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2009年     12月号
Essay……
BOX版(ネットストーレッジ)……




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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   30日号
 ================================  
メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

●2009年は、これでおしまいです。
どうかみなさん、よい新年をお迎えください。
また来年もよろしくお願いします。

 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━――――――――――――――
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page028.html

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・心の問題、あれこれ】

●心の一貫性

良好な人間関係は、生きる基本。
それができる人を、人格の完成度が高い人という。
それができない人を、そうでないという。
良好な人間関係を決める第一の鉄則が、一貫性。
一貫性があれば、相手は安心する。
あなたを信頼する。
その安心感や信頼感が、良好な人間関係をはぐくむ。

が、この一貫性には、2つの意味がある。

表の意味と裏の意味。
称して、「表の一貫性」と、「裏の一貫性」。
「対人の一貫性」と、「反応の一貫性」と言い換えてもよい。
「行動の一貫性」と、「心の一貫性」と言い換えてもよい。

ルールは守る。
ウソはつかない。
そのときどきにおいて、動じない。
コールバーグという学者は、そういう人を「道徳の完成度の高い人」と説いた。
これが表の一貫性。
この表の一貫性がないと、言動がコロコロと変わることになる。
一義的には、信用をなくす。
相手を不安にする。

もうひとつは、裏の意味。

言うなれば、「反応の一貫性」ということになる。
同じことをしてやっても、そのときどきの気分に応じて、反応が変化する。

たとえば何かの荷物をもってやったとする。
それに対して、あるときは、たいへんな喜び方をし、あなたに感謝する。
が、つぎのときには、ブスッとしている、など。

裏の一貫性がなくなると、つきあうこちら側が、不安になる。
こちらの心が相手に伝わらなくなる。
親切にしてやっても、次の機会には、それを忘れてしまったかのような
言動を示す。
もちろん誠意も通じなくなる。

●Iさん(40歳くらい、女性)

 Iさんという女性がいる。
もちろん架空の女性である。
何人かの女性を、1人の女性に仕立ててみた。

 そのIさんは、そのときどきの気分に応じて、様子ががらりと変わる。
機嫌のよいときは、愛想もよく、会う人ごとにニコニコと笑いながら、あいさつを交わす。
が、ひとたび機嫌をそこねると、ささいなことで激怒。
ふつうの激怒ではない。
近所中に聞こえるような大声で、怒鳴り散らす。

 あるとき、自分の家の前にだれかが、車を無断駐車した。
ほんのわずかな時間だった。
道路の反対側の家の人に、何かの届け物を届けるために、そこに駐車した。
が、Iさんは激怒。

 駐車場から自分の車を出すと、その人の車の前に、横向きに置いた。
で、数分後、その車の持ち主が届け物を置いて出てくると、自分の車が動かせなくなって
いた。
が、その人に向かって、Iさんは、こう怒鳴った。
「2万円、もってこい。このバカヤロー!」と。

 大声を聞いて、道路の反対側の人たちも出てきた。
しかしみな、Iさんのあまりの剣幕に、足が震えたという。

 この話をしてくれた、道路の反対側に住んでいる知人は、こう言った。

「よく私の家の前に、自分でも車を停めることがあるのですよ。
機嫌のいいときには、『すみませんね』と言って、声をかけてくれます。
でも、一度でもああいうことがあると、不安になります。どうつきあって
いいのか、わからなくなります」と。

●努力の問題

 表の一貫性を保つことは、先にも書いたように、良好な人間関係を築く基本である。
教師という職業においては、それがとくに強く、要求される。
そのときどきの気分で、教え方が変化するというのは、たいへんまずい。
相手が幼児のばあいは、なおさらである。

 子どもの側から見て、安心感をもてない。
安心感をもてないから、最低限のところで、教師に合わせようとする。
つまり委縮する。

 同じように裏の一貫性を保つことも、良好な人間関係を築く基本である。
わかりやすく言えば、そのときどきの気分に左右されて、反応を変えては
いけない。
これは人間性の問題というよりは、努力の問題と考えてよい。
というのも、この問題には、心の問題がからむ。
ここに書いたIさんにしても、この10年以上、うつ病の薬をずっとのんでいる。
何かのことで(こだわり)をもつと、自らその深みに、どんどんと入りこんでいって
しまう。

 が、Iさんほどではないにしても、私たちはみな、それぞれいろいろな心の問題を
かかえている。
最近の精神医学の分野では、「正常」の定義すら、していない。
つまりこの世の中には、「正常」と呼べる人はいない。
だから「努力の問題」ということになる。

 たとえば簡単なことだが、子ども(生徒)が、何かの絵を描いてきて、私に見せたと
する。
そういうとき私は、努めて、同じような反応を示すようにしている。
花丸を描き、ほうびのシールを張り、その絵をしばらく掲示板に飾る。
その間に、子どもをほめ、頭をさすってやる。
もちろん本気で喜んでみせる。

 つまりこうした「裏の一貫性」を貫くことで、子どもは安心する。
その安心感が、子どもを伸びやかにする。
(私の生徒は、1、2年もすると、みんな伸びやかになるぞ!
ウソだと思うなら、YOUTUBEを見てほしい!)

 こうした裏の一貫性は、行動としてパターン化しておくとよい。
というのも、私はもともと、情緒がそれほど安定していない。
こだわりも強い。
だから自分の行動をパターン化することで、裏の一貫性を保つようにしている。
そうでない、つまり情緒の安定している人からすれば、「何だ、そんなことか!」と
思うかもしれない。
しかし私には、「努力」が、必要ということになる。

 「表の一貫性」「裏の一貫性」。
これはよき家族を築くためにも、必要条件ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 表の一貫性 育児の一貫性 教育の一貫性 子育ての一貫性 はやし
浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 一貫性 人格の完成度 道徳の完成度 表の一貫性 裏の一貫性 反応の一
貫性 心の一貫性 はやし浩司 行動の一貫性 コールバーグ 道徳の完成論)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【高学歴の条件(逆流的教育論)】

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「高学歴」のもつ意味が、大きく変化
しつつある。
「高学歴者」イコール、「成功者」あるいは
「人格者」と考えるのは、今では幻想以外の
何物でもない。

が、高学歴への志向性がなくなったわけではない。
ここでは、どうすれば高学歴をめざせるのか
について考えると同時に、高学歴者のもつ
責務について、考えてみたい。

+++++++++++++++++

(1)環境
親の学歴(親の思考パターンが、世代連鎖する)
親の収入(高品質の教育を受けられる)(※1)
教育環境(地方よりも、都会のほうが有利)
育児環境(親の育児姿勢、育児観、教育観が影響する)

(2)能力
遺伝的要素(否定する人も多いが、実際には遺伝的要素は否定できない)

●高学歴者の問題点

(1)合理主義的なものの考え方(情感的なものの考え方ができない)
(2)自己中心的なニヒリズム(自分勝手で、他者の犠牲を過小評価する)
(3)点数主義(順位、成果、数字、成績に大きくこだわる)
(4)優越・劣等感覚(低学歴者に対して、優越感をもつ)
(5)社会性の欠落(家庭人としての常識の欠落) 

●権威主義の崩壊

(1)高学歴の意義の変化(EUに見る、大学の権威の崩壊)
(2)学歴から実力主義への転換。(「何ができるか」が評価される)
(3)教育制度の自由化(大学間の単位の共通化、入学後の学部学科の変更の自由など)
(4)その一方で、受験競争の低年齢化(小学受験、中学受験が、関門になっている)
(5)子どもたちの二極化(学力試験の形骸化とともに、学力の低下が指摘されている)
(6)新家族主義の台頭(2000年を境に、親たちの意識が大きく変化した)
(7)大卒から大学院卒への高学歴化(「大卒」程度では役にたたない)

●高学歴者を見る社会の変化

(1)学歴から専門評価へ(「何ができるか」が問題)
(2)人格評価の変化(AO入試の採用など)(※2)
(3)大卒後の各組織体による再教育制度の充実(とくに文系出身者)
(4)高学歴をありがたがる官僚制度(学歴制度温床の場としての官僚制度)

+++++++++++++++++++++++++

以下、順に、考察を加えてみたい。

+++++++++++++++++++++++++

(※1)【年収と学力】(Parent' s Income and their Children's Ability of Studying)

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予想されてはいたことだが、平たく言えば、
金持ちの親の子どもほど、成績は総じてよいということ。
文科省は、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)
をもとに、このほど、そのような調査結果を公表した。

+++++++++++++++++++++

●年収200万円層

 時事通信(8月5日)は、以下のように伝える。
 
『年収が多い世帯ほど子供の学力も高い傾向にあることが、2008年度の小学6年生を
対象にした全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を基に行われた文部科学省の委託
研究で4日、分かった。学力テストの結果を各家庭の経済力と結び付けて分析したのは初
めて。

 委託研究では、5政令市にある公立小、100校を通じて、6年生約5800人の保護
者から家庭環境などのデータを新たに収集。個人名が分からないよう配慮した上で、学力
テストの結果と照合した。

 学力テストには、国語、算数ともに知識を問うA問題と活用力を試すB問題があるが、
世帯年収ごとに子供を分類すると、いずれも200万未満の平均正答率(%)が、最低だ
った。

 正答率は年収が多くなるにつれておおむね上昇し、1200万円以上1500万円未満
だと、200万円未満より20ポイント程度高まった。ただ、1500万円以上では正答
率が微減に転じた』(以上、原文のまま)と。

●数字の整理

 数字を整理してみる。

(1) 年収200万円未満の平均正答率が、最低だった。
(2) 年収が1200万円〜1500万円の層は、200万円未満の層より、20ポイン
ト、高かった。
(3) ただ1500万円以上では、正答率は、微減に転じた。
 
つまり金持ちの子どもほど、成績はよいということ。
しかし年収が1500万円を超えた層では、正答率が微減に転じた、と。
 
が、この調査ほど、納得がいくというか、矛盾を感じない調査はない。
年収1500万円以上の子どもたちの正答率が微減したということについても、
妙に納得がいく。
その分だけ、子どもがドラ息子しているとも解釈できる。
 
しかし親の年収で、子どもの学力に(差)が出るということは、本来は、あってならない
こと。

しかし現実には、ある。
「金持ちの親の子どもほど、学力が高い」と。
が、ここで新たな疑問が生まれる。
親の年収と、子どもの学力を、そのまま関連づけてよいかという疑問である。

●学歴と親の年収

 それ以前の問題として、親の学歴と、親の年収との間には、明らかな相関関係がある。
学歴が高ければ高いほど、年収も高い。
言い換えると、このことから、親の学歴が高ければ高いほど、子どもの正答率も高くなる
と言えなくもない。

(親の学歴が高い)→(年収が多い)→(子どもの正答率が高くなる)、と。
子どもは、いつも親の影響を受けながら、成長する。
つまり年収だけをみて、「親の年収が子どもの学力に影響を与える」と考えるのは、少し、
短絡的すぎるのではないのか?
(もちろん今回の調査では、そんなことは一言も述べていないが……。)

 つまりもっと正確には、(親の学歴が低い)→(その分だけ、家庭における知的環境レベ
ルが低い)→(子どもの知的学習能力も低くなる)→(正答率が低くなる)、ということで
はないのか。

 もし親の年収が子どもの学力に直接的に影響を与えるものがあるとするなら、塾などの
学外教育費用、あるいは学外教材費用の面である。
年収に余裕があればあるほど、子どもの学外教育に、親はお金をかけることができる。

●親の知的レベル

 「知的レベル」という言葉を使ったので、それについて補足。
 親の知的レベルが、子どもの知的レベルに大きな影響を与えるということは、常識と
考えてよい。

(ただし親の学歴が高いから、親の知的レベルが高いということにはならない。
反対に、親の学歴が低いから、親の知的レベルが低いというこにもならない。)

 「知的レベル」というのは、日々の生活の場で鍛錬されて、決まるもの。
学歴のあるなしは、それに影響を与えるという程度のものでしかない。
要するに、親のものの考え方次第ということ。
それが子どもに知的好奇心、問題の解決能力に大きな影響を与える。

●知的レベルの怖ろしく低い親

3、4年前のことだが、私はこんな場面に遭遇したことがある。
その家の長男(当時、35歳)に愛人ができ、離婚騒動がもちあがった。
そのときのこと。
その長男の父親は、一方的にどなり散らすだけ。
「テメエ、コノヤロー、オメーモ、男だろがア!」と。
 
 が、これでは会話にならない。
話し合いにもならない。
もちろん騒動は解決しない。
私はその父親の言葉を横で聞きながら、その父親のもつ知的レベルのあまりの
低さに驚いた。

 別のところで話を聞くと、その父親の趣味は、テレビで野球中継を見ること。
雨の日はパチンコ。
晴れの日は海釣り。
本や雑誌など、買ったこともなければ、読んだこともないという。
 
子どもに直接的に影響を与えるのは、親の知的レベルである。
学歴ではない。
年収ではない。

●ともあれ……

 ともあれ、(親の年収)と、(子どもの学力)との間に、相関関係があることは、
これで確認できた。

しかしこんなことは、何もあえて調査しなくても、わかりきったこと。
ゆいいつ意味があるとするなら、「20%」という数字が出されたこと。
要するに、平均点が20点ほど、低いということか。

 年収が1200〜1500万円の親の子どもの平均点が、80点とするなら、
200万円以下の親の子どもの平均点は、60点ということになる。
そうまで単純であるとは思わないが、かみくだいて言えば、そういうことになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 親の年収と子供の学力 親の知的レベルと子供の学力 子どもの
学力調査 はやし浩司 全国学力調査)

(付記)

 都会地域へ大学生を1人送ると、平均して、月額17万円前後の費用がかかる。
それを12倍すると、年額204万円。
つまり年収200万円以下の親の子どもが大学へ通うのは、事実上、不可能。
文科省の今回の調査では、「年収200万円以下」を問題にしているが、この数字そのもの
が、少し極端すぎるのでは?

仮に年収100万円以下ということになれば、「家庭」そのものが、成り立たない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※2)●AO入試

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アドミッション・オフィス入試、略して、「AO入試」。


 簡単に言えば、志願者のそれまでの経験や成績、
志望動機など、さまざまな側面を評価し、
合否を決める入試方法をいう。

 従来のペーパーテスト、面接試験から、
さらに1歩踏み込んだ入試方法ということになる。

 当初は、慶応義塾大学で試験的になされていたが、
それが昨年度(05)は、国交私立、合わせて、
400を超す大学で実施され、最近では、
一部の小中学校でも採用されるようになった。

+++++++++++++++++++++++++
●AO入試とは

 AO入試について、(Gakkou Net)のサイトには、つぎのようにある。

「大学の 入試形態の多様化は既に周知の事実ですが、その中でもここ数年、センター入試
と並んで多くの大学で導入されているのが、AO入試(アドミッションズ・オフィス入試)
です。 

AO入試を初めて実施したのは慶応義塾大学の総合政策学部と環境情報学部で、1990
年のことでした。99年度には13の私立大学が導入していただけのAO入試も、200
1年度には、207大学と急増。その後もAO入試を実施する大学は、年々増加の一途を
たどっています。

自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目
的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

入試までの一般的な流れは、(1)エントリーシートで出願意志を表明し、(2)入試事務
局とやりとりを行ってから正式に出願するといったもの。

選考方法は面談が最も多く、セミナー受講、レポート作成、研究発表といった個性豊かな
ものもあります。

出願・選抜方法、合格発表時期は大学によって様々で、夏休みのオープンキャンパスで事
前面談を行ったり、講義に参加したりする場合もあります。「どうしてもこの大学で学びた
い」受験生の熱意が届いて、従来の学力選抜では諦めなければならなかった大学に入学が
許可されたり、能力や適性に合った大学が選べるなど、メリットはたくさんあります。

ただし、「学力を問わないから」という安易な理由でこの方式を選んでしまうと、大学の授
業についていけなかったり、入学したものの学びたいことがなかったといったケースも考
えられますから、将来まで見据えた計画を立てて入試に望むことが必要です。

AO入試は、もともとアメリカで生まれた入試方法で、本来は選考の権限を持つ「アドミ
ッションズ・オフィス」という機関が行う、経費削減と効率性を目的とした入試といわれ
ています。 AOとは(Admissions Office)の頭文字を取ったものです。

一方、日本では、実は現時点でAO入試の明確な定義がなく、各大学が独自のやり方で行
っているというのが実情です。

しかし、学校長からの推薦を必要とせず、書類審査、面接、小論文などによって受験生の
能力・適性、目的意識、入学後の学習に対する意欲などを判定する、学力試験にかたよら
ない新しい入試方法として、AO入試は注目すべき入試だということができるでしょう」
(同サイトより)。

●推薦制度とのちがい 

 従来の推薦入試制度とのちがいについては、つぎのように説明している。

「(1)自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求める
ことを目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

(2)高校の学校長の推薦が必要なく、大学が示す出願条件を満たせば、だれでも応募で
きる「自己推薦制・公募推薦制」色の強い入試。選考では面接や面談が重視され、時間や
日数をかけてたっぷりと、しかも綿密に行われるものが多い。

(3)模擬授業グループ・ディスカッションといった独自の選抜が行われるなど、選抜方
法に従来の推薦入試にはない創意工夫がなされている。

(4)受験生側だけでなく、大学側からの積極的な働きかけで行われている

(5)なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行って
いる大学がありますが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

●AO入試、3つのタイプ

大別して3つのタイプがあるとされる。選考は次のように行われているのが一般的のよう
である。

「(1)論文入試タイプ……早稲田大学、同志社大学など難関校に多いタイプ。長い論文を
課したり、出願時に2000〜3000字程度の志望理由書の提出を求めたりします。面
接はそれをもとに行い、受験生の人間性から学力に至るまで、綿密に判定。結果的に、学
力の成績がモノをいう選抜型の入試となっています。

(2)予備面接タイプ(対話型)……正式の出願前に1〜2回の予備面接やインタビューを
行うもので、日本型AO入試の主流になっています。 エントリー(AO入試への登録)や
面談は大学主催の説明会などで行われるのが通常です。エントリーの際は、志望理由や自
己アピールを大学指定の「エントリーシート」に記入して、提出することが多いようです。 
このタイプの場合は、大学と受験生双方の合意が大事にされ、学力面より受験生の入学意
志の確認が重視されます。

(3)自己推薦タイプ……なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという
名称の入試を行っている大学があるが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」
(同サイトより)。

 詳しくは、以下のサイトを参照のこと。
   http://www.gakkou.net/05word/daigaku/az_01.htm

 また文部科学省の統計によると、

 2003年度……337大学685学部
 2004年度……375大学802学部
 2005年度……401大学888学部が、このAO入試制度を活用しているという。

++++++++++++++++

 年々、AO入試方法を採用する大学が加速度的に増加していることからもわかるように、これ
からの入試方法は、全体としてAO入試方法に向かうものと予想される。

 知識よりも、思考力のある学生。
 ペーパーテストの成績よりも、人間性豊かな学生。
 目的意識をもった個性ある学生。

 AO入試には、そういった学生を選びたいという、大学側の意図が明確に現れている。
ただ現在は、試行錯誤の段階であり、たとえばそれをそのまま中学入試や高校入試に応用
することについては、問題点がないわけではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
AO入試 アドミッション・オフィス Admission Office 大学入試選抜)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※3)【カナダの幼稚園】

++++++++++++++++

少し前まで、カナダで暮らして
おられた、GSさん(静岡市在住)から、
こんなメールが届きました。

そのまま紹介させていただきます。
カナダの幼稚園の様子がよくわかる、
たいへん興味深いメールです。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【GSさんより、はやし浩司へ】

カナダの幼稚園についての原稿ですが、もちろん引用してくださって構いません。 

カナダでの育児状況について、もし参考になるようでしたらと思い、もう少し、お話させ
ていただきます。

私も含め皆さんが、とても利用していたのが、フリー(無料)で行われる、『プレイグルー
プ』(確か州で運営)というものでした。

会場は、各地域にある大きなスーパーの2階です。そこが日本でいう公民館的な空間にな
っていて、大き目の会場とキッチン付きの部屋などもあり、そこで様々な集会、会議、講
習、お稽古などが催されています。

プレイグループは週2回、予約、会費なども一切なく、本当にフリーに出入りできるので、
人気がありました。ベテラン保母さん(たぶん退職されたであろう年齢の方々)が来てい
て、午前中の間開放されます。

その時間内、入りたいときに入り、出たいときに出るというやり方です。子どもだけ置い
ていっても構いませんが、親が一緒に入っているケースがほとんどです。(親がいない子ど
もは、数人いるかいないかという程度です。)それでも、定員を超えるとドアは閉められ、
誰かが抜けるまで、入れず、外で待ちます。 

お絵かき、粘土、パズル、玩具、絵の具、はさみ遊び等等、たくさんの物が用意されてい
て、どれでも好きな物で遊べます。最後に、みんなが円になり、絵本の時間と歌遊びがあ
って、最後までいた子ども達は先生からご褒美シールをもらって終了。

そのシールって好きなところに張ってくれるのだけれど、だいたい、手とか腕とかホッペ
とかでカワイイ(笑)です。

本当に産まれたばかりのような赤ちゃんから、(日本ではきっと外に連れ出さない程の月
齢)、PreSchoolの年齢の子までいます。 

そこで、玩具の貸し借り、順番、ケンカした時の対応などが、自然に意識することなく経
験できたように思います。 

1歳、2歳でもその環境で習得する力はすざましく、林先生の何かの原稿にあったように、
親、先生よりも周りにいる年上の子の真似事が一番の影響を持ちますね。

もちろん、様々な子ども達がいるし、人種も宗教も肌の色も本当に様々なはずですが、子
どもの世界はさほど変わりありません。先生達は特別な指導はなく、何かもめている子ど
ものところへ行っては解決させ、後は良くできているね!と褒めて歩いたり、相談を聞い
たりといった感じです。

息子は、そのプレイグループが大好きで、先生にもすっかり名前を覚えてもらい帰国前に
は涙してサヨナラして来た程でした。

公園の違いについて。

小さな幼児用の遊具と、大きい子用の遊具がしっかり分かれていました。
下は転んでもさほど問題のないように2〜3センチの木片や大鋸屑がひきつめられているか、
滑らないゴムのようなものになっていて、滑り台への階段も、1歳児がハイハイして登って
行けるほど、広く段差が低いものです。一か所の公園だけでのことではありません。

また、夏には幼児向けプールが開かれます。 だいたい遊具の近くの芝生の真ん中にあり
ます。

大きな円のプールで中心へむかい深くなっていて、一番深い所で大人の膝程度です。 な
ので端の浅い所では、1歳未満の子が水着で遊んでいたりする中、4〜5歳の子が大はしゃ
ぎで走り回るという感じです。週末は短パンで水に入りながら一緒に遊び、周囲の芝生で
ランチしている家族が多く見られます。

高校生のボランティアが監視役として必ず一人ついていて、時間になると水遊び用の玩具
をぶら下げながらやってきて、プール内を掃除して水をはります。決まった時間になると
笛をふき、全員プールから出し水の消毒にかかります。 

毎度、プールから全員上がらせるまでに時間がかかりますが、出てしまった後は、みんな、
まだかまだかと持参したフルーツやおやつを食べたりしながら、しっかり待っています。

以上、特に印象が強かった良い環境だなあと思った2点です。 

私は、妊娠6か月の時にカナダへ行き、親や友達は海外での出産と育児でとても大変だと
心配してもらいましたが、かえって日本よりとっても精神的にもリラックスできていた気
がしますし、子育てはむしろ日本よりもしやすい環境だったと感じています。

もちろん、出産は日本のようにいたれりつくせりではないし、身体的に問題が起きて大変
な思いもしたし、いわゆる子どもを預けてつかのまの休息というものは一切なかったので、
大変は大変でしたけど(笑)。 
だからといって、子どもと少し離れたい!、と思ったこともありませんが。

小学、中学、高校になると、スポーツ系のクラブが数多くあり所属している事が多いよう
です。夏は日が長いせいもあるのか、9時過ぎまでグランドで練習、試合をしている姿が
よく見られます。また、クラブ活動を通しての縦割りのボランティア活動も多いようです。 

女の子のチームも多くあります。ある中学生の子どもを持つ銀行員のお母さんは、やっと
の週末のお休みも、子どものクラブの活動で朝から大忙しだと話していました。でも、そ
の家族の時間も嬉しいと楽しんでいました。 

どちらにせよ、カナダでは、ハッキリと言えることは、家族で過ごす時間をとても大切に
しているというのが強いですよね。日本ではそうではないとは決して言えませんが、平均
的にそれに対する比重はとても違うように感じます。

なんだかまた長々と書いてしまいましたが、少しでも参考になれば幸いです。

【はやし浩司より、GSさんへ】

カナダの教育についての情報、ありがとうございました。
「幼稚園」と構えないで、「(無料の)プレイグループ」というのは、すばらしいですね。
保育時間も、親自身が決められるところも、すばらしいですね。

私の孫も、アメリカで、おおむねそのようなやり方で、少しずつ、集団教育に慣れていっ
たようです。
最初は、週に1、2回程度。
様子をみながら、回数をふやしていきました。

どうして日本では、そういうことをしないのか、不思議でなりません。
いきなり集団教育の場に子どもを放り込んで、それでよしとしています。
考えてみれば、これほど、乱暴な教育もないわけです。

またいろいろ教えてください。
イギリス→カナダは、さすが教育の先進国だけあって、日本とは、ちがいますね!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist カナダ カナダの幼児教育
 カナダの教育事情 カナダの幼児教育 プレーグループ プレイグルー play group は
やし浩司 カナダ 幼児教育 幼稚園)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※4)●教育の自由化

アメリカに限らず、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの小学校を訪れて驚く
のは、その「楽しさ」。まるでおもちゃ箱に入ったかのような錯覚にさえとらわれる。百
聞は一見にしかず。この写真は、アメリカ中南部の、ある公立小学校で撮影したもの。
アメリカでは、ごく一般的な、ふつうの学校とみてよい。

●アーカンソー州、アーカデルフィア、ルイサ・E・ぺリット・プライマリー・スクール。
ブルー・リボン賞受賞校。四歳児(年中)から七歳児(小一)までを教える。全校生徒
三七五名。公立学校だが、朝食代と昼食代など、必要実費が、週六〇ドル必要。
 
(写真ABC)は、小一クラス。一クラス二〇名。この日は、教師、大学からきたインタ
ーンの学生、それに当番制で学校に手伝いに来ている母親の三名が、指導に当たってい
た。写真右端にあるのが、教師のデスク。教師のデスクは、それぞれの教室の内部にあ
り、日本でいう職員室のような部屋はない。写真左端で床に座っているのが、当番制で
やってきた、母親。奥のほうでマンツーマンの指導をしているのが教師。インターンの
学生は、私と並んでいたので、この写真には収まっていない。

(写真D)は、図書室の様子。アメリカでは、そして他の国々でも、図書室の充実が、学
校教育の柱になっている。たいていどこの学校にも、専門の司書がいて、子どもの読書
指導にあたっている。写真の女性は、ボランティアでやってきた母親。

(写真E)は、コンピュータ学習ルーム。この日は、四歳児が授業を受けていた。この学
校では、四歳児からコンピュータの学習を実施している。ちなみにオーストラリアでも、
すでに一五年前から、コンピュータ学習は、小学三年生から必須科目になり、現在では、
幼稚園レベルから教育を行っている(南オーストラリア州)。

●アメリカの学校制度

 こうした公立、私立の学校のほか、アメリカには、チャータースクール(親たちが自ら
教師を雇い、学校そのものをチャーターする)、バウチャ(学校券)スクール(親に配布
した学校券で、学校を運営する)、さらにはホームスクール(学校へ通わないで、家庭で
学習する)などの学校がある。ホームスクールというと、日本では不登校児のための制
度と誤解している人が多いが、それはまちがい。九七年度にはアメリカだけで、ホーム
スクーラーは、一〇〇万人になり、毎年約一五%程度の割合でふえている。「真に自由な
教育は家庭でできる」(「LEARN IN FREEDOM」)という理念のもと、この
運動は、全世界的に拡大している。アメリカでは、親の希望に応じて、公的な機関が、
専門の教師やアドバイザーを、定期的に派遣するという制度も確立している。また地域
のホームスクールの親や子どもたちは、ひんぱんに会合を開き、合同で教育活動も行っ
ている。そして現在、世界で一〇〇〇以上もの大学が、ホームスクーラーの子どもの受
け入れ態勢を整えている(前述、L.I.F)。

●教育の自由化

 アメリカの学校では、公立、私立に限らず、カリキュラムの作成は、州政府のガイドラ
インに従い、親と教師が、「カリキュラム作成委員会」の席で、決定している。日本でい
う全国一律の学習指導要領なようなものはない。(たとえば中学校レベルでも、三年間で
所定の単位学習をすませばよいことになっていて、一年生だから、一年の学習を、とい
う拘束性はない。)また当然のことながら、アメリカには、日本でいう「文部省検定済教
科書」のようなものはない。検定制度そのものがない。子どもたちが使っているのは、
あくまでも「テキスト」である。よくテキストを「教科書」と訳す人がいるが、欧米で
いう「テキスト」と、日本の「教科書」とは、本質的にまったく異質なものと考えてよ
い。

 ついでながら検定制度について、たとえばオーストラリアには、民間団体による検定委
員会はある。しかし検定する範囲は、過激な性的描写、暴力的表現に限られていて、特
に「歴史的分野」については、検定してはならないことになっている(南オーストラリ
ア州)。
 欧米では、「教育の目標は、将来、多様な社会に、柔軟に適応できる子どもを育てること」
(オーストラリア)が柱になっている。アメリカでは行き過ぎた自由化が、一部で問題
になっている部分もあるが、しかしこうした自由な発想が、学校教育そのものをダイナ
ミック

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 アメリカ 教育制度 実情 教育の自由化)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※5)教育の自由化

【教育再生会議・中間報告原案】

++++++++++++++++++

06年の12月21日、教育再生会議の
中間報告会議の原案が、提示された。

「塾を禁止せよ」と提案した野依良治氏
(座長)。過激すぎるというか、現実離れ
しすぎているというか?

いろいろ提案がなされたようだが、本当
に、このメンバーの人たちは、教育の現
場を知っているのだろうかというのが、
私の率直な疑問。

案の定、教育再生会議の出した提案は、
ことごとく無視されている。

かろうじて通ったのは、(ゆとり教育の
見直し)だけ。

++++++++++++++++++

 06年の12月21日、教育再生会議の中間報告の原案が提示された。内容は、以下の
ようなもの。

(1) ゆとり教育の見直し
(2) 教員免許更新制
(3) 学校の第三者評価制度
(4) 教育委員会改革
(5) 大学9月入学

 このうち、安倍内閣の教育改革の意に合致したものは、(1)のゆとり教育の見直しだけ。
(2)の教員免許更新制については、検討中ということ。

 どこかわかりにくい中間報告の原案だが、私たちの視点で、もう一度、この
(3)原案なるも
のを、検討してみたい。

●ダメ教員の問題

 どこの学校にも、ダメ教員と呼ばれる教員がいる。その数は、「不適格教師」と認
定された教師の10倍以上はいるとみてよい。

 しかしその基準が、イマイチ、はっきりしない。さらに40代、50代の教師と
なると、それぞれ個性があり(?)、上からの指導になじまない。自分の指導法に自
信をもっている教師も多い。あるいは自分の指導法に、こだわる教師も多い。

 だからたとえばすでに文科省が、決めているように、10年ごとに30時間の講
習を受けるなどいう制度だけで、こうした教師の再教育ができると考えるほうが、
無理。


 もっとも効率的な方法は、親や子ども自身に、(教師選択の自由)を与えること「あの先
生に、うちの息子を教えてもらいたい」「私は、あの先生に教えてもらいたい」と。

 アメリカでは、こうした選択は、ごくふつうのこととして、すでになされている。「今年
も、エリー先生の教室で勉強したい」と、親や子どもが願えば、学年に関係なく、その教
室で勉強できるようになっている。教育再生会議では、(3)学校の第三者評価制度をあげ
ているが、これは教育現場をまったく知らない、ド素人のたわごとと考えてよい。

 だれが、どうやって評価するのか? 具体性が、まったく、ない。

 ただ私立幼稚園のばあい、講演に招かれたりすると、その幼稚園がすぐれた幼稚園であ
るかどうかは、雰囲気でわかる。教師や子どもたちが、生き生きとしている。園長の個性
が、あちこちで光っている。

 しかしそれは、私立幼稚園という、教育の自由が許された環境でこそ、可能だというこ
と。しかも私立幼稚園は、常に、生き残りをかけて、壮絶な戦いというか、苦労を重ねて
いる。

●美しい国づくり 

 提言の中に、「美しい国づくり」がある。大賛成である。が、どうして、「美しい国づく
り」が、教育と関係があるのか。

 あえて言葉を借りるなら、「国民全体の資質向上」(会議)ということになる。これにも
大賛成だが、では「美しい国」とは、どういう国をさすのか。

 外国から帰ってきて成田空港で電車に乗ったとたん、あまりの落差というか、醜さに、
がく然とすることがある。「これが私たちの国か」と思うことさえある。

 雑然と並んだ町並み。自分の家さえよければと、無理に増築に増築を重ねた家々。クモ
の巣のように張りめぐされた電線。けばけばしい看板。標識の数々。入り組んだ道に、手
あたりしだいにつけられたガードレールなどなど。

 その間にパチンコ屋があり、駐車場があり、軒をつらねて商店街がある。数日も住むと、
今度は日本の風景になじんでしまい、今度はその醜さがわからなくなる。が、日本という
国は、基本的な部分から、美的感覚を再構築しないと、決して「美しい国」にはならない。

 が、それは教育の問題ではない。社会の問題である。もっと言えば、日本人自身がもつ
文化性の問題ということになる。これだけ豊かな自然(木々の緑)に囲まれながら、その
自然を生かすことさえできないでいる。

 教育で、それを子どもに押しつけるような問題ではない。

●いじめを許さない

 提言では「いじめを許さない、安心して学べる規律のある教室」を歌っている。

 方法がないわけではない。現在のように、英・数・国・社・理にかぎるのではなく、科
目数をふやせばよい。子どものもつニーズと多様性に合わせて、子どもたちにとって、好
きなことを好きなだけできるような環境を用意すればよい。

 好きなことを生き生きできる。そういう世界を用意してこそ、子どもはいじめを忘れる
ことができる。

 たとえばオーストラリアでは、中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ語、フラン
ス語、インドネシア語、中国語、日本語の5つから、選んで学習できるようになっている。
芸術にしても、ドラマ(演劇)、絵画、工芸、音楽などが、それぞれ独立した科目になって
いる。

 以前書いた原稿を1作、紹介する(中日新聞掲載済み)。

+++++++++++++++++

【学校神話を打ち破る法】

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、た
いていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。
しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が18歳のとき
にもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑っ
てみる。たとえば……。

●日本の常識は世界の非常識

★かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材
一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州
政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけ
でも97年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の
割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教
育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。

地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運
動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明し
ている(LIFレポートより)。

★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラ
ブへ通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。

ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決め
ることができる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラ
ブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1
200円前後(2001年調べ)。

こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日
本円で約1万4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子ども
が就職するまで、最長27歳まで支払われる(01年)。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣
向と特性に合わせてクラブに通う。

日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対する世間の評価はまだ
低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責
任をもたない」という制度が徹底している。

そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親
が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー
市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。

「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生の
ほうから電話がかかってきます」と。

★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚
いた。

どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、
はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友
人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オ
ーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャール
ズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校が
カリキュラムを組んでくれる。

たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子どもは、毎日
木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー
ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ
行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなこ
とでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、
あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何
か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、
「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を
信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画
『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だ
と気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さ
んと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそう
した。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私
が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人
ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことがで
きる。

※……1週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午
後3時まで学校で勉強し、火曜日は午後1時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決
めることができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On 
Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると
考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいもので
しかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の
上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由
と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)
学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。

いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が
始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まると
いうことを忘れてはならない」と。
 
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意
見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯
罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるの
は正しくない。

学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シ
ステムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討
すべきではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえ
ている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中
学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、400
0人多い。
 
++++++++++++++++++

 世界は、ここまで進んでいる。にもかかわらず、(4)教育委員会改革だの、(5)大学
9月入学だのと、そんなことを論じていること自体、バカげている。ノーベル賞を受賞し
た偉い(?)先生かも知れないが、世の中には、「専門バカ」という人もいる。

 「塾を禁止して、(勉強が)できない子どものための塾だけにせよ」(野依座長)という
提言にいたっては、「?」マークを、10個ほど、並べたい。むしろ世界は、教育の自由化
(=民営化)をこぞって選択している。

 カナダでは、そこらの塾が塾をたちあげるほど簡単に、学校の設立そのものを自由化し
ている。その学校で使う言語も、自由である。たとえば、ヒンズー語で教える学校を作り
たいと思えば、それもできる。

 (これに反して、アメリカでは、学校では英語で教育すべしというのが、原則になって
いる。またそういう学校しか認可されていない。)

 ドイツ、イタリアにいたっては、ここにも書いたように、「クラブ」が、教育の自由化を
側面から支えている。野依座長も、もう少し、研究室から出て、世界を見てきたらどうか。
少なくとも、もう少し教育の現場をのぞいてみてから、意見を述べるべきである。

 教育再生会議のメンバーたちは、「提言がことごとく無視された」と怒りをぶちまけてい
るが、それもしかたのないことではないかと、私は思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
教育再生会議 再生会議提案 中間報告 中間報告原案)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●逆流的教育論

昔は町内で東大生が生まれたとすると、その
町内の人が、ちょうちん行列までして、その
学生と家族を祝った。

しかしそれから100年。
尾崎豊が「卒業」を歌ったころから、こうした
日本独特の権威主義、それを支える学歴制度は、
大きな転機を迎えるところとなった。

「学歴」よりも、「中身」「実力」をみる時代へと
変化した。
そのため大学の選抜方法も、AO入試に見られる
ように、時代の流れの中で変化しつつある。

たとえばEUでは、大学の単位そのものが、
共通化されている。
学生たちは、自由に各大学間を渡りあるいている。
最終的にどこの大学で、学位、博士号を認定される
かということは、重要なことだが、少なくとも
「出身大学」という概念は、もうない。

日本でも同レベル(?)の大学間で実験的に
単位の交換がなされているが、あまりパッとしない。
ブランド志向は、過去の亡霊として、まだ残っている。

もちろん小中高校生の教育制度も、大きく変化
しつつある。
ドイツにおけるクラブ制度を例にあげるまでもない。
EUでは、子どもたち(中学生)は、学校での
カリキュラム(ほとんどが単位制)を終えると、
午後は、それぞれが自分の好きなクラブに通って
いる。
それを支えるための、「チャイルド・マネー」も
支給されている。

(高学歴者)イコール、(成功者)という発想そのもの
が、陳腐化している。
もちろん(高学歴者)イコール、(人格者)という
わけでもない。

もし(高学歴)に求められるものがあるとするなら、
真・善・美の追求者としての、社会的責務である。
その責務を果たしてこそ、高学歴者は高学歴者としての
意味をもつ。
そうでなければ、高学歴といえども、卒業証書は、
ただの紙切れ。
自己利益の追求のための道具でしかない。

ちょうど2000年を境にして、日本人の学歴意識は
大きく変化した。
(出世主義)から(新・家族主義)への変化である。
このころ、「仕事より家族のほうが大切」と考える
人が、50〜80%へと変化した。
こうした変化を、「サイレント革命」と名づけた人もいる。

今後この(流れ)は加速することはあっても、逆行する
ことはありえない。
理由は簡単。

世界はすでにその先を走っている。
日本は今、それを追いかけなければならない立場にある。
単位の共通化にしても、今では、世界の常識。
インドネシアのジャカルタ大学で1年、中国の北京大学で
1年、3年目と4年目は、EUのソルボンヌ大学と、
ハイデベルグ大学で。
合計して必要単位を履修していれば、あとはどこかの大学で
単位を認定してもらう……。

日本だけが、そのカヤの外。
日本の医師免許は、日本以外の国では通用しない。
アメリカの医師は、日本で開業することができない。
これはほんの一例だが、こうした閉鎖性を打破しない
かぎり、日本の未来に明日はない。

大切なのは、学歴の追求ではなく、実力の追求。
それができる社会システムを、早急に立ち上げる。
(学歴)というキャリアは、あくまでもあとから
ついてくるもの。
(学歴)を目的とする時代は、すでに終わっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 逆流的教育論 教育の自由化 日本の教育)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●あとから理由(無意識下の思考)

+++++++++++++++

何かを言う。
言ったときは、何も考えていない。
直感的というか、反射運動的に、言う。
言ったあと、理由を言う。
こういうのを「あとから理由」という。
わかりやすく言えば、「こじつけ」。

たとえば運転をしていて、道をまちがえたとする。
そのとき横に乗っていた人が、「この道じゃ、ない」と
言ったとする。
軽い気持ちで、そう言った。

が、すかさず、そのまちがえた人が、こう言い返す。
「うしろから車が来ていたから、そちらに
気を取られていた」と。

子どもの世界でも、似たような現象は、よく起きる。
たとえば子どもが、何かを不注意で落としたとする。
教師が、アッと声をあげる。
とたん、その子どもはこう反論する。
「先生が、こんなところにものを置いておくから悪い!」と。

+++++++++++++++

●こじつけ論

 人はなぜ、あとから理由を言うか。
あるいは自分の行為を正当化するために、あとからこじつけをすることは多い。
が、そういう言い方を、「ずるい」と決めてかかってはいけない。
脳には、どうやらそういう機能が、もとからあると考えてよい。

 たとえば(意識)。
この意識として働いている部分は、脳の中でも、数10万分の1程度と言われている。
たとえば今、あなたはパソコンの画面上で、私の書いた文章を読んでいる。
が、同時に、目の中には、無数の情報が、いっしょに入っているはず。

 画面の色、モニターの色、机の上に雑然と置かれたモノ、周囲の温度、光の強さ、
時計などなど。
そういったものを、あなたの目は同時にとらえている。
その中から、文字だけを選び、それを選んでいる。
意識している部分は、その部分だけ。
ごくかぎられた部分だけ。

●「うしろから車が……」

 その人は、実は道をまちがえる前から、無意識の世界で、車を見ていたのかも
しれない。
そして意識している脳とは別の脳、つまり無意識の世界で、「うしろから車が来たぞ」
「運転が乱暴だ」「気をつけろ」と考えていたかもしれない。
が、こうした無意識下での反応は、意識の世界までは、あがってこない。

 が、そこで道をまちがえた。
隣の席にいた人に、「道が違う」と指摘された。
とたん、無意識下で考えていたことが、意識の世界にあがってくる。
だからすかさず、こう言う。

「うしろから車が来ていたから、そちらに気を取られていた」と。

 先の子どもの例で考えるなら、その子どもはそのものを落とす前から、無意識の世界で
こう考えていたかもしれない。
「あんなところに先生は、ものを置いたが、先生は、あんなところにものを置いては
いけない」と。

●反対の現象

 たまたま昨日、こんなことがあった。

 自分の部屋を出るとき、何か、心がすっきりしなかった。
忘れ物をしたような気分が残った。
が、それが何だか、そのときはわからなかった。
しかし何かを、忘れた。
その意識は、軽く残っていた。

 居間で椅子に座っているときも、気になった。
が、わからなかった。
思い出せなかった。

 が、しばらくしてワイフが、テレビの番組の話をした。
とたん、それを思い出した。
テレビのリモコンを、うっかり自分の部屋にもっていってしまった、と。

 私は自分の部屋にあわてて戻り、リモコンをもってきた。

 このばあいは、「テレビのリモコンを自分の部屋にもっていってしまったから、
もってこなくてはいけない」という意識が、無意識の世界にとどまっていたことになる。

 このことと、先に書いた、(こじつけ)と対比させて考えてみると、無意識下の
心の反応が理解しやすくなる。

●頭の中のモヤモヤ

 私たちはいつも、同時に、意識の世界と無意識の世界で生きている。
意識している世界だけが、すべてではない。
むしろ無意識の世界のほうが、はるかに広い。
意識の世界で考えていることよりも、はるかに多くのことを考えている。

 もうひとつの例だが、たとえば私のばあい、何か書きたいテーマがあると、まず
それは頭の中で、モヤモヤとした感じとなって現れてくる。
そのときは何か、よくわからない。
今、書いているこの文章にしても、そうだ。
最初から、今、ここに書いていることがわかっていたわけではない。

 そこで何かを書き始める。
するとやがて、そのモヤモヤの正体がわかってくる。
輪郭が見えてくる。

 そこでこうも考えられる。

 実は私はこうしてものを書き始める前に、無意識の世界で、つまり別の脳が、すでに
ものを考え始めていた、と。
それがモヤモヤといった感じとなって、頭の中に充満する。

●無意識の世界

 今まで、私はあとから理由を述べたり、自分を正当化するために(こじつけ)を
する人を、ずるい人と考えていた。
しかしこの考え方は、ここで修正しなければならない。

 わかりやすく言えば、意識の世界だけが、すべての世界ではないということ。
私たちは同時進行の形で、無意識の世界でも、いろいろとものを考えている。
それが表に出てくるかどうかは、(きっかけ)の問題ということになる。
きっかけに応じて、無意識の世界の(思い)が、表、つまり意識の世界に飛び出して
くる。

 それがあとから理由になったり、こじつけになったりする。
ワイフがテレビの番組の話をしたとたん、リモコンのことを思い出したのも、そうだ。
あるいは、私がものを書くときもそうだ。

 反応としては、すべて、同じワクの中で考えてよい。

●付記

 私はよく「モヤモヤ」という言葉を使う。
ワイフと話していても、「頭の中がモヤモヤとしてきた」と言うなど。

 それが何だかそのときは、よくわからない。
無意識の世界の中にとどまったままの状態で、外に出てこない。
ちょうどリモコンを忘れて、自分の部屋を出たときのような気分である。
が、何かのきっかけで、その片鱗をつかむ。
たとえばこの文章を書き始めたときも、そうだ。

「あとから理由を並べて、自分を正当化するということは、よくある」と考える。
とたん、そのモヤモヤの中から、書きたいことが姿を現す。
あとはそれについて、一気に書きあげる。
時間的にすれば、20〜30分程度。
この文章が、それである。

 つまり私のばあい、頭の中にモヤモヤがあると、それが気になってしかたない。
しかしそのモヤモヤを吐き出したときのそう快感は、何物にも代えがたい。
たとえて言うなら、(汚いたとえで恐縮だが)、長い間便秘で苦しんでいた腸が、
一気に便を排出したときのようなそう快感である。

 またそれがあるから、こうして文章を書く。
楽しい。
反対に、モヤモヤをそのままにしておくと、気分が悪くなる。
ときにイライラしてくることもある。

 で、今は、どうか?

 実は、もうひとつ、頭の中でモヤモヤしているものがある。
先日、「ケチ論」について書いた。
が、「ケチ」といっても、お金だけの問題ではない。
心の問題もあるし、時間の問題もある。
さらに言えば、命の問題もある。

 モヤモヤの中に、私はその片鱗を見つけた。

 ……ということで、つぎに、「ケチ論」について、補足してみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●本物のケチ

++++++++++++++++

金銭的な面でのケチというのは、わかりやすい。
またふつう「ケチ」というときは、金銭的な面での
ケチをいう。
しかしどうも、それだけではないようだ。
「ケチな人」について、思いつくまま、まず、書いてみる。

++++++++++++++++

●ケチな人

自分の時間を、自分のためだけに使う人。

自分の時間を、自分の欲望を満足させるためだけに使う人。

自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。

自分の人生を、自分だけのために生きる人。

すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。

自分勝手でわがまま、他人の失敗を許さない人。

視野が狭く、欲望の虜(とりこ)になっている人。

自分の欲望を満足させるためにしか、頭を働かせない人。

相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。

愛されることだけを考え、人を愛することを考えない人。

自分の得だけを考え、相手に得をさせることを考えない人。

失うことを恐れ、ものを失うと、ギャーギャーと大騒ぎする人。

相手の欠点を指摘しても、自分の欠点を指摘されることを許さない人。

小さな欲望を内へ内へと引き寄せ、外に向かって、冒険しない人。

来年の100万円より、明日の1000円を、大切にする人。

他人の失敗を酒の肴にして笑っても、自分では何もしない人。

臆病で、自分の勇気を外の世界で試さない人。

わずかな財産にしがみつき、自分は成功者といばる人。

無難な道だけを歩き、その道を他人に歩かせない人。

無私、無欲の世界を、知らない人。

自分の才能や健康を、自分だけのために使う人。

心よりも、金、モノを大切にする人。

自分より劣っている人には尊大ぶっても、自分よりすぐれている人が理解できない人。

自分の欲望を満足させるためだけに、時間と才能を使う人。

他人の幸福をねたみ、それを邪魔する人。

心にやさしさがなく、損得計算でいつも心が緊張状態にある人。

●心のケチ

 いくつか箇条書きにしているうちに、同じような内容のことを書いた部分もある。
しかし冒頭にも書いたように、「ケチ」と言っても、けっしてお金だけの問題ではない。
最悪のケチは、「心のケチ」ということになる。

 この中でも、たとえば、つぎのものが、それ。

自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。

すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。

相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。

 わかりやすく言えば、心に余裕がない。
いつも緊張しているというか、ピリピリしている。
一方、若いころ、こんな人に出会ったことがある。

 その男性(75歳くらい)は、若いころから、無精子症だったという。
それについて、「オレにはね、種(=精子)がないんだよね」と。
で、「いつからですか?」と聞くと、「もう20歳になるころには、なかったよ」と。

 が、そんなはずはない。
その男性には、息子さんがいた。
そこですかさず私が、その男性に、「だってあなたには、40歳になる息子さんが
いるではありませんか」と言うと、その男性は、カラカラと笑った。
笑いながら、何度も、「いいじゃ、ねエ〜カ、いいじゃ、ねエ〜カ」と言った。

●寛大さ

 ケチの反対側にあるのが、「寛大さ」ということになる。
お金でもない。
モノでもない。
心である。

 で、あのマザーテレサは、「愛」を人に、惜しみなく与えた人という。

"It is not how much we do, but how much love we put in the doing.
It is not how much we give, but how much love we put in the giving."
どれだけのことをしたかは、問題ではありません。
することについて、どれだけ愛を込めたかが大切なのです。
どれだけのものを与えたのかは、問題ではありません。
与えることに、どれだけの愛をこめたかが、大切なのです。

"I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more hurt, only 
more love".
私はパラドックスを発見しました。
もしあなたが苦しいほどまでに人を愛するのなら、もう苦しみはありません。
そこにあるのは、さらに深い愛です。

 これ以上のことは、書く必要はない。
書けない。
マザーテレサがすべてを、語ってくれた。

つまりどこまで、人を許し、忘れるか。
その度量の深さこそが、その人の寛大さを決める。

 卑俗な言い方で申し訳ないが、これでモヤモヤが消えた。
書きたいことを吐き出した。
今日は、すばらしい一日になりそう。

2009年11月29日早朝

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 マザーテレサ パラドックス 心のケチ論)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●BW教室から

●チン毛

 小学4年生の子どもたちが、ヒソヒソと何やら話している。
A君が言った。
「お前、本当に、生えているのか?」
B君「生えているよオ〜」
A君「本当か?」
B君「まだ、産毛だけどね……」と。

 横には女児がいる。
前には、私というおとながいる。
先週、何かの拍子に、A君が、「生えている」と漏らしたのを、B君が覚えていた。

私「そういう話は、してはだめ。セクハラになる!」と。

が、それを横で聞いていたC子さん(女児)が、すかさず、こう言った。
「そんな話、学校で、たくさん聞いている!」と。

私「学校で?」
C「保健体育の時間に、先生が話してくれた」
私「先生が?」
C「そうよ……。教科書の最後に、絵が載っていた。私、あれを見て、気持ち悪かった…
…」
私「どうして、気持ち悪かったの?」
C「だってさア、アレが、ダラ〜ンとぶらさがっていたもん」と。

 つまり男性のアレが、ダラ〜ンとぶらさがっていたというのだ。

私「どうして、ぶらさがっていたら、気持ち悪いの?」
C「だってさあ、あんなふうに、ぶらさがっていないもん」と。

 それを聞いて、みなが、笑った。

男児たち「お前さア、見たことあるのかア? エッチだなア……」と。

私「あのなあ、ふつうは、ダラ〜ンとぶらさがっている」
C「ギャー、気持ち悪い!」
私「ヘビじゃないんだからさア……。気持ち悪いというのは、おかしい」
C「ギャーア、ハハハハ」と。

 「性」というのは、不思議な二面性をもっている。
ただの器官としての(性)。
性欲を燃え上がらせるための(性)。
男も女も、この2つの間を、行ったり来たりしている。
その中から、無数のドラマが生まれる。
小学4年生というと、この二面性に気づき始める年齢ということになる。


●世界一すばらしい人

 年長児のクラスで、「世界でいちばん、すばらしい人はだれか?」という質問をしてみた。
当然、「ママ」とか、「お母さん」という言葉が返ってくるものとばかり思っていた。
が、いくら促しても、そういう言葉が出てこない。
中に、「アラン・ドロン」と答えた子どももいた。
しびれをきらして、私が、「お母さんだろ!」と言うと、みなが、「ゲーッ」と。

 これには驚いた。
うしろの席には、母親たちが、みな参観している。

私「あのなあ、そういうこと言うと、お母さんが悲しむよ」
子「だって、うちのママ、全然、かっこよくないもん」
私「あのなあ、そういうことを、人の前で言ってはだめ」
子「だって、本当だもん」と。

 つづいて、「世界で、いちばん大切な人はだれか」とも聞いてみた。
このときも、「パパ」とか、「お父さん」という言葉が返ってくるものとばかり思っていた。
が、やはり、そういう言葉が、いつまで待っても、出てこない。

私「あのなあ、パパだろ。パパが、いちばん大切だろ」
子「パパだってエ〜。ゲラゲラ」
私「あのなあ、そういうことを言うと、君たちのパパは悲しむよ」
子「ママがいるから、いい……」
私「もう、お前たちは、いったい、何を考えているんだ。許さん!」
子「許さん……てえ?」
私「全員、おしおきだ」と。

 ……こうした様子は、YOUTUBEに収録しておいた。
興味のある人は、どうか、見てほしい。
子どもたちの明るい笑い声を、楽しんでもらえるはず。

(注)本当は、子どもたちの表情をカメラに収めたいのだが、このところ肖像権という
のが、うるさくなった。
私自身は、子どもたちにとっても、よい思い出になるから、カメラに収録しておきたい
のだが……。
この時期の子どもたちは、数か月単位で、表情も様子も、どんどんと変わっていく。

BW公開教室・11月号は、以下のアドレスから……。

http://bwhayashi.ninja-web.net/page009.html

どうか、お楽しみください。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●人がもつ悪魔性について

++++++++++++++++++

イギリスでは、『抑圧は悪魔を作る』という。
慢性的な抑圧状態がつづくと、ものの考え方が
悪魔的になることをいう。

ここでいう「抑圧状態」というのは、いわゆる
心が押し殺された状態をいう。
言いたいことも言えない。
したいこともできない。
不平や不満が押しつぶされ、心が石のようになる。
そういう状態をいう。

また「悪魔的」というのは、ズバリ、人間らしい心の崩壊をいう。
道徳の崩壊、倫理の崩壊につづいて、善悪感覚の
麻痺、心の温もりの消失、やさしさの欠落……とつづく。

で、ここが重要だが、一度、心の崩壊、つまり
心が壊れると、修復は、たいへんむずかしいということ。
私が知るかぎり、心が一度壊れた人が、そのあと、
再び人間らしい心を取り戻したという例はない。
何とかごまかして、それらしく取り繕う人はいるが、
基本的には、変わらない。

1920年代にあいついで見つかった、野生児を
例にあげるまでもない。

+++++++++++++++++++

●悪魔性

 「悪魔」とまではいかないにしても、「悪人」と呼ばれる人は多い。
しかし悪人といっても、心の問題だから、外からはわかりにくい。
「私は悪人です」というラベルを、張っているわけでもない。
さらにタチの悪いことに、このタイプの人ほど、仮面をかぶる。
(よい人)ぶる。

 だから私は、「悪魔」というよりは、「悪魔性」という言葉を使う。
「悪魔的」でもよい。
内に潜んで、外に顔を出さないから、「悪魔性」という。
その悪魔性は、ときとばあいに応じて、その人の心を裏から操る。

●反動形成

 この悪魔性は、0歳から4、5歳の幼児期前期までに作られると考えてよい。
それ以後も、『抑圧は悪魔を作る』という格言は正しいが、修復が不可能という
状態にはならない。
しかし0歳から4、5歳までに、一度この悪魔性が作られると、先にも書いたように、
以後、修復するのが、たいへんむずかしくなる。

 ひとつの例として、「嫉妬」をあげる。
たとえば下の子どもが生まれたとき、上の子どもが、赤ちゃん返りという症状を
示すことがある。

 ネチネチと赤ちゃんぽくなるのを、マイナス型とするなら、下の子どもに対して
暴力的になるのは、プラス型ということになる。
マイナス型とプラス型の両方を、あわせもつケースも少なくない。

 そのとき、上の子どもが、(よくできた、いい兄(姉))を演ずることがある。
これを心理学の世界では、「反動形成」という。
本当は下の子が憎くてしかたないのだが、その心を見抜かれると、自分の立場が
なくなる。
そこで上の子どもは、(いい兄(姉))という仮面をかぶることで、人の目をごまかす。

 こうした一連の反応は、本能的な部分で起こるため、本人にも仮面をかぶっている
という意識はない。
が、その裏で、上の子どもは、大きく心をゆがめる。
それがおとなになってからも、いろいろな形に姿を変えて、残る。

●欲求不満

 一般的に、長男、長女は、生活態度が防衛的になる。
「防衛的」というのは、ケチで、ため込み屋になりやすいということ。
嫉妬深く、用心深く、かつ疑り深い。

 親にすれば、「兄(姉)も弟(妹)も同じようにかわいがっています」ということ
になるが、兄(姉)にすれば、「同じように」という部分が、そもそも不満という
ことになる。
下の子どもが生まれるまでは、100%の愛情を受けていた。
それが下の子どもが生まれて、半分、あるいはそれ以下に減ってしまった。
それが不満ということになる。

 このばあいは、慢性的な愛情飢餓状態になる。

 言い忘れたが、「抑圧」といっても、2種類、ある。
外発的な抑圧(たとえば過干渉、過負担など)と、内発的な抑圧(愛情飢餓、
欲求不満)である。
どちらも子どもの心に対して、同じように作用する。

●ケチ

 この文章を読んでいる人で、長男、長女の人は多いと思う。
その中でも、ケチの人は、多いと思う。
ためこみ屋の人も、いる。
あのフロイトも、肛門期に、たとえば愛情飢餓の状態になると、ケチになりやすいと
説いている(※)。
しかしそういう人でも、その原因が、自分の乳幼児期にあると気がついている
人は少ない。
だいたい、自分がケチであるということにすら、気がついていない。

 たいてい長い時間をかけて、自分のケチを正当化してしまっている。
「私は倹約家だ」「質素こそ、生活の旨(むね)とすべき」「私は無駄づかいは
しない」と。
だからむしろ、「私はすばらしい人間」と思い込んでいる。
そしてそうでない人を、「浪費家」とか、「愚かな人」と、さげすんでいる。

 ため込み屋にしても、そうだ。
モノを捨てることができない。
そのため部屋中、家中、モノであふれかえることになる。
ひどくなると、ゴミまで、ため込むようになる。
もっともこの段階になると、心の病気がからんでくるため、単純に考えることは
できない。

 ともかくも、ケチな人は、自分がケチだとは思っていない。
その人がケチであるかないかは、そうでない人から見て、わかること。
自分では、わからない。
つまりそれくらい、自分を知ることは、むずかしい。
いわんや、悪魔性をや、ということになる。

●心の壊れた人

 以前、私にこんなことを話した人がいた。

 その人(男性、60歳くらい)は、車を運転しているとき、車をどこかの塀に
ぶつけたらしい。
そのため塀の一部というか、1メートル前後にわたって、大きく傷をつけてしまった。
それについて、その人は、得意げに、(「得意げに」だ)、こう言った。

 「林さん、あんなのいちいち謝りに行っていたら、かえって補修費を請求されるよ。
だからぼくはね、帰り道、わざと自分の車を、山の崖に当ててね、車に傷をつけた。
そうすれば、自分の車は、保険で直してもらえるからね」と。

 私が「それって、当て逃げになるのでは?」と言うと、その人は、こう言って
笑った。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、あの家は、バーさんのひとり暮らしだから」と。

 一見すると、あっけらかんとして、朗らかな人に見えるが、心が壊れた人というのは、
そういう人をいう。

●私のばあい

 その人を非難しているのではない。 
私も、あの戦後のどさくさの最中に生まれ育っている。
道徳観も倫理観も、希薄な時代だった。
みなが、心のより所を見失い、「マネー」「マネー」と言い始めた時代だった。
家庭教育の「カ」の字もない時代だったと言っても、過言ではない。
少なくとも、今という時代と比較すると、そうだった。

 だから道路でお金やモノを拾っても、それはすべて拾った子どものものになった。
「交番へ届ける」という発想そのものが、なかった。
ある時期などは、大きな磁石にヒモをつけ、それで川の中をさらって歩いたこともある。
それで鉄くずを集めて、鉄くず商へもっていくと、結構なお金になった。
父が一日かかって稼ぐ金額より多く、稼いだこともある。
もっとも、それは悪いことではなかったが……。

 実は、先に書いた、塀に当て逃げした男というのは、私の子ども時代からの
知人である。
同じ価値観を共有している。
つまり相手の男は、私もまた同じような人間だろうということで、その話をした。
事実そのとおりだから、反論のしようがない。
反論のしようがないから、今、私はそういう自分の中に潜む悪魔性と、懸命に
闘っている。
私も油断すれば、ふとあのころの自分に戻ってしまう。

小ずるくて、インチキ臭い。
ウソは平気でつく。
人をごまかしても、罪の意識が薄い。

それを「たくましさ」と誤解する人もいるかもしれないが、ほんとうのたくましさは、
生き様の中で試される。
逆境の中で、どう生きていくか。
その生き様の中で試される。
ずる賢い人のことを、「たくましい人」とは、言わない。

●『抑圧は悪魔を作る』

 ここに書いたことだけでも、乳幼児期の子どもの育て方が、いかに重要なもので
あるかが、わかってもらえたと思う。
内的抑圧にせよ、外的抑圧にせよ、『抑圧は、悪魔を作る』。
そしてその悪魔性は、生涯にわたってその人の心の奥深くに住み、その人の心を
裏から操る。

 こうした悪魔性の恐ろしいところは、その悪魔性そのものよりも、悪魔性に毒される
あまり、大切でないものを大切なものと思い込んだり、大切なものを大切なものでない
と思い込んだりするところにある。
つまり時間を無駄にする。
積もり積もって、わずかな利益と交換に、人生を棒に振る。

●終わりに・・・

 先ほどケチについて書いた。
ひょっとしたら、あなた自身のことかもしれない。
あるいはあなたの周囲にも、そういう人がいるかもしれない。
が、私が知っている人の中には、家族よりも金儲けのほうが大切と考えている人もいる。
妻や子どもですら、自分の金儲けの道具くらいにしか考えていない。
私たちから見ると、実に心のさみしい人ということになるが、しかしそういう人を
だれが笑うことができるだろうか。

 この世界で、抑圧を受けていない人はいない。
いつも心のどこかで、じっと、それに耐えている。
毎日が、抑圧との闘いであると言っても過言ではない。
そのため、多かれ少なかれ、悪魔性は、だれももっている。
悪魔性のない人は、いない。

 大切なことは、その悪魔性に気がつくこと。
つぎに大切なことは、その悪魔性に毒されないこと。
これは人生を有意義に生きるための、大鉄則と考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 抑圧 抑圧は悪魔を作る 悪魔性 悪魔的思考法 抑圧論 ケチ 
ケチ論 はやし浩司 けち けち論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ケチ論

 ケチと倹約については、たびたび書いてきた。

+++++++++++++++++++++

子どもの自慰とからめて、人間の心は
乳幼児期に作られることを、再確認してほしい。

+++++++++++++++++++++

【子どもの自慰】

●自慰

 子どものばあい、慢性的な欲求不満状態がつづいたり、慢性的な緊張感がつづいたりす
ると、何らかの快感を得ることによって、それを代償的にまぎらわそうとする。代表的な
ものとして、指しゃぶり、髪いじり、鼻くそほりなどがある。

 毛布やボタンなどが手放せない子どももいる。指先で感ずる快感を得るためである。が、
自慰にまさる、快感はない。男児というより、女児に多い。このタイプの女児は、人目を
気にすることなく、陰部を、ソファの角に押し当てたり、直接手でいじったりする。

 そこでこういう代償的行為が見られたら、その行為そのものを禁止するのではなく、そ
の奥底に潜む原因、つまり何が、慢性的な欲求不満状態なのか、あるいはなぜ子どもの心
が緊張状態にあるかをさぐる。そのほとんどは、愛情不足もしくは、愛情に対する飢餓感
とみてよい。

 で、フロイトによれば、人間の行動の原点にある、性欲動という精神的エネルギー(リ
ビドー)は、年齢に応じて、体のある特定の部分に、局在するという。そしてその局在す
る部分に応じて、(1)口唇期(生後〜18か月)、(2)肛門期(1〜3歳)、(3)男根期
(3〜6歳)、(4)潜伏期(6〜12歳)、(5)性器期(12歳〜思春期)というように、
段階的に発達するという。

 が、それぞれの段階に応じて、その精神的エネルギーがじょうずに解消されていかない
と、その子ども(おとな)は、それぞれ特有の問題を引きおこすとされる。こうした状態
を「固着」という。

 たとえば口唇期で固着を起こし、じょうずに精神的エネルギーを解消できないと、口唇
愛的性格、たとえば依存的、服従的、受動的な性格になるとされる。肛門期で固着を起こ
し、じょうずに精神的エネルギーを解消できないと、肛門愛的性格、たとえば、まじめ、
頑固、けち、倹約的といった性格になるとされる(参考、「心理学用語」渋谷昌三ほか)。
 
●代償行為

 男根期の固着と、代償行為としての自慰行為は、どこか似ている。つまり男根期におけ
る性的欲望の不完全燃焼が、自慰行為の引き金を引く。そういうふうに、考えられなくも
ない。少なくとも、その間を分けるのは、むずかしい。

 たとえばたいへん強圧的な過程環境で育った子どもというのは、見た目には、おとなし
くなる。まわりの人たちからは、従順で、いい子(?)という評価を受けやすい。(反対に、
きわめて反抗的になり、見た感じでも粗雑化する子どもも、いる。よくある例は、上の兄
(姉)が、ここでいう、いい子(?)になり、下の弟(妹)が、粗雑化するケース。同じ
環境であるにもかかわらず、一見、正反対の子どもになるのは、子ども自身がもつ生命力
のちがいによる。強圧的な威圧感にやりこめられてしまった子どもと、それをたくましく
はね返した子どものちがいと考えると、わかりやすい。)

 しかしその分だけ、どちらにせよ、コア・アイデンテティの発達が遅れ、個人化が遅れ
る。わかりやすく言えば、人格の(核)形成が遅れる。教える側からみると、何を考えて
いるかわかりにくい子どもということになる。が、それではすまない。

 子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして、成長する。
このタイプの子どもは、反抗期にしても、反抗らしい反抗をしないまま、つぎのステップ
に進んでしまう。

 親によっては、そういう子どもほど、いい子(?)というレッテルを張ってしまう。そ
してその返す刀で、反抗的な子どもを、できの悪い子として、排斥してしまう。近所にそ
ういう子どもがいたりすると、「あの子とは遊んではダメ」と、遠ざけてしまう。

 こうした親のもつ子ども観が、その子どもを、ますますひ弱で、軟弱にしてしまう。中
には、自分の子どもをそういう子どもにしながら、「うちの息子ほど、できのいい息子はい
ない」と公言している親さえいた。

 しかし問題は、そのあとにやってくる。何割のかの子どもは、そのまま、生涯にわたっ
て、ひ弱で、軟弱なまま、陰に隠れた人生を送ることになる。しかし大半の子どもは、た
まったツケをどっと払うかのように、さまざまな問題を起こすようになる。はげしい反抗
となって現れるケースも多い。ふつうの反抗ではない。それこそ、親に対して、包丁を投
げつけるような反抗を、繰りかえす。

 親は、「どうしてエ〜?」「小さいころは、あんないい子だったのにイ〜!」と悲鳴をあ
げる。しかし子どもの成長としては、むしろそのほうが望ましい。脱ぎ方に問題があると
しても、そういう形で、子どもはカラを脱ごうとする。その時期は、早ければ早いほどよ
い。

 反抗をしないならしないで、子どもの心は、大きく歪(ひず)む。世間を騒がすような
凶悪事件を起こした子どもについて、よく、近所に住む人たちが、「どちらかというと目立
たない、静かな、いい子でしたが……」と言うことがある。見た目にはそうかもしれない
が、心の奥は、そうではなかったということになる。

●神経症

 話が大きく脱線したが、子ども自慰を考えるときは、こうした大きな視点からものを考
える必要がある。多くの親たちは、そうした理解もないまま、娘が自慰らしきことをする
と父親が、息子が自慰らしきことをすると母親が、あわてる。心配する。「今から、こんな
ことに興味があるようでは、この先、どうなる!」「この先が、思いやられる」と。

 しかしその原因は、ここに書いてきたように、もっと別のところにある。幼児のばあい、
性的好奇心がその背景にあると考えるのは、まちがい。快感によって、脳内ホルモン(エ
ンケファリン系、エンドルフィン系)の分泌をうながし、脳内に蓄積された緊張感を緩和
しようとすると考えるのが正しい。

 おとなでも、緊張感をほぐすため、自慰(オナニーやマスターベーション)をすること
がある。

 だからもし子どもにそういう行為が見られたら、その行為そのものを問題にするのでは
なく、なぜ、その子どもがそういう行為をするのか、その背景をさぐるのがよい。もっと
はっきり言えば、子どもの自慰は、神経症、もしくは心身症のひとつとして対処する。

 自慰を禁止したり、抑えこんだりすれば、その歪みは、また別のところに現れる。たと
えば指しゃぶりを、きびしく禁止したりすると、チックが始まったり、夜尿症になったり
する。そういうケースは、たいへん多い。

 そういう意味でも、『子どもの心は風船玉』と覚えておくとよい、どこかで圧力を加える
と、その圧力は、別のところで、べつの歪みとなって現れる。

 子どもの自慰、もしくは自慰的行為については、暖かく無視する。それを強く叱ったり
すると、今度は、「性」に対して、歪んだ意識をもつようになることもある。罪悪感や陰湿
感をもつこともある。この時期に、一度、そういう歪んだ意識をもつようになると、それ
を是正すのも、これまたたいへんな作業となる。
(はやし浩司 自慰 子供の自慰 オナニー 神経症 心身症 子どもの自慰 
はやし浩司 固着 口唇期 肛門期 男根期 子供の心理 心の歪み)

【補足】

 歪んだ性意識がどういうものであるか。恐らく、……というより、日本人のほとんどは、
気づいていないのではないか。私自身も、歪んだ性意識をもっている。あなたも、みんな、
だ。

 こうした性意識というのは、日本の外から日本人を見てはじめて、それだとわかる。た
とえば最近でも、こんなことがあった。

 私の家にホームステイしたオーストラリア人夫婦が、日本のどこかへ旅行をしてきた。
その旅先でのこと。どこかの旅館に泊まったらしい。その旅館について、友人の妻たち(2
人)は、こう言った。「混浴の風呂に入ってきた」と。
 
 さりげなく、堂々と、そう言う。で、私のほうが驚いて、「へえ、そんなこと、よくでき
ましたね。恥ずかしくありませんでしたか」と聞くと、反対に質問をされてしまった。「ヒ
ロシ、どうして恥ずかしがらねばならないの」と。

 フィンランドでは、男も女も、老いも若きも、サウナ風呂に入るのは、みな、混浴だと
いう。たまたまそのオーストラリア夫婦の娘の1人が、建築学の勉強で、そのフィンラン
ドに留学していた。「娘も、毎日、サウナ風呂を楽しんでいる」と。

 こうした意識というのは、日本に生まれ育った日本人には、想像もつかないものといっ
てもよい。が、反対に、イスラムの国から来た人にとっては、日本の女性たちの服装は、
想像もつかないものらしい。とくに、タバコを吸う女性は、想像もつかないらしい。(タバ
コと性意識とは関係ないが……。)

 タバコを吸っている若い女性を見ると、パキスタン人にせよ、トルコ人にせよ、みな、
目を白黒させて驚く。いわんや、肌を露出して歩く女性をや!

