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2010年     5月号
Essay……
BOX版(ネットストーレッジ)……






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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2010年 5月 31日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【特集】学習指導困難児


【自己管理能力】


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湖西市の、恩師、NG先生から、講演の依頼が
届いた。


『……小生達子ども教室スタッフが直面しているのは
集団活動が苦手であったり、与えられた活動に取り組めず他の児童に迷惑をかけたりする
場合、どう対応したらいいかということです。ことに障害の存在を感じるような子どもの
場合、自分の子育て以外の教育にはかかわって来なかったスタッフには大きな課題となっ
ています。


実際、高所に登ってしまうような危険な行動をとる子や多動で追いかけるのに苦労するよ
うな子、思うようにならない(その活動が自分ではできない)といじけてしまい、どう声
掛けをしても気分が戻らない子、乱暴になって他児に迷惑をかける子などが見られます。
このような子どもにはスタッフが付き添って他児の活動への影響を最小限に食い止めるよ
う努力していますが、そうした場合の声の掛け方や高揚した気持ちの鎮め方にも苦慮して
います。
 

少し状況に変化がありまして、我々スタッフのほかに、よい機会だから先生のお話を是非
伺いたいという市内小学校の家庭教育学級の学級生(各学校数人ずつ)も参加させていた
だくことになりました。この学級生にとっての関心事はわが子の子育てでしょうから、子
ども教室スタッフの思いとは少し異なります。
 

このようにわがままな事を申し上げて恐縮なのですが、御講演の演題を先生のお考えで決
めてお知らせいただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 

御講演をご承諾いただいたことを市教委に伝えました。講演料なしでお越しいただけると
いうことも伝えたところ、それではあまりにも申し訳ないと検討を始め、わずかですが旅
費程度をお支払いできるようになったということです。いずれ、御講演の依頼や口座振替
にかかる書類などが届くと思います。よろしく御取り計らいください。
 

会場は湖西市民会館です。お分かりになるでしょうか。お迎えが必要なようならおっしゃ
ってください。


御講演後、時間が許すのであれば昼食をごいっしょしたいと思います。どうしてももう少
し先生とお話したいという人もいますので、ご迷惑でなければ同席させていただければ幸
いです。
 

では演題の件、お手間をとらせてしまいますがよろしくお願いします』。


++++++++++++++++++++++++++++++


●学習指導困難児


++++++++++++++++++


学習指導が困難な子どもというのは、いる。
AD・HD児、自閉症児、粗放児(この言葉は、
筆者がつけたもの。家庭崩壊などにより、精神的に
凶暴性をもった子どもをいう)など。


さらにLD児、かん黙児などなど。


恩師のNG先生は、こうした子どもの指導員を
指導している。
「で、どう考え、どう対処したらいいか?」と。


それが今回の講演のテーマということになる。


ポイントは、3つある。


(1)子どもの自己管理能力(メタ認知能力)の育成
(2)「現在の症状を、こじらせない」
(3)薬物療法は、慎重に。


++++++++++++++++++++++++

【自己管理能力】


●人格の完成


+++++++++++++++++


人格の完成度は、どこをどう見て、
判断すべきなのか。


そのヒントとなるのが、「人格論」
である。


+++++++++++++++++


 人格の完成度は、(1)共鳴性、(2)自己管理能力、(3)社会性の三つをみる(EQ論)。
これは常識だが、これら3つには、同時進行性がある。


 共鳴性、つまりいかに利己から脱して、利他になるか。自己管理能力、つまりいかに欲
望と戦い、それをコントロールするか。さらに社会性、つまり、いかに他者と、良好な人
間関係を築くか。


 これら3つが、できる人は、自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。


 自己中心的な人は、それだけ自己管理能力が弱く、他者と、良好な人間関係を、築くこ
とができない。あるいは自己管理能力の弱い人は、長い時間をかけて、ものの考え方が自
己中心的になり、そのため、他人から、孤立しやすい。さらに社会性が欠落してくると、
自分勝手でわがままになる、など。


 これら3つは、相互に、からんでいる。そして全体として、その人の人格の完成度を、
決定する。


 が、やはり、キーワードは、「自己中心性」である。


 その人の人格の完成度を知りたかったら、その人の自己中心性をみればわかる。もしそ
の人が、自分のことしかしない。自分だけよければ、それでよいと考えているなら、その
人の人格の完成度は、きわめて低いとみてよい。


 これには、老若男女は関係ない。地位や名誉、職業には、関係ない。まったく、関係な
い。


 つぎに自己管理能力。わかりやすく言えば、ここにも書いたように、それには、欲望の
管理が含まれる。性欲、食欲、所有欲など。


 こうした欲望に溺れても、よいことは何もない。もちろん心の病気が原因で、溺れる人
もいる。セックス依存症の人にしても、節食障害の人にしても、それぞれ、やむにやまれ
ぬ精神的事情が、その背景にあって、そうなる。


 だから肥満の人が、即、自己管理能力のない人ということにはならない。(一般社会では、
そう見る向きもあるが……。)


 3つ目に、社会性。
 

 人間は、他者とのかかわりをもってはじめて、その人らしさを、つくる。その(その人
らしさ)が、良好であること。それが人格の完成度の、3つ目の要件ということになる。


 いくら高邁でも、他者とのかかわりを否定して生きているようでは、そもそも、人格の
完成度は、問題にならない。

 たとえば小さな部屋にひきこもり、毎日絵ばかり描いている画家がいたとする。すばら
しい才能をもち、すばらしい絵を描いている。が、個展を開いて、それを発表することも
ない。同業の人との、交流もない。


で、そういう人を、人格の完成度の高い人かというと、そうではない。EQ論では、そ
ういう人を、評価しない。(もちろんその人の芸術性の評価は、別問題である。)


 言いかえると、私たちは日々の生活の中で、これら3つを、いかにして鍛錬していくか
ということが、重要だということ。


 いかにすれば、自分の中の自己中心性と戦い、欲望をコントロールし、そして他者と、
良好な人間関係を築いていくか。つまりは、そこに、私たちが、日々に務めるべき、努力
目標がある。


 がんばりましょう! がんばるしかない!


【メタ認知能力】


●メタ認知能力(Metacognitive Ability)とは、何か


++++++++++++++++++++++


メタ認知能力とは何か。
川島真一郎氏(高知工科大学大学院)の修士学位論文より、
一部を抜粋引用させてもらう。
(出典:メタ認知能力の向上を指向した
高校数学における問題解決方略の体系化
Systematization of Problem Solving Strategy in High
School Mathematics for Improving Metacognitive
Ability(平成19年))


++++++++++++++++++++++


●メタ認知


メタ認知(metacognition)とは、認知活動についての認知のことである。メタ認知概念
は、ブラウン(A。 Brown)やフラベル(J。 H。 Flavell)によって1970 年代に提唱され
た。


メタ認知は、まずメタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)とメタ認知的活動
(metacognitiveactivity)に分かれ、それぞれがさらに細かく分かれる。メタ認知的知識
とは、メタ認知の中の知識成分を指す。メタ認知的知識は、人間の認知特性についての知
識、課題についての知識、課題解決の方略についての知識の3 つに分けて考えることがで
きる。メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、
メタ認知的モニタリング、メタ認知的コントロールの2 つに分かれる。メタ認知的
モニタリングとは、認知状態をモニタすることである、認知についての気づき(awareness)、
認知についての感覚(feeling)、認知についての予想(prediction)、認知の点検(checking)
などが含まれる。メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。
認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)など
が含まれる。


困難な場面に遭遇したとき、タ認知はその事態を打開すべく、関係のありそうな経験や
知識を想起する。似たような困難を克服した経験があれば、それは大きな手掛かりとなる。
過去の経験がそのままでは使えないときでも、見方を変えたりすることで使えることもあ
る、直面している問題が極めて困難なときは、条件の一部を解き易い形にした問題をまず
解いてみることが手掛かりになることがある。また、問題の解決に使えそうな法則なども
思い出し、解決に向けた道筋を描く。解決に向けた一番確かそうな方針が決まれば、実行
してみる。間違いを犯しそうな場面では注意深く実行し、時々方針が間違っていないか検
討を加える。このようにして、メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決する
ときに、力を発揮すると考えられる。


そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと考えられ
る。訓練するための問題は、メタ認知が働かなくても解決できるような平易過ぎる問題は
役に立たない。適度な難易度の問題を解決することが必要である。従って、パターン暗記
に終始するような学習では、メタ認知能力は向上しないと考えられる。その意味で、生徒
が試行錯誤しながら自力で問題の解決を図る問題解決学習は、その狙いが実現できれば、
メタ認知能力の育成に大いに効果を発揮すると考えられる。
(以上、川島真一郎氏の論文より)


+++++++++++++++++++++


●メタ認知能力(Metacognitive Ability)


 私は「メタ認知能力」なるものについては、すでに10年ほど前から、原稿を書いて
きた。
が、ここ数年、この言葉をあちこちで聞くようになった。
しかし本当のところ、メタ認知能力とは何か、私もよくわかっていない。


 そこでまず私がとった手段は、メタ認知能力、つまりMetacognitive Abilityについて、
できるだけ原文に近い文献をさがすことだった。
最初は、直接アメリカの文献(英文)から調べようとしたが、先に、ひとつの文献を
さがしだすことに成功した。


ここに紹介した川島真一郎氏の修士学位論文が、それである。
わかりやすく書いてあるので、そのまま引用させてもらった。
 つまり私は、(メタ認知能力)とは何か知るために、つまりその壁を打開するため、
今までの経験を総動員して、(おおげさかな?)、あちこちを調べた。
その結果が、先にあげた論文の一部ということになる。


●メタ認知能力


 が、これだけをさっと読んだだけでは、意味がよくわからない。
内容を、もう少し整理してみる。


メタ認知


(1) メタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)
メタ認知の中の知識成分を指す。
(1) 人間の認知特性についての知識、
(2) 課題についての知識、
(3) 課題解決の方略についての知識の、33つに分けて考えることができる。

(2) メタ認知的活動(metacognitive activity)
メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、
(1) メタ認知的モニタリング、
(2) メタ認知的コントロールの2つに分かれる。
 これでだいぶ頭の中がすっきりしてきた。
 さらに、
(1) メタ認知的モニタリングとは、認知状態をモニタすることである。
認知についての気づき(awareness)、認知についての感覚(feeling)、認知についての予
想(prediction)、認知の点検(checking)などが含まれる。
(2) メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。
認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)など
が含まれる、と。


●実益


 先にメタ認知能力の実益について、引用させてもらう。
川島真一郎氏は、こう書いている。


『メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決するときに、力を発揮すると考え
られる。そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと
考えられる』と。


 日常的な行動を同じように繰り返すようなときには、メタ認知能力は、力を発揮しない。
つまり難解で、より高度な知識と経験を必要とするような問題に直面したとき、
メタ認知能力は力を発揮する、と。


 そしてそのメタ認知能力は、訓練しなければ、向上しない、ともある。


●因数分解


 川島真一郎氏は、因数分解を例にあげて、メタ認知能力がどういうものであるかを
説明している。
そのまま印象させてもらう。


++++++++++以下、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++


7。 <題>求めるもの(答え)と、与えられた条件の関係を発見せよ。[関係は直接的に見
えるときもあれば、仲介物を通して初めて見えて来るときもある。例えば、中間的な目標
を設定せよ。(例)(a + b + c)(bc + ca + ab) ? abc を因数分解せよ。]
8。 <眼><針>関係の有りそうな公式は何か。
9。 <経><予>似た問題を思い出せ。
10。 <経><眼><針>似た問題の方法や結論を利用できないか。[(例)x、 y の対称式
はx + y とxy で表せる。]
11。 <眼><針>求めるもの(答え)の形を考え、それを具体的に(例えば式に)できな
いか。[また、その形のどの部分を求めればよいか。それを求めるのに、条件をどのように
使えるか。]
12。 <眼><針>与えられた条件や式を、解答で使い易いように変形できないか。[場合
によっては、結論の式から解答を進めて、後で比較するのが有効なときも有る。]
13。 <助><検>(方針の選択や解答の進め方について)解法の大筋を捉える。[大まか
な見通しを持つことが、解答への着手を促し、右往左往したり、袋小路に入ったりするの
を防ぐ。(例)増減表を書けば解けそう。判別式を利用できそう。等々]
14。 <経><眼><針>前に使った方法が直接使えないとき、補助的な工夫を加えること
で使えるようにならないか。[(例)角度の問題で、補助線を引く事で三角形の問題と捉
える。]
15。 <眼><針>求める結果が得られたと仮定して、逆向きに解けないか。[求める結果
を明確にイメージすることで、必要となる道筋が見えてくることが有る。]
16。 <眼><針>定義に帰ることで、手掛かりが得られることが有る。[2 次関数関連の
問題と判別式の関係。微分係数の定義。等々]
17。 <困><眼><針>問題を言い換えることで、容易になったり、既習の解法が使えた
りしないか。(そのとき、与えられた条件はどう変わるか。)[問題を違った視点から見る。
(例)sin θ+ cos θ の最大値を求めるのに、単位円周上の点P(x、 y) を利用する。]
18。 <困><眼><針>問題を一般化することで、容易になることがある。[(例)具体的
な数値の問題を、一般的な文字に置き換えることで見通しが良くなることが有る。]
19。 <困><眼><針>問題を特殊化することで、解決の糸口がつかめるときがある。
[(例)直方体の対角線の長さを求める問題で、高さが0 の場合を解いてみる。]
20。 <困><分><眼><針>条件の一部からどんなことが分かるか。[条件を幾つかの
部分に分けられないか。全体の解答とどう関係するか。]
21。 <困><眼><針>解き易い類題を考えることが、元の問題の手掛かりになることが
ある。[問題の一部は解けるか。どういう条件が付加されていれば解き易いか。等々]
22。 <補><検><助>条件の使い忘れはないか。
(CP)
23。 <題><検>方針に従い解答を進め、適当な段階で検討を加え、必要に応じて方針を
見直す。
24。 <補>自信の持てるる解き方から試みよ。[大抵の問題は、何通りか解き方がある。
(例)基本的な公式だけを使う。図形を利用する。微分を利用する。等々]
(LB)
25。 <題>結果の検討。[少しの検討が、長い目で見ると大きな効果をもたらす。]
26。 <検><眼>別の解法はないか。得られた答えが別の簡単な解法や、答えの意味を示
しているときが有る。
4。4 体系化された問題解決方略の適用
27。 <検><眼>使った方法や結果を総括する。他の問題に応用できないか。


