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2009年     9月号
Essay……
BOX版(ネットストーレッジ)……





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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 30日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●識字障害(失読症・ディスクレシア)(文字の読めない子ども、20人に1人!)

++++++++++++++++++++

文字を読めない子どもがいる。
何とか読むことはできても、意味や内容を理解
できない。

学習障害児の1様態として考えられている。

日本人のばあい、全体の5%(アメリカ人は全体の10%)いる
と言われている(NHKオンライン)

インターネットを使って、「識字能力」を調べてみた。

++++++++++++++++++++

●ウィキペディア百科事典より

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『……知的能力及び一般的な学習能力の脳内プロセスに特に異常がないにもかかわらず、
書かれた文字を読むことができない、読めてもその意味が分からない(文字と意味両方と
もそれぞれ単独には理解できていることに注意)などの症状が現れる。逆に意図した言葉
を正確に文字に表すことができなくなる「書字表出障害(ディスグラフィア、Dysgraphia)」
を伴うこともある。また簡単な計算ができない「計算障害」を伴うことも多い。左脳内の
文字と意味の相関関係を司る特殊なプロセスに何らかの障害が発生していると考えられて
いるが、はっきりした原因はまだ突き止められていない。なお家族性の発症例も古くから
知られており、遺伝マーカーとの関連に関する研究も行われている』(以上、ウィキペディ
ア百科事典より)。

●NHKオンラインより

 NHKオンラインのHPには、「日本でも5%もいることがわかってきた」という。

『……会話能力にも問題はなく、しかも眼に異常があるわけでもないのに、文章を読むの
に著しい困難を抱える人たちがいる。読字障害だ。この障害が見つかったのは、19世紀
末の英国。数字の「7」は読めるのに「seven」を見せると読めない中学生が見つかった。
当時は、まれなケースと思われていたが、英米では人口の10%、日本では5%もいること
が判ってきた。最新の研究によって読字障害の人は一般の人と、脳での情報処理の仕方が
異なることが明らかになってきた。通常、情報を統合する領域で文字を自動処理している
が、読字障害の人は文字処理をスムーズにできないのである。人類が文字を使い始めてわ
ずか5千年、この時間の短さ故、脳は十分に文字を処理できるよう適応しきれていないの
である』(NHKオンライン)。

●Yahoo・知恵袋より

 識字能力といっても、内容はさまざまに分類される。

『……日本語で失読症と翻訳されている言葉には、Alexia(アレクシア)とDyslexia(デ
ィスレクシア)の2つがあります。

 まず、Alexia(アレクシア)からご説明します。英語版のWikipediaからの引用
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexia_(disorder)をご覧下さい。後天的な脳障害にて、言語機
能のうち、「読む」能力が選択的に障害された状態です。失語症の特殊なタイプと考えられ
ています。

 Dyslexia(ディスレクシア)については、こちら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%AC%E...
をご参照下さい。ディスレクシアは学習障害の一種であり、失読症、難読症、識字障害、
読字障害ともいう、と説明されています。アメリカ合衆国では人口の約15%がディスレク
シアと言われています。トム・クルーズがディスレクシアを抱えていたことを告白したこ
とも、人々の関心を呼び起こした原因となっています。

 国際Dyslexia協会のホームページ
http://square.umin.ac.jp/LDDX/newpage106htm.htmもお読みください。先天性、後天性
の読み書き障害の違いについて、説明されています。ちなみに、この協会ではディスレク
シアを発達性読み書き障害と表記しています。

 Alexia(失読症)、Aphasia(失語症)に使用されているA-は、否定の意味を示す接頭語
です。Apraxia(失行症)、Agnosia(失認症)も全く同じです。これら高次脳機能障害に使
用されている用語は、学問的にも行政的にも、ほぼ確立しています。

 一方、Dyslexia(ディスレクシア)やDysmetria(測定障害)で使われているDys-は、
同じ接頭語でも困難であることを示しています。このため、日本語の訳語でも、「?障害」
と表記されることが多いようです。

 既にAlexiaを失読症と翻訳している現状を考えると、ディスレクシアを失読症と表記す
ることは妥当ではなく、難読症、ないし、識字障害、読字障害と表記すべきでしょう。さ
らに言うと、代表的な学習障害であるという意味を強調するために、国際Dyslexia協会が
使用している発達性読み書き障害という用語の方が意味が明快です。いずれにせよ、ディ
スレクシアをどう表記するかについては、関係学会の調整が必要です。それまでの間は、
ディスレクシア(難読症)と併記するなどの工夫をするしかないでしょう』(Yahoo・知恵
袋より)。

●発達障害の救急箱HPより

 日本でも有名人の中に、識字障害の人がいると言われている。
故岡本太郎氏や、タレントの黒柳徹子氏らの実名があげられている。

『……ディスレクシア(ディスレキシア)とされる芸能人、有名人
"岡本太郎(おかもとたろう) 
"黒柳徹子(くろやなぎてつこ) 
http://www.laqoo.net/hattatu/dyslexia.html』(発達障害の救急箱HP)。

++++++++++++++++++++

●識字障害(Dyslexia)

+++++++++++++++

ほぼ20年ぶりに、ある家族を訪問してみた。
どこか雰囲気がおかしい。
見慣れた家庭の様子とは、どこかちがう。
が、そのときは気がつかなかった。

で、その1年後、再びその家庭を訪問してみて、
私は知った。
その家には、本という本、雑誌にいたるまで、
それがまったくなかった!

+++++++++++++++

●文章を読めない人たち

 その家族……Y家としておく。
私の遠い親戚にあたる。
そのY家の息子(高校3年生)が、引きこもり状態になってしまったという。
相談があった。
そこで私は、資料を、30〜40ページあまりプリントアウトし、それを直接
Y家の人に届けることにした。

 Y家は、見慣れた家庭の雰囲気とは、どこかちがっていた。
どこかちがうということはわかったが、理由がわからなかった。
が、2度目に訪問してみて、気がついた。

 本がない!
本という本が、ない!
雑誌も、ない!
新聞はあったようだが、読んだ形跡がほとんど、ない!
食卓のある居間には、大きなテレビがあった。
ふつうなら、そのあたりに、何冊か本が並んでいる。
それもなかった!

●「私、そんなもん、読んでもわかりません!」

 異変はつづいた。
食卓のある居間で待っていると、そこへYさん(妻)がやってきた。
で、簡単なあいさつをして、私がカバンの中から、プリントアウトした資料を
見せようとしたその瞬間のこと。
Yさんが、突然パニック状態になり、書類のたばを見ることもなく、それを
片手で払いのけてしまった。
「私、そんなもん、読んでもわかりません!」と。

 「引きこもりに関する資料ですが……」と、それを集めてYさんに再び
見せようとすると、Yさんは、そのまま、席を立ってしまった。

 異様な行動だった。
文字というより、書類の束(たば)に、拒絶反応を示した。
そのとき私の脳裏を、「識字障害」という言葉が横切った。

 たいへん珍しいケースだが、Y家では、夫のY氏も、妻のYさんも、
その識字障害者だった。
……というより、若い時より(文字を読まない)→(ますます読めなくなる)の
悪循環の中で、文字から遠ざかってしまった。

ついでにいうと、引きこもりを起こした息子にも、その傾向が見られた。
その少し前、「英語が苦手」「英語の単語をまったく覚えられない」という話を
聞いていた。

●識字障害

 識字障害といっても、

『日本語で失読症と翻訳されている言葉には、Alexia(アレクシア)とDyslexia(ディス
レクシア)の2つがあります。……ディスレクシアは学習障害の一種であり、失読症、難
読症、識字障害、読字障害ともいう』(ヤフー知恵袋)とある。

 つまり失語症といっても、

(Alexiaアレクシア)……後天的な脳障害にて、言語機能のうち、「読む」能力が選
択的に障害された状態。
(Dyslexiaディスクレシア)……学習障害の1つ。
に分類される。

 さらにディスクレシアといっても、

(1)書かれた文字を読むことができない、
(2)読めてもその意味が分からない
(3)(文字と意味両方ともそれぞれ単独には理解できていることに注意)
(4)逆に意図した言葉を正確に文字に表すことができなくなる「書字表出障害(ディス
グラフィア、Dysgraphia)」を伴うこともある。
(5)また簡単な計算ができない「計算障害」を伴うことも多い。(以上、ウィキペディア
百科事典より)というように分類される。

●Y家のばあい

 Yさんにしても、簡単な手紙の読み書きくらいはできる。
実際、手紙をもらったことがある。
また自分たちがそうであることを自覚しているためか、(とりつくろい)が、たいへん
うまい。

 その場をたいへんうまく、とりつくろう。

 同じ日、こんなことがあった。
私がたまたま実母の介護のことで困っていたので、そのことをふと漏らすと、Yさんは、
「いい資料がある」と言って、奥のほうから、小冊子をもってきてくれた。
Yさん自身も、ボランティアだが、近所の老人の世話をしていた。

 が、Yさんはポンとその資料をテーブルの上に置くと、そのままどこかへ行ってしま
った。
「今、しかけた仕事があるから……」と。

 Yさんの説明を期待していたが、私はその資料を、最初からすべて読むハメになった。

●早期発見、訓練こそが、大切

 「5%〜10%」という数字には、驚く。
私も子どもたちの指導を通して、「文章を読めない子ども」というのは、数多く
経験してきた。
さらに「英語の単語を覚えられない」という子どもも、経験してきた。
しかしそれらの子どもが、脳の機能そのものに問題があり、さらにその数が、
20人に1人以上もいるというということまでは知らなかった。
(程度の差もあるだろうから、軽度の子どもも含めれば、数はもっと多い。)

 原因としては、人間の脳が、まだそこまで進化していないということが考え
られる。
文字の発明は、紀元前3500年前後までさかのぼることができる。
が、文字が一般社会に普及し始めたのは、ここ数百年のことである。
脳の機能が、こと文字の発達に、追いついていないということは、じゅうぶん
考えられる。

 が、(機能)の問題であるだけに、早期に発見し、適切に対処すれば、改善の
余地は大いにありということになる。

 現に黒柳徹子氏などは、本まで書いている。

 今、その研究と対策が、始まったばかりということになる。

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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自分の中のバカとの戦い

+++++++++++++++++++++

長野県に住む大学の同窓生と、しばらく電話で話す。
その同窓生が、こんな話をしてくれた。

その同窓生は、2年前、父親を亡くした。
で、昨年、一周忌の法要をした。
その法要でのこと。

同窓生は、法要を簡単にすますつもりでいた。
が、当日、親戚同士が連絡を取り合い、なんと25人前後の
人たちが集まってしまったという。

同窓生の姉に、1人、節介好きの人がいて、その女性が
みなに連絡したという。
同窓生は、かなり怒っていた。

++++++++++++++++++++

●儀式論

 愛知県や岐阜県では、冠婚葬祭を派手にする。
が、「長野県もそうだ」と。
一方、この静岡県(西部)では、全体的に質素。

 それについて、長野県に住む同窓生は、冒頭に書いたようなことを話してくれた。
で、私が、「どういうやり方をすれば、みんなが満足するのか」と聞くと、
こう言った。

「ああいう連中は、どんなやり方をしても、満足しねえだろうね」と。

 そこでしばらく、たがいに儀式論について、話し合った。

 儀式は生活につきもの。
その儀式には、たいてい「形」がある。
形を決めておけば、あとが、楽。
何も考えず、過去を踏襲すればよい。

 で、「ふつうはどんなやり方をするのか?」と聞くと、こう教えてくれた。
「このあたりでは、仏壇の前で僧侶による読経法要が済むと、みなで墓参りを
する。そのあと、どこかの料亭を借りて、飲み食いをする」と。

●変わる時代

私「しかしそれぞれの家庭には、それぞれの事情というものがあるだろ?」
友「あっても、関係ねえな」
私「関係ないって?」
友「形が決まっているからな」
私「それで君は、どうした?」
友「あんなくだらねえこと、やらなかったよ」と。

 時代はたしかに変わりつつある。
が、それよりも問題なのは、同窓生の親類の1人が、こう言ったということ。

「あいつ(=同窓生のこと)は、大学で法学まで学んだのに、常識が備わっていない。
いくら偉そうなことを言っても、そんな常識も知らねえのは、人間のクズ」と。

 その話を、同窓生の姉が、同窓生に伝えたという。
同窓生が、姉を非難したときのことだった。
「私はいいけど、みんなが陰でなんて言っているか、あなたは知っているの!」と。

●アラ探し

 私ももうすぐ、母と兄の一周忌の法要をする。
連絡したのは、実姉のみ。
たぶん姉のことだから、喪主の私をさておいて、同じようにあちこちに連絡するだろう。
姉は、姉の常識(?)に従って行動する。

 同窓生の姉も、そして私の姉も、(伝統)という(鎧(よろい))を身につけているから、
強い。
その伝統を破るのは、簡単なことではない。
よい例が、地域の(祭り)。
祭りというのは、作るのは簡単。
しかし一度、できあがってしまうと、今度は、変えるのはむずかしい。
(形)の上に、また別の(形)ができてしまう。

 そういう(形)に抵抗を示すと、それだけで(変わり者)というレッテルを張られて
しまう。
先の同窓生も、そう見られているという。

私「大学で教育を受けたというと、そういうのが教育と、みな、思うからね」
友「学歴コンプレックスの裏返しではないかなあ・・・」
私「そういう面もあるよな」
友「あいつら、何かにつけて、オレのアラ探しをするからな」
私「そうそう、ぼくもそうだ。先日も、ぼくに向かって、『偉そうなこと言うな』と
言った人もいたぞ」
友「そりゃあ、ちょっと、ひでえな〜」と。

●同じ長野県でも・・・

 もう一人、長野県には同窓生がいる。
彼は長野市から、車で1時間ほどの町に住んでいる。
その町では、「質素運動」というのが、10年以上も前から進められているという。
香典の額にしても、1世帯当たり、一律に1000円と決められているという。
香典袋にしても、市役所のほうで、販売しているという。

 また寺が出す戒名にしても、一律、同名、同額に決められているという。

 同じ長野県でも、地域によって、みな、それぞれとのこと。
私が「長野市のA君の話とは、だいぶちがうな?」と言うと、その同窓生は、
「ああ、あそこは派手だからな。ここは貧乏村なんだよな」と。

 これはあくまでも補足。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 法事 儀式 一周忌の法要)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

【TK先生からのメール】

林様:

  今度はよく見られました。 大変な重労働でしたね。 梯子や脚立から落ちたりしな
いよう十分に気をつけて下さい。 それにしても切った木はどのように片つけるのでしょ
うか。 昔のようにたき火もできないし、細かく切って袋に入れる作業もそれこそ大変で
はないかと想像しています。 御苦労様でした。

  私はビニルのひもが早く回って雑草や芝刈りが精いっぱいです。 それにしても最初
に除草機を動かすには私の力では動かないので、介護の人が来たときに引っ張って動かし
てもらいます。 もっと簡単なものがないかと気にしています。 一人住まいで庭の手入
れが精一杯です。

  来月は理科大の卒業生が20人あまり「先生の庭の除草に来ますが、まさか偉くなっ
た弟子に除草でもないし、一仕事です。 芝生よりも雑草の方が元気良く増えますから。 
何時まで管理ができるか、先が思いやられます。 未だ老化など全然考えない貴方には分
からない心境ですけれど。 その一週間後には例の「サロン・ド・タマル」があり、結構
忙しいです。 皆よく来てくれると有難く思っています。 こんなこと全く例外的なこと
だとよく言われます。

  私の化学会の「インタビュー」(写真入りもお送りしましたっけ)が思いの外、評判
になって「現在の日本の教育は危機状態である」と日本化学会の会長さんをはじめ、幾人
もの連中が相談を始めています。 もう私のような老人が出る幕ではないし、出来るだけ
控えたく思っていますが、来月に開かれる化学会の「顧問会」(会長経験者敬の集まり)に
は主題の一つになりそうで迷っています。

  くれぐれもお元気で。
                                                                             
  TKより

++++++++++++以上、TK先生からのメール+++++++++++++++

 「老化?」。
私よりTK先生の方が、若い!
毎月のように、多くの弟子や研究者が、先生のもとを訪れている。
東大でも、教授になった弟子の数がいちばん多いのが、TK先生である。
以前、「総理大臣が(自宅まで)あいさつに来ました」と、話してくれたこともある。
少し前までは、天皇陛下のテニス仲間でもあった。
(この3月に人工関節にしてからは、テニスの話は聞いていない。)

 80歳を過ぎても、外国の文献を翻訳し、出版している。
そういう人物を、「若い」という。

 私の親類などは、まだ60代なのに、一周忌だの、三周忌だのと、墓参りや法事
ばかりを一生懸命している。
そればかりにこだわっている。
その(ちがい)というか(落差)を覚えるたびに、「老後って何?」と考えさせられる。

 TK先生には、とてもかなわないが、目標はTK先生。
生きざまをまねしたい!
私は死ぬまで、ヤンング・オールド・マンを貫くぞ!

(追記)
栗の木を切った様子は、YOUTUBEにアプロード済み。
「hiroshihayashi」で検索してくださると、お楽しみいただけます。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 老後 ヤングオールドマン Young Old Man ヤング・オールド・マン)

【はやし浩司よりTK先生へ】

お元気そうですね!!!

よかった!!!!

切り取った木は、そのまま裏山の空き地に投げ捨てていきます。
1〜2年もすると、木は枯れ、やがて土に返っていきます。
その土を取りだし、一度、日干しにしたあと、今度は肥料にします。
リサイクルです。
日干しにするのは、虫の卵がいっぱい入っているからです。

私も何度か、草刈りに行ってあげようかと思いましたが、
もともと草刈りはへたです。
最近は、山荘周辺の200〜400メートル前後の道の両側まで
草刈りをしています。
このあたりも高齢化が進み、草を刈る人が、年々少なくなってきました。

しかしよい運動になります。
汗をかくのは、よいことです。
それに楽しいです。

たしかに化学は嫌い……という高校生がふえています。
ほとんどがそうではないかな?
どうして?、と聞くと、必ず返ってくる言葉が、「暗記がめんどう」と。
みな、暗記科目と誤解しています。
この誤解を解くのがむずかしいですね。
古い切り傷のかさぶたのように、固まっていますから……。

コンピュータゲームで、そういう楽しいゲームはできないものでしょうか?

たとえば、新型放射線シールド物質の作り方……とか何とか?
分子を合成して、合成たんぱくをつくろうというのでもよいかもしれません。
ゲーム化してしまうのです。

私も現役時代だったら、(つまり教材屋時代の私だったら)、どこかへ
話をもちかけて、ゲーム化したかもしれません。

今日は8時間たっぷり眠りました。
朝の風も気持ち良く、すがすがしい気分です。

今朝も始まりました。
がんばります!
メール、ありがとうございました。

はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●映画『ハリーポッター』(A Half Blood Prince)

++++++++++++++++++

昨夜、日曜日の夜ということで、深夜劇場へと足を運んだ。
観たのは、『ハリーポッター』(A Half Blood Prince)。

くだらないというか、まったく、意味のない映画。
星など、つけようもない。
しかしあえてつければ、1つ。★。

よくもまあ、あのようなアホな映画をつくるものだ。
むしろ、そちらのほうに感心した。

ひとつの魔法が生まれると、今度はそれを打ち消す魔法が生まれる。
別のところでは有効だった魔法が、今度は無効。
あるいは魔法を使えば簡単に解決できるような場面でも、あえて
使わなかったり……。

マッチ・ポンプ映画というか、矛盾だらけ映画。
哲学もゼロ。
感動もゼロ。

結局、ダラダラと話がつづいて、何一つ問題を
解決しないまま、そこで終わり。
「次回へつづく」と。

私は字幕版のほうを見たが、英語は、シェークスピア的な
格調高いもの。
字幕の方では、それがうまく表現されていなかった。
残念と言えば残念ということになるが、言い換えると、
とってつけたような表現、もしくは美辞麗句のかたまり。
そんな英語だった。

まねをして書いてみよう。

「脳を腐らせる愚作。
革命的なほどまでに空漠とした作品。
しばし、睡魔をともなった不可抗力的なあくびに、
心を奪われる」。

どうしてあんな映画が、(作品が)、世界的な作品(?)
なのか。
観終わったあと、改めて、それを確認した。

劇場を出るとき、ワイフと、「Hachi」にすればよかったと、
何度も言いあった。

++++++++++++++++++++

●8月24日

●いなくなったミツバチ

++++++++++++++++++++

「ミツバチがいなくなった」とは、よく聞く。
新聞やテレビでも、よく報道されている。
しかしそれが私の家の庭でも、そうなるとは
思ってもいなかった。
また私の家には、関係のない話だと思っていた。

++++++++++++++++++++

 最後に見たのは、1か月以上も前のこと。
7月のはじめごろではなかったか。
そのころ、畑のナスにうどん粉病が発生するようになった。
そこで私は、殺虫剤と殺菌剤を混合した、スプレー式の農薬を買ってきた。
かなり強力な農薬だった。
例年なら、赤虫など、いろいろな虫がキュウリの葉を食べた。
が、今年は虫がつかなかった。
同時に、ミツバチも来なくなった。

 ミツバチといっても、私が見たのは1匹だけだった。
そのミツバチが、忙しそうにあちこちを飛び回っていた。

 畑に異変が起きたのは、そのあとのことだった。

 4月に一度、いんげん豆の苗を、5本ほど植えた。
それはよく実をつけた。
 つづいて6月ごろ、もう一度、いんげん豆の苗を、5本ほど植えた。
肥料がよかったのか、6月に植えた苗は、すくすくと成長し、あっという間に、
私の身の丈を超えた。
が、苗は葉をつけるだけ。
どんどん大きくなるだけ。
今にいたるまで、まったく実をつけない!

 例年だと、このやり方で、今ごろは食卓にいんげん豆の料理が、毎晩のように並ぶ。
が、今年は、ゼロ。
いんげん豆の収穫は、ゼロ。

 「おかしい」と思った。
ワイフも、「おかしい」と言った。
で、そのうち、「そう言えば、ミツバチを見ない」と、たがいに言い出した。

●殺虫剤

 5、6年前から、ハチ退治用の殺虫剤が店に並ぶようになった。
私もスズメバチ退治用に、何度か使ったことがある。
が、である。

 最近、近くの大型ドラグストアへ行ってみて、驚いた。
種類と数が、ものすごくふえていた。
ズラリとふえていた。
「飛距離、7メートル」「直射噴射」「一網打尽」とかなど。
それぞれが殺虫剤の特徴を、競っていた。

 このことと、ミツバチが減ったこととの間に、因果関係があるとは、断言できない。
しかしみなが、平気で、また簡単にハチを殺すようになったのは、事実。
その中には、ミツバチも含まれているかもしれない。

●食糧危機

 「ミツバチがいなくなったら、つぎにやってくるのは、食料危機」。
専門家たちは、そう警告している。
残された方法は、人口受粉だが、そんなことをしても、追いつくはずがない。
農家の人自身が、「不可能」(テレビ報道)と断言している。

 一方、ミツバチがいなくなったのは、地球温暖化と関係していると説く人もいる。
どういう連続性をもってそうなるのかは、私にもよくわからない。
それに温暖化の影響は、ミツバチだけに及んでいるのではない。
私たちの生活の、ありとあらゆる部分に及んでいる。
そしてそれは、年を追うごとに、深刻化している。
ミツバチがいなくなった結果として、食糧危機がやってきたとしても、それは地球
温暖化の一部にすぎない。

 現に、世界中で地球温暖化による、農地の砂漠化が進んでいる。
極地方では凍土も溶け出し、今後、大量のメタンガスが発生することも予想されている。
そうなれば、地球温暖化は、ますます加速される。
ミツバチどころではない、ということになる。

●不測の事態

 不測の事態が、また別の不測の事態を生む。
人間の想像力にも限界がある。
こうしてやがて世界中が、不測地獄へと陥っていく。
最近耳にした新しい話としては、こんなのがある。
地球温暖化が進んで、海の底を流れる海流の流れまで、変わってきたという。
そのためプランクトンの発生地や量が、大きく影響を受け始めているという。
もちろんこのことは、魚などの海洋生物にも、深刻な影響を与える。

 ほかにもたとえば、今からたった10年前でもよいが、ミツバチへの影響を予想した
学者はいただろうか?

●では、どうするか

 スズメバチなどはしかたないとしても、ハチ退治用の殺虫剤を使うにしても、
それなりの注意書きは必要ではないか。
「直接的な害がないばあいは、ミツバチ退治などには、使用しないでください」程度の
ことは書いてのでは……。
農薬の使いすぎは、各方面で問題になっているが、家庭においても、最小限にしたい。

 ところで、こんな話もある。

 もし、アリがいなくなったら、やがて人類は滅亡するだろうと言われている。
アリは、地上の掃除人。
その掃除人がいなくなることになる。

 さらに今日、こんな不気味な話を聞いた。
静岡県と言えば、お茶の産地。
そのお茶の産地から、夏のセミの声が消えて、久しいという。
原因は、言わずと知れた、農薬。

 また私の家の近辺から、スズメが消えた。
消えたというより、本当に少なくなった。
10年前の、10分の1以下になった。
あるいはそれ以下になった。
だれかがどこかで、スズメを殺している(?)。

 「とりあえず自分さえよければ……」という考え方を、みなが捨てないかぎり、
そのつぎに待っているのは、私たち自身の滅亡ということになる。

(付記)

 私自身は、人類の滅亡は、……というより、地球の火星化は、もう避けられないもので
はないかと思っている。
私たちの努力で、その時期を遅らせることはできても、止めることはできない。
100年後はよくても、200年後のことはわからない。

問題はそれをどう防ぐかではなく、そこに至る地獄を、人類はどう処理するか、である。
それこそ、どんなはげしいSF映画ですらも描ききれないような地獄絵図が、繰り広げ
られるようになるはず。

 そのとき、私たちはいかにして、自分を守り、自分を支えるか。
その哲学というか、倫理観をどうもつか。
この際、宗教観でもよい。

 その構築を同時進行の形で、推し進めないと、それこそ人類は、たいへんなことになる。
(悲観的な見方で、ゴメン!)


はやし浩司+++++++++Aug 09+++++++++++Hiroshi Hayashi

●総選挙

 8月30日、衆議院議員選挙がある。
おおかたの予想では、自民党の大敗北。
民主党の、大躍進。
「自民党は、このまま滅亡するだろう」とさえ、言われている。

 で、不動表層の1人として、意見を一言。

 こういうとき、浮動票層の人たちには、絶妙のバランス感覚が
働く。
いわゆる「判官びいき」(=弱者にひいき)が働く。
しかし今回は、どういうわけか、働かない。
自民党がどうのこうのという問題ではない。
私たちは、あのAS首相だけには、勝たせたくない。
いい気にさせたくない。

 が、肝心のAS首相自身は、まるで自分のことがわかっていない。
ますますいい気になって、はしゃいでいる(?)。
だからどうせやるなら、徹底的に……となる。
つまり徹底的に、反ASで、固まる。

 自民党は大敗北したのち、その歴史の幕を閉じる。
分裂、結合、新党結成、吸収、合併を繰り返しながら、消滅する。
が、これだけは忘れてはいけない。

 その責任は、あのAS首相にある。
だから今ごろ自民党支持者や議員たちは、こう思っているはず。
「選挙が終わったら、アイツを袋叩きにしてやる」と。
私も、今度だけは、ただではすまないと思う。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

【TK先生からの追伸】

(TK先生について原稿を書いたときには、かならずTK先生に
その内容をすべて送付するようにしている。
内容について、まちがいを指摘してもらうためである。)

林様:

  化学はコンピュータの時代になると、「暗記モノ」から「探究的思考力を鍛える科学
の一分野」になりつつあります。 加速度的に変化が速くなる時代をリードできるのは創
造力の問題です。 教師が自分で考えないから生徒はその背を見て教わるのです。 かわ
いそうに。 いい知恵があったら教えて下さい。
                                                                             
  TK


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 28日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●無意識下の変化

++++++++++++++++++++

意識できるから、「意識」という。
意識できないから、「無意識」という。
しかし私は考える。
その意識できない部分にある無意識を、なんとか意識できないか、と。
が、ここでまた別の矛盾にぶつかってしまう。

いくら無意識でも、意識したとたん、それは無意識では
なくなってしまう。
意識である、
そしてさらにその奥に、無意識の世界が広がる。
しかもその世界は、意識の世界より、何十万倍も広い。

そうなれば、さらにその奥にある無意識に向かって、
進む。

ということは、意識・無意識の問題は、レベルの問題
ということになる。
探検にたとえるまでもない。
きわめて表層的な意識だけの世界で生きている人もいる。
しかし一方、本来、無意識の世界にまで深く立ち入って、
それを意識して生きている人もいる。

では、どうすれば、無意識の世界まで奥深く立ち入って、
私は、さらに「私」を知ることができるか。

++++++++++++++++++++

●無意識下の世界

 無意識の世界が、具現化して表れるのが「夢」ということになる(フロイト)。
その夢を分析すれば、無意識下の(意識)が、何をどのように考えているかが
わかるという。

●今朝の夢

 今朝、こんな夢を見た。
寝起きの夢である。
そのとき私は、ワイフとどこかの田舎道を歩いていた。
舗装もしてないような、土むき出しの、でこぼこ道だった。
道も、まっすぐではなく、農家の間をぬうような、曲がりくねった道だった。

 私は近くにいた人に、こう聞いた。
「豊橋へ行くのは、どう行けばいいですか」と。
その人はていねいに教えてくれたが、そちらに方向には、道らしい道はなかった。
そこで私は反対側にある、浜松市への方向を聞いた。

 浜松市への道は、やはりでこぼこ道だったが、わかりやすかった。
私とワイフは、道に沿って歩いた。
しばらくすると、バス停があった。
近くに、駄菓子屋もあった。
私とワイフは、バスを待った。

 しばらくすると、バスがやってきた。
見ると「豊橋行き」とあった。
私とワイフは、バスに乗った。
が、どうも様子がおかしい。

 「今、何年ですか?」と聞くと、前に座った客が、「昭和20年です」と答えた。
とたん、今、もっているお金が使えるだろうか、それが心配になった。
私は、昭和20年ごろのお金は、もっていなかった。
最近のお金を出せば、ニセコインと思われるにちがいない。

 そこで目が覚めた。

●夢判断

 私は、自分が見た夢を、どのように判断すればよいのか。
夢と言えば、私のばあい、ほとんどが旅行をしている夢。
たいていはバスや電車に乗る夢。
そこから家に向かって、帰る夢。

 慢性的な不安神経症(パニック障害)が、基礎にあると考えられる。

 で、今回は、昭和20年。
これには最近見た、テレビのドキュメンタリー映画が影響しているようだ。
あるいは私はSF映画を、好んで見る。
その影響もあるかもしれない。

 バスの運賃については、バスに乗るたびに、小銭の心配をする。
それが夢の中にも、出てきた。

 しかし農道にしても、あのバスにしても、いかにも昭和20年ごろのものという
感じがした。
それは私が子どものころ、どこかで見た農道が、記憶の中に残っているものと思われる。

●根なし草

 こうした夢と、私の無意識とどう結びつけたらよいのか。
ひとつ気になる点があるとするなら、私が見る夢は、ここにも書いたように、いつも旅行
をしている夢。
旅行を楽しんでいる夢というよりは、「家に帰る」という夢。

 私はいつもどこかに住みながら、(そこ)を、定住の場所とは考えていない。
あるいはふつうの人ならみな、もっているだろう安定した(故郷感)をもっていない。
私にとって、(故郷)というのは、そういうもの。
子どものころから、実家のあるあの(故郷)が、いやでいやで、たまらなかった。
つまり私は、「根なし草」。
心の拠りどころをもっていない。
それがそのまま夢の中に、現れてくる。

 私が日常的に感じている、不安感、さらに言えば、孤独感の原因も、どうやらその
あたりにある。
そしてそれがそのつど、姿、形を変えて、私の生きざまに大きな影響を与えている。

●末那識(まなしき)

 こうして私は、無意識下の「私」について、ひとつの手がかりを得たことになる。
無意識下にも、「私」がいて、それがいつも私を、「下」から操っている。
・・・と考えなおしてみると、あのジークムント・フロイトという人は、ものすごく頭の
よい人だったということがわかる。

 もっとも仏教の世界でも、同じようなことを言っている。
「末那識」(まなしき)という言葉もある。

「末那識」について書いた原稿をさがしてみる。

++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●愛他的自己愛者(偽善者)

+++++++++++++++++

私の知人に、こんな女性(当時55歳くらい)がいた。
その女性は、何でも、ボランティア活動として、近所の
独居老人の世話をして回っているという。
そういう話を、その女性から直接、聞いた。

「どんなことをしているのですか?」と聞くと、
その女性は、ことこまかに、あれこれと説明してくれた。
で、あるとき、こんな会話をしたのを覚えている。

私がその話に少なからず感動し、「すばらしいことです」と
言ったときのこと。
その女性は、さらにこう言った。
「いえいえ、私なんか、何でもありません。
私の友人のHさんなんかは、独居老人の入浴を手伝っていますよ。
でね、入浴中に、老人が、便をもらすこともあるそうです。
が、Hさんは、そうした便を、手ですくって、外へ捨てていますよ」と。

さらに驚いたことに、話を聞くと、そのHさんというのは、まだ
20代の後半の男性と言った!

私は当時、この話を聞いて、心底、感動し、エッセーも書き残した。

しかし、である。
どうも、この話は、おかしい。
どこか、へん。

+++++++++++++++++++

その人が善行をなすには、その人自身を支える、(周囲文化)というものが必要である。
たとえば自動車産業というものを考えてみよう。
自動車産業が生まれるためには、それを支える周辺の技術、研究、環境が必要である。
人材ももちろん、育成しなければならない。
そういった(周囲)もないまま、自動車産業だけが、忽然(こつぜん)と、
姿を現すということはありえない。

そこで私は、その女性の周辺に興味をもつようになった。
どういう生い立ちで、どういう人生を送ってきたか、などなど。
またその女性を支えている哲学は何か、とも。

しかし、である。
それから5、6年になるが、どこをどうつついても、その(周囲文化)というものが、
浮かび上がってこない。
それなりの基礎があったとか、経験があったとかいうなら、まだ話がわかる。
また会話をしていて、それなりの(深み)を感ずるというのなら、まだ話がわかる。
しかしそういうものが、まったく、ない。
だいたい、本を読んだことさえないという。
音楽も絵画もたしなまない。

そのうち私は、「どうしてそんな女性が、ボランティア活動?」と、疑問に思うように
なった。
が、やがていろいろな情報が入ってくるようになった。

その女性は、ケチの上に、「超」が三つも四つも重なるような女性である。
子どもの教育費すら、惜しんで出さなかったという。
2人の娘がいたが、「大学を出すと、遠くの男と結婚するから」という理由で、
娘たちには、大学へは行かせなかった。
が、世間体だけは人一倍気にしていた。
見栄っぱりで、虚栄心が強かった。
が、決定的だったのは、その女性が、一方でボランティア活動を他人に吹聴しながら、
その前後から始まった実父の介護では、虐待に近いことをしていたということ。

この話を、私はあるケアマネ(ケア・マネージャー)をしている人から聞いた。
そのときには、「ヘエ〜、あの女性がですか……」と言ったきり、言葉が詰まってしまった。

つまりその女性は、ボランティア活動を、自分を飾るための道具として利用していただけ。
口もうまい。
言葉も巧み。
それとなく会話の中に、自分の善行を織り交ぜながら、相手を煙に巻く。
結果として、他人に、自分はすばらしい人間と思わせる。

「明日、町内の会合があるそうですが、私は行けません。
主人に代わりに行ってもらいます。
私には、一人、近所で、気になっている老人がいますので、その人を見回って
あげなければなりません。
かわいそうな人でね。
子どもは1人いるのですが、数年に1、2度、やってくるかどうかという人です。
あわれなもんです。
先日も、何かの書類が必要だというので、その老人のために、私は半日かけて
書類を集めてやりました」とか、何とか。

つまり一貫性がない。

そこまで親身になって独居老人の世話をしているというのなら、それなりの一貫性が
なければならない。
その一貫性が、こちら側に伝わってこなければならない。
さらに言えば、そこに至るまでのプロセスに、(自然さ)がなければならない。

たとえば以前、ある大学の教授の家を訪問したときのこと。
たまたまそこに、カンボジアの難民キャンプから帰ってきたばかりという女性がいた。
その女性は、左手を怪(けが)したとかで、まだ大きな包帯を幾重にも巻いていた。
「暴動に巻きこまれて、怪我をしました」「それで休暇をもらって、日本へ帰ってきて
います」ということだった。

そういう女性と話していると、(自然さ)を感ずる。
深い人間愛というか、人間味を感ずる。
哲学や人生観を感ずる。
どこにもスキがない。
私がここでいう(一貫性)というのは、それをいう。

で、私たちの世界では、先に書いたような女性のことを、「愛他的自己愛者」、つまり、
「偽善者」という。
もっとも軽蔑すべき人間ということになる。
なるが、先に書いたケアマネの人は、こう言って教えてくれた。

「そういう女性だとわかっていますが、そういう人でも、何かと助かっています」と。
偽善がときには、真善になるということもあるということか。
私には、とてもマネできないことだが……。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【末那識(まなしき)】

●偽善

 他人のために、善行をほどこすことは、気持ちがよい。
楽しい。
そう感ずる人は、多い。
俗にいう、「世話好きな人」というのは、そういう人をいう。
しかしそういう人が、本当に他人のことを思いやって、そうしているかと言えば、それは
どうか?

実は、自分のためにしているだけ……というケースも、少なくない。

このタイプの人は、いつも、心のどこかで、たいていは無意識のまま、計算しながら行動
する。
「こうすれば、他人から、いい人に思われるだろう」「こうすれば、他人に感謝されるだろ
う」と。
さらには、「やってあげるのだから、いつか、そのお返しをしてもらえるだろう」と。

心理学の世界でも、こういう心理的動作を、愛他的自己愛という。
自分をよく見せるために、他人を愛しているフリをしてみせることをいう。
しかしフリは、フリ。
中身がない。仏教の世界にも、末那識(まなしき)という言葉がある。
無意識下のエゴイズムをいう。わかりやすく言えば、偽善。

 人間には、表に現われたエゴイズム(自分勝手)と、自分では意識しない、隠されたエ
ゴイズムがある。
表に現れたエゴイズムは、わかりやすい。自分でも、それを意識することができる。

 しかし、この自分では意識しない、隠されたエゴイズムは、そうでない。
その人の心を、裏から操る。
そういう隠されたエゴイズムを、末那識というが、仏教の世界では、この末那識を、強く
戒める。

 で、日本では、「自己愛」というと、どこか「自分を大切にする人」と考えられがちであ
る。しかしそれは誤解。自己愛は、軽蔑すべきものであって、決して、ほめたたえるべき
ものではない。

 わかりやすく言えば、自己中心性が、極端なまでに肥大化した状態を、「自己愛」という。
どこまでも自分勝手でわがまま。
「この世界は、私を中心にして回っている」と錯覚する。「大切なのは、私だけ。あとは、
野となれ、山となれ」と。

 その自己愛が基本にあって、自己愛者は、自分を飾るため、善人ぶることがある。繰り
かえしになるが、それが愛他的自己愛。つまり、偽善。

 こんな例がある。

●恩着せ

 そのときその男性は、24歳。その日の食費にも、ことかくような貧しい生活をしてい
た。

 その男性から、相談を受けたXさん(女性、40歳くらい)がいた。その男性と、たま
たま知りあいだった、そこでXさんは、その男性を、ある陶芸家に紹介した。
町の中で、クラブ制の窯(かま)をもっていた。
教室を開いていた。その男性は、その陶芸家の助手として働くようになった。

 が、それがその男性の登竜門になった。その男性は、思わぬ才能を発揮して、あれよ、
あれよと思う間に、賞という賞を総なめにするようになった。20年後には、陶芸家とし
て、全国に、名を知られるようになった。

 その男性について、Xさんは、会う人ごとに、こう言っている。

 「あの陶芸家は、私が育ててやった」「私が口をきいてやっていなければ、今でも、貧乏
なままのはず」「私が才能をみつけてやった」と。
そして私にも、こう言った。

 「恩知らずとは、ああいう人のことを言うのね。あれだけの金持ちになっても、私には
1円もくれない。あいさつにもこない。盆暮れのつけ届けさえくれない」と。

 わかるだろうか?

 このXさんは、親切な人だった。そこでその男性を、知りあいの陶芸家に紹介した。
が、その親切は、ある意味で、計算されたものだった。
本当に親切であったから、Xさんは、その男性を、陶芸家に紹介したわけではなかった。
それに一言、つけ加えるなら、その男性が、著名な陶芸家になったのは、あくまでもその
男性自身の才能と努力によるもの。

 ここに末那識(まなしき)がある。

●愛他的自己愛

 この末那識は、ちょっとしたことで、嫉妬、ねたみ、ひがみに変化しやすい。
Xさんが、「恩知らず」とその男性を、非難する背景には、それがある。そこで仏教の世界
では、末那識つまり、自分の心の奥底に潜んで、人間を裏から操(あやつ)るエゴイズム
を、問題にする。

 心理学の世界では、愛他的自己愛というが、いろいろな特徴がある。ここに書いたのは、
偽善者の特徴と言いかえてもよい。

(1)行動がどこか不自然で、ぎこちない。
(2)行動がおおげさで、演技ぽい。
(3)行動が、全体に、恩着せがましい。
(4)自分をよく見せようと、ことさら強調する。
(5)他人の目を、強く意識し、世間体を気にする。
(6)行動が、計算づく。損得計算をいつもしている。
(7)裏切られるとわかると(?)、逆襲しやすい。
(8)他人をねたみやすく、嫉妬しやすい。
(9)他人の不幸をことさら笑い、話の種にする。

 こんな例もある。同じ介護指導員をしている、私の姉から聞いた話である。

●Yさんの仮面

 Yさん(60歳、女性)は、老人介護の指導員として、近所の老人家庭を回っていた。
介護士の資格はもっていなかったから、そのため、無料のボランティア活動である。

 とくにひとり住まいの老人の家庭は、数日ごとに、見舞って、あれこれ世話を焼いてい
た。
もともと世話好きな人ということもあった。

 やがてYさんは、町役場の担当の職員とも対等に話ができるほどまでの立場を、自分の
ものにした。
そして市から、介護指導員として、表彰状を受けるまでになった。

 だからといって、Yさんが、偽善者というわけではない。
またYさんを、非難しているわけでもない。仮に偽善者であっても、そのYさんに助けら
れ、励まされた人は、多い。
またYさんのような親切は、心のかわいたこの社会では、一輪の花のように、美しく見え
る。

 が、Yさんは、実は、そうした老人のために、指導員をしているのではなかった。
またそれを生きがいにしていたわけでもない。
Yさんは、「自分が、いい人間に思われることだけ」を考えながら、介護の指導員として活
動していた。

 みなから、「Yさんは、いい人だ」と言われるために、だ。Yさんにしてみれば、それほ
ど、心地よい世界は、なかった。

 しかしやがて、そのYさんの仮面が、はがれる日がやってきた。

 Yさんが、実父の介護をするようになったのである。

実父は、元気な人だったが、脳梗塞(こうそく)を起こしてしまった。
トイレや風呂くらいは、何とか自分で行けたが、それ以外は、寝たきりに近い状態になっ
てしまった。
年齢は、73歳(当時)。

 最初は、Yさんは、このときとばかり、介護を始めたが、それが1か月もたたないうち
に、今度は、実父を虐待するようになった。
風呂の中で、実父が、大便をもらしたのがきっかけだった。

 Yさんは、激怒して、実父に、バスタブを自分で洗わせた。
実父に対する、執拗な虐待が始まったのは、それからのことだった。

 食事を与えない。与えても、少量にする。
同じものしか与えない。初夏の汗ばむような日になりかけていたが、窓を、開けさせない。
風呂に入らせない。
実父が腹痛や、頭痛を訴えても、病院へ連れていかない、など。

 こうした事実から、介護指導員として活動していたときの、Yさんは、いわば仮面をか
ぶっていたことがわかったという。
ケアマネの人は、こう言った。

 「他人の世話をするのは、遊びでもできるけど、身内の世話となるいと、そうはいかな
いからね」と。

●子育ての世界でも

 親子の間でも、偽善がはびこることがある。無条件の愛とか、無償の愛とかはいうが、
しかしそこに打算が入ることは、少なくない。

 よい例が、「産んでやった」「育ててやった」「言葉を教えてやった」という、あの言葉で
ある。
昔風の、親意識の強い人ほど、この言葉をよく使う。

 中には、子どもに、そのつど、恩を着せながら、その返礼を求めていく親がいる。
子どもを1人の人間としてみるのではなく、「モノ」あるいは、「財産」、さらには、「ペッ
ト」としてみる。
またさらには、「奴隷」のように考えている親さえいる。

 息子(当時29歳)が、新築の家を購入したとき、その息子に向って、「親よりいい生活
をするのは、許せない」「親の家を、建てなおすのが先だろ」と、怒った母親さえいた。

 あるいは結婚して家を離れた娘(27歳)に、こう言った母親もいた。

 「親を捨てて、好きな男と結婚して、それでもお前は幸せになれると思うのか」「死んで
も墓の中から、お前を、のろい殺してやる」と。

 そうでない親には、信じがたい話かもしれないが、事実である。
私たちは、ともすれば、「親だから、まさかそこまではしないだろう」という幻想をもちや
すい。
しかしこうした(ダカラ論)ほど、あてにならないものはない。

 親にもいろいろある。

 もっとも、こうしたケースは、稀(まれ)。
しかしそれに近い、代償的過保護となると、「あの人も……」「この人も……」というほど、
多い。

●代償的過保護

 代償的過保護……。ふつう「過保護」というときは、その奥に、親の深い愛情がある。
愛情が基盤にあって、親は、子どもを過保護にする。

しかし代償的過保護というときは、その愛情が希薄。あるいはそれがない。「子どもを自分
の支配下において、自分の思いどおりにしたい」という過保護を、代償的過保護という。

 見た目には、過保護も、代償的過保護も、よく似ている。
しかし大きくちがう点は、代償的過保護では、親が子どもを、自分の不安や心配を解消す
る道具として、利用すること。
子どもが、自分の支配圏の外に出るのを、許さない。よくある例は、子どもの受験勉強に
狂奔する母親たちである。

 「子どものため」を口にしながら、その実、子どものことなど、ほとんど考えていない。
人格さえ認めていないことが多い。
自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに強要することもある。
世間的な見得、メンツにこだわることもある。

 代償的過保護では、親が子どもの前に立つことはあっても、そのうしろにいるはずの、
子どもの姿が見えてこない。

 つまりこれも、広い意味での、末那識(まなしき)ということになる。
子どもに対する偽善といってもよい。
勉強をいやがる息子に、こう言った母親がいた。

 「今は、わからないかもしれないけど、いつか、あなたは私に感謝する日がやってくる
わよ。SS中学に合格すれば、いいのよ。お母さんは、あなたのために、勉強を強いてい
るのよ。わかっているの?」と。

●教育の世界でも

 教育の世界には、偽善が多い。
偽善だらけといってもよい。
教育システムそのものが、そうなっている。

 その元凶は「受験競争」ということになるが、それはさておき、子どもの教育を、教育
という原点から考えている親は、いったい、何%いるだろうか。
教師は、いったい、何%いるだろうか。

 教育そのものが、受験によって得る欲得の、その追求の場になっている。
教育イコール、進学。
進学イコール、教育というわけである。

さらに私立中学や高校などにいたっては、「進学率」こそが、その学校の実績となっている。
今でも夏目漱石の「坊ちゃん」の世界が、そのまま生きている。
数年前も、関東地方を中心にした、私立中高校の入学案内書を見たが、どれも例外なく、
その進学率を誇っていた。

 SS大学……5人
 SA大学……12人
 AA大学……24人、と。

 中には、付録として、どこか遠慮がちに別紙に刷りこんでいる案内書もあったが、良心
的であるから、そうしているのではない。
毎年、その別紙だけは、案内書とは分けて印刷しているために、そうなっている。

 この傾向は、私が住む、地方都市のH市でも、同じ。
どの私立中高校も、進学のための特別クラスを編成して、親のニーズに答えようとしてい
る。

 で、さらにその元凶はいえば、日本にはびこる、職業による身分差別意識と、それに不
公平感である。
それらについては、すでにたびたび書いてきたのでここでは省略するが、ともかくも、偽
善だらけ。

 つまりこうした教育のあり方も、仏教でいう、末那識(まなしき)のなせるわざと考え
てよい。

●結論

 私たちには、たしかに表の顔と、裏の顔がある。
文明という、つまりそれまでの人間が経験しなかった、社会的変化が、人間をして、そう
させたとも考えられる。

 このことは、庭で遊ぶスズメたちを見ていると、わかる。
スズメたちの世界は、実に単純、わかりやすい。礼節も文化もない。
スズメたちは、「生命」まるだしの世界で、生きている。

 それがよいとか、はたまた、私たちが営む文明生活が悪いとか、そういうことを言って
いるのではない。

 私たち人間は、いつしか、自分の心の奥底に潜む本性を覆(おお)い隠しながら、他方
で、(人間らしさ)を追求してきた。
偽善にせよ、愛他的自己愛にせよ、そして末那識にせよ、人間がそれをもつようになった
のは、その結果とも言える。

 そこで大切なことは、まず、そういう私たち人間に、気づくこと。
「私は私であるか」と問うてみるのもよい。
「私は本当に善人であるか」と問うてみるのもよい。あなたという親について言うなら、「本
当に、子どものことを考え、子どものために教育を考えているか」と問うてみるのもよ
い。

 こうした作業は、結局は、あなた自身のためでもある。あなたが、本当のあなたを知り、
ついで、あなたが「私」を取りもどすためでもある。

 さらにつけたせば、文明は、いつも善ばかりとはかぎらない。
悪もある。その悪が、ゴミのように、文明にまとわりついている。それを払いのけて生き
るのも、文明人の心構えの一つということになる。
(はやし浩司 末那識 自己愛 偽善 愛他的自己愛 愛他的自己像 私論)
(050304)

【補記】

●みんなで偽善者を排斥しよう。偽善者は、そこらの犯罪者やペテン師より、さらに始末
が悪い

++++++++++++++++++

もう1作、見つかったので、
そのまま紹介します。

++++++++++++++++++

●仏教聖典
(Buddah's Teaching)

仏教伝道協会発行の「仏教聖典」を座右の書とするようになって、そろそろ1年になる。
この本は、どこの旅館やホテルにも置いてある。そこでこの本のことを知った。
一度、あるホテルのマネージャーに売ってくれないかと頼んだことがあるが、断られた。
そこで協会のほうへ直接注文して、取り寄せた。料金は後払いでよいということだった。

内容については、私のBLOGやマガジンのほうでも、たびたび、
引用させてもらっている。

まず「因縁(いんねん)」について……。

因と縁のことを、「因縁」という。
因とは、結果を生じさせる直接的原因。縁とは、それを助ける外的条件である。
あらゆるものは、因縁によって生滅するので、このことを「因縁所生」などという。
この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされる。
世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したもので
あるから、注意を要する。
なお縁起というばあいも、同様である。(同書、P318)

+++++++++++++++++

仏教聖典、いわく、

『この人間世界は苦しみに満ちている。
生も苦しみであり、老いも、病も、死も、みな苦しみである。
怨みのあるものと会わなければならないことも、
愛するものと別れなければならないことも、
また求めて得られないことも苦しみである。
まことに執着(しゅうじゃく)を離れない人生は、すべて苦しみである。
これを苦しみの真理、「苦諦(くたい)」という』(P42)

こうした苦しみが起こる原因として、仏教は、「集諦(じったい)」をあげる。
つまりは、人間の欲望のこと。この欲望が、さまざまに姿を変えて、苦しみの原因となる。

では、どうするか。

この苦しみを滅ぼすために、仏教では、8つの正しい道を教える。
いわゆる「八正道」をいう。

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

(1) 正見 ……正しい見解
(2) 正思惟……正しい思い
(3) 正語 ……正しい言葉
(4) 正業 ……正しい行い
(5) 正命 ……正しい生活
(6) 正精進……正しい努力
(7) 正念 ……正しい記憶
(8) 正定 ……正しい心の統一(同書)をいう。

仏教聖典には、こうある。

『これらの真理を人はしっかりと身につけなければならない。
というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとするものは、
だれでも煩悩を断ち切らなければならないからである。
煩悩と苦しみのなくなった境地は、さとりによってのみ、到達し得る。
さとりはこの8つの正しい道によってのみ、達し得られる(同書、P43)。

以前、「空」について書いたことがある。

+++++++++++++++

●すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっ
ても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるもの
は、何もない、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータ
の中の世界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の
目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面
には、ただの光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在し
て、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経
て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われて
いる。釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされて
いる。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、6
00年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経
などの、大乗経典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではない
かと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひ
ょっとしたら、何もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこ
れが私なのかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされ
ている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるもの
を、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、
同じに考えてよいのでは(?)。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限ら
れた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、
「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。
億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、
この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と
思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味
であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかと
いうこと。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。
そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄に
することになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうど
う)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、
正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、
布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、
「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。
こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考
え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」とい
う程度で、よいのではないか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。
中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そう
いう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、
その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自
分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格
が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になっ
たとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですとい
うような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、
私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)
に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんな
ことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まち
がったこともするかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間とし
て、生きる意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考
えてみたい。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)

++++++++++++++++

八正道の中でも、私は、正精進こそが、
もっとも重要だと思う。

とくに、今の私のように、健康で、何一つ
不自由のない生活をしているものにとっては、
そうである。

けっして今の状況を、怠惰に過ごしてはいけない。
時間にはかぎりがあり、人生にも、それゆえに
限界がある。

それこそ死を宣告されてから、悟りを求めても、
遅いということ。

たとえば肺ガンを宣告されてから、タバコをやめたり、
胃ガンを宣告されてから、飲酒をやめても、遅い。

健康であるなら、さらに今の生活が満ち足りたものであるなら、
なおさら、私たちは、精進に精進を重ねる。

一瞬、一秒たりとも、無駄にできる時間はない。
また無駄にしてはいけない。

正精進について書いた原稿がある。
一部内容がダブるが、許してほしい。

++++++++++++++++++++

●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」とい
うことになる。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中
正」の「正」である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味で
ある。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほど
ほど」が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんとい
う意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)
正念、(7)正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言
葉、行為、生活、努力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というの
は、日々の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられ
たような緊迫感がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進に
ついても、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦
は、そう説いている。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんば
る。が、そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重
要なのは、自分の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得
た情報も、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝
に、ジョギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のう
ちにも、考えるという行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「や
る!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中に
は、となりの子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その
考えるという行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生
活の中でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちが
いが、10年、20年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人から
は、愚かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、
利口な人がわからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考え
る人がわからない。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思って
いないだろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサ
をよこせと、キーキーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心
の中で感ずる差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、
カルト教団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自
分たちは絶対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、
相手を切って捨てる。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のもの
である。とくに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするか。そ
れが、一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」
にすればよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 正見、正思惟、正語、正業、
正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道 仏教聖典 はやし浩司)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●猿・害

++++++++++++++++++++

山荘の近くに、山猿が出没するようになった。
昨年の秋くらいからのことである。
山荘の、山ひとつ隔てた奥では、現在、第二東名
の工事が急ピッチで進んでいる。
おそらくそこを追われた山猿たちである。

いろいろないたずらをする。
雨どいを壊す、テレビのアンテナを折る。
電話線を切る、など。

で、昨日、ワイフが「見て!」と言ったので
そちらを見ると、山猿が5、6匹いた。
まだ青い栗を食べていた。

身近にあった空のペットボトルをパンパンと
叩きながら、大声で、ワーッと叫んでやった。
山猿たちは、それほどあわてるといったふうでも
なく、悠然と、その場を去っていった。

親子連れだった。

++++++++++++++++++++++++

●栗の木

 そこで今日、栗の木を切ることにした。
電動のチェーンソーをもってきて、先の細い枝から切り落としていった。
ウィーン、バサバサ……。
ギギーン、バサバサ……。

 落ちた枝を、ワイフが下で集める。
それを見ながら、上から木を落とす。

 30分もすると、乾いた夏の日差しを受けて、全身から汗が噴き出すのがわかった。
気持ちよかった。
こうした作業をいやがる人も多いが、私は好き。
楽しい。
憎き山猿の顔を思い出しながら。やがて太い枝を切り落とす。
それが終われば、栗の木は、丸裸。

 (このときの様子は、ビデオに収録。
YOUTUBEにアップロード済み。)

 枝を片付けると、栗の実が、かなりの数、地面に落ちていた。
ワイフがそれを集める。
「あとでガソリンをかけておくよ」と私。

 餌があるから、山猿がやってくる。
餌がなければ、やってこない。

 時期をみて、サクランボの木も切るつもり。
柿の木と、桃の木も切るつもり。
これらの木は、みな、実はなるが、私たちは食べたことがない。
食べる前に、鳥や山猿が来て、みな、食べてしまう。
だから、切る。

 こうした山の中では、畑作は無理。
「ニンニクくらいしか、できないよ」と、隣の農家の女性が話してくれたのを思い出す。
言い忘れたが、このあたりでは、イノシシも出る。
ほかにハクビシン、イタチ、モグラ、タヌキ……。
みな、いる。
最近は、イノシシの害もふえてきた。
山荘の近くにも、何頭か住んでいる。

 本当のことを言うと、私には、それが楽しい。
イノシシと見たときも、ハクビシンを見たときも、うれしかった。
昨日、山猿を見たときも、実は、うれしかった。
こういうことがあるから、山荘ライフは、やめられない。

 が、その私が栗の木を切る。
矛盾しているようだが、これは山荘を守るため。
これ以上、壊されたら、たまらない。
だから栗の木を切る。
山猿には悪いが、(本当のところ、「悪い」とは、まったく思っていない)、
ここは心を鬼にするしかない。

 本音を言えば。山猿も楽しいが、その対策を考えるのも、これまた楽しい。
山荘ライフの醍醐味は、ここにある。

私「あいつら、がっかりするだろうね」
ワ「仕返し、しないかしら?」
私「ハハハ、そんなことしたら、今度は有刺鉄線を張り巡らせてやる」
ワ「それはかわいそうよ」
私「わかっている……」と。

 結構、重労働だった。
あとで体重計に乗ってみたら、58・7キロ!
ここ30年で、最低記録。
汗をかいた分だけ、体重が減った。

 山荘からの帰り道、自衛隊の基地の近くにある、カレー店で、私は、
夏野菜カレーを食べた。
おいしかった。
水を、ガブガブと飲みながら……。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●8月25日

++++++++++++++++++

今朝は、8時間、たっぷりと眠った。
眠る前、SPという女性専用の精神安定剤を
半分、舌の先で溶かしてのむ。
(通常は1錠、もしくは2錠が適量だそうだ。)

それをのむと、朝までぐっすりと眠られる。

で、起きてパソコンに電源を入れる。
TK先生(恩師)からのメールが届いていた。
今日は、そのメールを読むところから
始まった。

昨日、山荘の栗の木を切った。
そのとき撮ったビデオを、先生に送った。
その返事。

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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 25日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●クレヨンしんちゃん

++++++++++++++++++

ある高校生から、掲示板のほうに、
こんな書きこみがあった。

【Tさんより、はやし浩司へ】

私は、高校2年生の遠山です。
今私は放送部に所属しています。
毎年秋のアナウンス大会では、「自分の住んでいる県または市について」という題で
原稿を書いています。そこで今年は私が住んでいる埼玉県の話ということで春日部市が
舞台になっているクレヨンしんちゃんについて書こうと思っています。

理由は、私自身が昔からしんちゃんが好きだという気持ちもあるのですが、しんちゃんの
育児教育についてテレビで目にしたからです。この大会の原稿というのは、ただ単に地元
話題を書くだけではなく、その話題の内容を含めて日本の社会のありかたなど、誰が聞い
てもためになる話であったり、理解され受け入れてくれる話でなければいけないのです。

私は、クレヨンしんちゃんの面白さ以外の意味をこの年になって初めて知りました。この
しんちゃんのもうひとつの意味をみんなに知って欲しい(特に同年代の人に)と思ってい
ます。

もしよければはやし先生にクレヨンしんちゃんの親と子の関係の良さと、現代の日本の教
育との関係などについてお答えいただければと思っております。

せっかくの子供の教育についてのご相談の場所においてこのような質問をし、大変申し訳
ございません。是非ともお答えのほうよろしくお願いいたします。

【はやし浩司より、Tさんへ】

 クレヨンしんちゃんについては、大きな誤解があります。
テレビのアニメ番組について、「子どもに見せたくない番組」のワーストワンに
あげられることもしばしばです。

 しかしもしあなたが、コミック本のほうの、Vol.1~12前後まで読まれたら、印象は
大きく変わるでしょう。
そういう点では、テレビのアニメ番組のほうは、ギャグ化され、しんのすけ君の悪い面ば
かりが、おもしろおかしく、誇張されすぎています。
とても残念に思っています。

 いくつか、よい点をあげてみます。

(1)最近、しんのすけ君のようなたくましい男児が、減っている。(男児の女児化が問題
になって、すでに20年以上になる。母親中心の育児環境が、男児の女児化を促進
してしまった。)
(2)みさえさんの育児観がすばらしい。(夫に対しても、しんのすけ君に対しても、全幅
に心を開いている。基本的信頼関係の構築という点では、世の母親たちは、おおい
にに見習うべき。言い換えると、心を閉ざした育児ほど、子どもに悪影響を与える
ものはない。)
(3)育児のたいへんさをうまく表現している。(育児は、それ自体重労働。たいへんな重
労働。それを世の男性諸君は、知らなさすぎる。『男は仕事、女は家庭、育児』と安
易に考えすぎている。)
(4)みさえさんの生きざまは、新しい母親像の見本。(とくに新潟と九州の父親とのやり
取りが、おもしろい。相手が舅(しゅうと)といっても、遠慮する必要はない。今、
舅、姑との確執問題で悩んでいる若い母親が多い。おおいに参考にしたらよい。)
(5)友だち親子。(みさえやヒロシは、しんのすけを、1人の人間として、その人格を尊
重している。こうした育児観は日本人にはないもの。つまり日本の親たちは、「友」
として子どもの横に立つという習慣をもっていない。そういう点で、野原家の育児
論は、参考になる。
(6)子どもらしい性への疑問と関心。(コミック本のほうでは、しんのすけ君の、性への
疑問と関心が、実にうまく生き生きと描かれている。Vol1~12あたりまでは、臼井
家族の実体験的なコミックと考えてよい。私も幼児を教えて40年以上になるが、
読んでいて、違和感がないのは、そのため。ただし繰り返すが、テレビのアニメ番
組のほうは、たしかによくない。制作を担当しているプロダクションが勝手に料理
しすぎているためでは!)