 性意識というのは、そういうもの。私たちがもっている性意識というのは、この国の中
で、この国の常識として作られたものである。で、その常識が、本当に常識であるかとい
うことになると、そのほとんどは、疑ってかかってみてよい。

 だいたいにおいて、男と女が、こうまで区別され、差別される国は、そうはない。今度
の女性天皇の問題にしても、そうだ。そうした区別や差別が、世界の常識ではないという
こと。「伝統」という言葉で、ごまかすことは許されない。まず、日本人の私たちが、それ
を知るべきではないだろうか。

 こう考えていくと、自慰の問題など、何でもない。指しゃぶりや髪いじりと、どこもち
がわない。たまたまいじる場所が、性器という部分であるために、問題となるだけ。……
なりやすいだけ。そういうふうに考えて、対処する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 はやし浩司 自慰 子供の自慰 自慰行為 オナ
ニー)

Hiroshi Hayashi++++++++Nov.09+++++++++はやし浩司

【私を知る】

●ためこみ屋(ケチ)

+++++++++++++++++++++

数日前、「ためこみ屋」と呼ばれる人について書いた。
どんどんと、自分の身のまわりに、ものをためこむ人をいう。
「ためこみ屋」というのは、私が考えた言葉ではない。
心理学の本にも出ている。
ちゃんとした言葉(?)である。
時に家中を、ものだらけにしてしまう。
ひどくなると、家の中や外を、ごみの山にしてしまう。

一般的に、ためこみ屋は、ケチである。
ためこみ屋、イコール、ケチ、ケチ、イコール、ためこみ屋と考えてよい。
が、一方的にケチかというと、そうでもない。
ときに突発的に寛大になることがある。
雰囲気にのまれて、大金を無駄にはたいたりする。
こうした現象は、排便論で説明される。

フロイト学説によれば、2〜4歳の肛門期に、何かの問題があって、
そうなるという。
つまり乳幼児にとっては、便は(財産)。
その便をためるという行為が、ものをためるという行為につながる。
しかし同時に、排便の快感も味わう。
それが(突発的に寛大になる)という行為につながる。

もう少し詳しく説明すると、こうなる。
肛門期に、(1)親にきびしい排便のしつけがされた、(2)排便にたいして適切な
指導を受けなかった、(3)排便について、何らかのトラウマができた。
排便だけではない。

とくに注意したいのが、愛情問題。
たとえば下の子どもが生まれたりして、上の子どもが、愛情飢餓状態に
なることがある。
親は「平等にかわいがっています」と言うが、上の子どもにしてみれば、
それまであった(愛情)が、半分に減ったことが不満なのだ。
赤ちゃん返りは、こうして起きる。

そういう経験をした子ども(人)は、生活態度が、防衛的になる。
長男、長女がケチになりやすいという現象は、こうして説明される。

が、こうした現象を知ることによって、私たちは私の中の(私)を
知る手がかりを得ることができる。
あるいはそのヒントを得ることができるようになる。
ここでは、それについて考えてみたい。

++++++++++++++++++++

●私の知人

私は基本的には、ケチではない。
自分で自分をケチと思ったことはない。
しかしそんな私でも、ときどき落ち込んでいるようなとき、パッと
ものを衝動買いすることがある。
とたん、気分がスカッとする。
反対に、ものを衝動買いすることによって、ストレスを発散させることもある。
これも言うなれば、肛門期の名残(なごり)ということになる。

が、それが病的な状態にまで進んでしまうことがある。
だれがみても、(ふつうでないという状態)になることがある。
それがここでいう「ためこみ屋」ということになる。

私の知人に、こんな人(50歳くらい)がいる。
ケチの上に、「超」がつくような人である。
娘が結婚したが、その引き出物として、100円ショップで買ってきた
家庭用品を5〜6個ずつ、箱に入れて渡していた。
(100円ジョップの商品だぞ!)

もちろん小銭に、うるさかった。
小さな菓子屋を経営していたが、妻などは、家政婦くらいにしか
考えていなかった。
すべての行為が、(金儲け)につながっていた。
またそういう目的のために、結婚したようなもの。
妻を使ったというより、こき使った。
そのため妻はやがて、うつ病になり、自殺未遂まで起こしている。

が、悲しいかな、それでその知人が、自分の愚かさに気づいたというわけではない。
妻は1か月ほど入院したのだが、入院費がもったいないという理由で、その知人は、
無理に退院させてしまった。

そのあとのことは知らないが、人づてに聞いたところでは、その知人はケチはケチだが、
ためこみ屋ではないとのこと。
家の中も、それなりに整頓されているとのこと。
しかしそれには、妻の努力があったようだ。
妻が、きれい好きだったということか。
加えてケチが転じて、その知人は、守銭奴になった。
何しろ子どもの学費すら、「もったいない」と言って、ケチったという。

これはあくまでも一般論だが、ためこみ屋の人は、ものを失うことに、強迫観念を
もっていると考えられる。
あるいは時間に対して、異常なまでに執着し、そのため生活そのものが時刻表的
になることが多い。
これは乳幼児期における、神経質な排便指導が原因と言われている。

●人は人

もっともそれでその知人がそれでよいというのなら、それでよい。
私のような他人が、とやかく言ってはならない。
またそんなことをすれば、それこそ、内政干渉。
しかしその知人は、私たちに大切な教訓を与えている。
つまり(私の中の私)である。

ためしにその知人に、こう言ってみたらどうだろうか。
「あなたはあなたですか? 
あなたはあなたの中の、あなたでない部分に
操られているとは思いませんか?」と。

その知人は、まちがいなく、その質問に猛反発するにちがいない。
「私は私だ。私のことは、私がいちばんよく知っている」と。

しかしそうでないことは、ここまで読んでくれた人にはわかるはず。
その知人もまた、(私であって私でない部分)に操られているだけ。
原因はわからないが、いろいろ考えられる。

その知人は、4人いる兄弟姉妹の長男。
昔からの菓子屋。
父親は、道楽三昧(ざんまい)の遊び人だった。
母親は、近所でも有名なほど、勝気な人だった。
そのため長男のしつけには、ことさらきびしかったようだ。
そういう家庭環境の中で、その知人は、その知人のようになった。

言い換えると、自分を知ることは、それほどまでに難しいということ。
しかし知ろうと思えば、知ることは、けっして不可能ではないということ。

●そこで(私)

もしこの文章を読んでいる(あなた)が、ここでいう「ためこみ屋」で、
ケチであるなら、(つまりそういう症状が出ているなら)、一度、自分の心の中を
のぞいてみるとよい。

あなたも、(私であって私でない部分)に気がつくはず。

そして……。

こうして(私)の中から、(私であって私でない部分)を、どんどんと取り除いて
いく。
ちょうどたまねぎの皮をむくように、だ。
そして最後に残った部分が、(私)ということになる。

ただそのとき、恐らくあなたは、(私)がほとんどないことを知るかもしれない。
(私)というのは、たまねぎにたとえるなら、たまねぎの中心部にある、細くて
糸のようなもの。
あるいはもっと小さいかもしれない。
つまりそれくらい、(私)というのは、頼りない。

●スズメはスズメ

だから、さらに……。
ためしに、庭に遊ぶスズメを見てみたらよい。
スズメたちは、恐らく、「私は私」と思って行動しているつもりかもしれない。
しかし北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
どこかで連携しているというわけでもないのに、まったく同じような行動パターンで、
同じように行動している。
もちろんどこかで共通の教育を受けたということでもない。
が、同じ。
私たち人間から見れば、同じ。
つまり(私)というものが、どこにもない。

同じように、アメリカ人も日本人も、人間は人間。
それぞれ「私は私」と思って行動しているが、視点を変えれば、まったく同じような
行動パターンで、同じように行動している。

スズメの中に(私)がないように、実は、私の中にも、(私)というのは、ほとんどない。
「まったくない」とは思わないが、ほとんど、ない。

●ある生徒

たとえばケチな人は、ケチであるということに気がつくか、どうか?
少し話はそれるが、私の生徒のことで、こんな経験をしたことがある。

ある生徒(高2男子)が、私にこう言った。
「生徒会の仕事をするようなヤツは、バカだ」と。
そこで私が理由をたずねると、こう言った。
「そんなことをしていたら、受験勉強ができなくなる」と。

私はその言葉を聞いて、しばらく考え込んでしまった。
たしかにその生徒の言っていることは正しい。
有名大学への進学を考えるなら、1時間でも、時間は惜しい。
生徒会の仕事をしていたら、勉強の時間が犠牲になる。
それはわかる。
しかしその生徒は、受験勉強という、もっと言えば、受験制度の中で、
踊らされているだけ。
もちろんその生徒は、それには気づいていない。
「私は私」と思って、自分で考え、自分で行動している。

さらに言えば、ではその生徒は、何のために勉強しているのか。
何のために高校へ通っているのか。
そういうことまで考えてしまう。

つまりこうした疑問は、そっくりそのままケチな人についても言える。
その知人は、何のためにお金をためているのか。
何のために生きているのか。
そういうことまで考えてしまう。

●私を知る

ではどうすれば、その知人は、どうして自分がそうであることを知ることができるか。
その方法はあるのか。
その知人のことを心配して、こう書いているのではない。
その知人は、その知人でよい。
しかしそれを考えることによって、私たちは自分を知る手がかりを得ることができる。
そのために、その方法を考える。

まず、その知人は、自分がケチであることを知らねばならない。
これが第一の関門。
しかし実際には、そういう人にかぎって、自分がケチとは思っていない。
「自分は堅実な人物」とか、「他人は浪費家」と思っている。
人生観、さらには哲学まで、その上に、作りあげてしまう。
さらに『類は友を呼ぶ』の諺(ことわざ)どおり、そういう人たちはそういう人たちで、
ひとつのグループを作ってしまう。

だからますます「私」がわからなくなってしまう。

言い換えると、私たち自身も、実は同じことをしているのに気がつく。
(私であって私でない部分)が中心にあって、そのまわりを、たまねぎの皮のような
ものが、つぎつぎと重なっている。
そしてつきあう相手も、自分にとって居心地のよい人を選ぶ。
たとえば冒頭に書いたように、私自身はケチではないから、ケチな人間が好きではない。
ケチケチした人のそばにいるだけで、息苦しさを覚えることもある。

しかしそれは本当の(私)なのか?

ケチに気づくことも難しいが、自分がケチでないことに気づくのも難しい。
どちらであるにせよ、どちらがよいということにもならない。
先の高校生について言うなら、現代という社会は、そのほうが、生きやすい。
たしかに「生徒会などをしているヤツは、バカだ」ということになる。

●作られる(私)

で、そういう自分であることに気がついたとする。
つぎに私たちは、いつ、どこで、どのようにしてそういう(私)ができたか、
それを知る。
これが第二の関門。

私はそのためには、精進(しょうじん)あるのみ、と考える。
昨日の私より、今日の私を賢くすることしか、方法はない。
人は、より賢くなって、それまでの自分が愚かだったことを知る。

専門家に相談するという方法もあるかもしれないが、そのレベルまで到達した
専門家をさがすのは、たいへん難しい。
へたをすれば、どこかのカルト教団の餌食(えじき)になるだけ。
占いや、占星術、さらにはスピリチュアルなどというわけのわからないものを、
押しつけられるだけ。

そこで精進。
つねに勉強し、つねに視野を広める。
手っ取り早い方法としては、心理学や哲学を学ぶという方法もある。
が、何よりも大切なことは、自分で考えるということ。
考える習慣を身につけること。
その習慣が、やがて(私)の発見へとつながっていく。

●(私)を知るメリット

もっとも(私)を知ったところで、それがどうした?、と考える人もいるかも
しれない。
(私)を知ったところで、直接、何らかの利益につながるというわけではない。
しかし(私)を知ることによって、私たちは、そこに生きる意味を見出すことができる。
それがわからなければ、反対に、もう一度、庭に遊ぶスズメたちを思い浮かべて
みればよい。

スズメはスズメ。
同じように、人間は人間。
もしそうなら、私たちはスズメと、どこもちがわないということになってしまう。
言い換えると、私たちは(私)を知ることによってのみ、生きる意味そのものを
知ることができる。
そこに生きる意味を見出すことができる。
(私)があって、私たちははじめて、生きることになる。
その実感を手に入れることになる。
そしてそれがわかれば、まさに『朝に知れば、夕べに死すも可なり』ということになる。
「朝に真理を発見できれば、夕方に死んでも悔いはない」という意味である。
もっと言えば、無益に100年生きるより、有益に1日を生きたほうが、よいという
意味である。

(私)を知るということは、そういうことをいう。

●再び、「ためこみ屋」

「ためこみ屋」の人にしても、「ケチ」と周囲の人にうわさされるほどの人にしても、
何らかの心のキズをもった人と考えてよい。
またそう考えることによってのみ、そういう人たちを理解することができる。
(あえて理解してやる必要はないのかもしれないが……。)

しかし先にも書いたように、あなたや私にしても、みな、何らかのキズをもっている。
キズをもっていない人は、いない。
ぜったいに、いない。

大切なことは、まずそのキズに気がつくこと。
そうでないと、あなたにしても、私にしても、いつまでもそのキズに振り回される
ことになる。
同じことを繰り返しながら、繰り返しているという意識すらない。
ないまま、また同じことを繰り返す。

しかしそれこそ、貴重な人生、なかんずく(命)を無駄にしていることになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 ためこみ屋 ケチ
ケチ論 肛門期 フロイト はやし浩司 私論 私を知る)
(09年1月19日記)

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●富めるときは貧しく……

++++++++++++++++++++

今の若い夫婦を見ていて、かなり前から
ハラハラしていたことがある。
どの夫婦も、目いっぱいの生活をしている。
仮に給料が30万円あったとする。
すると30万円、ギリギリの生活をしている。

今の若い夫婦は、貧しい時代を知らない。
知らないから、日本は昔から豊かで、
またこの豊かさは、いつまでもつづくと思っている。

しかし今回の大不況で、それが土台から、崩れ去った。
つまり若い夫婦がもっている常識が、土台から
崩れ去った。

+++++++++++++++++++++

私たち団塊の世代は、極貧の時代から、世界でも類を見ないほど豊かな時代へと、
言うなれば、地獄と天国を、両方経験している。
その(坂)を知っている。

が、今の若い夫婦は、それを知らない。
「すべてのものが、あるのが当たり前」という生活をしている。
結婚当初から、自動車や電気製品にいたるまで、すべて、だ。
そのため、いつも目いっぱいの生活をしている。
30万円の給料があったとすると、30万円ギリギリの生活をしている。
大型の自動車を買い、子どもを幼稚園に預けながら、それを当然の
ことのように考えている。

そういう意味で、貧しい時代を知らない人は、かわいそうだ。
そこにある(豊かさ)に気がつかない。

私たちの時代など参考にならないかもしれないが、あえて書く。

私たち夫婦も、自動車を買った。
HONDAの軽。
水色の中古車だった。
それでもうれしかった。

つぎにアパートに移り住んだ。
そこでのトイレは、水洗だった。
それまでは、部屋の間借り。
ボットン便所だった。
トイレの水を流しながら、においのしないトイレに感動した。

幼稚園にしても、当時は約5%の子どもは、通っていなかった。
2年保育がやっと主流になりつつあった。
たいていは1年保育。

さらにクーラーがある。
数年前、あまりの暑さに耐えかねて、私の家にもクーラーをつけた。
しかし使ったのは、ほんの一か月足らず。
かえって体調を崩してしまった。

が、今ではそういう(貧しさ)そのものが、どこかへ行ってしまった。
今の若い夫婦は、この日本は昔から豊かで、そしてこの豊かさは、いつまでも
つづくものと思い込んでいる。
しかしそれはどうか?

私たちは(坂)を知っている。
貧しい時代からの豊かな時代への(坂)である。
その(坂)には、上り坂もあれば、下り坂もある。
だから下り坂があっても、私は驚かない。
またその覚悟は、いつもできている。
「できている」というよりは、豊かな生活を見ながら、その向こうにいつも、あの
貧しい時代を見ている。

が、今度の大不況で、その土台が、ひっくり返った。
崩れた。
これから先のことはわからないが、へたをすれば、10年単位の、長い下り坂が
つづくかもしれない。
が、私が心配するのは、そのことではない。
こういう長い下り坂に、今の若い夫婦が、耐えられるかどうかということ。
何しろ、(あるのが当たり前)という生活をしている。
もしだれかが、「明日から、ボットン便所の部屋に移ってください」と言ったら、
今の若い夫婦は、それに耐えられえるだろうか。
「大型の車はあきらめて、中古の軽にしてください」でもよい。
「幼稚園は、1年保育にしてください」でもよい。

悶々とした閉塞感。
悶々とした不満感。
悶々とした貧困感。

これからの若い夫婦は、それにじっと耐えなければならない。

……と書くと、こう反論する人がいるかもしれない。
「それがわかっていたなら、どうしてもっと早く、言ってくれなかったのか」と。

実は、私たちの世代は、常に、若い夫婦に対して、そう警告してきた。
聞く耳をもたなかったのは、若い夫婦、あなたがた自身である。
スキーへ行くときも、そこから帰ってくるときも、道具は宅配便で運んでいた。
それに対して、「ぜいたくなことをするな」と言っても、あなたがたは、こう言った。
「今では、みな、そうしている」と。

スキーを楽しむということ自体、私たちの世代には、夢のような話だった。
しかしそれが、原点。
もっとわかりやすく言えば、生活の基盤。
今の若い夫婦は、スキーができるという喜びすら、知らない。
さらに言えば、私たちの世代は、稼いだお金にしても、そのうちの何割かは、
実家に仕送りをしていた。
私のばあいは、50%も、仕送りをしていた。

が、今、そんなことをしている若い夫婦が、どこにいる?
むしろ生活費を、実家に援助してもらっている(?)。

この愚かさにまず気がつくこと。
それがこれからの時代を生きる知恵ということになる。

『豊かな時代には、貧しく生きる』。
これが人生の大鉄則である。
同時に、こうも言える。
『貧しい時代には、豊かに生きる』。

「豊か」といっても、お金を使えということではない。
「心の豊かさ」をいう。
その方法が、ないわけではない。
この大不況を逆に利用して、つまり自分自身を見直す好機と考える。
その心の豊かさを、もう一度、考え直してみる。

偉そうなことを書いたので、不愉快に思っている人もいるかもしれない。
しかし私は、心底、そう思う。
そう思うから、このエッセーを書いた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
豊かな時代 貧しい時代 豊かさの中の貧しさ 貧しさの中の豊かさ)

Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●貧しさの中の豊かさ

++++++++++++++++++

貧しいのに、損をしたことがないという人がいる。
損をすることに、たいへん警戒心が強い。
それこそビタ一文、他人のためには、出さない。
いや、出すこともあるが、いつも計算づく。
他人の目を意識したもの。
しかし小銭は出しても、いつもそこまで。
ケチはケチだが、自分ではケチとは思っていない。
「私は金がない」「私は賢い節約家」を口癖にする。

このタイプの人は、住む世界も小さいが、
それ以上に、心も狭い。
会って話をしていても、息苦しさを感ずるほど。

++++++++++++++++++

フロイト学説によれば、2〜4歳の肛門期に何か問題があると、ためこみ屋、
守銭奴、さらにはここでいうケチになりやすいという。
生活態度が防衛的で、その分だけ、自分の小さな世界に閉じこもりやすい。

一方、人は、損をし、その損を乗り越えることで、自分の住む世界を大きく
することができる。
損をする……というよりは、損得を考えないで行動する。
できれば無私無欲で行動する。

そのもっともよい例が、ボランティア活動ということになる。
ためしにあなたの近くで、ボランティア活動を進んでしている人がいたら、
その人と話してみるとよい。
そうでない人には感じない、心の広さを感ずるはず。

たとえば私の近所に、MRさんという女性がいる。
年齢は50歳くらい。
折につけ、ボランティア活動ばかりしている。
そのMRさんの家へ行くと、いつもスイスから来た夫婦がきている。
親類ではない。
親類ではないが、MRさんは、その夫婦の子ども(幼児2人)のめんどうをみている。
無料というより、その夫婦の親になりきって、めんどうをみている。
ことの発端は、スイスから来た夫婦の妻が、病気になったことだそうだ。
それが縁でたがいに行ったり、来たりするようになった。
今ではスイスから来た夫婦が、MRさんの家に住みついたような形になっている。

ほかに自宅を外国人に開放し、個展を開いてやったりしたこともある。

ほかに休みになると、外国まで行って、着物の着付けのしかたを指導している。
ときにそれが数か月から半年単位になることもあるそうだ。
しばらく見かけないと思っていたら、「カナダに4か月、行ってきました」と。
平気な顔をして、そう言う。

そういう女性は、輝いている。
体の奥から、輝いている。

が、そうでない人も、多い。
こうして書くのもつらいほど、住んでいる世界が小さく、超の上に「超」がつくケチ。
息がつまるほど、ケチ。

ケチといっても、何もお金の問題だけではない。
自分の時間や、体力を使うことにも、ケチ。
損になることは、何もしない。
まったく、しない。

が、そういう人ほど、外の世界では、妙に寛大ぶったりする。
反動形成というのである。
自分の心を見透かされないように、その反動として、反対の自分を演じてみせる。
が、もともと底が浅い。
浅いから、どこか軽薄な印象を与える。
一本の筋のとおった、哲学を感じない。

では、どうするか?

いつか私は、『損の哲学』について書いた。
損をするのは、たとえば金銭的な損であればなおさらそうだが、だれだって、避けたい。
そう願っている。
しかし損に損を重ねていると、やがてやけっぱちになってくる。
で、ここが重要だが、やけっぱちになったとき、それに押しつぶされるか、
それを乗り越えるかで、その人の人生観は、そのあと大きく変わってくる。

押しつぶされてしまえば、それだけの人。
しかし乗り越えれば、さらに大きな人になる。
そういう意味で、私は若いころ、Tという人物と知り合いになれたのを、
たいへん光栄に思っている。

いつかTについて詳しく書くこともあると思うが、ともかくも、あの人は、
損に損を重ねて、あそこまでの大人物になった。
何かあるたびに、「まあ、いいじゃねエか」と、ガラガラと笑っていた。

言い忘れたが、Tというのは、「xxx」と読む。
若い人たちは知らないかもしれない。
当時、日本を代表する大作家であった。
何度か原稿を書くのを横で見ていたが、一字一句、まるで活字のようなきれいな
文字を書いていた。

……というわけで、損をすることを恐れてはいけない。
大切なことは、その損を乗り越えること。
金銭的な損であれば、それをバネにして、さらに儲ければよい。
時間的な損であれば、その分だけ、睡眠時間を削ればよい。
体力については、それを使って損をするということは、ありえない。
ゴルフ場でコースを回る体力があったら、近所の雑草を刈ればよい。

こうして損を乗り越えていく。
が、それができない人は、自分の住む世界を、小さくしていくしかない。
つまらない、どこまでもつまらない人間になっていくしかない。

50代、60代になってくると、そのちがいが、よくわかるようになる。
その人の(差)となって、表に出てくるようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
損の美学 損論 損得論 ケチ けち ケチ論 フロイト 肛門期)
(09年2月記)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの人格の完成度

++++++++++++++++++

子どものばあい、その年齢に比して、
幼児ぽい(幼稚ぽい)というのは、
好ましいことではない。

やってよいことと、やっていけないことの
区別ができない。
突然、突飛もない行動をしたりする。

子どもの人格の完成度は、子どもの
様子を、ほかの子どもと比較して判断する。

+++++++++++++++++++

●前頭連合野

 「理性の府」と呼ばれるのが、前頭連合野。
この前頭連合野が何らかの形で損傷を受けると、善悪の判断が適切に
できなくなる。
欲望の命ずるまま、勝手な行動を繰り返すこともある。

 晩年の兄が、そうだった。
玄関先で小便をしたり、自動車のナンバーに、マジックインクで、いたずら書きを
したりした。
ゴミを捨てに行くときも、そのゴミを、近所の家の間にはさんで帰ってきたことも
ある。
 兄は、若いころから母の過干渉により、自分で考えるということができなかった。
それが晩年、ひどくなった。
軽い認知症が加わり、さらにひどくなった。

 子どものばあいでも、異常な過関心が日常化すると、似たような症状を示す。
「自分で考える」という習慣そのものが、育たない。
「自分で行動する」ということはできるが、その「行動」に対して責任を取らない。
「責任を取る」という意味すら、理解できない。
 
 強く叱ると、そのときだけは、(さも、叱られています)という姿勢(ジェスチャ)
をして見せる。
しかしジェスチャだけ。
その実、何も反省していない。

●ある母親

 その母親(当時35歳くらい)は、たいへん口うるさい人だった。
いつも子どもたち(息子と娘)を相手に、ガミガミと怒鳴ってばかりいた。
そのため子どもたちは、一見、従順な子どもになった。
が、自分で考えて、責任を取るということが、できなかった。

 その母親自身も、子どものころ、今で言うAD・HD児ではなかったかと思う。
異常な多弁性が、特徴的だった。
電話で話しても、いつも一方的にまくしたてるだけ。
相手の話を聞かない。
聞かないというより、相手に話させるようなスキ(?)をつくらない。
話の内容も、ポンポンと飛ぶ。

 ある日のことだった。
何かの会合に、その母親が娘を連れてきた。
娘は当時、10歳くらいではなかったか。
その娘にこう言っていた。

 「お茶を出すときは、絵柄を相手に向けて出すのよ、わかった?」と。
そしてお茶の出し方を、みなの前で、こまごまと指導していた。

 一方、私は、そのときまで、そういったことに注意を払ったことは、一度も
なかった。
そういう作法があることさえ、知らなかった。
しかしその母親の頭の中には、そういった情報が、ぎっしりと詰まっていたらしい。
ことあるごとに、こまごまとしたことを、娘に指示していた。

 私はそれを聞きながら、「こういう母親では、子どもたちも息が詰まるだろうな」と
思った。

●常識ハズレ

 結果としてそうなったのだろうが、息子も娘も、中学生のころには、いろいろな
事件を引き起こすようになった。
とくに息子のほうは、その町内でも有名なほど、「グレた」(同じ町内に住む友人の話)。
娘のほうも、同じような経過をたどった。

 が、息子も娘も、見た感じでは、ごくふつうの子どもといった感じだった。
おとなたちの前では、おとなしく、無口だった。
親の言うことには、従順に従っていた。

 が、常識ハズレはつづいた。

 これは人伝えに聞いた話だが、結婚式の当日、息子は、暴走族仲間を連れてきた
という。
予定外のハプニングに、母親は、(もちろん父親も)、あわてた。
しかしそれも後の祭り。
盛大な結婚式を用意しただけに、親たちは、かえって恥をかかされるところとなった。

●子育て自由論

 「自由」とは、もともとは、「自らに由(よ)る」という意味。
自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取る。
この3つを重ねて、「自由」という。

 そのためには、子どもには、まず自分で考えさせる。
行動させる。
そして自分で責任を取らせる。

 これは乳幼児期からの、子育ての基本ということになる。
そのためには、いくつかの前提がある。

(1)子どもをひとりの人間と認める。
(2)親意識(とくに悪玉親意識)を捨てる。
(3)友として、子どもの横に立つ。

 ここでいう「悪玉親意識」というのは、親風を吹かすことをいう。
 頭ごなしに、ガミガミ言うのは、禁物。
それが日常化すると、子どもは自分で考えることができなくなってしまう。
親の言うことには従順に従っても、母親がいないところでは、何もできなく
なってしまう。

 あとは、(ますますガミガミ言う)→(ますます常識はずれになる)の悪循環。
それを繰り返す。

●早期診断

 こうした悪循環は、早期発見、早期解決が何よりも、大切。
私の経験では、子どもが3〜4歳児になるころには、たいてい手遅れ。
というのも、子育ては(リズム)。
そのリズムは、ひょっとしたら、子どもを妊娠したときから始まっている。
そのリズムを直すのは、容易なことではない。

 基本的には、心配先行型の育児姿勢がその背景にあるとみる。
(異常な溺愛、あるいはその背景に、親自身の情緒的な欠陥が、子どもの精神的な
発育をはばむこともある。)
さらに言えば、親自身に、ちゃんとした(親像)がしみこんでいない。
親自身が、不幸にして不幸な家庭で、育っている。
根は深い。

 が、気がつけば、よい。
こうした問題は、気がつけばよい。
気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
5年とか、10年とかはかかるが、時間が解決してくれる。
まずいのは、そういう(過去)があることに気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
過去に振り回されること。
 
 その診断の目安のひとつが、「人格の完成度」ということになる。
満5〜6歳になると、子どもの核(コア・アイデンテティ)が、見えてくる。
「この子は、こういう子」という、つかみどころをいう。
そのとき、「うちの子は、どこかおとなっぽい」と言うのであれば、よし。
しかし反対に、「うちの子は、どこか幼稚ぽい」と感じたとしたら、人格の核形成
が遅れているとみてよい。
幼稚園や保育園の中での言動を、ほかの子どもと比較すれば、それがわかる。

●子どもらしさと幼稚性

 誤解がないように書いておく。

 子どもが子どもらしい心をもっているということと、幼児性(幼稚性)が残って
いるというのは、別問題である。
子どもらしい、素直さ、明るさ、無邪気さをもっているというのは、むしろ好ましい。
一方、ここでいう幼児性(幼稚性)は、退行的な症状をいう。

 騒いでいけないような場所で、騒いでみせたり、平気で人が困るようなことを
したりする。
言ってはいけないような冗談を口にしたり、悪いことでも平気でする、など。
その場の雰囲気を、適切に判断できない。
赤ちゃん返りのような、甘ったれた、ネチネチしたものの言い方をするときもある。

 が、何よりも目立つのは、常識はずれな行為。
色水をバケツの中で溶かし、それを幼稚園のベランダから、下の子どもにかけていた
子ども(年長・男児)がいた。
コンセントに粘土をつめて遊んでいた子ども(年長・男児)もいた。
小学3年生の子ども(男児)だが、虫の死骸をマッチ箱に詰めて、それを誕生日
プレゼントにした子どももいた。
そういうのを幼児性(幼稚性)という。

●では、どうするか?

 自分で考える子どもにするには、読書が効果的である。
反対に、読書が好きな子どもは、例外なく、様子がおとなっぽい。
人格の完成度が高い。

 親自身についても、そうだ。

 先にあげた母親のばあい、識字能力に問題があり、本や雑誌をまったくといってよい
ほど、読まなかった。
ある日何かの書類を手渡したことがあるが、その母親は、それを見せるやいなや、
片手で、それを払いのけてしまった。
「私には、こんなもの、読めません!」と。
文字に対する拒否反応すら示していた。

 つまりこの問題は、子どもの問題というよりは、母親の問題。
家族の問題ということになる。
子どもは、その家族の「代表」に過ぎない。

 母親は今でもガミガミと子どもたちを叱りつづけている。
叱られるべきは、母親自身ということになる。
が、悲しいことに、自分を客観的に判断する能力すら、もっていない。

●ものを書く

 あとは、ものを書くという習慣を勧める。
ものを書くことによって、人は考える。
その(考える)という習慣が、長い時間をかけて、その人の人格を完成させる。

 日記でもエッセーでも、何でもよい。
ひとつのことがらが気になったら、それについて、自分の意見を書き添える。
それだけのことで、考えるという習慣を身につけることができる。

 それを5年とか、10年単位でつづける。
その結果として、人は、「自ら考える人」になることができる。
繰り返すが、子どもの人格の完成度は、あくまでも、その結果として決まる。

+++++++++++++++

過去に書いた原稿の中から、
いくつかを紹介します。
以下2作は、03年(6年前)に
書いた原稿です。
内容的に多少、荒っぽいところも
ありますが、基本的な考え方は、
今も変わっていません。

+++++++++++++++

●欲望vsコントロール

 こんな男性(45歳)がいた。子どものころから親の異常なまでの過干渉で、性格が萎
縮していた。そのため、どこかふつうではなかった。

 その男性の特徴は、自分の欲望をコントロールできなかったこと。正月用に買い置きし
ておいた料理でも、食べてしまったり、生活費でも、パチンコ代に使ってしまったりした。
そこで70歳近い母親が、それを叱ると、「ちょっと食べてみたかっただけ」「ちょっと遊
んでみたかっただけ」と、弁解したという。

 この話を聞いたとき、私は、子どもにも、似たような子どもがいることを知った。その
年齢であるにもかかわらず、とんでもないことをする子どもは、多い。先生のコップに殺
虫剤を入れた子ども(中学男子)や、無免許で、母親の車を乗りまわした子ども(高校男
子)などがいた。そしてつぎのような結論を得た。

 「おとなになるということは、自分の欲望をコントロールすること」と。

 してよいことと、悪いことを冷静に判断して、その判断にしたがって行動することがで
きる人を、おとなという。またそれができない人を、子どもという、と。そしてこの部分
に焦点をあてて子どもを観察すると、人格の完成度がわかる、と。

 たとえば先日も、やや太った女の子に向かって、「お前、デブだな」と言っていた男の子
(小2)がいた。すかさず私はその男の子をたしなめたが、その子どものばあい、言って
よいことと悪いことの判断が、つかない。

 小学2年生ともなれば、もうそのあたりの判断力があっても、おかしくない。が、それ
がないということは、人格の完成度が遅れているということになる。

 こうした完成度は、年齢とは関係ないようだ。60歳とか70歳とかになっても、遅れ
ている人は、遅れている。つい先日も、こんな事件があった。

 ある知人(64歳)から電話がかかってきて、こう言った。

 「うちの家内が言うには、林君から、おかしな電話がかかってきたというが、何の用だ
った?」と。

 いろいろな事情があって、私はその電話のとき、彼の奥さんに、遠まわしな言い方をし
た。それは事実だが、その電話を、「おかしな電話」と。たとえそうであっても、そういう
ことは、スケズケとは言わない。「おかしな電話とは何だ!」と、思わず言いそうになった
が、やめた。そういう人は、相手にしないほうがよい。

 もっとも、人間は、45歳前後を境にして、脳の活動も、そしてそれを支える気力も、
急速に衰えてくる。それまでは、何かと人格者ぶっていた人も、それがメッキであったり
すると、はげ始める。そこに、老人特有のボケが加わると、さらに、はげ始める。

 ここでこわいのは、このとき、その人の人格の「核(コア)」が、モロに外に出てきてし
まうこと。つまり、「地(じ)が出る」。

 考えてみれば、人格者ぶることは、簡単なこと。多少の演技力があれば、だれにだって
できる。さももの知りのような顔をして、だまっていればよい。しかし演技は演技。長つ
づきしない。人格の「核」というのは、そういうもの。一朝一夕にはできない。と、同時
に、実は、かなり早い時期にできる。

 青年期か? ノー。もっと早い。少年、少女期か? ノー。もっと早い。私の印象では、
その方向性は、年長児のころに決まるのではないかと思っている。この時期の子どもを、
少していねいに見れば、そののち、どんな人格者になるかどうか、だいたい、わかる。

 欲望の誘惑に強い子どもがいる。欲望の誘惑に弱い子どももいる。たとえば幼児でも、
ある一定のお金をもたせると、それをすぐ使ってしまう子どももいれば、そうでない子ど
ももいる。中には、「貯金して、お料理の道具を買う」と言う子どももいる。「その道具で、
お母さんに料理を作ってあげる」などと言う。

 こうした方向性は、すでに幼児期に、決まる。そしてそれが、ここでいう人格の「核」
となっていく。

 そこであなた自身の問題。あなたは、自分の欲望を、しっかりとコントロールできるだ
ろうか。もしそうなら、それでよし。しかしそうでないなら、あなたは、真剣に自分の老
後を心配したらよい。私も実は、中身はボロボロ。欲望には、弱い。誘惑にも、弱い。今
は、懸命にそういう自分と戦い、それを隠しているが、やがて外に出てくる。

 冒頭にあげた男性の話を聞いたとき、「私のことではないか」と、思った。さあ、どうし
よう?
(03年12月26日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「親である」という幻想

●親を美化する人

 だれしも、「親だから……」という幻想をもっている。あなたという「親」のことではな
い。あなたの「親」についてで、ある。

 あなたは自分の親について、どんなふうに考えているだろうか。「親は、すばらしい」「親
だから、すべてをわかっていてくれるはず」と。

 しかしそれが幻想であることは、やがてわかる。わかる人には、わかる。親といっても、
ただの「人」。ただの人であることが悪いというのではない。そういう前提で見ないと、結
局は、あなたも、またあなたの親も、苦しむことになる。

 反対に、親を必要以上に美化する人は、今でも、多い。マザーコンプレックス、ファー
ザーコンプレックスをもっている人ほど、そうだ。それこそ、森進一の『♪おふくろさん』
を聞きながら、毎晩のように涙を流したりする。

 つまりこのタイプの人は、自分のコンプレックスを隠すために、親を美化する。「私が親
を慕うのは、それだけ、私の親がすばらしいからだ」と。

●権威主義

 もともと日本人は、親意識が強い民族である。「親は絶対」という考え方をする。封建時
代からの家(先祖)意識や、それにまつわる権威主義が、それを支えてきた。たとえば江
戸時代には、親から縁を切られたら、そのまま無宿者となり、まともに生きていくことす
ら、できなかった。

 D氏(54歳)は、近所では、親思いの、孝行息子として知られている。結婚して、も
う30年近くになるが、今でも、給料は、全額、母親に渡している。妻もいて、長女もす
でに結婚したが、今でも、そうしている。はたから見れば、おかしな家族だが、D氏自身
は、そうは思っていない。「親を粗末にするヤツは、地獄へ落ちる」を口グセにしている。

 D氏の妻は、静かで、従順な人だった。しかしそれは、D氏を受け入れたからではない。
あきらめたからでもない。最近になって、妻は、こう言ってD氏に反発を強めている。「私
は結婚したときから、家政婦以下だった。私の人生は何だったの。私の人生を返して!」
と。

 自分自身が、マザーコンプレックスにせよ、ファーザーコンプレックスにせよ、コンプ
レックスをもつのは、その人の勝手。しかしそれを妻や子どもに、押しつけてはいけない。

 D氏について言えば、「親は絶対!」と思うのは、D氏の勝手。しかしだからといって、
自分の妻や子どもに向って、「自分を絶対と思え」「敬(うやま)え」と言うのは、まちが
っている。が、D氏には、それがわからない。

●親を見抜く

 まず、親を見抜く。一人の人間として、見る。しかしほとんどの人は、この段階で、「親
だから……」という幻想に、振りまわされる。とくにマザーコンプレックス、ファーザー
コンプレックスの強い人ほど、そうである。

 かりに疑問をもつことはあっても、それを自ら、否定してしまう。中には、他人が、自
分の親を批判することすら、許さない人がいる。

 U氏(57歳)がそうである。

 U氏の父親は、数年前に死んだが、その父親は、金の亡者のような人だった。人をだま
して、小銭を稼ぐようなことは朝飯前。その父親について、別の男性が、「あんたの親父(お
やじ)さんには、ずいぶんとひどい目にあいましたよ」と、こぼしたときのこと。U氏は、
猛然とその男性にかみついた。それだけではない。「あれは、全部、私がしたことだ。私の
責任だ。親父の悪口を言うヤツは、たとえ友人でも、許さん」と。そのとき、そう言いな
がら、その男性の胸を手でつかんだという。

 U氏のような人にしてみれば、そういうふうに、父親をかばうことが、生きる哲学のよ
うにもなっている。私にも、ある日、こう言ったことがある。

 「子どもというのは、親から言葉を習うものです。あなただって、親から言葉を習った
でしょう。その親を粗末にするということは、人間として、許されないことです」と。

 「親を見抜く」ということは、何も「粗末にする」ことではない。親を大切にしなくて
もよいということでもない。見抜くということは、一人の人間として、親を、客観的に見
ることをいう。つまりそうすることで、結局は、今度は、親である自分を知ることができ
る。あなたの子どもに対して、自分がどういう親であるかを、知ることができる。
 
●きびしい親の世界

親であることに、決して甘えてはいけない。つまり、親であることは、それ自体、きび
しいことである。

マザーコンプレックスや、ファーザーコンプレックスが悪いというのではない。えてし
て、そういうコンプレックスをもっている人は、その反作用として、自分の子どもに対
して、同じように考えることを求める。

 そのとき、あなたの子どもが、あなたと同じように、マザーコンプレックスや、ファー
ザーコンプレックスをもてば、よい。たがいにベタベタな関係になりながら、それなりに
うまくいく。

 しかしいつも、そう、うまくいくとは、かぎらない。親を絶対化するということは、同
時に親を権威化することを意味する。そして自分自身をまた、親として、権威づけする。「私
は、親だ。お前は、子どもだ」と。

 この権威が、親子関係を破壊する。見た目の関係はともかくも、たがいの心は、離れる。

●親は親で、前向きに

 親は親で、前向きに生きていく。親が子どものために犠牲になるのも、また子どもが親
のために犠牲になるのも、美徳でも何でもない。親は、子どもを育てる。そしていつか、
親は、子どもの世話になる。それは避けられない事実だが、そのときどきにおいて、それ
ぞれは、前向きに生きる。

 前向きに生きるというのは、たがいに、たがいを相手にせず、自分のすべきことをする
ことをいう。かつてあのバートランド・ラッセルは、こう言った。「親は、必要なことはす
る。しかしその限度をわきまえろ」と。

 つまり親は、子どもを育てながら、必要なことはする。しかしその限度を超えてはなら
ない、と。このことを、反対に言うと、「子どもは、子どもで、その限度の中で、懸命に生
きろ」ということになる。また、そうすることが、結局は、親の負担を軽減することにも
なる。

 今、親の呪縛に苦しんでいる子どもは、多い。あまりにも、多い。近くに住むBさん(4
3歳、女性)は、嫁の立場でありながら、夫の両親のめんどうから、義理の弟の子どもの
めんどうまで、押しつけられている。義理の弟夫婦は、今、離婚訴訟の最中にある。

 Bさんの話を聞いていると、夫も、そして夫の家族も、「嫁なら、そういうことをするの
は、当然」と考えているようなフシがある。Bさんは、こう言う。

 「(義理の)父は、長い間、肝臓をわずらい、週に2回は、病院通いをしています。その
送り迎えは、すべて、私の仕事です。(義理の)母も、このところ、さらにボケがひどくな
り、毎日、怒鳴ったり、怒ったりばかりしています。

 そこへ、(義理の)兄の子どもです。今、小学3年生ですが、多動性のある子どもで、1
時間もつきあっていると、こちらの頭がヘンになるほどです」と。

 こうしたベタベタの関係をつくりあげる背景に、つまりは、冒頭にあげた、「幻想」があ
る。家族は、その幻想で、Bさんを縛り、Bさんもまた、その幻想にしばられて苦しむ。
しかしこういう形が、本当に「家族」と言えるのだろうか。またあるべき「家族」の姿と
言えるのだろうか。

●日本の問題

 日本は、今、大きな過渡期を迎えつつある。旧来型の「家」意識から、個人型の「家族」
意識への変革期にあるとみてよい。家があっての家族ではなく、家族あっての家という考
え方に、変りつつある。

 しかし社会制度は、不備のまま。意識改革も遅れている。そのため、今、無数の家々で、
無数の問題も、起きている。悲鳴にも近い叫び声が聞こえている。

 では、私たちは、どうしたらよいのか。またどうあったらよいのか。

 私たちの親については、しかたないとしても、私たち自身が変ることによって、つぎの
子どもたちの世代から、この日本を変えていかねばならない。その第一歩として、私たち
がもっている幻想を捨てる。

 親子といえども、そこは純然たる人間関係。1対1の人間関係。1人の人間と、1人の
人間の関係で、成りたつ。「親だから……」と、親意識をふりかざすことも、「子どもだか
ら……」と、子どもをしばることも、これからは、やめにする。

 一方、「親だから……」「子どもだから……」と、子どもに甘えることも、心して、最小
限にする。ある母親は、息子から、土地の権利書をだましとり、それを転売してしまった。
息子がそのことで、母親を責めると、母親は、平然とこう言ったという。「親が、先祖を守
るため、息子の財産を使って、何が悪い!」と。

 こういうケースは、極端な例かもしれないが、「甘え」も、行き着くところまで行くと、
親でも、こういうものの考え方をするようになる。

 もちろん子どもは子どもで、その重圧感で悩む。その息子氏とは、この数年会っていな
いので、事情がわからないが、最後にその息子氏は、私にこう言った。「それでも親ですか
ら……」と。息子氏の苦悩は、想像以上に大きい。

 さてあなたは、その幻想をもっていないか。その幻想で苦しんでいないか。あるいは、
その幻想で、あなたの子どもを苦しめていないか。一度、あなたの心の中を、のぞいてみ
るとよい。
(03年12月27日記)

【追記】

 正月が近づくと、幼児でも、「お正月には、実家へ帰る」とか言う子どもがいる。しかし
「実家」とは何か? もし祖父母がいるところが、実家なら、両親のいるところは、「仮の
家」ということになる。

 家族に、実家も、仮の家もない。こうした、封建時代の遺物のような言い方は、もうや
めよう。

 農村地域へ行くと、「本家(屋)」「新家(屋)」という言い方も残っている。20年近く
も前のことだが、こんなことを言った母親がいた。「うちは、あのあたりでも、本家だから、
息子には、それなりの大学に入ってもらわねば、世間体が悪いのです」と。

 日本人の意識を「車」にたとえるなら、こうした部品の一つずつを変えていけないと、
車の質は変わらない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 親意識 親像 人格の完成度 子どもの完成度 幼稚返り 家意識 
家制度 はやし浩司 実家 実家意識 マザーコンプレックス マザコン ファザコン 
ファーザーコンプレックス)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【貧者の論理】

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近代経済学が、なぜ、世情に合わないか。
国際政治学でも、よい。
近代経済学は、世情を捉えるのに、ことごとく失敗している。
理屈どおりには、いかない。
理論どおりにも、進まない。
そこで経済学者たちは、頭を悩ます。
国際政治は混乱する。

それもそのはず。
経済学者たちには、(こういうふうに大上段に
構えて、ものを書くのも気が引けるが)、
貧者には貧者の論理というものがある。
貧者の論理は、理屈や理論どおりには、動かない。
そのことがまったく、わかっていない。

貧困が、嫉妬、ひがみ、ねたみ、うらみ、いじけを生む。
それらが複雑に屈折し、絶望、虚無主義につながる。
善悪の基準そのものも、ちがう。
リッチな世界では重犯罪でも、貧者の世界では
ただの(遊び)。
窃盗にしても、貧者の世界では、窃盗されるほうが、
悪いとなる。

この(ちがい)が、経済学者が考える経済理論を、
根底からくつがえす。
国際政治学にしても、そうだ。
きれいごとだけでは、国際政治は動かない。
つまり数字や理屈で考える常識では、理解不能。
いくら想像力を豊かにしても、貧者の論理は、その
向こうにある。

+++++++++++++++++++++

●観光事業

 たまたまこんな事例がある。

 韓国側の1民間企業が主体となって、K国への観光事業を始めた。
その1民間企業にとっては、メリットは大きい。
K国内での観光事業を、独占的に展開できる。
一方、K国側は、観光客の落とす現金で、潤う。

 が、その観光事業は、現在、中断している。
理由は、観光客の射殺事件。
K国側は、その事件について、正式に謝罪をしていない。
補償もしていない。
事件の調査すら、韓国側にさせていない。

 韓国政府が、観光事業を中断させるのは、当然である。

 が、これに対して、1民間企業である観光会社の社長が、K国まで行って、直談判。
社長と、K国の幹部とは、何やら深い関係にあるらしい。
これに対して、K国側は、「観光事業を再開してほしい」と。

 その返答を受けて、社長は意気揚々と韓国へ帰ってきた。
が、韓国政府の反応は、こうだ。
「国としての正式の回答ではないので、政府としては、何とも返事をしかねる」と。
これにK国が、反発した。

 そのときのニュースが、これ(時事通信11月25日)。

『朝鮮中央通信は25日、中断しているK国の金剛山と開城での観光事業について、韓国
の玄仁沢統一相を、名指しで批判する朝鮮アジア太平洋平和委員会報道官談話を伝えた。
談話は南北間の観光事業について、「南朝鮮(韓国)当局が、対決の目的に悪用し、阻もう
としている」と主張した』と。

 とくに「?」なのが、「韓国当局が、対決の目的に悪用し」という部分。

●貧者の論理

 どうして、悪用なのか?
この理解不能の部分に、実は、貧者の論理が働いている。
貧者は、「援助してもらうのが、当然」と考える。
援助してもらうことについて、感謝の念は、最初から、ない。
だからその援助が止められることを、「悪用」ととらえる。

 誤解がないように書いておくが、「観光事業」とはいうものの、その中身は、「援助」。
道路整備から観光バス、宿泊施設の建設まで、韓国側で提供している。
わずかな距離の観光だが、その費用は、10〜30万円。
韓国側の観光客は、法外な費用を払って観光する。
一方、K国側にとっては、そのまま貴重な外貨の収入源となる。
それを韓国側が、取りやめた。
それをK国は、「悪用」という。

●3年前の原稿より

 こうした貧者の論理を理解するためには、一度、あなた自身を貧者の立場に置いて
みる必要がある。
それについては、以前にも書いたので、そのまま紹介する。
日付は、06年の10月となっている。

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●K国の核実験宣言

++++++++++++++++

K国が、核実験をすると、
公式に発表した。

だれにも相手にされなくなると、
悪あがきしてみせる。

「ならず者」の典型的な
行動パターンである。

++++++++++++++++

 とうとうというか、ついに、K国が、核実験を公式に宣言した。「アメリカの反共和国(反
北朝鮮)孤立圧殺策動が限界点を越えた状況にあって、われわれはこれ以上、傍観してい
るわけにはいかない」(10月3日・K国外務省)というのが、その理由だそうだ。

 アメリカが悪い。だから核実験をするのだ、と。

 とんでもない意見に聞こえるかもしれないが、貧者には貧者の論理(※)というものが
ある。その日の食べ物に困っている人にしてみれば、腹いっぱい、おいしいものを食べて
いる人を見ただけで、腹がたつもの。それはわかる。しかしそれを考慮に入れても、K国
のこの言い分には、(?)マークが、何個も並ぶ。

 が、もし核実験をすれば、それで本当に、K国は、おしまい。おしまいの、おしまい。
あとは自己崩壊するしかない。つまりK国は、現在、そこまで追いつめられている。K国
というより、金xxによる独裁政権は、そこまで追いつめられている。

 日本としては、金xx独裁政権を、自己崩壊させるのが、もっとも好ましいシナリオと
いうことになる。拉致問題も、それで解決する。

 しかし、問題は、韓国。いまだに、「同胞、同胞」と、K国にすりよっている。どこか演
歌的? どこか浪曲的? あのN大統領は、「北朝鮮の核は一理がある」とさえ言ったこと
がある。最近にいたっては、「K国が核実験をしても、戦時作戦統制権の単独行使には影響
しない」とまで言い切っている。「K国が核事件をしても、アメリカ軍は、必要ない」と。

 天下のおバカ大統領である。K国が核兵器をもてば、韓国内の軍隊は、すべて「紙くず」
(朝鮮N報)と化す。にもかかわらず、そういうことが、まるでわかっていない。あるい
はそのうち、「K国をここまで追いこんだのは、アメリカだ。日本だ」と言い出すかもしれ
ない。

 何度も書くが、K国の金xxは、もう(まとも)ではない。はっきり言えば、狂ってい
る。そういう人間を相手に、まともな議論などしても意味はない。金xxの言動を、いち
いち分析しても意味はない。真意はどうの、目的はどうのと、論じても意味はない。

 私たち日本人は、そういう前提で、K国問題を考え、K国の核開発問題を考える。K国
が自己崩壊すれば、韓国や中国は困るかもしれない。が、今の段階では、そんなことは日
本の知ったことではない。そういうのを、私たちの世界では、「自業自得」という。

 それにしても、とうとうここまで来たか……というのが、今の私の実感である。
 
【貧者の論理】(※)

 若いころ、オーストラリアの大学で、ある教授が口にした言葉である。名前は忘れたが、
その教授は、『貧困による公害(Pollution by Poverty)』という言葉を使った。

 つまり貧者には貧者の論理というものがあり、その論理を忘れて貧者を語ることはでき
ないというものだった。

 たとえば1人の金持ちと、1人の貧者がいたとする。金持ちは、自分が豊かであること
を、見せつけるともなく、見せつける。そして貧者に向かって、こう言う。「君も、ぼくの
ようになりたかったら、努力しなさい」と。

 金持ちは、貧者に努力の大切さを教えたつもりかもしれないが、貧者は、そうはとらな
い。貧者は、やがてその金持ちを、ねたむようになる。そしてこう思うようになる。「お前
たちのような人間がいるから、オレたちは貧しいのだ」と。

 そのよい例が、現在のK国である。

 情報が遮断(しゃだん)されていることもあるが、K国の人たちは、だれも、自分たち
の指導者がまちがっているとは思っていない。とくに金xxを取りまく人たちは、そうで
ある。

 西側の豊かさを見聞きするたびに、それをうらやましいと思う前に、「西側が、オレたち
の発展をじゃまするから、オレたちは貧しいのだ」と考える。豊かな生活といっても、その実感
そのものがない。

 そのため貧者は、貧者であるがゆえに、屈折したものの考え方をする。そしてそのため、
貧者の世界では、勝者の論理は、ことごとく否定される。「核兵器を拡散させたら、世界は
たいへんなことになる」と説くのは、勝者の論理である。貧者は貧者で、別の論理で考え
る。そしてこう言う。

 「自分たちは核兵器をもっていて、何てことを言うのだ!」と。「第三世界」という言葉
も、そういう過程で生まれた。

 こうして勝者と貧者は、あらゆる場面で、ことごとく対立する。おおざっぱに言えば、
それがアメリカ流民主主義が、その世界でしか通用しないという理由でもある。さらにお
おざっぱに言えば、西側の経済論理が、その世界でしか通用しないという理由でもある。

 こうした貧者の論理にメスを入れ、それを解き明かそうとする努力も、いろいろな場面
でなされている。が、そのどれも結局は中途半端で終わってしまうのは、いつも勝者が勝
者の立場で、貧者を論ずるからである。
(06年10月4日記)

++++++++++++++++++++

07年にも、同じような原稿を書いていた。
こうして原稿を拾い出してみると、私は
ちょうど2年ごとに、同じことを考えて
いるのがわかる。
どうでもよいことだが・・・。

内容が一部、重複するが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●今日・あれこれ

+++++++++++++++

K国は、K国で開発したミサイルを、
イランで実験していたという。

そのイランは、ウランの濃縮を加速
させているという。

K国とイラン。水面下で、深く、結
びついている。

+++++++++++++++

●貧者の論理

 貧者には、貧者の論理というものがある。(私はよく知っているぞ!)

 たとえばあなたが日々に生活に困り、今日の食べ物すらままならない生活をしていたと
する。子どもは腹をすかせて、泣いている。午後には、借金取りがやってくる。

 そういうとき、あなたの隣人は高級車を乗り回し、豪勢な買い物をしている。見ると車
の後部座席には、夕食の食材が、どっさり!

 そういう隣人を見て、あなたはうらやましいと思うだろうか。その隣人を、すばらしい
人と思うだろうか。が、実際には、そうではない。

 ここで貧者の論理が働く。貧者は、こう考える。「お前たちが富を独り占めにするから、
オレたちは貧しいのだ」と。

 が、そういう声は隣人には届かない。その隣人は、あなたに向かってこう言う。「あなた
も一生懸命、働きなさい。働けば、いい生活ができます」と。

 しかしあなたはそれに反発する。反発するだけではない。怒りすら覚える。隣人のアド
バイスは、こう言っているように聞こえる。「あなたが貧しいのは、あなたがなまけている
からだ」と。

 そうではない! この日本では、ほんのわずかでも、チャンスをつかんだ人だけが成功
する。そうでない人は、そうでない。それは個人の力というよりも、(流れ)の中で決まる。
あせればあせるほど、深みにはまり、ますます身動きが取れなくなってしまう。そういう
人は多い。

●富者の論理

 K国を理解するときは、この貧者の論理を念頭に置かねばならない。食糧はない。原油
もない。いろいろ経済政策を試みてはみるが、どれも、うまくいかない。失敗の連続。

 つまり相手の立場で、ものを見る。K国から見たら、この日本はどう見えるかというこ
と。このことは、日本に住んでいる、在日K国人と言われている人たちを見ればわかる。

 彼らは日本に住み、日本のことをたいへんよく知っている。同時に、K国のことも、た
いへんよく知っている。本来なら……というより、常識的に考えれば、K国の政治体制が
おかしいと、だれしも思うはず。しかし彼らは、そうは思っていない。日本の繁栄ぶりを
見ながらも、こう思っている。「この日本が繁栄しているのは、私たちが犠牲になったから
だ」「今も犠牲になっているからだ」と。

 貧者の論理がまちがっているというのではない。しかし富者の論理だけでものを考える
と、失敗する。そのよい例が、経済学である。

 ほとんどの近代経済学は、その富者の論理だけで成り立っている。国際政治にしても、
そうだ。大きく見れば、アメリカのイラク政策、イラン政策、さらにはK国政策も、アメ
リカという富者の論理ばかりが先行している。だからいつも限界にぶつかる。あるところ
までは正当性をもつが、それを乗り越えることができない。いつもそこで第三世界の反撃
をくらう。

●加工される貧者の論理

 だからといって、K国の核開発やミサイル開発を容認せよというわけではない。こうし
た貧者の論理を当てはめても、とうてい理解できないほど、K国の論理は、常軌を逸して
いる。むしろ貧者の論理を、逆手(さかて)に取って、自分たちを正当化している。

 そこで今度は、イランでのミサイル発射実験である。K国は、自国で開発した長距離ミ
サイルを、イランで実験していたという(5月16日)。

 日本にとっては、とんでもないニュースである。が、ここでもやはり貧者の論理が働く。
この日本でも、かつてこう言ったニュースキャスターがいた。当時は夜のニュース番組を
代表するキャスターだった。

 K国の核開発問題に触れながら、こう言った。「何、言っているんですか。アメリカだっ
て、核兵器をもっているではありませんか!」と。どこか吐き捨てるような言い方だった。
つまり、「核兵器を思う存分もっているアメリカが、K国の核兵器開発を問題にするのはお
かしい」と。

 しかし忘れてならないのは、K国の核兵器開発は、「日本向け」のもの。かねてから、K
国の政府高官たちは、そう繰り返し述べている。「韓国向け」ではない。もちろん「中国向
け」でもない。「アメリカ向け」という説もあるが、アメリカに対しては、「脅し」にすぎ
ない。

 私はこの発言にあきれて、即座にテレビ局に抗議の電話を入れた。あのA新聞社の系列
のA放送である。「拉致問題は、日本政府のデッチあげ」と主張してやまなかった、あのA
新聞社である。

 貧者の論理は貧者の論理でも、富者によって加工された貧者の論理である。

●経済制裁

 そういうK国に対して、経済制裁は、当然のことである。もっとわかりやすく言えば、
私たちは、目下、戦争状態にある。かつて「戦争は政治の延長である」と言った政治家が
いたが、戦争といっても、ある日、突然、始まるものではない。それまでの(くすぶり)
があって、ある日、ボッと火が燃えあがる。

 わかりやすく言えば、すでに戦争は始まっているということ。私たちがなすべきことは、
K国というよりも、K国の体制を崩壊させること。独裁政権であるがゆえに、ほかに方法
はない。

 が、この経済制裁を、つぎつぎと骨抜きにしているのが、ほかならぬK国の隣国の韓国
である。それについてはすでにたびたび書いてきたので、ここでは省略するが、今度は、
米中韓Kの、4か国首脳会議を画策している。南北首脳会談も画策している。もっとも4
か国首脳会議については、アメリカが異議を唱えたため、韓国政府は、「6か国協議の枠内
での4か国首脳会議」(5月16日)と、言いなおしている。

 どうであるにせよ、現在の韓国は、イコール、K国と考えてよい。つまりこの日本は、
韓国とも、すでに戦争状態にあるとみるべきである。

●東京に核兵器が!

 いろいろな意見がある。「原爆の1発や2発、(東京に落ちても)、どうということはない」
という意見もある。どこかの科学者が、ある雑誌で、堂々とそういう意見を披露していた
(雑誌「S」)。

 あるいは「K国には、核開発をする能力はない」と主張している学者も多い。

 しかしそのK国が、どうやら水面下で、イランと結びついているのがわかってきた。K
国はミサイル技術を提供し、イランは、核開発技術を提供する。……となると、今までの
図式が総崩れとなる。「K国、一国だけなら……」と考えていた人も多いかと思うが、それ
がグローバルな問題へと、ここで一気に拡大する。

 中東問題もからんでくる。米中、米ロ問題もからんでくる。もしそうなれば、(現実にそ
うなりつつあるが……)、それこそまさにK国の思うツボ。国際社会の混乱を引き寄せなが
ら、つぎに一気に、日本をおどしにかかってくるはず。

 そのとき、アメリカとの間に、相互不可侵条約のようなものであれば、仮にK国が日本
を攻撃しても、アメリカはK国に対して、手も足も出せない。日本は日本で、憲法9条に
制約されて、防衛に徹するしかない。

 たとえば仮に今、東京でK国の核兵器が爆発しても、日本は、それに対してK国に反撃
することもできない。もちろん今は、日本は、アメリカの核の傘のもとにあるから、一応、
アメリカがK国に反撃してくれることになっている。

 しかしそのアメリカにしても、自国を犠牲にしてまでも、日本を守ってくれるだろうか。
そんな疑問もないわけではない。

●ではどうするか?

 日本にとっての最良のシナリオは、K国が自己崩壊すること。これはK国の人たちのた
めでもある。あのFさん(韓国へ亡命したK国の元政府高官)や、韓国に脱北した人たち
も、みな、そう言っている。

 が、これに猛烈に反対しているのが、韓国政府であり、中国政府ということになる。と
くに韓国のN大統領の論理は、貧者の論理の上に成り立っている。

 「朝鮮半島が南北に分断されたのは、アメリカのせい」「しかも、こうした悲劇の基礎を
作ったのは日本」と。

 それが反米、反日運動の原点にもなっている。加えて、(1)「日本ごときに韓国が蹂躙
(じゅうりん)された」という憎しみ、(2)独立を自分たちの力でなしえなかったという
不完全燃焼感(以上、M氏談)もある。

 以上を考えていくと、私たち日本人がなすべきことは、ただひとつ。現在の日韓経済戦
争に勝利することである。わかりやすく言えば、韓国経済をたたきつぶす。

 ……こう書くと、かなり過激な意見に聞こえるかもしれないが、日本はそうでなくても、
向こう(=韓国)は、その気で、日本の常に挑戦をいどんできている。それがわからなけ
れば、韓国の中央N報、朝鮮N報、東亜N報の各紙を、ほんの少しでもよいから目を通し
てみることだ。

 「日本に勝った」「日本に負けた」の記事が、連日のように、トップ記事として並んでい
る。

 ……何はともあれ、東京とのど真ん中で、たった1発でも、核兵器が爆発してからでは、
遅いのである。それだけは忘れてはならない。
(07年5月17日記)

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●母のこと

 「貧者の論理」というと、特別の人だけがもつ論理に考えるかもしれない。
しかし実際には、そうでない。
私だって、あなただって、その立場になれば、もつ。
私の母だって、そうだ。……そうだった。

 私は結婚する前から、実家に住む母に、収入の約半分を仕送りしてきた。
今のワイフと結婚するときも、それを条件として、ワイフと結婚した。
だからワイフは、以後、20年以上、何ひとつ不平や不満を言わず、それをつづけてくれ
た。

 が、一度(保護)(依存)の関係ができると、それを断ち切るのは容易なことではない。
最初は感謝されるが、1〜2年もすると、それが当たり前になり、さらに1〜2年もする
と、今度は相手側から請求されるようになる。

 仕送りの額を減らしたり、遅らせたりすると、かえって相手の反感を買ってしまう。
私の母のばあいは、泣き落とし戦術というか、そのつど、メソメソと泣き言を言ってきた。
兄もそうだった。
何かほしいものがあると、「〜〜がないで困る」「〜〜が壊れた」と電話をかけてきた。
こうして冷蔵庫、ステレオ、テレビなどなど。
コンロまで、別枠で、私が買って与えるようになってしまった。

 そんなある日、私は私の山荘へ母と兄を招待した。
山荘といっても、小さな山を買い、6年かかって、造成した土地である。
毎週土日に、ワイフと2人で、工事をした。
家だけは、地元の建築会社に建ててもらった。

 その山荘を見て、母は、こう言った。
「どうせ建てるなら、M町(実家のある町)に建ててくれればよかった」
「そうすれば、私が使えた」と。

 私の夢がかなったことを、母は喜んでくれるものとばかり思っていた。
が、母には、母の論理があった。
「親孝行をするのが、先。息子であるお前が、親よりいい生活をするのは許せない」と。
そうは言わなかったが、私には、そう聞こえた。

 だからといって、母を責めているのではない。
母は母で、貧者の論理で、ものを考えていた。

●机上の空論

 貧者の論理は、人間が原罪的にもつ(欲望)と深くからんでいる。
そのためにひとたび扱い方をまちがえると、その論理に毒されてしまう。
正常な判断力、思考力すら、見失ってしまう。

 これは人間性の問題というよりは、油断の問題と考えてよい。
つまり人は、いつもどこかで、(保護)(依存)の関係を保ちながら、他の人と交わってい
る。
それが複雑にからみあっている。
保護している人も、べつの場面では、だれかに依存している。
依存している人も、べつの場面では、だれかを保護している。

 が、ひとたびどこかで油断すると、そうした関係が、貧者の論理に毒されるようになる。
嫉妬、ひがみ、ねたみ、うらみ、いじけが、その人の心をゆがめる。
心そのものがゆがむため、自分でそれに気づくことは、まずない。
その一例が、現在のK国ということになる。

 韓国側が、観光事業を止めたことを、「被害」と、受け止める。
そして観光事業を再開しないことを、「悪用」と、とらえる。
韓国政府は先に、トウモロコシ1万トンの援助を申し出た。
それについても、「少なすぎる?」という理由で、K国側は、受け取りすら拒否している。

 私たち日本人からすると、「どこまでいじけるか?」ということになる。
しかし彼らは、けっして自分たちが、いじけているとは思っていない。
それが正当な行為と信じ切っている。
貧者の論理に毒されると、そういうものの考え方をするようになる。

 で、冒頭の話になる。

 経済学にもいろいろある。
そのつどいろいろな学者が自説を披露する。
しかしこと経済については、(国際外交もそうだが)、理論どおりには機能しない。
「援助してやったから、貧しい国の人たちは、感謝しているはず」
「〜〜億ドル、渡したから、これで国の再建はできるはず」と。
しかしこうした論理は、貧しい国の人たちには、通用しない。
彼らには、彼らを支える論理がある。
それが、「貧者の論理」ということになる。
言い換えると、貧者の論理にメスを入れないかぎり、経済学も、国際政治学も、いつまで
たっても机上の空論で終わってしまう。

 私は、それを書きたかった。

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いじけ 恨み)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov.09+++++++++はやし浩司

●36億円!

