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2010年     3月号
Essay……
BOX版(ネットストーレッジ)……






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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2010年 3月 31日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

*****私・記*****
(はやし浩司のばあい)

【幼年期】

●古い記憶

 いちばん古い記憶は何か。
私の、いちばん古い記憶は何か。
ときどきそれを考える。
しかしそのつど、ちがう。
どれが古いのか、
どちらが古いのか、
それがよくわからない。

 ひとつ覚えているのは、大きな鐘。
大きな鐘が、薄暗い広い部屋の中で、
ゆっくりと揺れている。
斜め向こう側から、こちら側へ……。
こちら側へ来た鐘は、今度は反対側に揺れていく。

 鐘といっても、クリスマスに使うような形の鐘。
西洋式の鐘である。
黒い鐘で、鐘全体が、何かにつり下げられて、揺れる。
音は出ない。

 私はそれを夢の中で見たのだと思う。
よく夢の中に出てきた。
私がかなり大きくなるまで、よく夢の中に出てきた。
だから私はその夢を、すでに赤ん坊のときに
見ていたにちがいない。

 私にとって、いちばん古い記憶といえば、
その鐘の記憶である。
ただここで「鐘」と書いたが、
丸い大きな鉄球のようなものだったかもしれない。
「鐘」と思うようになったのは、
ずっとあとになってからかもしれない。

●トイレ

 それが古い記憶だったということは、
あとになってわかること。
たとえば私は兄が、死んだ日のことを覚えている。
土間に、無数の下足が、並んでいた。
今でも静かに目を閉じると、その下足が
まぶたの中に浮かんでくる。

 そのことをいつだったか、母に話すと、
母は、こう言った。
「あれは、健ちゃん(=兄)が、なくなった日の
ことや。
おまえは、まだ2歳やった」と。

 つまり私は2歳のときのことを覚えていることになる。
遠い昔のことと言うよりは、記憶の断片に過ぎない。

 ほかにもいろいろと、断片的な記憶はある。
しかしどれが古いのか、どちらが古いのか、よくわからない。
が、おもしろいことに、そのころの記憶というのは、
何かストーリー性のあるものではない。

 居間の板間の模様とか、天井の木の節穴とか、
そういったもの。
たとえば私はそのころから、家のトイレを使うことが
できなかった。
「そのころ」というのは、自分で排便するように
なったころをいう。
年齢的には、やはり2歳前後ではなかったか。

 私の家のトイレは、家の中でもいちばん奥の、
暗いところにあった。
ボットン便所。
明かりはない。

 そのトイレの壁の黒いシミが、ある日、動いている
ように見えた。
それでそのトイレへ入れなくなった。

 私は大便のほうは、トイレの前に一度紙を敷いてもらい、
その上でしていた。

●家族

 こうして私の幼児期は、始まった。
言い忘れたが、私には生まれたとき、2人の兄と、
1人の姉がいた。
もう1人、兄がいたが、私が生まれる前に
生まれるとすぐ、死んでいる。

 いちばん上の兄は、先に書いたように、
私が2歳前後のときに、死んでいる。
だから私には、兄弟といえば、兄と姉という
ことになる。

 私は「末っ子」として生まれ、育った。
そういう点では、母親の愛情をたっぷりと受けて育った。
「愛」というよりは、「溺愛」だったかもしれない。
そのことは、ずっとあとになって、伯父や伯母から
聞いた。
「おまえは、お母さんに、かわいがってもらったぞ」と。

私は毎晩、小学2年生になるころまで、母親の
ふとんの中で、いっしょに寝た。
ときどき、祖父のふとんの中で寝たこともある。
ひとりで寝ることは、めったになかった。
母の在所(実家)へ遊びに行ったときも、
伯父や伯母と寝た。

 これは母の生まれ育った在所の習慣だったようだ。
いとこの中には、小学2、3年生まで、親と
いっしょに寝た人は多い。

 そういう習慣が残っているのか、私は60歳を過ぎた
今でも、ひとりで寝るのが苦手。
いつもワイフとひとつの布団の中で、寝ている。
どんなはげしい夫婦げんかをしても、寝るまでには
仲直りする。
あるいはけんかをしていても、いっしょに、寝る。
たまに怒ってひとりで寝るときもあるが、2日つづいて
ひとりで寝ることはない。

 一方、兄や姉はどうだったかは、知らない。
兄とは9歳、年が離れている。
姉とは5歳、年が離れている。
たぶん、兄も、姉も、幼児のころは、母といっしょに
寝たにちがいない。

●父

 そのころの私にとって、父といえば、悲しい思い出
しかない。
父は生涯にわたって、一度も、私を抱いたことがない。
手をつないだこともない。
会話らしい会話も、したことがない。

 父は結核を患っていた。
そのため母は、私を父に近づけなかった。
……といっても、私が生まれたころには、
父の結核は、治っていた。
アメリカ軍がもってきた、ペニシリンという
強力な治療薬のおかげである。

 が、母は、そうは思っていなかった。
私が小学校に入学するころまで、母は毎回、
父の使った食器を、熱湯で消毒していた。
母には、そういう性癖があった。
潔癖症というか、不潔嫌悪症というか……。

 が、私と父を分けたのは、何よりも、父の
酒乱だった。
私が3、4歳になるころには、父は、数晩おきに
酒を飲み、暴れた。
ふつうの暴れ方ではない。

 障子戸をこわしたり、ふすまに穴を開けたりした。
食卓をひっくり返したこともある。
ふだんは学者肌の静かな父親だったが、酒が入ると
人が変わった。
私は恐ろしくて、父には近づけなかった。
静かなときでも、私にはそれが信じられなかった。
その向こうにある父の姿に、おびえた。

 そういう私だったが、祖父母と同居していたおかげで、
飢餓感はほとんどなかった。
今にして思えば、祖父が、私の父親がわりだった。
祖父は、私を、息子のようにかわいがってくれた。
ほしいものは、何でも買ってくれた。

●兄弟

 今でもときどき、仲のよい兄弟を見ると、こう思う。
「いいなあ」と。
しかし私のばあいは、ちがった。
年齢が離れていたせいもある。
私は兄といっしょに遊んだ記憶が、まったくない。
姉とも、ほとんど、ない。
町内でみなといっしょに、川へ泳ぎにいったようなとき、
近くでいっしょに泳いだ記憶はある。
あっても、その程度。

 しかし苦楽をともにしたとか、そういう思い出はない。
また当時は、男が女といっしょに遊ぶということは、
なかった。
遊び方も、ちがった。
だから私は、いつも近所の同年齢の子どもたちと遊んだ。
もちろん相手は、すべて男だけ。
女と遊ぶと、すかさず「女たらし」という
レッテルを張られた。
それは何よりも、不名誉なことだった。

 こうした傾向は、私が中学校を卒業するまで
つづいた。
そういうこともあって、私は家の中では、
いつも孤立していた。
話し相手もいなかった。

 母にしても、私を溺愛はしたが、親絶対教の
信者で、話し相手にはならなかった。
少しでも反抗めいたことを口にすると、すかさず
叱られた。
私の家では、親は絶対的な存在だった。

●故郷

 楽しかったのは、母の在所へ行くこと。
私は岐阜県の美濃市という田舎町で生まれ育った。
田舎といっても、町中にある商家だった。
全体でも33坪しかない。
その土地いっぱいの、2階建ての家だった。
もちろん庭などない。
家の奥に、天窓があり、そこからわずかに光が
差すところがあった。
その光が差すところが、土がむき出しの土間に
なっていた。
私は子どものころ、そこが「庭」と思っていた。

 が、母の在所は、ちがった。
岐阜県の山奥にあった。
板取村という小さな部落だった。
前に川が流れ、うしろに低いが、遊ぶのには
こと欠かない、山が連なっていた。

 私は母の在所では、思う存分、羽を伸ばす
ことができた。
みな、親切だった。
それにいとこたちの中でも、ほぼ最年少という
ことで、みなにかわいがられた。
そんなこともあって、私にとっての故郷といえば、
美濃市というあの町ではなく、
板取村という、あの村をいう。

 今の今でも、都会の街並みは、私の肌には
合わない。
田舎の緑が、好きというわけではないが、
緑の中にいたほうが、気が休まる。

【少年期】

●円通寺

 私は毎日、学校から帰ってくると、そのまま近くの
寺の境内へ遊びに行った。
仲間たちは、みな、そこにいた。
「円通寺」という、さんが住んでいる寺だった。

 缶蹴り、「駆逐・水雷・戦艦」、コマ回し、草履(ぞうり)取りなど。
「駆逐・水雷・戦艦」という遊びは、鬼ごっこのようなもの。
(駆逐艦は潜水艦より強く)、(潜水艦は戦艦より強く)、
(戦艦は駆逐艦より強い)という遊びである。
帽子のかぶり方で、それを決めた。
まだ戦時中の遊びが色濃く残っている時代で、
時には、「処刑ごっこ」というのもした。

 敵兵をつかまえてきたという想定で、鬼の子どもを
壁に立たせ、5〜6メートル離れたところから、
ボールを当てるという遊びだった。
痛くはなかったが、恐ろしかった。

 その円通寺の向こうは、低い山になっていた。
私たちは山の中に「陣地」を作り、その中に入って
遊んだ。

●陣地

 陣地について、もう少し詳しく書いておきたい。

 私たちはその山をはさんで、隣町の子どもたちと、
毎日、戦争ごっこをした。
「ごっこ」というよりは、本気に近かった。
そのため、私たちは、山の中に、陣地を作った。
今風に言えば、「ゲリラ戦ごっこ」。

 まず地面に軽い穴を掘る。
まわりを木で覆い、その上から、枝や葉で小屋を隠す。
大きな陣地になると、ドアまでつくる。
中に、棚や、寝場所まで作る。

 けもの道のようになった「道」から、ぜったいに
見えないように作る。
もし敵に見つかったら、陣地は、容赦なく破壊された。
もちろん私たちも、敵の陣地を見つけたら、
容赦なく、破壊した。

 時には、敵の陣地の中に、人糞をばらまくこともあった。
だれかが大便をしたいというと、その子どもを
敵の陣地の中へ連れていき、そこで大便をさせた。

 ときどき破壊しているとき、敵に見つかることもあった。
そこでつかまると、敵に、リンチされた。

 いろいろな方法があったが、いちばんこたえたのが、
チxチxに、かぶれの木の樹液を塗られること。
あれを塗られると、そのあと1週間近く、チxチxが、
まっかに腫れた。
小便も、思うようにできなかった。

 私たちも敵を見つけて、つかまえると、同じような
ことをした。
石を投げ合ったこともある。
今でも私の頭には、そのときにできた傷が残っている。

●道草

 当時は、学校帰りに道草を食うということは、
子どもたちにとっては、当たり前のことだった。
私たちは学校からの帰り道、あちこちで遊びながら、帰った。
まともに、つまりまっすぐ家に帰るなどということは、
ほとんどなかった。

 学校のすぐ横に、小倉公園という公園があった。
公園といっても、小高い山。
小さな動物園もあった。
たいていはその山で、1〜2時間は、遊んで帰った。

 それから町には、細い路地がいたるところにあった。
美濃市という町は、昔から和紙の産地として
知られている。
古い町である。
そのこともあって、大通りは直線的だったが、
一歩、大通りからはずれると、そこには、路地が
たくさんあった。
私たちはそれを、「探検ごっこ」と呼んでいた。

 ときに石垣に、はいつくばいながら、民家と民家の
間を抜けていったこともある。
あるいは民家の家の中を、すり通りしていったこともある。
昔からの商家は、どれも、細長いつくりになっていた。
そういうことをしながらも、思い出のどこをさがしても、
だれかに叱られたという記憶がない。

 私たちの要領がよかったのか。
それともまだ世間に、牧歌的な温もりが残っていたのか。
どうであるにせよ、子どもたちは、今よりずっと、
自由だった。
世間もおおらかだった。
あるいはそれだけ放任されていたのかもしれない。

 また「団塊の世代」と言われるほど、当時は、子どもたちは
どこにでもいた。
夕方になると、道路のあちこちから、子どもの声が
聞こえてきた。
一方、親たちは親たちで、生きていくだけで精一杯。
家庭教育の「か」の字もない時代だった。

●長良川

 美濃市といえば、長良川。
世界一の清流と言っても、過言ではない。
もっとも、それを知ったのは、おとなになってから。
あちこちを旅行するようになってから。
私にとって「川」というのは、長良川をいった。
また世界中の川も、長良川のようなものと思っていた。
が、これはまちがっていた。
 
 私はその長良川で、泳いで育った。
まだプールのない時代で、「泳ぐ」といえば、「川で泳ぐこと」を
いった。
また学校の水泳指導も、川でなされた。

 当時は、水泳能力に応じて、白帽子に黒い線を入れてもらえた。
こまかいことは忘れたが、1本線→2本線→3本線へと、進んでいった。
中学生になるころには、みな、2本線とか3本線になっていった。

 その長良川。
泳ぐだけが楽しみではない。
水中眼鏡をかけて泳ぐと、そのまま天然の水族館。
そこはまったくの別世界だった。
もちろん魚を釣ることもできた。
モリで、魚を突くこともできた。

 私は川での泳ぎは得意だった。
渦を巻くような激流の中でも、平気で泳いだ。
一見、危険な遊びのように思う人もいるかもしれない。
しかし川の渦は、巻き込まれるものの、
渦に身を任せていると、一度、川底に着いたあと、やや川下のほうで、
体がまた浮いてくる。
けっして、あわててはいけない。
渦に身を任す。
その瞬間は、洗濯機の中でグルグル回ったようになる。
それを知らない人は、そこであわてる。
あわててバタバタする。
だから溺れる。

 泳ぎ方も、川での泳ぎ方と、プールでの泳ぎ方は、ちがう。
川では、流れをうまくとらえ、その流れに乗って泳ぐ。
体をななめにして立ち泳ぎをすれば、たいした体力を使うこともなく、
川の向こう側まで渡ることができる。

 当時の子どもたちは、みなその泳ぎ方をよく知っていた。
 
●ひもじさ

 あの時代を総称して言えば、「ひもじさとの闘い」
ということになる。
子どもたちは、みな、いつも腹をすかしていた。
食べるものはそれなりにあったが、育ち盛りの
子ども用というものは、少なかった。

 私はもっと、肉類を食べたかった。
が、家で出される料理といえば、野菜の煮込んだのとか、
そういうものばかりだった。
ハムにせよ、ソーセージにせよ、私たちはめったに
口にすることはできなかった。
寿司にしても、正月か、あるいは風邪をひいて、
病気になったようなときだけ。

 よく覚えているのは、バナナ。
今でこそ、一房、7〜8本、まとめて買う。
が、当時は、バナナは1本売り。
それが、ふつうだった。
ミカンも、1個売り、りんごも、1個売り。

 一方、学校の給食では、よくクジラの肉が出た。
私たちには、ごちそうだった。
それにおいしかった。
ミルクがたっぷりと入った、クリーム・シチューなどは、
家ではぜったいに食べられないものだった。

 で、ある日私は決心した。
「おとなになったら、腹一杯、ソーセージを
食べてやる!」と。
いつだったか、町内で旅行に行ったとき、
前に座った子どもが、それをおいしそうに
食べていた。
そのとき、そう決心した。

【思春期】

●思春期

 子どもには思春期という節目がある。
当時、すでに思春期という言葉は、使われていた。
「性にめざめる時期」という意味で、使われていた。
私とて例外ではない。
が、私がそれを意識したのは、かなり早い時期だった。
みなもそうだったのかもしれないが、そういった類(たぐい)の話は、
恥ずかしいものという先入観があった。
私の時代には、とくにそれが強かった。

 いろいろな経験をした。
が、それとて、ごくふつうの子どものそれだった。
私も、小学5、6年生のころから、女性に猛烈に
興味を引かれるようになった。
女性というより、「女の体」のほうだった。

 しかし先にも書いたように、私の時代には、女の子と遊ぶことさえ
タブー視されていた。
「男」と「女」の色分けが、たいへんはっきりしていた。
今でこそ、男が赤いシャツ、赤い靴下、赤い下着を身に着けても
だれもおかしいとは思わない。
が、当時は、そういうこと自体、考えられなかった。

 その上、母はきわめて男尊女卑意識、家父長意識、上下意識の
強い人だった。
そのこともあって、たとえば私のばあい、台所に立っただけで、
母に叱られた。
「男が、こんなところに来るもんじゃ、ない!」と。

●愛情飢餓

 私はいつも愛情に飢えていた。
それはおとなになってからわかったことだが、私はいつもだれかに
恋をしていた。
幼稚園児のときも、幼稚園から帰ってくるたびに、「Y子ちゃんが
好きだ」と言っていたという。
私は覚えていないが、母がそう言っていた。

 つづいて小学3年生のころは、山口K子さんという女の子。
小学5、6年生のころは、相宮F子さんという女の子。
中学に入学すると、小坂Y子さんという女の子。
つぎつぎと恋をしていった。

 私のばあい、すぐ「結婚」という言葉を使った。
「好き」という代わりに、「結婚しよう」と言った。
「好き」という言葉の意味を知らなかったせいだと思う。
「好きどうしなら、結婚する」と、そんなふうに考えていた。
ほかの男たちが、どう考えていたかは知らない。
しかし私のばあいは、そうだった。

 しかし私が中学2年生になるまで、どれも、秘められた思いでしか
なかった。
自分の心を打ち明けるということはなかった。
あの日も、そうだった。

●はじめての電話

 中学に入ってから、小坂Y子さんという女の子が好きになった。
毎日、Y子さんのことばかり考えていた。
そのY子さんというのは、私が幼稚園児のときに好きだったという
女の子である。
幼稚園児のときから、6年を経て、再び好きになったということになる。

 で、ある日、爆発しそうな心を抑えることができず、10円玉を
もって、電車駅のところまで自転車で走った。
家にも電話はあったが、家からは、かけられなかった。
それで電車駅を出たところにある、公衆電話を使うことにした。

 心臓は、今にも爆発しそうだった。
はげしい動悸だけは、よく覚えている。
そして交換手を通して、電話をかけた。
電話はつながり、Y子さんの母親が、電話口に出た。
つづいてY子さんを、その向こうで呼ぶ声がした。
「Y子!」「Y子!」と。
私は夢中だった。
何も考えられなかった。
 
 しばらくすると、……というより、数秒もすると、
受話器を取る音がして、Y子さんが、電話に出た。

「何?」と。

 その瞬間、私ははじめて気がついた。
電話をしなければとは思ったが、何も用事はなかった。
「何?」と聞かれたものの、そのあとの言葉がつづかなかった。
私は、「ぼくです……」と言っただけで、あわてて電話を切った。

 切なくも、淡い初恋は、こうして終わった。

●ゆがんだ心
 
 私の心はゆがんでいた。
「好きだったら、好き」と言えと、私は今、生徒たちにそう教える。
が、私には、それができなかった。
Y子さんのことを好きなはずなのに、私はそれ以後、むしろ嫌っている
ような態度を繰り返した。

 ひどくプライドが傷つけられたように思ったのかもしれない。
理由はわからないが、ともかくも、私は、私のほうからY子さんを
避けるようになった。

 思春期特有の子どもの心理とも考えられるが、それ以上に、私の
心はゆがんでいた。
今にして思うと、それがよくわかる。

 私の中には、いつも、もう1人の「私」がいた。
いつその「私」ができたのかは知らないが、その「私」が、そのつど
現れては、本当の「私」をじゃました。

 よく覚えているのは、小学5年生のとき、好きだった相宮F子さんとの
事件である。
私はある日、F子さんがいないときを見計らって、F子さんの机の
中からノートを取り出し、それに落書きをしてしまった。

 そのあとの記憶は断片的でしかないが、F子さんは、さめざめと
泣いていた。
その泣いている姿を見て、2人の「私」が私の中で、別々のことを
言っているのを覚えている。
「どうして、そんなバカなことをしたのだ」と、私を責める「私」。
「ザマーミロ!」と、それを喜ぶ「私」。

●2人の「私」

 ……と書いても、この程度の思い出は、だれにでもある。
私だけが特別だったとは思わない。
が、私のばあい、この事件が、2人の「私」を知るきっかけになった。

 話は教育的になるが、ふつう「素直な子ども」というときは、
(心の状態)と(表情)が一致している子どものことをいう。
うれしかったら、うれしそうな顔をする。
悲しかったら、悲しそうな顔をする。
もちろん好きだったら、「好き」という。

 が、私のばあい、そのつど、もう1人の「私」が、それをじゃました。
じゃまするだけならまだしも、正反対の「私」となって、外に現れた。
そのため、私はよくいじけた。
ひがんだ。
すねた。
それに意味もなく、つっぱった。

 わざと相手を悲しませたり、苦しめたりすることもあった。
で、そのたびに、つまりいつもそのあとに、深い後悔の念にとらわれた。

●成績

 私は子どものころから、心の開けない人間だった。
母子関係が不全だった。
父はいたが、先のも書いたが、「形」だけ。
形だけの父親。
母の心は、父から完全に離れていた。
それもあって、落ち着かない家庭だった。

 が、子どものころの私を知る人は、みな、こう言う。
「浩司(=私)は、朗らかな、明るい子だった」と。

 しかし当の私は、そうは思っていない。
私はいつも仮面をかぶっていた。
つまり、だれにでもシッポを振るタイプの子どもだった。
シッポを振りながら、自分の立場をとりつくろっていた。

 だから家に帰ると、いつもドカッとした疲れを感じた。
それなりにみなと、うまくやるのだが、そんなわけで集団が苦手だった。
運動会も遠足も、自ら「行きたい」と思ったことは、めったになかった。
小学生のころのことは、よく覚えていないが、中学生になってからは、
その傾向がさらに強くなった。
 
 それが思春期になると、攻撃的な性格となって
現れてきた。
攻撃的といっても、自分に対する攻撃。
私は典型的な、ガリ勉となった。

 当時、私の中学には、1学年、550人の生徒がいた。
11クラス、550人である。
その学校で、3年生のとき、1度たりとも、2番になったことはない。
当時は9教科で順位を争った。
(主要4教科)x100点、(英語、保健、技術、美術、
音楽の5教科)x50点の、合計で、650点満点。
そうした定期試験で、640点を取ることもあった。
2番の男とは、いつも40〜50点の差があった。

 勉強を楽しんだというより、自虐的な勉強だった。

●中学時代

 そんなわけで中学時代の思い出は、どこかみな、
灰色ぽい。
というより、中学生になって、思い出か、
色が消えてしまった。
が、思い出が、ないわけではない。

クラブは、コーラス部に属していた。
小学時代は、大の音楽嫌いだった。
その私がコーラス部?

 これにはちゃんとした理由がある。
きっかけは、映画『野ばら』を観たこと。
ウィーン少年合唱団が主演する映画だった。
それを観て、突然、音楽が好きになった。
……ということで、中学へ入学すると、同時に、
私はコーラス部に籍を置いた。

 ほかに毎週、柔道場へ通っていた。
かなりいいとろまで行ったが、左肩の鎖骨を2度つづけて骨折。
それをきっかけに、柔道からは遠ざかった。

 多感な少年だった。
何でもした。
その上、器用だった。
魚釣りもした。
山登りもした。
何でもした。
したが、どれもストーリーとしては、つながっていない。
毎日がバラバラだった。
だから記憶としては、どれも断片的。
こま切れになったまま、そこに散らばっている。

●飛行機
 
 少し話は前後する。 
小学生のころの私は、パイロットにあこがれた。
空を飛ぶ飛行機を見ただけで、興奮状態になった。
実際、木で翼を作り、2階の窓から飛び降りたこともある。
それに当時は、ロケット作りが流行(はや)った。

 短い鉛筆を長くして使う道具がある。
名前は知らない。
細い金属製の管で、ロケット作りには最適だった。
長さは10センチほど。
それに花火の火薬をほぐして詰め、それを飛ばして遊ぶ。
うまく作ると、数十メートル近く、シューッと
音を立てて飛んだ。

 もうひとつは、ピストル。
市販のおもちゃんの鉄砲を改造して、本物に近いピストルを作って
遊んだ。
結構、威力はあった。
至近距離からだと、1〜2センチの板なら、簡単に撃ち抜いた。
ときに3センチくらいの板を撃ちぬくこともあった。
私たちは、その威力を競いあった。

 ……こんなことを書くと、なんとも殺伐とした子どもを
思い浮かべる人もいるかもしれない。
しかし当時は、そういう時代だった。
町中で、空気銃を使ってスズメを撃ち落して遊んでいるおとながいた。
川へダイナマイトを放り投げて、魚を採っているおとなもいた。

 が、仲間のひとりが、それで自分の手のひらを撃ち抜くという
事件が起きた。
まぬけな男だった。
おかげでその直後、その遊びは、学校からきびしく禁止されてしまった。

 ともかくも、私は「飛ぶ」ということが好きだった。
今でも飛行機は、模型であれ、戦闘機であれ、あるいはラジコンであれ、
鳥であれ、何でも好きである。

●夢

 で、ある時期は、本気でパイロットになることにあこがれた。
しかしその夢は、あっさりとつぶれた。
「近眼の人は、パイロットになれない」と言われた。
そのころから私は、近眼になり始めた。

 かわりに……というわけではなかったが、私はモノを作るのが、
一方で、好きだった。
工作の時間だけは、楽しかった。
とくに木工が好きだった。
学校から帰ってくると、いつも家の中で、何かを作っていた。
そのためいつしか私は、「大工になる」という夢を持ち始めた。

 学校からの帰り道、新築の家があると、私はその家を近くでじっと
見ていた。

 ほかに……。

 が、何よりも強く思ったことは、「いつか、この町を出る」ということ。
美濃市という町は、三方を、それほど高くはないが、山々に囲まれている。
その中央に長良川が流れ、私の家の近くにも山がある。
「息苦しい」と感じたことはないが、その反動からか、
海の見えるところへ行くと、言いようのない解放感を覚えた。

 だからいつもこう思っていた。
「おとなになったら、海の見える町に住もう」と。
「仕事が何であれ、海の見える町に住もう」と。

●家族

 再び家族のこと。

そういう点では、私の家族は、関係が、
たがいにきわめて希薄なものだった。
父と母が、しんみりと話し合っている姿など、
記憶のどこをさがしても、ない。
母はわがままな性格の女性で、いつも「私がぜったい、正しい」という
姿勢を崩さなかった。
一見、腰の低い人に見えたが、それは母一流の仮面だった。
(表で見せる顔)と、家の中で見せる(裏の顔)は、正反対だった。
また好き嫌いのはげしい人で、自分が気に入った人には、とことん
親切にする。
その一方で、自分が嫌っている人には、とことん意地悪をした。

 それに迷信深く、一貫性がなかった。
足の靴を買うにも、「日」を見て決めて買っていた。
「今日は大安だからいい」とか、「仏滅だからだめ」とか。
「時間」も決めていた。
「昼過ぎには、靴を買ってはいけない」と、母に何度も叱られたのを
よく覚えている。

あるいは、「靴は、脱いだところで履け」とも、よく叱られた。
ふとんにしても、頭を北向きにしただけで、母は狂乱状態になった。
実際には、北向きにしたことは、なかったが……。

 そういう母に、父ははげしく反発していたにちがいない。
私が小学生のころには、さらに酒の量がふえ、数日おきに、近くの
酒屋で酒を飲んでは、暴れた。
祖父母も、70歳を超えるころには、急速に元気をなくしていった。

 私は孤独だった。
さみしかった。
心細かった。
それに不安だった。
「この家は、どうなるのだろう」と、毎日、そんなことばかり考えていた。

●自転車店

 稼業は、自転車屋だった。
「自転車屋」というと、どこか嘲笑的な響きがある。
これは私自身の、多分に偏見によるものだが、私はいつもそう感じていた。

が、大正時代の昔には、花形商売だったらしい。
戦後まもなくまで、そうだった。
またそれなりに、儲かった。
祖父の道楽ぶりは、町でも有名だった。
「芸者を10人連れて、料亭ののれんをくぐった」というような話は、
よく聞いた。
祖父の自慢話のひとつにもなっていた。

 が、私が小学生のころには、すでに家計は火の車。
中学生になるころには、祖父も引退し、それがさらに拍車をかけた。
近くに大型店ができ、そこでも自転車を売るようになった。
何とかパンク張りで生計をたてていたが、それにも限界がある。

 店といっても、7〜8坪もない。
そんな狭いところに、自転車を20〜30台並べていた。
おまけに、そのうちの半分以上は、中古車だった。
「中古自転車の林」と、よく言われた。
 
 ……いろいろあった。
ということで、私は、自転車は好きだが、自転車屋という商売は好きではなかった。
商売そのものが、好きではなかった。
ウソと駆け引き。
その繰り返し。

美濃市という町は、商圏は名古屋市に属しながら、商習慣は、関西の影響を
強く受けていた。
「売り値」などというものは、あってないようなもの。
その場での客とのやり取りの中で、決まる。
こういった世界では、口のうまい人、うそが平気でつける人でないと、
務まらない。

 が、私が自転車屋という職業を嫌っていたのは、今から考えると、
母の影響だと思う。
母は、自転車屋という職業を、心底、軽蔑していた。
いつも、「ド汚ねえ(どぎたねえ)」と、嫌っていた。
「たいへん汚い仕事」という意味である。
手にほんの少し油がついただけで、母は、それが落ちるまで、何度も
何度も手を洗っていた。

 事実、母は、自転車屋の親父と結婚しながら、生涯にわたって、
ドライバーすら握ったことがない。
それについて、一度、私が母を揶揄(やゆ)したことがある。
すると、母は、こう言った。
「結婚のとき、おじいちゃん(=私の祖父)が、
女は店に立たなくていいと、言いんさったなも(=言ったから)」と。

 つまり父との結婚の条件として、店を手伝わなくていいと、
祖父が言ったという。
それを母は、かたくななまでに、守った。
守ったというより、それを口実に、店には立たなかった。

 そういう母を見ながら、私は私の心を作っていった。
私も自転車屋という職業を嫌うようになった。

●親絶対教

 今でこそ、こうして稼業や母の悪口を書けるようになった。
しかし当時の、私を取り巻く環境の中では、考えられなかった。
父は、親絶対教で知られる、「M教」という教団の熱心な信者だった。
宗教団体ではなかった。
正式には、「倫理団体」ということになっていた。
が、宗教団体的な性格も帯びていた。
宗教的儀式こそしなかったが、天照大神を「神」とたたえ、
天皇を絶対視していた。

 私の家でも、毎月のように、よく会合がもたれた。
その「M教」。
ここに書いたように、「親絶対教」。
私はいつしか、その教団を、そう呼ぶようになった。
「親(=先祖)は、絶対」と考える。

 いろいろな教義はあるが、核心を言えば、そういうこと。
父も母も、私が何かのことで口答えしただけで、私を叱った。
「親に向かって、何てことを言う!」と。
そしてそれと並行して、私は「産んでやった」「育ててやった」
という言葉を、それこそ耳にタコができるほど、聞かされた。

 そこである日、私は、キレた。
私が高校2年生のときのことだったと思う。
母に向かって、こう言って、怒鳴り返した。

「だれがいつ、お前に、産んでくれと頼んだア!」と。
それは私と母の決別を意味した。
私が決別したというよりは、今にして思えば、母のほうが
私を切り捨てた。

●高校時代

 高校は地元のM高校に入った。
トップの成績で、答辞を読んだ。
が、それからの3年間は、私にとっては、2度と戻りたくない時代となった。
とくに高校3年生のときには、笑顔の写真が一枚もないほど、
私には苦しい時代だった。

 ある秋の夕暮れ時のことだった。
補習の授業を受けながら、私はこう思った。
「こんな日々は、いつ終わるのか。
早く終わるなら、命の半分を捨ててもいい」と。
私は赤い太陽が、山の端に沈むのを、ぼんやりとながめていた。

 私には、友だちがいなかった。
みなも、私のことを、いやなヤツと思っていたにちがいない。
私には、それがよくわかっていた。

 だから今でも、こう思う。
神様か何かがいて、もう一度、私をあの時代に戻してやろうかと聞かれたら、
私は、まちがいなく、こう答える。
「いやだ!」と。

●デート

 暗い話がつづいたので、明るい話もしたい。 

 中学時代はコーラス部に属していた。
そのこともあって、私は高校に入ると、合唱クラブに入った。
もうひとつ、化学クラブにもはいっていたが、こちらのほうは、
受験勉強を兼ねたものだった。

 その合唱クラブで、浅野Sさんという女の子を知った。
一目ぼれだった。
スラッとした、本当に美しい人だった。
笑顔がすてきだった。
それに色が白く、声もきれいだった。
しかし自分の気持ちを伝えるのに、1年以上もかかった。
私は子どものころから、「女性」が苦手だった。
女性の心が理解できなかった。

 その浅野Sさんにしても、私は、便をしない人だと思っていた。
つまりそれくらい、私の女性に対する感覚は、常識をはずれていた。

 が、高校2年生になったころ、打ち明けた。
「好きです」と。
それがきっかけで、2、3度、デートすることができた。
が、この話は、どういうわけか、みなが知るところとなってしまった。
同時に、担任の教師の耳に入るところとなった。

 私は職員室の別室に呼び出された。
叱られた。
「受験生が、何をやっている!」と。

●いとこ

 私には、60数人もの、いとこがいる。
母方の伯父、伯母が、12人。
父方の叔父、叔母が、4人。
それで60数人。
正確に数えたことはないが、それくらいはいる。
親戚づきあいの濃厚な家系でもある。

 このことは、ずっとそのあとになって、ワイフの家系と比べてわかった。
私の家系がふつうなのか、それとも、ワイフの家系がふつうなのか。
(ふつう)という言い方には、いろいろと問題がある。
あるが、相対的にみて、私の生まれ育った家系は、少なくともワイフの
生まれ育った家系とくらべると、「異常」。
つまりそれくらい、大きな(差)はある。 

 だから当初、つまりワイフと結婚してから、私は
ワイフの親類とつきあうのに、かなり戸惑った。
私がもっている生来的な常識は、ことワイフの家系では通用しなかった。

 が、悪いことばかりではない。
多くのいとこに恵まれたおかげで、私はそれなりにバラエティ豊かな
親戚づきあいをすることができた。

相手の家に自由に入ることができる。
遠慮なく、ものを言ったり、食べたりすることができる。
何か失敗をしても、すべて父や母のせいにできた。
そういう点では、親戚というのは、気が楽だった。

 言い換えると、いくら親しくても、相手が他人では、
そこまではできない。

●モノづくり

 木工が好きになったのには、理由がある。
昔は、自転車というのは、問屋から、木の箱に入れられて送られてきた。
自転車屋は、それを組み立てて売る。
そのときの木箱、それが残る。
だから自転車屋の店先には、木の廃材が、どこも山のようになっていた。

 厚さは1センチほど。
幅は10センチほど。
長さはまちまち、だった。
私はその廃材を使って、いろいろなものを作って遊んだ。
夏休みの工作にと、組み立て式のボートまで作ったことがある。
小学5年生ごろのことだと思う。

 私はそんなこともあって、モノを作るのが好きだった。
ある時期は、プラモデルに、夢中になったこともある。
当時は、マルサンという会社が、小さな飛行機を売りに出していた。
たしか「マッチボックス・シリーズ」とかいう名前がついていた。
値段は、30円。
よく覚えている。
組み立てると、私は手それを手でもち、家の中を走り回った。

 今でも、モノを作るのは好きだが、そういう「私」が
相互にからみあいながら、今の「私」になっている。
40歳を過ぎたころ、山荘を建てようと思ったのも、
その結果ということになる。
私とワイフは、毎週、現地へ出かけ、ユンボを操縦して、
土地の造成をした。
そのために、6年という年月を費やした。

●卒業

 私は何とか、高校を卒業した。
今で言うなら、いつ不登校児になってもおかしくない状態だった。
しかし不登校を許してくれるような、家庭環境でもなかった。
いくら学校がつらくても、家よりは、ましだった。
……というより、私には逃げ場がなかった。
学校からも、家からも追い詰められた。

 今、覚えているのは、ときに学校に向う自分の足が、鉄のように
重く感じたことがあるということ。
本当に、鉄のように感じた。
その足を引きずりながら、歩いた。

 だから「何とか卒業した」ということになる。
この言葉に偽りはない。

 このつづきは、また別の機会に書いてみたい。
(2010年3月2日記)

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【BLOG・読者のみなさんへ】


3月になり、いよいよ仕上げの時期。
1年間、BW教室でレッスンを受けてくれた子どもたちも、
もうすぐ年長児。


今年は、1年間、中途退会者もなく、みなさん、1年間、
レッスンを受けてくれました。
ホ〜〜〜ッ!


ありがとうございました。
3月1日(月)の子どもたち(年中児)のレッスン風景を
ビデオに収めました。
言うなれば、1年間の総仕上げです。
子どもたちの楽しそうな様子が、みなさんに伝われば、
うれしいです。
(顔を出すことはできませんので、お許しください。)


(▲)をクリックしてくだされば、自動的に、動画が
始まります。
どうか、お子さんといっしょに、お楽しみください。


今日は「形」をテーマにレッスンを、進めました。


(なお楽天BLOGの読者の方には、YOUTUBEをそのまま
埋め込むことができませんので、ホームページのアドレスのみを
記載しておきます。)


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【年中児(満5歳児)・形の学習】(1〜5部に分けてあります)



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あるいは以下のアドレスから直接、HPのほうへ
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(マガジン読者の方は、こちらから、アクセス
してください。)


(1)
http://www.youtube.com/watch?v=pP6_gvkkw30


(2)
http://www.youtube.com/watch?v=BsTsqvn-JaA


(3)
http://www.youtube.com/watch?v=VatHXzaBVn4


(4)
http://www.youtube.com/watch?v=nCSxti0eZhQ


(5)
http://www.youtube.com/watch?v=FRkmFvvzlV4


●(小1クラス、3月1日の様子)

http://www.youtube.com/watch?v=u7JtZ2Uxff0


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さらに、この1年間のBW教室の様子をご覧くださる方は、
以下のアドレスより、おいでください。


1年分のレッスンを、まとめてご覧いただけます。


●BW公開教室

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【夢と現実】

(注:不完全な文章で申し訳ありませんが、そのまま公開します。
読み終えたあと、「林(=私)は、何を言わんとしているのか、よくわからない」と、どう
か怒らないでください。
書いた私自身が、よくわかっていないのですから……。)

●夢

++++++++++++++++

数日前、こんな夢を見た。
目を覚ます直前のことだった。

私はどこかの小道を歩いていた。
その小道のそばに、土手があった。
段々になった墓が立っていた。
3段に分かれていた。
古い墓で、墓石の間には、大きな隙間があった。

その隙間を見ると、宝石がいっぱい詰まっていた。
大きなダイアモンドもあった。
オパールやルビーもあった。
サファイアもあった。

みな、何かの呪いがかけられた宝石という。
だれかにそう言ったわけではないが、
私には、それがわかった。
宝石を持ち帰ったら、不幸になるという。
手で触れるのも、よくないという。

私は、その場を離れようとした。
が、土手の反対側を見ると、
道の下に川が流れていた。
美しく、澄んだ川だった。
それほど深くなかった。
底がよく見えた。

で、歩きながらその川を振り返ると、
川の底で、キラキラと何かが
光っているのが、わかった。
よく見ると、それも宝石だった。
私はそれ拾うべきかどうか、迷った。

が、そのときのこと。
ときどきこういうことがあるが、
私はそれが夢であることに気づいた。
「これは夢だ」と。

+++++++++++++++++

●これは夢

 夢を見ながら、それが夢であることに気づくことが、ときどきある。
眠りが浅いときに、そうなるらしい。
それはそれとして、そのときも、それが夢であることに気づいた。
それだけではない。
私はこう考えた。

 「目が覚めたら、宝石は消える」と。
そのとき私は、川の中に入っていた。
指の爪ほどもある大きなダイアモンドを、何十個も、集めていた。
「どうすれば、このダイアモンドを現実の世界に持って帰ることができるか」と、
一方で、そんなことを考え始めた。

 おそらくすでにそのとき、私は半覚半眠の状態だったと思う。
「目を覚ましたくない」という思いが、強く働いた。
同時に、「この宝石は、私のものだ」「だれにも渡したくない」と、そんなことまで考えた。

●目を覚ましてから

 目を覚ましてから、夢の中の自分について考えてみた。
心のどこかに、「惜しいことをした」という余韻が、まだ残っていた。
で、最初に考えたのは、どうして私が「呪い」を気にしたかということ。
日ごろの私は、そういった類(たぐい)のものは、まったく信じていない。
占い、予言、まじない、霊の存在など、今流行のスピリチュアル的なものは、
認めていない。
生理的な部分で、拒絶反応を示す。

 そんな私が、夢の中で、「呪い」なるものを、本気で信じていた。
これはどうしたことか?
が、これには、2つの理由が考えられる。

 私は子どものころは、幽霊の存在を信じていた。
よく覚えているのは、家の前に、「髪結いさん」という、日本髪を専門に結う美容院が
あり、その美容院の男が、よく幽霊の話をしてくれたこと。
夏の夜などは、みなが道路に長椅子を並べて、その男のする話に耳を傾けた。
楽しかったが、恐ろしかった。

 つまりそのころの「私」が、心のどこかに残っていて、それが夢の中に出てきた。

 もうひとつは、反動形成。
本来の私は、そうした霊的なものにあこがれているのかもしれない。
まじないひとつで、この世の中を思い通りに動かすことができたら、そんな楽しいこと
はない。
「超能力のようなものがほしい」と思うこともある。
しかし私の中の理性が、すかさず、それを否定する。
「そんなもの、あるか!」と。
そこで私は、自分の本心とは、まったく正反対の自分を演ずる。

 が、夢の中では、ありのままの自分が出てくる。

●エス

 つぎに私の貪欲さ。
夢の中で私は、川に戻り、ダイアモンドを拾い集める。
そのとき始終、だれかに横取りされるのではないかという不安感を覚えた。
かなり強い不安感だった。

 いやな根性!
貪欲のかたまり!
日ごろの私は、そういう根性と、いつも闘っている。
そういう自分が、夢の中では、そのまま出てきてしまう。
赤裸々というか、フロイト流に考えるなら、(超自我)(自我)(エス)うち、
(エス)の部分だけが、そのまま夢の中で、拡大して出てくる。
(エス)というのは、動物的な欲望をいう。
そのため知性や理性によるコントロールが、どこかへ吹き飛んでしまう。

 これはおもしろい現象だと思う。
が、だからといって、それが原点にある「私」というわけではない。
「私」であるとしても、それはあくまでも「私」の一部。

●現実との混だく

 が、そのうち、こんなことを考えるようになった。
「これらの宝石を、現実の世界へもってくる方法はないか」と。
私はそのとき、目が覚めれば、宝石が消えてしまうことを、知っていた。
子どものころ、そういう夢をよく見た。
夢の中で、何かほしいものを手に入れるのだが、目が覚めたとたん、それが消えて
しまう。

 貪欲さは、そのままだった。
私はだれかが川の中に入ってくるのを、警戒した。
すでに私は、袋いっぱいの宝石を手に入れていた。
それでも警戒した。
「明日の夜、もう一度、来よう」と思った。
「それまで宝石は残っているだろうか」とも、思った。

 夢の世界というバーチャルな世界(仮想世界)と、現実が、混だくしていた。
が、私は必死で、夢にしがみついた。

●連続性

 と、そのときのこと。
ふと、私はこう考えた。
今までにない経験だった。
私は、そこが夢の世界ということは、よくわかっていた。
やがて目が覚めるということも、よくわかっていた。
同時に、手にした宝石も消えることも、よくわかっていた。
そこで、「では、夢の世界の中で、目が覚めたとき残っているものはないのか」と。

 夢の中では、私は、川の中に立っていた。
その情景も、目が覚めれば、消える。
すべてのものが、消える。
が、その中でも、現実の世界と連続性をもったものはないか、と。

 私はそのときすでにほとんど目が覚めかかっていたと思う。
夢の世界から、現実の世界へ……。
そのとき私は気がついた。

 こうして(考えている部分)だけは、夢の世界から、現実の世界へとつながっている、
と。
夢の世界で、私は、「残っているものはないか」と考えた。
つまりその考えた部分は、目が覚めても、現実の世界で、残っていた。

 私は目を覚ました。
覚ましたあとも、その夢について、ずっと考えつづけた。

●生きる力

 夢の中では、深層心理の、その奥に隠された部分が露出してくる。
フロイトはそれを利用して、「夢判断」という診断法を確立した。
ふだんは心の奥に隠れ、意識としてのぼってこない意識が、夢として現れる。
数日前に見たその夢にしても、そういう夢だった。

 貪欲な私。
だれかに奪われるのではないかという不安感。
それに焦燥感。

 全体としてみると、それが私の生き様を象徴している。
つまり原点には、そういう「私」が、確かにいる。
その私を、知性や理性が、包み隠している。
表面的に見れば、私はそれなりの常識人かもしれない。
そのように、行動している。
が、私だけが特殊とは考えにくい。

 私が夢の中で見た貪欲さにしても、それはあらゆる人が共通してもっているものと
考えてよい。
フロイトは、それを「性的エネルギー」と言った。
ユングは、それを「生的エネルギー」と言った。
その貪欲さが、(生きる力)の根源になっている。
貪欲さを否定してしまったら、その人は生きることそのものをやめてしまうかもしれない。

 が、本来なら、ここで私のもつ知性や理性が、働かなければならない。
「みなと、宝石を分けあおう」とか、「少しだけ拾って、あとは残しておこう」とか。
しかしそこは夢。
脳の働きそのものに、限界がある。
私は、そこまでは考えなかった。

●あとがき

 数日前の夢だったが、今でも、その夢を思い出すたびに、ふとこう思う。
「ひょっとしたら、今のこの現実の世界も、夢のようなものではないか」と。
言い替えると、「夢の中の世界が、本当の世界であり、現実のこの世界が、バーチャルな
世界ではないか」と。
どちらが本当の世界で、どちらがバーチャルな世界と決めることはできない。

 このことは、現実を、「死」と対比させてみると、よくわかる。
私たちは、死ぬことで、すべてを失う。
「あの世」があるならなおさらで、私たちはあの世へ、ゴミひとつ、チリひとつ、もって
いくことはできない。
「死」によって、私たちはそのまま消えてなくなってしまうと考えるなら、なおさらであ
る。

 そこでたとえば過去の強大な権力を手中に収めた独裁者たちは、(現実)を、(あの世)
へもっていくことを考えた。
秦の始皇帝を例にあげるまでもない。
つまり私が夢の中で、宝石を現実の世界へ持ち込もうと考えたように、秦の始皇帝は、
現実にあるものを、(あの世)へ持っていこうと考えた。
この発想は、夢の中の宝石を、現実の世界へもってこようとした私のものと、どこも
ちがわない。

一見すると、正反対の行動に見えるかもしれないが、中身は同じ。

●虚像

 私の身の回りには、無数のモノがある。
価値のないものが多いが、中には価値のあるものもある。
しかしそのモノにしても、分子と光が織りなす、虚像に過ぎない。
それを見て、判断している、私の脳みそにしても、分子と光が織りなす虚像に過ぎない。
つまり虚像である「私」が、虚像である「モノ」を見ている。

 死んで「私」を作り上げている分子がバラバラになれば、(死ななくても、毎日、肉体の
何%かは、バラバラになっているが)、私はその(モノ)すら、見ることはない。
つまり消えてなくなる。
さらに言えば、私が夢の中で見た「宝石」と、現実に今、こうして見ている「モノ」は、
どこがどうちがうというのか。
区別できないというより、区別するほうが、おかしい。

●非現実主義

 ……と考えすぎるのは、危険なことかもしれない。
こうしたものの見方を総称して、非現実主義という。
これがさらに進むと、神秘主義となる。
狂信的なカルト教団の多くは、その神秘主義の上に成り立っている。

 しかし心のどこかにそういうものの考え方を、入れておくことは、けっして無駄なこと
ではない。
というのも、私たちは日常生活の中で、現実に、あまりにも毒されすぎてしまっている。
現実に毒され過ぎるあまり、ものごとの本質を見失ってしまっている。
そういう例は多い。

 たとえばそこに山のようにある宝石を見ながら、私は金持ちだ。
私は成功者だ。
私はすぐれた人物だ、などと思ってしまう。
そしてその返す刀で、そうでない人たちを否定する。
その人の、人間としての価値まで否定する。

●光陰、矢のごとし

 どうであるにせよ、私には、不思議な夢だった。
いろいろ考えさせられた。
目を覚ましたあとも、そのまま、夢の内容について考えた。

 で、最後に一言。

 中には、「たかが夢ではないか」と思う人もいるかもしれない。
しかし今の私のように、平均寿命まで、あと15、6年という人間にしてみると、
今まで生きてきたことが、夢の中のできごとのようにも思えてくる。
長い、短いという判断もあるが、まさに『光陰、矢のごとし』。
数日前に見た夢が短くて、今まで生きてきた人生が長かったとも、これまた言いにくい。

 つまり「現実とは何か」、それが加齢とともに、ますますわかりにくくなる。
結論を言えば、そういうことになる。

●終わりに……

 何ともまとまりのないエッセーになってしまった。
そこで最後に、改めて、このエッセーを通して、何が書きたかったかを、整理してみる。

 私は夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
が、途中で、それが夢とわかった。
そこで私はその宝石を、何とかして、目を覚ましたあとの現実の世界にもってこようとし
た。
しかし目が覚めたとたん、手に握っていたはずの、宝石の入った袋は消えていた。

 しかし人生も残り少なくなってくると、今まで生きてきたこと自体が、夢の中のできご
とのように思えてくる。
実際には、(夢)と(現実)が、区別しにくくなる。
ここで私が死ねば、あの世へ入ったとたん、(あくまでもあの世があるという前提での話だ
が)、今、私がもっているものは、すべて消える。
あの世へは、ゴミひとつ、チリひとつ、もっていくことはできない。
ちょうど夢の中で手に入れたものを、何一つ、現実の世界にもってこれないように、だ。

 つまり私は、(夢の世界)から目を覚まし、(現実の世界)に戻ることによって、(死)を
模擬体験したことになる。
言い替えると、その夢を通して、私は、宝石に象徴される、モノや財産が、いかにむなし
いものであるかを、改めて知った。
人間が本来的にもつ貪欲さにしても、そうだ。
さらに言えば、名誉や地位、肩書きにしても、そうだ。

 が、その中にあっても、ゆいいつ連続性を保つものがある。
夢の世界と現実の世界の間で、つながっているものがある。
それが「意識」、あるいは「思考」ということになる。

 このことを拡大解釈すると、こうなる。

 仮に私が死に、肉体が滅んだとしても、私が今もっている意識や思考は、この文章を通
して、その読んだ人に伝わっていく。
つまりその時点で、私は、この文章を読んだ人の中で、生き返ることになる。
死を克服したことになる。

 ……とまあ、突飛もない結論になってしまった。
たぶんに手前味噌的な結論で申し訳ないが、今は、そう思うことによって、自分をなぐさ
めることにする。
というのも、ときどき、こう思うことが多くなった。
「毎日、こんなふうに、エッセーを書いていて、何になるのだろう」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【胡蝶の夢】

●夢と現実(2)

++++++++++++++++

昨日、「夢と現実」について書いた。
うまくまとまらなかった。
そこで今日、もう一度、それについて
書いてみたい。

またまたわかりにくい文章でごめん!

