教育について言うなら、子どもには、もたせないということ。
一度、作られた思考回路は、消すことができない。
できなくはないかもしれないが、改めるのはたいへん。

そこで善玉思考回路について、説明してみる。

ある女の子(幼稚園・年長児)が、「私はおとなになったら、お花屋さんに
なりたい」と言ったとする。
そのとき親は、すかさず、こう言う。

「すてきだね。
だったら、今度の日曜日に、○○ガーデン・パークへ行ってみよう」
「図書館で、お花の図鑑を借りてこよう」
「庭に、花の種をまいてみよう」
「野菜もいいかもね」と。

こうして子どもの(思い)を、どう育てていくか、子どもにそのレールを
示してやる。
それがその子どもの思考回路となる。

ただ、思考回路に何が乗るかは、それは年代によって異なる。
幼稚園児のときは、お花屋さんであっても、小学生に
なると、パン屋さんになるかもしれない。
中学生になるころには、ファッションデザイナーになるかもしれない。
しかしそれが何であれ、つまり思考回路に乗るものが何であれ、
子どもは、その思考回路に従って、自分を前向きに
伸ばしていく。
それができるようになる。

まず、図書館へ行く。
そういう仲間に入る。
自分で、パンを作ってみる、など。
大切なのは、その上に何が乗るかではなく、善玉思考回路を
どう作るか、である。

●思考回路の転換

私たちの行動、思考は、そのほとんどが、自らの思考回路に
沿ってなされる。
一見複雑に見える、人間の行動や思考だが、それぞれの人は
自分の思考回路に従って、行動し、思考しているだけ。
冒頭に書いた「99%以上」というのは、そういう意味である。

そこで、こんなことも重要である。

先にも書いたように、思考回路というのは、一度できあがると、
それを改めるのは、たいへん。
たいへんというより、よほど何かのことがないと、改めるのは
不可能。

たとえば若いとき、親絶対教の信者になった人は、死ぬまで
親絶対教の信者のまま。
その思考回路に従って、ものを考え、行動する。
権威主義でもって、親風をビュービューと吹かす。
自分で、自分の親を絶対と思うのは、その人の勝手。
しかしその返す刀で、子どもに向かって、
「親に向かって、何てこと言う!」と怒鳴り散らす。
子どもにも、それを強要する。

が、これでは親子の断絶は、時間の問題。
……というより、子どもも、親絶対教の信者にならないかぎり、
まちがいなく親子の関係は、断絶する。

そこで自分の思考回路を、ときに疑い、ときに別の思考回路を
応用してみる。
これは日々の努力のみによって可能である。
しかも脳みそが硬直化し始めたら、遅い。
若ければ若いほど、よい。

……そこでためしに、今度テーブルの上にあるリンゴを手でつかむとき、
いつものやり方、つまり無意識のままつかむという方法ではなく、
別の方法でつかんでみたらどうだろう。

たとえば両手の人さし指だけで、つかんでみるとか、
口と片手を使って、つかんでみるとか、
さらに箸で、刺してそれをもちあげてみるとか、などなど。
いろいろな方法がある。

いろいろな方法で、自分の中の思考回路を、一度破壊してみる。
思考、感情の思考回路も、また同じ。
まずいのは、同じ思考回路に沿って、毎日同じ行動、同じ思考を繰り返すこと。
そういうことをすること自体が、すでにボケの始まりとみてよい。

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ス はやし浩司 思考回路 思考の柔軟性 ボケの始まり)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ターミネーター4(Terminator 4)(vs.「真夏のオリオン」)

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今夜、街へ行ったついでに、深夜劇場を観てきた。
『ターミネーター4』。
文句なしの、星5つ、★★★★★。
観終わったと、「娯楽映画はこうでなくちゃア」と
ワイフと言いあった。

で、先週観た、『真夏のオリオン』(邦画)が、
ガクンと色あせてしまった。
星を2つ、つけたが、『ターミネーター4』と比べたら、
星1つも、難しい。

「俺たちは、死ぬために戦っているのではない。
生きるために戦っているのだ」(「真夏のオリオン」)
というセリフひとつにしても、安っぽい!
そんな程度の哲学なら、目と表情で表現できるはず。
戦争をなめている。
まるで子どもの学芸会。
楽譜一枚で、戦争が動くはずもない。
『一杯のかけそば』風の、お涙ちょうだい映画。
(だからといって、戦争を肯定しているわけではない。
誤解のないように!)
それがわからなければ、ターミネーター4を観たらよい。

その(ちがい)がわかるはず。
私が言っていることが、辛辣でないことがわかるはず。

で、その『ターミネーター4』。
それを観ているとき、外では、はげしい雷をともなった
ドシャ降りがあった。
しかし映画の音と重なって、それがわからなかった。
つまりそれくらい迫力があった。

久々に、スカッとした!
つぎは『トランスフォーマー』。
観るぞ!

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【6月17日】

●流水は腐らず

 (やるべきこと)を見失うと、とたんに精神が腐り始める。
たまたま今の私が、そうだ。
土日からスタートして、連続4日の休暇をもらった。
言うなれば有給休暇。

 が、たった4日にもかかわらず、わずかだが日々に精神が腐っていくのがわかる。
緊張感が消える。
東洋医学では、『流水は腐らず』と教える。
生き生きと体を動かしている人は、病気になりにくいということを言ったものだが、
それはそのまま精神についても、言える。
脳みその中の血流がよどんだとたん、ものの考え方が、腐ってくる。
グチが多くなる。
うらみ、つらみが、増大する。
「休暇を楽しむ」というよりは、悶々とした気分になる。

 もちろんそれなりに楽しんだつもり。
遠方まで、2度ほど、足を運んだ。
映画も見た。
山で、穴掘りもした。
「穴掘り」というのは、粗大ごみを埋める穴である。
が、充実感がない。
なぜだろう?

●K国のミサイル

 これはあくまでも私のケースだが、育児論にしても、子どもたちの顔を見ていないと、
書けない。
顔を見ているから、書ける。
が、たった4日なのだが、子どもたちから遠ざかったとたん、育児論が書けなくなって
しまった。

 もともと、法科の学生だったということもある。
ネットで読むものといえば、国際政治がらみの記事ばかり。
今朝もまっ先に読んだのが、K国のミサイル発射実験の記事。
またまたあのK国は、ミサイル発射実験の準備を始めたらしい。
しかも今度は、テポドン2発のほか、ノドン数発の発射準備をしているという。
(どこまで、おバカなのだろう?)

 どれも液体燃料を使っているため、準備には時間がかかる。
が、一度、準備を始めたら、途中で、それを止(や)めるわけにはいかない。
つまり一度、ミサイル本体に注入したら、抜くことができない。
液体燃料というのは、そういうものらしい。
現在、どういう状態かはわからないが、もし報道されている記事の通りとするなら、
近く、K国は、ミサイルを日本に向けて発射するはず。

 「いくらなんでも、そこまではしないだろう」と、もしあなたが考えているとしたら、
それは甘い。
現在、K国がテポドンにせよ、ノドンにせよ、それを使って攻撃できる国は、この
日本をおいて、ほかにない。
「日本にミサイルを撃ち込んで、あいつらを脅かしてやろうではないか」くらいは、
考えているはず。

 が、これに対して、「アメリカが報復してくれるはず」と、あなたは思うかもしれない。
しかし弾頭に核兵器や生物兵器でも積んでいれば話は別だが、そうでなければ、アメリカ
は、何もしない。
そんな程度のことで、アメリカはK国とは、開戦しない。
開戦したとたん、朝鮮半島は、それこそ火の海となってしまう。
K国の独裁者たちも、それをよく知っている。

●空虚感

 ……しかし、私がこんなことを書いても、意味はない。
(読み物)として読んでくれる人はいるだろう。
しかし、そこまで。
言うなれば、情報のゴミ。
いくら書いても、ただのゴミ。

 だから書いていても、そのつど空虚感が、私を襲う。
「書きたい」という思いと、「書いてもムダ」という思いが、交互に胸の中を行きかう。
ワイフもときどき、こう言って笑う。

「あなたって、世界中をひとりで背負っているみたい」と。
つまり、「バカみたい」と。

 そこで話題を身近なものに絞ってみる。

(1)静岡空港はやはり、ムダだった

 I知事はがんばった。
中央から補助金を引き出すことはできた。
建設業者は、それで潤った。
が、そこまで。
あれほどまでに立派な空港など、必要ない。
だれが見ても、必要ない。
田舎のバスターミナルを、5階建てのビルにしたようなもの。
これから先、静岡県民は、空港を維持するだけでもたいへん。
へたをすれば、毎年、数百億円以上の負担になるはず。

(2)リニア迂回 

 東京―名古屋間を走るリニアのルートをどうするかで、もめている。
「長野市寄りに迂回せよ」と主張する、長野県側。
しかしもし迂回ルートを採用すると、その建設費用だけで、プラス1兆円。
東京―名古屋の所要時間も、10分、長くなるという。

 あの新幹線のルートを決めるときも、そうだった。
結局、岐阜県寄りの迂回ルートを採用してしまった。
どこのバカが迂回させたかは、岐阜羽島駅の前に立って見るとわかる。
立派な銅像が立っている。

 で、その「10分」。
今後100年間、リニアが走ると計算し、そのロスを積算していくと、1兆円や
10兆円ではすまない。
それを考えたら、ルートは、東京から名古屋までの、一直線にすべきである。
「すべき」である。
長野県の地域エゴ(=有力政治家)の言いなりになってはいけない。

 ……しかしやはり、虚しい。
こんなことを書いても、やはりゴミ。
情報のゴミ。

 では、こういうときは、どうするか?
まず、久しぶりに、近くの書店をのぞいてみる。
つぎにパソコンショップをのぞいてみる。
何人かの友人に電話を入れてみる。
新しい情報を手に入れる。
それに今夜は、義兄を訪ねてみよう。

 このまま家の中に閉じこもっていたら、精神はますます腐ってしまう。
……ということで、今日も始まった。
6月17日、早朝。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●K国のミサイル・迎撃反対!(We just ignore the Missiles from North Korea)

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K国のミサイルに対して、迎撃反対を主張した。
それに対して、Goo−Blogだけでも、
何十ものコメントが寄せられた。

それらの中からいくつかを、そのまま紹介する。

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●はじめに……

 またまたK国は、ミサイルの発射準備をしているという。
しかも今度は、ICBM(大陸間弾道弾)を2発、そのほか、日本を射程に収めた
ノドンを、わかっているだけでも、3発以上も準備しているという。

 が、今度は、実験ではない。
アメリカの軍事専門家は、「標的は日本!」と、ズバリ、言い切っている。

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時事通信・6月18日は、つぎのように伝えている。

『【ワシントン17日時事】米シンクタンク「国際政策センター」のセリグ・ハリソン・ア
ジア研究部長は17日、下院外交委小委員会で証言し、「北朝鮮との戦争があるとすれば、
北朝鮮が攻撃するのは韓国ではなく日本だ」との見方を示した。ハリソン氏は今年1月に
訪朝し、北朝鮮の政府や軍部高官と会談している。

 同氏は「金正日総書記が病気で日常の公務を減らしてから、海外経験のない国粋主義的
な若手将校たちが指導部で強い立場にある」と指摘。これらの将校は、金総書記が2002年、
訪朝した小泉純一郎首相(当時)に日本人拉致問題を認め、謝罪したことに憤激していた
と述べた。

 さらに、国連安保理制裁によってこれらの若手将校が一層立場を強め、「日本との戦争に
なった場合の北朝鮮の軍事力について、非現実的な分析を行っている」と警告した』と。

++++++++++++++++++++++++++

つまり、今、この日本は、たいへん危機的な状況に置かれている。
仮に弾道だけでも東京、大阪へ撃ち込まれるようなことにでもなれば、それこそ
日本は、ハチの巣をつついたような大騒ぎになる。
日本経済はその直後から、マヒ。
株価は暴落、債権、円も大暴落!
K国は、それをねらっている。

 が、もし、弾頭に核兵器などの大量破壊兵器が積み込まれていたとしたら……。
たった1発で、20万人以上もの死傷者が出ると予想されている。
そんなことにでもなれば、大惨事以上の大惨事。
日本はそのまま奈落の底に、たたき落とされる。
それには理由がある。

 とても残念なことだが、日本は、丸裸以上の丸裸。
こうした攻撃に対して、まったくの無防備。
あのシンガポールでは、どんなマンションにも、地下シェルターが用意されている。
韓国にしても、高速道路はすべて、そのまま戦闘機の滑走路して、使えるようになって
いる。
防毒マスクを、子どもたち全員に配っている。
一方、この日本は、どうか?
みなさん、ご存知の通り!

●危険な迎撃

 こんな状態で、日本がK国のミサイルを迎撃すれば、日本は、どうなるか?
恐らく最初の1発は、オトリで撃ってくるだろう。
が、それを迎撃したとたん、K国は、「報復!」と叫んで、20〜30発もの
ノドンを日本に撃ち込んでくるはず(韓国の軍事専門家)。
しかもそのときは、弾頭が、ただのカラ弾頭であると考えるのは、無理。
爆弾、もしくは生物、化学兵器、もしくは核兵器を搭載してくるはず。

 「迎撃!」と威勢のよいことを言うのは簡単。
しかし向うは、(数)で日本を襲ってくる。
ノドンだけでも、すでに200〜300基が、実戦配備についているという。
800基という説もある。
そうなったとき、日本は、どう対処するのか。
その対策は、できているのか。

 ゆいいつの防御方法は、最初の1発を撃ち込んできた直後に、K国のミサイル基地を
攻撃すること。
(これは間髪を入れず、その直後にする必要がある。)
しかしこれは日本の憲法が制約しているように、できない。
またその武器すら、日本は、もっていない。
その緊張感もない。

 つまりものごとは現実的に考える。
それを積み重ねていく。

迎撃は可能か……NO!
日本はK国を相手に、戦闘能力があるか……NO!
日本は、ミサイル攻撃に対して、防御能力は整っているか……NO!

 そして出てくる答は、ただひとつ。
『ミサイルを迎撃してはいけない』である。

++++++++++++++++

●コメントより

★「あんたの頭上には来ないからな」(あきれた様より)

☆「私もミサイル迎撃には反対です。K国を調子に乗せてはいけないし、日本に犠牲が出
たとしとも、我慢しなければ。戦争になるとしても国際社会を味方につけて、K国を金〇
〇を徹底的に潰さなくては。K国の国民にも犠牲者は出るでしょう、しかし戦争にならな
くてもK国の国民は何万という人々が餓死し犠牲になっています。早く民主化しないと未
来は無いでしょう。日本もいつまでもビクビクしているわけにはいかない。戦争は本当に
馬鹿なものです。殺し合いで国同士の問題を解決しようとする、この近代にあり得ない愚
かな事。でもK国のような国があり、武器を売っている国がある現実。悲しいですが受け
止めなくては。私は運よくこの局面を回避出来たとしても、日本が国際社会の中で活躍し
たり、国の危機管理をしっかりしてくれる政府になれるとは思いません。ですから10歳に
なる息子には、英語と新聞を読ませ、もう少ししたら、もう一カ国語を習わすつもりです。
これからは子供には日本以外で生活出来る能力を付けさせてあげなければ。日本人として
の誇りなんていりません。国際社会で生き抜く力が必要では?」(みずほ様より)

★「一発数百億ドルのミサイルって何ですか?そんな天文学的価格のミサイルは世界中探
してもありませんし、そもそも自衛隊の年間防衛費では購入不可能でしょう。そもそも、
一回使いっきりの兵器で何を撃墜するのか、という事になりますけど、最新鋭ステルス戦
闘機のFA22ラプターでも約235億"円"です。因みに自衛隊の迎撃ミサイル"パトリオット"
は一発約2億円」(1415様より)

★「ガラクタに近いロケットでも日本に落ちてきたら大惨事だろ」(Unknown様より)

☆「激しく同意。この国の人は戦争が始まろうとしているのになんでこんなに呑気なんで
すかね」(Persons1様より)

★「>人工衛星なら、北極、もしくは南極に向けて発射するのが、
>常識!
>どうしてそれを、東に向けるのか?

そんな常識ありませんよ。
人工衛星は地球の自転に後押ししてもらうために東に打つのが普通です」(愛国者A様よ
り)

★「はじめまして、いつもこちらのブログを拝見させていただいております。
経験に裏付けされた鋭い分析に、いつもなるほどと感銘を受けております。

ですが、今回のエントリーに関しては少しだけ引っかかったことがあり、思わずコメント
させていただいた次第です。

仰るとおり、加害者被害者の件において、「加害国家の都合だけで、史実上本当に一方的な
蹂躙を行った」というのであれば、その事実に対して「歴史を美化するなんてとんでもな
い、やられた方の気持ちを考えてみろ」というのはとても納得できる話です。

しかしながら、その史観に基づく史実は本当に事実なのでしょうか?その前提が間違って
いる可能性はないのでしょうか?
戦後60年私たちはそのように学校でも教育をうけましたし、それが当たり前とされてき
ていました。現に韓国、中国からは謝罪せよと要求されています。
我々日本人同士では相手を信頼することが前提となりますので、まさかそういった要求を
不当にするはずがない、そう言っているのだからきっとそのような非道なことを過去の日
本は行ったに違いない。
そういった思考に陥っていないでしょうか?

インターネットが発達した現在、情報を調べる手段は沢山あります。また、多数の人が見
るネットだからこそソースのはっきりしない事は淘汰されていきます。

また、アジアの孤児と仰っていますが、アジアとは中国、韓国、北朝鮮の3国しかないの
でしょうか?それ以外のアジア諸国、欧米が日本に対してどのような印象を抱いているか
を御存知ですか」(Haru様より)

★「あなたみたいな、直ぐに騙される日本人を眺めて、アメリカの「戦争屋」は腹を抱え
て笑っているでしょうね。 

金正日の後継者は、CIAのエージェントみたいですよ。 
北朝鮮という「脅威」を作り出してカネを絞り取ろうというのは、他でもなく、アメリカ。 
詳しくしりたければ、リンク記事を読まれたし」(SAMU様より)

★「あんた何者?教育学者?ダカラって、ほとんどの人が使っていると思うけど。皆、思
考力なしってこと?」(Unknown様より)

☆「低劣な人間が 権力を持っている日本の政治ですね。 

麻生太郎にしろ、あの人達は日本を戦前の軍国主義社会に逆戻りさせようとする危険な集
団です。
子供達を、ああいう連中の企みから守らなければいけないと思いますね!」(SAMU様よ
り)

★「朝鮮民主主義人民共和国朝鮮労働党総書記であり、朝鮮民主主義人民共和国朝鮮人民
軍国防委員会委員長であり、朝鮮民主主義人民共和国朝鮮人民軍最高司令官である敬愛し
尊重する金正日総書記(将軍)閣下は、朝鮮民主主義人民共和国に正義と秩序を持って国
家と国民の安寧を望まれて統治されている偉大なるお方である。
私は、朝鮮民主主義人民共和国朝鮮労働党総書記であり、朝鮮民主主義人民共和国朝鮮人
民軍国防委員会委員長であり、朝鮮民主主義人民共和国朝鮮人民軍最高司令官である敬愛
し尊重する金正日総書記(将軍)閣下に慶びを表す。
金正日総書記万歳・金正日将軍万歳・金正日国父万歳であります。
朝鮮人民軍は、神軍であり無敵艦隊であり天軍であるのです。
朝鮮民主主義人民共和国朝鮮労働党総書記であり、朝鮮民主主義人民共和国朝鮮人民軍

防委員会委員長であり、朝鮮民主主義人民共和国朝鮮人民軍最高司令官である敬愛し尊重
する金正日総書記(将軍)閣下万歳・万歳・万歳…」(新海和明様より)

++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、みなさんへ】

 迎撃ミサイルの値段については、実際、よくわからない。
ミサイル1発だけで、170億円という説もある。
関連装備一式で、1兆円という説もある。
ほかに周辺装置も含めると、この金額は、さらにはねあがる。

 「一発数百億ドル」というのは、私の記述ミス。
「一発数百億円」が正しい。
ただし、一発、約2億円ということは、絶対にありえない!
たとえばライフル銃と弾丸の関係を考えてみればわかる。
弾丸一発は、数百円単位かもしれないが、ライフル銃は、10万円単位。
さらにライフル銃を設置する装甲車、さらには夜間暗視装置の購入などなど。
弾丸一発の値段だけを見て、「安い」と思う人はいないはず。

 ここに紹介した最後のコメントは、どういうスジの人が書いたかは、すぐ察しがつく。
しかし私たちは、肩書きだけで、その人を判断しない。
いくら肩書きを並べても、金xxは、金xx。
拉致問題に抗議の念をこめて、私はそうしている。

+++++++++++++++++++++++

日本よ、日本人よ、
あんな国を本気で相手にしてはいけない。
また、その価値もない。
あんな訳のわからない国を相手に、正義を説いて、どうなる?
どうする?
ものごとは、そこを原点にして考えよう。

私たち日本人は、戦争をしてはいけない。
「臆病者」と言われても、戦争をしてはいけない。

もちろん彼らが日本の領土を侵してくれば、話は別。
そのときは戦う。
しかし今は、ただひたすら無視。
「戦う」とか「戦わない」とかいうレベルの話ではない。
何もできない。
それが現実。

何かをしたら、即、国際世論に訴えていく。
国際世論で、K国を締めあげていく。
自己崩壊にもっていく。

戦争を開くのは簡単。
しかし終えるのは難しい。
それを考えたら、日本は、戦争に手を出してはいけない。

繰り返す。
日本は丸裸以上の丸裸。
その事実を忘れて、勇ましい好戦論に操られてはいけない。

だからここはぐっと我慢。
ひたすら我慢。
プラス、無視。
それが今、日本が取りうる、ゆいいつの方法である。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●私のBLOGへのコメント

+++++++++++++++++++++

私のBLOGへ、毎日多くの人がコメントを
寄せてくれる。
もちろん、みながみな、好意的というわけではない。
コメントを書いてくる人は、たいてい批判的。

で、そういうコメントを読んでいると、いろいろな
ことに気づく。

たとえば(G−Blog)へのコメントを並べてみる。
これらは去る4月、私が書いた、「K国のミサイル迎撃反対」という記事に対する
コメントである。

★「あんたの頭上には来ないからな」(あきれた様より)

★「ガラクタに近いロケットでも日本に落ちてきたら大惨事だろ」(Unknown様より)

★「あなたみたいな、直ぐに騙される日本人を眺めて、アメリカの「戦争屋」は腹を抱え
て笑っているでしょうね」(SAMU様より)。 

★「あんた何者?教育学者?ダカラって、ほとんどの人が使っていると思うけど。皆、思
考力なしってこと?」(Unknown様より)

+++++++++++++++++++++

●捨てゼリフ

 日本語には、「捨てゼリフ」という言葉がある。
相手の心臓をえぐるような鋭い言葉を、短く発して、その場を去る。
それが捨てゼリフ。

 ここにあげたコメントは、どれも捨てゼリフと考えてよい。
(それとも長い文章を書く時間がないのかもしれない。)
捨てゼリフであるだけに、論理性がない。
感情的。
文章の中のささいな記述ミスをおおげさにとらえて、全文、さらには私の全人格まで
否定する。
 
 で、こうした捨てゼリフには、反論のしようがない。
さらに言えば、その向うにあるのは、(撃ち落としてしまえ)式の感情論。
感情論には感情論で答えるしかない。
しかしそれを繰り返していたら、喧嘩になる。

 コメントを書いてくれた人たちの気持ちもよくわかる。
わかるが、私としては、どう答えてよいのか。

 ひとつSAMU様の意見には、「?」をつけたい。
SAMU様は、「アメリカは極東でわざと緊張感を演出し、武器で儲けようとしている」
という趣旨のことを書いている。

 同じような意見を、K国の中枢部の人たちも言っている。
「日本は、朝鮮半島への再侵略を試みている」と。

 アメリカはともかくも、日本にそんな意思がないことは、日本人なら、みな知っている。
同じようにアメリカ人にも、そんな意思は毛頭、ない。
(一部の軍事産業に関わっている人たちは、内心でそう考えることはあるかもしれないが
……。)
その余裕もない。

 たしかにアメリカは軍需産業国家である。
武器を売ることで、国を支えている。
戦争が起これば起こるほど、武器は売れ、ついでにドルの価値は高くなる。

 しかし私たちは、今、現実を見なければならない。
それがどういう理由であるにせよ、K国は、核兵器を作り、ミサイルを作っている。
K国の高官自身が暴露しているように、これらは「日本向け」である。
そういう現実を前にして、日本は、何ができる?
外交能力にしても、たいへんおぼつかない。
拉致問題ひとつ解決できずにいる。
ここはアメリカにすがるしかない。
そういう現実を前にして、「アメリカの戦争屋は腹を抱えて笑っているでしょうね」
は、ない。

 身近な殺人事件にしても、あるいは国家的な戦争にしても、そのほとんどは、
感情論が肥大化し、その臨界点を超えたときに起こる。
私たちがもっとも警戒すべきことは、実は戦争ではなく、こうした感情論である。
論理ではない。
感情論である。
感情論こそが、私たちの大敵ということになる。

 そういう視点から、読者のみなさんも、もう一度、これらのコメントを読み直して
みてほしい。
(090619記)


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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 7月 22日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(1)

●あと片づけとあと始末

 あと片づけとあと始末は、基本的に違う。たとえば「部屋に散らかったものを片づける」
は、あと片づけ。「使った食器をシンクへもっていき、そこで食器を洗い、ナプキンでふく」
は、あと始末。日本人はあと片づけには、うるさいが、あと始末には甘い。これは日本人
の国民性のようなもの。日本人は何かにつけて、責任の所在をはっきりさせるよりも、も
のごとをナーナーですまそうとする。

 オーストラリア人の子育てをみても、彼らはあと片づけには、それほどうるさくない。
子ども部屋だと、散らかっているのが当たり前という状態。しかしあと始末にはうるさい。
冷蔵庫から出したものを、テーブルの上に置いておこうものなら、子どもたちは親にひど
く叱られる。そうそう以前、こんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。

「ヒロシ、日本の子どもたちは、皆、スポイルされているよ」と。「スポイル」というのは、
「ドラ息子化している」という意味だ。そこで私が「君はどんなところを見てそう言うの
か」と聞くと、こう話してくれた。

 彼はときどき日本の子どもたち(英会話教室の生徒)を、自宅にホームステイさせてい
るのだが、それについて、「食事の前に料理を手伝わない」「食後も食器を洗わない」「シャ
ワーを浴びても、アワを流さない」「朝起きても、ベッドをなおさない」「……何もしない
のだよ」と。

 あと片づけをうるさく言い過ぎると、かえって子どもにとっては居心地の悪い世界にな
ってしまう。アメリカの作家のソローも、こう言っている。「ビロードのクッションの上に
座るよりも、カボチャンの頭に座るほうが、休まる」と。しかしあと始末は別。子どもに
はどんどんとあと始末をさせる。そういう習慣が、責任感の強い子どもをつくる。


+++++++++++++++++++++++++++

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(2)

●子どもの横を歩く

 親には三つの役目がある。一つ目に子どもの前を歩く。子どものガイドとして。二つ目
に、子どものうしろを歩く。子どもの保護者として。そして三つ目に、子どもの横を歩く。
子どもの友として。昔、オーストラリアの友人が話してくれたことだ。

 日本人の子育てをみると、このうち一つ目と二つ目については問題ない。が、三つ目が
弱い。自分の子どもを「友」としてとらえていえる人は、少ない。あるいはそう感じてい
ても、一方で昔からの「親意識(権威意識)」が強いため、どうしても子どもを「下」に見
てしまう。そこでテスト。

 あなたの子どもがあなたに向かって、「バカヤロー」と怒鳴ったとする。そのとき、あな
(1)「『親に向かって、何だ!』と子どもを叱る。そういうことを言うのは許さない」、
(2)「子どものことだから口が悪いのは当たり前。相手にしない」の、どちらだろうか。
親意識の強い人ほど、(1)のように感ずるし、そうでない人ほど、(2)のように感ずる。
もちろんその中間もある。またこう書いたからといって、子どもが親に「バカヤロー」と
言うのを容認せよということでもない。

むしろ問題は、子どもがそういうことを言えないほどまでに、親の親意識で子どもを抑
え込んでしまうこと。子どもは親の前では仮面をかぶるようになり、そのかぶった分だ
け、子どもの心はあなたから離れる。

 子どもと「友」になるということは、子どもの言いなりになれということではない。子
どもを甘やかせということでもない。子どもの「友」になるということは、子どもを「下」
に見るのではなく、対等の人間としてみるということ。たとえばアメリカでは、親子でも
こんな会話をしている。
父「お前は、パパに何をしてほしい?」、
子「パパは、ぼくに何をしてほしい?」と。
こうした謙虚な気持ちが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。


++++++++++++++++++++++

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(3)

●家庭教育の誤解

(1)忍耐力……よく「うちの子はサッカーだと一日中している。ああいう力を勉強に向
けさせたい」という親がいる。しかしこういう力は忍耐力とは言わない。好きなこ
とをしているだけ。子どもにとって忍耐力というのは、「いやなことをする力」をい
う。たとえば台所の生ゴミを手で始末するとか、風呂場の排水口にたまった毛玉を
始末するとか、そういうことができる子どもを忍耐力のある子どもという。

(2)やさしさ……公園でブランコを横取りされたとする。そういうときニッコリと笑い
ながら、そのブランコを明け渡すような子どもを、「やさしい子ども」と考えている
人がいる。しかしこれも誤解。このタイプの子どもは、それだけ」ストレスをため
やすく、いろいろな問題を起こす。子どもにとって「やさしさ」とは、いかに相手
の立場になって、相手の気持ちを考えられるかで決まる。もっと言えば、相手が喜
ぶように自ら行動する子どもを、やさしい子どもという。

そのやさしい子どもにするには、買い物に行っても、いつも、「これがあるとパパが
喜ぶわね」「これを買ってあげるから、妹の○○に半分分けてあげてね」と、日常的
にいつもだれかを喜ばすようにしむけるとよい。

(3)まじめさ……従順で、言われたことをキチンとするのを、「まじめ」というのではな
い。まじめというのは、自己規範のこと。こんな子ども(小3女子)がいた。バス
停でたまたま会ったので、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、こう
言った。「これから家で夕食を食べますから、いらない。缶ジュースを飲んだら、ご
はんが食べられなくなります」と。こういう子どもを「まじめな子ども」という。

(4)すなおさ……やはり言われたことに従順に従うことを、「すなおな子ども」と考えて
いる人は多い。しかし教育の世界で「すなおな子ども」というときは、心の状態(情
意)と、顔の表情が一致している子どもをいう。怒っているときには、怒った顔を
する。悲しいときには悲しい顔をする、など。情意と表情が一致しないことを、「遊
離」という。子どもにとっては、たいへん望ましくない状態と考えてよい。たとえ
ば自閉傾向のある子どもがいる。このタイプの子どもの心は、柔和な表情をしたま
ま、まったく別のことを考えていたりする。

(5)がまん……子どもにがまんさせることは大切なことだが、心の問題とからむときは、
がまんはかえって逆効果になるから注意する。たとえば暗闇恐怖症の子ども(3歳
児)がいた。子どもは夜になると、「こわい」と言ってなかなか寝つかなかったが、
父親はそれを「わがまま」と決めつけて、いつも無理に寝させていた。がまんさせ
るということは、結局は子どもの言いなりにならないこと。そのためにも 親側に、
一本スジのとおったポリシーがあることをいう。そういう意味で、子どものがまん
の問題は、決して子どもだけの問題ではない。


+++++++++++++++++++++++

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(4)

●子どもに与えるものは、100倍

 子どもの金銭感覚は、幼稚園の年長児から小学2年ぐらいにかけて完成する。「ふえた」
「減った」「トクをした」「損をした」など。お金で物欲を満たす、その満たし方まで、こ
の時期に覚えてしまう。そういうわけでこの時期の金銭感覚が狂うと、あとがたいへん。
そこで、子どもに買い与えるものは、心の中で100倍するとよい。

たとえば100円のものは1万円。1000円のものは10万円、と。つまり子どもが
100円のものから得る満足感は、おとなが1万円のものから得る満足感と同じという
こと。1000円のものから得る満足感は、おとなが10万円のものから得る満足感と
同じということ。この時期に、1000円や1万円のものをホイホイと買い与えている
と、やがて子どもが大きくなり、高校生や大学生になったとき、それこそ10万円のも
のや、1000万円のものを買い与えないと、満足しなくなる。もしあなたにそれだけ
の財力があれば話は別だが、安易な気持ちで買い与えるようなことは、やめたほうがよ
い。

 また「より高価なものを買ってあげればあげるほど、深い親の愛のあかし」と考えてい
る人がいる。戦後のあのひもじい時期を過ごした人ほど、この傾向が強い。しかしこれは
まったくの誤解。ではどうするか。

 イギリスの格言に、『子どもに釣り竿を買ってあげるより、魚釣りに釣れていけ』という
のがある。子どもの心をつかみたかったら、子どもにものを買い与えるより、魚釣りに行
けという意味だが、これは子育ての基本でもある。

多くの親は、「高価なものを買い与えてやったから、子どもは親に感謝しているはず」と考
える。しかし実際には、感謝などしていない。「ありがとう」とは言うが、その場だけ。あ
るいはたいていのばあい、かえって逆効果。

 子どもの場合、不自由やひもじさ、さらには思いどおりにならないことが、子どもの生
活力を養う原動力となる。また子どもの心をとらえるということは、もっと別のこと。そ
ういうことも考えながら、子どもの金銭教育を考える。

Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

子育て ONE POINT アドドバイス! by はやし浩司(101)

教師言葉は裏から読む

 この世界には、「教師言葉」というのがある。先生というのは、奥歯にものがはさまった
ような言い方をする。たとえば能力が遅れている子どもの親には、決して「能力が遅れて
います」とは言わない。……言えない。言えば、たいへんなことになってしまう。

こういうとき先生は、「お宅の子どもは、運動面はすばらしいのですが……(勉強は、さ
っぱりできない)」「私のほうでも努力してみますが……(家庭で何とかしてほしい)」と
言う。あるいは問題のある子どもの親に向かっては、「先生方の間でも、注目されていま
す……(悪い意味で目立つ)」「元気で活発なのはいいのですが……(困り果てている)」
「私の力不足です……(もうギブアップしている)」「ほかの父母からの苦情は、私のほ
うでおさえておきます……(問題児だ)」などと言う。

ほかに「静かな指導になじまないようです……(指導が不可能だ)」「女の子に、もう少
し人気があってもいいのですが……(嫌われている)」「協調性に欠けるところがありま
す……(わがままで苦労している)」「ほかの面では問題はないのですが……(学習面で
は問題あり)」というのもある。

 一方、先生というのは、子どもをほめるときには、本音でほめる。先生に、「いい子です
ね」と言われたときは、すなおに喜んでよい。先生は、おせじではほめない。おせじを使
わなければならない理由そのもがない。裏を返して言うと、もしあなたの子どもが、園や
学校の先生にほめられたことがないというのであれば、子どものどこかに問題がないか、
それを疑ってみたほうがよい。

幼児のばあい、一つの目安として、誕生パーティがある。あなたの子どもが、ほかの子
どもの誕生パーティによく招待されるならよし。そうでないなら、かなりの問題のある
子どもとみてよい。実際、誰を招待するかを決めるのは親。その親は、自分の子どもや
先生から耳にする、日ごろの評判を基準にして、それを決める。

 生々しい話になってしまったが、もともと教育というのは、そういうもの。親と教師の
価値観やエゴが、互いに真正面からぶつかり合う。ふつうの世界と違うのは、そこに「子
ども」が介在すること。だから本音と建前が、複雑に交錯する。こうした教師言葉は、そ
ういう世界から必然的に生まれた。ある意味でやむをえないものかもしれない。だいたい
あなたという「親」だって、先生の前では本音を言わない。……言えない。言えば、たい
へんなことになってしまう。それをあなたは、よく知っている。


++++++++++++++++++++++++

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(102)

よい先生、悪い先生

 私のような、もともと性格のゆがんだ男が、かろうじて「まとも?」でいられるのは、「教
える」という立場にあるからだ。子ども、なかんずく幼児に接していると、その純粋さに
毎日のように心を洗われる。何かトラブルがあって、気分が滅入っているときでも、子ど
もたちと接したとたん、それが吹っ飛んでしまう。よく「職場のストレス」を問題にする
人がいる。しかし私のばあい、職場そのものが、ストレス解消の場となっている。

 その子どもたちと接していると、ものの考え方が、どうしても子ども的になる。しかし
誤解しないでほしい。「子ども的」というのは、幼稚という意味ではない。子どもは確かに
知識は乏しく未経験だが、決して幼稚ではない。むしろ人間は、おとなになるにつれて、
多くの雑音の中で、自分を見失っていく。醜くなる人だっている。「子ども的である」とい
うことは、何ら恥ずべきことではない。

とくに私のばあい、若いときから、いろいろな世界をのぞいてきた。教育の世界や出版
界はもちろんのこと、翻訳や通訳の世界も経験した。いくつかの会社の貿易業務に携わ
ったこともあるし、医学の世界をかいま見たこともある。しかしこれだけは言える。園
や学校の先生には、心のゆがんだ人は、まずいないということ。少なくとも、ほかの世
界よりは、はるかに少ない。

 そこで「よい先生」論である。いろいろな先生に会ってきたが、目線が子どもと同じ高
さにいる先生もいる。が、中には上から子どもを見おろしている先生もいる。このタイプ
の先生は妙に権威主義的で、いばっている。そういう先生は、そういう先生なりに、「教育」
を考えてそうしているのだろうが、しかしすばらしい世界を、ムダにしている。それはち
ょうど美しい花を見て、それを美しいと感動する前に、花の品種改良を考えるようなもの
だ。昔、こんな先生がいた。ことあるごとに、「親のしつけがなっていない」「あの子は問
題児」とこぼす先生である。決して悪い先生ではないが、しかしこういう先生に出会うと、
子どもから明るさが消える。

 そこで子どもと先生の相性があっているかどうかを見分ける、簡単な方法……。子ども
に紙とクレヨンを渡して、「園(学校)の先生と遊んでいるところをかいてね」と指示する。
そのとき子どもがあれこれ先生の話をしながら、楽しそうに絵をかけばよし。そうでなく、
子どもが暗い表情になったり、絵をかきたがらないようであれば、子どもと先生の相性は、
よくないとみる。もしそうであれば、この時期はできるだけ早い機会に、園長なら園長に
相談して、子どもと先生の関係を調整したほうがよい。


++++++++++++++++++++++++++

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(103)

温室から出ると風邪をひく

 過保護といっても、いろいろある。ある母親は、子どもが交通事故にあって以来、運動
面で子どもを過保護にした。また別の母親は、子どもが重病を患ったことが原因で、食事
面で子どもを過保護にした。親が子どもを過保護にする背景には、親がわに何らかの「心
配」があるとみてよい。そのわだかまりが形を変えて、親は子どもを過保護にする。

 が、何が悪いかといって、精神面で子どもを過保護にするケースほど悪いものはない。
子どもを小さな世界に閉じ込め、親子だけのマンツーマンの状態で育てるなど。そして「近
所のA君は悪い子だから、いっしょに遊んではダメ」「あの公園には乱暴な子がいるから行
ってはダメ」と、子どもの世界を、外の世界から遮(しゃ)断してしまう。そのため子ど
もは俗にいう「温室育ち」になり、いわゆる「外へ出るとすぐ風邪をひく」タイプの子ど
もになる。

 過保護児の特徴としては、つぎのようなものがある。(1)人格の「核」形成が遅れ、そ
の年齢の子どもに比べて、全体に幼い感じになる。幼児性がそのまま持続することもある。
(2)ブランコを横取りされても、それに抗議できないなど、社会性がなくなる。そのた
めストレスを内にためやすく、内弁慶外幽霊になりやすい。(3)柔和でやさしいが、ハキ
がなく、ものごとに追従的になりやすい。そのためいわゆる野性味がなくなり、全体にひ
弱な感じになる。それが年齢とともにはっきりしてくるため、親は親でますます過保護に
する。この悪循環がますます子どもをひ弱にする。どこかでその悪循環を断ち切らねばな
らないが、たいていの親はこう言う。「子どもがああなのは、生まれつきです」と。しかし
実際には、そういう子どもにしたのは、親自身にほかならない。それともあなたは赤ちゃ
んをみて、その赤ちゃんが過保護児かどうか、それがわかるとでもいうのだろうか。

 子どもへの過保護を感じたら、何が「心配のタネ」になっているかを、さぐってみる。
そのタネが何であるかがわかるだけでも、この問題の大半は解決したとみる。まずいのは
それに気づかないまま、いつまでもそのタネに振りまわされること。心のわだかまりとい
うのはそういうもので、あなたをいつも裏から操(あやつ)る。


++++++++++++++++++++++++++++

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(104)

死は厳粛に

 「死」をどう定義するかによってもちがうが、三歳以前の子どもには、まだ死は理解で
きない。飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池を入れかえれば動く」と言った子ど
も(三歳男児)がいた。「どうして起きないの?」と聞いた子ども(三歳男児)や、「病院
へ連れて行こう」と言った子ども(三歳男児)もいた。子どもが死を理解できるようにな
るのは、三歳以後だが、しかしその概念はおとなとはかなり違ったものである。三〜七歳
の子どもにとって「死」は、生活の一部(日常的な生活が死によって変化する)でしかな
い。ときにこの時期の子どもは、家族の死すら平気でやり過ごすことがある。

 このころ、子どもによっては、死に対して恐怖心をもつこともあるが、それは自分が「ひ
とりぼっちになる」という、孤立することへの恐怖心と考えてよい。たとえば母親が臨終
を迎えたとき、子どもが恐れるのは、「母親がいなくなること」であって、死そのものでは
ない。ちなみに小学五年生の子どもたちに、「死ぬことはこわいか?」と質問してみたが、
八人全員が、「こわくない」「私は死なない」と答えた。一人「六〇歳くらいになったら、
考える」と言った子ども(女子)がいた。質問を変えて、「では、お父さんやお母さんが死
ぬとしたらどうか」と聞くと、「それはいやだ」「それは困る」と答えた。

 子どもが死を学ぶのは、周囲の人の様子からである。たとえば肉親の死に対して、家人
がそれを嘆き悲しんだとする。その様子から子どもは、「死ぬ」ということがただごとでは
ないと知る。そこで大切なことは、「死はいつも厳粛に」である。死を茶化してはいけない。
もてあそんでもいけない。どんな生き物の死であれ、いつも厳粛にあつかう。たとえば飼
っていた小鳥が死んだとする。そのときその小鳥を、ゴミか何かのように紙で包んでポイ
と捨てれば、子どもは「死」というものはそういうものだと思うようになる。しかしそれ
ではすまない。死があるから生がある。死への恐怖心があるから、人は生きることを大切
にする。死をていねいにとむらうということは、結局は生きることを大切にすることにな
る。が、死を粗末にすれば、子どもは生きること、さらには命そのものまで粗末にするよ
うになる。

 どんな宗教でも死はていねいにとむらう。もちろん残された人たちの悲しみをなぐさめ
るという目的もあるが、死をとむらうことで、生きることの大切さを教えるためと考えて
よい。そんなことも頭に入れながら、子どもにとって「死」は何であるかを考えるとよい。
 

+++++++++++++++++++++++++++

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(105)

読解力と国語力

読解力……年中児ともなると、文字をスラスラと読む子どもが出てくる。しかしたいてい
は文字を音に変えているだけ。私「ウサギさんは、だれに会いましたか?」、子「……わか
んない」、私「クマさんは、うれしかったのかな?」、子「……わかんない」と。読みの深
い子どもは、一ページごとに、挿絵を見たり、前のページをのぞいたりするので、むしろ
読む速度が落ちる。またそういう読み方のほうが好ましいことは言うまでもない。

表現力……子どもに紙と鉛筆を渡し、こんなテストをしてみてほしい。「リスさんが歩いて
いると、草の中に大きな穴がありました。リスさんは、その穴に落ちて、おおけがをする
ところでした。そこでリスさんは、あとから来た人が穴に落ちないように、立て札を立て
ることにしました。その立て札には何と書けばよいでしょうか」と。

 文字の書き方がおかしいとか、字が抜けているとかいうことは問題にしてはいけない。
子どもが書けない文字があったら、そのつど教えてもかまわない。で、このテストで子ど
もが、「ここは穴があるからあぶない」とか、「穴に気をつけて」というような文章が書け
ればよし。「これは立て札です」とか、「あなたはここを歩いています」とか、どこかトン
チンカンなことを書くようであれば、あまり表現力はないとみる。ちなみに年長児で、ま
あまあそれらしき文章を書くことができるのは約五〇%。

抑揚……本を読ませてみたとき、言葉の抑揚が自然な子どもは、それだけ家で、おうちの
人に本などを読み聞かせてもらっている子どもとみる。どこか抑揚が不自然と感じたら、
子どもにはたくさん本を読んであげるとよい。

国語力……中に「うちの子はたくさん本を読み聞かせているから、国語力がある」と誤解
している人がいる。決してムダではないが、国語力というのは、日常生活の中で身につく。
たとえば「ウサギさんの足はヒリヒリ痛みました」という文章があったとする。親はそれ
を読んであげることで、「ヒリヒリ」の意味を子どもが理解したと思う。しかしそれだけで
は足りない。子どもがその言葉の意味を理解するようになるためには、実際、子どもがけ
がをしたようなとき、「ヒリヒリ痛いの?」と聞いてあげねばならない。そういう体験があ
ってはじめて、子どもは「ヒリヒリ」の意味がわかるようになる。

要するに子どもの国語力は、親の会話能力、あるいはその子どもを包む言葉環境で決ま
る。もっと言えば、子どもが将来、国語が得意になるかどうかは、親の言葉能力で決ま
るということ。学校で学ぶ国語は、その延長線上にあるにすぎない。いわんやワークや
ドリルで、国語力がつくと考えるのは大きな誤解である。


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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(106)

自慢は要注意

 日本人はもともと上下意識の強い民族。上下関係がないと落ち着かない。そのため無意
識のうちにも、上下関係を身の回りでつくろうとする。そしてその結果、「上」の人には必
要以上にペコペコし、「下」の人には尊大ぶったり、いばったりする。が、その上下関係が
はっきりしないときがある。そういうとき日本人は、自慢話を始める。……と決めてかか
るのも危険なことだが、日本人は自慢することによって、相手を「下」におこうとする。
先祖や家柄を自慢する人、学歴や経歴を自慢する人、親類や子どもを自慢する人などがい
る。自慢しながら、自分を優位な立場に置こうとする。で、その自慢のし方は、人さまざ
ま。

(1)それとなく会話に中に自慢を折り込む人……「今度S高校(市内でも有名な進学校)
の連中と、同窓会をしましてね」とか、「いとこがA町で町長をしてましてね」とか。
あるいは「今度の選挙で、親類の選挙運動を頼まれました」とか言うなど。「私の先
祖に、○○藩で家老をしていたのがいます」と、ストレートに自分を自慢する人も
いる。  

(2)大物ぶる人……「定年退職をしたら、郷里で市長でもしようかな」とか、「先週、○
○市の市長から電話がありましてね」とか。「あの大臣がね、この町に来たときにね、パー
ティに出てほしいと言われて、しかたなく出てきました」と言った人もいた。

 「今」という現実の中で、「私は私」と生きている人は、自慢などしない。しても意味が
ない。しかし仮想現実の世界※で、他人の目を気にして生きている人は、どうしても自慢
が多くなる。だいたいにおいて人間の上下関係などというのも、フィクション(架空)に
過ぎない。人間に上下などない。あるわけがない。同じように名誉や地位、肩書き、社会
的地位もフィクション。それはちょうど子どものゲームのようなもので、その世界にハマ
ッた人にはその愚かさがわからない。

言いかえると自慢話をして自分を飾る人は、それだけ自分のない人とみる。たとえば議
員バッジを胸につけ、ふんぞりかえって歩く国会議員を思い浮かべればよい。はたから
見るとこっけいなのだが、本人にはそれがわからない。

 ……と言いながら、実のところ私も、ときどき自慢話をする。しかしそのたびに、「くだ
らないからやめろ」という声も聞こえてくる。あるいは自慢話をしたあとというのは、ど
こか不愉快になる。自分がなさけなくなるときもある。「自慢」というのはそういうもので、
自慢話をするときの自分は、自分であって、自分でない。だから自慢はできるだけしない。
しそうになると、「やめた」と言って、自ら遠ざかる。私は私だ。他人がどう思うとも、私
の知ったことではない。さてあなたはどうだろうか。きわどい話になってしまったが、こ
の項は、あくまでも一つの参考意見としてとらえてほしい。
※……生きる本分を忘れた生活を、筆者は、「仮想現実の世界」と呼んでいる。


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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(107)

子どもは自慢せよ

 前の項で、「自慢は要注意」を書いた。が、「自慢してはいけない」と言っているのでは
ない。問題は、自慢の「質」だ。たとえば英語国では、親は平気で子どもを自慢する。「私
は息子を誇りに思う」とか、「私の息子は、○○コンテストで一位になった」とか。日本人
はそういうほめ方はしない。謙遜して自分の息子を、「愚息」とか、「バカ息子」とか言う
ことが多い。

 一般論として、子どもの努力とやさしさはほめる。顔やスタイルはほめない。「頭」につ
いてはほめてよいときと、そうでないときがあるので慎重にする。そこで子どもの自慢も
同じように考えてよい。子どもが努力したことについては、遠慮なくほめる。自慢する。
そういう前向きな姿勢が、子どもを伸ばす。

……と言っても、はじめてアメリカへ行ったとき、向こうの親が自分の子どもを自慢す
るのを聞いて、私は少なからず驚いた。日本でも自分の子どもを自慢する親はいるには
いるが、アメリカ人のように多くはない。が、そのうち日本と英語国では、自慢の「質」
が違うことに気づいた。日本では、見栄やメンツのために子どもを自慢することが多い。
つまり何らかの下心をもって自慢する。しかし英語国では、そういうものをクリアした
段階で、子どもを自慢する。つまり親は、子どもという人間だけをみて、子どもを自慢
する。だから子どももそれをすなおに受け入れる。受け入れながら、子どもは、「父はぼ
くを信じていてくれるのだ」「父はぼくのことを喜んでいてくれるのだ」というように思
うようになる。

が、この日本ではそうはいかない。「うちの息子はA国立大学へ入いりましてね」と親が
言ったりすると、どこかイヤ味に聞こえる。あるいはそれを言うほうにしても、相手は
イヤ味に感ずるだろうということがわかっているから、あえて話題にしない。

 ……と言っても今、日本の社会は大きく変わりつつある。欧米化というより、グローバ
ル化が進んでいる。外国の人に自分の息子を、「マイ・スチューピッド・サン(私の愚息)
……」などと紹介しようものなら、相手は目を白黒させて驚くだろう。つまりこうした言
い方は日本以外の国では通用しない。(だからといって日本のやり方がまちがっているとい
うのではない。念のため。)しないならしないで、なぜ外国では通用しないかを考えてみる
ことも、大切なことではないのか。

もっと言えば、日本は日本で、長くつづいた島国根性の中で、ゆがめられた部分も多い
ということ。この「自慢」もその一つと考えてよい。本来、親はもっと自分の子どもの
成長を、人前でもすなおに喜んでもよいのではないか。しかしそれがこの日本では、ど
うもできない。できないところが、その「ゆがみ」ということになる。この問題の「根」
は、想像以上に深い。
 

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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(108)

今を懸命に生きる

 バーチャルな世界に生きる人ほど、過去や未来(結果)にこだわる。先日もある男性(六
〇歳)が私にこう言った。「そういうことをすれば、私の先祖が許さない」と。私は思わず、
「どこに先祖がいるのですか?」と聞きそうになった。このタイプの人は、何ごとにつけ、
家柄や出身にこだわる。それが生きがいになっていることもある。

一方、「死に際の様子で、その人の一生が決まる」と言った女性(四五歳)がいた。死に
際の様子がよければそれでよし。そうでなければ、その人の一生はまちがっていたこと
になるのだ、と。ある宗教団体に属する人だった。私はこの話を聞いて、「交通事故では
死ねないな」と思った。しかし交通事故にあうかあわないかは、偶然と確率の問題。仮
に交通事故で死んだからといって、その人の人生がまちがっていたことにはならない。

 ロビン・ウィリアムズの映画に「今を生きる」というのがあった。「今を懸命に生きろ」
と教える教師。進学指導中心の学校側。そのはざまで一人の高校生が自殺するという映画
である。この「今を生きる」という生き方が、バーチャルな生き方の正反対の位置にある。
「過去や未来などどこにもない。あるのは今という現実だけ。だったらこの現実の中で精
一杯、人間らしく生きよう。結果はあとからついてくる」と。

 概して日本人は仏教(チベット密教)の影響を大きく受けているから、結果を重視する。
「終わりよければ、すべてよし」と。そしてこういう生きざまは子どもの教育にも大きな
影響を与えている。いつも結果を重要視するから、幼稚園教育は小学校の入試のため。小
学校教育は中学校の入試のため。さらに中学や高校は大学入試のため。大学は就職のた
め、
と。また社会へ出てからも、いつも「今」を未来のために犠牲にするようになる。

こうした生き方は、休暇のすごし方にもあらわれる。日本人はたまの休みが与えられて
も、その休みの間は休みが終わったあとの仕事のことしか考えない。だからのんびりと
休むこともできない。子どもについても同じ。子どもが日曜日に家でゴロゴロしていよ
うものなら、親はこう言う。「宿題はやったの?」「来週のテストはだいじょうぶ?」と。

 が、何といっても日本人の最大の悲劇は、そのバーチャルな世界に住みながらも、それ
がバーチャルな世界だと気づかないところにある。それはまさしく映画「マトリックス」
の世界といってもよい。「今を生きる」という本分が、どこかへ飛んでいってしまい、わか
らなくなってしまう。

 ……と書いたが、ここから先は、それぞれの人の生きざまの問題。私のようなものがと
やかくいう問題ではない。あとは皆さんの判断による。ただ誤解しないでほしいのは、だ
からといって先祖を粗末にしてよいとか、そういうことを言っているのではない。「あくま
でも生きる本分を忘れてはならない」と、私は言っているのである。


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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(109)

生きる誇り

 私の留学の世話人になってくれたのが、正田英三郎氏だった。皇后陛下の父君。そして
その正田氏のもとで、実務を担当してくれたのが、坂本義行氏だった。坂本竜馬の直系の
ひ孫氏と聞いていた。私は東京商工会議所の中にあった、日豪経済委員会から奨学金を得
た。正田氏はその委員会の中で、人物交流委員会の委員長をしていた。その東京商工会議
所へ遊びに行くたびに、正田氏は近くのソバ屋へ私を連れて行ってくれた。