++++++++++++++++++

もちろん私の中にも、貧者の論理が
巣くっている。
「36億円」という数字をみたとき、
それを感じた。

++++++++++++++++++

●ケタはずれ

 あまりにもケタはずれなので、驚いた。
鳩山首相の資金管理団体「友愛政経懇話会」をめぐる、政治資金収支報告書の
虚偽記載問題に関して、驚くなかれ、鳩山首相の実母が、自己名義の口座から、
何と計約36億円を引き出し、現金化していたという。

36億円だぞ。

 新聞などの報道によれば、「現金化された資金の一部が、首相の政治資金に
充てられた可能性もあるとみて、東京地検特捜部が、慎重に調べている」(C新聞)
とのこと。

 今のところ、「首相への貸付金なら、法的な問題は生じない」とし、「悪質ではない」
という理由で、直接の担当者については、在宅起訴程度ですませる予定という。

●悪意性はない?

 親子の間だから、多少の金銭の動きはあるだろう。
政治活動ともなれば、なおさら。
しかしその額が、問題。
約36億円!
つい先日、民主党のOZ党首の、3億円の献金が問題になった。
そのあと、自民党のAS前首相の、2億5000万円の機密費が問題になった。
しかし36億円というのは、1桁、桁がちがう。

 その36億円について、「貸付金なら問題はない」「悪質性はない」とは!
いくらそうであっても、貧者は、それでは納得しない。

●消えた36億円

 それにしても興味深いのは、つぎの2点。

(1)36億円という巨額の資金は、どこへ消えたのか。
(2)貸付金とはいうものの、そんな借金を、この先、どうやって返済するのか。

 この先、その中身は特捜部の捜査によって、少しずつ明らかになるだろう。
しかしいろいろな見方ができる。

 ひとつは、母親から鳩山総理大臣に対する、生前贈与。
毎月、小口に分けて送金したということから、それが疑われる。
だから鳩山総理大臣は、政治資金に使ったというよりは、自分の(財産)として、
それをプールした可能性も、なくはない。

 仮に政治資金として使われたとするなら、それによって利益を受けた人もいるはず。
どこに、どのように使われたのか。
考えれば考えるほど、疑惑がわいてくる。

●貧者のひがみ

 週に1回、温泉街にある温泉に行く。
1回の入浴料金は、1000円。
ゆかたを借りると、プラス300円。
たいてい帰りには、回転寿司の店に寄って、一皿100円の寿司を食べる。
あるいは全国チェーンのラーメン店に寄る。
計、2000円。
夫婦で遊んでも、4000円。

 計算するのもバカ臭いから、数字を並べてみる。

温泉+回転寿司            4000円
鳩山首相のポケットマネー 3600000000円

 「0」の数だけ並べ比べても、それがわかるはず。

 それでも、まあ、自分としては、リッチなほうっだと思っている。
好きなことを、予算を考えないでできる。
(たいした予算ではないが……。)

 しかしそれでも、36億円という金額は、想像できない。
しかも新聞報道によれば、毎月5000万円。
それを6年間!

●論理という非論理

 いつの間にか、この日本は、こんなバカげた国になってしまった。
こういう話を耳にするたびに、(まじめ)さが、この国から色あせていく。
つまり自分のしていることが、バカ臭くなっていく。

 もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 あなたには3人の子どもがいる。
みんな、腹をすかせている。
電気代もガス代も、節約しなければ、生活できない。
そんな中、隣の家を見ると、煌々と明かりがついている。
垣間見る台所には、食べ物が山のようになっている。

 そんなとき、だれかがあなたにこう言ったとする。

「この世は、より働くものが、よりよい生活ができる。
そうでないものは、そうでない」と。

 あなたはその論理に、素直に納得するだろうか。

●毎月5000万円、6年間!

 そういう人が、日本の総理大臣をしている!
私はこの事実が、許せない。
たとえばあのK国では、首都のP市に住む人だけが、それなりによい生活が
できるという。
P市に住めるというだけで、特権階級。
一方、地方では、09年の秋になってから、餓死者が出始めているという。

 そういう話を聞くと、私たちは、こう思う。
「何て、バカげた国なんだろう」と。
しかしそういう国を、だれが笑うことができるのか。
笑うことができないだけではない。
結局は、私たち日本人も笑われている。

 いくら「悪意性はない」と言っても、そんな論理は、まともな世界では通用しない。
はっきり言えば、狂っている。
一国の首相の母親が、毎月5000万円だと!
それを6年間も!

●退陣あるのみ

 何が、民主主義だ。
民主党だ。
名前を聞いて、あきれる。
民主主義の本質を、根底からひっくり返している。
民主主義そのものを、否定している。

これほどまでの不平等を、自ら放置し、容認するばかりか、その不平等の上に、
どっかりと腰をすえている。

 36億円というポケットマネーは、そういうお金。
どうしてそういう人物が、日本の首相でありえるのか。
日本の首相で、いてよいのか。

 自民党のあのAS前首相には、うんざり。
がっかり。
その上、鳩山首相まで!
いったい、私たちは何を信じたらよいのか。

 最後に一言。

 この問題は、「悪意性がない」とか、あるとかいう問題ではない。
私たちが今感じている、このやりようのない(怒り)。
それが、問題。
挫折感。
失望感。
それが、問題。

 昨日の世論調査によれば、民主党の支持率こそ、50〜60%前後だそうだが、
鳩山首相個人への支持率は、10%前後しかないという。
当然のことだ。
あのAS前首相の支持率より低くなったことを、忘れてはいけない。

 「民主党」のために、鳩山首相、ならびに、OZ氏は、即刻退陣したらよい。
がんばればがんばるほど、民主党に与えるダメージは、大きくなる。
日本の民主主義は、後退する。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

【内閣官房報償費】(機密費)

+++++++++++++++++++++++++++++++++

こんな記事が、中日新聞のトップに載っていた(09年11月21日)。

『官房・機密費・麻生氏退陣前、2億5000万円』

いわく「麻生内閣の河村建夫官房長官(当時)が、先の
衆院選2日後の9月1日に、機密費2億5000万円を
引き出していたことが判明。
毎月の支出額は、1億円程度で、退陣が決まっていた
麻生内閣の最後の支出は、突出している」と。

+++++++++++++++++++++++++++++++++

●大敗北の2日後に、2億5000万円?

わかりやすく言えば、衆議院銀選挙で、大敗北した麻生前首相が、その選挙の2日
あとに、機密費2億5000万円を引き出していたという。

何のために?
どうして?

機密費(正式には、「内閣官房報償費」という)について、ウィキペディア百科事典は
つぎのように説明する。

『官房報償費は国政の運営上必要な場合、内閣官房長官の判断で支出される経費。
内閣官房機密費とも呼ばれる。
会計処理は、内閣総務官が所掌(閣議決定等に基づく各本部等については、当該事務局が
分掌)する。

支出には領収書が不要で、会計検査院による監査も免除されている。
原則、使途が公開されることは無い。毎年約12億円ほどが、計上されている。
以前から「権力の潤滑油」などと呼ばれ、不透明な支出に疑惑の目を向けられていた。

しかし、近年の外務省や都道府県警察本部の報償費が裏金としてプールされたり、横領さ
れていた問題の発覚を受け、元内閣官房長官塩川正十郎が「外遊する国会議員に餞別とし
て配られた」、「政府が国会対策の為、一部野党に配っていた」、「マスコミ懐柔の為に、一
部有名言論人に配られていた」など、内閣官房報償費の実態をテレビで暴露する。

報償費の使い方にマスコミや一部野党による批判や追及が激しくなり、与野党政治家主催
のパーティ券購入や会食、紳士服の購入、さらには官房長官による私的流用疑惑なども噴
出する。

これを受け、会計検査院も管理が不十分と指摘する。政府は1998年には支出の基準(内
規)を設けた』と。

●機密費=報償費

 機密費というのは、

(1)領収書が不要。
(2)毎年、12億円ほどが計上されている、という。

 またその内容については、

(1)「権力の潤滑油」とも呼ばれている。
(2)国会議員に選別として配れたこともある。
(3)一部、野党にも配れたこともあるという。
(4)一部有名言論人に配られたこともあるという。
(5)パーティ券の購入や、紳士服の購入などにあてられたこともあるという。

 これもわかりやすく言えば、機密費というのは、内閣のポケット・マネーということに
なる。
では、どうして「機密費」と呼ばれるのか?

 機密的な仕事、たとえば「ゴルゴ13」に出てくるような、諜報活動などに使われる
から、「機密費」というのか。
それとも内閣が、極秘に使えるから、「機密費」というのか。
前者的な使用方法であれば、外務省あたりに、そうした機関があり、予算もそれなりに
つけられているはず。
内閣が独自に、諜報活動をするということは、役職的にも限界がある。

 となると、「機密費」の「機密」というのは、やはり「報償費」ということになる。

●大敗北の2日後に、2億5000万円?

 衆院選挙で大敗北したあと、麻生内閣は、機密費を、2億5000万円も引き出して
いたという。
もしこれが事実であるとするなら、(事実であることには、ほぼまちがいないが)、この
一事によって、麻生前総理大臣がどういう人であったかが、わかる。
一事が万事。
万事が一事。

 まさかとは思いたいが、麻生前総理大臣以下、当時の内閣は、退職金がわりに、
機密費を山分けしたとも考えられなくはない。
本来ならその時点で、政権交代は確実だったはず。
麻生前総理大臣の政治活動は、(終わり)に向かって、掃除段階に入っていたはず。
その日の授業がすべて終わり、「さあ、みなさん、掃除ですよ」というときの、「掃除」
である。

 どうしてそんなときに、2億5000万円も、必要だったのか?
私には、2億5000万円の上に、あの小ずるそうな笑みを浮かべた麻生前総理大臣
の顔がダブる。

●浮動票

 私は、自称、「浮動票の王様」。
(あるいは「川面に浮かぶ、枯れ葉」?)

「王様」というのもヘンだが、私はずっと、浮動票層の1人として、投票してきた。
そのときどきによって、支持政党が変わる。
自民党に入れることもあれば、共産党に入れることもある。
公明党に入れることもあれば、民主党に入れることもある。
が、私が動くところ、浮動票層もいっしょに、ザザーッと動く。
(その逆でもよいが……。)

 その浮動票層には、いくつかの「掟(おきて)」がある。

(1)ギリギリまで、支持政党、支持候補者を決めない。
(2)自分が投ずる1票は、死に票にしない。
(3)極端な勝ち組は作らない。
 
 これは私が決めた掟だが、浮動票層の人たちは、おおむね、同じような掟をもっている
とみてよい。

 世間一般の人は、「浮動票層」というと、半ば軽蔑の念をこめて、私たちをそう見る。
が、ひょっとしたら、どこかの政党を支持する人たちよりも、はるかに政治について
真剣に考えている。
(もちろん、そうでない人もいるが……。)

何も考えないで、盲目的に、どこかの政党を支持するほうが、実際には楽。
そういう人のほうが、多い(?)。

●「やっぱり、なア〜」

 が、前回の衆議院議員選挙では、自民党が大敗退した。
浮動票層が、ドドーッと、雪崩(なだれ)をうって、民主党支持に回った。
本来なら、ここで「極端な勝ち組は作らない」というブレーキが働いたはず。
しかし前回は、そのブレーキが働かなかった。

 なぜか?

 理由は簡単。
「あの麻生だけには、勝たせたくない」という思いが、先に立った。

 が、一抹の不安はあった。

 民主党は、かねてから、反米意識が強く、選挙の前から、「脱・アメリカ追従外交」を
唱えていた。
そのうしろでは、さらに訳のわからない、OZ氏という、闇将軍が君臨していた。

 果たして、あの結果でよかったのか?
自民党は、大敗退。
民主党は、大勝利。
それでよかったのか?

……そんな疑念を、選挙のあと、浮動票の多くは、もったはず。
が、今回の機密費の公表で、その疑念は消えた。
「やっぱり、なア〜」と。
つまり麻生前総理大臣は、自己の政治姿勢を、自ら証明して見せてくれた。
それが「2億5000万円」という数字ということになる。

●付記

 が、あえて、一言。
今、こうして機密費の支出が公表されたわけだが、それを公表した民主党の歯切れも、
あまりよくない。
「今度は、自分たちの番だ」と言わんばかりの、雰囲気である。

 政治の世界は、ドロドロした欲望の渦に、よくたとえられる。
今回の公表にしても、どこか陰謀臭い。
「やられたから、やり返す」と。
OZ氏の1億円の闇献金発覚の翌週に、こうした公表がなされた?

 何かしら国民である私たちだけが、振り回され、もてあそばれているような感じが
しないでもない。
そういうことも頭のどこかに入れながら、こうした記事は読んだほうがよい。
つまり一方的に、あの麻生氏は、悪だと決めてかかることもできない。
(善人でないことは、たしかだが……。)

 で、私の立場で、気になったのは、ウィキペディア百科事典に書いてあった、つぎの
一文。

「マスコミ懐柔の為に、一部有名言論人に配られていた」と。

 当時、いろいろとうわさされていた言論人(評論家やニュースキャスター)が、
いるにはいた。
ある大学教授の書いた本を、大量に購入し、ベストセラーに祭りあげたという話も、
聞いている。
さらにある政党では、機関誌に投稿してもらうことによって、常識では考えられない
高額の原稿料を払っていた。
つまりそういう形で、「一部有名人」を、懐柔していた。

もちろんそういうことのために、機密が使われたと言っているのではない。
ひょっとしたら、2億5000万円程度なら、この世界では、ハシタ金なのかも
しれない。
それ以上に、この世界は、ドロドロとした闇に包まれている。

 何とも言われない(怒り)を覚えて、一気にこの原稿を書いた。
(2009年11月22日・朝)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●Open Office

++++++++++++++++++++

ワープロソフトといえば、MSのワード。
定番ソフトだが、値段が高い。

……ということで、今日から、ワープロソフトを、
フリーソフトの(Open Office)に、
少しずつ乗り替えることにした。

MSのOfficeは、単体で購入しても、2万円前後。
(以下、MSのOfficeは、単に、Officeと表記。)

パソコンでも、Officeのプレ・インストール版は、
1〜2万円ほど、割高になる。

パソコンが20万円を超えていた時代には、
それほど気にならなかった。
が、今は、平均価格も、10万円以下。
性能も、ぐんとよくなった。
ふだん家庭で使う分なら、それでじゅうぶん。
そういう時代だから、Officeの割高感が、
ぐんと身にこたえるようになった。
つまり、バカ臭くなった。

たとえば先日、ネットショップで、ミニパソを買った。
TOSHIBAのUXノート。
購入価格は、3万5000円。
それにOfiiceを載せると、
プレ・インストール版でも、
4〜6万円。
近くの店で買うと、6万円〜。
Officeを、単体で別に買うと、プラス、2万円。

そんなことがあって、ためしに今度、
Open Officeを
使ってみることにした。
(以下、Open Officeは、単にOOと表記。)

++++++++++++++++++++

●互換性

 いちばん心配なのが、互換性。
今まで書いてきた原稿が、無駄になってしまっては、意味はない。
で、恐る恐る、Officeと、OOの間で、文章を交換してみる。
Officeで書いた文章を、OOで開く。
適当に加筆し、それを一度保存をかけたあと、再び、Officeで開く。

 数度繰りかえしてみたが、まったく問題、なし!
となると、今までの、Officeは、何だったのかということになる。
10年ほど前には、パソコンを買い替えるたびに、7〜8万円の出費を強いられた。
そのときのパッケージは今でも捨てられず、棚に飾ってある。

●OO(Opnen Office)

 Office 2007と比べて、・・・というより、今まで使いなれていたせいもある
が、使いにくい面もある。
が、これも(慣れ)の問題。
時間の問題。
ふと、昔、使っていた、ワープロ専用機を思い出す。

 あのころは、メーカーによって、キー配列まで異なっていた。
最初は、Sharpのワープロ。
それからToshiba、Fujitsuと、乗り替えていった。
そのつどそれまで書いた文章が、無駄になった。
ファイル交換機能というのはあるにはあったが、めったに使わなかった。
当時は、まだ「紙」全盛期。
紙に印字できれば、それでじゅうぶんだった。
それで満足した。
「他機種に変換してまで・・・」とは、だれも考えなかった。

 が、今は、互換性がなければ、使えない。
はたして、互換性は、だいじょうぶなのか。

 ・・・ここまで書いた文章を、一度コピーして、O.E.(メール)に張りつけて自分宛て
に送受信してみる。
うまくできるかな?

(この間、数分・・・。)

●無料

 たった今、O.E.にコピーして、自分宛てに送受信してみた。
が、まったく問題、なし!

 ・・・ウム〜〜〜ン・・・

 しかし大量の文書は、どうなのか。
今度は、自分のHPから、600ページ(40x36)を、ダウンロードして、別の新規
作成文書に、張りつけてみる。

(この間、1分程度)

 難なく、コピー、張りつけができた!
まったく問題、なし!
驚いた!

 が、OOには、「編集記号」がない。
そこで(表示)→(編集記号)と進み、(編集記号)をクリックしてみる。
とたん派手な記号が、ズラズラと、文面に現れた。
ギョッ!
あわてて編集記号を消す。

 ・・・とまあ、こうした戸惑いがあるのは、しかたない。
無料ということだから、文句は言えない。
この先のことを考えると、やはりOOを使ったほうが、得。
ここは慣れるしかない。

 そう言えば、コンピュータ技師をしている二男も、数年前に、こう言っていた。
「パパ、オープン・オフィスにしなよ。MSのオフィスは、不安定だから・・・」と。

 今になって、二男の言った言葉の意味が、よくわかる。

 で、どうして、今、OOかって?
実は、今朝、1時間あまり書いた文章が、あやうく途中で、消えそうになった。
あちこちをいじって、何とか復元できた。
が、Office 2007にしてから、こうした不調がたびたび起こるようになった。
で、OOへの切り替えを考えた。
たしかにワードは、不安定。
それがきっかけ。
けっしてお金だけの問題ではない。

(疑問)

 WINDOW7では、どうかな?
OOは、うまく作動するのかな?
WINDOW7のOSは、先日、購入した。
が、まだこわくて、使えないでいる。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   23日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ちょうど6〜7年前に書いた原稿より、4作】

++++++++++++++++

原稿の整理をしていたら、たまたま
6〜7年前に書いた原稿が出てきた。

いくらたくさんの原稿を書いていても、
読み始めたとたん、これはまちがいなく
私の原稿とわかる。

原稿というのは、そういうもの。

現在の「私」は、その上に乗っている。

++++++++++++++++

●先生を雑務から解放しよう!

全休職者のうち、約五二%が精神系疾患によるものとし、九七年度には一六一九人がそ
のため休職している。もちろんこれは氷山の一角で、精神科へ通院している教員はその
一〇倍、さらにその前段階で苦しんでいる教員はそのまた一〇倍はいる。

 理由の第一は、多忙。今、教師は忙し過ぎる。雑務に続く雑務。ある教師(小二担任)
はこう言った。「教材研究? そんな時間がどこにありますか。唯一息を抜ける時間は授業
中だけです」と。が、それだけではない。こんなこともある。

 俗に「アルツハイマー」と呼ばれる病気がある。脳障害の病気の一つ※だが、その初期
症状は、ひどい物忘れ。が、その初期症状のそのまた初期症状というのがあるそうだ。(1)
がんこ(自分の意見をゆずらない)、(2)自己中心性(自分が正しいと確信する)、(3)
繊細さの欠落(ズケズケとものを言う)など。しかも、だ。四〇歳から、全体の五%前後
の人にその傾向が見られるようになるという※。四〇歳といえば、子どもがちょうど中学
生になるころ。一クラスに三〇人の生徒がいたとすると、六〇人の親がいることになり、
そのうち三人が、あぶない(?)ということになる。家族の一人がアルツハイマーになる
と、その周囲の家族もたいへんだが、そのまた外にいる人も、何らかの影響を受ける。た
とえば学校の先生。

 ある日一人の母親が、私のところへやってきて、こう言った。「小学校で英語教育をする
というが、そんな教育は必要ない」と。ものすごい剣幕である。しかしそれはそれから続
いた不毛の議論の、ほんの始まりに過ぎなかった。「学校五日制はおかしい」「中高一貫教
育には疑問がある」など。毎月のように電話やメールで、あれこれ言ってきた。

が、そのうち私のほうが疲れてしまい、適当に答えていると、最後はこう言った。「あんた
は教育評論家だそうだが、その資格はない。あんたが本を書けば、社会に害毒を流すこと
になる」と。これには私も怒った。怒って電話をすると、夫が出て、こう言った。「すみま
せん、すべてわかっています」と。そして数日後、夫から手紙が届いたが、それにはこう
あった。「妻の様子がおかしいので、今、病院へ通っているところです」と。もっとも私の
ばあい、それまでにもこのタイプの親は最初ではなかったので、それほどキズつかないで
すんだが、若い未経験の先生だと、そうはいかない。とことん神経をすりへらす。

 結論から言えば、学校の先生には、まず授業に専念してもらう。そういう環境を用意す
る。ちょうど医療機関におけるドクターのよう、だ。原則として、先生を雑務から解放す
る。だいたい今のように、教育はもちろんのこと、しつけから果ては、子どもの心の問題、
さらには家庭問題まで押しつけるほうがおかしい。ある先生はこう言った。「毎晩親たちか
らのメールの返事を書くだけで、一時間くらいとられます」と。

こんな状態で、今の先生に「よい授業」を期待するほうがおかしい。たとえばカナダ(バ
ンクーバー市など)では、親が先生に直接連絡をとることすらできない。また原則として
先生は、授業以外のことでは一切責任をとらないことになっている。日本も方向性として
は。やがてそうするべきではないか。


●人間の豊かさ

 人間の豊かさとは何か。人生の目的とは何か。五〇歳も半ばを過ぎると、そろそろそれ
について結論を出さねばならない。

 私には六〇人近い、いとこがいる。その中でも一番の出世がしら(こういう言い方は好
きではないが)が、大阪に住むKさん。日本でも一、二を争う大学を出て、某都市銀行に
入社した。現役時代は、ドイツ支店の支店長まで勤めている。が、ちょうど同じ年齢のい
とこに、Bさんがいる。中学を出るとすぐ理容師の学校に進み、それ以後は長野の田舎に
こもり、理容院を経営している。魚釣りがうまく、今ではその地方では、「名人」というニ
ックネームで呼ばれている。

 私はときどきこの二人のいとこを比較して考える。Kさんは、バブル経済崩壊のあと、
銀行を離れ、一〇年ほど前に子会社のT金融会社に出向。そののち、定年退職で今は宝塚
のほうで年金暮らしをしている。Bさんは、今でも理容院を経営しているが、魚釣りが高
じて、釣竿づくりに手を出し、Bさんが作る竿は、芸術品とまで言われるようになってい
る。

ひところ昔の尺度でみるなら、Kさんは勝ち組み、Bさんは負け組ということになる。が、
しかし今、こうして人生全体を振り返ってみると、私にはどちらがどうということが言え
なくなってしまった。KさんはT金融会社に出向する少し前私の家に遊びにきて、こう言
った。「女房のヤツがね、『私の人生は何だったのよ。返して』と言ってぼくを困らすのだ
よ」と。Kさんはともかくも、Kさんの出世を陰で支えてきた妻の悲哀も、また大きい。
一方Bさんは、その村の村長まで一目置く人物になっているし、かなりの財産もたくわえ
た。六〇歳を過ぎた今でも、毎日釣りざんまいの優雅な生活を楽しんでいる。

 ただ一つ注意しなければならないのは、「楽な生活」がよいわけではないということ。こ
んなこともあった。街角で偶然、二五年ぶりにM氏(五四歳)に会ったときのこと。久し
ぶりのことで、近くのレストランで食事をすることにしたが、話していて、私はハタと困
ってしまった。何もないのだ。何も感じないのだ。

私と同じ五四歳なのだから、「この人も何かをしてきたはずだ」と思い、それを懸命にさぐ
ろうとしたのだが、かえってくるものが何もない。話を聞くと、休みはパチンコ、見るテ
レビは野球中継とバラエティ番組。新聞といっても、読むのはスポーツ新聞だけ、と。い
くら楽でも、私はそういう人生には、価値をみない。

 もちろん今でもKさんは、いとこの中でも自慢のいとこだ。Kさんがする話は、私のよ
うな田舎者が知る由もない、雲の上の話でおもしろい。が、今、私にもう一度人生が与え
られ、Kさんか、それともBさんの人生のどちらかを選べと言われたら、私は迷わず、B
さんのほうの人生を選ぶ。今の自分の人生をみても、私の人生はBさんのほうに、はるか
に近い。

しかしこれだけは言える。人生の価値や意味などというものは、世俗の尺度では決まらな
いということ。つまるところ、その人がどれだけ自分の人生に納得しているかで決まる。
言いかえると、納得さえしていれば、それが他人から見てどんな人生であっても、気にす
ることはない。人間の豊かさというのも、それで決まる。地位や肩書きや名誉や財産では
ない。あくまでも自分自身である。

 
●日本の英語教育

 小学校で英語教育が始まることについて、「必要ない」と言ってきた人がいた。「日本語
もロクにわからない子どもに、英語など教える必要はない」と。今どき、こういう意見がま
かりとおることのほうが、私には理解できない。こんな話がある。

 アメリカの中南部あたりでは、食べ物の味付けが、とにかく甘い。たとえば日本人だと、
ケーキのひとかけらすら、食べられない。それを彼らはパクパクと平気で食べる。一方、
日本へ来たアメリカ人は、日本の食べ物は、どれもこれも塩からいという。そうそう先日
もこんなことを言ったオーストラリア友人がいた。浜松駅におりたったときのこと。「ヒロ
シ、どうしてこの町はこんなに魚臭いのか」と。自分の味やにおいは、外国へ出てみては
じめてわかる。子育てもそうだ。

 日本人の子育ての特徴を一言で言うなら、「依存性」ということか。子どもが親に依存心
をもつことに、日本人は甘い。日本では親にベタベタと甘える子どもほど、かわいい子イ
コール「いい子」と評価する。そして親は親で、一方的に子どもにあれこれしてしまう。
善意や親切を押しつけながら、押しつけているという自覚もない。それは自分自身がそう
いう子育てを受けたというより、自分も子どもに依存したいという思いから、そうなる。

ある女性(七〇歳)はこう言った。「息子を横浜の嫁に取られてしまいました」と。その女
性は、息子が結婚して横浜に住んでいることを、「取られた」と言うのだ。こうした子ども
を所有物か何かのように考える意識も、結局は依存性の表われとみる。ほかにこの日本に
は、忠誠心だの服従心だの、依存性を意味する言葉はいくらでもある。少し前には会社人
間という言葉もあった。日本人は互いに依存しあうことによって、自分の身の保全をはか
ろうとする。

 こうした日本人のもつ問題点も、自分自身が外国に出て、外国を知ることではじめてわ
かる。観光客の目ではわからない。そこに住んで、そこの人たちと同じ気持ちになっては
じめてわかる。日本だけしか知らない人には、日本の味はわからない。浜松のにおいはわ
からない。外国を知るということは、結局は自分を知ることになる。英語教育というのは
そのための教育だ。

ただ北海道の端から沖縄の端まで、同じ教育をという発想もおかしい。英語を勉強したい
子どももいる。したくない子どももいる。教えたい親もいる。教えたくない親もいる。英
語教育が必要だという教育者もいる。必要でないという教育者もいる。だったら、そんな
のは個人に任せればよい。日本人すべてが同じ教育をという発想は、まさに全体主義の亡
霊でしかないでしかない。

そこで一つの方法として、カナダやドイツのように、クラブ制にしてはどうだろうか。費
用はドイツのように、「子どもマネー」を支給すればよい。ドイツでは子ども一人あたり、
一律二三〇ドイツマルク(日本円で一五〇〇〇円程度)が、最長子どもが二七歳になるま
で支払われている(二〇〇一年度)。そしてその分、学校を早く終わればよい。日本人もも
う少し教育をフレキシブルに考えるべきではないのか。


●アルツハイマーの初期症状

 アルツハイマー病の初期症状は、異常な「物忘れ」。しかしその初期症状のさらに初期症
状というのがあるそうだ。(1)がんこになる、(2)自己中心的になる、(3)繊細な感覚
がなくなるなど。こうした症状は、早い人で四〇歳くらいから表われ、しかも全体の五%
くらいの人にその傾向がみられるという(※)。五%といえば、二〇人に一人。学校でいう
なら、中学生をもつ親で、一クラスにつき、三人はその傾向のある親がいるということにな
る(生徒数三〇人、父母の数六〇人として計算)。

 問題はこういう親にからまれると、かなり経験のある教師でも、かなりダメージを受け
るということ。精神そのものが侵される教師もいる。このタイプの親は、ささいなことを
一方的に問題にして、とことん教師を追及してくる。私にもこんな経験がある。ある日一
人の母親から電話がかかってきた。そしていきなり、「日本の朝鮮併合をどう思うか」と質
問してきた。

私は学生時代韓国にユネスコの交換学生として派遣されたことがある。そういう経験もふ
まえて、「あれはまちがっていた」と言うと、「あんたはそれでも日本人か」と。「韓国は日
本が鉄道や道路を作ってあげたおかげで、発展したのではないか。あんたはあちこちで講
演をしているということだが、教育者としてふさわしくない」と。繊細な感覚がなくなる
と、人はそういうことをズケズケと言うようになる。

 もっとも三〇年も親たちを相手にしていると、本能的にこうした親をかぎ分けることが
できる。「さわらぬ神にたたりなし」というわけではないが、このタイプの親は相手にしな
いほうがよい。私のばあい、適当にあしらうようにしているが、そうした態度がますます
相手を怒らせる。それはわかるが、へたをすると、ドロドロの泥沼に引きずり込まれてし
まう。先の母親のケースでも、それから一年近く、ああでもないこうでもないという議論
が続いた。

 アルツハイマー病の患者をかかえる家族は、それだけもたいへんだ。(本人は、結構ハッ
ピーなのかもしれないが……。)しかしもっと深刻な問題は、まわりの人が、その患者の不
用意な言葉でとことんキズつくということ。相手がアルツハイマー病とわかっていれば、
それなりに対処もできるが、初期症状のそのまた初期症状では、それもわからない。

私の知人は、会社の社長に、立ち話で、リストラされたという。「君、来月から、もう、こ
の会社に来なくていい」と。その知人は私に会うまで、毎晩一睡もできないほどくやしが
っていたが、私が「その社長はアルツハイマーかもしれないな」と話すと、「そういえば…
…」と自分で納得した。知人にはほかにも、いろいろ思い当たる症状があったらしい。

 さてもちろんこれだけではないが、今、精神を病む教師は少なくない。東京都教育委員
会の調べによると、教職員の全休職者のうち、約五二%が精神系疾患によるものとし、九
七年度には一六一九人がそのため休職している。もちろんこれは氷山の一角で、精神科へ
通院している教員はその一〇倍。さらにその前段階で苦しんでいる教員はそのまた一〇倍
はいる。まさに現在は、教師受難の時代とも言える。
ああ、先生もたいへんだ! 


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●樹香庵(浜松市北区浜北・森の家) 

++++++++++++++++++

今夜は、浜北にある、「森の家」に一泊。
このところ、こうしてどこかの旅館に
泊まるのが、楽しい。

「森の家」は、浜北森林公園の頂上付近にある。
その「森の家
の一角に、離れの形で、樹香庵がある。
「じゅこうあん」と読む。
純和風の別宅。

その樹香庵で、今、この文章を書いている。

+++++++++++++++++

●イチオシ

 樹香庵は、10畳が2間。
一間は茶室風になっている。
風呂、トイレも北側にあって、申し分なし。
風呂は、小さいが、ヒノキ風呂。
浜松方面に来て、やや時間に余裕があるなら、イチオシの旅館である。
「やや時間に……」というのは、浜松駅からは、電車とタクシーを乗りついで、1時間ほ
どかかる。
(東名・浜松インターからだと、30分ほど。)

 値段も、素泊まりで、1泊1人、8000円(2名宿泊のばあい)。
隣が、「まつぼっくり」という名前のレストランになっている。
食事は、そちらですますようになっている。
経営母体が変わるたびに、メニューも変わるが、今夜のそれは、悪くなかった。
(若い人には、量が少ないかな……?)

●掛け軸

 こういうところで文章を書いていると、いっぱしの作家気分。
たった今、風呂から出て、部屋の中には、私、ひとり。
ワイフが交替で、今、風呂に入っている。

 向こう側の日本間には、ふとんが2組、敷いてある。
床の間が、私の背中側にもあるが、向こうの和室にも、もうひとつ床の間がある。
掛け軸が掛かっていて、そこには、「日々是好日」と書いてある。
中国語で、「是」というのは、英語の「is」に相当する。
だから、「毎日、よい日です」という意味になる。

 背中側の床の間にも、掛け軸がかかっている。
そこには、「一期一会」と書いてある。
今さら、意味を説明するまでもない。
ともに、生き方を象徴する言葉である。

●『日々是好日』

 日々を満ち足りた気持ちで、楽しく過ごす。
生きる目的は、この4語に集約される。
私だって、そうだ。

朝起きると、まず、10分間の運動をする。
ウォーキング・マシンの上で、時速6キロで歩く。
かなり寒い朝でも、それで体は暖まる。
頭もスッキリする。
そのとき、こう誓う。
「今日こそは、がんばるぞ」と。

 この言葉には、いろいろな意味がこめられる。
ひとつは、「今日こそは、有意義に生きてやる」という意味。
もっと言えば、「今日こそは、がんばったなあ」という1日にすること。
その第一の条件が、「今日は、好い日」ということになる。

 なお『日々是好』というと、「日」という文字を書き加えて、『日々是好日』と書く人は
多い。
しかし正しくは、『日々是好』である。

●『一期一会』

 では、『一期一会』はどうか?

 いろいろに解釈する人がいる。
人との出会いは、その瞬間、その瞬間。
1回だけだから、真剣に会えというように、説明する人もいる。
「人との出会いを大切にしろ」と。
もともとは、千利休の弟子の山上宗二が、「一期に一度の会」と書いたことに始まる。
それを幕末の大老、井伊直弼が、『一期一会』にまとめたとされる(ウィキペディア百科事
典より)。

茶室には、どこも、この言葉がかかげられている。
が、私は若いころから、こう解釈していた。

 「その瞬間、その瞬間は、1回しかないから、覚悟して生きろ」と。

 そういう意味では、この言葉は、「今を生きる」という生き方に、つながる。
「今しかない。
だからその今を、懸命に生きろ」と。

 どの解釈が正しいとか、そうでないとか、論じても意味はない。
それぞれの人が、言葉を読み、自分で何かを感じればよい。
自分流に解釈すればよい。
それを自分の中で、生かせばよい。

●中国文化

 こうして純和風の一室に泊まってみると、「日本はやはり、中国の文化圏に属するのだな」
と知る。
四字熟語にしても、もともとは中国から入ってきたもの。

が、こう書くからといって、日本が、現在の中国の属国であるとか、そういうことを言っ
ているのではない。
現在の中国人もそうだが、私たち日本人も、その向こうにある、同じルーツの子孫という
こと。
どちらが「上」で、どちらが「下」などという議論そのものが、ナンセンス。
中国人の多くは、自分たちが「上」と思っているかもしれないが……。

 また中には、和風建築は、日本独特のものと主張する人もいるかもしれない。
しかし全体としてみると、つまり国際的な視野でみると、中国式は中国式。
漢字を、ひらがなや、カタカナにした程度のちがいはあるかもしれない。
しかし「独自」とは、とても言いがたい。

 そのことは、学生時代に、横浜の中華街へ行ったときにも、感じた。
たまたま何かの祭りをしていた。
それを見て、驚いた。

 太鼓の鳴らし方、はやし方、どれも、私が子どものころ、郷里のM町で聞いたものだっ
た。
私は、日本の祭りは、日本独特のものだとばかり思っていた。
つまり基本に中国の祭りがあり、それをまねたというよりは、不完全なまま輸入して、日
本の祭りを作りあげた。
見よう見まねで、日本人は日本の祭りを作った。

 あるいは(中国)→(朝鮮半島)→(日本)へと、文化が移入する過程で、少しずつ変
化したのかもしれない。
少なくとも、日本人が、オリジナルとして、自分で作りあげた祭りではない。
それを横浜の中華街で、見て、驚いた。

●「日の本」

 日本を否定してばかりいては、いけない。
しかし前にも書いたが、日本のことを「日本」というが、「日本」、つまり「日の本(もと)」
という発想そのものが、日本人のそれではない。
「日本」という名前は、「日(=太陽)が昇る国」という意味である。
「日の本」というのは、中国、あるいは朝鮮半島から見て、そうだというにすぎない。
日本人が、自分の国の名前をつけるとき、「ここは日の本だ」などと、言うだろうか。

 だいたいにおいて、「日本」を、「ニッポン」「ニホン」と、音読みにすること自体、おか
しい。
どうして「日本」という国名が、中国式の発音になっているのか。

 また「日本」という国名は、中国人、もしくは朝鮮半島の人たちによって、つけられた。
さらに中国には、「倭国」と書いて、「日の本」と読んでいたという記録も、残っている。
詳しくは別の原稿で書いたので、ここでは省略する。

●愛国心

 またまた日本を否定してしまった。
私の悪いクセだ。
不愉快に思っている人も、多いことと思う。

 このところおかしな復古主義が、幅をきかせているから、こういう話になると、どうし
てもムキになる。
車が暴走しかけているから、ブレーキのかけ方が、どうしても強くなる。
今は、そういうときかもしれない。

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、私は日本を嫌っているのではない。
好きとか嫌いとかは、感情として、あまり考えたことはない。

しかし人一倍、日本のことを心配している。
いつも日本のことを考えている。
外国から日本へ帰ってくると、心底、ほっとする。
日本がすばらしい国になることを、いつも心の中で願っている。
そういう気持ちを総称して、「愛国心」というのなら、私にも愛国心はある。

 しかしこうした愛国心と民族主義は、区別したほうがよい。
「大和民族はすぐれている」と思うのは、その人の勝手。
しかしだからといって、その返す刀で、「ほかの民族は、劣っている」と思うのは、まちが
い。

 ともに高い次元で、相手を認めあってこそ、民族主義は、光る。
そうでなければ、戦争の火種になるだけ。
とくに過激な国粋主義には、警戒したほうがよい。

●レストラン
 
 どんどんと考えが、ひとり歩きしてしまった。
こんな部屋で、日本や民族について書くつもりはなかった。
もう少し、楽しい話題について、書くつもりだった。

 ……先ほど、隣のレストランで、夕食をとった。
今夜は森の家の招待ということもあって、無料。
あとでメニューを見たら、私の料理が、1300円。
ワイフのそれが、850円ということだった。
量的には、私たち夫婦には、多すぎるくらい。
私もワイフも、半分程度、残した。

 というのも、数日前、体重計に乗ったら、62・5キロになっていた。
風邪気味だったので、食事の量をふやした。
とたん、このザマ。
あわてておとといから、ダイエット。
今朝は、60・5キロに戻っていた。

ホ〜〜〜ッ!

 そのレストランには、たくさんの人たちが、それぞれグループを作り、食事をしていた。
みな、楽しそうだった。
中には、口角に泡を飛ばして、議論している人たちもいた。
うしろの席に座った夫婦は、料理ごとに、デジタルカメラで写真を撮っていた。
前の席に座っていたグループは、大学のゼミか何かでやってきたようだ。
中央に教官らしき人を置き、みなが、その人の話を真剣に聞いていた。

 人は、やはり人と関わりをもって生きる。
「いいなあ」とか、「うらやましいなあ」とか、そんなことを言い合いながら、
ワイフと夕食を食べた。

●DVD

 夜も更けてきた。
時刻は、今、21:20。
パソコン上の時計では、そうなっている。
今日は昼寝をしなかった。
そのこともあって、今は、眠い。
目をあけているのが、やっと。

 ワイフは、別のパソコンで、ここへ来るとき借りてきたDVDを観ている。
リチャード・ギア主演の『最後の初恋』。
私好みではない。
音声だけ聞こえてくるが、ネチネチした会話がつづく。
要するに、(お涙ちょうだい映画)?

「涙は出たか?」と聞くと、ワイフは、「ちょっとね」と。

一方、私が借りてきたのは、『デイブは宇宙船』。
「宇宙人」ではなく、「宇宙船」。
人間の形をした宇宙船という意味である。
パッケージの裏の解説しか読んでないが、おもしろそう。
楽しみ。

●明日

 明日は勤労感謝の日。
休日。
とくに予定は、ない。
帰りに、別のパソコンショップへ寄るつもり。

 ところでこのエッセーは、Open Officeを使って書いたもの。
最初は、どこかおっかなびっくりという感じだったが、今のところ問題、なし!
動作も安定している。
OOを使っているということすら、忘れていた。

MSのOfficeにない機能も、いくつかついている。
かなり気に入ってきた。
ワンクリックで、全画面表示にしたり、もとに戻すこともできる。

 いいぞオ〜〜!

 ……ということで、就寝タイム。
少しのどが痛いので、うがいをしてから寝る。

2009年11月22日、夜。
結局、今日も、たいしたことができなかった。
「明日こそは、がんばろう」と、改めて心に誓う。

(注)雑誌などの記事によると、OO上では、複雑な図形や、レイアウトについて、
崩れることもあるそうだ。
しかし一般の人たちが、ふつうの状態で使うなら、何も、問題はないようだ。

 私が確かめたのは、(Office2007と、Open Offfice)の互換性。
近く発売になる、Office2010との相性については、未確認。

 ともあれ、Open Officeに、バンザ〜イ!

(樹香庵の写真は、マガジン12月号のはじめに、紹介します。)


(注:一期一会について)

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
参考までに、転載させてもらう。

『一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来することわざ。『あなたとこうして出会って
いるこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を
大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう』と言う意味の、千利休の茶道の筆
頭の心得である』と。

(補記)

●DVD『デイブは宇宙船』

 発想はおもしろいが、中身が薄い。
陳腐。
そんなわけで、星は2つの、★★。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●気分

 今日は、1日中、ずっと気分が晴れなかった。
原因はわからない。
俗に言う、「落ち込んだ状態」。
ときどき、こうなる。
何を考えても、否定的、悲観的。
平たく言えば、いじけている。
マイナス思考になっているから、批判だけで終わってしまう。
そこから何も生まれてこない。

 こういうときは、あまり文章を書かないほうがよい。
書いても、よい文章が書けない。
……ということで、写真の加工をして、時間をつぶした。
HPの更新をした。
午後からは、ワイフと買い物に出かけた。
帰りにパソコンショップに寄ってみた。
新製品に、いくつか手を触れてみた。
で、ビビッときた。

「そうだ、あのレッツ・ノートを手入れしてみよう」と。

 レッツ・ノートというのは、9年ほど前に買った、P社製の
ノート・パソコンをいう。
CF−L1。
骨董的価値がある?
当時はもっとも愛用したパソコンである。
価格は、22万円。
よく覚えている。

 が、買ったときから、不調つづき。
最初の半年くらいは、ずっと、パソコンショップとメーカーの間を
行ったり来たりしていた。
それで直ったわけではない。
今でも、CDトレイは、殺したまま。
端子にビニールをはさんで、使えないようにしてある。

●古いパソコン

 そのパソコンで、この文章を叩いている。
気持ちよい。
あのころの感触が、指先から戻ってくる。
ただ記憶媒体が、フロッピーディスクのみ。
たった今、USBメモリーを試してみたが、やはりだめだった。
CDが使えないから、ドライバーをインストールすることもできない。
何か、よい方法はないものか。

 ところで光学マウスは、どうか?

 ヘエ〜〜〜?

 光学マウスは、認識したようだ。
使えるようになった。
しかしUSBポートは、1つしかない。
だから文章を保存するときは、一度マウスをはずさなければならない。
それにフロッピーディスクは、あったかな?

 画面全体は、薄黄色。
セピアカラーとまではいかないが、それに近い。
「かえって目にやさしくなった」と言って、自分をなぐさめる。
こういうのを心理学の世界では、「合理化」と呼んでいる。

●パソコン

 こうして考えてみると、パソコンというのは、大切に使うものではない。
どうせ9年も使うと、ただの廃棄物。
ノート・パソコンなら、まだよい。
大型のデスクトップパソコンとなると、そうはいかない。
処分に困る。

 ところでモニター一体型のパソコンというのを、今でも売っている。
しかしこれは私の個人的な意見だが、ああいうのは、買わないほうがよい。
パソコンを処分するとき、モニターまで処分しなければならない。
モニターが別になっていれば、またほかのパソコンで、再使用ということも可能。

 そこで考えた。
人間の臓器移植のように、パソコンも、そのつど、より高性能の部品と交換
できればよい。
(たとえが悪くて、ごめん!)
最初から、そういう(作り)になっていれば、無駄がない。
ハードディスクやメモリーなどは、簡単に交換できる。
同じように、マザーボードやグラフィックボードも、交換できるようになると
よい。

 そのためには、パソコンの規格化が、もっと進まなければならない。
果たして、それは可能なのか。

●たった9年!

 しかしこのパソコンには、思い出が詰まっている。
このパソコンで、何冊か、本も書いた。
新聞のコラムも書いた。
たった9年前のことだが、遠い昔のことのように感ずる。
正確には、「2000年9月19日、購入」となっている。
私はパソコンにかぎらず、何か電気製品を買うと、裏に購入年月日の
シールを張ることにしている。

 その間の9年で、パソコンの世界は、格段の進歩を遂げた。
この先も、さらにさらに進歩する。

●スパコン

 ところで今、政府部内では、予算配分の見直し作業を進めている。
その作業の中で、スパコン(スーパーコピュータ)の開発予算が、削られる
ことになったという。
これに対して、その道の専門家たちが、猛反発しているらしい。

 しかしこれについて、私の二男は、こう言っている。
「これからは、スパコンの時代ではない」と。

 現に、CERN(スイスに本部を置く、量子加速器研究所)では、スパコン
ですら、役に立たないという。
そこで世界中の大型コンピュータを回線でつなぎ、それを使ってデータの分析や
解析を行っているという。
その数、約1万台。
そのほうがそれぞれの科学者にとっても、使いやすいのだそうだ。

 二男はその技術者として、来月(12月)、スイスへ行くという。
スパコンにこだわる時代は、終わりつつあるのかもしれない。
つまりハードからソフトの時代へ。

似たような例に、ウィキペディア百科事典がある。
(私が勝手に、そう思っているだけだが・・・。)

何かの百科事典を書こうとすると、たいへんな作業になる。
20〜50人単位の編集者が、数か月かけて、やっと1巻。
全巻完成するまでに、何年もかかる。
しかし世界中の人たちが、少しずつ書けば、あっという間に、百科事典が
できあがってしまう。

同じように、すべての分析を、1台のスパコンを使ってするよりは、1万人の科学者が、
1万台のパソコンを使って分析したほうが、早い。
もちろんそこから出てきたデータは、私たちがウィキペディア百科事典を利用するように、
みなで共有する。
この世界も、今、急速に変わりつつある。

 「このままでは、日本はスパコンの世界から、はじき飛ばされてしまう」と
心配するのは、どうか?
それよりも重要なことは、それを使うソフトウェアの開発ということになる。

●後書き

 夕食後、だいぶ心も落ち着いてきた。
いじけた心が、弱まってきた。
これならあと1〜2時間で、精神状態は安定してくるはず。
よかった!

 今日、のんだ薬。

 葛根湯・・・頭が重かったから。
 ハンゲコウボクトウ(半夏厚朴湯)・・・これは精神の安定にきく。
 セパゾン半錠・・・同じく、精神の安定にきく。
 午後になって、頭痛薬半錠・・・これは念のため。
 さらに寝る前に、センナを少しのむつもり。
これは腸が、腫れぼったいから。

 そうそうこれから20分間、ウォーキング・マシンの上で運動。
今日(11−23)は、勤労感謝の祭日。
明日から、また仕事。
がんばります!


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●11月20日

数日前、重いテレビを持ちあげた。
ブラウン管方式の32インチのテレビ。
バカなことをした。

 重量は軽く100キロ近くはある。
おとな3人でも、運べない。
おかげで右のひざを少し傷めた。
軽い鈍痛がつづく。

 このまま症状が収まればよいが、
持病になったら、たいへん!
母は、まずひざを傷めた。
それでやがて、歩けなくなった。

 幸い自転車に乗るのは、何ともない。
ひざに体重がかからない。
これからしばらくは、自転車による
運動が中心になりそう。

●民主党にもの申す

 民主党にとってOZ氏(どういう役職になっているか、私は知らない。
が、実質的に、民主党の支配者)は、最重要の人物かもしれない。
しかしそのOZ氏が、民主党のイメージをいかに悪くしているか、
それを一度、庶民(選挙民)の立場で、ながめなおしてみてほしい。

 数日前も、OZ氏に関して、1億円の裏金問題が、発覚した。
OZ氏のコメントは、まだ読んでないが、「いかにも、そういうことをしそうな人物」と
いう点で、OZ氏のイメージは、たいへん悪い。
あのOZ氏を見て、誠実な人、あるいは正直な人というイメージをもつ人は、まずいない。

 「OZ氏は民主党の生みの親」という気持ちは、よく理解できる。
しかし私たち選挙民は、OZ氏という個人を支持しているわけではない。
「民主党」という「党」を支持している。
つまりこの瞬間から、民主党は民主党として、党全体のあり方を考えなければならない。

 OZ氏が、いつまでも親風を吹かしていると、民主党は、再び野党に転落する。
このところHT内閣の支持率が、ジリジリとさがってきている。
数日前には、何かの報道機関で、50%という数字が出てきた。
OZ氏の裏金問題が発覚する前の数字だから、今は、もっとさがっているかもしれない。


●6か国協議

 K国は核兵器を放棄しない。
現在の体制がつづくかぎり、放棄しない。
核兵器そのものが、独裁政権というカルトの中で、本尊化している。
西洋人には理解しがたいことかもしれない。
この日本でも、『イワシの頭も信心から』と言う。

 ひとりノー天気なのは、フランス。
あれこれ外交官を送りこみながら、かつてのC・ヒル国務次官補と同じことをしようと
している。
オバマ大統領にしても、あれほどブッシュ政権を批判しておきながら、やっていることは、
ブッシュ政権時代のそれと同じ。

 ここまできたら……というより、今さら手遅れだが、K国の政権転覆を考えるしか、
解決方法はない。
今までにも、チャンスは何度かあった。
そういうチャンスを、アメリカや韓国のみならず、この日本も見逃してしまった。
その(結果)が今である。

(1990年の終わりごろ、K国は一度、崩壊の危機に陥った。
金xxも本気で中国北部への亡命を考えていた。
そのときあろうことか、120万トンのコメを送ってK国を救済したのが、
当時の日本のKN外務大臣である。
「これでK国が動かなかったら、責任を取る」と大見えを切ったが、結局、K国は
動かなかった。
KN氏がそのあと責任を取ったという形跡も、まったくない。)

 結局、オバマ大統領も同じことを繰り返しながら、K国に時間を与えるだけ。
この先日本は、現在の体制がつづくかぎり、K国の核兵器にビクビクしながら生きていく。
そういう前提で、これからの外交政策を考えるしかない。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●大失態

+++++++++++++++++

この1か月半の間、教室への問い合わせや、
仕事の依頼が、パタリと止まってしまった。
「?」とは思っていたが、それほど気にして
いなかった。
……というか、気がつかなかった。

+++++++++++++++++

そこで昨日、たまたま自分から自分宛てに、メールを送信してみた。

送信はたしかにできる。
送信済みトレイに、メールは残る。
しかし肝心のメールがはね返ってこない。

ギョッ!

「?」と思いつつ、プロバイダーに連絡をとる。
が、「どこにも問題がありません」と。

原因はわからない。
相談にのってくれた女性は、「サーバーから 削除されているようですね」と。

メールだけではない。
ためしにフォームを使って、自分から自分宛に、仕事の依頼を書いてみた。

「フォーム」というのは、様式をこちらが定めて、そこへ相手に必要事項を
書いて送ってもらうというもの。
迷惑メールや、ウィルスを仕込んだメールを 排除するために、私は、それを
使っている。

それも戻ってこない。
つまり私宛のフォームも、私に届く前に、
どこかで削除されてしまう。
「?」。
そんなはずはない。

「???」と思いながら、あちこちをいじる。
が、どこもおかしくない。

ビスタ(OS)では、(新規メール作成)のすぐ上に、
(迷惑メール)設定のタグが並んでいる。
ときどき まちがえて クリックしてしまうことがある。
原因は、どうやらそのあたりにあるらしい。
(確かではないが……。)

で、昨夜は夜中の1時過ぎまで、パソコンと格闘。
ハラハラしながらの作業さった。

それにしても大失態。
この1か月半に、フォームを使って メールをくれた人もいるだろう。
ひょっとしたら、教室への問い合わせや、仕事の依頼も あったかもしれない。
そういう人のフォームは、どこかへ消えてしまった。
その可能性は大きい。
申し訳ないことをした。
と、同時に、インターネットの恐ろしさを、今一度、思い知らされた。

 ……で、こんな経験を思い出した。

 その飲食店は、雑居ビルの2階にある。
しかしある日の午後、客足が パタリと止まってしまった。
いつもなら客でにぎわう夕食時になっても、客はゼロ。
私の行きつけの店だった。
恐る恐るその店に入り、私が「あの〜、営業していますか?」と聞くと、「はい、
してます」と。

 階段の入口に、「準備中」の看板が 立てられていた。
だれかがいたずらで、「営業中」から「準備中」へと、看板をひっくり返したらしい。

 「悪いことをする人もいるもんだ!」と、店の主人は 怒っていたが、今回の
私の大失態は、その話と、どこか似ている。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●変わる 文章の書き方

 明治、大正時代に出版された本を見ると、(読むのではなく、見ると)、
文字が ぎっしりと 詰まっているのがわかる。

 昭和のはじめに書かれた本にしても、そうだ。

 が、最近の本は 余白をたっぷりと とってある。
行間も広くなった。
文字数も 少ない。
大きなイラストが、散りばめてあるのも多い。

 それを見ると、この20年の間に、本の作り方にしても 大きく変化したことが
わかる。
さらにここ10年、とくにインターネットを中心として、本の体裁だけではなく、
文章の書き方も さらに大きく、変わってきた。

 文字を書くとき、「もったいない」という意識が 消えた。
以前は、余白が大きければ大きいほど、「紙がもったいない」と思った。
だから本を書くときも、一行を、40文字にするか、42文字にするかで、悩んだ。
40字にすると、読みやすい。
しかしその分だけ文字数が少なくなる。
42字にすると、感じがぐんと変わってくる。
行数にしても、1頁、15行にするか、17行にするかで、感じがぐんと変わってくる。

そのことで、出版社と、もめたこともある。
が、そういう意識が 消えた。

 たとえば今、私はこの文章を書いている。
一文ずつ、一行に書くようにしている。
つぎの文を書くときは、改行する。

 こんな書き方は、30〜40年前には 考えられなかった。
当時は「もったいない」ということを、まず考えた。
が、今は、それを考えなくなった。
「読みやすくしよう」という意識が先に立つようになった。

(それでも意識というのは、おもしろいもので、こういう書き方をしていると、
今でも心のどこかで、もったいないと思う。)

 ネットの世界では、当然のことながら 紙を使わない。
だからいくら余白を大きくしても、どうということはない。
それが文章の書き方にも、大きく影響し始めている。

 この先、もっと余白は大きくなるだろう。
文と文の間が、スカスカになるだろう。
文そのものも、短くなるだろう。
英語のように、言葉と言葉の間に 空白を入れるという方法も一般化するかもしれない。
幼児向けの本では そういう手法を用いる。
「、」を入れるよりは、ずっと読みやすくなる。

 今、ここに書いたことをもとにして、このエッセーを書いてみた。
みなさんは、この文章を読んで、どんな印象をもっただろうか。

 これからは しばらく この手法で、文章を書いてみたい。
読みやすさを、自分なりに 追求してみたい。

(補記)

 同じようなことは、デジタルカメラを 使うようになったときも経験している。
フィルムは使わないのだから、「損」という感覚は おかしい。
が、シャッターを 押すごとに、「もったいない」と感じた。

 今回も、そうだ。
こうしてスカスカの文章を 書いていると、どうも気になる。
「これでいいのかな」と迷う。
私としては、文と文が、しっかりと詰まっている文章のほうが、文章らしく見える。
重みもある。

 しかしこれも時代の流れ。
この先、紙を使った本は、どうあがいても消える。
そのとき文章は、その時代の書き方で書かれるようになる。
日本語について言えば、

(1)漢字が、少なくなる。
(2)一文一文が短くなる。
(3)スカスカになる。
(4)文字と図形(写真)が混在するようになる。 

 100年後の人たちが、私が書いた文章をどう思うだろうか。
今、私は明治時代の人たちの書いた文章を読んでみる。
「読みづらい」と思う。
同じように、100年後の人たちは、どうだろうか。
私のこの文章を読んで、「読みづらい」と 思うだろうか。

 もっともそのころまで、私の書いた文章は残っていないだろうが……。

 言い忘れたが、こうして電子の世界で書いた文章は、「形」がないだけ、
消えるのも早い。
電源を落とせば、それですべてが消える。
本というのは、燃えても、カスが残る。
しかし電子の世界で書いた文章は、そのカスさえ残らない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 インターネット時代の文章 新しい文章 新しい文章の書き方)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司v
 
●映画『2012年』

 昨夜遅く、映画『2012年』を観てきた。
午後9時20分始まりの、まさに深夜映画。
終わって劇場内の時計を見たら、午前0時を
10分ほど、回っていた。

2時間50分?
長い映画だった。
プラス、ものすごい映画だった。

星は4つの、★★★★。

 破壊シーンが、ものすごかった。
そればかりが目立った。
それで星を1つ、減らした。
まさに究極の破壊映画。

まあ、何と言うか……。
「ここまでやるか!」というような、映画だった。

 で、いくつか矛盾も ないわけではない。
たとえば映画に中では、現代版ノアの箱舟が 登場する。
世界中が水没する。
一部の人たちは、その箱舟に乗って、難を逃れる。
が、あの形では、押し寄せる水の圧力には、耐えられない。

 私なら、箱舟を 球形にする。
構造を3層構造くらいにして、衝撃に耐えられるようにする。
(映画の中では、長細い宇宙船のような形をしていた。)

そしてそれを一度、山頂に固定する。
海の底に沈み、海面が静かになったあと、留め具を解除して、
海面に浮上する。

 最後は 隆起したアフリカ大陸を めざすという設定になっている。
(最後のオチを話してしまって、ごめん!)
しかしどうせ隆起させるなら、太平洋の中央に、別の大陸を隆起させればよい。
新アトランチス大陸という設定も、おもしろい。

 最大の矛盾は、地熱の急上昇。
太陽風の影響を受けて、地熱が急上昇する。
マグマの対流が 激しくなる。
それによって、地殻が不安定になる。
世界各地で、想像を絶する 地震が起こる。
世界中の大陸が 海の底に沈む。

 こうした流れが 映画の(柱)になっている。
が、それによる地球温暖化は、どうなるのか。
映画の中では、地熱は急速に 冷却することになっている。
が、そういうことは ありえない。
その前に、海水は水蒸気化し、厚い雲を作るはず。
そうなれば温暖化は一気に進む。

 映画の中では、最後にみな、青い空を見ることになっている。
しかしそういうことは、ありえない。
厚い雲は日光をさえぎり、真昼でも 真夜中のようになる。

 つまりそうした科学性のなさが、あの映画の欠陥。
すごい映画だが、それは破壊シーンだけ。
それが繰り返し、つづく。
これでもか、これでもかと つづく。

 そんなことも考えながら、あの映画を観ると、楽しいのでは……?
つまり アラさがし。

(あるいは、かえってみなさんの期待を つぶしてしまったかな?
もし そうなら、ごめん!)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●ヒマ(暇)論

++++++++++++++++++

「どうやって1日を 過ごそうか?」
……それを考えるのも、苦痛。
ヒマなときというのは、そういうもの。
もちろんヒマであることも、苦痛。

こういうのを ぜいたくな 悩みという。
しかし 世の中には、そういう
恵まれた人(?)も いる。

「毎日、ヒマでヒマで、どうしようもない」と。

++++++++++++++++++

●「ヒマでヒマで……」

 M氏は、今年65歳になる。
息子と娘がいたが、今は 2人とも、遠くに住んでいる。
私はどこか知らないが、M氏は、そう言った。

 公務員を退職し、つい数か月前まで、郊外の公共施設で 働いていた。
週3日だけの 勤務だった。
が、そこも退職。
今は、悠々自適の隠居生活。
親の代からの 財産も ある。
そのM氏が、こう言った。

 「毎日、ヒマでヒマで、どうしようもない」と。
「朝起きて考えること言えば、今日、1日を どうやって 過ごそうかということです」と。

●気がヘンになる

 M氏は、こう言った。
「日中は まだ何とかなります。
草を買ったり、バイクを直したりします。
問題は、夕食後です。
昨夜も、2時間も 音楽を聴いて、ぼんやりとしていました」と。

 で、私にこう聞いた。
「林さんは、どうしていますか?」と。

 たまたまその前日、私は友人への クリスマス・カードを 作っていた。
今年は、手作りカードに 挑戦している。
色紙に 写真や絵を張りつけ、それを 本のように仕立てる。

「ぼくもねエ、ヒマだと気がヘンになってしまいます。
だからいつも 何かをしています」と。

●生きがい

 M氏には話さなかったが、私のヒマつぶしといえば、インターネット。
ヒマなときは、まずパソコンに 電源を入れる。
とたん、したいこと、すべきことが、ドカッと、目の前に広がる。
趣味でもある。
道楽でもある。
が、それ以上に、今は、それが生きがいになっている。

 文章を書くために、本や雑誌を読んだりする。
マガジンを発行するために、写真を撮ったりする。
HPの更新も、そのつど しなければならない。

 やりたいこと、やるべきことが、あまりにも多い。
ヒマだとか、そんなことを言っている ヒマもない。
が、時として、ヒマになることがある。

●貧乏症

 私のばあいは、軽いパニック障害がある。
少し前までは、「不安神経症」と言った。
簡単に言えば、「貧乏症」。
いつも何かに 追い立てられているような感じがする。
乳幼児期の 不全な家庭環境が、原因と考えている。

 だからヒマであること自体が、苦痛。
何かをしていないと、気がすまない。
いつも、何かを している。

 そういう私の反対側にいるのが、無気力な人。
燃え尽き症候群とか、荷降ろし症候群とかいう。
私の年代には、「空の巣症候群」というのも ある。
子育ても終わり、子どもたちが巣立ってしまうと、とたんに 無気力状態になる。

 が、M氏のばあいは、少しちがうようだ。
「やりたいことは あるはずなのに、それが わからない」と。

●自己の統合性

 青年期には、「自己の同一性」という問題がある。
同じように、退職後には、「自己の統合性」という問題がある。
(やるべきこと)をもち、現実に、(それをする)。
これを「統合性」という。

 この構築に失敗すると、老後は、あわれで みじめなものになる。
M氏が そうだというのではない。
M氏はMしなりに、今のような老後を 夢見ながら、がんばって生きてきた。
しかし実際、それを手にすると、「何をしてよいか、わからない」、となる。

 孤独であるのも いやなこと。
老後になっても、息子や娘のことで、心配の種が尽きない人もいる。
それも いやなこと。
そういう人たちから見ると、M氏の置かれた立場は、うらやましいとなる。
先に「ぜいたくな悩み」と書いたのは、そういう意味。

●「だから、それが どうしたの?」

 そこでM氏が 見せてくれたのは、「太平洋一周、船の旅」という、パンフレット。
1人、150万円前後で、太平洋一周の旅ができるという。
行程は、日本→ハワイ→サンフランシスコ→ニュージーランド→オーストラリア
→東南アジア→中国→日本。

40日間の旅だという。

 「で、それに参加しようかどうかで、迷っている」と。

 私もときどき そうした旅行を考える。
が、そのまま シャボン玉のアワのように消えてしまう。

私のばあい、そういう旅行が、こわくて できない。
帰ってきたときの 虚しさを 想像するだけで、ゾッとする。
かえって虚脱感に襲われる……と思う。

 つまりそうした旅行には、「だから、それが どうしたの」と、そのあとに
つづくものがない。
たとえばそれぞれの国の 教育事情を調べるとか、そういうことなら楽しい。
あるいは私自身が 子どもたちを連れて、何かの指導をするというのでもよい。

 しかし帰ってきたとき、「ただいま!」だけでは、あまりにも さみしい。
一時的に ヒマをつぶすことは できても、そのあと、もっと大きなヒマが 
襲ってくる。
それに耐える自信が、私には、ない。

●老人観察

 老後には いろいろな問題がある。
しかし「ヒマ(暇)」について 考えたことはない。
M氏の話を聞きながら、「そういう問題もあったのか」と、驚いた。

 で、さっそく、あちこちの 老人観察を始めた。
「みんな、どうして いるのだろう?」と。

 もちろん 旅行を繰り返している人も いる。
趣味ざんまいの人も いる。
スポーツをしたり、孫の世話をしている人もいる。
人によって、みなちがう。

 が、こういうことは 言える。
人間というのは 勝手なもの。
忙しいときには、休みが来るのを、何よりも楽しみにする。
が、休みになったとたん、何をしてよいかわからず、ヒマをもてあます。
人生を「曜日」にたとえるなら、月曜日から土曜日までが、仕事。
日曜日が、つまり退職後ということになる。

 毎日が日曜日!

 しかし、これも考えもの。

●私のばあい

 で、私のばあいは、1、2年前に、ひとつの結論を すでに出した。
「私は 死ぬまで、現役で働く」と。
「過去は振り返らない。
前だけを見て、働く」と。

 わかりやすく言えば、身のまわりに、「ヒマ」を作らない。
そういう私の人生を 横から見ながら、「かわいそうなヤツ」と思う人もいる
かもしれない。
自分でも、それがよくわかっている。

 しかし いまだに(やるべきこと)が、何であるか、それがよくわからない。
統合性の確立があやふやなまま、今の仕事をやめてしまったら、それこそ 
たいへんなことになる。

 そのままボケ老人に向かって、まっしぐら!