 ほかにもいろいろよい点はたくさんあります。
小生の「野原家の育児論」を参考にしてください。
なおこの文中では、急いで書いたため、固有名詞、名前など、まちがっているところがあ
るかもしれません。
(はやし浩司曰く……)と断りを入れてくださるなら、ここに書いた原稿を、自由に使っ
ていただいて、結構です。

参考……
http://shizuoka.cool.ne.jp/bwhayashi/page065.html

 では、はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 クレヨンしんちゃん・野原家の子育て論)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【たぬき村】(改作・追加)

●あいさつ

++++++++++++++++++

ムカ〜シ(昔)といっても、今の時代だが、
あるところに、「たぬき村」という村があった。……ある。

そこでは、何が本当で、何がウソか、まったくわからない。
虚々実々。
たとえば村の人たちの交わすあいさつにしても、こうだ。

「よお、うちで、昼飯でも食っていかんけエ?」と声をかける。
これに答えて、声をかけられたほうは、
「悪いのオ、今、食べてきたところでのオ」と。

昼飯を誘う方も、本気で誘っているのではない。
形だけ。
本気で、「昼飯を食っていけ」と言っているのではない。
あくまでもあいさつ。

言われたほうも、それをよく承知している。
いくら空腹でも、そう答える。
「食べてきたところでのオ」と。

そのあたりでは、どこの家も、昼は茶漬けですますという習慣がある。
食事らしい食事を用意している家など、ない。
本当に相手が、「食べていこうか」などとでも答えたら、さあ、たいへん。
上を下をの、大騒ぎになる。

で、たぬき村。
その物語。
始まり、始まり……。

++++++++++++++++++

●村の習慣

 うまいものは、隠れて食べる。
まずいものは、隠して食べる。
食べ方は同じだが、中身がちがう。

 うまいものを食べているのを知られると、「ぜいたく」と叱られる。
まずいものを食べているのを知られると、「貧乏」と笑われる。
だからうまいものは、隠れて食べる。
まずいものは、隠して食べる。
それがその村の習慣。

みながそうしているから、ひとりだけ別行動と言うわけにはいかない。
別行動をしたとたん、「変わり者」というレッテルを張られる。
さらにさからえば、あの恐ろしい「村八分」。
村八分が待っている!

●詮索

 村の人たちは、詮索しあって生きている。
「他人の不幸話ほど、おもしろいものはない」と、だれも、口にこそ出しては言わないが、
みな、そう思っている。
 で、ひとたび、どこかの家で不幸な話があると、またたく間に、村中に広がる。

「ああ、あわれや、あわれや……。Aさんとこの息子は、傷害事件を起こし、今度
高校を退学になったそうや……。ああ、あわれや。かわいそうや」と。

 ときに涙声になるが、もちろん、涙は一滴も出ない。
あるいはよく使う言葉が、これ。

「ここだけの話ですがね……」
「あの人の悪口だけは言いたくないのですがね……」
「私はどちらでもいいと思っているのですが、村の人ほかのたちは、
何と言いますかねエ……」と。

●相対的価値観

 だからたぬき村の人たちは、たがいの家の内情を、たいへんよく知っている。
昔から『米櫃(びつ)の中の、米の数まで知っている』というが、それはけっして
おおげさな言い方ではない。
それこそ息子や娘たちの給料の明細まで、知っている。
 現金収入、アルバイト収入、副収入……。
すべて知っている。

 そしてたぬき村での幸福感は、相対的なもの。
「他人より、よい生活ができれば、リッチ、幸福」
「他人より、悪い生活になれば、プア、不幸」と。

 だから隣人の生活が気になる。
気になってしかたない。
そして最後は、こうなる。

『みんなで渡れば怖くない』
『出る釘は打たれる』
『渡る世間は、鬼ばかり』と。

 それがたぬき村の処世術。

●ドロドロした人間関係

 年功序列、上下意識、権威主義、家父長意識、加えて「家」意識。
たぬき村には、みな、残っている。
封建時代の邑(むら)意識が、そのまま、残っている。
しっかりと残っている。
たぬき村には、「正直」「誠実」という言葉は、ない。
あるとすれば……、

『小悪を暴露して、大悪を隠す』
『小善をなして、善人ぶる』
『建前で本音を隠す』などなど。

 ついでに『面従腹背』というのもある。
表面的にはにこやかにつきあいながら、裏で足を引きあう。
のどかな、のどかな、どこまでも牧歌的な温もりのする世界だが、
その皮を一枚むけば、そこにあるのはドロドロした人関係。
それが底なしに渦巻いている。

●嫉妬と見栄

 たぬき村の人は、概して言えば、嫉妬深い。
それが先に書いた、足の引きあいということになる。
驚くなかれ、たぬき村では、「香典抜き」は、日常茶飯事。

 だれかが亡くなって葬式になったとする。
で、そういうとき、香典を、ぜったいに村の人に預けてはいけない。
頼んでもいけない。
3万円の香典が、1万円に化けるなどということは、当たり前。
中には、香典そのものをかすめてしまう人もいる。

 遠方に住む親類からの送金については、なおさらである。
……こんなことを書くと、「そんなことをすれば、すぐバレてしまうでしょう」
と思う人もいるかもしれない。

 しかしそこはたぬき村。
香典抜きをするにしても、たがいの微妙な人間関係を知り尽くした上でする。
たがいに連絡を取り合うことはないだろうということを知り尽くした上で、それを
する。

●口がうまい

 たぬき村の人は、口がうまい。
お世辞、へつらい、おじょうずは、日常の会話。

「あなたが今度、祭の役人に加わってくださったら、みんな、喜びますよ。
なんといっても、あなたがこの村の立役者ですから」と。
で、その人がその気になって祭の会合に出ても、その話はいっさい、なし。
どこかみな、シラーとしている。

 が、こんな程度のことで、腹を立てていたら、村の人たちとのつきあいはできない。
「そういうもの」と割り切ってつきあうしかない。
だから会合に誘ってくれた人には、こう言って言い返す。

「みんな楽しそうですね。いい雰囲気です。何といっても、祭は祭りですから……」と。
ついでにカラ笑いをしてみせる。
カラカラと豪快に、カラ笑いをしてみせるほど、よい。

●新しく薬局が開店

 そんな村に大異変が起きた。
「田舎暮らし」キャンペーンとかなんとかに踊らされた、1人の都会人が、
その村に移住してきた。
村のはずれに、薬局を開いた。
元、薬剤師の男性だった。

 その男性は、近所のあちこちを回り、それなりに礼を尽くした。
しかし開店当日から、客はゼロ。
あの手この手で、宣伝に努めたが、(もちろん価格も安くしたが……)、
客はゼロ。

 それもそのはず。
その村には、もう一軒、薬局というより、昔からの小さな薬屋があった。
その薬屋の経営者が、その村でも長老格の親分だった。

 村の人たちは、無言の圧力を感じて、新しい薬局へ入ることができなかった。

●浜松市

 日本もまだまだ、広い。
つまい地域によっては、こうしたウソがまったく通用しない地域もある。

 たとえば私が現在住んでいる浜松市の人たちは、ものの考え方がストレート。
もの売買でも、駆け引きをしない。
ものを買うとき、それを値切る人はいない。
口もへただし、おじょうずも言わない。

 私もこの町に住んで40年近くになる。
当初はあれこれ、戸惑ったこともあるが、今は、この町が好き。
すがすがしさを覚える。
この町では、なにかにつけ、相手が言った通りのことをすればよい。
私の義兄、義姉にしても、みな、そうだ。
私のワイフなど、とくにそうだ。

 また同じ「村」といっても、浜松市周辺の村々は、たいへんわかりやすい。
ときに、それを冷たく感ずることもあるが、そのほうが気が楽。
そんなある日、ワイフと私が、たぬき村にある、一軒の家に一泊することになった。

●タクシー

 ある出版社の編集部長の紹介で、M氏という人の家に一泊することになった。
編集部長の母親の実家だった。
「その村のレポートを書いてほしい」と頼まれて、一泊することになった。

 が、居心地はよくなかった。
で、朝になって帰る支度をしているときのこと。
私がM氏の妻に、こう頼んだ。
「今なら10時ごろの電車に間に合いますから、タクシーを呼んでくれませんか」と。
たぬき村から、JRのN駅までは、車でちょうど1時間。
帰り支度をしていると、そこでM氏がやってきた。
そして私にこう言った。

 「なあ、あんたさん、そのタクシー代、私にくれんかね?
私が駅まで送ってやるに」と。

 この言葉には、言いようのない不快感を覚えた。
タクシー代といっても、8000円前後。
そのタクシー代を、「くれんかね?」と。
私は、その申し出を、ていねいに断った。

そうそう、その朝、こんなこともあった。

「電車の時刻もあるから、私は、朝食は結構ですと断った。
しかし、である。
さあ、M氏の家を出ようとすると、そこに朝食が用意してあった。

 私が「朝食は食べないと言ったつもりですが……」と言うと、M氏の
妻(50歳くらい)はこう言った。
「まあ、そんなこと言わんでもいいから、食べていきなさい。
また来てもらわねばならなんから」と。

 一事が万事というか、たぬき村では、日本語が通じない。
みな、それぞれが、自分流のやり方で動いてしまう。

「この村の人たちは、何を考えているか、さっぱりわからない」と。
私はふと、タクシーの中で、そう漏らした。

 そう、まったくわからない。
だから「たぬき村」。

●相づち

 たぬき村では、相手が何を言っても、相づちだけは打ってはいけない。
相づちを打てば、今度は、あなたが言ったこととして、他人に話が伝わってしまう。

 たとえばMさんが、あなたにこう言ったとする。
「Xさんって、ずるい人よ」と。
それに応えて、あなたが、「そうよ」と言ったら、さあたいへん。
収拾がつかなくなってしまう。
今度は、Mさんは、あなたが言った言葉として、みなに知らせてしまう。

 あなたが、「Xさんって、ずるい人よ」と言っていた、と。

 だからだれかの悪口を聞いても、たぬき村の人たちは、意味のわからない笑みか、
フフフと笑って、すます。
否定することもできない。
否定すれば、相手の気分を害する。
気分を害すれば、どこでどのようにまた、あなたの悪口を言われるか、わかったものでは
ない。

 ここが重要な点だから、もう一度、書いておく。
だれかが、だれかの悪口を言っても、あなたはその場は笑ってごまかす!

●たぬき村をつなぐもの

 そんなたぬき村だが、なぜか、結束力は固い。
それもそのはず、みなが、何らかの形で、姻戚関係にある。
A氏の妻は、B氏の妹。
B氏の母親は、C氏の弟。
C氏の弟の娘は、Dさんの嫁・・・、と。

 人間関係だけではない。
土地関係も、これまた複雑に入り組んでいる。

 A氏の宅地の一角に、B氏名義の土地がある。
そのB氏名義の土地の、そのまた中に、C氏名義の土地がある。

 中には、代々放置され、今ではだれの土地かわからないものもある。
登記簿を調べても、3代前のG氏のもの。
G氏の子孫は、みな、たぬき村を離れて、今では、連絡先すらわからない・・・、と。

 こういう関係だから、たがいにいがみあいながらも、それでいて、なんとなくみな、
仲よく暮らしている。
それがたぬき村。

●村祭り

 たぬき村の人口については、よく知らない。
近くの新聞販売店の店主に聞いてみたところ、新聞の配達部数は、45部だそうだ。
それを3倍して、約150人というところか。

 たったの45軒。
あるいは45世帯。
そんな小さな村だが、いちばんの重要ごとは、秋の祭り。
村の予算の8割を、一夜の祭りのために使ってしまうというから、すごい!

 打ち上げ花火、弁当の配布、餅まき・・・と。
その祭りで演じられる神楽舞(かぐらまい)は、300年の歴史があるとか。
テレビや新聞でも、ときどき紹介される。
そのこともあって、たぬき村の人たちは、その祭りをやめるにやめられない。
「祭りは、村の顔」。

 負担も大きい。
村会費(積立金)だけでも、一世帯あたり、毎月、1万5000円。
共働き、兼業農家の世帯は、2万円。
若い人たちの間では、「やめよう」という意見も出ている。
しかし60歳以上の、「長老」と呼ばれる人たちが、それを許さない。

 見栄だけは張る。
張って張って、張りまくる。
それがたぬき村。

●たぬき

 たぬきといっても、(善良なたぬき)もいれば、(腹黒いたぬき)もいる。
が、その差は、紙一重。
(善良なたぬき)といっても、これまた演技。
善良なたぬきと思っていると、それが別のところでは、腹黒いたぬきに変身したりする。
腹黒いたぬきも、それなりに善良なたぬきを演ずることもある。
が、概して言えば、たぬきはたぬき。

『小悪を暴露して、大悪を隠す』
『慇懃(いんぎん)無礼で証拠を残さない』
『連絡を取り継がない』などなど。
話のすりかえ、とぼけ、ごまかしなどは、日常茶飯事。

 一本筋の通った文化性がない。
いつもあたりをキョロキョロを見回しながら、様子をうかがう。
様子をうかがいながら、自分の行動を決める。
だからたぬき村の人たちは、なによりも世間体を気にする。
とくに冠婚葬祭を気にする。

 もちろん派手であればあるほど、よい。
派手であればあるほど、その家の「力」と評価される。
たぬき村での地位も高くなる。

 たぬき村……どこの村の話ということではない。
たぬき村は、どこにでもある。
あなたの近くにもある。

●報復

 こんなことがあった。
ある日Hさん(50歳・女性)の家に電話があった。
Hさんは、留守だった。
で、電話をかけたIさん(50歳・女性)が、伝言を残した。
「風邪だと聞いていたけど、お元気ですか?」と。

 Hさんは、伝言を聞いたが、それには返事をしなかった。
たいした内容の電話ではないと思った。
というより、夜も遅かったので、その電話のことは忘れた。

 が、それから1か月ほどたったある日のこと。
Iさんが、こんな話をしているのを耳にした。
なんでもIさんが、その年に初盆を迎える世帯の人たちのために、世話役を
決めようと、Hさんに相談した。
が、Hさんが、それを無視した、と。

 Hさんは、そこではじめて世話役の話を知った。
が、Iさんから、そんな相談を受けたこともない。
Hさんに、そのことで、それとなく抗議すると、Iさんは、こう言った。
「あら、話しませんでした。留守だったので、留守番電話に伝言を入れておいたのですが
・・・」と。

 たぬき村では、電話をもらったら、必ず、返事をしなければならない。
無視すれば、かならずなんらかの報復を受ける。

●上下意識

 たぬき村の最大の特徴は、上下意識。
上下意識というか、上下関係。
それが年齢に応じて、きびしく決められている。

 たった1歳でも、年長は年長。
年下のものは、年長者に、ぜったい服従。
苦言を口にすることすら、許されない。
そんなわけで、もっとも力のあるのは、村で、「長老」と呼ばれている人たち。
現在、80歳以上の老人が、5人もいる。
1人をのぞいた、残りの4人が、村を取り仕切っている。
1人というのは、村でもつまはじき者。
若い時から、詐欺まがいの仕事ばかりしていた。

 その上下関係のワクの中で、妻や子どもたちの地位や立場も決まる。
村の会合でも、その序列に従って男たちは席につき、女たちは、男たちに給仕する。
序列の低い女たちは、裏方。
序列の高い女たちは、席に出て、茶をくんだり、酒をついだりする。

●「住んでみたいわ」

 そんなたぬき村が、地方局だが、テレビに紹介されたことがある。
2人の旅行者が、あちこちの村を訪れ、いろいろと村の話を聞くという番組だった。
そのときは、たぬき村が選ばれた。
たぬき村の人たちは、みな緊張した。

 結局、その相手は、たぬき村のK氏(44歳)がすることになった。
K氏だけが、学卒、つまり大学を出ていた。

 で、その日はやってきた。
橋を渡って2人の旅行者が村に入る。
それをK氏が迎える。
しばらく村の案内をしたあと、村の人たちが作った山菜料理をみなで食べる。
そういう段取りだった。

 が、突然、旅行者兼レポーターの若い女性が、こう言った。
台本にはないセリフだった。

「すばらしいところですね。緑が多くて、空気がおいしいわ。私、こんなところに
住んでみたい。私のような者でも、住めますか」と。

 K氏は落ち着いた声で、こう答えた。
「ええ・・・住めますよ」と。
 しかしそれを聞いたたぬき村の人たちは、みな、こう言って吐き捨てた。
「こいつはターケぬかせ!」と。
たぬき村では、「愚か者」をさして、「ターケ」という。
つまり、レポーターの若い女性をさして、「バカぬかせ」と言った。

●よそ者

 たぬき村では、外の世界から入ってきた人のことを、「よそ者」と呼ぶ。
しかし「よそ者」というのは、ただのよそ者ではない。
たぬき村では、3代住んで、はじめて仲間という掟(おきて)がある。
それまでは、村八分。
葬儀を除いて、村の行事には参加させてもらえない。

 最近はこの掟も少しは緩んだと聞いているが、しかし3代。
水は、村の中心にある神社、(「お宮様」と彼らは呼んでいるが・・・)、その神社の
横から出ている湧水を分け合って使っている。
3代も住まないと、その水すら、分けてもらえない。

 それまでは井戸の水。
農薬の混ざった井戸の水。

 たぬき村の住人は、こう言った。
「この村で迎えられるのは、元校長格の学校の先生、医者、あるいは芸術家のような
変わり者」と。

 「元サラリーマンはどうですか?」と聞くと、その人は、こう言った。
「そんな人は、住めません」と。

 実際、戦後、たぬき村に移住してきたのは、1人だけ。
しばらく薬局を経営していたが、2年後にはまた、元の都会へと戻っていった。
その男の話は、もう少しあとに書く。

●本音と建前

 たぬき村の人たちは、本音を言わない。
すべてが建前だけで動く。
そのため、一皮むけば、その下でどす黒い、いがみあいが渦を巻いている。

 足の引き合いは、日常茶飯事。
そのためほかの世界では見られない珍現象が、よく起きる。

 たとえばいくら急病でも、救急車は呼ばない。
呼べば、村の話題になるだけ。
そういうこともあって、たぬき村では、葬式が、なによりも重大事。
ある男性は、はからずもこう言った。
「あいつが死ぬのを見届けないかぎり、おれは死なない」と。

 あるいはこう言った男性もいた。
「こいつはオレより年上だから、オレより先に死ぬんだなと思ったら、気が楽に
なった」と。

 最終的な人間関係は、葬式によって結論づけられる。
だから葬式ほど、虚々実々の駆け引きがなされる場も、ない。
悲しくもないのに、悲しそうな顔をする。
うれしいのに、悲しそうな顔をする。

 そうそう実の兄が死んだとき、葬式の場で、大声で泣いてみせた女性もいた。
それまでさんざん兄を虐待しておきながら、である。

●みな、武藤

 どこの村にも、そうした話はあるが、たぬき村にもある。
たぬき村は、その昔、○○藩の家老を出した、由緒ある村ということになっていた。
そのこともあって、明治になって名字をもつことが許されるようになると、たぬき村の
人たちは、みな、「武藤」姓を名乗るようになった。

 たぬき村では、1軒をのぞいて、みな、「武藤」。
1軒というのは、昔からの庄屋で、その家だけは、江戸時代の昔から、「泉谷」という
姓を名乗っていた。
 しかし今は、その泉谷家は戦後の農地解放で田畑のほとんどを失い、落ちぶれてしま
った。

 ・・・それはともかくも、たぬき村では、みな、名前のほうで、たがいに呼び合って
いる。
しかも難解な名前が多い。
辞書が手元にあっても、その読み方すらわからない。
たとえば・・・といって、ここに名前を出すわけにはいかない。
創作で適当な名前を書くことも、できなくはないが、しかし私の創作力にも限界がある。
たぬき村の人たちの名前は、私の創作力を超えている。

●では、どうするか?

 たぬき村は、相手を知り尽くせば、それなりにおもしろい。
「日本にも、こういうところが残っているのだなあ」と、ときに、感心することもある。
が、鉄則は、ただひとつ。

 いつもどこかで一線を引いてつきあうこと。
けっして深入りしてはいけない。
巻き込まれてはいけない。
動物園で動物を観察するようなつもりで、観察する。

 というのも、たぬき村の人たちは、自分たちは、それでも(まとも)と思い込んでいる。
外の世界を知らない。
だから自分たちが、(標準)と思い込んでいる。
もちろん自分たちが、(たぬき)とは思っていない。
すべてがそういう尺度で動いている。

 だから、説教したり、説明したりしても、無駄。
言うだけ無駄。
反対に、「あなたには義理人情というものが、わからないのですか」とやり返されてしまう。
200年、300年とつづいた、伝統ある(?)村の意識は、そうは簡単には変えられ
ない。

 そうそう先に薬局を出した男性の話を書いた。
これは私が当事者から直接聞いた、実話である。
「薬局」、つまり「薬屋」というのも、本当の話である。

 で、その男性は、こう考えていた。

「1年ほど薬局を経営してみて、それが軌道に乗ったら、都会に住む家族を呼び寄せよう」
と。
しかし1年を待たずして、薬局は閉店。
つぎには日雇いの労働者となって、工事現場で働くようになった。
が、やがてそれも限界に来た。
その男性は、薬局と自宅を売り払い、さらにその1年後、再び、都会へ逆戻り。

 で、私には、こう言った。
「たぬき村には、もうこりごり。二度と、あんなところへは行きたくありません」と。

 たぬき村とは、そんな村をいう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 たぬき村 タヌキ村 邑意識 邑物語)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●メタ認知能力(Metacognitive Ability)

+++++++++++++++++++++

「メタ認知能力」?
私は新しい概念に出あったりすると、
それが何であるかを知るために、ときどき
こういう手法をもちいる。

(メタ認知能力のすぐれた人)を想定する。
一方で、(メタ認知能力に欠ける人)を想定する。
その両者を比較する。
比較して、その(ちがい)を洗い出す。

この手法は、教室でもよく使う。
たとえば(問題のある子ども)がいたとする。
そういうときは、(問題のない子ども)と比較しながら、
その(ちがい)を洗い出す。

++++++++++++++++++++++

●メタ認知能力のある人

 「メタ認知能力」とは何か?
実のところ、私にもよくわからない。
だから私なりの解釈を加えてみる。
が、私の解釈が正しいとはかぎらない。
実のところ、意識に関する概念は、どれもむずかしい。
意識そのものが、漠然としている。
概念としては理解できるが、そこまで。
たとえば「潜在意識」というものにしても、概念としては理解できるが、
どれが潜在意識で、どれがそうでないかというと、それがよくわからない。
「これが潜在意識」とわかったとたん、それは潜在意識ではなくなる。
「意識」ということになる。

そういう前提で、つまりまちがっているかもしれないという前提で、
私なりに、メタ認知能力について、書いてみる。
だからここに書くことが、「メタ認知能力」というわけではない。

●私の性質

 たとえば私は、ひねくれやすい性質をもっている。
子どものころからずっとそうで、それには私の乳幼児期の育児環境が大きく影響して
いる。
こんなことがあった。

 小学2年生のときのことだった。
その日、私は弁当を忘れた。
母が作り忘れた。
で、担任の先生が、自分の弁当箱のフタに、みなから少しずつごはんとおかずを
集めてくれた。
それを私にくれた。
しかし私は、それを食べなかった。
食べられなかった。
がんとして、それを拒否した。

 ふつうなら、みなの好意をそのまま受け入れて、「ありがとう」と言ってたべるだろう。
心がすなおに育っている子どもなら、そうする。
が、私には、それができなかった。
 今でも、それが残っている。

●分離不安症?

 弁当を食べなかったのは、私の(がんこさ)だったかもしれない。
プライドが許さなかったのかもしれない。
が、こういう例で説明すれば、もう少しよく、私のゆがんだ性質を、
わかってもらえるかもしれない。

 たとえば私は子どものころから、ひとりで寝るのが苦手だった。
若いころは、それなりに気力で自分を支えたが、結婚してからは、がくんと
弱くなってしまった。
以来、ワイフとは、いつも床を同じくして、眠っている。
が、これにも私の生い立ちが関係している。

 で、そういう中にありながら、私はそれを心のどこかで(引け目)に感じている。
ときどきワイフも、そういう言う。
「あなたは、おとなの分離不安症よね」と。

 だからたとえば、ワイフが先に、さっさと床に入ってしまったようなときなど、
あのひねくれやすい症状が顔を出す。
置いてきぼりをくらったかのような、怒りを覚える。
そしてこう思う。
「だれがあんなヤツと、いっしょに寝てやるか!」と。

 私は、書斎の横にある部屋で、ひとりで寝る。
そういう私を心配して、ワイフがやってきて、こう言う。
「何をいじけているの! 早く寝なさいよ」と。
私はワイフの言葉にせかされ、いそいそと寝床に入っていく……。

●ひねくれ症状

 実はつい先日も、そういう状況になった。
が、そのときはちがった。
私は「メタ認識能力」という言葉を知っていた。
で、それを自分に応用してみた。

 ワイフは、先に床に入った。
私が部屋に入ると、すでに寝息をたてて眠っていた。
それを見て、またまたあのひねくれ症状が出てきた。

 で、そのとき私はその(症状)がどこから出てくるかを、自分で観察してみた。
が、不思議なことに、本当に不思議なことに、観察し始めたとたん、それが
パーッと、霧のように散ってしまった。

 これには驚いた。
もともと(ひねくれ症状)には、実体がない。
本来の(私)の上に、雲のように、おおいかぶさっているだけ。
理屈があるわけでもない。
理由などない。
私は「ナ〜ンだ、こんなものか」と思いながら、いつものように寝床に入った。

●メタ認知能力のない子ども

 が、もしメタ認識能力がなかったら、どうなるか。
(この解釈は、最初に断ったように、私独自の解釈で、正しいとはかぎらない。)
外部に表象される意識だけが、(意識)ということになる。
そして結果的には、その意識だけに振り回されることになる。

 こうした現象は、子どもの世界でも、ときどき観察される。
算数という勉強に当てはめて、考えてみる。

 たとえば何かの問題を解かせると、中に、こう聞いてくる子どもがいる。
「先生、これ足し算の問題? それとも引き算の問題?」と。

 もう少し学年が大きくなってくると、こう聞いてくる子どもがいる。
「先生、割り算でするの? それとも掛け算でするの?」と。

 こうした子どもたちには、問題の中の数字しか目にとまらない。
数字だけ見、それを加工して、答を出そうとする。

 同じようにおとなたちにしても、その場だけの状況に応じて、
ものごとを判断しようとする。
そういうおとなは、多い。
このタイプのおとなは、何かあるとアタフタするだけ。
あとは取り越し苦労とヌカ喜び。
それを繰り返す。

●ある女性

 こんなことがあった。
ある女性(当時、65歳くらい)がいた。
90歳近い母親を介護していた。
その母親について、「夏場になると、老臭がひどくて困る」と。

 そこで私はつぎのように提案してみた。
「換気扇をつけたらどうでしょう」→「それを取りつける、穴がない」
「穴を開ければいいですよ」→「そういう道具がない」
「大きなドリルであけます。電気屋に相談すれば、貸してくれますよ」→「家に傷を
つけたくない」
「換気扇があれば、何かと便利です。家の湿気も取ります」→「うちは湿気ません」と。

 こういう意味のない押し問答がいつまでも、つづいた。
つまりその女性の頭の中には、(老臭)という問題しかなかった。
「だからどうしたらいいのか」と、考えることすらできなかった。
で、この女性の思考回路は、先に「先生、これ足し算の問題? それとも引き算の問題?」
と聞いた小学生の思考回路と、どこもちがわない。

 が、メタ認識能力というときは、さらにその先をいう。
もしその女性が、「なぜ、自分が老臭を嫌うという意識をもつのか」という心の深い部分
にまでメスを入れていたら、もう少し介護の仕方も変わっていたのではないか。

 つまりその女性にとっては、親の介護そのものが負担だった。
そこに至る理由はいろいろあるだろう。
私のような部外者の知るところではない。
それが形を変えて、「老臭」につながった。
だから最初から、その女性にしてみれば、老臭など、どうでもよかった。
「介護はたいへんだ」ということを他人に訴えるための、口実にすぎなかった。
ただの愚痴にすぎなかった。

 だから私があれこれと解決策を示しても、その女性はそれには応じてこなかった。
ああでもない、こうでもないと、別の理由をこじつけては、それに反論した。

 メタ認知能力がないと、自分を客観的に観察する能力すら、失う。
そこにある問題に気づくこともなく、あわてふためく。

●ちがい

 こうして考えていくと、メタ認知能力のある・なしを、比較することができる。
(かっこ)内は、メタ認知能力がない人ということになる。

(1)自分を客観的に評価できる。(視野が狭くなる。)
(2)自分の未来を、予想することができる。(その場だけのことしかわからない。)
(3)問題解決の技法を、すみやかに見つけることができる。(あたふたするだけ。)
(4)解決方法を、多角的に見つけることができる。(ひとつの方法にこだわる。)
(5)新しい問題に対して、チャレンジする。(できることしか、しない。)
(6)感情のコントロールができる。(感情的になりやすい。)
(7)臨機応変に環境に適応できる。(不適応症状を示しやすい。)
(8)人間的な豊かさ、深みがある。(全体に浅はかな印象を与える。)
(9)心に余裕があり、おおらか。(心に余裕がなく、セカセカしている。)

 このメタ認知能力は、「訓練によってのみ、伸ばすことができる」(ブラウン、フラベル)
という。
そのためには、まず、メタ認知能力というものがどういうものであるかを知らなければ
ならない。

 わかりやすく言えば、「意識を意識化する」。
今、自分がもっている意識を、別の意識で客観的に知る。
それによって、メタ認知能力を身につけることができる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW メタ認知能力 Metacognitive Ability メタ認識 メタ認知)

(補記)

 私たちがもっている「意識」ほど、不可解で、いいかげんなものはない。
「私は私」と思う意識にしても、そうだ。
どこからどこまでが「私」かとなると、それがわからない。

 最近の大脳生理学によれば、私たちの意識ですらも、脳の別のところであらかじめ
作られるということまで、わかってきた。
それが無意識の段階から、意識の段階まであがってきて、私たちはそのとき、
それを自分の意識として自覚する。
そしてそれを「私」という。

 わかりやすい例でいえば、女性が化粧をするのも、男性がかっこよく見せようとする
のも、結局は、性的エネルギー(フロイト)が、裏からその人を操っているからにほか
ならない。
当の本人は、「私の意思で化粧している」「ぼくの意思でかっこよくしている」と思って
いるかもしれない。
が、実のところ心の奥深くから湧きおこる、性的エネルギーに操られているだけ。

 私たちが意識として意識できる部分というのは、脳の中でも、ほんの一部にすぎない。
一説によれば、数10万分の1とも言われている。
そのほかの意識は、無意識の世界で、私たちを内側から操っている。

 となると、メタ認知能力の重要性がますますクローズアップされてくる。
私たちの(意識)を、その奥にある意識でもって、客観的に観察、判断、さらには
コントロールする。

 こうした能力は、ほかの動物たちにはない能力とみてよい。
ほかの動物たちは、意識される意識のみに従って、行動している。
が、人間はちがう。
意識される意識を、べつの意識で観察、判断、さらにはコントロールする。
つまりそれこそが、人間と、他の動物たちを隔てる壁ということになる。

●補記

 ここに書いたことは、まちがっているかもしれない。
(多分、まちがっている。)
しかし考えるテーマとしては、おもしろい。
もし「私」を、別の「私」によって、知ることができたら、これほど楽しいことはない。
言うなれば、心の鏡のようなもの。
その鏡に自分の心を映して、自分の心を知る。
心がどんな顔をしているかが、それでわかる。

 まだまだ、このつづきを考えてみたい。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 23日祭日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●さすが受験国家!

+++++++++++++++++

韓国は、世界に名だたる「受験国家」。
押しも押される受験国家。
そのはげしさは、群を抜いている。
子どもたちは幼児期から受験塾に通っている。

で、現在、各界で活躍するエリートたちは、
そうした過酷な受験競争を勝ち抜いて
きた連中ばかり。
そうした傾向は、韓国系の新聞に
目を通してみると、よくわかる。

何かにつけて、点数と順位にこだわる。
ついでに何が気になるのか、この日本に
こだわる。

百聞は一見にしかず。

朝鮮N報の記事をそのまま紹介する。

大見出しは、『日本は、13位!』
(ごちそうさま!)

++++++++++++++++

+++++++++++++以下、朝鮮N報、8月20日より++++++++++++

 一方、日本は政治力(11位)、文化力(10位)などの不振で、ソフトパワー(8位)
がハードパワー(3位)に比べて劣っている。特に、日本は国会や政党に対する信頼、政
治家の国際的経験などが主要20カ国・地域(G20)の中でも中位以下にとどまってお
り、政治力の分野では、韓国同様に悩みを抱えていることが分かった。(朝鮮N報・8月2
0日)

+++++++++++++以上、朝鮮N報、8月20日より++++++++++++

 どうしてそうまで点数と順位にこだわる?
日本にこだわる?
少しは自分たちが体質としてもっている異常性に気がついたらよい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●メタ認知能力(Metacognitive Ability)とは、何か

++++++++++++++++++++++

メタ認知能力とは何か。
川島真一郎氏(高知工科大学大学院)の修士学位論文より、
一部を抜粋引用させてもらう。
(出典:メタ認知能力の向上を指向した
高校数学における問題解決方略の体系化
Systematization of Problem Solving Strategy in High
School Mathematics for Improving Metacognitive
Ability(平成19年))

++++++++++++++++++++++

●メタ認知

メタ認知(metacognition)とは、認知活動についての認知のことである。メタ認知概念
は、ブラウン(A・Brown)やフラベル(J・H・Flavell)によって1970 年代に提唱され
た。

メタ認知は、まずメタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)とメタ認知的活動
(metacognitiveactivity)に分かれ、それぞれがさらに細かく分かれる。メタ認知的知識と
は、メタ認知の中の知識成分を指す。メタ認知的知識は、人間の認知特性についての知識、
課題についての知識、課題解決の方略についての知識の3 つに分けて考えることができる。
メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、メタ認知的モ
ニタリング、メタ認知的コントロールの2 つに分かれる。メタ認知的モニタリングとは、
認知状態をモニタすることである、認知についての気づき(awareness)、認知についての
感覚(feeling)、認知についての予想(prediction)、認知の点検(checking)などが含まれ
る。メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。認知の目標
設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)などが含まれる。

困難な場面に遭遇したとき、タ認知はその事態を打開すべく、関係のありそうな経験や
知識を想起する。似たような困難を克服した経験があれば、それは大きな手掛かりとなる。

過去の経験がそのままでは使えないときでも、見方を変えたりすることで使えることもあ
る、直面している問題が極めて困難なときは、条件の一部を解き易い形にした問題をまず
解いてみることが手掛かりになることがある。また、問題の解決に使えそうな法則なども
思い出し、解決に向けた道筋を描く。解決に向けた一番確かそうな方針が決まれば、実行
してみる。間違いを犯しそうな場面では注意深く実行し、時々方針が間違っていないか検
討を加える。このようにして、メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決する
ときに、力を発揮すると考えられる。

そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと考えられ
る。訓練するための問題は、メタ認知が働かなくても解決できるような平易過ぎる問題は
役に立たない。適度な難易度の問題を解決することが必要である。従って、パターン暗記
に終始するような学習では、メタ認知能力は向上しないと考えられる。その意味で、生徒
が試行錯誤しながら自力で問題の解決を図る問題解決学習は、その狙いが実現できれば、
メタ認知能力の育成に大いに効果を発揮すると考えられる。
(以上、川島真一郎氏の論文より)

+++++++++++++++++++++

●メタ認知能力(Metacognitive Ability)

 私は「メタ認知能力」なるものについては、すでに10年ほど前から、原稿を書いて
きた。
が、ここ数年、この言葉をあちこちで聞くようになった。
しかし本当のところ、メタ認知能力とは何か、私もよくわかっていない。

 そこでまず私がとった手段は、メタ認知能力、つまりMetacognitive Abilityについて、
できるだけ原文に近い文献をさがすことだった。
最初は、直接アメリカの文献(英文)から調べようとしたが、先に、ひとつの文献を
さがしだすことに成功した。
ここに紹介した川島真一郎氏の修士学位論文が、それである。
わかりやすく書いてあるので、そのまま引用させてもらった。

 つまり私は、(メタ認知能力)とは何か知るために、つまりその壁を打開するため、
今までの経験を総動員して、(おおげさかな?)、あちこちを調べた。
その結果が、先にあげた論文の一部ということになる。

●メタ認知能力

 が、これだけをさっと読んだだけでは、意味がよくわからない。
内容を、もう少し整理してみる。

メタ認知

(1)メタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)
メタ認知の中の知識成分を指す。
(1)人間の認知特性についての知識、
(2)課題についての知識、
(3)課題解決の方略についての知識の、33つに分けて考えることができる。


(2)メタ認知的活動(metacognitive activity)
メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、
(1)メタ認知的モニタリング、
(2)メタ認知的コントロールの2つに分かれる。

 これでだいぶ頭の中がすっきりしてきた。

 さらに、

(1)メタ認知的モニタリングとは、認知状態をモニタすることである。
認知についての気づき(awareness)、認知についての感覚(feeling)、認知につい
ての予想(prediction)、認知の点検(checking)などが含まれる。

(2)メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。
認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)などが含まれ
る、と。

●実益

 先にメタ認知能力の実益について、引用させてもらう。
川島真一郎氏は、こう書いている。

『メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決するときに、力を発揮すると考え
られる。そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと
考えられる』と。

 日常的な行動を同じように繰り返すようなときには、メタ認知能力は、力を発揮しない。
つまり難解で、より高度な知識と経験を必要とするような問題に直面したとき、メタ認知
能力は力を発揮する、と。

 そしてそのメタ認知能力は、訓練しなければ、向上しない、ともある。

●因数分解

 川島真一郎氏は、因数分解を例にあげて、メタ認知能力がどういうものであるかを
説明している。
そのまま印象させてもらう。

++++++++++以下、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++

7。 <題>求めるもの(答え)と、与えられた条件の関係を発見せよ。[関係は直接的に見
えるときもあれば、仲介物を通して初めて見えて来るときもある。例えば、中間的な目標
を設定せよ。(例)(a + b + c)(bc + ca + ab) ― abc を因数分解せよ。]
8。 <眼><針>関係の有りそうな公式は何か。
9。 <経><予>似た問題を思い出せ。
10。 <経><眼><針>似た問題の方法や結論を利用できないか。[(例)x、 y の対称式
はx + y とxy で表せる。]
11。 <眼><針>求めるもの(答え)の形を考え、それを具体的に(例えば式に)できな
いか。[また、その形のどの部分を求めればよいか。それを求めるのに、条件をどのように
使えるか。]
12。 <眼><針>与えられた条件や式を、解答で使い易いように変形できないか。[場合
によっては、結論の式から解答を進めて、後で比較するのが有効なときも有る。]
13。 <助><検>(方針の選択や解答の進め方について)解法の大筋を捉える。[大まか
な見通しを持つことが、解答への着手を促し、右往左往したり、袋小路に入ったりするの
を防ぐ。(例)増減表を書けば解けそう。判別式を利用できそう。等々]
14。 <経><眼><針>前に使った方法が直接使えないとき、補助的な工夫を加えること
で使えるようにならないか。[(例)角度の問題で、補助線を引く事で三角形の問題と捉
える。]
15。 <眼><針>求める結果が得られたと仮定して、逆向きに解けないか。[求める結果
を明確にイメージすることで、必要となる道筋が見えてくることが有る。]
16。 <眼><針>定義に帰ることで、手掛かりが得られることが有る。[2 次関数関連の
問題と判別式の関係。微分係数の定義。等々]
17。 <困><眼><針>問題を言い換えることで、容易になったり、既習の解法が使えた
りしないか。(そのとき、与えられた条件はどう変わるか。)[問題を違った視点から見る。
(例)sin θ+ cos θ の最大値を求めるのに、単位円周上の点P(x、 y) を利用する。]
18。 <困><眼><針>問題を一般化することで、容易になることがある。[(例)具体的
な数値の問題を、一般的な文字に置き換えることで見通しが良くなることが有る。]
19。 <困><眼><針>問題を特殊化することで、解決の糸口がつかめるときがある。
[(例)直方体の対角線の長さを求める問題で、高さが0 の場合を解いてみる。]
20。 <困><分><眼><針>条件の一部からどんなことが分かるか。[条件を幾つかの
部分に分けられないか。全体の解答とどう関係するか。]
21。 <困><眼><針>解き易い類題を考えることが、元の問題の手掛かりになることが
ある。[問題の一部は解けるか。どういう条件が付加されていれば解き易いか。等々]
22。 <補><検><助>条件の使い忘れはないか。
(CP)
23。 <題><検>方針に従い解答を進め、適当な段階で検討を加え、必要に応じて方針を
見直す。
24。 <補>自信の持てるる解き方から試みよ。[大抵の問題は、何通りか解き方がある。
(例)基本的な公式だけを使う。図形を利用する。微分を利用する。等々]
(LB)
25。 <題>結果の検討。[少しの検討が、長い目で見ると大きな効果をもたらす。]
26。 <検><眼>別の解法はないか。得られた答えが別の簡単な解法や、答えの意味を示
しているときが有る。
4。4 体系化された問題解決方略の適用
27。 <検><眼>使った方法や結果を総括する。他の問題に応用できないか。

++++++++++以下、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++

●因数分解(例)

 高校生たちに因数分解を教えるとき、私自身は、半ばルーティンワーク的に解いて
みせている。
(因数分解そのものは、解法公式はほぼ確立していて、簡単な問題に属する。)

しかしこのように内容を秩序だてて分析されると、「なるほど、そうだったのか」と、
改めて、驚かされる。
私はそれほど意識せず、メタ認知能力を、応用かつ利用していたことになる。
率直に言えば、「メタ認知能力というのは、こういうものだったのか」と納得する
と同時に、「奥が深いぞ」と驚く部分が、頭の中で交錯する。

 ちなみに、先の(a + b + c)(bc + ca + ab) ―abcを、別の紙で、因数分解してみた。
因数分解の問題としては、見慣れない問題である。

(1)見ただけでは、瞬間、頭の中で公式が浮かんでこない。
(2)直感的に、「いつものやり方ではできない」ということがわかる。

 が、こういうときの鉄則は、(3)「ひとつの文字に着目しろ」である。
この問題では、(a)なら(a)に着目し、(a)について式をまとめる。

 しかしこの場合、一度、式をバラバラにしなければならない。
結構、めんどうな作業である。
が、ここで「こんなめんどうな問題を出題者が出すはずがないぞ」というブレーキが働く。
「時間さえかければ、だれでもできる」というような問題は、数学本来の問題ではない。
ただの作業問題ということになる。

 そこで私は、(4)もっと簡単な方法はないかをさがす。
(bc + ca + ab)という部分に着目する。
(a)でくくれば、(b+c)という因数を導くことができる。
(b+c)を、(B)と一度置き換えてから、因数分解できないかを考える。
しかしもう一つの項、(abc)が残る。
つぎの瞬間、「この方法ではだめだ」と直感する……。

 ……というように、認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の
修正(revision)を繰り返す。

●高度な知的活動

 小学1年生が訓練するような、足し算の練習のような問題は、ただの訓練。
メタ認知能力など、必要としない。

 そこで昨日(8月21日)、メタ認知能力を確かめるため、私は小学2、3年生クラス
で、ツルカメ算の問題を出してみた。
あらかじめ、「ツルが2羽、カメが4匹で、足は合計で何本?」というような練習
問題を5〜6問、練習させる。
そのとき「できるだけ掛け算を使って、答を出すように」と指示する。

 それが一通りすんだところで、「ツルとカメが、合わせて、10匹います。
足の数は、全部で、28本です。
ツルとカメは、それぞれ何匹ずついますか?」という問題を出す。

 で、このとき子どもたちを観察してみると、いろいろな反応を示すのがわかる。
(私の教室の子供たちは、幼児期から訓練を受けている子どもたちだから、こうした
問題を出すと、みな「やってやる!」「やりたい!」と言って、食いついてくる。)

 絵を描き始める子ども。
足を描き始める子ども。
意味のわからない記号を書き始める子ども。
2+2+2……と、式を書き始める子どもなどなど。

 こうした指導で大切なことは、(解き方)を教えることではない。
(子ども自身に考えさせること)である。
だから私は、待つ。
ただひたすら、静かに待つ。

 が、やがて1人、表を書き始める子どもが出てきた。
私はすかさず、「ほう、表で解くのか。それはすばらしい」と声をかける。
するとみな、いっせいに、表を描き始める。
表の形などは、みな、ちがう。
しかしそれは構わない……。

 (こうした様子は、YOUTUBEのほうに動画として、収録済み。)

●メタ認知能力の応用

 こうして書いたことからもわかるように、メタ認知能力というのは、もともとは、
数学の問題を解法技法のひとつとして、発見された能力ということになる。
しかしその奥は、先にも書いたように、「深い」。
日常的な思考の、あらゆる分野にそのまま応用できる。
ひとつの例で考えてみよう。

●パソコンショップの店員

 こういう書き方ができるようになったのは、私もその年齢に達したから、ということ
になる。
パソコンショップの店員には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、そういう
店員を見ていると、ときどき、こう考える。

「だから、どうなの?」
「この人たちは、自分の老後をどう考えているんだろ?」
「もったいないな」と。

 つまりパソコンショップの店員の目的は、パソコンを客に売ること。
しかしそんな仕事を、仮に10年つづけていても、身につくものは何もない。
店が大きくなり、支店がふえれば、支店長ぐらいにはなれるが、そこまで。
だから「だから、どうなの?」となる。

 つぎにパソコンショップの店員たちは、よく勉強している。
その道のプロである。
しかしプロといっても、一般ユーザーの目から見てのプロに過ぎない。
パソコンを自由に操ることはできるが、その先、たとえばプログラミングの仕事とか、
さらには、スーパーコンピュータの操作となると、それはできない。

 そこで私はこう考える。
「こうした知識と経験を使って、別の仕事をしたら、すばらしいのに」と。
たとえばデザインのような、クリエイティブな仕事でもよい。
それが「もったにないな」という気持ちに変わる。

 そこでメタ認知能力の登場!

(1)自分の置かれた職場環境の把握
(2)その職業を長くつづけたときの、メリット、デメリットの計算
(3)老後が近づいたときの、将来設計
(4)収入の具体的な使い道などなど。
 
 そうしたことを順に考え、自分の生活の場で、位置づけていく。
中には、「お金を稼いで、高級車を買う」という人もいるかもしれない。
しかしそれについても、メタ認知能力が関係してくる。
「だから、それがどうしたの?」と。

 高級車を乗り回したからといって、一時的な享楽的幸福感を味わうことは
できる。
が、できても、そこまで。
4〜5年もすれば、車は中古化して、当初の喜びも、半減する。

 ……つまりこうしてパソコンショップの店員は、メタ認知能力が少しでもあれば、
「もったいないな」を自覚するようになる。
また自覚すれば、生きざまも変わってくる。
同じ店員をしながらも、ただの店員で終わるか、あるいはつぎのステップに進むか、
そのちがいとなって、現れてくる。

 が、このことは、家庭に主婦(母親)として入った女性についても、言える。

●生きざまの問題に直結

 日常的な作業(=ルーティンワーク)だけをし、またそれだけで終わっていたら、
その女性の知的能力は、(高度)とは、ほど遠いものになってしまう。
電車やバスの中で、たわいもない愚痴話に花を咲かせているオバチャンや、オジチャン
たちを見れば、それがわかる。

 そこで重要なことは、あくまでもメタ認知能力の訓練のためということになるが、
つねに問題意識をもち、(問題)そのものを、身の回りから見つけていくということ。
問題あっての、メタ認知能力である。

 社会問題、政治問題、経済問題、さらには教育問題などなど。
あえてその中に、首をつっこんでいく。
ワーワーと声をあげて、自分で騒いでみる。
私はそのとき、そのつど文章を書くことを提唱するが、これはあまりにも手前みそ過ぎる。
が、(書く)ということは、そのまま(考える)ことに直結する。
ほかによい方法を私は知らないので、やはり書くことを提唱する。

 で、こうして書くことによって、たとえば今、「メタ認知能力」についての理解を
深め、問題点を知ることができる。
同時に、応用分野についても、知ることができる。
こうして自分がもつ知的能力を高めることができる。
そしてそれがその人の生きざまへと直結していく……。

 簡単に言えば、「自分の意識を意識化すること」。
それがメタ認知能力ということになる。
オックスフォード英英辞典によれば、「Meta」は、「higher(より高度の)」「beyond
(超えた)」という意味である。
「より高度の認知能力」とも解釈できるし、「認知能力を超えた認知能力」とも解釈
できる。

 私はこのメタ認知能力の先に、(ヒト)と(動物)を分ける、重大なヒントが隠されて
いるように感ずるが、それは私の思いすごしだろうか?
つまりメタ認知能力をもつことによって、ヒトは、自らをより高いステージへと、自分を
もちあげることができる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 メタ メタ認知能力 metacognitive ability 高度な知的活動)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

【メタ認知能力】(追記)(Metacognitive Ability)

+++++++++++++++

この数日間、「メタ認知能力」という
言葉に、たいへん興味をもっている。
以前にも何度か、それについて書いた
ことがある。
が、そのときは、それほど
重要視していなかった。
しかしその後、知れば知るほど、
なるほどと思う場面に遭遇した。

「メタ認知能力」……まさに人間だけが
もちうる、最高度の認知能力という
ことになる。

+++++++++++++++++

●食欲とメタ認知能力

 食欲中枢は、脳の中でも視床下部というところにあることがわかっている。
そこにあるセンサーが、血糖値の変動を感知して、食欲を増進させたり、反対に
食欲を減退させたりする。

 しかしこれら2つの働き、つまり(食欲増進)を促す中枢部と、(食欲抑制)を
促す中枢部が、最近の研究によれば、別々のものというところまでわかってきている。
これら2つの中枢部がたがいに連携をとりながら、もう少し具体的には、絶妙なバランス
をとりながら、私たちの(食欲)を、コントロールしている。

●意識を意識する

 もちろん私たちは、こうした知識を、本という(文字)を通して知るしかない。
頭を開いて、その中を見て知るわけではない。
が、想像することはできる。
たとえば空腹感を覚えたようなとき、「血糖値がさがってきたぞ」とか、など。

 血糖値がさがると、胃や腸が収縮し始める。
空腹になると、おなかがグーグーと鳴るのはそのためだが、そうした変化に合わせて、
空腹感がどういうものであるかを知る。

 このとき、「ああ、腹が減ったなあ」だけでは、メタ認知能力はないということに
なる。
が、このとき、自分の脳みその中の変化を、想像してみる。
「ああ、今、食欲増進中枢部が働いているぞ」
「今度は、食欲抑制中枢部が働いているぞ」と。

 こうして自分の意識を、別の意識で客観的に評価する。
それをする能力が「メタ認知能力」ということになる。

●2つの働き

 これもひとつのメタ認知能力ということになるのか。
たとえば講演などをしているとき、自分の脳の中で、2つの働きが同時に起きている
のがわかる。
ひとつは、講演の話の内容そのものを考えること。
「この話には、異説があるので、注意しよう」とか、「この話は、もう少し噛み砕いて
話そう」とか、考える。

 もうひとつは、話しながらも、「残り時間があと20分しかないから、少し結論を
急ごう」とか、「つぎにつづく話は、途中で端折ろう」とか、時間を意識すること。
この両者が、交互というよりは、同時進行の形で働く。

 つまり講演している私を、別の意識が客観的にそれをみて、私にあれこれと命令を
くだす。

●知的能力

 教育の世界の話になると、ぐんと具体性を帯びてくる。
たとえば今、掛け算の九九練習している子ども(小2)を、頭の中で想像してみてほしい。
その子どもは懸命に、「二二が4、二三が6……」と暗記している。
そのとき子どもは、「なぜそれを学習しているのか」「なぜそれを学習しなければならな
いのか」「学習したら、それがどう、どのように役立っていくのか」ということについては、
知る由もない。

 「掛け算は覚えなければならない」という意識もない。
ないから、先生や親に言われるまま、暗記する……。

 これは子どもの世界での話だが、似たような話は、おとなの世界にも、いくらでもある。
またその程度の(差)となると、個人によってみなちがう。
言い換えると、メタ認知能力の(差)こそが、その人の知的能力の(差)ということにな
る。

●自己管理能力とメタ認知能力

 たとえば若い男性の前に、裸の女性が立ったとする。
かなり魅力的な、美しい女性である。
そのとき若い男性が、それを見てどのように反応し、つぎにどのような行動に出るかは、
容易に察しがつく。

 が、そのときその若い男性が、自分の中で起きつつある意識を、客観的にながめる
能力をもっていたとしたら、どうだろうか。
「今、視床下部にある性欲本能が、攻撃的な反応を示し始めた」
「ムラムラと湧き起きてくる反応は、食欲増進反応と同じだ」
「今、ここでその女性と関係をもてば、妻への背信行為となる」など。
いろいろに考えるだろう。

 こうしてメタ認知能力をもつことによって、結果的に、大脳の前頭連合野が分担する、
自己管理能力を、より強固なものにすることができる。

●スーパーバイザー

 「意識を意識する」。
それがメタ認知能力ということになるが、もう少し正確には、「意識を意識化する」という
ことになる。

 もちろんその日、その日を、ただぼんやりと過ごしている人には、(意識)そのものが
ない。
「おなかがすいたら、飯を食べる」
「眠くなったら、横になって寝る」
「性欲を覚えたら、女房を引き寄せる」と。

 が、そうした意識を、一歩退いた視点から、客観的に意識化する。
言うなれば、「私」の上に、スーパーバイザー(監督)としての「私」を、もう1人、置く。
置くことによって、自分をより客観的に判断する。
たとえば……。

 「今日は寒いから、ジョギングに行くのをやめよう」と思う。
そのときそれを上から見ている「私」が、「ジョギングをさぼってはだめだ」
「このところ運動不足で、体重がふえてきている」「ジョギングは必要」と判断する。
そこでジョギングをいやがっている「私」に対して、「行け」という命令をくだす。
言うなれば、会社の部長が、なまけている社員に向かって、はっぱをかけるようなもの。
部長は、社員の心理状態を知り尽くしている。

●うつを知る

 メタ認知能力は、訓練によって、伸ばすことができる。
私なりに、いくつかの訓練法を考えてみた。

(1)そのつど、心(意識)の動きをさぐる。
(2)それが脳の中のどういう反応によるものなのかを知る。
(3)つぎにその反応が、どのように他の部分の影響しているかを想像する。
(4)心(意識)の動きを、客観的に評価する。

 この方法は、たとえば(うつ病の人)、もしくは(うつ病的な人)には、とくに
効果的と思われる。
(私自身も、その、「うつ病的な人」である。)

 というのも、私のようなタイプの人間は、ひとつのことにこだわり始めると、そのこと
ばかりをずっと考えるようになる。
それが引き金となって、悶々とした気分を引き起こす。

 そのときメタ認知能力が役に立つ。
「ああ、これは本来の私の意識ではないぞ」
「こういうときは結論を出してはいけない」
「気分転換をしよう」と。

 すると不思議なことに、それまで悶々としていた気分が、その瞬間、とてもつまらない
ものに思えてくる。
と、同時に、心をふさいでいた重い気分が、霧散する。

●メタ認知能力

 メタ認知能力を養うことは、要するに「自分で自分を知る」ことにつながる。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。
「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思っている。
が、実のところ、そう思い込んでいるだけで、自分のことを知っている人は、ほとんど
いない。
(私が断言しているのではない。
あのソクラテスがそう言っている。)

 が、メタ認知能力を養うことによって、より自分のことを客観的に知ることができる。
「私は私」と思っていた大部分が、実は「私」ではなく、別の「私」に操られていた
ことを知る。
それこそが、まさに『無知の知』ということにもつながる。

 もちろん有益性も高い。
その(有益性が高い)という点で、たいへん関心がある。
応用の仕方によっては、今までの私の考え方に、大変革をもたらすかもしれない。
またその可能性は高い。

 しばらくはこの問題に取り組んでみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 メタ認知能力 Metacognitive Ability)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●酒井N子の賠償責任

++++++++++++++++++

どうして酒井Nが、賠償責任?
まず、つぎの記事を読んでみてほしい(ヤフーNEWSより)

++++++++++以下、ヤフーNEWSより+++++++++++

酒井N容疑者が所属するサンミュージックに、CMやファッションブランドの打ち切りな
どで億単位の賠償金が請求される可能性が出てきた。このうち、酒井容疑者がどれだけ負
担するかが焦点になっている。

■田代Mは、8000万円請求される

 テレビに出ることは最近少なかった、のりピーことタレントの、酒井N容疑者(38)。
とはいえ、CMにファッションブランド、裁判員制度PR映画と、その清純派キャラをビ
ジネスにうまく生かしていた。

 それだけに、覚せい剤事件を起こして、巨額の損害賠償のうわさがささやかれている。
元タレントの田代Mさん(52)は、内外タイムスの2009年8月18日付コラムで、
自らも事件を起こした経験から賠償について語った。

 田代さんは、「すでに収録が終わっていた番組がお蔵入りしてしまい、賠償金を8000
万円請求されてまだ返してる最中」と告白。そして、「のりピーの場合さらにCMの違約金
なども発生してすごい額になってしまうのではないかと…」などと、つづっている。

 実際、酒井容疑者は、CMでは、トヨタ自動車と製薬会社のアラクスと契約しており、
トヨタが契約の打ち切りを予定し、アラクスが契約解除の交渉をしている。CM制作には、
数億円かかるとされるから、損害は大きい可能性がある。

 また、酒井容疑者のファッションブランド「PP rikorino」について、伊藤忠商事はすで
に契約を継続しない決定をしている。150品目もあるといい、商品が店頭から撤去され
たとも報じられている。

 さらに、酒井容疑者が出演の裁判員制度PR映画「審理」について、最高裁がDVD貸
し出し中止などを行った。制作費だけで7100万円もかかっているという。

 このほか、ビクターエンタテインメントが、酒井容疑者のCD、DVDを出荷停止など
にし、ベスト盤CDの発売も中止している。

 ただ、損害賠償の請求については、各企業や最高裁では、まだ決まっていないなどとし
ている。

++++++++++以上、ヤフーNEWSより+++++++++++

●法的根拠

 契約内容にもよる。
各企業と酒井N子、さらには各会社とプロダクション、またプロダクションと酒井N子
の間で、どのような契約が取り交わされていたのか。
それがはっきりしないので、ここではあくまでも、「?」というレベルで、ものを書く。
つまり、こういうこと。

 各企業は、プロダクションを通して、酒井N子に、モデルなどを依頼し、販促用の
DVDなどを制作していた。
それはわかる。

 ところが今回、酒井N子は、覚せい剤の所持、使用などで逮捕された。
それもわかる。
しかしどうしてこのことが、酒井N子への損害賠償請求へとつながっていくのか?
因果関係については、推察することはできるが、それを証明するとなると、至難の業。
「酒井N子が逮捕されたので、制作したDVDが使用できなくなりました」と。
どうやってその連続性を証明するのか?

