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2009年     11月号
Essay……
BOX版(ネットストーレッジ)……




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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 30日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●睡眠障害(ナルコレプシー)

このところ、朝早く、目が覚める。
理由が、ある。
もともとそういうことはあったが、
昼寝の時間が長くなった。
以前は、昼寝といっても、うたた寝程度。
時間にすれば、30分前後。
それが最近では、長いときは、1時間半ほど、
眠ってしまう。
それで、その分だけ、朝早く目が覚めるようになった。
(あるいは、その逆かもしれない。)

で、今朝も、午前4時に起きた。
先週くらいまでは、それでも……と思って、
目を閉じたまま、横になっていた。
加えて、外気が冷たかった。
起き上がるのが、つらかった。
が、そうしていても、頭の中は、どんどんと、冴えていくばかり。
だからこうして思い切って、起きることにした。
だから、午前4時。

睡眠障害といえば、ナルコレプシーがある。
日中、感情が高ぶったようなときに、ふいに眠ったような状態になる。
かくんと全身から、力が抜けたような状態になる。
が、本人は、「眠っていない」と、言い張る。
意識はしっかりとしている。

幼児では珍しい。
私も過去40年間に、1例しか経験していない。
しかし中高校生になると、急にふえてくる。
何かのことで強く叱ったり、あるいは本人自身が興奮状態に
なったようなとき、そうなる。

そのとき子どもによっては、(もちろんおとなもそうだが……)、
勝手な行動をすることもある。
つまり体が、勝手に動いてしまう。
こういうのを、「自動行動」と呼ぶ。

大切なお知らせを、ふいにゴミ箱へ捨てたりする。
「A先生に渡して」と言って、渡したメモを、B先生に渡してしまったりする。
「どうしてそんなことをするの?」と、たしなめても、
本人には、その自覚がない。
意識的な行為というよりは、無意識的な行為である。

健常者でも、似たような行為をすることがある。
たとえば、そこにかなり背の低い人がいたとする。
だから内心では、「身長の話題は避けよう」と思っている。
が、何かの拍子に、ふいに、身長の話をしてしまう。

こうした現象が、ナルコレプシーでは、極端な形で現れる。

原因は、睡眠障害と考えられている。

ふつう人は、睡眠中、ノン・レム睡眠→レム睡眠を、5〜6回繰り返す。
そのリズムが乱れる。
それが慢性化する。
結果として、特異な症状を表すようになる。

そういう意味でも、規則正しい生活は、重要である。
夜遅くまで、興奮性の強いゲームをする。
徹夜で、受験勉強をする。
このタイプの子どもが、ナルコレプシーになりやすい(?)。

で、私のばあい、迷っている。
このまま今のように、昼寝時間を長くして調整するか。
それとも昼寝時間を短くして、夜の睡眠時間を長くするか。
たまたまおとといは、昼寝なしで、がんばってみた。
昨日も、昼寝をしないようにと、がんばってみた。
(夕方、15分程度、椅子に座ったまま、うたた寝をしてしまったが……。)

が、こういう日が数日もつづくと、頭の中がモヤモヤとするだけで、
ものが書けなくなってしまう。
注意力が散漫になってしまう。

やはり体のことは、自然に任せるのがよい。
何ごとにつけても、自然体。
それが一番。
国によっては、昼寝を日課にしているところもある。

ただ気になっていることが、ひとつ、ある。

私とワイフは、ときどき、仕事が終わってから、深夜劇場に足を運んでいる。
時間的には、午後9時以後〜ということになる。
家に帰ってくるのは、そういう日は、夜中の12時前後。
そういう生活は、あまり好ましくない。
自分でも、よくわかっている。
これからは別の方法を考えよう。

++++++++++++++++++++

以前、ナルコレプシーではないかと思われる女性がいた。
その人について、その雇い主の方から、相談があった。
その女性は子どものころ、ADHDと診断され、
薬をのんでいたという。
で、今もそれではないか、と。
女性の年齢はわからないが、20歳前後と思われる。

で、立ち話だったので、私は「おとなのADHDは
珍しい。女性のばあい、多弁性が残ることが多いが、
症状としては、落ち着いてくる。子どものころ、
ADHDではなく、活発型自閉症児ではなかったのか」
と話した。

で、翌朝、その女性に症状について詳しく書かれた
メールが、届いていた。

その返事。

++++++++++++++++++++

(補足)ナルコレプシー

SW様へ

おはようございます!

メール、ありがとうございました。

「活発型自閉症」というのは、もう20〜30年前までの用語です。
今は、「自閉症スペクトラム」と言います。

当時は、(今もそうですが)、活発型自閉症児と、ADHD児の区別は、
たいへんむずかしいです。
ADHD児は、思考や行動は明晰であるという点で、区別していました。


で、いただいた女性の件ですが、私は、「ADHDではないと思う」と言いました。
おとなになると、表面的な症状はわかりにくくなります。
女性のばあい、ふつうでない多弁性だけは残りますが、ほかの症状は、落ち着いて
きます。

しかしメールによれば、主症状は、注意力散漫、居眠りということですから、
活発型自閉症のおとな型というよりは、ナルコレプシーではないかと
思いました。

ご存知のように、私たちの年齢層には、睡眠時無呼吸症候群という
恐ろしいのもありますが、これは私たちの年代で、かつ肥満型の人に多いものです。
このタイプの人も、日中、突然の睡眠に襲われたりします。

ナルコレプシーのばあいも、突然眠ったような状態になります。
が、そのとき、意識は残ったままになるので、「私は眠っていません」となるのです。

で、ナルコレプシーについては、
以下のHPをさがしてみました。
いちばん詳しく書かれていると思います。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~narukohp/3100.html#Q102

(↑)をクリックしてみてください。

その女性のばあい、(内面的な激怒)が引き金となり、ナルコレプシーを
引き起こすのではないかと思われます。
過去のADHDは、関係ないと思われます。
というのも、ADHD児(子どものばあい)でも、居眠りは、起きません。
ADHDの症状はあったかもしれませんが……。
それは現在の症状とは、関係ないと思われます。

また子どもの世界にも、勝手に別の行動をしてしまう(自動行動)子どもも
ときどき見られます。
ふつう激怒をともないますので、かんしゃく発作ということで、
片づけてしまうことも多いです。
(というのも、私には診断権はないものですから……。)

その女性のばあいも、自動行動が見られるようですね。
もしそうだとするなら、医療従事者としては、不向きかもしれません。
薬をまちがえられたら、こわいですから……。

話は変わりますが、活発型自閉症児と呼んでいた子どもは、
始終、動き回り、勝手な行動を繰り返します。
健常児のような会話ができません。
ADHD児は、そのつど、会話はできます。
強く叱れば、瞬間ですが、シュンとおとなしくなったりします。

が、今では、自閉症による症状が、きわめて多岐にわたり、
また千差万別。
境界がはっきりしないということで、「自閉症スペクトラム」という
言葉を使います。

この点については、立ち話での応答ということもあり、いいかげんな
ものでした。
どうかお許しください。
つまり「おとなのADHDは珍しい」ということで、同じような
症状としては……ということで、「活発型自閉症児」という
言葉をあげました。

しかしメールによれば、ナルコレプシーでは(?)と思うように
なりました。
もちろんこれは私のひとつの意見にすぎません。

以前、そういう子ども(年長・女児)がいました。
睡眠指導をあれこれしてみましたが、効果はありませんでした。
しかしナルコレプシーは、子どもには、たいへん珍しく、
中学、高校くらいから、多くなります。
強く叱ったとたん、かくんと眠ったような状態になる、
あるいは、気を失ったような状態になります。

以上ですが、おとなの世界のことは、本当のところ、
よくわかりません。
ごめんなさい。

では、

はやし浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●満62歳の誕生日に

+++++++++++++++++++++

明日、私は満62歳になる。
62歳?
62歳ねエ〜?

「62歳」と言って、
最初に思い浮かんだ言葉が、これ。
「もう2年も、たったのかア」と。

つい先日、「還暦」という言葉に踊らされたばかり。
そんな感じがする。

つまり加齢とともに、脳のクロック数が
落ちるため(はやし浩司説)、
すべての活動のテンポが遅くなる。
そのため、時間が早く進むように感ずるように
なる(これも、はやし浩司説)。

たとえば若いころの脳のクロック数を、
毎秒100ヘルツとする。
現在は、半分の毎秒50ヘルツとする。
すると見かけは同じ状態でも、実感時間は、
若いころの半分になる。
つまり2倍、早く時間が過ぎることになる。

しかし脳全体の機能が速度的に落ちるため、それを
自分で実感することはできない。
(どこか、アインシュタインの相対性理論に似ている?)
このことは、幼児を教えてみると、よくわかる。

もし幼児を、私のもつテンポで教えたら、幼児は、
あっという間に、私のレッスンに飽きてしまうだろう。
そこで私は、幼児のもつクロック数で、教える。

幼児のもつクロック数は、おとなのそれよりも、
はるかに速い。
教える側が、もたもたしていると、すぐ、「つまんナ〜イ」
という言葉がはね返ってくる。
(こうした様子は、HP(BW公開教室)で、公開中!)

一方、高齢者のクロック数は、低い。
50どころか、20とか、10にまで下がる。
見た目には、ゆったりと時間が流れるが、
その分だけ、高齢者にとっては、早く時間が過ぎる。

……というわけで、もう2年も過ぎた。
あっという間だった。

この2年間で、私は何をしたか?
何ができたか?
中身を見ていくと、結構いろいろあったような気がする。
母の介護と死去。
その間に、兄の死去。
先月は実家を売却して、故郷とは縁を切った。
精神的には、激動の2年間だった。
(少しおおげさかな?)
が、それでもあっという間に過ぎた。
そんな感じがする。

が、過去は過去。
私には、つぎの1年間が待っている。
いろいろ計画がある。
したいこともある。
すべきこともある。
しかし1年といっても、日々の積み重ねで決まる。
その日々は、今という、一瞬、一瞬の積み重ねで決まる。

大切なことは、クロック数を落とさないこと。
鋭敏さを失わないこと。
それは何度も書くが、健康論と同じ。
日々の体力づくりのみが、明日の健康を約束する。
立ち止まったとたん、そのときから、
健康は、下り坂に向かって、まっしぐら!

新聞を読もう。
本を読もう。
音楽を聴こう。
映画を見よう。
旅をしよう。
人に会おう。
新しいものに興味をもとう。
仕事をしよう。
体を動かそう。

それでクロック数があがるとは思わない。
が、しかし維持することはできる。
50ヘルツなら、50ヘルツでもよい。
その50ヘルツを、できるだけ長く維持する。
つまり長生きするといっても、クロック数が
5ヘルツや10ヘルツでは、しかたない。

で、今日、小学5年生の子どもたちに会うから、
つぎのような問題を出してみよう。

【問】

 脳のクロック数が、毎秒100ヘルツの人が、
10年、生きたとする。
一方、脳のクロック数が、毎秒50ヘルツの人が、
20年、生きたとする。
どちらの人が、長生きをしたことになるか。

 きっと子どもたちは、「20年、生きた人」と
答えるだろう。
そこで私は、コンピュータを例にあげて説明したあと、
おもむろに、こう教える。
 
100x10=1000
 50x20=1000で、
「実は中身は、同じだよ」と。

平たく言えば、人生の長さは、年数の長さでは
決まらない。
大切なのは、密度。
密度で決まる。

それがわからなければ、あなたも一度でよいから、
あの特別擁護老人ホームにいる老人たちを
のぞいて見てみたらよい。

ホームのテレビの前に座っている老人たちは、
ぼんやりとしたまま、その日、その日を、
過ごしているだけ。
あとは食事をしているか、眠っているだけ。
毎日、同じことしか言わない老人もいる。
1年を1日のようにして、生きている。

やがて私たちも、ああなる。
まちがいなく、ああなる。
が、その時期は、できるだけ先に延ばしたい。
先に延ばして、自分の人生を、2倍にしたい。
3倍にしたい。
どうせ、たった1回しかない人生だから。

……というのが、満62歳の私の抱負と
いうことになる。
けっして立ち止まらない。
ただひたすら前に向かって進む。

そう、あのスティーブンソン(「宝島」の著者)も
こう書いている。

『我らが目的は、成功することではない。
失敗にめげず、前に進むことである』と。

この言葉をもじると、こうなる。

『我らが目的は、年齢に応じた生き方をすることではない。
年齢を無視して、前に進むことである』と。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●10月28日

平凡は美徳だが、その美徳に溺れてはいけない。
溺れたとたん、平凡のワナにはまる。
マンネリの世界に陥る。
そこは「虚」の世界。
変化がなく、退屈な世界。

そこで重要なことは、平凡を感じたら、平凡を旨(むね)としつつ、
変化と刺激を求める。
その変化と刺激が、人生を、潤い豊かなものにする。

……とまあ、自分にそう言い聞かせながら、今日も始まった。

昨夜は遅くまで、温泉へ行ってきた。
舘山寺にそういう温泉があって、1〜2時間、そこで過ごすことができる。
「静岡県最大級の浴場」という。
平日の、午後7時以後に行くと、ガラガラ。
昨夜も、男湯のほうは、私と長男だけ。
途中、外人の男が2人、入ってきたが、サウナにしばらく入ったあと、すぐ、
出て行ってしまった。
雰囲気的に、同性愛者という感じがした。

その疲れというか、気(け)だるさがまだ残っている。
脳みその緊張感は緩んだまま。
いろいろ書きたいことはあるが、それが頭の中でまとまらない。
言うなれば、霧のよう。
それがモヤモヤと漂っている。

そうそう、ワイフの話では、昨日、山鳩の雛が2羽、私の家の庭に
戻ってきたという。
よかった!
おとといは雨。
冷たい雨だった。
その雨を見ながら、雛のことを心配していた。

で、今日は、私の誕生日。
どうということのない誕生日。
いつもと変わらぬ、1日。
昨夜、三男から電話があった。
「明日は、ぼくの誕生日だから、電話してよ」と言ったら、「わかった」と。
まあ、その程度。
昔から、誕生日は、家族だけで祝うようにしてきた。
それでここ10年は、さみしい誕生日になってしまった。

Happy Birthday to Me!


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

●絶望

++++++++++++++++++

Aさん(女性)が、こう言った。
「うちの母(87歳)は、特養(特別養護
老人ホーム)へ入れたとたん、歩かなく
なってしまった。
車椅子に座ったまま、動こうともしない」と。

それを聞いて、「しまった!」と思った。
ショックだった。
うすうす、そうではないかと感じてはいたが、
やはりそうだった!

+++++++++++++++++++++

●私の母

 そのときは、そのつもりはなかった。
予約するつもりだけだった。
そのつもりで、近くの特養へ行くと、たまたま園長が応対してくれた。
そのときは、その女性が、園長ということも知らなかった。
で、園長はこう言った。
「ちょうど1人、病院へ移りました。
今なら、すぐ入れます」と。

 家に帰って迷っていると、義姉がこう言った。
「すぐ、入れなさい。
順番を待っていたら、早くても1年後とか2年後になるわよ」と。

 そこで母を、特養に入れることにした。

●特養の問題

 最初、1週間は、毎日、母のところへ通った。
そのたびに、母は、こう言った。
「K村(=母の実家のある村)へ、帰りたい」と。
私とワイフは、そういう母を懸命になだめた。
が、それも一巡すると、母から急速に元気がなくなっていった。
それまでは、デイサービスのときも、どこかに緊張感があった。
その緊張感が、消えた。

 その母も、特養では、まったくといってよいほど、運動をしなくなった。
私はそれは、特養のシステムのせいだと思っていた。
介護度が低い高齢者については、いろいろな療法がしてもらえる。
しかし介護度4以上の入所者については、しない、と。
が、いくら介護度が高くても、何かの療法は、必要ではないのか。
ただ座らせておくだけの特養に、心のどこかで不満を感じていた。

●絶望感

 が、もし、あなたが、(私が)、ああいう部屋に閉じ込められたら、
あなたは、(私は)、どう思うだろうか。
 まわりは、ぼんやりとした高齢者ばかり。
大きなベッドに、鼻からチューブを通されて寝ている高齢者もいる。
会話も通じない。
やることは、何もない。
昼間は、ガンガンと、見たくもないテレビを見せつけられる。

 あなたなら、(私なら)、その瞬間、絶望感を覚えるにちがいない。
絶望感だ。
その絶望感を、母は覚えた。
確信はないが、入所したとき、母は、まだ冗談が通ずるほど、頭のほうは、
しっかりとしていた。
私の家でも、パイプをつたって、歩いていた。
が、特養に入ったとたん、元気がなくなった。

●死の待合室

 絶望……その恐ろしさは、それを経験したものでないとわからない。
心が自分の体から、抜けてしまったかのようになる。
生きる気力そのものが、消えうせる。
「もうダメだ」という思いが、大波のように打ち寄せては消える。
しかしなす術(すべ)は、ない。
虚脱感。
空虚感。
やがて「死」が、すぐそこに見えてくるようになる。
死への恐怖は、そのときには、もう、ない。

 特養へ入った母は、恐らくその絶望感を覚えたにちがいない。
もともと気が強い人だった。
プライドも高く、おまけに虚栄心も強かった。
そんな母だったから、まわりに、そういう人たちを見たとき、
自分がそういう立場であることを知った。

 もしそれがあなたなら、(私なら)、そのとたん、生きる気力をなくすだろう。
まさにそこは、死の待合室。

●母の様子

 それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「私にも、わからなかったわ。
お母さんには、快適な場所のように見えたわ」と。

 しかしいくら歳をとっても、いくら頭の働きが鈍くなっても、
死への恐怖心はある。
死の恐怖心がある以上、絶望感もある。
(生きたい)という思いと、(死にたくない)という思いが、はげしくぶつかる。
その(生きたい)という思いが消えたとき、(死んでもいい)となる。
絶望した状態というのは、それをいう。

 たしかに特養での母は、おだやかで、やさしかった。
すべてを受け入れ、すべてを許しているかのように見えた。
しかしそれはあくまでも、結果。
母は、絶望感を覚えた。
同時に、生きることをあきらめた。

●ワイフの意見

私「今の特養制度にも、大きな問題があるよ」
ワ「そうね」
私「老人をただ生かしておくだけ、という感じがする」
ワ「そう、そう言えば、そうね」
私「どんな老人にも、生きがいが必要だ。その生きがいを用意し、
それを助けてやるシステムが必要だ」

ワ「でも、みんな、精一杯よ。できるかぎりのことをしてるわ」
私「そうかもしれない。でも、もっとできることは、あるはず。
今のような隔離病棟のようなシステムにするのではなく、元気になって、
退所していくような人の姿が見えるようなシステムにする」と。

 母も、毎月のように、特養で亡くなっていく人を、見ていたはず。
母にとっては、それがいかにつらいものであったことか。
私には、知る由もなかった。
目先のサービス、たとえば24時間看護、個別の献立、完全冷暖房、
近代的な入浴システム……。
そういったものばかりに目を奪われて、
母の心の中までは見なかった。

 しかしそれでは高齢者の心は救えない。
あなただって、(私だって)、それも運がよければの話だが、
いつか、そういうところへ入る。
早いか遅いかのちがいだけ。
そのとき、あなたは、(私は)、どうしてほしいか。
それを考えれば、特養はどうあるべきか、それがわかるはず。

 Aさんの母親も、特養へ入ったとたん、元気をなくしたという。
同じような話は、あちこちでも聞く。
しかしそれは、あなたの、(私の)、近未来の姿でもある。
それとも、あなたは、(私は)、もしだれかに、「君たち老人は、だまって
静かに死ね」と言われたら、それに耐えられるだろうか。

 まだ言葉も話せない幼児にも、人権はある。
同じように、寝たきりになった高齢者にも、人権はある。
その視点をふみはずして、老人問題を語ることはできない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 老人の人権 高齢者の人権 特別養護老人ホーム 特養 絶望に
ついて 絶望論)


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

●マッサージ

今日、生まれてはじめて、マッサージ・パーラーなるものに行ってきた。
外国で、「マッサージ・パーラー」というと、男性に、(最近では女性専用
の所もあるそうだが)、性的なサービスをするところを意味する。

私が行ったのは、もっと健康的なところ。
息子が、サービス券を贈ってくれた。
2枚、あった。

で、私が1枚、ワイフが1枚、使った。
外国のホテルに泊まったようなときは、よくマッサージをしてもらう。
が、今回のように、市中にあるマッサージ・パーラーに行ったのは、はじめて。
私たちも、いよいよ老人の仲間入り!

 リラックス・コースというのを選んだが、リラックスできたかどうかは、
わからない。
体中を、いじくり回されただけ。
あとで私が、「どうせするなら、チxチxのほうもしてくれたらよかった」と
言うと、ワイフが、「そんなことしたら、風俗店になってしまうわ」と。

 とにかく楽しい経験だった。
料金は、1分で100円。
30分コースで、3000円+消費税。
50分コースで、5000円+消費税。
あとは希望に応じて、料金が決まる。

 生まれてはじめての経験だったので、ここに記録しておく。
62歳の誕生日に、よい経験をさせてもらった。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●2012年

2012年に、なにやら、とんでもないことが起こるらしい。
それをテーマにした映画が、ローランド・エメリッヒ監督の、『2012』。
11月21日に、劇場で公開されるという。
楽しみ。
ぜったい、見に行く。

 で、つぎからつぎへとこういう映画ができる。
ハリウッドに集まる映画マンには、本当に感心する。
まとめて、「ハルマゲドン映画」という。

迫り来る、危機。
人類滅亡の危機。
みなが恐怖におびえ、逃げまどう。
「もうだめだ」と思ったところに、勇敢なヒーローが現れる。
そのヒーローが地球を救う。

基本的には、ウルトラマン映画と変わらない。
月光仮面でもよい。
筋書きとしては、そういうもの。
あとはどう、それをおもしろおかしく演出するかということ。
で、今回は、真実味をつけるために、マヤの暦を利用した。
が、私はこういう映画が好き。
「2012年に、マヤの予言通り、世界は終わる」と。

 映画案内には、こうある。

 「高度な天文学、数学の知識をもち、栄えていたマヤ人。
彼らが残した暦には、ある時を境に、それ以降の記述がない。
昔から「世界終末の日」と言われてきた、その暦最後の日は……
2012年12月21日。
あと3年に迫った現在、マヤの予言だけではなく、現代科学も、「2012年
終末説」を裏づけるデータをつぎつぎと、発表している。

 太陽の黒点問題。
 地球温暖化。
 度重なる、自然大災害……。

 占星術師は星の中にその兆候を発見し、
数秘術師はそれを予言するパターンを見つけ、
地質学者は、それがいつ起きても不思議でないと言い、
政府関係者や科学者さえも、それを言及している。
もはや、このことを否定できる者はいない」と。

 マヤの暦は、2012年12月21日」で終わっているという。
私の家のカレンダーは、2009年12月31日で終わっている。
……というような冗談はさておき、こうした予言は、当たったためしがない。
(当たってもらっては、困るが……。)
10年前には、ノストラダムスの大予言というのが、話題になった。
あれも、完全に、ハズレ!

 興味深いのは、こうした予言をもとにして、デタラメな本を書いた人が、
1人とて、責任を取ったことがないこと。
世の中を不安にするだけ不安にしておいて、かつ莫大な印税を手にしておいて、
あとは「知らない」は、ない。
儲けた分くらいは、社会に還元してほしい。

 もっとも、本気でそれを信ずる人は、いなかったが……(?)。

 で、2012年。
マヤ文明は宇宙人とつながっているという。
私も若いころ、デニケンの本は、何冊か、読んだ。
おもしろかった。
人間だけが、宇宙の、ゆいいつの知的生物という考え方は、おかしい。
人間以外にも、知的生物は、いる。
しかもその知的生物は、私たちの想像をはるかに超えるほど、知的と
考えるのが、正しい。

 人間と、庭に遊ぶ山鳩くらいの差は、あるかも。
そういう知的生物なら、かなり正確に、地球の未来を予測することができるはず。
(予言ではなく、予測。)
その予測を、宇宙人は、マヤの人々に伝えた。
デニケンなら、そう判断するだろう。
それが2012年ということになる。

 しかしおかしなことに、「2012」という数字がどこから出てきたかというと、
それがよくわからない。
「マヤの暦によれば……」ということらしい。
しかし私が知るかぎり、彼らの文字は、いまだに解読されていないはず。
で、あちこちを調べてみたが、よくわからない。
仮に2012年で暦が終わっているからといって、それが「終末」を意味すると
考えるのは、おかしい。
カレンダーにも限界があるように、マヤの暦にも限界がある。
あったところで、おかしくない。
ひょっとしたら、その程度のことではないのか。

 ……とは言っても、楽しみ。
私は学生時代から、SF小説が大好き。
その類の本ばかり、読んでいた。
当時は、地球人と木星人との戦争とか、そういう単純なものばかりだった。
が、それでもおもしろかった。

 脳みそを刺激するには、この種の映画が、いちばんよい。

 なお占星術という言葉が出てきたので、一言。
以前、それについて書いた原稿をさがしてみた。

+++++++++++++++++++++++

●占星術

+++++++++++++++++

今、静かに、かつ密かに、
占星術なるものが、流行している。

街中の片隅で、あるいは、
どこか陰湿なビルの一室で、
あやしげな儀式がが、まこと、
しやかに、行われている。

占星術で占ってもらっているのは、
大半が、若い女性だが、男性もいる。
もちろんそれなりの年配者もいる。

+++++++++++++++++

 占星術としてよく知られているのが、ギリシャで発達した、「黄道十二宮(ホロスコープ)
占星術」である。今、日本でいうところの占星術は、この流れをくんだものと考えてよい。
しかし占星術は、何も、それだけではない。星が見えるところ、すべての世界に、それが
ある。興味深いのは、イスラムの世界にも、それがあるということ。

 で、占星術では、「万物は、神によって創造された。ならば、その万物の構成要素から、
神の意思を推し量ることができるはず」というのが、その基本になっている。わかりやす
く言えば、太陽も、星も、そして人間も、すべて神が創造したものである。だからそれら
万物は、一体となって、統一性と連続性をもって運行している、と。

 そこで天体の星の位置や動きを知ることで、神の意思を知る。ついで、それらと一体と
して連動している、人間の運命を知る、と。

 しかし常識で考えても、いろいろ矛盾がある。

 たとえば黄道十二宮占星術では、その人の生年月日を基準にするが、母体から離れ出て
誕生した日を生年月日というのも、よくよく考えてみれば、おかしなこと。原理的には、
男の精子が、母親の子宮に着床したときをもって、生年月日と言うべきではないのか。例
がないわけではない。

 中国では、年齢をいうとき、(数え年)で数える。つまり生まれたとき、すでに1歳とす
るのは、生まれる前の1年間を、母親の母体内で過ごしていると考えるからである。イス
ラムの世界でも、その人の星位は、受胎時の星位によって決まると考えられている。

 ならば私やあなたの誕生年月日は、母体から切り離されたときではなく、ここにも書い
たように、受胎したそのときをもって、決まると考えるのが正しい。少なくとも、占星術
では、出産日ではなく、受胎日を基準にして、その人個人の運勢を占うべきである。

 年齢だけではない。占星術といっても、ここに書いた出生によって、その人の運命を判
断する、「出生占星術」、太陽、月、星などの動きから、世界や国の動きを判断する、「全体
占星術」、いつどのような形で行動を始めるかを占う、「開始行動占星術」、そのつど天体の
動きを参考に、質問者の質問に答える、「質問占星術」などがある。

 が、何といっても多いのが、ここに書いた、個人の運勢や運命を占う、「運命占星術」。

 しかし仮に、万物が神の創造物であるにしても、それは人間という単位。あるいは生物
という単位で、ものを考えるべきではないのか。たとえば公園の広場に住む、アリを考え
てみればよい。もしそこにすむアリたちに、何かの異変が起きるとしたら、公園の工事や、
清掃作業によるもの。しかしこのばあいでも、一匹、一匹のアリがどうこうなるというわ
けではない。公園に住むアリ全体が、その影響を受ける……。

 ……という話を書くことすら、バカげている。

 星の位置といっても、宇宙という3次元の空間にある星々を、地球という一点から、二
次元、つまり天空という平面で見ているにすぎない。星々までの距離は、計算に入れてい
ない。

 つまり星の位置といっても、実に自己中心的な視点で、それを見て言っているにすぎな
い。サソリ座だの、何のと、真顔で、口にすること自体、バカげている。宇宙船で、10
0光年も先へ行けば、星座の位置、形、すべてが変わる。1000光年も先に行けば、も
っと、変わる。星位という概念すら、消えてなくなる。

もうひとつつけ加えるなら、占星術は、つねに数学と結びついて発達してきた。占星術イ
コール、数学と考えてよい。

 その「数学」が何であるかもわからないような、そこらのオバチャンが、口八丁、手八
丁で、占星術をするから、話がおかしくなる。

 こうした占いは、人々の心のスキマをついて、これからもなくなることはないだろう。
しかしこれだけは言える。

 「生きることとは考えること」という人にとっては、占いを認めることは、その生きる
ことを放棄することに等しい。占いに頼るということは、考えることを、自ら放棄するよ
うなもの。それでもよいと言うのなら、それはそれでかまわない。そのあとの判断は、そ
れぞれの人の勝手。私の知ったことではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
占星術 占い 黄道十二宮占星術 ホロスコープ占星術)


【追記】

●占星術(2)

 超自然的な絶対性。それが占いの基盤になっている。占星術についても、例外ではない。
占星術も、もとはといえば、万物の創造主たる神の存在を、大前提にしている。つまり占
星術の世界では、この大宇宙も、そして地球上に住む、ありとあらゆる生物も、すべてが
一体として、統一化され、かつ連動しているという考えを、基本とする。

 大宇宙は、そのまま私たちが住む小宇宙と、照応関係にあるとみる。

 これは何も占星術にかぎらないことだが、占星術も含めて、あらゆる占いには、宗教性
がある。事実、イスラム教の世界では、イスラム教は常に、占星術とともに、歩んできた。
とくに占星術については、占星術イコール、イスラム教と考えてよい。

 イスラム教の寺院の天井が、ドーム状になっているのも、そうした教えに基づく。つま
り、そのドームの形そのものが、大宇宙と連動する小宇宙を表現している。

 反対に、仮に、占いから、その宗教性を消してしまえば、占いは、占いとしての意味を
なくす。たとえばだれかがあなたの生年月日を聞いたあと、何やら意味のわからない計算
盤を見つめながら、こう言ったとする。

 「あなたの寿命は、あと5年です。それを避けるためには、毎晩、床の北東の位置に、
ローソクを立てて眠りなさい」と言ったとする。

 信ずるか、信じないかは、あなたの勝手。……というより、それはあなたの宗教性によ
る。意識的であるにせよ、あるいは、ないにせよ、もしあなたが、不可思議なものにたい
して、それを超えた(何か)を、感ずれば、あなたには、その宗教性があるということに
なる。笑って無視すれば、あなたには、その宗教性がないということになる。

 その宗教性は、ふとしたきっかけで、信仰心に変身する。信仰心といっても、おおざっ
ぱに言えば、2種類ある。ひとつは、教えを重要視するもの。もうひとつは、超自然的な
パワーを盲信するもの。前者を、哲学主義というなら、後者は、神秘主義ということにな
る。

 もちろん、その中間もある。色の濃さも、それぞれの宗教によって、ちがう。宗派によ
っても、ちがう。しかしたいていのばあい、宗教は、信者を問答無用式に黙らせるために、
絶対的な存在を、信仰の中心に置く。「イワシの頭も信心から」とは言うが、イワシの頭で
は、信者を黙らせることはできない。

 神や仏がよい。あるいは太陽がよい、月がよい。さらには、星がよい、と。

 よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいる
から、宗教が生まれる。そしてその宗教も、ビジネスの世界と同じように、需要と供給の
バランス関係によって、発展したり、衰退したりする。

 たとえば、私が子どものころには、占星術なるものは、日本には、存在しなかった。ど
こかには、あったのかもしれないが、少なくとも、私たちの目の届くところには、なかっ
た。ただ歴史的には、天空の異変を見ながら、その国の吉凶を占うということは、日本で
も、中国でもあったようだ。

 中国における古代天文学は、そうした視点から発達した。

 しかしそれが個人レベルの占星術、つまり運勢占星術として、日本で定着し始めたのは、
私の記憶によれば、1970年代以後のことではなかったか。こと「星」について言えば、
日本人は、元来、無頓着な民族と言える。星座、それにつづく天文学については、それに
ついて研究したという史料は、ほとんどといってよいほど、残っていない。(これは多分に、
私の認識不足によるものかもしれないが……。)

 占星術も、その後、需要と供給のバランスの中で、発展した。(発達したのではなく、発
展した。誤解のないように。)もっと端的に言えば、心にスキマのある人たちが、より、も
っともらしい(占い)に飛びついた。占星術は、そういう意味で、日本人の需要に、うま
く答えたということになる。

 それ以前には、手相、姓名判断、八卦(はっけ)などが、占いとして、日本人の心のス
キマを埋めていた。私の実家では、毎年正月に、近くの神社から配られる、運勢判断を見
ながら、その年の計画を立てる慣わしになっていた。

一方、占星術は、こうした旧来型の占いとちがい、どこか数学的であるという点と、「星」
そのものがもつロマンチックな雰囲気が、若者の心をとらえた。そして今に見る、占星術、
全盛期を迎えるにいたった。

 書店でもコンビニでも、その種の本がズラリと並ぶ。占星術師なる人物が、テレビに顔
を出さない日は、ない。

 しかしこうした現象が、子どもにとって望ましい現象かどうかということになると、そ
れは疑わしい。占いそのものがもつ非論理性もさることながら、ここにも書いたように、
占いは、神秘主義と結びつきやすく、それがそのまま宗教性へとつながっていく可能性が
高い。あの忌まわしいO真理教による、地下鉄サリン事件以来、カルトと呼ばれる狂信的
宗教団体は、表向きは、なりを潜めている。が、しかし今の今も、社会の水面下で、その
勢力を拡大していることを忘れてはならない。

 こうした子どものもつ宗教性が、いつなんどき、そうしたカルトによって利用されるか、
わかったものではない。忘れてならないのは、占いは、立派な、信仰である。しかもその
信仰は、神秘主義そのものである。

 何の批判もなく、何の制約もなく、占星術なるものが、大手を振ってこの日本を闊歩(か
っぽ)している。それは子どもたちの未来にとっては、たいへん危険なことと考えてよい。

 ペルシャの散文家、ニザーミイー・アルーズィーは、こう書いている。

 「占星術師は、魂も性格も清く、人に好かれる人物でなければならない。また外見上、
いくらかの精神錯乱、狂気、預言めいたことを言うのが、この術の必須条件である」と。
つまり「異常な霊感こそが重要」(学研「イスラム教の本」)と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
占星
術 子供の世界 占い 神秘主義 神秘主義的傾向)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●受験生国家

+++++++++++++++++++++

韓国の受験教育の激しさは、日本の比ではない。
そういうこともあって、韓国のエリートたちは、
いつも(順位)にこだわる。
日本ではニュースにならないようなニュースでも、
彼らには一大事。
ときとして韓国系の新聞に目を通していると。
気分が重くなる。

それはそれとして、朝鮮N報(09・10・27)に、
こんな記事が載っていた。

「世界の豊かさ評価」というのである。
この中で、「日本は、16位」だ、そうだ。

+++++++++++++++++++++

+++++以下、朝鮮N報より+++++

 英民間研究機関のレガタム研究所が世界104カ国・地域を対象に「豊かさ」の指標とし
て発表している「レガタム繁栄指数」で、フィンランドがトップとなり、韓国は26位に入
った。韓国経済新聞が26日、英フィナンシャル・タイムズ(FT)を引用して報じた。

 フィンランドは経済基盤、統治能力などの側面で最も豊かな国と評価された。レガタム
は、▲経済基盤▲安全保障と治安▲企業家精神と革新▲民主主義▲統治能力▲個人の自

など九つの要素を考慮し、指数を算出した。

 フィンランドは昨年の3位から1位に浮上し、2位以下はスイス、スウェーデン、デンマ
ーク、ノルウェーとなり、北欧3カ国がそろって上位を占めた。上位20カ国のうち80%
は北米、欧州の国々で、米国は9位、英国は12位、フランスは17位、イタリアは21位だ
った。

 アジアでは日本が16位でトップ。シンガポールが23位、台湾が24位で続いた。韓国は
26位で、アジアでは4番目だった。韓国は▲経済基盤▲企業家精神と革新▲教育▲統治能
力で高い評価を受けたが、個人の自由に対する評価は振るわなかった。

 今回の調査では、新興のBRICs各国の間で格差が目立った。ブラジルが41位、インド
が45位に入ったのに対し、ロシアは69位、中国は75位にとどまった。レガタムのインボ
ーデン副会長は「ブラジルとインドは法治、透明性、責任性などでロシア、中国を上回っ
た」と説明した。内戦に苦しむジンバブエが最下位となり、イエメン、スーダンなども最
下位圏だった。

+++++以上、朝鮮N報より+++++

●豊かさ

 「豊かさ」というのは、それを知っている人は、知っている。
知らない人は、知らない。
知らない人は、自分のレベルで、それを(豊かさ)と思い込む。
お金があるから、「豊か」ということにはならない。
モノがあふれかえっているから、「豊か」ということにもならない。
わかりきったことだが、それを知るためには、一度、自分の(豊かさ)を、
日本の外からながめてみる必要がある。

 そういう点では、英民間研究機関のレガタム研究所の公表した順位には、
それなりの意味がある。
日本が16位というのを聞いて、「そうかなあ?」と思ってみたり、
「そんなものだろうな」と思ってみたりする。

 記事には、「フィンランドは昨年の3位から1位に浮上し、2位以下はスイス、スウェー
デン、デンマーク、ノルウェーとなり、北欧3カ国がそろって上位を占めた」とある。

 この記事に異論はない。
その一方で、「中国が75位」というのも、よ〜く、わかる。
ここ10年以上、中国本土からやってきた中国人とは、どうも相性が合わない。
会えば、マネーの話ばかり。
その上、自信を持ち始めたのか、威張っている。
日本人を毛嫌いしていて、それを露骨に表現する。

 そういう点では、日本人は、おとなになりつつある。
(豊かさ)というのが、どういうものか、知り始めている。
30〜40年前の日本人は、現在の中国人に劣らぬほど、心が貧しかった。
今にして思うと、それがよ〜く、わかる。

 それにしても、韓国人は、何かにつけ、順位を気にする。
つまりそれだけ、心が貧しいということ。
「韓国は26位」というが、実際には、もう少し低いのでは?

たとえば市内には、最近韓国からやってきた人が開いた飲食店が、いくつかある。
韓国料理は嫌いではないが、どうも、入りづらい。
そういう店は、どこか雰囲気がちがう。
店の中の座敷に、その飲食店の店主の子どもが、寝そべって本を読んでいたりする。
そういうのに、違和感を覚える。
その(違和感)こそが、(豊かさ)のちがいということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●WINDOW7

WINDOW7が発売になって、ちょうど1週間が過ぎた。
評判は、よい。
昨日、コンビニで、『日経PC21』(12月号)を買ってきた。
表紙に、「全部見せます! Window7」とあった。

寝床へ入ってから、特集記事を読んだ。

(パート1)新機能編
(パート2)乗り換え編
(パート3)環境設定編
(パート4)互換性編
(パート5)PC購入編

ざっと読んでみたが、この世界、ついていくだけでも、たいへん。
それなりの専門家ならまだしも、私のような(ふつうの人)には、
その時間さえない。

読み終えたとき、「ますます二極化が進むだろうな」と思った。
(パソコンを使う人)と(まったく使わない人)。
それが両極端に分かれる。
とくに50代以上の人の間で、それが進む。

たとえばWINDOW7では、メールソフトなど、いわゆる定番ソフトは、
自分でインストールして使う。
しかし今の今でさえ、メールアカウントを、自分で設定できない人は多い。
それを、「自分でインストールして……」となると、さらにハードルが
高くなる。

インターネットをするといえば、メールのやり取りをいう。
どうしてWINDOW7では、それをはずしたのか。
理解に苦しむ。

なお、インターネット・エクスプローラ(IE)や、メディアプレーヤー
などは、最初から組み込まれているという。

やっとビスタを使い慣れてきたというのに、今度は、WINDOW7。
頭の刺激にはなるが、一方で、お金の問題も起きてくる。

ほんの10年前には、パソコンというと、20〜30万円が相場だった。
高価なものだから大切に使ったが、今では周辺機器も含めて、すべてガラクタ。
だから今では、ことパソコンについて言えば、「大切に使っても意味がない」
という、おかしな感覚が働く。
「どうせ、4、5年もすれば、ガラクタになるから……」と。

パソコンというのは、(ビデオカメラもデジタルカメラも、そうだが)、
保証期間中は、使って使って使いまくる。
ボロボロになるまで、使いまくる。
少なくとも、磨いて、棚にしまっておくようなものではない。
もちろん骨董的価値が出てくるということは、ぜったいに、ない。

かく言う私も、今度の日曜日に、WINDOW7に、乗り換えるつもり。
その作業をするつもり。
楽しみ!


●同窓会名簿

 昨日、同窓会名簿を、戸棚にしまった。
ああいうのは、あまり見ない方がよい。
一度見出すと、気になってしかたなくなる。
「あの人は、どうなった?」「この人は、どうなった?」と。
しかしその動機が問題。
のぞき趣味的な、イヤーナ好奇心。
それが自分でも、よくわかる。

 私は私。
人は人。
それで、よい。
たぶん、中には、同窓会名簿を見て、私のことを調べている人もいるかも
しれない。
どうせ2度と会うこともないから、「ご勝手に!」と言いたいが、本音を
言えば、「放っておいてほしい」。

 一度調べたことがあるが、アメリカやオーストラリアを含む欧米の学校には、
同窓会(Class Reunion Party)というのは、ない。
学校のシステムそのものが、ちがう。
(ただしカレッジごと、大学ごとの、同窓会はある。)

日本では、年齢別に学年が分かれ(学年制度)、かつ1つのクラスに担任の
教師がつく(担任制度)。
が、欧米には、そういった制度そのものがない。

 が、日本では、同窓会を大切にする。
その中における、先輩、後輩意識も強い。
江戸時代の身分制度が、学歴制度に置き換わったという経緯(いきさつ)もある。
その人の出身校で、その人を判断するという意識も、いまだに根強く残っている。
が、同窓会には、もうひとつの意味が隠されている。

 人も晩年になると、回顧性が強くなる。
未来を見る展望性より、過去をなつかしむ回顧性が強くなる。
そのために50歳をすぎると、同窓会の回数が、急速にふえてくる。
しかしそれをよしとしてはいけない。
回顧性などというものは、戦うべきものであって、受け入れるべきものではない。
私たちは常に、未来に向かって、前向きに生きていく。

そうでなくても、私たちの年代になると、くじけやすくなる。
過去を振り返りたくなる。
が、一度回顧性に毒されると、それこそ、毎日仏壇の金具を磨いて過ごすようになる。
そうなったら、片足を棺おけに入れたも、同然。
そこで時間は止まる。

 回顧性に浸るのは、最後の最後でよい。
……ということで、同窓会名簿は、戸棚にしまった。
そうでなくても、他人の動向を詮索するのは、よくない。
昼のワイドショーのように、低劣で、不快。
タレントの私生活を暴いては、ワイワイと騒いでいる。
ああいう人たちのまねだけは、したくない。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもを伸ばすために】

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子どもを伸ばすには、どうしたらよいか。
それについて書いてみたい。

(まとまりのない文章で、すみません。)

++++++++++++++++++

●八つ当たり

脳みそというのは、器用なようであって、器用でない。
基本的には、不器用。
「自分ではこうしたい」と思っていても、脳のほうが、勝手に反応してしまうことがある。
その一つの例が、八つ当たり。

何かのことでいやなことがあったとする。
ムシャクシャする。
するとそのはけ口を、ほかのものや、人に向ける。

向けられた人こそ、えらい迷惑。
そういう心理状態を、心理学では、「置き換え」という言葉を使って説明する。

しかしそれも道理。
一度、ある種のホルモン、たとえばサイトカインなどが分泌されると、
それは脳内全体に作用する。
部分的に、ここだけに作用して……というわけには、いかない。

だから一度、サイトカインが分泌されると、いや〜な気分は、脳全体に影響を与える。
それが八つ当たりの原因ということになる。

が、その八つ当たりをコントロールするのが、理性。
つまり前頭連合野の働きということになる。
が、この前頭連合野の働きは、あまりアテにならない。
個人差も大きい。

つまり本能的な脳の働きの前では、理性の力といっても、風の中で揺れる
ローソクの光のようなもの。
とくに私のばあいは、そうである。
何かにつけて、すぐ八つ当たりしてしまう。

では、どうすればよいのか。

●アクセルとブレーキ

 少し話が脱線するが、許してほしい。

 心理的反応の大きさは、脳に刻み込まれたトラウマ(心的外傷)の大きさによる。
トラウマが大きければ大きいほど、心理的反応は、大きくなる。

 私のばあいも、ふつうの人にとっては何でもないことでも、あること(人)になると、
反応が過剰になることがある。
たとえば「酒」。

 私は酒のにおいが、嫌い。
酒臭い人も、嫌い。
ふつうの人にとっては、何でもないにおいでも、私にとっては、そうでない。
理由は、わかっている。
私の父は、酒癖が悪く、酒を飲むたびに、家の中で暴れたり、大声を出して叫んだ。
それがトラウマになっている。
若いときほどではないが、いまだに、その残像が残っている。

 そういう自分を観察してみて、気がついたことがある。
「置き換え」も、そのときの気分によって、左右される、と。

 たとえば親しい友人が、酒を飲んだとする。
そういうときは、ほとんど気にならない。
ワイフの酒も気にならない。
しかし電車に乗り込んできたような人が、酒臭かったりすると、ムッとする。
あるいは日ごろ、不愉快に思っている人が、酒臭かったりする。
そういうときも、ムッとする。

 条件反射論で考えるなら、こういうことはないはず。
どの人に対しても、反応は平等に起きるはず。
つまり条件反射も、別の何かによって、影響を受けることになる。
なぜだろう?

 そこで自分を観察してみる。
同じ条件反射なのに、強弱はどうして起こるのか、と。

 このことは、少し汚い話で恐縮だが、「便」で考えてみるとわかる。
あのソクラテスは、「自分の糞(おならではない)は、いいにおい」と言った。
しかし便というのは、みな、同じようなもの。
同じように、においも、人によってそれほど、違わない。
が、どうしてか、自分のおなら(便ではない)は、よいにおいがする。
他人のは、そうでない。

 そういうとき、頭の中でこんな反応が起きるのが、わかる。
一度は、臭いと思うが、それを発展的に(?)、「臭い」と思うときもあれば、
「臭くない」と、否定的に(?)、思うときがある。

 他人のものであれば、発展的に、「臭い」と思う。
自分のものであれば、(ワイフのも、そうだが)、「臭くない」と思う。
つまりアクセルを踏むか、ブレーキを踏むかのちがいが、起きる。
その作用が、そのあとの心理作用に、影響を与える(?)。
脳のどこかに、そういうメカニズムがあるらしい。

●潜在意識

 児童心理学の世界には、「好子」「嫌子」という言葉がある。
同じことなのに、それを前向きにする子どもがいる。
一方、それをいやがり、逃げ腰になる子どもも、いる。
こうした現象を、「好子」「嫌子」という言葉を使って説明する。

 これもアクセルとブレーキに似ている。
可能性として考えられるのは、表の意識が、裏の意識、つまり潜在意識に
操られているということ。
そのことによいイメージをもっていると、そのイメージが、アクセルとなって働く。
悪いイメージをもっていると、ブレーキとなって働く。

 たまたま今日も、年中児の男の子に、簡単な文章を読ませようとした。
そのときのこと。
その子どもは、その文章から目をそらし、悲しそうな目つきで、私の顔をじっと見つめた。
明らかに拒否反応である。
文字に対して、どこかで悪いイメージをもってしまったらしい。
それがブレーキとなって働いた。

 そこで何とかその子どもに、その文章を読ませた。
少しずつ私が読み、それを復唱させた。
文字などはスラスラと書くので、その程度の文章が読めないということはない。
で、読んだあと、みなの前でほめ、そしてみなに、手を叩かせた。
とたん、表情がぱっと輝いた。

 で、もう一度、レッスンの終わるころ、その男の子に同じ文章を読ませた。
今度は、大きな声で読んだ。
今度は、アクセルが働いた。

●イメージ・トレーニング

 こうして考えてみると、条件反射をコントロールするのは、実は理性(=前頭
連合野)ではなく、潜在意識ということになる。
あるいは潜在意識のほうが、パワー的には、前頭連合野より強力ということになる。

 こうして生まれた指導法が、イメージ・トレーニング法ということになる。
これは航空大学校に通っていたころの三男から学んだ方法である。
パイロットの卵というのは、訓練の過程で、いつもイメージ・トレーニング法を
使うという。

簡単な例では、たとえば頭の中に飛行機を思い浮かべ、その飛行機が横風を
受けて、流されていく様子など。
そういうイメージを描きながら、自分はどう飛ぶべきかを、頭の中でトレーニング
する。

 私も幼児教室で、このイメージ・トレーニン法を多用している。
たとえば、私が何を言っても、「やりたい!」と子どもたちに言わせる。
大声で言わせるのが、コツ。

「お手伝いをしたいか」「やりたい!」
「ひらがなの勉強をしたいか」「やりたい!」
「お母さんを助けたいか」「やりたい!」と。

(「YES!」「NO!」と言わせるときもある。
「いやだア!」と大声で連呼させるときもある。)

反対に、「いやだ!」と言わせるときは、こうする。

「ゴキブリの天ぷらを食べたいか」「いやだア!」
「ミミズのラーメンを食べたいか」「いやだア!」
「ねずみのウンチのから揚げを食べたいか」「いやだア!」と。

こうしてはずみをつけたあと、少しずつ、内容を現実に近づけていく。

「タバコを吸ってみるか」「いやだア!」
「ちょっとおじさんと、遊びに行かないか」「いやだア!」
「いいところへ連れていってやるから、車に乗ってよ」「いやだア!」と。

(実際の指導風景は、YOUTUBEのところどころに、収録してある。
興味のある人は、そちらを見てほしい※。)

●トラウマつぶし

 こうして子どもたちの脳の中に、前向きな潜在意識を作っていく。
同時に、それを自分自身に応用してみる。

 何かのトラウマがあったとしても、(もちろんそれが何であるかを、先に
知らなければならないが……)、そのトラウマをつぶす。
これを私は勝手に、「トラウマつぶし」と呼んでいる。

 たとえば私は、幼稚園に勤め始めたころ、できの悪い子どもが苦手だった。
そういう子どもに接すると、そばにいるだけでイライラしたこともある。
しかしそれでは仕事にならない。
数か月や半年は、ごまかすことはできても、そこまで。
そのうち子どものほうが、「林先生は嫌い」とか、「幼稚園へ行きたくない」とか
言い出す。
そこで私は、(実のところ、5〜7年もたってから、それに気づいたのだが)、
初対面のとき、「この子はいい子だ」と、自分をだますようにした。
「この子はすばらしい」「この子は伸びる」と。

 それ以後、見違えるほど、子どもたちの表情が明るくなったのを覚えている。
教えるのも楽になった。
で、今でも、そうだ。
……というより、今は、自然な形でそれができる。
だから私が教えている子どもは、例外なく、どの子どもも、表情が明るい。
(表情が明るい子どもにするのが目的だから、当然のことだが……。)
その様子も、YOUTUBEに収録してあるので、ぜひ、見てほしい。

 反対に、その子どもの中に、何らかのトラウマを見つけたら、この方法で
つぶす。

先に、文字に対して拒否反応を示した子どもについて書いた。
レッスンが終わったとき、母親には、こう言って指導した。
「あとは、家で、おおげさにほめてあげてください。
じょうずに読めたね。
お母さんが、うれしかったと言うだけで、効果があります。
お父さんの前でそれを言うと、もっと効果的です」と。

 子どもを伸ばす、本当の力は、子ども自身の内部にある。
その内部を、教育する。
「それが幼児教育」とまでは断言できないが、ここに書いたことはまちがっていない。
あとは、子ども自身が本来的にもつ力で、伸びていく。

 「子どもを伸ばすには」というテーマで書いたつもりだが、何ともまとまりのない
原稿になってしまった。
切り口をまちがえた。
八つ当たりから、話を始めたのが、まずかった。
ボツにしようかと考えたが、このまま発表する。
ごめんなさい!

(注※:YOUTUBEへは、私のHPのトップページより、「BW公開教室」へ。)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●映画『沈まぬ太陽』

 静岡県では、今日、参議院議員の補欠選挙がある。
その投票に行く途中で、この文章を書いている。
(もちろん車の中で……。)

 が、道路が、日曜日ということもあって、大渋滞。
少しイライラしていたら、ワイフが、「このまま映画に行かない?」と。
こういうとき、夫は、妻に従うのがよいそうだ。
先日買った雑誌(「プレジデント」)に、そう書いてあった。
熟年離婚の危機はかろうじてかわしたが、安全圏に入ったわけではない。

 「時間的には、『沈まぬ太陽』がいいわ」ということで、そのまま劇場へ。
投票は、劇場からの帰りにすますことにした。

●日本映画

 日本映画のつまらない点は、自然ぽさがないところ。
役者の個性を利用するというよりは、無理な役作りをするところにある。
知性の感じさせないような人が、科学者の役をしたり、スケベそうな男が、
正義を説いたり……。
その(無理)が、映画を、つまらないものにする。

 先日も、「火TENの城」というのを見てきたが、途中で出てきてしまった。
ああいう(できすぎた映画)を見ていると、かえって不愉快になる。
何もかも、頭の中で先に予想ができてしまう。
「このつぎは、こうなるぞ」と。
そのとおりに、役者が演じ、ストーリーが運ぶ。
だからおもしろくない。

(この間、『沈まぬ太陽』を見た。長い映画だった。)

●『沈まぬ太陽』

 主演の渡辺腱(父親役)と、名前は知らないが、息子役の男優。
この2人の演技が、きわだって光った。
よかった。
あとの俳優は、率直に言って、見るに耐えないというか、「これが演技です」
というような演技。
つまらなかった。
たぶん、監督の演技指導のままに演技していたのだろう。
語り方はもちろん、視線のはずし方まで、みな、同じだった。

 映画を見れば、どこの航空会社がモデルになっているかは、一目瞭然。
「よく、あの会社が、こんな映画を許可したね」と、何度も、ワイフと言いあう。
最後の結末がさわやかだったからよかったが、もし醜いまま終わっていたら、
訴訟問題になっていたかも。
時期が時期だけに、あの会社にとっては、たいへんまずい。
現在、経営再建中。

 内容的には、シリアスな社会派映画を見た感じ。
私も若いとき、M物産という会社にいた。
そういう立場で言うと、「現場は、あんなものではない」というのが、私の感想。
もっと生々しく、毒々しい。

それに日本の映画は、どうしてこうまでお説教がましいのだろう?
お金を出して、劇場まで足を運ぶのだから、もう少しサービス精神を旺盛にしてほしい。
つまり私たちを、楽しませてほしい。
ときに安っぽい論理で、人生観を語られたりすると、その場でシラケてしまう。

 見終わったとき、ワイフに私も、こう言った。
「早く、M物産をやめて、よかった」と。
もしあのままあの会社で働いていたら、今ごろは、死んでいるか、身も心も、
ズタズタにされ、私は廃人になっていたはず。

 同時に、以前書いた原稿を思い出した。
『休息を求めて、疲れる』(イギリスの格言)という原稿である。
いくつか書いたので、そのまま掲載する。

+++++++++++++++++++++

●休息を求めて疲れる(ロマンを求めて)

 いまだに悪夢と言えば、修学旅行のときのものだ。集合時刻が近づく。私は大部屋で寝
ている。皆はすでにカバンを整理して外へ出ようとしている。私は自分の靴がどこにある
かもわからない。トイレはどこだ。まだ朝食も食べていない……。記憶にはないが、多分
私は子どものころ、旅行でそういう思いをしたのだろう。いや、それ以上に私たち団塊の
世代は、どんなことでも、乗り遅れるのを何よりも恐れていた。

 前年までのクラスは五クラス。しかし私たちの学年からは、一一クラス。しかも一クラ
ス、五五人平均。粗製濫造とはまさにこのことで、私はサッカーにしても、一チーム、二
五人で戦うものだとばかり思っていた。

 確かに私たちの世代は、いつもうしろから何かに押されていた。立ち止まっただけで、
言いようのない不安感に襲われた。はげしい競争。そしてまた競争。こうしてあの会社人
間、仕事人間は生まれたが、そうであってはいけないと思っていても、休暇で一週間も休
みが続いたりすると、それだけで申し訳ない気持ちになる。

私が見る悪夢は、その延長線上にあるにすぎない。「日本は資源のない国だ」「貿易で国を
支えるしかない」「欧米に追いつけ、追い越せ」「立派な社会人となれ」などなど。私たち
はこういう言葉を、毎日のように、それこそ耳が痛くなるほど聞かされた。結果、今のよ
うな日本がなったが、そこでまたふと立ち止まってみると、やはり言いようのない不安感
に襲われてしまう。

 そうそうイギリスの格言に、「休息を求めて疲れる」というのがある。「いつか楽になろ
う、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という
意味だが、イギリスでは、愚かな生きかたの代名詞にもなっている。オーストラリアの友
人も、何かのことで私があせっていると、「ヒロシ、気楽にせよ。休息を求めて疲れるな」
と、よく言ってくれた。しかし今になっても、その「休息」はどこにもない。なぜだろう
か。

 貯金といっても、底が知れている。退職金などもちろんないが、年金にしても、本当に
もらえるかどうかわからなくなってきた。息子たちにしても、私が世話をすることはあっ
ても、その反対は、まず期待できない。期待もしていない。私はこうして死ぬまで働くし
かない。

 話は変わるが私の友人の弟は、四二歳の若さで会社勤めをやめ、退職金をもってマレー
シアへ渡った。そしてそこで中古のヨットを買って、航海に出たという。「今ごろね、あい
つね、マレーシアで知り合ったフランス人女性と二人で、インド洋を航海しているはずで
す」と。その友人は笑って話してくれたが、私には夢のような話だ。いや、夢ではない。
私にだってできる。いつかはできる。それをしなければ、いつまでたっても、あの悪夢か
ら解放されることはない。

 今回は私たち団塊の世代の、挫折とロマンを聞いてもらいたくて筆をとった。この中に
一つの教育論を感じとっていただければ幸いである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、
結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはい
けません」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。
同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入る
ため。
そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここで
いう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自
分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になってい
るから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。

「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽ら
ずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の

校生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置に
ある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あな
たの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未
来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」
の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。

子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子
ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないの
か。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」と
いうことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、その
つどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。
それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に
追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。
 
同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子ど
もに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」
と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。

ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違

を感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないの

はないか……と、私は心配する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「休息を求めて疲れる」。

イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言でもある。
「いつか楽になろう、なろうと思っているうちに、歳をとってしまい、結局は何もできな
くなる」という意味である。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。

 ところでこんな人がいる。
もうすぐ定年退職なのだが、退職をしたらひとりで、四国八八か所を巡礼をしてみたい、
と。
そういう話を聞くと、私はすぐこう思う。「ならば、なぜ今、しないのか?」と。

私はこの世界に入ってからずっと、したいことはすぐしたし、したくないことはしなかっ
た。
名誉や地位、それに肩書きとは無縁の世界だったが、そんなものにどれほどの意味がある
というのか。
私たちは生きるために稼ぐ。稼ぐために働く。これが原点だ。

だから○○部長の名前で稼いだ100万円も、幼稚園の講師で稼いだ100万円も、100
万円は100万円。
問題は、そのお金でどう生きるか、だ。
サラリーマンの人には悪いが、どうしてそうまで会社という組織に、義理立てをしなけれ
ばならないのか。

未来のためにいつも「今」を犠牲にする。
そういう生き方をしていると、いつまでたっても自分の時間をつかめない。
たとえばそれは子どもの世界を見ればわかる。
幼稚園は小学校の入学のため、小学校は中学校や高校への進学のため、またその先の大学
は就職のため……と。社会へ出てからも、そうだ。
子どものときからそういう生活のパターンになっているから、それを途中で変えることは
できない。
いつまでたっても「今」をつかめない。つかめないまま、人生を終わる。

 あえて言えば、私にもこんな経験がある。
学生時代、テスト週間になるとよくこう思った。「試験が終わったら、ひとりで映画を見に
行こう」と。
しかし実際そのテストが終わると、その気力も消えてしまった。
どこか抑圧された緊張感の中では、「あれをしたい、これをしたい」という願望が生まれる
ものだが、それから解放されたとたん、その願望も消える。

先の「四国八八か所を巡礼してみたい」と言った人には悪いが、退職後本当にそれをした
ら、その人はよほど意思の強い人とみてよい。
私の経験では、多分、その人は四国八八か所めぐりはしないと思う。退職したとたん、そ
の気力は消えうせる……?

