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2010年     4月号
Essay……
BOX版(ネットストーレッジ)……





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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   30日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●もしあのとき……(子どもの道徳教育について)

++++++++++++++++++++

子どもに道徳を教えることはできるのか。
現在、教育の世界では、「子どもに論語を」という
声が高まりつつある。
しかしどうして今、論語なのか。
またそれでもって、そうして道徳教育なのか。

論語についてはたびたび書いてきたので、
ここでは「道徳とは何か」について、
その基本的な部分を書いてみたい。
ひとつの例として、たまたま今夜、ワイフと
あの阪神・淡路大震災が話題になったので、
そのあたりから、書き出してみる。
少し回りくどいエッセーになると思うが、
許してほしい。

++++++++++++++++++++

●阪神・淡路大震災

1995年1月17日、午前5時46分、
あの「阪神・淡路大地震」が起きた。
死者6400人あまり。
負傷者4万4000人弱の、大惨事となった。

一説によると、自衛隊がもっと早く出動
していれば、これほどの大惨事にはならなかった
とも言われている。
というより、実際には、法整備の不備もあり、
自衛隊は、出動できなかった。

(一部の、近くの自衛隊は、「近傍派遣」という
ことで、地震直後に、活動を開始している。
他の部隊は、知事の要請を待ちながら、待機
状態にあったという。
現在は、知事レベルだけではなく、市町村長または、
警察署長などからも要請が行えるようになっている。)

加えていくつかの連絡ミスが重なった。
当時の兵庫県知事のK氏は、「情報が正しく伝えられ
てこなかった」というようなことを、あとになって
述べている。

結局、自衛隊の派遣要請は、4時間後になされた。
それも偶然電話がつながった、兵庫県消防交通安全課
課長補佐(当時)の機転によるものだったという。
(以上参考、ウィキペディア百科事典)

●道徳論

 ここであの大地震について書くつもりはない。
しかしもし、あのとき、私が所轄地域の自衛隊司令官だったら、どうしただろうか。
私でなく、あなたでもよい。
当時は、知事の要請がなければ、自衛隊は、救援活動に出動できなかった(自衛隊法第8
3条1項)。

【想定】
(1)あなたは、自衛隊の司令官である。
(2)ある地域で大地震が起き、かなりの被害が出ているという内部報告を受けた。
(3)ただちに出動したいが、知事とは連絡が取れない。
(4)首相と連絡を取ろうとしたが、それも取れない。
(5)ジリジリと時間だけが過ぎていく。
(6)被害の模様は刻一刻と、テレビなどで報道されている。

 こういうとき、あなただったら、どうするだろうか。

●エスの人vs超自我の人(フロイト)

 ここでいくつかの意見に分かれる。
まず頭に浮かんだのが、フロイト。
フロイトの「パーソナリティ論」。

(1)法律は法律だから、いくら大惨事であっても、司令官は法を守るべき。
(2)国家的な大惨事だから、自衛隊は独自の判断で行動すべき。
ほかにもいろいろな意見が考えられる。

 以前、「エスの人vs超自我の人」というタイトルで、こんな原稿を書いたことがある。
人間の「パーソナリティ」を考える、ひとつの見方について書いてみた。
少し話が脱線するが、許してほしい。

+++++++++++++++++

●ショッピングセンターのカート

 たとえばショッピングセンター。1人の女性が、カートに荷物を載せて自分の車のとこ
ろにやってきた。そして荷物を、車に載せ終わると、カートを、駐車場の壁に押しつける
ようにして、そこに残した。残したまま、自分の車で、立ち去った。

 本来なら、カートは、カート置き場に戻さなければならない。またそんなところにカー
トを置いたら、つぎに駐車した人が困るはず。

 そういう情景を見たりすると、私は、ふと、こう思う。「こういう女性なら、チャンスが
あれば、浮気でも不倫でも、何でもするだろうな」と。
理由がある。

 人間の脳みそというのは、それほど器用にはできていない。『一事が万事』と考えてよい。
AならAという場面では、小ズルく振る舞い、BならBという場面では、誠実に振る舞う
ということはできない。小ズルイ人は、万事に小ズルく、誠実な人は、万事に誠実である。

 つまりショッピングセンターのカートを、そのように平気で、そのあたりに置くことが
できる人というのは、そのレベルの人と考えてよい。フロイトという学者は、そのレベル
に応じて、「自我の人」「超自我の人」「エスの人」と、人を分けて考えたが、超自我の人は、
どこまでいっても超自我の人であり、エスの人は、どこまでいっても、エスの人である。

●エスの人

 フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の
人、(3)エスの人に分けた。

 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。

 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あな
たとのセックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっ
ては、セックスは、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう
割り切って、その場を楽しむ。その女性と、セックスをする。

 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。

 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の
人生をけがすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちも
ないわけではない。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。

 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。

 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、
何度か浮気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするの
が男」と考えて、その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。

●一事が万事

 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に、ある程度のハバをもって、同居する。
完全に超自我の人はいない。いつもいつもエスの人もいない。しかしそのハバが、ちがう。
超自我の人でも、ハメをはずことはあっても、その範囲で、ハメをはずす。しかしエスの
人は、いくらがんばっても、超自我の状態を長くつづけることはできない。

 だから「超自我の人」「エスの人」と断定的に区別するのではなく、「超自我の強い人」「エ
スの強い人」と区別するのが正しい。

 それはともかくも、これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。

 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。

 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけ
て食べてしまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲
んでしまいました」と。

 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していい
ことと悪いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝
動的。その場だけを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイ
ト人生を送っているという。

●原因は幼児期

 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの人」
ということになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、その自我
の確立が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考えてよい。
もう少し専門的には、精神の内面化が遅れた。

 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、
かかっている。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールす
るしかない。外の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人
にとっては、そうだ。

 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの
人を、「カタブツ人間」という。

 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大
切なのは、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談
も言いあう。しかし守るべき道徳や倫理は守る。

 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、
Fさんの相談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれ
ないが、私には、どうしてよいか、わからない。

●話を戻して……

 自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。

(1) 横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(2) 駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(3) 電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(4) ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(5) サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。

 (1)〜(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトが
いうところの「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れ
ている人とみる。つまりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あ
なたの夫か、妻なら、そもそも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もし
それがあなたなら、あなたがこれから進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。

 反対に、そうでなければ、そうでない。

++++++++++++++++++++

話を戻す。
「県知事の派遣要請があるまで待つ」のがよいのか、それとも、
「県知事の派遣要請を無視して、出動する」のがよいのか。
あなたなら、どうするだろうか。

が、フロイトのパーソナリティ論だけでは、判断できない。
「派遣要請がないから待つ」というのは、どこかカタブツ的。
だからといって、超自我の人、つまり人格が高邁とは、言えない。

反対に「派遣要請がなくても出動する」からといって、その人がエスの人、つまり欲望に
支配された人とは私は思わない。
この問題を考えるときは、もうひとつ別の尺度が必要ではないか。

そこでコールバーグ。

++++++++++++++++++++

●コールバーグの道徳論

 コールバーグもフロイトの影響を強く受けた人と考えてよい。
(心理学者で、影響を受けなかった人はいないが……。)
で、話を戻す。
こうした問題、つまり「人間としての選択」の問題を考えるときに、まっさきに思い浮か
ぶのが、コールバーグということになる。
彼の「道徳論」については、たびたび取り上げてきた。

 選択の仕方によって、コールバーグは、

(1)結果主義者(賞罰によって、判断する。)
(2)相対主義者(そのつど相手の立場で考える。)
(3)動機主義者(動機のよしあしで決める。)
(4)社会秩序派(社会秩序を重んじる。)
(5)超法律主義者(法よりも、正義を重んじる。)
(6)普遍的価値派(普遍的な価値を基準にしてものを考える。)
の6段階に分けた。
(参考:無藤隆著、「心理学とは何だろうか」)

 大震災を前にしたあなたの判断を、この6段階に当てはめてみる。

(1)結果主義者(あとで罰せられるから、出動しない。)
(2)相対主義者(直接的な自分への被害でないから、様子を見て判断する。)
(3)動機主義者(自衛隊は、国防のためのもの。災害救助は、消防庁がすべき。)
(4)社会秩序派(知事もしくは首相の判断に任せる。)
(5)超法律主義者(知事からの要請がなくても、出動する。)
(6)普遍的価値派(人を救うという観点から出動する。責任はすべて自分で取る。)

 かなり荒っぽく当てはめてみたから、細部では無理があるかもしれない。
しかしコールバーグは、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるか、
その2点で、その人の道徳的な完成度を計る目安にしている。
それによれば、少なくとも(1)よりは、(6)のように判断した人のほうが、道徳的な完
成度が高いということになる。

●私なら……

 さてあなたの判断は、どうだっただろうか。
「ケースバイケースで考える」という人もいるかもしれない。
あるいは「あのときは、あれでしかたなかった」と考える人もいるかもしれない。
「連絡不通」という、いくつかの不運が重なった。

 で、私はこう考える。

 ……といっても、それをここに書いても意味はない。
(あなたは(あなた)。
(私)は(私)。

 ただ今でもときどきワイフと、この問題が会話のテーマになることがある。
今夜もそうだった。
「お前ならどうする?」「あなたならどうする?」と。

 私のばあいは、かなりふつうの人とは、ちがった生き方をしてきた。
そのため、法を守ることは重要と考えるが、必要であれば、法を破ることも、これまた許
されると考える。
また破ったところで、ほとんど罪悪感はない。
それで責任を取らされて、司令官をクビになったところで、一向にかまわない。
地位や肩書きには、ほとんど興味がない。
ないから、一向にかまわない。
が、ここにも書いたように、これは私が、かなりふつうの人とは、ちがった生き方をして
きたことによる。
つまりこうした問題には、その人の生き様が集約される。

 たぶん自衛隊員として長年、そういう職業をしてきた人なら、私とはちがった考え方を
するだろう。
またしたところで、その司令官を責めることはできない。
「知事からの出動要請がないから、待機する」と、がんばるかもしれない。

++++++++++++++++++

どうもよくわからない。
今夜は、思考がうまくまとまらない。
道徳とは何か?
頭の中で同じテーマがクルクルと回ってしまう。

そこで「善と悪」。
それについて書いてみたいが、しかいこのテーマも、
それこそ腐るほど、書いてきた。

その中の1つを、再掲載してみる。

++++++++++++++++++

善と悪

●神の右手と左手
 
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。
善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないと
いうことらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いて
いるのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反
キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるもの
すべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。
それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの
努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをす
るのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということに
なる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、
たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさ
い」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。
人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして
自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりに
はだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういう
とき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそ
が道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのよう
に自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思
い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そうい
ったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場では、駐車場所
に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信号を守
る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、
そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないよう
な問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。
ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、
結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時
間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無
限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと
前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニー
チェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、
それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くな
ったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるの
か。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、そ
の謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。こ
こに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子
どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の
子(小三)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで
私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「い
いです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が
食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのも
のだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がか
たいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買っ
てあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判
断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれない
が、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思な
らわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかった
はずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自
ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』とい
う言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人
にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪い
ことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじ
めて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。

一つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理とい
うことになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間にな
る方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どち
らを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問
題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていく
と、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく
行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも
収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、
その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える
力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。

++++++++++++++++++

フ〜〜ン、まだよくわからない。
道徳、つまりそれぞれの人がもつ倫理規範とは、
何なのか。
またそれは教育になじむものなのか。

++++++++++++++++++

●道徳論

 こうして考えてみると、「道徳」というのも、つまるところその人の日々の生活の中で、
作られていくものということがわかる。
つまり明らかに個性をもっている。
それぞれによって、基準も異なる。
(絶対的に正しい)とか、(絶対的にまちがっている)とか、そういうふうに決めつけて考
えることはできない。
またそういうものではない。

 で、コールバーグは、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるかに
よって、道徳の完成度をみるが、それとて相対的な見方にすぎない。
だから子どもに道徳を教えるとしても、「正解・不正解」という判断は、基本的な部分で、おか
しいということになる。
それぞれがそれぞれの道徳観をもち、それぞれの考え方をする。

 もし(教える)ということになれば、より、公正な見方、より普遍的な見方を、子どもに示し
ていくことでしかない。
教えて教えられるものではない。
いわんや(きれいごと)だけを並べる子どもを育てるためでもない。
もちろん「善」を教えたからといって、その子どもが善人になるわけではない。

●道徳教育

 これが私の結論ということではないが、こと教育ということになれば、私は道徳教育は不要と
いうことになる。
道徳教育によって(教えられる部分)よりも、道徳教育によって(人間性が統制される部分)の
ほうが大きいばあいには、なおさらである。
たとえば戦前には、「修身」という科目があった。
明鏡国語辞典には、こうある。

「(1)身をおさめて正しい行いをするように努めること。
(2)旧学制下の小・中学校で、教育勅語をよりどころに道徳教育を授けた教科名。
◇昭和20(1945)年廃止。現在の「道徳」に当たる」と。

 そういう危険な側面もある。

 と、同時に、「道徳」というのは、先にも書いたように、「個性」がある。
一元的な道徳を押しつけることによって、その個性をつぶしてしまうことにもなりかねない。

 どうもうまく原稿をまとめられない。
このつづきは、また明日にでも考えてみたい。

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Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

【心の部屋論】(道徳完成論)2009年6月の原稿より

++++++++++++++++++

人間の心には、いくつかの部屋がある。
言うなれば、どこかの大学のようなもの。
事務室もあれば、講義室もある。
講義室にしても、大講堂もあれば、研究室もある。
研究室といっても、ひとつではない。
哲学を研究する研究室もあれば、化学を研究する
化学室もある。
もちろん教会もあれば、博物館もある。
サッカー場もあれば、パチンコ店もある。
それぞれが有機的につながりながら、独自の
活動をしている。

たとえば今、私は、私の心の中の心理学の
研究室にいる。
「脳みそ」を大学に例えるなら、その総合的な
機能を研究するのが、心理学の研究室である。
この研究室からは、大学全体を見渡せる。
近くには政治学部があり、その向こうには
美術学部がある。

こうした大学は、人によって大きさも、構成の
しかたも、みなちがう。
中には、コンピュータ研究室が特異に大きな
大学に住んでいる人もいるだろう。
あるいは音楽学部が特異に大きな大学に住んでいる
人もいるだろう。
私はそれぞれの学部や研究室で、ときに教授に
なりながら、またときに、学生になりながら、
そのときどきを過ごす。

が、こわいのは、つまり私たちがもっとも警戒
しなければならないのは、心の闇の部分に相当
する、地下室である。
外からは見えないが、そこには、ありとあらゆる
ゴミがたまっている。
ゴミといっても、邪悪なゴミだ。
ウソ、インチキ、ごまかし、嫉妬、怒り、不満、
ウラミ、などなど。

私たちは日常的にゴミを出しながら、それを
捨てた段階で、そのゴミのことを忘れる。
(……意図的に忘れる。)
しかしゴミは確実にたまり、やがて大学の運営
そのものに、影響を与えるようになる。

あのユングという学者は、それを「シャドウ」と
いう言葉を使って説明した。

大切なことは、ゴミを作るとしても、最小限に!
できればゴミを出さない。
日々に、明るく、朗らかに、かつさわやかに……、
ということになる。
さあ、今日も一日、始まった。
今朝はたっぷり熟睡して、今は、午前7時35分。
今の私は大学の学長だ。
まずいくつかの学部を訪れてみる。
とりあえずすぐ隣の心理学部では、「心の広さ」に
ついて研究しているようだ。
そこをのぞいてみる。
みなさん、おはようございます!
5月21日、木曜日!

+++++++++++++++++++++

●心の広さ

「心の広さ」を知るときは、反対に心の狭い人をみればよい。
俗にいう、「心に余裕のない人」である。
私はこのことを、母の介護をしているときに、知った。
同じ親の介護をしながら、明るく、ほがらかに、かつさわやかに
介護している人もいれば、反対に、暗く、つらそうに、かつ
グチばかり並べてしている人もいる。

「老人臭がする」
「町内会に出られなくなった」
「内職の仕事ができなくなった」
「コンロの火がつけっぱなしだった」
「廊下で、母が便をした」などなど。

このタイプの人のグチには、「では、どうればいいのか?」という部分がない。
ないまま、いつまでも同じグチを繰り返す。
ネチネチとグチを繰り返す。
私なら、……実際、そうしてきたが、老人臭が気になれば、換気扇をつければよい。
町内会など、出なければならないものではない。
みな、事情を話せば、わかってくれる。
内職の仕事にしても(やりくり)の問題。

老人が家にいるからといって、できなくなるということはない。
コンロの火が心配なら、自動消火装置つきのコンロにすればよい。
廊下で便など、子どもの便と思えばよい。
私の息子たちはみな、こたつの中で便をしていたぞ!
要は、心の広さの問題ということになる。

●道徳の完成度

心の広さを、お金(マネー)にたとえるのも、少し気が引ける。
しかし似ている。
たとえばふところに、10万円もあれば、どこのレストランへ行っても、安心して
料理を楽しむことができる。
が、それが1000円とか2000円だったりすると、とたんに不安になる。
では、心の広さのばあいは、どうか。
どうすれば、心の余裕を作ることができるか。
心を広くすることができるか。

ひとつのヒントとして、コールバーグが説いた「道徳の完成度」というのがある。
つまり、道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたもの
であるか、その2点で判断される、と。

(1)いかに公正であるか……相手が知人であるとか友人であるとか、あるいは自分が
その立場にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、公正に判断して行動
できるかどうかで、その人の道徳的完成度は決まる。
(2)いかに自分を超えたものであるか……乳幼児が見せる原始的な自己中心性を原点と
するなら、いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的であるかによって、
その人の道徳的完成度は決まる。

心が広い人イコール、道徳の完成度の高い人ということにはならない。
しかし道徳の完成度の高い人イコール、心の広い人と考えてよいのでは?
異論、反論もあろうかと思うが、その分だけ、そのときどきの(縁)に翻弄(ほんろう)
されるというこが少なくなる。

心理学的には、自己管理能力の高い人ということになる。
大脳生理学的には、前頭連合野の活動が、すぐれている人ということになる。
そういうものが総合されて、その人の心の広さを決定する。
が、何よりも大切なことは、運命を受け入れて生きるということ。

●運命論

どんな人にも、まただれにも、無数の糸がからんでいる。
生い立ちの糸、家族の糸、社会の糸、能力の糸、人間関係の糸、健康の糸、
性質の糸、、性格の糸、環境の糸などなど……。
そういった糸が無数にからんできて、ときとして私やあなたは、自分の意図する
のとは別の方向に、足を踏み入れてしまうことがある。
いや、そのときはそれに気がつかない。
あとで振り返り、そのうしろの足跡を見て、それに気づく。
運命というのがあるとすれば、運命というのは、そういうもの。
その運命を心のどこかで感じ、そしてそれが抵抗しても意味のないものと
知ったら、運命は受け入れる。
すなおに受け入れる。
そのわかりやすさが、私やあなたの心を広くする。
私も母の介護をするようになって、はじめてその運命のもつ力というか、
ものすごさを知った。

ふつうの母と子の関係なら、それほど苦しまなかったかもしれない。
しかし私のばあい、そうではなかった。
だからこそ、苦しんだ。
が、母が、私の家にやってきたとき、それは一変した。
下痢で汚れた母の尻を拭いてやっているとき、それまでのわだかまりや、こだわりが、
ウソのように消えた。
そこに立っているのは、どこまでもか弱い、そしてどこまでもあわれな、1人の
老婆にすぎなかった。
体の大きさも、小学生ほどになっていた。
それを知った、その瞬間、私は運命を受け入れた。
そう、運命というのは、そういうもの。
それに逆らえば、運命は、キバをむいて、私やあなたに襲いかかってくる。
しかし一度それを受け入れてしまえば、運命は、シッポを巻いて、向こうから逃げていく。

●生きる醍醐味

「生きる醍醐味は何か?」と問われれば、この心の部屋論にたどりつく。
大豪邸に住み、ぜいたくな生活をするのが、醍醐味ということではない。
(もちろんそういう人の心は、狭いということではない。誤解のないように!)
しかしいくらボロ家に住んで、つつましやかな生活をしていても、
心の部屋まで狭くしてしまってはいけない。
こんな例が参考になるかどうかは、わからないが、最近も、こんなことがあった。

私たち夫婦は、今年、H社のハイブリッド・カーを購入するつもりでいた。
何度もショールームに足を運んだ。
T社のハイブリッド・カーも魅力的だった。
何でも燃費が、リッターあたり、38キロ!
驚異的な数字である。
迷ったが、地元の会社であるT車のハイブリッド・カーに決めた。……決めていた。
で、その時期をねらっていたら、三男が結婚して、車がほしいと言い出した。
給料はかなり安いらしい。
しかも電車を乗り継いで通勤できるようなところではないらしい。
そこで私たちは、ギブアップ。
そのお金を三男に回した。

今しばらく、T社のビッツに乗りつづけることにした。
T社の車の中では、最安値の車である。
が、ビッツに乗っていても、卑下感は、まったくない。
大型高級車を見たりすると、ホ〜〜ッとため息をつくことはあるが、そこまで。
けっして負け惜しみではない。

私たち夫婦は、いつもこう言っている。
「車はビッツでも、肉体はベンツ」と。
そういうこともあって、このところ毎日、2人で、10キロは歩くようにしている。
プラス、ワイフは、週2回のテニスクラブ。
私は週4〜5単位のサイクリング。
(1単位=40分の運動量をいう。)
つまりこれが心の余裕ということになる。

さて、ここで究極の選択。
「肉体はビッツで車はベンツ、あるいは肉体はベンツで車はビッツ。
あなたはどちらを選ぶか?」

あるいは、
「豪華な生活をしながら心は4畳半、あるいは4畳半に住みながら、心は
大豪邸。あなたはどちらを選ぶか?」でもよい。

もっとも私のばあい、本音を言えば、大豪邸に住んで、心も大豪邸。
できれば超大型のベンツにも乗りたい。
そういう人も、知人の中には、いないわけではない。
まっ、がんばろう。
ここはがんばるしかない。
隣の心理学部を出て……。
その横には銭湯がある。
これから朝風呂を浴びてくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
コールバーグ 道徳の完成度 道徳完成度 はやし浩司 道徳の完成度 完成論 
はやし浩司 心の部屋論 運命論 無数の糸)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司※ 


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「Nothing(無)」論

++++++++++++++++++

今朝、パソコンを開くと、TK先生から
メールが届いていた。
先生について書いたときには、かならず、
その原稿を、先生に届けるようにしている。
これは暗黙の、つまり紳士協定のような
もの。
で、TK先生からの、その返事。

++++++++++++++++++++++++++++

林様: 大変に長い文書をよく書けますね。何か分かったような分からないような
nothing の問題について。それだけでも感心しています。

毎日英国のケンブリッジのSir John Thomas さんが書いてくれるという私の話はと
ても楽しみになっている一方で、Berlin の Haber Institute の創立百年祭が来年に
大きくあるというのでH子も一緒に行こうよと言ってくれていますが。亡父が創立時
の研究職員に抜擢されているだけに、向こうでも今更ながら私を大事に注目していま
すので、思いがけない親孝行でした。当時新設でも世界一の研究所でしたから。アイ
ンシュタインの他ノーベル賞が幾人もいましたし。昔の輝かしい歴史を大幅に宣伝す
るらしいです。「空気からパンを作って」人類の危機を救ったハーバーの偉業に亡父
が大変に貢献したというので。 私のホームページにあるハ―バーの話を書いてくれ
という依頼も国内できています。もう消えていい時期なのですが。長生きしていると
思いがけないことがあります。貴方も貴重な人生ですからくれぐれもご自愛の上お
元気に過ごして下さい。素晴らしい奥さんによろしく。

TK

++++++++++++++++++++++++++++++

●科学vs哲学

 科学は「命」を救い、哲学は「魂」を救う。
科学と哲学のちがいを一言で言えば、そういうことになる。
が、どちらが優位性をもつかと言えば、当然、哲学ということになる。
(たぶん、TK先生は、猛反発するだろうが……。)

 人間は、そしてあらゆる動物は、科学なしで、数億年という長い年月を生き延びてきた。
哲学という「形」があったわけではないが、(生きるための常識)が、生命を支えた。
鳥は水にもぐらない。
魚は陸にあがらない。
そんなことをすれば、死んでしまうことを、知っていたからだ。

哲学は、その(生きるための常識)が、昇華したもの。
言い替えると、人間は、そしてあらゆる動物は、科学なしでも生きていかれる。
しかし哲学なしでは、生きていかれない。
が、相互に補完関係がないわけではない。

 哲学のない科学は、ときに人間の生存に脅威をもたらす。
原子爆弾や化学兵器にその例をみる。
一方、科学性のない哲学は、ときとして、人間を誤った方向に導く。
狂信的なカルト教団にその例をみる。

●「だからどうなの?」

 私たちは、常に、「だからどうなの?」を問いかけながら、生きる。
それが哲学ということになる。

 一方、科学は、「なぜ?」を繰り返す。
あのアインシュタインも、「問いつづけることが重要」と書き残している。
が、そこに落とし穴がある。
TK先生もいつか言っていたが、そのためどうしても視野が狭くなる。
「中には、こんな研究をして、何になるのかと思われるようなのもある」と。
ひとつの例として、中国南部の民族楽器の研究をあげてくれた。
ときとして科学者は、細分の、そのまた細分化された世界で、自分の立場を権威づけよう
とする。

 つまり視野が狭くなる分だけ、外の世界が見えなくなる。
先生が書いた、ハーバー博士にしても、空中窒素固定法で、「空気からパン」を作った。
が、その一方で、第一次大戦中は、毒ガスの研究にも手を染め、毒ガス戦の一線に立って
しまった。
もしそのときハーバーが、「だからどうなの?」と一言でも、自分に問いかけていたら、毒
ガスの研究には、手を染めなかっただろう。

 やがてハーバーは、ユダヤ人であることにより、ドイツを追われる。
しかしアウシュビッツで使用されたチクロンBは、そのハーバーによって開発されたもの
である。

●「Nothing」論

 仏教でも、「一切皆空」(後述)を、その根本理念としている。
それから約2000年を経て、実存主義を私たちに教えた、あのサルトルも、最後は「無
の概念」という言葉を使って、「無」を説いた。

 TK先生が言う、「Nothing」というのは、「ナンセンス」という意味である。
つまり私を痛烈に批判している。
一読すると、私をほめているようにも見えるが、本当は、心底、私をバカにしている。
が、ちょっと待ってほしい。
私には、そういうTK先生が、ありがたい。
今の私に、そこまで面と向かってものを言ってくれる人は、いない。
言われた私は、何も怒っていない。
こういう言い方を、たがいにしあいながら、すでに40年になる。
(40年だぞ!)

 反対にTK先生の周囲には、私のように、TK先生を批判する人はいない。
……できない。
だからこのところ、TK先生を、いつも怒らせてばかりいる。

 話を戻す。

 この「Nothing」という言葉だが、むしろそこに、真理のすべてが凝縮されてい
る。
「だからどうしたの?」と問いつづけると、そのいきつくところが、「Nothing」と
いうことになる。
私が言っているのではない。
あの老荘思想に始まり、西田幾多郎へとつづく。
西田幾多郎は、東洋的な無の概念から、「絶対無」という言葉を使って、「無」を論理化、
体系化させている。

●死の克服

 人は裸で生まれて、裸で生きて、そして裸で死ぬ。
その間のプロセスは、「無」。
いかに無であるかによって、魂の解放が完成される。
あのサルトルも、「死は不条理なり」という言葉を、一度は、使った。
「自由刑」という言葉も使った。
そして「いくらがんばっても、死がある以上、人間には真の自由はない」と、一度は、説
いた。
(このあたりは、学生時代に学んだ記憶なので、不正確。)

 しかし最後は、「無の概念」という言葉を使って、サルトルは、死を克服する。
私には、それが何であるか、今のところまだよくわからない。
あえて言えば、仏教的な「空」の概念に通ずるものではないか。
「一切皆空」……「色即是空(しきそくぜくう)」ともいう。
仏教では、すべてのもの、それは自己、他者、万物を問わず、すべてのものは、実体のな
い空であると説く。

 私たちがなぜ「死」を恐れるかと言えば、そこに「私」があるからである。
私の財産、私の家族、私の名誉、私の地位などなど。
しかしその「私」から、「私」を取り去ってしまう。
残るのは、「裸の私」ということになる。
が、こうなってしまうと、もうこわいものはない。
失うものがないのだから、何も恐れる必要はない。
あとはただひたすら、自分を燃焼させて生きていく。
(その日)が来たら、「ああそうですか」と言って、この世を去っていけばよい。
それが結局は、「真の自由」ということになる。

 久々に、「Nothing」について考えてみた。
このつづきは、またの機会にしたい。
今朝は、昼からの仕事の説明会の準備をしなければならない。
私とTK先生の、おおきなちがいは、ここにある。

 ともかくも、私は死ぬまで、金銭を稼がねばならない。
年金など、まったくアテにしていない。……ならない。
がんばろう!
がんばります!

2010年3月27日

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 無 無の概念 一切皆苦 色即是空 西田幾多郎 絶対無 はやし浩
司 Nothing)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「私」さがし

+++++++++++++++++++++

だれでも、「私のことは、私がいちばんよく
知っている」と思っている。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
しかし、「私」を知ることは、むずかしい。
本当にむずかしい。
あのソクラテスも、そう言っている。
「私は私のことを、何も知らなかった」と。
『無知の知』というあのよく知られた言葉も、
そこから生まれた。

++++++++++++++++++++++

 「私」をさがす。
それはつまりところ、「自分の乳幼児期」を見ること。
「私」という人間の「核(コア)」は、そのほとんどが、乳幼児期に作られる。

 たとえばあなたが、さみしがり屋で、心の開けない人だったとしよう。
たとえばあなたが、冷たく、嫉妬深い人だったとしよう。
あるいはたとえばあなたが、ものごとにこだわりやすく、うつ的であったとしよう。
しかしそれは(あなた)の責任ではない。
あなたが求めて、そういう(あなた)になったのではない。
(あなた)という人は、乳幼児期の環境の中で、そういう(あなた)になっていった。

(1) たとえば発達心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
わかりやすく言えば、「心を開いて、相手を信じること」をいう。
その基本的信頼関係は、豊かな母子関係の中で、はぐくまれる。
(絶対的なさらけ出し)と(絶対的な受け入れ)。
「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。
その上に、基本的信頼関係が築かれる。
が、たとえば親の育児拒否、家庭内騒動、無視、冷淡、虐待などがあると、子どもはその
基本的信頼関係を築けなくなる。
そのため他人に対して、心を開けなくなる。
「基底不安」もそこから生まれる。
「いつ、どこで、何をしていても、不安」と。

(2) また子どもの発育には段階があることがわかっている。
そしてその段階ごとに「臨界期」があることもわかっている。
その臨界期をのがすと、脳細胞そのものが発達を停止してしまう。
こうして人間性そのものも、乳幼児期に決まる。
「決まる」と断言してよい。
そのよい例が、1920年代にインドで見つかった野生児。
「オオカミ姉妹」ともいう。
発見されたあと、2人の姉妹は、インド政府によって手厚く保護され、教育
を受けたが、最後まで人間性を取り戻すことはなかったという。
その人間性についても、最近では、「マターナル・デプリベイション(母性欠落)」という
言葉を使って、説明される。
乳幼児期に心豊かな母子関係に恵まれた人は、大きくなったときも、心の温かい、やさし
い人になる。
そうでなければ、そうでない。
他人との共鳴性を失い、心の冷たい人になる。
仲間をいじめても、心が痛まなくなる。

(3)さらに最近の研究によれば、うつ病の「種」も、乳幼児期にできることがわかって
きた。

++++++++++++++++++++++

●うつ病の原因
 
引きこもりも含めて、うつ病の原因は、その子どもの乳幼児期にあると考える学者がふえ
ている。
 
たとえば九州大学の吉田敬子氏は、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子ど
もは、「母親から保護される価値のない、自信のない自己像」(九州大学・吉田敬子・母子
保健情報54・06年11月)を形成すると説く。

さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になるこ
ともあるという。それが成人してから、うつ病につながっていく、と。
 
++++++++++++++++++++++

 こうして(あなた)という人は、できあがった。
その結果が(今のあなた)ということになる。
つまり「私」をさがすということは、自分の過去、かなんずく、自分の乳幼児期の環境を
知るということになる。
あなたは、乳幼児期に、心豊かで、両親の暖かい愛情に恵まれ、穏やかな環境の中で
育っただろうか。
もしそうなら、それでよし。
が、もしそうでないなら、まず、それに気づくこと。

 というのも、恵まれた環境の中で、何一つ問題なく育った人など、ほとんどいない。
多かれ少なかれ、みな、何かの問題をもった家庭に生まれ育っている。
言い換えると、心に問題をもっていない人は、いない。
心に傷をもった人だって多い。
ただまずいのは、そういう過去があることに気づかず、私の中の「私」に振り間ウェアさ
れること。
同じ失敗を繰り返すこと。
さらにこの種の問題は、親から子へと、世代連鎖しやすい。
もしあなたの過去に問題があったとしても、またその結果、現在の(あなた)に問題が
あったとしても、それをつぎの世代に伝えてはいけない。
あなたの代で、それを断ち切る。
そのための努力はしなければいけない。
そのためにも、まず「私」を知る。

 あとは、時間が解決してくれる。
10年とか20年はかかるかもしれない。
しかし時間が解決してくれる。
それもまた人生。
(あなた)の人生。
そう思って、そういう(あなた)自身と、仲よくつきあう。

 つまるところ、生きるということは、最後の最後まで、「自分探し」ということに
なる。
それくらい「私」を知ることは、むずかしい。
私はなぜ「私」なのか。
私がなぜ「私」なのか。
それを知ることは、本当にむずかしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 私探し 私さがし 私とは 私の中の私 自分探し 自分さがし 乳
幼児期 うつ病の原因 九州大学 吉田 母子保健情報)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【時間とは何か?】

+++++++++++++++

「時間」のとらえ方は、物理学と哲学
の世界では、まるでちがう。
ちがうが、そこには相互性がある。
それについて、考えてみたい。

2002年に書いた原稿(フェムト秒について)と、
2009年に書いた原稿(クロック周波数について)の
2作を、まずここに再掲載する。

+++++++++++++++

●今朝・あれこれ(4月13日)

●「無」の世界(The World of "Nothing")
This universe was born from nothing, or the smallest dot or line. Whatever it is, if so, 
our exisitance stands on this "Nothing". Then we ask ourselves, what we are. Some 
people say, there is another world beyond this world. But from that another world, this 
world where we live is another world itself. Is there another world beyond this world?

+++++++++++++++++

昨夜、こんなことを書いた。

「ひょっとしたら、あの世というのは、
あるのかもしれない」と。

私にとっては、生まれてはじめて書いた
言葉である。

理由がある。

私たちは今、大宇宙と呼ばれる、この宇宙の
中で生きている。
空の星々を見れば、それがわかる。

しかしこの大宇宙は、一説によると、
ビッグバンと呼ばれる、大爆発によって
生まれたものだという。

この説を疑う学者はいないが、問題は、
それ以前の宇宙は、どうであったかということ。

これについては、いろいろな説がある。
あるが、共通している点は、最初は、
「無」もしくは、それに近い状態であったということ。
それが爆発して、現在のような大宇宙になった?

何とも不可思議な世界だが、言いかえると、
私たちの存在そのものも、その不可思議な世界を基盤と
しているということになる。

逆に、こんなふうに考えてみてもよい。

よく「宇宙には果てがない」という。
しかし宇宙の向こうに、別の宇宙があるというわけでも
ないらしい。
ホーキング博士によれば、私たちが住んでいるような
大宇宙は、ここにも、そこにも、どこにでもあるという。
しかも、それが無数にあって、まるで泡(バブル)の
ようになっているという。

そこに見えないからといって、簡単に否定してはいけない。

そもそもこの宇宙では、時間も、空間も、アテにならない。
「時間」といっても、それは人間にとっての時間であって、
絶対的な時間ではない。

人間がいう「1秒」の間に、誕生から死まで繰りかえす
生物だっているかもしれない。
もし人間が、フェムト秒単位で生きることができるとするなら、
私たちは、その「1秒」を使って、3100万年分も
生きることができる※。

(3100・万・年だぞ!)

空間にいたっては、さらにアテにならない。

私たちが見ている、この世界にしても、
「見ている」と思っているだけで、
実は、何も見ていないのかもしれない。
わかりやすく言えば、「見ている」と思っているのは、
脳の後頭部にある視覚野に映し出された
電気的信号を、大脳が知覚しているにすぎない。

「見えないから何もない」と言うのは、
幼児のたわごとにも、ならない。

が、ホーキング博士が言う、別の宇宙を、
私たちは、知ることも、見ることもできない。
私たちの宇宙から見れば、そこは「無」の
世界ということなる。

(この宇宙にしても、もともと「無」であった
ものが、2つに分かれて、今の大宇宙を作った
という説もある。)

が、このことを反対に言えば、向こうの宇宙から見れば、
私たちの宇宙のほうが、無の世界という
ことになるのでは?

どちらが「無」なのかと論じても、意味はない。
それはたとえて言うなら、日本人とアルゼンチン人の、
どちらが逆さまに立っているかを論じるようなもの。

日本人から見れば、アルゼンチン人は、逆さまに
立っていることになる。
アルゼンチン人から見れば、日本人のほうが、
逆さまに立っていることになる。

もう少しわかりやすく言えば、こうだ。

日本からアルゼンチンを見れば、アルゼンチンは
外国(=あの世)ということになる。

しかしアルゼンチンから見れば、日本は外国(=あの世)
ということになる。

しかし、現実には、私はここにいる。
あなたは、そこにいる。
この世であろうが、あの世であろうが、
私は、ここにいる。
あなたは、そこにいる。

……と考えていくと、何がなんだか、わけが
わからなくなってくる。

もっと言えば、私たちの存在すらも、わけの
わからないものになってくる。

私たちが住むこの宇宙が無であるとするなら、
私という存在も、無ということになってしまう。

が、現実に、私は、この世に住んでいる。
「無」ではない。
だとするなら、私があの世にいても、何も、おかしくない。

(ゾーッ!)

つまりあの世がこの世かもしれない。
この世があの世かもしれない。

もっとはっきり言えば、この世があるなら、
あの世があっても、何もおかしくないということになる。

ただ誤解しないでほしいのは、ここでいう(あの世)
といっても、どこかのカルト教団の人たちが
好んで使う(あの世)ではないということ。
天国とか、極楽とかいう概念とも、ちがう。

さらに仮に死んだあと、あの世へ行くにしても、
今、私たちがもっている意識が、そのまま
連続性をもって、つながっていくとはかぎらない。

「意識」といっても、脳の中をかけめぐる
電気的信号に過ぎない。
死ねば同時に、こうした信号は、光となって空中に霧散する。
その時点で、「私」という意識は、消滅する。

私がここでいう「あの世」というのは、
そこにある「無」の世界の中の、別の大宇宙ということ。

するとまた、謎が振り出しに戻ってしまう。

あの世がこの世かもしれない。
この世があの世かもしれない。

今住んでいる、この世界が、すでにあの世かも
しれない。
となると、私たちは、かつてこの世に住んでいたことになる?

????????????????

わけがわからなくなってきたので、この話は、ここまで。

アインシュタインは、「問いつづけることこそが
大切」と言った。

私も、この先、この問題については、問いつづけて
みたい。

この世はあの世なのか。
あの世はこの世なのか、と。

+++++++++++

※「フェムト秒」という言葉を
最初に教えてくれたのは、
田丸謙二先生です。

それについて書いた原稿です。

+++++++++++

●フェムト秒

 ある科学の研究者(田丸謙二先生のこと)から、こんなメールが届いた(02年9月)。
いわく……

「今週(今日ですと先週と言うのでしょうか)は葉山の山の上にある国際村センターで日独
のジョイントセミナーがありました。私の昔からの親しい友人(前にジャパンプライズを受
けたノーベル賞級の人)が来ると言うので、近くでもあるし、出させてもらいました。 今
は固体表面に吸着した分子一個一個を直接見ながら、それにエネルギーを加えて反応を起
こさせたり、フェムト秒単位(一秒を10で15回繰り返して割った短い時間)でその挙
動を追っかけたり、大変な技術が発達してきました」と。

 このメールによれば、(1)固体表面に吸着した分子を直接見ることができる。(2)フ
ェムト秒単位で、その分子の動きを観察できる、ということらしい。それにしても、驚い
た。

ただ、(1)の分子を見ることについては、もう二〇年前から技術的に可能という話は、そ
の研究者から聞いていたので、「へえ」という驚きでしかなかった。しかし「フェムト秒単
位の観察」というのには驚いた。

わかりやすく言うと、つまり計算上では、1フェムト秒というのは、10の15乗倍して、
やっと1秒になるという時間である。反対に言えば、1000兆分の1秒ということにな
る。さらにかみくだいて言えば、1000兆秒というのは、この地球上の3100万年分
に相当する。計算するだけでも、わけがわからなくなるが、1フェムト秒というのは、そ
ういう時間をいう。

こういう時間があるということ自体驚きである。もっともこれは理論上の時間で、人間が
観察できる時間ではない。しかしこういう話を聞くと、「では、時間とは何か」という問題
を、考えざるをえなくなってしまう。もし人間が、1フェムト秒を、1秒にして生きるこ
とができたら、そのたった1秒で、3100万年分の人生を生きることになる! ギョッ!

 昔、こんなSF小説を読んだことがある。だれの作品かは忘れたが、こういう内容だっ
た。

 ある惑星の知的生物は、珪素(けいそ)主体の生物だった。わかりやすく言えば、体中
がガチガチの岩石でできた生物である。だからその生物が、自分の指を少し動かすだけで
も、地球の人間の時間で、数千年から数万年もかかる。一歩歩くだけでも、数十万年から
数百万年もかかる。

しかし動きというのは相対的なもので、その珪素主体の生物にしてみれば、自分たちがゆ
っくりと動いている感覚はない。地球上の人間が動いているように、自分たちも、ごく自
然に動いていると思っている。

 ただ、もしその珪素主体の生物が、反対に人間の世界を望遠鏡か何かで観察したとして
も、あまりに動きが速すぎて、何も見えないだろうということ。彼らが一回咳払いする間
に、地球上の人間は、数万年の時を経て、発生、進化の過程を経て、すでに絶滅している
かもしれない!

 ……こう考えてくると、ますます「時間とは何か」わからなくなってくる。たとえば私
は今、カチカチカチと、時計の秒針に合わせて、声を出すことができる。私にとっては短
い時間だが、もしフェムト秒単位で生きている生物がいるとしたら、そのカチからカチま
での間に、3100万年を過ごしたことになる。となると、また問題。このカチからカチ
までを一秒と、だれが、いつ、どのようにして決めたか。

 アインシュタインの相対性理論から始まって、今では第11次元の世界まで存在するこ
とがわかっているという。(直線の世界が一次元、平面の世界が二次元、立体の世界が三次
元、そしてそれに時間が加わって、四次元。残念ながら、私にはここまでしか理解できな
い。)ここでいう時間という概念も、そうした次元論と結びついているのだろう。

たとえば空間にしても、宇宙の辺縁に向かえば向かうほど、相対的に時間が長くなれば、(反
対に、カチからカチまで、速くなる。)宇宙は、永遠に無限ということになる。たとえばロ
ケットに乗って、宇宙の果てに向かって進んだとする。

しかしその宇宙の果てに近づけば近づくほど、時間が長くなる。そうなると、そのロケッ
トに乗っている人の動きは、(たとえば地球から望遠鏡で見ていたとすると)、ますますめ
まぐるしくなる。地球の人間が、一回咳払いする間に、ロケットの中の人間は、数百回も
世代を繰り返す……、あるいは数千回も世代を繰り返す……、つまりいつまでたっても、
ロケットの中の人間は、地球から見れば、ほんのすぐそばまで来ていながら、宇宙の果て
にはたどりつけないということになる。

 こういう話を、まったくの素人の私が論じても意味はない。しかし私はその科学者から
メールを受け取って、しばらく考え込んでしまった。「時間とは何か」と。

私のような素人でもわかることは、時間といえども、絶対的な尺度はないということ。こ
れを人間にあてはめてみると、よくわかる。たとえばたった数秒を、ふつうの人が数年分
過ごすのと同じくらい、密度の濃い人生にすることができる人がいる。

反対に一〇年生きても、ただただ無益に過ごす人もいる。もう少しわかりやすく言うと、
不治の病で、「余命、残りあと一年」と宣告されたからといって、その一年を、ほかの人の
三〇年分、四〇年分に生きることも可能だということ。反対に、「平均寿命まで、あと三〇
年。あと三〇年は生きられる」と言われながらも、その三〇年を、ほかの人の数日分にし
か生きられない人もいるということ。どうも時間というのは、そういうものらしい。

いや、願わくば、私も1フェムト秒単位で生きて、1秒、1秒で、それぞれ3100万年
分の人生を送ることができたらと思う。もちろんそれは不可能だが、しかし1秒、1秒を
長くすることはできる。仮にもしこの1秒を、たったの2倍だけ長く生きることができた
としたら、私は自分の人生を、(平均寿命まであと30年と計算して)、あと60年、生き
ることができることになる。

 ……とまあ、何とも理屈っぽいエッセーになってしまったが、しかしこれだけは言える。
幼児が過ごす時間を観察してみると、幼児のもつ時間の単位と、40歳代、50歳代の人
がもつ時間の単位とはちがうということ。

当然のことながら、幼児のもつ時間帯のほうが長い。彼らが感ずる1秒は、私たちの感ず
る1秒の数倍以上はあるとみてよい。もっとわかりやすく言えば、私たちにとっては、た
った1日でも、幼児は、その1日で、私たちの数日分は生きているということ。あるいは
もっとかもしれない。

つまり幼児は、日常的にフェムト秒単位で生活している! これは幼児の世界をよりよく
理解するためには、とても大切なことだと思う。あくまでも参考までに。
(02−9−17)※


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●1秒は、1秒なのか?(One second for mice is equivalent to 100 seconds for men)

●クロック数(クロック周波数)について(2009年6月の原稿より)

++++++++++++++++++++

今日の夕刊(4月30日、中日新聞)に、
こんな興味ある記事が、載っていた。
『人とマウス、行動似てる』というタイトルの
ものだった。
『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。
大阪バイオサイエンス研究所(大阪府吹田市)と
東京大学の研究チームによる、研究結果である。
記事には、『生物の行動の背後に、種を超えた基本法則
が存在する可能性を示すもの』(同)ともあった。

+++++++++++++++++++++

●庭のスズメ

たとえば庭に遊ぶスズメたちを見てみよう。
小枝から小枝へと、小刻みなリズムで、飛び回っている。
少し前、私は、それを見ながら、こんなことを考えた。
「もし人間が、同じ行動をしようとしたら、
スズメの何倍の時間がかかるだろうか?」と。
スズメたちは、数秒単位で、枝から枝へと、
ピョンピョンと飛び回る。

で、同じような枝を、パイプが何かでつくり、
人間に同じ行動をさせたら、どうだろう?
オリンピックに出るような体操選手ですら、
その10倍の時間は、かかるかもしれない。
またつぎにこんなことを考えたこともある。
一匹の蚊を頭の中で、想像してみてほしい。

その蚊が、人間の足の高さから、頭の高さまで
あがるのに、何秒くらいかかるか、と。
正確に計測したことはないのでわからないが、
ブーンと飛べば、3〜4秒もかからないのでは
ないか?