 ただ幸いなことに、先にも書いたように、私にはまだ、やりたいことが
山のようにある。
どこから手をつけてよいのか、わからなくなることもある。

 で、今は、とりあえずは、新しいパソコンがほしい。
超高性能の、WINDOW7搭載の64ビット・マシン。
今夜も、ワイフに、それをねだったばかり。

 誤解がないように言っておくが、パソコンというのは、電気製品ではない。
買ったあとも、実際、使えるようになるまでに、いろいろな作業がつづく。
その作業が、楽しい。
だから買うとしても、長い休暇の前。

 ……ということで、改めて、究極の選択。

(1)一生、ヒマで遊んで暮らす。
(2)一生、仕事で、死ぬ寸前まで働く。

 どちらかを選べと言われたら、私は、迷わず、後者の(2)を選ぶ。
(すでに選んでいるが……。)

 M氏の話を聞いて、ますます強く、そう思うようになった。



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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【反抗期の子ども】

●思春期前夜

++++++++++++++++++

目の前に、2人の小学生がいる。
2人とも、小学4年生。
伸びやかに育っている。
言いたい放題のことを言い、
したい放題のことをしている。
恵まれた子どもたちである。
頭はよい。
作業も早い。

子どもは、小学3年生ごろを境にして、
思春期前夜へと入る。

今日はワークブックの日。
2人も、黙々と、自分のワークブックに
取り組んでいる。
私はこうしてパソコンを相手に、パチパチと
文章を書いている。

このところ新型インフルエンザの流行で、
ほかの子どもたちは、外出禁止。
そのため、今日の生徒は2人だけ。

が、この時期の子どもは、どこかピリピリして
いる。
それだけ精神が緊張していることを示す。

(緊張)と(弛緩)。
それがこの時期の子どもの、精神状態の特徴
ということになる。

++++++++++++++++++

●揺り戻し

この時期の子どもは、あるときは(おとな)に
なり、また別のときは(幼児)になる。
精神的に不安定になる。
私はこの幼児ぽくなる現象を、勝手に、「揺り戻し現象」
とか、「揺り戻し」とか、呼んでいる。

(先日、書店で、ある「子育て本」を読んでいたら、
同じことが書いてあったのには、驚いた。
こうした揺り戻しについて書いたのは、私が最初で、
また私以外に、それについて書いた人を、私は知らない。
著者はどこかのドクターだったが、そのドクターは、
どこでそういう情報を手に入れたのだろう?
余計なことだが……。)

この時期にさしかかるころ、その揺り戻しの振幅が大きくなる。
たとえば、幼児的な扱いをすると不機嫌になる。
が、そうかと思っていると、反対に、自から幼稚ぽくなったりする、など。
が、幼児でもない。
ふとしたきっかけで、生意気な態度をとったりする。
ふてくされたり、キレたりする。
あるときは、幼児に、またあるときはおとなに……。
その振幅の幅が、大きくなる。

が、年齢とともに、やがて振幅は小さくなる。
幼児ぽくなることが少なくなり、やがて思春期へと入っていく。
(独特のあのピリピリとした緊張感は、そのまま残るが……。)

親の側からすると、幼児に扱ってよいのか、
あるいはおとなとして接したらよいのか、わかりにくくなる。
それがこの時期の子どもの特徴ということになる。

●幼児とおとなのはざまで……

 2人の小学生には、その揺り戻しが顕著に現れている。
「典型的な症状だ」と、先ほども、ふと思った。
その特徴を箇条書きにしてみる。

(幼児の部分)(緊張感が弛緩しているとき)
○プロレスごっこや鬼ごっこをしてやると、ネコの子のようにじゃれたり、
笑って喜んだりする。
○機嫌がいいときには、幼稚っぽいしぐさとともに、おとなに甘えたり、
体をすり寄せてきたりする。

(おとなの部分)(心が緊張状態にあるとき)
○何かのことで注意したり、まちがいを指摘したりすると、露骨にそれを
嫌い、不機嫌な態度に変わる。
○おとなとして扱うことを求め、(子どもぽい)遊びなどをすることについて、
敏感に反応し、拒絶したりする。

 が、全体としてみると、1時間の間だけでも、つねに(緊張)と(弛緩)を
繰り返しているのがわかる。

●情緒不安

 よく誤解されるが、情緒が不安定になるから、「情緒不安」というのではない。
精神の緊張状態がとれないから、「情緒不安」という。
精神が緊張している状態へ、不安感や心配ごとが入ると、それを解消
しようとして、精神状態は、一気に、不安定になる。
不機嫌になったり、反対に、カッと怒り出したりする。

つまり「情緒不安」というのは、あくまでもその結果でしかない。
また緊張した状態が、「ピリピリした状態」ということになる。

 そのことは、それだけ触覚が、四方八方に伸びていることを示す。
何を見ても気になる。
こまかいところを見る。
ささいなことを気にする。
そのため、それまで気がつかなかったことについても、気がつくようになる。
そのターゲットになるのが、父親であり、母親ということになる。
学校では、教師ということになる。

●血統空想

 ところであのフロイトは、「血統空想」という言葉を使った。
自分の母親を疑う子どもはいないが、父親を疑う子どもは多い。
「ぼくの(私の)本当の父親は、別にいるはず」と。

 それまでは絶対と思っていた父親や母親が、絶対でないことに気づく。
完ぺきでないことに気づく。
幼児のある時期には、子どもは、「この世のすべてのものは、親によって
作られたもの」と思い込む。
それが思春期前夜に入ると、その幻想が、急速に崩れ始める。

 そこで子どもは、自分がもっている父親像は母親像の修正にとりかかる。

●無謬性

 「親だから、こうであるべき」「こうあってほしい」という(期待)。
つまり親に無謬性(むびゅうせい:一点のミスも欠点もないこと)を求める。
が、その一方で、親が本来的にもつ欠陥にも、気づき始める。
それはそのまま、(怒り)となって子どもを襲う。

子どもは、(期待)と(怒り)の間で、混乱する。

 ある女性(60歳)は、自分の母親(90歳)が、車の中で小便を漏らした
だけで、混乱状態になってしまったという。
それでその母を、強く叱ったという。
その女性にしてみれば、「母親というのは、そういうことをしないもの」と
思い込んでいたようだ。
つまり(小便を漏らす)という行為そのものが、自分が抱く母親像と矛盾して
しまった。
それが(混乱)という精神状態につながった。

 このタイプの女性はかなりマザコンタイプの人の話と考えてよい。
自分の中の混乱を、怒りとして、母親にぶつけていただけということになる。
つまり似たような現象が、思春期前夜の子どもに起こる。

●血統空想

 フロイトが説いた「血統空想」も、似たような現象と考えてよい。
子どもは、完ぺきな父親を期待する。
しかし現実の父親は、その完ぺきさとは、ほど遠い。
頼りがいがなく、だらしない。
不完全さばかりが、気になる。

 そこで子どもは葛藤する。
「父親というのは、完ぺきであるべき」という思いと、現実の父親の受容との
はざまで、もがく。
それがときとして、「ひょっとしたら、あの父親は、ぼくの(私の)本当の
父親ではないかもしれない」という思いにつながる。
それが「血統空想」ということになる。

 このことは生徒としての子どもを見ていても、わかる。
「教えてやろうか」と声をかけると、「いらない!」と言って、それに反発する。
が、その一方で、親には、「あの林(=私)は、教え方がへた」とか言って、
不満を述べたりする。
簡単な問題だから、私が「自分で考えてごらん」と言っても、怒り出す。
ふてくされる。
が、教えてやろうと身を乗り出すと、「ウッセー!」と言って、怒り出す。
目の前の2人の子どもたちも、そうだ。

 私の中に完ぺきさを求めつつ、完ぺきでない私を知ることで、混乱する。
それに反発する。
「反抗期」というのは、それをいう。

そうした子どもの心理が、手に取るように私にはよくわかる。

●親を拒否する子どもたち
 
 言うなればこの時期は、つづく思春期と合わせて、嵐のようなもの。
子どもの立場で考えてみよう。

それまでは親の言うことに従っていれば、それですんだ。
親が、自分の進むべき道を示してくれた。

 が、その親がアテにならなくなる。
親の職業を、客観的に評価するようになる。
そのため、ますます親がアテにならなくなる。

 幼児のころは、「おとなになったら、パパ(ママ)のような人になりたい」
と思っていた子どもでも、この時期になると、「いやだ」と言い出す。
中学生でも、「将来、父親(母親)のようになりたくない」と考えている子どもは、
60%〜80%はいる※1。
いろいろな調査結果でも、同じような数字が並ぶ。

●自己の同一性

 この思春期前夜の「混乱」を通して、子どもは、自分のあるべき(顔)を模索する。
そしてそれがやがて、自己の同一性の確立へと、つながっていく。
「私はこうあるべきだ」というのが、(自己概念)。
が、現実の自分がそこにいる。
その現実の自分を、(現実自己)という。

 これら両者が一致した状態を、「自己の同一性」(アイデンティティ)という。
子どもというより、思春期における青少年にとって、最大の関門といえば、
自己の同一性の確立ということになる※2。

 それが確立できれば、それでよし。
そうでなければ、混乱した状態は長くつづく。
30歳を過ぎても、「私さがし」をしている青年は、いくらでもいる。

●動じない

 話を戻す。

 2人の子どもは、相変わらず、黙々と自分に与えられた作業をこなしている。
どこかピリピリしている。
が、そこは暖かい無視。
私の度量を試すような行動も、みられる。
わざと怒らせようとする。
しかし私は動じない。

 生意気な態度。
ぞんざいな言葉。
投げやりな姿勢。
ふてくされた顔。
しかしその間に見せる、あどけない表情。
それがこの時期の子どもの特徴ということになる。

 重要なことは、けっして子どものパースに巻き込まれてはいけないということ。
この時期の子どもは、ギリギリのところまでする。
ギリギリのところまでしながら、その一線を越えることはない。
叱ったり、怒ったりしたら、こちらの負け。
言うべきことは言いながら、あとは暖かい無視で子どもを包む。
 
 嵐はいつまでもつづくわけではない。
やがて収まる。
そのころには、この子どもたちも、立派な青年になっているはず。
2人の子どもの横顔を見ながら、そんなことを考えた。

●補記

 反抗期に反抗期特有の症状を示さないまま、思春期を過ぎた子どもほど、
あとあといろいろな心の問題を起こすことがわかっている。
とくに親が権威主義的で、威圧的だと、子どもは反抗らしい反抗もしないまま、
思春期を過ぎる。
それから生まれる不平、不満、不完全燃焼感は、心の別室に抑圧され、時期をみて、
爆発する。
「こんなオレにしたのは、テメエだろオ!」と。

 「抑圧感」が大きければ大きいほど、爆発力も大きくなる。
(あるいはそのまま一生、爆発することもなく、なよなよした人生を送る子どもも
少なくない。)

 ちょうど昆虫がそのつど殻を脱皮して、成長するように、人間の子どももまた、
そのつど成長の殻を脱皮しながら、成長する。
殻を脱ぐときには脱ぐ。
脱がせるときは、脱がせる。

 そういうことも頭に入れて、子どもは、一歩退いたところから見守る。
それが「暖かい無視」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 思春期前夜 はやし浩司 思春期 思春期の子供 思春期前夜の
子供 揺り戻し 揺り戻し現象 揺りもどし ゆり戻し ゆりもどし)

(注※1)子どもたちの父親像

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は、55%もいる。
「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は、79%もいる
(「青少年白書」平成10年)。

(注※2)エリクソンの心理発達段階論

エリクソンは、心理社会発達段階について、幼児期から少年期までを、つぎのように
区分した。

(1) 乳児期(信頼関係の構築)
(2) 幼児期前期(自律性の構築)
(3) 幼児期後期(自主性の構築)
(4) 児童期(勤勉性の構築)
(5) 青年期(同一性の確立)
(参考:大村政男「心理学」ナツメ社)

+++++++++++++++++

以下、09年4月に書いた原稿より……

+++++++++++++++++

●子どもの心理発達段階

それぞれの時期に、それぞれの心理社会の構築に失敗すると、
たとえば子どもは、信頼関係の構築に失敗したり(乳児期)、
善悪の判断にうとくなったりする(幼児期前期)。
さらに自主性の構築に失敗すれば、服従的になったり、依存的に
なったりする(幼児期後期)。

実際、これらの心理的発達は4歳前後までに完成されていて、
逆に言うと、4歳前後までの育児が、いかに重要なものであるかが、
これによってわかる。

たとえば「信頼関係」にしても、この時期に構築された信頼関係が
「基本的信頼関係」となって、その後の子ども(=人間)の生き様、
考え方に、大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係の構築がしっかりできた子ども
(=人間)は、だれに対しても心の開ける子ども(=人間)になり、
そうでなければそうでない。
しかも一度、この時期に信頼関係の構築に失敗すると、その後の修復が、
たいへん難しい。
実際には、不可能と言ってもよい。

自律性や自主性についても、同じようなことが言える。

●無知

しかし世の中には、無知な人も多い。
私が「人間の心の大半は、乳幼児期に形成されます」と言ったときのこと。
その男性(40歳くらい)は、はき捨てるように、こう反論した。
「そんなバカなことがありますか。人間はおとなになってから成長するものです」と。

ほとんどの人は、そう考えている。
それが世間の常識にもなっている。
しかしその男性は、近所でも評判のケチだった。
それに「ためこみ屋」で、部屋という部屋には、モノがぎっしりと詰まっていた。
フロイト説に従えば、2〜4歳期の「肛門期」に、何らかの問題があったとみる。

が、恐らくその男性は、「私は私」「自分で考えてそのように行動している」と
思い込んでいるのだろう。
が、実際には、乳幼児期の亡霊に振り回されているにすぎない。
つまりそれに気づくかどうかは、「知識」による。
その知識のない人は、「そんなバカなことがありますか」と言ってはき捨てる。

●心の開けない子ども

さらにこんな例もある。

ある男性は、子どものころから、「愛想のいい子ども」と評されていた。
「明るく、朗らかな子ども」と。
しかしそれは仮面。
その男性は、集団の中にいると、それだけで息が詰まってしまった。
で、家に帰ると、その反動から、疲労感がどっと襲った。

こういうタイプの人は、多い。
集団の中に入ると、かぶらなくてもよい仮面をかぶってしまい、別の
人間を演じてしまう。
自分自身を、すなおな形でさらけ出すことができない。
さらけ出すことに、恐怖感すら覚える。
(実際には、さらけ出さないから、恐怖感を覚えることはないが……。)
いわゆる基本的信頼関係の構築に失敗した人は、そうなる。
心の開けない人になる。

が、その原因はといえば、乳児期における母子関係の不全にある。
信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の上に、
成り立つ。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。
「私は何をしても許される」という安心感。
親の側からすれば、「子どもが何をしても許す」という包容力。
この両者があいまって、その間に信頼関係が構築される。

●自律性と自主性

子どもの自律性や自主性をはばむ最大の要因はといえば、親の過干渉と過関心が
あげられる。
「自律」というのは、「自らを律する」という意味である。
たとえば、この自律性の構築に失敗すると、子どもは、いわゆる常識はずれな
言動をしやすくなる。

言ってよいことと悪いことに判断ができない。
してよいことと、悪いことの判断ができない、など。

近所の男性(おとな)に向かって、「おじちゃんの鼻の穴は大きいね」と
言った年長児(男児)がいた。
友だちの誕生日に、バッタの死骸を詰めた箱を送った小学生(小3・男児)が
いた。
そういう言動をしながらも、それを「おもしろいこと」という範囲で片づけて
しまう。

また、自主性の構築に失敗すると、服従的になったり、依存的になったりする。
ひとりで遊ぶことができない。
あるいはひとりにしておくと、「退屈」「つまらない」という言葉を連発する。
これに対して、自主性のある子どもは、ひとりで遊ばせても、身の回りから
つぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。

●児童期と青年期

児童期には、勤勉性の確立、さらに青年期には、同一性の確立へと進んでいく
(エリクソン)。

勤勉性と同一性の確立については、エリクソンは、別個のものと考えているようだが、
実際には、両者の間には、連続性がある。
子どもは自分のしたいことを発見し、それを夢中になって繰り返す。
それを勤勉性といい、その(したいこと)と、(していること)を一致させながら、
自我の同一性を確立する。

自我の同一性の確立している子どもは、強い。
どっしりとした落ち着きがある。
誘惑に対しても、強い抵抗力を示す。
が、そうでない子どもは、いわゆる「宙ぶらりん」の状態になる。
心理的にも、たいへん不安定となる。
その結果として、つまりその代償的行動として、さまざまな特異な行動をとる
ことが知られている。

たとえば(1)攻撃型(突っ張る、暴力、非行)、(2)同情型(わざと弱々しい
自分を演じて、みなの同情をひく)、(3)依存型(だれかに依存する)、(4)服従型
(集団の中で子分として地位を確立する、非行補助)など。
もちろんここにも書いたように、誘惑にも弱くなる。
「タバコを吸ってみないか?」と声をかけられると、「うん」と言って、それに従って
しまう。
断ることによって仲間はずれにされるよりは、そのほうがよいと考えてしまう。

こうした傾向は、青年期までに一度身につくと、それ以後、修正されたり、訂正されたり
ということは、まず、ない。
その知識がないなら、なおさらで、その状態は、それこそ死ぬまでつづく。

●幼児と老人

私は母の介護をするようになってはじめて、老人の世界を知った。
が、それまでまったくの無知というわけではなかった。
私自身も祖父母と同居家庭で、生まれ育っている。
しかし老人を、「老人」としてまとめて見ることができるようになったのは、
やはり母の介護をするようになってからである。

センターへ見舞いに行くたびに、あの特殊な世界を、別の目で冷静に観察
することができた。
これは私にとって、大きな収穫だった。
つまりそれまでは、幼児の世界をいつも、過ぎ去りし昔の一部として、
「上」から見ていた。
また私にとっての「幼児」は、青年期を迎えると同時に、終わった。

しかし今度は、「老人」を「下」から見るようになった。
そして自分というものを、その老人につなげることによって、そこに自分の
未来像を見ることができるようになった。
と、同時に、「幼児」から「老人」まで、一本の線でつなぐことができるようになった。

その結果だが、結局は、老人といっても、幼児期の延長線上にある。
さらに言えば、まさに『三つ子の魂、百まで』。
それを知ることができた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 エリクソンの心理発達段階論 (1) 乳児期(信頼関係の構築)
(2) 幼児期前期(自律性の構築) (3) 幼児期後期(自主性の構築) (4) 児童
期(勤勉性の構築)(5) 青年期(同一性の確立))


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●他罰と自罰

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罰(ばつ、バチ)には、2つある。
他罰と自罰。
私が考えた言葉である。

他人がその人に与える罰のことを、他罰。
自ら墓穴を掘っていく罰のことを、自罰。

+++++++++++++++++

●不幸な人

 世の中には「不幸な人」と呼ばれる人たちがいる。
どう不幸かということは、ここに書けない。
それに「不幸」といっても、それをどうとらえるかは、人それぞれ。
みな、ちがう。
同じような「不幸」をかかえながらも、明るく、さわやかに生きている人はいくらでも
いる。
一方、何でもないような問題をおおげさに考え、ギャーギャーと騒いでいる人もいる。

 「ここに生きている」ということを前提に考えれば、どんな不幸でも、不幸でなくなる。
つまり不幸かそうでないかは、ひとえに、その人の生き方の問題ということになる。

 そうした問題はあるが、現実に、「私は不幸」と、騒ぎたてる人は少なくない。

●ずるい人

 たとえばここに小ずるい人がいたとする。
一事が万事というか、何をするにもずるい。
ウソ、小細工は朝飯前。
言い逃れ、言い訳も、これまた朝飯前。
それが日常的になっているため、本人には、その意識すらない。

 そういう人は、そういう人にふさわしい運命をたどる。
いつの間にか、自分にふさわしい環境を、自分の周りに作る。
気がついたときには、「私は不幸だ」といった状態になる。

 実はこの私も、身近にそういう人がいて、その人に翻弄された。
で、そういう人を見たとき、私はひとつの選択にかられる。
「無視すべきか、闘うべきか」と。

 しかし無視するのが、最善。
「無視」といっても、「暖かい無視」。
その人の不幸を共有しながら、無視する。

本人にはその意識はないし、またそういう人を相手に、時間を無駄にしたくない。
エネルギーも無駄になる。

 それに、もしそこで私が闘えば、それは「他罰」ということになってしまう。
ともすれば他罰というのは、恨み、怒りにつながりやすい。
そういう後ろ向きな感情は、心と肉体の健康のためにも、よくない。

●墓穴

 一方、そういう人はそういう人で、自ら墓穴を掘っていく。
かわいそうとは思うが、私としては、なす術(すべ)もない。
本人は「不幸だ」「不幸だ」と言っているが、私から見れば、要するに(ないものねだり)。
自分の思い通りにいかないからといっては、それを逐一、自分の不幸につなげていく。
が、これではいつまでたっても、充足感は、得られない。

 子育ての世界でも、似たような経験をよくする。

 やっとC中学へ入れそうになると、親は、「B中学に……」と言いだす。
で、何とかB中学に入れそうになると、親は、今度は、「せめてA中学に……」と言いだす。

 あるいは子どもが不登校児になったとする。
1年とか2年とか、親にしてみれば、長くて暗いトンネルに入る。
で、その子どもが、やっと午前中だけでも登校ができるようになると、親は、「給食も……」
と言いだす。
で、何とか給食を食べるようになると、親は、今度は、「せめて終わりの時間まで……」と
言いだす。

 だからといって、C中学へ入ったり、子どもが不登校児になることを、「不幸なこと」と
書いているのではない。
ものの考え方は、視点をほんの少し変えるだけで、一変するということ。
B中学で何が悪い?
午前中だけの登校で、何が悪い?

が、視点を変えなければ、ここに書いたように、いつまでたっても、充足感は得られない。
しかしそれこそまさに、「自罰」ということになる。 

●不幸のとらえ方

 不幸をどう考えるか……そこにその人の人生観が集約される。
そこでひとつの考え方として、「他罰」「自罰」という言葉を考えた。
平たく言えば、賢明な人は、自罰を自罰として意識することができる。
自罰を、無力化することができる。

 自罰というのは、そういうもので、それを意識したとたん、そのまま霧散する。
が、どうすれば、自罰を自罰として、意識できるかということ。

 たとえば先にあげた、小ずるい人を考えてみる。
その人は、家庭問題、親子問題、夫婦問題、近隣問題、実家問題などなど、そのとき
どきに応じて、不平、不満ばかり言っている。
取り越し苦労を重ねては、その一方で、ささいなことでヌカ喜びを繰り返している。
手当たり次第に電話を入れては、ネチネチと愚痴を並べている。

 そういう人を遠くからながめながら、私はこう思う。
「その人がその人の自罰に気がつくことはあるのだろうか」と。
しかしこれは何も、その人の問題ではない。
私自身だって、自罰に気がついていない。
そういうことはある。

●私の自罰

 不幸と言えば、不幸かもしれない。
長男は、まだ未婚。
二男、三男は、会うこともままならないような遠くへ行ってしまった。
友人も少ない。
クリスマスも正月も、この10年、家族だけでささやかに祝っている。

 見る人が見れば、「あの林は、何とさみしい人生を送っていることか」と思うに
ちがいない。

 しかしそういったことは、「不幸」とは、思っていない。
けっして、強がりを言っているのではない。
一抹のさみしさはあるが、その(さみしさ)は、私のエゴと結びついている。
私の思うようにならないから、それを「さみしい」と言っているにすぎない。

たとえば私の母は、私がワイフと結婚したとき、親戚中に電話をかけ、「悔しい」と
言って泣いたという。
「浜松の嫁に、息子を取られたア!」と。

 ずっとあとになってそれを知ったとき、私は母の気持ちを理解できなかった。
母は、私の幸福よりも、自分の充足感を満たすことだけを考えていた(?)。
そういう経験があるから、私は、母のしたことの二の舞だけはしないと心に誓った。
その結果が「今」なのだから、私としては、文句を言えないはず。
「さみしい」などと言っている方が、おかしい。

 で、私は自分の人生を振り返ってみたとき、こう思う。
「もし息子たちがいなければ、私はああまでがんばらなかっただろう」と。
「それに、息子たちは、私に生きがいを与えてくれ、私を楽しませてくれた」と。
私は息子たちのために生きたのではない。
息子たちに生かされた!

●「生きている」

 要するに、不幸というのは、自罰に気がつかないまま、その自罰に振り回されることを
いう。
が、自罰に気がつけば、不幸はそのまま霧散する。
簡単に言えば、受け入れてしまうということ。
「まあ、私の人生はこんなもの」と、割り切ってしまう。
その瞬間、不幸は不幸でなくなってしまう。

 「不幸だ」「不幸だ」と思って、それが逃げようとすればするほど、不幸はますます
大きくなって、あなたに襲いかかってくる。
が、受け入れてしまえば、不幸は、向うからシッポを巻いて逃げて行く。

 それでも不幸がそこにあるようだったら、(生きている)という原点に自分を置いて
考えてみる。
そこに視点を置けば、そのままありとあらゆる問題は解決する。
「今、ここに生きている」という喜びまで押しつぶすほどの不幸は、ありえない。

私は生きている!
それにまさる価値はない。

●他罰

 ついでに他罰について。

 基本的には、私たちには、だれをも責める資格はないということ。
たとえその相手が、どんな人であっても、だ。
その相手というのは、私であり、私は、その相手と考えればよい。
 
それに他人に罰を与えるのは、やめたほうがよい。
考えるのも、やめたほうがよい。
どんなことがあっても、その人の不幸を願ったり、笑ったりしてはいけない。
願ったり、笑ったりすれば、それはそのまま私たちに返ってくる。
「ああ、私でなくてよかった」と思うのもいけない。
その人が、それを不幸だと思っているなら、あなたはあなたで、その人の立場で、
それを共有してやればよい。

 説教したり、自分の考えを押しつけるのも、やめたほうがよい。
その人はその人。
そっと静かにしておいてやる。
もちろん相手から助けを求めてきたときは、別。
そのときは、相談に乗ってやればよい。
それを私は「暖かい無視」と呼んでいる。

(この言葉は、もともとは、ある野生動物保護団体が使っていたものである。
それを拝借させてもらっている。)

●ついでに……

 40歳になると、その人の将来が見えてくる。
50歳になると、その人の結論が見えてくる。
60歳になると、その人の結論が出てくる。
その「結論」を決めるのが、他罰、自罰ということになる。

 私たちは常に、他人に罰せられながら生きている。
同時に、自らを罰しながら生きている。
それが積もり積もって、その人の「結論」となっていく。

 で、ついでに私は私の人生を振り返ってみる。
……といっても、今あるのは、「今」だけ。
過去など、どこにもない。
未来も、ない。
あるのは「今」だけ。
この「今」が、今まで生きてきた私の結論ということになる。

 大切なことは、つぎの「今」に向かって、前向きに生きるということ。
常に、つぎの「今」に向かって、懸命に生きるということ。
そのつど結論は、あとからついてくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 自罰 他罰 自罰論 他罰論 バチ論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●正岡子規

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正岡子規の『歌よみに与ふる書』を読む。
何となく子規ブームがやってきそうな気配。
それで、それを読む。

が、興味をもったのは、書の巻末にあった年譜。
それと『九月十四日の朝』。
正岡子規は、若年、満35歳(明治35年)で
この世を去っている。
明治35年に35歳!

生まれは、現在の松山市新玉町とある。
慶応3年生まれ。
まさに幕末+明治のはざまで生まれた人という
ことになる。

++++++++++++++++++

●「九月十四日の朝」

 正岡子規は、明治35年(1902年)の朝、病床で高浜虚子(たかはまきょし)
に、随筆を筆記してもらっている。
それが『九月十四の朝』。
『歌よみに与ふる書』の巻末に、おまけとして収録されていた。

「朝蚊帳(かや)の中で目が覚めた。尚半ば夢中であったがおいおいというて
人を起こした。……』と。

 正岡子規は、その5日後に亡くなっている。

●病弱

 正岡子規は、健康には恵まれなかった人のようだ。
有名な『かけはしの記』も、学年試験を放棄したあと、木曽路をたどった旅行記として
書かれている。
上野から出て、軽井沢、善光寺、松本を経て、馬籠(まごめ)から御嵩(みたけ)へ、と。
当時としては、たいへんな旅だったらしい。

 そのところどころに、俳句が散りばめてある。

『はらわたもひやつく木曽の清水かな』
『白雲や青葉若葉の三十里』
『撫し子や人には見えぬ笠のうち』など。

 あちこちに「五月雨(さみだれ)」という文字が読める。
5月に、木曽に入ったらしい。
「いい季節に、木曽路を旅したのだなア」と思う。
山は、ホトトギスが鳴く、5月ごろが、もっともすばらしい。
山は、本当に山らしくなる。
この浜松で言えば、5月の終わりごろ。
野イチゴが実をつけ、野生のジャスミンが咲き誇る。
当時の長野県は、もう少し寒かったかもしれない。
そんなことを考えながら、『かけはしの記』を読む。

●すごい人

 ついでに35歳という年齢で亡くなったことに、驚く。
現在という時代から見ると、35歳というのは、あまりにも若い。
また35歳前後までに、名を残すことができるような人は、そうはいない。
もの書きでは、もっと少ない。
改めて、正岡子規のものすごさに驚く。
……というか、当時は、そういう時代だったかもしれない。

 すべての娯楽が、文学に集中していた。
こういう言い方は失礼になるかもしれないが、一作、本を当てれば、
大金持ちになれた。
林芙美子を例にあげるまでもない。
林芙美子は、『放浪記』を書いて、貧乏のどん底から、大金持ちに変身した。

 それに今とは時代がちがった。
私は正岡子規の原稿集を手でもちながら、率直に、こう思った。
「量的には、私の1か月分の原稿にもならないのになあ」と。
私は毎月、原稿用紙にすれば、700〜800枚は書いている。

 もちろん私が書くのは、価値のない駄文。
言うなれば、ゴミ。
量が多いからといって、正岡子規とは、比較にならない。
それに当時は今と違って、作家たちは、一語一語に心血を注いだ。

 今はパソコン相手に、ピアノの鍵盤でも叩くかのようにして文を書く。
私がそうだ。
書いた文は、そのまま活字となって(?)、世界中に配信される。

 それにしても、35歳とは!
各地に、記念館まで残っている。

●イメージ

 で、正岡子規についていつも思うこと。
「正岡子規」という名前が、すばらしい。
格調高く、品がある。
いかにもそれらしい人物というイメージをもつ。
そう感ずるのは私だけかもしれないが、「さすが!」と思う。

 北原白秋にしても、雪舟にしてもそうだ。
雪印乳業にしても、そうだ。
(あまり関係ないかな?)

が、現実の正岡子規は、イメージとはだいぶちがうようだ。
俳優で言えば、ロック・ハドソン風の美男子を想像する。
が、写真で見るかぎり、どうもそうではなかったらしい。

 同じようなことが、あの室生犀星についても、言える。
私はいつだったか、写真を見るまで、やはりロック・ハドソン風の
美男子を想像していた。
が、写真を見て、絶句!
「まさか」と思って、何度も確かめた。
私がまだ金沢で学生だったころの話である。

 俳人や詩人と言われる人たちというのは、そういう人たちだったのかもしれない。
言葉の美しさと、風貌、つまり肉体が、完全に遊離している(失礼!)。

●正岡子規論

 で、肝心の『歌よみに与ふる書』のほうだが、私はあいにくと俳句が
あまりよくわからない。
「そういうものかなあ」という思いで、サラサラと読み流す。
ひとつ覚えていることと言えば、「くだもの(果物)」という言葉は、
「果物を食べると、腹がくだる」という意味から、「くだもの」と言うように
なったそうだ。
正岡子規は、「栗は果物かどうか」ということについても書いていたが、結論の
ところはよく覚えていない。

 俳句がすばらしいから、明治の文豪になったのだろう。
しかし文章そのものは、それほどうまくない(失礼!)。
読みづらく、まわりくどい。
それにたとえば『九月十四日の朝』もそうだが、まるで、70歳か80歳の
老人が書いているような文章。
つまり威張っている。
「35歳で、ここまで高姿勢な視点で、ものが書けるのかなア」と、むしろ
そちらのほうに驚いた。
「私は」と書くところを、「余は」と書いている。
きっと明治の人は、寿命が短かった分だけ、早熟だったのかもしれない。
 
 ……これ以上書くと、正岡子規のファンの人たちに、袋叩きにあうかもしれない。
そんなわけで、正岡子規についての話は、ここでおしまい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 正岡子規 九月十四日の朝 歌よみに与ふる書)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●11月18日

++++++++++++++++++

揺れ動く。
揺れ動く心理。
その様(さま)は、思春期のそれに似ている。
強気になったり、弱気になったり……。
先日も叔母が他界した。
が、淡々とした気持ちで、それを受け入れることができた。
「悲しい」とか、「さみしい」とかいう気持ちは
なかった。
会ったのは、この30、40年間で、数度だけ。
それもあって、「順送りだな」と思った。

私の「上」で、傘のようになっている人が、1人、また
1人と亡くなっていく。
そういう人が、このところ、毎年のように多くなった。
で、その傘が消え、青い空が見えるようになったら、
つぎは私の番。

悲しんでいるひまはない。
さみしがっているひまはない。
さあ、今日も、急ごう!

++++++++++++++++++

●歩き方

 このところ老人たちの歩き方が気になる。
いろいろな人がいる。
脳梗塞か何かになって、体が不自由になった人は別として、老人には老人の
独特の歩き方がある。
どこかの大学の教授が、それについて詳しく研究したのを覚えている。
しかしそんな論文など、読む必要はない。

(1)ひざを曲げて歩く。(歩くとき、足が前に出ない。)
(2)前のめりにして歩く。(腰がうしろからついてくるような感じ。)
(3)足を開いて歩く。(がに股になる。)
(4)かかとをあげないで歩く。(地面に足をこすりつけるように歩く。)

 こういう歩き方を、「老人歩き」という。
中には、ひざが痛くて、独特の歩き方をする人もいる。
しかしたいていは、筋力が弱り、足腰が体重を支えきれず、そういう歩き方になる。

 そこで問題は、どうすれば、そういう歩き方をしないですむか、ということ。

●ウォーキング・マシン

 本当は、「ランニング・マシン」という。
しかし私の買ったのは、ウォーキング・マシン。
走行用にはできていない。
説明書にも、そう書いてある。
それに時速は、6キロが最高。

 そのウォーキング・マシンを使ってみて、気がついた点がいくつかある。
それについては前にも書いたので、ここでは、その先を書いてみたい。

 老人になればなるほど、つま先歩きから、足の裏全体を使って歩くようになる。
ペタペタという感じの歩き方になる。
そこであえて、つま先歩きをしてみる。
とたん、……というより、1〜2分で疲れてしまう。
自分では気がつかなかったが、私もいつの間にか、ペタペタ歩きになっていた。
これでは軽快な動きはできない。
ヨタヨタというか、モサモサという歩き方になる。

 で、つま先歩きの練習をする。
10分間の歩行のときは、最後の1〜2分、20分間の歩行のときは、最後の、2〜3
分を、つま先歩きにする。
(時間は、タイマーでセットできる。)
が、疲れるだけではない。
最初のころは、その翌日くらいに、太ももから、ふくらはぎにかけて、足が痛んだ。
つまりそれだけ、ペタペタ歩きになっていたということ。

 私もそうだったが、たいていの人は、老人歩きを見ても、「私はああならない」と
思うだろう。
しかし知らないうちに、私たちはみな、少しずつ、老人歩きをするようになる。

●ひざ

 昨日の夜も、温泉につかっていると、目の前を、75歳前後の老人が歩いていた。
裸だったから、筋肉の動きが、よく観察できた。
腰は軽くまがり、ひざは曲げたままの角度で歩いていた。
歩くというよりは、上半身を前に倒しながら、その勢いで足を動かしているといった
風だった。
ヨタヨタと。

 太もも(大腿筋)が、鳥のガラのように細いのも、気になった。

 その老人を見ながら、こう思った。
「早めに、ウォーキング・マシンで訓練したほうがいい」と。
まことにもって手前味噌で申し訳ないが、自分でウォーキング・マシンを使うように
なってから、そう思うことがしばしばある。
私も、もっと早い時期から使えばよかった!

 ただし無理をしてはいけない。
おととい、30分間、最高速度の6キロで歩いてみた。
最後はつま先歩き……というよりは、駆け足走行になった。
で、今日は朝から、右足のひざが痛い。
(おとといの夜、重いものを持ちあげたためかもしれないが……。)

 私の観察によれば、ひざというのは、一度痛めると、そのまま持病になりやすい。
とくに60歳を過ぎてからの運動には、注意を要する。

●老人

 歩き方だけではない。
ほかにもいろいろと観察している。
しゃべり方、顔の色やシワ、髪の毛、女性の化粧のし方などなど。
その中でもとくに気になるのは、思考力の深さ。

 もっともそれについて書くと、長くなってしまう。
が、最近は、ほんの10〜20分、話すだけで、その人の思考力の深さがわかる
ようになった。
「この人は深い」とか、「浅い」とか。

 60歳を過ぎると、思考力はどんどんと浅くなる。
知力が低下する。
「知力」というより、知力を維持するための緊張感が持続できなくなる。
が、それを自覚できる人は、私も含めて、いない。
この問題は、脳のCPU(中央演算装置)に関連している。

 ……とまあ、歩き方の話から、別の話になってしまった。
しかし「体(月)の要(かなめ)」と書いて、「腰」という。
歩き方を見れば、その人の肉体年齢がわかる。
逆に言うと、歩き方を訓練すれば、自分の肉体年齢を若くすることができる。

 何かあったときに、ヒョイヒョイと、身軽に椅子から立ちあがる。
スタスタと歩く。
パッパッと行動する。

若い人には何でもない行動かもしれないが、それができれば、それでよし。
そのとき、ヨイコラショと身を持ちあげ、ペタペタと前かがみになって
歩くようであれば、あなたの肉体はかなり老化しているということになる。

 何歳から……とは言えないが、あなたも50歳を過ぎたら、私のように
老人観察を始めたらよい。
老後の健康は、まずそこから始まる。
遅かれ早かれ、老後は確実にやってくる。
そうであるからこそ、健康はできるだけ引き伸ばして使う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 老人観察 歩き方 歩行 老人の歩行)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【2010年のこと】

☆2009年から、3つの新しいことを始めました。
まず、ルーム・ウォーカーを購入したこと。
朝起きるとすぐ、それで10分間、ウォーキングをします。
平均して毎日、30〜40分は、その上で歩いています。
いろいろなものを買いましたが、ルーム・ウォーカーは、
その中でも、ベスト・ワンということになります。

ただその分だけ、サイクリングの回数が減ったかな?
それまでは、40分のサイクリングを1単位として、
週に5〜7単位を目標にしていました。
が、今は、週に3〜4単位程度。
「安全」を考えるなら、やはりこれからは家の中で
運動したほうがいいかもしれません。

2つ目は、毎週、舘山寺の温泉に通い始めたということ。
どこでも「日帰り入浴」というのを、させてくれます。
それを使って、あちこちの温泉巡りというわけです。

また3つ目は、バス旅行をやめ、講演先でホテルや旅館に
泊まるようにしたことです。
こうして月に2〜3回は、小旅行を楽しんでいます。

☆今年(2010年)もつづけたいことはいくつか、あります。
数年前から、週に1度は劇場で映画を観ることにしています。
これはボケ防止のためです。
シルバー料金というのがあって、いつも1000円(1人)で
観られます。
おまけに6回観ると、つぎの1回分はただ。
さらにポイントが6000点たまると、1か月のフリーパス
がもらえます。
それを使って、12月〜1月は、映画を見放題。
ハハハ。

09年に、68キロ前後から、60キロ前後まで減量しました。
体重の話です。
少し油断すると、すぐリバウンドしそうになります。
そのたびに、ダイエット+運動。
その繰り返し。
2010年中は、この体重をキープします。
つまりがんばります。

☆2009年には、いくつかのできごとがありました。
三男が結婚したこと。
実家を処分し、実家から解放されたこと。
ともに、バンザ〜イ!

☆ともあれ、何よりも大切なのは、家族と健康。
いつも夫婦喧嘩ばかりしていますが、それも今では
スパイス(調味料)のようなもの。
割り切って(?)、喧嘩しています。

おかげさまで、2009年は、みな、健康に恵まれました。
体重を減らしたおかげで、脚痛も、なくなりました。
今のところ成人病とは無縁。
がん検診も、ことごとく(?)、シロでした。
そんなわけで、たぶん、2010年も、無事生きていかれる
のではないかと思います。

☆あとは仕事ですね。
私のばあい、休みが1週間もつづいただけで、脳みそが休眠
状態になってしまいます。
2週間もつづいたら、サビてしまう?
もちろん体も……。
そんなわけで、退職、引退などというのは、まったく考えて
いません。
死ぬまで働く……。
それしかないというのが、今の結論です。

多くの人に支えられての1年間でした。
おかげで、2010年は、2009年より忙しくなりそうです。
「がんばります」というより、「がんばれ!」「がんばれ!」と、
自分にムチを打ちながら、今年も、前に向かって進みます。

                   (2010年・元旦)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【記憶の時効】

++++++++++++++++++++++++++++++

記憶にも時効がある。
と言っても、忘れるまでの時間をいうのではない。
私が言う「記憶の時効」というのは、何かの経験をして、
それを自己開示できるまでの時間をいう。

たとえばあなたにも、いろいろな過去がある。
その過去の中でも、(人に話せる話)と、(人には話したくない話)がある。
そのうちの(人に話したくない話)を、人に話せるようになるまでには、
ある程度の時間が必要である。
(もちろん相手にもよるが……。)
その(ある程度の時間)のことを、「記憶の時効」(はやし浩司)という。

……これだけではよくわからないという人も、いるかもしれない。
もう少し具体的に説明するから、どうか短気を起こさないでほしい。

+++++++++++++++++++++++++++++++

●私の過去

 私は若いころ、こう考えていた。
「実家の恥になるような話や、親の悪口などといったものは、人に言うべきものではない。
ましてや文にして書くべきものではない」と。
ワイフにすら、そう思っていた。
だから結婚してからも、私は実家の話や、親の話は、ほとんどしなかった。
話せば、どうしても悪口になってしまう。

 その私が実家の話や、親の悪口(?)を書くようになったのは、私が45歳を
過ぎてからのことではなかったか。
それまでは、それを口にすることさえなかった。
とくに他人に対しては、そうだった。
が、45歳も過ぎるころから、心境に変化が生じ始めた。

 たとえば私は父を恨んでいた。
私が子どものころは、数日おきに酒を飲み、家の中で暴れた。
私の父親というのは、そういう父だった。

 が、45歳を過ぎるころから、父が感じていたであろう、孤独感や苦しみが
理解できるようになった。
それが少しずつ私の心を、溶かし始めた。
そして同じように少しずつだが、私は父について書くようになった。
といっても、それにはかなりの勇気が必要だった。
崖から下へ飛び込むような勇気だった。
昔の人は、「清水の舞台から飛びおりる」と言った。

 けっして大げさなことを書いているのではない。
ほとんどの人は、自分のことですら、匿名で書いている。
ひょっとしたら、この文を読んでいるあなただって、そうかもしれない。
BLOGにせよ、HPにせよ、実名を名乗って書いている人は、少ない。
いわんや、(家の恥)、(家族の恥)となるような話となると、大きな抵抗感を
覚える。

 が、書き始めると、意外と楽に書けることを知った。
心の中にあるモヤモヤが、少しずつ晴れていくように感じた。
それからは、自由に、私は、実家や家族のことを書くようになった。

 つまり、これが私の言う、「記憶の時効」である。

●崖から飛び降りる

 (話したくない話)でも、ある程度時間がたつと、(話してもいい話)になる。
それまでは、(話したくない話)は、ずっと心の中にとどまったまま。
が、ある程度時間がたつと、(話したくない)という気持ちが薄れてくる。
つまり(話したくない話)が、(話してもいい話)に変化するまでに時間が、
「記憶の時効」ということになる。

 「この話は、もう時効になったから、他人に話してもいい」と。

 そこでこんな実験をしてみる。

 実は、この話は、まだ時効になっていない。
ごく最近というか、まだ1年ほどしか、たっていない。
それにこの話は、私にとっては、たいへん恥ずかしい。
が、思い切って、ここに書いてみる。
「崖」とは言わないが、二階屋根から飛び降りるような心境である。

●腸内ガス

 センナという薬草がある。
便秘薬として、使われている。
私は便秘症ではないが、腸がはれぼったいと、気になってしかたない。
そこでときどき、強制的に、腸内を空にする。
そのとき、センナという薬草を、煎じてのむ。

 そのセンナをのむと、半日もすると、独特のにおいの腸内ガスが出る。
どう独特かというと、つまり独特。
それに強烈。
センナをのんだことがある人なら、みな、知っている。
しかも腸内ガスが、排便が近づくと、ブーッ、ブーッと気持ちよく出る。

 で、ある日のこと。
生徒たちが来るのを待って、私はコタツの中に座っていた。
寒い冬の日だった。
私はコタツの中で、それをしてしまった。
「まだ時間がある」と思っていた。
が、そこへ親たちが、子どもを連れてやってきた。
ドヤドヤと、階下から階段をのぼってくる足音が聞こえてきた。

「しまった!」と思ったが、遅かった。

 そこであたりをみると、香水の入った瓶と殺虫剤が目に入った。
私はこたつのふとんの中めがけて、香水を吹きかけた。
同時に、殺虫剤をまいた。

 数分もたたないうちに、子どもたちが入ってきた。
親たちも入ってきた。
親といっても、若くて美しい母親たちである。
その母親たちがいつものように、まっすぐ、コタツのほうに向かっていった。

 あああ……。

 私はそ知らぬ顔をして、教室の反対側に立った。
そのときのこと。
母親たちが、(正確には3人いたが)、たがいに「何のにおい?」「何かしら?」と、
話している声が聞こえた。
ひとりはこたつのふとんの中に、クンクンと、顔までつっこんでいた。
私は生きた心地がしなかった。

●恥ずかしい話

 この話は、実は、ワイフにすらしていない。
まだ「記憶の時効」になっていない。
こうして書くこと自体、本当のところ、時期尚早。
あと数年は、隠しておきたかった。

 というのも、現在の今も、その母親と子どもは、私の教室に通っている。
もしこのエッセーを読んだら、……それを想像することすら、恐ろしい!
つまりこれが「記憶の時効」ということになる。

 人は、自己開示をすることによって、自分を見つめなおすことができる。
そういう点では、(さらけ出し)は、悪くない。
フロイトが説いた、「肛門期」というのが、それ。
何かの秘密(?)をもつと、それを外へ吐き出したくなる。
そういう衝動にかられることは多い。
しかしそれには、「記憶の時効」が働く。

 たとえば私は、自分たちの性生活については、ほとんど書いたことがない。
私がそれについて書けば、「老人の性」というタイトルがつくだろう。
若い人たちも、それについて興味をもっているかもしれない。
私と同じ世代の人たちも、興味をもっているかもしれない。
しかし私は、書けない。
書かない。

 恥ずかしいというより、(確かに恥ずかしいが……)、息子たちの前で、
それについて語るのは、昔からタブーにしてきた。
それにそれは私が専門とする分野ではない。
言い換えると、まだ「記憶の時効」になっていない。
今、それについて書くとなったら、私は、それこそ「清水の舞台から……」となる。

●私というより、1人の人間

 (書きたい)と思っていることと、(書いてもいい)と思っていることの間には、
距離がある。
時間的距離である。

 が、その時間的距離は、時間がたてばたつほど、短くなっていく。
それには、理由がある。

 「私」という人間は、私であって私でない。
「私といっても、広く、人間の1人である」と思うようになる。
そういう「私」が、加齢とともに、よくわかってくるようになる。
あるいは「私の経験していることは、だれでも経験していること」と思うようになる。

 たとえば私が、性的な夢想にふけったとしよう。
若い女性と、性的行為を楽しむような夢想でよい。
しかしそうした夢想というのは、だれしも経験するものである。
またそれは私であって私でない部分が、勝手に私にそうさせるもの。
平たく言えば、本能。
その本能に応じて、ホルモンが分泌され、それに応じて脳が勝手に反応する。
これには、教師も、聖職者も、僧侶もない。
校長だって、副校長だって、同じ。
そういうことが、自分でもわかってくる。

 となると、私が性的な夢想をするのは、ごく自然な行為ということになる。
恥ずかしく思わなければならないようなことではない。
隠さなければならないようなことでもない。

 だったら、それをすなおに書けばよい。
私のこととしてではなく、人間のこととして書けばよい。
……ということがわかってくるようになる。
それがわかってくれば、それについて書くことについては、時効が成立した
ということになる。

●自己開示

 話はそれるが、自己開示についても一言、触れておきたい。

 もともと自己開示というのは、相手との親密性を知るバロメータとして
利用される。
浅い身の上話から、深い身の上話まで、いろいろある。
深い身の上話までできるということは、あなたはその人と、親密度が高いという
ことになる。

 結婚当初、私はワイフにすら、実家の話や、親の悪口などは話さなかった。
つまり自己開示できなかった。
わかりやすく言えば、私はワイフにすら、心を閉じていた。

 が、やがて、私はワイフに実家のことや、親のことを話すようになった。
私の心には、無数の傷がついていた。
それについては前にも書いたので、ここでは省略するが、それを話すようになったのも、
結婚してから数年後のことである。

●傷(トラウマ)

 私は若いころから、そして今に至るまで、実家の問題がからんでくると、精神状態
がたいへん不安定になる。
心が緊張し、ささいなことで、カッとキレやすくなる。
おまけにいじけやすく、ひねくれたものの考え方をするようになる。
子どもじみた行動に出ることもある。
家を出て、そのあたりを徘徊したりする。

 が、ありのままをワイフの語ることによって、そうした症状は、かなり軽くなった。
つまり自己開示するということには、そういう意味も含まれる。

●暴露

 こうした記憶の時効は、そのつど、いつも感ずる。
(この話は書くべきでない)と思うことは、しばしばある。
あるいは迷う。
「まだ時効になっていないぞ」と。
しかしそのとき、別の心が働く。
「今しか、書くときがないぞ」と。
そして同時に、こうも思う。
「お前は、お前であって、お前ではない部分がある。
どうしてそれを書くのに、ためらうのか」と。

 さらに言えば、自己開示をすればするほど、その先に、自分の姿が、より
鮮明に見えてくることがある。
が、抵抗がないわけではない。

 先日も1人、こう言った人がいた。
「自分のことをそこまで暴露して、抵抗はありませんか?」と。
私の立場で言うなら、「そこまで暴露して、何になるのか?」ということになる。
中には興味本位で読んでいる人もいるだろう。
また私の内情を探るために読んでいる人もいるだろう。
それにみながみな、私に対して、好意的とはかぎらない。
私の文章を読みながら、「このヤロー!」と怒っている人もいるはず。

 私が書いたことで、実際、「どうして私のことを書いたか!」と抗議してきた人も
いる。
(それはその人のまったくの誤解だったが……。)
怒ってくる人はまだよいほう。
そのまま私から黙って去っていく人もいる。

 どんどんと自己開示してくと、どうしてもそこに私の近親者たちが登場する。
いろいろな技法を用いるが、読む人によっては、その人のこととわかってしまう。
それが壁となって、私の前に立ちはだかる。

 が、自己開示を重ねるたびに、私はその(上)に出るような気分も、これまた
否定しがたい。
それはちょうど山登りに似ている。
下から見ると低いと思われるような山でも、登ってみると、意外と視野が広い。
遠くまで見える。

 その歓びが、私をして、またつぎの自己開示へと結びつけていく。

●記憶の時効

 刑法の世界には、時効というのがある。
正式には、公訴時効という。
刑期の長さによって、時効の期間が異なる。
死刑にあたるような罪では、25年。
無期懲役または禁錮にあたるような罪では、15年。
軽い、拘留または科料にあたるような罪では、1年などなど。

 記憶にも、同じような時効がある。
(人に話したくない話)でも、そのときが来れば、自然と話せるようになる。
そしてその時効は、加齢とともに、ますます短くなっていく。
今の私がそうだ。
本来の時効など待っていたら、それこそその前に、私の人生が終わってしまう。
私は私。
私はありのままの「私」を書く。
理由は、簡単。
私は私であって、私ではない。
1人の人間。
「私」のことをありのままさらけ出すということは、「人間」をさらけ出すこと。

そういう私をまちがっているというのなら、それを言う人のほうが、まちがっている。
仮にまちがっているとしても、それは「私」ではない。
「人間」がまちがっているということになる。

 それともあなたは、思わぬところで腸内ガスを出し、あたふたしたという経験が
ないとでも言うのだろうか。

 ……ということで、「記憶の時効」について書いてみた。
とくに私のように、どこか心の開けないような人は、思い切って何でも人に
話してみるとよい。
書いてみるとよい。
それによって心をがんじがらめにしているクサリを解き放つことができる。
そういう効果もある。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 自己開示 記憶の時効)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●パレスホテル掛川

+++++++++++++++++

今夜は講演のついでに、パレスホテル
掛川に泊まった。
来年、同じホテルで、O地区医師会の
講演会がある。
その会に、講師として招かれている。
その下見も兼ねて、泊まった。

楽天を通して予約したら、2人分で
1万円。
禁煙・ダブルベッドという部屋である。

料金が料金だから、ぜいたくは言えない。
が、その料金で評価するなら、星は4つ。
先日、千葉市で泊まったホテルは、最悪。
そのホテルでは最高料金のダブルベッド
ルームに宿泊した。
が、トイレ・バス・寝室を含めても、
全体で7〜8畳程度の広さ。
窮屈というより、息が詰まった。

そのホテルと比べたら、パレスホテル
掛川は、ゆったりとしている。
1階にはレストランがあるし、9階には
大浴場もある。

土曜日の夜ということもあって、駐車場は
車でいっぱい。
それだけ人気があるということか。

講演が終わったのが、午後9時少し前。
帰りに近くのコンビニで夕食を買って、
ワイフと2人で食べた。
おいしかった。

帰りは、S小学校のYU先生がコンビニまで
送ってくれた。
わざわざ大回りして、ライトアップされた
掛川城を見せてくれた。
そういうやさしさが、うれしい。
掛川はいつ来ても、心温まる町だ。

+++++++++++++++++++

●掛川で……

 昨夜は部屋の温度調整をまちがえたようだ。夜中過ぎに、暑くて何度も目が
さめた。
見ると、ヒーターのスイッチが、「強」になっていた。
あわてて「弱」にしたあと、窓を少し開けた。
それからは朝まで、ぐっすりと休むことができた。

 私たちが泊まったのは、501号室。
東向きの部屋で、日の出とともに、オレンジ色の朝日が、部屋の中に飛び込んできた。
もう一枚、内側に、ふすま様のしきりがあったが、それを閉め忘れた。
それでそのまま目が覚めた。

 服を着替えたあと、いつもにない疲れを感じた。
頭も重い。
しかしこの重さは、動き出せば消える。
薬をのむまでもない。
そのとき今度の、秋田での講演が心配になった。
秋田では、どこかの旅館に一泊してから、講演をすることになっている。
「こんな状態では、講演などできないな」と思う。

●ホテルの窓から

 窓の向こうを、たった今、新幹線が走り去って行った。
やはり朝日を浴びて、キラキラと光っていた。
遠くに低いが、とんがった山々が見える。
その山を横切って、何十本もの送電用の鉄塔が見える。
電力の大動脈になっているらしい。
「どこまで行っているのだろう」と、目で追ってみたが、手前のマンションで
その先は見えなかった。

 静かな朝だ。
眼下の木がさわさわと風に揺れているのを見なければ、一枚の写真のよう。
あとはときどき、鳥が黒いシルエットのまま、水色の空を横切っている。
窓からは相変わらず冬の冷気が入り込んでいるが、「寒い」と感ずるほどではない。
ここ数日の雨で、空気が洗われた。
が、まだまだ南の暖気のほうが優勢のようだ。
11月も半ばというのに、この暖かさは何だろう。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●知的生命体

 先日、ある本を読んだ。
それには、こうあった。
現在、文明が存在する確率は、銀河系(銀河系だぞ!)、
20個の銀河につき、1個分程度だそうだ(「宇宙と地球を動かす科学の法則」(PHP))。
つまりこの地球に、われわれ地球人という知的生物(?)がいるということは、
この銀河系には、ほかに文明を築くほどの知的生物は、ほぼいないということになる。
が、それでも、この大宇宙には、数千億個の銀河系があるから、全体では、
約50万個以上の知生体文明があることになるという。

 50万個以上! (すごいね!)

 この計算の基礎になっているのが、ドレイクの法則。
つまり「銀河文明の法則」と呼ばれているものだそうだ(同書)。

N=RfL

R; 銀河系で1年間に生まれる星の数
f;1つの星のまわりに知生体が生まれる確率
L; 知生体の文明が存続する年数

 が、この計算には、重大な欠陥がある。
称して、「自滅公式」。
それを組み込んでいない。

 人間が知的生物かどうかという議論はさておき、知的生物は、その進化の過程で
エネルギーを大量に消費するようになる。
そのとき環境を破壊する。
結果、知的生物は、そのまま自滅する。

 そこで知的生物が、宇宙へ飛び出す確率となると、きわめて少ない……というより、
惑星の大きさに比例することになる。
それが「自滅公式」ということになる。

 惑星が小さければ小さいほど、環境破壊が起こりやすくなる。
そのため知的生物がいたとしても、宇宙へ飛び出すほどまで、じゅうぶん進歩する
前に、自滅してしまう。
一方、惑星が大きければ大きいほど、環境破壊は起こりにくくなる。

 では、この地球は、どうか?
それには、隣の火星と比較してみればよい。

 かつてはあの火星も、地球と同じような、水の惑星であったという。
それが何らかの理由で、現在のような火星になってしまった。
人類と同じような知的生物がいて、進歩の過程でやはり、環境を破壊してしまった。
……という説もある。

 火星の直径は、地球の半分程度。
体積は10分の1。
その分だけ、大気の層も薄かったにちがいない。

 そこで私が考えた、「自滅公式」。

J=Ax(惑星の直径)

 自滅までの年数(J)は、(惑星の直径)に比例する。
Aは係数だが、地球人と火星人の自滅までの年数を入れて計算すれば、求まるはず。
たとえばこの地球人が新石器時代をやっと抜け出たのが、今から約5500年前。
この先、約数百年で滅亡するとして、長くても6000年。

 この6000年という年月は、宇宙的時間の中で見れば、星がまばたきする
一瞬より短い。
つまりこの大宇宙に現在、50万種類の知的生物がいるといっても、それは一瞬
にすぎない。
一瞬に生まれ、つぎの一瞬には、滅亡する。
この公式をドレイクの公式に上乗せすると、知的生物どうしが、たがいに接触する
などということは、計算上、さらにありえないということになる。

●知的生命体

 が、現実には、UFOは存在する。
(私とワイフは、巨大なUFOを目撃している!)
ということは、それに乗っている宇宙人は、宇宙人というより、私たちの仲間、
もしくは同類とみてよい。

 が、これについても、あのホーキング博士は、こんな興味深い事実を、講演の中で
述べている。
「同時に、2つの知的生命体は共存しえない」と。

 仮に近辺に、2つの知的生命体が同居したとする。
その知的生命体は、どういう形であれ、他方を抹殺するまで、戦争を繰り返す、と。
となると、地球人と、あのUFOに乗っている宇宙人との関係を、どう考えたらよいのか。

 2つの知的生命体が、同時にこの太陽系という小さな世界で、誕生する確率は、ゼロ。
しかも2つの知的生命体が共存できるという可能性も、ゼロ。
しかし現実には、(あくまでも私の個人的な体験に基づくものだが)、宇宙人は近くに存在
する。
となると、そこから引き出される答は、ただひとつ。

 私たちがいうUFOに乗った宇宙人というのは、別の知的生命体ではなく、私たち自身、
もしくは、その仲間ということになる。

 もう少し詳しく「宇宙と地球を動かす科学の法則」(PHP)を、詳しく読んでみよう。
そこには、こうある。

「この100年間に人口は5倍以上に増加しているし、放出した炭酸ガスは大気中に、
1・5倍にもなっています。
このままいきますと、2050年には100億人に達し、大気中の炭酸ガスも、
400ppmに達すると言われています。
こうなると温暖化が進行し、海水の水位が上昇することになります。
その高さは100メートルに達するという説もあります」(同書、P35)。

「すべての星に生命の誕生する惑星が1つずつあるとすれば、図の式(後述)から
わかるように、0・05〜0・005程度となります。
これでは銀河系の中でたがいに通信できる知生体はありそうでないということに
なってしまいます。
人類はこの銀河の中で、唯一無二なのかもしれません」(P36)。

 が、その人類も、このままでは、文明を築いてから、「200年」で、滅亡しようと
している(同書)。

【ドレイクの公式】

銀河系で考えると、ドレイクの公式(N=RfL)により、

R;0・5
f;10億分の1
L;1000万〜1億
N=0・05〜0・005

 しかしたった「200年」(同書)では、どうしようもない。
「6000年」でも、どうしようもない。

 ……こう考えていくと、私たち人類が、こうしてこの地球上の存在していること自体、
奇跡中の奇跡ということになる。
が、その価値を、人類は、いまだに理解できないでいる。
私も含めてどの人も、そこに私がいて、あなたがいるということを、当たり前のように
考えている。
しかしこれほど、もったいないというよりは、恐ろしいことはない。
人類は、その奇跡を自ら、末梢しようとしている。
地球火星化という問題の前では、第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、ただの
小競(こぜ)りあい程度のものでしかない。

 では、どうするか?

 ドレイクの公式の中の(L)値を大きくするしかない。
文明の進化の速度を落としてでもよいから、人類の存続する年数を長くする。
長くしながら、その間に、人類は、より賢くなる。
現在のように、サルが核兵器をもったような状態で、人類が長く存続できると
考えるのには、無理がある。
あと10年もすれば、そこら中の国々が核兵器をもち、あちこちで、
戦争を始めるようになるかもしれない。
そうなれば、「200年」も、むずかしいということになる。

 さあ、みなさん、もっと賢くなろう!
自分で考える力を、身につけよう!
人類を救うために!
(少し大げさかな? 自分でもそれがよくわかっています!)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 知的生命体 宇宙人 知的生命 銀河系 ドレイクの公式)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●ウォルト・ディズニーの『クリスマス・キャロル』byジム・キャリー

+++++++++++++++++++++++++

ものすごい映画!
3D映画。
それが『クリスマス・キャロル』。
主演は、あのジム・キャリー。
映画で、ここまでで表現できるとは!、というのが、私の感想。
驚いた。
圧倒された。
感動した。
星は文句なしの5つ星。★★★★★。
書き忘れたが、先週見た、『路上のソリスト』は、星4つの、★★★★。

『クリスマス・キャロル』の前作も、よかった。
10年ほど前に、劇場で見た。
が、今度は、CG映画。
女性の細い髪の毛一本一本が、ゆるやかに風になびいていた。
雪がひとつひとつ、遠近感を保ったまま、表現されていた。
本当に、驚いた!

+++++++++++++++++++++++++

●CG映画

 CG映画、つまりコンピュータ・グラフィックス映画といえば、思い出すのが、
最近見た、『沈まぬ太陽』。
空港の向こうから旅客機が飛び立つシーンが、何度か出てきたが、みな同じ。
しかも離陸の仕方が、不自然。
右に急旋回しながら離陸していたが、あんな離陸の仕方はない。
「離陸」というよりは、「墜落」?
取って付け足したようなシーンだった。
(興味のある人は、『沈まぬ太陽』を見てみたらよい。)
つまりこのあたりに、日本映画とアメリカ映画の技術力の(差)がある。
その(差)を、改めて、見せつけられた。

 映画を観終わったあと、ワイフは、こう言った。
「哲学がちがうわね」と。
ひとつの筋が通った哲学が、矛盾なく、映画の中に流れている。
まわりを固める脇役も、うまい。
加えて音楽も、すばらしかった。
「人生はどうあるべきか」ということを、62歳になった私ですら、教えられた。

 ただし童心に返って観ること。
余計なお節介かもしれないが、一度、子どもの心になって観る。
それを忘れると、「何だ、こんな映画!」となる。
『クリスマス・キャロル』は、そういう映画。

(補足)

 クリスマス・キャロルの中のスクルージーは、だれの心の中にも住んでいる。
私の心の中にもいる。
あなたの心の中にもいる。

一方、貧しいからといって、その人が善人とはかぎらない。
裕福になったとたん、スクルージーになる人は、いくらでもいる。
たとえば政治家にしても、当初は高邁な精神でもって、その世界に入る人は多い。
しかし長い間政治にたずさわっている間に、少しずつ心がゆがんでくる……(?)。
そういう政治家は、少なくない。

 金権には、そういう魔力がある。
言い換えると、結果として、スクルージーはスクルージーになったが、ではだれが
スクルージーを、石をもって打てるかというと、それはだれにもできない。
「自分はあんなにひどい男ではない」と、スクルージーを軽蔑しながら、自分は自分で
優越感に浸る。
安心する。
そのために、そこにスクルージーがいる。

 私は映画を観ながら、ときどき自分の過去を見せつけられているように感じた。
「私も、ああだったなあ」と。
同時にまた、「私のクリスマスも似たようなものだ」とか、「私が死んでも、葬式は
あんなものだろうな」とか、思った。
私の人生は、さみしいものだった。
今も、さみしい。
これから先も、同じようなものだろう。
クリスマスといっても、ここ10年ほどは、家族でささやかに言わう程度。
ときどきワイフと2人きりで祝うこともある。

 そんなことをワイフにポツリと話すと、ワイフは、こう言った。
「あなただって、しようと思えば、いつだってできるわよ」と。
「クリスマスに、生徒や親たちをみな、招待すればいいのよ。みんな来てくれるわよ」と。

 そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
たしかに来てはくれるだろう。
しかしそんなことで、私の心は満たされるのだろうか。
立場を利用しているだけ。
またそんなことのために、みなを利用したくない。
相手のほうから、自然な形で、「メリー・クリスマス!」と言ってほしい。
が、それこそ、わがままというもの。

 そこで私は決めた!

 今年からは、私のほうから、みなにプレゼントを渡したり、みなの家に
行ってやろう、と。
つまり「他人に愛されたれかったら、まず他人を愛する」ということ。
他人を愛することもできないような人が、他人に愛されるはずがない。
クリスマスにしても、そうだ。

 映画『クリスマス・キャロル』を観ながら、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●崩れた人格

++++++++++++++++++++++

私はS氏(当時70歳くらい)を、「詐欺師」と呼んでいた。
預かった香典をネコババする程度のことは当たり前。
自分の土地を、二重売り、三重売りするなどということも朝飯前。
二束三文の骨董品を、「江戸時代のもの」と言って、人に平気で売りつける。
しかもそれを、甥や姪に売りつける。
お金がなくなると、妻の老齢年金手帳を担保に、借金をする。
ウソにウソを重ねるというより、ウソを言いながら、
それをウソとも思っていない。
そのうち愛人との間にできた子どもまで、出てきた!

しかしそう書くからといって、何もS氏を個人攻撃する
つもりはない。
個人的には、S氏に興味はなかったし、関係も浅いものだった。
話題にするのも、不愉快。

が、心理学的には、たいへん興味がある。
S氏ほど、まともで、その一方で、人格的に崩れた人は、
そうはいない。

一例をあげる。

S氏には、愛人がいた。
その愛人をある日自宅へ連れてきた。
そして自分の妻に、こう言い放った。
「今日から、この女も、この家に住む。
めんどうみてやってくれ!」と。
S氏が、40歳を少し過ぎたころのことだった。

++++++++++++++++++++++

●非常識

 一事が万事というか、S氏には、S氏なりの一貫性がある。
けっして悪人ではない。
悪人ではないが、結果としてみると、詐欺まがいのことばかりしている。
が、その意識がない。
人をだましたという意識そのものが、ない。

 自宅へ愛人を連れてきたときも、そうだ。
S氏にすれば、友人(?)のめんどうをみるくらいの軽い気持ちだったかもしれない。
もともと家父長意識の強い人で、妻について言えば、自分の奴隷のようにしか
思っていなかった。

 だからS氏にすれば、親しい(?)友人が困っているのを助けるということになる。
そして妻は、そういう夫を手伝って、当然ということになる。
しかし全体としてみると、そういった行為そのものが、常識をはずれている。
つまり非常識。

 あとは推して量るべし。
ほかにもいろいろあるが、ここではそれについて書くのが目的ではない。
こうした非常識、もしくは非常識性は、どうして生まれるか。
ここでは、それについて、考えてみたい。

●人格の完成度 

 「人格の完成度」については、たびたび書いてきた。
EQ(Emotional Intelligence Quotient)論ともいう。
直訳すれば、「情動の知能指数」ということになる。

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説くEQ論では、
主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 一般的には、(1)自己管理能力が低く、(2)他者との良好な人間関係が築けず、(3)
他者との共感性が低い人のことを、「自己中心的な人」という。

 わかりやすく言えば、より自己中心的な人を、人格の完成度の低い人という。
反対に、より利他的な人を、人格の完成度の高い人という。
自己中心性が肥大化した人のことを、「自己愛者」という。

 しかしS氏のようなケースは、特殊。
あまり例がない。
かといって、見た目には、どこにでもいるような、ごくふつうの男性である。
痴呆性を感ずることもない。
反応もそれなりに、早い。
口も達者。
しかしどこかちがう。
おかしい。

●思慮深さ

 最大の特徴は、思慮深さがないということ。
ものの考え方が、短絡的で、演歌風。
(「演歌風」というのは、演歌の歌詞をそのまま口にすることが多いということ。)
そのためものの言い方も、唐突でぶっきらぼう。
もちろん繊細な会話はできない。
またそういうセンスは、もとから持ち合わせていない。

 それについては、血栓性の脳梗塞を起こしたためと説明する人もいる。
しかしS氏について言えば、30代、40代のころから、そうだった。
愛人を家に連れ込んできたときも、S氏は、40歳を少し過ぎたときのことだった。

 ではなぜ、S氏はS氏のようになったか。

 私はいくつかの点で、気になっていたことがある。
ひとつは、S氏の周辺には、文化性を思わせるものが何もないということ。
本や雑誌など、読んだことさえないのでは?
家人の話では、テレビのドラマさえ見たことがないということだった。
が、最大の特徴と言えば、思慮深さそのものの欠落ということになる。

 自己中心的で、わがまま。
常識といっても、一昔前の常識。
会話の中にも、「お前は男だろが……」とか、「女のくせに……」という言葉が
よく出てくる。
が、何と言っても常識そのものが、狂っている。

 預かった香典をネコババしたときも、そうだ。
同居している息子がそれをとがめると、こう言ったという。
「親が、先祖を守るために、甥の金を使って何が悪い!」と。

 まるで罪の意識がない。
ないというより、独特の論理の世界で生きている。

●非常識性

 こんな話を読んだことがある。

 今でもK国から脱出してくる人は、後を絶たない。
「脱北者」と呼んでいる。
そういう人たちが韓国へ逃れてくると、一時的に、そういった人たちを収容し、教育する
施設に入れられる。
そこでのこと。
脱北者たちは、散歩に出ると、近くの畑から、野菜や果物を平気で盗んできてしまう
という。
「盗む」といっても、その意識はないのかもしれない。
K国の中では、そうした食物は、国民みなのものという考え方をするらしい。

 つまり常識などといったものは、その時代、その民族、国民によってみなちがう。
決まった常識などというものは、ない。

 愛人を家に連れてきたというS氏だが、そういった話は、明治時代や大正時代には、
あちこちであった。
お金に余裕がある人は、愛人に別宅を与えて、そこに住まわせたりした。

●常識論

 が、今では、それは非常識。
ふつうの常識のある人なら、そういうことはしない。
……と、断言したいが、そうはいかない。
「私は常識的」と思っている人でも、別の場面では、結構非常識なことをしている。
先にも書いたように、「常識」などというものは、その時代、その民族、国民に
よってみなちがう。

では、こうした非常識性と闘うためには、どうするか。
それについて書く前に、もう一歩、話を掘りこんでみる。
というより、人間は、本来、そういう動物であるという前提で考える。

人間が今のような人間になったのは、ここ1000年とか2000年の間ではないか。
それ以前の人間には、道徳も倫理もなかった。
さらに今から5000〜6000年前までの新石器時代となると、人間は人間という
より動物に近かった。

 人間は本来的に、S氏のような人間であると考える。
よい例が、戦国武将と呼ばれる人たちである。
NHKの大河ドラマに出てくる武将たちを観ていると、結構、思慮深い人物に描かれて
いる。
が、本当にそうだろうか。
そう考えてよいのだろうか。

 「武将」というためには、同時に平気で人を殺せる人でなければならない。
(人を殺す)という時点で、いくら名君と呼ばれようが、その人の人間性は、
動物と同じと考えてよい。
(動物だって、そんなことはしない!)
よい例が、織田信長ということになる。
徳川家康だって、そうはちがわない。
ただ徳川家康にしても、その後、300年という年月をかけて、徹底的に美化され、
偶像化された。
徳川家康に都合の悪い話は、繰り返し、末梢された。
その結果が今である。

 「盗(と)るか、盗(と)られるか」という時代にあっては、きれいごとなど、
腸から出るガスのようなもの。
きれいごとを並べていたら、その前に自分が殺されてしまう。
S氏の非常識など、戦国武将の前では、何でもない。
ただの冗談ですんだはず。

●では、どうするか

 あなたの周囲にも、S氏のような人はいるかもしれない。
似たような話を耳にしているかもしれない。
そこで大切なことは、そういう人がいたとしても、自分から切り離してしまっては
いけないということ。
「他山の石」もしくは、「反面教師」として、自分の中でそれを消化する。
その第一が、「思慮深くなる」ということ。

 S氏についても、総じてみれば、「思慮深さがない」。
すべては、そこへ行き着く。
もしS氏がもう少し思慮深ければ、S氏はもっと別のS氏になっていたかもしれない。
わかりやすく言えば、人格の完成度にしても、それはあくまでも(結果)。
日ごろから思慮深ければ、人格の完成度は、自ずと高くなる。
そうでなければ、そうでない。

 で、さらにその思慮深さは何で決まるかといえば、(思考を反すうするという習慣)
によって決まる。
それについては、数日前に書いたばかりだから、ここでは簡単にしておきたい。

 つまり自分の考えを、何ども頭の中で反すう(=反芻)するということ。
そしてそれは能力の問題ではなく、習慣の問題ということ。
その習慣を身につける。
それがその人の人格の完成度を、長い時間をかけて決める。

●補記

 同じ命を授かり、同じ時代を生きながら、そこに真理があることにさえ気づかず、
あえてそれに背を向けて生きている……。
私には、S氏という人がそういう人にしか、思えない。
「崩れた人格」というタイトルで、このエッセーを書き始めたが、「かわいそうな人」
というタイトルでもよい。

 さらに興味深いことは、そういうS氏でも、「いい人だ」と評価する人もいるということ。
まったくの悪人かというと、そうでもない。
もともと気が小さい人だから、大きな悪事を働くということはない。
陰に隠れて、コソコソと動き回っているだけ。

 それにどこか「寅さん」的なところがあって、憎めない。
香典をネコババされた人も、「あいつのやりそうなこと」と言って、笑ってすませている。
愛人を連れ込まれた妻にしても、今ではそれを笑い話にしている。
中に偽の骨董品を買わされて怒っている人もいるが、金額はたいしたことない。

 そうそう言い忘れたが、そのS氏は、ごく最近(09年)、他界したという。
久しぶりに知人に電話すると、そう教えてくれた。
享年、80歳。
私には強烈な印象を残して、この世を去っていった。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●世界は今……

++++++++++++++++++++

激動する世界!
いいのか、このままで!