 言葉は悪いが、そんなのは、各企業の責任。
各企業が、バカだっただけ。
ろくに人選もせず、イメージだけで販促用のDVDなどを制作した。
プロダクションにしても、通常、そこまで個人の私生活など、知るのは不可能。
覚せい剤などというものは、もともと隠れて使用するもの。
「知らなかった」を押し通せば、それですむ。
……すんでしまう。
(実際、知らなかっただろうし……。)

 『億単位の賠償金が請求される可能性が出てきた。このうち、酒井容疑者がどれだけ負
担するかが焦点になっている』というが、その法的根拠は何か?

 たとえば冒頭に書いたように、契約書か何かに、「出演者が故意もしくは過失により、
DVDの発行を無理せしむべく行為をなしたばあいには、出演者が賠償の責を負う』
というような条項でもあれば、話は別。

 (そあたりは、どうなっているのかな?)

 それについて、あの田代Mさん(マスコミ界では、すでに「〜〜さん」づけで呼んで
いるが……)は、こう答えている。

『すでに収録が終わっていた番組がお蔵入りしてしまい、賠償金を8000万円請求され、
まだ返している最中』と。

 本当かな?
本当に返している最中かな?
それはともかくも、田代Mさんは、どうして損害賠償責任を負ったのか?
考えれば考えるほど、わからない。

 で、問題は、酒井N子が、「裁判員制度PR映画」に加担していたということ。
よくある話である。
何でもないそこらのタレントが、ある日突然、日本を代表する、〜〜救済活動の
リーダーに変身したりする。
そこに至るプロセスは、何もない。
(その家に、ホームレスの人が何十人も寝泊りしているという話があるなら、私はまだ
納得するが、そういう話は、まったくない。)

 自分は億単位の大豪邸に住んで、億単位の年収を稼ぎ、何が〜〜救済運動だ!
偽善者もよいところ!
……というバカげた話の延長線上に、酒井N子がいる。

 ところで、彼らの合言葉を知っているか?

『中央で有名になって、地方で稼げ』だ。

私も若いころ、マスコミの世界で仕事をしていたから、そのあたりのことをよく知って
いる。
知名度があがればあがるほど、その分だけ、稼ぎが増える。
だから出演料5000円でも、一着数百万円もかけた衣装を身につけてテレビに出る。
……出たがる。
(NHKでは、どんな出演者でも、30分で5000円と、一律に決まっていた。当時)

 それに踊らされるのは、各企業、そして私たち、名もなき、力もない、一般庶民。

 何も酒井N子の肩をもつわけではないが、裁判員裁判制度のPR映画に使った、
7100万円は、担当職員たちに支払わせればよい。
「有名人を使えば、それだけ効果があがるはず」と考える、浅はかさ!
日本の司法関係者まで、ギャグに踊らされている!
このおかしさ!
少しは、自分に恥じたらよい!

(そう言えば、酒井N子は、その裁判員たちよって、裁判を受けるのか?)

 各企業は、たぶん、「イメージをつぶされた」とか何とか言って、怒っているのだろう。
しかし裏を返して言うと、そのイメージとやらを使って、私たち庶民をだますことに
失敗しただけではないのか。
損害賠償うんぬんという話ではない。

 もともと胡散(うさん)臭い世界での、痴話劇。
成り行きを注視したい。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 21日祭日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●掲示板より

【Yさんより、はやし浩司へ】

1学期出席日数不足で成績の出なかった高校2年の娘の件です。
終業式も欠席したので、通知表を昨日、もらいに行く予定でした。
私には行くと言い、夜も行ったと話していたので、見せなかったので 
不審感はありましたが、うるさく言ってもよくないと思い 何も言いませんでした。
やはり行かなかったようで、先ほど担任の先生から連絡がありました。
とりあえず、娘には学校に連絡して、すぐに行くようメールで伝えましたが・・・
どのように対応したらよいのかわかりません。
2学期からは行くと言っていたので それも心配です。

暖かい無視・・・難しいです。

【はやし浩司より、Yさんへ】

 前にも書きましたが、(1)学校、進学、進級は、あきらめなさい。
お嬢さんは、もうあなたの手の届かないところにいます。
あなたがガタガタしたところで、この問題は解決しないばかりか、かえって
より悪い方へ、お嬢さんを追いやってしまうだけです。

 こうした問題には、二番底、三番底があります。
「まだ以前のほうがよかった……」ということを繰り返しながら、あなたの
お嬢さんは、その二番底、三番底へと向かっていきます。

 「やるべきことはする」という姿勢に徹し、あとの判断は、お嬢さんに任せなさい。
退学するもよし。
またその覚悟をもち、退学してきても、あなたはお嬢さんを、暖かく迎え入れます。
あたかも何ごともなかったかのように、です。

 投稿記事によれば、あなたはその旨、メールで伝えたというのですから、それで
じゅうぶんです。
それ以上の対応はする必要ありませんし、なにもできることはありません。

 あなたはぬか喜び(「2学期からは行く」と言っていると喜び)と、取り越し苦労
(「成績表がどうのこうの」と言って心配する)を、ドタバタと繰り返しています。
あなた自身に、一本の筋の通った一貫性(=哲学)がないのが、気になります。
周囲の状況に応じて、アタフタしているだけ。
ドタバタしているだけ。
その一方で、「許して忘れるはむずかしい」とか、「暖かい無視はむずかしい」とか、
たいした努力もしていないのに(失礼!)、つまり自分と闘うこともせず、結論ばかり、
急ぎます。
もう少し、デンと構えなさい。
「許して忘れる」にしても、「暖かい無視」にしても、そんな簡単なことではありません。
すこしくらいマネごとしたからといって、会得できるようなことではないということです。

 あなたはあなたなで自分のしたいこと、すべきことをするのです。
1人の人間として、です。
いまだに子離れできていない、未熟な母親を想像してしまいますが、ちがうでしょうか。
また「学校、学校」と、おおげさに考えないこと。
税金と、あなたの払う月謝で運営しているのですから、あなたのほうが、もっと威張れ
っていればよいのです。

 「おい、ちゃんとうちの娘の面倒を、しっかりとみろ!」と、です。

それくらいの気持ちで、あなたはあなたのお嬢さんのほうを守ります。
立場が逆ですよ。
あなたは学校側に立って、学校といっしょになってお嬢さんを責めている!
あなた自身が、学校絶対教の信者になっていますよ!

 ……とまあ、かなりきびしいことを書きましたが、あなたは一歩退いて、お嬢さんに
こう言うのです。

 「あなたの人生だから、どんな道を進むかは、あなたが決めなさい。
どんな人生を選んでも、私はあなたを信じていますからね。
応援しますよ。
よく考えて、自分の進路を決めなさい」と。

 結果として、退学しても、よし。
学校へ通うのも、よし。
あなた自身の17歳のときを思い出してみてください。
あなたはすばらしい女子高校生でしたか?
そういう視点で、あなたのお嬢さんを見るのです。

 今、大切なことは、お嬢さんの逃げ場をつぶしてしまわないこと。
あなたが今の状態で、ワーワーとわめいてしまったら、お嬢さんは、帰る場所を
なくしてしまいますよ。
退学どころか、家出、さらにどこかの男性と同棲、妊娠……とつづきますよ。

 「今の状態を、これ以上悪くしないことだけ」を考えて、対処してください。

これで私からの返事は終わりますが、ひとつだけ気になっていることがあります。
いただいた相談には、「お父さんの影」が、どこにもないのは、なぜでしょうか?
よけいなことですが……。

 で、繰り返しますが、高校2年生は、もうおとなです。
ひょっとしたら、あなたのお嬢さんは、あなたより、おとなです。
少なくとも、あなたのお嬢さんは、あなたをそういう目で見ていますよ。
「うちのママったら、どうしようもないわ」と、です。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●メタ認知(認識)(解離性人格障害)

++++++++++++++++++++

自分の現在の脳みその活動を、客観的に
認識することを、「メタ認知(認識)」という。
「メタ」というのは、「超えた」という意味。
「認識を超えた認識」という意味で、「メタ
認識」という。

たとえば空腹感を覚えたようなとき、
「ああ、血糖値がさがっているぞ。視床下部の
センサーがそれを感知しているぞ。
ドーパミンが線条体を刺激し始めたぞ……」と。

目には見えないが、脳のメカニズムがある程度
わかってくると、具体的にそれを知ることができる
ようになる。
自分の中に起きている変化を、客観的に認識する
ことができるようになる。
それが「メタ認知(認識)」。
新しい言葉なので、用語の使い方がまちがっているかも
しれないが、大筋ではそれほどまちがっていないと思う。

で、たとえばパソコンのOSにビスタがある。
このビスタには、自己評価能力という機能が
ついている。
それぞれの機能を、6点満点法で表示してくれる。
これなどは、メタ認知(認識)ということになる。
自分で自分をテストして、自分の能力を調べる。

で、ふとこんなことを考える。
人間も、似たようなことはできないものか、と。

++++++++++++++++++++

●解離性人格障害

 「人格障害」というと、ゾッとする人も多いかもしれない。
しかしこと、この「解離性人格障害」について言えば、程度の差こそあれ、ほとんどの
人に、その傾向が見られる。

 本来の「私」はいるのだが、興奮したようなとき、あるいは攻撃的になったようなとき、
もっとわかりやすい例では、カッと頭に血が上ったようなとき、別人のようになる人は
多い。
そのとき、通常の人とちがう点は、人格そのものまで変化するということ。
ふだんは平和主義者の人が、そういう状態になったとたん、虚無主義者になったりする。
淋しがりやの人が、孤独に強くなったりする。

 実は、私もそうで、それに気づくまでに、20年以上の年月がかかった。
つまり病識そのものが、なかった。
そういう自分を薄々知りながらも、「私はまとも」と思っていた。
しかし私は、(まとも)ではなかった。

 「解離(かいり)」というのは、主人格がちゃんとあって、そのつど、副人格が優勢に
なる状態をいう。
主人格との間に、連続性はない。
あるいは副人格になったときでも、主人格ははっきりとそれを自覚していて、一方の側から、
「やめろ」とか、「今のお前はおかしい」とか、口を添えたりする。

●解離性性格

 で、こういう話をすると、たいていの人は、「そういえば、私にも似たようなところが
ある」と言い出す。
他人の心の奥までは覗くことはできないが、もしそうであるなら、「人格障害」という
診断名は、少し仰々しすぎるのでは?
「解離性性格」でもよいのではないか。
たとえばアルコールが入ったとたん、別の人間のようになる人は多い。
ふだんは、気が弱く、おとなしく静かだった人が、アルコールが入ったとたん、気が
大きくなり、大声でわめき散らしたりする。

●病識の自覚

 ここでの目的は、解離性人格障害について書くことではない。
目的は、そうした問題が自分自身にあるとき、どうすれば、それを自分で知ることが
できるかということ。

 たとえば精神疾患の世界には、「病識」という言葉がある。
同じ精神疾患でも、「私は病気」と気がついている、つまり病識がある人は、まだ軽いの
だそうだ。
が、それがさらに進むと、その病識がなくなる。
「私はどこもおかしくない」とがんばる人ほど、重症ということになる。

 では、病識のある・なしは、どこで決まるのか。
 
 ひとつには、知識と経験ということになる。
そういう点では、他人の病気を知ることは、たいへん、役に立つ。
たとえば今、私は認知症の高齢者にたいへん興味がある。
そういう人たちをたくさん見ておくことによって、自分の変化をより的確に知ること
ができるようになる。

●脳のCPU

 が、脳のCPUそのものが狂ってしまっていたら、どうなのか。
言うなれば狂った頭を、狂った頭で判断するようなもので、理論上は、メタ認知(認識)
できない
ということになる。

 よい例が、幻覚。

 私はチョコレートをたくさん食べると、脳の様子が変調する。
おかしくなる。
一種の覚醒作用か?

具体的にはどういう作用によるものかはわからないが、脳みそが勝手に暴走し始める。
10年ほど前、一度、そういう経験をしてから、それが恐ろしくなり、以後、チョコ
レートは、ほとんどといってよいほど、口にしていない。
(そのときは、バレンタインディーか何かで、休み時間ごとに、パクパクと
チョコレートを食べた。)
 
 そのときの症状は、別のどこかですでに書いたことがある。
たとえばこうである。
 
 頭の中に、2本の物干し竿が浮かんでくる。
具体的に、その映像が頭の中に映ってくる。
それについて、「人生の真理は、2本の物干し竿である」というように考え始める。
私が意図的に考えるのではなく、勝手に脳みそがそう考え始める。
(物干し竿)と(真理)の間には、連続性は、まったくない。
で、ふと、我に返る。
我に返って、それを頭から、振り払う。
が、つぎの瞬間には、また別のことを考え始める……。

 それは不気味というよりは、恐怖だった。
「頭が狂うということは、こういうことだ」と知った。

 そのときの経験から、CPUが狂ったときには、それを自分でコントロールするのは、
たいへんむずかしいということを知った。

●では、どうすればよいか
 
 要するに、(心の問題)は、それがどんなものであれ、うまくつきあうしかない。
たとえばうつ病にしても、約30%の人が罹患すると言われている(アメリカ)。
日本人は、どこかいいかげんな精神構造をもっているので、それよりは少ないと
言われている。

 仮に30%とするなら、それは「病気」というよりは、(病気であることには
まちがいはないが……)、「人間が本来的にもつ性質」のようなもの。
少なくとも、特別視するほうがおかしい。

 だったら、あとはうまくつきあう。
つきあうだけ。
つきあいながら、それ以上、症状を重くしないことだけを考える。
「直そう」とか「治そう」と考えれば考えてはいけない。
そう考えて、自分を追い込めば追い込むほど、自分を苦しめることになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 メタ認知(認識) 病識 解離性人格障害 剥離性人格障害 はやし浩
司 メタ認識 メタ認知)

(補記)

●メタ認知(追記)

 今日、ドライブしながら、ワイフに、メタ認知の説明をした。ワイフは、たいへん興味
深そうに、私の話を聞いてくれた。

 メタ認知……わかりやすく言えば、自分の思考プロセスを、客観的に意識化することを
いう。私が、「人間が知覚する意識の中でも、最高度のものだよ」と説明すると、「ふ〜ん」
と。

私「なぜ、自分がそのように行動し、考えるかという、そのプロセスを知ることだよ」
ワ「それがわかったからといって、どうなの?」
私「自分で、自分をコントロールすることができるようになる」
ワ「そうねえ。自分がなぜ、そのように行動し、考えるかがわかれば、自分で自分をコン
トロールするのは、簡単ね」
私「そうなんだよ」と。

 私が、なぜ、こうして毎日文を書いているかと言えば、その原点に、(生)があるからで
ある。その(生)を確認するために、文を書いている。それはまさしく、(生との闘い)と
言ってもよい。そういうプロセスを知ることが、メタ認知ということになる。それを話し
ているとき、若い男が運転する、ランドクルーザーとすれちがった。横には、若い女性が、
乗っていた。

私「ほら、あの男。自分では、自分で考えてあの車を買ったつもりでいる。しかし実際に
は、自分の力不足を、ごまかすために、あの車を買ったのかもしれない。ランクルに乗っ
ているだけで、大物になったような気分になれる」
ワ「でも、本人は、それには気づいていないわね」
私「気づいていない。自分の中の、奥深くに潜む意識によって、操られている。おそらく
説明しても、あの男性には、理解できないだろうね」と。

 その男性は、(生的エネルギー)(ユング)というよりは、(性的エネルギー)(フロイト)
のほうに、強く操られていたかもしれない。常識で考えれば、あれほどまでに若い男が、
600〜800万円もするような高級車に乗れることのほうが、おかしい。

 言いかえると、性的エネルギーは、それほどまでに強力ということ。が、それはそのま
ま私たち自身の問題ということになる。

 私たちは、今、なぜ、今のような行動をし、今のように考えるか。行動の内容や、考え
の内容は、どうでもよい。問題は、なぜそのような行動をし、考えるかを知る。それがメ
タ認知ということになる。

私「もし精神疾患をもった人が、自分を客観的にメタ認知できるようになったら、自分で
自分の病気を克服できるようになるかもしれないね」
ワ「すごいことね」
私「そう、すごいことだ。が、重度の患者ほど、『私は正常だ』『どこも悪くない』と言っ
てがんばる。つまりメタ認知ができないということになる」と。

 こんな例が適切かどうかは、知らない。が、こんなこともある。

 空腹になってくると、血糖値がさがってくる。同時に脳間伝達物質が、減少してくる。
すると、精神的に不安定になる。人によっては、怒りっぽくなったり、イライラしたりす
るようになる。

 その怒りっぽくなったり、イライラしたようなとき、自分を客観的にメタ認知できたら、
どうだろうか。「ああ、今、怒りっぽくなっているのは、空腹のせいだ」と。それが自分で
わかる。そうすれば、自分の感情を、その時点でコントロールすることができるようにな
る。

 で、そのときも、そうだった。私はそれを感じたので、ワイフに、「どこかで食事しよう
か」と声をかけた。ワイフは、それに快く応じてくれた。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

【生の源泉】

●生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of 
the brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is 
not all. I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「Sックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、Sックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる
気)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●仮説(Hypothesis)
In the middle of the brain, there may be a center which gives orders to the whole brains. 
The limbic system filters these orders to the one, which may be understood by other 
brains. Then brains give orders to each part of the body. The orders are controlled by the 
frontal part of the brain. This is my hypothesis. …sorry about my improper use of 
words )

+++++++++++++++++

電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。

私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。

「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。

私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。

「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。

しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?

ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。

+++++++++++++++

昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。

仮説(1)

人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。

仮説(2)

その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、
強力なシグナルが発せられている。
「生きろ!」「生きろ!」と。

生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、
そのシグナルに含まれる。

これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)の
エネルギー」と呼んでいる。

仮説(3)

この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターに
かけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと
変換される。

やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、
辺縁系を構成する。

つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性を
もったエネルギーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。

仮説(4)

この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きな
ものである。

以上が、私の仮説である。

具体的に考えてみよう。

たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。

具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。

そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかに
あるかもしれない。)

「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。

その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。

「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。

そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。

これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲
についても、同じように考えることができる。

こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。

その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、
「私であって私でない部分」を、分けて考えることができるようになる。

たとえば性欲で考えてみよう。

男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の
前とあととでは、異性観が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。

たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。

つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。

では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって
私でない」部分かということになる。

私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。

こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を
分けることによって、つぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。

たとえばここに1人の女性がいる。

朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1〜2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に
合ったものを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。

こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、
その女性をウラから操っているために、なされるものと考えられる。

もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧を
するのは、私の意思によるもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。

しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。

++++++++++++++++++

こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、
きわめて少ないということがわかってくる。

たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、
それとも若々しい赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることに
なる。

しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、
少しさみしい気がする。

さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして
懸命にものを考え、文章を書いている。

この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。

しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない
部分 視床下部 大脳前頭前野)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●糸の切れた凧(たこ)

+++++++++++++

ただ勉強さえできれば、それで
いいと考えている親は、多い。

若い親たちは、ほとんどが、みな、
そうではないか。

しかし指針のない教育ほど、
恐ろしいものはない。それは
たとえて言うなら、糸の切れた
凧のようなもの。

風が吹くのに任せて、右往左往する
だけ。

やがて子どもは、ダメ人間に……。
親は親で、深い、絶望の谷底に
……。

+++++++++++++

 もう20年以上も前のこと。あるとき1人の母親が私のところへきて、こう相談した。「う
ちの息子(5歳男児)が通っている英語教室の先生は、アイルランド人です。アイルラン
ドなまりの、へんな発音が身につくのではないかと、心配です」「だからどうしたらいいで
しょうか」と。

 この話は、ほんとうにあった話である。あちこちの本や雑誌にも、紹介させてもらった。

 たしかにアイルランド人は、やや独特の英語を話す。「W」の発音を、「ウォ〜」と延ば
したりする。オーストラリアやアメリカには、アイルランド系の移住者も多い。

 しかしネイティブは別として、日本人で、アイルランド英語を、ほかの英語と区別でき
る人は、いったい、どれだけいるだろうか? 私はその相談を受けたとき、「そんな問題で
はないのだがなア」と思った。

 その子どもには、多動性に併せて、多弁性も見られた。きびしいしつけが日常化し、そ
れが原因と思われるチックと吃音(どもり)も見られた。幼児期はともかくも、小学校へ
入学したあと、伸び悩むことは、明白だった。が、その母親は、英語教室の先生の、なま
りを気にしていた!

 ……というような例は、多い。子育てイコール、(子どもが勉強ができるようにすること)
と考えている。もっとはっきり言えば、進学競争のため。ほとんどの親は、「うちの子は、
やればできるはず」「うちの子にかぎって、今より悪くなるはずはない」と信じている。つ
まり、前しか見ない。上しか見ない。

 が、子どもの世界には、うしろもある。下もある。幼児期の、あの穏やかさ、すなおさ
が、いつまでもつづくと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。やがてつぎつぎと問題
が起こり、それが怒濤のように親を襲う。

 それには、理由がある。

 親の欲望には、際限がない。少し子どもができるようになると、「もっと」「もっと」と
言って、子どもを追いまくる。が、子どもとて、1人の人間。やがてその限界にやってく
る。よく家庭内暴力が問題になるが、子どもが暴力をふるうのは、何も、家庭だけではな
い。学校という場で、教師に向かって暴力をふるう子どもが、近年、急速にふえている。

 いつだったか、私は『子どもの心は風船玉』という格言を考えた。学校でしめつけられ
た子どもは、家庭で荒れる。反対に、家庭でしめつけられた子どもは、学校で荒れる。

 ふつうの荒れ方ではない。「テメエ、この野郎!」と言って、本気で足蹴りを入れてくる。
本気だ。しかも高校生や中学生ではない。まだあどけなさの残る、小学生。それも、小学
3、4年生。たいていは、女児である。

 が、親というのは、悲しい。子どもがそういう状態になっても、気がつかない。気がつ
かないフリをする。私がそれとなく指摘しても、「まさか……」「そんなはずは……」と、
それを否定してしまう。ことの深刻さが、理解できていない。

 この時点で、子どもの心は、粉々に破壊されている。やさしい心は消え、心は、とげと
げしくなる。ささいなことでキレやすくなり、暴れる。「勉強どころの話ではないのだが…
…」と私は思うのだが、親は親で、拍車をかけて、子どもの受験競争に狂奔する。症状も、
この程度ですめば、まだよいほう。さらに心をゆがめれば、行き着く先は、不登校、家庭
内暴力、陰湿ないじめなどなど。

 ……というような、その親子の未来像が、私には、手に取るようにわかる。40年近く
も幼児を見ていると、それがわかるようになる。が、それを口に出すことは、タブー。わ
かっていても、今度は、私の方が知らぬフリをする。冷酷なようだが、その人の子育てに
は、その人すべての哲学や人生観が集約されている。さらに、その人自身の過去が集約さ
れている。

 仮に問題があったとしても、親自身がそれに気がつくのは、むずかしい。心理学の世界
にも、「メタ認知」という言葉がある。自分自身の思考プロセスを、意識化することをいう。
人間がもつ意識の中でも、最高度の意識といってもよい。

 「なぜ私は、子どもの受験競争に狂奔するのか」と。それが自分でわかる親は、まずい
ない。どの親も、もっと深い部分からの命令によって、動かされているだけ。それを認知
する力が、「メタ認知」ということになる。

 私はその母親と別れるとき、「道は遠いだろうな」と思った。その母親が、自分の愚かさ
(失礼!)に気がつくことはあるのだろうかとさえ、思った。と、同時に、そのときほど、
やる気をなくしたことはない。おかしな無力感だけが、いつまでも残ったのだけは、今で
もよく覚えている。

 学生時代、私のガールフレンドは、そのアイルランド移民だった。若くして白血病でな
くなってしまった。今でもアイルランド英語を耳にするたびに、切ない思いにかられる。
これは余談だが……。

(補記)【メタ認知】

 医学の世界にも、「病識」という言葉がある。精神疾患を病んだような人が、「自分はお
かしい」と認識することを、病識という。

 この病識がある、なしで、精神疾患の重大さを判断することができるという。「私はおか
しい」「私は狂っている」と、認識できる病人は、まだ症状が軽いという。

 しかし病状が進むと、それすら、わからなくなる。「私はどこもおかしくない」「私の精
神状態は健康だ」とがんばる病人ほど、症状が重いという。

 自分で自分の(おかしさ)に気づくことは、それほどまでに、むずかしい。同じように、
自分の思考プロセスを、意識化することは、むずかしい。たとえばDV(家庭内暴力)が
ある。たいていは夫が妻に暴力をふるうケースだが、なぜ暴力をふるうのか。その思考プ
ロセスを、夫自身が気がつくのは、むずかしい。

 とくに心のキズというのは、そういうもの。無意識の世界から、その人を操(あやつ)
り人形のように、操る。夫自身も、幼少時代、親に虐待されていたかもしれない。

 わかりやすく言えば、哲学の世界で、「今の自分を知る」ということが、心理学の世界で
は、「メタ認知」ということになる。

 まず手始めに、「なぜ、私はこうまで、子どもの受験競争にカリカリするのか」と、自問
してみるとよい。そこからメタ認知は、始まる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
メタ認知 思考過程 思考プロセス 無意識下の意識)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司※

●自分を知る

++++++++++++

ほとんどの人は、「私のことは
私がいちばんよく知っている」
と思っている。

しかしその実、自分のことは、
まったくわかっていない。そう、
自分で思いこんでいるだけ。

よい例が、「病識」。「私は病気で
ある」という意識があることを、
病識という。

精神疾患の世界でも、この病識
のあるなしで、病気の軽重が
決まるという。

同じように、心理学の世界には、
「メタ認知」という言葉がある。
自分の思考プロセスを客観的に
知り、それを意識化することをいう。

「なぜ、私はこう考えるのか」と。
考えている内容ではない。なぜ、
そのように考えるか、そのプロセスを
意識化することをいう。

さらに哲学の世界では、「汝自身を
知れ」が、究極の目標になっている。

精神医学、心理学、そして哲学の
世界で、それぞれ言っていることは、
みな、同じ。

つまり、「私を知ること」は、それほど
までにむずかしい。

……それでもあなたは、「私のことは
私がいちばんよく知っている」と、
言い張ることができるだろうか?

+++++++++++++

 たとえば若い女性が、胸や太ももをあらわにした服を着たとする。その女性にしてみれ
ば、それが流行であり、そのほうが自分に似合うと思うから、そうする。

 そこでさらに、店にでかけ、あれこれ迷いながら、自分に合った(?)服を買おうとす
る。そういう女性に向かって、「どうしてそういう服を買うのですか」と質問しても、意味
はない。その女性はその女性なりに、懸命に考えながら、色やデザインを選んでいる。

 が、もしその女性が、こう考えたらどうだろうか。

 「私はフロイトが説いたところの、イド、つまり性的エネルギーに支配されているだけ」
と。

 そう、その女性は、無意識の世界からの命令によって動かされているだけ。そしてその
命令は、種の保存本能に根ざしている。胸や太ももをあらわにするのも、結局は、(男)と
いう異性をを意識しているからにほかならない。が、もちろんその女性には、その意識は
ない。

私「男を意識するから、そういう服を着るの?」
女「男なんて、関係ないわよ。ファッションよ」
私「ファッションって?」
女「自分に似合った服を選んで、身につけることよ」と。

 つまり精神疾患でいうところの「病識」が、その女性には、まったくないということに
なる。「私は正常だ」「ふつうだ」と思いこんでいる。しかし若い男性にとっては、そうで
はない。あらわになった胸や太ももを見ただけで、性的な情欲にかられる。女性には、そ
の意識はなくても、男性は、そうなる。

 「どんな服装をしようとも、女性の勝手」というわけにはいかない。

 もっとも、その女性が、性的エネルギーにすべて支配されていると考えるのも、まちが
いである。動機の原点に、性的エネルギーがあるとしても、そこから先は、(美の追求)と
いうことになる。ファッションショーに、その例を見るまでもない。

 しかしそのつど、もし私たちが、自分の思考プロセスを、客観的に認知することができ
るようになったら、またそういう習慣を身につけることができたら、自分の見方が大きく
変わるかもしれない。それを心理学の世界では、「メタ(高次)認知」という。

 たとえばこの私。毎日、ヒマさえあれば、こうしてパソコンのキーボードをたたいてい
る。実際には楽しいから、そうしている。頭の中の未知の世界を探索するのは、ほんとう
に楽しい。毎日、何か、新しいことを発見することができる。

 が、なぜ、そうするかというと、そこからが、「メタ認知」の領域ということになる。哲
学の世界でいう、「私自身を、知る」という世界ということになる。

 基本的には、大きな欲求不満があるのかもしれない。あるいは心のどこかで女性という
読者を意識しているのかもしれない。さらに言えば、(生)に対して、最後の戦いをいどん
でいるのかもしれない。フロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使ったが、弟子のユ
ングは、「生的エネルギー」という言葉を使った。

 「性」も「生」の一部と考えるなら、私は、今の自分が、その生的エネルギーによって
支配されているということになる。

 その生的エネルギーが姿を変えて、私を動かしている。それを知るということが、つま
りは、メタ認知ということになる。「私自身を知る」ということになる。

(補記)

 子どもの世界をながめていると、メタ認知というものが、どういうものか、よくわかる。

 たとえば心理学の世界にも、「防衛機制」という言葉がある。自我が危機的な状況に置か
れると、子どもは、(おとなもそうだが)、その崩壊を防ぐために、さまざまな行動に出る
ことが知られている。

 たとえば学習面では目立たない子どもが、スポーツ面でがんばるなど。非行や暴力、つ
っぱりも、その一部として理解されている。

 が、当の本人たちには、その意識はない。「私は私」と思って、(思いこんで)、そういう
行動を繰りかえす。

 相手は子どもだから、ここでいうメタ認知を求めても、意味はない。心を知り尽くした
心理学者でもむずかしい。あのソクラテスですら、「汝自身を知れ」という言葉にぶつかっ
てはじめて、「無知の知」という言葉を導いた。

 しかしメタ認知は、同時に、他人をよく知る手助けにもなる。

 出世主義に邁進する人も、金儲けに血眼になっている人も、あるいはスポーツの世界で
華々しい成果をあげている人も、心のどこかで、何かによって動かされている。それが手
に取るように、よくわかるようになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
メタ認知 認識 病識 汝自身を知れ 汝自身を、知れ)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●空腹のメカニズム(メタ認識・メタ認知)

+++++++++++++

昨夜、床につく前、猛烈な空腹感
に襲われた。

「パンでも食べようか……」と思ったが、
やめた。

そういうときの空腹感は、幻覚の
ようなもの。

朝、起きると、空腹感は消える。
今までの経験で、それがよくわかって
いる。

それに寝る前に食べると、肥満に
つながる。

+++++++++++++

 人間の空腹感は、(ほ乳動物もみなそうだが)、2つの相反する作用によって決まるとい
うことがわかっている。「食べたい」という作用と、「食べたくない」という作用である。「食
べたい」という作用が、「食べたくない」という作用よりも強くなったとき、空腹感が起き
てくる。順に考えてみよう。

 大脳の視床下部に、血糖値を感知するセンサーがある。一般的には、血糖値がさがると、
そのセンサーが機能し、空腹感をもたらすと考えられている。

 しかし空腹感のメカニズムは、そんな単純なものではない。私の例で、考えてみよう。

 たとえば昨夜、私は寝る前に、猛烈な空腹感に襲われた。人間には、(ほ乳動物はみなそ
うだが)、ホメオスタシス効果というのがある。「ホメオスタシス」というのは、人間内部
の生理的環境を一定に保とうとする機能を総称したもの(付記、参照)。

 もっともわかりやすい例が、食欲である。体内のエネルギーが不足してくると、生理的
バランスを一定に保つために、ホメオスタシス効果が機能し始める。それが食欲につなが
る。

 猛烈な空腹感に襲われたのは、血中の血糖値がさがったため。それを大脳の視床下部の
センサーが感知した。それが猛烈な空腹感へとつながった。

 しかしならば、朝になると、どうしてその空腹感が消えるのか? 血糖値は、昨夜のま
まのはず。あるいは睡眠中に、ホメオスタシス効果が機能して、血糖値を調整したのか。
その可能性は、ある。あるが、どうも合点がいかない。血糖値だけで、食欲の有無は、決
まるのか?

 この謎を解くカギが、拒食症や過食症の患者にある。

 食欲……正確には、「摂食行動」というが、その摂食行動は、2つの相反する作用によっ
て、決まるという。ネズミの実験だが、ネズミの視床下部の外側野に電気刺激を与えると、
摂食行動が活発化し、反対にその部分を破壊すると、摂食行動が停止するという(春木豊
氏「心理学の基礎」)。

 が、反対に、その視床下部の外側野に隣接した、腹内側核を刺激すると、摂食行動が起
きなくなり、反対にその部分を破壊すると、摂食行動が止まらなくなり、ネズミは過食し
始めるという(同)。

 わかりやすく言えば、視床下部の外側野と、それに隣接する腹内側核が、たがいに相反
した機能をもちながら、人間の食欲を調整しているということになる。以上の話を、もう
一度、まとめると、こうなる。

(1)視床下部の外側野……(刺激すると)→(摂食行動が起きる)
               (破壊すると)→(摂食行動が停止する)

(2)視床下部に隣接する腹内側核……(刺激すると)→(摂食行動が起きなくなる)
                    (破壊すると)→(過食が始まる)   

 脳の機能も外部からの刺激で、変調しやすい。ここに書いたマウスの実験では、脳の一
部を破壊することによって、摂食行動の変化を確かめたが、機能が変調しても、同じこと
が起きると考えるのは、ごく自然なことである。 

 たとえば拒食症の人は、視床下部の外側野の機能が、低下した人ということになる。一
方、過食症の人は、腹内側核の機能が、低下した人ということになる。(かなり乱暴な書き
方で、ごめん!)

 で、私のばあいは、どうか?

 昨夜、猛烈な空腹感が、私を襲った。原因として考えられるのは、夕食を、一気に食べ
たこと。つまり短時間で食べた。

 短時間で食べたため、血糖値が、急激に上昇した。それと並行して、(ややタイムラグ=
時間的なズレはあるが)、インシュリンが分泌された。昨夜は、それがやや多めに分泌され
たらしい。

 結果、血糖値はさがったが、インシュリンは、血中に残って、さらに血糖値をさげつづ
けた。そのため寝る前に、私は、低血糖の状態になった。それを大脳の視床下部にあるセ
ンサーが感知した。そしてその信号を、視床下部の外側野に伝えた。

 私は猛烈な空腹感に襲われた。

 しかし私は、それをがまんした。一連のメカニズムがわかっていると、がまんするのも、
それほどつらいことではない。「この空腹感は、幻覚」と自分で自分に、言って聞かせるこ
とができる。

 眠っている間に、ホメオスタシス効果が機能した。体内の生理的バランスを調整した。
結果として、朝起きたとき、空腹感は消えていた。

 ……というように、自分の欲望や行動を、客観的に意識化することを、「メタ認知」とい
う。人間がもつ認知力の中でも、最高度のものである。少し前、ワイフが、「それ(=メタ
認知)ができたからといって、それがどうなの?」と聞いた。私は、それに答えて、「メタ
認知ができるようになれば、さらに自分がよくわかる。自分で自分をコントロールできる
ようになる」と答えた。

 以上、「空腹のメカニズム」。おしまい!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
空腹のメカニズム 過食症 拒食症 ホメオスタシス メタ認知 視床下部 外側野 腹
内側核 はやし浩司 メタ認識)

(付記)

ホメオスタシス……「平衡状態」「定常状態」の意。生物が環境のさまざまな変化に対応し、
生物体内の形態的、生理的状態を安定な範囲に保ち、生存を維持する性質。アメリカの生
理学者のキャノンが提唱(国語大辞典)。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●時代遅れ(ネット時代)

++++++++++++++++

総務省の調査でも、インターネットの人口普及率は、75%を超えた。
75%と言えば、「ほぼ全世帯」と考えてよい。
(75%の人なのか、75%の世帯なのかによっても、中身はちがってくるが……。
それに子どもや老人が、この数字の中に含まれているか、いないかによっても、
中身はちがってくるが……。)

ともかくも、今や、ネット時代。
そんな時代にあって、今朝(19日)、ヤフー・ニュースに、こんな記事が載っていた。
何でも「あれもダメ」「これもダメ」式の公職選挙報が、時代に流れに即していないという。
たとえば、マニフェストの配布場所は決められている。
インターネットで選挙を呼び掛ける行為は禁止されている、などなど。
一部を紹介する。

『……ネットの人口普及率は総務省調査で75%を突破したものの、本来ネットは選挙運
動には使えない。しかし、各党は事実上のマニフェストをホームページ上に公開。K党広
報部長は「事前運動と指摘されないようテキスト版を載せた」とし、各党とも表向きは「選
挙公約ではなく、政権政策」。公示後は更新もできないため、「こうでもしないと政策が伝
わらない」というのが本音だ』(時事通信・8月19日)。

●私の経験から

 本(=書籍)とインターネット。
私はこの9年近く、本を、まったく書いていない。
「本」の限界を強く感ずるようになった。
だいたい私の書いた本は、売れない。
この世界、知名度が何にもまして、優先する。
知名度といっても、(テレビへの露出度)を意味する。

 頭をさげながら、本を出してもらう。
頭をさげながら、本を売ってもらう。
しかし本は売れない。
今度は、売れなかったことで、頭をさげる。
毎回、この繰り返し。

 本を出してもらうまでが、これまたたいへん。
何度も東京まで足を運ばねばならない。
加えて無駄な接待。
頭ペコペコ、またペコペコ……。

●インターネットの可能性

 そこで私は、(本)から(ネット)に、発表媒体を替えた。
とたん、目の前の世界が、変わった。
広がった。
ネットのすばらしいところは、(地域性)がないということ。
(地方性)と言うべきか。
(東京)という(中央)を飛び越えて、一気に(世界)に向かって、原稿を発表できる。
この狭い日本の中だけで見ていると、(東京)と(浜松)の落差は大きい。
しかし(世界)から見ると、(北海道)も、(沖縄)も、同じ。
(東京)と(浜松)のちがいなど、(点)に過ぎない。

 ネットを通して、少なくとも私は、(地方コンプレックス)を、完全に吹き飛ばすことが
できた。

 それ以後のネットの発達には、驚くべきものがある。
たとえば昨年の2月ごろ、アクセス数を合計してみた。
すべてのページにアクセスカウンターを設置しているわけではないが、それでも
合計してみると、月間10万件を突破していた。
(1人で、10回アクセスしても、10件とカウントされるので、10万件イコール、
10万人という意味ではない。)

 それがこの5月には、何と、30万件を突破した。
1年とちょっとの間に、3倍以上になったことになる。
ネットが、確実に世論のみならず、逆に、印刷媒体を凌駕(りょうが)しつつある。

 つい先日も、ある知人から、こんなニュースがもたらされた。

「(林さんの原稿が、以下の雑誌で紹介されます。)……広告媒体は10/1発売 COMO、10/2
発売 オレンジページ 、10/7発売ESSE、10/7発売 LEE、などを想定しているとのこ
とです。
 全国区の有名雑誌での掲載は初めてですので、本当に嬉しく思っております」と。

●時代錯誤

 こういう(流れ)の中、いまだに(印刷物)にこだわる人も多い。
それはそれでしかたないとしても、(法律)そのものが、(印刷物時代)を、ベースに
して作られているというのは、おかしい。
これを時代錯誤と言わずして、何と言う?
時代遅れと言ってもよい。

 その一例が、先にあげた公職選挙法である。
「あれもダメ」「これもダメ」という規制、規制の網をくぐりぬけて、ネット人口は、
好き勝手なことをしている。……好き勝手なことができる。

 たとえば今、こうして書いている文章は、10分後には、ネットに乗る。
(「載る」ではなく、「乗る」。)
Goo-Blogのばあい、24時間後には、約2000人の人の目にとまる。
反応も速い。
(「早い」ではなく、「速い」。)
私の書いた文章について、コメントがズラリと並ぶ。
「はてなBLOG」だけでも、毎日、40〜60件の書き込みがある。
多いときは、200件を超える。

●誤解

 これに対して、ネットに対する誤解と偏見も、根強い。
よく聞かれるのは、「ネットの情報は、信頼性がない」「ネットの情報は、軽い」など。
つまり情報源としては、それなりの価値はあるが、本のそれには、とてもかなわない、と。

 ある読者は、ていねいにこう書いて教えてくれた。

「本は、出版されるまで、編集部や販売部の担当者の目をくぐり抜けなければなりません。
その間に文章は洗練され、内容も整えられます。
しかしネットに流される文章には、そうしたプロセスがないのです」と。
つまり「いいかげん!」と。

 ならば聞きたい。
私がここに書いている文章と、書店で並んでいる本に載っている文章を、くらべて
読んでみてほしい。
「本に載っている文章だからすばらしいとか、ネットに乗っている文章だから、意味が
ない」というのは、偏見もよいところ。
私のばあい、本を書いているときも、こうしてネットに文章を書いているときも、
真剣度は同じ。
手は抜かない。
量を多く書いているから、その分、校正、推敲に書ける時間が少なくなるのは、しかたの
ないこと。
誤字、脱字は、いくら注意していても、避けられない。
(本のばあいは、出版社が、校正屋と呼ばれる、プロに文章を校正させている。)

 しかしそれを除けば、「ネットに乗っている文章だから……」という批判は、こと私の
書いている文章について言えば、当てはまらない。

●今は過渡期

 現在は、(印刷物)から(非印刷物)への過渡期と考えてよい。
ネットにも、いろいろな問題点がある。
未熟な点もある。
改善すべき点も多い。
それは認める。

しかしそれらの問題点は、日進月歩の時代の中にあって、日々に解決されつつある。
が、それ以上に、ネットのもつすばらしさが、ますます見なおされてきている。
動画や音声が、そのまま送信できるようになった。
それがいとも簡単にできるようになった。

 やがて「ネットに乗っている文章だから……」と陰口をたたく人もいなくなるだろう。
念のため、このエッセー(「時代遅れ」)については、一度、きちんと推敲、校正をして
からネットに乗せてみたい
「いいかげん」という陰口を叩かせないぞ!

 さあ、どうだ!


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●「偉そうなこと言うな!」

+++++++++++++++++++

今日、ある人(女性・60歳くらい)から、
こう言われた。

「偉そうなこと言うな!」と。
いきさつがある。
その場の雰囲気もある。

が、それについては、ここには書けない。
ともかくも、その女性は、私に、そう言った。

この言葉は、強烈に私の心に打撃を与えた。
つまりその一言で、私はその女性への思いが、
消えた。
完全に消えた。
今まで積み重ねてきた関係が、土台から
崩れ去った。

その女性が、まさか、そう言うとは、
思ってもみなかった。
ある程度の信頼関係はできあがっていると
思っていた。
しかし内心では、強く私に反発していたらしい。
だからこそ、とっさの拍子に、そういう言葉が出てきた。

心理学の世界でも、ときとしてこうした現象が起こる
ことが、証明されている。
いわゆる「思わず本音が……」という、あれである。
「言ってはいけない」と思っていると、かえって
そのことが口から出てきてしまう。

60歳ともなるとなおさらで、自分をコントロールする
気力そのものが、弱くなる。
だからよけいにそういう現象が起きやすくなる。

「なるほど」と思ったとたん、残念だが、その女性への
思いが、すべて吹き飛んでしまった。
恐らくその女性は、私という人間を外から見ながら、
いつも、「何を偉そうに!」と思っていたにちがいない。
私自身は、偉そうにしていたつもりはないのだが……。

しかしよい勉強になった。
こうしてものごとを評論すること自体、(偉そうなこと)。
地位も肩書きもない私が、教育を論じ、社会を論じ、世界を
論ずる……。
なるほど私がしていることは、(偉そうなこと)そのもの。
その女性は、それをわかりやすい言葉を使って、指摘した。

これからは気をつけよう。
人というのは、わからない。
本当にわからない。
外の様子からだけでは、ぜったいにわからない。
その気はなかったのだが、私も知らず知らずのうちに、
偉そうにしてみせていた。

これからは、もう少し謙虚になろう。
ただし一言。
『口は禍(わざわい)の門』という。
『舌は禍の根』※ともいう。
一度出た言葉は、簡単には消えない。
この先のことはわからないが、その女性との関係が
修復されることは、ないだろう。
人生は、それ以上に短い。
修復するための時間があったら、ほかの人との親交を深めることに
使いたい。

(注※)
『口は是れ虎に似て、人われの身を害す。
舌は是れ剣に似て、人われの命を絶つ』(古事)ともある。
舌の一撃は槍の一撃より悪いことを言ったもの。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 18日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●権威主義

++++++++++++++++++++

権威主義がどういうものであるか、
それを知りたかったら、現在のK国を見ればよい。
あの国は、権威主義のかたまり。
朝のニュース(毎日新聞)から、一部を拾ってみる。

『……韓国統一省は15日、訪朝中の韓国・現代グループの玄貞恩(ヒョンジョンウン)
会長が、滞在日程をさらに1日延長し、16日までとすることを明らかにした。金正日(キ
ムジョンイル)総書記との面会の調整が難航しているためとみられる。玄会長は10日に
2泊3日の予定で訪朝した』と。

 抑留されていた、現代グループのYさんは、すでに解放されている。
だったら、問題は、すでに解決したはず。
が、なぜか、ヒョンジョンウンさんは、まだK国にとどまっている。
で、この事実と、これから私が話す「権威主義」と、どう結びつくか?

+++++++++++++++++++++

●もったいぶった行動

一言で表現すれば、「もったいぶった行動」ということになる。
会うべき人なら、たがいに、さっさと会えばよい。
会う可能性がないなら、さっさとヒョンジョンウンさんを、韓国へ帰してやればよい。
が、そこは権威主義の国。
何かにつけて、相手をじらす。
もったいぶる。
もったいぶりながら、自分の権威を、相手に押しつける。

 わかるかな?

 この話と対照的なのが、スカンジナビア半島のどこかの国のこと。
(名前は忘れたが、スウェーデンではなかったかと思う。)
1970年当時。
今から40近くも前のこと。
その国の女性首相が、自宅から自転車通勤をしていると知った。
私は本当に驚いた。
当時の日本の常識では、考えられない行動であった。
「一国の首相が、自宅から自転車通勤?」、と。

 この事実と比較してみると、権威主義がいかにこっけいで、愚劣なものかがわかる。
現在の日本を位置付けてみると、日本は、K国と、スウェーデンとの中間あたり、
K国寄りのほうにあることがわかる。
 某週刊誌(今週号)によれば、麻生首相の自宅は、評価額が64億円だそうだ。
わかるか?
64億円だぞ!
そんな家に住んでいる人が、庶民の代表のような顔をして、総理大臣をしている!

●水戸黄門

 権威主義といえば、その象徴、それがあの「水戸黄門」(TBS系)。
いまだにドラマがテレビで放映され、視聴率を20%前後も稼いでいるという。
驚きでしかない。
 三つ葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すると、みな、ハハーと言って
頭をさげる。

 このこっけいさ。
愚劣さ。
日本人も、いい加減に、それに気づくべきときに、きているのではないのか。
(こういう論調で、水戸黄門を批判しているのは、今のところ、この私だけというのも、
おかしなこと。)

 どうして三つ葉葵の紋章を見せ付けられたくらいのことで、頭を下げなければならない
のか。
言い換えると、権威主義への(あこがれ)が、他方で、『水戸黄門』というテレビ番組を
支えていると考えられなくもない。
あるいは長くつづいた封建時代の中で、日本人は、骨のズイまで、魂を抜かれてしまった?

●どうして偉いのか?

 K国の将軍様というのは、それほどまでに偉い方なのか。
しかし実際のところ、私たちは、あの方が、過去に、どのような実績を残したか、
まったく知らない。
あの方が直接、ご自身で書いた文章すら、目にしたことがない。
 
実際にはまわりの一部の取り巻きたちが、祭りあげているだけ。
韓国に亡命した、K国の元高官のファン氏も、こう言っている。
彼を取り巻いているのは、実際のところ、20人前後。
多くても100前後と述べていると述べている。
そういう人たちが、金xxを一方的にたたえ、独裁政権を支えている。

 ただ金日成の息子、というだけである。
しかも先週アメリカ側が暴露した資料によれば、本物の金日成は、とっくの昔に
死亡していて、後にK国の将軍となる金日成は、金日成になりすました、偽者である
という。
ことの真偽はともかくも、どうしてそういう人物が偉いと言えるのか?
さらに言えば、どうして水戸黄門が偉いと言えるのか?

だいたい「偉い」というのは、どういう意味なのか?
権力の座にいる人を偉いというのなら、それこそまさに時代錯誤。
そう言えば、少し前、子どもたちを前にして、「私、日本でいちばん偉い人」と、
自分を指さして見せた日本の首相がいた。

●封建主義時代の亡霊

 今でも、封建時代そのままの権威主義は、いたるところに残っている。
最近一部の人たちが声高に説いている武士道なるものにしても、権威主義そのものと
考えてよい。
もちろん歴史は歴史だから、それなりの評価をくだすことは大切なことである。
しかしそれがもつ負の遺産に目を閉じたまま、一方的に武士道なるものを礼さんするのは、
どうか?
使い方をまちがえると、日本の進歩を、逆行させてしまうことにも、なりかねない。

 たとえばあのK国では、上級の官吏が、下級の官吏に対して、怒鳴りつけるようにして
命令しているという。
そういう光景が、いたるところで見られるという。
わかりやすく言えば、私たちがもっている(上下意識)。
それを支えているのが権威主義ということになる。

 武士が威張っていた日本でも、きっとそんな光景がいたるところで見られたに
ちがいない。

●日本の革命

 が、日本は今、大きく変わろうとしている。
また変わらなければならない。
64億円もするような大豪邸に居を構えるような首相が、日本の代表であるはずはない。
またそんな人を、すばらしい人と思ってはいけない。
感覚そのものが、私たち庶民のそれとは、あまりにもかけ離れている。
このおかしさ。
この愚劣さ。

もしあなたが、「首相にもなるような人だから、その程度の豪邸に住んでもおかしくない」
と考えているなら、それこそ、バカげている。
まず、私たちは、それに気づかねばならない。

●権威主義の国

 そしていつか、この日本でも、首相が自宅から自転車通勤をするようになり、近所の
人たちとあいさつを交わすようになったとき、日本は真に民主主義国家となる。
またそういう国をめざさなければならない。
そのために私たちの意識を、変えていかねばならない。

 理由にもならないような理由をこじつけて、一般の社員を抑留した。
その社員を返してくれと、その会社の社長が、わざわざK国まで出向いた。
そして「お会いしてくださるかもしれない」という期待だけで、2泊3日の予定が、
延び延びになった。

 このこっけいさ。
この愚劣さ。

もしそれがあなたにわからないというのなら、あなたは権威主義に、かなり毒された
人と考えてよい(失礼!)。

 みんなで力を合わせて、こういう日本を変えていこう!

(はやし浩司 権威主義 水戸黄門 上下意識 封建時代 封建時代の遺物)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「やさしさがないなとは思う」?

++++++++++++++++++

俳優の山城新伍が亡くなったことについて、
波紋が広がりつつある。
山城新伍のマネージャー氏は、次のように
語っている(ディリースポーツ・8月15日)。

++++++++++++++++++

『……山城さんは糖尿病に加え、認知症と高血圧を患っていたという。

 07年7月ごろより、都内を徘徊することが多くなり、昨年3月31日に東京・町田市
内の老人ホームに入所。その際に町田市役所が元妻で女優の花園ひろみと一人娘で女優の
南夕花に連絡したが、花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。山城さんサ
イドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという。

 その後、山城のマネジャーが花園らに連絡を取ったが、ついには音信不通になってしま
ったという。S雄さんは「優しさがないなとは思う。わたしから連絡を取ることもない」
と肩を落とした。

 生前、山城さんは「引退した者やから何もしなくていい。このままひっそりとしてほし
い。人と接したくない」と老人ホームを終(つい)の棲家に考えていたというが、「娘には
会いたいなあ」とよくこぼしていたが、その願いはかなわなかった。

 なお密葬は近親者のみで18日に京都で行われ、四十九日法要後、大親友の梅宮辰夫が
発起人となり都内で「お別れ会」を開く予定。骨は京都市内に、自身が建てた2カ所のお
墓に分骨される……』と。

 この中でとくに気になったのは、『S雄さんは「優しさがないなとは思う。わたしから連
絡を取ることもない」と肩を落とした』という部分。
「S雄氏」というのは、山城新伍の弟氏をいう。

 何があったのか?
私たち部外者の知るところではないが、この記事からも、よほどの確執があったらしいこ
とは、容易に察しがつく。
元妻ですら、「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。山城さんサイドの家族に、電
話で怒鳴り散らした』という。

 この記事を読んで、あなたなら、どう考えるだろうか?
弟のS雄氏のように、「優しさがない」と思うだろうか。
それとも別の考え方をするだろうか。

 こういうケースのばあい、まず念頭に置かねばならないことは、それぞれの家庭には、
言うに言われない複雑な事情があるということ。
表面的な部分だけをみて、それに自分の常識を当てはめて考えてはいけない。
どんなにあなたが社会経験が豊富で、常識豊かな人であっても、こと家庭の問題となると、
話は別。

 こうした問題で、安易にコメントを寄せる人というのは、それだけでノーブレインの人
と考えてよい。(S雄氏がそうであると言っているのではない。誤解のないように!)
いわんや、その家族のことを批判するのは、最小限にしたい。
元妻の花園さんについても、『……花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという』とある。

 問題は、そうした電話のやり取りを、だれが外部の人に漏らしたかである。
あるいはどうして私が知っているか、でもよい。
記事の内容からすると、マネージャー氏が、マスコミに暴露したと考えてよい。
となると、これまた背信行為ということになる。

 マネージャーという立場上、元妻や娘を批判したい気持ちはよくわかるが、一方的に、
このような内容を暴露するのは、どうか?
たとえそうであっても、やはりこうした話は内々で伏せておくべきではないのか。
こんなことを暴露すれば、今度は、花園さんと弟氏の関係も、破壊されてしまう。
つまりこういうことが重なって、先の記事のような内容になったとも考えられる。

 「電話で怒鳴り散らした」とあるから、相当のわだかまりがあるとみてよい。
であるなら、なおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
何も、山城新伍の死を理由にして、ことを荒立てる必要はない。
(日本人は、葬儀という場面になると、どんな無礼なことをしても許されると考える傾向
が強い。)
むしろ私も経験があるが、こうした事情をよく知らない人たちが勝手に騒ぎたてると、遺
族はそれまで以上に、とことん傷つけられる。
それは身を引きちぎられるような苦痛と表現してもよい。

 恐らくディリースポーツのこの記事を読んで、花園さんや娘さんたちは、さらに激怒し
ているにちがいない。
傷口に塩を塗りこまれたような状態ではないか。

 私自身は、山城新伍が好きだったし、好きだ。
しかしそれはスクリーンを通してでの話。
もちろん実物の山城新伍を知らない。
知る必要もない。
興味もない。
元妻や娘さんに冷たくされたといって、それで私の山城新伍への気持ちが揺らぐわけでは
ない。
どこの家にも、似たような話はある。
だったらなおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
静かに冥福を祈るだけである。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●なぜ太るか?

++++++++++++++++++

60・5キロ前後だった体重が、この数日間で
63・5キロにまでなってしまった。

++++++++++++++++++

風邪気味で、風邪薬をのむため、やや食事の量をふやした。
運動量も減った。
が、それにしても、激太り!

昨日も、朝食をかねて、昼にミニ丼。
夕方はサラダと、ポッカチオ(イタリア・パン)1枚。
今朝は、サラダとパン。
夕食は、インスタントラーメンを半分と、イカ焼き少し。
が、それでも太ってしまった。

いったい私の体の中では、何が起きているのか?
摂取細胞が、飢餓細胞に変身し、わずか食べ物でも、すべて脂肪細胞に変えている。
まさに水を飲んだだけでも太るといった感じ。
私にはそうとしか、思えない。

 こういう状態と闘う唯一の方法は、運動をすること。
運動しかない。
これからすぐ、自転車で佐鳴湖を一周してくる。
距離は、7〜8キロ+1キロ。
(佐鳴湖まで、500メートル前後あるので、その往復で+1キロ)。

 今、時刻は、正確には、午後5時40分00秒。
スタート!

(……この間、28分!)

 今もまだ、ハーハーしている。
計算してみると、平均時速約19キロ近くで走ったことになる。
かなり速い!
体中、汗びっしょり。
キーボードも、汗で光る。

扇風機の風が気持ちよい。
多分明日の朝は、60キロ台に体重が戻っているはず。

 で、サイクリングの途中、多くの人と出会った。
みな、それぞれと挨拶を交わす。
今ごろの佐鳴湖周辺は、健康を大切にする人で、あふれている。
すばらしいことだ。

 みなさん、いっしょに、がんばりましょう!