そこで蚊の体長を、5ミリとして計算すると、人間の
170センチの身長は、蚊の体長の340倍の高さという
ことになる。

そこで身長が1・7メートルの人間の高さに換算すると、
1・7メートルx340=578で、約580メートル
の高さということになる。

つまり蚊は、人間にしてみれば約580メートルの
山を、3〜4秒で登ったり、おりたりすることが
できるということになる。
3〜4秒である。
が、これで驚いてはいけない。

●ハエは、音速の3倍以上!

ときどき家の中を、体長1センチ前後の、大きな
ハエが飛び回ることがある。
私たちが「クソバエ」と呼んでいる、黒いハエである。
あのハエは、7〜8メートル四方の部屋を、
ビュンビュンと飛び回る。

そのハエについても、正確に計測したことがないので
わからないが、やはりブ〜ンと飛べば、7〜8メートルの
部屋を横切るのに、1秒もかからないのではないか。
そこでこれらの数字をもとにして、ハエの速度を計算してみると、
秒速7メートルとして、同じように170倍すると、
秒速1190メートルということになる。
さらにこの数字を、60x60=3600倍すると、
時速になる。

その時速は、何と、4284万000メートル。
キロメートルになおすると、4284キロメートル。
つまりあのハエは、人間の大きさで考えると、
時速4000キロ以上のスピードで、部屋の中を飛び回って
いることになる!
時速4000キロだぞ!

この数字を疑う人は、一度、自分で計算してみるとよい。
つまり音速の約3倍!
こうして考えてみると、スズメにせよ、蚊にせよ、
はたまたあのハエにせよ、私たちとはちがった(時間)を
もっているのがわかる。

前にも書いたが、もしハエが今のまま進化し、
時計を作ったとしたら、秒針のほかに、1秒で1周する
もう一本の針を考えるかもしれない。
つまりスズメにせよ、蚊にせよ、はたまたハエにせよ、
私たち人間がいうところの「1秒」を、10秒とか、
100秒で生きていることになる。

●マウスは、人間の100倍!

・・・というようなことを、今回、大阪バイオサイエンス
研究所というところが、はからずも証明した?
もう一度、新聞記事を読みなおしてみよう。
そこには、こうある。

『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。

もう少し専門的に言えば、「体内のリズムをつくる
時計遺伝子の働きは、マウスのばあい、人間の
それより100倍も速い」ということになる。
だから単純に、「マウスは人間の100倍の
速さで生きている」というふうに考えることは
できないとしても、「少なくともマウスは、
人間とはちがった時間の尺度をもっている」ということだけは
確かである。

同じ1秒を、人間は、それを1秒として生きている。
が、マウスにしてみれば、100秒にして生きている
かもしれない。

だからたとえば、マウスの寿命を仮に1年としても、
それを「短い」と思ってはいけない。
マウス自身が感ずる1年は、ひょっとしたら人間の
100年分に相当するかもしれない。

●幼児の世界でも

実は、私は、このことは幼児を指導している
ときにも、よく感ずる。
私の教室では、常にテンポの速いレッスンに心がけて
いる。
そうでもしないと、子どものほうが、飽きてしまう。
レッスンに乗ってこない。

で、そういうとき、私はよくこう思う。
幼児のもつ体内時計は、おとなのもつ体内時計より、
数倍は速い、と。
わかりやすく言えば、幼児にとっての1分は、
おとなに3〜4分に相当する。
おとなが3〜4分ですることを、幼児は、1分でする、と
言いかえてもよい。

「アウ〜、それでエ〜、エ〜ト・・・」などというような、
どこか間の抜けたようなレッスンをしていたら、
それだけで教室はザワついてしまう。
収拾がつかなくなってしまう。

反対に、老人ホームにいる老人たちを見てみると、
このことがさらによくわかる。
そこにいる老人たちは、1日中、何かをするでもなし、
しないでもなしといった状態で、その日、その日を
過ごしている。

そこにいる老人たちは、明らかに私たちとは、ちがった
体内時計をもっている。
ひょっとしたら、1日を、私たちがいう、1時間、
あるいはそれよりも短く感じながら生きている
かもしれない。

長い前置きになってしまったが、結論を急ぐと、こういう
ことになる。
私たちが感じている1秒、1分、1時間は、
けっして絶対的なものではないということ。
過ごし方によっては、1秒を1時間にして生きることもできる。
反対に、1日を、1分のようにして過ごしてしまう
かもしれない。

つまり(時の長さ)というのは、時計的にはみな、同じでも、
過ごし方によっては、何倍もにして生きることもできる。
反対に、数分の1にして生きることもあるということ。
もっと言えば(時の長さ)には、絶対的な尺度はないということ。
要は、その人の過ごし方、ということになる。
それにしても、『人の動きを100倍の速さで早回しすれば、
マウスと同じになることがわかった』とは!
100倍だぞ!

この「100倍」という数字を読んだとき、私は
改めて、(時間とは何か)、さらには、(生きるとは何か)、
それを考えさせられた。

余計なことかもしれないが、日々を、野球中継だけを見ながら過ごすのも
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
日々を、パチンコだけをしながら過ごすのも、
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
あるいは日々を、魚釣りだけをしながら過ごすのも、
これまた人生かもしれない。が、それではあまりにももったいない。
・・・というのが、このエッセーの結論ということになる。

●脳みそのクロック数

ついでに……。
宇宙には、私たちがいう「1秒」の間に、人間の世界でいう数100年、
あるいは数1000年分の人生を生きる生物がいるかもしれない。
あるいは反対に、私たちがいう「1万年」が、寿命という生物も
いるかもしれない。

そういう生物(?)は、指を1本、動かすのに、20年とか、
30年もかかる。
岩石のようなものでできた生物を想像してみればよい。
・・・という話は、どこか荒唐無稽な感じがしないでもない。
しかしこんなことは言える。

脳みそにも、コンピュータでいうところの「クロック数」の
ようなものがあるのではないか、ということ。
たとえばワイフは、8年前に買ったパソコンを使っている。
私は、昨年(07年)に買ったパソコンを使っている。
ワープロとして使っている間は、それほどの(差)を
感じない。

が、画像を表示したり、ゲームをしたりするときには、
はっきりとした(差)となって、ちがいが出てくる。
情報を処理するための基本的な速度、つまりクロック数そのものが
ちがう。

俗な言い方をすれば、(頭の回転の速さ)ということになる。
子どもにしても、頭の回転の速い子どもは、速い。
そうでない子どもは、そうでない。
反応も鈍い。
仮に脳みそのクロック数が、2倍ちがうとすると、クロック数が
2倍速い子どもは、そうでない子どもの、2倍長く時間を使う
ことができるということになる。

全体に、クロック数が速いから、当然、計算するのも速い。
文章を書くのも、速い。
思考する力も、速い。
だからクロック数が2倍速い子どもにとっては、同じ「1秒」でも、
そうでない子どもの、「2秒分」の時間に相当する。
同じ「1年」でも、「2年分」の時間に相当する。
ただし誤解しないでほしいのは、クロック数が速いからといって、
時間を有効に使っているということにはならないということ。
(時間を長く使う)ということと、(時間を有効に使う)という
ことは、まったく別のことである。

そのことは、冒頭に書いたスズメの話を思い出してもらえば、わかる。
庭に遊ぶスズメたちは、目まぐるしく、活動している。
しかし、それだけのこと。
わかりやすく言えば、(中身のない人生)を、忙しそうに
繰りかえしているだけ。

恩師の田丸謙二先生は、いつも口癖のように、こう言っている。
「せっかく、いい頭をお持ちなのですから・・・」と。
私に対して、そう言っているのではない。

東大という大学に入ってくる学生たちに、いつもそう言っている。
先生がいう、「・・・なのですから・・・」というのは、
「もっと自分の頭で考えなさい」という意味だが、
先生の言葉をもう少し、自分なりに解釈すると、こうなる。
「せっかく速いクロック数の頭をもっているのだから、
脳みそを有効に使いなさい」と。

●最後に・・・

脳梗塞のようなダメージを受けないかぎり、実際には、
脳みそのクロック数などというものは、みな、それほどちがわない。
ちがっても、2倍とか3倍とかいうものではなく、
1・1倍とか、1・2倍とかいう範囲の、わずかなものかもしれない。
しかもそのクロック数というのは、訓練によって、速くすることができる。
このことも、子どもの世界を見れば、よくわかる。

言いかえると、同じ人生でも、それを長くして生きるか、
それとも、短くして生きるかは、その人、個人の問題ということ。
そのためにも、頭は使って使って、使いまくる。
そうでなくても、脳みそのクロック数は、加齢とともに、落ちてくる。
老人ホームにいる老人たちにしても、ある日、突然、ああなったのではない。
ある時期から、徐々に、そして少しずつ、長い時間をかけて、
ああなった。

今の私やあなたがそうかもしれない。
クロック数というのは、そういうもの。
全体に脳みその機能が低下していくため、その人自身が、それに気づくと
いうことは、まずない。

知らぬ間に、クロック数は低下し、また低下しながらも、低下したこともわからない。
だから歳をとったら、なおさら、頭は使う。
使って使って、使いまくる。

それがとりもなおさず、私たちの人生を、より長くすることになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 クロック数 クロック周波数 人間のクロック数 クロック周波数 
生きる密度)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●時間とは

 改めて書くまでもなく、時間とは生き方の問題ということになる。
「そこに時間がある」ということではなく、「どう生きるか」。
それが時間ということになる。
もし「時間」という概念があるなら、「その時間を、どう使うか」。
それがここでいう「生き方の問題」ということになる。

 怠惰に過ごすのも1年なら、懸命に生きるのも、これまた1年。
「長さ」は、その「密度」によって決まる。
言い替えると、生き様の追求は、密度の追求ということになる。
いかに無駄を省き、密度を濃くしていくか。
それによって1年を10年にすることもできる。
1年を100年にすることもできる。

 もちろん回り道をすることも、よくない。
私たちも「生命」の一部でしかない。
その「生命」という部分には、限界がある。
ちょうど鉄がさび、やがて朽ちていくように、私たちの細胞も、さび、
やがて朽ちていく。
「急ぐ」という言い方は好きではないが、少なくとも、
無駄にする時間はない。
物理的な時間をいうなら、100年でも足りない。
1000年でも足りない。
真理の探究というのは、それほどまでに深淵で、道は遠い。

 「時間とは何か?」。
それを考えていくと、その先に、どう生きるべきかが見えてくる。
そういう意味で、物理学でいう(時間)と、哲学でいう(時間)には、
相互性がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 時間とは何か)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●The Howie Brothers(ホウイ兄弟)

今朝起きてすぐ、「The Howie Brothers」のことを書いた。
オーストラリアの音楽家である。
大学の同窓生でもある。
1970年のときの写真と、2010年の写真を並べて、BLOGに掲載した。
その2つの写真を見比べなら、こう思った。

 たいていの人は、(私のワイフもそうだが)、現在の写真を見て、「こんな人たちにも、若
いときがあった」と思う。
この見方は、まちがってはいない。
しかし空白の40年を縮めてみると、見方が逆になる。
「こんな青年にも、やがてくる老年期があった」と。

 もちろん青年期には、それはわからない。
老齢期という未来は、まだ存在しない未知の世界。
しかし実際には、どんな青年にも、すでに老齢期はある。
あって、どこかに潜んでいる。

 このことは、幼児たちを見ているとわかる。
年中児(4歳児)から、高校3年生まで。
そういった子どもを毎年繰り返し見ていると、やがて幼児を見ただけで、その子どもがそ
のあとどうなっていくか、おおかたの輪郭がわかるようになる。
幼児の中に、中学生になったときの様子、高校生になったときの様子がわかるようになる。
同じように・・・というわけでもないが、1970年のホウイ兄弟の写真を見ていると、
見た目には青年かもしれないが、その中に、現在のホウイ兄弟を見てしまう。

 どちらが先で、どちらが後ということではない。
その人たちの中で、人生がひとかたまりになっている。
だから私は、1970年の写真を見ながら、こう思う。

「この人たちにも、今のような老齢期があったのだ」と。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●春休み

 私にも春休みがある。
10日間ほどある。
いろいろ計画している。
が、こうした計画というのは、浅瀬にわく、泡のようなもの。
ポッポッと現れては、その一方で、ポッポッと消えていく。
若いころなら、「本を1冊、書いてやる」などと思ったもの。
しかし今の私は、「本を書くこと」には、まったく興味がない。
書いたものを本にしたいという意欲さえ、わいてこない。
今は、インターネットの時代。
これからはインターネットの時代。

 ひとつの例だが、10年ほど前までは、パソコン関連のソフトが、たくさん店に並んで
いた。
ゲームソフトはもちろん、画像編集ソフト、ビデオ編集ソフト、宛名書きソフト、家計簿
ソフトなどなど。
20年前には、もっとたくさんあった。
しかし今は、そのほとんどが、無料ソフトに置き換わった。
画像加工ソフトにしても、無料加工ソフトのほうが、内容が濃い。
使い勝手もよい。

 同じように、(情報)にしても、少し前までは、「安かろう、悪かろう」という思いが、
まだ残っていた。
ニュースにしてもそうだ。
今ではインターネットで配信される(情報)のほうが、はるかに質が高い。
(もちろん低いものもあるが・・・。しかしこれは選択の問題。)
何よりも瞬時、瞬時・・・というところがすごい。
朝に記事を配信すれば、昼を待たずして、反応が入ってくる。
(実際には、BLOGに書き込むと同時に、検索されるようになる。)

 どうしてこういう時代に、「本」なのか?
収入にはならないかもしれないが、私には、そのほうが楽しい。
つまりインターネットを利用して、好き勝手なことを書いているほうが、楽しい。
ということで、新年度からの新しい企画に挑戦したい。
(2009−2010年度は、「BW公開教室」に力を入れた。)


●同性愛

++++++++++++++++++

数日前、浜松市の男性教師が、児童買春で
逮捕された。
東京で、逮捕された。
相手は女の子かと思ったが、男の子だった。
つまりその教師は、同性愛者であった。
別の同性愛者に段取りをつけてもらい、
東京まで出かけていって、売春行為を
していたらしい。

+++++++++++++++++++

●「濃い男」

 「濃い男」「薄い男」という言葉は、私が最初に考えた。
今では広く、あちこちで使われている。
「肉食系」「草食系」と同じような意味で使われているが、私が使い
はじめたときには、すこし違った。
まったく女性にしか興味を示さない男を、「濃い男」という。
同性でもか構わないという男を、「薄い男」という。
私は、その中でも、「たいへん濃い男」。
同性の男に、肌をさわれただけで、ゾッとする。
一方、女性なら、だれでも構わない。
歯医者などに行って、女性の看護士に肌をさわられただけで、うっとりする。

 だから、こういうニュースを聞くたびに、「ヘエ〜〜?」と思ってしまう。
そんなに同性に興味があるなら、温泉か、大浴場へ行けばよい、と。
(あるいはそういうところは、飽きてしまったのか?)

●同性愛

 同性愛がどうこう言うのではない。
好ましくないとか、そういうことを言っているのでもない。
そういうことを言うと、今では「偏見」と考えられ、評論すること自体、許されない。
(今まで、一度もしたことはないが・・・。)
しかし「東京まで行って・・・」というところに、私は別の何かを感じてしまう。
当人も何かしらの(うしろめたさ)を感じていたのだろう。

 それについてワイフは、「地元じゃあ、バレるからじゃない」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
年齢は53歳というから、あちこちの学校で教壇に立っていたはず。
現在の学校に移る前は、市内のN中学校で、教壇に立っていたという。
顔も広く知られている。
「だから東京で・・・」ということになった(?)。

 しかし考えてみれば、不思議な世界と思う。
人間の世界にも、(男)と(女)がいて、さまざまな人間模様を繰り広げている。
ときにそれが(男)と(男)になり、(女)と(女)になったりする。
どうでもよい世界だが、そこに子どもを巻き込む。
それはいけない。

この浜松市でも、毎年教師によるハレンチ事件が、1〜2件はある。
親レベル、学校レベルでもみ消される事件まで入れたら、もっと多い。
当人どうしだけの秘密のままですまされるケースを含めると、さらに多い。
つまりこうした事件は、氷山の、そのまた氷山の一角。

 バレたら、教師生命どころか、世俗的な名誉、地位すべてを失う。
それほどまでの危険を感じたら、ふつうの良識のある人は手を引く。
「教職」という立場にあるなら、なおさらである。
そう言えば、どこかの小学校の校長が、校長室で、児童の母親と密会を重ねていたという
事件もあった。
これもつい先日のできごとである。
が、人間のもつ欲望のパワーは、それをはるかにしのふほど、強い。
逮捕された教師も、こう言ったという。
「自分を抑えきれませんでした」と。

 ・・・こういう事件は、モグラ叩きのモグラのようなもの。
人間がそこにいるかぎり、なくなることはない。
これからも頻繁に起こるだろう。
止めようとして、止められるものではない。
が、一言。

 私には、同性愛者の気持ちが、どうしても理解できない。
頭の中を、180度ひっくり返してみるのだが、それでも理解できない。
「どうして男が、男に、性的な関心をもつのだろう」と考えたところで、思考が停止して
しまう。
だからこそ、不思議な世界と思う。
同じ人間であり、同じ男なのに、これだけは、私の理解の範囲を超えている。


Hiroshi Hayashi++++++MARCH.2010++++++はやし浩司

●今日、あれこれ(3月27日)

●経済問題

 ひとつだけはっきりしていること。
このまま進めば、日本経済は、やがてにっちもさっちもいかなくなるということ。
国の借金は、雪だるま式にふえつづける。
その一方で、大量の円を市中にばらまきつづける。
へたをすれば、デフレ状態のまま、ハイパーインフレを迎える。
そうなれば円の大暴落。
札も国債も、紙くずと化す。
(もともと「紙」だから、私は驚かないが・・・。)

●中国の干ばつ
 
 中国南部と、ベトナム北部が、大干ばつに見舞われている。
原因は、地球の温暖化。
が、本当の問題は、これから。
この先、世界各地で、「水戦争」が起きるようになる。
1960年代に始まった、インド・パキスタン紛争(印パ紛争)も、
もとはと言えば、水の奪い合いだった。
そうした「火種」ならぬ、「水種」は、世界各地に散らばっている。
すでに中国とベトナムの関係が、ぎくしゃくし始めている。

農耕地が被害を受ければ、そのまま食料不足につながる。
そうなれば影響は、この日本にも及ぶ。
遠い海の向こうの話では、すまされなくなる。

●民主党政権

 「日本は左傾化し、中国に接近しつつある」と。
私はそうは思っていないが、アメリカ人も、オーストラリア人も、
そう思っている。
今の民主党政権になって、日本は、かなり誤解されているようだ。
前回の衆議院議員選挙では、多くの日本人は、反麻生、反自民に
傾いた。
しかしだれも民主党が、左派政権とは、思っていなかった。
左派政権を求めて、民主党に一票を入れたわけではない。
社民党などと連携がわかってはじめて、「?」と思い始めた。
(これはあとの祭り!)

 が、何よりも失望したのは、小沢一郎幹事長。
小沢一郎幹事長が臭わす醜悪さは、麻生前総理大臣の比ではない。
そればかりか、やがてマスコミ各誌は、民主党をさして、「小沢独裁政権」
と揶揄(やゆ)するようになった。
まさに独裁政権。
派閥政治にもいろいろと問題はあるが、自民党の派閥政治のほうが、民主的(?)。
そんな印象をもってしまった。

 が、小沢一郎幹事長は、この場に及んでも、まだ強気。
夏の参議院議員選挙では、民主党の選挙参謀を務めるとか。
その姿勢は、麻生前総理と、同じ。
まるで自分の姿が見えていない。
「どうぞ、ご勝手に!」。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●組織vs個人

++++++++++++++++++

私の教室の横に、巨大なビルが建設された。
9階建てというが、1階ごとの天上が高い。
豪華!
目下、内装中ということで、外からでは、
その様子はわからない。
浜松医師会館である。
「なるほどな」と思ってみたり、「そういう
ものかな」と思ってみたりする。

「組織」には、その構成員を超えた力がある。
つまり1+1が、2ではなく、3になったり、
4になったりする。
要するに「金(=マネー)」の力だが、日本の
ばあい、「組織」は、何かにつけて、国からの
恩恵を受ける。
税金の使われ方、そのものが、ちがう。

たとえば地方公共団体から交付される補助金
についても、(個人)に支払われることは、めったに
ない。
(組織)に支払われる。

ひとつの例だが、アメリカでは、子どもを
もつ親に、直接補助金が支払われる。
その補助金を手にして、親は幼稚園や、学校を
選ぶ。
一方、この日本では、幼稚園や学校という
組織に、補助金が支払われる。
その補助金を手にして、幼稚園や学校は、
豪華な園舎や校舎を建てる。

……ということで、私の教室の横に、巨大な
ビルが建った。
その前を通るたびに、「すごいな」と思う。
ビルがすごいというよりは、医師会、さらには
医師たちのもつ力が、すごいと思う。
ある医師は、こう話してくれた。

「そのため毎月、1万円負担している」と。

もちろん1万円だけで、そんなビルは建たない。
国からの、莫大な補助金が、その裏で支払われて
いる。
医師会という(組織)に支払われている。

+++++++++++++++++++++

●個人は損!

 この日本では、(個人)で生きるのは、ぜったいに、損!
よい例が通りに店を並べる、個人の商店。
世間に大風が吹くたびに、あっちへなびき、こっちへなびく。
収入といっても、客の流れしだい。
保障など、何もない。

 郊外に大型店ができれば、それでおしまい。
今は、ネット時代。
個人の商店でものを買う人は、もういない。

 一方、この日本で要領よく生きようと思ったら、
(組織)に属したほうが、ぜったいに、得!
そういうしくみが、できあがっている。
組織の中で、地位や肩書きを得ていく。
階段を上りつめていく。
「金(=マネー)」は、向こうからやってくる。

●フリーター

 フリーターというのは、「不利〜ター」のこと。
この日本では、自由に生きることさえできない。
できなくはないが、生きていくのは、むずかしい。
私も今のようにして生きるようになって、すでに
40年になる。
その間、受けた補助金は、ゼロ!
まったくの、ゼロ!
ワイフが子どもを出産したとき、そのつど10万円
前後の、「祝い金」を、市からもらったことはある。
あっても、その程度。

 つまり税金など、一方的に支払うだけ。
少なくとも、私には、そうだった。
だからこの日本では、どんな職種であるにせよ、
組織のしっかりした職種を選んだほうが、得!
いちばんよいのは、公務員。
2〜3年くらいなら、病気で休んだからといって、クビに
なることはない。
私の知人の中には、10年近く、ほとんど出勤
していないが、給料だけは、ちゃんともらっている
人がいる。

●個人と野生臭

 もちろんデメリットもある。
つまり日本人から、野生臭が消えた。
公務員も、会社員も、みな、飼い慣らされた家畜のよう。
まじめで、おとなしく、そして静か。
またそうでないと、組織の中では生きていかれない。

 しかし「人間」という立場で考えるなら、
それでよいのか。
それが本来あるべき、人間の姿なのだろうか。
もっと言えば、社会の歯車のひとつになって、
その中で、カタカタと回っているだけ。
回っている当人には、それはわからないかもしれない。
外の世界、つまり私のような人間から見ると、
それがよくわかる。

 ただ誤解していけないのは、だからといって、
私の生き方が正しいとか、そういうことを書いて
いるのではない。

 大切なのは、心の持ち方。
(個人)をしっかりともって(組織)にいるのと、
そうでないのとでは、生き方も大きく違ってくる。

●組織

 だからといって、(組織)を否定しているのではない。
(組織)は必要である。
その頂点に、(国)という概念がある。
(私は無政府主義者ではないぞ!)

 が、この日本では、(組織)を保護しすぎている。
それと並行して、(個人)のもつ(自由)が、
あまりにも犠牲になりすぎている。

 もっと(個人)を認め、(個人)を育てるような
施策があってもよいのではないか。
言うまでもなく(個人)があって、(自由)が生まれる。
それだけではない。
社会の活力も、その(個人)から生まれる。
それぞれの(個人)がもつ活力が集合されて、生まれる。

 よい例が、「祭り」。
この浜松にも、「民衆の祭り」と、「官製の祭り」がある。
民衆の祭りというのは、「凧祭り」(5月3、4、5日)をいう。
官製の祭りというのは、駅前の中心部の振興策の
ひとつとしてなされる祭りである。
いくつかある。
が、どれも年を追うごとに、色あせていく。

●代用

 私たちは組織の1員である前に、個人である。
個人として生きるために、収入を得る。
そのために仕事をする。
組織に属するかどうかは、そのあとの問題。
組織は、あとからついてくる。

 が、この日本では、まず組織あり。
組織に属さなければ、何もできない。
私はそれがおかしいと言っている。
たとえば、退職者を考えてみよう。

私の同級生たちは、定年退職を迎え、ほとんどが
退職した。
が、(組織)、それも巨大な(組織)の中で
仕事をしてきた人ほど、退職後、何も残っていない。
地位や肩書きはあった。
しかし「私は、これをしてきました」というときの、
(これ)がない。
ないばかりか、その人が退職したあとも、(組織)は、
以前のまま。
その人がいなくても、そのまま動いている。
あたかも何ごともなかったかのように動いている。

わかりやすく言えば、(組織)の中では、(あなたという
個人)には、価値はない。
代用となる人は、いくらでもいる。
が、それで本当によいのだろうか。
それでもって、「これが私の人生」と、ほんとうに胸を
張って言えるのだろうか。

●生き様

 いくら(組織)の中の人間になっても、「私」という
(個人)を忘れてはいけない。
(個人)を前提として生きるか、(組織)を前提として
生きるか。
仮に(組織)を前提にして生きるにしても、(個人)を
忘れてはいけない。
「私」は「私」なのだ。
もっと言えば、丸裸にしたとき、そこに残っているものが、
「私」なのだ。

 つまりどんなに小さくてもよい。
いつか老後を迎え、自分の過去を振り返ったとき、
「私はこういう生き方をしてきました」というものが、
あればそれでよい。
「生き様」が残っていればよい。

 それが私がここでいう「個人」ということになる。

+++++++++++++++++

ここまで書いて、映画『生きる』を
思い出した。
「自己の統合性」について書いた
原稿である。

+++++++++++++++++

●自己の統合性(The integration of ourselves)
When we get old, we should integrate ourselves to what we should do.

+++++++++++++++

どうすれば、(自分のすべきこと)と、
(していること)を一致させることが
できるか。

それが統合性の問題ということになる。

が、それを一言で言い表した人がいた。

マルチン・ルーサー・キングである。

+++++++++++++++

 マルチン・ルーサー・キング・Jrは、こう述べた。

If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin 
Luther King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないということ。(マ
ーティン・ルーサー・キング・Jr)

わかりぬくい言い回しだが、キング博士はこう言っている。

「私は何をすべきか、それをつかむのに失敗した人は、生きている価値はない」と。

 そこで自問してみる。私には今、命がけでしなければならないようなことがあるか、と。
併せて、私は今、命がけでしていることがあるか、と。

 老後の問題とは、まさに、その(命がけ)の問題と言いかえてもよい。のんべんだらり
と、毎日、釣りばかりをしている人生など、とんでもない人生で、そういった人生からは、
何も生まれない。残らない。ハイデッガーの言葉を借りるなら、そういう人は、「ただの人」。
ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、そう言った。「DAS MANN(ただの人)」と。(わ
かったか、『釣りバカ日誌』の浜ちゃん!)

 しかし老後の統合性というのは、実は、たいへんな問題と考えてよい。何度も書くが、
一朝一夕に確立できるような代物(しろもの)ではない。それこそ10年単位、20年単
位の熟成期間が必要である。その熟成期間を経て、始めて、そこに根をおろす。芽を出す。
花を咲かせるかどうかは、これまた別問題。

 命がけでしても、花を咲かせないまま終える人となると、ゴマンといる。いや、たいは
んが、そうではないか?

 「私はただの凡人」と居直る前に、みなさんも、ぜひ、自分に一度、問うてみてほしい。
「私には、命がけでしなければならない仕事があるか」と。

 ここまで書いて、昔見た映画、『生きる』を思い出した。第7回毎日映画コンクール(日
本映画大賞)受賞した作品である。毎日映画コンクールのblogより、内容を抜粋して、
そのままここに紹介させてもらう。

「……市役所の市民課長である渡邊勘治(志村喬)は30年間、無欠勤だったが、その日、
初めて欠勤した。病院で胃ガンと診察され、あと4か月の命だと宣告されたからである。
勘治は親を思わない息子・光男(金子信雄)夫婦にも絶望し、預金を下ろして街に出る。

 勘治は屋台の飲み屋で知り合った小説家(伊藤雄之助)と意気投合、小説家は、勘治に
最期の快楽を味わってもらおうとパチンコ屋、キャバレー、ストリップと渡り歩く。だが、
勘治の心は満たされない。朝帰りした勘治は、市民課の女事務員小田切とよ(小田切みき)
と出会う。彼女は退職届を出すところだった。

 「あんな退屈なところでは死んでしまう」との、とよの言葉に、勘治は事なかれ主義の
自分の仕事を反省。目の色を変えて仕事を再開する。その勘治の目に止まったのが、下町
の悪疫の原因となっていた陳述書だった……」と。

 この映画は、黒澤明監督の傑作として、1953年、ベルリン映画祭で、銀熊賞を受賞
している。

そのあと渡邊勘治は、残された人生を、町の人のためと、小さな公園作りに、生きがいを
求める。最後に、公園のブランコに乗りながら、「生きることの意味を悟って死んでいく」
(「きれい塾hp」)と。

 今でもあの歌、「ゴンドラの歌」が、私の耳に、しみじみと残っている。

+++++++++++

●ゴンドラの歌(吉井勇作詞、中山晋平作曲)

1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを


2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには誰れも 来ぬものを


3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

++++++++++++

●自己否定

 (個人)として生きることの難しさは、映画『生きる』を
みてもわかる。
まさに命がけ。
命をかけなければ、できない。
だから……というわけでもないが、ほとんどの人は、
(若い人は)、就職といえば、(組織)を考える。

 資格をとって、それなりに形を整える。
あとは就職試験。
それが悪いというのではない。
ただ私は、つぎの3つのことに、注意してほしいと思う。

(1)「私」という個人を忘れてはいけない。
(2)(組織)の中に、「私」を埋没させてはいけない。
(3)(組織)の中にいても、(個人)で生きる人を否定してはいけない。

 とくに(3)は、私のために書いた。
(組織)の中にいる人たちは、容赦なく、私を攻撃する。
攻撃するというよりは、価値そのものを否定する。

たとえばこうした同じ原稿でも、「〜〜大学教授」という肩書きが
あれば、「ハハア」と言って頭をさげて、読む。
「はやし浩司」の原稿だと、読む前に、無視する。
(無視されてもしかたない内容だが……。)

 しかしある女性(C新聞社の記者)は、かつてこう言った。

「はやしさん(=私)の言っていることはよくわかります。
しかしね、はやしさん。
私たちは、あなたのような人に、成功してもらっては
困るのです。
あなたのような人が成功するとね、『では、私たちの
人生は何だったのか?』という、自己否定の世界に
陥ってしまうからです」と。

 ここでその女性がいう「私たちの人生」というのは、
会社人間として、歯車のひとつとして働いている
人たちの人生をいう。

 が、それでもあえて言う。
この日本は、あまりにも(組織)優先型社会になりすぎている!
(個人)が犠牲になりすぎている!

 そのひとつの象徴が、あの「浜松医師会ビル」という
ことになる。
私はあのビルを見ながら、改めて、(組織)のもつ力の
ものすごさに驚いている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 組織vs個人 映画『生きる』 老後の統合性 個人として生きる
はやし浩司 ゴンドラの歌 個人で生きる難しさ フリーター 不利ダー)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●The Howie Brothers(ホウイ・ブラザーズ)


++++++++++++++++


When I started living in the International House,
Melbourne Univ., Australia, I asked some of my
friends to teach me how to sing "Waltzing Matilda",
a second ntional anthem of Australia.
My friends introduced me two twin brothers, 
John and Graeme Howie.
They taught me in the music room which is inn the
basement of the house.
I then can sing the song even now as they sing in
Australia.
They are now country bush singers in Austrakia.
John's webiste is:


http://www.musictours.com.au/john_howie_bio.html


Here is his website in which John writes like this:


メルボルン大学で学生になったとき、最初に
覚えたかった歌が、「ウォルチング・マチルダ」。
オーストラリアの第2国歌とも呼ばれていた。


その歌を教えてほしいと何人かの友だちに頼むと、
友だちは、2人の双子の兄弟を紹介してくれた。
それがジョンとグレアムの2人の兄弟だった。
2人は、何時間もかけて、その歌の歌い方を
教えてくれた。


彼らは現在、オーストラリアでも、代表的な
カントリー・ミュージシャンとして活躍
している。
世界中をツアーを組んで、歌を歌って
いる。
ウェブサイトによれば、アルバムも20枚を
超えたという。


【ジョンとグレアムのサイトより】


John Howie is an Australian musician who lives in Melbourne. He and his identical 
twin brother, Graeme, perform together as The Howie Brothers, a well-known 
country/easy listening vocal harmony recording act. 
ジョンと双子の兄弟のグレアムは、「The Howie Brothers」という名前でよく知られた、音
楽家である。


John and Graeme were previously members of country band 1901 which, in the early 
'80s, won three Golden Guitars (including two Group of the Year awards) at the 
Australasian Country Music Awards in Tamworth.
2人の兄弟は、数々のゴールデン・ギター賞を受賞している。


 The Howie Brothers has released approximately 20 albums. John plays various 
instruments, including piano, drums, accordion, guitar, & ukulele. He is also a keen 
songwriter, and sometimes writes songs inspired by his Music Tours (e.g., Out in the 
Outback, I'd Never Been to Birdsville, and We're Travellin' Around New Zealand).
ホウイ・ブラザーズは、20枚近いアルバムを出している。
ジョンは、いくつかの楽器を演奏することができる。


John has a music degree from the University of Melbourne, where he studied classical 
music and music education. He taught music in secondary schools for over 20 years, 
including Camberwell High School (Melbourne), where he taught Kylie Minogue.
ジョンは、メルボルン大学で、音楽の学位を得ている。
彼はシンガーとして活躍するようになる前、20年間、高校の教師をしていた。


+++++++++++++++++++++++


 
(左右が、The Howie Brothers、1970年、IHカレッジにて)
<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/39/img685a87eazikczj.
jpeg" 
width="600" height="480" alt="The Howie Brothers Australia">


●古い写真


 一枚の写真がある。
ホウイ兄弟が、ハウス(メルボルン大学・カレッジ)の大食堂の中で、歌を歌っている写
真である。
左右がホウイ兄弟。
(どちらがJohnで、どちらがGraemeか、わからない。)
中央が、現在、作家兼ジャーナリストとして活躍している、アラン・オースティンである。


食堂は、シニアの学生や教授たちが座る、ハイテーブルと、ジュニア(在校生)が座る、
ローテーブルに分かれていた。
そのハイテーブルに立って、たしか第九の合唱曲を歌ったと思う。
その日は、ルードリッヒ・フォン・ベートベンの誕生日だった。
壁に、ベートーベンの絵が飾られている。


 ちょうど昼食時で、みな、手を休めて、彼らの合唱曲に聴き入った。


 ……それから40年。
今でも私は、あのときホウイ兄弟が教えてくれたように、「ウォルチング・マチルダ」を、
Aussie、つまりオーストラリアのカントリー英語なまりで、歌うことができる。
日本風に言えば、「正調」ということになる。
その写真を見ながら、40年の年月を感ずる。
同時に、それぞれに生きてきたことの重みを感ずる。


 
(現在の、Jhon Howie、2010年、彼のWebsiteより)
<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/40/imgd6ec31e1zik7zj.
jpeg" 
width="660" height="250" alt="The Howie Brothers in 2010, Great Singers in 
Australia">


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 John Howie Australian musician Graeme Howie The Howie 
Brothers, a well-known country singers in Australia) 


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●40年


 当時のIHカレッジには、200人の学生がいた。
約半数は、外国からの留学生。
残りの半数は、オーストラリア人という構成だった。
外国からの留学生は、私1人をのぞいて、各国の皇太子や王子ばかりだった。
その国の大臣の息子もいたし、中にはマフィアの親分の息子もいた。
当時のIHカレッジは、男子専用のカレッジだった。


 私は同じ留学生だったが、そのうち桁外れの(ちがい)を感じ、留学生グループから離
れ、オーストラリア人グループとつきあうようになった。
ジョンとグレアム兄弟も、その中にいた。
今でも古い写真を見ると、スーッとあの時代に、自分が戻っていくのがわかる。
が、同時に、それは過ぎ去りし過去。
ホウイ兄弟にしても、当時は、写真のとおりビートルズのように細く、スマートだった。
が、今は、すっかりオーストラリア人ぽくなった。
しかしどちらが本当のホウイ兄弟なのかというと、私にはよくわからない。
(現在)という、過去から見れば、ありえない空間。
(過去)という、現在から見れば、しっかりと心に残っている空間。
その2つの間を、私の魂は、ゆらゆらと、行ったり来たりする。


 留学生組の活躍ぶりは、ときどきテレビなどにも紹介される。
今はその国の国王になった人も多い。
が、どういうわけか、そういう友人たちよりも、ここにあげたホウイ兄弟のように活躍し
ている友人のほうが、親しみを覚える。
あの時代を起点として、いっしょに歩いてきたという親しみである。
もっとも私は、この40年間、彼らと交信したことはない。
が、これだけは、言える。


 「彼らも、私のことを、しっかりと覚えていてくれるはず」と。
昨夜、ホウイ兄弟のサイトから、メールを送った。
ワイフは、「あなたのことを覚えているかしら?」と、どこか心配そうだった。
が、心配は無用。
「100%、覚えているよ。返事もくれるよ」と。


 私たちは、1年間、寝食を共にした。
その(重み)は、だれにも消せない。
あの時代の(重み)は、だれにも消せない。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●映画『NINE』

++++++++++++++++

昨夜遅く、映画『NINE』を劇場で
観てきた。
ほかに観たい映画がなかった。
しかたないので、『NINE』にした。
(失礼!)
もう少し若いころなら、「おとなっぽい映画
だな」と思ったかもしれない。
しかし今は、ちがう。
映画の観方が変わった。
いうなれば、「ドーパミン映画」。
そんな映画だった。

快楽追求行動を調整している神経伝達物質※がある。
それがドーパミン。
視床下部からの指令を受けて、その
ホルモンが分泌される。
そのドーパミン漬けのような映画。
タバコと酒、それに踊りと音楽。
どこか薄汚く、どこか退廃的。
「おとなの映画というのは、こういうもの」
という、監督の意図、見え見え。
それで星は2つの、★★。

若い人なら、監督の隠された意図を
見抜けないかもしれない。
「これぞ、おとなの映画」と賞賛する
かもしれない。
が、私にはできない。
それには、もうひとつ理由がある。

私は50歳を少し過ぎたころ、「男の
更年期?」なるものを経験した。
そのときのこと。
私は性欲からの解放を味わった。
それは実に軽快な気分だった。
と、同時に、それまでの私が、いかに
「性的エネルギー」(フロイト)の奴隷で
あったかを知った。

もろもろの人間の活動は、どこかでその
性的エネルギーの指令を受けている。
男は女を意識し、女は男を意識する。
つまりそういう意識から解放された。

幸か不幸か(?)、そのあとしばらくして、
再び私の中に「男」が戻ってきた。
女性が再び、「女」に見えてきた。
が、それでも、元に戻ったわけではない。
60歳を過ぎた今は、「男」も、ぐんと
薄くなってきた。
それが自分でもよくわかる。

そういう現在の「私」から見ると、ドーパミン
というホルモンが、どういうものか、よくわかる。
それに操られた人間が、どういうものか、
よくわかる。

映画『NINE』は、そういう映画だった。
中身があるようで、まったく、ない。
ウソとインチキとゴマカシ。
人生を知り尽くしたようなセリフ。
「これが人生」と言わんばかりの高飛車なセリフ。
それをあえて、けばけばしい音楽と踊りで飾る。
私はああいう世界が、あるべき(おとなの世界)とは
思わない。
あるべき(おとなの世界)というのは、
どこかに童心を残した、純粋な世界をいう。
またそういう世界を恥じることはない。
パブロ・ピカソの絵画を例にあげるまでもない。

あのピカソも若いころは、精一杯、背伸びした
ような絵を描いていた。
が、晩年のピカソは、幼児の描くような絵に
戻っている。
残念ながら、ピカソの絵画が幼児の描く絵より
すぐれていると言っているのではない。
ピカソの絵画よりすぐれた絵を描く子どもは、
いくらでもいる。
が、そういう子どもでも、やがて俗化し、
薄汚いおとなの世界に、紛れ込んでいく。
子どものころの純粋さを見失っていく。
その結果が、映画『NINE』ということになる。

二度目は、ぜったいに見たくない映画。
いくら「賞」で飾っても、一度でこりごり。
途中で眠くなったほど。

(注※)
ドーパミン……快楽追求行動を調整している神経伝達物質
条件づけ反応……報酬と喜びに関連する脳の刺激に対する反応。これによって
       条件づけ反応が生じ、その環境に身を置いただけで、反応が起こる
       ようになる(以上、日経「サイエンス」07−12、p54) 


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●船頭は1人(三角関係)

子どもを指導するときの鉄則のひとつが、これ。
『船頭は、1人』。

たとえば子どもを相手にして、父親と母親が
意見の対立を見せるのは、たいへんまずい。
発達心理学の世界にも、「三角関係」という
言葉がある。
これは(父親)、(母親)、(子ども)を
頂点として、三角の関係ができることをいう。

一度、この三角関係ができると、子ども自身が
混乱する。
そのため、子どもはどちらの指示に従ってよいか、
わからなくなる。
そればかりか、その時点で、家庭教育は崩壊する。

子どもが小さいうちはまだしも、やがて大きくなると、
父親の指示にも、また母親の指示にも、従わなくなる。
まずいのは、悪口、批判。
子どもの前では、あなたが母親なら、父親の批判は
してはいけない。
あなたが父親なら、母親の批判はしてはいけない。

ともかくも、家庭教育の場においては、『船頭は、1人』と
決めておく。
たとえば父親と母親が、教育的な問題で対立
したようなときは、子どものいないところで
先に調整しておく。
「あなたはこう言ったけど、私はこう思う」と。

そして子どもの前では、「お父さんの意見に
従いなさい」と指示する。
(反対に、父親であれば、「お母さんの指示に
従いなさい」と指示する。)

が、それだけではない。

父親と母親が対立すると、そこに「二重拘束」
(宮崎圭子氏)が生まれる。
二重拘束(ダブル・バインド)が生まれると、
子どもは、どちらの指示に従ってよいか、
わからなくなる。

父親は、「親は絶対」と子どもに迫る。
母親は、「親子は平等」と、子どもに教える、など。
子どもは父親の前では、親の権威に同調する。
しかし母親の前では、親の権威を否定する。

そのため「子どもは、ものごとを論理的に判断する
能力を麻痺させてしまう」(宮崎圭子)。

わかりやすく言えば、自分で考えることができなく
なってしまう。
そのため、優柔不断になったり、相手に対して
いつもシッポを振るような行動に出たりするようになる。

私も、「塾」という立場で、子どもたちと接している。
そのため学校の教師の教え方と、私の教え方が
異なる場面に、ときどき出会う。
そういうときは、すかさずこう言うようにしている。

「学校の先生に合わせなさい」と。

教育面においても、船頭は1人。
これは家庭教育のみならず、子どもを指導する
ときの鉄則のひとつということになる。

●付記

 私は子どものころ、優柔不断なところがあった。
Aのグループへ入れば、Aのグループに合わせて、自分の意見を作った。
Bのグループへ入れば、Bのグループに合わせて、自分の意見を作った。
また相手から何かを申し込まれると、「いや」と言うことができなかった。
相手の機嫌を損ねるのを、何よりも恐れていた。

 原因のひとつとして、私の父と母が、いつも対立状態にあったことが考えられる。
実際には、母はわがままな人で、父の意見には耳を傾けなかった。
そういう家庭環境の中で、私は「私」を定めることができなかった。
もう少し掘り下げて言えば、私は自分の考えていることに、自信がもてなかった。
その結果として、だれにでもシッポを振るような、優柔不断な人間になった(?)。

 もしあなたが今、優柔不断で、ものごとを論理的に考えることができないというのであ
れば、あなた自身が生まれ育った家庭環境を、一度、思い起こしてみるとよい。
まず「環境」を知る。
そのあと「私」の姿が、少しずつ、浮かびあがってくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 三角関係 ダブルバインド ダブル・バインド 二重拘束)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●感情転移

+++++++++++++++++

その相手に、別の人に抱いている
感情を転移する。
そしてその相手を嫌ったり、反対に、
慕ったりする。
これを「感情転移」という。

+++++++++++++++++

●揺り戻し現象

教師と生徒。
ときどき私は教師にとって、「知識ある先輩」なのか、
それとも「親代わり」なのか、わからなくなるときがある。
生徒のほうが、私に(感情転移)をしてくる。

こうした現象が顕著に現われてくるのが、小学3〜4年生。
思春期前夜の反抗期にさしかかるときである。
この時期子どもは、(幼児)と(おとな)の間を
行ったり来たりしながら、少しずつ、幼児性を自分の中から
削り落としていく。
私はこれを「揺り戻し現象」と呼んでいる。
「振り子現象」でもよい。

●D君

そのころ、子どもの中には、ちょうど父親に対するのと
同じような反抗的態度を示す子どもがいる。
さらに自分自身の父親に対する不満や不平を、私に
ぶつけてくる子どももいる。
5、6年前に、D君(当時小4)という子どもがいた。
そのときD君の両親は、別居状態にあった。
母親はこの浜松市に残り、祖父母と同居していた。
父親は、「行方不明」ということだった。

そのD君は、あからさまに私を嫌い、ときに暴力的な
態度で臨んできた。
私と、自分自身の父親とを、明らかに同一視していた。
それがよくわかったから、私は、D君が殴りかかって
きても、(たいした暴力ではなかったこともあるが)、
だまってそれを受け止めていた。

●奇妙な現象

そのD君だが、ある日、奇妙な現象が起きた。
レッスンが終わって、さあ帰るという時間になったとき
のこと。
あたかも私の寛容度を試すかのように、教室の備品を
壊し始めたのである。
鋭い目つきをしていた。
が、これは黙って見過ごすわけにはいかない。
私はD君をうしろから、抱きかかえた。
前から抱きかかえると、足蹴りをされる。
いくら小学4年生でも、前から足蹴りをされたら、たまらない。

D君は、それでも何とか私を足蹴りにしようともがいた。
しばらく格闘がつづいた。
が、こういうケースのばあい、ある時点で、きっちりと、
けじめを見せる必要がある。
教師というよりは、人間としてのけじめといってもよい。

しばらくはげしい足蹴りがつづいたのを見計らって、
今度は、私が反撃に出た。
うしろからD君を抱きかかえながら、私はD君の足を、
バシッ、バシッと、思いっきり蹴った。
本人も痛かったと思う。
私も痛かった。
が、D君は、私がまさかそういう行動に出るとは思って
いなかったらしい。
とたん、ウェーンと、子どもらしい泣き声をあげた。
見ると顔中を涙で濡らしながら、「痛いじゃないかア」と。

D君は私の腕の中で暴れるのをやめた。
おとなしくなった。
先に書いた「奇妙な現象」というのは、そのあと起きた。
私はそのままD君が、私の教室を去っていくものと
ばかり思っていた。
が、D君は、それまで見せたことのない、親愛の目で
私を見るようになった。

●陰性転移から陽性転移へ

それ以後、みなより早く教室へやってきては、学校での
できごとや、友だちとのやりとりを話してくれるようになった。
テストの話や、点数の話もしてくれるようになった。
「今度は(点数が)悪かったけど、つぎではがんばるから」とも。

それが望ましいことなのかどうかは、いまだによくわからない。
が、D君は、私に感情転移し、私を自分の父親と見立てていた。
それが私にもよくわかった。
この状態は、D君が教室を去る、小学6年の終わりまでつづいた。

あとで母親から聞いた話では、D君は、どんなときでも、
私の教室だけは休みたがらなかったという。
また学校では乱暴者と嫌われていたこともあり、私の教室だけが、
自分の居場所と考えていた、とも。

心理学的に説明すれば、最初D君は、私に対して、「陰性転移」
を繰り返していた。
憎悪、嫌悪、軽蔑、忌避、嫉妬、恨み、否定など。
自分自身の父親に対する感情を、そのまま私にぶつけていた。
が、足蹴り事件を境に、それが「陽性転移」へと変化した。
親愛、情愛、尊敬、親近、信頼、感謝、敬愛など。

わかりやすく言えば、それまでは私を「父親」と見立て、
自分や家族を棄てた父親を嫌っていた。
が、足蹴り事件のあとは、逆に、私を父親と見立て、
親愛の情をもつようになった。

似たような経験はいくつかしているが、……というより、
日常茶飯事的に起こるが、D君のケースのような顕著な
例は少ない。

これも教師と生徒ととの、ひとつの関係ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 教師と生徒 感情転移 陽性転移 陰性転移 足蹴り事件)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ブッシュ・ソング(Bush Songs in Australia)


++++++++++++++++++


南オーストラリア州からビクトリア州に
かけて、大きく蛇行しながら流れる川がある。
マレー川である。


私がはじめてマレー川を見たのは、ある村に
立ち寄ったときのこと。
バロッサ・バリーという名前の村だった。
昔からワインの産地として、よく知られている。
そのバロッサ・バリーの丘の上に展望台があって、
眼下にマレー川がよく見えた。


よく晴れた寒い朝だったが、川の色は、大地と
同じ、赤茶けた色をしていた。
「何だ、こんな川か」と思った。
うわさには聞いていたが、そこからは、私には
ただの細い川にしか見えなかった。
が、そのあたりを起点に、川下りの船が運航して
いるという。
その話は、ずっとあとになってから聞いた。


船といってもホテルのような船で、1週間から
10日間ほどをかけて、川をくだる。
実にオーストラリア的な、ゆったりとした旅である。


で、そのあとも、何度かマレー川を見たことがある。
ときどきそれらしい船を見かけたこともある。
そのこともあって、私はいつしか、こう思うように
なった。
「いつか、その船に乗って、旅をしてみよう」と。
そう心に決めた。
で、そのことを、友人のB君に話した。
……と思う。


今でもそのことをB君は覚えていて、「ヒロシ、
いっしょに夢を実現しよう」と、メールをくれる。
「そのためには、最低でも3か月の休暇が必要」と。


しかし今の私には、3か月の休暇など、夢のまた夢。
(現実)に、体をがんじがらめに縛られている。
そのB君から、今朝も、メールが届いていた。


++++++++++++++++++++++


【Bより、ヒロシへ】


Hi Hiroshi,


The equinox has come & gone. The weather is glorious.
The drought affected outback areas in Queensland & New South Wales are 
having lots of rain & floods.
That means at least 2 good years for farming.
There is lots of water coming down the Darling river, which is expected 
to flow strongly into the Murray river in June.
Maybe the South Australian section of the Murray will get some water at 
last, in July/ August


So everybody in the bush is feeling much happier.