++++++++++++++++++++

息子(二男)の話では、こうだ。

今、息子は、スイスにあるCERN(量子加速器)の
分析用のコンピュータのソフトウェアを開発している。
が、スーパーコンピュータでも、データを処理できないほど
情報量が多いそうだ。
そこでアメリカは、アメリカを中心として、OSG(Open Science Grid)
という組織体(コラボレーション)を組織しているという。
わかりやすく言うと、各大学などがもっている大型コンピュータ、
約1万台をつないで、スーパーコンピュータ以上の働きを
させるというもの。

この方法は、それぞれの研究者にとっても、つごうがよい。
自分の研究室にいながらにして、最先端の情報を手にすることができる。

そのEU版(バージョン)が、「EG」という組織体だそうだ。
息子たちが開発したソフトウェアを、EGに移植するという
話が出てきた。
それで今度、息子は、もうひとりの同僚といっしょに、スイスへ
向かうという。

世界は今、猛烈な勢いで、進歩している。
息子の話を聞きながら、そう感じた。

しかも驚いたことに、10人ほどのグループで、ソフトウェアを
開発しているそうだが、インディアナ大学にいるのは2人だけ
という。
あとはニューヨークとか、まったく別の地域に住んでいて、
そこで仕事をしているという。
「毎日、SKYPEなどで連絡を取り合っているから、不便は
ない」とのこと。
そう言っている息子も、週のほとんどを自宅で仕事をしている。

「お前のような人間が、アメリカで働いているということ自体、
日本にとっては、大きな損失なんだよナ」と言うと、息子は、
ポツリとこう言った。
「だって、日本には、ぼくができるような仕事はないから」と。

日本はいつの間にか、ここまで後れてしまった。
どうしようもないほど、後れてしまった。
息子にさえ、バカにされる、そんな国になってしまった。
小さな世界に閉じこもったまま、チマチマとたがいに出世競争
ばかりしている。
その結果が、「今」ということになる。

しかしこうした現状を、いったい、どれだけ多くの日本人が知って
いるだろうか。
息子の話によれば、家庭で使うコンピュータにしても、日本製はもう
ないそうだ。
ほとんどが中国製か韓国製という。

で、おととい見た、ディズニーの『クリスマス・キャロル』の話になった。
それについても、こう言った。
「あの映画もね、インドの会社が、ヨーロッパの会社に発注して、それを
アメリカで編集してできたんだよ」(注:内容は聞き覚えなので不正確)と。
映画も、世界的規模で制作されている。
そんな時代になった。

今、世界中が、溶けた鉄の固まりのようになって、ルツボの中で、ぐるぐると
回っている。
そんな中、いまだに「子どもに英語教育は必要ない」とか、「武士道こそ、
日本が誇るべき精神的バックボーン」とか、そんなことを説いている学者が
多いのには、驚かされる。
このままでは、日本は、再び、極東アジアの島国に逆戻りしてしまう。

いいのか、日本!
このままで!
息子とのSKYPEを切ったとき、私は、そう感じた。


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●希望

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希望があれば、まだ何とか生きられる。
その希望にしがみついていけば、まだ何とか生きられる。
希望が、私たちを前向きに、ひっぱってくれる。

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●講演活動

 「あなたにとって希望とは何か」と聞かれたら、今の私は、「講演活動をすること」と
答える。
今は、その講演活動が楽しい。
見知らぬ土地へ行って、見知らぬ人に会う。
そして最近は、できるだけその土地のどこかの、旅館やホテルに泊まるように
している。
それが楽しい。

 今日も、沼津市の女性から、講演依頼が入った。
喜んで引き受けた。
このところ私の心が伝わるのか、遠方からの依頼が多くなった。
こういうのを心境の変化というのか。
ほんの少し前までは、県外からの講演については、ほとんど断っていた。
昨年(08年)は、北海道からの講演依頼も、2件あった。
(もちろん断ったが……。)

 講演が1本入ると、その日に備えて体力と知力を整える。
今までの講演の中で、もっとも長かったのは、4時間。
が、今は、4時間は、とても無理。
自分でもそれがよくわかっている。

 知力も整える。
講演というのは、ボケた頭では、できない。
そんな頭で講演したら、わざわざ聞きに来てくれた人に、申し訳ない。
つまりそうした(緊張感)が、私を未来へと引っ張ってくれる。

 で、明日はK市まで行って、講演をしてくる。
夜7時半〜からの講演会である。
ときどき、そういう講演がある。
「そういう講演」というのは、夜の講演会をいう。
そういう時間帯にするのは、仕事をもっている人のため。

●孤独vs希望

 そこで希望とは、何か?
あえて今の心境をもとにして考えると、(孤独)の反対側にあるのが、(希望)と
いうことになる。

 講演の依頼があるというのは、まだ人の役に立てるということ。
私の話を聞いてくれる人が、まだいるということ。
そういう(人)がいると想像するだけで、孤独が癒される。
つまりそれが(希望)ということになる。

 今は、その希望にしがみついて生きていく。
細い糸かも知れないが、その糸が切れたら、おしまい。
私はそのまま(孤独)の世界へと、落ちていく。

 が、講演には、もうひとつの意味がある。

●真理の探究

 歌手が歌を歌っているのを見たりすると、ときどき、こう思う。
「いいなあ、あの人たちは……」と。
ステージにあがって、いつも同じ歌を歌えばよい。
それで観客は喜んでくれる。
もちろんそれなりの準備とか苦労は必要かもしれない。

 しかし講演のばあいは、同じ話は、できない。
私もしたくない。
毎回、ちがった話をしたいし、ちがった話をする以上、さらによい話をしたい。
そのためには日々の鍛錬あるのみ。
その鍛錬を通して、より「真理」に近づく。

 もちろんそのためには、本を読んだり、考えたりする。
文を書いたりする。
その過程が楽しい。
とくにその向こうに、キラリと光るものを発見したときは、宝石を見つけたときの
ように、うれしい。
その光るものの向こうに、私の知らなかった世界が広がっている。

 講演というのは、あくまでもその(結果)でしかない。

●緊張感

 その講演だが、ときどき1年先とか、1年半先の依頼があるときがある。
今から思うと、そのときどうしてそんなことで迷ったと思うのが、こんな
ことがあった。

 ちょうど50歳になったころ、1年先の講演依頼があった。
そのときのこと、私はこう思った。
「1年先だって?」「そのときまで、私は生きているだろうか?」と。

 それからもたびたび、そういう講演依頼があった。
が、やがてそういう思いは弱くなり、今では1年先の講演でも平気で受けるように
なった。
反対に、「どんなことがあっても、そのときまで元気でいよう」と心に誓う。
そのために体力づくりと、知力の維持に努める。
大きな講演会のばあいは、その1週間ほど前から、運動量をふやす。
体調を整える。
先にも書いたが、こうした一連の緊張感が、私を前へ、前へと、引っ張っていく。

 言うなれば、馬の前につりさげられたニンジンのようなもの。
「いつかは食べられるかもしれない」という思いをもって、前に進む。
 
だから今の私には、うしろを振り向いている暇はない。
向きたくもない。
そうでない人たちは、そういう私を見て、「親戚づきあいが悪い」とか、
「先祖を大切にしない」とか、言う。
しかし今の私には、そういう考え方は、みじんもない。

●宗教観

 こんなことを言うと、親戚の人たちは、顔を真っ赤にして怒るだろう。
しかし私はこの1年の間に、仏壇を開いて、手を合わせたのは一度しかない。
信仰心といっても、そういう信仰心は、私にはない。
仏教徒かキリスト教徒かと聞かれれば、心は、キリスト教徒のほうに、近い。

クリスマスは、毎年祝うが、釈迦の誕生日など、祝ったこともない。
それに「寺」というと、どこもジジ臭くていけない。
(自分がジジイのくせに、そういうことを言ってはいけないのだが……。)
私の年齢になると、四国八八か所巡りというのを始める人もいる。
が、今の私には、とても考えられない。
(そのうち、世話になるかもしれないが……。)

●直送+散骨

 とは言っても、死に方を考えていないわけではない。
しかし私は、直送(病院から直接、火葬場で火葬)を望む。
葬式はまったく、不要。
みなが集まって、おいしいものでも食べてくれれば、それでよい。
で、そのあと、遺骨は、散骨でも何でもよい。
庭の肥料にしてくれても、一向に構わない。

 大切なのは、今を懸命に生きること。
悔いが残らないように生きること。
生きて、生きて、生きまくること。
そこに(死)があるとしても、そのときまで、前に向かって生きること。
言うなればそのとき残る私の死体は、ただの燃えカス。
そんなものを大切にしてくれても、意味はない。
うれしくもない。

 自信はないが、(希望)があれば、それは可能。
いつまでも前向きに生きる。
それが可能。
大切なことは、希望を絶やさないこと。

●希望論

 その希望は、向こうからやってくるものではない。
自ら、作り出すもの。
努力によって、作り出すもの。
よく「私には生きがいがない」とこぼす人がいる。
しかしそれはその人の責任。
……というのは、少し言い過ぎということはわかっている。
しかし生きることの、本当のきびしさは、このあたりにある。

 だからエリクソンは、「統合性」という言葉を使って、こう説明した。
「人生の正午と言われている満40歳(ユング)から、その準備をせよ」と。
つまり40歳ごろから、老後の生きがいとなるものを、準備せよ、と。
(すべきこと)を発見し、その(すべきこと)の基礎を作っていく。
そして老後になったら、その(すべきこと)を、現実に(する)。
それを統合性の確立という。

 何度も書くが、「退職しました。明日からゴビの砂漠で、柳の木を植えてきます」
というわけにはいかない。
そんな取ってつけたようなことをしても、長つづきしない。

 で、統合性の確立には、ひとつ大切な条件がある。
無私、無欲でなければならないということ。
功利、打算が入ったとたん、統合性の確立は、霧散する。

●無への帰着

 釈迦も「無」を説いた。
あのサルトルも、「無の概念」という言葉を、最後に使った。
私から「私」を徹底的に取り去る。
その向こうにあるのが、「無」。

 もし「死の恐怖」「死という不条理」と闘う方法があるとすれば、それは
徹底的に、私から「私」を取り除くこと。
「私」がある間は、死は恐怖であり、死はあらゆる自由をあなたから、奪う。
が、「私」がなければ、あなたはもう、何も恐れる必要はない。
失うものは、もとから、何もない。

 ……が、これはたいへんなこと。
私のような凡人は、考えただけで、気が遠くなる。
はたして、それは可能なのか。
ひとつのヒントだが、昨年亡くなった母は、私に、こんなことを教えてくれた。

 元気なときは、あれほど、お金やモノにこだわった母だが、あるとき私に
こう言った。
「お金で、命は買えん(買えない)」と。

 それまでの母はともかくも、私の家に来てからの母は、まるで別人のように、
穏やかで静かだった。
やさしく、従順だった。
その母が、そう言った。
そして死ぬときは、身のまわりにあるものと言えば、わずかばかりの洗面具と、
食器類、それに何枚かの浴衣だけだった。

 母は母なりに、「無」の世界を作りあげ、その中で静かに息を引き取った。

●希望論

 では、最後にもう一度、希望とは何か、それを考えてみる。
私は先ほど、「希望とは、向こうからやってくるものではない。
自ら、作り出すもの。
努力によって、作り出すもの」と。

しかしここでいう希望というのは、ある意味で、世俗的な希望をいう。
「宝くじが当たるかもしれない」という希望と、それほどちがわない。
となると、真の希望とは、何かということになる。
それはあるのか。
またそれを自分のものにするのは、可能なのか。

 が、ここであきらめてはいけない。

 旧約聖書にこんな説話が残っている。
こんな話だ。

 ある日、ノアが神にこう聞く。
「神よ、どうして人間を滅ぼすのか。
滅ぼすくらいなら、最初から完ぺきな人間を創ればよかった」と。
それに答えて神は、こう言う。

「人間は努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 つまり人間は努力しだいで、神のような人間にもなれるが、そうでなければ、
そうでない、と。
それが「希望」と。

 神とは言わない。
しかし神のような人間になれた人は、自らの崇高さに、真の喜びを見出すかも
しれない。
この世のありとあらゆるものを、許し、受け入れる。
もちろんそこにあるのは、永遠の命。
死の恐怖を感ずることもない。
おおらかで満ち足りた世界。
私たちは努力によって、その神に近づくことができる。
希望といえば、それにまさる希望は、ない。

 言いかえると、どんな人にも希望はある。
希望のない人は、いない。
しかもその希望というのは、あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけて
もらうのを、静かに待っている。
そしてひとたびそれを知れば、あなたは明日からでもその希望をふところにいだきながら、
前向きに生きていくことができる。

 ……ということになる。
もちろん私はまだそんな世界を知らない。
「そこにそういう世界があるかもしれない」というところまではわかるが、そこまで。
あくまでも私の努力目標ということになる。

 ともあれ、生きるには、希望が必要。
希望さえあれば、何とか生きていかれる。
が、希望がなくなれば、いかに世俗的な欲望が満たされても、そこに待っているのは、
むなしさだけ。
それがふくらめば、絶望。
それだけは確かなようだ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 希望論 希望とは 私の希望 講演 真の希望 私にとっての希
望)

+++++++++++++++++

●価値観の転換(ライフサイクル論)

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(したいこと)から(すべきこと)へ。
中年期から老年期の転換期における、
最大のテーマが、これ。
ユングは、満40歳前後を、『人生の
正午』と呼んだ。
この年齢を過ぎると、その人の人生は、
円熟期から、統合期へと向かう。
ユングは、『自己実現の過程』と位置
づけている。


それまでの自分を反省し、では自分は
どうあるべきかを模索する。
事実、満40歳を過ぎるころになると、
(したいこと)をしても、そこにある種の
虚しさを覚えるようになる。
「これではいけない」という思いが、より強く
心をふさぐようになる。
同時に老後への不安が増大し、死の影を
直接、肌で感ずるようになる。


青春時代に、「私とは何か」を模索するように、
中年期から老年期への過渡期においては、
「私の使命とは何か」を模索するようになる。
自分の命の位置づけといってもよい。
そして(自分のすべきこと)を発見し、
それに(自分)を一致させていく。
これを「統合性の確立」という。


この統合性の確立に失敗すると、老年期は
あわれで、みじめなものとなる。
死の待合室にいながら、そこを待合室とも
気づかず、悶々と、いつ晴れるともない
心の霧の中で、日々を過ごす。


ただ、中年期、老年期、その間の過渡期に
しても、年齢には個人差がある。
レヴィンソンは、『ライフサイクル論』の
中で、つぎのように区分している
(「ライフサイクルの心理学」講談社)。


45歳〜60歳(中年期)
60歳〜65歳(過渡期)
65歳〜   (老年期)


日本人のばあい、「自分は老人である」と自覚
する年齢は、満75歳前後と言われている。
また満60歳という年齢は、日本では、
定年退職の年齢と重なる。
「退職」と同時に発生する喪失感には、
相当なものがある。
そうした喪失感とも闘わねばならない。


そういう点では、こうした数字には、
あまり意味はない。
あくまでも(あなた)という個人に
あてはめて、ライフサイクルを考える。
が、あえて自分を老人と自覚する必要はないに
しても、統合性への準備は、できるだけ
早い方がよい。
満40歳(人生の正午)から始めるのが
よいとはいうものの、何も40歳にかぎる
ことはない。


恩師のTK先生は、私がやっと30歳を過ぎた
ころ、こう言った。
「林君、もうそろそろライフワークを
始めなさい」と。


「ライフワーク」というのは、自分の死後、
これが(私)と言えるような業績をいう。
「一生の仕事」という意味ではない。


で、私が「先生、まだぼくは30歳になった
ばかりですよ」と反論すると、TK先生は、
「それでも遅いくらいです」と。


で、私はもうすぐ満62歳になる。
「60歳からの人生は、もうけもの」と
考えていたので、2年、もうけたことになる。
が、この2年間にしても、(何かをやりとげた)
という実感が、ほとんど、ない。
知恵や知識にしても、ザルで水をすくうように、
脳みその中から、外へこぼれ落ちていく。
無数の本を読んだはずなのに、それが脳の
中に残っていない。
残っていないばかりか、少し油断すると、
くだらない痴話話に巻き込まれて、
心を無意味に煩(わずら)わす。
統合性の確立など、いまだにその片鱗にさえ
たどりつけない。


今にして、統合性の確立が、いかにむずかしい
ものかを、思い知らされている。


そこで改めて、自分に問う。
「私がすべきことは、何なのか」と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ユング 人生の正午 ライフサイクル論 統合性の確立 はやし浩司
老年期の心理)

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もう1作、掲載します。

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●退職後の「?」(When we retire the jobs)


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今朝、古いラジオを戸棚から、取りだした。
久しぶりにラジオを聴いた。
俳句についての講座の番組だった。
その中の特選作……。


ひとつは、「給料運搬人……」なんとかというもの。
もうひとつは、「光陰矢の如し……」なんとかというもの。
ほかにもいろいろあった。


共通していたのは、どれも長い間のサラリーマン勤めを終えた
男たちや、それを迎える妻たちの、どこか悲哀感の漂う
俳句だったということ。


ぼんやりと聴きながら、「そういうものかなあ?」
「そういうものでもないような気がする」と、
頭の中で、いろいろな思いが交錯するのを感じた。


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私は俳句については、まったくの素人。
自分で作ったことは、あまりない。
が、どれもすばらしい俳句だった。
それはよくわかった。


で、私が気になったのは、俳句のほうではない。
その批評のほう。
何と呼んだらよいのか。
「俳句の先生」、それとも「指導者」?
「コメンテイター」?
要するに、視聴者からの俳句を選定し、批評を
加える人(女性)。
その人(女性)が、そのつど、こう言っていた。


「これからは、ゆっくりとお休みください」
「長い間、お勤め、ごくろうさまでした」
「退職後は、思う存分、お遊びください」などなど。


その人(女性)は、「私もこの年齢になり、(退職する人たちの気持ちが)、
理解できるようになりました」というようなことも
言っていた(以上、記憶によるものなので、内容は、不正確)。


しかし退職者というと、若い人たちは、どうしてそんなふうに、
とらえるのか。
「退職者は、こう思っているはず」という『ハズ論』だけが
先行している?
私はそう感じた。


とくに気になったのは、「退職後は、思う存分、お遊びください」という言葉。
私はその言葉を聞いたとき、若い人たちが、私たちの
世代を、そのように見ているのかと、がっかりした。


言うまでもなく、私もその世代の人間の1人。
しかし「遊びたい」という気持ちなど、みじんもない。
「遊べ」と言われても、遊ぶ気持ちにはなれない。
……だからといって、その人(女性)を責めているのではない。
それが世間一般の常識的な意見ということは、私にもわかっている。
それに若いときには、私もそう考えていた。
「退職したら、あとは悠々自適の隠居生活」と。


が、今はちがう。
「遊ぶ」ということに、強いむなしさを覚える。
またそんなことで、残り少ない自分の人生を、無駄にしたくない。


もちろん人、それぞれ。
退職の仕方も、人、それぞれ。
退職後の考え方も、人、それぞれ。
もちろん過ごし方も、人、それぞれ。
100人いれば、100通りの考え方がある。
退職の仕方がある。
私の考え方が正しいというわけではない。
中には、「遊びたい」と考えている人がいるかもしれない。
いても、おかしくない。


それはわかる。
しかし……。
私たちが求めるのは、そしてほしいのは、(怠惰な時間)ではない。
遊ぶための時間ではない。
(退職後の生きがい)、それがほしい。
(仕事)でもよい。
が、遊ぶための時間ではない。
だいたい遊ぶといっても、お金がかかる。
それに(遊ぶ)ということには、答がない。
「だからどうなの?」という疑問に対する、答がない。


繰り返す。
「遊んだからといって、それがどうなの?」と。
遊べば遊ぶほど、空しさがつのるだけ。
休むといっても、病院のベッドの上で休むのは、ごめん。
さらに言えば、休んだあと、どうすればよいのか。


退職者の最大の問題。
それは何度も書いてきたように、「自我の統合性」。
その統合性を、いかに確立するか、だ。


(自分がすべきこと)を発見し、そのすべきことに、
(現実の自分)を一致させていく。
(自分がすべきこと)を、「自己概念」という。
(現実の自分)を、「現実自己」という。
この両者を一致させることを、「自我の統合性」、
もしくは「自己の統合性」という。


自我の統合性の確立した老人は、すばらしい。
晩年を生き生きと、前向きに過ごすことができる。
そうでなければ、そうでない。
仏壇の仏具を磨いたり、墓参りだけをして、日々を過ごすようになる。
私の知人の中には、満55歳で役所を定年退職したあと、
ほぼ30年近く、庭いじりだけをして過ごしている人がいる。
年金は、月額にして、27〜8万円もあるという。
しかしそんな老後が、はたして理想的な老後と言えるのだろうか。


その知人は、1年を1日にして、生きているだけ(失礼!)。
10年を、1年にして、生きているだけ(失礼!)。


だから私はその人(女性)にこう反論したい。


「これからは、ゆっくりとお休みください」だと!
バカも休み休み、言え、バカヤロー!、と。
私たちの年齢をバカにするな!
(少し過激かな?)


そのあと、ワイフとこんな会話をした。


私「給料運搬人というのも、かわいそうだね。自分の仕事をそんなふうに
考えていたのだろうか」
ワ「そうよね。さみしいわね。仕事を通して生きがいというのは、なかったの
かしら」
私「ぼくも仕事をしてきたけど、自分が給料運搬人などというふうには、
考えたことはないよ」
ワ「そうねエ……」と。


給料運搬人とその人が、そう感ずるならなおさら、退職後は、そうでない仕事を
したらよい。
生きがいを求めたらよい。
「世のため、人のため」とまではいかないにしても、何かできるはず。
もしここで、その人(女性)が言うように、ゆっくりと休んでしまったら、それこそ
自分の人生は何だったのかということになってしまう。


残り少ない人生であるならなおさら、最後のところで、自分を燃焼させる。
できれば思い残すことがないよう、完全燃焼させる。
それが今まで、無事生きてきた私たちの務めではないのか。
若い人たちに、自分たちがしてきた経験や知恵を伝えていく。
若い人たちが、よりよい人生を歩むことができるよう、その手助けをしてやる。


まだ人生は終わったわけではない。
平均寿命を逆算しても、まだ25年もある。
「遊べ」だの、「休め」と言われても、私は断る。
私には、できない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life 
after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a 
miserable age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、
倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリク
ソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ
けにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないか

り、統合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性
 統
合性の確立)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40

前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ
ンティア活動をしたところで、意味はない。身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という
問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ
とがある。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自

してみるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってく

ものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。

++++++++++++++++

退職後の人生について書いたのが、
つぎの原稿です。
ちょうど1年前に書いたものです。

++++++++++++++++

●退職後の人たち

退職後の人たちの情報が、つぎつぎと入ってくる。
そういう人たちを、おおまかに分けると、おおむね、つぎのようになる。

(1) 道楽型(旅行三昧、趣味三昧の生活をする)
(2) ゴロゴロ型(何もしないで、家でゴロゴロする)
(3) 挑戦型(若いころできなかったことに、再挑戦する)
(4) 隠居型(息子夫婦などと同居。孫の世話などをする。)
(5) 奉仕型(何かのボランティア活動に精を出す。)
(6) 仕事型(そのまま関連の仕事をつづける。)
(7) 運動型(健康のためと称して、あらゆるスポーツをする。)

もちろんこれらの混合型というのも、ある。
しかし主にどれか、ということになると、たいてい1つに絞られる。
またどれがよいとか、悪いとかいうことではない。
人、それぞれ。
それぞれの人が、それでハッピーなら、それでよい。

ただ言えることは、どこかで「統合性の確立」をめざさないと、
老後もつまらないものになるということ。
統合性の確立というのは、(すべきこと)を見つけ、それに自分を
一致させていくことをいう。
(したこと)ではない。
(すべきこと)である。

私たちはみな、何かの義務をもって、この世に生まれている。
義務の内容は、人によって、みなちがう。
退職後は、その義務を果たす。
単純に考えれば、ボランティア活動ということになる。
が、これは一朝一夕には、できない。
「退職しました。明日からゴビ砂漠へ行って、柳の木の苗を
植えてきます」というわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、長つづきしない。
使命感も生まれない。

で、老後というのは、みな、平等にやってくる。
例外はない。
その老後の準備をするのは、50代では遅すぎる。
エリクソンは、「40歳から……」と説く。
「40歳は人生の正午」と。
しかし実際には、40歳でも、遅すぎるのでは?

若いころからの積み重ねがあってはじめて、老後に統合性の確立が
できる。
しかも統合性の確立は、無視、無欲でなければならない。
何らかの利益につなげようと思ったとたん、統合性は霧散する。

で、私自身は、どうなのか?
私はだいじょうぶなのか?
またどの「型」に当てはまるのか?

が、私はまだ退職状態ではない。
あと9年は、現役でがんばる。
そのときまだ頭と体がだいじょうぶなら、さらにもう少し、がんばる。
統合性の確立がうまくできるかどうかについては、本当のところ、自信はない。
ないが、あえて言うなら、今、こうして文章を書くようなことが、
老後の生きがいになりそう。
少しでも多く、ものを書いて、若い人たちの役に立ちたい。 

++++++++++++++++++

さらに2年前に書いた原稿を
添付します。
内容が重複しますが、お許しください。

++++++++++++++++++

●自己の統合性

++++++++++++++

私は何をすべきか。
まず、それを考える。

つぎにその考えに応じて、
では、何をすべきか、
それを考える。

考えるだけでは足りない。
現実の自分を、それに
合わせて、つくりあげていく。

これを「統合性」という。

つまり(自分がすべきこと)と、
(現実に自分がしていること)を、
一致させる。

老後を心豊かに生きるための、
これが、必須条件ということに
なる。

+++++++++++++

●自分は何をすべきか

 定年退職をしたとたん、ほとんどの人は、それまでの(自分)を、幹ごと、ボキッ折ら
れてしまう。

 ある日突然、ボキッ、とだ。

 とたん、それまでの自分は何だったのか、と思い知らされる。金儲けだけを懸命にして
きた人も、そうだ。年をとれば、体力が衰える。気力も衰える。思うように金儲けができ
なくなったとたん、心は、宙ぶらりんの状態になってしまう。

 そこで「自己の統合性」ということになる。

 (自分がすべきこと)を、(現実にしている人)は、自己の統合性があるということに
なる。そうでない人は、そうでない。

 似たような言葉に、「自己の同一性」というのがある。こちらのほうは、(自分のした
いこと)と、(現実にしていること)が一致した状態をいう。青年期には、ほとんどの人
が、この同一性の問題で悩む。苦しむ。

 「自分さがし」とか、「私さがし」とかいう言葉を使う人も多い。自分のしたいことは、
そこにあるのに、どうしても手が届かない。そういう状態になると、心はバラバラになっ
てしまう。何をしても、むなしい。自分が自分でないように感ずる。

 しかし統合性の問題は、同一性よりも、もっと深刻。いくら悩んだとしても、青年期に
は、(未来)がある。しかし老年期に入ると、それがない。たとえて言うなら、断崖絶壁
に立たされたような状態になる。先がない。

 そこで多くの人は、その段階で、「自分は何をすべきか」を考える。「何をしたいか」
ではない。この年齢になると、(したいことをする)ということのもつ無意味さが、よく
わかるようになる。

 高級車を買った……だから、それがどうなの?
 家を新築した……だから、それがどうなの?
 株で、お金を儲けた……だから、それがどうなの、と。

 モノやお金、名誉や地位では、心のすき間を埋めることはできない。成功(?)に酔い
しれて、自分を忘れることはできる。が、そこには限界がある。(酔い)は、(酔い)。
一時的に自分をごまかすことはできても、そこまで。その限界を感じたとき、人は、こう
考える。

 「これからの余生を、どう生きるべきか」と。その(どう生きるべきか)という部分か
ら、「自分はどうあるべきか」という命題が生まれる。

 しかし大半の人は、そんなことを考えることもなく、老後を迎える。ある日、気がつい
てみたら、退職、と。冒頭に書いたように、ある日突然、ボキッと、幹ごと折られたよう
な状態になる。

 では、どうするか?

 多くの心理学者は、こうした作業は、40歳前後から始めなくてはいけないと説く。4
0歳という年齢を、「人生の正午」という言葉を使って説明する学者もいる。

50代に入ってからでは遅い。いわんや、定年退職をしたときには、遅い。働き盛りとい
われる40歳前後である。

 つまりそのころから、老後に向けて、自分の心を整えておく。準備をしておく。具体的
には、(自分を何をすべきか)という問題について、ある程度の道筋をつけておく。つま
りそれをしないまま、いきなり老後を迎えると、ここでいうような、(ボキッと折られた
状態)になってしまう。

 繰りかえすが、(したいこと)を考えるのではない。(自分がすべきこと)を考える。
この両者の間には、大きな隔(へだ)たりがある。というのも、(自分がすべきこと)の
多くは、(したいこと)でないことが多い。(すべきこと)には、いつも苦労がともなう。

 たとえば以前、80歳をすぎて、乳幼児の医療費無料化運動に取り組んでいた女性がい
た。議会活動もしていた。賛同者を得るために、いくつかのボランティア活動もこなして
いた。その女性にしてみれば、乳幼児の医療費が無料になったところで、得になることは
何もない。が、その女性は、無料化運動に懸命に取り組んでいた。そこで私は、その女性
に、こう聞いた。

 「何が、あなたを、そうまで動かすのですか?」と。

 するとその女性は、こう言った。「私は生涯、保育士をしてきました。どうしてもこの
問題だけは、解決しておきたいのです」と。

 つまりその女性は、(自分がすべきこと)と、(現実に自分がしていること)を、一致
させていた。それがここでいう「自己の統合性」ということになる。

●退職後の混乱 

 しかし現実には、定年退職してはじめて、自分さがしを始める人のほうが、多い。大半
の人がそうではないのか。

 中には、退職前の名誉や地位にぶらさがって生きていく人もいる。あるいは「死ぬまで
金儲け」と、割り切って生きていく人もいる。さらに、孫の世話と庭いじりに生きがいを
見出す人も多い。存分な退職金を手にして、旅行三昧(ざんまい)の日々を送る人もいる。

 しかしこのタイプの人は、あえて(統合性の問題)から、目をそらしているだけ。先ほ
ど、(酔い)という言葉を使ったが、そうした自分に酔いしれているだけ。

 ……と書くと、「生意気なことを書くな」と激怒する人もいるかもしれない。事実、そ
のとおりで、私のような第三者が、他人の人生について、とやかく言うのは許されない。
その人がその人なりにハッピーであれば、それでよい。

 が、深刻なケースとなると、定年退職をしたとたん、精神状態そのものが宙ぶらりんに
なってしまうという人もいる。そのまま精神を病む人も少なくない。会社員であるにせよ、
公務員であるにせよ、仕事一筋に生きてきた人ほど、そうなりやすい。

 私の知人の中には、定年退職をしたとたん、うつ病になってしまった人がいる。私は個
人的には知らないが、ときどきそのまま自殺してしまう人もいるという。つまりこの問題
は、それほどまでに深刻な問題と考えてよい。

●では、どうするか?

 満40歳になったら、ここでいう自己の統合性を、人生のテーマとして考える。何度も
繰りかえすが、「私は何をしたいか」ではなく、「私は何をすべきか」という観点で考え
る。

 そのとき重要なことは、損得の計算を、勘定に入れないこと。無私、無欲でできること
を考える。仮にそれが何らかの利益につながるとしても、それはあくまでも、(結果)。
名誉や地位にしてもそうだ。

 ほとんどのばあい、(すべきこと)には、利益はない。あくまでも(心の問題)。とい
うのも、(すべきこと)を追求していくと、そこには絶えず、(自分との闘い)が、ある。
その(闘い)なくして、(すべきこと)の追求はできない。もっとわかりやすく言えば、この問題は、
(自分の命)の問題とからんでくる。追求すればするほど、さらに先に、目
標が遠のいてしまう。時に、そのため絶望感すら覚えることもある。

 損得を考えていたら、(自分との闘い)など、とうていできない。

たとえば恩師の田丸先生は、先日会ったとき、こう言っていた。「私がすべきことは、人
を残すことです」と。

 そこで私が、「先生は、名誉も、地位も、そして権力も、すべて手にいれた方です。そ
ういう方でも、そう思うのですか」と聞くと、「そうです」と。高邁(こうまい)な人物
というのは、田丸先生のような人をいう。

 そこで……というより、「では私はどうなのか」という問題になる。私は、自分の老後
はどうあるべきと考えているのか。さらには、私は、何をなすべきなのか。

 実のところ、私自身、自分でも何をすべきなのか、よくわかっていない。あえて言うな
ら、真理の探究ということになる。私は、とにかく、この先に何があるか知りたい。が、
この世界は、本当に不思議な世界で、知れば知るほど、そのまた先に、別の世界が現れて
くる。ときどき、自分が無限の宇宙を前にしているかのように錯覚するときもある。

 すべきことはわかっているはずなのに、それがつかめない。つかみどころがない。だか
らよく迷う。「こんなことをしていて、何になるのだろう」「時間を無駄にしているだけ
ではないのか」と。

 つまり、自己の統合性が、自分でもわかっていない。できていない。つまり私の理論に
よれば、私は、この先、みじめで暗い老後を送ることになる。

 だから……というわけでもないが、繰りかえす。

 40歳になったら、ここでいう「統合性」の問題を、真剣に考え始めたらよい。「まだ
先」とか、「まだ早い」と、もしあなたが考えているとしたら、それはとんでもないまち
がいである。子育てが終わったと思ったとたん、そこで待っているのは、老後。50代は、
早足でやってくる。60代は、さらに早足でやってくる。

 さあ、あなたは、自分の人生で、何をなすべきか? それを一度、ここで考えてみてほ
しい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
統合性 統合性の一致 統合性一致 自己統合性 自己の統合性 すべきこと 人生の目
標)

【付記】

 もうひとつの生き方は、何も考えないで生きるという方法。あるいはどこかのカルト教
団に身を寄せて、そこで生きがいを見出すという方法もある。

 しかし人間は、考えるから、人間なのである。もし、何も考えない人がいたとしたら、
その人は、そこらに住む動物と同じ。明日も今日と同じという日々を送りながら、やがて
そのまま静かに自分の人生を終える。

 そのことは、頭のボケた母を見ていると、わかる。母は、今、自分がどこに住んでいる
かさえ、ときどきわからなくなる。ワイフの顔を見て、別の人の名前で呼んだりする。し
かし食欲だけは、人一倍旺盛。食事の時間になると、血相を変えて、その場所にやってく
る。

 そういう私の母には、もう目標はない。何のために生きているのかという目的すら、な
い。何かにつけて、自己中心的で、もちろん、自分がすべきことなど、何も考えていない。
毎日、ものを食べるために生きているだけ。しかしそんな人生に、どれほどの意味がある
というのか。価値があるというのか。

 もちろん母は母で懸命には生きている。それはわかる。が、それでも、ただ、生きてい
るだけ。つまり考えないで生きるということは、今の母のような状態になることを意味す
る。母は、高齢だからしかたないとしても、私やあなたが、そうであってよいはずはない。

 私たちはこの世に生まれた以上、何かをなすべきである。その(なすべきこと)は、人、
それぞれ。みな、ちがう。しかしそれでも、何かをなすべきである。またそういう使命を
みな、負っている。

 要するに、ここで私が言いたいことは、老後になってから、その(なすべきこと)をさ
がそうとしても、遅いということ。老後といっても、長い。人によっては、30年近くも
ある。20歳から50歳までの年数に等しい。

統合性の問題は、いかにその期間を、有意義に過ごすかという問題ということになる。決
して、安易に老後を迎えてはいけない。それだけは、確かである。


+++++++++++++++++

もう1作、「同一性」について書いた
原稿を、掲載します。

+++++++++++++++++

●心理学でいうアイデンティティとは、

(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容
認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、をいう(エリク
ソン)。

++++++++++++++++++++

 エリクソンは、アイデンティティの確立(自己同一性の確立)について、つぎの3つの
ものをあげる。

(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容
認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、である。

(1)独自性の追求

 「老人はこうあるべきだ」という目に見えない、圧力。それを加齢とともに、強く感ず
るようになった。どうしてか?

 たとえば私はあと1年で、「還暦(かんれき)」と呼ばれる年齢になる。「60にして、
還暦」の「還暦」である。十干と十二支の組みあわせでは、満60歳(数え年では、61
歳)のときに、干支(えと)に戻るので、「還暦」という。「暦(こよみ)が、還(かえ)
る」という意味である。

 で、ときどき人に、こう言われる。「林さんも、来年は還暦ですね」と。つまり私は、
そういうふうにして、まわりの人たちから、自分の年齢を作られていく。

ところで子どもの世界には、「役割形成」という言葉がある。男の子は、いつの間にか男
の子らしくなっていく。女の子は、いつの間にか女の子らしくなっていく。遺伝子の作用
によるものだという説もあるが、遺伝子の作用だけでは、すべてを説明できない。

 まわりの人たちが、いつの間にか、男の子を男の子らしくしていく。女の子を女の子ら
しくしていく。子ども自身も、意識の外の世界で、自ら、男の子らしくなり、女の子らし
くなっていく。

 それと同じような現象が、現在進行形の形で、私の身のまわりで起こりつつある。私は、
今、老人にされつつある。だから、こう叫ぶ。

 「何が、還暦だ!」「くだらないこと言うな!」と。

 しかしその声には力がない。いくら叫んでも、その声は、そのままカスミの向こうに消
えてしまう。

 となると、「独自性とは何か」ということになる。いや、それを考える前に、いったい、
私には、独自性と言えるようものがあるのかということになる。服装だとか、髪型とか、
そういうものは、どうでもよい。大切なのは、中身だ。精神だ。その中身や精神の部分で、
独自性と言えるようなものがあるのか、と。

 どこかに(私らしさ)はあるにはあるが、いつも道に迷ってばかりいる。「これは!」
と思うような部分でも、相手やその周囲の人たちに、すぐ迎合してしまう。

 今の今も、そうで、生活自体が、加齢とともに、しぼんでいくのが、自分でもわかる。
体力も落ちた、収入も減った、正義感も薄れた、集中力もつづかない。そういう現実を前
にして、「では、どうすればいいのか」と考えることが多くなった。それが自分を、どん
どんと、老人臭くしていく。

 しかし私は、あえて、抵抗してやる。だれが老人臭くなっていくものか!

(2)統合性の容認

 いつの間にか、私は「教育評論家」ということになってしまった。しかしこの言葉は、
あまり好きではない。私は、したいことをしているだけ。書きたいことを書いているだけ。

 私は、ごくふつうの人間だし、ごくふつうの生き方をしている。聖人でもないし、君子
でもない。

 だから「教育評論家のくせに……」と言われることくらい、不愉快なことはない。とき
どき、そう言われる。とくにみなの前で、バカ話をしたようなときに、そうだ。しかもそ
れなりの人に、そう言われるならまだしも、そこらのオジサンにそう言われるから、たま
らない。

 「林さん、あんた、教育評論家だろ。その教育評論家がそういうことを言っちゃア、い
かんよ」とか、など。

 酒やタバコ、それに女遊びこそしないが、しかし性欲だってふつうにある。美しい女性
を見れば、抱きたくなる。裸を想像する。チャンスがあれば、浮気だってしたいと思って
いる。

 どうしてそういう私を、私自らが、否定しなければならないのか。つまり、それを否定
してしまうと、私は、私でなくなってしまう。エリクソンが説くところの、統合性がなく
なってしまう。

 仮面をかぶってはいけない。自分を偽ってはいけない。私は私である前に、人間なのだ。
その人間であることを、そのまま認めて生きる。スケベな話、大好き! どうしてそれが
悪いことなのか!

(3)一貫性の維持

 一貫性のあるなしは、一貫性のない人を見れば、それがよくわかる。これは極端な例だ
が、認知症か何かになった人を、見てみればよい。

 数日前に、何か仕事を頼んだときには、「いいですよ」「心配ないですよ」と言ってお
きながら、いざ、当日になると、不機嫌な顔をして、文句ばかり言う。こういう人は、つ
きあいにくい。その人がどういう人なのか、それさえわからない。

 子どもの世界でも、似たようなことを観察する。

 年長児(満6歳児)ともなると、その子どもらしさ、つまり人格の輪郭(りんかく)が、
明確になってくる。人格の核(コア・アイデンティティ)が確立してくるからである。教
える側からすると、「この子は、こういう子だ」という、(つかみどころ)ができてくる。

 が、不幸にして不幸な家庭環境、たとえば、育児放棄、無視、冷淡、虐待、家庭崩壊、
愛情飢餓を経験したような子どもは、この核形成が、遅れる。軟弱で、つかみどころのな
い子どもになる。ときに、何を考えているかさえ、わからなくなる。

 このことを、ここでいう一貫性にあてはめてみると、一貫性というのは、他人から見た
(つかみどころ)ということになる。その(つかみどころ)のある人を、一貫性のある人
といい、そうでない人を、そうでないという。

 わかりやすく言うと、自分がもつ一貫性などというものは、まったくアテにならない。
「私は一貫性がある」と思っている人でも、一貫性のない人はいくらでもいる。自分で、
そう思いこんでいるだけ。

 そこでこの一貫性を知るためには、一度、視点を、自分の外に置いてみなければならな
い。視点を外に置き、そこから自分を見つめなおしてみる。その時点で、自分には一貫性
があるかどうかを、判断する。

 あなたは、他人から見たとき、わかりやすい人間だろうか。あるいはあなたの子どもは、
あなたという親から見たとき、わかりやすい子どもだろうか。

 以上、こうして、「私らしさ」を求めていく。その私らしさができたとき、つまり(自
己概念)と(現実自己)が一致したとき、自己の同一性(アイデンティティ)が、確立さ
れたとみる。

 自己の同一性が確立した子どもは、どっしりとしている。落ちついている。多少の誘惑
ぐらいでは、ビクともしない。夢と希望をもち、自分で目標に向かって進んでいく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
アイデンティティ 独自性 統合性 一貫性 エリクソン 自己の同一性 老後の生き方 
退職後の生き方 統合性の確立 はやし浩司)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●教育の法則

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昨日、「科学の法則」(PHP)を買ってきた。
私が読むつもりだった。
しかしここでありえないこと(?)が起きた。
ワイフが、夢中になって読みだした。
「ヘエ〜」と感心した。

で、今、その本は、ワイフの手元に。
しかたないので、私は私の法則について書く。
「私の法則」というよりは、私が考えた
「教育の法則」。

+++++++++++++++++

●Y=A/X

Y=教育の質
X=雑務の量
A=その教師がもつ指導エネルギー

この法則によれば、(教育の質)と、(雑務の量)は、反比例の関係にある。
つまり教師の雑務が多ければ多いほど、教育の質は低下する。


●Y=(x2−x1)/(年数)

Y=教育の質
x2=現在の教育の内容
x1=過去の教育の内容
(年数)=その間の経過年数

この法則によれば、Yの値が大きければ大きいほど、その教師は努力したことになる。
マイナスに転じれば、その教師の教育の質は、低下したことになる。
たとえばこの10年で、教育の内容が大きく成長的に変化すれば、Yの値は大きくなる。
逆にマイナスになれば、教育の内容が、低下したことを意味する。


●Y=(勉強が好きな子ども)/(指導生徒数)x100

Y=教師の指導力
この値が大きければ大きいほど、その教師の指導力は高いということになる。
低ければ低いほど、指導力は低いということになる。
たとえば30人の生徒のうち、(勉強が好き)と答えた子どもが15人いれば、その
教師の指導力は、50ポイントということになる。


ほかにも(教師のやる気)(心を病む教師の出現率)(親と教師の関係)などなど。
いろいろ法則は考えられる。

が、何が重要かといって、(楽しさ)ほど重要なものはない。
「教えていて楽しい」……これにまさる教育の評価の仕方はない。
本来、子どもと接し、子どもに教える仕事は、楽しいもの。
「教えるのが苦痛である」とか、「子どもと接していると、疲れる」というのであれば、
教える姿勢そのものの中に、何か大きな問題があるとみる。
そういう前提で、教育、教師のあり方を考える。

もっとも、そのカギを握るのは、親ということになる。
子どもと接するのは、楽しい。
どんな教師でも、そう言う。
しかしそこへ親が入ってくると、教育の世界が一変する。
とたん、教育そのものが、おかしくなる。
そういうことは、よくある。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【沈まぬ太陽】

●「信念と良心の人」?

+++++++++++++++++++++++

公開中の映画『沈まぬ太陽』(WK監督)を劇場で見た。
その原作者で作家である、山崎豊子氏(84)が、このほど、
地元の堺市でWK監督と共に、その映画を鑑賞したという。
そして映画を観たあと、つぎのような感想を
述べたという(毎日JP)。

『映画は、人間の心の内を丹念に描いていて
見ごたえがありました。今の日本に必要なのは、
恩地(主人公名)のように、たった1人になっても筋を通し、
信念と良心を持ち続ける人。特に男の人たちに
見てもらいたい』(同)と。

+++++++++++++++++++++++

●日航123便の墜落事故

 日航123便の墜落事故について、毎日JPは、つぎのように説明する。
「ジャンボ機墜落事故を引き起こした航空会社の組織的、構造的な問題を浮き彫りにする」
と。

 つまり「航空会社(=日本航空)の組織的、構造的な問題があったから、ジャンボ機墜
落事故は起きた」と。

 ここでいう「組織的、構造的」というのは、映画『沈まぬ太陽』を観るかぎり、会社の
利益優先型の経営方針をいう。
事実、映画の中では、経営者たちは始終一貫して、(悪玉)として描かれている。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
そこで百歩譲って、もしそうだとするなら、つまり悪玉とするなら、事故の原因を、
もう一度丹念に、原因を検証してみる必要がある。

原因をオブラートに包んだまま、「事故の原因は、会社側の安全運航に対する努力怠慢であ
る」と、短絡的に結びつけるわけにはいかない。
映画で表現されている労使紛争にしても、安全運航のための闘争というよりは、賃上げ闘
争が主体になっていたはず。
(もし山崎豊子氏の論理が正しいとするなら、組合員も賃上げばかり主張しないで、
その分を、安全運行のために回せばよかったということになる。)

 が、ここで私たちは映画の映像トリックに、ひかかってしまう。

 映画『沈まぬ太陽』は、まず日航(JAL)123便の墜落事故から始まる。
その場面とケニア大使を招いた、パーティ会場が行き来し、やがて映画は、「〜〜年前」「〜
〜年前」……と進行していく。

 そして結果として、(はげしい労使紛争)が、事故の原因であるかのような印象を観客に
与える。
その(労使紛争)にしても、経営者側に責任があるかのような印象を観客に与える。
山崎豊子氏が言う、「信念と良心の人」(毎日JP)というのは、その労使紛争に巻き込ま
れ、その中で翻弄される恩地という名前の、1社員を言う。

 しかしここで誤解してはいけないのは、恩地といえども、1社員。
会社内部の人間である。
また墜落事故のあと、墜落事故の原因を究明したり、あるいは会社側の責任を追及した人
でもない。
社長が交代したあと、今度は新社長の側近として活躍する。
経営者側の人間となる。
もちろんそれなりの高給で優遇されたはず。
最後はまた懲罰左遷(?)され、アフリカの地に戻っていくが、ここでも映画の映像トリ
ックにひかかってしまう。

 海外勤務は、懲罰左遷なのか?

 で、当時の世相を振り返ってみると、日本航空にかぎらず、いわゆる三公社五現業と呼
ばれた組織体の中では、日夜はげしい労使紛争が繰り返されていた。
三公社五現業というのは、日本国有鉄道、日本専売公社、日本電信電話公社(以上3公社)
と、5つの現業官庁(郵政、国有林野、印刷、造幣、アルコール専売の各事業部門)をい
う。

●疑わしきは罰する(?)

 話が大きく脱線する前に、ひとつ、明らかにしておきたいことがある。

恩地は、「信念と両親の人」という立場で、描かれている。
それはわかる。
が、その一方で、会社側の人間が、すべていかにも(悪玉)という立場で描かれている。
このあたりの描き方について、少し前に書いた原稿の中で、私は、一昔前の、チャンパラ
映画のよう、と書いた。

 しかしこの手法には、たいへん問題がある。
何度も書くが、日本航空は、現在は、1民間会社である。
明らかにその民間会社とわかる形で、その経営陣を悪玉に仕立てあげるのはどうか?
江戸時代の代官を悪代官に仕立てあげるのとは、わけがちがう。

法律の世界には、『疑わしきは罰せず』という大原則がある。
が、この映画の中では、何の証拠も、また因果関係も示されないまま、「航空会社の組織的、
構造的な問題を浮き彫りにする」「それが日航123便の事故につながった」(毎日JP)
という論理で(?)、日本航空を直接的に攻撃している。
「疑わしいまま、罰している」。
そういうことが許されてよいのか?

 仮に恩地が、「信念と良心の人」というのなら、当初は、組合の委員長だった人物が、の
ちに石坂浩二演ずる、新社長のもとでは、社長の最側近として働く。
どうしてそんな人物が、「信念と良心の人」なのか。

 さらに念を押すなら、恩地は、日航123便の墜落事故の原因を究明するために闘った
人でも、また、事故のあと、会社の責任を追及した人でもない。
映画の中では、遺族との交渉係を務めた人である。
(この点についても、日本航空側は、そういう立場にあった人物は存在しなかったと社内
報で書いている。)

●墜落事故の原因 

 墜落事故の原因については、いろいろな説がある。
公式には、圧力隔壁と呼ばれる後部の壁が破裂し、それが尾翼を吹き飛ばしたからという
ことになっている。
しかしほかにも、尾翼のボルトが緩んでいたのが原因とか、アメリカ軍用機のミサイル誤
射説などもある。

 どうであるにせよ、「航空会社の組織的、構造的な問題を浮き彫りにする」というのは、
あまりにもひとりよがり過ぎる。
当時の世相を振り返っても、当時はそういう時代だった。
労使紛争はあちこちで起きていた。
日本航空のことはよく知らないが、旧国鉄における労使紛争には、ものすごいものがあっ
た。
そういう中で、懲罰左遷というのも、あったかもしれない。

しかしこの言葉は、当時、海外勤務をしていた人たちに対して、失礼極まりない。
商社マンのばあい、海外勤務はあこがれの的だった。
また当時は、2年程度を限度とする短期出張は当たり前だった。
短期出張は、単身赴任が原則だった。
それを「懲罰左遷」とは!

●日航123便

 さて本題。
作家の山崎豊子氏は、「犠牲になられた方、遺族の気持ちを思うと今も義憤にかられます」
(毎日JP)と述べている。
山崎豊子氏にしてみれば、たとえ思い込みであるにせよ、そうとでも言わなければ、自分
の立場がない。
つまり「義憤にかられて、あの本を書いた」と。

 しかしそうであるなら、また話は振り出しに戻ってしまう。
労使紛争と日航123便の事故が、どうして結びつくのか、と。
つまり山崎豊子氏としては、日本航空をどうしても悪玉に仕立てあげなければならない。
「義憤」という言葉も、そこから生まれた(?)。
が、どうして義憤なのか?

 もし日本航空に「組織的、構造的な問題」があったとするなら、それを追及してこそ、「信
念と良心の人」ということになる。
私には、恩地なる人物には悪いが、恩地という人は、やはりただの会社人間にしか見えな
い。
殴られても、蹴られても、会社にしがみつく……。
「一社懸命」という言葉は、そういう人のためにある。

繰り返すが、その「組織的、構造的な問題」を追及した人ではない。
会社の裏命令で、恩地は労働組合の委員長になり、労使紛争の茶番劇を演じて見せる。
が、それをやり過ぎたため、アフリカと中東に左遷。
今度は新社長に呼び戻されて、再び本社勤め。
その過程で、恩地は、安全運行についての発言は、一度も行っていない。
それもそのはず。

 もし恩地が、安全運行のことを口にすれば、それこそまさに日航123便の墜落事故は、
会社側の責任ということを認めることになってしまう。
これは山崎豊子氏にとっても、まことにまずい。
そのまま直接的に、確たる証拠もないまま、日本航空の経営者を加害者と認めることにな
ってしまう。
そのまま名誉毀損で訴えられても、文句が言えなくなってしまう。

 そこで山崎豊子氏は、日本航空を何としても、悪玉に仕立てあげねばならなかった。
それが『沈まぬ太陽』ということになる。
で、山崎豊子氏は、こう述べている(毎日JP)。

「今の日本に必要なのは、恩地のように、たった一人になっても筋を通し、信念と良心を
持ち続ける人だ」と。

 とすると、また話がわからなくなる。
もしそうなら、なぜ日本航空なのか?
どうして、今というこの時期なのか?

●名誉棄損

 この映画は、明らかに、日本航空という1企業の名誉を著しく毀損している。
映画『沈まぬ太陽』を見た人なら、だれでも、そう思う。
「名誉棄損」という言葉があるが、もしこれを名誉棄損と言わないなら、では、いったい、
名誉棄損とは何かということになってしまう。

 日本航空は、実在する、1企業である。
墜落事故が起きた当時、3公社は、つぎつぎと民営化を果たしている。
日本航空も、まさにその日、民営化に向けて、その第一歩を決議しようとしていた。
その企業を、明らかにその企業とわかる形で、こうまでこういう露骨に、攻撃してよいも
のか。
もし「信念と良心の人」を描きたいのなら、何も日本航空にする必要はなかったし、あの
日航123便事故と、からめる必要はなかった。

●映画論

比較するのもヤボなことだが、最近観た映画の中に、『チェンジリング』という映画があ
った。
行方不明になった息子を懸命に捜そうとする母親を描いたものだが、途中で、役人の欺瞞
に翻弄される。
が、その母親は闘いつづける。
そして最後に、自分の息子を取り戻す。
そういう母親を、「信念の人」という。
もちろん映画もすばらしかった。
最後は、涙がポロポロとこぼれた。

 先週の夜は、『路上のソリスト』という映画を観てきた。
最後のしめくくりが甘かったが、実話ということ。
それに現在進行形ということ。
それで「そういうしめくくりの仕方にするしかなかったかな」と納得した。
が、そのソリストをコラム(新聞記事)にすることによって、ロサンジェルスのホームレ
スの待遇が、大きく改善された。

 またおとといの夜は、これはDVDだったが、『扉を叩く人』というのを家で観た。
アメリカの移民政策の中で、シリアへ強制送還される男性と、それを救い出そうとする大
学教授の映画だった。
映画を通して、監督は、アメリカの移民政策を痛烈に批判する。
この映画は、アカデミー主演男優賞の候補にあがっている。

 これら3本は、どれも秀作で、星は、4つか5つ。
主演した俳優たちもうまいが、それをまわりからかためる、脇役たちの演技もうまい。
もちろん内容も、濃い。

 が、である。
当然のことながら、個人はもちろん、公的な機関ではあっても、その機関とわからないよ
うな形で、映画の中に登場させている。
またそこで働く職員の名誉を傷つけないような形で、俳優たちは演技している(「扉を叩く
人」の、移民局の職員など。)
こうした配慮は、映画のみならず、公の場所で、自説を唱える者にとっては、最低限守ら
なければならないマナーと考えてよい。
つまり相手が日本航空だからよいという論理は、まったく通用しない。

 で、日本航空内部では、この映画について、名誉棄損で訴えるという動きもあるという。
当然、訴えるべき映画と考えてよい。
今は何かとたいへんな時期かもしれないが、後日の裁判闘争に備えて、公式な抗議文を1
通くらいは、出しておいたほうがよい。
「無視」イコール、「黙認」という形になるのは、避けた方がよい。

●表現の自由vs表現の暴力

 一般論として、テレビや映画に携わる人たちは、もう少し謙虚になったらよい。
「マスコミ」という武器を手にしたとたん、好き勝手なことをしたい放題している。
あるいは「マスコミ」を背に負ったとたん、態度が横柄になる。
威張りだす。
自分たちが、日本の代表であるかのように錯覚する。

 簡単なことだが、「表現の自由」と「表現の暴力」はちがう。
威張るのは勝手だが、だからといって、表現の暴力をしてよいということではない。
たとえば1社員の信念と良心だけを描くなら、それは「表現の自由」である。
しかしそこに日本航空をからませ、さらに日航123便の墜落事故をからませたら、それ
は表現の暴力ということになる。
いくら「この映画はフィクションです」と断っても、その程度で、責任が回避できるよう
な問題ではない。

 さらに言えば、WK監督は、原作者の山崎豊子氏を最前面に押し出すことによって、自
らにふりかかる責任を回避しているかのようにも見える。
脚本家を3人替えたとか、脚本をそのつど山崎豊子氏に見せ、校閲してもらったとかなど
という話も漏れ伝わっている(某週刊誌)。
そして今度は、山崎豊子氏と同席で、映画を鑑賞したという(毎日JP)。

 「この映画は、山崎豊子原作の『沈まぬ太陽』を忠実に映画化したものです」と。
「だから私には責任はありません」と。

 もしそうなら、つまりこうした一連の行為が、自らへの責任を回避するためのものであ
ったとするなら、日本航空への名誉棄損を事前に確信していたことになる。
罪は重い。

 とは言え、『沈まぬ太陽』は、主演の渡辺謙をのぞいて、……というより渡辺謙だけが浮
いてしまったような映画で、映画としては、つまらない。
「2度目を見たいか」と問われたら、答は、「NO!」。
全体に説教ぽい映画で、観ていて何度も不愉快になった。
私たちは、貴重な時間をつぶし、劇場へ足を運ぶ。
そこでお金を払って、映画を観る。
WK監督は、そうした観客の心を忘れてしまっている。

観てから10日以上も過ぎたが、その感想は、今も消えない。

+++++以下、毎日JPより+++++

映画:「沈まぬ太陽」山崎豊子さんが鑑賞 「今も信念と良心の人が必要」

ジャンボ機墜落事故を引き起こした航空会社の組織的、構造的な問題を浮き彫りにする。
主人公の恩地元(主演・渡辺謙さん)は、社員の待遇改善のため、組合活動に力を尽くす。
が、報復人事に遭って中東やアフリカに配転させられる。良心や出処進退のありか、組織
と個人の間にそびえる壁などさまざまなことを考えさせられる。上映時間は3時間22分
と日本映画としては異例の長さ。

 山崎さんは「犠牲になられた方、遺族の気持ちを思うと今も義憤にかられます」。時に声
を詰まらせながら、「自分の映画で泣いたのは初めて……。渡辺謙さんの演技が素晴らしか
った」と評した。

 長文の手紙を山崎さんに送り、主演を懇願した渡辺さんと同様、WK監督も山崎作品を
撮ることを切望した。「自分でもよくぞ撮り終えたな、と思います。先生からは『(「不毛地
帯」の映画化以来)映画化は33年ぶり。完成するまで死ねないわ』と言われていました
から両肩がいつも重かったですね」

 山崎さんは「映画は、人間の心の内を丹念に描いていて見ごたえがありました。今の日
本に必要なのは、恩地のように、たった一人になっても筋を通し、信念と良心を持ち続け
る人。特に男の人たちに見てもらいたい」と語った。
(毎日JP 2009-11-09)

+++++以上、毎日JPより+++++

●日本映画

 最後に一言。

 日本映画というと、どれもどうしてこうまで底が浅いのかと思う。
俳優にしても、演技、演技していて、薄っぺらい。
力みすぎ。
顔と声だけで演技する。
しかも不自然。
動作も話し方も、ぎこちない。
そのため観客として、感情移入するのが、むずかしい。
ときにその前に、はじき飛ばされてしまう。

 山崎豊子氏は、映画『沈まぬ太陽』を絶賛しているが、一度でよいから、
先にあげた『扉を叩く人』(The Visitor)、あるいは『チェンジリング』のような映画を
観てみるとよい。
そのちがいが、よくわかるはず。
(私は毎週1本程度、劇場で映画を観ているぞ!)

 『沈まぬ太陽』にしても、(1)まず俳優がペラペラと、文章を読むようなセリフを言う。
つぎに(2)視線を外へはずし、何かを思いつめたように、別のセリフを言う。
そんなシーンがいくつもあった。
恐らく監督の演技指導に従ってそうしたのだろう。
が、その言い方が、みな、同じ。
俳優自身が、自分を殺してしまっている。
監督の前で、委縮してしまっている。
もっと俳優自身がもつ個性を尊重して、それを前に出すようにすればよい。
つまり「自然な演技」。
それが重要。
それをもっと大切にしたらよい。
(当然、俳優側にも、それなりの努力と精進が必要になるが……。)

 とくにひどいのが、恩地の妻役を演じた、SK。
イプセンの『人形の家』に出てくる、「人形妻」を思い起こさせた。
できすぎというか、まるで心を開いていない。
「あんな夫婦がいるか!」と、私はそう思った。

 『沈まぬ太陽』という話題作に、あえてケチをつけてみた。
「沈まぬ太陽」と言いながら、今、その「太陽」は、沈むか浮かぶかの瀬戸際で
苦しんでいる。
このままでは、本当に沈んでしまうかもしれない。
だとするなら、映画のタイトルを、こう変えたらよい。
『沈め、この太陽!』と。
そのほうが、よほど、正直なタイトルということになる。
もともとそういう意図で作られた映画(本)なのだから……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 沈まぬ太陽 山崎豊子 映画評論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・あれこれ】

●沖縄の苦悩vs日米関係

今、日米関係が、大揺れに揺れている。
「戦後、最大の危機的状況にある」と説く人もいる。
よい状態とは言えないが、「危機的」というのは、どうか?
また危機的であるといっても、日本がアメリカを必要とするのと同じくらい、
アメリカも日本を必要としている。
戦後一貫して、紙くず同然になったドル紙幣を買い支えてきたのは、ほかならない、
この日本である。
今の今も、買い支えている。
その地位を、今、中国に譲りつつあるが、それでも、日本あってのアメリカ。
言うなれば、もちつ、もたれつの関係。
もしこの日本が手持ちのドルのうち、5%でも、ユーロに換えたらどうなるか?
アメリカはそのまま大恐慌に陥る。

が、ある程度の清算は必要かもしれない。
たとえば沖縄。
沖縄の人たちが強いられている負担感には、相当なものがある。

そういう負担感を知りつつ、私たちは、知らぬフリをつづけている。
「私には関係ない」と。
そのニヒリズムこそが、問題。
今、こういう形で、問いなおされようとしている。

沖縄の問題は、私たち自身の問題である。
が、それでもニヒリズムを決め込むとしたら、あなたの町にアメリカ軍の基地が
移設されても、文句を言わないこと。

……と書くのは、少し過激な意見だが、
しかしこの問題は、そういう問題である。

●マンション建設反対運動

 ところで私の住む家の近くの丘の上に、マンションが建設されることになった。
もう5年ほど、前のことである。
そのとき、その周辺の住民たちが、建設反対運動を始めた。
同時に、はげしい文句の看板が、無数に並んだ。
「地獄へ落ちる」「自殺者続出」「のぞき見反対」「ここはもと墓地」などなど。
「入居者にも責任を取ってもらいます」という旗も、無数に並んだ。

 私は、反対運動そのものよりも、そのはげしい文句に驚いた。
で、そのときのこと。
隣の町内の問題なのだからと、私たちは、当初から逃げ腰だった。
そこにマンションが建設されたところで、直接的な被害は、まったくない。
しかしその近隣の人たちにとっては、そうでなかった。
ときどき通りで、住民たちが10〜15人単位で、デモをしているのを見かけた。

 が、ともかくも、マンションは建設されてしまった。
今年の夏ごろから販売が始まり、今のところそのうちの2〜30%程度は、
すでに入居者が生活を始めている(09年終わり)。
が、当初の看板よりは少なくなったが、それでもマンション周辺の看板は、
今もそのまま残っている。

 立場が逆転した(?)。

 看板といっても、手書きのもの。
それにはげしい抗議の言葉は、そのまま。
「今さら反対運動をしたところで、どうしようもないではないか」というのが、
私というより、このあたりに住む人たちの共通した感想。
むしろそういった看板のほうが、景観を損ねている。

 が、今まで反対してきた人たちにとっては、そうでない。
挫折感も大きいだろう。
敗北感もある。
「マンションは建ってしまった」「だから反対運動はやめます」「看板を撤去します」
というわけにはいかない。
その気持ちは、痛いほど、よくわかる。
もしこのとき、「それは隣の町内の問題で、私たちには関係ない」と決め込むとしたら、
あなたの家の隣にマンションが建っても、文句は言わないこと。
……と書くのも、少し過激な意見だが、
しかしこの問題は、そういう問題である。

 で、私は今、ふと考えた。
もし私の家の隣地に、10階建てのマンションが建設されることになったら、
私はどうするか、と。
やはり反対運動を起こすかもしれない。

●ニヒリズム

 が、沖縄の基地周辺に住んでいる人たちの思いは、そんなものではない。
アメリカ軍の戦闘機が離着陸するたびに、「鼓膜が破れんばかりの騒音」(テレビ報道)
になるという。
私も何度か、アメリカ軍の戦闘機の離着陸の様子を見たことがあるが、たしかに
ものすごい。
浜松には浜松基地(航空自衛隊)があるが、騒音の質そのものがちがう。
アメリカ軍の戦闘機のそれは、バリバリと頭から体を叩きつけるような騒音。
それと比べたら、日本の自衛隊のそれは、ゴーッという、ただの騒音。
そうした騒音に、今の今も、戦後何10年にわたって、沖縄の人たちはさらされている。

そういう現状を知って、「日本の平和と安全のために、どうか犠牲になってください」
などと、どうして言えるか。

 が、ここでもあのニヒリズムが働いてしまう。
「私には関係ない」と。

●心の欠陥

 マンション建設問題とアメリカ軍の基地問題。
こうして並べてみると、そこに、ある共通点があるのを感ずる。

(1)自分に関係のない問題については、人は、それを避ける傾向がある。
(2)避けるについては、それなりの理由づけをして、自分を正当化する傾向がある。
(3)そのとき、脳は問題の大小を適切に判断できない。
(4)問題の大小を適切に判断するのが、理性ということになる。

 とくにこの中で重要なのは、(3)の「問題の大小を適切に判断できない」という部分。
マンション建設問題は、マイナーな問題である。
しかし沖縄のアメリカ軍の基地問題は、メジャーな問題である。
ところがこの2つの問題が同時に脳の中に入ると、その「大小」が判断できなく
なってしまう。

 もっと極端な例では、これは私自身が経験したことだが、一方で天下国家を論じながら、
他方で、身内のささいな冠婚葬祭の問題で悩むことがある。
2つの問題が同時に頭の中に入ってくると、どちらが重大で、どちらが重大でないかが、
わからなくなる。
その結果、本来どうでもよい、ささいな問題で心を煩わす。
私は、これは人間が本来的にもつ、心の欠陥のひとつではないかと考える。

●ニヒリズムと闘うために

 ニヒリズムを感じたら、それを「心の敵」ととらえる。
ニヒリズムに毒されると、人間性はかぎりなく縮小し、やがて心も腐り始める。
ピーター・サロベイが説く「人格の完成論」にしても、「他者との共鳴性」を重要視
している。
その人の立場になって、ものを考える。
それは人間が人間であるための、最低限の条件ということになる。
もしそれすらもできなくなってしまったら、人間も、それでおしまい。

では、どうするか。

 私はそういう点では、自分勝手で、わがまま。
自己愛者と言ってもさしつかえない。
心の中は、自己中心性のかたまり。
偉そうなことは言えない。

 そこで私が考えた方法は、前にも書いたが、相手の頭の中に自分を置いてみるという
方法。
この方法は、電車に乗っているときに、思いついた。
つまり相手の目を通して見ると、私はどういう人間に見えるかを、頭の中で想像してみる。
相手は、だれでもよい。
若い男でも、年老いた女性でも、だれでもよい。
子どもでもよい。
そうして自分の姿を客観的に見る。

 それができるようになると、つぎにだれかから相談を受けたようなとき、その人の
頭の中に、自分を置いて考えることができるようになる。
私の立場で、その人の問題を考えるのではなく、その人の立場で、その人の問題を
考えることができるようになる。

 こうして自分の中に潜む、邪悪なニヒリズムと戦うことができる。
が、これについては、最近、こんな経験をした。

 ある日、ある女性(70歳くらい)から、その女性の息子についての相談がもちかけ
られた。
息子夫婦が、離婚することになったという。
話を聞くと、息子の妻(その女性の嫁)の悪口ばかり。
で、その女性の相談というのは、「どうすれば、嫁に財産を分与しなくてすむか」という
ものだった。

 そのときのこと。
私はその妻(その女性の嫁)のほうの頭の中に、自分を置いてしまった。
とたん、その女性(70歳くらいの相談者)の言っていることのほうが、理不尽に思えて
きた。
子ども(小学生の男女児)も、2人いるという。
が、一度そうなると、相談でなくなってしまう。
むしろ逆に、その女性(70歳くらいの相談者)のほうを、説教したくなってしまった。
そういうこともある。
これは余談。

 ともかくも、相手の頭の中に自分を置いてみるという方法は、結構、楽しいことでも
ある。
ニヒリズムと戦う、第一歩として、一度、あなたも試してみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ニヒリズム)

(補記)

●人格の完成論

ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emot
ional Intelligence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」
では、主に、つぎの3点を重視する。 

(1) 自己管理能力 
(2) 良好な対人関係 
(3) 他者との良好な共感性
(09−11−11記)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

【老人心理】(回顧性との闘い)

●前向きに生きる

+++++++++++++++++++

今、すべきことをする。
今、したいことをする。
今、できることをする。
それが「前向きに生きる」ということ。

年齢は関係ない。
年齢を考える必要はない。
年齢に制限される必要もない。
私は私。
どこまでいっても、私は私。

……ということで、昨日、パソコンの
モニターを新調した。
(あまり関係ないかな?)
サイズは、25・5インチ。
ワードで書いた文章を、丸々4ページずつ
表示できる。

ワイフもこう言った。
「やりたいと思ったら、どんどん
したほうがいいわ」
「今しか、するときがないから」と。

YES!

