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2009年     8月号
Essay……
BOX版(ネットストーレッジ)……






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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      8月   31日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【特集】

「HOP STEP 子育てジャンプ」(600作)を、HPに収録しました。
興味のある方は、どうか、見てください。

http://kosodatejump.ninja-web.net/

一部を紹介します。

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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(571)

●ほかの子どもとじょうずにつきあう法

 子どもの社会性は、同年齢の子どもとの接触の中で、鍛(きた)えられる。たとえば双
子の子どもがいる。一般論として、双子は、いつももう一人の兄弟(姉妹)との間で鍛え
られるので、その社会性があることが知られている。わかりやすく言えば、ほかの子ども
とも、じょうずにつきあう技術にたけている。

 その社会性は、つぎのようにして判断する。

 たとえばブランコを横取りされたようなとき、社会性のある子どもは、その相手に向か
って、「どうして取るのよ! 私、今、使っているでしょ!」と、やり返すことができる。
そうでない子どもは、たとえば柔和な笑みを浮かべて、ブランコを明け渡してしまったり
する。

 社会性のある子どもには、つぎのような特徴がある。(1)他人に対して押すときは押
し(自己主張し)、引くときは引く(遠慮する)という行動が明確で、わかりやすい。ワ
ーワーと自己主張しても、まちがっているとわかると、「そうね」などといって、自分の
非をすなおに認める。人格の「核」が明確で、教える側からすると、「この子はこういう
子」という「つかみどころ」が、はっきりしている。

だれに対しても、心を開くことができ、性格のゆがみ(ひねくれ、いじけ、つっぱり、ひ
がみなど)がない。心を開いている子どもは、親切にしてあげたり、やさしくしてあげる
と、その親切ややさしさが、そのままスーッと心の中にしみこんでいくのがわかる。子ど
もらしく、うれしそうな顔をして、それにこたえる。

 (以前、嫌われる子どもについて、調べたことがある。その結果、不潔で臭い子ども。
陰湿で性格が暗く、静かな子ども。性格が悪い子ども、ということがわかった(小四児、
三〇名について調査)。このタイプの子どもは、嫌われるだけではなく、いじめの対象と
もなるから注意する。

 子どもの社会性をつくるためには、乳幼児期から、心静かで、愛情豊かな環境で、同年
齢の子どもと一緒に遊ばせるのがよい。子どもの世界というのは、いわば動物の世界のよ
うなもの。キズつけたり、キズつけられたりしながら、互いに成長する。

親としてはつらいところだが、そうした環境が、子どもをたくましくする。まずいのは、
親子だけのマンツーマンだけの環境で育てること。「ものわかりのよい世界」は、それだ
け居心地がよい世界かもしれないが、それは子どもにとって、決して好ましい世界ではな
い。

 こうした社会性は、年長児(満六歳)前後には決まる。この時期、社会性のある子ども
は、その先もずっと社会性のある子どもになる。そうでない子どもはそうでない。それ以
後は、どちらにせよ、そういう子どもだと認めたうえで、対処するしかない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(572)

●「あの子は臭い!」・嫌われっ子、親の責任

 「どんな子が嫌われるか」を調査してみた。その結果、(1)不潔で臭い子ども。(2)
陰湿で性格が暗く、静かな子ども。(3)性格が悪い子ども、ということがわかった(小
四児、三〇名について調査)。

 不潔で臭いというのは、「通りすぎたとき、プンとヘンなにおいがする」「口が臭い」
「髪の毛が汚い」「首にアカがたまっている」「服装が汚い」「服装の趣味が悪い」「鼻
クソばかりほじっている」「鼻水がいつも出ている」「髪の毛がネバネバしている」「全
体が不潔っぽい」など。子どもというのは、おとなより、においに敏感なようだ。

 陰湿で性格が暗いというのは、「いじけやすい」「おもしろくない」「ひがみやすい」
「何もしゃべらない」など。「静か」というのもあった。私が「誰にも迷惑をかけるわけ
ではないので、いいではないか」と聞くと、「何を考えているかわからないから、不気味
だ」と。

 またここでいう性格が悪いというのは、「上級生にへつらう」「先生の前でいい子ぶる」
「自慢話ばかりする」「意地悪」「わがままで自分勝手」「すぐいやみを言う」「目立ち
たがり屋」など。一人、「顔がヘンなのも嫌われる」と言った子どももいた。

 ここにあげた理由をみてわかることは、親が少し注意すれば、防げるものも多いという
こと。特に(1)の「不潔で臭い子ども」については、そうだ。このことから私は、『嫌
われっ子、親の責任』という格言を考えた。たとえばこんなことがあった。

 A君(中一)は、学校でいじめにあっていた。仲間からも嫌われていた。A君も母親も
それに悩んでいたが、そのA君、とにかく臭い。彼が体を動かすたびに、体臭とも腐敗臭
とも言えない、何とも言えない不快なにおいが、あたりを漂った。風呂での体の洗い方に
問題があるようだが、本人はそれに気づいていない。

そこである日、私は思いあまって、A君にこう言った。「風呂では、体をよく洗うのだぞ」
と。が、この一言が、彼を激怒させた。彼にしても、一番気にしていることを言われたと
いう思いがあった。彼は「ちゃんと洗っている!」と言いはなって、そのまま教室から出
ていってしまった。

 幼児でも、臭い子どもは臭い。病臭のようなにおいがする。私は子どもの頭をよくなで
るが、中には、ヌルッとした髪の毛の子どももいる。A君(年中児)がそうだった。そこ
で忠告しようと思ってA君の母親に会うと、その母親も同じにおいがした……!

 子どもの世界とはいえ、そこは密室の世界。しかも過密。さまざまな人間関係が、複雑
にからみあっている。ありとあらゆる問題が、日常的に渦巻いている。つまりおとなたち
が考えているほど、その世界は単純ではないし、また表に現れる問題は、ほんの一部でし
かない。ここにあげる「嫌われっ子」にしても、だからといってこのタイプの子どもが、
いつも嫌われているということにはならない。しかし無視してよいほど、軽い問題でもな
い。

いじめの問題についても、ともすれば私たちは、表面的な現象だけを見て、子どもの世界
を論ずる傾向がある。が、それだけでは足りない。それをわかってほしかったから、ここ
であえて、嫌われっ子の問題を取りあげてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(573)

●子どものわがまま(1)

●「どうして泣かすのですか!」 

 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道
具をバッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいはプリントでも力まかせ
に、バッグの中に押し込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という言葉の
意味すら理解できない。そういうとき私がすべきことはただ一つ。片づけが終わるまで、
ただひたすら、じっと待つ。

S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、そのうちメソメソと泣き出
してしまった。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイプの子ども
は泣くことによって、その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。しかし
その日は運の悪いことに、たまたまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は泣き声を
聞きつけると部屋の中へ飛び込んできて、こう言った。「どうしてうちの子を泣かすので
すか!」と。ていねいな言い方だったが、すご味のある声だった。

●親が先生に指導のポイント

 原因は手のかけすぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話
をしていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッと
ふいてくれるような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけすぎを指摘しても、
意味がない。第一に、その意識がない。

「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えている。あるいは子どもに楽
をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、親の生きがいになっている
ケースもある。中には子どもが小学校に入学したとき、先生に「指導のポイント」を書い
て渡した母親すらいた。(親が先生に、だ!)「うちの子は、こうこうこういう子ですか
ら、こういうときには、こう指導してください」と。

●泣き明かした母親

 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうし
てですか」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのでは
ないかと、心配で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱
暴だ」「不親切だ」と、反対に遠ざけてしまう。

S君のケースでは、片づけを手伝ってやらなかった私に、かえって不満をもったらしい。
そのあと母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室から出ていってしまった。こ
ういうケースは今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をしたと
きのこと。そこの園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレストラン感覚
で用意してあげないと、親は満足しないのですよ」と。こんなこともあった。


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つづきは、どうか、HPの中で……


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ある夫婦の問題】

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東北のある県にお住まいの、TRさん(男性)より、
夫婦の問題についての相談がありました。

それについて、考えてみたいと思います。

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【TRさんより、はやし浩司へ】

お忙しいところ申し訳ございません。

今家の中は妻と娘の問題で騒然、混沌としておりどう解決していけばいいかわからない状
態です。先生のお知恵をいただき何とか解決の糸口を見つる事が出来ればと思っています。
宜しくお願いします。

妻とは職場結婚し20年経ちます。私は整形外科医師で、妻は元看護師です(結婚と同時
に退職)。結婚当初から気に入らないことがあると、1週間でも口を利かなくなり私を無視
するところがありました。離婚を匂わせる発言も数回ありました。私はどちらかと言うと
家族の絆・連帯を重んじたいほうで、家内にはそれも重荷になっていたようです。

1年3か月前ちょっとしたことで家内が激高し、それ以来寝室は別で、家庭内別居の状態
が続いています。元々お互いにセックスレスだったこともあり、今は家内に触れただけで
大声を上げて嫌がるようになってしまいました。

激高したちょっとしたことについて少し書きます

・・・早めに病院に行かねばならず、・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・車庫内で家内は興奮し近所に聞こえるような大声で泣きながら怒り始めたの
で、平謝りに謝った。翌日自動車会社に私から電話謝罪し、「たいした傷ではないので大丈
夫ですよ」と言ってもらった。

その日以来、寝室は別になった・・・

対外的に妻は非常に良い人で、幼稚園や小学校でお母さん連中に慕われています。私の両
親にも献身的で、祖父母が存命だった時は、病院への送り迎えや母が仙台で手術を受けた
ときなどは家族のために、ウィークリーマンションを借りたり、下準備を全て行ってくれ、
至れり尽くせりで、家族は感謝していました。

また私の父が2年3か月前に亡くなり、F市で暮らしていた母と統合失調症の弟が2人残
されたので、3か月ほど前I市の我が家から500メートルはなれたところのマンション
を借りるのにも尽力してくれました。

でも私には家庭内別居になってから「おはよう」「おやすみ」「おかえり」などの基本的な
挨拶さえも全くありません。

12歳になる長女は、3歳頃から、「どうして、どうして」といいながら2〜3時間は泣く
ことがしばしばありました。家が微妙な状態になった頃突然受験すると言って、中学受験
を決意しました。私が殆どマンツーマンで勉強を見ました(家庭教師もつきましたが)。今
は片道1時間半かかるM町までバスと電車を乗り継いで通学しています。

しかし今だ1週間に1回くらいは、「自分だけどうして、どうして」と、2〜3時間大声で
幼児返りのようにして泣き続けます。私立中学入学当初は「一番になる」と豪語していま
したが、最近は反抗期も重なり、イライラが強く腰を据えて勉強できなくなってきていま
す。中間テストの2週間前は椅子に座ったと思ったら、数秒で立ち上がることを繰り返し、
下の子供が寝ると歯磨きをし始める有様に成りました。

もちろん成績も200人中180位くらいでした。「こうやって自分は落ちこぼれていくん
だ」と、自分に言い聞かせているようにつぶやきます。今は下の子と帰ってきてから2〜
3時間遊んで(と言うより遊んでもらって)、下の子が寝る9頃から1時間かけて、10分
くらい宿題をして寝てしまいます。

制服も帰ってきてからどんなに注意しても脱いだままにしています。「勉強したほうがいい
のでは」などというと、「今しようと思っていたところなのに、言われたからやらない!」
と拒絶します(言わなかったら殆どしません)。

下の子には思いっきり意地悪をすることが多く、家内は娘を怒ります。娘はここぞとばか
り、「下の子ばかりかばってどうして自分だけ怒られなければならないの、下の子の方が悪
いのに」と言ってまた泣きます。

家内にダッコを求めますが、家内は仁王のように腕組みして立ちはだかり、私に対するの
と同じように、「触られたくない」と、拒絶します。弟との差を感じてますます娘は泣きま
す。

長男は今のところ明るい社交的な子に育っており、母の愛情も充分受けています。でも家
庭内のギクシャクのためか、切れやすくなってきています。

私の対応としては、出来るだけ家庭内で明るく振舞い家内が嫌な (しつこくする)ことを
出来るだけ避けるようにしています。でも家内は冷たい・・・

離婚相談のA先生に、円満になれるように相談し始めたところです(家内に内緒で)。家内
に第三者に入ってもらって相談することで建設的になれればと話を持ちかけましたが、「そ
れは修復したいと思っている人のすることで、私はこの家にも子供にも未練がない。親権
もくれてやる。あなたにしても、子供にしても帰ってくるのが苦痛だ。私を早く一人にさ
せて。」と言います。

全てが本心でないのでしょうけど、私に対することは本心と思われます。「子供には両親が
必要だし、下の子が20歳になるまでは我々の責任だ」と説得していますが、最近は内心
そこまで持たないのではと思います。

家内の精神面がかなり荒廃していると思われ、精神科の先生にも相談し安定剤を処方した
ことがありますが、「私は精神病なんかではない!」と言い、1回内服してくれただけで拒
絶されました。それからは何か相談しても、(娘のことに関しては会話がかろうじて出来ま
す)、「精神病の人に聞かないで」と言われてしまいます。

出来るだけ家内を解放し、実家のT市に少しでも帰るよう仕向けていますが、外へ向けて
の完ぺき主義の家内は、夏祭りの準備などで殆ど帰れないようにがんじがらめになってい
ます。

今まで家族のためにと思って頑張って働いていたのに、私も死にたい気持ちになったりし
ています。ただこのまま私が死んでしまったら子供たちがかわいそうで、母と妹も引っ越
してきてどうしようもないし、私が弱ったらだめと言い聞かせています。

わたしの精神もかなり磨り減っており、本を片っ端から本を読んだり、Y先生の「悟りの
子育て」などを読み漁っています。

とに角怒らずに子供を過保護かもしれないけど、抱きしめるようにしています。
ダブルベットで上の子と私は一緒に寝ています。下の子のベットで家内は寝ていますが、
私の部屋が涼しいので、下の子もダブルベットに来るようになり、3人で川の字に寝るこ
とが多くなりました。

このままでは子供の精神が壊れてしまうのではないかということと、家内も相当壊れてき
ているのではないかと言うことが心配でなりません。最近は、(家内にだけ秘密)、両方の
家族に実情を説明し、サポートを期待しています。

あと私に出来ることは何でしょうか?
このまま現状維持で子供は大丈夫でしょうか?
やはり子供が巣立ってから離婚になるのでしょうか、子供のために今離婚したほうが良い
のでしょうか?

無理難題の質問してしまい申し訳ありません。
何卒ご回答宜しくお願いします。

【はやし浩司より、TRさんへ】

●運命論

 こうした問題は、離婚問題にかぎらず、やがて流れるところに流れ、そこで解決します。
その(流れ)を感じたら、身を任すこと。
離婚問題、子どもの問題も、その結果として、自然に解決していきます。

(流れ)、……それを私は「運命」と呼んでいますが、この運命というのは、それに
逆らえば、キバをむいて、あなたに襲いかかってきます。
しかしそれを受け入れてしまえば、向うからシッポを巻いて逃げていきます。
(現在は、きばをむいて、あなたに襲いかかっている状態です。)

今のあなたは、(離婚する決意もできず)、同時に(関係を修復する決意もできず)、その
はざまで、悶々と苦しんでいます。
つまり「このままではいけない」という気持ちと、「何とかしたい」という気持ちの中で、
はげしく葛藤しています。
「何かをしなければならない」という気持ちと、「何をしたらいいのだ」という気持ちの
中で、です。

 こうした心の状態は、心理学でいう、『フリップ・フロップ理論』で、説明されます。
つまりどちらにころぶこともできず、フラフラの状態ということです。
もともとは、無神論の人が有神論に、有神論の人が無神論になるときの心理状態を
説明したものです。(日本では、この理論を知っているのは、私だけかと思います。)

 が、こうした状態に、人は、それほど長くは耐えられません。
はげしい葛藤がしばらくつづいたあと、コロリとどちらかに倒れます。
だから私は勝手に、『コロリ理論』と訳しています。

 そうそう私が言う「運命論」というのは、今はやりの、スピリチュアル(霊的)な
ものではありません。
私たちには、それぞれ無数の目に見えない糸がからんでいます。
家族の糸、社会の糸、環境の糸、生い立ちの糸などなど。
その(糸)がときとして、私たちの進む方向を、勝手に決めてしまいます。
で、振り返ってみると、そこに(道)ができているのを知ります。
私はそれを「運命」と呼んでいます。

●離婚
 
 順に考えていきます。

 まず離婚ですが、離婚そのものが、子どもの心に影響を与えるということは、あり
ません。
子どもはそのつど状況を受け入れ、それに適応していきます。
が、離婚に至る、家庭騒動は、子どもに大きな影響を与えます。
はげしい夫婦喧嘩、対立、騒動、言い争い、いがみあい、など。
(子どもというのは、環境的な変化には、すばらしい適応能力を示します。
が、愛情の変化には、たいへんもろいということです。)

子どもが乳幼児であれば、基本的不信関係、基底不安の原因となることもあります。
心の開けない子どもになったり、慢性的な不安感をいつも覚える子どもになったりします。
最近の研究によれば、おとなになってからうつ病になる人のほとんどは、乳幼児期の
親子関係(とくに母子関係)に起因するというところまでわかってきました(九州大学)。

 だから家庭騒動は、最小限に。
離婚するにしても、「明るく、さわやかに」(某タレント談)が、鉄則です。

●潔癖症 

 で、奥さんの潔癖症が、気になります。
神経症のひとつということになっていますが、こだわりが強い分だけ、やはり心の病を
もっておられるように感じます。
病識があればよいのですが、いただいたメールによれば、その病識がないようですね。
こういうケースのばあい、奥さんが平常なとき、「それが本来の姿」と、奥さんに
気づかせるのがよいわけです。
が、家族(=夫のあなた)では無理です。
 
 たとえばTRさんが、その話題をもちだせば、とたんに烈火のごとく、奥さんは、
それに反発してしまうでしょう。
だからカウンセリング……ということになります。
どなたか間に入って、奥さんと冷静に話せる人がいらっしゃるとよいのですが……。
(あるいは奥さん自身は、すでにそれに気づいておられるのかもしれません。
自分でもどうしようもなく、自己否定から自暴自棄になっておられる可能性もあります。)

 私は、こだわりの強さと、心の緊張状態から、奥さんのうつ病を疑っていますが、
そのあたりのことは、一度専門医に相談なさってみられたらどうでしょうか。
(奥さんも、そういう点では、表面的にはともかくも、不幸にして不幸な家庭環境に
育った女性とみてよいのでは(?)。
とくに奥さんと、奥さんの母親との関係が、乳幼児期に、不全だったように感じます。)

●子どもの進学

 つぎに12歳の長女の進学問題についてです。
この際、子どもの進学問題については、あきらめなさい。
つまりTRさんの手に負えるような問題ではないということです。
が、鉄則があります。

(1)「なるようになれ!」と、自分の心から進学問題を切り離すこと。
(2)「許して、忘れる」を貫くこと。
(3)「暖かい無視」を忘れないこと。
(4)「求めてきたときが、与えどき」と心得て、すかさず、必要なことはしてやること。

 これが「あきらめる」の意味です。
「捨てろ」とか、「育児放棄しろ」とか、そういう意味ではありません。
もちろんお嬢さんを切り離せということではありません。
切り離すのは、「進学問題」だけです。
どんなに成績が悪くても、「友」として、子どもの横に立つということです。

 で、その上で、私は、『あきらめは、悟りの境地』という格言を考えました。
そこは実におおらかで、すばらしい世界です。
子育ての極致のようなものです。
あなたも勇気を出して、あきらめてみてください。
気が楽になりますよ。
「お前の分は、オレががんばってやるからな」と宣言すればよいのです。

 あとは娘さんが、自分で自分の道をさがし、求めていくでしょう。
親としてはつらくも、さみしいときかもしれませんが、TRさんのできることにも
限界があるということです。
で、しばらくは迷い、悩んだりしますが、その分だけ、お嬢さんは、たくましく
育っていきます。
私たち親ができることと言えば、子どもをうしろから見守るくらいなことだけです。
子どもが巣立つときというのは、そういうものです。

●自分を追い込まないこと

 はげしく葛藤しているということは、この時点においては、結論を出さないこと。
そのほうが、賢明かと思われます。
『迷っているときは、結論を急がない』『悩んでいるときは、結論に向かわない』が、
原則です。

 重要なのは、とくに奥さんに対して、未練を残さないように、(あるいは反対に深い愛情
を感ずるまで)、心の整理をしておくことではないでしょうか。
「別れれば、まったくの他人」、あるいは反対に、「死ぬときは、いっしょ」と、心の覚悟
をどちらかに決めること。
また決まるまで、自分の心を見つめること。

 その覚悟ができるまで、「急がない」が、原則です。

 私も事情は異なりますが、同じような立場になったことが、数回、あります。
で、こういうときはジタバタしない。
(流れ)を感じたら、その(流れ)に身を任す。
コロリとどちらかに倒れるまで、待つ。
結論はそのあと、自ずと出てきます。
そしてそのとき、きわめて自然な形で、離婚もでき、また子どもの問題も解決します。
「何だ、こんなことだったのか!」とです。

 今、TRさんは、「子どもが20歳になるまで」とか、「娘の進学が心配」とか、
いろいろと自分を追い込んでいます。
心理学的には、TRさんは、自責型人間ということになります。
(奥さんは、それに対して、他責型?)
あまりそういうふうに、考えない方がよいです。
こうした問題は、なるようにしかならないし、またなるようになっていくものです。
もう少し肩の力を抜いて、無責任になるところは、なる。
ズボラになるところは、ズボラになる。
あるいは、仕事に没頭する……。
幸いにもすばらしいご職業をおもちなのですから、それこそ好き勝手なことができるはず。

 私たち夫婦も、月例行事のように夫婦喧嘩をしています。
しかしそういうときは、(こんなことを、おおっぴらに書くと、叱られそうですが)、
「女など、本気で、相手にしない」です。
(結構、男尊女卑思想に染まった部分もありますので……。)

 私など、一年中、「母親」という女性の世界で生きていることもあって、いつもそう
感じています。
「女など、本気で、相手にしない」です。
(私のワイフはワイフで、「男など、本気で、相手にしない」と考えていますよ。)

 それに離婚と言っても、いまどき、何でもないことです。
日本人も、20数%の人が、離婚を経験しています。
アメリカの離婚率より、やや低いかな……というところです。
5組に1組、あるいは5人に1人ということです。
あまりおおげさに考える必要はありません。

●もし、できれば……

 もし、できれば、負けを認めるという方法もあります。
プライドはみな、捨てて、こう言うのです。
「お前を愛している。お前なしでは生きていかれない。もう一度、ゼロからやりなしたい。
協力してほしい」と。

 奥さんの前で、心を丸裸にしてみるのです。
心底、心から、そう叫んでみるのです。
離婚するにしても、またしないにしても、一度は、その関門を通りくぐらなければなり
ません。
「やるだけのことはした」という思いが、仮に、それが奥さんに通じなくても、あなたの
心をさわやかにします。

このとき、子どもを理由(ダシ)にしてはいけません。
「修復しよう」という下心も捨てます。
ありのままに、ありのままのあなたの心を語ります。
TRさんは、TRさんだけのことを考えて、行動すればよいのです。
またそれが(すべて)です。

 あなたの真心が伝われば、奥さんの心もそれで溶けるはず。
が、溶けなければ、それまで。
あとは(流れ)に静かに身を任せます。
運命を受け入れ、それに身を委ねます。

●私のこと

 話は変わりますが、私も、最近、「故郷」とは縁を切る覚悟をしました。
言うなれば、故郷との離縁です。
(簡単なようで、これは実際には、たいへんなことですよ!)
今度、法事をすませたら、それでおしまい。
親戚づきあいも、なし。
ご愛想も、体裁もなし。
ついでにxxとも、お別れ。
自然のなりゆきで、そうなりました。
が、実にさわやかな気分です。

 家族自我群(呪縛感)の中で、もがき苦しんでいるときは、ほんとうにたいへんでした。
運命をのろい、運命にさからっていたからです。
が、まず最初に、(いい子)ぶるのをやめました。
誤解を解く努力も、やめました。
どうせその程度の人たちなのですから、言いたいように言わせておけばいい。
いろいろ口は出しても、何もしてくれないことがわかったからです。
1人、2人ではない。
全体として、縁を切る。
そういうふうに考えて、運命を受け入れました。

 それ以上に大切なことは、残りの人生を、楽しく有意義に生きることです。
私はすでにやるべきことはした。
じゅうぶん、した。
だからだれにも、うしろ指をささせない!
そういう思いが、私を、今、支えてくれます。
「逃げる」のではなく、「過去の亡霊を断ち切って、前に進むのです」。
どうか、参考にしてみてください。

 (いただきましたメールの転載許可に、感謝します。)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●7月31日

+++++++++++++++++++++

今日で、2009年7月は、終わり。
その7月を、総括してみる。

が、大きな動きはなかった。
日々、平穏にして、無事。
生活にも、これといって、変化はなかった。
今日は6月30日と、だれかが言っても、
「そうだろうな」と思う。

この1か月は、そんな1か月だった。

+++++++++++++++++++++

●日々の記録

 ダイエットは、そろそろ終盤。
現在、(今朝、起きたとき)、体重は、60・7キロ。
体脂肪率も、21〜22%に低下。
あとは、この体重を維持するだけ。

 運動は、よくした。
昨夜も、9時過ぎに、全速で40分近く、自転車で走った。
日中にも、5キロほどウォーキングしたから、合計で2単位、運動したことになる。
今日も、同じくらい、運動をするつもり。

 それから今月から、近くの温泉に通い始めた。
料金は、1人、1300円+消費税。
いつも入浴後、2階にあるレストランで食事をしている。
それが楽しみ。
 しばらく、週に1度、曜日を決めて通うつもり。
(平日は、ガラガラで、のんびりできる。)

 映画は、3〜4本、観た。
これはボケ防止用。
ボケ防止用だから、劇場で観なければ意味がない。
家の居間で観ていると、ワイフは、いつもそのまま眠ってしまう。

 文化的なことは、あまりしなかった。
本は、単行本を、4〜5冊、雑誌も、4〜5冊、買った。
それだけ。


●持病

 健康といっても、私の年齢になると、(今の状態)を維持するだけでもたいへん。
それができれば、御(おん)の字。
で、ひとつ気をつけていることがあるとすれば、持病をつくらないこと。
このことは、母を介護しているときに学んだ。

 60歳を過ぎると、持病のあるなしで、その人の健康は、大きく影響を受ける。
持病が急速に拡大するのも、このころ。
私が知るかぎりでの話だが、ひざ関節、腰などを傷(いた)める人が多い。
もちろん内臓疾患、成人病もある。
50歳くらいまでは、体力と気力で、カバーすることができる。
しかし60歳を過ぎると、体力と気力が急速に衰えてくる。
とたん内側に隠れていた持病が、どんと表に出てくる。

 80歳を過ぎても健康な人というのは、その持病がない。
だから持病を作らない。
体の不調を感じたら、すみやかに治す。
(今の状態)を保つ。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●足跡

私のBLOGや掲示板、それにYOU・TUBEのほうに、いろいろと
書きこみをしてくる人がいる。
たいていは好意的なものだが、中には、批評を通り越して、非難、さらには、口汚く
ののしるものもある。
先日も、私のYOU・TUBEの動画について、こう書いてきた人がいた。
「こんなひどいレッスンを受ける子どもたちが、かわいそう。即刻、教室を閉鎖すべし」
と。

しかしYOU・TUBEのばあい、「足跡」がそのまま残るしくみになっている。
コメントを書いた人を逆追跡すると、その人が制作、アプロードした動画を、そのまま
見ることができる。
つまりその動画から、その人を特定することができる。
その人は、そんなことも知らず、私の動画にコメントを書きこんだらしい。

それにしても、ほんの一部だけを見て、「閉鎖すべし」はない。
何が気に食わなかったのか……?
……というより、私はその女性をよく知っている。
10年ほど前、私の教室に怒鳴りこんできた女性である。
「あなたは、先祖を否定している。そういう人間は教師としてふさわしくない!」と。
(Rデザインの、Kさんですね!)

 どこかの宗教団体に属しているらしい。
が、そのときは、私は訳もわからず、しばらくしてからその女性に電話すると、
夫にあたる男性が出た。
その男性は、「すみません」「すみません」だけを繰り返した。
妻の行状に、かなり困っているといった様子だった。

 ついでに言うと、私は一度だって、「先祖」なるものを否定したことはない。
人、それぞれ。
ただ言えることは、私自身も、つぎの世代の人たちにとっては、その「先祖」に
なる、ということ。
私は、私。
つぎの世代の人たちは、つぎの世代の人たち。
だからつぎの世代の人たちに、恩を着せるようなことだけは、したくない。
つぎの世代の人たちは、つぎの世代で、勝手に生きていけばよい。
私という「先祖」に遠慮する必要はない。

 そういう思いが私にはあるから、私は「先祖」という言葉を口にしたことはない。
そういう私の生き様を、その女性は、「否定した」ととらえた。……らしい。

 話は脱線したが、BLOGにせよ、HPにせよ、何かの書きこみをするときは、
じゅうぶん注意したほうがよい。
何らかの足跡が残る。
その足跡から、その気になれば、あなたが書いたということが、わかってしまう。
こんな例が、ある。

 2年ほど前だが、同じように、同じようなことを書いてきた女性がいた。
が、文章に、独特の特徴があった。
(今回も、「即刻」「閉鎖すべし」という2語に特徴があった。)
そこでその文章から、いくつかの言葉を抜き出し、ヤフーの検索エンジンにかけてみた。
するとズバリ、同じような文章が、いくつか検索できた。

 よほど文章を書きなれた人は別として、そうでない人は、同じような文句を使って、
同じような文章を書く。
その女性は、別のBLOGに、別のコメントを書いていた。
そして「Yxxxx」というハンドル・ネームを残していることまでわかった。

 そこで今度は、「Yxxxx」というハンドル・ネームを検索してみた。
すると、同じ名前を、メールアドレスの一部に使っていることもわかった。

……ということで、私はその女性が、神奈川県のC市周辺に住む、YYという
女性であることまで知ることができた。

 だから私はそのコメントの返事に、こう書いた。

「神奈川県C市のYYさん、かなりきびしいコメントですね。
たいへん参考になりました」と。

 みなさんも、コメントを書きこむときは、くれぐれも、注意したほうがよい。
もしそれが犯罪につながるような内容であれば、そのまま警察に通報される
ことにもなる。
そうなれば、「ただの書きこみです」では、すまなくなる。


Hiroshi Hayashi++++++++JULY・09++++++++++はやし浩司

●パソコンは、ほしいときが華(はな)。

 パソコンは、高価な買い物であることにはちがいない。
10〜20万円といっても、命が短い分だけ、高価。
長く使っても、せいぜい2年。
それに合わせて、周辺機器を買いそろえたりすると、かなりの金額になる。

 そのパソコンについて、最近こんなことを考える。
「買ったら、損なのか、それとも買わなければ、損なのか」と。

 で、私の得た結論は、こうだ。
「買わなければ、損」。
それには理由がある。

 少し前、何かのことで、ひどく落ち込んだときがある。
何をするにも、おっくうになった。
もちろんパソコンに向かうのも、いやになった。
もちろん頭の中は、からっぽ。
休眠状態。
文章を書こうにも、アイディアそのものが浮かんでこない……。

 言うなれば、私は認知症の疑似体験をしたということになる。
(あるいは、本当に認知症になりつつあるのかもしれない……。)
が、もし本当に認知症になってしまったら、それこそパソコンどころではなくなって
しまう。
文章が書けなくなってしまう。
考えることもできなくなってしまう。

 だからそのあとワイフに私は、こう言った。
「新しいパソコンがほしいと思っているうちが、華(はな)だね」と。
つまり「パソコンなんか、いらない」と私が言い出したら、私は、お・し・ま・い。
それを思ったら、新しいパソコンを買うことなど、何でもない。
それにあえて付け加えるなら、パソコンは、現代の必需品。
「生きるための道具」と言い換えても、けっして、過言ではない。

 で、話は変わるが、今、我が家には、ひとつだけ「家宝」と言えるようなものがある。
古九谷焼きの布袋様(ほてい様)の置き物である。
江戸時代のものだと思うが、年代はわからない。
しかし精緻な作りは、ほかにはない。
恐らくその道の職人が、何か月以上もかけて作り上げたものにちがいない。
値段をつければ、数百万円以下ということはないだろう。
昔、私の祖父が、「浩司、これひとつで、家が一軒、建つ」と言っていたのを覚えている。

 その置き物を見ながら、ときどき「パソコンと置き物とどちらが価値があるか」と
考える。
布袋様の置き物のほうは、これから先も、何代もその価値を保ちつづけるだろう。
一方、パソコンのほうは、それこそ2年ごと、長くて5年ごとに、その寿命を終える。
大切に磨いて使っても、意味はない。
で、これについても、私の結論は、こうだ。

 布袋様の置き物のほうは、売ってはじめて、その価値が出る。
それまでは、ただの置き物。
見た人が、「ほほう、これはすばらしいですね」と言って、それで終わってしまう。
で、その布袋様を売ったとする。
数百万円なら数百万円でよい。
問題は、そのお金を、どう使うか、だ。
どう、有効に使うか、だ。

 一方、パソコンのほうは、今を生きる私を側面から支えてくれる。
その道具としての、パソコンがある。
だからやはり最新のものが、ほしい。

 たとえば今、原稿ファイルを読み出そうとすると、読み出すだけで、10分ほど
時間がかかる。
そのファイルは、約3万ページもある。
それを書き換えたあと、保存をかけると、今度は、20分ほど時間がかかる。
HPについては、保存をかけるだけでも、ちょうど2時間10分ほど時間がかかる。
こうした問題が解決できるなら、10〜20万円は、安い。

私「もしぼくが、新しいパソコンに興味を示さなくなったら、ぼくはおしまいだね」
ワ「そうね。新しいパソコンがほしいと言っているうちが、華(はな)よね」
私「そうだね。ぼくもそう思う。そういう気持ちが消えないように、がんばるよ」と。

 だから、今、「買う」といっても、心のどこかで、「買わなければならない」
という、おかしな意思が働く。

(布袋様は、写真に撮って、近々、マガジンHTML版のほうに載せておきます。)

 
Hiroshi Hayashi++++++++JULY・09++++++++++はやし浩司

●二男のラジオ番組

 前から話には聞いていたが、二男が、ときどきラジオのトーク番組に出るように
なった。
今朝も、それを聴いた人がいて、その話をしてくれた。
「息子さんが出てましたよ」と。

昨年までは、ときどき、「これからラジオで話すよ」という連絡が届いたりしたが、
最近は、ない。
ないから、それを聴いた人から、連絡を受けて知る。

 息子の活躍を耳にするのは、うれしい。
何というか、手にしたバトンを、もうひとりの「私」に手渡すような気分である。
もう少し大げさに言えば、「分身を残した」感じ。
「これでぼくも、死ねるなア」と。

 ラジオの中では、今、本を書いているようなことを言っていたとか。
二男は子どものころから、独特の感性をもっている。
数年前も、一時帰国した折、地元の中学校で講演をした。
そのときのこと。
二男は、破れたTシャツを着て、講演をした。
ギターを弾きながらの講演だったという。
私にはそういうマネはできない。
言い換えると、二男という息子は、そういう息子である。

 本名は、「林宗市(はやし・そういち)」。
どこかでその名前を耳にしたら、どうか、よろしく。
現在は、アメリカのインディアナ州立大学で、スパコン(スーパーコンピュータ)の
技師をしている。
世界中のスパコンをつないで、ひとつにするという、とんでもない仕事を手がけている。

 先に「うれしい」と書いたが、ソラ恐ろしい感じすらする。


Hiroshi Hayashi++++++++JULY・09++++++++++はやし浩司

【意思論】

++++++++++++++++++

脳細胞というのは、それぞれひとつずつは、
ON/OFFのスイッチにすぎない。
そのスイッチが無数に集合化されると、
そこに「意思」が生まれる。

私たち人間が、その一例ということになる。

もちろん脳を解剖しても、そんな意思は、
どこにもない。
そこに見えるのは、神経細胞(ニューロン)と、
それから延びる神経突起だけ。
神経突起のつなぎ目(シナプス)だけ。

たとえば私の名前は、「はやし浩司」だが、
脳のどこかに、「はやし浩司」という文字が
書きこまれているわけではない。
こと脳ということになれば、偉大な哲学者の
脳も、そこらのオジサンの脳も、見た目には
同じ。
電子顕微鏡でいくらのぞいても、(ちがい)すら、
ぜったいにわからないだろう。

++++++++++++++++++

●一寸の虫にも……

 「一寸の虫」という言葉は、よく耳にする。
しかしあのハチ(蜂)ほど、頭のよい虫はいない。
しっかりとした意思も、もっている。

 ときどき首をかしげて、何かを考えている様子を
見せることがある。
その姿は、人間のそれ、そっくり。
あまりにもそっくりなので、ときに思わず、笑ってしまう。

 が、本当に驚くべきことは、あんな小さな脳の中で、
そうした思考力や、意思をもっているという事実。
さらに最近、こんなことにも、驚いた。

●たったの66MB!

 私は原稿を書きながら、一定の分量になると、「総集編」
というファイルに、それを追加していく。
その「総集編」が、現在、約3万ページになった。
1ページが、約1600文字である。

 私にとっては、この10年の、「命」そのものということになる。
つまりこの10年分の原稿が、3万ページ。

 で、それをパソコンの中のハードディスクだけではなく、
外付けのハードディスクなどにも、分散して保存している。
つい先日は、USBメモリーの中にも、保存した。
たまたま4GBのメモリーを、1000円前後で売っていた。
それでそれを買い、3万ページの原稿を、保存してみた。

 が、驚いたのは、そのあとのこと。
それでそのメモリーは、私の原稿で、さぞかしいっぱいになった
だろうと思い、プロパティを開いて調べてみた。
ところが、使用したのは、たったの66MB!

 4GBのメモリーに保存すれば、4000分の66!
全体の1・7%!
この分で計算すると、4GBのメモリーをいっぱいに
するには、この先、約580年もかかることになる!

 私はそのUSBメモリーを指先でクルクルといじりながら、
「ぼくの命は、こんなものか」と、がくぜんとした。

●USBメモリーに「意思」はあるか

 脳は、構造的には、ON/OFFのスイッチのかたまり。
USBメモリーも、基本的には、その脳と同じ。
ということは、USBメモリーに、人間、あるいはハチと
同じような(意思)があると考えても、おかしくない。
 
 ハチと比べても、きわめて希薄な意思かもしれないが、
電流が流れたとたん、USBメモリーは、そこに蓄えられた
情報とは別のことを、考える。

 たとえば私が総集編の原稿を、そのUSBメモリーから
呼びだしたとする。
そのときUSBメモリーは、「めんどうだな」とか、
「今日は疲れている」くらいのことは、考えるかも
しれない。

 ON/OFFだけのスイッチだから、そんなことは
考えないだろうと、あなたは思うかもしれない。
しかし私たちの脳だって、基本的には、USBメモリー
と、その構造において、どこもちがわない。

●水からの伝言(水伝)

 少し前、『水からの伝言(略して、「水伝」ともいう)』という、
これまた奇想天外な説を主張した学者(?)がいた。
エセ科学もよいところ。
科学性、ゼロ。
再現性、ゼロ。
デタラメ、インチキ!

 が、驚いたのは、このことではない。
地方によっては、教育委員会レベルで、この説を信奉し、
各学校で、それをもとに、「美しい言葉」運動が始まったこと。
(この静岡県でも、始まった!)

 が、その「水」に、本当に意思がないかということになると、
私はそうは思わない。
理屈で考えれば、構造的に、ON/OFFになっている物質には、
すべて(意思)があるということになる。
「水」とて例外ではない。

 しかし私がいう「水」というのは、太平洋全体規模の「水」をいう。
が、それとてきわめて希薄なもので、「美しい氷の結晶を作るか、
作らないか」ということまで決めるほどの意思ではない。
ひょっとしたら、太平洋全体の水の意思を統合しても、一匹のハチが
もつ程度の意思かもしれない。
(が、それとて、宇宙的規模になると、ものすごいことになるが……。)

●意思論

 そこで最後に、もう一度、「意思」について考えてみる。
つまり私が言いたいことは、(生物)だけが、意思をもっていると
考えるのは、正しくないのではないかということ。

 現に、コンピュータは無生物だし、USBメモリーにいたっては、
ただの(物)。
しかしその中には、「私」が、ぎっしりと詰まっている。
もしこのUSBメモリーが、たとえば人工知能のようなソフトと
結合すれば、そこに別の「私」、つまり(意思)をもった「私」が、
生まれるかもしれない。

 「今、何をしてほしいですか?」と問いかけると、コンピュータが、
「暑いから、換気をしてほしい」とか、答えたりする。
もちろん「どうすれば、意思として認識できるようにすることができるか」
という問題もある。
コンピュータでいうなら、(解読ソフト)のようなものが、必要。
最低限、マイクやスピーカも、取り付けなければならない。
が、それはともかくも、こう考えていくと、ありとあらゆるものに、
意思があるということになる。

 海にも、地球にも、太陽にも、宇宙にも……、と。
ただ誤解してはいけないことは、仮にあったとしても、その意思は、
人間がもつ意思、(あるいはハチでもよいが)、そうした意思とは、
きわめてかけ離れた意思であるだろうということ。

 仮に人間との間の疎通装置のようなものができたとしても、人間には
理解できないものと考えるのが正しい。
逆に言うと、宇宙的規模からこの地球をながめると、人間とハチの
誤差など、問題にならない。
似ているというより、まったく同じ。
つまり海や、地球や、太陽や、宇宙がもっている意思(?)は、
それくらい人間の意思とは、かけ離れているということ。

 ……とまあ、話がかなりオカルト的になってきたので、この
話は、ここまで。
しかしこれだけは言える。

 私やあなたには、たしかに(意思)がある。
しかしその(意思)はどこから、どのようにして生まれてくるのか、
そのメカニズムは今もなお、深い謎の奥にあるということ。
言いかえると、「私」を知るということは、それほどまでに
むずかしいこと、ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW 意思論 意思とは はやし浩司 水からの伝言 水伝
意思について)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの言葉】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「先生は、S? それともM?」

+++++++++++++++++

中学生のSさんが、突然、私にこう
聞いた。

「先生、先生は、S? それとも
M?」と。

ギョッとした。が、そこはとぼけて、
「服はみんな、Mサイズだよ。下着は
Sかな?」と。

するとSさんは、「そうじゃないわよ。
先生は、サド? それともマゾ?」と。

+++++++++++++++++

 学生言葉というのがある。学生しか通じない言葉である。あとで以前、それについて書
いた原稿を添付しておくが、今度は、「SとM」。

 そこでSさんに、話を聞くと、こう教えてくれた。

 「いじめる側に回って、いじめるのが好きな人を、Sというのよ。反対に、いじめられ
る側に回って、いじめられるのを楽しむ人を、Mというのよ」と。

私「いじめられて楽しい人なんているの?」
S「いるわよ。そういう趣味の人も」
私「それはおかしいよ。趣味だなんて……」
S「いじめられる側って、結構、気楽なものよ」
私「あのねえ、そういう考え方をするバカがいるから、いじめの問題は、いつまでもつづ
くんだよ」と。

 しかしサドとか、マゾとか、そういう言葉が、中学生の子どもの口から出てくるとは、
想像もしていなかった。ホント!

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの心をつかむために

 あなたは子どもの世界(小学生)を、どれほど知っているだろうか。つぎの言葉の中で、
意味を説明できるのが、いくつあるか、答えてみてほしい。

●アブトロニック
●ムッチョ
●ホグワーツのグリフィンドール
●マッチョ(流行語)
●ブルーアイズ、アルティミッドドラゴン
●かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
●SAKURAドロップ
●桃色の片思い

 8問のうち、5〜6問までわかれば、あなたはすばらしい親と考えてよい。子どもの心
をしっかりと、つかんでいる。

 正解は、つぎ。

○アブトロニック……10分で腹筋を600回、振動する美用具、19800円
○ムッチョ……筋肉モリモリ、「ムキムキマッチョ」……筋肉モリモリの人。
○ハリーポッターの通う全寮制の学校と、宿舎名
○マッチョ……筋肉モリモリ(ムッチョの最近の言葉)
○遊戯王の裏ワザ……ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴ
ンが一枚。それと融合カードが一枚で、ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨する。
○モーニング娘の、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
○宇多田ひかるの「SAKURAドロップ」
○松浦あやの「桃色の片思い」

 あなたも一度、子どもの前で、こう言ってみたらどうだろう。「あのね、ブルーアイズ・
ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴンが一枚。それと融合カードが一枚で、
ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨するんだってね。あなた知っている?」と。

あなたの子どもは目を白黒させて、あなたを尊敬するようになるだろう。一度、試して
みてほしい。女子だったら、「私、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっちの中で、
やっぱりかごちゃんが一番、すてきだと思うわ」と。コツは、さりげなく、サラリと子
どもの前で言うこと。

●子どもの言葉

●子どもの言語能力(Language Ability of Children)
What is the difference between men and apes? T. Sawaguchi says it is the difference 
between men who has language ability and the apes which do not have language ability. 
It means to improve the language ability is an essential part of education, especially 
when the boys or girls are at the proper age for the education.

++++++++++++++++

ついでに……、
澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」
と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

私も、そう思う。

++++++++++++++++

澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

 私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性が決まる。「ヒトとサルの違いは、この言語能力の
あるなしである」(同書)という。

 私も、そう思う。

 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルにな
ってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、
要するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたという
ことか。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分
の子どもに向かって、こう叫んでいたという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうは
ともかくも、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中
でも前頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかか
わりがあることがわかってきました」(同書、P34)という。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達
時期には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある
時期がくると、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかく
も、ある時期に、適切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまり
ない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳か
ら5・5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考
えることができる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、
もう遅い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、
定着した思考プロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わから
ない
が、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成され
るのではないか。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養ってお
く必要がある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、
このことは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 したたかな脳)

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(特集)【思春期の子どもの心】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの心がつかめない(?)

+++++++++++++++++

心がつかめない娘(小6)について、
そのお母さんから、こんな相談があり
ました。

この問題について、考えてみたいと
思います。

+++++++++++++++++

どこからお話ししていいのか分りません。沢山の問題があるように思うのですが・・・。
どうか、少しでも、問題点が整理できればと、こちらのHPに投稿させて頂きました。

事の始まりは、先日娘の担任の先生から電話があったことです。

「実は、P子さん(=私の娘、小6)が、最近、A子さんにひどい言い方をしているよう
だ。下校中、上下関係があるように見える」と言われました。それがたいへん、気になり
ました。

さらに、「実は去年の冬ごろ、ちょっとした事件がありまして」と、聞かされました。

先生の話の内容は、こういうことでした。娘のP子が、B子さんに本を貸したのですが、
なかなか返してくれないので、「返して」と言ったところ、B子さんは、「私は借りていな
い」と言ったとのこと。

「確かにB子さんに貸したはず」と娘は言いましたが、しかし別の子から、「あっ、私、借
りてるよ」と、本を渡されました。娘はB子さんに謝り、この件は終了しました。

ところが、その後、B子さんが、「私のペンがない!」と騒ぎ出しました。周りの友人も手
伝って、探したところ、それが娘のP子の筆箱の中に、あったというのです。「あっ、その
ペン私のじゃない?」と、B子さんが言ったといいます。それを見ていた先生も中に入り、
娘に聞くと、「違う、これはお母さんに買ってもらったもの」と答えたというのです。

先生は「じゃあ、お母さんに聞いてもいいですか?」と、娘のP子に訪ねると、「ダメ」と
答えたというのです。

それはおかしいなーと、いうことで、周りからも疑われた。・・・・と、いう事がありまし
た。先生は、「もう、このことは済んだことなので、いいのですが・・・・。しかしP子さ
んが、A子さんにひどく当ることなどを、とても心配しています。おうちでも話しあって
みてください」と言いました。

 初耳でした。でも、結果として娘はみんなの前で泥棒にされてしまったのでしょうか。
とにかく、真実を知りたいと、私は、娘に聞いてみました。

まず、A子さんのことですが、娘のP子は、「思い当たることはない、何の事を言っている
のかわからない」と言いました。無意識でも、つまりこちらがその気でなくても、相手が
傷ついているとしたら、とっても悲しい事だから、これから気をつけてねなどと、話しま
した。次にペンの事を聞いたのですが、その話になるろ、娘は泣きだしてしまいました。

 ・・・・実はこのずっと以前から気になっていたのですが、子どもたちは文房の交換を
しているようです。「このペンどうしたの? この前買ったペンはどこ行ったの?」と私が
P子に聞くと、屈託なく、「うん、友達が交換してっていうからいいよって」とか言います。

私「え? 何で?」
娘「どうしても欲しいって言うし、交換ならいいかなって。それに断る理由がないから」
とのこと。

これもショックでしたが、きちんと「物をもっと大切にして欲しい。簡単に交換しないで
ほしい。。。」などなど沢山話しこれからはしないでねと、そのときは、そういう話で終わり
ました。

 で、本題ですが、「ペンのことだけど、こんなことがあったんだって? そのペンはどう
したものなの?」と聞くと、娘はなかなか答えようとしませんでした。そこで(1)持っ
てきてしまった、(2)拾った、(3)自分で買った、(4)その他の中のどれ?、と聞くと、
やっとの事で、「交換したもの」と言いました。

「じゃあ何であの時、そういわなかったの?」と聞くと、泣くばかりです。泣いて泣いて、
やっと聞けたのが、「交換しようって言われてしたのに、Bちゃんがどうしてそんな事を言
い出したのか分らなくって」と。

私「あなたは泥棒だと、他の人はそう思うよ、それでもいいの?」
娘「盗んだと思われてもいい。それでも自分の思いは言えない」と。

 最近、大きくなってきて、少し手が離れてきたと思って手を抜いてしまったと、我にか
えりました。低学年のころは、毎日のように主人と夜、子どもたちのことについて話し合
っていたのも、最近ではしていない事にも気付かされました。

で、昔からの悩みの種は、娘(相談の娘小6・この下に小3の妹がいます)の、対人関係
についての問題です。

私が働いていたため、娘が1歳半のときから保育園へ預けました。教育熱心で有名な保育
園でしたが、右を向きなさいと指示されても、右を向かないような娘でした。そんなわけ
で、先生も、娘にかなり手を焼いていたようでした。何度も主人と呼び出されては、「お宅
の子は人を見る」とこんこんと言われました。

人見知りが極端にはげしく、突然話し掛けられたりすると、かたまって口を閉ざしたり、
下を見る、隠れるなどの行為をしました。ですから、極力休日は、家族で一緒にのんびり
ゆったり、栄養を蓄えるつもりで、常に皆で横に手をつなぎ、時には後ろに回り背中をな
でながら過ごしていました。

小学校の入学時には、「大丈夫、なにも心配要らないよ」と、ぽんっと送り出したりしまし
たが、当時は、本当に元気よく通っていました。が、大人に理解されにくい性格は中々変
わることもなく、「こう思ってるんだよ!」などと、口にした事は無いようです。

が、その一方で、娘は、地道に努力するタイプで、昨年、放送委員になったのですが、家
で練習し、運動会やおひつの放送も、物怖じせず、こなしていきました。

一時期、これは、何かの障害なのではないかと、悩みました。が、素人判断も出来ず、な
んとかやっていけていましたので・・・・。

現在も、三者面談などでは体をこわばらせ、手に冷や汗をかいています。落ち着きがなく
なり、なんとか作り笑いをしてみせたりするのですが、それも先生にはふざけているよう
に見えるのか、あまりよい印象は与えていないようです。

 そのような関係の先生ですが、今回の話し合った結果を、その先生に連絡しました。

私としては、なんとか、先生にだけでも誤解を解きたい。このままでは娘のP子がかわい
そうとの思いで話しました。

先生は「分りました。ペンの事は申すんでしまった事なので、(確かに時がたちすぎている)、
今さら蒸し返すのも何ですのでやめます」と言ってくれました。またペンのことについて
は、「やはりあのペンはB子さんのものだったわけだ。でも、B子さんは、交換した気は全
く無いですよ」とのこと。私は「また相談にのって頂きたいので、よろしくお願いします」
と言えただけです。

先生は、本当に娘のことを心配しているのか不安になりました。なぜ先生は、娘の側を少
しでも見ようとしてくれないのでしょうか。私は常に平等を心がけ、こちらが悪いのでは、
と思いながら話を聞くようにしているのですが。。。

長々とすみません。娘から話しを聞いて、娘には、「お母さんは、あなたを信じている。本
当に信じている。世界で一番の味方だから」「分った、お母さんが守ってあげる。心配しな
いで。でも、努力しようね」と、言いました。

A子さんには本当に申し訳ない事をしたと思っています。とてもおとなしい子です。B子
さんは、大人うけする、ハツラツとしたとても気持ちのいい子です。クラスのリーダー的
存在。親友の子と喧嘩をした時だけ、娘に愚痴を言いにくるようです。

私は今、娘に何をしたらいいのか。先生に何を言ったらいいのか。主人とも話し合ってい
ますが、行き詰まってしまっています。

本当に長くなって申し訳ありません。毎晩、この問題を考えていると、眠れません。アド
バイスをお願いします。
(大阪府、KR子、P子の母親より)

【はやし浩司より、P子さんのお母さんへ】

 メール、ありがとうございました。

 まず、最初に、一言。

 この種の問題は、たいへんありふれた問題です。はっきり言えば、何でもない問題です。

 まず、A子さんについてですが、A子さんは、P子さんに、いじめられていると訴えた
だけのことです。ただP子さんには、その意識はなかった。つまり(いじめている)とい
う意識がないまま、結果として、いじめているという雰囲気になってしまった。それだけ
のことですが、これも(いじめ)の問題では、よくあることです。

 B子さんとの本のトラブルについては、P子さんが、ウソを言っているだけのことです。
何でもない、つまりは、子どもの世界では、よくあるウソです。一応たしなめながらも、
おおげさに考える必要は、まったくありません。

 思春期の子どもは、自立を始めるとき、それまでになかったさまざまな変化を見せるよ
うになります。フロイトの説によれば、イド(心の根源部にある、欲望のかたまり)の活
動が活発になり、ときとして、子どもは欲望のおもむくまま、行動するようになります。

 ウソ、盗みなどが、その代表的なものです。万引きもします。性への関心、興味も、当
然、高まってきます。しかしそういう形で、つまり親や社会に対して抵抗することで、子
どもは、親から自立しようとします。

 ですから、ここに書いたように、一応はたしなめながらも、それですませます。あなた
のように、子どもを追いつめてはいけません。これはP子さんの問題というよりは、完ぺ
き主義(?)のあなたのほうに問題があるのではないかと思います。

それともあなたは、子どものころ、あなたの親に対して、ウソをついたことはないとでも
言うのでしょうか? ものを盗んだことはないとでも言うのでしょうか? 親の目の届か
ないところで、男の人と遊んだことはないとでも言うのでしょうか? もしそうなら、あ
なたは修道女? (失礼!)

 もしP子さんに問題があるとするなら、乳幼児期に、母子の間で、しっかりとした信頼
関係が結べなかったという点です。母子の間でできる信頼関係を、心理学の世界では、「基
本的信頼関係」といい、それが結べなかった状態を、「基本的不信関係」といいます。

 この信頼関係が基本となって、その後、先生との関係、友人関係、異性関係へと発展し
ていきます。

 そのころの(不具合)が、今、P子さんの対人関係に、影響を与えているものと思われ
ます。が、しかしそれは遠い過去の話。今さら、どうしようもない問題です。

 ですから今は、「うちの子は、人間関係を結ぶのが苦手だ」「他人に心を開くのが苦手だ」
「外では無理をして、いい子ぶる」「自分の心の中を、さらけ出すことができない」と、割
り切ることです。だれでも、ひとつやふたつ、そういう弱点があって、当たり前です。

 大切なことは、そういう子どもであることを、認めてあげることです。認めた上で、P
子さんを理解してあげることです。「なおそう」とか、そういうふうに、考えてはいけませ
ん。(どの道、今さら、手遅れですから……。)

 あとはP子さん自身の問題です。もしP子さんが、もう少しおとなになり、人間関係の
問題で悩むようなことがあったら、ぜひ、私のHPを見るように勧めてあげてください。
あるいはマガジンの購読を勧めてあげてください。無料です。同じような問題は、そのつ
どテーマとして、マガジンでもよく取りあげていますので、参考になると思います。

 で、今、あなたの目は、P子さんのほうに向きすぎています。そんな感じがします。し
かも、P子さんへの不信感ばかり……! 心配先行型の子育てが、いまだにつづいている
といった感じです。

 ですからあなたはあなたで、もう少し、外に向かって目を向けられたらどうでしょうか? 
多分、あなたはP子さんにとっては、うるさい、いやな母親と映っているはずです。たか
がペンぐらいの問題で、親からここまで追及されたら、私なら、机ごと、親に向かって投
げつけるだろうと思います。ホント! 今では、ペンといっても、いろいろありますが、
100円ショップで、3〜5本も買える時代です。

 いわんや子どもが泣きだすほどまで、子どもを追いつめてはいけません。またこの問題
は、そういう問題ではないのです。

 さらに学校の先生も、それほど、おおげさには考えていないはずです。先にも書きまし
たが、こうした問題は、まさに日常茶飯事。ですから、先生がP子さんのことを悪く思っ
ているとか、娘が誤解されてかわいそうとか、先生が親側に立ってものを考えてくれない
とか、そういうふうに考えてはいけません。

 またP子さんに向かって、「信じている」とか何とか、そんなおおげさな言葉を使っては
いけません。また使うような場面ではありません。繰りかえしますが、たかがペン1本の
問題です。わかりやすく言えば、P子さんが、B子さんのペンを盗んで、自分の筆箱に入
れた。それだけのことです。

 多少の虚言癖はあるようですが、それもこの時期の子どもには、よくあることです。(も
ちろん病的な虚言癖、作話、妄想的虚言などは、区別して考えますが……。)

 あなたにも、それがわかっているはず。わかっていながら、P子さんを追いつめ、P子
さんの口からそれを聞くまで、納得しない。つまりは、あなたは、完ぺき主義の母親とい
うことになります。

 P子さんは、いい子ですよ。放送委員の一件を見ただけでも、それがわかるはず。そう
いうP子さんのよい面を、どうしてもっとすなおに、あなたは見ないのですか。あなたが
今すべきことは、そういうP子さんのよい面だけを見て、あなたはあなたで、前を見なが
ら、前に進む。今は、それでよいと思います。つまりは、それが(信ずる)ということで
す。言葉の問題ではありません。

 またこうした問題には、必ず、二番底、三番底があります。あなたはP子さんの今の状
態を最悪と思うかもしれませんが、しかし、対処のし方をまちがえると、P子さんは、そ
の二番底、三番底へと落ちていきますよ! これは警告です。

 反対の立場で考えてみてください。私なら、家を出ますよ。息が詰まりますから……。
P子さんが、家を出るようになったら、あなたは、どうしますか。外泊をするようになっ
たら、どうしますか。

 ですから今は、「今以上に、状態を悪くしないことだけを考えなら、様子をみる」です。

 だれしも、失敗をします。人をキズつけたり、あるいは反対に人にキズつけられながら、
その中で、ドラマを展開します。悩んだり、苦しんだり……。そのドラマにこそ、意味が
あるのです。子どもについて言えば、そのドラマが、子どもをたくましくします。

 P子さんは、たしかにいやな思いをしたかもしれませんが、それはP子さんの問題。親
のあなたが、割って出るような問題ではないのです。親としてはつらいところですが、も
うそろそろ、あなた自身も、子離れをし、P子さんには、親離れをするよう、し向けるこ
とこそ、大切です。

 とても、ひどいことを言うようですが、私はあなたの相談の中に、子離れできない、ど
こか未熟な親の姿を感じてしまいました。あなたはそれでよいとしても、P子さんが、か
わいそうです。

 で、たまたま昨夜、『RAY』というビデオを見ました。レイ・チャールズの生涯をつづ
ったビデオです。あのビデオの中で、ところどころ、レイ・チャールズの母親が出てきま
すが、今のあなたに求められる母親像というのは、ひょっとしたら、レイ・チャールズの
母親のような母親像ではないでしょうか。

 最後に、もう一言。

 こんな問題は、何でもありませんよ! 本当によくある問題です。ですから、「A子さん
に申し訳ない」とか、B子さんがどうとか、そんなふうに考えてはいけません。今ごろは、
A子さんも、B子さんも、学校の先生も、何とも思っていませんよ。

 あなた自身が、心のクサリをほどいて、自分のしたいことをしたらよいのです。心を開
いて! 体は、あとからついてきますよ!

 すばらしい季節です。おしいものでも食べて、あとは、忘れましょう! 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの虚言 子供の虚言 盗み)

+++++++++++++++

いくつか、今までに書いた
原稿を添付しておきます。

+++++++++++++++
 
【信頼関係】

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外で
はない。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本
である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、
反対にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような
調子で、答えてあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人
間関係を結ぶことができる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基
本的信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。
これを第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、
友だちとの世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用して
いくことができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、
第三世界での信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後
の信頼関係の基本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親
側の情緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあ
い、子どもは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、
人間関係になる。これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分
野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ね
たみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、
良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れ
る。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安
心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分
をさらけ出しても、気にしない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意す
るのは、親の役目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなこと
に注意したらよい。

● 「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
● 子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じよう
に接する。
● きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くな
るというのは、避ける。
(030422)
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
信頼関係 親子関係 親子の信頼関係 基本的信頼関係 不信関係 一貫性)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

【感情の発達】

 乳児でも、不快、恐怖、不安を感ずる。これらを、基本感情というなら、年齢とともに
発達する、怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの感情は、より人間的な感情ということにな
る。これらの感情は、さらに、自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情へと発展してい
く。

 年齢的には、私は、以下のように区分している。

(基本感情)〇歳〜一歳前後……不快、恐怖、不安を中心とする、基本感情の形成期。

(人間的感情形成期)一歳前後〜二歳前後……怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの人間的
な感情の形成期。

(複雑感情形成期)二歳前後〜五歳前後……自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情な
どの、複雑な感情の形成期。

 子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。これには、こんな経験がある。

 年長児のUさん(女児)は静かな子どもだった。教室でもほとんど、発言しなかった。
しかしその日は違っていた。皆より先に、「はい、はい」と手をあげた。その日は、母親が
仕事を休んで、授業を参観にきていた。

 私は少しおおげさに、Uさんをほめた。すると、である。Uさんが、スーッと涙をこぼ
したのである。私はてっきりうれし泣きだろうと思った。しかしそれにしても、大げさで
ある。そこで授業が終わってから、私はUさんに聞いた。「どうして泣いたの?」と。する
と、Uさんは、こう言った。「私がほめたれた。お母さんが喜んでいると思ったら、自然と
涙が出てきちゃった」と。Uさんは、母親の気持ちになって、涙を流していたのだ。

 この事件があってからというもの、私は、幼児に対する見方を変えた。

 で、ここで注意してほしいのは、人間としての一般的な感情は、満五歳前後には、完成
するということ。子どもといっても、今のあなたと同じ感情をもっている。このことは反
対の立場で考えてみればわかる。

 あなたという「人」の感情を、どんどん掘りさげていってもてほしい。あなたがもつ感
情は、いつごろ形成されただろうか。高校生や中学生になってからだろうか。いや、違う。
では、小学生だろうか。いや、違う。あなたは「私」を意識するようになったときから、
すでに今の感情をもっていたことに気づく。つまりその年齢は、ここにあげた、満五歳前
後ということになる。

 ところで私は、N放送(公営放送)の「お母さんとXXXX」という番組を、かいま見
るたびに、すぐチャンネルをかえる。不愉快だから、だ。ああした番組では、子どもを、
まるで子どもあつかいしている。一人の人間として、見ていない。ただ一方的に、見るの
もつらいような踊りをさせてみたりしている。あるいは「子どもなら、こういうものに喜
ぶはず」という、おとなの傲慢(ごうまん)さばかりが目立つ。ときどき「子どもをバカ
にするな」と思ってしまう。

 話はそれたが、子どもの感情は、満五歳をもって、おとなのそれと同じと考える。また
そういう前提で、子どもと接する。決して、幼稚あつかいしてはいけない。私はときどき
年長児たちにこう言う。

「君たちは、幼稚、幼稚って言われるけど、バカにされていると思わないか?」と。する
と子どもたちは、こう言う。「うん、そう思う」と。幼児だって、「幼稚」という言葉を嫌
っている。もうそろそろ、「幼稚」という言葉を、廃語にする時期にきているのではないだ
ろうか。「幼稚園」ではなく、「幼児園」にするとか。もっと端的に、「基礎園」でもよい。
あるいは英語式に、「プレスクール」でもよい。しかし「幼稚園」は、……?
(030422)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
基本感情 人間的感情形成 感情形成期)

Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【不安なあなたへ】

 埼玉県に住む、一人の母親(ASさん)から、「子育てが不安でならない」というメール
をもらった。「うちの子(小三男児)今、よくない友だちばかりと遊んでいる。何とか引き
離したいと思い、サッカークラブに入れたが、そのクラブにも、またその友だちが、いっ
しょについてきそうな雰囲気。『入らないで』とも言えないし、何かにつけて、不安でなり
ません」と。

 子育てに、不安はつきもの。だから、不安になって当たり前。不安でない人など、まず
いない。が、大切なことは、その不安から逃げないこと。不安は不安として、受け入れて
しまう。不安だったら、大いに不安だと思えばよい。わかりやすく言えば、不安は逃げる
ものではなく、乗り越えるもの。あるいはそれとじょうずにつきあう。それを繰りかえし
ているうちに、心に免疫性ができてくる。私が最近、経験したことを書く。

 横浜に住む、三男が、自動車で、浜松までやってくるという。自動車といっても、軽自
動車。私は「よしなさい」と言ったが、三男は、「だいじょうぶ」と。で、その日は朝から、
心配でならなかった。たまたま小雨が降っていたので、「スリップしなければいいが」とか、
「事故を起こさなければいいが」と思った。

 そういうときというのは、何かにつけて、ものごとを悪いほうにばかり考える。で、と
きどき仕事先から自宅に電話をして、ワイフに、「帰ってきたか?」と聞く。そのつど、ワ
イフは、「まだよ」と言う。もう、とっくの昔に着いていてよい時刻である。そう考えたと
たん、ザワザワとした胸騒ぎ。「車なら、三時間で着く。軽だから、やや遅いとしても、四
時間か五時間。途中で食事をしても、六時間……」と。

 三男は携帯電話をもっているので、その携帯電話に電話しようかとも考えたが、しかし
高速道路を走っている息子に、電話するわけにもいかない。何とも言えない不安。時間だ
けが、ジリジリと過ぎる。

 で、夕方、もうほとんど真っ暗になったころ、ワイフから電話があった。「E(三男)が、
今、着いたよ」と。朝方、出発して、何と、一〇時間もかかった! そこで聞くと、「昼ご
ろ浜松に着いたけど、友だちの家に寄ってきた」と。三男は昔から、そういう子どもであ
る。そこで「あぶなくなかったか?」と聞くと、「先月は、友だちの車で、北海道を一周し
てきたから」と。北海度! 一周! ギョッ!