++++++++++以下、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++


●因数分解(例)


 高校生たちに因数分解を教えるとき、私自身は、半ばルーティンワーク的に解いて
みせている。
(因数分解そのものは、解法公式はほぼ確立していて、簡単な問題に属する。)
しかしこのように内容を秩序だてて分析されると、「なるほど、そうだったのか」と、
改めて、驚かされる。


私はそれほど意識せず、メタ認知能力を、応用かつ利用していたことになる。
率直に言えば、「メタ認知能力というのは、こういうものだったのか」と納得する
と同時に、「奥が深いぞ」と驚く部分が、頭の中で交錯する。
 ちなみに、先の(a + b + c)(bc + ca + ab) - abcを、別の紙で、因数分解してみた。
因数分解の問題としては、見慣れない問題である。


(1)見ただけでは、瞬間、頭の中で公式が浮かんでこない。
(2)直感的に、「いつものやり方ではできない」ということがわかる。
 が、こういうときの鉄則は、(3)「ひとつの文字に着目しろ」である。
この問題では、(a)なら(a)に着目し、(a)について式をまとめる。


 しかしこの場合、一度、式をバラバラにしなければならない。
結構、めんどうな作業である。


が、ここで「こんなめんどうな問題を出題者が出すはずがないぞ」というブレーキが働く。
「時間さえかければ、だれでもできる」というような問題は、数学本来の問題ではない。
ただの作業問題ということになる。


 そこで私は、(4)もっと簡単な方法はないかをさがす。
(bc + ca + ab)という部分に着目する。
(a)でくくれば、(b+c)という因数を導くことができる。
(b+c)を、(B)と一度置き換えてから、因数分解できないかを考える。
しかしもう一つの項、(abc)が残る。


つぎの瞬間、「この方法ではだめだ」と直感する……。
 ……というように、認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の
修正(revision)を繰り返す。


●高度な知的活動


 小学1年生が訓練するような、足し算の練習のような問題は、ただの訓練。
メタ認知能力など、必要としない。
 そこで昨日(8月21日)、メタ認知能力を確かめるため、私は小学2、3年生クラス
で、ツルカメ算の問題を出してみた。
あらかじめ、「ツルが2羽、カメが4匹で、足は合計で何本?」というような練習
問題を5〜6問、練習させる。


そのとき「できるだけ掛け算を使って、答を出すように」と指示する。
 それが一通りすんだところで、「ツルとカメが、合わせて、10匹います。
足の数は、全部で、28本です。
ツルとカメは、それぞれ何匹ずついますか?」という問題を出す。
 で、このとき子どもたちを観察してみると、いろいろな反応を示すのがわかる。
(私の教室の子供たちは、幼児期から訓練を受けている子どもたちだから、こうした
問題を出すと、みな「やってやる!」「やりたい!」と言って、食いついてくる。)


 絵を描き始める子ども。
足を描き始める子ども。
意味のわからない記号を書き始める子ども。
2+2+2……と、式を書き始める子どもなどなど。
 こうした指導で大切なことは、(解き方)を教えることではない。
(子ども自身に考えさせること)である。
だから私は、待つ。
ただひたすら、静かに待つ。


 が、やがて1人、表を書き始める子どもが出てきた。
私はすかさず、「ほう、表で解くのか。それはすばらしい」と声をかける。
するとみな、いっせいに、表を描き始める。
表の形などは、みな、ちがう。
しかしそれは構わない……。


 (こうした様子は、YOUTUBEのほうに動画として、収録済み。)


●メタ認知能力の応用


 こうして書いたことからもわかるように、メタ認知能力というのは、もともとは、
数学の問題を解法技法のひとつとして、発見された能力ということになる。
しかしその奥は、先にも書いたように、「深い」。
日常的な思考の、あらゆる分野にそのまま応用できる。
ひとつの例で考えてみよう。


●パソコンショップの店員


 こういう書き方ができるようになったのは、私もその年齢に達したから、ということ
になる。
パソコンショップの店員には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、そういう
店員を見ていると、ときどき、こう考える。
「だから、どうなの?」
「この人たちは、自分の老後をどう考えているんだろ?」
「もったいないな」と。


 つまりパソコンショップの店員の目的は、パソコンを客に売ること。
しかしそんな仕事を、仮に10年つづけていても、身につくものは何もない。
店が大きくなり、支店がふえれば、支店長ぐらいにはなれるが、そこまで。
だから「だから、どうなの?」となる。


 つぎにパソコンショップの店員たちは、よく勉強している。
その道のプロである。
しかしプロといっても、一般ユーザーの目から見てのプロに過ぎない。
パソコンを自由に操ることはできるが、その先、たとえばプログラミングの仕事とか、
さらには、スーパーコンピュータの操作となると、それはできない。


 そこで私はこう考える。
「こうした知識と経験を使って、別の仕事をしたら、すばらしいのに」と。
たとえばデザインのような、クリエイティブな仕事でもよい。
それが「もったにないな」という気持ちに変わる。


 そこでメタ認知能力の登場!
(1) 自分の置かれた職場環境の把握
(2) その職業を長くつづけたときの、メリット、デメリットの計算
(3) 老後が近づいたときの、将来設計
(4) 収入の具体的な使い道などなど。

 
 そうしたことを順に考え、自分の生活の場で、位置づけていく。
中には、「お金を稼いで、高級車を買う」という人もいるかもしれない。
しかしそれについても、メタ認知能力が関係してくる。
「だから、それがどうしたの?」と。
 高級車を乗り回したからといって、一時的な享楽的幸福感を味わうことは
できる。
が、できても、そこまで。
4〜5年もすれば、車は中古化して、当初の喜びも、半減する。


 ……つまりこうしてパソコンショップの店員は、メタ認知能力が少しでもあれば、
「もったいないな」を自覚するようになる。
また自覚すれば、生きざまも変わってくる。
同じ店員をしながらも、ただの店員で終わるか、あるいはつぎのステップに進むか、
そのちがいとなって、現れてくる。


 が、このことは、家庭に主婦(母親)として入った女性についても、言える。


●生きざまの問題に直結


 日常的な作業(=ルーティンワーク)だけをし、またそれだけで終わっていたら、
その女性の知的能力は、(高度)とは、ほど遠いものになってしまう。
電車やバスの中で、たわいもない愚痴話に花を咲かせているオバチャンや、オジチャン
たちを見れば、それがわかる。


 そこで重要なことは、あくまでもメタ認知能力の訓練のためということになるが、
つねに問題意識をもち、(問題)そのものを、身の回りから見つけていくということ。
問題あっての、メタ認知能力である。


 社会問題、政治問題、経済問題、さらには教育問題などなど。
あえてその中に、首をつっこんでいく。
ワーワーと声をあげて、自分で騒いでみる。
私はそのとき、そのつど文章を書くことを提唱するが、これはあまりにも手前みそ過ぎる。
が、(書く)ということは、そのまま(考える)ことに直結する。
ほかによい方法を私は知らないので、やはり書くことを提唱する。


 で、こうして書くことによって、たとえば今、「メタ認知能力」についての理解を
深め、問題点を知ることができる。
同時に、応用分野についても、知ることができる。
こうして自分がもつ知的能力を高めることができる。
そしてそれがその人の生きざまへと直結していく……。


 簡単に言えば、「自分の意識を意識化すること」。
それがメタ認知能力ということになる。

オックスフォード英英辞典によれば、「Meta」は、「higher(より高度の)」「beyond
(超えた)」という意味である。
「より高度の認知能力」とも解釈できるし、「認知能力を超えた認知能力」とも解釈
できる。


 私はこのメタ認知能力の先に、(ヒト)と(動物)を分ける、重大なヒントが隠されて
いるように感ずるが、それは私の思いすごしだろうか?
つまりメタ認知能力をもつことによって、ヒトは、自らをより高いステージへと、自分を
もちあげることができる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 メタ メタ認知能力 metacognitive ability 高度な知的活動)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司


【メタ認知能力】(追記)(Metacognitive Ability)


+++++++++++++++


この数日間、「メタ認知能力」という
言葉に、たいへん興味をもっている。
以前にも何度か、それについて書いた
ことがある。
が、そのときは、それほど
重要視していなかった。
しかしその後、知れば知るほど、
なるほどと思う場面に遭遇した。
「メタ認知能力」……まさに人間だけが
もちうる、最高度の認知能力という
ことになる。


+++++++++++++++++


●食欲とメタ認知能力


 食欲中枢は、脳の中でも視床下部というところにあることがわかっている。
そこにあるセンサーが、血糖値の変動を感知して、食欲を増進させたり、反対に
食欲を減退させたりする。


 しかしこれら2つの働き、つまり(食欲増進)を促す中枢部と、(食欲抑制)を
促す中枢部が、最近の研究によれば、別々のものというところまでわかってきている。
これら2つの中枢部がたがいに連携をとりながら、もう少し具体的には、絶妙なバランス
をとりながら、私たちの(食欲)を、コントロールしている。


●意識を意識する


 もちろん私たちは、こうした知識を、本という(文字)を通して知るしかない。
頭を開いて、その中を見て知るわけではない。
が、想像することはできる。


たとえば空腹感を覚えたようなとき、「血糖値がさがってきたぞ」とか、など。
 血糖値がさがると、胃や腸が収縮し始める。


空腹になると、おなかがグーグーと鳴るのはそのためだが、そうした変化に合わせて、
空腹感がどういうものであるかを知る。


 このとき、「ああ、腹が減ったなあ」だけでは、メタ認知能力はないということに
なる。
が、このとき、自分の脳みその中の変化を、想像してみる。
「ああ、今、食欲増進中枢部が働いているぞ」
「今度は、食欲抑制中枢部が働いているぞ」と。


 こうして自分の意識を、別の意識で客観的に評価する。
それをする能力が「メタ認知能力」ということになる。


●2つの働き


 これもひとつのメタ認知能力ということになるのか。
たとえば講演などをしているとき、自分の脳の中で、2つの働きが同時に起きている
のがわかる。
ひとつは、講演の話の内容そのものを考えること。
「この話には、異説があるので、注意しよう」とか、「この話は、もう少し噛み砕いて
話そう」とか、考える。


 もうひとつは、話しながらも、「残り時間があと20分しかないから、少し結論を
急ごう」とか、「つぎにつづく話は、途中で端折ろう」とか、時間を意識すること。
この両者が、交互というよりは、同時進行の形で働く。


 つまり講演している私を、別の意識が客観的にそれをみて、私にあれこれと命令を
くだす。


●知的能力


 教育の世界の話になると、ぐんと具体性を帯びてくる。
たとえば今、掛け算の九九練習している子ども(小2)を、頭の中で想像してみてほしい。
その子どもは懸命に、「二二が4、二三が6……」と暗記している。
そのとき子どもは、「なぜそれを学習しているのか」「なぜそれを学習しなければならな
いのか」「学習したら、それがどう、どのように役立っていくのか」ということについては、
知る由もない。


 「掛け算は覚えなければならない」という意識もない。
ないから、先生や親に言われるまま、暗記する……。


 これは子どもの世界での話だが、似たような話は、おとなの世界にも、いくらでもある。
またその程度の(差)となると、個人によってみなちがう。
言い換えると、メタ認知能力の(差)こそが、その人の知的能力の(差)ということにな
る。


●自己管理能力とメタ認知能力


 たとえば若い男性の前に、裸の女性が立ったとする。
かなり魅力的な、美しい女性である。
そのとき若い男性が、それを見てどのように反応し、つぎにどのような行動に出るかは、
容易に察しがつく。


 が、そのときその若い男性が、自分の中で起きつつある意識を、客観的にながめる
能力をもっていたとしたら、どうだろうか。


「今、視床下部にある性欲本能が、攻撃的な反応を示し始めた」
「ムラムラと湧き起きてくる反応は、食欲増進反応と同じだ」
「今、ここでその女性と関係をもてば、妻への背信行為となる」など。
いろいろに考えるだろう。