春分も終わり、すばらしい季節だ。
クィーンズランドやNSWのアウトバック(荒野)の影響を受けた干ばつ地帯も、
今は、雨と洪水。
この先2年間は、農業にはよい影響をもたらすだろう。
ダーウィン川をたくさんの水が流れ、6月には、マレー川にも強い水流が戻って
くるだろう。
南オーストラリアのマレー川側にも、7月から8月にかけて、いくらかの水が
やってくるはず。
こちらでは、みな、それを喜んでいる。


+++++++++++++++++++++


あのオーストラリア大陸を、「水」が流れている。
(クィーンズランド州の北部の大洪水)→(ダーウィン川)→(マレー川)と。
日本の20倍以上もある国土を、水が、何か月もかけて、ゆっくりと流れている。
想像するだけでも、気が遠くなる。


さっそくYOUTUBEで、オーストラリアのブッシュ・ソングをさがして聞く。
(はやし浩司のHPの「音楽と私」にも収録。)


あの大波がうねるようにつづく、オーストラリアの大地が、まぶたに浮かぶ。
行けども、行けども、農地、また農地。
私の心の原点は、いつもそこにある。
1日だって、あのころの私を忘れたことはない。


しばらくブッシュ・ソングを聞く。
それが私の青春時代。


【オーストラリアのFOLK SONGs】
(注:オーストラリアでは、フォークソングのことを「ブッシュ・ソング」といいます。)


"Pub with no beer"
http://www.youtube.com/watch?v=hxpxU6H2WYA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=GJW19nlzb3Q


"Australian Bush Songs "
http://www.youtube.com/watch?v=0eXQHi_BGf8


"Botany Bay"
http://www.youtube.com/watch?v=cmpW3rHLewQ


"Waltzing Matilda"
http://www.youtube.com/watch?v=CwvazMc5EfE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=iY4RhyD1ReY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=RqRCwG1pp1I&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=c1VLUgTvqc4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=CwvazMc5EfE&feature=related


"Australia Home"
http://www.youtube.com/watch?v=hbGuqmaDgLA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=pS7oJNozQZM&feature=related


"I am Australian"
http://www.youtube.com/watch?v=jD3SkTyXzcE&feature=related


"Journey to Australia"
http://www.youtube.com/watch?v=-eD4Zi1ENiU&feature=related


"Australian Bush Fire Song"
http://www.youtube.com/watch?v=_UvcJUFnN9Y&feature=PlayList&p=4ED8E6483C4
82FF3&playnext=1&playnext_from=PL&index=9


"Whiskey in the Jar"
http://www.youtube.com/watch?v=46EXY4oP1Do&feature=related


"Bound for South Australia"
http://www.youtube.com/watch?v=84kMnkUqimM&feature=related


"It's my Home"
http://www.youtube.com/watch?v=fX1vfJny1rk&feature=related


"Sprit of Australia"
http://www.youtube.com/watch?v=W9Bhv2Jo4jI&feature=related


●オーストラリア・ブッシュ・ソング集
http://folkstream.com/songs.html
(Midiでメロディを聞くことができます。)


●マレー川(船の旅)
http://www.youtube.com/watch?v=2Tz7F6yDJv0&feature=related


【ヒロシからBへ】

やあ、ボブ、
君が何と思うとも、またどう思おうとも、
ぼくは本物のオーストラリア人より、オーストラリアが好きだ。
これは本当だ。
オーストラリアは、ぼくにとっては、ずっと灯台だった。
ぼくが人生を歩くとき、いつもぼくの足下を照らしつづけてくれた。
オーストラリアが懐かしい。
カレッジ時代のぼくが、懐かしい。


ときどき、しかしいつも、ぼくはすべての仕事をやめ、お金をすべてもって
オーストラリアへ渡ることを考える。
しかしぼくには、その勇気がない。


オーストラリアの大きな話をしてくれてありがとう。


ヒロシ


Hi  Bob


Whatever and however you may think,
I love Australia more than the real Australians do.
This is true.
Australia has been my light house which has shone my feet when I walk my life in the 
past.
And I have always miss Australia and the life there at IH.


Sometimes often I try to abandon all my jobs and go to Australia with whole money 
with
me.
But I am coward every time and then I come back to the routine.


Thank you for telling me about a big story about Australia.


Hiroshi  


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

【幼児教室・数のまとめ(年少・年中児クラス)byはやし浩司(BW子どもクラブ)

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタ
イトル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img 
src="http://farm5.static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" 
height="250" alt="●BLOGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

【1】

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【2】

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【3】

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【4】

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【5】

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Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司


●K国・人権事情

+++++++++++++++++++++++

脱北者たちが語る、K国の恐るべき内情。
あまりにもおぞましく、あまりにも悲惨。
朝鮮N報(2010年3月23日)は、
つぎのように伝える。
(一部を抜粋。)

++++++++++以下、朝鮮N報より++++++++++++

 ……キムさんは、監獄に到着した初日から、ブタも食べないような水っぽい大根葉の粥
を与えられ、1日12時間の労役を強いられた。キムさんは「体重が50キロから30キ
ロに落ちて、これ以上は動けないという限界まで至ったとき、幸いにも大赦令を受けて釈
放された」と語った。

 数百人の脱北女性のうち70%が栄養失調になり、毎日2〜3人ずつ死んでいったが、
遺体を納める棺はなく、ビニールで包み、共同埋葬地に埋めたという。04年に甑山へ連
行されたある脱北女性は、そのときのショックで今も苦しんでいる。

 その女性は、「埋葬地に到着すると、犬が集まり遺体を掘り返して食べている姿に驚愕し
た」と語った。人の手足があちこちに散らばっていたほか、人骨が積み上げられた光景に、
一度埋葬地に行った囚人は、精神異常の症状を呈するという。

 人民保安省出身の脱北者は、「甑山が全国的にうわさになったのは、囚人に課される短期
的な過度の労働と栄養欠乏によって、政治犯収容所より死亡者が急増したからだ」と主張
した。

 政治犯収容所より軽い刑を受けて甑山に連行されるのなら、むしろ耀徳に3年間収容さ
れる方がましだ−と言われるほどに、人々は甑山教化所を恐れているという。甑山教化所
は10課に分かれており、一つの課は7から10の班で構成されている。

 1班は通常40〜50人程度で、囚人の中から丈夫そうな者を選んで班長に選出し、班
長が保安員の指揮を受けて囚人を管理、監督している。

 逃走者や監獄内で罪を犯した者に対しては、政治犯収容所とは異なり公開処刑は行わず、
内部で処刑、あるいは監獄内の別の拘禁施設で特別な拷問を加え、死に至るまで加重な苦
痛を与えるという方法で処罰するのが特徴だ。
(以上、「朝鮮N報・2010年3月23日」より)

++++++++++以上、朝鮮N報より++++++++++++

 末尾にある「内部で処刑、あるいは監獄内の別の拘禁施設で特別な拷問を加え、死に至
るまで加重な苦痛を与えるという方法で処罰するのが特徴」。

 何が「教化所」だ。
日本から拉致された人たちが、最初に監禁された場所も、「招待所」だった。
何が「招待所」だ。

 こんな折も折、アメリカのジミー・カーター元大統領が韓国へやってきて、講演を行っ
た※。
「K国のほしがるものは、何でも与えたらよい。……私が金日成に会ったとき、K国との
最高の絆(きずな)ができた。話し合いで失うものは、何もない」(要旨)と。
ジミー・カーターは、10年1律のごとく、同じことをしか言わない。
K国の現実が、まるでわかっていない。

●現実離れ

 もう一つ、記事を紹介する。
これは中国ニュース通信社が、3月22日に配信したもの。
中国人のK国ツアーに対する注意書きである。

+++++++++++以下、中国ニュース通信社+++++++++++++

2008年9月17日、「中国新聞周刊」は、来春解禁予定の中国からの北朝鮮ツアーにつ
いて、ツアー客が守らなければならない数々の禁止事項を紹介。 

今年9月、国家旅遊局は中国政府が朝鮮民主主義人民共和国を中国人団体の観光旅行目

地に指定したと発表。09年は中朝国交成立60周年にあたり「中朝友好年」とされた。
これを機に両国の観光事業を発展させる計画が進められている。

国内旅行業界の関係者は、北朝鮮ツアーに関する詳しい取り決めについて話し合いが続い
ている状況下で、両国間で正式な文書はいまだ交わされていないと話す。だが、遼寧省瀋
陽市で北朝鮮国際旅行社が事務所の開設に向けて動き出したとの報道も今月10日にあり、
早ければ来年春にも北朝鮮ツアーは解禁になるとのこと。 

各旅行社では北朝鮮ツアー参加希望者に向けて、北朝鮮におけるさまざまな禁止事項を紹
介している。その例として、北朝鮮入国の際には観光客のデジタルカメラは抜き打ちでチ
ェックされ、保存されている画像の中にわいせつな画像などいかがわしいものがあれば、
その場で削除され罰金が科せられるほか、携帯電話の持ち込みは禁止。軍事施設の撮影も
禁止。韓国や米国の国旗がついた品物の持ち込み禁止などがあげられる。 

最も重要なのは以下に掲げる「3つの軍規」である。 
国家指導者の物まねをしてはならず、座って国家指導者の像を撮影してはならない。国家
指導者や北朝鮮の経済状況などを批判してはならない。必ず北朝鮮が手配した随行員と行
動しなければならない。この3つは絶対に守らなければならないと警告している。

中国ニュース通信社(3−22)

+++++++++++以上、中国ニュース通信社+++++++++++++

 とくに注目してほしいのは、やはり末尾の4か条。

(1)国家指導者の物まねをしてはならない。
(2)座って国家指導者の像を撮影してはならない。
(3)国家指導者や北朝鮮の経済状況などを批判してはならない。
(4)必ず北朝鮮が手配した随行員と行動しなければならない。

 日本人も、三つ葉葵の紋章を見せつけられると、ハハア〜と言って頭をさげる。
(実際には、江戸時代においては、町民は武士と目を合わせることは許されなかった。)
似たようなものだが、しかしK国という国は、そういう国。

 ジミー・カーター元大統領は、「K国がいちばん恐れているのは、アメリカによる先制攻
撃。
が、アメリカにはその意思はない。
それを伝えることが大切」(同)と述べている。

 平和主義者ということはよくわかる。
わかるが、どこかピントがズレている。
金xxが恐れているのは、アメリカではない。
自国民である。
どうしてそんな簡単なことがわからないのか。
もしそうでないというのなら、なぜ金xxが、ごく最近、「脱北者は射殺しろ」という命令
を、出したのかということになる。

つまりアメリカの脅威は、独裁制維持のための口実にすぎない。
そのための最大の権威付けが、核兵器ということになる。
金xxが、核兵器を手放すわけがない。
「本尊」という観念は、アメリカ人には理解できないかもしれない。
アジア人は、「モノ」に魂をこめることによって、信仰する。
核兵器は、その本尊。
「力の象徴」。

●6か国協議

 「K国は(崩壊に向けての)秒読み段階に入った」という文字が並ぶ(韓国各紙)。
中国はそれを恐れている。
表向きは、難民の大量流入。
しかし本音は、利権の喪失。

 そんな中、近々、6か国協議が開かれるという。
韓国政府は、「これ以上時間稼ぎをさせてはいけない」と焦っている。
そのため「一時、拉致問題を棚にあげろ」と日本に迫っている。

 しかし日本にとって最善の道は、K国が内部から自然崩壊すること。
K国の人たちにとっても、それがいちばんよい。
よいことは、冒頭に転載した記事を読めばわかるはず。

 今、K国内部では、人類の歴史上においても、想像を絶するような恐ろしいことが、起
きている!

(補記)

 このところ私のウェブサイトやBLOGに、あやしげな団体がさかんに検索をかけてい
る。
「金xx」という表記が、何度も繰り返し検索されている。
そのため私のワイフは、「あなたも拉致されるんじゃない……」と心配している。
で、もし私がある日突然、いなくなったら、まずそのあたりを疑ってみてほしい。
ひょっとしたら、ワイフともども、この世から消されるかもしれない。

(注※)(ヤフー・ニュースより)

『……ーター氏「韓米が先に北朝鮮に手を差し出すべき」
2010年3月23日(聯合ニュース)

【ソウル23日聯合ニュース】韓国を訪問中のカーター米元大統領は23日、高麗大学で「核
保有の北朝鮮と朝鮮半島の平和」をテーマに講演を行い、韓国と米国は実践が難しくても
北朝鮮との直接的な対話を行う必要があるとの考えを示した。

 カーター元大統領は、北朝鮮側が示す最後の答えを誰も予測することはできないが、直
接的な対話を含む多くの努力を注ぐことは何の害にもならないため、朝鮮半島の緊張を緩
和するためには米国と韓国が先に手を差し伸べ、北朝鮮に対し関係正常化の努力を提案す
べきだと強調した。

 韓米が制限のない対話を先に行ってこそ北朝鮮が反応を示すとし、北朝鮮と疎遠な関係
を維持し続けることはできないだけに、政治的勇気が必要だとの点も力説した。

 カーター元大統領は、北朝鮮が国際原子力機関(IAEA)を脱退した1994年に北朝鮮を
訪れ、故金日成(キム・イルソン)主席と会談し、南北首脳会談開催の約束などを取り付
けた状況を紹介しながら「朝鮮半島との縁は深いが、このとき最も深い縁を結んだ」と振
り返った。

 当時、金主席は朝鮮半島全体が核から自由でなければならないというカーター元大統領
の考えに同意し、金泳三(キム・ヨンサム)元大統領が南北首脳会談を提案したことをう
れしく思い、会談は無条件で即刻実現されなければならないと話していたと伝えた。

 カーター元大統領は、「実際に北朝鮮を訪問してみると、北朝鮮は過去に対する根強い反
感と先制攻撃に対する不安感を感じていた。今の状況では北朝鮮が後退する可能性は低い」
との見通しを示した。

 その上で、「金主席が提案したことを守らなければ、(状況改善は)難しくなる。米国は
北朝鮮に敵対の意志がないことを明示し、北朝鮮は周辺国との関係をうまく維持するため、
核視察を受けてこそ米国との外交正常化が可能だ」と提案した』と。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●心の傷(トラウマ・Trauma)

++++++++++++++++++

よく親から、「心の傷は消えるものでしょうか」
という質問を受ける。

親自身の傷のこともあるし、子どもの傷のことも
ある。
そういうとき私は、率直に、こう答えるように
している。

「顔についた切り傷のようなもので、消えません。
一生、それこそ死ぬまで残ります。
だから消そうと思わないこと。
仲よくつきあうことだけを考えてください」と。

+++++++++++++++++++

●程度と内容

 心の傷といっても、程度の問題がある。
内容の問題もある。
それに年齢的な問題もある。
当然のことながら、程度が大きければ大きいほど、また内容が深ければ深いほど、心の傷
は大きくなる。
また乳幼児期ほど、心の傷は大きくなる。

 原因としては、家庭騒動、育児拒否、冷淡、無視、暴力、虐待、離婚騒動、夫婦げんか
など。
大きな事件が、原因となることもある。

 10年ほど前のことだが、近くの佐鳴湖で、水死体があがった。
女性だったというが、それがどうその小学校の子どもたちに伝わったかは知らない。
しかししばらくの間、その小学校の子どもたちはパニック状態になってしまったという。
佐鳴湖の話をしただけで震えたり、学校へ行けなくなってしまったりした。

 ほかに、地震や災害など。
戦争もそのひとつ。
両親が目の前で殺されるのを見たあと、失語症になってしまった女性の話も聞いたことが
ある。
殺されるのを見たのは、10歳前後のこと。
その女性(20歳くらい)は、固く口を閉ざしたまま、一言もしゃべらなくなってしまっ
たという(NHKテレビの報道番組の中で)。

●症状

 心の傷による症状は、千差万別。
しかもその直後に出ることもあれば、思春期以後、おとなになってから出ることもある。
直接的な因果関係がわからないケースも多い。
ある女性(30歳くらい)は、体の震えに悩まされていた。
毎晩、寝る前になると、それが出た。
原因はよくわからないが、幼児期の離婚騒動が原因ではないかと、何かのBLOGに書い
ていた。

 私にも似たような症状があった。
私のばあいも、長い間、原因はわからなかったが、ある夜のこと。
そのとき私はふとんの中で、ワイフに私の子どものころの話をしていた。
私の父は酒癖が悪く、2、3日に一度の割で、酒を飲んで、家の中で暴れた。
その中でも、父がとくに暴れた夜があった。
私が6歳くらいのときのことだった。

その夜の話をしていたときのこと、同じ症状が私に現れた。
言いようのない不安感に襲われ、体がガタガタと震えだした。
「こわいよう」「こわいよう」と言って、私はワイフに抱きついていった。
それで原因がわかった。

 子どものばあい、症状は、まさに千差万別。
神経症、不安神経症、拒否症、恐怖症、夜尿症、夜驚症などなど。
原因を特定するのは、たいへんむずかしい。
深刻なケースとなると、多重人格性をもつこともある。

 ある女の子(2歳児)は、母親に強く叱られたあと、1人2役の、独り言を言うように
なってしまった(ある母親からの相談より)。
あるいは祖父にはげしく叱られたのが原因で、その直後から、ニヤニヤと意味のわからな
い笑いを繰り返すようになってしまった子ども(5歳男児)もいる。

●仲よくつきあう

 だれしも心の傷のひとつやふたつはもっている。
心の傷のない人はいない。
そういう前提で、この問題は考える。

 「消そう」と考えて、消えるものではない。
過去をうらんだところで、これまたしかたない。
だからあとは、うまくつきあう。

 まずいのは、そういう心の傷があることに気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
心の傷に振り回されること。

ただ重篤なばあいは、心の病気となることもある。
最近の研究によれば、うつ病の「種」も、そのほとんどが、幼児期の不適切な家庭環境の
中で作られるということまでわかってきた(九州大学)。

 そこで大切なことは、まず「私」を知ること。
どういう環境で、どのように育てられたかを知る。
直接的にわからなければ、親類や兄弟の話を聞くのもよい。
あるいは自分の生活習慣やクセから、類推するのもよい。

 私のばあい、小学生のころ、学校からまっすぐ家に帰ったことがなかった。
そういうことから、私は自分が、帰宅拒否児であったことを知った。
そういうふうにして、自分を探っていく。

 心の傷というのは、正体がわかれば、あとは時間が解決してくれる。
10年とか20年とか、時間はかかるが、時間が解決してくれる。
あとはできるだけその問題には触れないようにし、忘れる。
遠ざかる。

●付記

 私たち日本人は、いまだに(子ども)を、(モノ)ととらえる傾向が強い。
未熟で未完成な人間である、と。
そのため子どもの心を安易に考える人が多い。
中には、「子どもの心など、どうにでもなる」、つまり「おとなになってから、いくらでも
作り替えられる」などと、乱暴な考え方をする人もいる。

 しかしこうした考え方は、明らかにまちがっている。
つまりそういう原点から、もう一度、この問題を考えなおしてみる。
結論を言えば、乳幼児期の子育ては、それほどまでに慎重でなければならないということ。
心の傷など、なければないで、ないほうがよいに決まっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 心の傷 トラウマ 子どもの心の傷 子供の心の傷 トラウマ論)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●マターナル・デプリベイション(Maternal Deprivation)(母性愛欠乏)

+++++++++++++++++++

乳幼児期の母子関係の不全。
それが後々、さまざまな症状の遠因となることがある。
とくに母子関係の欠如を、「マターナル・デプリベイション」
という。

子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の
中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が
築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。
また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、
8〜10%いる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の
症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。

その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、自分より弱い者をいじめたり、
自分より弱い立場にある動物を、虐待したりするようになる。

さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。

もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デプリベイション
が原因というわけではない。
その疑いがあると、私が思うだけの話である。

++++++++++++++++++

●心の葛藤

 母子関係に悩み、葛藤している人は多い。
「親子だから……」「母親だから……」という『ダカラ論』ほど、あてにならないものはな
い。
またそういう前提で、この問題を考えてはいけない。
現在、人知れず、母親との関係に苦しんでいる人は多い。

++++++以下、2チャンネル投稿記事より転載+++++++

●症状(1)

【主訴、症状】自分が無価値、無意味だと思う。 
漠然と怖い。 
超泣く。所構わず突発的に。 
睡眠障害(眠剤入れても3時間で目覚める) 
母親が死ぬほど怖いし憎い(毒親で現在距離置き中) 

【その他質問、追加事項】 
抑うつ(っぽいと言われましたが病名はまだ)、過食嘔吐です。 
大学に入るまでずっと抑圧された優等生でいざるをえなくて、それでも母親に否定され続
けた。 

反抗期も持てなく、完璧でないと思っている。 
結婚したいヒトがいると言ったら、「これ以上親を不幸にするな」と言われ、 
そこらへんくらいから将来を考えると不安になる(ネガティブな未来ばかりを想像して)
ようになり 年末に仕事を失敗してから、仕事を拠り所にしていたことだろうことから(カ
ウンセラーの言葉)自分の存在が0になったと思い全く身動きが取れなくなりました。

●症状(2)

【主訴、症状】引き篭もり。対人恐怖症。大声や物音に敏感で、緊張・恐怖・混乱・不安
等を感じます。電話に出たり一人で外出できません。 

母親からのモラハラと肉体的暴力、学校での虐め、母親の再婚先での連れ子虐待等から立
ち直れません。フラッシュバックがよく起きます。 

常に焦燥感があります。落ち着きや集中力や記憶力がなく頻繁に苛々しやすい。無心で喋
り続ける妙な癖のようなものがある。 

「死にたい」というよりも、寧ろ母親が憎くて殺したいと思っています。母親が死ねば解
放されると信じていたりして自分でもマズイと思ってます。 

普通の悪夢もありますが、憎い人間を殺す夢を見ることが多いです。 
中学生の頃より酷くはないですが、フラッシュバックで気持ちが悪くなり、泣き喚いたり
ヒスっぽい奇声を発することもあります。これはごく稀です。

++++++以上、2チャンネル投稿記事より転載(原文のまま)+++++++

●母子関係の重要性

 乳幼児期における母子関係の重要性については、何度も書いてきた。
その子どもの基本は、この時期に構築される。
基本的信頼関係もそのひとつ。

 基本的信頼関係は、その後の、その人の人間関係に大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係がしっかりと構築できた子ども(人)は、他人に対
して、心が開くことができる。
そうでない子ども(人)は、心が開けなくなる。
(詳しくは、「はやし浩司 基本的信頼関係」で検索。)

 が、それだけではない。この時期をのがすと、人間性そのものが欠落した子どもになる。
インドで見つかった、タマラ、アマラの2人のオオカミ少女を、例にあげるまでもない。
これについても、何度も書いてきた。
(詳しくは、「はやし浩司 野生児」で検索。)

 さらに最近の研究によれば、人間にも鳥類に似た、刷り込みがあることがわかってきた。
卵からふ化したあと、すぐ二足歩行する鳥類は、最初に見たもの、耳にしたものを、親と
思いこむ習性がある。
それを刷り込み(インプリンティング)という。
人間にも、同じような刷り込みがあるという。
0歳から生後7か月くらいまでの間の期間をいう。
この期間を、発達心理学の世界では、「敏感期」と呼んでいる。

 が、不幸にして不幸な家庭に育った子どもは、こうした一連の母子関係の構築に失敗す
る。

●ホスピタリズム(施設病)

 生後直後から、何らかの理由で母親の手元を離れ、施設などで育てられた子どもには、
独特の症状が現れることは、よく知られている。
こうした一連の症候群をまとめて、「ホスピタリズム(施設病)」という。

(ただしこの言葉は、私が幼児教育の世界に入った、40年前にはすでにあった。
施設、たとえば保育園などに入ったからといって、みながみな、施設病になるわけではな
い。
当時と現在とでは、保育に対する考え方も大きく変わり、また乳児への接し方も、変わっ
てきた。
ホスピタリズムについても、そういうことがないよう、細心の注意が払われるようになっ
ている。)

 ホスピタリズムの具体的な症状としては、「感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育
の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい」(長畑正道氏)など。
ほかにも、動作がのろい(緩慢行動)、感情表出が不安定、表情が乏しいなどの症状を示す。
これについては、以前、どこかの学校でもたれたシンポジウム用に書いた原稿があるので、
それを末尾に添付しておく。
 
 マターナル・デプリベイションでも、似たような症状を示す。
が、もっとも警戒すべき症状としては、人間性の喪失。
冒頭にも書いたように、他者との共鳴性の欠落が第一にあげられる。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物
を、虐待したりするようになる。

 さらに最近の研究によれば、こうした人間性の獲得にも、「臨界期」があることがわかっ
てきた。
先のオオカミ少女にしても、その後インド政府によって、手厚く保護され、教育をほどこ
されたが、最後まで、人間らしい心を取り戻すことはなかったという
つまり臨界期を過ぎてしまうと、それ以後、(取り返し)が、たいへん難しいということ。
このことからも乳幼児期における母子関係が、いかに重要なものであるかがわかる。

●いじめの問題

 このマターナル・デプリベイションとは、直接関係ないかもしれないが、(いじめ)につ
いて、少し書いてみる。

 先に、「年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物
を、虐待したりするようになる」と書いた。
このことは、たとえば年中児〜年長児(4〜6歳児)に、ぬいぐるみを見せてみるとわか
る。
心の温もりがじゅうぶん育っている子どもは、そうしたぬいぐるみを見せると、どこかう
っとりとした表情を示す。
全体の7〜8割が、そうである。
が、その一方で、ぬいぐるみを見せても反応しないか、反対にキックを入れたりする子ど
ももいる。
(キックするからといって、心の冷たい子どもということには、ならない。誤解のないよ
うに!)
しかしこの時期までに、基本的な母性愛、父性愛の基本形は決まると考えてよい。
この時期に、おだやかでやさしい心をもった子どもは、その後も、そうした温もりを維持
することができる。

 もちろんこれだけで、(いじめの問題)がすべて説明できるわけではない。
またこの問題を解決すれば、(いじめの問題)がなくなるわけではない。
しかし(いじめの問題)を考えるときには、こうした問題もあるということを、頭に入れ
ておく必要がある。
その子どもにすべての責任をかぶせるのは、かえって危険なことでもある。

 反対に、たとえば極端なケースかもしれないが、溺愛児とか過保護児と呼ばれている子
どもがいる。
このタイプの子どもは、よい意味において、母親の愛情をたっぷりと受けているから、い
つも満足げでおっとりした様子を示す。
人格の核(コア)形成が遅れるというマイナス面はあるが、こと(いじめ)ということに
関していえば、いじめの対象になることはあっても、いじめる側に回ることはまず、ない。

●「私」はどうか?

 こうした問題を考えていると、いつも「では、私はどうなのか?」という問題がついて
回る。
 「マターナル・デプリベイションという問題があるのは、わかった。では、私はどうな
のか?」と。

 この文章を読んでいる人の中にも、心の温かい人もいる。
一方、心の冷たい人もいる。
が、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分でそれを自覚するのは
難しい。
心のやさしい人は、みなもそうだと思いやすい。
反対に心の冷たい人は、みなもそうだと思いやすい。
人は、いつも(自分の心)を基準として、他人をみる。

 言い換えると、とくに心の冷たい人は、自分の心の冷たさに気づくことはない。
うすうす感ずることはあっても、いつもどこかでブレーキが働いてしまう。
あるいは上辺だけは、心の温かい人を演ずることもある。
だれかの不幸話を聞いたようなとき、さも同情したかのようなフリをしてみせる。
しかしそれ以上に、相手の心の中に踏み込んでいくことができない……。

 そこで「私」を知る。
つまり「私自身は、どうなのか?」と。
私という人間は、心の温かい人間なのか。
それとも心の冷たい人間なのか、と。

 そのひとつの基準が、(いじめ)ということになる。
今、善人ぶっているあなただって、ひょっとしたら学生時代、いじめを繰り返していたか
もしれない。
そこにいじめられている人がいても、見て見ぬフリをして、通り過ぎてきたかもしれない。
あるいは、あなたが自身が先頭に立って、いじめを繰り返していたかもしれない。

 そういうあなたは、じつはあなたの意思というよりは、あなたの育てられ方に原因があ
って、そうしていただけにすぎないということになる。

 ……と、短絡的に結びつけて考えることはできないが、その可能性も高いという意味で、
この「マターナル・デプリベイション」の問題を考えてみたらよい。

 そこでもう一度、あなた自身に問いただしてみる。

「あなたという人間は、子どものころいつも、(いじめ)とは無縁の世界にいただろうか」、
それとも「いつも(いじめ)の中心にいただろうか」と。

 もし(いじめ)の中心にいたとするなら、あなたはかなり心の冷たい人間である可能性
が高い。
さらに言えば、乳幼児期に、不幸にして不幸な家庭環境に育った可能性が高い。
で、その(冷たさ)ゆえに、失っているものも多いはず。
孤独で、みじめで、さみしい毎日を送っているはず。
損か得かということになれば、損に決まっている。

●では、どうするか

 心の冷たい人が、温かい人になるということは、ありえるのだろうか。
乳幼児期にできあがった(心)を、おとなになってから、作り替えることは可能なのだろ
うか。

私は、それはたいへんむずかしいと思う。
人格の核(コア)というのは、そういうもの。
本能に近い部分にまで刻み込まれるため、それを訂正したり、修正したりするのは、容易
なことではない。
そうした変化を自分のものにする前に、人生そのものが先に終わってしまってしまうとい
うこともある。
自分を作り変えるとしても、時間がかかる。
10年単位、20年単位の時間がかかる。
が、何よりも難しいのは、そうした自分に気がつくこと。

 この問題は、先にも書いたように、脳のCPUの問題がからんでいる。
さらに加齢とともに、(心)は、あなた自身の性格や性質として、定着してしまう。
これを「性格の固定化」と、私は呼んでいる。
そうなると、自分を変えるのは、ますます難しくなる。

 では、どうすればよいか。
ひとつの方法として、これは前にも書いたが、「感動する」という方法がある。
「感動する」ことによって、「他者との共鳴性」を育てる。
わかりやすく言えば、相手の心と波長を合わせる。
絵画、音楽、文学、演劇、映画、ドラマ・・・。
何でもよい。
そこに感動するものがあれば、それに感動する。
そういう場を自ら、求めていく。
つまり感動しながら、自分の心のワクを広げていく。

 さらに最近の大脳生理学によれば、脳の中の辺縁系にある扁桃核(扁桃体)が、心の温
もりに関しているという説もある。
心のやさしい人は、大脳皮質部からの信号を受けると、扁桃核が、モルヒネ様のホルモン
(エンドロフィン、エンケファリン系)の分泌を促す。
それが心地よい陶酔感を引き起こす。
心の冷たい人は、そういう脳内のメカニズムそのものが、機能しないのかもしれない。
(これは私の推察。)

●まず「私」を知る

 が、それとて、まずその前に「私」を知らなければならない。
「私は冷たい人間」ということを、自覚しなければならない。
繰り返すが、この問題は脳のCPUの問題だから、自分でそれに気づくだけでもたいへん。
特別な経験をしないかぎり、不可能とさえ言える。
そのひとつの基準として、先に、(いじめ)を取り上げてみた。
ほかにも、いろいろある。

 たとえばホームレスの人が路上で寝ていたする。
冷たい冬の風が、吹き荒れている。
そういう人を見て、心を痛める人がいる。
反対に街のゴミのように思う人もいる。

 たとえば近親の中で、事業に失敗した人がいたとする。
そういうとき、何とか援助する方法はないものかと、あれこれ気をもむ人もいる。
反対に、「ザマーミロ」と笑ってすます人もいる。

 いろいろな場面を通して、「私」を評価してみたらよい。
「私という人間は、どういう人間なのか」と。
それが好ましい人間性であれば、それでよし。
もしそうでなければ、つぎに「どうしてそういう私になったか」を、考えてみればよい。

 「マターナル・デプリベイション」というと、子どもの問題と考えがちである。
しかしこの問題は、その子どもがおとなになってからも、つづく。
つまり(あなた)自身の問題ということになる。
(あなた)も、かつてはその(子ども)だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

日付は、2008年7月となっています。
古い原稿ですが、そのまま掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考原稿)【自立と自律】(分科会、レジュメ)

●自立と依存

++++++++++++++++

自立と依存は、相克(そうこく)関係にある。
「相克」というのは、「相対立した」という意味。
自立性の強い子どもは、依存性が弱い。
自立性の弱い子どもは、依存性が強い。

一方依存性には、相互作用がある。
たとえば子どもの依存性と、親の依存性の間には、
相互作用がある。

一方的に子どもが依存性をもつようになるわけではない。
子どもの依存性に甘い環境が、子どもの依存性を強くする。
わかりやすく言えば、子どもの依存性は、親で決まるということ。

たとえばよく「うちの子は、甘えん坊で……」とこぼす親がいる。
が、実は、そういうふうに甘えさせているのは、親自身ということになる。
たいていのばあい、親自身も、依存性が強い。

++++++++++++++++

たとえばM氏夫婦を見てみよう。
M氏が、ある日、こんな話をしてくれた。

「私の妻は、病気になったりすると、自分でさっさと病院へ行き、診察を受けたりしてい
ます。
私に病気のことを、相談することは、めったにありません。
しかし私は、病院が好きではありません。
かなり症状が悪くならないと、病院へは行きません。
だから病気へ行くときは、妻にせかされて行きます。
そんなわけで、たいていいつも妻がついてきてくれます」と。

ひとりで病院へ行く、M氏の妻。
たいへん自立心の強い女性ということになる。
一方、ひとりでは病院へ行けない夫。
たいへん自立心が弱い男性ということになる。

M氏は、こうも言った。
「妻は、6人兄弟の真ん中くらいでした。
子どものころから、何でも自分でしていたのですね。
が、私はひとり息子。
祖父母、両親に溺愛されて育ちました」と。

が、ここで誤解してはいけないのは、だからといって、M氏が依存性の強い男性と考えて
はいけない。
(えてして、「自立心が弱い」というと、どこかナヨナヨして、ハキのない人を想像しがち
だが……。)
M氏は、現在、小さいながらも、コンピュータを使ったデザイン事務所を経営している。

これは夫婦のばあいだが、親子となると、少し事情が変わってくる。

親子のばあい、依存性というのは相互的なもので、親の依存性が強いと、子どももまた依
存性が強くなる。
たとえば「うちの子は、甘えん坊で困ります」とこぼす母親がいる。
しかしそういうふうに甘えん坊にしているのは、実は、母親自身ということになる。
母親自身も、依存性が強く、その分だけ、どうしても子どもの依存性に甘くなる。

「うちの子は、甘えん坊で困ります」と一方でこぼしながら、実は、子どもが「ママ、マ
マ」と自分に甘えてくるのを、その母親は喜んでいる。

あるいは(家庭の基準)そのものが、ちがうときがある。

ある家庭では、子ども(幼稚園児)に、生活のほとんどを任せている。
そればかりか、父親がサラリーマン、母親が商店を経営しているため、スーパーでの買い
物など、雑務のほとんどは、その子どもの仕事ということになっている。
が、母親はいつも、こうこぼしている。
「うちの子は、何もしてくれないのですよ」と。

一方、ベタベタの親子関係を作りながら、それが「ふつう」と思っている親もいる。
T君は、現在小学6年生だが、母親といっしょに床で寝ている。
一度父親のほうから、「(そういう関係は)おかしいから、先生のほうから何とか言ってく
ださい」という相談を受けたことがある。
が、母親は、そういう関係を、(理想的な親子関係)と思っている。

だから子どもの自立を考えるときは、その基準がどこにあるかを、まず知らなければなら
ない。
さらに言えば、こと依存性の強い子どものばあい、子どもだけを問題にしても、意味はな
い。
ほとんどのばあい、親自身も、依存性が強い。

そんなわけで、子どもの自立を考えたら、まず、親自身がその手本を見せるという意味で、
親自身が自立する。
その結果として、子どもは、自立心の旺盛な子どもになる。

さらに言えば、この自立と依存性の問題には、民族性がからんでくることがある。
一般的には、日本人のように農耕文化圏の民族は相互依存性が強く、欧米人のように牧畜
文化圏の民族は、自立心が旺盛と考えてよい。

ただ誤解していけないのは、自立心は旺盛であればあるほどよいかというと、そうでもな
いようだ。

オーストラリアの友人(M大教授)が、こんな話をしてくれた。

「オーストラリアの学校では、子どもの自立を第一に考えて教育する。
それはそれでよいのかもしれないが、それがオーストラリアでは、大企業が育たない理由
のひとつになっている」と。

●自立と自律

自立は常に、依存性と対比して考えられるのに対して、自律は、あくまでもその人個人の、
セルフ・コントロールの問題ということになる。

さらに自律心は、人格の完成度(ピーター・サロベイ、「EQ論」)を知るための、ひとつ
の大切なバロメーターにもなっている。

自律心の強い子どもは、それだけ人格の完成度が高いということになる。
そうでない子どもは、それだけ人格の完成度が低いということになる。
ものの考え方が、享楽的で、刹那的。
誘惑にも弱い。

その自律をコントロールするのが、脳の中でも、前頭前野ということが、最近の研究でわ
かってきた。
自分の思考や行動を律するための、高度な知的判断は、この前頭前野でなされる。
(反対に、この部分が、何らかの損傷を受けたりすると、人は自分を律することができな
くなると言われている。)

さらに言えば、この自律心は、0歳から始まる乳児期に決定されると考えてよい。
私はこのことを、2匹の犬を飼ってみて、知った。

++++++++++++++++

それについて書いた原稿が
ありますので、紹介します。
2002年11月に書いた原稿です。

++++++++++++++++

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、
私の家には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらって
きた。これをA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か
月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、
一二年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛
想はいいが、決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、
すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならな
い。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、
そのまま寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。
おかげで植木鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその
割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入っ
てこようものなら、けたたましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言
ったらよいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤
解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ
以後、なかなか変わらないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、
親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許
すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つ
まり人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬
は幸福な犬だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子ど
もをいう。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られてい
る。感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりな
どのクセがつきやすい(長畑正道氏)など。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合
わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快
活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい
人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、
どうもそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自
分をごまかす。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れ
てしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだっ
たと言えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時
代だった。……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していく
と、自分の姿が見えてくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、
それがわかってくる。私が私であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えている
とき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家
庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが
問題ではない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかな
いことだ。たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回さ
れてしまう。そして同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたか
ら、あなたの子どもへと伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世
代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆ
がんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることが
できるようになった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」
「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つま
り子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。
あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。
(02−11−7)

● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、
自分の過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるという
ことではなく、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることであ
る。またこの問題は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは
時間の問題。

++++++++++++++++

心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
この「基本的信頼関係」の中には、「基本的自律心」という意味も含まれる。

心豊かで、愛情をたっぷりと受けて育てられた子どもは、それだけ自律心が、強いという
ことになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自立 自律 子どもの自立
子供の自律 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 マターナルデプリベイション マターナル・デプリ
ベイション 母子関係 母性愛の欠落 ホスピタリズム 長畑 施設病 人間性の欠落 
臨界期 敏感期 刷り込み 保護と依存 子どもの依存性 幼児期前期 自律期 幼児期
後期 自立期Maternal Deprivation 母性欠落 母性欠損)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●バカになる日本人(?)

++++++++++++++++++++

書店で「S」という月刊雑誌を立ち読みした。
以前は毎月のように買っていたが、どこか右翼的。
で、今は、立ち読みONLY。

その雑誌が「バカになる日本人」(仮称)という
大見出しで、特集を組んでいた。
小学6年生で、「4+2x5の計算ができないのが、
60%もいる」とか。
(数字は記憶によるものなので、不正確。)

「そんなものだろうな」と思ってみたり、
「実際には、もっとひどいのでは?」と思ってみたり……。

「大学生でも、英検4級が合格できない」という
記事も目にとまった。
しかしこうした現象は、何も今、始まったわけで
はない。
すでに20年以上も前から始まっていた。
「中学1年生で、かけ算の九九ができない子どもが
20%いる」というのが、当時、すでに常識だった。

(九九を暗記していても、九九ができるという
ことにはならない。
「七・三(シチ・サン)?」と、ランダムに聞かれて、
即座に「21」と言えることを、「九九ができる」という。)

++++++++++++++++++++

●考えない日本人

 日本人は、考えなくなった。
たしかに考えなくなった。
直感的にものをパッパッと言うのは得意。
しかし論理的に、筋道を立てて考えるのが苦手。
きちんとした話し方すらできない日本人も多い。

 子どもたちとて、例外ではない。
10年単位で、子どもたちの「質」が、どんどんと変化している。
それが私にも、よくわかる。
いわゆる思考力の低下である。

 誤解していけない。
(1)知識があるから、思考力があるということにはならない。
(2)専門知識があるから、思考力があるということにもならない。

 ほとんどの親は、「知識が豊富な子ども」イコール、「賢い子ども」と思っている。
……思いこんでいる。
が、これは誤解。
知識は経験や暗記で身につく。
が、(賢さ)は、(考える習慣)で身につく。
その習慣が、子どもたちの生活の中から消えつつある。

 雑誌の中には、世界の子どもたちの比較データが載っていた。
それによれば日本の子どもたちは、テレビを見る時間が長く、家で学習する時間が
短いそうだ。
100か国中、下から7、8番目くらい。
(記憶によるものなので、不正確。)

●考える習慣

 考えるためには、前提として、(1)静かな環境と、(2)自由な時間が必要である。
そういう環境と時間の中で、ものごとを分析し、つぎに論理として、それを組み立てて
いく。
そのためのひとつの手段として、「書く」という方法がある。
書くことによって、頭の中を整理する。
矛盾に気づいたり、さらに新しい事実に気がついたりする。

 書かないで考えるという方法もあるが、私のばあい、すぐ堂々巡りをしてしまう。
同じことを何度も考えるというのは、それ自体が、時間の無駄。
その無駄を省くために、書きながら、ひとつずつに結論をくだしていく。
一度結論をくだしたことについては、2度目は考えない。
つまりこうして前へ、前へと進んでいく。
これには2つの意味が含まれる。

(1)未開の分野に足を踏み入れるという意味。
(2)もう一つは、思索を深くするという意味。

 だれもそれまで考えたことのない世界へ、足を踏み入れるというのは、スリリングな
ことでもある。
めったにないことだが、その先にキラリと光る石のようなものを見つけることがある。
私はそれを「宝石」と呼んでいる。
それがあるから、書くことがやめられない。

 また当然のことながら、考えれば考えるほど、思索が深くなる。
深いからどうということはないが、深ければ深いほど、視野が広くなる。
といっても、それを自分で実感できるわけではない。
思索の浅い人を見たとき、相対的に、それがよくわかる。
ときには、相手が、サルかそれに近い動物に見えることもある。
それは優越感というよりは、高い山に登ったような爽快感に似ている。
視野が広いから、相手の考えていることが、手に取るようによくわかる。
が、それだけではない。

●思索

 思索を深くすることによって、同時に、人生の密度を濃くすることができる。
与えられた時間は同じでも、使い方によって、それを2倍、3倍にすることができる。
もちろん、反対に、使い方によっては、2分の1、3分の1にしてしまうこともある。

 仮に私の寿命が、あと16年(平均寿命まで16年!)であるとしても、その
16年を、2倍の32年にすることも、3倍の48年にすることもできる。
たった一度しかない(命)なら、できるだけ長く生きた方が得!
みなの知らない世界を見たり知ったりすることができる。
それは実に楽しいことでもある。
楽しいことではあるが、同時に、恐ろしいこともでもある。

 ときに、眼前に無限につづく荒野を見たようなとき、思わず身震いすることもある。
当然のことながら、この世界は、私の知っていることより、知らないことのほうが、
はるかに多い。
話は少しちがうかもしれないが、いつだったか、恩師のTK先生が、こう話してくれたの
を覚えている。

「自然界では、何十万という分子量をもった物質が、いとも簡単に、複製、合成されて
います。
どうしてそういうことができるか、不思議でなりません」と。
光合成の話になったときのことである。

 TK先生はTK先生の立場で、身震いするような場面を、多く経験したにちがいない。
ここでいう「恐ろしいこと」というのは、それをいう。
知れば知るほど、自分が無力であることを、思い知らされる。

●考える人間に……

 基本的には、日本の教育は、システムとして、考える子どもを育てるようにはなって
いない。
冒頭にも書いたように、直感的にものを言う子どもは多い。
知識の豊富な子どもも多い。
もの知りで、ペラペラとよくしゃべる。
しかし中身が、ない。
薄っぺらい。

 私はよく冗談まじりに、「今の学校は、Y本興業の、タレント養成学校のよう」と言う。
お笑いタレントを専門に育てる、あの学校である。
もちろん冗談だが、できあがってくる子どもたちを見ると、そんな感じがする。
またそういう子どもほど、この日本では、(よくできる子)と評される。

 そこでたとえば欧米では、「ライブラリー」の時間を、たいへん重要視している。
ほかの教科は、学士号をもっていれば、教壇に立てる。
しかしライブラリーの授業だけは、修士号をもっていないと、立てない。
週1回の指導だが、教師がその子どもに合った本を選び、読ませ、レポートを書かせる。
私の息子の嫁の母親が、その仕事をしている。

 社会科の授業にしても、教師がテーマだけを与え、それぞれの子どもに、ちがった
研究をさせる。
「あなたは1年をかけて、トラファルガーの戦いについて調べなさい」と。

 こうした教育のちがいというか、土壌のちがいが、そののち、ちがった人間を作る。
日本の教育も、このあたりで本腰を入れて考えなおさないと、それこそほんとうに
大変なことになる。
日本は、ほんとうにこのままダメなってしまう。
TK先生も、いつもそう言っている。

(補記)

「まなぶ」は、「まねぶ」が転じた意味で、「まねる」の意味からきている。
また「学ぶ」は、「學」という文字からきていて、(かんむり)の部分は、両手で
音符を包んでいることを示す。
そのことからもわかるように、「しぐさをまねる」ことを、「学ぶ」という
(以上、参考「心理学とはなんだろうか」(新曜社))。

日本の教育は、総本山における小僧教育にルーツを置く。
その「まねる」から脱却する。
自分で考える子どもを育てる。
それがこれからの日本の教育の目指す方向とういうことになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 日本の教育 バカになる子どもたち 考える子ども 思索 知識と思
考)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●「あと1年」vs「1年もある!」

+++++++++++++++++

昨夜、『愛のそよ風(Breeze)』という
DVDを見た。
クリント・イーストウッドが監督した、
第一作目の映画ということだった。
が、私は最初の20分程度で、ギブアップ。
そのまま書斎へ。
星は、1つの★。
が、ワイフは、最後まで見た。

内容は、70歳近い男性と、10代後半の
若い女性の恋愛映画。
あとでワイフがそう話してくれた。

その中で、男のほうがこう言った。
「(結婚生活といっても)、1年くらいしか、
もたない」と。
それに答えて、若い女性は、「1年も!」と。
そう言って、驚く。

同じ「1年」を、老人のほうは、「1年しかない」と
考える。
若い女性は、「1年も」と考える。
ワイフから聞いた話なので、こまかい点では
まちがっているかもしれない。
しかしその話を聞いて、私はドキッとした。
私はいつも、こう言っている。
「平均寿命まで、あと16年しかない」と。

しかしこの発想そのものが、うしろ向き。
ジジ臭い。
それに気づいた!