 大切なことは、「今」をどう生きるか、だ。
「今」というときをいかに充実させるか、だ。明日という結果は明日になればやってくる。
そのためにも、「休息を求めて疲れる」ような生き方だけはしてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 沈まぬ太陽 映画「沈まぬ太陽」 休息を求めて疲
れる 休息を求めて、疲れる 今を生きる子育て論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□



●パソコン

パソコンの世界では、つぎつぎと新製品が発売になる。
そのたびに、機能は向上し、デザインもよくなる。
そのたびに、新しいのが欲しくなる。
 
こういうのをビョーキという。
ドーパミンの分泌がさかんになる。
線条体で条件反射が起きる。
自分でもそれがよくわかっている。
わかっているが、それがなくなったら、私もおしまい。
つまり「欲しい」と思ううちが、花。

たとえばこの2か月ほど、政治に関して、興味をなくしてしまった。
どうでもよくなってしまった。
とくに先の衆議院議員選挙以来、気が抜けてしまった。
が、これではいけない。

……というより、あちこちのサイトを見ていたら、私の原稿が、
いくつかの政治団体で、紹介されているのを知った。
羽田空港問題、成田空港問題について書いた原稿も、それぞれのサイトで、
紹介されているのを知った。
(ついでに旅行記も、紹介されていた。)

それがよい刺激になった。
久しぶりに、政治問題を考えたくなった。

で、最近の話題は、何と言っても、鳩山首相の「東アジア共同体構想」。
ASEANの各国を、日本のワクの中に取り込もうという構想である。
しかしこんな構想は、最初から、うまくいくはずがない。
失敗するに決まっている。

だいたい、「ASEANプラス3」って、何?
「3」というのは、「日本、中国、韓国」の3か国をいう。
3か国といっても、呉越同舟というか、水と油と砂が混ざっているようなもの。
中国を連れていったら、まとまる話もまとまらなくなる。
もともとASEANというのは、中国の脅威に対抗して始まったもの。
韓国だって、どんな下心をもっているか、わかったものではない。

……とまあ、政治問題について書くときは、かなりの(怒りのエネルギー)を
要する。
そのエネルギーがないと、書いていても、つづかない。
途中で、どうでもよくなってしまう。

しかしこのところ、気力が弱くなった。
(怒りのエネルギー)が、あまりわいてこない。
平和というか、平穏というか……。
たとえて言うなら、おいしいごちそうを、腹いっぱい食べたあとのような感じ。
そこで、あえて(怒りのエネルギー)を奮い立たせる。

カーッ!

あのね、鳩山首相。
アメリカを日本から離反させるのは、まずい。

なぜ、この時期に、脱・アメリカ追従外交なの?
一方、どうして今、日本は中国に擦り寄らなければならないの?
日本は、自由主義貿易陣営の一員ではなかったの?
いろいろと問題はあるが、だからといって今、社会主義体制を求めているわけではない。
それになぜ、鳩山首相は、こうも急ぐの?
こうした日本の命運を左右するような外交問題は、じっくりと基盤を固めてからする。
それが常識。
政権を奪ったとたん、「東アジア共同体構想」は、ない。

今、鳩山首相、あなたがすべきことは、官僚政治をつぶすこと。
やりたい放題のことをしている官僚たちに、ストップをかけること。
民主主義を、国民の手に戻すこと。
その本命を忘れて、大きなアドバルーンばかりあげて、どうするの?
こんな稚拙な外交を繰り返していると、自民党が喜ぶだけ。
ついでに中国や韓国が喜ぶだけ。
K国だって、喜ぶ。

怒る前に、何だか、日本の政治が心配になってきた。
もう少しすると、あのASO前首相が、「それ、見たことか!」と、声をあげ始めるかも。


●10月25日の終わりに……

いろいろ考える。

(どう生きるか?)vs(どう死ぬか?)。
この2つが、交互に私の心の中で闘う。
(まだがんばれる)vs(だいじょうぶだろうか?)。
この2つが、交互に私の心の中で闘う。
(年齢など気にしない)vs(あと10年かな?)。
この2つが、交互の私の心の中で闘う。

おとといの夜も、深夜劇場へ行く途中、足の不自由な人を見かけた。
年齢は私より少し若かった。
50代の半ばごろの人か。
背も高く、ほっそりとした人だった。
脳卒中?
懸命に一本杖で身を支えながら、ゆっくりと歩いていた。
私はその人をよけながら、エレベーターの中に身を隠した。

「明日はわが身?」。
明日はだいじょうぶでも、あさってはわからない。
あさってはだいじょうぶでも、そのつぎの日は、わからない。
1年の命を10年に延ばして、何になる?
10年の命を20年に延ばして、何になる?
明日は明日。
明日は、確実に、そこにやってくる。

たまたまその男の人は、そこにいる。
たまたま私は、ここにいる。
ちがいなど、どこにもない。
ゆいいつのちがいは、私は私の目を通して、その男の人を見ていること。
その男の人は、その男の人の目を通して、私を見ていること。
私がその男の人で、その男の人が私であっても、何も不思議でない。
しかし……。

私は、その苦痛に耐えられるだろうか。
その男の人の目を通して、私を見る私に、耐えられるだろうか。
その自信は、まったくない。

今日の健康など、明日は、あてにならない。
明日はよくても、あさっては、あてにならない。
そう思いながら、ウォーキング・マシーンの上で、歯をくいしばる。
「あと、10分……、あと5分……」と。
私にあるのは、「たぶん、明日もだいじょうぶだろう」という小さな希望だけ。
その希望に、自分をつなげて、今日という1日を終える。

(少し、今夜は暗いかな……?)

みなさん、今日も、楽しい1日をありがとう!
今日は、朝、8時まで寝ていました。
午後に、山荘へ行き、昼寝。
帰りに、パソコンショップで、WINDOW7を見て、
それから書斎へ。
夕食まで、1時間ほど、YOUTUBEで音楽を聴きました。
明日もがんばります!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

【寿命論】

++++++++++++++++++

●労働寿命

「平均寿命」という言葉がある。
「健康寿命」という言葉もある。
健康寿命というのは、健康でいられる年齢をいう。
ふつう(平均寿命)−10年が、健康寿命
と言われている。
だれしも、ポックリと死ぬわけではない。
晩年の10年は、病気との闘いということになる。

それに対して、「労働寿命」という言葉を
私は考えた。
仕事ができる年齢をいう。

これには個人差があるが、おおよそ(健康寿命)−
5年が、ひとつの目安になる。
これで計算すると、現在、男性の平均寿命は、
79歳、女性は86歳(厚生労働省)
だから……、

(健康寿命)…男性、69歳、女性、76歳
(労働寿命)…男性、64歳、女性、71歳
ということになる。

●記憶寿命

が、最近、私は、こんなことを考えるようになった。

人は死ねば、うまくいけば、墓石になれる。
最近は、墓石すらも作らない人が、ふえている。
が、問題は、そのあと。

先日も、車で郊外を走っていたら、小さな墓地を
見つけた。
田舎へ行けば行くほど、立派な墓地が目につく。
が、そこはちがった。
墓石も風化し、文字も読めないほどになっていた。
それを見たときのこと、ふと、こう思った。
「人は、いつまでみなの記憶に残ることができるか」と。

私たちは、死ねば、やがて忘れ去られる。
私の祖父母にしても、私たちの代の者が死ねば、
もうその名前を語られることすら、ないだろう。
父や母にしても、そうだ。

仏事の世界には、33回忌というのがある。
50回忌、100回忌というのも、ある。
しかしそこまでしてもらえる人は、例外中の例外。
ふつう、3回忌を最後に、死んだ人は、急速に
人々の記憶から消える。

そこで私が考えたのが、「記憶寿命」。

●消えていく私たち

たとえば私はこうして、文章にして日々の(思い)
を書いている。
書籍(本)にしても、寿命は、10年前後。
インターネットだったら、もっと短い(?)。
教育の世界で、昔、一世を風靡した人に、
「吉岡たすく」という人がいた。
10年ほど前に、亡くなった。
が、すでに今の若い母親たちは、その名前すら知らない。
ネットで検索してみたが、現在では、1万1000件。

今でも生きていたら、検索件数は、100万件を軽く
超えていただろう。
それくらい知名度の高い人だった。

が、やがて消えていく。
もちろん、私も、あなたも消えていく。
その寿命が、「記憶寿命」ということになる。

●寿命を延ばす

私たちは死んだあと、息子たちや孫たちも含めて、
何年ほど、彼らの記憶に残るだろうか。
残れることができるだろうか。
私自身の経験から言えば、50年を超えることは
まずない。
残ったとしても、ほんの一部の子孫にすぎない。
あとは痕跡もなく、消えていく。
ちょうど、私が見た、あの墓石のように。

で、自分がしていることを振り返る。
何か作品のようなものがあれば、記憶寿命は延びる
かもしれない。
作家や画家などは、そうして記憶寿命を延ばす
ことができる。
しかしそれにしても、あくまでも(結果)。
結果として残るだけ。

私にしても、「今を生きるために」、ものを書いている。
死んだ後のことは、ほとんど考えていない。
人々に支持されれば、記憶寿命は延びる。
支持されなければ、そのまま消える。

私のHPにしても、「金の切れ目が縁の切れ目」。
プロバイダーへの更新料を払わなければ、そのまま消える。
無料のHPサービス会社にしても、「〜〜か月、更新が
なければ、削除します」というのが、多い。
長くて、1年。
10年を超えることは、まず、ない。
今、こうして書いている文章にしても、私が死ねば、
1年足らずで消える。
(残さなければならないような文章でもないが……。)

だれかが引用してくれれば、その人のHPや、BLOG
で生き残ることはできるかもしれない。
しかしその人も、私と同じ運命をたどる。

こうして、私は、今、こう考える。

今のように仕事ができるのも、あと5年?
生きていられるのも、あと15年?
そのあと、30年もすれば、跡形もなく、消える?
それで私の「命」はおしまい。

●「形」から「心」

……とまあ、ネガティブに考えれば、お先真っ暗
ということになる。
しかしこれは私のやり方ではない。
そこでこう言って自分に言い聞かせる。

私の肉体、文章も含めて、「形」は消える。
それはもう事実。
が、私の書いた文章を読んだ人の中には、何かが残る。
その残ったものが、別の形になる。
別の形になったものが、こうして順送りに、未来に
つながっていく。
もちろんそのときは、「はやし浩司」の名前は、
どこにもない。
しかし、それでもよいのではないか、と。
大切なのは、(形)ではなく、(心)。

あの墓石の人にしても、そうだ。
先にも書いたように、今では、その名前すら読めない。
しかしその子孫の人は、その近くにも住んでいるはず。
そして何らかの形で、その人の(心)を残しているはず。
それでいい、と。

しかしそれにしても、この一抹のさみしさは、
いったい、どこから来るのか?
「生きる」ということは、そういうことであって
よいのか?
「死ぬ」ということは、そういうことであって
よいのか?

何かもっと別の考え方があるような気がする。
しかし今の私には、まだそれがわからない。

●補記

ついでに書く。

若いときには、その時計の音は聞こえない。
しかし60歳も過ぎると、その音が聞こえてくる。
「寿命時計」という時計の音である。
カチコチカチコチ……、と。

その心境は、時計を飲み込んだワニに追いかけられる、
フック船長(ピーターパン)のそれに似ている。
時計の音におびえて、逃げ回る……。
一説によると、作者のジェームズ・バリーは、
それによって、時間に追われて仕事をする現代人を
象徴したという。

しかしジェームズ・バリーがそこまで考えて
いたかどうかは別として、こうも言える。
つまりあの時計は、刻々と時間が短くなっていく
老人の心境を象徴している、と。

今の、私がそうだ。
もっともそういう心理状態を、「強迫観念」という。
心理学の世界では、そういう言葉を使って、説明する。
何かにおいまくられているような心理状態をいう。

その強迫観念ほどおおげさではないにしても、
しかしそれに近い。
「生きるということは、時間との勝負」。
そう考えることも多い。

たとえば私は、満65歳を過ぎたら、再度、
宗教論に挑戦するつもりでいる。
宗教論といっても、カルト教団との戦いをいう。
「どうして65歳?」と思う人もいるかも
しれない。
しかしそれまでは、今しばらく、静かにしていたい。
この世界でカルト教団を相手に、宗教論を書く
ということは、命がけ。
周囲が騒然としてくる。
それを覚悟で書くことができるのは、65歳と
いうことになる。

何とかそれまで脳みそが、健康であればよい。
肉体の方にも、がんばってほしい。
だから「時間との勝負」ということになる。

私が「寿命」という言葉にこだわるのは、
ここにある。

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 寿命論 健康寿命 労働寿命 記憶寿命 はやし浩司 寿命 091
026)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●A氏の再婚問題

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私の知人に、再婚問題で苦労している人がいる。
現在、年齢は、60歳。
自営業。
娘は2人いたが、嫁いで、今は独り暮らし。

妻は、15年ほど前、事故で死亡。
近所の人の話では、自殺したという説もある。

++++++++++++++++++++

●再婚の条件

 その知人のばあい、50歳を過ぎるころから、再婚の話が、たびたび、もちあがった。
しかし条件がきびしかった。
その男性を、A氏としておく。

A氏の求める女性は、(1)40代(自分の年齢より、10〜15歳、若いこと)。
つぎに(2)できれば初婚。再婚でも、子どものない人、ということだった。

 しかしこんな条件で、再婚に応ずる女性は、い・な・い!
女性の立場で考えてみれば、それがわかる。
A氏は、自分の老後を心配して、再婚を考えている。
つまり妻を、老後の家政婦か介護士か、その程度にしか考えていない。

 さらに具体的な記事が、『プレジデント』(09年10月号別冊)にも載っていた。
「こんな男は結婚できない」というタイトルで、5つの項目が並べられている。

(1)会社の地位や肩書にのみ、存在価値を見だす。
(2)己の年齢を顧みず、10歳以上若い女性に固執。
(3)介護や家事要員としての妻を求める。
(4)服装や見かけに無頓着で、所作にも若々しさがない。
(5)離婚の被害者意識にとらわれ、前妻の悪口ばかり言う。

 A氏のケースでは、このうちの(2)と(3)に該当する。

●家父長意識

 さらにA氏について言えば、最大の問題点は、家父長意識が強すぎるという点。
「夫が上で、妻が下」という、封建時代の亡霊をそのまま引きずっている。
それが問題。

A氏の母親は、7、8年前に他界。
近所でも評判の、気の強い女性だった。
そのため嫁・姑戦争が、絶えなかった。
が、今でもA氏の愛唱歌は、森進一の『おふくろさん』。
「母の悪口を言うヤツは、許さない」も、口癖。

 あなたが女性なら、こんな男性との結婚を考えるだろうか。
雑誌「プレジデント」は、こうも書いている。

「(最低でも)年収が800〜1000万円。さらにいくつかのハードルがある」と。

 こうなってくると、再婚は、ますますむずかしい。
が、A氏にはそれがわからない。
加齢とともに、人は腰が低くなるものだが、A氏は逆。
ますます威張りだしている。

家父長意識というのは、わかりやすく言えば、上下意識をいう。
娘たちの嫁ぎ先の両親が、自分より若いこともある。
そのため、盆暮れのつけ届けを、自分では出したこともないのに、相手からそれが
届かないと、「無礼だ」「失敬だ」と言って、怒る。

 これでは娘たちでさえ、実家に寄りつかなくなる。
……ということで、再婚話が、現れては消える。
それを繰り返している。

 が、これは私たちの世代の男性にとっては、切実な問題。
まさに「明日は我が身かな」。

私「ぼくは、お前が死んだら、さっさと再婚するよ」
ワ「そうね、あなたは、ひとりでは生きられない人だから……」
私「でもね、相手はいないよ」
ワ「そうね、62歳だからね」
私「だから、決めた!」
ワ「何を?」
私「どんなことがあっても、ぼくは、お前より、先に死ぬ」
ワ「そうね、それしかないわよね」と。

 しかしどうすれば、自分やワイフの寿命を調整できるのか。
人間というのは、因果な動物。
生きるのもたいへんだが、死ぬのもたいへん。
生きたいと思っても、それができない人もいれば、死にたいと思っても、
それができない人もいる。

 50代以上の男性の再婚には、そういう問題も隠されている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 再婚問題 男性の再婚 50代の再婚)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●小さな別れ、2つ

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今日、小さな別れが、2つあった。
ひとつは、山鳩の雛(ひな)が、どこかへ行ってしまったこと。
もうひとつは、もっとも愛用していた、小型のパソコンを、
生徒の1人にあげてしまったこと。
しんみりとした、さみしさが、そのつど、スーッと心の中を駆け抜けた。

+++++++++++++++++++++++++++++++++

●山鳩

 私の庭に野生の山鳩が住みつくようになって、もう20年以上になる。
もっと長いかもしれない。
私は、ほとんど毎日、庭に餌をまいている。
最近では、私たちの姿を見ても、逃げない。
ときに私たちの数メートル先で、餌を食べることもある。

 その山鳩。
ときどき「ドバト」と書いたが、これはまちがいだそうだ。
ドバトというのは、街の中で飛び交う、あの鳩をいう。
私の家に来るのは、山鳩。
別名、キジ鳩とも言うらしい。
たいへん警戒心の強い鳩で、人間には慣れないと言われている。

 で、その山鳩が、毎年、私の庭にある木の上で、巣作りをし、雛を育てる。
が、この5、6年、リスが出没するようになった。
そのせいか、餌は食べにくるが、巣作りは別のところでするようになった。
今年も、そうだった。
雛が庭にやってくるまで、どこでどのようにして雛を育てたか、私たちは知らない。
が、ちょうど1週間ほど前、親鳥たちが雛を2羽連れて、私の家の庭にやってきた。
私たちは、大歓迎した。

 いつもより餌をたくさんまいた。
犬のハナには、鳩を襲わないよう、しっかりと言いつけた。
ハナには、それがわかったらしい。
山鳩たちが庭へ来ると、自分は、犬小屋の中に身を潜めた。

 ところで、ふつう山鳩は、2個の卵をかえす。
ほかの山鳩のことは知らないが、私の家ではそうである。
その中で巣立つのは、1羽だけ。
いつもそうだ。
あとの1羽は、もう1羽に巣から追い出される。
追い出された雛は、地面に落ちて、やがて死ぬ。

 もっともその段階で、追い出された雛を私たちが救いあげ、育ててやることがある。
毎年、1羽くらいは、そうしている。
が、今年は、珍しく、2羽の雛を連れてきた。
見ると、栗の木の枝に止まっていた。
尾羽がまだ伸びきっていなかった。
枝から枝へと、移動するのがやっとという雰囲気だった。

 近くに兄貴格の雛がいたが、そちらはほぼ自由に、枝から枝へと、飛ぶことが
できた。
が、もう1羽は、枝の上でじっとしていた。
その雛に、数日前、私の手を近づけてみた。
いつもだと、それくらいの大きさでも、山鳩は逃げる。
が、その雛は逃げなかった。
私の指先に乗った。
うれしかった。
かわいかった。

 それからというもの、毎朝起きると、いちばんに庭へ出て、その雛をさがした。
そのつどキーウィの木とか、栗の木に止まっていたが、だいたいそのあたりにいた。
数日も同じことを繰り返していると、雛は、私をこわがらなくなった。
喜んで指に止まるということはなかったが、指の上でも安心して、目を閉じたり、
羽をつくろったりした。

 夜も仕事から帰ってくると、私は庭で、その雛をさがした。
それまでにワイフが雛の居場所を定めていてくれる。
そこを捜せばよかった。

 が、今朝、10月26日の朝。
まだ薄暗いうちに起きて、庭に出てみた。
が、雛の姿は見えなかった。
昨夜もあちこちを捜してみたが、見えなかった。
つんとしたさみしさが、心の中をかけぬけた。
で、私はそのまま書斎へ。
いつもの日課をこなした。

 それから数時間後。
朝食のとき。
ワイフに呼ばれて、台所へ行くと、ワイフが私の顔を見るやいなや、こう言った。
「いなくなってしまったわ」と。

 もう一度、いそうな場所を捜してみたが、やはりいなかった。
「どこかへ行ってしまったみたい」「そうだな」と。

 おかしなことだ。
私の息子たちが巣立ったときも、同じようなさみしさを覚えたが、まだその先には、
希望があった。
「いつか帰ってくるだろう」という希望である。
しかし山鳩の雛は、そうでない。

 言い忘れたが、山鳩には、山鳩の縄張りのようなものがある。
たとえ自分が産み育てた雛でも、やがて自分の縄張りから追い出してしまう。
そんなわけで、一度巣立った雛は、まれに戻ってくることはあっても、そのまま
どこかへ行ってしまう。
二度と、私の庭に戻ってくることはない。
山鳩の習性というか、これは自然界のきびしい掟(おきて)でもある。

 で、今日は一日中、小雨が降っていた。
私とワイフは、何度も、あの雛のことを心配した。
が、である。
午後になって、ちょうど仕事に出通うとするとき、庭に3羽の鳩がいるのが
わかった。
親鳥たちと、兄貴格のもう1羽の山鳩である。
それを見て、「いないか?」と声をかけると、ワイフが、「いないみたい」と。

 それがその雛との別れだった。
親鳥たちは、兄貴格の1羽の雛にさえ、もう餌を与えようともしなかった。
自分たちの分だけを食べ終えると、そのまままたどこかへ飛んでいってしまった。
「うちへ来れば、ぼくが餌を食べさせてやるのに……」と、私はつぶやいた。
それが最後だった。

 私は職場へと向かった。
しんみりとした、さみしさが、スーッと心の中を駆け抜けた。

●古いパソコン

 もうひとつの別れは、使い古した、愛用のパソコンを、生徒にあげたこと。
使い古したといっても、買ったときは、20数万円もしたパソコンである。
TOSHIBAのSS。
当時としては珍しい、モニターが10インチの超小型パソコンである。

 そのときはうれしくて、毎日それをピカピカに磨いて、枕元に置いて寝た。
そのパソコンで、3冊ほど、本を書いた。
私にとっては、思いで深いパソコンである。

 ほかにも当時使っていたパソコンが、4〜5台残っていた。
が、そちらのほうは、あまり迷わず処分できた。
しかしそのパソコンだけは、処分できなかった。
外観はボロボロ。
が、キーボードの感触は忘れない。
今でも指先に、しっかりとそれが残っている。

 で、今は、もっぱら……というより、2008年になってから発売された、
ミニ・パソコンを使っている。
価格はSSの6分の1程度だが、性能は、最近のミニ・パソコンのほうがダントツによい。
が、それでも、愛着というのは消しがたい。

 そのミニ・パソコンを使っていたら、NY君(小4)が、「いいなあ、先生は
パソコンをたくさん、もっていて……」と。
「全部でいくつくらい持っている?」と聞いたので、「7台くらいかな」と、私が
答えたときのことだった。

 私はその言葉に、ググーッときた。
つい数週間前には、今年の4月に買ったミニ・パソコンを、中3のOKさんに
あげたばかり。
内心では、あげようか・どうしようかと、大きく迷った。
しかし顔にはそれを出さないで、一通り、TOSHIBAのSSから、個人情報を
消した。
そのあと、NY君にこう言った。
「このパソコン、あげようか?」と。

 とたんNY君は、目を輝かせた。
「いいのオ!」と。

私「ああ、でも、これではインターネットはできないよ。
ワープロとか、ゲームはできるけど……」
N「うん……」と。

 こうして私は今日、TOSHIBAのSSを手放した。
しんみりとした、さみしさが、スーッと心の中を駆け抜けた。
「これでいい」と、同時に、何度も、言い聞かせた。
長くつきあった友に、別れを告げたような気分だった。

 ……こうして今日、私は、2つの小さな別れを経験した。
小さな別れかもしれないが、心の奥までジンと響いた。
あとどれだけの人生か、私にはわからない。
が、一生、この2つの別れは忘れないだろう。

長調の二重奏。
ゆっくりとしたテンポの、やさしい曲。
この文章を書いている今でも、その音色が、心の中で響いている。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●迷い

 私はよく迷う。
たとえばたった今も、こう迷った。
「こんなことをして、何になるのだろう」と。
YOUTUBEに、昨日の教室の様子を、UPLOADしたときのことだった。

 しかしやるしかない。
笑いたい人がいたら、笑えばよい。
アホなことをしていると思う人がいたら、そう思えばよい。
そういう人にかぎって、自分では何もしない。
平凡は美徳かもしれないが、穴の中に引っ込んでいたら、何もできない。
何かをするためには、穴の中から出る。
私は私。
あとの判断は、他人に任せればよい。

 つまらないものでれば、やがて消える。
そうでなければ、生き残る。
それを決めるのは、私ではない。

 ただ言えることは、「これが私の人生」ということ。
だれの人生でもない。
私の人生。
迷いながら、そう言って自分に言い聞かせる。

 言い忘れたが、消えたところで、どうということはない。
どうせみな、消えるのだから……。


●日本の「円」

 日本政府は、「円」を、世界中にばらまいている。
ジャブジャブどころか、まるで……。
「ジャブジャブ」以上のジャブジャブ。
「ジャブジャブ」以上の言葉は、ない。
そのこともあって、円の為替レートが、メチャメチャ。

 今、オーストラリアでも、ニュージーランドでも、ふつうのホテルの一泊するだけでも、
日本円で、4〜5万円はかかる。
ヨーロッパでもそれくらい。

 外国のホテル代が高いのではない。
日本の(円)が、安い。
安いというより、価値がない。
価値がさがった。

 今はまだよい。
日本の(円)は、かろうじてという状態だが、国際通貨として通用している。
世界中の人が、(円)を、ほしがっている。
しかしこんな状態は、いつまでもつづかない。

 先日も、千葉市に住む息子を訪ねてみた。
市の中心部にあるホテルに泊まった。
一泊、2人で、1万4000円(食事なし)だった。
ほどほどの料金だった。

 が、あたりを散歩してみて驚いた。
近くに焼き肉店があったが、どれも4000〜5000円。
そんなメニューばかり!
関東地方は、物価が高い。
物価が高いというよりは、インフレがジワジワと進んでいる。
それは知っていた。
しかし千葉市までそうだったとは、知らなかった。

 こうした流れは、やがてこの浜松市にも及んでくるはず。
時間の問題。
わかりやすく言えば、手持ちの資金の価値が、どんどんと目減りしているということ。
「貯金が500万円から1000万円になった」と喜んでいたら、実際の価値は、100
万円しかない。
そういう状況になりつつある。

 本来ならレートを調整するために、円高に向かわねばならない。
オーストラリアのホテルでも、一泊、1万4000円程度で泊まれるようにならなければ
ならない。
が、もうメチャメチャ。

 日本政府は、こうした(メチャメチャ)を、どのように考えているのか。
このままでは、一度、急速な、今までに例がないほどの速度で、円高が進み、そのあと日
本の(円)は、大爆発する。
大爆発して、日本中を、猛烈なハイパーインフレが襲う。
それこそ焼き肉一皿、1万円。
あるいは10万円。
そうなる。

 あるいは(その時)は、すでに始まっているのかもしれない。
不気味。
想像するだけでも、ぞっとする。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 25日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●雑誌『プレジデント・50plus』(10月号別冊)

+++++++++++++++++++++++++++++++++

昨夜、書店に寄って、雑誌『プレジデント・50plus』を買ってきた。
「夫と妻のかたち・衝撃白書」というタイトルが、ズシンと気になった。
この雑誌は、ときどき買うが、内容がしっかりしている。
読み応えがある。
編集長以下、ライターが、本気で取材し、本気で書いている。

+++++++++++++++++++++++++++++++++

●性生活

 衝撃的な記事が並ぶ。

★結婚30年以上の約半数は、ベッドが別
★50代は約7割がセックスレス
★結婚10年未満でも、セックスレス半数
★夫は精力減退、妻は興味なし
★夫より妻の方が冷めている、などなど。

さらに……

★セックスは9割、夫から誘うが、4割がセックス拒否にあう
★50代の約7割が、30分未満
★マンネリ妻の半数が、感じたフリ
★妻の半数は、義理でセックスしている
★夫婦歴が浅い妻のほうが、不満度高し

また「夫婦の温度差」についても、

★現在もセックスしている夫の半数は、「生涯現役」でいたい(「何歳までセックスしたい
か」という質問に対して。
★夫の74・7%が、隠れて自慰の経験あり
★夫3割の頭の中は、女性
★EDの悩みは、40代で1割強
★夫の1割強は、「妻だけED」、などなど。

ただし、調査の信頼性に疑問がないわけではない。
冒頭に、こうある。

「gooリサーチと弊誌との共同調査により、インターネットを通じて、40代以上の既婚男
女、3208人から回答を得た。
男女、ほぼ同数。
40代・50代・60代以上から均等に回答を回収。
調査期間は、(09年)7月22日から24日まで」と。

ここでいう「リサーチ」というのは、インターネットをしている人なら、みな、知って
いる。
ときどき「調査にご協力ください」という、あれである。

私のばあい、そういう(依頼?)は、即、削除。
めんどうというより、あやしげなメールは、開かない。
私のように考え、そのまま削除している人は多い。
一方、そうした調査に応ずる人というのは、かぎられている。
とくに、こうしたきわめてプライベートな問題に関する調査に対しては、そうである。
つまりインターネットを通した調査は、私自身は、あまり信頼していない。

「3208人から回答を得た」というが、そんなわけで、やや「?」を感じながら、読ん
だ。

●夫と妻の温度差

 で、それはともかくも、こうして見出しを並べてみると、どこかに基準があって、その
基準に合わないのは、おかしい……という、スケベ前提のものの考え方があるのがわかる。
私は私。
私たちは私たち。
人は人。
「セックスをしているから、正常」「セックスレスは、おかしい」という前提そのものが、
おかしい。
それでその夫婦が、それなりにうまく生活しているなら、それでよい。

 こんなのも、あった。

★妻の6割弱は配偶者の親を介護したくない
★倦怠期の妻は「夫の介護も拒否」が4割
★妻の7割強は、夫の実家の墓に入りたくない
★夫婦で同じ墓に入りたい、夫8割、妻7割の温度差
★夫のほうが、夫婦仲改善の努力をしている(夫婦仲をあきらめている妻が、4割もいる)
★夫のほうが、今の配偶者に満足している
★妻はどんどん夫の必要性を感じなくなる

 この調査結果については、「そういうものだろうな」と思う。
私のワイフも、おおむね、同じようなことを、いつも言っている。
とくに「墓」については、私自身が、実家の墓には入りたくない。
いわんや、ワイフをや!

 介護については、これも私は私。
私たちは、私たち。
人は人。
なりゆきに任せるしかない。

●夫婦の修羅場

 おもしろかったのは(失礼!)、夫婦の修羅場。

★(夫の)不倫相手と3者会談
★浮気相手と子どものピアノ発表会に連れていったら、バレた
★二日酔いで仕事を休んだとき、バケツで水をかけられた
★浮気がバレたとき、醤油さしや、食器が飛んできた
★信仰する信仰団体に、預金のすべてを引き出して献金した
★浮気の現場を見てしまった
★セックス中に、前の男の名前

 私の親類の中にも、ある日突然、自宅に愛人を連れてきて、自分の妻にこう言った人が
いる。
「おい、今日からこの女も、いっしょにこの家に住むからな」と。
 マンガに出てきそうな話だが、これは本当の話。

 で、私たち夫婦も、よく不倫の話をする。
が、こと不倫の話になると、意見が、まったく対立する。
私は、「真剣なら、不倫をしてもいい」「遊びでは、不倫はしたくない」と言う。
ワイフは、「遊びなら、不倫をしてもいい」「真剣になるなら、離婚」と言う。

 こうした問題で、修羅場を経験したことはないが、あとに尾を引くような修羅場は、避
けたほうがよい。
その一方で、たった一度の浮気でも、「夫(妻)を裏切った」といううしろめたさを感じな
がら、後悔しつづける妻(夫)もいる。
あるいはたがいに浮気を認めあいながら、それでいて、さわやかに生活している夫婦もい
る。
スワッピングクラブや、混浴クラブに入って、セックスを楽しんでいる夫婦もいる。

 こうした問題だけは、まさに人、それぞれ。
基準もなければ、標準もない。
言い換えると、どうせ「性は無」(今東光)。
小便や大便と同じ。
深い意味はない。
意味を考えても、無駄。
たがいがそれで納得しているなら、それでよい。
このバリエーションの豊こそが、人間の生活を、楽しく、おもしろくしている。

 『プレジデント・50plus』 は、そういう意味で、興味深かった。
で、結論は、「私は私」「私たちは私たち」。
のぞき見的な意味では参考になったが、そこで思考はストップ。
「40才以上、45%が離婚の危機」(表紙)と言われても、この問題だけは、個人の問題。
そういう数字を知ったからといって、何の役にも立たない。
 
 次回は、「どうすれば、もっと健康になれるか」「みんな、どうやって健康を維持してい
るか」などという、もっとプロダクティブな特集を組んでほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 夫婦の性生活 性生活)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ささやかなトラウマ】(ペットボトルの小便)

●1本のお茶

居間に入ると、そこに1本のペットボトルが置いてあった。
床の上に、直接、置いてあった。
500ミリリットル入りの、小さなペットボトルだった。
「おいしいお茶」という文字が、目に留まった。
見ると、先端のフタが、少しあいていた。
量も数センチ、減っていた。

 「どうしてこんなところに……?」と思った。
横には、テーブルがある。
そこから1、2メートル離れたところには、コタツもある。
私は、じっとそのペットボトルをながめた。
たしかにお茶らしい。
しかし本当に、お茶なのか?

 「ワイフがどこかで買って、飲み忘れたのかもしれない」と思った。
あるいは「息子かも……?」と。
しかし息子は、日本茶は飲まない。
私は、そのペットボトルを手でつかんで、もった。
どこもおかしなところはない。
汚れたところもない。
鼻に近づけて、においもかいでみた。
とくにおかしなにおいも、しなかった。
しかし飲むことはできなかった。

●バスの中で

 そのとき、私とワイフは、岐阜県にある、実家へと向かっていた。
午前11時から、法事を予定していた。
バスといっても、今では、1、2時間に1本くらいしかない。
しかも乗るとすぐ、こんなアナウンスが流れる。
「このバスは……県の補助金を受けて……運営されています」と。

 要するに、赤字路線で、本来なら廃止すべき路線だが、県の補助金で走っているという
ことらしい。
実に恩着せがましい。
いやな言い方。
……そう思いながら、バスの中をながめると、客は、5、6人。
ほとんどが老人である。

 バスはやがてすぐ、岐阜市の郊外に出た。
1人、2人……と降りていく。
そのうち客は、私たち夫婦と、前のほうに座っている男性だけになった。
春の終わりごろで、道路は白く乾いていた。
店の前に並ぶ、旗がゆらゆらと、風にたなびいていた。

●水分

私は水分を、ほかの人たちよりも、大量に摂取する。
「飲む」というよりは、「摂取」する。
飲料水はもちろんのこと、水っぽい食べ物なら、何でもよく食べる。
ミカンでも、イチゴでも、スイカでも……。

 夏場になると、昼からだけでも、2リットル入りのペットボトルを、2本くらいは飲む。
自分では血圧が低いせいと言っているが、本当のところ、理由はよくわからない。
いつも水分を補給していないと、口がさみしい。

 その日もそうだった。
JR岐阜駅に着くまで、何本かのお茶を飲んでいた。
で、当然のことながら、トイレに行く回数も多い。
が、それも、私にとっては快感。
ぎりぎりまでがまんして、なみなみと、小便を出す。

●尿意

 JR岐阜駅から郷里のM町まで、時間にすれば、50分前後。
私は下半身に尿意を感じ始めた。
不吉な予感。
いやな予感……。

私「おしっこがしたくなった……」
ワ「こんなところで……!」
私「うん……」と。

 バスは、いわゆる各駅停車。
乗り降りする客もいないから、よけいにのんびりと走っていた。
私は背筋を伸ばしたり、曲げたり……。
腰を浮かせてもみた。
しかし、そういう状態になると、打つ手なし。
が、じっとしているのも、つらい。

ワ「途中で降りようか?」
私「……」
ワ「がまんできるの?」
私「……無理……」と。

 つぎのバスを待っていたら、法事に間に合わなくなる。

●ワイフの提案 

 バスは関市を走っていた。
岐阜市の隣町である。
私は、何度も頭の中で、時間を計算してみた。
「あと15分……?、それとも10分……?」と。

 足を小刻みに震わせながら、私は、腰に不用意な力が入らないようにした。
が、バスは揺れる。
体も揺れる。
そのたびに、小便が漏れそうになる。

 私の硬直した顔……たぶん、そのときはそうなっていたと思うが、ワイフが助け船を出
してくれた。
ビニール袋から、ペットボトルを出して、「これにしてきなさいよ」と。

私「ここで……?」
ワ「……後ろのほうでよ……」
私「うん……」と。

 ペットボトルのほうには、まだ3分の1ほど、お茶が残っていた。
私はそれを一気に飲んだ。
そして空のペットボトルをもち、何食わぬ顔をして、うしろの座席へと向かった。

●排尿

 それは私の生涯において、はじめての経験だった。
本当に、はじめての経験だった。
私は座ったまま、あれを出すと、それをペットボトルの口に付けた。
意外とうまくいきそうな感じだった。

 私はゆっくりと、小便をその中にした。
これもうまくいった。
で、男性のばあい、(ワイフの話では、女性はそれができないそうだが……)、途中で止め
ることもできる。

 小便を全部出す必要はない。
膀胱の圧力が減れば、それでよい。
私はかげんを見て、小便を止めた。
ちょうどよい位置で、小便は止まった。
見ると、8〜9割程度、ペットボトルがいっぱいになっていた。
私は、それにフタをした。

 気が楽なった。
同時に、「お茶と小便は、区別がつかない」と知った。

●居間で

 私はまだペットボトルを手にしていた。
「ひょっとしたら……」という思いが、何度も頭の中を出たり、入ったりした。
「ワイフがどこかで拾ってきたのかもしれない」とも思った。
ふだんなら、つまりそれがテーブルの上にでも置いてあれば、私はさっさとフタを開けて、
それを飲んだだろう。

 が、飲めなかった。
もう一度、においをかいでみた。
お茶のにおいだった。
しかし自信がもてなかった。
私はじっとそのまま、ペットボトルをながめた。
と、そこへワイフが、帰ってきた。
ドヤドヤと。

私「おい、これお茶か?」
ワ「そうよ」
私「本当か?」
ワ「お茶じゃなかったら、何なのよ」
私「そうだな……。でも、どうして床の上に置いたのだ?」
ワ「知らないわよ、そんなこと……」と。

 私はおもむろに、ペットボトルを口につけると、それを飲んだ。
お茶の味だった。
ほっとした。
完璧にお茶の味だったとは言えないが、お茶の味だった。

 ところで、あのバスの中でした小便は、どうしたかって?
ちょうどM町のバス停を降りたところに、自動販売機があった。
その横に、それを捨てるカゴが置いてあった。
私は、そのカゴの中に捨てた。

が、それについても、今から思うと、気がとがめる。
捨ててから気がついたが、だれが見ても、あれはお茶。
まちがえてだれかが飲むかもしれない……と思ったが、そのときには、背を向けて実家の
ほうに向かって歩き出していた。

 まさか、ゴミ箱の中のペットボトルのお茶(小便)を飲む人はいないと思うが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW ペットボトル ペットボトルの小便 バスの中で ペット・ボト
ル)

(補記)

 こういうこともあるから、ペットボトルの口は、もっと大きくしたらよい。
あれが、すっぽりと入るくらいの大きさがよい。
ついでに、女性用のペットボトルも考えてほしい。
どうすればよいかについては、まったく、NO IDEA。
が、しかし自然現象だけは、だれにでも起きる。
もっともカーケア用品の店に行くと、ポータブルのトイレなどは売っているが……。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●野生の山鳩のヒナ

野生の山鳩のヒナの様子を、ビデオに収録した。


下をクリック(↓)

http://www.youtube.com/watch?v=y6jySyQLw84

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 山バト 山鳩 野生の鳩 鳩のヒナ 鳩の雛)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

【東アジア共同体構想】(脱・アメリカ追従外交の危険な落とし穴)

++++++++++++++

東アジア共同体構想は、見かけは
ともかくも、失敗する。
日本の外資が威力を失ったとき、
命運は尽きる。

++++++++++++++

●アジアのリーダーとして

 今からちょうど40年前。
日本は、新幹線を走らせ、東京オリンピックを成功させ、かつ大阪万博を開き、まさに破
竹の進撃をつづけていた。
高度成長期に突入していた。
そのころアジア各国の人たちは、日本を、畏敬の念と、脅威の念の、2つの入り混ざった
目でながめていた。

「畏敬の念」というのは、「アジア人でも、やればできるのだ」という自信の先頭、それを、
日本が切ったということ。
「脅威の念」というのは、当然のことながら、第二次世界大戦の後遺症をさす。
同時に日本の軍事的脅威論も、このころあちこちで論じられるようになった。

 が、もうひとつ、日本人が読めなかった心がある。
たとえば、アジアの人たちは、日本人が作る自動車を見て、「同じアジア人が作った」と喜
んだ。
理由のひとつとして、日本以外のアジアの国の人たちは、長い間、欧米諸国の植民地であ
ったことがあげられる。

当時の日本人がもつ欧米コンプレックスには、相当なものがあった。
欧米人と見ただけで、頭をさげた。
しかし他のアジア各国、とくに東南アジア各国の人たちがもつ、欧米コンプレックスには、
独特のものがあった。
隷属意識、劣等意識、逆差別意識……そういったものが、渾然一体となって、彼らの欧米
コンプレックスを作りあげていた。
彼らは、欧米に、彼らの植民地として隷属したという、暗い歴史がある。

私は、『世にも不思議な留学記』の中で、こんなことを書いたことがある。

 ある朝のこと、突然、私はアジア各国からの留学生たちに起こされた。
「何だ!」と思って起きてみると、いちばん仲がよかったタン君(マレーシアン中国人)
が、こう言った。

 「ホロシ(私のこと。タンは、いつも私をそう呼んでいた)、来てみろ、すごい車がある」
と。
 みなといっしょに道路へ出てみると、そこにマツダのサバンナという車が置いてあった。
ダッシュボードが、ボンネット側に湾曲している、それまでに見たことのないデザインの
車だった。
タンは、こう言った。
「白人が、アジア人の作った車に乗っている!」と。

 当時の日本人は、そうしたアジアの人たちの心を読めなかった。
今も、今度は、逆の立場で読めないでいる。

話を先に進める前に、『世にも不思議な留学記』の1作を紹介する。
内容的に、話が脱線するが、許してほしい。
東南アジアで、日本がどういう立場にあるか、それをわかってもらえると思う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●人種差別

 大学のカフェで食事をしていると、私を取り囲むようにして、4、5人のオーストラリ
ア人がすわった。そして手にしたスプーンの腹で、コツコツとテーブルをたたき始めた。

 「立ち去れ」という合図である。気まずい時間が流れた。私はすでに食事を始めていた。
が、そのとき、身長が1メートル90センチはあろうかという大男が、私の横に座った。
長い髪の毛で、顔中、ヒゲでおおっていた。その男が、スプーンをならしている学生たち
に向かって、低い声でこう言った。「ワット・アー・ユー(お前たちは何だ)」と。

 その一言で、学生たちはスプーンをたたくのをやめた。やめて、その場を離れた。その
大男というのが、デニス君だった。本名は、デニス・キシアという。今でも私の無二の親
友だ。

●皿に口をつけてズルズルとスープを飲んだ

 同じころK大学医学部の講師たち3人が、一週間の予定で、メルボルン大学へやってき
た。そしてハウスのゲストルームに滞在した。豪快な人たちだ……と、最初はそう思った。
しかし品位に欠けていた。スープ皿に口をつけてズルズルとスープを飲んだり、ハウスの
飯はまずいと言っては、どこで手に入れたのか魚の目刺しを買ってきて、それを部屋の中
で焼いて食べたりしていた。

 その中の1人が、こう言った。「オーストラリアも、ギリシャ人やイタリア人なんか、移
民させるもんじゃないよな。雰囲気が悪くなる」と。

 当時の日本人で、自分がアジア人だと思っている日本人は、ほとんどいなかった。世界
の人は、半ば嘲笑的に日本人を、「黄色い白人」と呼んでいた。が、日本人は、それをむし
ろ光栄なこととしてとらえていた。

 しかしアジア人はアジア人。オーストラリアでは、第2級人種として差別されていた。
結婚しても、相手がアジア人だったりすると、そのオーストラリア人も、第2級人種に格
下げされた。その法律は、それから10年ほどしてから撤廃されたが、オーストラリアは
まだ、白豪主義(ホワイト・ポリシー)にこだわっていた。

 つまりもしこの医師の話をイタリア系オーストラリア人が聞いたら、怒る前に吹き出し
てしまうだろう。そういう常識が、その医師たちには、まったくわかっていなかった。い
や、医師だけではない。当時、アボリジニーと呼ばれている原住民を見ると、日本の若い
女性たちはキャーキャーと声を出して騒いでいた。なぜ騒いでいたかは、ここには書けな
い。書けないが、日本人ならその理由がわかるはずだ。

 しかし念のために言っておこう。あのアボリジニーは、4〜5波に分けて、アジア大陸
から移住してきた民族である。そのうちの一波は、私たち日本人と同じルーツをもってい
る。つまり私たち日本人は、白人よりも、はるかにアボリジニーに近い。騒ぐほうがどう
かしている。

●人種差別

 人種差別。それがどういうものであるか、それはされたものでないとわからない。「立ち
去れ」という合図を受けたときの屈辱感は、今でも脳に焼きついている。それはそれだが、
問題はその先だ。人種差別をされると、人は2つの考え方をするようになる。

 1つは、「だから自分の属する民族を大切にしなければならない」という考え方。もう1
つは、「民族という名のもとに、人間を分類するのはおかしい」という考え方。

 どちらの考え方をもつにせよ、1つだけ正しいことがある。それは人種や民族の優位性
などというものは、いくら論じても意味がないということ。大切なことは、互いに相手を
認め、尊重しあうことだ。それがあってはじめて、日本を、そして世界を論ずることがで
きる。

 が、そうした世界観は、当時の日本人にはまだ育っていなかった。同じアジア人であり
ながら、日本人は自らを欧米人と位置づけることによって、ほかのアジア人とは一線を引
いていた(中日新聞で発表済み)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●黄色い白人

 今思い起こしても、当時の日本人は、目が、欧米のほうだけを向いていた。
子どもでも、「自分はアジア人」と自覚している子どもは、皆無だった。
私が、「ぼくたちはアジア人だよ」と教えても、みな、「ちがう」と答えた。
中に、「ぼくたちは、欧米人だ」と言う子どもさえいた。

 こうした意識は、現在の30代、40代の人たちが、今でも共通してもっている。
あるいは自分自身の子ども時代を振り返ってみて、「私はそうでなかった」と自信をもって
言える人は、まずいない。

 つぎの原稿は、10年ほど前に書いたものである。
切り口が少し脱線するが、ここに書いたことは、今でもそのまま通用する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●教科書の検定制度って、本当に必要なの?

 オーストラリアにも、教科書の検定らしきものはある。しかしそれは民間団体によるも
ので、強制力はない。しかもその範囲は、暴力描写と性描写の2つの方面だけ。特に「歴
史」については、検定してはならないことになっている(南豪州)。

 私は1967年、ユネスコの交換学生として、韓国に渡った。プサン港へ着いたときに
は、ブラスバンドで迎えられたが、歓迎されたのは、その日1日だけ。あとはどこへ行っ
ても、日本攻撃の矢面に立たされた。私たちを直接指導してくれたのが、金素雲氏であっ
たこともある。

韓国を代表する歴史学者である。私はやがて、「日本の教科書はまちがってはいない。しか
しすべてを教えていない」と実感した。たとえば金氏は、こんなことを話してくれた。「奈
良は、韓国から見て、奈落の果てにある都市という意味で、奈良となった。昔は奈落と書
いて、『ナラ』と発音した」と。今でも韓国語で「ナラ」と言えば、「国」を意味する。も
し氏の言うことが正しいとするなら、日本の古都は、韓国人によって創建された都市とい
うことになる。

 もちろんこれは一つの説に過ぎない。偶然の一致ということもある。しかし一歩、日本
を出ると、この種の話はゴロゴロしている。事実、欧米では、「東洋学」と言えば、中国を
意味し、その一部に韓国学があり、そのまた一部に日本学がある。そして全体として、東
洋史として教えられている。

 話は変わるが、小学生たちにこんな調査をしてみた。「日本人は、アジア人か、それとも
欧米人か」と聞いたときのこと。大半の子どもが、「中間」「アジア人に近い、欧米人」と
答えた。中には「欧米人」と答えたのもいた。しかし「アジア人」と答えた子どもは1人
もいなかった(約50名について調査)。先日もテレビの討論番組を見ていたら、こんなシ
ーンがあった。

アフリカの留学生が、「君たちはアジア人だ」と言ったときのこと。1人の小学生が、「ぼ
くたちはアジア人ではない。日本人だ!」と。そこでそのアフリカ人が、「君たちの肌は黄
色ではないか」とたたきかけると、その小学生はこう言った。「ぼくの肌は黄色ではない。
肌色だ!」と。

 2001年の春も、日本の教科書について、アジア各国から非難の声があがった。韓国
からは特使まで来た。いろいろいきさつはあるが、日本が日本史にこだわっている限り、
日本が島国意識から抜け出ることはない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 話を「東アジア共同体構想」に戻す。

●東アジア共同体構想

 民主党政権になって、鳩山首相は、「東アジア共同体構想」というものを、ぶちあげた。
「脱・アメリカ追従外交」を一方で唱えながら、「アジア重視の外交」を主張した。

 私も30〜40年前の私なら、鳩山首相のこの発想を支持しただろう。
またそのときなら、日本は、そのままアジアのリーダー(宰主)として、中国をも東アジ
ア共同体構想の一員として、取り込むことができた。

 が、今ごろ、どうして、東アジア共同体構想なのか?
むしろ立場は、すでに逆転している。
逆転していないまでも、東南アジア各国の人たちは、「日本なしでもやっていける」と考え
始めている。
つまり「東南アジア諸国連合(ASEAN)」に、頭をさげるべきほうは、むしろこの日本
なのである。
 「どうか、日本も、ASEANに加入させてください」と。
それを大上段に構え、「ASEANプラス3」とは!

 「プラス3」というのは、日本、中国、韓国の3か国をいう。

 が、このプラス3は、中身にも問題がある。

(1)韓国のもつ反日感情、あるいは日本へのライバル意識。
(2)東南アジア各国の、反中国感情、もしくは反中国意識。

 この2つをさておいたまま、鳩山首相は、「ASEANプラス3」を唱えている。
さらに問題が起きた。
側近を、「脱・アメリカ追従外交論者」で固め、反米とまではいかないにしても、アメリカ
にそのような印象を与えるような行動を始めてしまった。

 毎日新聞は、つぎのように伝えている。

●アジア重視の外交政策?

+++++以下、毎日新聞+++++

 鳩山由紀夫首相は9、10両日、韓国、中国を相次いで訪問する。
9日午前にはソウルで韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領との首脳会談、10日は北
京で中国の温家宝首相、李大統領との日中韓首脳会談に臨む。
首相就任後、国際会議出席以外では初めての外国訪問で、アジア外交重視の姿勢をアピー
ルする。

 日韓首脳会談は、両首脳間の信頼関係の構築が主要な目的。北朝鮮の核問題を巡る6カ
国協議への早期復帰に向けた連携を確認する。
日韓連携を重視する姿勢を示すことで、「東アジア共同体構想」をはじめとするアジア外交
を主導的に進めたい狙いもある。

(中略)

鳩山首相も「東アジア共同体構想」についての理解と協力を求める。3カ国会談後、両首
相の個別会談もある。

+++++以上、毎日新聞+++++

さらに、鳩山首相は、岡田外務大臣をアジア各国に派遣した。
同じく毎日新聞は、つぎのように伝えている。

●受けたのは、外交的虚礼

+++++以下、毎日新聞+++++

岡田克也外相は13日、インドネシアを訪問し、ハッサン外相と会談した。
鳩山政権が推進する東アジア共同体構想について、「インドネシアは重要なパートナーだ」
として協力を要請し、この問題で両国が協議していくことで一致した。

 東アジア共同体構想について岡田外相は「東南アジア諸国連合(ASEAN)の中で存
在感を高めているインドネシアと協力しながら、具体化に努めたい」との考えを示した。
これに対しハッサン外相は「包括的でバランスの取れたものにすべきだ」と述べた。

その上で、ASEANプラス3(日中韓)や東アジア首脳会議などの枠組みを踏まえ、両
国が統合に向けて協力し、協議を続けることで合意した。

+++++以上、毎日新聞+++++

 当然のことながら、これに「待った!」をかけたのが、アメリカ。
こうした一連の日本の動きをとらえながら、「日本は中国よりも、やっかいな国になった」
(オバマ政権)と、鳩山外交を評した。

 英語で、何と言ったかはわからない。
しかし日本は、すでに40年以上も前から、「異質な国」と位置づけられている。
アメリカ人にしてみれば、東南アジアの人たちの方が、まだわかりやすい。
欧米の植民地だったということで、欧米流のものの考え方が定着している。

 が、この日本は、ちがった。
わかりやすく言えば、日本、さらに日本人は、彼らの理解の範囲を超えていた。
そうした流れは、今でもつづいている。
「日本は中国よりも、やっかいな国になった」と言いながら、アメリカは、日本に向かっ
て、「アメリカはずしは許さない」と警告した。

 そして今月(09年10月)、タイのフアヒンで、東南アジア諸国連合(ASEAN)の
首脳会議が始まった。
そこへ鳩山首相は出かけていき、東アジア共同体構想を正式にぶちあげ、アメリカの参加
を求めることを提唱した。

 鳩山首相の一連の動きを、順に追ってみたい。

●無意味な外交巡礼?