 こうしてメタ認知能力をもつことによって、結果的に、大脳の前頭連合野が分担する、
自己管理能力を、より強固なものにすることができる。


●スーパーバイザー


 「意識を意識する」。
それがメタ認知能力ということになるが、もう少し正確には、「意識を意識化する」という
ことになる。


 もちろんその日、その日を、ただぼんやりと過ごしている人には、(意識)そのものが
ない。
「おなかがすいたら、飯を食べる」
「眠くなったら、横になって寝る」
「性欲を覚えたら、女房を引き寄せる」と。


 が、そうした意識を、一歩退いた視点から、客観的に意識化する。
言うなれば、「私」の上に、スーパーバイザー(監督)としての「私」を、もう1人、置く。
置くことによって、自分をより客観的に判断する。
たとえば……。


 「今日は寒いから、ジョギングに行くのをやめよう」と思う。
そのときそれを上から見ている「私」が、「ジョギングをさぼってはだめだ」
「このところ運動不足で、体重がふえてきている」「ジョギングは必要」と判断する。
そこでジョギングをいやがっている「私」に対して、「行け」という命令をくだす。
言うなれば、会社の部長が、なまけている社員に向かって、はっぱをかけるようなもの。
部長は、社員の心理状態を知り尽くしている。


●うつを知る


 メタ認知能力は、訓練によって、伸ばすことができる。
私なりに、いくつかの訓練法を考えてみた。


(1) そのつど、心(意識)の動きをさぐる。
(2) それが脳の中のどういう反応によるものなのかを知る。
(3) つぎにその反応が、どのように他の部分の影響しているかを想像する。
(4) 心(意識)の動きを、客観的に評価する。
 この方法は、たとえば(うつ病の人)、もしくは(うつ病的な人)には、とくに
効果的と思われる。
(私自身も、その、「うつ病的な人」である。)


 というのも、私のようなタイプの人間は、ひとつのことにこだわり始めると、そのこと
ばかりをずっと考えるようになる。
それが引き金となって、悶々とした気分を引き起こす。


 そのときメタ認知能力が役に立つ。
「ああ、これは本来の私の意識ではないぞ」
「こういうときは結論を出してはいけない」
「気分転換をしよう」と。


 すると不思議なことに、それまで悶々としていた気分が、その瞬間、とてもつまらない
ものに思えてくる。
と、同時に、心をふさいでいた重い気分が、霧散する。


●メタ認知能力


 メタ認知能力を養うことは、要するに「自分で自分を知る」ことにつながる。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。


「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思っている。
が、実のところ、そう思い込んでいるだけで、自分のことを知っている人は、ほとんど
いない。


(私が断言しているのではない。
あのソクラテスがそう言っている。)


 が、メタ認知能力を養うことによって、より自分のことを客観的に知ることができる。
「私は私」と思っていた大部分が、実は「私」ではなく、別の「私」に操られていた
ことを知る。
それこそが、まさに『無知の知』ということにもつながる。


 もちろん有益性も高い。
その(有益性が高い)という点で、たいへん関心がある。
応用の仕方によっては、今までの私の考え方に、大変革をもたらすかもしれない。
またその可能性は高い。


 しばらくはこの問題に取り組んでみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 メタ認知能力 Metacognitive Ability)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司


【自己管理能力】


●前頭連合野


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前頭連合野は、言うなれば、知性と理性のコントロール・センター。
その働きを知るためには、ひとつには、「夢」の内容を知るという方法
がある。
夢を見ているときには、前頭連合野は、働いていない。
そのため、人は、支離滅裂な、前後に脈絡のない夢を見る。
言い換えると、もし前頭連合野の働きが弱くなれば、私たちの思考は、
ちょうど夢を見ているような状態になる。
もしそうなれば、自分でも、何をどう考えているか、さっぱりわからなく
なるだろう。
もちろん自分の考えをまとめることさえできない。
電車に乗り遅れる夢を見るように、ただあわてふためくだけで、それで
終わってしまう。
いつもの私の夢が、そうだ。


+++++++++++++++++++++++++++++++


●前頭連合野


 人間の脳みその、約3分の1は、前頭連合野と呼ばれる部分だそうだ。
人間は、とくにこの部分が発達している。
そのため、猿やチンパンジー、古代人の骨格と比べても、人間の額は大きく、広い。
言うなれば、知性と理性のコントロール・センター。
それがこの前頭連合野ということになる。
が、もしこの前頭連合野の働きが鈍くなったら・・・。


 私たちの思考は、ちょうど夢を見ているときのような状態になると考えられる。
というのも、人間が眠っている間というのは、前頭連合野も、眠った状態になっている。
反対に、そのことから、前頭連合野の働きを、私たちは知ることができる。


●今朝の夢


 実のところ、今朝の夢というのは、よく覚えていない。
夢というのは不思議なもので、半日もたつと、それが今朝の夢だったのか、それとも何日
も前に見た夢だったのか、わからなくなる。
 が、今朝見た夢は、こんなものだった。


 山の中の、どこかの駅に向かっている。
新幹線の中のようだが、窓がなく、貨物室のようになっている。
それが川沿いを走ったり、山の中を走ったりしている。
ところどころ線路が切れているが、新幹線は、そのまま走り続けている。
が、やがて、森のようなところをぐるりと回ったところで、新幹線は止まる。


 中央にプラットフォームがあって、その向こうには、別の電車が待っている。
ローカル線である。
切符を買うために、駅舎へ向かうが、料金がわからない。
長野を通って、仙台へ行く・・・というようなことを、私は話している。
途中、高い山を電車は越えるらしい。
山の途中には、ひなびた温泉街がいくつも並んでいる・・・。


●小鳥の思考


 理屈で考えれば、矛盾だらけの夢である。
夢の内容に連続性がない。
それに非合理。


 そこで私は、ふとこう考えた。
前頭連合野がまだ未発達だったころの人間は、こうした思考方法を、日常的にしていたの
ではないか、と。
 もちろん目の前に見える(現実)に対しては、現実的な行動をする。
餌となる食べ物があれば、それを口にするまでの行動を開始する。
危険が迫れば、それを回避するための行動を開始する。
しかしこと(思考)ということになると、それをまとめあげ、合理的に判断し、前後を論
理的につなげる能力はない。
恐らく、目を閉じたとたん、私たち人間が夢を見ているときのような状態になるのではな
いか。


 ミミズが地面をはっている。
その横に、大きな木の枝がある。
木の枝の中には、おいしそうな種がいっぱいつまっている。
それを高い空を飛びながら、上から見ている、と。
 小鳥なら、きっとそんな光景を思い浮かべるかもしれない。
もちろん言葉もないから、それを的確に、別の鳥に知らせることもできない。


●理性の源泉


 が、人間のばあいは、目を閉じても、それで前頭連合野の活動がそこで停止するわけで
はない。
目を閉じていても、言葉を使って、ものごとを論理的に考え、理性的な判断をくだすこと
ができる。
それがしっかりとできる人のことを、理性的な人といい、そうでない人を、そうでない人
という。
程度の差は、当然、ある。
言うなれば、神に近いほど、理性的な人もいれば、反対に、動物に近いほど、そうでない
人もいる。
その(ちがい)は何によって生まれるかといえば、結局は行きつくところ、(日々の鍛錬)
ということになる。


 このことは幼児期前期の子どもたちを見れば、よくわかる。
エリクソンが、「自律期」と名づけた時期である。


●自律期


 年齢的には、満2歳から4歳前後ということになっている。
実際には、乳幼児期を脱し、少年少女期へ移行する、その前の時期までということになる。
この時期の子どもは、親や先生に言われたことを忠実に守ろうとする。
この時期をとらえて、うまく指導すると、いわゆる(しつけ)がたいへんしやすい。
が、この時期に、(いいかげんなこと)をしてしまうと、子どもはやがて、ドラ息子、ドラ
娘化する。


 ものの考え方が享楽的になり、自己が発する欲望に対して、歯止めがきかなくなる。
わがままで、自分勝手。


感情のコントロールさえ、ままならなくなる。


 つまりこの時期に、前頭連合野の働きが活発になり、ある程度の形がその前後に形成さ
れると考えてよい。
もちろんそれ以後も、前頭連合野の形成は進むだろうが、原型は、その前後に形成される
と考えてよい。


●夢と前頭連合野


 そこでこう考える。
夢の中でも、前頭連合野を機能させることはできないものか、と。
しかしそれでは、睡眠が妨げられることになる。
ただ、ときどき、ほとんど起きがけのころだが、夢と現実が混濁するときがある。
そういうときというのは、かなり理性的な判断(?)ができる。
「これは夢だぞ」と、自分で、それがわかるときさえある。
あるいはこんなこともあった。


 この話は少し前にも書いたが、こんな夢を見たことがある。


 歩いていて、その男女の乗った車に、体をぶつけてしまった。
中から男が出てきて、ワーワーと大声を出して、私に怒鳴った。
で、私は目を覚ましたが、そのときのこと。
私はそれが夢だったと知り、もう一度、夢の中に戻りたい衝動にかられた。
夢の中に戻って、その男女の乗った車を、足で蹴飛ばしてやりたかった。
 が、このとき、脳のほとんどは覚醒状態にあったが、前頭連合野だけは、まだ半眠の状
態であったと考えられる。
前頭連合野が正常に機能していたら、「蹴飛ばしてやる」ということは考えなかったかもし
れない。
それ以前に、「夢は夢」と、自分から切り離すことができたはず。


 ・・・などなど。


前頭連合野の働きをわかりやすく説明してみた。
今度の高校生のクラスで、こんな話を、子どもたちにしてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 前頭連合野 前頭前野 理性の府 夢と理性)


【薬物療法】(フィードバック現象)(自己管理能力に関して)


【ある中学校での講演での要旨】


++++++++++++++++


先日、中学校での講演のレジュメを
考えた。


で、その一部を、中学生たちにして
みたら、みな、「つまらない」と。


そこでそのレジュメは、ボツ!


そこで改めて、考えなおしてみる。


(荒削りの未完成レジュメなので、
その点を含みおきの上、お読みくだ
さい。)


++++++++++++++++


●初恋


 私は、中学生になるまで、女の子と遊んだ経験がない。当時は、そういう時代だった。
女の子といっしょにいるところを見られただけで、「女たらし」と、みなにからわかわれた。
私も、からかった。


 その私が、中学2年生のときに、初恋をした。相手は、恵子(けいこ)さんという、す
てきな人だった。


 毎日、毎晩、考えるのは、その恵子さんのことばかり。家にいても、恵子さんの家のほ
うばかり見て、ときには、ボーッと何時間もそうしていた。恵子さんの家のあたりの空だ
けが、いつも、虹色に輝いていた。


 で、ある日、私は思い立った。そして恵子さんに電話をすることにした。


 私は10円玉をもって、電車の駅まで行った。公衆電話はそこにしか、なかった。家に
も電話はあったが、家ですると、親に見つかる。


 私は高まる胸の鼓動を懸命におさえながら、駅まで行った。そして電話をした。それは
もう、死ぬようない思いだった。

 で、電話をすると、恵子さんの母親が出た。私が、「林です。恵子さんはいますか?」と
電話をすると、母親が電話口の向こうで、恵子さんを呼ぶ声がした。「恵子、電話よ!」と。


 心臓の鼓動はさらに、高まるばかり。ドキドキドキ……と。


 そしてその恵子さんが、電話に出た。そしてこう言った。


 「何か、用?」と。


 そのときはじめて、私は気がついた。私には、何も用がなかった。ただ電話をしたかっ
ただけ。だから、その電話はそれでおしまい。私は何も言えず、電話を切ってしまった。


●フェニルエチルアミン


 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたよ
うになる……。恋をすると、人は、そうなる。


 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるも
のだということが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦が
すような甘い陶酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というのだ。


その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろん、
麻薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の寿命は、
それほど長くない。短い。


 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると
今度は、それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が
分泌されるからこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態になる。体が、その
物質に慣れてしまったら、つぎから、その物質が分泌されても、その効果が、なくなって
しまう。


しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌され
ない。
脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較的長くつづ
くことになる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほうが、それに
慣れてしまう。


 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。も
って、3年とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはな
い」というような、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったという
ような恋愛であれば、半年くらい(?)。


 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋
愛をしても、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界
も、やがて色あせて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。


●リピドー(性的エネルギー)


 このフェニルエチルアミン効果と同時進行の形で考えなければならないのが、リピドー、
つまり、「性的エネルギー」である。


 それを最初に言い出したのが、あのジークムント・フロイト(オーストリアの心理学者、
1856〜1939)である。


 「リピドー」という言葉は、精神分析の世界では、常識的な言葉である。「心のエネルギ
ー」(日本語大辞典)のことをいう。フロイトは、性的エネルギーのことを言い、ユングは、
より広く、生命エネルギーのことを言った。


 人間のあらゆる行動は、このリピドーに基本を置くという。


たとえばフロイトの理論に重ねあわせると、喫煙しながらタバコを口の中でなめまわすの
は、口愛期の固着。自分の中にたまったモヤモヤした気分を吐き出したいという衝動にか
られるのは、肛門期の固着。また自分の力を誇示したり、優位性を示したいと考えるのは、
男根期の固着ということになる。(固着というのは、こだわりと考えると、わかりやすい。)


 つまり、フロイトは、私たちのあらゆる生きる力は、そこに異性を意識していることか
ら生まれるというのだ。


 男が何かに燃えて仕事をするのも、女がファッションを追いかけたり、化粧をするのも、
その根底に、性的エネルギーがあるからだ、と。


●性的エネルギー


 このことと、直接関係あるかどうかは知らないが、昔、こんな話を何かの本で読んだこ
とがある。


 あのコカコーラは、最初、売れ行きがあまりよくなかった。そこでビンの形を、それま
でのズン胴から、女体の形に似せたという。胸と尻の丸みを、ビンに表現した。とたん、
売れ行きが爆発的に伸び、今のコカコーラになったという。


 同じように、ビデオも、インターネットも、そして携帯電話も、当初、その爆発の原動
力となったのは、「スケベ心」だったという。そう言えば、携帯電話も、電子マガジンも、
出会い系とか何とか、やはりスケベ心が原動力になって、普及した?