そんなある日、私は正田氏に、「どうして私を(留学生に)選んでくれたのですか」と聞
いたことがある。正田氏はそばを食べる手を休め、一瞬、背筋をのばしてこう言った。「浩
司の『浩』が同じだろ」と。そしてしばらく間をおいて、こう言った。「孫にも自由に会
えんのだよ」と。

 おかげで私はとんでもない世界に足を踏み入れてしまった。私が寝泊まりをすることに
なったメルボルン大学のカレッジは、各国の王族や皇族の子弟ばかり。私の隣人は西ジ
ャワの王子。その隣がモーリシャスの皇太子。さらにマレーシアの大蔵大臣の息子など
など。毎週金曜日や土曜日の晩餐会には、各国の大使や政治家がやってきて、夕食を共
にした。元首相たちはもちろんのこと、その前年には、あのマダム・ガンジーも来た。

ときどき各国からノーベル賞級の研究者がやってきて、数カ月単位で宿泊することもあ
った。しかし「慣れ」というのは、こわいものだ。そういう生活をしても、自分がそう
いう生活をしていることすら忘れてしまう。ほかの学生たちも、そして私も、自分たち
が特別の生活をしていると思ったことはない。意識したこともない。もちろんそれが最
高の教育だと思ったこともない。が、一度だけ、私は自分が最高の教育を受けていると
実感したことがある。

 カレッジの玄関は長い通路になっていて、その通路の両側にいくつかの花瓶が並べてあ
った。ある朝のこと、花瓶の一つを見ると、そのふちに五〇セント硬貨がのっていた。
だれかが落としたものを、別のだれかが拾ってそこへ置いたらしい。当時の五〇セント
は、今の貨幣価値で八百円くらいか。もって行こうと思えば、だれにでもできた。しか
しそのコインは、次の日も、また次の日も、そこにあった。四日後も、五日後もそこに
あった。私はそのコインがそこにあるのを見るたびに、誇らしさで胸がはりさけそうだ
った。そのときのことだ。私は「最高の教育を受けている」と実感した。

 帰国後、私は商社に入社したが、その年の夏までに退職。数カ月東京にいたあと、この
浜松市へやってきた。以後、社会的にも経済的にも、どん底の生活を強いられた。幼稚
園で働いているという自分の身分すら、高校や大学の同窓生には隠した。しかしそんな
ときでも、私を支え、救ってくれたのは、あの五〇セント硬貨だった。私は、情緒もそ
れほど安定していない。精神力も強くない。誘惑にも弱い。そんな私だったが、曲がり
なりにも、自分の道を踏みはずさないですんだのは、あの五〇セント硬貨のおかげだっ
た。私はあの五十セント硬貨を思い出すことで、いつでも、どこでも、気高く生きるこ
とができた。


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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(110)

恐怖症は心の発熱

 先日私は、交通事故で、危うく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こ
うして文を書いているのが、不思議なくらいだ。が、それはそれとして、そのあと、妙な
現象が現れた。夜、自転車に乗っていたのだが、すれ違う自動車が、すべて私に向かって
走ってくるように感じたのだ。私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自
転車からおりた。こわかった……。恐怖症である。

子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。たとえば以前、「学校の怪談」
というドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたくない」と言う園児が
続出した。これは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ること
がある。それが恐怖症だが、この恐怖症は子どもの場合、何に対して恐怖心をだくかに
よって、ふつう、次の三つに分けて考える。

 【対人(集団)恐怖症】子ども、特に幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある
程度の警戒心を持つことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子ど
もや、注意力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無とんちゃくで、は
じめて行ったような場所でも、我が物顔で騒いだりする。が、反対にその警戒心が、一
定の限度を超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失語症)、顔が赤くなる(赤面症)、
冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる(不登校)などの症状が現れる。

 【場面恐怖症】その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベーターに
乗れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。私も子どものころ、
暗いトイレがこわくて、用を足すことができなかった。そのせいかどうかは知らないが、
今でもトンネルなどに入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚える。

 【そのほかの恐怖症】動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、手の汚れやにおいを嫌う(疑
惑症)、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。ペットの死をきっかけ
に死を極端にこわがるようになった子ども(年長男児)もいた。

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、し
かっても意味がない。一般に「心」の問題は、一年単位、二年単位で考える。子どもの
立場で、子どもの視点で、子どもの心を考える。無理な誘動や強引な押し付けは、タブ
ー。無理をすればするほど、逆効果。ますます子どもは物事をこわがるようになる。い
わば心が熱を出したと思い、できるだけそのことを忘れさせるような環境を用意する。
症状だけをみると、神経症と区別がつきにくい。

私の場合も、その事故から数日間は、車の速度が五十キロ前後を超えると、目が回るよ
うな状態になってしまった。「気のせいだ」とは分かっていても、あとで見ると、手のひ
らがびっしょりと汗をかいていた。恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道
理ではどうにもならない。そういう前提で、子どもの恐怖症に対処する。


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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(111)

疑わしきは罰する

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼
稚園や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。
六歳になっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがま
んしてしまう。反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。原因は、
紙オムツ。最近の紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。子
どもというのは、排尿後の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削除されてしまった(M誌九
八年)。「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実はスポンサーに遠慮した
ためだ。根拠があるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う
人はいない。紙オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。疑わしいが、はっきりとは言え
ないというようなことである。その一つが住環境。高層住宅に住んでいる子どもは、情緒
が不安定になりやすい…? 実際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。
こんな調査結果がある。たとえば妊婦の流産率は、六階以上では二四%、十階以上では三
九%(一−五階は五−七%)。流・死産率でも六階以上では二一%(全体八%)(東海大学
医学部逢坂氏)。マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティーブルー(うつ病)に
なる妊婦は、一戸建ての居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。母親で
すら、これだけの影響を受ける。いわんや子どもをや。さらに深刻な話もある。

 今どき野外活動か何かで、真っ黒に日焼けするなどということは、自殺的行為と言って
もよい。私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、一校もない。無頓(とん)着
といえば無頓着。無頓着過ぎる。オゾン層のオゾンが一%減少すると、有害な紫外線が二%
増加し、皮膚がんの発生率は四−六%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。実際、
オーストラリアでは、一九九二年までの七年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、
毎年一〇%ずつふえている。日光性角皮症や白内障も急増している。

そこでオーストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外
線防止用の帽子とサングラスの着用を義務づけている。が、この日本では野放し。オー
ストラリアの友人は、こう言った。「何も対策をとっていない? 信じられない」と。ち
なみにこの北半球でも、オゾン層は、すでに一〇−四〇%(日本上空で一〇%)も減少
している(NHK「地球法廷」)。

 法律の世界では「疑わしきは罰せず」という。しかし教育の世界では「疑わしきは罰す
る」。子どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて、守れる。害が具体的に出るよ
うになってからでは、手遅れ。たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせな
い。紫外線防止用の帽子を着用させる、など。あなたが親としてすべきことは多い。


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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(112)

今を生きる

 定年退職が近づくと、それぞれが退職後の夢を話し始める。「田舎へ入って農業をする」
「妻と船で世界を回る」「自動車で日本を一周する」など。「四国八十八か所を歩いて回る」
と言った人もいた。しかし人生観などというのは、退職と同時にそんなに簡単に変えられ
るものではない。「組織」というバーチャル(仮想現実)な世界に生きてきた人が、退職と
同時に、「生きる本分」に戻れるとは、私は思わない。

このタイプの人は、自分がバーチャルな世界にいることすら気づいていない。退職と同
時に、その気力も消えうせ、仮に旅に出たとしても、帰ってきてからの仕事ばかり考え
るにちがいない。また退職後、しばらく仕事をしないでいると、体そのものが動かなく
なることだってある。いや、それまで健康がもつかどうかさえあやうい。

 地位、肩書き、名誉、さらに学歴、家柄がすべてバーチャルであるように、実のところ
未来もバーチャルとみる。そんなものはどこにもない。ないことは、飼っている犬を見れ
ばわかる。庭の土の上をうごめくアリを見ればわかる。そんなものはすべて、ここ一〇〇
〇年、あるいは二〇〇〇年のうちに人間が勝手に作り出したもの。数一〇万年もの人間の
一年、歴史からみれば、ほんの一瞬のうちにできたものにすぎない。

大切なことは「今」という現実の中で、精一杯、自分らしく、この「時」をしっかりと
つかみながら生きること。過去という存在しないものにこだわる必要はない。同じよう
に、未来という存在しないもののために、「今」を犠牲にしてはいけない。結果はあくま
でも、あとからついてくる。あるいはその結果として、地位、肩書き、名誉があるとす
るなら、それはそれでかまわない。大切なことは生きる本分を忘れないことだ。これを
忘れると、バーチャルな世界にハマってしまう。

 夢があるなら、「今」すればよい。決してあと回しにしてはいけない。田舎へ入って農業
をしたければ、今からする。近くに畑を借りて、野菜を育てるのもよいだろう。妻と船で
世界を回りたければ、手始めに、韓国や台湾あたりに行ってみればよい。自動車で日本一
周をしたければ、今度の日曜日には、あなたの町を一周してみればよい。今、やるべきこ
と。今、やれることは、いくらでもある。それが「今を生きる」ということになる。

 子どもにしてもしかり。大切なことは、子どもが子どもらしく、いかに「今」という時
の中で、自分を輝かせていきるか、だ。それともあなたは……、いや、こんな愚かな母親
だいた。息子(中三)が高校受験に失敗したとき、その母親は息子にこう言った。「幼稚園
のときから英語教室や算数教室に通ったけど、みんなムダだったわね」と。バーチャルな
世界に生きる人は、そういうようなものの考え方をする。


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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(113)

子どもの集中力

 集中力と子どもの知的能力は、表裏の関係にある。集中力のある子どもは、すぐれた知
的能力をみせる。このタイプの子どもは一度何かに集中し始めると、他人を寄せつけない
気迫に包まれる。一方、集中力のない子どももいる。何ごとにつけあきっぽく、しばらく
するとすぐ、「退屈〜ウ」とか、「つまらな〜イ」とか言い出す。

 そんなわけで、つまり知的能力を高める方法があまりないのと同じように、集中力をつ
ける方法というのも、それほどない。あるとすれば、集中力をなくさせるようなことをし
ないという消極的なものでしかない。たとえば無理、強制、条件、比較などを日常的にし
て、子どもからやる気をうばう。

慢性的な睡眠不足状態にするなど。言いかえると、子どもの集中力を最大限引き出すた
めには、できるだけこうした方法を避けるということになる。が、それでも集中力が続
かないとしたら……。答は簡単。あきらめる。それがその子どもの能力の限界と知った
うえで、あきらめる。

 よく誤解されるが、サッカーならサッカーで、すぐれた集中力をみせるからといって、
知的な面でも集中力があるということにはならない。(もちろん両面ですぐれた集中力を示
す子どももいるが……。)脳の中でも運動面をつかさどるのが、大脳半球の中の運動野(中
心前回)という部分。知的能力をつかさどるのが、連合野という部分。連合野は人がサル
から進化する過程でとくに発達した部分であり、運動をつかさそる運動野とはまったく別
物と考えるのが正しい。

 ただ教育的には方法がないわけではない。子どもの方向性を見きわめたうえで、うまく
好奇心を引き出しながらそれに集中させるなど。算数はきらいでも、虫が好きで、虫のこ
ととなると夢中で調べる子どもは、いくらでもいる。あるいは英語には、「楽しく学ぶ子ど
もはよく学ぶ」というのもあるが、子どもを好きにさせるという方法もある。まずいのは、
満腹状態の子どもに、さらに食事を与えるような行為。集中力がなくなって当然である。

 この集中力がなくなると、子どもは、フリ勉(まじめに勉強しているフリだけをする)、
ダラ勉(ダラダラと身をもてあます)、時間ツブシ(つめをほじったり、やらなくてもよい
ような簡単な問題ばかりをする)がうまくなる。こうした症状が出てきたら、できるだけ
早い時期に、家庭教育のあり方を猛省したほうがよい。小学低学年で一度そういう症状を
身につけると、なおすのは容易ではない。
 

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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(114)

受験競争の魔力

 受験競争に巻き込まれれば巻き込まれるほど、子どもはもちろんのこと、親もその住む
世界を小さくする。この世界では、勝った負けたは当たり前。取るか取られるか、蹴落と
すか蹴落とされるか……。教育とは名ばかり。その底流では、ドス黒い人間の欲望がはげ
しくウズを巻いている。ある母親は受験どころか、子ども(中学生)がテスト週間を迎え
るたびに病院通いをしていた。

いわく「テスト中は、お粥しかのどを通りません」と。子どもの受験競争が高じて、親
どうしがいがみあう例となると、まさに日常茶飯事。幼稚園という世界でも、珍しくな
い。現に今、言ったの言わないのがこじれて、裁判ザタになっているケースすらある(小
学校)。さらに息子(中三)が高校受験に失敗したあと、自殺をはかった母親だっている!

 こうした狂騒は部外者が見ると、バカげているとわかるが、当の本人たちはそうでない。
それはまさしく命がけ、血みどろの戦い。もっともこうした戦いが親の世界だけでとどま
っているならまだしも、子どもの世界まで巻き込んでしまう。さらに学校という教育の世
界まで巻き込んでしまう。この受験競争だけが原因とは言えないが、そのため心を病む教
師はあとを断たない。

東京都の調べによると、東京都に在籍する約六万人の教職員のうち、新規に病気休職し
た人は、九三年度から四年間は毎年二一〇人から二二〇人程度で推移していたが、九七
年度は、二六一人。さらに九八年度は三五五人にふえていることがわかった(東京都教
育委員会調べ・九九年)。この病気休職者のうち、精神系疾患者は。九三年度から増加傾
向にあることがわかり、九六年度に一時減ったものの、九七年度は急増し、一三五人に
なったという。この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、九七年度は
休職者が四一七一人で、精神系疾患者は、一六一九人。)さらにその精神系疾患者の内訳
を調べてみると、うつ病、うつ状態が約半数をしめていたという。

 何だかんだといっても、受験が教育の柱になっている。もしこの日本から、受験という
柱を抜いたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育ですら崩壊する。問題はなぜ受験が教
育の柱になっているかだが、それについては別のところで考えるとして、結論から先に言
えば、受験が子どもや親を大きくする要素などどこにもない。仮にそれに打ち勝ったとし
ても、「何とかうまくやった」というあと味の悪さが残るだけ。

受験競争は決して教育ではない。そういう前提で、一歩退いてつきあう。そういう冷静
さがあなたの心を守り、あなたの子どもの心を守る。


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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(115)

一〇%のニヒリズム

 テレビドラマに「三年B組金八先生」※というのがある。まさに熱血漢教師のドラマだ
が、実際にはああいう教師はいない。それはちょうどアクションドラマの中で、暴力団と
刑事がピストルでバンバンと撃ちあうようなものだ。

ドラマとしてはおもしろいが、現実にはありえない。仮に金八先生のような教師がいた
とすると、その教師はあっという間に、身も心もボロボロにされる。第一、この世界に
は内政不干渉の原則というのがある。いくら問題が家庭におよんでも、教師は家庭問題
までクビをつっこんではいけない。またその権利もなければ義務もない。つっこんだら
つこんだで、たいへんなことになる。私にもいろいろな経験がある。

 私はある時期、毎日のように母親教室を開いていた。が、それがよくなかった。ある朝
まだ床の中で眠っていると、一人の男がいきなり飛び込んできて、こう叫んだ。「うちの女
房が妊娠した。どうしてくれる!」と。寝耳に水とはまさにこのこと。私が驚いていると、
その様子から察したのか、その男はこう言った。「すまんすまん。カマだ」と。話を聞くと、
その男の妻がその前夜から家出をしたという。そこでその男は、妻がよく口にしていた私
のところへ逃げてきたと思ったらしい。その妻というのは、私の母親教室の熱心な受講生
だった。以来私は、毎日の母親教室を、週一回に減らした。同時に、子どもの子育ての問
題以外、「私は関係ない」という姿勢を貫くようにした。

 こうしたトラブルは、本当に多い。毎年少しずつ賢くなったつもりだが、つい油断をす
ると、同じような失敗を繰り返す。そこで一〇%のニヒリズム。昔、どこかの教師が懇談
会の席でそう教えてくれた。「どんなに教育に没頭しても、一〇〇%、全力投球してはいけ
ない。最後の一〇%は自分のためにとっておく。裏切られてもキズつかないようにするた
めだ」と。実際、この世界、報われることよりも、裏切られることのほうが多い。一〇%
のニヒリズムは、そのための処世術である。


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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(116)

小食で困ったら、冷蔵庫をカラに

 体重一五キロの子どもが、缶ジュースを一本飲むということは、体重六〇キロのおとな
が、四本飲む量に等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを四本は飲めない。飲めば飲ん
だで、腹の中がガボガボになってしまう。アイスやソフトクリームもそうだ。子どもの顔
よりも大きなソフトクリームを一個子どもに食べさせておきながら、「うちの子は小食で困
っています」は、ない。

 突発的にキーキー声をはりあげて、興奮状態になる子どもは少なくない。このタイプの
子どもでまず疑ってみるべきは、低血糖。一度に甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)
を大量に与えると、その血糖値をさげようとインスリンが大量に分泌される。が、血糖値
がさがっても、さらに血中に残ったインスリンが、必要以上に血糖値をさげてしまう。

つまりこれが甘い食品を大量にとることによる低血糖のメカニズムだが、一度こういう
状態になると、脳の抑制命令が変調をきたす。そしてここに書いたように、突発的に興
奮状態になって大声をあげたり、暴れたりする。このタイプの子どもは、興奮してくる
となめらかな動きがなくなり、カミソリでものを切るように、スパスパした動きになる
ことが知られている。

アメリカで「過剰行動児」として、二〇年ほど前に話題になったことがある。日本でも
この分野の研究者は多い(岩手大学名誉教授の大澤氏ほか)。そこでもしあなたの子ども
にそういう症状が見られたら、一度砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくて、ダメも
と。一周間も続けると、子どもによってはウソのように静かに落ち着く。

 話がそれたが、子どもの小食で悩んでいる親は多い。「食が細い」「好き嫌いがはげしい」
「食事がのろい」など。幼稚園児についていうなら、全体の約五〇%が、この問題で悩ん
でいる。で、もしそうなら、一度冷蔵庫をカラにしてみる。お菓子やスナック菓子類は、
思いきって捨てる。「もったいない」という思いが、つぎからのムダ買いを止める力になる。
そして子どもが食事の間に口にできるものを一掃する。子どもの小食で悩んでいる親とい
うのは、たいてい無意識のうちにも、間食を黙認しているケースが多い。もしそうなら、
間食はいっさい、やめる。

(小食児へのアドバイス)

(1)ここに書いたように、冷蔵庫をカラにし、菓子類はすべて避ける。
(2)甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を断つ。
(3)カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。
(4)日中、汗をかかせるようにする。

 ただ小食といっても、家庭によって基準がちがうので、その基準も考えること。ふつう
の家庭よりも多い食物を与えながら、「少ない」と悩んでいるケースもある。子どもが健康
なら、小食(?)でも問題はないとみる。


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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(117)

常識は静かに引き出す

 ものごとを静かに考え、正しい判断をくだし、その判断に従って行動する力のことを、「バ
ランス感覚」という。このバランス感覚がないと、子どもはかたよった考え方や、極端な
ものの考え方をするようになる。たとえば「この地球上の人間は、核兵器か何かで、半分
くらいは死ねばいい」と言った男子高校生がいた。あるいは「私は結婚して、早く未亡人
になり、黒い喪服を着てみたい」と言った女子高校生がいた。そういうようなものの考え
方をするようになる。

 このバランス感覚を別の言葉で言いかえると、「豊かな常識」ということになる。この常
識というのは、だれにも平等に備わっているかのようにみえるが、そうではない。常識の
ない人はいくらでもいる。しかも幼児期にすでにそれが決まる。そこで「教育!」という
ことになるが、実際には子どもに教えるのはたいへんむずかしい。

いや、教えて教えられるものではない。親としてせいぜいできることがあるとすれば、
常識を奪わないということ。威圧的な過干渉、権威主義的な押しつけ、神経質な過関心
が日常化すると、子どもはいわゆる常識ハズレの子どもになる。昔、一生懸命粘土をコ
ンセントに詰めて遊んでいた子ども(年長男児)がいた。先生のコップに殺虫剤を入れ
た子ども(中学男子)がいた。バケツに絵の具を溶かして、それを二階のベランダから
下を歩く子どもにかけていた子ども(年長男児)などがいた。ふつう子どものいたずら
というと、どこかほのぼのとした子どもらしさを感ずるが、それがない。常識というブ
レーキがかからないためと考える。

 一般に子どもがドラ息子化すると、子どもからこのバランス感覚が消える。子どもとい
うのはきびしさとやさしさが、ほどよく調和した環境の中で、心をはぐくむ。が、たとえ
ば父親が極端にきびしく、母親が極端に甘いとか、あるいはガミガミときびしい反面、結
局は子どもの言いなりになってしまうような甘い環境が続くと、子どもはドラ息子化する。
症状としては、自分勝手でわがまま、約束や目標が守れない、依存心が強い割に無責任に
なるなど。

 常識力を養うためには、子どもには自分で考える時間を、たっぷりとあげる。「あなたは
どう思うの?」「あなたはどうしたいの?」と聞きながら、子どもが何かを答えるまでじっ
と待つ。そういう姿勢が子どもを常識豊かな子どもにする。


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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(118)

個性とは

 「私は私」という生きざまを貫くことを、個性という。しかしこの日本にはそれを支え
るだけの土壌がまだない。社会のしくみそのものもそうだ。昨年(二〇〇一年)、東京に「フ
リーター撲滅運動」なるものを始めた高校の校長がいた。「撲滅」というのは、「たたきの
めして滅ぼす」という意味だ。高校の校長という、きわめて恵まれた環境、つまり酸素も
エサも自動的に与えられる水槽のような世界に住んでいる人が、そういうことを言うから
おかしい。私はそのフリーターを、もう三〇年近くもしてきた。たしかに社会的に不利だ
が、不利なのは、社会の制度がそれだけ不公平だからにほかならない。

 教育もまた、個性を伸ばすしくみになっていない。たとえば全国の小学校で英語教育が
実験的になされているが、いまだに「すべきかどうか」で議論している。その議論はちょ
うど平成元年のころ議論が始まったから、もう一三年になるのでは……? 

しかし北海道のハシから沖縄県のハシまで同じ教育というのはおかしい。英語について
いえば、英語教育が必要だと思う親もいれば、そうでないと思う親がいる。英語を学び
たいと思っている子どももいれば、そうでないと思っている子どももいる。英語教育を
したいと思っている教師もいれば、そうでない教師もいる。だったら、そういうのは、
個人の選択に任せればよい。その分学校を早く終わって、ドイツのように子どもたちは
クラブへ行けばよい。

こうした実用的な教育は民間に任せたほうが、はるかに効率よくいく。またこういうの
を教育の自由化、あるいは規制緩和というのではないのか。学校の先生にしても、教育
はもちろんのこと、しつけから心のケア、さらには家庭問題まで、こうまで押しつけら
れたらたまらない。……と思っていると思う。ある小学校の教師はこう言った。「忙しす
ぎて、授業中だけが休みの場所です」と。

 「子どもの個性を伸ばせ」と簡単に言うが、ではあなた自身が、そういう個性を認めて
いるかどうかというと疑わしい。あるいは個性というのがどういうものか、本当にわかっ
ているだろうか。さらにあなたは「私は私」という生き方をしているだろうか。私たちは
尾崎豊の言葉を借りるなら、「しくまれた自由」(「卒業」)の中で、あがきもがいているだ
けではないのか。

 個性とは生きざまの問題。「私は私」という生きざまをどう確立するかで、その人の個性
が決まる。くだらないことだが、子どもの髪の毛を茶パツに染めたりすることは、個性と
はいわない。また個性というのは、そのレベルの問題ではない。またどこか常識ハズレの
ことをするのを個性と思っている人は多い。しかし個性というのは、繰り返すが、どこま
でも生きざまの問題であって、行動の問題ではない。またそのレベルの問題ではない。


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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(119)

赤ちゃんがえりを甘く見ない

 幼児の世界には、「赤ちゃんがえり」というよく知られた現象がある。これは下の子ども
(弟、妹)が生まれたことにより、上の子ども(兄、姉)が、赤ちゃんにもどる症状を示
すことをいう。本能的な嫉妬心から、もう一度赤ちゃんを演出することにより、親の愛を
取り戻そうとするために起きる現象と考えるとわかりやすい。本能的であるため、叱った
り説教しても意味はない。子どもの理性ではどうにもならない問題であるという前提で対
処する。

 症状は、おもらししたり、ぐずったり、ネチネチとわけのわからないことを言うタイプ
と、下の子どもに暴力を振るったりするタイプに分けて考える。前者をマイナス型、後者
をプラス型と私は呼んでいるが、このほか情緒がきわめて不安定になり、神経症や恐怖症、
さらには原因不明の体の不調を訴えたりすることもある。このタイプの子どもの症状はま
さに千差万別で定型がない。月に数度、数日単位で発熱、腹痛、下痢症状を訴えた子ども
(年中女児)がいた。あるいは神経が異常に過敏になり、恐怖症、潔癖症、不潔嫌悪症な
どの症状を一度に発症した子ども(年中男児)もいた。

 こうした赤ちゃんがえりを子どもが示したら、症状の軽重に応じて、対処する。症状が
ひどいばあいには、もう一度上の子どもに全面的な愛情をもどした上、一からやりなおす。
やりなおすというのは、一度そういう状態にもどしてから、一年単位で少しずつ愛情の割
合を下の子どもに移していく。コツは、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、根
気よく子どもの症状に対処すること。年齢的には満四〜五歳にもっとも不安定になり、小
学校入学を迎えるころには急速に症状が落ち着いてくる。(それ以後も母親のおっぱいを求
めるなどの、残像が残ることはあるが……。)

 多くの親は子どもが赤ちゃんがえりを起こすと、子どもを叱ったり、あるいは「平等だ」
というが、上の子どもにしてみれば、「平等」ということ自体、納得できないのだ。また嫉
妬は原始的な感情の一つであるため、扱い方をまちがえると、子どもの精神そのものにま
で大きな影響を与えるので注意する。先に書いたプラス型の子どものばあい、下の子ども
を「殺す」ところまでする。嫉妬がからむと、子どもでもそこまでする。
 要するに赤ちゃんがえりは甘くみてはいけない。


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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(120)

子どもを叱れない親

叱れない……ということ自体、すでに断絶状態にあるとみる。原因は(1)リズムの乱
れ(親側がいつもワンテンポ早い)、(2)価値観の衝突(親側が旧態依然の価値観に固
執している)、それに(3)相互不信(「うちの子はダメだ」という思いが強い)。この状
態で子どもを叱れば、あとはドロ沼の悪循環!

親には三つの役目がある。(1)ガイドとして子どもの前を歩く。(2)保護者(プロテ
クター)として子どものうしろを歩く。(3)友(フレンド)として子どもの横を歩く。
日本人はこのうち三番目が苦手、……というより、「私は親だ」という親意識だけがやた
らと強く、子どもを友として見ることができない。

もしあなたが子どもをこわくて叱れないというのであれば、まず子どものリズムで歩き、
親の価値観を一方的に押しつけるのをやめる。そしてここが重要だが、子どもを対等の
友として受け入れる。英語国では、親子でも「お前はパパに何をしてほしい?」「パパは、
私に何をしてほしい」と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。また
一度断絶状態になったら、「修復しよう」などとは考えないで、今の状態をより悪くしな
いことだけを考えて対処する。

 「叱る」というのは、本当のところは、たいへんむずかしい。子どもを叱るというのは、
叱る側にそれだけの「人格」がなければならない。たとえば教える立場でいうと、よく宿
題を忘れてくる子どもがいる。宿題ならまだしも、テキストや鉛筆すら忘れてくる子ども
がいる。しかし私は、どうしてもそういう子どもを叱ることができない。理由は簡単だ。
私自身もよく忘れ物をするからだ。自分でもできないのに、どうして子どもを叱ることが
できるのか。それともあなたは、あなたの子どもに向かって、「正しいことをしなさい」「ま
ちがったことをしてはだめだ」と子どもを叱ることができるとでもいうのか。もしそうな
ら、きっとあなたはすばらしい人だ。

 私は幼児を教えるようになって、もう三〇年になるが、どういうわけだか「叱る」とい
うことに対して、おおきな抵抗を感ずる。ときどきは叱ることもあるが、そのたびに心の
どこかで、「何を偉そうなことを」と自分で思ってしまう。そして叱ることをやめてしまう。
……そういう意味でも、子どもを叱るというのは、とてもむずかしい。この問題について
は、また別のところで考えてみる。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 7月 20日祭日
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)

 2007年度より、小6児と中3生を対象に、全国学力・学習状況調査がなされるよう
になった。
 結果、日本のばあい、基礎力はまあまあだったが、応用力に問題があることがわかった
(同書)。

 で、同時に、世界的な学力調査テスト(OECD・生徒の学習到達度調査・2006)
で、にわかにクローズアップされたのが、フィンランド政府による、「フィンランド方式」。

 フィンランド・メソドのポイントは、つぎの5つからなっている。

(1)発想力
(2)表現力
(3)コミュニケーション力
(4)批判的思考力
(5)論理力(以上、参考、同書)

 これを読んで私はうれしくなってしまった。
(3)のコミュニケーション力をのぞいて、私が日々に実践していることばかりだったか
らである。

 たとえば(2)の表現力は、「言葉クラブ」で、もう30年以上も前から実践している。
『「森」「花」「子ども」の3つの言葉を使って、簡単な話を作りなさい』(幼児向け)など。

 子どもは、たとえば「子どもが、森で、花を見つけました」などという答を考える。
さらに一歩進んで、
『「山」「川」「魚」の3つの漢字を使って、話を作りなさい』(小1向け)というのもある。

 さらに進んで、こんな問題を出すこともある(幼児向け)。

【問】A
 あなたはUFOにさらわれてしまいました。
高い塔の狭い部屋に閉じ込められていまいました。
窓の外から手紙を落として、助けてもらいます。
あなたはどんな手紙を書きますか

(文字のじょうず・へたは問題にしない。
読めればよしとする。
脱字、誤字も、問題としない。
わからない文字は、そのつど、黒板に書いて教える。)

 これひとつ取り上げても、日本の国語教育には、まだまだ改善の余地がある。
現在の国語教育の基本は、(読んで)(理解して)(子どもを教える側好みの思考をする)に
ある。
ワークブックを見れば、それがわかる。
しかしそれでは(応用力)は育たない。

 念のため、私の教室(幼児向け)でしている問題のいくつかを、ここに紹介する。
家庭での指導に、応用してほしい。

【問】B
あなたはおばさんの家に、お菓子を届けることにしました。
が、行ってみると、おばさんは、あいにくと留守でした。
そこであなたは、そのお菓子を、窓の下に置き、手紙を
書いておいておくことにしました。
その手紙には何と書けばよいでしょうか。
(具体的に、絵で、どういう状況かを、示してやるとよい。)

【問】C
歩いていると、草むらの中に大きな穴があいていました。
あなたはあやうく、その穴の中に落ちてしまうところでした。
そこであなたはつぎに歩いてくる人が、穴に落ちないように、
立て札を立てることにしました。
その立て札には、何と書けばよいでしょうか。

 こうした問題を、みなと考えながら、レッスンを進める。
最初は、的外れな文章を書いていた子どもでも、数回練習すると、それなりの文章を考え
るようになる。

 大切なのは、(中身)。
日本人は、トメ・ハネ・ハライ、さらには書き順などにこだわりすぎる。
そのため、こうした(表現力)の指導がおろそかになりやすい。
文章というのは、こちらの気持ちを相手に伝えるためにある。
その本筋を忘れて、国語教育はない。
たとえばこうした手紙を、下から上に、逆に書く子どもがいる。
誤字、脱字のまま書く子どももいる。
「ゆふぉ、たすけて、つわれていかれてしむ……」と書いても、よしとする。
そのおおらかさが、子どもの豊かな表現力を育てる。

 (私の教室は、『公開教室』で公開している。興味のある人は、そちらを見てほしい。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 子どもの表現力 作文力 子供の表現力
具体的指導法)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【金権教】(2)

●「食べれば損(そこ)ねるか」「食べなければ損(そん)か」

 ワイフとこんな会話をした。
「食べれば損(そこ)ねるか」「食べなければ損(そん)か」と。
「損」という漢字は、「損(そこ)ねる」とも読める。
「損(そん)」とも読める。

 損ねるというのは、「体のどこかを傷(いた)める」という意味。
損するというのは、金銭的なロスをいう。
それをワイフに話すと、ワイフもすなおに賛成してくれた。
「(金銭的な意味で)、食べなきゃ、損と思っていると、
あっという間に太ってしまうわね」と。

私「じゃあ、金権(マネー)教の人は太りやすいということかな?」
ワ「そうねエ、食べ物を見て、すぐ金銭的な判断をする人は、食べなきゃ、
損を考えるかもね」
私「しかし自分の中から、金権教を抜くのは、たいへんなことだよ。
それまでの価値観を180度、変えなければならない人もいるから」と。

●金権教(マネー教)

 日本というより、世界中が、金権教(マネー教)の毒されている。
だから自分がその信者でいながら、その信者であることにさえ気がつかない。
そのことは隣の中国の人たちと比べてみてもわかる。
10年ほど前のことだが、実際に、こんなことがあった。

 子どもが川にはまって溺れた。
それを見て母親が周囲の人たちに助けを求めた。
で、中に1人、男が名乗り出てきて、こう言ったという。
「〜〜元、出してくれたら、助けてやる」と。

 こういう話を聞くと、日本人なら、「それはおかしい」と言う。
たしかにおかしい。
しかし当時の中国では、そうでなかったらしい?
あるいは中国でも特異な話だったかもしれない?
ともかくも金権教に毒されると、そういう発想で、世の中を見るようになる。

●ハイパーインフレ

 貧富の差が、さらに広がりつつあるという。
「ワーキングプア」という言葉にしても、新鮮味を失った。
今では、私もあなたも、みんなワーキングプア。

 一方、政府はジャブジャブどころか、どしゃ降り的に、マネーを
ばらまいている。
AS首相は世界へ行くたびに、その先々で、1兆円単位のマネーを
ばらまいている。
もちろん、この日本でも!

 そういったお金は、機関投資家や金融機関へと流れている。
が、庶民に届くのは、もっと先。
が、そのころそこで待っているのは、ハイパーインフレ。
やっとお金が回ってきたと思ったら、物価も消費税も2倍!、と。
AS首相のこうした金融政策に疑問を投げかける専門家も多い。
当然のことながら、09年6月に入って、AS首相の支持率が急落し始めている。

●金万能主義

 昔はその人の「家」を見て、その人を判断した。
「あの人は立派な家を建てた」「だから出世した」とか、など。
江戸時代の家制度の亡霊と考えてよい。

 それがある時代は、「自動車」になった。

大型の乗用車に乗っている人ほど、尊敬の念を集めた(?)。
(数年前の韓国もそうだったという話を聞いたことがある。
みな、こぞって大型車に乗りたがったとか。)
が、今は、金権(マネー)。

 「金権」というときの「権」は、「権力」の「権」ではない。
マネーがもつ「力」をいう。
マネーをもっている人は、その力にものを言わせて、好き勝手なことができる。
「金万能主義」ともいう。
「お金があれば、何でもできる」と、このタイプの人は、そう信じている。
さらに積極的に、「お金しか信じられない」とか、「信じられるのはお金だけ」とか、
そんなふうに考える。

●ではどうすれば、よいか

 自分の体にしみついた金権教を、どうすれば知ることができるか。
自分の心を映すカガミのようなものがあればわかりやすいが、そういうカガミはない。
そこで私なりにテストを考えてみた。

(1)美術館などで、絵画の価値を、売買金額で決めることが多い。
(2)金持ちの人を、成功者と称える傾向が強い。
(3)(反対に貧しい自分を、恥じる傾向が強い。)
(4)世間的な見得を張ることが多く、金持ちぶることが多い。
(5)明けても暮れても、考えることはマネーのことばかり。
(6)金銭の損得計算にこまかく、うるさい。
(7)自分が貧乏人に見られることを、とくに嫌う。
(8)「人生で、お金がいちばん頼りになる」と信じている。
(9)金儲けのためなら、家族は犠牲になって当然と考える。

 (1)〜(9)までのうち、いくつかが当てはまれば、金権教の信者
ということになる。
相互に関連しあっているので、「何点以上が金権教」というようには、
判断できない。
たとえば見栄っ張りな人は、同時に自分貧乏人に見られることを嫌う。
明けても暮れても金儲けのことしか考えていない人は、当然のことながら、
金儲けためには、家族は犠牲になって当然と考える。

●歴史

 金権教がこれほどまでに優勢になったのは、戦後のことではないか。
とくに1965年前後から始まった、高度成長期以後のことである。
だれもが「マネー」「マネー」と言い出すようになった。

 よく「日本人には宗教観がない」と言われる。
それはその通りで、仏教そのものが形骸化し、中身を失ってしまった。
かわって金権教が台頭してきた。
中には「この仏法を信ずれば、庭の枯れ木に札の花が咲く」と教えて、
戦後急速に勢力を伸ばした新興宗教団体もある。

 で、今は、その高度成長期も一段落し、円熟期というか、後退期に
入っている。
金権教の信者だった人も、「今までどおりでよいのか」と疑問をもち
始めている。
出世主義が崩壊し、家族主義が主流になったのも、そのひとつ。
「仕事より家族が大切」などという考え方は、40年前には想像もつかなかった。

●ではどうするか

 先のテストで、「私は金権教の信者」と気づいたら、同時に、別の価値観
の創造をしなければならない。
それしないまま、金権教を自分からはずすと、それこそ糸の切れた凧の
ようになってしまう。

 では、その価値観とは何か?
どうすれば自分の中に、作ることができるか?
が、こればかりは、人それぞれ。
みなちがう。
自然主義、人間中心主義、平和主義、人道主義などなど。
真・善・美の追求もすばらしい。

 そうしたものに向けて、自分を燃焼させていく。
またそういう方法で、自分の価値観を創造していく。
で、私のばあいは、どうか。

 何を隠そう、私も団塊の世代の常として、金権教の信者だった。
人一倍、そうだった。……ように思う。
しかしそういう時代というのは、今から思い出しても、残るのは、後味の悪さだけ。
そういう自分を思い出しながら、人生を無駄にしたように感ずることもある。
お金の使い方にしても、もう少し賢い使い方をすれば、より中身の濃い人生
にすることができたと思う。
人間関係にしても、そうだ。

親類にすら、お金をだまし取られた。
が、それとて、私が蒔いた種。
いいかっこうをしすぎた(?)。
私自身に責任がなかったとは、言えない。

●私のばあい

 いまだに模索状態。
何かがそこにあるはずなのに、それがつかめない。
悶々としている。
もちろん金権教も残っている。
マネーは嫌いではない。
あればあるほど、楽しい。
ないと不安というより、収入として入ってくるマネーの流れが
止まるのが心配。
いまだに何かに追い立てられているような感じがする。
そういう感じを断ち切ることができない。
……難しい。

 ただ若いころとちがうのは、マネーの限界を強く感ずるようになったこと。
「マネーでは、幸福は買えない。
命も健康も買えない。
マネーでは、生きがいを買えない」と。

 その限界を、加齢とともに、強く感ずるようになった。
この傾向は、この先、ますます増大するだろう。
その結果……。

 それには私より年配の人たちの生き様が参考になるはずなのだが、
ざっと見回したところ、そういう人が、1人しかいない。
恩師のTK先生である。
肩書きを並べただけでも、数枚の紙に収まらないだろう。
しかしTK先生のばあい、一度とて、自分のほうからそれを求めた
ことはない。
人徳というか、結果として、そうなった。

 で、そのTK先生自身は、木造の古い家に住んでいる。
大正時代に建てられた家という。
研究者らしく、モノとしての財産には、ほとんど興味がない。
先日も会ったとき、こんな話をしてくれた。
「窒素の固定化を、そこらの植物がしています。
その分子を調べたら、20数万個もの元素でできているのです※。
どうしてああいうものが、自然界で、何の苦もなくできていくのか、
不思議でなりません」と。

 興味の対象、そのものがちがう。
私はその話を聞いたとき、TK先生を、心底、うらやましく思った。
TK先生は、いつも頭の中で、そんなことを考えている。

●終わりに……

 が、無数の人の金権教のおかげで、今の日本がある。
これからの日本を支えていくためには、(少なくとも、この自由主義
貿易陣営の中で生きていこうとするなら)、金権教は必要である。
完全に否定することはできない。

 が、それに毒されすぎてもいけない。
毒されたとたん、自分を見失う。
が、それこそ人生の無駄。
損。
本物の損ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++June・09++++++++++++はやし浩司

●時間教

+++++++++++++++++

『ピーターパン』の話に出てくる、フック船長は
あのワニが大の苦手。
ワニがチックタックと音を出して近づいてくるだけで、
フック船長は、震えあがる。

ワニは、いつか、目覚まし時計を飲み込んだ。
それでチックタックという音を出すようになった。
原作者のジェームズ・マシュー・バリーにそういう
意図があったかどうかは、わからない。
しかしフック船長は、そのまま、時間に追われて生きる現代人を、
象徴している(?)。

現代人はいつも、チクタクと時間に追われて生活している。

+++++++++++++++++++

●時間こそ財産

 「時間こそ財産」ということには、いくつかの意味が含まれる。
また「時間」は、使い方の問題。
 よく「Time is Money(時は金なり)」と、時間をマネーにたとえて
考える人がいる。
ここでいう「時間こそ財産」というのは、もっとちがった意味で、
私はそういう。

 「時間」という言い方に問題があるなら、「命」と置き換えてもよい。
生きている命そのものが、財産。
命の長さを数値で表したものが、「時間」と考えればよい。

 また「使い方の問題」というのは、要するに、何のために使うか
ということ。
金儲けのためだけに使えば、それこそフック船長ということになる。
毎日時間に追われて、あくせくする。
一方、真・善・美の追求のために使うなら、時間はつねに財産ということに
なる。

●時間との勝負

 私のばあい、「時間との勝負」「健康との勝負」の2つが加わる。
「健康」には、「肉体の健康」と「脳みその健康」がある。
一般的には、健康寿命(健康でいられる寿命)は、平均寿命から
10年を引いた分と言われている。
平均寿命が84歳なら、健康寿命は、74歳ということになる。
だれしも晩年の10年は、病気との闘いということになる。
しかしそうなったのでは、当然、脳みその働きも鈍くなる。
ものも考えられなくなる。

 肉体の健康ということになれば、そのときはそのとき。
そのとき恐れないように、今を、じゅんぶん生きていく。
何がこわいかといって、「後悔の念」ほど、怖いものはない。
その「念」だけは、それまでに、しっかりと払拭しておきたい。
そのために、「今」がある。
今、がんばる。

●時間教の勧め

 もしあなたが今、健康で、元気なら、今こそ、時間を大切にしたらよい。
目が見える、音が聞こえる、歩くことができる、話をすることができる。
食事がおいしい、初夏のそよ風が心地よい、ものを考えることができる。
 それこそが、時間教の恵みということになる。
その時間を生かして、今、やるべきことをさがし、(「したいこと」では
ない。「やるべきこと」)、そのやるべきことに自分を統合させていく。

 かなり説教ぽい書き方になってしまった。
が、これは私自身の目標でもある。
またそれができないから、(正直なところ)、悶々としている。
だいたいにおいて、(やるべきこと)が、いまだに定まっていない。
その(やるべきこ)は、エリクソンも言っているように、無私無欲でなけ
ればならない。
損得勘定、欲得が混入したとたん、統合性は霧散する。
あくまでも人のため、社会のため、人類、地球のため……。
そういう意識は高邁(こうまい)であればあるほど、よい。
つまり俗世間を相手にしないところに、統合性の確立の意味がある。
またそれなくして、統合性の確立は、ありえない。

 これは時間教の根幹をなす考え方である。

 さあ、今日一日、どうやって時間を過ごすか。
がんばってみよう。
6月15日、朝、記す。


Hiroshi Hayashi+++++++June 09++++++++++++はやし浩司

●郡上八幡

+++++++++++++

今日、岐阜県の郡上八幡へ行ってきた。
ワイフと2人で、人力車に乗った。
郡上城にも、登った。
初夏というより、すでに夏。
しばらく歩くだけで、ジワジワと体中が
汗ばんでくるのがわかった。

昼ごろ、私はざるソバ、ワイフは何とかという
名前のついた、その店の特製ソバを食べた。
このところ小食になったのが、自分でもよくわかる。
胃袋そのものが、小さくなった感じ。
で、今朝、体重を量ったら、62・5キロ。

BMI体重判定法によれば、値は、「20!」。
理想的な体型だそうだ。

もし健康な男性が、どういう体型をしているかを
知りたかったら、私を見ればよい。
いつまでつづくかはわからないが、今日は、
そうだった!

あとはこの体重を維持する。
がんばろう!
がんばります!

+++++++++++++++++

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

+++++++++++++++++++++

●郡上八幡

++++++++++++++++

明日、バススアーを利用して、岐阜県の
郡上八幡まで行くことになっている。
「ぐじょう・はちまん」と読む。
民謡の「♪かわさき」で有名な、あの郡上八幡である。
(一般には、「♪郡上踊り」として、よく知られている。)

それにしても、いやなところを選んだものだ。
いや、郡上八幡がいやだというのではない。
途中、私の郷里を通過するのが、いや。
「たまの休みだから、どこかへ行こう」ということで、
そうなってしまった。

バスは私の郷里のM町を通る。
それを考えただけで、ゆううつ。
気が重くなる。
私はあのM町が大嫌い。
「故郷」という思いは、まったくない。
「懐かしい」とい思いも、まったくない。
それが、いや。

が、どういうわけか、今、私はその郷里をめざして
電車に乗っている。
この話は、ワイフにも言ってない。
今、私が電車に乗っていることも知らない。
言っても理解できないだろうし、言えば、また「あなた、おかしいわよ」
と言われてしまう。
が、私には、どうしても決着をつけておかねばならないことがある。

+++++++++++++++++

●決着

 これから先のことは、あまりにもプライベートなことなので、
文章として、書き残すことはできない。
ありのままを書いたら、それによって迷惑をこうむる人も出てくる。
だから文章として書くのは、ここまで。(ゴメン!)

 心の決着というのは、そういうもの。
その決着をつけないかぎり、私は明日、郡上八幡へ行くことが
できない。
(たぶん、私は郡上八幡へ行くのを、ドタキャンをするだろう。
何かの理由をつけて……。)


Hiroshi Hayashi++++++++June・09++++++++++++はやし浩司

●話題

 暗い話がつづいたので、話題を変えよう。
といっても、このところ明るい話題はない。
(暗い話もとくにないが……。)

 今、少しハマっているのが、「Facebook」。
ブロフである。
そのFacebookには、いろいろな人からアクセスがある。
昨日は、モロッコのカサブランカに住む、16歳の少女から
アクセスがあった。
日本語を勉強しているとか。
ところどころに、日本語がまざっていた。
その少女と、5〜6回ほど、やり取りをした。

「私が61歳で、あなたが16歳だから、ちょうど逆だね」と
書いてやった。
16歳といえば、私には遠い遠い昔の話。
が、満16歳になったときのことは、よく覚えている。
伯父の家の縁側で、記念撮影をした。
その写真は、今でもアルバムの中に残っている。

 その少女は日本語を勉強して、いつか日本へ来るのが夢だという。
その気持ちも、よく理解できる。
私も同じ年齢のころ、アメリカにあこがれた。
当時は文通というのが、はやっていた。
私もアメリカ人の何人かの女の子と文通したことがある。
名前は……オハイオ州の、????。
忘れてしまった。
つい数年前までは覚えていたのだが……。


●アスペルガー

 元(?)アスペルガー障害をもっていた女性と結婚した男性がいる。
今年50歳くらいになるのでは?
妻のほうは3歳ちがいの、47歳くらい。

 アスペルガー児の特徴は、いろいろある。
たとえばまちがいやミスを指摘したりすると、混乱状態になる。
実際には、自分のまちがいやミスを、ぜったいに認めない。
ほかに、たとえば、がんこになる。
ふつうの(がんこ)ではない。
それこそテコでも動かないといった状態になる。
また、ひとつのことにこだわると、その殻(から)の中にこもってしまう。
他人の意見を聞かない。
頭がかたいから、冗談が通じない。
冗談、つまりジョークを言っても、笑わない。
思考の柔軟さが欠ける、など。
動物などには、ほとんど興味を示さない子どもも多い。
ほかに言葉に対して、言葉どおりの行動をすることもよく知られている。

 こんな例があった。
ある女の子に母親が電話をした。
「今日、迎えに行くのが遅くなるから、(学校の)門の前で
待っていてね」と。
その女の子は、その指示に従って、そのままずっと、立っていた。
途中で雨が降ってきたのだが、そのまま真っ暗になるまで
門の前で待っていた。

 一般的に、頭は悪くない。
数学なら数学に、特異な才能を示すことがある。
が、こうした症状も、小学3年生くらいから、少しずつ、見た目には
わからなくなってくる。
子ども自身が、自分で自分をコントロールするようになるからである。

●KA氏の妻

 その男性の名前を、KA氏としておく。
KA氏はこう言う。
「結婚したときから、妻のがんこさは気になっていました。
ほかの女性と比較したことがないので、私はそのまま妻を受け入れて
きました。
しかしやはりふつうではありませんでした。
何かのミスをしたようなとき、ふつうなら、『あら、ごめん』ですむような
話でも、妻はちがいます。
その瞬間、グッと固まってしまうのです。
で、あれこれ私が注意すると、口答えにつづく、口答え。
こちらの気が変になることもあります。
たとえば自分でお茶をこぼしても、すかさず、『あなたがここへお茶を
置いておくから悪いのよ』とやり返してきます。
まだ私が何も言ってないのに、です」と。

しかしKA氏はこう言う。
「結婚して以来、林さん(=私)は信じないかもしれませんが、一度とて、
自分のほうから、『ゴメン』と言ったことがないのですよ。
融通性がまったくと言ってよいほど、ないのです。
その場、その場で、状況に応じて行動を変えるということができません。
だから夫婦喧嘩は絶えませんでした。
今でも、ときどき衝突します」とも。

 KA氏が、自分の妻が、元アスペルガー児ではないかと気がつき始めたのは
最近のこと。
孫がアスペルガーと診断されたことがきっかけだった。
加えて、ときどき妻の兄弟から、妻の子ども時代の様子が、耳に入るようになった。
(KA氏が聞き出したということもあるが……。)
妻の兄弟は、みなこう言っているという。
「異常なまでに、がんこだった」
「冗談が通じなかった。冗談を言うと、それを本気にしてしまった」と。

 もちろん20〜30年前には、「アスペルガー」という言葉すらなかった。
「アスペルガー」という言葉が、あちこちで話題になるようになったのは、
2000年に入ってからである。
高機能自閉症のひとつだが、知的な遅れは、観察されない。

 が、KA氏の妻のばあい、KA氏がそれとなく妻の障害について話しても、
妻はそれを認めようとしないらしい。
「私はおかしくない」と。
病識がまったくない。
だから「よけいに扱い方がむずかしい」とも。

 「他人に相談しても、みな『あきらめなさい』と言います。
しかし私は、妻に、自分の障害について気づいてほしいのです。
気づけば時間はかかるかもしれませんが、治るはずですから」と。

 アスペルガー児のばあい、将来的にはこうした問題も残ることになる。
当の本人だけの問題ではすまない。

【参考】(ウィキペディア百科事典より)

『「アスペルガー症候群の定義」や「アスペルガー症候群と高機能自閉症は同じものか否か
について」は、諸説あるが、日本国内においては、高機能自閉症(知的障害のない、ある
いはほとんどない自閉症)と区別されることは少ない(アスペルガー症候群は、知的障害
の有無を問わず、言語障害のない自閉症を指すという研究者もいる)。
自閉症の軽度例とも考えられているが、知的障害でないからといっても、社会生活での対
人関係に問題が起きることもあり、知的障害がないから問題がほとんどないとすることは
できない。知能の高低については、相対的に低いよりは高い方が苦しみが軽いという見解
がある。日本では従来、アスペルガー症候群への対応が進んでいなかったが、2005年
4月1日施行の発達障害者支援法によりアスペルガー症候群と高機能自閉症に対する行政
の認知は高まった。しかし、依然社会的認知は低く、カナータイプより対人関係での挫折
などが生じやすい環境は変わっていない』(以上、ウィキペディア百科事典)。


●自己嫌悪

 自分で自分がいやになる。
「自己嫌悪」という。
しかしこの自己嫌悪は、扱い方が難しい。
自分を嫌いながら、嫌っていることに気づかない。
たいてい、それを他人のせいにする。
「他人が私を嫌っている」と。

 たとえば自分の中に、いやな面があったとする。
するとそれを直接嫌うのではなく、まわりの親しい人に、
それをぶつける。
「あなたは、私を嫌っている」と。

 本当のところ、だれもその人を嫌っていない。
嫌ってはいないのだが、勝手に、「嫌っているはず」と
決めつけてしまう。
「相手はそういう自分のことを好きなはずはない」という思いが、
「嫌っているはず」となる。

 こうすることによって、自分が自己嫌悪に陥るのを防ぐ。
防衛機制のひとつと考えてよい。
というのも、自己嫌悪ほど、恐ろしいものはない。
ひとたび自己嫌悪に陥ると、心は砂漠のようになる。
こまやかな情感が消え、人を愛することができなくなる。
愛されても、それを理解できなくなる。

●ではどうするか

 自己嫌悪そのものが、うつ症による症状のひとつと考えられている。
脳内の脳間伝達物質の変調が原因ということになる。
自己嫌悪が肥大化すると、それこそ「自己否定」、さらには、
「自殺」ということにも、なりかねない。
 けっして自己嫌悪を、甘くみてはいけない。

 次のような症状が出てきたら、やはり専門医に相談したほうがよい。

(1)何をやっても、見ても、虚しく覚える。
(2)心がかわいた砂漠のようになって、こまやかな情感が消える。
(3)自分はだれにも愛されていない。心配もされていないと感ずる。
(4)みなが、自分を嫌っていると感ずる。
(5)自分は無価値の人間で、生きていてもしかたないと感ずる、など。

 子どもの様子を見ていて、「みながぼくを嫌っている」というような
言い方をしたときは、それ自体が、自己嫌悪によるものと考えてよい。
自分の気持ちを、相手に投射させて、そう言う。
もし子どもがそういうことを口にしたら、愛情表現を豊かにする。
子ども自身に、「あなたはみなに、愛されている」ということを、
わからせる。

 できれば、「相手があなたを嫌っているのではない」「あなたが相手を
嫌っている」ということをわからせる。
根気のいる、たいへんな作業だが、子どもを自己嫌悪から守るほうほうは、
これしかない。
まちがっても、冷たく、突き放してはいけない。

(付記)
 私も、実は、よく自己嫌悪に陥る。
(だから、自己嫌悪について、詳しい。)
そういうときというのは、何をしても、虚しい。
文を書いていても、「こんなことをしていて、何になるのだ」という
迷いばかりが、胸ふさぐ。
「自分は無価値」とか、「どうせだれにも認められない」とか、
そんなふうに思いながら、どんどんと自分で自分を勝手に否定していく。

 しかし本当のところ、だれにも嫌われていない。
(私を嫌っている人は、いるにはいるが……。)
勝手にそう思い込んでいるだけである。
それを自分に何度も言って聞かせる。
そして自己嫌悪の泥沼から、抜け出す。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
自己嫌悪 負い目 コンプレックス はやし浩司 劣等感 投影 投射 防衛機制)


Hiroshi Hayashi++++++++June・09++++++++++++はやし浩司

●眠られないとき

++++++++++++++++++

私は眠られない夜は、頭の中で、UFOの
設計図を描く。
巨大なUFOで、直径は、数10キロもある。
そのUFOの部分を、毎晩あれこれ考えて、
積み重ねていく。
「今夜は、居住室」「今夜は、観察室」と。
それが習慣になっているため、たいていそのまま
眠ってしまう。

++++++++++++++++++++

【学習】

++++++++++++++++++++

少し前に買った本だが、あまり読まないで
座右に置いたままにしておいた。

『時事用語・最重要キーワード』(成美堂出版)
というのがそれ。

今朝(6月15日)は、まずこの本で、
今まで知らなかったことをさがす。

+++++++++++++++++++++

●ふるさと納税

 自分の望む都道府県・市町村に、5000円を超える寄付をすると、その分だけ、地元
で、所得税の控除をしてもらえる制度。

 たとえば私は、静岡県浜松の住民だが、岐阜県のM町に、1万円の寄付をすると、1万
円分だけ、所得税を控除してもらえる。
方法は、簡単。
寄付すると、その自治体から領収書を交付してもらえる。
その領収書を添付して、確定申告をすればよい。(以上、参考、同書)。

 同じような方法だが、欧米の企業では、学生の奨学金制度に、この方法を採用している。
学生に奨学金を提供すると、その分だけ、やはり所得税から控除を受けられる。
こうすることにより、企業はあらかじめ、日本でいう「青田買い」のようなことができる。
企業、学生の双方にメリットがあることになる。

 日本でも、ぜひ実行してほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●分裂する韓国

++++++++++++++++

韓国では、親北派と反北派が、
鋭く対立し始めている。

が、それにしても理解できないのが、
あの金大中。
元韓国大統領。
「ノ前大統領とは、前世では、
兄弟だった」と発言してみせたり、
今度は、「現政権は、独裁政権」と
決めつけてみせたりしている。

700億円で買ったノーベル平和賞
の話は、どうなったのか?