 ……というようなことがあってから、私は、もう三男のドライブには、心配しなくなっ
た。「勝手にしろ」という気持ちになった。で、今では、ほとんど毎月のように、三男は、
横浜と浜松の間を、行ったり来たりしている。三男にしてみれば、横浜と浜松の間を往復
するのは、私たちがそこらのスーパーに買い物に行くようなものなのだろう。今では、「何
時に出る」とか、「何時に着く」とか、いちいち聞くこともなくなった。もちろん、そのこ
とで、不安になることもない。

 不安になることが悪いのではない。だれしも未知で未経験の世界に入れば、不安になる。
この埼玉県の母親のケースで考えてみよう。

 その母親は、こう訴えている。

● 親から見て、よくない友だちと遊んでいる。
● 何とか、その友だちから、自分の子どもを離したい。
● しかしその友だちとは、仲がよい。
● そこで別の世界、つまりサッカークラブに自分の子どもを入れることにした。
● が、その友だちも、サッカークラブに入りそうな雰囲気になってきた。
● そうなれば、サッカークラブに入っても、意味がなくなる。

小学三年といえば、そろそろ親離れする時期でもある。この時期、「○○君と遊んではダメ」
と言うことは、子どもに向かって、「親を取るか、友だちを取るか」の、択一を迫るような
もの。子どもが親を取ればよし。そうでなければ、親子の間に、大きなキレツを入れるこ
とになる。そんなわけで、親が、子どもの友人関係に干渉したり、割って入るようなこと
は、慎重にしたらよい。

 その上での話しだが、この相談のケースで気になるのは、親の不安が、そのまま過関心、
過干渉になっているということ。ふつう親は、子どもの学習面で、過関心、過干渉になり
やすい。子どもが病弱であったりすると、健康面で過関心、過干渉になることもある。で、
この母親のばあいは、それが友人関係に向いた。

 こういうケースでは、まず親が、子どもに、何を望んでいるかを明確にする。子どもに
どうあってほしいのか、どうしてほしいのかを明確にする。その母親は、こうも書いてい
る。「いつも私の子どもは、子分的で、命令ばかりされているようだ。このままでは、うち
の子は、ダメになってしまうのでは……」と。

 親としては、リーダー格であってほしいということか。が、ここで誤解してはいけない
ことは、今、子分的であるのは、あくまでも結果でしかないということ。子どもが、服従
的になるのは、そもそも服従的になるように、育てられていることが原因と考えてよい。
決してその友だちによって、服従的になったのではない。それに服従的であるというのは、
親から見れば、もの足りないことかもしれないが、当の本人にとっては、たいへん居心地
のよい世界なのである。つまり子ども自身は、それを楽しんでいる。

 そういう状態のとき、その友だちから引き離そうとして、「あの子とは遊んではダメ」式
の指示を与えても意味はない。ないばかりか、強引に引き離そうとすると、子どもは、親
の姿勢に反発するようになる。(また反発するほうが、好ましい。)

 ……と、ずいぶんと回り道をしたが、さて本題。子育てで親が不安になるのは、しかた
ないとしても、その不安感を、子どもにぶつけてはいけない。これは子育ての大鉄則。親
にも、できることと、できないことがある。またしてよいことと、していけないことがあ
る。そのあたりを、じょうずに区別できる親が賢い親ということになるし、それができな
い親は、そうでないということになる。では、どう考えたらよいのか。いくつか、思いつ
いたままを書いてみる。

●ふつうこそ、最善

 朝起きると、そこに子どもがいる。いつもの朝だ。夫は夫で勝手なことをしている。私
は私で勝手なことをしている。そして子どもは子どもで勝手なことをしている。そういう
何でもない、ごくふつうの家庭に、実は、真の喜びが隠されている。

 賢明な人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づく。そうでない人は、なくしてから
気づく。健康しかり、若い時代しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 自分の子どもが「ふつうの子」であったら、そのふつうであることを、喜ぶ。感謝する。
だれに感謝するというものではないが、とにかく感謝する。

●ものには二面性

 どんなものにも、二面性がある。見方によって、よくも見え、また悪くも見える。とく
に「人間」はそうで、相手がよく見えたり、悪く見えたりするのは、要するに、それはこ
ちら側の問題ということになる。こちら側の心のもち方、一つで決まる。イギリスの格言
にも、『相手はあなたが相手を思うように、あなたを思う』というのがある。心理学でも、
これを「好意の返報性」という。

 基本的には、この世界には、悪い人はいない。いわんや、子どもを、や。一見、悪く見
えるのは、子どもが悪いのではなく、むしろそう見える、こちら側に問題があるというこ
と。価値観の限定(自分のもっている価値観が最善と決めてかかる)、価値観の押しつけ(他
人もそうでなければならないと思う)など。

 ある母親は、長い間、息子(二一歳)の引きこもりに悩んでいた。もっとも、その引き
こもりが、三年近くもつづいたので、そのうち、その母親は、自分の子どもが引きこもっ
ていることすら、忘れてしまった。だから「悩んだ」というのは、正しくないかもしれな
い。

 しかしその息子は、二五歳くらいになったときから、少しずつ、外の世界へ出るように
なった。が、実はそのとき、その息子を、外の世界へ誘ってくれたのは、小学時代の「ワ
ルガキ仲間」だったという。週に二、三度、その息子の部屋へやってきては、いろいろな
遊びを教えたらしい。いっしょにドライブにも行った。その母親はこう言う。「子どものこ
ろは、あんな子と遊んでほしくないと思いましたが、そう思っていた私がまちがっていま
した」と。

 一つの方向から見ると問題のある子どもでも、別の方向から見ると、まったく別の子ど
もに見えることは、よくある。自分の子どもにせよ、相手の子どもにせよ、何か問題が起
き、その問題が袋小路に入ったら、そういうときは、思い切って、視点を変えてみる。と
たん、問題が解決するのみならず、その子どもがすばらしい子どもに見えてくる。

●自然体で

 とくに子どもの世界では、今、子どもがそうであることには、それなりの理由があると
みてよい。またそれだけの必然性があるということ。どんなに、おかしく見えるようなこ
とでも、だ。たとえば指しゃぶりにしても、一見、ムダに見える行為かもしれないが、子
ども自身は、指しゃぶりをしながら、自分の情緒を安定させている。

 そういう意味では、子どもの行動には、ムダがない。ちょうど自然界に、ムダなものが
ないのと同じようにである。そのためおとなの考えだけで、ムダと判断し、それを命令し
たり、禁止したりしてはいけない。

 この相談のケースでも、「よくない友だち」と親は思うかもしれないが、子ども自身は、
そういう友だちとの交際を求めている。楽しんでいる。もちろんその子どものまわりには、
あくまでも親の目から見ての話だが、「好ましい友だち」もいるかもしれない。しかし、そ
ういう友だちを、子ども自身は、求めていない。居心地が、かえって悪いからだ。

 子どもは子ども自身の「流れ」の中で、自分の世界を形づくっていく。今のあなたがそ
うであるように、子ども自身も、今の子どもを形づくっていく。それは大きな流れのよう
なもので、たとえ親でも、その流れに対しては、無力でしかない。もしそれがわからなけ
れば、あなた自身のことで考えてみればよい。

 もしあなたの親が、「○○さんとは、つきあってはだめ」「△△さんと、つきあいなさい」と、
いちいち言ってきたら、あなたはそれに従うだろうか。……あるいはあなたが子どものこ
ろ、あなたはそれに従っただろうか。答は、ノーのはずである。

●自分の価値観を疑う

 常に親は、子どもの前では、謙虚でなければならない。が、悪玉親意識の強い親、権威
主義の親、さらには、子どもをモノとか財産のように思う、モノ意識の強い親ほど、子育
てが、どこか押しつけ的になる。

 「悪玉親意識」というのは、つまりは親風を吹かすこと。「私は親だ」という意識ばかり
が強く、このタイプの親は、子どもに向かっては、「産んでやった」「育ててやった」と恩
を着せやすい。何か子どもが口答えしたりすると、「何よ、親に向かって!」と言いやすい。

 権威主義というのは、「親は絶対」と、親自身が思っていることをいう。

 またモノ意識の強い人とは、独特の話しかたをする。結婚して横浜に住んでいる息子(三
〇歳)について、こう言った母親(五〇歳)がいた。「息子は、嫁に取られてしまいました。
親なんてさみしいもんですわ」と。その母親は、息子が、結婚して、横浜に住んでいるこ
とを、「嫁に取られた」というのだ。

 子どもには、子どもの世界がある。その世界に、謙虚な親を、賢い親という。つまりは、
子どもを、どこまで一人の対等な人間として認めるかという、その度量の深さの問題とい
うことになる。あなたの子どもは、あなたから生まれるが、決して、あなたの奴隷でも、
モノでもない。「親子」というワクを超えた、一人の人間である。

●価値観の衝突に注意

 子育てでこわいのは、親の価値観の押しつけ。その価値観には、宗教性がある。だから
親子でも、価値観が対立すると、その関係は、決定的なほどまでに、破壊される。私もそ
れまでは母を疑ったことはなかった。しかし私が「幼児教育の道を進む」と、はじめて母
に話したとき、母は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と泣き崩
れてしまった。私が二三歳のときだった。

 しかしそれは母の価値観でしかなかった。母にとっての「ふつうの人生」とは、よい大
学を出て、よい会社に入社して……という人生だった。しかし私は、母のその一言で、絶
望の底にたたき落とされてしまった。そのあと、私は、一〇年ほど、高校や大学の同窓会
でも、自分の職業をみなに、話すことができなかった。

●生きる源流に 

 子育てで行きづまりを感じたら、生きる源流に視点を置く。「私は生きている」「子ども
は生きている」と。そういう視点から見ると、すべての問題は解決する。

 若い父親や母親に、こんなことを言ってもわかってもらえそうにないが、しかしこれは
事実である。「生きている源流」から、子どもの世界を見ると、よい高校とか、大学とか、
さらにはよい仕事というのが、実にささいなことに思えてくる。それはゲームの世界に似
ている。「うちの子は、おかげで、S高校に入りました」と喜んでいる親は、ちょうどゲー
ムをしながら、「エメラルドタウンで、一〇〇〇点、ゲット!」と叫んでいる子どものよう
なもの。あるいは、どこがどう違うのというのか。(だからといって、それがムダといって
いるのではない。そういうドラマに人生のおもしろさがある。)

 私たちはもっと、すなおに、そして正直に、「生きていること」そのものを、喜んだらよ
い。またそこを原点にして考えたらよい。今、親であるあなたも、五、六〇年先には、こ
の世界から消えてなくなる。子どもだって、一〇〇年先には消えてなくなる。そういう人
間どうしが、今、いっしょに、ここに生きている。そのすばらしさを実感したとき、あな
たは子育てにまつわる、あらゆる問題から、解放される。

●子どもを信ずる

 子どもを信ずることができない親は、それだけわがままな親と考えてよい。が、それだ
けではすまない。親の不信感は、さまざまな形で、子どもの心を卑屈にする。理由がある。

 「私はすばらしい子どもだ」「私は伸びている」という自信が、子どもを前向きに伸ばす。
しかしその子どものすぐそばにいて、子どもの支えにならなければならない親が、「あなた
はダメな子だ」「心配な子だ」と言いつづけたら、その子どもは、どうなるだろうか。子ど
もは自己不信から、自我(私は私だという自己意識)の形成そのものさえできなくなって
しまう。へたをすれば、一生、ナヨナヨとしたハキのない人間になってしまう。

【ASさんへ】

メール、ありがとうございました。全体の雰囲気からして、つまりいただいたメールの内
容は別として、私が感じたことは、まず疑うべきは、あなたの基本的不信関係と、不安の
根底にある、「わだかまり」ではないかということです。

 ひょっとしたら、あなたは子どもを信じていないのではないかということです。どこか
心配先行型、不安先行型の子育てをなさっておられるように思います。そしてその原因は
何かといえば、子どもの出産、さらにはそこにいたるまでの結婚について、おおきな「わ
だかまり」があったことが考えられます。あるいはその原因は、さらに、あなた自身の幼
児期、少女期にあるのではないかと思われます。

 こう書くと、あなたにとってはたいへんショックかもしれませんが、あえて言います。
あなた自身が、ひょっとしたら、あなたが子どものころ、あなたの親から信頼されていな
かった可能性があります。つまりあなた自身が、(とくに母親との関係で)、基本的信頼関
係を結ぶことができなかったことが考えられるということです。

 いうまでもなく基本的信頼関係は、(さらけ出し)→(絶対的な安心感)というステップ
を経て、形成されます。子どもの側からみて、「どんなことを言っても、またしても許され
る」という絶対的な安心感が、子どもの心をはぐくみます。「絶対的」というのは、「疑い
をいだかない」という意味です。

 これは一般論ですが、母子の間で、基本的信頼関係の形成に失敗した子どもは、そのあ
と、園や学校の先生との信頼関係、さらには友人との信頼関係を、うまく結べなくなりま
す。どこかいい子ぶったり、無理をしたりするようになったりします。自分をさらけ出す
ことができないからです。

さらに、結婚してからも、夫や妻との信頼関係、うまく結べなくなることもあります。自
分の子どもすら、信ずることができなくなることも珍しくありません。(だから心理学では、
あらゆる信頼関係の基本になるという意味で、「基本的」という言葉を使います。)具体的
には、夫や子どもに対して疑い深くなったり、その分、心配過剰になったり、基底不安を
感じたりしやすくなります。子どもへの不信感も、その一つというわけです。

 あくまでもこれは一つの可能性としての話ですが、あなた自身が、「心(精神的)」とい
う意味で、それほど恵まれた環境で育てられなかったということが考えられます。経済的
にどうこうというのではありません。「心」という意味で、です。あなたは子どものころ、
親に対して、全幅に心を開いていましたか。あるいは開くことができましたか。もしそう
なら、「恵まれた環境」ということになります。そうでなければ、そうでない。

 しかしだからといって、過去をうらんではいけません。だれしも、多かれ少なかれ、こ
うした問題をかかえているものです。そういう意味では、日本は、まだまだ後進国という
か、こと子育てについては黎明(れいめい)期の国ということになります。

 では、どうするかですが、この問題だけは、まず冷静に自分を見つめるところから、始
めます。自分自身に気づくということです。ジークムント・フロイトの精神分析も、同じ
ような手法を用います。まず、自分の心の中をのぞくということです。わかりやすく言え
ば、自分の中の過去を知るということです。まずいのは、そういう過去があるということ
ではなく、そういう過去に気づかないまま、その過去に振りまわされることです。そして
結果として、自分でもどうしてそういうことをするのかわからないまま、同じ失敗を繰り
かえすことです。

 しかしそれに気づけば、この問題は、何でもありません。そのあと少し時間はかかりま
すが、やがて問題は解決します。解決しないまでも、じょうずにつきあえるようになりま
す。

 さらに具体的に考えてみましょう。

 あなたは多分、子どもを妊娠したときから、不安だったのではないでしょうか。あるい
はさらに、結婚したときから、不安だったのではないでしょうか。さらに、少女期から青
年期にかけて、不安だったのではないでしょうか。おとなになることについて、です。

 こういう不安感を、「基底不安」と言います。あらゆる日常的な場面が、不安の上に成り
たっているという意味です。一見、子育てだけの問題に見えますが、「根」は、ひょっとし
たら、あなたが考えているより、深いということです。

 そこで相手の子どもについて考えてみます。あなたが相手の子どもを嫌っているのは、
本当にあなたの子どものためだけでしょうか。ひょっとしたら、あなた自身がその子ども
を嫌っているのではないでしょうか。つまりあなたの目から見た、好き・嫌いで、相手の
子どもを判断しているのではないかということです。

 このとき注意しなければならないのは、(1)許容の範囲と、(2)好意の返報性の二つ
です。

 (1)許容の範囲というのは、(好き・嫌い)の範囲のことをいいます。この範囲が狭け
ればせまいほど、好きな人が減り、一方、嫌いな人がふえるということになります。これ
は私の経験ですが、私の立場では、この許容の範囲が、ふつうの人以上に、広くなければ
なりません。(当然ですが……。)子どもを生徒としてみたとき、いちいち好き、嫌いと言
っていたのでは、仕事そのものが成りたたなくなります。ですから原則としては、初対面
のときから、その子どもを好きになります。
 
 といっても、こうした能力は、いつの間にか、自然に身についたものです。が、しかし
これだけは言えます。嫌わなければならないような悪い子どもは、いないということです。
とくに幼児については、そうです。私は、そういう子どもに出会ったことがありません。
ですからASさんも、一度、その相手の子どもが、本当にあなたの子どもにとって、ふさ
わしくない子どもかどうか、一度、冷静に判断してみたらどうでしょうか。しかしその前
にもう一つ大切なことは、あなたの子ども自身は、どうかということです。

 子どもの世界にかぎらず、およそ人間がつくる関係は、なるべくしてなるもの。なるよ
うにしかならない。それはちょうど、風が吹いて、その風が、あちこちで吹きだまりを作
るようなものです。(吹きだまりというのも、失礼な言い方かもしれませんが……。)今の
関係が、今の関係というわけです。

 だからあなたからみて、あなたの子どもが、好ましくない友だちとつきあっているとし
ても、それはあなたの子ども自身が、なるべくしてそうなったと考えます。親としてある
程度は干渉できても、それはあくまでも「ある程度」。これから先、同じようなことは、繰
りかえし起きてきます。たとえば最終的には、あなたの子どもの結婚相手を選ぶようなと
き、など。

 しかし問題は、子どもがどんな友だちを選ぶかではなく、あなたがそれを受け入れるか
どうかということです。いくらあなたが気に入らないからといっても、あなたにはそれに
反対する権利はありません。たとえ親でも、です。同じように、あなたの子どもが、どん
な友だちを選んだとしても、またどんな夫や妻を選んだとしても、それは子どもの問題と
いうことです。

 しかしご心配なく。あなたが子どもを信じているかぎり、あなたの子どもは自分で考え、
判断して、あなたからみて好ましい友だちを、自ら選んでいきます。だから今は、信ずる
のです。「うちの子は、すばらしい子どもだ。ふさわしくない子どもとは、つきあうはずは
ない」と考えのです。

 そこで出てくるのが、(2)好意の返報性です。あなたが相手の子どもを、よい子と思っ
ていると、相手の子どもも、あなたのことをよい人だと思うもの。しかしあなたが悪い子
どもだと思っていると、相手の子どもも、あなたのことを悪い人だと思っているもの。そ
してあなたの前で、自分の悪い部分だけを見せるようになります。そして結果として、た
いがいの人間関係は、ますます悪くなっていきます。

 話はぐんと先のことになりますが、今、嫁と姑(しゅうとめ)の間で、壮絶な家庭内バ
トルを繰りかえしている人は、いくらでもいます。私の近辺でも、いくつか起きています。
こうした例をみてみてわかることは、その関係は、最初の、第一印象で決まるということ
です。とくに、姑が嫁にもつ、第一印象が重要です。

 最初に、その女性を、「よい嫁だ」と姑が思い、「息子はいい嫁さんと結婚した」と思う
と、何かにつけて、あとはうまくいきます。よい嫁と思われた嫁は、その期待に答えよう
と、ますますよい嫁になっていきます。そして姑は、ますますよい嫁だと思うようになる。
こうした相乗効果が、たがいの人間関係をよくしていきます。

 そこで相手の子どもですが、あなたは、その子どもを「悪い子」と決めてかかっていま
せんか。もしそうなら、それはその子どもの問題というよりは、あなた自身の問題という
ことになります。「悪い子」と思えば思うほど、悪い面ばかりが気になります。そしてあな
たは悪くない面まで、必要以上に悪く見てしまいます。それだけではありません。その子
どもは、あえて自分の悪い面だけを、あなたに見せようとします。子どもというのは、不
思議なもので、自分をよい子だと信じてくれる人の前では、自分のよい面だけを見せよう
とします。

 あなたから見れば、何かと納得がいかないことも多いでしょうが、しかしこんなことも
言えます。一般論として、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経験し
ておくことは、それほど悪いことではないということです。あとあと常識豊かな人間にな
ることが知られています。ですから子どもを、ある程度、俗世間にさらすことも、必要と
いえば必要なのです。むしろまずいのは、無菌状態のまま、おとなにすることです。子ど
ものときは、優等生で終わるかもしれませんが、おとなになったとき、社会に同化できず、
さまざまな問題を引き起こすようになります。

 もうすでにSAさんは、親としてやるべきことをじゅうぶんしておられます。ですから
これからのことは、子どもの選択に任すしか、ありません。これから先、同じようなこと
は、何度も起きてきます。今が、その第一歩と考えてください。思うようにならないのが
子ども。そして子育て。そういう前提で考えることです。あなたが設計図を描き、その設
計図に子どもをあてはめようとすればするほど、あなたの子どもは、ますますあなたの設
計図から離れていきます。そして「まだ前の友だちのほうがよかった……」というような
ことを繰りかえしながら、もっとひどい(?)友だちとつきあうようになります。

 今が最悪ではなく、もっと最悪があるということです。私はこれを、「二番底」とか「三
番底」とか呼んでいます。ですから私があなたなら、こうします。

(1) 相手の子どもを、あなたの子どもの前で、積極的にほめます。「あの子は、おもし
ろい子ね」「あの子のこと、好きよ」と。そして「あの子に、このお菓子をもっていってあ
げてね。きっと喜ぶわよ」と。こうしてあなたの子どもを介して、相手の子どもをコント
ロールします。

(2) あなたの子どもを信じます。「あなたの選んだ友だちだから、いい子に決まってい
るわ」「あなたのことだから、おかしな友だちはいないわ」「お母さん、うれしいわ」と。
これから先、子どもはあなたの見えないところでも、友だちをつくります。そういうとき
子どもは、あなたの信頼をどこかで感ずることによって、自分の行動にブレーキをかける
ようになります。「親の信頼を裏切りたくない」という思いが、行動を自制するということ
です。

(3) 「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめます。子どもの世界には、『あき
らめは、悟りの境地』という、大鉄則があります。あきらめることを恐れてはいけません。
子どもというのは不思議なもので、親ががんばればがんばるほど、表情が暗くなります。
伸びも、そこで止まります。しかし親があきらめたとたん、表情も明るくなり、伸び始め
ます。「まだ何とかなる」「こんなはずではない」と、もしあなたが思っているなら、「この
あたりが限界」「まあ、うちの子はうちの子なりに、よくがんばっているほうだ」と思いな
おすようにします。

 以上ですが、参考になったでしょうか。ストレートに書いたため、お気にさわったとこ
ろもあるかもしれませんが、もしそうなら、どうかお許しください。ここに書いたことに
ついて、また何か、わからないところがあれば、メールをください。今日は、これで失礼
します。
(030516)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
さらけ出し 子育て不安 育児ノイローゼ)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●看護師より、ホステス(Hostess rather than Nurse)

韓国の朝鮮N報が、『公務員より、ホステスのほうが、
女子高生に人気』と題して、こんな記事を掲載している。

+++++++++以下、朝鮮N報(090729)+++++++++++++++

 日本の女性たちが就きたがらなかった職業、ホステスが最近、堂々と、あこがれる高所
得の職業として人気を集めている。今年、東京の文化学研究所が女子高生1154人を対
象に世論調査を行ったところ、ホステスが40種の人気職業のうち12位になったという。
公務員は18位、看護師は22位だった。

 こうした現象の裏には、日本では高卒の若い女性の就業機会が非常に少ないという現実
がある。ところが最近、深刻な不景気の影響で、多くの女性が抵抗感なくホステスなどの
職業を選ぶ傾向が増えている。日本でホステスとして1年間働くと、難なく10万ドル(約
1億2000万円)以上稼げる場合もある、と米紙ニューヨーク・タイムズは報じた。

 一部の女性は桃華Eさん(27)のようなシンデレラ・ストーリーを夢見ている。シン
グルマザーの桃華さんはホステスを経て、テレビで人気者となった。衆議院にはホステス
の経験のある太田K議員(29)がいる(衆議院解散前)。ホステスに対しては日本の宗教
団体や女性団体が、ホステスが客との性関係を強要されることで、女性が性風俗産業に進
出するきっかけになっていると批判している。

+++++++++以上、朝鮮N報(090729)+++++++++++++++

 朝鮮N報の記事を整理してみる。

(1)40種の人気業種のうち、ホステスが、12位。
(2)公務員は、18位、看護師は、22位。
(3)1年間ホステスとして働くと、約1億2000万円の収入になることもある。
(4)桃華さんは、ホステスを経て、テレビで人気タレントとなった。
(5)ホステスを経験した、太田Kという衆議院議員もいる。

 この分だと、近い将来、「おとなになったら、ホステスになる」と言う幼稚園児が、
続出するようになるかもしれない。
ホステスという職業に偏見はないが、非生産的職業であることには、ちがいない。
社会の中で、有機的に人と関わりあっていくという要素も希薄。
時代が変わったのか?
それともそう考える、私の頭が古いのか?

 朝鮮N報は、「1億2000万円」という数字をあげているが、
1桁まちがえているのではないか?
10万ドルが正しいのか?
それとも1億2000万円が正しいのか?
しかしいくら何でも1億2000万円はない。
10万ドルは、1200万円。
1月に、100万円。
それなら納得できる。

 が、その額にしても、平均的な看護師の約5倍。
私たちが子どものころには、「芸人」「芸能人」というのは、「まともな職業」としては、
認められていなかった。
江戸時代の昔には、さらにそうであったにちがいない。
が、今はちがう。
有名テレビタレントたちが、「文化人」として、国や都から表彰される時代になった。

だから今、「女子高校生たちが、ホステスになりたがっている」という記事を読んでも、
頭の中が混乱するだけ。
どうも自信がもてない。
「これでいいのかなあ……?」と思ったところで、思考が停止してしまう。
しかしこれだけは言える。

 職業というのは、日々の研鑽の中で、進歩、進化するものであるということ。
絶え間ない学習と努力が、それを裏から支える。
が、ホステスの第一の条件は、(若さ)と(美しさ)。
つまり若いうちは、それなりに稼げるかもしれないが、30代、40代になったら、
どうするのか。
タレントになったり、国会議員になったりするのか。
が、そういう人は、例外。
よほどの能力とチャンス、それに魅力に恵まれないと無理。
……とまあ、そう言い切る自信も、私にはない。

 お笑いタレントが、府知事になったり、県知事になったりする時代である。
『ゴルゴ13』の愛読者が、総理大臣になったりする時代である。
つまり日本中が今、ギャク化している。
女子高校生の世界も、またしかり。
そのひとつが、これ。
「看護師より、ホステス」と。

 要するに、(1)日本人の自己中心化がより進んでいるということ。
そのために、(2)安楽にお金を稼いだ方が得という風潮が、蔓延しているということ。

 こうした風潮に対して、「ホステスに対しては日本の宗教団体や女性団体が、
ホステスが客との性関係を強要されることで、女性が性風俗産業に進出する
きっかけになっていると批判している」と、記事は結んでいる。
それを読んで、少しだけ、安心する。

 で、今、子どもたちのもつ職業観は、大きく変わった。
小学校の高学年児でも、「おとになったら、お笑いタレントになりたい」と言う子どもは、
いくらでもいる。
が、それはそれ。
ここまで変わっているとは、私も知らなかった。
東京の文化学研究所が、女子高生1154人を対象に世論調査を行ったということだから、
これらの数字は、信頼してよい。

 再び、「これでいいのかなあ……?」と思ったところで、この話は、おしまい!
このつづきが、どうしても書けない。

(補記)

 子どもでも、たとえば正月のお年玉をもらったりすると、新しいフルートを買うために、
貯金すると言う子どもがいる。
(現在教えている、中2のOKさんが、そうだぞ!)

 一方、そのまま享楽的に使ってしまう子どももいる。
意味のないおもちゃや、ゲーム機器を、それで買ったりする。

 前者を、生産的な考え方をする子どもというなら、後者は、非生産的な考え方
をする子どもということになる。
しかし子どもでも、飽食とぜいたくに慣れてしまうと、ものの考え方が、非生産的に
なる。

 一部の子どもたちがそうであるのは、しかたのないことかもしれないが、それが
全体となってきたとしたら、この日本は、どうなるのか?
つまりそれこそまさに、「亡国の風潮」。
「これは個人の問題」「個人がそれでよければ、それでいいんじゃナ〜イ」という
レベルの話ではない。
またそれですませてはいけない。

 宗教団体や女性団体だけに任せておくのではなく、教育界、さらには国をあげて、
改めて、この問題を考えなおしてみる必要がある。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(特集)【子どもの人格論】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの人格】

●幼児性の残った子ども

++++++++++++++++

人格の核形成が遅れ、その年齢に
ふさわしい人格の発達が見られない。

全体として、しぐさ、動作が、
幼稚ぽい。子どもぽい。

そういう子どもは、少なくない。

++++++++++++++++

 「幼稚」という言い方には、語弊がある。たとえば幼稚園児イコール、幼稚ぽいという
ことではない。幼稚園児でも、人格の完成度が高く、はっと驚くような子どもは、いくら
でもいる。

 が、その一方で、そうでない子どもも、少なくない。こうした(差)は、小学1、2年
生ごろになると、はっきりとしてくる。その年齢のほかの子どもに比べて、人格の核形成
が遅れ、乳幼児期の幼児性をそのまま持続してしまう。特徴としては、つぎのようなもの
がある。

(1) 独特の幼児ぽい動作や言動。
(2) 無責任で無秩序な行動や言動。
(3) しまりのない生活態度。
(4) 自己管理能力の欠落。
(5) 現実検証能力の欠落。

 わかりやすく言えば、(すべきこと)と、(してはいけないこと)の判断が、そのつど、
できない。自分の行動を律することができず、状況に応じて、安易に周囲に迎合してしま
う。

 原因の多くは、家庭での親の育児姿勢にあると考えてよい。でき愛と過干渉、過保護と
過関心など。そのときどきにおいて変化する、一貫性のない親の育児姿勢が、子どもの人
格の核形成を遅らせる。

 「人格の核形成」という言葉は、私が使い始めた言葉である。「この子は、こういう子ど
も」という(つかみどころ)を「核」と呼んでいる。人格の核形成の進んでいる子どもは、
YES・NOがはっきりしている。そうでない子どもは、優柔不断。そのときどきの雰囲
気に流されて、周囲に迎合しやすくなる。

 そこであなたの子どもは、どうか?

【人格の完成度の高い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、年上に見える。
○自己管理能力にすぐれ、自分の行動を正しく律することができる。
○YES・NOをはっきりと言い、それに従って行動できる。
○ハキハキとしていて、いつも目的をもって行動できる。

【人格の完成度の低い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、幼児性が強く残っている。
○自己管理能力が弱く、その場の雰囲気に流されて行動しやすい。
○優柔不断で、何を考えているかわからないところがある。
○グズグズすることが多く、ダラダラと時間を過ごすことが多い。

 では、どうするか?

 子どもの人格の核形成をうながすためには、つぎの3つの方法がある。

(1) まず子どもを、子どもではなく、1人の人間として、その人格を認める。
(2) 親の育児姿勢に一貫性をもたせる。
(3) 『自らに由(よ)らせる』という意味での、子育て自由論を大切にする。

++++++++++++++++++

今までに書いた原稿の中から
いくつかを選んで、ここに
添付します。

内容が少し脱線する部分があるかも
しれませんが、お許し下さい。

++++++++++++++++++

(1)【子どもの人格を認める】

●ストーカーする母親

 一人娘が、ある家に嫁いだ。夫は長男だった。そこでその娘は、夫の両親と同居するこ
とになった。ここまではよくある話。が、その結婚に最初から最後まで、猛反対していた
のが、娘の実母だった。「ゆくゆくは養子でももらって……」「孫といっしょに散歩でも…
…」と考えていたが、そのもくろみは、もろくも崩れた。

 が、結婚、2年目のこと。娘と夫の両親との折り合いが悪くなった。すったもんだの家
庭騒動の結果、娘夫婦と、夫の両親は別居した。まあ、こういうケースもよくある話で、
珍しくない。しかしここからが違った。なおこの話は、「本当にあった話」とわざわざ断り
たいほど、本当にあった話である。

 娘夫婦は、同じ市内の別のアパートに引っ越したが、その夜から、娘の実母(実母!)
による復讐が始まった。実母は毎晩夜な夜な娘に電話をかけ、「そら、見ろ!」「バチが当
たった!」「親を裏切ったからこうなった!」「私の人生をどうしてくれる。お前に捧げた
人生を返せ!」と。それが最近では、さらにエスカレートして、「お前のような親不孝者は、
はやく死んでしまえ!」「私が死んだら、お前の子どもの中に入って、お前を一生、のろっ
てやる!」「親を不幸にしたものは、地獄へ落ちる。覚悟しておけ!」と。それだけではな
い。

どこでどう監視しているのかわからないが、娘の行動をちくいち知っていて、「夫婦だけ
で、○○レストランで、お食事? 結構なご身分ですね」「スーパーで、特売品をあさっ
ているあんたを見ると、親としてなさけなくてね」「今日、あんたが着ていたセーターね、
あれ、私が買ってあげたものよ。わかっているの!」と。

 娘は何度も電話をするのをやめるように懇願したが、そのたびに母親は、「親に向かって、
何てこと言うの!」「親が、娘に電話をして、何が悪い!」と。そして少しでも体の調子が
悪くなると、今度は、それまでとはうって変わったような弱々しい声で、「今朝、起きると、
フラフラするわ。こういうとき娘のあんたが近くにいたら、病院へ連れていってもらえる
のに」「もう、長いこと会ってないわね。私もこういう年だからね、いつ死んでもおかしく
ないわよ」「明日あたり、私の通夜になるかしらねえ。あなたも覚悟しておいてね」と。

●自分勝手な愛

 親が子どもにもつ愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。ここで
いう代償的愛というのは、自分の心のすき間を埋めるための、自分勝手でわがままな愛を
いう。たいていは親自身に、精神的な欠陥や情緒的な未熟性があって、それを補うために、
子どもを利用する。子どもが親の欲望を満足させるための道具になることが多い。そのた
め、子どもを、一人の人格をもった人間というより、モノとみる傾向が強くなる。いろい
ろな例がある。

 Aさん(60歳・母親)は、会う人ごとに、「息子なんて育てるものじゃ、ないですねえ。
息子は、横浜の嫁にとられてしまいました」と言っていた。息子が結婚して横浜に住んで
いることを、Aさんは、「取られた」というのだ。

 Bさん(45歳・母親)の長男(現在18歳)は、高校へ入学すると同時に、プツンし
てしまった。断続的に不登校を繰り返したあと、やがて家に引きこもるようになった。原
因ははげしい受験勉強だった。しかしBさんには、その自覚はなかった。つづいて二男に
も、受験期を迎えたが、同じようにはげしい受験勉強を強いた。「お兄ちゃんがダメになっ
たから、あんたはがんばるのよ」と。ところがその二男も、同じようにプツン。今は兄弟
二人は、夫の実家に身を寄せ、そこから、ときどき学校に通っている。

 Cさん(65歳・母親)は、息子がアメリカにある会社の支店へ赴任している間に、息
子から預かっていた土地を、勝手に転売してしまった。帰国後息子(40歳)が抗議する
と、Cさんはこう言ったという。「親が、先祖を守るために息子の金を使って、何が悪い!」
と。Cさんは、息子を、金づるくらいにしか考えていなかったようだ。その息子氏はこう
話した。

「何かあるたびに、私のところへきては、10〜30万円単位のお金をもって帰りまし
た。私の長男が生まれたときも、その私から、母は当時のお金で、30万円近く、もっ
て帰ったほどです。いつも『かわりに貯金しておいてやるから』が口ぐせでしたが、今
にいたるまで、1円も返してくれません」と。

 Dさん(60歳・女性)の長男は、ハキがなく、おとなしい人だった。それもあって、
Dさんは、長男の結婚には、ことごとく反対し、縁談という縁談を、すべて破談にしてし
まった。Dさんはいつも、こう言っていた。「へんな嫁に入られると、財産を食いつぶされ
る」と。たいした財産があったわけではない。昔からの住居と、借家が二軒あっただけで
ある。

 ……などなど。こういう親は、いまどき、珍しくも何ともない。よく「親だから……」「子
だから……」という、『ダカラ論』で、親子の問題を考える人がいる。しかしこういうダカ
ラ論は、ものの本質を見誤らせるだけではなく、かえって問題をかかえた人たちを苦しめ
ることになる。「実家の親を前にすると、息がつまる」「盆暮れに実家へ帰らねばならない
と思うだけで、気が重くなる」などと訴える男性や女性はいくらでもいる。

さらに舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との折り合いが悪く、家庭騒動を繰り返してい
る家庭となると、今では、そうでない家庭をさがすほうが、むずかしい。中には、「殺し
てやる!」「お前らの前で、オレは死んでやる!」と、包丁やナタを振り回している舅す
ら、いる。

 そうそう息子が二人ともプツンしてしまったBさんは、私にも、ある日こう言った。「夫
は学歴がなくて苦労しています。息子たちにはそういう苦労をさせたくないので、何とか
いい大学へ入ってもらいたいです」と。

●子どもの依存性

 人はひとりでは生きていかれない存在なのか。「私はひとりで生きている」と豪語する人
ですら、何かに依存して生きている。金、モノ、財産、名誉、地位、家柄など。退職した
人だと、過去の肩書きに依存している人もいる。あるいは宗教や思想に依存する人もいる。
何に依存するかはその人の勝手だが、こうした依存性は、相互的なもの。そのことは、子
どもの依存性をみているとわかる。

 依存心の強い子どもがいる。依存性が強く、自立した行動ができない。印象に残ってい
る子どもに、D君(年長児)という子どもがいた。帰りのしたくの時間になっても、机の
前でただ立っているだけ。「机の上のものを片づけようね」と声をかけても、「片づける」
という意味そのものがわからない……、といった様子。そこであれこれジェスチャで、し
まうように指示したのだが、そのうち、メソメソと泣き出してしまった。多分、家では、
そうすれば、家族のみながD君を助けてくれるのだろう。

 一方、教える側からすれば、そういう涙にだまされてはいけない。涙といっても、心の
汗。そういうときは、ただひたすら冷静に片づけるのを待つしかない。いや、内心では、
D君がうまく片づけられたら、みなでほめてやろうと思っていた。が、運の悪いことに(?)、
その日にかぎって、母親がD君を迎えにきていた。そしてD君の泣き声を聞きつけると、
教室へ飛び込んできて、こう言った。ていねいだが、すごみのある声だった。「どうしてう
ちの子を泣かすのですか!」と。

 そういう子どもというより、その子どもを包む環境を観察してみると、おもしろいこと
に気づく。D君の依存性を問題にしても、親自身には、その認識がまるでないということ。
そういうD君でも、親は、「ふつうだ」と思っている。さらに私があれこれ問題にすると、
「うちの子は、生まれつきそうです」とか、「うちではふつうです」とか言ったりする。そ
こでさらに観察してみると、親自身が依存性に甘いというか、そういう生き方が、親自身
の生き方の基本になっていることがわかる。そこで私は気がついた。子どもの依存性は、
相互的なものだ、と。こういうことだ。

 親自身が、依存性の強い生き方をしている。つまり自分自身が依存性が強いから、子ど
もの依存性に気づかない。あるいはどうしても子どもの依存性に甘くなる。そしてそうい
う相互作用が、子どもの依存性を強くする。言いかえると、子どもの依存性だけを問題に
しても、意味がない。子どもの依存性に気づいたら、それはそのまま親自身の問題と考え
てよい。

……と書くと、「私はそうでない」と言う人が、必ずといってよいほど、出てくる。それ
はそうで、こうした依存性は、ある時期、つまり青年期から壮年期には、その人の心の
奥にもぐる。外からは見えないし、また本人も、日々の生活に追われて気づかないでい
ることが多い。しかしやがて老齢期にさしかかると、また現れてくる。先にあげた親た
ちに共通するのは、結局は、「自立できない親」ということになる。

●子どもに依存する親たち

 日本型の子育ての特徴を、一口で言えば、「子どもが依存心をもつことに、親たちが無頓
着すぎる」ということ。昔、あるアメリカの教育家がそう言っていた。つまりこの日本で
は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独
立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。私が生まれ育った岐
阜県の地方には、まだそういう風習が強く残っていた。今も残っている。

親の権威や権力は絶対で、親孝行が今でも、最高の美徳とされている。たがいにベタベ
タの親子関係をつくりながら、親は親で、子どものことを、「親思いの孝行息子」と評価
し、子どもは子どもで、それが子どもの義務と思い込んでいる。こういう世界で、だれ
かが親の悪口を言おうものなら、その子どもは猛烈に反発する。相手が兄弟でもそれを
許さない。「親の悪口を言う人は許さない!」と。

 今風に言えば、子どもを溺愛する親、マザーコンプレックス(マザコン)タイプの子ど
もの関係ということになる。このタイプの子どもは、自分のマザコン性を正当化するため
に、親を必要以上に美化するので、それがわかる。

 こうした依存性のルーツは、深い。長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのもの
がもつ習性(?)とからんでいる。私はこのことを、ある日、ワイフとロープウェイに乗
っていて発見した。

●ロープウェイの中で

 春のうららかな日だった。私とワイフは、近くの遊園地へ行って、そこでロープウェイ
に乗った。中央に座席があり、そこへ座ると、ちょうど反対側に、60歳くらいの女性と、
五歳くらいの男の子が座った。おばあちゃんと孫の関係だった。その2人が、私たちとは
背中合わせに、会話を始めた。(決して盗み聞きしたわけではない。会話がいやおうなしに
聞こえてきたのだ。)その女性は、男の子にこう言っていた。

 「オバアちゃんと、イッチョ(一緒)、楽しいね。楽しいね。お山の上に言ったら、オイ
チイモノ(おいしいもの)を食べようね。お小づかいもあげるからね。オバアちゃんの言
うこと聞いてくれたら、ホチイ(ほしい)ものを何でも買ってあげるからね」と。
 
 一見ほほえましい会話に聞こえる。日本人なら、だれしもそう思うだろう。が、私はそ
の会話を聞きながら、「何か、おかしい」と思った。60歳くらいの女性は、孫をかわいが
っているように見えるが、その実、孫の人格をまるで認めていない。まるで子どもあつか
いというか、もっと言えば、ペットあつかい! その女性は、5歳の子どもに、よい思い
をさせるのが、祖母としての努めと考えているようなフシがあった。そしてそうすること
で、祖母と孫の絆(きずな)も太くなると、錯覚しているようなフシがあった。

 しかしこれは誤解。まったくの誤解。たとえばこの日本では、誕生日にせよ、クリスマ
スにせよ、より高価なプレゼントであればあるほど、親の愛の証(あかし)であると考え
ている人は多い。また高価であればあるほど、子どもの心をつかんだはずと考えている人
は多い。しかし安易にそうすればするほど、子どもの心はあなたから離れる。仮に一時的
に子どもの心をつかむことはできても、あくまでも一時的。理由は簡単だ。

●釣竿を買ってあげるより、一緒に釣りに行け

 人間の欲望には際限がない。仮に一時的であるにせよ、欲望をモノやお金で満足させた
子どもは、つぎのときには、さらに高価なものをあなたに求めるようになる。そのときつ
ぎつぎとあなたがより高価なものを買い与えることができれば、それはそれで結構なこと
だが、それがいつか途絶えたとき、子どもはその時点で自分の欲求不満を爆発させる。そ
してそれまでにつくりあげた絆(本当は絆でも何でもない)を、一挙に崩壊させる。「バイ
クぐらい、買ってよこせ!」「どうして私だけ、夏休みにオーストラリアへ行ってはダメな
の!」と。

 イギリスには、『子どもには釣竿を買ってあげるより、子どもと一緒に、魚釣りに行け』
という格言がある。子どもの心をつかみたかったら、モノを買い与えるのではなく、よい
思い出を一緒につくれという意味だが、少なくとも、子どもの心は、モノやお金では釣れ
ない。それはさておき、その六〇歳の女性がしたことは、まさに、子どもを子どもあつか
いすることにより、子どもを釣ることだった。

 しかし問題はこのことではなく、なぜ日本人はこうした子育て観をもっているかという
こと。また周囲の人たちも、「ほほえましい光景」と、なぜそれを容認してしまうかという
こと。ここの日本型子育ての大きな問題が隠されている。

 それが、私がここでいう、「長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのものがもつ習
性(?)とからんでいる」ということになる。つまりこの日本では、江戸時代の昔から、
あるいはそれ以前から、『女、子ども』という言い方をして、女性と子どもを、人間社会か
ら切り離してきた。私が子どものときですら、そうだった。

NHKの大河ドラマの『利家とまつ』あたりを見ていると、江戸時代でも結構女性の地
位は高かったのだと思う人がいるかもしれないが、江戸時代には、女性が男性の仕事に
口を出すなどということは、ありえなかった。とくに武家社会ではそうで、生活空間そ
のものが分離されていた。日本はそういう時代を、何100年間も経験し、さらに不幸
なことに、そういう時代を清算することもなく、現代にまで引きずっている。まさに『利
家とまつ』がそのひとつ。いまだに封建時代の圧制暴君たちが英雄視されている!

 が、戦後、女性の地位は急速に回復した。それはそれだが、しかし取り残されたものが
ひとつある。それが『女、子ども』というときの、「子ども」である。

●日本独特の子ども観

 日本人の多くは、子どもを大切にするということは、子どもによい思いをさせることだ
と誤解している。もう10年近くも前のことだが、一人の父親が私のところへやってきて、
こう言った。「私は忙しい。あなたの本など、読むヒマなどない。どうすればうちの子をい
い子にすることができるのか。一口で言ってくれ。そのとおりにするから」と。
 私はしばらく考えてこう言った。「使うことです。子どもは使えば使うほど、いい子にな
ります」と。

 それから10年近くになるが、私のこの考え方は変わっていない。子どもというのは、
皮肉なことに使えば使うほど、その「いい子」になる。生活力が身につく。忍耐力も生ま
れる。が、なぜか、日本の親たちは、子どもを使うことにためらう。はからずもある母親
はこう言った。「子どもを使うといっても、どこかかわいそうで、できません」と。子ども
を使うことが、かわいそうというのだが、どこからそういう発想が生まれるかといえば、
それは言うまでもなく、「子どもを人間として認めていない」ことによる。私の考え方は、
どこか矛盾しているかのように見えるかもしれないが、その前に、こんなことを話してお
きたい。

●友として、子どもの横を歩く

 昔、オーストラリアの友人がこう言った。親には3つの役目がある、と。ひとつはガイ
ドとして、子どもの前を歩く。もうひとつは、保護者として、子どものうしろを歩く。そ
して3つ目は、友として、子どもの横を歩く、と。

 日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし友として、子どもの横を歩くの
が苦手。苦手というより、そういう発想そのものがない。もともと日本人は、上下意識の
強い国民で、たった1年でも先輩は先輩、後輩は後輩と、きびしい序列をつける。男が上、
女が下、夫が上、妻が下。そして親が上で、子が下と。親が子どもと友になる、つまり対
等になるという発想そのものがない。ないばかりか、その上下意識の中で、独特の親子関
係をつくりあげた。私がしばしば取りあげる、「親意識」も、そこから生まれた。

 ただ誤解がないようにしてほしいのは、親意識がすべて悪いわけではない。この親意識
には、善玉と悪玉がある。善玉というのは、いわゆる親としての責任感、義務感をいう。
これは子どもをもうけた以上、当然のことだ。しかし子どもに向かって、「私は親だ」と親
風を吹かすのはよくない。その親風を吹かすのが、悪玉親意識ということになる。「親に向
かって何だ!」と怒鳴り散らす親というのは、その悪玉親意識の強い人ということになる。
先日もある雑誌に、「父親というのは威厳こそ大切。家の中心にデーンと座っていてこそ父
親」と書いていた教育家がいた。そういう発想をする人にしてみれば、「友だち親子」など、
とんでもない考え方ということになるに違いない。

 が、やはり親子といえども、つきつめれば、人間関係で決まる。「親だから」「子どもだ
から」という「ダカラ論」、「親は〜〜のはず」「子どもは〜〜のはず」という「ハズ論」、
あるいは「親は〜〜すべき」「子は〜〜すべき」という、「ベキ論」で、その親子関係を固
定化してはいけない。固定化すればするほど、本質を見誤るだけではなく、たいていのば
あい、その人間関係をも破壊する。あるいは一方的に、下の立場にいるものを、苦しめる
ことになる。

●子どもを大切にすること

 話を戻すが、「子どもを人間として認める」ということと、「子どもを使う」ということ
は、一見矛盾しているように見える。また「子どもを一人の人間として大切にする」とい
うことと、「子どもを使う」ということも、一見矛盾しているように見える。とくにこの日
本では、子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせ、子どもに楽をさせ
ることだと思っている人が多い。そうであるなら、なおさら、矛盾しているように見える。
しかし「子育ての目標は、よき家庭人として、子どもを自立させること」という視点に立
つなら、この考えはひっくりかえる。こういうことだ。

 いつかあなたの子どもがあなたから離れて、あなたから巣立つときがくる。そのときあ
なたは、子どもに向かってこう叫ぶ。

 「お前の人生はお前のもの。この広い世界を、思いっきり羽ばたいてみなさい。たった
一度しかない人生だから、思う存分生きてみなさい」と。

つまりそういう形で、子どもの人生を子どもに、一度は手渡してこそ、親は親の務めを
果たしたことになる。安易な孝行論や、家意識で子どもをしばってはいけない。もちろ
んそのあと、子どもが自分で考え、親のめんどうをみるとか、家の心配をするというの
であれば、それは子どもの問題。子どもの勝手。しかし親は、それを子どもに求めては
いけない。期待したり、強要してはいけない。あくまでも子どもの人生は、子どものも
の。

 この考え方がまちがっているというのなら、今度はあなた自身のこととして考えてみれ
ばよい。もしあなたの子どもが、あなたのためや、あなたの家のために犠牲になっている
姿を見たら、あなたは親として、それに耐えられるだろうか。もしそれが平気だとするな
ら、あなたはよほど鈍感な親か、あるいはあなた自身、自立できない依存心の強い親とい
うことになる。同じように、あなたが親や家のために犠牲になる姿など、美徳でも何でも
ない。仮にそれが美徳に見えるとしたら、あなたがそう思い込んでいるだけ。あるいは日
本という、極東の島国の中で、そう思い込まされているだけ。

 子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間として自立させること。自立さ
せるということは、子どもを一人の人間として認めること。そしてそういう視点に立つな
ら、子どもに社会性を身につけさえ、ひとりで生きていく力を身につけさせるということ
だということがわかってくる。「子どもを使う」というのは、そういう発想にもとづく。子
どもを奴隷のように使えということでは、決して、ない。

●冒頭の話

 さて冒頭の話。実の娘に向かって、ストーカー行為を繰り返す母親は、まさに自立でき
ない親ということになる。いや、私はこの話を最初に聞いたときには、その母親の精神状
態を疑った。ノイローゼ? うつ病? 被害妄想? アルツハイマー型痴呆症? 何であ
れ、ふつうではない。嫉妬に狂った女性が、ときどき似たような行為を繰り返すという話
は聞いたことがある。そういう意味では、「娘を取られた」「夢をつぶされた」という点で
は、母親の心の奥で、嫉妬がからんでいるかもしれない。が、問題は、母親というより、
娘のほうだ。

 純粋にストーカー行為であれば、今ではそれは犯罪行為として類型化されている。しか
しそれはあくまでも、男女間でのこと。このケースでは、実の母親と、実の娘の関係であ
る。それだけに実の娘が感ずる重圧感は相当なものだ。遠く離れて住んだところで、解決
する問題ではない。また実の母親であるだけに、切って捨てるにしても、それ相当の覚悟
が必要である。あるいは娘であるがため、そういう発想そのものが、浮かんでこない。そ
の娘にしてみれば、母親からの電話におびえ、ただ一方的に母親にわびるしかない。

実際、親に、「産んでやったではないか」「育ててやったではないか」と言われると、子
どもには返す言葉がない。実のところ、私も子どものころ母親に、よくそう言われた。
しかしそれを言われた子どもはどうするだろうか。反論できるだろうか。……もちろん
反論できない。そういう子どもが反論できない言葉を、親が言うようでは、おしまい。
あるいは言ってはならない。仮にそう思ったとしても、この言葉だけは、最後の最後ま
で言ってはならない。言ったと同時に、それは親としての敗北を認めたことになる。

が、その娘の母親は、それ以上の言葉を、その娘に浴びせかけて、娘を苦しめている。
もっと言えば、その母親は「親である」というワクに甘え、したい放題のことをしてい
る。一方その娘は、そのワクの中に閉じ込められて、苦しんでいる。

 私もこれほどまでにひどい事件は、聞いたことがない。ないが、親子の関係もゆがむと、
ここまでゆがむ。それだけにこの事件には考えさせられた。と、同時に、輪郭(りんかく)
がはっきりしていて、考えやすかった。だから考えた。考えて、この文をまとめた。
(02−9−14)※

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(2)【育児の一貫性】

子育ての一貫性

 以前、「信頼性」についての原稿を書いた。この中で、親子の信頼関係を築くためには、
一貫性が大切と書いた。その「一貫性」について、さらにここでもう一歩、踏みこんで考
えてみたい。

 その前に、念のため、そのとき書いた原稿を、再度掲載する。

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信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外で
はない。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本
である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、
反対にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような
調子で、同じようなパターンで、答えてあげること。こうしたあなたの一貫性を見ながら、
子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことができる。こうした安定的な人間関係が、
ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基
本的信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの3つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。
これを第1世界という。園や学校での世界。これを第2世界という。そしてそれ以外の、
友だちとの世界。これを第3世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第2世界、つづいて第3世界へと、応用して
いく。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第2世界、第3世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の
基本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親
側の情緒不安や、親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなば
あい、子どもは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、
人間関係になる。これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分
野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ね
たみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第2世界、第3世界においても、
良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れ
る。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安
心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分
をさらけ出せる環境」をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役
目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよ
い。

● 「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
● 子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じよう
に接する。
● きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くな
るというのは、避ける。

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 よくても悪くても、親は、子どもに対して、一貫性をもつ。子どもの適応力には、もの
すごいものがある。そういう一貫性があれば、子どもは、その親に、よくても、悪くても、
適応していく。

 ときどき、封建主義的であったにもかかわらず、「私の父は、すばらしい人でした」と言
う人がいる。A氏(60歳男性)が、そうだ。「父には、徳川家康のような威厳がありまし
た」と。

 こういうケースでは、えてして古い世代のものの考え方を肯定するために、その人はそ
う言う。しかしその人が、「私の父は、すばらしい人でした」と言うのは、その父親が封建
主義的であったことではなく、封建主義的な生き方であるにせよ、そこに一貫性があった
からにほかならない。

 子育てでまずいのは、その一貫性がないこと。言いかえると、子どもを育てるというこ
とは、いかにしてその一貫性を貫くかということになる。さらに言いかえると、親がフラ
フラしていて、どうして子どもが育つかということになる。
(030623)
(はやし浩司 一貫性)

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(3)【子育て自由論】

●親子でつくる三角関係

 本来、父親と母親は一体化し、「親」世界を形成する。

 その親世界に対して、子どもは、一対一の関係を形成する。

 しかしその親子関係が、三角関係化するときがある。父親と、母親の関係、つまり夫婦
関係が崩壊し、父親と子ども、母親と子どもの関係が、別々の関係として、機能し始める。
これを親子の三角関係化(ボーエン)という。

 わかりやすく説明しよう。

 たとえば母親が、自分の子どもを、自分の味方として、取り込もうとしたとする。

「あなたのお父さんは、だらしない人よ」
「私は、あんなお父さんと結婚するつもりはなかったけれど、お父さんが強引だったのよ」
「お父さんの給料が、もう少しいいといいのにね。お母さんたちが、苦労するのは、あの
お父さんのせいなのよ」
「お父さんは、会社では、ただの書類整理係よ。あなたは、あんなふうにならないでね」
と。

 こういう状況になると、子どもは、母親の意見に従わざるをえなくなる。この時期、子
どもは、母親なしでは、生きてはいかれない。

 つまりこの段階で、子どもは、母親と自分の関係と、父親と自分の関係を、それぞれ独
立したものと考えるようになる。これがここでいう「三角関係化」(ボーエン)という。

 こうした三角関係化が進むと、子どもにとっては、家族そのものが、自立するための弊
害になってしまう。つまり、子どもの「個人化」が遅れる。ばあいによっては、自立その
ものが、できなくなってしまう。

●個人化

 子どもの成育には、家族はなくてならないものだが、しかしある時期がくると、子ども
は、その家族から独立して、その家族から抜け出ようとする。これを「個人化」(ボーエン)
という。

 が、家族そのものが、この個人化をはばむことがある。

 ある男性(50歳、当時)は、こんなことで苦しんでいた。

 その男性は、実母の葬儀に、出なかった。その数年前のことである。それについて、親
戚の伯父、伯母のみならず、近所の人たちまでが、「親不孝者!」「恩知らず!」と、その
男性を、ののしった。

 しかしその男性には、だれにも話せない事情があった。その男性は、こう言った。「私は、
父の子どもではないのです。祖父と母の間にできた子どもです。父や私をだましつづけた
母を、私は許すことができませんでした」と。

 つまりその男性は、家族というワクの中で、それを足かせとして、悶々と苦しみ、悩ん
でいたことになる。

 もちろんこれは50歳という(おとな)の話であり、そのまま子どもの世界に当てはめ
ることはできない。ここでいう個人化とは、少しニュアンスがちがうかもしれない。しか
しどんな問題であるにせよ、それが子どもの足かせとなったとき、子どもは、その問題で、
苦しんだり、悩んだりするようになる。

 そのとき、子どもの自立が、はばまれる。

●個人化をはばむもの 

 日本人は、元来、子どもを、(モノ)もしくは、(財産)と考える傾向が強い。そのため、
無意識にうちにも、子どもが自立し、独立していくことを、親が、はばもうとすることが
ある。独立心の旺盛な子どもを、「鬼の子」と考える地方もある。

 たとえば、親のそばを離れ、独立して生活することを、この日本では、「親を捨てる」と
いう。そういう意味でも、日本は、まさに依存型社会ということになる。

 親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子。かわいい子イコール、よい子とし
た。

 そしてそれに呼応する形で、親は、子どもに甘え、依存する。

 ある母親は、私にこう言った。「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました。親なんて、
さみしいもんですわ」と。

 その母親は、自分の息子が結婚して、横浜に住むようになったことを、「嫁に取られた」
と言う。そういう発想そのものが、ここでいう依存性によるものと考えてよい。もちろん
その母親は、それに気づいていない。

 が、こうした依存性を、子どもの側が感じたとき、子どもは、それを罪悪感として、と
らえる。自分で自分を責めてしまう。実は、これが個性化をはばむ最大の原因となる。

 「私は、親を捨てた。だから私はできそこないの人間だ」と。

●子どもの世界でも……

 家族は、子どもの成育にとっては、きわめて重要なものである。それについて、疑いを
もつ人はいない。

 しかしその家族が、今度は、子どもの成育に、足かせとなることもある。親の過干渉、
過保護、過関心、それに溺愛など。

 これらの問題については、たびたび書いてきたので、ここでは、もう少しその先を考え
てみたい。

 問題は、子ども自身が、自立することそのものに、罪悪感を覚えてしまうケースである。
たとえばこんな例で考えてみよう。

 ある子どもは、幼児期から、「勉強しなさい」「もっと勉強しなさい」と追い立てられた。
英語教室や算数教室にも通った。(実際には、通わされた。)そしていつしか、勉強ができ
る子どもイコール、優秀な子ども。勉強ができない子どもイコール、できそこないという
価値観を身につけてしまった。

 それは親の価値観でもあった。こうした価値観は、親がとくに意識しなくても、そっく
りそのまま子どもに植えつけられる。

 で、こういうケースでは、その子どもにそれなりに能力があれば、それほど大きな問題
にはならない。しかしその子どもには、その能力がなかった。小学3、4年を境に、学力
がどんどんと落ちていった。

 親はますますその子どもに勉強を強いた。それはまさに、虐待に近い、しごきだった。
塾はもちろんのこと、家庭教師をつけ、土日は、父親が特訓(?)をした。

 いつしかその子どもは、自信をなくし、自らに(ダメ人間)のレッテルを張るようにな
ってしまった。

●現実検証能力 

 自分の周囲を、客観的に判断し、行動する能力のことを、現実検証能力という。この能
力に欠けると、子どもでも、常識はずれなことを、平気でするようになる。

 薬のトローチを、お菓子がわりに食べてしまった子ども(小学生)
 電気のコンセントに粘土をつめてしまった子ども(年長児)
 バケツで色水をつくり、それを友だちにベランダの上からかけていた子ども(年長児)
 友だちの誕生日プレゼントに、酒かすを箱に入れて送った子ども(小学生)
 先生の飲むコップに、殺虫剤をまぜた子ども(中学生)などがいた。

 おとなでも、こんなおとながいた。

 贈答用にしまっておいた、洋酒のビンをあけてのんでしまった男性
 旅先で、帰りの旅費まで、つかいこんでしまった男性
 ゴミを捨てにいって、途中で近所の家の間に捨ててきてしまった男性
 毎日、マヨネーズの入ったサラダばかりを隠れて食べていた女性
 自宅のカーテンに、マッチで火をつけていた男性などなど。

 そうでない人には、信じられないようなことかもしれないが、生活の中で、現実感をな
くすと、おとなでも、こうした常識ハズレな行為を平気で繰りかえすようになる。わかり
やすく言うと、自分でしてよいことと悪いことの判断がつかなくなってしまう。

 一般的には、親子の三角関係化が進むと、この現実検証能力が弱くなると言われている
(ボーエン)。

●三角関係化を避けるために

 よきにつけ、あしきにつけ、父親と母親は、子どもの前では、一貫性をもつようにする
こと。足並みの乱れは、家庭教育に混乱を生じさせるのみならず、ここでいう三角関係化
をおし進める。

 もちろん、父親には父親の役目、母親には母親の役目がある。それはそれとして、たが
いに高度な次元で、尊敬し、認めあう。その上で、子どもの前では、一貫性を保つように
する。この一貫性が、子どもの心を、はぐくむ。

++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いた。
中日新聞に発表済みの原稿である。

++++++++++++++

●夫婦は一枚岩

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができる
のか。その中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。

ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。
だからお母さんは、苦労しているのよ」と。

あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうなら
ないでね」と。母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、
母親から離れる。離れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。

 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもら
う。賢い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そし
て船頭役は母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。

たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょ
うね」(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。仮に意見の対立があっ
ても、子どもの前ではしない。

父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。

こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう
援護する。「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意
見があるなら、子どものいないところで調整する。

子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」
と、まず子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるなら、
子どものいないところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教
育の大原則。

 ある著名な教授がいる。数10万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中
で、こう書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会
だ」と。

しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子
どもに見せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものば
かり。

その教授はほかに、「子どもとの絆を深めるために、遊園地などでは、わざと迷子にして
みるとよい」とか、「家庭のありがたさをわからせるために、二、三日、子どもを家から
追い出してみるとよい」とか書いている。とんでもない暴論である。わざと迷子にすれ
ば、それで親子の信頼関係は消える。それにもしあなたの子どもが半日、行方不明にな
ったら、あなたはどうするだろうか。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。

 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつ
くる。そういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話
しあう様であり、いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。

古いことを言うようだが、そういう「様(さま)」が、子どもの中に染み込んでいてはじ
めて、子どもは自分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。

欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。
その第一歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。

++++++++++++++++++

● あなたの子どもは、だいじょうぶ?

あなたの子どもの現実検証能力は、だいじょうぶだろうか。少し、自己診断してみよう。
つぎのような項目に、いくつか当てはまれば、子どもの問題としてではなく、あなたの
問題として、家庭教育のあり方を、かなり謙虚に反省してみるとよい。

( )何度注意しても、そのつど、常識ハズレなことをして、親を困らせる。
( )小遣いでも、その場で、あればあるだけ、使ってしまう。
( )あと先のことを考えないで、行動してしまうようなところがある。
( )いちいち親が指示しないと行動できないようなところがある。指示には従順に従う。
( )何をしでかすか不安なときがあり、子どもから目を離すことができない。

 参考までに、私の持論である、「子育て自由論」を、ここに添付しておく。

++++++++++++++++++

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。
つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、も
ともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行
動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは
言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれ
るタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込ん
でくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう
言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を
変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。

ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつにな
ったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるい
は自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、
精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のも
とだけで子育てをするなど。

子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ど
もになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がな
い。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同
士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り
飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。た
またまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机
を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、
子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
(040607)
(はやし浩司 現実検証能力 ボーエン 個人化 三角関係 三角関係化)

+++++++++++++++++

【終わりに……】

 子どもは子どもらしく……とは、よく言う。しかし「子どもらしい」ということと、「幼
児性の持続」は、まったく別の問題である。

 また子どもだからといって、無責任で、無秩序であってよいということではない。どう
か、この点を誤解のないように、してほしい。
(はやし浩司 子供らしさ 幼児性の持続 子供の人格 人格の完成度)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●映画『アイスエイジ・3D』

+++++++++++++++++++++

内容はともかくも、映像のすごさに驚いた。
何といっても、3D!
迫力満点!

いろいろな3D映画を見てきたが、これは格別!
料金も、通常の1・5倍。
しかし見る価値はある。

ときどき3Dメガネをはずして画面を見たが、
「今まで、こんなひどい2D映画を見てきたのか」と知り、
がっかり。

内容は子ども向け映画ということで、星は3つの
★★★。
しかし一見の価値ありということで、星は5つの
★★★★★。

おとなでもじゅうぶん、楽しめる。

ハリウッド映画は、やはり、すごい!

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q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      8月   24日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(355)

●女性は家の家具?

 いまだに女性、なかんずく「妻」を、「内助」程度にしか考えていない男性が多いのは、
驚きでしかない。いや、男性ばかりではない。女性自身でも、「それでいい」と考えている
人が、二割近くもいる。たとえば国立社会保障人口問題研究所の調査(2000年)によ
ると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくしない」と答えた夫は、いずれも50%以上。
「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、76・7%いる。が、その反
面、「反対だ」と答えた女性も23・3%もいる。

 ここで「平等に負担」の内容だが、外で仕事をしている夫が、時間的に「平等に」家事
を負担することは、不可能である。それは当然だが、しかしこれは意識の問題。夫が「家
事を平等に負担すべき」と考えながら、妻の仕事をみるのと、夫が、「男は仕事さえしてい
ればそれでいい」と考えながら、妻の仕事をみるのとでは、その見方はまるで変わってく
る。

今の日本の現状は、男性たちが、あまりにも世の通俗的な常識に甘え、それをよいことに
居なおりすぎている。中には、「女房や子どもを食わせてやっている」とか、「男は家庭の
中でデーンと座っていればいい」とか言う人もいる。仕事第一主義が悪いわけではないが、
その仕事第一主義におぼれるあまり、家庭そのものをまったくかえりみない人も多い。

 ……というようなことを、先日、ある講演会で話したら、その担当者(男性)が講演の
あと、私にこう言った。「このあたりは三世代同居が多いのです。そういうことを先生(私)
が言うと、家族がバラバラになってしまいます。嫁は嫁として、家の中でおとなしくして
いてくれなければ、困るのです」と。

男性の仕事第一主義についても、「農業で疲れきった男が、どうして家事ができますか」と
も。私があきれていると、(黙って聞いていたので、納得したと誤解されたらしい)、こう
も言った。「このあたりの若い母親たちは、家から出て、こうした講演会へ息抜きにきてい
るのです。むずかしい話よりも、はははと笑えるような話をしてください」と。

 これには正直言って、あきれた。その男性というのは、まだ30歳そこそこの男性。今
の日本の「流れ」をまったく理解していないばかりか、女性の人権や人格をまったく認め
ていない。その男性は「このあたりは後進国ですから」とさかんに言っていたが、彼自身
の考え方のほうが、よっぽど後進国的だ。

それはともかくも、こんな現状に、世の女性たちが満足するはずがない。夫に不満をもつ
妻もふえている。厚生省の国立問題研究所が発表した「第2回、全国家庭動向調査」(19
98年)によると、「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、51・7%しかいな
い。この数値は、前回1993年のときよりも、約10ポイントも低くなっている(93
年度は、60・6%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、5
2・5%もいた。当然だ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(356)

●わだかまり論

 ほとんどの人は、自分の意思で考え、決断し、そして行動していると思っている。しか
し実際には、人は意識として活動する脳の表層部分の、その約20万倍※もの潜在意識に
よって「動かされている」。こんなことがあった。

 J君(小3)と父親は、「とにかく仲が悪い」という。母親はこう話してくれた。「日曜
日にいっしょに釣りに行ったとしても、でかけたと思ったら、その行く途中で親子げんか
が始まってしまうのです。風呂にもときどきいっしょに入るのですが、しばらくすると、
まず息子がワーツと泣き声をあげて風呂から出てくる。そのあと夫の『バカヤロー』とい
う声が聞こえてくるのです」と。

 そこでJ君を私のところへ呼んで話を聞くと、J君はこう言った。「パパはぼくが何も悪
いことをしていないのに、すぐ怒る」と。そこで別の日、今度は父親に来てもらい話を聞
くと、父親は父親でこう言った。「息子の生意気な態度が許せない」と。父親の話では、J
君が人をバカにしたような目つきで、父親を見るというのだ。それを父親は「許せない」
と。

 そこであれこれ話を聞いても、原因がよくわからなかった。が、それから一時間ほど雑
談していると、J君の父親はこんなことを言い出した。「そう言えば、私は中学生のとき、
いじめにあっていた。そのいじめのグループの中心にいた男の目つきが、あの目つきだっ
た」と。J君の父親は、J君が流し目で父親を見たとき、(それはJ君のクセでもあったの
だが)、J君の父親は、無意識のうちにも自分をいじめた男のめつきを、J君の目つきの中
に感じていた。そしてそれがこれまた無意識のうちに、父親を激怒させていた。

 こういうのを日本では、昔から「わだかまり」という。「心のしこり」と言う人もいる。
わだかまりにせよ、しこりにせよ、たいていは無意識の領域に潜み、人をその裏からあや
つる。子育てもまさにそうで、私たちは自分で考え、決断し、そして子育てをしていると
思い込んでいるが、結局は自分が受けた子育てを繰り返しているにすぎない。

問題は繰り返すことではなく、その中でも、ここに書いたようなわだかまりが、何らかの
形で、子育てに悪い影響を与えることである。が、これも本当の問題ではない。だれだっ
て、無数のわだかまりをかかえている。わだかまりのない人など、いない。そこで本当の
問題は、そういうわだかまりがあることに気づかず、そのわだかまりに振りまわされるま
ま、同じ失敗を繰り返すことである。

 そこであなたの子育て。もしあなたが自分の子育てで、いつも同じパターンで、同じよ
うに失敗するというのであれば、一度自分の心の中の「わだかまり」を探ってみるとよい。
何かあるはずである。この問題は、まずそのわだかまりに気がつくこと。あとは少し時間
がかかるが、それで問題は解決する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(357)

●お人よしは、命取り?