++++++++++++++++

●夢

 私は夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
中には、指の爪ほどの大きさのあるダイアモンドもあった。
ほかに、ルビーやサファイアなどもあった。

 が、夢の途中で、私はそれが夢であることに気がついた。
ときどきそういうことがある。
夢を見ながら、「これは夢だ」と。
そこでつぎに私は、どうすれば、この宝石を、現実の世界へ持ち帰ることができるか、そ
れを考えた。
今までにも、そういう夢をときどき見たことがある。
が、目が覚めたとたん、夢の中で手にしたものは、すべて消えていた。

●強欲

 目が覚めてから、私は私が見た夢について考えた。
夢の中の私は、見苦しいほど、強欲だった。
それに警戒心も、猜疑心も強かった。
「だれかに盗まれるのではないか」と、それを心配した。

 日ごろ、私はそういう私になるのを、避けているはず。
また身近にそういう人がいると、そういう人を人いちばい嫌っているはず。
そういう私が夢の中では、見苦しいほど、強欲だった。
それを思い出しながら、「私の知性や理性は、どこへ消えてしまったのか」と。
あるいは夢の中では、脳の活動分野がちがうため、知性や理性は機能しないのかもしれな
い。
知性や理性をコントロールするのは、前頭連合野。
その前頭連合野は、まだ眠ったままだったのかもしれない。
しかしそれにしても、強欲だった。
欲望のまま……というか、私は完全にドーパミンに支配されていた。

●薄もやの向こう

 一方、こんなことも言える。
ときどき小学生たちを見ながら、「私にも、小学生だった時代があるはず」と。
で、私が小学生だったころを思い出そうとする。
とくによく覚えているのは、小学3年生のころの私である。
1年間だけだが、那須(なす)先生という、よい先生に恵まれた。
思い出の数が、とくに多い。
あるが、どれも、薄もやの向こうに隠れて、よく見えない。
大画面に大きく映像が映るというよりは、脳の一部に、小さく映る。
しかもそれぞれが断片的で、輪郭がはっきりしていない。

 そういう自分を思い浮かべてみると、あのころの私が、まるで夢の中の私のように思え
てくる。
眠っているときに見る夢と、区別がつかない。

さらに今のように、人生も晩年になってくると、(私自身は、「晩年」という言葉が嫌いだ
が……)、今までの自分、つまり過去全体が、夢の中のできごとのように思えてくる。
つまり(現実)とは言うが、その(現実)が、夢の中のできごとのように思えてくる。

●非現実主義

 現実も夢も同じようなもの。
ちがいは、どこにもない。
あるいは、どこがどうちがうというのか……。

 ……というふうに考えるのは、危険なことでもある。
現実と夢、もっと正確に言えば、現実と空想の世界を、混だくさせることは、危険なこと
でもある。
よい例が、神秘主義。
あやしげな宗教団体は、その神秘主義をうまく操って、信者を洗脳する。
洗脳して、操る。
だからというわけでもないが、私たちは常に、現実主義に基盤を置いて、ものを考える。
生きる。

 「人生は夢のごとし」と口で言うのは構わないが、だからといって、人生は無意味とか、
現実には価値がないと考えてはいけない。
その上で、「夢と現実」のつづきを書く。

●死ねばおしまい

 あの世があるにせよ、またないにせよ、私たちは死ねば、この世から消える。
脳みそですら、分子レベルまでバラバラにされて、地球上のありとあらゆるものに、再生
されていく。
もちろんその一部は、人間を含めた、ほかの生物の一部となっていく。
それを「あの世」というのなら、「あの世」はある。
「あの世」という言葉に問題があるなら、「つぎの世界」と言い替えてもよい。

 ということは、(主体)である「私」が消えるわけだから、私たちは、この現実の中のモ
ノを、ゴミひとつ、チリひとつ、つぎの世界へもっていくことはできない。
今、億万長者になって得意になっている人も、莫大な財産を築いて喜んでいる人も、死ね
ばおしまい。

 つまりこの「死ねばおしまい」という部分が、「目が覚めたらおしまい」という部分と似
ている。
似ているというより、同じ。
私は目が覚めたとき、それを知った。
つまり私は夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
しかし目が覚めたら、それらはすべて消えていた。

●夢のごとし

 繰り返しになるが、平均寿命までまで、あと15、6年と言われるようになると、とた
んに、今までの人生が、まるで夢の中のできごとのように思われてくる。
先に、私は私が小学3年生のときのことを書いた。
しかし何も小学3年生のときにかぎらない。

 20代のころも、30代のころも、40代のころも、同じようなもの。
どれも脳の中では、断片的な一部の記憶でしかない。
たしかに60数年生きてきたはずなのに、その実感がない。
もともと記憶というのは、そういうものかもしれない。
「記憶がある」といっても、それは脳の中の電気信号のようなもの。
「形」があるわけではない。
言い替えると、「人生は夢のごとし」と言うのは、それほどまちがっていないということに
なる。

 夢と現実。
今、ここに見えている世界は、たしかに現実だが、それは今というこの一瞬にすぎない。
それ以外は、すべて夢。
眠っているときに見る夢と、どこもちがわない。

●現実=夢

 そこでこう考えたら、どうだろうか。
ここにある現実そのものが、夢である、と。
今は、「現実」かもしれないが、一瞬先には、夢になる。
10年もすれば、脳の一部の断片的な記憶でしかなくなる。

 つまり私たちは、現実という夢の中にいながら、「これは夢だ」と気がつく。
つまり私があの夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に持ちながら、「これは夢だ」と気がつい
たように、である。

 が、私はその夢の中で、何とかしてその宝石を、現実の世界へもってこようとした。
その方法はないかと考えた。
いちばんわかりやすい方法は、宝石の入った袋を、しっかりと手で握ること。
私は子どものころは、そうしていた。
「目が覚めても、放さないぞ」と。

 これは夢の中の話だが、しかし現実のこの世界では、私たちは、日常的に、同じような
ことをしている。
お金はもちろん、名誉、地位、財産、肩書きにしがみついている人は多い。
(だからといって、それが無駄と書いているのではない。誤解のないように!)

 その「しがみつく」という行為が、「目が覚めても、放さないぞ」と、手を握った行為と
同じ。

●パンコ

 夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
だからといって、それがどうしたというのか。
だれしも、こう言うにちがいない。
「夢は夢。夢の中で、そういう夢を見ただけ」と。

 しかしそれと同じことを、ひょっとしたら、私たちは、この現実の世界でしているので
はないだろうか。

 わかりやすい例として、もう一度、私が小学3年生だったころの話をしてみる。

 あのころは、「パンコ」という遊びが流行(はや)っていた。
地方によっては、「メンコ」とか、いろいろな呼び名がある。
地面に置いた相手のカードを、自分のカードで叩いてめくったら、自分のものになるとい
う遊びである。
私たちは毎日のように、カードの枚数を競い、絵柄を自慢しあった。
その遊びに夢中になったということは、それだけ強欲になったことを意味する。

 が、それも今となっては、まるで夢の中のできごと。
現実にそれをしたはずなのに、今は、何も残っていない。
夢の中で手に入れた宝石も、子どものころに手に入れたパンコも、同じ。

 あえて言うなら、眠っているときに見る夢は、数分前後で、消える。
が、過去は、もう少し長い時間をかけて、消える。
しかしそれが数分であれ、10年であれ、どういうちがいがあるというのか。

●宝石を持ち帰る

 夢の中の私は、見苦しいほどまでに強欲だった。
袋いっぱいの宝石をしっかりと握りながら、「だれにも渡したくない」と考えた。
「だれかに奪われるのではないか」と警戒した。
「これは夢だ」とわかっていても、そうした。

 で、つぎに考えたことは、その宝石を、現実の世界に持ち帰ることだった。
そこで私は、子どものころの私のように、その袋をしっかりと手に握った。
幼稚というより、それ以上の理性や知性が、働かなかった。
が、当然のことながら、目が覚めたとたん、その袋は消えていた。

 ……というのは、夢の中の話だが、実は、これと同じことを、私は現実の世界でもして
いることを知った。
この現実の世界全体を、「夢」と考えると、それがわかるはず。

(だからといって、非現実主義に走るのも危険である。
これについては、先に書いたとおり。)

 つまりそう考えることによって、私たちは、つぎのステップへと、自分を昇華させるこ
とができる。

●欲望の虜(とりこ)

 「私」には、無数の(しがらみ)が取り巻いている。
「私」自身が、欲望の塊(かたまり)と表現しても、さしつかえない。
もちろんだからといって、「欲望」を否定してはいけない。
この「欲望」が、生きる力の源にもなっている。

 フロイトが説いた「性的エネルギー」、ユングが説いた「生的エネルギー」といったもの
は、それをいう。
その(エネルギー)を取り除いたら、私たちは、ただの生きる屍(しかばね)。

 しかしこの現実世界全体を、「夢のようなもの」と考えることによって、私たちは、欲望
との間に一線を引くことができる。
つまり私たちを、より客観的に、外からながめることができるようになる。

 まずいのは、現実主義に走りすぎるあまり、欲望の虜(とりこ)になりながら、そうで
あることに気づかないこと。
そういう人を、仏教の世界では、「餓鬼」という。
その餓鬼になってしまう。

●夢は夢

 ……あの夢を見てから、数日が過ぎた。
で、今は、こう考える。

 「私たちが『現実』と思っている、この現実世界全体にしても、夢のようなものだなあ」
と。
静かに目を閉じてみると、さらにそれがよくわかる。
その現実世界の夢の中で、私たちは、日々にあたふたとしながら、生きている。
先にも書いたように、名誉、地位、財産、肩書きにしがみついて生きている。
それが無意味とは言い切れない。
つまり人間がなぜ、こうして生きているかといえば、そのドラマを作るため。
そのドラマに意味がある。
価値がある。

 が、夢は夢。
どこまでいっても、夢は夢。
今の私は、そう考える。

●(補記)

 このエッセーを書きながら、脳の一方で、私は荘子の『胡蝶の夢』を、ずっと考えてい
た。

 ……荘子の思想を表す代表的な説話として『胡蝶の夢』がある。「荘周が夢を見て蝶にな
り、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、
あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか」この説話の中に、無為自然、一切斉同の荘
子の考え方がよく現れている……(以上、「ウィキペディア百科事典」より転載)。

荘子は神秘主義に走り、俗世間からの徹底した離脱を説いた。
「無為自然」とは、それをいう。
『胡蝶の夢』は、その象徴的な逸話として紹介されることが多い。

 「荘子が夢を見て、蝶になったのか」、それとも、「蝶が夢を見て、荘子になったのか」。
たいへんわかりにくい話だが、私も今回、同じような経験をした。
「私は、夢の中で、現実を体験したのか」、それとも、「現実の中で、夢を体験しているの
か」と。

 が、再三再四書いているように、だからといって、神秘主義に走り、「現実は無意味」と
考えてはいけない。
私たちは、今、ここに生きている。
生きているからこそ、夢も見る。
眠っているときの夢もそうだが、「現実も夢のよう」というときの夢も、そうである。
生きていなければ、どちらの夢であるにせよ、夢を見ることはない。
この問題を考えるときは、いつもそこを原点として考える。
 

Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●荘子(370BC〜286BC)

++++++++++++++++++

荘子はある日、夢を見る。
その夢の中で、荘子は、胡蝶となり、
楽しそうに飛び回る。

その夢から覚めたとき、荘子は、
こう考える。

「荘子が夢の中で胡蝶になったのか?」、
それとも「胡蝶が夢の中で、荘子になったのか?」と。

++++++++++++++++++

●胡蝶の夢

 荘子の、この『胡蝶の夢』の逸話を読んでいると、そのうち何がなんだか、わけがわか
らなくなってくる。
だから荘子自身も、「どちらでもいい」と、結論づけている。
「どのみち、すべては無なのだから」と。

 もう一度、荘子の見た夢について考えてみよう。
具体的に、あなた自身が見た夢として考えてみる。
あなたはどこかの切り株にもたれて、うたた寝をする。
そのとき、夢を見る。

 あなたは一匹の蝶が空を飛ぶ夢を見る。
その蝶は、フワフワと風に乗って、楽しそうに飛んでいる。
が、ふと気がつくと、蝶だと思っていたのは、実はあなた自身であった。
あなたは蝶のように、あるいは蝶の姿のまま、空を飛んでいた。

 そこで荘子は考えた。
「自分が蝶になったのか」、それとも「蝶が自分になったのか」と。

●現実と非現実

 (現実の世界)であるにせよ、(非現実の世界)であるにせよ、どこからどこまでが(現
実)で、どこから先が(非現実)なのか、よくわからないときがある。

 私自身は、現実主義者と思っている。
サルトル風に言えば、(存在)と(認識)を基本に、ものを考え、その上に論理を積み重ね
ている。
そのため、そうでないもの、たとえば占いとか、まじない、迷信、霊(スピリチュアル)
などというものを、まったく信じていない。
星占いや、血液型による性格判定にしても、そうだ。

 しかしこのところ、(生きていること自体)が、何か、夢の中のできごとのように感ずる
ことが、多くなった。
つまり「私たちは、ひょっとしたら、とほうもないほど非現実の世界に生きているのでは
ないか」と。

 たとえばそこに今、見えているものについても、たまたまそう見えるから見ているにす
ぎない、と。
言い替えると、今、そこに見えているからといって、それをそのまま信じてもよいものか、
と。
あるいは実際には、私たちには、見えないもののほうが多いのではないか、と。

 よい例が、私たち自身の(過去)ということになる。

●夢

 (現実)は、常に、(過去)の結果でしかない。
(現実)は、今、ここに(存在)するものである。
それはその通りだと思う。
しかし(過去)などというものは、どこにも存在しない。
しないが、私の記憶の中には残っている。
その(残っている部分)が、今、こうして振り返ってみると、まるで夢の中のできごとの
ように思えてくる。

 そう、まさに(夢)。
私は子どものころ、父の酒乱でつらい思いをしたが、そうしたドラマでさえ、今、振り返
ってみると、夢の中のできごとだったように思えてくる。
結婚してからのこと、子育てを夢中でしていたころのこと……、すべてが夢の中のできご
とだったように思えてくる。

 言い替えると、今、子ども時代を過ごしている子どもにしても、子育てに奮闘している
親にしても、やがてすぐ、夢の中へと消えていく。
「消える」というよりは、今の私のように、(夢の中のできごと)のように思うようになる。
そしていつか、あなたも今の私と同じようなことを言うかもしれない。

「過去を振り返ってみると、すべてが夢の中のできごとのように見える」と。

●再び、現実主義

 これは老人の共通した心理かもしれない。
そこにあるのは、(過去)ばかりで、いくらさがしても、(未来)が見つからない。
だから勢い、(過去)を振り返ることが多くなる。
で、その(過去)はというと、記憶の中にあるだけ。
だから、「まるで夢のよう」となる。

 若い人なら、このあたりで思考を停止して、今度は(未来)を見る。
(過去)は(過去)として、それを踏み台にして、(未来)に目を向ける。
しかし老人には、その(未来)がない。
だから(過去)を振り返りながら、「まるで夢のよう」と思いつつ、それを拡大解釈し、今、
ここにある(現実)まで、「まるで夢のよう」と考えてしまう。

(この間、1時間ほど、すぎた。
あれこれ考えた。
で、スーッと、頭の中が整理されていくのを感じた。)

 しかしこの考え方は、まちがっている。
言うなれば、ジー様のたわごと。
いくら歳をとっても、またいくら死に近づいても、私たちは、(現実)を手放してはいけな
い。
(現実)を手放したとたん、私たちは(死)に向かって、まっしぐら。

 そう、そういう意味では、このところ、私はたしかに弱気になっている。
そこにある(現実)から目をそらし、(夢の中の世界)で生きようとしている。
晩年の母がそうだった。

 毎日、朝夕、欠かすことなく仏壇の前で手を合わせていた。
暇さえあれば、仏壇の金具を磨いてばかりいた。
そこにある(現実)を見失うと、そういう生き様になる。

●結論

 数回にわたって、『夢と現実』について書いてきた。
中には、「林(=私)は、いったい何を考えているのだ」と思った人も多いかと思う。
事実、私自身も、一連のエッセーを書きながら、ときどき自分でも何を書いているかわか
らなくなった。

 だからこの話は、ここまで。
考えるだけ、無駄。
簡単に言えば、たわいもない夢を見ただけ。
その夢に振り回されただけ。
「無」といっても、荘子が説く「無」と、サルトルが説く「無」とは、概念がちがう。
「無」と考えて、けっして、虚無主義に陥ってはいけない。

 私は私で、年齢など気にせず、その日が来るまで、前向きに生きていく。
今、そこにある(現実)の中で、戦って戦って、戦い抜く。
それが私の、今までの生き様だった。
これからも、それが私の生き様。

 さあ、今日も始まった。
心機一転、がんばるぞ!
みなさん、おはようございます!

(2010年2月28日、明日から3月)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
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□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 3月 22日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(珍問答)

●チx毛

+++++++++++++++++++++

小5、6の子どもたちが騒いでいる。
そういうときは、こう言う。
「チx毛の生えてきた人は、しゃべっていい」と。
すると、たいてい水を打ったように静かになる。

が、しばらく沈黙を保ったあと、S君がこう聞いた。
「じゃあ、先生はどうなんだ?」と。

そこで私が、「ぼくのは、もう白髪(しらが)だ」と言うと、
みなが、ドッと笑った。
あとは、収拾がつかないほど、みなが笑った。
私も笑った。

念のため申し添えると、どういうわけか、あのチx毛だけは、
白髪にならない。
あるいは頭より、ずっと後れて、白髪になる?
どうしてだろう?

ある教室での一こまでした!


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

【集団性と個人性】

●ライブ

+++++++++++++++++

某国、某所でのライブ会場。
よくあるライブ。
が、ひとつだけ、ほかのライブ会場とはちがった。
異様な雰囲気。
それもそのはず。
よく見ると、ファンたちが、みな、何かをかぶっている。
色は様々だが、白が多い。
パンティである。
女性用のパンティである。
そのパンティを頭からかぶり、両目を、足の部分から出している。
中央部は上から下へと、鼻から口を覆っている。
写真で見る限り、女性が多い。
中には、男性らしき人もいるが、ほとんどが、女性。
若い女性。
そういう女性が、みな、パンティを頭からかぶっている!

++++++++++++++++++

●後追い自殺

 以前、後追い自殺について書いた。
ある有名なロックバンドのメンバーが自殺した。
それにつづいて、何人かの若いファンが、後追い自殺をした。
実際には、親族たちによって闇から闇へと葬られるケースもあるから、もっと数が多いは
ず。

 それについて、7、8年ほど前、批判記事を書いた。
それについて、数は数件程度だったが、はげしい文句を並べた抗議のメールが届いた。
内容は忘れたが、はげしい文句だった。
私はそれを読んで、「この世界も、カルト化している」と感じた。

●麻薬性

 音楽は、読んで字の通り、「音を楽しむ」ことをいう。
私も、毎日、いろいろな音楽を聴いている。
しかしそこには、限度(?)がある。
あくまでも「楽しむため」。

 脳の中には、そういう受容体があるらしい。
聴覚を通して音楽を聴いていると、脳内はやがてモルヒネ様のホルモンで満たされる。
それが甘い陶酔感を引き起こす。
その陶酔感があるから、人は、音楽を聴く。

 そのため音楽にも、習慣性、つまり麻薬性がある。
メカニズムは、ニコチン中毒、あるいはアルコール中毒と同じに考えてよい。
中には、1日中、音楽を聴いていないと、落ち着かないという人もいる。

●パンティ

 が、音楽を聴くというだけなら、だれにも迷惑をかけない。
だれしも、それを、その人の趣味と理解するだろう。
仮にあなたの子どもが、1日中、耳にヘッドフォンをあてていたところで、あなたはそれ
を、とがめることはない。

 しかし危険性がないわけではない。
それが冒頭にあげた例である。
(そのときのライブの写真で載せておく。)
若い女性たちが、みな、頭からパンティをかぶっている!
よく見ると、似たようなパンティが多いので、会場で配られたものかもしれない。
あるいはあらかじめ、そういうパンティをもってくるように指示されたのかもしれない。
しかしふつうの常識のある人なら、こんな奇天烈(きてれつ)な格好はしない。

 仮にあなたの子どもが、頭から女性用のパンティをかぶって歩いたら、あなたはそれを
どう思うだろうか。
「若者のバカ騒ぎ」と、簡単にかたづけることができるだろうか。
 
<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4396131493/" title="img043 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img 
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height="368" alt="img043" /></a>

●集団洗脳

 それ以上の情報はわからない。
私は、1枚の写真しか見ていない。
が、その写真には、こんなコメントが添えられていた。
「ファンの娘が、一斉に(パンティを)装着。ステージから見る変態度たるや、ハンパじ
ゃない。(これでは)男は誰しもミュージシャンに一度は、憧れるわけだ」(「B誌」)と。

 私はその写真を見たとき、即座に、カルト教団による集団洗脳会場を思い浮かべた。
どこのカルト教団とは言わない。
この日本には、届けられた宗教法人だけで、20数万団体もある。
その中には、似たような方法で、信者を獲得したり、洗脳したり、再教育しているところ
がある。

 一斉に読経したり、あるいは指導者の名前を連呼する、など。

 中には「宗教と音楽はちがう」と考える人もいるかもしれない。
しかし中身は、同じ。
どこがどうちがうというのか?

●魔力

 集団への帰属性と、個人的な思考性は、常に対立関係にある。
その人の集団への帰属性が強くなればなるほど、その人のもつ個人的な思考性は、犠牲に
なる。
カルト教団では、個人的な思考性は、徹底的に排除される。
へたに個人的な主張をしようものなら、即座にその教団からはじき飛ばされるか、「あなた
の信仰心は不十分」とか言われて、のけものにされる。

 が、ここで誤解してはいけないことがある。
カルト教団があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、カルト教団がある。

 それぞれの人は、何らかの悩みや苦しみをもち、それから救われたいために、カルト教
団に身を寄せる。
つまりはじめから個人的な思考性を捨てている。
だからそのまま洗脳されてしまう。
洗脳されていると気づかず、洗脳されてしまう。

 そこは実に心地よい世界でもある。
信者どうしが、親子以上の親子、兄弟以上の兄弟になることもある。
甘くて、心もとろけるような世界。
だから人は、そのままその世界に陶酔するようになる。

 カルトにかぎらず、集団への帰属には、そういう魅力というか、魔力がある。

●トンデモ本

 が、それはカルト教団の話。
私が見たのは、どこかのライブ会場での写真。
若い人たちといっても、それなりの教育を受けている人たちである。
またそれほど苦しみや悲しみがあるとも、思われない。
そういう若い人たちが、頭からパンティをかぶっている。
パンティをかぶって、ライブに夢中になっている!

 私はこの「集団性」こそが、問題と言っている。
またそのような本も書いたことがある。
『ポケモン・カルト』(三一書房)というのが、その本である。

 私はポケモンを攻撃したのではない。
あくまでもポケモン現象を通して見た「集団性」、さらには「カルト性」を問題にした。
が、その本は、その世界の人たちから、「トンデモ本」として、攻撃されつづけている。
(どこかの検索エンジンを使って、検索してみてほしい。
ついでにどういう人たちが、攻撃しているかも知ってほしい。)

 「人間は、ここまでバカになれる」。
言い方を変えると、「人間を指導すれば、ここまでバカにすることができる」。
その恐ろしさは、この1枚の写真を見ただけでもわかる。

 繰り返すが、「ライブだからいい。カルトは悪い」という論法は、通用しない。
(ライブ)と(カルト)。
その差は、紙一重もない。
こうした(集団性)が、いつなんどき、(カルト)に向かわないとは、だれにも言えない。

●個人的な思考性

 集団の中で、いかに個人的な思考性を守るか。
あるいはそれを育てていくか。
これは民主主義教育の根幹でもある。
戦前のあの、全体主義教育を例にあげるまでもない。

 が、実のところ、私は、日本人の集団性が、ここまで進んでいるとは思っていなかった。
集団性というより、「愚民化」と書くべきかもしれない。
最近読んだ雑誌の中には、それを特集しているのもあった。
若い人たちには辛辣(しんらつ)な意見に聞こえるかもしれない。
が、私もそう思う。
「日本の若者たちは、たしかにバカになりつつある」。

 その原因の第一が、自分の頭を使って、自分で考えないこと。
考えることそのものを放棄してしまっている若者も多い。
が、それがいかに危険なものであるかは、やはり戦前、もしくは戦時中の日本を見ればわ
かるはず。

 たった1枚の写真だが、その写真を見て、いろいろと考えさせられた。
あるいは、あなたなら、この写真を見て、どう思うだろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 集団性 個人的な思考性 思考能力 カルト)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●中日春秋(2010−2−24)「直葬についての誤解」

+++++++++++++++++

今朝の中日新聞、『中日春秋』に、こんなコラムが載っていた。
いわく「……葬儀業界には、『直葬』という言葉があるのだそうだ。
病院から火葬場へと直行、翌日葬儀なしで、荼毘(だび)に付す。
それが格安の『直葬プラン』らしい。
とにかく『省く』は、当節のキーワードだ。
第一は不況による節約ムードのせいだろうが、少し前、ある業界の卸売会社
の経営者から聞いた話には、やりきれない思いがした……」(以上、原文のまま)と。

つまり、節約ムードの中で、省く目的で、「直葬」がふえている、と。

以下、「省く」ということで、中間卸売会社が省かれる例、インターネットで、
小売店が省かれる例がつづく。

そしてしめくくりは、「……効率化の名の下、今後も一層、旧来の手順や仕組みを
「省く」方へと社会を押しやるに違いない。
そしてその都度、省くべきでない何かも一緒に省かれていくだろう」と。

+++++++++++++++++

●すでに30%以上が直葬

 要するに、「直葬というのは、省くことから生まれた」。
その理由は、「不況による節約ムードだ」と。
しかしこのコラムを書いた人は、このコラムを書くまで、「直葬」という言葉すら知らなか
ったらしい。
「言葉があるのだそうだ」、つまり「……そうだ」と、書いている。
たぶん、若い人か、今まで葬儀を経験したことのない人なのだろう。
が、現実は、ちがう。
「不況」、「節約」、「省く」に関係なく、すでに首都圏では、30%以上もの人たちが、そ
の直葬により、葬儀を行っている。

 もちろんその中には、ほかの宗教を信じている人も含まれる。
無神論の人も含まれている。
さらに主義主張をもち、自己の哲学に従って、直葬を行っている人もいる。
今ごろ「……そうだ」というのは、おかしい。

●思慮

 思慮の深さは、その人の書いた文章を読んでみればわかる。
とくに、こうしたデリケートなテーマについて書いた文章を読んでみればわかる。
……というより、人の死に関する文章を書くときは、この私でも細心の注意を払う。
このコラムを書いた人は、しかし、直葬というより、それを行う遺族たちの心を、「節約」
と決めつけた上、「不況によるもの」と、大上段に切り捨てている。
無神経というか、傲慢というか……?
あまりにも思慮がない。
ないというより、浅い。
浅すぎる!
私たちの世界の用語を使えば、「切り口が甘い」。

 批判はさておき、直葬について、改めて考えてなおしてみたい。

●節約が理由ではない

 その第一。
私は、(私のワイフも)、直葬を望んでいる。
理由はいくつかあるが、何といっても、現在の葬儀の仕方には、おおきな疑問を覚える。
私たちの主義、主張に反する。
「不況」、「節約」、「省く」が、理由ではない。
またそれを押しつけられても、困る。

 あえて言うなら、3人の息子たちに、迷惑をかけたくないという思いがある。
さらに言えば、僧侶による読経を拒否したからといって、どうしてそれが「省く」ことに
なるのか。
その前に、僧侶による読経に、どれほどの意味があるというのか。
和式仏教、さらには北伝仏教に対する疑問が、それにつづく。

●金銭的な負担

 その第二。
現実問題として、たいていの人は、それまでの介護で、クタクタになっている。
「親の介護が2年つづけば、兄弟関係は壊れる」とも言われる。
遺産相続問題がからめば、なおさら。
みながみな、裕福なわけではない。
介護により、親の財産どころか、自分の財産まで食いつぶしてしまっている人も多い。

 私も一昨年、実兄と実母を相次いで亡くした。
それまでの30年以上、生活費、税金をすべて負担してきた。
その上で、葬儀となった。

 実兄のときは、葬儀費用だけで、200万円を超えた。
加えて僧侶への供養、戒名料などなど。
計250万円以上。
一方、親族などからの香典による収入は、60万円弱。

 2か月後に今度は、母が他界した。
私は質素に葬儀を行うことを決めた。
が、それでも、……つまりいくら節約(?)しても、僧侶を呼ぶような葬儀となると、1
00万円をくだることはない。
僧侶のほうから、「お宅は、みな、院号がついていますから」と、戒名に、院号をつけるこ
とを求めてきた。
戒名によって、値段が異なることは、すでにみなさん、ご存知の通り。

が、それで終わるわけではない。
それにつづく、七七回忌、一周忌などなど。
今年は三回忌。
私のばあい、仏壇を新調し、「精(しょう)抜き」「精入れ」の法事もしなければならなか
った。

●中身は様々

 その第三。
親子関係、親族関係といっても、中身は様々。
「親だから……」「子だから……」という『ダカラ論』ほど、いいかげんなものはない。
『ダカラ論』は、論理ではない。
その『ダカラ論』で苦しんでいる人となると、ゴマンといる。
私自身が、そうだった。

 無神経な親族は、表面的な部分だけを見て、また一方的な意見だけを聞いて、容赦なく
私に『ダカラ論』をぶつけてきた。
「浩司君、君は男だろが」とか、「何と言っても、親は親だからな」とか、など。
「本家だからな」と言った人もいた。
そうした『ダカラ論』から受ける苦痛には、相当なものがある。
そのつど、自分のもっている主義主張をねじまげなければならない。
世俗に妥協しなければならない。
 
 もちろん良好な親子関係、親族関係がベースにあれば、問題はない。
またそういう人たちから見れば、直葬というのは、「とんでもない葬儀の仕方」ということ
になる。
またそういう人たちの感覚からすれば、「不況」、「節約」、「省く」という言葉も出てくる。
先の中日春秋のコラムを書いた人は、たぶん、きわめて恵まれた家庭環境の中で、生まれ
育った人なのだろう。
が、見方を変えれば、ノー天気。

●直葬

 私の恩師のT先生も、直葬を望んでいる。
会うたびに、私にそう言う。
東京大学の副総長(総長特別補佐)も経験している。
「天皇陛下のテニス友だちなのだから、先生は、そういうわけにはいきませんよ」と、私
は言う。
しかしT先生は、すでにそう決めている。
意志は固い。

 T先生がそうであるからというわけではない。
それ以前から、私は戒名なし、葬儀なしの直葬を望んでいる。
私は、葬儀そのものの意義を認めていない。
それが納得できなければ、あなたも、一応仏教徒なのだから、釈迦からはじまって、現在
に至る仏教なるものを、一度は、紐解いて調べてみたらよい。

 ためしに『地蔵十王経(地蔵菩薩発心因縁十王経)』あたりから調べてみたらどうだろう
か。
和式仏教が、いかにインチキにインチキを重ねてできあがったものかが、それでわかるは
ず。
戒名の由来について、調べてみるのもよい。
が、何よりも重要なことは、釈迦の原点に立ち返って、仏教をもう一度、見直してみるこ
と。

 私は、その結果、直葬でよい……というより、直葬を強く望むようになった。

●人の死

 「誕生」が静かなものであるように、「死」もまた静かなもの。
仰々しく、儀式を行う方が、おかしい。
たとえば親類や友の死にしても、「ああ、あの人は、もう亡くなった」で、よいではないか。
私の死にしても、私は、だれにも知らせなくてもよいと、家族に伝えてある。
いつかだれかが、「あの林(=私)は、〜〜年前に死んだそうだ」と言ったところで、一向
にかまわない。
そのほうが自然。

 もしその人を弔う方法があるとするなら、その人の(心)に触れること。
私のばあいなら、いつか、どこかでだれかが私の書いた文章を読んでくれれば、それでよ
い。

 さらに言えば、葬儀というと、死者を弔うための儀式と考える人は多い。
しかし現実には、葬儀は、その人の人生に終止符を打つことによって、その人の人生に、
その時点で、区切りをつけてしまう。
「ああ、あの人の人生は終わった」と。
しかしむしろそちらのほうが、その人に対する冒涜ではないのか。

 少なくとも、私は「死」という死によっては、死なない。
肉体が滅んだからといって、死んだことにはならない。
反対に、ただ息(いき)ているだけなら、生きていることにはならない。
「死」のとらえ方そのものが、ちがう。
だからこそ、今、こうして自分をさらけ出して、文章を書いている。

●中日春秋

 中日春秋の論説が、年々、浅くなっていると感ずるのは、私だけだろうか。
この「直葬」に関するコラムにしても、そこにあるのは、「直葬は悪である」という、きわ
めて通俗的なものの見方でしかない。

中には、本当に貧しくて、したくても、それができない人もいる。
「独居老人」と呼ばれている人もいる。
そういう人たちを一緒くたにして、「省く」という言葉を使って、書き殴ってよいものか。

 一読して、「おかしい?」と感じたので、こうして文章にして書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 中日春秋 直葬 葬儀の仕方 葬儀論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【パソコンと人生論】

++++++++++++++++++++++++++

新しいパソコンを買った。
が、いくら性能がよくても、だからといって
それでよい文章が書けるようになるというわけではない。
大切なのは、使い方。
どう使うか?
磨いて飾っておくだけなら、無用の長物。

人生も、どこか、それに似ている。
ただ生きていれば、それでよいというのではない。
大切なのは、生き方。
生き方で、その人の人生の価値が決まる。

++++++++++++++++++++++++++

●新型パソコン

 先日、ある母親から、その母親の息子のために、パソコンを選んでくれと頼まれた。 
こういう依頼は、うれしい。
楽しい。
が、その生徒のパソコンを選んでいるうちに、私も同じものがほしくなった。
これは私のビョーキ。
カタログをながめているだけで、物欲がググーッとわいてくる。

そこで買ったのが、TOSHIBAのMX33(白)。
店では、7万9800円(=ほぼ8万円)。
ネットで買うと、4万6000円(税込み、手数料こみ)。
ただし09年の秋・冬モデル。
ちがいは、ハードディスクの容量だけ。
もちろんネットで買った。

 TOSHIBAは、TX(16インチ、ノート)を買って以来、ファンになった。
デスクトップ以外は、みな、TOSHIBAと決めている。
性能が、安定している。
作りもよい。
そのパソコンを使って、今、この文章を叩いている。
言うなれば、処女作。

 キーの形状が、四角で、指をすべらせたようなとき、指がひかかるような感じがする。
エンターキーが、小さく、打ちにくい。
本で言えば、余白があるわけだから、どうしてその分だけ、エンターキーを大きくしなか
ったのか。
やや不満は残るが、価格が価格だから、文句は言えない。

 書き忘れたが、バッテリーだけで、9時間半ももつという。
(9時間半!)
すごい!

●ネットショップ

 私もこのところ、数万円を超えるような買い物は、すべてネットですませている。
便利で、早い。
代引きで買うから、安全。
少し前までは、多少の不安もあったが、今では、ショップの評価までネットでわかる。
「客の満足度、80%」とか、など。
そういうふうに評価される。
それを見て、ショップを選ぶ。

 ……ということで、今、ものの売買の仕方が、大きく変わりつつある。
それがどうこうということを考えても、意味はない。
この流れは、もうだれにも、止められない。
これから先、この仕方が、当たり前というより、主流になる。
そのうち、自動車も、ネットで買えるようになるかもしれない。

●小売店

 半面、小売店が苦境に立たされている。
製造メーカーが、直接、個人客にモノを売る時代になった。
小売店だけではない。
大規模店ですら、売り上げ高が減少している。
いわんや、小売店をや、……ということになる。

 が、すべてをネットの責任になすりつけるわけには、いかない。
実のところ、小売店の窮状は、15年以上も前から始まっている。
そのころから郊外に大型店ができ、客を奪われるようになった。
町によっては、市内の商店街がゴーストタウン化したところもある。
私がよく知っているのは、岐阜県関市のH町通り。

私が子どものころは、ゾロゾロと人ごみで埋まっていた。
が、今は、見る影もない。
ほとんどの店が、シャッターをおろしたまま。
もっともそのH町にしても、もとはと言えば、郊外の大型店ができたのが理由ではない。
車社会の発展とともに、「道」が、車に占領されてしまった。
車がビュンビュンと道路を走るようになった。
同時に、駐車場問題が起きた。
「駐車場がないから、買い物ができない」となった。

●時代の流れ

 こうして過去へ、過去へとさかのぼっていくと、そのときどきに、(時代の流れ)がある
のがわかる。
そのつど、ささやかな抵抗運動のようなことは起こるが、長つづきしない。
街中に駐車場をふやしてみたり、あるいは郊外の大型店の進出に反対してみたりする。
今は、ネット。

 では、どうすればよいのか。
方法はないわけではない。

(1)高度に専門化する。
(2)人員による直接サービスを充実する。
(3)特殊技術を売り物にする、など。

 たとえば理髪店のように、客が直接、店に来なければできない仕事もある。
あるいは自転車店のように、そのつど修理で稼げる仕事もある。
こうした分野で、小売店は、生き残りを図るしかない。
残念ながら、その努力を怠った小売店は、ジワジワと、衰退の一途をたどる。

●復古主義

 「昔はよかった」と言うときは、注意しなければならない。
安易な復古主義は、さらに未来に向かう(時代の流れ)をも、敵に回すことになる。
しかしこと、「心」ということになると、昔のほうが牧歌的な温もりがあった。
私の父親などは、客が来ても、別の客と平気で将棋を指して遊んでいた。
時間が、今より、はるかにゆるやかに流れていた。

 が、さらにその昔となると、どうだったのか。
大正時代とか、明治時代とかである。
おそらく時間は、もっとゆるやかに流れていたにちがいない。
ということは、今のこの時間にしても、50年後、100年後になってみると、それなり
にゆるやかに流れているのかもしれない。

 で、そこで登場するのが、私の持論。
『……だから、それがどうしたの?』論。

●『だから、それがどうしたの?』

 私は近くの店での価格の半額程度で、新しいパソコンを手に入れた。
このことは冒頭で書いた。
で、この1〜2年で買ったパソコンを並べてみる。

HPの1233(故障して、放棄)、
MSのWINDBOOK(生徒にあげた)、
AcerのASPIRE・ONE、
TOSHIBAのTX、
それにUXと、今回買ったMX。
その間に、MCJの最先端デスクトップ。
もう1台、NECのLavie(故障して、放棄)。
計8台ということになる。

つまり新しく買う必要など、どこにもない。……なかった。
現に昨日まで、モバイルには、TOSHIBAのUXを使っていた。
今、使っているMXと、性能はほとんど同じ。

 簡単に言えば、買わなくてもよいものを、買った。
もっと言えば、「だからそれがどうしたの?」という答がないまま、買った。
つまり世の中が高速で回転すればするようになるほど、ものの売買も高速で回転する。
たとえばこのパソコンにしても、だからといって、よい文章が書けるようになるわけでは
ない。
パソコンの性能がよくなったからといって、また7台もっているからといって、よい文章
が書けるようになるわけではない。

●使い方
 
 「進歩とは何か?」
たとえば情報。

ネット時代になって、情報量が、それまでの量とは比較にならないほど、ふえた。
以前だと、中央の図書館へ行かなければ手に入らなかったような情報が、瞬時、瞬時に手
に入るようになった。
それだけではない。
以前だと、一部の特殊な人たち(=官僚)でないと手に入らなかったような情報ですら、
手に入るようになった。
まだ、ある。
ネット時代になって、(中央)と(地方)を分け隔てていた、壁が取れた。
私の中からも、地方コンプレックスが、急速に消え始めている。
「東京だけが文化の中心」という考え方も、このところ改まりつつある。

 が、ここで立ち止まる。
「だから、それがどうしたの?」と。
つまりそこにある(現実)を、いくら変えても、意味はない。
大切なのは、その現実から、どう自分を組みたてていくかということ。
パソコンを例にあげるまでもない。
いくらよいパソコンをもっていたとしても、使い方がわからないようであれば、意味はな
い。

 情報にしても、そうだ。
へたをすれば、情報の洪水の中で、溺れてしまう。

●人生論

 こうして考えていくと、この問題は、人生論に直結しているのがわかる。
健康だ……だから、それがどうしたの?
生きている……だから、それがどうしたの?、と。
その反対でもよい。

 病気だ……だから、それがどうしたの?
死んでしまった……だから、それがどうしたの?、と。

 今、ここに「私」が生きているなら、大切なことは、どう生きるかということ。
その視点を踏みはずすと、生きる意味そのものを見失ってしまう。

 ……ということで、今は、指慣らし。
キーを時折、指先でこすりながら、指をキーになじませる。
あるいはキーを指になじませる。
キーが体の一部になったとき、思ったことや考えたことが、そのままモニター上に、文章
となって、現れる。

 そう言えば、つまり今、こうして書いた文章を読みなおしてみたが、どこかぎこちない。
バラバラでまとまっていない(?)。
新しいパソコンを使い始めたときは、いつもそうだ。
今、しばらく、こうして使いこなしてみるしかない。
そのうち、もう少しまとまりのある文章が書けるようになるだろう。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【雑感】

●引佐町

 この引佐町に住むようになって、もう15年。
その前、6年かけて、土地の造成をした。
毎週、ここへやってきて、ユンボを動かした。
石垣を組んだ。
砂利を運んだ。
地目を変更するために、一度、植林もした。
たいへんだったのは、水道工事と下水道工事。
これらの工事は、私とワイフの2人でした。
ほかにもある。

私には、農業資格がなかった。
そのため直接、農地の売買をすることができなかった。
言い忘れたが、このあたりでは、南側の土地は、ほとんどが農地になっている。

農地を宅地にするためには、一度(山林)に転用し、法務局の検査を経て、宅地に転用
しなければならない。
家が建てられるようになるのは、そのあと。
だからこの町とのつきあいは、15+6=21年ということになる。
人生の3分の1を、ここ引佐町で過ごしたことになる。

●3分の1

 3分の1と知って、同時に私はラッキーだったと思う。
カナダやオーストラリアで住むようなわけにはいかないが、しかし自然に包まれて過ごす
ことができた。
「上を見れば、キリなし」。
私にしてみれば、ほどほどの人生だった。
だから「ラッキーだった」と。

 で、再び、「引佐町」の話。
「いなさ・ちょう」と読む。
この引佐町は、「引佐原人」が住んでいた部落として知られている。
何でも日本最古に原人だそうだ。
わかるかな?
引佐原人だぞ!

 しかし不思議なことに、この引佐町の人たちは、引佐原人のことをあまり話題にしたが
らない。
「村興(おこ)し」に使えば、もっと観光などにも、利用できるはず。
どうしてだろう?

●四季

 この引佐町に住むようになって……といっても、週に、1、2度来る程度だが、自然の
変化に敏感になった。
森に囲まれて住むと、四季が、極彩色のカラー映画のように移り変わっていく。
春は、極端に春らしくなる。
夏は、極端に夏らしくなる。
それに比べると、浜松市内での生活は、セピアとまではいかないにしても、いつも灰色の
モヤに包まれている。
季節の変わり目が、はっきりしないまま、冬が終わり、春になっていく。

 私が好きなのは、5月ごろの初夏と、10月ごろの晩夏。
5月ごろには、野生のジャスミンが咲き誇り、空をホトトギスが舞う。
野いちご、ビワの収穫とつづく。
しばらくすると、今度は、ヒグラシが鳴き始める。

 10月もすばらしい。
夕日が山の端に隠れたとたん、谷底から、湿った冷気が吹きあげてくる。
そういうとき私は、虫の大合唱を聴きながら、あたりが真っ暗になるまで、ベンチに座っ
て、時が過ぎていくのを待つ。

 で、そのつど、私はこう思う。
「生きていて、よかった」と。
大げさに聞こえるかもしれないが、そう思う。
心底、そう思う。

 引佐町という町は、私にとって、そういう町である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 引佐町 山荘ライフ 引佐)


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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●有島武郎(ありしま・たけお)

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今では、「有島武郎(ありしまたけお)」という名前を
知っている人も、少ない。
明治11年(1878)生まれ。
明治から大正にかけての文豪で、大正12年(1923)、
45歳の若さで、この世を去っている。

明治41年(1908)に、妻、安子と結婚するが、
その安子は、大正5年(1916)に、他界。
有島武郎自身は、そのあと、7年生き、大正12年(1923)に、
軽井沢の別荘で、『婦人公論』の女性記者と情死している。
「情死」というのは、「心中」のこと。

その有島武郎の代表作である、『カインの末裔』を、久しぶりに
読む。
学生時代、有島武郎の大ファンの友人がいて、彼はそののち、
有島武郎論を、あちこちの同人誌に発表している。
それで私も彼につられる形で、有島武郎に興味をもつようになった。
が、好きか嫌いかと問われれば、好きではない。
回りくどい情景描写が、ときにまだるっこい。
・・・というより、それが有島武郎。
回りの情景描写を積み重ねながら、主人公の「心」を
浮かび上がらせていく。

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●『カインの末裔(まつえい)』

 ストーリーだけを追えば、何でもない作品。
ただ昔読んだときも、それを感じたが、今回も、その謎は解けなかった。
つまり主人公の仁右衛門(小作人)は、場主(地主)を、最後のところで殺害したかどうかとい
うこと。
何度かその部分を読み返してみたが、結局、結論は、「?」。
全体としてみると、「殺害した」ということになるが、その部分は、「・・・のぼせ上がったため
に湯気をださんばかりに赤くなっていた」で終わる。
つづいて、いきなりシーンが変わり、仁右衛門は、そのまま自分の小屋に帰り、そのあと、自分
の馬を斧でたたき殺している。

そのつながりの部分が、実のところ、よくわからない。
題名の『カインの末裔』というところから、つまり「カイン」という名前を使っているところか
ら、それなりのことをしたということになる。
「カイン」というのは、アダムとイブの長男。
弟のアベルに嫉妬して、アベルを殺してしまう。
仁右衛門は、そのカインの末裔というわけである。

 で、こうした作品を読んでいつも感ずることがある。
そのひとつは、日本語が、当時と比べただけでも、大きく変化したということ。
私ですら、「昔の作家は、漢字をよく知っていたなあ」と感心する。
(もっとも私は、子どものころから、漢字が苦手。)

「章魚」と書いて、「たこ」と読む。
「溺(いば)る」というのは、「小便をする」こと。
「鬣」と書いて、「たてがみ」と読む。
「漢字で、『たてがみ』と書け」と言われて、この漢字を書ける人は、まずいない。

 最初の数ページを一読しただけでも、こうした漢字がズラズラと並ぶ。

●有島武郎論

 こうした文豪について、それぞれ研究者や論者がいて、無数の論文を書いている。
北海道のニセコ町には、有島記念館まであるという。
私のような素人が、有島武郎について書いたら、それこそ、八つ裂きにされてしまう。
事実、学生時代、冒頭に書いた友人は、私が何を言っても、「君は、浅い」と怒った。
「有島武郎のような文豪の書いた文章を、君のような男に、理解できるはずもない」と。

 しかしその私も63歳。
有島武郎を死んだときの年齢よりも、約20歳も、長生きをしている。
今さら、有島武郎に遠慮しなければならない理由などない。
人生経験という部分では、有島武郎にひけを取らない。
東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)の教授だったというが、肩書きにビビるような年

は、とっくの昔に終わった。

 そういう自分と比較してみて、つまりこの『カインの末裔』が、その後の「農場解放」へとつ
ながっていくという部分をのぞいて、若いころ、あれほどまでに畏れ多く感じた私は何だったの
かと思う。
(だからといって、私のほうが上だとか、有島武郎がつまらないとか言っているのではない。
どうか誤解しないでほしい。)

この『カインの末裔』にしても、どこからともなく仁右衛門という小作人がやってきて、またど
こかへと去っていくというストーリー。
最後は貧富の差に疑問を感じ、「同じ人間ではないか」と、場主(地主)を殺害し、自分たちは
またそのあと、どこかへと去っていく。
『カイン』とか、『末裔』とかいうには、少し無理がある?
私なら、『仁右衛門』という題ををつけ、それですます。

 ……こんなことを書くと、この道の研究家たちによって、袋だたきにあいそうなので、やはり
この話は、ここまで。
久しぶりに、骨太の短編小説を読んだ。
おもしろかった。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●『恋するベーカリー』

++++++++++++++++++

メリル・ストリープの出る映画は、
『マジソン郡の橋』以来、すべて観ている。
で、昨夜は、『恋するベーカリー』を
観てきた。

星は2つか3つの、★★。

もちろん深夜劇場。
が、入ってみて、驚いた。
観客は、私とワイフの2人だけ!
完全、貸し切り!

久々に、2人で、ああでもない、
こうでもないと、ペチャペチャと
しゃべりながら、映画を観た。

帰ってきて時計を見たら、深夜の
0時を過ぎていた。

今までにたくさんの映画を観てきたが、
観客が、私たち2人だけというのは、
はじめて。
それだけに、今回の映画は、特筆すべき
映画となった。

++++++++++++++++++

●パソコン

 生徒(小4)の母親から、「息子にパソコンを買ってやってほしい」と頼まれている。
そこで選んだのが、TOSHIBAのMX33。
雑誌などでも、評価が高いパソコンである。
標準バッテリーだけで、9時間半も作動する。
私も以前から、ほしかった。

 で、近くの店で買うと、安いところで、7万6000円前後。
駅前のBショップでは、7万9800円。
が、ネットで買うと、4万5000円。
この差額は大きい。
約半額!

 今日、もう一度値段を確認に、その母親に了解してもらったあと、注文を出すつもり。
言い忘れたが、私も買う。
カラバリ(色)は、赤、黒、白の3色。
私は白、その生徒は黒。
楽しみ。

 ところでパソコンというのは、バリバリ使って、使い倒す。
使って使って、使いまくる。
磨いて、飾っておくものではない。
保証期間中に故障が起きたら、即、修理。
どうせ1〜2年で、使い物にならなくなる。
(2月23日朝、記)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●農業とパソコン

はじめて庭先で畑作を始めたころのこと。
私は毎回、自分の人生観が大きく変わって
いくのを感じた。
その第一。
「やるべきことはやって、あとは時の流れを待つ」。

畑作というのは、そういうもの。
土を耕し、肥料を混ぜる。
苗を植えたり、種を蒔いたりする。
棚を作ったり、風よけを立てたりする。
が、すぐに収穫があるわけではない。
あとは(時の流れ)を待つ。

こうした人生観は、それまでの私には、なかった。
魚釣りにたとえるなら、釣り竿をたれてじっと
待つという方法がある。
しかし私は、その「待つ」ということができなかった。
魚を手に入れたかったら、水の中に飛び込んで
いけばよい。
モリで突けばよい。
それが私の人生観の基本だった。

で、今、パソコンを相手に、同じように考える。
たとえばYOUTUBEで、5本のビデオを
アプロードしようとすると、40分前後の
時間がかかる。
何ごとも、瞬時、瞬時に片づいていく世界だが、
時に、こうして(時の流れ)を待つことがある。

ファイルチェックするときも、デバッグするときも
そうだ。
大きなファイルを保存するときも、やはり
時間がかかる。
が、そういうときも、「設定だけをしっかりして、
あとは時の流れを待つ」。

が、最近、もうひとつ、こんなことも考える
ようになった。

たとえば今、私はこうして愚にもならない原稿を
書いている。
こうした原稿が、どこでどうなっていくか、
本当のところ、まったくわからない。
一生懸命書いたからといって、読者の人たちに
受け入れられるというわけではない。
軽い気持ちで書いた文章だからといって、
そのまま消えるわけではない。
そういう意味では、まったく予想が立たない。

が、そういうときも、こう考える。
「あとは、時の流れに任せればいい」と。
それはまさに、畑作の世界。
やるべきことはやって、あとは時の流れを待つ。
どんな花が咲き、実がなるかは、そのときに
なってみないとわからない。
あるいは風雪に耐えられず、そのまま枯れて
しまうかもしれない。

そういう意味で、農業とパソコンの世界は、
よく似ている。
今朝は、そんなことを、いちばんに考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司※


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【臨界期・精読】(大学の同窓会)
(Critical Period for Children & Class Re-Union Party at Kanazawa)

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理化学研究所の論文を、精読してみたい。
(読んで頭の痛くなりそうな人は、下の(*)
まで、skipしてください。

+++++++++++++++++++++

『ヒトを含む多くのほ乳類の大脳皮質視覚野神経細胞は、幼若期に片目を一時的に遮蔽す
ると、その目に対する反応性を失い、開いていた目だけに反応するよう変化します。この
変化は、幼若期体験が脳機能を変える例として、これまで多くの研究が行われてきました
が、このような変化は「臨界期」と呼ぶ生後発達の一時期にしか起きないと報告され、脳
機能発達の「臨界期」を示す例として注目されてきました。

(中略)

サル、ネコ、ラットやマウスなどの実験動物で、生後初期に片目を一時的に遮蔽すると、
大脳皮質視覚野の神経細胞がその目に反応しなくなり、弱視になることが1960年代に
発見され、その後、生後の体験によって脳機能が変化を起こす脳の可塑性の代表的な例と
して、多数の研究が行われてきました。さらに、片目遮蔽によって大脳皮質にこのような
変化を起こすのは生後の特定の期間だけであったことから、鳥類で見つかった刷り込みと
同じように、この期間は「臨界期」と呼ばれるようになりました。

この「臨界期」の存在は、その後ヒトでも報告されたことや、視覚野だけでなく脳のほか
の領域にも認められたことから、「臨界期」における生後環境あるいは刺激や訓練の重要性
を示す例として、神経科学のみならず発達心理学や教育学など、ほかの多くの分野にも影
響を与えてきました。その中で、例えば、脳機能発達には「臨界期」が存在することを早
期教育の重要性の科学的根拠とする主張も出現してきました。

最近になって、成熟脳でも可塑性のある脳領域が存在することや、「臨界期」を過ぎた大脳
皮質でも可塑性が存在することを示唆する研究が報告されました(Sawtell et al., Neuron 
2003)。しかし、大脳皮質視覚野の「臨界期」後に可塑性が保持されるのかどうか、保持さ
れるとすればどの程度なのかは不明のままでした。

研究チームは、大脳皮質神経回路を構成する興奮性と抑制性の2群の神経細胞を区別して、
それらの左右の目への光刺激に対する反応を記録することで、「臨界期」終了後の可塑性の
解明に挑みました』(以上、「理化学研究所」HPより)。

●(*)精読

★ヒトを含む多くのほ乳類の大脳皮質視覚野神経細胞は、幼若期に片目を一時的に遮蔽す
ると、その目に対する反応性を失い、開いていた目だけに反応するよう変化します。

いろいろな専門用語が並ぶ。
大脳皮質視覚野神経細胞、幼若期、遮蔽、反応性などなど。
つまり視覚を司る神経細胞は、乳幼児期に遮蔽されると、「反応性」を失う、と。
ここで重要な言葉は、「反応性」。

 神経細胞が機能を失うというのではない。
神経細胞は、基本的には、ふえたり、減ったりはしない。
退化するということもないし、消滅するということもない。
あくまでも「反応性を失う」ということ。
わかりやすく言えば、眠ったままの状態になるということ、

 つまり光に対して反応しなくなる、と。
その結果、開いていたほうの目だけで、ものを見るようになってしまう。
イコール、遮蔽されていたほうの目は、反応性を失い、視力を失うということになる。
なおこの実験は、よく知られた実験で、別の論文などによれば、子ネコのばあい、「生後、
2〜3週間」遮蔽していただけで、「反応性を失う」ということらしい。
(たったの2〜3週間!)