++++++++++++++++

朝鮮N報(090612)は、次のように伝える。

『……金大中(キム・デジュン)元大統領が11日、李明博(イ・ミョンバク)政権を「独
裁政権」と決めつけ、国民に行動を起こすよう求めた。

 金元大統領はこの日、ソウル・汝矣島の63ビルで行われた「6・15南北共同宣言9
周年記念式典」で講演し、「独裁者に頭を下げ、媚(こ)びへつらうべきではない。この国
で独裁政治が復活しつつあり、貧富の格差は史上最悪の水準に達している。われわれが一
緒に行動するという良心を見せ、自由・国民経済・南北関係を守るために立ち上がるべき
だ。行動を起こさないのは悪だ」と主張した』と。

 一方、そのK国はどうかと言えば、ウソの上にウソを塗り固めたような国。
それについては前からわかっていたが、自らそのウソをバラし始めた。
あれほどウラン加工はしていないと言っておきながら、今になった「実はしていた」と。
時事通信(6月13日)は、次のように伝える。

『13日、北朝鮮外務省の声明を伝える朝鮮中央テレビのアナウンサー。同国外務省は国
連安保理による制裁決議採択を非難。その上で軽水炉建設のために「ウラン濃縮作業に着
手する」と表明した』(韓国SBSテレビより)と。

 それにしても理解できない。
こういう声明を出すこと自体、「私たちはウソをついていました」ということを公言するよ
うなもの。
となると、あの6か国協議はいったい、何だったのかということにもなってしまう。
表ではプルトニウム。
裏ではウラン。
しかしこんなことは、以前からわかっていたこと。
「私は知らなかった」では、C・ヒル氏よ、すまされないぞ!
あなたのおかげで、極東アジア情勢は、メチャメチャになってしまった!

 で、そのK国だが、またまたミサイル発射実験をする構えでいる。
今度は、「ICBMだ」と、明言している。
それについても、もし同じ型のロケットだったら、「私たちはミサイルについても、ウソを
ついていました」と公言するようなもの。
「先のは、人工衛星ではありませんでした。ミサイルでした」と。
「化けの皮がはがれる」というのは、こういうことを言うのか。
つまりこうしてK国は、自ら醜態をさらしながら、崩壊していく。

【補足】(韓国中央N報より)

『ウラン濃縮計画(UEP)をめぐる朝米間の真実探りが6年8カ月ぶりに終止符を打っ
た。 

  これまで米国と北朝鮮はUEP問題をめぐり「全部知っているから自白しろ」(米国)と
いう督促と、「そもそもないものをいかにして自白できるか」(北朝鮮)という反論を交わ
していた。しかし北朝鮮外務省は13日付の声明を通じ、これまでの「否認戦術」を自ら
やめた』と。

 つまり今まで言ってきたことが、すべてウソだったということを、
自ら認めた。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 7月 17日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●負い目(コンプレックス)

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だれにも負い目というのがある。
あなたにもある。
私にもある。
そのひとつが、私は車の運転免許証をもっていないこと。
同窓会などに出ると、「免許証をもっていないのは、林(=私)
だけだなア」などと、からかわれたりする。

その私だが、オーストラリアから帰ってくると、仮免許証までは取った。
が、そのあと就職とつづいて、そのままになってしまった。
バイクの免許はもっていたが、今は、50ccまでの
ソフトバイクに乗れるだけ。
免許証の更新をするのを忘れてしまった。
あのままもっていたら、今は750ccのバイクだって、
乗ることができるのに!

+++++++++++++++++++

そういう私だから、何度も免許証を取ろうとした。
が、若いころは忙しくて、それができなかった。
やっと時間ができたころには、息子たちがつぎつぎと免許証を
ほしがった。
当時ですら、20〜30万円の費用が必要だった。
それで何となく、つまり「息子たちが取れば、車を運転してくれるだろう」
というふうに考えて、あきらめてしまった。

(実際には、運転手として、息子たちが車を運転してくれるようなことは、
めったになかったが……。)

で、もっぱら、ワイフの運転する車に乗ることになった。
が、そのつど、気が引ける。
負い目を感ずる。
コンプレックス(劣等感)というのは、そういうのを言う。
心の壁にぺッタリと張りついて、はがれるということがない。

だから、何かの拍子に、ワイフに、「バスで行ってよ!」とか、
「タクシーで行ったら!」と言われることくらい、つらいことはない。
ワイフはそれほど深く考えて言っているのではない。
それはわかっているが、そういう言葉は、グイと胸を突き刺す。
心をえぐる。
さらに、具体的にバスの乗り方を指示されることくらい、つらいことは
ない。
「駅までバスで行って、そこから電車に乗れば!」と。

そういうとき、実に自分が情けなくなる。
免許証をもっていない負い目が、何百倍にも拡大する。

反対にもし、ワイフが、「お金、ちょうだい」と言ったとき、
私が「自分で仕事をしたら」「ハローワークで仕事をさがしてきたら」と
言ったら、どうなるだろう。
ワイフは傷つくだろうと思う。
そういう悲しい思いをさせたくないから、私は結婚当初から、
給料はすべてワイフに渡している。
が、悲しいかな、そういう私の気持ちは、ワイフには通じない。

(付記)

 子どもの劣等感には注意したほうがよい。
私のようなおとななら、自分でそれを何とか処理できる。
(処理できないときもあるが……。)
子どもは、それができない。
容姿、名前、家族など
とくに容姿について、あれこれ言うのは、タブー中のタブー。
わかりきったことだが……。

(補記)

 だから反対にこういうことも言える。
たとえば夫が稼ぎ柱のとき、妻に対して、恩着せがましいことを
言うのは、たいへん危険ということ。
「オレが働いているから、お前ら、食っていかれるのだ!」とか、
「お前ら、だれのおかげで生活できると思っているのだ!」とか、など。
権威主義の強い夫ほど、そういう言葉を口にする。

 こういう言葉は、夫婦の間に決定的な溝(みぞ)を作る。
夫のほうはそれで自分の立場を主張するつもりかもしれないが、そんな
ことはいちいち言われなくても、わかること。
妻は日常的に、それを負い目として生きている。
それをあえて口にされると、私のようにグイと胸をえぐられる。
そういうことばかり言っていると、いつか「離婚!」ということに
なるかも。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【金権教】

●ぜいたくな悩み

+++++++++++++++++++++

悩みといっても、本来、悩むような問題ではないかもしれない。
ぜいたくな悩みということは、よくわかっている。
この地球上では、約3分の1の人たちが、飢餓状態に
あると言われている。
食べるのもなくて、困っている。

が、そういう中、私は今、ときどきこんな選択に迫られる。

「食べたら損なのか?」「食べなければ損なのか?」と。

+++++++++++++++++++++

●レストランで……

 昨日、ワイフの誕生日祝いということで、郊外のホテルで昼食をとった。
フルコースの半分の、ハーフコースというのを注文した。
肉料理を省略したコースをいう。

 そのコースのあと、最後にデザートが出た。
最近はやりの、バイキング・デザートというのである。
10種類くらいのケーキから、好きなのを選んで、いくらでも食べられる。

 私はイチゴ系のケーキ、ワイフはオレンジ系のケーキを選んだ。
1個というよりは、ひとかけらと言ったほうがよい。
小さなケーキだった。
で、それを食べ終わるころ、ボーイが、「ほかに、どれになさいますか?」と
聞いてきた。
そのときのこと。
またあの選択が頭の中を横切った。

「食べたら損なのか?」「食べなければ損なのか?」と。

 私は現在、ダイエット中。
昨日の朝、体重計に乗ってみたら、目標にしていた63キロ台!
この1か月半で、約5キロの減量に成功した。
「何としても、今の体重を維持しよう」と、心に決めていた、その矢先のことである。

 私はググーッとわいてくる食欲を懸命に抑えながら、「もう結構です」と答えた。
「食べたら損」のほうを、選択した。

●ムダ肉

 脂肪細胞というのは、わかりやすく言えば、エネルギーの貯蔵庫のようなもの。
ノートパソコンにたとえるなら、バッテリーのようなもの。
たとえば数日おきくらいにしか食べ物にありつけないような環境なら、脂肪細胞も
必要。
脂肪細胞にエネルギーを貯蔵しておく必要がある。

 しかし現在の日本のように、1日3食、もしくは2食、食べるのが当たり前になって
いるような国では、脂肪細胞にエネルギーを貯蔵しても、意味はない。
その必要もない。
必要なエネルギーは、そのつど摂(と)ればよい。
それに体は軽ければ軽いほどよい。
運動量もふえるから、筋肉も鍛えられる。
それが良循環となって、肉体は健康になる。
ポテポテとした肉体を引きずっていて、よいことは、何もない。

 が、どうしてか、「食べなければ損」という意識が、いつも働く。
どうしてだろう?
つまりこんなところでも、マネーの論理が働く。
「同じ値段なのだから、たくさん食べなければ損」と。
言い換えると、その人の健康観まで、マネーに毒されている(?)。
これは忌々(ゆゆ)しき問題と考えてよい。

●金銭的感覚

が、「損とは何か?」「得とは何か?」、それを考えていくと、
その先が、灰色のモヤに包まれてしまう。
何をもって、人は、得といい、何をもって、人は、損というのか?

いちばんわかりやすい例でいえば、金銭的な損と得がある。
数字が大きくなることを、「儲けた」といい、数字が小さくなることを、
「損した」という。
しかしそれにも限界がある。
金(マネー)に毒されすぎると、何が大切で、何がそうでないか、
わからなくなってしまう。
ときに人の命まで、金銭的感覚で、判断してしまう。
自分の人生まで、金銭的感覚で、判断してしまう。

●○○鑑定団

私の大嫌いなテレビ番組に、『○○鑑定団』というのがある。
いろいろな人が、いろいろなものをもちよって、その値段を
「鑑定」するという、あの番組である。
しばらくああいう番組を見つづけていると、ものの価値まで、金銭的感覚で、
判断してしまうようになる。
(……なってしまった。)

「この絵は、200万円の価値があるから、すばらしい絵だ」
「あの絵は、10万円の価値しかないから、つまらない絵だ」とか、など。

その絵にしても、有名人(?)の描いたものほど、値段が高い。
が、もし、ものの価値のみならず、美術的価値まで、金銭的感覚で判断する
ようになってしまったら、「美術とはいったい、何か?」ということに
なってしまう。

 モノならまだしも、自分の健康となると、そうはいかない。
またそうであってはいけない。

●社会のCPU(中央演算装置)

 話は少し脱線する。

世の中には、「カルト」と呼ばれる、宗教団体がある。
正確には、「宗教的団体」と言うべきか。
で、そういう団体に属する信者の人たちと話していて、いつも不思議に思うことがある。
10年前に、世間を騒がせた、あの宗教団体の信者の人たちにしても、そうだ。
会って、個人的に話をしている間は、ごくふつうの、どこにでもいるような人。
そういう狂信的な団体に属しているから、どこかおかしいのでは(?)と思って観察して
みるのだが、そういうことはない。
どこもおかしくない。
冗談も通ずる。
ふつうの常識も、もっている。

 が、全体として、つまりその団体を全体としてみると、やはりおかしい(?)。
集団となったとき、反社会的な行為を繰り返す。
団体の教義を批判したり、否定したりすると、彼らは猛烈にそれに対して反発する。
あるいはそのまま私たちを、ワクの外にはじき飛ばしてしまう。

 ……これは「カルト」と呼ばれるカルト教団の話である。
が、実は、私たちも全体として、同じような宗教を信仰しているのではないか。
「マネー教」というカルト教である。
その信者でいながら、全体がそうであるから、それに気がつかない。
そういうことは、じゅうぶん考えられる。

つまり社会のCPU(中央演算装置)そのものが狂っているから、その(狂い)すら、
自分で気がつくことができない。

●私の子ども時代

 このことは、私の子ども時代と比較してみてもわかる。
当時の特徴を2つに分けるとこうなる。

(1)戦時中の軍国主義的な色彩が、まだ残っていた。
(2)その時代につづく金権主義の色彩は、まだ薄かった。

 軍国主義的な色彩というのは、たとえば教育の世界にも強く残っていた。
(学校の先生)にしても、戦時中のままの教え方をする人もいた。
反対に民主主義的な(?)教え方をする人もいた。
それがおもしろいほど、両極端に分かれていた。

 一方当時は、まだ牧歌的な温もりが残っていた。
私の父にしても、将棋をさしながら、仕事をしていた。
将棋に熱中してくると、客を待たせて将棋をさしていたこともある。
客が、その将棋に加わることもあった。

 そういう時代と比べてみると、たしかに(現代)はおかしい。
狂っている。
が、みな狂っているから、それが見えない。
わからない。

●飽食の時代の中で

 アメリカ(USA)では、肥満をテーマにしたエッセーを書くのは、タブーだそうだ。
それだけで、「差別」ととらえられるらしい。
しかしご存知のように、アメリカ人の肥満には、ものすごいものがある。
どうすごいかは、見たとおり。
あの国では、肥満でない人をさがすほうが、むずかしい。

 で、最近、私は日本もそうなりつつあるのを、感ずる。
アメリカ人型の肥満がふえているように思う。
飽食のせいというよりは、アメリカ型食生活の影響ではないか。
ともかくも、そういった人たちは、よく食べる。

このことは以前にも書いたが、浜松市の郊外に、バイキング料理の店がある。
ランチタイム時は、1人、1200円で、食べ放題。
そういうところで食事をしている人を見ると、まさに「食べなければ損」といった感じ。
デザートのケーキでも、一個を一口で食べている。
パク、パク、パク……の3回で、3個!

 食事を楽しんでいるというよりは、食欲の奴隷。
「食べる」というよりは、「食べさせられている」。
そんな印象すら、もつ。
もちろんそういう人たちは、例外なく、太っている。
歩くのも苦しそう。

 しかしそういう人ほど、「食べたら、損」なはず。
食べれば食べるほど、健康を害する。
が、そういう人たちほど、よく食べる。

●散歩の途中で

 私たちの日常生活は、マネーにあまりにも毒されすぎている。
それに気づかないまま、毒されすぎている。
芸術も文化も、マネー、マネー、マネー。
ついでに健康までも、マネー、マネー、マネー。
その一例として、「食べなければ損」について考えてみた。

 しかしどうして「食べなければ損」なのか。
たまたま今日、ワイフと散歩しながら、途中でラーメン屋に寄った。
今度から「ランチ・メニュー」が始まった。
ラーメン+ギョーザ+ミニ・チャーハンの3点セットで、580円。
安い!
私は、チャーシュー丼を注文した。
ワイフは、ランチセットを注文した。
が、とても2人で食べられるような量ではない。
ランチセットを2人で分けても、まだ量が多すぎる。
しかし1人分の料理を、2人で分けてたべるというのも、気が引ける。
で、2人分、頼んだ。

 が、そこでもあの選択。
「食べたら損」なのか、「食べなければ損」なのか?

 私はチャーシュー丼には、ほとんど口をつけなかった。
そのかわり、ワイフが注文したランチセットを、2人で分けて食べた。
が、それでもラーメンの麺は、40%近く、食べないで、残した。

 大切なことは、「ラーメンの味を楽しんだ」という事実。
味を楽しめばじゅうぶん。
目的は達した。
「もったいないから、食べてしまおう」と思ったとたん、マネー教の虜(とりこ)
になってしまう。

●マネー教からの脱出

 お金がなければ不幸になる。
しかしお金では、幸福は買えない。
心の満足感も買えない。
お金の力には、限界がある。
が、その一方で、人間の欲望には、際限がない。
その(際限なさ)が、ときとして、心をゆがめる。
ゆがめるだけではない。
大切なものを、大切でないと思い込ませたり、大切でないものを、大切と
思い込ませたりする。

 子どもの世界でそれを考えると、よくわかる。

 10年ほど前のこと。
1人の女の子(小学生)が、(たまごっち)というゲームで遊んでいた。
私はそれを借りて、あちこちをいじった。
とたん、あの(たまごっち)が死んでしまった。
その女の子は、「たまごっちが死んでしまったア!」と、大声で泣き出した。

 私たちはそういう女の子を見ると笑う。
しかし本当のところ、私たちはその女の子と変わらないことを、日常的に
繰り返している。
繰り返しながら、それに気づかないでいる。

●ではどうするか?

 私たちはカルト教団の信者を見て、笑う。
「私たちは、あんなバカではない」と。
しかし同じようなバカなことをしながら、そういう自分に気づくことはない。
自分を知るというのは、それくらい難しい。

 つまり自分自身を、そうしたカルト教団の信者に置き換えてみればよい。
あなたならそういう信者を、どのようにして説得し、教団から抜けださせることが
できるだろうか。

 いきなり頭から「あなたは、まちがっている!」と言ってはいけない。
梯子(はしご)をはずすのは簡単なこと。
大切なことは、同時に、その人に別の救いの道を提示すること。
それをしないで、一方的に、「あなたはまちがっている」と言ってはいけない。
同じように、自分に対して、「私はまちがっている」と思ってはいけない。
大切なことは、自分の中で、別の価値観を創りあげること。

 方法は、簡単。
常に、何が大切で、何が大切でないか、それを問い続ければよい。
何があっても、それを問い続ける。
あとは、時間が、あなたを導いてくれる。
やがてその向こうに、その(大切なもの)が、見えてくるようになる。

 (見えてくのもの)は、それぞれみなちがうだろう。
しかし見えてくる。
その価値観が優勢になったとき、マネー教はあなたの中から、姿を消す。

●食べたら損

 で、結論は、「食べたら損」ということになる。
いっときの欲望を満足させることはできるが、かえって健康を損(そこ)ねる。
同じように、いくらそのチャンスがあったとしても、人をだましたら、損。
ずるいことをしたら、損。
自分を偽ったら、損。
その分だけ、心の健康を損なう。

 「損(そん)」とは、もともと「損(そこ)なうこと」をいう。
失うことを、「損」というのではない。
が、今では、金銭的な損を、「損」という。
またそういうふうに考える人は多い。

 「食べたら損」なのか、「食べなければ損」なのか。
そういうふうに迷うときがあったら、あなたも勇気を出して、「食べたら損」を
選択してみたらどうだろうか。
たったそれだけのことだが、あなたの心に、何らかの変化をもたらすはず。

 ついでに言うなら、マネーが日本で、一般社会に流通するようになったのは、
江戸時代の中期ごろから。
このことについては、以前、私がかなり詳しく調べたから、まちがいない。
つまりそれまでは、日本人は、マネーとは無縁の生活をしていた。
私が子どものころでさえ、「マネー」を、おおっぴらに口にすることは、
卑しいこととされていた。
それが今は、一変した。
何でも、マネー、マネー、マネーとなった。
マネー教の信者になりながら、信者であることにさえ気がつかなくなってしまった。
その結果が、「今」ということになる。

(付記)

 「食べ物を残すことはもったいない」という意見に、一言。

レストランへ行くと、「お子様ランチ」というのがある。
同じように、「シルバー・ランチ」、もしくは「シルバー・メニュー」のようなものを、
もっと用意してほしい。

 最近の傾向として、レストランでの料理の量が、多くなってきたように感ずる。
全国規模で展開しているレストランほど、そうで、たいてい食べ残してしまう。
しかしこれは食料資源という面で、「もったいない」。
私も、そう思う。
だから高齢者向けに、高齢者用のメニューをふやしてほしい。

 「カロリー少なめ、塩分少なめ、糖分控え目、ハーフサイズ」とか。

 もちろん値段も、その分、安くしてほしい

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW BW教室 マネー教 金権教 金権教
団)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●金権教

+++++++++++++++++

お金がすべて……。
お金しか、信じない。
そういう人は、多い。
称して、「金権教」という。

+++++++++++++++++

●戦争の後遺症

あの戦争が残した最大の後遺症と言えば、
金権教と考えてよい。
それまでは天皇が神だった。
その天皇が人間宣言をして、神の座をおりた。
とたん、多くの日本人は、行き場を失ってしまった。
心のより所を失ってしまった。
戦後しばらくの間、放心状態になってしまった人も多い。
戦後、雨後の竹の子のように新興宗教が生まれたのも
そのためと考えてよい。

が、中でも最大の新興宗教といえば、金権教ということになる。
「マネー教」と言ってもよい。
「マネーがすべて」「マネーがあれば幸せ」「マネーがあれば、どんな
夢もかなう」と。
基本的には、現在の日本は、いまだにその(流れ)の中にある。

かなり大ざっぱな書き方をしたが、大筋ではまちがっていない。

●仕事第一主義

ひとつの価値観を妄信すると、他の別の価値観が犠牲になる。
これは私の価値観というよりは、私たちの世代に共通した価値観と言ってもよい。
今でこそ、「仕事より家族のほうが大切」と考える人は多い。
しかし私たちが、20代、30代のころは、そうではなかった。
「仕事か家族か」と問われれば、みな、まちがいなく「仕事」を選んだ。
「仕事あっての家族」と考える人もいた。

だから「仕事」という言葉は、それ自体が、トランプでいえば、ジョーカー
の働きをした。

A「明日、会合に出てくれますか?」
B「私は、仕事がありますから」
A「ああ、それなら結構です」と。

戦前の「お国のため」が、「会社のため」になった。
戦前の「兵士」が、「企業戦士」となった。
仕事第一主義は、そこから生まれた。
「会社人間」という言葉も、そこから生まれた。

しかしそれを裏から支えたのが、金権教ということになる。

●ぜいたくが当たり前

お金がなければ、不幸になる。
それは事実。
しかしお金では、幸福は買えない。
それもまた事実。
お金で私たちは欲望を満足させることはできる。
しかしその欲望には、際限がない。

戦後生まれの私たちと、今の人たちを比較するのもどうかと思うが、
いろいろな場面で、私は、その(ちがい)を強く感ずる。
とくに今の若い人たちの(ぜいたく)を見たりすると、ときに、それに
ついていけないときがある。

もう15年近くも前のことだが、こんなことがあった。
息子たちが、スキーに出かけた。
スキーをするということ自体、私たちの世代には、考えられないことだった。
どこかの金持ちの、最高のぜいたくということになっていた。
が、その息子が、手ぶらでスキーにでかけ、手ぶらで、スキーから帰ってきた。
「荷物はどうした?」と聞くと、息子たちは、平然とこう答えた。
「宅急便で送った」と。

私には、その(ぜいたくさ)が理解できなかった。
そこで息子たちを叱ったのだが、少しあとになって、そのことを友人に話すと、
「今は、みな、そうだ」という返事をもらった。

あとは、この繰り返し。
それが無数に積み重なって、現代という時代になった。

●あるのが当たり前

しかし今はよい。
何とか日本の経済は、持ちこたえている。
しかし日本の経済が、後退期に入ったら、どうなるか。

たとえば今では、子ども部屋といっても、完全冷暖房が常識。
夏は、一晩中、冷房をかけっぱなしにしている。
冬は、一晩中、暖房をかけっぱなしにしている。
今の子どもたちに、ボットン便所で用を足せと言っても、できないだろう。
何でも、「あるのが当たり前」という生活をしている。

これではいくらお金があっても、足りない。
足りないから、その負担は、結局は、親に回ってくる。
ざっと見聞きした範囲でも、現在、親から仕送りしてもらっている若い夫婦は、
約50%はいるとみてよい。
結婚式の費用、新居の費用、出産の費用などなど。
さらには子ども(=孫)のおけいこ代まで。

しかしこうした(ゆがんだ生活観)を支えているのも、金権教ということになる。
「お金を出してやれば、親子の絆(きずな)は深まるはず」
「お金を出してやれば、子どもは、それに感謝するはず」と。

子どもについて言えば、クリスマスのプレゼントにせよ、誕生日のプレゼントにせよ、
より高価なものであればあるほど、よいということになっている。

●金権教と闘う

金権教といっても、まさにカルト。
一度自分の体にしみついたカルトを抜くのは、容易なことではない。
長い時間をかけて、その人の人生観、さらには人生哲学になっている。

「あなたはまちがっていますよ」と言っても、意味はない。
その人は、かえって混乱状態に陥ってしまう。
言うなら言うで、それに代わる別の価値観を容易してやらなければならない。
……と書いたが、それは私たち自身の問題でもある。

金権教と闘うといっても、金権教自体と闘っても、意味はない。
自分の中に新しい価値観を構築し、その結果として、金権教と闘う。
金権教を自分の中で、無意味化する。

が、だからといって、マネーを否定せよとか、マネーには意味がないとか、
そんなことを言っているのではない。
現代社会では、マネーに背を向けては、生きていけない。
しかし毒されすぎるのも、危険と、私は言っている。
へたをすれば、人生そのものを、棒に振ってしまう。
事実、そういう人は多い。

そこでもしあなたに子どもがいるなら、育児の場で、金権教と闘ってみよう。

(1) 子どもには、ぜいたくをさせない。
(2) 子どもには、高価なものを買い与えない。
(3) 子どもには、必要なものだけを買い与える。

少しテーマがちがうが、あのバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、
こう書いている。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれ
ど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを
与えられる」と。

要するに、「程度を超えない」ということ。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●徘徊(はいかい)心理(Walk About)

+++++++++++++++++

私には、徘徊ぐせがある。
それに気づいたのは最近だが、
ほぼまちがいない。
私には、たしかに徘徊ぐせがある。

たとえば職場でいやなことがあったりすると、
私はそのまま道路に出て、家まで歩いて帰る。
ふだんは、自転車やバス、タクシーで帰る。
が、そういうときは、歩いて帰る。

といっても、急ぎ足で歩いても、1時間半はかかる。
ゆっくり歩けば、2時間以上はかかる。
家に帰ると、ワイフが、私にこう言って叱る。
「どうして電話してくれなかったの!」と。

しかし電話など、できるものではない。
電話する気にもならない。
私は歩くことで、悲しさやつらさを忘れる。
頭の中を、からっぽにすることができる。
それにそういうときというのは、本当のことを
言うと、家には帰りたくない。
どこかを、……とくに目的地はないが、ただ、
どこかをめざして、歩きたい。

当然、歩くと言っても、トボトボ……
という感じになる。
スタスタではない。
が、フラフラというほどでもない。
トボトボ……、である。
まっすぐ家路をめざすというよりは、気が向いた
ところで、角を曲がり、そのまま路地を歩く。

++++++++++++++++++

●徘徊

 職を失った人が、失ったことは家族に話さないで、いつものように会社に
出かけるフリをするという話を、よく聞く。
ネクタイを締め、カバンをもって、家を出る。
しかし会社には行かない。
そのままどこかで時間をつぶす。
そして帰宅時刻になると、家路をめざす。
「ただいま!」と言って、家の中に入る。

 そういう話を聞くと、多くの人は、「どうしてそんなバカなことをするのか」と
思うかもしれない。
しかし私には、そういうことをする人の気持ちがよくわかる。
私も、同じような立場になったら、同じようにするだろう。
いつものようにネクタイを締め、カバンをもち、会社へ出かけるフリをする。
そしてどこかで時間をつぶして、その時刻になったら、家に帰る。

 そういう自分と、先に書いた徘徊ぐせと重ねあわせてみると、そこに徘徊する
老人の心理が浮かびあがってくる。
帰宅するときばかりではない。
家の中で何かいやなことがあると、私は家を出る。
飛び出すというような大げさな行為ではないが、家を出る。
そしてそのあたりを、トボトボと歩き回る。
もしそういうのを「徘徊」というのなら、徘徊ということになる。
で、そういう行動の延長線上に、痴呆老人の、あの徘徊があるとするなら、
徘徊する老人たちの心理が、私には痛いほど、よく理解できる。

 徘徊する老人たちは、背中に感ずる不安や心配から逃れたい。
歩けば、それから遠ざかることができると思う。
頭の中をからっぽにすることができる。
だから歩く。
が、けっして目的もなく、歩くわけではない。
歩くこと自体が、目的なのである。
歩くことによって、悲しみや苦しみを忘れることができる。
そこに何があるかわからないが、しかし、何かあるかもしれない
という期待が、心をなぐさめてくれる。
実際、歩いていると、それだけで気がまぎれる。

ワ「どうしてバスに乗って来なかったの?」
私「そういうのとは、ちがうよ」
ワ「タクシーだって、あるでしょ!」
私「そういうのとも、ちがうよ」
ワ「電話くらいしてくれればいいのに。迎えに行ったわよ」
私「そういうのとも、ちがうよ」と。

 私は老人になり、認知症か何かになったら、まちがいなく徘徊老人になるだろう。
今の今でさえ、徘徊ぐせがある。
何かいやなことがあると、そのまま外へ出てしまう。
出て、歩き出してしまう。

 が、しかし私が認知症か何かになって、徘徊するようになっても、
そのままにしておいてほしい。
歩きたいだけ、歩かせてほしい。
できればそうしてほしい。
……多分、無理だろうが……。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●映画『真夏のオリオン』

++++++++++++++++

私は潜水艦映画が、大好き。
閉所恐怖症だからこそ、潜水艦映画が、大好き。
潜水艦の出る映画は、ほとんどすべてを観てきた。

……ということで、今夜、映画『真夏のオリオン』を観てきた。
涙もろくなったせいもあるが、何か所で
涙がポロポロと出た。
が、だからといって、映画がよかったわけではない。
星は2つもむずかしいかなというところの、2つ。
★★(−)
理由がある。

++++++++++++++++

(1)冒頭のシーンとラストのシーンで、元潜水艦の乗組員だった老人と、
若い女性が、会話を繰り返す。
そのセリフが不自然。
まるでよくできた作文を読んでいるかのよう。
だいたい、「こんなところで老人と若い女性が面会するだろうか?」と
思うような場所で、2人は、面会する。

(2)その若い女性だが、美しく見せたいという気持ちはよくわかる。
しかし化粧のしすぎ。
歩き方も、カメラを意識しすぎてか(?)、不自然。
ぎこちない。
つまり自然ぽさのないのが、日本映画の欠点。

(3)くだらない説教と、説明が多すぎる。
何も私たちは反戦映画を見に行ったわけではない。
また乗組員が何かの装置を操作するたびに、その説明がつづく。
さらに例によって例のごとく、俳優たちが、力みすぎ。
もう少し肩の力を抜いて、自然ぽく演技してほしかった。

(4)いわゆる「お涙ちょうだい」的な構成が、できすぎ。
一枚の楽譜が、乗組員の命を救ったというストーリーだが、どこか『一杯の
かけそば』風。
昔、『ビルマの竪琴』という映画があった。
『真夏のオリオン』を観ている最中、その映画を思い出した。

(5)エンディングで、「映画が終わった」と思って席を立ったところで、突然、
映画のおまけシーンが出てくる。
「せいこいことをするな」と、私は感じた。
やり方が、姑息。

 だから星は2つでもむずかしいかな……ということで、★★(−)。
日本映画よ、もっと「自然ぽさ」を追求せよ!
「映画というのはこういうものでござる」式の演技には、うんざり!
俳優が心底、その人物になりきって演技する。
映画のおもしろさは、そこから生まれる。
その原点を、もう一度、みなが確認してほしい。
(辛辣な批評で、ごめん!)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●中国の教育の現状

++++++++++++++++++

中国の教育の現状を知ると、そのまま
それが40年前、30年前の日本であることを知る。

中国は日本を追いかけているのか。
それとも日本とは別の道を進みつつあるのか。
あるいは日本も中国も、同じなのか。

Record Chinaは、中国の教育にかけるのは、
「議論」と「消化」であると看破している。

+++++++++++++++++++

Record Chinaは、中国の教育の現状について、『中国では、哲学者は育たない』
と出して、つぎのように伝える(ヤフー・ニュース・09・06・14日より転載)

『2009年6月、米紙ボストングローブは記事「米国人学生の目から見た中国の教育」
を掲載した。米国の私立小学校、公立中学校を卒業した学生が、中国の教育について語っ
た。12日、鳳凰鋭評が伝えた。

米国の教室では子どもたちはいつもわいわいと騒いでいた。一方、北京の学校は厳粛な空
気に包まれて息苦しいほど。しかしボストンの学校で学んだことは北京の学校で学んだこ
とよりも多かったように思う。

中国の勉強方法といえば、教科書の暗唱、黙って問題を解く、あるいは声をそろえての発
話練習など。すべては受験の準備にあてられている。それも仕方がないところだろうか、
中国の高校や大学は点数だけで計られるからだ。中国の学生が必死に勉強するさまは、名
門ハーバード大学を目指す米国学生ですらもかなわないだろう。

ただし自由討論や自分なりの解決方法の模索に慣れた米国人学生にとって中国の授業はあ
まりにも空虚で制約されたもののように思える。中国では1クラスには平均45人の学生
がいる(ボストンでは28人)。学生の数も教師が一人一人に気をかけることを難しくして
いる。

中国の教育課程は自由度が少なく、数学もコンピューターの授業もただ一つの解決方法し
かない。作文の機会も少なく、読む本といえば歴史や古典、漢詩ばかりで小説を読むこと
は少ない。しかしこうしたなか、学生は議論の機会を持てず、学んだ知識を消化すること
ができない。米国人にとっては深く思索すること、決断することこそが教育の重要な一部
であるが、中国の中高生にはほとんどこうした経験がない。中国の学校にも多くの長所が
あろうが、しかし哲学者を育てるものではないようだ』(以上、翻訳・編集KT)。

 この記事の中で、とくに気になったのは、「学生は議論の機会を持てず、学んだ知識を消
化することができない」という部分。
「議論」と「消化」。
さすがアメリカの学生。
鋭いことを指摘している。

(1)議論

 日本の教育の最大の欠陥といえば、「議論しない」という点にある。
「議論を許したら、教育がバラバラになってしまう」と考える風潮すらある。
明治の昔から、さらに江戸時代の寺子屋の昔から、この日本では、「もの言わぬ従順な民づ
くり」が基本だった。
「教育」という言葉にしても、「教え育てる」(田丸謙二先生指摘)。
さらに「学ぶ」という言葉も、「マネブ」、つまり「まねる」に由来するという(同)。

 つまり上意下達方式が、日本の教育の(柱)になっている。

(2)消化

 知識や情報は、脳の中で一度加工されて、はじめて意味をもつ。
加工されない知識や情報は、ただの知識であり情報。
田丸先生は、「そんなものは、今ではインターネットで自由に手に入れることができる」と
言っている。
つまり無価値。
そういう無価値なものを、価値あるものと錯覚しているところに、日本の教育の最大の悲
劇がある。
(ちょっと言いすぎかな?)

 もちろん、だからといって情報や知識を否定しているのではない。
大切なことは、情報や知識を得たら、それを頭の中で加工すること。
わかりやすく言えば、「自ら考えること」。
田丸先生は、「Independent Thinker」(自分で考える人)という言葉を使って、それを説明
している。
「教育では、自分の頭で考えさせることが、何よりも大切」と。

 1971年にペキン大学に留学したことのあるD・キシア君(現在、私の親友)は、こう話してく
れた。
「みな、中国の学生はテープレコーダーみたいだった」と。
つまりみな、同じようなことしか、言わなかった、と。
同じようなことを田丸先生も、私に話してくれたことがある(YOUTUBEに収録)。
それから40年。
中国はいまだに、その流れの中にあるらしい。

 では、この日本はどうなのか?
だいじょうぶなのか?
その一例として、私はテレビ番組の、あのバラエティ番組をあげる。
何もバラエティ番組が、日本人の脳みそに影響を与えていると思っているわけではない。
ああいう番組が無数にあり、つぎからつぎへと同じような番組が生まれているというとこ
ろに、日本人の思考能力の貧弱性が集約されている。
視聴率を稼げるから、テレビ局もそういった番組を作りたがる。
つまり日本人が総バラエティ番組化しているのではなく、日本人自身が、そういう番組を
下から支えている。

 脳に飛来した情報を、ペラペラと口にしているだけ。
だれも考えない。
何も考えない。
だからいくら話をしても、その話は、そのままどこかへ消えていく。
ただの雑談。
もちろん哲学を生み出すなどということは、夢のまた夢。
言うなれば、情報のゴミ。
そのゴミの中に埋もれながら、私たちは生きている(?)。
(これも、ちょっと言いすぎかな?)

 ともあれ、「議論」と「消化」。
この記事を読んで、私はこの2つの言葉に、ドキッとした。
つづいて、「米国人にとっては深く思索すること、決断することこそが教育の重要な一部で
あるが、中国の中高生にはほとんどこうした経験がない」とまで言い切っている。
「さすが、アメリカの学生!」と、私は感心した。
と同時に、「いつになったら、日本の学生も、そういうことを言うことができるようになる
のか」と、不安になった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 中国の教育の現状 中国の教育 情報と
知識 議論 debate)


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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
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□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 7月 15日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自己正当化(Self-Justification)

+++++++++++++++++

なんだかんだと理由をこじつけて、
自分を正当化する。
そういうケースは、多い。
たとえば自分が失敗しても、「もともとは、
あいつが悪いから、こうなった」
「たまたま運が悪かっただけ」と。
が、それを悪いことと決めつけてはいけない。
(よくないことは、確かだが……。)

つまりそうすることで、人は、自分の心を
救済しようとする。
個人的なことというよりは、だれにでも
そういう傾向があるという意味で、
心理学の登場ということになる。

+++++++++++++++++

●投射

 ある夕方、A君(小3)の母親から電話がかかってきた。
話を聞くと、A君が、「林先生(=私のこと)が、ぼくを嫌っている」と言っているという。
しかし私には、そんな気持ちは、まったくない。
そこで話をよく聞くと、こういうことだった。

 A君が勉強から逃げ始めたのは、その数か月ほど前からのことだった。
理由はわからない。
たぶん過剰負担からではなかったか。
学習中も、やる気なさそうに、時間をつぶすことが多くなった。
そこで私はそのつど、こまかく、A君を注意した。
が、それがよくなかった。
A君はやがて私を避けるようになり、ついで、私を嫌うようになった。
A君が、(私ではなく、A君が)、私を嫌った。

 心理学の世界にも、「投射」という言葉がある。
自分の感情を相手に投射させて、「自分が悪いのは、相手のせいだ」と、責任を回避する
ことをいう。

 たとえばこのばあいも、A君は、(勉強がいやだ)→(林先生がぼくにきびしい)
→(だからぼくは、林先生が嫌い)→(林先生がぼくを嫌っているからだ)と、
自分の気持ちを、私に投射してしまった。

 わかりやすく言えば、たとえばあなたがBさんならBさんを嫌いだったとする。
そのときあなたは、こう言って、自分の感情を正当化する。
「私がBさんを嫌いなのは、私が悪いからではない。
Bさんが、私を嫌っているからだ」と。
つまり私には責任はない。
そういうふうに思わせているのは、Bさんのほうだ、と。

●老人心理

 私もその仲間に入って、おもしろいことに気づきつつある。
老人世界という(仲間)である。

 相手が幼児のばあいも、それがよくわかる。
しかし相手が老人だと、さらにそれがよくわかる。
老人になればなるほど、人はまさに、心理学の教科書どおりの行動をするようになる。
それに気づきつつある。

 老人といっても、いろいろある。
老人のなり方も、人によって、みな、ちがう。
しかし老人になればなるほど、その人の内なる「私」が、モロに表に出てくる。
たとえばフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使った。
ユングは、「生的エネルギー」という言葉を使った。
そうしたエネルギーは、老人を見れば、よくわかる。
それこそ車椅子に座ったままの生活をしているような老人が、一日中、「飯(めし)、
よこせエ(=くれ)」と叫んでいる。

 そういう姿を見ていると、生きる力のものすごさを感ずる。
と、同時に、「ああ、これがユングの説いた、生的エネルギーなんだ」とわかる。
もちろん色恋沙汰も、多い。
近くの老人ホームで働く女性が、こう教えてくれた。
「80代の女性たちが、1人の男性を取りあって、とっくみあいの喧嘩を
していますよ」と。
老人だから、そういうことに興味をなくすと考えるのは、まったくの誤解。
むしろ若いときより、はげしくなる。

 つまりこういう形で、老人たちは、人間の心理を、そのまま表現してくれる。
(あるいはフロイトやユングは、老人を見ながら、心理学をまとめたのかもしれない?
今、ふと、そんな疑念がわいてきた。)
ともかくも、老人たちを見ていると、相手が幼児ではわからなかったようなことが、
わかることがある。
「老人」といっても、私自身も含めての話だが……。

●嫌う

 話を戻す。
「嫌う」という感情は、ものすごいエネルギーを消耗する。
仏教の世界には、四苦八苦の一つとして、『怨憎会苦(おんぞうえく)』という言葉
さえある。

 人を嫌うのも、たいへんということ。
疲れる。
扱い方をまちがえると、心が腐る。
それゆえに、人は、(嫌う)という感情を、いろいろな形で、自分から発散させようとする。
そのひとつが、「投射」ということになる。
「私があの人を嫌うのは、私が悪いからではない。あの人が私を嫌っているからだ」と。

 先のA君(小3)のケースでいうなら、「ぼくが勉強を嫌いになったのは、林先生が
ぼくを嫌っているからだ」と。
そこでこういうケースのばあい、たいてい先手を打って、A君は、私の悪口を言い始める。
「林先生は、えこひいきをする」
「林先生は、まちがえると怒る」
「林先生は、ていねいに教えてくれない」と。

 つまりそういう形で、親を誘導する。
親をして、「そんな教室なら、やめなさい」と思うようにしむける。
子どもがよく使う手である。
だからこのタイプの子ども(プラス親)は、やめ方がきたない。
ある日突然、電話一本で、そのままやめていく。
「今日でやめます!」とか、など。

●「私」はどこに?

 こうして人の心というのは、集約され、普遍化される。
つまりどの人も、「私は私」と思って行動しているかもしれないが、その実、
ある一定のパターンで行動しているのがわかる。
それが「普遍化」ということになる。
わかりやすく言えば、北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
同じように、アラスカに住む人間も、タスマニアに住む人間も、人間は人間。
大きく違うようで、それほど違わない。
あるいはまったく同じ。

 言い換えると、その(同じ)という部分を抜け出さないかぎり、人は「私」を
つかむことはできない。
そのためには、まず人間の心理を知り尽くす。
その上で、「では、私はどうあるべきか」を考える。
その操作を怠ると、それこそハイデッガー※の言った、『ただの人』になってしまう。
ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、『ただの人』という言葉を使った。
が、それはとりもなおさず、「個人の死」を意味する。
「人生の敗北」を意味する。
 余計なことかもしれないが……。

(注※)ハイデッガー(マルティン・ハイデッガー)……1889〜1976、
ドイツの哲学者。20世紀最大の哲学者と評されている。
「自分の未来に不安をもたず、自己を見失ってだらだらと生きる堕落人間を、
ひと(das Mann)と呼びました」(「哲学」宇都宮輝夫・PHP)とある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW BW教室 ハイデッガー Das Mann ただの人
はやし浩司 投射 防衛機制 フロイト 自己正当化 ハイデガー)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「抑圧」の恐ろしさ(Another Room in the Mind)

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よく兵士、あるいは元兵士の残忍行為が問題になる。
最近でも、アメリカの収容所で、アメリカ兵が
イラク軍捕虜に対して暴力、暴行を繰り返したという事件が
問題になった。

こう書くからといって、アメリカ兵を擁護するわけではない。
が、こうした問題は、常に戦争について回る。
戦時中には、日本軍もした。
ドイツ軍もした。
その多くはPTSDに苦しみ、さらには心そのものを
病んでしまう兵士も珍しくない。
昨年見た映画の、『アナザー・カントリー』も、そうした兵士を
題材にした映画だった。

が、こうした問題も、心理学でいう「抑圧」を当てはめてみると、
理解できる。

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●抑圧

 自分にとって都合が悪い記憶があると、人はそれは心の別室を用意し、そこへそれを
押し込めてしまう。
そうすることで、自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。
こうした現象を、心理学の世界では、「抑圧」という。
「隠ぺい記憶」と言う人もいる。

 もともとは乳幼児期の不快な思い出や記憶について起こる現象を説明したものだが、
もちろんおとなになってからも、ある。
何かのことで失敗したり、いやなことがあったりすると、それをできるだけ早く
忘れようと、心の別室を用意し、その中に押し込んでしまう。

●上書きされない

 ふつう記憶というのは、どんどんと上書きされていく。
たとえば不愉快なことがあっても、そのあと楽しいことがつづくと、過去の記憶を
忘れてしまう。

 が、心の別室に入った記憶には、その(上書き)という操作が働かない。
別室に入ったまま閉じ込められているから、修正されるということもない。
だから何かの拍子に表に出てくる。
たとえば高校生になった子どもが、5年前、あるいは10年前にあったことを持ち出し、
「あのとき、テメエは!」と言って、親に対してどなり散らすことがある。

 また最近聞いた話では、ともに70歳前後の夫婦なのだが、喧嘩するたびに、30年前、
40年前の話を持ち出して、たがいに責めあうという。
それを横で聞いていた娘(50歳くらい)は、こう言った。
「どうしてそんな昔の話をして、喧嘩するのでしょう。
頭がボケてきたのでしょうか」と。

 もちろん頭はボケていない。
(あるいはボケとは関係ない。)
抑圧された記憶というのは、そういうもの。

●子どもの世界でも

 「いい子ほど心配」とは、教育の世界では、よく言う。
先生や親の言うことに従順で、すなお。
ハイハイと指示や命令に従う……。
しかしこのタイプの子どもほど、あとあと心をゆがめやすい。
(あるいはその過程で、すでに心をゆがめている。)
思春期前夜、あるいは思春期になると、突然変化することも珍しくない。
はげしい家庭内暴力や、引きこもりにつながることもある。
何かのことで突発的に爆発して、こう叫んだりする。
「こんなオレにしたのは、テメエだろう!」と。

 心の別室には、キャパシティ(容量)というものがある。
そのキャパシティを超えると、隠ぺいされた記憶が、そこから突然、飛び出す。
本人ですらも、コントロールできなくなる。

 そんなわけで、子どもを指導するとき大切なことは、子どもに、
心の別室を作らせないこと。
まず言いたいことを言わせる。
したいことをさせる。
常に心を開放させる。
それが子どもの心をゆがめないコツということになる。

●兵士のばあい

 話を戻す。
もちろん私には戦争の経験はない。
ないが、おおよその見当はつく。
つまり兵士たちは、戦場では、慢性的に恐怖感にさらされる。
そのとき兵士は、その恐怖感を、心に別室を作り、そこへ押し込めようとする。
その上で、勇敢な兵士を演じたりする。

 が、これが心をゆがめる。
何かのきっかけ、たとえば相手が捕虜であっても、敵の顔を見たとたん、隠ぺい
された記憶が暴走し始める。
それは「記憶の暴走」と言うような、簡単なものではないかもしれない。
暴走させることによって、心の別室にたまった、恐怖感を解消しようとするの
かもしれない。
それが捕虜への、暴力や暴行へとつながっていく。

●教授の殺害事件

 今年(09)に入ってから、ある大学で、ある大学の教授が、元学生に殺害
されるという事件が起きた。
動機はまだはっきりしていないが、その学生は教授に対して、かなりの恨みを
もっていたらしい。

 この事件も、「抑圧」という言葉を当てはめてみると、説明できる。
というのも、その元学生のばあいも、元学生とはいっても、大学を卒業してから、
すでに10年近くもたっている。
ふつうなら、いろいろな思い出が上書きされ、過去の思い出は消えていてもおかしく
ない。
が、先にも書いたように、一度心の別室に入った記憶は、上書きされるということは
ない。
いつまでも、そのまま心の中に残る。
そこで時間を止める。

●心の別室

 ところで「心の別室」という言葉は、私が考えた。
心理学の正式な用語ではない。
しかし「抑圧」を考えるときは、「心の別室」という概念を頭に描かないと、どうも
それをうまく説明できない。
さらに「心の別室」という概念を頭に描くことによって、たとえば多重人格性などの
現象もそれで説明ができるようになる。

 人は何らかの強烈なショックを受けると、そのショックを自分の力では処理することが
できず、心の別室を用意して、そこへ自分を押し込めようとする。
「いやなことは早く忘れよう」とする。
しかし実際には、「忘れる」のではない。
(その記憶が衝撃的なものであればあるほど、忘れることはできない。)
だから心の中に、別室を作る。
そこへその記憶を閉じ込める。

●では、どうするか

 すでに心の別室を作ってしまった人は、多いと思う。
程度の差の問題で、ほとんどの人に、心の別室はある。
暗くてジメジメした大倉庫のような別室をもっている人もいる。
あるいは物置小屋のような、小さな別室程度の人もいる。

 別室が悪いと決めつけてはいけない。
私たちは心の別室を用意することによって、先にも書いたように、
自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。

 が、その別室の中の自分が、外へ飛び出し、勝手に暴れるのは、よくない。
その瞬間、私は「私」でなくなってしまう。
ふつう心の別室に住んでいる「私」は陰湿で、邪悪な「私」である。
ユングが説いた「シャドウ」も、同じように考えてよい。
あるいはトラウマ(心的外傷)も、同じように考えてよい。
そこで大切なことは、まず自分自身の中にある、心の別室に気がつくこと。
そしてその中に、どんな「私」がいるかに気がつくこと。

 シャドウにしても、トラウマにしても、一生、その人の心の中に残る。
消そうとして消えるものではない。
だったら、あとは、それとうまく付きあう。
うまく付きあうしかない。
まずいのは、そういう自分に気がつかないまま、つまり心の別室にきがつかない
まま、さらにはその中にどんな「私」がいるかに気がつかないまま、その「私」に
振り回されること。
同じ失敗を、何度も繰り返すこと。

 たとえば夫婦喧嘩にしてもそうだ。
(私たち夫婦も、そうだが……。)
もうとっくの昔に忘れてしまってよいはずの昔の(こだわり)を持ち出して、
周期的に、同じような喧嘩を繰り返す。
「あのときお前は!」「あなただってエ!」と。

 もしそうなら、それこそ「愚か」というもの。
が、もし心の別室に気がつき、その中にどんな「私」がいるかを知れば、あとは
時間が解決してくれる。
5年とか、10年はかかるかもしれないが、(あるいは程度の問題もあるが)、
時間が解決してくれる。

 あとは心の別室を静かに閉じておく。
その問題には触れないようにする。
心の別室のドアは、開かないようにする。
対処の仕方は、シャドウ、もしくはトラウマに対するものと同じように考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW BWきょうしつ 心の別室 はやし浩司 抑圧 抑圧と
心の別室 シャドウ はやし浩司 トラウマ)

(付記)

 心の別室といっても、けっしてひとつではない。
そのつど人は、様々な大きさの別室を、作る。
作って、自分の心を救済しようとする。

 ……と考えていくと、心の別室というのは、脳の問題というよりは、習慣の問題
ということになる。
心の別室を作りやすい人と、そうでない人がいるということ。
何かあるたびに、心の別室を作り、そこへ自分を閉じ込めようとする人もいれば、
そのつど自分を発散させ、心の別室を作らない人もいる。
だから「習慣の問題」ということになる。

 もちろんできれば、心の別室など、作らないほうがよい。
そのつど自分を発散させたほうがよい。

(追記)

 同じような原稿を、この3月にも書いた。
あわせて読んでほしい。

『●「抑圧」(pressure)

+++++++++++++

昨日、「抑圧」について書いた。
強烈な欲求不満がつづくと、人(子ども)は、
その欲求不満を、心の中の別室に押し込んで、
それから逃れようとする。
が、それでその欲求不満が解消されるわけではない。
10年とか、20年とか、さらには40年とか、
50年たっても、それが何らかのきっかけで、
爆発することがある。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

++++++++++++++++++

が、こうした「抑圧」は、形こそちがえ、また
大小のちがいもあるが、だれにでもある。
あなたにもある。
私にもある。

だから、何かのことで不満を感じたら、そのつど、
外に向かって吐き出すのがよい。
けっして、心の中にためこまない。
徒然草の中にも、『もの言わぬは、腹ふくるるわざなれ』※
とある。
「言いたいことも言わないでいると、腹の中がふくれてくる」
という意味である。

が、その程度ですめばよい。
ひどいばあいには、心に別室ができてしまう。
本来なら楽しい思い出が上書きされ、不愉快な思い出は消える。
しかし別室に入っているため、上書きされるということがない。
そのまま、それこそ一生、そこに残る。
そして折につけ、爆発する。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

そして10年前、20年前の話を持ち出して、相手を責める。

こうした抑圧された感情を解消するためには、2つの
方法がある。

ひとつは、一度、大爆発をして、すべて吐き出す。
もうひとつは、原因となった、相手が消える。
私のばあいも、親に対していろいろな抑圧があるにはあった。
しかし父は、私が30代のはじめに。
母は、昨年、他界した。
とたん、父や母へのこだわりが消えた。
同時に、私は抑圧から解放された。

親が死んだことを喜んでいるのではない。
しかしほっとしたのは、事実。
それまでに、いろいろあった。
ありすぎてここには書ききれないが、それから解放された。
母は母で、私たちに心配をかけまいとしていたのかもしれない。
しかしどんな生き方をしたところで、私たちは、それですまなかった。
「では、お母さんは、お母さんで、勝手に生きてください。
死んでください」とは、とても言えなかった。

人によっては、「朝、見に行ったら死んでいたという状態でも
しかたないのでは」と言った。
が、それは他人のことだから、そう言える。
自分の親のこととなると、そうは言えない。
いくらいろいろあったにせよ、家族は家族。
いっしょに生きてきたという(部分)まで、消すことはできない。

話が脱線したが、抑圧は、その人の心までゆがめる。
そういう例は、ゴマンとある。
大切なことは、心の別室を作るほどまで、抑圧をためこまないこと。
言いたいことも言えない、したいこともできないというのであれば、
すでにそのとき、その人との人間関係は終わっていると考えてよい』。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●『ただの人(Das Mann)』 

+++++++++++++++++++++++++

「(ハイデッガーは)、自分の未来に不安をもたず、
自己を見失って、だらだらと生きる堕落人間を、
ひと(das Mann)と呼びました」(「哲学」宇都宮輝夫・
PHP)と。

+++++++++++++++++++++++++

●堕落人間

 堕落人間(ハイデッガー)は、いくらでもいる。
ここにも、そこにも、あそこにも……。
年齢が若いならともかくも、60歳代ともなると、言い訳は通用しない。
いまだに「老後は孫の世話と、庭いじり」と言っている人が多いのには、驚かされる。
「晴耕雨読」というのも、そうだ。
そういうバカげた老人像を、いつ、だれが作り上げた?