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090817)

●夏休み・最終日(単純接触の効果)

++++++++++++++++++

今日の予定はない。
人と会う約束もない。
仕事の予定もない。
すべきことがあるとすれば、
9月からのこと。
大きな講演がいくつかつづく。
それに実家のあと始末などなど。
今日から準備を始めてもよいが、
どうも気が進まない。

朝食の時、ワイフが、「出かけない?」と
聞いた。
「うん」と答えて、あれこれ考える。
何か運動につながるようなことをしたい。
明日から、仕事。
体調を整えておきたい。

それにしても気持ちのよい朝だ。
空気はほどよく冷たく、さわやか。
空はうっすらと水色。

++++++++++++++++++

●『去るものは日々にうとし』

 中国のことわざである。
「遠くに住んでいたり、長く会わないでいると、たがいに気持ちが疎遠になっていく」
という意味だが、心理学の世界には、「単純接触の効果」という言葉がある。

 頻繁に接触しているだけでも、親密度がますことを言ったものだが、相手と親しくなる
第一の条件は、接触を繰り返すこと。
毎日会っているだけでも、親近感がます。
このことを裏から言うと、『去るものは日々にうとし』となる。

 その『去るものは日々にうとし』は、加齢とともに、ますます加速する。
記憶そのものが薄れていくし、「接触しよう」という気力も薄れていく。
それに人は、みな変わる。
昔のままの人でいる人は、ほとんどいない。
加えてこの年齢になると、まず相手の頭の状態を知らなければならない。
「この人の脳みそは、だいじょうぶかな?」と。
それに話すことといえば、どうしても健康談議が中心になる。

 つまり『去るものは日々にうとし』というのは、どこかの相手のことを言った
ものではなく、実は、私自身のことを言ったものということが、これでわかる。

 私たちは加齢とともに、この(社会)そのものから離れていく。
社会から見て、私自身が、うとくなっていく。
そういう自分を知って、「これではいけない」と思う。
しかし、「ではどうすればいいか」という部分が、頭の中に浮かんでこない。

 そこで勢い、「もういいや」と自分に言い聞かせて、居直ってしまう。
それがますます、行動半径をせばめる。
このことは、都会の片隅で暮らしている独居老人と言われる人たちみればわかる。
だれもそういう生活を望んでいるわけではないのだろうが、人は、負の一次曲線的に
そういう生活に向かって、少しずつ進んでいく。
私もその過程の中にある。
やがてすぐ、私自身も独居老人になる。
それはひょっとしたら、もう避けられないものかもしれない。

 となると、「受け入れる」ではなく、「あきらめる」と言ったほうが正しい。
それはちょうど、健康論に似ている。

 いくらがんばっても、衰える部分は衰える。
最近、強く感ずるのは、足腰の衰え。
10〜20分もジョギングをすると、下肢が痛み出す。
「こんなはずはない」と思って無理したりすると、それから数日間、足が
動かなくなったりする。
そういう自分の足をさすりながら、私は、あきらめる。
走ることをあきらめるのではなく、そういうふうに痛くなるのをあきらめる。
昔の人は、こう言った。『歳には勝てない』と。

 そう、歳には勝てない。

 ……ということで、この先、現状維持が精いっぱい。
またそれができるだけでも、御の字。

ぽっかりとあいた休日。
夏休み最後の休日。
本来なら喜んでよいはずなのに、どうも素直にそれが喜べない。
「何かをしたい」という気ばかりがあせって、それが手につかない……。

 いや、ひとつ、あった!
あったぞ!
ハハハ。
それについては、もう少し、あとに書いてみたい。
今は、Confidential!
それについて書くのは、もう少し具体的になるまで、待ってほしい。

 ……とういうことで、今日もがんばる!

 そうそう体重が、今朝は、61・2キロにまで戻っていた。
よかった。
ホッとした。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 単純接触の効果)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●金価格

+++++++++++++++

金塊の現物取引している人が
ふえているという。
私も、少量だが、している。

私は「金」といえば、現物取引だけ。
現金で金塊を買って、金塊を現金で売る。

参考になるかどうかわからないが、
そのとき、こんなことに注意している。

+++++++++++++++

日本でも、「田中」とか「徳力」という
名前の会社がある。
そういうところのHPをのぞくと、その
日の売買価格がわかる。

このとき参考になるのが、
(1)金属相場データと、
(2)東京金商品先物取引

 金属相場データと東京金商品先物取引は、以下のHPで見ることができる。

http://www.metal-eco.net/info/data.html
http://www.fuji-ft.co.jp/newspaper/frame_kin.htm

 もちろん当時の為替相場(円・ドル相場)も重要だが、それを見ているだけでは、
振り回されるのみ。
またほかにも証券各社がいろいろな資料を公表しているが、私のように、片手間相場師
のばあいは、そこまで研究して……ということは、できない。
時間的にも、無理。
あくまでも道楽の範囲。

 で、私のばあい、まず金属相場データを見て、ニッケル、アルミ、銅などの
価格動向を知る。
金にしても、白金にしても、その一部にすぎない。
ときに原油価格動向、アメリカの株式動向を見ることもある。
が、こちらの動きは、金価格の動向に直結するというわけではないの注意。

 やはり金属相場データが重要。
その上で、東京金先物取引での価格動向を見る。
同じHP上で、ニューヨークの金先物取引の価格動向が示されているので、ついでに
見ておくとよい。
東京の金価格は、ニューヨークの金価格にすれば、「金魚のフン」のようなもの。

 円相場、金属相場、そして先物取引の動向……この3つを見て、(買い時)か
(売り時)かを判断する。
その判断は、株取引のそれと似ている。
(上値)と(下値)がある。
上値を吹いたら、売る。
下値を抜いたら、買う。

 これはあくまでも私の判断。
あくまでも参考価格だが、8月16日現在は、
2200円(金・キロバー価格)が、上値。
1900円が、下値。
金には、(買値)と(売値)の間には、70円(キロ)前後の値幅があるので、当然、
それを計算に入れて、売買する。

2200円で売るということは、金の販売価格が、2270円前後になっていなければ
ならない。
で、その間、300円前後の値動きが必要。

 田中貴金属が公表している、月次金価格動向グラフによれば、だいたい3か月前後を
1サイクルとしてその間の価格を上下しているのがわかる。
つまり最低でも、それくらいの期間は、じっと我慢する必要がある。

 もともと「今日、買って、明日、売る」という商品ではない。

 またこんなコツも必要である。
 わかりやすく説明するために、日付と金額を単純化してみる。

1月1日 1キロバーを、1000円で購入。
2月1日 1キロバーを、1100円で購入。
3月1日 1キロバーを、 900円で購入。
4月1日 1キロバー価格が、1000円になった。

 こういうとき、けっして平均値を出してはいけない。
「2月に1100円で買ったから、1000円で売るのは損」というような考え方を
すると、身動きが取れなくなる。
そういうときは、3月1日に900円で買った金を売ることにする。
またそう自分に言い聞かせて、売る。
そうすれば、キロバーで計算すると、10万円の儲けということになる。

 つまりそれぞれの月に買った金塊は、別々の商品と思うようにする。
そして4月は、10万円の儲けとして、計上する。

そして……
5月1日 1キロバーを、1000円で購入。
6月1日 1キロバー価格が、1100円になった。

 そのときは、1月と5月に買ったキロバーを売ると考える。
こうすれば20万円の儲けとなる。

が、つづく7月1日に、1キロバーが、800円になったとする。
そのときはそれが(下値)であれば、すかさず、買いを入れる。

 このときもやはり、平均値で計算してはいけない。
1月に購入した金塊は、ジャヌアリー社の株券と思うこと。
2月に購入した金塊は、フェブルアリー社の株券と思うこと。
3月に購入した金塊は、マーチ社の株券と思うこと。
別々の会社の株券と思い、売買を繰り返す。

 ただし一言。

 こうしたバクチは、小遣い範囲ですること。
また小遣い程度を儲けたら、それでよしとすること。
何があるかわからないのが、相場の世界。
素人の私たちが手を出せば、やけどは必至。
あくまでも道楽のひとつとしてすること。
私のばあいは、脳みその運動もかねて、そうしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 金相場)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●イヤ〜ナ事件(「無視する」)

+++++++++++++++++

おととい、あるいとこと、久しぶりに電話で
話した。
そのときのこと、そのいとこが、遠慮がちに、こう聞いた。

「話しにくいけど、○○さん(=私の家族)が
亡くなったとき、ぼくは香典をXさん(=私の親類)に
頼んでおいたけど、受け取ってくれたか?」と。

私が「受け取っていない」と言うと、そのいとこは、
たいへん驚いていた。
「ぼくは、Xさんに、葬儀には出られないから、香典を立て替えて
おいてほしいと言って頼んだ。
あとで現金書留で、そのお金をXさんに送っておいたんだが……」と。

何度か、当日の香典帳を調べてみたが、いとこの名前は
なかった。
香典袋もなかった。

しかし、こういうのは、本当に困る。
今ごろそれをXさんに問いただしても、「忘れていた」とか、
「もらった覚えはない」と、どうせとぼけるだけ。
私ひとりが、悪者になってしまう。

++++++++++++++++++

●ではどうするか?

 いきなり本論に入るが、こういうケースのばあい、どうするか?
で、私が選んだ方法は、こうだ。

 「無視する」。

原爆投下の直前、連合国側に日本が伝えた返事が、「黙殺する」。
「無視する」と「黙殺する」は、微妙にニュアンスがちがう。
が、どこかのだれかが、「黙殺する」を、「無視する」と翻訳した。
そしてそれを時のアメリカ大統領に伝えた。

しかし英語で、「無視する(ignore)」と言うと、たいへん強い意味になる。
それがアメリカ軍を怒らせ、原爆投下へとつながっていった。

 が、私は「無視する」。
黙殺ではなく、無視だ!
Igonoreだ!

 この世界には、誤解はつきもの。
たとえて言うなら、スーパーの万引き率のようなもの。
スーパーなどでは、あらかじめ万引き率に応じて、損金を計算に入れ、それを
価格の上に上乗せしている。

 いちいち目くじらを立てていたのでは、生きにくい。
世の中には、そういうこともあるという前提で生きていく。
それにもうちょうど1年もたっている。
「今さら……」というところか。

 よいも悪いも、人はごちゃまぜにして生きている。
私がこうして書いている文章にしても、そうだ。
「よかれ」と思って書いていても、ときに猛烈な反撃をくらうことがある。
みなによい顔ができるというわけではない。
またできないからといって、心をわずらわせてはいけない。
あとは、時間が解決してくれる。

 それによって私の不義理を怒る人もいるだろう。
「あの浩司は、香典の礼も言ってこない!」と。
しかし、そういうこともあるという前提で、この世界を生きていくしかない。

 ところで話はぐんと変わるが、今度、韓国の現在グループの会長が、K国の金xxと
会談し、「5項目からなる交流事業に合意した」という。

 こういう女性を日本では「でしゃばり女」というが、こういう女性は、困る。
本当に困る。

聯合ニュースは、つぎのように伝える。

『現代グループと北朝鮮の朝鮮アジア太平洋平和委員会は17日、ことしの秋夕(旧盆)
の金剛山での南北離散家族面会など、5項目からなる交流事業に合意し、これらを盛り込
んだ共同報道文を発表した。

 報道文は、16日の玄貞恩(ヒョン・ジョンウン)現代グループ会長と金xx総書記の
会談後、北朝鮮の朝鮮中央通信が発表した』と。

 今ごろこの報道に困り切っているのが、韓国政府。
かつて日本の金丸xxも、K国に対して、同じようなことをした。
権限を付与された特使でもないのに、特使づらして、いろいろな約束を交わしてしまった。
それが結果的に、K国の不信感を招くことになった。

 今回もそうだ。

 一民間人に過ぎない、玄貞恩(ヒョン・ジョンウン)現代グループ会長が、金xxと
会談し、勝手に(5項目)について、合意してしまったというのだ。
越権行為とも言えない。
つまりデシャバリ!

 韓国政府が黙殺すれば、K国はそれを口実に、ますます高飛車に出てくるだろう。
容認すれば、「では韓国政府という政府は何か」ということになってしまう。
だから困る。
こういうのは、困る。

 先のクリントン元大統領と金xxの会談のときは、クリントン元大統領は、
人質の解放以外の話は、いっさいしなかった。
また応じなかった。
当然である。
またそういう人を、(おとな)という。

 玄貞恩(ヒョン・ジョンウン)現代グループ会長は、おめおめとK国まで出かけて
いって、結局はよいように操られただけ。
恐らく玄貞恩(ヒョン・ジョンウン)現代グループ会長は、意気揚々と韓国に
帰国してくるのだろう。
何しろかかえた負債額だけでも、110億円近くもある。

しかしこういうデシャバリが、ときとして、国際政治をメチャメチャにする。
金丸xxが、訪朝したときも、そうだった。

 で、私が韓国のイ大統領なら、「黙殺する」。
一民間人がなした合意など、ただの立ち話。
言うなれば、韓国政府は、完全にナメられた!
プラス、ハメられた!

 ……こうした国際的な混乱と比べたら、消えた香典の話など、サルの出す屁のような
もの。
本気でカリカリするほうが、おかしい。
この先は、そういう人物と知った上で、つきあうしかない。

 「私はもうそういうくだらない人間は、相手にしないぞ!」と。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●謎のミサイル発射事件

++++++++++++++++++++

韓国の中央N報が、こんな興味深い記事を
掲載している。
そのまま紹介させてもらう。
何でもK国が、シリアおよびイランと共同で、
ミサイルの発射実験をしたという。

++++++++++++++++++++
++++++++++以下、中央N報・8月17日+++++++++++++

 K国がシリアおよびイランと共同開発したミサイルが試験発射に失敗、大規模な人命被害
を出したと日本の共同通信が16日、報道した。 

  通信によると北朝鮮は、シリア、イランとともに短距離弾道ミサイルの新型「スカッド」
を開発後、5月末にシリア国内で発射実験を実施したということだ。 

  このミサイル開発過程で3カ国は部分別に特化し、エンジンは北朝鮮が、弾頭部分と誘導
システムはシリアとイランが担ったということだ。 

  共同通信はこれら3カ国間の協力関係に詳しい西側外交消息筋の情報を引用、シリア南部
で発射されたミサイル2発のうちの1発が誘導装置の故障と予想航路からの離脱、トルコ
との国境地帯に落ちて20人余りが死亡、60人余りがけがをしたと報道した。 

  シリア政府は実験失敗直後ミサイルが落ちた地域を封鎖して遺体を収拾し、住民たちには
ガス爆発による事故だと発表した。また1発は北東部イラク国境地域に墜落したものと推
定された。 

  発射されたミサイルは、射程距離が700キロに達し、現在、開発中のスカッドDと違う
種類の弾頭が搭載された。また今回の実験はK国が主導、ミサイルなど大量破壊兵器開発
に関与してきたといわれる「リョンハブ2貿易会社」の技術者が立ち会った。今回の実験
の失敗原因は、シリア側にあるとされているが、正確な経緯はまだわかっていない。現在、
これに関する調査がシリア科学研究センターによって行われていると、共同通信は伝えた。

++++++++++以上、中央N報・8月17日+++++++++++++

 ことの真偽はともかくも、今日は8月17日。
ミサイル実験が行われたと思われるのは、「5月末」。

 謎というのは、どうしてこれほどまでの大事件が、3か月近くもたった今、
こうして報道されるかということ。

 「ミサイル発射実験」ということになれば、アメリカが知らぬはずがない。
実験がなされたという場所は、シリア。
イスラエルをはじめ、世界中が目を皿にして監視している国である。
あるいはなぜ、アメリカは今日の今日まで、こんな大事件を伏せてきたのか?
考えれば考えるほど、謎が深まる。

 ただこれは私のあくまでも推察だが、ひょっとしたらその実験の(失敗)に、
アメリカやイスラエルがからんでいたのではないかということ。
何らかの方法で、失敗させた。
が、ただの失敗では終わらなかった。
失敗により、80人前後の民間の死傷者が出てしまった。
だからアメリカにせよ、イスラエルにせよ、ミサイル発射実験そのものを隠ぺいする
必要があった(?)。

 80人もの死傷者が出たということは、大爆発と考えてよい。
そんな大事件が、どうして3か月近くもたった今、明るみになったのか?
考えれば考えるほど、謎が深まる。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●Eモバイルを、モデムとして使う

+++++++++++++++++

私は携帯電話に、Eモバイルを使用している。
キーボード付きの最新型である。
が、旅行用。
ふだんは、ほとんど使っていない。

で、昨日、Eモバイルショップの店員さんに
おもしろいことを聞いた。
何でもEモバイルを、モデムとして使用
できるというのだ。

ナルホド!

もしそうなら、ミニパソコンとEモバイルを
つなげれば、外出先(戸外)でも、
インターネットを利用することができるはず。
まさに、「モバイル!」。

さっそく家に帰って、設定を始める。
が、マニュアル通り操作しても、作動しない。
で、携帯電話会社に電話した。
悪戦苦闘すること、1時間あまり。
最後にやっとつながった!

理由は、……話してもあまり意味がない。
というより、携帯端末機がもつ、基本的な
欠陥。
私はキーボードをスライドさせて、横型
(左右にワイド画面)で使った。
こうすると、たとえば(接続先)の選択画面
などでは、本来なら4〜5か所表示される
接続先が、3か所しか表示されない。

残り2か所が、どこかへ隠れてしまう。
だから「そんな選択先はありません」と
なる。
電話口の男性は、「おかしいですね。
ではリセットして、最初からやりなおして
みましょう」となる。

こうして1時間……。
だったらはじめから縦型にして使えばよいという
ことになるが、(次回からはそうする)、
縦型にすれば、キーボードが使えない。
キーボードを使うためには、どうしても
横型で使わなければならない。
(キーボードを開くと、自動的に横型になる。)

しかし楽しかった。
おもしろかった。
ちょうどつながったところで、夕食の
準備ができた。

「これからは旅館でもインターネットが
できるよ」とワイフに報告。
「ヘエ〜〜」とワイフは、感心してくれた。

++++++++++++++++++

●電子機器

 電子機器は、おとなのおもちゃ。
私はそう位置づけている。
だから大型のパソコンショップをのぞいたりすると、その昔、おもちゃ屋に入った
ような楽しさを覚える。
眺めているだけで、楽しい。

 が、ただのおもちゃではない。
一見バラバラに見えるおもちゃだが、みな、連続性がある。
デジタルカメラにせよ、プリンターにせよ、それらがすべてパソコンという人工知能に
つながっている。
しかも毎週のように、新製品が生まれている。
奥が深くなっている。
便利になっている。
だからおもしろい。

 そう言えば、三男も以前、そう言っていた。
何もすることがないときは、パソコンショップをブラつく、と。
多分私が感じているのと同じ、(楽しさ)を味わっているらしい。

 ……しかしそのおかげで、私の書斎(実際には、書斎の隣の部屋)は、
電子機器だらけ。
よくもまあ、これだけの電子機器があるものだと、自分でも驚く。
最近はできるだけ買わないようにしているが、先日、電源アダプターを整理して
みたが、電源アダプターだけで、60〜70個以上もあった。
いつの間にか、そんなにたまってしまった。

「もったいない」とは思うが、「ボケ防止用」と思えば、安い。
ワイフも、そう言って、納得してくれている。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●芝生

 最近、……といっても、ここ数週間だが、力を入れているのが、庭の芝生。
「庭全体を、芝生で覆う」というのが、今の私の目標になっている。

 これが結構、楽しい。
現在、7〜8割がた、覆われたという感じ。
ところどころ円形脱毛症のようにはげているのは、犬のハナのせい。
かなり濃密な小便をするらしく、その部分が、しばらくすると、はげ始める。

 で、そこへは種をまぜた土を、水でこねて置く。
毎日がその作業の繰り返し。
どうせ相手は犬。
話してわかるような相手ではない。

 もう少し草の丈が伸びてきたら、草刈り機で刈りそろえる。
その日が楽しみ。

 さあ、今日も始まった。
今日から仕事。
長い夏休みだったが、ちょうどその間、風邪をひいてしまった。
何もできなかった。
……というより、昨日、ワイフと2人で、浜名湖を船で一周してきた。
「今日が休みの最後だから……」と。

 このところ電子マガジン用の写真をあまり撮っていない。
そのこともあって、浜名湖を一周してきた。
楽しかった。

 では、みなさん、おはようございます!
時刻は、8月18日(火曜日)、午前5時15分。
窓から見える空は、灰色にどんよりと曇っている。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●自称「浮動票の王様」

++++++++++++++++++++

「王様」というのも、おおげさ(?)。
しかしひとつくらい、そういう肩書があってもよい。
私はその「浮動票の王様」。

支持政党はなし。
毎回変わる。
変わるが、私が動くところ、ドドーッと大衆も動く。
だから「王様」。

その浮動票の王様は、こう考える。

++++++++++++++++++++

★死に票にしない

 浮動票層には浮動票層のプライドというものがある。
その第一が、「自分の票だけは、死に票にしたくない」という自負心。
「どうせ一票を入れるなら、有効に使いたい。できればそれでもって、投票した人を
勝たせたい」と。

 そのため浮動票層は、明らかに敗れるとわかっている候補者には、票を入れない。

★判官(ほうがん)びいき

 自分自身が弱者のせいか、どうしても判官びいき的な心理が働く。
「絶対に勝つ」とわかっている候補者より、「この候補者は、ちょっとあぶないな」と
思われる候補者に入れる。
……入れようとする心理が働く。

 ぜったい勝つとわかっている候補者に票を入れたのでは、おもしろくない。
浮動票層にならない。

★当日の朝、候補者を決める

 浮動票層は、ギリギリまで票を入れる候補者を決めない。
私のばあいは、投票所のあの台の前に立ったその瞬間に、だれに投票するかを決める。
それまでは、(迷う)というよりは、(様子見)。

 だからよく浮動票層の人を対象にした事前調査などがなされるが、あれなどは、
ナンセンスもよいところ。
直前まで、だれに投票するかを決めないから、浮動票層という。

★基準は、消去法

 浮動票層は、「だれに入れるか」という決め方はしない。
「だれに入れたくないか」という基準で、投票する候補者をしぼっていく。
「だれに入れたくないか」という消去法で候補者を消していくと、最後に1〜2名、残る。
その中から選ぶ。

 最初から(入れたい人)が決まっていたら、浮動票層にはならない。

★誇り

 世の中の人たちは、やや軽蔑の念をこめて、私たちを「浮動票層」と呼ぶ。
しかしこれほど失敬な呼び名はない。
浮動票層こそ、絶妙なバランスを保つ、民主主義の担い手。
どこかの政党に属し、それに縛られて、言うがままに操られている連中よりは、
はるかに常識的。
常識豊か。

 浮動票層というと、「何も考えない連中」と誤解されているようだが、実際には逆。
自由である分だけ、孤独。
孤独だから、自分で考える。

 浮動票層であることを、何ら、恥じることはない。
言うなれば、「自由思索層」。
「自由投票層」でもよい。
これから私たちを、そう呼んでほしい。

「浮動票」というと、腰の軽い、ふわふわとした人を連想する。
が、実際には、そうではない。

 で、そういう浮動票の王様が見るところ、今度の選挙は……。
この先は書かない。
浮動票層は、みな、同じように考える。
もしあなたが浮動票層なら、私の考えは、あなたのそれと同じ。
結果が見え見えの総選挙だが、それをダメ押しするのも、私たち浮動票層の役目。

 浮動票層の目標はただひとつ。
あのAS首相だけには、勝たせたくない!
言い気にさせたくない!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 浮動票 浮動票層 衆議院議員選挙 国政選挙)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 16日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●私たちは死なない(What is the Death for Us?)

人は日々に死に、日々に生まれ変わる。
細胞の生死を考えれば、それがわかる。
骨の寿命にしても、それほど長くはない。
6か月とか1年単位で、すべて入れ替わる。

死んだ細胞は、体外へ排出され、ときに
分子レベルまでばらばらになって、また
別の生物や無生物の中へと、取り込まれていく。
同時に、私たちは日々に、ほかの生物や
無生物から、食物として、新しい細胞を
取り入れて、いく。

こうして私たちはありとあらゆる生物と
つながり、今というときを生きている、

では、死んだらどうなるか。
基本的には、人にかぎらず、生き物には死はない。
意識は途絶えるが、(命)は、姿や形を変え、
別の生物となって生きていく。
虫かもしれない。
花や木かもしれない。
動物や、魚かもしれない。
ともかくも、生きていく。

この連続性を総称して、「命」という。
ただそれぞれの意識は、一度、途絶える。
たとえばあれほどまでに人を警戒していた
スズメにしても、死ねば、その羽を
風にさらず。
人につかまれても、身動きひとつしない。
が、だからといって、それが(終わり)を
意味するわけではない。
スズメの意識が、途絶えただけ。

が、意識が途絶えることは、こうした生命の
流れの中では、何でもないこと。
今、あなたが感じている意識しにしても、
あなたの脳の意識の、数十万分の1、
あるいはそれ以下かもしれない。
「これが私」と思っている意識にしても、
そのほとんどが、私であって私でない。
そんな意識が途切れることを、恐れる必要はない。
恐れてはいけない。

それよりもすばらしいことは、あなたの命が、
今のこの瞬間にも、日々に、ほかの生物へと
伝わっているというその事実。
同じように反対に、ほかの生物が、
日々にあなたを作りあげえているという、
その事実。
何も「死」だけが死ではない。
繰り返すが、私たちは、すでに日々に死に、そして日々に
生まれ変わっている。
そうした生物ぜんたいの一部として、私がここにいて、
あなたがそこにいる。

死ぬことを恐れる必要はない。
たとえばあなたはトイレで便を出すことを恐れるだろうか。
そんなことはだれも恐れない。
しかしあの便だって、ほんの1週間、あるいは1か月前には、
あなたの(命)だった。
その命が、便となり、あなたから去っていく。
その便が、いつかどこかで、別の命を構成していく。

もし「死」が何であるかと問われれば、それは
意識の(とだえ)をいう。
死んだとたん、意識は連続性を失う。
しかし心配無用。

ものが見えなくなる。
ものが聞こえなくなる。
しかしそれを悲しむ意識そのものも消える。
だから取り越し苦労はしない。
そのときは、そのとき。
そのときまでものが見えるなら、それを喜べばよい。
ものが聞こえるなら、それを喜べばよい。
それに意識を残す方法は、いくらでもある。

たとえば今、あなたは私の書いたこの文章を読んでいる。
その瞬間、私の意識とあなたの意識はつながる。
私はあなたの意識の中に、入る。
多少の時間差はあるかもしれないが、あなたの意識の中に入る。

「多少の時間差」というのは、数日かもしれないし、
5年とか、10年という年月かもしれない。
しかしどうしてそれが問題なのか。
時の流れというのは、そういうもの。
一瞬を数万年に感ずることもできる。
数万年を一瞬に感ずることもできる。
長い、短いという判断は、主観的なもの。
もともと時の流れに、絶対的な尺度など、ない。

大切なのは、今、この瞬間に、私がここにいて、
あなたがそこにいるという、この事実。
この瞬間にこの文章を私が書き、あなたが
読んでいるという事実。

あなたの意識は、あなたの肉体の死とともに
途絶える。
しかしその意識は、別のだれかに伝えられる。
また、それができる。
ちょうど今、釈迦やキリストの代わりに、
あなたがこの世界を見たり、聞いたりするように、
いつかだれかがあなたの代わりに、この世界を
見たり、聞いたりするようになる。
こうしてあなたは、べつのだれかの中で、
生き返る。
それを繰り返す。

大切なことは、本当に大切なことは、
そのためにも、よい意識を残すこと。
伝えること。
善なる心を残すこと。
伝えること。
その努力を怠ってはいけないということ。
それが私たちが今、ここ生きている、
第一の目的といってもよい。

さあ、死を恐れるのは、もうやめよう。
死なんて、どこにもない。
私たちはこれからも、永遠に生きていく。
姿、形は変わるかもしれないが、もともと
この世のものに、定型などない。

なにも人間の形だけが、「形」ではない。
また私たちの姿、形が、ミミズに変わったとしても、
ミミズはミミズで、土の中で、結構楽しく
暮らしている。
人間だけの判断基準で、ほかの生物を見ては
いけない。

そうそう犬のハナのした糞にさえ、ハエたちは
楽しそうに群がっている。
それが命。

私たちが日々に生き、日々に死ぬことさえわかれば、
最後の死にしても、「命」の一部にすぎない。
そのときは、何もこわがらなくてもよい。
あなたは静かに目を閉じるだけ。
それだけで、すべてがすむ。

すでにあなたの生まれ変わりは、あなたの周囲に、
ゴマンといる。
そこにいるハエだって、ハエはそれを意識することは
ないだろうが、あなたの生まれ変わり。
あなたも、ハエの生まれ変わり。

あなたはありとあらゆる生物の(輪)の中で
生きている。
あなたが死んでも、その輪は残る。
そしてあなたはその輪の中で、永遠に生きる。

繰り返す。
死んだときから、その輪が始まるわけではない。
輪は、すでに永遠の過去から始まり、
この先も永遠につづく。
しかも日々に、この瞬間ごとに、つづく。

あとはその日まで、思う存分、生きること。
目的はただひとつ。
あなたの意識を、深めること。
あなたの意識を、一歩でもよいから、善なるものに
近づけること。
つぎにつづく人や生物たちが、よりよく生きやすく
するために。
それが今を生きる私たちの使命ということになる。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「反戦の誓い」?(Making a Vow not to break out a War?)

++++++++++++++++++++++++++++++++

8月15日、麻生総理が「不戦の誓いを新たにし、
世界の恒久平和の確立に向けて積極的に貢献していくことを誓う」と
式辞を述べたあと、正午からは1分間の黙祷が行われたという。
(全国戦没者追悼式・日本武道館)

++++++++++++++++++++++++++++++++ 

●反戦の誓い?

「反戦の誓い」とは、何か?
私には理解できない。
文字通りに解釈すれば、「戦争に反対する誓い」ということになる。
それに、「誓い」といっても、いったいだれに対してするのか。

 何度も繰り返し書くが、戦後、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、
「反戦の誓い」があったからではない。
世界最強のアメリカ軍が駐留していたからにほかならない。
もしアメリカ軍が日本に駐留していなかったら、あるいはあのまま日本を去って
いたら、日本は繰り返し、外国の攻撃にさらされていたはず。
これは(可能性)の問題ではない。
(確実にそうなったであろう)という話である。

 毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・北朝鮮、マルコス・フィリッピン。
それにスターリン・ソ連などなど。
アジアの国々が連合軍を組織して、日本を攻めたかもしれない。

 何もこう書くからといって、「反戦の誓い」がまちがっているというのではない。
言葉としては、美しい。
美しいが、それだけ。
もし仮に、アメリカのオバマ大統領が、「反戦の誓い」なるものをしたとしたら、
どうなる?
その瞬間から、世界中は、大混乱に陥るはず。
日本だけが、「反戦の誓い」とやらをしながら、自分だけ安全圏に逃れるのは、
果たして許されることなのか。

 もし全国戦没者追悼式で宣言することがあるとするなら、「反戦の誓い」ではなく、
「反省の決意」である。
私たち日本人は、世界各国から戦後、袋だたきにあってもしかたのないようなことを、
先の戦争でしてしまった。
いくら弁解しても、この事実をゆがめることはできない。
もし戦時中の日本軍の行動が正しかったと言うのなら、逆に、現在の日本が、その反対の
ことをされても、文句を言わないことだ。
どこかの国の植民地になったとしても、文句を言わないことだ。
つまりそこまで覚悟して、「反戦の誓い」は、意味をもつ。

 反戦も結構。
しかし先のK国のミサイル発射実験を例にあげるまでもなく、仮に、どこかの国が
日本を攻撃してきたら、どうするのか?
「自衛は反戦ではない」と、そのときは「誓い」を捨てるつもりなのか?

 反戦という以上、「戦争はしない」。
たとえどこかの国が攻めてきても、戦争はしない。
というのも、自衛と戦争の間に、線を引くことはできない。
現に先のミサイル発射実験のときには、敵地攻撃論、さらには最近に至っては、
先制攻撃論、核兵器保有論まで、政府の高官の口から出てきている。
「坐して死を待つことはない」と。

 自衛戦争は、即、「戦争」そのもの。
古今東西、どの国も、「自衛」を口実に、世界に向かって戦争をしかけていった。
つまりこれほどまでにいいかげんな「誓い」というのは、そうはない。
だいたい、だれに向かって誓うというのか?

 自分か?
日本国民か?
それとも世界か?
あるいは神や仏か?

 平和というのは、他国の平和をまず考えてやってこそ、守れる。
インドの元首相のネールも、そう言っている。
わかりやすく言えば、他国に脅威を与えない。
「日本は脅威ではありませんよ」という印象を与えてこそ、日本の平和は守れる。
誓うとしたら、「他国に脅威を与えるようなことはしません」でもよい。
そういう具体性、かつ、世界の人が納得する(誓い)であるなら、私も賛成する。
が、そうでないから、私は首をかしげる。
しかしそれにしても、10年、20年一律のごとく、「反戦の誓い」とは?

 少しは自分の頭で考えて、進歩しろ!

 あえて言う。
戦争はいやですと言って、逃げて回るのは、平和主義でもなんでもない。
ただの臆病という。
戦争になって、殺されても構いませんと言うのも、これまた平和主義でも
なんでもない。
ただの事なかれ主義という。
いざとなったら、国を守るために戦いますというのが、平和主義ということに
なる。

 つまり平和というのは、つねに積極的に求めてこそ、守れるもの。
「何もしないから、相手も何もしてこないだろう」という考え方は、甘い。
いかに甘いかは、日本軍が戦時中にしたことを思い浮かべてみればわかるはず。
日本軍は、そういう国々をつぎつぎと占領していった。

 それを棚に上げて、「反戦の誓い」はない。
すべきことがあるとするなら、「反省の決意」である。
勇気が必要だが、その勇気を世界に示してこそ、日本ははじめてアジア諸国のみならず、
世界の国々に認められる。
またそのときこそ、日本の平和が保障される。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 平和宣言 反戦の誓い 戦没者追悼式 平和主義 平和主義者 日本
の平和と安全)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●映画『ナイト・ミュージアム2』

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字幕版、『ナイト・ミュージアム2』を見てきた。
字幕版のほか、「日本語・吹き替え版」というのもある。
吹き替え版のほうは、ちょうど夏休みということで、
子ども向けということか。

星は3つの、★★★。
前作は、4つの、★★★★。
今回の「2」は、あまりにもドタバタ。
あれも、これもと、何もかも詰めすぎた。
結果、何がなんだか、訳が分からない映画に
なってしまった。
おもしろい映画だったが、それだけ。
ドタバタ、ドタバタ・・・。
それだけで終わってしまった。
だから星は、やはり3つ。

やはりこの映画は、子ども向け。

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●映画と文学

 映画のもつアカデミック性は、文学のそれよりは
一般的に低く評価される。
(コミックと文学の関係も、それに似ている。)
映画はあくまでも娯楽、という考え方が、今でも根強い。
私自身も、心のどこかで、そう感じている。
しかしそれは偏見。

映画はそれ自体、すばらしい芸術。
絵画や音楽そのものが、そこへ凝縮されている。
文学と比較しても、なんら遜色がないばかりか、実はその逆。

絵画、音楽、文学の3つが一体化したのが、映画ということになる。
ときに、それ以上のものを表現する。
絵画、音楽、文学では表現できないものを、映画は表現する。
が、問題がないわけではない。
そのひとつが、(時の流れ)。
つまり映画は、製作者の意図したまま、私たち自身を操る。
ときに考えるスキを与えない。

たとえばもし映画を、政府のプロパガンダ(情宣活動)や、
どこかの宗教団体の洗脳教育用に使われたら、たいへんなことになる。

一方、本なら、ときどき読むのをやめたりして、時間を調整することができる。
批判をはさむこともできる。
映画では、それができない。

また文学のもつ(想像性)というのが、映画では、抹殺される。
つまり映画を見ながら、自分の想像力を働かせるということができない。
それ以上のものを、映画は、(現実)として、それを観る人に
押しつけてしまう。

たとえば本で、「水もしたたるような美人」という表現があったとする。
そういうとき私たちは、頭の中で、それぞれの美人を想像する。
が、映画では、その美人そのものまで、画像として出してしまう。

むずかしい話はさておき、映画と文学の最大のちがいは何かといえば、
(考える力)ということになる。
文学では、常に考える力を試される。
一方、映画では、考える力を必要としない。
「観れば、それでわかる」と。

が、もちろん映画には、文学にはない、すばらしい面がある。
それは過去や未来、あるいは遠い見知らぬ国を、先にも
書いたように、それを(現実)のものとして、見せてくれる。
いくら想像力を働かせても、想像できないような世界を見せてくれる。

ただもちろん映画にも限界がある。
たとえば私は今、ここまで40行前後の文章を書いた。
テーマは、「映画と文学」。
こうした文章にみられる、(論理性)というのは、映画にはない。
あるにはあるのだろうが、観る人にその力がないときには、
「ああ、おもしろかった」で終わってしまう。

だからあえて言うなら、映画を観たら、どこかでそれを(思想)として
消化しなければならない。
具体的には、その映画について考え、評論し、思想として抜き出させるものは、
抜き出す。

それをしないで、ただ観っぱなしにすれば、それこそただの娯楽で終わってしまう。 
つまり読む側、観る側の姿勢のちがいによって、文学は文学になり、映画は映画に
なる。

で、最近、DVDで好んで借りてくるのが、実話もの。
昨夜も、オーストラリア映画の、『ディア・マイ・ファーザ(Dear My Father)』というの
借りてきた。
原作は、Raimond Gaita著※の、『Romulus, My Father』となっている。

舞台は、メルボルン市の郊外にあるバララートという、昔からある町。
(最後のエンディングのところで、ビクトリア州のMaldonで撮影、とある。)
今でも、開拓時代の面影を強く残す町として、多くの観光客が訪れている。
内容はともかくも、私はその主人公に興味をもった。

年齢は、私と同じ。
「1960年に、満13歳」とあった。
私も1947年生まれ、1960年には、満13歳!
最後のところには、こうあった。

「主人公のRaimondは、のちに、著名な作家、哲学者となった」と。
ビクトリア州で、哲学科のある大学といえば、メルボルン大学しかない。
大きな大学だから、私と接点があったとは思わないが、その主人公に
たいへん興味をひかれた。
確率論的には、どこかで顔を合わせているはず。

実際、ハウス(カレッジ)の同窓生には、そののち映画監督になったのもいる。
オーストラリア医師会の副会長になったのもいる。
それぞれがそれぞれの分野で、大成している。
哲学者になったのがいたとしても、なにもおかしくない。

最後にこうある。

Raimond Gaita grew up to become an acclaimed author and philosopher.
Romulus Gaita returned to live at Frogmore and eventually remarried.
He died in May 1996.
He is buried in the local cemetery close to Christina.
 
ライモンド・ガイタは、著名な作家、哲学者となった。
父のロムラス・ガイタは、フログモアに戻り、再婚した。
彼は1996年の5月の死去。
クリスチーナ(元妻)の近くの墓地に埋葬されている。

実話であるだけに、また実名で映画化されているだけに、元妻の2人の娘たちと
その家族の了解も取り付けたらしい。
「Special Thanks(感謝の意を捧げる)」として、実名と家族名が、それぞれ
公表されている。

内容は、静かな、あのオーストラリアの広大な牧場を舞台とした、どこまでも
静かな映画。
星はつけたくない。
オーストラリアが好きな人には、たまらない映画と思う。
「こういう人生があり、こういう環境で育った子どももいるのだなあ」と思いたい人には、
お勧め。
当時のオーストラリアといえば、世界でも2番目にリッチで、生活が楽な国として
ランクされていた。
メルボルン市にしても、世界でもっとも気候が温暖な都市として、知られていた。
その裏で、こういう世界もあったのか・・・、と。

物語は、1960年から始まる。
私がオーストラリアへ渡る、ちょうど10年前ということになる。
・・・いろいろ考える。

話を戻す。

いくら想像力が豊かでも、本を読んだだけでは、オーストラリアのあの広大な
牧場の景色は思い浮かんでこない。
登場人物の、ちょっとした動作やしぐさにしても、文章を通して読んだら、
日本人のそれをそれに重ねてしまうかもしれない。

映画がよくて、文学がつまらないと書いているのではない。
それぞれに一長一短があるということ。
ときにこうした映画を通して、たがいに補完しあうということもある。

が、残念ながら、映画のアカデミック性は、まだまだ弱い。
大学に、「映画学部」とか、「映画学科」というのが生まれるまでには、
まだ相当の時間がかかる。
(演劇学部というのは、あるが・・・。)
が、だからといって可能性がないわけではない。
映画を観て、人生を学び、真理を探究するという時代も、すぐそこまで来ているように
私は感ずる。

(補記)
 このところ劇場へ足を運ぶと、『20世紀少年』とかなんとかいう、
どこかあやしげな映画の予告編が流される。
どこかの宗教団体と結託してできた映画、という説もある。
あるいはどこかの宗教団体を批判した映画、という説もある。
どこか不自然、かつ不気味?

 もし、どこかの宗教団体が、あの映画制作を裏で操っているとしたら、
これは社会問題ということになる。
そうでないことを願うが、私はああいう映画は、お金を出してまでは観に
行かない。
予告編だけを観た印象では、イヤ〜ナ感じ。
だいたいあんな映画が、第3作までつづくということがおかしい。
劇場映画として、劇場まであがってくるのがおかしい。
かなりの資金力が裏で働かなければ、とうていできない芸当である。

 あやしいぞ!
おかしいぞ!
一度、本気で調べてみたい!

(注※)Raimond Gaita(ライモンド・ガイタ)

Gaita attended St. Patrick's College, Ballarat (Victoria) Melbourne High 
School(Victoria), University of Melbourne (BA Hons, MA) and University of Leeds 
(PhD). 
He is married to Yael Gaita, who is a teacher at The King David School, where she 
teaches Hebrew. He has two children, Katerina and Eva and two step children, Dahlia 
and Michelle.

ガイタは、聖パトリックのカレッジ、Ballarat(ビクトリア)、メルボルン高校(ビクトリ
ア)、メルボルン(オナーBA、MA)大学とリーズ(博士)大学に通う。彼はヤエルGaita
(その人はデイビッド学校王の教師)と結婚。彼女はヘブライ語の教授。彼には、2人の子
供たち、カテリーナとエヴァと2人の継子(Dahliaとミシェル)がいる。

(注)正しくは「レイモンド」だが、オーストラリアでは、「ライモンド」と発音する。
また(オナーBA)というのは、成績優秀者に与えられる学位をいう。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●基本的人生論

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DVD『ディア・マイ・ファーザー』を
ほめてばかりいてはいけない。
DVDを観ながら、こんなことを考えた。

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●裏切られる夫

 映画のストーリーを簡単に説明する。

 夫と妻、それに主人公の息子(ライモンド)の、3人家族。
しかし妻は、つぎからつぎへと男を乗り替え、浮気し放題。
あげくの果てには、夫の友人の弟ともできてしまう。
そしてその弟との間に、子ども(主人公にとっては、
種ちがいの妹)まで作ってしまう。

 が、夫は、静かにそれに耐える。
離婚を考えることもない。
妻はときどき夫のところへ帰ってきて、体を求める。
夫は、どこか冷やかさを残しながらも、そういう妻の求めに応ずる。
そういう家庭環境の中で、主人公の子ども(ライモンド)は成長していく。

 で、最後は、妻は睡眠薬を飲んで自殺。
友人の弟も自殺。
夫は心を病み、精神病院へ……。

 何とも悲惨なストーリーだが、それがこの映画の(柱)に
なっている。

●疑問?

 この映画を観ていて、第一の疑問は、「それほどまでに、よくできた男というのは、
本当にいるのか?」ということ。
あるいは、「それほどまでに妻を深く愛せる男というのは、本当にいるのか?」でも
よい。

 つまり(できすぎ)。
この(できすぎ)のところが不自然。
しかしこの話は、実話である。
となると、俳優が悪いということになる。

 映画に出てくる夫は、ハンサムで、かっこいい。
頭もきれそうだし、生活力もありそう。
何かのラブストーリーの主人公になっても、おかしくない。

 私たちは映画を観るとき、俳優を通して、その俳優の心をさぐる。
で、そこで脳みその中で、電気的ショートが起こる。
「こんなすばらしい夫をもちながら、どうして?」と。

 ……ということで、私は、事実は、少し違うのではないかと思う。
ライモンドの実際の父親は、どこか頼りなく、どこか抜けたような、どこか覇気のない
男性ではなかったか、と。
映画に出てくるような、かっこいい男性ではなく、風采のあがらない、なよなよした
男性ではなかったか、と。
これには、理由がある。

●基礎的人間性

 仮にあなたの妻が、外出しては、浮気を重ねていたとしよう。
そしてその浮気相手と、子どもまで、作ってしまったとしよう。
そのとき、あなたなら、どのように反応するだろうか。
それをほんの少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

 こういうケースのばあい、大きく分けて、2つの選択肢がある。

(1)妻と大喧嘩を繰り返し、離婚を覚悟する。
(2)妻の浮気を認め、妻のしたいようにさせる。

 が、主人公ライモンドの父親(夫)は、(2)のほうを選択する。
となると、ライモンドの父親は、ものすごい人生観の持ち主ということになる。
あるいは妻に対して、神々しいほどまでの愛を感じているということになる。
すべてを許し、すべてを忘れる……。

 が、ここで大きな壁にぶつかる。
それほどまでの(愛)となると、並大抵の努力では、自分のものにすることはできない。
幾多の苦労に苦労を重ねて、人生の極致に達した人だけがもちうる愛と考えてよい。
それにそこに至るには、熟成期間というのが、必要。
もし私のワイフが、そんなことを繰り返していたら、私なら、即、離婚を考えるだろう。
40年近くもいっしょに暮らし、もうすぐ62歳になる私にしてもそうだ。

 つまり、それが「基礎的人間性」ということになる。

 どんな人にも、その人なりの人間性というものがある。
その人間性を支える、(基礎)というものがある。
その基礎なくして、突然、その人が、神々しい愛をもつなどということは、常識で
考えても、ありえない。
空腹でおなかをすかした幼児が、自分のもっているパンを、友人に分け与えるようなもの
である。

●偽善

 いくつかの例をあげてみよう。

(例1)Kさんは、周囲の人たちから、高い評価を受けていた。
ボランティアとして、近所の独居老人宅を回り、その世話をしていた。
が、自分の親の介護になったとたん、豹変した。
親を虐待した。
親を食卓へ連れてくるときも、首をつかんだまま、廊下を引きずっていた。

(例2)Xさんは、有名なタレントだった。A国の難民救済運動家として活躍していた。
週刊誌や月刊誌にも、写真がよく紹介された。
が、あるカメラマンが、思わぬ光景を目撃してしまう。
情宣用の写真撮影が終わると、Xさんは、赤子を抱いた手や体を消毒薬で
消毒していたという。
つまり写真撮影のためだけに、難民の赤子を抱いていた。

(例3)Yさんも、このところ孤児救済のチャリティバザーを繰り返している。
ラジオに出ては、ボランティア活動の重要さを説いている。
しかしそこに至る実績はゼロ。
若い時から、ホームレスの世話をしたとか、食事の炊き出しをしたとか、
そういう背景と言うか、積み重ねがあれば話は別。
Yさんをよく知る某テレビ局のディレクターは、こう教えてくれた。
「Yさんは、いつも2時間くらいかけて、化粧をしています」と。

 こういうのを、私たちの世界では、「偽善」と呼ぶ。
善人ぶりながら、自分への評価を高め、最終的にはそれを自分への利益へとつなげていく。
こうした偽善を見破るのは、簡単。
どこかに(ちぐはぐさ)を感じたら、それは偽善と判断してよい。

●ディア・マイ・ファーザー

 DVD『ディア・マイ・ファーザー』に話を戻す。
この映画が実話なら、私はやはり、俳優の選択ミスということになる。
ライモンドの父親は、家具職人である。
鉄の棒を熱で曲げながら、いろいろな家具を作る。

 そういう職歴の男性が、こうまで高邁(こうまい)な愛を、はたして
もちうるものだろうか。
(何も、職人という職業がどうのこうのと言っているのではない。
しかしあまりにも、高邁すぎる?)

 それに若い。
映画の中では、30歳前後の男性として登場している。
つまり基礎的人間性が、それなりにあるとしても、映画で表現されているほどはない。
……という点で、不自然。
私はその(不自然さ)を感じてしまった。

 あとの判断は、映画を観た人に任せる。
「林の言ったとおりだな」と思う人もいるかもしれない。
あるいは「林の言っていることは、まちがっている」と思う人もいるかもしれない。
一度、そういう視点で、あの映画を観てみたらどうだろうか。
家庭で観て、損はない映画である。
よい映画であることには、まちがいない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 ライモンド レイモンド ディア・マイ・ファーザー オーストラリア映画 基礎
的人間性 基礎人間性 周囲人間性)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●病気見舞い

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冠婚葬祭というと、派手であればあるほどよい
と考える人は多い。
しかしそれはちょうど、子どもに与えるプレゼント
のようなもの。
高価なものであればあるほど、子どもは喜ぶはずと
親は考える。
しかし実際には、逆効果。
(物欲)には、麻薬性がある。
つぎに子どもは、つぎにもっと高価なものを求めるようになる。
また高価なものでないと、満足しなくなる。
さらに言えば、これを繰り返していると、子どもはかえってドラ息子化するだけ。

で、最近は、冠婚葬祭を質素にすます人がふえてきた。
(形)より(中身)、(中身)より(心)を求める人が、
それだけふえてきたと考えてよい。

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●山城新伍

 私の好きな俳優に、山城新伍という人がいた。
おととい(12日)、亡くなったという。
享年、70歳。
長い間、糖尿病を患っていたという。
その山城新伍について、ちょうど1年前(08年の8月)、
こんな原稿を書いていた。
(このとき母は、まだ特別養護老人ホームに入居していた。)

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●見舞い

+++++++++++++++++

週刊B春の中で、映画俳優のYS(山城新伍)は、こう語っている。

記者が、「友人の方々が心配しているようです」と語りかけたことに対して、
「そんなもん、会いたくないやろ。それで連絡もとっていない。このまま
消えてしまいたいぐらいや」(「週刊B春・08・9・4日号」と。

YS(69歳)は、現在、特別養護老人ホームに入居している。
持病の糖尿病が悪化、今は介護なしでは、生活できないような状態らしい。

週刊B春のほうは、「消えてしまいたい」という言葉を、新聞広告の
見出しに並べていたが、私はその前の言葉のほうが、気になった。

YSは、こう言っている。

「そんなもん、会いたくないやろ」と。

同じような言葉を、以前、ある末期がんの人が言っていたのを思い出した。
「だれにも会いたくない」「本当に心が安まる人だけと、静かに時間を過ごしたい」と。

それを心配するまわりの人たちは、(本気で心配しているかどうかという問題もあるが)、
「会いたい」と思うかもしれない。
「相手は、私に会いたがっているはず」と思うかもしれない。
しかし当の本人にとっては、ありがた迷惑。

私も母の介護をしていて、それを感じたことがある。

ときどき親類の人たちや、元近所の人たちから、「見舞いに行きたい」などというような
連絡を受ける。
しかし私はそういう申し出を、たいてい、ていねいに断るようにしている。
私の立場というよりは、母の立場で、断わるようにしている。

仮に私が母なら、だれにも会いたくない。
「だれも見舞いに来なければ、さみしいだろう」と、その人は思うかもしれない。
が、それこそ、いらぬお節介。
母にしても、本当に会い人などというのは、そうはいない。
家族とか親友、その範囲の数人と考えてよい。

母にしても、自分の無様(ぶざま)な姿など、見せたくもないだろう。
が、無神経な人は、それほど親しくもないのに、「喜んでくれるはず」と、
勝手にそう決めて、やってくる。

さらに無神経な人は、興味本位で電話をかけてくる。
「お母さんの、具合はいかがですか?」と。

母は元気なころ、陰で、その人の悪口ばかり言っていた。
そういう母の気持ちを私はよく知っている。
だから、断る。

YSは、そういう心情を、率直に表現した。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

週刊B春によれば、こうある。

「実は今年の春先、山城の友人や知人の間で、山城の所在を
めぐり、ちょっとした騒動が持ちあがっていたのである。
『S伍の携帯に何度かけても、つながらないんだ。こっちが
いやがっても電話をしてくるような男なのに、何かあったんじゃ
ないだろうか」
「どこかの病院に入院したと聞いたんだが、S吾が、『面会に
来ないでくれ』と言っているそうだ」と。

治る見込みのある病気ならまだしも、そうでない病気なら、
そうかもしれない。
私自身は、まだそういう大病を経験していないので、本当の
ところ、YSの心情を理解できるというわけではない。
しかし私がYSの立場なら、おそらくYSと同じように考えるに
ちがいない。

希薄な人間関係など、いくら重ねても、自分の心の隙間を
埋めることはできない。
かえって騒々しいだけ。
わずらわしいだけ。
それがわからなければ、都会の雑踏の中をひとりで歩いてみることだ。

相手がそういう状態なら、そっとしておいてやることこそ、思いやり。
相手から「会いたい」という連絡でもあれば、話は別だが、
そうでないなら、そっとしておいてやる。

これは人生の末期にいる人たちへの、たいへん重要なマナーのひとつと
考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●「形」だけの人間社会

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形だけの言葉、形だけのあいさつ、形だけの心配、
形だけの喜び、形だけの行為、形だけの悲しみ……。

ふと気がついてみると、私のまわりには、「形」だけ……
ということは多い。
私も他人に対してそうだし、他人も、私に対してそうである。

身内にも、それがある。
親子にも、それがある。
夫婦にも、それがある。

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総じてみれば、この世は「形」だけ。
そう言い切るのは、少し乱暴すぎるかもしれないが、
否定するのは、もっとむずかしい。
つまりまず形をつくって、自分への責任を回避しようとする。
それだけ人間関係が希薄になったとも考えられる。
あるいは人間関係が広がりすぎ、その分だけ複雑になったとも考えられる。

そのつどいちいち心を入れていたら、それこそ身がもたない。
よい例が、冠婚葬祭
とくに葬儀。
葬儀は、「形」の集合。
私は兄の葬儀のときに、そう感じた。

何からなにまで「形」が決まっていて、まるで流れ作業のよう。
形、形、形……また、形。
線香の立て方から、焼香のしかた、さらには僧侶への礼の仕方まで。
「形」から踏み出すことを、みな、恐れているかのようですらあった。喪主ということで、
葬儀社の人から、ことこまかく、指示を受けた。

それぞれが自分のやり方をしたら、かえって葬儀が混乱してしまう。
参列する人にしても、そうだろう。
しかし、葬儀といえども、どうして個性的であってはいけないのか。
自分で考えた葬儀では、どうしていけないのか。

「形」を決めておけば、楽は楽。
しかしそうした葬儀のあり方には、疑問ばかりが残る。

というのも、兄は、生前において人間関係が、きわめて希薄だった。
弟という私に対しても、一度だって、何かの祝いをしてくれたことはない。
結婚したときも、子どもが生まれたときも……。
そういう意味では、生まれながらにして、きわめて依存心の強い人だった。
生活能力も、ほとんどなかった。

そういう兄を、母は、よく「生まれつき」と言ったが、
生まれつきそうであるかどうか、そんなことがわかる親はいない。
病院の医師だってそうだろう。

母の異常なまでの溺愛と過関心、過干渉が、兄をして、兄のような
人間にした。

だから葬儀に来た人の中でも、兄と個人的な思い出、あるいは
つながりのある人は、ほとんどいなかった。
この私ですら、9歳、齢が離れていることもあったが、
一度とて、兄といっしょに遊んだ記憶そのものがない。

むしろそういう兄であったがために、私に対する社会的重圧感には、
相当なものがあった。
経済的重圧感というより、社会的重圧感である。
とくにあのG県の郷里では、それを許してくれなかった。
「家意識」も色濃く残っている。
それこそ「借金をしてでも、実家を守れ」と言う人さえいる。
「兄のめんどうは、弟のお前がみるべき」と。

だから参列に来てくれた人たちが、それなりにしおらしい顔をして、
「ご愁傷様です」などと言ってくれても、私にはピンとこなかった。
私のほうも、それらしい顔をして、「ありがとうございます」と答える。

形だけの心配、形だけのあいさつ、形だけの言葉。
晩年の兄が感じていただろう(孤独)にしても、それを孤独として
本当に理解していた人は、何人いただろう。
仮に理解していたとしても、だれにも、何もできなかった。

だからといって、いいかげんな葬儀でよかったと言っているのではない。
むしろ、その逆。
そういう兄だったからこそ、私は人並み以上の葬儀に……と思った。
広い会場だったこともあり、参列者はガラガラだった。
空いている椅子は、参列者の数倍は、あった。

で、結局、何ごともなかったかのように、葬儀は終わった。
だれも、兄が背負ったであろう孤独感や絶望感について話題にしなかった。
(もちろん私も、しなかった。)
死んだ人は、仏……ということか。
あるいは「終わった人は、終わり」ということか。
食べて、飲んで、雑談をして、おしまい。

それも「形」なのかもしれない。
が、だとするなら
葬儀というよりは、「人の死」とは何かということになる。
さらに言えば、「命」とは何かということになる。

こうして1人の人間が、あたかも何ごともなかったかのように、
この世から消えた。
その人間にしてみれば、この宇宙もろともに、である。

葬儀……もっと心を大切にすべきではないか。
故人の心を、である。
でないと、それこそ兄の死は、本当に無駄死で終わってしまう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 山城新伍 山城S伍 形だけの人間関係)

+++++++++++++以上、08年8月記+++++++++++++

●「そんなもん、会いたくないやろ」

 山城新伍は、こう言ったという。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

 この一言だけで、山城新伍を判断するわけではないが、しかしこの
一言だけでも、山城新伍は、ものすごい人ということがわかる。
大物というか、自分に正直。
だれしも山城新伍のような生き方をしたいと思いつつ、それができないでいる。
見栄や体裁に振り回される。

 こんなことがあった。

 私の母が死んでちょうど1年になる。
その当時を思い出しながら、ある女性(66歳)がこう言った。
「もっと、あなたのお母さんを見舞ってやればよかった」と。

 私はその言葉を聞いて、その女性の自己中心性に驚いた。
まるで自分のことがわかっていない。
生前、母は、その女性のことをたいへん嫌っていた。
私が知るかぎり、死ぬ間際まで、嫌っていた。
母にしてみれば、見舞いに来てほしくない第一の女性だった。
そんな女性が、自分だけの判断で、「もっと見舞ってやればよかった」とは!

 またこんな話もある。

 ワイフの友人(55歳・女性)が、子宮筋腫の手術で、1週間ほど
病院に入院した。
それについて、ワイフの友人は、そのことをだれにも話さなかった。
自分の夫にすら、「だれにも言わないでほしい」と念を押していたという。

 さらにこんな話もある。
このことは以前にも書いたが、Yさんという友人の夫(43歳)が、交通事故
で入院した。
それについて夫の友人の1人が、その日のうちにあちこちへ電話をかけ、みなに
知らせてしまった。
親切心からそうしたのだろうが、Yさんの気持ちを、先に確かめるべきだった。
Yさんは、こう言った。
「入院したその日に、ドヤドヤと、いろいろな人が見舞いに来て、その応対だけで
疲れてしまいました」と。

 見舞いといっても、みながみな、それを望んでいるわけではない。
また来てほしい人というのは、かぎられている。
で、それなりの立場でないなら、安易に見舞うというのは、やめたほうがよい。
かえってありがた迷惑になるだけ。
Yさんのケースにしても、そっとしておいてやることこそ、大切。

 もう一例、こんな話もある。

 2年前に、私の友人が亡くなった。
で、その初盆が昨年の7月にあった。
私はすっかりその日を忘れてしまっていた。
(私の生まれ故郷では、8月に盆供養をする習わしになっている。)

 それでそれをわびるために出向くと、奥さんは、こう言った。
「正直に言いますとね、初盆のほうが、葬式よりたいへんでした。
そのあと体の調子を崩してしまい、1週間ほど、寝込んでしまいました」と。

 周囲の人にしても、そうだ。
「親だから・・・」「子だから・・・」という理由だけで、それを前提として
ものを考えてはいけない。
親といってもさまざま。
子どもといってもさまざま。
親子関係となると、さらにざまざま。
「親の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
「子の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
それがわからないのは、あなただけ。

 いろいろなケースがある。
しかしこと病気の見舞いとなると、それを望まない人のほうが多いのでは?
(あるいは私の意見が、否定的すぎるかな?)
そこで大切なことは、一度家族の人の意見を聞いてみるということ。
その上で、見舞いに行くかどうかを決めればよい。
「私が見舞いに行けば、相手は喜ぶはず」という、「ハズ論」だけでものを
考えてはいけない。


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【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●リバウンド(?)

+++++++++++++++++

飢えた摂取細胞が、猛烈な勢いで、
反撃に転じている……らしい。
今朝、体重を測定したら、2キロオーバーの
62・5キロ。

ここ2日、風邪気味。
病院で出してもらった
薬をのむためには、食事をきちんと
とらなければならない。
それが災い(?)した。
加えて、休みに入って、運動不足?

今日からしばらく、菜食主義+2食。
このあと、サイクリングをしてくる。
目標は、佐鳴湖一周。

それにしても、たった1日で2キロとは!

+++++++++++++++++

●使わない筋肉は、衰える?