+++++以下、毎日新聞+++++

鳩山由紀夫首相は24日にタイ中部のフアヒンで開かれる東南アジア諸国連合(ASE
AN)との首脳会議など一連の会合で、自らが提唱する東アジア共同体構想に関して、
米国の参加を求める考えを表明する。

松野頼久官房副長官がバンコクに向かう政府専用機内で、同行記者団に明らかにした。
 首相は「ASEANを含む東アジア諸国は東アジア共同体構想の中核で、米国の関与は
極めて重要だ」との考えを表明する。

 これまで首相は「米国を排除する発想は持っていない」としていたが、参加国の枠組み
などについては明確な言及を避けており、米国の参加を明言するのは初めて。
米軍普天間飛行場の移設問題で日米間の相違が顕在化しており、配慮をする必要があると
判断したとみられる。

+++++以上、毎日新聞+++++
+++++以下、毎日新聞+++++

鳩山由紀夫首相は24日午前(日本時間同日午後)、タイのアピシット首相ら東南アジア
諸国連合(ASEAN、10カ国)の首脳と会談した。
ASEAN各国を自ら提唱する「東アジア共同体構想」の中核メンバーと想定する鳩山
首相は、同構想を長期的なビジョンとして説明し、協力を呼びかける。

また、タイやベトナム、カンボジアなどメコン川流域国の経済成長へ向けた支援を表明
する。
 これに先立ち、鳩山首相は議長国のアピシット首相と個別に会談し、東アジア共同体構
想を説明した。

+++++以上、毎日新聞+++++
+++++以下、毎日新聞+++++

鳩山由紀夫首相は24日、東南アジア諸国連合(ASEAN、10カ国)との首脳会議、
さらに中国と韓国を加えたASEANプラス3首脳会議に出席し、自ら提唱する東アジ
ア共同体構想への支持を呼びかけた。

首相はASEANが共同体構想の中核になるとの認識を示し、各国首脳も「長期的な目
標」として協力していくことで一致した。
今後は将来の共同体構築につながる具体的な地域協力の推進が課題となる。

 一連の会議で首相は共同体構想について「長期的なビジョンを掲げて、開かれた地域協
力の原則に立って着実に進めていきたい」と説明。
「日本の外交政策として日米同盟を基軸と位置付けている」とも述べ、何らかの形で米
国が関与できる仕組みを検討する姿勢を強調した。
具体的な協力分野としては経済や新型インフルエンザ対策、情報通信などを挙げ、理解
を求めた。

 ASEANや中韓側からは「長期的な目標として取り組んでいきたい」「東アジア協力の
議論を再活性化した」と評価する意見が相次いだほか、「統合が進むASEANが主導的な
役割を果たす」との発言もあった。

ASEANプラス3では、首相は「日中韓協力を東アジア協力の推進力とする」と強調。「過
去を直視しながら未来志向の関係をアジア各国と築いていく」と述べた。
また通貨危機に対応して外貨を融通し合う「チェンマイ・イニシアチブ」などアジア地域
の金融安定化に貢献する考えも表明した。

+++++以上、毎日新聞+++++

●アメリカはずしは、時期尚早

 「プラス3」というが、まず、日本は、どうやって、あの中国と韓国を、仲間にまとめ
るというのか。
1回や2回、首脳会談をもったくらいのことで、中国や韓国の、反日意識や反日ライバル
意識が氷解するなどということは、ありえない。
ありえないことは、ここ10年に渡ってつづいた、日韓経済戦争を見ればわかる。
日中経済戦争でもよい。
その戦争は、今の今も、つづいている。
むしろ今年に入ってからも、生き残りをかけて、さらに熾烈さを増している。

 そんなこともあって、今、日本からアメリカをはずすのは、時期尚早。
あまりにも稚拙。
たしかに「追従」しているが、追従しなければならない歴史的、かつ外交的背景が、そこ
にある。

 なぜ、日本が戦後60年以上に渡って、平和を保つことができたか。
かつ国防費を対GDP比で、1%以下に抑えることができたか。
何もアメリカの高官にあえて脅されるまでもなく、アメリカ軍が日本に駐留していたから
にほかならない。

 何度も繰り返すが、もしアメリカ軍が駐留していなかったら、今ごろ日本は、跡形もな
く粉々にされていた。
スターリン・ソ連、毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・北朝鮮、さらにマルコス・フ
ィリッピン連合軍が、繰り返し、日本を襲ったであろう。
悲しいかな、粉々にされてもしかたないことを、日本は、先の戦争でしてしまった。

 外交面においても、そうだ。
あんな北朝鮮ですら、日本はもてあましている。
拉致問題ひとつ解決できないでいる。

 が、「日本のうしろには、アメリカがいる」。
それが日本の外交を、裏から支えてきた。
今も、支えている。
もし、日本が本気で追従外交から脱するときがあるとすれば、日本が軍事面、外交面で、
中国を含む他のアジア諸国から、認知されたときである。

 「認知」という言葉を、「融和」という言葉で置き換えてもよい。
「日本は危険な国ではない」「日本は信頼できる」という、2つの側面が、アジア各国の中
で融和したとき、日本は、はじめて対米追従外交から脱却できる。

 が、今の日本にあるのは、経済力のみ。
(その経済力も、風前の灯だが……。)
そのことは、今回の鳩山総理の動きを見てもわかる。
言うなれば、札束をパラパラと見せつけながら、ASEANの会場に乗り込んだ。
今はまだ、多少なりとも、ジャパン・マネーに威力が残っているからよいようなものの、
しかしこんな方法は、いつまでも長つづきしない。
2015年どころか、来年の2010年には、アジアにおいて、日本と中国の立場は、逆
転する。

 また「東アジア共同体構想」という名称そのものが、「東」、つまり「日本を中心とした」
という意味である。
この国際性のなさ。

東南アジアの人たちは、日本人が、自分たちを東南アジア人と思っていないのと同じよう
に、自分たちは東アジア人とは、思っていない。
むしろ「東アジア共同体構想」というのは、先の戦争中に日本の軍部がぶちあげた、「大東
亜共栄圏」の流れの中にある。
少なくとも中国を含む東南アジアの人たちは、そう考えている。

 「東アジア……」ではなく、ぶちあげるとしても、「東」を取って、「アジア共同体構想」
とすべきだった。

●どうして、今?

 日本には日本のプライドがある。
それはわかるが、10年後、20年後の日本を考えるなら、今はそのプライドを捨て、A
SEANに頭をさげるべき。
「どうか、仲間に加えてください」と。
何も、中国や韓国を、いっしょに連れて行くような話ではない。
もっとはっきり言えば、中国や韓国を無視して、ASEANに加入すればよい。
もし逆の立場だったら、つまり中国や韓国の経済力が、日本を凌駕(りょうが)するよう
になったら、彼らは日本は完全に無視されるだろう。

 簡単に言えば、どこかの社交クラブに行くとき、自分ひとりでは心細いからという理由
で、隣人とはとても言えないような隣人を、連れていったようなもの。
こういうのを、(お人好し外交)と呼ぶ。

 韓国は、それによって、ASEANの中で独自の立場を構築するだろう。
しかし問題は、中国。
中国など連れていったら、まとまる話も、まとまらなくなる。
もともとASEANというのは、対中国脅威論がベースになって、誕生した。
そんな歴史的経緯すら、鳩山総理は知らないというのか!

 どうであるにせよ、鳩山首相の一連の行動は、このまま「勇み足」につながりかねない。
もう少しじっくりと考え、時間をかけるべき。
何かのアドバルーンは必要かもしれないが、それは二期目でもよかった。
総理大臣になったとたん、いきなり「東アジア共同体構想」とは?
こうした大構想には、根回しというか、地道な基礎づくりが必要。
その基礎を積み重ねながら、道筋を作っていく。

 以上のことを総合すると、(1)東アジア共同体構想は、失敗する。
日本は残った財力を使い果たすような形で、結局は失敗する。
また(2)そうでなくても、日米関係は崩壊寸前。
これを機会に、日本は丸裸のまま、中国という猛獣の前に放り出されることになる。
その覚悟も、またその準備もないまま、今、ここで「脱・アメリカ追従外交」を唱えるの
は、危険、きわまりない。

 さらに言えば、アメリカに脅されて、(3)東アジア共同体構想に、アメリカを加えると
宣言したが、それ自体が、すでにこの構想を破壊したことを意味する。
アメリカは、ASEANを、アメリカの支配下に取りこもうと、あの手、この手を使って
画策してきた。
東南アジアの人たちは、そのアメリカをうまくかわしてきた。
アメリカへの警戒心も強い。
その警戒心も冷めやらぬ今、「アメリカも」ということになれば、崩壊するに決まっている。

 鳩山総理も海外留学組だから、その発想とするところは、よくわかる。
しかしそれは30〜40年前の発想。
今は、時代も中身も変わった。
アジアにこだわらなければならない理由はない。

 が、批判ばかりしていては、いけない。
そこで発想を変えて、日本は、アジアを飛び越えて、一気に、インド、ブラジルと共同
体を組んではどうか。
(韓国政府は、すでにそういう方向で動いている!)
そして中国そのものを、取り囲んでしまう。
どうしても「共同体」ということであれば、そのほうが実現性は高い。
将来のメリットも大きい。
(以上、2009年10月25日朝・記)

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BW はやし浩司 東アジア共同体 共同体構想 大東亜共栄圏 脱アメリカ追従外交 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 23日
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【口の悪い子ども】

●ビダンシ、ビジョ

 子どもたちは、口が悪い。それが、ふつう。当たり前。悪いといって、子どもを、押さ
えこんでしまっては、いけない。一応は叱っても、別の心では許す。そのおおらかさが、
子どもを伸びやかにする。
 
 で、私は、子どもたちが、私のことを、「ジジイ」「クソジジイ」「バカジジイ」などと言
ったときは、すかさず、こう教えるようにしている。

私「もっと、悪い言葉を教えて、あげようか」
子たち「教えて」「教えて」と。

 そこで私は、「いいか、教えてやるけど、君たちのパパや、園長先生には、言ってはだめ
だよ」と言う。そしておもむりに、こう教えてやる。「ビダンシ(美男子)」と。

 すると、子どもたちは、うれしそうに、私に向かって、「ビダンシ」「ビダンシ」と言い
だす。

 ……という話は、以前にも書いた。で、この話には、つづきがある。

 先週、そのことを年長児クラスで教えると、「ママには、使ってはだめ?」と聞いた子ど
もがいた。

私「ママは、女の人だから、ビダンシでは、おかしいよ。女の人には、ビジョ(美女)と
いうんだよ。ビジョという言葉は、悪い言葉だから、使ってはだめだよ」と。

 しかし母親に「美女」というのも、おかしい。そこで思わず、こう言ってしまった。「ビ
ジョじゃあなくて、オーネンのビジョ(往年の美女)かな?」と。

 「しまった!」と思ったが、遅かった。子どもたちは、今度は、参観している母親たち
に向かって、「オーネンのビジョ」「オーネンのビジョ」と言い出した。

 口がすべるとは、こういうことをいう。私はよくこの種のヘマをする。

 しかし教室の中には、いつもの明るい笑い声が、とびかった。ついでに私も、大声で笑
う。私はその雰囲気が、好き。楽しい。これがあるから、幼児教育は、やめられない。

(補記)

 大切なことは、「おとなの優位性」を子どもに、押しつけないこと。
ときにおとなは、バカになり、あるいは子どもに負けたフリをしながら、自信をもたせる。
「おとな(先生)を負かした」という思いが、自信につながる。
その子どもの未来を、子ども自身が明るくする。

 たまたま、BW教室でのやりとりを、YOUTUBEに収めたので、興味のある人は見てほしい。

http://www.youtube.com/watch?v=Ck5MMauSzSE


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

【団塊ブルース】

●10月21日も終わって……

老いることが、わびしいのではない。
老いていく人を見るのが、わびしい。
老いていく人を見ながら、その人に
自分の未来像を写し重ねる。
それがわびしい。

死ぬのがこわいのではない。
死ぬときは、死ぬ。
しかし簡単には死ねない。
それまでに、いろいろ苦しむ。
もがく。
それがこわい。
どうやって死ぬか。
それがこわい。

私がほしいのは、休息ではない。
遊ぶことでもない。
私がほしいのは、生きがい。
私を必要とする人が、ほしい。
仕事があれば、さらによい。

私がこわいのは、孤独。
だれにも相手にされないという孤独。
だれにも必要とされないという孤独。
だれも愛する人がいないという孤独。
だれにも愛されないという孤独。
その孤独がこわい。
孤独は地獄。
人がこの世で味わう、最悪の地獄。

だから私はしがみつく。
細い糸だが、それにしがみつく。
それから手を放したら、私はおしまい。
生きる意味を失う。
明日が今日と同じとしたら、
来月が今月と同じとしたら、
私は生きる意味を失う。
それがこわいから、しがみつく。
希望という細い糸にしがみつく。

今日も映画俳優の、M洋子という人が亡くなった。
76歳だったという。
もうすぐ私は62歳になる。
その年齢から、「私もあと14年か」と、計算する。
私にとって、「死」というのは、そういうもの。
刻々とやってくる。
少しずつやってくる。
残された時間……それが私の人生。

老いることがこわいのではない。
それまでに、何かができればよい。
が、何もできなかったら、私はどうなる。
どうする。
何もできなかったことを悔やみながら、死ぬ。
私は、それがこわい。

体力も落ちていく。
気力も落ちていく。
知力も落ちていく。
集中力も落ちていく。
今でさえ、そこに何があるか、私には、わからない。
この先、それがもっとわからなくなる。
急がなければならない。
もっと急がなければならない。
「時」という電車に乗り遅れたら、
私は希望を失う。
そのまま私は奈落の底に……。

ワイフも、すっかりバーさんになった。
やわらかい白髪が、秋の風にそよぐ。
それを見て、私もジーさんになる。
あえてジーさんになる。
いっしょに、歳を取りたい。
私だけ、この世に生き残るのは、ごめん。
ジーさんになるのが、いやなのではない。
ワイフだけが、バーさんになるのがいや。
自分だけ、取り残されるのがいや。

明日こそは……と、自分に気合を入れる。
明日こそは、思う存分、生きてやると、
自分にそう言って聞かせる。
しかしそんなこと、もう何千回も
繰り返してきた。
そして夜になると、決まって、こう言う。
「今日もだめだった」と。

この無力感。
この脱力感。
しかしそれに負けたら、私も、おしまい。
ここはふんばるしかない。
そしてまた自分に言って聞かせる。
「明日こそは、がんばろう」と。
「明日こそは、いいことがある」と。

ワイフが寝じたくに、とりかかり始めた。
化粧を落として、パジャマに着替える。
それが終わると、血圧を測る。
そのころ、いつも私にこう言う。
「そろそろ寝る?」と。

そこにある「死」から目をそむけながら、
そこにある「孤独」から目をそむけながら、
そこにある「老い」から目をそむけながら、
バカになったフリをして、私も寝じたくを始める。
今日も、これでおしまい。
みなさん、ごくろうさま。
おやすみなさい。

(09年10月21日夜)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●相手を助けるチンパンジー(奇妙な実験)

++++++++++++++++++++

先日、奇妙な実験が、テレビで報道されていた。
何でも、チンパンジーには、共助の心、つまり相手を助ける心があるという。
テレビで報道された範囲での私の判断だから、誤解があるかもしれない。
それに実験の主宰母体は、あの天下の京都大学霊長類研究所。
まさか?、とは思うが、私が感じた疑問をここに書いてみたい。

なおこまかい部分については、記憶によるものなので、不正確である。

++++++++++++++++++++

【実験の内容】

2つの檻(おり)がある。
金網でできた檻。
それぞれに、1匹ずつのチンパンジーが入れられている。
たがいに相手の姿が、よく見える。
2つの檻の間には、チンパンジーの腕が楽に通るほどの、穴があいている。

1匹のチンパンジーの檻の前には、リンゴが置かれている。
しかし手が届かない。
このチンパンジーを、チンパンジー(A)とする。

そこで実験者が、もう1つの、別の檻に入っているチンパンジーに、杖(つえ)様の棒を
渡す。
杖を渡されたほうのチンパンジーを、チンパンジー(B)とする。

チンパンジー(B)の檻に、杖があることを見た、チンパンジー(A)は、金網越しに、
手を伸ばし、杖を渡すようにせがむ。
このとき、「杖を渡せ」というようなジェスチャを、チンパンジー(A)がしてみせる。
腕を穴に通し、チンパンジーは、手先で「それをよこせ」というようなジャスチャをして
みせる。
(ここが重要だから、念のためにもう一度、書く。
チンパンジー(A)が、チンパンジー(B)のほうに手を伸ばした。)

チンパンジー(B)は、杖様の棒を、チンパンジー(A)に渡す。
その棒を手にしたチンパンジー(A)は、その棒を使って、リンゴを手前に引き寄せ、リ
ンゴを手に入れる。
チンパンジー(A)は、リンゴを食べる。

【考察】

 以上が、実験のあらましである。

この実験を通して、報道番組では、「チンパンジーには、共助の心がある」というような
ことを、おおげさな言い方で賞賛していた。
つまりチンパンジー(A)が、リンゴを手にすることができるよう、チンパンジー(B)
が、チンパンジー(A)を助けた、と。

 しかし、ちょっと待ったア!
この実験というか、実験結果から引き出された結論は、お・か・し・い!
どう考えても、お・か・し・い!
この実験だけで、チンパンジーに、「共助の精神」、つまり他人を思いやる(やさしさ)が
あると判断するのは、おかしい。
無理がある。

 もう一度、実験の流れを、よく読みなおしてみてほしい。
(テレビでは、2度、同じ実験を繰り返して見せていた。)

【疑問】

 チンパンジー(A)は、隣にいるチンパンジー(B)に向かって手を伸ばし、棒を渡す
ように合図した。
ここにも書いたように、「それをよこせ」と言っているかのようなジェスチャだった。
それに応えて、チンパンジー(B)は、杖様の棒を、金網越しに、チンパンジー(A)に渡し
た。

 そのあとチンパンジー(A)は、その棒を使って、リンゴを手前にたぐり寄せ、リンゴ
を手にした。

 つまりチンパンジー(B)は、チンパンジー(A)の求めに応じて、棒を渡しただけで
ある。
ここが重要だから、念を押しておきたい。
チンパンジー(A)の置かれた状況を見て、チンパンジー(B)のほうから、棒を渡した
のではない。
もしそうなら、つまり、チンパンジー(B)のほうから、積極的に棒を渡したのなら、「チ
ンパンジーには、共助の精神がある」ということになる。
「ほら、この棒を使って、お前のほうに、リンゴを引き寄せろ」と。

 しかし実験では、2回とも、チンパンジー(A)のほうが、金網越しに手を伸ばし、棒
を渡せと催促していた。

【共助の精神?】

 この実験だけで、チンパンジーに、相手を助ける心があると判断するのには、無理があ
る。
また実験者(研究者)が、「チンパンジーの別の高い知能が証明された」というようなこと
を言っていた。
が、この言葉には、「?マーク」を、10個ほどつけたい。

 繰り返すが、チンパンジー(B)は、チンパンジー(A)の求めに応じて、棒を渡した
だけである。
自分のほうから、棒を、チンパンジー(A)に渡したのではない。
さらにつぎの点が、重要である。

 リンゴを手にしたチンパンジー(A)は、自分でそのリンゴを食べた。
半分に割って、チンパンジー(B)に渡すというような行為が、そのあとにでもあれば、
それこそ「共助の心」があったということになる。
しかし残念ながら、そういうことはなかった。

【補記】

 チンパンジー(A)の立場で、もう一度、考えなおしてみよう。
何しろ相手は、天下の京都大学。
京都大学霊長類研究所。
いいかげんな批評をすると、私のほうが、逆に袋叩きにあう。
だから、ここは、慎重に!

 チンパンジー(A)は、自分の檻の前に、リンゴがあるのを見た。
しかし手を伸ばしても、リンゴには届かない。
が、横の檻を見ると、もう1匹のチンパンジー(B)がいて、その横には、杖様の棒があ
る。
棒が手に入れば、その棒を使って、リンゴを引き寄せることができる。
チンパンジーに、その程度の能力があることは、すでに証明されている。
そこでチンパンジー(A)は、金網越しの手を伸ばし、棒を渡すように、チンパンジー(B)
にせがむ。
それに応じて、チンパンジー(B)は、チンパンジー(A)に、棒を渡す。

 今度は、チンパンジー(B)の立場で考えてみよう。
チンパンジー(B)も、リンゴを見つけたはず。
自分でそのリンゴを取ろうとしても、手は届かない。
であるとするなら、なぜそのときチンパンジー(B)は、自分で、棒を使って、リンゴを引き
寄せなかったのか、ということになる。

あるいは棒を使っても、届かない距離ということを、チンパンジー(B)は知っていたの
かもしれない。
それともチンパンジー(B)は、能力的にチンパンジー(A)より、劣っていたというの
だろうか。
もし劣っていたとするなら、さらに高度な精神的作用を必要とする、「共助の心」は、期待
できないということになる。
何度も書いたように、チンパンジー(B)は、チンパンジー(A)の求めに応じて、棒を
渡しただけである。
テレビで見たところ、そのようにしか見えなかった。

 つまりそれだけの実験というか、それだけの話なのである。
どうしてこの実験だけで、チンパンジーには、相手を助けるために行動する能力、つまり
(相手を思いやるやさしさ)があると言えるのか?

 多分、こうした実験結果(?)は、おおげさな論文となって、あちこちで発表されるに
ちがいない。

しかしおかしいものは、お・か・し・い。
……ということで、感じたままを、ここに書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW チンパンジー 京都大学 京都大学霊長類研究所 共助 共助の
心 チンパンジーの実験 思いやり ほかの仲間を助けるチンパンジー 疑問)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●映画

++++++++++++++++

今週は、見たい映画はなし。
少し前、『火天の城』(邦画)を見てきた。
が、途中でギブアップ。
「時間がもったいない」と感じ、
途中で劇場から出てきてしまった。

+++++++++++++++++++

 週に1度は、劇場へ足を運ぶ。
映画を見る。
私たち夫婦は、そう取り決めている。
ボケ防止のため。

 しかし先々週くらいから、見たい映画が
パタリとなくなってしまった。
しかたないので、ときどきDVDを借りてきて
見ている。

 今は、映画も、シーズンオフ?
クリスマスや正月が近くなれば、また楽しい映画も
出てくるはず。
それまでがまん。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●住めば都(人格のスケール)

+++++++++++++++++++

ワイフがこう言った。
「私は浜松が好きだわ。
ちょうどいい大きさで、住みやすいわ。
大きすぎず、小さすぎず……」と。

+++++++++++++++++++

 浜松市の人口は約80万人(政令都市)。
ワイフが言ったことに対して、私はこう言った。

「M町(人口3万人弱)の人も、同じことを言うよ。
G市(人口30万人)の人も、同じことを言うよ。
名古屋市の人だって、同じことを言うよ」と。

 昔から『住めば都』という。
どんな町でも、長く住めば、体の方がそれに慣れ、その人にとっては、住みやすいところ
になるということ。
浜松市で生まれ育ち、以来、ずっとこの町に住んでいるワイフにしてみれば、当然のこと。
浜松がいちばん、住みやすい。

●心のスケール

 医師以外の人は、あまり知らないかもしれない。
しかし医師の世界には、医師だけの世界がある。
たとえば旅行社にしても、デパートにしても、さらに建設会社にも、医師用専門会社というのが
ある。
なぜあるかということについては、今さら、ここに書くまでもない。

 で、その医師たちは、医師たちだけで交際する。
医師たちが一般の人たちを避けているのではない。
一般の人たちが、医師の世界に入り込めない。
つきあいの仕方がちがう。
お金の使い方がちがう。

●居心地

 そこで人は、自分と同じようなレベルの人とつきあうようになる。
レベル、年齢、同趣味、類似した仕事、同じような生い立ち、学歴など、共通点が多けれ
ば多いほど、よい。
その人にとって、居心地のよい関係ということになる。

 そしてその関係は、10年とか、20年とか、長い年月をかけて、作られる。
先に書いた医師の世界も、その一例ということになる。

 そこで『住めば都』。
住んでいる町の大きさに、標準はない。
大きな町に住み慣れた人は、小さな町を窮屈に思う。
小さな町に住む慣れた人は、大きな町を、住みにくく思う。
それは自然な反応であって、とくに問題はない。

 しかし(心)については、もう少し深刻に考えたほうがよい。
大きな心の人は、求めて、心の大きな人と交際するようになる。
小さな心の人は、求めて、心の小さな人と交際するようになる。

 ここでは便宜上、(大きな心)(小さな心)という言葉を使ったが、要するに(人間性)
の問題と考えてよい。
しかもその人間性は、相対的なもの。
私が大きいとか、あなたが小さいとか、そういうことを書いているのではない。
上には、上がいる。
下には、下がいる。
そういう意味で、相対的なもの。

●ある夫婦

 あるところに、インチキばかりしている女性がいた。
やることなすこと、インチキ。
小細工、ウソ、ごまかしは、日常茶飯事。
それがその女性の行動規範になっているため、恐らくその女性は、自分でもそれを意識し
ていないのではないか。
ごく自然な形(?)で、それができる。

 で、私が不思議に思ったのは、そういう女性を妻にもつ夫はどうなのかということ。
その女性の夫も、見たところ、夫は、ごくふつうのサラリーマン。
もの静かで、おだやかな感じのする人だった。

 そこでワイフに、「もしぼくが、あの女性の夫なら、ああいう妻には耐えられない。それ
に妻が目の前で、そういう行為を重ねていたら、妻を注意するだろう」と。
するとそのワイフは、こう言った。

 「知らなかったの? あのダンナも、似たような人よ。
ほら、『似たもの夫婦』って、言うでしょ。
あのダンナも、インチキな人よ」と。

 そう言えば、その女性の周囲にいる人、つまり、その女性の親しい人たちも、みな、似
たような人たち。
『類は友を呼ぶ』の格言どおりである。

●上の人

 一方、恩師のTK先生は、会うたびに、私にこう言う。
「上の人と交際しなさい」と。
TK先生が言う(上の人)というのは、「人格的に高邁な人」という意味である。

 その先生の言葉には、重要な意味が隠されている。
人というのは、環境によって、大きな人にもなるが、反対に、小さな人にもなってしまう。
『人は環境の産物』。
そしていつの間にか、良循環は良循環となり、反対に悪循環は悪循環となり、その人の大
きさを決めていく。

●子どものレベル

 町について、住みやすい、住みにくいというのは、あくまでも(慣れ)の問題。
しかし人間関係において、つきあいやすい、つきあいにくいというのは、その人の(努力)
の問題。

 よく「子どものレベルを知りたかったら、子ども友人を見ろ」という。
そう言っているのは、この私だが、自分の子どものレベルは、子どもがつきあっている友
だちを見ればわかる。

 あなたの子どもが、あなたから見て、好ましい友だちとつきあっているなら、あなたの
子どものレベルも、同じほど高いということになる。
そうでなければそうでない。

 以前、こんなことがあった。
ある子ども(中学2年生・男子)が、祭りで酒を飲んでいて、警察署へ補導されてしまっ
た。
母親は、「友だちにそそのかされて、酒を飲んだだけ」と、懸命に自分の子どもをかばって
いた。
が、あとで私がいろいろ話を聞くと、むしろその子どものほうが主犯格だったことがわか
った。

●私のばあい

 私のまわりを、改めて見直す。
で、多くの人たちが、私から去っていったのを知る。
「林(=私)は、酒が飲めないからつまらない」と言って、去っていった人もいるが、こ
れはしかたない。
しかし中には、「林は、つまらない」と言って去っていった人もいる。
私の醜い人間性に呆れて、去っていった人もいる。

 その一方で、私のほうが居心地を悪く感じて、離れていった人もいる。
よいにつけ、悪いにつけ、つきあいにくい人というのは、確かにいる。
が、このところ、もうひとつ、別の問題が起きつつある。

●許容範囲

 私がもっている許容範囲が、狭くなりつつあるのを感ずる。
以前は、かなりの余裕をもって、人と交際できた。
が、今は、それがない。
好き嫌いが、はっきりしてきたというか、わがままになってきた。

 たとえば昨年までは、月に2〜3度は、地元のバス会社が運営するツアーで、あちこち
を旅した。
しかし今年になってから、ぐんとその回数が減った。
とくに私のレベルが高いというわけではないが、あの観光バスがもつ独特のレベルの低さ
に、がまんできなくなってきた。

 とくに、おばちゃんたちの、騒々しい会話には、閉口した。
ガイドの品性の低さにも、驚いた。
いろいろあった。

 一方、ワイフのほうは、私より許容範囲が、ずっと広い。
そのつど「私は気にしない」と言う。
つまりその分だけ、私の脳みそが硬直し始めたことを意味する。
許容範囲は、その人のもつ脳みその柔軟性で決まる。
その柔軟性が、なくなってきた?

●どうすればよいか

 私たちは、常に(上)をめざす。
それを釈迦は、「精進(しょうじん)」と言った。
日々の絶え間ない研鑽と努力。
それによってのみ、私たちは、現在のレベルを維持できる。
その研鑽と努力を怠ったとたん、健康と同じで、下り坂に向かう。

 難しいことではない。
ウソをつかない。
約束を守る。
ルールを守る。
その3つだけを、かたくなに守ればよい。
あとは、時間が、その人を磨いてくれる。
10年とか、20年とかかけて、その人を磨いてくれる。

 何度も書いてきたことだが、自分にそう言って聞かす。
私はもともと、素性が、あまりよくない。
自分でもそれが、よくわかっている。

と、同時に、許容範囲を広げる。
俗人になるべきところでは、俗人になる。
俗人になって、俗世間と交わる。
けっして、孤高の人になってはいけない。
おごり高ぶるのは、禁物。

 ただしレベルの低い人とは、つきあわない。
インチキな人、平気でウソを重ねる人、ずるい人、小細工をする人……。
そういう人とは、離れる。
縁を切る。
つきあってよいことは何もない。
つきあえばあうほど、こちらがその毒気に染まってしまう。

 ……と自分にそう誓う。
今日も始まった。
がんばろう。
10月23日朝記

(補記)

加齢とともに、ここに書いた許容範囲が、どんどんと小さくなっていく。
努力していても、そうなる。
思考の柔軟性が、失われるためと考えてよい。

 たとえば音楽を例にあげて考えてみよう。

私は毎日のように、YOUTUBEで、いろいろな音楽に接している。
が、ふと油断すると、いわゆる「団塊の世代・御用達的な音楽」ばかりを、聴いている。
「これではいけない」と自分に言って聞かせる。
そこであえてあちこちを、サーフィンしながら、よい曲をさがす。
しかし居心地ならぬ、聴き心地のよい曲は、やはり、あの時代の音楽ということになって
しまう。

 脳の中に一度できたシナプスをほぐすのは、容易なことではない。
あるいは新しいシナプスを組むのは、容易なことではない。
最近の幼児たちがよく歌う歌にしても、覚えるだけでもたいへん。
覚えても、すぐ忘れる。

 脳が硬直化してくると、そういう現象が、頻繁に起きるようになる。
そこで柔軟性。

 私は、幼児や小学生、さらには中学生たちと、好き勝手なことを言いあい、競いあうの
がよいと思うが、どの人にも、そういう機会があるわけではない。
では、どうすればよいのか?

 最近、私が実行しているのに、こんなのがある。
書店などで、片っ端から、立ち読みをして回るという方法である。
ジャンルは選ばない。
つまりこうして脳みそを、いろいろな方向から刺激する。
私の幼児教室の指導法の柱にもなっている。

 もうひとつは、新しい世界に思い切って、飛び込んでみる。
その(思い切り)が大切。
「迷ったら、即、実行」。
子どもでもそうだが、「つまらない」「おもしろくない」と言い出したら、そこで進歩は停
滞する。

 ……いつまでつづくかわからないが、脳の柔軟性は、それを一度失ったら、回復するの
は、かなりむずかしい。
そういうこともあって、とにかく今は、現状維持に心がける。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 交際 人との交際)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●10月23日

++++++++++++++++++++

昨日、三男が、電話をかけてきた。
プレゼントも届いた。
「誕生日、おめでとう」と。

バカめ!

私の誕生日は、来週だ。
1週間、まちがえている。

が、しかし、うれしかった。
歳は取りたくないが、気遣いはうれしい。

++++++++++++++++++++

●WINDOW7

 WINDOW7が発売になった。
評判はよい。
私がもっている、TOSHIBAのノートパソコンは、
WINDOW7へのUPGRADE権つき。

 どうすればよいのだろう?
明日、購入した店に行って、聞いてみよう。
しかし……ウィルス対策ソフトは、そのまま使えるのだろうか?

 で、一方、次期パソコンは、どれにしようか?
悩んでいる。
M社のデスクトップをねらっているが、Officeソフトを含めると、20万円を軽く超えてし
まう。
それにモニターも、25インチ前後のものが、ほしい。
加えて、プリンター。
インク・プリンターというより、今、考えているのは、カラー・レザー・プリンター。
値段も驚くほど、安くなった。

 WINDOW7との相性を考えながら、順次、導入していく。
BW教室内での印刷物を、近く、カラー版にする。

 今、しばらく様子を見よう。
1〜2か月もすると、値段も、ぐんと安くなるはず。


●金価格

 金(ゴールド)の価格が、急上昇している。
ニューヨーク市場での価格(先物)は、最高値で頭打ち。
しかし日本市場では、そこまで上がり切っていない。

 円安になれば、さらに上がる。
今は(売り時)とは思うが、(買い時)ではない。

 ところでオーストラリア・ドルの上昇につられて、ニュージーランド・ドルも上昇して
きている。
私は82〜3円のときニュージーランド・ドルを購入した。
それが一時は、57〜8円まで下がってしまった。

「塩漬けにするしかない」と心に決めていたが、このところ、70円弱まで値を戻した。
あと少し、がんばれ、ニュージーランド・ドル!

 株取引は、数社を残して、今は、休眠中。
……と言いながらも、今、調べてみたら、結構、値を戻している。
この浜松市でも、経済の回復の兆(きざ)しが見えてきた。
一時はまったく仕事がなくなってしまったところもあったが、「仕事が入り始めた」とのこ
と。

 よかった!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●投射

++++++++++++++++++++++

昔から、『泥棒の家は、戸締りが厳重』という。
自分が泥棒だから、ほかの泥棒が気になる。

わかる、わかる、その気持ち!

人の物を盗んでいるから、盗まれることを心配する。
自分の心の中に邪悪な心があるから、ほかの人にもあると
思い込む。
それで気になる。
戸締りに厳重になる。

同じように、若い女性を相手に、したい放題のことを
している人がいる。
浮気、不倫、援助交際。
中身は何でもよい。
そういう人ほど、自分の娘の交際にきびしい。
娘の帰宅時刻が少し遅れただけで、大騒ぎする。
「男と遊んでいたのだろ!」と、娘を叱ったりする。

人はだれしも、欠点や弱点をもっている。
その欠点や弱点を気にしているから、他人の
中に同じものを見ると、それが気になる。
あるいは、それに気づきやすい。

こんなことがあった。

20年ほど前のこと。
たいへん勉強の苦手な子ども(中1男子)がいた。
いろいろあった。
私も苦労した。
見た目には、おとなしく、静かな子どもだった。

が、ある日のこと。
その子ども(中学生)を、小学生のクラスで
教えていた。
ふと見ると、その子どもが、
数歳も年下の子どもを、こう言って、いじめていた。

「バカだなあ、お前。こんな問題もできないのか!」と。
言い方が、陰湿だった。
ぞっとするほど陰湿だった。

その子ども(中1男子)のばあい、「抑圧」という
言葉を使って、心の状態を説明できる。
勉強ができないということで、日ごろからそれを
負担に感じていた。
それから生ずる不満を、心の中に別室を作り、
そこへ閉じ込めていた。
それがそのとき爆発した。

が、そのきっかけとなった力が、「投射」という
ことになる。
勉強ができない小学生を見たとき、その小学生の中に
自分の姿を見た。
そこで(勉強ができない)という自分のいやな部分を、
その小学生にぶつけて、その小学生をいじめた。

もうひとつ、こんな例がある。

私の知り合いの中に、病的なほどウソを
つく人がいる。
ウソをウソと思っていない。
その場しのぎのいいかげんなことばかり言う。
そのあとケロッと自分の言ったことを
忘れてしまう。

ある日、その人と話していたときのこと。
私が「先日、あなたはこう言いましたよ」
と指摘すると、突然取り乱して、こう叫んだ。

「どうしたあなたは、そういうウソを
つくのですかア! ウソつき!」と。

この言葉には、呆(あき)れた。
自分ではさんざんウソばかり言っておきながら、
私に向かって、「ウソつき!」は、ない。
『ウソつきほど、他人のウソにきびしい』。
そういうことなら、私にも話がわかる。

これも投射のひとつということになる。

+++++++++++++++++++++

●投射

 難しい言葉はさておき、自分に似た人を見ると、ほっとするときがある。
反対に、ぞっとするときもある。
そのちがいはと言えば、自分と同じようなよい面をもっている人には、ほっとした安堵感
を覚える。
反対に、自分と同じような邪悪な面をもっている人には、イヤ〜な嫌悪感を覚える。

 たとえば自分がケチだったとする。
が、そういう人にかぎって、外の世界では、おおらかなフリをする。
ことさら、自分は、ケチでないことを強調する。

 あるいは子どもの世界では、子どもに神経質な親ほど、「私は、子どもにはしたいように
させています」などと言ったりする。
あるいは家の中で、「勉強しなさい」とガミガミ言う親ほど、「私は子どもに、勉強しなさ
いと言ったことはありません」などと言ったりする。

 自分の欠点、弱点をよく知っている人ほど、そういう形で、他人の目をごまかす。
そして、同じような欠点、弱点をもっている人を見ると、自分の欠点や弱点を、その人に
投げつけて、その人を攻撃する。

「あの人は、ケチ」とか、「あの人は、子どもに神経質すぎる。子どもがかわいそう」と
か、など。

 一見複雑に見える人間の心だが、こうして類型化していくと、理解しやすい。
そのために心理学というのがある。
相手が人間だけに、おもしろい。
その一例として、「投射」をあげてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 防衛機制 投射 投影 心の別室 抑圧)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 20日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●子どもの識字能力テスト

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文字を読めない子どもがいる。
読んでも、文の内容を理解することができない。
文を文法的に分解できない。
そのため文が構造としてもつ意味を、論理的に
頭の中で組み立てることができない。

程度の差もあるが、全体の5%(20人に1人)は
いると言われている。

このタイプの子どもで悲劇的なのは、その子ども自身
がもつ問題もさることながら、まわりの人たちが
それに気づかず、その子どもに、無理をすること。
それがあるかぎり、その子どもはその苦痛と、ひとりで
闘わなければならない。

具体的には、小学2、3年になってから、算数の
文章題が読めないなどといった症状をともなって、
それとわかるようになる。

現在、識字能力障害をもつ子どもは、LD児(学習障害児)
として扱われることが多い。
しかし文章を読解できないということで、その影響は
ほかのすべての教科に影響を与える。

さらに、無理な学習、強制的な学習が日常化して
いるため、(文字嫌い)→(読み書きが苦手)→
(本嫌い)→(無理な学習、強制的な学習)→
(ますます文字嫌いになる)という悪循環がつづく。

そのため識字能力障害については、そういう子どもで
あると、できるだけ早い段階で発見し、適切な対処
が必要となる。

ただ残念なことに、現在、こと識字能力害者に
ついては、先にも書いたように、LD児として
取り上げられることが多く、またその範囲での
指導しかなされていない。

識字能力障害者対する適切な指導法は、まだ確立
されていない、

そこでまず診断法の確立ということになる。
筆者は、小学2年生(満8・0歳児)
を対象にした、テスト法を考案してみた。

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【識字能力障害・判別テスト法】(小学2年生(満8・0歳児)用)

【テスト方法】

●(重要)「口をしっかりと閉じて読んで、答えてください」と強く指示する。
無音であっても、口をモゴモゴさせる、口を開くなどの動作が見られたら、
強くそれを制止する。
「声を出さなければ、読解できない」と子どもが言っても、無視するか、
改めて、「口をしっかりと閉じて読んで、答えてください」とだけを繰り返す。
  
★読解判断力

【問】

 おとといのよる、ぼくの お父さんが、「あした、みなで 海へ 行こう」と言いました。
お母さんも いっしょに行くと言いました。 それで みなで したくをして、つぎの日、
海へ行きました。 今日は 8月10日です。 海へ 行ったのは、なん月なん日ですか。

【答え】 (  月  日)

★論理判断力

【問】

 Aのスイッチを、おすと、Xのライトが、つきます。 Bのスイッチを おすと、Y
のライトがつきます。 しかしCのライトを おすと、Xのライトが ついているときは、
Xのライトは、きえます。はんたいに、Yのライトが きえているときは Yのライトが
つきます。 いま、わたしは、(A)→(B)→(C)の じゅんに スイッチを おしま
した。 いま、ついている ライトは、どれですか。

【答え】 (  )のライト

★文章理解力

【問】わたしは おかあさんと おかあさんの ともだちと 3人で ちかくの みせで
くだものと やさいを かいましたが、 かえりに おかあさんの ともだちの こども
に あったので、 おかあさんが そのこどもに かったばかりの バナナを 1ぽん
あげました。 こどもに バナナを あげたのは だれですか。

【答え】(          )

★計数問題

【問】お父さんは、りんごを3こ、みかんを2こもっています。お母さんは、みかんを1
こと、ももを3こもっています。わたしはももを2こ、りんごを3こもっています。みん
ながもっている くだものを あわせると、いちばん おおいのは、なにですか。

【答え】(          )


(注)調査結果は、後日、公表する予定。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 子どもの識字能力 識字障害 読解力 文を読めない子供 識字
能力テスト 子供の障害)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【書くことの意義】

●文章論 

文字が発明された。
文字がつながり、文章となり、意思の伝達方法となった。
そのとき、人は、石器時代に終わりを告げた。
当時ですら、ある程度の言葉があり、声の届く範囲内では、それなりの意思の伝達はなさ
れたであろう。
しかし文字の発明により、その範囲は恐ろしく広がった。
空間的な広がりだけではない。
過去から未来へと、時間的にも広がった。
が、それだけではない。

 論理的な思考は、文章を書くことによってのみ、可能である。
文と文をつなげるもの。
それが「論理」ということになる。
これについても、文章でなくても、論理的な思考は、ある程度は可能かもしれない。
しかしあくまでも、「ある程度」。

 このことは、自分で文章を書いてみると、よくわかる。
文章を書くということは、思考の連続。
(考えながら書く)→(書きながら考える)。
この操作を絶え間なく、繰り返す。

 が、そのとき、ひとつ大きな条件がある。
「人に読んでもらう」という条件である。
もちろん日記風に、プライベートな文章を書くということもある。
このばあいは、「人に読んでもらう」という目的はない。
が、それでも、文章にしたとたん、いつかはだれかに読まれることもあるだろうという思
いをぬぐい去ることはできない。
いつもどこかで、他人の目を意識する。

●読者の目

 が、ほとんどの文章は、「人に読んでもらう」ために書く。
たとえば今、私がここに書いている文章にしても、人に読んでもらうために書く。
そうである以上、一応、文章を書くについては、いくつかの作法がある。
その作法の部分で、これまた(考えながら書く)→(書きながら考える)。
この操作を絶え間なく、繰り返す。

●読んでもらう

 若いころ、ある雑誌社の編集長が、こう教えてくれた。
「文章というのは、まず、読んでもらわなければならない。
自分が書きたいことは、ぐいとがまんして、相手が読みたいことを書く。
『あなたは、すばらしい。あなたは、いい人だ』とね。
そしてその一部で、『こういう意見もありますよ』といって、自分の意見を入れる。
一部でも、入れられれば、御の字」と。

 これは雑誌社の編集長の言葉である。
雑誌という本のもつ性質上、そうかもしれない。
雑誌というのは、読者に買ってもらわねばならない。
だからそこに書く文章も、それに応じて、読者が読みたい文章でなければならない。
読んだ人が、気持ちよくならなければならない。
楽しまねばならない。
が、こうした場で、私が書く文章について言えば、そこまで読者に媚(こび)る必要はな
い。
私は私。
しかし、あのときあの編集長が教えてくれた言葉は、今でも、私が文章を書くときの柱に
なっている。
まず読んでもらわなければならない。

 そのためには、当然、読みやすい文章でなければならない。
読んで、読んだ人が、役に立つ文章でなければならない。
書くほうにしても、意味のない、ただの駄文など、時間つぶしにもならない。
つまり、時間の無駄。
そこでやはり、先の言葉に戻る。
(考えながら書く)→(書きながら考える)と。

●書くことの意味

 考えることの重要性については、今さら、改めて書くまでもない。
人は文字の発明によって、石器時代から抜け出ることができた。
が、つぎに考えることによって、それぞれの個人が、ひとり立ちすることができるように
なった。
『考えるから、私は私』ということになる。

 もし考えなければ、人は人の範囲の中で、とどまってしまう。
その範囲で、生まれ、死ぬことになる。
ちょうど北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメであるように、人は人。
一見すると、みな個性的に見える。
それぞれがそれぞれに、好き勝手なことをしているように見える。
しかしその範囲を超えることはできない。
つまりその範囲を超えるために、私たちは考える。

 その道具として、文字があり、文章がある。

●相対的次元

 このことは、反対に、考えない人を見ればわかる。
あるいは文章を書かない人を見ればわかる。
……といっても、その(ちがい)は相対的なもので、上には上がいるし、反対に、下には
下がいる。

 人はより深く考えることができるようになって、はじめて、それまでの自分が、つまら
ない人間であったことを知る。
しかしそこでその人の立場が、固定するわけではない。
さらに深く考えることができるようになると、さらにそれまでの自分が、つまらない人間
であったことを知る。
この繰り返し。

 文章についても、そうである。
つまりこうして人は、そのつどものを書き、ものを考えながら、より高い次元へと到達し
ていく。

●思考の敵

 ところで、考えることには、いくつかの(敵)がある。

その第一が、思考のループ。
その第二が、思考の欠落。

 思考のループというのは、10年、あるいは20年一律のごとく、同じことを考え、同
じ言葉を繰り返すことをいう。

先日も、ある男性(66歳)と話していたら、何を勘違いしたのか、私にこう言った。
「あんたも男だろがア!」と。
久々に、聞いた言葉である。
「……だからそれがどうしたの?」と言いそうになったが、やめた。
私が相手にしなければならないような人ではない。
 
 で、そのあと、こう思った。
「この人は、この40年以上、思考が停止している」と。
今どき、こんな論理をふりかざす人は、少ない。

 また「思考の欠落」というのは、思考力はもちろんのこと、せっかく考えることで得た
知識にしても、日がたつと、脳みその中から欠落してしまうことをいう。
ちょうどモノが欠けるように、ポロッと欠落してしまう。
さらに恐ろしいことに、それが加齢とともに、はげしくなる。
加速する。
たった1か月前のことですら、忘れてしまうということも珍しくない。

●気がつかないまま……

 思考のループにせよ、思考の欠落にせよ、なお悪いことに、そういう状態にありながら
も、それに気づかないということがある。
たとえば何も書かず、何も考えず、ついでに何も読まず、ボーッと、1か月を過ごしたと
する。
 
 その1か月の間、思考はループ状態のまま、同じところをクルクルと回っている。
回っているだけならまだしも、思考の欠落によって、その半径が、どんどんと小さくなっ
ていく。
 が、当の本人が、それに気づくことはない。
「私は私」と思っている。
あるいは、「今の私は、1か月前の私と同じ」と思っている。
しかし実際には、思考は欠落している。

●マイナスの一次曲線

 私はこのことを、ある特別擁護老人ホームに出入りしたときに知った。
要介護度4とか5になってくると、(当時は5段階だった)、大半の老人は認知症を併発し、
家族とですら、満足な会話ができなくなる。
一日中、大声で、「飯(めし)は、まだかア!」と叫んでいる女性もいた。

 が、そうした老人たちにしても、ある日、突然、そうなるのではない。
ある時期から、徐々に、少しずつ、時間をかけてそうなる。
もしその変化を、マイナスの一時曲線で表示できるとするなら、それはひょっとしたら、
満50歳くらいから始まるのではないか。

 このころから、知力、気力、思考力などが、下り坂に向かい始める。
その間に、思考はループ状態になり、思考の欠落が、つぎつぎと始まる。
話し方がぶっきらぼうになったり、かったるくなったりする人もいる。
気がついたときには、脳みそは半減し、さらに4分の1になる(?)。

●恐怖

 考えることの重要性は、何度も書いてきた。
が、(考える)ための方法は、ひとつではない。
ほかにもある。
しかし論理的にものを考えていくとなると、(書くこと)以外に、方法はない。
……と断言するのは、危険なことかもしれないが、私は、そのほかの方法を知らない。

 たとえば先週、私は4〜5日の間だったが、スランプ状態に陥ってしまった。
頭の中がモヤモヤとするだけで、何も書けなくなってしまった。
その前に何も考えることができなくなってしまった。
そのときのこと。
私は本当に、自分が、バカになってしまったように感じた。
「いよいよ認知症が始まったか」とさえ思った。
何かこまかい問題が起きても、それを頭の中で整理することすらできなくなってしまった。
同じことをクルクルと、何度も考えているだけで、前に進まない。

 とたん、あの特別擁護老人ホームで見た老人たちの姿が、頭の中に思い浮かんできた。
私にとっては、それは恐怖以外の何ものでもなかった。

●終わりに……
 
 こんな文章を書きながらも、その一方で、論理的な矛盾はないか。
文章に一貫性はあるか。
さらに読者の人に読んでもらって、それに耐えうる文章であるか。
そんなことに、気を配る。
つっこみは甘くないか。
文章に無理はないか。
他人を不愉快にするようなことはないか。
さらに私の書きたいこと、つまり読者のみなさんに伝えたいことが、的確に書けているか。
そんなことを、心配する。

 ……つまりこうした一連の操作が、(考える)ということになる。
(考えながら書く)→(書きながら考える)を繰り返す。
それがタイトルにあげたように、【書くことの意義】ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 書くことの意義 思考のループ 思考の欠落 文章と思考)


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司 

●兄弟論

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『兄弟は他人の始まり』という。
兄弟といっても、他人以上に他人になってしまう人は多い。
たがいに会うことはない。
連絡を取りあうこともない。

兄弟というのは、友人関係のように、一線を引けない。
引けないから、こじれるときには、こじれる。
とことん、こじれる。

親の介護問題がからんで、こじれるケースも目立つ。
相続問題など、金銭問題がからむと、さらにこじれる。
中には、……というより、そういう兄弟のほうが多いが、たがいに憎しみあう人もいる。
「兄貴を見ると、殺意を覚える」と言った男性(40歳くらい)もいた。
「だから兄貴とは、会わない」と。

が、世間一般では、「血のつながり」という言葉を使って、兄弟のあり方を定義づけようとする。
兄弟どうしの反目を許さない人もいる。
「ありえないこと」と言って、吐き捨ててしまう人もいる。
しかし実際には、そうでないケースのほうが、多い。
みな、隠しているだけ。
表に出さないだけ。
世間的に、仲のよいフリをしている兄弟となると、ゴマンといる。

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●私のケース

 私には、1人の兄と、1人の姉がいた。
兄は9歳年上。
姉は5歳年上。
年齢差が大きかったということもあって、いっしょに遊んだ経験は、ほとんどない。
子どものころから、相談しあったり、困ったときに、助けあったこともない。
とくに兄とは、ない。
その記憶もない。
姉とも、ない。
もとから希薄な兄弟関係だった。

 で、私は高校を卒業すると、故郷を離れた。
実家へ帰るとしても、年に数回。
会えばいっしょに食事をしたりしたが、その程度。
やさしい兄であり、やさしい姉であったとは思うが、心を通わせるということは、最後ま
でなかった。

 「最後まで……」というのは、最近、いろいろあって、私は姉とは縁を切った。
(兄は、昨年(08年)の夏、他界している。)
「縁を切る」というのは、今後のつきあいは、いっさい、しないということ。
会うこともないし、電話をかけあうこともない。
年賀状を出すこともない。

 理由はともかくも、そういう関係になってしまった。
で、その話を、Aさん(=いとこの1人)に話すと、Aさんは、こう言った。
「浩司君から、そういう話を聞いて、うれしい」と。

 いとこのAさんも、兄弟たちと縁を切って、もう10年以上になるという。
しかしだれにもそれを話せず、体裁をとりつくろってきた。
親戚づきあいをしているようなフリをしてきた。
Aさんには、それが苦痛だった。

一方、私たち兄弟は、仲がよく見えたという。
「浩司君たちは、兄弟、みな、仲がいいと思っていた」と。
私のほうが、それを聞いて、驚いた。

●トラブル

 『家庭内部のトラブルは、外に漏らすな』と説く人は多い。
私も最近まで、ずっと、そう考えてきた。
しかし実際には、どの家も、何らかのトラブルをかかえている。
トラブルのない家庭はないと断言してよいほど、何らかのトラブルをかかえている。
が、みな、話したがらない。
他人に話したところで、どうにもならない。

 だから表面的なつきあいだけを繰り返し、それですます。
体裁をとりつくろう。
しかしそれでは問題は解決しない。
兄弟は、仲がよいほうがよいに決まっている。
だったらみなが、もっと心をオープンにして、この問題と正面から話しあう必要がある。

 ……といっても、私は偉そうなことは言えない。
私たち兄弟については、冒頭に書いたとおり。
それにあえて言うなら、修復しなければならない理由もない。
また修復したところで、何も変わらない。

それをするにも、ものすごいエネルギーを必要とする。
今の私には、そんなエネルギーは、どこをさがしても、残っていない。
平たく言えば、ヘトヘト。
兄弟なんて、うんざり。
たくさん。
こりごり。

●確執

 結論としては、「兄弟は仲よく」という言葉そのものが、幻想ではないかということ。
仲が悪くなって当たり前。
仲がよければ、もうけもの。

 とくに長男(長女)と、その下の兄弟は、仲が悪い。
子どもの世界では広く見られる現象であって、これには親の愛情がからんでいる。
長男(長女)は、下の弟(妹)が生まれることによって、愛情の半分を奪い取られる。
そのときから、兄弟の間に、深い亀裂が入る。
「仲よくしなさい」と言う方が、無理。
中に、仲のよい兄(姉)を演ずるケースもあるが、たいていは反動形成※によるもの。
仲がよいフリをすることによって、兄(姉)は自分の立場をとりつくろう。

(※反動形成…表面的な体裁をとりつくろうため、本当の自分とは正反対の自分を、外面
的に形成すること。弟や妹が憎いにもかかわらず、やさしい兄(姉)のフリをするのが、
それ。)

●保護と依存

 兄弟姉妹にかぎらず、仲がよくなるためには、それなりのプロセスが必要である。
簡単に言えば、苦楽を共にする。
そうした共通の経験の積み重ねがあってはじめて、たがいの間に「血」が流れ始める。
その「血」もないまま、ただ戸籍上の人間関係だけで、深い人間関係を求めても意味はな
い。
ないばかりか、ときとばあいによっては、その人をかえって苦しめることになる。

 私の兄にしてもそうだ。
めんどうをみるのは、私。
みてもらうのが当然と考えるのは、兄。
こうした保護、依存の関係が、かなり早い時期にできあがってしまった。

 最初は、それなりに感謝される。
しかしそれは長くはつづかない。
やがてそれが当たり前になり、さらにしばらくすると、今度は、反対に、それを要求され
る。

 こうなると、保護する側の精神的負担は、ますばかり。
しばらく放置しておくと、今度は、泣き落としにかかってくる。
「援助がなければ、生きていかれない」というようなことを言い出す。
1年や2年ならともかくも、そういった状況が、10年単位でつづく。
20年単位でつづく。

 これは私の経験だが、経済的負担感というより、それによる社会的負担感には、相当な
ものがある。
良好な人間関係が基礎にあれば、まだ救われる。
それがないと、故郷に足を向けるだけで、息がつまる。
私は、それに苦しんだ。

●本能vs理性

 もちろん仲のよい兄弟、姉妹もいる。
しかし先にも書いたように、そこに介護問題、相続問題などがからんでくると、その関係
は、一気に崩壊へと向かう。
裏で金銭問題がからむ。
それが兄弟、姉妹関係をぎくしゃくさせる。

 そういう意味でも、人間の欲望には、恐ろしい魔力がある。
それこそ(血のつながり)ですら、粉々に砕いてしまう。
その魔力と闘うのは、容易なことではない。
ふと油断すると、その泥沼に足を取られてしまう。
日ごろ、高邁な理想論を説いている人でも、この問題は、別。
夏目漱石の「心」を例にあげるまでもいない。
つまりあの夏目漱石も、同じ問題で苦しんだ。

 なぜか?

 管轄する脳みそがちがう。
欲望は、脳の中心部にある、視床下部あたりから発せられる。
一方、人間の理想は、前頭連合野が管轄する。
言うなれば、欲望は、本能と深く関連している。
一方、人間の理性の力には、限界がある。
どこかの大学の教授ですら、手鏡を使って、若い女性のスカートの下をのぞく。

●私のばあい

 ここで姉のことを書くつもりはない。
しかし私が選んだ方法は、「遠ざかる」。
イギリスの格言にも、『2人の人に、いい顔はできない』というのがある。
争うのもいや。
話しあったところで、何も生まれない。
姉も変わらない。
私も変わらない。

 だったら、遠ざかる。
……ということで、「縁」を切った。

 ……といっても、何もあえて敵対しているわけではない。
姉には姉の人生がある。
同時に私には私の人生がある。
40年以上も離れて暮らしていると、価値観も違ってくる。
「水と油」というほどではないが、それに近い関係になってくる。

 姉には、生涯、私の考え方は、理解できないだろう。
反対に、私の考え方を理解してもらうためには、何十年もかかるだろう。
あるいは、不可能。

 私は高校を卒業すると同時に、金沢に住み、韓国、オーストラリアに渡り、大阪で商社
マンになった。
そののち、浜松に住むようになり、今のワイフと結婚した。

 一方、姉はそのまま郷里に残り、さらに山の中に住む農家の男性と結婚した。
そんな私と姉が、理解しあえるはずがない。
姉にすれば、私は、とんでもないほど非常識な男ということになる。
それが私にも、よくわかっている。

●遠ざかる

 親子の確執、兄弟、姉妹との確執に苦しんでいる人は多い。
本当に多い。
ウソだと思うなら、インターネットで検索してみるとよい。
そういう書き込みが、ズラズラと出てくる。
今では、親子どうし、兄弟どうしが、裁判で争っているケースも少なくない。
 
 が、私のばあい、それ以上に、「時間」が貴重。
今までの10年間が、あっという間に過ぎたように、これからの10年も、あっという間
に過ぎるだろう。
それを思うと、今は、もう無駄にできる時間はない。
平たく言えば、わずらわしいことは、避けたい。
だから「遠ざかる」。

 悲しいことだが、(本当は、悲しいなどとは、全然、思っていないが……)、それもひと
つの人間関係。
親子でも、兄弟でも、最後は人間と人間の関係。
それで決まる。

「親だから……」「兄弟だから……」と、『ダカラ論』にしばられることはない。
『ダカラ論』というのは、もともと意味のないエセ論理。
一見、論理風に見えるが、合理性は、何もない。
だったら、ありのままを、ありのままに生きればよい。
無理をすれば、疲れるだけ。
神経を、すり減らすだけ。
兄弟、姉妹関係も、その中のひとつにすぎない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 兄弟関係 兄弟との確執 家族論 はやし浩司 だから論 家族
の確執 親子の確執 兄弟論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●武士道(1)

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けっして、死を美化してはいけない。
生を美化することはあっても、死を美化してはいけない。
私たちは、まず、生きることを考える。
生きて生きて、生き抜く。
死はその結果としてやってくるかもしれないが、
そのときは、そのとき。
死の向こうには、何もない。
そこは太虚の世界。
だから、死を美化してはいけない。

武士道を一言で言えば、その底流にあるのは、
死の美学ということになる。
武士の象徴が、「刀」にあるとするなら、その
刀は、人を殺すためのもの。
この原点を踏み外して、武士を論じてはならない。
武士道を論じてはならない。

新渡戸稲造は、「武士道」の中で、あの赤穂浪士を、
最大限の言葉を使って、称賛している(「武士道の世界」
イースト・プレス)。

「義士と呼ばれるこの正直な率直な男子たちの徳は、
宝石のように光り輝き、人々のもっとも高く、褒め
讃えたものだったのである」と。

+++++++++++++++++++++

●真の勇者(?)