 東洋では、そしてこの日本では、スケベであることを、恥じる傾向が強い。仮にそうで
あっても、それを隠そうとする。しかし人間というのは、ほかの動物たちと同じように、
基本的には、異性との関係で生きている。つまりスケベだということ。


 人間は、この数一〇万年もの間、哲学や道徳のために生きてきたのではない。種族を後
世へ伝えるために生きてきた。「生き残りたい」という思いが、つまりは、スケベの原点に
なっている。だから、基本的には、人間は、すべてスケベである。スケベでない人間はい
ないし、もしスケベでないなら、その人は、どこかおかしいと考えてよい。


 問題は、そのスケベの中身。


●善なるスケベ心


 ただ単なる肉欲的なスケベも、スケベなら、高邁な精神性をともなった、スケベもある。
昔、産婦人科医をしている友人に、こんなことを聞いたことがある。


 「君は、いつも女性の体をみているわけだから、ふつうの男とは、女性に対して違った
感情をもっているのではないか。たとえばぼくたちは、女性の白い太ももを見たりすると、
ゾクゾクと感じたりするが、君には、そういうことはないだろうな」と。


 すると彼は、こう言った。「そうだろうな。そういう意味での、興味はない。ぼくたちが
女性に求めるのは、体ではなく、心だ」と。


 たぶん、その友人がもつスケベ心は、ここでいう高邁な精神性をともなったスケベかも
しれない。


 では、私にとっての性的エネルギー(リピドー)は、何かということになる。


 私は、それはひょっとしたら、若いころの、不完全燃焼ではないかと思うようになった。
私は若いころは、勉強ばかりしていた。大学時代は、同級生は、全員、男。まったく女気
のない世界だった。その前の高校時代は、さらに悲惨だった。私は、まさに欲求不満のか
たまりのような人間だった。


 だから心のどこかで、いつも、チクショーと思っている。その思いは、いまだに消えな
い。そしてそれが、回りまわって、今の私の原動力になっている? そう言えばあの今東
光氏も、昔、私にそう話してくれたことがある。彼もまた、若いころは、修行、修行の連
続で、青春時代がなかったと、こぼしていた。


 何はともあれ、私たちは、いつも、異性を意識しながら生きている。男がかっこうを気
にしたり、女が化粧をしたりするのも、原点は、そこにある。そしてそういう原点から、
それぞれが、つぎのステップへと進む。あらゆる文化は、そうして生まれた。哲学にせよ、
道徳にせよ、あくまでも、その結果として生まれたに過ぎない。


 さあ、世の男性諸君よ。女性諸君よ。それに中学生諸君よ、スケベであることを、恥じ
ることはない。むしろ、誇るべきことである。もし、心も体も、健康なら、あなたは、当
然、スケベである。もしあなたがスケベでないなら、心や体が病んでいるか、さもなけれ
ば、死んでいるかのどちらかである。


 あとはそのスケベ心を、善なるスケベ心として、うまく昇華すればよい!


●自我構造理論


 が、それがむずかしい。この性的エネルギーというのは、基本的には、快楽原理の支配
下にある。油断をすれば、その快楽原理に溺れてしまう。


一方、その私はどうかというと、私も、ふつうの人間。いつもそうしたモヤモヤとした快
楽原理と戦わなくてはならない。しかしそれを感じたとたん、「邪悪な思い」と片づけて、
それをまた心のどこかにしまいこんでしまう。


 こうした心の作用は、フロイトの、「イド&自我論」(=自我構造理論)を使うと、うま
く説明できる。


 私たちの心の奥底には、「イド」と呼ばれる、欲望のかたまりがある。人間の生きるエネ
ルギーの原点にはなっているが、そこはドロドロとした欲望のかたまり。論理もなければ、
理性もない。衝動的に快楽を求め、そのつど、人間の心をウラから操る。


 そのイドを、コントロールするのが、「自我」ということになる。つまり「私は私」とい
う理性である。その自我が、混沌(こんとん)として、まとまりのない、イドの働きを抑
制する。


●イドと自我の戦い
 

しかしあえて言うなら、それはイドに操られた言葉ということになる。もう少し自我の働
きが強ければ、仮にそう思ったとしても、言葉として発することまではしなかったと思わ
れる。


 同じようなことは、EQ論(emotional quotient、心の知能指数)
でも、説明できる。


 今回は、みなさんに、そのEQテストなるものをしてみたい。(後述)


 EQ論によれば、人格の完成度は、(1)自己管理能力の有無、(2)脱自己中心性の程
度、(3)他人との良好な人間関係の有無の、3つをみて、判断する。(心理学者のゴール
マンは、(1)自分の情動を知る、(2)感情のコントロール、(3)自己の動機づけ、(4)
他人への思いやり、(5)人間関係の5つをあげた。)


 つまり自己管理能力が弱いということは、それだけ人格の完成度が低いということにな
る。


●教師という仮面


 ところで、教師という職業は、仮面(ペルソナ)をかぶらないと、できない職業といっ
てもよい。おおかたの人は、教師というと、それなりに人格の完成度の高い人間であると
いう前提で、ものを考える。接する。


 そのため教師自身も、「私は教師である」という仮面をかぶる。かぶって、親たちと接す
る。しかしそれは同時に、教師という人間がもつ人間性を、バラバラにしてしまう可能性
がある。こんなことまでフロイトが考えたかどうかは、私は知らないが、自我とイドを、
まったく分離してしまうということは、危険なことでもある。


 ばあいによっては、私が私でなくなってしまう。


 そこまで深刻ではないにしても、仮面をかぶるということ自体、疲れる。よい人間を演
じていると、それだけでも心は緊張状態に置かれる。人間の心は、そうした緊張状態には、
弱い。長く、つづけることはできない。


●自己管理能力


 人には、(本当にすばらしい人)と、(見かけ上、すばらしい人)がいる。その(ちがい)
はどこにあるかと言えば、イドに対する自我の管理能力にあるということになる。もっと
言えば、自我のもつ管理能力がすぐれている人を、(本当にすばらしい人)という。そうで
ない人を、(見かけ上、すばらしい人)という。


 さて話は、ぐんと現実的になるが、私がここに書いたことを、もっと理解してもらうた
めに、こんな話を書きたい。


●思春期に肥大化するイド


 昨夜も、自転車で変える途中、こんなことがあった。


 私が小さな四つ角で信号待ちをしていると、2人乗りの自転車が、私を追い抜いていっ
た。黒い学生服を着ていた。高校生たちである。しかも無灯火。


 その2人乗りの自転車は、一瞬、信号の前でためらった様子は見せたものの、左右に車
がいないとわかると、そのまま信号を無視して、道路を渡っていった。


 最初、私は、「ああいう子どもにも、幼児期はあったはず」と思った。皮肉なことに、幼
児ほど、ルールを守る。一度、教えると、それを忠実に守る。しかし思春期に達すると、
子どもは、とたんにだらしなくなる。行動が衝動的になり、快楽を追い求めるようになる。


 なぜか?


 それもフロイトの自我構造理論を当てはめて考えてみると、理解できる。


 思春期になると、イドが肥大化し、働きが活発になる。先にも書いたように、そこはド
ロドロとした欲望のかたまり。そのため自我の働きが、相対的に弱くなる。結果、自我の
もつ管理能力が低下する。


 言うなれば、自転車に2人乗りをして、信号を無視して道路を渡った子どもは、(本当に
すばらしい人)の、反対側にいる人間ということになる。人間というよりは、サルに近い
(?)。


●では……


 ではどうすれば、私たちは、(本当にすばらしい人間)になれるか。


 最初に、自分の心の奥深くに居座るイドというものが、どういうものであるかを知らな
ければならない。これはあくまでも私の感覚だが、それはモヤモヤとしていて、つかみど
ころがない。ドロドロしている。欲望のかたまり。が、イドを否定してはいけない。イド
は、私の生きる原動力となっている。「ああしたい」「こうしたい」という思いも、そこか
ら生まれる。


 そのイドが、ときとして、四方八方へ、自ら飛び散ろうとする。「お金がほしい」「女を
抱きたい」「名誉がほしい」「地位がほしい」……、と。


 イドはたとえて言うなら、車のエンジンのようなもの。あるいはガソリンとエンジンの
ようなもの。


 そのエンジンにシャフトをつけて、車輪に動力を伝える。制御装置をつけて、ハンドル
をとりつける。車体を載せて、ボデーを取りつける。この部分、つまりエンジンをコント
ロールする部分が、自我ということになる。あまりよいたとえではないかもしれないが、
しかしそう考えると、(私)というもが、何となくわかってくる。つまり(私)というのは、
そうしてできあがった、(車)のようなもの、ということになる。


 つまり、その車が、しっかりと作られ、整備されている人が、(本当にすばらしい人)と
いうことになるし、そうでない人を、そうでない人という。そうでない人の車は、ボロボ
ロで、故障ばかり繰りかえす……。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
自我
構造理論 イド EQ EQ論 心の知能指数)


●エスの人


 さらに話を進めたい。


フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の人、
(3)エスの人に分けた。


 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。


 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あな
たとのセックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっ
ては、セックスは、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう
割り切って、その場を楽しむ。その女性と、セックスをする。


 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。


 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の
人生をけがすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちも
ないわけではない。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。


 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。


 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、
何度か浮気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするの
が男」と考えて、その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。


 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に同居する。完全に超自我の人はいない。
いつもいつもエスの人もいない。


 これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。


 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。


 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけ
て食べてしまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲
んでしまいました」と。


 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していい
ことと悪いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝
動的。その場だけを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイ
ト人生を送っているという。


 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの強
い人」ということになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、そ
の自我の確立が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考え
てよい。もう少し専門的には、精神の内面化が遅れた。


 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、
かかっている。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールす
るしかない。外の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人
にとっては、そうだ。


 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの
人を、「カタブツ人間」という。


 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大
切なのは、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談
も言いあう。しかし守るべき道徳や倫理は守る。


 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、
Fさんの相談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれ
ないが、私には、どうしてよいか、わからない。(ごめんなさい!)


●話を戻して……


 自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。


(1)横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(2)駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(3)電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(4)ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(5)サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。


 (1)〜(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトが
いうところの「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れ
ている人とみる。つまりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あ
なたの夫か、妻なら、そもそも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もし
それがあなたなら、あなたがこれから進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。


 反対に、そうでなければ、そうでない。


●オーストラリアでの経験


 私のオーストラリアの友人に、B君がいる。そのB君と、昔、こんな会話をしたことが
ある。南オーストラリア州からビクトリア州へと、車で横断しようとしていたときのこと
である。私たちは、州境にある境界までやってきた。


 境界といっても、簡単な標識があるだけである。私は、そのとき、車の中で、サンドイ
ッチか何かを食べていた。


B君「ヒロシ、そのパンを、あのボックスの中に捨ててこい」
私 「どうしてだ。まだ、食べている」
B君「州から州へと、食べ物を移してはいけないことになっている」
私 「もうすぐ食べ終わる」
B君「いいから捨ててこい」
私 「だれも見ていない」
B君「それは法律違反(イリーガル)だ」と。


 結局、私はB君の押しに負けて、パンを、ボックスの中に捨てることになったが、この
例で言えば、B君は、超自我の人だったということになる。一方、私は自我の人だったと
いうことになる。


 で、その結果だが、今では、つまりそれから36年を経た今、B君は、私のもっとも信
頼のおける友人になっている。一方、私は私で、いつもB君を手本として、自分の生き方
を決めてきた。私は、もともと、小ズルイ人間だった。


●信頼関係は、ささいなことから


 私とB君とのエピソードを例にあげるまでもなく、信頼関係というのは、ごく日常的な
ところから始まる。しかも、ほんのささいなところから、である。


先にあげた(テスト)の内容を反復するなら、(1)横断歩道でも、左右に車がいなくても、
信号が青になるまで、そこで立って待つ、(2)駐車場に駐車する場所がないときは、空く
まで、じっと待つ、(3)シルバーシートには、絶対、すわらない、(4)ゴミや空き缶な
どは、決められた場所以外には、絶対に捨てない、(5)サイフは拾っても、中身を見ない
で、交番や、関係者(駅員、店員)に届ける。そういうところから、始まる。


 そうしたことの積み重ねが、やがてその人の(人格)となって形成されていく。そして
それが熟成されたとき、その人は、信頼に足る人となり、また人から信頼されるようにな
る。