+++++++++++++++++++

●同じ「16年」

 小学生たちに、「16年」という年数を言うと、たぶん彼らは、「長い」と
感ずるだろう。
そうした感覚を、私は知ることはできないが、自分の過去をさぐることによって、
推察することはできる。

 私も20代のころ、50歳とか60歳とかいう人たちが、自分にはありえない、
遠い未来の人間に見えた。
小学生のころは、20代の先生ですら、自分たちとは無縁の(おとな)に見えた。
だからたとえば私が今、小学生たちに、「ぼくの残りの人生は16年」とでも言ったら、
彼らはこう答えるにちがいない。

「16年も!」と。

 私には「16年しかない」16年だが、子どもたちには、「16年もある」16年
ということになる。
こうしたものの見方のちがいは、どこから生まれるのか。

●死の影

 ひとつには、「死の影」がある。
「平均寿命まで16年」といっても、運がよければという前提条件がつく。
運が悪ければ、明日にでも大病を言い渡されるかもしれない。
言うなれば、これからの16年は、ハラハラしながら過ごす16年ということになる。

 一方、子どもたちの16年には、それがない。
「死ぬ」ということとは、無縁の世界で生きている。
子どもたちにとっての「16年」は、丸々「16年」ということになる。

 が、もうひとつ、おおきな理由がある。

●クロック数

 このことは前にも書いたが、コンピュータの世界には、「クロック数」という
言葉がある。
1秒あたり、何回演算を繰り返すかというのが、クロック数ということになる。
現在私が使っているパソコンは、3GHz前後。
1秒間に、1MHzで、100万回。
その3000倍だから……、30億回……?
(「ギガ」は、もともとはギリシャ語で、「巨人」を表す。
10億倍のことを、「ギガ」とう。)

 1秒間に30億回!
改めて驚く。

 そのクロック数だが、子どものもつクロック数と、おとなのもつクロック数は、
明らかにちがう。
もちろん子どものほうが、速い。
たとえば年長児(5〜6歳児)にしても、私たちおとなより、数倍は、速い。
言い替えると、おとなにとっての1年は、子どもたちにとっては、数年ということになる。

●密度

 結局は、「密度」の問題ということになる。
その密度がちがう。
だから同じ1年でも、老人のほうは、「1年しかない」と考える。
若い女性は、「1年も」と考える。

 そこで私は考え方を改めることにした。
すぐ改められるかどうかについては、自信がない。
ないが、しかしジジ臭い考え方はやめた。
これからは「16年しかない」という言い方はやめる。
「16年もある」という言い方にする。
前向きに生きるというのは、そういうことをいう。

 そう、16年もあれば、かなりのことができる。
私という人間を、一度、20歳前後に置いてみればよい。
あのころの10年は、今よりはるかに長かった。
それを思い出せばよい。

 ……というようなことを、ワイフの話を聞いて、考えた。
さらに……。

 運がよければ、その16年で終わるわけではない。
20年かもしれないし、30年かもしれない。
いや、「運がよければ」という言い方そのものも、ジジ臭い。
うしろ向き。

 健康にしても、向こうからやってくるものではない。
自分で作るもの。
人生を長くするかどうかは、努力によって決まる。
「運」で決まるものではない。

 ハハハ。
……ということで、今朝は、新しい人生観をひとつ、ゲット!
気分は、よい。

 そうそう今朝、恩師のTK先生からメールが入っていた。
奥さんの命日供養のため、となりの磐田市まで来るとか。
午後に、会いにいってくる。
ほぼ1年ぶり。
「これが最後かもしれない」と、先生は言っている。
が、そういう発想そのものが、ジジ臭い。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●父子関係(Father-Children Relationship)

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たとえば今、「父親を尊敬していない」と
考えている中高校生は55%もいる。
「父親のようになりたくない」と思っている
中高校生は79%もいる(『青少年白書』平成10年)。

少し古い調査だが、それ以後改善したという
話は聞いていない。
現在、この数値は、さらに高くなっていると思われる。

++++++++++++++++++++++

●幻想

 こういう調査結果を見ても、「うちはだいじょうぶ」とか、「私と子どもの関係はぜった
い」とか思う父親は、多い。
しかし残念ながら、そういう父親ほど、あぶない。
それにはちゃんとした理由がある。

 つまり「うちはあぶない」と思っている父親ほど、家族や子どもに対して謙虚。
家族や子どもの心に耳を傾ける。
「だいじょうぶ」と思っている父親ほど、権威主義的。
その分だけ、家族の心がバラバラになりやすい。
しかも「79%」という数字は、「ほとんど」という数字。
が、なぜほとんどなのか。

●価値観の相違

 一世代ちがうと、価値観、ものの考え方、見方が大きく変わる。
音楽にしても、私たちの世代は、「舟木和夫」。
それがつぎの世代には、「尾崎豊」になり、さらにつぎの世代には、「アリス・ナイン」と
なる。
遊び方もちがう。

言い替えると、こと父と子の関係について言えば、断絶して当然。
またそういう前提で考える。
つまり幻想は、もたない。
さらに言い替えると、父親は、父親としてできるだけ早い時期に、子離れをすます。
自分で自分の生き様を確立する。
いつまでも子どもにベタベタしている父親のほうが、おかしい。
さらに言えば、子どもというのは、父親を踏み台にしておとなになっていく。
踏み台にされることを、恐れてはいけない。

 私も多くの子どもたちを教えさせてもらっている。
が、子どもというのは、小学3〜4年生を境に、急速に(先生離れ)を始める。
へたに「教えてやろうか」と助け船を出すと、「いらない!」とか、「うるさい!」とか言
って、それを拒絶する。

 一見、生意気に見えるが、子どもの成長(=独立)ということを考えるなら、そのほう
が望ましい。
また子ども自身がそうできるように、うまく、しむける。
 
●父親像

 不幸にして不幸な家庭に育った父親ほど、しっかりとした父親像が脳にインプットされ
ていない。
そのため、どうしても気負い先行型の子育てになりやすい。
いつも「これでいいのか」という迷いをもちやすい。
あるいは権威主義的になり、子どもの反抗を許さない。
こうした(気負い)が、子離れの時期を見失わせる。

 まずいのは、「私はぜったい正しい」と、カラにこもること。
子育てで何がこわいかといって、風通しの悪い子育てほど、こわいものはない。
独善と独断。
これがつづくと、親子関係どころか、家族関係もおかしくなる。

 だからもしあなたが、不幸にして不幸な家庭に育ったとするなら、風通しのよい子育て
に心がける。
近隣の人や、親戚の人などの意見に、すなおに耳を傾ける。
いろいろな親子と交流を繰り返す。
こうして自分の父親像を修正していく。

 要するに、父親というのは、子どもに嫌われて当然。
嫌われたからといって、カリカリしないこと。
ガタガタしないこと。
あなたはあなたで、勝手に、前に向かって進んでいけばよい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【表現の自由とは】

++++++++++++++++++++

一度、子どもたちが隠れて回し読みしている
コミック雑誌に目を通してみるとよい。
そこには、かなりの人でもドキッとするような
絵が、ズラズラと並んでいる。
「かなりの人」というのは、かなりそういう世界を
よく知っている人でも、という意味。

私が先日見たのは、10歳前後と思われる女の子が、
裸で椅子にしばられているというものだった。
その女の子の背後と両側から、悪魔(?)の黒い影が、
ニョキニョキとのびてていた。

女の子は恐怖と恥ずかしさで、泣き叫ぶ……。

こうした行きすぎた「表現」には、規制は当然としても、
しかし今さら、それをしたところで、どうにもならない。
つまり手遅れ!

++++++++++++++++++++

●性暴力

薄汚い商業主義をカモフラージュするために、「表現の自由」が利用されている。
しかしそれは表現の自由ではない。
表現の自由の濫用という。
またどうしてそれが、「守られなければならない権利」なのか。

 かいま見る最近の雑誌には、ものすごいものがある。
先に書いたような例は、まだ序の口。
まだあどけなさを残す少女が、あらゆる体位で、性行為を繰り返す。
輪姦、強姦、緊縛、乱交パーティ……なんでもござれ。
生殖器そのものは描かれていないが、そんなものは鉛筆一本で、描き足せる。
わざとそうなっている。
 
 そういう雑誌を、これまた小学生や中学生が読む。
隠れて読む。
判断力のまだ未成熟な子どもに与える悪影響となると、計り知れない。

 一方、欧米では、性描写と暴力描写については、きびしい規制がかけられている。
雑誌だけではない。
私の記憶に残っているのが、『風林火山』という映画があった。
1970年のことだった。
(40年も前の話だぞ!)

●暴力シーン

 メルボルンの日本領事主催の映画会が開かれた。
在住の日本人や、親日的な団体の人たちが招待された。
上映されたのは『風林火山』。
で、その映画の中で、ひとりの侍が、目に矢を受けるシーンがあった。
とたん劇場内にはギャーという叫び声。
子どもと一緒に来ていた親たちは、いっせいに、子どもの顔を手でおおった。

 が、日本では、あの映画は、まったく問題にならなかった。
当時も、またその後も、テレビでそのまま放映されている。

世界を歩いてみて、こんなバカげた「表現の自由」が野放しになっているのは、
この日本だけ。
その延長線上に、援助交際という「少女売春」がある。
飛躍した考え方に思う人もいるかもしれないが、世界の人は、そう見ている。

●ゆがむ性意識

 何も大脳生理学をもちだすまでもなく、思春期前夜、思春期にゆがんだ性意識をもつ
ことは好ましくない。
それがそのままその子ども(人)の性意識の基本になる。
線条体に受容体ができると、そのまま条件反射になってしまう危険性すらある。
女性の下着を見ただけで、興奮状態になる、など。
反対にそれがないと、性的満足感を得られなくなることもある。
マゾ、サド、小児性愛などを例にあげるまでもない。

 大学の教授職という立場にありながら、手鏡をもって歩いていた人もいた。
手鏡で、女性のスカートの下をのぞくことによって、快感を覚えていたらしい。
「ゆがんだ性意識」というのは、そういうことをいう。
 
 が、ゆがんだ性意識をもっている人には、それがわからない。
脳のCPU(中央演算装置)がゆがんでいるから、自分がゆがんでいることさえ
わからない。
わからないばかりか、自分の基準でもって、「他人もそうである」と誤解しやすい。
さらにそれを他人に押しつける人もいる。
彼らが説くところの「表現の自由」という言葉の裏には、そういう傲慢性すら、
見え隠れする。 

 仮にゆがんでいるとしても、何も子どもたちをまでその世界に引き込むことはない。

●非実在青少年

時事通信(2010ー3ー18)は、つぎのように伝える。

『……漫画などでの子供に関する性表現を規制対象とする東京都の青少年健全育成条例改
正案について、都議会最大会派の民主党は18日までに、継続審査の動議を提案する方針
を固めた。共産党、生活者ネットワーク・みらいも同調する方向。これにより、同改正案
は開会中の今都議会では成立せず、継続審査の見通しとなった。

 改正案は、漫画やアニメの中の18歳未満と類推される人物を「非実在青少年」と規定。
非実在青少年への性暴力などを肯定的に描く図書類を、青少年への販売・閲覧規制の対象
に加える内容だが、漫画家有志や出版業界が「表現の自由を奪う」などと反対している』(以
上、時事通信)と。

●自由と濫用

 「自由」という言葉には、甘美な響きがある。
「表現の自由」と言えば、さらにそうである。
しかし「自由」と「自由の濫用」は、ちがう。 
「自由」に名を借りた「濫用」には、警戒したらよい。

 先にも書いたように、最近の雑誌には、(ものすごいもの)がある。
道徳も哲学もない。
文化もない。
歯止めもない。
子どもたちの読む雑誌の中には、そのものズバリの描写シーンが載っている。

そういうのを総合して、「表現の自由」とは、言わない。
言うまでもなく、「自由」には、「責任」がともなう。
言うなれば、自転車の前輪と後輪。
「責任」がともなわない「自由」は、自由とは言わない。
無責任という。
もっと言えば、商業主義に踊らされた、権利の濫用。
さらに言えば、「権利」とは、常に弱者から強者に向けられるもの。
弱者の権利を保護するために、「権利」という言葉がある。

 子どもの世界を自由に操ることができる強者が、子どもという弱者を操るために、
「権利」を利用するのは、許されない。

●実際には、「非実在的少女」

 繰り返す。
明らかに小学生ぽい女の子(=非実在青少年)が、裸で四つんばいになる。
そういう女の子に対して、性的行為を繰り返す。
強要する。
そういう描写が、「表現の自由」なのか。
もしそれが「表現の自由」なら、(もし、娘がいればの話だが……)、同じことを
自分の娘にさせてみたらよい。
裸の写真を、雑誌で公表したらよい。
「責任」というのは、それをいう。

 この問題は、漫画家たちの良識と常識にゆだねるしかない。
が、その良識と常識があやしいから、「規制」という問題が出てくる。
こんなことがあった。

●陰毛ヌード

 ちょうど22年ほど前のこと。
東京に、「Y書房新社」という出版社があった。
「H&N」という雑誌を出していた。
が、月を重ねるごとに赤字。
そこで社長が、かけに打って出た。
ちょうどそのころ、ヌード写真の(陰毛)に対する、警察に取り締まりが緩くなった。
それをその出版社の社長は、いち早く察知した。
社長は、逮捕覚悟で、陰毛ヌード写真を載せた。
「H&N」という雑誌は、その月、爆発的に売れた。

 もちろんその社長に、「表現の自由の追求」などという高邁な精神があったわけではない。
窮地の一策として、陰毛ヌード写真を載せた。
私は当時、その雑誌に、コラムを連載させてもらっていた。
このあたりのいきさつを、私は間近で見聞きしていた。
「表現の自由」と言えば、耳ざわりはよいが、その底流では、薄汚い商業主義が
うごめいている。
出版社にしても、まず「売れる本」を考える。
わかりやすく言えば、金儲けが第一。
本音を言えば、そういうことになる。

●薄汚い商業主義

薄汚い商業主義をカモフラージュするための「表現の自由」。
もしそうなら、どうしてそれが、表現の自由なのか。
またどうしてそれが、「追求しなければならない権利」なのか。
もっと言えば、それによって守られる法益は、何か。
またそれを規制することによって侵害される法益は、何か。

 この問題は、そこまで踏み込んで考えてみる必要がある。
「法益」というのは、「法によって守られる利益」をいうが、同時にそれには、
「法がなければ被(こうむ)る不利益」も含まれる。
子どもに与える不利益を考えるなら、「法」による規制もまた、法益ということになる。

 仮に百歩譲っても、判断力の未成熟な子どもという読者に、これまた未成熟な
子どもを題材にした性描写をする。
どうしてそれが、「表現の自由」なのか。
「表現の自由」と、どうして言えるのか。

●欲望の追求

 この問題は、「もしあなたの娘が・・・」、あるいは「もしあなたの息子が・・・」
という前提で考えてみたらよい。

 今の日本に宗教性がないのは、しかたないとしても、それに代わる倫理観や道徳観、
さらには哲学観がないのは、どうしてか。
またそれでよいのか。
欲望のおもむくまま行動し、欲望の追求ばかりしたら、どうなるか。
それこそこの日本という社会は、バラバラになってしまう。
(すでにバラバラだが・・・。)
それに歯止めをかけるのは、当然のことではないのか。

 交通規制をしたからといって、「行動の自由」を規制することにはならない。
資格や許可を強化したからといって、「職業選択の自由」を侵害したことにはならない。
それと同じように、「表現の自由」に、ある一定のブレーキをかけることは、
表現の自由を侵害することにはならない。
「性表現」と「暴力表現」ということに的をしぼるのも、一案。

 むしろ現実は逆で、「表現の自由」をよいことに、その類(たぐい)の人たちが
好き勝手なことをしている。
写真は、使えない。
実物の子どもは使えない。
だから「絵」を使う?

 もし本気で表現の自由を考えているなら、写真を使えばよい。
実物の子どもを使えばよい。
それほどまでに表現しなければならないことなら、そうしたらよい。

●表現の自由

 最近、話題になったことで、「表現の自由」が問題になるとしたら、K選手
の服装問題がある。
「だらしないかっこうをしていた」という理由で、冬季オリンピックの開会式への
入場が、処分として停止された。
結局、あの問題は、K選手の謝罪という形で決着した。
が、どうしてあの問題は、「表現の自由」として、問題にならなかったのか。
「表現の自由」とやらを説く人たちは、どうして問題にしなかったのか。

 先に書いた、法益という観点からしても、おかしい。
露骨な性描写というのは、私たちが法益として守らなければならない自由なのか。
それを表現したからといって、私たちはどんな利益を受けるのか。
それを規制したからといって、私たちはどんな不利益を受けるのか。

 もっとわかりやすい例に、「立て看板」がある。
外国では、道路やビルのまわりに立てる看板を、規制しているところが多い。
けばけばしい看板は、美観をそこねる。
が、これもやはり、日本では野放し。
その結果が、今。
国道、県道は、どこも看板だらけ。
つぎからつぎへと、目に飛び込んでくる。
そうした看板が、いかに周囲の景観をそこねていることか。
あれも、「表現の自由」なのか?

●表現とは

 となると、「表現」とは何か、それをもう一度、冷静に見つめなおしてみる必要がある。

 端的に言えば、思ったこと、考えたことを、第三者にわかるような形で、外に
向かって表わすことを、「表現」という。
美術、音楽、文学、演劇、服飾、造形などがある。
そこには、内在的に、真・善・美に向かうエネルギーが必要である。
それを外の世界に向かって、表現していく。
それなら私もわかる。
そういうものに規制がかけられるなら、私も反対する。

 それが逆に、不正、悪、醜に向かうものであれば、当然、規制がかけられる。
子どもの目に触れるものなら、なおさらである。
もちろんその判断をどうするかという問題もある。
拡大解釈には、当然、警戒しなければならない。
戦時中の日本が、そうだった。
が、『羮(あつもの)に懲りて、膾(なます)を吹く』というのもどうか。
拡大解釈も悪いが、野放しも、これまた悪い。

●言論の自由

 対比しやすい例として、「言論の自由」がある。
「言論の自由があるから、何を書いてもいい」ということではない。
いくら相手に非があるからといって、「殺してしまえ」式の、悪の誘発に
結びつくようなことは、許されない。
当然、規制される。

 また言論の自由といっても、先にも書いたが、それは弱者が強者に向かうべきもの。
強者が弱者に向かうものは、言論の自由とは言わない。
弱者が強者に規制されたとき、私たちは「言論の自由」という伝家の宝刀を抜く。

 ちなみに言論の自由度では、日本は、欧米先進国の中でも毎年、最下位。
愚劣なことをギャーギャーと騒ぐことは自由だが、そこまで。
それ以上のことは、書けない。

 同じように表現の自由も、弱者が強者に向かって主張するもの。
強大な資本力をもつ出版社が、子どもに向かって表現の自由とは、何か!
能力、知力でまさるおとなたちが、子どもに向かって表現の自由とは、何か!

●ある種の無政府主義
 
 ああした性描写をもって、「表現の自由」を唱える人たちがいる。
またそういうものを規制しようとする動きに対して、ここぞとばかり、反対する人たちが
いる。
そうした人たちは、ある種の無政府主義者と断言してよい。
「ある種」というのは、ニーチェの言葉を借りるなら、「逆ニヒリズム」。
破滅的な破壊主義を、ニヒリズムとするなら、「形ある社会」で、破滅的に
甘えることを、「逆ニヒリズム」という。
(これは私の造語。)

 いうなれば家庭内暴力。
家庭(=民主主義)というワクの中で、無政府主義を唱える。
政府そのものを破壊するほどの度胸はない。
家庭(=民主主義)を破壊するほどの度胸はない。
家(=民主主義)というワクに守られながら、その中で暴れる。
が、考えてみれば、これほど身勝手な論法はない。
つまり「表現の自由」なるものを、利用しているだけ。
アメリカの銃規制問題と比較してみると、それがよくわかる。

●アメリカの銃規制問題

 銃規制に反対している人たちもまた、(表現)と(銃)のちがいはあるが、
同じようなことを言っている。
人間には自己防衛の権利があるとか、ないとか。
つまり(銃をもちたい)ということを、カモフラージュするために、「権利」を
主張している。
もちろんその背後では、同じく薄汚い銃器メーカーが暗躍している。

 が、日本のように銃の保持を徹底的に規制されている国から見ると、
規制する・しないが、どうしてそれほどまでに重要なのか、よくわからない。
言い換えると、どうしてこの日本では、「銃の規制」について、だれも異議を
唱えないのかということにもなる。

 反対に、性描写を徹底的に規制している国もあるはず。
どうしてそういう国に対して、日本は、異議を唱えないのかということにもなる。
手始めに、イスラム教国に対して、自己の正当性を訴えてみればよい。
それほどまでに重要な基本的な権利であるとするなら、国連の人権委員会に
提訴するという方法もある。

 「どうか少女の裸体を、自由に描かせてください」、
少女が輪姦される場面を、描かせてください」と。
つまりこうした漫画家たちは、低劣な自分たちの商業主義を守るために、「表現の自由」
という言葉を利用しているだけ。

●結論

 が、実際には、この問題は、規制するとか、しないとか、すでにそのレベルを超えて
しまっている。
つまり手遅れ。
というのも、現実には、雑誌どころか、中学生や高校生は、成人向けのDVDを
回し見している。
「雑誌の規制」という発想そのものが、今では、陳腐。
(国会で、少女向け雑誌が問題になったのは、私が37、8歳のころ。
A出版社から出ていた「P」という少女向け雑誌が、問題になった。
つまり今から25年近くも前の話。)

雑誌だけが、情報媒体ではない。
さらに今では、インターネットもある。
パンドラの箱ではないが、一度、空に解き放った欲望という鳥は、二度とカゴには
戻らない。
つまり規制したところで、(一応の規制は必要だろうが)、意味はないということ。

 要するに私たちおとなが、それだけの良識と常識をわきまえるしかない。
またそういう良識と常識を作り上げていく。
つまるところ、この問題は、そこへ行き着く。

●最後に……

 今回のこの問題は、「表現」とは何か。
「自由」とは何か。
それについて、おおいに考えさせられた。

 ただこういうことは言える。
こうした問題に対する感じ方には、東京という(都会)と、私たちの住む浜松(地方)
との間には、「温度差」があるということ。
東京の人たちが東京という範囲で、何をしようが、それは東京の人の勝手。
しかしそういう低劣文化を、地方のほうまで、垂れ流さないでほしい。
この浜松で、あんな絵を描いて、金儲けにつなげている人はいない。
私が知るかぎり、いない。
それが「東京」というだけで、許されてしまう。
この浜松という地方にまで、流れてきてしまう。

 ついでに一言!

 どこかおかしいぞ、日本の文化!
何が表現の自由だ!
この問題を考えると、どうしてもそこまで考えてしまう。

 以上、一気に殴り書きをしてみた。
文のもつ荒っぽさを、どうか許してほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 言論の自由 表現の自由 非実在青少年 薄汚い商業主義 権利の濫
用 コミックの規制)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

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【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●思想の偏向(Inclines Thoughts)

少し前、「あなたの思想には問題がある」と
言ってきた人がいた。
「教育者」というのは、思想的に、無色、
透明でなければならないのだそうだ。

そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
しかし思想のない教育者ほど、こわいものは
ない。
進学受験塾の若い講師を頭に思い浮かべてみれば、
それがわかる。

もし点数や成績だけで、子どもという(人間)を
判断するようになったら、どうなる。
どうする。
そういう人を、「教育者」と呼ぶ人は、いない。

もちろん「教育者」にはふさわしくない思想もある。
たとえば、超自然現象を信奉している人。
極端な思想にかぶれている人。
良好な対人関係が結べない人。
一般的な常識から、はずれている人などなど。

恐ろしいといえば、ハリーポッターが学んでいる
いるような魔法の学校。
あれほど、恐ろしい学校はない。
数学の問題を、杖を使って解いたり、
化学の実験で、水から金塊を作ったりするように
なったら、どうなる?
すべての(合理)が、吹き飛んでしまう。
文学も、地理学も、歴史学も不要。
航空力学も不要。
箒(ほうき)があれば、自由に空を飛べる。

ハリーポッターが籍を置くような学校は、学校ではない。
少なくとも「教育の場」ではない。
またその学校にいる教師たちは、教師ではない。
もちろん教育者でもない。
頭の狂った、ただの魔法使い。

もちろん私は、そういう(非合理)とは無縁の
世界にいる。
が、だからといって、何も考えていないわけではない。
毎日、何かを考えている。
その(考えている部分)で、いろいろなことを書く。
それが(思想)ということになる。
が、それがだめというのなら、私は進学塾の講師に
なるしかない。

 ……と書きながらも、実は、こうしたものの
考え方自体が、偏向しているのかもしれない。
そういう心配は、ある。
たとえばアメリカの南部の学校では、いまだに
ダーウィンの進化論を否定しているところがある。
そういうところで、「進化論は正しい」などと
主張しようものなら、私など即、「偏向教師」の
ラベルを張られててしまうだろう。

 つまりこれも相対的な問題ということになる。
偏向している人から見れば、私は偏向している。
が、自分が偏向していたら、自分の偏向に
気づくことはない。

 だから今は、こう思う。
「私の思想には問題があるのかなあ」と。
ここは謙虚にその人の意見に耳を傾けてみる必要がある。
……というより、さらに自分を疑ってみる必要がある。
「私は偏向しているかもしれない」と。

 毎日が、その繰り返し……。
それとの闘い。
偏向すればするほど、真理は私から遠ざかる。


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【静かな夜に……】

●夜行便

 夕食後、ワイフに、「山荘へ行こうか?」と声をかける。
すかさず「いいわ」と。
「9時に行こうか?」と言うと、「早ければ早いほうがいいわ」と。
それで8時半になった。

 一度DVDショップへ寄る。
借りたビデオを返し、新しいビデオを借りる。
ワイフは、山荘ではいつも、DVDを見る。
で、そのまま山荘へ。

 たった今、時刻は10時20分。
あれこれルーティンをこなし、やっと落ち着く。
ワイフは横で、『アザーマン』というDVDを見ている。
私は、半分横目で見ながら、こうしてパソコンのキーボードをたたいている。
妻の不倫の映画らしい。

妻ががんで死亡する。
携帯電話を残していく。
その携帯電話に、別の男(アザーマン)からの伝言が残っている。
夫は、その内容から、妻が不倫を重ねていたことを知る。

●不倫

 非公式な調査によれば、(非公式に決まっているが)、約30%の既婚者に、
不倫の経験があるという。
現在進行中の人も多いはず。
が、私の持論は、ただひとつ。
「不倫をするなら、命がけでせよ。
その覚悟がなければ、不倫などするな」。

 ……とまあ、わかったようなことを書くが、本当のところ、私には何もわかって
いない。
で、その私だが、「不倫したことがあるか?」と聞かれたら、「YES」とも「NO」とも、
何とも答えようがない。
「ないなら、NOと言えばいい」と思う人もいるかもしれない。
しかし「NO」と書いたところで、どうせウソと思われる。
もちろん「YES」とも書けない。

 それに「浮気」ということになれば、毎日のようにしている。
意識の中で、している。
「意識」と「行為」の間に、一線を引くのは難しい。
引いても意味はない。
美しい女性を見たとき、頭の中で不倫を想像する。
意識的な不倫ということになる。

一方、行為的な不倫を重ねながら、ただの「排泄行為」ととらえる人もいる。
このばあいは、不倫ということには、ならないのではないか。

これはワイフの持論。
私のワイフは、いつもこう言っている。
「本気でなければ、いつでも浮気してもいいわよ」と。

 私のワイフは、少しふつうの女性とはちがう。
だから「YES」とも、「NO」とも、私には答えられない。

●A子さんの不登校問題

 ここへ来る前、コンビニに立ち寄った。
何冊かの週刊誌に目を通した。
皇室に関する記事が、目にとまった。
A子さんの不登校問題。
読んだ。
読んだが、ここまで。

 私に立場などあるわけないが、立場上、何も書けない。
非難を恐れているわけではない。
この種の問題は、「too private」。
英語ではそう言う。
「あまりにもプライベート」。

 皇室の問題だから、というわけではない。
私の生徒の問題であっても、その相手とわかるときには、私は何も書かない。
何も書いては、いけない。
そんなことは、この世界では、常識。

ただ言えることは、こうまでプライベートなことを、おおげさにしてよいものか
ということ。
皇室にも、プライバシーというものがある。
子どもはまだ、小学生。
女の子。
そっと静かにしておいてやることこそ、大切。
仮にそうであっても、記事にしてはいけない
どうしてこの日本では、そういう常識が働かないのか。

●『アザーマン』

 この原稿を書きながら、ずっとDVDを見ていた。
実話以上の実話というか、どこまで掘り下げても、矛盾がない。
奥が深い。
ありきたりの想像力では、ついていけない。
「なるほどな」とか、「そういうものだろうな」とか、映画を見ながら、
そういう言葉がつづく。

 最後は、夫は、不倫相手といっしょに、追悼パーティをもつ。
構成は、映画『マジソン郡の橋』に似ている。
妻は、不倫を重ねていた。
しかし本気だった。
だから(?)、がんの治療もこばんだ。
自ら「死」を選んだ。
夫への罪の意識からか。

 妻は、赤い靴を、ある湖に捨ててほしいという遺言を残して死ぬ。
男との思い出の靴。
男との思い出の湖。

久々に、男と女の、深い愛についての映画を見た。
(わかったようなことを書いて、ごめん。)
星は3つの、★★★。
『マジソン郡の橋』を見て感動した人には、お奨め。

●原稿

 今夜は、山荘で10枚以上、原稿を書くつもりだった。
しかし今のところ、たったの3枚。
映画に気をとられてしまった。

 私は意志が弱い。
誘惑に弱い。
ああでもない、こうでもないと言いあいながら、映画を見た。
で、終わったのが、午前0時ごろ。
「映画が終わったら、原稿を書こう」と思っていたが、その前に眠くなってしまった。
だから今夜は、ここまで。

 みなさん、おやすみなさい。


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●親戚づきあい

++++++++++++++++++

親戚づきあいに苦しんでいる人は、多い。
K県に住んでいる、S氏(63歳、男性)も、
その1人。
実家は、群馬県のO市。
大学を卒業すると、そのままY市(大都会)に
就職。
現在は、Y市の建設会社で、設計の仕事をして
いる。

群馬県のO市には、4歳年上の姉がいる。
行き来は、ほとんどない。
たいへん不誠実な人らしく、「本当のことは、
10に1つもない」(S氏)とのこと。

一方、群馬県のO市は、昔から女性が強い
ところとして知られている。
年上ということもあって、S氏は、いつも
姉に怒鳴られてばかりいるという。

「あんたも男だから、父親のめんどうをみろ」とか、
「家を出たんだから、実家を建て直すくらいの
ことは、しろ」とか、など。
S氏が一軒家を購入したときも、「親よりいい家に
住むとは許せない」と言われたこともある。

こうしてS氏は、Y市に住むようになってから
というもの、心の休まる日は、ほとんど
なかった。
このあたりの事情は、私の過去に似ている。
S氏の心情が、痛いほど、よく理解できる。

が、昨年、ずっとひとりで住んでいた父親が、
他界した。
最後の1年あまりは、姉がめんどうをみた。
それもあって、現在、相続問題で、S氏と
S氏の姉は、断絶状態。
遺産といっても、父親が残したのは、30坪
あまりの宅地と、築30年の古家だけ。
今、売っても、500万円にもならない。
S氏は、こう言う。

「葬儀費用だけで、300万円近くもかかり
ました。
全額、私が払いました。
それを無視して、姉は、地元で父のめんどうを
みたのは私だからという理由で、宅地の
所有権を主張しています」と。

が、問題は、これだけではない。
そこへ叔父、叔母がからんできた。
さらに姉の娘婿がからんできた。
「私たちにも、取り分がある」と。

「姉は地元にいるため、ひんぱんに連絡を
取り合いながら、私を悪者にしています。
こういうときは、どうしたらいいでしょうか」と。

++++++++++++++++++

●血縁という幻想

 財産といっても、数百万円。
1年間、何とかがんばれば、取り返せる金額である。
そんな財産を取りあって、兄弟、姉妹、親戚がたがいに騒動を繰り返す。
さらにそこへ本来なら、相続権のない、甥夫婦や姪夫婦がからんでくる。
そういうケースは、多い。

 もっとも、こうした問題には地域性もある。
親戚づきあいが濃密な地域もあれば、希薄な地域もある。
個人差もある。
だから一概には言えないが、「血縁に、幻想をもってはいけない」ということ。
『兄弟は、他人の始まり』ともいう。
関係が近いだけに、一度こじれると、とことんこじれる。

●50歳を過ぎたら・・・

 私も50歳を過ぎるころから、親戚に対する考え方が、少しずつ
変化してきた。
それまでは、親戚づきあいは、ほかの人間関係に優先させてきた。
「何かあったとき、助けてくれるのは、親戚」と。

 しかし世の中には、甥や姪を平気でだます人もいる。
だまして、金を取る。
それを知ってから、私は一歩、退いて親戚をみるようになった。
そしてこう考えるようになった。

 「この人は、本当に親戚の一員と考えていいのだろうか」と。

 ほとんどの人はよい人だが、中には、私の失敗(?)を、
心待ちにしている人もいる。
心のゆがんだ人もいる。
私はそういう人とのつきあいについては、一線を引くようにした。
表面的なつきあいはしても、そこまで。
とくに陰で、私の悪口を言っているというような人とは、たとえ近い親戚でもつきあわな
い。

 そういう人とつきあうのは、疲れる。
誤解を解こうとすると、もっと疲れる。
だから離れる。

●親族関係

 日本人は、儒教文明圏に属するから、血縁関係を重要視する。
江戸時代からの「家制度」もある。
「家制度」というよりは、「墓制度」というべきか。
「墓」を中心とした、親族関係を築く。
だから欧米人と比較しても、日本人は、かなり独特の考え方を
する。 

 その(独特さ)は、わからない人には、わからない。
骨のズイまで、和式の親族関係がしみ込んでいる。
それがその人にとっては、世界の常識ということになる。
またそれ以外の常識が理解できない。

 私のよく知っている人(女性、80歳くらい)に、こんな女性がいた。

 息子(50歳くらい)から預かっていた土地の権利書と印鑑を
勝手に使って、息子名義の土地を、売り渡してしまった。
それについて息子が抗議すると、その女性はこう言ったという。

「親が、先祖を守るために、息子の財産を使って、何が悪い!」と。

 こういう話を聞いて、ほとんどの人は、その女性のしたことは
まちがっていると思う。
しかしその一方で、「当然だ」とか、「親は親だから」とか、
さらに「親がまちがったことをしても、子どもには責める権利は
ない」と言う人がいる。
2010年になった、現代でも、いる。

●『2人の人には、いい顔はできない』

 S氏のケースでも、一般論や常識論を、そのまま当てはめる
わけにはいかない。
家族の関係は、外からは計り知ることができないほど、複雑。
親戚関係となると、さらに複雑。
いくら想像力を働かせても、そこには限界がある。

 だからこういうケースのばあい、私自身の経験からしても、
何ともアドバイスのしようが、ない。
あえて言うなら、親戚関係は、「水」のようなもの。
水が高いところから低いところを求めて、自然に流れていくように、
時間がたてば、自然と解決していく。
淡々と事務的に、ことを運べばよい。
多少の波風は立つだろうが、それも時間が解決してくれる。
さらに言えば、「言いたい人には、言わせておけばいい」となる。

 イギリスの格言にも、『2人の人には、いい顔はできない』という
のがある。
つまりそこまで割り切らないと、こうした問題は解決しない。
またそれで兄弟関係、親戚関係がおかしくなったとしても、だ。

 このつづきは、また来週にでも書いてみたい。
久しぶりに、今度の日曜日に、そのS氏が、浜松へやってくる。
その後、どうなったか、じかに会って話を聞いてみたい。

●抑圧

 S氏は、急用ができたとかで、静岡まで来て、そのまま群馬へ
向かってしまった。
そのため予定していた話は、聞けなかった。
私のほうも、聞かなかった。

 S氏から今までに聞いた範囲で、話を進めてみたい。

 で、S氏の姉だが、かなり口のうまい人らしい。
そのため、S氏の悪口を言いふらすのも、うまい。
ときに涙声で、自分の正当性を訴えることもあるという。
地元を離れているため、S氏にしてみれば、反論のしようがない。
ないばかりか、地元へ帰るたびに、親戚中から、冷たい視線で見られるという。
群馬県のO市あたりでは、一度、「親捨て」というレッテルを張られると、
近所づきあいもできなくなるという。

 S氏はいつだったか、こう言った。
「ほら、K国のミサイルが日本上空を飛ぶという事件がありましたね。
あのとき、私はあのミサイルが、O市の上へ落ちればいいと思っていました」と。
抑圧された心理状態が、S氏の心をそこまでゆがめた。

●いい子ぶらない

 私のばあいもそうだったが、こうした問題は、「時の流れに任す」。
ジタバタしてはいけない。
ジタバタすればするほど、深みにはまってしまう。
精神上の健康にも、よくない。

 それにこうした問題は、どこの家庭にもある。
今は平和に見える家庭でも、やがてそのときになると、火山の噴火のように、
噴き出す。

 それに悪口を言われたからといって、気にしてはいけない。
多くのばあい、悪口を言った人のほうが、評判を落とす。
私のばあいも、昨年、実家の旧家を売却した。
それについて、あれこれと騒いだ人がいた。
しかし私にも言い分はある。

 過去30年近く、税金のみならず、生活費を負担してきた。
そのときまで4年間、空き家になっていた。
台風が来るたびに、屋根瓦が落ちたりして、近所に迷惑をかけた。
そういう旧家を維持するというのも、実際問題、不可能。

 要するに、『口を出すなら、金を出せ』と。
言い方は汚いが、そこまで割り切らないと、こうした問題は解決しない。
つまり相手にしない。
それで相手が去っていくなら、去らせておけばよい。
どうせその程度の関係。
言い方はきついが、そこまで言い切らないと、こうした問題は解決しない。
簡単に言えば、「いい子ぶらない」。

 最後に、『時の流れに任す』には、もうひとつ重要な意味が含まれる。
やがてみな、年を取っていく。
人間に寿命があるのと同じように、この種の問題にも、寿命がある。
相手がどうがんばったところで、10年はつづかない。
20年は、ぜったいにつづかない。
それよりも重要なことは、あなたはあなたで、私は私で、残り少ない
人生を、前向きに生きていくということ。

 こうした話は、私たちの世界では、「痴話(ちわ)話」という。
そこらのオジチャン、オバチャンが酒を飲みながら話すような話。
いくら論じても、そこからは何も生まれない。

Hiroshi Hayashi++++++March.2010++++++はやし浩司

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●真剣勝負

+++++++++++++++++

今日(2010年3月16日)、
年中児クラスで、3歳児を相手に
真剣勝負をした。
「真剣勝負」だ。

たまたまS君(年中児)の妹(3歳児)が、
母親といっしょに、参観に来ていた。
で、最初は、「いっしょにやらせてみませんか」と、
私が軽く声をかけた。
3歳児にしては、鋭い目つきをしていた。
孫の芽衣を思い出した。
親近感が、ググーッとわいてきた。

で、みなと一緒にレッスンを始めた。
ほかの子どもたちは、4歳児(3人)と、
5歳児(3人)。
その女の子を入れて、計7人。

が、そこは3歳児。
ニコニコと、そのつど笑ってはくれるが、声は
出さない。
そこでいつもの私の真剣勝負が始まった。
そういう子どもを見ると、がぜん、……
というより猛烈な闘志がわいてくる。
「何とか声を出させてやる!」と。

で、真剣勝負!
まさに真剣勝負!

50分のレッスンである。
刻々と時間が過ぎていった。
「今日はだめか……」と思った、その瞬間、
その女の子が声を出した!
あと数分でレッスンが終わるという、そのとき
だった。

「1、2、3、4、5」と。
声を出して、数えた!

うれしかった。
内心で、「ヤッター」と歓声をあげた。
そのときの様子を、ビデオに収めた。
興味のある人は、ぜひ、見てほしい。

【年少・年中児(引き算の学習)】BW幼児教室byはやし浩司


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●性的暴行

+++++++++++++++++++++++++

福岡県内で英会話学校を経営する米国人の男(69)が、
教え子の小学生女児に性的暴行をしたとして、
婦女暴行容疑で福岡県警に逮捕されていたという。

確たる証拠はないが、私の近辺でも、似たような事件が、
起きている。

その男(アメリカ人、現在50歳と少し)の手口は、こうだ。

「個人レッスン」とか、「夕食に……」とか言って、
子ども(女子高校生が多い)や、母親を自宅へ呼び出す。
そしてそのとき、アメリカ式に、軽く抱き、頬に接吻する。
そのときの反応を見て、そのアメリカ人は、その後の行動を
決める。

何をどう決めるかは、みなさんが勝手に想像したらよい。

日本人にはそういう習慣はないから、アメリカ人に
そうされただけで、我を忘れてしまう女性は多い。
うっとりとして、身体の力を抜いてしまう。

++++++++++++++++++++++++++

+++++++++++++以下、ヤフー・ニュースより+++++++++++++

福岡県内で英会話学校を経営する米国人の男(69)が、教え子の小学生女児に性的暴行
をしたとして、婦女暴行容疑で福岡県警に逮捕されていたことが、捜査関係者への取材で
わかった。

 男は別の女児の裸を撮影したとして、児童買春・児童ポルノ禁止法違反(製造)容疑で
すでに逮捕、起訴されている。県警は、男が十数年前から、児童を中心に40人以上に性
的暴行を繰り返していたとの疑いを強め、余罪を追及している。

 捜査関係者によると、男は数年前、福岡県内の自宅で、小学生女児に乱暴したとして、
今月上旬に逮捕された。容疑を認め、「女児にせがまれたのでやった」と供述しているとい
う。

 男は1月、別の女児にわいせつな行為をしたとして、児童福祉法違反(淫行(いんこう))
容疑で逮捕されたが、処分保留となった。

 その際の捜査で、自宅から数百本のビデオテープなどが見つかり、県警が押収して映像
を分析した結果、十数年前から、少なくとも40人の女性に暴行していた疑いが強まった。
被害者の多くが小学生だった。

 県警は2月、女児をビデオカメラで撮影したなどとして、男を児童買春・児童ポルノ禁
止法違反(製造)容疑で再逮捕。男は今月上旬、同法違反(製造)で起訴された。男は「撮
影は子供が大人になった時、成長記録として見せてやるつもりだった」などと話している
という。

 男はわいせつな行為をする際、「勉強会をする」と言って、女児らを自宅に誘い込んでい
た。「親も先生も逮捕されてしまうから、内緒にしていてね」と口止めをしていたという。

+++++++++++++以上、ヤフー・ニュースより+++++++++++++

●ある女性(母親)

 ある母親(夫もいて、2児の母親。当時40歳くらい)が、アメリカ人の英会話講師に
夢中になってしまった。
ことの発端は、娘(小学生)といっしょに、そのアメリカ人講師のマンションに招かれた
こと。
いっしょに夕食を楽しんだ。

 甘いムードと、あやしげな雰囲気。
あいさつがわりの軽い接吻。
ソファに座ると、アメリカ人講師は、身体をぴったりとつけて、その母親に横に座る。
その瞬間から、ほとんどの女性は、そのアメリカ人講師に夢中になってしまう。

 その母親もそうだった。
アメリカ人講師がアメリカへ帰ることになったときのこと。
その母親は半狂乱になり、夫との離婚まで考えたという。
が、「女」は、その母親1人ではなかった。
10人近くもいた!
(これは本当の話だぞ!)