このところ毎日のように、ウィルス入りのメールが届く。私のばあい、まずプロバイダ
ーが、ウィルス検査をしてくれる。この段階でウィルスが入っていると、そのメールを
削除したり修復したりしてくれる。(たいていはそのまま削除され、「削除しました」と
いう連絡だけが私に届く。)が、それでもすり抜けてくるメールがある。

それについては、今度は私のパソコン自体で検査する。この段階で、ウィルスが混入して
いれば、同じように削除する。で、それでも安心できない。私はさらにパソコンを使い分
ける。あるいはプレウィンドウ画面に表示する前に、(?)と思われるメールは削除すると
いう方法で対処している。が、だ。それでもすり抜けてくるメールがある。

私はメールアドレスを公開しているため、(ふつうは、こういう公開はしてはいけない)、
悪意をもった人からの攻撃を受けることがある。つい先日もその攻撃を受けた。あたか
も読者からの質問のような体裁を整えたメールだった。「うむ……?」と迷ったが、うか
つにも開いてしまった。恐らく市販のウィルス検査ソフトにひかからないように、自分
で改変したウィルスだったのだろう。とたんパソコンの動きがおかしくなった。もっと
もそれほど悪質なウィルスではなかったようで(?)、簡単な操作で修復できたが、ウィ
ルスによってはシステム全体を破壊されることもある。

インターネットの世界では、お人よしは命取りになる。「あやしい」と思ったら、即、削
除、また削除。これしかない。しかし、それは口で言うほど、簡単なことではない。自
分の中に本来的にある、「人格」、つまり私のばあい、「お人よし」との戦いでもある。「ひ
ょっとしたら子育てで困っている人からのメールかもしれない」「少し(件名)がおかし
いが、まだパソコンになれていない人からのものかもしれない」と思ってしまう。

そのメールを開いたときもそうだ。そう思って開くと、わけのわからない相談内容。一応
子育ての相談ということになっていたが、どこかトンチンカンな内容だった。「しまった!」
と思ったときには、もう遅かった。

私は改めて、こんなメモをパソコンの上に張りつけた。「あやしげなメールは、即、削除。
お人よしは命取り」と。しかしそれを張りつけたとき、別のところで、自分の人格がま
た一つ削られたような気がした。「私はもともとそんなクールな人間ではないのになあ」
と。しかしそうであるからこそ、また心に誓う。「あやしげなメールは、即、削除」と。
そういうことを誓わねばならないところに、インターネットの問題点が隠されている。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(358)

●子どもの表情

 昔から、『子どもの表情は親がつくる』という。事実そのとおりで、表情豊かな親の子ど
もは、やはり表情が豊かだ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには
悲しそうな顔をする。(ただし親が無表情だからといって、子どもも無表情になるとはかぎ
らない。)しかしこの「表情」には、いろいろな問題が隠されている。

 その一。今、表情のない子どもがふえている。「幼稚園児でも表情のとぼしい子どもは、
全体の二割前後はいる」と、大阪市にあるI幼稚園のS氏が話してくれた。程度の問題も
あり、一概に何割とは言えないが、多いのは事実。私の実感でも二割という数字は、ほぼ
的確ではないかと思っている。ほかの子どもたちがドッと笑うようなときでも、表情を変
えない。うれしいときも悲しいときも、無表情のまま行動する、など。

(最近では、サイレントベービー論を否定する説が優勢になってきた。生まれつきという
よりは、親の拒否的育児姿勢によってそうなると考えるのが常識的になってきた。200
9年7月。)

 原因のひとつに、乳幼児期からのテレビ漬けの生活が考えられる。そのことはテレビを
じっと見入っている幼児を観察すればわかる。おもしろがっているはずだというときでも、
またこわがっているはずだというときでも、ほとんど表情を変えない。保育園や幼稚園へ
入ってからもそうで、先生が何かおもしろい話をしても、ほとんど反応を示さない。あた
かもテレビでも見ているかのような感じで先生の方をじっと見ている。

このタイプの子どもは、ほかに、吐き出す息が弱く、母音だけで言葉を話すなどの特徴も
ある。「私は林です」を、「ああいあ、ああいえう」というような話し方をする。こうした
症状が見られたら、私は親に、「小さいときからテレビばかり見ていましたね」と言うこと
がある。親は親で、「どうしてそんなことがわかるのですか?」と驚くが、タネを明かせば、
何でもない。が、この問題はそれほど深刻に考える必要はない。やがて園や学校生活にな
れてくると、表情もそれなりに豊かになってくる。

 その二。子どものばあい、とくに警戒しなければならないのは、心(情意)と表情の遊
離である。悲しいときにニコニコと笑みを浮かべる、あるいは怒っているはずなのに、無
表情のままである、など。心(情緒)に何か問題のある子どもは、この遊離現象が現れる
ことが多い。たとえばかん黙児や自閉症児と呼ばれる子どもは、柔和な表情を浮かべたま
ま、心の中ではまったく別のことを考えていたりする。そんなわけで逆に、この遊離が現
れたら、かなり深刻な問題として、子どもの心を考える。

とくに教育の世界では、心と表情の一致する子どもを、「すなおな子ども」という。いや
だったら「いや」と言う。したかったら、「したい」と言う。外から見ても、心のつかみ
やすい子どもをすなおな子どもという。表情は、それを見分ける大切な手段ということ
になる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(359)

●親しみのもてる子ども

 こちらが親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切や、やさしさがそのま
ま、スーッと心の奥深くまで染み込んでいくのがわかる子どもがいる。そういう子どもを、
一般に、「親しみのもてる子ども」という。

一方、そういう親切や、やさしさがどこかではね返されてしまうのを感ずる子どももいる。
ものの考え方が、ひねくれていたりする。私「今日は、いい天気だね」、子「今日は、いい
天気ではない。あそこに雲がある」、私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるか
ら、いい天気ではない」と。

 親しみのもてる子どもとそうでない子どもの違いは、要するに心が開いているかどうか
ということ。心が開いている子どもは、当然のことながら、心の交流ができる。その心の
交流が、互いの親近感をます。そうでなければそうでない。

 そこであなたとあなたの子どもの関係はどうだろうか。あなたは自分の子どものことを、
親しみのもてる子どもと思っているだろうか。それともどこかわけのわからない子どもと
思っているだろうか。こんなチェックテストを用意してみた。

(1)あなたの子どもは、あなたの前で、したいことについて、「したい」と言い、したく
ないことについては、「いやだ」と、いつもはっきりと言う。言うことができる。

(2)あなたの子どもはあなたに対して、子どもらしい自然な形で、スキンシップを求め
てきたり、甘えるときも、子どもらしい甘え方をしている。甘えることができる。

(3)あなたの子どもが何かを失敗し、それをあなたが注意したり叱ったとき、子どもが
なごやかな言い方で、「ごめんなさい」と言う。またすなおに自分の失敗を認める。

 この三つのテストで、「そうだ」と言える子どもは、あなたに対して心が開いているとい
うことになる。そうであれば問題はないが、そうでなければ、あなたの子どもへの接し方
を反省する。「私は親だ」式の権威主義、ガミガミと価値観を押しつける過干渉、いつもピ
リピリと子どもを監視する過関心など。さらに深刻な問題として、あなた自身が子どもに
対して心を開いていないばあいがある。

子どものことで、見え、メンツ、世間体を気にしているようであれば、かなり危険な状態
であるとみてよい。さらに子どもに対して、ウソをつく、心をごまかす、かっこうをつけ
るなどの様子があれば、さらに危険な状態であるとみてよい。あなたという親が子どもに
心を開かないで、どうして子どもに心を開けということができるのか。

 子どもの心が見えなくなったら、子どもの心が閉じていると考える。「うちの子は何を考
えているかわからない」「何をしたいのかわからない」「何かを聞いてもグズグズしている
だけで、はっきりしない」など。この状態が長く続くと、親子の関係は必ず断絶する。も
しそうなればなったで、それこそ、子育ては大失敗というもの。親しみのもてる子どもを
考えるときには、そういう問題も含まれる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(360)

●被害妄想(心配過剰)

 こんな話を聞いたら、あなたはどう思うだろうか。「Aさん(32歳女性)が、子ども(4
歳)と道路を歩いていたときのこと。うしろからきた自転車に、その子どもがはねられて
しまった。子どもはひどく頭を打ち、救急車がくるまで意識がなかった。幸いけがは少な
くてすんだが、やがて深刻な後遺症があらわれた。

子どもから集中力がなくなり、こまかい作業ができなくなってしまった。事故のとき、脳
のある部分が酸欠状態になり、それで脳にダメージを与えたらしい。で、その事故から5、
6年になるが、その状態はほとんどかわっていない」と。

 こういう話を耳にすると、母親たちの反応はいろいろに分かれる。(1)他人の話は他人
の話として、自分の子どもとは切り離すことができるタイプ。(2)「自分の子どもでなく
てよかった」と思い、「自分の子どもだったら、どうしよう」と、あれこれ考えるタイプ。

ふつうは(「ふつう」はという言い方は、適切でないかもしれないが)、(1)のように考え
る。しかし心配性の人は、(2)のように考える。考えながら、その心配を、かぎりなく広
げていく。「歩道といっても安全ではない」「うちの子もフラフラと歩くタイプだから心配
だ」「道路を歩くときは、うしろも見なくてはいけない」など。

 もしあなたがここでいう(2)のタイプなら、子育て全体が、心配過剰になっていない
かを反省する。こうした心配過剰は、えてして妄想性をもちやすく、それが子育てそのも
のをゆがめることが多い。過保護もそのひとつだが、過干渉、過関心へと進むこともある。

ある母親は、子ども(小四女児)が遠足に行った日、日焼け止めクリームを渡すのを忘れ
た。そこで心配になり、そのクリームをわざわざ遠足先まで届けたという。「紫外線に多く
あたると、おとなになってから皮膚ガンになるから」と。また別の母親は、息子(小6)
が修学旅行に行っている間、心配で一睡もできなかったという。「どうして?」と私が聞く
と、「あの子が皆にいじめられているのではないかと心配でなりませんでした」と。

 もっともこうした妄想性が自分の範囲でとどまっているなら、まだよい。しかしその妄
想性が他人に向けられると、大きなトラブルの原因となる。ある母親は、自分の息子(中
1)が不登校児になったのは、同級生のB男のせいだと思い込んでいた。そこで毎晩
のようにB男の母親に電話をしていた。いや、電話といっても、ふつうの電話ではな
い。夜中の2時とか3時。しかもその電話が、ときには1時間とか2時間も続いたと
いう。

 こうした妄想性は、いわばクセのようなもの。一度クセになると、いつも同じようなパ
ターンで考えるようになる。どこかでその妄想性を感じたら、できるだけ軽い段階でそれ
に気づき、そこでブレーキをかけるようにする。たとえば冒頭の話で、あなたが(2)の
ように考える傾向があれば、「そういうふうに考えるのはふつうでない」とブレーキをかけ
る。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●実家を売る(2)

+++++++++++++++++++

実家を売ることにした。
買い主の言い値で、売ることにした。
現在、その相手と交渉を進めている。
「損」とか「得」とかは、考えない。
そういうのではない。
私は早く、あの実家とは縁を切りたい。
ついでに郷里とも、縁を切りたい。
それが目的だから、価格など、関係ない。
どうでもよい。

+++++++++++++++++++

●故郷

 一抹のさみしさは、ある。
ないとは言わない。
しかしそれ以上に、うれしい。
「うれしい」というよりは、気持ちが軽い。
心に張り付いた、重荷がこれでやっと、はずせる。
私にとって、「実家」というのは、そういうもの。
「故郷」というのは、そういうもの。
それがやっと、はずせる。

●縁を切る

 同時に法事の問題もある。
実兄と実母の一周忌がつづく。
墓の問題もある。
しかしあとは、成り行き。
成り行きに任せる。
なるようになる。

 そのときは、そのとき。
陰でいろいろ言っている人もいるようだ。
だれかがひとりで、騒いでいる。
が、言わせておけばよい。
気にしない。
「故郷と縁を切る」ということには、そういう意味も含まれる。

●相続

 昨日、20年来の友人(SGさん、男性、64歳)と、話した。
その友人は、8人兄弟の長男。
広い農地をもっている。
それでこう言った。
「ご先祖様には、感謝しなくちゃア」と。

 実父が死んだときのこと。
遺産相続でもめないようにということで、
葬儀の席で、現金を兄弟たちに分配したという。
その額、1人あたり、1000万円。
それを条件に遺産相続を、放棄してもらった。
「たいへんでしたね」と私が言うと、
「(兄弟どうしで)もめるのは、いやだからねエ」と。

●人それぞれ

 SGさんの親のように、多額の遺産を残す親もいれば、その一方で、
借金を残す親もいる。
借金どころか、隠し子を残す親さえいる。
遺族たちは、葬儀の席でそれを、はじめて知ったりする。

 私のばあいは、そうした問題は、とくになかった。
遺産といっても、60坪と33坪の土地だけ。
(それだけでもありがたいが……。)

が、それ以上に、母が死んだとき、同時にあの重圧感から解放されたのが、うれしかった。
ほっとした。
葬儀のあと、ぼんやりとした気分がつづいたが、それは母を失ったさみしさというよりは、
自分の過去の一部が切り取られたようなさみしさだった。
ポッカリと穴があいたような気分だった。
今度も実家を売ることになって、似たようなさみしさを感じている。

 二度とあの時代は戻ってこない。
あの時代に帰ることもない。

●SGさん

 SGさんのばあいは、地目がまだ農業用地のとき、父親名義から自分名義に
書き換えておいたという。
その直後、都市計画法による大規模開発の計画地に組み込まれ、多額の現金が手に入っ
た。
それでそういうこと、つまり兄弟たちに現金を渡し、遺産相続を放棄させることができた。
SGさんが、「ご先祖様」と、「ご」と「様」をつける理由は、そこにある。
しかし私のばあいは、逆さまに吊るされても、そういう言葉は出てこない。

 私が親不孝者なのか。
できそこないなのか。
それとも、こういう私にしたのも、親の責任なのか。

●私の父

 私の母は、住職の妻とまちがえられるほど、寺に入りびたりだった。
そのことで父と母は、いつも言い争っていた。

 一方、父は、私が知るかぎり、ただの一度も墓参りなるものをしていない。
父が墓参りして、手を合わせている姿を、見たことがない。
祖父にしても、そうだ。
そう言えば、父や祖父が、家の中の仏壇に手を合わせている姿さえ、私の記憶の中には
ない。
私は、そういう祖父や父の死生観を、しっかりと、受け継いでしまった(?)。

●一周忌

 郷里に住む知人にたずねたところ、盆供養にせよ、一周忌にせよ、それをするか
しないかは、喪主が決めればよいとのこと。
実際には、しない人もふえているという。

 「しなくてもいいものですか?」と、私が驚いていると、「しなくても、寺は何も
言ってきませんよ」と。

私「しかしお墓があります……」
知「寺のほうで管理してくれていますか」
私「寺とは離れた場所にありますから……」
知「それなら、放っておけばいいでしょう」
私「……そういうものですか。知りませんでした」と。

●心の問題

 形だけやればよいという問題ではない。
若いころならともかくも、今さら自分の哲学をねじまげるもの、難儀なこと。
「妥協」という言葉もあるが、妥協するのも疲れた。
私の生まれ故郷は、冠婚葬祭だけは、派手にする地域である。
そのたびに、莫大な費用がかかる。

 だからやはり、ここは心の問題ということになる。
心が通じていれば、お金の問題など、何でもない。
たとえば私の息子たちは、結局は3つずつ、大学を出た。
長男は、キャxx大学、メルxx工科大学、東海xx学校。
二男は、ワチxx大学、ヘンダxxx大学、インxxxx大学。
三男は、横xx大、フリxxx大学、航x大学。

 しかし一度だって、学費を惜しんだことはない。
心が通じ合っているときというのは、そういうもの。
心が通じていないときは、たとえ1万円でも、惜しい!

●さて、どうするか?

 「実家」で、私は、60年間、苦しんだ。
残りの人生がどれだけあるか私にはわからない。
が、せめて残りの人生くらいは、実家を考えないで、過ごしたい。
この解放感を大切にしたい。
10年か、20年か?

 世の中には、『子はかすがい』という諺(ことわざ)がある。
同時に『子は、三界の足かせ』ともいう。
これらをもじると、こうなる。
『家族は、かすがい』『家族は、三界の足かせ』と。

 (かすがい)にするか、(足かせ)にするかは、結局は親しだいということ。
私自身の心境を弁解するつもりはないが、それは私という子どもの責任ではない。
つまり私という子どもの責任では、ない。

 今の私が、「私」。
これが「私」。
あとはすべて、私自身の判断ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++July・09++++++++++はやし浩司

●文章

++++++++++++++++++++

文章というのは、しばらく書かないでいると、書けなくなる。
方向が定まらない。
的確に自分の考えを、まとめられない。
文章のリズムさえ、つかめなくなる。
「漢字」については、さらにそうした現象が、顕著に現れる。
少し前だが、どこかのショッピングセンターで、「札幌」という漢字が書けなくて、
恥ずかしく思ったことがある。

そういうのを、度忘れというが、では、読解力は、どうなのか?
読解力も、同じように考えてよいのか。
たとえば私は最近、読解力が低下したのか、ときどき目の前の
文章がよく理解できないときがある。
今は、グラフィック(画像)編集ソフトに取り組んでいる。
説明書を、眠る前に毎晩、読んでいる。
しかしどうも意味が、よくわからない。
カタカナ文字ばかりで、チンプンカンプン。
集中力そのものが、鈍ってきた。

 どうしたことか?

++++++++++++++++++++ 

●認知症

 またまた認知症の話。
私の世代の者たちにとっては、認知症は、深刻な問題である。
だれがそうであっても、「明日は我が身かな」と考える。
で、読解力が低下したことについて、「これは認知症によるものではないか」と、
ふと、心配になる。

 何かの方法で、自己診断することはできないものなのか。
たとえばこんな文章を考えてみた。
一読して、意味がスラスラとわかったら、あなたはかなりの読解力があるということに
なる。

【テスト】

(1)叔母の義理の姉が、私の妹の夫と昔からの知り合いで、義理の姉の息子が、
今、妹の娘を学校で教えている。

(2)新アカウントでログオンし、デスクトップに「USMxxxx」という
フォルダーが作成されていることを確認したあと、「ファイルと設定の転送ウィザード」
を起動して画面を進め、「転送先」を選んでクリックする。 

 (1)は、関係が複雑。
頭の中で系図を描きながら聞かないと、意味がわからない。
(2)は、用語が縁門的。
コンピュータに通じていないと、意味がわからない。

 別の知人(女性、現在65歳)は、今回、アルツハイマー病と診断された。
その知人のばあい、その数年ほど前から、文章が読めなくなったという。
生命保険会社から送られてきた書類だったというが、「こんなもの、私が読んでも
わからない!」と叫んで、それを手で払いのけてしまったそうだ。
 
 そういうこともあるから、この問題を軽く考えてはいけない。

●集中力と拡散力

 ここで集中力の話を書いたので、拡散力についても、書いておきたい。
「拡散力」というのは、私が考えた言葉である。

 集中力というのは、ある特定のことがらに神経を集中させることをいう。
それに対して拡散力というのは、四方八方に、注意力を分散させることをいう。
具体的に考えてみよう。

 たとえば台所で、漢方薬を煎じていたとする。
弱火で、30〜40分ほど、煮込まなければならない。
と、そのとき庭を見ると、キュウリの棚が、風にあおられて、大きく傾いて
いるのが目に付いた。
ほかの野菜も、水が不足しているのか、元気がない。
私は庭へ出る。
とたん犬のハナが小屋から出てきて、おやつをねだる。
私はキュウリの棚を直す。
水道の蛇口をひねって、大きな水がめに、水を注ぐ。

 こういう状況のとき、ひとつのことをしながらも、あちこちに注意力を分散しなければ
ならない。
これが拡散力である。
が、このとき拡散力が鈍くなると、ひとつのことに気を奪われるあまり、水道の蛇口を
閉め忘れたり、ガスコンロの火を消し忘れたりする。
加齢ともに集中力が鈍くなることは、あちこちで指摘される。
しかし同じように、拡散力も鈍くなる。

●文章力

 それに文章力というときには、「鋭さ」も含まれる。
「切り込みの深さ」ともいう。
ただ誤解がないように言っておくが、難解な文章イコール、(深い)ということではない。
文章というのは、平易であればあるほど、よい。
読みやすければ読みやすいほど、よい。

 大切なのは、中身。
その中身で決まる。
たとえば名文中の名文と言われている文章に、『方丈記』がある。

『行く川の流れは絶えずして、

しかももとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。
世の中にある人と住家すみかと、またかくの如し』と。

わかりやすい文章だが、一文読むごとに、はっと我に返る。
それが(深さ)ということになる。
(鋭さ)ということになる。

 しばらく文章から遠ざかっていると、その(鋭さ)が消える。
……というより、毎日書きつづけているからこそ、文章というのは書ける。
そういう習慣の中から、(鋭さ)が、生まれる。
鋭い文章というのは、書こうとして書けるものではない。
書いているうちに、そこにキラリと光る。
「何だろう?」と思ってみると、それが(鋭さ)ということになる。

●駄文

 で、このところ私が書く文章が、ますます駄文化しているのが、よくわかる。
あとで読み直してみたり、それ以前に書いた文章と読み比べてみると、それがわかる。
どうでもよいことを、ダラダラと書いている。
この文章にしても、そうだ。
(鋭さ)がどこにもない。
あえて言うなら、「拡散力」という言葉を考えたところ。
それはひとつの収穫だが、それ以外に、見るべきものがない。
読むに耐えないというか、つまらない。
だから、この話は、ここでストップ。

 一度、気分を変えてみる。
明日は、ワイフと近くの温泉に行くことになっている。
それに期待したい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●満腹中枢と摂食中枢(男と女)(Man and Woman)

++++++++++++++++++++++++++

脳幹に視床下部と呼ばれる部位がある。
その中に、「食欲中枢」と呼ばれる部分がある。
その食欲中枢は、満腹中枢と摂食中枢に分かれる。
満腹中枢というのは、「お腹(なか)がふくれた」という
ことを感じ取る部分。
摂食中枢というのは、「お腹がすいた」ということを
感じ取る部分。

ここまでは私も知っていたが、最近、こんなことを
知った。

女性の性欲本能、つまりSックス中枢は、このうちの
満腹中枢に隣接しているという。
一方、男性の性欲本能、つまりSックス中枢は、
摂食中枢に隣接しているという(「人体の不思議」
日本文芸社)。

新しい考え方、ゲット!

(ネット禁止用語に抵触するため、「交尾行動」を、「Sックス」など
というように、表記します。)

+++++++++++++++++++++++

●男性と女性のちがい

 「人体の不思議」(上述)は、こう書いている。

『……一般に、女性は恋愛をすると食欲を感じなくなることがあるといわれますが、
それは、このSックス中枢が活発に働くため、満腹中枢までもが満たされているからとも
考えられます。
 
 男性のSックス中枢は、女性とは異なり、空腹を感ずる摂食中枢に隣接しています。
生命の危険を感ずると、男はB起してしまうといわれることもありますが、これも
Sックス中枢の位置に関係していそうです。

 つまり飢餓で死に直面すると、なんとしてでも種族を保存しなくては、という感情が
起こるように脳がつくられているのです』と。

 しかも、だ。
第一性欲中枢(異性を求める性欲中枢)について言えば、男性のそれは、女性のそれの
約2倍もの大きさがあるという。
つまりその分だけ、男性のほうが、Sックスに関して、女性より攻撃的ということになる。

 なるほど!

 で、これで今まで私が感じていた謎のいくつかが、解けた。
男性と女性の、(性)がもつ、基本的な(ちがい)といってもよい。
その理由が、わかった。

●男と女

 所詮、人間も動物。
同じというか、どこもちがわない。
動物時代からの本能(脳幹)を、しっかりと保持している。
が、こうした本能、つまり脳自体が構造的にもつ能力のままに行動したら、「人体の
不思議」の中にもあるように、人間社会は、メチャメチャになってしまう。

 そこでこうした本能をコントロールするのが、大脳連合野ということになる。
(私はこの仮説を、すでに10年以上も前から、考えていたぞ!)
人間のばあい、大脳連合野の発達がとくに進んでいる。
その大脳連合野が、中心部からわき起きてくる(性欲)を、コントロールする。
それが「知性」ということになる。

 それにもし男性のみならず、女性までもが、性欲について攻撃的になったら、それこそ
たいへんなこと(?)になってまう。
人間もいたるところで、交尾を始めるようになるかもしれない。
(反対に女性のように、男性までもが、受動的になってしまっても、困るが……。)
要するに、長い間の進化の過程を経て、人間も、「実にうまく」できているということ
になる。

●満腹中枢vs摂食中枢

 満腹感を感ずる満腹中枢。
空腹感を感ずる摂食中枢。
何かのタンクの警報機にたとえるなら、満タン警報機と、カラ警報機ということになる。
それを脳の中心部にある視床下部という部位が、担当している。
私自身も、実は、こうした機能について、「本で読んで知った」というだけの立場で
しかない。
が、それにしてもおもしろい。

 が、疑問がないわけではない。

 女性のSックス中枢は、満腹中枢の隣にある。
男性のSックス中枢は、摂食中枢の隣にある。
それはわかるが、これらの両社はそれぞれ、どのように関連しあっているのか?
単純に考えれば、女性のばあいは、Sックス中枢が刺激されると、同時に満腹中枢も
刺激され、満腹感が生まれるということになる。

 他方、男性のばあいは、Sックス中枢が刺激されると、同時に摂食中枢も刺激され、
空腹感が生まれるということになる。

 ……あるいは、その反対なのか?

 そこで自分自身のことを振り返ってみる。
(私も「男」だぞ!)

 腹が減ったときと、満腹のときと、どちらのときのほうが、性欲をより強く感ずるか?
……というより、経験的に、Sックスしたあとなど、よく空腹感を覚えることがある。
「終わったから、食事に行こうか」というような会話を、ワイフとした記憶がある。
……あるいは、その逆かもしれない。

 ともかくもどのように影響しあっているのか、それがよくわからない。
あるいは、影響しあうといっても、そのレベルの話ではないのかもしれない。
たとえばここでいう「空腹感」というのは、「危機状態」をさすのかもしれない。
それも極限的な危機状態。
その本にも書いてあったが、生命の危機を覚えたりすると、B起することもあるそうだ。
「最後に種族を残そう」という本能が働くためらしい。

 どうであるにせよ、たいへん興味深い。
「私は私」と思って、みな、考え、行動している。
が、実際のところ、脳に操られているだけ。
それだけは確かなようだ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW 満腹中枢 摂食中枢 視床下部)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●離婚と離縁(ある離婚劇)

++++++++++++++++++++++

熟年離婚がふえている。
正確には、婚姻歴20年以上の人の離婚を、「熟年離婚」という。
その熟年離婚が、この20年間で、4倍にふえているという。

そんな中、3年前、私の知人が、離婚した。
婚姻歴は、ちょうど20年。
子どもも、2人、いる。
現在、高校生と中学生。
離婚したといっても、事情が、やや複雑。
知人、つまりその男性は、養子縁組をして、妻側の戸籍に入っている。
しかも筆頭。
こういうケースのばあい、離婚したからといって、即、離縁ということにならない。
(昔は、離婚、即離縁ということになったが、現在は戸籍法が変わり、離婚と離縁は、
まったく別のものとして扱われている。)

知人側は、妻側の父親の保有している財産の分与を求めている。
一方、妻側は、「1円も渡さない」と、がんばっている。

+++++++++++++++++++++++

●泥沼化

 知人のケースのばあい、離婚しても、戸籍上は、妻側の両親の「子(=養子)」としての
身分は残ったまま。
繰り返すが、離婚(=婚姻関係の解消)と離縁(=養子縁組の解消)は、まったく別。
別の事項として扱われている。
妻の実父が死去すれば、当然のことながら、遺産相続権を行使することができる。
そこで妻側は、知人に離縁に応ずるように求めているが、知人側は、それを拒否。
それがこじれに、こじれて、泥沼化。

 離婚してすでに3年になるが、養子縁組は、そのままになっているという。
知人側の言い分しか聞いていないが、内情は、こういうことらしい。

(1)離婚したとき、私(=知人)には、責任はなかった。
一方的に、妻側から、「性格の不一致」を主張された。
(2)妻側の両親と同居し、両親の生活を支えてきた。

 一方、妻側の母親は、数年前に死去。
昔からの財産家で、もし父親が死去すれば、莫大な財産が、知人のものとなる。

 で、こういうケースのばあい、個人が役所へ出かけていって、自分で解決するのは、
たいへん難しい。
家庭裁判所で調停するといっても、そうは簡単にいかない。
相手の妻(実際には元妻)も応じないだろうして、たいていその場で、喧嘩もんかに
なる。
さらに財産分与、養育費、慰謝料の問題のほか、知人が戸籍の筆頭になっているため、
戸籍を「抜く」ということもできない。
できなくはないが、手続きが複雑。
そんなわけで、弁護士に相談するのが、いちばん、よい。
ワイフを通して、そういう相談があったので、私は、そう答えておいた。

●養子縁組は慎重に

 もちろん養子縁組をしても、その後、良好な家族関係を築いている人も多い。
しかし少数とはいえ、私の知人のようなケースも、ないわけではない。
が、こと養子縁組ということになれば、慎重にしたほうがよい。
知人のケースでも、婚姻届だけを出して、妻側の家に同居するという方法も
なかったわけではない。
昔は、これを「入り婿」と言った。
(女性が結婚して、夫側の家庭に入ったばあいが、それに相当する。)
そうすれば万が一、離婚ということになっても、手続きが楽。

 ともあれ、こうした問題は、一度こじれると、とことんこじれる。
「他人は、やはり、他人」となる。

 離婚劇にもいろいろあるが、ここまで複雑となるケースは、そうはない。
話を聞いていて、私自身も、頭の中がゴチャゴチャになってしまった。
だからやはり、ここはプロ、つまり弁護士に任せた方がよいということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 離婚劇 離婚 離縁 養子縁組 養子縁組解消)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自閉症スペクトラムの子どもたち

+++++++++++++++++++++

「自閉症」と言うと、ほとんどの親たちは、
(無口で、内気。殻(から)に閉じこもった
子ども)を想像する。
しかしこれは誤解。

そこで最近では、自閉症という言葉はあまり
使わない。
「広汎性発達障害」という言葉を使うことが
多い。
(以前は、多動性、多弁性のある自閉症児を、
「活発型自閉症児」と呼びことが多かった。)

また症状や程度は、千差万別。
ふつうの子ども、(この言葉には、少なからず
抵抗を覚えるが)、そのふつうの子どもと
ほとんど違わないレベルから、顕著な症状の
現れる子どももいる。
そのため患者数も、36万人〜120万人
(日本自閉症協会)と、大きな幅がある。

そのこともあって、最近では、「スペクトラム」
という言葉を使うことが多い。
「自閉症スペクトラム」というような言い方を
する。

たとえば現在、自閉症といっても、高機能自閉症
(アスペルガー症候群含む)は、区別して考える。
症状としては、AD・HD児や、LD児のそれを
併せもつケースも多い。
もちろん知的障害をもった子どもも多い。
が、先にも書いたように、その境界が、よくわからない。
わからないという意味で、「スペクトラム」という
言葉を使う。

「スペクトラム」というのは、光の分光器で光を
分解したときのように、それぞれの症状が、多岐、
複雑に分かれ、かつ連続性をもつことをいう。

+++++++++++++++++++++
 
●自閉症スペクトラム

 診断については、DSMによる診断基準が、広く、一般的に使われている。
ウィキペディア百科事典に出ている、「DSMによる診断基準」を、そのまま紹介
させてもらう。

+++++以下、ウィキペディア百科事典「自閉症」より転載+++++

DSMの診断基準 

DSMの診断基準に挙げられている症状は次の通り。

●コミュニケーションにおける質的な障害 
○視線の相対・顔の表情・体の姿勢・身振り等、非言語行動がうまく使えない。 
○(例)会話をしていても目線が合わない。叱られているのに、笑っ
ている。 
○発達の水準にふさわしい仲間関係が作れない。 
○興味のあるものを見せたり指さしたりする等、楽しみ・興味・成果を他人と
自発的に共有しようとしない。 
○対人的または情緒的な相互性に欠ける。 
●(例)初対面の人に対する無関心。 

●意思伝達の質的な障害 
○話し言葉の発達に遅れがある。または全く話し言葉がない。 
(例)クレーン現象
○言語能力があっても、他人と会話をし続けることが難しい。 
(例)一問一答の会話になってしまう。長文で会話ができない。 
○同じ言葉をいつも繰り返し発したり、独特な言葉を発する。 
(例)人と会話をする際に同じ返事や会話を何度もする。 
○発達の水準にふさわしい、変化に富んだ『ごっこ遊び』や社会性を持った
『物まね遊び』ができない。 

●限定され、いつも同じような形で繰り返される行動・興味・活動(いわゆる「こ
だわり」) 
○非常に強く、常に繰り返される決められた形の一つ(もしくはいくつか)の
興味にだけ熱中する。 
○(例)特定の物、行動などに対する強い執着心。 
○特定の機能的でない習慣・儀式にかたくなにこだわる。 
(例)物を規則正しく並べる行動。 
(例)水道の蛇口を何度も開け閉めする行動。 
○常同的で反復的な衒奇(げんき)的運動物体の一部に持続的に熱中する。 
(例)おもちゃや本物の自動車の車輪・理髪店の回転塔・換気扇な
ど、回転するものへの強い興味。 
(例)手をヒラヒラさせて凝視する。 

+++++以下、ウィキペディア百科事典「自閉症」より転載+++++

●軽重の判断を正確に

 この診断基準を読んでもわかるように、自閉症のもっとも顕著な特徴は、他者との
良好な人間関係(コミュニケーション)をとれないところにある。
 もちろんその程度も、子どもによってちがう。
一日中、小刻みな運動を繰り返し、ほとんどコミュニケーションがとれないタイプの
子どももいれば、ふとしたきっかけで、親や兄弟たちと、いっしょになって行動する
というタイプの子どももいる。

 そこで自閉症が疑われたら、まずどの程度の症状かを、正確に把握する必要がある。
症状が軽いばあいには、自閉症であることをあまり意識せず、(ふつうの子ども)として、
ふつうの環境で育てるのがよい。
私の経験でも、自己管理能力が育つ、小学3〜4年生を境にして、症状は急速に収まって
くる。
大切なことは、それまでに症状をこじらせないこと。
多くのばあい、その症状の特異性から、親が乳幼児期に、はげしく叱ったり、ときに
暴力を加えたりしやすい。
こうした一連の不適切な対処の仕方が、子どもの症状をこじらせる。

●原因

 こと教育の場では、(原因さがし)というのは、しない。
しても意味はない。
「そこにそういう子どもがいる」という立場で、指導を開始する。
ただ親には、ある程度のことは話す必要がある。

 というのも、自閉症が疑われると、ほとんどの親は、その瞬間から、はげしい
絶望感を覚える。
が、こと自閉症に関していえば、「脳の機能障害」であり、さらにわかりやすく
言えば、一時的であるにせよ、あるいは長期的にあるにせよ、機能が不全の状態
であるにすぎない。
(詳しくは、ウィキペディア百科事典を参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E9%96%89%E7%97%87)

 たとえば私のばあい、軽度自閉症であれ、アスペルガー症候群であれ、高機能
自閉症であれ、その子どもが一定のワクの中に入れば、そうした「障害」は無視し
て指導を開始する。
(ここでいう「高機能」というのは、「知的な障害が見られない」という意味で、
そう言う。)

 つまり診断名を親に告げる必要はないし、(また「診断名」を告げることは、
タブー中のタブー)、原因や、将来の予想を告げる必要もない。
重要なことは、「先月よりも、今月はよくなった」「半年前より、症状が軽くなった」
という状況を作ることである。
 またそういう状況になるように、指導に専念する。

●親の無理解

 症状が重く、医師による診断がくだされているケースは、別として、先にも
書いたように、症状があいまいな子どもも少なくない。

(ただし医師の診断が、いつも正しいとはかぎらない。
私も医師によって「自閉症」と診断された子どもを、何十例と指導してきた経験
があるが、そのうち3〜4割については、「?」と感じている。)

 たいていは2〜3歳ごろになって、「どうもうちの子は、おかしい」「言葉の
発達が遅れている」「落ち着きがなく、突発的に錯乱状態になる」などの症状が
現れて、ふつうではないことに気づく。
多動性、衝動性が見られることも多く、そのため先にも書いたように、はげしく
叱ったり、ときに暴力を加えたりしやすい。
それが症状をこじらせるだけではなく、指導するばあいも、親の協力が得られず、
苦労する。

やっとの思いで、(ふつうの子ども?)になっても、「この教室は効果がなかった」
という判断をくだして、そのまま去って行く親も少なくない。
(というより、そういうケースが、ほとんどと考えてよい。)
そういうばあい、私(=指導者)が受ける落胆感というか、絶望感には相当な
ものがある。
自閉症にかぎらず、親の無知、無理解が原因で、そうした絶望感を味わうことは
じばしばある。
が、いまだに、その絶望感だけは、どうしようもない。

 つまりこういうことが重なるため、指導する側(幼稚園や保育園を含む)は、
どうしても指導に消極的になる。……ならざるをえない。
目に余るほど症状が顕著なばあいには、入園そのものを断るケースが多い。

●希望

 最近では、自閉症児に対する理解も進み、またその周囲環境も整えられてきて
いる。
いろいろな団体や組織が、治療プログラムを用意し、好成績を収めている。
またあくまでも機能障害であり、(機能の改善)をめざした医学的治療法も、
現在急速に進歩しつづけている。
原因についても、大脳生理学の分野で、かなり精密に解明されつつある。

 また(流れ)の中でみると、自閉症児にかぎらず、AD・HD児、かん黙児
にしても、小学3〜4年生を境に、急速に症状が緩和されてくる。
とくに脳内ホルモンのバランスが調整されてくる思春期前夜ごろになると、
子ども自身がもつ、自己治癒機能が働くようになる。
専門家が見れば、そうとわかるが、そうでなければ、外目にはわからなくなる。
つまりその程度までに、改善する。

 そのため仮に、専門機関で自閉症と診断されても、(親が受けるショックは
大きいが)、それを「終わり」と考えてはいけない。
そのためにも、つぎのことに注意する。

(1)専門機関で診断名をつけてもらい、自閉症に対する知識をしっかりともつ。
(2)愛情の糸だけは大切にし、どんなばあいも、子どもを「許して忘れる」。
(3)乳幼児期には、「症状を悪化させないこと」だけを考える。
(症状をこじらせれば、いろいろな合併症を併発する。
また立ち直りも、その分だけ遅れる。)
(4)治療のターゲットを、小学3〜4年生(9〜10歳)ごろに設定する。
それまではジタバタしない。
「ようし、十字架のひとつやふたつ、背負ってやる」という前向きな、
暖かい愛情が、何よりも重要と心がける。
(5)幼稚園以後の教育法などについては、各地域にある、「発達障害相談窓口」
(多くは保健所、保険センター)に相談するとよい。
現在、この浜松市でも、10年前とは比較にならないほど、そうした障害
をもつ子どもに対する支援プログラム、支援組織、支援団体が組織化されている。
けっして「私、1人」と、自分を追い込んではいけない。

(2009年7月22日記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自閉症 自閉症スペクトラム)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【命のうまみ】(The Beauty of Life)

●歳は取るものではなく、受け入れるもの

++++++++++++++++++++

数日前、近くの温泉で……。
だらりと下がった、胸、尻の皮。
それを鏡に映して、「ああ、ボクも歳を取ったナ」と思う。
が、ふと横を見ると、80歳くらいの男性。
私の体より、さらに、だらりと下がっている。
太ももも、鳥のガラのよう。
それを見て、「ボクは、まだよいほう」とか、
「近々、ボクもああなるナ」とか、思う。

歳は取るものでない。
受け入れるもの。
少しずつだが、人は、こうして自分の歳を受け入れていく。
その男性と自分を比較しながら、ふと、そう思った。

++++++++++++++++++++

●絶対寿命

 人間には、「絶対寿命」というものがあるという。
いまだかって、130歳を超えて生きた人はいないという。
だから「130歳」という年齢が、その絶対寿命ということになる。
が、実際には、90歳から100歳前後か?

その年齢になると、いくらがんばっても、DNAレベルで、細胞がバラバラになるらしい。
つまり一個ごとに、DNAは、時計のようなものをもっている。
「時計」というより、正確には、細胞の分裂回数に、制限があるということらしい。
だからたとえば、80歳の男性の細胞を使って、クローン人間を作ったとしても、
そのクローン人間の寿命は、80歳を起点にして始まる。
見た目にはいくら、子どもでも、寿命は、せいぜいあと10〜20年程度ということに
なる。

 「老い」はだれにでもやってくる。
「死」もやってくる。
避けることはできない。
わかりきったことだが、しかしその(事実)を受け入れるのは、なかなか難しい。
人はだれしも、「ひょっとしたら、私だけは……」という甘い期待をもって、生きている。
さらに積極的には、あの世に、希望を託す人もいるかもしれない。
「私だけは、天国に入れる」と。

●人生の(深み)

 しかし(衰え)は、日々に、だれしも感ずる。
肉体の衰え、体力、気力の衰え。
それに知力の衰えもある。
何かの持病をかかえていたら、なおさらである。

 先日も、朝早く目を覚ましてみると、そこにワイフが眠っていた。
その寝顔を見たとき、「この人もバーさんになったな」と感じた。
しかし悪いことばかりではない。
その分だけ、そこに(深み)を感ずる。
(味)を感ずる。

 たとえはあまりよくないかもしれないが、それはスルメのようなもの。
かめばかむほど、味が出る。
うまくなる。
最後は溶けてなくなってしまうが、その直前、あのうまみが口の中に充満する。
もし寿命というものがなかったら、その(うまみ)を感ずることもないかもしれない。

 私は思わずワイフの額を手で撫でてやった。
撫でながら、「あと10年かナ?」と思った。
ワイフの寿命のことではない。
「こうして共に、幸福なときが過ごせるのは、あと10年かナ」と

●(衰え)

 思わず深刻で、暗い話になってしまったが、こうして人は、歳を受け入れていく。
若い人には、(私もそうだったが)、「死」は恐怖そのものかもしれない。
しかし死は何も、突然、やってくるわけではない。
徐々に、少しずつ、こうしてやってくる。

 だからといって、死に対して覚悟ができるということではない。
死への恐怖が和らぐということでもない。
しかしそこに(死)を感ずることによって、今のこの(命)の密度を、何十倍にも
することができる。

 だらだらと生きるのも1年かもしれないが、その1年を、何十倍も濃く生きることも
できる。
それができれば、死がやってきたとき、「思い残すことはありません」と言って、
この世を去ることができるかもしれない。
もし(希望)というのが何であるかと問われれば、私は、それが希望だと思う。

 またまた暗い話に戻ってしまったが、歳は受け入れていくしかない。
ただ誤解してほしくないことは、(歳)といっても、(年齢)という(数字)の
ことを指すのではない。
年齢という数字など、意味はない。
60歳だろうが、70歳だろうが、そのときはそのとき。
そのとき、できることをすればよい。
年齢という数字に遠慮する必要はない。

 私がここでいう(歳)というのは、(衰え)という限界状況をいう。
(死)という限界状況をいう。
たとえばおとといも、5キロ近く、ジョギングをしてみた。
が、いまだに赤色筋肉の中にたまった乳酸が消えない。
つまり太ももが痛い!

 こうした(衰え)は、自分ではいかんともしがたい。
が、それは受け入れるしかない。

●勝手に、たれ下がれ!

 言うなれば、「もう、逃げ隠れはしない」ということ。
いくら逃げようとしても、逃げられるものではない。
私だけ例外ということは、ありえない。
運がよければ、あと10年は健康寿命を保てるかもしれない。
あるいは明日の命かもしれない。

 どうであるにせよ、私は私。
今は今。
胸や尻の皮は、だらりとたれ下がり始めている。
だからといって、それを嘆き悲しんだところで、どうしようもない。
嘆き悲しむ必要もない。
そのかわり、私は、別の新しい世界を見ることができる。
むしろそちらのほうに、興味がひかれる。
何がそこにあるかはわからないが、今までの私が知らなかった、(命のうまみ)と
表現してよいかもしれない。
それがそこにある。

 が、もしここで、今、私が、「いやだ」「いやだ」と思って逃げていたら、どうだろうか。
「私だけ若くみられたい」と、へんにがんばったら、どうだろうか。
私はその分だけ、回り道をすることになる。
だったら、受け入れる。
受け入れてしまう。

 それが「歳を受け入れる」ということ。

 ……で、あとは、最後の最後まで、がんばる。
がんばるだけ。
50歳から60歳までの人生があっという間に過ぎたように、これからの10年も
あという間に過ぎるだろう。
考えてみれば、今の私には(歳)を気にする暇などない。

 胸よ尻よ、勝手にたれ下がれ!
私の知ったことではない!
温泉に入っても、もう気にしないぞ!

 ……ということで、今朝もはじまった。
みなさん、おはようございます!

2009年7月24日


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●近況・あれこれ(090722)

●私は「男」ではない?

 若いころほどではない。
ないが、今でも若い女性の胸元が見えたりすると、ドキッとする。
が、最近の若い女性、それに母親たちは、無防備と言えば、無防備。
それに大胆。

 話はそれるが、学生時代、金沢で外人相手の観光ガイドのアルバイトをしていた
ことがある。
そのときのこと。
カナダ人夫婦が、女子高校生を連れてやってきた。
その女子高校生が、今で言うタンクトップというのを着ていた。
当時、ああいう服装をしている日本の女性は、いなかった。
若い女性でもいなかった。
そのため、私は金沢の街の中をいっしょに歩きながら、しばしば歩けなくなってしまった。
どうして歩けなくなってしまったについては、今更、ここに書くまでもない。

 が、今では、タンクトップなど、珍しくも何ともない。
とくにこの浜松市には、南米からの労働者たちがたくさん住んでいる。
一番多いときで、3万人前後になった。

 その人たち。
これまた大胆というか、ノーブラの上に、胸元を大きく開けた、薄いシャツ一枚。
店の中で通り過ぎたときなど、目のやり場がない。
どうしたらいいか、そのつど迷う。

 そうした影響もあるのだろう。
このところ日本の若い女性たちも、大胆になってきた。
若い母親たちも、大胆になってきた。
平気で(?)、胸元を見せたりする。
が、私はそういうとき、別のことを考える。
「私だって、まだ男だ!」と。

 若い母親たちから見れば、私は、彼女たちの世代からはるか離れた
ジー様ということになる。
私自身の若いころを思い出してみると、若い母親たちがどう思っているか、よくわかる。
20代、30代のころ、50歳、60歳の人は、別世界の人のように思えた。
はっきり言えば、どうでもよい世界の人たちに思えた。
それはわかる。
しかし私は、今でも「男」である。
「男」を棄てたわけではない。
だから、ドキッとする。
と、同時に、「ああ、私は男に思われていないのだ」と知り、がっかりする。

 何年か前のことだが、こんなこともあった。
ある母親が私に、こう言って相談してきた。

 「兄(小3)と妹(幼稚園児)が、私のおっぱいを取りあって、喧嘩をします。
どうしたらいいでしょうか」と。

 話を聞くと、「兄が左、妹が右と決めているのですが、それでも喧嘩になります」と。
で、私は、思わず、「どうして?」と聞いてしまった。
「どうして兄が左で、妹が右?」と。
するとその母親は、私の目の前で、両方の胸を両手で下からもちあげて見せ、
「ほら、先生、左のほうが大きいでしょう」と。

 そのとき気がついたが、その母親はノーブラだった。
そしてそのときも、こう思った。
「私だって、男だ」と。

 その母親は、美しい人だった。
それでよけいに印象に残った。

 で、この話をそのあとワイフにすると、ワイフもこう言った。
「かわいそうね。あなたは、男と見られていないのよ。
牧師さんか、まあ、そんな人のように思われているのよ」と。

 しかし結びに、もう一言。
私だって、まだ「男」だア!


●人間性の壊れた人

 今日、ドライブをしながら、ワイフとこんな会話をした。
先日、私の庭に、マムシが出た。
その話をすると、ワイフの義兄の家にも、一度、マムシが出たことがあるという。
しかもそのマムシというのは、どうやら義兄の隣人が投げ込んだものらしい、と。

私「それって、殺人未遂だよ」
ワ「そうね、それでかまれて死ねば、殺人罪よね」
私「そうだよ」と。

 しかしマムシに名前があるわけではない。
つまり隣人が投げ込んだという証拠もない。

 そこで話が進んだ。
私「じゃあさあ、今度そういうことがあったら、マムシを隣へ投げ返してやればいい」
ワ「そんなこと、できないわよ」
私「それもそうだね。そういうことをすると、気分が悪くなるよね」
ワ「そうよ。……でも、そういうことが平気でできる人というのは、すでに
人間性が破壊されている人とみていいわね」

私「そう、まともな人なら、そういう隣人とは関わりたくない。そう思うよ」
ワ「でもね、そういう人は多いわよ。そういうことが平気でできる人……」
私「そう言えば、それに似たような話を、A君(学生時代の友人)から、
聞いたことがあるよ」と。

 それはこんな話だ。

 数年前、その友人の父親が死んだ。
90歳だったという。
それまで父親は、実家に、ひとり住まい。
友人の姉が訪れてみたときには、すでに死後、2、3日もたっていたという。

 で、連絡を受け、あわてて友人が実家へかけつけてみると、1、2通の通帳類を
残して、現金など、財産的価値のあるものは、きれいに消えていたという。
ついでにA君が子どものころ集めていた、古銭や切手も!
その直前に、友人の姉が、すべて持ち出していた。

 が、友人にすれば、それどころではない。
こうした不審死のばあい、警察が介入してくる。
友人は、取り調べも受けた。

 で、葬儀も無事済み、1か月ほどがたったときのこと。
姉から手紙が送られてきた。
中身を見ると、古い株券が10枚ほど入っていたという。
「価値のあるものか、どうか、調べてほしい」と、手紙にはそうあった。

 そこでその友人が、市内の証券会社にもちこみ、調べてもらうと、数千円分の
価値しかないことがわかった。
で、友人は、姉にそのことを連絡した。

 が、この話には裏がある。
実は、A君の姉は、その株券がその程度の価値しかないことを、すでに知っていた。
知っていた上で、A君に送り届けてきた。
よくある『小悪を暴露して、大悪を隠す』という手法である。
小ずるい人間が、よく使う手である。

 つまり小悪を、わざと暴露する。
そうして自分は正直な人間ですということを、相手に印象づけながら、一方で、
大悪を隠す。

ワ「その姉さんという人も、相当の悪ね」
私「そうなんだよな。だれでも頭の中では、いろいろ考える。ときには、悪いことも
考える。しかしそれを実際に実行する人となると、そうはいない」
ワ「そうね、そういうことが平気でできる人というのは、人間性が壊れていると
みるべきね」
私「そうだよ。友人もそう言っていた。『姉とは縁を切った』とね」と。

●善人と悪人

 善人と悪人の(差)は、(距離)の問題と考えてよい。
だれしも、悪いことを考える。
考えるが、実行するとなると、別の覚悟が必要である。
その(考えること)と、(実行)の間には、(距離)がある。
それが善人と悪人の(差)ということになる。

 善人は、その(差)が、大きい。
悪人は、その(差)が小さい。

 たとえば、だれしも、「こうすればいい」というようなことまでは、考える。
その中には、悪いことも含まれる。

私も、若いころは、銀行強盗の仕方を、毎晩のように考えた。
(一度もそれについて書いたことはないが……。というのも、真似をする人が
出てくると困る。しかし私が考えた方法は、完璧なものである。ワイフにそれを
話すと、ワイフは、「ハリウッドへ原稿を送ってみたら」と言った。
つまりそれほどまでに、斬新で(?)、確実性のあるものだった。)

ほかにアメリカ映画のような、現金輸送車の強盗も考えた。
当時、そういう映画がよくはやった。
しかし考えても、私は実行しない。
それが(距離)となる。

 で、話を戻す。
ここに書いた、『小悪を暴露して、大悪を隠す』というのも、その一例である。
それができる人は、できる。
できない人は、できない。

たとえば小悪を暴露することは、それほど難しいことではない。
それによって、自分を善人に仕立てることもできる。
しかしその一方で、大悪を隠すとなると、心は大きく揺れ動く。
人間の心というのは、自己矛盾に対しては、それほどタフにできていない。
精神は緊張状態に置かれ、ついで、不安定になる。

 それがいやだから、つまり心が不安定になるのがいやだから、ふつうの人なら、
それをしない。
(考え)と(実行)の間に、(遠い距離)を覚える。
しかし人間性が壊れている人は、そうでない。
平気でそれができる。
したところで、罪の意識を覚えない。
ごく日常的な行為として、それができる。

ワ「周囲の人たちは、その姉さんのことを、どう思っているのかしら?」
私「そう、ぼくも、それをA君に聞いたことがある。
そしたらA君が言うには、A君の周囲の人たちは、みな、そういう人たちばかり
と言っていた」
ワ「類は友を呼ぶ……だったかしら?」
私「そう。友は類を呼ぶでもいいよ。そういう人たちは、そういう人たちどうしで集まり、
居心地のいい世界を作るもんだよ」
ワ「いや〜ネ」
私「ホント」と。

 A君の姉もそうなら、姉のダンナも似たような人という。
一見まじめそうだが、小ずるくて、いつもセコセコしている、と。
さらに姉がいちばん親しく行き来している、伯父にあたる人もそうだという。
まさに『類は、友を呼ぶ』ということか。

●では、どうするか?

 人生も長ければ、それでもよい。
しかし10年など、あっという間に過ぎてしまう。
とくに60歳を過ぎると、人生も秒読み段階に入る。
そうなると、無駄な人と、無駄な時間を過ごすこと自体が、苦痛となる。

 さらに人間性に欠ける人たちとつきあっていると、こちらの人間性まで、
変調してしまう。
つまりその分だけ、時間を無駄にする。
そこで教訓。

(1)小数の人たちと、より深く交際する。
(2)より高次元の人を選んで、交際する。
(3)低次元の人たちとは、勇気をもって、縁を切る。

 原稿をさがしてみたら、昨年(08年)の3月に、同じようなことを書いたのを
知った。

それをそのままここに、転載する。
ここに書いたことが、ひとつの結論になるのではないだろうか。

++++++++++++++++++++++++

●私らしく生きる(I live as I am.)

If someone speak ill of you behind you, what will you do? In may case I cope with such 

problem, just ignoring him or her. We don't have to be a good friend for all the people. 
There is a saying in England, that we can't be a good man to two people together. In 
Japan we say that those who wish to be a good man to everyone are called "8-direction 
good man". We rather despise this sort of man. This means to be a good man to someone 
means to be a bad man to another man. We are often forced to choose one of them. 
Moreover the older we get, the less time we have. We don't have time to waste but to go
 
forward with good people around us. Our life itself is so limited. This is an article I wri
te 
about it.

+++++++++++++++++

ときとして人との交わりは、わずらわしい。
こちらが望まなくても、災いは、向こうからやってくる。

あなたを悪く言ったり、非難したり、
中傷したりする人がいたとする。

そういう人と、こちら側から、あえて
仲よくする必要はない。

弁解したり、反論したり、言い争う必要もない。
「必要もない」というより、
そういうことをしても、意味はない。

サルはサルと喧嘩する。
イヌはイヌと喧嘩する。
(ちょっと言いすぎかな?)

その相手が気になるということは、
あなた自身も、そのレベルの人間ということ。
あなたが相手を超えてしまえば、
その相手が気にならなくなる。

無視すればよい。
相手が近づいてきたら、それなりに
適当にあしらっておけばよい。

やがて相手は、自らを追いこんでいく。
あなた以上に、苦しんだり、悩んだりする。
いやな思いをする。

つまりは、「根くらべ」ということになる。

その根くらべのできる人を、「丸い人」という。
「賢い人」という。

私のばあいも、あるときから、八方美人で
あることをやめた。
英語の格言にも、「2人の人にいい顔はできない」
というのがある。
年を重ねれば重ねるほど、そうで、人は人を
選んで生きるようになる。

言いかえると、「去る人は追わず」ということか。
そのため友人の数もぐんと減るが、その分だけ、
残り少ない友人たちとの関係が、濃密になる。

・・・というものの考え方に、当初は、自信がなかった。
「広く浅くつきあうことこそ大切ではないか」と
迷ったことも、しばしばある。

たしかにビジネスの世界では、そうかもしれない。
知人の輪は、それが広ければ広いほど、利益につながる。
「名刺の数が多ければ多いほど、金が入る」と説く人もいる。

が、私は、エイズを発症した一人の青年の
手記を読んだとき、私は、自分の考え方が
正しいと確信をもった。その青年は、こう書いていた。

「私の人生は残り少ない」「無駄にできる時間はない」
「だから無駄な人と無駄な時を過ごす時間は、もうない」と。

それを書いたのはアメリカ人の青年だった。
で、それを読んだとき、私もこう思った。
「私にも無駄にできる時間は、もうない」と。

その後、その青年は、半年足らずで亡くなったそうだ。
しかしその青年の半年と、私がまだもっているであろう
10年と、どこがどうちがうというのか。
20年でもよい。
半年を短いといい、20年を長いと、どうして言う
ことができるのか。

この広い宇宙を基準にして考えれば、半年であろうと、
20年であろうと、ともに星がまばたきする瞬間に
過ぎない。どこもちがわない。

しかも20年あるとはかぎらない。明日、交通事故
か何かにあうかもしれない。あさって、不治の病を宣告
されるかもしれない。

だったらなおさら、私には、無駄にできる時間はない。
さらに言えば、無駄な人と無駄に過ごす時間は、ない。

・・・と考えていくと、自と結論が出てくる。

私たちは人を選びながら、生きていく。
当然のことながら、相手も、私という人間を選びながら
生きていくだろう。「あの林はいやなヤツだ」
「あの林とは、もうつきあわない」と。

しかしそれはそれで、かまわない。
かまわないから、私は私で生きていく。
人は、人、それぞれ。

あなたを悪く言ったり、非難したり、
中傷したりする人がいたとしても、気にしない。
言いたいように、言わせておけばよい。

そういう人と、こちら側から、あえて
仲よくする必要はない。ないから、別れる。
古い言い方をするなら、「縁を切る」。
縁を切って、そのまま忘れる。
時の流れに任せる。

どうせ私にしても、あなたにしても、
50年を超えて、生き残ることはない。
100年を超えることは、ぜったいに、ない。

そう考えて、私は私で生きていけばよい。
あなたはあなたで生きていけばよい。

やがて相手は、自らの愚かさの中で、
自らクビをしめていくだろう。
不愉快な思いをするのは、その相手自身ということになる。

(追記)

 私のまわりにも、口だけ出してくる人は多い。しかし口を出すくらいなら、だれにだっ
て、できる。しかもこちら事情も知らないで、そう言ってくるから、たまらない。あるい
は、どこからか一方的な情報だけを聞いて、そう言ってくるから、たまらない。

 さらに権威主義というか、1、2歳、年上というだけで、そう言ってくる。私は内心で
は、「ごちそうさま」と思うが、しかしそれは言わない。言っても無駄。それなりの人物な
ていない。

 だから相手にしない・・・ということになる。が、相手にしないでおくと、その相手は
ますます墓穴を掘り始める。騒げば騒ぐほど、だれからも相手にされなくなる。

 大切なことは、そういう相手はもちろん、そういうことも忘れて、私は私、あなたはあ
なたで、サバサバと生きていくということ。「無視する」というのは、そういう意味。

(追記2)

 この原稿をたまたま横にいたワイフに読み聞かせると、ワイフはこう言った。「冠婚葬祭
がそうね」と。

 ワイフの姉(=私の義理の姉)は、いつもこう言っているという。「もう何十年もつきあ
いはないのに、冠婚葬祭の連絡を受けたりすることがある。うちは本家(ほんや)だから、
顔を出さないわけにはいかない。しかし出るたびに、どうしてこんなつきあいをしなけれ
ばならないのかと疑問に思う」と。

 「田舎」と呼ばれる地方では、こうした風習を断ち切るのは容易ではないかもしれない。
「親戚づきあい」という言葉が、いまだに色濃く残っている。しかしみなが、声を合わせ
ていっせいに断ち切れば、この日本も変わる。

ワ「でも、私たちが断ち切るということは、私たちも相手の人から、断ち切られるという
ことになるのじゃない?」
私「そうだね。だからぼくは、たとえばお前の葬式やぼくの葬式には、だれも来なくても
かまわない。息子の結婚式だって、ほんとうに祝ってくれる人だけが集まってくれた。ぼ
くはそれでいいと思う」
ワ「孤独にならないかしら?」

私「みんな、ほんとうは、孤独なんだよ。みんなその孤独を、ごまかしながら生きている
だけなんだよ。しかしいくらごまかしても、孤独から逃れることはできない」
ワ「冠婚葬祭に、みなが集まってくれるからといって、孤独がいやされるというものでは
ないわね」
私「そう。孤独というのは、もっと別のところにある。だからもっと別の戦い方をしなけ
ればならない。孤独と戦うということは、そんな簡単なことではないんだよ」と。

 私が臨終のときは、ワイフと、もしできれば息子たちがそこにいてくれれば、それでよ
い。葬式も、そうだ。派手な葬式など、望むべくもないが、そんなものをしてくれる必要
はまったくない。

ワ「でも、叔父や叔母の葬儀などは、どうしたらいいの?」
私「そのときの気持ちに、すなおに従えばいい。参列したいと思えば、参列すればいい。
そうでなければ、参列しなければいい。義理にしばられる必要はない」
ワ「でも、相手が、不愉快に思うわよ」
私「そう思うなら思わせておけばいい。どうせその程度の人間関係なんだよ」
ワ「でも反対に、うちの葬式には、だれも来なくなるわよ」
私「ハハハ、それも結構。いいじゃない、それで。どうせその程度の人間関係。うるさい
連中は、こちらから願い下げだよ」と。

(追記3)

 「親戚づきあい」とは言うが、私自身の人生を振りかえってみたとき、たとえばこの私
をその家に一泊させてくれたことがある親戚と言えば、母の実家の1軒しかない。金銭的
な援助を受けた親戚といえば、1軒もない。

 (反対に我が家に泊めてやった親戚となると、何十人もいるぞ!)

 こうした事情は、いまでは、たいていどこの家庭でも似たようなもの。親戚といっても
形だけ(?)。そんな親戚も、少なくない。が、なぜか、日本人は、「親戚」というだけで、
その言葉にしばられる。

 私たちは今、「親戚づきあい」そのものを考えなおす時期に来ているのではないだろうか。
江戸時代の昔ならいざ知らず、今は、もう「血筋」にしばられる時代ではない。こだわる
時代でもない。またそうであってはいけない。

 親戚であっても、また親戚でなくても、そこにあるのは、純然たる人間関係。その人間
関係は、中身を見て判断する。形や外見ではない。中身だ。

 (今日の私の意見は、少し、過激かな?)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●近況(日記風に……)(7月23日)

++++++++++++++++++++++

昨日(7月22日)、この浜松でも、部分日蝕が観察
できるはずだった。
しかしあいにくの雨模様。
私はちょうどその時間、寝室でうたた寝をしていた。
多少、空が暗くなったかな……というところまでは
覚えているが、あとは、そのまま眠りの世界へ。

で、昨日は、仕事の合間を縫って、パソコンショップへ
2度も足を運んだ。
秋には、WINDOW7が発売になる。
それに合わせて、プリンターとか周辺機器も、
買い換えようと計画している。
モニターも、現在は、22インチのものを使用しているが、
24インチ〜以上のものが、ほしい。
……などなど。
だから2度も足を運んだ。

そのパソコンショップでのこと。
店員さんが寄ってきて、「何か……?」と言った。
そのとき私は、L社(旧IBM社)のパソコンの
キーボードを指でいじっていた。
とっさに、私は、「L社のキーボードはいいですね」
と答えた。

そう、たしかにL社のキーボードは、すばらしい。
指で触れていても、気持ちがよい。
好き好きもあるのだろうが、私にはいちばん合って
いる。

「ぼくは、パソコンは、キーボードの感触で選んで
います」と答えると、店員さんも、「そうですね」と、
同意してくれた。

あとは、日常的な仕事。
夜、仕事のあと、BSで、洋画を見た。
以前、見たことのある映画だった。
たしか『エニグマ何とか』という映画ではなかったか?
ドイツのUボート(潜水艦)を奪取して、暗号解読機
を手に入れるという映画だった。

先日見た、『真夏のオリオン』(邦画)そっくりのシーン
が、何か所も出てきた。
新旧を問題にするなら、『真夏のオリオン』のほうが、
模倣したということになる。
(もっとも潜水艦映画というのは、どれも似たような
ものになりやすいが……。)
ただ迫力が、ちがった。
緊張感が、ちがった。
潜水艦映画は、その緊張感が売り物。
緊張感なくして、潜水艦映画はないと断言してもよい。

言い忘れたが、『真夏のオリオン』が、頭の中で、
ますます色あせていくのを感じた。
日本の俳優たちは、顔や声で、ただ力(りき)むだけ。
心底、その人物になりきっていない。
それが迫力や緊張感のちがいとなって、表れる。

+++++++++++++++++++++

●笑い話(「世界、面白ジョーク集」(PHP)より)

 いつもトイレの中で、「世界、面白ジョーク集」を読んでいる。
そのため書斎のほうで、そのまま紹介することができない。
(その本は、トイレ専用の本ということになっている。ごめん!)
その中に、こんな話が載っていた。
(記憶によるものなので、私のほうで、勝手に編集する。)
「ジョーク集」とはいえ、いろいろと考えさせられる。
つまり、おもしろい!

++++++++++++++++

☆神に見捨てられた男

 たいへん熱心な信者がいた。
その信者が、海で遭難にあった。
ボートで漂流した。
そこへ救助隊がやってきて、その信者を助けようとすると、その信者、つまり
男は、涼しい顔をして、こう言った。
「私は、神に守られている。助けなど、必要ない」と。

 救助隊はそのまま去った。
が、今度は、通りがかった船があった。
その船長が救助を申し出ると、その信者、つまり男は、再び、涼しい顔をして、
こう言った。
「私は、神に守られている。助けなど、必要ない」と。

 船はそのまま去った。
で、3度目に、連絡を受けた別の救助隊のヘリコプターがやってきた。
「このままでは嵐に巻き込まれて、命を落とすことになる」と。
しかしそのときも、その信者は、こう言った。
「私は、神に守られている。助けなど、必要ない」と。
が、そのあと本当に嵐がやってきて、その信者、つまり男は死んでしまった。

 ……天国へやってきた男は、神を前にして、こう言った。
「どうして私を殺したのか。
私はあなたを今まで、ずっと信じてきたではないか」と。
すると、神はこう答えた。

 「だから3度も、助けを送ってやっただろうが……」と。


☆観光ビザ

 ある男が死んだ。
そして天国と地獄の分かれ道のところへやってきた。
天使が、その男に、こう言った。
「あなたは善人だ。天国でも地獄でも、どちらでも好きな方に行けばいい」と。

 するとその男は、こう言った。
「一度、天国と地獄の両方を、自分の目で確かめてみてから、決めたい」と。

 天使は同意した。
で、男はまず天国へ行った。
が、そこは真っ白な世界。
老人たちが、本を読んだり、音楽を聴いていたりした。
のんびりとした、かったるい世界だった。

 つぎに男は地獄へ行った。
無数の酒場が並び、男や女が、遊んでいた。
けばけばしいネオンサインも並んでいた。
裸の女が踊っているのも見えた。

 もとの場所へ戻ってきた男は、天使にこう言った。
「地獄の方がいい。地獄へ行く」と。
そこでその男は、地獄へ行くことになった。

 が、地獄へ着くやいなや、そこで待っていたのは、拷問だった。
台に鎖でしばりつけられ、溶けた鉛を頭からかぶせられた。
で、男は、こう叫んだ。

 「話がちがう! 天使に見せてもらった世界は、こんなところではなかった!」と。

 するとそれを聞いた悪魔が、こう答えた。
「お前は、この前は、観光ビザで来たやろが。元役人のくせに、そんなことも
わからないのか!」と。

+++++++++以上、「面白ジョーク集」からの話を、編集++++++++++

 先の「神に見捨てられた男」の話は、信仰の根幹にも触れる問題を秘めている。
以前、この話と正反対の話を聞いたことがある。
実話である。
こんな話である。

 ある教団に、たいへん熱心な信者(女性)がいた。
その信者の夫が、何かの病気で急死した。
そのとき、何かの保険金で、3000万円も手に入った。
その信者は、「それほど多額の保険金が入ったのは、この信心をしていたおかげ」と、
そのうちの1000万円を、教団に寄付してしまった。

 その教団では、1000万円以上の寄付をする信者のことを、「4桁会員」と呼んで、
ほかの信者とは区別していた。

 が、この話は矛盾している。
もし「信心のおかげ」と言うくらいなら、神は、(仏でもよいが)、夫を殺さなかった
はず。

 で、先の「神に見捨てられた男」の話。
「だから3度も、助けを送ってやっただろうが……」という神の言い分に、
恐ろしいほどの説得力がある。
つまり「3度も助けを出してやったのに、すなおに助けに応じなかった、お前が悪い」と。

 この男の話と、1000万円も寄付金を提供した女性は、水面下でともにつながって
いる。
「妄信」という糸で、ともにつながっている。

 で、つぎの「観光ビザ」という話も、おもしろかった。
笑った。
みなさんは、どうであっただろうか。
つまり「観光ビザ」で見る世界と、たとえば、「就労ビザ」で見る世界は、ちがう。
まるでちがう。
そんなことは、世界の常識。
だから悪魔は、こう言った。

 「元役人のくせに、そんなこともわからないのか!」と。

 そう、外国というところは、その国に住んでみないと、わからない。
「わからない」というのは、観光ビザは、観光ビザ。
見せるほうも、表面的な部分しか、見せない。
はっきり言えば、本気で、相手にしない。
笑顔だけ振りまいて、それでおしまい。

 最初、観光ビザで地獄へ行った男は、地獄のよい面だけを見て、「地獄とは、そういう
ところ」と思ってしまった。
しかしこうした経験は、だれしも、一度や二度はする。
よい例が、「田舎暮らし」。

 それまで都会でサラリーマンなどをしていた人が、定年後、あるいはその前に、
思い立って田舎暮らしを始める。
しかしたいてい、失敗する。
それもそのはず。
村の人たちが、受け入れてくれない。
(「村」という自治体が、いくら振興策を練ったところで、それで現地の村の隣人たちが
動くわけではない。)

 私も、浜松市という(都会)と、山の中の(山荘)と、2つの世界で生活するように
なって、もう15年近くになる。
幸いにも村の人たちは、暖かく私を迎え入れてくれた。
が、しかし実際に「住む」となると、二の足を踏んでしまう。
田舎生活には、外から見えない、無数の問題がある。

 だからよく客人が、こう言ったりすると、私は、「よしなさい!」と思ってしまう。
「いいところですね。私もこんなところに住んでみようかな」と。
先のジョークを読みながら、別の頭で、そんなことを考えた。


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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      8月   19日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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●痛ましい事件(抑圧は悪魔を作る)

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またまた13歳の少年が、父親を殺害する
という事件が起きた。

まず、その記事(産経新聞・7月18日)を
読んでみたい。

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+++++++++++++以下、産経新聞より、抜粋転載+++++++++++++

島根県I市で中学2年の少年(13)が、父親(43)を殺害した事件で、少年の付添人
となった弁護士が17日、M市内で会見し、少年が「父親の勉強に対する指導が厳しかっ
た」との内容を話していることを明らかにした。

 付添人によると、これまで4回、少年に面会しているが、落ち着いた様子で応じている
という。付添人は「父親に対する恐怖心が拒絶感になり、事件に至ったのではないかと考
えている」と話した。今後は、少年の主張を代弁するなど少年の権利を保障するとともに、
聞き取りをしていくなかで更生に助力するとしている。

 I市教委などによると、少年は昨年11月、スクールカウンセラーに「成績のことで父
親に頭などをたたかれる」と訴え、竹刀でたたかれる体罰行為もあったという。

 県警のこれまでの調べに、少年は「父親を殺すしかないと思った」と説明。さらに、同
級生には事件前、「おやじ殺しちゃう」と殺害を予告し、当日朝には、「殺した」と伝えて
いた。少年の部屋からは、殺害方法などが書かれたメモやナイフ数本が見つかっており、
県警は少年が計画的に父親を殺害した可能性があるとみて慎重に調べている。

+++++++++++++以上、産経新聞より、抜粋転載+++++++++++++

●「抑圧」の恐ろしさ

 イギリスの教育格言に、『抑圧は悪魔を作る』というのがある。
心理的に抑圧状態が慢性的につづくと、人の心が悪魔的になることを言ったもの。
子どものばあい、それが顕著に現れる。

 まずつぎのテストを受けてみてほしい。
このテストは、表面的には、穏やかで従順な子どもを対象にしたものである。

あなたの子どもは……、

(  )表面的には穏やかで従順である。(親の前では、見た目には静か。)
(  )感情表現、とくに喜びの表現が乏しい。
(  )ときにツンとした人間的な冷たさを感ずる。
(  )ものの考え方が、消費的で刹那的。(小遣いなどもすぐ、使ってしまう。)
(  )「殺す」「死ぬ」という言葉をよく使う。(あるいはあちこちに、書く。)  
(  )「銃(ガン)」「戦争」などに興味をもっている。
(  )ノートなどに残酷な絵を描くことが多い。(「血」をテーマにした絵が多い。)
(  )善悪の判断にうとく、ときに常識はずれなことをする。
(  )何を考えているのか、親にもわからないときが多い。
(  )小動物や人形などに興味を示さない。

 もしこのテストで、5個以上思い当るところがあれば、あなたの子どもの心は
かなりゆがんでいるとみてよい。
(即席で作成したテストなので、信頼性はあまりない。)

 表面的に穏やかで従順であるからといって、「いい子」とは限らない。
それは子どもの世界では常識。
表面的な様子に、だまされてはいけない。
とくにあなた自身が権威主義的なものの考え方をしているなら、注意したらよい。

(権威主義:悪玉親意識が強く、上下意識も強い。
子どもが口応えしただけで、「親に向かって、何てこと言うか!」と怒鳴りつけるような
タイプの親をいう。
「産んでやった」「育ててやった」と、親風を吹かすことも多い。
妻に向かっては、「食べさせてやる」「稼いでやる」とか言う。
家父長意識も強い。)

 今回、I市で起きた事件の背景が、そうであったというのではない。
しかしこの種の事件は、まさに氷山の一角。
その一歩、あるいは二歩手前で、あやうく事件にならないで、闇に隠れている
ケースとなると、ゴマンとある。
ひょっとしたら、あなたの親子関係も、そうかもしれない。

 もしそうなら、(1)権威主義的発想を捨てること。
(2)友として、子どもの横に立つこと。
(3)今の状態を、これ以上悪くしないことだけを考えて、対処すること。

 この3つに心がけてみてほしい。
時間はかかるが、(というのも、この種の心の問題は、一朝一夕には解決しないので)、
やがて子どものほうから、心を開いてくる。

 それにしても、「『成績のことで父親に頭などをたたかれる』と訴え、竹刀でたたかれる
体罰行為もあった」とは!

 そこまでひどくなくても、毎日、毎晩、「勉強しろ!」「うるさい!」の大乱闘を
繰り返している親子は、少なくない。
もしあなたがそうなら……。
 
「子どもの成績があがったら、どうなのか?」
「それがどうしたというのか?」
そのあたりからもう一度、考え直してみてほしい。

 もし殺された父親に、そういうものの見方の一片でもあれば、少なくとも今回の
ような悲劇は避けられたはず。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 父親殺害 抑圧は悪魔を作る)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●スパイ・テスト

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私は、幼児を教えて40年になるが、たとえば、
幼児のもっているバッグの中に、手を入れたことは、
ただの一度もない。
ほんとうに、ない。

たとえばその日のレッスンが終わると、出席表にシール
を張ることにしている。
そのとき、バッグから出席表を出さない子どもがいる。
何か、ほかのことに気をとられて、隣の子どもと、
ふざけて遊んでいたりする。

そういうとき、私はその子どもに向かって、「出席表を
出してください」と、何度も促す。

バッグの口は開き、そこに出席表が見えている。
手でつかめば、さっと取りだすことができる。
それでも私は待つ。
子どもが自分で出席表を取りだすまで、待つ。

+++++++++++++++++++++

●スパイ・テスト

 こうしたテスト方法(入学試験方法)は、今では、全国のあちこちの小学校で
行われている。
あえて名前をつければ、「スパイ・テスト」ということになる。
もちろん学校によって、呼び方はちがう。
浜松市のある小学校では、「遊びの部屋」と呼んでいる。
しかたは、こうである。

 まず(1)7〜8人、1グループの子どもたち(園児)を、ひとつの部屋に集める。
そこで(2)教師が、あれこれと指示をする。

 「青い線から外へ出てはいけません。青い線の中にあるおもちゃでは遊んではいいです。
しかし青い線の外にある、ピアノやパソコンには、さわってはいけません。
タンバリンの音が聞こえたら、遊びをやめて、後片づけをしてください」と。

 こうして指示をしたあと、(3)教師は、外へ出ていく。
言い忘れたが、子どもたちは胸に、大きなぜっけん(番号)をつけている。

●モニター

 「遊びの部屋」には、テレビカメラが設置してある。
教師は子どもたちの様子を、外(職員室)から監視し、子どもたちの様子を見る。
どの子どもが言いつけどおりに遊んでいるか、あるいは遊んでいないか、など。

 時間にすれば、20〜30分ほど。

 このテスト方法は、子どもたちのありのままの様子を見るテスト方法としては、
たいへんすぐれている。
というのも、この時期の子どもには、現実検証能力というか、自己評価力が、
まだほとんどない。
自分の姿を、第三者的な視点から、客観的に見ることができるようになるのは、
小学3年生〜以上である。
それまでは、自分がどういう立場にあった、他人にどう思われているか、それを判断
することはできない。
子どもたちは先生がいないことをよいことに、ありのままの自分を、さらけ出してしまう。

 だから親たちが、「そういうテストがあるから、先生の言いつけをよく守って遊ぶのよ」
と言っても、意味はない。

●だから、それがどうなの?