新渡戸稲造は、真の勇者について、こうも書いている。
「戦いに臨んで討ち死にすることは、難しいことではない。
それはどのような野人でもできることである。
しかし生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬることこそ、真の勇者なのである」(同
書、P18)と。

 私は一度は、新渡戸稲造の「武士道」を一度は読破しなければならないと、思ってきた。
しかしその機会はなかった。
(20年ほど前、一度、目を通した記憶はあるが……。)
断片的な知識はたくさんもっている。
しかしそれらは、断片的なものでしかない。

 で、今度、コンビニで、イースト・プレス発刊の「武士道の世界」という本を買ってみ
た。
サブタイトルに、「誇るべき日本の原点」とあることからもわかるように、この本は、武士
道を礼賛する内容の本である。
そういう本を使って、私なりに武士道のもつ矛盾を指摘するのは気が引ける。
しかし礼賛する本であるがゆえに、私の脳みそに与える刺激も大きい。
1ページ読むごとに、脳の中で、バチバチと神経細胞が火花を飛ばすのを感じた。
が、この本ほど、「死」「自害」「討ち死に」「戦」という言葉が並ぶのも、そうは多くない。

 「武士道の真髄」(P181)というところを紹介する。
「真髄」とあることからもわかるように、武士道の根幹を説明したものである。

+++++++++++++++++++

『武士道といふは、死ぬ事と見付けたり(葉隠)。

 このあまりにも衝撃的で有名な言葉は、山本常朝が口述し、田代陣基が筆記、編纂した
『葉隠』の冒頭に記された、武士道の真髄を表すものだ。
 主君のためならいつでも自分の命を捧げることができるのが、本当の武士であるという
心得を説いている。
 「武士は生と死、どちらかを選ぶ場合、必ず死を選ばなければならない」のである。
 「生き恥をさらす」と言われるように、この時代の武士道精神においては、戦に勝てな
いときは、死ぬことで忠義を果たさなければならないと考えられていた。
 しかしこの言葉には、さらに深い意味がこめられている。
生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間に、自由な自然体に到達し、その武士は本分を全
うするために生き抜くことができるという、悟りの境地を示した教えだと言えるだろう』
と。

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●命を捧げる

 この部分を読んだとき、まっさきに頭に浮かんだのが、K国の金xx。
あの独裁者。
金xxが読んだら、涙を流して喜ぶにちがいない。
あの国では、幼稚園の子どもですら、「金xx将軍様を、命をかけて守ります」と連呼して
いる。
おとなたちは、「死守」という言葉を使っている。

 それはさておき、「主君のためならいつでも自分の命を捧げることができるのが、本当の
武士である」という部分だけでも、バカげている。
もしあなたがまともな思考力をもっている人なら、あなたもそう感ずるだろう。

 主義や理想、正義や真理のためなら、命をかけることはある。
しかし「命をかける」イコール、「命を捧げる」ではない。
いわんや、相手が、人間である、「主君」?
こういう思想を、私の世界では、「隷属思想」という。

●主君の主君は?

 学生のころ、友人と、こんな議論をしたことがある。

 「主君に主君がいたら、そのばあいは、どちらに命を捧げるのか」と。

 つまりあなたの仕える主君が、あなたの住む領地を治める領主だったとする。
当然、その領主には、彼が主君とあがめる、藩主がいる。
藩主の上には、将軍がいる。

 こういうばあい、あなたという家来は、藩主や将軍に命を捧げる必要はない。
何かを命じられても、それに従う必要もない。
あなたの主君は、あくまでも領主。
領主の命令だけを聞き、その領主のために、命を捧げる。

 もう少し話をわかりやすくするために、会社組織で考えてみよう。

 あなたが営業課の係長だったとする。
あなたの直接の上司は、営業課の課長。
そんなある日、営業課が入っている制作部の部長から、直接、あなたに命令が届いた。
つまり課長の頭を通り越して、あなたに命令が届いた。

 こういうケースのばあい、あなたはその部長の命令に従う義務があるのか。
それともないのか。

 会社によって組織の運営方法が異なるので、「従わなければならない」という会社もあれ
ば、「従わなくてもいい」という会社もある。
しかしこと武士の世界では、主君というのは、先のケースでは、あくまでも領主というこ
とになる。
藩主や、将軍の命令に従う必要はない。
命を捧げる必要もない。

 これが学生時代に、私たちが知った結論である。
そのヒントを与えてくれたのが、ヤクザの世界である。
当時、(今でもそうだが……)、ヤクザの世界には、武士道の精神が、そのまま残っていた。
ヤクザの世界では、直接上にいる兄貴分が、武士の世界でいう主君ということになる。

●主従関係

 もっとも、封建時代の昔ならいざ知らず、「主君に命を捧げる」という発想は、今は、な
い。
主従関係も、西洋の契約説によって決まる。
わかりやすく言えば、「金の切れ目が縁の切れ目」。
給料がもらえなくなったら、そこで主従関係は、消滅する。

 人それぞれだが、私なら、断る。
どう考えても、主君のために命を捧げるという発想そのものが、バカげている。
つまりこんなところにも、武士道が説く、(死の美学)が見え隠れする。

 繰り返すが、死を美化してはいけない。
その延長線上に、戦争がある。
その一歩手前に、特攻隊があり、自爆テロがある。
私たちは死ぬために生きているのではない。
生きるために生きている。

 この本の著者は、「生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間に、自由な自然体に到達し、
その武士は本分を全うするために生き抜くことができるという、悟りの境地を示した教え
だと言えるだろう」と書いている。

 それにしても、「生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間……悟りの境地に達する」と
は?
いつの間にか、仏教の教えが、そのまま武士道の精神にすり替えられてしまっている?

●武士の作法

 戦国時代はともかくも、以後、日本は300年という長い年月の間、太平天国の時代を
迎える。
その間に、武士道も、当初の戦闘を目的としたものから、権威づけのための作法の「道」
として変質する。
作法に始まって、作法に終わる。
それが武士道の柱と考えてよい。
いくつかを拾ってみる。

(1)鞘(さや)当て……武士の世界で、刀と刀の鞘が当たることは、何にもまして「無
礼極まりないこと」だったそうだ。
だから武士どうしは、廊下を歩くときも、左側通行が作法と決められていた。

(2)手はぶら下げて歩く……いつでも刀を抜けるように、手荷物も持たないし、傘もさ
さない。

(3)妻は後ろを歩かせる……妻と並んで歩くなど、軟弱者の証。
   襲撃から守るという意味もある。(以上、同書)。 

 こうした作法が、ズラズラと、それこそ無数にある。
武士の刀をまたいだだけで、切捨て御免になった人も多いという。
また女性は、武士の刀に、直接手を触れることさえできなかったという。
しかしなぜ、「刀」なのか?

●武士と刀

 武士の人口は、江戸時代においては、5%前後と言われている※。
しかしこの数字には、武士の家族も含まれているため、実際には、刀を差していた武士は、
全人口の1〜2%以下だったと推計される。
残りの95%のほとんどが、農民であった。
その1〜2%が、為政者として、好き勝手なことをした。
その好き勝手なことをする象徴として、「刀」があった。
武士が刀に執着する理由は、ここにある。

 私はこんな話を、直接、その女性から聞いている。

 私が住んでいる山荘のある村は、400年以上もの歴史のある、由緒ある村である。
その山荘の隣人に、10年ほど前、88歳で亡くなった女性がいる。
いわく、「明治時代に入ってからも、士族の人たちは、このあたりでは刀を差して歩いてい
た」と。

 「刀の鞘どうしがカチャカチャと当たる音が、遠くから聞こえてくると、みな、道路の
脇に寄って、正座し、頭をさげた」と。

 言うなれば、95%の日本人が、5%の武士を支えるために、犠牲になっていた。
そういう世界が、いかにおかしな世界であるかは、あなた自身を、その農民の立場に置い
てみればわかる※。
あなた自身の先祖も、その農民であったはず。
(私の先祖も、農民だった。)

 一生、土地にしばられ、職業選択の自由もなかった。
当時生きていた人たちもまた、私やあなたと同じ人間であった。
犬や猿とは、ちがう。
そういう人たちを原点に考えるなら、「何が武士道か?」ということになる。
さらに言えば、この武士道が、やがてあの戦陣訓へとつながっていく。
それについては、前にも書いた。

 もちろん歴史は歴史だから、それなりの評価は必要である。
しかしそれがもつ(ネガティブな側面)に目を閉じたまま、一方的に武士道なるものを礼
賛することは、危険なことでもある。
どうして武士道が、「誇るべき日本人の原点」(本のタイトル)なのか?

 今、武士道を、教育の柱にしようとする動きが活発になっている。
またその種の本が、100万部単位で売れている。
これを民主主義の後退と言わずして、何と言う?
忘れてならないのは、新渡戸稲造が活躍した時代と、同じ時期に、福沢諭吉がいたという
こと。
福沢諭吉らは、やがて明六社に合流し、日本の封建主義を清算しようとした。

 私は、福沢諭吉らのしたことのほうが、正道だと思のだが……。
それに「原点」とは何か?
何も原点にこだわる必要もない。
原点が正しいわけでもない。
大切なことは、おかしな復古主義にとらわれないこと。
私たちはいつも新しい原点を求めて、前に進む。

 ……と、少し頭が熱くなったので、この話は、ここまで。
なお本書(「武士道の世界」)は、つぎのように結んでいる。

 『おわりに……そんな現代であるからこそ、日本人としての精神的意識が必要なのであ
る。
不道徳な世相を嘆いていても何も始まらない。
世界に通じる精神体系・武士道を心に携え、今こそ日本人としてのアイデンティティを世
界に発信してほしい』と。

(※注1)明治6年1月調べ・・・旧武士数は平民の16分の1にして総数408,823戸、
1,852,445人であった。幕末においてもこの数字と大差なかったものと考えられる。人口構
成は概数的に6.25%である。(土屋喬雄「幕末武士の階級的本質」)

 どの藩も武士の数は軍事機密になっていた。したがって、今となってはその人口は、推
計する以外にない(筆者注)。

(※注2) 徒士といえども、家老に対しては下駄を脱がざるをえなかったのが実情で、
城下において百姓町人は、足軽以上に出会えばまず平伏・土下座など屈辱的敬礼を強いら
れた。どの階層に属するか、着衣や服装で判断できる社会の仕組みになっていた。(「社会
構造と現代社会HP」より)


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 武士道 武士の作法 武士道精神)


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

【進歩論】

●2001年のカタログ

 どういうわけか(?)、テーブルの上に、2001年当時の、パソコンのカタログがある。
SONYのVAIOのカタログである。
当時、「買おう」と思って、どこかの店で手に入れたものだろう。

 型番は、「バイオノートFX」(PCG−FX77)。

 仕様を見ると、これが恐ろしく貧弱。
もちろんデザインも古い。

 メモリーは、たったの32KB。(現在は、ノートでも、2〜4GBが標準。)
 ハードディスクは、たったの20GB。(200〜400GB)
 OSのプロセッサーにしても、たったの750MHz!(1・6〜3・0GHz)

 しかし当時としては、最新の、かつ最先端を走るパソコンだった(?)。
つまりこの8年間で、パソコンの世界は、格段に進歩した。

 で、そのカタログを見ながら、では「10年後はどうなっているのだろう?」と考える。
恐らくというより、確実に、現在のカタログを見ながら、同じように思うにちがいない。
進歩というのは、そういうもの。

 そこで進歩論。

●進歩論

 進歩は、つねに麻痺(まひ)を連れだって、やってくる。
進歩を感じても、それは一時的なものでしかない。
内容にもよるが、感動も一巡すると、やがてそれが当たり前になる。
進歩がわからなくなる。
こうして私たちは、(進歩)→(麻痺)を繰り返して、つぎなる進歩を求めて、さまよい歩
く。

 つまり私たちにとって大切なのは、(進歩)そのものではなく、(進歩したという快感を
得ること)ということになる。
もちろんその背景には、企業どうしのはげしい闘いがある。
少しでも手を抜いたら、そのまま相手企業に、追い抜かれてしまう。
SONYにしても、もし2001年で進歩を止めてしまっていたら、今ごろは、完全に倒
産している。

しかしそれを外からながめている私たちは、少しちがった見方をする。
そうしたはげしい競争から生まれる新製品を、(進歩)ととらえ、それを楽しんでいる。
事実、ちょうど10年ほど前、10Gのハードディスクが生まれたとき、私たちは目を白
黒させて、驚いた。

●進歩依存症

 こうした(進歩したという快感)は、依存症に似ている。
たとえば買い物依存症というのがある。
買い物依存症になると、同じものでも、どんどんと買ってしまう。
そのものがほしいから、買うのではない。
(買うこと)から得る快感を、味わうために、買う。
快感を満足させるために、買う。

 が、しばらくすると、つまりその満足感が落ち着いてくると、またその快感を満足させ
たくなる。
脳の線条体に、そのための受容体ができあがると、依存症はさらに加速する。
そのメカニズムは、アルコール依存症、ニコチン依存症と同じと考えてよい。
陳列されているバッグを見ただけで、ググーッと、それがほしくなる。
家に同じものをもっていても、ほしくなる。

 私たちが(進歩)を楽しむ心も、それと同じ。
進歩した新製品を見ると、何とも言えない快感に襲われる。
もちろん、そのものをほしくなる。
しかしある程度時期が過ぎると、その熱も冷めてくる。
そしてそれが当たり前になる。
で、先にも書いたように、私たちは、(進歩)→(麻痺)を繰り返して、つぎなる進歩を求
めて、さまよい歩く。

●限りない欲望

 1000万円の金融資産をもっている人は、つぎに2000万円、ほしくなる。
1億円の金融資産をもっている人は、つぎに2億円、ほしくなる。
いくらあっても、満足するということはない。
(もちろんいくらほしくても、そこには限界はあるが……。)

 同じように、(進歩)にも、際限がない。
今度は、その進歩を楽しむ側(=私たちの側)で考えてみよう。

 10年前には、HPの更新をするだけでも、たいへんだった。
(あくまでも今から思い起こすと、たいへんだったということだが……。)
HPの容量にも限界があったし、FTP送信するだけでも、時間がかかった。
が、今は、その10倍以上の容量を、わずかな時間で送信できる。
新しいサービスも、つぎつぎと登場してきている。

 で、ときどきこう思う。
「進歩したからといって、それがどうなのか?」と。

 たとえば電子マガジンがある。
私は少し遅れてスタートしたが、そのサービスが始まったころには、もの珍しさも手伝っ
て、どんなマガジンを出しても、あっという間に、読者が1000人単位でついたという。
が、今では、毎月、数人ふえる程度。
それでもよいほうだそうだ。
つまり減らないだけ、よいほうだそうだ。

 つまりあまりにも進歩が速すぎて、電子マガジンが、ひとつのジャンルとして定着する
前に、つぎのが始まってしまう。
そのあとに始まった、ブログにしても、ブロフにしても、そうだ。
今、流行しているのは、ツィッターとか、フェイスブック。

 もう少し進歩をゆるめてくれないと、私たちは、ただそれに振り回されるだけで、終わ
ってしまう。
(私自身は、時代が終わったと言われても、かたくなに、電子マガジンの発行をつづけて
いるが……。)

 しかし全体としてみると、(進歩を恨む気持ち)よりも、(進歩を楽しみにする気持ち)
のほうが強い。
かくして、進歩は、これからもつづく。
繰り返しになるが、それは買い物依存症のようなもの。
世界中の人たちが、そうなっている。
私やあなたの力くらいでは、この(流れ)を止めることはできない。
それが、「進歩」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW 進歩論 買い物依存症)


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

【バッテリーの正しい使い方】

++++++++++++++++++

ロワ社から今度、パソコン用の
予備のバッテリーを購入した。
そのとき正しいバッテリーの使い方を、
メールで送ってきてくれた。

やっとわかったぞ!

……ということで、ここに掲載させて
もらう。

++++++++++++++++++

★★ロワ太郎のバッテリ使用習慣★★★
        
×)バッテリーが届いてから、そのまま放置
◎)バッテリーが到着後、すぐに満充電をし、普通の使用で残量
  が空になるまで使用、その後、再度満充電。
  この充放電の繰り返しを3回〜5回する。

×)旅行や運動会などの使用機会がないので引き出しに長期間保管
◎)二週間に一度は取り出し、ご使用なさるのがベストです。
  1ヶ月以上使用しない場合はバッテリーの性能維持の為に、
  30〜40%程度の充電残量状態で本体から取り外し、
  冷暗所に保管してください

×)オリジナル(純正品)を使い切ってから
  ロワのバッテリーを予備で使用
◎)オリジナルとロワのバッテリーをお持ちの場合は、交互で
  使用すること。バッテリーは長期間使用しないと、
  バッテリー内の化学反応がなくなる可能性があります。

×)バッテリーをカメラに入れたままで保管
◎)バッテリーを本体に取り付けておきますと、
  本体の電源が切れた状態でも少しずつ放電されます。
  この状態が長期間(数ヶ月以上)続くとバッテリーが
  過放電状態になり、性能が劣化する可能性があります。

×)車の中にそのまま置くこと
◎)炎天下の閉め切った車内など湿度の高い場所で
  バッテリーを保管しますと、劣化が進み、膨張などの
  危険があります。
  バッテリーは10〜30℃の場所で保管して下さい。

×)旅行前夜、寝る前にベットのそばのコンセントに充電器を差し、
  不安定な場所で、寝ている間に充電
◎)周りに何もないところで、状況を確認しながら充電してください
  万が一、ご使用方法の誤りによってバッテリの落下、温度の高い
  場所での保存等で発熱、発火が起きた場合、火災になる恐れがあり
  ます

×)商品の調子がおかしい?自分で修理加工してみる
◎)商品を分解、加工した場合、保証対象外となり、また危険が
  起きる可能性もございますので、まず弊社にご連絡ください

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 バッテリーの使い方 予備バッテリー)


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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【BW生・募集中!】

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●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

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よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
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よろしくお願いします。              はやし浩司
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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 18日
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どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●不安な子育て

【佐賀県にお住まいの、Kさん(母親)より、はやし浩司へ】

++++++++++++++++++++++++++++++

佐賀県にお住まいの、Kさん(母親)より、こんな相談のメールが
届いています。
子どもの不登校の問題です。
この問題を、みなさんといっしょに、考えてみたいと思います。

++++++++++++++++++++++++++++++

【Kさんより、はやし浩司へ】

こんばんは。
 
メールのお返事本当にありがとうございました。パソコンに不慣れなもので、このメール
も送れているのか心配ですが・・・。
 
文字化けした部分は母子登校を続けるべきなのかということです。学校恐怖症というのも
拝見しました。

実は今日先生とお話して明日から送迎はするけれど、教室まではついていかないようにす
るという取り決めをしてきたのです。でもメールを拝見するとそれはかえってよくなさそ
うですね・・・。

でも私のなかでまだ学校は行かなくてはならないところという気持ちが、100%に近い
です。引きずってでも連れていくのは、私はしたくありませんが、私がついていくなら学
校へ行くというならついていって連れていくべきなのでしょうか? そして教室にいるべ
きでしょうか? 私自身、教室にいるとほかの子と比べたり、なんで私だけここにいるの
だろうと、悲しくなってきます。

親としては今行かないとずっといけなくなる不安が襲ってきます。これが高学年とか中学
生なら休ませているでしょうが、私は低学年からいかないなんて、どんな将来があるのか
と思ってしまいます。
 
今までの息子に対する子育ては本当に大変でした。まわりの人たちに、いい子だねとよく
言われるのです。私はそれがずっと嫌で私が息子に圧力をかけてしまっていたと反省の
日々でした。私の身近に精神病を抱えた人がいて、その人がまさに小さい頃いい子だねと
か親のいうことをよくきく子ででもある時から親を困らせていて、自分もこんな未来が待
っているのかと毎日考えてしまいます。

息子はとにかく人前ではにこにこ明るくあまりもめごとをしないことです。でも今まで家
ではいちいち文句いったり、癇癪をおこしたり、てこずる場面が多くて障害があるのかと
考える時もあります。

私からみた息子は感受性が強く、小さな頃から大人の会話に混ざろうとしたり、まだわか
らなくていいことがわかったり、カンが強くていろんなことをわかりすぎる半面、幼さゆ
えに処理しきれなくて悩むといったところが、私の見たところだけですが、そう感じます。

よくいろんなことに気がつくしいろんな状況をみて判断したりできる半面、あんなことで
きるのにここができないの?と、思ってしまう部分もあります。小さなときから大人と話
しているみたいで、私も子供ではなく大人と話している気分になってしまい、息子の返答
がおかしなときに、子供らしいと思ったり、大人っぽくみずぎて、この子おかしいと思っ
たりしてしまいます。ついつい7歳ということを忘れてしまいます。

気になる点は多々ありますが、なかなか次の行動にすんなりうつることができないことで
す。お風呂とか小さいころからすんなりいきません。あと記憶力がものすごいです。こち
らがこわくなるほどです。
 
息子は本当に今まさに私の不安定さを見事に見抜いています。ついついぼーっとしてしま
うと楽しくないの?とか、ご機嫌取りしにきます。分離不安の症状がでてから、すごく私
の言うことを聞こうとしていて、私はそれが気持ち悪いのです。今の私は息子に対して否
定的でほんとにいけないなあとおもいます。

たぶん何か言ったことに対して反抗的ならほんとうにこの子は言うことを聞かないからお
かしい、と思い素直に、はいと返事されると気持悪いしといったかんじです。今は見捨て
られ不安のためすごく言うことを聞いていたり、わかっていることをわざわざ言いにきた
りそういうときに、私がいらっとした態度や表情をしてしまいます。
 
先週、学校に行けなかったときに水族館に出かけてきました。そのこともまわりから賛否
両論で私は家で、テレビを見たり、ゲームをやってたら腐っちゃうと思って連れ出したの
ですがまわりから楽しませたら、余計行きたくないんじゃないかといわれましたが、メー
ルをみて安心しました。
 
今の私は日々が辛くて辛くて、もしもう一度人生があり、結婚したならば子供を持たない
という選択をしてしまうぐらいどん底です。かけがえのない宝なのですが・・・今の私は
子育てが辛いです。でも守るのは私たちしかいないですもんね。私自身、小さなころから
感受性が強く、今の息子みたいにいろいろなことを感じてしまい、辛い思いもしてきて、
今の息子をよみとろうとしすぎる部分も、私自身を追い込んでるきがします。間違ってと
らえたりもしているだろうけど、昔の自分と重ねてしまっているなあと思います。
 
書きたいことがいろいろありすぎて何からかけばいいのか、てんでばらばらな文章になっ
てしまいましたがすみません。きっと忙しい方だからメールくるなんておもってもみませ
んでした。本当にありがとうございます。少し気持ちが楽になりました。またきっと不安
になってメールすると思います。よろしくお願いいたします。
 
【はやし浩司より、Kさんへ】

 「子どもを、全幅に心を開いて信じきれない、母親の葛藤」ということになります。
子どもというのは、親の心をそのまま引き継いでしまいます。
親が「不安だ、不安だ」と思っていると、子どもの方も、自分に自信がもてなく、自己評
価力をさげてしまいます。「ぼくは、ダメな子なんだ」とです。

 そういう点では、子どもは、親の(思い)どおりの子どもになるということです。
「うちの子は、すばらしい」「できがいい」と思っていると、その子どもはハツラツとして
きます。
そうでないと、そうでない。
不安先行型の子育てのこわいところは、ここにあります。
Kさんの不安、心配は、恐らく妊娠したときから始まっています。
それが出産→育児→現在……とつながっています。

 原因は、母子関係の不全ということになりますが、さらにさかのぼれば、Kさん自身と、
Kさんの母親との関係が、疑われます。
KさんとKさんの母親との関係も、不全だったということになります。
これを子育ての世界では、「世代連鎖」と呼んでいます。
つまりKさんは今、自分が受けた子育てを、そっくりそのまま、自分の子育てで再現して
いるということです。

 Kさん、あなたは、あなたのお母さんの前で、いい子(=人形子)だった。
言いたいことも言えず、がまんし、心を開いて、甘えることもできなかった。
あなたはいい子でいることで、母親に認められようとしていた……。

 少しきびしいことを書きましたが、実のところ、あなたは自分の子どもにさえ心を開け
ないでいます。
ひょっとしたら、あなたの夫に対してさえも、心を開けないでいるのかもしれません。
「もっと心を開きなさい!」と書きたいのですが、この問題を解決するためには、この先、
5年とか、10年とか、長い年月がかかります。

 しかしそうであることに気がつけば、長い年月をかけても、この問題は解決します。
そのつど努力して、自分の心を開いてみてください。
(いい人)ぶるのを、やめるのです。
居直るのです。
「私は私だ」と、です。

 で、今、あなたの子どもが、同じことを繰り返しています。
あなたはそういう子どもの中に、自分の過去を見ています。
それが不安の原因と考えてください。

 昨日もらったメール(一部、文字化け)を、そのまま紹介させてください。

++++++++++++++++++

【Kさんより、はやし浩司へ】

息子の分離不安で悩んでおります。9月の5連休ごろから様子がおかしくなり、ママがい
なくなるのが怖いといい、登校しぶりがでています。保育園時代から毎年年に1回1か月
ほど登園拒否があります。いつも秋ごろでだいたい同じ時期にでます。年中までは登園拒
否でしたが、ママがいなくなるという不安を訴えるのは、去年の登園拒否のときからです。

その時は1か月ほどでぱたっとなくなりました。でもまた今年も同じ症状がでて対応にこ
まっております。家の中でも私を探したり、友達と遊びに行くのもお迎えの時間を何度も
確認して絶対迎えにきてねと念をおします。現在学校へは母子登校しています。今身体的
にでている症状は腹痛、頭痛、吐き気、チックです。

特に朝腹痛をうったえます。授業中も集中力がとぎれると、おなか痛い、寒い、疲れた、
もうやりたくないと私に助けを求めます。頑張れている時もあるのですが、私が学校にい
ることが彼にとっていいのかぎもんです。私がいることによって甘えがでてしまい逃げ出
す姿勢にさせてしまっているのではないかとおもってしまいます。先生は無理して学校に
こなくていい、早退する?それともお母さんにずっといてもら

……(以下、文字化け)……

……息子には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。ちいさなころから甘えさせてなか
ったり突き放した態度ばかりで下の子たちの入院で1か月以上離れて生活したり、執拗に
怒りすぎたり手もあげたりしました。本当に今は反省の日々です。もう過去にはもどれな
いけど今からでも間に合うのでしょうか。彼の心に傷をつけたと自分を責める毎日です。

小さなころから育てにくく癇癪をおこしたり、何か障害があるんじゃないかと思ったこと
もあります。ここに書ききれないくらいいろいろありますが今家族みんなが不安定で下の
子たちも不安定になっていきて私自身子育てが辛すぎて苦しい日々です。少しでもお力を
御貸しいただけることを、ねがっております。

++++++++++++++++++

【Kさんへ、はやし浩司より】

 子どもは、あくまでも家族の(代表)です。
子どもに何か問題(?)があると、親は、懸命に、子どもに向かってそれを直そうとしま
す。
しかしこの見方は、親の身勝手というものです(失礼!)。
子どもに何か問題が起きたら、まず自分を疑ってみる。
子どもは、家族のかかえる問題を、別の形で表現しているだけです。
「代表」というのは、そういう意味です。

 以下、気がついたことを、箇条書きにしてみます。

●「どうしてうち子だけが……」

 子どもに何か問題(?)が起きると、ほとんどの親は、「どうしてうちの子だけが……」
と悩みます。
これは共通した親の心理と考えてください。
しかし実際には、問題のない子どもはいないし、みな、そうした問題をかかえながら、必
死に闘っているのです。
(外からはわかりませんが……。)

 Kさんのメールを読んでいて気になるのは、その視野の狭さ(失礼!)です。
読んでいるだけでも、読んでいる私の方が窮屈に感ずるほどです。
「学校とは、100%、行かねばならないところ」という部分もそうですが、人生観その
ものが、狭い(失礼!)。
「まだ幼いうちからこうでは、先が心配でならない」という部分も、そうです。

 Kさんの子どもは、いわば、心の風邪をひいて、熱を出している。
それを見て、「将来が心配」は、少し飛躍しすぎています。
それともKさん自身が、子どものころ、「学校とは行かねばならないところ」と、親にも迫
られ、Kさん自身も、そういう形で、自分を追い込んでいた(?)。
学校神話というのは、それを言います。
日本人は、明治の昔から、そういう意識を叩きこまれていますから、それが今でも亡霊と
なって、親や子どもたちを苦しめているのです。

 アメリカ人でも、オーストラリア人でも、彼らは、学校に対して、もっとおおらかに考
えていますよ。
カナダ人は、もっとそうです。
学校の設立そのものが、自由です。
教科書なんて、もちろんありません。
どの子も、小学生のときから、落第(ドロップアウト)を自由に経験しています。

 が、日本人だけは、「学校、学校、学校……!」と。
バカみたいと言ったら、失礼かもしれませんが、少なくとも外国の人から見れば、そうで
しょうね。

●母子登校

 母子登校など、何でもないことですよ。
いっしょに学校へ行ってあげてください。
他人の目が気になるようでしたら、そういう人たちは、河原の石ころとでも思えばよいの
です。
まず、あなた自身が、心を開き、大きくなることです。
子どもの心だけを見て、行動すればよいのです。

 最近では、子どもを見る親たちの姿勢も変化してきました。
あなたが明るく、さわやかに母子登校をつづければ、みなも、あなたを暖かく見守ってく
れるでしょうし、あなたのすばらしさ(=度量の広さ)に感銘を受けるはずです。
もっと自分に、そして自分のしていることに自信をもちなさい!

 「私はすばらしい親だ」とです。

 ただ誤解がひとつ、あります。
症状だけを見ると、母子分離不安症のようにも思えますが、神経症による症状もいくつか
出ていますので、やはり「学校恐怖症」に準じて考えたほうがよいでしょう。

 7歳という年齢からして、母子分離不安症だけでは、そういった症状は出てきません。
学校恐怖症については、「はやし浩司 学校恐怖症」で検索してみてください。
(これは前回の返事で書いたとおりです。)

 ときどきパニック状態になりますが、どうかじょうずに、パニック期を乗り越えてくだ
さい。
コツは、「学校恐怖症」のところで書いたように、無理をしないことです。
ここで無理をすると、本当に不登校児ということになってしまいます。
しかも、長期の、です。

●カルト抜き

 Kさんの心には、学校神話が、骨のズイまでしみ込んでいます。
「学校絶対教」と言ってもよいかもしれません。
それを抜くのは、たいへんなことです。

 しかし現実には、アメリカだけでも、ホームスクーラー(=家庭で教育を受ける子ども)
が、200万人を超えていますし、EUでは、さらに教育が自由化されています。
みんな学校などほったらかしで、クラブ活動に専念しています。
そういう(自由ぽさ)を見るたびに、「何だ、この日本は!」と、私は感じてしまいます。
あえて言うなら、Kさんも視野を広めて、もう少し高い視点から、一度、子育てを考え直
してみたらいかがでしょうか。

 大切なことは、子どもが生き生きと、自分のしたいことをしながら、自分を見つけてい
くことです。
Kさんは、自分の子どもがいい子ぶることを心配していますが、そういう子どもにしてい
るのは、Kさん自身なのですね。
つまりあなた自身が、子どもにその「型」をあてはめようとしている。
子どもにしても、あなたは息苦しい母親だと思います。

 何をしても、親が心配そうな目つきで、自分をながめている。
何をしても、「あれはだめ」「これはだめ」と言われる。
私があなたの子どもだったら、「バカヤロー!」と言って、家を飛び出してしまうかもしれ
ませんよ。

 仮に、あなたの子どもが学校へすんなりと通うようになっても、あなたの心配や不安は
消えません。
あなたはまた別の新たな心配や不安の種を見つけてきては、心配し、不安に思うのです。
「うちの子は、B中学校に入れるかしら?」
「友だちと仲よくやっていかれるかしら?」とか、など。

●これはあなたの問題です

 あなたはあなたで、好きなことをすればよいのです。
目が一方的に、子どもの方ばかりに向いている。
過関心というのは、今のあなたのような状態をいいます。

 親ではなく、妻でもなく、女でもなく、ひとりの人間として、したいことをさがし、そ
れに向かって進みます。
そういう形で、自分の中から、子どもを消していきます。

 (あるいは、これはあくまでも私の推測ですが、ひょっとしたら、あなたは、あなたの
夫に対して、おおきなわだかまりをもっているのかもしれません。
不本意な結婚であったとか、あるいは愛情を感じない結婚生活であったとか、など。
それが子どもの問題として、転移している(?)。
そういう可能性もありますから、一度、考えてみてください。)

 どうであるにせよ、ここは自然体で!
あまり深く考えないで、学校の先生と相談して、母子登校が必要であれば、すればよいで
しょう。
「取り決め」などという、恐ろしい言葉は使わないこと!
そんなものを取り決めて、どうするのですか?
子どもの心と、そのときの状況を見て、自然体で判断してください。

 また、今、そうであるからといって、この先も、ずっとそうであると考えてはいけませ
ん。
そういうのを、「取り越し苦労」と言います。
へたをすれば、あなた自身が、育児ノイローゼ(=うつ病)になってしまいます。
すでにその傾向が強く見られます。

 それについても、「はやし浩司 育児ノイローゼ」で検索してみてください。
いくつか記事をヒットできるはずです。

●子どもが親を育てる

 悪いことばかりではありません。
今、こうして問題にぶつかりながら、実は、あなたは成長しているのです。
あなたは自分の子どもを見ながら、自分の過去まで見ようとしている。
自分を知ろうとしている。

 コツは、「十字架のひとつやふたつ、背負ってやろうではないか」と居直ることです。
その思いっきりのよさというか、割り切りが、あなたの心に風の穴を開けます。
風通しをよくします。

 大切なことは、今、そこにある(運命)を受け入れてしまうということです。
あなたの子どもがそうであるなら、そうであると、受け入れてしまうことです。

 運命というのは、それを避けようとすればするほど、キバをむいて、あなたに襲いかか
ってきます。
しかし一度受け入れてしまえば、向うから、シッポを巻いて退散していきます。
童心に返って、母子登校を、いっしょに楽しみなさい!
楽しむのです。
人生は一度しかありませんよ!

 それにそういう思い出……つまり、子どもの心を守り切ったという思い出ほど、あとあ
と光り輝きます。
親子の絆をすばらしいものにします。
仮に万が一、不登校児になったとしても、です。

 そしてあなたはあなたで、自分の運命を受け入れます。
もうそろそろその時期に来ています。
「私は私」と、自分を受け入れてしまうのです。

 そこは実におおらかで、すがすがしい世界です。
『あきらめは、悟りの境地』という格言は、私が考えた格言ですが、あなたも一度、経験
してみてください。

●では、どうするか?

 『許して、忘れる』……何か苦しいことがあったら、この言葉を、心の中で何度も念じ
てみてください。
昔、私が学生のとき、オーストラリアの友人が教えてくれた言葉です。
私の子育て観の根幹にもなっている言葉です。

 これも、「はやし浩司 許して忘れる」で検索してみてください。
その意味をわかってもらえると思います。

 それとやはり心配なのは、Kさん、あなた自身の心の問題です。
私にも似たようなところがあります。
そういうときは、カルシウム分、カリウム分、マグネシウム分の多い食生活(=海産物)
に心がけ、あとはハーブ系の安定剤を服用しています。
内科でも、軽い安定剤を処方してくれますので、ひどいときには、それを口の中で溶かし
てのんでいます。

 一度、ドクターと相談してみてください。

(1)求めてきたら、すかさず。
これについては、先に書いたとおりです。

(2)二番底、三番底に注意
こうした問題には、必ず、二番底、三番底がありますから、注意してください。
多くの親は、こうした問題をかかえると、「今が最悪」と思います。
しかしその下には、さらに最悪の状態が、待ち構えています。
ですから、「最悪」と感じたら、今の状態をこれ以上悪くしないことだけを考えて、
対処します。

なおそうとか、そういうふうに考えていけません。
とにかく現状維持です。
今は、何とか学校に通っていますから、今の状況を大切に!
あとは半年単位、1年単位で、子どもの様子を観察します。
1〜2週間程度の範囲で、一喜一憂してはいけません。

また今こそ、あなたの真の愛が試されているときです。
親は子どもを産むことで、親になりますが、しかし真の愛への道は、遠くて険しい
ものです。
ですから勇気をもって、前に進んでください。
そういう姿に、みなが、気高さを感ずるようになるでしょう。

顔をゆがめてはいけません。
暗い表情をしてみせてはいけません。
明るく、さわやかに、みなにこう笑って言うのです。

「ハハハ、うちも母子登校ですよ」と。

(3)先生と父親との連携プレーを大切に
この問題は、あなたひとりでは、荷が重すぎます。
ですから、学校の先生や、あなたの夫との連携プレーを大切に。
今のあなたはひとりで問題を抱え込みすぎています。
自分に責任を求めすぎています。

いいですか、今、あなたがかかえている問題など、何でもありませんよ!
今どき、不登校など、何でもない問題です。
母子登校にしても、保健室登校にしても、何でもない問題です。
それで子育てに失敗したとか、私はだめな母親だとか、そういうふうに考えて、自
分を追い詰めないこと。

私のマガジンでも読んで、もっと視野を広くしてください。

たまたま昨日、別の母親から、こんなメールが届いています。
紹介します。

++++++++++++++

M件のEさんより

++++++++++++++

はやし浩司 様

いつもHPの記事で勉強させていただいております。
5歳の息子と2歳の息子がいます。
先生があちこちで何度もおっしゃっている通り、
上の息子に対しては、不安先行、心配先行の子育てをしてきました。
(今でもその気はまだあると思います…)

若干、上の息子に神経質な面があると感じられるのは、そのせいだと思います。

…ここまで書いて、あとが続かず、そのままメールソフトの下書きに保存していました。

当時、5歳と2歳だった息子は、7歳と4歳になりました。
上述のようなことを自分で書いていたことが信じられないほど、
今は、楽な気持ちで子どもと過ごしています。

イライラしたりすることもありますが、
子どもたちに対して、不安や心配に思うことは、ほとんどありません。

子どもたちを見て、そのままでいいと思い、細かいことにこだわらない。
それだけで、こんなに楽になるとは思いませんでした。

神経質な面があるなと思っていた上の息子が、
意外と動じないところがあったり、飄々としていたり、
こんな子だったんだ、と面食らう思いです。

下の息子は、最初から、ものすごくあけっぴろげで、
いつもニコニコしており、
「ありがとう」「ごめんね」「可愛いね」「きれいだね」
という言葉を、なんのてらいもなくスッと口にできる子どもです。
荷物を持っていれば、「持ってあげる!○○、力持ちだから!」と言い、
私が台所で何かしていると、「手伝ってあげる!これ、洗うね」と言い、
うーん、逆にオジャマなんだけどなぁと苦笑しつつ、
苦笑してしまうしかないくらい、ものすごく可愛げのある子どもなのです。

この下の息子が、非常にストレートに愛情を表現し、
上の息子は、それに比べるとわかりにくい感じだったのですが、
ここ最近は、素直に甘えてくるようになり、ああ、なんだか変わったなぁと思っています。
私の受け取り方、見る目が変わっただけかもしれません。

子育ての癖・心の癖は、なかなか治らないものだと思いますので、
できるだけ頻繁に先生の記事を読み、
いつも頭の中にあるよう、意識して心がけて行きたいと思っています。

これからも、どうぞよろしくお願いします。
先生とご家族の皆様のご健康をお祈りいたします。

++++++++++++++

【Kさんへ】

 では、今朝はこれで失礼します。
「心を解き放て! 体はあとからついてくる!」

 おはようございます。

浜松市・はやし浩司


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 不登校 母子登校 許して忘れる 許して、忘れろ 
許して忘れろ はやし浩司 学校恐怖症)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・あれこれ】
(あまり深く考えないで、思いついたまま……)

●TOSHIBAのミニ・ノート

 今日、ネットで、TOSHIBAのミニ・ノートの価格を調べたら、3万円前後にまで
下落していた。
10月6日に、私は、3万5000円前後で購入したから、2週間足らずの間に、500
0円も下落したことになる。
WINDOW7の発売を前に、各社がパソコンの叩き売りを始めたよう。
パソコンは、今が買い時?

 自分のパソコンを叩きながら、「お前の価値は、3万円だよ」と話しかける。


●「♪オラは死んじまったぞ」

 私が学生のとき、「♪オラは死んじまったぞ……」という歌があった。
大ヒットした。
どこかのスナックで、はじめてそれを耳にしたときの衝撃を、今でも忘れない。
その歌を歌っていたメンバーの1人の、KTという人が、自殺したという。

 享年62歳。
あと10日前後で、私も満62歳になる。
だからこういうニュースを耳にするたびに、ドキッとする。
気が重くなる。
理由はわからないが、「音楽に行き詰った」というような遺書が見つかったという。

 62歳といえば、まだこれからではないか。
何があったかは知らないが、……この先が書けない。
(5分ほど、時間が過ぎた。
目の前では、ワイフが、ウォーキングマシンの上で、黙々と運動をしている。)

 人の死だけは、軽く論じてはいけない。
静かに冥福を祈る。


●年賀状

 2010年の正月から、年賀状を再開する。
この数年、年賀状を出すのをひかえてきた。
枚数も、一時の10分の1以下にしてきた。
しかし2010年から再開。

 「これからは、一生、つきあう人だけに出そう」と。
ワイフも、快く、賛成してくれた。
で、古い、宛名書きソフトを取り出して、ノートブックにインストールしてみた。
ソフトは、「筆まめ・15」。
OSはビスタだったが、難なくインストールできた。
新しく70人前後の住所と名前を、登録。
そのあたりで疲れてしまい、今日の作業はここまで。

(追記)これを書いたあと、近くのパソコンショップで、「筆まめ・20」
というのを購入してきた。
以前は毎年のように購入していたが、「15」から「20」へ。
5年間もブランクがあったことになる。
さっそくインストールしてみた。
が、機能的には、ほとんど差がなかった。


●K国の政治犯収容所

 K国には、何か所か政治犯収容所というのがあって、現在、15万人前後の人たちが収
容されているという。
1日10時間労働。
死ぬまで働かされるという。
まあ、何もかもメチャメチャな国だから、今更驚くこともないが、そういう国が、すぐ隣
にあるということ自体、信じられない。

 いつか今の時代が、K国の人たち自身によって総括されるときがやってくるだろう。
そのときたとえば収容所の責任者たちは、どのように処罰されるのだろう。
あるいは自らを、どう恥じるのだろう。
あるいは、どこかへ逃げてしまうのだろうか。
文化のない国、人間性に欠ける国は、恐ろしい。
本当に恐ろしい。


●国の予算、90数兆円!

 民主党政権になってからはじめての、国家予算の概略が発表された。
その額、90数兆円。
日本の国家税収が、40数兆円だから、その倍以上の額ということになる。
(昨日のニュースによれば、40兆円に足らなくなるかもしれないとあった。)
わかりやすく言えば、月収40数万円の人が、90数万円の生活をしていることになる。
差額の50数万円は、借金。
しかも、だ。
驚いていけないのは、公務員の給料(人件費)だけで、38兆円。
国家税収の95%を、自分たちで使っている!

 ふつうなら生活の質を落として、借金の額を減らす。
公務員の人件費を減らす。
それができないところに、日本経済の硬直性がある。

 しかし日本の経済は、安定している(?)。
ここが日本経済の不思議なところ。
韓国の新聞は、15年近くも前から、「今に日本は、破綻する」と書いている。
が、いまだに破綻していない。

 理由の第一は、日本という国は、外国からは、お金を借りていない。
言うなれば、一家のおやじが、息子や娘たちからお金を借りている。
だからのんき。

 理由の第二は、日本という国は、いわゆる国有財産というのをもっている。
その額が、100兆円はあると言われている。
だからのんき。

 日本経済はあぶない、あぶないと言われつづけて、もう15年。
しかし日本の(円)には、まだまだ力がある。
その(力)だけで、何とか、生き延びている。

 アメリカのドルにしても、そうだ。
本来なら、紙くず同然になってもおかしくない。
しかしそのドルをほしがる国がある以上、アメリカ政府は、印刷機を回せばよい。
が、それにも限度がある。
ドルを大量にかかえこんでしまった、日本や中国は、アメリカがこけたら最後、大損をす
ることになる。

 数日前、中国が、アメリカにドルを安定させるように注文をつけた。
当然のことである。
一方、この日本は、アメリカの機嫌を損ねたらたいへんと、手持ちのドルを売ることもで
きない。
ほかの通貨や金(きん)に交換することもできない。

 これは時限爆弾のようなもの。
(それとも腐れ縁?)
しかしこんな状態がいつまでも、もつはずがない。
明日かもしれない。
来年かもしれない。
またドカーンと爆発する。
そのとき日本は、本当に破産する。


●ワイフの妹さん

 美しい人といえば、私のワイフの妹さんは、美しかった。
残念ながら、私のワイフより、ずっとずっと美しかった。
その妹さんに、おととい、会ってきた。

 若いときから活動的で、何ごとにも積極的。
行動派で、バイクに乗ったり、少林寺拳法をたしなんだりしている。
その妹さんも、もうすぐ60歳になる。
今でも美しい人だが、「この人も60歳なんだなあ」と思ったとたん、生きることの切なさ
を、しんみりと感じた。

 みんな順送りに歳を取り、若い人たちががんばる分だけ、私たちはそのワクの外に追い
出されていく。
今は、それを少しずつ、受け入れていく。
受け入れながら、生きていく。


●同窓会名簿

 数日前、高校の同窓会名簿が送られてきた。
G県でも、かつては3本の指に入る名門校だったが、今は、見る影もない。
G県でも名だたる、ボトム(最下位)校になってしまった。
同窓会に出ても、そんな話ばかり……。

 その同窓会名簿を見ながら、名簿の各年度末ごとに書いてある、「物故者」という言葉が
気になった。
「すでに亡くなった人」という意味はわかるが、私ははじめてこの言葉に出会った。

 その中に1人、旧制YM君という名前があった。
高校を卒業すると同時に、警視庁の機動隊に入隊したというところまでは知っている。
当時、かなり話題になった。
背が高く、スポーツマンだった。
私の家から、歩いて1分足らずのところに住んでいた。

 同窓会名簿を見ながら、どういうわけか、そのYM君がとくに気になった。

 しかし「物故者」というのは、どういう意味なのだろう?
どうして亡くなった人のことを、「物故者」と言うのだろう?

(補記)
「物故(ぶっこ)」というのは、「人が死ぬこと」(三省堂国語辞典)とある。
だから「物故者」というのは、やはり「亡くなった人」ということになる。
だったら、素直に、「亡くなった人」でもよいのでは?
「亡くなられた方」なら、もっとよい。
「物」というと、「モノ」を連想してしまう。

 次回発行の同窓会名簿には、「物故者……林 浩司」と、名前が載るかもしれない。
 

●「白」

 私はデジモノは、「白」が好き。
パソコンにしても、デジカメにしても、白が好き。
できるだけ白を選ぶ。
選ぶが、買うときになると、おかしなことに、その直前に、ほかの色にしてしまう。
どうしてだろう?
そしてしばらく使ったあと、「白にすればよかった」と後悔する。

 ビデオカメラは、赤色。
最近買ったミニ・パソコンは、茶色。
デジタルカメラは、黒色。
ひとつだけ例外なのは、ノートパソコン。
純白の「白」。
そのパソコンだけは、たいへん気に入っている。

 これは私のどういう心理によるものなのか。
好きな色に、あえて背を向けてしまう。
私の心は、どこかゆがんでいる。


●夢

 私たち夫婦は、結婚以来、ずっと一枚の布団の中で眠っている。
昨晩のように寒い夜は、ワイフの温もりがありがたい。
が、それだけではない。
体を離して眠っていると、私は、恐ろしい夢を見る。
子どもの世界には、母子分離不安症という言葉があるが、私のは、さしずめ、「夫婦分離不
安症」ということか。

 恐ろしい夢といっても、お化けが出るとか、そういうのではない。
どこかの見知らぬ場所で、迷子になってあわてふためく。
まちがった電車に乗って、どこかへんなところへ行ってしまう。
「そんな夢のどこがこわいのか?」と聞かれそうだが、私には、こわい。
そういうときはあわてて、ワイフにしがみついていく。

 62歳の男が、夢がこわくて、ワイフにしがみついていく?
まあ、そういう私だから、分離不安症の子どもを見かけたりすると、私は母親にこう言う
ことにしている。
「いいから、抱いてあげなさいよ」と。


●薬ジュース

 たとえば頭痛薬をのむ。
漢方薬をのむ。
そういうとき私は、それらの薬をお湯に溶かして、小さなペットボトルに入れる。
それを少しずつ、チビリチビリとのむ。
言うなれば、点滴方式。

 本当は血中の濃度を一気に上げて、薬の効果を高めたほうがよいのかもしれない。
しかしその方法だと、肝臓に負担がかかる(?)。
だからこうした薬は、チビリチビリとのむ。

 こののみ方が正しいのかどうかは知らない。
しかし私のばあい、この方法で、今のところ、うまくいっている。
薬の効き方もおだやか。
胃もやられない。
ふつう甘いジュース類を混ぜてのむことが多いので、私は、勝手に「薬ジュース」と呼ん
でいる。

 とくに2〜3種類の薬を混ぜてのむときは、この方法を使っている。


●モザイカルチャ博

 近くのフラワーパーク(浜松市運営)で、モザイカルチャ博というのを、やっている。
一応、「国際博覧会」。
しかし盛り上がりは、イマイチ。
ふつうなら、子どもたちのほうから話題が出てきそうなのだが、そういう話題が聞こえて
こない。
私たち夫婦も、まだ行っていない。

 モザイカルチャというのは、平たく言えば、木や草花を使った造形美術のこと。
私は、それがどういうものであれ、そういうものには、あまり興味はない。
木にせよ、草花にせよ、自然なままの姿のほうが、好き。
それを無理にひん曲げたような作品(?)には、どこか痛々しさを覚えてしまう。

 今日も、昨日も、野暮用で、フラワーパークの前を車で通ったが、「見てみたい」という
思いは起きてこなかった。
本来なら、デジタルカメラに収めて、私が発行している電子マガジンを飾りたいのだが、
そういう意欲がわいてこない。

 草花を使って作った、うなぎのモザイを見たからといって、それがどうだと言うのか。
そんなものを見て、感動する人などいるのだろうか?
私には、どうも理解できない。

 どうであるにせよ、一度は行ってやる。
浜松市民のこれは、義務のようなもの。

(ということで、明日、見に行くことにした。)

(注)「モザイ」というのは、「モザイク」のこと?
旺文社の国語辞典によれば、「モザイク」……「さまざまに彩色した大理石,ガラスな
どの小片を組み合わせて床や壁にはめ込み,装飾したもの」とある。

(補記)
10月18日、そのモザイカルチャ博に行ってきた。
途中まで車で行って、そこからシャトルバスで会場まで。
日曜日ということもあって、混雑していた。

浜松市民の努めを果たした。
が、評価は、星2つの、★★。

何が悪いかといって、食べ物屋。
値段ばかりが高くて、ま・ず・い。
東南アジア系、南アジア系の店が、ベニア板で建てたような即席の店で、それ
ぞれの国の軽食を売っていた。

車の駐車料金が、1000円。
入場料が、1800円。
その上、ギョーザの揚げ物風のもの(スリランカ)が、3個で500円。
紙皿のカレーライスが、800円前後。
ソフトクリームが、300円。
公営(=税金)で運営しているのだから……という期待は、ここ浜松市では通
用しない。
役人たちが、目いっぱい、儲けている!

会場のフラワーパークへは、1年に1〜2度は足を運んでいる。
しかし「やるべきことはやります」「言われたことしかしません」「それ以上
のことはしません」と。
いつ行っても、無難第一主義ばかりが目立つ。

一度でたくさん。
一度でこりごり。
何が国際博覧会だ!


●脳みその底の穴

 脳みその底には、穴があいている。
たしかにあいている。
その穴が、加齢とともに、どんどんと大きくなっていく。
たとえるなら、バケツの底の穴。
水がこぼれるように、知識や知恵が、そこから外へ、どんどんとこぼれ出ていく。

 たった1週間前に覚えたことですら、忘れてしまうということも、よくある。
もっとも最近の脳科学の研究によれば、脳みそには、そういう作用もあるということがわ
かってきた。
いわば、脳の掃除のようなもの。
脳が勝手に、脳みその掃除をする。
それがあるからこそ、脳みそは、いつも軽快に動く。

 が、先週、私はこんな経験をした。
脳みそがスランプ状態になってしまい、書きたいことはたくさんあるのに、それを文とし
てまとめることができない。
あせればあせるほど、脳みそが勝手に空回りをしてしまう。
そうなってしまった。

 「いよいよボケの始まりか?」と、かなり心配したが、昨日あたりから、また調子が戻
ってきた。
ほっとした。

 つっこみはまだ甘いが、しかしキーボードを叩く指の動きは悪くない。
この状態をしばらくつづけていると、またものを書けるようになる。
思考能力が高くなり、つっこんだ文章が書けるようになる。

 今は、その慣らし運転といったところ。
読んでくれる人には申し訳ないが、今は、そういうときと思って、どうかがまんして読ん
でほしい。
あと数日もすれば、さらに調子が戻ってくるはず。

 で、今回、調子が悪くなったのには、理由がある。
ちょうど1週間前に、「怒りのメカニズム」というテーマで原稿を書き始めた。
何度も何度も、迷った。
書き直した。
それがよくなかった。
書いているうちに、自分でも何を書いているか、よくわからなくなってしまった。
それでまた最初から書き直し。

 要するに、思考がループ状態になってしまった。
こうなると、思考は停止したのと同然。
それで調子が狂ってしまった。

 で、いくら脳みその中をさがしても、頭の中は、カラッポ。
新聞を読んでも、本を読んでも、読んだ先から、内容を忘れてしまう。
まるで脳みその底に穴があいたような状態になってしまう。

 しかしこれだけは言える。

 文章というのは、毎日、書くこと。
その努力を怠ったとたん、文章というのは、書けなくなる。
書けるかもしれないが、自分の考えていることを、的確に表現できなくなる。
まとめられなくなる。

 今夜は早く寝て、明日から、またがんばろう!
そうそう、明日は、モザイカルチャ博に行くことになっている。
写真は、電子マガジンのほうに掲載する。
お楽しみに!
(10月17日の夜に)


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 16日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【私の幼児教育byはやし浩司】

●生徒あっての仕事

 私のばあい、いつもそこにスポンサーがいる。
親というスポンサーがいる。
お金を受け取って、親のニーズに応える。
それが私の仕事。

 親が、こうしてほしいと言えば、そうする。
親が、ああしてほしいと言えば、そうする。
私にとって、教育論というのは、別の世界での話。
現実とは、いつも切り離して考える。
子育て論に至っては、さらに別の世界での話。
親が赤色を求めれば、赤色に自分の体の色を変える。
青色を求めれば、青色に自分の体を変える。

 生徒あっての私の仕事。
親の意向に逆らうなどということは、私の仕事ではありえない。
それにもうひとつ。
私はいつも、生徒に頭をさげなければならない。
もちろん、親にも。
「来てください」と頭をさげる。
すべては、そこから始まる。

●権威主義

 親たちもまた、私をそういう目でしか見ていない。
これは昔も今も、同じ。
皮肉なことに、親たちが、この世界では、もっとも権威主義的なものの考え方をする。
こと子どもの教育となると、さらにそう。
さらに保守的になる。

学校絶対主義。
学歴信仰。
学校神話。
そして受験制度。

 この日本では、教育といえば、受験教育を意味する。
「人間選別機関」という言葉は、私が考えた。
今から25年以上も前、「教材新聞」という新聞の中で、使わせてもらった。
学校という教育機関が、(教育)ではなく、人間を選別するための機関として機能している。
受験教育に、それを見る。

 それをだれもがおかしいと感じている。
私もおかしいと感じている。
しかしそれを口に出して言う勇気は、だれにもない。
もちろん私にも、ない。

●あなたは黙っていろ

 私が最初に、疑問に感じた子どもは、FBという名前の女の子だった。
名前からして、朝鮮半島出身の人とわかった。
しかしそのことは、私の見方に影響を与えることはなかった。
当時の私は、むしろ親朝鮮派。
学生時代、UNESCOの交換学生として、韓国に行っていたこともある。

 しかしその女の子は、どうしようもないほどの、つまり手がつけられないほどのドラ娘
だった。
言い忘れたが、当時幼稚園の年長児。
わがままで自分勝手。
親は市内にパチンコ店を、数店ももち、裕福な生活をしていた。
が、そういう環境の中で、日本人の私たちを、「下」に見ていた。
軽蔑していた。

 で、ある日のこと。
私はその子どものことで、母親にその女の子の問題点を告げようとしたときのこと。
が、すぐさま母親は、私の言葉をさえぎった。
こう言った。
「あんたは、黙って、私の娘の勉強だけをみていてくれればいい」と。
つまり「余計なことは言うな」と。

 私の立場は、当時も、そして今も、基本的には変わっていない。

●浜松市

 浜松市という町は、不思議な町である。
名古屋市の経済圏に身を置きながら、その3倍以上も離れている東京の方に目が向いてい
る。
名古屋の文化が、浜松市へ入ってくるということは、まず、ない。
浜松市へ入ってくる文化のほとんどは、東京からである。
また「東京から来た」というだけで、何でもありがたがる。

 こう書くと浜松市の人たちは不愉快に思うかもしれない。
しかし事実は事実。
浜松の人たちは、東京に対して、かぎりないコンプレックス(劣等感)をもっている。
反対に、ときどき東京から転勤などで浜松市へやってくる人などは、浜松を、かなり「下」
に見る。
おもしろいほど、「下」に見る。
「下」というのは、「田舎」。
「地方」。
浜松の人たちを、遠慮なく「田舎者」と呼ぶ。
先の衆議院議員選挙で落選した、KTさつき氏などは、堂々とこう言い放った。
「私が土下座すれば、(浜松の)田舎者は、イチコロよ」(「諸君」)と。

 だいたいにおいて、浜松の人が、浜松の価値を認めていない。

●高校の序列

 加えてぬぐいがたいほどの学歴信仰。
私が浜松に住み始めたころ、……というのも、そうした風潮は少しずつ変わってきたが、
この浜松では、出身高校で、その人の価値が決められた。
大学ではない。
高校である。

 そのこともあって、浜松市内の高校には、明確な序列があった。
S高校、A高校、B高校、C高校、D高校……、と。
だからこんな会話がよく交わされた。

「あの人、C高校なんですってねエ〜」
「えっ、あの人、S高校なんですかア〜」と。

 それを本人もよく知っているから、たとえば自分がS高校の出身だったとすると、それ
となく会話の中に、自分の出身高校名を入れる。
「今度、S高校の同窓会がありましてね」とか、など。
あるいは「S高校のOB会で、ゴルフコンペをしました」とか、など。

 何かにつけて、出身高校の名前が、よく出てきた。
今でも、その残像は、かなり色濃く残っている。

●番外教師

 私は午前中から、午後2時ごろまでは、幼稚園で、幼稚園講師の仕事をした。
無資格だった。
当時は、保母という職種はあったが、保父はなかった。
「保父」という名前が世間に出てきたのは、私が30歳を過ぎてからではなかったか。
保育士という名前にいたっては、私が45歳を過ぎてからではなかったか。

 当時の幼稚園教諭は、同じ教師の中でも番外。
ほとんどの幼稚園教師は、高卒で、そのあと簡単な通信教育を受けて幼稚園の教師となっ
た。
中卒のまま保母資格を取り、やはり通信教育で幼稚園教師になった人も、多かった。

 で、なぜ無資格だったか?