 よくある話である。

 もっとも私が知っているのは、ここまで。
それに(おとな)と(おとな)の関係。
「?」とは思った。
が、この問題だけは、どうしようもない。

 だから以前から何度も、書いてきた。
「個人レッスンで、自分の子どもを外国人の自宅へやることだけは、やめたほうがいい」
と。
とくに相手の講師が独身のときは、タブーと考えてよい。

 私は、白人の手口(?)をよく知っている。
また日本人の女性が、白人の誘惑(?)に、いかに弱いかも知っている。
彼らは日本人の私たちとちがって、子どものときから、そういう(くどきの訓練)を重ね
ている。
 言い替えると、日本の女性たちは、あまりにも無防備すぎる。
日本の男性(夫)たちは、あまりにも無知すぎる。

 こうした私の見方を、「偏見」と、どうか誤解しないでほしい。
彼らのもつ常識と、私たち日本人がもつ常識の間には、明らかなズレがある。
それなりの男と女が、一対一で、独立した部屋に入れば、彼らはそれを「チャンス」と
とらえる。
が、けっしてそういった思惑は、顔には出さない。
そういう作法が、実に、うまい。
感心するほど、うまい。
私はそういう光景を、留学時代、何度も見てきた。

 だからあえて言う。

「外国人講師の自宅へ、けっしてひとりで行ってはいけない」と。
これには母親も女性もない。
男児も女児もない。
私は今度のニュースのような事件は、まさに氷山の、そのまた氷山の一角にすぎないと断
言する。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【援助論】

++++++++++++++++

意識のズレというのは、恐ろしい。
ズレていても、それに気づくことはない。
脳のCPU(中央演算装置)そのものが、
ズレる。
が、それにとどまらない。
さらに恐ろしいことが、起きる。
ズレたまま、それを基準に、世界を見る。

たちえばこんな話がある。

A氏とB氏は、兄弟。
A氏は、ビジネスに成功して、かなりの余裕が
ある。
一方、B氏は、何をしても失敗。
B氏には、これといった定職もない。
暴力団に属しているといううわさもあるが、
下っ端。
貧乏のドン底を這うような生活をしている。
毎日の食事すら、ままならない。

そこでA氏は、B氏を何とか援助してやろうと、
ときどき庭仕事を頼むことにした。
最初は土日だけの、アルバイト的な仕事だった。
たいしか金額ではなかったが、そのつどA氏は
B氏に、現金で日当を払った。

が、B氏がA氏に感謝したのは、最初だけ。
B氏の仕事は、月を追うごとに雑になって
いった。
一度は、飼い主の犬がほえたことに腹を立て、
棒でたたいてけがをさせたこともある。
B氏は、短気だった。
それに気分屋で、言うことがクルクルと変わった。

で、A氏は、土日の仕事を断わることにした。
が、これにB氏のほうが、激怒した。
「仕事をよこさないなら、たいへんなことになる」と。
「暴力団の、元仲間を呼び寄せて、報復する」とまで、
言った。

意識のズレというのは、そういうもの。
A氏はB氏を、見るに見かねて、助けの手を伸ばした。
B氏は、それに感謝した。
しかし援助もしばらくつづくと、やがて当たり前になる。
さらにしばらくつづくと、援助される側が、それを
要求するようになる。
援助してもらっているという意識が、消える。
そしてB氏のように、それまでの恩義を忘れ、
逆に、「援助しなければ報復する」と、A氏を脅す。

ソウル発、聯合ニュースは、つぎのように
伝える。

++++++++++以下、聯合ニュースより++++++++++++++

【ソウル2010年3月14日聯合ニュース】

 北朝鮮の朝鮮アジア太平洋平和委員会が4日の報道官談話で金剛山・開城観光事業の破
棄を警告したことについて、週刊新聞「統一新報」は13日付で、「南朝鮮(韓国)当局に
与えられた最後の機会であり警告」だと報じた。

 北朝鮮ウェブサイトの「わが民族同士」が14日に伝えた。統一新報は、韓国当局が本
当に金剛山・開城地区観光の再開を考え、南北関係がさらに取り返しのつかない対決局面
に駆け上がることを望まないなら、ア太平和委員会報道官談話に慎重に対処しなければな
らないと主張している。

 この報道官談話発表後の韓国側当局者らの発言についても言及し、「事態の厳重性にまっ
たく気付かない愚鈍な行為にほかならない」と非難した。

 また、韓国当局は、機会はいつでも訪れるものではなく、時間は常に彼らだけのために
流れるのではないということを知るべきだと指摘。「彼らの固執的でふそんな態度が観光再
開はもちろん北南(南北)関係に及ぼすことになる厳重な結果を正しく知り、分別をもっ
て身を処すとよい」と威嚇した。

++++++++++以上、聯合ニュースより++++++++++++++

●何も韓国の肩をもつわけではないが……

 この記事は、読めば読むほど、「?」マークが並ぶ。
援助してもらう側が、逆に、援助してくれる側を、脅迫している。
要するに韓国は、観光事業を再開して、金(マネー)をよこせと言っている。
別のニュースでは、「観光事業を再開しないなら、(韓国側が建てた設備すべてを)、
没収する」と、韓国側を脅している。
しかしこの論法すべてが、おかしい。
私たちのもつ常識(意識)と、大きくかけ離れている。
が、何も韓国の肩をもつわけではない。

 今から25〜30年ほど前、これとまったく同じことを、韓国は日本に対して
繰り返していた。
そのためにストにつぐ、スト。
嫌気がさした日本企業は、韓国からつぎつぎと撤退した。
が、韓国人は、日本国内まで追いかけてきて、「金よこせ!」を繰り返した。
もちろん設備は、「補償」と称して、そのまま韓国側が、没収。

●独裁国家

 話は少し脱線するが、発達心理学の世界には、「自己愛」という言葉がある。
自己中心性が極端に肥大化した状態を、「自己愛」という。
つまり自己中心性のかたまりのような人を、「自己愛者」と呼ぶ。
やることなすこと、自分勝手。
自分のことしか考えない。
「自分だけがよければ、それでいい」と。
自分の失敗すら、他人のせいにする。
軽蔑してさしつかえない人ということになる。

 現在のK国を見ていると、まさにその感じがする。
とくにK国のように、きわめて独裁色の濃い国では、独裁者の心情がそのまま、
国の姿勢となって外に現れる。
K国のおかしさイコール、あの独裁者のおかしさと考えてよい。
が、それにしても、常識をはずれている。
問題は、しかし、そのことではなく、どうしてこうまで意識がたがいにズレて
しまうかということ。
似たようなことを、私たちも、日常生活の中で経験する。
冒頭に書いたような話は、いくらでもある。

●援助

 話を戻す。

 日本は戦後、毎年数兆円規模の海外援助を繰り返してきた。
国連への供出金も、相当な額になる。
しかしその分だけ、外国の国々が日本に感謝しているかというと、それはない。
日本のバブル経済がはじけたとき、それを笑った国はあるが、日本を助けて
くれた国は、ゼロ。
韓国や中国にいたっては、「援助を止めるな」「もっと金をよこせ」と要求してきた。
おおざっぱな言い方だが、大筋では、まちがっていない。

 つまりここに「援助」の落とし穴がある。
援助される側は、(感謝)→(当然)→(要求)→(脅迫)というプロセスを経て、
「援助の意味」そのものを空洞化させてしまう。
だからというわけでもないが、知人、友人関係、さらには親子関係においても、
「援助」するときは、慎重にしたらよい。
一度、(保護)(依存)の関係ができてしまうと、保護する側は、一方的に保護し、
依存する側は、一方的に依存するようになる。
それを断ち切ることもできなくなる。
意識そのものが、ズレてくる。
話を戻すが、現在の韓国とK国との関係が、その一例ということになる。

●『いっしょに釣りに行け』

 私たちは、常に自分の意識をもとに行動する。
それが私たちにとっては、「常識」ということになる。
しかし同時に、そうした意識を、絶対的なものと思ってはいけない。
たとえば援助してやるばあいも、援助するすることによって、相手は感謝している
はずと、考えやすい。
が、そういう意識ほど、アテにならないものはない。
さらに厳密に言えば、金銭的な援助には、意味がない。
あっても、きわめて小さい。
これには、先にも書いたように、知人、友人関係、さらには親子関係においても、
同じ。
もちろん国際関係においても、同じ。

 だからイギリスでは、こう言う。
『(子どもの心をつかみたかったら)、釣り竿を買ってやるより、いっしょに釣りに行け』
と。
つまり『金でモノを買ってやるより、いっしょに苦楽を共にせよ』と。

この格言は、あらゆる場面に通用する。
またそれによってのみ、たがいの意識のズレを防ぐことができる。
国際的な「援助」を考えるときの一助になればうれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 援助論 自己愛者 援助 意識のズレ 常識のズレ)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●アメリカ人の友人たちへ
(To my friends in USA as to TOYOTA recall problem)
You have almost lost the last friend in Asia!
We, the Japanese, have disappointed very much with Americans.

++++++++++++++++++++++

今度のTOYOTA問題を通して、君たちは、
アジアにおける最後の友人を失いつつある。
それを私たちは、とても残念なことに思う。

You have almost lost the last friend that had remained to be so in Asia through the 
TOYOTA problems, for which we feel very sorry.

より多くの日本人が、反米的になりつつある。
新米的であった私でさえ、アメリカに、大きく失望した。
そして今では、こう言うようになってしまった。
「くたばれ、アメリカ!」と。

More and more Japanese are becoming anti-American and even I, whom I supposed 
myself to be a pro-American, do not hesitate to say, "Down with USA".

再現性のない、インチキ実験?
報道映像の捏造?
さらには保険金目当ての、にせ事故?。などなど。
日本では、急加速は、一例も報告されていない。
それもそのはず。
この日本で、両足を、ブレーキとアクセルの両方にのせて運転する人はいない。
「事故の95%は、運転手によるもの。
車によるものは2%にすぎない」(アメリカ国家ハイウェイ安全局(NHTSA)会長)。

リコール後も、600万台のプリウスについて、60件の苦情があったとか。
(600万台につき、60件だぞ!
GM車やフォード車については、どうなのか?)

それについて、「NHTSAは、さらなる改善策をTOYOTAに命じた」とか。
アメリカよ、少しは、冷静になれ。
これを「日本叩き」と言わずして、何という?

A very doubtful experiment, which was proved to be a fake,
A fabricated report on TV,
False accidents reported in the Congress...,
and more over it is strange that none of these sorts of accidents are reported in Japan.
No stupid men put both feet on each a brake pedal and accelerator pedal at the same 
time in Japan.
Be calm!
NHTSA has ordered Toyota to provide a different solution, since 60 complains are 
reported among 6 million TOYOTA cars. 
Isn't this "Japan Bashing" or what else?

+++++++++++++++++++++

●TOYOTA問題

 今回の一連のTOYOTAの、この騒ぎは、何のか。
よくわからないが、ことの発端は、急加速による事故。
それに1教授のインチキ実験が火をつけた。
その教授は、コードの絶縁体を意図的にはがし、それでもって、急加速を再現してみせた。
しかし「(絶縁体がはがれるなどいうことは)、通常の状態では起こらない」。
そんなことは、一般的な常識。
そこで今度は、同教授は、引っ込みがつかなくなってしまったのだろう。
5ボルトの電圧をかけ、「同じようなことが起こる」と実験してみせた。

 しかし急加速問題は、何もTOYOTAで始まったわけではない。
それ以前からも、いろいろなメーカーの車で、同じようなことは起きていた。
また同じような実験をすれば、ほかのメーカーの車でも、同じような反応を起こすことが
わかった。
つまりこれは、TOYOTA車の問題というよりは、アメリカ人の車の乗り方に問題とい
うことになる。

 当初、「アクセルとブレーキを同時に踏むと……」という報道が流れたとき、私には、そ
の意味がよくわからなかった。
「アクセルとブレーキを同時に踏むとは、どういうことなのか」と。
そのまま解釈すれば、アメリカ人というのは、両足を、アクセルとブレーキの両方に、足
を載せて運転しているということになる。
しかし日本人は、そういう乗り方をしない。
そのためにアクセルもブレーキも右側(アメリカでは左側)に、寄せて並べてある。
 
●性急な結論は危険

 つぎつぎと新事実が、明るみになってきている。
が、今は私もまだよくわからない。
今、ここで結論を出すのは、性急というより、危険。
ただ言えることは、多くの日本人は、アメリカという国に、大きな失望感を覚えつつある
ということ。

報道された記事だけを集めておく。
後日、もう少し事実が明らかになった段階で、このつづきを書いてみたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)疑問だらけのデービッド・ギルバート教授の実験

トヨタ自動車は1日付の米議会あて書簡で、南イリノイ大学のデービッド・ギルバート教
授が先週の公聴会で示した見解に反論した。同教授は、2月23日の下院エネルギー・商業
委員会の公聴会で、自ら行った実験でトヨタ車に発生したとされる急加速の状況を再現で
きたと証言、トヨタの電子系統に問題があるとの見解を示していた。 

ASSOCIATED PRESS 

南イリノイ大学のデービッド・ギルバート教授(2月23日の公聴会で)

 この証言に対し、トヨタは書簡で、独自の調査と同社が調査を委託した技術コンサルテ
ィング会社エクスポネント(米カリフォルニア州)の調査結果に基づいて反論を展開した。
トヨタはトヨタ側の実験でもギルバート教授と同じ結果が得られたが、他のメーカーの車
でも同じ状況が生じたと主張し、同教授の証言は誤解を招くと批判した。 

  エクスポネントは43ページに及ぶ報告書で、 ギルバート教授の実験を他のメーカー
の5車種で行ったところ、すべて同じ状況が発生したことを明らかにし、実験のような状
況は「きわめて可能性の低い欠陥が重なった場合にしか生じない」と結論づけた。 

 ギルバート教授は23日の証言で、「トヨタ・アバロン」のアクセル回路に5ボルトを加
えてショートさせた状態で走行テストを行ったところ、車載コンピューターがエラーコー
ドを発することなく、急加速現象がみられた、とした。トヨタは書簡で、ギルバート教授
が指摘した状況を再現するには、2本のワイヤーの絶縁状態を破壊する必要があった、とし
ている。 

 ギルバート教授から、トヨタとエクスポネントの実験結果に対するコメントは得られな
かった。 

 トヨタの広報担当マイク・マイケルズ氏は、ギルバード教授の調査を「誤解を招く不適
切なもの」とし、「システムをいじりまわしている」と批判した(以上「ウォール・ストリ
ート・ジャーナル日本語版より)。 

★以上の原文

Toyota Motor Corp. rebutted the findings of a study presented at a congressional 
hearing last week that claimed to replicate undetected sudden acceleration in its 
vehicles and called into question the company's electronics. 

TOYOTAは、反証をあげた。

Based on its own study and one undertaken by the Menlo Park, Calif., engineering 
research firm Exponent, which has been hired by Toyota, the car maker said it was able 
to duplicate the result in Toyota vehicles found by David W. Gilbert, a professor at 
Southern Illinois University-Carbondale who testified at a House hearing. But Toyota 
said it also created the same response in vehicles made by competitors, which it said 
rendered Mr. Gilbert's findings misleading. 

ギルバート教授がしたようなことをすれば、ほかのメーカーの車でも、同じようなことが
起きる。

"We have reproduced the engine revving and engine speed increase in Toyota's 
vehicles," Toyota said in a statement dated March 1 and sent to congressional 
committees. "At the same time, we have also confirmed that a substantially similar kind 
of engine speed increase phenomenon occurs with the other manufacturers' vehicles." 
Toyota said the tests Mr. Gilbert performed would not happen "in the actual market." To 
achieve Mr. Gilbert's results, Toyota said it had to cut and breach the insulation on two 
wires. 

TOYOTAは、このような急加速は、TOYOTA車だけにかぎったことではなく、ギ
ルバートの行ったようなテスト(=2本の線の絶縁体をはがし、接触させるようなこと)
は、通常の状態では起きないと言った。

Mr. Gilbert said he will provide an official response but declined to comment on the 
findings by Exponent and Toyota. He said he may travel to California to meet with the 
research concern. 

In the last week, Toyota has endured three bruising congressional hearings questioning 
its belated response to reports of sudden acceleration in its vehicles. While Toyota 
executives acknowledged the company failed to quickly respond to safety issues in the 
past, the company has maintained that faults in its electronics are not behind incidents 
of unwanted acceleration. 

TOYOTAは、安全問題に迅速に答えなかったことは認めるものの、電子部品には欠陥
はないと主張した。

Consumer safety advocates continue to challenge Toyota on that point, charging that 
the rise in acceleration reports-which have been linked to 52 deaths-is correlated to the 
installation of an electronic throttle control system in Toyota and Lexus models 
beginning in 2002. 

消費者安全協会は、52人の死亡について、TOYOTA車との関連を追究する。

Mr. Gilbert, who testified before the House Commerce and Energy Committee Feb. 23, 
said he was able to replicate sudden acceleration without creating an error code in the 
vehicle's onboard computer by introducing five volts into the gas-pedal circuitry of a 
Toyota Avalon. In his report, Mr. Gilbert said his findings "question the integrity and 
consistency" of Toyota's computers to detect malfunctions.

5ボルトの電圧をかけたら、急加速現象が起きた。

In a 43-page report, Exponent, the research firm hired by Toyota to investigate its 
vehicles electronics, applied Mr. Gilbert's test to five models including a Honda Accord 
and a BMW 325i and found all five reacted similarly. Toyota added that it tested three 
competitor vehicles and found they experienced the same engine revving and speed 
increase when their electronics were similarly altered. 

同じような急加速現象は、ほかのメーカーの車でも報告されている。

"For such an event to happen in the real world requires a sequence of faults that is 
extraordinarily unlikely," Exponent said in its report. 

Toyota spokesman Mike Michels described Mr. Gilbert's research as "misleading and 
irrelevant." Mr. Gilbert was "gaming the system," Mr. Michels said. 

ギルバートの報告は、誤解を招くもの。
また車をもてあそんでいるだけ。

Separately, the National Highway Traffic Safety Administration said Thursday it has 
received more than 60 complaints from Toyota owners who report they are still 
experiencing sudden unintended acceleration despite having their vehicle repaired by a 
Toyota dealer under the car maker's recalls. 

TOYOTA のリコール後も、60件の苦情が、国家ハイウェイ安全局(NHTSA)
に届いている。

"Officials are contacting each and every consumer to learn more about what they say is 
happening," the agency said. 

現在、調査中。

If it appears that the remedy provided by Toyota isn't addressing the problem, NHTSA 
said it has the authority to order Toyota to provide a different solution. 
"We are determined to get to the bottom of this," said David Strickland, administrator of 
the auto-safety agency. 

国家ハイウェイ安全局(NHTSA)は、TOYOTAに、ほかの解決策を用意するよう、
命じている(以上、ウォールストリート・ジャーナルより)。  
 
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)【ニューヨーク時事】米ABCテレビは12日までに、2月22日に放映したトヨタ
車の急加速原因が電子制御装置の欠陥であることを立証したとするギルバート南イリノイ
大学教授の実験報道について、映像を操作したものであることを認めた。米メディアがABC
広報担当者の話として伝えた。

 トヨタ自動車は今月8日、ABCが電子回路を人為的にショートさせるなどした同教授の
実験を一方的に脚色して伝え、トヨタ車の電子制御装置の安全性に疑問を投げ掛ける番組
を放送したとして、非難する声明を発表していた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
【ニューヨーク時事・3月16日】トヨタ自動車は15日、米カリフォルニア州サンディ
エゴ近郊の高速道路で急加速を引き起こしたとされるハイブリッド車「プリウス」につい
て、技術者らが関連部品の徹底的な検査のほか、走行テストなど多岐にわたる検証を行っ
たものの、車両に急加速を引き起こすような異常は見られなかったとの暫定調査報告をま
とめた。

 調査は米道路交通安全局(NHTSA)関係者と米議員らの立ち会いの下、10、11の両日
実施された。トヨタは暫定報告で(1)アクセルペダルは正常に機能した(2)前輪ブレーキは著
しく摩耗していたが、後輪ブレーキとハンドブレーキは良好な状態だった(3)正規品のフロ
アマットは留め金には固定されていなかったが、アクセルペダルを妨害もしくは接触する
ような状態は確認されなかった(4)エンジン点火装置は正常だった(5)変速レバーも正常だっ
た(6)アクセルペダルとブレーキペダルを同時に踏んだ場合、エンジン出力が減退する機能
も正常に作動した−などと説明した(以上、時事通信より)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
【ワシントン】米下院エネルギー・商業委員会が23日開いたトヨタ自動車の大量リコール
(回収・無償修理)問題をめぐる公聴会で、急加速を経験したとして証言したロンダ・ス
ミスさんのトヨタの「レクサスES350セダン」が、現在も使用されており、何のトラブル
も起こしていないことが分かった。米高速道路交通安全局(NHTSA)の広報担当者が
24日明らかにした。 

●公聴会で証言したロンダ・スミスさん
 
同スポークスマンによれば、NHTSAが先週、同車の新しいオーナーに聞いたところ、「走
行距離3000マイル弱のところで購入し、何のトラブルも経験せずに走行距離は2万7000
マイルになった」と答えたという。スミスさんは証言で、2006年にテネシー州のハイウェ
ーで制御不能の急加速に見舞われ、時速100マイル(約160キロ)になった恐怖の経験を
涙ながらに語った。その後、スミスさん夫妻は同車を売却した。 

 報告を受けたNHTSAの検査官は、フロアーマットがアクセルペダルに引っかかった
ことが原因と判断した。しかしスミスさん夫妻は、フロアーマットのせいではないと主張。
スミス夫人は、車が速度を上げる前にクルーズ・コントロール・ライトが点滅したことか
ら、電子制御系の問題と考えている(以上、ウォール・ストリート・ジャーナル)。 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
 ただ、2005年のNHTSA調査によると、自動車事故の約95%は運転者のミスに
よるもので、自動車の問題で起こるのは約2%にすぎない。米自動車工業会のマッカーデ
ィ会長は同公聴会で、この報告を引用する予定だ。同会長はまた、車の衝突データを集め
るのにNHTSAがもっと多くの資金を必要としていることを訴える方針だ(以上、ウォ
ールストリート・ジャーナル)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
 先週、米カリフォルニア州のハイウェーで起きたトヨタのハイブリッド車プリウスの急
加速事件で、連邦当局の調査によってブレーキに特殊な損耗パターンが見つかり、運転者
の説明に疑問が浮かび上がっている。関係している3人が語った。

 先週8日、サンディエゴ近くのインターステート8号線で青の2008年型プリウスを運転
していたジェームズ・サイクス氏(61)は緊急電話をかけて、何もしないのにスピードが
時速90マイル(144キロメートル)まで上がったとオペレーターに伝えた。最終的にはカ
リフォルニア・ハイウェー・パトロールのパトカーが同車に横付けし、止めることができ
た。 

 サイクス氏は走行中およびその後に、高速走行中に力いっぱいブレーキを踏み込んだと
話した。

 しかし、関係者によれば、米運輸省道路交通安全局(NHTSA)とトヨタの専門家が
共同でこの車を調査したが、高速走行中に一定時間力いっぱいブレーキが踏み込まれた痕
跡は見つからなかった。

 ブレーキは変色し、損耗が見られたが、その摩擦パターンは運転者が断続的に普通程度
の力でブレーキを踏んだことを示唆しており、サイクスさんが言うような踏み込みはうか
がえなかったという。

 これ以上の詳細は明らかではない。NHTSA当局者は12日、調査に関するコメント
を拒否した(以上、ウォールストリート・ジャーナルより)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 TOYOTA問題 急加速問題 トヨタのリコール リコール問題 
南イリノイ大学 デービッド・ギルバート教授


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【3月15日】

●畑作

昨夜遅く、床につく前、畑を見回った。
冬の冷気を残した、やさしい風が、頬をこすった。
無数に立てた棒の間で、風よけにつくったポリ袋が、ゆるやかに揺れる。
土のにおい。
肥料のにおい。
昨日、ショッピングセンターで、ネギの苗を買い足してきた。
それに併せて、畝(うね)を、一列、細く延ばした。
これからは畑作の季節。

部屋に入って、暖めたミルクに、ハチミツを溶かして飲む。
ミルクが9で、ハチミツが1。
それにココア、もしくはチョコレート、あるいはシナモンがあれば、少し。
これが私の好物。
床につく前には、欠かさない。


●DVD『リトル・ランナー』(英語名は、『Saint Ralph』)

夕食後、DVD『リトルランナー』を観る。
星は5つの、★★★★★。
2004年のカナダ映画。
終わりごろ、ボロボロと涙がこぼれた。
バックにやわらかく流れる、「Hallelujah」の音楽もすばらしかった。

劇場で公開されるから、よい映画とはかぎらない。
劇場で公開されないから、悪い映画とはかぎらない。
配給に乗らない映画の中にも、すばらしい作品はいくらでもある。
『リトルランナー』も、そのひとつ。

DVDを見終わってから、YOUTUBEで「Hallelujah」の曲を
探した。
何度も聴いた。

主役の少年の、飾らない、自然な演技がすばらしかった!


●ウォーキングマシン

 今朝も、書斎に入る前に、ウォーキングマシンで軽く運動をした。
このところ、朝は、20分と決めている。
その20分がすむころには、背中から頭まで、ジワーッと身体が温まってくる。
寒い朝は、これがいちばん。
今朝は、寒かった。
ふとんから出るのがつらかった。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   14日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【天国論】

●ガーデンパーク

++++++++++++++++++

今日の午後、ワイフと2人で、近くの
ガーデンパークへ行ってきた。
浜名湖の北にある、入場無料の公園である。
そこで弁当を食べた。
マガジン用の写真を撮った。
モニターを見ると、空には水色の空が、
広がっていた。
それを見て、私は何度もワイフに
こう言った。

「ここは天国みたいだね」と。

そう、天国のようだった。
何組かの親子連れが通り過ぎた。
犬を連れた人もいた。
車いすに乗った老人も、何組か見た。
のどかで、心温まる光景だった。

++++++++++++++++++

●映画『フィールド・オブ・ドリームズ』

 ケビン・コスナー主演の映画に、『フィールド・オブ・ドリームズ』というのがあった。
名作中の名作である。
その中で、主人公のレイ・キンセラ(ケビン・コスナー)が、父親とキャッチ・ボールを
するシーンがある。
レイ・キンセラは、若いころ父親と口論し、家を飛び出している。
以後、一度も、父親とは会っていない。

 そのレイ・キンセラが、父親とキャッチ・ボールをする。
(映画を観ていない人は、ぜひ、そちらのほうで内容を知ってほしい。)
そのとき、父親がボールを返しながら、レイ・キンセラにこう聞く。
「ここは天国か?」と。
するとレイ・キンセラが、ふと我が家のほうを振り返り、こう答える。
ベランダには妻がいて、子どもがいる。
「Almost Yes(ほとんどそうだ)」と。
見事なほどまでに、感動的なシーンである。

 もし天国というものがあるなら、私はこの世にあると思う。
今日見た、ガーデンパークも、そのひとつかもしれない。
のどかで、平和な光景だった。
どこを歩いても、ほのかな花の香りがした。

●帰りに……

 ガーデンパークからの帰り道、ショッピングセンターで、芝生を買ってきた。
一束、400円弱。
それを5束、買った。
それにネギの苗。
ガーデンパークで、芝の上を歩いているとき、私も、それがほしくなった。
「今年は、芝生に挑戦しよう」と言うと、ワイフはあっさりと同意してくれた。
ガーデンパークのような「天国」というわけにはいかないが、気分だけは、味わえる。
そう思いながら、芝生を買った。

 で、家へ帰って、さっそく作業。
地面を三角鋤(すき)でならし、芝生を並べる。
間を土で埋め、最後に水をたっぷりとかける。
1時間ほどで、作業はすんだ。

 天国……私のような人間は、天国に入れるはずがない。
だいたい、私は、無神論者。
極楽も、無理。
葬儀も戒名も不要と、いつも言っている。
しかし「今」が、「Almost Heaven(ほとんど天国)」なら、私には「今」で、
じゅうぶん。
ぜいたくは言わない。
天国がどんなすばらしいところかは知らないが、知らないなら、知らないでよい。
私は、「今」に満足している。

 ……ほんのりとした充実感を覚えながら、書斎に入った。
入って、この原稿を書き始めた。
時刻は午後5時、少し前。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●雑感

 この1週間、いろいろあった。
少し前、ある玩具メーカーから、仕事の依頼があった。
「玩具に、推薦文を書いてほしい」と。
ついでに新しい企画も、申し込まれた。
が、話が少し進んだところで、先方から、キャンセルしてきた。
私の思想に、問題があるということらしい。
「この世界も、微妙ですから」と、先方の担当者は言った。

 そうかもしれない。
私は一応、幼児教育評論家となっている。
しかし幼児教育の評論だけをしているわけではない。
ご存知のように、宗教評論から、政治評論までしている。
要するに、毎日、書きたいことを、自由に書いている。
それがまずい、らしい。

 「どうぞ、ご勝手に」と思いつつ、そのメールを削除した。

●「色」

 この日本では、政治的な「色」をもった教師は、嫌われる。
左翼系であろうが、右翼系であろうが、事情は同じ。
無色透明であればよいということらしいが、そんな芸当は、私にはできない。
もしそういうことで私から去っていくというのなら、一向に、構わない。
それに私も、もうすぐ63歳。
平均寿命まで、あと15年。
何に遠慮しなければならないのか。
私は私。
その「私」で貫いてやる。
このまま生きてやる。

 しかしその一方で、私のHPやBLOGへのアクセス数が、ぐんぐんとふえている。
現在、2か所の有料HPサービスと、18か所の無料HPサービスを利用している。
平均して、どこも毎日、500〜1000件近い、アクセスがある。
ほかにBLOGもある。

現在、8か所から、BLOGを発行している。
こちらも毎日、300〜1000件近い、アクセスがある。
HPとBLOGだけでも、合計すれば、1日、2万件。

ほかに定期発行の電子マガジンがある。
読者数こそ頭打ちだが、それでも毎週、延べ、1万2000人の人が、読んでくれている。
月になおせば、延べ、4万8000人。

 「色」など気にしていたら、何も書けなくなる。
だから「どうぞ、ご勝手に」と思った。

(注:アクセス数が2万件といっても、2万人ということではない。
1人の人が、複数回アクセスしてくることもある。
が、その一方で、ハイパーリンクといって、カウンターの設置していないページへ直接ア
クセスしてくる人もいる。
そういう人は、カウント数に入らない。
だから実際には、2万人より、はるかに多いとみるのが常識。)

●私の世界

 そんなわけで……。

 私は自分の書斎に入り、パソコンを立ち上げたとたん、言いようのない開放感を覚える。
「解放感」でもよい。
「ここは私の世界」と思うことも、多い。

 が、何よりもうれしいのは、朝目を覚ましたとたんから、(やりたいこと)があること。
時刻に関係ない。
どこかうつ病気質だから、早朝に目を覚ますこともある。
ときに午前4時ごろ、目を覚ますこともある。
が、そういうときは、思い切って起きてしまう。
「1日や2日、人間は眠らなくても死なない」と、自分に、そう言って聞かせる。

 一応、毎朝、ウォーキングマシンの上で、10〜20分間、運動することにしている。
しかしその運動も、もどかしい。
早く書斎に入りたいという衝動が、繰り返し私を襲う。
もっともそのころになると、頭の中がモヤモヤとしてくる。
書きたいことが、脳みその奥から、煙のように出てくる。

 が、もしその(やりたいこと)がなくなったら、それこそ私は、生きる屍(しかばね)。
自分でもそれがよくわかっている。
あとは、そのモヤモヤを文章にするだけ。
それが楽しい。
私の生きがい。

 そう、そのモヤモヤをはき出したときの爽快感は、なにものにも、代えがたい。
……というような話は前にも書いたので、ここまで。
夕食後は、ワイフとDVDを見ることになっている。
DVDの選択は、ワイフに任せている。
楽しみ!


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●映画『シャーロック・ホームズ』(Sherlock Holmes)

++++++++++++++++++

数日前、ディズニー映画の『プリンセスと魔法のキス』
を観た。
「観てきた」ではなく、「観た」。
が、ワイフも私も、途中でギブアップ。
私は居眠り。
ふと目を覚まして横を見ると、ワイフも居眠り。
「帰ろうか」と声をかけると、「帰ろう」と。

観客は私たち2人を含めて、3人だけ。
ディズニー作品にしては、星のつけようもないほど、
超ダ作。
観たのは、最初の30分くらいまで。
いまどき王子だの、何だのと、バカげている。

で、その仇討ちというわけでもないが、昨夜、
ロバート・ダウニー・Jr、ジュード・ロウ主演の、
『シャーロックホームズ』を観てきた。
こちらは星3つの、★★★。

が、私は最初の10〜20分で、トリックを見破って
しまった。
そのため、おもしろさは、半減。
見終わったあと、ワイフに聞くと、ワイフは、
最後までトリックを見破れなかったとのこと。
ハハハと笑って、優越感を覚えた。

+++++++++++++++++++

●皮膚ガン(Skin Cancer)

 映画『シャーロックホームズ』を観ていて、ひとつ気になったことがある。
ホームズの意中の恋人役として、レイチェル・マクアダムスが出演していた。
小柄の、細身の身体の女優である。

 映画を観ていて、その女優の左頬上の、シミが気になった。
かなり大きなシミで、10円玉ほどの大きさがあった。
最初、「女優にも、こんな大きなシミがあるのかな?」と思った。
で、そのシミが、映画の終わりごろには、イボのように、飛び出ていた。
厚い化粧をしていたが、それ以上に、大画面。
レイチェル・マクアダムスが画面に大写しになるたびに、私はそこを見た。
(映画の後半部では、右から写すシーンばかりになったのも、?)

たまたまオーストラリアの友人が、皮膚ガンになったという話を聞いたばかりだったので、
私はそのシミやイボが、たいへん気になった。
もちろんだからといって、レイチェル・マクアダムスが、そうだと言うのではない。
ただ、気になったというだけの話。

●オーストラリア人の皮膚ガン

 友人に何度かメールを送ったが、返事では、いつも「だいじょうぶ」と。
「平気」という印象を受けた。
「オーストラリア人には多い病気」とか、「これからは日光を避け、つばの大きな帽子をか
ぶる」とか。
が、皮膚ガンといっても、軽く考えてはいけない。
「切れば治る」という病気でもないらしい。

 古い原稿だが、オーストラリア人の皮膚ガンにからんで、こんな原稿を書いたことがあ
る(中日新聞掲載済み)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●疑わしきは罰する

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。
四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園や保育園で、排尿、排便ができず、紙オム
ツをあててあげると、排尿、排便ができる。

六歳になっても、大便のあとお尻がふけない。
あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんしてしまう。
反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。
原因は、紙オムツ。
最近の紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。
子どもというのは、排尿後の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削除されてしまった(M誌8
8年)。
「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実はスポンサーに遠慮したためだ。
根拠があるもないもない。
こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う人はいない。
紙オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。
疑わしいが、はっきりとは言えないというようなことである。その一つが住環境。
高層住宅に住んでいる子どもは、情緒が不安定になりやすい…? 実際、高層住宅が人間
の心理に与える影響は無視できない。こんな調査結果がある。

たとえば妊婦の流産率は、6階以上では24%、10階以上では39%(1〜5階は5〜
7%)。流・死産率でも6階以上では21%(全体8%)(東海大学医学部逢坂氏)。
マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティーブルー(うつ病)になる妊婦は、一
戸建ての居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。

母親ですら、これだけの影響を受ける。いわんや子どもをや。
さらに深刻な話もある。

 今どき野外活動か何かで、真っ黒に日焼けするなどということは、自殺的行為と言って
もよい。
私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、1校もない。
無頓(とん)着といえば無頓着。無頓着過ぎる。
オゾン層のオゾンが1%減少すると、有害な紫外線が2%増加し、皮膚がんの発生率は4
〜6%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。
実際、オーストラリアでは,1992年までの7年間だけをみても、皮膚がんによる死亡
件数が、毎年10%ずつふえている。日光性角皮症や白内障も急増している。

そこでオーストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線
防止用の帽子とサングラスの着用を義務づけている。が、この日本では野放し。
オーストラリアの友人は、こう言った。
「何も対策をとっていない? 信じられない」と。
ちなみにこの北半球でも、オゾン層は、すでに10〜40%(日本上空で10%)も減少
している(NHK「地球法廷」)。

 法律の世界では「疑わしきは罰せず」という。
しかし教育の世界では「疑わしきは罰する」。
子どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて、守れる。
害が具体的に出るようになってからでは、手遅れ。
たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせない。紫外線防止用の帽子を着用さ
せる、など。あなたが親としてすべきことは多い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●紫外線対策

 白人は、皮膚ガンになりやすいという話は、よく聞く。
またオーストラリアでは、南極に近いこともあって、オゾンホールが深刻な問題になって
いる。
日本とはやや事情がちがうようだが、私たち日本人も、警戒するにこしたことはない。

 たまたま今日(日曜日)も、私とワイフは、近くの公園へ、ハイキングに行くことにな
っている。
紫外線の予防対策だけは、しっかりとして行きたい。
話を戻す。

●映画の予想

 今回、私は『シャーロック・ホームズ』を観て、先にも書いたように、かなり最初の段
階で、トリックを見破ってしまった。
学生のころ、アーサー・コナン・ドイルの作品は、ほとんど読んだ。
それもあるかもしれない。
ほかの映画とちがって、シャーロック・ホームズの映画に、超自然現象的な事件(映画の
中では、黒魔術)が登場するわけがない。
つまりそういう冷めた目があったからこそ、トリックを見破ることができた。

 もちろんここでそのトリックの内容を書くことはできない。
これから映画を観る人に、申し訳ない。
が、まだ公開されていない映画について、トリックを予想するのは許される。
それを予想するのは、楽しい。

●レオナルド・ディカプリオ主演『シャッター・アイランド』

 最初に断っておく。
この映画は、2010年の4月に、劇場で公開される。
この原稿を書いている今は、2010年3月14日。
ここに書くことは、あくまでも、私の推理。
トリックの予想。
というのも、劇場でもらってきた、映画案内には、こうある。

「謎解きに参加せよ」
「巧妙に仕組まれた映像全てがヒント」
「全ての謎が解けた時、衝撃の事実に誰もが言葉を失うだろう」と。

 そこであえてその謎解きに、映画を観る前に、挑戦してみることにした。
映画『マトリックス』、『シクス・センス』、『ミラーズ』……。
どれもおもしろかった。
どれも私の予想の範囲を超えていた。
で、今回は、『シャッター・アイランド」。

●私の推理

 映画『シャッター・アイランド』の映画案内を読んでみよう。
こうある。

「精神を病んだ犯罪者だけを収容する島から、1人の女が消えた……」
「四方を海に囲まれた厳戒な監視体制の閉ざされた島から、1人の女が煙のように消えた。
そこには暗号が残されていた。
解けば解くほど、謎は深まっていく。
この島は、いったい、何をたくらんでいるのか」(以上、映画案内より)と。

 この映画の予告編は、何度か見た。
断片的な映像だが、どこかオカルト的なシーンもいくつかあった。
以上のことを総合すると、私の推理は、こうだ。
(もし私の推理が的中していても、どうか怒らないでほしい。)

 トリックは、簡単。

 正常な捜査官(?)のディカプリオが、その島に乗り込む。
出だしは、ごくふつうの映画。
が、そこは精神を病んだ犯罪者だけを収容している島。
が、捜査が進むうちに、ディカプリオ自身が、少しずつだが、精神を病んでいく。
同時に、精神を病んでいたと思われた囚人たちが、反比例的に正常になっていく。
一方、ディカプリオが島に乗り込んだとき、正常だったはずの(?)看守たちが、最後の
場面では、精神を病んだ人間に見えてくる……。

 つまり精神を病んだ1人の囚人が消えたのではなく、異常な看守たちによって、正常な
1人の囚人が消された、と。

 正常であるかないかということは、相対的な見方でしかない。
正常な人たちの世界から見れば異常な人たちでも、異常な人たちの世界から見れば、正常
に見える。
反対に、異常な人たちの世界から見れば、正常な世界の人たちが、異常に見える。
正常・異常というのは、あくまでも相対的な見方でしかない。
 
 似たような映画に、(といっても、ここに書いた私の推理が正しいというわけではないが)、
古い映画だが、若いころ、こんな映画を観たことがある。

●兵隊と精神病院

 映画の題名は忘れた。
こんな映画だった。

 ある村に、ドイツ軍が進駐してくる。
が、村は、精神病院に入院していた患者たちをのぞいて、からっぽ。
ほかの村人たちは、みな、逃亡していた。

 で、若い兵隊が、精神病院の患者たちとしばらく、いっしょに過ごす。
最初は、兵隊たちのほうが正常に見え、精神病院の患者たちのほうが、異常に見える。
いかめしい顔つきの兵隊。
一方、どこか間が抜けた患者たち。
兵隊たちが何をしても、ニコニコと笑っているだけ。

が、そのうち、つまり映画が進むうちに、人を殺し合う兵隊たちのほうが、異常に見えて
くる。
反対に精神病院の患者たちのほうが、正常に見えてくるようになる。

 最後には、その兵隊が、「頭がおかしくなった」という理由で、その精神病院に、患者と
して残る。
ほかの兵隊たちは、村へ進駐してきたときと同じように、今度は別の村に向かって去って
いく。
そういう映画だった。
記憶によるものなので、内容は不正確。
しかし印象に残る、たいへんおもしろい映画だった。

 今度の『シャッター・アイランド』も、基本的には、この映画と同じではないか。
私の勝手な推理によるものなので、まちがっているかもしれない。
しかし映画を観る前に、こうして推理を立てるというのも、映画の楽しみ方のひとつ。
私はいつも、そうしている。

 さあ、どうか?
このつづきは、『シャッター・アイランド』を観てから、書いてみたい。
(2010年3月14日、日曜日朝、記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 シャッターアイランド シャッター・アイランド ディカプリオ シャ
ーロックホームズ シャーロック・ホームズ Sherlock Holmes 映画の予想)

(付記)

 あくまでも結果論だが、私の人生においても、同じようなことが起きた。

 私がM物産という商社をやめ、幼稚園の講師になったときのこと。
私の周囲にいた知人たちは、「あの林(=私)は、頭がおかしくなった」と言った。
母ですら、「あんたは、道を誤ったア!」と、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。
私が、M物産をやめて、幼稚園の講師になったことを、告げたときのことだった。
しかし当時、すでに私には、企業戦士とか何とかおだてられて、一社懸命でがんばってい
る知人たちのほうが、おかしく見えた。

 つまり一方の側から見れば、私は、異常ということになる。
しかしその私は、私のことを異常とは思っていなかった。
いなかったばかりか、会社のためと称して、早朝から深夜まで働いている会社人間(失礼!)
のほうが、異常に見えた。

 どちらがどうというのではない。
そんな失礼なことを書いているのではない。
私が書きたいのは、正常・異常というのは、あくまでも相対的な見方でしかないというこ
と。
言い替えると、「正常」の定義など、ないということになる。
また「正常」の定義など、してはいけない。

 ……というようなことを、映画『シャッター・アイランド』の映画案内を読みながら、
考えた。
さて、どんな映画だろう。
公開日に、かならず観に行くぞ!


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●暴走する民主党・小沢一郎独裁政党

+++++++++++++++++

民主党が、暴走し始めた。
検察への報復?
読売新聞(3・13)は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞より++++++++++++

 枝野行政刷新相は13日、神戸市で講演し、民主党の小沢幹事長の資金管理団体をめぐ
る政治資金規正法違反事件に関し、「検察の捜査手法には、最近問題がある」と述べた。

 また、郵便不正事件に絡み、厚生労働省元局長が、虚偽有印公文書作成などの罪で起訴
された事件について、「検察の間違いではないかという疑いが濃厚になっている」と指摘。
「捜査のあり方をきちっと検証し、刑事訴訟法をはじめ、間違いがない制度にしなければ
ならない」と語った。

++++++++++以上、読売新聞より++++++++++++

●枝野発言

 報道の要点をまとめてみる。
 
枝野行政刷新相は13日、神戸市で講演し、民主党の小沢幹事長の資金管理団体をめぐ
る政治資金規正法違反事件に関し、

(1)「検察の捜査手法には、最近問題がある」
(2)「検察の間違いではないかという疑いが濃厚になっている」
(3)「捜査のあり方をきちっと検証しなければならない」と。

 この発言自体が、日本の三権分立制度を、その根底から否定している。

●三権分立制度

 立法、行政、司法権の3つを、独立させ、分類した機能をもたせることを、三権分立制
度という。
相互に監視しあう機能も、併せもつ。
「ならば平等ではないか」と考える人も多いかもしれない。
が、法の立法権をもつ立法府、つまり政府による、他の行政、司法権への介入には、とく
に警戒しなければならない。
行政権が拡大すれば、行政国家となり、同時に、民主主義制度は、その根底からくつがえ
されることになる。
つまり三権分立とは言いながら、実際には、行政、司法権を、法の立法権をもつ政府から、
守るということを、「三権分立」という。

●司法への圧力

 で、自分たちの親分が、不愉快な思いをしたからといって、内閣を司る一大臣が、この
ような発言をすること自体、許されない。
というより、信じられない。
明らかに枝野行政刷新相は、大臣という立場を利用し、「司法」に圧力を加えている。
のみならず、「刑事訴訟法をはじめ・・・」と、法制度のあり方にまで言及している。
まさに越権行為。
「大臣にして、脳みそはこの程度?」と言いたくなるほど、お粗末。

 いうなれば、枝野行政刷新相の発言は、小沢一郎氏への捜査に対する、報復攻撃という
ことになる。
あるいは、つぎなる捜査への、布石的な妨害工作とも考えられる。
そう疑われてもしかたのない状況にある。
現在の今、検察審議会※における審議結果を待ちながら、東京地検は、小沢一郎氏を、贈
収賄罪で立件、起訴をするための、その準備段階に入っている。

●民主主義の崩壊

 こんな発言を容認したら、日本の民主主義制度は、その根底において総崩れとなってし
まう。
ぜったいに許してはならない。
そんなことは、ぜったいにあってはならない。
もし「検察の捜査手法には、最近問題がある」というなら、小沢一郎氏への捜査が、腰砕
けに終わってしまったこと。
裏で何があったのか。
腰砕けになったのには、何か、理由があるのか。
むしろ、そちらのほうに重大な関心を寄せるべき。

 さらに言えば、捜査権もない一大臣が、憶測だけで、「検察の間違いではないかという疑
いが濃厚になっている」と。
「疑う」のは司法の仕事。
行政刷新相の仕事ではない。
だいたい、「疑いが濃厚になっている」というのは、どういうことか。
どういう根拠に基づいて、どういう責任ある立場の人物が、そう言っているのか。
まさか仲間の法務大臣が、そう言っているのではあるまい?

枝野行政刷新相は、「検証する」と言っているが、大臣にはその権限もないし、検証能力も
ない。
時代錯誤の、とんでもない発言と断言してよい。

●おごれる民主党

 政権の座についてからというもの、民主党周辺から、信じられないような事件や発言が
つづく。
「民主党」とは名ばかり。
「小沢党」と言われても仕方ないほど、やることなすこと、独裁的。

が、それ以上におかしいことは、民主党内部から、批判の声があがってこないこと。
自浄作用そのものが、機能していない。
皮肉なことに、派閥政治と言われた、自民党前政権時代のほうが、まだ自浄作用が機能し
ていた。
派閥同士が、たがいをけん制しあっていた。
(だからといって、派閥政治を容認しているわけではない。誤解のないように!)