 こんなおもしろい現象を経験しつつある。
2週間ほど前、ジョギング中に、こむら返りを経験した。
突然、足がひきつって、歩けなくなった。
それから数日間、歩くのもままならなかった。
が、自転車をこいでみて、驚いた。
そんな足でも、自転車のほうは、平気!
いつものようにスイスイと自転車をこぐことができた。

 ジョギングで使う足の筋肉と、サイクリングで使う
足の筋肉は、ちがうらしい。
言い換えると、ジョギングで鍛えたからといって、
サイクリングができるようになるとはかぎらない。
サイクリングで鍛えたからといって、ジョギングが
できるようになるとはかぎらない。

 こういうのを専門用語で、「廃用性機能低下」という。
平たく言えば、「使っていない機能は、低下する」ということ。
何も筋肉にかぎらない。
脳みそだって、そうだ。
それが顕著に現れるのが、(ものを書く力)。

 しばらくものを書いていないと、とたんに勘が鈍る。
パソコンに向かっても、文そのものが、わいてこない。
書いても、考えがまとまらない。

 仮にこんな生活を半年とか1年もつづけたら、
それこそ本当に文章を書けなくなってしまうだろう。
しかしこのことは、別の重要な教訓を、私たちに
教えている。

 ある特定のことに秀(ひい)でることはよいとしても、
そればかりに集中していると、そのほかの部分が、
おろそかになるということ。
機能そのものが、低下する。
体を鍛えるにしても、脳を鍛えるにしても、いつも(全体)
を見ながら、鍛える。
毎日ジョギングしているから、それでよいということには
ならない。
文章を毎日書いているから、それでよいということには
ならない。
「廃用性機能低下」というのには、そういう意味も含まれる。
 
 たとえば知人の中に、何かにつけて、こまかいことに
こだわる女性(60歳)がいる。
実にこまかい。
孫の話などをするときも、不必要なことまで話す。
「靴下の色はどうだった」「汚れていた」「実家へ来るなら、
(嫁は)洗濯した靴下をはかせるべきだ」とかなど。

 一見、よく気がつく女性に思うかもしれないが、その
ほかの部分は、眠ったような状態になっている。
つい1週間前の約束すら、忘れてしまう。
少し難解な説明書になると、読んでそれを理解することも
できない。
つまり脳みそでも、使っている部分は、ほんの一部と
いうことになる。
そのほかの部分は、機能そのものが低下してしまっている。
こうした現象も、「廃用性機能低下」という言葉で
説明できる。

 ではどうするか。

 体にせよ、脳にせよ、いろいろな場面で、いろいろな方法で
使う必要がある。
そのためには、生活そのものを豊かにする。
バラエティ豊かなものにする。
単調でマンネリ化した生活は、体にとっても、また脳みそにとっても、
よくない。

 さて今日から数日、またまた苦しい闘いが始まる。
まだ咳が少し残っている。
体重が60キロに戻るまで、がんばろう!

 ……では、これからサイクリングに!
時刻は、午前6時、少し前。
雲が多いが、その向うに水色の澄んだ空が見える。
サイクリングをするには、よい朝だ。

 では、みなさん、おはようございます!

2009年8月14日、金曜日

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 廃用性機能低下)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 14日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●仮面(ペルソナ)人間

++++++++++++++++++++

どこか、へん?
どこかちぐはぐ?
妙に、(できた人間)を演ずる。
穏やかな表情に、もの知り顔。
話し方も、ていねい。
しかしやはり、おかしい。
不自然。

+++++++++++++++++++++

●錯覚

 仮面をかぶりながら、それを仮面と気がつかないまま、その仮面を
取り外すことさえ忘れてしまう・・・。
このタイプの人を、「仮面(ペルソナ)人間」という。

 よくある例が、どこかのカルト教団の信者たち。
さも「私は、よくできた人間でございます」というような表情をしてみせる。
思想といっても、自分の思想など、どこにもない。
他人に注入された思想をもって、それを自分の思想と、錯覚する。

 何度も書くが、人格の完成というのは、日々の生活の中で鍛錬されてこそ、
はじめて身につく。
しかも10年とか、20年とか、長い年月がかかる。
しかも絶え間ない精進ことが、重要。
進むのをやめたとたん、そのときから、人格は後退する。
それは健康論と似ている。
日々の運動のみが、その人を健康にする。
運動をやめたとたん、そのときから、健康は下降する。

そこらのオジチャンやオバチャンが、1年や2年程度、修行(?)したからと
いって、身につくものではない。

●ちぐはぐさ

 ペルソナ人間を見分ける方法は、簡単。
慣れてくると、直感でわかるようになる。
どこか、へん?
どこかちぐはぐ?

 (外に見せる様子=外見的自己)と、(実際にしていること=現実自己)が、
分離してくる。
一方で、ケチでケチでどうしようもない人が、他方で、毎日読経をしているとか。
あるいは、自分では1冊も本を読んだこともないような人が、説話会などで、
釈迦の話をするとか、など。

 西洋でよく話題になる仮面(ペルソナ)人間といえば、牧師がいる。
教会では神のような人間を演じながら、裏では児童虐待を繰り返すなど。
そういう点では、教職者もあぶない。
「先生、先生」と呼ばれているうちに、自分の本当の姿を見失ってしまう。

●シャドウ

 仮面(ペルソナ)人間のこわいところは、実は仮面ではない。
たいていは仮面をかぶりながら、善人を演ずるわけだが、その裏で心の
別室を作り、そこへ邪悪な自分を押し込んでしまう。
それがこわい。

 その程度がある限度を超えると、その人は多重人格性をおびてくる。
あるいは(邪悪な自分)が、たとえばそっくりそのまま子どもに移植されたり
する(ユングの「シャドウ論」)。

●ありのまま生きる

 こうした仮面をかぶるのは、しかたのないことかもしれない。
人は、だれしも、仕事上、仮面をかぶる。
私もかぶる。
あなたもかぶる。

 が、大切なことは、(1)それが仮面であると、しっかりと認識すること。
つぎに(2)日常生活のどこかで、その仮面をしっかりとはずすこと。
ありのままの自分に、もどること。
自分をさらけ出すこと。
その操作を繰り返すこと。

 (その人らしさ)とは何かといえば、(自然なふるまい)の中にある。
逆に言うと、その(自然ぽさ)が消えたとき、その人は仮面をかぶったまま、
自分を見失ってしまう。

 それに・・・仮面をかぶって生きるというのは、それだけでたいへんなこと。
エネルギーを消耗する。
疲れる。
実のところ私もそうだった。

とくに生徒や親たちを前にした、「教室」という場では、そうだった。
それもあって、30歳になるころまで、今でいう偏頭痛との闘いがつづいた。
だからある日から、それまでの仮面をかなぐり捨てた。
ありのままをさらけ出して生きるようにした。
とたん、気が楽になった。

 ・・・といっても、それができるようになるまでに、何年もかかったような
気がする。
だからこそよけいに、仮面(ペルソナ)人間が、よくわかる。
直感として、よくわかる。
で、そのたびに、こう思う。
「かわいそうだな」と。

【仮面(ペルソナ)人間・診断法】

●つぎの質問項目のうち、いくつかが当てはまれば、あなたは仮面(ペルソナ)
人間とみてよい。

( )他人の目を意識すると、緊張し、無理をすることが多い(初期)
( )精神疲労を起こしやすく、不平、不満、愚痴が多い(初期)
( )他人の前で自分をさらけ出すことができない。苦手。(初期)
( )本当の自分と、外の世界での自分が別人のように感ずる。(中期)
( )ときどき自分が何を望み、何をしたいかが、わからなくなる。(中期)
( )他人に批判されることを好まず、とりつくろい、弁解が多い。(中期)
( )自分はよい人間に思われることに満足することがある。(後期)
( )他人に、したり顔で、説教したり、相談にのったりする。(後期)
( )話し方、表情が、(よくできた人)のように穏やかで、静か。(後期)

 かなり大ざっぱに書いたので、不正確かもしれないが、自分(私)を
知るためのひとつの手がかりにはなる。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW ペルソナ人間 仮面人間 はやし浩司 自己診断法)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●運命は受け入れる

++++++++++++++++++++

それが運命なら、受け入れる。
受け入れてしまえば、なんでもない。
が、それに逆らうと、運命というのは、
牙(きば)をむいて、
あなたに襲いかかってくる。

++++++++++++++++++++

●犬の糞(うんち)

 私は犬のハナ(ポインター種)を、庭で放し飼いにしている。
家に来た時から、ずっと、そうしている。
今年で13歳になるが、そのこともあって(?)、今でも元気。

 しつけらしいしつけは、何もしていない。
食事の前に、いちど、きちんとお座りをさせることはある。
ワイフが、そうさせている。
それ以外は、芸らしい芸もしない。
ただ人間の言葉は、かなり理解できるよう。
「散歩に行こうか?」と声をかけると、シッポを振る。
「水をかけてやろうか?」と声をかけると、そのまま小屋へ逃げ込んでしまう。

 そのハナだが、大便、小便は、そのつど庭のあちこちでする。
そのため便の始末が、私たちの日課になっている。
小便にしても、小便をしたところだけ、芝生が丸く枯れたりする。
そのため庭の芝生は、円形脱毛症のように、あちこちが枯れている。

 そういうハナだが、私たちにとっては、家族。
ハナのおかげで、安心して私たちは家を留守にすることができる。

 で、今日、ハナの便を始末しながら、ふとこんなことを考えた。
「もしこの便がハナのものでなく、近所の他人の飼っている犬のものだったら、
どうだろうか」と。
「私は平気でいられるだろうか」と。
犬でなくても、ときどきやってくる、どこかの猫のものでもよい。
たぶん私は、その糞を見るたびに、激怒するだろう。
犬や猫の飼い主がわかっていれば、その家に抗議に行くかもしれない。

●同じ糞でも・・・

 同じ犬の糞である。
ハナのものだったら、・・・というより、そのことでハナを叱ったことは一度もない。
始末するのは、たしかに面倒なことだが、それをいやだと思ったことはない。
ハナの糞は、一度集めて、肥料として再利用(?)している。

 これが「運命を受け入れる」ということになる。

 一方、他人の飼っている犬や猫だったら、どうだろうか。
それがたった一度でも、たぶん、許せないだろう。
便の始末をしながら、ブツブツと愚痴を言うかもしれない。

 このばあいは、「運命を受け入れていない」ということになる。
あまりよいたとえでないかもしれないが、(受け入れるか、受け入れないか)で、
同じ(犬の糞)に対する反応が、180度、ちがう。

●プラス反応vsマイナス反応

 運命を受け入れたときの心理的反応を、「プラス反応」という。
運命に逆らったときの心理的反応を、「マイナス反応」という。
プラス反応を示すときは、なにごとにつけ、ものの考え方が、前向きになる。
肯定的になり、積極的になる。
マイナス反応を示す時は、なにごとにつけ、ものの考え方が、後ろ向きになる。
否定的になり、消極的になる。

 私はこのことを、母の介護をしていて学んだ。

 同じころ、私の知人(女性、64歳)で、彼女の母の介護をしている人がいた。
それで知り合いになり、よく情報を交換した。
その女性を。Nさんとしておく。

 Nさんの口から出てくるのは、愚痴ばかり。
「家が臭くなった」「食べ物をみんな食べてしまった」「夜中じゅう、起きている」
「徘徊するようになった」「町内会の仕事ができなくなった」「コンロの火がつけっぱなし
だった」などなど。
私は聞き役に回ることが多かった。
へたに反論すると、Nさんは、それだけでパニック状態になってしまった。

 たとえば臭いがひどいということについて、「換気扇をつけたら?」と提案すると、
「私の家は、夫のものです。「壁に穴をあけるなんて、とんでもないことです」と。
火の消し忘れについても、「コンロを、過熱防止装置付きのものにしたら?」と
提案すると、「そんな高価なものはうちでは買えません」と。

 Nさんは、明らかにマイナス反応を示していた。
が、一度こうしたマイナス反応を示すようになると、すべてを否定的にとらえ、
悪いほうに、悪いほうにと、ものごとを考えるようになる。
取り越し苦労に、ヌカ喜び・・・これを繰り返しながら、やがては精神を病むこともある。

 事実、Nさんは、うつ病薬を心療内科で処方してもらい、それを服用していた。
「ときどき、車ごと、どこかにぶつかって死にたいと思うことがあります」というような
ことを言ったこともある。

●同じ運命でも・・・

 が、運命というのは、一度受け入れてしまうと、様子は一変する。
先に書いた、犬の糞の話を思い出してほしい。
それを当り前のこととしてしまうと、あるいはその意識すらもたないでいると、
何も考えないで、犬の糞を始末できるようになる。
そうでなければ、そうでない。

 たとえば親の介護にしても、「たいへんだ」「たいへんだ」と思って、する人もいる。
しかし「なんでもない」と思って、する人もいる。

 山荘の近くに住む、S氏(男性・66歳)もそうだ。
一度、私にこう言ったことがある。
「林さん、老人なんてものはね、家のそこらに、ころがしておけばいいのですよ」と。

 ずいぶんと乱暴な言い方に聞こえるかもしれないが、S氏の人間的な温もりを知って
いる人は、そうは思わない。
「自由に、やりたいように、させておくのが、老人にとっては、いちばんいい」という
意味で、S氏は、そう言った。

 が、親の介護は、たいへん。
重労働。
それは事実。
このあたりでも、『親の介護を3年すれば、兄弟関係は、破壊される』と言う。
たとえ兄弟でも、(介護する人)と、(介護しない人)とに分かれると、大きな亀裂が
入ることをいう。
ある看護師の女性が、そう教えてくれた。

●運命

 それぞれの人には、それぞれ、無数の(糸)がからんでいる。
家族の糸、親類、知人の糸、過去の糸、生い立ちの糸、環境の糸などなど。
その糸が、ときとして、その人の進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」と呼んでいる。

 が、その運命というのは、そのときは、わからない。
が、自分の人生を振り返ってみたとき、結果としてそこにあることがわかる。
どこかの頭のおかしい人たちが説く、スピリチュアル的な運命をいうのではない。

 だからそのときはそのときで、懸命に、あがく、もがく。
ときに苦しむ。
が、心のどこかで、その最中に、運命をふと感ずるときがある。
「ああ、これが私の人生だ」と。

 そのとき、それが戦うべきものあれば、戦う。
最後の最後まで、ふんばる。
人間の生きる意味や、美しさは、そこから生まれる。

 しかしそれがどうしようもないものであれば、受け入れる。
受け入れてしまう。
とたん、気が楽になる。
そこにあった運命が、向こうのほうから、シッポを巻いて、逃げていく。

 要するに「いやだ、いやだ」と思っていると、それはますます(いやなもの)になる。
が、反対に、「こういうもの」と割り切ってしまうと、(なんでもないもの)になる。
私も母の介護をしているとき、こう感じたことがある。
「息子たちの世話より、楽だ」と。
私のばあい、そこまで割り切ることができた。
私の家に2年間いたが、私もワイフも、ただの一度も、愚痴を言ったことはない。

●教訓

 で、介護の問題でなくても、私たちは日々に、生活を通して、(運命)を
感ずることがある。
夫婦の問題、親子の問題、子どもの問題、近隣の人たちとの問題などなど。
そういうとき大切なことは、その運命を、(プラス反応)に変えていくということ。

 たとえば今、私は山荘で、この原稿を書いている。
その途中の道が、長さ200〜300メートルにわたって、夏草におおわれる
ようになった。
地主のKさん(今年80歳くらい)が、このところ元気がない。
いつもなら、毎年、数回、草を刈っている。

 で、もう少し太陽が高くなったら、草刈り機で私は草を刈るつもり。
誤解がないように書いておきたいが、私は草刈り機で草を刈るのが好き。
楽しい。
ドサッと生えた夏草を、草刈り機でバリバリと刈ることによる爽快感は、
なにごとにも、代えがたい。
運動にもなる。
それに私は、Kさんを尊敬している。
この山荘の土地を分けてくれたのも、そのKさんである。

 ただ変数がひとつ生まれた。
実は風邪気味で、昨夜は、自分の咳で、1〜2時間ごとに目が覚めた。
そのためどこか熱っぽい。
体がふわふわする。
無事、草刈りができるかどうか、今のところ、自信はない。
が、予定では、つまり気持の上では、草刈りをすることになっている。

 これが(プラス反応)ということになる。
ひとつの例として、書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 運命 プラス反応 マイナス反応 はやし浩司 運命論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●バカげた珍報道(地震報道について)

++++++++++++++++++

昨日(8月11日)、午前5時7分、
静岡県地方を、大きな地震が襲った。
かなり大きな地震だった。
静岡市周辺で、震度6〜。
床から出て、テレビにスイッチを入れると、
地震報道を繰り返していた。

「津波の心配があります。
海岸には近づかないでください」と。

それを何十回も繰り返していた。

しかしそのまったく同じとき、静岡県沖を、
台風9号が通過しつつあった。
静岡県にもっとも接近したのは、同じ日の
午前9時ごろ(気象庁)。
そのとき台風9号は、御前崎の真南、約100キロ
前後のところを通過しつつあった。

が、これからが、ジョークにもならない珍報道。

「津波の高さは、50センチが予想されます。
どうか海岸地域にいる人は、海岸に近づかない
でください」と。

このジョーク、わかるか?

そのとき海岸には、5〜6メートルを超える、
高波が打ち寄せていた。
これは台風9号によるもの。
その海岸に、50センチの高さの津波が来るから、
「近づかないでください」は、ない。

言うとしたら、「台風による高波に警戒してください」だ。

世の中には、常識というものがある。
どこのバカが、5〜6メートルもの高さの波が
打ち寄せている海岸に、近づくというのか。
(高波を見物に行く人もいないわけではないが……。)
その高波の中にあって、50センチの高さの
津波など、誤差の範囲。

スタジオで、伝えられた数字だけを見て報道
していると、こういう珍報道になる。
私とワイフは、それを聞いて、ゲラゲラと
笑った。

ついでにアメリカに住む二男夫婦に
そのことを知らせると、こんな返事が来た。

「ヒロシさん、あなたにはユーモアの
センスがあります」(二男の嫁)と。
(Denise Hayashi 
Haha! A math quiz...it's good to see that you still have your sense of humor despite all of 
this! The tidal wave is shorter; did I pass? :) Please tell Akiko and Shuichi that we send 
our best to you all.)

私は何もジョークを書いたつもりはなかったのだが……。

Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

風邪

+++++++++++++++++++

 8日の夜からだから、もう4日目になる。
どうも風邪が抜けない。
昨夜は、肺の下のほうから咳が出た。
そのたびに痛かった。 
そこで大きな中国製の湿布薬を張った。
これが効いた。
三男がシンガポールで買ってきてくれたものだ。

朝までには、かなり楽になっていた。
あとは「柴胡桂枝湯(さいこけいしとう)」(漢方薬)
と、ビタミンCで治るはず。
今は、その柴胡桂枝湯の粉末を口の中でなめながら、
この文章を書いている。

+++++++++++++++++++

●慇懃無礼(いんぎんぶれい)

 「慇懃無礼(いんぎんぶれい)」という言葉がある。
漢字で書けと言われても、私には書けない。
「慇懃」は、「殷」と「勤」の下に、「心」がつく。
覚えるとしたら、そういう覚え方をする。
で、「殷勤」なら、「いんきん」と読める。

慇懃無礼というのは、バカていねいな対応をしながら、相手を煙に巻くという
方法である。
が、「無礼」は「無礼」。
それをされると、かえって不愉快になる。
ときにカチンと頭にくる。

が、敵もさるもの。
自分に非を向けさせないようにして、相手を不愉快にさせる。
それが目的で、わざと慇懃無礼な言い方をする。
そういう場面に出くわすことは、多い。

●ストーカー

 ストーカーというと、男女の間だけで起こる問題と考えている人は多い。
ゆがんだ恋愛感情がもつれて、人は、ストーカー行為を繰り返すようになる。
が、実際には、それに似たような行為となると、ほかにもある。

 もう10年になるだろうか。
そのつど電話をかけてきたり、ちょっとしたモノを送り届けてくる人がいた。
最初のうちは、そのつどていねいに返事を書いたり、電話をかけたりしていた。
が、どうも様子がおかしい。
それに気づいたのは、その人が、私が話したことを、あちこちで言いふらして
いるのを知ったときのことだった。

 つまりその人は、そういう形で、私の家にさぐりを入れていた。
理由はわからない。
競争心からか?
それとも嫉妬心からか?
何かにつけ、その人は、私の家の内情が気になるらしい。

 一度、夫婦喧嘩の話をした。
そのとき私が、「うちなんか、明日、離婚してもおかしくないですよ」と話したことがある。
たまたまワイフと言い争いをしていたときでもあった。
その人はさも同情したかのような様子をしてみせ、あれこれと相談にのってくれた。
が、驚いたのは、その数日後のこと。
別の人から心配して、電話がかかってきた。
そしていきなり、こう言った。
「林さん、離婚するって、本当ですか?」と。

●矛盾

 さらにそれを確信させるようなことがあった。

その人がたいへん嫌っている人がいた。
名前をX氏としておく。
いろいろあったらしい。
その嫌っている人について、こう言った。

「私ね、弟と2人で、先日、見舞いに行ってきました」と。

 これには驚いた。
ここにも書いたように、その人はX氏を嫌っていたはず。
そのX氏を見舞ったというのだ。
あれほど、悪口を言っていた人である。
で、私が「どうでしたか?」と聞くと、こう言った。

 「私が見たところ、それほど、長くはないわね。
すい臓がんだから、もって、あと半年ね」と。

 その人は、X氏を見舞ったのではなく、様子を見に行ったのだ。
が、そういうことを平気でできる人というのは、そうはいない。
かなり心がゆがんだ人でないと、できない。

●地震

 実は、昨日も、電話がかかってきた。
たまたま留守にしていて、留守番電話に伝言が残っていた。
「地震のことを心配しています。無事でしたか」と。
実に、慇懃無礼な言い方だった。
背筋に力を入れ、まるで位の高い女性が、下僕を見下ろすような言い方だった。

 ワイフはそれを聞きながら、「また、かかってきたわね」と。

言い忘れたが、その人というのは、女性。
年齢は6x歳くらい?
私はワイフにこう言った。

 「もうぼくらのことは、放っておいてほしい」と。

 言うなれば、これもストーカー行為ということになるのではないか。
事件になるような行為ではないが、相手に与える不快感は同じ。

私「本当に心配して、電話をかけてくるんじゃ、ないんだよ」
ワ「わかっているわ」
私「今度電話がかかってきたら、地震で屋根が壊れたとでも言ってやろうか」
ワ「よしなさいよ。まともな人じゃ、ないから」
私「そうだね。無視するのが一番」と。

●無視

 慇懃無礼な言い方をするため、こちらもそれに応じて、ていねいな(?)言い方を
しなければならない。
相手は、「私には悪意はありません」という立場を、一応保っている。
つまりとぼけている。
「うちの心配は無用ですから、どうかこれからは電話など、かけてこないでください」
と言いたいが、その寸前の、スレスレのところで、電話をかけてくる。
またそういう言い方をする。

 が、しつこい。

 実は、先ほども電話がかかってきた。
ナンバーディスプレイを見ると、その番号だった。
こちらが無視すれば、かえって相手は、ムキになる。
電話をかけてくる。
以前にも、そういうことがあった。

私「うるさいね、ホント!」
ワ「何が目的なのかしら?」
私「何かの下心があるのだろうが、ぼくにはわからない」
ワ「やはり、無視するしかないわね」
私「そうだね」と。

●結論
 
 こうした行為を繰り返す人というのは、現実検証能力というか、自分を
客観的に見ることができない人ということになる。
あるいは脳の一部に、別室を作り、そこへ邪悪な心を押し込んでしまう。
そして自分は、善人であると、思い込んでしまう。
「私は、本当に心配しているから、電話をかけたのだ」と。

 ストーカー行為を繰り返す人にしても、そうだ。
「私こそが、相手を本当に愛しているのだ」とか、「相手は私の愛を理解
できないだけ」とか、勝手にそう思い込んでしまう。

 相手の迷惑など、まったく考えない。
迷惑しているということさえ、理解できない。
自分勝手でわがまま。
自己中心的で独善的。
心がゆがんでいるのは、乳幼児期の不幸な体験が原因になっていることが
多い。
つまり「根」が深い。

 このタイプの人は、他人との良好な人間関係を築くことができない。
小さなカプセルの中に閉じこもったまま、自分だけの世界を肥大化させて
しまう。
ストーカー行為を繰り返す人にしても、同じように考えてよい。
精神的に未熟というか、幼稚。
IQ論によれば、(1)他者との良好な人間関係、(2)共鳴性、(3)より
自己中心的でないことが、人格の完成度をみる、バロメーターになっている。

 そのうちの共鳴性がなくなる・・・つまり相手の苦しみや悲しみが理解でき
なくなる。
はっきり言えば、人格の完成度は低い。

ワ「じゃあ、どうすればいいの?」
私「もう60歳を過ぎているしね。どうしようもないね」
ワ「どうしようもないわね」
私「要するに、触らぬ神に、たたりなし。適当に無視して、遠ざかるしかないね」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
 Hayashi 林浩司 BW ストーカー ストーカー行為 人格の完成度 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司 

●TOSHIBAのダイナブック(TX)

++++++++++++++++++

昨日、TOSHIBAのダイナブック(TX)を買ってきた。
使い勝手は、たいへんよい。
国内メーカーのノートブックを買ったのは、5、6年ぶり。
その間に、この世界も、格段の進化を遂げていた。

++++++++++++++++++

で、その印象。

まず国内メーカーのパソコンは、値段が割高であるという誤解。
実際、今度買ってみて、こんなことに気がついた。

(1)サービスがよい。
(2)こまかいところにまで、配慮がゆき届いている。

 それまでは、ミニノートのパソコンを3台使っていたが、
正直言って、使い勝手がたいへん悪い。
とくに、M社(台湾)の、WNは、たいへん悪い。

 タッチパッドの感度がよすぎて、指が近付いただけで、勝手に
反応してしまう。
そのためワードを使って作業をしているようなときなど、文字が
あちこちに飛んだり、カーソルが勝手にどこかへ行って
しまったりする。

 メーカーに相談しても、打つ手なし。
販売店の店員に相談すると、「紙でも張って使ってください」と。
タッチパッドに紙を張れ?
実に中国の製品らしい?

 ダイナブックでも同じ現象が起きた。
そこで電話をすると、即座につながり、問題は解決した。
方法はこうだ。

(コントロールパネル・クラシック表示)→(マウス)→(拡張)→(拡張機能の設定)
→(ポインタ速度とタッピングの設定)→(タッピングの設定)→(キー入力時の
タッピングを無効にする)

 それ以後は、イライラもなく、こうして作業ができる。
サクサクと文字が打てる快感は、なにものにも代えがたい。
気持よい。

 ついでながら、ミニノートや、安いパソコンには、こうした調整機能はついていない。
だからこう思った。
「値段が高いだけのことはあるなア」と。

 見直したぞ、TOSHIBAさん。
すばらしいパソコンを作ってくれて、ありがとう!


●パソコン

 結論から先に言えば、持ち運び用ということでないなら、
パソコンは、大きければ大きいほど、よい。
キーピッチは、19ミリ。
これをフルサイズという。
それ以上あっても、しかたない。

が、画面(モニター)は、大きければ大きいほど、よい。
12インチより、14インチ、14インチより、16インチ・・・というように。
私は今、それを実感しつつある。

 あとは目的に応じて、スペクを考えればよい。
私のばあいは、こうして文章を書くのが目的だから、それほど高い性能でなくてもよい。
ハードディスクにしても、400GBもあれば、じゅうぶん。
ゲームはしないので、グラフィックボードは、必要ない、など。

 そうそう、キーボードは、自分で実際、叩いてみること。
指の感触が重要。
私のばあい、(ENTER・キー)の右に、ページUP、DOWNのキー、さらには
テン・キーがついているのは、買わない。
打ちミスがどうしても多くなる。
そのため、気になってしかたない。

ついでに言えば、日本語ワープロとして使うときは、ENTER・キーは、大きければ
大きいほど、よい。
そのほかのキーは、めったに使わない。

 あとは相性の問題。
それは男と女の関係に似ている。
たいへんよく似ている。

 
Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●熟年・離縁

++++++++++++++++

ワイフからこんな話を聞いた。
ワイフの友人(今年、60歳、女性)が、
父親の三周忌を機に、親族と離縁する
という。
称して、「熟年離婚」ならぬ、「熟年・離縁」。

++++++++++++++++

●Yさんのケース

 ことの発端は、やはり父親の介護。
いろいろあったらしい。
その女性を、Yさんとしておく。
Yさんには、2人の兄と、1人の妹がいる。
父親の世話(?)をしていたのは、長男氏だったが、その長男氏は、毎月のように、
Yさんに、介護費用を請求してきたという。
(あとの兄弟たちにも、同じように請求していたらしい。)

 Yさんの夫は、外車販売を手掛けている。
日々に扱う金額も多い。
他人には、リッチに見える。

 Yさんは、こう言った。

「兄弟たちは、みな、私のお金をアテにしていました。
兄には、毎年、数10万円程度を渡していました。
が、それでも足りないというのです。
で、あるとき、何度も自問してみました。
『私が困ったとき、兄弟たちは助けてくれるか』とです。
が、兄弟たちはみな、口がうまいだけ。
そのつど『何も助けてくれない』と、確信しました。

 が、それでも・・・と思って、つまり自分がまちがっているのではないかと
思い、兄弟たちを観察してみました。
が、結論は、やはり同じでした。

 で、父は2年前に死に、50坪足らずの土地と、古い家を残しました。
それについて兄(長男)が、『親のめんどうをみたのは私だ』といって、
すべて自分のものにしてしまいました。

 夫の扱っている金額からすれば、車1〜2台分のささいな遺産です。
それをほかの兄弟たちと、喧嘩もんかで、取り合っている・・・。
あさましいというか、情けないというか・・・。

 さらに父の死後も、兄は、私の夫に借金を申し込んできました。
私たちの財産を、まだアテにしているのですね。
それで覚悟を決めました。
三周忌を機に、兄弟たちとは、縁を切る、と。
ついでに親戚づきあいも、やめる、と。

●身辺の整理

 『遠くの親類より、近くの友』という。
それはそのとおりで、兄弟、姉妹の縁というのも、時の流れの中で、薄れていく。
子どもの世界でも、弟や妹に、はげしい憎悪の念をもっている兄や姉は多い。
「兄弟だから仲がいいはず」と考えるのは、幻想以外のなにものでもない。
みんなそのフリをしているだけ。
(もちろん仲がよい兄弟、姉妹も、多いが・・・。)

 私のばあいも、親戚づきあいをしながら、「ここまでしなければならないのか?」と
思うことがたびたび、あった。
人づきあいは大切だが、自分の主義主張、さらには哲学を捻じ曲げてまでつきあう
必要はない。
そういうことをするのも、疲れた。
「時間の無駄」と思うようになった。

 たとえば近く、実兄と実母の一周忌の法要をする。
私自身は、内々で、質素にすませたいと願っている。
が、前回の四九日法要のときもそうだったが、たがいに連絡を取り合い、
結構派手なものになってしまった。
またそういうことをすれば、この(私)が喜ぶとでも思っているのかも
しれない。

 しかし私には、意味がない。
だからといって、死者を軽んじているわけではないが、カルトもよいところ。
あるいはこれをカルト(迷信と言ってもよいが)と言わずして、なんという。

 あえて擁護するなら、「家」制度のあった江戸時代には、それなりの意味が
あったのかもしれない。
親類が「家」を中心の結束し、自分の社会的立場を、固定した。
そのために、一周忌があり、三周忌があった。
あるいはそれをうまく、利用した。
だから私が子どものころには、こうした法要は、どこかの料亭を借りて、
派手にやるのが、ひとつの習わしになっていた。

 しかし今は、時代が変わった。
冠婚葬祭という(儀式)に、疑問を感ずる人が、より多くなった。
またその流れは加速しつつある。

●再び、Yさん

 私はYさんの生きざまに、興味をもった。
私と同じ年齢ということもある。

私「そういうのを熟年・離縁というよ」
ワ「だれが言い出したの?」
私「このぼくだよ」
ワ「フ〜〜ン?」

私「Yさんの兄は、黙っていないだろうね」
ワ「それも覚悟の上みたいよ。
介護費用を負担していたという話にしても、Yさんの兄は、だれにも
話していなかったみたい」
私「それはずるいね」
ワ「でしょ。だから縁を切ると決めたらしいわ」と。

 熟年離婚もこわいが、熟年・離縁もこわい。
兄弟、姉妹といっても、基本的には、人間と人間のつきあい。
壊れるときには、壊れる。
幻想にしがみつくのは、よくない。
幻想にしばられるのは、もっとよくない。
だから結論は、こうなる。

『遠くの親類より、近くの友』と。

 そうそうYさんは、こういう言葉を使ったという。
「腐れ縁」と。
「腐れ縁ですから」と。
兄弟、姉妹、親戚づきあいも、その仕方によっては、「腐れ縁」になるということらしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 熟年離縁 熟年・離縁 熟年離婚 兄弟の縁 姉妹の縁 縁を切
る はやし浩司 腐れ縁)

(補記)

 このYさんの話には、つづきがある。

 最近、Yさんの長男氏からYさんに、電話がかかってきたという。
(Yさんは、この浜松市に住んでいる。
長男氏は、富山市の郊外の町に住んでいる。)

 「私が怒っているのを百も承知の上で、『元気か?』といって電話をかけてくるのね。
兄の(とぼけ)には、もううんざりです」と。

 この話を聞いて、私は私の兄のことを思い出していた。
私の兄も、とぼけがうまかった。
兄は、グループホームへ入る前、3か月間、私の家にいた。
その兄は、ワイフがひとりで風呂に入っていたりすると、風呂のドアをあけて、いつも
こう言った。
「トイレは、こっちやったかなも(=こちらでしたか)」と。

 認知症にもなっていたが、あちらのほうだけは、達者だった。
私がそれを叱ると、「まちがえただけや」と、いつも弁解していた。
今となってみると、それも笑い話のひとつになっているが・・・。

 そこに不幸な家庭があるなら、そっとしておいてやろう。
あれこれ詮索したり、内情をさぐるような、醜い行為はやめよう。
もちろん相手が助けを求めてきたら、そのときは、ていねいに応えてやればよい。

 それぞれの人は、それぞれの立場で、懸命にがんばっている。
その(懸命さ)を、少しでも感じたら、そっとしておいてやろう。
不必要な介入をしたり、説教したりするのは、もってのほか。
あなたがどんな立場にあっても、それはしてはいけない。
それはこの世を生きている人間が守るべき、最低限のマナーと考えてよい。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●恩着せがましい子育て法

++++++++++++++++

恩着せがましい子育てをする人は多い。
「産んでやった」「育ててやった」と。
しかしこうした言葉を口にすればするほど、
親子関係は、さみしくなる。
心もさみしくなる。

++++++++++++++++

●一貫性

 一事が万事、万事が一事。
子育てには一貫性が重要だが、しかしそれには条件がある。
大切なのは、哲学。
スジ。
一本のスジ(筋)が通っていれば、よい。
スジが通っていないと、話がおかしくなる。
子育てが混乱する。
中には、こんな一貫性(?)もある。

●恩着せ

 ある母親(現在、60歳)が、あるとき私にこう言った。
「私は、子育てで、どれだけ苦労したかわからない」と。
話を聞くと、こうだ。

 2人の息子がいたのだが、「塾の送り迎えで、苦労した」「友だちのいじめに
あって、苦労した」「部屋を散らかすので、掃除で苦労した」「卵アレルギーで
苦労した」と。

 こういった話が、つぎからつぎへとつづく。
が、最後は、いつもこうだ。
「でも、みんな、無駄でした」「子育てなんか、するもんじゃない」「息子たちは
今では、どこに住んでいるかさえ、わからない」「損をした」と。

●いやみ

 その女性の話し方には、もうひとつの特徴があった。
それとなく、子どもたちの心を操るという方法である。
が、それがその女性にとっては、ごくふつうの言い方だったようだ。
当の本人は、それに気づいていなかった。
たとえばこういう言い方をする。

 「あの家の息子さんは、立派なもんです。今度、親のために、離れを建ててやった
そうです」「あの家の嫁さんは、すばらしい。親を温泉に連れていって、背中を流して
やったそうです」とか。

 そういうことを、息子たちが聞こえるところで、わざと言う。
私も聞いたことがある。
そのときは、こう言った。
「Nさん(女性の友人)は、幸せや。息子さんがすばらしいから、老後の心配は、
何もしなくていい」と。

 こういうのを私たちの世界では、「イヤミ」という。
が、ふだんからそうした言い方をしている人には、それがわからない。

●おかしな世界

 こうした言い方は、一度身につくと、クセになる。
何かにつけて、そういう言い方をするようになる。
が、世の中には、そういう女性のような言い方を支持する人もいる。
イヤミはイヤミなのだが、同じような言い方をする人には、それがイヤミには
聞こえなくなる。……らしい。

 ある男性(60歳くらい)は、こう言った。
「あの女性は、いい人ですよ」「子どもたちのために、どれほど苦労したかわからない」
「親のカガミです」「頭がさがります」と。
そういう女性を高く評価(?)する人もいる。

●私のばあい

 私自身は、そういう言い方を、3人の息子たちにしたことはない。
ときに口から出そうになったこともあるが、そこはぐいとがまんした。
息子たちが、生意気な口をきいたときのことだ。

 だから余計に、そういう言い方をする人が、私には目立つ。
違和感を覚える。
へんに感心することもある。
「世の中には、そういうものの考え方をする人もいるんだナ」と。

 子育てというのは、(そのとき)を楽しむためにある。
そこから始まって、そこで終わる。
そういう点では、私にとっては、子育ては楽しかった。
息子たちが、私に生きがいを与えてくれた。
毎日、仕事が終わると、何らかのおもちゃを買って帰った。
子どもたちの喜ぶ顔が、楽しみだった。
子どもたちがいなかったら、私はああまでがんばらなかっただろう。
現に今が、そうだ。
子どもたちが巣立ってしまった今、生活そのものから、ハリ(緊張感)が消えてしまった。

 だから息子たちには、感謝することはあっても、恩を着せることはない。
息子たちがみな、それぞれの生活をしているのを見て、それでよかったと思っている。

●人、それぞれ

 が、私が正しくて、その女性がまちがっているというのではない。
人それぞれだし、みな、それぞれの思いの中で、子育てをする。
子育てには、その人の人生観、哲学、価値観、それにその人の生い立ち、過去、
すべてが凝縮されている。

 その人が懸命に子育てをしているなら、「おかしい」とか、「まちがっている」とか、
そういう失礼なことを言ってはいけない。
それがたとえあなた自身の親であっても、だ。

 事実、私の母も、恩着せがましいことを、よく口にした。
うるさいほど、よく口にした。

●分析

 が、こうした恩着せがましい子育てをする人の心を分析することは、許される。
というのも、こういう恩着せがましい、言うなれば、イヤミたっぷりの子育てを
つづけていれば、親子断絶は、時間の問題、……というより、確実。

 先の女性にしても、「子育ては損」と言った。
しかし「損」ではなく、そういう結果を、その女性自身が招いたと考えるのが正しい。
2人の息子は、社会へ出るとすぐ、ともに暴力事件を引き起こし、警察に逮捕されている。
今は、職業と住居を転々としながら、どこで暮らしているかさえ、わからない。

 そこで分析ということになるが、こうした恩着せがましい子育てをしている人には
共通点がある。

(1)家族観の欠落、(2)不幸な夫婦生活、(3)不平、不満の多い生活、それに(4)強度の依
存性。

不幸にして不幸な家庭で育った可能性がある。
そのため(家族像)が、育っていない。 

望まない結婚であった可能性も高い。
それが不幸な結婚生活の基本になっている。

また性格もわがまま。
それが不平、不満の原因になっている。

が、何といっても、最大の原因は、精神的な未熟性と考えてよい。
親になっても、ひとり立ちできない。
それが転じて、強度の依存性を生む。

●では、どうすればよいか

 こうした子育てにまつわる問題は、それを自分の中に感じたら、まず、それに気がつく
こと。
まずいのは、それに気がつかないまま、同じパターンを繰り返すこと。
気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
すぐには改まらないかもしれないが、時間が解決してくれる。

 恩着せがましい子育てにしても、そうだ。
まず、それに気がつくとこと。
「ここに書いてあるのは、私のことだ」と思うだけでよい。
それだけで、あなたの子育て方が、客観的に浮かび上がってくる。

 つぎに大切なことは、別の新しい子育て観をもつこと。
「〜〜してやっている」という意識を捨て、「子どもと今の人生を楽しむ」「楽しんで
やる」と思いなおすこと。
大切なのは、「今」であって、「過去」でも「未来」でもない。

 ……とまあ、大上段に構えたような書き方をしてしまったが、これは私の
考え方。
あくまでも参考に。

●終わりに

 それぞれの親は、それぞれの子育て観、子育て法をもっている。
それに基づいて、子育てをする。
そしてそれが多くのばあい、「一事が万事」「万事が一事」となる。

子育てには一貫性が重要。
が、同じ一貫性でも、確固たる子育て観に基づかない一貫性ほど、こわいものはない。
世俗に流されるまま、自分を見失ってしまう。
子どもの心を見失ってしまう。
ここに書いた、「恩着せがましい子育て法」も、そのひとつと考えてよい。

 話が繰り返しになったので、このエッセーは、ここまで!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●人間性

+++++++++++++++++++

目の前に札束が積まれる。
電話一本で、自分のものになる。
相手の男は、こう言った。
「領収書はいりません」と。

部屋の中にはだれもいない。
あなたが迷っていると、さらに相手の男は
こう言った。

「このお金は、裏帳簿でねん出したものです」と。

そんなときあなたは、その申し出を断ることが
できるだろうか。
言い忘れたが、金額は、3000万円!
電話といっても、配下の役人に電話するだけ。
「よろしく、頼む」と。

++++++++++++++++++

●背伸び

 私たちは他人の悪事や不正を知ると、まるで鬼の首でも取ったかのように騒ぐ。
「私たちは善人です」と。
朝のワイドショーが、そのひとつ。
このところ芸能界では、立てつづけにいろいろな事件が重なっている。
しかしそういう報道を見ながら、私は、ふとこう思う。
「何を偉そうに!」と。

 キャスターにしても、コメンテイターにしても、どこかインチキ臭い。
そういう人たちが、いっぱしの正義を説くから、おかしい。
いや正義を説いてはいけないと言っているのではない。
どこかチグハグだから、おかしいと、私は言っている。
たとえて言うなら、まるで知性を感じさせない俳優が、映画の中で科学者や哲学者を
演ずるようなもの。
背伸びして、力んでいるだけ。

●自問

 そこで冒頭の話。
もしあなたがそれなりの政治家で、目の前に大金を積まれたら、あなたはどうする
だろうか。
「私は、そういうお金はいりません!」と、きっぱりと断ることができるだろうか。

 政治家が収賄罪で逮捕されるたびに、私は、自問する。
「お前なら、どうする?」と。
で、答えはいつも同じ。
「私なら、もらってしまうだろうな」と。
お金は嫌いではない。
何もあえて嫌う必要もない。

 だから私は政治家には向かない。
政治家にはなれない。
仮に断ったとしても、多分(?)、そのあと後悔するだろう。
「もらっておけばよかった」と。
つまり私の人間性も、その程度。
だからこと収賄罪については、私は偉そうなことは言えない。
事実、偉そうなことを書いたことはない。

●平和宣言

 で、再び、子どもたちによる平和宣言。
今年も、あのH市で、子どもたちによる平和宣言がなされた。
今年は、「議論をしつくして、平和を守ろう」というようなことを、子どもたちは言った。
まさに正論だが、正論すぎるという点で、私は顔をそむけた。
相手が、ワイドショーのコメンテイターなら、すかさずこう思っただろう。
「何を偉そうに!」と。

 少なくとも、私にはできない。
近親者や近隣者とのトラブルは、無数に経験してきたが、私にはできない。
いわんや、そこらの小学生にできるはずもない。
期待もしていない。
そういう子どもたちが、堂々と(?)、こう言う。
「話し合いで、問題を解決しよう」と。
 
 このおかしさ。
 このこっけいさ。

 だれかが言わせているのだろうが、子どもに、そんなことをさせてはいけない。
何なら、こんな宣言をさせてみたらどうだろう。
「私たちは、おとなになり、政治家になっても、賄賂は受け取りません!」と。

●教育の世界でも

 人はだれしも、人間的な(弱さ)をもっている。
「人」というより、「人間」と言った方がよいかもしれない。
私ももっているし、あなたももっている。

 その(弱さ)を克服するとなると、並大抵の努力ではできない。
それに時間がかかる。
苦しんだり、悩んだりしながら、少しずつ克服していく。
まさに日々の精進(しょうじん)あるのみ。
日々の精進こそが、それを可能にする。
たとえば子どもの教育にしても、そうだ。

 教育というのは、手をかけようと思えば、いくらでもかけられる。
が、その一方で、手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。
それこそプリントだけをやらせて、それで終わることもできる。
(世の親たちは、プリント教材を多く与える教師を、よい先生と誤解している
ようだが……。
プリント学習ほど、教師にとって、楽な指導法はない!)

 子どもたちにしても、もともと勉強などしたくない。
教師がへたにがんばると、かえって子どもたちには嫌われる。

 そういうとき自分にムチを打って、手をかけるというのは、実のところ、
たいへんなことである。
その心は、目の前に積まれた大金を断る(心)と、どこか相通ずる。
金額の桁(けた)はちがうが、心は同じ。

 手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。
子どもたちもそれを望んでいる。
今日、一日、楽に終わったところで、子どもたちへの影響は微々たるもの。
給料は、ちゃんともらえる……。

 そんなときあなたは、手をかけて、子どもたちを指導するだろうか。
それができるだろうか。

●哲学

 話を戻すが、自分の人間的な(弱さ)を克服するのは、簡単なことではない。
先にも書いたように、「その(弱さ)を克服するとなると、並大抵の努力ではできない」。

 では、どうするか?

 ひとつの例として、私はダイエットをあげる。
私は今まで、何十回となく、肥満→ダイエット→リバウンドを繰り返してきた。
数か月ごとの定例行事になっていた。

 その私は、こんなことに気づいた。
「哲学のないダイエットは、意味がない」と。
言い換えると、それなりの哲学を構築するのが先。
それがないままダイエットを始めても、長つづきしない。
結局は(ダイエット→リバウンド)の繰り返しで終わってしまう。

 たとえばダイエットするにしても、運動と食事制限だけでは、無理。
美容目的なら、さらに無理。
そこで私は、「食べたら損(そこ)ねるのか、食べなければ損なのか」を自問する
ようになった。
そして最終的には、「損とは何か」というところまで、考えるようになった。

●政治家としての哲学

 冒頭にあげた、賄賂の問題にしても、最終的には、哲学の問題ということになる。
たとえばその賄賂を、そのまま懐(ふところ)に入れてしまえば、一時的には、得を
したことになる。
しかしもう少し長い目で見れば、自分の人間性を損(そこ)ねる。
人生を無駄にすることになる。
つまり損(そん)をすることになる。

 その(人間性を損ねる)部分を、はっきりと(損)と自覚するためには、それなりの
哲学、つまり生きざまが必要。
その生きざまの確立なくして、この問題を解決することはできない。

 政治について言えば、政治家というのは、国のリーダーである。
そのため無私無欲の公僕でなければならない。
日本全体、世界全体の共通した「善」の達成のためにこそ、力を注ぐ。
……こうした哲学を、一歩、一歩と完成させていく。
その結果として、政治家は政治家でありうる。
かなりきびしいことを書いたが、それができないようなら、またその努力をしない
ようであるなら、偉そうに、政治家などになるべきではない。

 いわんや、自己の名聞名利(みょうもんみょうり)の達成のために政治を利用する
などということは、あってはならない。

●精進あるのみ

 ……といっても、ほとんどの人にとっては、政治家という職業は無縁のもの。
目の前に大金を積まれるということも、ない。

 しかし自分の人間性を試されるということは、日常的によくある。
あるいは私たちは、常に試されながら、生きている。

道路でサイフ拾ったとき。
どこかの店で、駐車場の空きがないとき。
並んで順番を待っているとき。
混雑したバスや電車に乗ったとき。
買い物をするとき。
ゴミを捨てるとき、などなど。

 そのつど私たちは、自問する。
「損(そこ)ねるのか、それとも損(そん)なのか」と。
自問しながら、自分を高めていく。
その緊張感を緩めたとたん、元の木阿弥。
とくに私のような、もともと素姓のよくない人間ほど、そうなる。

 で、やはり答えは、同じ。
「私なら、もらってしまうだろうな」と。
私には、そんな高邁な人間性は、ない。
だから今日も、精進あるのみ。
がんばろう!

 2009年8月10日、朝記。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝は、5時7分起き

++++++++++++++++++++++++++++

今朝は、午前5時7分に目が覚めた。
強い地震が、静岡県地方を襲った。
この浜松市でも、震度4〜5前後もあったという。

私はそのとき、山荘にいた。
床の中で眠っていた。
ズシン、ドドドド……と、はげしい揺れを感じた。
瞬間、自分がどこにいるか、わからなかった。
ワイフが隣のふとんから、手を延ばしてきた。
こわかったらしい。
いつもは姉さん女房のようなワイフだが、こういうときは
気が小さい。

私は震源地を計算していた。
縦揺れから、横揺れに移るまでの時間を思い出していた。
数秒か、あるいはもう少しか……。

「震源地は結構、近いな」と思った。
それに山荘でこの程度だから、浜松市内は、もっと揺れたはず。

このあたりは、山全体が大きな岩盤のようになっている。
一方、浜松市内は、もとはと言えば砂浜。
「被害はどれくらいだろう?」と思った。
思いながら、床から起き上がった。
テレビにスイッチを入れた。

 で、そのあとのこと。
私はこうして起きて、パソコンに電源を入れた。
ワイフは、そのまま再び眠ってしまった。
ああいう性格は、ほんとうにうらやましい。


++++++++++++++++++++++++++

●超徳の人

 昨日、ウォーキングをしながら、こんなことを考えた。
1人の男がジョギングをしながら、私を追い抜いた。
そのときのこと。
その男が、2度、3度と、たてつづけに道路に痰を吐いた。
薄緑色の、汚い痰だった。

 それを見たとき、私は、人間は、いくつかのタイプに分かれることを知った。

(1)それを見て、怒るタイプ。これを「タイプA」とする。
「A」は、「angry(怒り)」の頭文字。

(2)それを見て、平気なタイプ。これを「タイプI」とする。
「I」は、「indifferent(無関心)」の頭文字。

 さらに「Aタイプ」は、自分も同じようなことを平気でしているタイプと、
そういうことはしていないタイプに分かれる。
前者は、「A・身勝手タイプ」ということになる。
後者は、「A・超自我タイプ」ということになる。

 「Iタイプ」も、自分も同じようなことを平気でしているタイプと、
そういうことはしないタイプに分かれる。
前者は、「I・無責任タイプ」ということになる。
後者は、「I・厭世(えんせい)タイプ」ということになる。

 で、「私は、どのタイプか」と。

●善人論

 私は道路に痰を吐いたことはない。
少なくとも20歳以後は、一度もない。
19歳のときに、一度、大失態をしてから、痰はもちろん、ツバを吐くことすら、
やめた。

 だからというわけでもないが、そういう光景を見ると、かなり強い怒りを覚える。
そのため私は「タイプA・超自我タイプ」ということになる。
ほとんどの人が、このタイプに属する。
問題は、そのつぎ。

 そういう光景を見たとき、相手を注意すべきかどうかということ。
私はもともと法科出身だから、すぐ法律的なものの考え方をしてしまう。
「まだ浜松市には、そういう条例はなかったはず」と。
つまり私の(怒り)を後ろから支えてくれる、条例がない。
とたん、口が勝手に閉じてしまった。
相手が男だったから、遠慮したわけではない。
健康のためにジョギングするような人だから、それなりの人物のはず。
が、それを注意することができなかった。

 では、無視すればよいかというと、そうでもない。
善をなすから、善人ということにはならない。
悪をしないから、善人ということにもならない。
善人が善人であるためには、積極的に悪と闘わねばならない。
積極的に悪と闘ってはじめて、人は、善人になれる。
これは私の持論でもある。

 そのばあい、その男の行為を積極的に制止してこそ、私は善人ということになる。

●高徳の人

 「たかが痰くらいで、目くじらを立てることもないだろ」と思う人もいるかもしれない。
しかしこうした論法には、しっかりと釘を刺しておきたい。

 日々の積み重ねが、月となり、それがさらに積み重なって、年となる。
それが10年、20年とつづいて、その人の人格になる。
日々のささいな行為、言動こそが、その人の人格を決める。

 先に書いた、「I・無責任タイプ」「I・厭世タイプ」の人が、長い年月を経て、
どんな人間になっていくかは、容易に察しがつく。

 ……ところが、そのときは、ちがった。
私は痰を吐きながら走るその男のうしろ姿を見ながら、こう思った。
「もうひとつ、別のタイプの人間もいるのではないか」と。
世俗のもろもろの(悪)を超越して生きる生き方も、あるのではないか、と。
(怒りを通り越した、その向こうの生き方)といってもよい。

 というのも、まわりは、世俗のかたまり。
排気ガスをボンボンと出しながら走る車。
くもの巣のように、天をおおう電線。
交通ルールを守らないドライバーたち。
緑のない、殺風景な道路。
満足な歩道すら、ない。
いちいち(怒り)を感じていたら、それこそ身が持たない。

 そういう(世俗社会)を見ながら、「これが人間の世界」と受け入れてしまう。
道路に痰を吐く男も、その一部にすぎない。
それよりも重要なことは、私も、その男も、この世俗社会で懸命に生きている
という事実。
その(尊さ)に比べたら、道路に痰を吐くことなど、なんでもない。
(だからといって、容認してよいということではない。誤解のないように!)

 だからもし私が怒りを感ずることもなく、ニコリと笑いながら、
「それはいけませんね」と軽く注意することができたら……。
それに応えて、その男もやはり、ニコリと笑って、「すみません」と言うことが
できたら……。
たがいに不愉快に思うことはない。
 
 それができる人のことを、「高徳の人」という。
心を乱すことなく、相手の非をとがめ、相手がどんな反応を示しても、これまた
心を乱すこともない。

 が、残念ながら、私は、(怒り)の段階で、自分を収めてしまった。
(どういうわけか、相手が白人だと、私はできるのだが……。)
不快感だけをどこかに残しながら、私はそのままウォーキングをつづけた。

 見るとその男は、道を途中で左に曲がり、路地の向こうに消えるところだった。
そのときも、ペッペッと痰を道路に吐いていた。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++++はやし浩司

●Wait a minute! (ちょっと、待ってください)

+++++++++++++++++++++

英語には、「Wait a minute!(ちょっと待ってください)」
という言い方がある。

その「minute」には、「ちょっと」という意味と、「1分、2分というときの
「分」という意味もある。

「世界おもしろジョーク集」(PHP)のほうには、その解説が載っていなかったので、
私のほうで先に解説しておく。
その上で、つぎのジョークを読むと、さらに深く(?)、意味がわかるのでは……。

その本に、こんなジョークが載っていた。
(内容は、私の方で編集。)

++++++++++++++++++++++

●「1分だけ、待ってほしい」

 ある若い女の子が、神様にこう聞いた。
「神様、天国には時間というものがあるのですか」と。
それに答えて、神様は、こう言った。

「ないよ。地球上の数十万年が、天国のこちらでは1分だよ」

すると女の子は、つづけて、こう聞いた。

「神様、お金(マネー)には、意味があるのですか」と。
それに答えて、神様は、こう言った。

「ないよ。お金には、まったく意味がないよ。価値もないよ」と。

で、女の子は、それを聞いて、つづけてこう言った。
「だったら、神様、私に数十万ドルをくれない?」と。

すると神様は、こう言った。

「Wait a minute!」(ちょっとだけ、待ってほしい)と。

●解説

 わかるかな?
神様は、掛け言葉を使った。
「ちょっと」と「1分」を,掛けた。

 天国では、地球上の数十万年が、1分に相当する。
つまり「Wait a minute!」というのは、神様にしてみれば
1分かもしれないが、地球に住むその女の子には、数十万年を意味する。
つまり「数十万年、待ってほしい」と。

●反応

 で、こうしたジョークを子どもたちに話していて、ひとつ気がついたことがある。
私はときどき、レッスンの合間に、ジョークをはさむ。
が、である。

 日本の子どもたち……というより、日本人は、こうしたジョークを楽しむという
習慣そのものがない。
先日も、小学5、6年生のクラスで、いくつかのジョークを話してやったのだが、
だれも笑わない。
「どうしてそんな話がおもしろいの?」と。

 そこであれこれ解説してやるのだが、反応がイマイチ、弱い。
鈍い。
中には、「くだらネ〜」とはき捨てる子どももいる。

 どうしてだろう?
おもしろい現象なので、ついでに、ここに書きとめておくことにする。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++++はやし浩司

●買い物依存症

+++++++++++++++++++++

買い物依存症の人は多い。
私も、その1人。

+++++++++++++++++++++

 が、買い物依存症の人は、それを必要とするから、
それを買うのではない。

買った瞬間、自分のものになったという快感を
味わうために、買う。
だからある程度、時間が過ぎると、また別の
ものが、ほしくなる。
(あるいは同じものでも、ほしくなる。)

 線条体に、そうした受容体ができていて、
視床下部の指令を受けて分泌されたドーパミンが、
その受容体を刺激する。

 言うなれば、条件反射。
並みの努力では、その条件反射と闘うのは、難しい。

 「アルコール中毒、ニコチン中毒と同じに考えていい」と言うと、
ワイフが、すかさず反論した。

「買い物依存症とはちがうわよ」と。

 ところが、どっこい!
人間の脳みそは、一見複雑だが、こと「反応」ということになると、単純。
線条体そのものには、知的判断力はない。
「これはアルコール用のドーパミン」「これはニコチン用のドーパミン」というふうには、
区別しない。
ドーパミンが分泌されると、その区別なく、脳は、自動的に反応してしまう。

 で、その買い物依存症。

 今日、これから近くのパソコンショップで、パソコンを買ってくる。
ねらっているのは、T社製の、「ダイナブック」。
性能はまあまあ。
値段は。9万9800円。
16インチの大型画面。

半年ほどから、ミニノートを3台使ってみたが、どうも使い勝手が悪い。
文字が打ちにくい。
文字が見づらい。
反応が遅い、などなど。

ワイフにねだったら、「しかたないわねエ〜」と。
それで買うことにした。

 ときどきこういう刺激を与えないと、脳みそがしぼんでしまう。
言うなれば、脳みそのレッスン料。

で、今は、ワクワク。
手元にあるチラシは、すでにクシャクシャになっている。

「待ってろよ、ダイ子! 今、買ってやるからな!」と。

 言い忘れたが、私はパソコンには、それぞれに、すべて女性名をつけている。
「ダイナブック」だから、「ダイ子」。
真っ白で、スベスベした肌の女の子。
体は大きいが、抱きごこちは、よさそう。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●風邪の菌

+++++++++++++++++++++++

風邪の菌にせよ、ウィルスにせよ、大人用、子ども用、
ひきかけ用、治りかけ用というのは、ない。
みな、同じ。

+++++++++++++++++++++++

ほとんどの人は誤解している。

風邪にせよ、インフルエンザにせよ、菌やウィルスには、
大人用もなければ、子ども用もない。
なり始め用もなければ、治りかけ用もない。

「子どものひいた風邪だから、おとなには移らない」と
考えるのは、誤解というより、まちがい。
むしろ子どものもっている菌やウィルスのほうが、強力と
考えてよい。

またよく誤解されるのが、「治りかけの風邪」。
先日も、ほぼ1週間ぶりに風邪が治って、教室へやってきた
女の子(小5)がいた。
ときどき、痰がのどにからむような、深い咳をする。
そこで私が、「マスクをするように!」と何度も促したのだが、
「私はもう治った」と言って、私の言うことを聞かない。

だから、私は説明してやった。

「あのね、治ったのではないよ。
君の体の抵抗力が、風邪の菌に勝っただけだよ。
菌はそのまま、君の体の中に残っている。
その菌というのはね、君が病気で寝ていたときと同じ菌だよ。
君が治ったからといっても、菌はそのまま。
感染力も、そのまま。
弱くなったということではない。
君が咳をすれば、その菌は、みなに移るんだよ」と。

 しかしその女の子は納得しなかった。
「菌が弱くなったから、私は治った」と。
そればかりを言い張った。

で、私は、本気で叱った。
ほかの子どもたちのほうを向いて、平気で咳をしていたからだ。

「マスクをしないなら、出て行け。
ほかの人に咳を吐きかけるというのは、暴力と同じだ」と。

女「暴力とはちがう!」
私「暴力だ」
女「どうして暴力なのよ!」
私「それで風邪を移されたら、その相手は、数日間苦しむことになる」
女「私の菌とはかぎらないわよ」
私「だれの菌かは、特定できない。潜伏期間というのもあるから。
しかし君から移されたのではないと、だれが証明できる!」と。

 その会話を聞いていたほかの子どもたちが、私の味方についてくれた。

「そうだ、そうだ。来週、ぼくが風邪をひいたら、お前のせいだ。
損害賠償を請求するからな」と。

 それでその女の子は黙った。
が、マスクは最後までしなかった。
咳を懸命にこらえたまま、終わりまで、勉強していた。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++++はやし浩司

●ジェット水流風呂

 このところ毎週のように、近くの温泉に足を運んでいる。
そこで、こんなことが気になった。

 大浴場の脇に、人が並んで入れるほどの小浴場がある。
その中では猛烈な勢いで、ジェット水流が噴出している。
ザーザーというよりは、ゴーゴーといった感じ。
まるで大きな滝の中に身を落としたよう。
それが背中側からと、ちょうど尻の下側からと、それと足の裏が当たるあたりの
3方から、噴出している。

 はじめてそれに当たったときには、しばらくすると激痛が走るようになった。
あとで見たら、背中の皮が赤むけていた。
つまりそれくらい、水流は強力。

 それはそれでよいのだが、こんなこともある。

 シャワートイレというのがある。
そのシャワートイレを使っていると、水流が肛門から腸のほうへ、逆流して入って
くることがある。
で、そのあと腹に力を入れると、腸を洗浄するかのように、ザーッと汚れた水が
出てくる。
(きたない話でごめん。しかしこれは重要なことだから……。)

 で、温泉で、そのジェット水流風呂につかっているときのこと。
水流は、先にも書いたように、3方から同時に噴出してくる。
で、その中でも問題なのは、尻の下から噴き上げてくる水流。
それがちょうど肛門あたりに、当たる。

 その感触が、シャワートイレと同じ(?)。
よく見ると、自分の肛門あたりを、わざとその水流に当てている人もいる!
で、それに気がついたとき、体中を戦りつが走った。
ゾーッ。

 風呂の水の汚れは、ゴーゴーと噴出する水流の泡でわからない。
しかし中には、その水流を、肛門を通して、腸の中に取り入れている人も
いるはず。
その気はなくても、水流のほうが、勝手に入ってくる。
ということは、……?????