 このテスト方法が、親たちとの懇談会の場で話題になった。
「子どものありのままの姿を知るには、よいテスト方法かもしれませんね」と、
私が話すと、親たちは、みな、笑った。

 しかし具体的な話になると、みな、「それはおかしい」と言いだした。
たとえば教室の天井の隅に、テレビカメラを設置する。
私や親は、そのまま廊下に出る。
廊下に設置してあるテレビを見ながら、子どもたちの様子をさぐる……。

 そこで問題!
このテスト方法には、「だからどうなの?」という部分がない。
たとえば私の指導に従わず、勝手にパソコンやピアノに触って遊んだ子どもがいたとする。
そういうとき、どうするのか?

 あとで、その子どもを叱るということもできない。
まさか「外から、スパイしていました」とは、とても言えない。
もしそんなことを言えば、私とその子どもとの信頼関係は、そのまま破壊される。
いくら相手が幼児だからといっても、信頼関係なくして、教育は成り立たない。

●人間性の問題

 学校という集団教育の場では、監視カメラは必要かもしれない。
不審者による犯罪も、心配される。
しかしそのカメラが、子どもの方を向いたとき、監視カメラは、別の意味をもつ
ようになる。

 それは必要なのか。
そこまでしてよいのか。
またそれは許される行為なのか。

 いろいろ議論はあるだろう。
あるだろうが、現実に今、しかしそれがそのままテスト方法として採用されている。
ありのままの子どもの姿を知るためには、よいテスト方法かもしれない。
しかし私はどうしても、こうしたテスト方法には、生理的な嫌悪感を覚える。
……覚えてしまう。
それがわからなければ、冒頭に書いたバッグの話を思い浮かべてみてほしい。

 つまりあえて言うなら、このテスト方法は、子どものバッグの中に手を入れ、
バッグの中身を調べるのと、どこか似ている(?)。

 さらに言えば、子ども部屋に親が勝手に入って、(あるいは教師もいっしょに
入って)、子どもの机の中を調べる行為にも通ずる。
こうした方法は、何度も書くが、ありのままの子どもの様子を知るためには、
よい(?)方法かもしれない。
が、このテスト方法には、それをする人たちの人間性の問題がからんでくる。

 それができる人は、できる。
しかしできない人には、できない。
そういうテスト方法である。

●人権の無視

 どこかでこっそりと監視しながら、子どもの様子をさぐる……。
いくら相手が幼児だからといっても、本来なら、許されるテスト方法ではない。
それがわからなければ、あなた自身のこととして、考えてみたらよい。

 あなたが家庭の主婦なら、こうだ。
あなたの家庭での様子を知りたいと思ったあなたの夫が、家のどこかに監視カメラを
設置する。
それをあなたの夫が、携帯電話に転送して、ずっと見ている……。

 想像するだけで、ぞっとするような話ではないか。
あなたにまともな神経があるなら、あなたはきっとこう叫ぶはず。

 「そういういやらしいことは、やめて!」と。

 そう、こういうテスト方法は、いやらしい。
子どもというより、人間としての人権を無視している。
子どもにも人格があり、人権がある。
そうしたものを、無視している。

 ……といっても、今ではこのテスト方法は、全国の小学校で、広く採用されている。
何もこの浜松市の小学校だけが、しているわけではない。
しかしもし学校側に、少しでも子どもへの人権意識があるなら、どこかで抵抗感を覚える
はず。
それとも、今では、学校の先生たちは、子どもの持ち物などを、平気で調べているとでも
いうのだろうか。
子どものバッグの中に、勝手に手を入れて……!

 10年ほど前に、こんな原稿を書いたことがある(中日新聞発表済み)。

++++++++++++++++++++

ついでに、子どものプライバシーは、どのように
考えたらよいか。それについて書いたのが、つぎ
の原稿である。
この原稿は、中日新聞に掲載して
もらったが、かなり反響のあった原稿である。

++++++++++++++++++++

●逃げ場を大切に

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。動物はこの逃げ場に逃げ込むことによ
って、身の安全を確保し、そして心をいやす。人間の子どもも、同じ。

親がこの逃げ場を平気で侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあい
には、家出ということにもなりかねない。

そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ場へ逃
げたら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱ったり
してもいけない。

子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保できないとわか
ると、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小2)は、親に叱られる
と、トイレに逃げ込んでいた。B君(小4)は、近くの公園に隠れていた。C君(年長児)
は、犬小屋の中に入って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上に逃げた
子どももいた。

 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」というこ
とになる。

このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんどん遠ざかっ
ていくという特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。D君(小1)は、おさげの中に、
野菜まで入れて、家出した。

これに対して、目的のある家出は、必要なものだけをもって家出するので、区別できる。
が、もし目的のわからない家出を繰り返すというようであれば、家庭環境のあり方を猛省
しなければならない。過干渉、過関心、威圧的な子育て、無理、強制などがないかを反省
する。激しい家庭騒動が原因になることもある。

 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で
調べる人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになる
から注意する。

できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにする。たとえ相手
が幼児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなたはあなた」とい
うものの考え方を育てる。

 話は変わるが、98年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持
ちものを検査せよ」という意見があった。しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子ど
ものカバンの中など、のぞけるものではない。

私など結婚して以来、女房のバッグの中すらのぞいたことがない。たとえ許可があっても、
サイフを取り出すこともできない。私はそういうことをするのが、ゾッとするほど、いや
だ。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子
どものころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。
またプライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。それはもう、理
屈を超えた、人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけられるかのような
不快感だ。

それがわかったら、あなたは子どもに対して、それをしてはいけない。たとえ親子でも、
それをしてはいけない。子どもの尊厳を守るために。

(はやし浩司 家の間取り 子ども部屋 プライバシー 子どもの尊厳 家出 
はやし浩司 ナイフによる殺傷事件 子どもの持ち物 スパイテスト スパイ・テスト)
(040401)


+++++++++++++++++++++

そう言えば、「子どもにはナイフを与えろ」と説いていた教育評論家がいた。
最後は、麻薬所持で逮捕され、しばらくこの世界から姿を消したが、またその名で、
原稿を書き始めているという。
いいのかなあ?

それについて書いた原稿が、つぎのもの。

+++++++++++++++++++++

●ニセ科学(pseudo science)

In Japan very strangely most of the young people believe that each man's personal 
character is decided by the blood type. It is only one of pseudo science, which widely 
spread throughout Japan.

++++++++++++++++

家具屋の店員に、重い家具を搬入してもらった。
そのとき、私が「こんな家具、地震で倒れたら、たいへんだなア」と、ふと漏らすと、そ
の店員は、こう言った。
「重いから、倒れません」と。

私は、その言葉を聞いて、あっけに取られた。

血液型による性格判定についても、しかり。
つまり科学性、ゼロ!

++++++++++++++++

「Imidas、時事トレンド」の中に、こんな記事が載っていた。同志社大学教授の左
巻健男氏の書いたものだが、「人はなぜ、ニセ科学を信ずるのか?」というのが、それ。

 左巻氏は、ニセ科学として、いくつかの例をあげている。そのひとつが、マイナスイオ
ン。

(1) マイナスイオンとは、化学で学ぶ「陰イオン」ではなく、これに近いのが、大気科
学の「負イオン」である。「滝にマイナスイオンが発生している」と言うばあいには、負イ
オンだが、これが健康によいという根拠はない。

プラスイオンは「吸うと心身の状態が悪くなる」のに対して、マイナスイオンは空気を浄
化し、吸うと気持ちのイライラが解消し、ドロドロ血はサラサラに、アトピーや高血圧症
にも効き、健康にもいい」というのである。

これは「納豆ダイエット」でねつ造が発覚したテレビ番組「発掘、あるある大辞典」(フジ
テレビ系)が火付け役で、1999年から2002年にかけて、特集番組で驚くべき効能
がうたわれた。

そこから有名企業までが、マイナスイオン類似の効果をうたう商品を製品化し、エアコン、
冷蔵庫、パソコン、マッサージ機、ドライヤーや衣類、タオルなど、広範囲の商品が市場
に出されるに至った(以上、P162)、と。

 ニセ科学は、血液型による性格判定だけではなかったというわけである。電気店へ行く
と、たしかにその種のうたい文句を並べた商品は多い。私はマイナスイオンにとくにこだ
わっていたわけではないが、今度、新しく購入した冷蔵庫にも、それがあった。

 しかし左巻氏に言わせると、それもニセ科学だったとは! しかも火付け役が、あの「発
掘、あるある大辞典」だったとは! 

 左巻氏は、こうつづける。「マイナスイオン測定器でこれらを測定すると、1ccあたり、
数10万個との数値を示すが、空気の分子数とくらべると、微々たる数値にすぎないこと
に注意を要する」(同書)と。

 だからといって、つまりImidasにそう書いてあったからといって、左巻氏の意見
を全面的に信ずるのもどうか、ということにもなる。しかしここは、やはり科学者である
左巻氏の意見を尊重したい。相手が、「発掘、あるある大辞典」では、話にならない。

 左巻氏も書いているが、本当の問題は、こうしたニセ科学にあるのではなく、「人はなぜ、
ニセ科学を信ずるのか?」という部分。

 もうひとつ、こんな例をあげている。

(2) 容器に入った水に向けて、「ありがとう」と「ばかやろう」の「言葉」(文字)を書
いた紙を張り、その水を凍らせる。

すると「ありがとう」の水は、対称形の美しい六角形の結晶に成長し、「ばかやろう」の水
は、崩れた汚い形の結晶になるか、ならない。

ゆえに「水が言葉を理解する」と主張する『水からの伝言』(江本勝著)という本が話題に
なった。

水という物質が、言葉によって影響を受けるということはない(同書)、と。

 こんなアホなことは、だれにでもわかる。何も、左巻氏の説明を借りるまでもない。し
かし、だ。こんなアホな説を根拠に、教育界でも、「きれいな言葉を使いましょう」運動が
広まったという。

 理由は、「人間の体の6〜7割は水だから」と。が、批判が高まると、「それに加担した
教育団体は、ホームページからその授業案を削除したが、いまもどこかで、こうした(道
徳)の授業が行われている」(同書)と。

 しかし、『水からの伝言』とは何か? 江本勝という人物は、どんな人物なのか? 少し
前、麻薬を所持していて逮捕された教育評論家がいた。彼は以前、「子どもにはナイフを持
たせろ」「親が子どもを信頼している証になる」と説いていた。

 その教育評論家は、都会で子どもたちによるナイフ殺傷事件がつづくと、いつの間にか、
自説をひっこめてしまった。私は、左巻氏の意見を読みながら、その教育評論家のことを
思い浮かべていた。

 で、さっそくヤフーの検索エンジンを使って調べてみると、それは、そこにあった。

いわく、「私たちは、水の結晶写真技術に基づいて、愛・感謝の気持ちが水を美しく変化さ
せるということを、実証してきました。水をきれいにすることにより、私たちの心身もき
れいになり、健康を取り戻し、本来持っている才能を開花することができるのです。水が
変われば世界が変わります。いっしょに波動と水の可能性を探究しましょう」(「水からの
伝言」HPより)と。

 どうやら、本気らしい。

 しかし……? 「?」マークを、1ccあたりに存在する水の分子の数ほど、つけたい。
その数は、約3x10の22乗!(ヤフー・知恵袋参照)

 数字で表してみると、こうなる。

300,0000,0000,0000,0000,0000個!

 しかし、左巻氏ではないが、どうして人は、こんな珍説を信ずるのだろう。あの占星術
にしても、そうだ。科学性は、さらに低い! ゼロどころか、ゼロにもならない!

 これも教育の欠陥といえば、それまでだが、その先には宗教があり、カルトもある。け
っして、軽く考えてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ニセ科学 非科学 納豆ダ
イエット マイナスイオン マイナス・イオン 水からの伝言 水の結晶)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司※


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●イライラする若者たち(文部科学省所管の統計数理研究所)

++++++++++++++++++

このほど文科省は、「日本人の国民性・
宣告調査」の結果を公表した。

産経新聞、7月17日の記事を、そのまま
紹介させてもらう。

++++++++++++++++++

●産経新聞の記事より

+++++++++++以下、産経新聞(090717)+++++++++++

 経済の低迷が続く中で「自信喪失」から抜け出せず、心のよりどころを模索する傾向が
強まっている……。文部科学省所管の統計数理研究所は16日、5年ごとに実施している
「日本人の国民性」全国調査の結果を公表した。「生活は貧しくなる」と将来を悲観する人
が57%を占め、若者層を中心に「いらいら」が募っているという。同研究所は「調査は
不況の影響が広がり始めた昨秋に行った。影響が深刻化している現在は不安感がさらに増
しているはず」と分析している。

 調査によると、最近20年間で「社会に対する悲観的な見方」が急速に浸透。バブル崩
壊後では4回目となる今回の調査でも、「自信喪失」は続いている。

 日本の経済力に対しては「非常によい」「ややよい」を合わせた肯定的な評価が37%で、
日本経済への自信に満ちていた昭和63年の82%には遠く及ばない。将来展望では「人々
が貧しくなる」が5年前の47%から57%に跳ね上がり、「豊かになる」と希望を持つ人
は14%から11%に減った。

 今回の調査で目立ったのは、社会状況を反映して「いらいら」を募らせる若者が急増し
たこと。1カ月間に「いらいら」した」人の割合が、20〜40代で急増し、20、30
代では初めて6割を超えた。

 一方、家庭や職場での人間関係を重視し、精神的な充足感を求める傾向も読み取れる。
自分にとって一番大切なものは、「家族」が最も多い46%で、50年前(昭和33年)の
12%の4倍に迫る。また、「仕事以外で上役とのつき合いがあった方がよい」とする人が
20、30代では6割を超え、若い社会人が職場での人間関係を見直す傾向が強まってい
る。背景には、派遣社員など不安定な雇用環境の広がりがあるとみられる。

 人間として大切な道徳を2つ選ぶ質問では「親孝行」(76%)や「恩返し」(57%)
を上げる人が多く、「個人の権利を尊重」(27%)や「自由を尊重」(36%)に差を付け
た。

 初めて質問項目となった「生まれ変わりたい国」では77%が日本と回答。また、科学
技術の水準が「非常によい」とする人が10年前の24%から今回は35%に、芸術では
7%から13%に伸び、経済以外の分野では「自信回復」の兆しも読み取れる。

 調査は昭和28(1953)年から実施。今回は昨年10月下旬から約1カ月かけ、無
作為に選んだ20歳以上80歳未満の男女約3300人から回答を得た。

+++++++++++以上、産経新聞(090717)+++++++++++

 記事の中に出てくる数字を、まとめると、つぎのようになる。

「生活は貧しくなる」と将来を悲観する人……57%

日本の経済力に対しては「非常によい」「ややよい」……37%
(注:日本経済への自信に満ちていた昭和63年の82%には遠く及ばない。)
「人々が貧しくなる」……5年前の47%から、57%に増えた。
「豊かになる」と希望を持つ人……14%から11%に減った。

1カ月間に「いらいら」した」人……20、30代では、初めて60%を超えた。

人間として大切な道徳を2つ選ぶ質問では、

「親孝行」     ……76%
「恩返し」     ……57%
「個人の権利を尊重」……27%
「自由を尊重」   ……36%

●マイナス変化

 こうしたアンケート調査が公表されたとき、それに驚くときもある。
しかしその一方で、「まあ、こんなものだろうな」と、納得するときもある。
今回の文科省の統計数理研究所の調査結果を見たときは、後者のほうだった。

 私たち団塊の世代は、日本の急速な変化に対して、それについていくだけでたいへん
だった。
が、結構それなりに楽しむこともできた。
実際には、怒涛をかけ分け、船をこぐような緊張感とスリルを、いつも肌で感じていた。
こうした前向きな変化を、「プラス変化」と呼ぶなら、現在の若者たちが感じている
変化は、「マイナス変化」ということになる。

 たとえばボットン便所から水洗便所への変化は、「プラス変化」、
水洗便所からボットン便所への変化は、「マイナス変化」ということになる。

 ものごとは、サッカーの試合でもそうだが、攻勢のときは、おもしろい。
押せ押せムードで、意気もあがる。
しかし一度守勢に回ると、ハラハラドキドキの連続。
それが長くつづくと、この調査結果のように、イライラ感に変化する。
とくに今の20代、30代の若者たちは、日本の高度成長期の波に乗り、飽食と
ぜいたくを、ほしいままにした。

 私は当時から、現在の(結果)を、予測し、心配していた。
「飽食とぜいたくに慣れきってしまったら、この先、子どもたちは、どうなる
のだろう」と。
「今のまま、高度成長がいつまでもつづくはずがない。
経済がマイナス成長になったとき、今の若者たちは、はたしてそれに耐えられるだろうか」
と。
それがそのまま、「60%」という数字になったと考えてよい。

●親孝行

 その一方で、「大切な道徳」として、興味深いことに、76%の人たちが、
「親孝行」をあげている。
年代別の数字がわからないので、コメントできないが、「日本人全体としてみれば、
そんなものだろうな」というのが、私の感想。

 とくに50代以上の人たちは、「親孝行論」を強く主張する。
しかしここで注意しなければならないのは、「親孝行論」には、2側面性があるということ。

(1)自分自身が「子」の立場にいて、健在する「親」をもっているときの親孝行論。
(2)自分自身が「親」の立場にいて、健在する「子」をもっているときの親孝行論。

 76%の人が、(1)と(2)のどちらの立場にいるのか、この報道だけではわからない。
が、もし(2)の立場だったら、親孝行論も、ずいぶんと身勝手なものと言わざるを
えない。
自分の息子や娘に対して、「私に親孝行しろ」とは!

 もっともこういうケースのばあい、ほとんどの親は、「先祖」という言葉を使って、
自分への親孝行論を正当化する。
「先祖を大切にしろ」と。
まさか「自分を大切にしろ」とは言えない。
だから「先祖を大切にしろ」となる。

●若者たちの老人観

 若者たちがいらいらしている気持ちは、これでよくわかった。
わかったが、しかし私はもうひとつの変化を、心配する。
そのいらいらした気分を、最近の若者たちは、私たち古い世代に向け始めているという
こと。
(これは多分に、私の杞憂(=取り越し苦労)か?)

つまり「老人がふえたから、日本は貧しくなったのだ」と。
あるいは「老人がふえればふえるほど、日本は貧しくなる」でもよい。
この先、私たち団塊の世代が75歳になるころには、日本人の約3分の1が、その
老人になる。
そうなったとき、若い世代の人たちは、私たち老人をどう見るだろうか。
想像するだけで、ソラ怖ろしくなる。

 さて、この先、この日本はどうなるのだろう?
日本人は、どう変化していくのだろう?
ただひとつ言えることは、「今のままではいけない」ということ。
 
 産経新聞は、「精神的な充足感を求める傾向も読み取れる」とコメントを寄せているが、
私は、この言葉に期待したい。
こうした閉そく感を打ち破るには、「精神的な充足感」しかない。
カネやモノではない。
心。
そのためにも、ひとりでも多くの人が、精神的な充足感を求めるために、
立ち上がってほしい。
今回の調査結果を見て、私は、そう感じた。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【首相、閣僚の脳検査を義務づけよう】

●AS首相

++++++++++++++++++++++++++

夜遅く、山荘にやってくる。
途中、コンビニで、タブロイド紙(日刊ゲンダイ)を買う。
一面の大見出しには、「予想以上にAS自民は大敗する」(7・17)とあった。
それが気になった。
その下に、AS首相の、さらに醜い、あの表情が載っていた。

小見出しには、「どうやら精神に異常をきたしていると見えるバカ首相の
指令で、自爆玉砕選挙に突入していく、まるで勝てない
戦争をした戦前の東条英機政府さながら」と。

一国の宰相が、ここまで酷評される。
その異常さに、驚いた。

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●権力の亡者

 当初、選挙までの暫定内閣だったはずのAS内閣。
1、2週間で、その使命を終えるはずだった。
が、そのつど、ああでもない、こうでもないと、自分勝手な理由をこじつけて、
権力の座に居座ること、10か月。
自称「外交のAS」とか、「経済のAS」とか言って、いろいろやってはみた。

しかし外交面でも、経済面でも、さしたる成果はゼロ。
アメリカには相手にされず、ロシアやドイツを怒らせただけ。
「経済」といっても、日本国内はもとより、世界中に、金(マネー)をばらまいただけ。
自民党内部からでさえ、「AS首相に欠けるのは徳性」とまで、酷評される始末。
しかしそんなことは、当初から、わかっていたはず。

 あのAB元総理大臣の辞任劇の陰で暗躍したのが、AS氏であるという説もある。
AB元総理大臣は、「(ASに)裏切られた」と言って、辞任した。
陰謀と策略。
AS首相に張り付いたイメージは、この10か月、増大することはあっても、縮小
することはなかった。
「精神に異常をきたしていると見える」(日刊ゲンダイ)というのは、少し
言いすぎかとは思う。
しかし今、日本中の人たちが、それに近い印象を持ち始めている。

 たしかに、おかしい。
AS首相は、たしかに、おかしい。

●落下傘(候補)

 横山ノック氏(故人、元お笑いタレント)が、大阪府知事になったとき、だれもが
首をかしげた。
結末は、破廉恥事件を起こして失脚。
私たち日本人は、あの横山ノック氏を通して、何を学んだのか。
そのままその後を引き継いだのが、宮崎県。
宮崎県のAZ知事。

 自民党から衆議院議員への出馬要請受け、「総裁候補にしてくれるなら」という
条件をつけた。
だれしもお笑いタレント特有のギャグかと、わが耳を疑った。
しかしAZ知事は、本気だった。
そこで自民党の出した提案は、東京都X区、比例区第一位候補者……!

 が、日本人も、そこまでバカではない。
自分への逆風を知ると、「師匠のBタケシ氏に、『甘くない』と言われた」とか
何とか、これまた勝手な理由をこじつけて、突然、辞退表明。
「宮崎県知事に戻る」とか、言い出した。
今回の衆議院議員出馬騒動で、振り回されたのは、宮崎県民だけ。
AZ知事にしてみれば、宮崎県など、ただの踏み台でしかない。……なかった。

 この静岡県にしても、中央からやってくる政治家というのは、たいていこの種の
政治家と思って、ほぼまちがいない。
称して、「落下傘(候補)」と言う。
落下傘のように、ある日、突然、空から舞い落ちてくる。
落選すれば、また元の職場に、そのまま戻る。

●幻想主義者

 金(マネー)と女と権力。
まったく異質のもののように見えるが、これら三者は、(煩悩)という欲望を介して、
密接につながっている。
三者一類と考えてもよい。

 権力の魔力とやらを知りたかったら、歴史をながめてみればよい。
一度権力の魔力にとりつかれた政治家は、狂ったように、その座にしがみつこうとする。
政敵を粛清(殺害)することなど、朝飯前。
まともな政治家なら、まだ救われる。
しかしこの類の政治家は、まともでないから困る。
よい例が、あのスターリンである。
彼が率いた恐怖政治のもとで、いったい、どれほど多くの善良な市民が、命を
失ったことか。
何十万人?
何百万人?
あるいはそれ以上?

私はこうした政治家たちを、「幻想主義者」と呼んでいる。
「権力」という、おかしな幻想にとりつかれ、その奴隷となって自分を見失ってしまう。

 権力が人を狂わせるのか。
それとも狂っているから、その人をして、権力に向かわせるのか。
あるいは人は、権力に向かうと同時に、より狂人的になるのか。
しかしそんな政治家を抱いたら、それこそ市民こそ、えらい迷惑。

●自民党の終焉(しゅうえん)

 このまま何ごともなければ、日刊ゲンダイ紙が言うように、AS自民党は、
つぎの国政選挙で、大敗以上の大敗をする。
週刊誌によってちがうが、民主党の単独過半数確保は、ほぼまちがいないようだ。
すでに火事場のネズミよろしく、連立政権を組んでいたK党ですら、連立離脱を
ほのめかしている。

 「何ごともなければ……」というのは、「あのAS首相のことだから、何を画策
しているかわからない」という意味である。
何か問題が起きるたびに、それを理由にして権力の座にしがみついてきた。
今度は、自ら、何か問題を起こす。
そういうことも、じゅうぶん考えられる。
あるいは今、AS首相は、血眼(ちまなこ)になって、その問題をさがしている?
今のAS首相にしてみれば、(失うこと)イコール、自己否定ということになる。
それこそ徳性のある政治家なら、自己否定すらも、自ら心の中で消化することも
できる。
が、AS首相には、その徳性すらない。

●金権主義

 民主主義がこの世に生まれたときはもちろんのこと、この日本に民主主義が
もたらされたとき、民主主義はこれほどまでに金権に毒されやすいものだと
いったい、だれが予想しただろうか。
今の日本の民主主義は、その金権に毒されているというよりは、腐敗しきっている。
民主主義そのものが、金権の奴隷。
金権に操られるがまま操られ、金権の道具として、利用されている。

 はからずも「日刊ゲンダイ」は、AS首相を、あの東条英機にたとえた。
そう、あの東条英機にしても、自分の失敗を認め、すなおに退散していれば、広島の
原爆はなかった。
長崎の原爆もなかった。
東京大空襲もなかったかもしれないし、沖縄の玉砕もなかったかもしれない。

 歴史作家の加来耕三氏の言葉を、このように伝えている。

『まさしく、今のAS首相は東条英機ですね。
つまり冷静な判断力がなく、国民のことを考えられない。
頭にあるのは自分自身の有終の美だけなのでしょう。
いかに自分がかっこよく散るか、それしか考えていないように見えます」(一面)と。

●「精神に異常をきたしていると見える」(日刊ゲンダイ)

 AS首相の精神が、どうなのかということについては、わからない。
しかし一連の言動や失言からして、脳の何らかの障害が疑われても、しかたない。
「精神に異常をきたしていると見える」という発言については、「日刊ゲンダイ」社
(名古屋市中村区名駅4−4−12・購読は、中日新聞出版販売店)に
責任を取ってもらうことにして、もし仮にそうであるとするなら、当然に私たちは、
ドクターストップをかけなければならない。
今は無理なら、そういうシステムを早急に、作り上げなければならない。

 その第一歩として、首相はもちろん、閣僚級の人物については、最低でも、
脳ドックを受けてもらい、その診断結果くらいは、公表すべきではないのか。
就任時はもちろん、半年ごとに、公表したらよい。
認知症、脳梗塞、精神病などなど。
こうした心配のある人物は、そもそも国のリーダーとして、ふさわしくない。
国のリーダーになってもらっては、困る。
また任期途中でも、その心配が発生したら、ドクターストップをかける。

 これは当人のプライバシーがどうのこうのという問題ではない。
またそのレベルの話でもない。
民間航空機会社のパイロットでさえ、半年ごとに精密な健康診断を受けている。
もしその時点で、不適格の判定がくだされたら、以後、そのパイロットは、
操縦桿を握られなくなる。

 民間航空機会社の一パイロットでさえ、そうである。
が、どうして首相には、そういう検査が義務づけられていないのか。
現に、民間のタブロイド紙ですら、AS首相の精神の異常さを疑っている。
気づいている人も多いかと思うが、AS首相の失言の数々、漢字の読み違いなどは、
単なる「ミス」ではない。
ミスではすまされない。
話す言葉ですら、きちんとした文章になっていない。
ズタズタというか、支離滅裂。
私は専門家ではないが、私は、AS首相の認知症の初期症状を疑っている。
その心配をしている。

 そのためにも、つまり私たちがもつ不安や心配を解消するためにも、一度、
脳ドックを受け、それを公表してほしい。
そういうシステムを、一日も早く、確立してほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW 首相の脳検査 脳ドック 首相の適格性)


Hiroshi Hayashi++++++++JULY 09++++++++はやし浩司

●HPの修理

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「修正」というよりは、「修理」と書いたほうが、わかりやすい。
昨日見たら、私のメインのHPの一部が、ズタズタに壊れていた。
原因は、よくわかっている。

 私はメインのHPには、K7社製のHP作成ソフトを使用している。
が、このソフトは、WINDOW・ビスタには対応していない。
(もともとは、XP用に開発されたもの。)
そのソフトを、だましだまし、使っている。

 そのため、アニメーションや、ロゴ文字を挿入すると、それらが、
あちこちでゾンビのように現れる。
HPを破壊する。
(ウィルスによるものではないので、どうか、ご安心を!)

 その修理に、今朝、2時間ほどかかった。
ひとつずつ、アニメーションを消し、ロゴをふつうの文字に置き換えた。
破壊された写真については、一枚ずつ、(切り取り)→(張り付け)を繰り返した。
結構たいへんだったが、その分、楽しかった。

 秋に、WINDOW7が発売になる。
WINDOW7のほうでは、XP用ソフトが、そのまま使えるようになるという。
それまでの辛抱。
がまん。
プラス、秋が楽しみ。
64ビットマシンとは、どんなマシン?
ゾクゾク!
ワクワク!
市販パソコンの中では、最高性能のものを、買うつもり。


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休みます。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【兄、準二のこと】

●兄のこと

 私が「兄のことを書こうか?」と提案すると、ワイフは、すかさず、
「書いたら」と。
「このまま何も書き残さなかったら、あなたの兄さんは、本当に消えてしまうわ」と。
そう、本当に消えてしまう。

 結婚をしていない。
子どももいない。
おそらく生涯、「女」すら知らなかった。
一度だけだが、この浜松へ遊びに来たとき、私は兄をトルコ風呂へ連れていこうとした。
兄に「女」を経験させてやりたかった。
しかしそのもくろみは、はかなくも失敗した。
それについては、いつかどこかで書くことになるだろうと思う。
が、ともかくも私の兄は、そういう兄だった。

 まったく頼りなく、まったくふがいなく、まったくどうしようもなかった。
私の兄は、そういう兄だった。

●記憶

 私より9歳年上だった。
そのこともあって、私には兄といっしょに遊んだ思い出が、ほとんどない。
一度とて、ない。
母は兄を嫌っていたし、それがそのまま私の心になっていた。
私が中学生になるころには、すでに私は兄というより、兄の存在を
負担に感ずるようになっていた。

 今から思うと、兄が見せていた一連の症状は、自閉症のそれだった。
事実、晩年、グループホームへ入居してから、自閉症と診断されている。
が、当時は、「自閉症」という言葉すらなかった。
そういう兄を、母は、「家の恥」と考えていたようだ。
母は親意識が強く、そのこともあって、兄を家の中に閉じ込めるようになった。
「外で遊ばせると、みなにいじめられるから」というのが、その理由だった。
友だちと遊ぶことさえ、禁じた。

●M町

 私が生まれ育った岐阜県のM町は、昔から和紙の生産地として、よく
知られている。
由緒ある町というよりは、気位の高い町で、M町の人たちは、M町以外の
町を、「下」に見ていた。

 たとえば生活ができなくなって、M町から出て行く人を、M町の人たちは、
「出ていきんさった(=出ていった)」という言葉を使って、軽蔑した。
M町では、「出ていきんさった」という言葉は、そのまま負け犬を意味した。
だれがそう教えてくれたわけではないが、私は子どもながらに、その意味を
よく知っていた。

 私の実家は、そのM町の中心部にあった。
祖父の時代からの自転車屋で、祖父の時代には、現在のスポーツカー専門店
のように、華やかな商売だったようだ。
祖父は祖父なりに、財産を築いた。

●負担

 話は飛ぶが、私が高校生のとき、こんなことがあった。
近視が進んだ兄を連れて、岐阜の町へ行った。
M町から岐阜の町までは、当時、「美濃町線」と呼ばれる電車が走っていた。
チンチン、ゴーゴーと音を出して走るところから、私たちは、「チンチン電車」
と呼んでいた。

 私は兄を連れて、その電車に乗った。
母に言いつけられて、そうした。
私にはいやな一日だった。

M町にも、いくつかメガネ屋はあったが、度数を選んでかけるだけの簡単な
メガネ屋ばかりだった。
兄に合うメガネがなかった。
それで私は兄を岐阜の町まで連れていった。
電車で、1時間半ほどかかった。

 そこでのこと。
いろいろな検査がつづいたが、兄はすでにそのころ、まともに返答できる
だけの能力はなかった。
メガネ屋の男の質問を、私が兄に伝える形で、私が間に立った。
そのときのこと。

 メガネ屋の女性が、私にふとこう聞いた。
「この人は、あなたの兄さんですか」と。
私は突然の質問にあわてた。
で、そのままこう口走ってしまった。

 「いいえ、ぼくの兄ではありません。うちで働いている小僧さんです」と。

●自転車屋

 兄がなぜ、あのような兄になってしまったかについては、理由はよくわからない。
覚えているのは、兄は、いつも父や母に、叱られていたということ。
自転車屋といっても、店先は、全体でも7坪もなかった。
そこに20台前後の自転車を並べ、その隙間で、父や兄は、自転車を組み立て、
修理し、そして売っていた。

 兄にとっては息の詰まるような職場だったにちがいない。
兄の症状が悪化したのは、兄が中学校を卒業してから後のことではないか。
それまでの兄は、アルバムを見る範囲では、ごくふつうの兄だった。
何枚かみなと笑って写っている写真もあるが、どれも明るく、さわやかな
笑顔をしている。

●飛び降りる

 そんなある日、……少し話が過去に戻るが、何かのことで、私が兄を
いじめたことがある。
何をしたかは覚えていない。
何かの意地悪をしたと思う。
私が小学3、4年生のころだった。

言い訳がましいが、私は腕白な子どもだった。
また当時は、弱い者いじめなど、日常茶飯事。
罪の意識は、まったくなかった。
戦後の混乱期ということもあった。
家庭教育の「か」の字もない時代だった。
少なくとも、私の家は、そうだった。
私はその中で、その時代の子どもとして、育った。

 そのとき、兄は、あの二階の階段の最上段から、下へ飛び降りた。
止める間もなかった。
飛び降りるといっても、身を守る姿勢をまったく取らないまま飛び降りた。
そのまま1階の板間まで、ドスン、と。
 私はそれを見て、驚いた。
驚いて母のところへ走った。
「準ちゃんが、階段から落ちた!」と。

 が、母は、意外なほど、冷静だった。
まったくあわてるふうでもなく、こう言って、吐き捨てた。
「準ちゃんは、わざと、そういうことをするでエ」と。

●犠牲

 全体として、あのころの過去を振り返ると、兄は、「家」の犠牲になった。
その一言に尽きる。
 家にしばられ、家から一歩も、外へ出ることを許されなかった。
母が出さなかった。
私のほうから理由を聞いたわけではなかったが、母はいつも口癖のように
こう言っていた。

 「準ちゃんは、みなにいじめられるから」と。
そしてこうも言った。
「準ちゃんは、生まれつき、ああいう子だった」と。

つまり生まれつき、問題のある子どもだった、と。
そう、兄は、いつも孤独だった。
母からも、見捨てられていた。

●代償的過保護

 少し専門的な話になる。
そういう兄の話をすると、当時の母と兄の関係を知る人は、みな、こう言う。
「浩司君(=私)、あんたは、まちがっているよ。
お母さん(=私の母)は、兄さんをかわいがっていたよ」と。

 しかしこれはうそ。
最近の発達心理学での言葉を使えば、「代償的過保護」ということになる。
一見「過保護」だが、「子どもを自分の支配下に置き、自分の意のままに操る
こと」を、代償的過保護という。

 過保護には、その底流に、親の愛がある。
しかし代償的過保護には、それがない。
そこにあるのは、親のエゴ。
加えて、私の母は、親意識が、人一倍、強かった。

●「お姫様」

 母は、その年齢になるまで、実家のK村では、「お姫様」と呼ばれていた。
実家は農家だったが、そのあたりの農地を支配していた。
大地主だった。
兄弟は母も含めて、13人。
母は9番目前後に生まれた、最初の女の子だった。
だから母は、生まれながらにして、わがままいっぱいに育てられた。……にちがいない。
当時のことを知る人が、私にこう教えてくれた。
 「豊子さん(=私の母)は、お姫様と呼ばれていましたよ」と。
農家に生まれ育ちながら、結婚するまで、土を手でいじったことは一度もなかった。
いつだったか、母が自慢げにそう話してくれた。

 そのお姫様が、自転車屋の跡取りの父と結婚した。
二度目の見合いで結婚を決めたという。
実際には、私の祖父と、母の父親との間で、結婚が決められてしまった。
つまり母を見そめたのは、私の父ではなく、祖父ということになる。

 そう、母は、お姫様だった。
自転車屋という商人の家に嫁ぎながら、生涯にわたって、自分の手を
油で汚したことはない。
一度もない。
ドライバーを握ったことさえ、ない。
これについても、私がとくに聞いたという記憶はないが、母は、よく
こう言った。

「わっち(=私)はなも、結婚したとき、じいちゃん(=祖父)が、
『女は、店に出るな』と言いんさったでなも(=言ったから)」と。
つまり祖父の言いつけを守って、店には出なかった、と。

●斜陽

 私が高校生になるころには、私の家はすでに斜陽の一途をたどっていた。
近くに大型店ができ、そこで自転車を売るようになった。
もう少し早く、私が中学生のころには、そうなっていた。
祖父はそのころ引退し、道楽でオートバイをいじって遊んでいた。
もちろん収入はない。

 私は祖父の威光が、年々、薄くなっていくのを感じていた。
しかしそれは私にとっては、たまらなく、さみしいことでもあった。
祖父あっての、「林自転車屋」だった。
それが世間の目だった。
私にも、それがよくわかっていた。

●父、良市

 父は、もともとは学者肌の人だった。
ふだんは静かで、暇さえあれば、黒い、油で汚れた机に向かって、何かを
書いていた。
いつも書いていた。

 が、酒が入ると、人が変わった。
今で言う、「酒乱」である。
酒が入ると、大声を出し、家の中で暴れた。
家具を壊し、食卓をひっくり返した。

 私が5、6歳のときには、すでにそうなっていた。
私には、暗くて、つらい毎日だった。
父を恨んだ。
酒をうらんだ。
父に酒を売る、酒屋をうらんだ。

●レコード

 兄のゆいいつの趣味は、レコード集めだった。
わずかな小遣いを手にするたびに、兄はそのお金をもって、近くのレコード店へ
足を運んだ。

 当時は表(A面)に一曲。
裏(B面)に一曲だけの、シングル盤というのが主流だった。
それでも値段は300〜400円前後だったか?
うどんが、150円前後で食べられた時代だったから、けっして安い趣味ではなかった。
が、兄は、私が高校生のときには、すでに数百枚のレコードをもっていた。
そのレコードを、一枚ずつていねいに分類し、それを1ミリの狂いもなく、きれいに
並べてしまっていた。

 私はすでにそのころ、兄のレコードには手を触れていけないことを知っていた。
たった一枚でもレコードが抜けただけで、兄は、それに気づき、パニック状態になった。
動かしても、兄は気づいた。
「レコードがない」と、ボソボソと言いながら、混乱状態になった。
そんなわけで、兄のレコードのあるその一角は、聖域というか、近づくことさえでき
なかった。

 その一方で、兄は、レコードの最初の一小節を耳にしただけで、即座に、その曲名と
歌手の名前を言い当てることができた。
神業にちかいものだった。
特殊なこだわりと、才能。
今から思うと、まさにそれが自閉症によるものだった。

●大学生

 兄との思い出は、そういうこともあって、ほとんどない。
兄は兄で、私の知らない世界で生きていた。
一方、私は三男という末っ子のよさをフルに利用して、思う存分、自由に生きた。
「自由」というより、「放任」だった。

 長男の賢一は、私が5歳のときに、日本脳炎で他界している。
つづいて兄が生まれ、姉が生まれた。
その姉とも、5歳、年が離れていた。
姉と私の間に、もう1人兄が生まれたが、生まれると同時に、死んだ。

そういうこともあって、母も、私には手が回らなかった。
今から思うと、それがよかったのかもしれない。
私は毎日、あたりが真っ暗になるまで、近くの寺の境内で遊んだ。
学校から帰るときも、やはり家に着くのは、とっぷりと陽が暮れてからだった。

 私の家には、私の居場所すらなかった。
それに父の酒乱があった。
今でも私は夕焼けを見ると、言いようのない不安感に襲われる。
その時刻になると、父が酒を飲み、通りをフラフラと歩いていた。
私にはつらい少年時代だった。

 私ですらそうだった。
いわんや、兄をや。

●金沢へ

 私はそのあと大学生となって、金沢に移った。
母は、「国立でないと、大学はだめ」と、いつも言っていた。
当時は、国立と私立では、学費が、まるでちがっていた。
私が通った金沢大学のばあい、半期(6か月)ごとに、学費は6000円。
月額1000円だった。
一方、私立は、たとえば私立の歯学部に入学した友人がいたが、入学金だけで、
300万円。
私はその額を聞いて、それこそ度肝を抜かれるほど、驚いた。
「300万円!」と。
 その額は、私には理解できないものだった。

 その学費についても、母は口癖のようにこう言った。
「みんなが苦労して作ったお金だ」と。

●恩着せ

 私の母の子育ての基本は、「恩着せ」だった。
そのつど私に、恩を着せることで、私を縛った。
兄や姉に対しては、どうだったかは知らない。
しかし私には、そうだった。

 「産んでやった」「育ててやった」と。
私が大学生になると、「学費を出してやる」「出してやった」と。
が、それにはいつも別の修飾語がついた。

 「このお金を作るのに、どんだけ(=どれほど)、苦労したかわからない」と。
そしてそのつど、その苦労話を、ことこまかく説明した。

●姉

 私には5歳違いの姉がいる。
その姉とは、よく遊んだ。
遊んだといっても、たがいの間には、しっかりとした垣根があった。
当時は、男児が女の遊びをするということだけでも、ありえないことだった。
住む世界がちがった。

 それに姉は、私とは別の世界に生きていた。
お琴に日本舞踊。
徹底したお嬢様教育。
それを、そのまま受けていた。
そのこともあって、私は姉が台所で料理を手伝ったり、料理をしている姿を見た
ことがない。

 母には母の思いがあったのだろう。
しかし私はすでに中学生のときには、その虚栄を見抜いていた。
母は、M町でも名家と呼ばれていた、Y家の妻や、K家の妻たちと、同等、もしくは
それ以上の立場をとりつくろいながら、生きていた。
だから私はこう思った。
思っただけではなく、口に出して言ったこともある。

「自転車屋の女将(おかみ)さんが、医者や酒屋の奥さんとつきあって、どうする?」と。
が、この言葉は、いつも母をそのまま激怒させた。
姉のお嬢様教育は、その延長線上にあった。

●稼業

 私は触覚を、四方八方に延ばしていた。
延ばすことができた。
目はいつも外を向いていた。
兄が家に閉じ込められた分だけ、私は外の世界で、自由に生きた。

 兄は、たしかに「家」の犠牲者だった。
「林家(け)」と、「家(け)」をつけるのもおかしい世界に住みながら、その
「家」に縛られた。
同業の人には失礼な言い方になるかもしれないが、たかが自転車屋。
跡取りとして、守らなければならないような稼業でもない。
当時すでに、自転車店業は、同じ商店業の中でも、番外化していた。

 汚れ仕事だった。
それにこの世界は、まさに弱肉強食。
より大型店ができるたびに、より弱小店は、弊店に追い込まれた。
あるとき祖父が、近所の時計店が新装オープンしたとき、その店に招待された。
そしてその店から帰ってきて、私にこう言った。

 「浩司、時計屋ではな、皿一杯の時計だけで、このうちの自転車すべての
値段と同じだぞ」と。

 つまり家にある20台の自転車すべての値段と、時計屋にある、皿(トレイ)
にある時計の値段と同じ、と。
「時計屋には、そういう皿が、10〜20枚もある!」と。

 私はそれを知って、祖父が受けた以上のショックを受けた。
その自転車屋について、母は、こう言った。

 「勉強しんさい(=しなさい)。でなければ、この自転車屋を継ぎんさい」と。
しかしその言葉は、私に死ねと言うくらい、恐ろしい言葉だった。
私は兄を見て育っている。
その兄と同じになれというくらい、恐ろしい言葉だった。

●仕送り

 そんなわけで、私の実家の家計は、私が中学生のころには、火の車だった。
大学生のときも、毎月の仕送りは、下宿代の1万円だけ。
あとは、アルバイトで稼ぐしかなかった。

 姉は私が大学生のとき、農家の男性と結婚した。
農家といっても電信会社に勤務していた。
母は、この結婚に大反対した。
何度も、「うちのM子は、あんな男と結婚するような娘ではない」と。
が、姉は、その男性と結婚した。
母には、不本意な結婚だった。
姉へのお嬢様教育が、こなごなに壊れた瞬間でもあった。

 その結婚のときにも、私の家には現金がなかった。
それで近くにあった借家を売ることになった。
私はその売買に、直接関わった。
法科の学生ということもあった。
値段は、150万円。
当時としては、文句のない値段だった。
そのお金がどう使われたかは知らないが、姉の結婚式は、それなりに派手な
ものだった。

●家族

 私は大学生になることによって、家を飛び出すことができた。
そのあとも、オーストラリアへ留学し、商社へ入社しと、自由気ままに自分の
人生を生きた。
 が、実家のことは、いつも気になった。
重い石のように、頭から離れることはなかった。

 母の恩着せは、そのころもつづいた。
電話をするたびに、「お前を大学まで出してやった」と、これまた口癖のように言われた。
そしてそのつど、あの愚痴とも、抗議ともわからない、ネチネチとした苦労話。
「親の恩を忘れんさるな(=忘れるなよ)」と。
最後は、いつもその言葉で終わった。

 が、私と母の関係は、私が高校生のときに、すでに切れていた。
そういう母だったから、一方、私はそういう息子だったから、いつも衝突を繰り返して
いた。
断絶という状態がつづき、母の私に対する気持ちは、憎しみに変わっていた。
母はことあるごとに、親戚の人たちには、こう言っていた。

 「子どもなんて育てるもんじゃ、ねえ(=ない)。
どうせ親は捨てられるだけじゃ」と。

●自我群の苦しみ 

 そうでありながらも、私の心の中には、「絆(きずな)」が、しっかりと刷り込まれて
いた。
本能に近い部分にまで、刷り込まれていた。
それを断ち切るのは用意なことではない。
実際には、兄や母が他界した今でも、それはつづいている。

 私は自分で収入を手にするようになると、その半分は、実家に送金した。
したくてしたわけではない。
が、そこには、私の(誇り)もあった。
私は子どものころから、そして大学生になってからも、肩身の狭い思いをしていた。
が、仕送りをすることで、そうした思いを、跳ね飛ばすことができた。
そういう思いもあった。

 が、母は母で、そうした私の思いとはちがった角度で、私をながめていた。
平たく言えば、「金づる」。
私から容赦なく、お金を奪っていった。
病弱な父。
そしてあの兄。
収入など、あってないようなものだった。
加えて母の虚栄は、私が子どものころのままだった。

●金づる

 盆と暮れ。
それに数か月に1度、あるいは2度帰るというだけの関係になった。
兄との関係は、ますます疎遠になっていった。

 私が結婚したあと、あちこちへ連れていってやったことはある。
しかしたがいに心が通うということはなかった。
兄とは、ふつうの会話すらできなかった。
兄は、私の知らない、閉ざされた心の中に住んでいた。
私も、家族には、心を開けなかった。

 調子のよいお世辞と、世間話。
口のうまい人間ばかり。
面従腹背というか、表ではニコニコ笑いながら会話をし、いったん裏へ入ると、たがいに
口汚くののしりあった。

母ですら、表と裏では、まるで別人だった。
世間では、「よくできた苦労人」、
さらには、「仏様」と呼ばれていた。

 しかし家の中では、ちがった。
ことあるごとに、人を中傷し、罵倒した。
好き嫌いがはっきりしていた。
母に一度嫌われたら最後。
「江戸の仇(かたき)は長崎で」というようなことを、母は平気でしていた。

 私はいつしか、……30歳になる前には、すでにただの「金づる」に
なっていた。

●重圧感

 だれでもそうなのだろうが、一度巣立ってしまうと、実家との関係はそこで
切れる。
共通の思い出をつくることもない。
母は、私たち家族を、そのつどていねいに迎えてはくれたが、すでに他人以上の
他人になっていた。
言葉の使い方で、私には、それがよくわかった。

 母との関係ですら、そうであった。
いわんや、兄をや、ということになる。
私にとって、兄、準二は、家のお荷物、あるいは、家の家具のような存在だった。
実家に帰っても、小遣いを渡すのは、私のほう。
話しかけて、あれこれと世話を焼くのも、私のほう。
誓って言うが、兄が生涯、私におごってくれたものと言えば、ラーメン一杯だけ。
それも兄の意思からではない。
母にせかされて、そうした。

 弟の私ですらそうなのだから、兄は、さらに孤独な世界へと追いやられた。
友もなく、親には見捨てられ、そして兄弟とのつながりもなかった。
いつも独りで、レコードを聞いていた。

●母との確執

 30歳になったころだと思う。
ワイフの実家(浜松市)の近くに、授産施設のようなものができた。
身体や精神に障害のある人たちが共同で仕事をし、支えあうという施設である。

 当時としては、まだ珍しい施設だったが、私は最初に、その施設に兄を入れること
を考えた。
浜松へ来れば、私の自宅から、その施設に通えばよい。
ワイフも、快く同意してくれた。

 が、これに猛然と抵抗したのが、母だった。
狂ったように抵抗した。
すでにそのとき父も他界していた。
母にしてみれば、兄を手放すということは、稼業の廃止ということになる。
母としては、ぜったいに譲れない一線だった。

 私と母は、毎日、毎晩、電話で怒鳴りあうような喧嘩をした。
激しいものだった。
で、それを1週間から10日ほどつづけたところで、私のほうがギブアップ。
当時の私には、自転車屋を一軒開業することなど、何でもなかった。
仕事は順調だった。
収入も多かった。
私は、もし母や兄が望むなら、浜松で、自転車屋を開業する覚悟でいた。
その覚悟も、そのまま霧散した。

 「母もいっしょに浜松へ」という考え方もあった。
が、母には、M町を「出る」ことなど、想像もつかなかった。
私には、それがよくわかっていた。

●兄の性癖

 兄にも、問題があった。
ゆがんだ性癖という問題だった。
私の家に遊びにやってきたときも、ワイフの入浴をのぞく、私のスキをみては、
ワイフに抱きつく、あるいは留守番をさせておくと、ワイフの下着を手で触れて
遊ぶ、など。

 やがてワイフは、そういう兄に、恐怖感を覚えるようになっていた。
だから私は兄が私の家にいるときも、また私たちが私の実家に帰ったときも、
ぜったいに、兄とワイフを、2人だけにはしなかった。

 さらに兄は、ことあるごとに、病院へ入院した。
そこでも看護婦さんに抱きついたり、下半身を露出させたりした。
そういう話を知っていたから、兄との同居には、それなりの覚悟が必要だった。

 私はこう考えた。
「兄の問題は、一度、母と切り話さなければ、解決しない」と。

 兄は、今で言う、マザコン。
度を越したマザコンだった。
母と兄は、強烈な相互依存関係で成り立っていた。
「共依存」という関係である。

 そういうこともあって、それ以後、私は、兄を引き取るという話は、
二度としなかった。

●思い出

 兄は、毎月の仕送りとは別に、何かほしいものがあると、私に電話をかけてきた。
裏で母の意図を感じたこともある。

「テレビが見られない」
「冷蔵庫が使えなくなった」
「ステレオが壊れた」と。

 そのつど言われるまま、その金額を、送った。

 が、そのほとんどは、悲しい思い出でしかない。
あるとき高校の同窓会に出ることになった。
そのとき、恩師へのみやげということで、その直前に買ったジョニ黒(ウィスキー)
を、もっていった。
が、その朝見ると、栓が抜いてあった。
上から数センチ分、ウィスキーが減っていた。
兄が口をつけたことは、すぐわかった。
だから兄に、「どうしてこんなことをする!」と怒鳴った。
が、その声は、むなしく宙に消えた。

 すでにそのころ、兄はまだ40歳前だったが、兄はことの善悪の判断すら、
じゅうぶんできなくなっていた。
異常までの母の過干渉。
それが原因だった。

 しかし本当の悲しい思い出といえば、私は兄の存在を意識して、結婚式が
できなかったこと。
よく「お金がなかったから」と、書くことはあるが、もうひとつ、大きな
理由があった。
私は酒乱の父や、今でいう自閉症の兄を、みなの前で、どう紹介すればよいのか。

●愛情

 これはあくまでも結果論だが、母に、一微でも兄に対する愛情があれば、
私の家庭は大きくちがっていただろうと思う。
実際、そういう子どもをかかえながらも、明るく、さわやかに生きている親は多い。
今どき自閉症にせよ、何かの情緒障害にせよ、何でもない。
それを恥ずかしいとか、そういうふうに考える人は、いない。
だいたいこの世の中には、まともな人はいない。
あるいはどういう人を、「まともな人」というのか。

 子どもの心は、母親によって作られる。
母親が嫌っている人は、子どもも嫌う。
母親が好意をもっている人は、子どもも、好意をもつ。
ウソだと思うなら、あなた自身の心の中をのぞいてみるとよい。

 私が兄を嫌っていたのは、私のせいではない。
母が嫌っていた。
私はそれを敏感に受け継いでいた。

 だから……。
もし「私の母に、一微でも兄に対する愛情があれば、私の家庭は大きくちがって
いただろうと思う」と。
この思いは、今でも変わらない。

●母との確執

 結局、私は母に、生活費を仕送りしつづけた。
47歳を過ぎるまで、そうした。
が、そのとき、事件が起きた。
それについては、前にも書いた。
母は、私から土地の権利書を言葉巧みに取り上げると、無断で、それを他人に
売ってしまった。
私が泣いてそれに抗議をすると、母は、こう言って、私の言葉をはねのけた。

「親が、先祖を守るために、子の金を使って、何が悪い!」と。

 一事が万事。
私の母というのは、そういう母だった。

●音信途絶

 以後、10年ほど、母との音信は途絶した。
1、2度、さみしさに耐えかねたのか、母から電話があった。
しかし会話にならなかった。
一言、「すまなかった」と謝ってくれたら、私は母を許すつもりでいた。
が、母のもつ親意識は、それをはるかにしのぐものだった。

兄の存在は、もっと軽かった。
「知ったことか!」と、吐き捨てながら、心にのしかかる重荷を脇へやった。
が、事情を知らないノー天気な親類は、どこにでもいる。

 わずか数歳、年上というだけで、安易なダカラ論をぶつけてくる人もいた。

「親だからな……」とか、「親は親だで……」とか。

 私はそのつど、心臓をえぐられるような苦痛を覚えた。
さらに中には、私の家庭を、興味本位でのぞいてくる人もいた。
興味本位である。

「浩司君、今朝、君の夢を見たよ」とか何とか言って、電話をかけてくる。
こちらの内情をさぐる。
それが私には、よくわかった。

●親の介護

 母は、晩年、最初に軽い認知症になった。
そのこともあって、それまでのうっぷんを晴らすかのように、兄に、きびしく当たる
ようになった。
情け容赦ない言葉を、そのつど、兄に浴びせかけた。
「お前なんか、どこかへ行って、死んで来い」とかなど。

 外の世界では、「仏様」と呼ばれていた。
おだやかで、やさしく、静かで落ち着いた表情をしていた。
が、それは仮面。
私には、それがよくわかっていた。
母がまだ元気なうちには、私も、母によく脅された。

「お前は地獄へ落ちるぞ」とか、など。
母も、また、実のところ、心を開くことができない、かわいそうな女性だった。
息子の私に対してでさえ、心を開くことができなかった。

●兄の病状

 そのころから兄の病状は、一気に悪化した。
持病の胃病は慢性化し、毎週のように病院通いがつづいた。
胃潰瘍で、1、2か月単位で入院することも重なった。

 で、見舞いに行くと、そこにかならず、母や姉がいた。
そして私の姿を見かけると、かいがいしく、兄の背中をさすってみせたりした。
「代理ミュンヒハウゼン症候群」という言葉は、今では知らない人はいない。
が、私には、それがわかっていた。
母が私の前でしてみせたのは、まさに、それだった。

 兄は私が見舞うと、「仕事をしてエ(=したい)」「してえ」と駄々をこねた。
悲しそうな声で、「ぼく、工場で働くで……」と言ったこともある。
私はその言葉が、胸に突き刺さった。
症状こそちがえ、私のもっている傷と同じ傷を、兄はもっていた。

 その翌日、私は100万円の貯金をおろすと、それをすべて1000円札に換え、
兄に届けた。
母には、「これはぼくが準ちゃんにあげたお金だ。絶対に横取りするな」と、
何度も釘をさした。

 が、そのお金も、やがて母のものとなった。

●兄の涙

 時間は飛ぶが、兄の様子がおかしいと連絡を受けて、兄を見に行ったことがある。
ライターで障子の紙に火をつける。
マジックインクで、車のナンバーに落書きをする。
ごみを近所の家に放り込む。
勝手に他人の家にあがりこむ、など。

 うつ病が悪化していた。
が、残念なことに、兄の周辺には、母も含めて、理性的な会話ができる人は1人も
いなかった。
姉は姉で、そのつど、パニック状態になった。
精神的にも、かなり混乱していた。
で、私はネットで拾いあげた記事をプリントアウトして、それをみなに渡したこともある。
が、だれもそれに目を通そうとすらしなかった。

 兄が心療内科の門をくぐったのは、そのときがはじめてだった。
私が兄を病院へ連れていった。

 その前のこと。

 私が寝室にいる兄のそばに行くと、兄は、自分でふとんをかけ直していた。
子どものころから、1センチ単位で、ふとんをきちんと並べて寝ていた。
が、その兄は、私の姿を見ると、突然、ポロポロと涙をこぼし始めた。

 よほどつらかったのだろう。
私はポケットからハンカチを取り出すと、それで兄の目をふいてやった。

●擁護

 こう書くからといって、全責任が母にあるというのではない。
母とて、あの時代の申し子に過ぎなかった。
また母には母の、「運命」という無数の糸がからんでいた。
母も、その「糸」に操られていただけかもしれない。

 不本意な結婚。
わがままな性格。
無知、無学。
慢性的な貧乏。
潔癖症などなど。

 母だけが特別であったというよりは、もし母と同じような環境で生まれ育ち、
父のような人間と結婚したら、だれだって母のようになったかもしれない。
言い忘れたが、母の実家は、戦後、農地解放でほとんどの田畑を取り上げられてしまった。
それ以後は、往年の繁栄など見る影もないほど、やせ細った貧しい農家になってしまった。
そういうこともあったのだろう。

母は私からお金を吸い上げると、せっこらせっこらと、母の実家へ、それを渡していた。
「先祖を守るために、親が子のお金を使って、何が悪い!」という言葉は、そういう
ところから生まれた。

●兄と母

 まず兄が姉の家に、3か月、いた。
それから兄はグループホームへ入った。
つづいて母が、2年間、姉の家に、いた。
そのころ、私が兄を、3か月、私の家で預かった。
つづいて1年と11か月、母は、浜松に住んだ。

 兄は2008年の8月に、母は同じ年の10月に、それぞれ他界した。
その兄と母の死について、当時、書いたのが、つぎの原稿である。
そのまま紹介する。

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兄の死

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●兄の歯

 先日私の兄が死んで、火葬されたときのこと。
私は兄の下あごの骨が、どういうわけか、気になった。
遺骨をつぼにみなが詰めるときも、私は、下あごだけを、じっと見つめていた。
それは雪のように美しかった。
紙のように薄かったが、形はしっかりと整っていた。
が、その美しさが、かえって不思議だった。

 兄は子どものころから歯が弱く、年中、虫歯に悩まされていた。
夜中じゅう、「歯が痛い」と泣いていたのも、よく覚えている。
そんなこともあってか、最後の10〜15年間は、すべての歯は抜け、
総入れ歯をしていた。

下あごには、そのためか、一本も、歯は残っていなかった。
総入れ歯にしたと聞いたとき、私は、「それでよかった」と思った。
兄は、少なくともそれで、虫歯の痛みからは解放された。

で、今朝、歯科医院へ行ってきた。
歯にも定期検診というのがある。
今日は、その日だった。
で、歯垢を取り除いてもらっているとき、兄のあの下あごの骨を思い出していた。
「私も死んだら、ああなるのか」と。
そういう気持ちを察したのか(?)、いや、そんなことはありえないが、
歯科医師のK先生は、こう言った。

「1本でも歯が残っていれば、その歯が役にたちますよ」と。

どういう意味でK先生がそう言ったのかは知らない。
その1本をたよりに、ほかの入れ歯が入れやすいということか。
あるいは総入れ歯は、よくないということか。

 兄は死んだが、この先、10年や20年など、あっという間に過ぎてしまうだろう。
つぎの瞬間、私の体が、兄のようになったところで、何ら、おかしくない。
だれかが私の遺骨を拾いながら、私が思ったように、「美しい」と思うかもしれない。
兄のあの下あごが、私のものだったと考えても、何ら、おかしくない。
現に今、私は満60歳になってしまった。
若いころは、自分が60歳になるとは、とても信じられなかった。

 やがて私も、この世から消える。
いつかだれか、私の遺骨を見ながら、同じように思うかもしれない。

 生きているとき、兄は、私にとっては、小さな存在でしかなかった。
しかし死んでからの兄は、日増しに大きくなりつつある。
……というより、毎日、兄のことを考えている。

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母の死

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●最後の会話

11月11日、夜、11時を少し回ったときのこと。
ふと見ると、母の右目の付け根に、丸い涙がたまっていた。
宝石のように、丸く輝いていた。
私は「?」と思った。
が、そのとき、母の向こう側に回ったワイフが、こう言った。
「あら、お母さん、起きているわ」と。

母は、顔を窓側に向けてベッドに横になっていた。
私も窓側のほうに行ってみると、母は、左目を薄く、開けていた。

「母ちゃんか、起きているのか!」と。
母は、何も答えなかった。
数度、「ぼくや、浩司や、見えるか」と、大きな声で叫んでみた。
母の左目がやや大きく開いた。

私は壁のライトをつけると、それで私の顔を照らし、母の視線の
中に私の顔を置いた。
「母ちゃん、浩司や! 見えるか、浩司やぞ!」
「おい、浩司や、ここにいるぞ、見えるか!」と。

それに合わせて、そのとき、母が、突然、酸素マスクの向こうで、
オー、オー、オーと、4、5回、大きなうめき声をあげた。
と、同時に、細い涙が、数滴、左目から頬を伝って、落ちた。

ワイフが、そばにあったティシュ・ペーパーで、母の頬を拭いた。
私は母の頭を、ゆっくりと撫でた。
しばらくすると母は、再び、ゆっくりと、静かに、眠りの世界に落ちていった。

それが私と母の最後の会話だった。

●あごで呼吸

朝早くから、その日は、ワイフが母のそばに付き添ってくれた。
私は、いくつかの仕事をこなした。
「安定しているわ」「一度帰ります」という電話をもらったのが、昼ごろ。

私が庭で、焚き火をしていると、ワイフが帰ってきた。
が、勝手口へ足を一歩踏み入れたところで、センターから電話。
「呼吸が変わりましたから、すぐ来てください」と。

私と母は、センターへそのまま向かった。
車の中で焚き火の火が、気になったが、それはすぐ忘れた。

センターへ行くと、母は、酸素マスクの中で、数度あえいだあと、そのまま
無呼吸という状態を繰り返していた。
「どう、呼吸が変わりましたか?」と聞くと、看護婦さんが、「ほら、
あごで呼吸をなさっているでしょ」と。

私「あごで……?」
看「あごで呼吸をなさるようになると、残念ですが、先は長くないです」と。

私には、静かな呼吸に見えた。

私はワイフに手配して、その日の仕事は、すべてキャンセルにした。
時計を見ると、午後1時だった。

●血圧

血圧は、午前中には、80〜40前後はあったという。
それが午後には、60から55へとさがっていった。
「60台になると、あぶない」という話は聞いていたが、今までにも、
そういうことはたびたびあった。
この2月に、救急車で病院へ運ばれたときも、そうだった。

看護婦さんが、30分ごとに血圧を測ってくれた。
午後3時を過ぎるころには、48にまでさがっていた。
私は言われるまま、母の手を握った。
「冷たいでしょ?」と看護婦さんは言ったが、私には、暖かく感じられた。

午後5時ごろまでは、血圧は46〜50前後だった。
が、午後5時ごろから、再び血圧があがりはじめた。

そのころ、義兄夫婦が見舞いに来てくれた。
私たちは、いろいろな話をした。

50、52、54……。

「よかった」と私は思った。
しかし「今夜が山」と、私は思った。
それを察して、看護士の人たち数人が、母のベッドの横に、私たち用の
ベッドを並べてくれた。
「今夜は、ここで寝てください」と。

見ると、ワイフがそこに立っていた。
この3日間、ワイフは、ほとんど眠っていなかった。
やつれた顔から生気が消えていた。

「一度、家に帰って、1時間ほど、仮眠してきます」と私は、看護婦さんに告げた。
「今のうちに、そうしてください」と看護婦さん。

私は母の耳元で、「母ちゃん、ごめんな、1時間ほど、家に行ってくる。またすぐ
来るから、待っていてよ」と。

私はワイフの手を引くようにして、外に出た。
家までは、車で、5分前後である。

●急変

家に着き、勝手口のドアを開けたところで、電話が鳴っているのを知った。
急いでかけつけると、電話の向こうで、看護婦さんがこう言って叫んだ。
「血圧が計れません。すぐ来てください。ごめんなさい。もう間に合わないかも
しれません」と。

私はそのまままたセンターへ戻った。
母の部屋にかけつけた。

見ると、先ほどまでの顔色とは変わって、血の気が消え失せていた。
薄い黄色を帯びた、白い顔に変わっていた。

私はベッドの手すりに両手をかけて、母の顔を見た。
とたん、大粒の涙が、止めどもなく、あふれ出た。

●下痢

母が私の家にやってきたのは、その前の年(07年)の1月4日。
姉の家から体を引き抜くようにして、抱いて車に乗せた。
母は、「行きたくない」と、それをこばんだ。

私は母を幾重にもふとんで包むと、そのまま浜松に向かった。
朝の早い時刻だった。

途中、1度、母のおむつを替えたが、そのとき、すでに母は、下痢をしていた。
私は、便の始末は、ワイフにはさせないと心に決めていた。
が、この状態は、家に着いてからも同じだった。

母は、数時間ごとに、下痢を繰り返した。
私はそのたびに、一度母を立たせたあと、おむつを取り替えた。

母は、こう言った。
「なあ、浩司、オメーニ(お前に)、こんなこと、してもらうようになるとは、
思ってもみなかった」と。
私も、こう言った。
「なあ、母ちゃん、ぼくも、お前に、こんなことをするようになるとは、
思ってもみなかった」と。

その瞬間、それまでのわだかまりが、うそのように、消えた。
その瞬間、そこに立っているのは、私が子どものころに見た、あの母だった。
やさしい、慈愛にあふれた、あの母だった。

●こだわり

人は、夢と希望を前にぶらさげて生きるもの。
人は、わだかまりとこだわりを、うしろにぶらさげながら、生きるもの。
夢と希望、わだかまりとこだわり、この4つが無数にからみあいながら、
絹のように美しい衣をつくりあげる。

無数のドラマも、そこから生まれる。

私と母の間には、そのわだかまりとこだわりがあった。
大きなわだかまりだった。
大きなこだわりだった。

話しても、意味はないだろう。
話したところで、母が喜ぶはずもないだろう。
しかし私は、そのわだかまりと、こだわりの中で、12年も苦しんだ。
ある時期は、10か月にわたって、毎晩、熱にうなされたこともある。
ワイフが、連日、私を看病してくれた。

その母が、そこにいる。
よぼよぼした足で立って、私に、尻を拭いてもらっている。

●優等生

1週間を過ぎると、母は、今度は、便秘症になった。
5、6日に1度くらいの割合になった。
精神も落ち着いてきたらしく、まるで優等生のように、私の言うことを聞いてくれた。

ディサービスにも、またショートステイにも、一度とて、それに抵抗することなく、
行ってくれた。

ただ、やる気は、失っていた。

あれほどまでに熱心に信仰したにもかかわらず、仏壇に向かって手を合わせることも
なかった。
ちぎり絵も用意してみたが、見向きもしなかった。
春先になって、植木鉢を、20個ほど並べてみたが、水をやる程度で、
それ以上のことはしなかった。

一方で、母はやがて我が家に溶け込み、私たち家族の一員となった。

●事故

それまでに大きな事故が、3度、重なった。
どれも発見が早かったからよかったようなもの。
もしそれぞれのばあい、発見が、あと1〜2時間、遅れていたら、母は死んでいた
かもしれない。

一度は、ベッドと簡易ベッドの間のパイプに首をはさんでしまっていた。
一度は、服箱の中に、さかさまに体をつっこんでしまっていた。
もう一度は、寒い夜だったが、床の上にへたりと座り込んでしまっていた。

部屋中にパイプをはわせたのが、かえってよくなかった。
母は、それにつたって、歩くことはできたが、一度、床にへたりと座ってしまうと、
自分の手の力だけでは、身を立てることはできなかった。

私とワイフは、ケアマネ(ケア・マネージャー)に相談した。
結論は、「添い寝をするしかありませんね」だった。

しかしそれは不可能だった。

●センターへの申し込み

このあたりでも、センターへの入居は、1年待ちとか、1年半待ちとか言われている。
入居を申し込んだからといって、すぐ入居できるわけではない。
重度の人や、家庭に深い事情のある人が優先される。

だから「申し込みだけは早めにしておこう」ということで、近くのMセンターに
足を運んだ。
が、相談するやいなや、「ちょうど、明日から1人あきますから、入りますか?」と。

これには驚いた。
私たちにも、まだ、心の準備ができていなかった。
で、一度家に帰り、義姉に相談すると、「入れなさい!」と。

義姉は、介護の会の指導員をしていた。
「今、断ると、1年先になるのよ」と。

これはあとでわかったことだったが、そのとき相談にのってくれたセンターの
女性は、そのセンターの園長だった。

●入居

母が入居したとたん、私の家は、ウソのように静かになった。
……といっても、そのころのことは、よく覚えていない。
私とワイフは、こう誓いあった。

「できるだけ、毎日、見舞いに行ってやろう」
「休みには、どこかへ連れていってやろう」と。

しかし仕事をもっているものには、これはままならない。
面会時間と仕事の時間が重なってしまう。

それに近くの公園へ連れていっても、また私の山荘へ連れていっても、
母は、ひたすら眠っているだけ。
「楽しむ」という心さえ、失ってしまったかのように見えた。

●優等生

もちろん母が入居したからといって、肩の荷がおりたわけではない。
一泊の旅行は、三男の大学の卒業式のとき、一度しただけ。
どこへ行くにも、一度、センターへ電話を入れ、母の様子を聞いてからに
しなければならなかった。

それに電話がかかってくるたびに、そのつど、ツンとした緊張感が走った。

母は、何度か、体調を崩し、救急車で病院へ運ばれた。
センターには、医療施設はなかった。

ただうれしかったのは、母は、生徒にたとえるなら、センターでは
ほとんど世話のかからない優等生であったこと。
冗談好きで、みなに好かれていたこと。

私が一度、「友だちはできたか?」と聞いたときのこと。
母は、こう言った。
「みんな、役立たずばっかや(ばかりや)」と。
それを聞いて、私は大声で笑った。
横にいたワイフも、大声で笑った。
「お前だって、役だ立たずやろが」と。

加えて、母には、持病がなかった。
毎日服用しなければならないような薬もなかった。

●問題

親の介護で、パニックになる人もいる。
まったく平静な人もいる。
そのちがいは、結局は(愛情)の問題ということになる。
もっと言えば、「運命は受け入れる」。

運命というのは、それを拒否すると、牙をむいて、その人に襲いかかってくる。
しかしそれを受け入れてしまえば、向こうから、尻尾を巻いて逃げていく。
運命は、気が小さく、おくびょう者。

私たちに気苦労がなかったと言えば、うそになる。
できれば介護など、したくない。
しかしそれも工夫しだいでどうにでもなる。

加齢臭については、換気扇をつける。
事故については、無線のベルをもたせる。
便の始末については、私のばあいは、部屋の横の庭に、50センチほどの
深さの穴を掘り、そこへそのまま捨てていた。
水道管も、そこまではわせた。

ただ困ったことがひとつ、ある。
我が家にはイヌがいる。
「ハナ」という名前の猟犬である。
母と、そしてその少し前まで私の家にいた兄とも、相性が合わなかった。
ハナは、母を見るたびに、けたたましくほえた。
真夜中であろうが、早朝であろうが、おかまいなしに、ほえた。

これについても、いろいろ工夫した。
たとえば母の部屋は、一日中、電気をつけっぱなしにした。
暖房もつけっぱなしにした。
そうすることによって、母が深夜や早朝に、カーテンをあけるのをやめさせた。
ハナは、そのとき、母と顔を合わせて、ほえた。

いろいろあったが、私とワイフは、そういう工夫をむしろ楽しんだ。

●鬼

それから約1年半。
母の92歳の誕生日を終えた。
といっても、そのとき母は、ゼリー状のものしか、食べることができなくなっていた。
嚥下障害が起きていた。
それが起きるたびに、吸引器具でそれを吸い出した。
母は、それをたいへんいやがった。
ときに看護士さんたちに向かって、「あんたら、鬼や」と叫んでいたという。

郷里の言葉である。

私はその言葉を聞いて笑った。
私も子どものころ、母によくそう言われた。
母は何か気に入らないことがあると、きまって、その言葉を使った。
「お前ら、鬼や」と。

●他界

こうして母は、他界した。
そのときはじめて、兄が死んだ話もした。
「準ちゃん(兄)も、そこにいるやろ。待っていてくれたやろ」と。

兄は、2か月前の8月2日に、他界していた。

母の死は、安らかな死だった。
どこまでも、どこまでも、安らかな死だった。
静かだった。

母は、最期の最期まで、苦しむこともなく、見取ってくれた看護婦さんの
話では、無呼吸が長いかなと感じていたら、そのまま死んでしまったという。

穏やかな顔だった。
やさしい顔だった。
顔色も、美しかった。

母ちゃん、ありがとう。
私はベッドから手を放すとき、そうつぶやいた。

2008年10月13日、午後5時55分、母、安らかに息を引き取る。

++++++++++++++++++++

●終わりに……

先日、従弟(いとこ)の1人と、電話で話した。
子どものころから、いちばん、仲のよい従弟である。
その従弟が、私の母や兄について、聞いた。
死んだことについて、聞いた。

 が、私はウソは言えなかった。
だから正直に、こう答えた。
「今は、ほっとしている」と。

 そう、ほっとしている。
が、もちろん兄や母の死を喜んでいるわけではない。
しかし悲しみより、解放感のほうが、先に来る。
私にとっては、長い、長い、60年間だった。
重苦しい、60年間だった。
一日とて、気が晴れることがなかった。

 と、同時に、私にとって家族とは何だったのか、それを改めて考える。
もちろん多くの人は、家族に心の拠り所を求め、そこで心を休める。
が、私には、それがなかった。
それができなかった。

 だから、……というわけではない。
弁解するつもりもない。
また私の家族を反面教師とするには、私にはあまりにも重過ぎる。
私は私で、今のワイフと結婚し、私の家族をもうけた。
「何とか幸福になりたい」と思いつつ、その気負いばかりが強かった。
その後遺症は、そのまま私の息子たちに残ってしまった。
息子たちは息子たちで、私とは別の形で、家族を求めて苦しんでいる。

 ほかに他意はない。
私と同じような境遇に苦しんでいる人たちのために、この原稿を書いた。
1人でも多くの人が、「家族自我群」という「幻惑(=呪縛感)」から解放されることを
願う。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【世界おもしろジョーク集(PHP)】より

●「糞の世界」……考えさせられた!