 当時の状況をよく知る人なら、みな知っている。
幼稚園の教師の資格など、わざわざ取ってまでするような仕事ではなかった。
おかしな序列があって、一番上が、大学の教授。
その下が高校の教師、つづいて中学校の教師。
一番下が、小学校の教師。
幼稚園の教師は、そのワクの外にあった。
つまり番外。

 「資格、資格」とうるさくなったのは、私が45歳を過ぎてからのことではなかったか。
中央の官僚たちは、まず資格制度を整備する。
それを管理する団体を作る。
そこを自分たちの天下り先にする。
保育士という資格がうるさくなったのも、そういう(流れ)があったからにほかならない。

●同窓会

 ちょうど30歳になったとき、高校の同窓会があった。
その席でのこと。
担任教師だったTMが、私にこう聞いた。
「林(=私)は、どんな仕事をしているのか?」と。

 が、私には答えようがなかった。
今で言う「フリーター」という言葉さえなかった。
だから、幼稚園での講師をしている話のほか、いくつかを並べた。

 それを聞いてTMは、こう言った。
「お前だけは、訳の分からない仕事をしているな」と。
みなに聞こえるような大きな声だった。

 高校の教師にしてみれば、幼稚園の講師の仕事など、仕事にもならない仕事ということ
になる。
私にはその常識(?)が理解できたから、黙るしかなかった。

●収入

 私の幼稚園での給料は、当初、月額2万円だった。
大卒の初任給が、6万円前後になり始めていたころである。
そこで私は園長と相談して、午後2時以後は、自由にしてもらった。
自由にしてもらって、予備校の講師や塾の講師、それに家庭教師などをした。

いろいろな会社の貿易顧問もした。
M物産時代の経験とノウハウが、役に立った。

 あのYAMAHAにしても、当時、本社の中にすら、貿易部はなかった。
名古屋のM物産が、YAMAHAの貿易を取り仕切っていた。
ほかにパンフレットの翻訳など。
仕事は、あった。
お金になった。

 幼稚園の給料は2万円だったが、当時、つまり20代の半ばで、すでに私は毎月70万
円前後も稼いでいた。

●ほかに

 当時の私は、こんな仕事もしていた。
夕刻、新幹線で東京へ、向かう。
そのまま羽田から、香港や台北へ飛ぶ。
時差もあるから、向こうの時刻で、夕方から夜にかけて商談をまとめる。
そして午前2、3時の飛行機で羽田へ戻る。
羽田へは、午前6時〜6時半に着く。
新幹線に飛び乗る。
9時には、浜松へもどり、幼稚園で仕事をする。

 ときどき香港のみやげをもって帰ることもあった。
しかし私が「今朝、香港から帰ってきました」と言っても、だれも信じなかった。
当時、羽田、香港の航空運賃だけでも、10万円前後。
幼稚園の教師の月給が、3万円前後。

 そのほかにも、私はいくつかのテレビ局の企画も書いていた。
代筆もした。
すでにゴーストライターとして、何冊かの本も出していた。

 が、幼稚園での仕事はやめなかった。

●私の天職

 話せば長くなるが、私は自我の同一性の問題に苦しんでいた。
私はもとはと言えば、大工になりたかった。
高校へ入ってからは、工学部の建築学科をめざした。
しかしそれが途中で転向させられてしまった。
文学部から、法学部へ、と。

 私の人生が狂ったのはそのとき。
メチャメチャと言ってもよい。
以来、自分をさがすのに、苦労をした。
で、やっと「天職」と思ったのが、幼稚園での仕事だった。
給料は問題ではなかった。
給料だけを考えたら、とっくの昔に、私は、幼稚園での仕事をやめていただろう。

 たとえば香港へ行く。
上海製のハリ麻酔器(低周波発信機)を、買う。
値段は、5〜6万円。
それを日本へもってくると、12〜15万円で売れた。
いつも3〜5台はもってきたから、それだけでも、30〜50万円の利益になった。

●幼児を教える

 この職業観は、今でも変わっていない。
幼児を教えながら、それを仕事と意識することは、めったにない。
むしろ私のほうが、楽しませてもらっている。
私のやりたいように、やらせてもらっている。

 で、話を戻す。

 当時、幼稚園教育の世界には、テキストらしいテキストは、ほとんどなかった。
まったくなかったと断言してもよい。
教育的には、恐ろしく貧弱な世界で、「教育」というよりは、ただ「子どもを預かる」とい
うだけの世界であった。
こう書くと、古い教師は怒るかもしれない。
が、しかしこの私の意見に反論できる教師はいないはず。

 年間の行事を追うだけ。
あとはお絵かきだの、お遊戯だの、まあ、その程度。
さらに知育教育、さらには幼児の心理にまで踏み込んで教育するということは、「絶対」と
いう言葉をつけてよいほど、絶対、なかった。

 はっきり言えば、レベルが低かった。

●教材

 私は香港へ行くたびに、……毎週のように香港へ行っていた。
そこで幼児教育教材を買い求めていた。
香港には、当時は、イギリスの総督府が置かれ、教育はすべてイギリス式で行われていた。
幼児教育の教材も豊富だった。
私はそれを日本へ持ち帰り、翻訳し、私の勤める幼稚園でそれを使った。

 で、そのうち、それらの教材を、東京の出版社へ送るようになった。
今でこそ、中学生や高校生が、修学旅行で外国へ行く時代である。
しかし当時は、そうではなかった。
日本は、まだ貧しかった。
外国は、まだ遠かった。

 そういう教材が、学研という出版社の目に留まった。
それがのちの「幼児の学習」「なかよしがくしゅう」という雑誌につながっていった。
私が26、7歳のときのことである。

 これらの雑誌は、その2誌で、毎月47〜8万部も売れた。
当時の子どもたちの4分の1から3分の1が、その雑誌を購入したことになる。
これらの雑誌は、学研のコンパニオン制度の中で、各家庭に配本された。

●田舎根性

 私は浜松市に住みながら、すでにそのころ、浜松市に幻滅を覚え始めていた。
先にも書いたように、浜松市の人たちは、地元、浜松市の価値を認めていない。
認めようともしなかった。

 私が教材の原稿を、東京の出版社に送るようになったのも、そのため。
一度、東京を経由すれば、浜松市の人たちも、その価値を認めてくれる。
私はそう考えた。

 が、現実は、それほど甘くはなかった。
そこにはもうひとつ、学歴信仰という壁があった。
私が若かったということもある。
しかし私の意見に、耳を傾けてくれる親はいなかった。
仮にいたとしても、どこかの大学の教授が別の意見を言ったら最後、そのまま私の意見は
否定された。

 権威主義という壁である。

 浜松市というと、工業都市を連想し、かつ街道の宿場町を連想する人は多い。
そのため、開放された、進歩的な都会を想像するかもしれない。

 たしかにそういう面はある。
しかしそれは工業にかぎっての話。
HONDA、YAMAHA、SUZUKIは、すべてこの浜松市で生まれ育った。
知らない人も多いかもしれないが、TOYOTAも、この浜松市で生まれ育った。
(TOYOTAの豊田佐吉は、浜松市に幻滅して、若いころ、浜松市を去っているが……。)

 その工業を除けば、浜松市は、何かにつけて保守的。
ごく最近に至るまで、浜松市のみならず、この静岡県は、政治の世界でも、保守王国(=
自民党独裁)として知られていた。

 教育の世界では、さらに保守的だった。
私にはその保守性を打ち破るだけの権威がなかった。

●講演会

 当初、幼児教育といっても、手探りだった。
ロクなテキストもなければ、教材もなかった。
教師となるような教師すら、いなかった。

 メルボルン大学のロースクールにいた私には、驚きでしかなかった。
ときどき東京あたりから、どこかの教授が講演にやってきたりしたが、どの講演も、的を
はずれたトンチンカンなものばかりだった。
それもそのはず。

 研究室の奥で、何かの研究はしているらしい。
しかし実際、幼児に接したことのない教授が、その権威だけで、「幼児教育とは……」と論
ずるから、話がおかしくなる。

 W大学の教授が浜松市へやってきたときも、そうだった。
著名な教授だったから、私もかなり期待して出かけていった。
しかしそれも、意味のない講演だった。
あとで話を聞いたら、赤ん坊の歩行の仕方を研究している教授ということだった。
赤ん坊の歩行の研究?
ハイハイする赤ん坊の歩き方が、トカゲのような爬虫類の歩行の仕方と同じ。
だから人間も、爬虫類の流れをくんでいる、と。

 そういう教授が、一方で、「幼児教育とは……」と論ずる。
そういうおかしさが、当時は蔓延していた。

 もちろん幼稚園教育の場でも、似たような話があった。

●本物の包丁?

 私はそこで毎日のように、レッスンが終わると、10〜15分程度の懇談会を開いた。
「幼児教育は、母親教育」という持論を編み出した。
母親教育なくして、幼児教育は成り立たない。

 が、いろいろな失敗がつづいた。
母親といっても、若い女性。
そういう女性たちと、レッスンのあとに、個人的に話し合うというのは、何かにつけて誤
解を招いた。

 そのため懇談会はやがて、週一回になり、月一回になった。
その当時した失敗談については、別のところに書いたので、ここでは省略する。

 が、その一方で、私にはおかしな現象が置き始めた。
「母親恐怖症」という現象である。

●母親恐怖症

 当時の私は、20代のはじめ。
母親たちは若くても、20代の終わりから35歳前後。
私には、みな、こわいオバチャンに見えた。
(そのしばらくあとに、「オバタリアン」という言葉も生まれた。)

 実際、いくつかのトラブルに巻き込まれた。
そのたびに、私は、どんどんと「母親恐怖症」になっていった。
「母親」あるいは、「お母さん」と意識したとたん、下半身から、スーッと性欲が消えてい
くのを、よく感じた。

 つまりそれくらい、私には、「母親」というのは、恐ろしい存在だった。
が、事情をよく知らない仲間などは、こう言った。
「林(=私)は、うらやましいよ。お前は、女づくしの世界に生きているからな」と。

 しかし実際には、私は、こと幼稚園の世界では、女を感じたことはなかった。
若い女性教師に対しても、また母親に対しても……。
たとえばあるとき、私服で歩いている同僚の女性教師を通りで見かけたとき、「ああ、この
人も女性だったのか」と、感心したこともある。

 母親恐怖症は、私が40歳を過ぎるころまでつづいた。
そのころになると、私のほうが年上になり、母親たちが、はるか年下に見えるようになっ
た。

 で、今は、どうか?
おかしなことに、母親たちと、女子高校生たちとの区別ができなくなってしまった。
10代後半の高校生と、若い母親たちが同じに見える……?

 これは余談。

●本物の包丁?

 当時、浜松市内で、園長をのぞいて、男性の講師を置いている幼稚園は、私が勤めてい
た幼稚園だけだった。
そういうこともあった。
隣町のHK市で、幼稚園教師の研修会があった。
その席でのこと、それぞれの教師が、実際の指導法を披露していた。
その中のひとつ。
ある女性教師がこう言った。

 「私の幼稚園では、本物の包丁を使って、子どもたちに野菜を切らせています」と。

 会場から拍手がわきあがった。
私は、それを聞きながら、ぼんやりとしていると、男性が私ひとりだけということもあっ
て、白羽の矢が立った。
で、こう聞かれた。
「そこの先生、あなたはどう思いますか?」と。

 私はとっさの質問に戸惑った。
そのこともあって、思わず、こう答えてしまった。
「そんなことは、家庭で、親が教えればいいことです」と。

 つまり当時の幼児教育は、その程度。
その程度のレベルを、「教育」と呼んでいた。

●古い話

 浜松市の悪口ばかり書いたので、気分を悪くした人も多いかと思う。
それについては、こう締めくくりたい。

 この話は、あくまでも当時の話。
年代的には、1970年から1990年にかけての話。
それ以後は、この浜松市も大きく、変わった。
とくに2000年に入ってからは、親や子どもたちの意識も、変わった。
出身高校で、人を判断するという風潮も、今やそよ風程度。
話題にする人も、ほとんどいない。

 もちろんだからといって、受験戦争が緩和されたというわけではない。
むしろ、親たちの受験熱は、過激になってきている。
とくに中高一貫校ができてから、浜松市の教育は一変した。

 それまでは「受験」と言えば、高校受験を意味した。
公立高校が第一で、私立高校は、あくまでもスベリ止め。
が、2000年以後は、これが逆転した。

 今では私立の中学、高校が第一で、公立高校がその受け皿的な存在になってきている。
まず私立中学校を受験する。
そこで落ちた子どもが、公立高校に拾われる……。

 だからそれまでは中学に入ってから始めればよかった受験教育が、今では小学4年、あ
るいは5年にまで下がってきている。
早い子どもだと、小学3年生くらいから、受験塾に通い始める。

 こういう世界で、「教育論」を説いても、意味はない。
親たちが耳を傾けない。
耳を傾けないから、私も話さない。

 私は親たちのもつニーズを感じ取り、それに応えるだけ。
スポンサーは、あくまでも親。
その親たちに背を向けて、この仕事はできない。

●知らぬフリ

 この世界の第一の鉄則は、内政不干渉。
その子どもの問題点がわかっていても、知らぬフリ。
たとえばかん黙児にせよ、AD・HD児にせよ、自閉症スペクトラムにせよ、そういう子
どもとわかっていても、知らぬフリをする。

 実際には、40年もこんな仕事をしていると、その子どものもつ問題点は、会った瞬間
にわかる。
わかるが、それを口にするのは、タブー。
さらには、私のばあい、その子どもの1年後、5年後、10年後の姿まで見える。
どの段階で、どのような問題を起こすかもわかる。
わかるものはわかるのであって、どうしようもない。

 しかしそれも、口に出して言うのはタブー。
いわんや、診断名を具体的に口にするのは、タブー中のタブー。
診断名を口にできるのは、専門のドクターだけ。

●10%のニヒリズム

 もちろん失敗もした。
数多くの失敗もした。
「この人だけはだいじょうぶ」と信じて話したことが、そのあと大問題になったという例
は、多い。

 こうした経験を通して、私は少しずつ利口になっていった。
口も重くなっていった。

 私はバカな、何も知らない、ただの教師。
そのほうが気も楽だった。
今も、そのほうが、気が楽。

 それに正直に告白するが、どうせ説明したところで、若い親たちには、私の話すことな
ど、理解できない(失礼!)。
この世界には、「10%のニヒリズム」という言葉さえある。
若いころ、どこかの教師が教えてくれた言葉である。

 つまりわかっていても、わからないフリをする。
結局子育てというのは、親自身が、自ら失敗を重ねながら、その中から、自分で学んでい
く。
それしかない。
そのとき「この親は失敗する」とわかっていても、黙って見ているしかない。

 それはちょうど、若い女性がタバコを吸っているのを見るときの気持ちに似ている。
女性がタバコを吸って、よいことは何もない。
妊娠、出産にも、深刻な影響を与える。

 しかしそういう女性に向かって、だれが「タバコはやめたほうがいいですよ」と、言う
ことができるだろうか。
それこそいらぬお節介。
だから黙る。
口を閉ざす。
その(冷たさ)が、「ニヒリズム」ということになる。

 このニヒリズムがないと、教師は自分の職業を支えることができない。

●家族の代表

 2000年に入ってから、「子どもは家族の代表」という考え方が、広く浸透してきた。
若いころ「幼児教育は母親教育」と一脈を通ずる考え方である。

 つまり子どもに何か問題が起きたとしても、それは子どもだけの問題ではないというこ
と。
家族という環境の中で、その子どもはなるべくして、そのような子どもになっていく。
だから子どもに何か問題があったとしても、その問題だけをながめていても、その子ども
の問題は解決しない。

 家族という環境の改善が、必要不可欠となる。
たとえば親の過干渉、過関心で萎縮してしまった子どもがいる。
こういうとき親は身勝手なもので、そういう子どもを見ながら、「どうすればうちの子は、
もっとハキハキするでしょうか」と相談してくる。

 しかし正すべきは、子どものほうではない。
親のほうである。
親の育児姿勢のほうである。
そういう例は多い。

●誤解

 しかし重要性という点では、幼児教育……というより幼児期の教育ほど、重要なものは
ない。
大学の教育より、重要。
その上、奥が深い。
幼児教育は、その人間の基礎をつくる。
方向性をつくる。
もちろん(心)もつくる。

 それからの教育は、その基礎の上に立った方向性に従ってなされるだけ。
中には、「幼児教育なんて……!」とはき捨てる人もいる。
しかしそれこそ無知と誤解。

 幼児教育イコール、幼稚教育。
幼児の相手をするだけの簡単な教育。
そう考えている人は多い。

 一度、「人間の性格、その人の人格の基礎は、幼児期にできます」と話したときのこと。
ある男性(個人の自転車屋を経営)は、笑ってこう言った。

 「そんなバカなことがあるか。人間の性格、人格は、おとなになってからできる」と。

 つまりそれが当時の、そして現在も残っている、幼児教育への偏見と誤解ということに
なる。

●笑えば伸びる

 最初に書いたように、私がした幼児教育というのは、まず、子どもたちに来てもらわね
ばならない。
子どもたちが「来たくない」と言えば、それでおしまい。
しばらくすると、親たちは、それを理由にして、私の教室を去っていく。

 だからいつしか、私は子どもたちが楽しむ教室に心がけた。
これは思わぬ副産物を産み出した。
『笑えば伸びる』という私の持論も、そこから生まれた。

 まず子どもたちを笑わせる。
楽しませる。
第一に、それは教室の経営を安定させるためである。
しかし笑うことによって、子どもたちの心は明らかに変化する。
「障害」という言葉は、安易に使えない。
しかし笑うことによって、また笑わせることによって、「〜〜障害」という障害が、治って
いく。
それが、私にもわかった。

 たとえば軽度のかん黙症、自閉傾向のある子ども(自閉症ではない)などは、数週間も
指導すれば、治ってしまう。
私には、「治った」とわかっていても、もちろん、それを口に出すことはないが……。

 さらに言えば、心を開放できない子どもは、多い。
程度の差もあるが、約3分の1はそうではないか。
症状がひどくなると、情意(心)と、表情(顔に表れる表情)が、不一致を起こすように
なる。
教える側から見ると、何を考えているか、わからない子どもということになる。

 そういう子どもでも、ゲラゲラ笑わせると、(……そういうふうに笑うようになるまでが
たいへんだが……)、やがて情意と表情が一致してくるようになる。
私の仕事は、もちろん知的能力を伸ばすこと。
しかしそれでは私自身が、満足できない。
そこでやがて私は、本を書くようになった。

●教材稼業

 その前に、私は、教材作りに、面白さを覚えていた。
浜松市を相手にするより、全国を相手にしたほうが、おもしろい。
こと教材作りに関しては、私の頭の中から、(浜松市)は消えた。
どうでもよかった。

 いろいろな教材を手がけた。
大手の出版社で商品化した教材も多い。
というのも、出版社は出版社。
出版のノウハウはもっていたが、やはり実際、幼児を教えたことのある編集者は皆無だっ
た。
そこに私の存在価値があった。
仕事はそのつど、こなしきれないほど、回ってきた。
私は毎晩のように、速達を届けるため、郵便局へ車を走らせた。

 が、やがて限界を感ずるようになった。
40歳を過ぎてからではないか。

 私が制作した教材は、出版社の担当者が替わるたびに、別の作者の名前で発表されるよ
うになった。
さらに教材の世界には、著作権というものが、ない。
私が作った教材にしても、それが新案のものであっても、どんどんと盗用されていった。
教材の世界では、クマさんが、ウサギさんに変わっただけで、別の教材になる。

 では、実用新案特許を申請すればよいということになるが、それは出版社の仕事だった。
個人の私には、負担が大きすぎた。
財政的な負担も大きい。
それにめんどう。
それ以上に、つぎつぎと湧き起きてくるアイディアを、いちいち特許申請するなどという
ことは、不可能だった。

 たとえば、あの先生には悪いが、「100マス計算」などという言葉がある。
縦と横に数字を書き、100マスの計算をさせるというあれである。
あんなのは(失礼!)、当時、私も含めて、少しアイディアを働かせている教師なら、みな、
それをしていた。
ただひとつのちがいは、実用新案の申請をしたか、しなかったかのちがいだけだった。

●本

 教材稼業からは、足を洗った。
それにはいろいろな理由がある。
しかしここに書いても意味はない。
愚痴になる。

 その代わり、私は、本を書くようになった。
文章を書くのは、嫌いではなかった。
若いころから、いろいろな人のゴーストライターとなって、本も書いていた。
翻訳もしていた。

 で、本を書くようになった。
多い年には、1年で、10冊以上も書いたことがある。
私は文章を書くことに、楽しみというか、生きがいを覚えるようになった。
インターネットの時代になって、それにますます拍車がかかった。

 というのも、それまでは、こうした仕事は、中央でなければ成り立たないという社会的
常識が支配していた。
地方は地方。
地方で、いくらモノを書いても意味はない。
だれもがそう思っていたし、私もそう思っていた。
しかしその壁が、インターネットで取り外された。

 しかもおもしろいことに、インターネットの世界では、東京そのものを通り越して、世
界中に発信できる。
私には、これほど小気味のよいことはなかった。

●教育論の限界

 その親のレベルがどうであれ、子育てには、その親の哲学、人生観、価値観など、すべ
てが凝縮される。
裏を返して言うと、教える側にしても、そこに自分の哲学、人生観、価値観を凝縮する。
教育というのは、車の運転にたとえるなら、運転をするだけのもの。
しばらく運転していれば、だれだって、うまくなる。

 が、それだけでは足りない。
そこでその教師の哲学、人生観、価値観などが試される。
教師といっても、教育論だけを書いていてはいけない。
ときには哲学、人生観についても、書いていく。
そういう姿勢があってこそ、はじめて、親たちと対等に接することができる。

 私のばあいも、20代〜30代のころは、東洋医学に興味をもった。
30代〜40代のころには、宗教に興味をもった。
合計すれば、10冊以上の本を書いた。

 そうした裏からの支えがあって、はじめて、私たちは、自分の教育論を展開できる。
そういう点では、(教育)は、奥が深い。
専門分野だけを、月謝(給料)をもらって切り売りするというのは、またその範囲で満足
するというのは、教育者の名に恥じる。

●こうして40年

 こうしてすでに40年近い年月が過ぎた。
40年!
自分では、「まだまだだいじょうぶ」と思っているが、本当のところ、自信はない。
しかもその自信は、年々、小さくなってきている。

 頭の活動も、鈍ってきた。
体力もつづかなくなってきた。
何よりもこわいのは、集中力が弱くなってきたこと。

 ここまでで、約10ページ分(40字x36行)の原稿を書いたが、そろそろ疲れを感
ずるようになった。
若いころは、40ページ近くは、一気に、平気で書いていた。

 この先のことはわからない。
しかしものを書ける間は、できるだけ書いていきたい。

 ……と、少し話が脱線したが、子育て論というのは、あくまでも、ひとつの「説」に過
ぎない。
親たちですら、読まない。
「どうすれば、あなたの子どもを有名大学に入れることができるか」という話になると、
親たちは、目を輝かせて、私の話を聞く。
しかし子育て論について言えば、そういう反応は、ない。
直接的な利益に結びつかない。

 だから再び、同じ話になる。

「親というのは、自分で失敗するまで、それを失敗と気がつかない」と。
あるいは「親は自分で失敗してみて、はじめて賢くなる」でもよい。
それまでは、私たちはただの傍観者でいるしかない。
ただひたすら、知らぬフリをしながら……。
ただひたすら、バカな教師のフリをしながら……。

 もちろん情報は提供する。
しかしその情報をどう使い、どう生かしていくかは、私の問題ではない。
それを読む、親自身の問題である。

 もちろん親のほうから、質問があれば、話は別。
「うちの子は自閉症スペクトラムと診断されました。
どう指導したらいいでしょうか」と聞かれれば、そのときこそ、私の出番。
私の経験が生きる。

●仕事として……

 ところで最近になって、こう思うことが多い。
日本という社会の中で見ると、幼児教育というのは、番外。
とくに日本が、マネー一辺倒の中で、高度成長をつづけていたときは、そうだった。

 私自身も、大学を卒業すると同時に、M物産という商社に、就職先を見つけた。
あの当時、少なくとも私の仲間に、教師になるような男はいなかった。
(法学部は、全員、男だった。)
みなが、銀行や商社、証券会社、保険会社へと就職先を見つけていった。

 こうした職業観というのは、それぞれの時代で、それぞれの国によって、みなちがう。
が、当時の日本は、そうだった。
マネー、マネー、マネー……。
どこを向いてもマネー、マネー、マネー……。
今でもそういう風潮は色濃く残っているが、当時は、もっとすごかった。

 私はそういう世界からはじき飛ばされた。
が、62歳という年齢になり、自分の人生を振り返ってみたとき、私自身もまた、その流
れの中で踊らされていただけということがよくわかる。

 が、その一方で、幼児教育の本当の楽しさが理解できるようになってきた。
一応、(教える)という使命を与えられているから、親たちの意向に逆らうことはできない。
しかしその範囲の中でも、子どもたちと接しているだけで、楽しい。

 そこはウソや濁りのない世界。
純粋で、無垢の世界。
たとえばどんなに気分が落ち込んでいても、子どもたちに接したとたん、パッと気が晴れ
る。
こんな仕事は、そうはない。

 で、今、多くの同窓生たちは、50歳を過ぎるころにはリストラを経験し、第二、つづ
く第三の人生を歩み始めた。
さらに60歳で定年になり、定年延長とは言いながらも、毎年短くなっていく職場に、不
安を感じながら、仕事をつづけている。

 こう書くからといって、私のしてきたことが正解などと書くつもりはない。
人は、人それぞれ。
私は私。

しかし金儲けのもつ空しさというか、それもよくわかるようになるのも、この年齢という
ことになる。
それはちょうど、軍国主義時代において、軍人をめざすようなもの。
戦争が終われば、……というより、戦争そのものが、意義を失えば、それでおしまい。
それに似たようなことが、戦後の日本で、再び起きた。

 人は生きることで、何かを残す。
それが戦後は、たまたま「金儲け」ということになった。
しかしその「金儲け」には、生きがいを結びつける力は、あまりない。
もっとわかりやすく言えば、みな、巨大な機械のパーツ。
あなたがいなくても(失礼!)、あなたの代わりをするパーツは、いくらでも待機している。
地位や名誉にしてもそうだ。

 だからこの年齢になってはじめて私は、自分のしてきたことに、意味を見出し始めてい
る。
だれもしなかった道。
少しおおげさな言い方になるかもしれないが、未開の原野を歩いたような満足感。
子どもたちと接しながら、20代のときや30代のころには感じなかった(楽しさ)を覚
え始めている。

 「おじいちゃん」とか、「ジジイ」と呼ばれながら、幼児を相手にする。
それが楽しい。

●最後に

 親は子どもを産むことで、親になるが、しかしそれだけで親になったとは言えない。
親である以上、学習を怠ってはいけない。
つねに学習、あるのみ。
相手は、人間の子どもである。
とくに子どもの心理についての学習は、必要不可欠。
この世界には、『無知は罪悪』という格言もある。

 私が考えた格言だが、親の無知が、子どもの心をゆがめるケースは少なくない。
言うなれば、無知ほど、恐ろしいものはない。
たとえばかん黙症の子ども(年中女児)に向かって、「どうしてあなたは、もっと大きな声
で話せないの!」と叱りつづけていた母親がいた。

 親の過干渉や過関心で、萎縮してしまう子どもとなると、ゴマンといる。
精神障害の引き金を引くケースも少なくない。

 だから『無知は罪悪』。

 ざっと自分の人生を振り返ってみた。
あなたの子どもを再認識するための一助になれば、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教育論 私の人生 はやし浩司の人生 幼児教育)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 13日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●親子の形態(Types of Families)

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親子の形態を大きく分けると、つぎの
3つになる。

(1)民主型親子(親子が友だち関係、平等主義)
(2)独裁型親子(親絶対主義、権威主義的関係)
(3)放任型親子(家族のつながりが希薄、独立型)

親子によって濃淡はあるが、これら3つが、
それぞれ入り混ざっているケースもある。
あるいは時と場合に応じて、微妙に変化するという
親子も珍しくない。
(参考:「心理学用語」(かんき出版))

+++++++++++++++++++++++

●家族

 親子といっても、基本的には、人間と人間の関係。
そのとき重要なポイントは、親が子どもの人格をどの程度認めているかということ。
1人の独立した人間として、どこまで認めているかということ。

 日本では、元来、子どもをモノ、つまり、「家」の付随物として見る傾向が強い。
上下意識、家父長意識が強く、親は、そのため権威主義的なものの考え方をする。
親(先祖)を絶対視する傾向も強い。

 上記、3つの類型から選ぶなら、(2)の独裁型親子が、大半を占める。

●子どもの人格

 よく日本の民主主義は、異質であると言われる。
理由のひとつに、日本人は、民主主義を、それを必要として、自分で勝ち得たものでない
ということがあげられる。
旧態依然の封建制度を温存したまま、敗戦と同時に、アメリカによって与えられた……と
いうよりは、押しつけられた。
だから表面的には民主主義国家になったが、中身は、そのまま残った。

 その一つが、(子どもの人格)ということになる。
戦後、女性は自分の地位を確立したが、子どもはそのまま残された。
子どもをモノとして見る見方は、今でも残っている。

●民主主義は家庭から

 日本人が本当に民主主義国家になるためには、家庭の中から、それを始めなければなら
ない。
わかりやすく言えば、『民主主義は、家庭から』ということ。
さらに言えば、子どもを1人の人格者として認める。
「友」として認めるということになる。

 が、ここで誤解してはいけないのは、友として認めると言っても、「放任して、好き勝手
なことをさせろ」ということではない。
対等の人間として認めることをいう。

●一長一短

 これら3つの類型には、それぞれ一長一短がある。
家族としてまとまりやすいのは、(2)の独裁型家族ということになる。
(1)の民主型家族は、家族としては、まとまりにくい。
が、ひとたびまとまれば、(2)の独裁型家族にはない、創造性と柔軟性、独立性を発揮す
る(参考、同書)。

 一方(3)の放任型親子は、それぞれに独立精神が旺盛だが、その分だけ家族間の絆(き
ずな)が希薄となる。

●放任型親子

 (3)の放任型家族の最大の問題点は、「家族」としての役割が、相互に希薄であること。
たとえば家族には、(教えあう)という機能がある。
そのため独立心は旺盛でも、知的、教育的な意味においては、高い成果を求めにくい。

 子どもというのは、その置かれた環境の中で、作られていく。
ここでいう「型」といっても、あくまでも(結果)でしかない。
言うなれば無責任な育児観が集合されて、その結果として(3)の放任型家族になったと
いうのであれば、好ましい点は、何もない。

●これからの親子

 親には3つの役目がある。
(1)ガイドとして、子の前に立つ。
(2)保護者として、子のうしろに立つ。
(3)友として、子の横に立つ。

 この中で、日本人がもっともおろそかにしてきたのが、(3)の「友として、子の横に立
つ」ということになる。
「友」というのは、同一の人格者という意味である。

 先日もあるラジオ番組(ニッポン放送)の中で、あるパーソナリィテイの人と話したら、
その人はこう言った。
「友となったら、家族がバラバラになってしまう。それでいいのか」と。

 「友」といっても、先にも書いたように、何も、子どもに好き勝手なことをさせろとい
う意味ではない。
1人の独立した、かつ対等の人間として認めることをいう。
今までの日本人にもっとも欠けていた部分ということで、むしろ積極的に、この部分を拡
大してもよいのではないか。

 つまり今の今でも、日本人は、子どもの前に立ったり、うしろに立ったりするのは得意。
しかし子どもの横に立つのが苦手。
どうしても子どもを、子ども扱いしてしまう。
それが親子関係を、ギクシャクしたものにする。

 が、「友」として子どもを見ると、子育ての世界が一変する。
子育ての仕方も変わってくる。
またそのほうが、子育ても楽しい。
子どももあなたに心を開くようになるだろう。
が、そうでなければそうでない。

 以上、親子の形態について、考えてみた。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●うつ病と自殺

++++++++++++++++++

うつ病の人が、自殺を企てやすいという話はよく聞く。
しかしそのうつ病の私(?)について言えば、
うつ秒イコール、自殺ではない。
(私が「うつ病」と診断されたわけではないが……。)

自殺するには、もうひとつの重大な要因が必要である。
「絶望」という要因である。
うつ病だけでは、自殺願望は生まれない。
うつ病状態のところへ、絶望が加わると、その人は
一気に「死」に向かって歩み始める。

++++++++++++++++++++

自己否定、希望の喪失、虚無的無力感、閉塞感……。
こういったものが、同時に襲ってくる。
とたん、「死」が目の前を横切るようになる。
「自殺モード」というのが、それ。

この状態になると、死への恐怖感は、ほとんどなくなる。
あたかも「死」が、生きるためのひとつの方法のように
思えてくる。
「死ぬことによって、楽になろう」という考え方ではない。
「死」そのものが、生きるための(結論)ということになる。
だからこれはあくまでも私の想像だが、自殺する人というのは、
心の状態がたいへん穏やかなまま、それを選ぶ。

 力んだり、声をあげてギャーギャーと叫びながら自殺する
人はいない。
また力んでいたり、ギャーギャーと騒ぐようであれば、自殺など
しない。

 子どもの世界も、同じように考えてよい。
「死んでやる」「自殺してやる」と声に出して言う子どもは、
自殺などしない。
「死ぬ」ということがどういうことかわかっていない。
いないまま、それを口にする。

(ただしそれが途中で変化して、本当に自殺してしまうケースも
ないわけではないので、あまり油断してはいけないが……。)

●ではどうするか

 うつ病といっても、軽重はあるだろうし、症状もさまざま。
しかし一般論から言えば、「絶望感を与えない」。
「ああ、おしまいだ。これで私は何もかも失う」「失った」という
状況に、本人をもっていかない。
それが自殺防止の鍵ということになる。

 「あなたはひとりぼっちではない」
 「まだ何とかなる」
 「方法がある……」と。

 そうした希望、……それがどんなに小さなものであっても、その
希望があれば、その希望がその人(子ども)を自殺から、守る。

●メカニズムのちがい

 うつ病のメカニズムと、自殺のメカニズムは、相互に関連性は
あるものの、基本的に別のものと考えてよい。

 うつ病は、脳内ホルモンの問題。
脳内のホルモンが変調して、うつ病になる。
 自殺は、脳の機能の問題。
もっと言えば、脳内の特殊な機能が働いて、その人をして、「死」に向かわせる。

 (もちろん強度のうつ状態が、絶望感を招くことはある。
反対に、絶望感が、うつ状態を招くこともある。
その区別は、たいへんむずかしい。)

 わかりやすく言えば、うつ病だけでは、人は、自殺などしない。
初期の段階では、心の緊張感が慢性的に持続し、それが臨界点を
超えると、今度は、極端な弛緩状態になる。
最近話題になっている、「微笑みうつ病」(異様なほど、ニコニコ笑って
いるのが、特徴)にしても、すでにこの状態で、心は臨界点を超えていると
みる。

 こうした状態のとき、先に書いたように、絶望感を覚えると、
心は一気に自殺モードになる。
方法は問題ではない。
どんな自殺の仕方であれ、それはあくまでも結果でしかない。

 自殺を考えていて、ふと思いついたので、ここに書き留めておくことにする。


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

【怒りのメカニズム】

「こうでありたい」という欲望。
「こうであってほしくない」という欲望。
「これがほしい」という欲望。
「私」であるがゆえに生まれる、もろもろの欲望。
これらを総称して、「エゴ」という。

 そのエゴが何らかの形で抑圧されると、そのエゴを解放させようと、一気に
情緒は不安定になる。
知性や理性の、止め具がはずれる。
それが(怒り)という感情となって、爆発する。

つまり人がなぜ怒るかといえば、抑圧されたエゴを解放するため。
このメカニズムがわかれば、自分で自分の(怒り)をコントロールすることができる。
順に考えてみよう。

●自己のエゴ

エゴは、それが満たされないとき、さまざまな姿に形を変える。
心配、不安、不平、不満……。
それが臨界点を超えたとき、つまり、コントロールできなくなったとき、
ときとして、それは(怒り)となって爆発する。

 が、もしこの段階で、エゴを自分でコントロールできれば、(怒り)は、
起きない。
エゴは、抑圧された状態のまま、見た目には静かになる。

●他者に向かう怒り

 (怒り)には、つねに2つ方向性がある。
自分に向かう(怒り)と、他者に向かう(怒り)である。
しかし基本的には、(怒り)は、最初は自分に向かう。
まず(自分に向かう怒り)が始まり、それが(他者に向かう怒り)に変化する。
原因や理由が他者にあれば、(怒り)は、直接、他者に向かう。
が、そのばあいでも、他者を代償的に利用しているにすぎない。

●交通事故

 簡単な例で考えてみよう。

たとえばあなたが運転をしていて、うしろから別の車に追突されたとする。
幸い怪我はなかったが、買ったばかりの新車に、大きな傷がついた。

 こういうケースでは、あなたは追突した相手に、大きな(怒り)を覚える。
「君が、へたくそな運転をしていたからだ!」と。

 しかしもしそのとき、あなたが運転していた車が、ボロボロのポンコツ車
だったとしたら、どうだろうか。
あるいは、あなたがたいへんな金持ちで、同じような車を、何百台も
もっていたとしたら、どうだろうか。
あるいは「車の傷など何でもない」と考えるタイプの人だったとしたら、
どうだろうか。

あなたの(怒り)は、あなたのエゴの状態に応じて、変化するにちがいない。
つまりまず(自分への怒り)が起こり、それが(他者への怒り)へと変化する。

 「どうして大切な車に傷をつけてしまったのだ」と、まず自分への怒りが
始まる。
その怒りが限界を超えたとき、その怒りは、今度は、外に向かう。
「お前のせいで、私の車に傷がついた」と。

●エゴと怒り 

 ここが重要だから、もう一度、別の例で考えてみよう。

 つまりエゴが強大であればあるほど、(怒り)もまた、強大なものとなる。
たとえば何か、インチキな商品を売りつけられたとしよう。
私も最近、そういう商品を売りつけられた。

 「謎のUFO」というような商品だった。
販売店にビデオが用意されていて、それを見ると、UFOの模型が自由自在に、
空中を不思議な飛び方をしていた。

 値段は、3000円。
で、家で箱を開けてみると、空を飛ぶといっても、細い糸でつりさげるだけの
インチキ商品だった。
言うなれば、手品のようなもの。
「ナーンダ」と思って、そのままで終わってしまった。

 が、もしそれが3000万円だったとしたら、どうだろう。
「ナーンダ」で、すますことはできない。
3000円だったから、「ナーンダ」ですんだ。
3000万円だったら、「コノヤロー」となる。

 このばあいも、まずだまされた自分に怒りを覚える。
額が小さいときは、「ナーンダ」ですますことができる。
しかし額が大きいときは、だまされた自分に腹が立つ。
「どうして私は、あんなバカなものを買ってしまったのだ」と。

 そしてその怒りが臨界点を超えたとき、「どうしてあんなものを
私に売りつけたのだ」という怒りに変わる。
売りつけた相手に、怒りが向かう。

●死への怒り

 ところで人が感ずる(怒り)のうち、最大のものは、(死)に対する
怒りということになる。
人は、死によって、すべてを失う。
すべてを奪われる。
財産や名誉や地位のみならず、肉体をも、だ。

 最初、死を宣告されると、ほとんどの人は、混乱し、その混乱が一巡すると、
今度はげしい(怒り)を覚えるという。(「死の受容段階論」(キューブラー・ロス))。
このばあいの(怒り)も、「失いたくない」というエゴが、原点になっている。

●エゴとの闘い

 (怒り)との闘いというのは、そんなわけで、自分の中に潜む(エゴ)との
闘いということになる。
さらに言えば、「私」との闘いということになる。

 私の財産、私の家族、私の名誉、私の地位などなど。
もちろん私の生命というのも、ある。
そういったものが、さまざまな立場で、さまざまに形を変えて、エゴとなる。
そのエゴが、危険にさらされたとき、心配、不安、不平、不満となって姿を
現す。

●エゴの爆発

 が、もしエゴを消すことができたら……。
消すのは無理としても、最小限にまで減らすことができたとしたら……。
(怒り)の内容も、変わってくるにちがいない。
最近、私はこんな経験をした。

 書店で、ある育児本を読んでいたときのこと。
しばらく読んでいたら、頭の中が、カーッと熱くなるのを覚えた。
明らかに、私のパクリ本である。
あるいは私がHPなど書いたことを、ネタに使っていた。
巧みに内容を変えてはあるが、私にはそれがわかる。

たとえば「……チョークで、背中を落書きされた……」が、「……チョーク
で、かばんを落書きされた……」となっていた。
その上で、「いじめられっ子は、その分だけ、他人の心の痛みが理解できる
ようになる」と。
随所で、私の持論そのものを展開していた。

 そのときの(怒り)が、まさに私の(エゴ)から発したものということになる。
(私の考え)(私の文書)(私のHP)と。
が、それも一巡すると、つまり「この世界は、こういうもの」と割り切ると、
怒りが、スーッと収まっていく。

 実際には、そのとき、私はこう考えた。
「10回盗作されたら、新しい原稿を100回書けばいい」と。
そう自分に言って聞かせて、その怒りを乗り越えることができた。
 
●防衛機制

 こうして心は自分の心の動揺を、自ら守ろうとする。
これを心理学の世界では、「防衛機制」という。
もともと人間の心は、不安定な状態に弱い。
長くそういう状態をつづけることができない。

 心配、不安、不平、不満がつづくと、それを解消しようと、さまざまに心が働く。
というのも、そういう状態は、ものすごいエネルギーを消耗する。
その消耗に、人はそれほど長くは耐えられない。
そのため、心は自分で自分の心を防衛しようとする。
それが防衛機制と言われるもので、それらには、合理化、反動形成、同一視、
代償行動、逃避、退行、補償、投影、抑圧、置き換え、否認、知性化などがある。

 この中のどれとは特定できないが、私は私なりのやり方で、エゴの爆発を、最小限に
抑えたことになる。

●無私
 
 再び、死について考えてみたい。
死を宣告されると、最初、人は、はげしい怒りを覚えるという。
このことは先にも書いた。
中には、医師や家族に、その怒りをぶつける人もいるという。

このばあいも、「エゴ」があるから、(怒り)が起こる。
そこで話を一歩前に進めると、こういうことになる。
そのエゴが集合されたものが「私」であるとするなら、私から
「私」を取り除いていく。
かぎりなく、取り除いていく。
その結果、(怒り)の原因となる、エゴが消える。

 たとえば(死)についても、「私」があるから、それを恐れる。
不安や心配を呼び起こす。
が、もし「私」がなければ、(死)についての考え方も、大きく変わってくる。
「無私」という考え方である。
「死は不条理なり」と説いた、あのサルトルも、最後は、「無の概念」という
言葉を口にする。
「死という最終的な限界状況を乗り越えるためには、無に帰するしかない」と。
この哲学は、釈迦の説いた「無」の思想に通ずる。

●現実世界では

 私たちは生きている。
生きている以上、現実の世界の中で、他人とかかわっていかねばならない。
仕事もしなければならない。
納得できなくても、上司の意見には従わねばならない。
家族もいる。
子どももいる。
その過程で、他人との摩擦をつねに経験する。

 実際問題として、生きている以上、「私」を消すことはできない。
そこで「妥協」という言葉が生まれる。
それについてはまた別の機会に考えてみたい。

 ただ大切なことは、(怒り)は、常にその人の人間性の範囲で起こるということ。
人間性の低い人は、ささいなことで激怒し、心をわずらわす。
一方、人間性を高めれば高めるほど、私たちは(怒り)を、自分の心の
中で処理できるようになる。

 かく言う私などは、今、死の宣告をされたら、取り乱し、ワーワーとわめき
散らすほうかもしれない。
情けないほど、私の人間性は低い。
それがわかっているから、今から努力するしかない。
少しでも無私の状態に近づき、そのときが来たら、静かにそれを受容したい。

 
Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

●文を書く

++++++++++++++++++++

悲しいとき、うれしいとき、さみしいとき、
つらいとき、私は文を書く。

しかし怒ったときは、書かない。
とくに個人的な怒りを覚えたときには、書かない。
そういうときに書いた文は、あと味が悪い。
残しておきたくない。
だから書かない。

それに怒りをぶつけた文というのは、どうしても
愚痴ぽくなる。
愚痴を聞きたい人はいない。
それに愚痴は、その人を小さくする。
つまらなくする。

それがわかっているから、よけいに書かない。

+++++++++++++++++++++

●喧嘩

 怒っているときは、私は一気に喧嘩に向かう。
それが私のやり方。
子どものときからのやり方。
ネチネチしたやり方は、しない。
一気にケリをつける。

 しかしこのやり方は、平和的ではない。
ときに法に触れる。
だからぐいとがまんする。
が、そのがまんが、つらい。
私には、つらい。

 よく裁判映画などで、原告と被告が、冷静な様子で、席に着いているのを見る。
ああいうのを見るたびに、「たいしたもんだな」と思う。
私なら、その場で相手に食ってかかるだろう。
「コノヤロー!」と。
もちろんそんなことをすれば、即、退席!
私にとって、(怒り)というのは、そういうもの。
グチグチ言うのは、私のやり方ではない。

●怒り

 (怒り)というのは、もともと自分自身に向けられたもの。
不平、不満、心配、不安が、臨界点を超えたとき、それが(怒り)に変わる。
が、自分を怒っても仕方ない。
そこでその(怒り)を、外部の対象物に向ける。
そこで「お前が悪い」「あいつが悪い」となる。

 そういう意味では、(怒り)の基盤は、弱い。
自分さえその気になれば、そのまま消すことだってできる。
(怒り)を忘れることだってできる。

●静かな怒り

 一方、本当に怒っている人というのは、静か。
驚くほど、静か。
それに穏やか。

 一方、ワーワーと大声をあげて怒る人は、そんなにこわくない。
が、静かで、動揺しないで怒っている人は、こわい。
人も本気で怒ると、そういう様子を見せる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●意識の連続性(補足)

++++++++++++++++++++

私たちがもっている意識というのは、パルス信号のような
ものと考えてよい。
ピッピッピッ……と。
コンピュータのように、何ヘルツというように
測定しようと思えば、それも可能かもしれない。
脳波そのものも、パルス信号として認識される。

つまり(意識)というのは、時間的経緯の中で
拡大してみると、瞬間的に現れては消える、現れては消える……。
それを小刻みに繰り返している。
そのサイクルが短いため、私たちは連続した意識として
それをとらえる。
が、連続しているわけではない。
ここにも書いたように、連続しているように、見えるだけ。

映画のフィルムのコマを思い浮かべれば、わかりやすい。
1コマずつ画面に画像が表示されるが、網膜に残った
残像が消える前に、次の画像が表示される。
そのため、私たちはスクリーンに映る映像を、連続した画像として、
とらえる。
人間の意識も、それに似ている。

このことをさらに裏づける事実が、明らかになりつつある。
最近の脳科学によれば、脳の中の視床下部あたりから、
強力なシグナルが発せられていることがわかってきた。
このシグナルが、いわゆる(生命の源)と考えてよい。
このシグナルに応じて、たとえばもろもろの欲望(=ドーパミンの分泌)
などが、引き起こされる。

+++++++++++++++++++++++++

●迷う

 たとえば今、「今夜は夕食に何を食べようか」と考える。
「天丼にしようか、カレーライスにしようか」と。

 こうして迷っている間にも、そのつど無数のシグナルが、四方八方に
発せられる。
たとえばアルファ波(脳の中の電気的信号)のばあい、秒間8〜13ヘルツと
言われている。
ベータ波は、14〜30ヘルツ。
ガンマ波は、30ヘルツ以上。

こうした信号は、そのつど脳のあちこちで取捨選択され、最終的に、
たとえば「天丼」が優勢になったところで、こう判断する。

「今夜は、天丼にしよう」と。

●パルス説

 こんな例がある。
たとえば交通事故にあった人などの話を聞くと、ほとんどの人は、こう
言う。
「その瞬間のことは覚えていない」と。

 これについては2つの仮説が立てられる。

 ひとつは記憶として残る前に、脳自体が記憶する(=記銘する)のを
停止してしまう。
(衝撃が脳に伝わるよりも早く、衝撃を受けると同時に、脳が記憶を
停止してしまう。だから記憶に残らないという説が、一般的である。)

 もうひとつは、意識そのものが、その瞬間、停止してしまう。

 もし後者であるとするなら、パルス説が、がぜん有力になる。
こうした瞬時の反応は、パルス説以外では、説明できない。
つまり脳が衝撃を受けた瞬間、意識はそこで途絶える。

●意識と死
 
 意識がパルスであるとするなら、私たちはつねに、(意識)と(死)
を繰り返していることになる。
デジタル信号にたとえるなら、(+)と(−)を繰り返していることになる。
(−)のとき、私たちの意識はゼロになる。
その状態を、私たちは「死」と呼ぶ。

 もう少し具体的に説明しよう。

 脳の神経細胞(シナプス)から信号が発せられると、それは神経突起を経て、
ニューロンに伝えられる。
そのニューロンを介して、信号はつぎの神経突起を経て、神経細胞に伝えられる。
こうした伝達方式を、「ドミノ倒し」という言葉を使って説明する学者もいる。
脳の神経細胞は、つねに新しいシグナルを発し、それをつぎの神経細胞に伝える。
が、その瞬間、つまりシグナルを発したあと、脳は、死んだ状態になる。

 もちろん神経細胞のメカニズムは、そんな単純なものではない。
神経細胞の数にしても、1000億個もあるとされる。
それぞれがそれぞれの無数のシグナルを発し、私たちが「意識」と呼ぶものを
作りあげている。

 意識がパルスであり、かつ瞬時、瞬時に、私たちが(生)と(死)を
繰り返しているとすると、生と死についての考え方が、一変する。
私たちは生と死を、絶え間なく、繰り返していることになる。
ただその間隔があまりにも、短いため、……というより、(死)の状態の
ときには、意識そのものが消滅するので、(死)そのものを認識できない。

●意識が消えたとき

 たとえばこんな例で考えてみよう。

 ある人のパルスの間隔が、5秒間隔であったとする。
5秒間、意識が戻り、つぎの5秒間、意識が消えたとする。
これを交互に繰り返した場合、その人の意識は、意識の上では、つながって
いることになる。
意識が消えたとき、その人は意識が消えたことそのものを意識できない。
だからそれを外部から観察していた人が、「あなたは5秒間、死んでいましたよ」
と告げても、その人は、それを否定するだろう。

 もっと極端な例として、こんなこともありえる。

 あなたは宇宙船に乗って火星に向かっている。
あなたは宇宙船に乗り込んだとたん、冷凍された。
それから2年間、あなたは宇宙船の中で、ずっと眠りつづける。
が、火星に到着する寸前、解凍された。
そのときあなたは、きっとこう答えるにちがいない。
「私は、あっという間に、火星に着きました」と。

●意識の覚醒

 となると、……あくまでも意識パルス説によるものだが、
先にも書いたように、私たちは日常的に、生と死を経験していることになる。
そして「死」とは、パルスが(−)になったとき、そのままの、停止した
状態ということになる。

 このことは、反対に「生」を考えるとき、たいへん役に立つ。
「意識」、つまり「意識の覚醒」をもって、「生」とするなら、
生きるということは、意識の覚醒を保つことということになる。
(ただし意識の覚醒がないから、死んでいるということにはならない。
誤解のないように!)

●仮説

 そこで私の仮説。

 加齢とともに、このパルスの周期が、長くなるのではないか。
若いころは、1秒間あたりのパルス数が多い。
多いから、同じ1秒でも、長く感ずる。

 しかし加齢とともに、パルスの周期が長くなる。
パルス数が少なくなる。
あるいは意識の覚せい状態が短くなる。
だから同じ1秒でも、短く感ずる。

 だからみな、こう言う。
「40代は、あっという間に過ぎた。しかし50代は、もっとあっという間に過ぎた」と。

 これはあくまでも私の仮説である。
つまり加齢とともに、時間の長さをますます短く感ずるようになったり、時間が早く
過ぎるように感ずるようになるのは、パルスの周期数そのものが、減少するためでは
ないか。

 いろいろ調べてみたが、視床下部から発せられるパルス信号について、年令別の
周波数を調べた研究は、見当たらなかった。
が、そのうち、私の仮説が立証されるかもしれない。
「加齢とともに、視床下部パルス数は、変化する」と。

……ということを期待しつつ、意識の連続性の話は、ここまで。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 意識の連続性 視床下部のパルス信号 加齢とともに、どうして時間を
短く感ずるようになるのか 加齢と時間 はやし浩司 仮説)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●10月14日、千葉へ来る

+++++++++++++++++++

10月14日、三男夫婦に会うため、
千葉県千葉市にやってきた。
三男の自宅は、千葉市から、来るまで20分
前後のところ。
今夜は、千葉市内のビジネスホテルに一泊。

新幹線の品川駅で落ち合い、そこから三男の
車で、千葉市へ。
市内のレストランで、1時間半ほどかけて、
夕食をとった。

少し前、三男は、ホテルから出る。
明日、三男の自宅へ。
朝、9時ごろ、迎えにきてくれるという。

ワイフは、風呂に入っている。
私は、こうしてパソコンに向かう。
左には小さなテレビ。
久しぶりに、どっきりカメラ(テレビ
番組)を見た。
おもしろかった。

++++++++++++++++++++

●嫁

 三男の嫁は、私のことを、「パパ」と呼ぶ。
三人の息子たちも、私のことを「パパ」と呼ぶ。
それで嫁も、「パパ」と呼ぶ。

 しかし私には、娘をもった経験がない。
そのため若い女性に「パパ」と呼ばれると、どこかくすぐったい。
悪い気はしないが、どうもピンとこない。
しかしどんな呼ばれ方をしても、このくすぐったさは、変わらないだろう。
「お父さん」でも、「お父様」でも、くすぐったい。
英語式に、「ヒロシ」のほうが、気が楽でよいのだが……。
友人たちは、息子の嫁に、何と呼ばれているのだろう。
一度、だれかに聞いてみよう。

 明日、その嫁に会う。
楽しみ。

●10月15日

 金価格が暴騰している。
昨日は、グラム3200円前後。
現在、ドル・円の為替レートは、1ドルが90円弱。
1年半ほど前には、120円だったから、それで計算すると、
グラム4000円以上。
が、今は、残念ながら(?)、1ドルが90円弱!

 数か月前、IMFが、金を売却すると言った。
本来なら、そこで金価格は下落するはずだった。
しかしすかさず中国が、買いに出た。
「買った」というよりは、手持ちのドルを、金に交換すると宣言した。
世界がそれに追従した。

 そして今、10月はインドでは、金の需要期に入る。
それで大暴騰。
おまけにドルは、ガタガタ。
こういうときは、様子を見ながら、少しずつ売る。

●朝、6時

 今朝は朝6時に目が覚めた。
ホテルの朝風呂に入って、ヒゲを剃る。
ヒゲを剃りながら、若いとき、私の父と母が、浜松へ私たちに会いに来てくれた
ことを思い出す。

 立場がちょうど逆になった。
今度は私たちが三男の家に、遊びに行く。
昼飯をどこかでいっしょに食べることになっている。
楽しみというより、心のどこかで、しんみりとした切なさを覚える。

 こうして人生は、順送りに回りながら、新しい人たちの世界になり、
その世界から私たち老人族は、この世界から、はじき飛ばされていく。
息子たちの自立は、同時に、私たちの自立を意味する。
おかしなことだが、この年齢になってはじめて、絶壁の縁(ふち)に
立たされた。
そんな感じがした。

 この先、息子たちには迷惑をかけないよう、私たちは私たちで、
自分を懸命に支えて生きていかなければならない。
心のどこかに残っている、(依存性)を、さらにつぶさなければならない。
が、本当の問題は、(生きがい)。

●空の巣症候群

 今までは、息子たちを成長させるのが、生きがいだった。
無我夢中でがんばってきた。
それが消えた。
ポッカリと心の中に穴があいた。
「空の巣症候群」という言葉がある。
子どもたちが巣を去ったあと、親たちが感ずる無気力症状を総称したものだが、
空の巣をどうやって埋めていくか。

 まさに待ったなしの人生。
それがこれからの人生。
若いときとちがって、これからの人生には、タイムリミットがある。
若いときは時間を気にせず、放浪の旅ができた。
今は、時間を気にしながら、限られた世界を生きる。
しかも失敗は許されない。

 そこに見えるのは、絶壁。
今、その縁を、恐る恐る、歩きだそうとしている。

●朝食

 ホテルの朝食は、バイキング。
7時から〜ということだったが、7時10分ごろ食堂へ入ってみて、びっくり。
どこにこんな客がいたのかと思うほど、多くの人たちが、すでに朝食をとっていた。
60〜80席あるテーブルは、ほぼ満席。
私たちは窓際の丸いテーブルに座った。

「都会の人たちは、こんなに朝早くから、仕事をしているんだね」と、
ワイフに話しかける。
「みな、東京へ行くのかもね」とワイフ。
千葉から東京まで、電車で1時間半ほどだそうだ。

 40代後半の女性客が、けっこう多い。
20人前後はいた。
ビジネス客でもないだろうに……と思いながら、今朝はサラダを中心に
軽くすませた。

 昼は、三男夫婦といっしょに食事をすることになっている。

●ビジネス

 商社マン時代は短かったが、こうした朝の風景は、当時と、ほとんど
変わらない。
林立するビルの間の、モダンなホテル。
大きな窓からは、コンクリートの道路や塀が見える。

 ザワザワとした会話。
「さあ、これから仕事!」という意気込み。
それが私にも伝わってくる。
それぞれがそれぞれの思いをもって、今日、1日を始める。

 窓の外を見ると、スーツを半分着ながら、ホテルから出て行く男が見えた。
年齢は、私くらい。
つづいてぞろぞろと、男たちが出て行く。
その間を仕事場へ向かう、男女が、右へ、左へと歩いている。

●ビジネス

 この風景を垣間(かいま)見ただけでも、人間の数よりも多くの、工夫や発明が
容赦なく飛び込んでくる。
人間の英知の結集というほど大げさなものではないかもしれない。
しかしガラス窓の下には、人口大理石の窓枠。
その窓枠とガラスの間には、細いステンレスの金具、ゴムのシールド、
それにコーティング。
窓の外からは、黒い樹脂が、隙間を埋めている。

 1枚のガラスを支えるだけでも、これだけの工夫や発明が折り重なって
いる。

 一方でビジネスマンの人たちを見やりながら、改めてその凄さに驚く。
つまり私の知らない世界で、私の知らない、無数の人たちがいて、それぞれ
が、それぞれの仕事をしている。
無数の英知を積み重ねている。
まるで細かい時計仕掛けのよう。
その凄さに驚く。

●散歩

 朝食のあと、ワイフと近くを散歩した。
通りへ出てみると、見慣れない看板、サイン、……どこか疲れた裏通り。
「入浴料、5000円」という看板を見て、そこが歓楽街と知った。
「写真を見るだけなら、無料」という看板もあった。

 乾いた道路を、いかにもそれらしい男が、フラフラと歩いていた。
千葉市は、浜松市よりも、ずっと大きい。
モノレールも走っている。
大通りを行きかう人たちも、いかにも都会の人という感じがする。
そういう人たちが、千葉駅のほうから、ゾロゾロと手前に向かって
歩いてきた。

 私が写真を撮ると、ワイフが、「どうして?」と聞いた。
「……ハハハ、ぼくには珍しい光景だから……」と。

●ビジネス

 私はこういう世界が、嫌いだった。
嫌いだったから、逃げた。
逃げたというより、追い出された。

 以来、こういう世界とは無縁の世界を生きてきた。
あえてこういう世界を避けてきた。
避けてきたというより、背を向けてきた。
その結果が今。

 私はすっかり田舎人になった。
田舎人の目を通して、都会の人たちをながめている。
それがまた私には、珍しい。
楽しい。

●うつ?