★この変化は、幼若期体験が脳機能を変える例として、これまで多くの研究が行われてき
ましたが、このような変化は「臨界期」と呼ぶ生後発達の一時期にしか起きないと報告さ
れ、脳機能発達の「臨界期」を示す例として注目されてきました。

「幼若期体験が、脳機能を変える」。
これを言い換えると、幼若期でなければ、脳機能は変わらないということになる。
たとえばおとなの私たちが、何かの病気か事故で、しばらくの間、片目を遮蔽していたと
しても、再びその遮蔽していたものを取り除けば、視力は回復する。
多少のリハビリは必要かもしれないが、そのまま失明するということはない。

 つまり先にあげたような現象は、「一時期」にしか起こらない。
それを「臨界期」という。

 が、ここで注意しなければならないことは、「例」、つまり一例として、あげられている
ということ。
臨界期というのは、それぞれの機能すべてにあるというように考えてよい。
たとえばよく言われるが、音楽教育についても、幼少のある時期から始めないと、ものに
ならないと言われている。
小学校に入学してから、音楽教育をほどこしたとしても、子どもはそこそこにはできるよ
うになるかもしれない。
しかし「すばらしい才能を発揮して・・・」というところまでは、ならない。

ただ「音楽教育」とまでいかなくも、「音楽」に慣れ親しんで育ったばあいには、小学校に
入学してからでも、手遅れということにはならない。
「音楽」といっても、(感性)(技術)(鑑賞力)(音感)などに分けられる。
臨界期を過ぎたからといって、すべてがだめになるというわけではない。

 最近では、論理性、さらに具体的には、読書力や表現力などについても、同じような臨
界期があると説く人もふえてきた。
最近、「作文力にも、臨界期がある」というような意見も聞いたことがある。
多くは我田引水型の拡大解釈なので、そのまま鵜呑みにすることはできない。
たとえばどこかの音楽教室などでは、さかんにこの「臨界期」という言葉を使って、乳幼
児期における音楽教育の重要性を主張している。

 が、私の経験からも、「臨界期はある」と断言できる。
たとえば4〜5歳の時期に、(数)の指導を施すと、子どもは、たしかに数に鋭い子どもに
なる。
一方、小学生になってから、数にうとい子どもを、鋭い子どもにしようとしても、たいて
いうまくいかない。

 (中略)

★サル、ネコ、ラットやマウスなどの実験動物で、生後初期に片目を一時的に遮蔽すると、
大脳皮質視覚野の神経細胞がその目に反応しなくなり、弱視になることが1960年代に
発見され、その後、生後の体験によって脳機能が変化を起こす脳の可塑性の代表的な例と
して、多数の研究が行われてきました。

 人間の子どもに対して実験するわけにはいかない。
しかし人間も、哺乳動物。
サル、ネコ、ラット、マウスでもそうなのだから、人間もまた、同じと考える。
が、こうした現象は、すでに1960代に発見されていたという。
今から50年も前のことである。

 しかしこれはほんの一例。
「生後の体験によって、脳機能は変化を起こす」。
その代表的な例が、大脳皮質視覚野の神経細胞が起こす反応ということになる。
で、こうした現象を拡大解釈すると、たとえば、聴覚はどうなのか。
嗅覚はどうなのか。
味覚はどうなのか。
つぎつぎと興味の範囲が広がっていく。

 おそらくそれについては、すでに多くの研究者が取り組み、その結果を発表しているは
ず。
さらには先にも書いたように、音感や、数的感覚、論理性、言語能力などなど。
こうしたものにも臨界期があるとするなら、それぞれの臨界期に、適切な環境で適切な指
導をする。
子どもの指導を考えるとき、これはとても重要なことである。

★さらに、片目遮蔽によって大脳皮質にこのような変化を起こすのは生後の特定の期間だ
けであったことから、鳥類で見つかった刷り込みと同じように、この期間は「臨界期」と
呼ばれるようになりました。

 ここで「刷り込み」という言葉が出てくる。
この研究とは別に、発達心理学の世界でも、人間にも「刷り込み」があることが、最近、
わかってきた。
生後直後から、7か月前後までの間と言われている。
この時期を、発達心理学の世界では、「敏感期」という。
この論文によれば、「敏感期」イコール、「臨界期」ということになる。
この時期を通して、母子関係は、絶対的なものとなる。
言うまでもなく、子どもは母親から生まれ、母親から乳を得て、成長する。
「絶対的」というのは、本能に近い部分にまで、その関係が刷り込まれることをいう。

 が、この時期に刷り込みがなされなかったら、どうなのか。
よくあるのが、何らの事情により、生後直後から、親の元を離れて育てられるケース。
「ホスピタリズム」という言葉もあることからわかるように、子どもの心に大きな影響を
与える。
反対に、生後7か月を過ぎて、確固たる親子関係を築こうとしても、臨界期(敏感期)を
過ぎているため、それはむずかしいということになる。

 しっかりとした親子関係を作ろうとしたら、生後7か月まで、ということになる。
この時期の家庭環境、とくに母子関係が、重要であることは、今さら言うまでもない。

★この「臨界期」の存在は、その後ヒトでも報告されたことや、視覚野だけでなく脳のほ
かの領域にも認められたことから、「臨界期」における生後環境あるいは刺激や訓練の重要
性を示す例として、神経科学のみならず発達心理学や教育学など、ほかの多くの分野にも
影響を与えてきました。

 大脳生理学や生物学の世界では、人間のことを「ヒト」と表記する。
教育の世界では、もちろん「人」もしくは、「人間」である。
「ヒト」というのは、「種」としての人間をいう。
サル、ネコ、イヌと並べて、「ヒト」という。
私はこの言い方に、いまだに違和感を覚える。
 
 この中で、論文は、こう書いている。
「・・・臨界期における生後環境あるいは刺激や訓練の重要性を示す例として・・・」と。

 ここが重要である。
「刺激」という言葉が出てくる。
つまり(できる・できない)ではない。
(覚えた・覚えない)ではない。
刺激である。
その刺激が大切。

 わかりやすく言えば、刺激を与える。
与えても、仮に効果らしきものがなくても、気にしない。
刺激というには、「教え育てる」という意味での「教育」とは、ちがう。

このことは、私も経験則上、納得する。
たとえば年少のはじめごろの子ども(3〜4歳児)などにものを教えても、反応がまった
く見られない状態が、しばらくつづく。
子どもによっては、数か月から半年近く、つづく。
教えても教えても、乾いた土に水がしみ込んでいくように、教えたことが、どこかへ消え
てしまう。
が、けっして無駄ではない。
無駄と考えてはいけない。
そうして与えた情報は、やがて子どもの頭の中で膨らみ、臨界点に達する。
とたん、子どもは大きく変化する。
ある日を境に、子どもが階段を上るように、まるで別人のように変化していくことも珍し
くない。

 が、それはそれとして、この時期に与える刺激が、いかに重要なものであるかが、これ
でわかる。
すばらしい音楽を聞かせる、すばらしい絵画を見せる、すばらしい本を読んであげる、あ
ちこちへ旅行に連れていってやる、など。
こうした刺激が、子どもの才能を、いつかやがて開花させる。

★その中で、例えば、脳機能発達には「臨界期」が存在することを早期教育の重要性の科
学的根拠とする主張も出現してきました。

 「早期教育」というと、「早取り教育」と誤解している人も多い。
たとえば小学校で学ぶ掛け算を、幼児に教えるなど。
足し算にしても、引き算にしても、そうである。
しかし「早取り教育」は、「早期教育」ではない。
いくら臨界期があるといっても、幼児に掛け算を教えることは、早期教育ではない。

 同時に忘れてならないのは、子どもを楽しませること。
楽しませることによって、脳内で特殊な反応が起こる。
たとえばカテコールアミンというホルモンが分泌され、それが子どもを前向きに引っ張っ
ていく。
それがどういうものか知りたければ、生き生きと反応している子どもの顔を見ればよい。
(生き生きとしている)ときの顔のツヤ、それがカテコールアミンである。

 つまりいくら(刺激)といっても、子どもが逃げ腰になっていたのでは、効果はないと
いうこと。

★最近になって、成熟脳でも可塑性のある脳領域が存在することや、「臨界期」を過ぎた大
脳皮質でも可塑性が存在することを示唆する研究が報告されました(Sawtell et al., 
Neuron 2003)。しかし、大脳皮質視覚野の「臨界期」後に可塑性が保持されるのかどうか、
保持されるとすればどの程度なのかは不明のままでした。

 「可塑性」というのは、「元に戻る可能性」のこと。
先ほどから、「反応性を失う」と書いてきた。
つまり「元には戻らない」と。
またそれが今までの常識だった。
しかし理化学研究所の研究員の研究によれば、「もとに戻ることがある」、あるいは、「戻る
部分もある」ということになる。

 もちろん程度の問題もあるだろう。
「戻る」といっても、「元通り」ということではない。
そのことは、1920年代に見つかったオオカミ姉妹を例にあげるまでもない。
あるいはもっとわかりやすい例で言うと、手乗り文鳥がいる。
文鳥という鳥を手乗りにするためには、その時期までに、人間の手で育て始めなければな
らない。その時期を逸すると、手乗り文鳥は、「手乗り」にならなくなる。

 まったく不可能ではないが、野生化し、たいへんむずかしくなる。
「元に戻る」といって、その程度のことをいう。

★研究チームは、大脳皮質神経回路を構成する興奮性と抑制性の2群の神経細胞を区別し
て、それらの左右の目への光刺激に対する反応を記録することで、「臨界期」終了後の可塑
性の解明に挑みました』(以上、「理化学研究所」HPより)。

 ここから先は、さらに専門的になる。
神経回路には、(興奮性)と(抑制性)がある。
いつもペアで、働いている。
たとえば指を上下させるときも、(動かせ)という命令と、(動かすな)という命令が、同
時に働く。
それがバランスよく働くから、指はスムーズかつなめらかに動く。
(興奮性)が強ければ、パッパッと、かみそりでものを切るように動く。
(抑制性)が強ければ、ダラダラとしたような動きになる。

 (行動の世界)のみならず、いわゆる(精神の世界)でも、同じようなことが起きてい
る。

 理化学研究所の研究員たちは、その「可塑性」の研究に臨んできたという。

●再び、臨界期

 私が音痴なのも、芸術に親しみがないのも、運動神経がイマイチなのも、ものさがすの
が苦手なのも、女性が苦手なのも、すべてそれぞれの臨界期において、適切な刺激を受け
てこなかったせいかもしれない。

 その一方で、私は子どものころから、かなり理屈ぽい人間だったようだ。
ものごとを理詰めで考えるのが得意だったし、またそうでもしないと、納得しなかった。
そういう自分は、ひょっとしたら、すでに幼児期にはできていたのではないか。
記憶に残っているのは、近くの公園で遊んでいるとき、だれかが私に向かって、こう言っ
たこと。
「浩ちゃん(=私)は、哲学者だなあ」と。

 私はまだ幼稚園児だった。
「テツガクシャ」という言葉だけが、ずっと記憶に残った。

 で、そういう自分をフィードバックしてみると、私という人間がそうなったのは、すで
にそのころまでにそうなっていたということ。
このことも、今、子どもの世界を観察してみると、よくわかる。
年長児でも理屈ぽい子どもは、理屈ぽい。
そうでない子どもは、そうでない。
小学生になると、この傾向は、さらに大きく分かれる。

 幽霊や霊の存在をまったく認めない子どももいる。
一方、まじないや占いに凝っている子どももいる。
ちなみに、私は、まじないや占いを、まったく信じていない。
信じていないというより、体が受けつけない。

 ともかくも、「臨界期」を知ることには、2つの意味がある。
ひとつは、それによって、より自分のことが深くわかるようになるということ。
もうひとつは、あなた自身が、自分の子どもを見る目が変わってくるということ。
小学生にもなった子どもに、「どうしてあなたは〜〜ができないの!」と叱っても、意味が
ない。
その子どもの中身のみならず、方向性のほとんどは、乳幼児期にできあがる。
言い換えると、その後の「私」は、その「燃えカス」のようなもの。
そういったこともわかるようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 臨界期 理化学研究所 敏感期 大脳皮質 視覚野 神経細胞 臨界
期終了後 可塑性 はやし浩司 敏感期 刷り込み 刷りこみ 臨界期)


Hiroshi Hayashi++++++Feb.2010++++++はやし浩司

●金沢へ

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私は今、この原稿を、金沢へ向かう
電車の中で書いている。
「しらさぎx号」という電車で、
米原発を、50分遅れ。
何でも一宮(いちのみや)付近で、
人身事故があったとか。

このところ列車事故がよくある。
「そのひとつかな?」と思った。

++++++++++++++++++

●北陸トンネル

 列車は、もうすぐ北陸トンネルに入るはず。
その手前で、北陸トンネルらしき、長いトンネルに入るが、これは北陸トンネルではない。
長さは、13キロ以上ある。
長いトンネルである。
昔は、つまり私が学生時代には、このトンネルが近づくと、急いで窓をしめた。
蒸気機関車の煙が、容赦なく窓の中に飛び込んできた。

 窓の外は低く、重い雲がたれさがっている。
雪雲である。
近くの山々の上部は、白い雪でおおわれている。
寒々とした景色である。

 私は学生時代、この天気が嫌いだった。
米原から北陸線に入ったとたん、ゆううつな気分になった。
今でもその気持ちは変わらない。

●金沢の町

 好きか嫌いかと問われれば、「好きではない」。
私にとって金沢という町は、そういう町だった。
今もそうだ。
また「住みたくない」という意味では、嫌いな町ということになる。
私には、青い空がさんさんと輝くような町のほうがあっている。
が、だからといって、性格が明るいというわけではない。
ひょっとしたら、暗いから、そうなのかもしれない。
ときとして、人は、自分の心と正反対のものを、外の世界に求める。
私のような性格のものが、金沢のようなところに住んだら、ますます暗くなってしまう。
いつもうつ病と紙一重のところで生きている。

 あまり自慢にならないが、当時、つまり今から40年以上も前の話だが、学生の自殺率
ナンバーワンの大学といえば、私たちの母校、金沢大学だったという。
とくに戦後直後は、学生の自殺者が後を絶たなかったと聞いている。
(この話は、学生時代、だれかから聞いたもの。)

●雪国

 北陸トンネルを抜けると、「そこは雪国」だった。
見た感じ、40〜50センチほど、雪が積もっていた。
寒々とした景色だった。
その間を、大きな瀬を立てて、小さな川が流れていた。
私はしばらくパソコンを打つ手を休めて、窓の外の景色に見とれた。
そこは白と黒の世界。
ほんのりと少し、空に水色の光も見える。

 『♪秋の灯ともしころの、しぐれの長浜の町は・・・』と。
学生時代、合唱団で歌った歌が、頭の中で聞こえてきた。
とたん、懐かしさが、ググーッとこみあげてきた。
切ないというか、さみしさと悲しさの入り交ざった思い。
あれから40年以上にもなるのに、その40年が、どこかへ消えてしまった。
人生という部屋に入ったら、入り口が、そのまま出口だった。

 今はいるはずもない、下宿のおばさんや、友だちの顔々が、つぎつぎと浮かんでは消え
る。
「みやげはもっているだろうか?」と、ふとそんなことを考える。
・・・列車はたった今、「武生(たけふ)」という駅に止まった。

●列車の中

 ワイフはポータブルビデオを見ている。
長男は、だまって窓の外の景色を見ている。
5、6席前のところでは、4人組みの若い男たちが、大声で話し込んでいる。
先ほど注意したが、効果なし。
相変わらず甲高い声で、ぺちゃぺちゃと話している。

 私の横の席には、若い男女。
男のほうは、ノートパソコンを叩いている。
P社のレッツノート。
高級品である。
私のは、TOSHIBAのミニノート。
言うなら、安物。

 どういうわけか、私はそういうことが気になる。
ほかのことでは競わないが、パソコンだけは、競ってしまう。
「いいのをもっているなあ」と思いつつ、「負けたな」と。

 しかしその男も、かなりパソコンが好きらしい。
私と同じように、楽しそうに文章を叩いている。
指先の動きが大きいので、速く文章を打っているように見えるが、私より遅い(?)。
速く打つ人は、キーボードの上を、指先を左右にすべらすようにして、キーを打つ。
(打つのではなく、すべらす。)
たとえば、「〜〜ですね」と叩くときも、「D」から「E」へとそのまま指をすべらす。
そのまま「N」を押しながら、ふたたび「E」へすべらす。

 キーの叩き方にも、美しさがある。
隣の男のは、まるでタップダンスでも踊っているかのよう。
指先がポンポンとキーの上ではじける。
一方、私のは、なめらかなワルツのよう。
音もなく、指が左右に揺れる。

●福井

 列車は、福井駅に着いた。
その福井。
少し前まで、1年先輩の、Aさんが、この福井県の副知事をしていた。
今も、していると思う。
卒業してから、20年程は、年賀状を交換していた。
が、今は、音信もない。
すばらしい先輩だった。

 高いビルこそ見えないが、静かで落ち着いた町だ。
・・・たった今、「北陸電力」の看板も見えた。
このあたりは、北陸電力の管轄下。
同窓生の1人は、その社長(当時)の令嬢と結婚した。
「学生時代は、原子力発電所建設反対と言っていたが、今は建設するほうで働いている」
と。
いつだったか、一度会ったときに、笑いながらそう話してくれた。
そうそうこの町で、弁護士をしている同窓生もいる。

 みんながんばっている。
そんな思いが、私をふと、小さくする。
「ぼくは、何もできなかった・・・」と。

●北陸新幹線

 芦原温泉に着いた。
窓の外に、「福井県に新幹線の槌音を!」という看板が見える。
福井県に新幹線?

 気持ちはわかるが、こんなところに新幹線は、必要ない。
この電車にしても、特急電車と言いながら、温泉地ごとに止まる、ローカル列車。
新幹線の駅も、そうなるのだろうか?
もしそうなら、新幹線は、不要。

 もし必要性があるとするなら、秋田から新潟、富山経由で、京都へ抜ける新幹線という
ことになる。
その結果として、金沢→福井→京都と、新幹線がつながる。
それならよい(?)。

しかしそれでも、どれだけの需要が見込まれるというのか。
もし日本にまだ余力が残っているなら、もっとほかの予算に、使うべき。
人口が密集しているところに建設したほうがよい。
東海道新幹線を、複々線化するとか、リニア路線を延長するとか、など。
が、残念ながら、今の日本に、それだけの余力はない。
・・・というより、土木事業は、もうじゅうぶん。
たくさん!
そうでなくても、国の借金は、雪だるま式に、ふえつづけている。

●国の借金

 ついでに・・・。
国の借金という言葉が出てきたので、その国の借金について。

現在、国の借金は、600兆円とも、800兆円とも言われている。
しかしこれはウソ。
実際には、1000兆円を、はるかに超えている。
たとえばあの旧国鉄が清算されたとき、年金債務だけで、17兆円もあったはず。
そうした借金は、どこへ消えたのか。
清算されたという話は聞いていない。
そういう隠れ債務が、山のようにある。

 しかしどういうわけか、日本は、「倒産」しない。
それについては、こう説明されている。

(1)日本という「国」は、外国には借金をしていない。
(2)日本という「国」は、1000兆円近い国有財産をかかえている。

 つまり日本という「家」は、身内からの借金でまかなっている。
「家」のおやじは、借金とは別に、同じほどの財産をもっている。

 が、このところ、どうもそれがあやしくなってきた。
つまり「1000兆円」という数字が、あやしくなってきた。
一説によると、この「1000兆円」という金額は、官僚筋から意図的に流されたウソと
いうことらしい。
国が保有している国有地にしても、バブル経済時代の実勢価格を、基準にしている(?)。
となると、これは深刻な問題である。
「JALの株を、100万株持っているから、だいじょうぶ」というのに、話が似ている。
(JALは、現在、法的整理され、1株、1円。)

●指定席

 時期的なせいもあるのか、列車内は、がらんとしている。
かえって自由席のほうが、すいている。
先ほど、指定席車両に来た人が、前よりの2号車(自由席車両)へ移っていった。
隣でパソコンを叩いていた男も、途中で下車した。
金沢に近づくにつれて、列車は、私たちの貸し切り車両のようになった。

 ついでに今回の旅行の費用について。

 往復旅費が、3人分で、60000円と少し。
それにホテル代が、3人分で、22000円(朝食のみ)。
同窓会費が、8000円。
あとはもろもろ。
計10万円。
「10万円で同窓会か?」と、切符を買うとき、そう思った。
金沢の町を観光したいという気持ちはあるが、今回は、あきらめた。

 金沢の駅に着いたときには、午後6時を過ぎていた。
すでに同窓会は始まっているはず。
「人身事故ではしかたないな」と言って、あきらめる。

(2010年2月20日記)

●追記

 同窓会は、始まっていた。
私が遅刻で、しんがり。
みな、すでに会食を始めていた。
浅野川沿いにある、「太郎」という由緒ある小料理屋。
鍋料理が、おいしい。
今回で、2度目だが、そのおいしさを、改めて確認した。
星は、5つの、★★★★★。

 みな、それぞれ自分の人生をしっかりと歩んできた連中ばかり。
私だけ、自己紹介で、「いまだに風来坊です」と言った。
が、だれも否定しなかった。
私は、学生時代から、風来坊だった。
そんな雰囲気の満々と漂わせた男だった。

●金沢大学法学部(旧法学科)

 びっくりするような役職を並べた男もいたし、転々と職を替えている男もいた。
今は退職したが、大手企業のトップを経験した男もいた。
が、ああして円陣を描いて鍋料理を囲むと、ただの男。
学生時代のまま。
「コンパを思い出すなあ」と。
そう、あのコンパのままだった。

 飲んで、食って、ただひたすらしゃべりつづける。
が、不思議とだれも、健康の話、病気の話、家族の話をしない。
「しない」というより、「聞かない」。
相手が言い出すばあいはともかくも、そこにはエチケットというブレーキが働く。
みな、その向こうで、いろいろな問題をかかえている。
それをほじくり返すのは、エチケットに違反する。

 みな、自分の仕事の話をした。
私もした。
だれかが、「給料は、28万だ」と言うと、「29万以上は、老人xx控除が受けられない
ぞ」
というヤジが飛ぶ。
みな、それぞれの道の専門家だ。

 同窓会の最後に、第四高等学校応援歌の『南下軍(なんかぐん)』を歌った。
歌詞は印刷し、私が用意しておいた。
YOUTUBEに載せたい。
が、横にいた男が、こう言った。
「四高記念館へ来れば、いつでも聞けるよ。ぼくが館長をしているよ」と。

 我ら、金沢大学法文学部法学科卒業生。
北陸3県で、唯一の法学部。
しかも100名(1学年)だけ。
我らを除いて、当時は、この地には、「法律」はなかった。
その心意気は、今も、しっかりと胸に残っている。

●南下軍の歌(通称「南下軍」)

++++++++++++++++++

その昔、第四高等学校と第三高等学校は、
よく対校試合をしたそうです。
そのとき第四高等学校(金沢大学の前身)の
学生が、京都に向かうとき歌った歌が
「南下軍の歌」です。

2010年2月10日、第18回法学科卒の
同窓会がありました。
そのときの様子を送ります。

++++++++++++++++++
HTTPは、
http://www.youtube.com/watch?v=1iAyFSKXeqI
より

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 南下軍の歌 南下軍 第四高等学校応援歌 金沢大学応援歌)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●同窓会

 60歳を過ぎると、同窓会の質が変わってくる。
若いときは、同窓会をしても、「今度〜〜しよう」とか、
「来月にでも会おう」とかなる。
仕事の話につながることもある。

 が、60歳を過ぎると、先がない。
「これから〜〜しよう」という展望性がない。
みな、人生そのものに遠慮している。
そんな感じになる。
言うなれば、すでに結論が出てしまっている。
あるいはエンディングの始まった映画のようなもの。
すでに観客席を立ち始めた人さえいる。

 今、元気な人も、来年は、わからない。
今、肩書きのある人も、来年は、わからない。
また健康にせよ、肩書きにせよ、そういったものにまつわる
空しさを、みな、知り尽くしている。
だから話の内容も、健康の話とか、家族や孫の話になったりする。
定年退職後の再就職の話になったりする。

もちろん過去の話もするが、その過去も色あせてしまった。
思い出そうとしても、細切れになってしまったフィルムのよう。
結局は、みな、一方的に、自分の過去の一部を話し、
「そうだったのか」「そうだったな」で、終わってしまう。

 おそらくみな、内心では、「これではいけない」と思っている。
「何とかしたい」と思っている。
が、どうしようもない。
現状維持が、精一杯。
明るい未来など、どこにもない。
希望さえ、見つからない。

 帰り道、AD君と、ホテルの近くまで歩く。
そこにAD君の息子が、車で待っていた。
息子といっても、30歳を超えている。
それを見て、再び、我に返る。
「ぼくたちの時代は、終わったのか」と。

 ホテルの部屋に入ると、ワイフはオリンピックの
中継を見ていた。
長男は、頭痛がするとかで、隣の部屋で寝ていた。
「同窓会、どうだった?」とワイフが聞いた。
「懐かしかった」とだけ答えて、私もテレビを見始めた。

 あとは静かな無言。
無数の映画を一度に見終えたような疲れが、そのとき、
どっと襲ってきた。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 3月 17日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●親のウソ(強化の原理)

++++++++++++++++++++++

この話は以前にも書いた。
こんな話。

ある母親がこう言った。
「うちの子(年長児)は、字を書くのがへたでしょ。
みなさんは、じょうずに書けるでしょ。
だから本人もそれを気にして、BW教室(=私の教室)
へ行くのをいやがっています」と。

この話は、ウソ。
親の作り話。
が、どこがウソか、あなたはわかるだろうか?
親の話には、この種のウソが多い。

+++++++++++++++++++++

●強化の親vs弱化の親

 発達心理学の世界には、「強化の原理」「弱化の原理」という言葉がある。
何ごとも前向きに取り組んでいる子どもは、そこに強化の原理が働き、ますます前向きに伸び

いく。
反対に、「いやだ」「つまらない」と思っている子どもは、そこに弱化の原理が働き、子ども自身
が、自ら伸びる芽をつんでしまう。

 同じように、親にも、(子どもを伸ばす親)と、(子どもが伸びる芽を摘んでしまう親)がいる。
前者を、(強化の親)というなら、後者は、(弱化の親)ということになる。
(この言葉は、はやし浩司の造語。)

たとえばときどき教室を参観して、「うちの子はすばらしい」「できがいい」と思っている親の子
どもは、どんどんと伸びていく。
反対に、「だめだ」「できない」と思っている親の子どもは、表情も暗くなり、やがて伸び悩む。

●「わざとほめてくれるのよ!」

 この話も前に書いたが、こういう話。
ある女の子(年長児)の話。
その女の子は、おかしなことに、私がほめればほめるほど、表情が固く、暗くなっていった。
ふだんから静かな子どもだった。

 私はその理由が、わからなかった。
が、ある日、レッスンが終わって廊下に出てみたときのこと。
いつも、その子どもの祖母にあたる女性が、その子どもを教室へ連れてきていた。
その女性が、その女の子(=孫)に向かって、こう言っていた。

 「どうしてあなたは、もっとハキハキしないの!
あなたができないから、先生がああしてわざとほめてくれるのよ。
どうしてそれがわからないの!」と。

●自己評価力

 自分を客観的に評価する・・・それを自己評価力という。
「現実検証能力」と言ってもよい。
この自己評価力は、小学3年生前後(10歳前後)を境にして、急速に発達する。
が、それ以前の子どもには、その力は、ない。
よくある例が、落ち着きのない子ども。
AD・HD児もそれに含まれる。

 このタイプの子どもに向かって、「もっと静かにしなさい」とか、「君が騒ぐと、みなが迷惑す
るよ」とか、教えても、意味はない。
自分が騒々しいことにすら、気づいていない。
その自覚がない。
またそれを気づかせる方法は、ない。

 いわんや、幼稚園児をや、ということになるが、文字についてもそうである。
自分の書いた文字を見て、それがじょうずか、へたか、それを判断できる子どもはいない。
それを判断し、子どもに伝えるのは、親ということになる。

 つまり親が、「自分の子どもの書く字がへた」と思っている。
だからそれを子どもに言う。
「あなたは、字がへた」と。

 ここで冒頭に書いた話を思い出してほしい。
私はその母親の言ったことを、ウソと書いた。
理由は、もうわかってもらえたと思う。
繰り返しになるが、年長児くらいで、自分の書いた字がじょうずか、へたか、それを客観的に判
断できる子どもはいない。
子どもは、親の反応を見ながら、じょうずかへたかを知る。
しかしそれでも、どこがどうへたなのか、それがわかる子どもはいない。
つまり子どもの書いた字を、へたと決め込んでいるのは、母親自身ということになる。
が、それだけではない。
むしろ子どもの伸びる芽を、親が摘んでしまっている!

●強化の原理

 子どもが何か、文字らしきものを書いたら、ほめる。
それがどんな文字であっても、ほめる。
「ホホー、じょうずに書けるようになったね」と。

 こういう働きかけが、子どもに自信をもたせる。
その自信が、強化の原理となって、子どもを前向きに引っ張っていく。

 この時期、子どもは、ややうぬぼれ気味のほうが、あとあとよく伸びる。
「私はすばらしい」という思いが、強化の原理として働く。

 最初の話に戻るが、こういうときは、その反対のことを言う。
「あなたは、字がじょうずになったわね。
先生も、ほめてくれていたわよ」と。

 以前、『欠点はほめろ』という格言を、私は考えた。
これもそのひとつ。
子どもに何か問題を見つけたら、それを指摘して、責めてはいけない。
反対に、ほめて、伸ばす。
たとえば意見を発表するとき、声が小さかったら、「もっと大きな声で!」ではなく、「あなたは
この前より、大きな声が出るようになったね」とか、「あなたの声は、いい声よ」とか、など。

 これは子どもを伸ばすための、第一の鉄則である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 欠点はほめる 親のウソ 親の嘘 子どもを伸ばす 強化の原理 弱化の
原理)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【裏の心】(臨界期)

+++++++++++++++

(表の心)があるとするなら、(裏の心)がある。
(表の心)は、外から見える。
それだけにつかみやすい。
しかし(裏の心)は、外からは見えない。
そのため何かと無視されやすい。
しかし(表の心)より、(裏の心)のほうが、
はるかに重要。
人間の心、つまり「私」の大部分は、この
(裏の心)でつくられていく。

+++++++++++++++

●別の脳

 どんなに熟睡していても、(「熟睡」の定義もむずかしいが)、人はベッドから落ちない。
それは自分では、いくら熟睡していると思っても、脳の別の部分が、それを意識している
からにほかならない。
「それ」というのは、「自分の体とベッドの位置関係」ということになる。
もし「その部分」まで、本当に眠ってしまえば、それこそ人は寝返りを打つたびに、ドス
ン、ドスンと、ベッドからころげ落ちることになる。

 これは眠っているときの話である。
が、目を覚ましているときも、実は脳の別の部分は、意識とは別に、別の働きをしている。
このことは、子どもを観察してみると、わかる。

 たとえば私と母親と、その子どもについて、何かを話していたとする。
子どもは、少し離れたところで、何かのおもちゃと遊んでいる。
私と母親の話を聞いているようには見えない。
そういうときでも、私がその子どもをほめたりすると、話の内容がわかっているかのよう
に、私たちのほうを見て、ニコッと微笑んだりする。

 あるいは、その子どもの問題点を指摘することもある。
そういうとき、もし子どもが近くにいるようなら、私はできるだけ難解な言葉を使うよう
にする。
子どもに、話の内容を悟られたくない。

「行動面では問題ないと思いますが、識字能力が心配です。黙読にすると、読解力が著し
く落ちます」と。

 すると子どもは、そういうとき、こちらのほうを見て、何か心配そうな表情をして見せ
る。

●2人の(自分)

 ここに書いたことと、同じ現象と考えてよいかどうかはわからない。
わからないが、私はよく、こんなことを経験する。
最初に、それがわかったのは、私がどこかの会場で、講演をしているときだった。
私は、自分の脳の中に、2人の(自分)がいることを知った。

 1人の(自分)は、講演の内容について考えている。
もう1人の(自分)は、そういう自分を、別のところから見ていて、「あと30分しか時間
がないぞ」「つぎの話は簡単にして、すませ」「時間があるから、ついでにあの話もしろ」
などと命令する。

 このように(意識)というのは、二重、三重構造になっている。
少なくとも、一重ではない。
そんな単純なものではない。
そうした意識の下に、意識できない意識の世界がある。
一般的には、意識の世界よりも、意識できない世界のほうが広いと言われている。
しかも、意識できない世界のほうが、意識できる世界よりも、数万倍から、数10万倍も
広いと言われている。

 言い換えると、私たちが今意識している世界などというのは、脳の中でも、ほんの一部
でしかない。

●子育ての世界では・・・

 ここに1人の子どもがいる。
その子どもは、自分の好きなことをしている。
そういうときでも、その子どもは、周囲の変化や様子に、絶えず注意を払っている。
注意を払っているだけではない。
周囲のあらゆるものを、どんどんと自分の脳の中に蓄積している。

 その子どもの外見的な様子に、だまされてはいけない。
まわりの様子に無頓着で、無関心に見えるからといって、「注意を払っていない」と考えて
はいけない。
親の立場、あるいは教師の立場から言うと、けっして、油断してはいけない。

 たとえばあなたが今、車を運転しているとする。
子どもは助手席に座って、ゲーム機器をいじっている。
そんなとき、携帯電話の呼び鈴が鳴った。
あなたは携帯電話を手にすると、「まあ、いいか」という思いで、携帯電話で相手と話し始
める。

 横を見ると、子どもは、どうやら気づいていないようだ。
相変わらず、ゲームに夢中になっている。
が、実際には、そうではない。

 子どもは、見えない目、見えない耳で、あなたの行動すべてを観察している。
それを脳の中に、しっかりと焼きつけている。
つまりこうしてあなたの子どもは、あなたという人間の人物像を、少しずつだが、つくり
あげていく。
「ママ(パパ)は、ずるい人間」と。

 が、それだけではない。
そうした人間像は、そっくりそのまま、その子どもの人間像となって、反映されるように
なる。

●赤ん坊の記憶

 こう書いても、まだ私の話を信用しない人がいるかもしれない。
しかしこんな話を書けば、どんなに疑い深い人だって、私の話に納得するだろう。

 実は、あの生まれたての赤ん坊にしても、まわりの様子をどんどんと記憶している。
それを証明したのは、ワシントン大学のメルツオフという人だが、まさに怒涛のごとく記
憶している。

 仮にこの時期、子どもが人間の手を離れ、たとえば動物によって育てられたとすると、
その子どもは、そのまま動物になってしまう。
インドで1920年代に発見された、オオカミ姉妹の例をあげるまでもない。
で、ここが重要だが、この時期、一度、動物になってしまうと、仮に再び人間によって育
てられたとしても、人間に戻ることはない。
オオカミ姉妹にしても、同じころ、フランスで見つかった、ビクトールという少年にして
も、人間らしさを取り戻すことはなかった。

 ここで登場するのが、「臨界期」という言葉になる。
D・H・ヒューベルとT・N・ヴィーゼルという2人の科学者が、子ネコについて行った
実験で、世に知られるようになった※。
つまり人間というのは、(ほかの動物もそうだが)、その時期において、適切な指導や刺激
を受けないと、脳の機能が変化してしまうことをいう。

 「赤ん坊には記憶はない」と考えるのは、誤解というより、まちがい。
赤ん坊は赤ん坊で、まわりの様子を、猛烈な勢いで吸収、それを記憶にとどめている。

●母の心

 私はこんな経験もした。
最後の2年間を、母は、この浜松市で過ごした。
1年たったころ、脳梗塞を起こしてからは、そういうことはなかったが、私の家に来たこ
ろは、頭の働きも達者で、冗談をたがいに言いあうほどだった。

 そんなある日、母が、親類の人たちの話を始めた。
「あの人は、いい人や」「あの人は、悪い人や」と。
その話を聞いて、私は、驚いた。
話の内容に、驚いたのではない。
母は、私が子どものころにもっていた印象と、まったく同じことを口にしたからだ。

 たとえば私は、子どものころ、Aさんという親類の男性が嫌いだった。
あるいはBさんという親類の女性が好きだった。
そのAさんについて、「あのAさんは、タヌキ(=うそつき)だった」とか、「Bさんは、
やさしい人だった」とか、言った。

 私は私がもっていた印象は、何のことはない、子どものころ、母によって作られたこと
を知った。
つまり親子というのは、そういうもの。
「以心伝心」という言葉もある。
「魚心あれば、水心」という諺もある。
親がもっている心は、そっくりそのまま子どもに伝わる。
あなたという親が、言葉として、何も話さなくても、伝わる。
それを見たり、聞いたりするのが、冒頭に書いた、「別の脳」ということになる。

●核心

 いよいよ子育ての核心部分ということになる。

 あなたは今、子育てをしている。

「ほら、算数だ」「ほら、英語だ」「ほら、ひらがなだ」と。
それを(表の子育て)とするなら、(裏の子育て)がある。
「教えずして教えてしまう」のが、(裏の子育て)ということになる。
そして実は、その(裏の子育て)のほうが、実は重要で、かつ比重的には、(表の子育て)
よりも、はるかに大きい。
もちろん子どもに与える影響も、はるかに大きい。

 たとえば私は子どものころ、たいへん小ずるい子どもだった。
ずるいことが平気でできた。
しかしそのほとんどは、私が母から受け継いだものだった。
もし私があのまま、郷里の町で、生活していたら、その小ずるさそのものに気づくことも
なかったかもしれない。
幸か不幸か、私は郷里を離れた。
その結果として、私は私自身を、客観的に見る機会を得た。
外国の人たちと、自分を、比較することもできた。
そして(あの世界)が、全体として、その(小ずるさ)で成り立った世界であることを知
った。

 母とて、その中のワンノブゼム(多数の中の1人)に過ぎなかった!

●別の心

 子育てをするときは、常に子どもの中で、どのような(裏の心)が作られているかに注
意する。
たとえば私のばあい、幼児に文字を教えたとする。
そのとき重要なのは、その幼児が、(文字を書けるかどうか)(文字を書けるようになった
かどうか)ということよりも、(文字を楽しんだかどうか)ということになる。

 (できる・できない)は、別。
もっとわかりやすく言えば、その子どもの中に、(文字に対する前向きな姿勢ができたかど
うか)ということになる。

 これは文字の話だが、こうした指導法は、幼児の指導法の原点ということになる。
文字、数などの学習面にかぎらない。
行動、情緒、知育、性格、性質など、あらゆる部分に及ぶ。
さらには、人間性にまで及ぶ。
先に書いたオオカミ姉妹の例を、もう一度、思い浮かべてみてほしい。
オオカミ姉妹にしても、その適切な時期に、適切な刺激を受けなかったため、生涯にわた
って、人間らしさを取り戻すことはできなかった。

 「私は私」と思っている、あなた。
「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思っている、あなた。
今一度、あなたの中にいる、別の(あなた)を、探索してみてほしい。
そこに本当の(あなた)がいる。

(注※……臨界期)(理化学研究所のHPより、転載)

『ヒトを含む多くのほ乳類の大脳皮質視覚野神経細胞は、幼若期に片目を一時的に遮蔽す
ると、その目に対する反応性を失い、開いていた目だけに反応するよう変化します。この
変化は、幼若期体験が脳機能を変える例として、これまで多くの研究が行われてきました
が、このような変化は「臨界期」と呼ぶ生後発達の一時期にしか起きないと報告され、脳
機能発達の「臨界期」を示す例として注目されてきました。

(中略)

サル、ネコ、ラットやマウスなどの実験動物で、生後初期に片目を一時的に遮蔽すると、
大脳皮質視覚野の神経細胞がその目に反応しなくなり、弱視になることが1960年代に発見
され、その後、生後の体験によって脳機能が変化を起こす脳の可塑性の代表的な例として、
多数の研究が行われてきました。さらに、片目遮蔽によって大脳皮質にこのような変化を
起こすのは生後の特定の期間だけであったことから、鳥類で見つかった刷り込みと同じよ
うに、この期間は「臨界期」と呼ばれるようになりました。

この「臨界期」の存在は、その後ヒトでも報告されたことや、視覚野だけでなく脳のほか
の領域にも認められたことから、「臨界期」における生後環境あるいは刺激や訓練の重要性
を示す例として、神経科学のみならず発達心理学や教育学など、ほかの多くの分野にも影
響を与えてきました。その中で、例えば、脳機能発達には「臨界期」が存在することを早
期教育の重要性の科学的根拠とする主張も出現してきました。

最近になって、成熟脳でも可塑性のある脳領域が存在することや、「臨界期」を過ぎた大脳
皮質でも可塑性が存在することを示唆する研究が報告されました(Sawtell et al., Neuron 
2003)。しかし、大脳皮質視覚野の「臨界期」後に可塑性が保持されるのかどうか、保持さ
れるとすればどの程度なのかは不明のままでした。

研究チームは、大脳皮質神経回路を構成する興奮性と抑制性の2群の神経細胞を区別して、
それらの左右の目への光刺激に対する反応を記録することで、「臨界期」終了後の可塑性の
解明に挑みました』(以上、「理化学研究所」HPより)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 臨界期 別の心 別のあなた 本当の私)

(注)この原稿は、心理の発達段階論と、臨界期をやや混同、誤解している部分がありま
す。
その点をご理解の上、お読みください。
近く、改めて、この原稿を書き改めてみます。
(2010−2−19記)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●老人大国(これは、たいへんなことになるぞ!)

++++++++++++++++++++++++++++++++

A町での講演会を終え、浜松駅を出たときのこと。
デパートの地下にある、その店に行こうとして、一瞬、足を止めた。
私とワイフは、カレーライスを食べるつもりだった。

見ると、老人、また老人……。
そこはまさに老人のたまり場だった。
年齢は70〜80歳前後。
そういった老人たちが、長椅子を占拠し、
そこにズラリと座っていた。
何かを食べたり、たがいに話し込んだりしていた。

あと15〜20年もすると、日本人の3分の1が、そうした高齢者になるという。
が、そこはすでに3分の1以上が、高齢者だった。
私はその異様な光景に、驚いた。
「何だ、これ!」と思った。
が、つぎの瞬間、私もその仲間であることを知って、口を閉じた。

++++++++++++++++++++++++++++++++

●老人ファッション

 昨日、眼鏡屋でこんな女性を見かけた。
その女性は、店員と、何かを話していた。
前かがみになっていたので、背中の下が大きく割れ、ジーパンの端から、中のパンティが
見えていた。
シマシマのピンクのパンティだった。

 ついでに言うと、上から、大きな毛糸の帽子、黒い毛皮のコート、それにジーパン。
ひざまで届くような、長いブーツをはいていた。
私は「最近の若い人は……」と思った。
「平気で下着を見せる!」と。

 が、横に座って、私は我が目を疑った。
顔半分を覆うようなマスクをしていたので気がつかなかった。
が、若い女性と思ったその女性は、50歳は超えたの年配の女性だった。
全体が茶髪で、髪の毛の一部を、紫色に染めていた。

 こういうとき「男」というのは、「しまった!」と思う。
「若い女性と思って、損をした!」と。
どうしてそう思うのか、わからないが、そう思う。

●落差

 似合うか、似合わないかということになれば、似合うはずがない。
見た目はともかくも、見た人は、その(落差)に驚く。
その女性の服装は、どう見ても、10代後半、もしくは20代前半の、未婚の
女性のものだった。
うしろ姿だけを見たら、だれだって、そう思う。
私だけではない。
いっしょにいた、ワイフだって、そう思った。
驚いた。

 が、だからといって、年配の女性が、そういう格好(かっこう)をしてはいけないとか、
そういう失敬なことを書いているのではない。
落差。
その落差が、問題。

 たとえば50代の人が、それなりの格好をしているなら、まだよい。
しかし50代の女性が、10代の女性のマネをして、どうなる?
つまりそんなことをしても、若い人たちに、バカにされるだけ。
……というのは、書き過ぎ。

 しかし老人は老人としての、ステータスを確保する。
「これが年の功」と言えるようなものを用意する。
極端な言い方をすれば、若い人が、老人を見習う。
あるいはマネをする。
そういうものを示してこそ、私たちは老人、つまり「Aged People」。
「円熟した人」ということになる。

 ファッションについて言えば、老人臭くない、老人ファッションというものが、
あってもよいのでは?
若い人たちが着る服を着れば、それでよいというものではない。

●駅前で……

 駅前といっても、それぞれコーナーらしきものが、できあがっている。
大きく、若い人たちが集まっているコーナー。
老人たちが集まっている、コーナー。
老人たちは、デパートの地下、その出入り口のところに集まっている。
集まっているというよりは、先にも書いたように、占拠している。

 地下には、スーパーマーケットや、食料品店が並んでいる。
買い物をしたついでに、そこへみなが集まるのだろう。
見方によっては、のどかな風景。
しかし異様は、異様。
私はそれを見て、「これは、たいへんなことになるぞ!」と思った。

 その第一。
老人たちが、若い人たちと、融和していない。
それはちょうど、日本の街角で、それぞれの外国人が集団を作ってたむろしている様子に
似ている。
そうでない人たちを、はじき飛ばしてしまうかのような、排他性すらある。
が、それは同時に、若い人たちから見れば、そのまま差別意識につながる。

 もっとも今は、まだよい。
デパートの出入り口という一部。
しかしそれが日本中の、いたるところでそうなったら、どうなる?
目的意識もない老人たちが、ブラブラとうたるところで、たむろするようになったら、
どうなる?

 そのとき若い人たちが、私たち老人をながめて、「どうせ老人だから……」と、
寛大に見てくれるだろうか?
結論を先に言えば、老人は老人として、やるべきことがある。
そのやるべきことをして、老人は、老人である。
身勝手で、自己中心的で、自分勝手な老人は、「老人」ではない。
いわんや終日、デパートの出入り口に陣取って、世間話に夢中になる老人は、「老人」では
ない。
そんなことばかりしていたら、それこそ、私たちは社会のゴミになってしまう!

 それがわからなければ、逆に、年少の子どもたちが、デパートに出入り口あたりで、
たむろしていたら、あなたはどう思うだろうか。
おそらくあなたは、子どもたちに向かってこう言うにちがいない。
「君たち、こんなところで、そんなことをしていてはいけないよ」と。

 だから私は言いたい。

「老人たちよ、こんなところで、そんなことをしていてはいけないよ」と。

●まとめて老人

 このところ、急速に肩身が狭くなってきているのを感ずる。
ときどき生きているのが、申し訳ないような気分にすら、なる。
現実問題として、長生きをすればするほど、みなに、迷惑をかける。
介護制度にしても、この先20年、悪化することはあっても、よくなることはありえない。

 いくら私一人ががんばったところで、若い人たちは、私を区別してくれない。
区別できない。
「まとめて老人」と考える。
そうなったとき、私やあなたの生きる場所はあるのか。
あるいはどう生きたらよいのか。

 本来なら老人というのは、人生の先輩として、知恵や経験を若い人たちに伝えていく
立場にいる。
そうした老人がむしろ逆に、若い人たちに、バカにされるようなことばかりしている。
自分たちだけで、小さな世界をつくり、そこにたむろしている。
冒頭に書いた女性にしても、そうだ。
そういう服装を見て、若い女性たちは、どう思うだろうか。
だから「これは、たいへんなことになるぞ」となる。

 やがて私たち老人は、(社会のゴミ)となってしまう。
が、そうなっても、私たちには、それと戦う気力も体力もない。
財力もない。
虐待されるようなことになっても、私たちは、それを受け入れるしかない。
現に今、老人虐待が、あちこちで問題になっている。
やがてそれが世間一般で、おおっぴらになされるようになるかもしれない。

●では、どうするか?