 このあとのことは、読者のみなさんが、勝手に想像してほしい。
想像するだけでも、ゾーッ!
それにしても、汚い。
だから私は、それからは、温泉を出るときは、必ずシャワーで体を流すように
している。
つまり、あれほど、恐ろしいものはない。
みなさんも、あのジェット水流風呂なるものに入るときは、じゅうぶん、気を遣って
ほしい。

 あれは、どうも、……?
ゾーッを、20回くらい繰り返して、この話は、おしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++++はやし浩司

●新しいパソコン

 今、この文章を、新しいパソコンを使って書いている。
T社製のダイナブック、TX66、2009年の夏モデル。
純白の美しいパソコンである。
その設定に、2時間ほど、かかった。

 ウィルス対策ソフトをインストール、スパイボットをインストール、
いろいろな常用ソフトをインストールなど、など。
ほかにワードの辞書、さらにはお気に入りの引っ越しなど。
ついでに私のメインHPの更新も試してみた。
みんなサクサクと、うまくいった。

 ノートパソコンだから・・・とバカにしていたが、それはまちがいだった。
この数年で、パソコンは、またまた進化!
プラス、驚いた。
使いながら、何度も「フ〜〜ン」と感心した。

手元の仕様書によれば、「インテルCore2DuoプロセッサーP8600、
2・40GHz」とある。
悔しいが、2年前に買った、デスクトップのパソコンより、頭がよい。
ただしグラフィックボードは搭載していないので、ゲームなどはどうか?
(ゲームをすることは、めったにないが・・・。)
あとでそれも試してみる。

 で、何か気のきいた文章を打ってみたいが、まだ指のほうが、慣れていない。
どこかぎこちない。
脳みそと文章の間に、厚い壁があるような感じ。
キーボードのキーが磨滅して、テカテカになるまでに、数か月はかかる。
そのころになると、その壁が消える。
考えたことがそのまま、文章になる。

 ところで設定のとき、「どうしてこのパソコンを選びましたか」という
質問項目があった。
私は「美しかったから」と書いた。
「このパソコンで主に何をしますか」という質問項目については、「今夜は、
抱きしめて寝ます」と書いた。




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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 9日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●手の内(Revealing the Trick)

++++++++++++++++++

子どもを見れば、家庭環境がわかる。
親子関係もわかる。
ついでに、その親と、親の親(子どもから見れば、祖父母)
との関係もわかる。
その親が、どのような環境で育ったかもわかる。

私がそれを指摘すると、みな、私が超能力か何かを
使ったかのように驚く。
しかし手の内を明かせば、何でもない。

その手の内……。
手品で言えば、種明かし。

++++++++++++++++++

(1)子育てがギクシャクしている

 その親の子育てが、どこかギクシャクしている。
気負い、戸惑い、迷い、心配、不安など。
そのため話を聞いていても、どうもすっきりしない。
 そう感じたときは、その親と、親の親(=子どもの祖父母)との関係を疑ってみる。
たいてい、その親自身が、不幸にして不幸な家庭に育った人とみてよい。
しっかりとした(親像)が、脳の中にインプットされていない。

 ふつう母親は男児の子育てで、戸惑う。
父親は女児の子育てで、戸惑う。
それにも一定の幅があるが、その幅を超えて、戸惑いが大きいときは、こう考える。

 男児の子育てに大きく戸惑う母親……その母親と、母親の父親の関係が不全であった
とみる。
 女児の子育てに大きく戸惑う母親……その母親と、母親の母親の関係が不全であった
とみる。

 子どものころから、家庭騒動、育児拒否、冷淡、無視などが、背景にあったと
考えてよい。

(2)子どもの様子

 子どもの様子から、その子どもの置かれた家庭環境がわかる。
子どもに伸びやかさがない……過干渉、過関心、神経質な子育てが背景にあるとみる。
子どもが反対に粗放化している……威圧的な過干渉、権威主義的な子育て観をもった
親とみる。
その親自身も、そうした家庭環境で育ったとみてよい。
子育ては、世代連鎖しやすい。
 妙に愛想がよいとか、反対に拒否的である……愛情飢餓の状態にあるとみてよい。
家庭が家庭として機能していない。
つっぱり、いじけ、ひがみ、ぐずりなどがあれば、かなり心がゆがんでいるとみる。
やはり愛情飢餓が背景にあるとみてよい。

 ……というような話は、いわゆる(カン)のようなもので、親と話していると、
そのカンが、働く。
ビビッと働く。
そしてそれをきっかけに、子どもの置かれた環境や、家庭環境、さらにはその親の
生い立ちまで、わかる。

 しかし誤解がないように言っておきたい。

 どんな人でも、(親でも、子どもでも)、みな、問題をかかえている。
問題のない子どもはいない。
親にしても、心豊かな家庭で、何一つ不自由なく育てられた人というのは少ない。
みな、多かれ少なかれ、問題をかかえている。
そこで大切なことは、そういう問題があることが問題ではなく、そういう問題が
あることに気づかず、同じ失敗を繰り返すことが問題であると考えること。

 子どもは家族の(代表)にすぎない。
もう少し深く言えば、家族の過去の(代表)にすぎない。
あなたという親の過去、そして子どもが生まれ育っている(環境)の、その(結果)
でしかない。
まず、それに気がつくこと。
謙虚に、自分自身の姿を見ること。

 それに気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
5年、10年の時間はかかるかもしれないが、時間が解決してくれる。
まずいのは、子どもに何か問題を発見したとき、子どもの方ばかりを見ること。
子どもの方ばかり見て、「子どもを直そう」とか、「子どもを何とかしよう」と考えること。

 しかし本当の問題は、あなた自身のほうにある。
身勝手な親となると、親の過干渉で、さんざん子どもを委縮させておきながら、
「どうしてうちの子は、ハキがないのでしょう」とか言う。

 「手の内」というタイトルで書いたが、あなた自身を知るためのひとつの方法として、
このエッセーを利用してほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●子どもの世界(Catharsis Effect)

+++++++++++++++++

小学4年生から、保健体育の時間に
性教育が始まる。

それについて、A子さん(小4)が、
こう言った。
「気味が、悪かった」と。

何でも教科書の最後のところに、男と女の
裸の絵が載っているという。
かなりリアルな絵らしい。

A子「私、あれを見て、ギャーッと声を
あげちゃったア!」
私 「そんな絵くらいでびっくりしたら、
これから先、お父さんやお母さんと、
いっしょにお風呂に入れなくなるよ」
A子「でも、あの絵は、気味が悪かった……」

私 「どうして?」
A子「だってさあ、男のあれ(チxチx)が
さア、ぶらんと下に垂れさがっているのよ……」
私 「ハア〜?」
A子「あれってさア、あんなふうには、
なってないヨ」
私 「へえ〜エ?」

A子「前にまっすぐになっているよ」
私 「垂れ下がってないの?」
A子「そう、前にまっすぐになっているよ」
私 「そんなことないよ」
A子「……。パパのは、垂れ下がっているけどね」と。

A子さんには、小6の兄がいる。
風呂へは、いつも一緒に入っているという。
いろいろ頭の中で、おかしなことを想像した。

++++++++++++++++++++

●感受性訓練法

 5〜6人のクラスで、そのままにしておくと、子どもたちは勝手な会話を
し始める。
ふだんは制止するが、ときには、そのままにしておく。
それによって子どもたちの本音を知ることができる。
が、それだけではない。
言いたいことを、そのまま言わせることは、大切なこと。
それによって、よりよい人間関係を築くことができる。
たとえば心理学の世界には、「感受性訓練法」というのがある。
「ラボラトリー・トレーニング」とも呼ばれている。

 これは体験者を一室に隔離して、ありのままの感情を、さらけ出させるという方法。
それを体験者の状態に合わせて、数時間とか数日間、つづける。
やがてカタルシス効果が現れて、体験者は、大声で泣きわめいたり、怒ったりする。
不平不満をぶつけたり、ときに暴れたりする。
が、それが一巡すると、体験者は、やがて心を抑圧していた殻(から)から解放され、
感情をストレートに表現できるようになる。

 この訓練を受けると、感受性が豊かになり、他人に対して、深い思いやりが
生まれたり、相手の悲しみや苦しみが、よりよく理解できるようになるという。
が、似たような経験を、実は私は教育の場ではよくする。

 私はときどき、子どもたち(幼稚園児)に、こう言う。
「君たちは、ママのおっぱいが好きか?」と。
すると子どもたちは、最初は、はにかみながら、「嫌いだよ〜オ」などと答えたりする。

 そこで私は、語気を強めて、こう言う。
「ウソをつくな!」「好きだったら、好きと言え!」「自分にウソをつくのは
悪いことだ!」と。
まじめな顔をして、叱る。
するとやがて子どもたちは、「好きだけどオ〜」とか言うようになる。

 が、何もおっぱいの話にかぎらない。
ときに子どもたちをじらしながら、「見たかったら、見たいと言え!」と促したりする。
(この方法は、私がレッスン中によく使う。「BW公開教室」(私のHPより)
でも紹介しているので、興味のある人は見てほしい。)

 つまりこうして内にたまった(思い)を、一度、外に吐き出させる。
大声で言えるようにする。
感情を、そのまま表現させる。
言うなれば、これもカタルシス効果のひとつということか。
この方法により、一義的には、(性)に対して暗いイメージをもたせることを
防ぐことができる。
が、それ以上に、子どもの心をまっすぐにすることができる。

その結果として、子どもをして、かつ感受性豊かな子どもにすることができる。
「感受性が豊か」ということは、それだけ「他人の心に敏感に反応できること」を
いう。
 
反対に心がゆがんでくると、心(=情意)と表情が、一致しなくなってくる。
ばあいによっては、遊離し、いわゆる(何を考えているかわからない子ども)になる。

 むずかしい話はさておき、親子の間でも、夫婦の間でも、また友人との間でも、
たがいに言いたいことを言うというのは、人間関係の基本。
それなくして、良好な人間関係は育たない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 感受性訓練 感受性訓練法 ラボラトリー・トレーニング 心の
訓練 はやし浩司 カタルシス効果)

(付記)(カタルシス効果について、以前、書いた原稿です)

●母親を嫌う子ども

 A君(小2男児)は、いつも母親の悪口を言う。「ぼくのママは、すぐ怒る」「100点
でないと、すぐたたく」「鬼ババ」と。このところ、ずっと、それが気になっていた。

 それをひとり言のように、ずっと繰りかえす。

 が、私の知っているA君の母親は、おだやかで、やさしい人だ。決して、仮面をかぶっ
ているようなタイプの人ではない。

 私はA君の様子を見ながら、欲求不満がその背景にあることを知った。私にも経験があ
る。

 私は小学5年生くらいのときに、好きな女の子ができた。静かで、やさしい女の子だっ
た。しかしいくら私がモーションをかけても、私には、振り向きもしてくれなかった。で、
ある日行動に出た。

 その女の子が何かのことで、席をはずしたとき、私はその女の子の机からノートを引き
出し、ぐいぐいと、鉛筆で、落書きをしてしまった。その女の子は、いつもノートの使い
方がじょうずだと、先生にほめられていた。

 そのあとのことは、よく覚えている。その女の子は、そのノートを見ながら、シクシク
と泣いていた。

 子どもというのは、ときとして、自分の思っていることと正反対の行動に出ることがあ
る。概して言えば、それだけ短気でわがままということになる。

 で、A君の母親がA君を迎えにきたとき、私はA君をぐいともちあげて、A君の母親に
抱かせた。

 最初、A君は、「ママなんか、嫌い」「鬼ババ」「クソ野郎」と、罵声をあびせかけて、そ
れに抵抗した。が、私はA君を背中からおさえつけて、そのままにした。

 するとA君は、そのまま、大粒の涙をポロポロとこびしながら、泣き始めた。母親の涙
を見たからではなかったか。

私「A君、好きだったら、好きと言え。『ママ、大好き』と言え」
A「嫌いだよ、こんなヤツ」 
私「ウソつくな。お前は、ママが好きなんだ。どうしてウソをつく」
A「……」
私「好きだったら、そう言え。はっきり、そう言え」と。

 しばらくおかしな押し問答がつづいた。が、突然、堰(せき)を切って水が流れ出すよ
うに、A君が、大泣きをしながら、「ママ、好きだよオ」と言いだした。母親は、母親で、
「わかっているのよ」「わかっているのよ」と、A君を抱きしめた。

 何かの大きなわだかまりが、A君にあったのだろう。そのわだかまりが、A君の心をふ
さいでいた。が、こうして自分の心を、すなおに表現することによって、そのわだかまり
を取りのぞくことができる。カタルシス効果というのである。

 A君は、もうそのころになると、私が背中を押さえていなくても、そのまま母親に抱か
れていた。

A「ママ、いっしょに、お風呂に入ろうね」
母「いつも、いっしょに、入っているでしょう」と。

 A君は、いつものやさしいA君にもどっていた。もちろん私には、その(わだかまり)
が何であったかはわからない。子どもの心は、私たちが想像する以上に複雑だ。それにこ
の時期の子どもは、こうした変化を、毎日のように見せる。

 A君と母親を教室の外に見送ったあと、心の中が暖まっているのを感じた。そして私は
どういうわけか、あのノートに落書きをしてしまった女の子のことを思い出していた。

 名前を、アイミヤさんと言った。聞くところによると、G県のS市で、今でも元気に暮
らしているということだ。ごめんなさい!

++++++++++++++++

自己開示(2)

 自分をさらけ出すことを、自己開示という。そしてそれが極限にまで達したのを、「カタ
ルシス(除反応)」※という。心を最大限、開放させることにより、心理的、精神的負担を
軽減させることをいう。

 他人との信頼関係をうまく結べない人は、まず自己開示をしてみるとよい、あなたが妻
であれば、夫や子どもに対して。あなたが夫であれば、妻や子どもに対して。家族には、
そういう機能がある……というより、これは家族の重要な機能の一つと考えてよい。

 方法としては、自分の過去を、あらいざらい、すべて告白するというのがある。悲しか
った思い出、つらかった思い出、恥ずかしかった思い出など。心の中に秘めている思い出
を、すべて吐き出してみる。

 これはたいへん勇気のいることだが、しかし自己開示することによって、あなたは自分
の心を開放することができる。が、それだけではない。自己開示することによって、(1)
相手もあなたに自己開示する。(2)あなたもそれまで気づかなかった自分に気づくことが
できるようになる。

 私はときどき、中学生に、こんな作文を書かせる。

【つぎの文につなげて、作文を書いてください。】

● 私にとって、今まで、一番楽しかったことは、
● 私にとって、今まで、一番悲しかったことは、
● 私にとって、今まで、一番うれしかったことは、
● 私にとって、今まで、一番つらかったことは、
● 私には、人に話せないような思い出が、

ほかにもいろいろあるが、子どもが書く内容は、それほど重要ではない。(また、内容につ
いては、一切、不問にすること。)その子どもがどこまで、具体的に自己開示するかで、た
がいの信頼関係の深さを知ることできる。

つぎに、子ども自身が、仮面をかぶっているかどうか、どこまで自分と向き合っているか
どうか、心の問題をもっているかどうかなどを、知ることができる。「のぞく」という言葉
は、あまり好きではないが、しかし、この方法で、子どもの心の中を、のぞくことができ
る。家庭では、たとえば、子どもに向かって、「あなたにとって、今まで、一番うれしかっ
たことは、どんなこと?」というように聞いてみるとよい。

……と、書いたが、あなた自身はどうかということを、自問してみてほしい。

 あなたが妻なら、夫に話せない話もあるはず。結婚前の男性関係とか、身体的なコンプ
レックスとか、など。子どものころの家庭環境も、それに含まれるかもしれない。もしそ
ういうのがあれば、思い切って、夫に話してみる。

 あなたはそれで、人間関係が壊れると思っているかもしれないが、多少の混乱を経て、
あなたと夫の心の絆(きずな)は、それで太くなるはず。とくに、他人との人間関係がう
まく結べない人、他人と接すると、すぐ神経疲労を起こす人などは、まず、身近な人に対
して自己開示してみるとよい。つまりこうして、自分の心を作り変えていく。

 もっとも注意しなければならないのは、他人への自己開示である。信頼基盤そのものが
ない人に、自己開示するのは、危険なことでもある。そういうときは、相手をより深く理
解するという方法に切りかえる。たとえば……。

 日ごろ、相手が、言いたいと思っていること、知りたいと思っていることを、相手の立
場になって聞く。「この前、あなたはこう言ったけど、その意味がよくわからないから、も
う一度、話してくれない」「あなたの言うことはよくわかるけど、もし私だったら、どうす
るか、いろいろ考えてみたわ」とか。相手をより深く理解しようとしよう姿勢を見せるこ
とで、同時に、自分もまた相手に対して、自己開示することができる。

 前にも書いたが、自己開示をすることは、違いの信頼関係を築く、基盤となる。たがい
にわけのわからない状態で、信頼関係を結ぶことはできない。さあ、あなたも勇気を出し
て、自己開示してみよう。心を解き放ってみよう!
(030707)

※ ……自己開示することで、心理的、精神的負担を軽減することができる。ばあいによっ
ては、症状が焼失することもあるという。これをカタルシス効果という。自己開示には、
そういう作用もある。

++++++++++++++++++

【追記】
 
 四人の子どもに、ためしに作文を書いてもらった。

● Kさん(中二女子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、この前あった、学校の野外活動です。ナ
イトウォークや、カレーづくり。一日中、ずっと友だちと過ごしているということが、な
かなかないので、とても楽しかったです。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、(無回答)。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、野外活動の先生が、私たちをたいへん
ほめてくれたことです。ふだん「今の二年生は悪い」と言うだけの、いやな先生たちばか
りなので、先生たちを見返してやった気分でした。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、もうずいぶん前になるけど、かっていた
犬が死んでしまったことです。

● U君(中三男子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、友だちといっしょにいることが楽しいで
す。人と笑うのが楽しいです。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、とくにありません。あっても忘れてしま
います。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、三年目にして、部活の県大会で優勝し
たことです。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、勉強。部活の練習も楽じゃないです。二
つともとてもつらいですが、楽しいです。

● R君(中三男子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、友だちと遊んでいたとき。友だちといっ
しょにいたとき。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、おじいちゃんが死んだとき。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、(無回答)。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、勉強しているとき。部活。

● D君(小六男子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、サッカーです。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、(無回答)。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、サッカーでキャプテンになれたことで
す。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、サッカーで、何周もグランドを走ったこ
とです。

 子どものばあい、身近な経験から、楽しかったことや、悲しかったことをさがしだそう
とする。つまり自分自身を、客観的に見る目が、まだじゅうぶん育っていない。しかし年
齢が大きくなると、より自分を高い視点から、判断できるようになる。そして自分自身を
より深く、見ることができるようになる。「私を知る」というのは、そういう意味で、一見
簡単そうで、むずかしい。

(はやし浩司 カタルシス カタルシス効果 自己開示 除反応)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●掲示板への相談より

+++++++++++++++++++++

京都にお住まいのUNKNOWN様より
こんな相談をもらいました。

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【UNKNOWN様より、はやし浩司へ】

高校2年の娘です。一人っ子。中学2年の時 離婚。中高一貫高のため 高校入試の苦労
はありませんでした。

今年の1月からお昼は家に帰れる近所のパートから、通勤で1時間かかる会社に正社員と
なりましが、その頃から学校を休みがちとなり、過食嘔吐を繰り返し、5月の連休には、
リストカットもし、家に帰らない事もありました。娘は学校をやめるつもりで定期試験は
白紙解答。出席日数もほとんどなく2年の1学期の成績は、ついていません。

それまで子供について ほとんど苦労をせずに来たので、やっと反抗期が来た!と思うよ
ういたいのですが、平日学校を休んでも家に居ることもなく、家のお金を持ち出し、化粧
をして出かける。

ここだけは通っていると思っていた 近所の学習塾や歯医者さんへも行っていないと 先
生から連絡がある始末です(私には行っていると言っていたので信じていました)。
リストカット・過食嘔吐が激しくなり、メンタルクリニックに通っていますが、先生に薬
の事で聞きたいことがあり、一緒に行くと行ったら その日、本人は来ませんでした。(も
う脳の萎縮が始まっています)。

メンタルの先生から私が家に居るのが良いと言われましたが、仕事を辞めたら生活が成り
立ちません。しかし 家でひとり何をしているのかわからず、不安になります。娘は私に
居て欲しくないと言い、休日は娘は朝から出掛け、夜まで帰りません。今日は4時には帰
ると言って出ましたが、先ほど夕ご飯は外で、とメールが着ました。これでも少し前まで
は連絡もなかったので良い方向と思いますが、どこに居るのか 帰りの時間は連絡してき
ません。

はやし先生のHPから、この半年 私は全く逆の事ばかりしてきました。無くなったお金
の事を問い詰め、将来を不安を口にし、自ら死を口にし、お父さんの所に行くようにも言
いました(元夫は再婚しています)。

娘はよく頑張ったと思います。

2学期からは学校に行くと言っています。

私が落着いて居られる時は 関係も穏やかなのですが、お金がなくなったり、娘が嘔吐を
隠したりすると、ダメです。わざと傷つけるような事ばかり言い、最近では手も出たりし
てしまいます。この前は娘の前で自分の首も締めました。最悪な母です。

来週のお盆の時 娘と実家に帰省する予定でしたが、娘は行きたくない。父親の所に行く
と言っていましたが、父親はまだ奥さんに話していない様子で そんな所に行かせて良い
のか・・・。

両親からは、一緒に居ない方がお互いのためのようだから、父親に渡して、今年中には帰
ることも考えるように言われています。

暖かい無視と 許して忘れる。
1年後 2年後 を見据えて。
頭ではわかっていますが、ギリギリの生活、このまま京都で生活して行く自信もありませ
ん。

だらだらと長くなってしまいました。
娘からはまだ連絡はありません(まだ6時なので何度もメールするのも・・・電話も出な
い。)
どうしてよいのか わかりません。

【はやし浩司より、UNKNOWN様へ】

 先ほどまで、電話を待っていましたが、電話がありませでしたので、自分の考えを
書いてみたいと思います。

 あなたはがんばりすぎている……。
それが私の第一印象です。
よくここまでひとりで、がんばってこられましたね。
あなたはあなたで、最善のことをしましたよ。
今も、懸命に、がんばっています。
だからここは肩の力を抜いて、気を楽にしてください。
あなたの娘さんは、もう子どもではありません。
すでに、つまりとっくの昔に、あなたの手を離れています。
あなたが親としてできることは、ほとんどないということです。
高校2年生という年齢は、そういう年齢です。

 娘さんの言葉に、もう少し耳を傾けてあげましょう。
娘さんが、「居て欲しくない」と言うなら、それをよいほうに解釈してあげましょう。
親として、自分の子どもが巣立っていくのを知るのは、さみしくも、つらいときです。
しかしそれも巣立ち。
みながみな、よい形で巣立っていくとはかぎりません。

 あなたは自分が感じている(さみしさ)を、別の形に、自分で勝手に変えているだけ
ですよ。
「娘さんに問題がある」というような書き方で、自分をごまかしているだけですよ。
娘さんのことを心配しているようで、実は、あなたはその(さみしさ)に耐えられない
でいるだけ。

 あのね、みんなさみしいのです。
孤独なのです。
しかしあなたの娘さんは、もっとさみしがっているのですよ。
心の拠り所さえ、ないのですから。
自分の心や体を休める場所(家庭)もない……。

 今のあなたにとっていちばん大切なことは、娘さんに、心の拠り所を用意してあげる
ことです。
娘さんが、安心して心を体を休める場所を、提供してあげることです。

 進学?
塾?
……もう、そんなものは、さっさと、あきらめなさい!
大切なことは、娘さんの(友)として、娘さんの横に立つことです。
娘さんの悲しみや苦しみや、さみしさを、あなたが共有してあげることです。
「あなたもさみしかったのね」「ごめんね」と、です。

 が、すぐには娘さんは、心を溶かさないかもしれません。
つっぱったまま、これから先、5年、10年と過ぎていくかもしれません。
しかし見返りを求めない。
捨て身で対処します。
捨て身ですよ!

 娘さんが、どんなにあなたを裏切っても、あなたはそれを受け入れます。
それを「無私の愛」といいます。

 あなたもその無私の愛を感じてみてください。
そこは実におおらかで、すばらしい世界ですよ。
また「許して忘れる」は、口で言うほど、簡単なことではありません。
苦しく、つらいものです。
少しぐらい「許して忘れて」、それで効果がなかったなどと、思ってはいけません。
どこまでも、どこまでも、「許して忘れます」。
それだけを繰り返します。

 で、あなたはあなたで、あなたの生きる道をさがします。
あと10年もすれば、老後ですよ!
わかりますか?
時間がありません。
目を娘さんから離して、あなたはあなたで前を見るのです。

 心配先行、不安先行、過関心、過干渉……。
娘さんにとっては、窮屈な家庭だったと思いますよ。
その上、離婚騒動に巻き込まれ、私もあなたの娘さんなら、「バカヤロー」と
叫んで、家を出ていくでしょうね。
しかしそれをする娘さんだって、つらいのです。

 今夜帰ってくるかもしれないし、帰ってこないかもしれません。
が、あなたができることは、暖かい夜食を用意し、寝床を用意することです。
そして帰ってきても、何も言わない……。
「暖かい無視」というのは、そういうことを言います。

 いいですか、あなたの娘さんは、もう(おとな)ですよ。
あるいはあなたが高校2年生のときのことを思い出してみてください。
それが今の、娘さんなのです。
あなたの思うようにならないからといって、また取り越し苦労を重ねたところで、
問題は何も解決しないでしょう。
さらに二番底、三番底へと、娘さんは、落ちていくだけです。

 たしかにあなたがしたことは、おとなげないというか、けっしてほめられるべき
ことではありません。
しかしあなたの娘さんなら、許してくれますよ。
だから娘さんを信じて、今日、この瞬間から、あなたは肩の力を抜いて、娘さんの
「友」になります。
娘さんのほうは、すぐには友として認めてくれないかもしれませんが、あきらめては
いけません。
こうした問題には、時間が必要です。
1年や2年は覚悟してください。

 あとは娘さんの人生ですから、あなたはあなたで、幸福を追求すればよいのです。
生きがいを見つけ、仕事を懸命にします。
今できることを、懸命にすればよいのです。
そういう意味で、あなたは本当に、よくがんばっています。
めげないで、がんばっています。
すばらしい人です。

 あのね、あのスティーブンソンは、こう書いています。
「宝島」を書いた、スティーブンソンです。
『我らが目的は成功することではない。失敗にめげず前に進むことである』とです。
今のあなたに、さしあげたい言葉です。

 いいですか、こんなことでめげてはいけませんよ。
何でもない問題ですから。
どこに家にでもある問題です。
自分の娘さんだけを見て、「どうしてうちの子だけが……」とは、思わないこと。
こうして娘さんは、あるいは子どもたちは、親離れをし、自立していきます。
おとなになっていきます。
ひょっとしたら、すでにあなたの娘さんは、あなたより、ずっとおとなかもしれません。
それを信じてあげなさい。

 そう、あなたは目が見える。
音が聞こえる。
歩くことができる。
話を聞くことができる。
……あなたは生きている。
娘さんも生きている。
そこを原点として考えてください。

ね、すばらしいことでしょ!

 要するにあなたが今、娘さんとの間で経験しているのは、家庭のドタバタです。
何でもない問題です。
が、あなたにはそれがわからない。
ささいなことを針小棒大に考えて、ひとりで大騒ぎしている……。
言うなれば、ひとり芝居。
そんな感じです。

 どなたか、相談できる人は、近くにいませんか?
話を聞いてくれる人がいるとよいですね。
その人も、同じことを言いますよ。

 だから、ここは、「許して忘れる」。
暖かい無視を大切に、あなたはあなたで、好き勝手なことをすればよいのです。
娘さんのことは、もう、構わないで……。
だいじょうぶですよ。
あなたの娘さんは、あなたが考えているより、はるかにおとなです。

 コツは、(今の状態)をこれ以上悪くしないことだけを考えて、対処すること。
あなたが騒げば騒ぐほど、逆効果ですから、注意してくださいね。

 電話で直接話したかったのですが、電話がありませんでしたので、メールで失礼
します。
なおたいへん申し訳ありませんが、電話での相談は、お断りしています。
電話番号は、忘れてください。
(気まぐれですみません。)

 今夜はこれで失礼します。
もしよかったら、私のHPの原稿を、片っ端から読んでみてください。
きっと気が楽になりますよ。

 では、おやすみなさい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●パソコンとの知恵比べ(8月9日)

++++++++++++++++++

今朝は、パソコンのキーボードを叩く指が、
どうも、重い。

思考力が低下している?

そこで昨日あったことを、ここに書いてみる。
私の考えていることがうまくみなさんに伝われば、
それでよし。

そのために書いてみる。
パソコンにあまり興味のない人でもわかるように
書いてみたい。
言うなれば、今朝の指慣らし……。

++++++++++++++++++

●私のホームページ(HP)

 最近、新しい無料ソフトに出会った。
写真を選ぶだけで、勝手に動画に編集してくれる。
興味のある人は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
を見てほしい。
1人の絵描きが、手を動かして絵を描いているのが、それ。
(2009年8月現在。)

 で、それを昨日、UPLOADしたら、HP全体が、破壊されてしまった!
表は崩れる、絵はあちこちのが、入れ替わる、など。

●原因

 おおまかな原因は、すぐわかった。(わかっていた。)

 現在、私は、ビスタ・パソコン上で、S社のHP編集ソフトを使っている。
しかしこのソフトは、XP用。
ビスタには対応していない。
そこでいつも、そのソフトをだましだまし、ビスタ・パソコン上で、使っている。
言うなれば、反抗期の娘のようなもの。
そのため、扱いにくい。
 とくに50MBを超えるような大きなHPになると、不都合な混乱が多発する。

 そこで私が考えた方法は、こうだ。

(一度、ビスタ・パソコン上でHPを編集する)→(それをUSBメモリーにコピー、
保存する)→(XPパソコン内に貼り付ける)→(XPパソコン上で開いて、転送する)、
と。

 どうしてこんなめんどうな方法をとるかについては、もうひとつ理由がある。

 ビスタ・パソコンは1年半前に購入したものが、当時の最先端パソコン。
XPパソコンは、それよりもさらに2年前に購入したもの。
XPパソコン上で、50MBを超えるHPを編集していると、ときどきメモリー不足が
起き、そのままパソコンがフリーズしてしまう。
それにSAVEをかけると、何と、ファイルを保存するだけで、5〜6時間もかかって
しまう。

 そこで先の方法を、先日、試してみた。
で、1回目は、うまくいった。
自信をもった。

●昨日の失敗

 昨日も、同じような方法を試してみた。
まずビスタ・パソコン上で、HPを編集した。
一度ビスタ・パソコン上でSAVEをかけたあと、それをUSBメモリーのコピー。
そのUSBメモリーを、XPパソコンに挿して、それをXPパソコン内のファイルに
上書きコピー。

 つぎにXPパソコン上で、S社の編集ソフトを使って、コピーしたHPを開き、
そのままHTML転送。
HPが、ガタガタになったのは、その直後のことだった。

 理屈で考えれば、何も問題はないはず。
……ということで、悪戦苦闘すること、約2時間!
約2時間もかかったのは、それぞれのステップで、時間がかかったため。
USBメモリーにコピーしたり、パソコン内部にコピーしたりするのに、結構、時間が
かかる。

 数度試してみたが、結果は同じ。
ガタガタというよりは、メチャメチャ。
「もしや……」と思って、スパイボット・サーチで、パソコンを検査。
「ウィルスか、スパイウエアが侵入して、悪さをしているかもしれない」と考えた。
しかしそれはなかった。

 で、そのとき、メチャメチャになったHPのページを見ていて、ふと気がついた。
XPパソコンのほうに、本来残っているはずのない、前回、転送したファイルの一部が
残っているではないか!
今回、ファイルを上書きしたのだから、理屈で考えれば、残っていないはず。
それが残っているということは、上書きが正しくなされなかったこと意味する。

●わかりやすく言うと……

 わかりやすく言うと、こうだ。
 XPパソコン内部に、(ABCDE)というファイルが、もとからあったとする。
そこへビスタ・パソコンから、コピーしてきた、(FGHIJ)という
ファイルを上書きしたとする。

 上書きしたのだから、(ABCDE)は消えて、(FGHIJ)となるはず。
理屈では、そうなる。
しかしどういうわけか、XPパソコンのほうでは、それを(AB+FGHIJ)
としてしまう。
それが原因だった。

 そこで私は、一度、XPパソコン内のファイルを、削除した。
カラにした。
その上で改めて、ビスタ・パソコンからコピーしてきたファイルを張りつけた。
そしてそのファイルを開いて、HTML転送をかけた。

 今度はうまくいった!
……ということで、そのあとのHPは健康そのもの。

 それを確認したあと、フ〜〜と長い溜息がもれた。
軽い満足感と清涼感。
これがあるから、パソコンは楽しい。
やめられない。

 そこで教訓。
……というより、手順を忘れないようにするため、方法をここにメモしておく。
(これは私のため。)

(1)ビスタ・パソコン上で、HPを開き、編集する。
(2)ビスタ・パソコン上では転送しないで、そのまま保存をかける。
(3)保存が終わったら、ファイルをUSBメモリーにコピーする。
(4)XPパソコン内部にあるファイルを、前もって削除しておく。
(5)USBメモリーをXPパソコンに挿して、XP内部に、ファイルをコピー。
(6)XPパソコン上で、HPを立ち上げて、そのまま転送。
(7)XPパソコンを強制終了(Ctrl+Alt+Deleteキーを使う。)

+++++++++++++++

 以上の文章を読んで、「何がなんだか、さっぱりわからない」という人がいても、
それはあなたの責任ではない。
私の責任。
私が書いた文章が、へたなのだ。
どうも今朝の私は、頭が重い。
調子が悪い。
これもボケの始まりか?


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●がん予防(Cancer) 

++++++++++++++++++

昨年、大学の同窓生が、がんで死んだ。
晩年は、年に1、2度、街で会う程度だったので、
そのときは、それほどショックは強くなかった。
が、月がたつごとに、じわじわと彼の死がより強く
気になるようになった。

その友人。
穏やかな性格の男で、街中の人から親しまれていた。
葬儀には、その町内の人たち全員が集まったかと
思われるほど、たくさんの人たちが来ていた。

++++++++++++++++++

●T細胞と免疫力、そしてNK細胞

 人間の体の中では、いつも壮絶な戦いが繰り返されているようだ。
そのひとつが、がん細胞との戦い。

 毎日、人間の体の中では、数千個のがん細胞が新たに生まれているという。
紫外線や放射線でダメージを受ける細胞となると、もっと多い。
そういう細胞を見つけて、攻撃するのが、T細胞やNK細胞という名前の細胞。
「ナチュラル・キラー細胞」の頭文字をとって、「NK細胞」という。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『……B細胞もT細胞も特異的なターゲット抗原を認識する受容体分子をもっている。T
細胞は抗原(病原体の小さな断片)が加工されて自己の受容体である主要組織適合遺伝子
複合体分子と組み合わさって提示されて初めて病原体のような非自己のターゲットを認識
する。T細胞のサブタイプには主要な2つのタイプがある。キラーT細胞とヘルパーT細
胞である。キラーT細胞はクラスIIMHC分子と結合した抗原のみを認識し、ヘルパー
T細胞はクラスIIMHC分子と結合した抗原のみを認識する。抗原提示におけるこの2
つの機構はT細胞2タイプの機能の違いに原因がある。3番目のマイナーなサブタイプの
T細胞としてγδT細胞があり、MHC受容体に結合しない、非加工の抗原を認識する。
対照的にB細胞の抗原特異的受容体はB細胞表面上の抗体分子であり、抗原加工を全く必
要とせず、病原体全体を認識する。B細胞の増殖系はそれぞれ異なった抗体を発現し、B
細胞の抗原受容体の完全な1セットは生体が生成可能な全ての抗体を表すものである…
…』(以上、「ウィキペディア百科事典」より抜粋)。

 何とも頼もしい細胞ではないか!
私が知らないところで、勝手にがん細胞どもと、戦っている。
ウィキペディア百科事典の難解な文字をながめているだけで、ワクワクしてくる。
となると、その親分である「私」が、そうした細胞の活動を助けない手はない。
では、どうすればよいのか。

 いろいろな実験によれば、(すでにこの説は常識化しているので、あえてここで説明
する必要はないと思うが)、要するに、免疫力を高めればよいということになる。
「笑えば免疫力が高まる」(カリフォルニア大学)という説や、「ストレスにさらされると、
NK細胞の機能が低下する」(ニューヨーク州立大学)という説などがある。

 平たく言えば、日々に満足して、楽しく暮らせばよいということ。
そう言えば、現在十二指腸がんと闘っているS君(61歳)も、先日、電話でこう教えて
くれた。

「林君(=私)、がんになった連中の話を聞くとね、みな、何か大きなストレスがあった
あとになっているんだよな。
ストレスはいけないよ」と。
見舞いの電話をかけたつもりだったが、かえってあれこれと教えられた。
が、S君の言ったことは、道理にかなっている。
言い換えると、がんという病期も、生活習慣病のひとつと考えてよいということになる。

●がんを予防する

 がん患者には、次のような特徴が見られるという(渋谷昌三著「心理学用語」)。

(1)対人関係に傷つきやすく、孤独に逃げ込みやすい。
(2)悲しみや不安などの不快感情を無理やり抑え込もうとして、不平不満を言わず、周
囲に合わせようとする。
(3)慢性的に抑うつ的で、幸福感が低く、社会的に孤立しがち。
(以上、心理学者のリディア・テモショックの説)

 このタイプの人を、がん(Cancer)の頭文字をとって、「Cタイプ人間」と呼ぶのだそう
だ。
もちろんがんになった人がみな、こうした性格の人というわけではない。
しかしいろいろと思い当る点は、多い。

 で、テモショックの説を逆に利用させてもらうと、こうなる。
がん予防のための3か条ということになる。

(1)対人的には、のんびりと生きる。
(2)言いたいことをして、やりたいことをする。
(3)毎日を楽しく、明るく過ごす。

 これに先の、カルフォルニア大学やニューヨーク州立大学での研究を重ね合わせると
こうなる。

(4)おおいに笑いながら生きる。
(5)ストレスをためない、と。

 ふつう病気と闘うためには、3つの方法がある。
ひとつは、病気そのものと闘うという方法。
言うなれば西洋医学的方法ということになる。

もうひとつは、病気になっても、病気に負けない抵抗力を増強するという方法。
言うなれば東洋医学的方法ということになる。

が、何よりも大切なのは、病気になる前から、病気にならないよう、自分の
なまけた気持ちと闘うという方法。
言うなれば心理学的方法ということになる。

 今の私は、まだその時期にいるということになる。
つまり心理学的方法で戦っている時期ということになる。
そこで改めて、ここに書いた5か条を、復唱しておく。

(1)対人的には、のんびりと生きる。
(2)言いたいことをして、やりたいことをする。
(3)毎日を楽しく、明るく過ごす。
(4)おおいに笑いながら生きる。
(5)ストレスをためない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW がん がん予防 NK細胞 T細胞 免疫力 はやし
浩司 健康論 ガン ガン予防)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●今日は日曜日(8月9日)

++++++++++++++++

ワイフが、このところ睡眠不足気味。
それで昼過ぎ、2人で昼寝。
そのとき、こんな夢を見た。

++++++++++++++++

●昼寝(夢判断)

 ちょうど目を覚ます前。
あるいはその夢で、目が覚めた(?)。
こんな夢を見た。

 私が何かのカタログを読みながら、道路を歩いていた。
そのとき、若い男女の乗った車に、体が当たった。
私は車に両手をついた。
そのとき車から、若い女が出てきて、こう叫んだ。

 「どこを見て歩いているのよ!
車にキズがつくでしょ!」と。
私があやまっていると、男も車から出てきた。
そして私が手を当てたところを、ていねいに調べ始めた。
私は、「手が当たっただけですから……」と謝った。
イヤーナ気分だった。

 そのとき心臓の鼓動が高くなり、私は目を覚ました。
同時に、私は、それが夢だったと知った。

 「しまった!」と思った。
ぐいと目を閉じて、もう一度、同じ夢を見ようとした。
「夢なら、あいつらの車に、レンガでもぶつけてやる!」と。
しかしそのまま、本当に目が覚めてしまった。

 横にワイフがいた。
「先ほど、サイレンが鳴ったわ」
「そうだ、今日は、長崎原爆の日だ」と。

 そのあと私は、私が見た夢の話をした。

私「もう一度、夢の中に戻って、あの車にレンガをぶつけてやりたい」
ワ「おもしろい人ね。自分で勝手に夢を見て、自分に怒っているんだから……」
私「でも、このままでは腹の虫が治まらない」と。

 しかしこういう現象を、どう理解したらよいのか。

 夢の中に出てきた若い男女は、今から10年ほど前に、出会った男女ではないかと思う。
そのとき私は自転車で、コンビニの前を横切ろうとしていた。
そこへ車がつっこんできた。
私の目の前で急ブレーキをかけた。
すんでのところで、私は車にはねられるところだった。
見ると、若い男女が乗っていた。
男が私を見て、「バーカ」と言っているのが、口の動きでわかった。
女の方は、視線をはずして、ニヤニヤと笑っていた。

 そのときの記憶が、どこかに残っていて、それが夢の中に出てきた(?)。

 では、(車のキズ)の話は、どうなのか?
それにはこんな思い出がある。

 これはもう30年ほど前のことだが、自転車で走っているとき、大型の乗用車に
追突してしまったことがある。
前輪でぶつかったから、車にはキズはつかなかった。
が、運転席のドアが開き、スーツを着た男が、ゆっくりと出てきた。
そして私の前に来ると、ゆっくりと車のバンパーを調べ始めた。
私は何度も、「すみませんでした」を繰り返した。
男は自転車のタイヤの跡を手の平でこすると、ニヤリと笑った。
笑ったまま、何も言わず、再び、車の中へと消えていった。

 こうした記憶が、今日の夢の中で合体して出てきた(?)。
となると、私の感じた(怒り)は、どう理解したらよいのか。
私は本気で、「レンガをぶつけてやる」と思った。
が、それは「抑圧」という言葉で、説明できる。

 コンビニの前で、あやうく車にはねられそうになったときも、また自転車で
車に追突したときも、私は、自分を押し殺した。
そうした思いが、心の別室の中に、(怒り)となって、蓄積された。

私「夢の中に出てきた男と女は、顔は覚えていないけど、あのときの男と女だよ」
ワ「それが何年も、記憶の中に残っていたというわけ?」
私「そう、心の別室に入った記憶には、時間が働かないからね」
ワ「抑圧って、こわいわね」
私「そうだよ。子どもでも、10年前、20年前の話を持ち出して、親を責めることが
あるだろ。
心の別室に入っているため、そのあと楽しい思い出をいくら作っても、上書きされる
ということがない。
つまりいつまでも、生々しい記憶として残るわけ……」と。

 フロイト流の夢判断を、自分に試してみると、そうなる。
しかし、それにしても、もう一度、夢の中に戻ってみたい。
戻って、あいつらの車をメチャメチャにしてやりたい。

 ……というふうに、(現実の世界)と(夢の世界)の区別がつかなくなったら、かなり
あぶない(?)ということになる。
認知症になると、(現実の世界)と(夢の世界)が、混濁するようになる。
私の母も、亡くなる前は、よくこんな話をした。
「今、在所(=母の実家)の、○○さんが、私を迎えに来た」と。

 そういうときヘルパーさんは、こう言った。
「お母さんは、夢でもご覧になったのよ」と。

 夢は夢と、さっと切り替えができなくなったら、おしまい。
だから、この話は、ここまで。
それにしても、不愉快な夢だった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 夢判断 抑圧 はやし浩司 記憶と夢 夢と記憶)


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●8月6日(The Day of A-Bomb in Hiroshima)

+++++++++++++++

2009年8月6日。

今日は原爆記念日。
朝、8時15分に、サイレンが鳴った。
「ああ、そうだった」と思って、一瞬、息を止めた。

先日、豊田町の(ゆや会館)で、原爆資料展を開いていた。
そのとき見た、痛々しい写真が、脳裏を何度もかすめた。

++++++++++++++++++

●もし……

 ナチスドイツによる、ユダヤ人大量虐殺を知って、多くの日本人は、こう思う。
「私たち日本人は、ああいう残酷なことはしない」と。
あるいはアメリカ軍による原爆投下を知って、多くの日本人は、こう思う。
「日本人は、ああいう爆弾は使わない」と。

 しかし本当に、そうか?
自信をもって、あなたは、そう言い切ることができるか。

 もしこの日本に、100万人単位のアジア系流民たちが住むようになり、
日本の経済を牛耳るようになったとしたら……。
日本の文化に同化せず、彼らの宗教を信じ、彼らの言葉を話したとしたら……。
そしてあなたの隣に住み、あなたの家より立派な家に住むようになったとしたら……。

 100万人なら、まだよい。
それが200万人となり、300万人となったとしたら……。
それでもあなたは、「私たち日本人は、ああいう残酷なことはしない」と、
自信をもって言い切れるだろうか。

 原爆についてもしかり。
敗戦直前、日本軍も原爆の開発をもくろんでいた。
ドイツへ研究者も派遣していた。
もしあのとき日本軍が原爆をもっていたとしたら、日本軍は容赦なく、それを使って
アメリカ軍を攻撃していただろう。

●日本の現実

 こうした残虐な行為を止めるゆいいつの方法があるとすれば、私たち1人ひとりが、
高い文化性をもつことでしかない。
高い人間性でもよい。
ふつう程度の文化性や、人間性では、足りない。
現に、シラーやゲーテ、ベートーベンを生んだドイツですら、それを食い止めることは
できなかった。
ジェファーソンやワシントン、リンカーンを生んだアメリカですら、それを食い止める
ことはできなかった。

 日本に、こうした世界に誇ることができるような賢人がいるか?
今までに、いたか?
残念ながら、答えは、NO。
まず、この現実に、目を向けなければならない。
つらいことだが、まず、それを認めなければならない。

●一億、総ギャグ化

 が、現実は、逆。
日本人は、ますます逆の方向に進みつつある。
その一つの例として、あのお笑いタレントをあげたい。
どこかの県の知事になった、あのお笑いタレントである。
(こう書くと、不愉快に思う人が多いことは、認める。
先日も、それについて書いたら、私のBLOGに、「お前は、何様のつもりか?」と
書き込んできた人がいた。)

何もお笑いタレントが、政治家になってはいけないと言っているのではない。
また、その政治家が悪いと言っているのではない。
彼とて、有権者に選ばれたから、知事になった。

あの県では、長い間、プロの政治家(?)による汚職事件が、相次いだ。
そういういきさつは、ある。
が、それでも、つまり全体として見たとき、日本人は今、一億が、総ギャク化している
としか、私には思えない。
あろうことか、当の県知事は、「総裁候補にしてくれるなら、衆議院議員に鞍替えしても
いい」というようなことまで言った。

こうした動きを見ていると、日本人が本来もっていた、あの(まじめさ)そのものが、
どこかへ消えてしまったとしか思えない。
その流れの中で、お笑いタレントが、府知事になったり、県知事になったりする。
そういう現実を、だれも、おかしいと思わない。
私は、それが「おかしい」と言っている。

 誤解があってはいけないので、再度、確認しておきたい。

 人生哲学を語りながら、その中に(ジョーク)があるなら、それはそれでよい。
しかし今の日本には、(ジョーク)ばかりで、人生哲学がない。
きちんとした政治論をもっている人が、たまにジョークを口にするのはよい。
(笑い)も、その中から、生まれる。

 たとえば県知事になるにしても、それだけの実績があるならよい。
民衆とともに歩きながら、少しずつ積み重ねあげてきたという実績である。
が、その実績がない。
ないまま、ある日突然、知名度だけを武器に、中央からやってきて知事になる。

この日本では、まじめに生きようとすればするほど、バカらしさを覚える。
社会そのものが、そういうしくみになってしまった。
その一例として、お笑いタレントをあげた。
私は、それが問題だと言っている。

●悪人の餌

 話は変わるが、たまたま数日前、1人の女優が覚せい剤所持と使用で、逮捕された。
先に、夫が逮捕され、その夫が、妻(=その女優)も使用していたことを認めた。

 その女優は、ある公的機関の、「覚せい剤撲滅運動」のポスターにも顔を出している。

 これはほんの一例だが、こうした矛盾は、いたるところにある。
たとえば難民救済運動。
どこかの有名タレントが、ある日を境に、突然、慈善運動家に変身したりする。
それ以前に、たとえば、若いときからボランティア活動をつづけてきたとか、
ホームレスの人たちに炊き出しをしてきたとか、そういう実績があれば、話もわかる。
そういう実績もないまま、「ある日を境に、突然」である。

 しかも将棋で言えば、いきなり「王手!」。
その運動のトップとして、君臨する。
雑誌やテレビを通して、さも私は善人でございますといった、様子をしてみせる。

 私は、それがおかしいという。
おかしいだけならまだしも、本当に困っている人に対して、失礼。
許しがたい冒涜と断言してもよい。
そういう知名人たちは、一見助けるフリをしながら、困っている人たちを、
その実、食い物にしている。

 どこかの県の知事になったお笑いタレントにしても、その疑いがないとは言わない。
(もちろん、そうであると、断言しているわけでもないが……。)
が、ふつうの常識のある人なら、自分に恥じて、つまりおこがましくて、そういうことは
できない。

 要するに、私は、「仮面」には注意したほうがよいと言っている。
悪をなすことは、悪いことだが、悪人を助けることは、もっと悪い。
昔、恩師の故松下哲子先生は、いつも、私にこう言っていた。
『悪人の餌にだけは、なってはいけませんよ』と。
 
●高い文化性

 高い文化性にせよ、人間性にせよ、それを養うには、(思考)しかない。
思考こそが、人間が人間である、ゆいいつの証(あかし)ということになる。
また思考によって、人間は人間であることを保つことができる。

 数日前もワイフとこんな会話をした。

 「もし裸の若い女性が部屋の中に入ってきて、こう言ったとする。
『抱いて!』と。
すてきな女性だ。
あたりにはだれもいない。
そのとき、それを断るというのは、ふつうの男なら、かなり勇気のいることだ」と。

 あるいは道で、大金の入った財布を拾ったときでもよい。
賄賂(わいろ)を、テーブルの前に、ドカッと積まれたときでもよい。
そういうとき、それを断る勇気が、あなたにはあるだろうか。
つまりそういうときに、私たちは、自分の文化性を試される。
人間性を試される。

 そのとき、「私は、まちがったことはしない」と言って、それを断ることができれば、
それはそれでよい。
そうでないなら、言葉はきついが、「偉そうなことは言うな」となる。

 つまりその延長線上に、ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺がある。
広島、長崎への原爆投下がある。

●もし……

 「戦争、反対!」「原爆、反対!」と叫ぶのは、簡単なこと。
大切なのは、それを口にする前に、高い文化性と、人間性が、自分の中にあるかどうか
ということ。
それがあってはじめて、私たち日本人は、世界に向かって、「日本人は平和を
愛する国民です」と言うことができる。
世界の人たちを納得させることができる。

 戦後、たまたま日本が平和を守れたのは、日本人が、それだけ平和を愛する
国民だったからではない。
また平和を守ったからでもない。
アメリカ軍という世界最強の軍隊が、日本に駐留していたから、である。
もしアメリカ軍が駐留していなかったら、日本は繰り返し、戦禍にのみ込まれていたはず。

 スターリン・ソ連、毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・K国……。
そういう国々が、日本に対して報復戦争をしかけてきたはず。
そのつど日本は、メチャメチャになっていたはず。
また報復されてもしかたないようなことを、日本軍は、戦争を通して、してしまった。
アメリカにしても、最後の最後まで、「Remember Pearl Harbor(真珠湾を忘れるな)」を
合言葉にしていた!

仮にあのとき日本軍が原爆をもっていたとしたら、一時的には優位になっていたかも
しれない。
が、今ごろは、北海道から沖縄まで、日本は完全な廃墟と化していたにちがいない。
「日本」「日本人」という言葉すら、この地球上から消えていたかもしれない。

 それが現実。
まぎれもない現実。
8月6日。
今年もまた、去年と同じようなことを考えた。

(追伸)

 ついでに一言。
あどけない小学生に、平和宣言など、させてはいけない。
平和を守るのは、私たちおとなの責務。
こういう場で子どもを利用するのは、どこかのテロ組織が、自爆攻撃用にと、
子どもを利用するのと同じ。
「平和目的ならいい」「戦争目的は、だめ」というのは、おとなの勝手な論理に
すぎない。
あるいはどこでどう、線を引くというのか?

++++++++++++++++++++

6年前に書いた原稿を、そのまま紹介します。

+++++++++++++++++++++++++++

●子どもによる平和宣言(Declaration for Peace by Children)

+++++++++++++++++++++++++++

今年も、広島、長崎で、子どもを使った
平和宣言がなされた。

それについて、私はかねてより、「子どもに
そんなことをさせてはいけない」と書いて
きた。

平和を守るのは、おとなである私たちの
責任。
子どもたちの未来を守るのも、おとなで
ある私たちの責任。

子どもを使うのは、卑怯だ!