 小沢一郎氏に議員にしてもらった(恩義)はわかる。
若手の議員たちほど、そうだろう。
へたに親分にたてつけば、つぎの選挙のときに、候補者として、立たせてもらえなくなる。
しかしそれこそまさに、平成の忠臣蔵。
正義より、忠義が、優先される。

●封建主義時代の亡霊

 今さら悔やんでも仕方ないが、江戸時代というあの封建主義時代を、しっかりと清算し
てこなかったから、こういうことが起こる。
日本人は、いまだかって一度たりとも、封建主義時代を、精算どころか、反省したことが
ない。
ないばかりか、いまだに美化してやまない。
あの江戸時代という時代が、世界でも類を見ないほど、暗黒かつ、恐怖政治の時代であっ
たことを、忘れてはいけない。
その責任は、もちろんこの私たち自身にある。
いまだに武士道だの、大河ドラマだのと言っているから、こういうことが許されてしまう。

 最後に・・・。
枝野行政刷新相は、親分への忠誠心を示したかったのかもしれない。
あるいはリップサービスをしたかったのかもしれない。
どうであれ、この発言は、日本の民主主義へのあからさまな挑戦ということになる。
けっして容認してはいけない。
けっしてこのまますませてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 民主主義への挑戦 枝野発言 検察批判 三権分立 小沢一郎 民主
党)

(注※)検察審議会(Weblioより転載)

●検察官の不起訴処分の妥当性をチェックする機関
検察官が不起訴処分をして刑事裁判にかけられなかった事件について、国民の目線から
検察官の判断を検討するために全国各地に設置されている。

検察審査会制度は、民意を反映させることによって、起訴・不起訴に関する検察官の
判断がひとりよがりに陥ることを防ぐ役目がある。そのため、地方裁判所の管轄地域ごと
に設けられた検察審議会につき、司法の専門家ではない一般の国民の中から11人の
審査員をくじで選び出すことになっている。

事件の被害者やその遺族が検察審査会に申し立てることによって、審査が開始される。
不起訴処分にされた事件について、検察官の捜査が不十分だと考えられ、もっと捜査する
よう求めるとき、検察審査会は「不起訴不当」の議決をする。さらに強く踏み込んで、こ
の事件は起訴すべきだと判断したときは「起訴相当」となる。逆に、検察官の
不起訴処分が妥当だと思えば、「不起訴相当」の議決をすることになっている。

ただし、検察審査会の議決には法的拘束力がなく、検察官がそれでも不起訴のほうがよい
と思えば議決を無視することができる。ところが、ひき逃げ事件を起こし、いったんは
不起訴処分とされた容疑者について、「不起訴不当」の議決を受けた結果、改めて起訴
に踏み切り、有罪の実刑判決となった例もある(以上、『Weblio』より転載)。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●東京大学教授、姜尚中氏

+++++++++++++++++++++

東京大学に、姜尚中氏という教授がいる。
その教授が、韓国で、好き勝手な発言を
繰り返している。
以前から、「?」な発言がつづいている。
日本に住み、日本の最高学府の教授をしながら、
まことにもって、反日的。

朝鮮N報の記事を、まず読んでほしい。

++++++++++++++++++++

●日本は韓国を恐れている?

++++++以下、朝鮮N報(2010年3月10日)++++++

(写真提供=国際交流財団)

 在日韓国人2世の姜尚中(カン・サンジュン)東京大学教授(59)は9日、ソウル・プ
ラザ・ホテル(ソウル市中区)で、「新韓日関係」をテーマに講演した。 

 韓国国際交流財団の招きで講演を行った姜教授は、「今、日本ではキム・ヨナ・シンドロ
ームがものすごい。日本は韓国に追い越されるのではないかという話も盛んに出ているほ
どだ」と述べた。バンクーバー冬季五輪以降、韓国に対する認識が確実に変わったという
ことだ。

そして、「日本の家電メーカーすべてを合わせた売り上げよりも、サムスン電子の売り上げ
の方が高く、韓国製自動車に対する評価も急速によくなっていることから、危機感が高ま
っている」と語った。

 姜教授は、中国と日本に挟まれている韓国の存在を「イルカ」に例え、「イルカはとても
活発に動きながら関係を形成していく」と語った。独島(日本名:竹島)問題については、
韓国に冷静な対応を求めた。「一部の(日本の)政治家が妄言を発しても、韓国が感情的に
反応する必要はない。独島はすでに韓国が実効支配しており、これを覆すことは不可能だ
からだ」と述べた。

 日本のメディアに「東京大学のヨン様」とも呼ばれている姜教授は、「(日本)国籍を取
得し、東京都知事選挙に出てみろ、とも言われた。わたしは日本のオバマ(米大統領)に
なれるかも知れないと思う」と笑いながら、「そうした話が出てくること自体、日本が変わ
ってきているという証拠」と評した。

 姜教授は、日本の新聞・放送・出版界で「クールな論客」と評価されている。学問の垣
根を超えた斬新な文体と共に、「言葉巧みでハンサムな東大教授」というイメージも人気に
一役買っている。

++++++以上、朝鮮N報(2010年3月10日)++++++

 記事の中から、気になる部分を書き出してみた。

●今、日本ではキム・ヨナ・シンドロームがものすごい。
●日本は韓国に追い越されるのではないかという話も盛んに出ている。
●日本の家電メーカーすべてを合わせた売り上げよりも、サムスン電子の売り上げの方が
高い。
●独島(日本名:竹島)問題については、韓国に冷静な対応を求めた。「一部の(日本の)
政治家が妄言を発しても、韓国が感情的に反応する必要はない。独島はすでに韓国が実効
支配しており、これを覆すことは不可能だからだ」。
●日本のメディアに「東京大学のヨン様」とも呼ばれている。
●「(日本)国籍を取得し、東京都知事選挙に出てみろ」とも言われた。
●「わたしは日本のオバマ(米大統領)になれるかも知れないと思う」。
●姜教授は、日本の新聞・放送・出版界で「クールな論客」と評価されている。
●「言葉巧みでハンサムな東大教授」というイメージも人気に一役買っている。

 日本人にとって、いちばんカチンと来るのが、「……独島はすでに韓国が実効支配してお
り、これを覆すことは不可能だからだ」と発言している部分。
実効支配すれば、それでよいのか。
これこそまさに植民地主義者の論理。

また「一部の政治家の妄言」とは、何だ。
どうしてこんな人物が、東京大学の教授なのか。
またこんな人物を、どうして日本のマスコミは、もてはやすのか。

「(日本)国籍を取得し、東京都知事選挙に出てみろとも言われた」という部分については、
いくら母国での自慢話とはいえ、言語道断。
その上で、「わたしは日本のオバマ(米大統領)になれるかも知れないと思う」と。
つまり日本の総理大臣になる可能性もある、と。

 こうした発言を、東京大学の教授理事会は、把握しているのか。
どう考えているのか。

●日韓経済戦争

 私は数年前まで、日韓経済戦争というタイトルで、ずっと記事を書いてきた。
しかし2009年のはじめごろ、それもやめた。
やめた理由には、いくつかある。
その第一、日本人の私が、日本人のノー天気ぶりに、あきれた。
「ヨン様、ヨン様」と、いい歳をした女性が、韓国詣でを繰り返していた。
正直言って、「もう、どうにでもなれ」という心境になった。
その結果が、今である。

 が、日韓経済戦争は終わったわけではない。
韓国側からの熾烈な攻撃は、今の今も、つづいている。
つい先日も、朝鮮N報は、こう書いていた。
トヨタのリコール問題に関し、「トヨタ危機がいつまでもつづくと考えるのは、危険である」
と。

 わかるか?
この記事の裏に見え隠れする、燃えるような反日感情!
韓国という国は、1960年当時も、そして今も、ほとんど変わっていない。
日本は間近に、そういう国と対峙している。
今の今も、経済戦争はつづいている。

 が、何が「ヨン様」だ!
「東京大学のヨン様」だ!
男性の「顔」のことはよくわからないが、あの顔を見て好感を抱く日本人は、本当にいる
のだろうか。

 それにしても、好き勝手なことを言っている。
日本というより、日本が完全に、ナメられている。
反対に、ソウル大学に籍を置いている日本人教授が、日本へ戻ってきて、「竹島は、日本の
領土」と発言したら、韓国人は、どのように反応するだろうか。
そういうことも少しは考えながら、「東京大学教授、姜尚中氏」の発言を、もう一度、読み
返してみてほしい。

 私のような割とリベラルな(?)男でも、久々にカチンときた。
何が、東京都知事だ。
バカも休み休み、言え!


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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   12日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●羞恥心(しゅうちしん)(生の文化論)

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週に1度は、近くの温泉へ行って、気分転換を図る。
夜遅く行くことが多い。
そこでのこと。
こんなことに気がついた。

最近の若い男たちは、タオルで前を隠さない。
平気というか、あれをブラブラさせて、浴場内を
歩いている。

そのことをワイフに話すと、ワイフも、同じような
ことを言った。

女湯の一部に、大理石を敷き詰めたようなところがあるらしい。

「先日もね、若い女の子が3人、大の字になって、
寝ころんで、話をしていたわ。
もちろんどこも隠さないで……」と。

私たちが子どものころには、どこの街角にも
銭湯というものがあった。
それなりにマナーが確立していた。
しかし今は、そのマナーも消えた。

私「前を隠す女の子はいないのか?」
ワ「そんな女の子はいないわよ」
私「平気なのか?」
ワ「平気みたい」と。

++++++++++++++++++++

●文化

 学生時代……といっても、40年も前のことだが、オーストラリアでは、
みな、素っ裸で泳いでいた。
男も、女も、ない。
(もちろん公設の海水浴場では、みな、水着をつけていたが……。)

 あるいはメルボルン市内のスーパーマーケットが、「裸の客は、50%引き」
という広告を出したこともある。
(数字は、記憶によるものなので、不正確。)
経営者は裸になる客はだれもいない……あるいは少ないと思っていた(?)。
客寄せの宣伝のつもりだった(?)。
しかし店を開いてみると、裸の客が、どっと押し寄せた。
みな、素っ裸。
素っ裸で、買い物をし始めた。
女性の客のほうが多かったという話も聞いている。

 また当時、大学の構内でも、ブラジャーをつけている女子学生は、ほとんど
いなかった。
中には、下の下着すら身につけていない女子学生もいた。
そういう女子学生が、男子学生の前で、平気であぐらを組んで座る。

 さらにこんなこともあった。
私がある女子学生の部屋でお茶を飲んでいたら、その女子学生が
私の目の前で、衣服を着替え始めた。
私のガールフレンドでも、何でもなかった。
その女子学生が、上半身、裸で、である。

あるいは大学では、ストリーキングというのが、流行(はや)った。
紙袋で顔だけを隠し、素っ裸で、大学構内を走り回るという遊びだった。
それを見かけると、学生たちはみな、歓声をあげて喜んだ。

 そのとき私が受けたショックがどんなものか……。
今の若い人には理解できないかもしれない。
「裸」に対する考え方が、日本人の私とは、まったくちがっていた。
が、40年前に青春時代を送った人なら、私が受けたショックを理解できる
はず。

●生の文化

 羞恥心のある者からは、羞恥心のない者が、理解できない。
羞恥心のない者からは、羞恥心のある者も、これまた理解できない。
たとえばイスラム教国の中には、女性のばあい、顔すら隠しているところがある。
日本人の私たちにすれば、奇異な風習に見えるが、彼らは、けっして
そうは思っていない。
そういう国の人が、この日本へやってきたら、どうなるか。
それはちょうど、40年前の私と、逆の立場ということになる。

 つまり羞恥心というのは、その国の文化と深く結びついている。
そしてそれがその国の人たちの常識になっている。
となると、「文化とは何か」ということになるが、言うなれば、「約束の
集合体」ということになる。
それが如実に表れるのが、裸文化。
言うなれば、「生の文化」。
「生」は、「ナマ」と読んでもよいし、「セイ」と読んでもよい。
「衣服」などというものは、それが着物であれ、ドレスであれ、
裸文化を包む、包装紙のようなもの。
「裸」をどう考えるか。
少し大げさな感じがしないでもないが、それが文化の基本と考えてよい。

 その文化の基本が、このところ、大きく変化し始めている。
そのひとつとして、日本人から、羞恥心が、急速に消え始めている。
肉体の羞恥心だけではない。
心の羞恥心も、それに含まれる。
みなが、自分の心を赤裸々に語り始めている。
おもしろい現象である。

 ちなみに私は、この年齢になっても、そういった場所では、きちんと
タオルであそこを隠して歩いている。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●知恵

++++++++++++++++++++++

布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、
「六波羅密(ハラミツ)」という。
このうちの「布施、持戒、忍辱、精進、善定」については、
たびたび書いてきた。
が、「知恵」については、あまりにも当たり前のことと
思い、書いたことがない。

++++++++++++++++++++++

●知恵の重要性

 教育の世界では、「無知は罪」と考えてよい。
親の無知が、子どもの心をゆがめるというケースは少なくない。
相手がいないばあいなら、無知であることも許される。
しかし相手がいて、その相手に影響を及ぼすなら、「無知は罪」となる。
しかもその相手というのが、無抵抗な子どもというのなら、なおさらである。
そういう意味では、総じて言えば、愚鈍は恥ずべきことであって、けっして誇るべきこと
ではない。

 で、六波羅密においては、「知恵」を6番目の徳目としてあげた。
もちろんこれは私の勝手な解釈によるもので、仏教学者の人たちなら、顔を真っ赤にして
怒るかもしれない。
六波羅密は、大乗仏教(北伝仏教)の修行法の根幹をなすものである。
「はやし(=私)ごときに、何がわかるか!」と。

●善と悪

 そこで私の善悪論の根幹をなす考え方について。
私はいつもこう書いている。

「悪いことをしないからといって、善人というわけではない」
「よいことをするから、善人というわけでもない」
「人は、悪と積極的に戦ってこそ、善人である」※と。

 「悪と戦う」というのは、(外部の悪)はもちろんのこと、(自分自身の内部に潜む悪)
もいう。
このことも、子どもの世界を観察してみると、よくわかる。

 何もしないで、静かにおとなしくしている子どもを、よい子どもとは言わない。
あいさつをきちんとし、先生の言うことをハイハイと、従順に従う子どもを、よい子ども
とは言わない。
身近でだれかが悪いことをしたとき、それを制したり、戒める子どもを、よい子どもとい
う。

 実際、よいこともしなければ、悪いこともしないという人は、少なくない。
万事、ことなかれ主義。
小さな世界で、丸く、こじんまりと生きる。
しかしそういう人を、善人とは言わない。
「つまらない人」という。
ハイデッガー風に言えば、「ただの人(das Mann)」。

 で、私たちは、積極的に悪と戦っていく。
そのとき最大の武器となるのが、「知恵」ということになる。
知恵なくして、人は、悪と戦うことはできない。
「悪」のもつ愚鈍性を見抜いたとき、善は悪に打ち勝ったことになる。
これには、(外部の悪)、(内部の悪)もない。

●知恵を磨く

 愚鈍の反対側にあるものが、「知恵」ということになる。
そう考えると、知恵が何であるかが、わかる。
言い替えると、「考える力」、その結果として得られるのが、「知恵」ということになる。

 誤解してはいけないのは、知識イコール、知恵ではないということ。
いくら知識があっても、それを反芻し、消化しなければ、知恵にはならない。
その「反芻し、消化する力」が、「考える力」ということになる。

 このことは反対に、老人の世界を観察してみると、よくわかる。
認知症か何かになって、考える力そのものを喪失したような老人である。
口にすることと言えば、過去の愚痴ばかり。
そういう老人には、ここでいう「悪と戦う力」は、もうない。
もちろん善人ではない。
善人とは、言いがたい。

 が、だからといって、善人になるのは、難しいことではない。
自分で考えて、おかしいと思うことについては、「おかしい」と声をあげるだけでよい。
たったそれだけのことだが、その人をして、善人にする。

+++++++++++++++++

(注※)3年前に書いた原稿を添付します。
日付は、2007年9月26日(水)と
なっていますが、この原稿自体、
さらにその6、7年前の2000年ごろ
書いたものです。

+++++++++++++++++

●善と悪

●神の右手と左手
 
 昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。
善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないと
いうことらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いて
いるのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反
キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるもの
すべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。
それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの
努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをす
るのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということに
なる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、
たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさ
い」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。
人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして
自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりに
はだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういう
とき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそ
が道徳ということになる。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのよう
に自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思
い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そうい
ったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。

駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差
点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもな
いことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考
えなければならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。
ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、
結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。

それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにし
ても、決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使
うなら、もっと前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニー
チェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、
それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くな
ったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるの
か。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、そ
の謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。こ
こに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子
どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の
子(小3)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで
私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「い
いです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が
食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのも
のだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がか
たいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買っ
てあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判
断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれない
が、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思な
らわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかった
はずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自
ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』とい
う言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人
にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪い
ことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじ
めて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、2つに分かれることがわかる。

1つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理とい
うことになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう1つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間にな
る方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どち
らを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問
題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていく
と、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく
行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも
収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、
その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える
力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
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Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●仏教でいう「あの世」論

++++++++++++++++++

仏教では、「あの世(=来世)」思想を、
信仰の根幹にしている。
しかし釈迦自身は、「あの世」という
言葉も、また概念も一度も、口にしていない。
ウソだと思うなら、原始仏教典である、
『法句経』を、端から端まで読んでみる
ことだ。

仏教に「あの世」思想が混入したのは、
インドにもともとあった生天(しょうてん)
思想を、後の仏教学者たちが取り入れた
ためと考えてよい。

「生前に行いにより、人は死後、天上界
という理想郷で、生まれ変わることが
できる」というのが、生天思想である。

++++++++++++++++++

●釈迦

 釈迦自身は、きわめて現実主義的な、つまり現代の実存主義に通ずるものの考え方をし
ていた。
いろいろな説話が残っている。

たとえば1人の男が釈迦のところへやってきて、こう言う。
「釈迦よ、私は明日、死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればいいか」と。
すると釈迦は、こう言って、その男を諭す。
「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

 ここでは記憶によるものなので、内容は不正確。
またこの説話は、私のエッセーの中でも、たびたび取りあげてきた。
しかしこの説話の中でも、釈迦は、「あの世」という言葉を、まったく使っていない。
もしそのとき釈迦が「あの世」を信じていたのなら、その男に、こう言っただろう。
「心配しなくてもいい。あの世でちゃんと生まれ変わるから」と。

●あの世論

 一方、キリスト教やイスラム教では、「天国」を、しっかりと説く。
仏教で言う「天上の理想郷」ということになる。
どちらが正しいとか、正しくないとか、そんなことを論じても意味はない。
また釈迦自身はどう考えていたかを論じても、意味はない。

 現実に私たちは、今、こうしてここに生きている。
そしてやがていつか、近い将来、この肉体は分子レベルまで、バラバラになる。
こうした(現実)の中で、いかに有意義に、心豊かな人生を送るか。
それが重要。
そのために宗教というものがある。
そのひとつに、「あの世」に希望を託して生きるという方法もある。
「天国」でも構わない。

 しかし私自身は、「ない」という前提で生きている。
何度も書くが、それは宝くじと同じ。
当たるか当たらないか、それがわからないまま、当たることを予想して、家を買ったり、
車を買ったりする人はいない。
同じように、あるか、ないか、それがわからないまま、「あの世」に、希望を託して
生きることはできない。

 死んでみて、「あの世」があれば、もうけもの。
そのときは、そのときで、考えればよい。
宝くじにしても、当たってから、賞金の使い道を考えればよい。

●珍問答

 話はぐんと脱線する。
こんな珍問答がある。
(私が考えた珍問答だが……。)

 平均寿命が、40年とか50年とかいう時代には、こうした問題は起こらなかった。
その前に、人は死んだ。
しかしその平均寿命が、70年とか80年になった。
とたん、ボケ問題が、大きくクローズアップされるようになった。

 そこで「あの世」へ行く老人たちは、どういう状態で、「あの世」へ行くのかという問題。
私の印象に残っている老人に、こんな老人がいた。
特養にいた老人(女性、85歳くらい)だが、一日中、顔をひきつらせ、こう言って
叫んでいた。
「メシ(飯)は、まだかア!」「メシは、まだかア!」と。

 細面の美しい顔立ちを、そのまま残した女性だった。
だからよけいに、印象に残った。
そこで珍問答というのは、これ。

そういった女性が「あの世」へ入ったら、どうなるか?、と。
「あの世」でも、やはり同じように、「メシはまだかア!」と叫びつづけるのだろうか。
それとも、一度、若くて美しい女性にもどって、「あの世」へ入るのだろうか。

 インドの生天思想によれば、「生まれ変わる」ということだから、赤ん坊になって
生まれ変わるということになる。
すると、ここで最大の矛盾が生じてくる。

●矛盾

 善人と悪人のちがいは、0歳期〜の環境によって決まる。
その人個人の責任というよりは、その人を縛りつけている「運命」による。
私たちの身体には、無数の「糸」がからみついている。
その「糸」が、ときとして、私たちをして、望まぬ方向に導くことがある。
それを私は、「運命」という。

 言い替えると、どんな赤ん坊でも、理想郷で生まれ育てば、善人になる。
だとするなら、その入り口で、人間を差別する方が、おかしい。
「あなたは悪人だったから、理想郷には入れません」と、どうして言うことが
できるのか。
だれが言うことができるのか。

●「この世」が「あの世」

 ……とまあ、こういう意味のない問答は、しても、時間の無駄。
もし「あの世」がほんとうにあるのなら、私がすでに何度も書いているように、
今、わたしたちが住んでいる「この世」のほうが、「あの世」と考えるのが正しい。
私たちは、理想郷である「あの世」に住んでいて、ときどき「この世」、つまり
「あの世」から見れば、「あの世」へやってきて、「この世」で生きている。

 「この世」には、地獄もあれば、極楽もある。
国単位で、地獄もあれば、極楽もある。
さしずめ、餓死者が続出しているK国は、地獄ということになる。
イラクでも、アフガニスタンでもよい。
一方、北欧の国々は、極楽ということになる。
そういう理屈なら、私にもわかる。
納得する。

●希望

 では、生きがいとは、何かということになる。
死んだら、何もかもおしまいというのは、あまりにもさみしい。
それについては、以前、こんな原稿を書いたことがある(中日新聞発表済み)。
「努力によって、神のような人間になることもできる。
それが希望」と。

それをそのまま紹介して、このエッセーをしめくくりたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

 社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

 つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

 その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

 もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

 たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

 私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

 「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●雑感・あれこれ

 ここ数日、猛烈な北風が吹き荒れている。
そんな中、空模様をながめながら、畑づくり。
植えたばかりのレタスやイチゴに、風よけを立てる。
全部で、15、6苗。
いろいろな野菜の苗を植えたが、そのうちいくつかは、付け根のところで葉が折れてしま
った。
ネギの苗も、一度は背を伸ばしたが、また畑に身を横たえてしまった。
それにしても、強い風。
台風並み。


●検索

 書いた原稿は、500〜600枚(40字x36行)ごとに、「原稿集」としてまとめて
いる。
その原稿集が、現在、計3万枚を超えた。
(3万枚だぞ!)
ふつう単行本1冊分が、120〜150枚。
3万枚ということは、単行本にすれば、200冊以上!

 ほとんどの原稿は、そのままネット上で公開している。
そのこともあって、自分の書いた原稿をさがすときは、このところネット上でさがすこと
が、多くなった。
たとえば「はやし浩司」+(書いた文章の一部)で検索して、自分の書いた原稿をさがす。
先ほども、グーグルの検索エンジンを使って、「はやし浩司 善人というわけではない」と
いうようにして、原稿をさがした。
そのほうが便利だし、早い。
これもネット、つまりインターネットの別の利用法の1つと考えてよいのでは……。


●「早い」と「速い」

 そのインターネットで、「はやい」と書くとき、「早い」と書くべきなのか、「速い」と書
くべきなのか、よく迷う。
たった今も、迷った。

 スピードが急なときは、「速い」と書く。
時間が短くてすむときは、「早い」と書く。
インターネットでは、「速度」が問題になることが多い。
ファイルをUPLOADするときも、DOWNLOADするときも、「速度」という言葉を
使う。
検索するときも、「検索速度」という言葉を使う。
だから検索に要する時間が短いときは、「速い」と書くべきなのか、「早い」と書くべきな
のか、わからなくなる。
 
 理屈で考えれば、「早い」が、正しいということになる。
しかし英語では、「fast」と表記している。
となると、「速い」が正しいということになる。
どちらが正しいのだろう?


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●老齢期の思考傾向

+++++++++++++++++++++++

老齢期になると、独特の考え方をするようになる。
おおまかに言えば、(1)極端性、(2)狭小性、
(3)退行性、(4)偏屈性が見られるようになる。
順に考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++

(1)極端性

 その人の一部だけを見て、それを極端化し、それでもって、その人のすべてを判断
するようになる。
たとえば、「あの林(=私)は、叔母の葬儀に顔も出さなかった。
だからあいつは、人間のクズだ」というような言い方をする。

 自分の価値基準を極端化する。
全体を見て、考えることができなくなる。
あるいは全体を見て、その人を判断できなくなる。
「オール、オア、ナッシング(すべてか、ゼロか)」という言い方が多くなる。

(2)狭小性

 ものの考え方が、より自己中心的になる。
その地方でしか通用しない価値基準を、相手に求めるようになる。
相手の価値観を認めないばかりか、否定するようになる。

 たとえば、こういう言い方をする。
「浜松(=私が住んでいる町)では、どうか知らないが、お前も生まれは
G県なのだから、G県のしきたりに従ってもらわねば困る」とか。
ものの考え方が硬直化し、融通がきかなくなる。

(3)退行性

 ここでいう退行性というのは、40代、50代〜で、新しくインストール
された情報が消え、20代、10代のころに得たものの考え方に、逆行して
いくことをいう。

 「林君(=私)、あんたも男だろがア!」というような言い方が、それ。

 ものの考え方に、男も女もない。
その人が子どものころにどこかで聞き覚えた、古典的なものの考え方が、
亡霊のように復活してくる。

(4)偏屈性

 要するに、がんこになるということ。
新しい考え方を、受け入れなくなるばかりか、新しい考え方を否定するようになる。
「昔からのしきたりでは……」とか、「世間では、こうだ」というような言い方が
多くなる。

 こまかいことにこだわり、それを針小棒大に考える。
(1)で書いた、「極端性」にも通ずる。
よくよく考えれば何でもないことなのに、いつまでもそれにこだわる。
あるいはそれを自己正当化の方便にする。
「あの林(=私)は、オレの家に遊びに来たとき、みやげひとつ、もってこなかった。
だから断交した」というような言い方が、それ。

●脳みそ

 こうした老齢期特有の考え方は、老齢期になればなるほど、顕著に現れてくる。
基本的には、(1)脳みその性能が低下する、(2)脳みその硬直性が進む。

 子どもの世界でも、伸びる子どもは、頭がやわらかい。
ひとりで遊ばせても、身のまわりから、つぎつぎと新しい遊びを発明していく。
そうでない子どもは、そうでない。
趣味も遊びも、かぎられたものになりやすい。

 こうした傾向が、老齢期には、さらにはっきりとしてくる。
新しいことに興味をもたなくなる。
新しいことをしても、身につかない。
すぐ忘れる。
新しいことをしたいという気力そのものが、弱くなる。
大脳生理学的には、新しいニューロンの形成が、鈍くなるということか。
あるいは欲望と欲求を司る、ドーパミンの分泌が、減少するということか。

 一度こうなると、あとは加速度的に、老人に向かって、まっしぐら。

●では、どうするか?
 
 「健康」には、3種類ある。
(1)肉体の健康、(2)精神の健康、それに(3)脳みその健康。

 肉体の健康と精神の健康は、わかりやすい。
しかし脳みその健康は、外からはわかりにくい。
脳のCPU(中央演算装置)がからんでいるだけに、本人も気づきにくい。
脳梗塞や認知症か何かになれば、なおさらである。

 そこで、こと(3)脳みその健康ということになれば、適切な刺激を与えつづける
しかない。
毎日のジョギングが肉体の健康を維持するように、それに似た方法で、脳みその
健康を維持する。

 参考になるかどうかわからないが、私たちの夫婦のばあいは、こうしている。

(1)週に2度は、劇場で映画を観る。
(2)週に1度は、近くの温泉で保養する。
(3)月に2、3度は、軽い旅行をする。
(4)本代、雑誌代は、けちらない。

 家でDVDを観るという方法もあるが、何といっても、迫力がちがう。
だから劇場で映画を観る。
(ワイフは、家でDVDを観ているときは、いつも居眠りをしているぞ!)
それに昼寝は、ボケ防止には、たいへん効果があるとか。
たがいに励ましあって(?)、昼食前後に、30〜40分の昼寝をするように
心がけている、など。

 が、それでも脳みその性能の低下は、いかんともしがたい。
気力を維持するだけでも、たいへん。
どうかすると、すぐ眠くなる。
実感として、それがわかる。

 あとはストレスを避ける。
うつ状態になると、どうしても(こだわり)が強くなる。
(こだわり)が強ければ強いほど、脳のほかの部分の活動が低下する。


Hiroshi Hayashi+++++++March 2010++++++はやし浩司

●似顔絵

++++++++++++++++++

幼稚園児が、私の似顔絵を書いてくれた。
それを加工して、似顔絵から声が出るようにしたい。
そのセリフを、考える。

++++++++++++++++++

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value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/xa6DSSZ6W9g&hl=ja_JP
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Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●不安の原点(Where does Anxiety come from?)

+++++++++++++++++

私たちの日常生活は、「不安」との
闘いと言っても過言ではない。
個人差はあるが、「不安」のない人は、
いない。
金持ちも貧乏人も、健康な人も、
病気の人も、そして若い人も、
老いた人も……。
みなが、共通に「不安」をかかえている。

その原因のひとつが、「現代社会」が、
構造的にもつ欠陥と考えてよい。
つまり私たちは、「欲望」を解き放った
ことによって、便利で、未来志向型の
生活習慣を手に入れた。
つまり飽くことを知らない、未来への
欲望が、「不安」の原点になっている。

「現代社会」では、「後れること」イコール、
「敗者」を意味する。

そのことをキリスト教の世界では、アダムと
イブの説話を通して、説明する。
アダムとイブは、「知識の実」を食べ、
神を裏切る※。
知識の実と引き替えに、人間は、それ以後、
常に「不安」と同居することになる。
つまり自分で考えて行動する自由は手に
入れた。
しかし同時に、神の教えには背くことに
なった。
キリスト教でいう「原罪」というのは、
それをいう。

悶々と晴れることのない不安。
ひとつの不安を克服すると、その向こうに
もうひとつの不安が現れる。
毎日が、この繰り返し。

++++++++++++++++++

●スズメと山鳩

 朝、起きると、最初に庭に、鳥の餌をまく。
その直後、数秒を待たないうちに、スズメや山鳩がおりてきて、その餌を食べる。
こんな習慣が、もう20年近く、つづいている。

 そんなとき、ふと、こう思う。
私という人間は、かなりいいかげんな人間である。
「毎朝」といっても、(ここ数年は、たしかに毎朝だが……)、時に、忘れることもある。
そんな人間を、スズメや山鳩は、その時刻になると、屋根の端に列をなして、待っている。
「スズメや山鳩は、不安に思うことは、ないのだろうか」と。
つまり「私という人間に、不信感をもつことはないのだろうか」と。

私がスズメや山鳩なら、私という人間を信用しない。
「あの林(=私)は、いいかげんな男だ。
信用してはいけない」と。
が、信用しない分だけ、スズメや山鳩は、不安になるはず。
「今朝は、ちゃんと、餌をまいてくれるだろうか」と。

●後れる

 ほんの10年前まで、幼稚園の教師は「後れる」という言葉を、よく使った。
今でも年配の教師は、よく使う。
子どもが幼稚園を休んだりすると、「後れますから、幼稚園へ子どもをよこしてください」
と。
私も、子育ての最中には、よく言われた。
 
 しかし何から、後れるのか?
さらに言えば、どうして後れてはいけないのか?
もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 新しいゲームソフトが発売になるたびに、子どもたちの世界がザワつく。
多くの子どもたちは、発売と同時に、そのゲームソフトを買う。
親や祖父母に頼んで、買ってもらう子どももいる。
「売り切れになるといけないから、(学校へ行っている間に)、買っておいてよ」と。

 で、私はその中の1人に、こう聞いたことがある。
「ゲームの中身を確かめてから、買ってはどう?」と。
すると、その子どもは、こう答えた。
「そんなことしてたら、後れてしまう」と。

 多くの子どもたちは、そのゲームがほしいから買うのではない。
1日でも早く、それを手に入れ、ほかの子どもたちに先んずるために買う。
つまり自分のステータスを守るために、買う。

●「不安」との闘い

 こうした現象を、だれが笑うことができるだろうか。
これは子どもの世界の話だが、おとなたちも、まったく同じことをしている。
子どもの受験を例にあげるまでもない。

 今どき、「受験」を謳(うた)い文句にしていない幼児教室は、私が知るかぎり、私の教
室(=BW教室)以外に、ない。
親のもつ不安を利用すれば、生徒は集まる。
しかしそれは邪道。

 親たちは、心のどこかで強い不安を覚え、子どもの受験競争に狂奔する。
つまりこうした構図は、現代社会全体に、共通している。

 今朝も新聞の折り込み広告が、20枚近く、入っていた。
私は大型電気ショップの広告には、必ず目を通す。
見ているだけで楽しい。

 言うまでもなく、そこは新製品の世界。
今、ねらっているのは、ビデオカメラ。
ハイビジョン撮影は、常識。
小型化も著しい。

こういう世界では、1年でも進歩を止めたら、そのまま敗者の世界に追い出されてしまう。
店どうしの競争も、熾(し)烈になってきている。
私はその広告を見ながら、「この世界も、たいへんだなあ」と思った。
製造会社も、販売会社も、まさに「不安」との闘い。

●では、どうすればよいのか

 先ほど、おもしろいことが起きた。
私がパソコンで、「現代」と打つつもりで、「gendai」とキーを叩いたら、「原罪」と
いう言葉が出てきた。
入力ミスである。

 そう、まさに「原罪」。
アダムとイブは、神の教えに逆らって、「善悪の知識の実」を食べる。
つまり欲望を解き放つ。
それが「原罪」となって、私たちの身を焦がす。
そのひとつが、「不安の原点」ということになる。

 ……かといって、私たちはこの「世界」と無縁でいることはできない。
わかりやすく言えば、「競争」と無縁でいることはできない。
その「競争」が、絶え間なく、「不安」を生み出す。

 そこで考えられる方法は、2つ。
「おごれる人も久しからず」と、平家物語を書いた兼好法師のように、厭世するという方
法。
競争社会から、身をはずしてしまう。

もうひとつは、原罪は原罪として、それを理解した上で、仲よくつきあうという方法。
理解しないまま、つきあうのはよくない。
へたをすれば、欲望の奴隷となってしまう。

さらにもうひとつ、宗教の世界に救いを見出すという方法もあるが、これは私のやり方で
はない。

 やはり仲よくつきあうしかない。
良質で、適度なストレスは、私たちをむしろ前向きに引っ張ってくれる。
それがまたどこかで「生きがい」につながる。
無数のドラマも、そこから生まれる。
悪いことばかりではない。

(注※)『失楽園は創世記第三章の挿話である。 蛇に唆されたイヴとアダムが、神の禁を
破って「善悪の知識の実」を食べ、 最終的にエデンの園を追放されるというもの』(Ya
hoo 知恵袋より)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 不安 不安の原点 失楽園 アダムとイブ エデンの東)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司※


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●幼児教室(年中・5歳児)byはやし浩司(カレンダー・漢字)

+++++++++++++++++++++++

昨日(2010年3月8日)は、
「カレンダー・漢字」というテーマで
学習を進めました。
最初は、「カレンダー・引き算」という
テーマで教えるつもりでした。

が、途中で、子どもたちが、「漢字を教えろ」
と騒いだので、急きょ、テーマを漢字に
変更。

大切なことは、(教える)ということではなく、
(楽しませる)こと。
「漢字は楽しい」という思いが、やがて
子どもを漢字の学習へと、自ら引っ張って
いきます。

そうした子どもとのやりとり、子ども自らが
伸びようとする力を、このビデオを通して
見ていただければ、うれしいです。

なおこの日は、2人の年少児(4歳児)が
見学に来ていました。
そのため、(遊び)がやや多くなりました。
ご承知おきください。

++++++++++++++++++++++++

【HTML版】
(Blogによっては、HTMLタグのみで、
動画が載せられないところもあります。
そういうばあいは、以下、【HP版】のほうを、
クリックしてみてください。)

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name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" 
value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/1FFrKMZFBmo&hl=ja&
fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
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=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
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1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
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【HP版】
(1)
http://www.youtube.com/watch?v=GpmCUBfiMMo

(2)
http://www.youtube.com/watch?v=pIuqLdkMW44

(3)
http://www.youtube.com/watch?v=1FFrKMZFBmo

(4)
http://www.youtube.com/watch?v=vsouJmPVuO4

(5)
http://www.youtube.com/watch?v=mnBfZbG7jaE


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 幼児教室 実践版 年中児の学習 5歳児)

Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司 

●幼児教室(BW幼児教室byはやし浩司)

+++++++++++++++++

教えるのでは、刺激を与える。
それが私の(指導法)です。
つまり刺激を与えて、子どもの脳を
熱くします。

4歳児でも、引き算の指導は可能
です。
そんな例を、このビデオを通して
理解していただければ、うれしい
です。

はやし浩司

+++++++++++++++++

【YOUTUBE版】


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<object width="425" height="344"><param name="movie" 
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" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>


<object width="425" height="344"><param name="movie" 
value="http://www.youtube.com/v/qzw_1ng9amg&hl=ja&fs=1"></param><param name="
allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" 
value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/qzw_1ng9amg&hl=ja&fs=
1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>




(HTML版)

http://www.youtube.com/watch?v=l9Qy8TvUMG0

http://www.youtube.com/watch?v=keBXyUqJF5g

http://www.youtube.com/watch?v=xz5lrnmeGks

http://www.youtube.com/watch?v=R23iH2U3o2A

http://www.youtube.com/watch?v=qzw_1ng9amg


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自分探し

++++++++++++++++++++++

若い人は(自分探し)に苦労する。
同じように、老いた人も、(自分探し)に苦労する。
同じ(自分探し)だが、老いた人が(自分探し)を
するのは、たいへん。
どちらがたいへんかといえば、老いた人の
ほうが、はるかにたいへん。
若い人には、どう転んだところで、未来がある。
しかし老いた人には、未来がない。
その(未来がない)という部分と、闘わねば
ならない。
まさに「負け戦」。
「消耗戦」。
そういう中での(自分探し)ということになる。

+++++++++++++++++++++++

●どうやって死ぬか

 どうやって生きるかではない。
どうやって「死」を迎えるか、である。
悲観的な見方だが、そういう問題が、(老い)を考えるときは、
いつもついて回る。
そういう中で、自分なりの生きがいを見出さなければならない。
ただじっと、死を待つわけではない。
またそんなことは、不可能。
そんな日々がつづいたら、それこそ、気が変になってしまう。

●死の待合室

 が、いつか「死の待合室」に入る。
それはしかたのないこと。
そこでひとつの方法として、その待合室に入る時期を、できるだけ遅くする。
そのためには、健康を維持し、仕事をつづける。
「生涯、現役」をめざす。
が、それができる人は、きわめて恵まれた人。
それに稀。
たいていの人は、職場を追われ、職を失う。
運が悪ければ、ボケ症状も出てくる。
体も動かなくなる。

●積み重ね

 そういう状況の中で、いかに(自分探し)をするか。
「第二の人生設計」という言葉もあるが、そんな甘いものではない。
また「定年退職をしました。明日から、ゴビの砂漠で、植林でもしてきます」
というわけにもいかない。
そんな取ってつけたようなことをしても、空しいだけ。
長つづきしない。

 (すべきこと)には、哲学的な裏づけがなければならない。
わかりやすく言えば、主義、主張。
長い時間をかけた、(積み重ね)。
(やるべきこと)イコール、(人生の結論)と考えてよい。

●会社人間

 ところで先日、義兄に会ったら、こう断言した。
「サラリーマン社会では、友情は育たない」と。
義兄は、日本でも最大手の楽器メーカーに勤め、付属の音楽学校の
校長まで努めている。
その義兄が、そう言った。

 「会社には、役職退職というのもあってね……。首切りや、リストラ
という段階で、それまでの友情などあっても、粉々に破壊されるよ」と。

 友情すら、育たないという。
いわんや、生きがいをや、ということか。

●無私、無欲

 仕事にもよるが、要するに、(稼ぎのためにした仕事)というのは、
老後の(生きがい)には、つながらないということ。
そう断言するのは危険なことかもしれないが、幻想をもつことは禁物。
わかりやすく言えば、(生きがい)は、個人として、長い時間をかけて、
作りあげていくもの。
しかも無私、無欲でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、(生きがい)は霧散する。

 もちろん地位や名誉のためであってはいけない。。
仮にそれがあるとしても、地位や名誉は、あとからついてくるもの。

●偽善

 偽善で身を飾る人は、少なくない。
たいていどこかのボランティア団体に属し、肩書きを並べる。
そしてことあるごとに、それを他人に吹聴する。
「今度、○×NPOの、理事になりましてね」と。

 しかし本気でボランティア活動をしている人は、静か。
私財を投げ打ちながらも、それを人に語ることもない。
私は生涯において、そういう人に、何人か出会っている。
一方、こんな女性(当時、60歳くらい)もいた。

●インチキ

 その女性は、こう言った。
「近所に独居老人がいて、私、見るに見かねて、そういう老人たちを
週に1度、家庭訪問しています」と。
ときには、そういった老人のために、終日、車を走らせることも
あるという。

 私は、感心した。
しかしその女性が、自分の実母の介護をすることになった。
そのとたん、化けの皮がはがれた。
どうはがれたかは、今さらここに書くまでもない。
よくあるケースである。

●悪人

 ボランティア活動に生きがいを見出す人は、多い。
しかしそういう人には、歴史というものがある。
そこにいたる、実績というものがある。
ホームレスの世話をしたとか、孤児のめんどうをみたとか。
そういう実績もないまま、いきなり王手をかけてくる。
そういう人は、偽善者とみてよい。

 中に、「何もしない人より、まし」と思う人がいるかもしれない。
しかし偽善者は、何もしない人より、悪人。
タチが悪い。
弱者を食い物にするという点で、タチが悪い。

●とにかく……!

 話が脱線したが、老いた人が、(自分探し)をするのは、
本当にたいへん。
今、それを実感しつつある。
こんなにたいへんなものだとは、予想さえしていなかった。
毎日、どう生きるか、それを考えるだけで精一杯。
「何かをしなければならない」というところまではわかるが、
その先が見えてこない。
だから結局、毎日が、毎日の繰り返しになってしまう。

 今、ふと、若いころ、シドニーのキングスクロスで見た、
ミュージカル『ヘアー』を思い出した。
それについて書いた原稿を、ここに載せる。
それを載せて、この話は、おしまい。
とにかく、私は、がんばるしかない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもに生きざまを教える法(懸命に生きてみせろ!)

子どもに生きる意味を教えるとき 

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。

 たとえば高校野球。私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもた
ちの懸命さを感ずるからではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私た
ちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、
ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいる
だろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはな
ぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

 それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果と
いうわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだ
した。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福
になるピエール。そのピエールはこう言う。

 『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛
すること。信ずること』(第五編四節)と。つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。
もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。映画『フォ
レスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの
箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みん
な必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、
そしてそれが宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬
時間が止まる。が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言う
なら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。

 言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘
志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生
の意味はわからない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子
どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生
きる、その生きざまでしかない。

 あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をし
ていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そうい
うものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生から
は、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 キングスクロス ヘアー ミュージカル) 


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●『ハート・ロッカー』+夫婦げんか

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先週の金曜日の朝、ワイフとけんかした。
土日と、最悪の週末を迎え、昨日、
月曜日の朝になって、やっと仲直りした。
(今回は、3日も、つづいた!
新記録!)