 何度も書くが、老人たちは自ら(やるべきこと)を定め、それを(現実にする)。
この両者を一致させることを、「統合性の確立」という。
けっして、現在の立場に安住してはいけない。
「人生の先輩」として、若い人たちの上に、君臨してはいけない。

 デパートの出入り口にたむろするくらいなら、カニばさみと、ポリ袋をもって、
街の清掃くらいしたらよい。
「街のガイドをします」というような小さなネーム・カードを、胸につけるだけでも、
外から来た人には助かる。
「私は料理のプロです」「中国語の通訳ができます」というカードでもよい。
その気になれば、何だってできるはず。
それを「私は人生を終えました」と、居直ってしまう。
居直って、奥にひっこんでしまう。
自分のしたいことだけをする。
私は、それではいけないと言っている。

 若い人たちから見て、「やはり、ジーチャン、バーチャンは、必要なのだ」と。
そういう存在感を作る。
でないと、「3分の1」という数字を乗り越えることはできない。
やがてすぐ、日本人の3分の1が、その老人になる。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 3月 15日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●BW教室、今日、あれこれ

(出る出る、うんち)

 小3の子ども(男児)が、こう言った。
「先生、出ちゃう出ちゃう、うんこって、知っている?」と。
「出る出る……」と聞いて、ピンと来た。
薬局で売っている、あの便秘薬である。
私は一度、試供品を飲んで、ひどいめにあっている。

私「知ってるけど、『出る出る、うんち』じゃあ、なかったかな?」
子「そう、それ!」
私「それがどうしたの?」
子「うちに、ある」と。

 こういうとき、「だれが使っているの?」と聞いてはいけない。
そう聞くと、子どもは、口を閉ざす。

私「だれが使っているか、言ってはいけないよ。わかった?」
子「ママだよ」と。


(カイロ)

 今日、背中にカイロを入れた。
接着テープがついていなかった。
夕方になると、それがだんだんと下がってきて、尻のあたりまできた。

私「困ったヨ〜。カイロがこんなところまで、下りてきちゃったあ」
子「どこ、どこ?」
私「ほら、お尻だ!」と。

 カイロは、ズボンの分け目のところで、止まっていた。
それを私はうしろから手を入れ、外に取り出した。
取り出しながら、「いけねえ、うんちがついてしまったア!」と。

 とたん、子どもたちが、蜂の巣をつついたように騒ぎ出した。
ギャーッ、と。

 私はそのカイロを、A君に向かって、投げた。
A君はそれをB君に投げた。
投げながら、子どもたちは、ギャーギャーと喜んだ。

私の言ったことが冗談であることを、みな、よく知っている。
うんちなど、ついていない。
つきあいは長い。
年中児のときからだから、もう5、6年になる。
言い忘れたが、小学3年生の子どもたちである。

 みなでカイロを投げて遊んだ。
楽しかった。


(年少児クラス)

 子どもたちが、母親に連れられて、教室の見学にやってきた。
みな、年少児(4歳児)である。
この4月から、私の教室へ入ってくれるかもしれない。
で、たまたま年中児の子どもたちが欠席していたこともある。
そのため今日は、そのクラスは、年少児クラスになった。
1人、2歳の子ども(生徒の弟)も、加わった。

 ところで数の臨界期は、4歳前後ではないか?
この時期に、(数)の感覚を教えておかないと、あとあと(数)に鋭い子どもにはならない。
わかりやすく言えば、(数)の得意、不得意は、この時期に決まる。
が、相手は4歳児。
見た目には反応のない子どもたちだが、見た目にだまされてはいけない。
脳は、その裏で、猛烈な勢いで記憶を蓄積している。

そこで重要なことは、この時期、(数)についての感覚を、ちょうど種まきのように
植えつけておくこと。
(できる、できない)は、どうでもよい。
(楽しんだか、どうか)、それが重要。
「楽しかった」という前向きな姿勢が、子どもを伸ばす。
(数)を好きな子どもにする。
それが(数)に鋭い子どもにする。

 本当は、年少児あたりの指導を、もっとしてみたい。
……と思いつつ、今日はレッスンを始めた。
ていねいに、かつ、慎重に!
その模様は、ビデオカメラに収めた。
YOUTUBEに、アプロードした。
興味のある人は、どうか、見てほしい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【LSホテルにて】(浜名湖、浜松市)(2010−1−17)

●眠られぬ夜

++++++++++++++++++++

今夜は、この原稿を、浜名湖畔にある、
LSホテルの一室で書いている。
本来なら、1泊、2万8500円のホテルだが、
1泊、5000円でよいとのこと。
それなりのホテルかなと思って泊まってみたが、
案内されて、びっくり!
仰天!
13階建てホテルの、最上階。
ペントハウス!
いろいろなホテルに泊まったことがあるが、
こんな部屋に泊まったことはない。
(外国で泊まったホテルをのぞく。)

豪華というより、ぜいたく。
私のような下賎の者には、かえって落ち着かない。
そのため、かえって眠られなくなってしまった。
ベッドに入って、しばらく目を閉じる。
あれこれ考える。
が、「眠らなければ・・・」と思えば思うほど、
頭が冴えてしまう。
それに今日は、昼寝もしていない。

しかたないので、枕もとの電灯をつけて、パソコンのふたをあける。
時刻はわからない。
恐らく午前0時をすでに過ぎていると思う。

++++++++++++++++++++++

●自然体で

 こういう眠られぬ夜は、珍しくない。
月に、1、2度はある。
そういうときは、無理をしない。
一説によると、2晩や3晩、人間は眠らなくても、どうということはないそうだ。
だから焦らない。
なるようにしか、ならない。
眠くなったら、眠ればよい。
それまで好きなことをすればよい。
で、今が、そのとき。

 ワイフは横のベッドで、寝息をたてている。
いっしょに来た長男は、隣の和室で眠っている。
全体で、25坪くらいはある。
この部屋だけでも、15、6畳。
窓のそばには、60インチを超える、大型液晶テレビがすえつけてある。
和室にも、40インチのテレビ。
「こういうところに泊まる人もいるのだなあ」と思いつつ、改めて部屋の周囲を見回す。

●講演

 今朝はA町の教育委員会のほうで呼ばれて、講演をしてきた。
話しやすかった。
みな、真剣に聞いてくれた。
終わりごろ、何人かの女性が、懸命に泣くのをこらえて、顔をまっかにしていた。
「どうして泣いているんだろう?」と思いつつ、私は視線をそらして話した。
そういうときは、そういう人たちの顔を、できるだけ見ないようにしている。

 あとでそのことをワイフに告げると、ワイフは、こう言った。
「花粉症か何かではなかったの?」と。
そうだったかもしれない。
そうでなかったかもしれない。

 で、午後はふつうの仕事をして、夕方遅く、このホテルにやってきた。
料理は和食。
おいしかったが、ホテルの経営者の方に申し訳なく、居心地が、あまりよくなかった。
そういう点では、私は、小物。
見分不相応の場所にくると、すぐこうなってしまう。

●健康寿命

 今日、講演の中で、こう言った。
「私も、平均寿命まで、あと16年を切りました」と。
自分でそう言っておきながら、その言葉が、今ごろ気になりだした。
(平均寿命)−10年が、(健康寿命)ということになる。
健康寿命で計算すると、残りは、あと6年。
それから10年は、病気と闘い。
徐々に死に向かう。

 16年といっても、あっという間に過ぎる。
現在、満63歳だから、16年を引くと、47歳ということになる。
あれこれと、自分が47歳だったころのことを思い浮かべてみる。
その47歳のときから、今日まで、あっという間。
だからこの先、16年も、同じように、あるいはさらに加速されて、あっという間に、
過ぎていくにちがいない。

 いろいろあった。
今まで、いろいろあった。
そういうことを考えながら、私も覚悟を決める年齢になってきた。
死ぬ覚悟というより、いつ死を宣告されても動揺しないという覚悟。

だから今日もがんばった。
今も、がんばっている。
明日も、がんばろう。

●幸福

 近く、大学の同窓会がある。
ホテルの予約も済んだ。
今日、列車の切符の予約も済んだ。
長男も行くというので、予定外の家族旅行になった。

「雪が見られるよ」と言うと、ワイフも長男も、うれしそうだった。
ここしばらく私も、本格的な雪を見ていない。
それに今の時期は、ズワイ蟹がおいしい。
長男の好物は、蟹。
「ぼくは同窓会に行くけど、お前たちは、どこかで蟹でも食べてきな」と言うと、
ワイフと長男は、さらにうれしそうな顔をした。
横顔だったが、長男の顔に、幼児のころのあの、あどけない笑みが浮かんだ。
うれしかった。

 父親にとって、息子というのは、何歳になっても息子。
夜、ベッドの中に入ったとき、私はふとワイフにこう言った。

「二男も三男も、遠くへ去ってしまったけど、ぼくは、今、幸福だよ。
幸福すぎて、こわいほどだよ」と。

●同じ台詞

 目の前には、大きな鏡がある。
そこに私の顔が、部屋全体の風景とともに、映っている。
皺だらけの、ジジ臭い顔。
体重を落としたせいか、顔が細くなったような気がする。
そんな顔を見ながら、「お前も年を取ったな」と、声をかける。
何かをしてきたようで、結局は、何もできなかった。
「明日こそは・・・」と、いつも思うだけ。
思うだけで、何もできない。
いつも空振り。
無念と言えば無念だが、だからといって、どうしようもない。

 が、また今も、同じ台詞(せりふ)を口にする。
「明日こそは!」と。

 やりたいこと、やるべきことを、頭の中で、いろいろ考える。
いつもだったら、そのまま眠くなって眠ってしまう。
が、今夜は、眠くならない。
先ほど、精神安定剤を半錠、それに睡眠導入剤を、ひとかけら口の中で
溶かした。
もうすぐそれが効いてくるはず。
今は、静かにそれを待つ。

●パソコン

 そう言えば、昨日、N君(小3男児)の母親から、こんなことを頼まれた。
「息子にパソコンを買ってやりたいが、ついては先生(=私)のほうで、よいのを
選んでくれないか」と。

 こういう依頼は、大歓迎。
さっそく昨夜、家に帰ってから、いろいろな雑誌から記事を切り抜く。
DVD(CD)ドライブがついているのと、ついていないのとでは、値段が大きくちがう。
ついていなければ、外付けのドライブを、別に購入しなければならない。
それにウィルス・セキュリティソフトはマスト(=必需品)。
そんな話を、N君の母親に話した。
それについて、「先生に任すから、注文してほしい」と。

 こういう依頼は、自分のことのようにうれしい。
どういうわけか、うれしい。
まるで自分が、新しいパソコンを買うような気分。
「昨年の秋モデルだったら、3〜4万円は安く買えますよ」と教えてやった。
明日にでも電話して、もう少し詳しく話を聞いてみよう。

●静かな夜

 眠られぬ夜は、そっと自分の心を夜にゆだねればよい。
無理をしない。
頭の中に、現れては消える雑念。
それにそっと耳を傾ければよい。

 窓の外には、浜名湖をはさんで、遠くに町の明かりが見える。
カーテン越しに、それがぼんやりとした光となって、そこに見える。
まばたきもしない。
いや、たった今、信号の明かりが、赤から青に変った。
その間を、赤いテールランプを灯して、車が去っていく。

 静かな夜。
おだやかな夜。
睡魔がかすかに脳裏をかすめた。
まぶたが重くなった。
「このまま眠られるかな?」と。
かすかな不安は残るが、ここでパソコンの電源を落とすことにした。

 みなさん、おやすみなさい。
今日も、ありきたりの一日が、終わった。
「明日こそは、がんばろう」と。

●翌朝

 今、起きたところ。
風呂は、朝6時から、入れるとのこと。
時刻は、6時37分。
あまりよく眠られなかった。

 ベッドが西洋式で、硬かった。
それに暖房が、少し効きすぎていた。
寝苦しかった。
数回、夜中に目をさました。

 テーブルには、手書きのあいさつ状。
それに今日の天気予報が記されていた。
それには、曇り、ときどき晴れと書いてあった。
こまかい気配りが、かえって私の心を重くする。
「温泉でも入れればいい」と、軽い気持ちでやってきた。
その軽い気持ちが、部屋に入ったとたん、吹き飛んでしまった。
あとで礼状を書くにも、どうやって書けばいいのか。

●朝風呂

 朝風呂は、部屋の中の風呂ですますことにした。
鏡を見ると、髪の毛が、ボサボサ。
で、このまた風呂がすごい。
超ハイテク。
ジェット水流付き。
「こんな風呂に入っていいのかなあ?」と声をかけると、ワイフは、
「いいんじゃないの」と。
私よりいつも、ワイフのほうが、大物。
肝っ玉がすわっている。

 ・・・ということで、思いがけず、今日は旅行気分。
目の前に広がる浜名湖の写真を、何枚か取った。
これから朝食を済ませて、そのまま帰るつもり。

 さあ、今日こそ、がんばるぞ!
みなさん、おはようございます。
LSホテルのみなさん、ありがとうございました。

(講演は、「BW公開教室」→「2010年2月」に収録、
「LSホテルでの一泊」は、「音楽と私」の2010年2月のところに収録。)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●2月14日

●不気味な足音

++++++++++++++++++++

あちこちのニュース・サイトをのぞいた。
その中でも、ドキッとしたのが、NIKKEI
(日本経済新聞社)の、つぎのニュース。

新興国から、資金が流出し始めているという。
そのため、BRICS株が、年初より、
6〜13%も下落しているという。

NIKKEI・サイトは、つぎのように伝える。

++++++++++++++++++++

『・・・ BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)の直近の株価は年初来高値と
比較した下落率(終値ベース)がそれぞれ6〜13%に達した。米調査会社EPFRグロー
バルによると新興国株式ファンドの投資は、1月下旬から資金流出額が流入額を上回って
推移している。主要な新興国通貨も対米ドルで下落に転じている』(NIKKEI・2/
14)。

 BRICSの株価が下がったことが問題ではない。
(下がった)のは、あくまでも(結果)。
(資金が流出し始めている)のが、問題。
その結果、株価が下落した。

 現在、これらの国々は、バブル経済で踊っている。
そのバブル経済が、今、少しずつだが、はじけ始めている(?)。
仮に中国のバブル経済がはじけたら、その爆発力は、ドバイショックの比ではない。
「威力は1000倍」と説く、経済学者さえいる。

 外債を買っている人たちは、じゅうぶん、注意+警戒したらよい。
08年のリーマンショックで、50〜70%の損失を出した人は多い。
そういう人たちは、何とか元だけは取り戻したいと、売るに売れない外債をかかえ、
じっと塩漬けにしている。
がまんしている。

 しかし今度中国でバブル経済がはじけたら、50〜70%の損失ではすまなくなる。
へたをすれば、3分の1、あるいはそれ以下になる。
私の知人の中には、08年のリーマンショックで、約1億円分の外債を、10分の
1以下にしてしまった人がいる。

 ギリシャのデフォルト(国家破綻)問題は、EUが乗り出し、今のところ平静を
取り戻している。
しかしそれで問題が解決したわけではない。
この先、何が起こるか、だれにもわからない。
どの国が、最初にこけるか、だれにもわからない。
しかし不気味な足音だけは、私にも聞こえる。
それがジワジワと近づきつつある。

NIKKEIのニュースを読んで、私は、それを感じた。
(2010年2月14日朝、記)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【老人心理】

●生活範囲

老人というのは、年をとれば取るほど、
生活範囲が小さくなる。
小さくなるというよりは、外の世界を
もてあますようになる。
その結果として、身のまわりを小さく
していく。
それだけではない。
「あれもできない」「これもできない」と。
逃げ腰になる。
ますます生活範囲が小さくなる。
それはわかる。

が、こんな老夫婦がいる。
私の母もそうだったので、これは老人に
共通した心理かもしれない。
こんな老夫婦である。

●ある老夫婦

私の近くに、ともに85歳になる老夫婦がいる。
2人とも、数キロ離れたところにある、
有料の老人ホームに住んでいる。
ところが、である。
毎日、そのうちのどちらかが、家にやってきて、
家の窓を開ける。
開けたあと、また老人ホームへと戻っていく。

夕方になると、今度は、その反対のことをする。
そのうちのどちらかが、家に帰ってきて、
家の窓を閉める。
閉めたあと、たいていはそのまま、また老人ホームへと
戻っていく。
ときどき、家に泊まることもある。

どうしてだろう?
どうして、そんな一見、無駄に見えるような
行動を繰り返すのだろう?

●私の母も

で、私は最初、こう思った。
「家の中に、たとえばタンス預金か何かがあって、
それを心配しているためではないか」と。
空き家とわかれば、泥棒が入るかもしれない。
あるいは何か、盗まれて困るようなものが、
あるのかもしれない。
が、どうもそれだけでは、ないようだ。

先に、「私の母もそうだった」と書いた。
つまり私の母は、世間体を気にして、
店だけは、どんなことがあっても、閉めなかった。
自分自身が入院したときも、また店を預かる
兄が入院したときも、そうだった。

私が「しばらく休業しますという張り紙でも
しておけばよい」と言ったときのこと。
母は、血相を変えて、それに反対した。

店を閉めるということは、母にしてみれば、
敗北を認めるようなもの。
だれに対してというのではない。
直接的には、世間体を気にして、ということになる。
母は、人一倍、世間体を気にしていた。
もちろんそこには、自分自身に対して、という意味も含まれる。
だからどんなときでも、店だけは開けていた。
私はそう理解した。

●最後の砦

で、先の老人夫婦だが、私が知るかぎり、
妻のほうは、世間体をあまり気にしていないようだ。
夫のほうが、気にしている。

こうした心理状態というのは、私も含めて、
若い人たちには、理解できないものかもしれない。
が、そこに(小さな世界)を重ね合わせてみると、
老人特有の心理状態が浮かびあがってくる。

家の窓を開けておくというのは、あるいは店を
開けておくというのは、そうした老人たちにとっては、
最後の砦(とりで)ということになる。

もし窓を閉めたり、店を閉めたりすれば、自ら、
社会とのつながりを切ることになる。
それは同時に、自分自身が、死の待合室に入った
ことを意味する。
が、それだけは、何としても認めたくない。
避けたい。
そういう思いが、窓を開け、店を開けるという
心理へとつながっていく。

●虚勢

が、この話は、何も、老人たちだけのことではない。
よく定年退職した人が、虚勢を張ることがある。
「退職はしたが、まだ別の組織でがんばっている」と。
年賀状などに、そう書いてくる人もいる。
しかし虚勢は虚勢。
つまりこうした虚勢にしても、その中身は、
負けを認めたくないという心理によるもの。
負けを認めたとたん、そのまま老人の世界に埋没
してしまう。
だからがんばる。
ふんばる。
が、それも長続きしない。
やがて負けを認めざるをえないときがやってくる。

仕事そのものがなくなる。
健康をそこねる。
こうして加齢とともに、老人は、社会の隅へ隅へと、
追いやられていく。
ますます小さな世界に、閉じ込められるようになる。
その結果として、あの独特の心理状態になる。

毎日、家の窓だけは、開ける。
毎日、店だけは、開ける、と。

●教訓

が、このことから、私たちはもうひとつ、
重要なことを知る。

人間は社会的な動物である。
社会あっての個人ということになる。
社会がなければ、個人はない。
だから自分を、社会から切り離して
生きていくことはできない。
切り離したとたん、「息(いき)る」という
状態になる。
ただ息をしているという状態になる。

つまりその社会が、小さくなればなるほど、
心の世界もまた、小さくなるということ。
あるいは、その反対でもよい。
数学的に言えば、その人の住む社会と、
心の世界は、比例する。

●2倍の人生

もちろん心の世界というのは、広ければ
広いほどよい。
仮に2倍、広ければ、その人の人生は、
2倍、豊かになる。
3倍、広ければ、その人の人生は、
3倍、豊かになる。
そのためには、自分の住む世界を、広くする。
が、それとて、簡単なことではない。
そうでなくても、先にも書いたように、
どんどんと小さくなっていく。
広くするためには、それと闘わなければ
ならない。

いや、広くするなどということは、ありえない。
現状維持だけで、精一杯。
またそれができるだけでも、御の字。
が、闘う。
またそういう強い意思があってはじめて、
自分の心の世界を、維持することができる。

でないと、結局は、先の老人夫婦や、私の
母のようになってしまう。

●最後の最後

もっとも、その老人夫婦は、ともに85歳。
私の母も、92歳で、他界している。
平均寿命を超えている。
その年齢の老人たちの住む世界が小さいからといって、
それを批判しても意味はない。
しかし人生の(長さ)は、数字では決まらない。
(密度)で決まる。
そのことも考えあわせるなら、住む世界が
広ければ広いほど、密度が濃くなる。
人生が長くなる。

で、私たちは今、こう言って、そういう
老人たちを笑う。
「つまらないことを心配している」と。
しかし私やあなたも、そうならないという
保証は、どこにもない。
20年後の私も、ひょっとしたら、その
老夫婦のように、あるいは私の母のように、
窓だけは開けておきたい、
店だけは開けておきたいと、
がんばるようになるかもしれない。

最後の、そのまた最後の砦として・・・。


Hiroshi Hayashi++++++Feb.2010++++++はやし浩司

●身勝手

 仕事がないと、怒る。
仕事がありすぎても、怒る。
若いときは、その許容範囲が、広かった。
しかし年を取ると、その許容範囲が狭くなる

言い換えると、孤独。
仕事がないと孤独。
言い換えると、体力の限界。
仕事がありすぎても、体力がつづかない。
だから許容範囲が、どうしても狭くなる。

 今の私がそうかもしれない。
「怒る」といっても、自分に怒る。
だれに怒っても、しかたない。

 が、私はがんばるしかない。
選択の余地はない。
そこにある道に沿って、その上を歩くしかない。
4月から、仕事が忙しくなりそう。
一時は、仕事を減らすことばかり考えていた。
しかしその考えは、正しくなかった。
逆に言うと、どうして減らさなければならないのか。
どうして老人をめざして、生きなければならないのか。
 
 「がんばってやる」という思いがあるからこそ、
今朝も、歩いた。
ウォーキング・マシーンの上で、歩いた。
昨日まで10分だったが、今朝からは20分にした。
じんわりとした汗を背中に感じたとき、
それが「まだがんばれる」という実感に変わった。

 暇なことを嘆いてもしかたない。
忙しいことを嘆いてもしかたない。
暇だったら、仕事を作ればよい。
忙しかったら、それを感謝すればよい。
その緊張感こそが、重要。
昔からこう言う。

『流水は腐らず』と。

 こわいのは、「水」が止まったとき。
そのとき水はよどみ、腐る。
精神は、腐る。

 さあ、今朝も始まった。
がんばろう!
(2010年5月16日)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 老後の生き甲斐 老人心理 老人の心理 老後問題 団塊の世代 最
後の砦)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【北朝鮮問題】

●9000億円の超大型投資!

+++++++++++++++++++++

とんでもないニュースが飛び込んできた。
何でも中国が、国連による制裁議決を無視して、
北朝鮮に対して、9000億円もの、
投資をするという。
時事通信は、つぎのように伝える。

『韓国の聯合ニュースは2月15日、先に行われた中国の王家瑞共産党対外連絡部長の訪
朝で、鉄道や住宅など100億ドル(約9000億円)以上の北朝鮮に対する投資計画が
まとまったと報じた。統計にもよるが、これは北朝鮮の国内総生産(GDP)の7割にも
当たる巨額の計画となる。北朝鮮の外資誘致にかかわる朝鮮テプン国際投資グループの消
息筋の情報として伝えた。

 事実であれば、核問題をめぐる6カ国協議復帰の見返りとして、中国が北朝鮮に投資を
約束したとの見方もある』(時事通信)と。 

 それを受けて、即座に北朝鮮が反応した。
聯合ニュースは、つぎのように伝える。

『北朝鮮の金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長が15日、今後は対話と交
渉を通じ米朝の敵対関係を終息させるとの考えを示した。朝鮮中央通信が報じた。

 金委員長は、金正日(キム・ジョンイル)総書記の68回目の誕生日(16日)を翌日
に控え平壌の4・25文化会館で開かれた中央報告大会に出席。「自主、平和、親善の旗を
高く掲げ、国の間の善隣友好関係を発展させ、世界の自主化を実現するため、力強く闘争
していく」と述べ、このように強調した』と。

++++++++++++++++++

●日本の無能外交

 こうした動きに対して、日本および韓国は、ただ指をくわえて見ているだけ。
もし9000億円の超大型投資が実施されれば、国連による制裁決議そのものが、
破綻する。
が、それだけではない。
北朝鮮は、核開発を加速させる。

一方、朝鮮半島の北半分は、中国の勢力下に入る。
豊富な鉱物資源は、そっくりそのまま中国の手中に落ちる。
韓国にしても、「独島(竹島)」どころの話ではない。
(わかったか、韓国!)
さらにこれらの動きに歩調を合わせるかのように、北朝鮮は、海外投資解放区を
設定した。
中国からの投資を、そのまま解放区に向けようという魂胆。

 となると、開城(ケソン)工業団地など、ものの数ではない。
北朝鮮は、韓国人を追い出したあと、諸設備、人員をそっくりそのままその解放区に
移動させる。
(わかったか、韓国!)

●北朝鮮の崩壊

 あと一歩で、本当にあと一歩で、北朝鮮は、内部崩壊する。
その矢先での、この発表。
9000億円!
中国は、北朝鮮の内部崩壊を、何よりも恐れている。
朝鮮半島の混乱を恐れているのではない。
その混乱に乗じて、韓国やアメリカが、支配権を拡大するのを恐れている。

 北朝鮮の核兵器など、中国にとっては、痛くもかゆくも、何ともない。
中国は、すでに数百発以上もの核兵器を実戦配備している。
いざとなれば、数日で北朝鮮を、制圧できる。
そんな中国に、6か国協議の議長を頼んだアメリカ、韓国、日本が、バカだった。
あえて言うなら、泥棒に、自分の家の管理を任せたようなもの。

 が、日本も韓国も、何もできない。
その能力もない。
時折しも、日米関係は、最悪。
……というより、こうした一連の動きの裏に、アメリカがいたとみるべき。
すでに中国は、アメリカとの間で、合意を取りつけている。
その証拠に、アメリカは、それに対して、何ら、反応していない。
ダンマリを決め込んでいる。
本来なら、アメリカは、即座に反応してよいはず。
つまり、またもや日本は、アメリカに裏切られた。
ボズワースが、頻繁に中国を訪れていた理由が、これでわかった!

●さあ、どうする、日本!

 打つ手なしの日本。
狼狽する韓国。
「ヤッター!」と歓喜する、北朝鮮。
ニンマリとほくそ笑む、中国。
「ザマーミロ!」と、日本を笑うアメリカ。

 言うなれば荒野の荒くれ男たち。
腰からピストルを抜き、バンバンと撃ちはなっている。
そんな荒くれ男たちを前に、日本は立ち向かおうにも、その力もない。
武器もない。
「国際制裁決議、違反!」と声をあげることもできない。
ただニコニコ笑いながら、あとをついていくだけ。
何しろ日本の宰相は、世界に名だたる、マザxx総理。
手下の幹事長に牛耳られた、あやxx総理。
母親の悪口を言われただけで、顔を赤くし、手を震わせる。

 何とも情けない話だが、これが日本の現状。
置かれた立場。

 で、北朝鮮は、6か国協議には出てくるだろう。
しかしすぐには、核兵器開発を放棄しない。
つまり6か国協議は、北朝鮮への、見返り協議となる。
もっとわかりやすく言えば、「北朝鮮援助会議」となる。

 すでに北朝鮮は、数年前、中国を介して、日本に戦後補償費を打診してきている。
その額、驚くなかれ、100兆円(当時)。
他の5か国は、日本に向かって、「金を出せ」と迫ってくる。
(わかっているのか、日本!)
が、それだけではすまない。
その先にあるのは、「日本解体」。
TOYOTA車のリコール問題にしても、その第一歩にすぎない。

 何度も書くが、「対米追従外交反対」(寺島)も結構だが、時期尚早だった。
「東アジア何とか構想」(鳩山)にしても、稚拙。
アメリカを怒らせただけ。

 私が日本の総理大臣なら、猛烈なSTOP攻撃をしかける。
もちろん中国との間の大げんかになる。
しかし9000億円というのは、ハンパな額ではない。
先の国連による制裁決議を考えるなら、日本としては当然、怒ってよい話である。
が、怒ることもしない。
怒ることもできない。

 ア〜アと嘆いたところで、この話は、おしまい。
まさに日本としては、打つ手なし。
八方ふさがり。
袋小路。
しばらく北朝鮮の動きを静観するしかない。

ただ唯一の希望は、中国がそうした動きに出てきたのは、つまりそれだけ北朝鮮の
内部状況が悪化しているということ。
北朝鮮の内部崩壊が先か、それとも中国の投資が先か。
今は、そういう状況。
だから、静観あるのみ。
日本は何だかんだと理由をこじつけて、6か国協議を遅らせたらよい。
けっして中国、北朝鮮のペーズにはまってはいけない。

(2010−2−16記)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●大学生、貧乏盛り

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親元から離れて暮らす大学生への仕送り額が、
25年前の水準まで落ち込んでいることが10日、
全国大学生活協同組合連合会(東京)の調査でわかった。
(以上、読売新聞記事より)

++++++++++++++++++

 読売新聞は、つぎのように伝える(2010年2月10日)。

 『・・・調査は全国31大学の学生を対象に昨年10〜11月に実施し、9660人か
ら回答があった。

 マンションやアパートなど自宅外(寮を除く)から通う大学生への仕送り額は、月7万
4060円(前年比3520円減)で、月7万4240円だった1984年並みに下がっ
た。仕送りゼロと回答した学生は全体の10・2%(同1・9ポイント増)に上り、70
年以降で初めて1割を突破した。

 不況の影響からアルバイト収入も減少し、月2万2370円(同2230円減)となっ
た。奨学金は前年比2100円増の月2万6430円で、仕送りなどの減収分を補ってい
る様子がうかがえる。

 一方、支出を切り詰める傾向も続き、住居費以外の支出はすべて減少。特に食費は月2
万3350円(同1080円減)で、1976年以降で最低の金額になった。

 大学生協連では「08年秋のリーマンショック以降、親の生活が厳しくなり、仕送りが
減っている。アルバイトにも頼れず、弁当を持参したり、研究室に炊飯器を持ち込んでご
飯を炊いたりといった食費節約の努力をする学生が目立つ」と話している』(以上、読売新
聞より)。

●月、7万4060円

 親からの仕送り額の平均は、月、7万4060円。
この額は、1984年並という。
25年前というと、私が、37、8歳のころ。
私が大きな転機を迎えたころである。

 このころ、私は、2つの世界から、足を洗った。
ひとつは、東洋医学の世界。
もうひとつは、教材作りの世界。
幼児教室も、閉鎖寸前まで追い込まれた。
私にとっても、何かときびしい状況だった。

 もっとも貧乏学生の話になれば、私だって負けない。
この私だって、学生のころ、実家からの仕送りは、1年生のとき、8000〜9000円。
4年のときも、1万2000円前後だった。
つまり下宿代だけ。
学費、その他の諸費用は、すべてバイトで稼がねばならなかった。
(学費は、月額1000円で安かった。1年生のとき。)

●奨学金制度の充実を!

 欧米では、奨学金制度が発達している。
企業も、「税金としてどうせ取られるなら・・・」と、その分を奨学金として、学生に渡し
ている。
つまり奨学金として支出すれば、その分だけ、税金から控除される。
そのため学生たちは、「どこの大学へ入るか」よりも、「どこから奨学金を得るか」のほう
に、より強い関心をもっている。
そのために動き回る。
いくら大学への入学が決まっても、お金がなければ、勉強できない。

 もちろん優秀な学生には、大学からも奨学金が出る。
が、日本では、それをしない。
奨学金制度が貧弱なことは、すでにみなさん、ご存知のとおり。
理由など、今さら、ここに書くまでもない。

●貧乏は悪いことではない

 若いうちに、貧乏をしっかりと経験しておく。
そこを原点として、あとは、はい上がる。
ただバイト、バイトの学生生活にも、問題がある。
本を買うためにバイトというのはわかるが、携帯端末の使用料金のためにバイトというの
は、おかしい。
いわんや遊興費を稼ぐためにバイトということなら、もとから大学など行かなければよい。
その前に、「何のための大学か」ということになる。

 大学の英文科といっても、高校の教科書より簡単なテキストを使っているところは、い
くらでもある。
最近もある女子大生(英文科3年)にこう聞いてみたことがある。
「目的格補語って、何?」と。
するとその女子大生は隣にいた別の女子大生に話しかけながら、「何だったけ? どこかで
聞いたことがある〜〜ウ」と。

 そこそこに名前の通った、私立の大学である。

●学費

 もちろんこの7万4060円には、大学への納入学費は含まれていない。
またこの額は、あくまでも平均。
読売新聞の記事にも書いてあるように、仕送りゼロと回答した学生が、全体の10・2%
もいることに、注目しなければならない。

 月に、20〜30万円も仕送りをしてもらっている学生がいる一方、ゼロの学生もいる。
さらに親に車を買ってもらったり、何かの資格を取るためと親をだまし、金を取っている
学生もいる。
そういう学生も含めて、平均「7万4060円」である。

 が、「仕送りゼロ」というのは、私にも想像がつかない。
私のばあいもバイトをしたが、試験期間中は、それもできなかった。
そんなときは、朝、夕の2食だけで、何とか生き延びた。
最長、20日間、生き延びた。
夏場は、大学のプールを風呂代わりにした。
ときどきパチンコ屋を回り、落ちている玉を拾って、それでタバコ代を稼いだこともある。
が、それとて下宿代だけは、親に出してもらったから、できた。

 「仕送りゼロ」というのは、「勉強もゼロ」ということではないのか。
10年ほど前だが、年に数回、講義に顔を出しただけで卒業できたと投書欄に投書してい
た大学生(?)すら、いた。

●無駄な教育

 無駄な教育イコール、税金の無駄づかいと考えてよい。
もとから勉学意識のない学生が、大学に入る。
だから遊ぶ。
国にそれだけの余裕があれば、話も別だが、今のような状況で、子どもたちに、そこまで
ぜいたくをさせる必要はない。
大学をもっと選別して、閉鎖すべき大学は、閉鎖する。

 一方、お金をかけるべき学生には、お金をかける。
お金をかけるべき大学には、お金をかける。
たとえば大学への進学率を、欧米並みに日本ももっと下げたらよい。
少なくとも少子化に並行して、大学の数を減らすべきではないのか。

 が、それもだめなら、これも欧米並に、落第制度をもっときびしく活用したらよい。
「年に数回、講義に・・・」という学生がいること自体、異常なのである。

 (1)奨学金制度の充実。(2)大学の選別化。(3)落第制度の厳格化。

 読売新聞の記事を読んで、私は、この3つを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 仕送り額 平均仕送り額 

+++++++++++++

ついでに以前書いた原稿を
再掲載します。

+++++++++++++

●教育費の公的支出割合

++++++++++++++++++++++++++++++

日本の公的支出割合は、OECD(経済協力開発機構)の
調査によれば、対GDP比において、日本は3・3%と、28
か国中、下から2番目だった(2009年9月9日)。

わかりやすく言えば、その分だけ親の負担が大きいということ。
「全教育費に占める私費負担の割合は、33・3%と、
韓国に次いで、2番目に高く、平均の2倍以上だった」(中日新聞)と。

++++++++++++++++++++++++++++++

●子ども大学生、親、貧乏盛り(When boys are Univ. students, Parents in Japan are the 
poorest.)

++++++++++++++++++

8年前(2001年)に書いた
原稿を、再掲載。

++++++++++++++++++

子どもの教育費を考える法(学費を安くせよ!)

親が子どもの学費で苦労するとき

●親、貧乏盛り  

 少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人送ると、月々の仕送りだけで、毎月二七
万円(九九年東京地区私大教職員組合連合調べ、学費含む)(※)。が、それだけではすま
ない。アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に四
〇〜五〇万円はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インタ
ーネットも常識。となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これ
また常識。世間は子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! そ
んなわけで昔は、『子ども育ち盛り、親、貧乏盛り』と言ったが、今は、『子ども大学生、
親、貧乏盛り』という。大学生を二人かかえたら、たいての家の家計はパンクする。

●親の負担が大きい日本

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、
さがさなければならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税
法上の控除制度があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。し
かも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少な
い。欧米各国が、七〜九%(スウェーデン九・〇、カナダ八・二、アメリカ六・八)。日本
はこの一〇年間、毎年四・五%前後で推移している(UNESCO調べ)。大学進学率が高
いにもかかわらず、対GNP比が少ないということは、それだけ親の負担が大きいという
こと。日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、四兆円という大金を使
った。それだけのお金があれば、全国二〇〇万人の大学生に、それぞれ二〇〇万円ずつの
奨学金を渡せる!

●もの言わぬ従順な民

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰も文句を言わない。教育というのは
そういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識
は、世界に名だたるもので、戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的にたたき込まれて
いる。いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、英雄化され、大河ドラマとして放
映されている! 日本のこの後進性は、一体、どこからくるのか。親は親で、教育といい
ながら、その教育を、あくまでも個人的利益の追求の場と位置づけている。世間は世間で、
「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考えている。だ
から隣人が、子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さが積
もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、三〇年は遅れている。その意識となると、五〇年は
遅れている。かつてジョン・レノンが日本の税関で身柄を拘束されたとき、彼はこう叫ん
だ。「こんなところで、子どもを育てたくない」と。「こんなところ」というのは、日本の
ことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろあって、そう言ったのだろうが、それからほ
ぼ三〇年。この状態はいまだに変わっていない。もしジョン・レノンが生きていたら、き
っとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫を育てたくない」と。私も三人の子どもを
もっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫のことを思うと、
気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。

(参考)

※……東京地区私立大学教職員組合連合の調査(一九九九年)によると、関東圏内の三一
の私大に通う大学生のうち、約九三〇〇人の学生について調べたところ、次のようなこと
がわ
かったという。親の平均年収       ……一〇三四万円(前年度より二四万円減)
受験費、住居費、学費、仕送りの合計金額 ……三二二万円
子どものために借金した親        ……二八・〇%(自宅外通学のばあい)
親の平均借り入れ額           ……一七六万円
教育費の負担が「たいへん重い」と答えた親……四四・六%
 このため、子どもの学費は、親の年収の三一・八%を占め、平均仕送り額は、一二万一
〇〇〇円。そこから家賃の五万六九〇〇円を差し引くと、自宅外通学生の生活費は六万四
〇〇〇円ということになる(以上一九九八年度)。

(参考)

●かたよった日本の行政予算

 これは2001年度、静岡県浜松市における予算案だが、それによれば、歳出のうち、
土木費が25・0%、民生費が19・5%、公債費が12・1%、教育費が10・3%、
衛生費が9・4%、以下総務費9・3%、商工費4・5%、となっている。

 教育費が少ないのはともかくも、土木費が25%(4分の1)というのは、世界的にみ
ても異常としか言いようがない。家計にたとえるなら、月収50万円の人が、毎月、13
万円ものお金を家や庭の増改築に使っているようなものだ。こうしたいびつな予算配分が、
結局は子どもをもつ親の負担となってはね返ってくることを忘れてはならない。

+++++以上、2001年ごろ書いた原稿より(中日新聞掲載済み)+++++

 この中で、1999年の調査結果を書いた。
ここに出てくる数字と、今回公表された数字を比較してみたい。

【1999年】

スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8)。日本はこの10年間、毎年4・5%
前後で推移している(UNESCO調べ)。

【2006年】(今回、公表)

アイスランド……7・2%
デンマーク、スウェーデンとつづき、
日本は、2005年の3・4%より、さらに0・1%さがり、3・3%。

とくに大学などの高等教育費は、0・5%と、各国平均の1%の半分以下!
『子ども、大学生、親、貧乏盛り』の意味は、ここにある。

 今回政権を取った民主党は、これを5%にするといっている。
おおいに期待したい。
が、同時に、こんなことも言える。

 私などは国民年金しかないので、死ぬまで働くしかないと思っている。
が、その一方で、月額30万円前後の年金を手にして、優雅な生活を楽しんでいる
老人も多い。
そういう老人個人には、責任はないが、こんな偏(かたよ)った行政予算をしている
国は、OECDの調査結果を見てもわかるように、この日本だけ。

 どうして元公務員たちの年金が、私たちの5倍近くもあるのか!
最近、私の友人はこう言った。

「この日本では、自営業など、バカ臭くて、そのうちだれもしなくなるだろう」と。
ホント!
江戸時代の士農工商という身分制度が、形を変えて、そのまま現代の世界に復活している。
「士」だけが特権階級を形成し、残りの93〜94%の民衆は、増税にあえぐ。

 そのあたりから根本的に改善しないかぎり、結局はそのしわ寄せは、子どもをもつ
親にのしかかってくる。

 それにしても、たったの3・3%とは!
その一方で、土木費が、25%!
どこの公共施設も、超の上に超がつくほど、立派。
豪華。
そんな施設の中で、何が、「育児相談会」だ。
笑わせるな!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【服装の乱れ?】(国母和宏選手の服装の乱れ問題)(改)

●「日本人よ、障子を開けて、外を見ろ」

+++++++++++++++++++

国母和宏選手(東海大)の公式服装の着方が
乱れていたと批判されている問題で、日本選手団の
橋本聖子団長は12日(日本時間13日)、
同夜開催される開会式への国母選手の出席を
取りやめさせると発表した。
(2010年2月)

+++++++++++++++++++

●報道記事より

 まず毎日JPの記事を紹介する。

++++++++++++以下、毎日JPより++++++++++++++

バンクーバー五輪のスノーボード・男子ハーフパイプ日本代表、国母和宏選手(東海大)
の公式服装の着方が乱れていたと批判されている問題で、日本選手団の橋本聖子団長は
12日(日本時間13日)、同夜開催される開会式への国母選手の出席を取りやめさせる
と発表した。17日に予定されている競技には、橋本団長の判断で参加できることにな
った。国母選手は会見に同席し、「責任を重く感じています」と謝罪した。

 国母選手は会見で「応援してくださる方々に、雪の上でいい滑りを見せられるよう頑張
ります」と述べ、開会式については「チームのみんなと出たかった。残念です」とした。

 批判の電話などが多数寄せられた全日本スキー連盟(SAJ)では、日本オリンピック
委員会(JOC)に国母選手の大会出場辞退を申し出た。これを受け、橋本団長が12日
に国母選手と話し合った結果、大会出場を認めることが決まった。橋本団長は「私がすべ
ての責任を負い、全力でサポートしたい」とした。また、「責任を取るのは大会で自分を出
し切ること。子供たちに夢を与えるのが、いまの彼の仕事だ。本人は反省している」と述
べた。

 国母選手はバンクーバーに移動した際、公式ブレザーを着用しながら、ネクタイを緩め、
ズボンを腰の低い位置まで下げるなどしていた。また、10日に開かれた会見では「反省
してまーす」と語尾を伸ばして語ったが、反省の色が見られないとの批判も出ていた。

++++++++++++以上、毎日JPより++++++++++++++

つづいて、YAHOO NEWSより

++++++++++++以下、YAHOO NEWSより++++++++++++++

スノーボード男子ハーフパイプ日本代表の国母和宏選手(東海大)の、公式服装の乱れと
会見での態度が問題となっている件について、国母選手が在学する東海大学がWebサイト
に「大学といたしましても誠に遺憾に思っております」などとする見解を掲載した。

++++++++++++以上、YAHOO NEWSより++++++++++++++

また毎日新聞は、つぎのように報じている。

++++++++++++以下、毎日新聞より++++++++++++++

公式服装が乱れていたと批判されているスノーボード男子ハーフパイプ日本代表、国母
和宏(東海大)は、12日(日本時間13日)に行われた開会式の出席を取りやめた。
同日午前、日本選手団の橋本聖子団長と話し合いを持ち、国母に参加自粛を促した。全
日本スキー連盟は出場辞退を申し出ていたが、橋本団長の判断で、17日の競技には出
場する。

 国母と橋本団長は12日、記者会見して謝罪した

++++++++++++以上、毎日新聞より++++++++++++++

●東京オリンピック

 私が高校生のとき、東京オリンピックが開催された。
もう40年以上も前のことである。
そのときのこと。

日本選手団は、一糸乱れぬ入場行進をして見せた。
「一糸乱れぬ」である。
歩き方、顔の向け方、礼の仕方、などなど。
手の上げ方、その角度まで、同じだった。
それを報道しながら、ニュースキャスターたちは、「すばらしい行進です」と、ほめちぎっ
た。

 が、一方、欧米の選手たちは、バラバラ。
バラバラというより、行進の「体」をなしていなかった。
それを見て、その当時の私は、「何と、だらしない行進なんだろう」と思った。
思ったが、今から思うと、私というより、日本人の感覚ほうが、世界の常識から、ずれて
いた。

●乱れた服装?

 「国母選手はバンクーバーに移動した際、公式ブレザーを着用しながら、ネクタイを緩
め、ズボンを腰の低い位置まで下げるなどしていた」という。
写真も紹介されていたが、髪の毛も、長髪で、アフリカン・スタイル。
シャツも、そでが外に出ていた。

 が、結論から先に言えば、どうしてそれが乱れた服装なのか?
国母選手は、国母選手なりに、そういう服装を、意図的に、かつ、ファッショナブルに表
現してみせた。
私はその写真を見たとき、「マイケル・ジャクソン、そっくり」と思った。
つまりマイケル・ジャクソンの服装に、よく似ていた。
それがわからなければ、あのビル・ゲイツ氏を見ればよい。
彼は世界中を飛び回って、公式の場で講演を重ねている。
が、いつもヨレヨレのシャツに、ジーパン姿である。

●きちんとした服装

 一方、ではきちんとした服装というのは、どういう服装をいうのか?
「講演」という言葉を使ったので、私のことを書く。

 私は今でも、講演をするたびに、どんな服装で行くべきか、悩む。
本当なら、ありのままの服装で行きたい。
ありのままの服装で、ありのままの自分を話したい。

 が、会場がホテルであったり、何かの大会であったりすると、どうしても服装まで、硬
くなってしまう。
ネクタイを締め、ブレザーを着て行く。
が、そのつど、こう思う。
「どうしてこんな服装をしなければならないのか?」と。
日ごろの私は、そんな格好など、したことがない。

●ファッション

 ファッションということになれば、国母選手の服装は、どこも乱れていない。
腰パンがだめだというなら、どうしてだめなのか、その理由をきちんと説明できる人はい
るだろうか。
自分たちの服装とちがうからといって、それを乱れていると考えるなら、それこそ、まち
がっている。
まちがっていることは、人生を半世紀以上生きた人なら、みなわかる。

 たとえば江戸時代には、職業によって、着物の色が決まっていた。
柄や使う色の数も制限されていた。
そうした名残は、戦後になっても残っていて、「ホワイトカラー」とか、「ブルーカラー」
という言葉になった。
江戸時代には、士農工商の工民は、青い色の着物しか着られなかった。
それが「ブルーカラー」になった。

 さらに言えば、私が子どものころには、(男の色)、(女の色)というのまで決まっていた。
だから男の私が、赤いズボンや、赤いシャツを着るなどということは、考えられなかった。
考えられなかったというより、ありえなかった。

●画一性

 画一性が、いかに不気味なものであるかは、その外の世界に住んでいる人にはわかる。
あのOM事件のとき、OM真理教の信者たちは、みな、白い装束に身を包んでいた。
それを見て、だれしも、不気味と感じた。

 が、そう思う私たちだって、欧米人から見た、私たちの姿に気づいていない。

 あるアメリカ人(女性、当時30歳くらい)は、こう言った。
「ヒロシ、この前、海へ行って、驚いた。
日本の女子高校生たちは、みな、黒い水着で泳いでいた。
気味が悪かった」と。

 そこで私が、「では、アメリカの高校生たちは、どんな水着で泳ぐのか」と聞くと、その
女性は、こう言った。
「みんな、自分の好きな水着を着る」と。
この話は、30年近くも前の話だが、それ以後、日本人の意識が変わったかというと、そ
れはない。
というより、欧米人の感覚は、さらに先に進んでいる。

●意識のちがい

 服装が乱れているかどうかは、結局は、それを着る人、見る人の意識の問題ということ
になる。

 「乱れている」という基準は、他人に不快感を与えるかどうかで決まる。
そのとき、自分のもっている基準で、その服装を判断してはいけない。
たとえば臭いとか、不潔とか、そういうことであれば、「乱れている」ということになる。
しかし腰パンであろうが、シャツのそでが出ていようが、あるいはユルユル・ネクタイで
あろうが、どうしてそれが問題なのか?

 国がちがえば、服装もちがう。
たとえば子どもたちは、「男の人がスカートをはいたら、おかしい」と言う。
しかし世界には、男でも、スカート、もしくはそれに似た服を着ている民族は、いくらで
もいる。
スコットランドやマレーシアを例にあげるまでも、ない。
インドネシアの民族衣装だって、それに近い。

●自由の象徴

 40年以上も前の、あの東京オリンピックを思い出してみてほしい。
残念ながら、団長の橋本聖子氏は若い。
若いから、当時の日本を知らない。
だから「乱れている」という。
しかし今、日本の選手団だって、欧米人にならって、バラバラの入場行進をしているでは
ないか。
またそのほうが自然。
「自由」の象徴。
「乱れている」というのなら、あのころを基準にすれば、日本の選手団全員、乱れている。
開会式を、全員、辞退したらよい。

●ルール?

 「一糸乱れぬ」という、あのきわめて全体主義的な、どこかの独裁国家の軍事パレード
的な行進感覚が、いまだに、この日本に残っている。
今回の国母選手の服装問題に関する記事を読んだとき、まっさきに、私はそれを感じた。
むしろ欧米人の感覚からすれば、「日本人も変わったなあ」と、むしろそちらのほうに感心
するかもしれない。

 日本人というと、画一的でおもしろくない。
それが欧米人がもつ、日本人観である。
そうした感覚は、欧米の映画に出てくる日本人を見れば、よくわかる。
欧米的であることが、すべて正しいというわけではない。
しかし一度は、欧米人の視点から、日本をながめてみたらよい。
むしろ今だに、学校の教科書よろしく、制服を決め、その着方まで決めている日本のほう
が、おかしい。
狂っている。

 日本のオリンピック理事会は、「スポーツにはルールがある」というようなことを理由に
して、国母選手を非難している。
ルール?

 ルールは、競技の世界でこそ、守るべきもの。
またそこで守れば、じゅうぶん。
どうして服装にまで、ルールがあるのか?

●軍国主義時代の亡霊

 恐らくさらに40年後には、開会式の服装すら、自由になるだろう。
今は、それはわからない。
私たちだって、40以上も前の、あの東京オリンピックのとき、あの行進を見て、「日本人
はすばらしい」と思った。
しかし今になってみると、私たち日本人のほうが、世界の(非常識)だった。
軍国主義時代の亡霊を、そのまま引きずっていた。

 そのことは、あのK国の軍事パレードを見ればわかる。
ああいう軍事パレードをする国を、だれも「正常」とは思わない。
自由が一方にあって、その上で、ああした行進をするなら、まだ理解できる。
しかし国全体が、そして国民一人ひとりが、みな、日常生活の中で、軍事パレードをして
いる。

 もちろん、あのK国には、思想の自由はない。

●反省?

 まあ、あえて言うなら、国母選手の服装は、発展途上国である、この日本では、早すぎ
たということ。
理解されなかったということ。
おおかたの日本人は、眉をひそめたであろう。
そういう(常識)の壁を破るのは、簡単なことではない。
また国母選手も、そこまで肝がすわっていたわけではない。

 だから記者会見場では、頭をさげ、うなだれていた。
橋本聖子団長は、こう述べた。
「責任を取るのは大会で自分を出し切ること。子供たちに夢を与えるのが、いまの彼の仕
事だ。本人は反省している」と。

 「子どもたちの夢」?
・・・いろいろ書きたいことはある。
山ほどある。
が、そんなことで、子どもたちの夢は、破れない。
またそんなことは、夢でも何でもない。
もしそうなら、マイケル・ジャクソンは、世界中の子どもたちの夢をつぶしたことになる。

●結論

 日本人よ、もうこういうバカげた画一性を、他人に押しつけるのをやめよう。
オリンピック選手は、競技の場で、勝負すればよい。
どんな格好あろうが、またどんな服装をして行こうが、そんなことは競技とは関係ない。
そういう(自由)が基本にあって、その上で、何らかの統一性をもたせるというのであれ
ば、それはそれ。
私も納得する。
しかしその(自由)も知らないような民族が、過去の亡霊に引きずるのは、まちがってい
る。

 何も教科書問題とからめるわけではないが、欧米先進国の中で、「検定制度」をもうけて
いるのは、この日本だけ。
文科省は、「国定と検定はちがう」と反論している。
が、どこもちがわない。

 また「欧米にも検定機関がある」と反論しているが、オーストラリアにしても、検閲す
るのは、(性的表現)と(暴力的表現)のみ。
むしろ(歴史)などは、検閲してはいけないと、釘をさしている。

 国母選手が、あっさりと謝ってしまったことのほうが、問題。
本来なら、教育の自由を守るべき母校の大学が、国母選手を批判しているほうが問題。
どうして出身校の大学が、「大学といたしましても誠に遺憾に思っております」などと発言
するのか。
発言できるのか。
それこそ、世界の笑い物。

 欧米では、今では、大学の単位は共通化され、「出身校」という概念そのものがない。
だからこうした発想は、欧米では、まったく理解されない。
報道記事の中には、「国母和宏選手(東海大)」と、わざわざ大学名を入れているのもある。
つまりこうした書き方そのものも、世界の非常識。

 今回の国母選手の、服装問題を考えたとき、私の結論は、ただひとつ。
日本人よ、「障子をあけて外を見ろ」(豊田佐吉の言葉より)。

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リンピック 開会式辞退 はやし浩司 国母和宏選手)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

2月13日、今朝、あれこれ

 一雨ごとに、寒くなったり、暖かくなったり・・・。
数日前は、一度、4月の陽気になった。
が、一転、今朝は、寒い。

 朝、起きると一番に、ウォーキングマシンで、20分、歩いた。
このところ、運動不足。
現在体重は、2キロオーバーの、62・2キロ。
食事の量を減らしているが、やはり運動不足。
明日あたり、ワイフと近くの山に登ってみよう。

●金(ゴールド)バブルの崩壊?

 金(ゴールド)の価格が、グイグイとさがって、少し戻し、またグイグイと
さがっている。
こういうときあわてて金に手を出すと、ババをつかむことになる。
金バブルが、崩壊しつつある。

 数か月前、1オンスが1000ドルを超え、それが1200ドルを超えた。
日本では、グラム、3600円前後まであがった。
メチャメチャな額と言ってよい。
で、昨日あたりは、3200円台。
底をみきわめるのは難しいが、長期的な流れをみると、2800円台が正常値。
バブル崩壊ということになれば、さらにさがる。
さがったまま、その価格で低迷する。
こういうときは、一歩退いて、静観するのがよい。

●K国情勢

 あのK国が、いよいよおかしくなってきた。
もとからおかしい国だから、今さら、驚かない。
しかしそれ以上に、おかしくなってきた。

 日本にとって最善のシナリオ・・・それはK国を自然崩壊に導くこと。
朝鮮半島が混乱して困るのは、韓国と中国。
この日本ではない。

 あえてこちらから喧嘩することはないが、韓国や中国に対して、おかしな友邦
意識をもつのは禁物。
国の(距離)は、メジャーで計ってはいけない。
メジャーでは、計れない。
距離的に近いからといって、「近い国」ということにはならない。
韓国や中国は、日本にとっては、もっとも遠い国。
K国は、さらに遠い国。

 韓国では、このところ毎日のように、TOYOTAのリコール問題を一面で
報じている。
もちろんこの日本のことを心配して、ではない。
彼らにしてみれば、それがうれしくてたまらない。
アメリカでは、TOYOTAから現代車に乗り換えたら、1000ドル割り引くという
キャンペーンを始めた。
昔も今も、韓国という国は、日本にとって、そういう国である。

●不気味な上海B株

 バブルといえば、中国。
中国経済。
いつそのバブルがはじけるか?
ハラハラ、ドキドキ・・・。
中国政府は金利を高めに誘導して、バブルの沈静化を始めた。
しかし焚き火でも、水をかぶせすぎると、爆発する。

 すでに世界の機関投資家たちは、どうやって私たち庶民にババを引かせるか、
その準備段階に入った。
つまり私たち素人にババを引かせて、そのまま逃げる。

 そこらのオジチャンやオバチャンが、書店の金融雑誌コーナーに並ぶようになったら、
あぶない。
そのとき、中国経済は、崩壊する。
注視、上海B株!

●2年前の記事

 2年前の6月26日の、ABC・NEWSを読む。
それには、こうある。
「N. Korea Gives Up Some of Its Nuke Secrets」、つまり「北朝鮮、
核開発の秘密をあきらめる」と(2008年6月26日)。

 08年といえば、あのC・ヒル氏が、ひとりではしゃいでいたときである。
そのC・ヒル氏の報告に基づいて、時のジョージ・ブッシュ大統領は、
「今日、北朝鮮は、核開発の詳細な内容を示した資料を、アメリカ政府に
渡した」(同ABC・NEWS)と。

 そしてさらにこれに基づいて、アメリカ政府は、北朝鮮を、テロ支援指定国家
から解除し、さらに「"Axis of Evil" - off the list of countries that support "terror."」、
つまり「悪の枢軸」という呼び名を改めた(同)。

 記事には、それを誇らしげに発表するG・ブッシュ大統領の写真が掲載されている。

 C・ヒル氏が、G・ブッシュ大統領に、どのようなことを報告したかは知らない。
が、このとき北朝鮮から渡された資料というのは、ペラペラの、数枚の程度の紙だった
という。
そのことは、あとになってわかった。

 つまりこの記事を読んだだけでも、当時のアメリカ政府が、いかに方向音痴だったかが
わかる。
が、その流れは、今も変わっていない。
アメリカにも官僚主義というのがある。
その官僚たちの思考回路は、今も、同じ。
ボズワースの動きから、目を離してはいけない。

●小沢一郎幹事長

 方向音痴といえば、民主党。
不支持率が、支持率をとうとう超えてしまった。
「小沢一郎、やめろコール」が、80%近くにまで上昇している。
にもかかわらず、鳩山首相は、「小沢続投」と。

方向音痴というか、自分たちが今、どこにいるかさえ、わからなくなってしまった(?)。
今は、そんな感じがする。

●今日は土曜日

 とくに予定はないが、午後5時に、1人、人に会う約束になっている。
が、私は、休日に、こうした約束を入れるのが好きではない。
それによって、せっかくの休日が、その約束によって制約されてしまう。
窮屈といえば、窮屈。
「5時までに、帰ってこなければならない」とか、「5時には、家にいなければ
ならない」とか。
そんなふうに考えてしまう。
しかし約束した以上、しかたない。
会うしかない。

 とくにやりたいことはないが、今日は、「合成写真」にチャレンジしてみたい。
新しいソフトが手に入った。
2枚の写真をうまく合成すると、たとえば私が、火星の上を歩いているかのような
写真にすることができる。
今までも何度かやってみたが、意外と難しい。

 ・・・そう言えば、またまた私のビョーキが始まった。
何でもよい。
新しい電子機器がほしい。
メチャメチャ複雑なものほど、よい。
分厚い説明書がついているのが、よい。
箱を開けたとき、電子機器特有の、あのにおいがプ〜ンと出てくる。
あれがたまらない。
ズシリとした説明書。
それを手にしたときの感触が、たまらない!