+++++++++++++++++++++

いつもトイレの中で、「世界おもしろジョーク集」
(PHP版)を読んでいる。
おもしろい。

その中にこんなのがあった。
(あらすじで、ゴメン!)

+++++++++++++++++++++

●善人vs悪人

 ある日、牛車にのった農夫が通りかかると、道端で一羽の小鳥が、寒さで今にも
死にそうなのがわかった。
そこでその農夫は、まだ温もりの残る牛の糞で、小鳥の周りを包んでやった。
小鳥はそれで元気になった。
元気になって、歌を歌い始めた。

 しばらくすると、別の農夫がそこを通りがかった。
歌声に誘われてそこを見ると、一羽の小鳥が牛の糞の中に埋もれているのがわかった。
そこでその農夫は、小鳥の周りから牛の糞を取り除くと、その糞を遠くへ投げ捨ててやった。

 そのあとまもなくして、小鳥は寒さで、死んでしまった。

 この物語には、3つの教訓がある。
一つ目は、あなたを糞の世界に閉じ込める人が、悪人とはかぎらないということ。
二つ目は、あなたを糞の世界から助け出してくれる人が、善人とはかぎらないということ。
そして三つ目は、糞の世界では、けっして歌を歌わないということ。

●糞の世界

 ここでいう「糞の世界」とは、どういう世界をさすのか?
私はこのジョークを読んで、すぐさま、「裏社会」のような世界を連想した。
暴力と犯罪、女とカネ、それに麻薬が飛びうような世界である。

 「小鳥」とは、純粋無垢な、若者?
つまり農夫は、今にも死にそうな小鳥を助けるため、その小鳥を、温かい牛の糞で、包んでや
った。
おかげで小鳥の命は助かった。
だから教訓のようになる。
「あなたを糞の世界に閉じ込める人が、悪人とはかぎらないということ」と。

 二つ目の教訓も、同じよう考えて、理解できる。

 が、問題は三つ目である。
どうして「糞の世界では、歌を歌ってはいけないのか」。

●歌を歌う

 私はこのジョークを読んで、しばらく考え込んでしまった。
トイレから出てからも、ずっと考えた。
が、どうも意味が、よくわからない。
そこでワイフに相談すると、ワイフは、あっさりと、こう教えてくれた。

 「要するにね、目立ってはだめということじゃ、ナア〜イ」と。

 さすが裏社会を生きてきたワイフ。
ズバリと言い当てた。
つまり裏社会で生きる人間は、目立たず、静かに生きろということか。
たとえばマフィアの親分が、自伝を書いたら、どうなる?
自伝でなくても、たとえばBLOGのようなものを出したらどうなる?
たちまち警察の目にとまり、ああでもない、こうでもないと文句をつけられ、その
親分は、たちまち刑務所送りになるかもしれない。

 だから「静かにしていろ」と。

 ほかのジョークのようには笑えなかったが、発想そのものが、おもしろい。
日本人の私たちにはない発想である。
「農夫と小鳥と糞」という取り合わせが、おもしろい。

●静かに生きる

 糞にもいろいろある。
私が今、住んでいるこの世界も、(現代社会)という観点から見ると、「糞のような世界」
ということになる。
アウト・ローの世界とまではいかないが、それに近い。
フリーターの世界というのは、そういう世界である。

 私ははからずも、その糞の世界に入ってしまった。
ずっとその世界で生きてきた。
今も、糞の温もりを感じながら、生きている。
結構、居心地もよい。

 が、その世界で、こうしてモノを書いている。
先のジョークでいう、歌を歌っていることになる。
過去において、そういう私を、糞の世界から取りだそうしてくれた人も、いない
わけではない。
が、私は自ら、断ってきた。
そして今、満61歳。
今では、糞の世界から出たとしても、出たあと、行く場所すらない。
だから今の世界に、このままいるしかない。

 そういう私は、静かに生きたほうがよいのか。
そのほうが身の安全のためには、よいのか。
そこまで深く考える必要はないのかもしれないが、しかしこのジョークには、
いろいろと考えさせられた。
(プラス、おもしろかった!)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●バカなフリをして、子どもを自立させる

 私はときどき生徒の前で、バカな教師のフリをして、子どもに自信をもたせ、バカな教
師のフリをして、子どもの自立をうながすことがある。「こんな先生に習うくらいなら、自
分で勉強したほうがマシ」と子どもが思うようになれば、しめたもの。親もある時期がき
たら、そのバカな親になればよい。

 バカなフリをしたからといって、バカにされたということにはならない。日本ではバカ
の意味が、どうもまちがって使われている。もっともそれを論じたら、つまり「バカ論」
だけで、それこそ一冊の本になってしまうが、少なくとも、バカというのは、頭ではない。
映画『フォレストガンプ』の中でも、フォレストの母親はこう言っている。「バカなことを
する人をバカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。いわんやフリをするというのは、あく
までもフリであって、そのバカなことをしたことにはならない。

 子どもというのは、本気で相手にしなければならないときと、本気で相手にしてはいけ
ないときがある。本気で相手にしなければならないときは、こちら(親)が、子どもの人
格の「核」にふれるようなときだ。しかし子どもがこちら(親)の人格の「核」にふれる
ようなときは、本気に相手にしてはいけない。そういう意味では、親子は対等ではない。

が、バカな親というのは、それがちょうど反対になる。「あなたはダメな子ね」式に、子ど
もの人格を平気でキズつけながら(つまり「核」をキズつけながら)、それを茶化してしま
う。そして子どもに「バカ!」と言われたりすると、「親に向かって何よ!」と本気で相手
にしてしまう。

 言いかえると、賢い親(教師もそうだが)は、子どもの人格にはキズをつけない。そし
て子どもが言ったり、したりすることぐらいではキズつかない。「バカ」という言葉を考え
るときは、そういうこともふまえた上で考える。

私もよく生徒たちに、「クソジジイ」とか、「バカ」とか呼ばれる。しかしそういうときは、
こう言って反論する。「私はクソジジイでもバカでもない。私は大クソジジイだ。私は大バ
カだ。まちがえるな!」と。子どもと接するときは、そういうおおらかさがいつも大切で
ある。
  



++++++++++++++++++++++++++++++++++

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(301)

●会話でわかるママ診断

(過干渉ママの会話)私、子ども(年中児)に向かって、「きのうは、どこへ行ったの?」、
母、会話をさえぎりながら、「きのうは、おじいちゃんの家に行ったわよね。そうでしょ」、
再び私、子どもに向かって、「そう、楽しかった?」、母、再び会話をさえぎりながら、「楽
しかったわね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

(親意識過剰ママの会話)母、子ども(四歳)に向かって、「楽チィワネエ〜、ママとイッ
チョで、楽チィワネエ〜」「おいチィー、おいチィー、このアイチュ、おいチィーネー」と。
(溺愛ママの会話)私、子ども(年長男児)に向かって、「あなたは大きくなったら、何に
なりたいのかな?」、母、子どもに向かって、「○○は、おとなになっても、ズ〜と、ママ
のそばにいるわよねエ。どこへも行かないわよねエ〜」と。

(過関心ママの会話)母、近所の女性に、「今度英会話教室の先生が、今まではイギリス人
だったのですが、アイルランド人に変わったというではありませんか。ヘンなアクセント
が身につくのではと、心配です」と。

(権威主義ママの会話)母、子どもに向かって、「親に向かって、何てこと、言うの! 私
はあなたの親よ!」と。

(子ども不信ママの会話)子どもの話になると顔を曇らせて、「もう五歳になるのですがね
エ〜。こんなことでだいじょうぶですかネ〜?」と。……などなど。

 会話を聞いていると、その親の子育て観が何となくわかるときがある。もっともここに
書いたような会話をしたからといって、問題があるというわけではない。人はそれぞれだ
し、私はもともとこういうスパイ的な行為は好きではない。ただ職業柄、気になることは
たしかだ。(だから電車などに乗っても、前に親子連れが座ったりすると、席をかわるよう
にしている。ホント!) 

 英語国では、親はいつも「あなたは私に何をしてほしいの?」とか、「あなたは何をした
いの?」とか、子どもに聞いている。こうした会話の違いは、日本を出てみるとよくわか
る。どちらがどうということはないが、率直に言えば、日本人の子育て観は、きわめて発
展途上国的である。教育はともかくも、こと子育てについては、原始的なままと言っても
よい。家庭教育の充実が叫ばれているが、そもそも家庭教育が何であるか、それすらよく
わかっていないのでは……? 旧態依然の親子観が崩壊し、今、日本は、新しい家庭教育
を求めて模索し始めている段階と言ってもよい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(302)

●家庭教育の過渡期

 家庭における教育力が低下したとは、よく言われる。しかし実際には低下などしていな
い。30年前とくらべても、親子のふれあいの密度は、むしろ濃くなっている。教育力が
低下したのは、教育力そのものが低下したと考えるのではなく、価値観の変動により、家
庭教育そのものが混乱しているためと考えるほうが正しい。

 昔は、親の権力は絶対で、子どもは問答無用式にそれに従った。つまり昔は、そういう
のを「教育力」(?)と言った。しかし権威の崩壊とともに、親の権力も失墜した。と、同
時に、家庭の中の教育力は低下し、その分、混乱した。しかし混乱した本当の原因は、実
のところ親の権威の失墜でもない。混乱した本当の原因は、それにかわる新しい家庭教育
観を組み立てられなかった日本人自身にある。家庭における教育力の低下は、あくまでも
その症状のひとつにすぎない。

そこで教育力そのものの低下にどう対処するかだが、それには二つの考え方がある。ひ
とつは、だからこそ、旧来の家庭観を取り戻そうという考え方。「親の威厳は必要だ」「父
親は権威だ」「父親にとって大切なのは、家庭における存在感だ」と説くのが、それ。も
うひとつは、「新しい家庭観、新しい教育観をつくろう」という考え方。どちらが正しい
とか正しくないとかいう前に、こうした混乱は、価値観の転換期によく見られる現象で
ある。たとえば一九七〇年前後のアメリカ。

 戦後、アメリカは、戦勝国という立場で未曾有の経済発展を遂げた。まさにアメリカン
ドリームの時代だった。が、そのアメリカは、あのベトナム戦争で、手痛いつまずきを経
験する。そのころアメリカにはヒッピーを中心とする、反戦運動が台頭し、これがアメリ
カ社会を混乱させた。旧世代と新世代の対立もそこから生まれた。その状態は、今の日本
にたいへんよく似ている。

たとえば私たちが学生時代のころは、安保闘争に代表されるような「反権力」が、いつも
大きなテーマであった。それが、尾崎豊や長渕剛らの時代になると、いつしか若者たちの
エネルギーは、「反世代」へとすりかえられていった。この日本でも世代間の闘争がはげし
くなった。わかりやすく言えば、若者たちは古い世代の価値観を一方的に否定したものの、
新しい価値観をつくりだすことができなかった。まただれもそれを提示することができな
かった。ここに「混乱」の最大の原因がある。

 今は、たしかに混乱しているが、新しい家庭教育を確立する前の、その過渡期にあると
みてよい。あのアメリカでは、こうした混乱は一巡し、いろいろな統計をみても、アメリ
カの親子は、日本よりはるかによい関係を築いている。ただひとつ注意したい点は、さき
にも書いたように、こうした混乱を利用して、復古主義的な家庭教育観も一方で力をもち
始めているということ。

中には封建時代の武士道や、さらには戦前の教育勅語までもちだす人がいる。しかし私た
ちがめざすべきは、混乱の先にある、新しい価値観の創設であって、決して復古主義的な
価値観ではない。前に進んでこそ、道は開ける。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(303)

●数は生活力

 計算力は訓練で伸びる。訓練すればするほど、速くなる。同じように、「教科書的な算数」
は、学習によってできるようになる。しかしこれらが本当に「力」なのかということにな
ると、疑わしい。疑わしいことは、きわめてすぐれた子どもに出会うと、わかる。

 O君(小3)という子どもがいた。もちろん彼は方程式などというものは知らない。知
らないが、中学で学ぶ一次方程式や連立方程式を使って解くような問題を、自分流のやり
方で解いてしまった。たとえば「仕入れ値の30%ましの定価をつけたが、売れなかった
ので、定価の2割引で売った。が、それでも80円の利益があった。仕入れ値はいくらか」
という問題など。それこそあっという間に解いてしまった。こういう子どもを「力」のあ
る子どもという。

 が、一方、そうでない子どもも多い。同じ小学三年生についていうなら、「10個ずつミ
カンの入った箱が、3箱ある。これらのミカンを、6人で分けると、1人分は何個ですか」
という問題でも、解けない子どもは、解けない。かなり説明すれば解けるようにはなるが、
少し内容を変えると、もう解けなくなってしまう。

「力」がないというよりは、問題を切り刻んでいく思考力そのものが弱い。「そんな問題、
どうでもいい」というような様子を見せて、考えることそのものから逃げてしまう。そん
なわけで私は、いつしか、「数は生活力」と思うようになった。「減った、ふえた」「取った、
取られた」「得をした、損をした」という、ごく日常的な体験があって、子どもははじめて
「数の力」を伸ばすことができる、と。こうした体験がないまま、別のところでいくら計
算力をみがいても、また教科書を学んでも、ムダとは言わないが、子どもの「力」にはほ
とんどならない。

 ……と書いたが、こんなことはいわば常識だが、こうした常識をねじ曲げた上で、現在
の教育が成り立っているところに、日本の悲劇がある。教育が教育だけでひとり歩きしす
ぎている。子どもたちが望みもしないうちから、「ほら、1次方程式だ、2次法手式だ」と
やりだすから、話がおかしくなる。もっといえば、基本的な生活力そのものがないまま、
子どもに勉強を押しつける……。

ちなみに東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、こんな興味ある調査結果を公表してい
る。小学6年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、2000年度に30%
を超えた(1977年は13%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子どもは、年々低
下し、2000年度には35%弱しかいないそうだ。原因はいろいろあるのだろうが、「日
本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。

むずかしい話はさておき、子どもの「算数の力」を考えたら、どこかで子どもの生活力
を考えたらよい。それがやがて子どもを伸ばす、原動力になる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(304)

●風邪薬は予防薬にはならない

 風邪薬をいくらのんでも風邪の予防にはならない。同じように、テストをいくらしても、
頭がよくなるということはない。(テストを受ける要領がうまくなり、見かけの点数があが
ることはある。)子どもの「力」は、生活の場で、実体験をともなってはじめて、伸びる。
言いかえると、生活の場で、実体験のともなわない知識教育は、ほとんど意味がない。ま
ったくないとは言わないが、しかし苦労の割には身につかない。あまりよいたとえではな
いかもしれないが、たとえば英語教育がある。

 私は高校生のとき、英語の教師から、「pass(過ぎる)とpurse(サイフ)は発
音が違う。よく覚えておけ」と、教えられたことがある。教師の発音では、どこがどう違
うかわからなかった。だからテスト勉強では、「passは、パース、purseもパース、
発音が違う」などと覚えた。今から思うと、何ともイイカゲンな勉強法だが、当時はそれ
が当たり前だった。で、英語のテストの点はよかったが、私の話す英語など、まったく役
にたたなかった。

 こうした「イイカゲン性」は、ほとんどあらゆる勉強に見られる。そのサエたるものが、
受験勉強。先日も中学生(中3男子)が、「長野の高原野菜、浜名湖のウナギ、富山のチュ
ーリップ……」と声を出して覚えていた。そこで私が「高原野菜って、何?」と聞くと、「知
らない」と。ついでに私が、「今では浜名湖のウナギはいないぞ。ぜんぶ養殖だし、それに
ほとんどが中国から輸入されている」「富山のチューリップより、袋井市にある『ユリの園』
のユリのほうが、よっぽどきれいだ」と言うと、その中学生は吐き捨てるようにこう言っ
た。「いちいちうるさいナ〜。いいの、これで!」と。

 ともすれば私たちは子どもに勉強を教えながら、その風邪薬のようなことをしてしまう。
またそれをもって教育と思いこんでしまう。しかししょせん、風邪薬は風邪薬。たくさん
のんだからといって、風邪の予防にはならない。もちろん健康にもならない。あなたの子
どもの勉強も、一度同じような視点から見つめなおしてみてほしい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「私だけは特別」

「私だけは特別」と思いたいという心理は、よくわかる。
よ〜く、わかる。
だれにでも、そうした心理は、平等に働く。
私にもある。
あなたにもある。
しかし現実には、なかなか、そうはいかない。
無数の壁にぶつかるうち、そのつど「私だけは特別」という思いは、
粉々に、こわされる。
そしてこう知る。
「ああ、やっぱり、私だって、ふつうの人間だったのだ」と。

 ふつうであることが悪いと言うのではない。
ふつうで、御の字。
すばらしい。
賢い人は、ふつうの価値に、ふつうであるときに気がつく。
そうでない人は、それを失ってから気がつく。

 が、世の中には、そうでない人も多い。
みながみなというわけではないが、「私だけは特別」と思いたいがため、
信仰にその希望を託す人たちがいる。
先日も、どこかのキリスト教団の信者がやってきて、私にこう言った。

 「この信仰を信じたものだけが、アルマゲドン(=終末)がやってきたとき、
神によって救われます」と。

 だいたい「救われる」というのは、どういう意味なのか?
「自分だけは助かる」という意味なのか?
どうせ人間は、みな、死ぬ。
そのとき助かっても、そのあと、100年を生きることはない。
それに自分たちだけ助かって、どうする?
どうなる?
つまりこの(オメデタさ)こそが、幼稚性の表れと考えてよい。
自己中心性の表れと言ってもよい。
その証拠に(?)、幼児期の子どもたちは、みな、同じように考える。
私にこう言った小学1年生がいた。

 「先生、ぼくが前を向いたとき、ぼくのうしろの世界は消える」と。
そこで私が、「そんなことはないよ。君が前を向いているときも、
ちゃんとうしろの世界はあるよ」と。

 が、その子どもは、それを信じなかった。
そしてさらに、「ぼくがうしろを向いたとき、前の世界は消え、うしろの
世界が現れる」と。

 「自分だけは特別」ということを裏書したいがために、そうした人たちは
信仰の世界に埋没する。
教団自体が、信者にそう教えることもある。
「あなたは神に選ばれた、すばらしい人」と。
 
 彼らの目の中には、(うしろの世界)はない。
(現実の世界)すら、ない。
あるのは、どこまでも自己中心的な幼稚性だけ。

 大切なことは、自分で考え、自分の足で立つこと。
生きる気高さも、そこから生まれる。
不完全であることを恥じることはない。
未熟であることを恥じることはない。
常に、前に向かって進むこと。
もしそれがまちがっているというのなら、それを言う神のほうが
まちがっている。
そんな神なら、すぐさま捨てたほうがよい。


●自己中心性

 EQ論(情緒指数論、人格完成論)によれば、その人の自己中心性を
みることによって、その人の人格の完成度を知ることができるという
(ピーター・サロベイほか)。

 自己中心性の強い人は、それだけ、人格の完成度は低いということになる。
こんな話を、最近、耳にした。

 ある死刑囚だが、看守にこう尋ねたという。
「免許証の更新日が近づいたが、だいじょうぶか?」と。
彼は自分が死刑囚であることを忘れ(?)、免許証の更新日のことを
心配していた。

 また別の話。
ある患者だが、彼は、精神病棟の、「鉄格子のある部屋」(知人談)に入院していた。
そのことからも、彼がどういう病気の人かがわかる。
その患者が、たまたま見舞いに来ていた知人に、こう聞いたという。
「何か、いい仕事はないか。あれば紹介しほしい」と。

 こうした現象は、心理学の世界では、「現実検証能力」という言葉を使って
説明される。
自己中心性が肥大化すると、それと反比例の形で、現実検証能力を喪失する。
自分で自分がわからなくなる。
自分がどういう立場にいるか、わからなくなる。

 こうした死刑囚や、精神病棟の患者に、「人格の完成論」を求めても、意味はない。
それに不幸な人たちであることにはちがいない。
だれもそうなりたくて、なるわけではない。
無数の(運命の糸)に引っ張られるうちに、そうなる。
つまり人格の完成は、その(あと)の問題ということになる。
(ただし死刑囚の人たちの中には、人格的に、すぐれて高邁な人になる人も
いるという話も、聞いたことがある。)

 が、これはそのまま私たち自身の問題でもある。

 私たちはそのつど、常に現実検証能力を試される。
「今、自分はどういう立場にあるのか」、
「人から見たとき、どういうふうに見られているのか」と。

 たとえば今、私は、私の教室の様子をビデオカメラに収め、それを
編集してYOUTUBEに載せている。
それがどういう意味をもつのか、私には、実際のところわからない。
恐らく日本でもはじめての試みではないか。
「林はバカなことをやっている」と思う人もいるかもしれない。
「つまらないことをやっている」と思う人もいるかもしれない。
結果的に、たいへん無駄なことをして、時間をつぶしただけということにも
なりかねない。
自分で自分のしていることが、わからない!
完全に現実検証能力を喪失している。

 その姿は、免許証の更新を心配した死刑囚、職さがしをしている精神病棟
の患者と、どこもちがわない。


●「まとも」論

 こうして考えていくと、では「『まとも』とはどういう状態をいうのか」という
問題が起きてくる。
「まともな人」というときの、「まとも」である。

 実は私はある人にこう言われたことがある。
「私が幼稚園で働いています」と言ったときのこと、その男性(当時50歳くらい)は、
こう言った。
「もっとまともな仕事をしろ!」と。

 ある役所で役人をしている男だった。
つまり幼稚園での仕事は、「まともではない」と。

 しかしこうした職業観そのものが、あの身分制度の名残と考えてもよい。
日本人は昔から、独特の職業観をもっている。
「いい仕事」「悪い仕事」と色分けすることも多い。

 さらに、「まともな人間」という言葉もある。
このばあいは、「人生の正道を歩く人間」という意味か?
「そこそこに人格の完成度も高く、そこそこに他者と良好な人間関係を築ける人間」
と。

 しかし実際には、一方に(まともでない人)がいて、その反対側にいる人を、
(まともな人)という。
そういう点で、「まとも」の定義は、むずかしい。
あえて言うなら、「ふつう」という意味にも解釈できる。
しかしこの世の中に、(ふつう)も、(ふつでないもの)もない。
人について言うなら、どういう人を、「ふつうの人」といい、どういう人を、
そうでないと言うのか?

 死刑囚になるような人は、その一方で、被害者の人たちの、想像を絶するような、
怒りや恨みを買っているから、私はあえて擁護しない。
しかし心の病気についていえば、これは本人の責任ではない。
私だってなるし、あなただってなるし、だれだってなる。
鉄格子のある病棟に入院しているからといって、「まともでない」と決めつけてはいけない。

 つまり、この世界、(まとも)の基準などないし、裏を返して言うと、
この世界全体が狂っている。
人間がおかしいのではなく、その人間を包む世界のほうが、おかしい。
それこそまともに生きようと思えば思うほど、気が変になってしまう。

 大切なことは、あなたという自分を基準にして、人を判断してはいけないということ。
「自分がそうであるから、他人もそうであるべき」とか、「自分とちがうから、あの人は
おかしい」とか、そういうふうに、考えてはいけないということ。

 ……と考えていくと、「まとも論」ほど、どうでもよいものはないということになる。
つまるところ、私は私。
あなたはあなたということ。

 私も「もっとまともな仕事をしろ!」と言われたとき、そう感じた。
この世の中には、まともな仕事も、またそうでない仕事もない。
まともな人間も、またそうでない人間もいない。
だから(まとも)も、(まともでもない)ものもない。

 それがここでの結論ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●庭のすずめ

+++++++++++++++++++

私の家の裏庭は、鳥の楽園。
裏庭全体が、大きな鳥小屋のようになっている。
すずめ、もず、ヒヨドリ、むくどり、つぐみが
やってくる。
それにカラスなど。
ときどき白鷺(さぎ)まで、やってくる。

そのすずめを見ていて、今朝、こんなことに気がついた。
庭にまいた餌がなくなると、すずめたちは、木々の
枝や畑の中に入って、何かをつまんで食べている。
ワイフは何かの虫のようというが、多分そうだろう。
この時期のすずめは、益鳥である。
虫を餌にする。
もしそうなら、つまり虫を食べてくれるなら、
「恩返し」ということになる。
私がワイフに、「すずめの恩返しだよ」と言うと、
「そうかもね」と。
ワイフは笑った。

毎朝、起きると同時に、手で2つかみ分ずつ、餌を
庭にまいている。
今朝もはじまった。
7月11日。

+++++++++++++++++++++

●土曜日

 午前中から、今日は中元のあいさつ回り。
午後も、あいさつ回り。
夕方は、義兄にあいさつ。
いろいろ世話になっている。
息子たちの身元保証人にもなってもらっている。

 帰りは夕方5時ごろになるかもしれない。
ワイフと道順を相談しながら、そんな結論になった。

(今度買う車には、かならずカーナビを装着するぞ!
カーナビがあれば、無駄なく、市内を回れる。)


●映画『ノウイング(Knowing)』 

昨夜、仕事が終わってから、深夜劇場に足を運んだ。
観たのは、ニコラス・ケイジ主演の『ノウイング』。
星は4つの、★★★★。
劇場で見て、損はない映画。
じゅうぶんおもしろかった。

 内容は、平たく言えば、人類滅亡映画。
最後に人類は、ごく一部の人間(子どもたち)を除いて、あっさりと滅亡してしまう。
今までの地球危機映画とは、一線を画す。
ヒーローはいない。
もちろんハッピーエンドで終わる映画でもない。
ワイフは見終わったあと、こう言った。
「とうとうこんな映画が出てきたわね」と。
つまり人類滅亡も、SF映画が先行する形で、現実のものになりつつある。
観終わったあと、そう思った。

 まったくの同感である。
最後に宇宙人が、わずかの数の人間だけを、どこか別の惑星に移住させる
というのも気になる。
旧約聖書を類推させるようなシーンもあった。
観終わったあと、私とワイフは、こんな会話をした。

私「どこかのカルト教団では、最後の審判のとき、天から神が降臨し、
その宗教を信じた人だけが、救われると教えているよ」
ワ「あら、そうね。あの映画は、どこかの宗教団体がスポンサーに
なっているのかしら?」
私「そんなことはない思うけど、そう疑われてもしかたないかもね……」
ワ「……でも、どこか宗教じみた映画だったわ」
私「そうだね」と。

 転々とストーリーが展開して、飽きない。
(最初の数シーンを見ただけで、結末がわかってしまうような映画も
中にはあるが……。)
最後まで、最後にどうなるか、私にも想像できなかった。
こういう映画はおもしろい。
だから星は4つ。
家に帰って時計を見ると、午後11時30分を過ぎていた。


●丸和のギョーザ

 中元回りの途中で、このあたりでも有名な、ギョーザ屋に立ち寄った。
『丸和』(実名)というギョーザ屋である。
このあたりでは、たいへんよく知られた店である。
安くて、おいしい。
私たちは、ギョーザというと、いつもこの店で買っている。

 で、帰りに義兄の家にも立ち寄るため、みやげは、ギョーザにした。
が、この店は、いつ来ても、長蛇の列。
30〜40分待ちは、当たり前。
私とワイフは、玄関先に出してある椅子に座って、順番を待つことにした。

 営業日は、火曜日〜土曜日、9:30〜18:00。
定休日は、日曜日と月曜日。
玄関先のガラス戸には、そう書いてある。

 場所は、ジャスコ・志都呂店から北へ、車で5分ほどのところ。
みやげとしても喜ばれる。
「浜松」と言えば、ギョーザ。
どこかへ行くときは、ここでギョーザを買っていくとよいかも。
丸和からまっすぐ北へ車を走らせれば、10分ほどで、東名浜松西
インターにつながる。

私が知るかぎり、浜松ではイチ押しのギョーザ屋である。
言い忘れたが、売っているのは、生ギョーザだけ。
看板には、「持ち帰り専門店」とある。
調理は、自分でして食べる。

丸和さん、これからも安くておいしいギョーザをお願いします。
いつもありがたくいただいています。


●うなぎ丼

 昨日、千葉に住む三男に、浜松のうなぎを送った。
が、それをメールで連絡すると、「明日から東南アジアを回る」と。
ア〜ア。
が、幸いなことに宅配会社に連絡すると、まだ冷蔵倉庫に入った
ままとか。
すぐワイフが、取り戻しに行く。
……というわけで、今朝は、何と、朝食にうなぎ丼。
こんな豪華な朝食は、10年来、はじめて(?)。

 三男にしてみれば、新婚旅行のようなものらしい。
奥さんは、旅行が趣味とか。
これから先、三男夫婦は、思う存分、世界中を旅行できる。
「うらやましい……」ということになる。
が、飛行機嫌いの私は、あまりうらやましいとは思わない。
しかしそれとは別に、自分でしたいことを存分できるというのは、よい。
仕事と趣味が、一致している。
三男も嫁さんも、航空会社のJ社勤務。

 またそのうち何か連絡してくるだろう。
で、今夜は、うちもギョーザ。
ニンニクをたっぷりとつけて食べる。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●宇宙人

+++++++++++++++

数日前、バラエティ番組のひとつが、
「UFO」を特集していた。
見るに耐えないというか、お粗末な
内容だった。

+++++++++++++++

●宇宙人論

 宇宙人がいるとか、いないとか。
さらには、「いるなら、どうして出てこないのか」とか。
別の男性は、宇宙人からメールが届いたというようなことを言っていた。
またひとりの若い女性は、「これだけ進化した人間を、宇宙人が見捨てるはずがない」
というようなことを言っていた。
(以上、聞き覚えなので、内容は不正確。)

 このバラエティ番組では、定期的にUFO問題を取り上げている。
が、そのつど、イチからのやり直し。
まったく進歩がない。
つまり番組全体+出演者全員が、「輪形彷徨(ループ状態)」に入り込んでしまっている。
若い女性の「これだけ進化した人間を、宇宙人が見捨てるはずがない」という
意見には、思わず、笑ってしまった。

●なぜ宇宙人は、姿を現さないか?

 理由のひとつとして考えられるのは、数、つまり(人口)そのものが、少ない。
住んでいる場所が、月内部なら、月内部でもよい。
しかしその数は、数千人から、多くても数万人規模。
あるいはそれよりも、ずっと少ないかもしれない。

 今までいろいろなタイプの宇宙人が目撃されている。
その中でも、身長が2メートル前後もある大きな宇宙人が、彼らの世界の中での
私支配者ではないかと、私は思っている。
地球へやってくる、通称「グレイ」と呼ばれる宇宙人は、ただのロボットに過ぎない。
大型の宇宙人の命令に従って、地球や人間を監視している。

 あのホーキング博士も言っているように、「2種類の知的生命体は、共存できない」
という原則に従うなら、彼らとて、人間を恐れている。
おいそれと自分の姿を現すわけにはいかない。

●人間は進化したか

 視点を変えてみよう。
「もし私が宇宙人なら」という視点で考えてみる。
「もしあなたが宇宙人なら」でもよい。
「もしあなたが宇宙人なら、あなたは人類の滅亡を、阻止するだろうか」と。

 答えはとても残念ながら、「NO!」である。

 もし人間のような邪悪で、好戦的な生物が宇宙にまん延したら、それこそ宇宙は、
たいへんなことになる。
この地球上で、人間は、いたるところで戦争を繰り返している。
この日本にすら、権力欲にとりつかれたような総理大臣がいる(09年7月)。
もしこんな生物が、強力な武器を手にしたら、宇宙は、どうなる?
ほんの少しだけ常識を働かせば、こんなことはだれにでも、わかるはず。

 そんなわけで私は、「これだけ進化した……」という意見には、思わず、笑ってしまった。

●人類の滅亡

 もし彼らが人類を残すとしたら、あくまでもサンプル程度。
それこそ多くて、数千人規模でじゅうぶん。
それでも多すぎるかもしれない。
それを映画で表現したのが、ニコラス・ケイジ主演の『ノウイング』ということに
なる。

 で、このままであれば、残念ながら人類は自ら、滅亡する。
地球そのものが、人類の生存に適さなくなる。
地球温暖化は確実に進行している。
そのための会議も、空回りばかりしている。
宇宙人に言わせれば、「ホープレス(望みなし)」ということになるのでは?

 (だからといって、会議に出ている人を責めてはいけない。
だれがやっても、結論は、同じになるだろうと思う。
つまりそれが人間のもつ英知の限界ということになる。)

●マヤの予言

 ついで、マヤの予言が飛び出した。
何でもマヤの暦(こよみ)は、2012年12月21日(数字は不正確)に終わって
いるという。
それを根拠に、「人類は、そのとき滅亡する」とか?

 2012年12月といえば、あと3年と少し。
ヘ〜〜エ!
またまた出てきた、インチキ予言。
私たちは、あの『ノストラダムスの大予言』で何を学んだというのか。
どれだけ賢くなったというのか。

 平和な時代が半世紀もつづくと、人間は、自ら不安を作りあげ、それを楽しむ
ようになる。
「平和」そのものがもつ閉そく感を、打ち破りたい衝動にかられる。
さらに言えば、「自分だけは、選ばれた人間になりたい」と願う。
幼稚な自己中心性の表れとみていよい。
それはわかるが、そういうことは、映画館の中だけですればよい。
それでもって、「人類は2012年に滅亡する」と騒ぐのは、バカげている。
本当にバカげている。

●しかし……

 UFO問題が、どこかカルト化している点、あるいはその可能性が高い点については、
じゅうぶん、警戒したほうがよい。
すでにそうした方向性をもって動いている団体は、いくつかある。
過去にも、そういう例がある。

 つまりUFO問題は、それ自体が、カルト化、つまり信仰化する要素を内在している。

(1)神格化しやすい
(2)神秘性をもっている
(3)超越性をもっている

 それを支える人類危機説。
人々の心理が不安定になると、こうしたカルトは急速に力をます。
勢力を伸ばす。

 宇宙人はいる。
しかもこの地球の近くにいる。
それは事実としても、私たちは冷静に、この問題を考えなければならない。
たとえば宇宙人なるものが、明確に私たちの前に姿を現したとしたら、そのとたん、
世界の宗教は大混乱に陥る。
それがさらに社会不安を引き起こし、人間の心は乱れに乱れる。

 「どうして姿を堂々と現さないのか」というような単純な問題では、ない。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●J社社員の年金

+++++++++++++++

航空運輸会社に、J社という会社がある。
そのJ社の社員の年金が、国民年金、厚生年金、
それに企業年金の3つを合わせて、
平均で、月額50万円弱もあるという(新聞報道)。
年間になおすと、600万円弱!

+++++++++++++++

もっともこの程度の年金なら、それほど
珍しくない。
大手商社のばあい、もっと多い。
「公的年金など、はした金」と、彼らは言う。
それほどまでに、多い。

が、なぜ、それほどまでに多いか。
一説によれば、「口止め料」とか。
商社マンというのは、そのつど、たいへん
きわどい仕事をしている。
そうした仕事の内容を、退職後口外されたら、
それこそ、たいへんなことになる。
だから「口止め料」と。
そんな話を、電話で友人と話しながら、
私はこう言った。

「それだけの年金があれば、死ぬまで
遊んで暮らせるよね」と、友人が言った
ときのこと。
「遊べと言われても、遊べるものでは
ないしなア・・・」と。

そう、「遊びなさい」「休みなさい」と言われて、
遊べるものではない。
休めるものでもない。
年金の額ではない。
(もちろん年金は多ければ多いほど、よいが・・・。)
私たちが求めるのは、(生きがい)。
生きがいなくして、老後はない。

で、あなたなら、どちらを選ぶだろうか。

(1)50万円の給料をもらって、働く。
(2)50万円の年金をもらって、遊ぶ。

今の私なら、迷わず(1)を選ぶ。
仕事をすることから得られる緊張感は、お金では買えない。
それに遊び始めたとたん、体がなまけてしまい、
元に戻れなくなる。
ほとんどの人が、そうである。
そのあとは、老後というよりは、「死」に向かって
まっしぐら!

・・・それに、「だから、それがどうしたの?」
という問いに、答えのない人生ほど、意味がないものはない。
これには老いも若きもない。
・・・というのは、言い過ぎということは、
私にもわかっている。
しかし、それほどまちがってはいない。

平たく言えば、遊んだからといって、それが
どうなの?
遊び始めたとたん、1年を1日にして生きるだけ?
今の私は、そんな人生には、とても耐えられない。
だから、いくら忙しくても、働いていたほうがよい。

話が脱線したが、このところ年金の話になると、
ビリビリと、脳みそが勝手に反応してしまう。
そしてそのつど、「いいなあ」とか、「たいへんだなあ」と
思ってしまう。

 で、私のばあいは、年金といっても、月額6万4000円前後。
国民年金だけ。
しかも満65歳からということになっている。
が、こんな額では、とても生活できない。
だからまったくアテにしていない。
アテにしていないというより、「年金で遊んで
暮らす」という発想、そのものがない。
だから(1)の「50万円の給料をもらって、働く」を
選んでしまう。
選ぶしかない。

 しかし私は、これでよかったと思う。
その(きびしさ)が、心の中に、ある種の緊張感を作る。
その緊張感が、私の人生を、かえって豊かなものにする。

もし今の私が、毎月50万円もの年金を手にしたら、
勤労意欲そのものが、消えてしまうだろう。
あっという間に、ボケてしまうだろう。
1年を1日にして、生きるようになってしまうだろう。

 ・・・と書くのは、私のひがみかもしれない。
自分をなぐさめるために、(というのも、どうあがいても、
今さら年金の額をふやすことはできないので)、自分の立場を
無理に合理化しているだけかもしれない。

 それにしても、このところこうした不公平感を覚えることが、
やたらと多くなった。


はやし浩司+++July09+++Hiroshi Hayashi

●教職という職業の特殊性

 教職という仕事は、おもしろい仕事である。
それから離れたとたん、教職という仕事を通して得た
知識や経験が、そのまま真っ白になってしまう。
これは私の意見ではない。
長い間、教職についていた人は、みな、そう言う。
中には、「教育には、二度と携わりたくない」という人もいる。

 これはたいへん興味深い現象である。
理由はわからないが、教職という仕事には、たしかにそういう
面がある。
「子どもと接しているときだけが、仕事」。
そう考えてよい。

たとえばこの私でも、休暇が数日つづいただけで、子育て論が
書けなくなってしまう。
(これは本当だぞ!
大げさなことを言っているのではない!)
事実は事実。
これは教職という職業だけがもつ、特殊性と言ってもよいのでは?


Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●七夕(たなばた)

 七夕の短冊のひとつに、こんなことが書いてあった。
テレビでかいま見た、1シーンだった。
若い女性の字だった。
「どうか、10キロ、やせられますように」と。

 それを読んで、「10キロは、たいへんだな」と思った。
2、3キロなら、何とか、なる。
しかし10キロともなると、かなりの覚悟が必要。
減量するだけなら、食事制限がある。
食事制限だけでも可能だが、そんな無茶なやり方を
すれば、体のほうが先に壊れてしまう。
ダイエットは、いつも運動とペアでなくてはならない。
その運動がつらい。
相当の決意がないと、その運動をこなすことができない。

 で、私も目下、ダイエット中。
慢性的なガス欠(=エネルギー不足)状態。
何をしていても、眠くてしかたない。
運動疲れもある。
スカスカと風通しはよくなった感じはするが、体はかえって重くなった感じ。
たった今、朝の運動から帰ってきたところ。
1時間半、歩いた。
40分、サイクリングをした。

 扇風機の風に当たりながら、うつらうつら・・・。
眠くてしかたない。


Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●「車に注意」?

近くに大型ショッピングセンターがある。
そのうちの一か所の出口が、歩道を乗り越えて、
大通りに出るようになっている。
買い物に来た客の車は、その歩道を乗り越えて、
大通りに出る。
周囲を3〜4メートルの植木で囲まれて
いたこともある。
この歩道で、人身事故が絶えなかった。

車を運転する人は、右方向だけを見て車を
大通りに出そうとする。
そのとき、左側から来た歩行者や自転車を、
はねる。

そこで半年ほど前、植木の上部が刈り込まれ、
高さが1メートルほどになった。
が、それでも、事故はつづいた(?)。
それもそのはず。
車を運転する人は、相変わらず、右方向
だけを見て、車を大通りに出そうとする。
植木のあるなしは、あまり関係ない。

が、である。
最近見たら、歩道に沿って、ズラリと
小さな看板が立てられているではないか。
大きさは、縦50センチ、横15センチほど。
それが車の出入り口の向かって左側、7〜8メートルに
わたって、10〜15本も立てられている。
「車に注意!」と。

しかしこれこそ、立場が逆!
歩行者軽視もよいところ!
書くとしたら、内側の車に向かって、「歩行者に注意!」。
それも向かって右側に立てるべき。
あるいは具体的に、「左から来る歩行者や、自転車に注意!」
でもよい。

(店側)                   ↓(車の出入り)  
―――――――――――――――――看看看看●   ●―――――――――
(歩道)                   ↓
―――――――――――――――――――――●   ●―――――――――
(大通り)                   →

つまり「ここから車が出てくるから、歩行者や自転車
に乗っている人は、注意しろ!」と。
もっと言えば、「お前ら歩行者がぼやぼやしているから、
事故は起きる」とでも、言いたげ?
(これは考えすぎかな?)

このことをワイフに話すと、ワイフはこう言った。
「お客様、苦情センターというコーナーがあるから、
そこへ手紙を書いたら?」と。

・・・ということで、この手紙を書いた。
あとで、プリントアウトして、そこへもっていくつもり。
だれが指示してあんな立て札を立てさせたのかは
知らないが、あれを考えた人は、かなりジコチュー
な人と考えてよい。

歩行者が歩道を歩くのに、どうして車に注意して
歩かねばならないのか!

(注:この手紙は、その店には、もっていかなかった。)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの虚言癖

++++++++++++++++++

「子どもは家族の代表」という考え方が、
現在では、主流的な考え方です。
というより、今では、常識。

子どもに何か問題が起きたときは、
それを「家族全体の問題」として考えます。
子どもだけを見て、「直そう」と考えては
いけません。

E県のESさん(母親)から、子どもの
虚言癖について、メールが届いています。
この問題を、いっしょに考えてみたいと
思います。

++++++++++++++++++

【ESさんより、はやし浩司へ】

小学校6年生の息子のことでご相談させてください。

先日、息子の通学用のかばんから危ないものが出てきました(料理用の小型ナイフ)。
その前に、台所で何かに興味を示していたので、息子が自分でかばんに入れて
学校に持って行ったものと思い、
「危ないから、そんなものはもって行ってはいけない」と注意すると、
絶対自分はかばんに入れていない、自分ではない、と強く反論しました。

それでも内心嘘をついていると思いながらもあまり問い詰めず、そのままになりました。

翌朝、もう一度、もって行ったことはともかく、嘘をついたことが気になり、
学校に登校する前に「本当は持って行ったんじゃないの」と聞きましたが、
泣きながら、絶対に自分は知らない、と反論しました。

それですっかり怖くなってしまったのですが、
嘘をついているなら、まだましで、本人の記憶が飛んでいるのではないかと
思うほど、自分でも「もって言っていない」と、信じ込んでいる様子なのです。

普段から生活態度がだらしなく、細かいことまで沢山注意したり叱ったりすることも多く、
バイオリンを小さい頃から習っていて、その練習でも親子喧嘩が絶えず、
ストレスがたまった結果、こんなことになったのか、と悩んでいます。

子供はこうやって都合の悪いことを、本当に忘れたりすることがあるのでしょうか。
それともやはり分かっていて嘘をついているのでしょうか。

病的行動との心配があるならどう対処したら良いのでしょうか。

どうしてよいか分からず、悩んでいます。

【はやし浩司より、ESさんへ】

 いくつかの点で、気になることがあります。

(1)「かばんから……」という部分
(2)「泣きながら……」という部分
(3)「親子喧嘩が絶えず……」という部分
(4)「すっかりこわくなって……」という部分
 
 子どもの虚言で注意しなければならないのは、「空想的虚言(妄想)」です。
それについては、たびたび書いてきましたので、一度、「はやし浩司 空想的虚言」で
検索してみてください。
(私のHPのトップページ、子育てあいうえおを参考にしてください。)

 SEさんのお子さんのばあいも、その空想的虚言が疑われます。
心の中に別室を作り、その中に、いやなことや、思い出したくないことを、
閉じ込めてしまいます。
心理学的には、「抑圧」という言葉を使って説明されます。
自分の心を守るために、いやなことを閉じ込めるという防衛機制をいいます。
この抑圧についても、たびたび書いてきました。

 一般的には、気の抜けない、強圧的な過干渉が慢性化すると、子どもは自分の心を防衛
するために、いわゆるシャーシャーとウソをつくようになります。
そしてひとつのウソがバレると、また新たなウソをつきます。
それがひどくなると、先に書いた、空想的虚言となるわけです。
(たった一度の、衝撃的な事件がきっかけで、空想的虚言をつくようになる子どももいま
す。)

 で、この抑圧で怖いのは、ふだんは何ともなくても、時と機会をとらえて、突発的に
爆発するということです。
俗に言う「キレる」原因の一つになることもあります。
「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と、です。
古い、とっくの昔に忘れたはずのできごとを、つい昨日のできごとのように思い出して、
キレるのが、特徴です。
(30歳になっても、40歳になっても、子どものころのことを、つい昨日のできごとの
ように思い出して、錯乱的に怒ったりすることもあります。
心の別室の中では、時間は止まったままになります。)
が、抑圧イコール、空想的虚言ということではありません。
子どもの心理は、もう少し複雑です。

 で、それについて書く前に、気になった点を並べてみます。

(1)「かばんから……」……私は、生徒はもちろん、ワイフのかばんすら、中をのぞいた
ことがありません。いわんや息子たちのかばんをのぞいたことは、ただの一度もありませ
ん。そういう私ですから、それが許されることなのか、許されないことなのかという議論
はさておき、ESさんの行為が、私には、理解できません。

(2)「泣きながら……」……ふつうは、(「ふつう」という言葉は、あまり使いたくありま
せんが)、この程度のことで、子どもは泣かないものです。どうしてそこまでたがいに感情
的になってしまうのでしょうか。責める側(=ESさん)にも、子どもの側にも、心の余
裕が感じられないのが、気になります。

(3)「親子喧嘩が絶えず……」……私も小学生のとき、バイオリンをやらせられ、たいへ
んいやな思いをした経験があります。結果、大の音楽嫌いになってしまいました。小学生
のころ、「音楽」という言葉を聞いただけで、ゾーッとしたのを、覚えています。

(4)「すっかりこわくなって……」……お子さんが小3であることを考えるなら、親子関
係はすでに、かなり危険な状態に入っているとみますが、いかがでしょうか。

●過去の事例から

 似たような事件で、印象に残っているのが、2つあります。
ひとつは、月謝袋をバスの中で落としたと言い張った女の子(小4)。
落としたときの様子を、ことこまかに説明したので、私はウソと判断しました。

 もう1人は、私の教室でおしっこを漏らしたと母親に告げた男の子(年長児)。
「林先生(=私)が、床を拭いてくれた」と母親に言いましたが、私には覚えがありませ
ん。
それで母親が問い詰めると、今度は、「園バスの中でもらした」と。
が、バスの運転手さんや、同乗の先生に聞いても、「知らない」と。
結局、その子どもは、バスをおりてから、家に帰るまでの間にもらしたということになり
ました。
「どうしてママに言えなかったの!」と叱られるのがいやで、そういうウソをついたので
しょう。

●二番底、三番底

 この種のケースで注意しなければならないのは、二番底、三番底です。
けっして「今が最悪」と考えてはいけません。
「子どもを直そう」と考えるのも、危険です。
(簡単には、直りませんから……。)

 対処の仕方をまちがえると、「まだ以前のほうが症状は軽かった……」ということを繰り
返しながら、さらに症状はこじれます。
もっと大きな問題を引き起こすようになります。
まだ小3ですから、まにあいます。
今は、「これ以上、問題(=子どもの心)を、こじらせないこと」だけを考えて、対処して
ください。

 大切なことは、ESさんの、育児姿勢、態度を、改めることです。
子どもだけを見て、ESさんは、自分の姿を見ていません。
冒頭に書いたように、子どもは、家族の「代表」にすぎないのです。
そういう視点で、率直に反省すべきことは反省します。

●気になる不信感

 ESさんの子育てを総合的に判断すると、いわゆる「不信型の子育て」ということにな
ります。
「信じられない」という不安感が、過干渉の原因になっています。
が、この問題は、「根」が深いです。
時期的には、0〜2歳までさかのぼります(エリクソン・心理社会発達理論)。
母子の間の、基本的信頼関係の構築に失敗したとみます。

 ESさんのほうが、お子さんを全幅に許してこなかった。
その結果、ESさんがお書きになっているように、「普段から生活態度がだらしなく、細か
いことまで沢山注意したり叱ったりすることも多く……」ということになったと考えられ
ます。

 「だらしない」という基準は、どこにあるのでしょうか。
どこの子どもも、だらしないものですよ。
だらしなくない子どもなど、いないと考えてください。
ESさんの思い通りにならないからといって、「だらしない」と決めつけてはいけません。
むしろ逆で、子どもは学校という職場で、疲れきって帰ってきます。
家の中で、ぞんざいになっても、それはそれでしかたのないことです。
(とくにESさんのお子さんは、そうではないでしょうか。)
むしろ家の中では、したいようにさせ、羽を伸ばさせてやる。
それが「家庭」の基本です。

 私があなたの子どもなら、こう言うでしょうね。
「うるさい、放っておいてくれ!」と。

●では、どうするか?

 何よりも大切なことは、ESさん自身が子どもを信ずることです。
このままでは、(互いの不信感)→(親子のキレツを深める)→(ますます互いに不信感を
もつ)の悪循環の中で、やがて親子の断絶……ということになります。
(すでに今、その入口に立っていると考えてください。
さらに症状が悪化すると、あいさつ程度の会話もできなくなりますよ。)

 といっても、この問題は先ほども書いたように「根」が深く、簡単には解決できません。
ESさんが、「では、今日から、私は子どもを信じます」と言ったところで、そうはいかな
いということです。

 仮にそれができたところで、今度は、子どもの固まった心を溶かすには、さらに時間が
かかります。
それについては、とても残念なことですが、すでに手遅れかもしれません。
小3という時期は、そういう時期です。
年齢的には、思春期前夜に入るころです。
親離れを始める時期と考えてください。
ESさんのお子さんがもっている、ESさんへの印象を、ここで変えることはできません。

 では、どうするか?

 あきらめて、それを受け入れる、です。
勇気を出して、あきらめなさい。
『あきらめは、悟りの境地』と考えてください。
押してだめなら、思い切って引くのです。
親のほうがバカになって、頭をさげるのです。

 どこの家庭も、ESさんのような問題をかかえています。
うまくいっている家庭など、100に1つもないと考えてください。
そして一方で、裏切られても、裏切られても、『許して、忘れる』を繰り返してください。
その度量の深さで、あなたのお子さんに対する愛の深さが試されます。

 メールを読んだ範囲では、あなたの子育ては、「取り越し苦労」と「ヌカ喜び」の繰り返
しといった印象を受けます。
カバンの中にナイフ……というのは、ふつうではないと思いますが、しかしそれを見てパ
ニックになってしまう。

 いいですか、「心配だ」「心配だ」と思っていると、本当に、(あるいはさらに)、心配な
子どもになってしまいますよ。
こういうのを「行為の返報性」といいます。
(これも、「はやし浩司 行為の返報性」で検索してみてください。
参考になると思います。)

 そこで私が今できるアドバイス……

☆「あなたはいい子」「すばらしい」を、口癖にして、あなた自身の心をだまし、作り変え
ること。

☆子どものほうに目が行き過ぎていませんか。もしそうなら、子どものことは構わず、あ
なたはあなたで、したいことを、外の世界ですること。
母親でもなく、妻でもなく、女でもなく、ひとりの人間として、です。

☆「子どもに好かれよう」とか、「いい母親でいよう」とか、「いい親子関係を作ろう」と
いう幻想は、もうあきらめて、捨てること。またそういう気負いは、あなたを疲れさせる
だけです。
とくに「おとなの優位性」を捨てること。

☆「今の状態をこれ以上悪くさせないこと」だけを考えて、あとはもう少し長い時間的ス
パンで、ものを考えてください。1年とか、2年です。あとは時間が解決してくれます。
あせればあせるほど、逆効果。それこそ二番底、三番底に進んでしまいますよ。

●ESさんへ、

 かなりきびしいことを書きましたが、あなたのお子さんの問題は、実は、あなた自身の
問題ということに気がついてくだされば、うれしいです。
「なぜ、子どもがウソをつくのか」「ウソをつかねばならないのか」、そのあたりから考え
直してみてください。

 それを「病的」と、子どもの責任にしてしまうのは、あまりにも酷というものです。
ひょっとしたら、あなた自身が、自分が子どものころ、全幅に親に甘えられなかったのか
もしれません。
あなたの親に対して、心を開くことができなかった。
あるいは結婚当初の何らかのつまずきが、そのあとの(心配の種)になってしまったこと
も考えられます。

 そんなわけで私があなたのお子さんなら、あなたにこう言うでしょう。

「ママ、もっと心を開いて、ぼくを信じて!」と。

あなたのお子さんがあなたに求めているのは、ガミガミ、キリキリと、やりたくもない
音楽の練習ではなく、「友」です。
親意識が強く、支配的に上に君臨する女帝ではなく、「友」です。

 さあ、あなたも、一度子どもの世界に身を落として、友として、お子さんの横に立って
みてください。
時間はかかりますが、やがて少しずつ、あなたのお子さんは、あなたに対して心を開くよ
うになるでしょう。
それがあなたにも、わかるようになるはずです。
と、同時に、あなたはお子さんといっしょに、第二の人生を楽しむことができるようにな
ります。
そう、「楽しむ」のです。

 子育ては、本来、楽しいものですよ!

 最後に一言。
『許して、忘れる』です。
(「はやし浩司 許して忘れる」を検索してみてください。)

 では、今日は、これで失礼します。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW BW教室 子どもの虚言癖 虚言 空想的虚言 親子断絶)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●罰(ばち)

+++++++++++++++++++

不可思議なパワーによる「罰(ばち)」というのは
認めない。
しかし「罰(ばち)」というのは、たしかにある。
あるが、それは不可思議なパワーによるものではなく、
その人自身の運命が、自ら、つくりあげていくものである。

+++++++++++++++++++

●運命

 「運命論」については、たびたび、書いてきた。
書いてきたので、ここでは簡単に触れるだけにする。
つまり私たちには、私たちの行き先を決める、無数の「糸」が
からみついている。
家族の糸、仕事の糸、環境の糸、才能の糸、などなど。
過去の糸もあるし、遺伝子の糸もある。
そういった無数の糸が、ときとして、自分の望むのとは
別の方向に、自分を連れ去ってしまうことがある。
それを「運命」という。

 ただし運命というのは、その時点では、わからない。
自分の過去を振り返ってみたときに、それがわかる。
「ああ、私には私の運命があったのだ」と。

●罰(ばち)

 私自身は、罰(ばち)(以下、「罰」とだけ表記)という言葉は
好きではない。
どこか宗教じみている。
宗教の中でも、カルトじみている。
しかしときとして、運命は、その人を、罰と言えるほど、悪い状況
に追いやってしまうことがある。
 それを私は罰という。

 が、先にも書いたように、どこか別の世界に、たとえば霊的な存在
があって、その人を、悪い状況に追いやるわけではない。
その人の運命が、自ら、作りあげていくものである。

●緑内障

 最近、緑内障になって、視力をほとんど失ってしまった女性(65
歳)がいる。
 ただし、誤解のないように言っておくが、緑内障になったからといって、
罰が当たったということではない。
緑内障といっても、病気のひとつ。
だれでもなりうる病気である。
よい行いとしたから、ならないという病気ではない。
悪い行いをしたから、なるという病気でもない。
ただその女性自身が、「罰が当たった」と騒いでいるから、罰ということに
なる。
こういうことだ。

●小ずるい女性

 「一事が万事」という。
「万事が一事」ともいう。
その女性は、何かにつけて、ずるい女性だった。
ずる賢いと言ったほうが、よいかもしれない。
口がうまい分だけ、人をだますのも、うまかった。

 今でこそ、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という言葉が、ポピュラーに
なった。
その人を介護するフリをしながら、一方で、その人を虐待するという、
あれである。
ごく最近も、どこかの母親が、自分の子どもに、汚れた水を点滴しながら、
その一方で、よくできた母親を演じていた女性がいた(岐阜県S市)。

 介護する相手は、自分の子どもであることが多いが、実の両親や、義理の
両親に対して、それをする女性もいる。
他人が見ているときは、ベッドの上で、その人の背中をやさしくさすって
見せたりする。
その女性もそうだった。
義理の母親だったが、食事を与えない。
便の始末をしない。
冬の寒い日でも、暖房器具は使わず、そのままにしておいた、などなど。

 が、他人の目を感じたとたん、「よくできた嫁」に変身する。
言葉の使い方はもちろん、口調まで変えた。
だからその女性をよく知らない人たちは、その女性のことを、ことさら
高く評価した。
が、それこそ、その女性の望むところ。
他人をして、そう思わせることによって、自分の立場を維持していた。

●シャドウ論(ユング)

 が、その女性の長男が、傷害事件を起こした。
警察に逮捕された。
その少し前、二男も、交通事故を起こしている。
横断歩道で、自転車通行中の高校生をはね、そのまま逃げてしまった。
義理の母親が、老衰で亡くなってから、ともに数か月後のことだった。

 近所の人たちはみな、首をかしげた。
「あれほどまでによくできた母親なのに、どうして息子たちは、そうなって
しまったのか」と。

 しかしユングのシャドウ論をあてはめて考えれば、謎でも何でもない。
母親がその内に隠しもっていたシャドウ(=邪悪な影)を、2人の息子たちは
そのまま引き継いだ。
よくある話で、何でもない。
が、その女性には、それが理解できなかった。
しかもその女性は、人一倍、世間体を気にした。
小さな町で、その話は、みなに伝わってしまった。

●強度のストレス

 その女性が緑内障になったのは、長男が逮捕されたその翌日のことだった。
朝起きてみたら、視野が極端に狭くなっているのを知った。
いつもならそこに見えるはずの目覚まし時計すら、見えなかった。
トイレに起きたとき、廊下の柱に顔をぶつけた。

 異変に気づいたその女性は、夫にそれを話し、地元の救急病院へと
そのまま直行した。
医師は「強度のストレスが、緑内障を引き起こした」と診断した。
が、その女性は、それを罰(ばち)ととらえた。
いや、実際には、それを先に罰ととらえたのは、夫のほうだった。
夫は、その女性の虚像を、結婚当初から見抜いていた。
義理の母親(夫にとっては、実父)に対する虐待についても、
薄々、感じ取っていた。
だから夫は、すかさず、こう言った。
「お前は、罰が当たった」と。

 それを聞いてその女性は錯乱状態になった。
ギャーと叫んだあと、体中をばたつかせて、泣いた。

●自業自得

 この話は、最近、ワイフがどこかで聞いてきた話を、私なりに
アレンジしたものである。
実際にあったケースではない。
しかしこれに似たような話は、どこにでもある。
「似たような」というのは、病気の原因を自ら作りながら、それに
気がつかないまま、(病気という結果)を、罰ととらえるケースである。
俗に言う、「自業自得」。
さらに言えば、「自ら墓穴を掘る」、である。

 が、少し冷静に考えれば、こんなのは罰でも何でもない。
医師も言っているように、「強度のストレス」が、緑内障を引き起こした。
そしてそのストレスは、長男の逮捕によってもたらされた。
が、このとき、その女性が悩んだのは、長男の逮捕ではない。
世間体である。
もしその時点で、世間体を処理できれば、ストレスはストレスにならなかった
かもしれない。

 さらに2人の息子がともに事件を起こしたのは、元はと言えば、その原因は、
その女性自身にある。
もともとは邪悪な性格の女性と考えてよい。
その邪悪な部分を、2人の息子は、うしろから見ながら、それを引き継いで
しまった。
聞くところによると、その女性は、かなりわがままな人だったらしい。
息子たちに対しても、いつも命令するだけの人だった。

 親子らしい親子の会話もなかった。
それが子どもたちから、静かに考えるという習慣を奪い、それが2つの
事件へとつながっていった(?)。
そういうふうにも考えることもできる。

●罰とは?

 昔の人は、こうした(原因)と(結果)をつなげて、こう言った。
「親の因果、子にたたり」と。
しかし冒頭にも書いたように、私は、不可思議なパワーによる罰という
ものを認めない。
またあるはずもない。
もしそれを「不可思議なパワーによるものだ」と考えるなら、それは、
その人の無知と無理解、無教養によるものである。

 言い換えると、運命というのは、その時点、時点において、その人の
努力によって修正することができるもの、ということ。
それを支えるのが、日ごろの生き方、教養、それに文化性ということになる。
 
 もしその女性が、正直に生きていたら・・・。
世間体というものを気にしていなかったら・・・。
息子たちの悩みや苦しみを分かち合っていたら・・・。
その女性は、緑内障という運命を、避けることができたかもしれない。

 というわけで、そういう意味での罰(ばち)というのはたしかにある。
またそういうのを「罰(ばち)」という。
つまり、「罰(ばち)」というのは、その人自らが、つくりだすものという
こと。
それをここに書きたかった。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●消息たずね(身勝手な好奇心)

++++++++++++++++++++

どうしてこんな、おかしな夢を見るのか?
ときどき、見る。
で、今朝は、起きがけに、高校時代の友人の
AK君の夢を見た。
AK君の実兄が、10年ほど前、自ら命を絶った。
そういう話は聞いていた。
そのAK君も、重い精神疾患を、患うようになったという。
私はその話を、2年前、中学の同窓会で
聞いた。

ところが、今朝、そのAK君が夢に出てきた。
その10年くらい前までは、年に1、2度、
我が家へ遊びに来てくれていた。
奥さんとも電話でよく話した。
が、そのころ、音信がプツリと切れた。

夢の中で、AK君が、こう言った。
「ぼくも、今度兄貴と同じように、自殺したよ」と。

+++++++++++++++++++++

●電話

 何があってもおかしくない。
私もそういう年齢になった。
だからというわけでもないが、何を聞いても、このところ驚かなくなった。
知人が亡くなったとか、そういう話でも、淡々と聞き流せるようになった。
知人の大病についても、そうだ。
「つぎはぼくかなあ……」と。

 しかしこういう夢は気になる。
死んだ人が、わざわざ夢を借りてあいさつに来たような感じがする。

もちろん私自身はスピリチュアル(霊)的な力といものを、信じていない。
またそんな力が、私にあるなどとは思っていない。
夢というのは、脳の奥深くに潜む潜在意識、さらにその下の無意識が具現化したもの。
そこにある(意識できない意識)が、勝手な想像をする。
今朝見た夢も、そうだ。
しかし気になる。……気になった。

 が、こういう話は、自分で確かめておく必要がある。
しっかりと自分なりに結論を出しておく必要がある。
一度は、それをしておかねばならない。

 AK君の実家は、もう一人の兄が引き継いでいる。
名前も知っている。
さっそく(104)に電話をかけ、電話番号を確かめる。
つづいて、AK君の実家に電話を入れる。

 AK君自身も、実は、数年前から、重い精神病を患い、現在は、名古屋市の
そうした病院に入院している。
数年前に一度、見舞いに行ったきりになっている。

 電話には、AK君の妹氏が出た。
私は自分の名前と立場、それにたがいの関係をしっかりと話したあと、妹氏に聞いた。

私「AK君は、元気ですか?」
妹「……まだ名古屋の病院に入ったままです……」と。

●思いすごし

 やはり私の思いすごしだった。
AK君は、自殺など、していなかった。
よかった。
先日も、同じような夢を見たとき、ワイフがこう言った。
「あなたには、そういう超能力があるのかもしれないわ」と。
私は、笑って、吐き捨てた。
「バカなこと言うな」と。

 こういう話は、映画の世界ではおもしろい。
映画の世界でなら、ありえる。
死んだ人が、その能力のある人のところへやってきて、挨拶をする……。
しかしこれは現実の世界の話ではない。
現実の世界では、ありえない。
それを今回、確かめてみた。……みたかった。

結果、つまり消息をたずねてみた結果、私の思いすごしだった。
……ということがわかった。
やはり夢は夢。
夢だった。
脳みその、ただのいたずら。
脳の、奥深くに住む意識が、勝手に想像した。
それを知って、安心した。

私「お元気なら、それでいいです」
妹「何か、伝言があれば、伝えておきますが……」
私「いいです。今朝、AK君の夢を見たので、それで気になって電話をしただけですから」
妹「ご心配かけて、すみません」と。

 妹氏の話は、AK君からよく聞いていたが、声を聞いたのは、今朝がはじめてだった。
しかし……。
こうして私のまわりから、1人、2人……と、人が消えていく。
この淡々とした静けさこそが、不気味。
それを傍観しながら、どうして私はこんなにも冷静でいられるのか?
私はそれほどまでに、心の冷たい人間になってしまったのか?
こうした現象は、私だけに起きているものなのか?
それとも、ある一定以上の年齢になると、みな、そう考えるようになるのか?