 私の知人に、公的機関の副長職を、満55歳で定年退職したあと、以後、30年近く、
庭いじりだけをして過ごしている人がいる。
30年だぞ!
年金だけで、毎月30数万円。
妻も公的な機関で働いていたから、2人の年金を合わせると、相当な額になる。

 ここで「庭いじりだけ」と書いたが、本当に庭いじりだけ。
子どもはいない。
孫もいない。
近所づきあいもしない。
まったく、しない。
もともと農家出身だったらしく、裏には、100坪前後の畑ももっている。
そのくせ周囲の家にはうるさく、隣の家にある木の葉が落ちてきただけで、樋(とい)が
つまると、その家に苦情の電話を入れたりする。

 最近、私はそういう老人がいるのを知ると、腹の底から怒りがこみあげてくるように
なった。
加齢とともに、その怒りは、ますます大きくなってきた。
ねたみとか、ひがみとか、そういう低次元な怒りではない。
人気として許せないというか、そういう次元の怒りである。
が、そういう私の気持ちを、あのハイデッガーは、みごとに一言で表現してくれた。
『ただの人(das Mann)』と。

●生きがい

 世の中には、恵まれない老人はいる。
が、その一方で、恵まれすぎている老人もいる。
その知人にしても、介護保険制度が始まって以来、週に2回、在宅介護を受けている。
……といっても、どこか具合が悪いということでもない。
ときどき見かけるが、夫婦で庭の中を、歩き回っている。
元役人ということで、そういう制度の使い方は、よく心得ているらしい。

 その知人をよく知る、同年齢のX氏は、こう皮肉る。
「あれじゃあ、まるで、毎月30数万円の税金を投入して、庭の管理をしてもらって
いるようなものですナ」と。

 が、うらやましがるのは、ちょっと待ってほしい。
いくら年金がそれだけあるといっても、また庭いじりができるといっても、私なら、
そんな生活など、数か月も耐えられないだろう。
何が「晴耕雨読」だ。
自分がその年齢になってみてはじめてわかったことがある。
それがこれ。
「老人をバカにするにも、ほどがある!」と。

 私たち老人が求めるものは、「生きがい」。
わかりやすく言えば、「自分を燃焼させることができる仕事」。
晴れの日に、畑を耕して、それがどうだというのか?
雨の日に、本を読んで、それがどうだというのか?
「だから、それがどうしたの?」という質問に、答のない生活など、いくらつづけても
意味はない。
ムダ。
そういう生活をさして、「自己を見失って、だらだらと生きる」という。

 私はその知人に、こう言いたい。
「お前らのような老人がいるから、ぼくたちは肩身の狭い思いをしているのだ」と。
若い人たちは、そういう老人を見て、老人像を作ってしまう。
誤解とまでは言えないが、しかし懸命に生きている老人まで、同じ目で見てしまう。
だから腹が立つ。

 いいか、老人たちよ、よく聞け。
あのクラーク博士はこう言った。
『少年よ、野心的であれ!』と。
本当は少しちがった意味で、「Boys, be ambitious」と言ったのだが、同じ言葉を、
私はそうした老人たちに言いたい。

『老人よ、野心的であれ!』と。
この意見は、少し過激すぎるだろうか?

(付記)

「少年よ、大志を抱け」で検索してみたら、6年前に書いた原稿が見つかった。
そのまま掲載する。

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●納得道(なっとくどう)と地図

●納得道

 人生には、王道もなければ、正道もない。大切なのは、その人自身が、その人生に納得
しているかどうか、だ。あえて言うなら、納得道。納得道というのなら、ある。

 納得していれば、失敗も、また楽しい。それを乗り越えて、前に進むことができる。そ
うでなければ、そうでない。仮にうまく(?)いっているように見えても、悶々とした気
分の中で、「何かをし残した」と思いながら生きていくことぐらい、みじめなことはない。
だから、人は、いつも自分のしたいことをすればよい。ただし、それには条件がある。

 こんなテレビ番組があった。親の要請を受けて、息子や娘の説得にあたるという番組で
ある。もともと興味本位の番組だから、それほど期待していなかったが、それでも結構、
おもしろかった。私が見たのは、こんな内容だった(〇二年末)。

 一人の女性(二〇歳)が、アダルトビデオに出演したいというのだ。そこで母親が反対。
その番組に相談した。その女性の説得に当たったのは、俳優のT氏だった。

 「あなたが思っているような世界ではない」「体を売るということが、どういうことかわ
かっているの?」「ほかにしたいことがないの?」「そんなにセックスがしたいの?」と。

 結論は、結局は、説得に失敗。その女性は、こう言った。「私はアダルトビデオに出る。
失敗してもともと。出ないで、後悔するよりも、出てみて、失敗したほうがいい」と。

 この若い女性の理屈には、一理ある。しかし私は一人の視聴者として、その番組を見な
がら、「この女性は何とせまい世界に住んでいることよ」と驚いた。情報源も、情報も、す
べて、だれにでも手に入るような身のまわりにあるものに過ぎない。あえて言うなら、あ
まりにも通俗的。「したいことをしないで、あとで後悔したくない」というセリフにしても、
どこか受け売り的。そのとき私は、ふと、「この女性には、地図がない」と感じた。

 納得道を歩むには、地図が必要。地図がないと、かえって道に迷ってしまう。しなくて
もよいような経験をしながら、それが大切な経験だと、思いこんでしまう。私がここで「条
件がある」というには、それ。納得道を歩むなら歩むで、地図をもたなければならない。
これには若いも、老いもない。地図がないまま好き勝手なことをすれば、かえって泥沼に
落ちてしまう。

●地図 

 人生の地図は、三次元で、できている。(たて)は、その人の住んでいる世界の広さ。(横)
は、その人の人間的なハバ。(深さ)は、その人の考える力。この三つが、あいまって、人
生の地図ができる。

 (たて)、つまり住んでいる世界の広さは、視点の高さで決まる。自分の姿を、できるだ
け高い視点から見ればみるほど、まわりの世界がよく見えてくる。そしてそこには、知性
の世界もあれば、理性の世界もある。それをいかに広く見るかで、(たて)の長さが決まる。

(横)、つまり人間的なハバは、無数の経験と苦労で決まる。いろいろな経験をし、その中
で苦労をすればするほど、この人間的なハバは広くなる。そういう意味で、人間は、子ど
ものときから、もっと言えば、幼児のときから、いろいろな経験をしたほうがよい。

 が、だからといって、人生の地図ができるわけではない。三つ目に、(深さ)、つまりそ
の人の考える力が必要である。考える力が弱いと、ここにあげた女性のように、結局は、
低俗な情報に振りまわされるだけということになりかねない。

 で、もう一度、その女性について、考えてみる。「アダルトビデオに出演する」というこ
とがどういうことであるかは別にして、……というのも、それが悪いことだと決めてかか
ることもできない。あるいはあなたなら、「どうしてそれが悪いことなのか」と聞かれたら、
何と答えるだろうか。この問題は、また別のところで考えるとして、まず(たて)が、あ
まりにも狭い。おそらくその女性は、子どもときから低俗文化の世界しか知らなかったの
だろう。テレビを通してみる、あのバラエティ番組の世界だ。

 つぎのこの女性は、典型的なドラ娘。親の庇護(ひご)のもと、それこそ好き勝手なこ
とをしてきた。ここでいう(横の世界)を、ほとんど経験していない。そう決めてかかる
のは失礼なことかもしれないが、テレビに映し出された表情からは、そう見えた。ケバケ
バしい化粧に、ふてぶてしい態度。俳優のT氏が何を言っても、聞く耳すらもっていなか
った。

 三つ目に、(深さ)については、もう言うまでもない。その女性は、脳の表層部分に飛来
する情報を、そのまま口にしているといったふう。ペラペラとよくしゃべるが、何も考え
ていない? 考えるということがどういうことなのかさえ、わかっていないといった様子
だった。いっぱしのことは言うが、中身がない。

 これでは、その女性が、道に迷って、当たり前。その女性が言うところの「納得」とい
うのは、「狭い世界で、享楽的に、したいことだけをしているだけ」ということになる。

●苦労

 納得道を歩むのは、実のところ、たいへんな道でもある。決して楽な道ではない。楽し
いことよりも、苦労のほうが多い。いくら納得したからといって、また前に別の道が見え
てくると、そこで悩んだり、迷ったり、ときにはあと戻りすることもある。あえていうな
ら、この日本では、コースというものがあるから、そのコースに乗って、言われるまま、
おとなしくそのコースを進んだほうが得。楽。無難。安心。納得道を行くということは、
そのコースに背を向けるということにもなる。

 それに成功するか、失敗するかということになると、納得道を行く人のほうが、失敗す
る確率のほうが、はるかに高い。危険か危険でないかということになれば、納得道のほう
が、はるかに危険。だから私は、人には、納得道を勧めない。その人はその人の道を行け
ばよい。私のようなものが、あえて干渉すること自体、おかしい。

 が、若い人はどうなのか。私はこうした納得道を歩むというのは、若い人の特権だと思
う。健康だし、気力も勇気もある。それに自由だ。結婚には結婚のすばらしさがあるが、
しかし結婚には、大きな束縛と責任がともなう。結婚してから、納得道を歩むというのは、
実際問題として、無理。だから納得道を歩むのは、若いときしかない。その若いときに、
徹底して、人生の地図を広げ、自分の行きたい道を進む。昔、クラーク博士という人が、
北海道を去るとき、教え子たちに、『少年よ、野心的であれ(Boys, be ambitious!)』と言
ったというが、それはそういう意味である。

 私も若いときには、それなりに納得道を歩んだ。しかしそのあとの私は、まさにその燃
えカスをひとつずつ、拾い集めながら生きているようなもの。それを思うと、私はよけい
に、子どもたちにこう言いたくなる。「人生は、一度しかないのだよ。思う存分、羽をのば
して、この広い世界を、羽ばたいてみろ」と。つまるところ、結論は、いつもここにもど
る。

 この「納得道」という言い方は、私のオリジナルの考え方だが、もう少し別の機会に、
掘りさげて考えてみたい。今日は、ここまでしか頭が働かない。
(03−1−10)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

● テロ支援国家?(Is North Korea a Terrorists' Support Nation?)

To: Ms. H. Clinton, the Secretary of the United States of America,

Please remember that, first of all, North Korea is not a "Terrorists' Support Nation".
It is NOT. North Korea is a "Terrorists' Nation" itself.
Now you feel terrified and something which is terrifying you by the ICBM's with nuclear 
weapons and can understand how we feel about North Korea.
We have pointed out many times in these past five years, the mistakes made by C. Hill 
and then we hope you would not repeat the same mistakes as C. Hill did through the 
6-nation conference.
 
ニュースを読んで、いろいろ考える。
その一。
アメリカのクリントン国務長官が、K国を
テロ支援国家に再指定するかもしれないと
言い出した。

テロ支援国家?
とんでもない!
あの国は、テロ支援国家ではない。
テロ国家そのもの!

「あのね、クリントン国務長官、
K国はテロ支援国家ではありませんよ。
テロ国家そのものですよ。
日本を脅し(terrified)、韓国を脅している。
今度はアメリカを脅している。
先のミサイル発射で、日本人は、どれほど
恐怖を感じたことか
つぎは核兵器。
私たちは直接的な恐怖を感じています。
だから、K国は、テロ支援国家ではありません。
テロ国家そのものです。
指定するなら、(テロ国家)そのものと指定してください」。

大切なことは、C. Hill国務次官補がした愚かなまちがいを、繰り返さないこと。
あのC. Hillは、独断と偏見で、極東アジア情勢をめちゃめちゃにしてしまった。
聞くところによると、「私が極東問題を解決してみせる」と、自ら国務省内部で
名乗り出て、あの地位に就いたとか。

その結果が今。
C. Hill氏の息子氏は、韓国のH社製の車を乗り回している。
大の韓国びいきということは、そのことでもわかる。
(ついでに、たいへんな日本嫌いということも、漏れ伝わってきている。)
それはわかるが、しかし当時の大統領は、あのノ氏。
K国の代弁者(スポークスマン)とまで揶揄(やゆ)された、あのノ氏。
結局は、C. Hill氏も、「太陽政策」とやらに乗せられただけ。
つまり、K国にだまされた。
よいように扱われた。
今ごろそれがわかっても、遅いが……。

++++++++++++++++++H.Hayashi

●韓国のみなさんへ

 あんな国を、本気で相手にしてはいけない。
相手にしても意味はない。
アジアどころか、世界でも最貧国のあんな国を、本気で相手にして、どうなる?

 ここ数日、韓国の新聞記事を呼んでいると、勇ましい好戦ばかりが目立つ。
まるで戦争ゲームでも楽しんでいるかのよう。
それもそのはず。
韓国の軍隊は、完全に近代化している。
兵隊の動きを、宇宙から、ひとり残らず、すべて監視している。
かたやK国の軍隊は、終戦直後の日本のまま。
どうあがいても、K国に勝ち目はない。
(だからこそ、核兵器に最後の望みをかけているということにもなるのだが……。)

が、しかしそれでも戦争はしてはいけない。
この話は、勝つとか、負けるとか、そういうレベルの話ではない。
K国は戦争を突破口に、自分たちの悪政を正当化しようとしている。
それがわかったら、あんな国に手を出してはいけない。
そんなことは、ほんの少しだけ想像力を働かせてみれば、わかること。

 韓国とて、無事にすまない。
K国が崩壊すれば、そのまま朝鮮半島は大混乱。
その収拾をするだけでも、たいへん!
戦後処理となると、さらに、たいへん!
核兵器が使われるようなことにでもなれば、それこそ取り返しのつかないことに
なる。
もちろん韓国経済は、奈落の底に。
日本経済も、奈落の底に。

 だったら、ここはK国の友邦国である中国に責任を取ってもらえばよい。
またそういう道筋を立てる。
韓国や日本が、あえて火中の栗を拾う必要はない。
言い換えると、K国問題は、中国問題と考える。
中国が動かないかぎり、K国は動かない。
中国も、そのことを、いちばんよく知っている。

 だからK国が仮に局地的な攻撃をしかけてきても、韓国は、そして日本も、
ノラリクラリと、それをかわせばよい。
そのつど国際社会に訴えていき、その一方で、中国を締めあげればよい。
「あなたの責任で、K国を何とかしろ!」と。

 韓国の国益、そして日本の国益、その第一は、韓国や日本を戦場としないこと。
身勝手とか、臆病者と言われても、気にすることはない。
もともとあんな国、本気で相手にする必要はない。
あんな国を相手に、正義を貫いても意味はない。
その価値もない。

 そう言えば、この日本でも敵地攻撃論が台頭してきた。
「攻撃されれば、反撃する」と。
こういうおバカがいるから、いつまでたっても、戦争は終わらない。
報復が報復を呼び、やがて戦争は泥沼化する。
で、その結果、犠牲になるのは、いつも一般の民衆。

 韓国も日本も、引けるところまで、身を引く。
さらに身を引く。
またさらに身を引く。

今こそ、私たちは、その忍耐力が試されている。
その忍耐力こそが、韓国、ならびに日本の平和と安全を守る。
けっしてうかつに手を出してはいけない。
手を出せば、それこそK国の思うツボ。
そのままK国のワナにかかる。
「待ってました!」とばかり、K国は、韓国や日本に攻撃を拡大してくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
K国のミサイル迎撃反対 ICBM迎撃反対)
(2009年6月8日朝、記)


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

●認識の甘さ(Overly Optimistic Diplomacy)

++++++++++++++++++++

中朝国境付近でK国側に身柄を拘束された、
アメリカ人記者、2人の判決が出た。
「12年の労働教化刑(懲役刑)という。

判決はともかくも、この事件の発端は、2人の
記者の認識の甘さと考えてよい。
報道によれば、2人は一度、K国内に侵入している。
手引きをしたのが、K国側のスパイだったという。
そして中国側に一度出たところで、身柄を拘束
された。
もしそうだとするなら、2人は
まんまとワナにはまったとみてよい。

その結末が、12年の労働教化刑!

++++++++++++++++++++

●C・ヒル氏

 この事件を最初に知ったとき、私がまず感じたのが、認識の甘さ。
「アジア情勢をナメている」というか、「甘く見ている」というか。
その心情は、アメリカの前国務次官補のC・ヒル氏のそれと相通ずる。

 あのC・ヒル氏は調子に乗って、ニューヨーク・フィルをピョンヤンまで
連れてくるようなことまでした。
が、K国は、そんな国ではない。
そんな国でないことは、私たち日本人なら、みな、知っている。

 2人の記者への同情心は、残念ながら、私たちには、ほとんどない。
2人の記者は、中朝国境へ向かう前、アメリカ人牧師に警告されていた。
その牧師は一度身柄を拘束されたが、命かながら、K国を脱出した。
そういう経験の持ち主である。
そういう牧師の警告を無視して、2人は、K国領土内に侵入した。

 つまり日本人の拉致問題とは、基本的には、異質の問題である。
入りたくて入ったアメリカ人記者と、行きたくもないのに、誘拐された
日本人被害者。
同じように同情しろというほうが、無理。
そればかりか、その意図が不明。
私には、ハネあがった2人の記者が、自分の名声のために、K国にノコノコと出かけて
いったようにしか思えない。
あのC・ヒル氏のように!

 時事通信は、つぎのように伝える。

【ソウル8日時事】

『K国中央通信は8日、K国の中央裁判所(最高裁に相当)が、拘束中の米国人女性記者
2人に対し、12年の労働教化刑を言い渡したと伝えた。オバマ米政権がK国の核実験を
受け、テロ支援国再指定検討など制裁強化の動きを見せている中、米国への挑発を強めた
形だ。今後、米国は身柄解放に向け、K国との交渉を働き掛ける方針だが、難航するとみ
られる。

(中略)

 判決を受けたのは、米ケーブルテレビ局のローラ・リン、ユナ・リー両記者。2人は3
月17日、中朝国境地帯で脱北者問題を取材中に捕らえられ、その後、「不法入国と敵対行
為」などの罪で起訴。K国中央通信は6月4日に「裁判を4日午後3時から始める」と異
例の事前報道を行っていた。

 今後の日程は明らかとなっていないが、これで判決が確定する可能性が高い。K国の刑
法では、朝鮮民族敵対罪は5年以上の労働教化刑で、特に、事案が重大な場合は、10年
以上としている』(ヤフー・ニュース・09年6月9日)。

 同情はしないが、不幸な事件である。
オバマ大統領も、それをよく知っている。
が、これがもし拉致であったとしたら……。
アメリカのカルフォルニアに在住している女子中学生が、拉致され、K国に連れて
行かれたとしたら……。
オバマ大統領は、海兵隊を派遣してでも、その中学生の奪還を試みるだろう。
またそういうことでもしないかぎり、アメリカの世論は、納得しないだろう。

 あのC・ヒル氏にいたっては、リップサービスだけで、拉致問題について本格的に
話し合った形跡は、ゼロ。
そればかりか、「拉致問題を棚上げして、K国援助に加われ。さもなければ、K国を
テロ支援国家指定から解除する」とまで言い切った。
そして事実、2日をおかないで、電撃的に、指定から解除してしまった。
「日本ロビーが動き出す前に……」と。
 
 こうした認識の甘さは、オバマ大統領にもあるのではないか。
いまだに「話し合いを重視」とか、何とか、夢のようなことを口にしている。
C・ヒル氏がしたのと同じ失敗を繰り返そうとしている。
結局は、彼らは、アジアのことは何もわかっていない。
私には、そうとしか、思えないのだが……。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●激太り

+++++++++++++++++++

久しぶりに、ワイフの友人のKさん(女性、68歳)を見て、
驚いた。
ほんの半年前までは、むしろ痩せ型の、ほっそりと
した人だった。
が、先月(5月)に会ってみたら、まるで別人の
ようになっていた。
太っていた。
顔が、お月様のようになっていた。
その直後、私はKさんのうしろ姿を見たが、太って
いるというよりは、体全体が、ポテポテとなったような
感じだった。

言い忘れたが、Kさんというのは、最近、専門医に
アルツハイマー病と診断された女性である。
私のエッセーの中でも、たびたび取りあげてきた。

……と書いても、どうか誤解しないでほしい。
診断名はどうであれ、会って話している間は、Kさんは、
ごくふつうの女性である。
ちゃんとした会話もできる。
道理も通ずる。
ただ、どこかものの言い方もぶっきらぼうで、人の話を聞かない。
一方的にペラペラとしゃべるだけ。
繊細な会話ができない。
そういった特徴はあるにはあるが、ごくふつうの人と、どこも
ちがわない。
それに以前からそうだったといえば、そうだった。
最近になって、とくにそうなったというわけではない。

が、そのKさんが、わずかな期間で、激太りした!

+++++++++++++++++++++

●高齢者の激太りは危険?

 「高齢者の激太りは危険」なのだそうだ。
『アルツハイマー病にならない』(朝日新聞社・井原・荒井著)の中にも、そう書いてある。
いわく「女性が高齢になってから過剰に体重を増すことは、認知症の危険因子と考え
られました」(P114)と。
(ただし正確には、ApoE遺伝子が関連していて、その遺伝子があると、たとえば摂取
脂肪が多いばあい、リスク度が約2・3倍になるという。)

が、因果関係については書いてない。
(認知症になると、激太りすることもあるのか)、それとも(激太りしたから、
そのことによって、認知症が進むのか)。
同書の中では、「肥満は、アルツハイマー病の危険因子のひとつ」とある。
肥満がよくないことは、それでよくわかる。

 で、私の解釈によれば、アルツハイマー病というのが、避けることのできない、
また治療法が確立していない病気であるとするなら、(認知症になると、
激太りすることもある)と考えるほうが、妥当ということになる。
認知症になれば、(アルツハイマー病も当然、それに含まれるが)、当然のことながら、
自己管理能力そのものが低下する。
手当たり次第、そこらにあるものを何でも口の中に入れるようになる。
思い込みも激しくなり、うつ病を併発することもある。
うつ病薬というのは、基本的にはどれにも、食欲増進薬と考えてよい。
うつ病薬を服用したため、劇太りしたという話はよく耳にする。

 つまり、(アルツハイマー病)→(自己管理能力の低下)→(思い込みがはげしくなる)
→(うつ病の併発)→(治療薬の服用)→……と進んで、Kさんは激太りした(?)。

 私が「あんなに変わってしまうと、街ですれちがっても、わからないよ」と言うと、
ワイフも「そうねエ〜」と。
つまりそれくらい、Kさんの顔つきは変わってしまっていた。

 が、この問題だけは、まさに「明日はわが身」。
けっして他人ごとで、すまされない。
仮に健康でこのまま老齢期を迎えたとしても、満80歳を過ぎれば、約80%の
人が、90歳を過ぎれば、約90%の人が、認知症になると言われている(某介護
センター所長の言葉)。
早いか遅いかのちがいがあるだけで、私もあなたも、みな、そうなる。

 加えて現在、私はダイエット中。
毎日が空腹感との闘い。
それだけにKさんの話が、身にしみた。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●特別の日(My Special Day)

++++++++++++++++++++

パジャマを脱いで、
白いシャツを着る。
薄緑の、明るいネクタイを締める。
灰色のズボンをはく。

ひげを剃って、
顔を洗う。
髪をといて、
もう一度、ネクタイを締め直す。

台所に行って、洗い物をしている
ワイフに、声をかける。

「誕生日、おめでとう!」

今日は特別の日。
休みにした。
だれにも会わない。
パソコンも持ち歩かない。

そのときアメリカにいる
二男から電話がかかってきた。

それを受けてワイフは
うれしそうに笑っていた。

+++++++++++++++++++++

●「フライト・シミュレーターX」で、空を飛ぶ

 昨夜、マイクロソフト社の「フライトシミュレーターX」を買ってきた。
ほぼ3年ぶりである。
「3年ぶり」というのは、3年ぶり。
それ以前は毎日のように、そのゲームで空を飛んでいた。
で、今回は、「X」。
最新版である。
つい先日、マイクロソフト社は、フライトシミュレーターの開発部を解散した。
だからこの「X」が、最新版、かつ最終版。

 が、進歩とは、こういうことをいう。
この4〜5年で、フライト・シミュレーターは格段の進歩を遂げた。
雲を突っ切って、空を自由に飛び回る快感は、何物にも代えがたい。

 ゆいいつの難点は、(それ故に、この3年間遠ざかっていたのだが……)、
あまりにもリアルすぎて、しばらく遊んでいると、船酔いならぬ、
空酔いをしてしまうこと。
だから遊んでも、30分程度が限度。
それ以上遊んでいると、吐き気がしてくる。
自分にそう言い聞かせながら、ソフトをインストールする。

 今ごろ三男も、同じようにして空を飛んでいるにちがいない。


●1日、1万件!

 先ほど、アクセスカウンターのついているHPとBLOGのアクセスカンターを
チェックしてみた。
 すべてにカウンターがついているわけではない。
が、それでも、それらを合計すると、昨日のアクセス数は、合計(累計)で、
1万件以上もあった。
このところ毎日、同じような数字が並ぶ。
月間ベースになおすと、30万件!

 30万件だぞ!
これにマガジン読者数を加えると、月間35万件以上!
35万件だぞ!

 現在、とくに力を入れているのが、「BW公開教室」。
このページにはアクセスカンウンターを設置している。
それによれば、このページだけでも、昨日も、400件前後のアクセスがあった。
(実際には、アクセス件数(回数)よりも、ダウンロード量(転送量)のほうが、重要。)

 ますますやる気が出てきた。
この先、プリント教材も公開してみたい。
今朝、試しに、何枚かを公開してみた。
興味のある方は、ぜひ、訪問してみてほしい!


●映画『ダウト(Doubt)』

+++++++++++++++++++

映画『ダウト』を見てきた。
星は2つの、★★。
メリル・リープ演ずるシスターは、疑惑の
牧師にカマをかけて、結果的に、牧師を
学校から追い出すことに成功する。

が、英語には、(カマをかける)という表現は
ないらしい(?)。
何かしら回りくどい説明を繰り返していた。
(日本語なら、「カマをかけた」という、その一言で、
すむのだが……。)

カマをかける……「相手に本音を吐かせるため、
たくみに誘いをかけること」(広辞苑)とある。
カマは「鎌」と漢字で書く。

敬虔なクリスチャンであったがゆえに、そのカマを
かけるということに、宗教的な罪悪感を覚えた
のだろう。
「カマをかける」というのは、「相手にウソをつくこと」
を意味する。
それがまた、この映画の柱になっている。

全体として、何かしら尻切れトンボのような感じの
映画だった。
だから星は2つ。
もう少しハラハラさせてくれたら、星は3つ。
全体の流れが、どこかチグハグだった。

(1)人を疑うというのは、いやなこと。
たいへんなエネルギーを消耗する。
いわんやあそこまで疑いつづけるというのは、
ふつうの神経の持ち主にはできない。
そこが不自然だった。

(2)牧師は果たして性的いたずらを繰り返して
いたのか?
結果的に見ると、「していた」ということに
なる。(オチを話してしまって、ごめん!)
しかしあそこまで、あいまいにしたまま、
映画を終わってしまうというのは、少し
不親切。
難解な文学小説を押しつけられたようで、
不愉快だった。

(3)牧師は(悪)、シスターは(善)という色分けが、
少し濃すぎた。
演技が少し極端すぎた。
たがいにもう少しマイルドに演技したら、もっと
よい映画になった。
本来なら、善であるシスターのほうに感情移入を
すべきなのかもしれないが、それができなかった。
私には、頭がカチンカチンのシスターにしか
見えなかった。

……ということで、やはり星は2つ。
残念!
(090610)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 7月 13日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●善なる存在(goodness in your Mind)

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心の中に、「善」を作る。
作るのがむずかしかったら、想像するだけでよい。
その「善」に、自分の心を集中させる。

信仰者であれば、そこに「神」や「仏」を置くかもしれない。
しかし私のような凡人には、それができない。
だから(善なる存在)ということになる。
それを心の中心に置く。

++++++++++++++++++++++++

●性善説

 もう何度も書いてきたことだが、人間は、基本的には、(善なる存在)である。
人間の心の中には、(善)と(悪)の、その両方が共存している。
が、それでも(善なる存在)である。
少なくとも、(善)のほうが(悪)より、優勢である。
私たちが、今、ここに存在するというのが、その証拠である。
もし私たち人間が、(悪なる存在)なら、人類は、とっくの昔に、絶滅していたはず。
20数万年という長い年月を、生き残ることはできなかったはず。

 その善と悪は、どこでどのようにして決まるか。
最近の大脳生理学の進歩には、ものすごいものがある。
脳の働きを、リアルタイムで把握できる装置もある。
そういう装置を使ったからわかったのかどうかは知らないが、人間の善悪の感覚を
司っているのが、辺縁系の中にある扁桃核(扁桃体)というところらしいということ
までわかってきた。

 たとえば人に親切にしたりすると、その信号は、大脳の連合野から、扁桃核に
伝えられる。
そこで扁桃核は、エンドロフィン系、エンケファリン系のホルモンを分泌する。
モルヒネに似た物質である。
これが脳内を甘い陶酔感で満たす。
「いいことをすると気持ちいい」というのは、そういうメカニズムによる。

●心が壊れた子ども

 これはあくまでも私の仮説だが、何らかの強烈なショックが加わると、
ショックの強弱、内容にもよるが、脳は大きな影響を受ける。
部分的に、たとえば虚血状態になったりして、機能を停止することもある(仮説)。
たとえば短期記憶などは、同じ辺縁系の中にある海馬という組織が担当する。
強烈なショックなどが原因で、その短期記憶に障害が出ることは、よく知られている。

 同じように、扁桃核も影響を受けることがあると考えられる(仮説)。
仮に昨日が停止するということになれば、「いいことをしても、気持ちいい」という
ことがなくなる(仮説)。
ばあいによっては、無感動、無表情、無感覚になることもある(仮説)。

 子どもでも、はげしい家庭騒動を経験したような子どもは、こうした症状を示すことが
ある。
長く飼っていたペットが死んでも、無表情のまま、涙ひとつこぼさないなど。

 で、一度、そうした症状が出たら、以後、その子どもが人間らしい(?)心を
取り戻すのは、容易なことではない。
一度壊れた心は、もとにはもどらない。
そう考えてよい(仮説)。

●年中児から高校3年生まで

私は若いころ、一日というサイクルの中で、幼稚園の年中児から高校3年生まで
教えた経験がある。
午前中は幼稚園で教え、午後は学習塾、夕方からは進学塾、そして夜になって
家庭教師、と。
学習塾や進学塾では、小学1年生から高校3年生までを教えた。

 それだけではない。
30代のころは、(問題のある子ども)にたいへん、興味をもった。
今で言う「AD・HD児」や、「LD児」を、求めて教えたこともある。
「〜〜障害児」と呼ばれる子どもも、求めて教えたことがある。
当時の私は、「教育万能」を信じていた。
子どもにどんな問題があるにせよ、(教える)という力によって、治す(?)
ことができると信じていた。
(結果的に、これはまちがいだったことを知ったが……。)

 そういう流れの中で、子どもたちが、受験期を迎えると、大きく変化することを
知った。

●壊れる子どもの心

 子どもが受験期を迎えるようになると、ほとんど例外なく、子どもの心は大きく
変化する。
当時、この浜松市では、中学2年生から中学3年生が、その時期に相当した。
この時期になると、つぎのような症状が現われる。

(1)ものの考え方が合理的でドライになる。(自分の利益しか考えない。)
(2)自己中心性が肥大化する。(自分勝手でわがままになる。)
(3)点数主義が支配的になる。(それによって人間の価値を決める。)
(4)心のゆとりがなくなる。(ささいなことで、攻撃的になったりする。)
(5)豊かな情感が消える。(人間的に冷たくなる。)
(6)功利的、打算的になる。(「親の恩も遺産しだい」というように考える。)

 こうした現象は、受験期特有のものなのか、それとも思春期特有のものなのか。
当時はその判断に迷った。
が、受験競争を経験しない子どもは、そのままの状態で、思春期を通り過ぎる。
このことは、オーストラリアの学生と比較しても、それがわかる。
たとえばオーストラリアの学生たちは、日本でいう受験競争というのを、
ほとんど経験しない。
そのため、オーストラリアの学生やおとなたちは、日本人にない(温かさ)をもち
あわせている。

 受験競争、とくにはげしい受験競争を経験した子どもほど、心が破壊される。
先に並べた特徴にしても、こんなことは常識で、それを疑う教師はいない。
いないが、日本人全体がそうであるため、たいていの人は、「それが日本人の国民性」
というような形で、そのまま片づけてしまう。

 いろいろなケースがある。

●S君のケース

 とくに印象に残っている子どもに、S君というのがいた。
今で言うLD児(学習障害児)だった。
私はその子どもを、小学1年生のときから、中学3年生までの9年間、教えた。

 母親は教育熱心な人で、S君がはじめて私の教室へ来たときには、かばんの中に、
難解なワークブックがぎっしりと詰まっていた。
S君の能力をはるかに超えたものばかりだった。
が、母親はこう信じていた。
「幼児期からしっかり勉強させれば、東大だって入れるはず」と。
今からもう30年近くの前のことである。
学校神話や学歴信仰が、色濃く残っていた。

 そのS君は、心のやさしい子どもだった。
記憶によれば、少なくとも中学校へ入るまでは、そうだった。
が、中学校に入るころから、様子が一変した。
母親がさらに猛烈に、S君に、勉強を強いるようになった。
入学当時、そこそこの成績を収めたのが、かえってまずかった。
母親は、「うちの子は、やればできるはず」と、それだけを狂信的なまでに
信じていた。

 が、S君には、そうした母親の威圧をやり返すだけの(生命力)をもっていなかった。
母親の前では、借りてきた猫の子のように、従順で、おとなしかった。
が、やがてすぐ問題が起きた。
S君が学校で、いじめの対象になった。
このタイプの子どもは、いじめのターゲットになりやすい。
 
●陰湿ないじめ

 それまで私は、S君は、こころの温かい、やさしい子どもと思っていた。
実際、小学生のときは、そうだった。
みなにバカにされても、「いいんだよ」と言って、笑っていた。
が、学習障害児的な(遅れ)は、いかんともしがたかった。
それゆえに、私はS君を、不憫(ふびん)に思った。
私なりにS君を懸命に守った。

 が、そうした努力が、音を立てて崩れる日がやってきた。

 そのとき私はS君と、数人のほかの生徒とともに、教えていた。
学習の遅れがますます目立ってきた。
私は責任を感じ、月謝を半分から4分の1以下にしていた。
が、母親はそれをよいことに、レッスンの回数を、それまでの週1回から、
週4回へとふやした。
私もかなりの負担を感ずるようになっていた。
が、回数がふえた分だけ、S君にも過負担になった。
授業中も、ぼんやりとした様子で、時間をつぶすことが多くなった。

そこで私は、親にはわからない方法で、2〜3年、下の学年の子どもたちの間に、
S君を入れた。
教室といっても、S君を含めて、4人前後のクラスだった。

 そんなある日のこと。
私がトイレから帰ってきて、教室へ入ったときのこと。
が、そこで私は信じられないような光景を見てしまった。

そのS君が、なんと、ほかの子どもいじめていたのである。
ふつうのいじめ方ではない。
執拗に、かつ陰湿なやり方だった。
ぞっとするような冷たさを、S君の中に、私は感じた。
私はその様子を、うしろから黙ったまま見ていた。

 ショックだった!
本当にショックだった!
学校でいじめのターゲットにされているから、そうした(いじめ)に対しては、
「ぼくはしない」という、抵抗力があるのではないかと考えていた。
が、現実は、逆だった。
それをまじまじと見せつけられたとき、S君を教えたいという気持ちが、プツンと
消えた。

 もちろんS君がそうなったのは、すべて受験競争が原因だったとは思わない。
しかしそうでなかったとは、もっと思えない。
S君は、とくに母親の異常なまでの(熱心さ)の中で、心をゆがめてしまった。
ほかにもいろいろ考えられたが、そのときはそれが、私の結論だった。

●ちがい

 もし私の書いていることについて、疑問をもつ人がいたら、あなたの周囲の人たちを
ほんの少しでもよいから、観察してみたらよい。
いろいろな人がいる。
そういう人の中でも、はげしい受験競争を経験した人ほど、独特の雰囲気をもっている。
総じて言えば、ツンとした器械的な冷たさを感ずる。
受験競争を経験しなかった人ほど、人間的な温もりをもっている。
相手を包み込むような温もりである。

 あるいは、あなた自身はどうか。
もしあなた自身も、はげしい受験競争を経験したことがあるなら、一度静かに自分の
心の中をさぐってみたらよい。
あるいは受験競争を経験しなかった人たちと、自分の心を比較してみるのもよい。
何かがちがうはずである。

 これは私自身のことだが、私もはげしい受験競争を経験している。
そのため先に書いた、6つの特徴を、みなもちあわせていた。
20代、30代のころは、そうだった。
今でも、その亡霊のようなものは残っている。
そのせいもあって、ときどき自分で自分がわからなくなるときがある。
で、結論として、こう思う。

 その結果、私は、(学歴)という切符を手にすることができた。
しかし同時に、今、私はそうでない人なら感じないはずの孤独と闘わねばならない。
一度壊れた心を修復するのは、容易なことではない。
不可能と言ってもよいかもしれない。
しかし全体としてみると、私はあのはげしい受験競争で得たものよりも、失った
もののほうが多いのではないか。

 今にしてみると、それがよくわかる。
だから……。
この先のことは、あなた自身の頭で考えてみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子どもと受験競争 受験競争 受験勉強 破壊される子どもの心)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●離別体験

うつ病の患者を調べてみたら、こんなことがわかったという。
そのうち、39%の人たちが、10歳以前に、親との死別体験、分離体験、
もしくは喪失体験をしていることがわかったという。

そうでない人は、9%しかいなかった。
(以上、社会精神医学7:114〜118)。

同じような報告は、イギリスのバーミンガム病院でも報告されている
(精神医学28:387〜393、1986)。

しかもこれらの報告で興味深いのは、「異性の親との離別体験をもった子ども
ほど、有意な差が見られた」という点である。

(1)死別体験
ただし死別体験は、「家族歴の有無と有意の関連性を示さなかった」という。
離別といっても、子どもの心に影響を与えるのは、その過程で生ずる(騒動)
である。
死別のばあい、家族は深い悲しみに包まれるが、騒動につながることはない。
「有意の関連性を示さなかった」というのは、そういう理由からではないか。

(2)分離体験(離別体験)
何かの理由により、親のもとを離れることをいう。
この場合、「異性親である際に、強いものであった」という。
父親と離別すれば、娘のほうが大きな影響を受ける。
母親と離別すれば、息子のほうが大きな影響を受ける。
どうもそういうことらしい。

(3)喪失体験(離別体験)
親の離婚などにより、親から切り離されることをいう。
とくに注意したいのが、愛情の喪失。
子どもというのは、環境の変化には、強い抵抗力を示す。
ばあいによっては、よい影響を与えることもある。
よく「転勤族の子どもは、頭がいい」と言う。
それは、そういう理由による。

が、子どもというのは、愛情の変化には敏感に反応する。
とくに愛情の糸が切れたようなとき、あるいはそれを子どもが感じ取ったとき、
子どもの心には決定的とも言えるほど、大きな影響を与える。
年少であればあるほど、大きな影響を与える。

また異性親からの離別を体験したものを調べてみたところ、
家族歴、つまり両親のどちらかに精神疾患をもっているケースでは、
20人のうち、7人(35%)が、抑うつ症状を示したという。
それに対して、家族歴のないばあいは、19人中、ゼロであったという(同)。

以上のことから、北村俊則氏は、「うつ病発症に関与していると考えられる幼少期
の離別体験は、一部には家族員の精神疾患から発生したものである
可能性が示された」と結論づけている。

わかりやすく言えば、うつ病の多くは、世代連鎖性をともなっているということ。
親が離婚するにしても、「明るくさわやかに」ということになる。
繰り返すが、離婚が子どもの心に影響を与えるのではない。
離婚に至る、ドタバタ劇が、子どもの心に影響を与える。
言い換えると、離婚しなくても、ドタバタ劇があれば、子どもの心に影響を
与えることになるということにもなる。

父親が酒乱で、数日おきに暴れたりすれば、その影響は確実に子どもに及ぶ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
離別体験 死別体験 分離体験 喪失体験 離婚騒動 離婚劇 騒動と子ども心
子供と離婚)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●もう1人の自分(反動形成)(Another Man in Me)

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 自分にとって、受けいれがたい、
もう1人の自分を感じたとき、
その自分を抑圧するために、人は、
それとは正反対の自分を演ずることがある。
これを「反動形成」という。

++++++++++++++++++++

 その中でも、とくによく知られているのが、牧師や教師による、反動形成。
たとえば、牧師や教師の中には、ことさら、セックスの話や、露骨な話を嫌ってみせる人
がいる。

 特徴は、「ことさら」、つまり、不自然なほど、大げさな様子を見せること。
信者や生徒が、「セックス」という言葉を口にしただけで、「オー、NO!」と大声で、叫
んでみせたりする。

 これは自分の職業観とは相容れない、許しがたい欲望を、自分の中で、抑圧しようとし
て起きる現象である。

 ほかに幼児の世界で、よく知られている反動形成の例に、弟(妹)思いの、よい兄(姉)
がいる。本当の自分は、弟や妹を、殺したいほど憎んでいるのかもしれない。
しかしそんな感情を表に出せば、自分の立場がなくなってしまう。

 そこでその兄や姉は、ことさら、人前で、よい兄や姉を演じてみせたりする。
しかしこれは意識的な行為というよりは、無意識下でする行為と考えてよい。本人に、そ
の自覚はない。

 さらに、その醜い本心を偽るために、仏様のように(できた人)を演ずる人もいる。
老人に多い。
自分自身の醜い素性を、隠すためである。このタイプの人は、何十年もかけて(ニセの自
分)をみがきあげているので、ちょっとやそっとでは、他人には、それを見抜くことがで
きない。
何十年も近くで住んでいる親類にすら、「仏様」と思いこませてしまう。

 反動形成であるかどうかは、先にも書いたように、「ことさらおおげさな」様子を見せる
かどうかで判断する。
反動形成による行為は、どこか様子が不自然で、ぎこちない。ときにサービス過剰になっ
たりする。

 本当はその客の来訪を嫌っているにもかかわらず、満面に笑顔を浮かべ、愛想よくして
みせる、など。

 こうして人は、本当の自分を抑圧するために、その反対側の自分を演ずることがよくあ
る。

 たとえば力のない政治家が、わざとふんぞりかえって歩いて見せるなど。
あるいは体の弱い子どもが、みなの前で、かえって乱暴に振る舞ったりするのも、それ。

 ほかにもいろいろな反動形成がある。

 本当は、たいへんケチな人が、豪快に、人に太っ腹なところを見せる。
 心の中では憎しみを感じている社員が、その上司に、必要以上にへつらう。
 自分に自信のない人が、わざと大型の馬力の大きな車に乗ってみせる、など。
 もう少し、その反動形成を、自分なりに、整理してみる。

(嫉妬、ねたみ)→(見えすいた親切、やさしさ)
(欲望、願望)→(見えすいた禁欲者、謙虚さ)
(悪魔性、邪悪な心)→(見えすいた善人、道徳者)
(闘争心、野心)→(見えすいた謙虚さ、温厚さ)
(ケチ、独占欲)→(見えすいた寛大さ、おおらかさ)
(劣等感、コンプレックス)→(見えすいた傲慢さ、大物)
(だらしない性格)→(見えすいた完ぺき主義者、潔癖主義)など。

 わかりやすく言えば、反動形成というのは、自分の心を偽ることをいう。中には、夫を
心の中で憎みながら、その反動として、つつしみ深く、できのよい妻を演ずることもある
そうだ。(私のワイフなどは、その1人かもしれない? ゾーッ!)

 あなたの中には、はたしてその反動形成による部分は、ないか? それを知るのも、ま
た別の自分を発見することにつながるのではないかと思う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW BW教室 はやし浩司 反動形成 仮面 ペルソナ)

(補足)

 たまたま今日、年長児のクラスで、おっぱいの話になった。
そのときのこと。
私が子どもたちに、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、みな、おおげさな言い方
で、「嫌いだヨ〜」と叫んだ。

 これも反動形成の一つと考えてよい。このころになると、子どもは「恥ずかしい」とい
う言葉の意味がわかるようになる。たとえば、赤ちゃんに見られることは、恥ずかしいこ
とと考える。だから(おっぱいが好き)イコール、(赤ちゃん)と考えて、それをあえてお
おげさに否定してみせたりする。

 しかしおっぱいが嫌いな子どもは、いない。とくに男児においては、そうだ。
が、中に、正直な子どもがいたりして、私が、「ウソをついてはダメだ」と、強くたしなめ
ると、小声で、しかも少し顔を赤らめながら、「好きだよ……」と言う子どももいるにはい
る。
しかしそういう子どもは、例外と考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●『汝自身を知れ』(Know Yourself)
古代ギリシャの7賢人、アポロン神殿)

++++++++++++++++++++++

おととい講演をしているとき、『汝自身を知れ』という
言葉の話をした。
しかしその場で、それがだれの言葉あるかを忘れて
しまった。
ショックだった。
あれほどまでに有名な言葉の作者を忘れてしまうとは!

スパルタのキロンだったのか?
それともギリシャのターレスだったのか?
スパルタだったのか、それともギリシャだったのか?

ソクラテスはその言葉に、電撃的な衝撃を受け、哲学
の本質を知った。

++++++++++++++++++++++

●ターレス

 私は『汝自身を知れ』というのは、長い間、スパルタのキロンの言葉と思っていた。
あちこちの原稿に、そう書いた。
が、あるとき、掲示板にそのまちがい(?)が指摘されていた。
「キロンではなく、ターレスだ」と。

 そのとき書いた原稿をさがしてみる。
が、便利になったものだ。
いちいち自分の原稿を開かなくても、ヤフーの検索を使えば、即時にそれができる。
検索窓に、「はやし浩司 汝自身を」と記入して、(検索)ボタンをクリックすればよい。

 で、わかったことは、『汝自身を知れ』とは、ギリシャのアポロン神殿に刻まれている、
七賢者の一人、ターレスの格言ということがわかった。

 しかもターレスというのは、『古代ギリシア世界には7人の卓越した賢者がいたといわれ
るが、その7人が誰であるのかについては諸説あり統一的な見解は得られていない。古代
ギリシアの7賢人として一般的に知られている人物は、ターレス(タレス)、ソロン、ペリ
アンドロス、ビアス、ピッタコス、クレオブゥロス、ケイロンである』。

『ターレス(B.C.624−546)は、名門出身だったので、初め政治家としての
道を志すが、その後天文学など自然学の研究に熱意を燃やし、万物の根源(アルケー)
を探求する自然哲学の祖としての思索を行った』(以上、『』内、Biglobe・HP
より、転載)。

 キロンではなく、ターレスだった。
思い出した!
それにターレスというのは、古代ギリシャの7賢人の1人。
スパルタ、ではない。

 で、こうした記憶というのは、しっかりと上書きしておかねばならない。
また時間がたつと、その下の記憶が表に出てきてしまう。
記憶が混乱してしまう。

 古代ギリシャの7賢人の1人、ターレスが、ギリシャのアポロン神殿に残した言葉。
それが結論ということになる。
が、不安が残る。
このところ自分の脳みそが信用できなくなった。
こういうときは、どうするか?
どうすれば、記憶として、脳みその中に残すことができるか?
ウ〜〜ン……。
高校の受験生のように、クソ暗記するしかない。
キーワードは、「古代ギリシャ」「アポロン神殿」「ターレス」である。
どれもよく知っている言葉だが、どうかすると、ポンとそれらの言葉を思い出せ
なくなってしまう。
脳みその老化が進むと、そういう現象はよく起きるという。
「ド忘れ」ともいう。
これから先、そういうことが多くなるだろう。
心して、脳みその中に叩き込もう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BW教 ターレス はやし浩司 汝自身を知れ 
古代ギリシャ 7賢人 アポロン神殿 はやし浩司 キロン)

こうして(↑)、検索ワードを書き加えておけば、ヤフーもしくは、グーグルでの検索
ができるようになる。
すでに多くの人もしていると思うが、私がオリジナルに考えた方法である。)

 またこういうことも言える。
私はすでに、この5年間だけでも、3万ページ以上(40x36字)の原稿を書いた。
が、2600年後に残る言葉など、一行もないだろう。
しかしたーレスは、アポロン神殿に、『汝自身を知れ』という言葉を残した。
たったの一言である。
しかしその一言が、2600年を経た今、哲学の(柱)になっている。
すごいことだと思う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BW教 ターレス はやし浩司 汝自身を知れ 
古代ギリシャ 7賢人 アポロン神殿 はやし浩司 キロン)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【我ら、ヤング・オールド・マン】(1)

              浜松市 入野町  はやし浩司

●無料の植物観察会

昨日、講演をさせてもらった、S小学校の校長から、こんな話を聞いた。なんでもその
老人は、今年84歳になるという。元、小学校の教師。毎月、一回、植物観察会を開い
ているという。無料で開いているという。

日時と集合場所が、毎月、決まっている。が、集まる会員と人数は、そのつどちがうら
しい。雨の日などは、ゼロになることもあるという。が、その老人は休むということを
しない。雨の中で、会員が来るのをじっと待っているという。そして時刻になっても、
だれも来ないと、それを確かめたあと、その場を離れて、家に帰る、と。
 
その話を聞いて、「すばらしい」と思う前に、私自身の近未来の目標を示してもらったよ
うで、うれしかった。「私もそうしたい」と。

●老後の生きがい

 私自身もそうだったが、(老後の生きがい)について、みな、あまりにも安易に考えすぎ
ている。「安易」というより、「何も考えていない」。

 「老後になったら、休む」とか、「遊ぶ」とか言う人は多い。しかし「遊べ」と言われて
も、遊べるものではない。「休め」と言われても、休めるものではない。だいたいた、遊ん
だからといって、それがどうなのか? 休んだからといって、それがどうなのか? 私た
ちが求めているのは、その先。「だからそれがどうしたの?」という部分。つまり、(生き
がい)。

 もしそれがないようだったら、私のように死ぬまで仕事をするということになる。仕事
をつづけることによって、老後になるのを、先送りすることができる。が、仕事がいやな
のではない。仕事ができるということも、喜びなのだ。その(喜び)を絶やさないように
する。

 目が見える。音が聞こえる。ものを考えることができる。体が動く。……それらすべて
が集合されて、(生きる喜び)につながる。

●自分との戦い

 その老人の気持ちが、痛いほど、私にはよく理解できる。その老人にしてみれば、それ
が(生きがい)なのだ。雨の日に、ひとりで、どこかで待つのはつらいことだろう……と、
あなたは思うかもしれない。「なんら得にもならないようなことをして、何になるだろう」
と思う人もいるかもしれない。しかしその老人は、そういう世俗的な同情など、とっくの
昔に超越している。そこらのだれかが、名声を求めて派手に振る舞う偽善とは、中身がち
がう。心の入れ方がちがう。

 その老人にしてみれば、参加者が来ても、また来なくても、かまわない。たった1人で
もよい。多ければ多いほど、やりがいはあるだろう。しかし(やりがい)イコール、(生き
がい)ということでもない。つまりそれは他者のためではない。自分自身のため。老後の
生きがいというのは、つまるところ、(自分自身の生きがい)。それとの戦いということに
なる。

●統合性は、無私無欲で……

 まだその芽は、小さいかもしれない。しかしその心は、私も大切にしたい。

何度も書くが、「老後の統合性」は、無私無欲でなければならない。そこに欲得がからん
だとたん、統合性は意味を失い、霧散する。仮にその老人が会費なるものを徴収して、
観察会を開いていたとしたら、どうだろうか。最初のうちは、ボランティア(=無料奉
仕)のつもりで始めても、そこに生活がからんできたとたん、(つもり)が(つもり)で
なくなってしまう。「今日は1人しか来なかった……」という思いは、そのまま落胆につ
ながる。「雨の中で待っていたのに、だれも来なかった。みな、恩知らず」と思うように
なったら、おしまい。

 だったら、最初から、無私無欲でなければならない。またそうでないと、つづかない。
こうした活動は途切れたとたん、そこで終わってしまう。生きがいも、そこで消えてしま
う。つまりそれがいやだったら、最初から無私無欲でやる。何も考えず、無私無欲でやる。

 もちろん私にもいくつかの夢がある。そのひとつは、「子育て相談会」。今まで積み重ね
てきた経験と知恵を、若い親たちに伝えたい。もちろん無料で。もちろん損得を考えるこ
となく。そうした計画は立てている。

 今は、インターネットを利用して、その(まねごと)のようなことをしている。しかし
それもやがて限界に来るはず。無私無欲とは言いながら、いつもどこかで、何かの(得)
を考えている。アクセス数がふえれば、うれしい。ふえなければ、とたんにやる気を失う。
つまりそれだけ私の心が不純であることを示す。

 もっとも仕事ができるといっても、あと8年。70歳まで。そのころまでに、私の統合
性を確立したい。少しずつだが、その目標に向かって、進みたい。そしていつか……。

 どこかの会場で、ひとりでポツンと、来るか来ないかわからない親を待つ。そして時間
が来て、だれも来なくても、そんなことは気にせず、鼻歌でも歌いながら、会場を片づけ
る。そんな日が来ればよい。そんな日が来るのを目標にしたい。

(注)統合性の確立……(やるべきこと)と(現実に自分がしていること)を一致させる
ことをいう(エリクソン)。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●6月6日(土曜日)(June 6th)

+++++++++++++++++

ここ数日、涼しいというよりは、寒い。
ワイフは、「ダイエットをしているせいよ」とも言うが、
それにしても寒い。
4月に30度を超えた地域もあったというが、この寒さは
何か。

地球寒冷化?
……ということはありえないとしても、コタツを早々と
片づけてしまったのを、少なからず、後悔している。

+++++++++++++++++

●三途の川(フブル川)(メソポタミアの死後の世界観)

 三途の川の起源は、古くメソポタミア文明にまでさかのぼることができる(?)。
メソポタミア文明……紀元前3000〜3500年。
今から5500年ほど前ということになる。
また、釈迦が誕生する3000年も前の昔のことである。

 メソポタミア文明といえば、高度に知的であったことで知られる。
同じころ中国の黄河流域では、黄河文明が栄えていた。
ともに周囲の文明(?)とは、かけ離れた文明であったことには、まちがいない。
人間の多くは、まだ火を使って食べ物を調理するいう技術すら、知らなかった。
そういう中にありながら、メソポタミアでは、天文学はもちろん、末端では
メッキ技術も手にしていたという。

 それはともかくも、三途の河に似た話が、メソポタミア文明に中にもあるというのは、
たいへん興味深い。

 学研版『天使と悪魔』によれば、こうある。

『……この地域の世界観では、まず天上には神の世界がある。
人間が住む地表の下には、アプスーと呼ばれる淡水の固まりの神が横たわっており、
その下に「不帰の国」と呼ばれる冥界、すなわち死者の国があるとされた。
つまり現界と冥界の間は、この巨大な川によって隔てられていたわけだ。
いわゆる三途の河で、その原形はすでにこの時代から存在していたのである。

 この不帰の国へ行くには、当時、この三途の川(フブル川という)を渡らねば
ならないわけだが、そのあともさらに死者の旅はつづく。
というのも、それぞれに恐ろしい門番が待機する7つの門をくぐりぬけ、さらに
不帰の国では生前の記録に基づいた審判を受けねばならない。ここまできて、
ようやく冥界に住むことを許されるのだ』(P139)と。

 どこか私たち日本人がもっている(常識?)と似ている。
言いかえると仏教が日本へ伝来する過程で、メソポタミヤ流の世界観が、それに
混入したということは、じゅうぶん考えられる。
こういう例は、たいへん多い。
たとえばあの「盆供養」という儀式にしても、アフガニスタン周辺の「ウラバン」
という儀式がそのまま中国に入り、「盂蘭盆(ウラボン)」となった。
そこから「盂蘭盆経」という偽経が生まれた。
それがそのまま日本へ入り、盆供養という儀式なった、など。
ほかにも中国や日本の仏像が、古代インドの衣服ではなく、古代ギリシャの
衣服をまとっているなども、ある。
だいたい釈迦自身は、(あの世)については、一言も触れていない(法句経)。

 それはともかくも、メソポタミアの世界観をもう一度整理してみると、こうなる。

(天上の神の世界)
   ↓
(人間が住む地表の世界)
   ↓
(アプスーと呼ばれる神の支配する淡水の世界)
   ↓
(冥界)

 人は死ねば、フブル川を渡って、冥界へ入る。
そのとき恐ろしい門番が待機する7つの門をくぐり抜けなければならない。
が、ここで出てくる、「7つ」というもの、心にひかかる。
日本でも、「七七(四九日)の供養」を重要にしている。
「恐ろしい門番」というのは、日本でできた最悪の偽経『地蔵十王経』にも通ずる。
この地蔵十王経によって、「〜〜回忌」という法要儀式が、日本の中に定着した。

フ〜〜ン?