 先のB君のことだが、最近、こんなことがあった。ここ数年、たてつづけに日本へ来て
いるが、車を運転するときは、いつもノロノロ運転。「もっと速く走っていい」と私が促す
と、B君は、いつも、こう言う。


 「ヒロシ、ここは40キロ制限だ」「ここは50キロ制限だ」と。


 さらに横断歩道の停止線の前では、10〜20センチの誤差で、ピッタリと車を止める。
「日本では、そこまで厳格に守る人はいない」と私が言うと、B君は、「日本人は、どうし
て、そうまでロジカルではないのだ」と、逆に反論してきた。


 「ロジカル」というのは、日本では「論理的」と訳すが、正確には「倫理規範的」とい
うことか(?)。


 しかしこうした経験を通して、私は、あらゆる面で、ますますB君を信頼するようにな
った。


●友人との信頼関係


 友人の信頼関係も、同じようにして築かれる。そして長い時間をかけて、熟成される。
しかしその(はじまり)は、ごく日常的な、ささいなことで始まる。


 ウソをつかない。約束を守る。相手に心配をかけない。相手を不安にさせない。こうし
た日々の積み重ねが、週となり月となる。そしてそれが年を重ねて、やがて、夫婦の信頼
関係となって、熟成される。


 もちろんその道は、決して、一本道ではない。


 ときには、わき道にそれることもあるだろう。迷うこともあるだろう。浮気がいけない
とか、不倫がいけないとか、そういうふうに決めてかかってはいけない。大切なことは、
仮にそういう関係をだれかともったとしても、その後味の悪さに、苦しむことだ。


 その苦しみが強ければ強いほど、「一度で、こりごり」ということになる。実際、私の友
人の中には、そうした経験した人が、何人かいる。が、それこそ、(学習)。人は、その学
習を通して、より賢くなっていく。


●超自我の世界


 フロイトの理論によれば、(自我)の向こうに、その(自我)をコントロールする、もう
一つの自我、つまり(超自我)があるという。


 この超自我が、どうやら、シャドウの役目をするらしい(?)。


 たとえば(自我)の世界で、「店に飾ってあるバッグがほしい」と思ったとする。しかし
あいにくと、お金がない。それを手に入れるためには、盗むしかない。


 そこでその人は、そのバッグに手をかけようとするが、そのとき、その人を、もう1人
の自分が、「待った」をかける。「そんなことをすれば、警察につかまるぞ」「刑務所に入れ
られるぞ」と。そのブレーキをかける自我が、超自我ということになる。


 このことは、たとえばボケ老人を観察していると、わかる。ボケ方にもいろいろあるよ
うだが、ボケが進むと、この超自我による働きが鈍くなる。つまりその老人は、気が向く
まま、思いつくまま、行動するようになる。


 ほかにたとえば、子どもの教育に熱心な母親の例で考えてみよう。


●シャドウ


 もしその母親にとって、「教育とは、子どもを、いい学校へ入れること」ということであ
れば、それが超自我となって、その母親に作用するようになる。母親は無意識のまま、そ
れがよいことだと信じて、子どもの勉強に、きびしくなる。


 そのとき、子どもは、教育熱心な母親を見ながら、そのまま従うというケースもないわ
けではないが、たいていのばあい、その向こうにある母親のもつ超自我まで、見抜いてし
まう。そしてそれが親のエゴにすぎないと知ったとき、子どもの心は、その母親から、離
れていく。「何だ、お母さんは、ぼくを自分のメンツのために利用しているだけだ」と。


 だからよくあるケースとしては、教育熱心で、きびしいしつけをしている母親の子ども
が、かえって、学業面でひどい成績をとるようになったり、あるいは行動がかえって粗放
化したりすることなどがある。非行に走るケースも珍しくない。


 それは子ども自身が、親の下心を見抜いてしまうためと考えられる。が、それだけでは、
しかしではなぜ、子どもが非行化するかというところまでは、説明がつかない。


 そこで考えられるのが、超自我の引きつぎである。


 子どもは親と生活をしながら、その密着性ゆえに、そのまま親のもつ超自我を自分のも
のにしてしまう。もちろんそれが、道徳や倫理、さらには深い宗教観に根ざしたものであ
れば問題はない。


 子どもは、親の超自我を引きつぎながら、すばらしい子どもになる。しかしたいていの
ばあい、この超自我には、ドロドロとした醜い親のエゴがからんでいる。その醜い部分だ
けを、子どもが引きついでしまう。


 それがシャドウということか。


 話がこみいってきたが、わかりやすく言えば、こういうこと。


つまり、私たち人間には、表の顔となる(私)のほか、その(私)をいつも裏で操ってい
る、もう1人の(私)がいるということ。簡単に考えれば、そういうことになる。


 そしていくら親が仮面をかぶり、自分をごまかしたとしても、子どもには、それは通用
しない。つまりは親子もつ密着度は、それほどまでに濃密であるということ。


 そんなわけで、よく(子どものしつけ)が問題になるが、実はしつけるべきは、子ども
ではなく、親自身の(超自我)ということになる。昔から日本では、『子は親の背中を見て
育つ』というが、それをもじると、こうなる。


 『子は、親のシャドウをみながら、それを自分のものとする』と。親が自分をしつけな
いで、どうして子どもをしつけることができるのかということにもなる。


 話が脱線しようになってきたので、この問題は、もう少し、この先、掘りさげて考えて
みたい。


●【EQ】


 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emo
tional Intelligence Quotient)」、つまり、「情動の知能指
数」では、主に、つぎの3点を重視する。


(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性


 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。


 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。


●行動面の管理能力


 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管
理能力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果
たせない。


 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを
行動に移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階にな
っても、その時点で、これまた迷うかもしれない。


 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊し
た例としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その
人の生死にかかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、
自殺行為も、それに含まれるかもしれない。


 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよ
う。


そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほう
がよい」という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くに
しても、「いやだ」という思いと戦わねばならない。


 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをす
すめられて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に
染まりやすい子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。


 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)
という、行動面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとでき
るかどうかで、その人の人格の完成度を知ることができる。


 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自
我の人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。


●精神面の管理能力


 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐
怖症、飛行機恐怖症など。


 精神的な欠陥もある。


 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判で
きなくなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に
似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかも
しれない。)


 具体的には、パニック状態になってしまう。


 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与
える。


 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身を
コントロールしていくということ。


 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そ
ういうとき、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、
そんなわけで、そういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをお
りたとたん、ヘナヘナと地面にすわりこんでしまうこともある。


 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされ
る。「わかっているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私
の人格の完成度は、低いということになる。


●感情面の管理能力


 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い
人ということになる。


 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がない
ことにより、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、
ふだんは、快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。


 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。
その人はいつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、ど
うしても足が遠のいてしまう。


 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のド
ラマをつくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するか
である。


 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワ
イフは、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになる
が、感情的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出し
て、相手を罵倒したのを、見たことがない。)


 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまっ
て……」ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。


 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、
結局は、だめだった。


 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そ
のつど、自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くという
のは。とてもよいことだと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。


 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、
その場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。


(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の
機会に考えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 
人格の完成)


+++++++++++++++++++++


ついでながら、このEQ論を、
子どもの世界にあてはめて、
それを診断テストにしたのが、
つぎである。


****************

【子どもの心の発達・診断テスト】


****************


【子どもの社会適応性・EQ検査】(参考:P・サロヴェイ)


●社会適応性


 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。


(1)共感性


Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。


○いつも喜んでするようだ。
○ときとばあいによるようだ。
○いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力


Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは
……


○雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
○しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
○聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力


Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子
どもは
……。


○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ


Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。


○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)


(5)楽観性


Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子ど
もは…
…。


○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性

Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……


○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)


***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の
高い子どもとみる(「EQ論」)。
(以上のテストは、いくつかの小中学校の協力を得て、表にしてある。集計結果などは、
HPのほうに収録。興味のある方は、そちらを見てほしい。当日、会場で、診断テスト実
施。)


***************************


●順に考えてみよう。


(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーター
が、「共感性」ということになる。


 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲
しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。


 その反対側に位置するのが、自己中心性である。


 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、
その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。


 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さ
らにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、
権威主義、世間体意識へと、変質することもある。


(2)自己認知力


 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私
は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。


 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているか
わからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっ
きりしない。優柔不断。


反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っ
ていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示
すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。


(3)自己統制力


 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子
どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。


 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらに
ためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。


 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけ
のために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわ
らず、お菓子をみな、食べてしまうなど。


 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口
にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統
制力の弱い子どもとみる。


 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制
力に分けて考える。


(4)粘り強さ


 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界
を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。


 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題
のある子どもでも、短気な子どもは多い。


 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気に
なる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ
子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。


 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。


(1)楽観性


 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向き
に、ものを考えていく。


 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしな
ところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、
悩んだりすることもある。


 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。


 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲
気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。


 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観
的と言えば、楽観的。超・楽観的。


 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」
と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。
さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、
しかたないでしょう」と。


 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、
考える人もいる。


(2)柔軟性


 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。


 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。


 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくな
になる、かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何ら
かの問題がある子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。


 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをし
なかっ
た子どもがいた。


 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚
園でも、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。


 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまって
しまう子どもがいた。


 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」
と、最後までがんばった子どもがいた。


 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができ
る。柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。
(はやし浩司 思考 ボケ 認知症 人格の後退 人格論 EQ論 サロベイ)


●終わりに……


 私は私と考えている人は多い。しかし本当のところ、その「私」は、ほとんどの部分で、
「私であって、私でない部分」によって、動かされている。


 その「私であって私でない部分」を、どうやって知り、どうやってコントロールしてい
くか。それができる人を、自己管理能力の高い人といい、人格の完成度の高い人という。
そうでない人をそうでないという。


 思春期は、それ自体、すばらしい季節である。しかしその思春期に溺れてしまってはい
けない。その思春期の中で、いかに「私」をつくりあげていくか。それも、思春期の大切
な柱である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
思春期 自我構造理論 中学生)


●おまけ


 当日の人格完成度テストで、満点もしくは、それに近い点数を取った子どもには、私の
本をプ
レゼントする予定。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 自己管理能力 学習指導困難児 フィードバック)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


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. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 5月 28日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●Joy & Happiness

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英語の文章を読んでいたら、英語国では、「Joy(喜び)」と、
「Happiness(幸福)」を、使い分けて考えて
いることがわかった。
Joy、イコール、Happinessではない。
ある賢人は、こう書いている。

「Joyは、液体的なもの。Happinessは、
固形的なもの」と。

ワイワイと喜ぶのを、Joyというのなら、Happiness
は、静かなもの。
Joyは一時的なものだが、Happinessは、その人の
根底をささえるもの。
Joyは目に見えて、わかりやすいが、Happinessは、
それを失ったときに、それがわかるもの。
それまでは空気のようなもの。
目立たず、あなたの周囲で、ひっそりとたたずんでいる。

……とまあ、いろいろに解釈できる。

+++++++++++++++++++++++++

●大切なのは「今」

 幸福を考えるとき、皮肉なことに、犬の生き方を見ていると、おおいに参考になる。
犬は、その日、その日を懸命に生きている。
そこにあるのは、「今」という現実だけ。

 たとえばうちのハナ(犬、ポインター種)は、今年で、満14歳になる。
7倍すると人間の年齢に相当するそうだ。
だから人間の年齢にすると、98歳ということになる。
が、「死ぬ」ということに、何ら恐れを抱いているようには見えない。
「死ぬ」という概念すら、もっていない(?)。

 長い間、相棒だったもう一匹の犬は、6、7年前に死んだ。
「相棒」というよりは、母親的な存在だった。
さぞかしさみしいだろうなと思って、あれこれと気をつかった。
しかしそれほどショックを受けたようには、見えなかった。

●懸命に生きる

 「死」を考えるから、人生に、閉塞感が生まれる。
だからといって「死」を軽んじろということではない。
しかし生きている間は、「死」のことなど、気にしない。
気にしても、どうしようもない。
仮にあなたが今、健康で、仕事をし、家族がいるなら、「死」のことなど、気にしない。
「今、生きている」。
それだけを考え、あとは前向きに生きていく。

 そのときは、そのとき。
死がやってきたときは、そのとき。
そうでなければ、犬のように生きればよい。
その日、その日を、懸命に生きればよい。

●回顧性

 満55歳前後から、人は、それまでの展望性から回顧性へと、人生観が変化していく。
わかりやすく言えば、生き様が、うしろ向きになる。
過去ばかりを、振り返るようになる。
これには、理由がある。

 脳みそについて言えば、後半期(recent)に蓄えた記憶ほど、先に消失していく。
そのため古い記憶ほど、脳みその中に残る。
だから歳を取れば取るほど、若いころ、さらには子どものころの記憶が、より強く
思い出されるようになる。
あるいは子どものころの記憶だけになる。
それが回顧性へと、つながっていく。

 私の知人の中には、50歳になったばかりというのに、墓参りばかりしている人がいる。
またそうすることが、人として、正しい道と思い込んでいる。
「先祖」「親孝行」という言葉も、よく使う。
回顧性というのは、それをいう。

●日々の生活の中に

 話が脱線したが、幸福に限界を感ずるのは、そこに「死」があるから。
病気になったとき、健康の意味がわかる。
そのとき健康の限界を知る。
同じように、いくら私は幸福と思っても、それは長つづきしない。
長つづきしないものという前提で、それを大切にする。