 加えて、何というニヒリズム。
……私がAK君の実家に電話をしたのも、AK君を心配したからではない。
ただ単なる好奇心。
イヤ〜ナ好奇心。
それも自分の(思い込み)を確かめるための電話。
もっと言えば、ときどき見るおかしな夢を、自ら、否定するため。
わかりやすく言えば、自分のエゴ。
が、どうして私は、こんな残酷なことができるのか。

 ……このところ私の精神状態は、あまりよくない。
だから、こんな夢を見る。
そして意味のない電話をしてしまう。

そうそう気分を入れ替えるため、今日は、ワイフと近くの温泉風呂に行ってくる
つまり。
夜9時まで入れば、11時まで、入浴できるという。
中で、軽い食事もできるという。
一度、そこで心をリフレッシュしてくる。

(付記)
 世の中には、他人の不幸をのぞいては、それを楽しむ人たちがいる。
そういう低レベルな人たちがいる。
それをするのは、その人の勝手だが、されたほうは、たまらない。
そうした行為は、グサリと胸に突き刺さる。
胸をえぐられるような悲しみと言ってもよい。

 だから……。

 他人の不幸は、のぞいてはいけない。
世の中には、知らなくてもよいことは、山のようにある。
(一方、知らなければならないことも、山のようにあるが……。)
のぞけばのぞくほど、自分の品位をさげる。
よい例が、モーニングショー(テレビ)のゴシップ番組。

見るからに低俗なレポーターが、さも知ったかぶりをして、タレントたちのゴシップを
追いかけている。
ああいうことばかりしていると、ああいう人間になる。……なってしまう。

 そういう意味でも、ある一定の年齢になったら、つきあう人を選ぶ。
「選ぶ」といっても、勇気のいることだが、その勇気がないと、いつの間にか、
自分自身も低俗になってしまう。
が、それこそ、時間のムダ。
人生のムダ。

(付記2)

そこに不幸な人がいるなら、静かに、そっとしておいてやろう。
相手から何かを求めてきたら、すかさずそれに応じてやればいい。
しかしそれまで、静かに、そっとしておいてやろう。
まちがっても、人の不幸をのぞいてはいけない。
確かめてはいけない。

今朝の反省より。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●親類づきあいと、縄張り意識(Sectionalism, or Territorial Fight of the Families)

++++++++++++++++++++++

親類づきあいというのは、人間が本来的にもっている
縄張り意識と、深く関係している。

「?」と思う前に、こんな事例があるので、読んで
ほしい。
少し、話が入り組んでいるので、かみくだいて説明する。

++++++++++++++++++++++

●意地で参列した葬式


Aさん夫婦(72歳と70歳)は、Bさん夫婦(67歳と60歳)とは、断絶していた。
Aさんの夫と、Bさんの妻は、兄と妹の関係。
数年前、実母が他界した。
その直後から、遺産相続問題が起きた。
毎週のように、実家で、怒鳴りあいの喧嘩を繰り返した。
それが発端となって、今は、行き来なし。
まったく、なし。

 で、A氏(兄)が、1億円近い現金をBさん(妹)に渡し、それで遺産相続問題は
解決した。
が、同時に、たがいに縁を切った。
切ったが、Aさん夫婦と、Bさん夫婦には、共通の親類や友人が、たくさんいた。
縁を切ったといっても、それぞれの人間関係が、複雑にからんでいる。
そうした人間関係まで、たがいに切ることはできない。

 そんなとき、Bさん夫婦の親(Bさんにとっては、義父)が、他界した。
Aさん夫婦は、新聞の死亡欄で、それを知った。
そこでAさん夫婦は、葬儀に出るべきかどうかで悩んだ。
迷った。

 縁を切っているから、(といっても、公に切ったわけではないが)、Aさんは
葬儀には出たくなかった。
それにBさん夫婦からは、何も連絡はなかった。
本来なら、Aさん夫婦は、Bさん家の葬儀には出なくてもよかった。

 しかし、Aさんは、こう考えた。
言い忘れたが、Aさん夫婦とBさん夫婦には、合わせて10人近い兄弟がいる。
それぞれが、何らかの形で、Bさん夫婦と関係をもっている。
「もし、葬儀に出なければ、みなに何と言われるかわからない」と。

●義理を欠く

 こうした世界には、恐ろしい言葉がある。
「義理を欠く」という言葉である。
こうした世界では、一度、親戚に「義理を欠いた」というレッテルを張られると、
以後、村八分にされる。

 「今どき、そんなことがあるのか?」と思う人も多いだろう。
しかし現実には、ある。
遠い山の中の、田舎の話ではない。
HONDAやSUZUKIの工場がある、この浜松市での話である。

 もしAさん夫婦が、その葬儀に出なかったら、Bさん夫婦以外の人たちは、「Aさんは
義理を欠いた」と判断する。
そして一度、そういうレッテルを張られると、Aさんは、親戚一同の中で、
自分の立場を失う。
そこでAさん夫婦は、葬儀に参列することにした。……参列した。

 あとでAさん夫婦は、こう話してくれた。
「葬儀の席では、Bさん夫婦とは、一言も言葉を交わしませんでした」と。

●たかが葬儀

 親にも、いろいろある。
兄弟姉妹にも、いろいろある。
人間関係は、みな、ちがう。
「自分がそうだから」という理由だけで、「相手もそうだろう」とか、「そうあるべき」
と考えてはいけない。

 葬儀についても、そうだ。
葬儀を一生の一大事に考える人もいる。
しかし「たかが葬儀」と考える人もいる。
そこには、その人の死生観のみならず、人生観、哲学、思想が凝縮される。
「儀式はあくまでも儀式」。
「大切なのは、中身」。

……私などは、むしろそう考えるほうなので、「葬儀など、出たい人は出ればいい。
出たくなければ、出なくてもいい。義理に縛られることはない」と考える。
しかしこの考え方は、一般的ではない。
だから、妥協するところは妥協しながら、適当に参列したりしている。

 が、Aさん夫婦も、Bさん夫婦も、そうではなかった。
親戚の人たちも、そうではなかった。
それをよく知っていたから、Aさん夫婦は、Bさん夫婦の葬儀に参列した。

●縄張り意識

 こうした人間の行動性の原点にあるものは、何か?
それを一言で表現すれば、「縄張り意識」ということになる。
原始の昔から、人間が本来的にもっている縄張り意識である。

 少しでも支配的立場に自分を置いて、自分にとって居心地のよい世界を作る。
その上で、優越性を確保する。
ついで、上下関係を維持で、命令と服従とでなる権力関係も作りあげる。

 こうした縄張り意識は、人間だけの特有のものではない。
ほとんどの哺乳動物が、同じような意識をもっている。
逆に、そうした動物たちの縄張り意識を観察してみると、人間がもつ縄張り意識を
理解できることがある。
わかりやすい例でいえば、サルの世界がある。
イヌの世界も、そうである。

 そこでこの縄張り意識を、さらに解剖していると、そこに強烈な相互依存関係が
あるのがわかる。
「群れ意識」と言ってもよい。
とくにアジア系の民族は、この群れ意識が強い。
群れから離れることを恐れる。
それが強烈な相互依存関係となって、人間どうしを、縛る。
それが縄張り意識となり、さらに親戚づきあいとなる。

 だから親戚づきあいをやめるということは、それ自体が、恐怖心となって、
はねかえってくる。
相当の神経の持ち主でも、親戚づきあいを断ち切るということについては、
かなりの抵抗感を覚える。
言うなれば、親戚づきあいをやめるということは、自ら、「根」を切ることを
意味する。

●崩れる意識

 が、悪いことばかりではない。
日本は今、第二、第三の意識革命の波にさらされている。
日本人の意識が、そのつど大きく変化しつつある。

 葬儀にしても、葬儀すらしない人もふえている。
僧侶なしで、家族だけで、葬儀をすます人もふえている。
都会地域では、直葬方式で葬儀をすます人が、30%(中日新聞)にもなっている。
このあたりの地方でも、初盆、さらには一周忌の法要すらしない人も多い。
またそういう人たちが、過半数を超え、大勢をつくりつつある。

 親類づきあいにしても、田舎の農村地域は別として、ますます希薄になってきている。
それが悪いというのではない。
新しい形での(つきあい方)が始まっている。
さらに言えば、「おかしいものは、おかしい」と、声をあげる人もふえている。
そう、たしかにおかしい。
義理にしばられ、自分の主義主張をねじまげる。
どうしてそこまでして、葬儀に出なければならないのか?

●他人以上の他人

 言うまでもなく、(依存)と(自立)は、反比例の関係にある。
依存性の強い人は、それだけ、自立していないということになる。
自立している人は、それだけ、依存性が弱いということになる。
が、今、日本人も、ゆっくりだが、しかし確実に、欧米並みに、自立の道を
模索し始めた。

 私のばあいも、濃厚な親戚づきあいのある世界で、生まれ育った。
しかし振り返ってみて、その親戚が、何をしてくれたかというと、実のところ、
何もない。
父親系、母親系で、「おじ」「おば」と呼んだ人は、12世帯あったが、一泊でも
泊めてくれた人は、1人しかしない。
私の家が実家ということもあって、みな、平気で寝泊りをしていったが、その逆は
数えるほどしかない。

 兄弟姉妹ですら、付きあい方によっては、他人以上の他人になる。
Aさん夫婦、Bさん夫婦の例をあげるまでもない。
いわんや親類をや!

 私たちは私たちで、生きていく。
自立していく。
こうした生きざまは、そのまま国の生きざまとして反映されることもある。
が、それはともかくも、これを「後退」ととらえてはいけない。
私たちは、その一方で、新しい生きざま、人間関係を模索し、構築しつつある。
兄弟姉妹関係についても、表面的な義理ではなく、中身を見ながら構築しつつある。
またこの先、日本は、そういう方向に向かって進んでいく。

 恐れることはない。
心配することもない。
私たちは、自信をもって、前に進めばよい。
なぜなら、それが世界の常識。

 「義理を欠いた」と、排斥するようなら、排斥させておけばよい。
どうせ相手は、その程度の人間。
サルかイヌに近い意識しかない。
所詮、親戚づきあいというのは、その程度のもの。
繰り返すが、動物のもつ縄張り意識が変化したもの。
それ以上の意味は、ない!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BW教室 縄張り意識 親戚づきあい はやし浩司
親戚付き合い 義理 義理を欠く)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(324)

●伸ばす子育て

 子育てにも、伸ばす子育てと、つぶす子育てがある。伸ばそうとして伸ばすのであれば、
問題はない。つぶす子育ては論外である。問題は、伸ばそうとして、かえって子どもをつ
ぶしてしまう子育て。これが意外に多い。子育てにまつわる問題は、すべてこの一点に集
中する。

 その人の子育てをみていると、「かえってこの人は子育てをしないほうがいいのでは」と
思うケースがある。たとえば過関心や過干渉など。親が懸命になればなるほど、その鋭い
視線が子どもを萎縮させるというケースがある。しかもそういう状態に子どもを追いやり
ながらも、「どうしてうちの子は、ハキがないのでしょう」と相談してくる。

あるいは親の過剰期待や、子どもへの過負担から、子どもが無気力状態になるケースもあ
る。小学校の低学年で一度そういった症状を示すと、その後、回復するのはほとんど不可
能とさえ言ってよい。しかしそういう状態になってもまだ、親は、「何とかなる」「そんな
はずはない」と無理をする。

で、私が学習に何とか興味をもたせ、何とか方向性をつくったとしても、今度は、「もっと」
とか「さらに」とか言って無理をする。元の木阿弥というのであれば、まだよいほうだ。
さらに大きな悪循環の中で、やがて子どもはにっちもさっちもいかなくなる。神経症が悪
化して、情緒障害や精神障害に進む子どももいる。もうこうなると、打つ手はかぎられて
くる。(実際には、打つ手はほとんどない。)

 が、この段階でも、親というのは身勝手なものだ。私が「三か月は何も言わないで、私
に任せてほしい」と言っても、「うちの子のことは私が一番よく知っている」と言わんばか
りに、またまた無理をする。このタイプの親には、一か月どころか、一週間ですら、長い。
がまんできない。「このままではますます遅れる」「うちの子はダメになる」と、あれこれ
してしまう。そしてそれが最後の「糸」を切ってしまう。

 問題は、どうして親が、かえって子どもをつぶすようなことを、自らがしてしまうかと
いうこと。そして結局は行きつくところまで行かないと、それに気がつかないかないのか。
これは子育てにまつわる宿命のようなものだが、私がしていることは、まさにその宿命と
の戦いであるといってもよい。言いかえると、今、日本の子育てはそこまで狂っている。
おかしい。そう、その狂いやおかしさに親がいつ気がつくか、だ。それに早く気づく親が、
賢い親ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(325)

●ずる休みの勧め

 「学校は行かねばならないところ」と考えるのは、まちがい。私たち日本人は明治以後、
徹底してそう教育を受けているから、「学校」という言葉に独特の響きを感ずる。先日もテ
レビを見ていたら、戦場の跡地でうろうろしている子ども(10歳くらい)に向かって、「学
校はどうしているの?」と聞いていたレポーターがいた(アフガニスタンで、02年4月)。

その少し前も、そのシーズンになると、海がめの卵を食用に採取している子どもたちが紹
介されていた。南米のある地域の子どもたちだった。その子どもたちに向かっても、レポ
ーターが「学校は行かなくてもいいの?」(NHKテレビ)と。

 日本人は子どもを見れば、すぐ「学校」「学校」と言う。うるさいほど、そう言う。しか
しそういう国民性が、一方で、子どもをもつ親たちをがんじがらめにしている。先日も子
どもの不登校で悩んでいる親が相談にやってきた。そこで私が「学校なんか、行きたくな
ければ行かなくてもいいのに」と言うと、その親は目を白黒させて驚いていた。「そんなこ
とをすれば休みグセがつきませんか」とか、「学校の勉強に遅れてしまいます」とか。しか
し心配はご無用。

 学校へ行くから学力や知力がつくということにもならないし、行かないから学力や知力
がつかないということもない。さらにその子どもの人間性ということになると、学校はま
ったく関係ない。むしろ幼稚園児のほうが、規則やルールをよく守る。正義感も強い。そ
れが中学生や高校生なると、どこかおかしくなってくる。「スリッパを並べてくれ!」など
と頼もうものなら、即座に、「どうしてぼくがしなければいかんのか!」という声がはね返
ってくる。人間性そのものがおかしくなる子どもは、いくらでもいる。

 そこでずる休みの勧め。ときどき学校はサボって、家族で旅行すればよい。私たち家族
もよくした。平日にでかけると、たいていどこの遊園地も行楽地もガラあきで、のんびり
と旅行することができた。またそういうときこそ、「子どもを教育しているのだ」という充
実感を味わうことができた。よく「そんなことをすれば、サボりぐせがつきませんか?」
と心配する人がいた。が、それも心配ご無用。たいていその翌日、子どもたちはすがすが
しい表情で学校へでかけていった。ウソだと思うなら、あなたも一度、試してみるとよい。

こういう話を読んで、目を白黒させている人ほど、一度、勇気をだしてサボってみるとよ
い。あなたも明治以後体をがんじがらめにしている束縛の鎖を、少しは解き放つことがで
きるかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(326)
 
●コンピュータウィルス

 このところ(02年5月)、毎日のようにコンピュータウィルスの攻撃を受けている。一
応、二重、三重のガードをしているから、このガードが破られることはまずない。そのウ
ィルス攻撃を受けながら、いろいろなことを考える。

 よく雑誌などを読むと、いかにも頭だけはキレそうな若者が、したり顔で、ウィルス対
策を論じていたりする。しかし私には、そういう男と、どこかの暗い一室でコソコソとウ
ィルスをばらまいて楽しんでいる男(多分?)が区別できない。雑誌に出てくる男に、そ
れほど強い正義感があるとも思えないし、同時にウィルスをばらまいている男が、その男
と、そんなに違うとも思えない。どちらの男も、ほんの少し環境が変わったら、別々の男
になっていたかもしれない。人間のもつ正義感などというものは、そういうものだ。

 もう一つは、こういうウィルスをつくる能力のある人間は、それなりに頭のよい男なの
だろうが、どうしてそういう能力を、もっと別のことに使わないかという疑問。もっとも
この私でも、簡単なウィルスくらいなら自分でつくることができる。ファイルに自動立ち
あげのプログラムを組み込めばよい。あとはランダムに番地を選んで、適当に自己増殖の
プログラムを書き込めばよい。言語はC言語でもベーシックでもマクロでもよい。私の二
男にしても、高校生のとき、すでに自分でワクチンプログラムを作って、ウィルスを退治
していた。だからたいしたことないと言えばたいしたことはないが、それにしても「もっ
たいない」と思う。能力もさることながら、時間が、だ。

 つぎに今は、プロバイダーのほうでウィルスチェックをしてくれているので、ウィルス
が入ったメールなどは、その段階で削除される。で、そのあと、私のほうに、その旨の連
絡が入る。問題はそのときだ。プロバイダーからの報告には、つぎのようにある。「○○@
××からのメール、件名△△にはウィルスが混入していました……」と。

そこで私は、その相手に対して、その内容を通知すべきかどうか迷う。いや、最初はその
つど、親切心もあって、「貴殿のパソコンはウィルスに汚染されている可能性があります」
などと、返信を打っていた。しかしこのところそれが多くなり、そういう親切がわずらわ
しくなってきた。

で、最近はプレビュー画面に開く前に、プロバイダーからの報告そのものを削除するよう
にしている。で、ハタと考える。「私もクールになったものだ」と。いや、こうしたクール
さは、コンピュータの世界では常識で、へたな温情(スケベ心)をもつと、命取りにすら
なりかねない。(事実、過去において、何度かそういう経験があるが……。)だから、あや
しげなメールは、容赦なく削除する。しなければならない。そしてそれがどこかで、私が
本来もっている、やさしい人間性(?)を削ってしまうように感ずるのだ。あああ……。

 このところインターネットをしながら、いろいろと考えさせられる。これもその一つ。

(注:あやしげなメールには、ぜったいに返信をかけてはいけない。
無視して削除すること。
これはこの世界では、常識。
この原稿を書いた時には、まだそれがよくわかっていなかった。)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●幻惑

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「幻惑」に苦しんでいる人は多い。
「家族だから」「親だから」「長男だから」と。
意味のない『ダカラ論』で、体中が、がんじがらめになっている。
ふつうの(苦しみ)ではない。
悶々と、いつ晴れるともわからない苦しみ。
その苦しみが、ときとして、その人を押しつぶす。

「幻惑」……「家族」という独特の世界で生まれる、
精神的呪縛感をいう。

++++++++++++++++++

●呪縛感からの解放

 本来なら、親のほうが気を使って、子どもが家族のことで、苦しまないようにする。
それが親の(やさしさ)ということになる。
親の(努め)ということになる。
親は、また、そうでなければならない。

 が、世の中には、いろいろな親がいる。
「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せるだけではなく、そのつど、
真綿で口を塞ぐようにして、子どもを、苦しめる。
そんな親もまだ多い。
実のところ、私の母もそうだった。
わざと私の聞こえるところで、他人と、こんな会話をする。

「○○さんところのA君は、立派なものじゃ。今度、両親を、温泉へ連れていって
やったそうだ」とか、など。
 あるいはその一方で、こんな話もする。
「△△さんところの嫁は、ひどい嫁じゃ。親には、親子どんぶりを食べさせ、自分は、
うな丼を食べていたそうだ」とか、など。
 あるいは、「親の葬式だけは、家屋敷を売ってでも、立派にやれ」とも言った。

 私はこうした話を、子どものころから、耳にタコができるほど聞かされた。
もっとも子どものころは、まわりの人たちがみな、同じようなことを言っていたことも
あり、それほど疑問には思わなかった。
私が疑問に思い始めたのは、やはり高校生になってからだと思う。
だからある日、私は突然、叫んだ。
「いつ、お前に、産んでくれと頼んだア!」と。

●勇気 

おかしなことだが、こうした呪縛感は、親が死んだあとも、残る。
派手な葬儀に、派手な法事。
それが転じて、仏教不信へともつながっている。
が、ここで終わるわけではない。
今年は一周忌。
来年は三周忌……、とつづく。

 「勇気」というとおおげさに聞こえるかもしれないが、こうした「幻惑」と闘う
ためには、勇気が必要である。
体中に巻きついた呪縛感を、取り除く……。
が、それには、親族たちの白い目、決別を意味する。
それ以上に、私自身の内部で、既存の宗教を乗り越える宗教観をもたねばならない。
さらに言えば、家族への依存性とも決別しなければならない。

 「私が死んだときも、葬儀は不要」「一周忌も三周忌も不要」と言えるように
なるまでには、相当の覚悟が必要である。
その覚悟をもつには、それ相当の勇気が必要。
その勇気なくして、その覚悟をもつことはできない。

 もっともだからといって、死者を軽く扱うということではない。

●儀式

 近くに、冠婚葬祭だけはしっかりと済ます人がいる。
3人の子どもがいたが、それぞれの結婚式には、町内の自治会長、副会長まで
呼んだ。
その数、300〜400人。

 しかしおかしなことに、かけた教育費は、ゼロ(?)。
いろいろあったのだろうが、3人とも、学歴は中卒で終わっている。
(だからといって、中卒がどうこう言うのではない。誤解のないように!)
いつだったか、その母親のほうが、こう言ったのを覚えている。
「へたに学歴をつけると、遠くへ行ってしまうから、損」と。

 この話を聞いたとき、私の生きざまとは正反対であることに驚いた。
私は、こと教育費にかけては、一度とて惜しんだことはない。
息子たちが言うがまま、一円も削ることなく、お金を出してきた。

一方、私たち自身は、結婚式なるものをしていない。
お金がなかった。
が、それ以上に、冠婚葬祭の意味すら、認めていなかった。
それなりの(式)をするのは、当然だとしても、しかしそこまで。
それ以上は、まさにムダ金。

 同じように、葬儀にしても、大切なのは、(心)。
(心)を中心に考える。
儀式はあくまでも、あとからついてくるもの。
儀式をしたから、死者が浮かばれるとか、反対に、儀式をしなかったから、
死者が浮かばれないとか、そういうふうに考えること自体、バカげている。

●新しい死生観

 現在、都会地域では、約30%の人が、直葬方式で、葬儀を行っている
という(中日新聞・東京)。
「直葬」というのは、病院から直接火葬場へ向かい、遺骨となって自宅へ戻る
ことをいう。
そのあとは「家族葬」といって、家族だけで、内々で葬儀をすます。

 恩師のT先生も、それを望んでいる。
数か月前、鎌倉の自宅で会ったとき、そう言っていた。
私が「先生のような方のばあい、周囲がそうさせませんよ」と言うと、先生は、
「私はそうしてもらいます」と、きっぱりと言った。
T先生は、天皇陛下のテニス仲間でもある。

 が、私のばあいは、少しちがう。

 もしワイフが先に死んだら、私は、しばらくワイフの遺体といっしょに寝る。
たぶん私が先に死んだら、ワイフもそうしてくれるだろうから、私はワイフのそばを
離れない。

 いつもどおりの生活をして、しばらくそうしていっしょに、過ごす。
うるさい葬儀はしない。
参列者も家の中には、入れない。
息子たちやその家族たちだけが、来られる日に、それぞれが来ればよい。
来なくても、構わない。

 気持ちが安らいだところで、火葬にしてもらう。
遺骨は、私が死ぬまで、私のそばで預かる。
そのあとのことは、息子たちに任す。
海へ捨てるのもよし。
どこかの山の中に捨てるのもよし。

 あの墓の中に入るのだけは、ぜったいにごめん。
私のワイフも、そう言っている。
それだけは、どんなことがあっても、ぜったいにしてほしくない。

 ……という死生観をもつためには、それなりの努力が必要である。
勇気も必要である。
体にしみついた呪縛感を抜き去るのは、容易なことではない。
ときに身をひきちぎるような苦痛を伴うこともある。

 だから……。
私は3人に息子たちには、私が味わったような苦しみを、味あわせたくない。
だから3人とも、親絶対教の信者たちに言わせれば、この上ないほどの
親不孝者ばかりである。(ホント!)

 しかし私はそういう息子たちをあえて弁護する。

 私は3人の息子たちを通して、じゅうぶん、人生を楽しんだ。
息子たちは私に生きる喜びや、生きがいそのものを与えてくれた。
今、それ以上に、私は息子たちに、何を望むことができるのか。
感謝しこそすれ、親不孝者とののしる気持ちなど、みじんも、ない!
息子たちは息子たちで、自分たちの家族を楽しめばよい。

+++++++++++++++++++++++

昨年(08年)の9月に書いた原稿を、そのまま
再送信します。

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●自然葬(Natural Funeral)

自然葬を望む人が、団塊の世代を中心にふえているという(中日新聞報道)。
そういう活動を指導的に行う、NPO法人(特定非営利活動法人)も
立ち上がっている。

「葬送の自由をすすめる会」(東京)というのも、そのひとつ。
同会のばあいは、1991年に発足し、会員は全国で1万2000人、
3年前とくらべて、2倍にふえたという。

少し前、「直葬(ちょくそう)」という葬儀の仕方について書いた。
都会地域では、30%前後の人たちが、現在、直葬を選択しているという。

自然葬にせよ、直葬にせよ、日本の伝統的な死生観にそぐわないため、
抵抗を感ずる人も多い。
とくに農村部ではそうだろう。
しかし同時に、今、冠婚葬祭のし方が、この日本でも大きく変わろうとしている。
「従来のままではおかしい」と考え始めている人が、ふえ始めている。

実際、おかしい。
儀式化するのはしかたないとしても、肝心の「心」が、どこかへ置き去りに
なってしまっている。
誤解しないでほしいのは、直葬にせよ、自然葬にせよ、それをするからといって、
死者を軽んじているということではない。

もちろん中には経済的な理由で、そうする人もいるだろう。
都会地域では、葬儀費用は、平均して300万円前後もかかるという(同)。
この浜松市でも、140〜50万円が、その相場ということになっている。

しかし実際には、それまでの介護費用、あるいは介護で、疲れきって
いる家庭も多い。
その上での葬儀である。
(私も先日、実兄を見送ったが、葬儀費用は、しめて165万円。
香典などでの収入は、43万円前後だったので、約120万円の赤字(?)という
ことになる。)

葬儀の費用のうち何割かが、僧侶への布施。
布施の額は、戒名によって異なる。
寺の格式(?)によっても、異なる。
G県の小さな田舎町での葬儀だったが、下は30万〜80万円。
上にはキリがないそうだ。

ちなみに、自然葬のばあい、合同葬なら、約5万円。
個人葬でも、約10万円だそうだ(上記、同会)。

日本人の多くは、葬儀といえば、僧侶による読経を当然と考える。
その読経の仕方も、布施の額によって異なる。
たとえば、寺に頼んでも、僧侶が1人で来るということはない。
たいてい仲間を誘う。(たがいに誘い合う?)
こうして別途に、1人、10〜20万円前後が請求される。
(これでも安いほうだそうだ。)
5人、助っ人を頼めば、プラス100万円〜となる。
(ある宗教団体では、僧侶を呼ばず、「友人葬」と称して、仲間同士で
葬儀をする。)

しかしこうした常識そのものが、おかしい。
で、私はこれについて、一度、地元のある寺の住職にこんな質問を
したことがある。

「戒名は、どうして必要なのか」
「読経は必要なのか」と。

それに対して、その住職は、こう教えてくれた。

「俗名には、世間のしがらみが、いっぱいくっついています。
清廉潔白な気持ちで浄土へ行くためには、戒名は必要です」
「読経するのは、仏(=死者)を、成仏させるためです」と。

私にはこれ以上のことはわからない。
わからないが、こんな方法では、残された遺族の悲しみやさみしさは、
癒されない。
むしろ、こうした形式的な儀式によって、死者や遺族の意志を、もて
あそぶことになりやしないか。

私の近い知人(元)高校教師(男性)が、先日、亡くなった。
しかしだれも、その知人の葬儀の日すら、知らなかった。
葬儀は、僧侶なし、家族だけの密葬で行われた。
が、だからといって、いいかげんな葬儀だったと考えないほうがよい。
それから1〜2週間、妻は、床に伏せたままだったという。
それを心配した息子や娘は、妻(=母親)のそばにずっといて、
妻(=母親)の介護をしたという。

故人というより、葬儀にしても、もっと遺族の心を大切にすべき。
と、同時に私たちも、意味のない迷信にとらわれることなく、
(こうあるべき)という葬儀の仕方を、もっと前向きに考えた
ほうがよい。

今のように(形)が先にあって、その(形)だけをすれば、それでよい
と考えるほうが、おかしい。
むしろ現実は逆で、心の中では、「バンザーイ!」と叫びながら、葬儀の席では、
うちひしがれた遺族を演ずる家族も少なくない。
その隠れ蓑として、「形」が利用される(?)。

で、もう少し先を言えば、「戒名」などという言葉は、釈迦の時代には、
「カ」の字もなかった。
「成仏」という言葉にしても、だれでも修行すれば仏になれると説いたのは、
北伝仏教。
さらに「死ねばみな、仏」という考え方をするのは、私が知るかぎり、この
日本人だけである。

(釈迦の教えが直接伝わっている南伝仏教では、ある一定の位以上の僧のみが、
仏になると教える。)

僧侶に読経してもらった程度のことで、成仏できるというのなら、ではこの
現世での努力は、何かということになってしまう。
懸命に生きた人も、そうでない人も、同じ仏という考え方そのものが、不平等。

いろいろ考えてみるが、私には、「成仏」という概念が、どうしても理解できない。
理解できないから、葬儀のあり方そのものに、どうしても納得できない。

……ということで、自然葬、おおいに結構。
私に遺産があるとかないとか、そういうことには関係なく、息子たちには、
無駄なお金を使わせたくない。
私は自分の遺灰が、どこかに捨てられても、いっこうにかまわない。
遺骨などに、私の魂は、ない。
あるはずもない。

私がワイフより先に死んだら、遺骨はワイフが死ぬまで、ワイフが預かる。
再婚したければ、すればよい。
ワイフが死んだら、私とワイフの遺骨の始末は、息子たちに任せる。
自由に決めてよい。

ワイフが私より先に死んだら、その反対。私が死ぬまで、ワイフの遺骨は
私が預かる。
私が死んだら、あとの始末は、息子たちに任せる。

なお散骨について、法務省刑事局総務課は、つぎのような見解を示して
いるという(同紙)。

「節度をもってすれば、刑法の遺骨遺棄罪には当たらず、問題はない」とのこと。
よかった!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 直葬 自然葬 はやし浩司 遺言 葬儀 死生観)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

はやし浩司+++July 09+++Hiroshi Hayashi

●古いパソコン

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現在、この文章を、パナソニック社製の「Let's Note」(CF−L1)
を使って書いている。
「Let's Note」の中でも、初代機。
当時の値段で、24万円もした。
が、購入直後から、故障つづき。
当時は、修理といっても、地元のパナソニックの代理店までもって行かねば
ならなかった。
最初の6か月のうち、3〜4か月は、会社のほうにあった。
が、私は、このパソコンが、たいへん気に入っている。
キーボードの感触が、たまらない。
で、購入日を見ると、「2000年9月」となっている。
が、これはおかしい?
「2000年9月まで保証期間」という意味かもしれない。
2000年には、すでにこのパソコンを使っていたはず。
それに、あれからたった10年とは、とても信じられない。
私には、遠い遠い昔のように思われる。
言い換えると、この10年は、ほんとうに長かった。

SDカードも使えない。
インターネットもできない。
キーを叩いたとき、反応も鈍い。
データの保存は、フロッピーディスクだけ。
(着脱式のCDドライブは、とっくの昔に壊れ、今は、端子をビニールで
端子を塞いで使っている。)
が、私は、このパソコンが好き。
このパソコンで文章を書いていると、叩いているだけで、気持ちよくなる。
何と言うか、長年苦楽を共にしてきた、古い友人のようでもある。

 このパソコンだけは、死ぬまで、大切にしたい。
(大げさかな?)

++++++++++++++++++++

●静岡県知事選挙

++++++++++++++

私は「浮動票の王様」。
支持政党はない。
が、そのつど私が投票する候補者は、
かならずといってよいほど、当選する。
今回も、そうだった。

が、それについて、中央のJ党は、
「僅差で敗れたのだから、政権には
影響はない」と言っている。
しかしこれは、ウソ。
「僅差」ではない!

J党は、SK氏(前副知事)を推した。
M党は、KK氏(前大学学長)を推した。
しかし実際には、M党からは、候補者が2人出ていた。
もう1人のUN氏は、元M党参議院議員。
つまりM党支持者は、2つに割れた。
割れた上で、J党が推したSK氏が敗れた。
もしUN氏が立候補していなければ、KK氏の圧勝で終わっていたはず。
具体的には、J党:M党=1:2で、終わっていたはず。

それを「僅差」とは?

なお、J党は、この静岡県を、「地方」「地方」と切り捨てている。

TBS−iビュースは、つぎのように報道している。

『…… 「地方選がこうだから、"総選挙がかくあるべし"ということは理念としては、切り
離して考えるべき」(甘利明 行政改革相)

 「地方選挙によって解散戦略が影響することは、ここはやはり私はないというふうに思
っております」(自民党・菅義偉 選対副委員長)

 「落胆することなく今回の東京都議会議員選挙は、東京都の議会の代表を選ぶ選挙です
から」(自民党・石原伸晃 幹事長代理)

 「我々も国政との関連は切り離して考えてきたわけであります」(河村建夫 官房長官)』
と。

選挙前は、よほど「勝つ」という自信があったのか、静岡県知事選挙をはずみに、
国政選挙(衆議院議員選挙)に打って出る予定だった。
が、敗北したとたん、「地方の選挙にすぎない」と切り捨て、一方で、解散を延期する
動きを見せている。
「今、国政選挙をすれば不利」と、J党は呼んだ。

しかしこの「地方」という言葉に、カチンときたのは、私だけではないと思う。
全国の人たちも、そう感じたはず。

何が地方だ!
何が中央だ!

日本人に、地方も、中央もない!
この中央集権意識こそが、奈良時代からつづいた日本の負の遺産。
今、それが音をたてて崩れ始めている。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●ジョーク

++++++++++++++++

コンビニで、ジョークを集めた
本を買ってきた。
最近、この種の本を買うことが
多くなった。
「この種」というのは、値段が
手ごろで、読みやすいという意味
である。

その中のひとつを、紹介する。
(記憶によるものなので、内容は
かなりちがう。
また、このジョークを、外国の
友人にも送りたいため、まず英語で
書いてみる。)

+++++++++++++++++ 

●殺人事件(A Murder)

One night a man called his wife over the phone when he was on his way back home.
But a young woman instead of his wife, answered the phone.

A Man "Who is it talking with me?"
A Woman "I am a maid that your wife has hired from today, sir."
A Man "OK, please get this phone to my wife."
A Woman "Sorry, sir. She can't answer this phone, for she is in her bed-room with a 
young man."

A Man, angrily, "Is she in her bed-room with a young man?"
A Woman "Yes, sir. She has been in her room for almost two hours now."
A Man "OK, try to find out the hand-gun in the locker near the table and shoot them 
down right now."
A Woman "…shoot them down to kill them?"
A Man "Yes. Kill them right now then you shall have 50 thousands dollars. Or I will kill 
three of you right after this. I am near my home now."

A Woman "50 thousands dollars? Or you will kill me?"
A Man, "Definitely yes!"

Then the man heard two shots over the phone.
…Bang! Bang!…

A Man "Did you kill my wife and the young man?"
A Woman "Yes, sir. I just did as you told me."
A Man "Good job. I will give you 50 thousands dollars very soon."
A Woman "By the way, sir, what shall I do with this hand-gun?"
A Man "Throw it into the swimming pool in front of the dining room."

A Woman "…A swimming pool? …but there is no swimming pool in this house nor in 
front of the dining room…"

A wise man advise you like this: 

When you make a phone-call to your wife, make sure if the number is correct or not.
(以上、へたくそな英語で、ごめん!)

++++++++++++++++

 私の英語力を暴露するようで、恐縮だが、
英語も使わないと頭の中でさびる。
しかし何とか友人たちには、通ずるだろう。
・・・ということで、今度は、その日本語訳。

++++++++++++++++

●ある殺人事件

ある男性が家に電話をした。
しかし電話に出たのは若い女性だった。
男「君は誰かね」
女「今日から奥様に雇われた、メイドです」
男「ワイフを電話口に出してくれ」
女「いえ、それができません。奥様は、2時間ほど前から、若い男と寝室にいらっしゃい
ます」

男「・・・何! 若い男と寝室にだと!」
女「そうでございます」
男「横のロッカーに、ピストルがある。それで2人を撃ち殺してこい。撃ち殺したら、5
万ドル、お前にやる。
女「5万ドル!」
男「そうだ、5万ドルだ。もし殺さなかったら、これからすぐ家に帰って、お前も殺して
やる」

女「わ、わかりました・・・」

(バン、バンと2回、銃声が聞こえる)

男「殺したか?」
女「殺しました」
男「よくやった」
女「でも、だんな様、このピストルは、どうしましょうか?」
男「居間の前にプールがあるから、そこへ捨てて来い」
女「・・・だんな様、しかしこの家にはプールはありません。居間の前にもプールはあり
ません」

賢者の言葉:家に電話をかけるときは、電話番号をよく確かめてからすること。


はやし浩司+++July09+++Hiroshi Hayashi

●老年期のダイエット

++++++++++++++++

私は今まで、ダイエットとリバウンドを、
数え切れないほど、経験してきた。
たいていは夏前に太り始め、夏の最中に、
ダイエットを始める・・・。

体重で言えば、68キロ前後になって
太りすぎと知り、そのつど、63キロ前後まで、
落とす。
この繰りかえし。
が、それにも、年齢制限がある。

私の知人を観察してみると、60歳を過ぎてからの
ダイエットには、危険がともなう。
というより、60歳ごろまでにきちんと適正体重に
しておかないと、そのあと体重を落とすのは、
たいへんむずかしい。

70歳になると、さらにむずかしくなる。
80歳になると、さらにさらにむずかしくなる。

+++++++++++++++++++

●太りすぎ

 太りすぎがよくないことは、よくわかる。
しかし最近何かの本で読んだ報告によれば、やせ過ぎもよくないということらしい。
むしろやや太りぎみの人のほうが、長生きをするということもわかってきた。

 しかしもちろん太りすぎもよくない。
体重が、足の関節や腰を痛める。
で、私はこの2か月と少しで、68キロ台から、現在、61キロ台にまで体重を
落とすことができた。
現在、満61歳だから、年齢的には、かなりきびしいダイエットということになる。
その(きびしさ)を、現在、体験しつつある。
順に、それらを書き留めてみる。

(1)運動量を、簡単にはふやせないということ。
ダイエットと並行して、運動をすることは絶対条件だが、「今まで以上に
運動を・・・」と言われても、それがむずかしい。
生活の習慣そのものを変えなければならない。
それに何ごとも、この年齢になると、新しいことを始めることが、おっくうになる。
今回、それまでの運動量に加えて、ほとんど毎日、8〜10キロの道のりを歩いた。
運動にはなっているが、足の裏が痛くなる(私)、足の関節が痛くなる(ワイフ)
という弊害も出てきた。 

(2)抵抗力が落ちるということ。
私のばあい、ダイエットを始めたとたん、体の抵抗力が落ちる。
具体的には、皮膚病にかかりやすくなる。
今まではそうだったので、今回は、栄養の補給には細心の注意を払った。
今のところ、これといった症状は出ていない。

(3)脂肪率は、さがらないということ。
今回、ダイエットを始めるにあたって、最新型の体重計を購入した。
体脂肪率はもちろん、基礎代謝量まで測定できる。
が、それによっても、体重は7キロ前後まで減ったのに、体脂肪率は、
24・5%から、24%へと、たった0・5%しか減っていない。
これはどういうことなのか?
体重は10%減ったのだから、それ以上に、体脂肪率も減ってもよいはず。

(4)虚脱感からキレやすくなる
空腹感はしかたないとしても、体が慢性的にだるくなる。
体重が減ったから、体を軽く感ずるということはない。
自転車をこいでいるようなとき、むしろ、体を重く感ずることがある。
それに空腹感を通り越すと、精神状態が不安定になる。
イライラしやすくなり、ときにカッと、つまらないことで、キレやすくなったりする。
これは血糖値の低下が、多分に関係していると思う。

(5)便秘になりやすい
ダイエットをしていると、便が出にくくなる。
出ても、硬い。
だから数日置きに、漢方薬のセンナをのみ続ける。
が、その薬の量をまちがえると、今度は下痢状態になる。
その調整がむずかしい。

(6)慢性的なガス欠状態
当然のことだが、基礎代謝エネルギーそのものが不足するから、体は
慢性的なガス欠状態になる。
そのせいか(?)、いつも眠い。
何をしていても、眠い。
運動をする前も、運動をしたあとも眠い。
「ダイエットというのは、睡魔との闘いである」と言っても、過言ではない。
睡眠時間は、たっぷりととっているはず。
それに毎日、ちゃんと昼寝もしているはず。
それでも眠い。

 以上、問題点だけを、洗い出してみた。
もちろんこれは(私)のケース。
みながみな、そういうふうになるということではない。
運動の仕方も、いろいろある。

 が、それ以上に大切なことは、先にも書いたように、ダイエットには
年齢制限があるということ。
恐らく私の今ぐらいの年齢が、上限ではないか。
この年齢になると、ダイエットすることによるメリットよりも、ダイエット
することによって、さまざまな弊害が現れるようになる。
仮に運動量をふやさないまま、ダイエットだけをすると、体の抵抗力が
落ちてしまう。
持病がひどくなることだって、ありえる。

 だから私は、「今回が最後」と自分に言って聞かせて、ダイエットに臨んだ。
「今回、ダイエットに失敗したら、もう二度とつぎはない」と。
そういう点では、今回のダイエットには、どこか悲壮感が漂っている。

 で、今は、61キロ台。
この状態を、あとはキープ。
そのうち体のほうが、61キロで機能し始めるはず。
それまでまだ、気を緩めることができない。
がんばろう!


はやし浩司+++July09+++Hiroshi Hayashi※

●月に1日勤務で、月額42万円?

++++++++++++++++++++++

全国の都道府県で、これまた前代未聞の月額
報酬を支給していたことがわかった(読売新聞)。

まず、つぎの記事を読んでほしい。
これを読んで、怒らない読者はいないと思う。

++++++++++++++++++++++

『…… 新潟県収用委(定数7)は、3年間で収用手続きが1件もなく、会議が年4回ず
つ開かれただけで、残りの勤務ゼロの月について委員11人に計1840万円を支給した。
その会議も欠席し、25か月勤務実績がないのに、275万円を受け取った委員もいた。
福島の収用、愛媛の選管、栃木の労働の各委員会も同様に、勤務実績がない月の報酬を3
年間で1000万円以上支給していた。また、43府県は月に1日勤務の委員に対し、3
年間に月額報酬約21億5000万円を出していた』(読売新聞・09年7月4日)と。

 つまり、勤務実績がほとんどないにもかかわらず、県は、行政委員に対して、たとえば、
11人に、計1840万円も支払っていた(新潟県)と。

 記事の内容がふじゅうぶんで、正確にはどうなのかよくわからないが、こういうことら
しい。

●会議が年、4回開かれただけ。
●4年間で、委員11人に対して、計1840万円、県が支給した。

 これらの数字をつかって割り算をしてみると、11人の委員は、毎年、42万円、受け
取っていたことになる。
しかも、その会議すら欠席し、25か月、勤務実績がないにもかかわらず、275万円も
受け取っていた委員もいた、と。

 だれが考えても、これはおかしい。
おかしいものは、おかしい。
そこで、全国の都道府県では、こうしたおかしな出費の見直しを始めた。
『北海道や兵庫など8道県は「月に1日も勤務しない場合は報酬を支給しない」と条例な
どで規定しており、勤務ゼロでの支給はなかった』(同)と。 

私はこの記事を読みながら、「静岡県」の名前を懸命にさがした。
が、残念ながら、その記事には、「静岡県」の名前はなかった。
というのも、私は、(うわさ)として、似たような話を耳にしている。
正確な金額は忘れたが、たとえば選挙管理委員として、投票所に顔を出して座っているだ
けで、委員は、〜〜万円という日当をもらえる、と。
(一桁ではなく、二桁だったように記憶している。)
それを聞いたとき、私はわが耳を疑った。
つまりそれほどまでに高額であった。

 読売新聞の記事には、こうある。

++++++++++++++以下、読売新聞++++++++++++++++

『……34府県が2006〜08年度、選挙管理(選管)と労働、収用の行政委員会委
員に、勤務がない月も月額報酬を支給していたことが、読売新聞の調べで分かった。

 ゼロ勤務の委員579人への支給総額は3年間で約3億4000万円に上る。

 委員の月平均勤務は3日に満たず、月額支給は違法とする司法判断も出ている。神奈川、
大阪など7道府県では、日当制の導入など実態に見合った支給方法への見直しを始めて
いる。

 47都道府県141委員会(定数計1300)の事務局に報酬や勤務実態を聞いたとこ
ろ、08年4月時点で日当制の富山、福井、山梨、長野の収用委員会を除き、月額支給
だった。このうち34府県89委員会が、勤務がない月にも36万円〜5万2000円
の報酬を支給していた。

 月額報酬の平均額は、選管が約19万8000円、労働が約19万4000円、収用が
約14万7000円。06〜08年度の委員の月平均の勤務日数は、回答のなかった東
京などを除き、選管1・93日、労働2・38日、収用1・56日だった。最も多い神
奈川県労働委員で5・51日だった。

 新潟県収用委(定数7)は、3年間で収用手続きが1件もなく、会議が年4回ずつ開か
れただけで、残りの勤務ゼロの月について委員11人に計1840万円を支給した。そ
の会議も欠席し、25か月勤務実績がないのに275万円を受け取った委員もいた。福
島の収用、愛媛の選管、栃木の労働の各委員会も同様に、勤務実績がない月の報酬を3
年間で1000万円以上支給していた。また、43府県は月に1日勤務の委員に対し、
3年間に月額報酬約21億5000万円を出していた。

 一方、北海道や兵庫など8道県は「月に1日も勤務しない場合は報酬を支給しない」と
条例などで規定しており、勤務ゼロでの支給はなかった。

 行政委員の報酬を巡っては、大津地裁が1月、滋賀県の選管、労働、収用の3委員につ
いて、「常勤同様の勤務実態がなく、月額での報酬支給は地方自治法違反」と支給差し止
めを命じた。滋賀県が控訴している。

 この判決を契機に、勤務実態に見合う制度への見直しが進んでいる。北海道は今年4月
から収用委員の報酬を日当制に変更、宮城、群馬、神奈川、大阪、鳥取、大分の6府県
も現在、日当制導入に向けて準備中だ』と。

++++++++++++++以上、読売新聞++++++++++++++++

 どうして「静岡県」の名前が、この記事の中にないのか?
この記事だけで断定はできないが、静岡県は、『この判決を契機に、勤務実態に見合う制度
への見直しが進んでいる』県のひとつには、なっていないということか?

 が、この程度の(特権)は、公務員の世界では、まさに氷山の一角。
友人や知人の中には、その公務員をしている人も多い。
だから私としては言いにくいが、しかしこんなことをしていたら、本当に日本は破産して
しまう。
(すでに破産状態だが……。)

 ともかくも、「まあ、いいじゃないか、もらえるものは、もらっておけ」式の支給が、中
央の官僚たちの世界だけではなく、全国、津々浦々の公務員の世界でも、常識化している
ということ。
それがいかに恵まれたものであるかは、ひょっとしたら、すでにあなた自身も知っている
はず。
が、これだけは忘れてはいけない。

そのツケは、回り回って、やがてあなた自身の上にのしかかってくる。
あなたの子ども、さらにはあなたの孫にのしかかってくる。
「私だけ、こっそりと得をすればいい」と、もしあなたが考えているとしたら、私はこう
言いたい。

「あなたが、そう考えるから、あの手この手で、我も我もと、税金のつかみ取りを、み
ながしている」と。
そのひとつが、行政委員会委員への(月額報酬)ということになる。

 しかしね、みなさん、どうしてこんなバカげた条例が、つぎからつぎへと、県、市、町、
村議会で可決されるか、その理由がわかりますか?
つまりね、議会が議会として、じゅうぶん、機能していないということ。
民主主義のとらえ方に、大きな穴があいているということ。
そのあたりからもう一度、洗い直さないと、こうした問題は、解決しないということ。

この記事を読んで、(怒り)を通り越して、(脱力感)を覚えるのは、けっして私だけで
はないと思う。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●DVD『コッポラの胡蝶の夢』

++++++++++++++++++++++++

ビデオショップで、DVD『胡蝶の夢』を借りてきた。
夜、10時を過ぎてから、ワイフと2人で、それを見た。
字幕の翻訳がよくないのか、内容がよく理解できなかった。
理解できないまま、最後まで見た。

星は、1、2個の、★。
『地獄の黙示録』で、世界的な監督になった、フランシス・
コッポラの監督作品ということで、かなり期待していた。
が、がっかり。
……というのが、私の率直な感想。

++++++++++++++++++++++

その『地獄の黙示録』では、こんな強烈な思い出がある。
ある夫婦なのだが、その映画を、ある日の午後、劇場で見た。
その夜のこと、妻が自宅にガソリンをまいて、焼身自殺。
その火事に巻き込まれて、夫と、1人の息子も焼死。
手伝いで住み込んでいた女性も、焼死。
何とも痛ましい事件だった。

私は縁があって、その夫婦とは、それまでの10年近く、
深く交際させてもらった。
そのこともあって、そこにいたる経緯(いきさつ)を
私はよく知っている。
で、『地獄の黙示録』。

今でもその題名を聞くたびに、「あの映画が関係あった
のではないか」と、思う。
「あの映画を見たので、奥さんは、自殺を決意した」と。
つまり当時としては、それくらい強烈な印象を与えた映画だった。

+++++++++++++++++++++++++

●人間的な(やさしさ)

 その人のもつ、社会性、大衆性は、その人の人格の完成度を知る、重要な
バロメーターのひとつと考えてよい。
EQ理論(ピーター・サロベイ)でも、「他者との良好な人間関係」でもって、
人格の完成度を量る。
より深い社会性、大衆性があれば、それでよし。
そうでなければ、そうでない。
それだけ人格の完成度は、低いということになる。

 で、『コッポラの胡蝶の夢』。
SF映画のようだが、SF映画でもない。
恋愛映画のようだが、恋愛映画でもない。
過去と現在が、複雑に交錯する。
そのうちわけがわからなくなる。
おまけにコッポラの哲学。
難解なセリフ。
意図はよくわかるが、観客の目で見て、「おもしろくない」の一言。
私はその映画を見ながら、若いころ、主婦と生活社にいた、INという
編集長が教えてくれた話を思い出した。

●「まず相手を楽しませろ」

 INという編集長は、こう言った。
『林君(=私のこと)、原稿を書くときは、まず、相手を楽しませること。
相手をいい気分にさせること。
「あなたはすてきだ」「あなたはすばらしい」と。
それが80〜90%。
残りの10〜20%を使って、その中に自分の意見を織り込む。
「だけど、私はこう思います」と、ね。
それでじゅうぶん。
いいかね、文章というのは、まず読んでもらわなければならない。
それを忘れてはいけないよ』と。

 また別の出版社の社長は、こう教えてくれた。
東京の神田で、出版社を経営していた人である。
当時『磯野家の謎』という本を出して、大当たりした。
いわく、「どんな本を書くときも、全力で書け。
けっして、出し惜しみしてはいけない」と。

 どういうわけか、これら2人の人たちが話してくれたことが、私の
耳に鮮明に残っている。

 そうそう、もう1人。
学研の幼児局にいた、STという編集長も、私にこう教えてくれた。

『エッセーを書くときは、具体例を3分の1は入れること』と。
さらにこうも言った。
『読者を批判したら、かならず、「ではどうしたらいいか」という意見を
書き添えること。
けっして読者を批判したままで、終わってはいけない』とも。

それらが今でも、こうしてものを書くときの(私の柱)になっている。

(1)まず、読んでもらうこと。
(2)出し惜しみしないこと。
(3)具体例を書くこと。
(4)読者を批判したままでは、終わらないこと、と。

●大監督

 映画に限らないが、芸術家というのは、「大」の文字を冠(かんむり)に
かぶるようになると、製作に対する姿勢が大きく変わってくる。
どうしてだろう?
で、その映画だが、たとえば昔、黒沢Aという名前の監督がいた。

 若いころ監督した映画は、たしかにおもしろかった。
私も大ファンだった。
しかし晩年の作品になればなるほど、がっかりすることが多くなった。
それを最初に強く感じたのが、『デルスウラーザ』。
それに『影武者』『乱』とつづく。
(このあたりの順序は、記憶によるものなので、不正確。)

 どれも見るに耐えないというか、駄作(失礼!)ばかり。
「大作」と銘打って、豪華な俳優と、製作費をふんだんに使った映画だった。
が、どこかひとりよがり。
「どうだ、これが映画だ」という傲慢さばかりが、目だった。

 先日見た、『コッポラの胡蝶の夢』も、そうだった。
先にも書いたように、おもしろくなかった。
私は途中で何度か、席を離れた。
(だから余計に内容が、理解できなかったかもしれない。)


●「初心、忘れるべからず」

結局は、「初心、忘れるべからず」ということになる。
初心を忘れたとたん、作品は、現実から遊離してしまう。
現実から遊離すればするほど、そのまま自分の殻(から)にこもってしまい、
独善と独断の世界に入りこみやすくなる。
が、一度、こうなると、あとは(殻にこもる)→(現実からの遊離)の悪循環。
へたをすれば、人格そのものが、後退するようになる。

 フランシス・コッポラ監督がそうだとは思わない。
が、ここまで(現実)から遊離した映画を製作するようになると、
彼自身の人格を疑われてもしかたないのではないか。
映画を通してみる彼の人格は、偏屈で、がんこ。
人間らしい(やわらかさ)を、見失ってしまった(?)。
だから星は、やはり1つの、★。

 難解な哲学書を読んでも平気な人は、DVD『コッポラの胡蝶の夢』を見たらよい。
もう一度、よく見れば、私にも内容が理解できるようになるかもしれない。
が、私は、一度で、たくさん!

 今度、劇場で、ニコラス・ケイジ主演の、『ノウイング(Knowing)』が封切られる。
楽しみ!
見るぞ!
私には、ああいう映画のほうがあっている。
(まだ見てないが……。)


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

●静岡県知事選挙

+++++++++++++++++++

現在、居間でこの原稿を書いている。
時は、7月5日(日曜日)、午後10時25分。
昨日、故障していたミニノート(ASPIRE・1)が、
修理から返ってきた。
その初期設定が、先ほど、終了。
今は試し打ちをしているところ。

テレビ(NHK)では、ウィンブルドンの試合を実況中継している。
ロジャー・フェデラーが新たな記録を作るか……?
その合間に、ときどき今回の静岡県知事選挙の投票結果が、報道される。
開票率17%前後だが、前副知事のSK氏(自民・公明推薦)が、得票数
1位をキープしている。
2位のKK氏とは、2万票の差をつけている。
県知事選挙とはいえ、国政選挙のような雰囲気。

 どうなるのだろう?

たった今、開票率22%の結果が出た(10時40分)。
SK氏とKK氏が、やや間を縮めてきた。

フェデラーの試合も気になる。
選挙結果も気になる。
ウィンブルドンも、静岡県知事選挙も、大接戦。
今夜は、このまま徹夜になりそう。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(321)

●ああ、悲しき子どもの心

 虐待されても虐待されても、子どもは「親のそばがいい」と言う。その親しか知らない
からだ。中には親の虐待で明らかに精神そのものが虐待で萎縮してしまっている子どもも
いる。しかしそういう子どもでも、「お父さんやお母さんのそばにいたい」と言う。ある児
童相談所の相談員は、こう言った。「子どもの心は悲しいですね」と。

 J氏という今年50歳になる男性がいる。いつも母親の前ではオドオドし、ハキがない。
従順で静かだが、自分の意思すら母親の、異常なまでの過干渉と過関心でつぶされてしま
っている。何かあるたびに、「お母ちゃんが怒るから……」と言う。母親の意図に反したこ
とは何も言わない。何もできない。

その一方で、母親の指示がないと、何もしない。何もできない。そういうJ氏でありなが
ら、「お母ちゃん、お母ちゃん……」と、今年75歳になる母親のあとばかり追いかけてい
る。先日も通りで見かけると、J氏は、店先の窓ガラスをぞうきんで拭いていた。聞くと
ころによると、その母親は、自分ではまったく掃除すらしないという。手が汚れる仕事は
すべて、J氏の仕事。小さな店だが、店番はすべてJ氏に任せ、夫をなくしたあと、母親
は少なくともこの20年間は、遊んでばかりいる。

 そういうJ氏について、母親は、「あの子は生まれながらに自閉症です」と言う。「先天
的なもので、私の責任ではない」とか、「私はふつうだったが、Jをああいう子どもにした
のは父親だった」とか言う。しかし本当の原因は、その母親自身にあった。それはともか
く、母親自身が、自分の「非」に気づいていないこともさることながら、J氏自身も、そ
ういう母親しか知らないのは、まさに悲劇としか言いようがない。

J氏の弟は今、名古屋市に住んでいるが、J氏と母親を切り離そうと何度も試みた。それ
については母親が猛烈に反対したが、肝心のJ氏自身がそれに応じなかった。いつものよ
うに、「お母ちゃんが怒るから……」と。

 親だから子どもを愛しているはずと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。さらに「親
という関係だけで、その人間関係を決めてかかるのも、危険なことである。親子とい
えども、基本的には人間どうしの人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだ
から……」と、相手をしばるのは、まちがっている。親の立場でいうなら、「親だから
……」という立場に甘えて、子どもに何をしてもよいというわけではない。

子どもの心は、親が考えるよりはるかに「悲しい」。虐待されても虐待されても、子どもは
親を慕う。親は子どもを選べるが、子どもは親を選べないとはよく言われる。そういう子
どもの心に甘えて、好き勝手なことをする親というのは、もう親ではない。ケダモノだ。
いや、ケダモノでもそこまではしない。

 今日も、あちこちから虐待のレポートが届く。しかしそのたびに子どもの「悲しさ」が
私に伝わってくる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(322)

●人格の分離

 日本人の子育て法で、最大の問題点は、親は親でひとかたまりの世界をつくり、子ども
の世界を、親の世界から切り離してしまうところにある。つまり子どもは子どもとして位
置づけてしまい、その返す刀で、子どもの人格を否定してしまう。

もっと言えば、子どもを、ちょうど動物のペットを育てるかのような育て方をする。その
結果、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコールよい子と位置づける。そうで
ない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

(例1)ある女性(70歳くらい)は、孫(6歳くらい)に向かってこう言っていた。「オ
イチイネ(おいしいね)、オイチイネ(おいしいね)、このイチゴ、オイチイネ
(おいしいね)」と。子どもを完全に子ども扱いしていた。一見、ほほえましい
光景に見えるかもしれないが、もしあなたがその孫なら、何と言うだろうか。「子
ども、子どもと、バカにするな」と叫ぶかもしれない。

(例2)ある女性(70歳くらい)は、孫(10歳くらい)に電話をかけて、こう言っ
た。「おばあちゃんの家に遊びにおいでよ。お小遣いあげるよ。ほしいものを買
ってあげるよ」と。最近は、その孫がその女性にところに遊びにこなくなった
らしい。それでその女性は、モノやお金で子どもを釣ろうとした。が、しかし
もしあなたがその孫なら、何と言うだろうか。やはり「子ども、子どもと、バ
カにするな」と叫ぶかもしれない。 

 こういう子どもの人格を無視した子育て法が、この日本では、いまだに堂々とまかりと
おっている。そしてそれ以上に悲劇的なことに、こうした子育て法が当たり前の子育て法
として、だれも問題にしないでいる。とたえ幼児といっても、人権はある。人格もある。
未熟で未経験かもしれないが、それをのぞけばあなたとどこも違いはしない。そういう視
点が、日本人の子育て観にはない。

 子どもを子ども扱いするということは、一見、子どもを大切にしているかのように見え
るが、その実、子どもの人格や人権をふみにじっている。そしてその結果、全体として、
日本独特の子育て法をつくりあげている。その一つが、「依存心に無頓着な子育て法」とい
うことになるが、これについては別のところで考える。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(323)

●伸びる子ども

 あなたの子どもは、つぎのどのようだろうか。

( )何か新しいことができるようになるたびに、うれしそうにあなたに報告にくる。
( )平気であなたに言いたいことを言ったり、したりしている。態度も大きい。
( )あなたのいる前で平気で体を休めたり、心を休めたりしている。
( )したいこと、したくないことがはっきりしていて、それを口にしている。
( )喜怒哀楽の情がはっきりしていて、うれしいときには、全身でそれを表現する。
( )笑うときには、大声で笑い、はしゃぐときにも、大声ではしゃいだりしている。
( )やさしくしてあげたりすると、そのやさしさがスーッと心に入っていくのがわかる。
( )ひがんだり、いじけたり、つっぱったり、ひねくれたりすることがない。
( )叱っても、なごやかな雰囲気になる。そのときだけで終わり、あとへ尾を引かない。
( )甘え方が自然で、ときどきそれとなくスキンシップを求めてくる。
( )家族と一緒にいることを好み、何かにつけて親の仕事を手伝いたがる。
( )成長することを楽しみにし、「大きくなったら……」という話をよくする。
( )園や学校、友だちや先生の話を、いつも楽しそうに親に報告する。
( )園や学校からいつも、意気揚々と、何かをやりとげたという様子で帰ってくる。
( )ぬいぐるみを見せたりすると、さもいとおしいといった様子でそれを抱いたりする。
( )ものごとに挑戦的で、「やりたい!」と、おとなのすることを何でも自分でしたがる。
( )言いつけをよく守り、してはいけないことに、ブレーキをかけることができる。 
( )ひとりにさせても、あなたの愛情を疑うことなく、平気で遊ぶことができる。
( )あなたから見て、子どもの心の中の状態がつかみやすく、わかりやすい。
( )あなたから見て、あなたは自分の子どもはすばらしく見えるし、自信をもっている。

 以上、20問のうち、20問とも(○)であるのが、理想的な親子関係ということにな
る。もし○の数が少ないというのであれば、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。
あるいはもしあなたの子どもがまだ、0〜2歳であれば、ここに書いたようなことを、3
〜4歳にはできるように、子育ての目標にするとよい。5〜6歳になったとき、全問(○)
というのであれば、あなたの子どもはその後、まちがいなく伸びる。すばらしい子どもに
なる。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●思考のループ【輪形彷徨】

++++++++++++++++++++

思考のループほど、恐ろしいものはない。
ループ状態に入ったとたん、思考は停止し、
その分だけ、時間を無駄にする。

私たちにとって重要なことは、歩きつづけること。
先へ行けば行くほど、さらにその先に、「先」が
現れてくる。
だからますます先に進みたくなる。
が、ループ状態に入ると、「進んでいる」と
錯覚したまま、そこで停滞してしまう。
それは思想的には、「死」を意味する。
「魂の死」と言い換えてもよい。

何も肉体の「死」だけが死ではない。

++++++++++++++++++++

●輪形彷徨(りんけいほうこう)

 思想がループ状態に入ることを、「輪形彷徨」という。
ちょうど輪のように、同じところをグルグルと回るところから、そう言う。

もちろんその半径は、それぞれの人によって、みな、ちがう。
ある人は、1日単位で、ループ状態を繰り返す。
またある人は、1年単位で、ループ状態を繰り返す。
繰り返しながら、自分では、それがわからない。
自分では、前に向かって進んでいると錯覚する。
が、実のところ、一歩も前に進んでいない。

 このことは、あなたの周辺から、何人かの人を選んで、
その人を観察してみれば、わかる。
中には、10年1律のごとく、同じことしか言わない人がいる。
(さらにひどくなると、月単位、週単位で、同じことしか言わない人がいる。)

が、その一方で、そのつど新しい視点で、新しいことを言う人もいる。
話題も豊富で、そのつど話の内容が深く、濃くなっている。

10年1律のごとく、同じことしか言わない人は、その程度の人と見てよい。
思想的には、死んだも同然。
いくら派手な言動を繰り返しても、死んだも同然。
そういう人を、「思想的死者」と呼ぶ。

●思想的死者

 輪形彷徨がこわいのは、それを繰り返しているうちに、思想がどんどんと
浅くなっていくこと。
視野もせまくなる。
それしか目に入らなくなる。

 このことは、私の母の晩年の日記を読んでいて気がついた。
私の母は、毎日その日の終わりに日記をつけていた。
が、晩年になればなるほど、毎日書いていることが同じになっている。

 「今日は雨(晴れ、うす曇り、曇り)で始まり、「〜〜さんが来た」「〜〜さんと
会った」「〜〜さんと話をした」という話につながる。
そしてしめくくりはいつも、「明日は晴れますように(涼しくなりますように)」と。

 私なりに母の気持ちをくみ取りたいと思ったが、日記を読む範囲では、それが
できなかった。
当時年齢も90歳に近かったから、それもしかたのないことかもしれない。
が、母にかぎらず、人は、一度、この輪形彷徨に入ると、そのワクから抜け出られなく
なる。
そしてあとはその悪循環の中で、自分の住む世界を、どんどんと小さくしてしまう。

●では、どうすればよいか

 私たちも、ふと油断すると、そのつど思考がループ状態になるのを知る。
そこで私のばあい、努めて、毎回、ちがったことを書くことにしている。
子どもたちを教えるときも、そうで、同じ年長児のクラスでも、切り口を変えるよう
にしている。
内容そのものも、変えることがある。
こうして自分の思考が、ループ状態に入るのを防ぐ。

 が、このところ、ときどき恐ろしい経験をする。
「このテーマは初めて……」と思って書いている原稿でも、検索してみると、
同じようなことを、数年前に書いたのを知るときがある。
しかも数年前に書いた原稿のほうが、内容が深い!

 たとえば「思考のループ」にしても、実は、それについて書くのは、今回が
初めてではない。

(ここで、ヤフーの検索機能をつかって、検索してみた。)

「はやし浩司 思考のループ」で検索してみたら、ナント、204件もヒットした。
それも、だ。
最新の原稿は、08年11月付けとなっている!
私は6か月前に、同じことを考えていたことになる。
以下、かなりの長文になるが、それをそのまま、ここに掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●思考のループ

++++++++++++++++++
うつ状態になると、ものごとに対する
(こだわり)が強くなる。

(うつ)と(こだわり)は、紙でいえば、
表と裏のような関係と考えてよいのでは?
そのことだけを、悶々と悩むようになる。
そこで最近、こんなことに気がついた。
若いときは、うつ状態になっても、脳の
中の情報は、割とそのまま維持される。
しかし加齢とともに、うつ状態になると、
脳の中の情報が、こぼれ落ちるように、
消えていく。

特定のことにこだわるあまり、ほかの
情報が入ってこなくなる。
つまりうつ状態が長くつづくと、脳みそ
全体が、ボケていく。
だから一般的には、こう言われている。
「ボケからうつ病になることもあるし、
うつ病からボケになることもある。
その見分けは、むずかしい」と。
つまり今度は、(うつ)と(ボケ)が、
紙で言えば、表と裏の関係と考えて
よいのでは?、ということになる。

+++++++++++++++++

●60代

自分が60代になってみて、恐ろしいと感じたことが、ひとつある。
それは急速に、過去の知識や経験が、脳みそから消えていくということ。
記憶にしても、記銘力、維持力、想起力が、同時に弱くなった。
つまり私たちは、それに気がつかないまま、どんどんとバカになっているということ。
そこで大切なことは、歳をとればとるほど、脳みそをさまざまな角度から、
刺激していかねばならない。
肉体の健康にたとえるまでもない。

が、ここで思わぬ伏兵が現れてきた。
たとえば心がうつ状態になったとする。
(うつ)の第一の特徴は、(こだわり)である。
ある特定のことがらに、悶々と悩んだりする。
それが短期間なものであれば、問題はない。
しかしそれが長期間つづくと、その間に、ほかの部分にあった知識や経験が、
どんどんと脳みそから消え、結果として、頭がボケていく。
そのため総合的な判断が、できにくくなる。

ただ本人自身は、ここにも書いたように、自分でそれに気づくことはない。
そういう状態になりながらも、「私は、まとも」と思う。
このズレが、いろいろな場面で、トラブルの原因となることもある。
先日も、私がその女性(65歳くらい)に、「私は、そんなバカではないと
思います」と言ったときのこと、その女性は何を勘違いしたのか、こう言って
叫んだ。

「私だって、そんなバカではありません!」と。
私はその女性に、認知症の初期症状をいくつか感じ取っていた。
自分勝手でわがまま。
繊細な会話ができない。
話す内容も一方的で、その繰り返し。
が、それはそのまま私自身の問題でもある。

私もよく(うつ状態)になる。
何かのことでそれにこだわると、それについて、悶々と悩んだりする。
毎日、そのことばかりを考えるようになる。
考えるといっても、堂々めぐり。
思考そのものが、ループ状態になる。
とたん、ほかの情報が脳みその中に、入ってこなくなる。
肉体の健康にたとえるなら、これは腕の運動ばかりしていて、体全体の運動を
忘れるようなもの。

うつ状態が長期になればなるほど、そのため、頭はボケていく。
だから……、といっても、もう結論は出ているが、うつ状態は、ボケの敵。
50歳を過ぎたら、とくに注意したほうがよい。

(付記)
認知症から(うつ状態)になる人もいれば、(うつ状態)から認知症になる人も
いる。
その見分けは、専門家でもたいへんむずかしいという。
が、こう考えてはどうだろうか。
どちらであるにせよ、脳の一部しか機能しなくなるために、そうなる、と。
とくに50代以上になると、それまでの知識や経験が、穴のあいたバケツから
水がこぼれ出るように、外へと漏れ出ていく。
そうでなくても補充しなければいけないときに、特定のことにこだわり、
それについて悶々と悩むのは、それだけでバカになっていく。
それが認知症につながっていくということも、じゅうぶん考えられる。
少し前まで、「損得論」についていろいろ考えてきたが、損か得かという
ことになれば、脳みその機能が悪くなることほど、損なことはない。
まさに「私」の一部を、失うことになる。

++++++++++++++++
思考のループについて、
以前書いた原稿を、添付します。
++++++++++++++++

●無限ループの世界

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題
を解くようなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思
い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大
さをなす」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。
知識や情報の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「そ
の年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。二〇歳でループに入る
人もいれば、五〇歳や六〇歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そ
こで進歩を止め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさら
に低下する。私はこのことを講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすれ
ばよい。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が
子どもたちに接するときもそうだ。

毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットーに
している。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日のこと。た
しか過保護児の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それをさか
のぼること二〇年程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗北感を
感じた。「私はこの二〇年間、何をしてきたのだろう」と。

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、一〇年前より進歩しただろうか。二〇年
前より進歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考
えてみてほしい。さらにあなたはこの一〇年間で何か新しい発見をしただろうか。それと
もしなかっただろうか。

こわいのは、思考のループに入ってしまい、一〇年一律のごとく、同じ話を繰り返すこと
だ。もうこうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよ
い(失礼!)。犬は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもって
いる。しかし犬が犬なのは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってし
まうことだ。だから犬は犬のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、
あなたはすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日
からでも遅くないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決
めて、そのテーマについて考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返し
ていく。どんどん繰り返して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●ノーブレイン

 英語に「ノーブレイン(脳がない)」という言い方がある。「愚か」という意味ではない。
ふつう「考える力のない人」という意味で使う。「賢い(ワイズ)」の反対の位置にある言
葉だと思えばよい。「ヒー・ハズ・ノー・ブレイン(彼は脳がない)」というような使い方
をする。

 そのノーブレインだが、このところ日本人全体が、そのノーブレインになりつつあるの
ではないか。たとえばテレビ番組に、バラエィ番組というのがある。チャラチャラしたタ
レントたちが、これまたチャラチャラとした会話を繰り返している。どのタレントも思い
ついたままを口にしているだけ。一見、考えてしゃべっているように見えるが、その実、
何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して口にしてい
るだけ。

考える力というのは、みながみな、もっているわけではない。仮にもっていたとしても、
考えることにはいつも、ある種の苦痛がともなう。それは難しい数学の方程式を解くよう
な苦痛に似ている。しかも考えて解ければそれでよし。「解いた」という喜びが快感になる。
しかしたいていは答そのものがない。考えたところで、どうにもならないことが多い。そ
のためほとんどの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。

言いかえると、「考える人」は、少ない。「考える習慣のある人」と言いかえたほうが正し
いかもしれない。その習慣のある人は少ない。私が何か問いかけても、「そんなめんどうな
こと考えたくない」とか、反対に、「もうそんなめんどうなこと、考えるのをやめろ」とか
言う人さえいる。

人間は考えるから人間であって、もし考えることをやめてしまったら、人間は人間でなく
なってしまう。少なくとも、人間と、他の動物を分けるカベがなくなってしまう。「考える」
ということには、そういう意味が含まれる。ただここで注意しなければならないのは、考
えるといっても、(1)その方法と、(2)内容である。

これについてはまた別のところで結論を出すが、私のばあい、自分の考えが、ループ状態
(堂々巡り)にならないように注意している。またそれだけは避けたいと思っている。一
度そのループ状態になると、一見考えているように見えるが、そこで思考が停止してしま
う。

それに私のばあい、これは私の思考能力の欠陥と言ってよいのだろうが、大きな問題と小
さな問題を同時に考えたりすると、その区別がつかなくなってしまう。ときとしてどうで
もよいような問題にかかりきりになり、自分を見失ってしまう。「考える」ということには、
そういうさまざまな問題が隠されてはいる。しかしやはり「人間は考えるから人間」であ
る。それは人間が人間であることの大前提といってもよい。つまり「ノーブレイン」であ
ることは、つまりその人間であることの放棄といってもよい。

人間を育てるということは、その「考える子ども」にすることである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●考えない子ども

 「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小4レベル)。その前
の段階として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。
そのあと、「では1分間で、何度進むか」と問いかける。

 この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることがで
きる。が、そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できな
い子どもにも、ふたつのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考え
ることそのものから逃げてしまうタイプである。

 懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいてい
その途中で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプ
の子どもは、いくらヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はど
こまでくるかな?」「15分で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとす
ると、1分では何度かな?」と。

そこまでヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらない。
どうでもよいといった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうながすと、「先
生、これは掛け算の問題?」と聞いてくる。

決して特別な子どもではない。今、このタイプの、つまり自分で考える力そのものが弱い
子どもは、約二五%はいる。四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だちどうしで
遊ぶときは、それなりに活発に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊富だ
し、ぼんやり型の子ども(愚鈍児)特有の、ぼんやりとした様子も見られない。

ただ「考える」ということだけができない。……できないというより、さらによく観察す
ると、考えるという習慣そのものがないといったふう。考え方そのものがつかめないとい
った様子を見せる。

 そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たい
へん浅いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。
待てば待ったで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。

 結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、
以後なおすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。
やっとできるようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる
……。あとはこの繰り返し。

 そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで
考えるが、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身
に、考えるという習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。
勉強ができないというのは、決して子どもだけの問題ではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
思考のループ ループ性 ループ状態)


【子どもの思考力】

●考える子どもvs考えない子ども

 勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んで
いる。この言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、
活発型(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。

しかしこの分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれ
てこない。さらに特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準を
つくり、こうした子どもにラベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生
まれてこない。つまりこうした見方は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもな
く、子どもの教育で重要なのは、診断ではなく、また診断名をつけることでもなく、「どう
すれば、子どもが生き生きと学ぶ力を養うことができるか」である。

 そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ
 
この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えることが
できるという点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっ
ているときというのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう(1)
の状態。

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけて
よいかわからなくなることがある。それが(2)の状態。

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられ、何が
なんだかさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。

歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるのは
その場だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。

 勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)〜(4)の状態が、日常的に起こる
と考えるとわかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわ
かると、「ではどうすればよいか」という部分が浮かびあがってくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
勉強が苦手 勉強が苦手な子供)

(1)思考力そのものが散漫なタイプ

思考力そのものが、散漫なタイプの子どもを理解するためには、たとえばあなたが一日の
仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているようなときを想像してみればよい。
そういうときというのは、考えるのもおっくうなものだ。ひょっとしたら、不注意で、そ
のあたりにあるコーヒーカップを、手で倒してしまうかもしれない。だれからか電話がか
かってきても、話の内容は上の空。「アウー」とか答えるだけで精一杯。あれこれ集中的に
指示されても、そのすべてがどうでもよくなってしまう。明日の予定など、とても立てら
れない……。

もしあなたがそういう状態になったら、あなたはどうするだろうか。一時的には、コーー
を口にしたり、ガムをかんだりして、頭の回転をはやくしようとするかもしれない。効果
がないわけではない。が、だからといって、体の疲れがとれるわけではない。そういうと
きあなたの夫(あるいは妻)に、「何をしているの! さっさと勉強しなさい」と、言われ
たとする。あなたはあなたで、「しなければならない」という気持ちがあっても、ひょっと
したら、あなたはどうすることもできない。漢字や数字をみただけで、眠気が襲ってくる。
ほんの少し油断すると、目がかすんできてしまう。横で夫(あるいは妻)が、横でガミガ
ミとうるさく言えば言うほど、やる気も消える。

思考力が弱い子どもは、まさにそういう状態にあると思えばよい。本人の力だけでは、ど
うしようもない。またそういう前提で、子どもを理解する。「どうすればよいか」という問
題については、あなたならどうしてもらえばよいかと考えればわかる。疲労困ぱいして、
ソファに寝そべっているようなとき、あなたなら、どうすればやる気が出てくるだろうか。
そういう視点で考えればよい。そういうときでも、あなたにとって興味がもてること、関
心があること、さらに好きなことなら、あなたは身を起こしてそれに取り組むかもしれな
い。まさにこのタイプの子どもは、そういう指導法が効果的である。これを「動機づけ」
というが、その動機づけをどうするかが、このタイプの子どもの対処法ということになる。

(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけて
よいかわからなくなることがある。実家から電話がかかってきて、親が倒れた。そこでそ
の支度(したく)をしていると、今度は学校から電話がかかってきて、子どもが鉄棒から
落ちてけがをした。さらにそこへ来客。キッチンでは、先ほどからなべが湯をふいている
……!