その間、ひとりで、映画を観てきた。
もちろん、あの映画。
『ハート・ロッカー』。
星は、2つか3つの、★★★(−)。
2つでもじゅうぶん。

なんでもその映画が、アカデミー賞を受賞
したとか。
ああいう駄作が、アカデミー賞を受賞する
ということ自体、アメリカというより、
アメリカ人の心が病んでいることを示す。

数年前の、『アナザー・カントリー』(同じく、
アカデミー賞受賞)のときもそうだった。
二度と見たくない映画。

そう、たしかにアメリカ人の心は病んでいる。
アメリカは、軍国主義化している。
狂っている。
その象徴が、『ハート・ロッカー』ということになる。
そういう点では、『アバター』は、あまりにも
反戦的だった。
言うなれば、『アバター』がもつ、理想主義が、
アメリカによって、拒否された。

さあ、みなさんも、勇気を出して言おう。
「ハート・ロッカーは、駄作!」と。

どうしてあんな映画が、アカデミー賞受賞?
題名すら、今朝には、忘れていた。

そうそう日本のアカデミー賞も、???。
『沈まぬ太陽』が、アカデミー賞受賞?
ああいう映画しかないのだから、しかたない。
それにしても、あんな意味のない映画が、
アカデミー賞受賞?
「日本の映画産業もこの程度?」と、
心底、がっかりした。

++++++++++++++++++

●老年期の夫婦げんか

 私たちのばあい、ちょっとした批判が、そのまま夫婦げんかになってしまう。
大声を張り上げて……というけんかではない。
たがいにヘソを曲げて、たがいに口をきかなくなる。
「離婚してやる!」「離婚しましょう!」となる。

 で、私は、家出。
家を出て、好き勝手なことをする。
映画を見たり、事務所で昼寝をしたり……。
が、やがてさみしくなって、仲直り。
「もういいかげん、こんなバカげた祭りはやめたらいい」と、自分でもそれが
よくわかっている。
わかっているが、どうしても定期的に、繰り返してしまう。

●老年期

 若い人が、「私探し」をするように、老人も、「私探し」をする。
とくに退職後においては、そうである。
が、深刻さという点においては、老人の「私探し」は、比較にならない。
絶壁の縁(ふち)に立たされた状態になる。
あとがない。

 一方、若い人の「私探し」には、未来がある。
どう転んでも、やり直しがきく。
しかし老人の「私探し」には、やり直しがきかない。
しかもすべてが、不可逆的に悪くなる。

 いつも自問する。
「私は何をなすべきか」と。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」と。
それが見つかればよし。
そうでないときは、心が悶々とした霧に包まれる。

 が、迷っていても、しかたない。
とりあえず、今日も始まった。
まず、やるべきことをやる。
やるべきことをやりながら、「自分探し」をする。

おはようございます!
2010年3月9日


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司 

Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●南下軍の歌(北の都)(旧第四高等学校、応援歌、寮歌)金沢大学、応援歌

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●第18回、法文学部法学科卒業生、同窓会
2010年2月


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http://www.youtube.com/watch?v=jS3Yp0To-l8

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Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●業(カルマ)(The Deepest Sin in Ourselves) 

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仏教では、意識を、大きく、
(1)末那識(まなしき)と、
(2)阿頼那識(あらやしき)の2つに
わける。

末那識というのは、意識の総称。
阿頼那識というのは、現代心理学でいう、
「無意識」、あるいはさらにその奥深くに
ある、深層無意識と考えてよい。

その仏教では、末那識(「私である」という
自我)が、阿頼那識におりてきて、そこで
蓄積されると教える。
そして阿頼那識で蓄積された意識は、
今度は反対に、末那識の世界まであがってき、
末那識に影響を与えると、教える。

これについては、何度も書いてきたので、
ここではその先を考えてみたい。
いわゆる「業(ごう)」の問題である。

++++++++++++++++++++

●意識と無意識

 意識の世界のできごとは、常に、無意識の世界に蓄積される。
パソコンにたとえるなら、自動バックアップのようなもの。

(WINDOW7には、自動バックアップ機能というのがついている。
それを使うと、ファイルの変更などをすると、自動的に、別のディスクに
バックアップをコピーしてくれる。)

 仏教では、意識される意識を「唯識(ゆいしき)」とし、眼識、耳識、鼻識、
舌識、身識、意識の6つに分ける。
現代でいう、五感とも、ややちがう。
その唯識が、「私」を形成する。
それが「末那識」ということになる。

●末那識は一部

 この末那識は、先にも書いたように、常に阿頼那識の世界に影響を与え、
そこで業(カルマ)として、蓄積される。
が、現代の大脳生理学でも証明されているように、無意識の世界の広大さは、
意識の世界の広さとは、比較にならない。
20万倍とか、それ以上と言われている。

(数字で表現するのは、正しくない。
要するに、意識として使われている脳は、脳の中でもほんの一部に過ぎない
ということ。)

 よく「業が深い人」という言葉を耳にするが、つまりそれだけ阿頼那識に
蓄積された業は、大きく、反対に、末那識に与える影響も大きいということ。
言い替えると、私たち人間は、意識の世界だけで生きているのではないということ。
実際には、無意識の世界の命令に応じて、生きているということ。

●無意識の世界

 たとえばここに、場面かん黙児の子どもがいるとする。
入園など、はじめて集団に接したようなとき、発症することが多い。
家の中では、ごくふつうに会話ができる。
しかし集団の中に入ったとたん、貝殻を閉じたかのように、かん黙してしまう。

 そういう子どもと接していると、無意識の世界を操作するのが、いかに
むずかしいかがわかる。
あるいは子どもの、その向こうにある、無意識の世界の広さに、驚くことがある。
場面かん黙児の子どもは、その無意識の世界の命令によって行動する。
そのため意識の世界から、いくら話しかけたり、説教したりしても、意味がない。
効果もない。

●業(ごう)

 業(ごう)というのは、そういうもの。
人間がもつ本能とも直結している。
そのためそれが何であれ、またどういうものであれ、意識の世界でコントロールしよと
しても、ビクともしない。
仮にあなたが、きわめて知性的な人であっても、その知性で、コントロール
できるようなものではない。

 たとえば手鏡をもって、女性のスカートの下をのぞいていた大学の教授がいた。
超一流大学を出て、当時は、毎週のようにテレビに出演していた。
地位と名声、それに富を、順に自分のものにした。
にもかかわらず、自らの業を、コントロールすることができなかった。
今度は、電車の中で痴漢行為を働いて、逮捕された。

●ではどうするか

 仏教では、……といっても、釈迦仏教というよりは、釈迦滅後、500〜600
年を経てからだが、「八正道」を説かれるようになり、さらに実践的な、「六波羅密」
が説かれるようになった。

 八正道についても、たびたび書いてきたが、こと、阿頼那識ということになると、
六波羅密のほうが重要ということになる。

 布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、「六波羅密」という。
これは私も最近知ったのだが、「波羅密(ハラミツ)」というのは、「徹底」を意味する
サンスクリット語の当て字だそうだ。
漢字の「波羅密」を見て意味を考えても、答は何も出てこない。

(ついでに、日蓮宗の『南無妙法蓮華経』という題目にしても、

南無(ナム)……サンスクリット語の「帰依する」を意味する語の当て字。
しかし実際には、「hello」の意で、現在でもインドでは、あいさつ言葉として、
広く使われている、

妙法(ミョウホウ)……サンスクリット語の、「因果な」を意味する、当て字、

蓮華(レンゲ)……サンスクリット語の、「物語」を意味する、当て字、

「経」の漢字は、中国に入ってから、学者たちによって、付加された。)

 「末那識」「阿頼那識」という言葉についても、無著(むじゃく)、世親(せしん)
あたりから、世に出てきたから、サンスクリット語の当て字と考えるのが妥当。
今風に言えば、「意識」「無意識」ということになる。
(不勉強で、申し訳ない。)

●六波羅密

 ここにも書いたように、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、
「六波羅密」という。
これを実践することにより、人は涅槃(ねはん)の境地に達することができると
言われている。

 もっとも私のような凡人には、それは無理としても、しかしこの中でも「精進」の
重要さだけは、よく理解できる。
「日々に、私たちは前に向かって、邁進(まいしん)努力する」。
それは健康論と同じで、立ち止まって休んだ瞬間から、私たちは不健康に向かって、
まっしぐらに落ちていく。

 よく「私は、修行によって、悟りの境地に達した」とか、「法を取得しました」とか
言う人がいる。
しかしそういうことは、ありえない。
ありえないことは、あなた自身の健康法とからめて考えてみれば、それがわかるはず。

 で、私は、日常生活の中で、つぎのように解釈している。

布施……ボランティア活動をいうが、いつも弱者の立場でものを考えることをいう。

持戒……仏教的な「戒め」を堅持することをいうが、簡単に言えば、ウソをつかない、
ルールを守ることをいう。

忍辱……「忍辱」については、そういう場面に自分を追い込まないようにする。
「忍辱」は、ストレサーとなりやすく、心の健康によくない。
あえて言うなら、『許して、忘れる』。

精進……常に前に向かって、努力することをいう。
とくに老後は、脳みその底に穴が開いたような状態になる。
私はとくに精進を、日常の生活の中で大切にしている。

善定……善を、より確かなものすることをいう。
口先だけではなく、実行する。

知恵……「無知は罪悪」と考えることをいう。

 が、何も「6つの教え」に、縛られることはない。
そういう点で、私はこうした教条的なものの考え方は、好きではない。
まちがってはいないが、どうしてもそれだけに限定されてしまう。
その分だけ、視野が狭くなってしまう。

 要は修行あるのみ……ということになる。

●修行

 ……といっても、私は、仏教的な、どこか自虐的な修行の価値を認めない。
(釈迦だって、そうだったぞ!)
「修行」というのは、ごくふつうの人間として、ふつうの生活を、日常的に
しながら、その中で実践していくもの。
(釈迦が説いた、「中道」というのは、そういう意味だぞ!)
もし、そこに問題があるなら、真正面からぶつかっていく。

 燃えさかる炭の上を歩くとか、雪の中で滝に打たれるとか、そういうことを
したからといって、「修行」になるとは、私は思わない。
少なくとも、私は、ごめん!
またそういうことをしたからといって、「私」の中にある「業」が、消えるわけ
ではない。

●結論

 で、私なりの結論は、こうだ。

 まず業に気がつくこと。
あとはそれとうまく、つきあっていく。
業があっても、なくても、それが「私」。
個性をもった「私」。
それが「私」と認めた上で、(それが弱点であっても、また欠陥であっても)、
前向きに生きていく。

 まずいのは、そういう業があることに気づかず、それに振り回され、同じ
失敗を繰り返すこと。
そのために「知恵」があるということになるが、それについては、また別の機会に
考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 末那識 阿頼那識 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、
正定、はやし浩司 八正道 六波羅密、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵、6つの徳
目 修行論 南無)

●宿業

 「宿業(しゅくごう)」という言葉もある。
業の中でも、とくに大きく、そして自分の心の奥に潜んでいて、自分を操る業をいう。

 この宿業というのは、若いときにはわからない。
人はその宿業に操られるまま、それを「私」と思いこむ。
が、加齢とともに、それが少しずつ、姿を現してくる。
現像液につけられた写真のように、姿を現してくる。

 それが「私」ということになるが、ときにその醜さに、驚くかもしれない。
「これが私の顔か!」と。
そしてそれまでの「私」が、いかに業に振り回されていたかを知る。
つまり私であって、私でない部分に振り回されていたかを知る。

 言うなれば、若いときというのは、「煩悩(ぼんのう)」のかたまり。
大脳生理学的にいうなら、ドーパミンに操られるまま。
それが「生的エネルギー」(ユング)ということになるが、しかしそれは「私」ではない。
ほんとうの「私」は、深層心理の奥深くにあって、なかなか姿を現さない。
しかもその「私」の大部分は、0歳期〜からの、乳幼児期に作られる。

 もちろん宿業がすべて悪いわけではない。
(ふつうは、宿業イコール、悪という前提で考えるが……。)
人間のもつ多様性は、煩悩によって作り出される。
またそれから生まれるドラマが人間の世界を、うるおい豊かで、楽しいものにする。
もちろんその反対もある。
憎しみや悲しみが、暗くて重い歴史を作ることもある。
が、もしなぜ私たち人間が、今、こうして生きているかと問われれば、そうした
ドラマの中で、懸命に生きるためということになる。

 そう、懸命に生きるところに、私たちの生きる意味がある。
追い詰められても、追い詰められても、土俵間際でふんばってがんばる。
それが「生きる」ということになる。

 だれにも宿業はある。
宿業のない人は、いない。
またあることを、恨んではいけない。
大切なことは、そうした宿業と仲良くすること。
どんなに醜い顔をしていても、結局は、それが「私」なのだから……


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【基本的不信関係】

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私は子どものころから、心の開けない人間だった。
今も、そうだ。

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●基本的信頼関係

 0歳期に、母親との信頼関係の構築に失敗すると、
子どもは、いわゆる(心の開けない子ども)になる。
こうした状態を、「基本的不信関係」と呼ぶ。
が、基本的不信関係の恐ろしさは、これにとどまらない。
一度、基本的信頼関係の構築に失敗すると、その後遺症は、
一生にわたってつづく。
修復するのは不可能とまでは言い切れないが、自然の状態で、
修復されることは、まずない。

●絶対的なさらけ出し

 (絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)。
この2つの上に、基本的信頼関係は、構築される。
「絶対的」というのは、「疑うこともない」という意味。

 「私は親の前で、どんなことでもできる」というのが、
絶対的なさらけ出し。
「子どもがどんなことをしても許す」というのが、
絶対的な受け入れ。
それは、親側に子どもを全幅に包み込む愛情があって、
はじめて可能。

●不幸にして・・・

 が、不幸にして、不幸な家庭に育った子どもは、
少なくない。
家庭不和、育児拒否、家庭騒動、経済問題、無視、冷淡など。
親にしても、「子育てどころではない」となる。
こういう環境で育つと、子どもは、基本的信頼関係の
構築をすることができなくなる。
一見、愛想はよくなるが、それは子ども本来の姿ではない。
中に、「うちの子は、人見知りも、後追いもしませんでした」と
言う親がいる。
どこか自慢げに言う人もいるが、それは自慢すべきような
話ではない。

 良好な家庭環境で育てば、子どもは1歳7か月前後まで、
他人には警戒し、自分の親が見えなくなると、後を追いかけたり
する。

●孤独という無間地獄

 「人を信じられない」というのは、たいへん不幸なことである。
「信じられない」だけでは、すまない。
それと引き換えに、「孤独」を背負う。
その孤独が、こわい。
どうこわいかは、仏教でも、「無間の孤独地獄」と表現している
ことからも、わかる。
キリスト教でも、「愛」を横軸とするなら、「魂の解放」、つまり、
「渇き(=孤独)」からの解放を縦軸としている。
(これは私の勝手な解釈によるものだから、まちがっていたら、
ごめん。)

 実のところ、この私がそうである。

●父と母

 私は不幸にして、不幸な家庭に育った。
家庭教育の「か」の字もないような、家庭だった。
戦後直後のドサクサ期ということもあった。
父は、傷痍軍人として帰国。
やがて酒に溺れるようになった。
母は、虚栄心が強く、わがままで自分勝手だった。
その上、みな、食べていくだけで、精一杯という
時代だった。

 基本的信頼関係など、もとから望むべくもない。
私が生来的にもつ不安感、焦燥感は、すでにそのころから
始まっていたとみるべき。

●シッポ

 子どものころの私を知る人たちは、みな、こう言う。
「浩司は、明るくて、朗らかな子だった」と。
しかしそう言われるたびに、私は大きな違和感を覚える。
私はだれにでもシッポを振るような子どもだった。
相手に合わせて、おじょうずを言ったり、うまく取り入ったり
した。

 が、けっして相手を信用しなかった。
いつも私の心の中には、別の目があって、その目で相手を
ながめていた。
「この人の目的は何か」
「この人は、私をどう利用しようとしているのか」
「私は、この人をどう利用したらいいのか」
「あるいは、利用価値はあるのか」と。

●4つのパターン
 
 基本的信頼関係の構築に失敗すると、ふつう、つぎの
4つのタイプの子ども(人間)になると言われている。

(1)攻撃型(ツッパル)
(2)服従型(親分肌の子どもに徹底的に服従する)
(3)依存型(ベタベタと甘える)
(4)同情型(わざと弱々しさを演じて同情を集める)

 が、何も子どもにかぎらない。
一度、こうした傾向が子ども時代(思春期前夜から思春期)に
現れると、その症状は、一生、つづく。
それがその人の、性格的ベースになる。

●不安と焦燥感

 私が基本的に、淋しがり屋なのは、基本的不信関係に起因
している。
が、それだけではない。
先にも書いたように、常に襲いくる不安と焦燥感。
この2つの間で、いまだに苦しんでいる。

 わかっていても、どうすることもできない。
「だれかを信じたい」という思いは強いが、信ずるほど、
心を開くことができない。
いつも一歩、その手前で、相手を疑ってしまう。
そして裏切られることを恐れ、裏切られる前に、相手を
裏切ってしまう。
裏切ることはないにしても、裏切られることに、強い
警戒心をいだく。

●シッポを振る

 そのため、基本的不信関係の人は、心がもろく、傷つき
やすい。
「私は私」と、デンと構えることができない。
わかりやすく言えば、ガタガタ。
「シッポを振る」というのは、そういうことをいう。

 孤独でさみしいから、人の中に入っていく。
しかし自分をさらけ出すことができない。
だから疲れる。
精神疲労を、起こしやすい。
で、家に帰ってきて、「もう、いやだ〜ア」と、声をはりあげる。

 ショーペンハウエルという学者は、それを『2匹のヤマアラシ』
という言葉を使って説明した。

●2匹のヤマアラシ

 ある寒い夜のこと。
2匹のヤマアラシが、たがいによりそって、暖をとることにした。
しかし近づきすぎると、たがいの針が痛い。
離れると、寒い。
そこで2匹のヤマアラシは、一晩中、近づいたり、離れたりを
繰り返していた。

 基本的不信関係にある人の、心理状態を、たくみに説明している。
このタイプの人は、(孤独)と(精神疲労)の間を、行ったり、
来たりする。
が、それだけではない。

●孤独の世界

 「人を信じたい」と思う。
しかし信じられない。
信じられそうになると、それがこわくて、自ら逃げてしまう。
自分のほうから、ぶち壊してしまうこともある。
「本当の私を知ったら、みんな逃げていく」と。

 愛についてもそうだ。
「人を愛したい」と思う。
しかし愛せない。
愛されそうになると、それがこわくて、自ら逃げてしまう。
自分のほうから、ぶち壊してしまうこともある。
「本当の私を知ったら、みんな逃げていく」と。

 こうして自らを、ますます孤独の世界へと追いやっていく。

●基底不安

 もうひとつの特徴は、いつ果てるともなくつづく、悶々と
した不安感。
「基底不安」ともいう。

 もっともその不安感を強く覚えたのは、子どものころ。
おとなになるにつれて、原発的な不安感は消え、姿を
変えた。

 たとえば長い休暇を手にしたとする。
長いといっても、1〜2週間である。
そういうとき私は、遊ぶことに対して、おかしな罪悪感を
覚える。
「遊んでいてはいけないのだ」という罪悪感である。
人は、そういう私を批評して、「貧乏性」という。

 だから私のばあい、利益があるとかないとか、
そういうことには関係なく、働いていたほうが、気が楽。
何かをしていないと、落ち着かない。

●悪夢

 もうひとつは、悪夢。
悪夢といっても、怪獣が出てくるとか、悪魔が出てくる
とかいうものではない。
何かに乗り遅れるという夢である。

 たとえばどこかの旅行地に行っている。
飛行機に乗る時刻が迫っている。
空港まで行くリムジンは、ホテルの前で待っている。
しかし部屋の中は、散らかったまま……。
急いで片付けているのだが、すでにバスはそこにいない。

 内容はさまざまだが、基本的な部分は同じ。
こうした夢を、ほとんど毎朝のように見る。

●世代連鎖

 話を戻す。 
さらに言えば、その人が基本的不信関係の人であっても、
それはその人の範囲での問題ということになる。
不幸な過去について、その人に責任があるわけではない。
しかしあくまでも、その人、個人の問題。

 それに私の世代でいうなら、みな、そうだった。
「戦争」というのは、そういうもの。
人心そのものを荒廃させる。
あの時代、まともな家庭環境で育った人のほうが、少ない。

 が、この基本的不信関係は、きわめて世代連鎖しやすい。
親から子へと伝わりやすい。
親が心を閉じていて、どうして子が、心を開ける子どもに
なるだろうか。
夫婦関係についても、同じ。
夫が心を閉じていて、どうして妻が、心を開ける妻に
なるだろうか。
友人関係や、近隣関係、さらには親類関係にしても同じ。
この問題には、そういう深刻な側面が含まれる。

●私たちの子育て

 私のばあいも、結婚はしたものの、妻にさえ、心を
開くことができなかった。
妻も、4歳くらいのときに、母親をなくしている。
ともにいびつな家庭環境で、生まれ育った。

 だから今にして思えば、私たちのした子育ては、どこか
いびつだった。
子育ての情報そのものが、脳の中に、インプットされて
いなかった。
おまけに、私たちを指導してくれる人さえ、近くにいなかった。
暗闇の中を、手探りで、子育てをしているようなものだった。

 私は(仕事の虫)となって、夢中で仕事をした。
家庭を顧みなかった。
ワイフのほうはどうかは知らないが、全体としてもみても、
平均的な母親よりは、愛情が希薄だったと思う。
3人の子どもたちは、日常的に愛情飢餓の状態に置かれた。

●母自身も犠牲者(?)

 先ほど、世代連鎖のことを書いた。
実のところ、私が基本的不信関係に陥ったのは、私の母との
関係だけ、というふうに考えるには、無理がある。

 このことは最近になって、いとこたちと話すことで知った。
当人たちは、それに気づいているかどうかは知らないが、いとこの
中には、私と同じような症状で苦しんでいる人が多い。
つまり私の母自身も、心の開けない人だった。
虚栄心が強かったのも、そのひとつということになる。

 同じように、いとこたちの中にも、心の開けない人がいる。
そういう人を知ることによって、私の母自身も、その前の
世代から、世代連鎖を経て、あのような母になったことがわかる。
こんなことがあった。

●あるいとこ

 あるいとこと、いっしょに食事をしたときのこと。
当時私は、入眠導入剤というのを、のんでいた。
いわゆる「眠り薬」である。
ときどき眠り損ねると、夜中の2時、3時まで、眠られない
ことがある。
それでそういう薬を、医師に処方してもらった。

 で、その話をして、ふと薬を見せると、そのいとこは、
その薬名を、さっとメモに書き写していた。
イヤ〜ナ気分だった。
何かを調べられているような気分だった。

 実のところ、そのいとこも、愛想はよいが、だれにも
心を許さないタイプの男だった。
ただ私とのちがいは、私にはそれがわかったが、その
知人には、それがわからなかったということ。
もちろん「基本的不信関係」という言葉すら、知らないだろう。

●オーストラリア

 私が「心を開く」ということを知ったのは、オーストラリアへ
渡ってからのこと。
オーストラリア人というのは、総じて、心がオープン。
戦勝国として、戦後、きわめて恵まれた国で、みな生まれ育った。
当時は、世界でも1、2を争うほど、豊かな国だった。

 たとえば映画館などでも、静かに映画を観ているような客は
いない。
画面に反応して、声を張り上げたり、手を叩いたりして観ていた。
海辺へ行けば、みな、素っ裸で、泳いだ。
男も、女もない。
そういうオーストラリア人と接するうちに、私は、心を開くことが
どういうことかを知った。
そのせいか、今でも、個人的な悩みや苦しみは、相手がオーストラリア
人だと、話せる。
日本人だと、話せない。

 あるいは今でも、相手がオーストラリア人とわかったとたん、
10年来、20年来の友人のように、話しかけていくことが
できる。

●私の教室では・・・

 今、多くの幼児を教えさせてもらっている。
で、あのピアジェも、人間は、2度、作りかえるチャンスが
あるというようなことを説いている。
一回目は、1・5歳〜2歳前後※。
しかしこれは私の専門外。

 もう1度は、4〜5歳※にかけての時期。
(※年齢は、記憶によるものなので、不正確。)
これについては、私も納得する。

この時期に適切な指導をすれば、心の開けない子どもでも、心を
開くことができるようになる。
子ども自身が、大きく変化する。

 もちろんそんなことは親には言わない。
言っても理解されないだろう。
しかし私はそういう子どもを知ると、猛烈な指導意欲が
わいてくる。
それは自分自身との闘いのようなもの。
そしてこう思う。
「ぼくが直して(治して)やろう!」と。

 不幸にして不幸な家庭に生まれ育ち、(けっして
見た目の裕福さにだまされてはいけない)、心が
開けなくなった子どもは、多い。
そういう子どもを見かけると、とても他人ごとのように
思えなくなる。

●知っているのは、私だけ

 もちろん子ども自身も、それに気がつくことはない。
仮に開けるようになったとしても、私のおかげで
そうなったとは、思わない。
ただ自分が味わった不幸、現在進行形でつづいている
不幸だけは、経験させたくない。
そういう思いが、強く働く。

 方法は、簡単。
大声でゲラゲラと笑わせる。
言いたいことを言わせる。
心の状態と表情を一致させる。

 が、この時期を逃したら・・・。
この問題にも臨界期のようなものがあって、それ以後、
心を開くようになるのは、たいへんむずかしい。

●終わりに・・・

 ほとんどの人は、「私は私」と思っている。
しかしその「私」は、けっして私ではない。
繰り返しになるが、私のばあいも、日々に襲いくる不安感と
焦燥感。
いまだにそれに苦しんでいる。
人を信じられない孤独感を、どうしようもないでいる。

 が、それが本当の「私」かというと、そうは思いたくない。
そういう「私」は、環境の中で、作られた「私」でしかない。
私は、作られた「私」にあやつられているだけ。

 ……ということで、ここでの結論。

●結論

 まず、そういう「私」であることを知ること。
そういう「私」で知った上で、そういう「私」と、うまくつきあうこと。
直そうとおもって、直るものではない。
直そうともがけばもがくほど、深みにはまってしまう。

この問題は、本能に近い部分にまで、刻み込まれている。
また前頭連合野の理性で、コントロールできるような問題もない。
だから、あとは、うまくつきあっていくしかない。
つまり居直る。
「私は、こういう私」と居直る。

 だれしもこの程度の十字架の、1本や2本を背負っている。
十字架を背負っていない人はいない。
まずいのは、そういう「私」がいることに気づかず、それに振り回される
こと。
同じ失敗を繰り返すこと。

このエッセーが、あなたの中の「私」を発見するための手がかりになれば、
うれしい。

(補足)

 この問題だけは、実際、そうでない人には、理解できない。
たとえば私がこうした心の問題を訴えたとしても、理解できない人には、
理解できない。
たいてい「気のせい」とか、「そんな赤ん坊のころの話は、関係ない」と
片付けられてしまう。

 私のワイフにしても、40年近く、いっしょに住んでいるが、
いまだに私を理解できないらしい。
先に書いた「基底不安(仕事をしていないと不安)」という部分についても、
不満を述べることはあっても、そういう私を認めてくれることはない。
何かあると、「あなたは仕事ばかりしている」とか、など。
だから私のほうが、ワイフに合わせるしかない。
不安感を抑えこまなければならない。
しかしこれには、相当な苦しみを伴う。

 だから半ば冗談まじりに、私は、ときどき、こう言う。

「ぼくは、死ぬことはこわくない。
死ねば、今の苦痛から解放される」と。
基本的不信関係というのは、そういうもの。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 基本的信頼関係 基本的不信関係 ショーペンハウエル 2匹のヤマ
アラシ 私探し はやし浩司 私とは 心を開く 幼児教育 解放 心の解放 はやし浩
司)

+++++++++++++++++

以前書いた原稿を、1作、
添付します。
内容がダブりますが、お許しください。

+++++++++++++++++

【基本的信頼関係】



信頼関係は、母子の間で、はぐくまれる。



絶対的な(さらけ出し)と、絶対的な(受け入れ)。「絶対的」というのは、「疑いをいだか
ない」という意味である。こうした相互の関係が、その子ども(人)の、信頼関係の基本
となる。



 つまり子ども(人)は、母親との間でつくりあげた信頼関係を基本に、その関係を、先
生、友人、さらには夫(妻)、子どもへと応用していくことができる。だから母親との間で
構築される信頼関係を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。



 が、母子との間で、信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、その反対に、「基本的不信
関係」に陥(おちい)る。いわゆる「不安」を基底とした、生きザマになる。そしてこう
して生まれた不安を、「基底不安」という。



 こういう状態になると、その子ども(人)は、何をしても不安だという状態になる。遊
んでいても、仕事をしていても、その不安感から逃れることができない。その不安感は、
生活のあらゆる部分に、およぶ。おとなになり、結婚してからも、消えることはない。夫
婦関係はもちろんのこと、親子関係においても、である。



 こうして、たとえば母親について言うなら、いわゆる不安先行型、心配先行型の子育て
をしやすくなる。



●基底不安



 親が子育てをしてい不安になるのは、親の勝手だが、ほとんどのばあい、親は、その不
安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。



 しかし問題は、そのぶつけることというより、親にその自覚がないことである。ほとん
どの親は、不安であることや、心配していることを、「ふつうのこと」と思い、そして不安
や心配になっても、「それは子どものため」と思いこむ。



 が、本当の問題は、そのつぎに起こる。



 こうした母子との間で、基本的信頼関係の構築に失敗した子どももまた、不安を基底と
した生きザマをするようになるということ。



 こうして親から子どもへと、生きザマが連鎖するが、こうした連鎖を、「世代連鎖」、あ
るいは「世代伝播(でんぱ)」という。



 ある中学生(女子)は、夏休み前に、夏休み後の、実力テストの心配をしていた。私は、
「そんな先のことは心配しなくていい」と言ったが、もちろんそう言ったところで、その
中学生には、説得力はない。その中学生にしてみれば、そうして心配するのは、ごく自然
なことなのである。

(はやし浩司 基本的信頼関係 基底不安)





●人間関係を結べない子ども(人)



人間関係をうまく結ぶことができない子どもは、自分の孤独を解消し、自分にとって居心
地のよい世界をつくろうとする。その結果、大きく分けて、つぎの四つのタイプに分かれ
る。



(1)攻撃型……威圧や暴力によって、相手を威嚇(いかく)したりして、自分にとって、
居心地のよい環境をつくろうとする。

(2)依存型……ベタベタと甘えることによって、自分にとって居心地のよい環境をつく
ろうとする。

(3)服従型……だれかに徹底的に服従することによって、自分にとって居心地のよい環
境をつくろうとする。

(4)同情型……か弱い自分を演ずることにより、みなから「どうしたの?」「だいじょう
ぶ?」と同情してもらうことにより、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。



それぞれに(プラス型)と、(マイナス型)がある。たとえば攻撃型の子どもも、プラス型
(他人に対して攻撃的になる)と、マイナス型(自虐的に勉強したり、運動をしたりする
など、自分に対して攻撃的になる)に分けられる。



 スポーツ選手の中にも、子どものころ、自虐的な練習をして、有名になった人は多い。
このタイプの人は、「スポーツを楽しむ」というより、メチャメチャな練習をすることで、
自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとしたと考えられる。



●子どもの仮面



 人間関係をうまく結べない子ども(人)は、(孤立)と、(密着)を繰りかえすようにな
る。



 孤独だから、集団の中に入っていく。しかしその集団の中では、キズつきやすく、また
相手をキズつけるのではないかと、不安になる。自分をさらけ出すことが、できない。で
きないから、相手が、自分をさらけ出してくると、それを受入れることができない。



 たとえば自分にとって、いやなことがあっても、はっきりと、「イヤ!」と言うことがで
きない。一方、だれかが冗談で、その子ども(人)に、「バカ!」と言ったとする。しかし
そういう言葉を、冗談と、割り切ることができない。



 そこでこのタイプの子どもは、集団の中で、仮面をかぶるようになる。いわゆる、いい
子ぶるようになる。これを心理学では、「防衛機制」という。自分の心がキズつくのを防衛
するために、独特の心理状態になったり、独特の行動を繰りかえすことをいう。



 子ども(人)は、一度、こういう仮面をかぶるようになると、「何を考えているかわから
ない子ども」という印象を与えるようになる。さらに進行すると、心の状態と、表情が、
遊離するようになる。うれしいはずなのに、むずかしい顔をしてみせたり、悲しいはずな
のに、ニンマリと笑ってみせるなど。



 この状態になると、一人の子ども(人)の中に、二重人格性が見られるようになること
もある。さらに何か、大きなショックが加わると、人格障害に進むこともある。



●すなおな子ども論



 従順で、おとなしく、親や先生の言うことを、ハイハイと聞く子どものことを、「すなお
な子ども」とは、言わない。すなおな子どもというときには、二つの意味がある。



一つは情意(心)と表情が一致しているということ。うれしいときには、うれしそうな顔
をする。いやなときはいやな顔をする。



たとえば先生が、プリントを一枚渡したとする。そのとき、「またプリント! いやだな」
と言う子どもがいる。一見教えにくい子どもに見えるかもしれないが、このタイプの子ど
ものほうが「裏」がなく、実際には教えやすい。



いやなのに、ニッコリ笑って、黙って従う子どもは、その分、どこかで心をゆがめやすく、
またその分、心がつかみにくい。つまり教えにくい。



 もう一つの意味は、「ゆがみ」がないということ。ひがむ、いじける、ひねくれる、すね
る、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。



ゆがみというのは、その子どもであって、その子どもでない部分をいう。たとえば分離不
安の子どもがいる。親の姿が見えるときには、静かに落ちついているが、親の姿が見えな
くなったとたん、ギャーとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけたりする。そ
の追いかけている様子を観察すると、その子どもは子ども自身の意思というよりは、もっ
と別の作用によって動かされているのがわかる。それがここでいう「その子どもであって、
その子どもでない部分」ということになる。



 仮面をかぶる子どもは、ここでいうすなおな子どもの、反対側の位置にいる子どもと考
えるとわかりやすい。



●仮面をかぶる子どもたち



 たとえばここでいう服従型の子どもは、相手に取り入ることで、自分にとって、居心地
のよい世界をつくろうとする。



 先生が、「スリッパを並べてください」と声をかけると、静かにそれに従ったりする。あ
るいは、いつも、どうすれば、自分がいい子に見られるかを、気にする。行動も、また先
生との受け答えのしかたも、優等生的、あるいは模範的であることが多い。



先生「道路に、サイフが落ちていました。どうしますか?」

子ども「警察に届けます」

先生「ブランコを取りあって、二人の子どもがけんかをしています。どうしますか?」

子ども「そういうことをしては、ダメと言ってあげます」と。



 こうした仮面は、服従型のみならず、攻撃型の子どもにも見られる。



先生「君、今度のスポーツ大会に選手で、出てみないか?」

子ども「うっセーナア。オレは、そんなのに、興味ネーヨ」

先生「しかし、君は、そのスポーツが得意なんだろ?」

子ども「やったこと、ネーヨ」と。



 こうした仮面性は、依存型、同情型にも見られる。



●心の葛藤



 基本的信頼関係の構築に失敗した子ども(人)は、集団の中で、(孤立)と(密着)を繰
りかえすようになる。



 それをうまく説明したのが、「二匹のヤマアラシ」(ショーペンハウエル)である。



 「寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに寄り添って、体を温めようとした。し
かしくっつきすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、
体が温まらない。そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、
ほどよいところで、体を温めあった」と。



 しかし孤立するにせよ、密着するにせよ、それから発生するストレス(生理的ひずみ)
は、相当なものである。それ自体が、子ども(人)の心を、ゆがめることがある。



一時的には、多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが多い。たとえば急激に緊
張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さら
にその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になる。



が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や
性機能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新
井康允氏)という。



こうしたストレスが日常的に重なると、脳の機能そのものが変調するというのだ。たとえ
ば子どものおねしょがある。このおねしょについても、最近では、大脳生理学の分野で、
脳の機能変調説が常識になっている。つまり子どもの意思ではどうにもならない問題とい
う前提で考える。



 こうした一連の心理的、身体的反応を、神経症と呼ぶ。慢性的なストレス状態は、さま
ざまな神経症による症状を、引き起こす。



●神経症から、心の問題



ここにも書いたように、心理的反応が、心身の状態に影響し、それが身体的な反応として
現れた状態を、「神経症」という。



子どもの神経症、つまり、心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障
害)は、まさに千差万別。「どこかおかしい」と感じたら、この神経症を疑ってみる。



(1)精神面の神経症…恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できな
いものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩む)など。 

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿
症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、
便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般
的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での
神経症を黄信号ととらえて警戒する。 

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって
行動面に現れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気
力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようにな
る。 

●たとえば不登校



こうした子どもの心理的過反応の中で、とくに問題となっているのが、不登校の問題であ
る。



しかし同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男は
ひどい花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。



が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を
「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの
段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自
閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが、つぎである。 

(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦
怠感、吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快
し、夜になると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の
日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君
を排除すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲ
ット)が、そのつど移動するのが特徴。 

(3)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、
狂ったように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」など
と言うと、一転、症状が消滅する。



ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌っていました」と。
たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」と思うことが多
い。 

(4)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの
攻撃的態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、
どこかピリピリした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、
暴れたりすることはある(感情障害)。



この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感をもつ。お
ののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子どもと
いった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わか
らなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。 

(4)回復期(この回復期は、筆者が加筆した)……外の世界と接触をもつようになり、
少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むと
いうようなことを、断続的に繰り返したあと、やがて登校できるようになる。日に一〜二
時間、週に一日〜二日、月に一週〜二週登校できるようになり、序々にその期間が長くな
る。



●前兆をいかにとらえるか 

 この不登校について言えば、要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措
置をとるかということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片
づけて、無理をする。この無理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。



この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわ
よ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題
は、今の状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症
状はこじれる。悪化する。 


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   5日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●公開BW教室(2010年3月5日)

いよいよ私の人生も、秒読み段階。
……というのは、少し大げさに
聞こえるかもしれない。
しかし時間の長い、短いなどというものほど、
あてにならないものはない。
何をもって、「長い」といい、何をもって、
「短い」というのか。

一方、私の教室に対する、偏見も、根強い。
「幼児向けの受験塾」というのが、おおかたの
見方である。
しかし私は、自分の指導の中で、「受験」を
意識したことは、一度もない。
「くだらない」とさえ、思っている。
「受験に合わせて、子どもを作る」という
ことが、「くだらない」と。

で、長い間、私は、口コミだけで、教室を
経営してきた。
ほとんどの生徒は、口コミでだけで、私の
教室へやってきた。
それで何とか、40年近く、生き延びて
きた。

が、先にも書いたように、いよいよ「秒読み
段階」。
仮にあと5年、つづけられるとしても、
私には、たったの5年。
そのことは、自分の過去を振り返ってみれば、
わかる。

現在、私は、62歳。
5年前というと、57歳。
この間の5年間は、あっという間の5年間
だった。
だらかこの先、5年間も、あっという間に
過ぎ去っていくだろう。
「秒読み段階」と書いても、けっして
おおげさな感じがしない。

そのこともあって、つまりこれが私の
本音だが、こうして私の教室の一部を、
こうして公開することにした。

もともとは、アメリカに住む孫たちのため
と考えて、ビデオに収めた。
しかし肝心の孫たちは、ほとんど見ていない(?)。
「見ている」という連絡は、まったく聞いて
いない。
(残念!)

ということで、いつの間にか、「公開教室」と
いうことになってしまった。

役にたつかどうかは知らないが、親たちが
自分の子育てで利用してくれれば、うれしい。
たぶん、それを見る子どもたちも、
喜んでくれるだろう。
そして同時に、あの誤解も、解けるはず。
「受験塾」という誤解である。
私は受験に合わせて、生徒を指導して
いるのではない。
自分の指導の中で、子どもたちに向かって、
「受験」という言葉を使ったことは、
この40年間で、一度もない。
またそういう指導ではない。

……とまあ、かっこづけは、これくらいにして、
昨日のレッスンを、そのまま紹介する。
さらに興味をもってくださる方は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より、(BW公開教室)へと進んでほしい。
この1年間をかけて、幼児教室のほうを、
ほとんどすべてを収録した。

(あるいは検索エンジンを使って、
「はやし浩司」を検索してほしい。
たいていのページの最上段に、「TOPへ」と
いうナビゲーション・ボタンが用意してある。
そこから私のメイン・HPへ、来てもらえる。)

で、数日前、YZさんという方から、
小学1年以上のクラスも公開してほしいと
いう、メールをもらった。

しかし小学1年生以上は、むずかしい。
「学習性」が強く、(でき・ふでき)が、
そのままわかってしまう。
つまりプライバシーの問題がからんでくる。
だから一部しか、公開できない。
(ごめんなさい、YZさん!)

●形・箱

今週(2010年、3月の1週目)は、
形と箱というテーマで学習をした。
現在、年少児から年長児までを、
指導させてもらっている。
基本的には、同じ教材を使ったが、
できるだけ毎回、子どもたちの様子、
能力に合わせて、切り口を変えている。

お子さんの年齢、能力に合わせて、
YOUTUBEを選んで、見てほしい。

とくにこの3月期は、この1年間、
私の教室で学んできた子どもたちである。
その「成果?」を、見てほしい。
当初は、引っ込み思案で、モジモジ
していた子どもでも、1年後には、
しっかりと自己主張できるようになる。
またそういう子どもにするのが、
私の目的でもある。

まず言いたいことを言い、したいことを
する。
それが子どもの基本。
その子どもの中から、子どもの方向性を
導いていく。
それが私の教え方。
「教育」ということを考えるなら、ほんの
一部かもしれないが、方向性を作ることで、
子どもの将来に、大きな影響を与える。

何度も繰り返すが、(できる・できない)
ではない。
(楽しんだか・どうか)である。

英語の格言にも、
「Happy Learners learn Best」というのがある。
「楽しく学ぶ子は、よく学ぶ」と訳している。
それが大切。
重要。
あとは子ども自身がもつ力で、伸びてくれる。

++++++++++++++++++

●3月1週目(年長児・満6歳児)のレッスン風景より。

小学校への入学が近いため、たぶんにそれを意識した
レッスンになっています。
(1〜5に分けてあります。)

【1】

<object width="425" height="344"><param name="movie" 
value="http://www.youtube.com/v/-zJYNzf2q8o&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param 
name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" 
value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/-zJYNzf2q8o&hl=ja_JP&
fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>

【2】

<object width="425" height="344"><param name="movie" 
value="http://www.youtube.com/v/27lqqHHv1N8&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param 
name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" 
value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/27lqqHHv1N8&hl=ja_JP&
fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>

【3】

<object width="425" height="344"><param name="movie" 
value="http://www.youtube.com/v/akCxGJ3836E&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param 
name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" 
value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/akCxGJ3836E&hl=ja_JP
&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>

【4】

<object width="425" height="344"><param name="movie" 
value="http://www.youtube.com/v/eP2-G43tKDM&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param 
name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" 
value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/eP2-G43tKDM&hl=ja_JP
&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>

【5】

<object width="425" height="344"><param name="movie" 
value="http://www.youtube.com/v/VL3UiOmvnoM&hl=ja_JP&fs=1&"></param><para
m name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" 
value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/VL3UiOmvnoM&hl=ja_JP
&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>


【1〜5・HP版】

http://www.youtube.com/watch?v=-zJYNzf2q8o

http://www.youtube.com/watch?v=27lqqHHv1N8

http://www.youtube.com/watch?v=akCxGJ3836E

http://www.youtube.com/watch?v=eP2-G43tKDM

http://www.youtube.com/watch?v=VL3UiOmvnoM


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●信仰のもつ愚鈍性(Blindness of Religion)

++++++++++++++++++

1人の韓国系アメリカ人が、神への
信仰を信じ(?)、単独で豆満江(中国と
K国の国境を流れる川)を渡った。
「話せばわかるはず」式の手紙をもって、
である。

そのアメリカ人が、43日目に解放された。
で、解放直後には、「北朝鮮は人権を守った。
信仰の自由が保障された」などと発言していた。
K国の朝鮮中央通信の報道なので、そのまま
信ずるわけにはいかない。
……と考えていたら、韓国の朝鮮N報が、
こんな記事を配信した。

それをそのまま紹介させてもらう。
この記事を読んで、いろいろ考えさせられた。

*************以下、朝鮮N報より***************

北朝鮮による43日間の抑留から解放された韓国系米国人の人権運動家、ロバート・パク
さん(韓国名パク・ドンフン)が、北朝鮮で受けた拷問の後遺症で精神病院に入院した。
 
 パクさんが師としているジョン・ベンソン牧師は4日、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)
放送のインタビューに対し、「(パクさんは)恐怖に直面したような不安症状を見せており、
会話時にも呼吸が乱れるほど落ち着かない状況だ。両親や知人が先月27日にカリフォル
ニア州内の病院に入院させた」と語った。

 韓国でパクさんと共に北朝鮮の人権運動を繰り広げてきた市民団体「パックス・コリア
ナ」のチョ・ソンレ代表も入院の事実を認めた上で、「平壌に護送された後、口に出せない
ような性的な拷問を受けた。パクさんは北朝鮮について、ナチスドイツよりも悪らつな政
権だと話している」と語った。

 パクさんは昨年12月25日、金正日(キム・ジョンイル)総書記に人権問題の改善を
求めるために、中朝国境の豆満江を渡り逮捕され、先月6日に解放された。

 パクさんは釈放直前、北朝鮮の朝鮮中央通信とのインタビューで、「北朝鮮は人権を守っ
た。信仰の自由が保障された」と答えている。北朝鮮消息筋は「パクさんは北朝鮮入りし
た後、北朝鮮の警備兵に『半殺し』状態にされたと聞いている」と語った。

 ベンソン牧師はVOA放送に対し、パクさんは心的外傷後ストレス障害(PTSD)によ
る不安症状で意思疎通が容易にできない状況だ説明した。(朝鮮N報・3月6日)

*************以上、朝鮮N報より***************

●「?」

 当初、いさましいいでたちで、豆満江を渡るパク氏の姿を、写真で見たとき、
そこにどこか狂信的なものすら、私は感じた。
パク氏は、金xxと直談判で、人権問題を話し合うというようなことを口に
していた。
だから私は、「?」マークを、何十個も並べたあと、「そんな甘い政権では
ないのだがなあ」と思った。

 アメリカから見るK国と、日本のように、近くの国から見るK国は、かなり
ちがう。
その(ちがい)は、豆満江を渡る前のパク氏と、解放されてからのパク氏を
見ればわかる。

 豆満江を渡る前のパク氏は、やる気満々の、はつらつとして好青年といった
感じだった。
が、解放されたニュースサイトに載ったパク氏は、どれも目を閉じたまま。
明らかに心が壊れているといった感じだった。

●神の教え

 おそらくパク氏は、「話せばわかる」式の希望をもっていたにちがいない。
ホワイトハウスへ、手紙をもって乗り込むような心境ではなかったか。
それにどこかのサイトに書いてあったが、パク氏は、「私は神に守られている
からだいじょうぶ」というようなことまで言っていた。
「だから、心配ない」と。

 しかし結果は、朝鮮N報が報道しているとおり。
「平壌に護送された後、口に出せないような性的な拷問を受けた。パクさんは北朝鮮につ
いて、ナチスドイツよりも悪らつな政権だと話している」と。

 それがどういう拷問であったかは、私にはわからない。
しかし1人の青年が、たった43日間で、まったく別人になってしまったのだから、
相当な拷問だったらしい。
しかしそうした拷問は、あの国を考えるときには、常識。
言い替えると、そういう常識もないまま、パク氏は、K国に渡ったということになる。
私は、この朝鮮N報の記事を読みながら、アメリカの国務次官補のC・ヒル氏や、
現在、対北特使を務めているボズワース氏を、即座に思い浮かべた。
彼らもまた、「話せばわかる式」の幻想にしがみついていた。

 が、K国は、そういう国ではない。
そういう甘い国ではない。
そんなことは、ほんの少しでもカルトをかじった人なら、わかるはず。
心理学でもよい。

●勇気ある行動?

 もう一度、『金xx総書記に人権問題の改善を求めるために、中朝国境の豆満江を渡り逮
捕され、先月6日に解放された』という部分を読んでみてほしい。

 結果が最悪だったから、こういう書き方は、パク氏の親族の人たちには、失礼な言い方

になるかもしれない。
しかしこの現実認識の甘さは、いったいどこから生まれるのか。
もっと端的に言えば、「思い上がりも、はなはだしい」。

 熱心な信仰者であることは、私も認める。
しかしそれでもって、つまり自分が神か何かになったつもりで、こうした軽率な行動
に出ること自体、ふつうではない。
ふつうでない部分に、パク氏の勇気ある行動をたたえる前に、そこに狂信性を覚えて
しまう。
ときとして、人は、狂信に走るあまり、ロジカル(論理的)な思考を放棄してしまう。
それが恐ろしい。

 たとえば私の家にも、毎月のようにどこかの宗教団体の信者が布教にやってくる。
断っても断っても、やってくる。
そしてたいてい、こう言う。
「私たちはぜったい、正しい」と。

 この言葉を裏から読むと、「あなたがたは、まちがっている」となる。
しかしこれほど、失敬な言葉はそうはない。
その失敬さに、彼らは気づいていない。
パク氏にしても、しかり。

●問題はつづく

 ともかくもこの事件を通して、改めて、K国という国が、どういう国かがわかった。
ふつうの国ではない。
人心そのものが、すでに破壊されている。
そして一度破壊された「心」というのは、簡単には、もとにはもどらない。
仮に6か国協議が成功し、K国が核兵器を放棄したとする。
そのあと、天文学的数字の援助が、K国になだれこんだとする。

 で、それで問題が解決するわけではない。
日本という国にしても、そのあと、そういうK国を相手に、外交を進めなければ
ならない。
しかしそれは想像するだけでも、ぞっとする。
その一端は、現在進行中の、もろもろの南北会議の内容をみてもわかる。
議論そのものが、かみ合わない。
価値観の相違というよりは、その価値観を支える、常識そものが、ちがう。
そしてその常識は、私たち日本人が想像もつかないほど、かけ離れている。
日本は、そういう国を相手に、これから先、どうやってつきあっていけばよいのか。
想像すればするほど、ぞっとする。

●パク氏

 パク氏もさることながら、パク氏を送り込んだ、市民団体「パックス・コリアナ」
にも、責任がないとは言わせない。
さらにパク氏が師とあおぐ、ジョン・ベンソン牧師にしてもそうだ。
詳しい関係はわからないので、それ以上のことは書けないが、みな、認識が甘すぎる。
いつだったか、アメリカの政府高官が、K国を評して、「狂った犬」と言ったが、
狂った犬を相手に、人権を説いても、意味はない。
しかもたった、1人で!

 この記事を読んだとき、K国の問題もさることながら、一方で、信仰のもつ愚鈍性も
問題とされるべき。
そこらの個人が、熱心に祈ったくらいで、世界が変わるわけがない。
また変わってもらっても、困る。
病気すら、治すことはできないだろう。
 
 こんな話を思い出した。
ポケモンブームが全盛期のころのこと。
1999年ごろのことだった。
1人の中学生が、窓から外に向かって、あやしげな呪文を唱えて祈っていた。
で、私が「何をしているのだ?」と聞くと、その中学生は、こう言った。
「超能力で、あのビルを破壊してみたい」と。

 そこで私はこう言った。
「破壊してみたいと思うのは君の勝手だが、破壊されるほうの人たちは、困るよ。
死人だって出るかもしれない」と。
ここでいう「信仰のもつ愚鈍性」というのは、それをいう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 信仰 信仰のもつ愚鈍性 信仰と盲信性 妄信性)

++++++++++++++++

10年近く前に書いた原稿ですが、
そのまま再掲載します。

++++++++++++++++

●寛大と寛容

 先日、「愛と寛大」というテーマで、エッセーを書いた。それについて、「林君、それは
寛大ではなく、寛容だよ。寛容という言葉のほうが、適切だよ」と言ってくれた人がいた。

 感謝!