 何か臭いぞ。
におうぞ。
おかしいぞ。
メソポタミアでそういう世界観があったとするなら、シルクロードを経て、
その世界観は、当然のことながら中国にも伝わっていたはず。
そのあと数千年を経て入ってきた仏教に、そうした世界観が混入したと考えても、
何もおかしくない。
 
 ここでもう一度、私が書いた原稿(08年9月)を、読んでみてほしい。

+++++++++++++++++++++

【堂々たる迷信】(初七日、四十九日の法要)

●地蔵十王経

「地蔵十王経」の由来については、ウィキペディア百科事典が、詳しく書いている。
難解な文章がつづくが、そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で偽経の『閻羅王授記四衆逆修生七往
生浄土経』(略称として『預修十王生七経』)が作られ、晩唐の時期に十王信仰は成立した。
また道教経典の中にも、『元始天尊説?都滅罪経』、『地府十王抜度儀』、『太上救苦天尊説消
愆滅罪経』という同名で同順の十王を説く経典が存在する。

『預修十王生七経』が、一般的な漢訳仏典と際立って異なっている点は、その巻首に「成
都府大聖慈寺沙門蔵川述」と記している点である。漢訳仏典という用語の通り、たとえ偽
経であったとしても、建て前として「○○代翻経三蔵△△訳」のように記すのが、漢訳仏典の
常識である。

しかし、こと「十王経」に限っては、この当たり前の点を無視しているのである。この点
が、「十王経」類の特徴である。と言うのは、後述の日本で撰せられたと考えられる『地蔵
十王経』の巻首にも、同様の記述がある。それ故、中国で撰述されたものと、長く信じら
れてきたという経緯がある。ただ、これは、『地蔵十王経』の撰者が、自作の経典の権威づ
けをしようとして、先達の『預修十王生七経』の撰述者に仮託したものと考えられている。
また、訳経の体裁を借りなかった点に関しては、本来の本経が、経典の体裁をとっておら
ず、はじめ、礼讃文や儀軌の類として制作された経緯に拠るものと考えられている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

要するに、「地蔵十王経」というのは、中国でできた偽経の上に、さらに日本でできた偽経
ということ。

が、この「地蔵十王経」が、日本の葬式仏教の基本になっているから、無視できない。
たとえば私たちが葬儀のあとにする、初七日以下、四十九日の儀式など、この「地蔵十王
経」が原点になっている。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

死者の審理は通常七回行われる。没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)・初江王
(十四日)・宋帝王(二十一日)・五官王(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二
日)・泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理を担当する。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場合は次の審理に回る事は無く、抜けて転生し
ていく事になるため、七回すべてやるわけではない。一般には、五七日の閻魔王が最終審
判となり、ここで死者の行方が決定される。これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」と
いう慣用句の語源となった。

七回の審理で決まらない場合も考慮されており、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)・
都市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道
のいずれかに行く事になっており、追加の審理は実質救済処置である。もしも地獄道・餓
鬼道・畜生道の三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が
積まれる仕組みとなっている。

なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪
の嘆願を行うためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないを無くすた
めの受け皿として機能していたようだ。

現在では簡略化され通夜・告別式・初七日の後は四十九日まで法要はしない事が通例化し
ている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

つまり人は死ぬと、7回の裁判を受けるという。

死後、七日ごとにそれぞれ、

(1)秦広王(初七日)
(2)初江王 (十四日)
(3)宋帝王(二十一日)
(4)五官王(二十八日)
(5)閻魔王(三十五日)
(6)変成王(四十二日)
(7)泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理がされるという。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場ばあいは、つぎの審理に回ることはなく、
抜けて転生していくことになるため、七回すべてやるわけではないという。

一般には、五十七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。これを
引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となったという(参考、引用、ウ
ィキペディア百科事典より)。

わかりやすく言えば、最終的には、五十七目に、閻魔王が、その死者を極楽へ送るか、地
獄へ送るかを決めるという。
私たちも子どものころ、「ウソをつくと、閻魔様に、舌を抜かれるぞ」とよく、脅された。

しかしこんなのは、まさに迷信。
霊感商法でも、ここまでは言わない。
もちろん釈迦自身も、そんなことは一度も述べていない。
いないばかりか、そのルーツは、中国の道教。
道教が混在して、こうした迷信が生まれた。

極楽も地獄も、ない。
あるわけがない。
死んだ人が7回も裁きを受けるという話に至っては、迷信というより、コミック漫画的で
すらある。

法の裁きが不備であった昔ならいざ知らず、現在の今、迷信が迷信とも理解されず、葬儀
というその人最後の、もっとも重要な儀式の中で、堂々とまかり通っている。
このおかしさに、まず私たち日本人自身が気づべきである。

「法の裁きが不備であった昔」というのは、当時の人たちなら、「悪いことをしたら地獄へ
落ちる」と脅されただけで、悪事をやめたかもしれない。
そういう時代をいう。

「死」というのは、どこまでも厳粛なものである。
そういう「死」が、ウソとインチキの上で、儀式化され、僧侶たちの金儲けの道具になっ
ているとしたら、これは問題である。
このおかしさ。
そして悲しさ。

仏教を信ずるなら信ずるで、もう一度、私たちは仏教の原点に立ち戻ってみるべきではな
いだろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地蔵十王経 初七日 四十
九日 法要 偽経)

++++++++++++++++++

 が、さらに調べていくと、メソポタミア文明にまで、そのルーツをたどることが
できる(?)。

 「7つの門(メソポタミア)」と、「7回の審理(地蔵十王経)」。
「7」という数字は、偶然の一致なのだろうか?
私にはストーリーの内容からして、偶然の一致とは、どうしても思えない。
が、ここでは「?」としておく。

 もちろんだからといって、何も日本の仏教や宗教を否定しているのではない。
まちがっていたら、正す。
そういう姿勢こそが私は、日本の仏教がこれから先、生き残る唯一の方法だと
確信している。

 日本の仏教界のみなさん、がんばれ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BW教室 メソポタミア 三途の川 死生観 冥界
あの世論 はやし浩司 地蔵十王経)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●まるでゲーム感覚?

+++++++++++++++++++++

韓国の中央N報の記事を読んでいて、
ふと「これが現実か?」と、わが目を疑ってしまった。
まるでゲーム感覚。
ゲームそのもの。
ゲームの世界での話ならわかる。
私も、パソコン草創期のころには、ゲームソフト
を買ってきてよく遊んだ。
その中には、「大戦略」というソフトもあった。
武器を配置ながら、戦争をするというゲームである。
それなりに楽しんだが、しかしそれはあくまでもゲーム。
しかし中央N報の記事は(現実)。
まぎれもない(現実)。
だから、わが目を疑ってしまった。
こんな感覚で戦争が始まったら、それこそたいへんな
ことになる。
何も「西海紛争」だけで終わるはずがない。
もしこの通りにして終るとしたら、(終わるはずもないが)、
それこそゲーム。
報復は報復を呼び、やがて引き返しがつかないところまで
進んでしまう。

+++++++++++++++++++++

●K国軍は、壊滅?

 韓国の中央N報はつぎのように伝える(6月6日)。

『K国の核実験に続くミサイル発射で西海(ソヘ、黄海)北方限界線(NLL)の緊張が
高まっている。4日にはK国警備艇が西海延坪(ヨンピョン)島付近で中国漁船の取り締
まりを口実にNLLを51分間侵犯した。K国の挑発はミサイル発射とともに西海NLL
付近で行われる公算が大きいものと軍当局は予想している。北東アジアの火薬庫で戦闘力
が最も密集された西海NLLでの南北戦力を比べてみる。

K国は西海NLL北の沙串(サゴッ)とチョ島などに80〜100隻の哨戒艦と警備艇、
魚雷艇を集結させている。有事時、一挙に下って韓国の海軍を攻撃するものと予想される。
またK国は序盤に韓国艦艇はもちろんペンリョン島、延坪島を制圧するために100丁以
上の海岸砲を長山串と壅津郡に集中配置した。ペンリョン島の海兵隊は地下陣地の中にい
るが、K国軍の砲火は非常に荒いものとみられる。K国軍は初期奇襲に向け、平壌南側の
黄州、クァイル、谷山基地に110機のミグ21とミグ19戦闘機も配置している。 

  K国陸海空軍の奇襲は韓国軍の防御に相当な負担となる。しかし軍当局はK国軍が奇襲す
れば現場指揮官が直ちに強力対応するよう指示した状態だ。特にわが軍は自動化されて正
確度がかなり高い武器で警戒する計画だ。これによって海上戦は3〜4日でK国艦艇がほ
とんど潰滅できるものといわれている。またK国のシルクワームなどの地対艦とSA5な
どの地対空ミサイル基地は、F15Kで発射されたスラム−ERが、海岸砲はF15Kと
F16が投下した合同直撃弾(JDAM)が精密破壊する。K国空軍機の大規模攻撃は韓
国型構築艦に装着された艦対空ミサイルSM2によってほとんど撃墜されるものとみられ
ている』(以上、中央N報 09年6月6日)と。

 以上を要約してみると、こうなる。

(1)紛争は西(=黄海)で起こる可能性が高い。
(2)K国軍は、奇襲作戦をとるはず。
(3)K国の兵力は、80〜100隻の哨戒艦と警備艇、魚雷艇。
(4)ほかに、100丁以上の海岸砲、
(5)110機のミグ21とミグ19戦闘機。

これに対して韓国側は、

(1)自動化されて、正確度がかなり高い武器で警戒する計画をもっている。
(2)地対空ミサイル基地は、F15Kで発射されたスラム−ERで攻撃。
(3)海岸砲はF15Kと、F16が投下した合同直撃弾(JDAM)で精密破壊する。
(4)K国空軍機の大規模攻撃は、艦対空ミサイルSM2によってほとんど撃墜する、と。

 こうした記事を読むまでもなく、K国側に勝ち目はまったくない。
たとえて言うなら、弓と矢で機関銃に立ち向かうようなものである。
たとえば数日前、K国側の海岸基地の写真が載っていたが、驚くなかれ、
それは粗末な木造づくり。
まるで壊れたブタ小屋か、犬小屋のようでもあった。
屋根にはトタン板が載せられ、その上に土がかぶせられていた。
今どき信じられないような話だが、私が見たかぎり、これは事実である。

 が、戦争をすれば、韓国側とて、ただではすまない。
またK国側が、そのまま敗退するとは、考えられない。
へたをすれば、そのまま全面戦争へと突入する。
それこそソウルは、火の海となる。
もちろん日本も大きな影響を受ける。

その瞬間から、日本の株価、債権、円は急降下。
ノドンが一発でも日本で爆発すれば、日本の経済はマヒする。
被害を勘案すれば、戦争をしてよいことは、何もない。
けっしてゲーム感覚で、戦争などしてはいけない。

が、もしそれでも……、ということになれば、今まで私が繰り返して書いてきたように、
K国を、自然死にもっていく。
そのためには、K国に対しては、国際的な圧力を加えていく。

 で、これには条件がある。

(1)日本はけっして、単独でK国を相手にしてはいけない。
(2)鍵を握るのが、中国ということになる。
(3)圧力を加えすぎて、K国を暴発させてはいけない。

 圧力というのは、ズバリ兵糧攻めをいう。
食糧、原油、マネーの3方向から、ジワジワと、K国を締めあげる。
……こう書くと、「それでは、日本は日本だけのことを考えれば、それでいいのか」と
反論する人がいるかもしれない。
そう、それでよい。
これは戦争である。
まさに戦争である。
日本は、何も(いい子)ぶることはない。
こちらにはその気はなくても、向うには、その気がある。
その気があって、ミサイルや核兵器を用意している。
そんな国に対して、日本は遠慮する必要は、まったく、ない。
平和もけっこうだが、「戦争はいやだ」と逃げ回るのは、けっして平和主義でも
何でもない。
ただの「おく病」という。

世界はそれほど完成されていない。
日本のように(できのよい国)ばかりでもない。
だったら、日本も腹を据えて、日本の国益を第一に考えて行動する。
日本のことだけを考えて行動する。
それが「戦争」というものである。

大切なことは、ただの1人も、日本人の犠牲者を出さないこと。
ただの一発も、この日本に爆弾を落とさせないこと。
それだけを考えて、あとは、賢く、ただひたすら賢く行動する。
繰り返すが、戦争では、けっして(いい子)ぶってはいけない!
(09年6月6日記)

(付記)
正義はどうなるのかと心配する人もいるかもしれない。
「日本人としての正義はどうするのか」と。
しかしあんな国を相手に、正義を説いても意味がない。
またその価値もない。
相手は頭のおかしい、ただの独裁者。
自国の失敗を他国に押しつけ、ありもしない他国の脅威を勝手に作りあげて、
独りで騒いでいる。
独りで芝居をしている。
どこまでも悲しく、どこまでもあわれな国である。
だから、ここは『負けるが勝ち』。
要するに相手にしないことこそ、懸命。
それがわからなければ、街角で、チンピラに因縁をつけられたときのことを想像して
みればよい。
あなたはそんなチンピラを相手に、正義など説くだろうか。
たぶん鼻先でフンと笑って、無視して通り過ぎるだろう。
が、それでも殴りかかってきたら……。
そのときは警察、つまり国際社会に訴えていけばよい。
正義を説くなら、相手を選ぶ。
それができてこそ、日本は、先進国なのである。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●23%から21%へ

++++++++++++++++++

体脂肪率が、23%から21%にまで減った。
体重は68キロから64キロに。
肥満度表を見ると、まだ軽肥満の範囲だそうだ。
(健康値と軽肥満のちょうど境目あたりかな?)

2%!
たった2%!
それだけ減らすのに、結構、苦労をした。
食事も1日、2食。
運動も、1日、2単位前後。
(1単位は、40分のサイクリングか、強歩。)

苦しい戦いは、あと1、2週間はつづく。
がんばろう。

++++++++++++++++++

●ダイエットの実感

 おかげでここ数日、自分の体を軽く感ずる。
椅子から立ち上がったときなどに、それを強く感ずる。
少し前は、「ヨイ〜〜ショ!」という感じだったが、今は、「ヨイコラサ」
という感じ。

もっとも子どもたちは、こう言う。
「ぼくたちは、自分の体の重さを感じないよ」と。

私「でも、体重ってものがあるよ」
子「ぼくの体は、重さがないよ」
私「そんなことないよ。重いと思わないのか?」
子「ゼンゼン……」と。

 そう言えば、頭蓋骨というのは、結構重いのだそうだ。
体重の3分の1〜4分の1という説もある。
それによれば私の頭蓋骨は、15キロ前後もあることになる。
夏のスイカよりは、重いはず。
が、こと、頭に関しては、その重さを感じない。
きっと子どもたちも、そういう感じなのだろう。

 そう言えば、ワイフも同じようなことを言った。
「自分の体重を感じたことはないわ」と。

 ウラヤマシイ!

 そういう自分になれるように、もう少しがんばってみよう。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●6月4日(木曜日)
【My Class on the Net】
++++++++++++++++++++++++

毎朝、パソコンを立ち上げると、まっ先にみるのが
『BW公開教室』へのアクセス数。
昨日(6月3日)は、約400件を記録した。
1か月前と比較しても、倍増したことになる。
その数字を見ながら、ホ〜〜ッと、一息。
うれしかった。

現在、いちばん力を入れているのが、この『BW公開教室』。
毎晩、仕事から帰ってくると、30〜40分ほど時間をかけて、
ビデオの編集をする。
(YOUTUBEへのアップロードには、30分ほど
かかる。
その間は、別のパソコンで、原稿を書く。
居間へおりていって、テレビを見ることもある。)

ますますやる気が出てきた。
おまけに最近は、親たちのほうから、要望が届くようになった。
「しっかりと撮影日時を入れてほしい」とか、
「ビデオのあとに、レッスンの内容を説明してほしい」とか、など。
「家に帰ってから、復習ができるからいい」とか、「参観できない
父親が見ることができるのでいい」という意見も、ある。

当初は子どもたちの顔を写すことについて、拒絶反応を示していた親たちも、
「子どもの表情を撮ってほしい」と言うようになった。
撮りたいが、今しばらく、それについては待ってほしい。
もう少し、たがいの信頼関係が熟成されてからでないと、これはむずかしい。
それに子どもの(プライバシー)がそのままわかってしまう。
もっともYOUTUBEは、画質が荒いので、顔がはっきりとわかることはない。

ただこれはあくまでも私の希望ということになるが、こうして動画が
いつか楽しい思い出になればよいと願っている。
子どもといっしょに動画を見ながら、「あなたにも、こんなときがあったのね」と。

ともかくも、『BW公開教室』を見てくれるみなさん、ありがとう。
私はみなさんの子どもに、(教室)を提供する。
みなさんは私に、(生きがい)をくれる。
こういうのを、ギブ&テイクという。
これからも、よろしく!

++++++++++++++++++++++++

●講演の出だし(Speech)

今度の講演の出だしが、決まらない。
ハラハラハラ……。
出だしさえ決まれば、あとは楽。
流れに乗って、そのまま話しつづければよい。
が、その出だしでつまると、あとがたいへん。
ときに講演が、支離滅裂になってしまう。

ときに、壇上にあがるまで出だしが決まらないことがある。
で、話を聞きに来てくれた人たちの顔をながめた、その瞬間、
「ええい、ままよ!」とばかり、思いついたことを話す。

講演というのは、そういうもの。
その場の雰囲気で、話の方向が決まる。
予定通りというか、用意していたレジュメ通りにはいかない。
野球で言えば、ピッチャーの投げるボールのようなもの。
ボールが投げられた瞬間に、ボールをどう打つか、決める。


●K国情勢?【Down with Kim Jong-HILL】

現在(09年6月1〜3日)、朝鮮半島で奇妙なことが起きている。
ひとつは、金xxの後継者が、金正雲(三男)に決まったというニュース。
しかしこのニュースの出所が、へん?
おかしい?
韓国政府の中層部の職員が、勝手に(?)、全世界に向けて発信したらしい。
理由はわからない。
韓国政府はあわててそれを否定。
アメリカ政府も、「確認していない」とコメントを発表。
いったい、どうなっている?

もうひとつは、K国はまたICBMの発射実験をするらしい。
その準備に取りかかっているという。
が、それについて、昨日(3日)、在韓米軍の司令官だと思うが、
不快感を表明した。
「アメリカが発表する前に、韓国が勝手に発表してしまった」と。
アメリカ側は、そのニュースを、もう少し伏せておきたかったらしい。
なぜだろう?

こういう世界には、謀略はつきもの。
ときに何が本当で、何がウソがわからなくなる。
同じ首脳会談でも、当事者の国によって、発表内容が異なったりする。
先のボスワース代理大使の発言が、そうだ。
韓国側の報道によれば、「6か国協議は意味がない」と発言したとある。
が、日本側の報道によれば、「米朝協議は6か国協議の範囲でする」とある。

どうであるにせよ、あのボスワースの動きには警戒したほうがよい。
C・ヒルが作った(流れ)を、そのまま踏襲している。
あのミサイル発射実験(4月5日)のあと、すでにK国と、水面下で
数回以上、接触を繰り返したという。
「7回、接触した」という情報も届いている。

それにしても、あのC・ヒルには、言いたいことが山のようにある。
いいかげんな希望的憶測だけで、無意味な米朝会談を繰り返してしまった。
結果、日米関係は、戦後最悪という状態にまでなってしまった。
その間に、K国は、核兵器を完成させてしまった!

それゆえに、日本人はC・ヒルを、人は、キム・ジョン・ヒルと呼ぶ。
(There we never hesitate to call C. Hill "Kim Jong HILL.")

なお、K国は、テロ支援国家ではない。
テロ国家そのものである。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●友だちから、孤立する子ども(中1)

++++++++++++++++++

仙台市にお住まいの、KUさん(母親)から、
長男についての相談が届いています。
「学校で、友だちもできず、いつも独り」とか。

++++++++++++++++++

【KUさんより、はやし浩司へ】

はじめまして。突然の相談ですみません。

息子のことで夫婦ともに悩んでいます。アドバイスお願いします。

今年4月から中学になり2か月が経ちましたが、友達もできず、教室ではいつも独りの
ようなんです。

息子は、「今のクラスは嫌、友だちになりたい子がいない」と言います。

私は、無理に友だちを作らなくても自然にできるよ。と考えています。でも、主人は、
嫌でも自分から積極的に話しかけて友だちを作れと考えています。

小学生のころは友だちもいましたが、その友だちが新しい友だちを連れてくると、
急におとなしくなり、黙り込んでしまったりします。

家族で外出した際に学校の友だちを見つけると隠れることもあり、そんな息子を見てつ
い叱ってしまったこともあります。

中学の今でも登校する時、偶然同じ学年の子と会っても挨拶すこともなく、避けるよう
に行ってしまいます。

先生に聞くと、学校では積極的に自分から動くことはなく、授業中もうつむいている
ことが多い、ということです。

そのせいか、先生からも注意されたり、やる気がないようなことを言われたみたいです。

自分に自信がないことがすべてなのかもしれない、自然に友だちができるということでも
ない。もっと自信をつけてあげなければ、と思っていました。

でも、これまで私は息子に口うるさく言いすぎたのかもしれません。

歯磨きしなさい・宿題しなさい・学校の用意をしなさい・早く起きなさい・塾の宿題
は?・・・・

(娘にはあまり言った記憶がない。お兄ちゃんが注意されるのを見て、自分もしなけ
れば・・・と思い、していたからかもしれません。)

息子は周りを気にするあまり、自分が見えていない。主人と話すときも自信がなさそ
うな小さな声でボソボソ話したり、黙り込んでしまいます。
主人がイライラして叱ることもあります。
私から見ると、人の話をちゃんと聞いて、自分の考えを人に伝えることが苦手なように
思えます。

アトピーも中学に入ってひどくなり、授業中も頭をかいたり、目をこすったりしてい
るようなので、薬を飲んで塗りなさいと言うのですが、私たちが言うまで塗りません。

下の娘は明るくともだとも多い方です。娘はお兄ちゃんのこと好きですが、周りの友
だちから「おとなしいお兄ちゃんやな」と、よく言われると言っています。

今、一番息子にとって楽しいのは部活の卓球です。

部活だけは毎日頑張って練習したり、家でも練習したりしています。

このままだと、集団生活ができず、高校・社会人になったときに必ず苦労するから、
いま私たちが夫婦で決めたことは、

私は息子にガミガミ言わず、学校のことは聞かない・言わない。
主人が息子と話すようにし、叱ったり、褒めたり、勉強を見たりしています。

今朝、息子は宿題・時間割をしないで、ダラダラしていたので主人に叱られていました。

いろいろと書きましたが、息子が自分から何でも興味を持って毎日楽しく、学校も友
達も部活も笑顔でできるには何をしてあげたらいいのでしょうか。

【はやし浩司よりKUさんへ】

●K君の問題点

 息子さんの名前を、K君(中1)とします。
そのK君は、今、心の中で、こう叫んでいます。
「ぼくは、どうすればいいのだ!」「どこへ行けばいいのだ!」、とです。
親の過関心と過干渉で、K君の「私」(=自我)は、こなごなにされてしまっている(?)。

 ……いきなりきびしいことを書きましたが、症状としては、回避性障害、対人恐怖症、
あるいは軽い抑うつ状態が考えられます。
アトピーがひどくなったということですから、神経症も疑われます。
ほかにもあれこれ症状が出ているはずですが……。
しかし病名など、どうでもよいのです。

 まずK君の今の状態を、あなたがすなおに受け入れてあげてください。
だれにでも、得意、不得意があります。
「Kにも、不得意なことがあるのだ」と、です。

 またメールを読む範囲では、KUさんの夫は、かなり権威主義的なものの考え方を
しているような印象をもちます。
「男だから……」「長男だから……」「中学生にもなったのだから……」とです。
しかし遠因をさぐれば、KUさんとKUさんの父親の関係、さらにはKUさんの夫と、
母親の関係の不全が疑われます。
それと1、2歳しか離れていない妹さんも、この問題には、からんでいます。
もっとも濃密な愛情を必要とするときに、妹さんが生まれてしまった。
その結果、K君は、愛情飢餓、愛情不足、欲求不満の状態に追い込まれてしまった(?)。
赤ちゃん返りを起こす暇もなく、「お兄ちゃんだから……」と、親の身勝手な
『ダカラ論』をぶつけられてしまったことも考えられます。
K君のさみしさ、悲しさは、そのあたりから出発しています。

 またここにも書いたように、KUさん自身が、KUさんの両親との関係がうまく
いっていなかったことも疑ってみてください。
とくに父親との関係です。
だから男児であるK君の育児に、いつも戸惑いを感じていたし、K君の立場で言うなら、
基本的信頼関係の構築に失敗したというわけです。
時期的には、0歳から2歳前後までです。

 だからK君は、心を開いて、友人の輪の中に飛び込んでいくことができない。
それも実のところ、あなた自身が、心を開くことができなかったからです。
こういうのを世代連鎖といいます。
(妹さんとの人間関係はほどほどにうまくいっているようですが……。)

 K君にしてみれば、つらい毎日です。
さみしいし、孤独だが、しかし人の間に入っていくと疲れる……。
それについて、親が、見るとはなしに見ながら、神経質にあれこれ言う。
干渉する。
「嫌でも自分から積極的に話しかけて友だちを作れ」とは!?
(ゾーッ! 実に乱暴な言葉ですね。暴言と言ってもよいでしょう。)

 発達心理学的には、思春期に入り、自我の同一性をめざす時期に来ています。
(やりたいこと)と、(現実にしていること)を一致させる時期です。
が、K君は、それができないでいる。
役割混乱から、自我の不一致が起きている(?)。
K君にしてみれば、たいへん苦しいことです。
このことをしっかりと、理解してあげてください。

●では、どうすればよいか

 「卓球が好き」ということですね。
だったら、ここは、思う存分、卓球をさせます。
応援します。
励まします。
時間と金(マネー)を、そこへ集中させます。
(ただしやりすぎないように!)

 このタイプの子どもは、人間関係がうまく結べない分だけ、しかし(顔のない
自分)にも耐えられず、(1)攻撃型、(2)同情型、(3)服従型、(4)依存型
のうちの、どれかのパターンをとります。
今のK君には、卓球をすることが、その(顔)ということになります。
卓球を利用して、攻撃型に転ずれば、しめたものです。
(仮にK君から卓球を奪ったら、たいへんなことになりますから、くれぐれも注意して
ください。)

 K君にしてみれば、卓球をしているときだけ、自分を忘れることができる。
また卓球をしているときだけ、自分を主張できる。
で、それをうまく利用すれば、K君は、今の状況(=同一性の危機)から、抜け出る
ことができます。

 このあたりのことは、私は何度も書いてきましたので、(はやし浩司 自我の一致)
(はやし浩司 基本的信頼関係)(はやし浩司 基底不安)(はやし浩司 対人恐怖症)
などを、ヤフーで検索してみてください。
参考にしていただけると思います。

 で、今度は、親子関係です。

(1)『ダカラ論』は意味がありません。

 K君は幼いときから、「あなたはお兄ちゃんだから……」と、耳にタコができるほど、
言われつづけてきたように感じます。
とくに父親からです。
(KUさんの夫の父親を、観察してみてください。
KUさんの夫の父親は、かなりの権威主義者だったように推察されます。
また親が権威主義的であればあるほど、親子関係は断絶しやすくなります。
親が、親風(=悪玉親意識)を吹かせば吹かすほど、子どもは見た目には従順で、
おとなしくなります。
KUさんの夫と、夫の父親の関係は、見た目ほど、うまくいっていなかったと
思うのは、そんな理由によるものです。)

(2)暖かい無視を大切に

 今どき、対人恐怖症など、何でもありません。
まともな人ほど、そうなります。
友だちの数にしても、多ければ多いほどよいというものでもありません。
それともKUさん、あなたには、友だちがいますか?
何でも話したり、相談にのってくれる友だちは、いますか?

 私など、友だちといっても、数えるほどしかいません。
ワイフを含めて、2人とか3人とか、そんなものです。
つまり親の期待を、子どもに求めすぎないこと。
もしそれでも「友だちを!」と考えるなら、あなた自身が交際のワクを広くすれば
よいでしょう。
その輪の中に、子どもを巻き込んでいくのです。

 心というのは、そういうものです。
つまりいくらあなたが親でも、子どもの心の中にまでは、入っていくことはできません。
だからここは、「友だちを作りなさい」ではなく、「お母さんも、集団が苦手よ。あなたも
つらい思いをしているのね」と、K君には話します。

 そういう愛情で子どもを包んであげたあと、無視すべきところは無視します。
あせったところで、逆効果。
この時期、一度、このような症状を示したら、最低でも、今のような状態は、10
年続くと覚悟してください。
対処の仕方をまちがえると、20年どころか、それが引き金となって、引きこもったり、
家庭内暴力へと悪化します。
こうした問題には、必ず2番底、3番底があります。
KUさんは、「今が最悪」と思っているかもしれませんが、まだその下には、2番底、
3番底があるということです。
そのため、コツは、「今の状態を保つこと」です。

(K君は、今、親の前では、静かでおとなしいようですが、その一方で、不平、不満を
心の別室に、「抑圧」という形で、ため込んでいますから、注意してください。
耐えているのでもなければ、それだけ包容力があるからでもありません。
つらいこと、さみしいことを、心の別室に、押し込んでいるだけです。)

で、友だちにしても、1人、2人の友だちを大切に、また家族もそれを応援しながら、
それでよしとします。
それで十分ではないですか?

(3)一芸を伸ばす

 先ほども書きましたが、ここは卓球に望みをつなげてください。
卓球がK君の(命)と思ってください。
今のK君から卓球を奪ったら、それこそ不登校程度ではすまなくなりますよ!
(脅かして、すみません。これもK君のためです。)

 あとは子ども自身がもつ、自然治癒力を信じてください。
やる気についても、最近の大脳生理学では、カテコールアミンというホルモンが
作用していることがわかってきました。
K君の脳の中では、その分泌が何らかの理由で、阻害されているのかもしれません。
慢性的な抑うつ感が、ホルモンの分泌に変調をきたしている……。
だからあとは自然治癒力にゆだねるしかありません。
まだ成長期ですから、時間はそれほどかからないと思います。

 コツは、繰り返しになりますが、「今の状態をこれ以上悪くしないことだけを
考えて、数か月単位で様子をみる」です。

(抑圧がひどいと、いつか爆発する可能性もあります。
母親父親に対して、「こんなオレにしたのは、テメーだろうがア!」とです。)

そんなわけで、「治そう」とか「直そう」などとは、考えないこと。
K君が苦しんでいたら、(まちがいなく苦しんでいますから)、今日、このメールを
読み終えたら、K君にこう言ってあげてください。

 「ごめんね、K。
つらかったのね、K。
苦しかったのね、K。
さみしかったのね、K。

お母さんがあなたの苦しみをわかってあげなくて、ごめんね。
苦しかったのね。
友だちなんかいなくても、気にしてはだめよ。
うるさい友だちなんか、いないほうがいいのよ。
そのかわりにね、お母さんが、あなたの友だちになってあげるからね。
これからもずっと、いっしょに、仲のよい友だちでいましょうね。
ずっと、ずっと、友だちでいましょうね。

本当のところ、お母さんにも友だちがいないのよ。
だからあなたが私の友だちになってね」と。

 あなたが負ければ、この問題は解決します。
負けることの美しさというか、すばらしさを、あなたも実感してみてください。
「私は親だ」という、おかしな親意識は、今すぐ、捨てなさい。
「私は親だ」という気負いも、今すぐ、捨てなさい。
対等の人間として、K君の横に立つのです。
その向こうには、すばらしい親子関係が待っていますよ。
応援します!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BW教室 友達 子供の友だち 友人問題)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●家庭内暴力

++++++++++++++++++

ますます荒れる子ども(中1)。
そんな子どもをもてあまし、悩んでいる
母親がいる。

掲示板への書き込みから……
(090603)

++++++++++++++++++

【UKさんより、はやし浩司へ】

先生の掲示板を拝読するようになってからもう5年がたちました。いつもなにかに迷った
り辛いことがあったときにホームページを開いてきました。そして先生の言葉を心の糧に
してきたこと、今までに何度もあります。でも今回だけはどうしても他の方の投稿を読む
のではなく自分の言葉で先生にお話し、先生ならなんとおしゃるのかを聞きたくてメール
しました。辛い毎日が続き誰かに聞いてもらいたい、でも学校にどこまで話していいのか
わからない。そんな日が続いています。

4月に私立中学に入学した長男のことです。1月に受験も終わり子供の生活が乱れてきた
のはそのころからです。特に春休みはひどいものでした。テレビゲームとカードゲームに
明け暮れ、テレビを見ながらゴロゴロしてばかり。はじめは注意していましたがだんだん
反抗がエスカレートしてきて、子供の顔色をみて生活をするようになりました。黙ってみ
ていることも結構私におは忍耐がいることで、時々やはり口うるさく言ってしまうと、息
子はキレて壁に大きな穴を開けるくらい怒鳴り、ベットの背もたれもパンチで穴を開けま
した。私が無視をすると2歳違いの弟に手を出し始めます。私が弟をかばうとまたそれが
気に入らないらしくキレて怒鳴りちらしテレビやエアコンのリモコンを投げつけます。

息子が穏やかに過ごした日は自分のほしかったカードやゲームを買ってあげた日だけです。
春休み中に「彼方の仕事は勉強だからまずは勉強を決めた時間やってからゲームなりカー
ドで遊んだらどうか?」と、比較的穏やかのときに話をしたりしましたが、やはりむしゃ
くしゃするのか長続きしません。私が無理やりゲームを隠したりしても、結局息子が切れ
てしまうのが怖くて出してしまうのが現状です。そばに座って話をしようとしても「うる
せぇんだよ、黙ってろ、あっちいけ」と。私のことも興奮しているときは「お前」「あんた」
と言います。さすがにショックでした。

先日子供の締めたドアに小指が挟まり爪がはがれました。痛さよりも絶望感が私の中でい
っぱいになりました。先生のおっしゃっている「許して忘れる」と言う言葉を何回自分に
言い聞かせたかわかりません。でもズキズキをする指を押さえながら、「あんたなんか死ん
じゃえばいいのに」「あなたさえいなかったらこの家は平和なんだ」と、子供に言ってしま
いました。あんなに大切に思ってきた子供に私はこんな言葉を言う親になってしまったの
です。大切で大切でだからこそ、言いたくないことも言ってきました。でもそれがかえっ
て子供をこんなふうにさせてしまったのかと思うと辛いです。自分の思うとおりにいかな
いとキレてしまう、わがままに育ててしまったのは私です。私自身、あの子に少しでも楽
しませてやりたい、皆がゲームを持っているのなら息子にも買ってあげたい。そんなふう
にして育てた私が一番悪いことはわかっています。

私立中学に入った以上多少は勉強してくれないと・・・自分で行きたいと望んで入った学
校なのに朝起きれないことから「辞める。あーもう、学校辞めて家でブラブラしているか
ら」と言い出します。やめられたら困ると言う考えが私の中にあり、やっぱり子供の顔色
をみています。小学校のころから朝が弱くなかなか起きないことが悩みの種でした。でも
毎朝うるさがられながらも私が何十分もかけて起こしていました。いつからか私の中でそ
れがストレスになっていました。中学に入ったら自分で起きてもらおう。私も仕事がある
ため、子供に時間を費やしておられずいっぱいいっぱいになっていることに気がつきまし
た。遅刻させることが怖かった私ももう、いいや!!、と割り切り一度起こしてだけでや
めてみました。案の定遅刻です。子供から「どうして起こさなかった!!」と怒りの電話
が私の職場にかかってきました。遅刻なら今日は学校行かない!と結局休んでしまいまし
た。私は自分の感情を抑えるだけで精一杯でした。その日からまた時間をかけて起こす日々
が始まりました。

もういいかなと思った昨日1度起こして私は職場に向かいました。ところが2度寝をして
しまったらしく今度は学校から無断欠席の電話です。私は慌てて家に戻りました。居間で
テレビを見ていた息子は学校は行かない!と言い張ります。着信暦を見ると何回も学校か
ら電話が入っていたようでした。息子は電話にでなかったのです。私がこれから我っこに
送っていくと学校に電話をいれたことでまた息子は怒鳴り始めました。正直に寝坊したと
先生に伝えたのがいけなかったと言うのです。何で体調が悪いと嘘をいわないんだ!

担任の先生が自分の授業が午後からないので家まで来てくださいましたがとうとう息子は
トイレに鍵をかけたまま1歩も出てきませんでした。一生懸命呼びかけてくださる先生に
対して「明日は学校にいく」と約束しました。先生が家まで来てくださっているのに申し
訳ないと思わないの?と訊ねると「頼んだわけじゃない!」と言い放ちました。私は悲し
くてこんなことを言うような子供になってしまった息子が情けなくて怒りでいっぱいにな
り子供に向かってなにか?物を投げつけました。

もうこうなってしまうと収拾がつかなくて私は家を飛び出ました。でもこのことがあって
から担任の先生に少し家でのことを話すことができました。部活も勝手に休んでいること
が多いらしいこともわかりました。二言目には「学校行かない。部活やめる。」でも決して
そんなつもりはないのだと私は感じます。いままで何十回も繰り返しているものの学校に
は結局行っているんです。

ゲームのこと、朝起きれないこと、今、この場から逃げ出したいと実は本当に思ったりし
ています。もうどうなってもいいから。次男と一緒に出て行こうかと考えたりしています。
がんばれって自分に言うのですが、夕方になり息子が学校から帰ってくるのが怖いです。
朝になってカーテンを開けるのが怖いです。

いろいろダラダラととり止めなく書いてすみません。でも先生にメールを送れるようにな
っただけでもここ数日で一番心にゆとりのある日です。先生、私に力を貸してください。
がんばれって。

++++++++++++++++++++++

UNKNOWN様へ

お子さんの心理状態は、「抑圧」という言葉を使って説明できます。

幼いころから、(弟が生まれたときから)、「いい兄」を演じながら、欲求不満を別の心の中
に押し込めてきたと考えてください。それが今、思春期で爆発しているのです。つまり今、
見せているあなたの子供の姿は、本来の姿ではなく、抑圧され、ゆがんだ姿なのです。ユ
ングは、「シャドウ」という言葉を使ってそれを説明しています。

依存したいという甘え、しかし依存しきれない歯がゆさ、その両者の間で、葛藤している。
幼年期は(いい子)で、思う存分、自己主張できなかった。言いたいことも言えなかった。
いつも(がまん)を強いられた。プラス、弟への憎しみすら、押し殺さねばならなかった。
そういう思いが、抑圧され、別の心にたまってしまったのです。

またこの時期は、(おとな)と(子ども)の間で、ときには「おとなっぽくなり、子ども扱
いをされると怒り」、反対に「幼児ぽくなり、そういう自分に嫌悪感を覚える」を繰り返し
ます。つまりその両者を行ったり来たりします。私はこれを(揺り戻し現象)と呼んでい
ます。

また同一性の確立に失敗し、自分でも何をしたらよいのか、どうしたらよいのか、わから
ないでいます。楽しくてゲームをしているのではありませんよ。ほかに自分をどうしよう
もないから、ゲームをしているのです。一番苦しんでいるのは、つまり母親に悲しい思い
をさせて苦しんでいるのは、息子さん自身です。が、それすらも、素直に表現することが
できない。ではどうするか?

(1)お母さん自身が学歴信仰から抜け出ます。「学校なんか、くそくらえ」(尾崎豊)く
らいに思うことです。(2)「あなたも苦しんでいるのね」と、子供の苦しみを分かち合い
ます。(3)温かい無視を大切に。(4)子供のほうから求めてきたときが、求めどきと考
えて行動します。

あなたが心のどこかで「学校とは行かねばならないところ」という意識をもっているかぎ
り、その意識は子どもに伝わり、子どもはその意識と現実の間で、もがき苦しみます。掲
示板を見るかぎり、あなたはたいへん強い(学校教)の信者のように感じます。反対に言
うと、どうしてそこまで(学校)にこだわるのですか? 今はかなり時代も変わり、この
あたりでも、約60%の中学3年生は、「勉強でがんばるより、部活でがんばって……」と
か、「勉強で苦労したくないから、進学校には入りたくない……」と考えています。

また言えば、あなた自身が子離れできずにいます。子どもの方はとっくの昔に親離れして
いますが、それにすら気づいていないように感じます。あなた自身の親意識も強く、中学
生のゲームを「隠す」というのも、やりすぎです。つまり一方的に親意識をふりかざし、
思うようにならないと、混乱する。

要するに、子育てに対する期待が強すぎます。「よい家庭を作ろう」「よい親子関係を作ろ
う」とです。気負いが強い分だけ、あなたも疲れますが、子どもも疲れます。「どうせ子ど
もというのは、去っていく」「去って行きたければ去っていけばいい」「勝手にどうぞ」「私
は私で、自分の生活を楽しみますからね」と、心のどこかで割りきってください。

あなたはもうじゅうぶんがんばってきました。それにお子さんは、中1とはいえ、すでに
おとなです。長くなりそうなので、つづきは、またマガジンのほうで考えてみます。7月
上旬に載せます。できればその前に、また掲示板のほうに書いておきます。

大切なことは、こうした問題には、まだ二番底、三番底がありますから、今を決して最悪
と思ってはいけないということです。対処の仕方を間違えると、二番底、三番底へと進ん
でしまいます。中退、非行……と進んでいく可能性もあります。「今の状態をこれ以上悪く
しないことだけ」を考えて対処してください。あまり乱暴がひどいようでしたら、一度、
心療内科の先生に相談してみるとよいでしょう。こだわりを取り除く、よい精神安定剤を
処方してくれるはずです。

『許して、忘れる』は、まちがっていません。どん底から、さらにどん底へ落とされても、
この言葉を心の中で念じてみてください。これは子どもとの闘いというよりも、あなた自
身との闘いなのです。その闘いに勝ったとき、あなたの子どもは、こう言うでしょう。「お
母さん、ありがとう」と。と、同時に、あなたは「子どもを信じきった」という喜び、「子
どもを育てた」という満足感を味わいます。約束します。

で、幸い学校の先生があれこれと心配してくれているようなので、あなたのほうも心を開
いて、相談したらよいでしょう。あなたから見ると、特殊な問題のように見えるかもしれ
ませんが、ケースとしては、珍しくありません。そのあたりのことは、学校の先生も、よ
く知っているはずです。

こうして子どもはおとなになっていきます。それを(巣立ち)と言いますが、巣立ちのし
かたは、みなちがいます。中にはたがいにののしりあいながら、巣だっていく親子もいま
す。しかしそれでも巣立ち。あなたは愛情だけをしっかりともちながら、あとは静かに見
送れば、それでよいのです。あとはやるべきことはやる。またその範囲にとどめる、です。
いつか子どもは帰ってきます。そのときは、窓をあけ、思いっきり子どもを抱きしめてあ
げればよいのです。そうそう、悲しくてつらいときがあったら、アルバムを見るとよいで
すよ。私もそうしました。

この時期も、その最中の人には長く感じられるかもしれませんが、あっという間に終わり
ます。本当にあっという間です。今こそ、親は真の愛が試されているときと覚悟して、こ
の時期を乗り越えてください。あなたはすばらしい女性になりますよ。いいですか、あな
たの子どもがあなたを育てようとしているのです。それに気がついたとたん、心が軽くな
ります。繰り返しますが、『許して、忘れる』ですよ。生活態度がだらしなくなっても、許
して、忘れる。どうかあきらめずに、がんばってください。家族がみな、ここにいて、み
なががんばっている。そのすばらしさ、尊さを、すなおに喜んでください。

【UKさんより、はやし浩司へ】

早速返信を頂きありがとうございました。
先生に言われてはっとすることが何か所もありました。
何をしたらいいのかわからなくてもがいていて息子も辛いのかもしれません。お恥ずかし
いのですがそんなふうに考えたことはありませんでした。私はどうやって息子と向かい合
っていいかわからずに、息子から逃げ出したくて自分がどうやったら毎日生きていけるの
かばかり考えていました。

単身赴任先でがんばっている主人に現在の子供の状況を話しているとき思わず泣いてしま
った私に、背中をさすっている長男がいました。自分の話をしているとわかっていて隠れ
て聞いていたのだと思います。私が泣いているときに顔を覗き込み、心配そうにしていま
した。でも私はあまりの子供の態度のギャップに戸惑い、耐えられず「触らないで!」と
突き放しました。テレビを見ながら私のひざに顔をうずめてきたりしますが、またその後
何分か後にキレたりする事も度々あるからです。私はひどい言い合いをしたときでもしば
らく引きずってしまいます。でも息子はまるで何もなかったかのように甘えてこれる!ど
うして?と思ったりするのです。本当はこんなときに受け止めてあげなければいけなかっ
たのですね。私に心の余裕がなくて・・情け無いです。

ここのところ、本当にこの場からいなくなることばかり考えていました。
逃げちゃいけない、現実から息子から。もう少しがんばらなくては・・
電話で主人に息子の話をしたところ「何のためにがんばっているかわからなくなってしま
った。虚しくなっちゃたよ。」と落ち込まれました。遠く離れた場所で聞くほうが辛いのか
も知れません。帰って来たくてもすぐには駆けつけられないのだからその分辛いと思いま
す。

4年前に十二指腸にガンが見つかり膵臓と胆のう、十二指腸を切除する手術を受けました。
5年間は再発の恐怖におびえながら生活を送っている主人にこんな辛い話を聞かせたこと
に後悔しました。でも父親として力を貸してほしかった。私も疲れていたんです。遠いと
ころで長男のことを思いため息をついている主人を思うと、私の力のなさが情けないです。
2年前単身赴任が決まったときに再発のことを心配しながらも、男の子2人を私1人で育
てていけるだろうか? 一番父親の力が必要なときに・・・と不安に思っていました。

たまに帰って来る主人のこの家でのポジションを(家長という)確保しておく事の難しさ
も感じたりしています。普段父親のいない生活をしているとそれに慣れてしまってペース
ができてしまうので久々に主人が登場すると家の中が乱れるのも事実です。

先生からすぐに返事をいただけて、それだけで私の心がすごく軽くなっています。言葉の
力がありがたくて感謝の気持ちでいっぱいです。

慌てていてメッセージを読んでいなかったのですが(一般の方)に書き込まないといけな
かったんですね。すみません。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの人格】



●幼児性の残った子ども



++++++++++++++++



人格の核形成が遅れ、その年齢に

ふさわしい人格の発達が見られない。



全体として、しぐさ、動作が、

幼稚ぽい。子どもぽい。



そういう子どもは、少なくない。



++++++++++++++++



 「幼稚」という言い方には、語弊がある。たとえば幼稚園児イコール、幼稚ぽいという
ことではない。幼稚園児でも、人格の完成度が高く、はっと驚くような子どもは、いくら
でもいる。



 が、その一方で、そうでない子どもも、少なくない。こうした(差)は、小学1、2年
生ごろになると、はっきりとしてくる。その年齢のほかの子どもに比べて、人格の核形成
が遅れ、乳幼児期の幼児性をそのまま持続してしまう。特徴としては、つぎのようなもの
がある。



(1)独特の幼児ぽい動作や言動。

(2)無責任で無秩序な行動や言動。

(3)しまりのない生活態度。

(4)自己管理能力の欠落。

(5)現実検証能力の欠落。



 わかりやすく言えば、(すべきこと)と、(してはいけないこと)の判断が、そのつど、
できない。自分の行動を律することができず、状況に応じて、安易に周囲に迎合してしま
う。



 原因の多くは、家庭での親の育児姿勢にあると考えてよい。でき愛と過干渉、過保護と
過関心など。そのときどきにおいて変化する、一貫性のない親の育児姿勢が、子どもの人
格の核形成を遅らせる。



 「人格の核形成」という言葉は、私が使い始めた言葉である。「この子は、こういう子ど
も」という(つかみどころ)を「核」と呼んでいる。人格の核形成の進んでいる子どもは、
YES・NOがはっきりしている。そうでない子どもは、優柔不断。そのときどきの雰囲
気に流されて、周囲に迎合しやすくなる。



 そこであなたの子どもは、どうか?



【人格の完成度の高い子ども】



○同年齢の子どもにくらべて、年上に見える。

○自己管理能力にすぐれ、自分の行動を正しく律することができる。

○YES・NOをはっきりと言い、それに従って行動できる。

○ハキハキとしていて、いつも目的をもって行動できる。



【人格の完成度の低い子ども】



○同年齢の子どもにくらべて、幼児性が強く残っている。

○自己管理能力が弱く、その場の雰囲気に流されて行動しやすい。

○優柔不断で、何を考えているかわからないところがある。

○グズグズすることが多く、ダラダラと時間を過ごすことが多い。



 では、どうするか?