 線条体の中に、そういう受容体ができてしまっている。
そこへ猛烈な勢いで、ドーパミンが作用している。
私には、それがよくわかる。

 これから早速、ソフトをインストールして、写真を合成してみたい。
・・・ということで、今日も始まった。
時刻は、もうすぐ午前7時になるところ。

 みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●文章力

 このところ文章力が落ちてきたように思う。
あとで自分で読み返してみたようなとき、それがわかる。
「文章力」といっても、「表現力」のことではない。

(「表現力」というのは、その文章のもつ(深み)によって決まる。
より深く考える。
そのより深く考えた部分を、どう表現するか。
切り口が深い文章ほど、またそれがよくわかる文章ほど、よい。
それを決めるのが、「表現力」ということになる。)

一方、文章力というのは、いかに適切な言葉で、的確に表現するか、その力をいう。
読みやすければ読みやすいほど、よい。
その力が落ちてくると、あとで読みなおしてみたようなとき、「こういう言葉を使えば
よかった」とか、「どうしてこんな回りくどい言い方をしたのか」と思うことが多くなる。

それにこのところ、言葉の使い方にも、ミスが多くなった。
「表す」と書くべきところを、「現す」と書くなど。

たとえばここでいう「文章力」というのも、正確には、「文章表記力」ということになる。
しかし「表記力」というのも、おかしい。
正しくは、何というのか?
 
 それに文章全体がもつリズムも大切。
私はそのリズムを大切にしているが、調子が悪いときに書いた文章には、そのリズムが
ない。
これもあとで読み返してみたようなとき、それがわかる。
よい文章というのは、読んでいても、気持ちよい。
書いてあることが、スイスイと頭の中に入っていく。
そうでないときは、一文ごとに、食べものが喉でひっかかるように、頭の中でひっかかる。
読んでも意味がわからないというのは、文章としては、最悪。
誤解されるというのも、よくない。

 で、ためしに何か、書いてみる。
(1)の文章は、未校正、未推敲の文章。
(2)の文章は、(1)の文章を校正、推敲したもの。
たまたま今、テレビで、衆院予算委員会の国会中継をしている。
それを見ながら、感じたことを書いてみる。

(1)国会中継

 ハイビジョン画像になると、議員の髪の毛一本一本まで、はっきりと映る。
たった今、鳩山首相が答弁に立ったが、うっすらと化粧している様子まで、よくわかる。
それに・・・今、気がついたが、鳩山首相の手作が、小刻みに震えている。
血栓性の脳梗塞か何か、あるのかもしれない。
ハイビジョンというのは、そこまでテレビに映し出す。

(2)国会中継

 ハイビジョンテレビでは、議員の髪の毛一本一本まで、はっきりと見える。
たった今も、鳩山首相が答弁に立ったが、うっすらと化粧をしている。
そんな様子まで、わかる。
それに・・・今、気がついたが、鳩山首相の手先が、小刻みに震えている(?)。
小刻みだが、たしかに震えている。
血栓性の脳梗塞か何か、あるのかもしれない。
そういう意味では、ハイビジョンテレビというのは、恐ろしい。
そこまでこまかくテレビに映し出す。
・・・映し出してしまう。

 (1)の文章より、(2)の文章のほうが、私はよいと思うが、それは私の印象。
そこでその印象をたしかなものにするために、しばらく文章を熟成させてみる。
「熟成」というのは、少し時間をおいて、読みなおしてみるということ。
そのとき、コツがある。
その文章を、自分の文章としてではなく、他人の文章として読む。
一歩、退いて読む。
もちろんそのとき、内容的に正しいかどうかも、判断する。

 こうして文章というのは、文章になる。
つまりこうして、よみやすい文章を書く力が、「文章力」ということになる。
その文章力が、落ちてきた。

 あとで読みなおしてみたとき、自分でも、下手な文章だなと思うときがある。
以前は、あまりそういうことはなかったが、このところ、そう思うことが多くなった。
それだけ集中力が落ちてきたのかもしれない。
勘が鈍ってきたのかもしれない。

 言い忘れたが、文章力というのは、しばらく書いてないと、確実に低下する。
大切なことは、毎日書くこと。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●茶番劇

++++++++++++++++++++++

あなたは大会社の常務。
実質上の会社のオーナー。
その会社で、あなたの若い部下が、不祥事を犯した。
あなたの知らないところで、あなたの印鑑を
勝手に持ち出し、私文書を偽造した。
何億というあなたの個人資産を、右から左へと動かした。

そのためあなたに、脱税の疑惑がかけられた。
あなたにとっては、まったく身に覚えのない話。
それどころか、あなたはそれによって、検事に二度まで取り調べられた。

もしそういうとき、あなたなら、どうするだろうか?
あなたなら、あなたの部下をどうするだろうか?

あなたがその常務なら、まっ先にあなたは、その部下をクビにするだろう。
背任罪で訴えるかもしれない。
横領はなかったにしても、あなたが受けた心的被害には、ものすごいものがある。
怒りに狂って、夜も眠られないかもしれない。

が、あなたはその部下をクビにしなかった。
クビにしなかったばかりか、部下のもとには、あなたの、腹心中の腹心の
弁護士を送った。
会社の顧問弁護士である。
で、部下は起訴され、拘置所から出てきた。
その部下に、あなたは、こう言った。

「そっと見守りたい」と。
???
怒るどころか、「そっと見守りたい」と。

こんなバカげた話が、どこにある?
こんな茶番劇が、どこにある?
それが今度の小沢疑獄事件の核心である。

で、その部下は、意気揚々と、拘置所から出てきた。
満面の笑顔を浮かべながら、カメラに向かって、手を振った。
こう言った。
「しばらく役職を離れますが、今までどおり仕事をつづけます」と。

TBSNEWs−iは、つぎのように伝える。

+++++++++++以下、TBSNEWS−iより+++++++++++++

 民主党・小沢幹事長の資金管理団体の政治資金規正法違反事件で起訴された元秘書の石
川知裕衆院議員が、近く離党を表明し、12日にも離党届を提出する見通しとなりました。

 石川議員に近い民主党中堅議員によりますと、石川議員は、「皆さんに迷惑はかけたくな
い」と述べ、離党する考えを伝えました。ただ、国会議員は辞職せず、今後も議員活動を
続けていく意向だということです。

 また、小沢氏に近い民主党中堅議員によりますと、石川議員は近く離党を表明し、12
日にも離党届を党本部に提出するとの見通しを示しました。

 石川議員の処遇をめぐっては「離党しなければ党内はまとまらない」など、離党は避け
られないという見方が大勢で、石川議員もこうした意見をもとに判断したものとみられま
す。

 一方、10日夕方、新党大地の鈴木代表と会談した小沢氏は、「そっと見守りたい」と述
べて、石川議員の判断を尊重する考えを示したということです。
(2010年2月10日)

+++++++++++以上、TBSNEWS−iより+++++++++++++

●「もし・・・」

 それが茶番劇かどうかは、「もし・・・」を、頭につけて考えてみれば、よい。
それでわかる。
それで簡単に見破ることができる。
このばあいは、「もし、本当に、小沢氏が、無実であるとするなら・・・」という前提で考
えてみればよい。

 もし小沢氏が無実であるとするなら、小沢氏の秘書に5000万円という大金を渡した
業者の話は、どうなる?
業者がウソをついているか、それとも、小沢氏の秘書が、ネコババしたことになる。
「5000万円」というのは、明らかになった金額。
実際には、ワイロとして動いた金額は、10億円とも、あるいは、それ以上とも言われて
いる。

 業者は、秘書に、「5000万円を渡した」と言っている。
具体的に渡したときの状況まで、証言している。
もしそうなら、つまり業者が言っていることが本当なら、秘書がそのお金をネコババした
ことになる。
あなたが「会社の常務」なら、そういうときどう判断するだろうか。
業者を疑う前に、あなたの部下を疑うだろう。
部下を問いただすだろう。
そして部下が逮捕されたら、あなた自身が、真相の究明を求めるはず。
警察や検事の取り調べに、積極的に協力するはず。
どうしてそんなとき、会社の顧問弁護士を、毎日のように拘置所へ送るだろうか。

・・・回りくどい言い方はやめよう。
民主党は、全体として、「記載ミス」を主張している。
「たかが記載ミス程度のことで、秘書が逮捕された」と。
しかしこういうのを、「すり替え」という。
わかっているくせに、つまり他人(=私たち一般庶民)をごまかすために、そういう。
が、天下の、あの東京地検特捜部が、たかが記載ミス程度のことで、動くか!
ものごとは、常識で考えろ!

 目的は、贈収賄罪。
しかも金額がちがう。
桁がちがう。

 が、秘書たちのかたい結束を打ち破ることができなかった。
みな、「知らぬ、存ぜぬ」を繰り返した。
5000万円についても、「受け取った覚えはない」と。
ということで、秘書たちは起訴されたが、そのお金を受け取ったであろうだれかは、
罪を問われることはなかった。

 民主党幹部は、鳩山総理大臣も含めて、「これで一件落着」と、無言を貫いている。
民主党内部でも、だれもそれを問題にしない。
声をあげるものも、いない。
残るは、野党となった自民党だが、自民党にしても、へたに騒げば、まさにヤブヘビ。
おかしな共存関係。

 何とも言えない、脱力感。
無力感。
「日本の政治も、こんなものかなあ」という思い。
「こんなことで、いいはずはないのになあ」という思い。
あるいは、「政治って、だれがやっても同じなのかなあ」という思い。
そういう思いが、つぎつぎと現れては、また消える。

 ただ大切なことは、私たち1人ひとりが、もっと声をあげること。
おかしいものは、「おかしい」と、声をあげること。
時間はかかるかもしれないが、それが私たちの意識を変え、政治を変えていく。

(追記)

 小沢一郎幹事長は、こう言った。
「しばらく民主党政権はつづく」と。
私たちの感じている脱力感を見越しての発言とも、考えられる。
「自民党もだめ」「民主党もだめ」「では、どうすればいいのか?」と。

 つまり私たちの感じている脱力感を、逆手に取った。
「どうあがいても、オレたち、民主党しかないだろ」と。

 たしかにそうだが、そうであるからこそ、民主党、なかんずく小沢一郎幹事長は、
もう少し謙虚であるべきではないのか。
権力の座についたことをよいことに、傲慢になった・・・というより、なりすぎて
しまった。

 このまま鳩山政権が小沢一郎幹事長を、事実上の党首として、その存在を許すなら、
私たち浮動票層が、黙っていない。
とりあえずは、民意の力で、小沢一郎を、裁判所に引き出すこと。
その場で、白黒の決着をつけること。
そういう方向で、世論を高めていくしかない。
数日前の世論調査でも、80〜90%の国民は、今回の不起訴処分に納得していない。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 3月 10日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【福音(神の国)の世界】

●選択

+++++++++++++++++++

私たちはそのつど、自分の人生を
選択しながら、生きている。
「あっちへ行くか?」「こっちへ行くか?」と。
映画『DR. ペルナサスの鏡』の中に出てくる
台詞(せりふ)である。
で、地獄に落ちたDR.ペルナサスは、
地獄をさまよい歩きながら、最後にこう叫ぶ。
「もう選択はいやだ!」と。
とたん、彼は地獄から解放され、現実の世界へと
引き戻される・・・。

+++++++++++++++++++

●人生論

 「私」のまま、私の人生を生きている人は、いったい、どれだけいるだろうか。
「これが私の道」と、その道だけを信じて、まっすぐ進んでいる人は、いったい、
どれだけいるだろうか。

 たいていの人は、私も含めて、そのつど角にぶつかり、選択をしながら、生きている。
「あっちの道へ行こうか、こっちの道へ行こうか?」と。
毎日が、その連続といってもよい。
そしていつの間にか、自分の意思とは無関係に、まったく別の道に入ってしまう。
そういう意味では、善人も悪人も、紙一重。
成功者も失敗者も、紙一重。
大きくちがうようで、どこもちがわない。
それが人生。
私やあなたの人生。

●運命

 私たちの心と体には、無数の糸が、からみついている。
過去の糸、生い立ちの糸、社会の糸、仕事の糸、血縁の糸、そして家族の糸などなど。
「糸」が悪いというのではない。
ときに、その糸に励まされ、生きる目的を与えられる。
心の安らぎを得ることもある。

 しかしその糸が、これまたときとして、私やあなたの体にからみつき、
私やあなたを、まったく別の世界に、導いてしまうことがある。
ばあいによっては、糸の奴隷となってしまうこともある。
それを「運命」と呼ぶなら、運命というのは、たしかにある。
「右へ行きたい」と思っていても、心と体は、左へと引っ張られてしまう。
運命というのは複雑な方程式のようなもの。
(今の私)が、その答ということになる。

●自由

 キリスト教というと、「愛の宗教」と考える人は多い。
しかしキリストは愛だけを説いたわけではない。
もうひとつ、「自由」を説いた。
「愛」を横軸とするなら、縦軸にあるのが、「自由」ということになる。
英語では、「liberation(解放)」という。
つまり魂の解放をいう。

 その解放とは何かということになれば、「選択と運命からの解放」ということになる。
私は、キリスト教の信仰者ではない。
これ以上のことはわからない。
が、キリストの説いた哲学は、まさに核心をついている。
なぜ私たちは生きているか。
なぜ私たちはここにいるか。
その答を示している。

つまり愛を横軸、自由を縦軸にして生きる。
それこそまさにキリスト教でいう、「福音の世界」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 自由 愛 愛と自由 魂の解放 福音の世界)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●兄の泣き声(改) 

+++++++++++++++++

今でも、ときどき兄の泣き声が聞こえてくる。
今日も聞こえた。
少し前も聞こえた。
兄は、父や母に叱られると、決まって二階の
一番奥の部屋にやってきて、そこで泣いた。

私とは9歳ちがうから、そのとき兄は、
20歳前後ではなかったか。
私が小学生のころである。

兄は手のひらで自分の鼻を下から、すくいあげる
ようにして泣いていた。
オーオー、オーオー、と。

「準ちゃん、何が悲しいのか?」と声をかけても、
兄は、ただ泣くばかり。
鼻水をたらたらと流しながら、ただ泣くばかり。

それは私にとっては、過去ではない。
遠い昔の話でもない。
今でも、兄は、そこにいて、泣いている。
今でも、その声が聞こえてくる。

それはつまり私の心の傷。
傷の声。
傷の泣き声。
オーオー、オーオー、と。

++++++++++++++++++

●心の傷

 私の心の傷は、いやされるのか?
それとも死ぬまで、その傷に苦しむのか?
一生、私は、それを背負って生きていかねばならないのか?
いつかは忘れることができるだろうと思っていた。
いつかは解放されるだろうと思っていた。
しかし心の傷は、そんな生やさしいものではない。
いつもそこにあって、ジワジワと私の心をむしばむ。
いつ晴れるともなく、心の壁に張りついている。

 言いようのない孤立感と焦燥感。
毎晩のように見る、悪夢。
いつも何かに追い立てられている・・・。

 だれに話すこともない、私の過去。
暗くて、ジメジメした、私の過去。
その過去が、今も、そこにあって、私を苦しめる。
今夜も、またワイフに言ってしまった。
「離婚してあげようか?」と。
ワイフはさみしそうな声で、こう答えた。
「本当に、そうしたいの?」と。

 本当は離婚など、したくない。
別れたくない。
しかし私は、自分の心をどうすることもできない。

だれにも心を許さない。
心を開かない。
そういう私で、さみしい思いをしているのは、ワイフ。
そのワイフを、私がからませている鎖から、解放してやりたい。
私がいなければ、ワイフが幸福になれる。
そんな思いから、私自身も私を解放することができない。

 心の傷というのは、そういうもの。
いつも私の中にいて、私を、裏から操る。
操りながら、私をあざ笑う。

 ああ、今日も聞こえる、兄の泣き声。
オーオー、オーオー、と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 心の傷 トラウマ 兄の泣き声)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●セキュリティーソフト

+++++++++++++++++++

パソコンに、セキュリティーソフトは、必需品。
そのセキュリティーソフト。
いろいろな製品が発売になっている。

以下、「Mr.PC」(vol.1、P121)に出ていた
記事を、そのまま掲載させてもらう。

+++++++++++++++++++

G DATA  ・・・99・80%(99・80%)・・・1時間に1回以上更新
avast   ・・・99・30%(98・30%)
F−Secure・・・99・20%(99・60%)
Norton  ・・・98・70%(95・40%)・・・15分おきに更新
・・・
McAfee  ・・・93・60%(94・50%)

SourcenextウィルスセキュリティーZERO・・・92・10%(94・0
0%)・・・週に6回更新

数値は、「マルウェアの検出率」、(かっこ)内は、アドウェア・スパイウェアの検出率。

++++++++++++++++++

 こうして並べてみると、一目瞭然。
しかも更新頻度にいたっては、メーカーによって、大きな差がある。
で、こう書くと、「Sourcenext社のウィルスセキュリティーZERO」の悪口に
なってしまうが、私は、7〜8台のパソコンすべてに、同社の製品をインストールしてき
た。
が、あまりの低品質に驚いた。
(原稿の責任は、Mr.PCにとってもらう。)

現在12社から発売しているウィルスセキュリティーソフトの中でも、下から2番目。
しかも無料のウィルスセキュリティーソフトよりも、検出精度が低い(?)。
また「更新頻度は、無料のセキュリティーと同じ」(同誌)とか!

 この記事を読んだとき、ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
「それなりにいいソフト」と思い込んでいた。
しかし検出度が、1%さがると、約10000のウィルスを見逃すことになるという。
もちろん99・99%だからといって、安心できるわけではない。
しかしそれにしても・・・。
「ZERO」の更新が、週に6回程度だったとは知らなかった。

 「更新料がいくらZERO」でも、これではZEROの意味がない。
ということで、今日、さっそく、パソコンのウィルスセキュリティーソフトを、購入。
すべて「G DATA」に乗り換えた。
かなりの出費と損失だったが、パソコンの健康には、代えられない。

●安全対策

 私のばあい、つぎのようにして、ウィルス(ボット)から、パソコンを守っている。

(1)仕事によって、パソコンを使い分けている。
(2)プロバイダーの、ウィルスチェック(有料版)を経由している。
(3)パソコン内部に、今回、「G DATA」を導入。
(4)あやしげなメールは即、削除。あやしげなサイトには、近づかない。

 とくに注意しているのが、私のウエブサイト(=ホームページ)。
ここにウィルスが仕込まれると、多くの読者に迷惑をかけることになる。
当然のことながら、頻繁に、ウィルスチェックを実行している。

 この世界でまずいのは、(知ったかぶり)。
パソコンの使い方に少し慣れてくると、あちこちに手を出す。
おかしなファイルをダウンロードしてみたり、動画サイトをのぞいてみたりする。
そのとき、つまり手を出したときに、ウィルスに感染する。
知らないなら知らないで、静かに、電気製品のひとつくらいに考えて、使う。
そうすれば、ウィルスに感染することはない。
私のワイフがそうだ。

 パソコンを立ち上げても、見るのはメールと、私や息子たちのサイト程度。
一通りみたら、そのままシャットダウン。
それでいつも、おしまい。
要するに、『触(さわ)らぬ神にたたりなし』。

●ウィルスへの認識

 実は、私も過去において、2度、ウィルスの侵入を許したことがある。
その人のパソコンにウィルスが侵入していて、ファイルを開いたとたん、こちらの
パソコンに感染してしまった。

 そのときのこと。

 Aさんは、私が電話でそれを報告すると、パニック状態になってしまった。
即座にパソコンを閉鎖し、パソコン自体をリカバリーした。

 Bさんは、やはり電話で連絡したのだが、まったく平気な様子だった。
罪の意識がないというか、「ぼくも被害者です」と言って、ヘラヘラと笑っていた。

 が、けっして笑ってすませられるような話ではない。
私はそのあと、1日かけて、パソコンをリカバリー(再セットアップ)した。
リカバリーが、いかにたいへんな作業であるかは、経験したことのある人なら、
みな知っている。
私はそのとき、つまりウィルスの侵入を知ったとき、体中に戦りつを覚えた。
ハラハラ、ドキドキしながら、リカバリーをした。

 ・・・ということで、ウィルス対策には、万全を期している。
先にも書いたように、パソコンの使い分けはもちろん、データ、ファイルは、そのつど、
コピーを取って保存している。
最悪のばあいをいつも想定し、いつでもリカバリーできる状態にしている。
ソフトを使って、ウィルス駆除という方法もあるが、私はこの方法を、信頼していない。
リカバリーが最善ということになる。
 
 要するに「安いからいい」と思って、値段の安いソフトを使ってはいけない。
(一方、値段が高いから安心ということでもない。
ちなみに、検出度1位の「G DATA」は、1年(1台分)で、4000円弱。
中には1万円以上もするソフトもある。

 「Mr.PC」誌は、こう書いている。
「結局な話、現時点での最強ソフトは、G DATA」(P122)と。
G DATAは、2本分のソフトの能力をもっている。
つまりソフト2本で、独立して、ウィルスをチェックする。
で、その乗り換え作業が先ほど、終了したところ。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●壊れる日本語

 今日、ある店で、たいやきを2枚買った。
1枚は、あずき。
これは私用。
もう1枚は、カスタード。
これはワイフ用。
そのときのこと、店の若い女性が、袋の詰めながら、こう言った。
「シタアンです」と。

 私は2度も聞き返した。
「シタアン?」
「どういう意味ですか?」と。
瞬間、ポルトガル語かとも思った。

 つまり「2枚重なっているが、下のたいやきが、あずきです」と。
私はそれを知ったとき、日本語そのものが、携端末機化していると感じた。
もちろん文章になっていない。
そればかりか、省略につづく省略。
つまりメチャメチャ。

 しかしこれも時の流れか?
携帯端末機世代がつぎの日本を背負うようになると、私がここに書いているような
文章は、消えてなくなるかもしれない。
たとえば、こうなる。

「・・・夕食まだ。おかず焼きそば。腹へった。油少し願う。ワイフ同意。私待つ」と。

 「それでいいのかなあ・・・?」と、かなり強い疑問を感じながら、たいやきを食べた。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日の講演(歴史の生き証人)

+++++++++++++++++++

これからN市の保険医師会主催の、講演会で
講師をすることになっている。

ドクターたちの集まりだから、その道の
専門家も多い。
だからというわけでもないが、今、ひとつの
ことを考えている。

この21世紀に入ってから、教育の世界が
大きく変わってきたということ。
「変わった」といっても、制度的な変化を
いうのではない。

現在、(教育)と(心理学)と(大脳生理学)の、
この3つの分野が、融合されつつあるということ。
私たちは今、たいへんおもしろい時代に、
遭遇しつつある。

今はまだわからないかもしれない。
しかしこのあと、20年とか、30年とか過ぎたあと、
「あの時代に、この3つの分野が融合した」という
ことが、わかるはず。

たとえば子どものやる気にしても、教育の世界では、
(弱化の原理)(強化の原理)という言葉を使う。
しかし大脳生理学の世界では、辺縁系にある帯状回という
組織が、どうやらそのやる気を司っていることが
わかってきた。
さらにカテコールアミンというホルモンが、やる気に
関係していることもわかってきた。

さらに言えば、フロイトが説いた「性的エネルギー」についても、
根源は、どうやら視床下部あたりが、それを司って
いることもわかってきた。
そこから発せられる信号が、ドーパミンの分泌を促し、
もろもろの欲望も、そこから生まれる。

さらに善悪感覚にしても、ホルモンの作用によるという
ことまでわかってきた。

「悪」については、まだ未解明な部分も多いが、
「善」については、同じく辺縁系にある、扁桃核が
司っている。

何かよいことをすると、大脳の皮質部のほうから
信号が送られ、それに反応して、扁桃核が
モルヒネ様のホルモンを分泌する。
エンケファリン系、エンドロフィン系のホルモンである。
それが大脳全体を、甘い陶酔感で満たす。

「いいことをすると、気持ちよい」というのは、
そういう原理による。
先にも書いたように、やる気については、カテコールアミン
というホルモンが関係している。
もっとも私自身は、それがどういうホルモンであるかは
知らない。
知らないが、生き生きと活動している子どもは、
表情も輝いている。
その(輝き)こそが、カテコールアミンと、考えてよい。
私は勝手にそう解釈している。

さらに近年の大脳生理学の発達には、驚くべきものがある。
最近になって、「敏感期」「臨界期」という言葉を
よく聞くようになった。

人間の基本中の基本は、実は、0歳から7か月前後までの
間に決定されるという考え方である。
従来、「乳幼児には記憶がない」と考えられていた。
しかしこれもとんでもないまちがいであることがわかってきた。
今から10年ほど前、ワシントン大学のメルツォフ教授がそれを発表した。
むしろこの時期、怒涛のごとく、記憶が蓄積されていることがわかった。

まだある。
今度は、それまで愛着行動は、親の側からの一方的なものと
考えられていた。
しかしこれについても、実は、乳幼児のほうからも、愛着行動が
発せられていることがわかってきた。
もちろん無意識のうち・・・というか、本能的なものだが、
あの乳幼児が育ててもらえるよう、自ら親に向かって働きかけを
している。
親に向かって、(赤ちゃんらしいかわいさ)を、子どものほうからも
発信する。
それを受けて、母親は、子どもに乳をくれる。

相互に愛着行動を繰り返すので、「ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)」
という。

さらに、たとえば(人間性)にしても、この時期に、その基礎が
形成される。
反対にこの時期をのがすと、人間性の基礎もままならなくなる。

野生児をその例にあげるまでもない。

また人間にも、ある種の鳥類に似た、「刷り込み」が
あることがわかってきた。
この時期を、「敏感期」と、心理学の世界では呼んでいる。

一方、大脳生理学の分野では、重に、脳の神経細胞の
研究の分野から、この時期の(刺激)が、重要な意味を
もつことがわかってきた。

これはモルモットでの実験だが、(というのも、人体で
人体実験をすることはできないので)、たとえば生後
直後から、モルモットの片目を何かで塞いでしまうと、
そのモルモットの視覚を司る神経細胞は、機能を停止
してしまうという。
停止するばかりか、その塞いだものを取り除いても、
神経細胞が再生するということはない。
(一部、輪郭だけは見えるようになるという説もあるが・・・。)

神経細胞の完成しているおとなであれば、一時的に
目を塞いだからといって、目が見えなくなるということはない。
しばらくすると、機能は回復してくる。

こうした事実から、乳幼児期における早期教育の重要性を、
説く人も多い。
この時期に適切な刺激を与えることによって、子どもが
本来的にもつ「力」を、外に引き出すことができる。
そうでなければ、ここに書いたように、脳の神経細胞そのものが、
そのまま退化(「退化」という言い方が適切かどうかは
知らないが・・・)してしまう。

この時期に音楽的な刺激を受けた子どもは、音感にすぐれた
才能を発揮するようになる。
そうでなければ、神経細胞そのものが、退化してしまう(?)。

こうした現象がもっとも顕著に現れたのが、「野生児」である。
インドで見つかったオオカミ少女を、今さら例にあげるまでもない。
その後、2人の少女は、死ぬまでインド政府によって手厚く
保護され、教育を受けたが、最後まで人間らしい心を
取り戻すことはなかった。

腹が減ったときだけ、動物的な声を張り上げて、「怒った」と
いうような記録は残っている。

大脳生理学の分野では、この時期を、「臨界期」と
呼んでいる。
教育の世界でいう「敏感期」と同じに考えてよいのでは
ないだろうか。

こうして(教育)と、(心理学)と、(大脳生理学)が、
今、三つ巴になって融合し始めている。

考えてみれば、これはものすごいことではないか。
それぞれの分野で、未解明だったり、経験的にわかって
いたにすぎなかったことが、今、解明されようとして
いる。
私たちはその歴史の生き証人として、まさにその
時代の中で、それを目撃していることになる。

+++++++++++++++++++++++

●乳幼児期に作られる「私」。

 私たちは例外なく、乳幼児期に「私」が作られる。
「私は私」と思っている人は多い。
しかしそれでも、その「私」は、乳幼児期に作られる。
さらに言えば、今の私は、そのころできたレールの上に乗っているだけ。
けっして大げさなことを言っているのではない。
「私」のことがわかればわかるほど、そのことがわかってくる。

 言いかえると、それまでに作られる「私」がいかに重要かが、わかる。
さらに言いかえると、それまでの(子育て)が、いかに重要かが、わかる。

 「私」を知ることは、それほどまでにむずかしいということにもなる。
あるいは、「おもしろい」ということにもなる。

●過去をのぞく

 しかしここで誤解しないでほしい。
自分の過去をのぞいてみたとき、その過去が、仮に悲惨なものであっても、
それはそれ。
ほとんどの人は、多かれ少なかれ、そうした過去を背負っている。
恵まれた環境で、何一つ不自由なく、親の豊かな愛情に包まれて育った人の
ほうが、少ない。

 たいていの人は何らかの問題をもっている。
家庭騒動、両親の不和、経済問題などなど。
問題はそういう問題があったということではなく、そういう問題があったことに
気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
とくに自分の子育てで、どこかにぎこちなさを感じている人は、一度、自分の
過去を静かにのぞいてみてほしい。
子どもに対して極端に甘い親、反対に、極端にきびしい親など。
のぞくだけでよい。
あとは、時間が解決してくれる。
5年とか10年とか、時間はかかるが、時間が解決してくれる。


Hiroshi Hayashi++++++Feb.2010++++++はやし浩司

●意識(改作)

++++++++++++++++++

織田信長は、本能寺で焼け死んでいる。
それについて、ある子どもがBLOGにこう書いた。
年齢はわからないが、漢字の使い方からして、
中学生くらいではないか。

「どうして消防自動車を呼ばなかったか」と。

それに答えて別の子どもが、「電話線も切られて
いたんじゃない?」と。
そこで先の子どもが、反論した。

「携帯電話はもっていなかったのか」と。

それについても、「電池が切れていたのかも」と。

会話がつづいた。

A「信長だろ、消防自動車くらいは、呼べたはず」
B「家が木造だったから、火の回りが早かったかも」
A「消火器はなかったのか」
B「なかったかも」と。

この2人のやり取りを読んだ別の子どもが、こう書いた。

C「お前ら、ちゃんと勉強したのか。
信長は、赤ん坊を助けるため、火の中に飛び込んだんだぞ。
それで焼け死んだんだぞ」と。

(以上、参考、「週刊アスキー」に載っていた記事より。)

++++++++++++++++++++

●「学校は、どうしているの?」

 こういう記事を読むと、常識のある人なら、だれでも笑う。
あまりにも非常識というか、バカげている。
が、笑ってばかりは、いられない。
同じような無知、無理解は、いたるところで経験する。

 先日も、BS放送(NHK)を見ていたら、こんなシーンがあった。

 タイのチェンマイにある、屋台を紹介していた。
その屋台を、2人の子どもたちが、手伝っていた。
それを見たレポーターが、こう問いかけた。
「学校は、どうしているの?」と。

 子どもを見かけると、すぐ「学校」「学校」と問いかける。
日本人の悪いクセである。
10年ほど前には、こんなシーンもあった。
同じくNHKの番組だった。
戦禍のサラエボで、逃げ回る子どもに向かって、「学校は、どうしているの?」と。

●仕送り

 恐らく今の若い人たちに向かって、こう言っても、理解できないだろう。
「私は結婚前から、収入の約半分を、実家に送っていた」と。
私の親類の中には、無神経な人がいて、「そんなはずはない」と言った人もいる。
「そのお金は、どこに消えたのか」と。

 私が送ったお金のたいはんは、母が貯金していた。
また別のたいはんは、母から、さらに母の実家を守る伯父に渡っていた。
伯父は定職にもついていなかった。
ほかにも、いろいろある。

 が、私が書きたいのは、このことではない。
私の生まれ育った時代には、それが当たり前のことだった。
珍しくも、何ともなかった。
収入の何割かを、毎月実家へ仕送りしていた人は、いくらでもいた。

 で、ここにも書いたように、そういう話をしても、今の若い人たちには理解できない。
いつも「現在」を基準にして、ものを考える。
話の内容こそ正反対だが、織田信長の時代に、携帯電話があったと思うのと、どこも
ちがわない。

●「学校」意識

 織田信長の時代に携帯電話という話は例外としても、こうして並べて考えてみると、
「歴史とは何か」。
そこまで考えてしまう。

 「学校」にしても、日本人がもつ「学校」意識は、明治以後の国策のひとつとして、
作られたもの。
富国強兵策のひとつとして利用された。
そういう歴史的背景があって、日本人は、子どもを見れば、「学校」「学校」というように
なった。

 もちろんこうした意識は、国によってもちがう。
隣の韓国は、世界に名だたる受験国家として知られている。
その影響もあって、韓国の新聞各紙を読んでいると、「順位」が話題にならない日はない。

「韓国は、世界〜位になった」「〜位にさがった」と。
とくに相手が日本のときは、日本の順位と並んで、「日本に勝った」「負けた」の記事が
並ぶ。
今度のTOYOTA自動車のリコール問題についても、韓国内では連日、大々的に
報道されている。
「日本車の信頼は、地に落ちた」という記事まで載った。

●意識

 私たちは、つねに自分の意識を疑う。
言いかえると、私たちがもっている意識ほど、あてにならないものはない。
ときにその意識が、そこにある(真実)を、覆い隠してしまうこともある。
とくに、作られた意識には、警戒したほうがよい。

 コンビニで買ってきた本に、こんな話が載っていた。
2つの話を並べてみる。
みなさんは、この2つの話の共通点がわかるだろうか。
内容は、少し私のほうで変えさせてもらった。

(日本の中学校で・・・)

【問】「織田信長は、本能寺で、家来の(     )に、殺害された」
「また織田信長は、壮大な(     )を、作り上げた」

(K国の学校で・・・)

【問】「我が国の偉大かつ輝ける指導者である金xx様による賢明な指導により、
建設された、P市大通りに面したところにある、音楽室の面積は、60平方メートル
である。縦の長さは、横の長さより、4メートル長い。縦と横の長さを求めよ」

その本の中で、ある中学生は、こう書いた。

【答】「織田信長は、本能寺で、家来の(宴会中)に、殺害された」
「また織田信長は、壮大な(ロマン)を、作り上げた」

 思わず笑ってしまったが、よくよく考えてみれば、この中学生の書いた答のほうが、
正しいのかもしれない。
正解は、(明智光秀)(安土城)ということになるが、どうして(明智光秀)(安土城)で
なければならないのか。
もしそうなら、ついでに、そのとき火を放った、ほかの家来たちの名前もいっしょに、
出題したらよい。
それともこの問題を出した教師は、その名前を知っているのだろうか。

 またK国の数学の問題にしても、しかり。
こんな問題なら、何も長々と、金xxをたたえた文章を、前置きとして書かなくても、「3
行ですむ」
(同書)。

 ともに無駄なことを教え、それを「教育」と錯覚している。
つまりこれが共通点でである。
そしてその中で、私たちの意識は作られていく。

 まとまりのない話になってしまったが、織田信長と携帯電話の話は、おかしい。
同じように、答に「明智光秀」と書かせるのも、これまたおかしい。
そのおかしさをわかってもらいたくて、このエッセーを書いてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【追記】

●織田信長

++++++++++++++++++++++++++

織田信長は、なぜ、消防自動車を呼ばなかったのか?
「織田信長は、家来の(宴会中)に殺された」では、なぜまちがっているのか?

++++++++++++++++++++++++++

●珍回答

 「織田信長は、本能寺で、なぜ消防自動車を呼ばなかったのか?」と聞いた、子どもが
いた。
子どもといっても、中学生(?)である。
年齢はわからないが、漢字をそこそこに使えるところをみると、それくらいの年齢である。

 一方、「織田信長は、家来の(宴会中)に、殺された」と、歴史のテストで答えた子どど
もいた。
こちらも、中学生(?)である。
年齢はわからないが、ともに小学校の高学年児かもしれない。
あるいはひょっとしたら、高校生かもしれない。
「高校生」とは名ばかり。
歴史の知識にかぎらず、その程度の常識しかない高校生は、いくらでもいる。

●バカげた歴史教育

 そこそこに歴史の知識のある人は、こうした子どもたちの疑問や、回答を笑う。
かれらがもっている常識でもよい。
その常識を笑う。
織田信長の時代には、消防自動車は、なかった。
また織田信長は、家来の(明智光秀)に殺された。

 が、ここで私は、ハタと考えてしまう。
私たち自身だって、一応常識的な人間と思っているが、その一方で、非常識な情報に、そ
のつど振り回されている。

 織田信長にしても、日本では歴史上の人物となっている。
しかし(ほめたたえるべき人物)であったかどうかということになると、それはどうか?
見方をほんの少し変えると、織田信長は、ただの殺戮(さつりく)者。
それを本能寺で討ち殺した明智光秀も、これまたただの殺戮者。
言うなれば、本能寺での異変は、ただ単なる、殺戮劇!

 権力の座についたというだけで、この日本では、「歴史上の人物」ということになる。
名を残すことになる。
事件があった年まで、記録され、今になっても、子どもたちは、それを暗記させられる。
どうしてそんなことが
必要なのか。
重要なのか。
さらに一歩、踏み込めば、このバカげた歴史教育に、なぜ、私たち日本人は、気がつかな
いのか?

 たとえばあなたの近所で、親の遺産を取り合って殺人があったとする。
そうした殺人と、織田信長や明智光秀がした殺人と、どこがどうちがうというのか。
あなたはその(ちがい)を説明できるだろうか。

 「戦国時代の昔、いろいろな武将がいて、国を取り合った。
その中に、頭のおかしい武将もいて、家来に殺されることもあった」と。
その程度の知識で、じゅうぶんではないのか。
またどうしてそれではいけないのか。
年号を正確に言えたからといって、それがどうしたというのか?
必要であれば、そのつど、調べて、それを書けばよい。
ちなみに私は「本能寺の変」という言葉は知っているが、何年にそれが起きたか、知らな
い。

 大切なのは、中身。
今に残る、中身。
つまりなぜ私たちが歴史を学ぶかと言えば、過去の人たちのなした経験を、「今」に生かす
ため。
失敗でもよい。
そういうことをしないで、一方的に織田信長を美化するから、いまだに「国盗り物語」よ
ろしく、政治家の中には、権力闘争に明け暮れる人がいる。
またそういう人が、いつまでたっても、後を絶たない。

●大切なのは中身

 もし本能寺での異変が重要な歴史的事実であるとするなら、なぜそういう事件が起きた
か。
その背景を教える。
そこに至る経緯を教える。
ついでに権力闘争の醜さや、無意味さを教える。
それが歴史教育だと、私は思う。

 だからテストの内容も、こう変えればよい。

【問】

 「織田信長という独裁者が、本能寺という寺で、家来の明智光秀という人に殺された。
なぜ、明智光秀は、織田信長を殺したか。またあなたはこうした権力闘争を、どう思うか」。

 ともかくも日本の歴史教育は、暗記一辺倒。
暗記に始まって、暗記に終わる。
この教育姿勢は、明治の昔からまったく、変わっていない。
ウソだと思うなら、大学の受験生たちがもっている歴史の参考書を見てみればよい。
センター試験の問題を見てみればよい。

 重箱の隅の、そのまた隅をほじくり返したような問題ばかり。
教える側も、それを教えるのが歴史教育と錯覚している。
教わる側も、それを暗記するのが歴史教育と錯覚している。

 ちなみにこうしたバカげた歴史教育をしているのは、この日本だけ。
欧米では、教師が生徒にテーマだけを与えて、そのテーマに沿ってレポートをまとめるの
が、歴史教育の(柱)になっている。

「あなたはトラガルファーの戦いについて、1年をかけて、調べなさい」
「あなたはフランス革命について、1年をかけて、調べなさい」と。

 そして年度の終わりに、自分の勉強したことを、調べたことを、みなの前で発表する。
そういう教育を、小学生のときからしている。
小学生のときから、受けている。

●知識は無価値

 暗記ということになるなら、ついでに明智光秀のほかの家来たちの名前も暗記したらよ
い。
ついでにそれぞれが、どのような作業を分担したか、それも暗記したらよい。
本能寺にいた織田信長の家来たちの名前も、暗記したらよい。
本能寺の住所も暗記したらよい。

 が、今では、こうした知識は、インターネットを使えば瞬時に手にすることができる。
詳しい内容を知りたければ、パソコンを使って調べればよい。
大切なのは、その上で、どう考え、どう判断するか、である。
そしてそれをどう「今」に生かしていくかである。

 私たちもそろそろ気がつくべきときにきている。
「暗記は無価値」と。
暗記といっても、このばあい、暗記のための暗記を重ねるような暗記をいう。
地理にしても、無罪とは言えない。

 この話で思い出すのは、5、6年ほど前に、つぎのようなことを暗記していた中学生で
ある。
その中学生は、こう復唱していた。
「長野の高原野菜、富山のチューリップ・・・」と。
そこで私がその中学生に、「高原野菜って何?」と聞くと、その中学生はあっさりと、こう
答えた。
「知らない・・・」と。

 で、私はこう言った。
「浜名湖のうなぎと、教科書には書いてあるけど、今ではうなぎを養殖している業者は、
ほとんどいないよ」と。

●新しい教育

 「織田信長は、家来の(宴会中)に、殺された」でも、よいではないか。
そのとき本当に宴会をしていたのかもしれない。
ひょっとしたら織田信長の家来たちは宴会でもして、油断していたのかもしれない。
それをまちがっていると証明できる人は、だれもいない。
百歩譲って、どうして「明智光秀」という名前を、書かねばならないのか。
またどうしてそれが重要なことなのか。

 さらに百歩譲って、それが重要なことというのなら、それこそ重箱の底をほじくり返す
ような知識を、生徒たちに暗記させたらよい。
暗記程度に応じて、成績をつけたらよい。
が、それは先にも書いたように、バカげている。
つまりこういうバカげた教育を教育と思い込んでいるから、その一方で、「なぜ消防自動車
を呼ばなかったのか?」という子どもが出てくる。
思考力そのものが欠落したような子どもである。

 が、これでは、いつまでたっても、日本人は変わらない。
進歩しない。
愚劣な失敗を、いつまでも繰り返す。

 たとえば私は、もう40年も前のことだが、北欧のどこかの国の首相が、議会まで自転
車通勤をしているのを知って、本当に驚いたことがある。
当時の常識(?)に凝り固まっていた私には、信じられないような話だった。
「首相が、自転車で通勤?」と。

 ちょうど同じころ、つまり私が金沢で大学生だったころ、石川県選出の代議士が、防衛
庁の長官に就任した。
たまたま駅でその凱旋パレードを見たが、それはまさしく大名行列そのもの。
何十台も車を並べて、夜の金沢市の町を駆け抜けていった。
それが当時の常識だったし、そういう光景を見ても、だれもおかしいと思わなかった。

 悲しいことに、現在の日本は、まだその延長線上にある。
その責任の大きな部分は、日本のゆがんだ歴史教育にある。
・・・と言うのは書き過ぎかもしれない。
しかしそれくらいの緊張感をもって、この問題を考えないと、今の日本の歴史教育を変え
ることはできない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 日本の歴史教育 暗記教育 暗記のための暗記 ゆがんだ歴史教育 
暗記教育)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●不良老人

++++++++++++++++++++

昨夜は、映画『Dr.パルナサスの鏡』を観てきた。
家に帰ったのは、午前0時過ぎ。
寝るとき枕元の時計を見たら、午前1時だった。

星は4つの★★★★。

奇想天外というか、よくもまあここまで空想力、想像力
が働くものだと、そういうことに感心しながら観た。
おもしろかった。

数日前には、『オーシャンズ』を観たが、こちらは
説教ぽい映画で、星は2つの★★。
海洋生物の多様性には改めて驚いたが、もちろん
ストーリー性はない。
頭から「お前ら、バカか!」と言われているような
気がして、あまり楽しめなかった。

夜の道を歩きながら、ワイフとこう言い合った。
「ぼくら、不良老人だね」と。

世間では、「老人は規則正しい生活をするもの」とか、
「早寝、早起きが理想」とか、言う。
が、私たちは、不規則を旨として生きている。
若いときから、そうしている。
昨日も、映画を観るため、夕方1〜2時間ほど、
仮眠した。

今週をのがしたら、『Dr.パルナサスの鏡』は、
打ち切りになる。
それでそうした。

つぎに観たいのは、『インビクタス』と『トイ・ストーリー・
3D版』。
何とか時間を作って、今週中に2本とも観る。
来週になると、また新作がいくつか公開される。

+++++++++++++++++++

●買い物

 買ってよかったと思うものに、3つある。
ひとつは、布団乾燥機。
ひとつは、ウォーキング・マシン。
もうひとつは、ビデオカメラ。

 布団乾燥機は、布団の暖房用として使っている。
羽布団の下、毛布との間に、サンドイッチにして使っている。
おかげで寝るときはいつも、温泉につかっているような気分。

 いくつかコツがある。

 布団は、軽い羽毛布団にすること。
重い布団だと、暖気がふとんをもちあげることができない。
タイマーが切れたら、それ自体は、ふとんの外に出すとよい。
切れたとたん、布団の通気性を悪くする。

 昨夜のように、寒い夜は、ありがたい。
どうありがたいかは、一度使ってみるとわかる。
(M社から、同じようなしくみの暖房機器が売りに出されて
いるとか。
生徒の母親から、そんな話を聞いた。
ただし価格は20万円以上とか。)

 もうひとつは、ウォーキングマシン。
朝起きると、すぐそれを使って運動する。
10分もすれば、体が温まる。
20分もすれば、ジワーッと汗が出てくる。
頭の働きもよくなる。
もちろん健康にもよい。
食事の前とか後、ちょっとした時間を利用して
運動できるのがよい。
ときどきビデオを観ながら、使うこともある。
こういうのを一石二鳥という。

ハハハ!

 で、3つめが、ビデオカメラ。
2009年度、もっとも活躍したのが、ビデオカメラ。
そのカメラを使って、私の幼児教室を、ほぼすべて
ビデオに収めた。
YOUTUBEで見られるようにした。
カメラは、VICTORのEverio。
一度も故障することなく、よく働いてくれた。
かなり荒っぽい使い方をした。
今度買うときも、VICTOR社のものにする。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●TOYOTA車

 TOYOTA車のリコール問題について。
今では車といっても、電子機器のかたまり。
大きなパソコンのようなもの。

 パソコンを仕事で使っている人なら、みな知っている。
パソコンにトラブルは、つきもの。
私も昨年の12月(今月で3か月目)に、最先端の
パソコンを購入した。
あれこれとオプションをつけたら、軽く20万円を超えた。
(モニターは別。)

 そのパソコン、最初からトラブルつづき。
原因がわからないまま、毎日のようにメーカーに
相談した。
で、最終的に、原因がハードディスクそのものに
あることがわかった。
修復不能の不良セクターが、84Kか所もあった。

(ふつうは修復をかければ、不良セクターはゼロになる。
が、数回、修復をかけてみたが、それでも84Kか所も
残った。)

全体では、1000GBのハードディスクだから、
84K(=84000)程度など、微々たるものかも
しれない。
その84Kの部分で、いろいろな症状が出た。
突然、パソコンがフリーズするなど。
ハードディスクの丸コピーもできなかった。

 そういうことを知っているから、TOYOTAも
たいへんだなあと思う。
何しろ車である。
乗る人の乗り方によっても、影響を受ける。
たとえばオーストラリア人のばあい、日本人の私たちには
想像もつかないような、乱暴な乗り方をする。
荒れ地(アウトバック)で、大きな石を蹴散らしながら
走る。
アメリカ人も、そうだ。
しかも今年あたり、オーストラリアでは、
連日45度を超える日々がつづいた(南オーストラリア州)。

 そういうところで、それがパソコンだったら、
故障しないほうが、おかしい。

 それにしても頭にくるのが韓国。
自国のメーカーでもない。
自国では、数えるほどしか走っていない。
にもかかわらず、連日、TOYOTA車の欠陥問題を、
新聞の一面で報じている。
日本の(つまづき)が、よほど、うれしいと見える。
本当に、イヤ〜〜〜ナ国!

●電子ブック(後手後手に回る、日本の電子産業)

 その韓国。
近く、子どもたちが学校で使う教科書を、すべて電子ブック化するそうだ。
韓国政府が、そう発表した。
いいか、日本!
どうして日本は、そういうことをしないのか!

 文科省と教科書会社との癒着構造は、以前から問題になっている。
裏ではいろいろあるらしい。
だから今、日本の文科省が、「日本も電子ブック化します」などと言おうものなら、
天下り先になっている各種団体から、猛烈な抵抗を受けるだろう。
しかしこうした癒着構造が、日本の教育を、硬直化させている。
こんなことがあった。

 もう25年以上も前のこと。
「学校でパソコン教育」という声が高まったとき、それに真っ先に反対したのが、
あろうことか当時の文部省。
通産省はかなり本気で、パソコン教育を推進しようとしていた。
が、文部省は、「教師がいない」だの、「教員免許はどうする」だの、
「学部で教授を育てるまでに、20年はかかる」だのとか言って、
結局、パソコン教育を、クラブ活動程度に、抑え込んでしまった。
(今でも、その状態のままだが・・・。)

 教師などは、工学部の学生をあてればよい。
教員免許など、学士号があれば、じゅうぶん。
現に欧米では、そうしている。
教育学部で、電子学科を新設し、そこで教授を育てようとする発想そのものが、古い。

 こうして日本は、電子立国の地位を、韓国に明け渡してしまった。
で、さらに今度は、電子ブック。
こういう分野でこそ、日本は、率先して改革を進めるべきではないのか。
「2012年度から、子どもたちの教科書をすべて、電子ブック化します」と。

 こうしたダイナミズムが、日本の電子産業を活性化させる。
が、なぜか、日本の教育は、何かにつけて後手後手。
たとえばいまだに携帯電話の是非論が、問題になっている。
「子どもに携帯電話は是か非か」と。

 だったら、あの携帯電話を利用して、大型の電子ブックを作ればよい。
アナログ放送も受信できるようにして、教科書の内容をそのまま配信すればよい。
もちろん電話、端末機としての機能ももつ。
パソコン機能もつければ、もっと視覚的な指導も可能になる。
方法は、頭を使えば、いくらでもある。

 さらに言えば、あの黒板だって、電子モニター化できるはず。
パソコンとつなげれば、もっと視覚的な授業が展開できるはず。

 が、なぜか、日本は、それをしない。
日本の文科省は、それをしない。
どうしてか?
ひとつだけはっきりしていることがある。

またまた日本は、韓国に10年は後れる。
悔しいが、そうなる。

(参考、産経新聞より)

 『・・・サムスン電子とアイリバーは大型書店「教保文庫」と提携し、書籍の6割程度
の価格の電子書籍を提供している。教保文庫によると電子書籍に依然として抵抗感を持つ
出版社も多く、ベストセラーや新刊の提供が難しいなど、コンテンツ不足は否めないとい
う。

 端末機の開発・製造だけでなく、ネオラックスの場合、コンテンツの提供も始めている。
書籍のほか、韓国紙「朝鮮日報」や「毎日経済」などと提携し、契約者に新聞購読料の半
額程度で朝6時にニュースを配信している。新たに2紙が参入する予定だ。

 「低炭素・グリーン成長」政策を掲げる李明博政権は、韓国政府の環境対策のひとつと
して、紙の出ない電子書籍や電子ペーパー事業を後押ししている。来年から小・中・高校
に「電子教科書」が導入される見通しで、電子書籍の端末機やコンテンツ関連の企業の株
価の急騰に弾みをつけている』と。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●老後問題(意識と制度)

+++++++++++++++++

いくら意識はそうであっても、制度が
それに伴わないときは、意識にブレーキを
かける。
あるいは制度を、変えていく。
当然のことではないか。

昨日も渋滞で車が止まったとき、ふと
横を見ると、一組の家族がみなで、塀の柵を
なおしていた。
父親と思われる、70歳前後の男性が、小さな
斧で、柵を壊していた。
その横に、その息子夫婦と思われる男女が、
新しい材木を並べ、寸法を測っていた。

「いい光景だなあ」と私は、思った。
昔は、こうした光景はどこでも見られた。
当たり前の光景だった。
しかし今は、珍しい。

つまり老人は、家族とともに暮らし、その
家族に守られて生活していた。
とくに介護施設などなくても、何も問題は
なかった。
もちろん家族はそれなりにたいへんだった
だろう。
が、しかしこうした生活の延長線上に、
老人たちの老後があった。
老人たちは動けなくなるまで、家族の
ために働いた。
そういう姿を家族も見ているから、
親が動けなくなったからといって、
冷たくあしらうということは、なかった。

私の生まれ育った家族も、そうだった。

が、日本人のばあい、意識だけが変わってしまった。
欧米化したということになるが、逆に
欧米化していない部分を、否定するように
なってしまった。
「老人がさみしい思いをするのは、自業自得」と。

家族はバラバラになり、老人たちだけが取り残されてしまった。
この先、じゅうぶんな介護も受けられないまま、
独居老人になる人は多い。
孤独死ということにも、なりかねない。
私がそうなるかもしれない。
私のワイフがそうなるかもしれない。

そういう現実を目の前にすると、今までの教育は
これでよかったのかと、改めて考えなおしてしまう。

++++++++++++++++++

●制度の改革

 現在の介護制度は、おかしい。
たしかにおかしい。
本当にそれを必要とする人は、その恩恵をほとんど受けられないでいる。
その一方で、それほど必要としないと思われる人が、過分な恩恵を受けている。

 私の知人に、こんな夫婦がいる。
夫は長く、医療機関で事務長をしていた。
妻は、公的機関で、「長」のつく仕事をしていた。
だからこそそれができるのだろうが、現在、2人は、有料の老人ホームへ入居している。
高級マンションのような住居で、もちろん3食つき。
医療介護つき。
月額、2人で、35万円前後の生活費(部屋代が5万円、食事代が15万円x2)
だそうだ。

 もちろん自宅はある。
その自宅へ、週2回ほど、帰ってくる。
その日に合わせて、訪問介護の人がやってきて、掃除や洗濯をしてくれる。
夏の暑いときや、冬の寒いときは、老人ホームで寝泊まりする。
しかし春や秋の、過ごしやすい季節のときは、老人ホームを出て、自宅で寝泊まりする。

 現在、ともに84歳。
すでに30年近く、年金生活をしていることになる。
(30年だぞ!)
夫のほうは、歩くのが少し難儀になってきたようだが、妻のほうは、まだ自動車を
運転している。
あとは毎日、趣味三昧。

 この夫婦のばあい、死ぬまで、「豊かな生活」が保証されている。
その有料施設の横に、特別養護老人ホームが併設されている。
いよいよというときは、そのままその特養へ、移動できることになっている。
言い忘れたが、子どもはいない。

そういう人たちがいるのを知ると、「介護制度とは何か」と、またまた考えてしまう。
もちろんそういう人たちが、悪いというのではない。
「制度がおかしい」と、私は言っている。

●独居老人

 『平成18年度の数字を見てみると、「高齢者世帯数」が約840万世帯で、全世帯の約
17・8%を占めるようになった』という(厚生労働省の平成18年度国民生活基礎調査・
現実にある出来事HPより)。
その数は、1986年の、約3倍!
そのうちの何割かが、独居老人ということになるが、同時にそれと並行して、いわゆる「孤
独死」の問題があることを忘れてはならない。
死後、2週間前後で発見される人が多いという。

 こう書くと、「私はだいじょうぶ」と考える人がいるかもしれない。
しかし現在、40代の人が高齢者になるころには、3人に約1人が、その高齢者になる。
つまり1人の高齢者を、2人の若い人たちが支えることになる。
が、それは無理というより、不可能。
特養に入居している老人たちにしても、現在、1人あたり、月額30数万円の税金が、
投入されている。
今後、独居老人はふえる。
同時に、孤独死を迎える老人もふえる。
が、それはあなた自身の未来像に、ほかならない。

●では、どうするか

 2つの方法が考えられる。
ひとつは、家族を、いつも呼び寄せられる範囲に置くという方法。
そういう環境にある老人を、「呼び寄せ老人」というらしい(同HP)。

 もうひとつは、『・・・福祉先進国と呼ばれているスウェーデン。スウェーデンには「呼
び寄せ老人」に該当する言葉はないそうで、この国ではどんな過疎地でもホームヘルパー
が活躍しており、年老いても独り暮らしができる環境が整っているそうです』(同HP)と
いう方法。

 つまりホームペルパー制度の充実ということになる。
現在この日本でも、独居老人を定期的に巡回訪問している自治体がある。
マンション単位で、住人が話し合って、巡回訪問しているところもある。
いろいろな方法があるが、大切なことは、「独居老人」を、「独居」にしないこと。
週に2回、「こんにちは!」と声をかけてくれる人がいるだけでも、老人は、救われる。
孤独をいやすことができる。

 どうであるにせよ、私たちの未来は、暗い。
だから私は、「いい光景だなあ」と思った。
昔は、どこにでも見られた光景である。
「昔」といっても、ほんの一世代前。
その一世代だけで、日本は、こうまで変わってしまった。
「日本」といっても、日本人が変わってしまった。

 現在(09年)、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と考えている若者は
30%もいない(内閣府調査)。
残りの多くは、「経済的に余裕があれば・・・」という条件をつけている。
もちろん「親のめんどうなど、みない」と考えている若者も多い。
つまり制度がともなわないまま、日本人の意識だけが先行して変わってしまった。
が、それでは困る。
「ブレーキをかける」と冒頭で書いたのは、そういう意味である。

●終わりに・・・ 

 あなたの息子や娘は、こう言うにちがいない。
「私という息子や娘が幸福になるというのに、親に、何が文句があるの?」と。
「親というのは、息子や娘が幸福になることだけを考えればいい」とも。

 もう10年近くも前のこと。
同じような意見を私がエッセーに書いたら、恩師のTK先生は、その返事として、こう
書いてきた。
「老人向きの意見ではありませんね」と。

 そのときは、私は、その意味がよくわからなかった。
「老人であろうと、親は親」と考えていた。
が、今は、その意味がよくわかる。
同時に、強烈な不公平感を覚える。

 何度も書くが、私は、結婚前から、収入の約半分を、実家へ仕送りしていた。
私だけが特別というわけではない。
それ以前の、つまりもう一世代前の若い人たちは、みな、そうしていた。
が、今は、逆。
ほとんどの親たちは、子どもの学費で貯金を使い果たしてしまっている。
老後の資金など、さがしても、ない。
どこにも、ない。
だから私たちの世代を、「両取られの世代」という。
親から取られ、子どもたちから取られる。

良好な人間関係があれば、まだ救われる。
しかしそんな関係を築いている親子など、これまたさがさなければならないほど、
少ない。
親というより、子どもたちのほうに、その意識がない。
ささいなトラブルを理由に、「私は親とは縁を切りました」などということを、平気で
口にする。

 家庭教育とは何か?
私たちはもう一度、原点に立ち返って、この問題を考えなおしてみる必要がある。
さて、あなたはだいじょうぶか?