+++++++++++++++++

8月8日、韓国で奇妙な事件が起きている。
どこかに立てこもった一群の中の子どもたちが、韓国の大統領である、イ大統領を
口汚く、ののしっているという。

文章を簡潔にして、紹介させてもらう。

+++++++++以下、朝鮮N報++++++++++++

「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」 

 先月23日、体験学習のためソウルにやってきた地方の小学生たちが、曹渓寺(ソウル
市鍾路区)に立てこもっている、「狂牛病(BSE)の危険のある米国産牛肉の全面輸入に
反対する国民対策会議」(以下、対策会議)の芳名録に書いた、文や動画が公開され、韓国
社会は衝撃を受けた。

この小学生たちは10歳前後、小学3〜5年生の子どもたちだった。「立てこもっている人
たちがけしかけた」という学校側の主張と、「自発的に書いた」という対策会議側の主張は
食い違っている。

これについては警察の捜査で明らかになるだろう。

+++++++++以上、朝鮮N報++++++++++++

少しわかりにくい話なので、解説してみる。

現在、ソウルの曹渓寺というところに、アメリカ産の牛肉の輸入に反対する団体が、立て
こもって、それに反対しているという。
その寺の芳名録に、その小学校を訪れた子どもたちが、芳名録に書き込みをした。
それが冒頭にあげた、文章である。

「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」と。

これについて、(1)立てこもっている人たちが、子どもたちにけしかけた。(2)子ども
たちが自主的に書いたと、意見が分かれているという。

が、どちらであるにせよ、つまりけしかけられたにせよ、自主的に書いたにせよ、その背
後には、(おとなたちの意思)が、感じられる。
少なくとも、こうした言葉は、子どもたちだけの発想では生まれない。

そこで日本の子どもたちによる、平和宣言。
私は、平和宣言がまちがっているというのではない。
それ自体は尊いものであり、世界に向かって宣言して、当然である。

しかし、子どもを使って、それをしてはいけない。

5年前(03年)に、こんな原稿を書いたことがある。

++++++++++++++++++

●子どもによる平和宣言

 よくどこかの会場で、小学生くらいの子どもが、平和宣言をすることがある。「私たちは、
平和を守り……。戦争に反対し……。核兵器を廃絶し……」とか。たいていは、……とい
うより、ほとんどは、おとなたちが用意した原稿を、子どもが読みあげているだけ。たま
たま、この原稿を書いている今日も、「地雷をなくそう、全国子どもサミット」(03年2
月8日)があった。疑問がないわけでもないが、しかしそういうのなら、私も、まだ理解
できる。

 しかし子どもを使って、平和宣言など、子どもに言わせてはいけない。子どもをそうい
うふうに利用してはいけない。それはあまりにも酷というもの。だいたいそんな子どもに、
戦争だとか、平和がわかるわけがない。だれだって、戦争より平和のほうがよいと思って
いるに決まっている。

しかし平和というのは、それを求めて積極的に戦ってこそ、得られるもの。皮肉なことに、
戦争のない平和はない。ただ「殺しあいは、いやだから」という理由だけで、逃げまわっ
ている人には、平和など、ぜったいにやってこない。世界は、そして人間が本来的にもつ
性(さが)は、そんな甘いものではない。

 たとえば戦後、つまりこの58年間、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、
日本人がそれだけの努力をしてきたからではない。日本人が平和を愛したからでもない。
日本が、戦後、58年間という長きにわたって平和を保つことができたのは、アメリカと
いう強大な軍事力をもった国に、保護されていたからにほかならない。

もし日本がアメリカの保護下になかったら、60年代には、中国に。70年代には、韓国
や北朝鮮に、そのつど侵略されていただろう。台湾やマレーシアだって、だまっていなか
った。フィリッピンに袋叩きにされていたとしても、おかしくはない。日本は、そういう
ことをされても文句は言えないようなことを、ほかの国に対して、してしまった。

しかももっと悪いことに、いまだに、公式には、日本はその戦争責任を認めていない。中
には、今でも「あの侵略戦争は正しかった」と言う日本人すら、いる。今の北朝鮮を容認
するわけではないが、彼らが日本を憎む理由には、そういう時代的背景がある。

 わかりやすく言えば、子どもが平和宣言をして、それで平和な国がやってくるというの
は、まったくの幻想。平和というのは、それ自体は、薄いガラスでできた箱のように、も
ろく、こわれやすい。ときには、戦争そのもののように、毒々しく、醜い。仮に今、平和
であるとしても、その底流では、つぎの戦争を求めて、人間のどす黒い欲望が渦巻いてい
る。つまり、平和を口にするものは、一方で、そういうものと戦わねばならない。その戦
う意思、その戦う勇気のあるものだけが、平和を口にすることができる。

子どもを使って平和宣言をさせるというのは、子どもを使って宣戦布告するのと同じくら
い、バカげている。それがわからなければ、子どもに、援助交際反対宣言をさせてみれば
よい。子どもに、政治家の汚職追放宣言をさせてみればよい。あるいは覚せい剤禁止宣言
でもよい。環境保護宣言でもよい。

そういうものが何であるかもわからないまま、無知な子どもに、そういうことを言わせて
はいけない。そうそう、あのK国では、幼児までもが、「将軍様を、命がけで守ります」な
どと言っているという。幼児が自分の意思で、自分で考えてそう言うのなら話はわかるが、
そんなことはありえない。繰りかえすが、子どもを、そういうふうに利用してはいけない。

 そんなわけで、私は、小学生や中学生が、片手を空に向けて平和宣言をしている姿を見
ると、正直言って、ぞっとする。あるいはあなたは、アメリカやヨーロッパや、オースト
ラリアの子どもたちが、そういうふうに宣言をしている姿を、どこかで見たことがあると
でもいうのだろうか。残念ながら、私はないが、ああいうことを子どもに平気でさせる国
というのは、全体主義国家か、あるいはその流れをくむ国と考えてよい。

 「地雷をなくそう、全国子どもサミット」では、ある子ども(滋賀の小学生)は、つぎ
のように話している。

「地雷でケガをした人を見るのは初めてで、結構びっくりしたからそんなにしゃべったり
できなかったけれど、何かちょっとずつだけど、声がかけられるようになったからよかっ
たと思っています」(TBS報道)と。私たちが聞きたいのは、子どもたちのそういう生の
声である。

子どもたちのために平和を守るのは、私たちおとなの義務なのだ。どこまでいっても、私
たちおとなの義務なのだ。それを忘れてはいけない。
(030209)

++++++++++++++++++

さらに進むと、自爆攻撃がある。
テロリストたちは、まだあどけない子どもを利用して、アメリカ軍などに対して、ゲリラ
攻撃をしかけている。
一度、その指導風景がテレビで紹介されていたが、指導者らしき男は、子どもたちに向か
ってこう説明していた。

「死んでも、この世とまったく同じ世が、向こうの世界にある。だから恐れるな」と。

もしそうなら、テロなどしても意味はないということになるのだが、それはともかくも、
子どもを使うということは、そういうことをいう。

平和宣言だからよい。
ゲリラ戦だからよくない。
そういうふうに線引きすること自体、まちがっている。
それこそ「平和のための戦争」ということになれば、どんな戦争だって、
肯定されてしまう。
どうであるにせよ、おとなたちは、自分が信ずる「正義」に従って、子どもを利用する。
それぞれのおとなたちは、それぞれの思惑をもって、子どもを利用する。
つまり「正義」ほど、いいかげんなものもない。
私はそれがおかしいと言う。

それがわからなければ、もう一度、最初に引用した、朝鮮N報の記事を読みなおしてみる
ことだ。

(子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子
供による平和宣言 子どもの平和宣言)

(補記)

++++++++++++++++++++

 この原稿を書いて、4か月になる(03年)。いろいろな原稿を書いているが、4か月前
に書いた原稿という気がしない。遠い昔に書いたような気がする。ただ子どもに平和宣言
させることに、全面的に反対というわけではない。子どもに戦争の悲惨さを教え、ついで
平和の尊さを確認させるという点では、意味がある。しかしそれでも、私は、「それでいい」
とは、どうしても思えない。

 いつだったか、どこかのカルト教団の取材に行ったときのこと。全国大会とかで、全国
から数万人の信者が集まっていた。その席でも、やはり小学生代表が、こう叫んでいた。

「私たちは、○○導師様の教えを守り、この信仰を、世界に広めていきます!」と。小学生
による平和宣言などというものは、私には、その延長線上にあるとしか思えない。

 繰りかえすが、平和を守り、子どもたちを守るのは、私たちおとなの義務である。しか
しその平和というのは、自ら戦って、勝ち得るもの。「殺しあいはいやだ」と逃げてまわっ
ていては、平和は絶対に守れない。

 同じく繰りかえすが、平和主義には、二つある。「殺されても、抵抗しません。文句を言
いません」という平和主義。もう一つは、「平和のためなら、命すらおしくない。いざとな
ったら、戦争も辞さない」という平和主義。ここにも書いたように、「殺しあいはいやだ」
と逃げてまわるのは、平和主義でも何でもない。ただの逃避主義でしかない。

 また先の原稿の中で書いたように、戦後の日本がかろうじて平和を保つことができたの
は、それだけ日本人が平和を守ったからではない。また日本人が平和を愛したからでもな
い。日本がかろうじて平和を保つことができたのは、たまたまアメリカという国に占領さ
れ、その保護下にあったからである。

 私は60年代に、交換留学生として、韓国に渡ったが、彼らがもつ反日感情というのは、
感情というレベルを超えた、「憎悪」そのものだった。今でも基本的には、その構図は、変
わっていない。仮に北朝鮮が日本にめがけて核ミサイルを撃ち込んだとしても、それを喜
ぶ韓国人はいても、悲しむ韓国人はいない。そういう現実を前にして、小学生を仕立てて
平和宣言をする。そのオメデタサは、いったいどこからくるのか。(だからといって、私が
戦争を求めているのではない。どうか誤解のないように!)

今朝の報道によれば、あの北朝鮮は、すでに核兵器を数個もち、さらに今後、半年の間に、
5〜6発の核兵器を製造する能力があるという。さらに今年の終わりには、核実験もする
かもしれないという(クリントン政権時代の北朝鮮担当官・ケネス・キノネス氏)。そうな
れば日本は、もうおしまい。金XXの影におびえながら、毎日ビクビクしながら、生活を
しなければならない。

 小学生による平和宣言の話を書いているうちに、またまた頭が熱くなってしまった。私
の悪いクセだ。しかし、これだけは言える。どんな形であるにせよ、おとなたちは自分た
ちの政治的エゴを追求するために、子どもを利用してはならない。子どもには、子どもの
人権がある。その人権だけは守らねばならないということ。決して、子どもたちを、猿ま
わしのサルのように利用してはいけない。
(030628) 

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
平和論 日本の平和 日本人 広島 原爆の日 はやし浩司 子どもによる平和宣言 子
供による平和宣言)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●夏休み

++++++++++++++++++++

私にも夏休みがあって、明日から、その夏休み。
バンザーイ!

で、その夏休み。
いくつか心に決めていることがある。

(1)運動を欠かさない。
(2)映画を3本、観る。
(3)温泉に2度行く。
(4)三男に会いにC県へ行く。
(5)実家にケリをつけてくる。(温泉に泊まってくる。)
(6)ノートパソコンを1台、買う。
(7)ワイフと喧嘩しない。

夏休みも、すべて、「即、実行!」を貫く。
今できることは、後回しにしない。
今日できることは、明日に延ばさない。
すべて、先手、先手!

プラス、のんびりできるところでは、
思いっきり、のんびりする。

++++++++++++++++++++

●故郷と決別する日

+++++++++++++++++++

近く、実兄と実母(ともに個人)の法事をする。
実家のあるM町で、それをする。
そのあと、実家を売る。
買い手は決まっている。
その契約をすます。

それがすんだら、家財を処分して、M町を去る。
同時に、故郷とは、決別する。

M町には、現在、親戚はいない。
実姉はいるが、M町から離れた、遠い、山の中に住んでいる。
M町に残るのは、墓のみということになる。
が、私は死んでも、あの墓に入るつもりはない。
ワイフも、ぜったいにいやと言っている。

私はその日を最後に、二度と、あのM町には
戻らない。
(よほどのことがあれば、別だが……。)
それを話すと、昨夜、眠る前にワイフが、
こう聞いた。
「さみしくないの?」と。

「そりゃあ、さみしいよ。
しかしね、それ以上に、うれしいよ。
やっと決別できるんだから……」と。

++++++++++++++++++++

●母への恩義

 人は、人とのつながりの中で生きている。
それが無数の糸となって、その人にからんでいる。
親子の糸は、その中でも、とくに太い。
が、親にもいろいろある。
たとえば父は、生涯にわたって、ただの一度も、私を抱いたことがない。
母が抱かせなかった。
父が結核をわずらっていたこともある。
が、母は、それにもまして、異常なまでに潔癖症だった。

 で、残されたのは、つまり私と母の間に残されたのは、細い糸。
が、いくら細い糸ではあっても、人は、その糸に、最後の希望を託す。
こと(故郷)に関して言えば、何もよいことはなかった。
(家族)を通した思い出の中で、楽しかったことなど、ほとんどなかった。
しかしそんな私でも、最後は、こう思う。

 「母も、私には、やさしいときがあった」と。

 それがあるから、今まで故郷を支えてきた。
無住の家となってからも、5年間、支えてきた。
しかしそれを仲のよい従姉(いとこ)に話すと、こう教えてくれた。
「浩司君(=私)、そんなことを、負担に思ってはだめよ。
そんなことは、親の務めなのよ。
子どもを産んだら、責任をもって子どもを育てる。
そんなことは、当たり前のことじゃない」と。

●浜松市が故郷 

 その故郷を、改めて振り返る。
「私にとって、故郷とは、何か?」と。
というより、18歳のときに故郷を離れて、今年で、すでに43年目になる。
いまだに「故郷」にこだわるほいが、どうかしている。
しかし「古里」は、「古里」。
どうしても、こだわってしまう。
なぜか?

 0歳から20歳までの20年と、20歳から40歳までの20年は、密度がちがう。
密度がちがうだけに、思いも、また複雑。
 
だからもうすぐ62歳になろうという私にしても、故郷を心の中から断ち切るのは、
容易なことではない。
本能に近い部分にまで、思い出が刷り込まれている。
が、ずるずると引きずるのも、よくない。
私はこの浜松市で居を構えたし、息子たちにとっては、ここが「故郷」。
その私がふらふらしていて、どうして息子たちの心が落ち着くか。

●解放

 しかし……。
私は、うれしい。
刻一刻と、その日が近づいてきているのが、実感としてわかる。
それがうれしい。
ルンルン気分とまではいかないが、ワクワクしている。
実家を売れば、たいした額ではないが、お金が入ってくる。
そのお金で、ワイフと温泉につかってくるつもり。

 そう、結婚する前から、私は実家に、収入の約半分を送ってきた。
その負担感……金銭的負担感というより、社会的負担感には、相当なものがあった。
あるときから、それは重圧感に変わった。
「親だから……」「子だから……」「兄弟だから……」「大学まで出してもらったのだ
から……」「男だから……」と。
『ダカラ論』だけが、先行した。
それは真綿で首をしめられるような、苦しみだった。
ジワジワと……。
いつ晴れるともなく……。
だれが、というわけではないが、そういう雰囲気の中で、私は生まれ、育った。

 私は母にお金を仕送る。
母は母で、母の実家に、お金を仕送る。
こんな生活が、30年以上もつづいた。
だから私はそのつど、叫んだ。
「もう、いいかげんにしてくれ!」と。

 そう、そう叫ぶのも、これでおしまい。
私は、解放される!

●2人だけ

 だから昨夜、ワイフにはこう言った。
「もうこれからは、2人だけだね。
仲よくしようね」と。

 故郷から決別するということは、同時に、最後の糸を断ち切ることを意味する。
「ひょっとしたら、故郷は助けてくれるかもしれない」「暖かく私を包んでくれるかも
しれない」という糸である。

 しかしそれは、もう、ない。
期待もしていない。
いくら細くても、一本ぐらい、糸を残しておいたほうがよいという考え方もある。
何も自分のほうから断ち切ることもないではないか、と。

 それもそうかもしれないが、しかしそれは私の生き方ではない。
どうせスッキリするなら、何もかも打ち棄てて、心の中を整理したい。
私も、もう62歳。
人生も終盤期に入った。
モヤモヤとした過去にしばられ、立ち止まっている暇は、もうない。
残り少ない時間だからこそ、一瞬一秒を大切に、前に向かって進んでいきたい。

●あとは野となれ、山となれ

 さあ、決別するぞ。
心から消すぞ。
あとのことは、知ったことではない。
野となれ、山となれ。
ははは。

 世の中には、いろいろな家族がある。
家庭環境も、みな、ちがう。
事情も、みな、ちがう。
私は私。
あなたの考え方と、いくらちがっていても、私は私。
私の考え方が、まちがっていると言ってほしくない。
それに私がこういう考え方をするようになったからといって、私の責任ではない。
私の中にも、私自身の意思で作った部分もあれば、私の意思とは無関係に作られた
部分もある。

 ただ覚えておいてほしいのは、世の中には、私のような人間もいるということ。
けっして、少数派ではないということ。
今まで、みな、口に出して言わなかっただけ。
安易な『ダカラ論』に押されて、遠慮していただけ。

 ♪「さらば、ふるさと、さらば、ふるさと、ふるさと、さらばア〜」と。

 私はこの歌を、明るくさわやかに歌って、あのM町を去る。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●毒殺?

 昨日、2羽のスズメが、庭先で死んでいた。
ワイフがそう言った。
しかしそういうことはありえない。
スズメが、庭先で死ぬなどということは、ありえない。

 で、この話とは別に、最近、気になっていることがひとつ、ある。

私はスズメたちに餌を与えるようになって、もう15年以上になる。
が、ここ1、2年、そのスズメの数が、急激に少なくなった。
10年ほど前には、毎日、数十羽のスズメが、いつも庭で遊んでいた。
が、今は、いても、10〜15羽前後。
閑散としている。

 どこかでスズメを駆除しているらしい。
で、近くの農協に電話をしてみた。
「スズメに困っていますが、何か、いい方法はありませんか?」と。

 すると電話口に出た若い男は、こう言った。
「Y農協で、そういった指導をしていますから、そちらへ電話をしてみてください」と。

 で、Y農協に電話をしてみた。
が、はっきりとしたことは言わない。
どうも歯切れが悪い。
「指導会がありますから、また連絡してほしい」とか、何とか。
「どういう指導会ですか」と聞いても、「ええ、指導会です」と。
私はその返事を聞いて、ピンときた。
「毒薬を使っているな……」と。

 もちろん庭先で死んでいたスズメが、毒薬によるものと言っているのではない。
ひょっとしたら、鳥インフルエンザで死んだのかもしれない。
その可能性もないわけではない。
しかしそれにしても、急激に少なくなった。

 おかしいぞ!
 へんだぞ!

 昔から、スズメは、春には益鳥だが、秋には害鳥になるという。
米の収穫期には、米を食べる。
それはわかるが、しかし……。

 ここに書いたことは、あくまでも、私の憶測によるもの。
本当に毒殺しているかどうかは、知らない。
私が、そう疑っているだけという話である。

 が、もし本当にそういうことをしているなら、それだけはしてはいけない。
スズメと同じ餌を食べている野鳥は多い。
ドバトも、そうだ。
(そう言えば、ドバトも少なくなったぞ!)

 一度、この問題を本気で取り上げてみたい。
近く、この問題について、調べてみたい。

(補記)

 そのスズメたち。
数日前に、芝生の種をまいたのだが、あろうことか、私への恩を忘れて、
その種を食べてしまった!

 今朝見たら、種がすべて、もみ殻になっていた。
(「もみ殻」というのは、米の殻のことをいうが……。)

 今度まくときは、浅く掘って、土の中にまく。
ワイフも、そう言っている。
被害額は、1200円あまり。

 しかしこうして(自然)相手に、知恵比べをするのは、楽しい。
相手がスズメでは、怒る気は起きない。

(補記)

 同じ被害の話だが、今度は、猿の話。

 山荘のほうでは、最近、猿害に困っている。
季節になると、そのつど山荘へやってきて、悪さをする。
その(悪さ)が、スズメのそれとは、質的にちがう。
猿のほうは、(やらなくてもよいようなこと)をする。

 たとえば餌を食べるのに、わざわざ大屋根に上って食べる。
そのとき、雨どいを壊す、テレビのアンテナを壊す。
電話線を切る、など。

 山から下りてくるときも、一度、どういうわけか、山荘の屋根を
経由する。
(山)→(山荘の屋根)→(栗の木や柿の木)、と。
山から、直接、栗の木や柿の木に行けばよいと思うが、そこへ猿は、猿的な
遊びをはさむ。
(山荘の屋根)から、電話線や電線を伝って、行く、など。
それだけに、憎たらしい。

 新聞の報道によれば、そのあたりでも、今度、「猿の駆除」を始めたそうだ。
どういうことをするのか、詳しくは書いてなかったが、「駆除」というときは、
ふつうハンターに依頼しての銃殺を意味する。
抵抗を感じないわけではないが、それだけ農家の被害も大きいということか。
もとはと言えば、第二東名高速道路の工事。
その工事で追い出されて、そのあたりまでやってくるようになった。

 言うなれば、白人の開拓団に追われた、アメリカ・インディアンのようなもの。
(インディアンが「猿」というのではない。「立場」が似ているという意味。
誤解のないように!)

猿にも、いろいろ言い分はあるだろう。
(人権)もない。
(言葉)ももっていない。
それだけに、「かわいそうだな」とは思うが、どうしようもない。
何か、よい方法はないものか。
猿は頭がよいだけに、対策もむずかしい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

【人生論】(What is the Life for us?)

●今日の言葉(イギリスのBLOGより)

Life is an unfoldment, and the further we travel the more truth we can comprehend. To 
understand the things that are at our door is the best preparation for understanding 
those that lie beyond 
- Hypatia,  In Religion

人生というのは、開いていくもの。先へ行けば行くほど、より多くの真理を理解できるよ
うになる。ドアの近くにあるものを理解することは、遠くにあるものを理解するのに、も
っとも役立つ。

●真理

 同じようなことを、私も以前、書いたことがある。
その原稿を探してみた。
「03年」とあるから、6年前の原稿ということになる。

++++++++++++++++++++++

●豊かさとは、何か?

 生活の豊かさを測る尺度は、決して、一つではない。

 もちろん収入は、多ければ、多いほどよい。お金の嫌いな人はいない。私も嫌いではな
い。

 しかし収入だけで、豊かさは、測れない。

 自由な時間は、どれだけあるか?
 家族と過ごせる時間は、どれだけあるか?
 住んでいる環境は、どうだ?
 友だちの数はどうだ?
 人間関係は、どうだ、など。

 健康の度合いも、豊かさの一つということになる。しかし本当の豊かさは、「心」で決ま
る。

 心が平穏であるか。満足しているか。やさしく、思いやりがあるか。過去を悔やむこと
もなければ、未来を不安に思うこともない。夢や希望があり、目標もある。毎日、前向き
に生き生きと、過ごすことができる。そういった状態を、心の豊かさという。

 もちろん、心の貧しい人もいる。このときも、収入とは、関係ない。億万長者でも、心
の貧しい人は、いくらでもいる。もちろんお金がなければ、苦労する。不幸になることも
ある。しかしお金で、豊かさは買えない。

 中学生たちに聞いてみた。「君たちの夢は何か?」と。多くの中学生は、「お金持ちにな
りたい」「有名になりたい」と言う。

 しかしそのお金で、何をするか。その未来像が、見えてこない。また有名になるとして
も、それはあくまでも結果。そこに至る、現実が見えてこない。

 手っ取り早く、豊かになるためには、自分の住む世界を、ぐんと小さくすればよい。あ
るいは何かの宗教に身を寄せ、その世界に安住するという方法もある。この世界、広く生
きようと思えば思うほど、人との摩擦(まさつ)も大きくなる。ひとりで生きようと思え
ば思うほど、障害も大きくなる。

そこで私は、気がついた。豊かさは、求めるものではなく、その人の生きザマの中から、
結果として生まれるもの、と。少し話が、飛躍してしまったかもしれないが、こういうこ
とだ。

 私の知人に、長野県の山奥で、床屋を営んでいる人がいる。今年、六〇歳を超えた。彼
は父親の仕事を引き継いで、床屋を始めたわけだが、もし人生の成功者という人がいると
するなら、彼のような人をいうのではないか。

 釣り名人で、そのあたりでは、「釣り聖」と呼ばれている。床屋という職業もあって、村
長も、助役も、村の有力者たちも、みな、彼の前では、頭をさげる。もちろん村一番の情
報通。もし彼を敵に回したら、村議会の議員にすら、なれない。

 今は、その人は、日本画にこっていて、毎日、その日本画に没頭している。「個展を開い
たら……」とすすめると、うれしそうに笑っていた。

 一方、過去の肩書きや地位にぶらさがり、その亡霊から、逃れられない人もいる。退職
したあとも、プリプリといばっている。「仕事がない」と言うから、「貿易の知識を利用し
て、中国の物産でも売ってみたら」と提案すると、こう言った。「そんな恥ずかしいことは、
できない」と。(商売することを、「恥ずかしい」と言うのだ!)

 私のまわりには、いろいろな人がいる。みな、違った方法で、豊かさを求め、幸福にな
ろうとしている。もちろん、私も、そうだ。しかし豊かさというのは、求めたところで、
向こうからやってくるものではない。しかし生きザマさえ、しっかりしていれば、向こう
からやってくる。

 大切なことは、その生きザマを、どう確立するかということ。が、ここで誤解してはい
けないのは、その豊かさというのは、虹のかなたの、その向こうにあるのではないという
こと。あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて待ってい
る。

 土地を売って大金を手に入れたからとか、あるいは大企業の部長になったからとか、著
名なタレントになったからとか、そういうことで、ここでいう「豊かさ」を手に入れるこ
とは、ない。豊かさというのは、あくまでも、「心」の問題。名誉、地位、財産、肩書きと
は、まったく、関係がない。

 大切なことは、できるだけ早い時期にそれに気づき、そうしたものに、心が毒されない
ようにすること。毒されれば毒されるほど、心の豊かさは、あなたから遠ざかる。

 ……と、大上段に構えて、「豊かさ」について、書いてみた。「何を偉そうに……」と思
う人も、いるかもしれない。もしそうなら、許してほしい。私自身も、こうして自分なり
に、結論らしきものを出しておかないと、前に進めない。頭のてっぺんから、足の爪の先
まで、現代社会がもつ矛盾に、毒されている。

このつづきは、一度頭を冷やしたあとに、考えてみたい。
(031030)

+++++++++++++++++++++

同じような内容だが、こんなことを書いたこともある。

+++++++++++++++++++++

●生きる哲学

 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単な
ことだ。人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であると
か、そういうことだ。もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。

そのとき、ここちよい響きがすれば、それが「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。
あとはその善悪の判断に従って行動すればよい。人間には生まれながらにして、そういう
力がすでに備わっている。それを「常識」というが、決してむずかしいことではない。も
しあなたが何かのことで迷ったら、あなた自身のその「常識」に問いかけてみればよい。

 人間は過去数10万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学
や倫理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。
たとえば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでし
まうこと、みんな知っている。そういうのを常識という。この常識があるから、人間は過
去数10万もの間、生きるのびることができた。またこの常識にしたがえば、これからも
ずっとみんな、仲よく生きていくことができる。

 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいは
いかにして自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の
中にそういう常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にす
る。そして常識に反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快
なことしながら、自分をごまかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そ
のものをムダにする。

 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあ
って、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠
いだけ。しかもその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人
も、老人も若い人も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだっ
て、幼児だってもっている。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。
方法は簡単。何かあったら、静かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はい
つもそこにある。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●常識をみがく

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思
えば、美しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そ
ういう自分に静かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にと
って不愉快かがわかるようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ
袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あな
たはすでにそれを知っている。それが「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直に
なってみるのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まち
がえて50円、余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私
がその50円を返すと、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそう
に笑った。そのここちよさは、みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそ
うでなくても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実の
ところ、私は若いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分
では「いけないことだ」と思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることが
できない。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっ
ぱったり……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛
び乗った。「家になんか帰るか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテ
ルに泊まるつもりでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当
に、ホテルに泊まりたいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとん
の中で、女房の横で寝たかった。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私で
あって、私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。
いつ、なぜそういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そうい
う私であって私でない部分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」
を知る。いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、そ
れなりに戦わねばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」
をみがくことと言ってもよい。

 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
常識論 常識とは 常識について わかりやすい生き方 シンプルライフ)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

常識といっても、安易な常識論には
警戒したほうがよいですね。

それについて書いた原稿をいくつか、
集めてみました。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●安易な常識論で苦しむ人

 日本にはいろいろな常識(?)がある。「親だから子どもを愛しているはず」「子どもだ
から故郷(古里)を思い慕っているはず」「親子の縁は絶対に切れない」「子どもが親のめ
んどうをみるのはあたりまえ」など。

しかしそういう常識が、すべてまちがっているから、おそろしい。あるいはそういう常識
にしばられて、人知れず苦しんでいる人はいくらでもいる。たとえば今、自分の子どもを
気が合わないと感じている母親は、7%もいることがわかっている(東京都精神医学総合
研究所の調査・00年)。「どうしても上の子を好きになれない」「弟はかわいいと思うが、
兄と接していると苦痛でならない」とか。

 故郷についても、「実家へ帰るだけで心臓が踊る」「父を前にすると不安でならない」「正
月に帰るのが苦痛でならない」という人はいくらでもいる。そういう母親に向かって、「ど
うして自分の子どもをかわいいと思わないのですか」「あなたも親でしょう」とか、さらに
「自分の故郷でしょう」「親を嫌うとはどういうことですか」と言うことは、その人を苦し
めることになる。

たまたまあなたが心豊かで、幸福な子ども時代を過ごしたからといって、それを基準にし
て、他人の過去をみてはいけない。他人の心を判断してはいけない。それぞれの人は、そ
れぞれに過去を引きずって生きている。中には、重く、苦しい過去を、悩みながら引きず
っている人もいる。またそういう人のほうが、多い。

 K市に住むYさん(38歳女性)のケースは、まさに悲惨なものだ。母親は再婚して、
Yさんをもうけた。が、その直後、父親は自殺。Yさんは親戚の叔母の家に預けられたが、
そこで虐待を受け、別の親戚に。そこでもYさんは叔父に性的暴行を受け、中学生のとき
に家出。そのころには母の居場所もわからなかったという。

Yさんは、「今はすばらしい夫に恵まれ、何とか幸福な生活を送っています」(手紙)とい
うことだが、Yさんが受けた心のキズの深さは、私たちが想像できる、その範囲をはるか
に超えている。Yさんから手紙を受け取ったとき、私は何と返事をしてよいかわからなか
った。

 ここでいうような「常識」というのは、一見妥当性があるようで、その実、まったくな
い。そこで大切なことは、日本のこうした「常識」というのは、一度は疑ってみる必要が
あるということ。そしてその上で、何が本当に大切なのか。あるいは大切でないのかを考
えてみる必要がある。

安易に、つまり何も考えないで、そうした常識を、他人に押しつけるのは、かえって危険
なことでもある。とくにこの日本では、子育てにも「流儀(?)」を求め、その「形」を親
や子どもに押しつける傾向が強い。こうした方法は、一見便利なようだが、それに頼ると、
その実、ものの本質を見失うことにもなりかねない。

 「親である」とか「子であるとか」とかいう「形」ではなく、人間そのものをみる。ま
た人間そのものをみながら、それを原点として、家庭を考え、家族を考える。それがこれ
からの子育ての基本である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 安易な常識論 常識論)

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●類は友を呼ぶ

 おととい、東京に住む友人(64歳・女性)と、電話でこんな話をした。
その友人が、こう教えてくれた。

 「奥さんがずるい人ということは、ダンナもずるい人と考えていいのよ。
だから夫婦でいられるのよ」と。

 『類は友を呼ぶ』というが、『似たもの夫婦』という言葉もある。
どちらか一方がずるくて、他方が、誠実ということは、ありえない。
友人は、こう言った。

 「たとえば奥さんがずるいことをしようとしてもね、ダンナが誠実な人だったら、
それをやめさせるはずよ」と。
つまりたがいに教えあいながら、夫婦というのは成長もするし、反対に堕落もする、と。

で、話がはずみ、私たちの結論は、こうだった。
「その人を知りたければ、その人の周囲の人たちを見ればいい」と。
たとえば兄弟にせよ、友人にせよ、つねに人は類を求めて集まる。
その人の周囲の人たちが不誠実なら、その人自身も、不誠実な人と考えてよい、と。

●縁を切る

 若いころ、1人、たいへんずるい人がいた。
インチキのかたまりのような人だった。
そのためいつも、何かにつけて、小細工ばかりしていた。

 結構、金払いもよく、それなりにおもしろい人だった。
が、あるときから、金銭面で対立するようになった。
そのときのこと。

 気がつくと、私自身も、その人に対して、ずるい人間になっているのを知った。
誠実になれないというか、誠実であることに、ある種のバカらしさを感じた。
つまりそういう人に対して、誠実であっても、意味はない。
誠実そのものが通じない。
こちらが誠実であろうとすればするほど、お人好しで終わってしまう。
そう感じた。

 そのときのことを今、思い出してみると、こういうことが言える。
「不誠実な人とは、勇気をもって、縁を切れ」と。
つきあってよいことは、何もない。
が、それだけではない。
つきあえばつきあうほど、その人の不誠実さに染まってしまう。

 そういう点では、人間の心というのは、それほどタフにはできていない。
何かにつけて、染まりやすい。
とくにこの私は、生まれも育ちも、あまりよくない。
もともとガードが弱い。

●終わりに……

 要するに人生は、短い。
回り道している暇は、ない。
そのためにも、正道を急ぐ。

 最後に、3人の賢人の言葉を引用する。

To live is so startling it leaves little time for anything else. 
- Emily Dickinson

生きることはすばらしいことだが、そのほかのための時間は、ほとんど残されていない。

People's whole lives do pass in front of their eyes before they die. The process is called 
'living'. 
- Terry Pratchet, "The Last Continent"

人生とは、その人が死ぬまで、その人の目の前を通り過ぎるだけ。そのプロセスを、「生き
ている」という。

 そしてあのアインシュタインの言葉。

Life is a mystery, not a problem to be solved.

人生(生命)は、ミステリー(謎)だ。そのミステリーは、解けるような問題ではない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●愚痴

+++++++++++++++++++++

数日前から、「グチ(愚痴)」について書いている。
仏教で教える「愚痴」というのは、読んで字のとおり、
「愚かさが極まった状態」をいう。

が、日本語で「グチ」というと、不平、不満を、
意味もなくタラタラと口にすることをいう。

そのグチについて調べていたら、アメリカでは、
不安神経障害(Anxiety Disorder)の主症状の
ひとつであることがわかった。

++++++++++++++++++++++

●日本人のグチ

 この日本では、グチを言う人も、またそれを聞く人も、グチについては甘い。
「グチ」を、精神障害の症状のひとつと考えている人は、少ない。
実のところ、私も、そうだった。

 私自身も、グチを平気で口にしていた。
また私に対してグチを言う人がいても、「そういう話を聞いてやるのも、大切な
こと」と考えて、耳を傾けてやった。

 しかしグチはグチ。
精神障害にそのまま結びつくかどうかは別として、たしかにグチというのは、
それ自体、見苦しい。
グチをこぼす人も見苦しいが、それを聞くほうも、つらい。
不愉快。
よいことは何もない。

 で、これからはちがう。
「精神障害の主症状のひとつ」と考えて、私はグチを言わない。
一方、私にグチを言う人がいても、耳は貸さない。
聞いてやる必要もない。

 もしグチを言う人がいたら、こう言ってやるのはどうか。
「一度、精神科で診てもらったら?」と。
……と書くのは、少し言いすぎというのは、わかっている。
というのも、グチを言う人は、グチを言いながら、心に風穴をあけている。
言うなれば、ストレス発散のひとつの方法として、グチを言う。
だからその人のグチを抑え込んでしまったら、かえって症状は重くなってしまう
かもしれない。

 ただこういうことは言える。

 私の友人(外国人)たちを思い浮かべてみても、私にグチを言った人は、
ほとんどいないということ。
実際には、記憶のどこをさがしても、そういう人が出てこない。
日本人特有の、あのグチである。
記憶の中に、そういう人が出てこない。

 ということは、欧米人の間には、やはり「グチというのは、精神疾患の主症状
のひとつ」という認識があるからではないか、……ということになる。
グチを口にしたら、精神障害者と疑われてもしかたない(?)。
あるいは幼いころから、また環境的にも、歴史的にも、グチを言わない社会に
なっている(?)。

 日本では当たり前のように、言ったり、聞いたりしているグチだが、外国では
別の考え方をしている。
それだけは、確かなようである。

【はやし浩司流、今日の教え】

●グチは言わない。聞かない。
グチを言う前に、自分で考えて、自分で行動し、自分で解決せよ。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●K国の金xx

++++++++++++++++++

昨日(09年8月5日)、K国に抑留されていた
2人のアメリカ人記者が、金xxの「特赦」(?)に
よって、解放された。
5か月ぶりの解放である。

K国は、「(ゴア元副大統領ではだめだ)、クリントン元大統領をよこせ。
よこしたら、解放してやる」と、アメリカに迫った。
その結果、クリントン大統領自身が、K国まで、出かけていった。

++++++++++++++++++

●現実検証能力

あれほどまでに現実検証能力のない人間は、そうはいない。
まるで自分のことがわかっていない。
K国に金xxを見ていると、そう思う。
 どこかの政治評論家たちは、「金xxの国際政治感覚は一級だ」とか何とかもちあげて
いるが、基本的には、ノーブレイン。
その一例が、今回発表された、一枚の写真。

 金xxが右側に座り、むっつり、上機嫌(?)。
クリントン元大統領が左側に座り、同じくむっつり、無表情(?)。
うしろには、立ったままの、5、6人のアメリカ人。
(韓国紙の報道によれば、金xxは、始終、上機嫌であったという。)

 アメリカ側、つまりクリントン元大統領は、ノーコメントを繰り返しているが、
こうした状況を、アメリカ国民はもちろん、クリントン元大統領自身も、不愉快に
思っていることは明らか。
その(不愉快さ)も理解できないほど、金xxは、ノーブレイン。

 金xxは、アメリカに謝罪させ、(アメリカ側は、謝罪したことを否定)、勝ったつもり
でいるかもしれない。
国内でも、「元大統領が謝罪に来た」と、大々的に報道ししている。
しかし今回の一連の事件は、基本的な部分で、おかしい。
狂っている。

●ノーブレイン

 ありもしない外国の脅威を理由に、自国民を締め上げる。
核兵器やミサイルを開発する。
自国民が飢えて苦しもうが、国を捨てる人が続出しようが、知らぬ顔。
その上で、取材のため、インタビューを試みた記者を、逮捕、抑留。
報道によれば、一度、川を渡ってK国側に入ったのは事実だが、拉致されたのは、
中国領土側のほうであったという。

 で、お飾りの裁判。
判決は12年の懲役刑。
その上で、「2人の記者を返してほしかったら……」と。

 アメリカ側はプライドを捨てて、2人の記者の救出を図ったわけだが、アメリカ人が
怒るのは、これから。
日本の一部の報道機関は、「米朝関係が、これをきっかけに好転する」と書いている。
しかしそんなことは、常識で考えても、ありえない。
もしそうなら、アメリカも、ノーブレイン。

●わかりやすく言えば……

 わかりやすく言えば、誘拐犯に子どもを誘拐された親が、誘拐犯に頭をさげて、
子どもを返しにもらいに行ったようなもの。
ところが誘拐犯のほうは、事情がどうなっているかもわからず、「相手が頭をさげて、
頼みにきた」と、喜んでいる(?)。
だいたい、記念撮影すること自体、バカげている。
どうして、記念撮影?
こんなバカげた構図が、ほかのどの世界にある?
つまりその(バカさかげん)がわからないほどまで、金xxは、現実検証能力を
失っている。

 日本の拉致事件についても、そうだ。
誘拐した側のほうが、一国の首相を呼びつけて、いばっている。
謝罪するのは当たり前のことなのに、「謝罪してやった」と、いばっている。
こんなバカげた国を相手に、これから先、日本はどうやって外交交渉を進めていく
つもりなのか。
考えれば考えるほど、気が重くなる。
ホント!


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 4日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【年収と学力】(Parent' s Income and their Children's Ability of Studying)

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予想されてはいたことだが、平たく言えば、
金持ちの親の子どもほど、成績は総じてよいということ。

文科省は、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)
をもとに、このほど、そのような調査結果を公表した。

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●年収200万円層

 時事通信(8月5日)は、以下のように伝える。

 『年収が多い世帯ほど子供の学力も高い傾向にあることが、2008年度の小学6年生
を対象にした全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を基に行われた文部科学省の委
託研究で4日、分かった。学力テストの結果を各家庭の経済力と結び付けて分析したのは
初めて。

 委託研究では、5政令市にある公立小、100校を通じて、6年生約5800人の保護
者から家庭環境などのデータを新たに収集。個人名が分からないよう配慮した上で、学力
テストの結果と照合した。

 学力テストには、国語、算数ともに知識を問うA問題と活用力を試すB問題があるが、
世帯年収ごとに子供を分類すると、いずれも200万未満の平均正答率(%)が、最低だ
った。

 正答率は年収が多くなるにつれておおむね上昇し、1200万円以上1500万円未満
だと、200万円未満より20ポイント程度高まった。ただ、1500万円以上では正答
率が微減に転じた』(以上、原文のまま)と。

●数字の整理

 数字を整理してみる。

(1)年収200万円未満の平均正答率が、最低だった。
(2)年収が1200万円〜1500万円の層は、200万円未満の層より、20ポイン
ト、高かった。
(3)ただ1500万円以上では、正答率は、微減に転じた。

 つまり金持ちの子どもほど、成績はよいということ。
しかし年収が1500万円を超えた層では、正答率が微減に転じた、と。

 が、この調査ほど、納得がいくというか、矛盾を感じない調査はない。
年収1500万円以上の子どもたちの正答率が微減したということについても、
妙に納得がいく。
その分だけ、子どもがドラ息子しているとも解釈できる。

 しかし親の年収で、子どもの学力に(差)が出るということは、本来は、あってならな
いこと。
しかし現実には、ある。
「金持ちの親の子どもほど、学力が高い」と。
が、ここで新たな疑問が生まれる。
親の年収と、子どもの学力を、そのまま関連づけてよいかという疑問である。

●学歴と親の年収

 それ以前の問題として、親の学歴と、親の年収との間には、明らかな相関関係がある。
学歴が高ければ高いほど、年収も高い。
言い換えると、このことから、親の学歴が高ければ高いほど、子どもの正答率も高くなる
と言えなくもない。

(親の学歴が高い)→(年収が多い)→(子どもの正答率が高くなる)、と。

子どもは、いつも親の影響を受けながら、成長する。
つまり年収だけをみて、「親の年収が子どもの学力に影響を与える」と考えるのは、少し、
短絡的すぎるのではないのか?
(もちろん今回の調査では、そんなことは一言も述べていないが……。)

 つまりもっと正確には、(親の学歴が低い)→(その分だけ、家庭における知的環境レベ
ルが低い)→(子どもの知的学習能力も低くなる)→(正答率が低くなる)、ということで
はないのか。

 もし親の年収が子どもの学力に直接的に影響を与えるものがあるとするなら、塾などの
学外教育費用、あるいは学外教材費用の面である。
年収に余裕があればあるほど、子どもの学外教育に、親はお金をかけることができる。

●親の知的レベル

 「知的レベル」という言葉を使ったので、それについて補足。

 親の知的レベルが、子どもの知的レベルに大きな影響を与えるということは、常識と
考えてよい。
(ただし親の学歴が高いから、親の知的レベルが高いということにはならない。
反対に、親の学歴が低いから、親の知的レベルが低いというこにもならない。)

 「知的レベル」というのは、日々の生活の場で鍛錬されて、決まるもの。
学歴のあるなしは、それに影響を与えるという程度のものでしかない。
要するに、親のものの考え方次第ということ。
それが子どもに知的好奇心、問題の解決能力に大きな影響を与える。

●知的レベルの怖ろしく低い親

3、4年前のことだが、私はこんな場面に遭遇したことがある。
その家の長男(当時、35歳)に愛人ができ、離婚騒動がもちあがった。
そのときのこと。
その長男の父親は、一方的にどなり散らすだけ。
「テメエ、コノヤロー、オメーモ、男だろがア!」と。
 
 が、これでは会話にならない。
話し合いにもならない。
もちろん騒動は解決しない。
私はその父親の言葉を横で聞きながら、その父親のもつ知的レベルのあまりの
低さに驚いた。

 別のところで話を聞くと、その父親の趣味は、テレビで野球中継を見ること。
雨の日はパチンコ。
晴れの日は海釣り。
本や雑誌など、買ったこともなければ、読んだこともないという。

 子どもに直接的に影響を与えるのは、親の知的レベルである。
学歴ではない。
年収ではない。

●ともあれ……

 ともあれ、(親の年収)と、(子どもの学力)との間に、相関関係があることは、
これで確認できた。
しかしこんなことは、何もあえて調査しなくても、わかりきったこと。
ゆいいつ意味があるとするなら、「20%」という数字が出されたこと。
要するに、平均点が20点ほど、低いということか。

 年収が1200〜1500万円の親の子どもの平均点が、80点とするなら、
200万円以下の親の子どもの平均点は、60点ということになる。
そうまで単純であるとは思わないが、かみくだいて言えば、そういうことになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 親の年収と子供の学力 親の知的レベルと子供の学力 子どもの
学力調査 はやし浩司 全国学力調査)

(付記)

 都会地域へ大学生を1人送ると、平均して、月額17万円前後の費用がかかる。
それを12倍すると、年額204万円。
つまり年収200万円以下の親の子どもが大学へ通うのは、事実上、不可能。
文科省の今回の調査では、「年収200万円以下」を問題にしているが、この数字そのもの
が、少し極端すぎるのでは?
仮に年収100万円以下ということになれば、「家庭」そのものが、成り立たない。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【家族、そして親戚づき合い】(Families and Blood Relatives)

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家族にもいろいろある。
親戚づきあい。
それにも、いろいろある。
人それぞれ。
みな、ちがう。

家族にせよ、親戚づきあいにせよ、
たがいに良好なら、まだよい。
救われる。
そうでないなら、そうでない。

しかしひとたびこじれると、親戚であるがゆえに、
他人以上の他人になる。
ささいなことでも、はげしく衝突するようになる。
憎しみあい、ののしりあうようになる。

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●姉妹の確執

 最近、A子さん(40歳)は、姉のB子さん(42歳)と縁を切った。
一切、行き来は、なし。
しかしその理由を知る人は少ない。 
A子さんも、それについては、人に話さない。

 A子さんの夫が、姉のB子さんと、不倫関係をもってしまった。
夫のほうが、B子さんに言い寄った。
悪いのは夫、ということになる。
が、いろいろ事情があって、A子さんは、離婚にまでは踏み込めないでいる。
A子さんの心中は、複雑。

●親子の縁
 
 C氏(55歳・男性)は、この10年以上、母親に会っていない。
その母親が、昨年、脳梗塞で倒れた。
伯父から連絡を受けた。
が、C氏は、見舞いにも行っていない。
が、それにも、理由がある。

 C氏は、母親と別の男性との間に生まれた、不倫の子だった。
気がついたのは、学生時代のことだった。
ほかの3人の兄弟(兄2人、妹1人)と、血液型が符合しなかった。
で、念のためにと、DNA鑑定をしてもらった。
結果、C氏だけは、別の男性の子であることがわかった。
C氏はこう言う。

 「父はもう死んでいるから、本当のことを話してほしい。
しかし母は、いまだにとぼけている。
私はそれが許せない」と。

●外面(そとづら)と内面(うちづら)

 外面と内面が、まったく異なる人は、珍しくない。
外の世界では、神のような人物を演ずる。
しかし家の中では、まったくの別人。
わがままで、自分勝手。
Dさん(80歳、女性)も、その1人。
「超」の上に、さらにもうひとつ「超」がつくほど、わがまま。
自分勝手。

 嫁がつくる食事を、「まずい!」と言っては、嫁に投げつける。
息子には、「遺産(=土地)がほしければ、今、お前の貯金をよこせ!」と怒鳴る。
あるいは泣き声で、懇願する。

 が、他人の視線を感じたとたん、豹変する。
表情まで、別人になる。

●親子関係

 その家には、その家の人たちだけにしかわからない、裏の事情というものがある。
外の人には、それはわからない。
が、外の人は、表面的な部分だけを見て、判断をくだす。
自分の意見を添える。
しかしこういう判断や意見は、当事者たちを、とことん傷つける。
ある人(男性、50歳)は、こう言った。

 「それは心臓をえぐられるような苦しみです。
そういう経験のない人には、理解できないでしょう」と。

 とくに親子関係というのは、本能に近い部分にまで刷り込みがなされている。
それを断ち切るのは、容易なことではない。
実際には、不可能。
だから、もがく。
苦しむ。

 親戚関係にしても、そうだ。
そこに至るまでには、長い歴史というものがある。
かさぶたの上に、かさぶたが重なり、傷口にしても、原型をとどめないほどまでに、
複雑になっている。
そういうケースは多い。

●神経戦

 「村八分」という言葉がある。
「今では、死語になっている」と説く人もいる。
「遠い、昔の話」と。
しかし現実には、残っている。
ここにも、そこにも、どこにでも残っている。
「村」という単位ではなく、「親戚」という単位となると、もっと多い。

 が、「八分」にする人も、またされる人も、とことん神経をすり減らす。
すり減らしながら、神経戦を繰り返す。
果てしない消耗戦と言ってもよい。
それが5年、10年単とつづく。

●ダカラ論
 
 要するに、たとえ親戚であっても、家族の問題には、首をつっこまないこと。
相手の側から相談でもあれば、話は別だが、そうでなければ、そっとしておいて
やる。
それが思いやりというもの。
まちがっても、安易な『ダカラ論』や、『スベキ論』で、相手を責めてはいけない。

 私もいろいろあって、この『ダカラ論』や、『スベキ論』に苦しんだ。

 「お前は、子だろ」「お前は、大学まで出してもいらっただろ」「産んでもらった
だろ」「育ててもらっただろ」と。
「いくら事情があっても、親は親だからな」と言ってきた人もいた。
「だから、お前は〜〜すべき」と。

●「親戚」という呪縛

 今、「親戚」という足かせの中で、もがき、苦しんでいる人は多い。
こうした原稿をBLOGなどで発表すると、ものすごく多くの人たちから、反響が届く。
「私も……」「私も……」といった感じである。

 「正月に実家へ帰ると考えただけで、頭が痛くなります」といったレベルの
人まで含めると、3人に1人くらいはいるのでは?
つぎのような原稿があるのを思い出した。
日付を見ると、06年となっている。
今から3年前の原稿である。

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【親子の確執】

フロッピーディスクを整理していたら、

こんな相談が出てきた。



そのときは相談してきた方の立場になって、

それなりに返事を書いたつもりでいる。



しかし、記憶というのは、いいかげんな

もの。「そういうことがあったな」という

程度には、思い出せるが、そこまで。

もし偶然であるにせよ、その相談を見ることが

なかったら、私は、そんな相談があった

ことすら、思い出すこともなかっただろう。



+++++++++++++++++



 何枚かのフロッピーディスクを、整理していたら、こんな相談が出てきた。パソコンか
らパソコンへの原稿の移動には、私は今でも、フロッピーディスクを使っている。



 まず、そのときの相談を、そのままここに転載する。当時、相談をしてきた方から、転
載許可をもらった記憶だけは残っている。



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【YDより、はやし浩司へ】



 以前にもご相談させていただきましたYDです。 今回は私と実父とのことで、ご相談
をお願いしたいと思いました。 



18歳のときに、私は、今の主人とつきあい始めました。そのときは、私が進路未定の状
態だったので、私たちの交際は、猛反対されました。 



 幼稚だった私は当時、交際を隠し続けていたのですが、結局、親が知るところとなり、私
は家を飛び出し、主人の所に転がり込む形で、家族との縁を切りました。そのときから体
の不調が始まり、主人と同棲を始めると同時に、自律神経失調症とわかり、一年間、薬の
服用をしました。(主治医の先生によると、「おびえ」という症状との見解でした。)



 実家とは絶縁状態のまま結婚、出産し、4年が過ぎたころ、実母が亡くなり、家の敷居
をまたぐになりましたが、実父との関係は、今でも修復されないままでいます。



 母は子供の頃から誰にも言えない胸のうちでも、私には話せるようで、愚痴の聞き役の
ような感じでした。家を出てからも、父に隠れながら、毎日のように電話をくれました。
しかし私の話より、自分の愚痴や不安を聞かされ、私が励ます内容の電話が多かったと思
います。そのせいか、私は心のどこかで、父を軽蔑していると自分では思っています。

 

 母が亡くなった事で、法事などで実家に行くこともありますが、主人は父を嫌って極力
実家には近づこうとしません。父にはそれがもの凄く不満のようで、「もっと先祖(=私)
を大事にしてくれ」と訴えるのですが、主人は、自分の両親・姉でさえとも一線を引くよ
うなところがあり、自分と合わない人間とは付きあわないところがあります。主人の気持
ちも考えると、どちらにも強く言えないでいます。 



 このお正月に母のお墓参りに行きましたが、場所が北海道と遠いこともあり、また車で
行くということもあり、雪も降ったあとだったので、詳しい日程が立てられないまま行き
ました。



 結局、予定より2日も余裕ができたので、叔父達に会いに行くことができましたが、事
前に詳しく連絡を入れていなかったことで、父に迷惑がかかり、怒られる結果となりまし
た。



 父は「相手の立場に立って思いやりを持って行動すべきだ。相手にも都合がある。正月
という時期だから、余計に考えるべきだった。自分(=父)が何も知らせないで、勝手に
決めすぎだ」と言われましたが、今回は行き当たりばったりで、皆に迷惑をかけたのは確
かだと、自分では思っています。 



 事前に父に密に予定を話しておけば良かったことなのですが、私自身ごちゃごちゃ言わ
れたくないから、最低限のことだけ伝えればいいやと、父とのコンタクトを避けてしまっ
た結果だと、自分では思っています。 



 父は、私の家族であるリーダーは主人だから、私に言っても仕方なく、主人が考え、行
動すべきことであり、主人と話をすることを考えていると言っています。私は主人の性格
を考えると、余計に父を疎ましがるのではないかと思い、まずは私が父とコミュニケーシ
ョンを取れるようにならなければ、今の関係の改善は難しいと思うのですが。



 また、私たち家族が出向くことによって父が、叔父達に「よろしくお願いします」「お世
話になりました」と動けるように、私たちから働きかけるべきなのでしょうか? 父にそ
の必要があるのなら、父から聞いてくればいいのにと、どこか反発心もありながら、社会
を見ないまま家庭に入った身として、常識に欠けているのか判断ができずにいます。まず
何から改善すべきか見出せない現状です。



 文章が支離滅裂でお恥ずかしいのですが、先生はどう感じたでしょうか? 聞かせてい
ただけるととても嬉しいです。



++++++++++++++++++



当時のことを思い出すために、

YDさんからの相談を、自分の

原稿集の中で、検索してみた。



で、さらに驚いたことに、この相談を

もらったのは、(06年 FEB)とある。



つまり今年の2月!



私はたった9か月前のことすら、

もう忘れてしまおうとしている!



ついでにそのときYDさんに書いた

返事を、そのままここに載せる。



+++++++++++++++++



●「家族」とは何か?