 子どもの人格の核形成をうながすためには、つぎの3つの方法がある。



(1)まず子どもを、子どもではなく、1人の人間として、その人格を認める。

(2)親の育児姿勢に一貫性をもたせる。

(3)『自らに由(よ)らせる』という意味での、子育て自由論を大切にする。



++++++++++++++++++



今までに書いた原稿の中から

いくつかを選んで、ここに

添付します。



内容が少し脱線する部分があるかも

しれませんが、お許し下さい。



++++++++++++++++++



(1)【子どもの人格を認める】



●ストーカーする母親



 一人娘が、ある家に嫁いだ。夫は長男だった。そこでその娘は、夫の両親と同居するこ
とになった。ここまではよくある話。が、その結婚に最初から最後まで、猛反対していた
のが、娘の実母だった。「ゆくゆくは養子でももらって……」「孫といっしょに散歩でも…
…」と考えていたが、そのもくろみは、もろくも崩れた。



 が、結婚、2年目のこと。娘と夫の両親との折り合いが悪くなった。すったもんだの家
庭騒動の結果、娘夫婦と、夫の両親は別居した。まあ、こういうケースもよくある話で、
珍しくない。しかしここからが違った。なおこの話は、「本当にあった話」とわざわざ断り
たいほど、本当にあった話である。



 娘夫婦は、同じ市内の別のアパートに引っ越したが、その夜から、娘の実母(実母!)
による復讐が始まった。実母は毎晩夜な夜な娘に電話をかけ、「そら、見ろ!」「バチが当
たった!」「親を裏切ったからこうなった!」「私の人生をどうしてくれる。お前に捧げた
人生を返せ!」と。それが最近では、さらにエスカレートして、「お前のような親不孝者は、
はやく死んでしまえ!」「私が死んだら、お前の子どもの中に入って、お前を一生、のろっ
てやる!」「親を不幸にしたものは、地獄へ落ちる。覚悟しておけ!」と。それだけではな
い。



どこでどう監視しているのかわからないが、娘の行動をちくいち知っていて、「夫婦だけで、
レストランで、お食事? 結構なご身分ですね」「スーパーで、特売品をあさっているあん
たを見ると、親としてなさけなくてね」「今日、あんたが着ていたセーターね、あれ、私が
買ってあげたものよ。わかっているの!」と。



 娘は何度も電話をするのをやめるように懇願したが、そのたびに母親は、「親に向かって、
何てこと言うの!」「親が、娘に電話をして、何が悪い!」と。そして少しでも体の調子が
悪くなると、今度は、それまでとはうって変わったような弱々しい声で、「今朝、起きると、
フラフラするわ。こういうとき娘のあんたが近くにいたら、病院へ連れていってもらえる
のに」「もう、長いこと会ってないわね。私もこういう年だからね、いつ死んでもおかしく
ないわよ」「明日あたり、私の通夜になるかしらねえ。あなたも覚悟しておいてね」と。



●自分勝手な愛



 親が子どもにもつ愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。ここで
いう代償的愛というのは、自分の心のすき間を埋めるための、自分勝手でわがままな愛を
いう。たいていは親自身に、精神的な欠陥や情緒的な未熟性があって、それを補うために、
子どもを利用する。子どもが親の欲望を満足させるための道具になることが多い。そのた
め、子どもを、一人の人格をもった人間というより、モノとみる傾向が強くなる。いろい
ろな例がある。



 Aさん(60歳・母親)は、会う人ごとに、「息子なんて育てるものじゃ、ないですねえ。
息子は、横浜の嫁にとられてしまいました」と言っていた。息子が結婚して横浜に住んで
いることを、Aさんは、「取られた」というのだ。



 Bさん(45歳・母親)の長男(現在18歳)は、高校へ入学すると同時に、プツンし
てしまった。断続的に不登校を繰り返したあと、やがて家に引きこもるようになった。原
因ははげしい受験勉強だった。しかしBさんには、その自覚はなかった。つづいて二男に
も、受験期を迎えたが、同じようにはげしい受験勉強を強いた。「お兄ちゃんがダメになっ
たから、あんたはがんばるのよ」と。ところがその二男も、同じようにプツン。今は兄弟
二人は、夫の実家に身を寄せ、そこから、ときどき学校に通っている。



 Cさん(65歳・母親)は、息子がアメリカにある会社の支店へ赴任している間に、息
子から預かっていた土地を、勝手に転売してしまった。帰国後息子(40歳)が抗議する
と、Cさんはこう言ったという。「親が、先祖を守るために息子の金を使って、何が悪い!」
と。Cさんは、息子を、金づるくらいにしか考えていなかったようだ。その息子氏はこう
話した。



「何かあるたびに、私のところへきては、10〜30万円単位のお金をもって帰りました。
私の長男が生まれたときも、その私から、母は当時のお金で、30万円近く、もって帰っ
たほどです。いつも『かわりに貯金しておいてやるから』が口ぐせでしたが、今にいたる
まで、1円も返してくれません」と。



 Dさん(60歳・女性)の長男は、ハキがなく、おとなしい人だった。それもあって、
Dさんは、長男の結婚には、ことごとく反対し、縁談という縁談を、すべて破談にしてし
まった。Dさんはいつも、こう言っていた。「へんな嫁に入られると、財産を食いつぶされ
る」と。たいした財産があったわけではない。昔からの住居と、借家が二軒あっただけで
ある。



 ……などなど。こういう親は、いまどき、珍しくも何ともない。よく「親だから……」「子
だから……」という、『ダカラ論』で、親子の問題を考える人がいる。しかしこういうダカ
ラ論は、ものの本質を見誤らせるだけではなく、かえって問題をかかえた人たちを苦しめ
ることになる。「実家の親を前にすると、息がつまる」「盆暮れに実家へ帰らねばならない
と思うだけで、気が重くなる」などと訴える男性や女性はいくらでもいる。



さらに舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との折り合いが悪く、家庭騒動を繰り返している
家庭となると、今では、そうでない家庭をさがすほうが、むずかしい。中には、「殺してや
る!」「お前らの前で、オレは死んでやる!」と、包丁やナタを振り回している舅すら、い
る。



 そうそう息子が二人ともプツンしてしまったBさんは、私にも、ある日こう言った。「夫
は学歴がなくて苦労しています。息子たちにはそういう苦労をさせたくないので、何とか
いい大学へ入ってもらいたいです」と。



●子どもの依存性



 人はひとりでは生きていかれない存在なのか。「私はひとりで生きている」と豪語する人
ですら、何かに依存して生きている。金、モノ、財産、名誉、地位、家柄など。退職した
人だと、過去の肩書きに依存している人もいる。あるいは宗教や思想に依存する人もいる。
何に依存するかはその人の勝手だが、こうした依存性は、相互的なもの。そのことは、子
どもの依存性をみているとわかる。



 依存心の強い子どもがいる。依存性が強く、自立した行動ができない。印象に残ってい
る子どもに、D君(年長児)という子どもがいた。帰りのしたくの時間になっても、机の
前でただ立っているだけ。「机の上のものを片づけようね」と声をかけても、「片づける」
という意味そのものがわからない……、といった様子。そこであれこれジェスチャで、し
まうように指示したのだが、そのうち、メソメソと泣き出してしまった。多分、家では、
そうすれば、家族のみながD君を助けてくれるのだろう。



 一方、教える側からすれば、そういう涙にだまされてはいけない。涙といっても、心の
汗。そういうときは、ただひたすら冷静に片づけるのを待つしかない。いや、内心では、
D君がうまく片づけられたら、みなでほめてやろうと思っていた。が、運の悪いことに(?)、
その日にかぎって、母親がD君を迎えにきていた。そしてD君の泣き声を聞きつけると、
教室へ飛び込んできて、こう言った。ていねいだが、すごみのある声だった。「どうしてう
ちの子を泣かすのですか!」と。



 そういう子どもというより、その子どもを包む環境を観察してみると、おもしろいこと
に気づく。D君の依存性を問題にしても、親自身には、その認識がまるでないということ。
そういうD君でも、親は、「ふつうだ」と思っている。さらに私があれこれ問題にすると、
「うちの子は、生まれつきそうです」とか、「うちではふつうです」とか言ったりする。そ
こでさらに観察してみると、親自身が依存性に甘いというか、そういう生き方が、親自身
の生き方の基本になっていることがわかる。そこで私は気がついた。子どもの依存性は、
相互的なものだ、と。こういうことだ。



 親自身が、依存性の強い生き方をしている。つまり自分自身が依存性が強いから、子ど
もの依存性に気づかない。あるいはどうしても子どもの依存性に甘くなる。そしてそうい
う相互作用が、子どもの依存性を強くする。言いかえると、子どもの依存性だけを問題に
しても、意味がない。子どもの依存性に気づいたら、それはそのまま親自身の問題と考え
てよい。



……と書くと、「私はそうでない」と言う人が、必ずといってよいほど、出てくる。それは
そうで、こうした依存性は、ある時期、つまり青年期から壮年期には、その人の心の奥に
もぐる。外からは見えないし、また本人も、日々の生活に追われて気づかないでいること
が多い。しかしやがて老齢期にさしかかると、また現れてくる。先にあげた親たちに共通
するのは、結局は、「自立できない親」ということになる。



●子どもに依存する親たち



 日本型の子育ての特徴を、一口で言えば、「子どもが依存心をもつことに、親たちが無頓
着すぎる」ということ。昔、あるアメリカの教育家がそう言っていた。つまりこの日本で
は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独
立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。私が生まれ育った岐
阜県の地方には、まだそういう風習が強く残っていた。今も残っている。



親の権威や権力は絶対で、親孝行が今でも、最高の美徳とされている。たがいにベタベタ
の親子関係をつくりながら、親は親で、子どものことを、「親思いの孝行息子」と評価し、
子どもは子どもで、それが子どもの義務と思い込んでいる。こういう世界で、だれかが親
の悪口を言おうものなら、その子どもは猛烈に反発する。相手が兄弟でもそれを許さない。
「親の悪口を言う人は許さない!」と。



 今風に言えば、子どもを溺愛する親、マザーコンプレックス(マザコン)タイプの子ど
もの関係ということになる。このタイプの子どもは、自分のマザコン性を正当化するため
に、親を必要以上に美化するので、それがわかる。



 こうした依存性のルーツは、深い。長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのもの
がもつ習性(?)とからんでいる。私はこのことを、ある日、ワイフとロープウェイに乗
っていて発見した。



●ロープウェイの中で



 春のうららかな日だった。私とワイフは、近くの遊園地へ行って、そこでロープウェイ
に乗った。中央に座席があり、そこへ座ると、ちょうど反対側に、60歳くらいの女性と、
五歳くらいの男の子が座った。おばあちゃんと孫の関係だった。その2人が、私たちとは
背中合わせに、会話を始めた。(決して盗み聞きしたわけではない。会話がいやおうなしに
聞こえてきたのだ。)その女性は、男の子にこう言っていた。



 「オバアちゃんと、イッチョ(一緒)、楽しいね。楽しいね。お山の上に言ったら、オイ
チイモノ(おいしいもの)を食べようね。お小づかいもあげるからね。オバアちゃんの言
うこと聞いてくれたら、ホチイ(ほしい)ものを何でも買ってあげるからね」と。

 

 一見ほほえましい会話に聞こえる。日本人なら、だれしもそう思うだろう。が、私はそ
の会話を聞きながら、「何か、おかしい」と思った。60歳くらいの女性は、孫をかわいが
っているように見えるが、その実、孫の人格をまるで認めていない。まるで子どもあつか
いというか、もっと言えば、ペットあつかい! その女性は、5歳の子どもに、よい思い
をさせるのが、祖母としての努めと考えているようなフシがあった。そしてそうすること
で、祖母と孫の絆(きずな)も太くなると、錯覚しているようなフシがあった。



 しかしこれは誤解。まったくの誤解。たとえばこの日本では、誕生日にせよ、クリスマ
スにせよ、より高価なプレゼントであればあるほど、親の愛の証(あかし)であると考え
ている人は多い。また高価であればあるほど、子どもの心をつかんだはずと考えている人
は多い。しかし安易にそうすればするほど、子どもの心はあなたから離れる。仮に一時的
に子どもの心をつかむことはできても、あくまでも一時的。理由は簡単だ。



●釣竿を買ってあげるより、一緒に釣りに行け



 人間の欲望には際限がない。仮に一時的であるにせよ、欲望をモノやお金で満足させた
子どもは、つぎのときには、さらに高価なものをあなたに求めるようになる。そのときつ
ぎつぎとあなたがより高価なものを買い与えることができれば、それはそれで結構なこと
だが、それがいつか途絶えたとき、子どもはその時点で自分の欲求不満を爆発させる。そ
してそれまでにつくりあげた絆(本当は絆でも何でもない)を、一挙に崩壊させる。「バイ
クぐらい、買ってよこせ!」「どうして私だけ、夏休みにオーストラリアへ行ってはダメな
の!」と。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日も1日、終わった

++++++++++++++++++

今日、講演の様子を、ビデオに収めた。
県の教育委員会・健全育成会総会での講演である。
舞台のそでから撮ったので、映像はともかくも、
音がどうもよくない。
ゴーッというか、何かの雑音が混ざっている。
空調の音か?

全体で90分の長さがある。
それを9分ごとに分割して、10本のビデオにする。
YOUTUBEでは、10分以上のビデオは
アプロードできない。
ということで、10分割して、10本!

ノーカット、ノー編集。
興味のある方は、どうか見てほしい。

(今回撮った講演は、『BW公開教室』に収録。)

たまたま明後日は、K中学校区の健全育成会で同じ話を
することになっているので、もう一度、録画しなおして
みることにする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
 Hayashi 林浩司 BW BW教室 講演 健全育成会講演 静岡市 あざりあ)


+++++++++++++++++++

●嫉妬(しっと)

++++++++++++++++++++++++++

私も嫉妬をよく覚える。
「ねたみ」と言った方が、わかりやすい。
「嫉妬」というと、そこに色恋沙汰を感ずる。
しかし何も、色恋沙汰にかぎらない。
その(ねたみ)をよく覚える。
覚えないとは、言わない。
しかし最近は、ぐんとそれが少なくなった。
なぜか?

このところ、「私は私、人は人」と思うことが多くなった。
割り切って考えることが、多くなった。

そういう意味では、「私は私」という思いと、それは反比例の関係にあるのでは?
つまり「私は私」という思いが強くなればなるほど、
人に嫉妬することは、その分だけ、少なくなる。
このことを言いかえると、こうも言えるのでは?
つまり、「私」がない人ほど、人に嫉妬しやすい、と。

+++++++++++++++++++++++++++

 自己概念(「私はこうありたい」)という思いは、だれにでもある。
人はその自己概念に合わせて、現実の自分を作りあげようとする。
自己概念をもつことは、悪いことではない。
自己概念がないと、それこそ人は、糸の切れた凧のようになる。
フワフワと空中をさまよい、自分でも何をしているのか、わからなくなる。
が、それにも限度がある。
つまり自己概念が肥大化すると、やがてその落差に苦しむことになる。
わかりやすく言えば、「夢は大きい方がよい。しかし大きすぎるのも困る」と
いうことになる。

 嫉妬は、その(落差)の間から生まれる。
が、ここで誤解してはいけないことがある。
「嫉妬」というと、それ自体が「悪」と考える人は多い。
しかしその嫉妬が、生きる原動力として働くこともある。
たとえばすばらしい家を見かけると、「私もほしい」と思う。
それが明日への(やる気)につながることもある。

あるいはスタスタと走っている人を見かけると、「私もああして走ってみたい」と思う。
それが自分の健康法につながることもある。

大切なことは、その嫉妬を、どうコントロールするかということ。
嫉妬を、どう向上心に結びつけていくかということ。
その前に、嫉妬の原点を、もう一度考えてみたい。

●兄弟を殺す

 毎年庭先の木の間に、野生のドバトが巣を作る。
そのドバトには、興味深い習性がある。
たいてい1組のつがいは、2羽の雛(ひな)を孵(かえ)す。
そのあとのこと。
たまに1羽のこともあるが、たいてい2羽である。

 そのときのこと。
その双方がおとなの握りこぶし大くらいにになると、1羽のより強い雛が、もう1羽の
より弱い雛を、巣から追い落としてしまう。
追い落とされた雛のほうは、そのまま犬や猫に襲われて、死んでしまう。
理由はわからないが、空腹感が基本にあって、親が与える餌を独り占めしたいから
ではないか。
私は勝手にそう解釈しているが、私はそこに嫉妬の原点を見る。

 つまり嫉妬の原点には、「生存欲」がからんでいる。
生存欲がからんでいるだけに、原始的な感情と言うこともできる。
それこそ「相手を殺してでも……」という感情に結びつくこともある。
現に嫉妬がからむと、人間関係も陰湿なものになりやすい。
子育ての世界でも、ときどき経験する。

●子どもの世界で

 市内のある幼稚園でこんなことがあった。
その母親は、その幼稚園でPTAの役員をしていた。
その立場をよいことに、いつもその幼稚園に出入りしていたのだが、ライバルの
母親の娘(年中児)を見つけると、その子どもに執拗ないじめを繰り返していた。
手口はこうだ。

その子どもの横を通り過ぎながら、わざとその子どもを足蹴りにして倒す。
そして「ごめんなさいね」と作り笑いをしながら、その子どもを抱きかかえて起こす。
起こしながら、その勢いで、またその子どもを放り投げて倒す。

以後、その子どもはその母親の姿を見かけただけで、顔を真っ青にしておびえるように
なったという。

ことのいきさつを子どもから聞いた母親は、相手の母親に、それとなく話をしてみたが、
その母親は最後までとぼけて、取りあわなかったという。
父親同士が、同じ病院に勤める医師だったということもあった。
被害にあった母親はそれ以上に強く、問いただすことができなかった。

 似たようなケースだが、ほかにマンションのエレベータの中で、隣人の子ども
(3歳男児)を、やはり足蹴りにしていた母親もいた。
この話を、80歳を過ぎた私の母(当時)にすると、母は、こう言って笑った。
「昔は、田舎のほうでは、子殺しというものまであったからね」と。

 子どものいじめとて例外ではない。
Tさん(小三女児)は、陰湿なもの隠しで悩んでいた。
体操着やカバン、スリッパは言うに及ばず、成績表まで隠されてしまった。
しかもそれが一年以上も続いた。
Tさんは転校まで考えていたが、もの隠しをしていたのは、Tさんの親友と思われていた
Uという女の子だった。

それがわかったとき、Tさんの母親は言葉を失ってしまった。
「いつも最後まで学校に残って、なくなったものを一緒にさがしていてくれたのは
Uさんでした」と。
Tさんは、クラスの人気者。背が高くて、スポーツマンだった。
一方、Uは、ずんぐりした体格の、どうみてもできがよい子どもには見えなかった。
Uは、親友のふりをしながら、いつもTさんのスキをねらっていた。
そして最近でも、こんなことがあった。

 ある母親から、「うちの娘(中二)が、陰湿なもの隠しに悩んでいます。
どうしたらいいでしょうか」と。
先のTさんの事件のときもそうだったが、こうしたもの隠しが長期にわたって続くときは、
身近にいる子どもをまず疑ってみる。

 そこで私が、「今一番、身近にいる友人は誰か」と聞くと、
その母親は、「そういえば、毎朝、迎えにきてくれる子がいます」と。
そこで私は、こうアドバイスした。

「朝、その子どもが迎えにきたら、じっとその子どもの目をみつめて、
『おばさんは、何でも知っていますからね』とだけ言いなさい」と。
その母親は、私のアドバイス通りに、その子どもにそう言った。
以後、その日を境に、もの隠しはウソのように消えた。

●では、どうコントロールするか

 繰り返しになるが、嫉妬は、それ自体が問題ではなく、……というのも、
本脳として人間の脳に刻まれているが故に、私たちがもつ知性や理性の力に
は限界があるので……、つまりどう扱うかが問題ということ。
わかりやすく言えば、(扱い方の問題)ということになる。

 もっとも私の年齢になると、限界を感ずることが多くなる。
その限界の中で、「まあ、こんなもの」と思うことが多くなる。
それは心さみしい瞬間でもあるが、同時にこうも思う。
「今、残っているものを大切にしよう」と。

 喪失感といえば、喪失感ということになる。
人生そのものが、どんどんと減っていく。
あといくらがんばってみたところで、10年がよいところ。
それ以後は、あくまでも平均論に従えば、もろもろの病気をかかえ、そのあと
10年くらいをして寿命が尽きる。

 それに諸行無常とまではいかないにしても、常に『だから、それがどうしたの?』
というブレーキが、心の中で働いてしまう。
いい車を買った……だから、それがどうしたの?
いい家を買った……だから、それがどうしたの?
有名になって、名誉や地位を手に入れた……だから、それがどうしたの?、と。

 若い人たちから見れば、ジジ臭い考え方ということになるが、そう決めつけるのは
少し待ってほしい。
だからといって、そこで車を止めてしまうわけではない。
生きるエネルギーはたしかに弱くなるが、なくなってしまったわけではない。
ただその方向性というか、進むべき道を選択するようになる。
その分だけ、「エネルギーを無駄なことはしたくない」とか、
「無駄に時間を過ごしたくない」と考えるようになる。
そう考えた上で、「では、私は何をすべきか」を考えるようになる。

 そんなわけで嫉妬と闘う方法があるとするなら、(1)「私」の確立と、(2)統合性
の確立ということになる。
「統合性」というのは、何度も書いてきたように、(すべきこと)と(現実にしている
こと)を一致させることをいう。
この2つが確立できれば、(まだ私は暗中模索の段階だが……)、おそらく嫉妬という
原始的な感情からは解放されることになる。
そしてそれ自体がもつ、(生きるエネルギー)を、もっと有意義な方向へ、もっていく
ことができる。

 どうであるにせよ、嫉妬に毒されると、人間性まで腐る。
それだけは、何としても避けたい。
そのためにここでこうして2つの方法を考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
 Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 嫉妬論)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●1秒は、1秒なのか?(One second for mice is equivalent to 100 seconds for men)

++++++++++++++++++++

今日の夕刊(4月30日、中日新聞)に、
こんな興味ある記事が、載っていた。

『人とマウス、行動似てる』というタイトルの
ものだった。

『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。

大阪バイオサイエンス研究所(大阪府吹田市)と
東京大学の研究チームによる、研究結果である。

記事には、『生物の行動の背後に、種を超えた基本法則
が存在する可能性を示すもの』(同)ともあった。

+++++++++++++++++++++

●庭のスズメ

たとえば庭に遊ぶスズメたちを見てみよう。
小枝から小枝へと、小刻みなリズムで、飛び回っている。

少し前、私は、それを見ながら、こんなことを考えた。

「もし人間が、同じ行動をしようとしたら、
スズメの何倍の時間がかかるだろうか?」と。

スズメたちは、数秒単位で、枝から枝へと、
ピョンピョンと飛び回る。

で、同じような枝を、パイプが何かでつくり、
人間に同じ行動をさせたら、どうだろう?

オリンピックに出るような体操選手ですら、
その10倍の時間は、かかるかもしれない。

またつぎにこんなことを考えたこともある。

一匹の蚊を頭の中で、想像してみてほしい。
その蚊が、人間の足の高さから、頭の高さまで
あがるのに、何秒くらいかかるか、と。

正確に計測したことはないのでわからないが、
ブーンと飛べば、3〜4秒もかからないのでは
ないか?

そこで蚊の体長を、5ミリとして計算すると、人間の
170センチの身長は、蚊の体長の340倍の高さという
ことになる。

そこで身長が1・7メートルの人間の高さに換算すると、
1・7メートルx340=578で、約580メートル
の高さということになる。

つまり蚊は、人間にしてみれば約580メートルの
山を、3〜4秒で登ったり、おりたりすることが
できるということになる。

3〜4秒である。

が、これで驚いてはいけない。

●ハエは、音速の3倍以上!

ときどき家の中を、体長1センチ前後の、大きな
ハエが飛び回ることがある。
私たちが「クソバエ」と呼んでいる、黒いハエである。

あのハエは、7〜8メートル四方の部屋を、
ビュンビュンと飛び回る。

そのハエについても、正確に計測したことがないので
わからないが、やはりブ〜ンと飛べば、7〜8メートルの
部屋を横切るのに、1秒もかからないのではないか。

そこでこれらの数字をもとにして、ハエの速度を計算してみると、
秒速7メートルとして、同じように170倍すると、
秒速1190メートルということになる。
さらにこの数字を、60x60=3600倍すると、
時速になる。
その時速は、何と、4284万000メートル。
キロメートルになおすると、4284キロメートル。

つまりあのハエは、人間の大きさで考えると、
時速4000キロ以上のスピードで、部屋の中を飛び回って
いることになる!

時速4000キロだぞ!

この数字を疑う人は、一度、自分で計算してみるとよい。
つまり音速の約3倍!

こうして考えてみると、スズメにせよ、蚊にせよ、
はたまたあのハエにせよ、私たちとはちがった(時間)を
もっているのがわかる。

前にも書いたが、もしハエが今のまま進化し、
時計を作ったとしたら、秒針のほかに、1秒で1周する
もう一本の針を考えるかもしれない。

つまりスズメにせよ、蚊にせよ、はたまたハエにせよ、
私たち人間がいうところの「1秒」を、10秒とか、
100秒で生きていることになる。

●マウスは、人間の100倍!

・・・というようなことを、今回、大阪バイオサイエンス
研究所というところが、はからずも証明した?

もう一度、新聞記事を読みなおしてみよう。
そこには、こうある。

『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。

もう少し専門的に言えば、「体内のリズムをつくる
時計遺伝子の働きは、マウスのばあい、人間の
それより100倍も速い」ということになる。

だから単純に、「マウスは人間の100倍の
速さで生きている」というふうに考えることは
できないとしても、「少なくともマウスは、
人間とはちがった時間の尺度をもっている」ということだけは
確かである。

同じ1秒を、人間は、それを1秒として生きている。
が、マウスにしてみれば、100秒にして生きている
かもしれない。

だからたとえば、マウスの寿命を仮に1年としても、
それを「短い」と思ってはいけない。
マウス自身が感ずる1年は、ひょっとしたら人間の
100年分に相当するかもしれない。

●幼児の世界でも

実は、私は、このことは幼児を指導している
ときにも、よく感ずる。

私の教室では、常にテンポの速いレッスンに心がけて
いる。
そうでもしないと、子どものほうが、飽きてしまう。
レッスンに乗ってこない。
で、そういうとき、私はよくこう思う。

幼児のもつ体内時計は、おとなのもつ体内時計より、
数倍は速い、と。
わかりやすく言えば、幼児にとっての1分は、
おとなに3〜4分に相当する。
おとなが3〜4分ですることを、幼児は、1分でする、と
言いかえてもよい。

「アウ〜、それでエ〜、エ〜ト・・・」などというような、
どこか間の抜けたようなレッスンをしていたら、
それだけで教室はザワついてしまう。
収拾がつかなくなってしまう。

反対に、老人ホームにいる老人たちを見てみると、
このことがさらによくわかる。

そこにいる老人たちは、1日中、何かをするでもなし、
しないでもなしといった状態で、その日、その日を
過ごしている。
そこにいる老人たちは、明らかに私たちとは、ちがった
体内時計をもっている。

ひょっとしたら、1日を、私たちがいう、1時間、
あるいはそれよりも短く感じながら生きている
かもしれない。

長い前置きになってしまったが、結論を急ぐと、こういう
ことになる。

私たちが感じている1秒、1分、1時間は、
けっして絶対的なものではないということ。
過ごし方によっては、1秒を1時間にして生きることもできる。
反対に、1日を、1分のようにして過ごしてしまう
かもしれない。

つまり(時の長さ)というのは、時計的にはみな、同じでも、
過ごし方によっては、何倍もにして生きることもできる。
反対に、数分の1にして生きることもあるということ。

もっと言えば(時の長さ)には、絶対的な尺度はないということ。
要は、その人の過ごし方、ということになる。

それにしても、『人の動きを100倍の速さで早回しすれば、
マウスと同じになることがわかった』とは!

100倍だぞ!

この「100倍」という数字を読んだとき、私は
改めて、(時間とは何か)、さらには、(生きるとは何か)、
それを考えさせられた。

余計なことかもしれないが、日々を、野球中継だけを見ながら過ごすのも
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
日々を、パチンコだけをしながら過ごすのも、
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
あるいは日々を、魚釣りだけをしながら過ごすのも、
これまた人生かもしれない。が、それではあまりにももったいない。

・・・というのが、このエッセーの結論ということになる。

●脳みそのクロック数

ついでに……。

宇宙には、私たちがいう「1秒」の間に、人間の世界でいう数100年、
あるいは数1000年分の人生を生きる生物がいるかもしれない。

あるいは反対に、私たちがいう「1万年」が、寿命という生物も
いるかもしれない。

そういう生物(?)は、指を1本、動かすのに、20年とか、
30年もかかる。
岩石のようなものでできた生物を想像してみればよい。

・・・という話は、どこか荒唐無稽な感じがしないでもない。
しかしこんなことは言える。

脳みそにも、コンピュータでいうところの「クロック数」の
ようなものがあるのではないか、ということ。

たとえばワイフは、8年前に買ったパソコンを使っている。
私は、昨年(07年)に買ったパソコンを使っている。
ワープロとして使っている間は、それほどの(差)を
感じない。
が、画像を表示したり、ゲームをしたりするときには、
はっきりとした(差)となって、ちがいが出てくる。

情報を処理するための基本的な速度、つまりクロック数そのものが
ちがう。

俗な言い方をすれば、(頭の回転の速さ)ということになる。
子どもにしても、頭の回転の速い子どもは、速い。
そうでない子どもは、そうでない。
反応も鈍い。

仮に脳みそのクロック数が、2倍ちがうとすると、クロック数が
2倍速い子どもは、そうでない子どもの、2倍長く時間を使う
ことができるということになる。
全体に、クロック数が速いから、当然、計算するのも速い。
文章を書くのも、速い。
思考する力も、速い。

だからクロック数が2倍速い子どもにとっては、同じ「1秒」でも、
そうでない子どもの、「2秒分」の時間に相当する。
同じ「1年」でも、「2年分」の時間に相当する。

ただし誤解しないでほしいのは、クロック数が速いからといって、
時間を有効に使っているということにはならないということ。

(時間を長く使う)ということと、(時間を有効に使う)という
ことは、まったく別のことである。
そのことは、冒頭に書いたスズメの話を思い出してもらえば、わかる。
庭に遊ぶスズメたちは、目まぐるしく、活動している。
しかし、それだけのこと。
わかりやすく言えば、(中身のない人生)を、忙しそうに
繰りかえしているだけ。

恩師の田丸謙二先生は、いつも口癖のように、こう言っている。
「せっかく、いい頭をお持ちなのですから・・・」と。
私に対して、そう言っているのではない。
東大という大学に入ってくる学生たちに、いつもそう言っている。

先生がいう、「・・・なのですから・・・」というのは、
「もっと自分の頭で考えなさい」という意味だが、
先生の言葉をもう少し、自分なりに解釈すると、こうなる。
「せっかく速いクロック数の頭をもっているのだから、
脳みそを有効に使いなさい」と。

●最後に・・・

脳梗塞のようなダメージを受けないかぎり、実際には、
脳みそのクロック数などというものは、みな、それほどちがわない。
ちがっても、2倍とか3倍とかいうものではなく、
1・1倍とか、1・2倍とかいう範囲の、わずかなものかもしれない。

しかもそのクロック数というのは、訓練によって、速くすることができる。
このことも、子どもの世界を見れば、よくわかる。
言いかえると、同じ人生でも、それを長くして生きるか、
それとも、短くして生きるかは、その人、個人の問題ということ。

そのためにも、頭は使って使って、使いまくる。
そうでなくても、脳みそのクロック数は、加齢とともに、落ちてくる。
老人ホームにいる老人たちにしても、ある日、突然、ああなったのではない。
ある時期から、徐々に、そして少しずつ、長い時間をかけて、
ああなった。

今の私やあなたがそうかもしれない。
クロック数というのは、そういうもの。
全体に脳みその機能が低下していくため、その人自身が、それに気づくと
いうことは、まずない。
知らぬ間に、クロック数は低下し、また低下しながらも、低下したこともわからない。

だから歳をとったら、なおさら、頭は使う。
使って使って、使いまくる。

それがとりもなおさず、私たちの人生を、より長くすることになる。

(付記)

実は、昨日(4月30日)、私は携帯電話を、W社の携帯端末機から、
E社携帯端末機に変更した。
この世界では、「スマートフォン」と呼ぶ。

携帯電話にパソコン機能がついた機種である。

で、そのとき、言いようのない不安感が私を襲った。
「私に使いこなせるだろうか」という不安感である。

この3〜4年の間に、スマートフォンの世界も、格段に進化した。
今度のは、無線LAN、BLUETOOTH、さらにGPS付き!
どこか分厚い説明書を手にしたとき、多量のアドレナリンが、
脳内で分泌されるのを感じた。

が、そのとき、こうも思った。

「同じ人間が作ったもの。私にできないはずはない」と。

それから家に帰って、悪戦苦闘すること、1、2時間。
が、そのうちEメールの送受信まで、何とかできるようになった。

で、そのとき、こんなことに気づいた。
精神状態が、きわめて不安定になっていた。
これは、おそらくそれまで使ったことのない脳みそを使ったために起きた
現象ではないか。
脳みその神経細胞から、新しいシナプスが伸びるときに起きる現象とも
考えられる。

子どもでも、まったく新しい分野の問題を与えたとき、
同じような反応を示す子どもがいる。

問題を解くとき、イライラした様子をして見せる。
中にはピリピリして、一触即発のような状態になる子どももいる。

私も、同じような状態になった。
と、同時に、こうも思った。
「こういうのも、ボケ防止にはよいのでは」と。

E社のスマートフォンは、この3月に新発売になったばかりのもの。
少し高い出費になったが、ボケ防止のためと思えば、安い(?)。
そう思って、自分を納得させた。
プラス、楽しかった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
 Hayashi 林浩司 BW BW教 幼児のクロック数 子どものクロック数)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【復古主義】

●加齢とともに……

++++++++++++++++++

歳を取ればとるほど、過去がどんどんと
自分に近づいてくる。
向うの方から、近づいてくる。
若いときには遠い昔に思えた、あの江戸時代ですら、
すぐそこに感ずるようになる。
ほんの一昔前のように、である。
これはおもしろい現象と考えてよい。
が、それには、ちゃんとした理由がある。

++++++++++++++++++

●たったの2倍!

 たとえば江戸時代という時代を見てみよう。
あの江戸時代は、大政奉還によって、終わる。
1867年11月9日のことである。

 その江戸時代というと、若い人たちは、遠い昔のことのように思うかもしれない。
1867年……ねえ?、と。
「そんな時代は遠い昔の話で、とっくに終わった」と。
実は、私も、若いころは、そう考えていた。

 そこで、こんな計算をしてみる。
現在は2009年だから、1867年というと、142年前ということになる。
その142年という年数だが、つぎのように計算できる。

20歳の人……142÷20=約7
40歳の人……142÷40=約3・6
60歳の人……142÷60=約2・4
80歳の人……142÷80=約1・8、と。

つまり142年という年数を、それぞれの年代の人の年齢で割ってみた。
そうすることによって、江戸時代という時代が、自分の年齢の、何倍、昔のこと
かがわかる。

この計算によれば、現在20歳の人には、江戸時代というと、自分の人生の7倍も
遠い昔の過去ということになる。
しかし60歳の私には、たったの2倍と少し。
さらの現在80歳の人には、さらにたったの1・8倍!
2倍としても、自分の人生の2倍程度の昔ということになる。
(たったの2倍というところに注意してほしい。)

 そこで自分の人生を振り返ってみる。
私は現在満61歳だが、この61年間を振り返ってみると、いろいろあった。
あったが、その61年間は、あっという間に過ぎた。
その61年間をさらに振り返りながら、江戸時代といっても、私の人生の
たった2倍の昔のことでしかないことを知る。
つまり子どものころは、遠い昔に覚えたあの江戸時代が、加齢ともに、どんどんと
現在の自分に近づいてくる。
向うの方から、近づいてくる。

●そこにも、ここにも、江戸時代

 60年生きたからといって、人生観が、それほど変わるわけではない。
何か特別の努力をした人は別として、そうでなければそうでない。
たいていの人は、満18歳前後までに自分の常識を完成させる(アインシュタイン)。
それがそのまま、その人の常識となって、一生を支配する。

 いや、そうであるなら、まだよいほう。
さらにたいていの人は、加齢とともに、ますます愚かになっていく(失礼!)。
脳みその底に穴があいたようになり、そこから知恵や知識が、外にこぼれ出ていく。
つまり私が言いたいのは、60年と言っても、それほど大きな変化は期待できない
ということ。
そしてそういう(私)が無数に集まって、大きな流れとなる。
その流れ、とくにその民族がもつ意識というのは、それほど変化しない。
変化しないまま、つぎの世代へとバトンタッチされていく。

 で、それが2倍の120年になったからといって、それほど変化するものでは
ない。
あの時代はあの時代のまま。
あそこやここに、私の子ども時代が残っているように、江戸時代も、あそこや
ここに、そのまま残っている。
それが実感として、わかるようになる。

現に私の祖父は明治生まれの人だったが、今から思うと、江戸時代そのものを、
背負っていたように思う。
身分意識、家父長意識、男尊女卑思想、上下意識などなど。

 その祖父は私が25、6歳のときに他界したが、当然のことながら、私はその
祖父の影響を大きく受けた。
受けたまま、現在に至っている。

 ずいぶんと回りくどい書き方をしたが、私の年齢になると、あの江戸時代ですら、
まるで昨日のように、そこに見えてくるようになる。
少なくとも若い人たちが感じているように、「遠い昔」ではない。

●封建主義を清算しよう!

 そこで大切なこと。
それが封建主義の清算ということになる。

忘れてならないのは、悲しいかな私たちは、あの時代をまだ一度も清算していない。
フランス革命のように、民衆がそれに向って、立ち上がったという歴史すらない。
「明治維新」とは言うものの、英語では、「明治王政復古」と翻訳されている。
つまり徳川家から天皇家へと、(頭)がすえ替えられただけ。

清算していないばかりか、むしろあの時代を不必要に美化し、それが日本の原点
であるかのように考えている。
NHKの大河ドラマをその例にあげるまでもない。

が、事実はどうであったのか?
武士はそのまま警官となり、それまでの身分制度は、学歴制度となった。
それが今でも、形こそ、ゆるやかにはなったが、延々とつづいている。

 いいのか、日本、このままで!、とは何度も書いてきたが、さらに悲しいことに、
たいはんの人たちは、加齢とともに、ますます復古主義的なものの考え方に傾いていく。
本来なら、若い人たちの先頭に立ち、古きものを打ち壊し、新しきものを示して
いかねばならない。
その人生の先輩たちが、その逆のことをしている。

たとえば、武士道。
どうして今の、この日本で、武士道なのか?
自分たちの祖先の大半(93〜4%)は、農民や町民だった。
武士に虐げられた民衆たちだった。
そういった事実も忘れて、その子孫が、武士道なるものを説いて、どうする?
どうなる?
刀をもった人間が、いかに恐ろしい存在であったかは、一連の殺傷事件を見れば
わかるはず。

中には「武士道こそ、日本が世界に誇るべき、精神的バックボーンである」と
説く人もいる。
しかし(負の遺産)に目をくれることもなく、一方的に武士道を礼賛することは、
危険なことでもある。
それがわからなければ、福沢諭吉らが参加した、明六社のした運動を、今一度、
振り返ってみたらよい。
江戸時代直後の先人たちが、江戸時代をどう見つめていたかが、それでわかるはず。
それとも、142年もたつと、そういった事実も風化してしまうのか。

 少し頭が熱くなったが、私たちは、人生の先輩者として、若い人たちの前に立たねば
ならない。
前に立って、変えるべきものは、変えていかねばならない。
「退職しました。これからは、思う存分、人生を楽しみます」では、人生の先輩として、
あまりにも、さみしいではないか。

……という提案だけをして、この話はここで終わりたい。

+++++++++++++++++++++

昨年(08)の6月に書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++++++

●福沢諭吉

……欧米には、こうした権威主義そのものが存在しない。
親子でも、兄弟姉妹でも、名前で呼びあっている。
またそのほうが、人間関係が、スムーズにいく。

反対に権威主義の親ほど、子どもたちから孤立することも
わかっている。
夫婦関係も、おかしくなる。
今どき、「男だから……」「親だから……」「夫だから……」と、
安易な『ダカラ論』を振りかざしているのは、世界広しと
いえども、この日本くらいなもの。

まず日本人の私たちが、それに気づくべき。

Kさんがいう「血」についても、同じ。
それについては、福沢諭吉が、100年前に、こんなことを
書いている。

国際留学協会(IFSA)のHPには、つぎのような一文が
掲載されている。

 『……さらに諭吉を驚かせたことは、家柄の問題であった。

諭吉はある時、アメリカ人に「ワシントンの子孫は今どうしているか」と質問した。そ
れに対するアメリカ人の反応は、実に冷淡なもので、なぜそんな質問をするのかという
態度であった。誰もワシントンの子孫の行方などに関心を持っていなかったからである。

ワシントンといえば、アメリカ初の大統領である。日本で言えば、鎌倉幕府を開いた源
頼朝や、徳川幕府を開いた徳川家康に匹敵する存在に思えたのである。その子孫に誰も
関心を持っていないアメリカの社会制度に諭吉は驚きを隠せなかった。

高貴な家柄に生まれたということが、そのまま高い地位を保障することにはならないの
だ。諭吉は新鮮な感動を覚え、興奮した。この体験が、後に「天は人の上に人を造らず、
人の下に人を造らずと言えり」という、『学問のすすめ』の冒頭のかの有名な言葉を生み
出すことになる』(国際留学協会(IFSA))と。

 それについて書いたのが、つぎの原稿である。

++++++++++++++++++++++

●論語(Why now is Rongo?)

++++++++++++++++

今度、小学校でも、論語の朗読を
するようになったという。

しかし、今、なぜ、論語なのか?

++++++++++++++++

 論語……もともとは、孔子の現行を、弟子や孫弟子たちがまとめたもの。日本には、応
神天皇の時代に、百済の王仁という人物によって伝えられたとされる(ウィキペディア百
科事典)。

 その論語、日本では、律令時代においては、官吏必読の書となった。わかりやすく言え
ば、官僚たちの教科書だった。

 その論語を、今度、小学校でも、朗読するようになったという。しかし、なぜ、今、論
語なのか? 研究家がその範囲で読み、研究し、意見を述べるのなら、それはそれで構わ
ない。またそれまでは、私も否定しない。

 が、どうしてお役人たちの発想は、いつも、こうまでうしろ向きなのか? 私には、ど
うしても、それが理解できない。もし読むべき本があるとするなら、世界の自由と平和の
ために戦った人たちが書いた本である。人間の平等を求めて戦った人たちが書いた本であ
る。

 たとえばアメリカのトーマス・ジェーファーソが書いた独立宣言(1776)でもよい。
それには抵抗感を覚えるというのなら、フランスの人権宣言(1789)でもよい。

 フランスの人権宣言を、ここでおさらいしてみよう(資料、近畿大学・大学院)。

+++++++++++++++++

1条
人は、法律上、生まれながらにして、自由かつ平等である。 社会的差別は、公共の利益に
基づくのでなければ、存在することはできない。

2条
すべての政治的組織の目的は、人間の生まれながらの、かつ取り消し得ない権利の保
全である。 それらの権利は、自由、所有権、安全、及び、圧政に対する抵抗である。

3条
あらゆる主権の原則は、本質的に国民に存する。いかなる集団、いかなる個人も、明
示的に発せられていない権限を行使することはできない。

4条
自由は、他人を害することのないもの全てを、なし得ることに存する。たとえば、各
人の自然権の行使は、それが社会の他の構成員に、これらと同じ権利の享有を確保す
ること以外の限界を持たない。これらの限界は、法律によって定めることができるに
過ぎない。

(以下、つづく)

+++++++++++++++++

 アメリカの独立宣言(前文)でも、「すべての人間は平等に造られている」と説き、不可
侵、不可譲の自然権として、「生命、自由、幸福の追求」の権利をあげている。

 この独立宣言が、明治時代になって、福沢諭吉らに大きな影響を与えたことは言うまで
もない。ついでながら、福沢諭吉が翻訳した、独立宣言を、ここにあげておく。

『天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テ
ス。即チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモ
ス可ラサルモノナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政
府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメ初テ眞ニ権威アルト云フヘシ。政府ノ処置此趣
旨ニ戻ルトキハ、則チ之ヲ変革シ、或ハ倒シテ更ニ此大趣旨ニ基キ人ノ安全幸福ヲ保ツ
ヘキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナリ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟タスシテ明了ナルヘシ』(『西
洋事情』初編 巻之二より)』(ウィキペディア百科事典より抜粋)

 この独立宣言から、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)
という言葉が、生まれた。

 で、結論から先に言えば、今、日本は、再び、儒教文明国家に戻るのか、それとも、ア
メリカ型ではあるにせよ、西欧文明国家に向かってまい進するのか、その瀬戸際に立たさ
れている。

 どちらを選ぶかは、これからつづく若い人たちが決めればよいことかもしれないが、し
かしその(流れ)を決めるのは、あくまでも、若い人たち。その(流れ)を、国が勝手に
つくることは、許されない。

 しかし、どうして今、論語なのか?

【付記】

 日本は自由な国である。平和な国である。しかしこと「平等」ということになると、そ
れを自信をもっていえる人は少ない。

 天皇制という制度がある以上、この日本では、「人は、みな、平等です」とは、言いにく
い。どこか口ごもってしまう。

 が、福沢諭吉は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)
と書いた。しかし当時の常識からすれば、これはたいへんな文章と言ってよい。そのまま
読めば、天皇制の否定とも解釈できる。

 そこでときの知識人たちは、天皇制を否定することもできず、またその一方で、福沢諭
吉のような大人物を否定することもできず、大ジレンマに陥ってしまった。

 「人の上の人とは、だれのことか」と。

 で、この文章について、さまざまな解釈が加えられた。

 「人とは、人種のことである」という解釈や、「天皇は人ではないから、問題はない」と
いう解釈など。あるいは「福沢諭吉は、組織の中の上下を言ったものだ」という解釈など
が生まれた。詳しく知りたい人は、インターネットの検索機能を使って、「福沢諭吉 天は
人の」で検索してみればよい。

 しかし福沢諭吉は、天皇も含めて、日本の身分制度について、大いなる疑問を感じてい
た。

 その「天は人の上に……」が、生まれた背景として、国際留学協会(IFSA)は、つ
ぎのような事実を指摘している。そのまま抜粋させてもらう。

 『……さらに諭吉を驚かせたことは、家柄の問題であった。

諭吉はある時、アメリカ人に「ワシントンの子孫は今どうしているか」と質問した。そ
れに対するアメリカ人の反応は、実に冷淡なもので、なぜそんな質問をするのかという
態度であった。誰もワシントンの子孫の行方などに関心を持っていなかったからである。

ワシントンといえば、アメリカ初の大統領である。日本で言えば、鎌倉幕府を開いた源
頼朝や、徳川幕府を開いた徳川家康に匹敵する存在に思えたのである。その子孫に誰も
関心を持っていないアメリカの社会制度に諭吉は驚きを隠せなかった。

高貴な家柄に生まれたということが、そのまま高い地位を保障することにはならない
のだ。諭吉は新鮮な感動を覚え、興奮した。この体験が、後に「天は人の上に人を造
らず、人の下に人を造らずと言えり」という、『学問のすすめ』の冒頭のかの有名な言
葉を生み出すことになる』と。

++++++++++++++++++

もう一作、武士道について。

++++++++++++++++++

●明治の偉勲たち(Great People in Meiji Era)

 明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847〜1889年の人で
ある。教育家でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評
されたこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したの
が、「明六社」。その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こう
した運動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた
年から、ちょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)この日
本は、本当に変わったのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する
人たちまで現われた。中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者
までいる。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であ
ったことを忘れ、あたかも自分たちが、武士であったかのような理論を展開するから、お
かしい。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。
そんなことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかること。それを、反
省することもなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あ
の江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時
代であったことを忘れてはならない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六
社の啓蒙運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本は、封建時代の負の遺産を、ひ
きずっている。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜
んでいる。たとえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっ
ている人となると、ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、それが精神
的バックボーンになっていることすら、ある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をし
なかったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へ
と、手渡してしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人
が変わらないかぎり、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されて
しまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その
個人にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習
慣のない人には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊
を、生き残らせてしまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、
間近で知ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここ
で、こうした封建時代の負の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人々々の問題として、である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 権威主義 福沢諭吉 天は
天の上に 明六社 明治の偉勲 ワシントン)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【K国の核実験について】
North Korea wants Japan Money. Everything starts from this. Now they are preparing 
launching Nodon (middle-range missiles) as well as an ICBM. The best policy for the 
Japanese is just to igonore them, to keep our peace in Japan.

●後継者問題?

+++++++++++++++++

ミサイル発射実験、それにつづく核実験。
さらにこの数日、K国では、新たなるミサイル発射実験の
動きすら見られるという(09年6月3日)。

注目すべきは、ICBM(大陸間弾道弾)の発射準備に
並行して、ノドン(日本を標的にした中距離ミサイル)の
発射準備もしているという点。

これが何を意味するか?
マスコミ各紙、プラス、評論家たちは、「後継者問題」を、
その理由にあげる。

しかし、それはおかしい……?

+++++++++++++++++

●標的は日本!

一見複雑怪奇に見えるK国の動きも、目的を知れば、すべて道筋を立てて説明がつく。
その目的というのは、ズバリ、お金(マネー)。
K国は、マネーをほしがっている。
しかし6か国協議を通して得るような、「ハシタ金」ではない。
K国の高官自身が、そう言っている。
K国がほしがっているのは、ズバリ、JAPANマネーである。

金大中の時代だったか、ノムヒョンの時代だったか、K国は中国を介して、
日本に対して、戦後補償金(=賠償金)の打診をしてきている。
その額、驚くくなかれ、100兆円!
つまりK国の最終目標は、そこにある。
繰り返す。
100兆円である。
日本の人口の6分の1以下であることを考えるなら、とほうもない額と言ってよい。

●K国の戦略

 その日本からJAPANマネーを得るためには、どうすればよいか。
「得る」というより、「搾(しぼ)り取る」。

日本が提示している、1兆円とか、2兆円など、彼らにしてみれば、ハシタ金。
そんな金額では、国を立て直すことはできない。
彼らが求めているのは、100兆円。
あるいはそれ以上。
1000兆円という説もある。
(日本の国家税収は、40兆円前後。)

 そのためには、日本を脅す必要がある。
「金をよこせ。さもなくば戦争!」と。

が、その日本には、アメリカという後ろ盾がある。
K国にしてみれば、まさに「目の上のタンコブ」。
K国としては、日本とアメリカを何とかして、切り離す必要がある。
つまり日本とアメリカが、軍事同盟関係にある間は、K国は、日本に手を出すことが
できない。

●米朝友好条約

 ときどきK国は、意味不明の言葉を口にする。
「体制存続の保証をしろ」と。
つまり金xx体制を保証しろ、と。

 そんな言葉を聞くと、「だれも体制を脅(おびや)かすようなことはしない」と思う。
「どうしてそんなありもしないことを口にするのだろう」と思う。
「それはK国の、被害妄想」と

が、実は、この言葉の裏には、重大な意味が隠されている。
K国はアメリカに対して、こう言っているのである。

「もしK国がどこかの国と戦争をすることになっても、アメリカは手を出さないでくれ」
「K国の金xx体制が崩壊するようなことは、しないでくれ」と。

 ここでいう「どこかの国」というのは、韓国ではない。
ズバリ、この日本である。
ものごとは常識で考えたらよい。
K国が韓国に戦争をしかけても、得るものは何もない。
が、日本はちがう。
そればかりか、仮に戦争になっても、日本は憲法第九条に制約されて、K国に、
手を出すことができない。
K国は、それをよく知っている。

●何とか、アメリカを……!

 そこでK国としては、何としてもアメリカを、抑えこむ必要がある。
「押さえ込む」でもよい。
その第一の目標が、米朝友好条約。
それさえ結べばよい。

 この条約が結ばれ、発効すれば、たがいに、たがいが攻撃されなければ、軍事的攻撃
をすることができない。
たとえば日本とK国が戦争状態になったとしても、K国がアメリカ本土を攻撃しない
かぎり、アメリカは、K国を攻撃できない。

 もちろん最初から、K国には、アメリカを攻撃する意図など、みじんもない。
アメリカを相手にして、戦争に勝てるわけがない。
そんなことは、K国の末端の兵士ですら、よく知っている。

 だからK国としては、何としても、米朝友好条約、つまり米朝軍事条約を結びたい。
が、それは同時に、日本としては、ぜったいに容認できない条約である。
もしそんな条約が米朝間で結ばれたら、その時点で、日米安保条約は死文化する。
日本は、K国の核の脅威に怯えながら、K国の意のままに操られるようになる。

●崩壊寸前のK国

 K国の内部情報が、つぎつぎと伝わってきている。
その中でもとくに注目すべきことは、今年(09年)、K国は過去最悪の食糧危機に
見舞われているという点である。
今年、数百万人の餓死者が出るのではと予想されている(アムネスティ)。
ガタガタというより、メチャメチャ。

 そんな中、K国としては、何としても、JAPANマネーがほしい。
喉から手が出るほど、ほしい。
またそれだけの金額を請求できるのは、この日本をおいて、ほかにない。
だから何としても、米朝会談を開く必要がある。

 K国が、狂ったように、アメリカに対して米朝交渉を求めてくる理由は、ここにある。
「まずアメリカを抑える」。
「それができたら、つぎに日本!」と。

 が、肝心のアメリカが動かない。
そこでミサイル発射実験、核実験……となる。
「アメリカよ出て来い」
「オレたちと話し合いをしろ!」と。

●K国は、核を手放さない

 K国は、巨大なカルト国家と考えればよい。
金xxを教祖に据えた、カルト国家である。
で、その本尊が、「核兵器」。
力の象徴。

 少しでもカルト教団のことを知っている人なら、私がここでいう「本尊」がどういう
ものであるか、その意味がわかるはず。
本尊あっての、カルト。
だから彼らは手放すつもりなど、毛頭ない。
そんなことは、10年も前から、わかりきっていたこと。
金xxにしても、核兵器があるからこそ、金xxなのである。

 そこへあのおバカ外交官のC・ヒルが、……つまりアジアの「ア」の字も知らない
外交官が、乗り出してきた。
「交渉で解決してみせる」と。
が、結果としてC・ヒルがK国に与えたものといえば、マネー(BDA)、原油、音楽、
それに時間。
今になって、「アメリカはK国にだまされた」(韓国紙)と言っているが、そんなことは、
最初からわかっていたこと。

 この中で、とくに痛いのが、時間。
C・ヒルが無駄にがんばった5年間のうちに、K国は、核兵器を完成させてしまった!

●日本があぶない!