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●ゲーム脳

+++++++++++++++++

「ゲーム脳」というのは、大脳生理学上の
問題ではない。
「現象」の問題である。
「大脳生理学上、ゲーム脳というのはない」と
説く学者もいる。
その世界では神格化され、「つぎつぎと商品企画
が、もちこまれている」(某雑誌)とか。

結構な話だが、こういう学者は、つぎのような
現象を、どう考えるのだろうか。
産経新聞をそのまま転載させてもらう。

+++++++++++++以下、産経新聞より++++++++++++++

【産経新聞・10−02−08】

『・・・世界最大となる3億3800万人のインターネット人口を抱える中国で、240
0万人の青少年がオンラインゲームやチャットにのめり込む(ネット中毒)に陥っている。
中国青少年インターネット協会が8日までに発表した調査結果で明らかになった。 

 中国のネット人口のうち3分の1は、19歳以下の青少年が占めている。6〜29歳の
青少年7千人を対象に行われた調査結果によると、ネットに依存している青少年は200
7年の9・7%から14%に増加。「ネット中毒」が社会問題化し始めた05年ごろは40
0万人程度で、4年間で6倍に増えた計算だ。娯楽の少ない発展が遅れている地域に中毒
者が多いことも、特徴の一つに挙げられている。

 中毒を誘因している一番の原因はオンラインゲームだ。「ネットを通じて何をしている
か?」との問いに対し、47・9%が「ゲーム」と回答。2位の「アニメや映画、音楽の
ダウンロード」の23・2%、3位の「チャットで友達を作る」の13・2%を大きく引
き離した。

 中国では08年11月、人民解放軍北京軍区総医院が策定した「ネット中毒臨床診断基
準」を公表し、ネット中毒を「繰り返しネットを使用することで一種の精神障害をきたし
た状態」と定義付けた。今回の調査でも、ネット中毒になっていない人の66・5%は「他
人を殴るのは間違っている」と答えたのに対し、中毒者は48%にとどまった。

 国際情報紙、環球時報(英語版)によると、中国青少年精神保健センターの創設者は「ネット
中毒者の40%は、(不注意や衝動的な症状などが出る)注意欠陥・多動性障害といった精神
疾患にかかっている」と警鐘を鳴らしている』(以上、産経新聞)。

+++++++++++++以上、産経新聞より++++++++++++++

●韓国→中国→日本?

 韓国で、ゲーム中毒の子ども(若者)が問題になりはじめて、すでに10年近く
になる。
中国の現状については、ここに産経新聞が取り上げているとおり。

 では、この日本ではどうか?
この日本での現状は、どうなのか?
が、不思議なことに、この日本では、ほとんど問題になっていない。
話題にすら、ならない。
韓国や中国では問題になっている。
が、この日本では、ほとんど話題にすら、ならない。
????

 実は、この日本では、ゲームを批判すると、猛烈な抗議の嵐にさらされる。
10年ほど前、私が『ポケモン・カルト』(三一書房)という本を書いたときも、
そうだった。
出版社だけではない。
私のところにも、電話や手紙、ハガキが殺到した。
名古屋のCラジオ局では、1週間にわたって、賛否の討論がなされたという。
(そういう番組があったことは、あとになって知った。)

 ゲーム脳という言葉を使った、M教授のところでも、同じようなことが起きたという。
つまりこうした(現象)は、それが話題になる前に、カルト化した信者たちによって
封殺されてしまう。
マスコミ自体が、どこかでゲーム産業と関係している。
あの『ポケモン』にしても、(テレビ)(雑誌)(玩具)の3つの分野の世界が、まさに
三位一体となって、生まれた。
批判どころか、「これがマルチ・メディアの成功例」と、もてはやされた。

 しかしゲーム脳はさておき、現象としての「ゲーム中毒」の子ども(若者)たちは、
この日本にもいると考えるのが自然。
「精神障害をきたしている」(産経新聞)子ども(若者)たちはも、多いはず。
そういう(現象)をみれば、「ゲーム脳などいうのは、学問的に証明された脳ではあり
ません」と説くほうが、おかしい。
学問的に証明されるのを待っていたら、それこそ、日本中の子ども(若者)たちの脳が
おかしくなってしまう。

 私がここに書いたことがおかしいと思うなら、もう一度、この産経新聞の記事を、
じっくりと読み返してみたらよい。
あの中国においても、その(現象)が起きている。


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●2月5日

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●変りつつある学校

今、学校教育が、大きく変りつつある。
制度というよりは、中身が変りつつある。
たとえば今、子ども(小学生)が、「今日は
塾があるから、クラブを休ませてほしい」と
言うと、すんなりと許可がおりる。
早退ができる。

しかし今から、30年前は、そうではなかった。
そんなことを生徒が言おうものなら、即座に
教師はこう言った。

「だったら、学校をやめろ!」と。

●教師の姿勢

また指導の仕方も変った。
今では、生徒に向かって、「掃除しなさい!」と
がなりたてる教師はいない。
「掃除しましょう」(共同型)、あるいは
「掃除してください」(依頼型)、さらには
「掃除したらどうでしょう」(提案型)の言い方が
ふつうになっている(静岡県)。

こうした指導の仕方について、ある小学校の
校長はこう言った。
「現場の教師たちが、萎縮しています」と。

今では、紙を丸めて生徒の頭を叩いても、「体罰!」と
なる。
ささいな(遊び)についても、「そら、いじめ!」となる。
親が、そう言って騒ぐ。

また生徒が学校で怪我をしたりすると、担任が
家までその生徒を送り届け、わびを言うのが
慣わしになっている。
少し前までは、電話一本ですんだような話である。

●掛け算

一方、教師たちの教え方にも、変化が見られるように
なった。
ほんの15年前なら、たとえば掛け算のできない生徒
(小2)がいたとする。
そういう生徒に対して教師は残り勉強をさせてでも、
掛け算を教えた。
生徒が泣いても、教えた。

が、今は、ちがう。
教師も一通りのことは教える。
しかしそこまで。
「あとは生徒の責任」と突き放してしまう。
だから小学3年生でも、掛け算のできない生徒は、
いくらでもいる。
(一度覚えたからといって、それで安心してはいけない。
子どもだって、時間がたてば、忘れる。)

●不登校児

こうした変化がもっとも顕著に出ているのは、
不登校児の扱い方である。

20年前、30年前には、「不登校は悪」という前提で、
生徒が不登校児になったりすると、教師は家まで出かけていった。
半ば強制的に、生徒を学校へ連れていった。

が、今は、ちがう。
生徒が不登校児になっても、教師は用意されたマニュアル
通りの指導しかしない。
「無理に・・・」という姿勢は、消えた。

こうした一連の変化を、まとめて言えば、教師がサラリーマン化した
ということになる。
サラリーマン化が悪いというのではない。
サラリーマンなのだから、サラリーマンでよい。
が、それ以上に、教師たちは雑務、雑務の連続で、窒息
しかかっている。
「授業中だけが、休める場所です」と言った教師もいた。

見かけの自由はふえたが、たとえば(空き時間)にしても、
今ではほとんどない。
このあたりの中学校でも、たがいに何とかやりくりして、
週に2〜3時間の(空き時間)を作っている。
私たちが中学生のころは、「1時間教壇に立ったら、
つぎの1時間は空き時間」というのが、ふつうだった。

●親たちの意識

それに合わせて、親たちの意識も変ってきた。
学校に求めるものが、変わってきた。
いわゆる学校の予備校化である。

この世界も例外ではない。
需要と供給のバランスの上で、成り立っている。
高校を中心に、予備校化は、ここ10年、急速に進んでいる。
私立高校では、予備校から講師を招いて、授業を
しているところもある。

小学校は、中学入試のため、
中学校は、高校入試のため、
高校は、大学入試のため、というわけである。
あくまでもゴールは、大学。
「モンスターママ」という、あの忌まわしい呼び名も、
そういうところから生まれた。

●反動

一方、「これではいけない」と考える教師も多い。
子どもを、もっと全人格的に評価しようという動きである。
AO入試方法が、その一例ということになる。

また学力の評価の仕方にしても、(できる子ども)から、(考える子ども)
へと、変ってきている。
中高一貫校を中心に入試問題も、大きく様変わりしつつある。
ありきたりの(ガリ勉)では、歯が立たない。
そんな問題が、ふえてきた。
列車の時刻表を見せながら、「どの列車をうまく乗り継ぐと、
目的地へ早く着くことができるか」と。

●パズル化する入試問題

が、「敵もサルもの・・・」。
進学塾が、こうした入試方法に、即、反応している。
いわゆる(見かけの考える子ども)の育成である。
というのも、(考える)といっても、傾向としては、
パズル的な問題が多くなる。
深く分析し、論理的に組み立てる問題というよりは、
直感的に即断するという問題が多い。
こうした問題は、訓練によって、かなりの程度まで、
解けるようになる。

では、その子どもの内面世界はどうか。
それを知る方法が、「作文」ということになる。
が、その「作文」にしても、1〜2年も訓練すれば、
だれでもそれらしい文章を書けるようになる。
「弱い子がいたら、助けてあげます」式の、
きれいごとを並べれば、それですむ。

●欲望

要するに元凶はどこにあるかといえば、(人間の欲望)
ということになる。
わかりやすく言えば、教育そのものが、学校、親、
子どもと、三位一体となって、欲望の追求の場になっている。

学歴ではない。
欲望である。
「学歴」といっても、今では、欲望追求のための一里塚
でしかない。

20〜30年前までなら、学歴さえあれば、何とか
生きていくことができた。
が、学歴を支えていた権威主義そのものが、崩壊した。
では、親たちをして、何が、子どもの教育に駆り立てるのか?
それが「格差社会」ということになる。 

●格差社会

一生働いて、数百万円の財産も築けない人がいる。
その一方で、親から10数億円の小遣いをもらいながら、
みじんも恥じない総理大臣がいる。

こうしたケースは、例外であるとしても、
親たちは日常生活の、ごく身近なところで、こうした
「格差」を肌で感じ取っている。
すでに利権にありついた親は、それを手放さまいと、がんばる。
まだ利権にありつけない親は、何とかそれをつかみたいと、
これまたがんばる。
もちろんこうした熾烈な競争に背を向ける親もいる。
最初から、はじき飛ばされる親もいる。
あきらめて、近寄らない親もいる。

が、この私たちの世界では、強者はつねに発言者であり、
弱者はつねに沈黙者である。
その強者が、社会を作りあげていく。
もちろん教育とて例外ではない。

どうであれ、「格差」というのは、「不平等」を意味する。
「力のある人が、それなりにいい生活をするのは当然」
「力のない人が、そうでない生活をするのも、これまた当然」と。
ある程度の「差」については、だれもが納得している。
が、現実は、そうでない。
格差が格差の範囲を超えて、だれにでもわかる不平等に
なったとき、ここでいう「格差社会」が生まれる。

その不平等感が、社会を緊張させる。
いうなれば今の教育現場は、その緊張状態の中にある。
だれもがイライラしながら、それでいて身動きが取れない。

●社会の熟成度

忘れてはいけない。
受験競争は、子どもの心を破壊する。
それについては、何度も書いてきた。
が、最大の悲劇は、子どもの心を破壊しながら、
親にも、また教師にも、その意識がないこと。
さらに言えば、親自身も、また教師自身も、すでに破壊されている。
自分が破壊されているから、子どもの心が破壊されていることに
気がつかない。

わかりやすく言えば、日本というこの社会は、その結果。
「心の冷たい社会」になってしまった。
(上の人たち)だけではない。
(下の人たち)も、である。

言うまでもなく、社会の熟成度は、いかに弱者にやさしいかで
決まる。
弱者にやさしい社会を、熟成度の高い社会という。
そうでない社会を、そうでないという。
残念ながら、この日本は、経済力という金権と引き換えに、
人間性を見失ってしまった。

●人間性の回復

一度壊れた心は、もとには戻らない。
トラウマ(心の傷)を例にあげるまでもない。
戻すといっても、並大抵の努力ではできない。
その人自身が、それを知るというだけでも、たいへん。

そこで大切なことは、まず壊さないこと。
教育について言えば、子どもの心を壊さないこと。
これからの教育は、そうでなければならない。
また、そのためには、社会はどうあるべきかを、
考えなければならない。

このままでは、この日本は、ますます冷たい国に
なってしまう。
そうなったとき、結局は、さみしい思いをするのは、
あなた自身であるということ。
それを忘れてはいけない。


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【息子に対するいじめ】

【OMさんより、はやし浩司へ】

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小学6年生の男児に対する、いじめについて
相談が届いています。
もうすぐ卒業式。
何とか笑って卒業できれば・・・と、
母親のOMさんは悩んでいます。

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はやし浩司さまへ

内容が具体的なので、くれぐれも住所・年齢・家族構成がわからないようにお願いします。

以前、娘のことで何度か相談しお世話になりましたN県N市の、OMです。
今回は、もうすぐ中学生になる息子のことで相談したく、パソコンを開きました。

これまで娘のこと(学校でおとなしい。自分が出せない・・・)で悩むことが多く、息子
に関しては、仲良しの友達もいて、先生からも誰とでも仲良くすると聞いていたので、全
く心配していませんでした。

最近、娘のほうは落ち着いてきて、相変わらずおとなしいけれど、自分なりに楽しく家で
も明るく学校の話をするようになり、ホッとしていました。
その矢先、今度は、息子が・・・

ある日、突然、
仲良しグループから仲間外れにあっていると、言い出したのです。

原因は何度考えてもわからない。
いつものように、休み時間に友達のところへ行くと、まるで息子が居ないかのように仲良
く話しをしたり、昼休みも息子を無視して外へ遊びに行ったり・・・。

掃除の時間は仲良しグループの子と一緒なのですが、息子と二人のときは普通に話すけれ
ど、終わると、また無視して、他ところへ行くそうです。

息子は初めのうちは何事もなかったように話しかけたりしていましたが、反応があまりに
も嫌われていると、わかるので今では自分からは話しかけていません。
たまにそのグループの子から「バイバイ」程度のことは言ってくれるようですが・・・。

最近、息子は1人が少し慣れたのか、休み時間は、1人で本を読んだりして過ごしていま
す。
登校を嫌がることは、今のところありません。

今のところ親友がいるので、心強いのですが、その親友の子にも共通の友達がいるので
いつか、親友にも無視されるのではないかと、息子は心配しています。

このまま、原因もわからず、仲間外れにされたままで、息子は大丈夫でしょうか?
グループの子になんで無視するの?、っと聞くと、余計にややこしくなったりするから聞
きたくない。どうせ、嫌われているならもう関わりたくないと、言っています。

もうすぐ卒業式。
笑って卒業できないことがくやしいです。

なんとか仲良くもとに戻ってほしいのですが・・・

息子は、少し人の気持ちを考えずに思ったことを話すところがあり、友達には「もし、悪
いところがあったら直したいから言ってよ」などと、仲良し子に対しては何でも話します。
でも、ちょっと苦手な子がくると、仲良しの子がいても、みんなで楽しく遊んだりできな
いタイプだと思います。

4月から中学になります。
違う地区からも、生徒がきます。
そこで新しく友達ができるといいのですが。

まとまりのない文章になってしまいましたが、今、息子に対して、家族としてあげること
はあるでしょうか?

【はやし浩司よりOMさんへ】

●加害意識と被害意識 

 加害意識と被害意識。
いじめを考えるときは、まずこの2つに着目しなければなりません。
むずかしい問題ですね。
「害を与えた者は、害を受けた者の心の痛みが理解できず、いつも害を過小評価する」。
あるいは「害を与えた者は、害を受けた者がそれをいつまでも覚えていることに気づかず、
すぐそれを忘れてしまう」。
わかりやすく言えば、いじめる側には、それだけの加害意識がないということ。
この意識のズレが、害を受けた人の心の傷を、さらに大きくします。
子どもの世界では、とくにそうです。

 私もよく(いじめの現場)を、直接見ることがあります。
しかしそういうとき、どこまでが(遊び)で、どこから(いじめ)なのか、よくわからな
いというのが、実情です。
私の目の前で、堂々と、それをしますから・・・。
しかもそのときは、双方が、むしろ笑いあいながら、それをしている・・・。

あとになって、親のほうから、「いじめられた」という報告をもらってはじめて、「ああ、
あのときがそうだったのか」と知ったりします。

 しかし(いじめる側)にとっては、(遊び)でも、(いじめられる側)にとっては、(遊び)
ではない。
そのつど(いじめられる側)は、大きく傷つきます。

●いじめ

 OMさんの息子さんが、そうだというのではありません。
しかし(いじめる側)と、(いじめられる側)は、いつも一方通行というわけでもありませ
ん。
べつの場面では、(いじめる側)が、いじめられ、一方、(いじめられる側)が、(いじめの
側)に回ったりします。
あるいはいじめられる前に、いじめのグループに入り、(いじめの側)に回ったりします。
子どもにとっての「仲間」というのは、そういうもので、仲間を作ることによって、自分
にとって居心地のよい世界を作ろうとします。
その仲間意識を維持するために、意味のない(いじめ)を繰り返すこともあります。
この時代の子どもたちを総称して、「ギャング・エイジ」と呼ぶのも、そういう理由からで
す。

 わかりやすく言えば、「善や道徳の通ずる世界」では、ないということです。
たとえば(いじめる側)は、その意識もないまま、面白半分で、それをしたりします。

つまり私たちおとなが考えるより、(いじめの問題)は、はるかに複雑ということです。
しかもどこか動物的。
もちろんだからといって、いじめを肯定しているのではありません。
どうか、誤解しないでください。

●では、どうするか?

 (いじめの問題)は、常に(いじめられる側)の立場で、(いじめられる子どもの心)の
救済だけを考えて対処する。
これは大原則です。
(いじめる側)が、いくら「いじめていない」と言い張っても、(いじめられた側)が、そ
れだけつらい思いをしているなら、(いじめ)があるという前提で対処します。
またそういう前提で、子どものいじめを考え、(いじめられる側)の救済にかかります。
もし(いじめる側)に、加害意識がないなら、それをわからせるまで、徹底的に指導しま
す。
これも大原則です。

 しかし実際には、指導の仕方をまちがえると、かえっていじめを陰湿化させてしまうこ
とにもなりかねません。
水面下にもぐらせてしまうこともあります。
嫉妬やひがみがからむと、さらにそうなります。
そこでもうひとつの大原則があります。

 大切なことは、子どもが楽しく通学すること。
そのためには、折れるところは折れ、妥協するところは、妥協する。
この世界には、『負けるが勝ち』という格言もあります。
ほかの世界とはちがって、子どもの世界は、不合理のかたまり。
先にも書いたように、もともと道理が通ずるような世界ではありません。

 ですから、結局は、つぎのような結論になってしまいます。

(1)その範囲のいじめなら、親としてつらいところかもしれませんが、子どもを慰め、
励ましながら、様子をみる。
(2)その範囲を超えたら、一に、担任の先生に相談です。仲のよい友だちがいたら、そ
の友だちの親に相談するのも大切なことです。
(3)さらにその範囲を超えたら、転校も視野に入れて、学校の先生に相談、です。

 ここでいう「その範囲」というのは、あくまでもその子どもの(心の状態)をみて、と
いう意味です。
いじめられることにタフな子どももいれば、そうでない子どももいるということです。

●列を作らない子どもたち

 話は変わりますが、今、この原稿を、沼津市のホテルの一室で書いています。
今朝は、市の医師会のほうで講演をすることになっています。
夕方、沼津市に着きましたが、駅での光景を見て、驚きました。

 一度新幹線で、JR三島まで来て、そこでローカル線に乗り換えて、沼津市へやってき
ました。
三島駅でのこと。
中学生や高校生たちで、ごったがえしていました。
が、驚いたことに、学生たちはそのあたりに、三々五々に集まっているといった雰囲気で、
列を作らないのです。

 私とワイフは、プラットフォームに書かれた数字を見ながら、そこへ並ぼうとするので
すが、どう並んだらよいか、かなり迷いました。
先回りして、割り込むこともできない。
かといって、どこが最後尾かもわからない・・・。

 「最近の若い人たちは、列を作らない」と、そんなことを知りました。
理由はいろいろ考えられます。

その第一、「急いで家に帰ろう」という意識が、希薄?
その第二、ルールを守らない。
その第三、立ち話を楽しんでいる。
その第四、早く乗って、座席に座ろうという意思がない(?)。

 どうであるにせよ、それでいて電車が到着し、ドアがあくと、ゾロゾロと車内へ入って
くる・・・。
ゾロゾロ、とです。
ダラダラ・・・かな?
もともと座席に座ろうという意識もないようで、席があいていても、そのまま立ち話を繰
り返しています。

 私たちの世代とはもちろん違いますが、おそらくOMさんたちの時代とも、違うのでは
ないでしょうか。
日本人が古来よりもっていた、(まじめさ)が、一本、抜けてしまったような印象をもちま
した。
つまり今、子どもたちが質的に変化しつつあります。
子どもたちというより、日本人が、です。

●暖かい無視

 さてOMさんの息子さんの件ですが、まだ(その範囲)にいて、(その範囲)でがんばっ
ているように感じます。
不登校ということでもないようですし、「関わりたくない」とがんばっています。
つまり(その範囲)で、息子さん自身が、懸命に処理しようとしているのが、文面からも
わかります。

 こういうときは、子どもの様子を見ながら、つまり暖かく見守りながら、「家庭は、そう
いう子どもの心を癒す場所」と考えて、無視するしかありません。
これを「暖かい無視」(野生動物愛護協会の言葉)といいます。
残念ながら、いじめのない世界はないし、いじめから逃げても、またつぎのいじめが、そ
こで待っています。
一方、子どもは、そういう世界を切り抜けることによって、たくましく成長していきます。
OMさんには、つらいことかもしれませんが、親のできることにも限界があるということ
です。
息子さんは、小学6年生ということですから、すでに思春期に入っています。
息子さんのほうは、とっくの昔に親離れしています。
そういうことも考えると、今、OMさんができることは、かなり限られてくると思います。

 そこで大切なことは、
(1)ここにも書いたように、家庭を(心を癒す場所)と考えて、思いっきり、ゆるめる。
(2)よき聞き役に回り、子どもの心を解放させる、です。

 生活態度がだらしなくなっても、「ああ、うちの子は、こうして心を休めているのだ」と
思い、それを許します。

 もちろん心の変化には、じゅうぶん、注意します。
とくに(その範囲)を超えそうなときには、注意します。

●シカト(無視)

 私も高校3年生のとき、今で言うシカトで、いやな思いをしました。
あるグループが、徒党を組んで、私を無視しました。
しかし私は、そんなヤワな人間ではありませんでした。
あるとき、その中の1人がもっていた、ギターをぶったたいて、壊してやりました。
相手は相手で、私をいじめていたという意識があったのかもしれません。
何も抵抗しなかったのを、覚えています。

 で、それから20年近くたったときのこと。
同窓会に出てみました。
で、そのグループが、当時のことを覚えているかなと、それなりに会話を交わしてみまし
た。
が、だれにもその意識がないことを知りました。
つまりまったく平気な顔をしていました。

 (いじめられた側)の私は、よく覚えていました。
今でも、よく覚えています。
しかし(いじめた側)は、何も覚えていない(?)。
それを知って、むしろ私のほうが、驚いたくらいです。

 言い換えると、私自身も、どこかで(いじめる側)で、だれかをいじめていたのかもし
れません。
気がついていないのは、私だけ、とです。

 だからメールでの様子からすると、息子さんをいじめているグループには、そういう意
識も希薄なまま、いじめているといった感じがします。
私があなたの息子さんなら、そういった連中は相手にしないで、マイペースで進むことだ
けを考えるかもしれません。

 その点、同じいじめでも、(もの隠し)や、(暴力)、(恐喝)とは、質がちがいます。
今は、様子を見られたほうがよいかもしれません。
「笑って卒業できない」、悔しさはよくわかりますが、別の見方をすれば、よい「転機」に
もなるのではないでしょうか。

 相手はただの子ども。
小学6年生。
そんな子どもを相手に、「悔しい」と思ってはいけません。
あなた自身の精神のレベルを下げてしまいます。

●小沢一郎の不起訴処分

 悔しいといえば、今の民主党。
反自民というよりは、反麻生の票が、どっと民主党へ流れ込んだ。
結果は、民主党のひとり勝ち。

 その結果が今。
結局、「秘書が勝手にやったことです」と言って、小沢一郎は、逃げてしまった。
検察側は、証拠不十分ということで、一連の小沢疑獄事件にはメスを入れないまま、不起
訴処分にしてしまった。

 悔しいといえば、悔しいですね。
最初から現場には、自分が出ないで、秘書たちを出させていた。
おそらくあとあとのことを考えて、そうしていたのでしょう。
つまり汚れ役は秘書たちにやらせて、自分は、奥から指示だけを出していた。
そして事件が発覚すると、「私は知りません」「秘書が勝手にやったことです」と。

 こういう事件が明るみになるたびに、政治家たちは、ますます巧妙になっていく。
やり方がズル賢くなっていく。

そこで「連座制」というのが生まれたわけですが、しかしこれは刑事訴訟法には、規定さ
れていない。
あくまでも政治家のモラルの問題というわけです。

 つまり私が言いたいのは、「上」がこのザマだから、どうしてその「下」がよくなるかと
いうことです。
いわんや、子どもの世界をや!

●OMさんへ

 話が脱線しましたが、あなたもそろそろ子離れを始めるときです。
「子離れ」というのには、2つの意味があります。

 ひとつは、あなた自身が、子どものことを忘れて、自分の人生を生きるという意味。
もうひとつは、あなたの子どもがじょうずに親離れできるように、子どもを仕向けるとい
う意味。

 さらに言えば、あなたがもっている(幻想)を、早く捨てること。
「私たちはすばらしい親子である」とか、「私は人一倍、愛情の深い親である」とかいう幻
想です。
こうした幻想は、かえって子どもの足かせになるだけで、子どもの自立ということを考え
るなら、好ましいことではありません。
子どもも、いつかそれを負担に思うようになるでしょう。

 私もこの年齢になってはじめて気がついたことがあります。

 やっと子育てが終わって、ほっとしたとき、そこでドカッと待っていたのは、老後だっ
たということ。
老後の資金といっても、息子たちの学費で、使い果たしてしまっていますから、ほとんど
残っていません。
学費だけでは、ありません。
頼まれもしないのに、100万円単位のお金を、そのつど供出してきました。
が、息子たちには、感謝の「か」の字もない。
ないというより、その余裕がない(?)。
自分たちの生活を支えるだけで、精一杯。
というより、目一杯の生活をするから、余裕など、生まれるはずもない。
そんな感じです。

何というバカ親だったのかと、私もこの年齢になってやっと、思い知らされたというわけ
です。
いえ、息子たちを責めているのではありません。
「年老いた親を、どんなことをしてでも養う」と答えた若者は、28%しかいません(総
理府、2009年調査)。

イギリス人でさえ66%、アメリカ人でさえ、64%!
東南アジアの若者たちにいたっては、80〜90%ですから、いかにこの数字が低いもの
か、わかっていただけると思います。

ここに書いた、「自分の人生を生きること」という言葉には、そういう意味も含まれていま
す。
ついでですが、どうか、参考にしてください。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【乳幼児期の重要性】

●今日の講演(歴史の生き証人)

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これからN市の保険医師会主催の、講演会で
講師をすることになっている。

ドクターたちの集まりだから、その道の
専門家も多い。
だからというわけでもないが、今、ひとつの
ことを考えている。
講演の前段で、こんな話をしてみたい。

+++++++++++++++++++

この21世紀に入ってから、教育の世界が
大きく変わってきたということ。
「変わった」といっても、制度的な変化を
いうのではない。

現在、(教育)と(心理学)と(大脳生理学)の、
この3つの分野が、融合されつつあるということ。
私たちは今、たいへんおもしろい時代に、
遭遇しつつある。

今はまだわからないかもしれない。
しかしこのあと、20年とか、30年とか過ぎたあと、
「あの時代に、この3つの分野が融合した」という
ことが、わかるはず。

たとえば子どものやる気にしても、教育の世界では、
(弱化の原理)(強化の原理)という言葉を使う。
「子どものやる気を引き出すには、どうしたらいいか」
というテーマは、とく話題になる。

しかし大脳生理学の世界では、辺縁系にある帯状回という
組織が、どうやらそのやる気を司っていることが
わかってきた。
さらにカテコールアミンというホルモンが、やる気に
関係していることもわかってきた。

またフロイトが説いた「性的エネルギー」についても、
根源は、どうやら視床下部あたりが、それを司って
いることもわかってきた。
そこから発せられる信号が、ドーパミンの分泌を促し、
もろもろの欲望も、そこから生まれる。

さらに善悪感覚にしても、ホルモンの作用によるという
ことまでわかってきた。

「悪」については、まだ未解明な部分も多いが、
「善」については、同じく辺縁系にある、扁桃核が
司っている。

何かよいことをすると、大脳の皮質部のほうから
信号が送られ、それに反応して、扁桃核が
モルヒネ様のホルモンを分泌する。
エンケファリン系、エンドロフィン系のホルモンである。
それが大脳全体を、甘い陶酔感で満たす。

「いいことをすると、気持ちよい」というのは、
そういう理由による。
先にも書いたように、やる気については、カテコールアミン
というホルモンが関係している。
もっとも私自身は、それがどういうホルモンであるかは
知らない。
知らないが、生き生きと活動している子どもは、
表情が輝いている。
その(輝き)こそが、カテコールアミンと、考えてよい。
私は勝手にそう解釈している。

さらに近年の大脳生理学の発達には、驚くべきものがある。
最近になって、「敏感期」「臨界期」という言葉を
よく聞くようになった。

人間の基本中の基本は、実は、0歳から7か月前後までの
間に決定されるという考え方である。
従来、「乳幼児には記憶がない」と考えられていた。
しかしこれもとんでもないまちがいであることがわかってきた。
今から10年ほど前、ワシントン大学のメルツォフ教授がそれを発表した。
むしろこの時期、怒涛のごとく、記憶が蓄積されていることがわかった。

まだある。
今度は、それまで愛着行動は、親の側からの一方的なものと
考えられていた。
しかしこれについても、実は、乳幼児のほうからも、愛着行動が
発せられていることがわかってきた。
もちろん無意識のうち・・・というか、本能的なものだが、
あの乳幼児が育ててもらえるよう、自ら親に向かって働きかけを
している。
親に向かって、(赤ちゃんらしいかわいさ)を、子どものほうからも
発信する。
それを受けて、母親は、子どもに乳をくれる。

相互に愛着行動を繰り返すので、「ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)」
という。

さらに、たとえば(人間性)にしても、この時期に、その基礎が
形成される。
反対にこの時期をのがすと、人間性の基礎もままならなくなる。

野生児をその例にあげるまでもない。

また人間にも、ある種の鳥類に似た、「刷り込み」が
あることがわかってきた。
この時期を、「敏感期」と、心理学の世界では呼んでいる。

一方、大脳生理学の分野では、重に、脳の神経細胞の
研究の分野から、この時期の(刺激)が、重要な意味を
もつことがわかってきた。

これはモルモットでの実験だが、(というのも、人体で
人体実験をすることはできないので)、たとえば生後
直後から、モルモットの片目を何かで塞いでしまうと、
そのモルモットの視覚を司る神経細胞は、機能を停止
してしまうという。
停止するばかりか、その塞いだものを取り除いても、
神経細胞が再生するということはない。
(一部、輪郭だけは見えるようになるという説もあるが・・・。)

神経細胞の完成しているおとなであれば、一時的に
目を塞いだからといって、目が見えなくなるということはない。
しばらくすると、機能は回復してくる。

こうした事実から、乳幼児期における早期教育の重要性を、
説く人も多い。
この時期に適切な刺激を与えることによって、子どもが
本来的にもつ「力」を、外に引き出すことができる。
そうでなければ、ここに書いたように、脳の神経細胞そのものが、
そのまま退化(「退化」という言い方が適切かどうかは
知らないが・・・)してしまう。

この時期に音楽的な刺激を受けた子どもは、音感にすぐれた
才能を発揮するようになる。
そうでなければ、神経細胞そのものが、退化してしまう(?)。

こうした現象がもっとも顕著に現れたのが、「野生児」である。
インドで見つかったオオカミ少女を、今さら例にあげるまでもない。
その後、2人の少女は、死ぬまでインド政府によって手厚く
保護され、教育を受けたが、最後まで人間らしい心を
取り戻すことはなかった。

腹が減ったときだけ、動物的な声を張り上げて、「怒った」と
いうような記録は残っている。

大脳生理学の分野では、この時期を、「臨界期」と
呼んでいる。
教育の世界でいう「敏感期」と同じに考えてよいのでは
ないだろうか。

こうして(教育)と、(心理学)と、(大脳生理学)が、
今、三つ巴になって融合し始めている。

考えてみれば、これはものすごいことではないか。
それぞれの分野で、未解明だったり、経験的にわかって
いたにすぎなかったことが、今、解明されようとして
いる。
私たちはその歴史の生き証人として、まさにその
時代の中で、それを目撃していることになる。

+++++++++++++++++++++++

●乳幼児期に作られる「私」。

 私たちは例外なく、乳幼児期に「私」が作られる。
「私は私」と思っている人は多い。
しかしそれでも、その「私」は、乳幼児期に作られる。
さらに言えば、今の私は、そのころできたレールの上に乗っているだけ。
けっして大げさなことを言っているのではない。
「私」のことがわかればわかるほど、そのことがわかってくる。

 言いかえると、それまでに作られる「私」がいかに重要かが、わかる。
さらに言いかえると、それまでの(子育て)が、いかに重要かが、わかる。

 「私」を知ることは、それほどまでにむずかしいということにもなる。
あるいは、「おもしろい」ということにもなる。

●過去をのぞく

 しかしここで誤解しないでほしい。
自分の過去をのぞいてみたとき、その過去が、仮に悲惨なものであっても、
それはそれ。
ほとんどの人は、多かれ少なかれ、そうした過去を背負っている。
恵まれた環境で、何一つ不自由なく、親の豊かな愛情に包まれて育った人の
ほうが、少ない。

 たいていの人は何らかの問題をもっている。
家庭騒動、両親の不和、経済問題などなど。
問題はそういう問題があったということではなく、そういう問題があったことに
気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
とくに自分の子育てで、どこかにぎこちなさを感じている人は、一度、自分の
過去を静かにのぞいてみてほしい。
子どもに対して極端に甘い親、反対に、極端にきびしい親など。
のぞくだけでよい。
あとは、時間が解決してくれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 臨界期 敏感期 やる気 カテコールアミン 帯状回 扁桃核 扁
桃体 視床下部 ドーパミン はやし浩司 乳幼児 メルツォフ 乳幼児の記憶 愛着行
動)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●無知

++++++++++++++++++

「無知」を地でいくような話が、ある雑誌に載っていた。
こんな話である。

織田信長は、本能寺で焼け死んでいる。
それについて、ある子どもがBLOGにこう書いた。
年齢はわからないが、漢字の使い方からして、
中学生くらいではないか。

「どうして消防自動車を呼ばなかったか」と。

それに答えて別の子どもが、「電話線も切られて
いたんじゃない?」と。
そこで先の子どもが、反論した。

「携帯電話はもっていなかったのか」と。

それについても、「電池が切れていたのかも」と。

会話がつづいた。

A「信長だろ、消防自動車くらいは、呼べたはず」
B「家が木造だったから、火の回りが早かったかも」
A「消火器はなかったのか」
B「なかったかも」と。

この2人のやり取りを読んだ別の子どもが、こう書いた。

C「お前ら、ちゃんと勉強したのか。
信長は、赤ん坊を助けるため、火の中に飛び込んだんだぞ。
それで焼け死んだんだぞ」と。

(以上、「週刊アスキー」に載っていた記事を簡略。)

++++++++++++++++++++

●「学校は、どうしているの?」

 こういう記事を読むと、常識のある人なら、だれでも笑う。
あまりにも非常識というか、バカげている。
が、笑ってばかりは、いられない。
同じような無知、無理解は、いたるところで経験する。

 先日も、BS放送(NHK)を見ていたら、こんなシーンがあった。

 タイのチェンマイにある、屋台を紹介していた。
その屋台を、2人の子どもたちが、手伝っていた。
それを見たレポーターが、こう問いかけた。
「学校は、どうしているの?」と。

 子どもを見かけると、すぐ「学校」「学校」と問いかける。
日本人の悪いクセである。
10年ほど前には、こんなシーンもあった。
同じくNHKの番組だった。
戦禍のサラエボで、逃げ回る子どもに向かって、「学校は、どうしているの?」と。

●理解できない世界

 恐らく今の若い人たちに向かって、こう言っても、理解できないだろう。
「私は結婚前から、収入の約半分を、実家に送っていた」と。
私の親類の中には、無神経な人がいて、「そんなはずはない」と言った人もいる。
「そのお金は、どこに消えたのか」と。

 私が送ったお金のたいはんは、母が貯金していた。
また別のたいはんは、母から、さらに母の実家を守る伯父に渡っていた。
伯父は定職にもついていなかった。
ほかにも、いろいろある。

 が、私が書きたいのは、このことではない。
私の生まれ育った時代には、それが当たり前のことだった。
珍しくも、何ともなかった。
収入の何割かを、毎月実家へ仕送りしていた人は、いくらでもいた。

 で、ここにも書いたように、そういう話をしても、今の若い人たちには理解できない。
いつも「現在」を基準にして、ものを考える。
話の内容こそ正反対だが、織田信長の時代に、携帯電話があったと思うのと、どこも
ちがわない。

●「学校」意識

 織田信長の時代に携帯電話という話は例外としても、こうして並べて考えてみると、
「歴史とは何か」。
そこまで考えてしまう。

 「学校」にしても、日本人がもつ「学校」意識は、明治以後の国策のひとつとして、
作られたもの。
富国強兵策のひとつとして利用された。
そういう歴史的背景があって、日本人は、子どもを見れば、「学校」「学校」というように
なった。

 もちろんこうした意識は、国によってもちがう。
隣の韓国は、世界に名だたる受験国家として知られている。
その影響もあって、韓国の新聞各紙を読んでいると、「順位」が話題にならない日はない。

「韓国は、世界〜位になった」「〜位にさがった」と。
とくに相手が日本のときは、日本の順位と並んで、「日本に勝った」「負けた」の記事が
並ぶ。
今度のTOYOTA自動車のリコール問題についても、韓国内では連日、大々的に
報道されている。
「日本車への信頼は、地に落ちた」という記事まで載った。

●私は私?

 私たちは、つねに自分の意識を疑う。
言いかえると、私たちがもっている意識ほど、あてにならないものはない。
ときにその意識が、そこにある(真実)を、覆い隠してしまうこともある。
さらに端的に言えば、「私は私」と思っているのは、私だけ。
その実、私などどこにもないということになる。

 前にも書いたが、北海道のスズメも、沖縄のスズメも、同じ。
スズメはスズメ。
どこもちがわない。
その(ちがわない)という範囲で、私は私。

 私たちの意識は、常に何かによって作られ、操られている。

 では、どうするか?

 無知は、「私」の大敵と考える。
無知は、私を「私」から遠ざける。
言いかえると、「私は私のことをいちばんよく知っている」と豪語する人ほど、
自分のことを知らない。
一方、「私は何か」と問いつづけている人をほど、自分のことを知っている。
「私」を知らないで生きるということは、私がただの動物と同じ。
それにすら気がつかないで、ただ生きているだけ。

●無知

 無知の話から「私」論へと、話が脱線してしまった。
(脱線したという意識は、あまりないが・・・。)
織田信長と携帯電話の話はそれでよいとしても、こと「私」については、
無知であってはいけない。
その理由は、先にも書いた。

 ついでながら、織田信長の話を、小学5年生の子どもにしてみた。
冒頭に書いた話である。
それを聞いた、その子ども(男児)は、こう言った。
「信長の時代に、電話なんか、あるわけないよ」と。

 しっかりと勉強している子どもも、ちゃんといる。
それを聞いて、私は安心した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 無知 無知の知 無知という罪悪)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 3月 5日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子ども手当て(改)

++++++++++++++++

「子ども手当」が支給されるという。
当然のことである。
そんなことは世界の常識。
今さら、おおげさに騒ぐような手当てではない。

それに対して、鳩山首相は、「給食費
などの未納があるばあいには、相殺
できる仕組みを検討するという考えを
示した」(中日新聞・2010・1月31日)と。

ハア〜〜〜?
とんでもない!
とんでもない(考え)である!
どうとんでもないかは、
私のエッセーを読んでもらえれば、
わかるはず。

++++++++++++++++

●給食費の未納問題

 給食費の未納問題については、たびたび書いてきた。
給食費を払えない、あるいは払わない家庭がふえている。
しかしそれはそれ。

 こういうケースのばあい、(給食費を払えるが、払わない家庭)を前提に考えてはいけな
い。
(本当に給食費を払えない家庭)を前提に考える。
給食費を払えるのに、払わないというのは、たしかにずるい。
そういう家庭を前提に考えるなら、子ども手当で相殺させるという方法もある。
しかし本当に給食費を払えない家庭もある。
払いたくても、払えない家庭もある。
そういう家庭にまで、子ども手当で給食費を相殺させるというのは、明らかにまちがって
いる。
貧しい人たちを、さらに貧しくする。
本当に助けを必要としている人たちを、見捨ててしまう。

●相殺

 子ども手当というのは、子どもをもつ家庭を助けるためのもの。
そういう趣旨で与えられる。
欧米では常識化している。
が、その子ども手当で、給食費を相殺させるなどという話は、聞いたことがない。
ないというより、非常識。
どうして給食費なのか?

 子どもを育てるには、それなりのお金が必要。
衣食費はもちろん、そのほかもろもろの費用が必要。
何も給食費だけが、費用ではない。
もろもろの費用の、ほんの一部でしかない。
もしこんな論理がまかり通るなら、子ども手当は、ほかのあらゆるものと相殺されること
になる。

 学校施設費と相殺する。
テキスト代と相殺する。
交通安全費と相殺する。
通学保険費と相殺する。
修学旅行費と相殺する、と。
「相殺」ということになれば、いくらでもそのワクを広めることができる。

●役人の人件費

 給食費を払えるのに、払わない家庭もある。
が、だからといって、払いたくても払えない家庭までいっしょくたにして、相殺するとい
うのは、先にも書いたように、まちがっている。
してはいけない。

 もしこんなことがさらに常識になってしまえば、今、給食費を払っている家庭まで、払
わなくなるかもしれない。
「子ども手当で相殺してください」と。

 そういうことにでもなれば、さらに事務手続きは煩雑になる。
その分だけ役人の仕事がふえる。
役人の数がふえる。
その分だけ、税金が無駄づかいになる。

 ドイツでは、一律、何の制約もなく、チャイルド・マネーを支給している。
最長、子どもが27歳前後になるまで支給している(「27歳」というのは、10ほど前の
データ)。
フランスでも、そうしている。
その方がわかりやすい。
事務も簡素化し、役人に与える人件費も安くつく。
で、子どもをもつ親が、そのお金をどう使おうが、それは親の勝手。
たかが1万3000円程度(初年度)の話ではないか。
そのお金で、「給食費と相殺する」だと?
バカげている!

●貧乏論
 
 貧乏人と金持ちのちがいは、ほんの紙一重。
貧乏な人は、働いても働いても、お金のほうから先に逃げていく。
一方、金持ちの人は、遊んでいても、向こうからお金が飛び込んでくる。
しかも桁(けた)がちがう。
2桁も3桁もちがう。

 で、金持ちの人たちは、「貧乏な人は、もっと働けばいい」と言うかもしれない。
しかしここにも書いたように、働いても働いても、どうにもならない。
すべてが空回りする。
空回りに振り回される。
一度、そういう状態になると、働く意欲さえ、消え失せる。
それが悪循環になって、貧乏な人は、ますます貧乏になっていく。
つまり貧乏というのは、その人の責任ではない。
「歯車」の問題。
今、この文章を読んでいるあなただって、いつなんどき、その歯車が狂うかもしれない。

 言うなれば、「給食費と相殺させる」というのは、貧乏が何であるかも知らない、どこか
のドラ息子の発想。
親から何十億円という小遣いをもらいながら、みじんも恥じない、どこかのドラ息子の発
想。
悲しいかな、鳩山首相は、貧乏というものが、どういうものか、まったくわかっていない。

●役人根性

 日本ほど子どもに対する社会保障費の低い国はない。
「アメリカと同程度」と反論する人もいるかもしれないが、アメリカでは、その分だけ、
奨学金制度が発達している。
大学生にしても、親のスネをかじって大学へ通っている学生など、さがさなければならな
いほど、少ない。
つまりこの日本では、それすらも、親の負担。
『子、大学生、親、貧乏盛り』(はやし浩司)という。

 むしろ逆で、子どもをもつ親を、国はもっと保護、助成、補助すべきではないのか。
たった1万3000円程度の子ども手当を、おおげさに「手当」と言って騒ぐ。
騒ぐだけならまだしも、そのお金で給食費を相殺させる。
こんな残酷な話が、どこにある?
(給食費を払えるのに払わない家庭があること)を理由に、(払いたくても払えない家庭)
の人たちを、これ以上苦しめてはいけない。

 だいたいこうした発想そのものが、役人的。
一方で「払う」と言っておきながら、「取れるところからは、目一杯、取ってやろう」と。
だったら、せめて給食費くらい、全額無料にすればよい。
役人の数を、数パーセント減らせば、その人件費だけで、給食費は無料にできる。
(役人の人件費は、年間約38兆円。1%、役人を削減すれば、それだけで、3800億
円、浮かぶ。)

私が小学生だったころには、学校の給食だけが、(栄養源)だった。
ごちそうだった。
あのころの日本がもっていた(温もり)は、どこへ消えたのか?

●弱者にやさしい社会

 その社会の完成度は、弱者にいかにやさしいかで決まる。
弱者にやさしい社会を、豊かな社会といい、「国」という。
GDPではない。
モノの豊かさではない。
心。
(やさしさ)だ。

 今度の鳩山首相の発言には、その(やさしさ)がない。
がっかりしたというよりは、「なるほどなあ」と、へんに感心してしまう。

 いいか、鳩山首相、子ども手当など、いじってはいけない。
いわんやそれで相殺などと、考えてはいけない。
「どうぞ、お父さん、お母さん、自由に使ってください」と言って、親に渡す。
「子育てはたいへんですね。お金もかかることでしょう」と言って、親に渡す。
それが子ども手当。

 その趣旨を踏みはずしてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 子ども手当 子供手当 手当て)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【息子に対するいじめ】

【OMさんより、はやし浩司へ】

++++++++++++++++++++

小学6年生の男児に対する、いじめについて
相談が届いています。
もうすぐ卒業式。
何とか笑って卒業できれば・・・と、
母親のOMさんは悩んでいます。

++++++++++++++++++++

はやし浩司さまへ

内容が具体的なので、くれぐれも住所・年齢・家族構成がわからないようにお願いします。

以前、娘のことで何度か相談しお世話になりましたN県N市の、OMです。
今回は、もうすぐ中学生になる息子のことで相談したく、パソコンを開きました。

これまで娘のこと(学校でおとなしい。自分が出せない・・・)で悩むことが多く、息子
に関しては、仲良しの友達もいて、先生からも誰とでも仲良くすると聞いていたので、全
く心配していませんでした。

最近、娘のほうは落ち着いてきて、相変わらずおとなしいけれど、自分なりに楽しく家で
も明るく学校の話をするようになり、ホッとしていました。
その矢先、今度は、息子が・・・

ある日、突然、
仲良しグループから仲間外れにあっていると、言い出したのです。

原因は何度考えてもわからない。
いつものように、休み時間に友達のところへ行くと、まるで息子が居ないかのように仲良
く話しをしたり、昼休みも息子を無視して外へ遊びに行ったり・・・。

掃除の時間は仲良しグループの子と一緒なのですが、息子と二人のときは普通に話すけれ
ど、終わると、また無視して、他ところへ行くそうです。

息子は初めのうちは何事もなかったように話しかけたりしていましたが、反応があまりに
も嫌われていると、わかるので今では自分からは話しかけていません。
たまにそのグループの子から「バイバイ」程度のことは言ってくれるようですが・・・。

最近、息子は1人が少し慣れたのか、休み時間は、1人で本を読んだりして過ごしていま
す。
登校を嫌がることは、今のところありません。

今のところ親友がいるので、心強いのですが、その親友の子にも共通の友達がいるので
いつか、親友にも無視されるのではないかと、息子は心配しています。

このまま、原因もわからず、仲間外れにされたままで、息子は大丈夫でしょうか?
グループの子になんで無視するの?、っと聞くと、余計にややこしくなったりするから聞
きたくない。どうせ、嫌われているならもう関わりたくないと、言っています。

もうすぐ卒業式。
笑って卒業できないことがくやしいです。

なんとか仲良くもとに戻ってほしいのですが・・・

息子は、少し人の気持ちを考えずに思ったことを話すところがあり、友達には「もし、悪
いところがあったら直したいから言ってよ」などと、仲良し子に対しては何でも話します。
でも、ちょっと苦手な子がくると、仲良しの子がいても、みんなで楽しく遊んだりできな
いタイプだと思います。

4月から中学になります。
違う地区からも、生徒がきます。
そこで新しく友達ができるといいのですが。

まとまりのない文章になってしまいましたが、今、息子に対して、家族としてしてあげる
ことはあるでしょうか?