 ところでこの10日ほど、原稿をほとんど書いていない。
「とうとうボケたか?」と思うほど、書いていない。
パソコンに向かっても、空回りするだけ。
何を書いても、つまらない。
「こんなことを書いて、何になるのだろう?」という思いばかりが、先に立つ。
あるいは「こんなことは、前に書いたことがある」というところで、手が止まって
しまう。

 ワイフは、「うつ病の症状よ」と言った。
そうかもしれない。

 で、昨日は千葉市まで、このパソコンをもってきた。
今、愛用のミニ・パソコン。
TOSHIBAのUX。

 これから三男の家に向かう。
嫁が気を使うだろうということで、昨夜はホテルに泊まった。
私たちも気を使う。
が、朝方、たくさんの夢を見た。
あまり熟睡できなかったようだ。

……ということで、10月15日は始まった。
2009年10月15日。
さわやかな季節。
がんばろう!
三男夫婦には、ジジ臭い様子だけは、してみせたくない。

●三男の自宅

 三男の家に向かう途中、大型のショッピングセンターに寄った。
そのときのこと。
私とワイフは、買い物をしながら、三男夫婦のうしろをついて歩いた。
おかしな気分だった。
私が息子のうしろをついて歩く……?

 いくらがんばっても、そこにいるのは、私の子ども。
子どもにしか見えない。
自分がその年齢だったころのことを思い出しながら、「こいつはもう子どもではない」
と自分に言い聞かせる。
が、その意識を抜くのは、むずかしい。

 ……たぶん、息子夫婦から見れば、私たちは、ジー様、バー様なのだろう。
若いころ、50歳になった知人が、たいへんな老人に見えた。
そういう自分を知っているからこそ、私は静かに三男に従った。
だまってあとをついて歩いた。
スゴスゴ……、と。

●古家

 三男は、三男の友人から古家を借りて住んでいる。
家賃はx万円という。
破格の家賃である。

 二階建てで、一階部だけで、4部屋もある。
家具がない分だけ、がらんとしている。
部屋の使い方が、オーストラリア人風。
オーストラリア人なら、こういうふうに部屋を使うだろうなというような
使い方をしている。

 三男は、横浜K大を出て、航空大学へ入る前、南オーストラリア州の
フリンダース大学に留学していた。
大きな影響を受けたということは、部屋の使い方だけを見てもわかる。

●再び、父と母

 再び、若いころ、父と母が、私の浜松の家に遊びに来たときのことを
思い出す。
あのときは、6畳と4畳だけの小さなアパートに住んでいた。

 「父は、どんな気持ちで来たのだろう」、
 「母は、どんな気持ちで来たのだろう」と。

 私がワイフと浜松に住むようになったとき、母は、「悔しい」「悔しい」と、
親戚中に電話をかけていたという。
最近になってそれを知ったが、私には、そういう気持ちはない。
さみしさがないと言えばウソになるが、私の人生も、ここまで。
子育てから解放されたことを、まず喜ぶ。
それが私の限界。
その限界を知る親が、賢い親ということか。

●品川駅で

 帰るとき、三男が品川駅まで送ってくれた。
みやげまでもらった。
私たちが車を出ると、私たちの姿が見えなくなるまで、ドアのところに
立って、見送ってくれた。
うれしかった。
少しさみしかった。

 「来週、チェックがある」と、別れ際に言った。
チェックというのは、定期試験のようなもの。
「飛行機は毎回新型になっていくし、空港も、どんどんと変わっていく」と。
厚さが15センチもある大型のファイルブックを、10冊ほど、車のトランク
に積んでいた。
「たいへんだね?」と言うと、「この仕事は、一生、勉強だよ」と言って笑った。

 私のほうが、ずっと子どもに見えた。……思えた。

(補記)

●大都会

 品川駅から千葉市へ、そして品川駅へ、今回は高速道路を利用して、移動した。
途中、東京タワーが見えた。
が、その東京タワーが、周囲のビル群に囲まれて、小さく見えた。
私が中学生のときに感じた、あの(高さ)は、もうなかった。

 東京は、やはり都会だった。
恐ろしく大きな、都会だった。

 車でビル群をながめているだけで、自分がどんどんと小さくなっていくのを感ずる。
この無力感。
同じ人間なのに、同じ日本人なのに、私と都会の間に、厚い壁を感ずる。
ぜったいに越すことができない、厚い壁を感ずる。
ビルの中から私を見おろしている人たちには、私はきっと、川原の石ころの
ように見えるはず。
それがわかるから、自ら身を引く。

 三男に会いに行って、よかった。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【満62歳の懺悔】

+++++++++++++++++++++

10月2x日(2009)、私は満62歳になる。
ちょうど満60歳のとき、「これからの人生は儲けもの」
(友人のS君の言葉)と考えていたので、私は2年、
儲けたことになる。

この2年間、健康で、楽しく過ごせた。
息子たちも健康で、それぞれ、大きな問題もなく、現在も、
元気で暮らしている。
孫たちも元気のようだ。

で、満62歳を迎えるにあたって、この1年間を、
振り返ってみたい。

+++++++++++++++++++++

●BW公開教室

 仕事では、教室(=BW教室)の様子を、ほとんど毎日、ビデオカメラに収めている。
それをYOUTUBEにアプロードして、公開している。
視聴者の反応はあまりないが、これはだれのためでもない。
私自身のため。

 当初、ビデオに収め始めたときには、心のどこかで、「この先、1年間、無事、仕事がで
きるだろうか?」と、不安に思った。
過去の1年は、短いが、未来の1年は、長い。
で、今月は、10月。
1月から収録を始めたので、あと数か月分を収録すればよい。
(実際には、来年3月までの、5か月分あるが……。)

 今は、先のことはあまり考えず、淡々と、ルーティーン(=日常スケジュール)をこな
すだけ。


●古里との決別

 私は満62歳にして、はじめて古里と、決別できた。
そういう意味では、この1年……というよりは、2009年は、私の人生においても、特
筆すべき1年ということになった。
肩の荷がおりた。
足腰が軽快になった。

 実家の古家も売却したので、気も軽くなった。
今までは、台風や大雨のたびに、実家の心配をしなければならなかった。
今は、それがない。
先週も、超大型台風18号が、実家の近くを通過したが、その夜は、何も考えず、ぐっす
りと眠ることができた。

 やれやれ!


●原稿書き

 緊張感が薄れたのか、それとも脳みその働きが悪くなったのか、このところあまり原稿
を書いていない。
子育てについて書くのも、疲れた……というより、飽きた。
……というより、書きつくした。

 返事を書かなければならない、読者からの相談もいくつかたまっている。
講演用のレジュメも、今夜中に、2組、仕上げなければならない。
が、その緊迫感がわいてこない。

パソコンのカタログをぼんやりとながめて、時間をつぶす。
ときどきウォーキング・マシンで、運動する。
雑誌をパラパラとめくって、テーブルの上の果物をかじる。

 ホームページ(メイン)の更新もしたいが、心の方が先に引いてしまう。
つまりめんどう。


●認知症

 何と言っても気になるのが、認知症。
昨年亡くなった兄は、晩年、うつ病から、認知症的な症状を示していた。
もうひとり姉がいるが、この姉も、このところおかしな言動が目立つ。
順番からいけば、つぎは私ということになる。

 認知症になれば、私が私でなくなってしまう。
そうなれば、私はものを考えられなくなる。
ものを書けなくなる。
それがこわい。

 だから毎日のように、ワイフと何かの脳トレをしている。
教室でも生徒を相手に、脳トレをしている。
もう少し若いころには、(遊び)として、それをしていたが、今は、真剣勝負。
中学生や高校生を相手に、数学の問題を解きあっている。

 ……で、今のところは、だいじょうぶなようだ。
ホッ!


●遊ぶ

 とくにスケジュールを決めているわけではないが、ワイフとつぎのようにしている。

(1)週に1度は映画を、劇場で観る。
(2)週に1度は近くの温泉(舘山寺温泉)の大浴場へ行く。
(3)月に2、3度は、軽い旅行をする。

 あとは自宅と山荘を行ったり、来たり……。

できるだけ運動を兼ねるようにしている。
今日(10月11日)も、ウォーキング・マシンで40分。
プラス、2キロほど先にある、大型ショッピングセンターまで、歩いて往復してきた。

 気になるのは、今の生活に、「だから、それがどうしたの?」という部分がないこと。
現状維持が精いっぱい。
「明日は、ひょっとしたら、何かいいことがあるかもしれない」という淡い期待だけで生
きている。
目標が、生活の中に浮かび上がってこない。


●目標

 「目標」という言葉が出てきたので、一言。
10月2x日に、私は満62歳になる。
62年間、生きてきたことになる。
で、その翌日から、「3年目」。

 このままダラダラと生きていくのも、1年。
しかしそれでは、ただの(儲けもの)で終わってしまう。
何か、目標をもたなければならない。
作らなければならない。
が、それが浮かび上がってこない。

 どうしてだろう?

 やはり現状維持が精いっぱいということか。
健康で、それなりの生活ができれば、御の字。
それで感謝しなければならない。
今、何か目標をもてと言われても、ひょっとしたら、それはぜいたくな悩みかもしれない。
今、ここにこうして生きているだけでも、ありがたいこと。
あとは、それをどう、みなに還元していくか。
つまりそれが、今の私の目標ということになる。


●楽しみ

 近くWINDOW7(=パソコンのOS)が、発売になる。
しばらく様子をみたあと、新型の最先端のデスクトップを購入する。
「しばらく様子をみる」というのは、発売直後は、値段も高いということ。
それに周辺機器との相性も気になる。
プリンターについては、新しく買い換えようと考えている。
ほかに、今使っているソフトは、どうなのか。
そのまま使えるのか。
いろいろ心配な点も、多い。

 が、1〜2か月もすると、その様子もわかってくる。
値段もさがってくる。
そのころ、デスクトップを購入する。
どの機種にするかは、ほぼ決まっている。
が、今は、TOP・SECRET。


●最後に

 ……ということで、もうすぐ満62歳。
今年もワイフと長男と私だけの誕生パーティになりそう。

 本当のところ、歳を取るというのは、いやなこと。
何もめでたくない。
祝うとしたら、今まで無事に生きてきたこと。

 来年の今日、満63歳の誕生日に、今と同じようなことを書けたら、いい。
それを目標に、(目標ができたぞ!)、これからの1年をがんばってみる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●テレビ電話

++++++++++++++++++++

昨日、アメリカに住む息子たちと、SKYPEを
利用して、2度ほど、テレビ電話を楽しんだ。

孫たちも元気そうだった。
で、そのテレビ電話をしながら、ふと、こんな
ことを考えた。

「あの世とこの世の間で、霊界通信をしているみたい」と。

+++++++++++++++++++++

●あの世vsこの世

 どちらが(あの世)で、どちらが(この世)か。
どちらでも構わない。
日本のこちらが(あの世)かもしれない。
息子の住んでいるアメリカが、(あの世)かもしれない。
しかし私たちは小さなパソコンの画面を通して、話をした。
あるいは小さなカガミ(鏡)でもよい。
小さなカガミを通して、話をした。

 画面の向こうは、アメリカ。
画面の手前は、日本。
私は画面を通して、孫たちの様子をながめる。
元気そうな様子を見て、安心する。
たぶん、アメリカに住んでいる息子たちもそうだろう。

 物理的な距離は、数万キロ。
その数万キロを隔てて、息子たちが、そこに見える。
テレビ電話といっても、性能はまだ不十分。
ときどき音声が途絶えたり、画面がフリーズしてしまったりする。
画像も、荒い。
だからこそよけいに、私は、(あの世)から息子たちの世界をのぞいているような気分にな
る。
「あの世から、この世を見たら、こんな気分かな」と。

●少ない会話

 しかしテレビ電話もそこまで。
ワイフと私だったら、一日中でも、ペチャペチャとしゃべりあっている。
しかしテレビ電話では、ある程度の話をすると、そこで会話が止まってしまう。
共通の話題がない。
相互の相談もない。
それよりも、たがいに生活が疎遠になってしまった。
「息子」「孫」「嫁」とはいいながら、今は、細い糸でつながっているだけ。

「元気か?」「元気だよ」で終わってしまう。
が、それではいけない。
いけないと思いつつ、あれこれ話すが、長つづきしない。
どこかに(無理)を感ずる。
(疲れ)を感ずる。

 ……と言いながらも、合計で、30〜40分ほど、話した。
孫たちが、いろいろなおもちゃを並べて見せてくれた。
英語でいろいろ説明してくれるが、あのフニャフニャ英語は、本当に聞きづらい。
半分も理解できない。
が、理解できたような顔をして、その場をとりつくろう。

 やはり、向うが、(この世)ということか。
私の住んでいる世界の方が、(あの世)。

「これからパンプキン畑へ遊びに行く」と息子たちは言っていた。
ダイナミズムがちがう。
私たちのほうは、たまたま就寝時刻ということもあって、のんびりとお茶を飲む。
「天国」という雰囲気ではないが、それに近い。
だから、こちらが(あの世)。

 私とワイフは、(あの世)にいる。
(あの世)にいて、(この世)にいる息子たちの生活を、のぞいている。
のぞきながら、安心している。

テレビ電話をしながら、そんなことを考えた。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●意識の連続性(改)091012版

+++++++++++++++++

ちょうど1か月前、「意識の連続性」について書いた。
その原稿が、ずっと気になっていた。
殴り書きしたような原稿で、電子マガジンの
ほうで、そのまま、発表してしまった。
もう一度、それを読み直し、推敲してみたい。

+++++++++++++++++

【生命から生命へ】(From Life to Life)
We live and die and repeat it again and again, conveying out Life to other all living 
creatures and things together with our consciousness.(後日、要推敲)

++++++++++++++

あなたの生命は、ほかのありと
あらゆる生命とつながっている。
過去から未来へと、つながっている。
生物、無生物を問わず、ありとあらゆるものと
つながっている。
それがわかれば、あなたは
もう孤独ではない。

もしあなたに「死」というものが
あるとするなら、それはあなたの
「意識」の死に、過ぎない。
もっと言えば、意識の連続性が、
一度、そこで途切れるに過ぎない。

だから、もしあなたが意識の連続性を、
あなたの肉体を超えて感ずることが
できたら、あなたは、もう「死」を
恐れることはない。

++++++++++++++

●生物の連続性

人は日々に死に、日々に生まれ変わる。
細胞の生死を考えれば、それがわかる。
死んだ細胞は、体外へ排出され、ときに
分子レベルにまでばらばらになり、また
別の生物や無生物の中へと、取りこまれていく。
と、同時に、私たちは日々に、ほかの生物や
無生物から、新しい肉体を作り、生きている。

こうして私たちの肉体はありとあらゆる生物と
つながり、「今」というときを生きている。
これを「生物の連続性」という。

●命

では、死んだらどうなるか。
が、基本的には、「死」は存在しない。
その人個人の意識は途絶えるが、生命は、
姿や形を変え、別の生物の中に取りこまれて
生きていく。

虫かもしれない。
花や木かもしれない。
動物や、魚かもしれない。
ともかくも、生きていく。

この連続性を総称して、「生命の連続性」という。

●意識

個人は、その人の意識によって特定される。
「私は・・・」というときの「私」である。
しかしその私にしても、肉体活動の一部で
しかない。
もっと言えば、脳の中を走り回る、電気的
信号のようなもの。
それを私たちは「私」と自覚する。

だからといって、「私」に意味がないというのでは
ない。
私が書きたいのは、その逆。
この「私」があるから、そこから無数の
ドラマが生まれ、人間の生活を、潤い豊かなものに
する。
もし「私」がなかったら、私たち人間は、そこらに
生える雑草のような存在になってしまう。

●死

では、「死」とは何か?
言うまでもなく、意識の途切れをいう。
その人の意識が途切れたとき、「私」は消える。
言うなれば、パソコンの電源を切るようなもの。
そのときから、見ることも、聞くことも、
感ずることもできなくなる。

しかし先にも書いたように、それで生命が
途切れるわけではない。
生物の連続性の中で、つぎつぎとあなたの生命は、
別の生命へとつながっていく。

●再生

そんなわけで、「生命」を、あなたという個人の
中だけに閉じこめておくのは、正しくない。
またそういう視点で、あなたという「私」を見ては
いけない。

もっと具体的に話してみよう。

脳も含めて、上は髪の毛から、下は、足の爪まで、
私たちの肉体は長くて1年足らずで、すべてが作り替えられる。
古い肉体は、つねに便となったりして、外に排出される。
が、それらは自然界でつねにリサイクルされ、無数の
生物の、一部となって再生されていく。
もちろんあなた自身の一部として戻ってくることもある。

●「私」という意識

こうした破壊と再生の中で、連続性をもつものが
あるとすれば、それが意識ということになる。
その意識が、「私」という意識を、もちつづける。

私の肉体、私の財産、私の名誉、私の地位、と。
こうして私という意識が、「私」をつくりあげていく。

●瞬間移動(転送)

映画『スタートレック』の中に、よく「転送」という
言葉が出てくる。
これはある一定の場所から、別の場所に、瞬時に
移動することをいう。
SF映画の世界でのことだから、まともに考えるのも
どうかと思うが、その転送について、こんな議論がある。

「転送されてきた人間は、もとの人間と言えるかどうか」
という議論である。

原理は、こうだ。

まずあなたという人間を、分子レベルにまで、バラバラに
する。
そのバラバラになったあなたを、電磁波か何かの(波)に
乗せて、別の場所に転送する。
そしてその別の場所で、もとどおりに、組み立てなおす。

そこであなたはこう考える。
見た目には、もとの人間と同じだが、しかしもとの人間は
一度死んだはず、と。
新しく再生された人間は、あくまでもまったく別の人間。

つまり転送を10回繰りかえせば、あなたは10回
死に、10回再生されたことになる。

●破壊と再生

人間の肉体は、転送という劇的な変化ではないにしても、
1年単位という時間の流れの中で、映画『スタートレック』の
中の転送と同じことを、繰りかえしている。

「劇的」というのは、映画『スタートレック』の中では、
すべてを瞬時にすることをいう。
一方、肉体のほうは、それぞれがバラバラに、長い時間をかけて、
徐々にする。

そこでもし、映画『スタートレック』の中の転送について、
あれは、「破壊」と「再生」を繰り返したもの、つまり
「一度死んで、再び、生きかえったもの」と考えるなら、
私たち自身も、同じことを繰りかえしていることになる。

「瞬時」にそれをするか、「1年」をかけてそれをするかの、
ちがいだけである。

●伝えられる意識

さらに……。
科学が進めば、(あなた)のコピー人間を作ることも、
可能になるだろう。
すでにクローン牛なども誕生している。

しかし意識は、どうか。
あなたのコピーは、あなたと同じ意識をもつだろうか。
あるいはあなたのもつ意識を、そのままそのコピー人間に
移植できるだろうか。
その答は、NO。

あなたのコピー人間は、ただのコピー人間。
たとえば私のコピーを作ったとしても、そのコピー人間が、
今の私と同じ意識をもつことはありえない。
肉体が別になれば、意識も別になる。
私のワイフを見て、私は逃げ回るかもしれない。

●コピー人間の意識

私が「私」と言えるのは、「意識の連続性」があるからにほかならない。
もし意識の連続性がなかったら、「私」はそのつど分断されてしまう。

たとえばクローン技術を使って、あなたのコピー人間を作ったとしよう。
見た目はもちろん、何から何まであなたと同じ人間である。
しかしそのクローン人間は、ここにも書いたように、「あなた」ではない。
意識の連続性がないからである。

(これに対して、左脳と右脳をつなぐ脳梁のような太い配線で、脳どうし
をつなぐことができれば、意識を共有することも可能になるかもしれない。)

同じように、先にも書いたが、あなたは日々に生まれ変わる。
古い細胞は死に、新しい細胞が生まれる。
1年前のあなたは、どこにも残っていない。
言い換えると、今のあなたは、1年前のクローン人間といっても、
さしつかえない。

が、あなたはあなた。
そういうあなたは、「私は私」と言うだろう。
それが意識の連続性ということになる。

●親子

さらに言えば、親子の関係も、それに似ている。
親子のばあいは、1世代、つまり約30年をかけて、
親は自分のクローン人間を作る。

自分の子どもは、約30年をかけて作る、自分
自身のクローン人間とも考えられる。
顔や姿は、配偶者のそれと半々するということになるが、
それは大きな問題ではない。

それに意識、……このばあい、ものの考え方も、
あなたのそれに似てくる。
ただ親子のばあいは、クローン人間とはちがい、
個人差はあるだろうが、ある程度は、意識の共有が
できるかもしれない。

自分の子どもを、別個の人間と区別できない母親というのは、
たしかにいる。

●意識があるから私

こうして考えていくと、「意識」の重要性が、ますます
理解してもらえると思う。
もっと正確には、「意識の連続性」ということになる。

言うなれば、「意識の連続性があるから、私」ということになる。
「私」イコール、「意識」。
「意識の連続性」。
「意識の連続性」イコール、「私」と考えてよい。

●あやふやな意識

が、その一方で、その「意識」ほど、あてにならない
ものもない。
「私は私」と思っている意識にしても、そのほとんどが、
意識できない「私」、つまり無意識の世界で作られた
私でしかない。

意識している私は、無意識の世界で作られている私に、
操られているにすぎない。
その反対の例が、催眠術ということになる。
「あなたはキツネだ」という強力な暗示をかけられた
被験者は、目が覚めたあとも、キツネのように、
そのあたりをピョンピョンと、とび跳ねたりする。

つまり脳の中には、無数の暗示が詰めこまれていて、
それが私たちを裏から操る。
それを私たちは、「私の意識」と思いこんでいる。

意識には、そういう問題も隠されている。

●私の死

そこで再び、「死」について考える。

「私」という意識は、脳細胞の中を走り回る電気的信号の
集合でしかない。
人間が霊的(スピリチュアル)な存在でないことは、認知症
か何かになった老人を見れば、わかる。
脳の機能が低下すれば、思考力も低下し、ついで、
意識の力も弱体化する。
「私」すら、わからなくなる老人も多い。

人間が霊的な存在であるなら、脳、つまり肉体の一部
としての脳の機能に左右されるということは、ありえない。

で、その電気的信号が止まったら、どうなるか。
それが「意識の途絶え」ということになる。

●すべてが消える

「死」についての説明は、これでじゅうぶんかも
しれない。
結論的を先に言えば、私たちは死によって、意識を失う。
意識の連続性を失う。
見ることもちろん、それを自覚することもない。
「見えない」ということすら、自覚することもない。

この大宇宙を意識している「私」すら、消滅する。
つまりこの大宇宙もろとも、消えてなくなる。
あなたが深い眠りの、そのまた数万倍、深い眠りに
陥った状態を想像してみればよい。
夢を見ることもない、深い眠りである。

(それでも、微量の意識は残るが・・・。)

それが「死」に近い状態ということになる。 

では、「私」とは何か。
つまりそれが「意識」ということになる。
「意識の連続性」ということになる。

●意識

結論は、もう出ている。
「意識」イコール、「私」。
「私」イコール、「意識」ということになる。

が、「意識」だけでは足りない。
「私」を意識するためには、繰り返すが、そこに
「連続性」がなければならない。
意識だけなら、空を舞う蚊にすら、ある。
あの蚊に、「私」という意識があるとは、とても
思えない。

しかしその「私」は、努力によっていくらでも
大きくすることができる一方、ばあいによっては、
犬やネコどころか、虫のそれのように小さく
してしまうこともありえる。

人間は平等とはいうが、こと意識に関しては、
平等ということはありえない。
深い、浅い、の差はある。
またその(差)は大きい。
その(差)は努力によって決まる。

そうした努力を、釈迦は、「精進(しょうじん)」
という言葉を使って説明した。

●生命の伝達

そこで生きている人間の最後の使命はといえば、
「生命の伝達」ということになる。
「意識の伝達」と言い換えてもよい。

再び映画『スタートレック』の話に戻る。
もし肉体の転送だけだったら、別の肉体をもう一個、
作っただけということになる。
あなたのコピー人間を作っただけということになる。

そこで当然、意識の伝達が、重要な要素となる。
そうでないと、転送先で、それぞれが、何をしてよいか
わからず、混乱することになる。
本人も、どうして転送されたのか、わからなくなって
しまうだろう。
与えられた使命すら、忘れてしまうかもしれない。
あなたに接する、相手も困るだろう。

(映画『スタートレック』の中では、この問題は
解決されているように見える。
しかしどういう方法を使って意識の連続性を保っているのか?
たいへん興味がある。)

そこで私たちは、生きると同時に、つねに意識の
伝達に心がけなければならない。
その意識の伝達があってはじめて、私たちは、
生命を、つぎの世代に伝えることができる。

●意識の消滅

個人の意識が途切れることは、こうした生命の
流れの中では、何でもないこと。
今、あなたが感じている意識しにしても、
あなたのほんの一部でしかない。

あなたの数10万分の1、あるいはそれ以下かも
しれない。
そんな意識が途切れることを恐れる必要はない。

●意識の伝達

それよりもすばらしいことは、あなたの生命が、
日々に、ほかの生物へと伝わっていること。
あなたの子どもに、でもよい。
ほかの生物が、日々にあなたを作りあげていくこと。
そうした生物ぜんたいの一部として、私がここにいて、
あなたがそこにいること。

つまりあなた自身も、無数の意識の連続性の中で
今を生き、そして無数の連続性を、かぎりなく
他人に与えながら、今を生きている。

が、それにはひとつの条件がある。

●無私

「私」という意識があるかぎり、またそれにとらわれているかぎり、
私たちは、「死」を恐れる。
「死」は、「喪失」以外の何物でもない。

そこで「私」という意識から、「私」をどんどんと取り除いていく。
言うなれば、丸裸にする。
なぜ、私たちが「死」を恐れるかと言えば、「私」があるから。
私の肉体、私の財産、私の名誉、私の地位、と。

そこで先に、その「私」を取り除いてしまう。
失うものが、何もない状態にする。
理論的には、それによって、私たちは、「死」がもたらす
喪失感、つまり恐怖から解放される。

●肉体の死

死ぬことを恐れる必要はない。
たとえばあなたはトイレで便を出すことを恐れるだろうか。
そんなことはだれも恐れない。
しかしあの便だって、ほんの1週間、あるいは1か月前には、
あなたの(命)だった。
その命が、便となり、あなたから去っていく。
また別の命を構成していく。

●意識の死

繰り返すが、肉体は、1年程度で、すべて入れ替わる。
では、意識はどうか?
意識と言うより、意識の連続性を支える「記憶」はどうか?

このことは、1年とか、2年前、さらには10年前に書いた自分の文章を
読んでみればわかる。
ときに「1年前には、こんなことを書いていたのか?」と驚くことがある。
あるいは自分の書いた文章であることはわかるが、まるで他人が書いた文章の
ように感ずることもある。

さらに最近に至っては、まるでザルで水をすくうように、知識や知恵が、
脳みその中から、ざらざらとこぼれ落ちていくのがわかる。
それを知るたびに、ぞっとすることもある。

若い人たちには理解できないことかもしれないが、現在、あなたがもっている
知識や知恵にしても、しばらく使わないでいると、どんどんと消えてなくなって
いく。
ついでに、意識も、それに並行して、どんどんと変化していく。
何も、肉体の死だけが死ではない。
意識、つまり精神ですら、つねに生まれ、そしてつねに死んでいる。
「私」という意識はそのままかもしれないが、その中身は、
映画のフィルムのコマのように、つねに作られ、つねに消されるを
繰り返しているにすぎない。

●死とは

もし「死」が何であるかと問われれば、それは
意識の連続性の(途切れ)をいう。
(途切れた)状態が、そのままつづくことをいう。
もう一度、映画のフィルムにたとえるなら、コマが切れた
とき、つぎのコマがなくなった状態をいう。

しかし心配無用!
あなたの意識は、(思想)として、残すことができる。
たとえば今、あなたは私の書いたこの文章を読んでいる。
その瞬間、私の意識とあなたの意識はつながる。
私はあなたと、同じ意識を共有する。
たとえそのとき、私という肉体はなくても、意識は
残り、あなたに伝えられる。

私の肉体は、「私」を意識しないかもしれないが、
別の肉体が、「私」を意識する。

もちろんその反対もある。
私があなたの書いた(思想)を読んだとき、私の肉体が、
「あなた」を意識する。

これを「意識の共有性」という。

●重要なのは、意識の共有性

反対に、こうも考えられる。
仮に肉体は別々でも、そこに意識の共有性があれば、「私」ということに
なる。

では、その意識の共有性は、どうすれば可能なのか?

ひとつの方法としては、SF的な方法だが、他人の意識を、自分の脳の
中に注入するという方法がある。
先にも書いたように、他人の脳と、電線のようなものでつなぐという方法もある。
もっと簡単な方法としては、どこかのカルト教団がしているように、たがいに洗脳
しあうという方法もある。

が、自分の肉体にさえこだわらなければ、今、こうして私が自分の意識を
文章にする方法だって、有効である。
この文章を読んだ人は、肉体的には別であっても、またほんの一部の意識かも
しれないが、そこで意識を共有することができる。
それが意識の共有性につながる。

つまりこうして「私」は、無数の人と、意識の共有性を作り上げることに
よって、自分の「生命」を、そうした人たちに残すことができる。
もちろんそうした人たちも、また別の人たちと共有性を作り上げることに
よって、自分の「生命」を、そうした人たちに残すことができる。

人間は、こうして有機的につながりながら、たがいの生命を共有する形で、
永遠に生きる。
つまり「死」などは、存在しない。
繰りかえすが、個体として肉体の「死」は、死ではない。

●時空を超えて

さらに言えば、私という肉体はそのとき、ないかもしれない。
しかし時の流れというのは、そういうもの。
一瞬を数万年に感ずることもできる。
数万年を一瞬に感ずることもできる。
長い、短いという判断は、主観的なもの。
もともと時の流れに、絶対的な尺度など、ない。

寿命があと1年と宣告されても、あわてる必要はない。
生き方によっては、その1年を100年にすることもできる。
(年数)という(数字)には、まったく意味がない。

●大切なこと

大切なのは、今、この瞬間に、私がここにいて、
あなたがそこにいるという、その事実。

あなたの意識は、あなたの肉体の死とともに途切れる。
しかしその意識は、かならず、別のだれかに伝えられる。
こうしてあなたは、べつのだれかの中で、生き返る。
それを繰り返す。

そこで大切なことは、本当に大切なことは、よい意識を残すこと。
伝えること。
それが私たちが今、ここ生きている、最大の目的ということになる。

●もう恐れない

さあ、もう死を恐れるのをやめよう。
死なんて、どこにもない。
私たちはこれからも、永遠に生きていく。
姿、形は変わるかもしれないが、もともと
この世のものに、定型などない。
人間の形だけが、「形」ではない。
また私たちの姿、形が、ミミズに変わったとしても、
ミミズはミミズで、土の中で、結構楽しく暮らしている。
人間だけの判断基準で、ほかの生物を見てはいけない。

そうそう犬のハナのした糞にさえ、ハエたちは
楽しそうに群がっている。
それが生命。

●日々に死に、日々に生まれる

私たちが日々に生き、日々に死ぬことさえわかれば、
最後の死にしても、その一部にすぎない。
何もこわがらなくてもよい。
あなたは静かに目を閉じるだけ。
眠るだけ。
それだけで、すべてがすむ。

あなたはありとあらゆる生物の(輪)の中で生きている。
あなたが死んでも、その輪は残る。
そしてあなたはその輪の中で、この地球上に生命が
あるかぎり、永遠に生きる。

しかしそれとて何でもないこと。
なぜならあなたはすでに、毎日、日々の生活の
中で、それをしている。
繰りかえしている。

あとはその日まで、思う存分、生きること。
あなたという意識を、深めること。
つぎにつづく人や生物たちが、よりよく生きやすくするために……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 生命論 意識論 生命の連続性 はやし浩司 意識の共有性 死に
ついて 090907)

(補記)
一気に書き上げた文章なので、随所に稚拙な部分、わかりにくい部分があるかもしれない。
今はこのままにし、しばらく時間をおいてから、推敲してみたい。
(文章の一部からでも、何かを感じとってもらえれば、うれしい。)

要するに私は、この原稿の中で、「死」を(肉体の死)と(意識の途切れ)に
分けて考えてみた。
肉体の死については、何も「死」だけが死ではない。
私たちは、毎日、死に、そして生まれ変わっている。
意識にしても、そうだ。

そこで重要なのは、(意識の共有性)ということになる。
たしかに死によって、私たちの意識はそこで途切れるが、
だからといって、それで(意識)が死ぬわけではない。

現に今、あなたはこの文章を読んでいる。
読んだとたん、私の意識は、あなたの中に伝達されることになる。
あなたの中で生きることになる。
そして今度は、あなたは私の意識を土台に、さらに自分の意識を発展させる。
こうして意識もまた、永遠に、生き残っていく。

そこで「死など、恐れる必要はない」と書いたが、それにはひとつの
重要な条件がある。
それは「今を、懸命に生きること」。
とことん懸命に生きること。
過去にしばられるのも、よくない。
明日に、今日すべきことを回すのも、よくない。
要するに、「死」に未練を残さないこと。
とことん燃やしつくして、悔いを明日に残さないこと。
あなたが今、健康であっても、またそうでなくても、だ。
それをしないでいると、死は、恐ろしく孤独なものになる。
人間は、基本的には、その孤独に単独で耐える力はない。

……と書きつつ、これは私の努力目標である。
いろいろ迷いや不安はあるが、とにかくその目標に
向かって進んでいくしかない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【BW教室より】

++++++++++++++++

「ゲームをしよう」と、子どもたちは言う。
「ダメだよ」と私は、答える。

あとは、押し問答。

「どうしてダメ?」
「お父さんに叱られるよ」
「どうして?」「どうして?」と。

++++++++++++++++

 現在の教育内容は、子どもたちの知的好奇心を満足させるようには、できていない。ま
たそういう方向性を、もっていない。

 教科書にしても、「ここまで勉強しなさい」「しかしここまでやればじゅうぶん」とい

内容になっている。だれが決めたのかはしらないが、そうなっている。

 50〜60%の子どもには、それでもよいのかもしれないが、しかし知的な意味で、好
奇心がおう盛な子どもには、不十分である。昨日も、小5クラスの子どもたちと、こんな
会話をした。

A子「こんど、囲碁をもってきてもいい?」「先生と、勝負する!」
私 「ダメだよ。ぜったいにダメ」
A子「どうしてエ〜?」
私 「あのね、そんなことをしていたら、お父さんに叱られるよ」
A子「だってエ〜、お母さんが、一度、林先生と勝負したらって、言っているよ」

B子「だったら、私も、将棋をもってくる」
私 「ぜったいに、ダメ!」
B子「いいじゃん。私、強いわよ」
私 「あのなア、そんなことをしていたら、先生は、クビになってしまうよ」
B子「ううん、そんなこと、ぜったいに、ない。だってエ、この前、パズルを解いて、先
生と遊んだとママに言ったら、よかったねと言ってたヨ」

 そう、あなたは、子どもたちがもつ、あの燃えさかるような好奇心に触れたことがある
だろうか。それは、まさに火傷(やけど)をするほど、熱い。そんな子どもたちが、つま
らない(失礼!)教科書を前に置いて勉強(?)をしている。

 それはたとえて言うなら、自由に飛び回っている小鳥を、小さなカゴの中に閉じこめる
ようなもの。だからときおり、子どもたちは、悶々とした欲求不満を、私にぶつけてくる。

私 「静かに、勉強しろ」
C君「もう、じゅうぶん、している」
私 「クラスで1番になれ」
C君「とっくの昔に、1番だよ。でも、1番なんて、つまらない。先生に当ててもらえな
い」
私 「どうして?」
C君「どうせ、できるからって、先生に、無視される」

A子、B子、「私も、そう。うちの先生も、私には、当ててくれない」「本当にそう。い
やになっちゃう」と。

 幸せな子どもたちである。英語でいう、「Gifted Children」と呼ばれ
る子どもたちである。9人のクラスだが、ほぼ全員が、現在、中学校で使う教科書を使っ
て、勉強をしている。

 が、こう書くと信じてもらえないかもしれないが、私は、ほとんど何も教えていない。
「わからないところがあったら、もってきな」とだけは言うようにしている。が、それに
ついても、「パパに教えてもらったからいい」とか、「ママに聞くからいい」とか言う。
さらには、「先生だけには、教えてもらいたくない」とか、とんでもないことも言う。

 へたに私が何かを教えようとすると、怒りだしてしまう。泣き出してしまう子どももい
る。私に教えられるのが、よほど、くやしいらしい。「林を、やっつけろ」というのが、
彼らの合言葉になっている。

 私が教えなくても、子どもたちは子どもたちどうしで、刺激しあいながら、勝手に伸び
ていく。そういう意味では不思議なクラスだ。ワイワイと騒いでいるから、何もしないか
というと、そういうことはない。ちゃんと、やるべきことはしっかりとやって帰る。

 で、そういう子どもを伸ばすには、どうしたらよいのか。私は、好き勝手なことを言い
あっている子どもたちの姿を、横目で見ながら、それを考える。

 ひとつの方法としては、この10月だけでも、教科書を離れて、「数学」を教えるとい
うのがある。大きな書店へ行くと、数学の専門書がたくさん並んでいる。それを使って教
える。

 さっそくだが、今日の午後は、その本を仕入れるために、街中にある書店へ足を運んで
みるつもり。私ができることは、せいぜい、その程度のことでしかない。

来週、子どもたちが喜ぶ顔が、楽しみだ。

 待っていろよ、子どもたち。君たちの脳みそを、グチャグチャに、引っかきまわしてや
るからな!


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●子どもの世界

++++++++++++++++

子どもの世界には、ウソがない。
自分を隠さないから、それがそのまま、
人間の本性ということになる。

その本性に触れるたびに、
「ああ、これが人間だ」と思う。

++++++++++++++++

 昨日も幼児たちと、こんな会話をした。おじいちゃん、おばあちゃんについてだ。ある
子ども(年長児)が、こう言った。「ぼくには、おじいちゃんとおばあちゃんが、3人、
いる」と。

 すると別の子が、「私は、4人」「ぼくは、2人」と言い出した。が、A君は、「ぼく
には、いない」と。

私「いないの?」
A「みんな、死んじゃった」
私「みんな?」
A「うん、死んじゃった」
私「それは、さみしいね」
A「ううん、ゼンゼン」

私「おじいちゃんが死んだとき、泣かなかったのか?」
A「泣かないよオ〜」
私「おばちゃんが死んだときは、どうだった?」
A「泣かないよオ〜」と。

 この時期の子どもは、「老人は死ぬもの」と考えている。「死んで、当たり前」という
考え方をする。「死」が「喪失感」につながるのは、子どもが、小学3、4年生以上にな
ってからと考えてよい。幼児教育をして、37年目になるが、いまだかって、幼児が、お
じいちゃんやおばあちゃんが死んで、泣いたという話は、聞いたことがない。

 A君の話を聞きながら、「そういうものだろうな」と、自分を納得させる。つまりそれ
を基盤に、子どもの心を考える。ついで、そこからはじまる、人間の心を考える。 

 つまりここにも書いたように、死について、喪失感がともなうようになるのは、子ども
が、小学3、4年生以上になってからである。そのころを過ぎると、「失う」ことへの恐
怖感が、悲しみに転化するようになる。

 しかしこれにも個人差がある。それまでの人間関係の濃密さの問題もある。私のばあい
は、20歳前後で祖母を、25歳前後で祖父をなくしている。生まれたときから同居して
きた祖父母である。

 その祖父のときは、涙をこぼしたような記憶はあるが、祖母については、ない。それま
で10年近くも寝たきりだったから、「ああ、死んだか」というような感じだった。

 母方の祖父は、私が3、4歳のときになくなっている。祖母は、高校生くらいのときに
なくなっている。祖母がなくなったとき、私は泣いたが、その祖母がなくなったというこ
とで泣いたのではない。

 伯父が、葬儀の席で、「おふくろ、ごくろうさんだった」「ごくろうさんだった」と泣
いているのを見て、泣いた。

 話をもどすが、人間の心に宗教性が芽生えるのも、やはりそのころと考えてよい。つま
り小学3、4年生のころである。そのころ、不可思議なものへの関心が、「霊」という存
につながっていく。うらないや、まじないに興味をもち出すのも、やはりこのころである。

 ところで話は大きく飛躍するが、その子どもが現実的であるか、現実的でないかは、そ
の子どものもつ合理性によるものと考えてよい。さらに合理性は何によって決まるかとい
えば、思考力による。思考するという習慣によって決まる。

 わかりやすい例では、たとえば夢うつつの状態がある。あなたがぼんやりと、半眠の状
態で、うとうととしているときを、頭の中で思い浮かべてみればよい。その夢うつつとい
う状態になると、思考力が低下する。そしてそういうときというのは、非現実的なものを、
現実的なものとして、受けいれてしまう。よい例が、『不思議の国のアリス』である。夢
の中の世界を、アリスという少女が冒険するという、あの話である。

 言いかえると、この時期までの思考力というか、思考する習慣が、子どもの合理性に大
きく作用するということ。知識や経験ではない。「思考するという習慣」である。それが
子どもをして、合理的に考える子どもにする。

 そんなわけで、この時期、子どもが、神や仏を否定しても、驚かない。またそれを悪い
ことと決めてかかってはいけない。むしろ、まだ判断力もない子どもに、神の存在や、仏
の心を押しつけるほうこそ、問題である。できれば少なくともこの時期までは、そういう
押しつけはしないほうがよい。

 「この時期」というのは、小学3、4年生ごろをいう。この時期というのは、ちょうど
自己意識が完成し始める時期と重なる。人間の記憶も、この時期を境に、急に鮮明になっ
てくる。子どもが自分で自分をコントロールすることができるようになるのも、やはりこ
の時期である。

 まあ、私も、その祖父になった。別に悲しんでほしいとは思わないが、私が死んだとこ
ろで、孫たちには、何ともないだろう。息子たちにしても、何ともないだろう。ひょっと
したらワイフにしても、私が死んだら、その解放感に酔いしれるかもしれない。

 考えてみればさみしいことだが、死ねばそのときは、そのとき。あとは何もわからない。
わからないまま、チリとなり、灰となる。

「ううん、ゼンゼン」と言った子どもの言葉を思い出しながら、改めて、「そういうもの
だろうな」と、自分を納得させる。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●教師の淫行

++++++++++++++++

またまた1人の教師が、淫行何とかで、
逮捕された(浜松市)。

朝食のとき、ワイフと、
それが話題になった。

++++++++++++++++

 朝食のとき、ワイフがこう言った。「今度は小学校の先生が、女子中学生とホテルへ行
っていたんだってエ」と。

 見ると、その記事が、デカデカと新聞に載っていた。

私「これだけつづくと、もう、うんざりだね」
ワ「ホント。どうして、そんなことするのかしら?」
私「はあ、ぼくにもよくわからない」と。

 2年ほど前だが、こんなことがあった。女子中学生、4、5人を連れて映画を見にいっ
たときのこと。帰りに、記念にと、みんなでプリクラ写真を撮った。

 もちろん親たちの承諾を得てから、そうした。で、その写真を、Rさんという女の子(中
2)が、学校で自分の友だちに見せたらしい。そしたら、その友だちが、私の顔を見て、
こう言ったという。

 「結構、かわいいじゃん」と。

 で、私が、「それ、どういう意味だ?」と聞くと、「つきあってもいいという意味だよ」
と教えてくれた。

 この話はここで終わったというか、つづいてRさんが、こんな話もしてくれた。何でも、
廊下に、ウンチがポタリと落ちていたというのだ。Rさんは、「男子のウンチだ」と言い
張ったが、私は、「女子のウンチだ」と言った。

 「どうして?」と聞いたので、「だって、男は廊下では、ウンチはできない。ズボンを
はいているから」と話してやった。

 女子中学生という年齢は、そういう年齢である。50歳をすぎた男を、「かわいい」と
言ってみる半面、廊下で、ウンチを落とす。今度の教師も、その女子中学生とつきあって
いたという。

私「先生なら、子どもというものがどういうものか、よくわかっているはずなのにね」
ワ「そうよねエ〜」と。

 私の印象では、こうした事件は、まさに氷山の一角。今の今も、学校の先生も含めて、
無数の男たちが、女子中学生や女子高校生と、ベッドの上や暗い部屋の一室で抱きあって
いるはず。それを止めるのは、もう、この日本では、不可能と言ってもよい。

 車もある。携帯電話もある。それにホテルもある。ないのは、倫理観、道徳観、宗教観、
それに思考力。

 夕方の街を歩いていると、そうした光景をあちこちで見かける。あやしげな雰囲気の男
と女。コンビニが、待ちあい場所になることが多い。そういう光景に、割って入ることが
できるというのか。

 私も、そういう光景を見ることは多い。しかしいつも、見て見ぬフリ。どうしようもな
い。

 だから私がいつも言っているように、こうした売春を止めるには、厳罰主義しかない、
ということになる。アメリカではもちろん、オーストラリアでも、そうしている。

さらにオーストラリアでは、そういう行為を見聞きしたものは、警察への通報義務まで
ある(南オーストラリア州)。それを怠ると、その見聞きした人まで、逮捕される。

 若い女性が近づいてきただけで、真っ青になる。そういう雰囲気さえできれば、この種
の事件は、少しは減る。

 人間にかぎらず、おしなべて動物がもつ性欲の力には、ものすごいものがある。ふつう
の理性や知性で、コントロールできるようなものではない。こうした事件を引き起こす学
校の先生たちは、はからずも、その「力」を、身をもって証明していることになる。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●打倒、韓国!

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サッカーだけが、国際試合ではない。

現在、経済の世界では、日本と韓国は、
まさに熾烈(しれつ)な戦いを繰り
ひろげている。

勝つか、負けるか。

しかしこの試合は、サッカーとは、
わけがちがう。日本の浮沈のみならず、
日本の将来がかかっている。

負けるな、日本!
打倒、韓国!

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 ここにきて、日本側の猛烈な反撃が始まった。それはまさに、「猛烈な反撃」。サッカ
ーにたとえるなら、11人対11人の試合の中に、日本側が、20人以上もの選手を投入
したような反撃である。

 反則? とんでもない。この世界には、反則というルールなど、ない。

 敵は、韓国のサムソン社(IT関連企業)、それに現代社(自動車製造会社)。ほかに
も、造船、鉄鋼など、いくつかの国策会社があるが、それは中国に任せればよい。

 まずアメリカ市場における、いくつかの事実を、並べてみよう。

 日本製のプラズマテレビ(42インチ、パナソニック製)……1999ドル
 韓国製のプラズマテレビ(42インチ、サムソン製)  ……2199ドル

 さらにこの値段から、パナソニックは、その場で200ドルの値引きをしている。だか
ら実勢価格は、何と、1799ドル! さらに日本のシャープは、同型で、韓国の液晶テ
レビより、約40%も安い値段で、販売している。40%だぞ!

 ハハハ。

 どうだ、韓国! 思い知ったか、日本の実力!

 自動車産業の世界でも、同じようなことが起きている。

 日本製の小型車(トヨタ、ビッツ)は、同型の韓国製の自動車の小型車(現代、ベルナ)
よりも、875ドル(約10万円)も、安く販売されている。10万円だぞ!

 その結果、トヨタのカローラは、昨年同期にくらべて、14%増。ホンダのシビックは、
11%も、今年に入ってから、売り上げを伸ばしている。トヨタのイストは、20%も、
伸ばしている。

 半面、韓国の自動車は、小型車のベルナなどは、13%減。準中型車のアバンテ(輸出
名エラントラ)とプライド(輸出名リオ)は、販売量も10%以上も低下している。

 わかるか? 10〜20%も売り上げを伸ばしている日本。その一方で、韓国は、10
〜13%も、売り上げを減らしている。

 ハハハ。

 が、ここにきて、さらに打倒、韓国の動きが加速してきた。台湾、インドへの肩入れで
ある。つまり韓国から日本外資を引きあげる一方で、その額を、台湾やインドに投資し始
めている。あの小泉首相は、つい先日、こう言い切った。「(反日も結構だが)、後悔す
るのは、韓国のほうだ」と。

 で、なぜ、今、打倒、韓国なのかは、今さら言うまでもない。少し経済力をもったこと
をいいことに、そして、日本がおとなしくしていることをいいことに、韓国は、まさにし
たい放題。言いたい放題。

 今日(9月26日)も、こんなニュースが伝わってきている。

 何でも、K国の再建計画を韓国政府が立てたというのだ。それによれば、K国の核開発
問題にからんで、韓国は、3段階に分けて、K国の再建を支援するという(注※)。

現段階につづいて、6か国協議に応じた段階、さらに核開発を放棄した段階、と。電気、
道路、鉄道の整備など、まさにいたれりつくせりの援助だが、そのつど莫大な再建費用が
かかる。が、その費用については、「日本から出させる」と。

 バカめ!

 どうして韓国の考える再建計画に応じて、日本が、お金を出さねばならないのか。自分
を何様だと思っているのか。日本とK国の問題は、あくまでも日本とK国の間の問題。日
本は韓国の指導に従う必要はまったくないし、その前に、どうして韓国の指導に従わねば
ならないのか。

 とにかく、私には、韓国政府、とくにN大統領の考えていることが、まったく理解でき
ない。

 忘れてならないのは、日本は韓国なしでも生きていかれるが、韓国は、日本なしでは生
きてはいかれないということ。が、その韓国のN大統領は、こう言っている。「日韓首脳
会談の開催については、日本側がどのように出るかにかかっている」(同26日)と。

 さらに韓国外交通商省の次官でさえ、27日の定例会見で、日韓首脳会談の展望につい
て、「日本が日韓関係の諸般の葛藤解消に向け、真摯な姿勢を見せれば、いつでも可能だ」
と述べている。

 つまり「日韓会談をしたかったら、してやる」「それには、日本の態度次第」と。まだ
安倍総理大臣のほうからは、一言も、日韓首脳会談をしたいとは言っていない。にもかか
わらず、そういうことを口にする。

 現状を見るかぎり、立場は逆ではないのか。

注※……権議員によると、統一部は今年3月に青瓦台(大統領府)に対し、この計画案を
提出したという。北朝鮮の6カ国協議復帰とその後の核廃棄を想定した経済協力ロードマ
ップの形で、現行の経済協力を1段階、核開発モラトリアムの進行と6か国協議への復帰
を2段階、核プログラムの完全放棄を3段階に設定している。2段階の経済協力計画には
「3大基本事業」が含まれており、電力、鉄道・道路、通信システムの支援が主な骨子とな
る。電力支援は200万キロワットの供給とそれ以前の重油提供(3年間)、それとは別
途に開城工業団地2段階推進時に発電所を建設するか、事業者が費用を負担する産業的送
電方式転換などを含む。鉄道・道路では京元線と国道3号線の連結、通信では北朝鮮内の
電話局建設など。このほか、金剛山完工地域を北朝鮮の固城地域まで拡大することも計画
しているという。3段階には、朝鮮半島銃弾鉄道(TKR)とシベリア横断鉄道(TSB)
運営が含まれる。 

 予算については、2段階の3大基本事業の推進に最小39兆ウォン、適性費用としては
74兆ウォンが推算されているとしている。財源として、政府出捐金として毎年1兆ウォ
ンを追加、特別信託基金、銀行企業連合の構成、北東アジア銀行・ODA(政府開発援助)
支援の要請、日朝国交正常化の際の補償金活用、経済協力企業基金設置、目的税導入、な
どの案が検討されていると説明した。(ヤフーニュースより)
 
【補足】

++++++++++++++++++

少し前に書いた原稿をいくつか、
ここに載せておきます。

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●もっとも立派だと思う国……日本

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韓国の反日ムードを嫌い、
このところ日本企業は、韓国から去り、
その目を、台湾に向け始めている。

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 今年1〜4月期の日本からの台湾投資は、2億1100万ドル(約238億円)となり、
前年同期比で、112%も増加した。

 とくに、薄膜トランジスタ液晶表示装置、半導体、自動車、電子および部品、機械、ゲ
ームプログラムという、5つの中心産業での投資が著しい。そしてこれらの産業は、すべ
て韓国の国内産業と競合するものばかり。

 具体的には、NECは、台湾に台湾光電という会社を設立。台湾企業に、日本の主要I
T企業の生産(OEM)基地としての役割をもたせようとしている。

また、ソニーとNECは、2004年から、毎年50億〜60億ドル程度のIT製品を
台湾から購入しており、台湾に,インターネット情報家電、および、半導体研究開発セン
ターを設立している。

 わかりやすく言えば、日本は、現在、打倒韓国の旗印のもと、静かに、かつ密かに、台
湾の基幹産業にテコ入れを始めたことになる。ターゲットは、もちろん、液晶パネル。す
でにその波及効果は、現れ始めている。

 韓国のL社といえば、液晶パネル生産では、一時は一世を風靡(ふうび)した会社とし
てよく知られている。昨年のはじめまでは、どこのショッピングセンターに行っても、L
社の液晶テレビが、店頭を飾っていた。が、時代は変わった。今年は、L社だけでも、数
百億円の赤字が見こまれている。

 こうした日本の動きに、嫉妬し、危機感をいだいているのが、韓国。韓国のI貿易研究
所主席研究員は、『日本と台湾が投資と提携をふやせば、台湾と主力輸出産業が重複する
韓国の輸出が、打撃を受ける可能性がある』と話している。

 こういうのを、韓国では、「ブーメラン効果」と呼んでいる。日本をたたけばたたくほ
ど、その効果は、ブーメランのようになって、韓国に打撃を与えるというもの。

 私たち日本人の知ったことではないが……。

 なお台湾のビジネス誌「遠見」によれば、全4質問中、「移民したい国」「立派だと思
う国」「旅行したい国」の3質問で、日本がトップになったという(06年6月29日)。

 調査は、台湾全土で、20歳以上、約1000人の人について、行われた。以下、その
結果。

「移民したい国」   日本……32.3ポイント
米国……29.1ポイント
カナダ…26.5ポイント

「最も立派と思う国」 日本……47.5ポイント
米国……40.3ポイント
中国……15.8ポイント

 日本は、こういう国を、もっと大切にしようではないか! 

 我愛台湾!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●極東アジア情勢

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極東アジア情勢が、目下、激変中!

米韓関係の崩壊、韓国に触手をのばす中国、
急接近する日米両国、崩壊寸前のK国。

ふつう、サッカーというのは、2チームで
戦うもの。だが、現在の極東情勢は、
まるで、4チーム、5チームが
混戦試合をしているようなもの。

どうなる、極東情勢!