 今回とくに注意しなければならないのは、ICBMの発射準備よりも、中距離
ミサイルの、ノドンである。
ICBM(テポドン)のほうは、アメリカを標的にしたもの。
しかしノドンは、日本を標的にしたもの。
その数、320基とも、800基とも言われている。

 では、なぜこの時期に、K国は、ICBMとノドンの両方の発射準備に
同時にとりかかっているか?
それには前回(09年4月5日)の、テポドン発射実験の失敗がからんでいる。
テポドン発射実験の失敗のことではない。
K国は、当時、こう言っていた。

「日本が(人工衛星?を)迎撃すれば、即、日本を攻撃する」と。

 が、そのとき実は、ノドンの発射準備ができていなかった。
「即、攻撃する」と言いながら、その態勢が整っていなかった。
それが「失敗」であった。

 では、次回はどうか?
今度は、ICBMである。
アメリカは黙っていないだろう。
国務長官ですら、「迎撃する」と、明言している。
となると、K国としては、即、報復攻撃ということになる。
もちろんそのターゲットは、日本。
東京。
そのために、ノドンの発射を、同時に準備しておく必要がある。

●自滅か戦争か

 K国は現在、自滅寸前にまで、追い込まれている。
どうしようもない状態と考えてよい。
国家予算など、あってないようなもの。

 そんなとき一連のミサイル発射実験。
先のテポドン(4月5日)以後のミサイルにかけた総額だけで、2年分の食糧が
まかなえたという(韓国紙)。
つまりそれだけのお金をかけて、花火をあげた。

 目的はもちろん、アメリカを交渉のテーブルに引き出すこと。
が、これが裏目に出てしまった。
K国は、核実験をすれば、アメリカは、在韓米軍のことを心配して、交渉のテーブルに
出てくるものと読んでいた。
が、これは誤算だった。
かえってアメリカの態度を硬化させてしまった。
あろうことか、ロシアも中国も、それに同調する様子を見せ始めた。

 ……ということで、K国は今、自滅か、さもなければ戦争かという、ギリギリの
選択を迫られている。
その心理状態は、まさに(焼けのヤンパチ)。

 そこでK国がとりうるシナリオは、こうだ。

(1)ICBMの発射実験を強行する。
(2)アメリカ(在日米軍)に迎撃させる。
(3)それを口実に、日本に向けてノドンを、20〜40発、発射する(韓国某
軍事評論家)。

 そんなことをK国がすれば、米朝戦争になってしまうと考えるかもしれない。
だからこそ、「一か八か」ということになる。

●では、日本はどうすればよいのか

 今度こそ、ノドンが日本に向けて発射されることを覚悟する。
が、何度も書くように、日本は、あんな国を本気で相手にしてはいけない。
すでに敵地攻撃論などが、国会内部で議論されているが、攻撃する価値もない。

 それよりも忘れてならないのは、日本は丸裸以上の丸裸ということ。
隣の韓国では、小学生にまでガスマスクを供給し、その付け方を訓練している。
防空壕(シャルター)は、いたるところに設置されている。
いざとなれば、高速道路が飛行場として使えるよう、道路そのものが設計されている。

 が、この日本は、どうか?
「日本を守る」と勇ましいことを言う前に、やるべきことは、山のようにある。
それもしないで、「敵地攻撃」はない。

 一方、もし東京の中心部に、たった一発でもノドンが撃ち込まれたら、その瞬間から、
日本の経済は奈落の底に叩き落とされる。
今の今ですら、薄い紙の上を歩いているような状態である。
株価は大暴落、債権も大暴落、ついでに円も大暴落……。

 だからここは冷静に。
ただひたすら冷静に。
すでに「今度こそ、迎撃」などと、勇ましいことを口にしている政治家もいる。
が、迎撃など、ぜったいにしてはいけない。

 無視、ただひたすら、無視。
そしてそのあと、今、国際社会がしているように、国連の場を通して、K国を締めあげる。
自滅に誘導する。

 戦争というのは、始めるのは簡単。
しかしやめるのが、難しい。
すでにこの日本には、最低でも100人、あるいは1000人以上という説もあるが、
K国の工作員が侵入しているという。
そういう工作員が、何をしでかすかわかったものではない。
仮に北陸地方にある原子力発電所が一基破壊されただけでも、中部地方には、人は
だれも住めなくなる。

 こういう状況をつくりあげてしまった政府にも責任はある。
しかし本当の責任は、平和ボケしてしまい、危機意識と想像力を忘れてしまった
私たちにある。

 あのナチスドイツがポーランドに侵攻したとき、だれだったかは忘れたが、
時のイギリスの政府高官は、こう言って嘆いた。
「私たちに欠けていたのは、想像力だった」と。
その(想像力)を、私たち日本人は、忘れてしまった。

●後継者問題ではない!

 マスコミ各紙および評論家たちは、「背後で後継者問題がからんでいる」と、
判で押したように、同じ言葉を繰り返している。
しかし後継者問題くらいのことで、核実験はしない。
ICBMの発射実験はしない。
「後継者のための箔づけ」と、もっともらしい理由を並べているが、私にはどうして
みな、こうまでトンチンカンなのか、その理由がわからない。

 繰り返すが、K国の最終目標は、ズバリ、JAPANマネーである。
そこからものを考え始めれば、K国の一連の動きが、すべて説明できる。

(2009年6月3日朝記)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもを勉強に向かわせる法

子どもが学習机から離れるとき

●机は休むためにある

 学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばら
くすると疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま
休むことができれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というの
は一度中断すると、なかなかもとに戻らない。

 そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学
習机の上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、
よし。もしその食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみ
る。

反対に自分の好きなことを、何でも自分の机に持っていってするようであれば、相性は合
っているということになる。相性の悪い机を長く使っていると、勉強嫌いの原因ともなり
かねない。

●机は棚のない平机

 学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使
っていると圧迫感が生まれる。もう一五年ほども前になるが、小学一年生について調査し
たことがある。結果、棚式の机のばあい、購入後3か月で約80%の子どもが物置にして
いることがわかった。

最近の机にはいろいろな機能がついているが、子どもを一時的にひきつける効果はあるか
もしれないが、あくまでも一時的。そんなわけで机は買うとしても、棚のない平机をすす
める。あるいは低学年児のばあい、机はまだいらない。

たいていの子どもは台所のテーブルなどを利用して勉強している。この時期は勉強を意識
するのではなく、「勉強は楽しい」という思いを育てる。親子のふれあいを大切にする。子
どもに向かっては、「勉強しなさい」と命令するのではなく、「一緒にやろうか?」と話し
かけるなど。

●学習机を置くポイント

 学習机にはいくつかのポイントがある。

(1)机の前には、できるだけ広い空間を用意する。 

(2)棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。

(3)座った位置からドアが見えるようにする。

(4)光は左側からくるようにする(右利き児のばあい)。

(5)イスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよ
い。

(1)窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしがよすぎると、気が散
って勉強できないということもあるので注意する。

 机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。またドアが背中側にあると、心理的に
落ちつかないことがわかっている。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって
疲れる。ひじかけがあると、作業が格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置
こうとするため、どうしても体が前かがみになり、姿勢が悪くなる。

中に全体が前に倒れるようになっているイスがある。確かに勉強するときは能率があがる
かもしれないが、このタイプのイスでは体を休めることができない。

 さらに学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのように
して体を休めるかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみ
るのもよい。たいていは台所のイスとか、居間のソファの上だが、もしそうであれば、思
い切って、そういうところを勉強場所にしてみるという手もある。子どもは進んで勉強す
るようになるかもしれない。

(詳しくは、「はやし浩司の書斎」に具体的な配置図とともに、書いてあります。どうか、
ご覧になってください。)

●相性を見極める

 ものごとには相性というものがある。子どもの勉強をみるときは、何かにつけ、その相
性を大切にする。相性が合えば、子どもは進んで勉強するようになる。相性が合わなけれ
ば、子どもは何かにつけ、逃げ腰になる。無理をすれば、子どもの学習意欲そのものをつ
ぶしてしまうこともある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 子供部屋 子供の学習環境 動機付け 子供部屋のあり方)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの個性を伸ばす法

教育が型にはまるとき
●「ちゃんと見てほしい」

 「こんな丸のつけ方はない」と怒ってきた親がいた。祖母がいた。「ハネやハライが、メ
チャメチャだ。ちゃんと見てほしい」と。私が子ども(幼児)の書いた文字に、花丸をつ
けて返したときのことである。

あるいはときどき、市販のワークを自分でやって、見せてくれる子どもがいる。そういう
ときも私は同じように、大きな丸をつけ、子どもに返す。が、それにも抗議。「答がちがっ
ているのに、どうして丸をつけるのか!」と。

●「型」にこだわる日本人

 日本人ほど、「型」にこだわる国民はいない。よい例が茶道であり華道だ。相撲もそうだ。
最近でこそうるさく言わなくなったが、利き手もそうだ。「右利きはいいが、左利きはダメ」
と。

私の二男は生まれながらにして左利きだったが、小学校に入ると、先生にガンガンと注意
された。書道の先生ということもあった。そこで私が直接、「左利きを認めてやってほしい」
と懇願すると、その先生はこう言った。「冷蔵庫でもドアでも、右利き用にできているから、
なおしたほうがよい」と。

そのため二男は、左右反対の文字や部分的に反転した文字を書くようになってしまった。
書き順どころではない。文字に対して恐怖心までもつようになり、本をまったく読もうと
しなくなってしまった。

 一方、オーストラリアでは、スペルがまちがっている程度なら、先生は何も言わない。
壁に張られた作品を見ても、まちがいだらけ。そこで私が「なおさないのですか」と聞く
と、その先生(小三担当)は、こう話してくれた。

「シェークスピアの時代から、正しいスペルなんてものはないのです。発音が違えば、ス
ペルも違う。イギリスのスペルが正しいというわけではない。言葉は、ルール(文法やス
ペル)ではなく、中身です」と。

●「U」が二画?

 近く小学校でも、英語教育が始まる。その会議が10年ほど前、この浜松市であった。
その会議を傍聴してきたある出版社の編集長が、帰り道、私の家に寄って、こう話してく
れた。

「Uは、まず左半分を書いて、次に右半分を書く。つまり2画と決まりました。同じよう
にMとWは四画と決まりました」と。私はその話を聞いて、驚いた。英語国にもないよう
な書き順が、この日本にあるとは! 

そう言えば私も中学生のとき、英語の文字は、25度傾けて書けと教えられたことがある。
今から思うとバカげた教育だが、しかしこういうことばかりしているから、日本の教育は
おもしろくない。つまらない。

たとえば作文にしても、子どもたちは文を書く楽しみを覚える前に、文字そのものを嫌い
になってしまう。日本のアニメやコミックは、世界一だと言われているが、その背景に、
子どもたちの文字嫌いがあるとしたら、喜んでばかりはおられない。だいたいこのコンピ
ュータの時代に、ハネやハライなど、毛筆時代の亡霊を、こうまでかたくなに守らねばな
らない理由が、一体どこにあるのか。

「型」と「個性」は、正反対の位置にある。子どもを型に押し込めようとすればするほど、
子どもの個性はつぶれる。子どもはやる気をなくす。

●左利きと右利き

 正しい文字かどうかということは、次の次。文字を通して、子どもの意思が伝われば、
それでよし。それを喜んでみせる。そういう積み重ねがあって、子どもは文を書く楽しみ
を覚える。

オーストラリアでは、すでに10年以上も前に小学3年生から。今ではほとんどの幼稚園
で、コンピュータの授業をしている。10年以上も前に中学でも高校でも生徒たちは、フ
ロッピーディスクで宿題を提出していたが、それが今では、インターネットに置きかわっ
た。先生と生徒が、常時インターネットでつながっている。こういう時代がすでにもう来
ているのに、何がトメだ、ハネだ、ハライだ! 

 冒頭に書いたワークにしても、しかり。子どもが使うワークなど、半分がお絵かきにな
ったとしても、よい。だいたいにおいて、あのワークほど、いいかげんなものはない。そ
れについては、また別のところで書くが、そういうものにこだわるほうが、おかしい。

左利きにしても、人類の約5%が、左利きといわれている(日本人は3〜4%)。原因は、
どちらか一方の大脳が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝
説。生活習慣によって決まるという生活習慣説などがある。

一般的には乳幼児には左利きが多く、3〜4歳までに決まるが、どの説にせよ、左利きが
悪いというのは、あくまでも偏見でしかない。冷蔵庫やドアにしても、確かに右利き用に
はできているが、しかしそんなのは慣れ。慣れれば何でもない。

●エビでタイを釣る

 子どもの懸命さを少しでも感じたら、それをほめる。たとえヘタな文字でも、子どもが
一生懸命書いたら、「ほお、じょうずになったね」とほめる。そういう前向きな姿勢が、子
どもを伸ばす。これは幼児教育の大原則。昔からこう言うではないか。「エビでタイを釣る」
と。しかし愚かな人はタイを釣る前に、エビを食べてしまう。こまかいこと(=エビ)を
言って、子どもの意欲(=タイ)を、そいでしまう。

(付記)

●私の意見に対する反論

 この私の意見に対して、「日本語には日本語の美しさがある。トメ、ハネ、ハライもその
一つ。それを子どもに伝えていくのも、教育の役目だ」「小学低学年でそれをしっかりと教
えておかないと、なおすことができなくなる」と言う人がいた。

しかし私はこういう意見を聞くと、生理的な嫌悪感を覚える。その第一、「トメ、ハネ、ハ
ライが美しい」と誰が決めたのか? それはその道の書道家たちがそう思うだけで、そう
いう「美」を、勝手に押しつけてもらっては困る。要はバランスの問題だが、文字の役目
は、意思を相手に伝えること。「型」ばかりにこだわっていると、文字本来の目的がどこか
へ飛んでいってしまう。

私は毎晩、涙をポロポロこぼしながら漢字の書き取りをしていた二男の姿を、今でもよく
思い出す。二男にとっては、右手で文字を書くというのは、私たちが足の指に鉛筆をはさ
んで文字を書くのと同じくらい、つらいことだったのだろう。二男には本当に申し訳ない
ことをしたと思っている。この原稿には、そういう私の、父親としての気持ちを織り込ん
だ。

(参考)

●経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達度調査」(PISA・2000年調
査)によれば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対して、日本の生徒(15歳)
のうち、53%が、「しない」と答えている。

この割合は、参加国32か国中、最多であった。また同じ調査だが、読解力の点数こそ、
日本は中位よりやや上の8位であったが、記述式の問題について無回答が目立った。

無回答率はカナダは5%、アメリカは4%。しかし日本は29%! 文部科学省は、「わか
らないものには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれる」(毎日新聞)とコメント
を寄せている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
日本人の型 型にはめる教育 子供の個性)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもを勉強好きにする法

子どもがワークをするとき 

●西田ひかるさんが高校一年生

 学研に「幼児の学習」「なかよし学習」という雑誌があった。今もある。私はこの雑誌に
創刊時からかかわり、その後「知恵遊び」を10年間ほど、協力させてもらった。

「協力」というのもおおげさだが、巻末の紹介欄ではそうなっていた。この雑誌は両誌で、
当時毎月47万部も発行された。この雑誌を中心に私は以後、無数の市販教材の制作、指
導にかかわってきた。

バーコードをこするだけで音が出たり答えが出たりする世界初の教材、「TOM」(全10
巻)や、「まなぶくん・幼児教室」(全48巻)なども手がけた。

14年ほど前には英語雑誌、「ハローワールド」の創刊企画も一から手がけた。この雑誌も
毎月27万部という発行部数を記録したが、そのときの編集長の大塚K氏が、横浜のアメ
リカンハイスクールで見つけてきたのが、西田ひかるさんだった。当時まだまったく無名
の、高校一年生だった。

●さて本題

 ……実はこういう前置きをしなければならないところに、肩書のない人間の悲しみがあ
る。私はどこの世界でも、またどんな人に会っても、まずそれから話さなければならない。
私の意見を聞いてもらうのは、そのあとだ。

で、本論。私はこのコラム(中日新聞「子どもの世界」)の中で、「ワークやドリルなど、
半分はお絵かきになってもよい」と書いた。別のところでは、「ワークやドリルほどいいか
げんなものはない」とも書いた。

そのことについて、何人かの人から、「おかしい」「それはまちがっている」という意見を
もらった。しかし私はやはり、そう思う。無数の市販教材に携わってきた「私」がそう言
うのだから、まちがいない。

●平均点は六〇点

まず「売れるもの」。それを大前提にして、この種の教材の企画は始まる。主義主張は、次
の次。そして私のような教材屋に仕事が回ってくる。そのとき、おおむね次のようなレベ
ルを想定して、プロット(構成)を立てる。

その年齢の子ども上位10%と下位10%は、対象からはずす。残りの80%の子どもが、
ほぼ無理なくできる問題、と。点数で言えば、平均点が60点ぐらいになるような問題を
考える。

幼児用の教材であれば、文字、数、知恵の三本を柱に案をまとめる。小学生用であれば、
教科書を参考にまとめる。

しかしこの世界には、著作権というものがない。まさに無法地帯。私の考えた案が、ほん
の少しだけ変えられ、他社で別の教材になるということは日常茶飯事。こう書いても信じ
てもらえないかもしれないが、25年前に私が「主婦と生活」という雑誌で発表した知育
ワークで、その後、東京の私立小学校の入試問題の定番になったのが、いくつかある。

●半分がお絵かきになってもよい

 子どもがワークやドリルをていねいにやってくれれば、それはそれとして喜ばねばなら
ないことかもしれない。しかしそういうワークやドリルが、子どもをしごく道具になって
いるのを見ると、私としてはつらい。……つらかった。

私のばあい、子どもたちに楽しんでもらうということを何よりも大切にした。同じ迷路の
問題でも、それを立体的にしてみたり、物語を入れてみたり、あるいは意外性をそこにま
ぜた。たとえば無数の魚が泳いでいるのだが、よく見ると全体として迷路になっていると
か。あの「幼児の学習」や「なかよし学習」にしても、私は毎月300枚以上の原案をか
いていた。だから繰り返す。

 「ワークやドリルなど、半分がお絵かきになってもよい。それよりも大切なことは、子
どもが学ぶことを楽しむこと。自分はできるという自信をもつこと」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの学習 子供の学習 勉強嫌い 子どもの集中力 子供の集中力 学習指導 勉強
指導 学習机 はやし浩司 子供の勉強グセ 勉強癖 やる気 やる気論 子供を伸ばす
法 子供の伸ばし方 家庭学習 子供の方向性)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【心のキズ】

●子どものうつ病

+++++++++++++++++

うつ病の素因(遠因)は、満5歳から
10歳ごろまでに、つくられるという。

しかもその主なる原因は、離別体験だ
という。

つまり幼少期に親と離別体験を経験した
子どもほど、のちにおとなになって
から、うつ病(抑うつ状態)に
なりやすいということがわかって
いる。

もし今、あなたがうつ病、もしくは
うつ病的な傾向があるなら、まず、
自分の過去をのぞいてみよう。

それがあなたの心を守る第一歩となる。

++++++++++++++++

●幼少期の離別体験

 児童期の喪失体験が、子どもの抑うつ状態と、深く関係しているという(社会精神医学、
7;114―118)。

 いわく「10歳以前の両親のいずれかと死別体験、もしくは、分離体験という喪失体験
が、正常対象群(9%)に対して、患者群(39%)に有意の差をもって多く認められた。

 しかし抑うつ状態の診断下位群、抑うつ状態の臨床結果とは特異な所見を得られなかっ
た。

 さらに5〜10歳までが、喪失体験が抑うつ状態の素因を形成するための臨界期であろ
うと推察した」と。

 わかりやすく言うと、こうなる。

10歳以前に、両親のいずれかと死別、もしくは分離体験をした子どもほど、のちにおと
のなになってから、抑うつ状態になりやすいということ。

 同じような報告は、イギリスのバーミンガム病院でも、報告されている(精神医学、2
8;387〜393、1986)。

 精神障害のある39人の患者について調べたところ、「15歳以前で、12か月以上の離
別体験をもった人」は、そうでない人よりも、明らかに関連性があることがわかったとい
う。

 しかもこの報告で、興味深いのは、異性の親(男児であれば、母親、女児であれば、父
親)との離別体験をもった人ほど、「有意な差」が見られたという。

 さらに報告書は、こう書いている。

 「死別体験は家族歴の有無と、有意の関連を呈さなかったが、離別体験は家族歴の有無
と有意(exact probability test, p=0.026)の関連をもち、この傾向は、離別の対象が異性
の親である際に強いものであった。

 異性親からの離別を体験したものは、家族歴を有する20人のうち、7名(35%)で
あるのに対して、家族歴を有さないもの19名では、皆無(0%)であった。

 このことから、うつ病発症に関与していると考えられる幼少期の離別体験は、一部には、
家族員の精神疾患から発生したものである可能性が示された」(北村俊則)と。

 以上を、わかりやすくまとめると、こうなる。

(1)10歳以前に親との死別体験や離別体験をもった人ほど、うつ病になりやすい。
(2)異性の親との死別体験や離別体験をもった人ほど、うつ病になりやすい。
(3)家族のだれかに精神疾患があった人ほど、うつ病になりやすい。

 かなり乱暴なまとめ方なので、誤解を招く心配もないわけではないが、おおざっぱに言
えば、そういうことになる。そしてこうした調査報告を、裏から読むと、こうなる。

(1)10歳以前に、子どもに、離別体験を経験させるのは、避けたほうがよい、と。

 しかし実際には、たとえば親の離婚問題を例にあげて考えてみると、離婚(離別)その
ものが子どもに影響を与えるというよりは、それにいたる家庭内騒動が、子どもに影響を
与えるとみるべきである。バーミンガム病院での報告書にも、「死別体験は家族歴の有無と、
有意の関連を呈さなかった」とある。

 解釈のしかたにも、いろいろあるが、死別のばあいは、離婚騒動で起きるような家庭内
騒動は、起きない。

 だから離婚するにしても、(それぞれの人たちは、やむにやまれない理由があって離婚す
るので)、子どもとは無縁の世界で、話を進めるのがよいということになる。子どもの目の
前で、はげしい夫婦げんかをするなどという行為は、タブーと考えてよい。

 また、この調査結果は、もうひとつ重要なことを私たちに教えている。

 もし今、あなたがうつ病、もしくはうつ病的な傾向を示しているなら、その原因は、ひ
ょっとしたら、あなた自身の幼少期に起因しているかもしれないということ。(うつ病の原
因が、すべて幼少期にあると言っているのではない。誤解のないように!)

 そこであなたは、自分の過去を、冷静に、かつ客観的に見つめなおしてみる。

 しかし問題は、あなた自身が、そういう過去を経験したということではなく、そういう
過去があることに気がつかないまま、そういう過去の虜(とりこ)となって、その過去に
操られることである。

 そこでまず、自分の過去を知る。

 もしそのとき、あなたが心豊かで恵まれた環境の中で、育てられたというのであれば、
それはそれとして結構なことである。が、反対に、ここでいうような不幸な体験(親との
死別体験や離別体験)を経験しているなら、あなたの心は、何らかの形で、かなりキズつ
いているとみてよ
い。

 しかしそれがこの問題を克服する第一歩である。

 自分の過去を知り、自分の心のキズに気がつけば、あとは、時間が解決してくれる。5
年とか10年とか、あるいはもっと時間がかかるかもしれない。が、あとは、時間に任せ
ればよい。少なくとも、自分の(心の敵)がわかれば、恐れることはない。不必要に悩ん
だり、苦しんだりすることもない。

 うつ病にかぎらず、心の問題というのは、そういうものである。

 私自身の経験を書いたエッセーが、つぎのものである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心のキズ

 私の父はふだんは、学者肌の、もの静かな人だった。しかし酒を飲むと、人が変わった。
今でいう、アルコール依存症だったのか? 3〜4日ごとに酒を飲んでは、家の中で暴れ
た。大声を出して母を殴ったり、蹴ったりしたこともある。あるいは用意してあった食事
をすべて、ひっくり返したこともある。

私と5歳年上の姉は、そのたびに2階の奥にある物干し台に身を潜め、私は「姉ちゃん、
こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と泣いた。

 何らかの恐怖体験が、心のキズとなる。そしてそのキズは、皮膚についた切りキズのよ
うに、一度つくと、消えることはない。そしてそのキズは、何らかの形で、その人に影響
を与える。

が、問題は、キズがあるということではなく、そのキズに気づかないまま、そのキズに振
り回されることである。

たとえば私は子どものころから、夜がこわかった。今でも精神状態が不安定になると、夜
がこわくて、ひとりで寝られない。あるいは岐阜の実家へ帰るのが、今でも苦痛でならな
い。帰ると決めると、その数日前から何とも言えない憂うつ感に襲われる。

しかしそういう自分の理由が、長い間わからなかった。もう少し若いころは、そういう自
分を心のどこかで感じながらも、気力でカバーしてしまった。が、50歳も過ぎるころに
なると、自分の姿がよく見えてくる。見えてくると同時に、「なぜ、自分がそうなのか」と
いうことまでわかってくる。

 私は子どものころ、夜がくるのがこわかった。「今夜も父は酒を飲んでくるのだろうか」
と、そんなことを心配していた。また私の家庭はそんなわけで、「家庭」としての機能を果
たしていなかった。家族がいっしょにお茶を飲むなどという雰囲気は、どこにもなかった。

だから私はいつも、さみしい気持ちを紛らわすため、祖父のふとんの中や、母のふとんの
中で寝た。それに私は中学生のとき、猛烈に勉強したが、勉強が好きだからしたわけでは
ない。母に、「勉強しなければ、自転車屋を継げ」といつも、おどされていたからだ。つま
りそういう「過去」が、今の私をつくった。

 よく「子どもの心にキズをつけてしまったようだ。心のキズは消えるか」という質問を
受ける。が、キズなどというのは、消えない。消えるものではない。恐らく死ぬまで残る。
ただこういうことは言える。

心のキズは、なおそうと思わないこと。忘れること。それに触れないようにすること。さ
らに同じようなキズは、繰り返しつくらないこと。つくればつくるほど、かさぶたをめく
るようにして、キズ口は深くなる。

私のばあいも、あの恐怖体験が一度だけだったら、こうまで苦しまなかっただろうと思う。
しかし父は、先にも書いたように、3〜4日ごとに酒を飲んで暴れた。だから54歳にな
った今でも、そのときの体験が、フラッシュバックとなって私を襲うことがある。

「姉ちゃん、こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と体を震わせて、ふとんの中で泣くこ
とがある。54歳になった今でも、だ。

心のキズというのは、そういうものだ。決して安易に考えてはいけない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私の経験から

 私が、自分の過去を冷静にみるようになったのは、私が30歳もすぎてからのことでは
なかったか。それについて書いたエッセーが、つぎのものである。内容的に一部、ダブる
ところがあるが、許してほしい。4年前に書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【自分を変えるために……】

+++++++++++++++++++++

あなたは本当に、あなたか? 
あなたは「私は私」と、本当にそのように、
自信をもって言えるか?

+++++++++++++++++++++

●私の不安発作

 ときどき、自分が夜の闇に吸い込まれていくように感じて、言いようのない不安に襲わ
れることがある。私は夜が苦手。子どものころから苦手だった。そういう不安に襲われる
と、この年齢(54歳)になっても、ひとりで寝ることができない。ワイフが床に入るの
を待ってから、自分もその床に身をすべらせる。

 夜が苦手になった理由は、父が酒乱だったことによる。私が4,5歳くらいのときから
父の酒グセが悪くなり、父は数日おきに酒を飲んだ。見さかいなく暴れた。ときにはそう
いう騒動を、おもしろおかしく見たこともあるが、私には恐怖だった。

父が酒を飲んで暴れるたびに、そして大声で怒鳴り散らすたびに、私と姉は、2階の奥に
あった物干し台の陰に身を隠し、それにおびえた。今でも、「姉ちゃん、こわいよ」「姉ち
ゃん、こわいよ」と声を震わせて泣いた自分の声を、よく覚えている。姉は私より、5歳
年上だった。

●心のキズにきづいたのは、三〇歳を過ぎてから

 しかし私がこうした自分の心のキズに気づいたのは、私が30歳を過ぎてからだった。
それまでは自分の心にキズがあるなどとは、思ってもみなかった。が、今から思い出すと、
いろいろな症状があった。

たとえば私は酒臭い人が大嫌いだった。近くにいるだけで、生理的な嫌悪感を覚えた。赤
い夕日が沈むのを見ると、ときどき不安になった。暗いトンネルに入ると、ぞっとするよ
うな恐怖感に襲われた。カッとなると、すべてを破壊してしまいたいような衝動にかられ
た。自分を消してしまいたいような衝動で、そのためときどきワイフに暴力を振るったこ
ともある。

父が母に暴力を振るっていたのを見たことがあるためか、自分の暴力は正しいと思い込ん
でいた。そして最大の症状は、ここに書いたように、夜がこわかったということ。

●不安発作の原因

 一度不安発作に襲われると、自分でもどうやって身を守ってよいのかわからなくなる。
たいていはふとんの中で、体を丸めて、ガタガタ震える。あるいはワイフの体にしがみつ
いて眠る。

しかしそれでも、なぜ自分がそういう発作に襲われるのか、理由がわからなかった。が、
ある夜のこと。私がワイフにふとんの中で、私の子どものころの話を語っていたときのこ
と。やがて話が父の酒乱の話しになり、暴力の話になった。そして姉と物干し台で震えて
いたときの話になった。そのときのことだ。突然、私はあの不安発作に襲われた。

 体がガタガタと震えだし、そして自分が夜の闇に吸い込まれていくのを感じた。そして
年甲斐もなく、大声で、「姉ちゃん、こわいよ」「姉ちゃん、こわいよ」と泣き出した。

ワイフは、私を自分の体で包みながら、「あなた、何でもないのよ」となだめてくれたが、
そのときはじめて私はわかった。私が感じる不安は、あの夜感じた不安と同じだった。そ
してそれはあの夜から始まっていたのを知った。

 赤い夕日が沈むのを見ると不安になるのは、そのころ父はいつも近くの酒屋で酒を飲ん
でいたからだ。いつだったか、父が真っ赤な夕日を背景に、フラフラと通りを歩いている
のをみかけたことがある。そのときの光景が、今でもはっきりと覚えている。

 また私が暗いトンネルが苦手なのは、暗闇がこわいということよりも、何らかの恐怖症
が形を変えたためと考えられる。子どもというのは、一度恐怖症になると、その思考プロ
セスだけは残り、いろいろな恐怖症に姿を変える。私のばあいも、暗闇恐怖症が、飛行機
事故で今度は、飛行機恐怖症になったりした。

●私の中の私でない部分

 が、ここで私の中に大きな変化が起きたのを知った。「私は私」と思っていたが、私の中
に、私でない部分を知ったとき、そのときから、本当の自分が見えてきた。私は、私の中
の別の私に動かされていただけだった。

たとえば私が酒臭い人を嫌うのも、赤い夕日が沈むのを見ると、ときどき不安になるのも、
また暗いトンネルに入ると、ぞっとするような恐怖感に襲われるのも、カッとなると、す
べてを破壊してしまいたいような衝動にかられるのも、すべて、私の中の別の私がそうさ
せていることに気づいた。これは私にとっては、大きな発見だった。この先を話す前に、
こんなことがある。

●子どもを見ていて……

 子どもを教えていると、それぞれの子どもが、何らかの問題をかかえている。問題のな
い子どもなどいないと言ってもよい。それほど深刻なケースでなくても、いじけたり、す
ねたり、つっぱったり、ひねくれたり、ひがんだりする子どもは多い。そういう子どもを
観察してみると、子ども自身の意思というよりは、何か別の力によって動かされているの
がわかる。もちろん本人は、自分の意思で行動していると思っているようだが、別の思考
パターンが作動しているのがわかる。

 原因はいろいろある。たいていは家庭環境や家庭教育。年齢が大きくなるにつれて、学
校という場が原因になることもある。私が印象に残っている女の子に、A子さんという子
ども(年長児)がいた。

ある朝、私が園庭でA子さんに、「今日はいい天気だね」と話しかけたときのこと。A子さ
んは、こう言った。「今日は、いい天気ではない。あそこに雲がある」と。そこでまた私が、
「雲があっても、いい天気だよ」と言うと、さらにかたくなな様子になり、「あそこに雲が
ある!」と。ものの考え方がどこかひねくれていた。

で、話を聞くと、A子さんの家は、父子家庭。ある日担任の先生がA子さんの家を訪れて
みると、父親の飲む酒ビンが、床にころがっていたという。

●いつ、それに気づくか?

が、問題はこのことではない。そういう「すなおでない性格」について、子ども自身がい
つ、どのような形で気がつくか、だ。が、このことも、問題ではない。問題は、そういう
自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、自分であって自分でない部分に
引き回されること。そして同じ失敗を繰り返す。これが問題である。

しかしなおす方法がないわけではない。まず、自分自身の中に潜む心のキズがどんなもの
であるかを、客観的に知る。

 私のばあいは、あの夜、ワイフの胸の中で、「姉ちゃん、こわいよ」と泣いたときから、
自分が変わったように思う。それまで心の奥底に潜んでいた「わだかまり」に気づくと同
時に、それを外に吐き出すことができた。

もっともそれですぐすべての問題が解決したわけではないが、少しずつ、そのときからわ
だかまりがこわれていった。同じような症状はそれからも繰り返し出たが、(今でも、出る
が……)、そのつど、なぜ自分がそうなるかがわかり、そしてそれに合わせて、症状も軽く
なっていった。

 そこで……

●自分を変えるために

(1)もしあなたが、いつも同じようなパターンで、同じような失敗を繰り返すようであ
れば、自分さがしをしてみる。どこかにおおきなわだかまりや、心のキズがあるは
ずである。

(2)あなたの過去に問題があることが問題ではない。問題は、そういう問題に気づくこ
とがないまま、その過去に振り回されること。ただし、自分の心の中をのぞくこと
は、こわいことだが、勇気を出して、それをすること。

(3)心の中のキズやわだかまりは、あなたを、無意識のまま、あなたを裏から操(あや
つ)る。ふつうは操られていることに気づかないまま、操られる。たとえば子どもへの暴
力など。親はとっさに暴力を振るうが、あとで「なぜそんなことをしたかわからない」と
いうケースが多いのは、そのため。

(4)しかしあなたが自分の中の、「自分であって自分でない部分」に気づけば、そのとき
から、この問題は解決する。同じような症状(反応)が出たとき、「ああ、これは私
であって、私でない部分」と

(5)自分自身を客観的にみる。あとは時間が解決してくれる。

 これは私の体験からの報告である。

(追記)

 こうした自分自身の体験を公開するのは、一方で、そういう自分と決別するためでもあ
る。自分自身を思いきってさらけ出すのも、ひとつの解決方法かもしれない。

なお私のばあい、それ以上に心がゆがまなかったのは、やさしい祖父母が同居していたた
めと考えられる。もうひとつは、近くに親類が何人かいて、私のめんどうをみてくれた。
ああいう家庭環境で、もし祖父母や親類が近くにいなかったら、今ごろの私は、どうなっ
ていたか……。それを考えると、ぞっとする。

そういう意味で、よく子どもの非行が問題になるが、私はすべて子どもの責任にするのは、
まちがっていると思う。

(02−9−29)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
心の傷 トラウマ うつ病 離婚 離別体験 死別体験 子供の心理 バーミンガム病院 
恐怖症 はやし浩司 離別体験 うつ秒 心の問題)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●同一性の危機

万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめ
を、非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしている
こと)の間に遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子
どもの耐性にもよるが、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの
自己の同一性は、危機に立たされる。


●夢・希望・目的

夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のした
いこと)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感がある
とき、そこから生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。
そしてサッカーの練習をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」
とか、「パン屋さんになる」とかいう目的は、そこから生まれる。


●子どもの忍耐力

同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)
を、別のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。ある
いは「したくないが、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、
忍耐力ということになる。子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。
この忍耐力は、幼児期までに、ほぼ完成される。


●同一性の崩壊

同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をし
たいか、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私
は何だ」「私はだれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それ
は「混乱」というような、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべ
きもの。当然、子どもは、目的を見失う。


●顔のない自分

同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大き
く分けて、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻
撃型)。(2)顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。
ほかに、同情型、依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースで
は、そのまま自己否定(=自殺)へとつながってしまう。


●校内暴力

暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さ
と)しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)
をつくろうとする。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ。だからみなが、恐
れれば、怖れるほど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子ども
の心理的のメカニズムは、こうして説明される。


●子どもの自殺

おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあ
いは、(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)
を主張する。近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットする
ことで、自分を主張し、他人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(し
ょくざい)のために、リストカットする」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。


●自虐的攻撃性

攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に
向って攻撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝
から寝るまで勉強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでい
るのではない。「勉強」という場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかり
やすい。近年、有名になったスポーツ選手の中には、このタイプの人は少なくない。


●自我の同一性
 
(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子
どもの環境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分が
していること)を一致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が
一致している子どもは、夢や希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちつい
ていて、どっしりとしている。抵抗力もあるから、誘惑にも強い。


●心の抵抗力

「私は〜〜をしたい」「ぼくは〜〜する」と、目的と方向性をしっかりともっている子ども
は、心の抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年
から中学校にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同
一性が崩壊している子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘い
があると、スーッとその世界に入ってしまう。


●夢や希望を育てる

たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、
それに答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみまし
ょうか」「お花の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。
が、たいていの親は、この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言
う。「花屋さんも、いいけど、ちゃんと漢字も覚えてね」と。


●子どもを伸ばす三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。
中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と
思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学
会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸
ばすのは、親の義務と、心得る。


●役割混乱

子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時
に、「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間
にか、自分の周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸
ばすコツは、その役割形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役
割混乱」を起こし、精神的にも、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。


●思考プロセス(回路)

しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんば
っていた子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。
しかし幼いときに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロ
セスは、そのまま残る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入
る。中身はかわるかもしれないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんば
り始める。


●進学校と受験勉強

たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的
になりえたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのも
のが崩壊してしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考え
やすいが、子どもにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好
きな)サッカーをやめて、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢
をつぶす。「つぶしている」という意識すらないまま……。


●これからはプロの時代

これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでた
プロのほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君
は何ができるか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生
きと、自分の人生を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだ
けは、だれにも負けない」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸
ばす。


●大学生の問題

現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んで
いる。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力
になってしまったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、
荷おろし症候群といって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、
誘惑にも弱くなる。


●自我の同一性と役割形成

子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在しているこ
と)に一致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまら
ない仕事」「そんなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子ども
が、「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。
こういう育児姿勢が、子どもを、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。

(はやし浩司 子どもを伸ばす 子供を伸ばす 自我の同一性 役割形成 思考プロセス
 子供の非行 子どもの非行 はやし浩司 子供を非行から守る 非行のメカニズム)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 7月 3日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの学習指導】

●子どもの集中力

++++++++++++++++

パッパと始めて、サッサと終わる。
その間、わき目もふらずに勉強する。
作業する。

そういう力を集中力という。

この集中力を養うためには、幼児期が
勝負。

短時間で、濃密な学習をする。
そういった訓練を、週に1度ほどする。
10分とか、20分とかいう、短時間で
よい。

それが子どもの集中力へとつながる。

ダラダラとしたダラ勉は禁物。
かえって、子どもからやる気を奪って
しまう。

++++++++++++++++

 何か作業を与えても、熱くならない子どもというのは、多い。小学1年生レベルでみて
も、10人のうち、3〜4人はいる。

 するでもなし、しないでもなし……というような状態で、時間ばかり、かかる。「ここま
でしないと、終わらないよ」と、軽い脅しをかけても、ニヤニヤと笑っているだけ。症状
としては、つぎのようなものがある。

(1)ダラ勉、フリ勉、時間つぶし

 強制的な学習、あるいは、無理な学習が日常化しているため、学習に対する反応が、き
わめて鈍い。ある子ども(6歳児)は、夏休みの間、午前中の2時間、いろいろな勉強を
することになっているという。

 しかし幼児に2時間は、無理。私の教室(BW)では、50分間のレッスンをするが、
私だからこそ、できること。またそういったレッスンをするためには、その何倍もの時間
をかけて、準備をしなければならない。

 平均的な幼児だったら、30分が限度。しかも30分のうち、10分程度、勉強らしき
ことをしたら、よしとする。それですます。

(2)頭が熱くならない

 ダラダラと時間ばかりつぶす。そのため、頭が熱くなることがない。ジョギングにたと
えて言うなら、走るでもない、歩くでもないといった感じ。道草ばかり食って、前に進ま
ない。

 平均的な子どもは、ここ一番というとき、カッとなって、その作業に夢中になったりす
る。しかしこのタイプの子どもには、それがない。熱くなるということ、そのものがない。
ほかの子どもたち
が、先を争って作業をするようなときでも、柔和な表情を浮かべて、知らぬ顔をしている。
あとをのんびりとついていく。

(3)競争心、闘争心に欠ける

 「勝つ」「負ける」という感覚そのものが、弱い。あるいは負けても、平気。競争心、闘
争心がなく、最初から、万事、あきらめムード。

 では、どうすればよいか。以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

子どもが勉強から逃げるとき 

++++++++++++++++

やらせればできるはず……と考えたら、
STOP!

中には、「うちの子をもっと、しぼって
ください!」と、頼む親だっている。

しかしこの方法では、子どもは、伸びない。

++++++++++++++++

●フリ勉、ダラ勉、ムダ勉

 子どもは勉強から逃げるとき、独特の症状を示す。まずフリ勉。

いかにも勉強しているというフリをする。頭をかかえ、黙々と問題を読んでいるフリをす
る。しかしその実、何もしていない。何も考えていない。

次にダラ勉。一時間なら一時間、机に向かって座っているものの、ダラダラしているだけ。
マンガを読んだり、指で机をかじったり、爪をほじったりする。

このばあいも、時間ばかりかかるが、その実、何もしていない。ムダ勉というのもある。
やらなくてもよいようなムダな勉強ばかりして、時間をつぶす。折れ線グラフをかくとき
も、グラフばかりかいて時間をつぶすなど。

●一時間で計算問題を数問!

 こういう状態になったら、親は家庭教育のあり方を、かなり反省しなければならない。
こんなこともあった。ある母親から、「夏休みの間だけでも、息子(小二)の勉強をみてほ
しい」と。遠い親戚にあたる母親だった。そこでその子どもを家に呼ぶと、その子どもは
バッグいっぱいのワークブックを持ってきた。

見ると、どれも分厚い、文字がびっしりのものばかり。その上、どれも子どもの能力を超
えたものばかりだった。母親は難しいワークブックをやらせれば、それだけで勉強がよく
できるようになると思っていたらしい。

案の定、教えてみると、空を見つめて、ぼんやりとしているだけ。ほとんど何もしない。
同じ問題を書いては消し、また書いては消すの繰り返し。一時間もかかって、簡単な計算
問題を数問しかしないということもあった。小学低学年の段階で一度こういう症状を示す
と、なおすのは容易でない。

●意欲を奪う五つの原因

 子どもから学習意欲を奪うものに、(1)過負担(長い学習時間、回数の多い塾通い)、(2)
過関心(子どもの側から見て、気が抜けない家庭環境、ピリピリした親の態度)、(3)過
剰期待(「やればできるはず」と子どもを追いたてる、親の高望み)、(4)過干渉(何でも
親が先に決めてしまう)、それに(5)与えすぎ(子どもが望む前に、あれこれお膳立てし
てしまう)がある。

 たくさん勉強させればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人は多い。し
かしこれは誤解。

『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶を
そこない、また記憶されない』と、あのレオナルド・ダ・ビンチも言っている。あるいは
より高度な勉強をさせればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人もいる。
これについては誤解とまでは言えないが、しかしそのときもそれだけの意欲が子どもにあ
ればよいが、そうでなければやはり逆効果。

 要は集中力の問題。ダラダラと時間をかけるよりも、短時間にパッパッと勉強を終える
ほうが、子どもの勉強としては望ましい。実際、勉強ができる子どもというのは、そうい
う勉強のし方をする。私が今知っている子どもに、K君(小四男児)という子どもがいる。
彼は中学一年レベルの数学の問題を、自分の解き方で解いてしまう。

そのK君だが、「家ではほとんど勉強しない」(母親)とのこと。「学校の宿題も、朝、学校
へ行ってからしているようです」とも。

 ついでながら静岡県の小学五、六年生についてみると、家での学習時間が三〇分から一
時間が四三%、一時間から一時間三〇分が三一%だそうだ(静岡県出版文化会発行「ファ
ミリス」県内一〇〇名について調査・二〇〇一年)。

(参考資料)

静岡県の小学五、六年生についてみると、家での学習時間が……

30分から1時間……43%
1時間から1時間30分……31%だそうだ。
(静岡県出版文化会発行「ファミリス」県内100名について調査・2001年)。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●変わる「勉強」への意識

 もっとも今、「勉強」そのものの内容が大きく変わろうとしている。「問題を解ける子ど
も」から、「問題を考える子ども」へ。「知っている子ども」から、「何かを生み出す子ども」
へ。さらには「言われたことを従順にこなす子ども」から、「個性が光る子ども」へ、と。
少なくとも世界の教育はそういう方向に向かって動いている。

そして当然のことながら、それに合わせて教育内容も変わってきている。大学の入学試験
のあり方も変わってきている。だから昔のままの教育観で子どもに勉強させようとしても、
それ自体が今の教育にはそぐわないし、第一、子どもたちがそれを受けいれない。

たとえば昔は、勉強がよくできる子どもが尊敬され、それだけでクラスのリーダーになっ
た。しかし今は違う。「勉強して、S君のようないい成績をとってみたら」などと言うと、
「ぼくらは、あんなヘンなヤツとは違う」と答えたりする。「A進学高校へ行くと勉強させ
られるから、A進学高校には行きたくない」と言う子どもも、珍しくない。それがよいの
か悪いのかは別にして、今はそういう時代なのだ。

 ……などなど、そういうことも考えながら、子どもの勉強を考えるとよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの勉強グセ 勉強嫌い 勉強を避ける子供)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもを本好きにする法

子どもの方向性を知るとき 

++++++++++++++++

子どもを伸ばす最大のコツは、
子ども自身が伸びる方向性に沿って、
子どもを伸ばす。

無理をしない。その一言に尽きる。

++++++++++++++++

●図書館でわかる子どもの方向性
 
子どもの方向性を知るには、図書館へ連れて行けばよい。そして数時間、図書館の中で自
由に遊ばせてみる。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを観察してみる。

サッカーが好きな子どもは、サッカーの本を読む。動物が好きな子どもは、動物の本を読
む。そのとき子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。

その方向性にすなおに従えば、子どもは本が好きになる。さからえば、本が嫌いになる。
無理をすれば子どもの伸びる「芽」そのものをつぶすことにもなりかねない。ここでいく
つかのコツがある。

●無理をしない

 まず子どもに与える本は、その年齢よりも、1〜2年、レベルをさげる。親というのは、
どうしても無理をする傾向がある。6歳の子どもには、7歳用の本を与えようとする。7
歳の子どもには、8歳用の本を与えようとする。この小さな無理が、子どもから本を遠ざ
ける。

そこで「うちの子どもはどうも本が好きではないようだ」と感じたら、思いきってレベル
をさげる。本の選択は、子どもに任す。が、そうでない親もいる。本屋で子どもに、「好き
な本を一冊買ってあげる」と言っておきながら、子どもが何か本を持ってくると、「こんな
本はダメ。もっといい本にしなさい」と。こういう身勝手さが、子どもから本を遠ざける。

●動機づけを大切に

 次に本を与えるときは、まず親が読んでみせる。読むフリでもよい。そして親自身が子
どもの前で感動してみせる。「この本はおもしろいわ」とか。これは本に限らない。

子どもに何かものを与えるときは、それなりのお膳立てをする。これを動機づけという。
本のばあいだと、子どもをひざに抱いて、少しだけでもその本を読んであげるなど。この
動機づけがうまくいくと、あとは子どもは自分で伸びる。そうでなければそうでない。こ
の動機づけのよしあしで、その後の子どもの取り組み方は、まったく違ってくる。

まずいのは、買ってきた本を袋に入れたまま、子どもにポイと渡すような行為。子どもは
読む意欲そのものをなくしてしまう。無理や強制がよくないことは、言うまでもない。

●文字を音にかえているだけ?

 なお年中児ともなると、本をスラスラと読む子どもが現れる。親は「うちの子どもは国
語力があるはず」と喜ぶが、たいていは文字を音にかえているだけ。内容はまったく理解
していない。

親「うさぎさんは、どこへ行ったのかな」
子「……わかんない」
親「うさぎさんは誰に会ったのかな?」
子「……わかんない」と。

もしそうであれば子どもが本を読んだら、一ページごとに質問してみるとよい。「うさぎさ
んは、どこへ行きましたか」「うさぎさんは、誰に会いましたか」と。あるいは本を読み終
えたら、その内容について絵をかかせるとよい。

本を読み取る力のある子どもは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかるような絵を
かく。そうでない子どもは、ある部分だけにこだわった絵をかく。また本を理解しながら
読んでいる子どもは、読むとき、目が静かに落ち着いている。そうでない子どもは、目が
フワフワした感じになる。

さらに読みの深い子どもは、一ページ読むごとに何か考える様子をみせたり、そのつど挿
し絵をじっと見ながら読んだりする。本の読み方としては、そのほうが好ましいことは言
うまでもない。

●文字の使命は心を伝えること

 最後に、作文を好きにさせるためには、こまかいルール(文法)はうるさく言わないこ
と。誤字、脱字についても同じ。要は意味が伝わればよしとする。そういうおおらかさが
子どもを文字好きにする。が、日本人はどうしても「型」にこだわりやすい。書き順もそ
うだが、文法もそうだ。

たとえば小学二年の秋に、「なかなか」の使い方を学ぶ(光村図書版)。「『ぼくのとうさん、
なかなかやるな』と、同じ使い方をしている『なかなか』はどれか。『なかなかできない』
『なかなかおいしい』『なかなかなきやまない』」と。

こういうことばかりに神経質になるから、子どもは作文が嫌いになる。小学校の高学年児
で、作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌いと言う子どもは、一〇人に
三人はいる。

(付記)
●私の記事への反論

 「一ページごとに質問してみるとよい」という考えに対して、「子どもに本を読んであげ
るときには、とちゅうで、あれこれ質問してはいけない。作者の意図をそこなう」「本とい
うのは言葉の流れや、文のリズムを味わうものだ」という意見をもらった。図書館などで、
子どもたちに本の読み聞かせをしている人からだった。

 私もそう思う。それはそれだが、しかし実際には、幼児を知らない児童文学者という人
も多い。そういう人は、自分の本の中で、幼児が知るはずもないというような言葉を平気
で並べる。たとえばある幼児向けの本の中には、次のような言葉があった。「かわべの ほ
とりで、 ひとりの つりびとが うつら うつらと つりいとを たれたまま、 まど
ろんでいた」と。

この中だけでも、幼児には理解ができそうもないと思われる言葉が、「川辺」「釣り人」「う
つら」「釣り糸」「まどろむ」と続く。こうした言葉の説明を説明したり、問いかけたりす
ることは、決してその本の「よさ」をそこなうものではない。が、それだけではない。

意味のわからない言葉から受けるストレスは相当なものだ。ためしにBS放送か何かで、
フランス語の放送をしばらく聞いてみるとよい。フランス語がわかれば話は別だが、ふつ
うの人ならしばらく聞いていると、イライラしてくるはずだ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子供の方向性 図書館の活用方法)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「貯金、10億、自由に使えるお金、10億」

+++++++++++++++++++

どこかの球団の監督が、こう言った。
「貯金、10億、自由に使えるお金、10億。
それを目標にすればいい」と。

発想が貧しいというか、球団の監督ともあろう
人物が、こういう発言を堂々とするところが、
悲しい。

++++++++++++++++++++

●強欲

「強欲」という言葉がある。
欲の皮がつっぱったような人をいう。
いや、欲が悪いわけではない。
みな、ある。
私にもあるし、あなたにもある。
大切なのは、その欲の向け方と使い方。

一般論として、欲の(1)向け方と、(2)使い方は、世代連鎖しやすい。
親が強欲だと、子どもも強欲になる。
中に、反対に親を反面教師として、見た目には正反対の考え方を示す子どももいる。
そのばあいは、多くのばあい、極端な考え方に走るケースが多い。

(1)向け方

欲を何に向けるか。
向ける先には、いろいろある。
仕事、ボランティア活動、趣味、名誉、地位、研究などなど。
もちろん金(マネー)に欲を向ける人も多い。
何に欲を向けるかは、人それぞれ。
みな、ちがう。
大切なことは、それぞれがそれぞれを認めあうこと。
そのバラエティが人間の社会を、うるおい豊かにする。
楽しくする。

で、その欲は、向け方によって、2つに区別することができる。
内面的欲と外面的欲。

「もっといろいろなことを知りたい」「世界中を旅してみたい」と思うのは、
内面的欲ということになる。
「自分に向かった欲」と考えればよい。

一方、他者に働きかけ、「有名になりたい」「名誉や地位がほしい」と思うのは、
外面的欲ということになる。
「自分以外に向かった欲」と考えればよい。

子育てについて言うなら、「子どもは幸せになってほしい」と思うのは、内面的
欲ということになる。
「子どもには、有名大学を出てほしい」と思うのは、外面的欲ということになる。

が、これら2つは、必ずしも択一的なものではない。
それぞれが、たがいに混ざり合うこともある。
中には、「自分を試すためにエベレストに登りたいが、同時に有名になりたい」と
思う人もいるかもしれない。
あるいは「有名大学を出れば、子どもは幸福になれるはず」と思う人もいるかも
しれない。

(2)使い方

欲は言うなれば、自分の中の野生馬のようなもの。
生きる原動力としても働く。
が、うまく使いこなさないと、たいへんなことになる。
強欲な人を例にあげるまでもない。
このタイプの人は、他人の人生など、平気で犠牲にする。

で、それをコントロールするのが、自己管理能力ということになる。
理性や知性ということになる。
一般論として、有名人や、その世界で活躍している人ほど、欲が強いということに
なる。
フロイトの言葉を借りるなら、「性的エネルギーが強い」ということになる。
ユングの言葉を借りるなら、「生的エネルギーが強い」ということになる。
最近の大脳生理学の言葉を借りるなら、「ドーパミンの分泌が激しい」ということになる。

どうであれ、欲というのは、あらゆる方向に作用する。
昔から『英雄、色を好む』という。
それもそのひとつ。

「国家的な英雄になるような人というのは、それだけ欲も強く、その欲は性欲の
ほうに向きやすい」という意味。
が、それをコントロールするのが、先にも書いたように、理性や知性ということになる。

●10億円?