 多くの人にとっては、「家族」は、その人にとっては、(心のより所)ではあるが、しか
し一度、歯車が狂うと、今度は、その「家族」が、重圧となってその人を苦しめることが
ある。ふつうの苦しみではない。心理学の世界でも、その苦しみを、「幻惑」と呼んでいる。



 そういった「家族」全体がもつ、束縛意識、結束意識、連帯意識を総称して、「家族自我
群」と呼ぶ学者もいる。こうした意識は、乳幼児期から、親を中心とする家族から本能に
近い部分にまで刷りこまれている。そのため、それから自らを解放させることは、容易な
ことではない。



 ふつう、生涯にわたって、人は、意識することがないまま、その家族自我群に束縛され
る。
「親だから……」「子だから……」という、『ダカラ論』も、こうした自我群が背景となっ
て生まれる。



 さらにこの日本では、封建時代の家督制度、長子相続制度、権威主義などが残っていて、
親子の関係を、特別視する傾向が強い。私が説くところの、「親・絶対教」は、こうして生
まれたが、親を絶対視する子どもは、少なくない。



 が、ときに、親自身が、子どもに対して、その絶対性を強要することがある。これを私
は「悪玉親意識」と呼んでいる。俗に言う、親風を吹かす人は、この悪玉親意識の強い人
ということになる。こういう人は、「親に向かって、何てことを言うのだ!」「恩知らず!」
「産んでやったではないか!」「育ててやったではないか!」「大学まで出してやったでは
ないか!」というような言葉を、よく口にする。



 もともと権威主義的なものの考え方をする傾向が強いから、人とのつながりにおいても、
上下意識をもちやすい。「夫が上、妻が下」「男が上、女が下」と。「親が上で、子が下」と
いうのも、それに含まれる。さらにこの悪玉親意識が強くなると、本来なら関係ないはず
の、親類の人たちにまで、叔父風、叔母風を吹かすようになる。



 が、親子といえども、基本的には、人間対人間の関係で、決まる。よく「血のつながり」
を口にする人もいるが、そんなものはない。ないものはないのであって、どうしようもな
い。観念的な(つながり)を、「血」という言葉に置きかえただけのことである。



 で、冒頭に書いたように、(家族のつながり)は、それ自体は、甘美なものである。人は
家族がもつ安らぎの中で、身や心を休める。が、それには、条件がある。家族どうしが、
良好な人間関係を保っているばあいのみ、という条件である。



 しかしその良好な人間関係にヒビが入ると、今度は、逆に(家族のつながり)が、その
人を苦しめる、責め道具になる。そういう例は、多い。本当に多い。子ども自身が、自ら
に「親捨て」というレッテルを張り、生涯にわたって苦しむという例も少なくない。



 それほどまでに、脳に刷りこまれた(家族自我群)は、濃密かつ、根が深い。人間のば
あい、鳥類とは違い、生後、0か月から、7〜8か月くらいの期間を経て、この刷りこみ
がなされるという。その期間を、「敏感期」と呼ぶ学者もいる。



 そこで、ここでいう家族自我群による束縛感、重圧感、責務感に苦しんでいる人は、ま
ず、自分自身が、その(刷りこみ)によって苦しんでいることを、知る。だれの責任でも
ない。もちろんあなたという子どもの責任でもない。人間が、動物として、本来的にもつ、
(刷りこみ)という作用によるものだということを知る。



 ただ、本能的な部分にまで、しっかりと刷りこまれているため、意識の世界で、それを
コントロールすることは、たいへんむずかしい。家族自我群は、意識の、さらにその奥深
い底から、あなたという人間の心を左右する。いくらあなたが、「縁を切った」と思ってい
ても、そう思うのは、あなたの意識だけ。それでその刷りこみが消えるわけではない。



 この相談を寄せてくれた、YDさんにしても、家を出たあと、「体の不調が始まり、主人
と同棲を始めると同時に、自律神経失調症とわかり、一年間、薬の服用をしました」と書
いている。また実母がなくなったあとも、その縁を断ち切れず、葬儀に出たりしている。

 

 家族自我群による「幻惑」作用というのは、それほどまでに強力なものである。



 で、ここで人は、2つの道のどちらかを選ぶ。(1)家族自我群の中に、身を埋没させ、
安穏に、何も考えずに生きる。(2)家族自我群と妥協し、一線を引きながらも、適当につ
きあって生きる。もう1つ、本当に縁を切ってしまうという生き方もあるが、それはここ
では考えない。



 (2)の方法を、いいかげんな生き方と思う人もいるかもしれないが、自分の苦しみの
原因が、家族自我群による幻惑とわかれば、それなりにそれに妥協することも、むずかし
くはない。
文字が示すとおり、「幻惑」は、「幻惑」なのである。もっとわかりやすく言えば、得体の
知れない、亡霊のようなもの。そう考えて、妥協する。



 YDさんに特殊な問題があるとすれば、あくまでもこのメールから私がそう感ずるだけ
だが、それはYDさん自身の、依存性がある。YDさんは、親に対してというより、自分
自身が、だれかに依存していないと、落ち着かない女性のように感ずる。そしてその依存
性の原因としては、YDさんには、きわめて強い(弱化の原理)が働いているのではない
か(?)。



 自信のなさ、そういう自分自身を、YDさんは、「幼稚」と呼ぶ。もう少し精神的に自立
していれば、自分をそういうふうに呼ぶことはない。YDさんは、恐らく幼いときから、「お
まえはダメな子」式の子育てを受けてきたのではないか。とくに父親から、そう言われつ
づけてきたように思う。



 そのことにYDさん自身が気づけば、もっとわかりやすい形で、この問題は解決すると
思われる。



 あえてYDさんに言うべきことがあるとするなら、もう親戚のことや、父親のことは忘
れたほうがよいということ。YDさんがもっとも大切にすべきは、夫であり、父親ではな
い。いわんや、郷里へ帰って、親戚に義理だてする必要など、どこにもない。それについ
てたとえYDさんの父親が、不満を言ったとしても、不満を言う、父親のほうがおかしい。
それこそまさに、悪玉親意識。YDさんは、すでにおとな。親戚にまで親風を吹かす父親
のほうこそ、幼稚と言うべきである。詳しくは、このあとそれについて書いた原稿を添付
しておく。



【YDさんへ……】



 お元気ですか。ここまでに書いたことで、すでに返事になってしまったようです。



 私のアドバイスは、簡単です。あなたの父親のことは、相手のほうから、何か助けを求
めてくるまで、放っておきなさい。あなたがあれこれ気をもんだところで、しかたのない
ことです。またどうにもなりません。



 父親が何か苦情を言ってきたら、「あら、そうね。これからは気をつけます」と、ケラケ
ラと笑ってすませばよいのです。何も深刻に考えるような問題ではありません。



 あなたの結婚当初の問題についても、そうです。いつまでも過去をずるずると引っぱっ
ていると、前に進めなくなります。



 で、もっと広い視野で考えるなら、そういうふうにYDさんを苦しめている、あるいは
その原因となっているあなたの父親は、それだけでも、親失格ということになります。天
上高くいる神なら、そう考えると思いますよ。



 本来なら、そういう苦しみを与えないように、子どもを見守るのが親の務めです。あな
たの父親は、結果としてあなたという子どもを苦しめ、悲しませている。不幸にしている。
だから、あなたの父親は、親失格ということになるのです。



 そんな父親に義理立てすることはないですよ。



 今は、一日も早く、「ファーザー・コンプレックス(マザコンに似たもの)」を捨て、あ
なたの夫のところで、羽を休めればよいのです。あなたの夫と、前に進めばよいのです。
あなたの夫が、「実家へ行きたくない」と言えば、「そうね」と、それに同意すればよいの
です。



 私は、あなたの夫の考え方に、賛成します。同感で、同意します。



 では、今日は、これで失礼します。



 出先で、この返事を書いたので、YDさんとわからないようにして、R天日記のほうに
返事を書いておきます。お許しください。



【YDさんより、はやし浩司へ】



++++++++++++++++++



私が返事を書いた、翌日、

YDさんより、こんな

メールが届いた。



++++++++++++++++++



はやし先生



 先ほど楽天日記を読ませていただきました。



心が楽になりました。ありがとうございまいた。



 家族自我群にあてはまるのだと教えて頂き、とても感謝しています。先生のホームペー
ジから勉強させて頂きマガジンからも勉強させていただいていますが、私は自分の都合の
良い情報ばかりを集めて自分を正当化しようと思っているのではないかと思っていました。



 先生のお書きになった通り、私は依存性が強い人間です。主人と付きあい始めた当初は
自分でも思い出したくないくらいです 苦笑。そして父から褒められた記憶はありません。



 父は「言って聞かないなら殴る。障害者になってもいいんだ」という教育方針で、私が
何か悪いことをすると、殴られるのは当たり前でした。お説教の最中に物が飛んでくるの
もよくあることでした。なので、父からのお説教があってしばらくはもう二度と可愛いと
思ってもらえないかもしれないという恐怖心は強かったと、今になると思います。



 それでも、学校をさぼったりしていたのは、何でだったのか、まだ当時の自分を自己分
析できずにいますが・・・。



 「大切にされた記憶がない」と話すと、父は、「毎週(月曜日に剣道に通っていたのです
が、終わるのが夜の9時でした)、迎えに行っていたのになぁ」と言われた事があります。
私が父の愛情に気付いていなかっただけなのか、自分がされた嫌な事だけしか覚えていな
いから私は自分を悲劇のヒロイン化させているのかと思っていました。



 その反面、(私は中学生でしたが)、当時の心境は、「夜遊びに走らないように監視されて
いる」のが本当のところではなかったのかと思います。きっとその頃からひずみはすでに
始まっていたんでしょう・・・。



 自分では私は「アダルトチルドレン」に入るのではないかと思っています。社会との繋
がりがうまく持てない焦りから、今の自分のままでは子供達の成長に良くないのではない
かと焦っています。父に「親や、その親、親の兄弟あってのお前なんだから、まわりを大
切にすべきだ」と強く言われる事で、自分を見失ってしまいました。



 父の事を思い起こすと未だに震えが起こるので、きちんと文章になっているのか不安で
すがお時間を割いて頂きありがとうございました。



 追伸・「ユダヤの格言xx」という本の中で、「父親の生き方から夫の生き方に変え、逆
境のときは夫を支え、喜びを分かち合い、女中を雇う余裕があっても怠けることなく、話
をしてくるものにはわけへだてなく対応し、困っている人には手を差し伸べる」(ユダヤ人
の伝統的な良き妻の像)と言う説を手帳に書き写したことがあります。楽天の日記を読ませ
ていただきこの事を思い出しました。 



 個人的なのですがこの本の先生の見解にとても興味があります。

 長々と読んでいただきありがとうございました。



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●悪玉親意識



悪玉親意識についての原稿を添付しておきます。



++++++++++++++++



●悪玉親意識



 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子
どもを自分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。その悪玉親意識にも、こ
れまた二種類ある。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型親意識。



 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分
の価値観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしよ
うとする。子どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をす
る。



 これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもを
その「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなってい
るため、たいていは無意識のうちのそうすることが多い。親は親で「産んでやった」「育て
てやった」と言い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育てていただきました」
と言う。



 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ
姿」という)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子ども
の歓心を買いながら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。



 「あなたを育てるためにママは苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子ど
もにするのが前者。クリスマスなどに豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気
に入られようとするのが後者ということになる。



 以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、
先生の方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それも
ここでいう後者ということになる。

 これらを表にしたのがつぎである。



   親意識  善玉親意識

        悪玉親意識  非依存型親意識

               依存型親意識   押しつけ型親意識

                        コビ売り型親意識

 

 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようにな
る。それは当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。
はたしてあなたの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分
析してみると、おもしろいのでは……。



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もう1作……



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●子育て、はじめの一歩



 先日、あるところで講演をしたら、一人の父親からメールが届いた。いわく、「先生(私
のこと)は、親は子どもの友になれというが、親子にも上下関係は必要だと思う」と。



 こうした質問や反論は、多い。講演だと、どうしても時間的な制約があって、話のあち
こちを端(はし)折ることが多い。それでいつも誤解を招く。で、その人への説明……。



 テレビ番組にも良質のものもあれば、そうでないのもある。そういうのを一緒くたにし
て、「テレビは是か非か」と論じても意味がない。同じように、「(上下意識のある)親意識
は必要か否か」と論じても意味はない。親意識にも、つまり親子の上下関係にも、いろい
ろなケースがある。私はそれを、善玉親意識と、悪玉親意識に分けている。



 善玉親意識というのは、いわば親が、親の責任としてもつ親意識をいう。「親として、し
っかりと子どもを育てよう」とか、そういうふうに、自分に向かう親意識と思えばよい。
一方、悪玉親意識というのは、子どもに向かって、「私は親だ!」「親に向かって、何だ!」
と、親風を吹かすことをいう。



 つまりその中身を分析することなく、全体として親意識を論ずることは危険なことでも
ある。同じように「上下意識」も、その中身を分析することなく論じてはいけない。当然、
子どもを指導し、保護するうえにおいては、上下意識はあるだろうし、またそれがなけれ
ば、子どもを指導することも、保護することもできない。しかし子どもの人格を認めると
いう点では、この上下意識は禁物である。あればじゃまになる。



 親子の関係もつきつめれば、一対一の人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだか
ら……」と、「だから」論で、たがいをしばるのは、ときとしてたがいの姿を見失う原因と
なる。日本人は世界的にみても、上下意識が強い民族。親子の間にも、(あるいは夫婦の間
ですら)、この上下意識をもちこんでしまう。そして結果として、それがたがいの間にキレ
ツを入れ、さらにはたがいを断絶させる。



 が、こうして疑問をもつことは、実は、子育ての「ドア」を開き、子育ての「階段」を
のぼる、その「はじめの一歩」でもある。冒頭の父親は、恐らく、「上下関係」というテー
マについてそれまで考えたことがなかったのかもしれない。しかし私の講演に疑問をもつ
ことで、その一歩を踏み出した。ここが重要なのである。もし疑問をもたなかったら、そ
の上下意識についてすら、考えることはなかったかもしれない。もっと言えば、親は、子
育てをとおして、自ら賢くなる。「上下意識とは何か」「親意識とは何か」「どうして日本人
はその親意識が強いか」「親意識にはどんなものがあるか」などなど。そういうことを考え
ながら、自ら賢くなる。ここが重要なのである。



 子育ての奥は、本当に深い。私は自分の講演をとおして、これからもそれを訴えていき
たい。

(はやし浩司 親意識 親との葛藤 家族自我群 はやし浩司 幻惑 はやし浩司 家庭
教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 悪玉親意識 善玉親
意識 親風を吹かす親 上下意識)



【付記】



 今回、ここまでの原稿を再読してみて、いくつか気がついたことがある。



 そのひとつは、ここでいう「悪玉親意識」というのは、(親子の間)だけの話ではないと
いうこと。



 悪玉親意識、つまり親風を吹かす人は、あらゆる場面で権威主義的なものの考え方をす
る。
たとえば弟や妹に対しては、兄風、姉風を吹かす。甥(おい)や姪(めい)に対しては、
叔父風、叔母風を吹かすなど。



 あらゆる場面で上下意識が強く、そのわずかな(差)の中で、人間の優劣を決めてしま
う。



 で、本人は、それでそれなりにハッピーなのかもしれない。また多くの場合、その周囲
の人たちも、それを認めてしまっているから、それなりにうまく(?)いく。兄風を吹か
す兄と、それを受け入れる弟との関係を想像してみればよい。



 こうした上下意識は、儒教の影響を受けた日本人独特のもので、欧米には、ない。ない
ものはないのであって、どうしようもない。はっきり言えば、バカげている。この相談を
してきたYDさんの父親にしても、ここでいう悪玉親意識のたいへん強い人だということ
がわかる。「親は親だ」「親は偉い」という、あの悪玉親意識である。YDさんは、父親の
もつその悪玉親意識に苦しんでいる。



 が、ここで話が終わるわけではない。



 今度はYDさん自身の問題ということになる。



 現在、YDさんは、父親の悪玉親意識に苦しんでいる。それはわかる。しかしここで警
戒しなければならないことは、YDさんは、自分の父親を反面教師としながらも、別のと
ころで自分を確立しておかないと、やがてYDさん自身も、その悪玉親意識を引きついで
しまうということ。



 たとえば父親が、亡くなったとしよう。そしてそれからしばらく時間がたち、今度はY
Dさん自身が、なくなった父親の立場になったとしよう。すると、今度は、YDさん自身
が、なくなった父親そっくりになるという可能性がないわけではない。



 ユングが使った「シャドウ」とは少し意味がちがうかもしれないが、親がもつシャドウ
(暗い影)は、そのまま子どもへと伝播(でんぱ)していく。そういう例は、多い。ひょ
っとしたらあなたの周辺にも似たようなケースがあるはず。静かに観察してみると、それ
がわかる。



 で、さらに私は、最近、こういうふうに考えるようになった。



 こうした悪玉親意識は、それ自体がカルト化しているということ。「親絶対教」という言
葉は、私が考えたが、まさに信仰というにふさわしい。



 だからここでいう悪玉親意識をもつ親に向かって、「あなたはおかしい」「まちがってい
る」などと言ったりすると、それこそ、たいへんなことになる。だから、結論から先に言
えば、そういう人たちは、相手にしないほうがよい。適当に相手に合わせて、それですま
す。



 実は、この私も、そうしている。そういう人たちはそういう人たちの世界で、それなり
にうまく(?)やっている。だからそういう人たちはそういう人たちで、そっとしておい
てやるのも、(思いやり)というものではないか。つまりこの問題は、日本の文化、風土、
風習の分野まで、しっかりと根づいている。私やあなたが少しくらい騒いだところで、ど
うにもならない。最近の私は、そう考えるようになった。



 ただし一言。



 あなたの住む世界では、上下意識は、もたないほうがよい。たとえば兄弟姉妹にしても、
名前で呼びあっている兄弟姉妹は、そうでない兄弟姉妹より仲がよいという調査結果もあ
る。



 「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼びあうよりも、「ヒロシ」「アキコ」と呼びあうほうが、
兄弟姉妹は仲がよくなるということ。



 夫婦についても、同じように考えたらよい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++++はやし浩司

●2009年8月5日に……

YDさんとのやり取りをしたのが、2006年の2月〜。
それからすでに3年。
改めて自分の書いた原稿を読み直してみる。
「おもしろい」と思うよりも前に、それ以後の私が、ほとんど進歩していないのを知る。
ここに書いた「悪玉親意識」(これは私が考えた言葉)にしても、今では、あちこちで
使われるようになった。
(ためしに、「悪玉親意識」で検索してみるとよい。)

 今回は、「悪玉親戚意識」ということになる。
何かにつけて、年長者が、年長風を吹かす。
たった1、2歳、年上というだけで、相手に向かって説教したりする。
一方、たった1、2歳、年下というだけで、自分は、それをだまって聞く。

 こうした傾向は、地方の田舎へ行けばいくほど、強くなる。

●決別

 私も今回、親類とは、決別することにした。
もちろん、中には親しく交際している人もいる。
そういう人はそういう人で、大切にしたい。

 ただ意識の上から、「親戚」というものを、はずす。
はずした上で、交際する人とは交際し、交際しない人とは、交際しない。
親戚であるとかないとか、そういうことで、相手を判断したくない。
江戸時代の昔なら、いざ知らず。
今は、そういう時代ではない。

 ついでに兄弟、姉妹についても、そういった意識とは決別する。
といっても、私には実姉は、1人しかいない。
大切にしたいとは思うが、今では他人以上の他人になってしまった。
たがいに歳を取りすぎたこともあるが、それ以上に、人生観がまったくかみ合わない。
……というより、実姉にも、どこか認知症の気配が出てきた(……と思う)。
会話そのものが、まったく、かみ合わない。

 ワイフの兄弟たちとは、うまく(たぶん?)、付き合っている。
みな、この浜松市内、およびその周辺に住んでいる。
たがいの行き来もある。
私にとっては、親類というよりは、友だち。
ワイフ自身も、そう思っている(?)。

 で、今、世の中が、急速に変化しつつある。
旧態依然の義理とか、人情とかいう世界が、音をたてて崩れ始めている。
冠婚葬祭にしても、質素になってきた。
驚いたのは、このあたりでも、初盆すらしない家庭がふえていること。

 正確な数字を改めて、拾ってみたい。

●初盆はしない

 ワイフの実母が、浜名湖畔にある、I村という、村の出身である。
昔から何かとしきたりが、きびしい土地がらである。
そんな村で、昨年(08年)、15世帯の家の人たちが、初盆を迎えることになった。
しかし実際、初盆の供養(僧侶、親戚を呼んでの儀式)をした家庭は、7世帯
だけだったという。

 この数字は、私が改めて確認したものなので、正確。

 浜松市内のような都会での数字ではない。
I村という、(昔からのしきたりが、きびしい土地)での話である。

 私はその話を、直接、喪主から聞いた。
加えて、驚いた。

●これからの日本

 で、それがよいことなのか、悪いことなのかは、私にもわからない。
どういう方向に向かっているのかも、私にもわからない。
わからないが、今、この日本も、大きく変わりつつある。
それだけは事実。

 で、来週あたり、私は、実兄と実母の、一周忌の法要をすることになっている。
(私の宗派では、盆供養はしない。
その代わり、一周忌の供養はすることになっている。)

 それについて、「私は、それが最後」と心に決めている。
私も、今年、満62歳になる。
自分の哲学や人生観をねじまげてまで、世間に迎合するのも疲れた。
もとはといえば、『地蔵十王経』。
鎌倉時代にできた、まっかなニセ経。
そんな経典に従って、何年も何年も、供養(?)をつづけることに、どういう意味が
あるのか。
それがはたして、仏教と言えるのか。
(教え)と言えるのか。
 
 簡単に言えば、日本の仏教そのものが、カルト化している。
カルト化したまま、日本の風土の中に、定着してしまっている。

●人それぞれ

 頭が熱くなったが、親戚づきあいにしても、そのカルトの上に乗っている。
もちろん、たがいに濃密な世界を築いている人もいれば、希薄な人もいる。

 私の実家は濃密だが、それと比べると、ワイフの実家は希薄である。
また同じワイフの兄弟、姉妹でも、濃淡には、大きな違いがある。
だから最初の話に戻る。

「親戚づきあい。
いろいろある。
人それぞれ。
みな、ちがう」と。

 たがいにうまくいっているなら、それはそれでよい。
何も私のような他人がとやかく言う必要はない。
ただこれだけは、覚えておいてほしい。

 自分たちがうまくいっているからといって、その尺度で他人を見てはいけない
ということ。
自分の価値観、あるいは価値基準を他人に押しつけることだけは、避けてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
親類づきあい 親戚付き合い 親類との確執 親子の確執)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【働くしか能がない】

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AS首相は、「(老人たちは)働くしか能がない」と言う。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
が、しかし(働く)ということは、とても大切なこと。
今日も、こんな経験をした。

++++++++++++++++++++

●昼寝

 ここ数年、ちょうど昼ごろ、昼寝をすることが多くなった。
とくにこの1年、それが日課になりつつある。
朝、早く起きるということもある。
それもあって、一仕事したあと、時刻的には、午前10時〜11時ごろ、
もう一度、床に入って、眠る。

 昼寝といっても、1時間以上、眠ることは、めったにない。
たいてい静かに目を閉じているだけ。
が、ときに30〜40分間くらい眠ることがある。
今日もそうだった。
午後1時ごろ、いつものように、ふとんの上に横になった。

 で、仕事に行く時刻になった。
時計を見ると、1時45分。
少し眠ってしまった。
夢の残像が、まだ残っていた。

 が、私は血圧が低い。
目を覚ましたからといって、すぐには起き上がれない。
そのままの姿勢で、5分前後、まわりを眺めたりして、過ごす。
が、そのとき、ワイフが心配して、私を起こしにきた。
私は体にぐいと力を入れて、体を支える。
その勢いを借りて、起き上がる。

 そのときのこと。
私は、こう思った。
「もし、仕事がなかったら、私はどうなるのだろう?」と。

●選択

 「仕事に出かけなければ……」という思いがあるからこそ、私は起き上がる。
無理をしてでも、起き上がる。
が、もし仕事がなかったら、私はだるい体になまけて、そのまま眠ってしまうに
ちがいない。
ワイフも起こしには、こないだろう。

が、そのまま眠ってしまったとしたら……。
そんな生活を、毎日のようにつづけたとしたら……。

 私はそのまま老人の仲間入りをしてしまうことになる。
だから起き上がるとすぐ、私はワイフにこう言った。
「仕事があるということは、それだけでも、ありがたいことだね」と。

 ……たしかに、つらい。
だらけた体にムチ打って、起き上がるのは、たしかにつらい。
しかしその(つらさ)があるからこそ、私には、(今日)がある。
(健康)もある。
これはお金(マネー)の問題ではない。
仮に、つぎうちのひとつを選べと言われたら、私はまちがいなく、(2)の
ほうを選ぶ。

(1)年金を30万円もらって、遊んで暮らす。
(2)給料を30万円もらって、働く。

 もっとも仕事といっても、ハードなものはできない。
(そこそこの仕事)ということになる。
もっと言えば、収入に見合った、楽な仕事ということになる。
そうであるなら、遊んで暮らすよりは、働いていたほうがよい。

 それがつぎの(健康)へとつながっていく。

●働く喜び

 (働ける)ということは、それ自体が、大きな喜びである。
働くことによって、生活に緊張感とリズムが生まれる。
で、その私がもし働かなくなったら、どうなるか。
想像するだけでも、ぞっとする。
そのことは、現に、仕事から引退して、日々を無益に過ごしている人を見ればわかる。

 もっとも人は、ふつうの精神状態であるなら、何もしないで過ごすことはできない。
(退屈)は、それ自体が、(苦痛)。
その苦痛に、人はそれほど長くは耐えられない。
だからほとんどの人は、退職したりすると、何かの運動や、ボランティア活動を
始めたりする。
孫の世話や、庭いじりをする人もいる。
が、それにも限界がある。
やがて虚(むな)しさに襲われるようになる。

たいていは何かの病気や事故をきっかけに、運動をやめたり、ボランティア活動から
遠ざかったりする。
が、一度中断すると、もとに戻るのは、至難のわざ。
たいへん難しい。
そこであとはやがて、お決まりの老人メニューに沿って、そのまま死の待合室へ……。

 であるとするなら、できるだけ現役時代を、つづける。
延ばす。
限界の、そのまた限界を感ずるまで、働く。
そしてここが重要だが、(死)がそこにきたら、いさぎよくそれを受け入れる。

 これは口で言うほど簡単なことではないかもしれない。
それはわかっている。
しかしもしそうなったら、いさぎよく、運命を受け入れる。
それが(死)であるなら、それもしかたのないこと。
今の私は、(本当のところ、自信はないが)、そう考える。

●「働くしか能がない」

 そんなわけで、確かに、「働くしか能がない」かもしれない。
ほかにやりたいこともない。
できることもない。
少なくとも、今の私には、働くしかない。
一方、「遊べ」と言われても、私は、すぐそのつぎを考えてしまう。
「遊んだからといって、それがどうなの?」と。

 AS首相は、失言をカバーするため、「歳をとってから、新しい遊びを見つける
ことはできない」と言った。
これも、たしかにそうかもしれない。
そうでないかもしれない。

しかし私は、遊びたくない。
遊んで、時間を無駄にしたくない。
繰り返すが、遊んだからといって、それがどうなのか。
今の私にとって、そして多くの老人にとっては、(時間)イコール(命)。
その命を、無駄にしたくない。
今さらゴルフ(AS首相)ができるようになったからといって、それがどうなのか?

私「どんなことがあっても、最後の最後まで、ぼくは仕事をするよ」
ワ「それがいいわね」
私「何も仕事をしなくなってしまったら、ぼくは、気が変になる」
ワ「そうね」と。

(補記)

●老後の生きがい

 生きがいなくして、老後を生きるのは、むずかしい。
心豊かに生きるのは、さらにむずかしい。

私の知人(現在85歳、男性)に、こんな人がいる。
満55歳で役所を定年退職をしたあと、この30年間、ほとんど家の中に
引きこもったまま。
妻が薬剤師をしていたこともあり、自分では、それ以後、仕事をしたことはない。
ただの一度もない。
人づきあいも、まったくといってよいほど、しない。

 その知人を、この30年間の様子を、10年単位で輪切りにしてみると、
ますます変人かつ、がんこになっていくのがわかる。
その一例だけをもって、こう結論づけるわけではないが、私は、ああはなりたくない。
いくら年金生活といっても、そんな年金生活に、どんな意味があるというのか。
10年を1日にして、生きているだけ。

 しかも10年ごとに、より賢くならまだしも、ここに書いたように、ますます
おかしくなっていく。
軽い認知症も起こしている。
一度、脳梗塞か何かで、救急車で運ばれたこともある。

 もっとも当の本人は、他人のそれと比較することもない。
自分の生活がどういうものであるか、それを知ることはない。
病気にたとえるなら、病識そのものがない。
で、私はいちばん恐れるのは、そのこと。
自分が変人になりつつありながら、それに気づかないというのは、恐怖以外の
何ものでもない。
それこそ私が、(私)でなくなってしまう。
(すでにその兆候が現れつつあるのかもしれないが……。)

 どうすれば、自分の変化を知ることができるか。
またどうすれば自分が変化することを、食い止めることができるか。
そのためにも、仕事をつづけることは、重要なこと。
社会との接触を保つこと。
仕事そのものが、社会につながる(窓口)ということになる。

 だから、みなさん!
私たちは働こう。
最後の最後まで、働こう。
お金(マネー)のためではない。
私たち自身のためである。
「働くしか能がない」と言われても、構わない。
気にすることはない。
そんなことは、どこかのバカに言わせておけばよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 老後の生きがい 老後の生き方 統合性)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司

【離婚・補記】

●ある離婚

 先ほど、ある夫婦の離婚問題について、意見を書いた。
東北地方のある県に住む人から、相談があった。
自分なりに、意見をまとめた。

が、人との出会い、別れは、この世のつきもの。
それはわかる。
が、離婚は、別。
最大の別れということになる。
その深刻さには、想像を絶するものがある。
敗北感もある。
挫折感もある

たとえば「離婚」にしても、「明るく、さわやかに」とはいうものの、そう簡単には
いかない。
ほとんどのばあい、それに先立って、はげしい騒動、あるいは冷却しきった
夫婦関係がつづく。
神経を、互いにとことん、すり減らす。
その結果の離婚ということになる。

 また離婚したあとも、たいへん。
先日も、ある夫婦が離婚した。
夫は、養子縁組をしたあと、その家のひとり娘と結婚した。
ついでに戸籍の筆頭者になった。

こういうケースのばあい、離婚したといっても、養子縁組は、そのまま残る。
戸籍の筆頭者になっているから、養子縁組を解消するためには、また別の手続きが
必要となる。

 元夫は、「離縁しない」とがんばっている。
元妻は、「先祖の財産は、1円も渡さない」とがんばっている。
こうなると、離婚騒動も、泥沼化する。
家庭裁判所での離婚調停という方法もあるが、実際には、怒鳴りあいになって
しまうという。
話しあいにならないという。

●夫婦とは何か 

 こうした離婚劇をみていると、(「劇」という文字を使うこと自体、失礼なことだが……)、
「では、夫婦とは何か」と、そこまで考えてしまう。
どの夫婦も、結婚するときは、それなりの覚悟をもって、結婚する。
多くは、家族や親類に祝福され、また多くは、その夫婦の年収分以上のお金をかけて、
結婚式をあげる。

 が、離婚する人は、離婚する。
その結果、日本人の離婚率は、20数%ということになっている。
が、その一歩手前で、ふんばっている夫婦となると、その数倍はいる。
ほとんどが、そうではないか。

 つまり夫婦を維持するためにも、それなりの努力が必要。
その努力なくして、夫婦は、夫婦でありえない。
結婚というのは、そういうもの。
その(努力)を前提として、成り立っている。

●夫婦としての努力

 共働きといっても、夫婦で同じ仕事に取り組んでいるようなケースでは、離婚率は、
ぐんと低くなる。
たとえば農業経営者。
私が知るかぎり、農業を営んでいる夫婦で、離婚した人はいない。
あるいはたいへん少ない。
商店経営者、理髪店経営者も、そうだ。

 夫婦が、生活の歯車の中に、がっちりと組み込まれているため、「離婚したくても、
離婚できない」という現状が、そこにある。

 一方、これも私が知るかぎり……という話になるが、離婚する夫婦というのは、
夫がサラリーマンであるケースが、ほとんど。
「熟年離婚」となると、とくにそうである。
結婚したときから、別々の生活が始まる。
重なり合う生活そのものが、少ない。

 そこでひとつのヒントだが、仮に夫がサラリーマンであっても、夫婦は、共に、
同じ生活の場をもったほうがよいということ。
(同じ生活の場)をもつという意味で、努力が必要となる。
「あなたは、あなた」「私は、私」という夫婦もいるが、そういう夫婦は、ささいな
きっかけでも、離婚ということになってしまう。

 夫婦には、その(ささいなきっかけ)が、つきもの。
毎日が、その連続と言ってもよい。
 
●私たち夫婦

 私たち夫婦のばあい、基本的には、サラリーマン家庭ということになる。
(仕事)という面で、ワイフとの接点は、ほとんど、ない。
ここ4、5年になってはじめて、何かと手伝ってくれるようにはなったが、それ以前は
というと、まったくと言ってよいほど、接点はなかった。

 が、それではいけない。
それがわかったから、最近は、できるだけワイフにも仕事を手伝ってもらうように
している。
講演に招かれることも多いが、できるだけいっしょに行くようにしている。
趣味も、運動も、できるだけいっしょにするようにしている。
ワイフにとっては、私はうるさい夫かもしれないが、そうでもしないと、私たち夫婦は
バラバラになってしまう。
そういう危機感は、いつも、ある。

 理由がある。

 私は、愛情の希薄な家庭で生まれ育っている。
とくに私の脳みそには、ちゃんとした父親像が入っていない。
ワイフも、4、5歳のとき、母親を亡くしている。
ちゃんとした母親像が入っていない。
ときどきワイフの中に、ぞっとするような(冷たさ)を感ずることもある。
だから「努力が必要」ということになる。

●結論

 『子はかすがい』とはいうが、子どもを理由にして、離婚を思いとどまる必要はない。
大切なのは、離婚の仕方。
できれば「明るく、さわやかに」となる。
子どもに与える影響を考えるなら、それが正しい。
子どもに与える影響は、最小限にとどめたい。
またそれが夫婦の責任であり、子どもへの愛ということになる。

 が、これも実際には、むずかしい。


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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 2日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================

9月2日  第1247号になりました!

★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの問題

子どもの問題をかかえて、悩んでいる人は多い。
「勉強をしない」
「目標をもってない」
「毎日、だらだらしている」
「自覚がない」
「親子の会話が途絶えた」などなど。

しかしそういうとき、どうして親たちは、自分の姿を見ないのか?
自分のこととして、考えないのか。
つまり「私自身はどうなのか」と、なぜ、考えないのか。

ある母親は、こう言った。
「うちの子(中学3年、男子)は、学校から帰ってきても、受験勉強どころか、
学校の宿題もしません。どうしたらいいですか」と。

私はその質問を聞いて、こう思った。
(思っただけで、言わなかったが……。)
「だったら、お母さん、あなた自身が勉強をすればいい」
あなた自身が、東大へ入ってみせればいい」と。

先に書いた親の悩みについても、同じようなことが言える。

「勉強をしない」(だったら、あなたは勉強をしているのか?)
「目標をもってない」(だったら、あなたは目標をもっているのか?)
「毎日、だらだらしている」(だったら、あなたは、きびきびとしていのか?)
「自覚がない」(だったら、あなたは自覚しているのか?)
「親子の会話が途絶えた」(だったら、あなたは会話をしているのか?)、と。

最近の考え方としては、「子どもは家族の代表にすぎない」とする。
子どもに何かの問題があったとしても、それは子どもだけの問題ではない。
家族全体の問題である。
子どもに現れた症状は、あくまでもその(結果)にすぎない。
そう考えて、対処する。

かなりきびしいことを書いたが、それくらいの心構えをもってこそ、
ちょうどよい。
私たち日本人は、親意識が強い。
子どもだけをみて、子どもを何とかしようと考える。
しかしそういう見方では、問題は解決しない。
子どもも納得しないだろう。

 
Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司

●愚痴(Complaint or Grumble)

++++++++++++++++++++++++

英語と日本語を一致させることはできない。
微妙にニュアンスがちがうことが多い。
たとえば「愚痴」を、英語では、「complaint(不平・不満)」という。
しかし「愚痴」と、「complaint」は、どこかちがう?
そういうことはあるが、その「complaint」について、アメリカの精神医学会
(American Psychiatric Association)は、「不安神経障害(Anxiety Disorder)」
の主症状のひとつにあげている(DSM-4)。

愚痴をあれこれ言うこと自体、「障害(Disorder)」のひとつというわけである。
なるほど!
だから、愚痴は言わない。

APAのHPには、つぎのようにある(一部抜粋)。

In behavioral health care as in general medicine, when an individual complains of a 
subjectively experienced disturbance or unpleasant perception such as pain or anxiety, 
we call this a symptom. We distinguish this from a sign such as slurred speech which a 
professional can observe.
(苦痛や心配ごとのような混乱や不快感について、不平、不満を訴えることを、「症状」と
いい、たとえばおどおどした態度のような、専門家でないと区別できないような症状を、「兆
候」という。)

+++++++++++++++++++++++++

●日本語

 日本語を使っているとき、ときどき、こう感ずることがある。
「日本語って、すぐれているなあ」と。
とくに(心)を表現する用語が、きわめて豊富である。

 たとえば10年ほど前から、欧米では、さかんに「attachment(アタッチメント)」
という言葉が使われるようになった。
「愛着行為(行動)」と翻訳されている。
が、これなどは、「赤ちゃん返り」の類義語と考えればよい(反論もあるだろうが……。)

 心理学で言う「固着」にしても、日本語には、「わだかまり」とか、「こだわり」とか
いう言葉がある。その類義語と考えればよい。(反論もあるだろうが……。)

 さらに日本語には、「取り越し苦労」とか、「ヌカ喜び」という言葉もある。
これなどは、まさに「不安神経障害(Anxiety Disorder)」の主症状のひとつと考えてよい。
(反論もあるだろうが……。)
精神的に不安定な人ほど、取り越し苦労とヌカ喜びを、いつも繰り返す。

 私たちは専門家ではないから、(逃げるわけではないが……)、要するに、心理学と
いっても、よりよく自分の人生を生きるための道具にすぎない。
またそういう目的のために利用すればよい。
(それでお金を稼いでいる人は別だが……。)

冒頭にあげた、愚痴(complaint)にしてもそうだ。
「愚痴を口にしたら、精神状態はふつうでない」と考えてよい。
(反論もあるだろうが……。)

●K子さん(62歳)の例

 当時、私は無料で、電話相談なるものを受け付けていた。
そんなある日、K子さんという女性から、家族の問題について、相談があった。
静かで、落ち着いた女性だった……と感じたのは、最初の1回目のときだけ。
それにつづく相談は、まさに「?」としか思えないようなものだった。

 いくつか特徴があった。

(1)一方的にしゃべるだけ。
(2)不平、不満をしゃべるだけ。
(3)「では、どうすればいいのか」という話し合いができない。
(4)ことこまかに、どうでもよいことを、しゃべるだけ。
(5)つぎの相談のときには、前の相談のことを忘れてしまっている(?)。
(6)前回の相談のときの矛盾をつくと、パニックになる。
(7)「私はすばらしい」「まちがっていない」ということを強調する。
(8)私が反論的な意見をそえると、それに猛反発する。
(9)子どもの相談といいながら、ときとして、夫や姑の話になる。
(10)そういう電話が、毎回、ときに1時間以上も、ねちねちとつづく。

 当時の私は、「愚痴を聞いてやるだけでもいいのでは」と考えて、K子さんの
言うままにしておいた。
しかしまともに聞いていると、こちらまで気が変になりそう。
そう感じたから、ときには受話器を耳からはずして、「そうですか」「そうですね」だけを
繰り返した。
一度だが、私の方から電話を切ろうとしたことがある。
とたん、K子さんは、パニック。
激怒。

「どうして私の話を聞いてくれないのですかア!」と。

●愚痴 

 「愚痴は言わない」というのは、さわやかに生きるための大鉄則。
だが、同時に、「他人の愚痴を聞かない」というのも、重要。
愚痴には、恐ろしい魔力がある。

 仏教でも、肉体の奴隷になることを、強く戒めている。
もし肉体の命ずるままに、精神が動揺したら、人間はそのまま畜生と化す。
その中でも、とくに警戒すべきものが、『貪(どん)』『瞋(しん)』『痴(ち)』。

ここでいう『痴』というのは、仏教でいうところの『愚痴(ぐち)』をいう。

 要するに、(愚かさ)が極まった状態を、『痴(ち)』といい、それが愚痴の語源に
なっている。
わかりやすく言えば、愚痴を言うこと自体、その人が愚かであることを意味する。
その(愚かさ)に接していると、接するこちら側まで、愚かになる。
だからある賢人は、こう言った。

 「怒っていたら、愚痴を言うな。愚痴を聞いても、怒るな」と。
けだし、明言である。

 ともかくも、愚痴を言うということ自体、アメリカでは、精神障害(mental disorder)
を疑われるということ。
日本では、愚痴を軽く考える傾向があるが、アメリカでは、そうでないということ。
気をつけよう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 愚痴 愚痴論 complainment 不安神経障害)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●8月4日(ダイエット、一考)(Dieting)

++++++++++++++++++

私にも夏休みがある。
1週間ほど、それがもらえる。
その夏休みが、近づいてきた。
が、今年の予定は、なし。
実家の売却、法事とつづく。
それが無事すまないことには、
どうも落ち着かない。

+++++++++++++++++++

●こむら返り

 おととい、夜中にジョギングしているとき、突然、こむら返りが起きた。
コムラ返りそのものは、すぐ収まったが、そのあと筋肉離れでもしたかのような激痛。
で、あえなく、ジョギングは、中止。

 が、それで運動をやめたのでは、(はやし浩司)が泣く。
昨夜は、5キロ前後を歩き、プラス2キロ前後を走った。
おかげで家に帰ったときには、足は棒のようになっていた。
静かにしていれば、何ともないが、歩き始めたとたん、ギギーンと痛む。

●はやし浩司流、ダイエット法
 
 いろいろなダイエット法がある。
いろいろな人が、本を書いている。
が、どれも基本的には、同じ。
運動と食事制限。
この2つが柱になっている。

しかし「はやし浩司流、ダイエット法」は、少しちがう。
生きる哲学そのものを見直そうというのが、それ。
その哲学を変えないかぎり、ダイエットは、成功しない。

●ダイエット哲学

 「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損なのか」。
すべてはそこから始まり、そこで終わる。

 私たちは、あらゆるものを金銭的価値に置き換えて、ものを考える傾向が強い。
たとえばレストランへ入ったとるする。
800円のランチを頼んだとする。

 そういうとき私たちはこう考える。
「800円出したのだから、800円分、しっかりと食べなければ、損」と。
しかしこの考え方そのものが、おかしい。
まちがっている。
まず、それに気づく。

●どうして食べなければ、損なのか?

 私は子どもたちに、よくこう言う。
「ぼくの車は、ビッツ(トヨタの最安車)だけど、体はベンツ(高級車)だよ」と。
冗談ぽく言うが、冗談ではない。
かなり本気である。
「トヨタのビッツのような車で、ベンツのような体か、それともベンツのような車で、
ビッツのような体か」と、問われれば、私なら、(ベンツのような体)のほうを、選ぶ。

 私たちの精神は、ズイのズイまで、金銭的判断に毒されている。
いつも損得を考えて、行動している。
そのことは、食べ放題の店に入ってみると、よくわかる。
どの人も、食べなければ損……といったふうに、食べている。
たとえばケーキでも、パクパクパクの3回で、3個!

 が、そういう人ほど、例外なく、太っている。
見た目にはどうであろうとも、体はビッツ(失礼!)ということになる。

●「食べたら、損(そこ)ねる」

 「食べたら、損ねる」。
まず、それに気づく。
太っていてよいことは、何もない。
メタボリック症候群を例にあげるまでもない。

 が、問題は、なぜ太るか、だ。
こう質問すると、「腹がへるからだ」と、たいていの人は、そう答える。
しかし本当にそうだろうか?
そう考えてよいのだろうか?

 実際にはそうではなく、ほとんどの人は、(食べている)のではなく、
(食べさせられている)だけ。
食欲の命ずるがまま、操られているだけ。

まず、それに気づく。

●損得論

 繰り返す。 
私たちの生活は、金銭的判断によって、あまりに毒されすぎている。
わかりやすく言えば、何を食べるにも、「もったいない」という意識が働く。
「もったいないから、食べる」と。

 が、「もったいない」という意識が、たとえば「世界の食糧そのものが不足している
から」と考えて、そこから生まれているのなら問題ない。
あるいは「食べ物を大切にしよう」という意識でもよい。
しかしもしそれが、「食べなければ損」という意識から生まれているとしたら、おおいに
問題あり、ということになる。

 つまり健康そのものを、金銭的判断に置き換えて考えること自体、まちがっている。
健康はお金では買えない。
さらに言えば、命は、お金では買えない。
少しおおげさな感じがしないでもないが、しかし、健康を考えるなら、一度自分の
中から、金銭的な損得論を消し去らなければならない。

 つまりそれが「はやし浩司流、ダイエット法」の、第一歩ということになる。

●心の実験

 レストランへ入る。
私の好物は、その店の五目焼きそば。
一品(いっぴん)である。
値段は1200円。

 そのとき、こんな実験をしてみる。
最初に自分で、食べる量を決める。
3分の1なら、3分の1でもよい。
箸で、「ここまで食べて、残りは、捨てる」と。

 空腹なとき、この判断をするのは、かなりきびしい。
値段から計算すると、1200円のうちの、800円分を捨てることになる。
(本来なら、料理の量を3分の1にしてもらい、値段も3分の1にしてもらうのが
よいのだが……。)

 実際には、3分の1ほどを食べたところで、さらに空腹感が増大してくる。
かなり強烈な空腹感である。
メカニズム的には、アルコール中毒の人や、ニコチン中毒の人が、酒やタバコを
求める作用と同じ。
視床下部あたりの指令を受けて、脳内にドーパミンが充満する。

 が、心を鬼にして、残りの3分の2を捨てる。
そのときあの感覚、つまり「もったいない」という思いが、ドドーッと心を襲う。
が、それでも捨てる。

●損の美学

 それは生きる美学といってもよい。
そう、それは、まさに「美学」。

 私たちは、常に損をしながら生きている。
損をすることを恐れてはいけない。
損は、その人をたくましくするだけではなく、その人の人生を、より豊かにする。
(反対に、「私は損をしたことがない」という人をみてみると、それがわかる。
どこかこじんまりとしていて、おもしろくない。)

 以前、二男のBLOGに、こんな話が載っていた。

 二男夫婦が、何かの会合に出かけたときのこと。
息子と娘の2人を連れていった。
遅れて行ったこともあり、行ってみると、ケーキの数が残り少なくなっていた。
そのとき、二男の嫁は、息子と娘に、こう言ったという。

 「あとで来る人のために、あなたたちは、1個を2人で分けて食べなさい」と。
つまり残りは、あとから来る人のために、残しておきなさい、と。

 損か得かということを、金銭的判断だけでするかぎり、二男夫婦は、損をしたことに
なる。
しかしそう判断するのは、まちがっている。
二男は、つづくBLOGにこう書いている。
「妻のすばらしさを、再確認した」と。

●生きざまの問題

 つまり私たちのもつ、ものの考え方そのものを改める。
その結果として、ダイエットを遂行する。
それが「はやし浩司流、ダイエット法」ということになる。

 が、この哲学は、何も、ダイエットだけに通ずるものではない。
その人の生きざま、そのものにも、関わってくる。
たとえば昔、『おしん』というテレビドラマがあった。
あのおしんは、当初、生きるために働く。
しかし事業が成功してくると、今度は、働くために生きるようになる。
つまりその分だけ、貪欲になる。

 とたん、生きざまが見苦しくなった。
が、(見苦しくなった)だけでは、すまされない。
おしんは、より大切なものを見失うことによって、命そのものまで粗末にするように
なった。

 わかりやすく言えば、おしんは、働くことによって、自分の心を損(そこ)ねた。

●「食べたら損ねる」

 ダイエットを心がけるなら、基本的な部分で、哲学、さらには生きざまそのものを
変える。
食事制限をするにしても、また運動をするにしても、まずその哲学を確立する。
またそれなくして、ダイエットは、成功しない。

 この私にしても、そうだ。
過去、何十回もダイエットに挑戦し、そして失敗した。
その繰り返し。
が、それもそのはず。
私には、一本、スジの通った、哲学がなかった。
が、今回は、ちがう。
それがここに書いた方法である。

といっても、方法は簡単。
いつも、自分にこう、問いかける。

 「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損なのか」と。
私のように、人生観そのものが、金銭的判断に毒されている人ほど、そうしてみたらよい。
答えはいつも、シンプル。
「食べたら損ねる」である。

(付記)

 昨夜、こんな経験をした。
ウォーキングを始めて、30〜40分ほどしたころのこと。
距離にすれば、4〜5キロを歩いていた。
そのとき猛烈な空腹感が、私を襲った。

 その空腹感と闘うというよりは、汗の出方がまだ足りないと感じたので、私はその
先、1〜2キロを走ることにした。
足は痛かった。
が、がまんした。
歯をくしばって、走った。

 で、不思議なことに、1〜2キロ走り、サーッと汗をかいたところで、その空腹感
が消えているのを、私は知った。
あれほど強く感じていた空腹感が、どこかへ消えてしまった。
のどは渇いていたが、空腹感は消えていた。
これはどういう作用によるものなのか?

 汗をかいたことによって、水分が抜け、血糖値が相対的にあがった?
これはあくまでも私という素人によるものだが、そう考えると、うまく説明ができる。
おもしろい現象だったので、ここに書きとめておくことにする。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●100歳

++++++++++++++++++

昨日、ワイフのテニスのコーチをしていた、
Nさん(男性)という人が、亡くなった。
享年、100歳だったという。
まだ5、6年前まで、自転車に乗っていた。
その自転車で、コートまで通ってきていた。

100歳!
つまり、私が22歳のとき、今の私の年齢の
61歳だったということになる。
100歳!
すごい!

……ふと心のどこかで、私が浜松へ来たころの
ことを思い浮かべる。
あのときが22歳だった、と。
同時に今、22歳の若い人たちのことを思い浮かべる。
みんな、何をしているのだろう、と。

Nさんは、90歳を過ぎても、テニスを
楽しんでいた。

++++++++++++++++++

●享年

 享年と書いて、「きょうねん」と読む。
本来は、「行年」と書いたらしい。
あの世へ旅たったときの年齢をいう。

 で、昨日、ワイフとこんな会話をした。
「どうせ死ぬなら、早い方がいい」
「しかし長生きするなら、100歳くらいまで生きた方がいい」と。

 この先、老人の生活環境について言えば、悪くなることはあっても、
よくなることはない。
介護施設にしても、すでに飽和状態。
寝たきりの状態でも、施設に入居するのは、むずかしい。
だったら、できるだけ早めに入るか、反対に、すいたら、入るかということになる。
レストランと同じ。
ちょうど昼時に行くと、順番待ちになる。
少し時間をずらすと、楽にテーブルに着くことができる。
不謹慎なたとえに聞こえるかもしれないが、私たちの世代にとっては、切実な問題である。

 そこで私たち夫婦の結論。
「できるだけがんばって、すいたら、入ろう」「できるだけ長生きしよう」と。


●靴

 今日、靴屋で靴を買った。
水色のラインの入った、きれいな靴である。
白の部分は、エナメルが塗ってあり、テカテカ光る。
ワイフが、「老人が履くような靴ではないわ」と言った。
「ぼくは老人ではない」と、私は答えた。

ワ「だって、私たちは老人よ」
私「ぼくは、老人ではない」
ワ「気だけは、ね。でも体がついてこないわ」
私「いや、ぼくはそうでないと思う」と。

 私の知人に、TK氏という人がいる。
ある大手のペンキ会社の監査役をしていた人だが、こう話してくれたことがある。
私が、「もうすぐ60歳になります。いやですね」と言ったときのこと。
「林さん(=私)、60代というのは、いちばん仕事ができる年齢ですよ。
私も60代のとき、いちばん仕事ができました」と。

 TKさんは、今年、80歳くらいになる。
その人が、そう言った。

 で、私はもうすぐ満62歳になる。
「あと10年、現役でがんばる!」と宣言したのは、私がちょうど満60歳のとき。
それからすでに2年、経過したことになる。

 その2年。
つまりこの2年。
たしかに体の調子はよい。
頭のほうも、いまのところ、だいじょうぶ。
「このままなら、70歳どころか、75歳までだいじょうぶかな」と思い始めている。

 ……ということもあって、水色のラインの入った靴を買った。
私の年代というと、茶系のジジ臭い靴と、相場が決まっている。
しかし何も、自ら進んでジジ臭くなることはない。
言うなれば、水色のラインの入った靴は、私の決意の表れということになる。
「75歳まで、がんばってやる!」と。


●ノートパソコン

 近くの電気屋へ行ったら、格安のノートパソコンが、並んでいた。
N社製のパソコンだった。
オープン価格で16万円。
それが11万円。
さらにボーナスセールということで、2万円引き。
8万8900円という値段がついていた。
ワードなど、オフィスソフトがついて、その値段。

 ググーッと、物欲が、脳の中に充満。
ドーパミンが、線条体を刺激した。
買うか、買わないか、半時間ほど迷った。
が、やめた。
秋には、WINDOW7が発売になる。
それまで、がまん。

インテルCore i7−975
トリプルチャンネル DDR3 12GB(メモリー)
NVIDIA GeForce GTX285・1GB
ブルーレイディスクドライブ
もちろん64ビットマシン!

 仕様書をながめているだけで、頭の中が興奮状態になってくる。
ゾクゾクゾク!

これにオフィスのソフトと、3年間の保証をつけると、
28万3500円(M社)!
10月ごろには、もう少し安くなるかもしれない。
あるいはさらに性能がアップするかもしれない。

 そうそう現在、22インチと20インチのモニターを、2つ並べて使っているが、
今度は24インチ、もしくは26インチのものにしたい。
モニターは、大きければ大きいほど、使いやすい。
作業がしやすい。

 ……ということで、私は、まだまだ元気。
100歳までは無理としても、せめて90歳くらいまでは、元気に生きてやる。

(追伸)
 そんなこともあって、昨夜、散歩の途中で、洋服店に寄った。
靴の色に合わせて、白いシャツと、水色の薄いコートを買った。
夏休みに、どこかへ旅行に行くとき、それを着ていくつもり。
楽しみ!


●芝生

 庭が、芝生で覆われるようになった。
20年ほど前に植えた芝生が、今になっても、そこに生える。
が、ところどころ、まばら。

 そこで昨日、「芝生の缶詰」というのを買ってきた。
ついでに「芝生の土」というのも買ってきた。
その2つをバケツの中で混ぜ、庭にまいた。
時期的には、1、2か月遅い。
しかしそこは芝生。
「だいじょうぶだろう」と自分に言い聞かせながら、庭にまいた。

 で、私は、芝刈りを、草刈り機でしている。
エンジンで丸い歯をウィンウィンと回して草を刈る、あの草刈り機である。
いろいろな方法を試してみたが、芝刈り機でするのが、一番、楽。
それに仕上がりも、よい。

 エンジンを中速程度に抑えながら、ゆっくりと地面をなでるようにして、芝を刈る。
雑草を見つけたら、草刈り機をややななめにして、地面ごと、雑草を吹き飛ばす。
乱暴なやり方だが、私はいつもそうしている。

 ただし注意。

 通常の草を刈るときは、草の上のほうを刈るので、それほど危険ではない。
しかし芝刈り機として使うときは、地面すれすれに刈る。
そのときどうしても土や小石を巻き込んで、それを跳ね飛ばす。
その土や小石が、目に入ることがある。
だからゴーグルは、必需品。

 が、もし万が一、土や小石が目に入ったら……。
そのときは、こうする。
大きな洗面器に水を張り、その中に目を大きく開けて、顔をつける。
指で目を開きながらするとよい。
その状態で、何度かまばたきを繰り返す。
まちがっても、指でこすってはいけない。

 私のばあいは、いつもそうしている。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●Low-Toe ジョギング

++++++++++++++++

「スロー・ジョギング」というのはある。
が、私が考えたのは、「ロー・トウ・ジョギング(ひざを低くして走る走り方)」。
足をあげないで、足を引きずるようにして走る。
テンポは、ふつうの速さ。
だからスロー・ジョギングともちがう。

で、昨夜、そのジョギングをしていたところ、4〜5キロ走ったところで、
こむら返りが起きてしまった。
カルシウム不足?
あるいは片手に、ペットボトルをもっていたため?

ともかくも、それ以後、走れなくなってしまった。
あえなく、ダウン。
ワイフに車で、迎えに来てもらった。

++++++++++++++++

●ダイエット

 ダイエットも、そろそろ終わり。
目標の60キロを達成!
今朝起きて、体重計に乗ってみたら、59・8キロ。
50キロ台は、30年ぶりではないか?
あとは、この体重を維持するだけ。

61キロを超えたら、食事制限。
60キロを下回ったら、食事をふやす。
こbの方法は、どこか株の売買に似ている?

株にも値幅というものがあって、一定金額を超えたら、売り。
一定金額を下回ったら、買い。
これを繰り返す。

 ……ということで、今朝は、久々に、一食分を食べた。
おいしかった。


●講演

 昨日、隣町の「ゆやホール」というところで、講演をさせてもらった。
すばらしい会場だった。
たいへん話しやすかった。
聴きに来てくれた人たちも、真剣に(多分?)、聴いてくれた。
聴衆との一体感を私は、感じた。


●パソコン

 再三、近くのパソコンショップに足を運んでいる。
目当ては、N社製のノートパソコン。
買うか、買わないか……。
一週間も迷った。
が、結論は、「買わない」。
その結論を、昨日、出した。
もう少しわかりやすく言うと、「別れてきた」。

で、秋まで、待つことにした。
WINDOW7が発売になる。
それを見ないことには、どうしようもない。


●DVD『ベンジャミン・ボタン』

 昨夜、ワイフと、DVD『ベンジャミン・ボタン』を観た。
星は、文句なしの5つ。★★★★★。
どこか『フォレスト・ガンプ』を連想させる映画だった。
劇場で見なかったのが、悔やまれる。

 予告編は劇場で何度か観たが、そのときは、「ジジ臭そうな映画だな」で
終わってしまった。
が、それはまちがっていた。

 ただ一言。

 すばらしい映画だった。
それは認める。
観て、損はない。
が、もうすぐ62歳になる私は、少しちがった印象をもった。
「だから、それがどうしたの?」と。

 こんなことを書くと、ブラッド・ピッド・ファンの方に叱られそうだが、あの
映画には、その答えがない。

 1人の男性が、時計を逆回りにして生きただけ。
恋もした、冒険もした、莫大な財産も手に入れた。
しかしそれにつづく部分がない(?)。

 つまるベンジャミンは、自分のために生きただけ。
だれかのために、何かをしたというのではない。
言うなれば、ただの恋愛映画。
が、それではいけない。
もの足りない。

数奇な運命に翻弄されたベンジャミン。
それはわかるが、それにつづく部分を、何か描いてほしかった。
多分、脚本家は、若い人なのだろう。
人生のその向うにあるものが、まだ見えない?
私が感じた(もの足りなさ)は、どうやらそのあたりから生まれている。


●『アイスエイジ・3D』

 先週、『アイスエイジ・3D』を、劇場で観てきた。
3Dということで、おもしろかった。

 で、その映画ついて、追伸。

 ああした動物を主人公にした映画で、いちばん、気になるのは、「餌」。
言うなれば、共食いの世界。
が、そんな残酷な様子を、映画の中で表現することはできない。
『アイスエイジ』の中でも、私は、それが気になった。
「動物たちは、何を食べて生きているのだろう?」と。

 一度、恐竜の母親が、ドカッと、巨大な鳥の足をテーブルの上に置くシーンが
あった。
それを見たとき、「ああ、ここでは鳥を食べているのだ」とわかった。
しかしそれでも、違和感を覚えた。

 ……心のどこかでそんなことも考えながら、『アイスエイジ』を観るとおもしろい。
いらぬお節介かもしれないが……。


●人種差別 

 同じように、ハリウッド映画では、「人種」について、かなり神経をつかっているのが
わかる。

 黒人を殺人鬼に仕立てるときは、刑事も黒人にしたり、あるいは黒人の妻を白人に
したりする。
そういうこまかい配慮を、実にていねいにする。
人種による偏見を、観客にもたせないようにするためか。

同じように、アジア人についても、気をつかっているのがわかる。
さらに言えば、日本の映画ファンへのサービスなのか、ところどこに、日本的なものを
挿入することが多い。
寿司屋で食事をして見せたり、日本車をそれとなく走らせて見せたりする、など。
(韓国版では、韓国的なものを挿入したりするようだ。)

 どういうところに、どう気をつかっているかをみるのも、これまた楽しい。


●スズメ

おととい、庭に、芝生の種をまいた。
(芝生の目止め)という土と混ぜて、まいた。
が、何と、今朝見たら、スズメどもが、その種を食べているではないか!

 しかたないので、庭の端に、いつもの数倍の分量の餌をまいてやった。
あ〜あ。
本当に、あ〜あ!


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●即、実行!

+++++++++++++++++

最近、とくに心がけていることが、ひとつある。
何かと忘れっぽくなったこともある。
あるいは年々、気力が弱くなるのを、感じていることもある。

……ということもあって、「即、実行!」。

今できることは、(あと)に回さない。
明日に回さない。
来週や、来月に回さない。
即、実行!

+++++++++++++++++++++

●気力

 庭をながめていて、木々の枝が伸びたのがわかる。
即、ハサミをもって、庭に飛び出る。
 腹がはれぼったく、重い。
即、センナ(便秘薬)を煎じて、飲む。
 C県に住むKさん夫婦のことを思う。
即、近くの店に行って、届け物を買うなど、など。

 遊ぶときも、そうだ。
今できることは、今、する。
「明日、行こう」とか、「来週にしよう」などとは、考えない。
映画でも、思い立ったら、その夜にでも行く。
午後10時〜の深夜劇場は、いつもがらがら。

 余裕のない生き方に思う人もいるかもしれない。
しかし私は本気。
というのも気力が弱くなっているのが、自分でもよくわかる。
ときに、投げやりになる。

しかし気力というのは、一度弱気になると、そのままずるずると、ますます
弱くなってしまう。
だから自分をあえて奮い立たせながら、今できることは、今する。
それが「即、実行!」。

●出鼻

 が、反対に、出鼻をくじかれることもある。
「やろう!」と覚悟していても、横槍が入ったりする。
相手との日程が合わなかったりする。
そういうとき、とたんに調子が狂う。

 これはたぶんに、私のわがままな性格によるものかもしれない。
そういうとき、自分を納得させるのが、むずかしい。
迷う。
戸惑う。
時に、相手に対して、憎悪の念を覚えることもある。
最近でも、こんなことがあった。

 法務局へ届ける書類があった。
自分でしようと思えば、自分でできた。
が、時間がなかった。
だから近くの司法書士に、それを頼んだ。
が、その司法書士は、その書類を、何と10日も、ほうっておいた!
当然、手続きはすんでいるものと思って電話をすると、「これからします!」と。

 こういう場面に出くわすと、自分をどうコントロールしてよいか、わからなくなる。
怒りを抑えるだけで、一苦労。

●ボケ防止

この「即、実行」には、もうひとつの意味がある。
実の話、このところ、何かにつけて、忘れっぽくなった。
2つ、3つくらいのことなら、何とかなるが、4つ、5つと重なると、そのうち
1つや2つは、忘れてしまう。

 ボケの始まりか?
その一例が、アイディア。

 こうして文章を書いていると、ときにつぎつぎと、アイディアがわいてくることがある。
で、そのときは、「覚えておこう」と思う。
「メモなど必要ない」と思う。
が、しばらくすると、それが何だったか忘れてしまう。

 そういうことが、最近、ふえてきた。
つまり自分に自信がもてなくなってきた。
しかしそれは、恐怖そのもの。
得体がつかめないだけに、不気味。
一時的なものであればよいが、もしそれがボケの前兆であるとしたら……?
ゾーッ!

 だから、ますます即、実行ということになる。
思いついたら、その場で、文章にしていく。
が、今のところ、メモにして残すということは、あまりしていない。
しかし、それも時間の問題か。
できるだけ頭の中に記憶しておこうと思っているが、そのうち、メモ用紙は
常備品になるかもしれない。

 (実際には、一度、小型ボイスレコーダーを買って、持ち歩いたこともある。
しかし長つづきしなかった。)

 ……だから、即、実行。
何かにつけて、即、実行。
即、実行、あるのみ。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司

●愚痴な人とは、つきあわない

 「愚痴(ぐち)な人」というのは、「愚かで、智恵がない人」のことをいう。
日本語で言う「グチ(愚痴)」とは、少し意味がちがう。
が、共通しない部分もないわけではない。
愚かで、智恵のない人ほど、グチをよくこぼす。

 そういう愚痴な人とは、関わりをもたない。
あえて遠ざかる。
これは自分の人生を賢く生きるための、鉄則と考えてよい。
というのも、愚痴な人には、恐ろしい魔力がある。
しばらくつきあっていると、こちらも、その人に染まってしまう。
こんなことがあった。

●オバチャン

 先日、観光バスに乗って、伊豆のほうへ旅をした。
そのときのこと。
うしろの席に、2人のオバチャンが座った。
年齢は、2人とも、55〜60歳くらい(?)。
その2人が、ペチャペチャと、意味のない話をし始めた。
実に、中身のない会話だった。
それに大声だった。

(このエピソードについては、以前にも書いたことがある。)

「隣の家の嫁は、どうのこうの」
「あそこの息子は、親の一周忌にも顔を出さなかったから、どうのこうの」
「だから今に、あの息子は、地獄に落ちるとか、何とか」
「今度のちぎり絵の先生は、性格が悪いとか、何とか」などなど。

 一度、私が「もう少し、小さい声で話していただけませんか」と頼むと、こう言った。
「私ら、おしゃべりが楽しみで、旅行しているもんねエ〜」と。
そして行きのバスの中でも、帰りのバスの中でも、口の動きを止めることはなかった。
時間にすれば、往復、計5時間以上!

 私たちは、2人のオバチャンの話を5時間も聞いたことになる。
その間、私の思考力は停止したまま。
小型パソコンに文字を打ち込もうとしても、何も書けない。
気がついたときには、私自身も、同じような考え方をし始めているのを知った。

 で、そのオバチャンたち。
私たちがバスを降りるとき、皮肉たっぷりの言い方で、こう言った。
「お元気でエ〜」「さようならア〜」と。
私たちはそれを無視した。
せっかくの旅行も、それで台なし。

●賢者は孤独

 『若い人は、老人をバカと思う。しかし老人は、若い人をバカと思う』。
そう言ったのは、どこかの賢人である。

 しかし老人にも、バカな人は多い。
若い人にも、賢い人は多い。
しかし総じてみれば、加齢とともに、人はますます愚痴な人になっていく。
特別な努力をしないかぎり、そうなっていく。

 で、(特別な努力)というのは、つまるところ「精進(しょうじん)」という
ことになる。
つまり日々の研鑽(けんさん)あるのみ。
死ぬまで、研鑽あるのみ。
それ以外に、自分を愚痴の世界から守る方法はない。

 そこで結論。

 あなたの周りにも、愚痴な人はいるはず。
こずるくて、口がうまい。
よくしゃべるが、中身がない。
会えば、グチばかり。

会話の中にも、「だからそれがどうしたの?」という部分が、まったくない。
そういう人とは、勇気を出して、遠ざかる。
(勇気)というのは、その分だけ、あなたは孤独になる。
その孤独に耐えるには、それなりの覚悟が必要。
言うなれば、小船で大海へ乗り出すようなもの。
だから(勇気)ということになる。

 そこで一言。
『賢者はいつも孤独なり』と。

 私が考えた格言だが、言い換えると、賢い人というのは、そういう孤独に耐える力の
ある人ということになる。
孤独に耐える力なくして、私たちは賢者になることはできない。
(もちろん、私のことではない。
私には、その力はない。
そうありたいとは思うが、私のことではない。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
愚痴 愚痴な人 愚かな人 精進 賢人 愚痴論)


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