【はやし浩司よりOMさんへ】

●加害意識と被害意識 

 加害意識と被害意識。
いじめを考えるときは、まずこの2つに着目しなければなりません。
むずかしい問題ですね。
「害を与えた者は、害を受けた者の心の痛みが理解できず、いつも害を過小評価する」。
あるいは「害を与えた者は、害を受けた者がそれをいつまでも覚えていることに気づかず、
すぐそれを忘れてしまう」。
わかりやすく言えば、いじめる側には、それだけの加害意識がないということ。
この意識のズレが、害を受けた人の心の傷を、さらに大きくします。
子どもの世界では、とくにそうです。

 私もよく(いじめの現場)を、直接見ることがあります。
しかしそういうとき、どこまでが(遊び)で、どこから(いじめ)なのか、よくわからな
いというのが、実情です。
私の目の前で、堂々と、それをしますから・・・。
しかもそのときは、双方が、むしろ笑いあいながら、それをしている・・・。

あとになって、親のほうから、「いじめられた」という報告をもらってはじめて、「ああ、
あのときがそうだったのか」と知ったりします。

 しかし(いじめる側)にとっては、(遊び)でも、(いじめられる側)にとっては、(遊び)
ではない。
そのつど(いじめられる側)は、大きく傷つきます。

●いじめ

 OMさんの息子さんが、そうだというのではありません。
しかし(いじめる側)と、(いじめられる側)は、いつも一方通行というわけでもありませ
ん。
べつの場面では、(いじめる側)が、いじめられ、一方、(いじめられる側)が、(いじめの
側)に回ったりします。
あるいはいじめられる前に、いじめのグループに入り、(いじめの側)に回ったりします。
子どもにとっての「仲間」というのは、そういうもので、仲間を作ることによって、自分
にとって居心地のよい世界を作ろうとします。
その仲間意識を維持するために、意味のない(いじめ)を繰り返すこともあります。
この時代の子どもたちを総称して、「ギャング・エイジ」と呼ぶのも、そういう理由からで
す。

 わかりやすく言えば、「善や道徳の通ずる世界」では、ないということです。
たとえば(いじめる側)は、その意識もないまま、面白半分で、それをしたりします。

つまり私たちおとなが考えるより、(いじめの問題)は、はるかに複雑ということです。
しかもどこか動物的。
もちろんだからといって、いじめを肯定しているのではありません。
どうか、誤解しないでください。

●では、どうするか?

 (いじめの問題)は、常に(いじめられる側)の立場で、(いじめられる子どもの心)の
救済だけを考えて対処する。
これは大原則です。
(いじめる側)が、いくら「いじめていない」と言い張っても、(いじめられた側)が、そ
れだけつらい思いをしているなら、(いじめ)があるという前提で対処します。
またそういう前提で、子どものいじめを考え、(いじめられる側)の救済にかかります。
もし(いじめる側)に、加害意識がないなら、それをわからせるまで、徹底的に指導しま
す。
これも大原則です。

 しかし実際には、指導の仕方をまちがえると、かえっていじめを陰湿化させてしまうこ
とにもなりかねません。
水面下にもぐらせてしまうこともあります。
嫉妬やひがみがからむと、さらにそうなります。
そこでもうひとつの大原則があります。

 大切なことは、子どもが楽しく通学すること。
そのためには、折れるところは折れ、妥協するところは、妥協する。
この世界には、『負けるが勝ち』という格言もあります。
ほかの世界とはちがって、子どもの世界は、不合理のかたまり。
先にも書いたように、もともと道理が通ずるような世界ではありません。

 ですから、結局は、つぎのような結論になってしまいます。

(4)その範囲のいじめなら、親としてつらいところかもしれませんが、子どもを慰め、
励ましながら、様子をみる。
(5)その範囲を超えたら、一に、担任の先生に相談です。仲のよい友だちがいたら、そ
の友だちの親に相談するのも大切なことです。
(6)さらにその範囲を超えたら、転校も視野に入れて、学校の先生に相談、です。

 ここでいう「その範囲」というのは、あくまでもその子どもの(心の状態)をみて、と
いう意味です。
いじめられることにタフな子どももいれば、そうでない子どももいるということです。

●列を作らない子どもたち

 話は変わりますが、今、この原稿を、沼津市のホテルの一室で書いています。
今朝は、市の医師会のほうで講演をすることになっています。
夕方、沼津市に着きましたが、駅での光景を見て、驚きました。

 一度新幹線で、JR三島まで来て、そこでローカル線に乗り換えて、沼津市へやってき
ました。
三島駅でのこと。
中学生や高校生たちで、ごったがえしていました。
が、驚いたことに、学生たちはそのあたりに、三々五々に集まっているといった雰囲気で、
列を作らないのです。

 私とワイフは、プラットフォームに書かれた数字を見ながら、そこへ並ぼうとするので
すが、どう並んだらよいか、かなり迷いました。
先回りして、割り込むこともできない。
かといって、どこが最後尾かもわからない・・・。

 「最近の若い人たちは、列を作らない」と、そんなことを知りました。
理由はいろいろ考えられます。

その第一、「急いで家に帰ろう」という意識が、希薄?
その第二、ルールを守らない。
その第三、立ち話を楽しんでいる。
その第四、早く乗って、座席に座ろうという意思がない(?)。

 どうであるにせよ、それでいて電車が到着し、ドアがあくと、ゾロゾロと車内へ入って
くる・・・。
ゾロゾロ、とです。
ダラダラ・・・かな?
もともと座席に座ろうという意識もないようで、席があいていても、そのまま立ち話を繰
り返しています。

 私たちの世代とはもちろん違いますが、おそらくOMさんたちの時代とも、違うのでは
ないでしょうか。
日本人が古来よりもっていた、(まじめさ)が、一本、抜けてしまったような印象をもちま
した。
つまり今、子どもたちが質的に変化しつつあります。
子どもたちというより、日本人が、です。

●暖かい無視

 さてOMさんの息子さんの件ですが、まだ(その範囲)にいて、(その範囲)でがんばっ
ているように感じます。
不登校ということでもないようですし、「関わりたくない」とがんばっています。
つまり(その範囲)で、息子さん自身が、懸命に処理しようとしているのが、文面からも
わかります。

 こういうときは、子どもの様子を見ながら、つまり暖かく見守りながら、「家庭は、そう
いう子どもの心を癒す場所」と考えて、無視するしかありません。
これを「暖かい無視」(野生動物愛護協会の言葉)といいます。
残念ながら、いじめのない世界はないし、いじめから逃げても、またつぎのいじめが、そ
こで待っています。
一方、子どもは、そういう世界を切り抜けることによって、たくましく成長していきます。
OMさんには、つらいことかもしれませんが、親のできることにも限界があるということ
です。
息子さんは、小学6年生ということですから、すでに思春期に入っています。
息子さんのほうは、とっくの昔に親離れしています。
そういうことも考えると、今、OMさんができることは、かなり限られてくると思います。

 そこで大切なことは、
(3)ここにも書いたように、家庭を(心を癒す場所)と考えて、思いっきり、ゆるめる。
(4)よき聞き役に回り、子どもの心を解放させる、です。

 生活態度がだらしなくなっても、「ああ、うちの子は、こうして心を休めているのだ」と
思い、それを許します。

 もちろん心の変化には、じゅうぶん、注意します。
とくに(その範囲)を超えそうなときには、注意します。

●シカト(無視)

 私も高校3年生のとき、今で言うシカトで、いやな思いをしました。
あるグループが、徒党を組んで、私を無視しました。
しかし私は、そんなヤワな人間ではありませんでした。
あるとき、その中の1人がもっていた、ギターをぶったたいて、壊してやりました。
相手は相手で、私をいじめていたという意識があったのかもしれません。
何も抵抗しなかったのを、覚えています。

 で、それから20年近くたったときのこと。
同窓会に出てみました。
で、そのグループが、当時のことを覚えているかなと、それなりに会話を交わしてみまし
た。
が、だれにもその意識がないことを知りました。
つまりまったく平気な顔をしていました。

 (いじめられた側)の私は、よく覚えていました。
今でも、よく覚えています。
しかし(いじめた側)は、何も覚えていない(?)。
それを知って、むしろ私のほうが、驚いたくらいです。

 言い換えると、私自身も、どこかで(いじめる側)で、だれかをいじめていたのかもし
れません。
気がついていないのは、私だけ、とです。

 だからメールでの様子からすると、息子さんをいじめているグループには、そういう意
識も希薄なまま、いじめているといった感じがします。
私があなたの息子さんなら、そういった連中は相手にしないで、マイペースで進むことだ
けを考えるかもしれません。

 その点、同じいじめでも、(もの隠し)や、(暴力)、(恐喝)とは、質がちがいます。
今は、様子を見られたほうがよいかもしれません。
「笑って卒業できない」、悔しさはよくわかりますが、別の見方をすれば、よい「転機」に
もなるのではないでしょうか。

 相手はただの子ども。
小学6年生。
そんな子どもを相手に、「悔しい」と思ってはいけません。
あなた自身の精神のレベルを下げてしまいます。

●小沢一郎の不起訴処分

 悔しいといえば、今の民主党。
反自民というよりは、反麻生の票が、どっと民主党へ流れ込んだ。
結果は、民主党のひとり勝ち。

 その結果が今。
結局、「秘書が勝手にやったことです」と言って、小沢一郎は、逃げてしまった。
検察側は、証拠不十分ということで、一連の小沢疑獄事件にはメスを入れないまま、不起
訴処分にしてしまった。

 悔しいといえば、悔しいですね。
最初から現場には、自分が出ないで、秘書たちを出させていた。
おそらくあとあとのことを考えて、そうしていたのでしょう。
つまり汚れ役は秘書たちにやらせて、自分は、奥から指示だけを出していた。
そして事件が発覚すると、「私は知りません」「秘書が勝手にやったことです」と。

 こういう事件が明るみになるたびに、政治家たちは、ますます巧妙になっていく。
やり方がズル賢くなっていく。

そこで「連座制」というのが生まれたわけですが、しかしこれは刑事訴訟法には、規定さ
れていない。
あくまでも政治家のモラルの問題というわけです。

 つまり私が言いたいのは、「上」がこのザマだから、どうしてその「下」がよくなるかと
いうことです。
いわんや、子どもの世界をや!

●OMさんへ

 話が脱線しましたが、あなたもそろそろ子離れを始めるときです。
「子離れ」というのには、2つの意味があります。

 ひとつは、あなた自身が、子どものことを忘れて、自分の人生を生きるという意味。
もうひとつは、あなたの子どもがじょうずに親離れできるように、子どもを仕向けるとい
う意味。

 さらに言えば、あなたがもっている(幻想)を、早く捨てること。
「私たちはすばらしい親子である」とか、「私は人一倍、愛情の深い親である」とかいう幻
想です。
こうした幻想は、かえって子どもの足かせになるだけで、子どもの自立ということを考え
るなら、好ましいことではありません。
子どもも、いつかそれを負担に思うようになるでしょう。
「お母さんは、お母さんで、勝手に生きてくれ」と。

 私もこの年齢になってはじめて気がついたことがあります。

 やっと子育てが終わって、ほっとしたとき、そこでドカッと待っていたのは、老後だっ
たということ。
老後の資金といっても、息子たちの学費で、使い果たしてしまっていますから、ほとんど
残っていません。
学費だけでは、ありません。
頼まれもしないのに、100万円単位のお金を、そのつど供出してきました。
が、息子たちには、感謝の「か」の字もない。
ないというより、その余裕がない(?)。
自分たちの生活を支えるだけで、精一杯。
というより、目一杯の生活をするから、余裕など、生まれるはずもない。
そんな感じです。

何というバカ親だったのかと、私もこの年齢になってやっと、思い知らされたというわけ
です。
いえ、息子たちを責めているのではありません。
「年老いた親を、どんなことをしてでも養う」と答えた若者は、28%しかいません(総
理府、2009年調査)。

イギリス人でさえ66%、アメリカ人でさえ、64%!
東南アジアの若者たちにいたっては、80〜90%ですから、いかにこの数字が低いもの
か、わかっていただけると思います。

ここに書いた、「自分の人生を生きること」という言葉には、そういう意味も含まれていま
す。
ついでですが、どうか、参考にしてください。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●同窓会

++++++++++++++++++

近く、金沢市で、大学の同窓会がある。
ホテルの予約が取れ次第、「出席」の
ハガキを出す。

ビジネスホテルなら、いつでも予約できる。
しかしわざわざ金沢まで行って、ビジネス
ホテルはない。
ワイフも同行する。

++++++++++++++++++

●恨み

 金沢にも、(恨み)はある。
あるが、ほとんどが、食べ物の(恨み)。
食べたくても、食べられなかったものが、たくさんある。
貧乏学生だった私は、いつもこう思った。
「いつか、金沢へ来たら、それを食べてやろう!」と。

 その第一が、カニ料理。
ゴリ料理。
それにフグ料理、などなど。

 今度金沢へ行ったら、フグ料理を食べてやる!
昔からこう言う。
「食べ物のうらみは、大きい」と。

●ひもじさ

 今の若い人たちは、(貧乏)というより、(ひもじい)という言葉を知らない。
人生の底辺を知らない。
そこに(豊かさ)があるのが、当たり前と思いこんでいる。
しかしこんな(豊かさ)など、薄い氷の上の楼閣。
私たちの世代は、それをよく知っている。
だから生き様そのものが、謙虚。

1万円あれば、そのうちの5000円は横にのけ、残った5000円で生活する。
が、今の若い人たちは、私たちの世代とは、生き様そのものが、ちがう。
目一杯の生活をしてしまう。
さらに借金までして、2万円とか3万円の生活をしてしまう。

●自業自得 

 「ぼくたちは子どものころ、腹一杯、ご飯を食べることもできなかった」と言う。
すると今の若い人たちは、「そんなのは、あんたたちの問題だろ。勝手に戦争を始めて、負
けたのだから、しかたないだろ」と。

 若い人たちは、「自業自得」という言葉をよく使う。
私も何度か、そういう会話の中で、言われた。
息子たちにも、言われた。
今、そこにある(豊かさ)を見ながら、あたかも自分たちが作ったものであるかのように
錯覚している。

 しかし(あるのが当たり前)という生き様と、(ないのが当たり前)という生き様は、基
本的な部分で、ちがう。
たとえば息子たちの学費にしても、私は惜しみなく提供してきた。
それだけ経済的に余裕があったからではない。
働いた。
懸命に働いた。
その中から、自分たちの(身)を削って、提供してきた。

 私の息子たちは、ごくふつうの子どもたちである。
そんな息子たちでさえ、そうした苦労に、感謝の念をもってるかと言えば、残念ながら、
まったくない。
ついでに中学生や高校生にも、聞いてみた。
私の生徒たちである。
しかしみな、同じ。
最初から最後まで、「親が学費を出すのは、当たり前」と考えている。

 これも今の若い人たちに言わせれば、「自業自得」ということになるのか。

●2人ぼっち

 気がついてみたら、そこにいたのは、ワイフだけ。
ワイフにしても、そうで、ときどき、ふと、こう言う。
「2人ぼっちね」と。

 「お前は、さみしくないか?」と聞くと、ワイフはいつも決まってこう言う。
「私はこうなることは、ずっと昔からわかっていたから」と。

 そういう点では、私は親バカだった。
自分のしていることが、見えなかった。
視野が狭かった。

 ともかくも、ここで親バカ廃止宣言!
「これからの人生は、自分たちで楽しもう」と言うと、ワイフも、すんなりと同意してく
れた。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●おかしな投票(日本相撲協会の理事選挙)

+++++++++++++++++

相撲協会が、理事選挙を行った。
その結果を、まずよく見てほしい。

■理事選の各候補得票数

武蔵川 ・・・11票
北の湖 ・・・10票
出羽海 ・・・10票
放駒  ・・・11票
ニ所ノ関・・・11票
大島  ・・・ 8票(落選)
友綱  ・・・10票
陸奥  ・・・10票(新任)
鏡山  ・・・10票(新任)
九重  ・・・10票
貴乃花 ・・・10票(新任)

投票は、111人の評議員
(親方107人、力士2人、立行司2人)によって、
無記名で行われた。

++++++++++++++++

●まちがいさがし

 「まちがいさがし」という遊びがある。
2枚の絵を見比べながら、まちがいをさがす。
で、そのまちがいさがしをするような気持ちで、この投票結果をよく見てほしい。
何か、おかしい?
どこか、おかしい?

 投票は、無記名でなされたはず。
「投票」ということは、「投票」。
選挙である。
しかしこんな選挙があるか?
土建業者の談合でも、ここまではしない。

●インチキ選挙

 落選した大島は、8票。
が、残る1人は、全員、11票か10票!
きれいに、11票か10票!

 今回の選挙で注目されたのは、貴乃花。
当初、貴乃花を支持を表明したのは、親方6人だけと言われていた。
が、フタをあけてみたら、10票!
この票の動きも、どこか不自然。
もっと言えば、うさんくさい。

 あらかじめ支持を集めながら(?)、理事候補者たちが立候補した。
それはわかる。
しかし結果は、先に書いたとおり。

●闇の奥の日本相撲協会

 日本の相撲協会ほど、闇に包まれた協会はない。
巨額のお金が、その闇の奥で、乱舞している(?)。
ときどきその一端がマスコミに流れ、世間を騒がす。
それはそれとして、こういう選挙結果を見ると、相撲協会とは、いったい何なのか?
さらに踏み込んで言えば、国技とは何なのか?
そこまで考えてしまう。

 そこでさっそく、小学生を中心に、50人ほどの子どもたちに聞いてみた。
「相撲を見ている人?」と。
答は、ゼロ!
「相撲が好きな人?」と。
答は、ゼロ!

 にもかかわらず、NHKだけは、BS放送で、午後1時半前後から夕方6時前後まで、
いつも実況中継している。
NHKと相撲協会は、会長職でつながっている。

 「国技」ということは、わかる。
が、もちろんスポーツではない。
何も、ここまで保護しつづけなければならない理由などない。

 日本相撲協会の理事選挙の結果を見ながら、いろいろと考えさせられた。
つぎの選挙は、(今回が4期8年ぶりだったということを考えるなら)、8年後ということ
になる。
そのときは、もう少し自然な(?)、投票結果になるかもしれない。
こんなインチキ臭い選挙は、見たことがない。
聞いたこともない。
私が書いていることがおかしいと思うなら、もう一度、あなた自身の目で、「まちがいさが
し」をしてみてほしい。
もう一度、選挙結果を、よく見てほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 相撲協会 日本相撲協会 理事選挙)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●2月1日

++++++++++++++++++++++

今日から2月。
とくに変ったことはない。
ないが、寒い。
また肌寒い冬に逆戻りしたよう。
霧のような小雨が、音もなく降りつづいている。

で、昨夜、『ラブリー・ボーン』という映画を、劇場で観てきた。
星は2つか3つの、★★。
残虐な殺人事件と、天国の美しさを対比させた映画だった。
その(落差)が激しすぎて、私はついていけなかった。
たとえて言うなら、高級レストランで料理を食べていたら、隣の酔っ払いが
ゲボを吐いた。
ゲーゲーと吐いた。
それをがまんしながら、料理を食べた。
そんな映画だった。

観ているうちに、気分が悪くなった。
頭の中がバラバラになってしまった。
だから星は、2つ。
天国の描写はすばらしかったが、その(すばらしさ)を、映画として
生かせなかったものか・・・?
たとえば殺人事件ではなく、主人公の少女が病気か何かで、他界する。
事故でもよい。
それを悲しむ家族とのやりとりを主題にする。
そういうストーリーも考えられたはず。
そういう意味では、残念・・・というより、
監督の理性を疑わせる映画だった。
つまり期待はずれ。

++++++++++++++++++++++++++++

●民主党の小沢一郎幹事長

 人間が本来的にもつ醜悪さを、凝縮したような政治家。
それが民主党の小沢一郎。
地位もある、名声もある、力もある。
しかし心は、ドロドロ。
ドロドロに腐っている。
ほかの世界に住んでいる人には、それがわからないかもしれない。
しかし私のように、(子どもの世界)に住んでいる者には、それがよくわかる。
(だからといって、私の心が清純というわけではない。誤解のないように。)

実際、あの時折表情に出す、不遜な笑みを見ていると、吐き気すら覚える。
あれを見て、小沢一郎が、善人と思う人は、まずいないだろう。
(悪人とはかぎらないが・・・。)
その小沢一郎が、「4億円は知人に借りたもの」と発言を変えた(10年2月1日)。
今までの説明では、つじつまが合わなくなったらしい。

つまり出所のわからないお金が、先に現れた。
銀行から4億円の融資を受けたのは、そのあと。
本人としては、うまくごまかしたつもりだったのかもしれない。
しかし4億円である。
動けば、かならず、足跡が残る。

で、その知人とやらは、今は亡くなっている、とも。
「死人に口なし」というわけ。

 ずるいぞ、小沢一郎!

●講演旅行

 この先、1週間の間に、3か所で講演をすることになっている。
1か所をのぞいて日帰りは無理なので、先方で一泊する。
ワイフが同行してくれる。
ワイフは、私の体を心配する。
一方、私はワイフのボケを心配する。
あちこちへ旅行することは、ボケ防止になるのだそうだ。

健康にもよい。
ワイフはいつも歩数計をもっていく。
それを見ながら、「今日は、1万2000歩も歩いたわ」と喜んでいる。

 今は、それが楽しい。
いつまでつづくかわからないが、・・・つづけられるかわからないが、今は、がんばる。
がんばるしかない。
先のことは考えない。
そのときは、そのとき。
今のこの時代を思い出して、「ああ、あのころは楽しかったね」と言えれば、それでよい。

●別居問題

 Dさんの夫は、歯科医師。
1人息子。
岐阜市で開業して、10年になる。
しかしDさん(嫁)は、Dさんの母親(姑)と、たいへん仲が悪い。
表立った喧嘩こそしなかったが、陰湿ないがみあいがつづいた。
Dさんは、私の遠い親類にあたる。

 Dさんは、「別居か、さもなければ離婚か」と、夫に迫った。
Dさんにとっても、限界だった。
精神状態も不安定になった。

Dさんの夫は、迷った。
というより、その板ばさみになった。
苦しんだ。
で、結論は、両親との別居。
不動産屋に相談。
で、その日のうちに、中古マンションを購入。

 こういうケースのばあい、Dさんの母親(姑)にしてみれば、「息子を取られた」
ということになる。
Dさんの夫にしてみれば、「親を捨てた」ということになる。
一方、Dさんだけは、ルンルン気分(?)。
その日のうちに、私に連絡があった。
メールだったが、それがわかった。
「その日」というのは、家を購入した日。

 若いころの私なら、全面的にDさんを支持しただろう。
しかしこの年齢になると、親(姑)の気持ちも、よくわかる。
親(姑)も、さぞかし、さみしい思いをするだろうな、と。
言い忘れたが、Dさんには、3人の子どもがいる。
上から小2(男児)、年長女児、そして2歳になる女児。
親(姑)にすれば、3人の孫ということになる。

「よかったですね」とDさんに言いつつも、別の心で、「この先、まだ問題は
つづくだろうな」と思った。

 で、ついでに一言。

嫁と親(姑)で、夫(息子)を取りあうようなケースでは、親(姑)には、
まず勝ち目はない。
夫がマザコンであるとか、どちらかに不倫問題のようなものがあれば話は別だが、
夫(息子)は、親を捨て、嫁(妻)を取る。
「捨てる」という言い方は適切ではないかもしれないが、親(姑)にすれば、「捨てる」
という言い方になる。
つまり「別居か、さもなければ離婚か」ということになれば、夫(息子)は、別居を選ぶ。

 だからこの文章を読んでいるあなたが、親なら、最初から息子には、期待しないこと。
そういう前提で、子育てを組み立てる。
 
●薄情

 昔は、「薄情」と言った。
今は、「ドライ」という。
そのドライが、日本人の心になってしまった。
みながみな、ドライになってしまったから、他人のドライさがわからない。
自分のドライさも、わからない。
ドライになりながら、それが「ふつう」と思い込んでいる。
世界の常識と思い込んでいる。

 こうしたドライさは、外国の人たち、とくにオーストラリア人と比べてみると、
よくわかる。
あるいは受験期前の子どもたちと比べてみると、よくわかる。
ときとして自分自身のドライさに、ア然とするときがある。
いつの間にか、私自身も、そうなってしまった。
いつも心のどこかで、損得の計算をしている。

 が、私にも言い分がある。

 私はもともと、お人好し。
いつも人に、裏切られてばかりいた。
そういう私を見て、ワイフは、こう言う。

「あなたはいつも、相手がそれを望んでいないのに、やりすぎるのよ」
「だからキズつくのよ」と。

 そう、私は若いころから、そういう人間だった。
今も、そうかもしれない。
そんなわけで、心はボロボロ。
この日本で生きていると、そうなる。
お人好しで生きれば生きるほど、そうなる。
人と人が、(金)だけでつながっている。
「金の切れ目が、縁の切れ目」?
たとえば被害者は私のほうなのに、加害者のほうから、逆恨みされる。
そういうこともある。

 こうなったら、あとは静かに生きるだけ。
どうせ人生も短い。
平均寿命まで、16年を切った。
健康寿命まで、6年を切った。

 ドライになるのもいや。
だったら、この日本から、一歩、退いて生きるしかない。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 3月 3日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●うつ

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うつ状態というのは、それになった人でないと、
どういう症状なのか、わからない。
とくに心の健康な人には、わからない。
「気のせい」とか、「心の持ち方の問題」とか言って、
簡単に片づけてしまう。

そういう人に出会うと、うつ状態の人は、
絶望感すら覚える。
この病気だけは、理屈だけで割り切ることができない。
脳間伝達物質の偏(かたよ)りで発症するため、
本人自身の力では、コントロールできない。

たとえばよくある早朝覚醒。
これにしても、朝早く目が覚めてしまう。
目が覚めてしまうから、どうしようもない。
「もっと眠っていよう」と思えば思うほど、
頭が冴えてしまう。
たった今が、そうだ。

++++++++++++++++++++

●私のばあい

 うつ病にも、さまざまなタイプがある。
が、それについて書くのが、ここでの目的ではない。
また書いても、参考にならない。
それに私は、その病気の専門家ではない。

 が、私のばあいは、ひとつのことにこだわり始めると、どんどんとその深みにはまって
しまう。
ふだんなら笑ってすませるような話でも、「ぜったいに許せない」とか、「あいつはまちが
っている」とか、そういうふうになる。
神経は緊張状態にあるため、ささいなことで激怒したり、大声をあげたりする。

 で、精神安定剤が効果的かというと、そうとも言い切れない。
そのときはぼんやりとした睡魔に襲われるが、1、2日もすると、かえって神経がいらだ
ってしまう。
だからやや長期的な視点で考えると、こうした「精神薬」は、必要最小限にしたほうがよ
い。
とくに脳間伝達物質をいじるときは、そうしたほうがよい。

●タネ

 うつ病には、かならず原因となっている(タネ)がある。
そのタネを、まず取り除くこと。
そのタネさえ取り除けば、ときとして、パッと気が晴れる。

 で、私のばあい、精神的な負担感には、たいへん弱い。
心が過度に緊張するあまり、数時間もすると、ヘトヘトに疲れてしまう。
実際には、数時間はともかくも、1日もつづかない。
攻撃的に爆発するか、反対に、あきらめて、心の整理を先にしてしまう。
投げやりになることもある。
「負けるが勝ち」と逃げてしまうこともある。

 どうであるにせよ、うつ状態というのは、本人にとっても、いやな状態である。
悶々とすればするほど、心が蝕(むしば)まれていく。
いじけたり、くじけたり、ひがみやすくなったりする。

●買い物

 で、私のばあい、そういう状態になったら、こうする。
若いころから、何かほしいものがあったら、パッとそれを買う。
買ったとたん、胸がスカッとする。
(反対にほしいものを、長い間がまんしていると、悶々とした気分になる。
それがうつ状態を引き起こすこともある。)
これは脳の中の、どういう反応によるものか?

 多分、ドーパミンがドッと分泌され、それが物欲を満たす。
その満足感が、脳内を甘い陶酔感で満たす。
言うなれば、麻薬をのんだような状態になる(?)。

 これはあくまでも、私という素人の判断だが、たとえば買い物依存症なども、
似たような現象を引き起こす。
何かの依存症になる人には、うつ病の人が多い。
そのモノがほしいから買うのではなく、買うことにより、物欲を満たす。
喫煙者がタバコを吸ったり、アルコール依存症の人が酒を飲むようなもの。

●発散

 どうであるにせよ、加齢とともに、うつ状態は、ひどくなる。
「初老性のうつ病」という言葉もある。
若いときとちがって、気分の転換がむずかしくなる。
一度、落ち込むと、それが長くつづく。
それに最近気がついたが、いろいろな病気を併発する。

 頭痛、胃炎、それに心痛などなど。
体の弱い部分が、表に出てくる。

 で、私のばあい、そうなったら、子どもを相手に心を発散するようにしている。
ときどきレッスンで、メチャメチャ、羽目をはずすことがある。
(YOUTUBEで、紹介中!)
落ち込んでいるときほど、そうする。
子どもたちも喜んでくれるが、同時に、それは私自身のためでもある。
レッスンが終わったあと、気分が変わっているのが、自分でもよくわかる。

●仲良くする

 要するに、まじめな人ほど、この世の中では、うつ病になる。
そういう点では、この世の中は、うつ病のタネだらけ!
(たぶんに、弁解がましいが・・・。)

 しかし私の印象では、うつ病というのは、仲良くつきあう病気で、闘うべき病気
ではないということ。
もちろん症状がひどくなれば、それなりの対処もしなければならない。
しかし症状も軽く、ときどき、慢性的に起こる程度いうのであれば、仲良く、つきあう。
だれだって、落ち込んだり、反対にハイになったりすることはある。
そう考えて、ジタバタしないこと。
できるだけ薬物の世話になることは、避ける。
一度、世話になると、それこそ、薬なしでは生活できなくなる。

 私のばあいは、精神安定剤と熟睡剤、あとは市販のハーブ系の薬をうまく使って、
自分をコントロールしている。
漢方薬にも、よいのがある。
脳間伝達物質を調整するような薬は、よく効くのかもしれないが、そのあと起こる
フィードバックを考えると、こ・わ・い。

 「フィードバック」というのは、ある種のホルモンを、人工的に体内へ取り入れると、
そのホルモンを中和しようとして、相対立するホルモンが分泌されることをいう。
それが長くつづくと、本来そのホルモンを分泌している器官が、ホルモンの分泌を
やめてしまう。
副作用のほうが、大きい。
ステロイド剤も、そのひとつ。

●長い間、ありがとう(?)

 どうであるにせよ、老後は、みな、そのうつ病に直面することになる。
言うなれば天井の低い、袋小路に入るようなもの。
薄日は差すことはあっても、青い空など、もとから求めようもない。
友の死、知人の死がつづけば、なおさら。
大病になれば、さらになおさら。

 で、おかしなことだが、私はこの正月、狭心痛(?)なるものを、覚えた。
そのときのこと。
「心筋梗塞で死ねるなら、本望」と。
いわゆるポックリ死である。
ふだんの私なら、心気症ということもあって、何かの病気を宣告されたら、それだけで
ガタガタになってしまう。
が、こと心筋梗塞について言えば、こわくない。
私の父親も、その心筋梗塞で命を落としている。

 私は、やるべきことは、やった。
今さら、思い残すことは、ほとんどない。
これから先、10年長生きしたとしても、状況は同じだろう。
10年後に、今よりすばらしい文章が書けるという保証はない。
反対に脳みそは、不可逆的にボケていく。

 息子たちは、みな、去っていった。
去っていっただけではなく、心も離れてしまった。
ワイフとの関係にしても、今は、どこかギクシャクしている。
落ちつかない。
ただオーストラリアの友人のB君だけが、このところ毎日のように、「オーストラリア
へ来い」「いっしょに住もう」と、提案してくれている。
希望といえば、それだけ(?)。

 だから今は、こう思う。
「いつ、死んでも構わない」と。
一時の激痛ですむなら、それでよい。
それで死ねるなら、それでよい、と。

 ・・・しかしそう考えること自体、うつ病なのかも?
脳のCPU(中央演算装置)が狂ってくるから、自分ではその(狂い)はわからない。
「正常」と思いつつ、「異常」な考えをもつ。
「死んでもいい」というのは、どう考えても、異常である。
おかしい。
しかしこればかりは、どうしようもない。
心臓という、私の手の届かないところにある臓器の問題である。

 あとは運命に命を任すしかない。
もし私がポックリと死んだら・・・。
そのときは、そのとき。
電子マガジンも、そこでおしまい。
BLOGも、そこでおしまい。

 みなさん、長い間、購読、ありがとう!
(前もって、言っておきます。)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【知性vs人間性】

●人間性の喪失

+++++++++++++++++

近くの郵便局で、元局長が、客や仲間から、
数億円を詐取するという事件が起きた。
「儲かるから、投資しないか」と、客たちに
呼びかけていたという。
あるいは客からの預かり金を、そのまま、
ネコババしていたという。

+++++++++++++++++

●他者との共鳴性

 人間性は、一言で表現すれば、「他者との共鳴性」で決まる。
共鳴性の深い人を、人間性の高い人という。
そうでない人を、そうでないという。
他者を平気で(?)だます人は、それだけ人間性が低いということになる。
ここにあげた事件では、元局長(当時は局長)が、客を、つぎつぎとだまして、金をネコ
ババしていた。

 罪の意識はあったのだろうか?
それともなかったのだろうか?
他人への迷惑を考えるなら、とてもできなかった犯罪である。
身近で起きた事件だけに、いろいろ考えさせられた。

●親をだます子どもたち

 親に学費を出させ、その学費で、遊びまくる。
勉強など、しない。
専門書も、買わない。
買うといえば、漫画やコミック本ばかり・・・。
親子の関係とはいえ、これは立派な犯罪である。

 今、そんな学生がふえている。
・・・というより、もとから学ぶ意識など、ない。
目的もない。
だから遊ぶ。
で、金がなくなると、「〜〜の資格を取るために、30万円、必要」とか
何とか言って、親に金をせびる。
あとはバイト、バイトの生活。

●知的な人間

 このタイプの学生にかぎって、外面(そとづら)だけはよい。
ボーイフレンドやガールフレンドに、献身的に仕えたりする。
服代や化粧代だけに、金をかける。
あるいは相手の両親には、献身的に仕えたりする。
実家では掃除の「ソ」の字もしたことのないような学生が、正月には、相手の家で、
大掃除を手伝ったりする。

 一事が万事。
万事が一事。

 はげしい受験競争をくぐり抜けた学生ほど、そうで、あのアインシュタインも、
こう書いている。
「知的な人間を、神にしてはいけない」と。

いろいろに解釈できるが、「知性」と「人間性」は、別物と考えてよい。

●予兆

 数億円・・・新聞の報道によれば、7億円〜とか!
どこかの投資会社にのめりこんで、それで金額がふえていったということらしい。
私はその記事を読んで、その犯罪性よりも、その男性の過去に興味をもった。
年齢は、40代半ば。

 「こんな男なら、親をだますのは、平気だろうな」と思った。
あるいは「親は、それに気づかなかったのだろうか」とも思った。
あるいはその逆でもよい。
バカな親がいて、息子をして、そういう息子にしてしまった。
が、こうした予兆は、早ければ子どもが小学生のときから、見られるようになる。

●小ズルさ

 「ズルイ」といっても、2種類ある。
子どもらしいズルさ。
表面的で、どこかイタズラぽい。
もうひとつは、その子どもの奥深くから発している、ズルさ。
「ズルい」というより、「狡猾(こうかつ)」。

 親のキャッシュカードから現金を引き出して、遊んでいた子ども(小学生)がいた。
あるいは親と教師を、その間に立って、自分の意のままに操る。

 親には、「あの先生は、依怙贔屓(えこひいき)する」と訴える。
一方、先生には、「ぼくのママが、先生のことを、教え方がヘタだと言っていた」と言う。
こうして親と先生の信頼関係をこわしながら、自分にとって居心地のよい世界を作る。

●親バカ

 結局、行き着くところは、「親バカ」論。
本来なら、こんな子どもには、1円も渡してはいけない。
必要なことはしても、それ以上のことをしてはいけない。
が、親にもメンツや世間体がある。
「何とか、学歴だけは・・・」という弱みもある。
そこで金を出す。
出しつづける。

 が、肝心の子どもは、感謝の「か」の字もしていない。
中には、「親がうるさいから、大学だけは出てやる」と豪語(?)する子どもいる。
大半の学生は、大学を出ると同時に、「ハイ、さようなら!」。

 内閣府の調査によっても、「将来、親のめんどうをみる」などと考えている若者は、
28%前後しかいない(後述、注※)。

 で、親は、あるとき、ハタと気がつく。
「私の子育ては、いったい、何だったのか」と。

●ツケ

 ずいぶんときびしいことを書いたが、結局は、そのツケは、子ども自身に回ってくる。
目一杯の派手な生活。
余裕のない生活。
その先で待っているのは、孤独。
「豊かな貧困感」。
見た目には豊かだが、心はいつも飢餓状態。
貧しい。
しかも、都会の一流大学を出た子どもほど、そうなるというのは、人生の皮肉としか
言いようがない。

すべてをあの受験競争のせいにするわけにはいかない。
が、受験競争が影響を与えていないとは、もっと言えない。
思春期前夜から思春期にかけて、成績という数字だけに振り回されるようになると、
子どもは、とたんに冷たくなる。
その(冷たさ)は、親にはわからない。
が、私には、わかる。

 私は、この40年間、幼稚園の年中児から高校3年生まで、子どもたちを教えてきた。
そういう(流れ)の中で、子どもたちの心が、あの受験期を境に、どんどんと
変わっていくのを知っている。
それを毎年のように、目の当たりに見ている。
わかりやすく言えば、過酷な競争は、その子どもから共鳴性を奪う。
人間性を殺す。
親は、「おかげで一流大学に合格できました」と喜んで見せるが、そのうしろで
吹きあげている秋の空風(からかぜ)には、気づいていない。

 40代で郵便局の局長をしていたということだから、きっと頭のよい男だった
のだろう。
そこそこの学歴もあったに、ちがいない。
しかし7億円とは・・・!

 「これでいいのか?」と、疑問をぶつけて、このエッセーを終える。
これでいいのか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 受験教育の弊害 人間性 共鳴性 スポイルされる子どもたち 親バ
カ論)

(参考)

(注※)日本と韓国の若者は、将来、親の面倒を見ようという意識が低い・・・。日韓、
欧米の計5カ国の若者を対象にした内閣府の調査で、こんな実態が浮き彫りとなった。
調査は日本、韓国、米国、英国、フランスで、18〜24歳の男女各1千人前後を対象に
5年ごとに面接方式で実施しており、今回(2009年)で8回目。

現在、母と暮らすのは韓国が77%(父とは74%)と最も多く、次いで日本が74%(同
68%)で、欧米3カ国の平均は48%(同37%)だった。

「親から経済的に早く独立すべきだ」という考え方について、「そう思う」が各国とも75%
を超え、日本は89%と最も高く、次いで韓国の84%だった。

一方、将来、年老いた親を「どんなことをしてでも養う」と答えたのは英66%、米64%、
仏51%と欧米が高かったが、日本は28%、韓国も35%と低かった。逆に「将来、自
分の子どもに老後の面倒をみてもらいたいか」の問いでは、「そう思う」は欧米3カ国の平
均67%に対し、日韓は40%台だった。

日韓の若者の傾向について、内閣府の担当者は「親との同居世帯は多いが、将来への独立
志向が高く、親の面倒をみるという意識も低い。欧米に比べると親子関係はドライなのか
もしれない」と話している。(石塚広志氏HPより引用)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●『アバター』と私

+++++++++++++++++

私が中学1年生のときに書いた作文を
紹介する。
今からちょうど50年前に書いた。

当時まだ、コンピューターというのは
なかった。
私がはじめてコンピューターなるものを
見たのは、大学2〜3年生のとき。
工学部の実験室にそれがあった。

当時のコンピューターは、コンピューターと
いっても、紙テープに、点字で使うような
穴を無数にあける程度のものだった。

もちろん今でいう、モニターなど、なかった。

そういう時代、つまり私が13歳のときに
書いた作文である。
どうか一読してほしい。

・・・というより、私は、こうした情報を
どこでどう手に入れたのか、よく覚えていない。
手塚治虫の『鉄腕アトム』というのは、
すでによく知っていたので、その影響を
受けたのかもしれない。

が、最近見た、映画『アバター』にも
負けないような内容(?)と思っている。

(これは私の自慢!)

++++++++++++++++++++

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4313002066/sizes/l/

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4312266761/sizes/l/

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4313002066/" title="img002 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/4066/4313002066_
8f40b34318_b.jpg" width="716" 
height="1024" alt="img002" /></a>

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4312266761/" title="img003 by
 bwhayashibw, on Flickr"><img 
src="http://farm5.static.flickr.com/4014/4312266761_92f1cb6e61_b.jpg" width="716" 
height="1024" alt="img003" /></a>


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【夫婦の問題】

+++++++++++++++++++++

100組の夫婦がいれば、100の異なった事情がある。
1組とて、同じ事情の夫婦はいない。
しかも複雑。
大小のちがいはあるだろうが、みな、それぞれの事情の中で、
何らかの問題をかかえている。
問題をかかえていない夫婦はない。
みな、懸命にふんばっている。
ぎりぎりのところで、ふんばっている。
東北地方に住んでいる、HY氏もその1人。
HY氏からのメールを、改めて、読みなおしてみる。
HY氏の問題というよりは、私自身の問題として、
読みなおしてみる。

++++++++++++++++++++++

【HY氏より、はやし浩司へ】

お忙しいところ申し訳ございません。
今家の中は妻と娘の問題で騒然、混沌としております。
どう解決していけばいいかわからない状態です。
先生のお知恵をいただき、何とか解決の糸口を見つる事ができればと思っています。
宜しくお願いします。

妻とは職場結婚し、23年になります。
私は外科医師で妻は元看護師です(結婚と同時に退職)。
結婚当初から気に入らないことがあると、1週間でも口を利かなくなり、私を無視すると
ころがありました。
離婚を匂わせる発言も数回ありました。
私はどちらかと言うと家族の絆・連帯を重んじたいほうで、家内にはそれも重荷になって
いたようです。

1年3ヶ月前ちょっとしたことで家内が激高し、それ以来寝室は別々で、家庭内別居の状
態が続いています。
元々お互いにセックスレスだったこともあり、今は家内に触れただけで大声を上げて嫌が
ります。

激高したちょっとしたことについて少し書きます。

・・・早めに病院に行かねばならず、家内が車庫から車を出した際、車庫前に駐車してい
た隣人の車にぶつかった。
急いでいたしその車が誰のものかもわかっていたので、不覚にも私は家内に、「送っていっ
てから隣人に詫び言って弁償相談して」と言ってしまい、家内にそのようにしてもらった。
しかし家内が帰宅すると隣人の車は出発していたので、家内は隣人に詫びを言い、隣人の
車が帰ってきたのは夕方だったとのこと。

その後車庫内に置こうとした私の自転車が、代車がそこにあったことで、うまく駐輪でき
ず、内開きになっている駐車場のドアにかかってしまっていた。
家内が車庫に物を取りに行ったとき、自転車を倒し、自転車が代車にぶつかってしまい、
代車が傷つき、家内にそのことを強くとがめられた。

そのまま謝ればよかったのだが、私も眠くイライラして「僕も悪かったが車をとめる時、
自転車があるのだから、もうちょっと気をつけてくれてとめてくれても良いのではないか」
と抗議してしまった。
非常に雰囲気が悪くなったので、慌てて車を見に行き、かすり傷が、代車についているの
を認めた。
車庫内で家内は興奮し、近所に聞こえるような大声で泣きながら怒り始めたので、平謝り
に謝った。
翌日自動車会社から私に、「たいした傷ではないので大丈夫ですよ」と言ってもらった。
その日以来、寝室は別になった・・・

対外的に妻は非常に良い人で、幼稚園や小学校でお母さん連中に慕われています。
私の両親にも献身的で祖父母が存命だった時は病院への送り迎えや、母が仙台で手術を受
けたときなどは、家族のためにウィークリーマンションを借りたり、下準備を全て行って
くれたり、至れり尽くせりで家族は感謝していました。

また私の父も1年6ヶ月前に亡くなり、秋田で暮らしていた母と、重い精神病の妹が2人
残されたので2ヶ月ほど前、仙台市内の我が家から500mはなれたところのマンション
を借りるのにも尽力してくれました。

でも私には家庭内別居になってから「おはよう」「おやすみ」「おかえり」などの基本的な
挨拶も全くありません。

12歳になる長女は3歳頃から「どうして、どうして」といいながら2〜3時間は泣くこ
とがしばしばありました。
家が微妙な状態になった頃、突然受験すると言って中学受験を決意しました。
私が殆どマンツーマンで勉強を見ました(家庭教師もつきましたが)。
今は片道1時間半かかる仙台市内まで、バスと電車を乗り継いで通学しています。
しかし今だ1週間に1回くらいは「自分だけどうして、どうして」と2〜3時間大声で幼
児返りのようにして泣き続けます。

私立中学入学当初は「一番になる」と豪語していましたが、最近は反抗期も重なりイライ
ラが強く腰を据えて勉強できなくなってきています。
中間テストの2週間前は椅子に座ったと思ったら数秒で立ち上がることを繰り返し、下の
子供が寝ると歯磨きをし始める有様に成りました。
もちろん成績も200人中160位くらいでした。「こうやって自分は落ちこぼれていくん
だ」と言い聞かせているようにつぶやきます。

今は下の子と帰ってきてから2〜3時間遊んで(と言うより遊んでもらって)、下の子が寝
る9時頃から1時間かけて10分くらい宿題をして寝てしまいます。
制服も帰ってきてからどんなに注意しても、脱いだままにしています。
「勉強したほうがいいのでは」などというと「今しようと思っていたところなのに、いわ
れたからやらない!」と拒絶します(言わなかったら殆どしません)。

下の子には思いっきり意地悪をすることが多く、家内は娘を怒ります。
娘はここぞとばかりに、「下の子ばかりかばってどうして自分だけ怒られなければならない
の、下の子の方が悪いのに」と言ってまた泣きます。
家内にダッコを求めますが、家内は仁王のように腕組みして立ちはだかり、私に対するの
と同じように、「触られたくない」と拒絶します。
弟との差を感じてますます娘は泣きます。

長男は今のところ明るい社交的な子に育っており、母の愛情も充分受けています。でも家
庭内のギクシャクのためか切れやすくなってきています。

私の対応としては、出来るだけ家庭内で明るく振舞い家内が嫌な (しつこくする)ことを
できるだけ避けるようにしています。でも家内は冷たい・・・

離婚相談のOK先生に円満になれるように相談し始めたところです(家内に内緒で)。
家内に第三者に入ってもらって相談することで建設的になれればと、いっしょに相談にの
ってもらおうと話を持ちかけましたが、家内は、「それは修復したいと思っている人のする
ことで、私はこの家にも子供にも未練がない。親権もくれてやる。
あなたにしても、子供にしても帰ってくるのが苦痛だ。私を早く一人にさせて。」と言いま
す。
全てが本心でないのでしょうけど、私に対することは本心と思われます。
「子供には両親が必要だし下の子が20歳になるまでは我々の責任だ」と説得しています
が、最近は内心そこまで持たないのではと思います。

家内の精神面がかなり荒廃していると思われ精神科の先生にも相談し安定剤を処方したこ
とがありますが、「私が神病だって言うのかい!」といわれ、1回内服してくれただけで拒
絶されました。

それからは何か相談しても(娘のことに関しては会話がかろうじて出来ます)、「精神病の人
に聞かないで」と言われてしまいます。
出来るだけ家内を解放して、実家のK町に少しでも帰るように仕向けていますが、外へ向
けての完ぺき主義の家内は、夏祭りの準備などで殆ど帰れないように雁字搦めになってい
ます。
今まで家族のためにと思って頑張って働いていたのに、私も死にたい気持ちになったりし
ています。

ただこのまま私が死んでしまったら子供たちがかわいそうで、母と妹も引っ越してきて、
どうしようもないし、私が弱ったらだめと言い聞かせています。
わたしの精神もかなり磨り減っており、カーネギーの「道は開ける」や、心の学校のST
先生の、「捨てる生き方」など読み漁っています。

とに角怒らないようにし、子供を過保護にしているのかもしれないけど、抱きしめるよう
にしています。
ダブルベットで上の子と私は一緒に寝ています。下の子のベッドで家内は寝ていますが、
私の部屋が涼しいので、下の子もダブルベットに来るようになり、3人で川の字に寝るこ
とが多くなりました。

このままでは子供の精神が壊れてしまうのではないかということと、家内も相当壊れてき
ているのではないかと心配しています。

最近は(家内にだけ秘密)、両方の家族に実情を説明し、サポートを期待しています。

あと私に出来ることは何でしょうか?
このまま現状維持で子供は大丈夫でしょうか?
やはり子供が巣立ってから離婚になるのでしょうか、子供のために今離婚したほうが良い
のでしょうか?
無理難題の質問してしまい申し訳ありません。
家内は非常に勘が鋭いので、何かありましたら私の携帯(090-xxxx-xxxx)にかけ
ていただければと思います。
何卒ご回答宜しくお願いします。

【はやし浩司よりHYさんへ】

●離婚

 こうした問題は、なるようにしかならない。
また(そうなる)ときは、本当に、自然と、(そうなる)。
水が高いところから低いところを求めて流れていくように、(そうなる)。
たとえば離婚にしても、「離婚する」とか「しない」とか、がんばっているときは、離婚な
どしない。
言い争っている間は、離婚などしない。
「子どもはどうする」「親はどうする」などと騒いでいるときも、離婚などしない。
本当に夫婦が離婚するときは、ごく自然な(流れ)の中で、離婚していく。
そのときは、子どもの姿も、親の姿もない。
もちろん夫婦の間の会話も途絶え、「話し合っても、無駄」という状態になる。
たがいにサバサバした状態で、夫婦は離婚届に署名し、押印する。

●干渉

 で、改めてHYさんからのメールを読みなおしてみる。
1年前にいただいたときには感じなかった重みを、今は、感ずる。
しかしこれメールだけで、返事を書くことはできない。
夫婦にはその夫婦にしかわからない、深い事情がある。
いくら想像力を働かせても、そこにはかならず限界がある。
このことは反対の立場を経験してみると、よくわかる。

 私もいろいろな経験をした。
けっして平穏、無事な人生ではなかった。
そうした中で、あれこれと私に意見を言ってくる人がいた。
こちらの事情を表面的な部分だけを見て、そこに自分の解釈を加えてくる。
しかもわずか数歳年上というだけで、ものの言い方が説教ぽい。
偉そうな顔をして、「浩司クン、君はねエ・・・」と言ったりする。
あのとき感じた不快感は、今でも忘れない。
ガラス板を、つめ先でひっかくような不快感と言ってもよい。

 そういう私を知っているから、こうした問題、つまり夫婦の問題にかぎらず、
家庭内の問題については、私は、首をはさまないようにしている。
もちろん相手から相談があれば、話は別。
が、それでも一方的な話だけでは、
何とも答えようがない。

 このHYさんにしても、私はHYさんから相談を受けた。
おそらくHYさんは、自分につごうの悪い話は書いていない。
あるいは自分でも気がついていない問題が、ほかにもあるのかもしれない。
正当に判断しようと考えるなら、HYさんの妻の話も聞かなければならない。

 が、それはさておき、メールからもわかるように、HYさん夫婦は、現在、
危機的な状況にあることだけは、よくわかる。

(1)寝室は別々で、家庭内別居であること。
(2)妻の体に触れただけで、はげしく拒否されること。
(3)ささいな会話が、そのまま爆発的に、夫婦喧嘩になってしまうこと。
(4)意思の疎通も、ままならないといった状態、など。

●がんばる当事者たち

 私は若いころ、アメリカ人の離婚率は高いと、よく聞かされた。
しかし現在、アメリカ人の離婚率も、日本人の離婚率も、それほどちがわない。
それだけ生活が欧米化したともとれる。
が、ともに心のブレーキがはずれたことも、理由のひとつと考えてよい。

 日本では、女性の側が、がまんした。
「離婚は恥」という文化性も、まだ色濃く残っていた。
それに離婚したばあい、女性のほうが決定的に不利な立場に置かれた。

 一方、アメリカでは、宗教的な制約から、離婚したくても離婚できない夫婦が多くいた。
今もそうなのかもしれない。
もしその制約が緩めば、離婚率は、もっと高くなるかもしれない。
ともかくも、(離婚)イコール(悪)という考え方は、今では通用しない。
日本では、女性ががまんする時代は、終わった。
5組に1組は離婚する状態である。

●男親

 それはそれとして、私も「男親」の1人として一言。

 男親というのは、仕事をすることで、家族への義務を果たそうとする。
また仕事をしていれば、家族への義務を果たしていると思いやすい。
しかし残念ながら、(仕事)の力は弱い。
安定した仕事をしていればしているほど、家族は、それを(空気)のように思う。
つまり男親が自負しているほど、家族は、それを評価しない。
私も、よく言われた。
「パパは、仕事ばかりしている」と。

 そういう状態になると、男親の苦労話など、家族にとっては、愚痴になってしまう。
HYさんも「家族のために……、がんばって……」という言葉を使っている。
しかしそうした(思い)というのは、家族には通じない。

 もっと具体的には、現在、親に感謝しながら高校へ通っている高校生など、さがしても
いない。
大学生でも、少ない。
つまりそういう幻想をもたないこと。
またそういう幻想に、しがみつかないこと。
バートランド・ラッセルも言っているように、(親として、すべきこと)はする。
しかし常にその限度をわきまえる。

●拒否

 メールを読むかぎり、なぜHYさん夫婦が離婚しないかという問題より、なぜ
夫婦でいるかということのほうが、理解できない。
仲がよくても、セックスレスの夫婦はいくらでもいる。
一方、セックスをしているからといって、夫婦仲がよいということにもならない。

 が、「妻の体に触れただけで、はげしく拒否される」というのは、ふつうではない。
妻のほうに、何か、理由があるのだろうか?
夫のほうに、何か、原因があるのだろうか?
しかしもしそうだとするなら、HYさん夫婦は、他人以上の他人になっている。
私がHYさんだったら、1日だって、そういう状態には、耐えられないだろう。

●子どもの問題

 こうした離婚では、いつも子どもが問題になる。
しかし一度離婚を決意した夫婦は、子どもの姿さえ、見えなくなる。
子どものことはどうでもよくなるというのではない。
「離婚することが、子どものため」というような考え方になる。
言い換えると、HYさんは、まだその段階ではないということになる。

 だから以前、このメールをHYさんからもらったとき、私は返事に、こう書いた。

「離婚するときは、未練を残さないようにしたらいい」と。
未練を徹底的に、燃焼させる。
燃えカスが残らないほどまでに、燃焼させる。
未練が残った状態では、離婚はできない、と。
HYさんのばあい、その未練は、どの程度、残っているのだろう・・・?