どこかの球団の監督が、こう言った。
「貯金、10億、自由に使えるお金、10億。それを目標にすればいい」と。

発想が貧しいというか、球団の監督ともあろう人物が、こういう発言を堂々とする
ところが、悲しい。

というのも、興業といっても、プロ野球というのは、日本の娯楽以上の娯楽になって
いる。
老若男女、みなが楽しんでいる。
その裏で、札束が乱舞しているとはいえ、その「長」にもあたる人物が、「10億円」
とは!
以前から品格のない人物とは思っていたが、ここまで下品とは思ってはいなかった。
まさに「あの妻にして、この夫」という感じ。

だいたいあの年齢で、20億円も金融資産をもっていて、どうするの?
そういう資産の偏(かたよ)りがあるから、お金に困る人は、困る。
そういう矛盾を、どう考えているのか?

いいのか、日本のスポーツ界?
つい先日は、どこかの相撲部屋の親方が、殺人罪で、実刑判決を受けている。
その少し前は八百長疑惑で、週刊誌が騒いだ。
そういう醜聞はどこの世界にもあるが、いくらなんでも、ケタがちがう。
億単位の金(マネー)が、それこそ春の蝶のように、その上を飛び交っている。

……しかしそういう人物たちこそ、「強欲の人」という。
欲の奴隷になりながら、奴隷になっていることにすら、気づかない。
「私」というものが、どこにもない。
そのため貴重な「命」をどぶへ捨てるようなことを、平気でしている。

たかが球(たま)の投げ合いであはないか。
球の打ち合いではないか。
いや、これはその監督に言っているのではない。
プロ野球を楽しむ、私たち自身への言葉である。
つまりそういう意識をどこかにもって、自分の欲の暴走にブレーキをかけないと、
私たち自身も、その欲の奴隷になってしまう。
そしてこういう監督を「長」にいだきながらも、そのおかしさに気がつかなくなって
しまう。

「いいなあ、オレもプロ野球の監督になって、それくらい稼いでみたい」と、あなたが
思うようだったら、すでに、あなたもその欲の奴隷になっているということ。

どうであるにせよ、監督なら監督らしく、もう少し言葉の使い方を選んで、
ものをしゃべってほしい。
高校野球からプロ野球球団へ。
純粋な心をもって球団へ入ったとたん、あの高校生たちが、欲の奴隷になると考えるのは、
あまりにも悲しい。

そうそうどこかの相撲の親方も、こう言った。
「土俵の中には、札束が埋まっている。
そう考えって、稽古しろ」と。
新弟子の指導のときに放った言葉である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW BW教室 BW子どもクラブ はやし浩司 欲論 人間の欲)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●5月31日(夜)〜6月1日

++++++++++++++++++

午前中、ワイフと2人で、佐鳴湖を一周した。
歩いて一周した。

途中どこかの団体が、「健走会」を開いていた。
いつもなら静かな佐鳴湖だが、今朝はちがった。
まるで祭の会場のようになっていた。
ワイフと私はその人ごみを避け、「私たちも、
負けじ」と思いながら、歩いた。

佐鳴湖は、以前はといえば、富塚町を出て、医療
センターまで歩く部分は、一般市道を通らないと
一周できなかった。
距離にして、1・5キロはあるだろうか。
それが今度新しく、遊歩道ができ、一般市道を
通ることなく、歩いて一周できるようになった。
富塚町へ出る手前で、佐鳴湖側に橋で渡り、
そのまま湿原を通り抜けて、医療センターの
手前のところまで出る。
ぐんと安全になった。

「いいね」「いいね」と言い合いながら、私たちは
その遊歩道を歩いた。

それを除いて、今日は、おかげでのんびりと
した1日を過ごすことができた。
夜、6月からの講演の練習をした。
6月から、新しい内容で、講演をする。

夜、田丸先生からメールが届いていた。
愛知県のT大学で教授をしている、弟子の方が
亡くなり、葬儀に行って、奥さんと2人で、
お骨を拾ったとか。
さみしい内容のメールだった。


Hiroshi Hayashi+++++++JUNE. 09+++++++++はやし浩司

●アクセス数、3561PV達成!

今朝、Goo−Blogのアクセス数を見たら、何と、3561件(5月31日分のみ)
を達成しているのが、わかった!

閲覧数……3561 PV
訪問者数……639 IP
アクセスランキング……742位/1238180ブログ

ずっと1200〜1400位あたりを、行ったり来たりしていた。
それがこの数日、アクセス数が、ふえつつあった。
順位も、3桁台に入った。
それで「今日あたり、800位台に入るかな」と思っていた。
で、見たら、742位!

123万もあるブロッグの中で、742位。
がぜん、やる気が出てきた。
つぎは、500位台を目標!

それにしても、すごいことだと思う。
639人の人たちが、3561回もアクセスしてくれた。
平均すれば、1人が5回前後、あちこちのページを見てくれたことになる。

Goo−Blogの読者のみなさん、ありがとう!
このところ電子マガジンのほうが低調で、やる気を失っていました。
ここしばらくは、Blogのほうに、力を入れてみます。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●映画『Star Trek』

++++++++++++++++++

封切りから1日、遅れで、今日、映画『スタートレック』を見てきた。
ウ〜〜〜ン、よかった!
星は4つの★★★★+。

どうして5つ星でなかったかって?
実は、あのテーマ音楽がなかった。
見終わったとき気がついたが、(多分)、あのおなじみのあのテーマ音楽がなかった(?)。
見終わったとき、ワイフと、「あったか?」「なかったは……」と。
そんな会話をした。

家に帰って、公式HPを見たが、やはり、あの音楽はなかった……。
どうしてだろう?
最後のシーンは、あの音楽で締めくくってほしかった。
それが唯一の心残り。

で、うれしかったのは、本物のスポックが、父親役(本当は、未来からやってきた本人)
で、出てきたこと。
顔に無数のしわがあったが、私にはすぐ、スポックとわかった。
その顔をスクリーンで見て、「みんなそんな年齢になったのだな」と。
ほかにも老人役で出てきた人がいたのかもしれないが、私は気がつかなかった。

つぎは、『ターミネーター』『トランスフォーマー』とつづく。
みんな、見るぞ!

++++++++++++++++++++

●新しい挑戦!

++++++++++++++++++++

私はいくつかのBLOGをもっている。
それぞれに特徴があり、使い勝手もちがう。

BLOGによっては、字数制限をしているところがある(楽天など)。
あるいは1日1件の投稿と決まっているところもある(はてな)。
HTMLのタグが挿入できるところもあれば、できないところもある。
また投稿と同時に、ヤフーやグーグルでの検索ができるようになるところもあれば、
そうしたサービスをしてくれないところがある。
さらに毎日のアクセス数をきちんと報告してくれるところもあれば、何も
報告してくれないところがある、などなど。

その中の1つに、つまり私が使っているBLOGの1つに、「Goo Blog」
というのがある。
このBLOGは、毎日、アクセス数をきちんと報告してくれる。
ついでにアクセス数順位も!

で、今朝(09年5月31日)見たら、5月30日のアクセス数について、こうあった。

++++++++++++++++++

閲覧数 1866PV
訪問者数 555IT

ついでにアクセスランキングを見ると、

936位   123万7549ブログ

つまり、123万もあるBLOG(Goo Blog)の中で、936位!
(Goo Blogだけで、123万もあるというのも、驚きだが……。)
ずっと1500〜2000位台をキープしていたが、昨日、1000位台を
突破した。

いまだに受験時代の悪癖が残っているのか、それとも、こういう仕事しているせいなのか、
こうした数字を見ると、ムラムラと闘志がわいてくる。
もっともこのあたりまでくると、マラソンと同じで、順位をあげるのがたいへん
むずかしい。
どの人も真剣にBLOGを書いている。

で、今日の目標!

閲覧数で、2000PV、訪問者数で、1000人、順位で、800番台!
さっそくGoo Blogに、原稿を載せる。

++++++++++++++++++

私のBLOGのばあい、読者のほとんどは、女性。
ふつう土日はアクセス数がふえるものらしいが、私のBLOGでは、減る。
アクセスの時間帯も、子どもたちがちょうど学校へ出かけたあたりに集中する。
(あるいは子どもたちが床についたあとの時間帯。)

だから日曜日という今日(5月31日)は、あまり期待できない。
しかし先に書いたような目標を立てた。
閲覧数で2000件を突破。
月間に換算すると、6万件。
おかしなことに実感はまるでないが、いうなれば、子どものテレビゲームと同じ。
数字の遊びのようなもの。

明日の朝、「2000件、ゲット!」と、子どものように叫んでみたい。
ただそれだけ。
……ということで、今朝も始まった。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●情報革命(K国情報について)

++++++++++++++++++++++

10年前とちがって、今では居ながらにして、
国際情報を手に入れることができる。
以前はといえば、情報を手に入れるだけで、たいへん!
実際には、不可能。
が、今では、様相が変わった。
インターネットのおかげである。
中国や韓国の新聞ですら、そのまま読むことができる。

そんなわけで、防衛省や外務省あたりから漏れ出てくる
情報は別として、(地方)がもっていたハンディが、
ほとんどなくなった。
(中央)にいる評論家と、ほとんど変わらない情報を、
この(地方)にいても、手に入れることができる。

その上で、K国問題について、もう一度、考えてみる。

(中央)の評論家たちは、みな、こう書いている。
K国が核実験したのも、また現在のように、
つぎつぎと対外的に強硬策をとっているのは、
(1)金xxの健康問題と、(2)後継者問題が
からんでいるから、と。

「金xxの健康問題があり、あせった軍部が、
強硬策を展開している」というわけである。
しかし本当に、そうか?
そう考えてよいのか?

つぎの3つの事実(まさに事実)を、まず並べて
読んでみてほしい。
これらはこの4〜5月中に、私が集めた情報である。

++++++++++++++++++++++

【情報1】

今日、韓国の東亜日報の記事を読んでいたら、こんな記事が
目に留まった。
これはK国でのマンションに建設についての記事だが、
こうあった。

『……同マンションは人気が高く、分譲価格は4万ドルだったが、上乗せして4万500
0ドルで購入した人もいたという。K国で富裕層は、主にドルで取り引きする。1ドル
がK国ウォンで約3700ウォンなので大きな取引の場合かさばらないうえ、K国ウ
ォンは、毎日価値が下がるためだ』(韓国:東亜日報・09年4月23日)

この中で注目してほしいのは、「3700ウォン」という数字。
中朝国境付近での、K国ウォンの、実勢交換レートは、「1ドル=3700ウォン」
という。

つまり公式レートの26分の1!

つまり先に書いた、「国家予算、37億ドル」というのは、実は、100分の1程度
に計算しなおして、読まなければならない。
そのまま26分の1にすれば、日本円で、たったの142億円!
142億円だぞ!
「よくそれで国が成り立つ」と、驚くよりほかにない。

ちなみに、島根県の標準財政規模は、2546億円(平成18年度)。
鳥取県の標準財政規模は、1882億円(平成18年度)。
K国の国家予算は、鳥取県の財政規模の、13分の1!

【情報2】

(注※1)【ロンドン28日時事】国際人権擁護団体アムネスティ・インターナショナル(本
部ロンドン)は、28日、世界の人権状況をまとめた年次報告書(2009年度版)を公表。こ
の中でK国について、「1990年代後半以降で最悪」という危機的なレベルの食料難に直面す
る一方、当局は人々の生存に最低限必要な食料を確保する対策さえ怠っていると批判した。

 報告書によれば、K国は「過去10年間で見られなかった規模」の飢餓に見舞われ、何百
万人もが苦境に陥っている。大半は雑穀などで胃を満たすことを余儀なくされ、野草で食
いつないでいる人も多いという。

 こうした状況にもかかわらず、K国当局は米国からの食料支援受け取りを拒否した上、
昨年3月末には米国の人道団体の国外退去を命令。食料不足の報が全国に広がるのを防ぐ
ため、長距離電話回線が遮断されたとも伝えられるとしている。(時事通信・5月28日)

++++++++++++++++++++

情報1の中で、「国家予算、37億ドル」と書いたが、これですら、K国が
勝手に報道している、いわば公式の額。
実際には、もっと少ないと考えられる。
(というのも、どこの国でも、国家予算というのは、自国の通貨で発表するのが、
常識。
アメリカドルで国家予算を発表しているのは、もちろん、USAだけ。)

で、頭の中でこれら2つの情報を、足して2で割ってみてほしい。
で、それに時事通信社が伝える、つぎの情報を足してみてほしい。

++++++++++++++++

【情報3】『国際人権擁護団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)は、5
月28日、世界の人権状況をまとめた年次報告書(2009年度版)を公表。この中でK
国について、「1990年代後半以降で最悪」という危機的なレベルの食料難に直面する一
方、当局は人々の生存に最低限必要な食料を確保する対策さえ怠っていると批判した』(時
事通信より抜粋)と。

同じくWFPも『世界食糧計画(WFP)が北朝鮮の食糧事情が極めて深刻な状態にあると
して、国際社会に対し約6千万ドル(約65億3000万円相当)の資金援助を要請。過
去3週間にわたって実施した現地調査で、約半数の世帯が1日2食の生活を強いられる1
990年代以降では最悪の状況にあるとしていると紹介している」と報告している

……こうした状況にもかかわらず、K国当局は米国からの食料支援受け取りを拒否した上、
昨年3月末には米国の人道団体の国外退去を命令。食料不足の報が全国に広がるのを防ぐ
ため、長距離電話回線が遮断されたとも伝えられるとしている』

++++++++++++++++

さらに(中央)からは、こんな情報も漏れ伝わっている。
「今回の核実験について、近隣の住民たちに対して、避難指示は出されなかったようで
ある」と。
これを【情報4】とする。

さて、どうなるか?
頭の中で
(1)+(2)+(3)をし、それに(4)を加味する。

私のばあい、その答は、(中央)の評論家たちの意見とは、かなり異なったものに
なってくる。
つまりK国が核実験をしたのも、また今度ICBMのミサイル実験の準備をして
いるのも、(1)金xxの健康問題でもなければ、(2)後継者問題でもない。

ズバリ、国内が崩壊状態にあるから、である。
国の内部的崩壊を防ぐために、K国は、あえて外に向って緊張感を演出し、
日本もしくは、韓国に向かって、戦争をしかけようとしている!
その糸口を懸命にさがしている!
そういう例は、今までに何十例とある。
……というより、これは、こうした独裁国家が最後に取る、常とう手段。

●日本の選択

であるなら、なおさら日本は、あんな国を本気で相手にしてはいけない。
また相手にしなければならないような国ではない。
さらに言えば、あんな国を相手に、正義を説いても意味はない。
その価値もない。
どこまでも、どこまでも、あわれで悲しい国である。

今、K国が準備している、ICBMの発射実験でも、当然、それは日本上空を
通過することになる。
そして次回もまた、「迎撃すれば、報復する」とか何とか言って、K国は騒ぐだろう。
しかし日本は、無視すればよい。
無視、無視、無視……。
迎撃の態勢はジェスチャとして見せるは構わない。
しかしぜったいに、迎撃してはいけない。
迎撃すれば、それこそ、K国の思うつぼ。
そのまま日本はK国のワナにはまることになる。

前回(09年4月)のときは、頼まれもしないうちから、早々と日本は、「迎撃」
という言葉を口にした。
そのため、引っ込みがつかなくなってしまった。
次回は、その愚を繰り返してはいけない。

K国のやりたいようにやらせながら、そのあと国際世論でもって、中国を締め上げる。
(K国ではない、中国を、である。
K国など、相手にしてもしかたない。)

中国が動けば、K国は、崩壊する。
そのため朝鮮半島は混乱するが、もうK国の「ゲームに振り回されるのは、うんざり」
(アメリカ国防省・5月31日)。
あんな国と仲よくしろと言われても、それは無理。
もともと、まともな国ではない。

だからあえて先手で、私はこう主張する。
「ICBM、迎撃、反対!」と。

……ついでに一言。
(中央)の評論家たちの意見は、どこか的をはずれている(?)。
もし私の説を疑う人がいたら、再度、(1)+(2)+(3)を読んでみてほしい。
それに(4)を加味してみてほしい。
たぶん、私と同じ意見になるはずである。

大切なことは、弱虫を酷評されても構わないから、日本を戦争に巻き込んでは
いけないということ。
ここは『負けるが勝ち』。
今こそ、平和を守るための私たちの忍耐力が試されているとき。
けっして、あんな国に手を出してはいけない!
(09年5月31日記)

(追記)(P.S.)

●ミサイル(ICBM)迎撃反対(We just ignore the North Korean's Missile over Japan)

それにしても、K国は、バカな国である。
バカを通り越して、もうあきれるしかない。
つぎの記事を読めば、あなたにもそれがわかるはず。

『テポドン2号の発射費用について、韓国政府高官は3億ドル(約282億円)前後と推
計している。また、韓国紙・中央日報は今回の核実験費用を最低3億ドルと推計。短距離
ミサイルの発射も含めると、総費用は600億円以上にのぼるとみられる。

 韓国政府高官は先月、3億ドルはコメ100万トン分で「1年間の食糧難を解消できる
はずだ」との見方を示した。つまり北は、この2カ月の"火遊び"で食費2年分をぶっ飛
ばしたことになる』(IZA・ニューズ)。

今年、K国国民は、数百万人が餓死状態にあるという。
そういう国民のことは考えず、その費用で、「火遊び」を繰り返している。
こんな国を、まともな国として、相手にしてはいけない。

+++++++++++++++

いいか、またミサイル実験をすることになっても、日本は、あんな国を相手にしては
いけない。

相手にしたとたん、ワナにはまる。
彼らは自滅するか、さもなくば、戦争に打ってい出るか、一か八かの選択に
追い込まれている。

まともな約束さえ、満足にできない国である。
ぜったいに、相手にしてはいけない。
つまり、だから、ミサイル(ICBM)迎撃、反対!
(09年5月31日記)


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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 7月 1日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================

7月1日  第1227号になりました!

★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page003.html

★★みなさんのご意見をお聞かせください。★★
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日から、電子マガジン7月号

+++++++++++++++++++++++

この原稿から、電子マガジン7月号用となる。
そこでカレンダーを見ると、7月は、7月1日が、
発行日の水曜日ということがわかった。
電子マガジンは、毎週月、水、金の3回、発行している。
だれに頼まれたわけではない。
自分で、そうしている。

それにしても、日々の過ぎることの速いこと。
これであっという間に5月も終わった。
6月号も終わった。
「もう7月1日号かア〜〜」と。

実際には、今日は6月28日、木曜日。
電子マガジンは、いつも、約1か月前に、発行予約を
入れている。
これもとくに決まっているわけではない。
自分で、そうしている。

+++++++++++++++++++++++

●講演会

講演会での講演の内容が決まらない。
……というか、決めても、あまり意味がない。
その場の雰囲気というものがある。
私のばあい、ふつう、その場の雰囲気を見て、話の内容を変える。

しかし出だしは、どうするか。

「……時の流れは風のようなもの。
どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。
『時間よ、止まれ!』と、こぶしを握ってみても、時間はそのまま指の間から
もれていく……。

私は子どものころからいつも、何かうれしいことがあると、決まってこの歌を口ずさんだ。
♪夕空晴れて、秋風吹き……、と。
息子たちが小さいころも、よく歌った。
ドライブからの帰り道、みなで合唱したこともある。
♪夕空晴れて、秋風吹き、月影、落ちて鈴虫鳴く……」。

●自己紹介

いつも講演会では、最初に短い話を入れて、そのあと自己紹介をする。
自己紹介といっても、名前と住んでいる場所程度。
「はやし浩司と言います。
肩書きは、一応、教育評論家ということになっています。
何もないでは困りますので、そうしています。
住んでいるのは、浜松市です。
浜松市に住むようになって、もう40年近くになります。
今日は、このような席にお招きくださり、ありがとうございます」と。

つづいて、イントロ。
「今日は、3人の息子たちの父親として、子育てとは何か。
子育てはどうあるべきか。
それらについて、ありったけ話すつもりでやってきました。
今日、みなさんにお伝えすることが、家庭や学校で、子どもを見るための
新しい視点になればと願っています。
よろしくお願いします」と。

イントロも、その場の雰囲気で変える。

●本題

「その夜、突然、電話がありました。
受話器を取ると、息子の声でした。
『パパ、もうだめだ』と。
声の調子からして、私は異常なものを感じました。
『どうした?』と聞くこともなく、すかさず、私はこう言いました。
『すぐ、帰ってこい』と。

が、さらに驚いたことに、その翌々日のこと。
ふと私が勝手口を見ると、そこにS男がいるではありませんか。
両手には、バッグをさげていました。

帰ってこいとは言いましたが、まさかそんなに早く帰ってくるとは思っていません
でした。
が、それが、暗いトンネルの始まりでした……」と。

●代表

もちろん講演では、息子のことを話すのが目的ではない。
息子も、それを許さないだろう。
それに話したところで、ただの苦労話に終わってしまう。
私がわざわざ講演する、その意味がない。

ひととおりの症状を話したあと、私は、「代表説」を説明する。
「子どもは家族の代表である」という説である。
もっとも今では、この説は常識。
また教育の現場でも、治療の現場でも、広く採用され、応用されている。
つまり「子どもに何か問題が起きたとしても、それは子どもの問題ではない。
家族全体の問題である。
子どもは家族の代表に過ぎない」という説である。

それはその通りで、子どもに何か問題があったととき、子どもだけに焦点をあてて
解決しようとしても、うまくいくはずがない。
たとえば過干渉児、過保護児にしても、(これらは心理学の世界で、しっかりと
定義された言葉ではないが)、子どもに特有の症状が出ていたとしても、
それは子どもの問題ではない。

過干渉にしても、過保護にしても、それは親の育て方の問題ということになる。
だから親の過干渉が原因で、性格が内閉、萎縮してしまった子どもに向かって、
「もっとハキハキしなさい」と言っても、意味はない。
神経症や情緒障害にしても、そうである。
この世界では、親の無知ほど、恐ろしいものはない。
子どもが恐ろしいというのではない。
子どものために、恐ろしいものはないという意味で、恐ろしいものはない。

たとえばかん黙症の子どもに向かって、「どうしてあなたは手をあげないの!」と
叱っていた母親すらいた。
叱る方が、どうかしている。

●引きこもり

S男が示した症状は、まさに、ひきこもりのそれだった。
回避性障害、対人恐怖症、バーントアウト症候群、あしたのジョー症候群。
診断名は何でもよい。
うつ病だってかまわない。
あえて言うなら、この世の中、まともな人間ほど、そういった病気になる。
子どもがおかしいのではない。
社会のほうがおかしい。

が、私はがけの上から叩き落され、谷底で、さらにその上から叩き潰される
ような衝撃を受けた。
私は無数の子育て相談を受けながら、そういう人たちに、むしろアドバイスを
与えてきた立場の人間である。
その立場の人間の息子が、ひきこもりになってしまった。

が、その一方で、幸いなこともある。
すでにそのとき、私には、何十例という経験があった。
引きこもりで苦しむ親や子どもたちを、指導という形で、見てきた。
だから即座に、対処方法を打ち立てることができた。

●暖かい無視と、ほどよい親

「暖かい無視」というのは、どこかの野生動物保護協会が使っている言葉である。
つまり暖かい愛情を保ちながら、無視すべきところは無視する。

たとえばS男の生活態度は、日増しにだらしなくなっていった。
風呂に入らない、着替えをしない、食事の時間が乱れる。
もちろん睡眠時間も乱れた。
毎日、ちょうど1時間ずつ、睡眠時間と起床時間がずれていった。
一晩中起きているということもつづいた。

が、何も言わない。
何も指示しない。
何も不満を口にしない。
暖かい愛情だけはしっかりともって、見守る。
それが暖かい無視ということになる。

……というより、いつも一触即発。
よく誤解されるが、「情緒不安」というときは、何も情緒が不安定になることを
いうのではない。
精神の緊張状態が取れないことをいう。
その緊張状態のときに、不安や心配ごとが入ると、情緒は一気に不安定になる。
情緒不安というのは、あくまでもその結果でしかない。
S男の精神は、いつもその緊張状態にあった。

そういう衝突が1、2度つづいて、私たち夫婦は、暖かい無視を貫くことにした。

……こうして講演をつなげていく。

今度の日曜日に、このつづきを考えてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●しつけ(咳について、再考)

日本人は、咳について、あまりにも無頓着。
平気でゴホン、ゴホンと席をする。
ちょうど今、新型インフルエンザが問題になっている。
もう一度、「しつけ」について考えてみたい。
(以下の原稿は、08年12月に書いたものです。)

+++++++++++++++++

「しつけ」というときは、時代を超えた普遍性、
国や民族をこえた国際性がなければならない。

あいさつの仕方など、国によってみなちがう。
時代によってちがうこともある。
さらに軍人には、軍人のあいさつのしかたがある。

そういうのは、「しつけ」とは言わない。
「作法」という。

たとえば最近、こんなことがあった。

++++++++++++++++++

W君(小2男児)は、インフルエンザにかかり、1週間ほど、
学校を休んだ。
その直後、私の教室に来た。
まだ咳が残っていた。
1〜2分おきぐらいに、ゴホゴホと咳をしていた。

こういうケースのばあい、対処の仕方が2つある。

W君にマスクを渡し、マスクをかけさせる。
あるいは全員にマスクを渡し、マスクをかけさせる。

ふつうはW君だけにマスクを渡し、W君だけマスクを
かけさせれば、それですむ。
しかし中に、それをかたくなに拒否する子どももいる。
「罰」か何かのようにとらえる。

そういうときは、全員にマスクを渡し、マスクをかけさせる。

が、である。
そういうふうにしても、W君は、ときどきマスクをはずし、
ゴホゴホと咳をする。
私のところへやってきて、面と向かって、ゴホゴホと咳をする。

だから私はかなりきつくW君を叱った。
「人の顔に向けて、咳をしてはだめだ」と。

するとW君は、「手で(自分の口を)押さえた」とか、
「先生の顔には向けてない」とか言って、反論した。

私「あのなあ、咳というのは、手で押さえたくらいでは
防ぐことができないんだよ」
W「いいから、いいから……」
私「いいから、いいからというような問題ではない。
マスクをちゃんと、しなさい」
W「ぼくはもう、治った」
私「治ってない!」と。

ついでに付記するなら、インフルエンザのウィルスに、
おとなも子どもも、ない。
おとな用のウィルス、子ども用のウィルスというのは、ない。
みな、同じ。
だから目の前でゴホンとやられたら、即、そのまま私に
感染する。
防ぎようがない。

ほとんどの人は、(おとなも子どもも)、咳をすることに
たいへん無頓着。
この日本では、とくに無頓着。
それを悪いことと考えている人は、少ない。
満員電車の中でさえ、平気でゴホゴホと咳をしている人さえ
いる。

しかし相手の顔に向けて咳をするのは、相手を手で殴るのと
同じ、暴力行為。
だから私はW君をさらに強く、叱った。

私「私の言うことが聞けないなら、この教室から出て行きなさい」
W「どうしてヨ〜?」
私「どうしてって、みんなにインフルエンザが移ったら、どうする?」
W「だいじょうぶだよ。移らないよ」
私「……」と。

もうおわかりのここと思うが、こういうのを(しつけ)という。
「咳をするときは、口をハンカチで押さえる」
「マスクをかけるのは、常識」
「マスクをしていても、相手の顔に向けて、咳をしない」

こうした(しつけ)には、時代を超えた普遍性、
国や民族をこえた国際性がある。
わかりやすく言えば、世界の常識。

……では、なぜ、こんなことを書くか?
実は今、あちこちの幼稚園で、「しつけ教室」なるものが、
たいへん流行(はや)っている。
たいていあいさつの仕方から始まって、箸の持ち方、置き方
などを教えている。

私はそうした(しつけ)は無駄とは思わないが、どこか
ピントがズレているように思う。

もっと基本的な部分で、大切にしなければならないことがある。
たとえば、(順番を並んで待つ)(順番を無視して、割り込みしない)
(他人をキズつけるような言葉を口にしない)など。
しかしそういう(しつけ)は、「しつけ教室?」で学ぶような
しつけではない。
私たちおとなが、日々の生活を通して、「常識」として、子どもの
体の中に、しみこませるもの。
先に書いた咳にしても、そうだ。
自分の子どもが無頓着に他人の顔に向けて咳をしたら、すかさず、
子どもを叱る。
その前に、親自身が自分のエリを正さなくてはいけない。
(しつけ)というのは、そういうもの。

ついでに言うなら、(あいさつ)など、どうでもよい。
したければすればよい。
したくなければ、しなくてもよい。
そんなことをいちいち教えている国は、今、ほとんどない。

たとえば韓国でも、数年前から、授業の前とあとのあいさつを
廃止した。
「起立!」「礼!」という、あのあいさつである。
「日本の植民地時代の亡霊」という理由で、そうした。

が、現在、浜松周辺の学校では、ほとんどの学校で、この種のあいさつを
している。
(当番の子どもが、「これから授業を始めます」などと言い、頭をさげるなど。)
国際性がないという点で、これはしつけでもなんでもない。

(参考)

A小学校……当番が「はじめましょう」と小さい声でいう。
それに答えて、全員が「はじめましょう」と合唱して、頭をさげる。

B小学校……当番が「起立!」と言い、先生が「はじめましょう」と答える。
そのとき生徒全員が、頭をさげる。

C小学校……全員が起立したあと、「今から○時間目の授業をはじめます」と
言って、頭をさげる。

D小学校……当番が「起立!」と号令をかけ、「○時間の授業を始めましょう」と
言う。そのとき生徒と先生が、たがいに頭をさげる。

E小学校……学級委員が、「起立」「姿勢はいいですか」と言い、みなが、
「はい!」と答え、学級委員が「今から○時間目の授業をはじめましょう」と
言って、みなが、礼をする。

ついでながら、アメリカやオーストラリアでは、先生が教室へやってきて、
「ハイ!」とか言って、それおしまい。



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●仮眠効果(Sleeper Effect)

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心理学の世界に、「仮眠効果」という言葉がある。
「スリーパー効果」ともいう。

仮眠効果というのは、脳の中に入った情報が、しばらく仮眠したあと、
効果をもち始めることをいう。
子どもの世界では、こうした現象が、よく観察される。

たとえば子どもをほめたとする。
そのときは、子どもは「フン」と言って、軽く受け流す。
私の言ったことを深く考えない。
が、しばらく時間がたつと、つまりしばらく子どもの脳の中で仮眠したあと、
そのほめた効果が現れたりする。

「あのとき、林先生(=私)が、ぼくにこう言ってくれた!」と。

よく昔の恩師の話をしながら、「あのときあの先生が言ってくれた言葉が、
おとなになってから、ぼくの励みになった」という人がいる。
それも仮眠効果の現れとみてよい。

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●情報の熟成

情報というのは、脳の中に入った段階では、ただの(情報)。
それに加工を加えて、情報は情報としての意味をもつ。
(加工を加えることを、「思考」という。)
それまでは、たとえていうなら、座右に積み上げられた本のようなもの。
必要なときは取り出して読むが、そうでなければ、やがて脳みその中から消えていく。

が、ときとしてその情報そのものが、ひとり歩きすることがある。
ここでいう「仮眠効果」というのも、そのひとつ。
たとえば私が子どもをほめたとする。
そのときは、その子どもはそれを、軽く受け流す。
私が言った言葉に、重きを置かない。
たとえば、「君の空間思考力には、ものすごいものがある」と、私が言ったとする。
そのときは、子どもは、「そんなものかなあ……」と思ってすます。

が、しばらくしたあと、「空間思考力はすばらしい」という情報だけが、
脳みその中で熟成され、それが今度は、子どもの脳みその中で充満するようになる。
そしてこう思うようになる。

「ぼくは、空間思考能力にすぐれている!」と。

これは情報が、(仮眠)というプロセスを経て、効果をもたらしたことを意味する。
言いかえると、つまり教える側からすると、この仮眠効果をうまく使うと、子どもの
指導がうまくできる。

コツは、ポイントをとらえて、うまくほめる。
(叱ったり、欠点を指摘するときは、この方法は使ってはいけない。)
そしてその場では効果を求めない。
(求めても意味はない。)
それをブロックのように組み立てていく。

「君は、コツコツとやるところがすばらしい」
「式なんかも、だれが見ても、わかりやすい」
「考え方が緻密だね」と。

こうした情報は一度仮眠したあと、(私は「熟成」という言葉の方が好きだが……)、
子どもの脳みその中で、大きくふくらんでくる。
子どもの自信へとつながっていく。

もちろんそのとき、子どもは、私に誘導されたということは、覚えていない。
ほとんどのばあい、情報源は忘れてしまう。
だれに言われたかは、たいていのばあい、記憶に残らない。
しかし情報だけが、脳みその中に残り、その子どもを前向きにひっぱっていく。
これを「仮眠効果」という。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
仮眠効果 スリーパー効果 情報の熟成 暗示 子どもの指導 林浩司)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●一周忌

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兄につづいて、母。
昨年(08年)の8月と10月に、それぞれが他界した。
で、一周忌の法要が近づいてきた。

兄も母も、あの世へ行ったわけだが、別の仏教の教えに
よれば、つまり輪廻転生論によれば、死者は死後、即、
人間も含めて、何かの動物に生まれ変わるということに
なっている。
少なくとも、初七日から四九日までの、七法事がすめば、
成仏もすみ(?)、死者への供養は、必要ないという
ことになる。

実は、もともと釈迦は、回忌のことは何も書いていない。
もともと「回忌」というのは、中国の儒教に説かれている
風習によるもの。
それが日本に入り、最終的には、『先代旧事本紀大成経』
という偽経を生みだした。
名前からして、まったくのメイド・イン・ジャパンの偽経である。
著者は、潮音(1628〜95)と言われている。

北川紘洋氏は、こう書いている。

『鎌倉時代から室町時代初期までは三十三回忌までの
十三仏事しかなかったなかったのが、室町時代を過ぎると、
これに十七回忌、二十五回忌が加わり、さらに江戸時代には
五十回忌、六十回忌とふえていった』(「葬式に坊主は不要
と釈迦は言った」・はまの出版)と。

が、それとて、一般庶民とは、無縁のもの。
仏教が大衆の世界に入り込んだのは、親鸞、日蓮らの時代から
である。
こうした法要にしても、武士、なかんずく上級武士たちの
風習であった。

(以上、参考、北川紘洋著「葬式に坊主は不要と釈迦は言った」)

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●亡くなった人たちの死を悼む

何も考えず、何も調べず、何も学ばず、過去を踏襲するのは楽なこと。
大きな川の流れに乗って、みなと同じことをしていれば、これまた楽なこと。
暇なときは、パチンコをしたり、プロ野球の実況中継を見ていればよい。
しかしそれではこの世の中、何も変わっていかない。
また本来なら、そうした流れを変えていくのは、私たち人生の先輩者である。
その先輩者である私たちが、伝統や風習の上にどっかりと腰を据え、
「昔からこうだから……」と、若い人たちを自分たちの世界に引き込んでいく。
おかしなことだが、このおかしさが改まらないかぎり、過去はそのまま意味もなく、
踏襲されていく。

死者を悼む……。
なぜ私たちが死者を悼むかと言えば、死者を悼むことによって、今、こうして
生きている私たちの「命」を大切にするためである。
もしあなたが子どもの前で、死んだペットの小鳥を、紙かなにかにくるんで
ゴミ箱へ捨てるようなことをすれば、子どもは、死というのはそういうものかと
考えるようになる。
ついで生とは、そういうものかと考えるようになる。
ペットが死んで悲しんでいる子どもの心を踏みにじることにもなる。
言いかえると、死者の死を悼むことによって、私たちは生きていることの尊さを学ぶ。
子どもたちにも、それを教えることができる。

が、このことと、法事は、まったく別のもの。
「心」と「儀式」は、まったく別のもの。
心のない儀式は、ただのあいさつ。
あいさつにもならない。
しかし心があれば、儀式は、必要ない。
あっても付随的なもの。
が、この日本では、常に儀式だけが先行し、心がそれについていく(?)。
さらに悪いことに、儀式だけを繰り返して、それでもって、心をごまかしてしまう。
それでよしとして、自分の心を見つめることもしない。
それこそ立派な葬儀だったから、よし。
そうでなかったら、そうでないというような判断をくだして、それで終わってしまう。

●みんな、いっしょに生まれて、いっしょに死ぬ

10年前に亡くなった人を思い浮かべてみよう。
20年前でも、30年前でもよい。
そのときからその人の時計は止まる。
「もう10年!」「もう20年!」「もう30年!」と、そのつど、私たちは驚く。
昨日亡くなった人を、今日、弔(とむら)うのも、10年前に亡くなった人を、
今日、弔うのも、同じ。
20年前に亡くなった人を、今日、弔うのも、同じ。
30年前に亡くなった人を、今日、弔うのも、同じ。

同じように、この先10年、20年、30年など、あっという間に過ぎる。
運がよければ、あなたは10年後も生きている、20年後も生きている、
30年後も生きている。
しかしひょっとしたら、あなたは、明日死ぬかもしれない。
明日、何かの大病を患うかもしれない。
どうであるにせよ、今、生きているとしても、10年後に死ぬのも、20年後に死ぬのも、
30年後に死ぬのも、明日、死ぬのと同じ。
わかりやすく言えば、30年前に亡くなった人も、30年後に死ぬあなたにしても、
その間に、時間的な(差)はない。
元気なうちは、それがわからないかもしれない。
しかし死に直面すれば、だれにでも、それがわかるはず。

そこに待っているのは、10年前、20年前、30年前に亡くなった人たちではない。
「10年」とか、「20年」とか、「30年」とかいう数字は消え、それが「昨日」になる。
つまり、そこで待っているのは、つい先日、つい昨日亡くなった人たちである。
あなたはそういう人たちといっしょに、死を迎える。

そう、私たちはみな、この世の中に、いっしょに生まれて、いっしょに死ぬ。
繰り返すが、その間に、時間的な(差)はない。

●日本仏教の危機

時間と空間を超越したはずの仏教が、回忌にこだわる、このおかしさ。
1年後になったら、どうなのか。
2年後(3回忌は、実質、2年後をいう)になったら、どうなのか。
亡くなった人に、そういう(数字)があること自体、バカげている。
(年齢)があること自体、バカげている。

たとえば愛する子どもを失った母親を考えてみよう。
そういう母親にすれば、毎日が悲しみ。
その悲しみは、1年たったところで、癒されるものではない。
恐らく33年たっても、癒されることはないだろう。
(数字)など、関係ない。
こんなことは、ほんの少し、頭の中で考えれば、だれにでもわかるはず。
それにもし、釈迦がそんなバカげたことを口にしたとしたら、私はまっ先に
仏教を否定する。
いや、その前に、今に至るまで、生き延びることはなかっただろう。

私は仏教徒でも、仏教哲学者でもない。
そんな私ですら、こんなことは、自分でわかる。
いわんや、戒名をや!
そんなもので成仏するのに(差)が出るとしたら、それこそ仏教は邪教。
カルト。
が、いまだにそうした風習が、伝統としてこの日本に残っている。

言うまでもなく、宗教というのは、(教え)に従ってするもの。
その(教え)を踏み外して、宗教は宗教たりえない。
もしそれが面倒というのなら、それこそイワシの頭でも拝んでいればよい。
キツネでもタヌキでもよい。
世界へ行くと、世界の人たちは、実にさまざまな動物を拝んでいる。
もしそれでも、「仏教はカルトではない」と言うのなら、その道のプロたちが、
率先して、私たちにその(道)を示してほしい。
でないと、……というより、このままだと、日本の仏教は宗教としての
意味を見失ってしまうだろう。

兄と母の一周忌を前にして、再び、宗教について考えてみたい。

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7〜10年前に書いた原稿を添付します。

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●生きる意味

 幼児を教えていて、ふと不思議に思うことがある。子どもたちの顔を見ながら、「この子
たちは、ほんの五、六年前には、この世では姿も、形もなかったはずなのに」と。しかし
そういう子どもたちが今、私の目の前にいて、そして一人前の顔をして、デンと座ってい
る。「この子たちは、五、六年前には、どこにいたのだろう」「この子たちは、どこからき
たのだろう」と思うこともある。

 一方、この年齢になると、周囲にいた人たちが、ポツリポツリと亡くなっていく。その
ときも、ふと不思議に思うことがある。亡くなった人たちの顔を思い浮かべながら、「あの
人たちは、どこへ消えたのだろう」と。年上の人の死は、それなりに納得できるが、同年
齢の友人や知人であったりすると、ズシンと胸にひびく。ときどき「あの人たちは、本当
に死んだのだろうか」「ひょっとしたら、どこかで生きているのではないだろうか」と思う
こともある。いわんや、私より年下の人の死は、痛い。つぎの原稿は、小田一磨君という
一人の教え子が死んだとき、書いたものである。

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「ぼくは楽しかった」・脳腫瘍で死んだ一磨君

 一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘
病生活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。「先生は、魔法が使
えるか」と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法で、ぼくをここ
から出してほしい」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの
近代的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を
折らせたときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあ
った。皆でワイワイやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。しかしそれが一
年たち、手術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望感をもつ
ようになった。彼の苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。実際
には申しわけなくて、彼の顔を見ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしまっ
たかのように感じた。

 葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何に
なりたいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカ
ーもできるし、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができな
くなる』と言いました」と。

そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞い
て、私だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれ
ど、人の死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。
私は一磨君の遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥
で念じた。この年齢になると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の
数のほうが多くなる。人生の折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの
人生があっと言う間に終わったとしても、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。
「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴るなりや。汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を
読んでいる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知
り、一磨君の両親と心がつながる。もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。
しかもあなたがこの文を読むとき、ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれ
ない。しかし心がつながったとき、私はあなたの心の中で生きることができるし、一磨
君も、皆さんの心の中で生きることができる。それが重要なのだ。

 一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、
そして仕事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と
言いながら、その瞬間はあまりにも短かった。そういう一磨君の心を思いやりながら、
今ここで、私たちは生きていることを確かめたい。それが一磨君への何よりの供養にな
る。」


 あの世はあるのだろうか。それともないのだろうか。釈迦は『ダンマパダ』(原始経典の
ひとつ、漢訳では「法句経」)の中で、つぎのように述べている。

 「あの世はあると思えばあるし、ないと思えばない」と。わかりやく言えば、「ない」と。
「あの世があるのは、仏教の常識ではないか」と思う人がいるかもしれないが、そうし
た常識は、釈迦が死んだあと、数百年あるいはそれ以上の年月を経てからつくられた常
識と考えてよい。もっとはっきり言えば、ヒンズー教の教えとブレンドされてしまった。
そうした例は、無数にある。

 たとえば皆さんも、日本の真言密教の僧侶たちが、祭壇を前に、大きな木を燃やし、護
摩(ごま)をたいているのを見たことがあると思う。あれなどはまさにヒンズー教の儀
式であって、それ以外の何ものでもない。むしろ釈迦自身は、「そういうことをするな」
と教えている。(「バラモンよ、木片をたいて、清浄になれると思ってはならない。なぜ
ならこれは外面的なことであるから」(パーリ原典教会本「サニュッタ・ニカーヤ」))

 釈迦の死生観をどこかで考えながら、書いた原稿がつぎの原稿である。

「家族の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそ
むける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚え
る。「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうように
なる。が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな
親子がふえている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶさ
れると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなけ
ればいい」とか願うようになる。
 
「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がい
た。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」
と言った父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、や
がてそれが大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どう
して?」と言ったまま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうた
ずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れ
ることができるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日
まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したこ
とがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめ
るのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにし
ている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、
何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいもの
ばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。
しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐え
るしかない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どもの
ために、いつもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子
先生*は手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親
はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰
り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学
賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残してい
る。「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけ
れど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜び
を与えられる」と。こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いった
いどれほどいるだろうか。」

 ではなぜ、私たちは生きるか、また生きる目的は何かということになる。釈迦はつぎの
ように述べている。

 「つとめ励むのは、不死の境地である。怠りなまけるのは、死の足跡である。つとめ励
む人は死ぬことがない。怠りなまける人は、つねに死んでいる」(四・一)と述べた上、「素
行が悪く、心が乱れて一〇〇年生きるよりは、つねに清らかで徳行のある人が一日生きる
ほうがすぐれている。愚かに迷い、心の乱れている人が、一〇〇年生きるよりは、つねに
明らかな智慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。怠りなまけて、気力も
なく一〇〇年生きるよりは、しっかりとつとめ励む人が一日生きるほうがすぐれている」
(二四・三〜五)(中村元訳)と。

 要するに真理を求めて、懸命に生きろということになる。言いかえると、懸命に生きる
ことは美しい。しかしそうでない人は、そうでない。こうした生き方の差は、一〇年、二
〇年ではわからないが、しかし人生も晩年になると、はっきりとしてくる。

 先日も、ある知人と、三〇年ぶりに会った。が、なつかしいはずなのに、そのなつかし
さが、どこにもない。会話をしてもかみ合わないばかりか、砂をかむような味気なさすら
覚えた。話を聞くと、その知人はこう言った。「土日は、たいていパチンコか釣り。読む新
聞はスポーツ新聞だけ」と。こういう人生からは何も生まれない。

 つぎの原稿は、そうした生きざまについて、私なりの結論を書いたものである。

++++++++++++++++++

●子どもに生きる意味を教えるとき 

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。私たちが
なぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではな
いのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、
意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自
信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはな
ぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇
年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではな
いが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。
 
生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸
福になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるために
は)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。
つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、
(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチ
ャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。
みんな必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投
げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだま
する。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋
めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言
うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。言いかえると、
そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、
ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわから
ない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問
われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その
生きざまでしかない。あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりな
がら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほう
も、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれ
と同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教
えてくれる。」

 私も、つぎの瞬間には、この世から消えてなくなる。書いたものとはいえ、ここに書い
たようなものは、やがて消えてなくなる。残るものといえば、この文を読んでくれた人
がいたという「事実」だが、そういう人たちとて、これまたやがて消えてなくなる。し
かしその片鱗(りん)は残る。かすかな余韻といってもよい。もっともそのときは、無
数の人たちの、ほかの余韻とまざりあって、どれがだれのものであるかはわからないだ
ろう。しかしそういう余韻が残る。この余韻が、つぎの世代の新しい人たちの心に残り、
そして心をつくる。
 
言いかえると、つまりこのことを反対の立場で考えると、私たちの心の中にも、過去に
生きた人たちの無数の余韻が、互いにまざりあって、残っている。有名な人のも、無名
な人のも。もっと言えば、たとえば私は今、「はやし浩司」という名前で、自分の思想を
書いているが、その実、こうした無数の余韻をまとめているだけということになる。そ
の中には、キリスト教的なものの考え方や、仏教的なものの考え方もある。ひょっとし
たらイスラム教的なものの考え方もあるかもしれない。もちろん日本の歴史に根ざすも
のの考え方もある。どれがどれとは区別できないが、そうした無数の余韻が、まざりあ
っていることは事実だ。

 この項の最後に、私にとって「生きる」とは何かについて。私にとって生きるというこ
とは考えること。具体的には、書くこと。仏教的に言えば、日々に精進することという
ことになる。それについて書いたのがつぎの文である。この文は、中日新聞でのコラム
「子どもの世界」の最終回用に書いたものである。

++++++++++++++++++++++

●「子どもの世界」最終回

●ご購読、ありがとうございました。

 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうしてしばらく待っていると、配達の人が新
聞を届けてくれる。聞きなれたバイクの音だ。が、すぐには取りにいかない。いや、とき
どき、こんな意地悪なことを考える。配達の人がポストへ入れたとたん、その新聞を中か
ら引っ張ったらどうなるか、と。きっと配達の人は驚くに違いない。

 今日で「子どもの世界」は終わる。連載一〇九回。この間、二年半あまり。「混迷の時代
の子育て論」「世にも不思議な留学記」も含めると、丸四年になる。しかし新聞にものを書
くと言うのは、丘の上から天に向かってものをしゃべるようなもの。読者の顔が見えない。
反応もわからない。だから正直言って、いつも不安だった。中には「こんなことを書いて!」
と怒っている人だっているに違いない。私はいつしか、コラムを書きながら、未踏の荒野
を歩いているような気分になった。果てのない荒野だ。孤独と言えば孤独な世界だが、そ
れは私にとってはスリリングな世界でもあった。書くたびに新しい荒野がその前にあった。

 よく私は「忙しいですか」と聞かれる。が、私はそういうとき、こう答える。「忙しくは
ないですが、時間がないです」と。つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまっ
た!」と思うことが多い。女房は「あなたは貧乏性ね」と笑うが、私は笑えない。私にと
って「生きる」ということは、「考える」こと。「考える」ということは、「書く」ことなの
だ。私はその荒野をどこまでも歩いてみたい。そしてその先に何があるか、知りたい。ひ
ょっとしたら、ゴールには行きつけないかもしれない。しかしそれでも私は歩いてみたい。
そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならないとわからない。大きな記事
があると、私の記事ははずされる。バイクの音が遠ざかるのを確かめたあと、ゆっくりと
私は起きあがる。そして新聞をポストから取りだし、県内版を開く。私のコラムが出てい
る朝は、そのまま読み、出ていない朝は、そのまままた床にもぐる。たいていそのころに
なると横の女房も目をさます。そしていつも決まってこう言う。「載ってる?」と。その会
話も、今日でおしまい。みなさん、長い間、私のコラムをお読みくださり、ありがとうご
ざいました。」 
(02−7−23)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●最悪の食糧危機(The Worst Food Shortage of North Korea)

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K国は現在、1990年以来、最悪の
食糧危機に見舞われているという。

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『国際人権擁護団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)は、5月28日、
世界の人権状況をまとめた年次報告書(2009年度版)を公表。この中でK国について、
「1990年代後半以降で最悪」という危機的なレベルの食料難に直面する一方、当局は
人々の生存に最低限必要な食料を確保する対策さえ怠っていると批判した』(時事通信より
抜粋※)と。

同じくWFPも『世界食糧計画(WFP)が北朝鮮の食糧事情が極めて深刻な状態にあると
して、国際社会に対し約6千万ドル(約65億3000万円相当)の資金援助を要請。過
去3週間にわたって実施した現地調査で、約半数の世帯が1日2食の生活を強いられる1
990年代以降では最悪の状況にあるとしていると紹介している」と報告している(※)。

+++++++++++++++++

こうした中、時事通信はさらにこう伝える。

『こうした状況にもかかわらず、K国当局は米国からの食料支援受け取りを拒否した上、
昨年3月末には米国の人道団体の国外退去を命令。食料不足の報が全国に広がるのを防ぐ
ため、長距離電話回線が遮断されたとも伝えられるとしている』と。

「食料不足の報が全国に広がるのを防ぐため、長距離電話回線が遮断された!」
そういうことを平気でするところが、恐ろしい!
「ここまでやるか!」というのが、私の印象。
人民、つまりK国の国民こそ、えらい迷惑。
迷惑というより、犠牲者。

が、相変わらずの大本営発表を繰り返しているのが、K国の国営通信。
つぎの記事を読んで、笑わない人はいないだろう。

『K国の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は7日の論評で、金xx総書記が経済再建や国民
生活向上のため「昨年末から約2カ月間、家に戻れず列車で生活しながら、人民経済のさ
まざまな部門で現地指導を続けている」とする発言を伝えた』(5月7日)と。

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●いっしょに心中してはいけない!

K国が何を画策しているにせよ、またどんな挑発的行為をしてくるにせよ、
日本は、K国を相手にしてはいけない。
あんな国をまともに相手にしてはいけない。
それとも、日本は、あんな国と心中でもするつもりなのか。

ここは無視。
ひたすら無視。
放っていおいても、K国は、自ら墓穴を掘って自滅する。
今朝(5・29)の報道によれば、さらなる挑発的行為として、K国は、今度は
ICBM(大陸間弾道弾)の発射実験をするかもしれないという。

したければさせておけばよい。
自ら、先の「人工衛星発射」が、ウソだったことを暴露させるようなもの。
あのときも、「宇宙開発は、全民族の共通の権利である」というようなことを言っていた。
そして「それを迎撃したら、即、宣戦布告行為とみなす」と、まあ、威勢のよいことを
言っていた。

ICBMともなれば、当然、日本の上空を通ることになると思うが、ここは無視。
ひたすら無視。
負けるが勝ち。
今、日本にとってもっとも重要なことは、K国もさることながら、国際世論でもって、
中国を追い詰めること。
中国に行動させること。
中国が行動すれば、K国は、一気に崩壊に向かう。
決して日本だけが、単独で行動してはいけない。
200〜300発のノドンが、すでに日本をターゲットにしていることを忘れては
いけない。

まず日本の国益を守る。
日本の平和と安全を守る。
今、もし、たとえ1発でも、ノドンが東京の中心に撃ち込まれたら、日本はどうなるか。
日本の経済はどうなるか。
日本は丸裸以上の丸裸。

ここは冷静に。
ただひたすら冷静に。
あんな国を相手にしてはいけない。
またその価値もない。
ないことは、アムネスティの年次報告書を読めばわかるはず。
決して勇ましい好戦論にまどわされてはいけない。

もちろん日本が攻撃されたら、そのときはただではすまさない。
そういう気構えはもつ必要がある。
しかし今は、じっとがまんのとき。

1990年末の食糧危機のときは、金xxは、中国へ亡命する一歩手前だった。
恐らく今回も、それ以上のことを考えているはず。
それがK国軍部のあせりとなって表れている。

人工衛星、核実験、ミサイル発射などなど。
それらを断末魔の叫び声と理解すれば、K国の内部事情もわかろうというもの。

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

(注※1)【ロンドン28日時事】国際人権擁護団体アムネスティ・インターナショナル(本
部ロンドン)は、28日、世界の人権状況をまとめた年次報告書(2009年度版)を公表。こ
の中でK国について、「1990年代後半以降で最悪」という危機的なレベルの食料難に直面す
る一方、当局は人々の生存に最低限必要な食料を確保する対策さえ怠っていると批判した。

 報告書によれば、K国は「過去10年間で見られなかった規模」の飢餓に見舞われ、何百
万人もが苦境に陥っている。大半は雑穀などで胃を満たすことを余儀なくされ、野草で食
いつないでいる人も多いという。

 こうした状況にもかかわらず、K国当局は米国からの食料支援受け取りを拒否した上、
昨年3月末には米国の人道団体の国外退去を命令。食料不足の報が全国に広がるのを防ぐ
ため、長距離電話回線が遮断されたとも伝えられるとしている。(時事通信・5月28日)


Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

(注※2)世界食糧計画(WFP)がK国の食糧事情が極めて深刻な状態にあるとして、国
際社会に対し約6千万ドル(約65億3000万円相当)の資金援助を要請。過去3週間にわ
たって実施した現地調査で、約半数の世帯が1日2食の生活を強いられる1990年代以降で
は、最悪の状況にあるとしていると紹介している。食糧事情悪化の原因として、2007年の
大規模な洪水被害、不良な農作物収穫、輸入や援助減少をあげている。(引用:産経新聞、
中日新聞)


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