そのモニターの前に座ったとき、
私は、こう思った。

「ようし、やりたいことをする」と。
……とまあ、今朝もそう自分に言い聞かせながら、
始まった。
(11−13朝)

+++++++++++++++++++

●展望性vs回顧性

 加齢とともに、展望性が弱くなり、回顧性が強くなる。
ちょうどこの2つが交差するのは、満55歳前後と言われている。
つまりその年齢を境にして、未来に向かって何かをしたいと思うよりも、
過去を懐かしむことのほうが、多くなる。

 が、展望性と回顧性は、バランスの問題ではない。
展望性というのは、その人を前向きに引っ張っていく。
回顧性というのは、その人の生き様を、うしろへと後退させる。
つまり回顧性というのは、戦うべきものであって、受け入れるべきものではない。
では、そのためには、どうするか。

●回顧性との闘い

 2つの方法がある。
ひとつは、回顧性を排除する。
もうひとつは、展望性を自ら大きくふくらます。
この2つを同時に実行してはじめて、回顧性を闇に葬ることができる。

 「回顧性を排除する」というのは、要するに過去を振り返らないということ。
が、それだけでは足りない。
そこで「展望性をふくらます」ということになる。
未来に夢や希望をもち、しっかりとした目標を定める。
しかし夢や希望などというものは、向こうからやってくるものではない。
自ら、作り出すもの。
その努力は、怠ってはならない。
目標は、そこから生まれる。

●特徴

 回顧性が強くなると、親戚づきあいとか、近所づきあいという言葉を、よく
使うようになる。
自分の身の回りを、(過去の時間)で、固めるようになる。
満50歳を過ぎると、同窓会のような会が急にふえるのも、そのためと考えてよい。

 特徴をいくつかあげてみる。

(1)生活が防衛的になる。(ケチになる。)
(2)生活圏が縮小される。(狭い世界で生きる。)
(3)慢性的な自信喪失状態になる。(「何をしてもだめだ」と思う。)
(4)自己中心性が強くなる。(自分に合わない人を、否定する。)

 こうした傾向は相互に関連しあいながら、ときにはその人の心をむしばむ。
「初老性うつ」に代表される、精神疾患も、そのひとつ。
回顧性に毒されてよいことは、何もない。

●(老い)の受容

 これについては、以前書いた原稿を、もう一度、手直してみる。

++++++++

老いの受容段階説

++++++++

【老人心理】

++++++++++++++++++++

キューブラー・ロスの『死の受容段階論』は、よく知られている。

死を宣告されたとき、人は、(否認期)→(怒り期)→(取り引き期)
→(抑うつ期)→(受容期)を経て、やがて死を迎え入れるように
なるという。

このロスの『死の受容段階論』については、すでにたびたび書いてきた。
(たった今、ヤフーの検索エンジンを使って、「はやし浩司 死の受容段階」
を検索してみたら、113件もヒットした。)

で、またまた『死の受容段階論』(死の受容段階説、死の受容過程説、
死の受容段階理論などともいう)。

その段階論について、簡単におさらいをしておきたい。

●キューブラー・ロスの死の受容段階論(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)

(第1期)否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病
気は死ぬほど重いものではないと否認しようとする。

(第2期)怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健
康な人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。

(第3期)取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引
きを試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。

(第4期)抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。

(第5期)受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の
終わりを静かに受け入れる。(以上、同書より)

●老人心理

老人心理を一言で表現すれば、要するに、キューブラー・ロスの『死の受容段階論」に、
(第0期) を加えるということになる。
(第0期) 、つまり、不安期、ということになる。
「まだ死を宣告されたわけではない」、しかし「いつも死はそこにあって、私たちを
見つめている」と。

不治の病などの宣告を、短期的な死の宣告とするなら、老後は、ダラダラとつづく、
長期的な死の宣告と考えてよい。

「短期」か「長期」かのちがいはあるが、置かれた状況に、それほど大きなちがいは
ない。
ロスの説く、(第1期)から(第5期)まぜが混然一体となって、漠然とした不安感
を生みだす。
それがここでいう0期ということになる。

ある友人(満62歳)は、こう言った。

「若いころは何かの病気になっても、それを死に直接結びつけることはなかった。
しかし今は、経験したことのない痛みや疲れを感じただけで、もしや……と思う
ようになった」と。

そしてそれが老人心理の基盤を作る。

●死の受容

死の宣告をされたわけではなくても、しかし死の受容は、老人共通の最大のテーマ
と考えてよい。

常に私たちは「死」をそこに感じ、「死」の恐怖から逃れることはできない。
加齢とともに、その傾向は、ますます強くなる。
で、時に死を否認し、時に死に怒りを覚え、時に死と取り引きをしようとし、時に、
抑うつ的になり、そして時に死を受容したりする。
もちろん死を忘れようと試みることもある。
しかし全体としてみると、自分の心が定まりなく、ユラユラと動いているのがわかる。

 それについては、こんなエピソードがある。

 恩師のMN先生の自宅を訪れたときのこと。
MN先生は、私を幼児教育の世界に導いてくれた先生である。
そのとき80歳を過ぎていた。

 縁側に座って、何かを話しているとき、私はこう聞いた。
「先生、歳をとると、死ぬのがこわくなくなるものですか?」と。
すると先生は、笑いながら、こう言った。
「林さん、いくつになっても、死ぬのはこわいですよ」と。

●「死の確認期」

この「0期の不安期」をさらに詳しく分析してみると、そこにもまた、いくつかの
段階があるのがわかる。

(1)老齢の否認期
(2)老齢の確認期
(3)老齢の受容期

(1)の老齢の否認期というのは、「私はまだ若い」とがんばる時期をいう。
若いとき以上に趣味や体力作りに力を入れたり、さかんに旅行を繰り返したりする時期
をいう。

若い人たちに対して、無茶な競争を挑んだりすることもある。

(2)の老齢の確認期というのは、まわりの人たちの「死」に触れるにつけ、自分自身
もその死に近づきつつあることを確認する時期をいう。
(老齢)イコール(死)は、避けられないものであることを知る。

(3)の受容期というのは、自らを老人と認め、死と共存する時期をいう。
この段階になると、時間や財産(人的財産や金銭的財産)に、意味を感じなくなり、
死に対して、心の準備を始めるようになる。

(反対に、モノや財産、お金に異常なまでの執着心を見せる人もいるが……。)

もっともこれについては、「老人は何歳になったら、自分を老人と認めるか」という問題も
含まれる。

国連の世界保健機構の定義によれば、65歳以上を高齢者という。
そのうち、65〜74歳を、前期高齢者といい、75歳以上を、後期高齢者という。
が、実際には、国民の意識調査によると、「自分を老人」と認める年齢は、70〜74歳が
一番多いそうだ。半数以上の52・8%という数字が出ている。(内閣府の調査では
70歳以上が57%。)

つまり日本人は70〜74歳くらいにかけて、「私は老人」と認めるようになるという。
そのころから0期がはじまる。

●「0期不安記」

この0期の特徴は、ロスの説く、『死の受容段階論』のうち、早期のうちは、(第1期)
〜(第3期)が相対的に強く、後期になると、(第3期)〜(第5期)が強くなる。
つまり加齢とともに、人は死に対して、心の準備をより強く意識するようになる。

友や近親者の死を前にすると、「つぎは私の番だ」と思ったりするのも、それ。
言いかえると、若い人ほど、ロスの説く(否認期)(怒り期)(取り引き期)の期間が
長く、葛藤もはげしいということ。

しかし老人のばあいは、死の宣告を受けても、(否認期)(怒り期)(取り引き期)の
期間も短く、葛藤も弱いということになる。
そしてつぎの(抑うつ期)(受容期)へと進む。
が、ここで誤解してはいけないことは、だからといって、死に対しての恐怖感が
消えるのではないということ。
強弱の度合をいっても意味はない。
若い人でも、また老人でも、死への恐怖感に、強弱はない。

(死の受容)イコール、(生の放棄)ではない。
老人にも、(否認期)はあり、(怒り期)も(取り引き期)もある。
それゆえに、老人にもまた、若い人たちと同じように、死の恐怖はある。
繰り返すが、それには、強弱の度合は、ない。

●死の否認期

第0期の中で、とくに重要なのは、「死の否認期」ということになる。
「死の否認」は、0期全般にわたってつづく。
が、その内容は、けっして一様ではない。

来世思想に希望をつなぎ、死の恐怖をやわらげようとする人もいる。
反対に、友人や近親者が死んだあと、その霊を認めることによって、孤独をやわらげ
ようとする人もいる。
懸命に体力作りをしたり、脳の健康をもくろんだりする人もいる。
趣味や道楽に、生きがいを見出す人もいる。

が、そこは両側を暗い壁でおおわれた細い路地のようなもの。
路地は先へ行けば行くほど、狭くなり、暗くなる。
そしてさらにその先は、体も通らなくなるほどの細い道。
そこが死の世界……。

老人が頭の中で描く(将来像)というのは、おおむね、そんなものと考えてよい。
そしてそこから生まれる恐怖感や孤独感は、個人のもつ力で、処理できるような
ものではない。

つまりそれを救済するために、宗教があり、信仰があるということになる。
宗教や信仰に、救いの道を見出そうという傾向は、加齢とともにますます大きくなる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●では、どうするか

 かなり暗い話になってしまったが、回顧性が強くなればなるほど、同時進行の形で、
上記「0期の不安期」が始まる。

 そこでこう考える。
「もし私(あなた)が、今、30歳なら、どうするか?」と。

 ひとつの例として、冠婚葬祭、とくに葬儀をあげる。

 たまたま昨夜、叔母が亡くなった。
いとこから、そういう連絡が入った。
葬儀は明日(土曜日)ということらしいが、K市での講演と重なり、私は参列できない。
そこで昨夜、私は香典を送金し、お悔やみの電報を打った。

 が、そのときいろいろと複雑な心理が働く。
「失礼はないだろうか」「これでいいのだろうか」と。

 そうした心理が働く背景には、私流の回顧性がある。
そこで私自身を、30歳という年齢に置き換えてみる。
すると葬儀に対する考え方が、一変する。
「死者をていねいに送ることは大切なことだが、私には遠い未来の話」と。

 そこでもう一度、こう考える。
「私の息子なら、どうするだろう」
「私は、私の息子に、どうしてほしいだろう」と。

 息子たちはみな、30歳前後である。

 するとそこにひとつの答が見えてくる。
叔母の死は悲しいことだが、ひとつの(事実)として受け入れるしかない、と。
つまり甥(おい)として、やるべきことはやる。
しかしそれをきっかけとして、自分を回顧性に追い込んではいけない。

だからといって、叔母の死を軽く見ろということではない。
私たちが若いころそうであったように、老人の死は、淡々と見送るしかないということ。
早く忘れて、「私は私」という生き方に、戻るということ。

●展望性の維持vs回顧性との闘い

 そこで最後に、展望性の維持と回顧性との闘いについて考えてみたい。
これは私自身の努力目標ということになる。

○展望性の維持

(1)若い人たちと、努めて交際する。
(2)いつも新しいものに興味をもつ。
(3)今できることは、つぎに延ばさない。
(4)体力と知力の維持に、努力する。
(5)夢と希望をしっかりともつ。
(6)1日の目標、1年の目標を、いつも定める。

○回顧性との闘い

(1)過去を振り返らない。
(2)退職したら、肩書き、名誉、地位を捨てる。
(3)「死」にまつわる行事、法事は、最小限に。
(4)常に「今、あるのみ」と心得る。
(5)過去にしがみつかない。
(6)「老人はこうあるべき」という常識を作らない。

 ざっと思いついたまま書いたので、荒っぽい努力目標になってしまった。
私の母や兄などは、ともに60歳を過ぎるころから、仏壇の金具ばかりを磨いていた。
要するに、そういう人生になってはいけないということ。

この努力目標を三唱して、ともかくも、今日も始まった。
がんばろう!
どこまでできるかわからないが、がんばろう!

09年11月14日、土曜日の朝
今朝は生暖かい雨が、シトシトと降っている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 老人心理 老人の心理 回顧性と展望性 回顧性 展望性)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●人を愛するということ

+++++++++++++++++

映画『歓びを歌にのせて』の中に、
こんなセリフがあった。
このDVDを見るのは、2度目。
星は5つの、★★★★★。

「顔を見ると幸せ
いつも想っている
いっしょにいると、とても幸せ
それが『その人を好き』という意味」と。

もう一度、まとめると、こうなる。

(1)顔を見ると幸せ。
(2)いつも想っている。
(3)いっしょにいると、とても幸せ。

++++++++++++++++

●『許して忘れる』

 人は「愛」という言葉を、安易に使う。……使い過ぎる。
しかし愛ほど、実感しにくい感覚もない。
で、その愛の深さは、相手をどこまで許し、どこまで忘れるかで決まる。
英語では、『for・give & For・get』という。
「許して、忘れる」という意味である。
つまり相手に愛を与えるために、許し、相手から愛を得るために、忘れるという
意味である。
その度量の深さによって、あなたの愛の深さが決まる。

 では、自分自身では、どうすれば愛を実感することができるか。
「私は、あなたを愛している」と、どういうときに言うことができるか。
それが冒頭に書いた感覚ということになる。

(1)顔を見ると幸せ。
(2)いつも想っている。
(3)いっしょにいると、とても幸せ。

●愛の実感

 失ってから、その価値をはじめて知るということは、多い。
健康しかり、若さしかり、そして子どものよさも、またしかり。
……ということは、前にも、何度か書いてきた。

 そこでここでは、その中身をもう一歩、深めてみる。

 実は「愛」も、「愛する人」を失って、それがどういうものだったかが、
わかる。
それまではわからない。
そのときは、まるで空気のようなもの。
いないとさみしい。
その程度。
そこで先の言葉に、いろいろつなげてみる。

(4)その人がそばにいると安心する。
(5)その人が何をしても、気にならない。
(6)その人がうれしそうだと、自分も楽しい。

 それが「その人を愛している」ということになる。

●身勝手な愛

 一方、身勝手な愛というのもある。
たいていは、心のどこかで(毒々しい欲望)と結びついている。
よい例が、ストーカーと呼ばれる人たちの愛である。
「いつもその人のことを想う」のは、その人の勝手だが、それでもって、「私は
その人を愛している」と錯覚する。
相手の気持ちなどお構いなしに、その人を追いかけ回したりする。

 が、これはある意味で、特殊な人たちの話。
(とは言っても、だれにでもストーカー的な要素はあるし、ストーカーをする人に
しても、そうでない場面では、ごくふつうの人だったりする。)

 実は、親子の間の「愛」についても、同じことが言える。
もしあなたが、自分の子どもといっしょにいるとき、それが楽しいなら、あなたは
子どもを愛しているということになる。
一方、子どもの側からみて、あなたという親といっしょにいるとき、それを楽しい
と思うなら、あなたの子どもは、あなたを愛しているということになる。

 が、現実はきびしい。
子どもも思春期を過ぎると、親子関係がうまくいっている家族となると、
10に1つもない。
(親は、「うまくいっている」という幻想を、いつまでも抱きやすいが……。)

そこであなたも、一度、自分の子どもにこう聞いてみるとよい。
「あなたは、お母さん(お父さん)といっしょにいると、楽しい?」と。
そのときあなたの子どもが、「楽しい」と答えれば、それでよし。
しかし「楽しくない」とか、「いっしょにいると苦痛」とか言うようであれば、
あなたの親子関係は、崩壊寸前、もしくは、すでに崩壊しているとみてよい。

 ひとつの診断法として、こんなことを観察してみるとよい。
あなたの子どもが学校などから帰ってきたとき、どこで体を休めるか。
(1)あなたのいる前で、平気で体を休める。
(2)あなたの姿を見たり、気配を感じたりすると、どこかへ逃げて行く。

 もし(1)のようであれば、あなたの親子関係には、問題はない。
が(2)のようであれば、「かなり危機的な状態」と判断してよい。

 ……とまあ、そこまで単純に考えてよいかどうかという問題もあるが、ひとつの
目安にはなる。

●物欲

 そこであなたが、もし祖父母なら、こう考えるかもしれない。
「子ども(孫)を楽しませてやろう」と。
そして子どもの物欲を満足させるために、あれこれといろいろ買ってやる。
そのとき子ども(孫)は、それに感謝し、喜ぶかもしれない。
しかしこうした満足感は、長続きしない。
数日もするとドーパミン効果は、脳のフィードバック現象によって、消失する。

(注:ドーパミン……欲望と快楽を司る、神経伝達物質。
フィードバック……脳内でホルモンの分泌により、あるひとつの反応が起きると、
それを打ち消すために、正反対のホルモンの分泌が始まる。それを「フィードバッ
ク」という。)

が、なおまずいことに、こうした満足感には麻薬性があり、幼いころには1000円の
もので満足していた子どもも、中学生になると、10万円のものでないと、満足
しなくなる。

 同じ「楽しい」という言葉を使うが、「いっしょにいると楽しい」というときの
(楽しい)と、「欲望を満足して楽しい」というときの(楽しい)は、まったく
異質のものである。

だからあなたの孫が、「おばあちゃん(おじいちゃん)といると楽しい」と言っても、
それで安心してはいけない。
あなたは孫に愛されていると思ってはいけない。
これは余計なことだが……。


●子どもの受験競争

 子どもの受験競争に狂奔する親は、少なくない。
親は、「子どものため」と思ってそうするが、子どものほうこそ、いい迷惑。
親は、自分が覚える不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。

 そこで改めて、自分にこう問うてみるとよい。

(2)「私は子どもといっしょにいると、楽しいか」と。

 あるいは、

(2)「私の子どもは、私といっしょにいると、楽しそうか」でも、よい。

 もしあなたが子どもといっしょにいるとき、楽しいなら、それでよし。
あなたの子どもも楽しそうなら、さらによし。
が、そうでないなら、あなた自身が「愛」と思っているものを、一度、疑ってみたら
よい。

 たいていのばあい、あなたはただの幻想にしがみついているだけ。
「私は子どもを愛している」という幻想。
「私は子どもたちに愛されている」という幻想。
子どもの心は、とっくの昔に、あなたから離れている。
が、自己中心性の強い人ほど、それがわからない。

毎日、毎晩、「勉強しなさい!」「ウッセー!」の大乱闘を繰り返す。
しかしそれは、とても残念なことだが、「愛」によるものではない。

●愛

 人を愛することができない人は、人に愛されることもない。
だから人に愛されたいと思うなら、まず人を愛する。
マザーテレサもこう言っている。
「愛して、愛して、愛しなさい。心が痛くなるまで、愛して、愛して、愛しなさい」
と。

 私たち凡人には、そこまでは無理かもしれない。
しかし努力することはできる。
その相手は、夫(妻)であり、子どもということになる。
もちろん親でもよい。

 で、その愛が相手の心に届いたとき、その相手は、「あなたといると楽しい」となる。
つまりその相手も、あなたを愛するようになる。
何がこわいかといって、この世の中で、「だれにも愛されないという孤独」ほど、
こわいものはない。
が、その孤独も、人を愛することによって、和らげることができる。

 ……などなど。
「愛」ほど、実感しにくい感覚もない。
また「愛」ほど、相手の中に見つけにくい感覚もない。
が、映画『歓びを歌にのせて』は、そのヒントを私に教えてくれた。
またそういう映画を、名画という。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 愛の原点 愛とは はやし浩司 愛の意味 愛の内容 愛論 歓
びを歌にのせて 愛の意味)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●国家の意思(日本の教育、私の教育論)

++++++++++++++++++++++++++

国によって、教育は異なる。
国として、どういう子どもに育てたいか。
そのとき国家として(意思)が働く。
教育の内容は、その意思に応じて、異なる。

日本には日本の、国家としての意思がある。
アメリカにはアメリカの、国家としての意思がある。
中国には中国の、国家としての意思がある。
その意思に応じて、国家は子どもの教育を組み立てる。

++++++++++++++++++++++++++

●もの言わぬ従順な民

 (もの言わぬ従順な民)の反対側に位置するのが、(ものを言う独立心の旺盛な民)
ということになる。
こと(組織)ということを考えるなら、(もの言わぬ従順な民)のほうがよい。
つまり明治以来、それが日本の教育政策の(柱)になっていた。

 一方、アメリカやオーストラリアでは、日本でいうような巨大企業が育ちにくい。
とくにオーストラリアでは、そうだ。
オーストラリアの街角を歩いていて気がつくのは、車の側面に、でかでかと看板を
描いて走る車。
「パイプ修理」「電気工事」「ネットサービス」「運送」などなど。
まさに何でもござれ。
それを見ながら、オーストラリアの友人は、こう話してくれた。

 「オーストラリアでは大企業は育たない。若者たちは、高校を卒業すると、
電話と車だけで、仕事を始めるようになる」と。

●不利イ〜タ〜

 (もの言わぬ民)から、(ものを言う民)、
(従順な民)から、(独立心の旺盛な民)へ。
今、この日本人は急速に変わりつつある。

が、この日本では(独立心の旺盛な民)は、あまり歓迎されない。
奈良時代の昔から、『和を以(も)って……』という、お国柄である。
で、今、独立して、ひとりで生きている人のことを、「フリーター」と呼ぶ。
「フリーター」というのは、昔風に言えば、「無頼」、あるいは「風来坊」。
社会が未成熟というか、フリーターを受け入れる土壌そのものが、育っていない。
何かにつけて、フリーターは、不利である。
だから「フリーター」のことを「不利イ〜タ〜」と書く。
(これは私の駄ジャレ。)

 一方、オーストラリアでは、年金制度にせよ、社会保障制度にせよ、職種によって、
差別しない。
官民の差は、ない。
その年齢になれば、みな、一律に年金が支給される。
「それ以上に……」と思う人は、あらかじめ保険会社などと契約をし、お金を積み立てて
いく。
保険制度についても、そうである。

驚いたのは、救急車を呼んでも、あとで請求書が回ってくるということ。
1回で、3〜5万円(南オーストラリア州、私の息子の例)。
相手によって、差別しない。
そういった出費は、保険に入っていれば、そのまま返金される。

●キャンピング

 国策として大企業、もしくは組織(軍隊)に有用な人材を育てるには、
(もの言わぬ従順な民)のほうがよい。
そのためには、子どもがまだ小さいうちから、徹底して集団教育を繰り返す。
「集団からはずれると、生きていけませんよ」という意識をもたせる。
この日本が、そうである。

ほとんどの親は、自分の子どもが集団からはずれることを、極端に恐れる。
自分の子どもが不登校児になったりすると、狂乱状態になる。
骨のズイまで、学歴信仰がしみこんでいる。

 教師は教師で、(最近はそういう教師は少なってきたが)、子どもが学校を
休んだりすると、「後れます」という言葉を使って、親をおどす。
しかし、何から後れるのか?
どうして後れるのか?

 この点、オーストラリアでは、その反対のことを教える。
たとえば「キャンピング」という科目がある。
原野(アウトバック)で、生き延びる術(すべ)を学ぶ。
そこで私が、メルボルンにあるグラマースクール(小中学校)のひとつに電話を
かけ、それを確かめたところ、電話に出た事務員の男性は、こう話してくれた。
「必須科目(コンパルサリー)です」(ウェズリー・グラマースクール)と(1990年ご
ろ)。
(しかし最近、オーストラリアの友人にそれを確かめたところ、「unlikely(ありえない)」
という返事をもらった。※)

 また私が留学していたころ、日本でいう大学入試センター試験のようなもの
があった(1970年ごろ)。
その結果に応じて、学生たちは自分の選んだ大学へ進学できる。
その試験の直前に、受験生たちはみな、1週間程度のキャンピングに行くということ
だった。
私が理由を聞くと、「実力を正しく評価するため」と※。
(しかしこれについても、オーストラリアの友人から、「キャンピングが義務になって
いるということは、まったくありえない」という返事をもらった。)

 つまり日本式の、詰め込み学習を排除するため……と、当時の私は、そう解釈
した。

 話がそれたが、「独立(independent)」に対する考え方そのものが、日本と欧米
とでは、異なる。
それが日本の教育であり、それが欧米の教育ということになる。

●国家の意思

 どちらがよいか。
どちらが、これからの日本の教育として、望ましいか。
(もの言わぬ従順な民)のほうがよいのか。
それとも(ものを言う独立心旺盛な民)のほうがよいのか。

 しかしこの視点そのものが、実はおかしい。
「国の意思」とは言うが、では、その「国の意思」はだれが作るか。
独裁的な為政者が作るか、それとも国民自身が総意として作るか。
それによって、中身が大きく変わってくる。

つまり独裁的な国家では、(民)を国家の財産として考える。
「国あっての民」と考えるとき、そのとき、国家の意思がそのまま
その国の教育に反映される。
為政者も、「わが国民」などと、まるで国民を私有物であるかのように言う。

 たとえば中国では、上も下も、「立派な国民」という言葉を使う。
しかしそういう中国を私たちは笑うことはできない。
一昔前、つまり私たちが子どものころは、「役に立つ社会人」というのが、
教育の(柱)になっていた。
卒業式などのときも、それこそ耳にタコができるほど、そう言われた。
「どうか社会で役立つ人になってください」と。

 国家の意思……その意思に添って、その国の民は作られる。
教育によって、作られる。
「作られている」という意識をもつこともなく、作られる。
今のあなたのように……。

【補記】

●みなが、大企業に!

 私たちは日本が、ちょうど高度成長の波に乗るころ、社会に送り出された。
だから就職というと、だれもが迷わず、大企業を選んだ。
「大きければ大きいほど、いい」と。

 そして企業戦士となり、一社懸命に、その会社のために励んだ。
「それが人として、なすべき道」と。

 しかしこれはあくまでも私のばあいだが、私はオーストラリアへの留学中に、
その考え方が、ひっくり返されてしまった。
とくにショックだったのは、日本の商社マン(Business Men)が、「軽蔑されて
いた」ことだった。
これには驚いた。
心底、驚いた。
私は、M物産という会社から内定をもらっていたので、よけいに驚いた。
(このことは、『世にも不思議な留学生活』(中日新聞掲載済み)に書いた。)

 国がちがえば、職業に対する価値観そのものまで、ちがった。
それを思い知らされた。
で、しばらくして、私の考え方は、180度変わった。

 もちろん私の考え方が、正しかったというのではない。
それでよかったというわけでもない。
今の日本があるのは、企業戦士であるにせよ、一社懸命であるにせよ、
そういうところで懸命に働いた人たちがいたからである。
また私のような生き方をしていた人も、当時はまわりに、10人ほどいた。
しかし私をのぞいて、みな、ことごとく、事業に失敗したりし、そのあと、
どうかなってしまった。

 「フリーター」という言葉すら、ない時代だった。

 損か得かということになれば、この日本では、フリーターは決定的に不利。
損!
たとえばM物産の社員だったとき、うしろの席に、TJという同期入社の男がいた。
彼はそののち、政府の諮問機関の委員になり、活躍した。
今はHT首相の、首相顧問として活躍している。
そういう現実を見せつけられると、果たして私の選択が正しかったのかどうか、
それがわからなくなる。

 で、今度は、視点を国民側、つまり「民」に置いてみる。
「どういう生き方が、個人の生き方として、ふさわしいか」と。
すると、教育に対する考え方が、一変する。

 たとえばアメリカなどでは、教師が親に、子どもの落第を勧めると、
親は、喜んで、それに従う。
「そのほうが子どものためになる」と、親は考える。
この(ちがい)こそが、日本とアメリカのちがいということになる。
「国」の立場で教育を考えるのか、「子ども」の立場で教育を考えるのか、
そのちがいということになる。

 が、悲観すべきことばかりではない。
この10年で、日本というより、子どもをもつ親の意識が大きく変わった。
まさに「劇的な変化」。
「サイレント革命」と名づける人もいる。

 結果、たとえば今では子どもの障害についても、それを前向きにとらえる人が
ふえてきた。
(隠さなければならないこと)と考える人は、少ない。
障害児教育の拠点校になっている、ある小学校の校長は、こう話してくれた。

「10年前には、考えられなかったことです。今では、この小学校に入学するために、
わざわざ住所を変更してやってくる親もいます」と。

 私たちはこうした意識を、けっして後退させてはならない。
はじめに「国」があるわけではない。
(そういう部分も必要だが、あくまでも「部分」。)

はじめに「民」がいる。
「子ども」がいる。
そういう視点から、教育がどうあるべきかを考える。
教育を組み立てる。

 みながそう考えれば、結果は、あとからついてくる。
この日本の教育は、変わる!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 日本の教育 教育論 教育はどうあるべきか はやし浩司 教育
論)

(注※)

 南オーストラリア州に住む友人に、このことを確かめると、その返事が届いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Hi Hiroshi,
ヒロシへ、

I will find out about camping trips in the local schools and ask Andrew 
& Elizabeth what they did at their school (Pembroke) in Adelaide.
キャンプについては、息子と娘に、何をしたかをたずねてみる。

I think it is unlikely a camping trip would be compulsory just before 
year 11 & 12 exams and almost certainly not a requirement for University 
entrance.
11学年と12学年以前に、キャンピングが義務教育ということは、ありえない。
大学の入試のために必要ということは、まったくありえない。

However camping is likely to be in the curriculum in most years after 
years 5 or 6 as part of the broad life-skills education.
しかし5歳とか6歳以後は、生活力教育という意味において、カリキュラムになっている
ということはありえる。

Camping trips are most likely to occur in our spring which is towards 
the end of our school year.
キャンピングは、学年末の春になされることが多いようだ。

+++++++++++++++

Hi Hiroshi,
(ヒロシへ)

I had a talk to both the state Primary school headmistress & the 
recently retired state High school headmaster about camping.
最近小学校の校長と、州立高校の校長をしていた人と、キャンピングについて
話した。

Basically there is, in the curricula, Physical Education, Outdoor 
Education and year camps.
基本的には、体育、野外活動、そして年度末のキャンプのカリキュラムはある。

These are all different things but do overlap a bit. Camping starts at 
year 4. Usually for a week. They are not compulsory & not a 
pre-condition for university entrance.
これらはみな、別個のものだが、少し重なる部分もある。
キャンプは、小学4年のときに始まる。
それらは義務教育でもないし、大学入試のための前提条件でもない。

Search around in http://www.decs.sa.gov.au/portal/learning.asp for the 
South Australian policies & curricula.
オーストラリアの政策とカリキュラムについては、このサイトをさがして
みたらよい。

I can find out a bit more from the people involved in outdoor ed etc at 
both schools if you can give me specific questions to ask.
何か特別な質問があれば、野外活動教育に携わった人から、もっと情報を
手に入れることができる。

Cheers,

B

Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

Dear B,

How are you these days?

By the way I'd like to write this mail to know or to make sure whether it is correct or 
not about the education in Melbourne now.

  When I was in Melbourne around 1970's, some of the students told me that all the 
high school students in leaving year were compulsory to go camping before they receive 
the so-called national certification examinations to enter the universities, and with the 
results of the examinations students could choose the university.

This is the point which I'd like to make sure, if it is the same now, I mean that if the 
students should go camping for a week or so before the examinations and if it is the 
same that students choose the universities to which they should enroll themselves 
according to the results of the examinations.

As you may know, the education systems are so much different between two 
countries. 
I am keenly interested in this matter now.
Or is "Camping" still a compulsory subject for students of grammar schools in 
Melbourne?
That is what I heard over the phone from a staff of a grammar school in Melbourne 
almost about ten years ago.
We in Japan don't have such and such subject for students and of course it is not 
compulsory. 
(Pupils or Jr. High school students go camping or so in a training centers just for a 
different purpose in Japan.)

 So again here I summarize the points.

(1)Do students go camping just before the examinations?
(2)Is the subject "Camping" compulsory still now?

 Thank you for your kind advice about this matter.

It is now winter time here in Japan.
It is sometimes cold, but most often, it is much warmer than usual years.
I hope you and your daughter with new baby are all well and we wish you a very Merry 
Christmas time this year.

Hiroshi Hayashi

Hamamastu-city, Japan

++++++++++++++++++

(以下、手紙の要約)

B君へ

1970年ごろ、ぼくは、センター試験を受ける高校生たちが、その試験の前、
1週間ほど、キャンプに行くという話を聞いたことがあります。
今でもそうなのかどうか、教えてほしい。
またメルボルンのグラマースクールでは、キャンピングという科目が、必須科目
だと10年ほど前に聞きました。
今でもそうなのかどうか、教えてほしい。

はやし浩司

++++++++++++++++++++++++

中国の「立派な国民」教育について書いた原稿です。
(中日新聞にて発表済み)

++++++++++++++++++++++++

●急速に崩壊する「出世主義」

  「立派な社会人になれ」「社会で役立つ人になれ」と。日本では出世主義が、教育の柱
になっている。しかし殴米では違う。アメリカでもフランスでも、先生は、「よき家庭人に
なれ」と子どもに教える。「よき市民になれ」と言うときもある。先日、ニュージーランド
の友人に確かめたが、ニュージーランドでも、そういう。オーストラリアでも、そういう。
私は、日本の出世主義に対して彼らのそれを勝手に、家族主義と呼んでいる。もちろん彼
らにそういう主義があるわけではない。彼らにしてみれば、それが常識なのだ。

 日本人はこの出世主義のもと、仕事を第一と考える。子どもでも、「勉強している」と言
えば、家事の手伝いはすべてに免除される。五十代、六十代の夫で、家事や炊事を手伝っ
ている男性は、まずいない。仕事がすべてに優先される。よい例が、単身赴任。かつて私
のオーストラリアの友人は、こう言った。「家族がバラバラにされて、何が仕事か」と。も
う三十年も前のことである。

こうした日本の特異性は、日本に住んでいると分からない。いや、お隣の中国を見れば分
かる。今、中国では、「立派な国民」教育のもと、徹底した出世主義を子どもたちに植えつ
けている。先日も北京からきた中学教師の講演を聞いたが、わずか一時間前後の話の中に、
この「立派な国民」という言葉が、十回以上も出てきた。子どもたちの大多数が、「将来は
科学者になって出世したい」と考えているという。

 が、この出世主義は、今、急速に音をたてて崩れ始めている。旧来型の権威や権力が、
それだけの威力をもたなくなってきている。一つの例が成人式だ。自治体の長がいくら力
んでも、若者たちは見向きもしない。ワイワイと騒いでいる。ほんの三十年前には、考え
られなかった光景だ。私たちが二十歳のときには、市長が壇上にいるだけで、直立不動の
姿勢になったものだ。

が、こうした現象と反比例するかのように、家族を大切にするという人が増えている。一
九九九年の春、文部省がした調査でも、四〇%の日本人が、もっとも大切にすべきものと
して、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、四五%。一年足ら
ずの間に、五ポイントも増えたことになる。もっとも、こうした傾向を嘆く人も、多い。
出世主義を信奉し、人生の大半を、そのために費やしてきた人たちだ。あるいはそういう
流れを理解できず、退職したあとも、過去の肩書や地位にこだわっている人だ。

こういう人たちにとっては、出世主義を否定することは、自らの人生を否定することに等
しい。だから抵抗する。狂ったように抵抗する。ある元教授はメールで、こう言ってきた。
「暇つぶしにもならないが」と前置きしたあと、「田舎のおばちゃんなら、君の意見をあり
がたがるだろう。しかし私は君の家族主義を笑う」と。しかしこれは笑うとか笑わないと
かいう問題ではない。それが日本の「流れ」、なのだ。

 今でも日本異質論が叫ばれている。日本脅威論も残っている。その理由の第一が、日本
人がもつ価値観そのものが、欧米のそれとは異質であることによる。言い換えると、日本
が旧来の日本である限り、日本が欧米に迎え入れられることはない。少なくとも出世主義
型の教育観は、これからの世界では、通用しない。

+++++++++++++++++++

つづいて、『世にも不思議な留学記』に書いた原稿を
紹介します。(中日新聞にて発表済み)

+++++++++++++++++++

イソロクはアジアの英雄だった【2】

●自由とは「自らに由る」こと

 オ−ストラリアには本物の自由があった。自由とは、「自らに由(よ)る」という意味だ。
こんなことがあった。

 夏の暑い日のことだった。ハウスの連中が水合戦をしようということになった。で、一
人、二、三ドルずつ集めた。消防用の水栓をあけると、二〇ドルの罰金ということになっ
ていた。で、私たちがそのお金を、ハウスの受け付けへもっていくと、窓口の女性は、笑
いながら、黙ってそれを受け取ってくれた。

 消防用の水の水圧は、水道の比ではない。まともにくらうと学生でも、体が数メ−トル
は吹っ飛ぶ。私たちはその水合戦を、消防自動車が飛んで来るまで楽しんだ。またこんな
こともあった。

 一応ハウスは、女性禁制だった。が、誰もそんなことなど守らない。友人のロスもその
朝、ガ−ルフレンドと一緒だった。そこで私たちは、窓とドアから一斉に彼の部屋に飛び
込み、ベッドごと二人を運び出した。運びだして、ハウスの裏にある公園のまん中まで運
んだ。公園といっても、地平線がはるかかなたに見えるほど、広い。

 ロスたちはベッドの上でワーワー叫んでいたが、私たちは無視した。あとで振りかえる
と、二人は互いの体をシーツでくるんで、公園を走っていた。それを見て、私たちは笑っ
た。公園にいた人たちも笑った。そしてロスたちも笑った。風に舞うシーツが、やたらと
白かった。

●「外交官はブタの仕事」

 そしてある日。友人の部屋でお茶を飲んでいると、私は外務省からの手紙をみつけた。
許可をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。そこで私が「お
めでとう」と言うと、彼はその手紙をそのままごみ箱へポイと捨ててしまった。「ブタの仕
事だ。アメリカやイギリスなら行きたいが、九九%の国へは行きたくない」と。彼は「ブ
タ」という言葉を使った。

 あの国はもともと移民国家。「外国へ出る」という意識そのものが、日本人のそれとはま
ったくちがっていた。同じ公務の仕事というなら、オーストラリア国内のほうがよい、と
考えていたようだ。また別の日。

  フィリッピンからの留学生が来て、こう言った。「君は日本へ帰ったら、軍隊に入るのか」
と。「今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の、
伝統ある軍隊になぜ入らない」と、やんやの非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権
下。軍人になることイコ−ル、出世を意味していた。

 マニラ郊外にマカティと呼ばれる特別居住区があった。軍人の場合、下から二階級昇進
するだけで、そのマカティに、家つき、運転手つきの車があてがわれた。またイソロクは、
「白人と対等に戦った最初のアジア人」ということで、アジアの学生の間では英雄だった。
これには驚いたが、事実は事実だ。日本以外のアジアの国々は、欧米各国の植民地になっ
たという暗い歴史がある。

 そして私の番。ある日、一番仲のよかった友だちが、私にこう言った。「ヒロシ、もうそ
んなこと言うのはよせ。ここでは、日本人の商社マンは軽蔑されている」と。私はことあ
るごとに、日本へ帰ったら、M物産という会社に入社することになっていると、言ってい
た。ほかに自慢するものがなかった。が、国変われば、当然、価値観もちがう。

 私たち戦後生まれの団塊の世代は、就職といえば、迷わず、商社マンや銀行マンの道を
選んだ。それが学生として、最良の道だと信じていた。しかしそういう価値観とて、国策
の中でつくられたものだった。私は、それを思い知らされた。

 時、まさしく日本は、高度成長へのまっただ中へと、ばく進していた。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

(補記)

 キャンピングに力を入れているということは、学校のカリキュラムを見てもわかる。
たとえば、Darley Primary School の第4学期のカリキュラムにはつぎのようにある。

(第4学期)

Safety in Adventure
& Teamwork
(野外活動における安全性とチームワークについて)

Health & P.E. + Interpersonal Learning
(保健と体育+人間関係の学習)

oStudents develop their skills and strategies for getting to know and understand each 
other within increasingly complex situations.
oIn teams, students work towards the
achievement of agreed goals within a set time frame.
oThey develop awareness of their role and responsibilities
in various situations and interact accordingly. Students begin to be aware that different 
points of view may be valid.
oThey begin to selfevaluate and reflect on the effectiveness of the teams in which they 
participate.
oStudents follow safety principles in games and activities.
oThey identify basic safety skills and strategies, and describe methods for recognising 
and avoiding harmful situations.

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 出世主義 家族主義 独立 子どもの自立 はやし浩司 camp 
camping 野外活動)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●思慮深さ(The Value of Silence)

+++++++++++++++++

何かを話すと、すかさず返事が返ってくる。
しかしその中身は、たいていいいかげん。
脳に飛来した情報を、音声に置き換えて
いるだけ。
これを「音声化」(はやし浩司)という。

子どもの世界でも、よくこんな現象が観察される。

たとえば鉛筆を床に落としたとする。
そのとき、こんなことを口にする。

「アッ、鉛筆がおちたア」
「ぼく、拾う」
「鉛筆は、どこかな」
「あったア〜」と。

意味のない言葉を、ひとり言のように言う。
私はこのタイプの子どもを、勝手に、
「音声化児」と呼んでいる。
脳の表層部分に飛来する情報を、やはり、
音声に置き換えているだけ。
だから「音声化児」と呼んでいる。

このタイプの子どもは、よくしゃべるという
点で、一見、利発に見える。
しかし中身が薄っぺらい。
思考力も浅い。
4、5歳児に多く、やがて少なくなっていく。

++++++++++++++++++

●反すう能力

 「思慮深さ」は、反すう能力で決まる。
「能力」というより、「習慣」の問題。

(1)相手の言ったことを、まず聞く。
(2)脳の中で、それを吟味する。
(3)それを何度も繰り返す。
(4)その上で、自分の意見を添える。

 ところがおもしろいことに、当の本人は、即座に反応することを、よいことだと
誤解している。
中には、それを「頭のいいことの証(あかし)」と誤解している人もいる。
つまり自分が、頭のよい人と思われたいがため、無理に、即座に反応しようとする。
だからどうしても、言っていることが、浅くなる。
ペラペラとよくしゃべる割には、中身がない。
口はうまいが、心が伴わない。

●沈黙の価値

 『沈黙は金なり』という。
英語国では、『沈黙の価値のわからない者は、しゃべるな』という。

 ここでいう「沈黙」というのは、「反すう能力」をいう。
この反すう能力のある・なしで、思慮深さが決まる。
反すう能力のある人を、思慮深い人といい、そうでない人を、そうでないという。
もっとわかりやすく言えば、反すう能力のある人を、「賢い人」といい、
そうでない人を、「愚かな人(fool)」という。

 たとえばこんな会話をする。

A「女も、25を過ぎると、結婚できなくなるよ。25だなア〜」
私「今は、そういう時代じゃ、ないと思うんですが……」
A「いやいや、世の中には、常識というものがあるからね」
私「それぞれの人には、それぞれの思い方や考え方があると思うんですが……」
A「やはり、常識には従ったほうが、いいよ。何と言っても、常識だよ」
私「……?」と。

 ここに書いたA氏は、常識論を説きながらも、自分では何も考えていないのがわかる。
考えようともしていない。
子どもの世界でも、いつも軽口をペラペラとしゃべっている子どもがいる。
反応も早い。
「ドヒャー、何、これ? ハハハ、これ、動く? ギャー、動いたア!」と。
その一方で、私が何かを話しかけたりすると、ジーッとこちらをにらみ、そのまま
視線が沈む子どももいる。

 どちらがよいかということは、一概には言えない。
時と場合による。
しかし「反すう能力」のある子どもは、後者のような反応を、よく見せる。

●加齢とともに

 これは現在の私の実感だが、加齢とともに、反すう能力がより優れていく人と、
反対に劣っていく人がいるのがわかる。
イギリスのある賢人は、こう言った。
『40歳のとき愚かな人(fool)は、生涯、愚かな人である』と。
どうやらその分かれ道は、40歳くらいのときにやってくる。
そのころまでに、反すう能力を身につけた人は、長い時間をかけて、賢い人になっていく。
そうでない人は、そうでない。

 さらに深刻な問題として、そこへ認知症が加わると、この反すう能力が、極端に低下
する。
言ってよいことと悪いことの区別も、つかなくなる。
認知症でなくても、人は加齢とともに、脳みその底に穴が開いたような状態になる。
だからますます軽口が多くなる。
考えが浅くなる。
つまり反すう能力が、衰えてくる。
これは私たちの年代の者にとっては、深刻な問題と考えてよい。

●思慮深くなるために

 先にも書いたように、思慮深さは、能力の問題ではない。
習慣の問題。
その習慣がある・なしで、決まる。
そこで重要なのは、(1)まず相手の話を聞く、ということ。
つぎに(2)それを頭の中で、何度も吟味するということ。
その上で、(3)それを言葉として言う。

 子どもの世界で言うなら、年長児になっても、無意味な音声化が残っているようなら、
こまめに、「口を閉じなさい」と指示して、それを抑える。
が、この時期を逃すと、今度はそれがクセとして、子どもの中に定着してしまう。
なおすとしたら、まだ親の目がしっかりと届く、年長児ごろまでに、ということになる。

 が、これは何も子どもだけの問題ではない。
私たち自身の問題でもある。

 そのことは、電車やバスに乗ってみると、よくわかる。
たいてい1組や2組、騒々しいグループが乗り込んでいる。
あたり構わず、大声でしゃべりあっている。
ペチャペチャ、クチャクチャ……と。

 試しにそういう会話に耳を傾けてみるとよい。
つぎのことがわかる。

(1)中身が浅い。
(2)どんどんと、内容が変わっていく。
(3)一方的にたがいに話すだけで、会話がかみあっていない、など。
そういう状態で、片時も休むことなく、おしゃべりがつづく。

 先日も、地元の観光バスに乗ったら、乗ったときから、降りるまで、合計すれば
8時間近く、おしゃべりをつづけていた女性がいた。
「疲れないのかな?」と思い、観察してみると、口先だけで話しているのがわかった。
口もほとんど、動かない。
言葉にも抑揚がない。
プラス、脳みそを、ほとんど使わない。
だから、疲れない。

 もっともこれには、AD・HDの問題もからんでくる。
女児のばあい、多動、集中力の欠如に併せて、多弁性が現れてくる。
で、多動性、集中力の欠如は、小学3年生前後を境にして、外からはわかりにくくなる。
本人の自己管理能力が発達してくると、自分で自分をコントロールするようになる。
が、ほとんどのばあい、おとなになってからも、多弁性だけは、残る。
バスの中のその女性のばあい、そちらのタイプだったかもしれない。

●11月9日(月曜日)

 話がそれたが、「思慮深さは、反すう能力で決まる」。
要するに「考える力」ということになる。
日ごろから、その習慣があるか、ないかということ。
それで決まる。

 そうでなくても、加齢とともに、思慮深さは減退してくる。
……とまあ、話が繰り返しになってきたので、この話はここまで。
今日から、11月の第2週目。
相手が子どもでも、しっかりと耳を傾けてやろう。
そう心に誓って、今日も始まった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 思慮深さ 沈黙は金 沈黙の価値 思考の反すう 反芻 反芻能力)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

★Don't speak unless you can improve upon the silence 
 「それが沈黙から進歩したものでなければ、話すな」(スペインの格言)。

In the end, we will remember not the words of our enemies, but the silence of our 
friends. 
(Martin Luther King Jr.)
「最後には、あなたは敵の言葉ではなく、友の沈黙のほうを覚えているだろう」(マーティ
ンルーサー・キング・Jr)。

★The true genius shudders at incompleteness - and usually prefers silence to saying 
something which is not everything it should be. - Edgar Allen Poe
「真の天才は、未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを
語るよりも、沈黙をふつう、好む」(E・A・ポー)。

●これらの教育格言の中で、とくにハッと思ったのが、エドガー・アラン・ポーの「真の
天才は、未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語るよ
りも、沈黙をふつう、好む」という言葉である。

 わかりやすく言えば、「ものごとを知り尽くした天才は、自分の未熟さや、未完成さを熟
知している。だから未熟なことや、未完成なことを人に語るよりも、沈黙を守るほうを選
ぶ」と。私は天才ではないが、こうした経験は、日常的によくする。

 私のばあい、親と私の間に、どうしようもない「隔たり」を感じたときには、もう何も
言わない。たとえば先日も、こんなことを言ってきた母親がいた。

 「先祖を粗末にする親からは、立派な子どもは生まれません。教育者としても失格です」
と。

 30歳そこそこの若い母親が、こういう言葉を口にするから、恐ろしい。何をどこから
説明したらよいかと思い悩んでいると、そのうち私の脳の回路がショートしてしまった。
火花がバチバチと飛んだ。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●11月11日

++++++++++++++++++

やっと調子が戻ってきた。
頭の中のモヤモヤを、吐き出せるように
なった。
よかった!

おとといの夜などは、「ぼくもこれで
ボケしまったのか」と、本気で、
心配した。

が、今日は、ちがった。
朝から、(怒り)を覚えた。
その(怒り)が、起爆剤になった。
一気に、『沈まぬ太陽』論を書いた。
山崎豊子氏が言う「義憤」を覚えた。
それがよかった。
午前中だけで、30枚分(40x36行)。
マガジン1回分の原稿を書いた。
そこで新発見。

怒りは、脳を活性化させるということ。
怒りを覚えないと、文というのは
書けない。
そう言い切ってもよい。
平和で、ゴムが伸びきったような
生活からは、何も生まれない。
緊張感そのものがない。
だから書けない。

++++++++++++++++++

●モヤモヤ

 ワイフがこう聞いた。
「毎日、毎日、よくもまあ、そんなに書くことがあるわね」と。
それについて、私はこう答えた。
「あるよ」と。

 何かの話を聞く。
あるいは何かの本を読む。
そのときは、「そうだな」と思う。
(そういう意味では、私は割と、すなおなところがある。)
しかししばらくすると、頭の中がモヤモヤしてくる。
「そうかなあ?」と思ってみたり、「そうでもないのではないぞ」と
思ってみたりする。
するとやがて、頭の中がモヤモヤしてくる。
何だかよくわからないが、モヤモヤしてくる。
そこで私はおもむろにパソコンに向かって、キーボードを叩き始める。

するとたちまち、ちょうど氷が四方八方に割れるかのように、バリバリと
あちこちに火花が飛ぶ。
同時に中心に、「核」のようなものが見えてくる。

 あとは、それを叩き出すだけ。
文として、まとめるだけ。
調子のよいときは、ピアノの演奏家が鍵盤を叩くように文が、画面に出てくる。
調子の悪いときは、何度も書き直す。
こうしてひとつのエッセーが生まれる。

 が、ここで注意したいことがある。
偉そうなことは言えないが、たとえボツと思っても、けっしてあきらめては
いけないということ。
モヤモヤを感じた以上、そこにはかならず何かがある。
その何かを吐き出すまで、推敲に推敲を重ねる。
モヤモヤが、重ければ重いほど、推敲を重ねる。
するとやがてモヤモヤが、ひとつの塊(かたまり)になってくる。

 こうして私は、自分の原稿を書く。
ボツにしたことは、めったにない。
ボツにするということは、時間を浪費したことになる。
だからどんなことをしても、まとめる。
その根性がないと、エッセーは書けない。

 これは称して、「私のエッセー論」ということになる。
もちろん、私は私。
人それぞれ。
その人の思うところは、みな、ちがう。
そういうわけで私のエッセー論は、あくまでも私のもの。
何かの参考になればうれしい。

 そうそう大切なことを言い忘れた。
そのモヤモヤを叩き出したときの爽快感は、なにものにも
換えがたい。
それがあるから、私は文を書く。
文を書いているときは、本当に楽しい。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●ニヒリズム

 このところ何を考えても、「どうでもいいや」という心が、ふと頭を出す。
新聞を読んでも、雑誌を読んでも、ふと頭を出す。
今日の昼も、黄海の南北境界線あたりで、韓国とK国が銃撃戦を交わしたという
ニュースが報道された(09−11−10)。
韓国軍側には死傷者は出なかったというが、K国側の警備艇は半壊の状態で、
K国側に逃げ帰ったという。

 その記事を読んだときも、「どうでもいいや」と思った。
銃撃戦を交わしている一方で、韓国は食糧援助をしている。
開場という工業団地では、K国の従業員を雇い、K国政府に現金を、直接渡している。
K国自体も、そういう韓国を見透かして、核兵器を作るための核開発を進めている。
何が、境界線だ!
何が、銃撃戦だ!

 「国」というのが、バラバラになって、そのバラバラになった国の断片が、それぞれ
別のことをしている。
つまり一貫性がない。
私には、どうしても理解できない……というよりは、考えれば考えるほど、頭の中が、
同じようにバラバラになってしまう。

●一貫性

 たとえば私は、一度でも、その人を批判したり、中傷したことがある人とは、
つきあわない。
相手についても、そうで、私のことを批判したり、中傷している人とは、つきあわない。
こうして毎日、何かの文章を書いているが、その中ででも、そうだ。
(その人)と意識して、批判したり、中傷したようなばあい、いくらその人とわからない
ように書いたとしても、つきあわない。

 中には、陰で、私の悪口を言いふらしながら、年始には年賀状を送ってくれる
人がいる。
が、私には、そういう器用な芸当はできない。
できないから、無視する。
「一貫性」というほど、大げさなものではないかもしれない。
しかしそんなことをしていたら、私自身がバラバラになってしまう。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●トラウマ(無線LAN)

++++++++++++++++++++++

昨日、我が家のパソコンを、無線LANでつないだ。
いろいろあった。
いろいろあって、設定までに、2時間あまりかかってしまった。
が、中には、「今ごろ、無線LAN?」と思う人もいるかもしれない。

実は、5、6年前に、一度、無線LANにしたことがある。
そのときも設定ミスが重なり、半日ほどかかってしまった。
それに当時は、無線LANを取り付けるとき、
モデム機能をOFFにする設定を、
パソコン上でしなければならなかった。
その仕方がわからなかった。
(現在は、機器の外部に、その切り替えスイッチがついている。)

で、何とか無線LANでつないだ。
が、そのあと問題が、つぎつぎと起きた。
HPのHTML送信をしようとすると、エラーの連続。
近くに電子レンジがあったのが、まずかった。
しかもスピードがのろい。

いろいろあって、そのままGIVE UP!
当時の機器は、一式、戸棚のゴミとなった。
で、今回の再挑戦。

が、またまた失敗。
前回のトラブルがトラウマになっていた。
「また失敗するのではないか?」と思いつつ作業を始めた。
で、案の定、またまた失敗。

話せば長くなるが、要するに、暗号ナンバーの入力を
最初の段階で、まちがえてしまった。
その結果、無線ルーターのほうがそのナンバーを
記憶してしまい、あとは何をやっても、つながらなく
なってしまった。

こうして悪戦苦闘すること、2時間あまり!
ハラハラ・ドキドキ・・・。
説明書には、「簡単に・・・」と書いてあった。
その「簡単」という文字が、うらめしく見えた。

で、何とか、パソコンを無線LANでつなげることができた。
ホ〜〜ッ!
これからはいちいちパソコンを、有線でつながなくてもよい。
遠く離れた場所でも、ネットを楽しむことができる。
さらにLAN経由で、プリンターも使えるようになる。

……夜寝るとき、ふとんの中で、ミニ・パソを使って、ワイフに、
YOUTUBEの音楽を聴かせてやった。
そのときはじめてワイフは、無線LANのありがたさが
わかったらしい。
で、こう言った。
「無線LANって、便利ね」と。

++++++++++++++++++++++

●恐怖症

 私の脳みその中には、「恐怖症」という思考回路ができあがってしまっている。
何かのことで一度恐怖感を覚えると、それがそのままその思考回路に従って、恐怖症と
なってしまう。

 子どものころのことでよく覚えているのが、「ボール」。
あの野球のボール。

 それまでは軟式野球をしていたのだが、ある日、硬式野球というのをやってみた。
いきさつはよく覚えていないが、中学かどこかのグランドで、それをした。
子どものころの私は、結構、スポーツマンで、何でもござれというタイプの子どもだった。
が、そのとき、いきなり、あの硬いボールで、デッドボールをくらってしまった。
とたん、ボール恐怖症になってしまった。
「野球」という言葉を聞いただけで、それから逃げるようになってしまった。

 あれは私が小学6年生か、中学1年生のときのことだったと思う。
……というような経過を経て、私はいろいろな恐怖症になる。

 いちばんよく覚えているのが、飛行機恐怖症。
私が乗った飛行機の事故がきっかけで、そうなってしまった。
羽田で、その事故は起きた。
私が30歳にあんる、少し前のことだった。
とたん、飛行機恐怖症。
そのあと10年近く、飛行機に乗れなくなってしまった。
ときどき乗ることはあったが、行った先の外地で、夜、眠られなくなってしまった。

●子どもの世界では

 子どもの世界では、こうした思考回路をつくらないよう注意する。
一度その思考回路ができると、いろいろな場面で、恐怖症に陥りやすくなる。
高所恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症、お面恐怖症、などなど。
思考回路というのは、言うなれば、空の貨車。
その貨車の中に、そのつど、いろいろなものが入る。
入って、いろいろな恐怖症を引き起こす。

 要するに、度を越した強い刺激は、子どもには与えてはならないということ。
子どもが幼少のときほど、注意する。

 私のばあいも、自分ではよくわからないが、どこかでそういう経験をしたらしい。
たとえば私は、子どものころ、自分の家のトイレがこわくてたまらなかった。
トイレは、家の中の、いちばん端の、薄暗い場所にあった。
電気など、ない。
ボットン便所。

 トイレの中の壁には、無数の汚れたシミがついていて、私にはそのシミが動いている
ように見えた。
それでトイレには、入れなくなってしまった。
で、それが後々の、閉所恐怖症につながっていった。

 大学生のときのこと。
みなで、どこかの金山跡を訪ねたことがある。
あのときも、みなは平気で中へ中へと入っていったが、私だけは入れなかった。
入り口のところで、立ったまま、足がすくんでしまった。

 そういう形で、恐怖症は、そのときどきにおいて、顔を出す。
だから恐怖症を軽く見てはいけない。
見てはいけないというよりも、そういう子どもがいたとしても、軽く考えてはいけない。
中には、「そんなのは気のせい」とか何とか言って、無理をする親がいる。
しかしこんな乱暴な指導は、ない。

 少し前も、小学校に入学したとたん、不登校になってしまった子ども(男児)がいた。
祖母にあたる人から、いろいろ相談を受けた。
が、原因がよくわからない。
そこで子どもに聞くと、「トンネルがこわい」と。

 自宅から小学校へ行くまでの間に、トンネルがあった。
そのトンネルがこわいと言うのだ。

 それを祖母にあたる人に話すと、「そんなことで!」と驚いていたが、恐怖症というのは、
そういうもの。
その(恐ろしさ)は、経験した者でないとわからない。

 で、その子どものばあい、通学路を変えただけで、問題は解決した。 

●無線LAN

 で、無線LANの話に、戻る。
私は無線LANの設定をするとき、「また失敗するのでは?」という思いを、ぬぐい去る
ことができなかった。
そこで説明書をあらかじめ数回読み、設定の仕方を叩きこんだ。

 が、ものごとは、「できる」と自信をもってやったときと、「できないかもしれない」と
不安をかかえてやったときとでは、そのあとのできがちがう。
自信をもってやったときは、多少の失敗がつづいても、それを乗り越えることができる。
が、不安をかかえてやったときは、何かのことでつまずくと、そのままそこでくじけて
しまう。
ハラハラ・ドキドキするのは、そのためと考えてよい。

 子どもの世界にも、「達成感」という言葉がある。
3つくらい課題を与えて、2つくらいはできるようにして、子どもに達成感を
覚えさせるのがよい。
3つ課題を与えて、3つともできないと、子どもでなくても、やるのがいやになる。
しかしすいすいと3つともできてしまうと、これまたやる気をなくしてしまう。
だから、3つのうち、2つくらいはできるようにする。
そのあたりを見定めながら、子どもに課題を与える。

 が、恐怖症になっていると、その入り口のところで、自信を失ってしまう。
「私はできない」という思いが、弱化の原理として働き、子どもを後ろ向きに引っ張って
しまう。

 昔、こんな女子中学生がいた。
何でも、「ここ一番!」というときになると、「私にはできない」と言って、逃げてしまう。
そこで理由を聞くと、「どうせ、私はS小学校の入試に落ちたもん」と。

 その女子中学生は、とっくの昔に忘れていいはずの、7年も8年も前の失敗を気にして
いた。
つまりそれがその女子中学生のトラウマになっていた。

 で、昨日の私。
何とか無線LANでパソコンをつなぐことはできたが、設定をしている間は、
ハラハラ・ドキドキの連続。
パソコンの世界にも、いろいろな機器があるが、無線LANだけは、別。
電気のコンセントを抜き差しするようなわけには、いかない。
おまけに5、6年前の失敗がある。
ちょっとしたつまずきで、頭の中がパニック状態になってしまう。
わかっていることでも、わからなくなってしまう。

 で、私にとって大切なことは、つぎのこと。
子どもを指導するときは、子どもには、そういう思いをさせてはいけないということ。
その前に、恐怖症という思考回路を作らないこと。
一度、その思考回路ができてしまうと、あとがたいへん。
私のばあいもそうだが、今でも、それが残っている。
思考回路は、一生、消えない。
今でも私は閉所恐怖症だし、野球のボールが苦手。
飛行機も嫌いだし、今は、やっとつながったが、無線LANの設定も、お断り。
そうなってしまう。

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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【日本の官僚制度と教育制度】

●「勉強で苦労するくらいなら……」

+++++++++++++++++++

このあたりの中学校でも、ほどほどの
勉強をして、それなりの進学高校に行きたいと
考えている生徒は、約40%。
残りの60%は、進学のための勉強すら
しない。
「部活でがんばって、推薦で高校へ行く」
と言っている。
中には、せっかくその(力)をもちながら、
「勉強で苦労するのはいやだから、進学高校
には行きたくない」と言う生徒もいる。

しかしそれはその生徒の意思ではない。
そういう意思をもつように、作られた。
「そんなバカな!」と思う人がいたら、
この原稿を読んでほしい。

++++++++++++++++++++

●推薦入試?
 
 そもそも「推薦入試」とは、何か?
(推薦)と(入試)は、どう考えても、混ざらない。
……と考えるようになって、早、20年。
そんな中、ゆとり教育も始まった。
その結果が、「今」。
冒頭に書いた。

 産経新聞(08年11月8日)は、つぎのように伝える。

+++++以下、産経新聞より+++++

東京都教育委員会は、現在の中学2年生が受験する2011年度の都立高校入試から、
約1万1000人に上る推薦入試の募集枠を大幅に削減する方針を決めた。

 全募集枠の4分の1を占める推薦入試枠は学力試験がないため、「競争性に欠ける」とい
う指摘があがっており、都教委は「進学指導重点校」を中心に半減したい考え。

 公立高の推薦入試は学力試験偏重から脱却するためとして、1980年代から各地で導
入が進んだが、都教委が削減に踏み切ることで全国に見直しの動きが広がる可能性も出
ている。

 都教育庁によると、都立校では95年度から、入試の「多様性」を図るとして、普通科
を含む全学科に推薦入試を拡大し、全189校の9割にあたる173校で導入されてい
る。毎年1月下旬に実施される選考は調査書(内申書)のほか、面接や作文、小論文な
どの評価で最終合否を決め、学力試験は課していない。

 推薦枠の人数は、各校の校長が募集枠の50〜20%を上限とする範囲内で独自に決め
ているが、志願者が多い日比谷、戸山など進学指導重点校については、入試の多様性よ
りも「学力重視」に移行し、募集枠の10%程度まで削減したい考え。一方、工業高校
などでは、これまで通りの推薦枠を維持したいとしている。

 志願者数の多い都立校の全日制普通科の推薦入試では倍率が最高9倍に上るケースもあ
り、一般入試と併願する受験生も多く、これまで都教育庁は「推薦枠が多くても入試の
競争性は十分確保されている」という立場だった。

 しかし先月の都教委では、推薦枠が4分の1に上る現状を巡って、一部の委員が「競争
性に欠ける」などと異議を唱えて紛糾。最終的に来春の10年度入試は例年通り約1万
1000人の枠を維持することが決まったが、「内申書を作る教師の考えで差が出るのは
不公平」といった声もあり、11年度以降は大幅に削減する方向で見直すことを決めた。

 都教育庁では、受験生への混乱を最小限とするため、近く検討会議を設置し、保護者代
表のほかに、私立高側にも参加を要請する。

+++++以上、産経新聞より+++++

 この記事を読んで、私は、最初にこう思った。
「ナン〜ダ、この静岡県は、東京都のまねをしていただけか」と。

 それはそれとして、高校入試制度は、県によって、みな、異なる。
静岡県には、静岡県方式というのがある。
競争性を徹底してなくしたのが、長野県方式。
競争性は残したが、入試当日までに、ほどんどの進学先が決まってしまう、岐阜県方式。
相変わらず受験競争を温存したのが、愛知県方式、などなど。

 この静岡県では、中学からあがってくる内申書を重視し、学校によって異なるが、
60〜70%は、その内申書の上位から順に合格が決まる。
残りの30〜40%は、当日の入試の成績で合格が決まる。
(割合は、各学校によって異なる。)
この方式は、当初は、評判がよかった。

 が、この方式に「待った!」がかかった。

『東京都教育委員会は、現在の中学2年生が受験する2011年度の都立高校入試から、
約1万1000人に上る推薦入試の募集枠を大幅に削減する方針を決めた』(産経新聞)
と。

 推薦入試枠が、全募集枠の4分の1を占めるという。
この「4分の1」を多いとみるか、少ないとみるかは、意見の分かれるところ。
しかし実際には、中学校の段階で、1クラスに、戦意を喪失した生徒が、4分の1も
いると、授業そのものが、成り立たなくなってしまう。
教師は一方的に授業を展開するだけ……という状態になる。
むしろ逆に、勉強をする生徒の方が、外へはじき飛ばされてしまう。
その結果が、「今」ということになる。

 が、教育のこわいところは、ここにあるのではない。
こうした教育制度そのものが、文科省の次官、局長レベルの通達程度で、決まってしまう
ということ。
ゆとり教育についても、そうだが、私が10年前に書いた原稿を、もう一度、読んでほし
い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●無関心な人たち

 英語国では、「無関心層(Indifferent people)」というのは、それ
だけで軽蔑の対象になる。非難されることも多い。だから「あなたは無関心な人だ」と言
われたりすると、その人はそれをたいへん不名誉なことに感じたり、ばあいによっては、
それに猛烈に反発したりする。

 一方、この日本では、政治については、無関心であればあるほど、よい子ども(?)と
いうことになっている。だから政治については、まったくといってよいほど、興味を示さ
ない。関心もない。感覚そのものが、私たちの世代と、違う。

ためしに、今の高校生や大学生に、政治の話をしてみるとよい。ほとんどの子どもは、「セ
イジ……」と言いかけただけで、「ダサ〜イ」とはねのけてしまう。(実際、どの部分がど
のようにダサイのか、私にはよく理解できないが……。「ダサイ」という意味すら、よく理
解できない。)

●政治に無関心であることを、もっと恥じよう!
●社会に無関心であることを、もっと恥じよう!
●あなたが無関心であればあるほど、そのツケは、つぎの世代にたまる。今のこの日本が、
その結果であるといってもよい。これでは子どもたちに、明るい未来はやってこない。

では、なぜ、日本の子どもたちが、こうまで政治的に無関心になってしまったか、である。

●文部省からの3通の通達

日本の教育の流れを変えたのが、3通の文部省通達である(たった3通!)。文部省が19
60年に出した「文部次官通達」(6月21日)、「高校指導要領改定」(10月15日)、そ
れに「初等中等局長通達」(12月24日)。

 この3通の通達で、(1)中学、高校での生徒による政治活動は、事実上禁止され、(2)
生徒会活動から、政治色は一掃された。さらに(3)生徒会どうしの交流も、官製の交流会をの
ぞいて、禁止された。

当時は、安保闘争の真っ最中。こうした通達がなされた背景には、それなりの理由があっ
たが、それから40年。日本の学生たちは、完全に、「従順でもの言わぬ民」に改造された。
その結果が、「ダサイ?」ということになる。

 しかし政治的活力は、若い人から生まれる。どんな生活であるにせよ、一度その生活に
入ると、どんな人でも保守層に回る。そしてそのまま社会を硬直させる。今の日本が、そ
れである。

構造改革(官僚政治の是正)が叫ばれて、もう10年以上になるが、結局は、ほとんど何
も改革されていない。このままズルズルと先へ行けばいくほど、問題は大きくなる。いや、
すでに、日本は、現在、にっちもさっちも立ち行かない状態に追い込まれている。あとは
いつ爆発し、崩壊するかという状態である。

 それはさておき、ここでもわかるように、たった3通の、次官、局長クラスの通達で、
日本の教育の流れが変わってしまったことに注目してほしい。そしてその恐ろしさを、ど
うか理解してほしい。日本の教育は、こういう形で、中央官僚の思うがままに、あやつら
れている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 そのあと、06年に、改正教育基本法が成立した。
今度の民主党政権は、この改正教育基本法を、維持すると言明している。

しかし……。
これについては、2年ほど前に、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【改正基本法成立!】

教育基本法なって、私には関係ないと
あなたは思っていないか?