●私たちのばあい

 実のところ、私たちも、2010年の1月、かなり危機的な状況に追い込まれた。
危機的といっても、たがいの間に、何か問題が起きたというわけではない。
が、三男が、私たちから完全に去ったのを知ったとき、たがいの間を結びつけていた、
(かすがい)が、消えたかのように感じた。

 「さみしい」と感ずる私。
「何でもない」と割り切るワイフ。
その間に、私は遠い(距離感)を覚えた。

 「あなたは親意識が強すぎるのよ」と、ワイフは、私を批判した。
「勝手にやりすぎただけよ」と、ワイフは、私を責めた。
それでワイフを、遠くに感じた。
それでいつものように、「お前なんかとは、離婚してやる」
「今度こそ、離婚しましょう」となった。

●下田にて

 で、今、私はこの原稿を、下田の白浜海岸そばにある、ガーデンビラ白浜という
ホテルで書いている。
星は4〜5つの★★★★。
夏場に訪れたら、最高!、というペンション風のホテルである。
金儲け主義のホテルとちがって、経営者の個性が随所でキラキラと光っている。

 そのホテルに、今、ワイフといっしょに泊まっている。
これから食事をしたあと、貸し切り風呂に入ることになっている。
風呂からは、太平洋が一望できるとか。

 おかしな夫婦で、一方で離婚を口にしながら、こうして旅行している。
「なぜついてきた?」とワイフに聞くと、「あなたの体が心配だからよ」と。
「どこでぶっ倒れようが、ぼくの勝手だ」と言うと、「迷惑するのは私よ」と。

 この正月、狭心痛(?)なるものを、数回経験した。
どういうのを狭心痛というのか知らないが、胸がしめつけられるように、痛かった。
以来、ときどきその痛みを感ずる。

 あるいは、ひょっとしたら、逆流性胃炎かもしれない。
2年ほど前、一度、それになったことがある。
そのときも、胸全体が焼けるように熱く感じた。

●1月30日

 で、今、そのワイフは、どこかよそよそしい。
どこか他人ぽい。
「簡単には仲直りしませんよ」という態度である。
そういう態度を見ていると、私のほうも、「そっちがそっちなら、今度こそ、
本気で離婚してやる」と考える。

 しかしこういう状態で、離婚するのもたいへん!

仕事の問題、財産の問題、それに老後の問題。
ワイフは「親戚がどう考えようと、私には関係ない」と言うが、そういった問題も
ある。
それを考えると、気が重くなる。

 まあ、しばらくは様子を見たほうがよいのかも・・・?
ワイフもそう言っている。
ふだんはやさしいワイフだが、喧嘩状態になると、貝殻を閉ざしたように、頑固に
なる。

●離婚

 ・・・ということで、どんな夫婦にも、問題はある。
問題のない夫婦はない。
それぞれがそれぞれの立場で、悩み、苦しみ、懸命にそれと闘っている。
HYさんにしても、そうだろう。
「今ごろは、どうしているだろう?」と考える。
が、私のできることは、ここまで。
私たち自身でさえ、四苦八苦している。
どうしてそんな私が、HYさんのような人の相談に乗ることができるだろうか。
おこがましいというよりは、その一歩手前で、おじけづいてしまう。

 ただ先にも書いたように、今どき、離婚を重大視するほうが、おかしい。
結婚があれば、離婚もある。
もともと(性的関係)で結びついた人間関係だから、壊れるときには、壊れる。
友情や親戚関係とは、中身がちがう。
深みも、ちがう。
だから「離婚は悪」という前提で、ものを考えてはいけない。
人生は短いが、やりなおしは、何度でもできる。

 子どもの問題にしても、離婚そのものは、子どもにはほとんど影響を与えない。
与えるとしたら、離婚に至る家庭騒動。
夫婦喧嘩。
それが長ければ長いほど、子どもに与える影響は、大きい。

 離婚するとしても、「明るく、さわやかに」(某テレビタレント談)ということになる。

●補記

 先ほど、ホテルの露天風呂に入ってきた。
ちょうど満月が、頭上高く昇り、太平洋を、美しく照らし出していた。
今までいろいろな露天風呂に入ってきたが、ここ、ガーデンビラ白浜のそれは、最高!
時間割で、家族風呂として使うことができる。
先ほど星は4つと書いたが、料金も勘案すると、5つの★★★★★。

 伊豆の下田のほうへ来ることがあったら、一度、このホテルを検討してみたらよい。
小さいがプールもある。
夏場には、どう開放されるかどうかは知らないが、眼下には、コバルトブルーの
入り江も見える。

 さて私のワイフ。
一方で離婚を口にしながら、私が「今度、金沢(石川県)へ行ったら、前泊まった
ホテルと同じところにしようか?」と言うと、「うん」と。

 おかしな夫婦である。
本当におかしな夫婦である。
私自身がそう思っているのだから、まちがいない。
こういう感じで、もう40年も、いっしょに、過ごしてきた。

(注)「ガーデンビラ白浜」・・・室内の案内書では、「ガーデンヴィラ白浜」と
なっている。
電話は、0558−22−8080。
住所は、〒415−0012 静岡県下田市白浜2644−1。

 建物はやや古いかなという感じだが、どこか明治時代の洋館を思わせるような
雰囲気。
アガサ・クリスティの推理小説に出てくるような宿屋(Inn)という感じ。
大ホテルにありがちな垢抜けたサービスも悪くないが、私は久しぶりにくつろいだ
ひと時を過ごすことができた。
とくに露天風呂は、最高!、の一言。
よかった!

 私は今、そのホテルの306号室で、このエッセーを書いている。

【ガーデンヴィラ白浜】

●もと物産マン

帰りの車の中で、ホテルのオーナーが、三井物産元社員だったということを知った。
「父は、商社マンでした」と、その女性は言った。
娘さんだった。
「バンクーバー勤務を最後に、商社を退職し、あそこにホテルを買い求めました。
8年前のことです」と。

 オーナーの男性が、昭和22年生まれということは知っていた。
チェックアウトするとき、立ち話だったが、そういう話になった。

私「商社って、どこですか?」
娘「三井物産です」
私「エッ、物産マン?」
娘「そうです」
私「私も、そうでした」

娘「あなたもですか?」
私「大学は……?」
娘「東大です」
私「東大の……?」
娘「理2、化学です」と。

 オーナーの名前は聞いていなかった。
それに理2といえば、恩師の田丸先生が当時、教授をしていた。
そこにいた人が、東大を卒業し、私と同じ年に三井物産に入社した。

私「先にそれを知っていたら、話がはずみました」
娘「そうですね」
私「残念です。とても残念です」
娘「父は、化学部で、化学プラントを担当していました」
私「はあ、私は繊維です」
娘「繊維ですか?」
私「そうです。でもサラリーマンがいやで、物産をやめました」と。

 私は早口でまくしたてた。
車はすでに下田の街の中を走っていた。
瞬間、Uターンして、もう一泊しようかと考えた。
しかしその思いは、車が止まったとき、消えた。

私「だったら、ずっと営業畑だったんですね?」
娘「そうです」
私「私も、入社直後に、営業へ回されました」
娘「そうですか……」と。

 三井物産という会社では、内部では、自分たちのことを「物産マン」と呼んでいた。
それに社員は、「管理」と「営業」に分かれていた。
商社マンの世界では、営業マンこそが、商社マンということなる。
その営業マンの中でも、海外へ出るのは、約30%。
物産マンの中でも、エリート。
70%は、国内営業ということになっていた。

 もっと話をしたかった。
私の過去の中でも、三井物産時代だけが、スッポリと抜けてしまっている。
つきあっている友人もいない。
それだけに残念だった。

私「海外勤務だったということは、正社員だったんですね」
娘「そうです」
私「あそこには、いろいろな社員がいましたから」と。

 あわただしい会話だった。
ふつう「物産マン」というときは、正社員をいう。
子会社から派遣されてきた嘱託社員は、「物産マン」とは呼ばない。
内部ではかなり差別的に扱われていた。

 そのホテルのオーナーは、サラリーマンがいやで、現在のホテルを買収して、
自分でそのホテルを経営するようになったという。
その気持ちは、よくわかる。
わかりすぎるほど、よくわかる。
だから、よけいに残念だった。

私「よろしくお伝えください。また行きます」
娘「おいでください」と。

 父親とともに、海外をあちこち回ったらしい。
日本人にはない、センスが光っていた。
私たちは何度も頭をさげて、その女性と別れた。

 書き忘れたが、下田へは、講演でやってきた。
講演の内容は、下田の有線放送で、流されるとか。

●HYさんへ

 HYさんからのメールについて書いているうちに、離婚から、下田の話に脱線して
しまった。
ついでにガーデンヴィラ白浜の話になってしまった。

 で、このエッセーの結論。
気が腐ったら、旅行をする。
すてきなホテルに泊まる。
温泉に入る。
とたん離婚旅行が、再婚旅行に変わる。

 よかった!
明日からまた仕事。
がんばるぞ!

 HYさん、ありがとう!
ガーデンヴィラ白浜のみなさん、ありがとう!
ついでに、我がワイフ、晃子、ありがとう!
これからもよろしく!

 本当によい旅だった。
そうそう最後になったが、講演の主催者の下田地区教職員組合のみなさん、ありがとう!
(2010−01−31)

(はやし浩司 離婚 再婚 ガーデンビラ白浜 白浜温泉 ガーデンヴィラ白浜 ガーデ
ン ヴィラ 白浜 ガーデン ビラ 白浜 リゾートホテル 白浜リゾートホテル)


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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 3月 1日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================

3月1日  第1327号になりました!

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●臨界期(0歳〜7か月ごろ)

++++++++++++++++++

生後直後から、約7月前後までの期間を、
「臨界期」という。

この臨界期には、特別の意味がある。

++++++++++++++++++

●特別な時期

 哺乳動物の神経細胞は、外界からの刺激で大きく、機能を変える。
最近このことが、最近あちこちでよく話題になる。
とたえば人間にも、鳥類に似た、「刷り込み(インプリンティング)」があることがわかっ
ている。
そのためこの時期に、とくに母子関係において、濃密な人間関係ができる。
が、その一方で、一部の神経細胞への刺激を遮断したりすると、その神経細胞は機能しな
くなるとも言われている(注※)。
まさか人について、人体実験をするわけにはいかないので、あくまでも動物実験での話と
いうことだが・・・。

 たとえば生後直後のマウスの片目を、何らかの方法で塞(ふさ)いでしまったとする。
するとその目は、やがて見るという機能を失ってしまう。
そればりか、ある一定の時期を過ぎると、今度は、その塞いでいたものを取り除いても、
目の機能は回復しない。
視力は失ったままとなる。

 さらにこんな事実もある。
「野生児」と呼ばれる子どもたちが、今でも、ときどき発見される。
何らかの理由で、生後まもなくから人間のそばを離れ、野生の動物に育てられた子どもで
ある。
インドのオオカミ姉妹(少女)が有名である。

 オオカミ姉妹のばあいも、そのあと手厚い保護、教育を受けたのだが、人間らしい(心)
を取り戻すとはできなかったという。
つまり脳のその部分の機能が、停止してしまったということになる。
「停止した」というよりは、「退化してしまった」ということか。

 そういう意味で、「臨界期」には、特別な意味がある。
またそれだけにこの時期の子どもの教育には、重大な関心が払わなければならない。
近年話題になっている、乳幼児〜1歳前後までの早期教育の科学的根拠も、ここにある。

 ほかにも乳幼児には記憶がないというのは、とんでもない誤解。
この時期、子どもは周囲の情報を、まさに怒濤のごとく記憶として脳の中に刻み込んでい
る(ワシントン大学・メルツォフ教授ら)。

 さらに最近の研究では、あの乳幼児のほうからも、親に働きかけをしていることまでわ
かってきた。
つまり自らを(かわいく)見せ、親の関心を引こうとする。
乳幼児が見せる、あの「エンゼル・スマイル」も、そのひとつと言われている。
潜在意識、もしくは本能の奥深くでなされる行為のため、もちろん乳幼児がそれを意識的
にしているわけではない。
一方、親は親で、そういう乳幼児の姿を見て、いたたまれない気持ちに襲われる。
「かわいい」という感情は、まさにそういう相互作用によって生まれるものである。
こうした相互の働きかけを「相互アタッチメント(mutual attachmennt)」という。

●さらに一歩進んで・・・

 臨界期の存在は、近年になってつぎつぎと発見されてきた。
今では、それを疑う人はいない。
常識と考えてよい。

 が、さらに研究は、一歩、進んだ。
「毎日・JP」は、つぎのように伝える。

『・・・生後直後の特別な時期「臨界期」の後でも、機能変化を起こすことを理化学研究
所の津本忠治チームリーダー(神経科学)らが発見した。脳の成長の仕組みを見直す成果
で、人間の早期教育論にも影響しそうだ。米科学誌「ジャーナル・オブ・ニューロサイエ
ンス」で27日発表した』(10年1月)と。

 もう少し詳しく読んでみよう。

『・・・ チームは臨界期中と臨界期後のマウスで目隠し実験をし、大脳皮質の視覚野で、
ものの細部を見る役目を担う「興奮性細胞」と、輪郭をとらえる「抑制性細胞」の活動を
個別に計測した。結果、臨界期中マウスは両細胞とも、ふさいだ目側の反応が落ちた。臨
界期後のマウスは興奮性細胞は変化しなかったが、抑制性細胞は臨界期中マウスと同様に
反応が落ちた。抑制性細胞は臨界期後も機能が変わる証拠という。

 津本チームリーダーは「大脳は臨界期後も一定の発達が可能ということを示せた。マウ
スの視覚野での実験だが、人間を含む他の動物や脳のほかの機能でも同様の仕組みがある
のではないか。臨界期を人間の早期教育の根拠とする意見もあるが、それを考え直す契機
にもなるだろう」としている』と。

 つまり臨界期に機能を失った脳の神経細胞でも、何らかの訓練をすれば(?)、機能を回
復することもあるという。
「海馬などの一部の神経細胞以外は、再生されることはない」という定説をひっくり返す
研究として、注目される。

●補記

 ただし神経細胞の再生を、そのまま喜んではいけない。
それでよいというわけではない。
もし脳の神経細胞が、ほかの細胞と同じように、死滅→再生を繰り返していたら、人間は
性格、性質、人格など、こと「精神」に関する部分で、一貫性を失うことになる。
「10年前の私と、今の私は別人」ということになったら、社会生活そのものが混乱する。
従来の定説によれば、一度できた神経細胞は、死滅する一方で、再生しない。
だからこそ、私たちは、子ども時代の性格や性質、さらにはクセまで、おとなになってか
らも残すことができる。
20年前、30年前の知人とでも、安心して会話を交わすことができる。

 この論文でいう「再生」というのは、あくまでもごく限られた範囲での、しかも何らか
の治療を目的とした「再生」と考えるべきである。

 さらに一歩進んでいえば、脳は硬い頭蓋骨に包まれている。
つまり脳ミソが入る容量には限界がある。
神経細胞だけを、どんどんとふやすということは、物理的にも不可能である。

(注※)
『思考など高度な機能を担う脳の「大脳新皮質」で、成体でも神経細胞が新たに作られる
ことを、藤田保健衛生大、京都大、東京農工大などの研究チームがラットで見つけた。成
熟した個体では脳の神経細胞が増えることはないと長い間信じられ、論争が続いていた。
米科学誌「ネイチャー・ニューロサイエンス」(電子版)に27日、掲載された。

 近年、記憶に関連する海馬や嗅(きゅう)覚(かく)をつかさどる部位で神経細胞の新
生が確かめられたが、哺乳(ほにゅう)類などの高等動物ほど発達している大脳新皮質に
ついては明確な報告がなかった。

 藤田保健衛生大の大平耕司助教(神経科学)らは、人間の30〜40歳にあたる生後6
カ月のラットの大脳新皮質で、一番外側の第1層に、分裂能力を示すたんぱく質が発現し
た細胞を見つけた。頸(けい)動脈を圧迫して脳への血流を一時的に少なくしたところ、
この細胞が約1・5倍に増え、新しい細胞ができた。

 新しい細胞は、形状から神経細胞と確認。第1層から最深部の第6層まで7〜10日か
けて移動する様子が観察できた。このラットを新しい環境に置いて活動させたところ、新
しい細胞が活発に働いていることも確かめた。

 これらのことから、成体ラットの大脳新皮質には、やがて神経細胞になる「前駆細胞」
が存在し、神経細胞が危機にさらされると神経細胞が生み出されて働くと結論付けた。チ
ームは、ヒトでも同様の仕組みがあると推測している。

 神経細胞は興奮性と抑制性の両方がバランスよく働いているが、この新しい神経細胞は
抑制性だった。大平助教は「薬などで前駆細胞の働きを制御して抑制性の神経細胞を作り
出すことで、興奮性の神経細胞が過剰に働くてんかんや、一部の統合失調症の新たな治療
法が見つかるかもしれない」と話す』(以上、毎日・JPより)と。

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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ゲーム脳】

++++++++++++++++++++

「ゲーム脳はあるのか、それともないのか?」

これについての記事を、「毎日JP」より、抜粋
してみる。

++++++++++++++++++++

●火付け役は、、森昭雄・日本大教授(脳神経科学)。
曰く、

 『・・・「15年間、ゲームを毎日7時間やってきた大学生は無表情で、約束が100%
守れない」「ゲームは慣れてくると大脳の前頭前野をほとんど使わない。前頭前野が発達し
ないとすぐキレる」
 森教授は02年、「ゲーム脳」仮説を提唱した。テレビゲームをしている時には脳波の中
のベータ波が低下し、認知症に似た状態になると指摘。その状態が続くと前頭前野の機能
が衰えると警告した。単純明快なストーリーはマスコミに乗って広がり、暴力的な描写に
眉(まゆ)をひそめる教育関係者や、ゲームをやめさせたい親に支持された』(毎日JPよ
り)と。

 これに対して、「森教授の意見には、学術的な裏付けがない」と批判する人も多い。

『・・・森教授は一般向けの本や講演を通して仮説を広めてきた。本来、仮説は他の科学
者が同じ条件で試すことで初めて科学的な検証を受けるが、その材料となる論文はいまだ
に発表されていない。
 手法にも批判がある。森教授は自ら開発した簡易型脳波計による計測で仮説を組み立て
たが、複雑で繊細な脳機能をその手法でとらえるのは不可能、というのが専門家の共通し
た見方だ』(毎日JPより)と。

●利潤追求の世界

 こうした批判を尻目に、ゲーム業界は、大盛況。
その先頭に立たされているのが(?)、東北大加齢医学研究所の川島隆太教授(脳機能イメ
ージング)。
ここで注意しなければならないのは、川島隆太教授自身は、「加齢医学」が専門。
その研究に基づいて、

『・・・認知症の高齢者16人に半年以上学習療法を受けてもらった結果、認知機能テス
トの成績が上がったと報告。何もしなかった16人の成績が低下傾向だったことから「認
知機能改善に効果がある」と考察した』(2003年)(毎日JPより)と。

 これにゲーム業界が飛びついた(?)。

『・・・こうした成果を企業が応用したのが、脳を鍛えるという意味の「脳トレ」だ。0
6年の流行語となり、川島教授の似顔絵が登場する任天堂のゲームソフト「脳を鍛える大
人のDSトレーニング」は、続編も含め1000万本以上を売り上げた』(毎日JPより)
と。

 こうして今やこの日本は、上も下も、「脳トレ」ブーム。
「1000万本」という数字は、そのほんの一部でしかない。

 もちろん批判もある。

『・・・ ただ、脳トレの過熱を心配する声もある。日本神経科学学会会長の津本忠治・
理化学研究所脳科学総合研究センターユニットリーダーは、「川島氏の研究は科学的な手続
きを踏んでいるが、認知機能の改善が本当に学習療法だけによるかはさらなる研究が必要
だ。『改善した』という部分だけが拡大解釈され広がることで、計算さえやれば認知症にな
らないと思い込む人が出てくるかもしれない」と話す』(毎日Jより)と。

●三つ巴の論争

 現在、「ゲーム脳支持派の森教授vsゲーム脳否定派の川島教授」という構図ができあが
ってしまっている。
しかし実際には、この両教授が、ゲーム脳を間に、対立しているわけではない。

 森教授は、「ゲームばかりしていると、危ない」という警鐘を鳴らした。
一方川島教授は、ここにも書いたように、「老人の認知機能」が専門。
その立場で、「脳トレは(ボケ防止には)効果がある」と、自説を発表した。

 が、一方、教育の世界には、『疑わしきは罰する』という原則がある。
(私が考えた原則だが・・・。)
完全に安全が確認されるまで、あやしげなものは、子どもの世界からは遠ざけたほうがよ
い。
事実、私は1日に何時間もゲームばかりしている子どもを、よく知っている。
中には、真夜中に突然起きあがって、ゲームをしている子どももいる。
もともとおかしいから、そうするのか、あるいはゲームばかりしているから、おかしいの
か?
それは私にもわからないが、このタイプの子どもは、どこか、おかしい。
そういう印象を与える子どもは、少なくない。

(1)突発的に感情的な行動を繰り返す。
(2)日中、空をぼんやりと見つめるような愚鈍性が現れる、など。

「ゲーム脳」があるかないかという論争はさておき、その(おかしさ)を見たら、だれだ
って、こう思うにちがいない。

「ゲームは本当に安全なのか?」と。

 そうでなくても、「殺せ!」「つぶせ!」「やっつけろ!」と、心の中で叫びながらするゲ
ームが、子どもの心の発育に、よい影響を与えるはずがない。
ものごとは常識で考えたらよい。
(もちろんゲームといっても、内容によるが・・・。)

 仮に百歩譲っても、認知症患者に効果があるからといって、子どもや、若い人たちにも
効果があるとはかぎらない。

●脳トレへの疑問

 私も脳トレなるものを、さまざまな場面で経験している。
それなりに楽しんでいる。
しかし子どもの知能因子という分野で考えるなら、脳トレで扱っている部分は、きわめて
狭い世界での訓練にすぎない。

 たとえば教育の世界でいう「知的教育」というのは、広大な原野。
脳トレというのは、その広大な原野を見ないで、手元の草花の見分け方をしているような
もの。
あまりよいたとえではないかもしれないが、少なくとも、脳トレというのは、「だからそれ
がどうしたの?」という部分につながっていかない。

 仮にある種の訓練を受けて、それまで使っていなかった脳が活性化されたとする。
それはそれで結構なことだが、「だからといって、それがどうしたの?」となる。
もう少し具体的に書いてみたい。

 たとえば脳トレで、つぎのような問題が出たとする。

+++++++++++++

【問】□には、ある共通の漢字が入る。それは何か。

 □草、□問

+++++++++++++

 答は※だが、こうした訓練を重ねたからといって、それがどうしたの?、となる。
というのも、私はこうして今、文章を書いているが、こうした訓練は、常に、しかも一文
ごとにしている。
的確な言葉を使って、わかりやすくものを書く。
的確な言葉をさがすのは、ほんとうに難しい。
さらにそれを文章にし、文章どうしをつなげるのは、ほんとうに難しい。

つまりこうした脳トレを繰り返したところで、(よい文章)が書けるようになるとは、かぎ
らない。
・・・書けるようになるとも、思わない。

 それ以上に重要なことは、本を読むこと。
文章を自分で書くこと。

 つまり本を読んだり、文章を書くことが、先に書いた「広大な原野」ということになる。
(※の答は、「質」。)

●疑わしきは罰する

 子どもの世界では、疑わしきは罰する。
先手、先手で、そうする。
以前、ゲーム脳について書いた原稿をさがしてみた。
5年前(05年9月)に書いた原稿が見つかった。
それをそのま、手を加えないで、再掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【ゲーム脳】(05年9月の原稿より)

++++++++++++++++++++++

ゲームばかりしていると、脳ミソがおかしくなるぞ!

+++++++++++++++++++++++

最近、急に脚光を浴びてきた話題に、「ゲーム脳」がある。ゲームづけになった脳ミソを「ゲ
ーム脳」いう。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。しかし、「ゲー
ム脳」とは、何か。NEWS WEB JAPANは、つぎのように報道している(05
年8月11日)。

『脳の中で、約35%をしめる前頭葉の中に、前頭前野(人間の拳程の大きさで、記憶、
感情、集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制を
も司る部分)という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎると
働かなくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になるという。それを科学的に証明
したのが、東北大のK教授と、日大大学院のM教授である』(以上、NEWS WEB J
APAN※)。

 つまりゲーム脳になると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。
このゲーム脳については、すでに、さまざまな分野で話題になっているから、ここでは、
省略する。要するに、子どもは、ゲームづけにしてはいけないということ。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

 この日本では、(世界でもそうかもしれないが)、ゲームを批判したり、批評したりする
と、ものすごい抗議が殺到するということ。上記のK教授のもとにも、「多くのいやがらせ
が、殺到している」(同)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。たかがゲームではないか(失礼!)。
どうしてそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか?

 K教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与えますよ」と、むしろ親切心
から、そう警告している。それに対して、(いやがらせ)とは!

 実は、同じことを私も経験している。5、6年前に、私は「ポケモンカルト」(三一書房)
という本を書いた。そのときも、私のところのみならず、出版社にも、抗議の嵐が殺到し
た。名古屋市にあるCラジオ局では、1週間にわたって、私の書いた本をネタに、賛否両
論の討論会をつづけたという。が、私が驚いたのは、抗議そのものではない。そうした抗
議をしてきた人のほとんどが、子どもや親ではなく、20代前後の若者、それも男性たち
であったということ。

 どうして、20代前後の若者たちが、子どものゲームを批評しただけで、抗議をしてく
るのか? 出版社の編集部に届いた抗議文の中には、日本を代表する、パソコン雑誌の編
集部の男性からのもあった。

 「子どもたちの夢を奪うのか!」
 「幼児教育をしながら、子どもの夢が理解できないのか!」
 「ゲームを楽しむのは、子どもの権利だ!」とか何とか。

 私の本の中の、ささいな誤字や脱字、どうでもよいような誤記を指摘してきたのも多か
った。「貴様は、こんな文字も書けないのに、偉そうなことを言うな」とか、「もっと、ポ
ケモンを勉強してからものを書け」とか、など。

 (誤字、脱字については、いくら推敲しても、残るもの。100%、誤字、脱字のない
本などない。その本の原稿も、一度、プロの推敲家の目を経ていたのだが……。)

 反論しようにも、どう反論したらよいかわからない。そんな低レベルの抗議である。で、
そのときは、「そういうふうに考える人もいるんだなあ」という程度で、私はすませた。

 で、今回も、K教授らのもとに、「いやがらせが、殺到している」(同)という。

 これはいったい、どういう現象なのか? どう考えたらよいのか?

 一つ考えられることは、ゲームに夢中になっている、ゲーマーたちが、横のつながりを
もちつつ、カルト化しているのではないかということ。ゲームを批判されるということは、
ゲームに夢中になっている自分たちが批判されるのと同じ……と、彼らは、とらえるらし
い(?)。おかしな論理だが、そう考えると、彼らの心理状態が理解できる。

 実は、カルト教団の信者たちも、同じような症状を示す。自分たちが属する教団が批判
されたりすると、あたかも自分という個人が批判されたかのように、それに猛烈に反発し
たりする。教団イコール、自分という一体感が、きわめて強い。

 あのポケモン全盛期のときも、こんなことがあった。私が、子どもたちの前で、ふと一
言、「ピカチューのどこがかわいいの?」ともらしたときのこと。子どもたちは、その一言
で、ヒステリー状態になってしまった。ギャーと、悲鳴とも怒号ともわからないような声
をあげる子どもさえいた。

 そういう意味でも、ゲーム脳となった脳ミソをもった人たちと、カルト教団の信者たち
との間には、共通点が多い。たとえばゲームにハマっている子どもを見ていると、どこか
狂信的。現実と空想の世界の区別すら、できなくなる子どもさえいる。たまごっちの中の
生き物(?)が死んだだけで、ワーワーと大泣きした子ども(小1女児)もいた。

これから先、ゲーム脳の問題は、さらに大きく、マスコミなどでも、とりあげられるよう
になるだろう。これからも注意深く、監視していきたい。

 ところで、今日の(韓国)の新聞によれば、テレビゲームを50時間もしていて、死ん
でしまった若者がいるそうだ。たかがゲームと、軽くみることはできない。

注※……K教授は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)と、ファンクショナルMRI
(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置で、実際にゲームを使い、数十
人を測定した。そして、2001年に世界に先駆けて、「テレビゲームは前頭前野をまった
く発達させることはなく、長時間のテレビゲームをすることによって、脳に悪影響を及ぼ
す」という実験結果をイギリスで発表した。

この実験結果が発表された後に、ある海外のゲーム・ソフトウェア団体は「非常に狭い見
識に基づいたもの」というコメントを発表し、教授の元には多くの嫌がらせも殺到したと
いう(NEWS WEB JAPANの記事より)。

(はやし浩司 ゲーム ゲームの功罪 ゲーム脳 ゲームの危険性)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゲーム脳(2)

【M君、小3のケース】

 M君の姉(小5)が、ある日、こう言った。「うちの弟、夜中でも、起きて、ゲームをし
ている!」と。

 M君の姉とM君(小3)は、同じ部屋で寝ている。二段ベッドになっていて、上が、姉。
下が、M君。そのM君が、「真夜中に、ガバッと起きて、ゲームを始める。そのまま朝まで、
していることもある」(姉の言葉)と。

 M君には、特異な症状が見られた。

 祖父が、その少し前、なくなった。その通夜の席でのこと。M君は、たくさん集まった
親類の人たちの間で、ギャーギャーと笑い声で、はしゃいでいたという。「まるで、パーテ
ィでもしているかのようだった」(姉の言葉)と。

 祖父は、人一倍、M君をかわいがっていた。その祖父がなくなったのだから、M君は、
さみしがっても、よいはず。しかし、「はしゃいでいた」と。

 私はその話を聞いて、M君はM君なりに、悲しさをごまかしていたのだろうと思った。
しかし別の事件が、そのすぐあとに起きた。

 M君が、近くの家の庭に勝手に入り込み、その家で飼っていた犬に、腕をかまれて、大
けがをしたというのだ。その家の人の話では、「庭には人が入れないように、柵がしてあっ
たのですが、M君は、その柵の下から、庭へもぐりこんだようです」とのこと。

 こうした一連の行為の原因が、すべてゲームにあるとは思わないが、しかしないとも、
言い切れない。こんなことがあった。

 M君の姉から、真夜中にゲームをしているという話を聞いた母親が、M君から、ゲーム
を取りあげてしまった。その直後のこと。M君は狂ったように、家の中で暴れ、最後は、
自分の頭をガラス戸にぶつけ、そのガラス戸を割ってしまったという。

 もちろんM君も、額と頬を切り、病院で、10針前後も、縫ってもらうほどのけがをし
たという。そのあまりの異常さに気づいて、しばらくしてから、M君の母親が、私のとこ
ろに相談にやってきた。

 私は、日曜日にときどき、M君を教えるという形で、M君を観察させてもらうことにし
た。そのときもまだ、腕や顔に、生々しい、傷のあとが、のこっていた。

 そのM君には、いくつかの特徴が見られた。

(1)まるで脳の中の情報が、乱舞しているかのように、話している話題が、めまぐるし
く変化した。時計の話をしていたかと思うと、突然、カレンダーの話になるなど。

(2)感情の起伏がはげしく、突然、落ちこんだかと思うと、パッと元気になって、ギャ
ーと騒ぐ。イスをゴトゴト動かしたり、机を意味もなく、バタンとたたいて見せたりする。

(3)頭の回転ははやい。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、あっという間に、計
算問題(割り算)をすませてしまう。そして「終わったから、帰る」などと言って、あと
片づけを始める。

(4)もちろんゲームの話になると、目の色が変わる。彼がそのとき夢中になっていたの
は、N社のGボーイというゲームである。そのゲーム機器を手にしたとたん、顔つきが能
面のように無表情になる。ゲームをしている間は、目がトロンとし、死んだ、魚の目のよ
うになる。

 M君の姉の話では、ひとたびゲームを始めると、そのままの状態で、2〜3時間はつづ
けるそうである。長いときは、5時間とか、6時間もしているという。(同じころ、12時
間もゲームをしていたという中学生の話を聞いたことがある。)

 以前、「脳が乱舞する子ども」という原稿を書いた(中日新聞発表済み)。それをここに
紹介する。もう4、5年前に書いた原稿だが、状況は改善されるどころか、悪化している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、
ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話
がポンポンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞し
ているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。

ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そ
してそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく
変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほう
がヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、
症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。
30年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。
小1児で、10人に2人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの
子どもが、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えれ
ばこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」
と答えた先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、
「1名以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を
出さない」子どもについては、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものを
いじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち
歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対す
る反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、そ
れが最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。

「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子ども
が、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまど
い、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の
差を感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が
難しい」(14%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と
続く。そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり
感ずる」「やや感ずる」という先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビ
やゲームをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔
のような崩壊家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味も
なく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメ
リカでも起きている。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児
期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても
返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、
動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームも
そうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわ
かりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられな
くなる。その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、
静かに聞くことができない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、
おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろい
が、直感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や
論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがな
い新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。そ
の一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪
弊をあげる。

(付記)

●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日
教組と全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告さ
れている。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、
北海道や東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫
りにされた」(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がってい
る」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在
籍する約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年2
10人から220人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は3
55人にふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、9
6年度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171
人で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、う
つ病、うつ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者な
どの対人関係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラ
スを1クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策を
とっている(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学1、2年につい
て、新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、2
人担任制にし、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30〜36人のばあいでも、も
う1人教員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部
の小学校では、6年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入
している。大分県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で実施して
いる(01年度調べ)。
(はやし浩司 キレる子供 子ども 新しい荒れ 学級崩壊 心を病む教師)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●失行

 近年、「失行」という言葉が、よく聞かれるようになった。96年に、ドイツのシュルツ
という医師が使い始めた言葉だという。

 失行というのは、本人が、わかっているのに、できない状態をいう。たとえば風呂から
出たとき、パジャマに着がえなさいと、だれかが言ったとする。本人も、「風呂から出たら、
パジャマに着がえなければならない」と、理解している。しかし風呂から出ると、手当た
り次第に、そこらにある衣服を身につけてしまう。

 原因は、脳のどこかに何らかのダメージがあるためとされる。

 それはさておき、人間が何かの行動をするとき、脳から、同時に別々の信号が発せられ
るという。行動命令と抑制命令である。

 たとえば腕を上下させるときも、腕を上下させろという命令と、その動きを抑制する命
令の二つが、同時に発せられる。

 だから人間は、(あらゆる動物も)、スムーズな行動(=運動行為)ができる。行動命令
だけだと、まるでカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。抑制命令が強すぎ
ると、行動そのものが、鈍くなり、動作も緩慢になる。

 精神状態も、同じように考えられないだろうか。

 たとえば何かのことで、カッと頭に血がのぼるようなときがある。激怒した状態を思い
浮かべればよい。

 そのとき、同時に、「怒るな」という命令も、働く。激怒するのを、精神の行動命令とす
るなら、「怒るな」と命令するのは、精神の抑制命令ということになる。

 この「失行」についても、精神の行動命令と、抑制命令という考え方を当てはめると、
それなりに、よく理解できる。

 たとえば母親が、子どもに向かって、「テーブルの上のお菓子は、食べてはだめ」「それ
は、これから来る、お客さんのためのもの」と話したとする。

 そのとき子どもは、「わかった」と言って、その場を去る。が、母親の姿が見えなくなっ
たとたん、子どもは、テーブルのところへもどってきて、その菓子を食べてしまう。

 それを知って、母親は、子どもを、こう叱る。「どうして、食べたの! 食べてはだめと
言ったでしょ!」と。

 このとき、子どもは、頭の中では「食べてはだめ」ということを理解していた。しかし
精神の抑制命令が弱く、精神の行動命令を、抑制することができなかった。だから子ども
は、菓子を食べてしまった。

 ……実は、こうした精神のコントロールをしているのが、前頭連合野と言われている。
そしてこの前頭連合野の働きが、何らかの損傷を受けると、その人は、自分で自分を管理
できなくなってしまう。いわゆるここでいう「失行」という現象が、起きる。

 前述のWEB NEWSの記事によれば、「(前頭連合野は)記憶、感情、集団でのコミ
ュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分」とある。

 どれ一つをとっても、良好な人間関係を維持するためには、不可欠な働きばかりである。
一説によれば、ゲーム脳の子どもの脳は、この前頭連合野が、「スカスカの状態」になって
いるそうである。

 言うまでもなく、脳には、そのときどきの発達の段階で、「適齢期」というものがある。
その適齢期に、それ相当の、それにふさわしい発達をしておかないと、あとで補充したり、
修正したりするということができなくなる。

 ここにあげた、感情のコントロール、集団におけるコミュニケーション、創造性な学習
能力といったものも、ある時期、適切な指導があってはじめて、子どもは、身につけるこ
とができる。その時期に、ゲーム脳に示されるように、脳の中でもある特異な部分だけが、
異常に刺激されることによって、脳のほかの部分の発達が阻害されるであろうことは、門
外漢の私にさえ、容易に推察できる。

 それが「スカスカの脳」ということになる。

 これから先も、この「ゲーム脳」については、注目していきたい。

(補記)大脳生理学の研究に先行して、教育の世界では、現象として、子どもの問題を、
先にとらえることは、よくある。

 たとえば現在よく話題になる、AD・HD児についても、そういった症状をもつ子ども
は、すでに40〜50年前から、指摘されていた。私も、幼児に接するようになって36
年になるが、36年前の私でさえ、そういった症状をもった子どもを、ほかの子どもたち
と区別することができた。

 当時は、もちろん、AD・HD児という言葉はなかった。診断基準もなかった。だから、
「活発型の遅進児」とか、「多動性のある子ども」とか、そう呼んでいた。「多動児」とい
う言葉が、雑誌などに現れるようになったのは、私が30歳前後のことだから、今から、
約30年前ということになる。

 ゲーム脳についても、最近は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)や、ファンクシ
ョナルMRI(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置などの進歩により、
脳の活動そのものを知ることによって、その正体が、明らかにされつつある。

 しかし現象としては、今に始まったことではない。私が書いた、「脳が乱舞する子ども」
というのは、そういう特異な現象をとりあげた記事である。

(はやし浩司 脳が乱舞する子ども 子供 ゲーム脳 前頭連合野 管理能力 脳に損傷
のある子ども 子供 失行 ドイツ シュルツ 医師 行動命令 抑制命令 はやし浩司 
家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし
浩司 ゲーム脳 森教授 川島教授)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●突発性難聴

++++++++++++++++++

朝、起きたら、音が聞こえない!
自分の声が、海の底でキンキンと響くだけ!

・・・ということで、私は正月早々、
突発性難聴という病気になってしまった。
幸い、処置が早かったので、現在は、80%
前後まで、聴力は回復している。
よかった!
が、この先、まだ2か月ほど、薬をのまなければならない。

++++++++++++++++++

●「波がある」

 ドクターは、「波がある」と言った。
つまり数日おきくらいに、聞こえるようになったり、聞こえなくなったする、と。
で、ドクターの言ったとおり、たしかに数日おきに、聞こえたり、聞こえなくなったりす
る。
薬のせいか、音が二重に聞こえるときもある。
反対に過敏になっているときは、ゴーゴーと、川の水が流れるような音がする。

 今朝は、調子が悪い。
(朝は、このところ毎日、そうだが・・・。)
感じとしては、70〜60%前後というところではないか?
朝、目を覚ますと、まず自分の声を出してみる。

「テスティング、ワン、ツー、スリー」と。

 低音部がよく聞こえれば、OK。
そうでなければ、よくない。

●『サロゲート』

 昨日は耳の調子がよかった。
うれしかった。
・・・ということで、仕事が終わってから、久しぶりにワイフと、深夜劇場に足を運んだ。
観たのは、ブルース・ウィリス主演の『サロゲート』。
星は3つの、★★★。

(ドクターは、「できるだけ安静にしていたほうがいい」と言ったが・・・。)

 先日、『アバター』を観たので、どうしても採点がきびしくなる。
内容的には、つまりロボットに自分を代行させるという発想は、よく似ている。
個人的には、『サロゲート』のような映画は好きだが、なんと言っても、『アバター』の与
えたインパクトは大きかった。
それで、星は、3つ。

 今週から観たい映画がつぎつぎとやってくる。
忙しくなりそう。

 ・・・昨夜、家に帰ってきたのが、午前0時ごろ。
それで今朝は、耳の調子がよくないのかも?

●ストレス

 とにかくストレスはよくない。
今回の突発性難聴も、原因はストレス(?)。
いろいろあった。
たいへんだった。
そんなわけで、心はいつも明るく、朗らかに・・・。

 が、ときとして、それがむずかしくなる。
ストレスを抱え込んでしまう。
悶々と、気が晴れない日々を過ごす。
とたん、悪玉ホルモンがあれこれ悪さを始める。
体の抵抗力を落とす。
いろいろな病気になる。

●生徒たち

 この仕事をしていていちばんすばらしいのは、・・・というより、今回、改めてそれを実
感したが・・・、子どもたちからエネルギーをもらえること。
かなり落ちこんでいても、生徒たちに接したとたん、パッと気が晴れる。
どこかうつ病的な私には、たいへんありがたい。

 もしこういう仕事でなかったら、私は今ごろ、精神病院かどこかで、寝たきりになって
いるはず。
だから今では、こう思うようになった。
「生徒を教えているのではない。助けてもらっているのだ」と。

 そんなこともあって、最近では、生徒を私の孫のように思うようになった。
かわいいというより、いとおしい。
おもちゃをあれこれ買ってきて、教室に並べておく。
めざとい子どもをは、そのつどそれを見つけ、「ほしい」などと言う。

 が、1度や2度では、与えない。
3度、4度と、「ほしい」と言い、それが本気とわかったとき、そのおもちゃを、その子ど
もに与える。
子どもは宝物でも手にしたかのようにして、喜んで帰る。
それが私にとっても、うれしい。
楽しい。

 で、ワイフも同じような気持ちでいるのを知った。
このところ幼児教室のほうを、楽しそうに手伝ってくれる。

●同窓会

 近く金沢で大学の同窓会がある。
4年ぶり?
ワイフが行きたいと言うので、行くことにした。
が、まだ出席のはがきは出していない。
その前に、ホテルの予約をしなければならない。
どういうわけか、この時期、いつもホテルは、満杯。
学会や研究会がつづく。
どこか、ホテルの予約が取れたら、「出席」のはがきを投函するつもり。

●1月26日

 ・・・ということで、今日も始まった。
朝、起きるとすぐウォーキングマシーンの上で、運動。
このところ1回で20分間の運動を基準にしている。

 それがすむころ、体がジワーッと暖かくなる。
庭に朝日が差してくる。

 とくに今日の予定はなし。
いつものように、いつもの仕事をこなす。

 みなさん、おはようございます!


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●アインシュタインの言葉

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The 
other is as though everything is a miracle. 
(人生を生きるためには、たった二つの方法しかない。一つは、奇跡など、どこにもない
と思う生き方。もう一つは、すべては奇跡だと思う生き方。)


It was, of course, a lie what you read about my religious convictions, a lie which is being 
systematically repeated. I do not believe in a personal God and I have never denied this 
but have expressed it clearly. If something is in me which can be called religious then it 
is the unbounded admiration for the structure of the world so far as our science can 
reveal it. 
(私の宗教的な確信について、あなたが読んだことは、ウソである。つまり、意図的に繰
り返されてきたウソである。私は、個人的な神の存在を信じていないし、このことを否定
したことは一度もない。それについては、ここではっきりしておきたい。もし私の中に、
宗教的なものがあるとするなら、それは、科学が明らかにした部分について、世界の構造
について、無限の崇拝の念でしかない。


We should take care not to make the intellect our god. It has, of course, powerful 
muscles, but no personality. 
知性的な人を神にしないよう、注意しなければいけない。もちろん知性的な人には、
強い筋肉はあるが、人間性はない。

(以上、アルバート・アインシュタイン言語録より)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●奇跡

 生きていること自体が、奇跡。
そこに見えるのは、分子と光が織りなす、摩訶(まか)不思議な世界。
その世界で、音を聞き、光を見る。
肌で冬の冷気を感じ、餌をあさる小鳥のさえずりを聞く。

 60億年の瞬時の、そのまた瞬時の、この瞬間において、私は生きている。
あなたも生きている。
しかしつぎの瞬時には、私もあなたも、再び、永遠の虚の世界に戻る。
「無」ではない。
「虚」の世界である。

 人生が50年であろうが、100年であろうが、瞬時には変わりない。
その瞬時に、私たちは、今、この世界に生きている。
これを「奇跡」と言わずして、何という。

●宗教

 アインシュタインは、「a personal God(個人的な神)」を信じていなかった。
つまり、無神論者だった。
が、そのアインシュタインですら、こう言っている。
「・・・the unbounded admiration for the structure of the world so far as our science can 
reveal it.(科学が明らかにした範囲における、世界の構造について無限の崇拝の念)」につ
いては、宗教性を認める、と。

 わかりにくい言い方だが、こういうことではないだろうか。

 私も記憶にあるかぎり、生涯において2度、満点の星空を見上げて、涙をこぼしたこと
がある。
1度は、オーストラリアで。
もう1度は、近くの山の中で。
あのとき天空の星々に感じた神々しさは、忘れない。
それを「宗教性」というのなら、「宗教性」と言ってもよい。
言い換えると、だれにでも、つまり「私は無神論者」とがんばっている人にも、宗教性は
ある。

 大宇宙への畏敬の念と言い換えてもよい。

●人間性

 「知的な人ほど、心が冷たい」。
それはもう常識と考えてよい。
言い換えると、心の温かさは、人間的な不完全さから生まれる。
渥美清が演じた、『フー天の寅さん』を、頭の中に思い描いてみれば、それがわかる。

 ドジで、間抜けで、アホ(失礼!)。
それを知り尽くした人のみが、人間が本来的にもつ不完全さを、包容することができる。
そうでなければ、そうでない。
反対に冷酷な数学者を思い浮かべてみれば、それがわかる。
(数学者がみな、冷酷というわけではない。誤解のないように。)

 ものごとを数字だけで考えるような人に、人間的な温もりは感じない。
だからアインシュタインは、こう言った。
「知的な人間を、神にしてはいけない」と。
つまり知的な人間になることだけを、人生の目標にしてはいけない、と。

 さらに言えば、損ばかりしている人ほど、幸いなるかな。
裏切られてばかりいる人ほど、幸いなるかな。
失敗ばかりしている人ほど、幸いなるかな。
そういう人ほど、知的な人たちより、人生の真理にはるかに近いということになる。

 人間がなぜ人間であるか。
それは、その人の心の温もりで決まる。
その(温もり)を、私たちは、「人間性」と呼ぶ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 奇跡論 宗教論 人間性 人間的な温もり アインシュタイン 奇跡 
奇跡論 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●平成版、『忠臣蔵』

++++++++++++++++++

2010年という、この年。
未だに動物的隷属意識が、この日本に
残っていたとは、知らなかった。
称して、『平成版、忠臣蔵』。

あの小沢一郎は、中国人も笑うような
大名行列を演出して見せた。
300人もの国会議員と合わせて、総勢
600人!
連れていったアホもアホなら、ついて
いった国会議員も、アホ。
そのアホどもが、さらにアホの上塗り。

民主党の高嶋副幹事長は、「検察側が意図的に、
政権つぶしをしようとしている節がある」と、
かみついた(jiji.com)。

民主党は、検察側が事務ミスだけで、小沢一郎を
事情聴取したというふうに、世論を誘導しよう
としている。

バカめ!
そんなことで、東京地検が動くか!

検察側の目的は、ズバリ、贈収賄罪!
天下の大罪!
まず、3つの記事を並べて読んでみる。

++++++++++++++++++++

++++++++++以下、JIJI.COM+++++++++
 
(インタビューに答えて、高嶋副幹事長曰く、)『あくまで小沢事務所の問題だ。ただ、検
察側が意図的に政権をつぶそうとか、民主党に打撃を与えようとしている節がある。小沢
さんが怒っているのは「なぜ、党大会の前日に逮捕するのか」ということ。明らかに民主
党に対する検察の攻撃ではないか。こういう部分については党として反撃しなければなら
ない。検察の捜査の在り方に問題があれば当然、政党として言うべきだ』と。

++++++++++以上、JIJI.COM+++++++++

++++++++++以下、時事通信++++++++++

『・・・小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる事件で、中
堅ゼネコン「水谷建設」(三重県桑名市)の元経理担当者が、東京地検特捜部に対し、「小
沢事務所に持って行くため、5000万円ずつ2回、現金を用意した」と証言していることが
27日、関係者の話で分かった。

 水谷建設元幹部は1億円を小沢氏側に裏献金したと供述。特捜部は、陸山会が購入した
土地の代金に、水谷側からの裏金が含まれていたとみて捜査している。

 水谷元幹部は特捜部の事情聴取に対し、2004年と05年に、小沢氏側に各5000万円、計
1億円の裏献金を渡したと供述している。

 関係者によると、水谷建設の元経理担当者は、「元幹部から『小沢事務所に持って行く』
と言われ、04年10月と05年4月ごろに、それぞれ現金5000万円を用意して渡した」と
証言したという。

 04年に現金を受け取ったとされる衆院議員石川知裕容疑者(36)は、翌銀行営業日に同
額を陸山会の口座に入金。ほかにも数千万円の入金を繰り返し、これらの資金で土地を購
入していた』

『・・・小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」による土地購入をめぐる事件で、
逮捕された衆院議員石川知裕容疑者(36)が、同会や関連政治団体名義の複数の口座に入
れてあった計8億円を、土地購入の前日に一つの口座に集約させていたことが26日、関係
者の話で分かった。石川容疑者はこの中から土地購入代などを支払った。

 東京地検特捜部は、ゼネコンからの裏金と、政治団体にあった「表」の資金をいったん
同じ口座に入れることで、出どころを分からなくする「資金洗浄」の狙いがあった疑いが
あるとみて捜査。一連の経理操作への小沢氏の関与も調べている。

 石川容疑者は、陸山会が2004年10月に東京都世田谷区の土地を購入した際、同会の口
座に入金した4億円を、政治資金収支報告書に記載しなかった疑いが持たれている。特捜
部はこの4億円には、水谷建設(三重県桑名市)の裏献金が含まれるとみている。

 関係者によると、石川容疑者は同月中旬以降、4億円を数千万円ずつ、陸山会の複数口座
に分けて入金。同28日に全額を一つの口座に集めた。

 石川容疑者は同日、この口座に、小沢氏関連の3団体の口座にあった計約1億8000万円
も移動。もともと口座にあった資金と合わせ、計8億円が1口座に集約された。

 翌29日午前、石川容疑者はこの8億円のうち約3億5000万円で土地を購入。午後に4
億円で定期預金を組み、これを担保に同額の融資を受けた。

 こうした経理操作により、個々の入金が何に使われたかは、口座記録上は判別できなく
なった』

++++++++++以上、時事通信++++++++++

●贈収賄

 金を送ったほうは、「送りました」と、すでに認めている。
それを「もらってない」とか、「知らない」とか、さらに「会ったこともない」と。
時事通信の記事を読めば読むほど、あきれる。

 小細工に小細工を重ね、実の巧妙に、資金隠しをした。
しかも汚い仕事の現場には、自分は顔を出さず、後々の保身のために、秘書を利用した。
で、最終的に、小沢一郎は、時価4億円という自分の個人名義の土地を、手に入れた!

 それを「検察側の政権つぶし」とは!?
この隷属意識。
畜生根性!
こんなレベルの政治家たちが、日本の政治を牛耳っている。
少しは自分の恥じたらよい。

 で、沢一郎の「続投」をいちばん喜んでいるのが、自民党。
そのため自民党は、音無(おとなし)の構え。
小沢一郎が続投すればするほど、民主党は、そのまま自滅。
自民党もそうだったが、民主党にも、これほどまでに自浄能力がなかったとは!

 それもこれも、結局は、日本人の政治意識の問題ということになる。
その政治意識は、江戸時代の封建意識のまま。
それを変えないかぎり、こうした茶番劇は、いつまでもつづく。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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