 ここで誤解してはいけないことがある。
多くの賢者が書き残しているように、幸福というのは、私たちのすぐ身近にある。
身近の、すぐそこにあって、私たちに見つけてもらうのを、じっと待っている。

 朝起きる。
目を覚ます。
朝日が、障子窓の向こうから白い光を投げかけている。
また目を閉じて、とりあえず、やるべきことを考える。
サクランボの木を切る。
空き地に、除草剤をまく。
ビワとレモンの木に、(催促肥料)をまく。
「礼肥料」ではない。
私たちは、「催促肥料」と呼んでいる。
「もっと実をつけろ」と催促しながらまくから、「催促肥料」という。

 それが「幸福」ということになる。

●幸福論

 懸命な人は、その価値を、失う前に気づく。
そうでない人は、それを失ってから気づく。
その第一が、健康。
その第二が、青春時代。
子どもがいれば、その第三は、子どものよさということになる。
が、それにもうひとつつけ加えれば、「幸福」ということになる。

 つまるところ、幸福というのは、その人の賢明さが作り出すもの。
賢明な人は、そこに幸福があることを知る。
そうでない人は、そこに幸福があることも知らず、あたふたと、
幸福をふみにじって生きる。

そう考えてよい。
それがこのエッセーの結論ということになる。
(10−04−25)

(補記)

The fact is always obvious much too late, but the most singular difference between 
happiness and joy is that happiness is a solid and joy a liquid. 
J.D. Salinger


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【孤高論】

●悪口

+++++++++++++++++++

私は、一度でも、その人の悪口を
言ったり、書いたりしたときには、
その人とは、つきあわない。
その人とわからない形で、書いたときも、
つきあわない。
例外はない。

一方、私の悪口を言っていると知った人とは、
つきあわない。
例外はない。
私は、この原則を、しっかりと守っている。
もう少し融通性があってもいいのでは・・・と
思う人もいるかもしれない。
私も、時々、そう思う。
しかしそういう意味では、私は、器用な人間ではない。
この原則を破ると、頭の中が、バラバラになってしまう。
それがこわい。

+++++++++++++++++++

●慎重と確認

 この原則には、付随的な原則が、もうひとつある。
私にとって、「悪口」というのは、そういう意味では重大な意味をもつ。
この原則に従えば、人間関係をそのまま断ち切ることになる。
たとえ兄弟でも、親類でも、例外はない。
そのため、当然のことながら、悪口を言ったり書いたりすることについて、
慎重になる。
また悪口を言われているという情報が耳に入ったときもそうだ。
直接、自分でそれを確認することにしている。
しっかりと確認したあと、人間関係を断ち切る。

 が、ここで誤解していけないのは、悪口と批判は、ちがう。
「悪口」には、その根底に「悪意」がある。
悪意を感ずる。
悪意でもって、私を、貶(おとし)めようする。
中には言葉巧みに、私を悪者にしようとする人もいる。

一方、批判には、その根底に「善意」がある。
私のことを心配し、あれこれ言う。
言われた私のほうも、気にしない。
その判断の基準となるのが、日ごろの、信頼関係ということになる。

●仮面

 が、世の中には、奇妙な人たちがいる。
たがいに悪口を言い合いながら、それでいて、表面的には、うまくつきあっている。
他人ではない。
兄弟、姉妹どうしで、そうしている。
そういうケースもある。

 たとえば3人の兄弟、姉妹がいたとする。
上から長男、長女、二女。
話をわかりやすくするため、上からA男、B女、C女とする。

●奇妙な三角関係

 A男は、どこかノー天気。
口が軽い。
あっちの話を、こっちへもってきて、ペラペラ。
こっちの話を、あっちへもっていき、ペラペラ。

 B女は、そういうA男を、ボロボロに叩く。
その一言でも耳に入ったら、A男は激怒すると同時に、大きく傷つくだろう。
同じように、C女は、B女を、ボロボロに叩く。
その一言でも耳に入ったら、B女は激怒すると同時に、大きく傷つくだろう。
それぞれに多少の温度差はあるが、たがいがたがいをボロボロに叩く。
こうしてその3人の間に、複雑かつ奇妙な三角関係ができる。

 が、ここからが不思議な世界。
そういう関係でありながら、A男はB女とつきあい、C女ともつきあう。
B女とC女がつきあうこともある。
3人がともに行動し、会食することもある。
私がその中の1人なら、頭の中がバラバラになってしまうだろう。
が、本人たちは、生まれながらにそうであるため(?)、それが見た目には平気でできる。
あるいは兄弟姉妹というのは、そういうものか?

●タヌキ

 が、もちろん仲がよいわけではない。
つきあいといっても、表面的なつきあい。
たがいに体裁だけを、とりつくろっているだけ。
が、問題がないわけではない。

こうした仮面を平気でかぶれる人というのは、ほかの世界でも、平気でかぶる。
一方で悪口を言い、その人の前では、善人ぶる。
あるいは相手が自分の悪口を言っているのを知りつつ、ニコニコと笑ってつきあう。
こういう人たちを、私の生まれ育った郷里では、「タヌキ」と呼ぶ。

 そのタヌキと関係あるかどうかは知らないが、日本人には日本人独特の、
奇妙な笑いがある。
たとえば電車に乗り遅れた人が、ニヤニヤ笑う。
デッドボールを食らわせたピッチャーが、ニヤニヤ笑う。
先日も路地から飛び出してきた車が、あやうく私の乗った自転車にぶつかりそうに
なった。
そのときも、その車を運転していた女性は、視線をはずしたまま、ニヤニヤ笑っていた。

 日本人は、心を(表)と(裏)に分け、それをうまく使い分ける。
「本音」と「建前」という言葉も、そこから生まれた。
ここに書いた「照れ笑い」というのは、そういう日本人独特の民族性に起因するものと
考えてよいのでは?
日本以外では、あまり類を見ない。

●こわれた心

 話を戻す。

 こうした人間関係をつづけていると、人間性そのものまで、おかしくなる。
表では同情するフリをしながら、その実、相手の不幸を別の場所で楽しむ、など。
その人が不幸な状態にあると、わざわざその人を、のぞきに行く人すらいる。
理由は、何でもよい。
「ちょっと、こちらのほうへ来ました」とか、「昔、あなたのお母さんには世話になり
ましたから」とか、言う。
そして当人の前では、さも同情したフリをする。
フリをしながら、その人の不幸話を聞き出す。
聞き出して、それをあとで楽しむ。
酒の肴(さかん)にして楽しむ。

 が、演技は演技。
醜い演技。
つまりいつも自分の心を偽っていると、そういうことが、平気でできるようになる。
またそういうことが平気でできる人というのは、相当、心のゆがんだ人とみてよい。
本人は、そうは思っていないだろうが……。

●異質な世界

 かく言う私も、日常的に、それが当たり前の世界で、生まれ育った。
あっちを見ても、タヌキ。
こっちを見ても、タヌキ。
そういう世界だった。

 もっともそれを知ったのは、オーストラリアへ渡ってからのこと。
私はそこで、私が生まれ育った世界が、あまりにも異質、異様な世界だったことを、
知った。
当然のことながら、白人の世界では、ウソは通用しない。
ウソを言ったとたん、その世界から、はじき飛ばされてしまう。
自分の心を偽ったときもそうだ。

 だから日本へ帰ってきてからの私は、努めて、自分に正直に生きるようにした。
心をさらけ出して生きるようにした。
そのひとつが、冒頭に書いた言葉である。

『私は、一度でも、その人の悪口を言ったり、書いたりしたときには、
その人とは、つきあわない。
その人とわからない形で、書いたときも、つきあわない。
例外はない。

一方、私の悪口を言っていると知った人とは、つきあわない。
例外はない』と。

●孤高

 50歳も過ぎると、その人がどういう人なのか、よくわかるようになる。
同時に、今後つきあうべき人なのかどうなのかも、よくわかるようになる。
これは私の言葉ではなく、ワイフの言葉である。

人生にも限りがある。
限りがあるなら、与えられた時間は、無駄にできない。
言うまでもなく、心を偽って生きることは、それ自体が、時間の無駄。
回り道をするだけならまだしも、へたをすれば、おかしな袋小路に入ってしまう。
とくにタヌキと呼ばれている人たちとつきあっていると、何がなんだか、
わけがわからなくなってしまう。
「信頼」という言葉さえ、通用しない。
秘密裏に話したことさえ、しばらくすると、みなに伝わったりする。

 だからタヌキと呼ばれている人たちとは、つきあわない。
同時に、自分自身も、タヌキになってはいけない。
心を偽らない。
ありのままをさらけ出して、生きる。
それで自分の住む世界が小さくなったとしても、それはそれ。
「孤高」というのは、それをいう。
50歳を過ぎたら、孤高、おおいに結構。
あとは前だけを見て、まっすぐ進めばよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 悪口論 孤高論 人間関係論)


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●「幸福合戦」

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昔、「幸福合戦」という言葉を使う人がいた。
どこかの宗教団体に属する人だった。
その言葉を聞いたとき、その団体のことはともかくも、
私は「ナルホド」と思った。
「いい言葉」と思った。

戦闘的な言葉だが、相手が「幸福」なら、悪くない。
どうせ生きるなら、幸福に生きるのがよい。
そのために戦うというのなら、それは悪くない。

ただ、それにはひとつの重要な条件がある。
この言葉の向こうには、どうしても「他人の目」
を感じてしまう。
幸福合戦といっても、他人の目を意識してはいけない。
自分との戦い。
あくまでも自分との戦い。
他人は関係ない。
もちろん他人と比較してもいけない。
他人と比較したとたん、幸福観が、
相対的なものになりやすい。

「他人が不幸なら、自分は幸福」
「他人より幸福なら、自分は幸福」と。

もちろん自分が不幸でも、敗北感を
覚える必要はない。
人生は、常に終わり、その終わったところから、
またつぎが始まる。
幸福にしても、不幸にしても、そのときの状態が、
結論ではない。
結論と考えてはいけない。
仮に今、幸福であっても、
また今、不幸であっても、
今のつぎには、また別の「今」がある。

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●幸福とは何か

 「幸福とは何か?」。
それがわかりにくい。 
あえて言えば、幸福というのは、「不幸」の反対側にあるもの。
病気でなければ、健康。
不安なければ、平和。
心配がなければ、安心。
それらが集合されて、幸福につながっていく。

 が、それでもわかりにくい。
さらにあえて言えば、「幸福」というのは、それを失ったとき、はじめてわかる。
健康にしても、青春時代にしても、それがそこにあるときは、その価値に気づかない。
空気か、さもなければ、そよ風のようなもの。
さわさわと流れて、実感がない。
そういう意味では、幸福というのは、薄いガラス板のようなもの。
ふとしたきっかけで、簡単に割れる。
こわれる。

●幸福になるために

 が、幸福になるには、それだけでは足りない。
言い方を変えると、仮に病気であっても、また不安や心配があっても、幸福に
なることはできる。
反対に、健康で、不安や心配がまったくない人でも、不幸な人はいくらでもいる。

 つまり幸福であるかないかを知るためには、もうひとつの尺度が必要ということに
なる。
尺度といっても、幸福度を知るための尺度ではない。
あくまでも、私やあなた自身が、幸福感を自分のためのものにする尺度ということに
なる。

 その第一の条件が、夢と希望、そしてその先にある、「生きがい」ということになる。

●生きがい

 人生は、生きがいとの闘いといっても過言ではない。
生きがいを創造する。
その生きがいに向かって努力する。
そこから生まれる充実感が、幸福感ということになる。

 よく誤解されるが、欲望を満たすことは、幸福感にはつながらない。
満足感イコール、幸福感ではない。
(満足感に酔いしれ、それでもって、私は幸福と錯覚する人は多いが・・・。)
見分け方は簡単。
そのつど、自分に、「だから、それがどうしたの?」と、自問してみればよい。
欲望には、その答がない。
生きがいには、その答がある。

 もちろん健康であればよい。
心配や不安がなければよい。
しかし健康は、加齢とともに、ますますあやしくなる。
心配や不安については、程度の差もあるが、それがない人はいない。
だから結局は、「生きがい」ということになる。

●賢者の言葉

 幸福とは何か?
世界の賢者の言葉を拾ってみる。

The happiest people don't worry too much about whether life is fair or not, they just get 
on with it. 
Andrew Matthews, "Happiness in a Nutshell" 
幸福な人というのは、人生が公平かどうかということには、あまり悩まない。
幸福な人は、自分の人生を、そのまま受け入れて生きる。

For most of life, nothing wonderful happens. If you don't enjoy getting up and working 
and finishing your work and sitting down to a meal with family or friends, then the 
chances are that you're not going to be very happy. If someone bases his happiness or 
unhappiness on major events like a great new job, huge amounts of money, a flawlessly 
happy marriage or a trip to Paris, that person isn't going to be happy much of the time. 
If, on the other hand, happiness depends on a good breakfast, flowers in the yard, a 
drink or a nap, then we are more likely to live with quite a bit of happiness. 
Andy Rooney