もし、そうなら、それはとんでもない
まちがい。

その影響は、まさに甚大!

大げさなことを言っているのではない。

よい例が、若者たちの政治的無関心。

なぜこうまで若者たちが政治に無関心に
なってしまったか。

それを決めたのが、たった3通の文部省(当時)
の通達であったことを、あなたは知っているか?

たった3通だぞ!

つまり教育基本法には、それくらいのパワーが
ある。

それがわからなければ戦前の日本を見ればよい。

あの軍国主義を先頭に立って、推し進めたのが、
ほかならぬ、文部省だった。洗脳教育というのは、
それくらい恐ろしい。

日本人は意識しないうちに、ジワジワと、
洗脳されていく。

それが教育基本法。教育の憲法ということは、
これから先、日本は、ますます戦前の日本に
近づいてくる。

はからずも、藤原M氏の書いた、「国家の品格」が、
数百万部(220万部、06年11月)も売れた
という。

1回の公開討論会に、数千万円もの予算をかけて
世論づくりする、この日本!
数千万円もあれば、1冊1000円としても、
それだけで、数万冊になる。
ベストセラー書として、火をつけるには、じゅうぶんな
冊数である。

あなたは、何か、胡散(うさん)臭いものを、
こうした流れの中に感じないか?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●官僚の意思

 国家の意思というより、官僚の意思。
その意思に操られるがまま、子どもたちが作られ、それが国家の意思となって決まって
いく。
「この日本は自由な国だ」「そんなことは杞憂に過ぎない」と、もしあなたが思っている
としたら、それはとんでもない、ま・ち・が・い。
戦前、戦時中の教育を例にあげるまでもない。
あの軍国主義を、先頭に立って推し進めたのが、ほかならぬ当時の文部省である。
軍部ではない。
文部省である。

 そして敗戦と同時に、軍部は解体されたが、文部省はそのまま生き残った。
文部省の官僚で、戦時中から戦後にかけて、クビになった官僚は、1人もいない。
その(流れ)は、今も途絶えることなく、つづいている。

 教育の恐ろしいところは、まさにこの一点に集約される。
子どもたちの(心)は、日々の教育を通して、知らず知らずのうちに作られる。
先にも書いたようにそれがやがて、国家の意思として反映されるようになる。
しかもそうした(流れ)は、次官、局長レベルの通達だけで決まってしまう。

 さらに一言付け加えるなら、官僚たちは、一度に、すべてはしない。
徐々に、少しずつ、小出しにしながら、(流れ)を作っていく。
まさに官僚たちの得意芸である。
あるとき気がついてみたら、いつの間にか、こうなっていた、と。

 話はそれるかもしれないが、最近の例としては、「官民人材交流センター」がある。
官僚の天下りに、STOPをかけようという制度である。
当初は猛反対していた官僚たちが、AS政権になると、逆に、それを推進しようという
動きに変わった。

 なぜか?

 官民人材センターを骨抜きにするためである。
その第一として、センターの人員を、10人前後程度に収めようとした。
もしそうなれば、センターは、「下からあがってくる書類を、ホッチキスで留めるだけの」
組織になってしまう。
そうなれば、官僚たちは、むしろ逆に、堂々と天下りができるようになる。

 が、これではいけない……ということで、官僚の年収に見あう年収1400〜
1600万円以上の事業を国から随意契約で請け負っている法人には、天下りをさせ
ないようにした。

 つまり年間、1400〜1600万円以上の事業を国から請け負っている法人には、
官僚は天下りができないようにした。
こうすれば、天下りを、受け入れる事業体は、なくなるはず。

 が、である。
まず官僚たちは、懇談会に、つぎのような答申を出させる。
「一定金額以上の随意契約がある法人への、(官民人材交流センターによる)あっせんは、
禁止とする」(官房長官への報告書。議事録、2007年7〜12月)と。

 ここで重要なことは、「一定金額」としたところ。
それがいつの間にか、フタをあけてみたら、「1億円」となっていた!
その額を決めたのが、当の官民人材交流センターの、「センター長」とのこと(中日新聞)。
これでは言葉は少し汚いが、泥棒に、その家の警備を依頼したようなもの。

 懇談会の座長を務めた田中一昭・拓殖大学名誉教授ですら、こう述べている。

「変更したことだけ、後で知らされた。答申や法律を細部で変えるのは、役人のいつもの
やり方」(中日新聞)と。

 話を戻す。

 教育には(教えながら教える部分)と、(教えずして教える部分)がある。
(教えながら教える部分)は、教科書を通して教える部分。
(教えずして教える部分)というのは、現在の(あなた)を見れば、わかる。

 あなたは政治に関心があるか?
こうした不正を知ったとき、憤(いきどお)りを感ずるか?

 もしあなたが、「この日本は自由な国だ」「そんなことは杞憂に過ぎない」と、
本気で思っているなら、それこそが、その(教えずして教える部分)ということになる。
あなたは、今のあなたに、知らず知らずのうちに、作られた!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 文部省通達 教育基本法 天下り 官民人材交流センター 推薦入
試制度)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ついでに08年の12月に書いた原稿に、もう一度、目を通してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●公務員制度改革案(Restricrtion Law against Public Officers' Post-Retiement Jobs)

+++++++++++++++++++++++++++

この場に及んで、人事院が、公務員制度改革法案に対して、
猛烈な巻き返し、つまり抵抗運動を繰り広げている。

人事院が反対するということは、今回の法案は、それだけ
中身があるということ。
ぜひ、来月(3月)10日までに関連法案を国会に提出し、
法案の成立をめざしてほしい。

+++++++++++++++++++++++++++

●法案の骨抜き

あれほどまで法案成立に協力的だった人事院が、この場に及んで、猛烈な抵抗運動を
繰り広げ始めた。

協力的だったのは、骨抜き法案にするためだった。

今回の公務員改革法は、今まで人事院が取り仕切っていた機能を、
内閣官房に移管しようというもの。
闇に包まれていた、天下りや「渡り」を公の監視制度の下に置こうというが、
その骨子である。
その法案に、なぜ人事院が協力的だったか?
理由は明白。

内閣官房の中に設置する(新機関)の中身を、形骸化するためである。

わかりやすく言えば、職員は、各省庁からあがってきた職員にする。
人員は、多くても10人前後にする。
しかしそんな組織で、中立・公平性が保てるわけがない。
またそんな少人数で、何万人もの人事を管理できるわけがない。
(新機関)は、下(=各省庁)からあがってきた報告書を、「ホッチキスで止めるだけ」
(某週刊誌記者)の組織になってしまう。
が、それこそが、人事院の(ねらい)であった。
だから協力的だった。

が、ここにきて、人事院のねらいどおりに、ことが運ばなくなってきた。
その気配が濃厚になってきた。
そこで「猛烈な抵抗運動」となった。

●後付け理由

人事院の言い分は、こうだ。
が、その前に、これだけは、説明しておかねばならない。

公務員というのは、憲法に保障されている、労働基本権の制約を受けている。
たとえばストライキなどをして、生活の資質向上などを、訴えることができない。
そこでそれにかわる、いわば補償機関として、人事院がある。
人事院は、政府から独立性をもった中央人事行政機関と考えるとわかりやすい。
たとえば公務員の給料などは、人事院の勧告に従って、政府が決定する。

もう少しかみくだいて説明すると、こうだ。

公務員は、「給料をあげろ」というストライキができない。
そこでそのかわり、独立性をもった(?)、人事院にそのつど判断してもらうことに
よって、給料をあげてもらう。

しかし現在の人事院が、「中立・公正性」を保っているというのは、ウソ!
そのことはたとえば、現在の人事院・谷総裁の経歴をみてもわかるはず。

谷総裁は、1964年に旧郵政省に入省。
98年に事務次官。
退官後、財団法人郵便貯金振興会理事長、JSAT(ジェイサット)会長。
そのあと2004年に、人事官となり、2006年4月から、現在の人事院
総裁に就任。

わかるかなア〜〜〜〜?

人事院の総裁自身が、元郵政省の官僚。
退職後は、「渡り」を繰り返した。
そしてその人物が、現職の人事院総裁!

こんなバカげた「中立・公正」があるか!
その谷総裁がこう叫ぶ。

「(人事院は)現在は制約がある労働基本権の代償という憲法の要請にかかわる機能を担う。
今回は、そうした議論がないまま、人事院の基本的な性格にかかわる変更を行おうと
している(だから反対)」(中日新聞・2月15日)と。

労働基本権ねえ〜〜〜〜?
労働基本権の代償ねえ〜〜〜〜?

そういう言葉は、この大不況の中で、明日の生活費もままならない人に向って、使って
ほしい。
天下りを数回繰り返すだけで、数億円も退職金を手にする官僚に、労働基本権とは!
谷総裁自身も、記事の中で、こう認めているではないか。

「(渡りについて)、行き過ぎている面もあった」と。
私たちは、その(生き過ぎている面)を問題にしているのである。
それを労働基本権を盾にとって、抵抗運動とは?

さらに谷総裁は、こう心配する。

「(給与改定を内閣に勧告する)人事院勧告制度が有名無実になる恐れがある」と。

有名無実ねえ〜〜〜〜?

現在、公務員の人件費だけで、38兆円(年間)あまり。
その額は、日本の国家税収の額とほぼ同じ(国家税収は、40〜42億円)。
この大不況下にあって、元公務員たちは、みな、こう言っている。
「公務員をしていてよかった」と。
一方現職の公務員たちも、みな、こう言っている。
「公務員でよかった」と。

何も1人ひとりの公務員の人たちに、責任を感じろと言っているのではない。
私は制度がおかしいと言っている。
制度の運用の仕方がおかしいと言っている。
都合のよいときだけ、憲法をもちだす。
労働基本権をもちだす。
ずるいぞ!

谷総裁は、「公務員改革のあるべき姿は?」という記者の質問に対して、
こう答えている。

「制度だけつくっても、運用が直らなければ、改革の目的は達せられない。
運用がどうしても直らないのが、今までの実態だ。
制度、運用、公務員の自覚、この3点を同時に直すことが必要」(同紙)と。

この意見にはまったく、賛成。
が、郵政事務次官から天下り、渡りを繰り返した当の人物が、そう言うのだから
恐ろしい!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
公務員制度改革法案 公務員制度改革法 人事院 人事院総裁 労働基本権 人事院勧
告)

+++++++++++++++++++++++++++

少し前に書いた、関連記事を再度、掲載します。

+++++++++++++++++++++++++++

●官僚天下り、首相が承認(?)

+++++++++++++++++

政府は18日(12月)、省庁による
天下りあっせんを承認する「再就職
等監視委員会」の委員長ポストが定まらない
ことを受けて、監視委員会に代わって、
AS首相が承認する方針を固めたという
(中日新聞・08・12・19)。
これは官僚の天下りが事実上できなくなっている
状況を回避するためという(同)。
そしてその結果、「……実際には、内閣府
職員に首相の職務を代行させるという」(同)と。

++++++++++++++++++

わかりやすく言えば、AS首相は、「天下り監視センター(正式名:官民
人材交流センター)」を、官僚たちに(=内閣府)に丸投げした。
理由は、委員長が決まらないため、とか?
(委員長人事については、M党が、反対している。)
つまりそれまでの(つなぎ)として発足した「監視委員会」を、事実上、
ギブアップ。
AS首相は、各省庁からあがってくる書類を、ホッチキスで留めるだけ。
それだけの委員会にしてしまった。
つまり「監視」などというのは、まさに「形」だけ。
だったら、何をもって、「監視」というのか?

官僚たちは、今までどおり、何の監視も、制約も受けず、堂々と天下り
できることになる。
しかも表向き、「監視委員会のお墨付き」という、天下の通行手形まで
手にすることができる。
「オレたちは、ちゃんと監視委員会の承諾を得て、天下りしている」と。

しかしこんなバカげた話が、どこにあるのか!
(08年12月19日記)

(付記)AS首相の支持率が、今朝(12月20日)の新聞によれば、
17%前後まで、急落したという。

当然である。
(08年12月記)
(09年11月、再掲載)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●2010年に向けての抱負

朝は、ルーム・ウォーカーの運動で始まる。
10分も運動していると、サーッと体中が汗ばむ。
とたん、それまでの寒さが、吹き飛ぶ。

で、それからポットからお茶を取りだし、書斎へ。
目薬をさしながら、パソコンに電源を入れる。
その瞬間、ふっと、軽い深呼吸をする。
「さあ、今日も、始まった!」と。

今まで、遠方からの講演は断ってきた。
が、この夏(09年)ごろから、少し心境が変わってきた。
講演を、「講演旅行」と考えるようになった。
講演先で、旅館を見つけ、そこで一泊するようにした。
とたん、遠方の講演が楽しくなった。
・・・プラス、楽しみになった。
この先、下田、平塚、秋田・・・と、講演がつづく。
それを話すたびに、ワイフは、旅行ガイドブックを
もってきて、私に見せる。
旅館選びは、ワイフに任せてある。

一方、私は、体力と知力の維持をしなければならない。
そのために運動する。
文を書く。
どちらもしばらく休むと、そのまま下降線をたどる。
さらに休むと、体も脳みそも、使いものにならなくなる。
怠けた体で、講演はできない。
ぼんやりとした頭で、講演はできない。
それが、こわい。

その私も、満62歳。
昔、友人のT氏(某ペンキ会社監査役)が、以前、私にこう言った。
「林さん(=私)、男がいちばん仕事ができるのは、
60代ですよ」
「私がいちばん仕事をしたのは、60代です」とも。
私はその言葉を信じているし、信じたい。
60代というのは、その人のそれまでの人生が、
集約される年齢と考えてよい。
それなりの社会的地位も、できあがる。
いや、社会的地位がほしいわけではない。
しかし私のようなキャリアだと、それがないと、
人の前に立って、ものを話すことができない。
地位も、肩書きもない。
まったく、ない。
まったくの、ノン・キャリア。

が、今なら、大上段に構えて、「教育とは・・・」
「子育てとは・・・」「日本は・・・」と語ることができる。
人も、私の話に耳を傾けてくれる。
そういう人たちが、ふえてきた。

が、心配なのは、体力と知力。
だから、ときにルーム・ウォーカーの運動を、
10分から20分に延ばす。
歩くだけではない。
昨夜も、夜9時過ぎに、40分のサイクリングをした。
寒かった。
が、楽しかった。

ただこのところ、頭の中のモヤモヤを、どうもうまく、
外へ吐き出せない。
文を書き終わったあとも、モヤモヤが残る。
ワイフにそれを話すと、ワイフは、こう言った。
「平和になったからよ」と。

そう、たしかに平和になった。
私は満61歳にしてはじめて、実家という「家」
から解放された。
それから1年。
日々に生活は平穏になり、あわせて、心も穏やかになった。
同時に、心の緊張感が、そのまま緩んでしまった。
そのせいか、体重も、ぐんぐんとふえ、昨年(08)の
終わりには、68キロを超えるようになった。
そこで一念発起!

3、4月から始めて、8月ごろまでに、約9キロの減量。
結構、苦しかった。
今まで、何10回となくダイエット→リバウンドを繰り返した。
しかし今度は、「これが最後!」と自分に言い聞かせた。
「食べなければ損なのか、それとも食べたら
損(そこ)ねるのか」と、自問した。

ダイエットには、哲学が必要。
哲学がないままダイエットしても、長つづきしない。
しても、あっという間に、リバウンド。
称して、『哲学的ダイエット法』。
私が考えた。

食物を前にしたら、いつも自分にこう問いかける。
「食べなければ損なのか、それとも食べたら
損(そこ)ねるのか」と。
そうしてゆっくりと、食べ物を残したまま、
箸を下に置く。

で、どうしてそんなことが「哲学?」と思う人も
いるかもしれない。
が、この考え方は、「生きなければ損なのか、
生きたら損ねるのか」という問題にまで
つながっていく。

よい例が、あの『おしん』。
日本中があのテレビドラマに涙を流した。
そのおしんだが、当初は、生きるために働く。
しかし事業が拡大するにつれて、今度は、
働くために生きるようになる。
金儲けに埋没するあまり、自分を見失ってしまう。

だから……というわけでもないが、
あのヤオハンJAPANが倒産したとき、
涙を流した人は、ほとんどいなかった。
おしんは、そのヤオハンの創業者のKさんが、
モデルだったと言われている。

太った体では、健康は維持できない。
60歳を過ぎているなら、なおさら。
知力を維持するのも、むずかしい。
そうでなくても、脳みそ全体が、底が抜けたバケツの
ようになる。
その底から、知識や経験が、どんどんと下へ流れ
落ちていく。
たった1週間前に覚えた言葉を忘れてしまう。
そんなことも、このところ珍しくない。

人は、希望によって生きるもの。
その希望があれば、何歳になっても、前向きに生きられる。
しかしその希望は、向こうからやってくるものではない。
自分で作るもの。
自分で用意するもの。
どんな小さな希望でもよい。
あとは、それにしがみついて生きていく。

少し早いが、2010年に向けての抱負を書いてみた。
で、今は、その下準備。
2010年に向けての、下準備。
何か希望につながるものをさがして、
それをふくらます。
今は、そのとき。

さあ、今日もがんばるぞ!
今日こそは、「がんばった!」と実感できるような
1日にしたい。
2009年11月7日、土曜日、朝、記。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●1年目の冬

++++++++++++++++++++

 母が死んで、ちょうど丸1年になる。
……と、書いたところで、キーボードを叩く指が止まってしまった。
いろいろな思いが、さらさらと、音もなく頭の中を流れる。
流れては消える。
それが文という形になって、頭の中でまとまらない。

 さみしさはない。
やり残したこともない。
それよりもうれしかったのは、実家から解放されたこと。
長い60年だった。
悶々として、1日とて、気の晴れる日はなかった。
だから母の葬儀が終わってしばらくしてからのこと。
私は、こう思った。

「あと一歩」と。
「あと一歩で、実家から解放される」と。

+++++++++++++++++++++

●安易な『ダカラ論』

 こう書くと、「何と親不孝な!」と思う人も多いかと思う。
しかし私は何も、母が死んだことを喜んでいるのではない。
母というより、「実家」が重荷だったと言っている。
結婚前から、収入の約半分は、実家に送金していた。
経済的な負担感というより、社会的な負担感。
それに苦しんだ。
それから解放されたかった。

が、この日本では、「息子だから……」という理由だけで、何もかも押しつけてくる。
こういうのを『ダカラ論』と言うが、それがいまだに大手を振って、まかり通っている。
「親だから……」「子だから……」と。
論理でない論理を、そのまま相手に押しつけてくる。
「浩司君、どんなことがあっても、親は親だからな」と言った親類もいた。
つまり親がどんな悪人でも、子は、それに従うべき、と。
とくに、この日本では、そうだ。

またそういう日本だからこそ、私と母のような関係ができあがってしまった。
欧米のように、それぞれの人がもう少し独立した心をもっていたら、母は母のように
ならなかっただろう。
私は私で、もっと別の考え方ができただろう。

●母の実家

 母は、岐阜県の山奥に生まれ育ち、江戸時代をそのまま引きずっていた。
庄屋ではなかったが、その部落では庄屋的な存在だった。
農家といっても、山農家と畑農家がある。

山をたくさんもっている農家。
林業中心の農家。
それが山農家。
畑をたくさんもっている農家。
小作人に農地を貸して、年貢を納めさせる。
それが畑農家。

母の実家は、畑農家だった。
その部落の畑は、ほとんどが母の実家のものだった。
それが没落の理由となった。
戦後のあの農地解放で、畑のほとんどが没収され、小作人と呼ばれる
人たちに分配されてしまった。

●江戸時代の見本

 母は、13人兄弟の中で、長女として生まれた。
妹が1人いたが、残りの11人は、男だった。
そういうこともあって、母は、「お姫さま」と呼ばれ、大切に育てられたという。
農家に生まれ育ちながら、土に手を触れることは、ほとんどなかったという。
そういう環境の中で、母は独特の考え方をするようになった。

 自身が女性でありながら、徹底した男尊女卑思想を身につけていた。
そのことと関係があるのかどうかは知らないが、「女は働くものではない」
と強く思っていた。

 事実、母は自転車店を営む父と結婚したが、生涯にわたって、ドライバー1本、
握ったことすらない。
恐らくドライバーの回し方も知らなかったのではないか。
また姉が農家に嫁ぎ、畑仕事をしていると知ったときも、そうだ。
「M(=姉の名)を、そんなことをさせるために、嫁にやったのではない」と。
本気でそれを怒っていた。

 お姫様でありながらも、愛情の薄い家庭だったかもしれない。
もうひとつ母の考え方で特筆すべき点は、母は、自分の子どもたちを、
「財産」と考えていたこと。
子どもたちというのは、私や、兄や、姉をいう。

 今で言う人権意識など、元からなかった。
すべてを親が決め、私たち子どもは、それに従うしかなかった。
へたに反抗すれば、即座にあの言葉が返ってきた。
「親に逆らうようなやつは、地獄へ落ちる!」と。

私はいつしか母を通して、その向こうに江戸時代を見るようになった。
そういう点では、母は江戸時代の見本のような存在だった。
純粋培養されたというか、外部の影響を受けることなく、娘時代までを、
あの部落で過ごしている。

●人は環境の動物

 母を責めているわけではない。
母は母として、過去を引きずりながら、懸命に生きた。
人間は環境の動物である。
もし私やあなたが、同じような環境で、同じように育てられたら、母と
同じような人間になっていただろう。
事実、母には1人、妹がいるが、その妹、つまり私の伯母にしても、
また実家を継いでいる弟、つまり私の伯父にしても、みな、一卵性双生児と
揶揄(やゆ)されるほど、ものの考え方が似ている。

 が、そういうことがわかるようなったのは、私が50歳も過ぎてからのこと。
それまではわからなかった。

 で、私はある時期、心底、母をうらんだ。
嫌うというよりは、うらんだ。
私がもっていた土地を、私に無断で転売してしまったときのこと。
「権利書を見せてほしい」と言うから、母に渡した。
その土地を、母はそのまま転売してしまった。
私が泣いて抗議すると、母は、ひるむことなく、こう言い放った。
「親が先祖を守るため、息子の金を使って、何が悪い!」と。

私と母の関係は、そのまま壊れた。
その関係を壊したことを、うらんだ。
それが私と実家を遠ざけるきっかけになってしまった。
ついで親類縁者と遠ざけるきっかけになってしまった。
が、結果的にみると、それも運命というか、それでよかったのかもしれない。

 それから10か月あまり、私は夜、床に就くたびに、熱でうなされた。
毎晩、ワイフが看病してくれた。
マザコンというのは、カルト。
そのカルトを抜くのは容易なことではない。
が、その10か月が過ぎたとき、私の心から、「母」が消えていた。

●マザコン 

たまたま今朝も、ワイフとこんな会話をした。
「昔のままの母が死んでいたら、ぼくは、今ごろ、毎晩夜空をながめながら、
母を偲(しの)んで、涙をこぼしていただろうね」と。
「昔のまま」というのは、私が子どものころもっていた母親像のまま、という
意味である。

私は、マザコンだった。
兄もそうだった。
姉もそうだった。
私の家族のみならず、とくに母方の家系は、みな、マザコン家族と断言してもよい。

母の実家もそうだった。
だから伯父、伯母もそうだった。
その下の従兄弟(いとこ)たちも、そうだった。

母系家族というか、「母親」を中心に、家族がまとまっていた。
それぞれの家族には、父親もいたのだが、父親の存在感は、薄かった。
父親自身が、マザコンなのだから、あとは推して量るべし。
そんな家庭環境の中で、自分がマザコン化しているのを知るのは、たいへん
むずかしい。

●母親の神格化

 しかし一歩、その世界から出てみると、それがよくわかる。
私は高校を卒業すると同時に、故郷のあの世界から、離れた。
離れたから、マザコンに気がついたというのではない。
ここに書いたように、それを気づかせてくれたのは、私のワイフということになる。
ある日、ワイフは、私にこう言った。
「あなたは、マザコンよ」と。

幸いなことに、私は自分の仕事を通して、さまざまな家族を外からながめることが
できた。
マザコン、つまり「マザーコンプレックス」の問題を、教育的な立場で、考える
ことができた。

 いろいろな特徴がある。
その中でも、つぎの2つが、とくに重要である。

(1)母親の絶対視化。(母親を絶対視すること。)
(2)母親の無謬性(=一点のまちがいもない)の追求。(母親の中に、まちがいを認めな
いこと。)

 私も、若いころは、私の母の悪口を言う人を許さなかった。
さらに子どものころは、悪口を言った人に、食ってかかっていった。
私にとっては、母というのは、神以上の存在であった。
そういう意味では、マザコンというよりは、「母親絶対教」の信者と、言い替えてもよい。

 そういう私を、母は横で喜んで見ていたのかもしれない。
母は私を前に、いつもこう言っていた。
「わっち(=私)は、ええ(=いい)、孝行息子をもって、しやわせ(=幸せ)や」と。
それが母の口癖でもあったが、一方で、そういう言い方をしながら、言外で、
私に、向かって、「そういう、息子になれ」と言っていた。

●男尊女卑

 マザコンであっても、それでその家族がうまく機能していれば、問題はない。
私は私。
人は人。
人、それぞれ。

 しかし一般論として、夫がマザコンだと、離婚率はぐんと高くなる。
(反対に、妻がファザコンのばあいも、同じような結果が出る。)
妻に理想の女性を求めすぎるあまり、妻のほうが、それに耐えられなくなる。
それが長い時間をかけて、夫婦の間に、亀裂を入れる。

 私のワイフもあるとき、私にこう言った。
「私がいくらがんばっても、あなたのお母さんには、なれないのよ」と。
それは痛烈な一撃だった。

 が、さらに悲劇はつづく。
嫁姑戦争に巻き込まれると、妻に勝ち目はない。
ただし私の家系には、離婚した夫婦はいない。
その一方で、「離婚」という選択肢は、元からない。
60数人いる従兄弟たちの中で、離婚した夫婦はいない。

 それだけ家族の結束が強いというよりは、自らの男尊女卑思想の中で、妻側が
妥協し、あきらめているにすぎない。
妻自身が、男尊女卑思想を受け入れてしまっている。
私も子どものころ、母に、よくこう言われた。
私が台所で何かの料理をしようとすると、「男が、こんなところに来るもん
じゃネエ(ない)!」と。
つまり「男は、料理なんか、するものではない!」と。

「男が上で、女が下」
「夫が上で、妻が下」
「親が上で、子が下」と。

●母の介護

 ともかくも、こうして1年が過ぎた。
母が死んで、1年が過ぎた。
おかしなことに、私の心はあのときのまま。
あのときというのは、母が私の家に来たときのまま。
私は便で汚れた母の尻を拭きながら、こう言った。
「お前のめんどうは、死ぬまで、ぼくがみるよ」と。

 母は両手でパイプをしっかりと握りながら、こう言った。
「お前に、こんなことをしてもらうようになるとは、思わなんだ」と。
私も負けじと、こう言い返した。
「ぼくも、お前にこんなことをしてやるようになるとは、思わなんだ」と。
そのとたん、それまでの(わだかまり)が、ウソのように消えた。

 2007年になったばかりの、正月の4日のことだった。

●実家の売却

 09年の9月。
母の一周忌の法要のあと、私は実家を売却した。
私にとっては、記念すべき日となった。
価格など、問題ではない。
早く縁を切りたかった。
何もかも、すっきりしたかった。

 最後に家の中をのぞいたとき、油で汚れた作業台だけが、やけに強く印象に残った。
角もこすれて、形すら残っていなかった。
父は毎日、その机に向かって、何かを書いていた。
父の孤独感が、その机にしみこんでいる。
その向こうには、祖父がいて、兄がいた。
さらにその向こうには、町の雑踏があり、客の声があった。

 が、不思議なことに、本当に不思議なことに、母の姿は、そこにはなかった。
母は……ここに嫁いできたときから、そして死ぬまで、その家の住人ではなかった。
母の心は、生まれてから死ぬまで、母の故郷の、あのK村にあった。

 そのとき、私は、そう思った。
1年たった今も、そう思う。
ボケもあったのかもしれない。
特別養護老人ホームに入居してからも、ただの一度も、M町のあの家に帰りたいと
言ったことはなかった。
グループホームに入っていた兄のことを口にすることも、姉のことを口にすることも
なかった。
いつも母が言っていたことは、「K村(=母の実家)に帰りたい」だった。

●過去からの旅

 私にとって、父とは何だったのか。
母とは何だったのか。
さらに家族とは、何だったのか。
その「形」を知ることもなく、私はおとなになっていった。
戦後の混乱期ということもあったのかもしれない。
しかしそれがすべての理由ではない。
私の家族には、「家族」という(まとまり)すら、なかった。
思い出のどこをさがしても、「家族がみなで、力を合わせて何かをした」という
記憶さえない。

 みな、バラバラだった。

 そんなわけで、私はおとなになってからも、いつも、自分の過去を否定しながら、
生きてきた。
だから今でも、自分の子ども時代を思い浮かべると、その部分だけが抜けて
しまっている。
あえて言うなら、列車で、どこかへ旅行するとき、出発地から目的地へ
いきなりやってきたような気分ということになる。
途中の駅が、どこかへ消えてしまっている。
過去から逃れたくて、旅行してきた。

 ただ晩年最後の2年間だけは、母は別人のようになっていた。
穏やかで、やさしく、静かだった。
一度たりとも、不平や不満をこぼしたことはなかった。
だからある日、私は母にこう言った。

「お前ナア、20年早く、……いや10年早く、今のような人間になっていれば、
いい親子関係のままだったのになア」と。

そのあと母が何と言ったのかは、覚えていない。
いないが、あの母のことだから、今の今でもあの世で、こう言って、とぼけている
ことだろう。
「ワッチは、子どものころから、ええ(=よい)人間だった」と。

 まっ、母ちゃん、そのうちぼくも、そっちへ行くから、そのときはよろしく!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●『心を病む新人先生』(中日新聞)

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中日新聞に、こんな記事が載っていた。
「心を病む新人先生」と題して、
「依願退職、315人中、88人」と。

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●304人中、88人!

 ギョッ! 

大見出しを読んで、驚かなかった人はいないと思う。
「315人中、88人!」と。
しかし……。
つづきを書く前に、新聞の記事を、ていねいに読んでみよう。

 「(教師の)試用期間後に正式採用されずに辞めた公立学校の新人教員
315人のうち、88人は、うつなど、『精神疾患』による依願退職だった
ことが、4日、2008年度の文部科学省の調査でわかった」(中日新聞・
11月5日)と。

 ここまで読んだだけでは、まだよくわからない。
もう少し詳しく読んでみる……。

●中日新聞の記事より

 新採用の教員は、1年の条件付き採用(試用)期間のあと、正式採用となる。

そこで、「08年度に正式採用されなかった新人教師は、全採用者2万3920人の、
1.3%。1999年度は、0・5%だった」(同紙)と。

「正式採用されなかった新人のうち、依願退職者は315人で、理由が病気だった
のは、93人。このうち88人が、精神疾患による退職だった」(同紙)と。

「『病気』は、04年度から増加傾向だった。文科省はストレスによる精神疾患
の可能性があるとみて、調査項目に加えた」(同紙)と。

 ……ここまで読んで、「315人中、88人」の意味が少しわかってきた。

●誤解

 この見出しを一読すると、「315人の新人教師のうち、88人が依願退職した」
というふうに解釈できる。
私も、最初、そう解釈した。
驚いた。
今までの常識と、あまりにもかけ離れている。
「4人に1人が退職?!」と。
しかしそんなことはありえない。

で、新聞記事をよく読むと、「新人教師として採用されなかった、315人のうち、
88人が精神疾患による依願退職だった」ということがわかる。

 さらにていねいに読むと、2万3920人のうちの、1・3%が、正式に
採用されなかったということがわかる。
となると記事の見出しとしては、たいへん誤解を招きやすいのでは、ということになる。
確認するため、電卓を叩いてみた。

 315÷2万3920=0・0127=約1.3%
確かに約1・3%である。

 その315人のうちの、88人が、「精神疾患による退職だった」と。
そこで、
88÷2万3920で計算してみると、精神疾患による退職率は、約0・37%となる。
が、この数字は、それほど大きくない。
1000人に、3・7人=約4人ということである。
これくらいなら、どこの職場でも見られる数字である。

●精神疾患

そこでそれを確認するため、精神疾患の発症率を調べてみた。
うつ病の発症率だけをみても、25人に1人。
過去にうつ病に陥った経緯がある人を含めると、5〜7人に1人(14〜25%)。
「他の統計では、男性7%、女性19%がうつ病を経験しており、アメリカに
おける、男性10%、女性25%と、ほぼ一致する」(「医療法人・清風会HP」)と。

 「5〜7人に1人」というのは、間の「6人」を取って計算すると、約17%の人が、
うつ病を発症するということになる。
「軽度うつ病」「仮面うつ病」さらには、「プチ・うつ病」となると、もっと多い。
さらに罹患率と通院率は、ちがう。
離職率とも、ちがう、などなど。
しかしこれはすべての年代の人を含むので、単純には比較できないが、「0・37%
というのは、やはり、とくに目立った数字ではない」ということになる。

 さらにうつ病だけが精神疾患というわけではない。
たとえば若い人たちに多い、「思春期やせ症」(摂食障害)だけをみても、
研究者によって、発症率は、「10万人あたり、0・38〜79・6人」(「中本精神分析ク
リニック」HP)という。
「80人」で計算すると、0・08%。
精神疾患といっても、ほかにも、いろいろある。
ちなみに東京都の職員のばあい、平成20年度の教職員の休職者は、788人。
うち、精神系疾患で休職した人は68・5%にあたる540人にのぼったという
(産経新聞※)。

こうして考えていくと、中日新聞の記事には、「?マーク」がつく。
中日新聞の記事というよりは、「文科省はストレスによる精神疾患の可能性がある
とみて、調査項目に加えた」という部分に、「?マーク」がつく。

●0・5%から1・3%に

 つまり0・37%という数字だけを見るかぎり、それほど多くない。
ごく平均的な数字ということになる。
とは言え、実際には、何らかの精神疾患を発症しながらも、通院や服薬などでがんばって
いる教員も多いはず。
みながみな、依願退職するわけではない。
一方、若い新人教師だと、ほかの年代の教師よりも、離職率は高いかもしれない。
となると、08年は、99年度よりも「ふえた」という部分に注目しなければ
ならない。

「1999年度には、0・5%だったが、08年度には、1・3%になった」と。

 しかしこれについても、この10年間で、精神疾患に対する一般の考え方は、
大きく変わった。
(隠したい病気)から、(隠さなくてもよい病気)に変わった。
だから数字だけを見て、「多くなった」と断言するのは、危険なことかもしれない。
私の周辺でも、「ぼくはうつ病でね」と、堂々と言う人がふえている。
20年前とか30年前には、考えられなかった現象である。

●情報のリーク

 最初は、「!」と思った記事だが、よくよく読んでみると、「?」と思う記事に
変わることがある。
この記事も、そうである。

一方、こうした情報のリークというか、操作は、何らかの意図をもってなされる
ことが多い。
とくに中央の官僚たちが、一般に流す情報には、注意したほうがよい。
その中でも、文部科学省の流す情報には、注意したほうがよい。
で、このところあちこちのBLOGで気になるのは、「精神疾患に対する研究費をふやせ」
という発言である。
その布石として、こうした情報が流されたと考えられなくもない。

 念のため、繰り返す。

「304人中、88人」という見出しを見て、「304人の新人教師(試用期間中の
教師)の中の88人が、依願退職をした」と読んではいけない。
見出しだけ読んだ読者は、「先生って、たいへんだな!」(実際、たいへんだが)と
思って終わってしまうかもしれない。
しかし実際には、「依願退職した304人の新人教師のうち、88人が、何らかの
精神疾患で退職した」ということである。

 さらに付け加えれば、教職に就いたから、発症したというふうに考えるのも、
短絡的すぎる。
もともと何らかの精神疾患をかかえていた人もいるかもしれない。
ほかにもいろいろ考えられる。
が、ここまで。

●教職は重労働

 実際、この数字とは別として、教職というのは、たいへん。
本当にたいへん。
教師を取り巻く、雑務が多すぎる。
このあたりでも、児童が体育館でけがをしても、教師は家庭訪問をして、説明、謝罪する
のが、当たり前になっている(09年10月・K小学校、校長談)。

 そういう意味では、今回のこの数字の公表には、それなりの意味がある。
「先生もたいへん」ということが、一般の人たちにも、わかってほしい。

 ただし、この報告書の公表が、そのまま文部科学省の某研究団体の予算獲得のための
ものであるとするなら、私たちは、じゅうぶん警戒したほうがよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 教師の精神疾患 離職率 心を病む教師 新人教師 試用教師 心を
病む先生)

【まちがいの訂正】(すでに訂正済み)

 上記の記事には、いくつかのまちがいがあった。
それを訂正しながら、少し加筆してみた。
なお、産経新聞が、もう少し詳しく、その内容を書いている。
そのまま転載させてもらう。

(注※)(産経新聞・11・6日より)

 『東京都の公立学校教職員のうち、精神系疾患で病気休暇や休職している教職員に支給
される給与が年間で総額約60億円に上ることが5日、都教育委員会の調査で分かった。
精神系疾患による休職者は全体の約7割に上り、全国平均を上回るペースで急増している。
休職者の約70%が病欠を取得するまで受診していない実態も判明。事態を重視した都教
委は今後、全国の教委で初めて、メンタルヘルスチェックを健康診断に組み込むなど、早
期発見・治療が可能なシステム構築に乗り出す。

 都教委によると、平成20年度の教職員の休職者は、788人。うち、精神系疾患で休
職した人は68・5%にあたる540人に上った。

 15年度は60%の259人で人数も割合も急増した。休職者率も全国平均の0・55%
(19年度)を上回る0・94%(20年度)。東京は、小中高に加え特別支援を含め全校
種で全国平均を大きく上回っている。

 文部科学省が4日に公表した調査結果では、教員採用試験に合格しながら、1年間の試
用期間後に正式採用とならなかった教員は平成20年度は315人。うち約3割の88人
が精神系疾患による依頼退職だったことが判明したばかりだ。

 こうした実情を踏まえ、都教委では精神系疾患の休職者の置かれた環境を独自に分析。
19年度は、病気の発生率で特別支援学校(1・01%)が最も高く、男女比では高校の
女性教員、小学校の男性教員の休職率が高いことが分かった。年齢別では高校の20代
(1・43%)、特別支援学校の40代(1・17%)の休職率が際立った。

 休職者の在籍年数では、小中学校で採用3年目までの、特に小学校教員の休職率が高く、
在職21年目以降のベテラン教員の休職率も、極めて高い傾向にあった。

 休職の理由については、自己申告では「不明」が最多。次いで、「児童・生徒」「保護者」
の順だった。異動を理由に挙げた事例では、多くが「環境不適応」とみられる。

 一方、精神系疾患で休職した教職員の約70%は病欠するまで医師の診断を受けていな
かった。

 都教委では手遅れ受診の背景に、(1)本人に「鬱病(うつびょう)」の知識(病識)が
少ない(2)生活に支障がないと周りも気がつかない(3)内科を受診時に心療内科や精
神科を勧められて発見される、ことなどがあるとみている』と。
(以上、産経新聞より)
 

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●映画『沈まぬ太陽』vs日本航空(JAL)

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映画『沈まぬ太陽』が、日本航空(JAL)
内部で、問題になり始めているという。
当然である。

あの映画は、日本航空(JAL)内部の
労使問題を、日本航空(JAL)と明らかに
わかる形で、映画化したもの。
それに日航123便という重大事故をからませて、
おおげさにしただけ。

事実、映画を観てもわかるように、日航123便の
事故以前から、ストーリーは始まっている。
その時点で、労使問題はこじれ、主人公の
恩地は、左遷されている。

「EIGA.COM」には、こうある。

『累計700万部を超える山崎豊子のベストセラー小説を、
渡辺謙主演で映画化。監督は「ホワイトアウト」の若松節朗。
巨大企業・国民航空の労働組合委員長を務める恩地は、
職場環境の改善を目指し会社側と戦うが、懲罰人事で
海外赴任を命じられてしまう。パキスタン、イラン、
ケニアと次々と転勤を強いられた恩地は、10年後に
本社復帰を果たすが、帰国後間もなく自社のジャンボ機が
御巣鷹山に墜落するという事件に直面する』と。

ここが重要な点だから、もう一度、確認しておきたい。

恩地は、労働組合委員長として、会社と戦う。
これは会社内部の問題。
懲罰人事で、海外赴任を命じられる。
これも会社内部の問題。
10年後に、本社復帰を果たす。
これも会社内部の問題。

そのあと、日航123便の墜落事故が発生する。

が、映画は、どういうわけか日航123便の墜落事故から、
始まる……。

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●表現の暴力

あの映画は、「言論の自由」「表現の自由」という枠を、
明らかに超えている。
「言論の暴力」「表現の暴力」と言い換えてもよい。

あの映画は、だれが見ても、日本航空(JAL)が、
モデル。
「NAL123便」という名称ひとつとっても、
それがわかる。

映画は、そのNAL123便の墜落事故の場面から
始まる。
衝撃的な切り口だが、ストーリーが展開されるに
つれて、「いったい、この映画は何を言おうとしている
のか」、それがわからなくなる。
要するに、日本航空の中傷、それだけ。
NAL123便の墜落事故は、むしろそのために
利用されただけ。
遺族の人たちだって、不愉快に思うだろう。

「時期が時期だけに……」という意見もあるが、
時期は関係ない。
もしあなたの勤める企業が、こういう形で、
映画として料理されたら、あなたはどう思う
だろうか。
あなたは社員として、黙って見過ごすだろうか。

いくら会社内部にそういう問題があったとしても、
それは内部の問題。
たとえばあなたの子どもが万引きをしてつかまった
とする。
あなたには大問題かもしれない。
しかしだからといって、それを映画という、
天下の公器を使って暴露されたら、あなたは
黙って見過ごすだろうか。

●ダ作映画

ゆいいつ救いなのは、映画そのものが、ダ作。
わざとらしい演技。
大げさな振り付け。
セリフを棒読みするような、会話。
どの俳優も、みな、同じような言い回し。
視線の動かし方まで、同じ。
舞台演劇のようで、演技も不自然。
主演の渡辺謙をのぞいて、みな、ヘタクソ!
顔と声だけで、力(りき)んでいるだけ!

主人公の妻……あんな他人行儀の妻はいない。
慰霊室で大泣きする女性……?????。
見合いの席で、ふんぞり返る新郎の母親。
女の体にからみつく官僚、などなど。

こまかいところで、稚拙な演技がつづく。
それがチリのように積み重なって、
『沈まぬ太陽』をつまらない映画にしている。

……そう、どの場面も、とってつけたような演技ばかり。
映画全体が、一枚のスクリーンのよう。
薄っぺらい。
奥行きがない。
もちろん娯楽性はない。
つまり、映画として、見るに耐えない。

日本航空(JAL)が、怒るのが当たり前。

●フィクション?

繰り返す。
山崎豊子というより、『沈まぬ太陽』の監督は、
あの映画を通して、いったい、何を言いたかったのか。

説教がましいセリフが出てくるたびに、
私という観客は、うんざり。

ところで日本航空は、すでに2000年の社内報で、
「名誉が著しく傷つけられ……遺憾である」(おおぞら)
とコメントを書いている。
本来なら、この時点で、日本航空は山崎豊子に対して、
決着をつけておくべきだった。
名誉棄損として立件できるだけの構成要件を
じゅうぶん、満たしている。

いくら「この映画はフィクションです」と断りをつけても、
断りそのものが、白々しい。
「フィクション」と言いながら、だれもフィクションとは
思わない。
国民航空と言えば、日本航空。
マークも、鶴から桜(梅?)に変えられただけ。
こうした手法、つまり、事実に「虚偽」を混ぜて、相手を煙に巻く。
その手口は、詐欺師のそれと、どこもちがわない。

さらに卑怯なことに、監督は、あたかも原作者の山崎豊子に
責任をかぶせる形で、自分は逃げている。
私のように、映画『沈まぬ太陽』で、はじめて原作本『沈まぬ
太陽』の概要を知ったものも多いはず。

仮に映画『沈まぬ太陽』を見て、だれかが監督を名誉棄損で
訴えても、「私は原作を忠実に映画化しただけです」と
逃げてしまうだろう。
事実、この映画を担当した脚本家は、映画化までに3人交替
しているという(某週刊誌)。
また脚本は、そのつど、山崎豊子の校閲を受けているという。

だったら、なぜ、今、『沈まぬ太陽』なのか。
日本航空(JAL)が、経営再建問題で、話題にならない日はない。
だれが見ても、それをねらった映画としか、思えない。
「偶然、重なった」(監督・某週刊誌)という言葉は、
「国民航空は、日本航空のことではない」と言うのと同じくらい、
白々しい。

●観客の疑問

……とは言え、『沈まぬ太陽』を観てから、ほぼ10日が過ぎた。
当初の印象は消え、今は、「つまらない映画だった」という
印象しか残っていない。
主演の渡辺謙の演技がダントツに光る一方で、先にも
書いたように、周囲を固める俳優たちの演技が、あまりにも稚拙。
それが主演の渡辺謙の演技を、「ダントツ」にしているわけだが、
そのアンバランスさが、映画そのものをつまらないものに
している。

日本航空(JAL)にとっては、不愉快な映画であることには
ちがいない。
しかしそれほど、気にしなくてよいのでは……。
当時の世相を知っている人なら、だれもがこう思うだろう。
「どこの会社でも、その程度のことはあった」と。

また観客も、一線を引いて、映画を観ている。
一本の映画程度で踊らされるほど、バカではない。
あの映画を観て、「日本航空はひどい会社」と思うよりも前に、
「ああいう一方的な映画が、果たして許されていいのか」という
疑問が先に立つ。
それが冒頭に書いた言葉ということになる。

つまりあの映画は、「言論の自由」「表現の自由」という枠を、
明らかに超えている。
「言論の暴力」「表現の暴力」そのものと考えてよい。

●付記

 日航123便の墜落事故は、たしかに不幸な事故であった。
しかし事故は事故。
反社会的行為でもなければ、不正義でもない。
それをあたかも、反社会的行為、もしくは不正義でもあるかの
ように仕立てて、日本航空(JAL)内部の労使問題を
ああした形で映画化するというのは、それ自体が、表現の
暴力と断言してよい。

 たとえば日本の首相や政治の、反社会的行為を追及する
というのとは、訳がちがう。
(アメリカ映画では、よく大統領が悪玉とした映画が作られるが、
それはそれ。
大統領は公人。
しかしその企業と明らかに特定できるような企業の名誉を毀損する
ような映画は許されないし、そんなことをすれば、即、訴訟問題
に発展するだろう。)

 それがわからなければ、もう一度、自分にこう問うてみればよい。
『沈まぬ太陽』の中では、監督は何を正義として、私たちに
訴えたかったのか、と。

繰り返すが、日航123便の墜落事故は、映画の伏線として、
利用されただけ。
墜落事故の原因を追及していく過程で、日本航空(JAL)の
問題点がえぐり出されていく……というような映画だったら、
それはそれとして正義の追求になる。
あるいは遺族のだれかが、日本航空(JAL)と闘ったという
ような映画だったら、それも正義の追求ということになる。
話もわかる。

 しかし映画の柱は、あくまでも日本航空(JAL)内部の
労使問題。
労使問題に翻弄される、1人の社員の物語。
繰り返すが、日航123便の墜落事故は、利用されただけ。
あるいは、別の事故でもよかったはず。
百歩譲って、労使問題をテーマにした映画というのなら、
何も、日本航空を表に出す必要はなかったはず。

映画に(あるいは本に)、重みをつけるため、戦後最大の
重大事故をからませただけ。
利用しただけ。

 山崎豊子という作家は、姑息な手法を使う作家と
いうことになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 沈まぬ太陽 日本航空 国民航空)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●パニック

昨夜、自転車で家に帰るとき、
今までにない経験をした。
時刻は、夜9時を回っていた。

信号が変わるのを待ちながら、ふと横を見ると、一人の
若い女性が、車の中で携帯電話を使っていた。

私「……」。

そのとき、止まった車の間を縫うようにして、
大通りの後方から、無灯火の自転車が、
道路を横切って来た。
信号が赤になる前に急いで……、ということらしい。

私「……」。

横を見ると、みな、停止ラインで、車を止めていない。
数メートル、はみ出た車。
数メートル、手前で止まっている車。
車間距離はまちまち。

私「……」

信号待ちと言っても、その交差点は、おかしな十字路。
間に川をはさんでいるため、幅が50メートル
近くはある。
左右の道のうち、左へ行く道は、途中で行き止まり。
右から来る車も、そこは一方通行になっている。

それを知っているから、信号を守る歩行者は、
ほとんどいない。
今度は、赤信号を無視して、ジョッギングしながら、
1人の若い男が、こちらに向かって走ってきた。

私「……」。

さらに近くの家から、一方通行の道を逆走して、一台の
車が猛スピードで、目の前を通り過ぎていった。

私「……」。

もうひとつ、何かあったが、思い出せない。
ともかくも、そういうことが、(瞬間)という
短い時間の間に、たてつづけに起きた。
とたん頭の中がパニック状態になってしまった。

その直後、私は、こう思った。
「いったい、この国は、どうなってしまったのか!」と。

おおげさに聞こえるかもしれないが、そう思った。
つまりひとつずつのできごとは、ささいなことでも、
それが短時間にたてつづけて起こると、それぞれが
頭の中で大きくふくらむ。
そしてその結果、「この国は!」と、なる。

こういう脳の反応を、どう理解したらよいのか。
私にはわからないが、おもしろい現象なので、
ここに書きとめておく。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●『沈まぬ太陽』(補記)

++++++++++++++++++++

 今朝、起きるとすぐ、「『沈まぬ太陽』vs
日本航空(JAL)」という原稿を書いた。
「あの映画は、日本航空(JAL)の名誉を
傷つけているという内容の原稿である。

それについて朝食のとき、ワイフに話すと、
「そうね、私もそう思う」と、あっさりと
同意してくれた。

++++++++++++++++++++

●一サラリーマンの左遷劇

 繰り返しになるが、労使問題がこじれ、そのはざまで翻弄される、一サラリーマン
の悲哀劇を描くだけなら、何も日本航空(JAL)を、あえて取り上げる必要は
なかった。
それに「左遷」「左遷」というが、当時の日本では、あの程度の左遷劇は、どこの
会社でもあった。
民間企業ではもちろんのこと、三公社五現業と呼ばれる団体でも、あった。
「窓際族」「単身赴任」、さらに「粗大ごみ」という言葉も、そのころ生まれた。

また海外勤務についても、商社などでは、一度海外に出たら、最低でも2年、
日本には戻って来られなかった。
短期出張(70年代の当時は、「単身赴任」という言葉は、まだなかった)の
「はしご」というのもあった。
短期出張は、単身が常識だった。
出張先から、さらにつぎの出張先へ飛ばされるのを、「はしご」と呼んでいた。
しかし商社マンのばあい、海外勤務は、出世コースと位置づけられていた。
(『沈まぬ太陽』の中では、懲罰として位置づけられていたようだが、そう決めて
かかるのもどうか?)

 私がいたあのM物産にしても、社員の7割が国内勤務、3割が海外勤務と
いうことになっていた。
「商社マンは、海外で活躍してこそ商社マン」、
「海外勤務は、夢」、
「海外勤務は、出世コース」と。
私たちは、みな、そう考えていた。

 つまり単なる左遷劇ドラマなら、何もあえて日本航空(JAL)を舞台にする
必要はなかった。

●だれが見ても、日本航空(JAL)

しかし日航123便の墜落事故を描くことによって、あの映画に出てくる国民航空
というのは、日本航空のことと、だれにでも、わかる。
しかもその墜落事故は、映画の中では、トップシーンの中に出てくる。
が、実際には、労使紛争につづく主人公の左遷劇は、その何年か前に始まっていた。
たくみに前後を逆にすることにより、日航123便の墜落事故が、あたかも日本航空
(JAL)の経営陣に責任があるかのような、ストーリー展開になっている。

 が、繰り返しになるが、あの映画は、基本的には、1人の社員の左遷劇を描いた
ものに過ぎない。
それにそのあとに起きた日航123便の墜落事故を、まぶした。
(映画の中では、「JAL123便」が、「NAL123便」となっていたが……。)

 そこで改めて問う。

 どうしてこの映画の中で、日航123便の墜落事故が出てくるのか?
また出さねばならなかったのか?
あたかも主人公の恩地が、被害者であるかのような立場で描かれているが、一歩
退いた世界から見れば、恩地は、社員そのもの。
もし会社に責任があるとするなら、恩地自身も、その責任を負う立場にある。

 またわざわざ「この物語はフィクションです」と断るくらいなら、ほかの事故でも
よかったし、まったく架空の事故でもよかったはず。
つまり一サラリーマンの左遷劇と、日航123便の墜落事故が、どうしても
私の頭の中でつながらない。

●日本航空(JAL)は悪玉?

 ゆいいつ「それかな?」と、記憶に残っているセリフに、こんな言葉があった。

「ニューヨークの高額なホテルを買い占めるお金があるなら、どうしてその
お金を、安全面に使ってくれなかったのだ」と。
日航123便の遺族の1人が、そう言って、恩地に詰め寄っていた場面である。
しかしそれとて、ホテルの買収の話。

 つまりあの映画は、日本航空(JAL)を悪玉に仕立てようと、無理をしている。
それはまるで昔のチャンパラ映画のようでもあった。
善人と悪人の色分けをはっきりする。
とくに悪人は、いかにも悪人でございますというような、稚拙な演技をする。

たとえば補償金交渉をする担当者。
実にわざとらしいというか、取ってつけたような演技。
あそこまで事務的に補償金交渉をする担当者はいない。

●疑問

 となると、ここで疑問は、振り出しに戻ってしまう。
「なぜ、日本航空(JAL)なのか」と。

 1985年といえば、「つくば'85」(国際科学技術博覧会)(3月)のあと、
NTT、たばこ産業が、それぞれ民営化されている(4月)。
(日本電信電話公社が、日本電信電話株式会社に。
日本専売公社が、日本たばこ産業株式会社に、それぞれ民営化。
日本航空も、日航123便の墜落事故の当日、民営化を決議していた。) 

 さらに言えば、「なぜ、今なのか」と。
日本航空(JAL)は、現在、経営再建中で、たいへん困難な時期にある。
映画を観てもわかるように、労使問題といっても、それは社内という、
コップの中での話。
日航123便の墜落事故は、たしかに不幸な事故だったが、その事故と、
その前段階として描かれている労使紛争や主人公の左遷劇は、関係ない。

(関係があるなら、それをテーマにすればよい。
またそういう映画なら、話もわかる。
たとえば日航123便の墜落事故についても、圧力隔壁の破壊説のほか、
米軍によるミサイル誤射説、垂直尾翼の羽破壊説などもある。
ボイスレコーダーの一部は、いまだに未公開になっている、などなど。)

 まったく関係ない大事故をもちだし、労使紛争にまぶしていく。
あたかも労使紛争が、そのあとに起こる日航123便の墜落事故と関係あるかの
ように、である。

●表現の暴力

 しかしこれこそが「表現の暴力」。
確たる証拠もないまま、労使紛争と日航123便の墜落事故と結びつけていく。
そしてその上で、この物語は、「フィクションです」と断る。

 このあたりに、制作者や監督の、薄汚さを覚える。

 前にも書いたが、たとえば大統領の不正を追求する映画とか、そういったもので
あれば、問題はない。
大統領は公人である。
しかし日本航空(JAL)は、当時はいざ知らず、今は、一民間企業である。
株式も公開している。
そういう会社をターゲットに、こういう映画が許されてよいものか?

 観る人によっては、日本航空(JAL)に対して、悪いイメージをもつだろう。
みながみな、「これは映画」「フィクション」と、割り切ることができるわけではない。
観たまま、「日本航空(JAL)って、おかしな会社」と思うかもしれない。
もしそうなら、(実際、そうだが)、日本航空(JAL)は、本気で怒ってよい。

●制作意図がわからない

 要するに、あの映画は、(原作のほうもそうだろうが)、日本航空(JAL)を
中傷するためだけに作られた映画と考えてよい。
社内の労使紛争の理不尽を、ドラマ化しただけ。
それに日航123便の墜落事故をまぶして、ドラマを水ぶくれ式に大きくした。

 だから私はこう書いた。
「表現の暴力」と。

 ワイフは最後にこう言った。
「山崎豊子は、JALに、何かうらみでもあったのかしら?」と。
そう、何かうらみでもなければ、あそこまでの本は書けない。
日航123便の墜落事故で亡くなった犠牲者は、そのための(飾り)として
利用された。
犠牲者に同情するフリをしながら、物語のスケールを大きくするために、利用された。
しかしそれこそ、犠牲者への冒涜ということになるのではないのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 日本航空 JAL123便 沈まぬ太陽 国民航空 NAL12
3)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの問題vs親の問題(ミラー思考)

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子どもに問題を感じたら、その反対側に、
親の側にも同じ問題があると考える。
これを「ミラー思考」(はやし浩司)という。
いろいろなケースがある。

たとえば依存性の強い子どもがいる。
何かにつけ、自立した行動ができない。
人格の核形成も遅れ、全体に幼稚ぽい。
そういう子どもをもつ親は、「うちの子は
甘えん坊で困ります」と言う。

しかしそういう子どもにしたのは、親自身。
親自身も依存性が強く、自立できないでいる。
情緒的に不安定であったり、精神的に未熟であったりする。
そのためどうしても、子どもの依存性に甘くなる。
その結果、子どもも依存性の強い子どもになる。

親の心が、子どもの心に、直接的に大きな
影響を与える。
このように子どもの問題を見つけたら、
その反対側に親の問題があるとみる考え方を、
「ミラー思考」という。

+++++++++++++++++++

●逆・母子分離不安

 少し前、「逆・母子分離不安」について書いた。
母子分離不安というと、子どもの側だけの問題と考えがち。
が、母親のほうが、子どもと離れると不安になるというケースも
少なくない。

子どもの姿が見えなくなっただけで、言いようのない不安感に襲われる。
子どもの姿がそばに見えないと、心配でならない、など。
そのため、いつも子どものそばにいて、子どもにベタベタとくっついている。
母子分離不安の逆だから、「逆・母子分離不安」(はやし浩司)という。
「子母・分離不安」でもよい。

 似たような反応、つまり逆の反応が起きるという現象は、ほかの場面でもよく見られる。
「帰宅拒否」も、そのひとつ。
いつか私は、「不登校の反対側にあるのが、帰宅拒否」と書いた(1999年ごろ)。
今ではこの考え方は、広く知られ、常識化している。

 当時、不登校ばかりが問題になっていた。
が、その一方で、「家に帰りたがらない子ども」もいた。
症状こそ多少ちがうが、しかしその根底にある心の問題は同じ、……と私は考えた。
親たちは、子どもが「学校へ行きたくない」と言うと、大騒ぎする。
しかし「家に帰りたくない」という子どももいた。
当時は、そういう子どもは、ほとんど問題にならなかった。
だからあえて「帰宅拒否」「帰宅拒否児」という言葉をつかった。

 こうしたものの考え方も、「ミラー思考」の一つということになる。
ただしこのばあいの「ミラー」は、反対側にも、似たような問題があるという意味で、
そう言う。

●子どもの立場で……

 あるいはこんなことも……。

 先日、ある小学校で講演をさせてもらったとき、そのあと、こんな質問を
もらった(10月31日、K小学校で)。
「うちの子どもは、中3だが、勉強もしないで、家でゲームばかりしている。
どうしたらいいか」と。

 このばあいも、そうだ。
その母親は自分の立場で、親として、子どもの将来を心配していた。
それは当然のことかもしれない。
しかし自分の感じている不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてはいけない。

いちばん苦しんでいるのは、当の中学3年生の息子である。
楽しくてゲームに、夢中になっているのではない。
好き好んで、ゲームばかりしているわけではない。
ほかにすることがない。
何をしても、空回りばかり。
だからゲームをして、ふさいだ気分を紛らわす。
できれば、もっと別のことをして、みなの前で活躍したい。
しかしそれができない……。

 だから私はこう答えた。

「あなたのお子さんは、ゲームをしながら、楽しんでいるのではないですよ。
自分がやりたいこと、すべきことが見つからず、悶々とした気分でいるのですよ。
勉強したくても、どこから手をつけてよいか、それがわからない。
やってもやっても、成績はあがらない。
苦しんで、もがいているのは、お子さんのほうだということです。

 中学3年生というと、もうおとなです。
母親であるあなたに言われなくても、ゲームなんかしているばあいではない。
そんなことは、百も承知なのです。
が、ほかにやることもない。
できることもない。
だからゲームをする……。

そんなわけで子どもに言うとしたら、『勉強しなさい』ではなく、
『あなたは苦しんでいるのね』ですよ。
子どもの立場になって、子どものかかえている問題を、いっしょに考えて
あげてください」と。

 加えて言うなら、最近の子どもたちの勉強に対する意識は、大きく変わった。
「勉強でがんばって……」という中学生は、約40%とみる。
残りの60%は、「勉強して……」という意識そのものが、薄い。
「薄い」というより、「もとから、ない」。

 が、親たちは、昔の意識のまま。
昔の意識のままで、子どもに向かって、「勉強しなさい!」と言う。
「勉強しないと、社会から取り残される」「落ちこぼれる」と。
いまだに学歴信仰をしている親となると、ゴマンといる。
が、それでは子どもの心をつかむことはできない。

 こういうときは、こうする。
押してだけなときは、思い切って、引いてみる。
私も、この手をよく使う。

 「ブルーアイズに、融合カードをくっつけると、攻撃力は2倍になるよ」と。
親自身が、子どもの世界に飛び込んでみる。
「ゲームは、くだらない」と決めつける前に、「おもしろそうね」と言ってみる。
とたん、子どもたちの表情が、パッと変わる。
その中学生のばあいも、一度、親が、そのゲームをしてみたらよい。
そういう姿勢が、子どもの心に風穴を開ける。

 親が自分の不安や心配を、子どもにぶつければぶつけるほど、
子どもは、ますます今、そこにある問題から遠ざかろうとする。
この母親の子どものケースでは、ゲームに夢中になる。

 こうして一度、自分を子どもの世界に置いてみる。
そこを視点にして、子どもの問題を考えてみる。
これも「ミラー思考」ということになる。

●ミラー思考

 先にも書いたように、「ミラー思考」という言葉は、私が考えた。
それを分類すると、こうなる。

(1)子どもの側に視点を置いて、子どもと同じように考える。
(2)子どもの側に問題があったら、原因は自分にあると考える。

 要するに、親(とくに母親)の心は。そのまま、(あるいは逆に)、
子どもの心となって、反映されやすいということ。
もっとわかりやすい例では、こんなこともある。

 あなたが子どものころのことを思い出してみてほしい。
親戚や近所には、あなたの好きな人や、嫌いな人がいたはず。
しかしその好き・嫌いを決めていたのは、あなた自身ではない。
あなたの母親である。
あなたの母親が好きな人を、あなたは好きと感じ、母親が嫌いな人を、
あなたは嫌いと感じていた。

 私もこのことを、母の葬儀のあとに、知った。
「ああ、私は、母が嫌っていた人を、嫌っていただけ」と。

 もちろん、その反対のこともある。

 私の母は、たいへん迷信深い人だった。
たとえば何をするにも、暦(こよみ)を見て、決めていた。
「今日は、日がいいから、〜〜する」
「明日は、日が悪いから、〜〜しない」と。

「大安」「仏滅」というような言葉が、よく口から出てきた。

 私もある時期までは、母の考え方に従ったが、そのうちそれに疑問を
もつようになった。
簡単に言えば、それが反面教師となって、私はそういう類の迷信を
まったく受け付けなくなった。

 自分の心の中をさぐってみると、自分の心そのものまで、親によって作られた
ということを知る。

●子どもの心

 「ミラー思考」という言葉に、こだわる必要はない。
はやし浩司の考えた、たわ言のひとつに過ぎない。
しかし重要なことは、それがよいものであれ、悪いものであれ、子どもの心を
作るのは、母親だということ。
それを忘れてはいけない。

 たとえば母親のもつ価値観、哲学(「哲学」と言えるようなものがあれば、という
話だが)、そういったものは、一度は、子どもにそっくりそのまま伝わる。
善悪の基準にしてもそうだ。

簡単な例としては、一度、あなたが先に、「山と川の絵」を描いて、どこかへ
しまっておく。
そのあと、子どもに、「山と川の絵」を描かせてみる。
あなたは子どもの描く絵が、あなたの絵とそっくりなのを知って、驚くだろう。
私の調査でも、30組に1組は、まったく、同じ絵を描くことがわかっている
(年中児・年長児について調査)。

 もしそれがよいものであれば、それはそれでよし。
そうでなければ、子どもは、その呪縛から逃れるため、たいへんな苦労を強いられる。
ここでは詳しくは書けないが、私自身が、それを経験している。

 子どもを見るときの、ひとつの見方として、「ミラー思考」という言葉を考えた。
もっとよい言葉が、ほかにあるかもしれない。
が、これだけは言える。
子どもに何か問題を感じたら、それを子どもだけの問題として片づけないこと。
最近では、子どもは家族の「代表」という言葉を使う。
子どもの問題は、家族、地域、みんなの問題。
その視点を踏みはずしては、子どもの問題は、解決しない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 ミラー 子どもの問題 家族の代表 子どもの問
題 親の問題)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●教師の本音(「教職の仕事は、こりごり」)

 昨日、74歳になる元教師という人と、しばらく話をさせてもらった。
YN氏という名前の人だった。
ときどき近くの小学校へ行って、ボランティア的な仕事をしているという。
で、その話を聞いたとき、私は、こう言った。

「どんな先生も、退職すると同時に、『教育なんて、もうコリゴリ』と言って、
教育の世界から遠ざかっていきます。が、珍しいですね」と。

 するとそのYN氏は、こう言った。 

「私も若いころ、退職していく先生が、そう言っているのを聞いた。
しかし40年近くも仕事をしながら、退職するときに、そう言うというのは、
自己否定もはなはだしい。
だから私は若いころ、自分は一生、教育と何らかの形で、関わっていきたいと
思っていた。
もちろん退職したあとも、ね。
しかしね、林先生(=私)、本音を言えば、そうですよ。
私も教育は、もう、こりごりです」と。

 教職は別として、サラリーマンの世界は、もう少しきびしい。
『退職したら、ただの人』と言う。
いくら肩書きや地位があっても、退職したら、ただの人。
まわりの人も、そうとらえるが、自分自身でも、「ただの人」になる。
またそうならないと、老後を楽しく暮らすことはできない。
みなに嫌われる。

 では、教職の世界は、どうか?
退職したら、ただの人なのか?
またそうであって、よいのか?
キャリアをもっと生かす方法とか、道とかはないのか。

 もっとも教職の世界にも、天下りというのがある。
たいていの教師は、退職と同時に、公共の施設で何らかの仕事をする。
図書館の館長とか、公民館の館長というのが、多い。
子育て相談や、いろいろな会合で講師をする人もいる。
大学の教壇に立つ人もいる。
こうして満65歳くらいまでは、たいていの教師は働く。
しかし「本音を言えば、こりごり」と。

 「今ではね、体育館で子どもが怪我をしても、教師はその子どもの家まで
行って、頭をさげなければなりません。
それだけでも1〜2時間は、かかってしまいます。
昔なら、電話一本ですんだ話でも、今は、そういうわけにはいきません。
1〜2時間も取られると、翌日の教材の用意もできなくなります。
したくもない雑用ばかりで、本来の教育が、どこかへ行ってしまっています。
そういうのも、理由のひとつではないでしょうか」と。

 多くの教師は、今の今も、(したい仕事)と(したくない仕事)のはざまで
もがいている。
が、残念なことに、実際には、(したくない仕事)のほうが、多い。
重圧感もある。

 その場にいた、現役の校長(小学校)も、こう言った。
「今では学校に、親が介入してきます。
子どもに神経を遣う部分が、70%。
親に神経を遣う部分が、30%。
その30%のほうで、教師は、疲れてしまうのです」と。

 そうした負担感が積もりに積もって、「もう、こりごり」となる。
それが教師の本音ということになる。
が、日本の教育にとって、これほど、まずいことはない。
だったら、どうするか?