一度こういう状態になると、考えが堂々巡りするだけで、まったく先へ進まなくなる。あ
なたも学生時代、テストで、こんな経験をしたことがないだろうか。まだ解けない問題が
数問ある。しかし刻々と時間がせまる。計算しても空回りして、まちがいばかりする。あ
せればあせるほど、自分でも何をしているかわからなくなる。

このタイプの子どもは、時間をおいて、同じことを繰りかえすので、それがわかる。たと
えば「時計の長い針は、15分で90度回ります。1分では何度回りますか」という問題
のとき、しばらくは分度器を見て、何やら考えているフリをする。そして同じように何や
ら式を書いて計算するフリをする。私が「あと少しで解けるのかな」と思って待っている
と、また分度器を見て、同じような行為を繰りかえす。式らしきものも書くが、先ほど書
いた式とくらべると、まったく同じ。あとはその繰り返し……。

一度こういう状態になったら、ひとつずつ片づけていくのがよい。が、このタイプの子ど
もはいくつものことを同時に考えてしまうため、それもできない。ためしに立たせて意見
を発表させたりすると、おどおどするだけで何をどう言ったらよいかわからないといった
様子を見せる。そこであなた自身のことだが、もしあなたがこういうふうにパニック状態
になったら、どうするだろうか。またどうすることが最善と思うだろうか。

 ひとつの方法として、軽いヒントを少しずつ出して、そのパニック状態から子どもを引
き出すという方法がある。「時計の絵をかいてごらん」「1分たつと、長い針はどこからど
こまで進みますか」「5分では、どこまで進みますか」「15分では、どこかな」と。これ
を「誘導」というが、どの段階で、子どもが理解するようになるかは、あくまでも子ども
次第。絵をかいたところで、「わかった」と言って理解する子どももいるが、最後の最後ま
で理解しない子どももいる。そういうときはそれこそ、からんだ糸をほぐすような根気が
必要となる。しかもこのタイプの子どもは、仮に「1分で長い針は6度進む」とわかって
も、今度は「短い針は1時間で何度進むか」という問題ができるようになるとはかぎらな
い。少し問題の質が変わったりすると、再びパニック状態になってしまう。パニックなる
ことそのものが、クセになっているようなところがある。あるいはヒントを出すというこ
とが、かえってそれが「思考の過保護」となり、マイナスに作用することもある。

 方法としては、思い切ってレベルをさげ、その子どもがパニックにならない段階で指導
するしかないが、これも日本の教育の現状ではむずかしい。

(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられると、
何がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。「メニューから各機種のフォルダを開き、
Readme.txtを参照。各データは解凍してあるが、してないものはラプラスを使
って解凍。そのあとで直接インストールのこと」と。

このタイプの子どもは、頭の中に、自分がどこへ向かっているかという地図をえがくこと
ができない。教える側はそのため、「これから角度の勉強をします」と宣言するのだが、「角」
という意味そのものがわかっていない。あるいはその必要性そのものがわかっていない。
「角とは何か」「なぜ角を学ぶのか」「学ばねばならないのか」と。そのため、頭の中が混
乱してしまう。「角の大きさ」と言っても、何がどう大きいのかさえわからない。それはち
ょうどここに書いたように、パソコン教室で、先生にいきなり、「左インデントを使って、
段落全体の位置を、下へさげてください」と言われるようなものだ。こちら側に「段落を
さげたい」という意欲がどこかにあれば、まだそれがヒントにもなるが、「左インデントと
は何か」「段落とは何か」「どうして段落をさげなければならないのか」と考えているうち
に、何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまう。このタイプの子どもも、まさ
にそれと同じような状態になっていると思えばよい。

そこでこのタイプの子どもを指導するときは、頭の中におおまかな地図を先につくらせる。
学習の目的を先に示す。たとえば私は先のとがった三角形をいくつか見せ、「このツクンツ
クンしたところで、一番、痛そうなところはどこですか?」と問いかける。先がとがって
いればいるほど、手のひらに刺したときに、痛い。すると子どもは一番先がとがっている
三角形をさして、「ここが一番、痛い」などと言う。そこで「どうして痛いの」とか、「と
がっているところを調べる方法はないの」とか言いながら、学習へと誘導していく。

 このタイプの子どもは、もともとあまり理屈っぽくない子どもとみる。ものの考え方が、
どこか夢想的なところがある。気分や、そのときの感覚で、ものごとを判断するタイプと
考えてよい。占いや運勢判断、まじないにこるのは、たいていこのタイプ。(合理的な判断
力がないから、そういうものにこるのか、あるいは反対に、そういうものにこるから、合
理的な判断力が育たないのかは、よくわからないが……。)さらに受身の学習態度が日常化
していて、「勉強というのは、与えられてするもの」と思い込んでいる。もしそうなら、家
庭での指導そのものを反省する。子どもが望む前に、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」
「ほら、水泳教室」とやっていると、子どもは、受身になる。

(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 大脳生理学の分野でも、記憶のメカニズムが説明されるようになってきている。それに
ついてはすでにあちこちで書いたので、ここではその先について書く。

 思考するとき人は、自分の思考回路にそってものごとを思考する。これを思考のパター
ン化という。パターン化があるのが悪いのではない。そのパターンがあるから、日常的な
生活はスムーズに流れる。たとえば私はものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、
すぐものを書くことで対処しようとする。(これに対して、暴力団の構成員は、何か問題が
起きると、すぐ暴力を使って解決しようとする?)問題は、そのパターンの中でも、好ま
しくないパターンである。

 子どもの中には、記憶力が悪い子どもというのは、確かにいる。小学六年生でも、英語
のアルファベットを、三〜六か月かけても、書けない子どもがいる。決して少数派ではな
い。そういう子どもが全体の二〇%前後はいる。そういう子どもを観察してみると、記憶
力が悪いとか、覚える気力が弱いということではないことがわかる。結構、その場では真
剣に、かつ懸命に覚えようとしている。しかしそれが記憶の中にとどまっていかない。そ
こでさらに観察してみると、こんなことがわかる。

「覚える」と同時に、「消す」という行為を同時にしているのである。それは自分につごう
の悪いことをすぐ忘れてしまうという行為に似ている。もう少し正確にいうと、記憶とい
うのは、脳の中で反復されてはじめて脳の中に記憶される。その「反復」をしない。(記憶
は覚えている時間の長さによって、短期記憶と長期記憶に分類される。また記憶される情
報のタイプで、認知記憶と手続記憶に分類される。

学習で学んだアルファベットなどは、認知記憶として、一時的に「海馬」という組織に、
短期記憶の形で記憶されるが、それを長期記憶にするためには、大脳連合野に格納されね
ばならない。その大脳連合野に格納するとき、反復作業が必要となる。その反復作業をし
ない。)つまり反復しないという行為そのものが、パターン化していて、結果的に記憶され
ないという状態になる。無意識下における、拒否反応と考えることもできる。

 原因のひとつに、幼児期の指導の失敗が考えられる。たとえば年中児でも、「名前を書い
てごらん」と指示すると、体をこわばらせてしまう子どもが、約二〇%はいる。文字に対
してある種の恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。このタイプの子どもは、
文字嫌いになるだけではなく、その後、文字を記憶することそのものを拒否するようにな
る。結果的に、教えても、覚えないのはそのためと考えることができる。つまり頭の中に、
そういう思考回路ができてしまっている。

 記憶のメカニズムを考えるとき、「記憶するのが弱いのは、記憶力そのものがないから」
と、ほとんどの人は考えがちだが、そんな単純な問題ではない。問題の「根」は、もっと
別のところにある。

Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●結びに……

 昨年(08年11月)に書いた原稿を読みながら、ふとこう思った。
「去年のほうが、内容が深いのでは……?」と。
つまりこれぞまさしく、「輪形彷徨」。
「輪形彷徨」と言わずして、何という?

ゾーッ!

 つまりこうして私も、ボケていく。
バカになっていく。
が、それではいけない。
輪形彷徨を打破しなければならない。
何としても打破しなければならない。
そのためには、今、そこにある輪形方向から、一歩、外へ抜け出なければならない。
新しい世界に興味をもち、その世界へと足を踏み入れる。

 今の私にはそれしか思いつかないが、具体的には、こうする。

(1)書店へ立ち寄っても、立ち止まるところは、いつも同じ。
次回から、それをやめ、別の場所へ行ってみる。
そこで片っ端から立ち読みをしてみる。
(今夜から、さっそく、実行!)

(2)新しい経験を試みる
今度、近くの温泉街に、静岡県イチという大浴場ができた。
日帰り入浴というのができるそうだから、今週中に一度行ってみる。
つまり今までの行動(生活)パターンを変える。

 その結果、私の脳みその中に、何らかの変化が起きればそれでよし。
その変化を感じたら、それを大切にし、拡大させる。

 そうそう私には、ひとつ大特典がある。
「子ども」という大特典である。
私が教えている子どもたちは、そのつど、私に大きな変化をもたらしてくれる。
どんな遊びを、どのようにしているかを知るだけでも、よい刺激になる。
そこで、

(3)子どもたちの世界に、もっと積極的に飛び込んでみる。
どんなゲームをどのようにしているかを、知る。
私もそのゲームを自分でも、買ってみる。
いっしょに、子どもたちとしてみる。

 輪形彷徨というのは、いわば思想の渦のようなもの。
渦の中で安穏としていると、そのまま渦の中心部で、押しつぶされてしまう。
自分では気がつかないまま、そうなってしまう。
これからの老後を生きるためにも、それにはじゅうぶん警戒したらよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 思考のループ ループ状態 はやし浩司 輪形彷徨)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ダイエット

++++++++++++++++++++++++

無理な減食だけでダイエットしても、意味はない。
それはよくわかっている。
体内脂肪が減るよりも先に、筋肉が萎(な)えてしまう。
それに猛烈な食欲。
飢えた脂肪(摂取)細胞が、「食べ物をよこせ!」と騒ぎ出す。
ふつうの食欲ではない。
ここにも書いたように、「猛烈な食欲」。
で、油断すると、あっという間にリバウンド。
しかもやっかいなことに、これを繰り返していると、
内臓脂肪ばかりが、ふえることになる。
今、私はそれを、身をもって、体験しつつある。

+++++++++++++++++++++++++

●私のばあい

 今朝、体重計に乗ったら、61・8キロだった。
2か月前には、68・4キロだったから、約7キロの減量ということになる。
約7キロ!
しかしおかしなことに、体脂肪率は、24・5%から23・5%と、それほど変わって
いない。

 つぎに体重が約7キロ減ったということは、2リットル入りのペットボトルで、
3本半分ということになる。
が、その実感が、ほとんど、ない。
このことは自転車で、いつもの坂を登ってみると、よくわかる。
約7キロ減ったのだから、その分、坂を登るのが、楽なはず。
が、実際には、そうでない。
先日は、かえって体が重くなったように感じた。
つまり無理なダイエットによって、筋肉のほうが、先に萎えてしまった(?)。

 ダイエットは、(1)食事制限と、(2)運動を、並行して行う。
どんな本にもそう書いてある。
そこで今回は、食事制限と並行して、運動の量を、それまでの約2倍以上にふやした。
ほとんど毎日、1万歩前後、散歩した。
加えてサイクリング。
それでもこのザマというか、体力のほうが先に弱ってしまった。

 が、ここであきらめるわけにはいかない。
ここでリバウンドさせるわけにはいかない。
ダイエットするにも、年齢制限のようなものがある。
運動量をふやすといっても、それには限界がある。
70歳や80歳になってからだと、運動そのものが、難しくなる。
それがそのまま年齢制限となる。
今、ここでダイエットに失敗したら、私は死ぬまで67〜8キロ台。
こわいのは、悪循環。
(運動不足)→(肥満)→(成人病)→……
これを繰り返しているうちに、持病が持病を呼び込み、そのうち体が動かなくなる。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(301)

●会話でわかるママ診断

(過干渉ママの会話)私、子ども(年中児)に向かって、「きのうは、どこへ行ったの?」、
母、会話をさえぎりながら、「きのうは、おじいちゃんの家に行ったわよね。そうでしょ」、
再び私、子どもに向かって、「そう、楽しかった?」、母、再び会話をさえぎりながら、「楽
しかったわね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

(親意識過剰ママの会話)母、子ども(四歳)に向かって、「楽チィワネエ〜、ママとイッ
チョで、楽チィワネエ〜」「おいチィー、おいチィー、このアイチュ、おいチィーネー」と。
(溺愛ママの会話)私、子ども(年長男児)に向かって、「あなたは大きくなったら、何に
なりたいのかな?」、母、子どもに向かって、「○○は、おとなになっても、ズ〜と、ママ
のそばにいるわよねエ。どこへも行かないわよねエ〜」と。

(過関心ママの会話)母、近所の女性に、「今度英会話教室の先生が、今まではイギリス人
だったのですが、アイルランド人に変わったというではありませんか。ヘンなアクセント
が身につくのではと、心配です」と。

(権威主義ママの会話)母、子どもに向かって、「親に向かって、何てこと、言うの! 私
はあなたの親よ!」と。

(子ども不信ママの会話)子どもの話になると顔を曇らせて、「もう五歳になるのですがね
エ〜。こんなことでだいじょうぶですかネ〜?」と。……などなど。

 会話を聞いていると、その親の子育て観が何となくわかるときがある。もっともここに
書いたような会話をしたからといって、問題があるというわけではない。人はそれぞれだ
し、私はもともとこういうスパイ的な行為は好きではない。ただ職業柄、気になることは
たしかだ。(だから電車などに乗っても、前に親子連れが座ったりすると、席をかわるよう
にしている。ホント!) 

 英語国では、親はいつも「あなたは私に何をしてほしいの?」とか、「あなたは何をした
いの?」とか、子どもに聞いている。こうした会話の違いは、日本を出てみるとよくわか
る。どちらがどうということはないが、率直に言えば、日本人の子育て観は、きわめて発
展途上国的である。教育はともかくも、こと子育てについては、原始的なままと言っても
よい。家庭教育の充実が叫ばれているが、そもそも家庭教育が何であるか、それすらよく
わかっていないのでは……? 旧態依然の親子観が崩壊し、今、日本は、新しい家庭教育
を求めて模索し始めている段階と言ってもよい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(302)

●家庭教育の過渡期

 家庭における教育力が低下したとは、よく言われる。しかし実際には低下などしていな
い。30年前とくらべても、親子のふれあいの密度は、むしろ濃くなっている。教育力が
低下したのは、教育力そのものが低下したと考えるのではなく、価値観の変動により、家
庭教育そのものが混乱しているためと考えるほうが正しい。

 昔は、親の権力は絶対で、子どもは問答無用式にそれに従った。つまり昔は、そういう
のを「教育力」(?)と言った。しかし権威の崩壊とともに、親の権力も失墜した。と、同
時に、家庭の中の教育力は低下し、その分、混乱した。しかし混乱した本当の原因は、実
のところ親の権威の失墜でもない。混乱した本当の原因は、それにかわる新しい家庭教育
観を組み立てられなかった日本人自身にある。家庭における教育力の低下は、あくまでも
その症状のひとつにすぎない。

そこで教育力そのものの低下にどう対処するかだが、それには二つの考え方がある。ひ
とつは、だからこそ、旧来の家庭観を取り戻そうという考え方。「親の威厳は必要だ」「父
親は権威だ」「父親にとって大切なのは、家庭における存在感だ」と説くのが、それ。も
うひとつは、「新しい家庭観、新しい教育観をつくろう」という考え方。どちらが正しい
とか正しくないとかいう前に、こうした混乱は、価値観の転換期によく見られる現象で
ある。たとえば一九七〇年前後のアメリカ。

 戦後、アメリカは、戦勝国という立場で未曾有の経済発展を遂げた。まさにアメリカン
ドリームの時代だった。が、そのアメリカは、あのベトナム戦争で、手痛いつまずきを経
験する。そのころアメリカにはヒッピーを中心とする、反戦運動が台頭し、これがアメリ
カ社会を混乱させた。旧世代と新世代の対立もそこから生まれた。その状態は、今の日本
にたいへんよく似ている。

たとえば私たちが学生時代のころは、安保闘争に代表されるような「反権力」が、いつも
大きなテーマであった。それが、尾崎豊や長渕剛らの時代になると、いつしか若者たちの
エネルギーは、「反世代」へとすりかえられていった。この日本でも世代間の闘争がはげし
くなった。わかりやすく言えば、若者たちは古い世代の価値観を一方的に否定したものの、
新しい価値観をつくりだすことができなかった。まただれもそれを提示することができな
かった。ここに「混乱」の最大の原因がある。

 今は、たしかに混乱しているが、新しい家庭教育を確立する前の、その過渡期にあると
みてよい。あのアメリカでは、こうした混乱は一巡し、いろいろな統計をみても、アメリ
カの親子は、日本よりはるかによい関係を築いている。ただひとつ注意したい点は、さき
にも書いたように、こうした混乱を利用して、復古主義的な家庭教育観も一方で力をもち
始めているということ。

中には封建時代の武士道や、さらには戦前の教育勅語までもちだす人がいる。しかし私た
ちがめざすべきは、混乱の先にある、新しい価値観の創設であって、決して復古主義的な
価値観ではない。前に進んでこそ、道は開ける。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(303)

●数は生活力

 計算力は訓練で伸びる。訓練すればするほど、速くなる。同じように、「教科書的な算数」
は、学習によってできるようになる。しかしこれらが本当に「力」なのかということにな
ると、疑わしい。疑わしいことは、きわめてすぐれた子どもに出会うと、わかる。

 O君(小3)という子どもがいた。もちろん彼は方程式などというものは知らない。知
らないが、中学で学ぶ一次方程式や連立方程式を使って解くような問題を、自分流のやり
方で解いてしまった。たとえば「仕入れ値の30%ましの定価をつけたが、売れなかった
ので、定価の2割引で売った。が、それでも80円の利益があった。仕入れ値はいくらか」
という問題など。それこそあっという間に解いてしまった。こういう子どもを「力」のあ
る子どもという。

 が、一方、そうでない子どもも多い。同じ小学三年生についていうなら、「10個ずつミ
カンの入った箱が、3箱ある。これらのミカンを、6人で分けると、1人分は何個ですか」
という問題でも、解けない子どもは、解けない。かなり説明すれば解けるようにはなるが、
少し内容を変えると、もう解けなくなってしまう。

「力」がないというよりは、問題を切り刻んでいく思考力そのものが弱い。「そんな問題、
どうでもいい」というような様子を見せて、考えることそのものから逃げてしまう。そん
なわけで私は、いつしか、「数は生活力」と思うようになった。「減った、ふえた」「取った、
取られた」「得をした、損をした」という、ごく日常的な体験があって、子どもははじめて
「数の力」を伸ばすことができる、と。こうした体験がないまま、別のところでいくら計
算力をみがいても、また教科書を学んでも、ムダとは言わないが、子どもの「力」にはほ
とんどならない。

 ……と書いたが、こんなことはいわば常識だが、こうした常識をねじ曲げた上で、現在
の教育が成り立っているところに、日本の悲劇がある。教育が教育だけでひとり歩きしす
ぎている。子どもたちが望みもしないうちから、「ほら、1次方程式だ、2次法手式だ」と
やりだすから、話がおかしくなる。もっといえば、基本的な生活力そのものがないまま、
子どもに勉強を押しつける……。

ちなみに東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、こんな興味ある調査結果を公表してい
る。小学6年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、2000年度に30%
を超えた(1977年は13%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子どもは、年々低
下し、2000年度には35%弱しかいないそうだ。原因はいろいろあるのだろうが、「日
本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。

むずかしい話はさておき、子どもの「算数の力」を考えたら、どこかで子どもの生活力
を考えたらよい。それがやがて子どもを伸ばす、原動力になる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(304)

●風邪薬は予防薬にはならない

 風邪薬をいくらのんでも風邪の予防にはならない。同じように、テストをいくらしても、
頭がよくなるということはない。(テストを受ける要領がうまくなり、見かけの点数があが
ることはある。)子どもの「力」は、生活の場で、実体験をともなってはじめて、伸びる。
言いかえると、生活の場で、実体験のともなわない知識教育は、ほとんど意味がない。ま
ったくないとは言わないが、しかし苦労の割には身につかない。あまりよいたとえではな
いかもしれないが、たとえば英語教育がある。

 私は高校生のとき、英語の教師から、「pass(過ぎる)とpurse(サイフ)は発
音が違う。よく覚えておけ」と、教えられたことがある。教師の発音では、どこがどう違
うかわからなかった。だからテスト勉強では、「passは、パース、purseもパース、
発音が違う」などと覚えた。今から思うと、何ともイイカゲンな勉強法だが、当時はそれ
が当たり前だった。で、英語のテストの点はよかったが、私の話す英語など、まったく役
にたたなかった。

 こうした「イイカゲン性」は、ほとんどあらゆる勉強に見られる。そのサエたるものが、
受験勉強。先日も中学生(中3男子)が、「長野の高原野菜、浜名湖のウナギ、富山のチュ
ーリップ……」と声を出して覚えていた。そこで私が「高原野菜って、何?」と聞くと、「知
らない」と。ついでに私が、「今では浜名湖のウナギはいないぞ。ぜんぶ養殖だし、それに
ほとんどが中国から輸入されている」「富山のチューリップより、袋井市にある『ユリの園』
のユリのほうが、よっぽどきれいだ」と言うと、その中学生は吐き捨てるようにこう言っ
た。「いちいちうるさいナ〜。いいの、これで!」と。

 ともすれば私たちは子どもに勉強を教えながら、その風邪薬のようなことをしてしまう。
またそれをもって教育と思いこんでしまう。しかししょせん、風邪薬は風邪薬。たくさん
のんだからといって、風邪の予防にはならない。もちろん健康にもならない。あなたの子
どもの勉強も、一度同じような視点から見つめなおしてみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(305)

●受験の神様?

 日本のどこかに「受験の神様」というのが祭ってあるという。その季節になると、多く
の親や受験生が、その神社を訪れるらしい。しかし……。

 だいたいにおいて、信者に個人的な利益をもたらす神や仏がいるとしたら、インチキと
考えてよい。いわんやそれで信者を金持ちにしたり、受験に合格させたりしたら、ますま
すインチキと考えてよい。

 実のところ私も若いころは結構、信仰深い(?)ところがあった。しかしあるとき、『原
爆の少女・サダコ』を読んだときから、自分のために祈ることをやめた。「私より何千倍も
真剣に祈った人がいる。私より何千倍も神や仏の力を必要とした人がいる」と、そんなふ
うに考えたら、もう祈れなくなってしまった。「私の願いをかなえてくれるくらいなら、私
はいいから、サダコのような女性の願いをかなえてやってほしい」とも。

 私は「信仰」を否定するものではない。ないが、信仰するとしたら、それは他人のため
にするものだと思っている。自分のためではない。あくまでも他人のためだ。言いかえる
と、自分のために信仰している間は、それは本当の信仰ではない。それがわからなければ、
神や仏の立場になってみればよい。

……いや、実のところ、教育というのは、宗教と紙一重のところがある。私は神や仏は、
もともとは教師ではなかったかと思うときがよくあるが、たとえばあなたのところへ一人
の受験生がやってきて、「先生、どうか○○大学に合格させてください」と言ったとしたら、
あなたは何と答えるだろうか。あるいは「先生、毎晩、あなたの家に向かって、真剣に祈
っていますから、どうか願いをかなえてください」と言ったとしたら、あなたは何と答え
るだろうか。きっとあなたはこう言うにちがいない。「バカなことはやめなさい。自分のこ
とは自分でしなさい」と。

もしあなたがその神や仏で、そんなことで受験生の願いをかなえてやったとしたら、その
受験生は、かえってダメになってしまうかもしれない。人間的に堕落してしまうかもしれ
ない。しかしもしあなたのところへ一人の受験生がやってきて、「ぼくはいいから、不幸な
○○さんをどうか合格させてやってください」と祈ったとしたら、あなたは少しは心を動
かされるかもしれない。

 そこで「他人のために祈る」ということになる。が、結局のところ、だれのために祈っ
たらよいのか、私にはわからない。わからないから、祈りようがない。つまり私は祈らな
い。たとえ私に生死をさまような大病がふりかかったとしても、私は祈らない。もしそれ
で私の病気を神や仏がなおしてくれたとしたら、私は反対にその神や仏をうらむ。「そんな
力があるなら、どうしてサダコを救ってやらなかったのだ!」と。

 要するに「受験の神様」など、インチキだということ。あんなのに祈っても、気休めに
もならない。「信仰」という名前すら、泣く。こうしてエッセイにするのもバカらしいが、
一度は書いておかねばならない問題なので、こうして書くことにした。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(306)

●善人と悪人

 人間もどん底に叩き落とされると、そこで二種類に分かれる。善人と悪人だ。そういう
意味で善人も悪人も紙一重。大きく違うようで、それほど違わない。私のばあいも、幼稚
園で講師になったとき、すべてをなくした。母にさえ、「あんたは道を誤ったア〜」と泣き
つかれるしまつ。

私は毎晩、自分のアパートへ帰るとき、「浩司、死んではダメだ」と自分に言ってきかせね
ばならなかった。ただ私のばあいは、そのときから、自分でもおかしいと思うほど、クソ
まじめな生き方をするようになった。酒もタバコもやめた。女遊びもやめた。

 もし運命というものがあるなら、私はあると思う。しかしその運命は、いかに自分と正
直に立ち向かうかで決まる。さらに最後の最後で、その運命と立ち向かうのは、運命では
ない。自分自身だ。それを決めるのは自分の意思だ。だから今、そういった自分を振り返
ってみると、自分にはたしかに運命はあった。しかしその運命というのは、あらかじめ決
められたものではなく、そのつど運命は、私自身で決めてきた。自分で決めながら、自分
の運命をつくってきた。が、しかし本当にそう言いきってよいものか。

 もしあのとき、私がもうひとつ別の、つまり悪人の道を歩んでいたとしたら……。今も
その運命の中に自分はいることになる。多分私のことだから、かなりの悪人になっていた
ことだろう。自分ではコントロールできないもっと大きな流れの中で、今ごろの私は悪事
に悪事を重ねているに違いない。が、そのときですら、やはり今と同じことを言うかもし
れない。「そのつど私は私の運命を、自分で決めてきた」と。……となると、またわからな
くなる。果たして今の私は、本当に私なのか、と。

 今も、世間をにぎわすような偉人もいれば、悪人もいる。しかしそういう人とて、自分
で偉人になったとか、悪人になったとかいうことではなく、もっと別の大きな力に動かさ
れるまま、偉人は偉人になり、悪人は悪人になったのではないか。

たとえば私は今、こうして懸命に考え、懸命にものを書いている。しかしそれとて考えて
みれば、結局は自分の中にあるもうひとつの運命と戦うためではないのか。ふと油断すれ
ば、そのままスーッと、悪人の道に入ってしまいそうな、そんな自分がそこにいる。つま
りそういう運命に吸い込まれていくのがいやだからこそ、こうしてものを書きながら、自
分と戦う。……戦っている。

 私はときどき、善人も悪人もわからなくなる。どこかどう違うのかさえわからなくなる。
みな、ちょっとした運命のいたずらで、善人は善人になり、悪人は悪人になる。今、善人
ぶっているあなただって、悪人でないとは言い切れないし、また明日になると、あなたも
その悪人になっているかもしれない。そういうのを運命というのなら、たしかに運命とい
うのはある。何ともわかりにくい話をしたが、「?」と思う人は、どうかこのエッセイは無
視してほしい。このつづきは、別のところで考えてみることにする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(307)

●教育と医学

 たとえば一人の子どもがいる。彼は「○○症」と言われる子どもである。そういうとき、
つまりその子どもを見る目は、教育と医学ではまったく違う。まず第一に、教育では子ど
もを診断し、ついで診断名をくだすことはしない。またしてはならない。だから「そうで
はないか?」と思いつつも、あるいは知っていても知らぬフリをして教育を進める。一方、
医学では、まず診断名を確立し、その上で、「治療」を開始する。

 また指導という段階でも、教育と医学とではまったく違うとらえ方をする。たとえばそ
の子どもが何かと問題を起こして、クラスを混乱させたとしても、教育ではいつも「全体
の問題」として、それを考える。クラスが混乱したら、「混乱したクラス」を問題にする。
が、医学では当然のことながら、個人を対象に治療をすすめる。

 さらに教育では、いつも親や子どもに希望を与えることを大切にする。仮に「たいへん
なおりにくい問題」とわかっていても、「何とかしましょう」と言って、指導を開始する。
医学では「治す」ことを考えるが、教育では、「よりよくする」ことだけを考える。またそ
れでよしとする。

 こうした教育と医学の違いは、そのつど教師ならだれでも経験することである。が、そ
れが原因で、教師自身が大きなジレンマに陥ることがある。たとえば「先天的な問題」を
もった子どもがいる。しかしいくらそうでも、教師は、「先天的」という言葉を使わない。
「先天的」という言葉を使うこと自体、教育の放棄、つまり敗北と考える。が、それを親
のほうから指摘してくることがある。

「うちの子の問題は、先天的なもので、私の育て方の問題ではありません」と。親として
は、精一杯、自分の育て方についての責任を回避する意味でそう言うのだろうが、しかし
そう言われてしまうと、教師としてはつぎに打つ手がなくなってしまう

さらに知識だけはやたらと豊富で、「遺伝子レベルで、この問題は解明されつつあります」
とあれこれ説明してくれるが、それで終わらない。つづけてこう言う。「親に責任があると
いう世間に偏見の中で苦しんでいる親も多いはず」と。だれも親の責任など追及していな
いのだが、そう言う。

 教育と医学は、基本的な部分で違う。しかしそれを混同すると、教育そのものが成り立
たなくなる。教育と医学は、いつも分けて考えなければならない。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(308)

●意識の違い

 意識は脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、仮に自分の意識がズレていても、そ
れに気づくことは、まずない。とくに教育の世界では、そうだ。

 今から30年前、私はオーストラリアの大学で学んでいたときのことだが、向こうの教
授たちは平気で机の上に座っていた。机に足をかけて座っている教授すらいた。今でこそ
笑い話だが、こうした光景は当時の日本の常識では考えられないことだった。

さらにその少し前、東京オリンピックがあった(1964年)。その入場式のときのこと。
日本の選手団は一糸乱れぬ入場行進をして、高い評価(?)を受けた。当時ですら、アメ
リカの選手団はバラバラだった。私はそのとき高校生だったが、「アメリカの選手たちはだ
らしない」と思った。しかし……。

 一方、10年ほど前だが、こんなこともあった。アメリカ人の女性が私に、「ヒロシ、不
気味だった」と言って、こんな話をしてくれた。何でもその女性が海で泳いでいたときの
こと。どこかの女子高校生の一団が、海水浴にきたというのだ。「どうして?」と聞くと、
その女性は、「みんな、ブルーの水着を着ていた!」と。

つまりその女性は、日本の高校生たちがみな、おそろいのブルーの水着を着ていたことが、
不気味だったというのだ。が、私には、その女性の意識が理解できなかった。「日本ではあ
たりまえのことだ」とさえ思った。思って、「では、アメリカではどうなのか」と聞くと、
こう言った。「アメリカでは、みんなバラバラの水着を着ている」と。

 このアメリカ人の女性の意識については、それからしばらくしてから、理解できるよう
になった。ある日のこと、当時のマスコミをにぎわしていたO教団という宗教団体があっ
た。その教団の信者たちが、どこかふつうでない白い衣装を身にまとい、頭にこれまたふ
つうでない装置(?)をつけて、道を歩いていた。その様子がテレビで報道されたときの
こと。私にはそれがぞっとするほど不気味に見えた。と、同時に、「ああ、あのときあのア
メリカ人の女性が感じた不気味さというのは、これだったのだ」と思った。

 意識というのは、そういうものだ。人にはそれぞれに意識があり、その意識を基準にし
てものを考える。しかしその意識というのは、決して絶対的なものではない。その人の意
識というのは、常に変わるものであり、またそういう前提で自分の意識をとらえる。今、
おかしいと思っていることでも、意識が変わると、おかしくなくなる。

反対に、今、おかしくないことでも、意識が変わると、おかしくなる。たとえば今、北朝
鮮の人たちが、一糸乱れぬマスゲームをしているのを見たりすると、それを美しいと思う
前に、心のどこかで違和感を覚えてしまう。が、もし30年前の私なら、それを美しいと
思うかもしれないのだが……、などなど。

 進歩するということは、いつも自分の意識を疑ってみることではないか。言いかえると、
自分の意識を疑わない人には、進歩はない。とくに教育の世界では、そうだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(309)

●固い粘土は伸びない

 伸びる子どもと伸び悩む子どもの違いといえば、「頭のやわらかさ」。頭のやわらかい子
どもは伸びる。そうでない子どもは伸び悩む。たとえば頭のやわらかい子どもは、多芸多
才。趣味も特技も幅広く、そのつどそれぞれの分野で、自分を楽しませることができる。
子どもにいたずらはつきものだが、そのいたずらも、どこかほのぼのとした子どもらしさ
を覚えるものが多い。食パンをくりぬいて、トンネルごっこ。スリッパをつなげて、電車
ごっこなど。

 一方伸び悩む子どもは、融通がきかない。ある子どもとこんな会話をしたことがある。
子、「まちがえたところはどうするのですか?」、私、「なおせばいい」、子「消しゴムで消
すのですか」、私「そうだ」、子「きれいに消すのですか」、私「そうだ」と。実際、小学三
年生の子どもとした会話である。

 簡単な見分け方としては、ひとりで遊ばせてみるとよい。頭のやわらかい子どもは、身
の回りからつぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。そうでない子どもは、「退
屈ウ〜」とか、「もうおうちに帰ろウ〜」とか言ったりする。遊びそのものが限定されてい
る。また同じいたずらでも、知恵の発達が遅れ気味の子どもは、とんでもないいたずらを
することが多い。

先生のコップに殺虫剤を入れた中学生や、うとうとと居眠りしている先生の顔の下に、シ
ャープペンシルを突きたてた中学生などがいた。その先生はそのため、あやうく失明する
ところだった。幼児でも、コンセントに粘土をつめたり、溶かした絵の具をほかの子ども
の頭にかけたりする子どもがいる。常識によるブレーキが働かないという意味で、心配な
子どもということになる。

 頭をやわらかくするためには、意外性を大切にする。子どもの側からみて、「あれっ」と
思うような環境をいつも用意する。私も最近、こんな経験をしたことがある。オーストラ
リア人の夫婦を、ホームステイさせたときのこと。彼らは朝食に、白いご飯にチョコレー
トをかけて食べていた。

それを見たとき、私の頭の中で「知恵の火花」がバチバチと飛ぶのを感じた。それがここ
でいう意外性ということになる。言いかえると、単調で変化のない生活は、子どもの知能
の大敵と考える。生活の中に、いつも新しい刺激を用意するのは、子どもを伸ばす秘訣で
あると同時に、親の大切な役目ということになる。

 



ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(310)

●世間体

 Yさん(84歳女性)という女性がいる。近所では「仏様」と呼ばれている。そのYさ
んについて、娘のKさん(60歳)が、こう話してくれた。「いまだにサイフの中には札束
を入れて歩くのですよ」と。つまりその札束を、そのつど、これ見よがしに人に見せつけ
るのだという。「スーパーのレジの女の子にさえそれをするから、お母さん、もうそんなこ
とをやめなさいと言うのですが、もうそれがわかる年齢でもないようです」と。世間体を
とりつくろう人は、そこまで神経をつかう。

 ちょうどこの話を聞いたとき、北朝鮮では「アリラン」という祭典が催された(02年
春)。ずいぶんと盛大な祭典だったようだ。その祭典について、読売新聞社の記者が、こん
な記事を書いている(同年5月2日)。

「(D百貨店では)、記者団の到着とともに明かりがともり、エレベータが動き出した」「取
材日程に組み込まれた庶民用のD百貨店も、衣類、電化製品、缶詰、調味料など品数と種
類は多かったが、ただ購入している人はほとんどみかけなかった」「一方、ピョンヤンのア
パートが立ち並ぶ一角の食料品店で陳列棚にあったのは、惣菜類入っているらしい金属製
の容器3つだけだった」などなど。読売新聞社の記事だから、それ以上のことは書いてな
かったが、世間体をとりつくろう(国)は、そこまで神経をつかう。

 世間体を気にする人というのは、それだけ自分のない人とみてよい。しかも世間体と自
分は、反比例する。世間体を気にすればするほど、自分がなくなる。先のYさんだが、家
計は火の車だが、冠婚葬祭にだけは惜しみなくお金を使う。法事にしても、たいてい近く
の料亭を借りきって催している。が、それだけではない。

本当の悲劇は、世間体を気にする人は、自分がない分だけ、他人に心を許さない。他人ど
ころか、身内にすら心を許さない。つまりそれだけ心のさみしい人とみる。たとえば娘の
Kさんが、Yさんを旅行に連れていったとする。そのときYさんにとって大切なのは、「娘
が旅行に連れていってくれた」という事実なのだ。自分の仲間たちの間で、「息子や娘の親
孝行ぶり」を、自慢するためである。こう書くと、信じられない人には信じられない話か
もしれないが、もともと意識そのものがズレているから、このタイプの人はそう考える。
もっというと、世間体を気にする人は、そこまで神経をつかう。

 さてあの北朝鮮。結局は犠牲になっているのは、その国民だと思うのだが、ある女子工
員(縫製工場従業員の一人)はこう言っている。「もっと生産性をあげ、将軍様(金正日総
書記)に喜びを与えたい(と話した)」(読売新聞)と。これについては、私もコメントを
書くわけにはいかないので、読者の皆さんで考えてみてほしい。人間は教育(?)によっ
て、ここまでつくられる!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(311)

●心の貧しい人たち

 金持ちでも心の豊かな人。金持ちでも心の貧しい人。貧乏でも心の豊かな人がいる。最
高級車を乗り回しながら、ゴミを窓の外にポイと捨てる人は、金持ちでも心の貧しい人。
清貧を大切にしながら、近所の清掃をしている人は、貧乏でも心の豊かな人ということに
なる。しかし問題は、貧乏で、心の貧しい人だ。そういう人はいくらでもいる。

 ただここで誤解しないでほしいのは、人はすべてここでいう4つのタイプに分けられる
というのではない。人は、そのつど、いろいろなタイプに変化するということ。あなたや
私にしても、心が豊かな面もあれば、貧しい面もあるということ。さらに金持ちかどうか
は、あくまでも相対的なものでしかない。いくら貧乏といっても、50年ほど前の日本人
のような貧乏な人は少ないし、どこかの貧しい国の人よりは、はるかによい生活をしてい
る人はいくらでもいる。

 で、そういう前提で、心の貧しい人を考えるが、そういう人は、実のところ、いくらで
もいる。見栄、メンツ、世間体にこだわる人というのは、それだけで心の貧しい人と言っ
てよい。このタイプの人は、いつも他人の目の中で生きているから、ものの価値観や幸福
感も、相対的なものでしかない。自分より不幸な境遇にいる人をさがしだしてきては、そ
ういった人を見くだすことによって、自分の立場を守ろうとする。だから会話も独特のも
のとなる。

「あの家の息子さんは、引きこもりなんですってねえ。先生の息子さんでも、そうなるの
ですねえ」「あの家は昔からの財産家だったのですが、今は見る影もないですねえ」とか。
他人の不幸や失敗が、いつも話のタネとなる。中には一見、同情するフリをしながら、こ
とさらそれを笑う人もいる。「かわいそうなものですねえ。人間はああも落ちぶれたくはな
いものです」と。こういう人を心の貧しい人という。

 つまるところ自分自身や自分の生きざまに、いかに誇りをもつかということだが、心の
貧しい人は、他人の不幸を笑った分だけ、今度は、自分で自分のクビをしめることになる。
ある女性(80歳)は、老人ホームへ入ることを、最後の最後までこばんでいた。理由は
簡単だ。その女性はそれまで、老人ホームへ入る仲間をさんざん笑ってきた。人生の落伍
者であるかのようにさえ言ったこともある。「あわれなもんだ、あわれなもんだ」と。

 学歴や地位、名誉、さらには家柄にこだわるということは、それだけでも自分を小さく
する。が、それだけではすまない。こだわりすぎると、心を貧しくする。「形」を整えよう
とするあまり、自分を見失う。B氏(60歳、現在退職中)は、ある日私にこう言った。「ぼ
くは努力によって、ここまでの人間になったが、君は実力で、ここまでの人間になったの
だねえ」と。自分のことを、「ここまでの人間」という愚かな人は少ない。B氏は過去の学
歴におぼれるあまり、自分を見失っていた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(312)

●考える人、考えない人

 私が50歳を過ぎたためかもしれない。しかしこの年齢になると、考える人と考えない
人が、はっきりとわかるようになる。考える人は独特の話し方をする。独特の様子を見せ
る。反対に考えない人は、独特の話し方をする。独特の様子を見せる。

ただこの時点で大切なことは、考える人からは考えない人がどういうものかはよくわかる
が、恐らく、考えない人からは、考える人がどういう人なのかはわからないだろうという
こと。それはちょうど、賢い人からは愚かな人がよくわかるが、愚かな人には、賢い人が
どういう人かわからないのに似ている。(私が、考えない人がよくわかると書いても、私が
その賢い人と言っているのではない。誤解のないように……。)

 考えない人というのは、どこかペラペラと調子がよいだけで、話している内容に深みや
ハバがない。何かを問いかけても、表面的な答しか返ってこない。通俗的というか、こち
らの予想通りの答であったりする。そういうとき私は、その人の意見の違いに驚くという
よりは、互いの間の「距離」を感じて、思わず身を引いてしまう。「この人からは何も得る
ものはないぞ」と。

あるいは「この人を説得するのは、不可能だ」とさえ思うときもある。とくに相手が、5
0歳とか60歳の人であったりすると、絶望感すら覚える。先日も私に向かって、「子ども
が親のめんどうをみるのは当たり前でしょう」「親なら子どもを愛しているはず」「子ども
は親に従って当然」と言った人がいた。言葉ではそのつど、「そうですね」と返事をしたも
のの、もうそれ以上、議論する気にはなれなかった。「どうぞ、ご勝手に」という気分に襲
われた。

 一方、考える人というのは、何を話しかけても、こちらの言葉が相手の脳の中に深く沈
んでいくのがわかる。それは子どもでもそうで、ひとつの問題を投げかけても、いろいろ
な方向から考えようとする。たとえば「人をいじめることは悪いことだよね」と話しかけ
たとする。するとよく考える子どもは、そのまま深く黙りこくってしまったりする。あれ
これ自分の周囲で起きているいじめを思い出しているふうでもあるし、自分自身の経験を
思い出しているふうでもある。そしてその一方で、私がどの程度の答を求めているかをさ
ぐろうとする。

 ……ということになると、考えるか考えないかは、習慣の違いということになる。能力
ではない。その習慣の違いが、長い時間をかけて、考える人とそうでない人を分ける。そ
してそれが人生の晩年になると、はっきりとわかるようになる。そしてそのことを裏返す
と、人生の晩年になってから気づいたのでは、もう遅いということ。習慣というのは、一
朝一夕にはできるものではないし、また突然、変えられるものではない。冒頭で「五〇歳」
という数字をあげたが、この年齢というのは、その節目ということになる。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(313)

●思考回路

 東京へ行くことになった。そこで私がまずしたことは、JRの浜松駅に電話をして、発
車時刻を調べること。が、なかなか電話はつながらない。が、そのとき気がついた。今で
は電話などしなくても、インターネットを使えば、発車時刻など即座にわかる。思考回路
というのはそういうもので、一度、できると、それを改めるのは容易ではない。私は昔か
ら、電車の発車時刻は、電話をして確かめていた。それが今になっても、つづいている?

 実のところ、思考回路には、便利な面もある。人間の行動をパターン化することにより、
行動そのものをスムーズにする。たとえばテーブルの上に置かれた湯飲み茶碗を手にする
とき、右手でとろうか、左手でとろうかなどと考えてからとる人は、いない。自然に右手
が出て、そしていつものように茶碗をもちあげる。しかしその思考回路にハマりすぎると、
それ以外の考え方ができなくなってしまう。そういうとき思考回路は、かえって思考のじ
ゃまになる。

 が、思考回路があることが問題ではない。問題は、その思考回路が、柔軟なものかどう
かということ。たとえば子どもたちの行動パターンを観察すると、おもしろい連続性を発
見することがある。たとえばポケモンカードがある。年齢的には小学校の低学年児に人気
がある。それが中学年になると遊戯王になり、高学年になると、マジックザギャザリング
(通称「マジギャザ」)になる。より複雑なゲームになるというよりは、子どもたち自身が、
ひとつの思考回路にハマっているといったほうが正しい。

友人関係にせよ、遊び仲間にせよ、さらにはごく日常的な会話にせよ、全体としてひとつ
の思考回路となっているから、途中で、それを変えるのは容易なことではない。仮にカー
ドゲームから離れて、趣味が読書に向かうとしたら、それまでの環境すべてを変えなけれ
ばならない。

 ……と書いて、実はこれはおとなの問題でもある。思考回路というのは、歳をとればと
るほど柔軟性をなくす。冒頭にあげた例がそのひとつ。そこで問題は、いかにして思考回
路の柔軟性を確保するかということ。いろいろな刺激を与えればよいことは、私にもわか
るが、体そのものが新しい刺激を受けつけないということもある。日常的な行動そのもの
がパターン化されている現状で、どうすれば新しい刺激を自分に与えることができるのか。

もっとも私のばあいは、たとえば旅行で、たとえば読書でと、そういったところで刺激を
受けるようにしている。が、本当の問題は、このことでもない。本当の問題は、いかにす
れば固定した思考回路をつくらないですむか、だ。あのマーク・トウェーン(「トム・ソー
ヤの冒険」の著者)はこう書いている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは
自分が変わるべきとき』と。

自分の中にひとつの思考回路を感じたら、その思考回路そのものと戦う。そしてそれをつ
くらないようにする。そういうのを自由といい、進歩という。行動面はともかくも、思想
面では、思考回路は、思考そのものの障害となることもある。そういう視点で自分の思考
回路をながめる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(314)

●あなたは裁判官

(ケース)Aさん(40歳女性)は、Bさん(45歳女性)を、「いやな人だ」と言う。理
由を聞くと、こう言った。AさんがBさんの家に遊びに行ったときのこと。Bさんの夫が、
「食事をしていきなさい」と誘ったという。そこでAさんが、「食べてきたところです」と
言って断ったところ、Bさんの夫がBさんに向かって、「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食
事の用意をしろ」と言ったという。それに対して、Bさんが夫に対して、家の奥のほうで、
「今、食べてきたと言っておられるじゃない!」と反論したという。それを聞いて、Aさ
んはBさんに対して不愉快に思ったというのだ。

(考察)まずAさんの言い分。「私の聞こえるところで、Bさんはあんなこと言うべきでは
ない」「Bさんは、夫に従うべきだ」と。Bさんの言い分は聞いていないので、わからない
が、Bさんは正直な人だ。自分を飾ったり、偽ったしないタイプの人だ。だからストレー
トにAさんの言葉を受けとめた。

一方、Bさんの夫は、昔からの飛騨人。飛騨地方では、「食事をしていかないか?」があい
さつ言葉になっている。しかしそれはあくまでもあいさつ。本気で食事に誘うわけではな
い。相手が断るのを前提に、そう言って、食事に誘う。そのとき大切なことは、誘われた
ほうは、あいまいな断り方をしてはいけない。あいまいな断り方をすると、かえって誘っ
たほうが困ってしまう。飛騨地方には昔から、「飛騨の昼茶漬け」という言葉がある。昼食
は簡単にすますという習慣である。

恐らくAさんは食事を断ったにせよ、どこかあいまいな言い方をしたに違いない。「出して
もらえるなら、食べてもいい」というような言い方だったかもしれない。それでそういう
事件になった?

(判断)このケースを聞いて、まず私が「?」と思ったことは、Bさんの夫が、Bさんに
向かって、「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったところ。そういう
習慣のある家庭では何でもない会話のように聞こえるかもしれないが、少なくとも私はそ
ういう言い方はしない。私ならまず女房に、相談する。そしてその上で、「食事を出してや
ってくれないか」と聞く。

あるいはどうしてもということであれば、私は自分で用意する。いきなり「すぐ食事の用
意をしろ」は、ない。つぎに気になったのは、言葉どおりとったBさんに対して、Aさん
が不愉快に思ったところ。Aさんは「妻は夫に従うべきだ」と言う。つまり女性であるA
さんが、自ら、「男尊女卑思想」を受け入れてしまっている! 本来ならそういう傲慢な「男」
に対して、女性の立場から反発しなければならないAさんが、むしろBさんを責めている! 
女性は夫の奴隷ではない!

 私はAさんの話を聞きながら、「うんうん」と返事するだけで精一杯だった。内心では反
発を覚えながらも、Aさんを説得するのは、不可能だとさえ感じた。基本的な部分で、思
想の違いを感じたからだ。さて、あなたならこのケースをどう考えるだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(315)

●心をゆがめる子ども

 これはあくまでも教える側からの見方だが、心をゆがめ始める子どもには、いくつかの
特徴がある。その中でも最大の特徴は、(1)心がつかめなくなるということ。もう少し具
体的には、何を考えているかわからない子どもといった感じになる。

よい子ぶったり、見た目にはよくできた子といった印象を与えることが多い。静かで従順、
何を言いつけても、それに黙って従ったりする。この段階で、多くの先生は、「いい子」と
いうレッテルを張ってしまい、子どものもつ問題を見落としてしまう。そしてある日突然、
それが大きな問題になり、「えっ!」と驚く……。不登校がその一例。あとになって「そう
言えば……」と思い当たることもあるにはあるが、それまではたいていの教師はその前兆
にすら気づかない。

 つぎに(2)「すなおさ」が消える。幼児教育の世界で、「すなおな子ども」というとき
には、二つの意味がある。一つは、心の状態と表情が一致していること。悲しいときには
悲しそうな顔をする。うれしいときにはうれしそうな顔をする、など。が、それが一致し
なくなると、いわゆる心と表情の「遊離」が始まる。不愉快に思っているはずなのに、ニ
コニコと笑ったりするなど。

 もう一つは、「心のゆがみ」がないこと。いじける、ひがむ、つっぱる、ひねくれるなど
の心のゆがみがない子どもを、すなおな子どもという。心がいつもオープンになっていて、
やさしくしてあげたり、親切にしてあげると、それがそのままスーッと子どもの心の中に
しみこんできくのがわかる。が、心がゆがんでくると、どこかでそのやさしさや親切がね
じまげられてしまう。私「このお菓子、食べる?」、子、「どうせ宿題をさせたいのでしょ
う」と。

 家庭でも、こうした症状が見られたら、子どもをなおそうと考えるのではなく、家庭の
あり方をかなり真剣に反省する。そしてここが重要だが、子どもの中に心のゆがみを感じ
たら、「今の状態をより悪くしないこと」だけを考え、1年単位でその推移を見守ること。
あせればあせるほど、逆効果で、一度(何かをする)→(ますます症状が悪化する)の悪
循環に入ると、あとは底無しのドロ沼に落ちてしまう。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(316)

●心を開かない子ども

 心を開かない子ども……と、書いて、実はあなた自身のこと。あなたはだれかに対して、
一人だけでもよいが、心を開くことができるだろうか。あるいはそういう人がいるだろう
か。「心を開く」ということは、そういう意味でもたいへんむずかしい。

実のところ、この私にしても、「この人だけになら心を開くことができる」と思える人は、
ほとんどいない。どうしても自分をさらけ出すことができない。そのためどうしても自分
を作ってしまう。

 そこで「本当の自分」とは何かを考えてみる。……この間、10数分の時間が過ぎたが、
本当の自分と言われると、そこでまたハタと困ってしまう。本当の私は、小心者で、小ず
るく、無責任で、冷酷で、自分勝手。そういう自分がつぎつぎと浮かんでくる。しかしそ
ういう自分をさらけ出すことはできない。だれかと接するときは、どこかでそういう自分
と戦わねばならない。ありのままの自分をさらけ出したら、相手もびっくりするだろう。

 ここから先はたいへん不謹慎な話になるが、異性と、裸になってセックスをするときは、
ひょっとしたら、心を開いた状態なのかもしれない。肉体や感情や、それに欲望をさらけ
出していると、ついでに心までさらけ出すことになる。もっともその前提として、互いに
愛しあっていなければならない。自分の欲望を満たすために、心を偽るようでは、心をさ
らけ出したことにはならない。「私はどうなってもいい」という思いの中で、自分をさらけ
出してこそはじめて、心を開いたことになる。

 ……と、書いて、子どもの話にもどる。親子だから、互いに心を開きあっているとは限
らない。親のほうはともかくも、子どものほうが心を閉ざすケースはいくらでもある。「親
がこわかった」「親の前にすわると緊張する」「親に会うと疲れる」「実家には帰りたくない」
「何か言われると、反発してしまう」など。

若い母親でも、約3〜4割の人が、そういう悩みをかかえている。子どもの立場でみて、
親にどうしても心を開くことができないというのだ。そこでさらに問題を掘りさげて、あ
なたという親と、あなたの子どもの関係はどうかということ。あなたは子どもに心を開い
ているだろうか。反対にあなたの子どもはあなたに心を開いているだろうか。こういう質
問をすると、たいていの人は、「うちはだいじょうぶ」と言うが、だいじょうぶでないこと
は、実はあなた自身が一番よく知っている。それともあなたは、あなたの親に対して、全
幅の心を開いていると自信をもって言えるだろうか。

 「心を開く」ということは、そんな簡単な問題ではない。またそんなふうに簡単に考え
てもらっては困る。私の経験では、生涯、心を開くことができる相手というのは、ほんの
数人ではないかと思う。あるいはもっと少ない……? こちらが心を開いても、相手が開
かないとか、その反対のこともある。なかなかうまくいかないのが人間関係だが、それは
そのまま親子についても言える。はたしてあなたは本当にだいじょうぶか?





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(317)

●西郷隆盛が理想の教育者?

 ある教育雑誌に、ある県会議員の教育改革論(?)が載っていた。いわく「西郷隆盛(明
治維新の元勲)こそが、私の尊敬する人物。彼の思想にこそ、これからの教育の指針が隠
されている」(雑誌「K」)と。

いろいろ理由は書かれていたが、私はこういう意見を読むと、生理的な嫌悪感を覚える。
イギリス人がトラファルガーの海戦(1805年)で勝利を収めた、ネルソン提督をあが
めるようなものだ。気持ちはわからないでもないが、どうしてものの考え方が、こうもう
しろ向きなのだろうとさえ思ってしまう。

西郷隆盛が西郷隆盛であったのは、あの時代の人物だったからにほかならない。西郷隆
盛をたたえるということは、あの時代を肯定することにもなる。もちろん歴史は歴史だ
し、歴史上の人物は、それなりに評価しなければならない。しかし西郷隆盛に教育論を
求めるとは……? 彼は、大久保利通、木戸孝允らと並んで、明治維新の三傑とは言わ
れたが、少なくとも民主主義のために戦った人物ではない。平和や自由や平等のために
戦った人物でもない。わかりやすく言えば、武士階級の権威や権力の温存を求めて戦っ
た人物である。

……というような反論をしても、この日本では意味がない。私のほうが異端児になって
しまう。先日も、「あなたは日本の歴史を否定するのか。それでもあなたは日本人か」と
言ってきた人がいた。

しかし私は何も日本の歴史を否定しているのではない。それに私は上から下まで、完全な
日本人だ。日本の文化や風土、民族はこの上なく愛している。しかしそのことと体制を愛
するということは別のことである。西郷隆盛にしても、明治から大正、昭和における歴史
の教科書の中で、そのときどきの体制につごうがよいように美化された偉人(?)にすぎ
ない。その結果が、あの軍国主義であり、さらにその結果があの戦争である。だととする
なら、なぜ今、西郷隆盛なのかという疑問を私がもったところで、それは当然のことでは
ないのか。

こうした復古主義は、社会の世相が混乱するたびに姿を現す。今がそうだが、こうした
復古主義がはびこればはびこるほど、「進歩」が停滞する。しかし私たちがすべきことは、
「新しい家庭観」の創設であって、決して復古主義的な家庭観ではない。改革の思想は、
いつも混乱の中から生まれる。混乱を恐れてはいけない。混乱の中から何かを生み出す
という姿勢が、この混乱を抜け出る唯一の方法である。

……何とも、カタイ話になってしまったが、読者のみなさんも、こうした復古主義にだ
けはじゅうぶん、注意してほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(318)

●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう40年も前のことだが、私がメルボルン大学
に留学していたときのこと。当時、正規の日本人留学生は私一人だけ。(もう一人Mという
女子学生がいたが、彼女は、もともとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、一通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、
「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。私が喜んで、「外交官ではないか! お
めでとう」と言うと、その友人は何を思ったか、その手紙を丸めてポイと捨てた。「アメリ
カやイギリスなら行きたいが、99%の国は、行きたくない」と。考えてみればオースト
ラリアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日本人のそれとはまったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本
へ帰ったら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本で
は軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ
入らないのか」と、やんやの非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になる
ことイコール、そのまま出世コースということになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼく
は日本へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言って
いた。が、ある日、一番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなこと
を言うのはよせ。日本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパ
イズ(軽蔑する)」という言葉を使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社
マンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかな
かった。この友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなた
の夫はどのような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこ
れだけは言える。

こうした職業観というのは、決して絶対的なものではないということ。時代によって、
それぞれの国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるということ。大切
なことは、そういうものを通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があるとい
うこと。私の母は、私が幼稚園教師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オ
イオイと泣き崩れてしまった。「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア〜」と。

母は母の時代の常識にそってそう言っただけだが、その一言が私をどん底に叩き落したこ
とは言うまでもない。しかしあなたとあなたの子どもの間では、こういうことはあっては
ならない。これからは、もうそういう時代ではない。あってはならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(319)

●ホームスクール

 アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が
自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してく
れる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけ
でも九七年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の
割合でふえ、2001年度末には200万人に達しただろうと言われている。それを指導
しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭で
こそできる」という理念がそこにある。

地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運
動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明し
ている(LIFレポートより)。

「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On 
Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると
考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいもので
しかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の
上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由
と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)
学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義
国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているでは
ないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れて
はならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という
意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の
犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考える
のは正しくない。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察シ
ステムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと
別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえ
ている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中
学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、400
0人多い。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(320)

●二番目の子は、親と疎遠?

 「3人兄弟の第2子は、両親に電話する回数が少なく、疎遠になりやすいことが東京大
学大学院のアンケート調査でわかった」(読売新聞02年5月)という。

 同大学院認知行動科学研究所が、全国の3人兄弟の大学生男女129人に、1か月に何
回、両親に電話するかを聞いたところ、

 長子…… 6・9回
 第二子……4・6回
 末子…… 5・9回と、第二子は明らかに少なかった。

男女別に分けても、傾向は同じだったという。さらにその報告によれば、「出生順位と親子
関係について、1998年にカナダで行われた研究でも、長子や末子にくらべて、中間の
子どもは両親をあまり親しい人物と考えていないという結果が出ている」という。

理由として、「長子は両親が子育てにかける手間を独占できる期間があり、末子も、その後
に弟妹がいないので、親が世話をしやすいため」と分析している。そして「一方、じゅう
ぶんに手をかけてもらっていない中間の子どもは、両親への親密度を減らす」とも。

 ……もっとも、こんなことは私たちの世界では常識で、何も「大学院のアンケート調査
によれば」と断らなければならないほど、おおげさなものではない。私もすでにあちこち
の本の中で、そう書いてきた。が、問題はその先。

 嫉妬による愛情飢餓の状態が、長くつづくと、子どもの心はゆがんでくる。表面的には、
愛想がよくなり、人なつこくなる。しかしその反面、自分の心を防衛する(飾る)ように
なり、仮面をかぶるようになる。よい子ぶったり、優等生になっておとなの関心を自分に
引こうとする。

が、さらにその状態が長くつづくと、心の状態と顔の表情が遊離し始め、親から見ても、
何を考えているかわからない子どもといった感じになる。この段階になると、ひがみやす
くなる、いじけやすくなる、ひねくれやすくなる、つっぱりやすくなるなどの、「ゆがみ」
が出てくるようになる。タイプとしては、(1)暴力的、攻撃的になるプラス型と、(2)
ジクジクと内へこもるマイナス型に分けることができる。大切なことはそういう状態にな
る前に、子ども自身が今、どう状態なのかを親側が知ることである。ここにも書いたよう
に、それが長くつづけばつづくほど、子どもの心はゆがむ。

 さて、読売新聞はこう結論づけている。「東大とカナダの調査結果は、(中間の子は、両
親への親密度を減らすという)学説を裏づけるデータと言えそうだ。同研究室は、『中間の
子だけに特有の性格があることは興味深い。電話以外の行動も調べてみたい』としている」
と。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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 子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年   8月   3日号
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8月3日……1234号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●育児疲れ

+++++++++++++++++

子育ては重労働。
一瞬たりとも、気が抜けない。
そんな重圧感に苦しんでいる。
KNさん(母親・磐田市在住)も、
その1人。

+++++++++++++++++

【はやし浩司より、KNさんへ】

多分に、育児ノイローゼかと思います。
この時期、家事、育児、生活と、多忙が原因で、多くの人が、KNさんのようになります。
マタニィティブルーのようなものです。
症状も典型的なもので、とくにKNさんだけ……というものではありません。
 
KNさんは、メールを読んだ私の印象では、いわゆる気負い型ママということになります。
「はやし浩司 気負い型ママ」で検索してくださると、多分、いくつか記事を
ヒットすると思います。
一度試してみてください。
 
原因は、KNさん自身にるのではなく、あなたの実の両親にあると考えられます。
あなた自身と実の母との関係です。
あなた自身が、あなたの実の母との間の人間関係をうまく作ることができなかった。
遠い昔の、あなたの乳幼児期に、です。
心理学で言えば、「基本的信頼関係」の構築が、うまくできなかった(?)。

どこか権威主義的で、心を閉ざした母親……、そんなKNさんの実の母親の姿が、
想像されます。
しかしそれはあなたの責任ではなく、あなたの実の母の責任です。
不幸にして、あなた自身が、あなたの実の母の温かい、豊かな愛情に
恵まれなかった。
 
だから気負ってしまうのです。
自然な形で子育てができない。
どこかぎこちなく、ぎくしゃくしてしまう。
 
しかしこの問題は、そういう不幸な過去があるということではなく、それに気づかず、
それに振り回されてしまうということです。
一度、自分の心の中を冷静に観察してみてください。
そしてこう思うのです。
 
「私の責任ではない。私の生まれ育った環境の責任なのだ」とです。
1〜5年と時間はかかりますが、あとは時間が解決してくれます。
(こうした心に深く根ざす問題は、簡単には解決しません。
しかしそれに気がつけば、向うのほうから、去っていきます。)
 
で、それが世代を超えて、今度は、KNさんが、KNさんのお子さんに対して、
同じことを繰り返しています。
子どもの心がうまくつかめず、今度はKNさんが、悩んでいるのです。
これを世代連鎖と言います。
 
つまり、あなたは自分の不幸な過去を、今、お子さんに対して、再現しているというわけ
です。
 
では、どうするか?
 
(1)まず、自分が過去に作られた人間であることに気がつくこと。
(2)あなたに親像、家庭像が入っていず、ぞれが気負い型ママになっていることに気が
つくこと。
(3)この時期、多くの人がなりがちな、育児ノイローゼになっていることに気がつくこ
と。
 
が、ここが重要ですが、(4)どれもしかしほとんどの人が、そうなるというくらい多い問
題ですから、自分を責めないこと、です。

私も不幸な家庭で生まれ育ち、若いころは苦労しました。
親像も家庭像も、満足にインプットされていませんでした。
だから私の子育ても、ぎこちないものでした。
毎日、「これでいいのか」「こんなふうにしていいのか」と、子育てをしながら、悩みまし
た。
が、そのうち、こうしてみなさんからの相談を受けるうち、「なんだ、私も、みなと同じだ
ア」と思うようになりました。
 
そう、外から見ると、みなうまくいっているように見えますが、それはそうではありませ
ん。
みな、もっと深刻な問題をかかえて、苦労しています。
そういう意味で、KNさんの悩みなどというのは、たいしたこと、ありません!
 
で、あまりイライラするようでしたら、私のばあいは、カルシウム剤をのんんだり、
市販のハーブ系の精神安定剤を服用したりして、対処しています。
あとはワイフの女性用のセパゾンというやはり安定剤を、ときどきのんでいます。
(これは医師に申し出れば、処方してくれます。穏やかな薬ですから、副作用は
ありません。私は1錠のむところを、いつも半分に割って、口の中で溶かしてのんでいま
す。
女性用のものですが、どういうわけか、私にも効きます。
あとは漢方薬で、ハンゲコウボク湯をのんでいます。
これも女性の精神安定剤(胃腸薬)としてよく使われているものです。)
 
で、ポイントは、あなたとご主人との関係です。
まず育児は重労働ということを理解してもらいます。
そういう方法は、ないものでしょうか。

そのためには、心を開いて、もっと甘えたらよいと思います。
そう、もっと心を開くのです。
気負い型ママというのは、問題をすべて自分で背負いこんでしまいます。
だから努めて、心を開きます。
ありのままの自分を、もっとさらけ出すのです。
言いたいことを言い、したいことをする。
これを心理学の世界では、自己開示といいます。

今は、閉そく感の中で、苦しいかもしれませんが、そこにある「運命」をそのまま受け入
れてしまいます。
運命というのは、逆らえば逆らうほど、キバをむいてKNさんに襲いかかってきます。
が、受け入れてしまえば、向うから退散していきます。
「まあ、私の人生は、こんなもの」と割り切ればよいのです。
 
なお、子どもには当たらないこと。
子どもというのは、これから先の長い友だちです。
友としてとらえてください。
「友」としてとらえれば、あとはうまくいきます。
(今のKNさんは、親意識が強すぎると思います。
昔風の悪玉親意識です。
そんなものは、くだらないから、今すぐ、捨てなさい!)
 
で、今は、KNさんにはわからないかもしれませんが、KNさんは、(ふつうの女性)から、
1ランク上の(母親)に脱皮しようとしているのです。
この時期は苦しいかもしれませんが、うまく乗り越えて、よりすばらしい女性になってく
ださい。
またなれます。
苦しみ、悩みが、人間を成長させるのです。

そうそう今は苦しいかもしれませんが、そろそろ自分のしたいことを見つけ、その準備もしてお
くといいですよ。
やがてすぐ子どもは親離れしていきますから……。
あなたはあなたでしたいことを発見し、それに向かって前向きに進んでいくのです。
子育てに埋没してしまうと、自分の姿が見えなくなってしまいます。
そうなると、その先で待っているのは、「うつ病」ということになります。
子どもにも、悪い影響を与えます。
 
たくさん原稿を書いていますので、また読んでみてください。
参考になると思います。
 
いただいたメールは、どこにも出しませんので、ご安心ください。
テーマとして、今朝、少し考えてみます。
それはお許しください。
また返事を書きます。
 
では、今朝も始まりました。
 
おはようございます!!!
 
はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●使わない脳は退化する?

+++++++++++++++++++++

XPパソコンのばあい、ときどきこんな表示が
画面に出たことがあった。

「デスクトップに、6か月以上、使われていないソフトが
あります。削除しますか?」と。

こういうのを、いらぬお節介という。
つまり「長い間、使っていないから、削除したほうが
いい」と。

もっともパソコンのばあいは、それでよいとしても、
脳のばあいは、どうか?

人間の脳の中でも、同じような現象が起きているという。
毎日新聞は、つぎのように伝える。

+++++++++++++++++++++

 『……脳神経細胞同士の接続を正常に保つ働きをたんぱく質「Wnt」が持つことを、
林悠(はやしゆう)・理化学研究所基礎科学特別研究員(元東京大大学院)ら、東大と九州
大のチームが線虫を使い解明した。

哺乳(ほにゅう)類も同じメカニズムを持つと見られ、アルツハイマー病など脳神経変性
疾患の理解につながると期待される。28日付の米科学誌「ネイチャー・ニューロサイエ
ンス」電子版に掲載された。

 人間は成長期に脳神経細胞同士が突起を伸ばして盛んにつながる一方、「刈り込み」とい
う不要な接続の削除が行われる。アルツハイマー病やパーキンソン病は、刈り込みが過剰
に起きて脳神経機能が阻害されることが一因と考えられている』(毎日新聞09年6月29
日)と。

●接続の削除

 一個の脳神経細胞からは、数十万本という突起(ニューロン)が延びている。
その突起が複雑に接続しあいながら、脳は機能する。
それはよく知られた事実だが、その接続を、脳自身が、勝手に削除してしまうことも
あるという。
それを「刈り込み」という。

ヘ〜〜〜エ!
知らなかった。

 要するに、使わない脳みそは、どんどんと刈り込みがなされ、コンピュータにたとえる
なら、そのままゴミ箱へと捨てられるということらしい。
コンピュータのばあいは、そのほうがハードディスクも身軽になり、動きも軽快になる。
しかし人間の脳について言えば、それは困る。
使わないといっても、5年後、あるいは10年後に、また使うことがあるかもしれない。
勝手に刈り込み、つまり削除されてしまっては、困る!