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 日本のK首相が、8月15日に、Y神社を参拝すれば、「待ってました!」とばかり、
韓国のN大統領は、大騒ぎするはず。反日運動を開始するはず。今ごろは、手ぐすね引い
て、その時機を、うかがっているはず。今のN大統領には、反日しか、生き残る道はない。

 こういう状況の中、アメリカは、韓国からの撤退を、正式に発表した(8月7日、アメ
リカ国防省発表)。遅くとも2009年までには、そうなる。戦時作戦統制権を韓国に移
譲するということは、即、アメリカ軍の韓国からの撤退を意味する。

 どうしてアメリカ軍が、韓国軍の指揮下に入らなければならないのか。

 一方、日本は、韓国に対して、本気で、経済戦争をしかけ始めている。

 東芝は、8月はじめ、第4番目の半導体工場に着手した。投資規模は、6000億円。
2008年から、NANDフラッシュメモリーの量産体制に入る。

 さらに08年までに、総額1兆円の大型投資を予定している。もちろん敵は、韓国のサ
ムソン。

 また日本第2位の半導体メーカーの、エルピーダは、やはり今月はじめ、1兆円の投資
をして、半導体生産ラインを拡充すると発表。09年3月以前に、量産体制に入る。

そのほか、プラズマテレビの分野でも、松下、パイオニアも、相ついで工場を増設しつ
つある。

松下は、6月、主力工場である兵庫県尼崎工場の生産量を、年間340万枚にふやした。
さらに08年をめどに、同じ尼崎に、2番目の工場を建設しつつある。

パイオニアも、同じように300億円を投資し、山梨県に新工場を建設する予定でいる。

 シャープも負けていない。8月末から、いよいよ第8世代の液晶生産ラインと呼ばれる、
生産ラインを使って、液晶の量産体制に入る。

 サムスン電子の幹部は、「日本のメーカーがこのような攻撃的投資に乗り出しているの
は、業績回復に伴う自信が反映されている」(朝鮮N報)と話している。

実際、ソニー、松下、シャープ、東芝、キャノン、富士通など日本の電子メーカーは、今
年第1四半期では、一斉に黒字を計上しており、大型投資に乗り出す下地を確保して
いる。

 そして今まで、韓国内で下請けさせていた部品などについては、その工場を、台湾やそ
のほかの国々に、移しつつある。

 つまりこれらの一連の動きは、明らかに、打倒韓国を意識したもの。1、2年前から、
各社によって綿密にねられた作戦によるものと考えてよい。

「反日運動をするならするで結構。しかし日本だって、黙ってはいないぞ」という、強
烈なメッセージが、これらの動きの中にこめられている。

 が、ひとりノー天気なのが、韓国のN大統領。こうした日米の動きに反比例する形で、
急速に中国に接近を試みている。

 しかし、だ。中国がそんな甘い国でないことは、チベットを見ればわかるはず。台湾を
見ればわかるはず。へたをすれば、竹島(独島)どころか、38度線以北を、中国に乗っ
取られてしまう。

 またアメリカ軍が韓国から撤退すれば、再び、韓国を通貨危機を襲うかもしれない。そ
の可能性は高い。どこのだれが、そんなあぶない国に、投資などするだろうか。今の韓国
の平和がかろうじて維持されているのは、強力なアメリカ軍が駐留しているからにほかな
らない。

 そういえば、先ごろ、その通貨危機について、もし日本が通貨危機に陥れば、韓国は5
0億ドル、反対に韓国が通貨危機に陥れば、日本は100億ドルの金額を、それぞれ相手
の国に支援するという。そういう取り決めがなされた※。

 一見、何とも不平等な取り決めのように見えるかもしれないが、言いかえると、「日本
は、100億ドルしか支援しませんよ」という意思表示をしたことになる。前回、韓国が
デフォルト(国家破綻)したときには、100億ドルの緊急融資のほか、日本は、アジア
開発銀行などを通して、総額500億ドル近い支援をしている。

 儒教の国でありながら、韓国のN大統領という人は、そういうことについては、まった
く恩義を感じない人らしい。つまり日本は、先手を打って、「つぎは、100億ドルまで」
と決めこんだわけである。

 残るはK国。今では中国にも見離され、孤立無援。中国でさえも、「韓国は、(中国の)
親戚だ」(中国外交部・報道官・8月9日)と言いだした。で、そのK国だが、こんなお
もしろいエピソードが、もれ伝わってきている。

 国連安保理で、中国が非難決議案に賛成したときのこと。K国の外務省は、駐P中国大
使を呼びつけ、「裏切り行為」と非難したという。が、このあとが、実にK国らしい。ヤ
フーのニュースを、そのまま紹介する。

「同じころ北京では、C・K国大使が、R中国外相に面会を求めた。しかし断られたこ
とから、K国のC大使は、大使館員10人とともに3台の車で中国外務省に押しかけ、
同省前で3時間以上にわたり、『裏切り者』などの言葉を荒々しく繰りかえした。同省は
無視しつづけたが、『現場の様子があまりに険悪で、警察を呼ぶ話もあった』(香港の中
国消息筋)という」と。 

 K国の大使館員たちが、中国の外務省前で、「裏切り者」と言って、3時間もねばった
というのだ。

K国は、もう、ここまで狂っている。

 さて8月15日まで、あと残すところ、6日。日本のK首相は、Y神社参拝の参拝の腹
を決めたようである。が、もしこういう状況の中で、K首相がY神社を参拝すれば、どう
なるか。

 その日を境に、極東アジア情勢は、さらに混乱する。一次的には、中国、韓国の反日勢
力を勢いづかせる。二次的には、その勢力にのって、韓国のN大統領一派が、反日運動を
展開する。中国も、それに同調する可能性が、きわめて高い。

 具体的には、韓国はさらに竹島の実効支配を推し進めるだろう。中国は、尖閣諸島周辺
での油田開発を、堂々と推し進めるだろう。

 ますます極東アジア情勢は、不安定になる。つまり戦争への道を、日本は、一歩、踏み
出すことになる。ひとり日本のK首相は、「平和の誓いのため」と言っているが、そんな

理は、日本の外では、通用しない。

私の知ったことではないが……。

(注※)日韓両国は通貨危機などの際、総額150億ドルで、互いに支援しあう通貨スワ
ッピング契約を締結することに合意した。 

 韓国のH副首相兼財政経済部長官と谷垣禎一財務大臣は、4日、東京で第1回、日韓財
務相会合を開き、このような内容を盛り込んだ合意分を発表した。 

 両国が発表した6項目からなる合意文によると、韓国の通貨危機時には、日本は100
億ドルを、日本の危機時には韓国は、50億ドルをそれぞれ支援することにしたという。

(この原稿は、8月9日に書いたものです。マガジンに載せる、9月13日には、情勢が
大きく動いているかもしれません。)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●逃げ出した資本

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韓国から、資本が逃げ出し始めている。
人も、金も、そして技術も、だ。

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 韓国から逃げ出す人たちが、このところ急速にふえている。

 現在、留学や語学研修のために、現地で、90日以上滞在している長期出国者は、05
年度で、10万2085人(朝鮮N報調べ)に達している。その数は、前年度(04年)
よりも、14%もふえている。

 さらに05年度に、アメリカの永住権を取得した韓国人は、2万5000人(同)。そ
のうち就職移民は、1万6167人(同)。この数は、前年度(04年)の、約2倍であ
る。

 海外へ脱出している韓国人は、「韓国で働き口の見つからない若者たちだけではない。
医師、韓方医・看護師・研究員など、専門職の高級人材も韓国での生活に見切りをつけ、
見知らぬ地を目ざしている」(同)とのこと。

 一番人気はアメリカで、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドがつづく。(反米
を唱える国で、アメリカが一番人気というのも、おかしなことだが……。)

 当然、人が出て行けば、金(マネー)も出て行く。

 留学、研修の費用として持ち出される金額は、2000年には9億6000万ドル(約
1120億円)だったのが、昨年(05年)は33億7000万ドル(約3930億円)
と、3倍以上に増えた。

この額は、「現代(ヒョンデ)自動車が、ソナタ1台を売って手にする利益は1000ド
ル(約11万7000円)だ。つまりソナタ337万台を輸出してやっと稼げるほどの
外貨」(同)に等しいという。

 そのほか、今年(06年)に入ってから8月までに海外の不動産を購入するために持ち
出された金額も、2億5326万ドル(約294億円)におよぶ。その額は、昨年(05
年)、1年間に記録した932万ドル(約10億9000万円)の27倍にもなる。さら
に、海外の株式や債権を買い付けるのにも150億ドル以上がつぎ込まれ、その額は昨年
より50%以上増加している(同)。

 朝鮮N報は、社説の中で、こう書いている。

 「高賃金・政府規制・労使紛争に悩まされる企業が、韓国を脱出する光景は、もう見な
れたものとなってしまった。今年上半期の海外直接投資額(申告基準)は、70億800
0万ドル(約8250億円)で、昨年の同期より83%も増加した。N政権が発足してか
ら3年8か月の間に、人もカネも企業も先を争うように韓国を脱出している。 

 中身のない教育が生徒と保護者を海外に追いやり、雇用の不振が社会の要である青壮年
を追い出し、政権の気まぐれな増税が決して貧しくない人々を移民船に乗船させているの
だ」と。

 こうした中、異常なウォン高(注※)と、国内経済の停滞により、貧困層が、増えてい
る。

 韓国の総計庁の発表した資料によると、昨年(05年度)の貧困層の割合は、18%だ
った。その数は、03年度、16・9%、04年度、17・4%と、少しずつだが、ふえ
ている。世帯数では、約26万世帯。人口数では61万人が、新たに加わり、昨年度は、
世帯数では、284万2000世帯、人口数では869万3000人が貧困層ということ
になった。

 その結果、当然のことながら、韓国の経常収支は、現在、急速に悪化している。

 昨年(05年)、166億ドル(約1兆9350億円)の黒字だった経常収支は、今年
(06年)の7月末までだけでも、6億4000万ドル(約7460億円)の赤字に転落
している。

 韓国の貿易協会のS博士は、「ドルに対しウォンが10%上がれば、4年にわたり、22
8億ドル(約2兆6600億円)の貿易赤字が発生、毎年 57億ドル(約6640億円)
の貿易収支悪化要因として作用するだろう」(同)と話しているという。

 N大統領が豪語しているように、「今年末には、黒字になる」というのは、どうやらあ
りえない話ということになる。

 戦後、アメリカと日本が敷いてきた自由主義貿易体制の中に身を置きながら、反米、反
日を唱えれば、どうなるか。それを今、N大統領は、少しは知るべきではないのか。

注※……米国系大手証券会社JPモルガン・チェースのイム・ジウォン博士は、「韓国のフ
ァンダメンタル(経済的な基礎体力)を考慮すると、ウォン高になる理由がない」と説明
する。ウォン高は成長の質がよく、物価も低く、経常収支が黒字の時に起きるが、今の韓
国は正反対の状況だから、ウォン高になるのは異常だというのだ(朝鮮N報)。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝(9月27日)、あれこれ

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キーウィの棚を打つ、はげしい雨の
音。それで今朝は、目がさめた。

昨日から、ここ浜松地方では、時折、
集中豪雨的な雨が断続的につづいて
いる。

おかげで運動はストップ。どこか体
が重い。

が、書斎に入ると、ひんやりとした風。
その風の中に、秋の気配を強く感ずる。

バンザーイ、私の季節だ!

+++++++++++++++++

●1944年

 今朝(9月27日)、Eマガの読者が、1944人になった。その「1944」にかこ
つけて、1944年(昭和19年)の話。私が生まれる、3年前の話である。私は194
7年(昭和22年)の生まれ。

 1944年には、もちろん私は存在していなかった。父も、そのころは、台湾に出兵し
ていたのではないか。上に、長男のケンジ、二男のジュンジ、姉のミホコがいた。そのこ
ろ、兄のケンジは、小児マヒをわずらい、下肢が不自由になっていたと聞いている。

 その兄のケンジは、私が5歳か6歳のとき、なくなっている。葬儀の日、土間に無数の
履き物が散乱していたのは、よく覚えている。直接の死因は、日本脳炎と聞いている。暑
い夏の日に、父が兄を、自転車に乗せて、20キロほど山奥にある母の実家へ連れていっ
たのが原因だったという。

 そのほかのことは、ほとんど何も、覚えていない。ケンジと私は、10歳以上、年が離
れていた。二男のジュンジとは、9歳、姉のミホコとは、5歳、年が離れていた。

 こういう話になると、どうも、歯切れが悪い。私は、そう聞いたというだけで、確信が
もてない。あのあたりでは、だれも、本当のことを言わない。みなが、みな、世間体ばか
りを気にしている。自分に都合の悪い話はしないし、しても、そこにウソを混ぜる。

 だから話を聞くたびに、話の内容が変わる。そういうことは、よくある。

 兄のケンジは、本当に日本脳炎で死んだのか? 本当に小児マヒだったのか? だれの
責任というわけではないが、私の母は、いつも、「父ちゃん(=父)が悪い」と言ってい
た。

 話をもとにもどすが、1944年という年は、日本軍とアメリカ軍が、マリアナ沖で、
空前の激突をした年でもある(6月19日)。ちょうど同じころ、連合国が、フランスの
ノルマンジーに上陸作戦を開始している(6月6日)。

 このあと、8月25日に、ドイツは連合国に降伏。が、日本は、さらに勝ち目のない、
破滅的な戦争へと突入していく。同年10月には、レイテ沖海戦で、戦艦・武蔵を失う。
11月には、東京大空襲を受ける。

 死んだ人は静かだと、人はよく言う。それはそのとおりだが、しかしまだ生まれていな
い人間にとっても、そうである。私はそういう世界で起きていた喧騒(けんそう)を、ま
ったく知らない。もちろん記憶の中にもない。

 しかしまったくの無縁だったかというと、そうではない。それぞれの時代には、その時
代がもつエネルギーがある。そのエネルギーは、そのあとも、無数のうねりとなって、つ
ぎの時代の人たちに大きな影響を与えていく。

 たとえば父は、台湾の戦地で、アメリカ軍の攻撃を受け、貫通銃創(じゅうそう)を受
けている。弾(たま)が2発、腹の中を通り抜けたという。いや、弾は2発ではなく、1
発だったかもしれない。こういう話は、いつも、おおげさに語られる。

 ともかくも、それが1つの遠因になって、やがて父は、日本に帰ってから酒に溺れるよ
うになった。いまでいう、PTSD(心的外傷後ストレス障害)だったかもしれない。は
じめのころは、夜中によくうなされたという話を聞いている。(この話も、確かではない
が……。)

 私にとっては、悲しくも、重苦しい幼児時代は、そうして始まった。

 ともかくも、自分の生まれる前の過去の話になると、私はそこに同時に、自分が死んだ
あとの世界をダブらせる。私が死ねば、少なくとも私は、生まれた前の世界にもどる、と。
静かで、どこまでも静かで、まったくの無の世界。すべての喧騒とは、無縁の世界。

 その世界には、私は、いなかった。生まれるという気配すら、なかった。父にしても、
母にしても、私を産むという意識すらなかったのではないか。やがてアメリカ軍による空
襲は、全国各地へと広がる。絶望的な戦況の中で、どうやって生き延びていくか。それだ
けを考えるのが、精一杯だったはず。

 私が生まれるまで、あと3年。「私」という存在すらないときのことだから、こういう
言い方は正しくない。それはわかっているが、私は、そのころは、静かに、自分が生まれ
るのを待っていた……。暗い、暗い、闇の世界で。音もなく、風もなく、時もない、そんな闇の世
界で……。
(はやし浩司 私論1)

+++++++++++++++++

Eマガ(無料版)の読者の方の数に
合わせて、自分の過去を追いかけて
みたいと思います。

+++++++++++++++++

Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●人とのかかわり

+++++++++++++++++

人は、人とのかかわりをもって、
はじめて、人である。

人格の完成度をみるときも、その
人の、他者とのかかわり方をみて、
判断する。

+++++++++++++++++

 体というのは、使わないでいると、その部分の機能がどんどんと衰えていく。これを、
「廃用性機能低下」と呼んでいる。

 わかりやすく言えば、体のその部分が、サビついて、使い物にならなくなるということ。

 ……ということは経験的にも常識だが、しかし脳みその中でも、同じようなことが起こ
る。「心」、あるいは「精神」、さらには「知的能力」も、使わなければ、同じようにサ
ビついて、使い物にならなくなる。

 その中でも、とくに重要なのが、感受性。

 豊かな感受性は、それ自体が、心の重要な財産と、心理学の世界では考えられている。
EQ論(=人格完成論)でも、同じようなことをいう。その感受性を高めるための訓練法
も、いくつか用意されている。

 心がサビつくと、感受性そのものが、鈍くなってくる。喜怒哀楽の情が薄れてくる。冗
談が通じにくくなり、笑いが減る。他人の苦しみや悲しみに鈍感になる。無感覚になる。
無反応になる。

 では、その豊かな感受性を保つためには、どうすればよいか。

 ひとつの方法として、常に、人とのかかわりをもつというのがある。積極的に他人に話
しかけ、交際範囲を広める。決して、自分だけの小さな世界だけに閉じこもってしまって
はいけない。

 が、こうした感受性を豊かにするということは、結局は、あなた自身のためでもある。

 心がサビついてくると、いろいろな弊害が生まれてくる。たとえば意欲の減退、生きが
いの喪失など。生きる力そのものも弱体化する。わかりやすく言えば、そのまま生きる屍
(しかばね)になってしまうということ。

 (これから老齢期を迎える私たち団塊の世代には、とくに重要!)

 何度も書いてきたが、精神の健康は、(1)ものの考え方が自然で、常識的であること、
(2)心のゆがみやひずみがないことで、判断される。精神が健康な人ほど、感受性が豊
かで、人ととのかかわりかたが自然ということになる。もちろん、友人も多い。

 さあ、あなたも外に出よう。出て、いろいろな人に会い、笑っておしゃべりをしよう。
つまりは、それが、心の健康法ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
廃用性機能低下 精神の健康法 人とのかかわり 感受性 豊かな感受性 心の健康法)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●日本の仏教

++++++++++++++++++

日本の仏教には、いくつかの謎がある。

その第一。なぜ、日本にある仏像は、
どれも例外なく、古代インドのそれではなく、
古代ギリシアの服装をしているのか。

その謎を解く、ひとつのカギがまたまた
見つかった。

++++++++++++++++++

 アフガニスタンの中部にあるバーミヤンで、このほど、5〜6世紀ごろの塔院跡や、高
さ3メートルはあったとみられる、立仏像のひざ下部が発見されたという。

 発見したのは、UNESCO(国連教育科学文化機構)。

 アフガン考古保護協会のゼマリアライ・タルジ代表は、「7世紀にバーミヤンを訪れた
とされる、玄奘三蔵(三蔵法師のこと)が、『大唐西域記』の中で見たと記した幻の涅槃
(ねはん)像が近くにあるかもしれない」と話しているという(中日新聞06−09−2
5)。

 が、この記事の中で、私の目をひいたのは、つぎの部分である。

 「……しっくいで覆われた主仏塔側面の柱状の装飾部分には、ギリシア文化の影響を受
けた植物の葉の彫刻が施されていた」と。つまり「ギリシア文化の影響を受けた装飾が施
されていたという。

 バーミヤン遺跡というのは、一般には、5〜8世紀の造営とされているが、それ以前と
の説もある。アフガニスタンの首都カブール、西約240キロのところに、それはある。

 以前から、このバーミヤンで、インドから伝わってきた仏教と、古代ギリシア文明が融
合したという説はあった。日本の仏像が、どれも、古代インドの服装ではなく、古代ギリ
シアの服装をしているのも、そのためと考えてよい。

 ただ私が調べた範囲では、ここに書いた、玄奘三蔵(三蔵法師のこと)は、バーミヤン
までは来ていない。現在のチベットあたりまで来て、引きかえしているはずである。それ
はともかくも、三蔵法師は、インドまでは行っていない。これは動かしがたい事実である。

 つまり私たちが今、この日本で「仏教」と呼んでいるものは、原型をとどめないほどま
でに、その過程で、加工されたものと考えてよい。釈迦経典と言われているものについて
も、釈迦滅後、何百年もたってから、そのときどきの仏教徒によって書かれたり、編纂さ
れたものである。

 つまり、日本の仏教には、多くの矛盾がある。矛盾だらけと言ってもよい。少し前にな
くなったが、東大の中村名誉教授も、さかんに「大乗非仏説」を唱えていた。つまりイン
ドからヒマラヤ山脈の北を回って中国、日本へと伝わった仏教(大乗仏教、北伝仏教)は、
釈迦が唱えた仏教とは異質のものである、と。

 たしかにおかしな点も多い。たとえば、インドでは男性だったカノンが、日本では「観
音様」という女性になっている。

ここに書いたように、日本の仏像が、(ガンダーラの仏像もそうだが)、古代インドの服
装ではなく、すべてヘレニズム文化の影響を受けた古代ギリシアの服装を身につけてい
る。

また経典の中に、よく、貨幣の話が出てくるが、釈迦の時代にはまだ貨幣はなかったこ
と、などなど。

釈迦の生誕地に残る仏典(法句経)は別として、それ以外は、どうも?、というものが
多い。そういうものを根拠にして、仏教を説いても、あまり意味がないのではないのか。
さらに総じてみれば日本の仏教は、あのチベット密教の影響をモロに受けている。それ
が中国の土着宗教と結びついて、日本へ入ってきた。チベット密教そのものと言う人も
いる。

 だからといって私は仏教を否定しているのではない。仮に仏教が否定されたとしても、
その仏教とともに生きてきた、何億何千万もの人たちの人生まで否定することはできない。
ただ、盲信するのはいけない。中には、経典の一言半句にまで深い意味を求める人もいる
が、しかしここにも書いたように、矛盾がないわけではない。そういう矛盾、つまり明ら
かなまちがいまで押し殺して盲信するのは、危険なことでもある。

 大切なことは、自分で考えることだ。先日もある著名な仏教哲学者U氏の講演をテレビ
で見ていたが、その中でその哲学者はこう言っていた。「○○経にXXという言葉があり
ますが、つまり人間はみな、平等と釈迦は教えているのです」(NHK、02年6月)と。

しかし、だ。何もおおげさに経典の一節をもちださなくても、人間がみな平等というの
は常識ではないのか。ほんの少し自分自身の「常識」に照らし合わせれば、小学生にだ
ってわかる。それにその哲学者は、こうも言っていた。「人間は白人も、黒人も、黄色人
種も、みな平等だと、そういうことを釈迦は教えているのです。すばらしいことです」
と。

しかしこの話はウソ。釈迦の時代に、釈迦の周辺に、白人や黒人、黄色人種はいなかっ
た! その教授は、経典に、自説をこじつけたにすぎない。

 私たちは何の疑いもなく、日々の生活の中で、仏教的な儀式を繰り返している。そして
それがあるべき方法だと、信じて疑わないでいる。しかしそういう姿勢こそ、ひょっとし
たら、釈迦がもっとも嫌った姿勢ではないのか。話せば長くなるが、法句経で述べている
釈迦の精神とは、どこか違うような気がする。

 ここではこの程度にしておくが、もし興味があったら、あとは皆さんが、自分でたしか
めてほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
古代インド 古代ヘレニズム バーミヤン 大乗非仏説 中村元 日本の仏教)

【付記】

 過去を盲目的に踏襲するのは、正しくない。私たちは、そのつど、事実に照らしあわせ、
歴史を修正していかねばならない。

 たとえば仏像にしても、京都や奈良にある仏像が、絶対に正しいというわけではない。
考古学も進んでいることなのだから、衣装を、古代インドのそれに合わせて、仏像を作る
ということも、これからは重要なことではないのか。

 同じように、私たちが釈迦経典と呼んでいるものについても、もし「仏教」を信仰する
というのなら、一度、原点にたちかえって考えてみる必要があるのではないだろうか。


****************************

【読者のみなさんへ】

 こんな質問をいただきました。とくに時事問題について、リアルタイムで記事を読むに
は、どうしたらいいか、と。つまりマガジンに載せる原稿は、いつも1か月前に書いた原
稿ということになっている。それについて、「もっと早く読むには、どうしたらいいか」
と。

 現在、つぎのような流れで、原稿を書いています。

(毎朝、原稿を書く)→(楽天の日記に転載する)→(日記を読みながら、自分の原稿を
推敲したり、手直ししたりする)→(マガジンに転載する)。

 つまり一度、書いた原稿は、楽天の日記として発表し、他人の目で、自分の原稿を読み
なおすようにしています。これを私は、勝手に、「熟成期間」と読んでいます。その間に、
頭を冷やしたり、別の角度から考えなおしたりします。あるいは、そのまま原稿をボツに
することもあります。

 ですから、もしリアルタイムに読みたいと思ってくださる方がいらっしゃれば、私のH
Pのトップページから、楽天日記のほうへ、おいでください。まだ荒削りの原稿ですが、
そこでその日に書いた原稿を読んでいただけます。

 また現在、無料マガジン(Eマガ、メルマガ)のうほうでも、HTML版(カラー版)
を、無料で読んでいただけるようにしてあります。どうぞ、安心して、HTML版のほう
も、お楽しみください。あとで購読料を請求するというなどということは、ぜったいにあ
りません。

(できれば、有料版のまぐプレを読んでほしいとは思っていますが……。現在、購読料
は、月額300円です。)

 で、HTML版マガジンのほうは、こういう手順になっています。

 ほぼ1か月分の原稿を書き終えたところで、まず、原稿を、HP上に転載します。そし
てそのあと、写真などで、それを飾っていきます。

 そのためマガジンに載せる写真などは、原稿より、新鮮なものとなっています。

 さらに当然のことですが、ウィルスチェックは、そのつど、こまめにしています。「絶
対」ということは、お約束できませんが、私のマガジン(HTML版)では、つぎのよう
な方
法で、安全を確保しています。

(1)定期的なウィルスチェックと、スパイウエアチェックを欠かさない。
(2)プロバイダー(サーバー)のほうで、有料のウィルスチェックを通している。
(3)パソコンを使い分けている。

 とくに、HP用のパソコンは、超高性能のパソコンを使用しています。来年の1月以降、
ビスタ(OS)が発売になったら、さらに高性能のパソコンに乗り換えるつもりでいます。

 こんなわけで、どうか安心して、HTML版をお楽しみください。プラス、これからも
末永く、よろしくご購読くださいますよう、お願いします。

 1000号までの道のりは、まだまだ遠いです。がんばります!

                             はやし浩司

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 6日
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(特集)2005年10月28日前後(満58歳の誕生日のマガジンより)

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 10月 28日(No.642)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【思いついたまま、子育てワンポイント】

●できないことを嘆くより、できることを喜ぶ

 AさんとBさんは、まったく同じ生活をしている。家の大きさも、夫の給料も、同じ。
子どもの年齢も、できも同じ。年齢も、学歴も同じ。

しかしAさんは、いつも、「うちの子はあれができない」「これができない」と、不平や
不満ばかりを並べている。一方Bさんは、いつも、「うちの子は、あれもできる」「これ
もできる」と、自分の子どもに満足しながら生きている。

その結果、一つだけ、ちがう点が、出てきた。Aさんの子どもは、いつも暗く沈んでい
る。Bさんの子どもは、いつも、はつらつとして、表情も明るい。


●いつも自分の子どもだけを見る

 Aさんの息子は、その町でも、ナンバーワンと言われる、S中学校に入学した。ウキウ
キとした気分だった。が、そこへBさんが、やってきた。そしてBさんが、Aさんにこう
言った。

「うちの子、今度、T大学に合格しました」と。日本で第一の大学である。それを聞い
て、Aさんは、「上には上がいるものだ」と、がく然としてしまった。喜びも、半減して
しまった。いつも世間の目を気にしている人は、いつもその世間に振りまわされる。喜
びも、悲しみも、相対的なものでしかない。

 だから……というわけでもないが、子育てをするときは、いつも自分の子どもだけをみ
てする。とくに世間の目を気にするようになったら、お・し・ま・い。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●世間体

 世間体というのは、結局は、その人の心の裏を写す、カガミのようなもの。世間体を気
にする人は、よく「世間が笑う」「世間が許さない」「世間体が悪い」とか言う。しかし
それとて、本当に世間が、そう思っているから、そう言うのではない。

 自分が、他人に対して、そう思っているから、そう言う。

 だからもう少し正確に言えば、その人が口にする「世間体」というのは、その人の心の
奥に潜む邪悪性を、裏がえしたものと考えてよい。

 たとえば、A氏(60歳)は、たいへん世間体を気にする人である。何かにつけて、「世
間」「世間体」という言葉を使う。で、あるとき、私にこう言った。

 「法事だけは、きちんとしなければ、いかんよなあ。世間の笑いものになるだけだよ」
と。

 そのときは、そういうものかなあと思っていたが、また別の日、A氏は、私にこう言っ
た。

 「あんなケチな法事など、見たことがない。あれじゃあ、死んだオヤジさんも、浮かば
れないだろ」と。

 死んだ父親の息子が、内々で父親の法事をしたらしい。その法事の中身が、質素だった
らしい。それでA氏は、そう批判した。

 なぜ、A氏は、こういうとき、「世間」という言葉を使うのか。理由は、簡単である。
A氏はそう言いながら、間接的に、自分の息子や娘たちに、「オレの法事はきちんとやれ
よ」と言っているのである。事実、A氏の息子は、こう言う。

 「うちのオヤジは、ことあるごとに、先祖様、先祖様とうるさくてしかたない」「よく
先祖を大切にしろと、私に言うが、私には、『オレを大事にしろ』と言っているようにし
か聞こえない」と。

 まさか「オレを大事にしろ」とは、言えない。だから「先祖」という言葉をもちだして、
そう言う。

 A氏の気持ちも、理解できないわけではない。しかしだったら、すなおに、「私を大事
にしてほしい」と言えばよい。何も、「世間」とか、「先祖」とかいう言葉を、もちだす
ことはない。

 そして本当に大事にしてもらいたかったら、それにふさわしい人物になればよい。その
努力もしないで、親風ばかり吹かしているから、息子や娘に、そっぽを向かれる。そこで
「世間」とか、「先祖」とかいう言葉をもちだして、息子や娘たちをしばろうとする。

 つまりは、世間体を口にする人ほど、それだけ、自分のない人とみてよい。自分がない
から、世間という尺度の中で、自分のあり方を決める。

 その証拠に、世間体を気にする人には、こう聞いてみるとよい。

 「では、あなた自身は、いったい、どう考えているのか。あなた自身の意見を聞きたい」
と。

 答は、何も、かえってこないはずである。

 で、最初の話にもどる。

 たとえば、「そんなことをすれば、世間が笑う」とだれかが言ったとする。しかし世間
は笑っていない。笑っているのは、その人自身ということになる。たとえば「貧乏になれ
ば、世間に笑われる」と言う。しかし貧しい人を笑っているのは、その人自身ということ
になる。

【補記】

 ユングが説く「シャドウ論」と、日本人がよく使う「世間体論」の中に、私は、一つの
符号性を発見した!

 表面(おもてづら)をよくして、仮面ばかりかぶっている人がいる。こういう人は、そ
の裏で、別の人格(シャドウ)をつくりやすい。牧師や僧侶、それに教職者のような人た
ちである。つまりは、そういうシャドウの中に、自分の中の邪悪な部分を押しこめてしま
う。押しこめることによって、自分は、人前では、さも私は、悪とは関係ありませんとい
うような顔をして、善人ぶることができる。

 同じように、世間体を口にする人は、「世間」という観念的世界に、自分の邪悪な部分
を押しこめることによって、自分では、善人ぶろうとする。「私はいいのですが、世間が
何と言いますかねえ」という言い方に、その典型を見る。あるいは「渡る世間は、鬼ばか
り」という言い方は、そういうところから生まれたのかもしれない。

 わかりやすく言えば、ありもしない「世間」、あるいは「世間の目」の中に、自分の心
の奥底に潜む邪悪性を押しこめて、自分では、善人ぶる。それがユングの説く「シャドウ
論」と似ている。それがここでいう「符号性」ということになる。
(はやし浩司 世間体 シャドウ 仮面 世間体論)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ゲーム脳】

++++++++++++++++++++++

ゲームばかりしていると、脳ミソがおかしくなるぞ!

+++++++++++++++++++++++

最近、急に脚光を浴びてきた話題に、「ゲーム脳」がある。ゲームづけになった脳ミソを
「ゲーム脳」いう。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。しかし、
「ゲーム脳」とは、何か。NEWS WEB JAPANは、つぎのように報道してい
る(05年8月11日)。

『脳の中で、約35%をしめる前頭葉の中に、前頭前野(人間の拳程の大きさで、記憶、
感情、集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制
をも司る部分)という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎる
と働かなくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になるという。それを科学的に
証明したのが、日大大学院の森教授である』(以上、NEWS WEB JAPAN※)。

 つまりゲーム脳になると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。
このゲーム脳については、すでに、さまざまな分野で話題になっているから、ここでは、
省略する。要するに、子どもは、ゲームづけにしてはいけないということ。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

 この日本では、(世界でもそうかもしれないが)、ゲームを批判したり、批評したりす
ると、ものすごい抗議が殺到するということ。上記のK教授のもとにも、「多くのいやが
らせが、殺到している」(同)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。たかがゲームではないか(失礼!)。
どうしてそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか?

 K教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与えますよ」と、むしろ親切
心から、そう警告している。それに対して、(いやがらせ)とは!

 実は、同じことを私も経験している。5、6年前に、私は「ポケモンカルト」(三一書
房)という本を書いた。そのときも、私のところのみならず、出版社にも、抗議の嵐が殺
到した。名古屋市にあるCラジオ局では、1週間にわたって、私の書いた本をネタに、賛
否両論の討論会をつづけたという。が、私が驚いたのは、抗議そのものではない。そうし
た抗議をしてきた人のほとんどが、子どもや親ではなく、20代前後の若者、それも男性
たちであったということ。

 どうして、20代前後の若者たちが、子どものゲームを批評しただけで、抗議をしてく
るのか? 出版社の編集部に届いた抗議文の中には、日本を代表する、パソコン雑誌の編
集部の男性からのもあった。

 「子どもたちの夢を奪うのか!」
 「幼児教育をしながら、子どもの夢が理解できないのか!」
 「ゲームを楽しむのは、子どもの権利だ!」とか何とか。

 私の本の中の、ささいな誤字や脱字、どうでもよいような誤記を指摘してきたのも多か
った。「貴様は、こんな文字も書けないのに、偉そうなことを言うな」とか、「もっと、
ポケモンを勉強してからものを書け」とか、など。

 (誤字、脱字については、いくら推敲しても、残るもの。100%、誤字、脱字のない
本などない。その本の原稿も、一度、プロの推敲家の目を経ていたのだが……。)

 反論しようにも、どう反論したらよいかわからない。そんな低レベルの抗議である。で、
そのときは、「そういうふうに考える人もいるんだなあ」という程度で、私はすませた。

 で、今回も、森教授らのもとに、「いやがらせが、殺到している」(同)という。

 これはいったい、どういう現象なのか? どう考えたらよいのか?

 一つ考えられることは、ゲームに夢中になっている、ゲーマーたちが、横のつながりを
もちつつ、カルト化しているのではないかということ。ゲームを批判されるということは、
ゲームに夢中になっている自分たちが批判されるのと同じ……と、彼らは、とらえるらし
い(?)。おかしな論理だが、そう考えると、彼らの心理状態が理解できる。

 実は、カルト教団の信者たちも、同じような症状を示す。自分たちが属する教団が批判
されたりすると、あたかも自分という個人が批判されたかのように、それに猛烈に反発し
たりする。教団イコール、自分という一体感が、きわめて強い。

 あのポケモン全盛期のときも、こんなことがあった。私が、子どもたちの前で、ふと一
言、「ピカチューのどこがかわいいの?」ともらしたときのこと。子どもたちは、その一
言で、ヒステリー状態になってしまった。ギャーと、悲鳴とも怒号ともわからないような
声をあげる子どもさえいた。

 そういう意味でも、ゲーム脳となった脳ミソをもった人たちと、カルト教団の信者たち
との間には、共通点が多い。たとえばゲームにハマっている子どもを見ていると、どこか
狂信的。現実と空想の世界の区別すら、できなくなる子どもさえいる。たまごっちの中の
生き物(?)が死んだだけで、ワーワーと大泣きした子ども(小1女児)もいた。

これから先、ゲーム脳の問題は、さらに大きく、マスコミなどでも、とりあげられるよ
うになるだろう。これからも注意深く、監視していきたい。

 ところで、今日の(韓国)の新聞によれば、テレビゲームを50時間もしていて、死ん
でしまった若者がいるそうだ。たかがゲームと、軽くみることはできない。

注※……K教授は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)と、ファンクショナルMRI
(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置で、実際にゲームを使い、数十
人を測定した。そして、2001年に世界に先駆けて、「テレビゲームは前頭前野をまっ
たく発達させることはなく、長時間のテレビゲームをすることによって、脳に悪影響を及

す」という実験結果をイギリスで発表した。

この実験結果が発表された後に、ある海外のゲーム・ソフトウェア団体は「非常に狭い
見識に基づいたもの」というコメントを発表し、教授の元には多くの嫌がらせも殺到し
たという(NEWS WEB JAPANの記事より)。
(はやし浩司 ゲーム ゲームの功罪 ゲーム脳 ゲームの危険性)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゲーム脳(2)

【M君、小3のケース】

 M君の姉(小5)が、ある日、こう言った。「うちの弟、夜中でも、起きて、ゲームをしている!」
と。

 M君の姉とM君(小3)は、同じ部屋で寝ている。二段ベッドになっていて、上が、姉。
下が、M君。そのM君が、「真夜中に、ガバッと起きて、ゲームを始める。そのまま朝ま
で、していることもある」(姉の言葉)と。

 M君には、特異な症状が見られた。

 祖父が、その少し前、なくなった。その通夜の席でのこと。M君は、たくさん集まった
親類の人たちの間で、ギャーギャーと笑い声で、はしゃいでいたという。「まるで、パー
ティでもしているかのようだった」(姉の言葉)と。

 祖父は、人一倍、M君をかわいがっていた。その祖父がなくなったのだから、M君は、
さみしがっても、よいはず。しかし、「はしゃいでいた」と。

 私はその話を聞いて、M君はM君なりに、悲しさをごまかしていたのだろうと思った。
しかし別の事件が、そのすぐあとに起きた。

 M君が、近くの家の庭に勝手に入り込み、その家で飼っていた犬に、腕をかまれて、大
けがをしたというのだ。その家の人の話では、「庭には人が入れないように、柵がしてあ

たのですが、M君は、その柵の下から、庭へもぐりこんだようです」とのこと。

 こうした一連の行為の原因が、すべてゲームにあるとは思わないが、しかしないとも、
言い切れない。こんなことがあった。

 M君の姉から、真夜中にゲームをしているという話を聞いた母親が、M君から、ゲーム
を取りあげてしまった。その直後のこと。M君は狂ったように、家の中で暴れ、最後は、
自分の頭をガラス戸にぶつけ、そのガラス戸を割ってしまったという。

 もちろんM君も、額と頬を切り、病院で、10針前後も、縫ってもらうほどのけがをし
たという。そのあまりの異常さに気づいて、しばらくしてから、M君の母親が、私のとこ
ろに相談にやってきた。

 私は、日曜日にときどき、M君を教えるという形で、M君を観察させてもらうことにし
た。そのときもまだ、腕や顔に、生々しい、傷のあとが、のこっていた。

 そのM君には、いくつかの特徴が見られた。

(1)まるで脳の中の情報が、乱舞しているかのように、話している話題が、めまぐるし
く変化した。時計の話をしていたかと思うと、突然、カレンダーの話になるなど。

(2)感情の起伏がはげしく、突然、落ちこんだかと思うと、パッと元気になって、ギャ
ーと騒ぐ。イスをゴトゴト動かしたり、机を意味もなく、バタンとたたいて見せたりする。

(3)頭の回転ははやい。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、あっという間に、計
算問題(割り算)をすませてしまう。そして「終わったから、帰る」などと言って、あと
片づけを始める。

(4)もちろんゲームの話になると、目の色が変わる。彼がそのとき夢中になっていたの
は、N社のGボーイというゲームである。そのゲーム機器を手にしたとたん、顔つきが能
面のように無表情になる。ゲームをしている間は、目がトロンとし、死んだ、魚の目のよ
うになる。

 M君の姉の話では、ひとたびゲームを始めると、そのままの状態で、2〜3時間はつづ
けるそうである。長いときは、5時間とか、6時間もしているという。(同じころ、12時間もゲーム
をしていたという中学生の話を聞いたことがある。)

 以前、「脳が乱舞する子ども」という原稿を書いた(中日新聞発表済み)。それをここ

紹介する。もう4、5年前に書いた原稿だが、状況は改善されるどころか、悪化している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ…
…、ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、
話がポンポンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞
しているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。

ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立!
 そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も
激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの
頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、
症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。
30年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。
小1児で、10人に2人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの
子どもが、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えれ
ばこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あっ
た」と答えた先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%
が、「1名以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科
書を出さない」子どもについては、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱い
ものをいじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授
業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)などの授業
その
ものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、そ
れが最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。

「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子ど
もが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にと
まどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観
の差を感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指
導が難しい」(14%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(1
0%)と続く。そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、
「かなり感ずる」「やや感ずる」という先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレ
ビやゲームをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、
昔のような崩壊家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味
もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、
アメリカでも起きている。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、
乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこ
う言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけて
も返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けに
せよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。
ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわ
かりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられな
くなる。その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、
静かに聞くことができない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚
が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおも
しろいが、直感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。
分析や論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことが
ない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。
その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪
弊をあげる。

(付記)
●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日
教組と全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告さ
れている。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、
北海道や東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫
りにされた」(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がって
いる」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在
籍する約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年2
10人から220人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は3
55人にふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、9
6年度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が417
1人で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、
うつ病、うつ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護
者などの対人関係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということであ
る。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラ
スを1クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策を
とっている(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学1、2年につ
いて、新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、
2人担任制にし、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30〜36人のばあいでも、
もう1人教員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、
一部の小学校では、6年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的
に導入している。大分県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で
実施している(01年度調べ)。
(はやし浩司 キレる子供 子ども 新しい荒れ 学級崩壊 心を病む教師)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●失行

 近年、「失行」という言葉が、よく聞かれるようになった。96年に、ドイツのシュル
ツという医師が使い始めた言葉だという。

 失行というのは、本人が、わかっているのに、できない状態をいう。たとえば風呂から
出たとき、パジャマに着がえなさいと、だれかが言ったとする。本人も、「風呂から出た
ら、パジャマに着がえなければならない」と、理解している。しかし風呂から出ると、手
当た
り次第に、そこらにある衣服を身につけてしまう。

 原因は、脳のどこかに何らかのダメージがあるためとされる。

 それはさておき、人間が何かの行動をするとき、脳から、同時に別々の信号が発せられ
るという。行動命令と抑制命令である。

 たとえば腕を上下させるときも、腕を上下させろという命令と、その動きを抑制する命
令の二つが、同時に発せられる。

 だから人間は、(あらゆる動物も)、スムーズな行動(=運動行為)ができる。行動命
令だけだと、まるでカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。抑制命令が強す

ると、行動そのものが、鈍くなり、動作も緩慢になる。

 精神状態も、同じように考えられないだろうか。

 たとえば何かのことで、カッと頭に血がのぼるようなときがある。激怒した状態を思い
浮かべればよい。

 そのとき、同時に、「怒るな」という命令も、働く。激怒するのを、精神の行動命令と
するなら、「怒るな」と命令するのは、精神の抑制命令ということになる。

 この「失行」についても、精神の行動命令と、抑制命令という考え方を当てはめると、
それなりに、よく理解できる。

 たとえば母親が、子どもに向かって、「テーブルの上のお菓子は、食べてはだめ」「そ
れは、これから来る、お客さんのためのもの」と話したとする。

 そのとき子どもは、「わかった」と言って、その場を去る。が、母親の姿が見えなくな
ったとたん、子どもは、テーブルのところへもどってきて、その菓子を食べてしまう。

 それを知って、母親は、子どもを、こう叱る。「どうして、食べたの! 食べてはだめ
と言ったでしょ!」と。

 このとき、子どもは、頭の中では「食べてはだめ」ということを理解していた。しかし
精神の抑制命令が弱く、精神の行動命令を、抑制することができなかった。だから子ども
は、菓子を食べてしまった。

 ……実は、こうした精神のコントロールをしているのが、前頭連合野と言われている。
そしてこの前頭連合野の働きが、何らかの損傷を受けると、その人は、自分で自分を管理
できなくなってしまう。いわゆるここでいう「失行」という現象が、起きる。

 前述のWEB NEWSの記事によれば、「(前頭連合野は)記憶、感情、集団でのコ
ミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分」とあ
る。

 どれ一つをとっても、良好な人間関係を維持するためには、不可欠な働きばかりである。
一説によれば、ゲーム脳の子どもの脳は、この前頭連合野が、「スカスカの状態」になっ
ているそうである。

 言うまでもなく、脳には、そのときどきの発達の段階で、「適齢期」というものがある。
その適齢期に、それ相当の、それにふさわしい発達をしておかないと、あとで補充したり、
修正したりするということができなくなる。

 ここにあげた、感情のコントロール、集団におけるコミュニケーション、創造性な学習
能力といったものも、ある時期、適切な指導があってはじめて、子どもは、身につけるこ
とができる。その時期に、ゲーム脳に示されるように、脳の中でもある特異な部分だけが、
異常に刺激されることによって、脳のほかの部分の発達が阻害されるであろうことは、門
外漢の私にさえ、容易に推察できる。

 それが「スカスカの脳」ということになる。

 これから先も、この「ゲーム脳」については、注目していきたい。

(補記)大脳生理学の研究に先行して、教育の世界では、現象として、子どもの問題を、
先にとらえることは、よくある。

 たとえば現在よく話題になる、AD・HD児についても、そういった症状をもつ子ども
は、すでに40〜50年前から、指摘されていた。私も、幼児に接するようになって36
年になるが、36年前の私でさえ、そういった症状をもった子どもを、ほかの子どもたち
と区別することができた。

 当時は、もちろん、AD・HD児という言葉はなかった。診断基準もなかった。だから、
「活発型の遅進児」とか、「多動性のある子ども」とか、そう呼んでいた。「多動児」と
いう言葉が、雑誌などに現れるようになったのは、私が30歳前後のことだから、今から、
約30年前ということになる。

 ゲーム脳についても、最近は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)や、ファンクシ
ョナルMRI(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置などの進歩により、
脳の活動そのものを知ることによって、その正体が、明らかにされつつある。

 しかし現象としては、今に始まったことではない。私が書いた、「脳が乱舞する子ども」
というのは、そういう特異な現象をとりあげた記事である。

(はやし浩司 脳が乱舞する子ども 子供 ゲーム脳 前頭連合野 管理能力 脳に損傷
のある子ども 子供 失行 ドイツ シュルツ 医師 行動命令 抑制命令 はやし浩
司)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●シシリー宣言

1995年11月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった18名の学者が、緊急宣
言を行った。これがシシリー宣言である。その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピー
ス・JAPAN)なものであった。

いわく、「これら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖系だけ
ではなく、行動的、および身体的異常、さらには精神にも及ぶ。これは、知的能力およ
び社会的適応性の低下、環境の要求に対する反応性の障害となってあらわれる可能性が
ある」と。

つまり環境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。が、これで驚いて
いてはいけない。

シシリー宣言は、さらにこう続ける。「環境ホルモンは、脳の発達を阻害する。神経行
動に異常を起こす。衝動的な暴力・自殺を引き起こす。奇妙な行動を引き起こす。多動
症を引き起こす。IQが低下する。人類は50年間の間に5ポイントIQが低下した。
人類の生殖能力と脳が侵されたら滅ぶしかない」と。ここでいう「社会性適応性の低下」
というのは、具体的には、「不登校やいじめ、校内暴力、非行、犯罪のことをさす」(「シ
シリー宣言」・グリーンピース・JAPAN)のだそうだ。

 この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、
環境ホルモンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、
胎児の脳に侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのもの
の発達を損傷する」(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近ごろ・あれこれ】

●HP・N社様へ

 現在、HP・N2003を使用しています。
 〒432−xxx浜松市xxxxxx
 Tel&Fax 053−xxx−xxxxです。

 正規の会員登録はしています。

 で、つぎの4点について、どうか、お教えください。

(1)編集が終わり、FTP送信をするとき、「変更されたファイルのみを転送する」
をクリックしても、それを無視して、「すべてのファイルを転送」してしまいます。
そのため、
不必要な時間がかかってしまいます。どこかの調整がおかしいと思うのですが、どうすれ
ばよいのか、お教えください。

(2)現在、47MBという大きなHPを編集しています。そのため、ファイルの読みこ
みに20〜30分ほどかかります。で、FTP送信をしたあと、保存をかけると、今度は、
4時間近くもかかってしまいます。

 パソコンのOSは、XP、PEN4の3・0GHz、メモリーは、1024MBで、最
新のものを使っています。

 多分、ハードディスクと、勝手にスワップしているため、無駄な時間がかかるのではな
いかと思っています。これだけの性能のパソコンなのですから、もっとはやく保存する方
法があると思うのですが、その方法は、ありませんか。

(3)先日、編集画面で、あるページに、リンク先を、20〜30個、張りつけていたら、
突然、プログラムごと画面が消えてしまいました。もちろんそれまで、編集していた部分
も、すべてです。

 で、パソコンを再起動し、プログラムをたちあげ、再度、作業をしなおしました。

 念のため、そのあと、HP・Nを、再インストールして使っています。

 こうしたトラブルは、なぜ起きるのでしょうか? パソコンをかえてから初めてのこと
なので、たいへん不安です。(今のパソコンは、2か月前に購入。)

(4)仮想メモリーは、最大でいくらほどに、また最小で、いくらほどに調整しておけば
よいのでしょうか。メモリーが、1024MBもあるのだから、仮想メモリーをゼロにし
てもよいのではないかと、自分では思っていますが、ゼロにして、よろしいでしょうか?

 どうか、お教えください。よろしくお願いします。

はやし浩司です。

+++++++++++++++++++++++

どなたか、HP・NINJAに詳しい方は
いらっしゃいませんか?

+++++++++++++++++++++++

【N社からの返事】

 1時間ほどすると、N社から返事が届いた。

(1)の設定については、具体的な方法が書いてあった。
(2)の「時間がかかる」という質問については、「47MBというのは、大きすぎるだ
からどうしようもない」とのこと。
(3)の突然、プログラムが消えてしまったのは、メモリー不足になったのが、原因だろ
うということ。
(4)の仮想メモリーをゼロにするのは、「おすすめしません」とのこと(以上、要約)。

 こういう親切なところが、IF社のよいところ。

 IF社様へ、これからもずっと、HP・NINJAを愛用します。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●アフターサービス

 パソコンソフトにせよ、パソコン本体にせよ、あるいは周辺機器にせよ、アフターサー
ビスのよしあしで、その会社の評価が決まる。(少なくとも、私は、それで決めている。)

 たとえばパソコンも、いろいろ使ってみたが、親切なところと、そうでないところがあ
る。ここでは、どこがどうとは書けない。「たまたま私のばあいは……」というような意
見なら書けるが、そんな意見には、意味がない。

 しかし概して言えば、中堅の周辺機器メーカーは、親切。電話でも、あれこれとていね
いに教えてくれる。で、そういう会社に出会うと、ショップに行っても、その会社の製品
しか見なくなる。

 で、私が使っている、HP・NINJAというホームページ用のソフトは、東京にある
IF社という会社の製品だが、この会社は、FAXなどで相談すると、数日のうちに、必
ず、返事をくれる。その親切さが気にいって、もう6年も、NINJAを愛用している。
ほかにも、IF社の製品を、いくつか使っている。

 不親切だったのは、ウィルス対策ソフトを出している、X社。マニュアルには、電話番
号すら、載せてない。つぎに、住所録ソフトを出している、Y社。電話がやっとつながっ
たと思っても、ぞんざいな態度。専門用語をペラペラと言うだけ言って、それでおしまい。

 パソコンという電気製品が、ほかの電気製品とちがうところは、ここにある。しばらく
使っていると、そのつど問題が起きる。しかも問題が起きるたびに、内容が複雑になる。
どうしてもHELPが、必要になる。

 で、今も、こんな問題が起きている。

 5年前から愛用しているパソコンの、CD・DVドライブが、おかしくなってしまった。
ときどきウンとも、スンとも動かなくなる。しかたないので、外づけのDVDドライブを
買ってきて、つけた。

 しかしせっかく取りつけてはみたものの、パソコン本体のほうは、相変わらず、自分の
CD・DVドライブで仕事をしようとする。だから、外づけのドライブでできるのは、デ
ータの保存だけ。

 デバイスマネージャーのどこかをいじれば、問題は解決するだろうということまでは、
私でもわかる。しかしその先が、こわくて、できない。

 つまり私のパソコンの知識は、この程度。しかし、のぞいてみるだけ、のぞいてみるか
……。と、考えながらも、一方で、「あとで、外づけDVDを出しているB社に、電話を
かけてみよう」と思っている。

 B社は、いつも親切。以前も、ルーターをうまく設置できなかったときも、1時間あま
りも、私の相手になってくれた。私の応対だけで、その製品でもうけた利益など、消えて
しまったはず。そのときは、何かしら申しわけない気持ちになった。

 だから、それからは、周辺機器は、B社のものと決めている。B社さん、ありがとう!

(付記)

 今、この文章を読みかえしてみたが、内容は、浅く、タダの駄文。私という人間は、結
構、単純な人間らしい。よろしく!


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●阪神タイガースの優勝

 「時間」というのは、おもしろいものだ。一方で、毎日、「時間がない」とこぼしなが
ら、寸陰を惜しんで、ものごとに熱中している人がいる。が、その一方で、その「時間」
をもてあまし、食い散らしている人もいる。

 「時間」は、どの人にも、平等に与えられる。その与えられた時間は、その人のもの。
だから、その人が、自分の時間を、どう使おうが、それはその人の勝手。他人の私が、と
やかく言うべき問題ではない。それこそ、内政干渉。いらぬ節介というもの。

 しかし……、というようなことを、今夜、考えさせられた。阪神タイガースファンの人
は、どうか、怒らないで、聞いてほしい。(怒るだろうが……。)

 今夜(9・29)、プロ野球、セントラルリーグで、阪神タイガースが、2年ぶり、5
度目の優勝を果たした。甲子園球場で、巨人を、5−1で破り、優勝が決まった。

 で、阪神タイガースファンの熱狂ぶりは、たいへんなもの。前回優勝のときは、道頓堀
の橋の上から川の中に飛びこんで、死者まで出たという。

 私とワイフは、その模様というか、実は、その試合がちょうど始まるころ、町中のレス
トランで、食事をしながら、その模様を見ていた。甲子園球場のまわりでは、興奮したフ
ァンたちが、口々に、阪神タイガースの優勝を叫んでいた。中には、踊り狂っている若者
たちもいた。

 「……?」というのが、私の第一印象。「どうしてああまで、うれしいのか?」と。

 底抜けに明るいファンたち。もう少し辛らつな言い方をすれば、頭の底が抜けてしまっ
たかのようなファンたち。テレビのレポーターまでが、そうでなければいけないというよ
うな口調で、興奮した様子で、ファンたちの様子を伝えていた。

 「本当に、そんな重大事なのか?」とも思った。「スポーツはスポーツ、試合は試合で
はないか」と。しかしつぎの瞬間、こうも思った。「あの人は、幸せな人たちだなあ」「あ

まで夢中になれるものを、もっている」と。

 残念ながら、私は、ああまで夢中になれるものをもっていない。あるとすれば、サッカ
ーの国際試合だが、それとて、せいぜい家の中で、大声を出して応援する程度。試合が終
わり、テレビのスイッチを切ったとたん、試合のことは、ほとんど、忘れる。

 まあ、野球の試合といっても、いわば大阪では、祭りのようなものだから、どうこう書
いても、あまり意味はない。大阪の人たちは、ああして大騒ぎをしながら、日ごろたまっ
た、大きなうっぷんを晴らしているのかもしれない。ワーワーと騒ぐだけでも、ストレス
の解消にはなる。

 が、しかしまたふと、私の心は、もとにもどってしまう。「たかが、野球の試合ではな
いか」と。ファンの様子を見ていると、何かしら、そこに人生のすべてをかけているかの

うな雰囲気すら感じる。「どうして、ああまで熱狂するのか?」「できるのか?」と。

 私の知人の中には、趣味といえば、プロ野球の実況中継を見るだけ。たまの休みには、
パチンコか釣り。あとは家の中で、スポーツ新聞を読んでいるだけ、という男がいる。若
いときには、それでもよかったのかもしれないが、50歳をすぎてからも、そうであると
いうのも、どうかと思う?

 私はその知人に会うたびに、いつも、こう思う。「こういう人たちは、自分の時間をム
ダにしたとは、思わないのだろうか」と。実際、その知人には、何もない。頭の中は、カ
ラッポ。いろいろな話題をもちかけるのだが、「ハハハ、ヘヘヘ……」と、笑うだけ。本
など、この20年近く、読んだこともないらしい。

 そうそう、その知人は、熱狂的な中日ドラゴンズのファン。試合のチケットが手に入っ
たりすると、仕事を早めに終えて、名古屋球場にかけつける。家に帰ってくるのは、その
ため、夜中の2時、3時になるという。

 その知人にしてみれば、野球なしの人生は、考えられないのだろう。

 そういうのを心理学では、どう判断するのだろう。依存症の一つと考えてよいのだろう
か。パチンコ依存症、マラソン依存症、薬物依存症、そしてプロ野球依存症。

 もちろんみなが、みな、そうというわけではないだろう。大半のファンは、騒ぐとして
も、その瞬間だけ。興奮するのも、その瞬間だけ。が、中には、私の知人のような人もい
るかもしれないし、プロ野球依存症と呼んでさしつかえのない人たちである。そういう人
が、100人に1人いるとしても、大阪市全体では、2・6万人の人ということになる。
500人に1人としても、5000人いるということになる。(大阪市の人口は、約26
0万人。)

 しかし私には、どう考えても、ただのバカ騒ぎにしか見えない。(ああ、これで本当に、
大阪市の人たちを怒らせてしまった……!)どう考えても、だ。そうして騒ぐことに、ど
ういう意味があるのだろうか。また意味など、なくてもいいのだろうか。

 プロ野球といっても、その中身は、興行。金もうけ。ファンの人たちは、自分の意思で、
球団を応援していると思っているかもしれないが、その意思のうちの何割かは、ひょっと
したら、巧みな商魂によって、操られてできたものではないのか。つまり、そういうふう
に、ものを考えることはないのだろうか。

 本当に勝ち負けを決めるだけの試合なら、高校野球のようなやり方だってある。しかし
金もうけだから、試合に試合を重ね、「マジック」だの、「ナンバー」だのと、言って、
ファンを球場へ、うまく誘導する。

 で、最初の話にもどる。

 かぎりある「時間」を感じたとき、一方で、毎日、その刻々とすぎていく時間と戦って
いる人がいる。が、その一方で、その「時間」を忘れ、その「時間」を楽しんでいる人も
いる。

 50歳前後では、まだわからないかもしれないが、60歳近くになると、「いよいよ……」
という感じが強くなる。時間に、限界を感ずるようになる。

 私が正しいとか、あなたがまちがっているとか、そんなことを言っているのではない。
多分、相手の人たちから見れば、私のほうこそ、ただのバカに見えるだろう。朝早く起き
て、意味のない文章ばかり書いている。夜遅くまで、これまた意味のない文章ばかり書い
ている。ときどき、自分でも、自分がバカに見えるときさえある。

 ただ、私には、ああいうことをしているヒマはない。つまりは、それだけのことかもし
れない。テレビの報道を見ながら、そう感じた。大阪の人たち、ゴメン!