 カナダのように、徹底して、(教育)を(学校)から抜き出す。
「学校は教育をするところ」と位置づけて、それ以外の雑務から、教師を
解放する。
日本の大病院の医療制度を想像すればよい。
医師は、自分の診察室内でのことには、責任をもつ。
しかし患者が一歩、診察室を出たら、医師はいっさいの責任から解放される。
同じように、教師は、自分の教室内でのことについては、全責任を負う。
しかし子どもが教室から一歩でも出たら、いっさい、関係なし。
そういうしくみを早急につくりあげないと、現場の教師は、みな、つぶれてしまう。

 今のように、生活指導も含めて、「何からなにまで先生が……」というしくみの
ほうが、おかしい。
世界的に見ても、異常。
まず、そのことを、政治が気づき、ついで、親たちが気づいたらよい。
また学校の教師にしても、できないことはできないと、はっきりと声に出して
言えばよい。
へたに何でも引き受けるから、自分で自分の首を絞めてしまう。

 EU諸国(ドイツ、イタリア、フランス)では、クラブ制度が発達している。
子どもたちは基本的な授業は学校で受けるが、それが終わると、みな、クラブ
(塾)へ通っている。
たとえば英語教育にしても、そういったものは、民間の英語教室に任せればよい。
その費用は、バウチャー券でも、子ども券でも何でもよい。
そういう形で、政府が負担すればよい。

(英語教育が必要と考える人)もいる。
(必要でないと考える人)もいる。
(自分の子どもに、英語を教えたいと思う人)もいる。
(自分の子どもに、英語を教えたくないと思う人)もいる。
(英語を勉強したいと思う子ども)もいる。
(英語を勉強したくないと思う子ども)もいる。
(英語以外の言葉を勉強したいと思う子ども)もいる。

 そういう現状を無視して、北海道から沖縄まで、「平等で、同じ教育を」と
言うこと自体に、無理がある。

 ……とまあ、少し話が脱線したが、こうした無理も、教師からやる気を奪う
理由のひとつになっている。

 では、私は、どうか?
私は死ぬまで、今の仕事をつづける。
つづけたい。
年金の問題もあるが、(というのも、国民年金など、アテにならないので)、
それ以上に、こうして自由にものを考えたり、書いたりする時間があるのが、
楽しい。
もし今の仕事をやめたら、そのとたん、私は、生きる屍(しかばね)になって
しまう。
自分でも、それがよくわかっている。

 それに楽しいか、楽しくないかということになれば、幼児を相手に、ものを
教えることぐらい、楽しいことはない。
その子どもの、未来を創ることができる。
親がそこにいることも、気にならない。
だから62歳をすぎたが、「こりごり」という言葉は、私からは出てこない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 教育の現場 現状 元教師 悩み 苦悩 教育論 はやし浩司 
教育はどうあるべきか 教育の現場 問題点)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

【教育の現場では、今……】

+++++++++++++++++++

教育というのは、手をかけようと思えば、
いくらでもかけられる。
手を抜こうと思えば、
いくらでも抜ける。
それこそ、どこかの学習塾のように、
プリント学習だけですませようと
思えば、それもできる。

教育のこわいところは、この一点にある。

+++++++++++++++++++++

●教育は重労働

 私はいつも、こう書く。
「教育は、重労働である」と。
それは教えたものでないと、わからない。
いや、あなただって、それをわかっているはず。
たった1人や2人の子どもの子育てで、あなたは四苦八苦している。
それを30人近くも1人の教師に押しつけて、「しっかり、面倒をみろ!」は、ない。

 今、現在、園にせよ、学校にせよ、教師たちは雑務、雑務の連続で、
本来の教育そのものができない状態にある。
ある女性教師は、私にこう話してくれた。
「授業中だけが、休める場所です」と。

 「私は教科指導をしていますが、生活指導の先生なんかは、毎日徹夜です」と。
たとえば子どもが家出したとする。
そういうとき親がまっさきに電話をかけるのは、警察ではなく、学校の教師。
そのたびに、教師は、駆り出される。
だから「徹夜になる」と。

 この問題は、教員の数をふやせば解決するとか、給料をあげれば解決する
という問題ではない。
さらに最近では、外国人の子どもの問題もある。
それについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。

が、私の経験でも、授業のリズムに乗れない子どもが、10人の中に
1人でもいると、リズムそのものが破壊されてしまう。
2人いたら、授業はめちゃめちゃ。
しかし現実には、5人に1人は外国人という小学校もある(K市K小学校)。

●雑音、騒音、騒動

 私たちは園や学校の教師をして、聖職者であると、安易に位置づけしすぎて
いるのではないか。
どの教師も、「私たちだって、ふつうの人間」と叫びたがっている。
が、そういう声を、親たちは、知って知らぬフリをしながら、押しつぶしてしまう。
そして無理難題をふっかけては、教師を窮地に追い込む。

 はっきり言おう。
親の欲望には、際限がない。
進学学校にしても、何とかB中学に入れそうになると、今度は、「A中学へ」となる。
A中学へ入れそうになると、今度は、「S中学へ」となる。
もっと生々しい話もある。

 明らかに緘黙症の子ども(小2男児)であるにもかかわらず、毎週のように
教師に電話をかけ、「どうすれば、うちの子は、もっとハキハキするでしょうか」
と相談していた母親がいた。

 明らかに親の過干渉と過関心で萎縮してしまった子ども(小5男児)もいた。
で、ある日、母親から相談したいという電話が入った。
会って話してみると、その母親は、こう言ったという。

「小4までの担任の教え方が悪くて、うちの子はああなってしまった。
あの教師は、教師として不適格だ。
やめさせてほしい」と。

 こうした雑音、騒音、それに騒動は、まさに日常茶飯事。
それに巻き込まれて、授業がマヒしている教室となると、いまどき珍しくも
なんともない。
けっしておおげさなことを書いているのではない。
学校全体が、マヒ状態のところもある。

 ある小学校では、教師がデジタルカメラで、女児の着替え姿を
撮った、撮らないで、大騒ぎになってしまった。
親どうしが、言った、言わないで、裁判になってしまったケースもある。
さらにささいな言動や、軽い体罰が理由で、任期半ばで、余儀なく転校
させられていく教師となると、いくらでもいる。

●子どもたちが犠牲者

 今、教育のシステムそのものが、疲弊している。
今のままでよいとは、だれも思っていない。
が、最終的に、その最大の犠牲者はとなると、結局は、子どもたちということになる。

 教育というのは、10年後、20年後を見据えてする。
言い換えると、その結果が出てくるのは、10年後、20年後ということになる。
30年後でもかまわない。

 民主党の管直人氏は、こう言い切った。
「(官僚たちは)知恵、頭を使ってない。霞が関なんて成績が良かっただけで
大ばかだ」と。
10月31日、民主党都連の会合での講演で、である。

 官僚でも、ある年代の人たちは、受験勉強だけで官僚になった。……なれた。
クラブ活動も、人づきあいもしない。
何もしない。
そういう子どもが、受験勉強だけをうまくくぐり抜けて、官僚になった。
現在が、その(結果)と言えなくもない。

 つまりここで子どもたちを、未来の日本を見据えながら、しっかりと教育
しておかないと、そのツケは、10年後、20年後、さらには30年後に、
子どもたち自身が払うことになる。

 もう少しわかりやすい例で言えば、「ゆとり教育」がある。
今では、このあたりの中学生でも、本気で勉強している子どもとなると、40%も
いない(ある中学校の校長談)。

残りの60%は、高校進学についても、「部活でがんばって、推薦で入る」とか、
「勉強で苦労したくないから、進学高校には行きたくない」などと言っている。
すべてが「ゆとり教育」が原因とは思わないが、そうでないとは、もっと思わない。
「ゆとり教育」のおかげで、子どもたちのネジが緩んでしまった。
この10年で、そうなってしまった。

●教育の自由化

 話を戻す。

 今、重要なことは、学校の教育システムを変えること。
教師は教育だけに、(できるだけという条件をつけてもよいが)、専念できる
ような環境を、用意する。
教師を、(できるだけ)、雑務から解放する。

 子どもの教育は、親の自己責任でする。
「何もかも学校で……」という発想は、捨てる。
それが教育の自由化の最終目標ということになる。
「自由」とは、もともとは、「自らに由(よ)る」という意味である。
そのために、欧米のように、課外のクラブ制度を導入するのもよい。

しかしこれには、文科省は、簡単には応じないだろう。
天下り先として機能している外郭団体だけでも、1700団体以上もある。
その数は、各省庁の中でも、ダントツに多い。
そういう組織に、がんじがらめになっている。

 だからおかしなことに、戦後、文部省だけは、世界の流れに背を向けた。
文部省をのぞく全省庁が、欧米に目を向け、欧米に追いつけ、追い越せを目標にした。
が、文部省だけが教育の自由化に、背を向けた。
そのしわ寄せが、結局は、回りまわって、現場の教師のところにやってきた。
親たちの意識も、旧態依然のまま。
その結果が、現在の状況ということになる。

 で、最後に一言。

 教育というのは、手をかけようと思えば、いくらでもかけられる。
手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。
それこそ、どこかの学習塾のように、プリント学習だけですませようと
思えば、それもできる。
相手は、子ども、批判力もない。
判断力もない。
ないまま、(学ぶこと)から遠ざかってしまう。

 教育のこわいところは、この一点につきる。
やる気をなくした教師たちが、どういう教育をし、どう子どもを育てていくか。
想像するだけでも、ぞっとする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 民主党 管直人 教育問題 教育の自由化 やる気 教師のやる
気 ゆとり教育 弊害)

(付記)今、現場では……(現状を知ってもらうために)

●教師のやる気

「教師のやる気を決めるのは、親だ」と、その校長は、明確に述べた。
近くのK小学校のO校長である。
「教師のやる気を奪うのも、親だ」とも。

 教師は、聖職者ではない。
私やあなたと同じ、ごくふつうの人間である。
ふつうの人間であるというのが、悪いというのではない。
もし「悪い」ということになると、私やあなたは、何か
ということになってしまう。

 しかし本当の問題は、もうひとつ、その先にある。
依存性の問題である。
どうして日本の親たちは、こうまで学校に依存するようになってしまったのか。
どうして学校の教師たちは、こうまで何もかも、背負うようになってしまったのか。
そこまでメスを入れないと、この問題は解決しない。

●親の依存性

 たとえば今日の朝、「逆・母子分離不安」について書いた。
母子分離不安というと、子ども側だけの問題と考えがち。
しかし実際には、母親側の母子分離不安というのもある。
その中で、毎日、園の外から自分の子どもをながめている母親の話を書いた。
園の教師たちが、「だいじょうぶです」「任せてください」と何度
言っても、その母親の耳には聞こえない。
2、3日は姿が見えないので、やれやれと思っていると、
また園へやってきて、今度は身を隠しながら、自分の子どもをながめている。

 この話は、近くのY保育園の園長から、直接、聞いた話である。
で、その園長はこう言った。
「みんな(=先生たち)は、知らぬ顔して、園児を指導していますが、
その母親の姿を見るたびに、みな、おびえるようになりました」と。

 たぶん(?)、その母親は、自分の行為が、園の教師たちに、なんら影響を
与えていないと思っている。
「自分は、園の外から、自分の子どもを見ているだけ」と。
しかし実際にはそうでない。
そうでないことは、ここに書いたとおりである。

●青い封筒!

 また別の幼稚園では、こんな話を聞いた。

 その幼稚園に1人、たいへん神経質な母親がいた。
神経質というより、「子どもがすべて」という母親だった。
その母親が、毎週のように、手紙で、あれこれ園に注文をつけてきた。
「ああしてほしい」「こうしてほしい」「ここがいけない」
「あそこが気に入らない」と。
それがいつも、青い封筒に入れられて来た。

 1回や2回なら、ともかくも、それが毎週となると、教師たちに思わぬ
影響を与える。
園長は、こう言った。
「そのうち、みな、青い封筒を見ただけで、震えるようになりました」と。

●親の押しつけ

 こうした話は、あちこちで聞く。
どの幼稚園にも、心を病んで、病院通いしている教師は、1人や2人は、
かならずいる。
長期休暇を取っている教師も、珍しくない。
またこういう話を書くと、「そんなことで!」と思う人もいるかもしれない。
「そんなことで、震えたりするのか!」と。

 しかし現実は、現実。
現実は、そんなもの。
親たちは、幼稚園であれ、小学校であれ、「先生というのは、そういうもの」
と勝手に思い込み、それを教師に押しつけてくる。
しかし冒頭に書いたように、教師といっても、私やあなたと同じ、ごく
ふつうの人間である。

 用もないのに親が園へやってきて、ジロジロと中をのぞいていたら、
この上なく、やりにくい。
毎週、毎週、手紙で苦情を言われても、この上なく、やりにくい。
その(やりにくさ)を、このタイプの親は、理解できない。

 さらに最近では、携帯電話を使って、教師に直接あれこれ言ってくる
母親も多いという。
その教師(女性、30歳未婚)は、こう言った。
「そのため毎日、返事を書くだけで、1〜2時間は取られます」と。
(そのあと、その小学校では、携帯電話でのやりとりを禁止したそうだが……。)

 が、先にも書いたように、こうした問題の根は深い。
どうして教師は、できないことは、できないと言わないのか。
いやだったら、いやと言えないのか。
その一方で、親は、どうして教師に、そこまで期待するのか。

 教育のシステムを変えないかぎり、こうした問題も解決しない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●WINDOW7に

 今日、ビスタ搭載のパソコンを、WINDOW7に、UPGRADEしようとした。
……といっても、その下準備。

 UPGRADEしたいパソコンのウィルス対策ソフトは、WINDOW7に
対応していない。
しかし今度買った、XPパソコンのウィルス対策ソフトは、WINDOW7に
対応している。
そこで2つのパソコンにインストールしてある、それぞれのウィルス対策ソフトを
交換することにした。

 一度、両方のウィルス対策ソフトを削除する。
その上で、改めて両方のウィルス対策ソフトを、インストールする。
口で言うと簡単そうに見えるが、その作業のために、何と、2時間もかかってしまった。
いろいろあった。

(わかりやすく言えば、ウィルス対策ソフトというのは、基本的には、別のパソコンに
再インストールできないようになっている。
それにXPに入っていたソフトは、一度、使用期限を延長して使っていた。
その更新手続きに、手間取った。)

 そしていよいよWINDOW7へのUPGRADEというところで、時間切れ。
このつづきは、また来週。


●Sxx教団

 コンビニで、週刊誌を読む。
その中に、いくつかのSxx教団の記事が載っていた。
世の中には、おかしな宗教がある。
宗教というよりは、カルト。
カルト教団。
その中のひとつでは、毎晩、祭壇でSxxをして、一日を終えるのだそうだ。
また別の教団では、何でもヨーグルトを塗ってから、Sxxをするのだそうだ。

 バカ臭さを通り越して、あきれてしまった。
あきれたというよりは、笑ってしまった。
「人間はここまでバカになれる」と。

 もっとも宗教というよりは、新しいタイプのSxxの楽しみ方かもしれない。
宗教は、大きく、神秘主義のものと、哲学主義のものに分かれる。
それらの混在型というのもある。
しかしここに書いたカルト教団は、神秘主義でもない。
もちろん哲学主義でもない。
生々しいほど、現実主義。
哲学など、もちろん、どこにもない。
物欲的で、享楽的。

死が宗教と大きく関係しているように、生もまた、宗教と関係している。
その「生」は、「性」によって、始まる。
人が死んだら、葬式をする。
同じように、Sxxによって、人は生まれる。
生まれるための儀式があっても、おかしくない。

 生と死。
それをうまくこじつけたのが、Sxxを売り物にするカルト教団ということになる。
(生)→(性)→(Sxx)と。
事実、世界の宗教の中には、インドのヒンズー教を例にあげるまでもなく、Sxxを
神聖視している教団も少なくない。
しかしここで矛盾が、出てくる。

 Sxxは、人間の欲望と深く、からんでいる。
その欲望と、どう切り離すのか。
欲望と切り離したら、Sxxは、成り立たなくなる。
一方、欲望を追求すれば、宗教性は、霧散する。

 結論を先に言えば、Sxxには、神秘性もなければ、哲学性もない。
性に飢えた人間には、神秘的かもしれないが、Sxxなど、ただの排泄。
Sxxに意味をもたせるほうが、おかしい。
「性は無」。
どこまでいっても、「性は無」。
若いころ、今東光が、私にそう教えてくれた。

 そのことは、男も更年期を迎えるとわかる。
私も55歳前後だったと思うが、一時期、Sxxに、まったく興味を失ってしまった
ことがある。
しかしあのとき感じた解放感は、今でも忘れない。
体中にからみついていた、細いクサリがほどけたような感覚だった。
私は、自分が、いかに性の奴隷であったかを知った。

 もしSxxに、宗教性があるとするなら、食欲教団というのは、どうか?
どこかで食事をしながら、生と死を論ずる。
あるいは排便教団というのでも、よい。
みながトイレに一列に並んで、便を出す。
出しながら、生と死を論ずる。
そのほうが、よほど哲学的。
それに楽しい。

 ともかくも、Sxx教団など、野に咲くあだ花のようなもの。
人間の世界を愉快にする、ジョーク。
が、笑ってばかりはおられない。

 もしあなたの子どもが、そういう教団の餌食となったら、どうする?
ものごとは、ここから考える。
身を捧げ(?)、マネーを捧げ(?)、最後は人生を捧げる(?)。
そうなったとき、あなたはそれを果たしてジョークと言って、笑えるだろうか。
カルト教団には、いつもそういう問題がからむ。
けっして、安易に考えてはいけない。
攻撃の手を緩めてはいけない。

 こうしたカルト教団は、いつも私やあなたの心の隙間をねらっている。
私やあなたの子どもの心の、すき間をねらっている。
攻撃こそ、最大の防御。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW Sxx教団 カルト教団 カルト問題)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●早朝

 目の前には幾重にも重なった、山々が見える。
今、数えてみたが、5層になっている。
手前のほうが、より色が濃く、遠くへ行けばいくほど、淡く、水色を帯びている。

 今朝は、まったくの無風。
山では、朝方と夕方、一度、風の動きが止まる。
それにしても、まったくない日というのは、珍しい。
スチル写真のように、動きを止めている。

 空には、厚い雲。
よく見ると、その雲も、動きを止めている。
どこか肌寒く、どこか湿っぽい。
今日から11月。

 昨夜、ワイフは、もう一台のパソコンを使って、DVDを見ていた。
私は、お茶を飲みながら、雑誌を読んでいた。
床に入ったのが、午後11時半ごろ。
で、起きたのが、午前5時半ごろ。
6時間の睡眠ということになる。

 ワイフは、今日は、愛知県のほうまで紅葉を見に行こうと言っている。
昨夜、山荘へ来るとき、そう言っていた。
しかし私は休みの日に、計画を立てるのは好きではない。
万事、成り行き。
そのときは、そのとき。
だからこう言った。
「明日になったら、考えよう」と。

 で、その(明日)になった。
沈んだ景色。
先にも書いたように、厚い雲。
夕方には雨になるという。
それに今日は、どこかで昼寝をしなければならない。
遠出は無理かな……?

 
●ダイナブックUX

 ダイナブックUX(TOSHIBA)に、6セルバッテリーをつけてみた。
計算上では、これ1本で、カタログによれば、10時間の連続使用が可能。
で、数日前、本当にそうかどうか、調べてみた。

 (使用した時間)÷(バッテリーの減った%)で、計算できる。
たとえば、2時間使用して、バッテリーが、27%減ったとすると、
このばあい、120(分)÷0・27=7・4(時間)ということになる。

 それで計算してみたら、7・4時間という数字が出てきた。
悪くない。
「10時間」というのは、あくまでも目安。
実測時間は、その半分程度というのが、この世界では常識。
しかし7・5時間もあれば、じゅうぶん。
もう一本のバッテリー(3セル)と合わせて、10時間以上。
これならどこでも、時間を気にせず、使用できる。

 で、今のところ、このダイナブックUXが、いちばん気に入っている。
キータッチの感触がよい。
横に、16インチのノートパソコンがあっても、UXを使って文章を叩いている。
指先でいじっているだけで、気持ちよい。
ボケ防止にもなる。


●厚い雲

 先ほど、「厚い雲」と書いた。
午前6時前には、そうだった。
しかし今、空を見ると、ナント、雲の間に、水色の空が見えるではないか。
その向こうには、白い雲まで見える。
1時間もしない間に、空の様子が、一変した。
「こういうこともあるんだ」と、今、そう思った。

 もうすぐワイフが、起きてくるはず。
「どこかへ行こう」と言うはず。
どうしよう?

 「妻を退屈させないのは、夫の役目」。
何かの雑誌に、そう書いてあった。
一方、ワイフは、私の生きがいに、あれこれと気をくばってくれている。
やりたいように、させてくれている。
こういうのを、ギブ&テイクという。
あとの判断は、ワイフに任せよう。
愛知県のほうまで紅葉を見に行きたいと言えば、それに従うしかない。

Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●記憶力

+++++++++++++++++

「記憶力」といっても、(記銘力)→
(保持力)→(想起力)によって、決まる。

そのうちの想起力。
思い出す力。
このところその想起力が弱くなってきた
ように感ずる。

++++++++++++++++++

●想起力

 「想起力」というのは、「思い出す力」のことをいう。
記憶として脳に刻まれた情報は、いろいろな場所に雑然と格納されている。
きちんと整理されて格納されているわけではない。
そのため想起力が弱くなると、必要な情報を的確に拾い出せなくなる。

 たとえば昨日も、パソコンを使っていて、小さなトラブルがあった。
若いときなら、原因として考えられる情報が、4つや5つ、すぐ頭の中を駆け巡った。
が、今は、2つか、3つ。
「おかしいなあ……?」と思っていると、そのうち、4つ目とか5つ目が出てくる。
もちろんミスも多くなる。

 今朝(11月2日)の自分のマガジンを読んでいて、驚いた。
「道徳の完成論」を説いたのは、コールバーグという学者である。
それが原稿の中では、「マズロー」になっていた。

道徳の完成論……それは2つの要素で決まる。

(1)いかに公平であるか
(2)いかに視野が広いか

 これがコールバーグの説く「道徳の完成論」である。
私はこれに(3)いかに一貫性を保っているか、を加える。
それはともかくも、どうしてまちがえたのだろう。
どうして「マズロー」と書いたのだろう。
その原稿を書いているとき、どうして気がつかなかったのだろう。
 
●脳の老化

 脳みその活動が、年々衰えていくのを感ずるのは、さみしいこと。
あるいはこれは私の、思い過ごしかもしれない。
若い人でも、同じような現象が起きているのかもしれない。
そこで私が若かったころのことを、懸命に思いだそうとする。
「若いころの私は、どうだったのか?」と。
が、当時は、そんなことなど、考えもしなかった。
脳の老化など、遠い未来の、私にとっては(ありえない)未来の話だった。

 が、今、それが現実になりつつある。
さみしいというより、こわい。
本音を言えば、こわい。
やがて私は私でなくなってしまう。

 このことは、同年齢の人たちと話していると、わかる。
中にはすでにボケ始めた人もいる。
ボケてはいないが、話し方が、かったるくなったり、ぶっきらぼうになったり
する人もいる。
平たく言えば、繊細な会話ができなくなる。
そういう人が、まわりにふえてくる。
そのたびに、自分の住んでいる世界が、どんどんと小さくなっていくように感ずる。

 ただしこの問題だけは、本人にはわからないはず。
脳のCPU(中央演算装置)そのものの働きが鈍くなる。
わからないまま、脳の老化は進む。
これがこわい。

 たとえば今、私は年賀状づくりのため、GIMP2(写真加工ソフト)に
挑戦している。
が、もう2日目になるが、いまだに使い方がよくわからない。
手引書の表紙には、「はじめてでも、PCですぐできる……」(宝島社)とある。
「すぐできないぞ!」と、軽い怒りを覚えつつ、挑戦している。

 これからはこういうことが、多くなる。
誤字、脱字も目立つようになってきた。
そういう客観的事実を通して、CPUの機能が低下しているのを知る。

 脳の老化は、記憶力だけの問題ではない。
それを言いたくて、このエッセーを書いた。

(補記)

ついでに言うと、インターネットのこわいところは、一度、まちがった情報を
書きこむと、それを訂正する手段がないこと。
どんどんと転載されていく……。
先の「マズロー」にしても、一度、外に出てしまうと、それを取り戻すことが
できない。
こうして「まちがえました。マズローではなく、コールバーグです」と書くのが、
精いっぱい。

で、「まあ、いいか」と自分を納得させて、そのままで終わってしまう。
こういうおかしな妥協が、加齢とともにふえ、やがて、自分の人生についても、
こう思うようになる。

「まあ、いいか」と。

これは「納得」というよりは、「あきらめ」か?
「コールバーグ、コールバーグ、コールバーグ……」と10回、声を出して唱えて、
この原稿は、おしまい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 脳の老化 想起力 コールバーグ)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●自滅するテレビ文化

最近、テレビで、急に目立つようになってきたのが、物品の販売。
10〜15年ほど前にもあったが、当時は、午前中の10〜11時台だけ。
「♪お電話くださ〜い、待ってま〜す。0120−xxx−xxx」と。

それが今では、あらゆる時間帯に、進出してきた。
健康食品や美容食品が、目立つ。
サプリメントに、健康器具などなど。
使用経験者が、「これを飲んで美しくなりました」などと言ったりする。
するとたいてい、その下にこんなテロップが流れる。

「これは個人の感想です」
「効果を保証するものではありません」と。
今日見たのには、こうあった。
「満足度、84%」と。

 使用してみて、満足した人が、84%だったという意味か?

 で、共通しているのは、どれも値段が高いということ!
30日分で、1万円以上が、常識。
2万円、3万円というのもザラ。
もっともらしい理屈を並べ、それらしい(〜〜博士)という肩書きを
もつ人が、画面に出てきて、それを裏づける。
「この効果は、科学的にも、証明されています」と。

 要するに、インチキ番組。
「美しくなりました」
「体が軽くなりました」
「顔が白くなりました」と。
そういう、使用経験者の言葉を聞くたびに、私はこう思う。

「だから、それがどうしたの?」と。

ターゲットは、若い女性か?
それとも団塊の世代か?

 健康法にせよ、美容法にせよ、10年とか20年単位で身につくもの。
仮に「効果があった?」としても、その方法を、これから先、10年とか
20年もつづけるのは、むずかしい。
お金もつづかない。
テレビ番組の数だけ、新しい商品が生まれる。
つぎつぎと生まれる。

 結局、視聴者は、そういう番組に、振り回されるだけ。
で、問題は、そのあとに起こる。

●ヤラセ番組?

 私が学生のころには、「テレビでこう言っていた」と言うだけで、泣く子も黙った。
テレビ番組には、それくらいの権威があった。
が、今はちがう。
バラエティ番組に象徴されるように、軽薄かつ安あがりのものばかり。
先週見た番組に、こんなのがあった。

 連想ゲームの類のものだが、3組に分かれて、出演者が並んで、答の速さを
競うというものだった。
勝った組からは1人ずつが、その列から消える。

 みな、驚くほど、答を出すのが、速い。(早い?)
出題者が問題をすべて言い切らないうちに、出演者がボタンを押して、答を言う。
私はそれを見ていて、「なんだ、みな、結構、頭がいいんだな」と思った。
しかしそれこそテレビ局側のねらい?
しかしどうも様子がおかしい?
へん?
たとえばこうだ。

出題者「織田信長が、商業の……」と言いかけたところで、出演者が、即座に、
「楽市、楽座!」と答える。
すかさず出題者が、「正解!」と言って、その人を、列からはずす。
が、どうして「織田信長が、商業の……」と言っただけで、「楽市、楽座」がわかるのか。
ほかにも、いろいろ答は考えられる。

 あらかじめいくつかの答を用意して、それを出演者に教えているのではないか?
「バラエティ番組の出演者たちは、レベルが低い」と批判されているので、
あえてこうしたコーナーを用意しているのではないか?

もちろん私が勝手にそう思うだけで、根拠はない。
ないが、どうもおかしい?

厳密に言えば、ヤラセということになる。
さらに言えば、インチキということになる。
しかし答そのものを教えているわけではないらしい。
だから中には、微妙に、答をまちがえる人もいる。
(答をまちがえたというよりは、選択ミス?)

 しかしこんなことを繰り返していれば、テレビの権威は落ちるばかり。

●サプリメント

 時代が変わったのか?
それとも私の感覚が古いのか?
しかしこれだけ情報が氾濫してくると、「テレビだ」「ラジオだ」「本だ」と、
言っておれなくなる。
仮に「これは!」と思ってつかんだ情報にしても、数日もすれば、価値そのものが
なくなってしまう。

 そこで情報の提供者たちは、情報にことかいて、ヤラセ番組や、インチキ番組を
垂れ流す。
しかしこれは、ことテレビに関して言えば、自殺行為に等しい。
今の状況が一巡すれば、みな、こう思うようになるだろう。
「テレビで言っていることは、アテにならない」と。

 事実、そうなりつつあるが、こうした番組は、それに拍車をかけている。
テレビ局は、その裏で、莫大な広告料を稼いでいる。
もちろん制作費は、ゼロ!
が、そのうち何らかの健康被害が出て、問題になるはず。
問題にならないようであれば、そもそも売っている商品が、インチキということに
なる。
「効果がある」ということは、それだけの「副作用もある」ということ。

 サプリメントは、サプリメント。
医薬品ではない。
医薬品ではないという盲点をついて、こうした商品が、つぎからつぎへと生まれる。

 たまたま今日見た商品は、こういうものだった。

 何でも毛穴に詰まった、アカや汚れを、プラス・マイナスの磁力をもったクリームで、
きれいに取り去る、と。
その結果、手の色が、白くすべすべになるという。
(記憶によるものなので、内容は不正確。)
で、レポーターの一人がこう言った。
「顔にも使ってみたア〜い」と。
多分使用法の中に、「手のみに使ってください」とでもあるのだろう。
それでそう言った?

 効果があるのか、ないのか、私にはわからない。
しかし私は、こうつぶやいた。
「だからといって、それがどうしたの?」。
「そんなに白くしたければ、ペンキでも塗っておけばいい」と。

 ……というのは言いすぎだが、アメリカなのでは、チャンネルを別にして、
こうした問題を解決している。
物品販売のチャンネルでは、一日中、物品販売を繰り返している。
そういう解決策もないわけではない。

 しかし今のように、良貨と悪貨をごちゃまぜにしていると、良貨のほうも、
やがて、だれも信用しなくなる。
これを「テレビ文化の危機」と言わずして、何と言う?


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 子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年   12月   2日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日で10月もおしまい

昨日、大急ぎで、マガジン11月号のHTML版(カラー版)の編集をした。
40分ほどで、できた。
あぶなかった!
ぎりぎり、セーフ!

数日前、「11月号は休刊にしようか」と、ワイフと話し合ったばかり。
このところ、ワイフですら、私のマガジンを読んでいない。
他人である読者なら、なおさら。
読んでいる人は、ほとんどいない?
自分でもよく、「どうしてこんなバカなことをしているのだろう?」と思う。

やる気になれば、40分でできる。
その「40分」を、自分の中で作るのが、たいへん。
子どもだって、そうだ。
30分でできるような宿題でも、なかなか、やらない。
「その気になって、早くすませばいい」と思うが、やらない。
その30分を作るのが、むずかしい。

今日は10月31日。
しめくくりに、午前中、近くの小学校で、講演というか、講話をしてくる。
時間が1時間しかないから、たいした話はできない。
雰囲気的には、雑談形式になってしまうかも?
で、そのあと、そのまま山荘へ。
今日は、山の草刈りをするつもり。
上半身の運動には、草刈りが、いちばんよい。
30分もつづけると、全身が汗だくだくになる。

それに今の時期から、落ち葉がひどくなる。
それを集めると、ふかふかのダブルベッドのようになる。
孫たちが近くにいれば、それで遊ぶだろう。
いつももったいと思いつつ、それを燃やす。

そうそう、昨夜、今度講演に行くことになっている、秋田県のY市を
ネットで調べてみた。
旅館の予約をしなければならない。
が、驚いた。
地図で見たら、浜松からだと、韓国のソウルと、同じ距離。
円を描いてみたら、ちょうど同じ位置だった。
「新潟の向うが秋田」と思っていた。
(たぶん、反対に、秋田の人たちは、「東京の向うが、浜松」と
思っているにちがいない。)

片道、7時間半。
秋田県は、はじめてなので、楽しみ。

もうひとつ驚いたのは、旅館の宿泊費が安いこと。
このあたりの半額といった感じ。
温泉旅館でも、一泊2食付きで、6〜7000円前後。

ともかくも、今日も始まった。
がんばろう!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●逆・母子分離不安(byはやし浩司)

+++++++++++++++++

母子分離不安というと、子どもだけの
問題と考える人は、多い。
しかし子どもほどではないが、母親側の
母子分離不安も多い。

称して、「逆・母子分離不安」(筆者)。

+++++++++++++++++

「母子分離不安」というと、子どもだけの
問題と考える人は多い。
つまり母子分離不安になるのは、子どもだけとはかぎらない。
母親側の、母子分離不安というのも、ある。
「子どもから離れられない」
「子どもがそばにいないと不安」
「子どもの様子がわからないと心配」と。

そして幼稚園や保育園でも、用もないのに、
出かけて行っては、そこで子どもの様子を見る。
園の先生が、「だいじょうぶですよ」「心配ないですよ」
「任せてください」と言っても、(実のところ、
そういう母親がいると、園にとっても、迷惑なのだが)、
そこにいる。
そこにいて、じっと子どもの様子を見ている。

ふつうの「母子分離不安」と逆の立場になるから、
「逆・母子分離不安」ということになる。

このタイプの母親の特徴としては、

(1)静かで、いつも憂うつそうな顔をしている。
(2)子どもから視線をはずさない。
(3)表面的には、穏やかでやさしい母親に見える。
(4)強く注意したりすると、おどおどしてしまう。
(5)歩くときも、手をつないだりして、離れない。
(6)「私は愛情豊かな母親」と誤解している。

原因は、母親側に、何らかの情緒的な欠陥、あるいは
精神的な未熟性。
とくに情緒的な欠陥、たとえばうつ病が原因となることがある。

当然、子どもにも、影響が出てくる。
そういう点では、母親の愛情を、過剰なまでに受けている。
そのため溺愛児プラス、過保護児プラス、過関心児を
統合したような症状を示す。

(1)静かでおとなしい。
(2)ハキがない。積極性に欠ける。
(3)全体に幼稚ぽいしぐさや、言動が目立つ。
(4)人格の核形成(=この子はこういう子というつかみどころ)が遅れる。
(5)他の子どもたちと交われない。
(6)柔和でおだやかだが、積極性がない。
(7)乱暴な指導になじまない。
(8)いつも親の視線を気にする、など。

T君(小1)という子どもがいた。
その子どものばあいも、親が授業を参観しているときと、
していないときとでは、別人のように違った。

親がいないときは、比較的表情が明るく、
積極的だった。
ものもしっかりと言うことができた。
親がいるときは、比較的……というより、明らかに
「いい子」という様子を見せた。

で、私はときどき「参観はもういいですよ」と
促した。
しかし効果は長つづきしなかった。
1、2回くらいは、参観をやめるが、またやってきて、
いちばん奥の席に座って、じっと子どもを見つめていた。

私もその視線を強く感じた。
ときに私の体を、ズキンズキンと突き抜けた。
授業もやりにくかった。

が、そういうこちら側の気持ちは、理解できない。
どこまでも身勝手で、自分勝手。
しかし母親のかかえる心の問題は、それをしのぐほど、大きい。
根も深い。
無理に引き離したりすると、母親自身の精神状態が、おかしくなってしまう。
それがわかっているから、私の方が、引きさがるしかなかった。

この問題は子どもの問題ではない。
(たいていの母親は、「この子は私がそばについていてあげないと、
何もできません」と言うが)、母親自身の問題と考える。
もっと言えば、母親自身の心の問題。
それを治す。

しかしそれは「教育」の範囲を超える。
父親の協力も必要だが、たいていのばあい、父親(夫)も、
もてあましていることが多い。
それ以上強く言うと、家庭内騒動の原因となったり、
そのまま母親が子どもの手を引いて、園をやめてしまったりする。

子どもは、小学3年生前後(満10歳前後)に、
急速に親離れを始める。
親はそのときだけの様子を見て、「私たち親子は、いつまでもそういう
関係がつづく」と考える。
しかしこのタイプの子どもは、思春期に入るころ、豹変する。
「このヤロー! こんなオレにしたのは、テメーだア!」と。
母親を激しく罵倒したりする。
抑圧された別の心が、そのとき爆発する。

あるいは、極端なマザコンのまま、おとなになる。
比率としては、豹変して親を罵倒するようになる子どもが、70%、
マザコン化する子どもが、30%と、私はみている。
どちらであるにせよ、よいことは、何もない。
ひどいばあいには、そのまま激しい家庭内暴力へとつながる。

子どもを、自分の心の隙間を埋めるための道具に利用してはいけない。

【症例1】

 毎朝、子ども(年中・女児)といっしょに幼稚園へやってくる母親がいた。
そして門のところで子どもを手放すと、そのまま門の端のほうに移動して
立っていた。

 毎朝のことなので、園のほうも、あきらめていた
強く言ったこともあるが、そのときは、園の別の隅に移動し、やはり
そこで立って子どもの姿を見ていた。

 ときどき家に帰ることもあった。
家までは、歩いて、5〜10分程度。
しかし昼ごろになると、またやってきて、そこに立っていた。
たいていそのまま、帰りの時間まで、そこにいた。
いつも子どもの手を引いて、家まで帰った。

【症例2】

 「娘が病気で幼稚園を休んでくれると、うれしい」と、その母親は言った。
「娘といっしょに、一日を過ごせるから」と。

 その子ども(年長・女児)の髪は、芸術とも言えるほど、こまかく編んでいた。
私が「ずいぶんと時間がかかるでしょう?」と聞くと、母親はこう言った。
「いえ、1時間ほどですみます」と。

 毎朝、1時間!

 その母親の口癖は、いつも同じ。
「死ぬまで、(この子と」いっしょ」。
「子育てが生きがい」。
「この子は、私がいなければ、何もできません」。

 「結婚したら、どうします?」と聞いたこともある。
母親は、臆面もなく、こう答えた。
「結婚はしません。するとしても、養子で、家(うち)に入ってもらいます」と。

 で、ある日、その母親は、こうも言った。

「私、夫なんか、いてもいなくても、どちらでもいいような気がします。
娘さえ、家にいてくれれば……」と。

 母親の実家は、かなり裕福な資産家だった。
毎月生活費の大半を、実家からの仕送りで、まかなっていた。

【症例3】

 T君(中2)が、激しい家庭内暴力を繰り返しているという話は、その隣に住む
母親から聞いた。
最初は、親子で怒鳴りあう声が、近所中に聞こえたという。
が、そのうち静かになり、T君の家庭内暴力は、ますます激しくなっていった。

暴力が激しいため、家の中のガラス戸などは、すべてはずしてあったという。
父親も母親も、中学の教師をしていた。
母親は、T君が幼稚園へ入るころ、教師の職を辞した。

 父親も母親も、T君の部屋の前を通るときは、両手ではって歩いたという。
立って歩いている姿が見えると、T君は、容赦なくモノを投げつけた。

 そのT君は、小学3年生ごろまでは、学校でも優等生(?)だった。
勉強も、スポーツもよくできた。
おとなしく、親や先生の指示にも従順だった。
私もそのころまでのT君しか知らない。
で、T君の話を聞いて、心底驚いた。
 
 隣に住むその母親は、こう言った。

「T君が子ども(幼児)のころは、母親が毎日、手をつないで、近くの
ピアノ教室に通っていました。
いつもいっしょなので、たいへん仲のいい親子に見えました。
母親は、明らかに溺愛していました。
ただ教育ママで、T君が学校のテストなどでまちがえたところがあったりすると、
夜遅くまで勉強を教えていました」と。

 そう言えば、T君には妹が1人、いたはず。
それを聞くと、その母親は、「そう言えば、妹さんは、父親の実家から、学校に
通っていました」と。
 
(補記)

 子どもは、小学3年生前後(満10歳前後)に、急速に親離れを始める。
男児だと、それまでは学校であったことを話していたのが、急に話さなくなる。
親や近親者を、露骨に毛嫌いし始める。
(本当に嫌っているというよりは、生意気な態度をわざとしてみせる。)

 女児だと、それまで父親と風呂に入っていたのが、入らなくなる。

 そこで大切なことは、

(1)じょうずに、親離れできるように、子どもを仕向けてやる。
(2)子離れイコール、親子の断絶ではない。おおげさに考えない。
(3)親自身が、子離れし、親は親で自分の人生を大切にする。
(4)夫の役割を認め、夫に積極的に介入してもらう。
西洋では『子どもを産み育てるのは、母親の役目だが、
子どもに狩の仕方を教えるのは、父親の役目』と教える。
母子関係の是正と、社会性を教えるのは、父親の役目と心得る。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 母子分離不安 母子分離不安症 逆母子分離不安 逆・母子分離
不安 母親の分離不安 子離れできない母親)


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司



【青春の仇討ち】

●息子たちのこと

 親が子どもを育てるのではない。
そういう時期もあるにはあるが、そういう時期は、あっという間に終わる。
親は、あるときから、子どもたちに励まされて生きるようになる。
子どもたちが、がんばって生きている姿を見ながら、「私も!」となる。

 経営再建中の航空会社でパイロットをしている息子。
「お前は、だいじょうぶか?」と聞くと、「ぼくには、関係ない」と。
「でも、子会社の人たちが、かわいそう」と、ポツリ。
この先、1万人を超える、大リストラが始まる。

 アメリカの大学でコンピュータ技師をしている息子も、同じようなことをいう。
「ぼくには、関係ない」と。

 そうした言葉を聞いて、「本当かな?」と思いつつも、ほっとする。

 一方、息子たちが、私たちのことを心配するたびに、私は、こう答える。
この日本でも、まだいたるところで不況の嵐が、吹きすさんでいる。
「ぼくには、関係ない」と。

仕事がある。
仕事が楽しい。
生きがいもある。
それに健康。
何とか、昨年に始まった、あの大恐慌も乗り切った。

 あとは、今の状態を維持するだけ。
そうそう、もうひとつ負けたくないことがある。

 二男夫婦は、今でもラブラブ。
ハートのマークを10個ほどつけてやりたい。
今度結婚した三男も、ラブラブ。
ハートのマークを20個ほどつけてやりたい。
で、私たち夫婦は……?

 先日も、「あいつら、みんな楽しんでいる。
ぼくらもがんばろう」とワイフに言うと、ワイフも、すなおに応じてくれた。
「そうね」と。

……だから今は、2人で、遊んでばかりいる。
若いときは、仕事と子育てに追いまくられた。
その分を、今、取り返す。
あのころできなかったことを、今、する。
称して、「青春の仇(あだ)討ち」。

62歳といっても、運がよければ、人生はまだ20年はある。
10年としても、青春時代より長い。
使いようによっては、学生時代の2倍、楽しめる。
で、あのころしたくてもできなかったことを、懸命に思い出そうとする。
「何だったのかなあ?」と。

●青春の仇討ち

 青春時代に、やり残したことは多い。
不完全燃焼のまま、終わったことも多い。
が、ふと今、頭の中をかすめたのは、今井さん(実名)。

 私が浜松に住むようになって、最初の友人。
市立図書館の入り口あたりで、小さなデザイン事務所を開いていた。

 人当たりいい、やさしい人だった。
心が広く、私のめんどうをよく見てくれた。
台風のときには、わざわざ私を迎えに来てくれた。
「うちへ来い」と。
私はそのとき、今にも壊れそうな、ボロ家の2階に間借りしていた。

 今井さんとの思い出は多い。
が、その今井さんは、30歳になる少し前に、食道がんでこの世を去った。
タバコと焼酎が好きだった。
夢は、直木賞を取ることだった。
だから毎日、何かの原稿を書いていた。

 さぞかし無念だっただろう。
その無念さが、今になって、ひしひしと私の胸に伝わってくる。
その無念さを考えたら、私がし残したことなど、なんでもない。
「青春の仇討ち」とは言うものの、それが考えられるだけでも、幸せなの
かもしれない。
仇討ちすらできないで、そのまま若くして、この世を去っていく人は多い。

 そう言えば、近所に、60歳で定年退職した直後に、脳内出血で亡くなった
人(男性)がいる。
その人の奥さんは、こう言った。
「何のための人生だったのでしょうね」と。

 現役時代は、したいこともできず、役所勤め。
黙々と働いてきて、「やっと楽になった」と思ったとたん、脳内出血。
そうそう、こうも言った。

「若いときから腎臓が弱く、食事制限ばかりしてきました。
こんなことなら、食べたいものを、もっと食べさせてやればよかったです」と。

そう言えば、あの今東光(こんとうこう)は、晩年、私にこう話してくれた。
「オレは、若いとき、修行、修行で、オレには青春時代がなかった。
今でも、『しまった!』と思って、女を買いに行く」と。

 晩年の今東光は、ヌード画を書いていた。
「女を買う」というのは、「モデルの女性をさがしに行く」という意味だった。
大作家であり、政治家であり、かつある宗派の大僧正でもあった人物でも、
そう考える。
青春の仇討ちを考える。

●悔い

 私は……。
私は早い時期に、サラリーマンに見切りをつけ、そのあと、自由気ままに生きた。
そのつどやりたいことだけをやって、生きてきた。
したくないことは、しなかった。
きびしい生活だったが、そういう点では、悔いはない。
ないというより、少ない。

 あえて言うなら、「旅」ということになる。
息子たちが生まれてから、とくにそうだった。
が、だからといって、後悔しているわけではない。
息子たちがいたおかげで、がんばることができた。
息子たちがいなかったら、ああまでは、がんばらなかっただろう。
生きがいも生まれなかっただろう。
もちろん思い出も、できた。

 ただ心の中では、いつも、「世界中をひとりで旅をしてみたい」と、
思っていた。
目的地を定めず、放浪の旅をする。
今なら、ワイフと2人で、旅をする。
青春の仇討ちということになれば、それか?

 しかし今は、こう思う。
息子たちが、私の代わりに青春の仇討ちをしてくれている、と。
不思議なことに、みな、私がしたかったこと、できなかったことを、している。

 自由奔放な長男。
アメリカに移住した二男。
空を飛んでいる三男。

 みんなそれなりに、自分の人生を楽しんでいる。
それでよい。
それ以上に、私は何を望むことができるのか。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【教育の自由論】

●何をもって「自由」というか?

 事実を書く。

 二男の嫁のデニーズは、主婦業をしながら、受験勉強。
07年に、日本でいう司法試験に合格してしまった。
独学である。

 で、当時、二男は、転職を考えていた。
アメリカでは、より大きなチャンスをねらって転職するのが、常識になっている。
そこで二男は、カルフォルニア州にある、グーグル社と、ラスベガスにある、
ウォール・マート社の2社のどちらかに、転職が決まった。

 カルフォルニアは、物価も高く、息子と娘の教育にもよくないと、ウォール・マート社
への転職を決めていた。

 が、そのとき、デニーズが全額奨学金付きの、司法試験に合格してしまった。
「自由に大学を選んでいい」と。

 そこでデニーズは、インディアナ州のインディアナ大学(通称、IU)に、決めた。
その大学のロースクールに入学。

 二男は、「デニ−ズ(妻)の夢をかなえさせてやりたい」と、転職をあきらめ、
自分もインディアナ州へ。
先にも書いたように、端から端まで、車で2時間もかかるような、広大なキャンパスを
かかえた大学である。

 で、就職先をさがしていると、運よく、同じ大学内のコンピュータ技師としての仕事
が見つかった。
当初は、コンピュータの保守のような仕事をしていたと思う。
が、そのうち、大学のスパコン(スーパー・コンピュータ)を扱うようになった。
で、それがさらに進んで、少し前は、「世界のスパコンをネットとつないで……」という
ような話になった

 が、今回は、とうとう、「サーン」という名前が、口から出てきた。
そしてそのために12月に、スイスへ出張で言ってくる、と。

 わかるかな?

 日本の教育システムの中で、こうした(登用)が可能か、どうか?
アメリカでは、力のある若い人が、学歴とか、職歴に関係なく、どんどんと登用され、
自分の道を登っていくことができる。
念のため、あとで、この原稿を、TK先生(東大名誉教授・元副総長)に送ってみる。
「日本では、こういうことが可能なのか」と。

 たぶん、TK先生の答は、「No」だろう。
派閥と子弟制度で、がんじがらめになっていて、研究者ですら、身動きできないはず。
つまり、それが日本とアメリカの教育システムの(ちがい)ということになる。

 「自由」といっても、制度だけいじればそれでよいという問題ではない。
「意識」の問題ということになる。
その意識が整ってこそ、「日本の教育は自由化された」と、はじめて言える。

 その二男だが、大学を卒業するとき、「NASAでも通用する男」という推薦状を
もらっている。
が、デニーズとの結婚を優先させて、地元のアーカンソー州にある、ソフトウェア
開発会社に就職した。
その入社試験でのこと。
二男は自分が作った、宇宙モデルを見せたという。
それで就職が決まった。

 またコンピュータをつなぐという方法は、(今ではふつうになされているが……)、
二男が学生時代に開発したもの。
10台以上の古いコンピュータを回線でつなぎ、スパコンに似た仕事をさせるという
ものである。
一度、二男の大学を訪れたとき、その一部を見せてもらったことがある。

 二男はいつもこう言っている。
「パパ、コンピュータの世界では、不可能という言葉はないよ」と。
どういうわけか、その言葉が、耳に強く残っている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 量子加速器 CERN サーン 教育の自由化 はやし浩司 自
由な教育 教育自由化論 教育の自由とは)

(追記)

 今朝(10月30日)、以上の原稿をTK先生に送ったら、さっそく返事が来た。

【TK先生より、はやし浩司へ】

林様:
  ご丁寧なお便り有難うございました。私には CERN の位置づけがよく分かりません
が、兎に角すごいことのようですね。父親の資質を継いでよかったですね。素晴らしいこ
とのようで、心からお祝い申し上げます。ご三男の方でしたっけ、航空士になろうとして
おられたのは。三男は何をしておられますか。

  私の婿のOYは、今月東京大学の工学部の教授になりました。ヴァージニア工科大学
の教授でしたが、向こうで一億五千万ほどの研究費がつき、辞められないので、東京大学
に60%、ヴァージニアに40%の兼任になります。日本での給料は向こうに比べて大幅
に低いし、その上定年もありますので、大分迷っていましたが、結局兼任ということで決
ったようです。

  来週の「文化の日」には東大関係のTK研の卒業生が集まり、「TK会」を東京の学
士会館でします。卒業生が皆よくしてくれますので、元気が出ます。

  くれぐれもお元気で。
                                                                             
                         TK

  デニーズさんで思い出しましたが、私の孫のMKは慶応大学法学部の4年生ですが、
アメリカの law school に入ると言って、先日試験を受けました。いいところに入れるとい
いが、と決定を待っているところです。彼女は小学校の5年生まで向こうで育ちましたの
でバイリンガルです。

【はやし浩司より、TK先生へ】

田丸先生へ

こんにちは!

お元気そうですね!

田丸会の成功を、期待しています。

パイロットになった三男は、5月に結婚し、千葉に住んでいます。
羽田で最終訓練を受けています。
B777のパイロットです。
(パイロットは、1機種ごとに、免許が必要です。)

もともと空が好きな男ですから、好きなことをさせるのが、
いちばんです。
センター試験では、横浜国大を2位の成績で入学しました。
宇宙工学の講座があるのが、横浜国大だったからです。
東大の医学部だって入れた成績なのですが……。

それを蹴飛ばして、今度はパイロットにと言うことで……。
親としては複雑な気持ちでした。
覚えていてくださって、恐縮です。

でもさすが先生、すばらしいですね。
浜松のへき地より、お祝い申し上げます。
お孫さんが、law school 入学できるといいですね。

ぼくも先生の、1000分の1をめざして、さらにがんばります!


はやし浩司


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●島崎藤村 

+++++++++++++++++

島崎藤村といえば、『初恋』。
「まだあげ初(そ)めし前髪の……」の『初恋』。 

そう思うのは、私だけか。
ほかにもいくつかあるが、島崎藤村といえば、『初恋』。
それが第一に浮かんでくる。

+++++++++++++++++

●初恋

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな

林檎畠の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまうこそこひしけれ

●初恋(よみがな入り)

まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれない)の秋の実に
人こひ初(そ)めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃(さかずき)を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな

林檎畠の樹(こ)の下に
おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまうこそこひしけれ

●初恋(解説入り)

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の……「花櫛」→花の絵や彫り物がある櫛のこと
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり……「人こひ初めし」→初恋

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな

林檎畠の樹の下に
おのづからなる細道は……「おのずからなる」→自然にできた(細道)
誰が踏みそめしかたみぞと……「かたみ」→残したもの
問ひたまうこそこひしけれ

●島崎藤村

 私は合唱が好きで、中学のときはコーラス部。
以後、高校、大学と、合唱部、合唱団に属していた。
ピアノを弾くことはもちろん、音譜もろくに読めない私が、合唱団にいたのだから、
恐ろしい。

 合唱団では、島崎藤村の曲を、よく歌った。
『♪千曲川旅情』もそのひとつ。
組曲になっていた。

『小諸なる古城のほとり          
雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず          
若草も籍(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 
日に溶けて淡雪流る』

 よく知られているのに、『高楼』がある。
小林明という歌手が、この歌を歌っていた。
私はこの曲も好きだった。
よく口ずさんだ。

『♪とほきわかれに(遠き別れに)
  たえかねて(耐えかねて)
  このたかどのに(この高楼に)
  のぼるかな(上るかな)

  かなしむなかれ(悲しむなかれ)
  わがあねよ(我が姉よ)
  たびのころもを(旅の衣を)
  とゝのへよ(整えよ)』

●系譜

今どき、若い人たちに島崎藤村といっても、ピンとこないかもしれない。
私たちジー様世代よりも、さらに一昔前の詩人である。

 で、年譜を調べてみると、1872年(明治5年)、長野県木曽郡山口村に生まれる。
小学校に入学当時から、『千字文』『勧学篇』を父から学ぶ。
中学校は、東京・芝の三田学校から、神田の共立学校に転校。
明治学院普通学部本科に入学とある。

 明治5年生まれというから、教育的にかなり恵まれた環境に生まれ育ったことになる。
ふつうの家庭ではない。
ふつうの家庭の子どもは、尋常小学校へ通うだけで、精一杯。
あとは皇族、士族、大商人の師弟のみ。
そういう人たちだけが、今で言う大学へ進学することができた。

 島崎藤村の代表作は、もちろん、『夜明け前』。
満56歳ごろから本格的に準備を始め、第一部は、60歳のとき新潮社より刊行されてい
る。

 そのあと63歳のときに第二部を、同じ新潮社より刊行。
同年、日本ペンクラブが結成され、会長に就任。

 1943年(昭和18年)、脳溢血のため、大磯の自宅で死去。
享年71歳だったという。

●一考

 島崎藤村の「初恋」に描かれた女性は、妻「フユ」ということになる。
そのフユは、4女出産後、出血多量で死去している。
島崎藤村、38歳の、1910年(明治43年)のことである。

 で、そのあと、島崎藤村は、1913年(大正2年)4月に、フランスに向かって出発。
1916年(大正5年)に帰国している。

 このあたりに島崎藤村の人生の中核が、形成されたとみてよいのでは?
フユの死去と、フランスへの旅。
この2つが、相互にからみあって、その後の島崎藤村を、島崎藤村にした?

 これは私の勝手な解釈によるものだが、冒頭に書いた「初恋」をその上にダブらせると、
それがよくわかる。
それにしても、ラッキーな人だと思う。
豊かな才能のみならず、環境にも恵まれていた。
明治の昔に、東京で中学、高校時代を過ごし、大学を出ている。
 
 島崎藤村の出した詩集は、『若菜集』にはじまって、どれも大ヒット。
当時の文学界は、現在のテレビのような働きをしていた。
1作、本が当たれば、そのまま億万長者という時代だった。
かなりの収入にも、恵まれた。

 で、フランスへ、3年という長旅。
明治維新直後の日本の国力は、当時のインドネシアと並ぶ程度であったという。
そういう時代の、3年間である。

 これは最近の私の悪い癖かもしれないが、私は、そういう人がいたことを知ると、
自分の人生や年齢を、そのままその人に重ねてしまう。
私は、島崎藤村がフランスへ行っていた年齢のときには、何をしていただろう、と。
たとうば島崎藤村は、60歳のときに、ライフワークとも言える、『夜明け前』
(『第一部』を刊行している。

 それを知るだけでも、大きな励みになる。
「まだ、がんばれる!」と。

 たまたま書庫に島崎藤村の詩集を見つけた。
しばし読みふけった。
で、島崎藤村について、書いてみた。


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

●CERN(サーン)(量子加速器※)

少し前、アメリカから帰ってきた三男が、声を高ぶらせてこう言った。
「S君(=二男の愛称)は、すごいことやってるよ、パパ!」と。

話を聞くと、インディアナ大学で、スパコンの技師をしているという。
そして今は、CERN(サーン)の研究員の1人として、働いている、と。
インディアナ大学といっても、端から端まで、車で2時間もかかるほど広い。
日本の常識では、ちょっと想像できない。

そこで二男は、世界中のスパコンをつなぎ、サーンからのデータを通信衛星で、受信。
その分析をしている。

そのことを今朝、二男にテレビ電話で話すと、いともさりげなく、「12月にスイスへ
出張で行ってくるよ」と。

ウィキペディア百科事典には、こうある。

++++++++++++++++++

(注※)大型ハドロン衝突型加速器 (Large Hadron Collide、略称 LHC) とは、
高エネルギー物理実験を目的としてCERNが建設した世界最大の衝突型円型加速器の名称。
スイス・ジュネーブ郊外にフランスとの国境をまたいで設置されている。2008年9月10
日に稼動開始した。

++++++++++++++++++

私はうれしかった。
どういうわけか、うれしかった。
私にはできなかったことを、二男は、している。
「自慢」とか、そういうことではない。
あの量子加速器の話は、前から聞いていた。
巨大なシステムで、総工費は、9000億円以上、とか。
「世界中の物理学者がスイスに集まりつつある」と、別のHPにはあった。
そういう研究の片鱗のその一部に、何と言うか、自分自身が加担できたような
うれしさである。

 二男には、幼児のときから、惜しみなくコンピュータを買い与えてきた。
私も好きだったこともある。
二男が小学生のときには、一台40〜50万円が相場だった。
ベーシック言語を教えたのは私だったが、C++言語は、中学へ入るころには、
自分でマスターしてしまった。
また高校生のときには、コンピュータ・ウィルスが問題になり始めていた。
二男は、自分でワクチンをつくり、そのワクチンを、そのとき立ち上がり始めていた
ウィルス対策ソフトウェア会社に、送り届けていた。

 「無駄」という言葉は、あまり使いたくないが、「無駄にはならなかった」と。
ただ二男のばあいは、コンピュータもさることながら、作曲の才能のほうが、
すぐれていた。
二男が高校生のときに作曲、演奏した音楽を聴くたびに、そう思った。
そういう才能を伸ばしてやれなかった。
親として、何ともやるせない気持ちになったことは多い。

 が、今度、その(やるせなさ)を、二男は、吹き飛ばしてくれた。
「あの、量子加速器の件で、スイスへ行くのか?」
「うん、サーンだよ」と。

 サーン……全周27キロの円形加速器。
ときどき映画の中などでも紹介される。
これからは、それが紹介されるたびに、今までにない親近感を覚えるだろう。

 息子たちよ、ありがとう!
私はいつも、お前たちに励まされて生きている。
が、まだまだ、私は負けない。
老いぼれてもいない。
お前たち以上に、がんばってやる。
さりげなく。
そう、さりげなく、がんばってやる!

おやすみ!
(09年10月29日夜記)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

【10月31日】(2009)

●パソコンをもって、でかけよう

パソコンをもって、でかけよう
気が向いたところで、パソコンを開こう
ひらめいたことを、文にしよう
インターネットを楽しもう
ショッピングセンターの中の、休憩所
レストランのテーブルの上
電車やバスの中
それに旅行先

ちょっとした時間があれば、そこで開こう
開いたとたん、そこは別世界
知的遊戯の世界
文を叩き出したとたん、脳みその中が、一変する
モヤモヤしたものが、その向こうから、湧き出る
ネットにつなげば、その向うに世界が見える
それに形をつける
ひとつにまとめる
その爽快感

パソコンをもって、でかけよう
もうだれにも、「お宅族」とは言わせない


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

●2010年の企画

2008年は、「音楽と私」に力を入れた。
2009年は、「BW公開教室」に力を入れた。
2010年は……?

新しいHPを立ち上げるか?
それともマガジンに力を入れるか?
いろいろ考えている。
迷っている。

絶版になったまま、放置してある本が、10冊あまりある。
それをHPに収録したい。
この年末には、それを仕上げたい。

が、2010年は……?
いろいろ考えている。
迷っている。
実のところ、それが楽しい。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●経済効果

●菅氏の「大ばか」発言

+++++++++++++++++

久々に、胸がスカッとした。
あの菅氏が、こう言い放った。

「霞が関なんて成績が良かっただけで、大ばかだ」と。

時事通信、09年10月31日は、つぎのように伝える。

+++++以下、時事通信+++++

 「知恵、頭を使ってない。霞が関なんて成績が良かっただけで大ばかだ」。菅直人副総理
兼国家戦略担当相は31日、民主党都連の会合での講演で、激しい言葉で官僚を批判した。

 「効果のない投資に振り向けてきた日本の財政を根本から変える」と財政構造改革に取
り組む決意を明かした菅氏は、官僚から「2兆円を使ったら目いっぱいで2兆円の経済効
果だ」と説明を受けたことを紹介した後に、「大ばか」発言が飛び出した。

官僚嫌いで知られる菅氏は、学業は優秀でも過去の例にとらわれて柔軟な発想に欠ける
と言いたかったようだが、官僚の反発を招きそうだ。

+++++以上、時事通信+++++

 問題は、「2兆円を使ったら目いっぱいで2兆円の経済効果だ」という部分。
私も、この部分に、カチンと来た。
官僚というのは、この程度の経済知識しかないのか?

●経済効果

 経済効果について、説明しよう。
私は法科の出身だが、この程度のことは知っている。
話をわかりやすくするために、数字を簡略化した。

【例】

 たとえばあなたが、商品Xを、100万円で購入したとする。
あなたはA商店に100万円(1)、支払った。
それを受け取ったA商店は、20万円を自分のものにし、残りの80万円(2)をB問屋
に支払った。
B問屋は、受け取った80万円のうち、20万円を自分のものにし、残りの60万円(3)
をC問屋に支払った。
C問屋は、受け取った60万円のうち、20万円を自分のものにし、残りの40万円(4)
を、D製造会社に支払った。
D製造会社は、受け取った40万円のうち、20万円を自分のものにし、残りの20万円
(5)を、材料代として、E会社に支払った。

 以上の中で、(1)+(2)+(3)+(4)+(5)を計算すると、合計で、300万
円になる。

 つまりあなたが100万円のものを買うと、その向こうで、300万円のお金が、動い
たことになる。
これが「経済効果」である。
繰り返すが、100万円で、300万円が動いたことになる。

 もしあなたが100万円をタンス預金してしまえば、この経済効果は生まれない。
だから「2兆円を使ったら目いっぱいで2兆円の経済効果だ」というのは、ウソというより、
認識不足。
要は、その使い方。
使い方しだいで、経済効果は、3倍にも、4倍にもなる。

 時事通信は、「官僚の反発を招きそうだ」と書いている。
しかし心配、無用!
私たち庶民が味方についている。

 いいか、官僚ども、いい気になるな!
もし菅氏を責め立てたら、我々、庶民が許さない。
怒りのマグマは、爆発寸前!

 今こそ、みなが、立ちあがるべきときではないのか。
立ちあがって、官僚政治を是正していかなければならない。
官僚政治のすべてが悪いわけではないが、しかし今の官僚政治は、行き過ぎている。
民主主義そのものを、形骸化している。
知事も副知事も、みんな元官僚。
国会議員も、みんな元官僚。
大都市の首長も、みんな元官僚。
これは許せない。

 菅さん、負けるな!
ひるむな!

 (しかし菅氏も、元官僚ではなかったのか?
少し心配になってきた……?
腰砕けにならなければよいが……。)

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Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

●ずるい言い方

++++++++++++++++++++++

ずるい言い方をする人は、多い。
たとえば重要な話を、どうでもいいような話に
くるんで、話したりする。

++++++++++++++++++++++

●ある勧誘

たった今、ある通信会社から、電話がかかってきた。
かなり年配の女性の声だった。
いわく、「電話の基本料金が、今より1200円安くなります」と。
NTTという名前を、うまく混ぜて使った。
で、少し話を聞いていると、こう言った。

「トータルで、私どもの光通信にすると、今より、約1200円、安くなります」と。

私「何ですか、そのトータルというのは?」
女「光通信にするとですね、電話の基本料金が、1200円ほど、安くなります」
私「だからア、何と、トータルなのですか?」
女「インターネット、なさっていますね?」
私「しています」
女「インターネットと合わせて、トータルで安くなるということです」

私「だったら、プロバイダー(サーバー)を変えろということですか」
女「そういうことになります」
私「だったら、最初から、そう言うべきじゃ、ないですか」
女「ハア〜」
私「最初から、プロバイダーを変えませんか、と」
女「そうですねエ」

私「あのね、プロバイダーなんて、簡単に変えられませんよ」
女「メールアドレスなんかも、全部、変えなければなりませんからね」
私「それだけでもないですよ。同じアドレスをあちこちで使っていますから」
女「そうですね……」
私「そういうずるい言い方をしては、だめでしょう。知らない人だったら、
『はい』って、言ってしまいますよ。で、あとでたいへんなことになる」と。

 ずるい人は、大事な情報を、どうでもよい情報でくるみながら、話をする。
私は、この種のずるい言い方に出会うと、どういうわけか、頭にカチンとくる。
私の近くにも、そういうずるい言い方をする人がいた。
さんざん、ひどい目にあった。
そのときの(怒り)が、フラッシュバックしてくる。

 許せない!、……ということで、電話の女性を相手に、言いまくった。

私「最初から、正直に言えばいい。人をだますような言い方はしてはいけない」
女「すみません」
私「そんな言い方で、相手を勧誘しておいて、あとで、知りませんでは、
通らないでしょ」と。

 しかしなぜ、私がこうまで不愉快に思うかというと、もうひとつ、理由がある。
実は、私自身も、若いころ、ずるい人間だった。
ずる賢いというか、小ずるいというか……。
そういう人間だった。

だからずるい人を見ると、自己嫌悪感も重なって、そういう人に腹が立つ。
心理学では、「投射」という言葉を使って、それを説明する。
自分の醜い部分や、いやな部分を、相手に投げつけて、その相手を嫌ったり、
憎んだりすることをいう。

『ずるい人間は、ずるい人間に厳しい』ということ。
『泥棒の家は、戸締りに厳重』に近いが、『泥棒ほど、泥棒を憎む』のほうが、よい。

 で、この話には、つづきがある。
そのあと、私とワイフは、夕食を、牛丼のY家で食べた。
ワイフが割引券をもっていた。
「セットもの、50円引き」とあった。

 で、私は、牛焼肉セット、ワイフは、豚カレーというのを食べた。
店を出る直前、割引券を見ると、「10月31日まで」とあった。
ギリギリ、セーフ!
で、その券といっしょに料金を払おうとして、別の割引券を、もう一度よく見ると、
「午後3時まで」とあった。

 割引券の有効期限が、10月31日の午後3時という。
が、そのときには、すでに店員が、50円引きで、レジを打ってしまっていた。
時刻は、午後7時を回っていた。

私「アノ〜、有効期限が、午後3時までになっていますが、いいですか?」
店「……ああ、そうみたいですね。ハハハ。もう時間が過ぎていますね」
私「正直に言ったから、『まあ、いいです』ということにはなりませんか?」
店「ハハハ、申し訳ございません。そういうことにはなりません」と。

 こうして私たちは、50円、損した(?)。
が、気持ちよかった。
損か得かということになれば、私たちは料理の半分も食べていない。
そちらのほうが、よほど、損。
それを言うと、ワイフは笑った。

 Y家の牛丼にかぎらず、このところファーストフードの店は、どこも料理の
量が多すぎる。
とても1人では、食べきれない。
が、全部食べたら、自分の体を損(そこ)ねる。
だから半分は、残すようにしている。

 正直が、いちばん。
正直に生きるのが、いちばん。
そのほうが、後味もよい。
まさに後(味)。

 私たちは土曜日の夜を過ごすため、山荘に向かっていた。


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