 で、今回、理化学研究所の研究員の人たちが、脳神経細胞同士の接続を正常に保つ働き
をたんぱく質「Wnt」が持つことを発見したという。
つまり「Wnt」が、刈り込みに対して、ブレーキの役目をするということらしい。
(「ブレーキ」というのは、私の勝手な判断によるもの。)
もし刈り込みが、どんどんと勝手になされたら、それこそ脳の中は、からっぽになって
しまう。

『アルツハイマー病やパーキンソン病は、刈り込みが過剰に起きて脳神経機能が阻害され
ることが一因と考えられている』ということだから、「脳が軽くなった」と喜ぶわけには
いかない。

●刈り込み

 しかしその「刈り込み」を実感として、感ずることが、このところ多くなった。
つい先日は、FLASH(動画編集)の編集の仕方を忘れてしまった。
一時は、それをよく使って、私のHPを飾った。

が、それから2、3年。
ソフトを立ち上げたあと、「どうだったか?」「こうだったかな?」の連続。
結局、マニュアル本を再度読みなおすハメに……。

 脳が勝手に、FLASHの使い方を、削除してしまったらしい。
で、その「刈り込み」に対して、「Wnt」というたんぱく質が、ブレーキのような
働きをするという。

 ……それに、このところパソコン相手の将棋で、けることが多くなった……。

 が、ここで新たな疑問。

 パソコンのばあい、たとえば私は今度、ハードディスクを1テラバイト(=1000
GB)のものに取り換えた。
が、1テラバイトといっても限界がある。
(おおざっぱに言えば、1時間分のビデオを1本収録すると、20〜30GBもの容量が
減る。)
だから新しい情報を蓄積するときは、同時に、ハードディスク内から、不用な情報を
消していかねばならない。

 脳のばあいも、刈り込みがあるからこそ、そこに余裕ができるのではないのか?

●情報の洪水の中で……

 先日も長野県のある町にある、ある文豪の記念館を訪れてみた。
大正時代から昭和の初期に活躍した文豪である。

 私はそこに残っている文章を読んで、ア然とした。
へたくそというか、まるで意味のないエッセー。
しかも全集として本が並んでいたが、私の半年分の原稿量にもならない。
(現在、私は1か月で、500枚前後の原稿を書いている。
400字詰めの原稿用紙になおすと、2000枚近くになる。
単行本1冊が、約400枚前後だから、毎月5冊分の原稿を書いていることになる。)

 といっても、大正時代と現代とでは、情報の量そのものがちがう。
20年前とくらべても、ちがう。
20年前には、図書館通いが日課だった。
が、今は、インターネットを使って、必要な情報が瞬時、瞬時に調べられる。
が、その分、情報の量が、ケタちがいに多くなった。
それこそ毎日が、情報の洪水。
ドドーッと押し寄せてきては、ドドーッと去っていく。

 じょうずに情報をコントロールしないと、それこそ、情報の洪水の中で、
溺れてしまう。

●では、どうすればよいか

 が、ここで重要なことが一つある。
それは先の毎日新聞の記事をていねいに読むと、わかる。

 刈り込みには、必要な情報すらも削除してしまうということも含まれる。
それに新しい情報が入ってくるとか、入ってこないとか、そういうことには関係なく、
削除してしまうということらしい。

 パソコンにたとえるなら、私が現在使っている、ワード2007のソフトまで削除
してしまうということになる。
が、これは困る。
それがアルツハイマー病とか、パーキンソン病ということになる。

 そこでハタと、また考える。
では、どうすればよいのか、と。

 研究者たちの意見を拝借すれば、「Wnt」というたんぱく質を補えばよいという
ことになる。
が、脳には、フィードバックという作用もある。
余計な物質を脳の中に送り込むと、脳は、それを打ち消すための別の作業を開始する。
脳のメカニズムを単純に考えることは、危険なことでもある。

 となると、突起、つまりシナプスを、どんどんとふやすしかない。
このシナプスは、訓練によって、いくらでもふやすことができる。
つまり頭は、使えば使うほど、よくなる。
年齢にも左右されない。
言い換えると、毎日、数億本の突起が刈り込みされたら、それ以上の突起を、作れば
よい。

 ものごとは、前向きに考えよう!

 それにしても、「刈り込み」とは?
脳というのは、一生を通しても、そのうちの何分の1も使わないという。
だったらこんなお節介なことをしなくても、よいのではないのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BWクラブ 刈り込み 突起 シナプス はやし浩司
記憶の削除)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●民主主義の危機(政治的アレルギー反応)

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今、私の脳みその中で、政治的アレルギー反応が
起きている。
不快感を通り越して、掻(か)いても掻いても掻き切れない、
そんな歯がゆさを覚えている。

宮崎県知事の、AZ氏が、衆議院議員?
比例東京ブロック1位、指名?
総裁候補?

これを民主主義の危機と言わずして、何という。

AZ氏は、「政党は政策で決める」と、一方で言いながら、
「総裁候補にしてくれるなら、自民党員になる」
と言っている。
M党のH代表ですら、「支離滅裂」と酷評している。

今、日本の民主主義が、危ない!

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●知名度?

 簡単な数学。

 ここに知名度40%の男性がいる。
男性X氏としよう。
日本の有権者を1億人として、4000万人がX氏を知っていることになる。
しかしX氏の評判は、悪い。
X氏を「いい人」と思う人は、20%しかいない。
残りの80%は、X氏に対して、嫌悪感すら覚えている。
が、それでもX氏は、800万人の支持者を得ることになる。

 一方、知名度10%の男性がいる。
男性Y氏としよう。
日本の有権者を1億人として、1000万人しかY氏を知らないことになる。
しかしY氏の評判は、よい。
Y氏を「いい人」と思う人は、80%もいる。
が、それでもY氏は、800万人の支持者しか得られないことになる。

 このX氏とY氏が、選挙戦でぶつかった。
こういうケースのばあい、最終的には、浮動票がX氏に向かい、X氏が当選する。
が、はたして、これを民主主義と言ってよいのか?
もしこんな方式で、私たちの(代表)が選ばれることになったら、選挙そのものが、
有名無実化する。
マスコミの人気投票だけで、政治家を決めればよい。

●知名度優先?

 もちろん政治家は中身を見て、判断する。
過去の実績を見て、判断する。
わかりやすい例で説明しよう。

 よくどこかのタレントが、ある日突然降ってわいたように、ボランティア活動を
始めたりすることがある。
アフリカの難民救済運動のようなものでよい。

 もちろん自分で始めるわけではない。
どこかの団体に依頼されて、それを始める。
その団体は、その人の知名度を利用しているだけ!

 が、それでもよい。
よいが、そのとき重要なのは、そのタレントには、どのような実績があるかということ。
たとえば若いときから、近所のホームレスの人に、食事の炊き出しをしてきたとか、
孤児の救援運動をしてきたとか、そういう実績の上に、難民救済運動があるのなら、
まだ話もわかる。

 が、そういう下積みもないまま、ある日突然、国際的な(?)救済運動に加担する。
リーダーとなり、運動を率先する。
あるいはそういう運動をしながら、他方で、私財を投げ打っているいるとか、孤児を
自宅で世話しているとかいうなら、まだ話もわかる。

 しかしそういうことをいっさいしないでおいて、知名度を生かし、ある日突然降って
わいたように、ボランティア活動を始めたりする。
まず、このおかしさに、私たち自身が疑問をもたねばならない。

 政治家もまた、同じ。

●J党内部からも疑問

 AZ氏への出馬要請に対して、J党内部からも疑問が呈されている。
産経新聞は、つぎのように伝える(6月26日)。

『J党の各派領袖らが25日、衆院選の出馬要請を受けたAZ宮崎県知事が、同党の総裁
候補とするよう条件をつけたことを相次いで批判した。

 I元幹事長は「人気が出て少し思い違いをしている。党に新しい血を入れないとダメだ
が、輸血は血液型が合わないと頓死する」と語った。Y副総裁は「知事の任期いっぱいを
務める姿勢がないと地方分権の主張者として正しくない。(くら替えは)宮崎県民への裏切
り行為で、党の候補にするのは反対だ」と強調した。

 出馬要請をして批判されているK選対委員長は「迷惑、心配をかけたら許してほしい。
何もしないより、何か起こした方がいい」と釈明した。M前官房長官は「支持をとりつけ
ようと人に会うのは選対委員長の責務だ」とK氏を擁護した』と。

 こういうのをドタバタ劇という。

●知名度主義

 AZ氏に対する出馬要請の話を知ったとき、私はこう思った。
「日本人の心は、ここまでマスコミに汚染されているのか」と。
中央官僚たちが日本の政治を牛耳っている。
これを官僚主義という。

 これに対して、マスコミが日本の政治を牛耳っている。
これを何と表現したらよいのか。
マスコミ主義ではおかしい。
が、あえて言うなら、知名度主義ということになる。

 何でもかんでも、まず有名になればよい。
政治は、あとからついてくる?
(ついでにボランティア活動も、あとからついてくる?)
が、こんなことは、40年前には考えられなかった。
日本に民主主義がやってきた、60年前には、さらにそうであっただろう。

 が、これを民主主義の危機と言わずして、何という?
AZ氏にしても、自分の顔をイラスト化して、宮崎県興しをしたという話は
知っている。
しかし私の不勉強かもしれないが、私はAZ氏の書いた政治論文にせよ、評論など、
一文も読んだことがない。
政策論争すら耳にしたこともない。

 が、「総裁候補にしてくれるなら、出馬要請を受ける」とは?
J党というより、私たち国民を、どう考えているのか?
それがわかるから、私の脳みその中で、今、アレルギー反応が起きている。

●国民の意識

 つまるところこの問題は、国民の政治意識の問題ということになる。
悲しいかな、私たちは、いまだに民主主義というのが、どういうものであるかさえ
わかっていない。
それを勝ち取るための苦労もしていない。
そればかりか、江戸時代の封建制度にしても、敗戦までの軍国主義にしても、
日本人はただの一度も、清算していない。
反省すらしていない。
(反省している人もいるにはいるが、メジャーではない。)

 だからAZ氏のような人が……とは書けないが、しかし日本のAS総理大臣は、
あのK国にすら、バカにされている。
つい先日も、「オバマ大統領」と言うべきところを、「ブッシュ大統領」と言いまちがえた。
サッカーの対戦相手の名前も、言いまちがえた。
それをK国が指摘し、日本の総理大臣の資質を問うている。
(問われること自体、不愉快なことだが……。
しかし公にこそ言わないが、世界中の人たちも、そう考えている。)
AS首相の失言録をまとめたら、それこそ一冊の本になるかもしれない。

 が、結局は、それは、そういう政治家を選び(?)、総理大臣を生み出してしまった、
私たち有権者の責任ということになる。
なるが、マスコミを通して流れる知名度には、勝てない。
勝てないひとつの例として、冒頭に、「簡単な数字」を書いた。

 「J党も落ちるところまで、落ちた」(亀井氏談)というより、「日本の政治も、
落ちるところまで、落ちた」。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●『北朝鮮の不思議な人民生活』(宝島編集部・宝島社)

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数日前、『北朝鮮の不思議な人民生活』(宝島社)という
本を買ってきた。
その本の感想を一言で表現すれば、題名どおり、「不思議」。
「今どき、こういう国もあるんだなあ」と、驚くばかり。

で、その話は別に、とくに私の関心をひいたのは、中国との関係。
現在、6か国協議は崩壊し、日本と韓国は、K国を除く、
5か国協議の開催に力を入れている。

が、中国は基本的には、制裁会議には、消極的。
アメリカは、K国と対話重視の姿勢を崩していない。
が、この本を読んで、中国がなぜ、K国に対する制裁に
消極的なのか、それがよくわかった。

K国と中国は、たがいに密接にからみあっている。
中国の企業家たちだけは、自由にピョンヤンに出入り
することができる。
工場を建てることもできる。
(年間、1万5000人もの中国人観光客がK国を
訪れているという。
これに対して、日本人観光客は、たったの400人弱。)

そしてこうもある。

「04年以後、中国の対北朝鮮投資熱は、(中国側の)
国策的な後押しを受けたものと思われる」と。
そして日本の制裁が強まれば強まるほど、(中国側に
とっては)、「その分だけ、ビジネスチャンスがふえる
だけ」と。

中国は、K国を、国策的に取り込もうとしている。
そのため中国はK国の制裁に加わりたくても、加われない。
そんな内部事情が、この本を読んで、よ〜くわかった。

それにもう一言。

「ふつうの日本人は、K国には行かないほうがいい」。
「ふつうの……」というのは、向こうの人たちと
何もつながりのない、ごくふつうの日本人という意味である。

この本の筆者は、在日朝鮮人(?)と思われる。
そんな人でも、旅行記の最後を、こう結んでいる。

「……車が最終検問所を過ぎ、中朝友誼橋にさしかかった
時、『やっと自由世界に戻ってきた』と本気で喜んだ。
中国側の旅行社の担当者の姿を中国側の国境ゲートで目に
したとき、全身の力が抜けてしまった……」と。

 K国という国は、そういう国らしい。

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●のろわれた(?)家系

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少し前、「のろわれた家系」という題で、エッセーを
書いた。
それに対して、「私の家系は、もっとすごい」という
メールをもらった。
転載は不許可ということなので、大筋だけ、かいつまんで
書かせてもらう。

その人は、6人兄弟の、上から三番目。
今年、50歳になるという。
仮にX氏としておく。
 
兄、姉、(X氏)、妹、弟、弟。

6人兄弟なのだが、うち、離婚した人、4人。
残りの2人のうち、かろうじて家族円満なのは、X氏だけ。
もう1人も、別居状態。
うち、家族(夫婦、子ども)の中で自殺者を出した兄弟、3人。
だから「私の家系も、のろわれています」と。

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 単純に計算すれば、離婚率、80%以上。
自殺者を出した割合、50%となる。
しかしX氏は、こう言う。

「原因は、すべて私たちの両親にあります。
さらに言えば、父親の両親(=X氏の祖父母)にあります」と。

 もっともそれぞれの人には、それぞれの事情というものがある。
離婚するにせよ、自殺するにせよ、それぞれの思いをもって、そうする。
私のような部外者が、あれこれ詮索したところで、意味はない。
どう詮索したところで、その一部を知ることさえできない。
いわんや、「率」だけを見て、とやかく言うのは許されない。
たまたまそういう不幸な事件が重なった……とも考えられる。

 が、そのX氏は、こう言う。
「祖母が、精神的に欠陥のある人でした。
その影響を私の父が受け、家庭の中は、私が子どものころから、メチャメチャでした。
父は祖父の財産を乗っ取り、小さなスナックを開きましたが、斜陽になると、自ら
放火。
多額の保険金を手に入れました。

そんな家族ですから、はやし先生が説く、『親像』とか、『家庭像』などといった
ものは、私の生まれ育った家には、まったくありませんでした。
だから兄弟姉妹は、バラバラ。
その結果が今、です」と。

 X氏の兄弟たちはみな、幸せな家庭作りに失敗した。
3人の家族(妻、長男、二女)が自殺したことについても、もし幸せな家庭作りに成功
していれば、なかったかもしれない。
「のろわれた家系」ではなく、「なるべくしてなった家系」ということになる。
X氏からのメールを読んで、そんな印象をもった。

Xさん、メール、ありがとうございました。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●精神医学

++++++++++++++++++++

発達心理学と精神医学。
似ているようで、似ていない。
まったく異質。
先ほど、統合失調症(精神分裂病)の
診断基準を読んでみた。
内容はともかくも、用語の使い方が、
私が知る世界のものとは、大きくちがう。
そこに興味をもった。

たとえば、「陰性障害」という言葉。
「眼球運動の非円滑性」という言葉もある。

「精神医学の世界では、こんな言葉を
使うのか」と、改めて、その世界の広さに
驚いた。

++++++++++++++++++++

●某、精神医学者のHPより抜粋(診断基準)

 「精神分裂病」で検索していたら、つぎのような診断基準が、目にとまった。
トップページをさがしたが、そこには何もなかった。
しかたないので、そのまま、一部を、参考までに、転載させてもらう。

+++++++++++以下、診断基準+++++++++

(認知行動障害)

【1】 基礎障害(分裂性鈍化) ・・・・ 認知障害、陰性症状

(1)中核障害 
A、「 連合障害 」 (思考途絶、自生思考など) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  
認知障害(思考力障害)
(関連障害:短期作業記憶障害、注意持続障害、眼球運動の非円滑性)

(2)周辺障害
B、「 交流能力・同調能力の著しい低下 」:自閉状態(発話と自発動作の減少)・・・  
陰性症状 
C、「 感情表出の減少 」(硬い表情)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 陰性症状 
D、「 アンビバレンス 」(感情的な判断の困難、意思決定の困難)・・・・・・・・・・・・・・ 
 認知障害 

(精神病症状)
【2】副次的症状 ・・・・ 急性症状 陽性症状
(1)妄想状態
  1、「 妄想気分 」  (理由のない自生的な恐怖感の持続)
  2、「 被注察妄想 」 (不気味な不安感を伴う被注察感)
  3、「 妄想知覚 」  (全てが自分に関係しているように感じられる)
  4、「 確信的妄想 」 (訂正不能な思い込み)

(2)幻覚
  1、「 思考化声 」  (考えた事が声として頭の中で響く)
  2、「 体感幻覚 」  (体中を虫がはっている感触)
  3、「 会話性幻聴 」 (存在しない声が聞こえる)
  4、「 幻視 」     (存在しないものが見える)

 (3)自我障害 (させられ体験:自分の思考や動作が自分の意志から乖離する)
 (4)思考伝播 (自我障害の一種:自分の思考が他人に伝わってしまう)
 (5)緊張病性運動障害 (意味なく暴れたり、石のように固まってしまう)
 (6)著しく混乱した(disorganized)会話 (会話が脱線して意味が通じない)  

(その他の認知・行動障害)
   1、「 易疲労性 」 (思考力・動作能力)
   2、「 社交恐怖 」 (対人恐怖)
   3、「 トゥレット症候群 」 (表情筋チック(状況と無関係の"しかめ面")、言語性チック
(攻撃的な独り言))

(生理的症状)
   1、不定愁訴 (頭痛、頭重、身体硬直(肩こり等)、全身倦怠、心拍亢進など)
   2、不眠、昼夜逆転 (生命時計の失調)
   3、社交恐怖 (金縛り)

+++++++++++以上、診断基準+++++++++++++

●独特の用語

 統合失調症について書くのが、目的ではない。
ここでは、その用語の使い方について考えてみたい。
私の知らない用語が、ズラリと並んでいる。
たとえば……。

思考途絶、自生思考、交流能力、同調能力、アンビバレンス、思考化声、感情表出の減少、
自我障害、会話性幻聴、易疲労性、社交恐怖、言語性チックなどなど。

 その中でもとくに私の注意を引いた言葉が、「アンビバレンス」という英語。
アンビバレンスとは、どう綴るのだろう。

「unbibakence」?
「umbivalence」?

 手元にある電子辞書(EX−word)を縦横に調べてみたが、それらしい単語は見つからな
かった。
逆に、「認知障害」を和英辞典で調べてみたが、それでも見つからなかった。
精神医学の世界では、常識的な言葉にちがいない。
それにしても、興味深い。
たとえば「感情表出の減少」とは!

 顔による感情の表現が乏しくなることをいったものだが、それにしても「うまい」いう
か、「的確」というか……。
とくに私の世界では、使わない用語である。
こんな用語を使ったら、それこそ親たちは、チンプンカンプンになってしまう。

「お宅のお子さんは、感情表出に乏しく、交流能力に問題があります。ほかに自我障害、
易疲労性なども見られます。言語性チックにも注意してください」と。

 ほかに気になったのは、「眼球運動の非円滑性」という用語。
たしかにこのタイプの人は、目つきが定まらず、ギョロ、ギョロとあたりを見回したりす
る。
それを「眼球運動の非円滑性」と言うらしい。
だったら、「目つきがギョロギョロする」でもよいのではないか?

 そう言えば法律の世界にも、法律用語というのがある。
たとえば「無限軌道車」と言えば、「キャタピラーのついた車」をいう。
タンクやブルドーザーがそれに当たる。
私はその言葉をはじめて知ったとき、ハタと考え込んでしまった。
「無限軌道車とは何か?」と。

 精神医学者たちは、こういう用語を縦横に操りながら、自分の専門性を維持しているの
だろう。
たいへんよい勉強になった。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●反乱

++++++++++++++++++++

近く、実兄と実母の一周忌がある。
私の属する宗派では、盆供養というのはしない。
そのかわり、一周忌では、その法要を派手にする。

寺での供養が済んだあと、親類縁者、一堂に
集まって、飲み食いの席をもうける慣わしに
なっている。

が、私はこう決めた。

(1)実兄の一周忌はしない。
(2)実母の一周忌は、寺で、私とワイフだけで
すます。

それが私たちの結論。
X市に住む従姉のYさんが、「そうしたら」という
アドバイスをくれた。
だから、そうする。

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●親

 親にもいろいろある。
みながみな、森進一が歌う、『♪おふくろさん』に出てくるような親とはかぎらない。
中には、子どもを罵倒しながら、好き勝手なことをしている親もいる。
好き勝手なことをしながら、他人の前では、仏様のようなフリをする。
Aさん(65歳・女性)の母親もそうだ。
あまりにわがままに、Aさんは、いつもこう言っている。
「母に、殺意すら覚える」と。

 晩年の母はともかくも、私の母も似たような親だった。
生涯にわたって、自分で職をもったことは、一度もない。
稼業は自転車屋だったが、ドライバーを握ったこともない。
家の上の掃除は母がしたが、その下の土間、仕事場の掃除、窓ガラス拭きなどは、
すべて私たち子どもの仕事だった。

●他界

 が、昨年、実兄が死に、実母が死んだ。
そして今年、一周忌がやってきた。
「どうするか?」。
悩んだ末の結論が、上に書いた、(1)と(2)ということになる。

 親類と言っても、叔父、叔母方が、2人。
伯父、伯母方が、2人。
それだけ。
あとは従兄弟たちだが、今は、疎遠になってしまい、行き来はない。
「今さらどうして親戚づきあい……?」というのが、私の本音。
それに私はもう自分の哲学を曲げてまで、法事はしたくない。
必要なことは、すべてした。
実兄、実母の百か日の法要までは、きちんとした。
しかし、そこまで!

●幻惑

 といっても、体の芯まで染み込んだ「幻惑(=苦悩)」を、心から抜き去るのは
容易なことではない。
本能に近い部分にまで染み込んでいる。

私たちは生まれるとすぐ、もろもろの「刷り込み」を経験する。
親子関係もそうだが、ほかに家族関係、親戚関係など。
こうした関係が、「家族自我群(=呪縛感)」となって、私たちの心をがんじがらめに
している。
だから苦しむ。
もがく。

 ずるい親になると、そうした「家族自我群」を使って、逆に、子どもを束縛する。
先に書いたAさんの母親も、そうだ。
自分は昼間は寝ているから、よい。
が、夜中になると、大声で、こう叫ぶという。

「ああ、腹減った!」
「何か食わせてくれないと、死んでしまう!」
「長生きして、損した!」と。

 Aさんは一晩中、自分の耳を押さえて眠るという。
が、それもこのところ限界にきた。
慢性的な不眠がつづき、精神状態もおかしくなってきた。
うつ病薬、精神安定剤の量も、ふえてきた。
だからAさんは、こう言う。
「死ぬまではめんどうをみるが、死んでも、葬式はしない」と。

●決別

 もし上に書いたような(1)と(2)を実行すれば、私のことを悪く言う親類は、
何人か出てくるだろう。
悪口を言うために、てぐすねをひいて、待っている。
(……というのは、私の思い過ごしかもしれない。
が、いいふうには、言わないだろう。)

 が、私は、こう思う。
「もう、いいかげんにしてほしい!」と。
あるいは「いつまで私を苦しめたら、気が済むのだ!」と。

 もちろんお金の問題ではない。
法事の費用のことを言っているのではない。
これは私の主義、主張の問題。 

 私はもうこれ以上、自分の主義、主張を捻じ曲げたくない。
安易な妥協で、もうこれ以上、自分の人生を汚したくない。
ゆいいつの方法は、私の主義、主張を、関係者に理解してもらうことだが、
それをするのも疲れた。
また、それを理解できるような人たちなら、まだよい。
しかしこのところ、ますますたがいの間の(距離)を感ずるようになった。
そうでなくても、みな、加齢とともに、脳みその活動が鈍くなってきている。
説明しようにも、説明のしようがない。

●私は私

 私は、「私は私」という生き方を貫いてきた。
が、そこに親類、縁者が加わると、とたんにそれができなくなる。
夏目漱石も、小説『こころ』の中で、似たようなことを書いている。
どんな高邁な哲学や思想をもっている人でも、一度、家族自我群の中に巻き込まれると、
私が私でなくなってしまう。

 だから「勇気」ということになる。
私はもう、人が何と言おうと気にしない。
言いたい人には言わせておけばよい。
私自身の人生も、それほど長くない。
だから「勇気」ということになる。
その勇気がないと、「家族自我群」による「幻惑」から、自分を解放させることは
できない。

 が、そう割り切ったとたん、気分がスーッと軽くなった。
楽になった。
もちろんだからといって、実兄や実母の死を軽くみているわけではない。
新調した仏壇は、私の家の中でも、いちばんよい場所に安置してある。
折につけ、手を合わせている。
が、それ以上に、どうして法事が必要なのか。
もしそれで「成仏」なるものができないとするなら、私は自分が死んだら、
あの世で真っ先に抗議活動を始める。
そんなバカげた仏教が、どこにある!

 ……ということで、私の気分を軽くしてくれた従姉には、さっそく礼の品々を、
昨日贈っておいた。

 Yさん、ありがとう!


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●ASO首相(Brain-less Prime Minister of Japan, Mr. "Ass-Sore")


++++++++++++++++++++


おととい、コンビニで、タブロイド紙を
買った。
それには、「おバカ宰相」とあった。
ASO首相のことである。


同じようなことを、あのK国も言っている。
あの国だけには、批評されたくないが、
あの国だからこそ、言ってくれる(?)※。


で、今度は、EUまで!


++++++++++++++++++++


韓国の東亜N報は、つぎのように伝える。


『……麻生太郎首相に対する支持率が、10%台にまで落ち込むなど、政権崩壊の危機に
直面している日本の与党・自民党の内部でこんな発言が飛び出した。「ABBA」といえば、
1970年代から80年代にかけ一世を風靡(ふうび)した、スウェーデン出身の男女4
人からなるポップス・グループだが、同党でいう「ABBA」とはもちろん、このグループの
ことではない。


 同党の幹事長を務めた加藤紘一議員は1日、イギリスの経済紙フィナンシャル・タイム
ズ(FT)とのインタビューで、「総選挙が行われれば、党にとって最後の瞬間が訪れるか
もしれない。若手の議員たちを中心に、"ABBA"が自民党にとっての危機打開策になる、
という主張が出ている」と述べた。加藤議員によると、「ABBA」とは「Anybody is better 
than Aso」の略で、「卓越した人物はいないものの、誰であれ麻生首相よりはましだ」とい
う意味だという』と。


 「ABBA(アバ)」という言葉を使ったのは、外国人記者ではない。
日本人の口を借りて、ASO首相を、揶揄(やゆ)している。
それだけがゆいいつの救いだが、世界の人たちは、今、日本の首相というより、日本とい
う国を、そういう目で見ている。


 家柄だけを盾に、そのつどああでもない、こうでもないと理由にもならない理由をこじ
つけ、政権の座に居座ろうとする、あの醜悪さ。
あのニューヨークタイムズですら、「(一連の言動からは)、扇動的な発言からは誠実さも賢
明さもうかがえない」と批判する社説を掲載したことがある(08年9月)。
その醜悪さは、あの顔にそのまま表れている。
最近では、ASO首相がテレビ画面に出るだけで、私は即座にチャンネルを変えるように
している。


 どうしてあんな人物が、日本の首相なのか?
首相でいられるのか?
「失言」というが、失言の内容にしても、レベルを逸脱している。
つい先日、K国が核実験をしたあとも、こう発言している。
「(K国の核実験について)、ブッシュ大統領と協議した」と。


「ブッシュ大統領」?


 「オバマは英語がウメエ〜」と言っていた、ASO首相である。
まともな日本語すら、話せない。
もちろん議論(debate)など、夢のまた夢。
前回のオバマ大統領との会見のときも、「聴取不能」の文字が、向うの会談録に並んだ。


 で、今まで「これだけは……」と思って書かないできたことがある。
しかしASO首相のためというより、日本のために書く。


 「アソー」、つまり、「ass−sore」が、どういう意味か、もしあなたの
近くに外人がいたら、その意味か聞いてみたらよい。
彼らが日本の首相をさしてその名を呼ぶとき、侮蔑の念をこめて、そう呼ぶ。
(けっして、ほかの「アソー」という名前の人たちについて、そう書いているので
はない。誤解のないように!)


 自称「外交のASO」とか?
世界へ出るたびに、1兆円単位のお金をバラまき、ついで、日本でもばらまき、
何が「外交のASO」か?
結果的にみても、成果はゼロ。
ドイツを怒らせ、ロシアを怒らせただけ。


 で、今度は、元お笑いタレントを、閣僚にと画策した。
が、失敗。
J党の中にも、まだ良識のある議員たちが残っていた。


 支持率10%台で、どうやって選挙戦をやりぬくつもりなのか?
少しは自分に恥じたらよい。

なおASO首相の失言の数々を聞いていると、私のような素人にも、「あれはただの失言
ではない」とわかる。
 これからは、宰相はもちろん、大臣になるような人たちも、一度、脳ドックで、脳検査
を受けてから就任するようにしてほしい。
また早急に、そういう制度を確立してほしい。

(注※補記)

K国「労働新聞」より転載。

『「(北朝鮮の)核実験が2回目に行われた後には、ブッシュ大統領に、また国連安保理の
メンバーの方々に電話をし・・・」(麻生首相)

 このように、アメリカのオバマ大統領を「ブッシュ大統領」と言い間違えたことや、7
日の街頭演説で、サッカー日本代表がワールドカップ出場を決めた試合の対戦相手である
「ウズベキスタン」を「カザフスタン」と間違えたことなどを挙げています。

 労働新聞は、麻生総理を「失言の選手権保持者」、「彼の頻繁な失言は、彼がさして賢く
ないということを示している」と揶揄。さらに、「このような人物が権力を握って国を治め
ているから、日本政治が駄目になるしかないのである」と批判しています。(26日16:39)』
と。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

【夜の散歩】

+++++++++++++++++

夏になると、夜、散歩に行くことが多くなる。
日中は暑い。
それに紫外線も心配。
だから「夜に……」ということになる。

+++++++++++++++++

●目的

 散歩に出かけるときは、いつも、何かの目的を作る。
「ただ散歩……」と言っても、気乗りがしない。
「コンビニまで行って、缶ジュースを買う」というのでもよい。
「ポストまで行って、手紙を投かんする」というのでもよい。
「パン屋でパンを買う」というのでもよい。

 昨日は、「ビデオショップで、ビデオを借りる」という目的を作った。
フランシス・コッポラが監督した、『コッポラ、胡蝶の舞い』というのを見たかった。
それで片道、約4〜5キロの道を歩いた。

●歩道

 散歩するときは、歩道のしっかりした道を歩くことにしている。
遠回りになるとわかっていても、そうしている。
身の安全のため、である。
それに車の排気ガスからも、できるだけ遠ざかりたい。
今でも、排気ガスを煙幕のように出しながら走るジーゼル車は多い。
燃費をよくするため、マフラーに加工を加えている。
しかし歩行者こそ、えらい迷惑。

 そんなこともあって、できるだけ内回りの、細い路地を歩くことが多い。
小さな角をこまめに回りながら歩く。
それが結構、楽しい。

●ゴシップ好き

 昨夜は、一度、大通りに出た。
大通りには、広い歩道が両側についている。
車1台が、楽に走れる幅がある。
その通りに出て、ワイフとこんな話をした。

私「ぼくたち、離婚状態にあるんだってエ?」
ワ「だれが、そんなこと、言っているの?」
私「あいつだよ」
ワ「……いやな人ねエ……。私たちの不幸が、そんなに楽しいのかしら……」

私「ハハハ、ちがうんだよ。先日、あいつをからかってやったんだよ。
『ぼくたち夫婦は、別居状態だ』ってね」
ワ「バカねエ。そんなこと言うからよ」
私「そしたら、その1週間後には、従姉から電話がかかってきたよ」
ワ「何て?」

私「『浩司くん、離婚するの?』ってね」
ワ「あいつは、そういう話になると、その日のうちに、みなに電話をするらしい」
私「……本当に、いやな人ねエ……。この前は、うちのH(=息子)が、精神病って
みなに言いふらしていたのでしょう」
私「ハハハ、バカだよ、あいつは……」と。

●口のうまい人

 口のうまい人には注意したほうがよい。
何だかんだと、さぐりを入れてきては、今度は、それを酒の肴(さかな)にする。
口がうまいから、悪口を言いふらすのも、うまい。

 「私、あの浩司さんが、かわいそうでならないの」とか何とか言い、さも同情している
かのようなフリをして、悪口を言いふらす。
ときに泣き声になることもある。
もちろん涙は出ない。

 「あいつ」も、そうだ。
それとなく、「最近、H(=息子)さんの様子はどう?」などと言って、電話をかけてくる。
が、そういうとき、うかつにこちらの内情を話したら、最後。
それが何倍にも拡大され、みなに伝えられる。

私「世の中には、相対的価値観で生きている人は多いから……」
ワ「何、それ?」
私「他人が自分より不幸なら、私は幸福。
他人が自分より幸福なら、私は不幸。
そういうふうにいつも、他人と比較しながら、相対的に自分の幸福度を測る人だよ」と。

●二人三脚

 広い大通りは、そのまま浜松市内へとつづいている。
その大通りを、東へ、一直線に歩く。
たいていワイフと腕を組んで歩く。
私がワイフを引っ張り、ワイフは、私の体を支える。
こういうのを二人三脚という。

 数日前、東京では気温が35度を超えたという。
観測史上、記録的な暑さだったという。
が、ここ浜松では、そういうことはなかった。
たまたま私たちは山荘に泊まったが、朝はふとんをかぶらなければならないほど、
空気は乾いた冷気を帯びていた。

 昨夜も、そうだった。
ひんやりとした夜の風が、心地よかった。
「帰りに、缶ジュースを買おうか?」と言うと、ワイフは「うん」とだけ言った。
ワイフは疲れてくると、無口になる。
私もそれに応じて、無口になる。
あとは黙ったまま、ただひたすら前に向かって歩く。

●ビデオショップ

 今度新しくオープンしたビデオショップには、小さなレストランまである。
1階は書店だが、広すぎて、私向きではない。
2階に、ビデオショップがあり、その3分の1ほどでは、ゲームのソフトを売っている。
このところ、毎回のように、そのソフトコーナーものぞくようにしている。
ときどき、ソフトを買い、それをアメリカに住む、孫に送っている。

 カウンターで、「コッポラの……」というと、店員がすぐ、それを見つけてくれた。
内容は、ある老人が通りを歩いていると、雷に打たれる。
とたん、その老人が、70歳くらいから、35歳前後まで若返ってしまうというもの。
どこかSF的な映画である。

 その予告編を見て、その映画が見たくなった。
フランシス・コッポラと言えば、あの『地獄の目次録』を監督した人である。
期待が高まる。

 店を出たところで、自動販売機で、缶ジュースを買った。
私はミルクココア、ワイフは、ミックスジュース。
2人で飲みくらべながら、飲んだ。

●「あいつ」さんへ

 もう私どものことは、心配せず、ご自身のことだけを考えて、生きてください。
あなたの人生も、それほど長くないはず。
それにあなたの家にも、大きな問題が、3つ、4つもあるではありませんか。
あなた自身が、親類の中でも、(そして近所でも)、笑い者になっていますよ。
「あのXさんのグチに、みな、閉口していますよ」と。

 相手が自分の思い通りにいかないからといって、それでもってグチをこぼして
どうなりますか。
そういうときは、自分ですればよいのです。
自分で気が済むように、自分ですればよいのです。
自分では何もしないで、グチだけこぼして、どうなるというのでしょうか。
「グチ」というのは、「愚痴」と書くのですよ。
仏教で言う「愚痴」というのは、別の意味ですが、グチを言えば言うほど、あなたの
品位はさがるだけです。
「愚痴」というのは、「愚かでバカ」という意味です。

 わかるかな?
……恐らく、今のあなたには、それすら理解できないでしょう。
そうそう今度、あなたから電話がかかってきたら、私は、こう言うつもりでいます。

「ぼくね、今度、アルツハイマー病って、診断されましたよ」と。
あなたを喜ばせてあげますから、お楽しみに!


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 7月 29日(臨時号)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●勉強をしない子どもたち(Children who lose Diligence)

++++++++++++++++++++++

最近の子どもたちは、勉強をしない。
本当にしない。
このあたり(浜松市)でも、「勉強して、いい高校(?)に
入ろう」と考えている中学生は、全体の40%弱と
みてよい。
あるいはそれ以下。
残りの60%は、最初から受験勉強など、考えて
いない。
「がんばって、いい高校をめざしたら?」などと言っても、
「勉強で苦労するから、いや」などと答えたりする。

++++++++++++++++++++++

●異変?

 たしかに今、子どもたちの世界がおかしい。
何か、へん。
簡単に言えば、昔風の(まじめさ)が、どんどんと消えつつある。
学校の勉強についても、「やらなければならない」という意識そのものが、急速に
しぼみつつある。
たとえば今は、夏休み。
「学校の宿題は?」と聞いても、確たる返事が返ってこない。
「夏休みの友は?」「工作は?」と聞いても、返ってくるのは、
あいまいな返事だけ。
どうでもよいといったふう。

その一方で、あらゆる面で、ギャグ化が進んでいる。
まじめに考えるという習慣そのものが、ない。
あるいはまじめに考えることを、むしろ避けている。
そんな感じすら、する。
いったい、子どもの世界は今、どうなってしまったのか?

●ギャク化

 今さら、理由や原因を並びたてても意味はない。
いろいろあるが、ありすぎて、ここには書ききれない。
つまり結果として、今、そうなってしまった。
言うなれば、子どもたちの世界から緊張感が消え、のびたゴムのようになってしまった。
だらしないというか、しまりがないというか……。

 先に「ギャク化」と書いたが、それなりにまじめというか、緊張感をもっている
子どもは、小学3年生レベルで、10〜20%前後。
10人に、1〜2人程度と考えてよい。

 茶化す、おどける、騒ぐ、ふざける、はぐらかす……。
それが現在の平均的な、日本の子ども像。
議論をしようにも、議論にならない。
まじめな話をしようとすると、「ダサ〜イ」と言って、はねのけられてしまう。
こういう現実を、いったい、今、どれだけの人たちが知っているのか。

●日本の将来

 一足飛びに話を進めるが、日本の将来は、今の子どもたちを見るかぎり、お先
真っ暗。
それもそのはず。
日本の社会そのものが、ギャク化している。
政治にしても、そうだ。
お笑いタレントが、府知事になったり、県知事になったりする。
さらに漢字もロクに読めないような、そして日本語すらまともに話せないような人物が、
総理大臣になったりする。
それについても、私が「おかしい」などと発言すると、「どうしてそれがいけないのか」
という反論が、山のように届く。

 何もお笑いタレントに偏見をもっているわけではない。
が、どこかへん。
どこか、おかしい。
総理大臣に至っては、さらにへん。
さらに、おかしい。
そのおかしさが、そのまま子どもの世界にまで、入り込んでいる。

 こんな日本で、その未来を、どこにどう求めたらよいのか。

●家庭の教育力

 学校教育というより、(教育)そのものが、崩壊してしまった。
かろうじて残っているのは、(学校)という、ワクだけ。
……というのは、少し言いすぎかもしれないが、しかし、教師自身が教育力を
失ってしまった。

 これについても、今さら、理由や原因を並びたてても意味はない。
いろいろあるが、ありすぎて、ここには書ききれない。
つまり結果として、今、そうなってしまった。

 では、どうするか?
家庭教育のもつ(教育力)を、強くするしかない。
「子どもの教育は、親がする」という自覚をもつしかない。
自分で自分の子どもを育てるしかない。
が、悪いことばかりではない。
今は、こういう時代だから、その気にさえなれば、子育てそのものが、むしろ
楽になったとも考えられる。

 たとえば今から30年前には、私の教室でも、東大、京大へ進学していく
子どもはほとんどいなかった。
が、今では、本当にみな、ウソみたいに、みな、スイスイと入っていく。
私の教室のレベルがあがったというよりは、周辺の地盤が沈下した。
その分だけ、相対的に、私の教室のレベルがあがった。

(もっとも有名大学へ進学していく子どもが多いから、レベルが高くなった
と考えるのは、正しくない。
また私も、それを目標にしているわけではない。
が、結果としてそうなっているのは、事実。)

●勉強をしない子どもたち

 勉強をしない子どもたちが、この先、どんな日本を作っていくのか、私にも
よくわからない。
外国をみながら、その例をさぐろうとするが、参考になるような国は、ほとんどない。
(したくても、教育環境が整っていなく、子どもたちが満足に勉強できない国は
いくらでもあるが……。)
ただ言えることは、この先、この日本に対して、不平、不満をいだく若者たちが
急増するだろうということ。

 「あるのが、当たり前」という世界で育ってきた若者たちである。
水も空気も食べ物も。
が、それだけではない。
先にも書いたように、「一度のびたゴムは、元にはもどらない」。

 競争力はどうする?
 適応力はどうする?
 打開力はどうする?
 忍耐力はどうする?
 協調性はどうする?
 社会性はどうする?

 「勉強をしない」という言葉の裏には、そういう問題もひかえている。
誤解がないように言っておくが、何も受験勉強をガリガリするほうがよいという
のではない。
つまり「勉強をしない」というのは、あくまでもその結果。
当然、日本の子どもたちの学力は、ますます低下する。
そのとき日本は……?

 少し前までは、中国が日本を追い抜くのは、2015年と予測されていた。
しかし実際には、それよりも6年も早く、今年(2009年)に追い抜かれた。
こうしてこの日本は、このアジアの中でも、ごくふつうの小国になっていく。
 
これも、しかたのないことかもしれないが……。

 
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(350)

●内政不干渉の原則

 それぞれの家庭には、外から図り知ることができない複雑な事情がある。一方、私たち
はそれぞれが家庭をもち、子どもをもち、一つの生活をもっている。しかしそれはあくま
でも「一つ」。その一つを基準にして、他人の家庭をのぞいてはいけない。いわんや批判し
たり、節介をしてはいけない。

それぞれの人は、ぞれぞれに懸命に生きている。あなたがそれらの人を、経済的に援助し
ているとか、社会的にめんどうをみているというのなら話は別だが、そうでなければ、内
政干渉はやめたほうがよい。

 私にも一人の知人(55歳男性)がいる。実にノー天気な男で、いつも他人の不幸に顔
をつっこんでは、あれこれ説教しては楽しんでいる。自分では、いっぱしの人生経験者だ
と思っているらしい。

昔、私が家を新築するときやってきて、コンクリートの基礎を見ながらこう言った。「ここ
は六畳間ですかあ。六畳間はせまいから、使いものになりませんね。それに廊下が暗いで
すよ。日当たりが悪いから……」と。やがて家が建つとまたやってきて、こう言った。「こ
こは風当たりが強いですね。これではいけない。西側に塀をつくるといい。ははは、やっ
ぱり六畳間は使い勝手が悪いでしょう。それに南側には大きな木を植えるといい」と。

 それからも私の家にトラブルが起きるたびに、どこから聞きつけてくるのか、そのつど
やってきてあれこれ説教した。「林君も、郷里にお母さんを残してたいへんですね。子ども
が親のめんどうをみるのは当たり前ですから、そろそろ実家へ帰ることも考えなくてはい
けませんね」と。

こちらの生活の根幹にかかわるような問題を、ズケズケと平気で言う。で、ある日とうと
う私のほうがキレた。キレて、「2度と電話をしてこないでほしい」と言い切った。が、そ
ういうノー天気な人には、こちらの気持ちなどまるでわからない。半年もするとまた電話
がかかってきて、「今度、いっしょに台湾へ行きませんか。安いコースがありますから……」
と。

 こういう人は例外だとしても、他人の心に無神経な人はいくらでもいる。先日も私にこ
う言った元幼稚園教師がいた。「林先生の息子さんは、今どちらの大学に? 先生の息子さ
んのことですから、さぞかしいい大学に行っておられることでしょうね」と。思わず「高校は中退
で、今は家でゴロゴロしています」とウソを言いそうになったがやめた。こうい
うウソは相手を喜ばすだけだ。

もともとこのタイプの人は、こちらの心配など、何もしていない。いわゆる「アラ(欠点)」
をさがしては、そのアラをまた別の人に伝えては楽しんでいるだけ。先の知人も、口が軽
いことこの上なし。何かを相談したら最後。その話は一夜のうちに皆に伝わってしまう…
…。

 内政不可侵の原則。それを守るか守らないかは、あなたの勝手だが、これだけは言える。
それを守らないと、あなたは確実に嫌われる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(351)

●孤独論

 私のようにもともと「うつ型気質」の人間にとっては、孤独ほど、恐ろしいものはない。
何かの仕事をやり終え、ほっと気を抜いたようなとき、心も弱くなる。ひとりだけポツン
と取り残されたような孤独を覚える。これは私だけが感ずる孤独なのか、それとも人間が
等しく感ずる孤独なのかはわからない。

が、いろいろな人の本を読んでも、それほど大きな違いはないように思う。(本当のところ
は他人の心の中に入ったことがないので、わからないが……。)で、ときどき一番身近にい
る女房に、「お前はどうなのか」と確かめることがある。もっとも私の女房は、本当にタフ
で、精神的にも安定している。「私は体は女だけど、心は男よ」とよく言うが、本当にそう
だと思う。

一方私は、繊細で、そのつどいろいろなことを考える。ときに考えすぎて、身動きがとれ
なくなることもあるが、私はそういうタイプの人間だ。そういう意味では、精神的にもタ
フでないし、情緒も不安定だ。一日のうちにも、周囲の状況に応じて、気分がよく変わる。

 で、これから先、どうやってその孤独を処理したらよいのか、ときどき考える。子ども
たちはやがて巣立っていくだろう。女房とて、ひょっとしたら、私より先に死ぬかもしれ
ない。そうなったとき、私はどう過ごせばよいのか。多分そのころは老人ホームかどこか
で、のんびりとはいかないが、まあまあ、そこそこの老人生活を送っているに違いない。

しかしその生活が望ましい生活だとは思っていない。できれば心の許しあえる人と、いつ
までもいつまでも語りあっていたい。死ぬまでというより、夜、床に入ってから、眠るま
で、だ。死ぬときになったら、私はジタバタしたくない。今のところ自信はないが、しか
し今はそう思う。

 こういうとき何か、信じられる宗教があればよいと思う。実際、アメリカのジムは、敬
虔なクリスチャンだが、彼は人里離れた牧場で、今は妻だけと暮らしている。ああいう生
活を見ると、彼の宗教が、彼の孤独をやわらげているのではないかと思う。(こういう言い
方は失礼な言い方だが……。)つまり私なら、そのさみしさに、とても耐えられないだろう
と思う。

 もちろん孤独に勝つ方法もある。夢や希望をもつことだ。それに友情や、少しキザない
言い方かもしれないが、「愛」だって、それがあれば、孤独はやわらぐ。で、そういうもの
を、総合的に提供してくれるのが、「家族」ということになる。名誉や地位ではない。肩書
きでもない。「家族」だ。

 考えてみれば、私の人生はずっと孤独だった。これからも孤独だろう。だからこそ、私
は家族のありがたみを知っている。つまり私の「家族主義」は、こうした私の心の弱さを
補うために生まれたと言ってもよいのではないか。

さて、皆さんは、今、孤独だろうか。それとも孤独でないだろうか。が、もしあなたが
孤独なら、「孤独なのはあなただけではない」ということだけは、わかってほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(352)

●子どもとの笑い

 いつも深刻な話ばかりなので……。最近経験した楽しい話(?)をいくつか……。

(1)ときどきまったく手をあげようとしない子ども(年中女児)がいる。そこで私が「先
生(私)を好きな子は、手をあげなくていい」と言ったら、その子は何を思ったか、
腕組みをして私をにらんだ。「セクハラか?」と思わず後悔したが、そのあと私が「ど
うして手をあげないの?」と聞くと、「だって、私、先生が好きなんだもん」と。マ
レにですが、私も子どもに好かれることがあるのです。

(2)私が「三匹の魚がいました。そこへまた二匹魚がきました。全部で何匹ですか?」
と聞くと、皆(年長児)が、「五匹!」と答えた。そこで私が電卓を取り出して、「え
えと、三足す二で……」と電卓を叩いていたら、一人の子どもがこう言った。「あん
た、それでも本当に先生?」と。

(3)指をしゃぶっている子ども(年中児)がいた。そこで私が、「どうせ指をしゃぶるな
ら、もっとかっこよくしゃぶりなよ。おとなのしゃぶり方を教えてあげるよ」と言
って、少しばかりキザなしゃぶり方(指を横から、顔をななめにしてしゃぶる)を
教えてやった。するとその子は、本当にそういうしゃぶり方をするようになった。
私は少しからかってやっただけなのだが……。

(4)私のニックネームは……? 「美男子」「好男子」「長足の二枚目」。あるとき私に「ジ
ジイー」「アホ」と言う子ども(年長児たち)がいたので、こう話してやった。「も
っと悪い言葉を教えてやろうか。しかし先生や、お父さんに使ってはダメだ。いい
な」と。子どもたちは「使わない、使わない」と約束したので、こう言ってやった。
「ビダンシ」と。それからというもの、子どもたちは私を見ると、「ビダンシ、ビダ
ンシ」と呼ぶようになった。

(5)算数を教えながら、「○と△の関係は何ですか?」と聞いたら、一人の子ども(小四
男児)が、「三角関係!」と。ドキッとして、「何だ、それは?」と聞くと、「男が二
人で、女が一人の関係だよ」と。すると別の子どもが、「違うよオ〜、女が二人で男
が一人だよオ〜」と。とたん、教室が収拾がつかなくなってしまった。

私が、「今どきの子どもは、何を考えているんだ!」と叱ると、こんな歌を歌い始め
た。「♪今どき娘は、一日五食、朝昼三時、夕食深夜……」と。「何だ、その歌は」
と聞くと、「先生、こんな歌も知らないのオ〜、遅れてるウ〜」と。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(353)

●心を開く

 何でも言いたいことを言い、したいことをする。悲しいときは悲しいと言う、うれしい
ときはうれしいと言う。泣きたいときは、思いっきり泣くことができる。自分の心をその
ままぶつけることができる。そういう状態を、「心が開いている状態」という。

 昔、ある文士たちが集まる集会で、一人の男性(七〇歳)がいきなり私にこう聞いた。「林
君、君のワイフは、君の前で『おなら』を出すかね?」と。驚いて私が、「うちの女房はそ
ういうことはしないです……」とあわてて答えると、そばにいた人たちまで一斉に、「そり
ゃあ、かわいそうだ。君の奥さんはかわいそうだ」と言った。

 子どもでも、親に向かって、「クソじじい」とか、「お前はバカだ」と言う子どもがいる。
子どもが悪い言葉を使うのを容認せよというわけではないが、しかしそういう言葉が使え
ないほどまでに、子どもを追いつめてはいけない。一応はたしなめながらも、一方で、「う
ちの子どもは私に心を開いているのだ」と、それを許す余裕が必要である。子どもの側か
らみて、「自分はどんなことをしても、またどんなことを言っても許されるのだ」という絶
対的な安心感が、子どもの心を豊かにする。

 そこで大切なことは、心というのは、相手に対して「開く心」と、もう一方で、それを
受け止める「開いた心」がないと、かよいあわないということ。子どもが心を開いたら、
同じように親のほうも心を開く。それはちょうどまさに「開いた心の窓」のようなものだ。
どちらか一方が、心の窓を閉じていたのでは、心を通いあわせることはできない。R氏(四
五歳)はこう言う。

「私の母(六五歳)は、今でも私にウソを言います。親のメンツにこだわって、あれこれ
世間体をとりつくろいます。私はいつも本音でぶつかろうとするのですが、いつもその本
音が母の心のカベにぶつかって、そこではね返されてしまいます。私もさみしいですが、
母もかわいそうな人です」と。

 そこで問題なのは、あなたの子どもはあなたに対して、心を開いているかということ。
そして同じように、あなたはあなたの子どものそういう心を、心を開いて受け止めている
かということ。もしあなたの子どもがあなたの前で、よい子ぶったり、あるいは心を隠し
たり、ウソをついたり、さらには仮面をかぶっているようなら、子どもを責めるのではな
く、あなた自身のことを反省する。相手の心を開こうと考えるなら、まずあなた自身が心
を開いて、相手の心をそのまま受け入れなければならない。またそれでこそ、親子であり、
家族ということになる。

 さてその文士の集まりから帰った夜、私は恐る恐る女房にこう言った。「おまえはあまり
ぼくの前でおならを出さないけど、出していいよ」と。が、数日後、女房はそれに答えて
こう言った。「それは心を開いているとかいないとかいう問題ではなく、たしなみの問題だ
と思うわ」と。まあ、世の中にはいろいろな考え方がある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(354)

●心を開く(2)

 心を開くということは、相手に対しては自分のあるがままをさらけだすこと。一方、相
手に対しては、相手のすべてを受け入れるということ。少しきわどい話になって恐縮だが、
『おなら』がある。ふつう自分のおならは、気にならない。小学生に聞いても、全員が例
外なく、「自分のは、いいにおいだ」と言う。しかし問題は、自分以外の人のおならだ。

 もちろん見知らぬ人のおならは、不愉快だ。いかに相手が美人であり、美男子であって
も、それは関係ない。しかしそれが親や兄弟のとなると、多少、感じ方が変わってくる。
さらに親しい友人や、尊敬する人になると変ってくる。昔、恩師のM先生(女性)がこう
話してくれた。

「私は女学生のとき、好きな先生がいた。好きで好きでたまらなかった。が、その先生が
ある日、私のノートを上からのぞいたとき、ポタリと鼻くそを私の机の上の落した。私は
その鼻くそを見たとき、どういうわけかうれしくてならなかった」と。相手を受け入れる
といういことは、そういうことをいう?

 そこで今度は家族について。あなたは自分の夫や妻、さらには子どもをどこまで受け入
れているだろうか。またまた『おなら』の話で恐縮なのだが、あなたはあなたの夫や妻が
おならを出したとき、それをどこまで受け入れることができるだろうか。自分のおならの
ように、「いいにおい」と思うだろうか。それとも他人のおならのように、不愉快だろうか。
実のところ、私も女房のおならが許せるようになったのは、結婚してから二〇年近くもた
ってからだ。自分のにおいのように感ずることができるようになったのは、ごく最近にな
ってからだ。

女房はめったに私の前ではしないが、眠ってしまったあと、ふとんの中でそれを出す。で、
若いころはふとんの中でそれされると、鼻先だけふとんの中から外へ出し、口で息をした
り、ときには窓を開け放って、ガスを追い出したりしていた。今も「平気」とまではいか
ないが、「またやったな」という思いながらも、そのまま眠ることができる。

 問題はあなたと子ども、である。あなたは子どものすべてを受け入れているだろうか。
こういうとき「べき」という言い方はしたくないが、しかしこれだけは言える。親に受け
入れてもらえない子どもほど、不幸な子どもはいないということ。言いかえると、親にす
ら心を開いてもらえない子どもは、自分自身も心を開くことができなくなる。そういう意
味で、子どもは心の冷たい子どもになる。

もう少し正確には、自分の心を防衛するようになり、そのためさまざまな「ゆがみ」を見
せるようになる。ひがむ、いじける、ねたむ、すねるなど。心のすなおさそのものが、消
える。へんに愛想がよくなることもある。そういう意味で、もしあなたがあなたの子ども
に心を閉じているなら、それは「あるべき」親の姿勢ではない。「努力して」というほど簡
単な問題ではないかもしれないが、しかしあなたの子どものためにも努力する。

 方法としては、まず子どもを友として受け入れる。つぎにあとは「許して忘れる」。これ
を日常的に繰り返す。時間はかかるが、やがてあなたは心を開くことができるようになる。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●実家を売る

++++++++++++++++++

郷里の知り合いに頼んでおいたら、私の
実家が、売れた。
伝統的建造物にもなっている古い家である。
「どうしたらいいか?」と悩んでいたら、
何と、その知り合いの方が、「買ってもいい」と
申し出てくれた。

値段は相場の半額程度とは思うが、私は満足。
できるだけ早く、あのM町とは、縁を切りたい。
すっきりしたい。
お金の問題ではない。

++++++++++++++++++

 私にとっては、実家は、重荷以外の何物でもなかった。
心の内側にペッタリと張り付いた重荷だった。
そのため暗くて、ゆううつな60年間だった。

 「依存性」という言葉がある。
依存する方は、それだけ楽かもしれないが、依存される方はそうでない。
保護と依存の関係も、感謝されるのは、最初だけ。
やがて当たり前になり、さらに進むと、依存する方が、それを請求してくるようになる。
が、こうなると、その関係を切ることはできない。

 依存される側は、その重圧感で、悶々と苦しむようになる。
お金の問題ではない。

 まったく生活力のない兄と母。
それを見て、「親のめんどうをみるのは、息子の役目」とせまってくる周囲の人たち。
無言の圧力。
たとえばこういうような言い方をする。

 「私は、あなたの母さんのことは、何も心配してないよ。あなたがいるからね」とか。
あるいは「あなたの母さんは、幸福だね。親孝行のいい息子をもって……」とか。
さらには、「○○さんところの息子は、親孝行の感心な息子だ。今度、家の横に離れを
親のために建ててやったそうだ」とか、など。

 こういう言い方をしながら、真綿で首を絞めるように、ジワジワと迫ってくる。

 ……こうして60年間。
その重圧感から、やっと解放される。
そんな日が、あと数日に迫った。
多少のさみしさはあるが、だれしも一度や二度は乗り越えなければならない道。
感傷にひたっている暇はない。

 ところで話は変わるが、「行動力」という言葉がある。
この行動力は、加齢とともに、急速に減退する。
が、若いうちは、それがわからない。
行動力があるのが当たり前。
また行動力は、死ぬまでつづくものと、思っている。
私もそうだった。
しかし50歳を過ぎると、その行動力そのものが、減退する。
何をするにも、おっくうになる。
つまり決断力を要するようなことをするとき、強く、それを感ずる。

 だからこうした決断は、すみやかに、したほうがよい。

「買いたいです」「はい、わかりました。その値段で結構です」と。

 あとは事務手続きのみ。
そして忘れる。

 親子三代にわたってつづいた自転車屋だったが、ちょうど100年の歴史を、
終える。
祖父も、父も、そして兄も、何をどう思って、あの家を守ったのか?
今、ふと、そんなことを考える。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●映画『レイチェルの結婚』

シアリアス感(深刻さ)を強調するためか、
それとも素人ぽさを、演出するためか。
画面が、常時、手ぶれでガタガタ揺れた。
言うなれば、「手ぶれ映画」。
制作するほうは、それでよいとしても、
観るほうはたまらない。
劇場のような大画面で、観るならなおさら。
私は観ているうちに、船酔いならぬ、映画酔いを
起こしてしまった。

アカデミショー賞候補とか何とか歌ってはいるが、
私はあんな映画に、星はつけない。
薬物中毒だった女性が、ギャーギャーと騒いだだけ。
星は1個にもならない、★(−)。

もっとも深刻な社会勉強をしたいと思う人は
観に行ったらよい。
子どもの工場見学のようなもの。
おもしろくも、何ともない。

劇場へなぜ私たちが足を運ぶかといえば、娯楽のため。
その娯楽性なくして、だれが劇場までわざわざ足を運んで映画など、
観るものか。

そんなわけで途中で、ギブアップ。
吐き気、頭痛が同時に襲ってきた。
劇場を出て、通路にあったソファで、半時間ほど、気分を収めた。

お金を出して、気分を悪くしただけ。
私にとって、『レイチェルの結婚』という映画は、そういう映画だった。
ネットの映画案内には、何人かの知名人が、「すばらしい」「感動した」
と書いていた。

??????

こういうばあい、だれが責任を取ってくれるのか?
「警告:この映画は、劇場の大画面で観ると、映画酔いを起こす可能性
があります」くらいのことは、これからは告知してほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++JULY 09++++++++はやし浩司

●堪忍袋の緒が切れた! (麻生首相よ、いい加減にしろ!)

++++++++++++++++++++++++++

何を言っても驚かない。
怒らない。
しかし今度だけは、別!
堪忍袋の緒が切れた。
怒った!
私は、怒った!
もともとモヤモヤしていたところに、火がついた!
爆発した!

まず、つぎの記事を読んでほしい。
これを読んで、怒らない人(高齢者)はいないと思う。
とくに私の年代で、自分の体にムチ打ってがんばっている人ほど、
そうではないか。

++++++++++++++++++++++++++

●「高齢者は、働くことしか才能がない」

(以下、読売新聞、7月25日より)

+++++++++++++++++++

 麻生首相は25日午前、横浜市内で開かれた日本青年会議所の会合であいさつし、「日本
は65歳以上の人たちが元気だ。介護を必要としない人たちは8割を超えている」とした
うえで、「元気な高齢者をいかに使うか。この人たちは働くことしか才能がない。働くとい
うことに絶対の能力がある。80(歳)過ぎで遊びを覚えるのは遅い」と語った。(200
9年7月25日)

+++++++++++++++++++

●働きたい

 私は働きたい。
死ぬまで働きたい。
また元気な老人たちは、年金を返上してでも、働いたらよい。
それがそのまま生きる喜びにつながる。
私たちを支えたくれた人たちに対して、恩返しもできる。
そういう思いは、ある。
またそういう思いで、毎日、がんばっている。

しかしそれを逆手に取られると、カチンとくる。
麻生という首相は、基本的な言葉の使い方も知らない、バカである。
はっきりと断言する。
「バカ」である。

 「元気な高齢者をいかに使うか。
この人たちは働くことしか才能がない。
働くということに絶対の能力がある。
80(歳)過ぎで遊びを覚えるのは遅い」とは!

 「いかに使うか」という発想そのものが、許せない。
私たちは麻生首相の道具ではない。
もちろん奴隷でもない。
しかも「働くことにしか才能がない」とは!
もう少しくだけた言い方をすれば、「働くことしか能がない」となる。
ニュアンスとしては、それと同じ。

あるいは麻生の言語能力からして、もともと「能がない」と言おうと
したところを、「才能がない」と、言いまちがえたのではないのか。
ふつうはこういうとき、「能がない」と言う。
「才能がない」とは言わない。
たとえば「あいつは、パチンコしか脳がない」とは言うが、
「パチンコしか才能がない」とは言わない。

 もちろん相手をバカにしたときに、そう言う。

 先の首脳会談では、ドイツを怒らせ、ロシアを怒らせた。
で、今度は、私たち、団塊の世代を怒らせた!
ものは言いよう。
「高齢者の人たちには、がんばってもらいたい」とか、
「働きたい高齢者のために、環境を整えたい」とか、
そういうふうに言うのなら、まだ理解できる。
また政治家たるもの、その程度の知性はもってほしい。
それを、「80(歳)過ぎで遊びを覚えるのは遅い」とは!
つまり「今さら遊ぶことなどできないはずだから、働け」という意味か。

 誤解があるといけないので、明言しておく。
私たちは、遊びたいのではない。
遊んだところで、どうなる?
それがどうした?
遊べば遊ぶほど、自分がむなしくなる。
1年を1日にして、生きるようになる。
そんな人生に、どれほどの意味があるというのか。

 私たちが求めるのは、生きがい。
仕事でもよい。
一人前の仕事。
今まで得た経験や知恵を還元できる、職場、環境、そして社会。
政治家なら、その程度の思考力はあってしかるべき。

 それにしても、これほどまでに高慢な政治家というのも、そうは
いない。
ふつうなら、それ以前の段階で、自然淘汰され、政治家として選ばれない。
が、どういうわけか、「おバカ」(日刊ゲンダイ)が、首相をしている。
血筋や血統だけで、政治をしている。
これを民主主義の欠陥と言わずして、何と言う?

 で、私は浮動票の王様。
私が投票するところ、浮動票が動く。
で、今度だけは、J党だけには、勝たせたくない。
J党というより、麻生には勝たせたくない。
勝てば、(仮に僅差でなら、敗れても)、麻生は、有頂天になるはず。
そして政権続行!

 だからいって、どの党に一票を入れるかということについてまでは、
ここには書けない。
しかし私が行くところ、浮動票の行くところ。
結果は、今度の選挙の結果でわかるはず。
 
 ……それにしても、「働くことしか、才能がない」とはねエ。
確かにそうかもしれないが、しかし麻生だけには、そう言われたくない。
この不快感。
拒絶感。

 それにしても、どうしてあの程度の男が、総理大臣などしているの
だろう。
ほぼ同年齢だが、あまりにも低劣。
レベルが低すぎる。
麻生を選んだ、つまりは私たち有権者が愚かだったということになる。
が、麻生は、国政選挙という選挙を通して総理大臣になった男ではない。
それだけが、今の私たち国民にとって、ゆいいつの救いということになる。

 ついでにJ党の細田氏は、麻生をかばってか、またまた失言。
こう言った。

「自民党の細田博之幹事長が首相の失言などを取り上げた報道を批判し、『国民の程度か
もしれない』」(毎日新聞・7・25)
と。

J党の閣僚たちの発言には、意味不明のものが多い。
しかしそのまま読めば、「麻生総理が言ったように、国民の程度というのは、その程度ほど
までに低い」とも解釈できる。
もしそうなら、これまた、これほどまでに私たちをバカにした言葉はない。

 私の地元の選出の、片山さつき氏は、かつてこう言った。
「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」(倉田由美子・雑誌「諸君」
05年11月号・P87)と。

「この辺の田舎者」というのは、静岡県7区に住む、この私たちのことをいう。

 さらにに一言。
青年会議所って、いったい、何をしているところなのか?

(麻生の失言 総理の失言 暴言 総理大臣の暴言 麻生総理大臣の失言
麻生総理の失言 暴言)


(注※)

その片山さつき氏について、倉田真由美氏(マンガ家)が、こんな気になる記事を書いて
いる。

 『……片山さつきさんの地元代議士への土下座は、毒々しさすら漂っていた。謝罪では
ない、媚(こび)の土下座は見苦しいし、世間からズレている。未だに「ミス東大→財務
省キャリア」という自意識に浸(つ)かり、「謙虚」のケの字もわからないまま、「私が土
下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」と高を括(くく)る。

 そうしたバランス感覚の欠如も、いくら揶揄(やゆ)されても変えない髪型や化粧も、
自分が客観視できない、強すぎる主観の表れだ。

 「私いいオンナだから、これでいいの」という思い込みに対して、周りの人間も、もは
やお手上げなのだろう』(以上、原文のまま。雑誌「諸君」・05年11月号・P87)と。

 この記事の中で、とくに気になったのは、「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、
イチコロよ」という部分である。本当にそう言ったかどうかは、この記事を書いた、倉田
真由美氏に責任を取ってもらうことにして、これほど、頭にカチンときた記事はない。

 片山さつき氏が、どこかの席で、土下座をして、「当選させてほしい」と頼んだという話
は、当時、私も耳にしたことがある。しかしそのあと、東京に戻って、「私が土下座なんて
したら、この辺の田舎者は、イチコロよ」と話した部分については、私は知らなかった。

 何が、「田舎者」だ! 「イチコロ」とは何だ! しかしこれほど、選挙民をバカにした
発言はない。民主主義そのものを否定した発言はない。そういうタイプの女性ではないか
とは疑っていたが、片山さつき氏は、まさにその通りの女性だった。

 私たちが、田舎者? ならば聞くが、いまだにあちこちに張ってある、あのポスターは
何か? あれが都会人の顔か? あれが元ミス東大の顔か? 笑わせるな!

 もしこれらの発言が事実とするなら、私は片山さつき氏を許さない。片山さつき氏は、
まさに選挙のために地元へやってきて、私たち選挙民を利用しただけ。しかも利用するだ
け利用しておきながら、その私たちを、「田舎者」とは!

 そして先の選挙からちょうど1年になるが、片山さつき氏が、この1年間、この地元に
帰ってきて、何かをしたという話を、私は、まったく知らない。念のためワイフにも聞い
てみたが、ワイフも、「知らない」と言った。ワイフの知人も、「知らない」と言った。

 つまり、片山さつき氏は、選挙のために、私たちを利用しただけ。もっとはっきり言え
ば、自己の名聞名利のために、私たちを利用しただけ。

 しかしこれがはたして、民主主義と言えるのか? こんな民主主義が、この日本で、ま
かり通ってよいのか?

 ある日、突然、中央から、天下り官僚がやってくる。それまで名前のナの字も知らない。
もちろん地元のために、何かをしてきた人でもない。そういう人が、うまく選挙だけをく
ぐりぬけて、国会議員になり、また中央へ戻っていく! どうしてそういう人が、地元の
代表なのか?

 そののち片山さつき氏は、派手なパフォーマンスを繰りかえし、政界ではさまざまな話
題をふりまいている。しかしそれらは、あくまでも、自分のため。私たちの住むこの地元
の利益につながったという話は、まったく聞いていない。少なくとも、私は、まったく知
らない。

+++++++++++++

同じようなテーマで書いたエッセー
がつぎのものです。

先のエッセーの直後に書いたもの
です。

+++++++++++++

●仕事開始!

 夏休みも終わって、仕事開始。とはいっても、これとて大きな変化はない。淡々と、そ
の日のルーティーン(茶飯事)をこなすだけ。

 やりたいことは、いろいろある。しかしどれも、時間がかかることばかり。そのため、
とりかかる前に、何かと、おっくうになる。

 そういえば、昨日(19日)は、頭にカチンとくることがあった。あの片山さつき氏(静
岡県7区から立候補、当選)のことだ。

 片山さつき氏は、この選挙区(地方区)で敗れても、全国区の比例区で当選する段取り
になっていた。だから当時から、(熱意に欠ける選挙運動)が、問題になっていた。その片
山さつき氏が、東京へ戻ってから、こんなことを言っていたという。

「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」(倉田真由美氏指摘・「諸君」)。

 ここまで書いて思い出したことがある。昔、中央官庁で部長をしていた知人が、私にこ
う言った。

 「定年退職をしたら、郷里の長野県のS市に帰って、市長でもしようかな」と。「……で
も」というところが、恐ろしい!

 片山さつき氏の発言は、その部長の発想の延長線上にある。何が、市長だ! バカヤロ
ー!

 何でもかんでも、「東京からきた」というだけで、ありがたがる田舎根性。それはたしか
に、この浜松市にもある。私は、否定しない。

 しかしその田舎根性を逆に利用して、中央からやってくる政治家たち。私は、そういう
政治家というより、そういう政治家を生み出す、この日本のシステムに腹が立つ。

 わかりやすく言えば、日本の民主主義も、この程度。みなが、何かに動かされるまま、
動かされてしまう。自分で、考えようとしない。自分で考えて、行動しようとしない。

 近く、もう少し涼しくなったら、この問題に取り組んでみよう。今は、暑くて、脳みそ
も、だらけがち。それに明日から、仕事が待っている。まず、私の生活を優先させなけれ
ばならない。

 がんばろう! がんばります!


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