人生のほとんどの部分では、すばらしいことなど起きない。
もしあなたが、起きて、仕事をして、仕事を終えて、家族や友だちと食事をするために座
るなら、そのとき、あなたはとても幸福だということ。
もし幸福や不幸といったものを、たとえば大きな仕事とか、大金とか、あるいは完璧な結
婚生活とか、パリへの旅行などのような大きなできごとに基礎を置くなら、その人は人生
の大半で、幸福ではないということになる。
一方、幸福というのは、おいしい朝食、庭の花、一杯を飲む、うたた寝によるものとする
なら、あなたはたいへんな幸福とともに、生きることになるだろう。

We all live with the objective of being happy; our lives are all different and yet the same. 
-Anne Frank

私たちはみな、幸福になりたいという目的のために生きている。
人生はみなちがうが、しかしみな、同じ。

Think of all the beauty that still left in and around you and be happy! 
Anne Frank

あなたのまわりに残っている美しいものを考えなさい。
そして幸福に感じなさい。

Happiness is a warm puppy. 
Charles Schulz

幸福は、暖かい子犬。

When I meet people from other cultures I know that they too want happiness and do not 
want suffering, this allows me to see them as brothers and sisters. 
Dalai Lama, Tenzin Gyatso

幸福を望み、苦しむのがいやだという、私が知っている他の文化から来ている人に会うと、
私はその人たちが、兄弟や姉妹のように思う。

There is a very fine line between "hobby" and "mental illness." 
Dave Barry

「趣味」と、「心の病気」の間には、明確な一線がある。

Always do what you want, and say what you feel, because those who mind don't matter, 
and those who matter don't mind 
Dr. Suess

いつもしたいことをせよ。
感じたことを言え。
なぜならそれを気にする人は、何も言わない。
何か言う人は、気にしない。

You get more joy out of the giving to others, and should put a good deal of thought into 
the happiness you are able to give. 
Eleanor Roosevelt

他人に与えることで、あなたはもっと多くの喜びを得る。
そしてあなたが与えることができる幸福の中に、あなたの思いを、多くその人に伝えるこ
とができる。

It is not by accident that the happiest people are those who make a conscious effort to 
live useful lives. Their happiness, of course, is not a shallow exhilaration where life is 
one continuos intoxicating party. Rather, their happiness is a deep sense of inner peace 
that comes when they believe their lives have meaning and that they are making a 
difference for good in the world. 
Ernest A. Fitzgerald

幸福な人というのは、有用な人生を送るため、絶え間ない努力をしている人というのは、
けっして偶然によるものではない。
彼らの幸福は、もちろん華やいだパーティで、浅薄な浮き浮きしたものではない。
むしろ、彼らの幸福というのは、彼らの人生に意味があり、世界のためによいことをして
いると信ずるときに生まれる、内面の平和をともなった、深い感覚である。

We tend to forget that happiness doesn't come as a result of getting something we don't 
have, but rather of recognizing and appreciating what we do have. 
Frederick Koenig

私たちは、幸福というのは、もっていなかったものを、手に入れることの結果としてくる
ものでないことを、忘れがちである。
幸福というのは、今、私たちがもっているものを、認識し、それを味わうことである。

Man is fond of counting his troubles but he does not count his joys. If he counted them 
up as he ought to, he would see that every lot has enough happiness provided for it. 
Fyodor Mikhailovich Dostoyevsky

人というのは、トラブルの数は数えやすいものだが、喜びの数は数えない。
もしその人が、喜びの数を数えるなら、彼は、それぞれの運命には、じゅうぶんな幸福が
あることを知るだろう。

There is work that is work and there is play that is play; there is play that is work and 
work that is play. And in only one of these lies happiness. 
Gelett Burgess

仕事のための仕事もあり、遊びのための遊びもある。
仕事のための遊びもあり、遊びのための仕事もある。
これらひとつの中にだけ、幸福がある。

If you have nothing else to do, look about you and see if there isn't something close at 
hand that you can improve! It may make you wealthy, though it is more likely that it 
will make you happy. 
George Matthew Adams

何もすることがないなら、あなたのそばにあって、改善できることがないかどうかを知れ
ばよい。
それがあなたを、幸福にするようになるかもしれないが、それがあなたを豊かにするかも
しれない。

People take different roads seeking fulfillment and happiness. Just because they're not 
on your road doesn't mean they've gotten lost. 
H. Jackson Brown Jr.

人は満足と幸福を求めて、ちがった道をとる。
彼らがあなたと同じ道にいないからといって、彼らは道に迷っているということではない
のだから。

Happiness is good health and a bad memory. 
Ingrid Bergman

幸福というのは、健康と、すばらしい思い出。

The fact is always obvious much too late, but the most singular difference between 
happiness and joy is that happiness is a solid and joy a liquid. 
J.D. Salinger

幸福と喜びのちがいは、幸福は固定的なものだが、喜びは、流動的なもの。

Three grand essentials to happiness in this life are something to do, something to love 
and something to hope for. 
Joseph Addison

人生における、幸福の3つ重要な要素。
それは、すべき何かがあること、
愛すべき何かがあること、
希望とすべき何かがあること。

One of the first conditions of happiness is that the link between Man and Nature shall 
not be broken. 
Leo Tolstoy

幸福であるひとつの条件は、人間と自然のつながりを、壊させてはならないということ。

I've learned from experience that the greater part of our happiness or misery depends 
on our dispositions and not on our circumstances. 
Martha Washington

私は学んだ。
幸福の大部分、あるいは不幸の大部分は、その人の性質によるものであって、環境による
ものではないということ。

Everything exists in limited quantity ー especially happiness. 
Picasso

すべてのものには、限界量がある。
とくに幸福は、そうだ。


It's a funny thing about life; if you refuse to accept anything but the best , you very often 
get it. 
Somerset Maugham

人生について、もしあなたが最高のものだけのみを受け入れるようにしていれば、あなた
はしばしばそれを手に入れるというのは、おかしなことだ。

Wisdom is the supreme part of happiness. 
Sophocles

智慧は、最高の幸福である。

The supreme happiness in life is the conviction that we are loved ー loved for ourselves, 
or rather, loved in spite of ourselves. 
Victor Hugo

人生における最高の幸福は、あなたが愛され、という確信である。
私たち自身のために愛されるというよりは、私たち自身に関係なく愛されるということ。

●幸福になるために・・・

 世界の賢者の言葉を並べて読んでいると、その向こうに、「幸福とは何か」、それが
見えてくる。
要するに、幸福というのは、私たち自身のすぐそばにあって、私たちに見つけてもらう
のを、静かに待っている。
それを知った人が幸福ということになる。
またそれがこのエッセーの結論ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幸福 幸福論)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●慣習からの脱却(Beyond the Morals)

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地方の田舎へ行くと、(浜松市内にもあるが)、
慣習の多さに驚かされる。
日々の生活が、慣習によって成り立っているとさえ
言える。

こうした慣習は便利なものだが、(というのも、
そのおかげで、「手続き」として、何も考えなくて
行動できるので)、他方で、人間の自由なる創造性を
阻害する要因ともなる。

そこでコールバーグは、「慣習からの脱却」を、
道徳的完成度の、ひとつの尺度として取り入れた。

(1)前慣習的段階
(2)慣習的段階
(3)脱慣習的段階、と。

(1)前慣習的段階というのは、何も考えず、慣習に
従って行動することをいう。
(2)慣習的段階というのは、臨機応変に、慣習を
自分なりに取捨選択しながら利用することをいう。
(3)脱慣習的段階というのは、慣習にとらわれず、
自分で考えて行動することをいう。

田丸謙二先生が口癖のように言っている、「Independent
Thinker」(独立した思索人)」というのは、そういう人を
いう。

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●冠婚葬祭

 慣習が、直接的、かつ顕著に私たちの生活を支配するのが、冠婚葬祭である。
冠婚葬祭、とくに「葬祭」ほど、慣習のかたまりのようなものはない。
「死んだあとのことは、人に任せばいい」という安易な死生観が、こうした慣習を
そのままのさばらせている(?)。
が、どうして自分なりの葬祭を自分で考えてはいけないのか。
自分で行ってはいけないのか。

 言うなれば慣習というのは、ベルトコンベヤーのようなもの。
その上に乗っていけば、何ごとも、無事、かつ簡単にすむ。
それほど注意を払う必要のないものについては、そのほうが楽。
近所づきあいにせよ、はたまた村や町の祭りについても、そうだ。
が、問題は、そのあと。

 「どうでもいいことは、慣習に従えばいい」と考え、あいた時間を、大切なことに
使うなら、まだよい。
が、中には、慣習漬けになり、自ら思考することを放棄してしまう人もいる。
あるいは思考力そのものを失ってしまう。
それこそ慣習がなければ、何一つ、行動できなくなってしまう。

●喪服

 A氏(60歳)夫婦は、先日、父親の納骨のため、新潟県のN町まで行ってきた。
新幹線とローカル線を乗り継いで行ってきた。
そのこともあって、A氏は、喪服ではなく、黒いブレザーと、黒いズボンを、着用
して行った。
A氏の妻も、似たような服装で行った。

 また駅から寺までは、タクシーで行った。
そのタクシーは、寺での法要がすむまで、寺の外に待たせた。

 寺に同席した参列者は、実の姉夫婦だけ。
読経は20〜30分程度ですみ、A氏はタクシーでそのまま墓へ。
が、これが姉夫婦の逆鱗に触れた?

 以後、ことあるごとに、A氏の姉は、近所や親戚の人たちに、こう言いふらした。
「A男夫婦は、喪服を着てこなかった」
「A男は読経中、トイレに立った」
「A男は、タクシーで墓へ行った」と。

 ほかにもささいなミス(?)をとらえて、A男を責めた。
こういうケースのばあい、A氏の姉は強い。
「慣習」という、強力な「後ろ盾」がある。

 が、どうして法事は、喪服でなければならないのか?
いつ、だれが、そういう慣習を決めたのか?
さらに言えば、タクシーで墓へ行っては、どうしていけないのか?
A氏の姉は、「(遺骨をかかえて)、歩いて行くべきだった」と。

●慣習

 先にも書いたように、慣習は、あれば便利なもの。
どうでもよいことについては、慣習に従えばよい。
さらに言えば、法の世界には、法としての慣習もある。
たとえば「入会権(いりあいけん)」というのがある。
たとえ他人の山林であっても、その山へ入って、薪(たきぎ)類を取ってくるのは、
慣習として認められている。

 さらに進んで、「自動車は左側通行」というのもある。
これは他人の安全を考えての慣習が、法制度化されたものである。
「信号を無視して走ってもいい」ということになったら、それこそ交通がマヒしてしまう。

 が、それでも私たちは、常に慣習を疑い、慣習と闘う。
それが人間生活に不都合なものであれば、臨機応変に考えて対処する。
あるいはそれと闘う。

 よい例が、封建時代の遺物である。
この日本には、江戸時代という封建時代の遺物が、いたるところに残っている。
「家」制度、家督制度、家父長意識、身分制度、職業意識、男女観などなど。
コールバーグの説いた、前慣習的段階の人には、それがわからないかもしれない。
しかし一歩進んで、慣習的段階の人、さらには脱慣習的段階の人には、それがわかる。
それを「道徳の完成度」と結びつけてよいかどうかについては、異論もあろう。
しかしコールバーグは、それを道徳の完成度と結びつけている。

(「道徳」と「Morals」は、かならず一致するものではない。
英語で「Morals」というと、「行動の基準」をいう。
日本語で「道徳」というと、そこにどうしても儒教的なニュアンスを感じてしまう。)

 ともあれ、私たちは常に考え、常に行動する。
自ら考え、自ら行動する。
最後にあのマーク・ツウェィンも、こう書き残している。

『人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき』と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 道徳 コールバーグ 道徳論 前慣習的段階 慣習的段階論 脱慣習的
段階 はやし浩司 マークツエイン マーク・ツウェイン マークツウエイン)

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2002年10月に書いた原稿を添付します。

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●朝に道を聞かば……

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論語といえば、『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』。

それについて以前書いた原稿を添付します。

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『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

●密度の濃い人生

 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い
方によっては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をい
う。薄い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きて
いるだけという人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実
感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生き
る目的も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と
生きている人は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまっ
た。同じように三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞
くと、仕事から帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚
釣りかランニング。「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考え
ることはあるの?」と聞くと、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。

 一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あ
なたをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑い
ながら、こう言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目
です」と。そういう女性は美しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを
同じように繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。
あのマーク・トーウェン(「トム・ソーヤ」の著者、1835〜1910)も、こう書いて
いる。「人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一
歩、話を進める。

●どうすればよいのか

 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。
私は「無我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お
金儲けに没頭したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も
残っていない。私はたしかに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。し
かし何も残っていない。

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口
300万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私1人だけという時代だった。そん
なある日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの一
日は、金沢で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなことを書
いたのではない。私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、
振り返っても、私にとっては、たいへん密度の濃い時代だったということになる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はま
だ結論出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、
広い世界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度
が濃いということにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世
界の問題。他人が認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからと
いって、落胆することもないし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。
あくまでも「私は私」。そういう生き方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くするこ
とになる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これか
ら先、ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02−10−5)

(追記)

 もしあなたが今の人生の密度を、2倍にすれば、あなたはほかの人より、2倍の人生を
生きることができる。10倍にすれば、10倍の人生を生きることができる。仮にあと一
年の人生と宣告されても、その密度を100倍にすれば、ほかのひとの100年分を生き
ることができる。極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を
聞かば、夕べに死すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方
に死んでも、悔いはないということ。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、
そういう意味も含まれる。