【付記】

 少し前、あなたが市長になったつもりで、市の行政を運営するというパソコンゲームが、
あった。(今でも、バージョンアップして、販売されていると思うが……。)

 あなたは最初、かぎられた予算で、市の建設を始める。道路をつくり、工場を誘致し、
住宅を建設する。やがて町は少しずつ大きくなる。人口もふえる。

 が、その一方で、住民の不満指数のようなものの表示される。それがある一定以上にな
ると、市長の人気が、下降する。下降すれば、つぎの選挙で落選するかもしれない。

 そこであなたという市長は、市民の不満をさげるために、公園を造成したり、娯楽施設
を拡充したりする。

 ゲームといえば、ゲームだが、ゲームをしているうちに、行政側の立場で、市の行政の
あり方を考えられるようになる。私はそのゲームをしながら、「こういうゲームを、教育
の世界に取り入れたら、それなりにおもしろい教育ができるのではないか」と思った。

 で、その娯楽施設だが、遊園地であったり、競技場であったりする。野球球場も、その
一つ。ただ働かせるだけでは、市民は、ついてこない。働かない。そこで行政側の視点で
考えると、市民を野球の試合に熱狂させるのも、行政の一つということになるのかもしれ
ない。

「娯楽は娯楽なんだから、もっと気軽に楽しめばいい」という意見もある。私のワイフ
も、そう言っている。しかし私は、どうしても考えてしまう。「あれでいいのだろうか?」
と。「ああいうバカ騒ぎをしている間に、もっと大切なものを、見落としてしまうのでは
ないのだろうか」と。でないというのなら、なぜ、そんなにうれしいのか? なぜ、そ
んなに騒がなければならないのか? ファンの人には、ファンの人の理由があるのだろ
うが、私には、どうしても、それが理解できない。大阪の人たち、再び、ゴメン!


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 4日
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選ばれました!


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【もうすぐ、(10月28日)、私の誕生日です。満62歳になります。
特集として、過去、その前後に発行したマガジンを、そのまま転載して送ります。】

今回から、3回分、過去、私の誕生日前後に発行したマガジンを、特集として
再掲載します。

過去の記事を順に読み比べていただければ、私のボケの進み具合も、ついでに
知っていただけるのではないかと思います。

(特集)2004年10月28日前後(満57歳の誕生日のマガジンより)

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第1回(3回分)2004年10月号より

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 10月 27日(No.481)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525


【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ゆがんだ自然観

 もう三〇年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。

「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシ
ンのよう」と。

この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小
さな虫を見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子ども
も多い。自然教育が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれ
が入ってこない。

 「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや
世界は、人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部
に過ぎなかった。

が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離オて、「自然は征服されるもの」
(ベーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さ
らには一七四〇年に始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎です
ら、「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。

が、戦後、アメリカ型社会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考
え方が、日本を支配した。その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本
の自然はどんどん破壊された。埼玉県では、この四〇年間だけでも、三〇%弱の森林や
農地が失われている。

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分
けて考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部で
しかないという事実の再認識である。

さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住む動物や植物の了解
を求めてからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつことである。少
なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切にし
ましょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許されない。(はやし浩司のサ
イト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

+++++++++++++++++++++

●机は平机

 以前、小学一年生について調べたところ、前に棚のある棚式机のばあい、購入後三か月
で、約八〇%の子どもが机を、物置にしていることがわかった。

いろいろな附属品ついいる棚は、一時的に子どもの関心を引くことはできても、あくま
でも一時的。棚式の机は長く使っていると、圧迫感が生まれる。その圧迫感が子どもを
勉強から遠ざける。

あなたも一度、カベに机を向けて置き、その机でしばらく作業をしてみるとよい。圧迫
感がどういうものか、理解できる。そんなわけで机は買うとしても、長い目で見て、平
机が好ましい。あるいはこの時期、まだ机はいらない。

 まず第一に、「勉強は学習机」という誤った固定概念は捨てる。日本人はどうしても型
にはまりやすい民族。型を決めないと落ちつかない。学習机その延長線上にある。小学校

低学年児の場合、大半の子どもは、台所のテーブルなど利用して学習している。もしそう
であれば、それでよい。

この時期、あまり勉強を意識する必要はない。「勉強は楽しい」という思いを子どもがも
つようにするのが大切。そこであなたの子どもと机の相性テスト。

 子どもが好きそうな食べ物などをそっと机の上に置いてみてほしい。そのとき子どもが
それをそのまま机に向かって座って食べればよし。そうでなく、その食べ物を別の場所に
移して食べるようであれば、机との相性はよくないとみる。長く使っていると、それが勉
強嫌いの遠因になることもある。

 よく誤解されるが、子どもの学習机は、勉強するためにあるのではなく、休むためにあ
る。どんな勉強でも、一〇〜三〇分もすれば疲れてくる。問題はその疲れたときだ。子ど
もがそのまま机に向かって休めればよし。そうでないと子どもは机から離れ、そこで勉強
が中断する。勉強というのは、一度中断すると、なかなかもとに戻らない。だから机は休
むためにある。が、それでもなかなか勉強しないというのであれば、奥の手を使う。

 あなたの子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休めるかを観察し
てみる。たいては台所のテーブルとか、居間のソファだが、そういうところを思いきって
勉強部屋にする。あなたの子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。

 ものごとには相性というものがある。その相性があえばことはうまくいく。そうでなけ
れば失敗する。


++++++++++++++++++++++++

【子育て・あれこれ】

【子育て一口メモ(2)】

●悪玉親意識

「私は親だ」というのが、親意識。この親意識にも、二種類をある。善玉親意識と、悪玉
親意識である。「私は親らしく、子どもの見本になろう」「子どもをしっかりと育てて、
親の責任をはたそう」というのが、善玉親意識。一方、「親に向かって何よ!」と、子ど
もに
対して怒鳴り散らすのが、悪玉親意識。いわゆる『親風を吹かす』ことをいう。なお親は
絶対と考えるのを、「親・絶対教」という。


●達成感が子どもを伸ばす

「ヤッター!」という達成感が、子どもを伸ばす。そんなわけで子どもが幼児のうちは、
(できる・できない)という視点ではなく、(がんばってやった・やらない)という視点
で子どもを見る。たとえまちがっていても、あるいは不十分であっても、子どもががんば
ってしたようなら、「よくやったわね」とほめて終わる。こまごまとした神経質な指導は、
子どもをつぶす。


●先生の悪口、批評はしない

学校から帰ってきて子どもが先生の悪口を言ったり、批評したりしても、決して、相づち
を打ったり、同意したりしてはいけない。「あなたが悪いからでしょう」「あの先生は、
すばらしい人よ」と、それをはねかえす。親が先生の悪口を言ったりすると、子どもはそ
の先生に従わなくなる。これは学校教育という場では、決定的にまずい。もし先生に問題
があるなら、子どもとは関係のない世界で、処理する。

●子育ては楽しむ

子どもを伸ばすコツは、子どものことは、あまり意識せず、親が楽しむつもりで、楽しむ。
その楽しみの中に、子どもを巻き込むようにする。つまり自分が楽しめばよい。子どもの
機嫌をとったり、歓心を買うようなことは、しない。コビを売る必要もない。親が楽しむ。
私も幼児にものを教えるときは、自分がそれを楽しむようにしている。


●ウソはていねいにつぶす

子どもの虚言にも、いろいろある。頭の中で架空の世界をつくりあげてしまう空想的虚言、
ありもしないことを信じてしまう妄想など。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中の
楼閣に住まわせてはならない』というのがある。過関心、過干渉などが原因で、子どもは、
こうした妄想をもちやすくなる。子どもがウソをついたら、叱っても意味はない。ますま
すウソがうまくなる。子どもがウソをついたら、あれこれ問いかけながら、静かに、てい
ねいに、それをつぶす。そして言うべきことは言っても、あとは、無視する。


●本物を与える

子どもに見せたり、聞かせたり、与えたりするものは、いつも、本物にこころがける。絵
でも、音楽でも、食べ物でも、である。今、絵といえば、たいはんの子どもたちは、アニ
メの主人公のキャラクターを描く。歌といっても、わざと、どこか音のずれた歌を歌う。
食べ物にしても、母親が作った料理より、ファミリーレストランの料理のほうが、おいし
いと言う。こういう環境で育つと、人間性まで、ニセモノになってしまう(?)。今、外
からの見栄えばかり気にする子どもがふえているので、ご注意!


●ほめるのは、努力とやさしさ

子どもは、ほめて伸ばす。それはそのとおりだが、ほめるのは、子どもが努力したときと、
子どもがやさしさを見せたとき。顔やスタイルは、ほめないほうがよい。幼いときから、
そればかりをほめると、関心が、そちらに向いてしまう。また「頭」については、慎重に。
「頭がいい」とほめすぎるのも、またまったくほめないのも、よくない。ときと場所をよ
く考えて、慎重に!


●親が、前向きに生きる

親自身に、生きる目的、方向性、夢、希望があれば、よし。そういう姿を見て、子どもも
また、前向きに伸びていく。親が、生きる目的もない。毎日、ただ何となく生きていると
いう状態では、子どももまた、その目標を見失う。それだけではない。進むべき目的をも
たない子どもは、悪の誘惑に対して抵抗力を失う。子育てをするということは、生きる見
本を、親が見せることをいう。生きザマの見本を、親が見せることをいう。


●機嫌をとらない

子どもに嫌われるのを恐れる親は、多い。依存性の強い、つまりは精神的に未熟な親とみ
る。そして(子どもにいい思いをさせること)イコール、(子どもをかわいがること)と
誤解する。子どもがほしがりそうなものを買い与え、それで親子のキズナは太くなったは
ずと考えたりする。が、実際には、逆効果。親は親として……というより、一人の人間と
して、き然と生きる。子どもは、そういう親の姿を見て、親を尊敬する。親子のキズナも、
それで太くなる。


●親のうしろ姿を見せつけない

生活で苦労している姿……それを日本では、「親のうしろ姿」という。そのうしろ姿を、
親は見せたくなくても、見せてしまうものだが、しかしそのうしろ姿を、子どもに押し売
りしてはいけない。つまり恩着せがましい子育てはしない。「産んでやった」「育ててや
った」「お前を大きくするために、私は犠牲になった」と。うしろ姿の押し売りは、やが
て親子関係を、破壊する。


●親孝行を美徳にしない

日本では、親孝行を当然の美徳とするが、本当にそうか? 「お前の人生は、お前のもの。
私たちのことは心配しなくていいから、思う存分、この世界をはばたいてみろ」と、一度
は、子どもの背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての責任を果たしたことになる。
もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するというのであれば、それはそれ。
しかし親孝行は美徳でも何でもない。子どもにそれを強要したり、求めたりしてはいけな
い。


●「偉い」を廃語に!

「偉い」という言葉を、廃語にしよう。日本では、地位の高い人や、何かの賞をとった人
を、「偉い人」という。しかし英語国では、日本人が、「偉い人」と言いそうなとき、「リ
スペクティド・マン」という。「尊敬される人」という意味である。リスペクティド・マ
ンというときは、地位や、名誉には関係ない。その人自身の中身を見て、そう判断する。
あな
たの子どもには、「偉い人になれ」と言うのではなく、「尊敬される人になれ」と言おう。


●家族を大切に

『オズの魔法使い』という、小説がある。あの中で、ドロシーという女の子は、幸福を求
めて、虹の向こうにあるというエメラルドタウンを冒険する。しかし何のことはない。や
がてドロシーは、真の幸福は、すぐそばの家庭の中にあることを知る。今、「家族が一番
大切」と考える人が、80〜90%になっている。99年の文部省の調査では、40%前

でしかなかったから、これはまさにサイレント革命というにふさわしい。あなたも自信を
もって、子どもには、こう言おう。「この世界で、一番大切なものは、家族です」と。


●迷信は、否定しよう

子どもたちの世界では、今、占い、まじない、予言、超能力などが、大流行。努力して、
自ら立ちあがるという姿勢が、ますます薄らいできている。中には、その日の運勢に合わ
せて行動し、あとで、「運勢が当たった」と言う子どもさえいる。(自分で、そうしただ
けなのだが……。)子どもが迷信らしいことを口にしたら、すかさず、「そんなのはウソ」
と言ってやろう。迷信は、まさに合理の敵。迷信を信ずるようになればなるほど、子ども
は、ものごとを合理的に考える力を失う。


●死は厳粛に

ペットでも何でも、死んだら、その死は厳粛にあつかう。そういう姿を見て、子どもは、
「死」を学び、ついで、「生」を学ぶ。まずいのは、紙か何かに包んで、ゴミ箱に捨てる
ような行為。決して遊んだり、茶化したりしてはいけない。子どもはやがて、生きること
そのものを、粗末にするようになるかもしれない。なぜ、ほとんどの宗教で、葬儀を重要
な儀式と位置づけているかと言えば、それは死を弔(とむら)うことで、生きることを大
切にするためである。生き物の死は、厳粛に。どこまでも厳粛に。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【みなさんからのご質問から……】

*********************************

たまたまI小学校(静岡市)と、W小学校(浜松市)のみなさんから、
講演に先立ち、相談の手紙をもらった。「子どもを叱る」というテーマ
で、共通していたので、それについて、ここで考えてみたい。

*********************************

Q:子ども(小1)を叱るとき、どうしても感情的になってしまう。プレッシャーをかけ
ない叱り方、子どもがぐずり、わめき、切れているときの対応の仕方を教えてほしい。ま
たがまんすることを教えるには、どうすればいいか。(I小学校、1年生の子どもをもつ、
母親より)

Q:長男はおっとりしているが、その下の長女(小5)は、勝気で気が強い。いつも母親
の私と大喧嘩になってしまう。たがいに好きなのに、です。そういうとき喧嘩をしない方
法は、ありますか。たとえば娘は、最後に謝るとき、「私も謝るから、ママも謝ってよ」

どと言います。そういうとき、どうしたらいいでしょうか。(I小学校、5年生の女児を
もつ母親より)

Q:子どもの叱り方がわかりません。あまりきびしく言うと、子どもに嫌われてしまうの
ではないかと、心配です。何か、いい方法はありませんか。(W小学校、1年生の子ども
をもつ母親より)

++++++++++

A:子育ては、考えてするものではありません。その人が過去に受けた子育てを、再現す
る形でするものです。ですから、ほとんどの親は、こう言います。「ついその場になると、
カッとなってしまって……」と。子育てというのは、そういうものです。もっと言えば、
子育ては本能ではなく、学習によるものです。

子どもへの対処の基本は、『子どもに、子育てのし方を教える』です。いつかあなたの子
どもも、親になります。そして今、あなたがしている子育てを再現する形で、子育てを
します。ですから心のどこかで、「私が、そのし方を教えてあげる」「見本を見せてあげ
る」と思えば、よいのです。

心の中で、ワンクッションおくため、ともすればとげとげしくなる子育てを、それで防
ぐことができます。もし今、あなたが感情的になっていれば、あなたの子どももまた、
いつか親になったとき、その子ども(あなたの孫)に対して、感情的になるということ。
あなたの目の前で、あなたの子どもがあなたの孫を、カッとなって、叱り飛ばすように
なるかもしれません。それでもよければ、今のままの子育てをつづければよいでしょう。

コツは、いくつかあります。

(1)子どもの横を、友として歩く
(2)悪玉親意識(親風を吹かすこと)をやめる
(3)気負いを捨てる
(4)言うべきことは言いながらも、あとは、時間を待つ
(5)叱り方の見本を見せるつもりで、子どもを叱る、です

 W小学校のお母さんは、子どもに嫌われることを心配しています。しかしこれは本末転
倒というべきではないでしょうか。話せば長くなりますが、これは親自身(その母親自身)
がもつ、子どもへの依存性の変形とみます。つまり子どもに依存したいという(甘え)が、
「嫌われては困る」という意識に変化したと考えます。はっきり言えば、そのお母さん自
身の精神的な未熟性によるものです(失礼!)。

 お母さん自身が、精神的に成長しないと、子どももまた成長できなくなってしまいます。
「子どもなんかに、嫌われても、かまわない」というき然とした態度が、子育てには必要
です。そのためにも、親は親で、いつまでも前向きに生きていく。

 むしろ、親のほうが、子どもに向かって、親離れができるように、しむけます。そして
その結果として、親もまた、子離れしていきます。その時期は、子どもの自己意識が急速
に発達し始める、小学3、4年生ごろと考えます。いつまでも、ベタベタした関係をつづ
けるほうが、おかしい……。そういう前提で、親子のあり方を、もう一度、反省してみて
ください。

 ただ誤解してはいけないのは、だからといって、友だち親子が悪いというのではありま
せん。親子関係もつきつめれば、一対一の人間関係です。そのとき、親子が、親と子とい
う上下意識のある関係から離れて、友だち関係になることもあります。それはそれで、す
ばらしいことです。そういう親子関係を、めざしてください。

 一般論から言えば、「子どもの機嫌をうかがう」というのは、すでに親子関係が、危険
な状態に入ったことを示しています。たがいの信頼関係が、かなりぐらついているとみま
す。
このままいけば、やがて親子のキレツから断絶へと進むかもしれません。どうか、ご注意
ください。

 言うまでもなく、親子の信頼関係(親子だけにかぎりませんが……)は、たがいの(さ
らけ出し)と、(受け入れ)という基盤の上に成りたちます。たがいに遠慮したり、飾っ
たり、虚栄を張ったり、そしてここでいう機嫌をとったり、コビを売ったりという関係で
は、
そもそもたがいの信頼関係は、成りたたないということです。

 まだまにあいますから、そのお母さんも、勇気を出して、言いたいことを言えばよいの
です。嫌われて困るのは、子どものほうです。そしてお母さんは、お母さんで、正義を貫
く。そういう姿勢を見て、子どもは、あなたを尊敬し、自分の生きザマを身につけます。
今、すぐにはそれがわからないかもしれませんが、やがてわかるようになります。「ぼく
の母は、すばらしかった」と、です。

 さらにいつも、親子喧嘩が絶えないというのであれば、あなた自身の中に潜む、(わだ
かまり)をさぐってみます。不本意な結婚であったとか、不本意な妊娠であったとか。結
婚当初の生活苦や、嫁姑問題などが、そのわだかまりになることもあります。

 この問題は、そのわだかまりに気づくだけで、よいのです。あとは、時間が解決してく
れます。ほとんどの人は、そのわだかまりに気づくこともなく、心の裏からそのわだかま
りに振りまわされます。操られます。そしていつも、同じ失敗を繰りかえします。

 さらに……。あなた自身の子どもへの愛情も、疑ってみてください。「私は、真に子ど
もを愛しているか」とです。

 するとほとんどの親は、「私は、愛している」と言います。しかし本当のところは、自
分のために、そして自分の子どもを、自分の思いどおりにしたいだけではないでしょうか。
自分の心のすき間を埋めるためにです(失礼!)。よい例が、子どもの受験勉強に狂奔し
ている親です。「子どものため」と言いながら、まったく子どものことなど、考えていな
い。

 しかしこれは真の愛ではないですね。真の愛は、無条件、無償の愛です。もっとわかり
やすく言えば、『許して、忘れる』。その度量の深さによって、親の愛の深さも決まると
いうことです。

 昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいると、オーストラリアの友人がいつもこ
う言いました。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では「Forgive and Forget」と
いいます。

この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せます。同じように「フ
ォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せますね。しかし何を与えるために許し、
何を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたよ
うに思います。が、ある日。その意味がわかりました。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのことです。この言葉が頭を横切った。「ど
うしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではない
か。許して忘れてしまえ」と。

つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛
を得るために忘れろ」ということになります。そしてその深さ、つまりどこまで子ども
を許し、忘れるかで、親の愛の深さが決まるということです。もちろん許して忘れると
いうことは、子どもに好き勝手なことをさせろということではありません。子どもの言
いなりになるということでもありません。

許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子どもをあるがままに認めるというこ
と。子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、
その問題を自分のものとして認めるということをいいます。

 「子どもを叱る」という話から、とんでもない方向に脱線したような気がしますが、そ
んなことも心のどこかで考えながら、「叱る」というテーマを考えてくださると、子ども
への接し方もまた、変わってくるのではないでしょうか。

 最後に子どもを叱るときには、一度、子どもの目の中に、自分を置いてみるとよいです
よ。頭の中で想像してみるのです。「今、私という親は、子どもには、どんなふうに見え
ているか」とです。たいていのお母さんは、その醜さに、驚かれることと思います。
(はやし浩司 子どもを叱る)
(040928)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●女性の「美」

女性がもっとも美しくなるのは、20歳を過ぎてから、35歳前後の間ではないか。こ
の時期、女性は、それまでの年齢とは、まったく別人のようになる。そしてとても悲し
いことだが、この時期をすぎると、今度はこれまた、まったく別人のようになる。

 私の通勤路に、小さな電気店がある。私が、その道を通るようになる前からあったから、
昔からの電気店である。

 で、私がその電気店の前を通るようになってからしばらくのこと。その店のダンナが結
婚した。ダンナの年齢はそのとき、40歳くらいではなかったか。私が29歳のときであ
る。

 が、驚いたのなんのと言って、その奥さんの美しさはなかった。背は高く、スラリと伸
びた足。今でいう小顔。美人というレベルを超えて、清楚な気品をたたえた、まるでモデ
ルのような人だった。色は白く、明るい太陽の光りの下では、さらに輝いて見えた。

 私はよくワイフにこう言った。「あのダンナ、かなり年齢が違うようだけど、よくもま
あ、あんな美しい女性と結婚できもんだね」と。

 それは私のひがみだった。いや、嫉妬だったかもしれない。以来、私は、その電気店の
前を通るたびに、店の中をのぞいた。

 が、私にとっても、30年も前の話である。記憶はあまり残っていない。ただ一度だけ、
何かを買いにその店に入ったことがある。店の番は、ふだんは、その女性がしていた。が、
その日にかぎって、その女性がいなかった。私はたいへんがっかりした。そのがっかりし
た思いだけは、よく覚えている。

 で、5年がたち、10年がたった。ときどき、つまり数か月に1度くらい、道路でみか
けた。美しさはそのままだったが、見かけるたびに、どこか生活に追われている感じがす
るようになった。このころから、個人の電気店は、経営がきびしくなった。大型の電気店
に、押されるようになった。

 そのうちダンナの姿は見えなくなった。が、その女性の姿も、見かけなくなった。ダン
ナは、どこか別の職場で働くようになったのかもしれない。と、同時に、私は、その女性
のことを忘れた。その店の前を通っても、中をのぞくということはなかった。

 しかし、である。私は、今日、10年ぶりか、15年ぶりか、それはよくわからないが、
その女性を見かけた。いつものように店の前を自転車で通りぬけようとしたとき、その女
性が目の前に立っていた。バッタリと出くわしたような感じだった。この30年でも、そ
れほどまでに、至近距離で、その女性を見たことはなかった。

 驚いた。もちらん相手の女性は、私の秘めた心の中など、知るはずもない。私のほうを
瞬間見たあと、すぐ視線をはずした。しかし私は、その女性から目を離すことができなか
った。

 相変わらず整った顔立ちをしていた。スタイルは、昔のままだった。しかし顔だけは、
浅黒くなり、無数のシミが、それを覆っていた。年齢は、45歳くらいというところか。
「ああ」と思った、その瞬間、私は、その女性の向こうに、何とも言われない、悲哀感を
覚えた。悲哀感だ。

 時は、容赦なく、人間を変えていく。そして女性から、美しさを、奪っていく。時の流
れの無常というべきか、あるいは無情というべきか……。その女性にすればいらぬ節介か
もしれない。しかし私は、その悲哀感をどうすることもできなかった。

 そのことを仕事が終わってから、ワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「そう言え
ば、昔、あなたはそんなことを言っていたわね。あの人のこと?」と。

私「そうなんだ。あの人だよ。美しい人だったよ」
ワ「……」
私「でも今日見たら、すっかり、おばちゃんになっていた……」
ワ「きっと、生活で、苦労をしたのね」
私「うん、ぼくもそう思う」と。

 女性というのは、生活で苦労をすると、とたんに老ける。私の意見というよりは、みな
が、そう言う。生活に追われるうちに、心の余裕をなくすためかもしれない。あるいは、
そういう苦労が、ホルモンのバランスを崩すためかもしれない。よくわからないが、たし
かに、そうだ。

 いや、だからといって、その女性が、苦労をしたと言っているのではない。だれしも平
等に、老ける。その女性だけが、特別に老けたというわけではない。ただここで書けるこ
とは、みなが、それぞれの方法で、歳をとっていくということ。私も、あなたも。彼も彼
女も。そして彼らも、みなだ。例外はない。

私が感じた悲哀感の理由は、そんなところにあるのかもしれない。

★A good husband makes a good wife.(よい夫は、よい妻をつくる。)(イギリスの格言)。
ただし同時に、A good wife. makes a good husband(よい妻は、よい夫をつくる)という
格言もあるので、注意。

【追記】

街を歩く。
とぼとぼと歩く。
しかしそこは、若者の世界。
私の知っている世界とは、異質の世界。
「私にも、ああいう時代があったはず」と、懸命に思う。
しかし、その思いも、やがて、街の雑踏の中に消えていく。

私は生きた。
懸命に、生きた。
しかしその前にあるのは、老後。
生きてきたはずなのに、その実感がない。
「私は、今まで、何をしてきたのだろう」と、ふと、立ち止まる。
しかし、いくら問いかけても、その向こうに見えるのは、乾いた砂漠のみ。

老人は、笑う。
私の愚かさを笑う。
しかし私にはわからない。
何を、どう生きたらいいのか、わからない。
「お前も、やがて私と同じになる」と、その老人は言う。
しかし、その私は、懸命に虚勢を張って、ただひたすら前に歩くだけ。

 
●脳ミソの容量

 人間の脳みそは、コップのようなものかもしれない。容量にかぎりがありということ。
だから新しい情報が頭の中に入れば入るほど、その分だけ、古い情報を忘れていく。私の
ばあい、人の名前で、それをよく経験する。

 新しい生徒の名前は、比較的はやく覚える。しかし覚えたとたん、去っていった生徒の
名前を忘れてしまう。半年もすると、よほど印象に残った子どもは別として、大半の子ど
もの名前を忘れてしまう。

 情報だけではない。経験も、そうだ。よい例が、プロ野球の試合。

 10年前も、20年前も、今日の「今」と同じように、野球の試合はあった。しかし記
憶に残る試合は、ほとんどない。が、それでも今、人々はプロ野球の試合を見て、喜んだ
り、がっかりしたりする。

 実のところ、その場の娯楽にはなるが、しかしそうした経験が積み重ねられて、何かの
成果につながるということは、まずない。

 新しい経験が脳ミソの中に入ると同時に、古い経験が押し出されるように、どこかへ消
えていく。あとはこの繰りかえし。

 そこで容量にかぎりがあるとするなら、そこへ入れる情報や経験は、より良質のもので
あったほうがよい。ムダな情報、俗悪な経験が入れば入るほど、その人は、その分だけ良
質な情報や経験を入れることができなくなる。

 そこで私たちは、日常生活の中で、自ら、より良質な情報や経験をよりわけなければな
らない。「これはすばらしい」「これはつまらない」と。そしてより良質な情報や経験は
しながらも、そうでないのは、捨てていく。捨てていくというよりは、最初から脳みその

に、入れないようにする。

 そうでなくても、歳をとると、脳みその容量そのものが小さくなっていく。若いときは、
1リットルとかそれくらいあった容量が、50歳をすぎるころには、半分の5デシリット
ルになったりする。実感としては、それくらいになる。

 だからますます、脳みその中に、どんな情報や経験を入れるかが、重要になってくる。
つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがあるが、それ
はそういう理由による。

 人間関係についても同じ。ムダな人と、ムダなつきあいをしているヒマは、もうない。
……とまあ、そういうふうに考える。

 ということで、またまたあのバラエティ番組。いつもヤリ玉にあげるので、よくマガジ
ン読者の方から、「先生は、よほど、あのバラエティ番組が嫌いのようですね」というメ
ールをもらう。

 しかし私だって、ときどき、見る。若いときは、テレビのワイドショーの企画も書いて
いたこともある。NET(現在の朝日放送)のアフタヌンショーとか、日テレの11PM
の企画を書いていた。とても自慢できるような過去ではないが、ともかくも、仕事として、
それをしていた。

 が、あのバラエティ番組などは、いくら見ても、頭に残らない。身につかない。頭の体
操にもならない。それもそのはず。そのレベルの人間たちが、ギャーギャーと騒いでいる
だけ。どうでもよい情報を、右から左へ流しているだけ。むしろ見れば見るほど、自分自
身が俗化していくのがわかる。

 だから私のばあい、あくまでも私のばあいだが、このところ情報を、選択するようにな
った。「これはくだらない情報だから、無視しよう」「これは、大切な情報だから、しっ
かりと吸収しておこう」と。

 しかしこうした操作は、歳をとればとるほど、重要になってくる。もちろん残りの人生
を、より有意義に生きるためである。

★A fool at forty is a fool indeed.(40歳を過ぎてからの愚か者は、本物の愚か者。)
(イギリスの格言)


●子どもと接することのすばらしさ

 昨日、ある母親とこんな話をした。

 私が、「子どもたちと接していると、二つの得をします」と話したときのこと。その母
親は、すかさず、「何ですか?」と。

 まず、子どもたちに接していると、心が洗われる。そういう意味では、子どもの心は純
粋。けがれていない。常識のかたまり。

 反対に、子どもたちと接していない人たちをみると、それがわかる。そういう人たちは、
どこか偏屈。おかしい。心がゆがんでいる。

 だから子どもたちと接していると、常に自分の考え方が、修正される。訂正される。

 つぎに、これは同業の人たちが、よく言うことだが、子どもたちと接していると、その
活力をもらうことができる。こちらが、いくら落ちこんでいても、子どもたちは、それを
許してくれない。実際、「先生!」と声をかけてくれたとたん、気が、パッと晴れる。

 で、もう一つ、つけ加えるなら、こういうこともある。

 私のばあい、子どもたちや親たちを通して、無数の人生を、疑似体験している。それぞ
れの子どもの世界に、こっそりと侵入することもあるし、親の世界に、こっそりと侵入す
ることもある。

 その子どもや、親になりきって、そのときどきにおいて、別の人生を楽しむ。

 もともと私は、空想力が豊かな人間なので、そうして侵入するのは、むずかしいことで
はない。もっとも、母親の世界に入ることは、めったにない。母親と接したときは、相手
の夫の世界に入る。「私は、今、この女性の夫だぞ」と。

 実は、冒頭に書いた、その母親と話していたときもそうだ。すてきな母親だったので、
ふと、その母親の夫の世界に侵入してみた。

 しかし、この三番目の話はしなかった。あまりにも、不謹慎な内容だったので……。ハ
ハハ!
(040929)


●K国で、何が起こっているのだ!

 このところ、K国から伝わってきているニュースを、まとめると、つぎのようになる。

(事実1)K国は、中国国境沿いに、金XX直轄の最強部隊を、配置し終えた(9月)。
(事実2)K国は、6か国協議をボイコットした。
(事実3)日朝実務者会議は、ほとんど成果がないまま終わった。
(事実4)金XXは、6か国協議開催を迫る中国高官の説得に応じなかった。
(事実5)K国は、このままでは、今年の冬から来年の春にかけて、大飢饉におちいる。
(事実6)K国の原油は、今年の冬、枯渇する。
(事実7)にもかかわらず、中国からの1万トンの原油提供を蹴った。
(事実6)K国の政権抗争が、水面下で激化している。
(事実9)時期後継者と思われる、金正Xが、北京に姿を現した。
(事実10)金XXの精神状態が、きわめて不安定と推測される。
(事実11)金XXは、中国訪問をドタキャンした。
(事実12)K国の経済状態は、すでに破綻している
(事実13)ブッシュ再選は、ほぼ確実。アメリカはK国に対して、ますます強硬になる。

 以上の事実に加えて、

(事実14)K国は、K国全土で、ミサイル発射準備の兆候を見せている。
(事実15)アメリカ・北太平洋空軍司令官ヘスター氏が、重大懸念を発表。
     (2004年9月26日、午後7時33分)

 これらの事実を、どう読むか。どうまとめるか。

 読み方はいろいろあるのだろうが、ここまでくると、私には、もう理解不能。私には、
金XXが、何を考えているか、まったく理解できない。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 2日
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11月2日  第1273号になりました!

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ユーモア(日本人と笑い)(Humor and the Japanese)

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私が若いころ、だれかが言った。
「日本人には、ユーモアがわからない」と。

それから40年ほど。
今になって、それを再確認しつつある。

たとえば子どもたちでも、私が何かユーモアを
話しても、内容そのものが、理解できない。
中には、「どうして、そんな話がおもしろいの?」と
聞いてくる子どもさえいる。

昨日も、小4の子どもたちに、こんな話をしてみた。

「あるアメリカ人が、1時間ほど、講演をした。
たいへんおもしろい話をした。
しかしみな、英語がわからなかったのか、だれも
笑わなかった。
そこで横にいた通訳に、通訳してくれるように
頼んだ。
その通訳は、みなに、こう言った。
『今、このアメリカ人はたいへんおもしろい話を
しました。
みなさん、笑ってやってください』と。
すると、みなが、ドッと笑った。
それを見て、講演をしたアメリカ人は驚いて
こう言った。
『君は、すばらしい通訳だ。
私が1時間もかかって話したことを、たった一言で
通訳した』と」と。

先にも書いたが、小4の子どもたちはだれも笑わなかった。
またそのあとの小6のクラスでも、同じ話をしてみたが、
だれも私ら笑わなかった。

そこで、私が「どうして君たちは、笑わないのか?」と聞いた。
すると、1人の男の子がこう言った。
「おもしろいのはわかるけど、笑うような話ではない」と。

+++++++++++++++++++

●ユーモアと詩

 民族性というか、国民性というか?
日本人はユーモアが苦手。
それはそれとして、ユーモアと同じように、もうひとつ気になっているのが、「詩」。
アメリカでもオーストラリアでも、また欧米でも、「詩の朗読会」というのがある。
あちこちである。
音楽会と同じように、開かれている。
しかしこの日本で、少なくとも私の周辺で、詩の朗読会が開かれたという話は、聞いたこ
とがない。

 声のすばらしい人が、ピアノの演奏などのような軽い音楽をBGMに使いながら、詩を
朗読する。
英語国の人は、声が太いので、意味はわからなくても、聴いているだけで、うっとりする。
もちろんだからといって、日本人が異質であるとか、遅れているとかいうのではない。
日本には日本のよさがある。
外国にはなくても、日本だけにあるものも多い。
しかしことユーモアとなると、これはセンスの問題。
つまり学習と訓練の問題。
日本人は子どもときから、そういう訓練を受けていない。

 一般論としては、思考の柔軟な人ほど、ユーモアを楽しむ。
ユーモアに対して、おおらか。
つまりその分だけ、日本人は、頭が固い(?)。
まじめすぎる(?)。

 いろいろ理由は考えられるが、しかし子どもたちにユーモアを話してみて、これほどま
でに、日本人がユーモアを理解できない民族だったとは知らなかった。
再発見というか、驚いた。

 ついでに今朝、証券会社の女性から電話がかかってきたから、こんな話をしてみた。
その女性(30歳前、未婚)も、笑わなかった。
話の内容も理解できなかった。
こんな話だ。

『ある男は、毎晩、床へ入る前に、バイアグラと鉄剤を飲んで寝ている。
だからその男の体は、朝になると、いつも北を向いているそうだ』と。

 このユーモアを読んで笑ったあなたは、かなり思考の柔軟な人ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 ユーモア ユーモアのセンス 日本人と笑い)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●老害問題

+++++++++++++++++

「老害」という言葉が、使われ始めている。
この先、10年ほどで、3人に1人が、満
65歳以上の高齢者になると言われている。
(現在は、4人に1人。※)

その老害の中でも、とくに深刻味を帯びてきたのが、
認知症の問題。
いわゆるボケ老人の問題。

数日前、家に遊びに来た、N君(同級生)が、
こんな話をしてくれた。

N君の近くに、1人の女性(現在満72歳)がいた。
この女性は、現在、アルツハイマー型認知症になり、
そういった施設で入所生活を送っているという。
が、「そこに至るまでが、たいへんだった」(同級生)と。

近所とのトラブルは日常茶飯事。
親類とも、言った、言わないの、騒動の連続。
約束など、日なたの道路に昇る陽炎(かげろう)のようなもの。
何か約束しても、つぎの日には忘れてしまう……。
この繰り返し。
町内で預かったお金を、使い込んでしまった、
(あるいは紛失してしまった?)、こともあるという。

それについて預けた人が抗議すると、「私は、
預かった覚えはない」と、語気を強くして争う。
N君も一度、同じようなトラブルに巻き込まれた
ことがある。

N君の家の駐車場が、その女性の土地と入り組んでいて、
わかりにくくなっていた。
そこでその女性と話し合い、覚書の形で、N君の
土地のほうを直線的にした。
70万円ほどの土地代も、そのときその女性に渡した。

ところが、である。
1年もたたないうちに、その女性が、その土地を他人に
転売してしまった。
こういうケースのばあい、つまり不動産というのは、
一度登記簿上で移転されてしまうと、N君としては、
なすすべもない。

で、N君としては、その女性に抗議するしかなかった。
が、その女性は、「そんな話は知らない」「覚書を
書いた覚えもない」「私に責任はない」と。

そこでN君が、「この署名はあなた自身の直筆によるもの」
「印鑑はあなたのもの」と主張したが、「私の字ではない」
「印鑑はなくしてしまったから、ない」と。

すでにこのときその女性の認知症が始まりかけていた(?)。
結局N君は、泣き寝入り。
「民事調停をするような話でもないし……。
相手も相手だし……」と。

本来なら、土地を買ったとき、一度土地測量士に入ってもらい、
土地を分割し……という手順を踏まねばならなかった。
しかしN君は、それを怠った。

……というようなケースは、この先、ふえてくる。
行為能力に欠ける人には、禁治産者、準禁治産者
という制度がある。
認知症の老人も、同じように法律行為を制限するなど
の措置が、この先、必要となってくるかもしれない。
これは老人自身のためでもある。
が、これにはもうひとつ、問題がある。

家族がそれを認めたがらないという問題である。
N君の近くに住んでいた、その女性にしても、
ほぼ同年齢の夫と同居していたが、夫は最後の
最後まで、自分の妻がそうであることを認めよう
としなかったという。
親類の1人が、「一度、検査を受けさせてみたら」と
勧めたこともある。
が、夫は「オレの女房は、思い込みは激しいが、
頭はいい」と。
そのまま大激怒。
話し合いにならなかったという。

N君が言うには、「夫のほうも、血栓性の認知症の
疑いがあった」と。
 
そのN君は、こう言う。
「これから先、認知症患者は、100万人単位で
ふえていく。
そうなったとき、ぼくらはぼくらで対策を考えて
おかないと、それこそ、老害として、社会そのもの
から排斥されてしまう」と。

アルツハイマー型認知症に限らず、認知症の問題は、
その人自身にとっても、深刻な問題である。
それは認める。
しかし同時に、認知症の人たちが、そこに至る過程の
中で、多くの人たちに多大な迷惑をかけるという事実も
忘れてはいけない。

つまりこの問題は、現在進行形の、私たち自身の問題である。
あなた自身の問題である。
それを忘れてはいけない。

(補記)
この話を市内に住む義姉に話すと、義姉もこんな話をしてくれた。
義姉の義母(=夫の母親)も、最後は、認知症になった。
そして孫たちが遊びに来ると、孫たちがサイフからお金を盗んだ
といって騒いだという。
もちろん孫たちは、お金など、盗んでいない。
で、義姉の子どもたちが、それによって、ひどく傷ついた、と。
「今では、笑い話かもしれないけど、そのときは、本当に不愉快でした」
と義姉は付け加えた。

(補記2)
アルツハイマー型認知症のばあい、「忘れる」というよりは、記憶そのものが、脳から「欠
落」してしまう。
そのため、本人には、「忘れた」という自覚すらない。
事実や証拠をつきつけられても、初期の段階では、取り乱して混乱状態になってしまう。
自らその恐怖心からか、それを否定しようとする。
が、それも一巡すると、今度は、「わからない」という言葉をよく使うようになり、さらに
(言い訳)(とりつくろい)がうまくなる。
ものごとを確認するため、(指差し行為)もふえてくる。
こうした経緯をたどりながら、病状は進行する。

(注※)(全日本病院協会資料)

高齢者の割合は最近では一貫して上昇しています。現在、高齢者は全人口の18.0%で
すが、2010年には23%、2020年には28%に増加すると推計されています。日本では、
高齢者のスピードが諸外国に比較して非常に速いのが特徴です。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日から、マガジン11月号

+++++++++++++++++++

今日から11月号!
マガジンは、ちょうど1週間遅れ!
本来なら今は、11月9日(月)号の
発行予約を入れていなければならない。
それが11月2日(月)号。

書きたいことは、多い。
頭の中はモヤモヤしている。
が、書こうとする前に、「つまらないからやめた」となる。
そこに書きたいことがあるのに、
それが何であるか、つかめない。
この歯がゆさ。
このもどかしさ。

+++++++++++++++++++

●人間のレベル

 ウソ、いんちき、小細工のかたまりのような人は、少なくない。
世間体を気にし、見栄、メンツにこだわる。
虚栄心が強く、ものの考え方が自己中心的。
自分勝手でわがまま。
少しでも批判されると、ささいなことにこだわり、大騒ぎする。
他人の心が読めない。
心の広さがない。
思慮の深さもない。

●一貫性

 「一貫性」という言葉がある。
ふつうは、よい意味で使う。
人格の完成度の高い人ほど、一貫性がある。
どんな状況になっても、動じない。

しかし悪い意味での一貫性もある。
一事が万事というか、なにかにつけて、小ずるい。
ある女性から、こんなメールが届いた。
何でも職場の上司(女性)が、そのタイプの人で、会社をやめるかどうか悩んでいるとい
う。

「何か気分が悪いと、露骨な態度で、私を嫌ったり、避けたりします。そこで理由を聞く
と、その2週間ほど前、その人が嫌っている人と、楽しそうに話していたのが気に入らな
かったから」と。

●化けの皮

 しかし見た目には、ふつう。
むしろよくできた人という印象を与える。
とくに初対面の人には、そうだ。
しかしそれは仮面。

 このタイプの人は、男性、女性にかぎらず、つねに自分がどう見られているかを気にす
る。
またどうすれば、よい人間に見られるかを、研究している。
つまりそういうことも含めて、ウソ、いんちき、小細工がうまい。
が、先にも書いたように、仮面は仮面。
わかりやすく言えば、「化けの皮」。

●口がうまい

 このタイプの人は、口がうまい。
相手をその気にさせたり、喜ばせたりするのが、うまい。
それ自体は害はないのだが、反対に、悪口を言いふらすのもうまい。
涙声で、こう言う。

「かわいそうに、あの家の息子さんは、万引きをして警察に逮捕されたんですってねえ。
これで前科者よねエ・・・」と。

 もちろん涙は一滴も出ない。

●接触を避ける

 私のばあい、そういう人とわかれば、接触を避ける。
(私のほうが避けられているのかもしれないが・・・。)
 つきあってよいことは、何もない。
ないばかりか、しばらくつきあっていると、その毒気に染まってしまう。
感覚が麻痺してくる。
ウソをウソと思わなくなる。
インチキをインチキと思わなくなる。
小細工を小細工と思わなくなる。
そしていつの間にか、自分も、同じことをするようになる。

●疑り深い
 
 話は変わるが、『泥棒の家ほど、戸締りが厳重』という。
これについては、もう何度も書いてきた。
同じように、ずるい人ほど、疑り深い。
小細工を重ねる人ほど、相手の小細工を警戒する。
さらに言えば、ウソつきほど、ウソをつかれると、激怒してみせる。

 言い換えると、もしあなたが、疑り深い人なら、相手を疑う前に、自分自身を一度、疑
ってみたほうがよい。
実は私も、その疑り深い人間。
若いころは、だれにも負けないほど、ウソつきで、インチキで、小細工ばかり重ねていた。
しかしそんな私を正してくれたのが、オーストラリアでの留学生活だった。

●欧米人のウソ嫌い

 欧米人は、ウソを嫌う。
その嫌い方は、日本人からみると、ふつうではない。
日本人には何でもないウソでも、彼らは許さない。

 こんなことがあった。
ある日、友人が、昼食に誘ってくれた。
すかさず私は日本式に、「今、ちょうど終えたところだ」と言ってしまった。
ウソというよりは、軽く断るための方便として、そう言った。

 が、そのあと別の場所で、別の友人たちと食事をしているところと、先の友人に見つか
ってしまった。
とたん、その友人は、激怒。
「ヒロシ、どうして君は、ぼくにウソをついたのか?」と。

●独裁国家

 またまた話が脱線するが、独裁国家ほど、独裁者の人間性が、そのまま外に表れる。
独裁性が強ければ強いほどそうで、それは道理にかなっている。

 どこの国と今さら、言うまでもない。
あの国である。
ウソとインチキと小細工のかたまり。
その上、世間体を気にし、見栄、メンツにこだわってばかりいる。
そんなにすばらしい国なら、外国の人たちに公開すればよい。
自信をもって、自国の人たちを、外の世界に出してやればよい。

 いろいろな報道を聞いていても、「ここまでやるか!」と感心するほど、小細工を重ねる。

●K国 

 金xxが存命中は、核兵器の放棄など、ありえない。
それはどこかの教団が、本尊を否定するようなもの。
K国は、全体としてカルト化している。
その本尊が、核兵器。
核兵器あっての、金xx。
K国。
核兵器の放棄など、ありえない。

 が、09年10月はじめ、K国が核兵器を放棄するかもしれないというビッグ・ニュー
スが世界を駆け巡った。
しかしこういうニュースは、まず疑ってかかる。
というか、案の定、そのニュースは、数日後には、消えた!
今までの経緯を見れば、そんなことがありえないことは、だれにもわかるはず。
むしろ反対に、K国が、5000トン近い、化学兵器と生物兵器をもっていることが明ら
かになった。

 威力という点では、核兵器も、化学兵器も、生物兵器も、それほどちがわない。
一発で、約20万人の人を死傷できるという。

●悟りの境地

 人間のこうした、ウソ、いんちき、小細工は、もとはといえば、醜い欲望に根ざしてい
る。
その欲望が姿を変えて、ウソ、いんちき、小細工へとつながる。
世間体、見栄、メンツにしても、そうだ。
で、それをコントロールするのが、理性であり、知性ということになる。
もっと具体的には、人間性であり、その人がもつ文化性ということになる。

 が、それがない人には、ない。
さらに悲しいことに、加齢とともに、こうした人間性や文化性は、そのまま退化していく。
それは健康論に似ている。
究極の健康法というのがないのと同じように、究極の人格完成法というのはない。
よく「私は、仏の境地に達した」とか「悟りの境地に達した」とか言う人がいるが、それ
を口にする人というには、まず疑ってかかってみてよい。

 たまたま何も問題なく、不自由なく暮らしているだけ。
何も問題なく、不自由もなく暮らしている間は、だれだって善人になれる。
善人らしく振舞うことができる。
それを「悟りの境地」と錯覚する。
が、問題が起きたとたん、化けの皮がはがれる。

●では、どうするか

 そこでまたまた同じ結論。
「日々に精進(しょうじん)あるのみ」。

 その努力を怠ったとたん、健康はもちろん、人格は後退する。
若いときは、体力や気力があるから、ある程度はごまかせる。
しかし50歳を過ぎると、そうはいかない。
60歳をすぎると、そうはいかない。
認知症が加われば、なおさら。

●自分を高める

 気持ちよく生きるというのは、たいへんなこと。
『平凡こそ美徳』というが、その平凡がむずかしい。
そのためにも、身のまわりから、ウソ、いんちき、小細工を排除していく。
努めて排除していく。

 また見栄、メンツ、世間体については、それを気にしないほどまでに、自分自身の人間
性と文化性を高めるしかない。
高めた上で、相手を見おろす。
見くだすとか、軽蔑するということではない。
大きな視野で、相手を見る。
マズローという学者は、そういう人を、道徳の完成度の高い人と定義づけた。

●後記

 とかく人の世には、トラブルは、つきもの。
こちらにその気はなくても、向こうから飛び込んでくる。
ふとした油断をついて、やってくる。
そういうケースは、多い。

 人はこうしたトラブルを乗り越えながら、より賢くなっていく。
しかしそれ以上に大切なことは、こうしたトラブルで無駄な時間とエネルギーを使わない
こと。
もしそうした時間とエネルギーがあるなら、それらはもっと有効なことに使いたい。
より賢くなるにしても、正攻法というものがある。
できるだけこうしたトラブルは避ける。
それ自体が、賢い生き方ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

●ことわざ事典

++++++++++++++++++

座右に、一冊の本がある。
「ど忘れ、ことわざ事典」(人文社)という本である。
座右にあるが、めったに開いたことがない。
が、それではいけない。
先ほど、それを開いてみた。

▼貝殻で海を測る
▼解語の花
▼海賊が山賊の罪をあげる、など(P78)

改めて、自分の無学を知る。

++++++++++++++++++

▼貝殻で海を測る

 貝殻で海の水をくみ、海の水量を測ることから、浅薄な知見をもとに、おおきな物事を
論ずること。

▼解語(かいご)の花

 言葉のわかる花。つまり美人のこと。玄宗皇帝が楊貴妃を表現した故事から。

▼海賊が山賊の罪をあげる

(このことわざの意味は、このエッセーの最後に……。)

 こうした(ことわざ)のほとんどが、Made in China(中国製)というところが、恐ろし
い。
中国の歴史の長さというか、文化の深さを知る。
というより、世界的に見れば、日本は中国の文化圏の一部。
「日本は中国とはちがう」と思いたい気持ちは、よくわかる。
しかしそれは、ちょうど佐渡島の人たちが、「私たちは日本人でない」「佐渡人だ」と言う
のに似ている。
(そんなことを言う人はいないが……。)

 順に考えてみよう。

「貝殻で……」という発想が、おもしろい。
つまり貝殻いっぱい程度の知識しかないのに、「海」のような大きなことを論ずることをい
う。

 しかしあえて擁護するなら、みんなそうではないのか?
私のように貝殻いっぱい程度の知識にしがみつきながら、天下国家を論じている者もいる。
ただほかの人と違うところは、(多分?)、それを貝殻いっぱい程度の知識と自覚している
こと。
あのニュートンだって、同じようなことを言っている。

 『真理の大海は、すべてのものが未発見のまま、私の前に横たわっている』(ブリュータ
ー・「ニュートンの思い出」)と。

どうであるにせよ、真理の探究は貝殻いっぱいの水から始まる。
宇宙の研究については、なおさらだ。
このことわざをもじれば、「耳かきで、海を測る」と。

 こんなことわざに負けて、あきらめてはいけない!

▼解語の花

 「言葉を話す花」という意味だが、「花」というのは、「楊貴妃」をいう。
しかし最近、私は、女性の見方が大きく変わってきた。
「美しい」ということは、女性にとって、とても重要なことかもしれないが、その美しさ
に、疑問をもつようになってきた。

 化粧と整形美容。
むしろこの2つが、女性の本来の美しさを、台無しにしているのではないかとさえ、思い
始めている。
女性にかぎらない。
今では、男性だって化粧をするし、整形美容もする。

 が、それはそれとして……というのも、今どき、化粧や整形美容を否定すれば、かえっ
て私のほうが、袋叩きにあってしまう。
100%の女性を、敵に回してしまう。

 しかし女性というより、人間本来の美しさというのは、心の美しさをいう。
どこまでも誠実で、どこまでも濁りのない心をいう。
ただ単なる理想論かもしれないが、その理想に向かって進む。
そこにその人の(美しさ)がある。

 このことは、その反対の立場にいる女性(男性もよいが)をみればわかる。
世の中には、見た目だけは美しくても、ウソ、インチキ、ごまかし、小細工のかたまりの
ような女性は、いくらでもいる。
(男性にもいるが……。)
口がうまく、その場その場でいいかげんなことをいい、あとで言い訳ばかりしている。

私が「最近、私は、女性の見方が大きく変わってきた」と書くのは、そういう女性に出会
うと、ぞっとするほど、不快に思うようになったことをいう。
生理的嫌悪感というか、そういう女性に出会ったりすると、ワーッと声をあげて、逃げ去
りたくなる。
いくら見た目に美しくとも、だ。

 で、「解語の花」。

 玄宗皇帝というと、名前だけで立派な人を想像するかもしれないが、古今東西、帝王と
か、将軍とか、大王とか、皇帝とか、戦乱をくぐりぬけて最高位に就いた人間に、ロクな
のはいない。
そういう前提で考えて、まず、まちがいない。
玄宗皇帝にしても、想像以上に、はるかに下衆(ゲス)。
みな、幻想に踊らされているだけ。
だからその玄宗皇帝が、楊貴妃を「解語の花」ともちあげても、私は、フ〜ンとしか思わ
ない。
玄宗皇帝は、どういう基準で、(女性の美しさ)を考えていたのだろうか。
玄宗皇帝自身が、下衆なのだから、その美的感覚も、たいしたことない。

ただ感心するのは、「解語の花」という言葉。
「解語の花」というのは、私たちには考えもつかない言葉だが、英語には似たような言葉
がいくつかある。
「walking dictionary(歩く辞書)」というのも、それ。
 たいへんな物知りのことをいう。

だから「speaking flower(話をする花)」と言えば、英語国の人なら、「美しい女性」をす
ぐさま連想するだろう。

 楊貴妃という女性は、一瞬一秒も怠らず、美容に心がけていたにちがいない。
朝から晩まで、だ。
しかし私は、そういう女性を美しいとは思わない。
「バカ」と思う。
つまりこのところ、そういうような目で、女性を見るようになった。
(相手の女性は、私のことを、バカと思っているだろうが……。)

いろいろ書きたいが、ここまで。
これ以上、女性を怒らせると、たいへんなことになる。

▼海賊が山賊の罪をあげる

 これについては、いろいろ考える。
みなさんは、どういう意味に解釈するだろうか。
まず、答を読む前に、自分で考えてみてほしい。
海賊vs山賊、だぞ!

 発想がおもしろい!

 海賊が何かのことで、山賊の罪を問うたという意味である。

 答が思い浮かんだところで、つぎの解答を読んでみてほしい。

『海賊が山賊の罪をあげる』というのは、「双方とも盗賊なのに、罪の非難をすることから、
同類の者どうしでも、利害を共にしていないと、敵対すること」だそうだ。

 よくある。
こういうことは!
ねっ!

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Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●映画『私の中のあなた』(感想)

 映画『私の中のあなた』は、淡々とした、あたかも事実だけを追うような形で、ストー
リーは展開する。(お涙ちょうだい)式のわざとらしい演技もなく、それだけに観客を、静
かにスクリーンの中に引き込んでいく。

 私はこの映画を見ながら、5、6年前に妻を肺がんで亡くした、オーストラリアの友人
のことを思い出していた。葬儀には参列できなかったので、つづく娘さんの結婚式には列
席させてもらった。そのときのこと。

 私がふと、「ルーシーが亡くなったとき、つらかっただろうね」と聞いたときのこと。そ
の友人は、ポツリとこう言った。
「うれしかった……」と。
「どうして?」と言いかけると、「ルーシーが、あの痛みから解放されたんだから」とも。
 それを聞いて、人を本当に愛するということは、そういうことなのかと、私は知った。

 映画『私の中のあなた』では、死にゆく人、そしてそれを見送る人。この両者の心のは
げしい葛藤がつづく。静かに。どこまでも静かに。そして最後はその両者の愛が、ひとつ
の結晶となったところで、映画は終わる。

 ついでながら、オーストラリアの友人は、その後1年ほどして、もう一人の娘さんに連
れられて、私の家を訪れてくれた。あちこちをいっしょに、旅をした。で、ある夜のこと。
私が「学生時代に歌った歌を、いっしょに歌わないか」と声をかけたとき、その友人は、
こう言った。

「ヒロシ、ぼくはルーシーが病気になってから、歌を歌ったことがない」と。そしてそ
の夜も、歌を歌うことはなかった。私はその言葉を聞いて、熱い涙が私のまぶたを下か
ら押し上げるのを感じた。

 映画『私の中のあなた』を見たときも、あの夜と同じ熱い涙を覚えた。泣いた。すばら
しい映画だった。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●10月11日

●TOSHIBA DYNABOOK UX

東芝のダイナブックUXを買って、ちょうど5日になる。
ミニ・ノートは、これで5台目。
「5台も!」と思う人もいるかもしれないが、それぞれに一長一短があって、しばらく使
っていると、「どうも……?」となったりする。

そこで苦肉の策として、私のばあい、旅行用、教室用、山荘用と、それぞれを使い分けて
いる。

しかし今のところ、ダイナブックUXは、気に入っている。
毎日、いつも持ち歩いている。
それで何かを書くということは、あまりないが、とにかく気に入っている。
まあ、言うなれば、新しいガールフレンドのようなもの。
カバーが茶色なので、「ブラウン」というニックネームで呼んでいる。
今もデスクトップでこの文章を書きながら、机の上に並べて置いてある。
私にとって、パソコンというのは、そういうもの。

そうそう5台の中の1台は、OKさんという生徒(中3)に、先週、あげた。
以前から「パソコンがほしい」と言っていた。
私がもっているミニ・ノートを、横目でいつもながめていた。
たぶん喜んでくれたと思う。
もう1台は、息子の嫁にあげようと考えている。
近く会う予定なので、気持ちを確かめてみよう。

●ネット販売

 同じパソコンでも、店頭で買うのと、ネットで買うのとでは、値段に大きな差がある。
カメラにしても、プリンターにしても、そうだ。
ネットでの値段は、店での値段より、だいたい2〜3割は安い。
在庫があれば、翌日には代引で届けてくれる。
その上、24時間営業!

 先に書いたダイナブックUXにしても、近くの大型パソコンショップでは、5〜6万円。
それがネットでは、3万5000円。
昨夜値段を調べてみたら、それがさらに3万3000円にまでさがっていた。
毎日のように、刻々と(?)、値段が変わっていく。
この即時性は、今までの販売形式には、なかったもの。

 大型店は、小売店を駆逐し、その大型店は、ネット販売に駆逐される。
駆逐されてしまうことはないにしても、今、世の中の流通経路が大きく変わろうとしてい
る。
私が子どものころは、(製造会社)→(大問屋)→(問屋)→(小売店)という流れを経て、
それを手に入れることができた。
が、今は、(製造会社)→(ネット販売会社)から、直接ものを買うことができる。
しかもその(ネット販売会社)というのは、たいていは倉庫だけの会社で、人里離れた山
の中にあったりする。

 私たちは大型店で品物を見て、定めて、それをネットでネット販売会社に注文する。
大型店には悪いが、もし大型店に生き残る道があるとするなら、これからは入店料を取る
ことでしかない。
「品物を見るだけの人は、500円、払ってもらいます」と。
あるいはアフターサービス。
その(サービス)で、決まる。

 といっても、ネット販売会社のほうも、そのあたりのことを熟知している。
数年前とは比較にならないほど、サービスがよくなってきた。
もちろん故障修理も、引き受けてくれる。

 こうした流通革命の中で、悲惨なのは、個人商店。
猛烈な勢いで、店を閉めつつある。
少し前まで、「大型店の進出、反対!」などという運動もしているところもあったが、今は、
その元気も消えた。

 あと5年で、商売の世界は、さらに変わる。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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