 なるほど、そのとおり。寛容の結果として、その人は、寛大になる。寛大になるかどう
かは、あくまでもその結果でしかない。

 ところで昔、私が子どものこと、私の父は、M会という、ある倫理研究団体に属してい
た。どこか宗教的な倫理団体で、父は、床の間に「天照大神」という掛け軸をかけ、いつ
も何やら、祈っていた。

 その掛け軸の横に、もう一つ、やや小ぶりな掛け軸があり、それに、「慈悲寛大」という
言葉が書いてあった。

 そのときは、意味がわからなかったが、それで私は、「寛大」という言葉を覚えた。しか
し今から思い出してみると、なかなか的(まと)をついた言葉のように思う。

 慈悲と寛大は、たしかにペアになっている。私がいう、「愛と寛容」と、どこもちがわな
い。慈悲は、他者に対する同調性をいう。寛大というのは、他者を自分の中に受けいれる
ことをいう。まさに精神の柱として、何ら、遜色のない言葉である。

 ……ということは、私は、意識こそしなかったが、父が信じていた言葉を、心のどこか
に残していたということになる。その可能性が、ないとは言えない。私自身は、M会のメ
ンバーになったことはない。会合といっても、私がときどき行ったのは、小学生のころで
ある。ただついて行ったというだけである。

 が、心のどこかに残っていた!

 「寛容かあ……」と思ったとき、ふと、子どものころ毎日見ていた掛け軸を思い出した。
それでこの原稿を書いた。

 慈悲にせよ、愛にせよ、寛大であるにせよ、寛容であるにせよ、すばらしい言葉である
ことには、ちがいない。

 もう一つ、その人は、「寛容も、愛の中に含まれるのではないか。分けて考える必要はな
いのではないか」と言った。

 私も、実は、そう思う。愛と寛容を並べて考えるか。あるいは寛容も愛に含めて考える
かは、ただ単なる、言葉の遊びのようなもの。ただ、愛と寛容を分けて考えると、より、
その意味がわかりやすくなるということ。そういう意味では、この二つを、分けて考える
ことは、ムダではないように思う。
 

●信ずることのむずかしさ

 「信ずる」という言葉は、相手を疑っているから、口から出てくる言葉。本当に相手を
信じていたら、「信ずる」という言葉など、出てこない。

 よい例が、若い恋人どうしの会話。

男「オレを、信じろ」
女「あなたを、信じているわ」と。

 たがいに疑っているから、そういう言葉が出てくる。

 同じように、今度は、「裏切る」という言葉がある。「信じていたのに、裏切られる」と
いうふうに使う。

 しかし本当に信じていたら、裏切るということもないし、裏切られるということもない。
「信じていない」からこそ、裏切られる。もう少しわかりやすい例で、説明してみよう。

 たとえばあなたが、夫を信じていたとしよう。あなたは、「私は夫を信じている」と言う。

 しかしそのとき、あなたは、本当に、あなたの夫を信じているだろうか。そのとき、あ
なたに多少の迷いや不安があるようなら、あなたは、あなたの夫を信じていないというこ
とになる。

 信ずるというこは、そもそもそういう迷いや疑いをもつことなく、全幅に、相手に自分
の心をゆだねることをいう。心の一体性をいう。見かえりを求めない、無償の一体性をい
う。

 たとえばあなたの夫の帰宅時刻が、不自然に遅かったとする。このところ何かにつけて、
あなたの夫の行動には、どこかおかしなところがある。

 そのとき、心の一体性があれば、あなたは、そもそも、何も疑わない。しかしそこに迷
いや不安が入りこむと、その一体性は、崩れる。そして一気に、「裏切る」という言葉が、
口から出てくる。

 しかし無償の一体性があると、そもそも疑うということはない。迷いや不安が入りこむ
ということもない。ひょっとしたら、「浮気をしたければすればいいじゃない。どうせ、熱
病よ。公衆トイレで、小便をするようなものよ」と、夫をのみこむことができるかもしれ
ない。

 「信ずる」ということは、そういうことをいう。

 またそういう状態では、「裏切る」という言葉など、口から出てこない。

 仮に事実として裏切られても、相手を責める前に、自分を責める。

 そういう意味でも、「信ずる」ということは、むずかしい。本当にむずかしい。

 ……という説明でもわからなければ、もっと、わかりやすい例で、説明してみよう。

 ある人は、熱心なクリスチャンだった。本当に熱心なクリスチャンだった。日曜日には、
必ず教会へでかけ、そこで礼拝していた。あるいは仏教徒でもよい。法事という法事は、
かかさずすべて、ていねいに実行していた。

 が、その人の子どもが、病気になった。そこでその人は、毎日、熱心に神や仏に、祈っ
た。が、その祈りもむなしく、その子どもは、死んでしまった。

 本来なら、その人は、その宗教をやめてもよいはず。神や仏に裏切られたということに
なる。しかしその人は、それからもずっと、熱心なクリスチャンのままだった。熱心な、
仏教徒のままだった。

 もともと疑っていないから、つまり、信ずることによって、見かえりを求めていなかっ
たから、たとえ子どもが死んでも、(凡人の常識で考えれば、裏切られたということになる
のだが……)、その人は裏切られたとは思わない。つまり、「信ずる」ということは、そう
いうことをいう。

 これで「信ずる」ことのむずかしさを、わかってもらえただろうか。「親ずる」ことのも
つ、深い意味を、わかってもらえただろうか。

 さて、あなたは夫(妻)を信じているか。あなたの子どもを信じているか。もう一度、
自問してみてほしい。

 「信ずる」と、口では簡単に言うことはできる。しかし、その中身は、かぎりなく濃く、
かぎりなく深い。


●何を「信ずる」か?

 信ずるといっても、イワシの頭では、困る。

 信ずるといっても、その中身が、大切。中身のないものを信じろと言われても、それは
できない。

 人間関係も、同じ。

 あなたが、妻(夫)に向って、「私を、信じなさい」と言ったとする。しかし言うのは簡
単。が、言われたほうは、困る。いったい、あなたの何を信じればよいのかということに
なる。

 信ずるにしても、信じられるにしても、中身がなければならない。人間について言うな
ら、信じるに足りる、人間的な中身がなければならない。その中身のないものどうしが、「信
じて」「信じているよ」と言いあうのは、マンガでしかない。

 そこで問題は、あなたには、その中身があるかということ。私には、その中身があるか
ということ。

 さらに、どうすれば、その中身ができるかということ。どうすれば、その中身を作るこ
とができるかということ。

 実は、これたいへんな作業である。気が遠くなるほど、たいへんな作業である。だから、
ますます、口が重くなる。「信ずる」という言葉が、口から出てこなくなる。

 信ずるというのは、その相手との、見かえりを求めない、無償の一体性をいう。もとも
と見かえりを求めていないから、裏切られても、裏切られたという意識すら、生まれない。
「自分がバカだった」で、すますことができる。

 しかしそこまで相手を信ずるのは、むずかしい。反対に、そこまで相手に信じられるよ
うになるのも、これまたむずかしい。

 だいたいにおいて、あなたは、あなた自身を信じているか。私自身を、信じているか。
自分すらも、信じられないあなたが、「私を信じなさい」と言うのは、おかしい。

 友人のR氏(60歳)の話。

 30歳くらいのとき、R氏は、当時の価格でも、50万円にも満たないような山林を、
500万円で買わされた。貯金を、すべて、はたいた。

 長野県にある美林ということだった。長年、世話になった男ということもあった。間に、
親類の一人が入ったということもある。それでR氏は、その男から、山林を買った。

 その山林だが、30年近くたった今も、(木そのものも、30年分、成長したが……)、
売っても、150万円にもならないという。当時の500万円といえば、家が、一軒、建
てられるほどの金額である。

 今、150万円というと、駐車場が作れるほどの金額でしかない。R氏は、買って20
年ほどしてから、「だまされた」と知った。

 R氏は、当時、つまり山林を買ったとき、その男には、数人の愛人がいることを知って
いた。いつもキンキラキンのローレックス(時計)を腕に巻き、トヨタのC車に乗ってい
たのも、知っていた。

 が、どういうわけだか、R氏は、その男を信用してしまった。「Rさん、いつか、この山
の木で、総ヒノキづくりの豪邸を建てなさい」と言われたのを、真に受けてしまった。

 しかし自分の妻ですら、平気で裏切るような男である。見栄やメンツだけにこだわるよ
うな男である。一片の哲学もなければ、倫理観もない。今になって思うと、「どうして、あ
んな男を信用したのか」ということになる。

 本来なら、R氏は、詐欺罪で訴えてもよいのかもしれないが、山林のばあいは、価格な
ど、あって、ないようなもの。相場を調べないで買った、R氏が、バカだったということ
になる。

 R氏は、私にこう言った。

 「そう言えば、あの男も、記憶のどこかで、私に、こう言ったことがある。『Rさん、私
を信じて、この山をもっていなさい』と」と。

 さて、あなたの夫(妻)は、あなたが信ずるに足りるような人物だろうか。あるいは反
対に、あなたの妻(夫)に信じられるに足りるような人物だろうか。

 こうして考えていくと、「信ずる」ということが、ますますむずかしいということがわか
ってくる。


●常識を信ずる

 ある宗教を信仰すると、さまざまな特徴が現れてくる。

 神秘化、誇大化、妄信化、美化正当化、非現実化、社会逃避性など。さらにカルトとな
ると、組織化、隷属化、上位下達化、信者の愚鈍化、固執化、排他性、閉鎖性などの現象
も現れてくる。

 もともとはその人内部の、依存性の問題と考えてよい。しかし本人自身は、決して、そ
うは思っていない。「私は正しい宗教を信仰している」と、思いこんでいる。この思いこみ
こそが、カルトの最大の特徴と考えてよい。

 ただ誤解してはいけないのは、宗教があるから、(それがカルトであるにせよ)、信者が
いるのではない。それを求める信者がいるから、宗教があるということ。だからその宗教
がおかしいからといって、その宗教を攻撃しても意味はない。

 かえって、それを信じている人たちを、不安にしてしまう。この世界の言葉では、それ
を、「ハシゴをはずす」という。「あなたたちは、まちがっている」と言う以上、そういう
人たちの受け皿を用意しておいてあげねばならない。かわりの思想を、用意しておいてあ
げなければならない。

 その受け皿もないまま、「まちがっている」と言うのは、たいへん危険なことでもある。
そういう人たちは、そういう人たちなりに、ハッピーなのである。そっとしておいてあげ
るのも、その外にいる人たちの役目ということになる。

 へたにハシゴをはずしてしまうと、その人は、情緒不安から精神不安へと陥ってしまう。

 ただその宗教が組織化され、たとえば政治や経済の分野まで影響をおよぼすようなとき
は、話は別である。たとえば政治とからんだ宗教ほど、その宗教が正しいとか正しくない
とかいう判断は別にして、危険なものはない。

 それに対しては私たちの良識をフルに働かせて、警戒しなければならない。「政教分離」
という民主政治の大原則も、そこから生まれた。当然のことである。

 大切なことは、自分で考える習慣と力を、身につけること。おかしいものは、「おかしい」
と言う勇気をもつこと。そして何よりも大切なことは、自分の常識をみがくこと。きたえ
ること。

 ごく自然な人間として、野や山に親しみ、音楽を聞き、絵画を鑑賞しながら、自分の常
識をみがく。ごくふつうの人として、ごくふつうの人とかかわりあいながら、ふつうの生
活をしながら、自分の常識をみがく。

 その常識に従って、人間は、過去、数10万年もの間、生きてきた。これからも生きて
いく。それがまちがっていると言うなら、それを言う人がまちがっている。

 みんなで、その常識を信じよう。守り、育てよう。

 ……ということで、少し話が脱線したので、この話はここまで。

【ワイフとの会話】

 これについて、ワイフと、こんな会話をした。

私「お前は、ぼくを信じているか?」
ワイフ「考えたことないわ」
私「ぼくなんて、信じちゃ、だめだよ」
ワイフ「それも考えたことはないわ」

私「ぼくが浮気しないと思っているのか?」
ワイフ「あんたと浮気する女性なんて、いないわよ」
私「わからないぞ」
ワイフ「まあ、だれかに相手をしてもらえるなら、してもらいなよ。私は、かまわないわ」

私「やきもちを焼かないのか?」
ワイフ「遊びなら、かまわないわ」
私「本気だったら?」
ワイフ「あのね、相手にも、男を選ぶ権利というものがあるのよ。いくらあなたが本気で
も、相手が本気にならなければ、浮気はできないのよ。それでおしまいよ。どうして、あ
なたは、それがわからないの? 本気で相手にしてもらえると、思っているの?」

私「どうして、ぼくは本気で、相手にしてもらえないの?」
ワイフ「三枚目だからよ。やること、なすこと、日本のミスター・ビーンみたい」
私「ミスター・ビーンだって、もてるぞ」
ワイフ「あなたには、ぜんせん、そのムードがないわ。本当に、あなたは、おめでたい人
よ」と。

 いつもワイフと会話をしていると、そういう話になってしまう。高尚な理念も、ワイフ
の頭の中では、ただの雑談。

 それにしても、ミスター・ビーンとは……! せめて、チャップリンくらいに考えてほ
しかった。チャップリンは、女性にもてたという話だ。

【補記】

神秘化……過去の人物にかこつけ、その宗教に神秘性をもたせる
誇大化……その宗教が、すべてと信者に思いこませる。
妄信化……絶対的な善であると、信者に妄信させる。
美化正当化……命をかけるに足りる宗教であると、信じこませる。
非現実化……現実遊離、現実逃避の思想を注入する。
社会逃避性……社会的なもの、人間的なもの、ついでに金銭は無意味と教える。
組織化……信仰が個人というワクをはずれ、組織化する。
隷属化……組織の中では、上下関係を明確にし、下位信者は、上位信者に隷属する。
上位下達化……思想、思想は、常に、上層部から、下層部へと一方的に伝えられる。
信者の愚鈍化……その信仰以外のことは考えさせない。
固執化……その信仰を離れたら、バチが当たるとか、不幸になるとか教える。
排他性……自分たちの信仰以外のものは、まちがっていると排斥する。
閉鎖性……外部との接触を、禁止する。

 これらの項目にあてはまれば、その宗教は、カルトと考えてよい。信仰といっても、「教
え」によってするもの。しかしその基盤は、人間が人間としてもっている常識である。ど
んな信仰をするにしても、その常識の目を曇らせてはいけない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●3月5日

 今朝は、偏頭痛で目が覚めた。
時計を見ると、午前5時。
昨夜、遅くまでテレビを見ていたのが、悪かった。
そのときすでに軽い頭痛が始まっていた。
軽い風邪と誤解した。
市販の頭痛薬と葛根湯をのんで、そのまま寝た。
が、偏頭痛だった。

 で、偏頭痛の薬をのんで、再び、床の中に。
2度目に目を覚ましたら、午前11時!
偏頭痛は消えていたが、どうも気分がすっきりしない。
軽いが、花粉症も始まったようだ。
目を覚ますと同時に、はげしいくしゃみが、たてつづけに、
5、6回。

 このところやや体重オーバー。
朝食はとらなかった。
今日は、自宅から教室まで、約7キロを歩くことにした。

 偏頭痛のいやなところは、眠っていても、痛いこと。
(これに対して、風邪の頭痛は、眠っているときは、忘れる。)
何かの夢を見ながら、その一方で、ズキンズキンと痛んだ。


●ボットン便所

 昨日、小5、6の子どもたちに、ボットン便所の話をした。
が、9人のうち、「ボットン便所」という名前を知っていたのは、たったの1人だけ。
残りの8人は、「知らない」「聞いたことがない」と。
中に1人、どこかの催し物会場によく設置してある、ボックス便所と誤解していた子ども
がいた。
「あれとはちがう」と、私は話した。

 で、ボットン便所を知っていた1人の子どもは、こう言った。
「友だちの家のトイレが、そうだった。臭くて、ぼくは鼻をつまんで、小便をした」と。

 が、私たちの世代には、水洗トイレは、夢の利器だった。
小さなアパートだったが、そこへ入ったとき、私は生まれてはじめて、水洗トイレなるも
のを自分のものとして、使うことができた。
うれしかった。
どううれしかったかは忘れたが、とにかく、うれしかった。
 
私「ボットン便所というのはね、うんちをすると、それが下へ落ちて、ボットンという音
がするんだよ。だからボットン便所って言うんだよ」
子「……」と。

 かく言う私も、今では、ボットン便所を使うことができなくなった。
今でも、田舎のほうへ行くと、ときどき、ボットン便所のところがある。
そういうところでは、苦労する。
気分が悪くなることもある。
食欲がなくなることもある。
しかし……。

 山登りは、登っていくときも楽しいが、下っていくときも楽しい。
しかし文化というのは、下っていくときが苦しい。
つらい。
仮に明日からボットン便所に……ということにでもなったら……。
ギョッ!
パソコンにしても、明日から使えなくなるということにでもなったら、
仕事が手につかなくなるだろう。
代わりの方法をさがせと言われても、おそらく、私には、何もできない。


●宇宙人?

 昨日、突然、1人の男が、教室へやってきた。
年齢は30歳くらいか。
「ハヤシ・ヒロシさんですね?」と。

 この時期、教室の見学にやってくる人は多い。
私はその1人だと思った。
「どちらさんですか?」と聞くと、いきなり、「あなたは、ロズウェル事件をどう思います
か? その返事を聞いて、うちの子を(この教室に)入れるかどうか、決めたい」と。

 ロズウェル事件というのは、1947年にニューメキシコ州で起きた、UFO墜落事件
をいう。
「さあ、知りません」と答えると、その男は、ふたたび、こう言った。
「あなたは、ハヤシ・ヒロシさんですね。あなたは宇宙人ですか?」と。

 しかしいきなり、「あなたは宇宙人ですか?」は、ない。
返答に困りながら、私は、「あなたはどちらさんですか?」を繰り返した。
が、私の様子を見て、その男は、「思ったより小さいな(=私のこと)」と言って、その場
を去っていった。

 これ以上のことを、ここに書くのは、差し控えたい。
その男は、本当に自分の子どものことを考えて、やってきたのかもしれない。
親には、それぞれの価値観がある。
その価値観に応じて、子どもを育てる。
それについてとやかく言うのは、この世界では、タブー。


●中国の常識(?)

 ところでこんな話も聞いた。

 中国のどこからか、一組の夫婦がその町にやってきた。
駅前の商店街の一角に、中華料理店を開いた。
開いたというより、閉店状態にあった中華料理店を引き継いだ。
当人たちは、「北京からやってきた」と言ったという。

 で、開店までに、いろいろあったらしい。
が、ともかくも、開店した。
しかしそれが近所とのトラブルの始まりだった。

 数日もすると、まず隣の洋品店へ、中華料理店の店主が、怒鳴り込んできた。
「お宅は、店のシャッターをおろすことが多いが、ちゃんと開けておいてほしい」と。
そのあたりは、駅前商店街だったが、大半の店は、シャッターをおろしたままになってい
た。
その洋品店も、週に何日しか、店を開かなかった。
中華料理店の店主は、それが気に入らなかったらしい。

さらにその中華料理店の店主は、数軒おいた、理髪店(床屋)にもやってきた。
こう言った。

「お宅へ来る客を、うちの店(=中華料理店)へ回してほしい」と。
閑散とした通りだったが、その理髪店だけは、はやっていた。

 これには理髪店の店主も驚いた。
そのとき客も、何人かいた。
それらの人の前で、中華料理店の店主はいきなり土下座したという。
「ここには、たくさんの客が来る。その客をうちの店に回してほしい」と。

 中国には中国の常識(?)というものが、あるらしい。
しかしそれは日本の常識ではない。
ときとして、異なった常識が、真正面からぶつかることがある。
私はその話を聞きながら、それを考えた。


●常識

 世の中には、いろいろな人がいて、いろいろな常識(?)をもっている。
だからといって、私やあなたがもつ常識が、正しいと考えてはいけない。
私などは、郷里の地元では、非常識な男ということになっている。
親類の四九日の法要や、一周忌に、顔を出さないからだそうだ。
一度は、その中の1人に、こう言われた。

「義理を欠くようなヤツは、人間のクズ」と。

 私はその人間のクズということになる。

 それが国際的になると、さらに常識の間に、大きな山や谷ができる。
言い換えると、国際的にみると、日本人がもつ常識ほど、あやしげなものはない。
少なくとも、世界の人たちは、そうみている。 

 これについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。


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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年   4月   2日号
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4月 2日……1341号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●負け戦

++++++++++++++++

負け戦ということは、よくわかっている。
英語で言えば、「loser(負け犬)」。

その私が精一杯、虚勢を張って生きている。
虚勢だ。
ありもしない名声を、あたかもあるかの
ように見せかけ、それにしがみついて
生きている。
ありもしない名誉を、あたかもあるかの
ように見せかけ、それにしがみついて
生きている。

できれば、何かの肩書きがほしい。
しかしそんなものは、どこにもない。
どこをさがしても、ない。

加えて自分の人生を振り返っても、
充実感などどこにもない。
やったことと言えば、自分の名誉と
財産づくりのため。
それだけ。
そのために、人を利用しただけ。

そういう私を知っている人は、私のような
人間など、相手にしない。
むしろ陰でこう言っている。
「あの林(=私)は、偉そうなことを
書いているが、中身は何もない」と。
弟子もいない。

恩師のTK先生にしても、そうだ。
私のほうで勝手に、「恩師」「恩師」と
言っているが、肝心のTK先生のほうは、
私のことなど、何とも思っていない。
「弟子」の中にも入っていない。
TK先生の文章のどこを読んでも、
「はやし浩司」の名前など、どこにも
出てこない。
出てくるはずもない。

ひがんでいるのではない。
私は、つまりは、その程度の人間でしかない。

「私は偉い」「私は立派だ」「私はすばらしい」と、
いくら人に訴えても、だれも見向きもして
くれない。
返ってくるのは、寒々とした孤独感だけ。
孤立感だけ。

そう言えば、昔、こんなバカがいた。
いつも私の家(=実家)にやってきて、
金儲けの自慢話ばかりしていた。
「今月は、いくら儲けた」
「来月は、いくら儲ける」と。
何でもだれかと、現金で1億円づくりを
競ったそうだ。
で、その競争に勝ったとか。
賞金の100万円を手にしたとか。
そんな話も聞かされた。

本人は、それで楽しいかもしれない。
おもしろいかもしれない。
しかしそれを聞かされるほうは、
たまったものではない。
当時、私の家は、貧しかった。
貧乏のどん底を這うような生活をしていた。
母は、その男が帰るたびに、玄関に
塩をまいていた。
よほど悔しかったのだろう。

が、そのバカのしたことと同じことを、
今、私がしている。
何のことはない。
この私が、だ。
私が同じことをしている。

いっぱしの教育者づらをして、いっぱしの
ことを書いて、威張っている。
ときに哲学者らしい文章を書くこともある。
しかしそれがどうしたというのだ。
何になるというのだ。
その答を聞くのが恐ろしいから、
あえて目をそむけ、生きているだけ。

今さら引き返そうにも、引き返すことも
できない。
人生をやり直そうにも、やり直すことも
できない。
「まちがっていた」と敗北を認めることも
できない。
認めたとたん、そこは自己否定の世界。
無間地獄。

だからまたまた虚勢を張って、生きる。
虚勢にしがみついて、生きる。
そこに何もないことを知っている。
明日に、何もないことも、知っている。
しかしここで虚勢を棄てることもできない。
ひょっとしたら、何かあるかもしれない。
明日になれば、何か変わるかもしれない。
そんな思いに希望を託して、今日も
がんばる。
がんばるしかない。

裸の体に、赤や青の鳥の羽をつけて、
それらしく体裁を整えて生きていく。
「講演会の感想が届きました」
「HPやBLOGへのアクセス数が、
月間30万件を超えました」と。

だからといって、それがどうしたというのか。
だからといって、だれが私を、それで認めて
くれるというのか。
それで周囲の人たちの心が、少しは
変わるとでもいうのか。

答はわかっている。
わかっているが、そこまで。
あえて自分の耳をふさぐ。
ふさいで、知らぬ顔をする。 

今日も始まった。
今日も虚勢を張って生きる。
虚勢を張って生きる。
虚勢にしがみついて生きるしかない。
それしかない。

+++++++++++++++++

●モーフィング

 昨日は、数時間、ひまがあったので、モーフィングに挑戦してみた。
以前からやってみたかったが、きっかけがなかった。
だから昨日、やってみた。

 モーフィングというのは、ひとつの顔から、別の顔に変身させる技術をいう。
よくSF映画などに、それが出てくる。
映画『ターミネーター』の中にも、出てきた。

 で、処女作は、まあまあのでき。
2作目は、うまくできた。
「ここが最前線の子育て論」の中に、収録しておいた。
6歳の時の顔から、60歳のときの顔にモーフィングさせてみた。

 で、夜になって、ワイフが、「映画に行かない?」と、私を誘った。
時計を見ると、8時を回っていた。
で、映画を観に行ってきた。
映画は、『パーシー・ジャクソンと、オリンポスの神々』。
日本語吹き替え版。
ちょうどよい時間帯のものは、それしかなかった。

 映画そのものは、星2つ前後の、★★(マイナス)。
10日もすれば、題名すら忘れてしまうような映画だった。
ただ地獄のシーンは、圧巻だった。

 その映画を観ながら、あちこちで、モーフィング技術が使われているのを知った。
「あちこち」というより、「いたるところ」。
「映画は、こんなふうにして作るのだ」と、感心しながら映画を観た。
あとは、時間の問題。
つまり時間さえかけれれば、私にだって、同じような映画ができる。

 映画が終わって家に帰ってみると、深夜0時を回っていた。
が、寝る前に、もう1作、モーフィングを使って、映像を作ってみた。
コアラが私の顔に変身するものだった。
しかしこれは失敗。
時間こそ、10分足らずでできたが、コアラと私では、あまりにも違いすぎた。
それを見て、ワイフとゲラゲラ笑った。

 我ら、不良老人!

 ついでに、先週は、『恋するベイカリー』(メリル・ストリープ主演)という映画と、『イ
ンビクタス』(モーガン・フリーマン主演)の2本の映画を観てきた。

 メリル・ストリープの映画は、『マジソン郡の橋』以来、すべて、観ている。
評価は、星は2つか3つの、★★。
『インビクタス』は、星3つか4つの、★★★★(−)。
印象に残る映画だった。

 週末から、新しい映画が、つぎつぎと封切りになる。
楽しみ。
全部、観る!


●手続き記憶

 パソコンを使って、映像を加工する。
いろいろな方法がある。
いろいろな映像に、加工できる。

 今はモーフィングだが、少し前、こんな経験をした。
似たような技術に、「FLASH」というのがある。
ホームページなどを開くと、パッパツと映像が、勝手に変わっていくのがある。
あれが「FLASH」である。

 数年前は、それを自由に使いこなすことができた。
で、先月、再び、それを使ってみた。
が、使い始めて、がっかり。
何度やっても、うまくいかない。
「そんなはずはない」と思ってやってみたが、うまくいかない。

 方法はビデオ編集と似ている。
要領はわかっているはず。

 ……ということで、またまた「脳みその底の穴」を、経験した。
たった数年だが、その間に、脳みその底の穴から、知識や記憶が、流れ落ちてしまった。
老後の恐ろしいところは、ここにある。
若いときには、こんなことはなかった。
しかし今は、ちがう。
新しい技術を覚えても、しばらく使わないでいると、どんどんと忘れてしまう。

 で、今は、モーフィング。
簡単な技術だから、忘れることはないかもしれない。
しかしその可能性は、ないとも言えない。
心のどこかで、そんなことを心配しながら、モーフィングを楽しんだ。

 要するに大切なことは、忘れることを恐れないこと。
その分だけ、新しいことを、どんどんと覚えていけばよい。
たとえて言うなら、川の流れのようなもの。
水を涸(か)らさないようにすること。
水の流れを止めないようにすること。


●中国の大干ばつ

 中国の南部で、大干ばつが起きているらしい。
1500万人近くの人たちが、水不足で、苦しんでいるという。
つい先週には、「数百万人……」と報道していたから、干ばつが深刻化している(?)。

CRI−online(3月2日)は、つぎのように伝えている。

『…… 中国国家洪水干ばつ対策総指揮部の最新統計によりますと、3月2日現在、全国
で干ばつの被害を受けた農作物の面積は430万ヘクタール余りに達し、1501万人の
飲用水が不足しています。
 
 そのうち、雲南と貴州、広西、重慶、四川の5つの地域が総被災面積の8割を占め、被
害状況も極めて深刻です。3月に入ってからも、降雨量は例年を下回り、干ばつによる被害
は、引き続き広がると見られています。
 
 これを受けて、中国国家洪水干ばつ対策総指揮部は2日、緊急対策会議を開き、住民の
飲用水を優先した上で、工業用水と農業用水を確保し、現地の状況に応じた措置を講じる
よう各地方政府に求めました』と。

 中国というところは、なにごとにつけ、スケールが日本より1桁、大きい。
「430万ヘクタール」「1501万人」!
地域によっては、今年に入ってから、雨量ゼロのところもあるという。
(しかしどうして、「1500万人」ではなく、「1501万人」なのだろう?)

 都会に住んでいると、それがわからないかもしれない。
しかし「水不足」ほど、恐ろしいものはない。
このあたりでも、水田に水を引く時期になると、あちこちで騒動が起きる。
水がじゅうぶんあっても、騒動が起きる。
水不足ともなれば、なおさら。
村の人たちの様子も、殺気だってくる。

 私の山荘のほうでも、1〜2月の渇水期に、ときどき水が涸れることがある。
「不便」などというものではない。
長くつづけば、山荘を放棄しなければならない。
そんなことも考えなくてはならない。

 「水は、生活の命」。
それを忘れてはいけない。
電気やガスは、なくても、何とかなる。
しかし水がなければ、生活そのものができない。

 今ごろ、中国のそのあたりでは、私たちの想像もつかないようなドラマが展開されてい
るにちがいない。
どうか、中国のみなさん、心安らかに!


●ビデオカメラ

 この1年以上、V社のビデオカメラを、よく使った。
YOUTUBEへの動画だけでも、1500本(1本、10分)近く、それを使って撮っ
た。
使い方が荒っぽいせいか、今では傷だらけ。
あちこちにガタが出てきた。
モニター画面を開くと、自動的に録画スタンバイになるはずなのに、ときどき電源が入ら
なくなる、など。
保証期間は、延長保証をつけてもらったから、4年。
近く修理に出すつもり。

 が、修理に出している間、どうするか?
……ということで、数日前、近くの大型店へ足を運んでみた。
新しいビデオカメラを物色してみた。

 で、そこへ行ってみて、驚いた。
この1年で、ビデオカメラが、またまた進歩した。
今では、フル・ハイビジョンは、常識。
手ぶれ防止付きも、常識。
S社のビデオカメラなどは、手のひらのすっぽりと収まるほど、小さくなっていた。
さらにビデオカメラをDVDライターに直接つなげて、そのまま動画を保存することもで
きるという。
(従来は、一度、パソコンを経由しなければならなかった。)

 「ヘエ〜」と驚きながら、カメラをいじらせてもらった。

 ……ところで、テレビのほうでは、すでに3D放送が始まっている。
特殊なメガネをかけて観る。
この世界は、いったい、どこまで進むのか?
おもしろい……というより、恐ろしい。

 「だから、それがどうしたの?」という部分だけが、置き去りになったまま、技術だけ
がどんどんと進歩していく。
だから恐ろしい。


●悪あがき

 さて、冒頭に書いた話に戻る。

 定年退職したあとも、過去の地位や肩書きにこだわる人は多い。
さらに最後の最後まで、地位や肩書きを、追い求める人も多い。
しかしそんなものにこだわっているかぎり、安穏とした日々は、ぜったいにやってこない。
こないが、そういう人たちは、その(こだわり)を棄てることができない。
棄てたとたん、自己否定の世界に陥ってしまう。
だから、こ・だ・わ・る。

「オレは、偉いんだぞ!」と。

 しかしこれだけは言える。

 統合性の確立(やるべきことと、現実にしていることの一致)を目指すなら、過去の地
位や肩書きは、早く棄てた方がよい。
忘れたほうがよい。
一度、「無」の状態で、裸になる。
そこから老後の第二の人生を、設計する。
でないと、ますます人に相手にされなくなる。
言い替えると、「悪あがき」だけは、やめたほうがよい。
言うなれば、それは麻薬のようなもの。
それに溺れれば溺れるほど、後遺症は、深くなる。

 そこにあるのは、底なしの孤独という、無間地獄。
何が恐ろしいかといって、「孤独」ほど、恐ろしいものはない。
あのイエス・キリストだって、「渇き」、つまり「孤独」に苦しんだ。

 今の私がそうだが、「負け犬」を認めることは、たしかにつらい。
しかし人生は、ここから始まる。
始めるしかない。

 さあ、今日もがんばろう!
2010年3月4日。
外では、冷たい小雨が降っている。


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●老後の統合性

+++++++++++++++++++

緊張感を失った老後ほど、みじめで
あわれなものはない。
毎日がだらだらと過ぎていくだけ。

明日も今日と同じ。
来年も今年と同じ、と。

+++++++++++++++++++

●自己否定

 定年退職をしたあとも、過去の経歴や肩書き、名誉にしがみついて生きている人は、多
い。
その気持ちは、よくわかる。
痛いほど、よくわかる。
そういう人が、まちがっているというのではない。
人それぞれ
それぞれの人は、みな、何かにしがみついて生きている。

 もしここでその空しさを認めたら、それはそのまま自己否定につながってしまう。
「私は何だったのか?」と。
何が恐ろしいかといって、自己否定ほど、恐ろしいものはない。
もっとも、若いときは、まだよい。
人生も、やり直しがきく。
しかし定年退職後ともなると、やり直そうにも、やり直しようがない。
「これから一旗あげてやろう……」ということができない。

 そこで重要なのが、「統合性の確立」。
わかりやすい言葉で言えば、「第二の人生の設計図づくり」。
(人間としてやるべきこと)を見つけ、(現実にそれをする)。
「統合性」をわかりやすく説明すれば、そういうことになる。
その確立に失敗すると、老後も、みじめで、あわれなものになる。
またそういう老後を送っている人は、ゴマンといる。」

●虚勢

 しかしなぜ、人は虚勢を張るのか?
「私はなぜ虚勢を張るのか?」と、言い換えてもよい。
この問題を裏から考えると、こういうことにもなる。
「虚勢を張ることで、何を求めているのか?」
「何が、目的で、虚勢を張るのか?」と。

 私ほど、虚勢の塊(かたまり)のような人間は、そうはいない。
インターネットという、(無の世界)を相手にしていると、よけいにそれがよくわかる。
そこにあるのは、大きなモニターだけ。
無数に集まった光の点だけ。

 それはちょうど子どものする、電子ゲームのようなもの。
子どもは電子ゲームをしながら、点数が、ふえた、へったと、喜んだり、悲しんだりして
いる。
私も、そうだ。

 朝起きると、軽い運動をする。
そのあと書斎へ入って、パソコンを立ち上げる。
そのとき最初にチェックするのは、前日のアクセス数。
HPやBLOGへのアクセス数。

 その数字を見て、喜んだり、さみしく思ったりする。
書籍とちがい、そこに読者がいるという実感など、まったくない。
にもかかわらず、虚勢を張る。
いかにも私は大物ですという、フリをする。

●私を意識する

 そこでふと、考える。
「私はいったい、だれを意識しているのだろう?」と。
「だれを意識して、虚勢を張っているのだろう?」と。

 そこでおもしろいことに気づく。
私のばあい、実のところ、対象となる相手が、いない!
同窓生でもないし、仲間でもない。
親類の人たちでもない。
家族でもないし、またそういった仲間でもない。
むしろそういう人たちには、私のHPにせよ、BLOGにせよ、見てほしくない。

 私のばあい、私を相手にしている。
私の中の、「私」を強く、意識している。
たいへん奇妙なことだが、私は私に対して、虚勢を張っている。

●緊張感

 一方の私は、「生きているという実感がほしい」と、いつも願っている。
そのために、生きている。
そういう「私」のために、同じ「私」が、虚勢を張っている。
今ここで、今していることの空しさを認めたら、そのあとに待っているのは、底なしの敗
北感。
自分を支えようにも、支えようがない。
そこで私は私に虚勢を張る。
「私のしていることは、すばらしいこと」と。

 が、実のところ、その先に何があるか、私にもわからない。
わからないまま、虚勢を張る。
言い方を替えると、虚勢を張ることによって、そこにある種の緊張感が生まれる。
その緊張感がなくなったら、それこそ心がだらけてしまう。

●ある夫婦

 運動をしながら、体を鍛える。
しかしそれにも、ある種の緊張感が必要。
たとえば私のばあい、大きな講演会をひかえたりすると、その1週間ほど前から、体の調
整に入る。
その緊張感が、私を運動へと引っ張っていく。

 同じように、生きていくためには、ある種の緊張感が必要。
夢や希望、目的があれば、さらによい。
その緊張感があるからこそ、明日に向かって生きていくことができる。
が、その緊張感が消えたら……。

 今日も、昼食のとき、地下の食堂で、こんな夫婦を見かけた。
ともに、何をするでもなし、しないでもなしといったふうに、テーブルをはさんで、黙っ
て座っていた。
夫のほうは、見るからに血栓性の脳梗塞を起こしているといったふう。
表情もなく、動作ものろかった。
妻のほうは、異様なまでの厚化粧をしていた。
夫は65歳くらい。
妻は50歳くらいだった。

 私はその夫婦を見ながら、「この人たちは、何のために生きているのだろう」と思った。
まるで伸びきったゴムのよう。
冷めた、うどんか、そばのよう。
雰囲気そのものが弛緩していて、緊張感が、どこにもなかった。

 が、それはそのまま、私自身の姿。
ここ2、3年はだいじょうぶでも、5年は無理。
5年は何とかもちこたえても、10年は、ぜったいに無理。
私も確実に、ああなる。

●結論

 虚勢を張ることを、まちがっていると、どうして言えるのか。
それとも、これは居直りなのか。
しかしだれしも、何らかの虚勢を張って生きている。
またそうでもしないと、生きていけない。

 ……ここまで書いて、思い出すのが、セルバンテスが書いた、『ドン・キホーテ』。
ドン・キホーテについては、何度も書いてきた。
つまり虚勢を張ることが悪いことではなく、大切なのは、虚勢の張り方ということになる。
ときにその虚勢が、私たちに緊張感を添えてくれる。
生きる目的を与え、生きる喜びを与えてくれる。

 つまり人間が生きながらも、もともと、たいしたことはできない。
そういう宿命を背負っている。
「たいしたことをしたい」と思いつつ、いつもその限界状況の中で、右往左往している。
それに気がつけば、仮にそれが虚勢であっても、それはそれでよいではないか。
……ということになる。

 で、ここまでの結論。

 私は私で、虚勢にしがみついて生きていく。
その先に何があるかわからないが、私からその虚勢を奪ったら、私はそれこそ「生きる屍
(しかばね)」になってしまう。
どのみち、たいしたことはできない。
要するに高望みはしない。
ほどほどのところで満足しながら、日々に(やるべきこと)をやる。
そのあとの運命は、(時の流れ)に、任せればよい。


Hiroshi Hayashi+++++++March 2010++++++はやし浩司

【錯覚】

●ただの人

私も短い間だったが、サラリーマンを経験
したことがある。

そのあとも、どこかサラリーマン的な仕事を
したこともある。
しかし不思議なことに、サラリーマンという
職業は、あとに何も残さない。

もともと利潤追求のための、組織的団体に
すぎない。
一方、そういうサラリーマンとつきあう相手の
人にしても、その人個人とつきあうのでは
ない。
その人のもつ、名刺とつきあう。
だから「金の切れ目が、縁の切れ目」となる。
どんな立派な肩書きをもつ人も、まず、それに
気がついたらよい。

「会社を離れれば、ただの人」と。
……というのは、言いすぎということは、
よくわかっている。
今、サラリーマン社会の中で、懸命にがんばって
いる人たちに対して、失礼なことも、よく
知っている。

しかしそういう(現実)を知って、サラリーマン
をつづけるのと、そうでないのとでは、
あとあとの生き様が大きく変わってくる。

「あとあと」というのは、(人生の結論)を自ら
引き出すときのことをいう。
だれしも、そういうときを必ず迎える。

●同窓会

 先日、大学時代の同窓会に出てきた。
有意義なひとときだった。
そういうところで、友人に会うというのは、
何か不思議な雰囲気に包まれる。
みな、一様に年齢を取っているはずなのに、
その(老い)をまったく感じない。
「昔のまま」というほうが、正しい。

 大学の卒業を「社会への入り口」とするなら、
今はみな、「出口」に立ったことになる。
ところが、入ったはずの「社会という部屋」が、
どこにもない。

 社会という部屋に入ったはずなのに、入った
とたん、出口に出た感じ。
「タイムスリップ」という言葉があるが、
それとはちがう。
人生を「帯」にたとえるなら、その帯の途中を
切り取って、残った最初の部分と、終わりの
部分をつないだよう。
そんな感じ。

 そう、若いころ、「60歳の人」というと、
とんでもないほど老人に見えた。
私たちには無縁の、遠い未来のことのように
思えた。

 が、人生の出口に立ってみると、その逆の
実感がない。
まったくない。
同じように、若いころは、「遠い過去」の
はずなのに、それがすぐそこに見える。
同時に、みなは、「とんでもない老人」のはず
なのに、その実感がまったくない。
あのときのまま。
まったく、あのときのまま!

 私だけではないと思う。
自分のことを「老人」と思っている友人は、
ひとりもいないだろう。

●「社会という部屋」

 が、ひとつだけ、大きな変化に気づいた。
つまり、私たちには、過去はあっても、未来は
ないということ。

 みな、それぞれに、「社会という部屋」の中では、
それなりの仕事をし、名もあげ、業績も残した。
ほとんどが、「長」の名がつく役職を経験した。
が、それも終わった。

 リストラ、退職を経て、子会社へ回ったり、
天下り先へ回ったりしている。
つまりこれから先、もう一度、別の「社会という
部屋」へ入るということはない。
「入ったところで、それがどうした」という
ことになる。
さらにその先に待っているのは、「今と同じ
状態」ということになる。

●私たちの時代

 となると、「社会という部屋」は、いったい、
何だったのかということになる。

 友人のことを書くわけにはいかない。
私のことを書く。

 私たちが大学を卒業するころは、今と、
状況がかなり違っていた。
だれしも就職を考えたし、就職といえば、
大企業を考えた。
公務員になった友人も多いが、私は公務員は
考えなかった。
私は、それが私に与えられた道と考えた。
またそういう道を進むことに、何ら、
疑問を覚えなかった。

 私は商社を選んだ。
M物産という会社と、伊藤C商事という会社に
入社が内定したが、私は大きいほうがよいと、
M物産という会社を選んだ。

 しかし私はやめた。
やめたあとは、好き勝手なことをした。
しかし先にも書いたように、サラリーマン的な
仕事もしたことがある。

 いくつかの会社の社内報を書いたりした。
貿易の手伝いもいた。
そういう仕事を通して、先に書いたようなことを
知った。

「会社を離れれば、ただの人」と。

●当時の世相

 が、そのときはわからない。
たまたま日本が高度成長期に入っていた
こともある。
みな、「企業戦士」とか、「モーレツ社員」
とか言って、もてはやされた。
終戦まで、「お国のため」だったのが、
戦後は、「会社のため」となった。
その土壌は、じゅうぶん根付いていた。

 このことは、反対にオーストラリア
へ行ってみると、わかる。
オーストラリアでは、大企業を育たない
と言われている。
オーストラリア人というのは、独立精神が
旺盛すぎる。
そのため、企業のもつ「組織」になじめない。

 そういうオーストラリア人と比べてみると、
日本人が民族的にもつ(性質)というのが、
よくわかる。

 そういう点では、日本人は、「自由」という
ものを、本質的な意味で、理解していない。
……いなかった。
少なくとも私がオーストラリアへ渡って
知った「自由」は、日本人が考えていた
「自由」とは、まったく異質のもの
だった。
(今でも、そうかもしれないが……。)
わかりやすく言えば、私たちは、「仕事」
という名のもとで、それが人生の重要事と
錯覚してしまった。

 こうして「一社懸命」型の企業人間が
生まれた。

●お金論

 が、お金に(名前)がついているわけではない。
犯罪で稼いだお金は別として、正社員として
稼いだお金にも、アルバイトで稼いだお金にも、
ちがいはない。
同じ。

 にもかかわらず、正社員にみながこだわるのは、
意識の問題というよりは、制度の問題。
この日本では、正社員と非正社員とでは、
待遇の面において、天と地ほどの差がある。
つまり非正社員は、ぜったいに、損!

 一方、欧米では、そうした(差)は、
ほとんどない。
年功序列制度もない。
労働者たちは、ユニオンという組織でつながっている。
そのため企業に対する貢献心も、希薄。
日本風に言えば、「朝日新聞社の印刷工も、
町工場の印刷工も、印刷工という立場は同じ」。
「印刷工」という立場で、たがいを守り合っている。
それが「ユニオン」ということになる。

 が、日本では、江戸時代からの身分制度も
あって、「よい仕事」と、「よくない仕事」の
色分けをしっかりとする。
私が幼稚園の講師になったときも、すでに
M物産の社員よりも多くのお金を稼いで
いたにもかかわらず、母は、電話口の向こうで
泣き崩れてしまった。

「浩ちゃん(=私)、あんたは、道を誤ったア」と。

 どうしてM物産という会社をやめて、
幼稚園の講師になることが、道を誤った
ことになるのか。
しかしそれが当時の常識だった。
一般世間では、私のような生き方は、
理解されなかった。
それが、この国、日本の姿だった。

●錯覚

 要するに、私たちは、その時代々々の中で
作られた(常識)に、引きずり回されているだけ。
本来価値のないものを、価値あるものと
思いこまされる。
価値のあるものを、価値のないものと思い
こまされる。

 それが60歳という定年退職を過ぎてみると、
よくわかる。
「私たちは、何だったのか」と。

 しかしこと友人たちをみていると、だれも、
それを口にしない。
心のどこかで、それを思っているのかもしれないが、
だれも話題にしない。
話したところで、どうにもならない。
私も聞かない。
聞いたところで、どうにもならない。

 自由が何であるかを知っていると言う私でも、
それで幸福だったのかどうかということになると、
今でも、よくわからない。
この日本で、自由に生きることは、たいへん。
ほんとうに、たいへん。
何も好き好んで、自由の世界に生きることはない。
むしろサラリーマンの世界で、錯覚しながら
生きた方が、楽。
日本の制度そのものが、そうなっている。

 それを知っているから、よけいに口が重くなる。
私も含めて、みな、ただの人。
そうそう同窓会で、1人、私にこう言った
友人がいた。
そのときは気づかなかったが、あとでビデオ
(YOUTUBE )を観たら、入っていた。

「お前は、学生時代から変わっていたが、
今も変わらないなあ」と。
向こうの世界にいる人たちからみれば、
そうみえるらしい。
が、だからといって、やはり、人は人。
みな、錯覚の世界に生きながら、錯覚
しているとも気づかない。

かく言う私とて、錯覚しているだけ。
「私は本物の自由を知っている」と。
だからといって、それがどうしたというのか。

 どうであるにせよ、残りの人生は、少ない。
今さら、ああでもない、こうでもないと
論じたところで、意味はない。
 
 「みんな、懸命に生きてきたのだなあ」と
思いつつ、S君という同級生と、歩いて
ホテルまで帰った。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


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