++++++++++++++++++++

ついでに、儒教のことも書きましたので、
2008年10月に書いた原稿を
添付します。

++++++++++++++++++++

●孔子の60代(Confucius on 60's)

+++++++++++++++++++

60代といえば、孔子の生き様が参考に
なる。

孔子(前551〜前479)は、魯に仕え、
大司寇となったが、権力者と衝突し、56歳
から10年間、魯を去って諸国を歴遊したという
(ブリタニカ国際大百科事典)。

その10年間で、孔子は諸侯に道徳的政治の
実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の
教育と著述に専念したという(同)。

『春秋』や他の儒家の経典はそのとき生まれたが、
『論語』は、孔子と弟子の言行録と言われている(同)。

+++++++++++++++++++++

計算すると、孔子は、満73歳前後でこの世を
去ったことになる。
それまでの基礎があったのは当然としても、
今、私たちがいうところの「孔子」は、
ブリタニカ国際大百科事典を参考にすれば、
満66歳前後から73歳前後までに「孔子」に
なったことになる。

ただ釈迦にせよ、キリストにせよ、孔子にせよ、
弟子に恵まれたということ。
弟子たちが、「師」の教えを、後世に残し、伝えた。
もし弟子に恵まれなかったら、釈迦も、キリストも、
孔子も、今に名を残すことはなかった。

それはそれとして、孔子が60歳を過ぎてから
(がんばった)というのは、たいへん興味深い。
言いかえると、「50歳だから……」とか、
「60歳だから……」とか言って、あきらめてはいけない。
……ということを、孔子は私たちに教えている。

が、同じ60歳でも、私と孔子は、どうしてこうまでちがうのか。
ひとつの理由として、中国の春秋時代は、今よりはるかに純粋な時代では
なかったということ。
つまりその分だけ、雑音も少なく、回り道もしなくてすんだ。
それにもうひとつ率直に言えば、当時は、情報量そのものが少なかった。
春秋時代に、人が一生かけて得る情報量は、現代の新聞1日分もなかったのでは
ないか。
言いかえると、私たちは、情報の洪水の中で、何が大切で、何がそうでないか、
それすらも区別できなくなってしまっている。
あるいは大切でないものを大切と思いこみ、大切なものを、大切でないと
思いこむ。

もちろんだからといって、孔子の時代が今よりよかったとは思わない。
釈迦やキリストの時代にしても、そうだ。
しかしここにも書いたように、今よりは、純粋であったことだけは、事実。
たとえて言うなら、子どものような純朴さが、そのまま生きるような時代だった。
このことは、私たちの子ども時代と比べてみても、わかる。

私たちが子どものころには、テレビゲームなど、なかった。
携帯電話もなかった。
しかしだからといって、私たちの子ども時代が、今の子どもたちの時代より
貧弱だったかといえば、だれもそうは思わない。
だから、こと(思想)ということになれば、孔子にはかなわないということになる。

このことは、私たちにもうひとつの教訓を与える。

老後になればなるほど、純朴に生きる。
というのも、私たちは、あまりにも情報、とくに金権教的な情報に毒されすぎている。
人間の命さえも、マネーという尺度で判断してしまう。
そういうものからだけでも解放すれば、ものの見方も、かなり変わってくるはず。

ともあれ、あの時代に、60歳を過ぎてから、「諸侯に道徳的政治の
実行を説いた」というところは、すごい!

さらに「晩年は魯で弟子の教育と著述に専念したという」ところは、
もっとすごい!
だからこそ「孔子は孔子」ということになるのだが、それにしても、すごい!
私たちが頭に描くジジ臭さが、どこにもない。
そういう点で孔子の生き様は、本当に参考になる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
孔子 春秋時代 Confucius 論語 はやし浩司 論語)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 5月 26日
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●早期教育効果は小学生で消える(?)「AERAの記事に、疑問あり!」(改訂版)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

こんな記事が、AERAという雑誌に載っていた。
いわく「早期教育効果は、小学生で消える」と。

つづいて、
「……小学校入学前に読み書きを習得する子どもは多い。その風潮に警鐘を
鳴らす研究が報告されている。本質的な学力を決めるのは親子関係だという」と。

しかしこの原稿には、いくつかの言葉のトリックがある。
その第一、「早期教育」を、「読み書き」にすり替えている。

たしかに「読み書き」については、その効果は「小学校で消える」。
たとえば計算力にしても、幼児期に速くできるようになったからといって、
それがそのまま「数の力」に結びつくとはかぎらない。

よい例が、幼稚園によっては、かけ算の九九を暗唱させているところがある。
が、九九が言えるようになったからといって、「算数の力」が身についた
ということには、ならない。

が、こんなことは常識。
その常識を、逆手に取って、「小学生で消える」とは?

さらに言えば、消えたところで、無駄とは言い切れない。
その上に、さらに新しい知識を組みあげていく子どももいる。
(そうでない子どもも、もちろんいるが……。)

あえて言えば、「早期教育」と言っても、「知識教育」から離れ、最近では「考える子ども」
にするのが、ひとつのテーマになってきている。
ごく最近では、「Active Learning」という言葉も使われるようになった。
「ものごとに積極的に取り組む子どもにするための指導」という意味である。

「文字の読み書き」ではない!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++

●読み書き

 「読み書き」をもって、早期教育と位置づける。
「だから、早い時期から学んでも、意味がない」と。
この原稿の最大のミスは、ここにある。
つまりこの原稿を書いた人は、「幼児教育」というのが、何であるか、よくわかっていない。
「早期教育」、さらには「先取り教育」の意味もよくわかっていない。
さらに最近話題になっている、「臨界期」という言葉も、知らない?

 たとえば、こんなことも書いてある。

「また、別の研究でも、漢字の習得では、早期教育を受けなかった子どもとの差は小学校
2年生ごろに消滅し、むしろ国語嫌いは早期教育を受けた子に多かったということもわか
っている(黒田実郎、「保育研究」)」(AERA)と。

(しかしこの資料も、調べてみたところ、1969年「日本保育学会」「就学前の幼児の恐
怖」の中に収録されているものとわかった。
1969年といえば、40年以上も前!
大阪万博の前の年の資料!)

 それはさておき、それはその通り。
無理な文字指導が、子どもを文字嫌いにするという例は、多い。
その(文字嫌い)が悪循環となって、子どもを(国語)から、遠ざける。
たとえば年中児でも、「名前を書いてごらん」と声をかけただけで、体をこわばらせる子ど
もは、いくらでもいる。
中には涙ぐむ子どもさえいる。
文字に対して恐怖心をもっているためである。

 こんなことは、少し幼児に接してみれば、だれにでもわかること。
また幼児に接した経験のある人なら、だれでも知っている。
それを、ことさら学者名まで出して強調するところが、わざとらしい。

 逆に、世界広しといえども、幼児期の幼稚園教育で、文字の読み書きを教えないのは、
この日本だけ。
そういう事実をさておいて、あたかも「幼児期に、文字教育は必要なし」というような印
象を与えるのは、どうか。
誤解というより、偏見。

 そして「文字教育」を例にあげながら、「幼児期には何もしないほうがいい」というよう
な印象を読者に与える。

こうした論法には、「?」マークを10個くらい、並べたい。
大切なことは、「教える」ではなく、「文字の読み書きは楽しい」ということを教えること。
それが幼児教育。
またそれが重要!

●偏見

 さらに……。

「……早期教育熱はやがて中学受験熱に変わる。Aさんの長女は、過酷な競争を勝ち抜き
都内の難関の中高一貫進学校への入学を果たしたが、その後勉強熱が急速に冷めてしまっ
た。競争の激しい進学校で成績は伸びず、大学受験は苦労した。

 有名中学に合格し、張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れてしまったかのように、そ
の後の成績が伸び悩む例は多い。子どものストレスは早期教育で終わらない。小学校に入
れば塾通い、中学受験、それが終わっても大学受験と、常に急き立てられていく」(AER
A)と。

 これを読んだときには、ア然とした。
このライターは、「燃え尽き症候群」「荷下ろし症候群」という言葉さえ、知らない?
そんな印象すらもった。

 たしかにこのタイプの子どもは、多い。
浜松市内の進学高校でも、高校入学と同時に、約20%の子どもが、燃え尽きる。
そのため無気力になったり、怠学に陥ったりする。
それはそれだが、だからといって、みながみな、そうなるわけではない。
何も受験競争の肩をもつわけではないが、「だから教育は無駄」式の論法には、首をかしげ
る。

 つまりここでも、「受験競争」と「早期教育」を、言葉のトリックを使ってすりかえ、読
者を煙に巻いている。

●親子のかかわり

 幼児教育の第一は、「親子のかかわり」で始まる。
またそれで終わる。
その重要性は、基本的信頼関係に始まって、心の育成などなど、今さらあえて説くまでも
ない。
が、ここでも、このライターは、言葉のトリックを使っている。
つぎの文章を、よく読んでほしい。

 「……長男は文字をほとんど書けないまま小学校に入学した。入学後、近所の5歳の女
の子が持っていた「お勉強ノート」を見て圧倒された。画数の多い小学校中学年向けの漢
字がびっしりとノートのマスを埋めていた。入学後も、わが子がカタカナに四苦八苦する
傍らで「5年生の漢字が書けるよ」「九九できるよ」と豪語する級友の存在を知り、長男が
勉強についていけるか心配になった。

 しかし、お茶の水女子大学の内田伸子教授(発達心理学)は、文字の読み書きなどの早
期教育に批判的だ。内田教授は昨年秋の東アジア学術交流会議で「幼児のリテラシー習得
に及ぼす社会文化的要因の影響」調査を発表した」(AERAより)と。

 ある親は、ほかの子どもが、スラスラと漢字を書いている子どもを見て、ショックを受
けたという。

(5〜6歳の子どもが、5年生の漢字を書く?
しかし私は幼児教育を40年もしているが、そんな子どもを見たことがない!
本をスラスラと読む子どもはいたが、漢字を書いた子どもは知らない。
もし本当にいるとするなら、心に何らかの障害をもった子どもということになる。
その子どもがそうというわけではないが、たとえば自閉症の子どもは、ある特定のことが
らに、ふつうでない(こだわり)を示すことがある。
全国の駅名を暗記する、どんな音楽でも一小節を聞いただけで、曲名を当てる、など。
5歳児が、5年生の漢字を書くというのは、おおげさというか、きわめてマレなケース。)

 つまりそういうトンデモナイ例を引きながら、その一方で自分の原稿に権威付けをする
ため、大学の教授名を並べる。
いわく、「……すでに内田教授は20年以上前に実施した調査で、3、4歳で文字を習得し
ている子と、習得していない子との差は、小学校入学後に急速に縮まり、1年生の9月に
は両者の差は消えてしまうということを指摘してきた」と。

 (この資料も、20年前の資料!)

●過熱する幼児教育?

 早期教育というと、文字教育と考える。
早計というか、無知。
無知というか、誤解。
あるいは偏見。
私も「文字」をテーマに、レッスンを進めることは多い。
しかし「文字を教えよう」という気持ちは、さらさらない。
先にも書いたように、「文字は楽しい」ということは、教える。
もっと言えば、子どもたちを、楽しませる。
「文字は楽しい」という思いが、良循環となって、その子どもを前向きに引っ張っていく。
それが幼児教育。
その重要性は、ここに改めて書くまでもない。

 それをさておいて、「子どもには、必要な栄養食品だけを与えておけばいい」
「料理は無駄」と。
さらに言えば、こんなことも言える。
「大学へ入っても、無駄。人生の結論は、死ぬときの死に際の様子で決まる」と。
どこかのカルト教団が、信者たちにさかんに説いている言葉である。
このライターの(おかしさ)は、その一点に集約される。

●不適切な指導

 このライターの意見によるまでもなく、不適切な指導で、伸びる芽すら摘まれていく子
どもは、多い。
たとえばここでは「読み書き」がひとつのテーマになっている。
実のところ私の二男もそうだった。

 私の二男は、生まれつき、左利き。
私たち夫婦は、自然の流れに任せた。
が、小学校へ入学して一変した。
学校の先生から、「文字は右手で書かせてください」と。
担任の先生が、書道の先生であったことも、災いした。

 毎晩、二男は泣きながらノートに漢字を書いていた。
鏡文字はもちろんのこと、書き順もめちゃめちゃ。
で、1年もたったころ、私は学校の先生に向かって、こう宣言した。
「息子は、左利きで通します。無理な指導は結構です」と。

 それに対して先生は、こう反論してきた。

「冷蔵庫でも、何でも、右利き用にできています。
不便を感ずるのは、あなたのお子さんですよ」と。

 が、さらに私は反論した。
「そんなことは、慣れれば何でもないことです!」と。

 そういう問題はある。
あるが、一方的に、「消滅するから無駄」という論法には、かなり強い違和感を覚える。

●針小棒大論

 受験塾の受験競争には、私も批判的。
擁護したことは、一度もない。
しかしそれは「学習」という面からではなく、「心の育成」という面から、問題にしてきた。
またそのような趣旨で、原稿を書いてきた。

 それをストレス説と結びつけて、「子どもの教育はストレスにつながる」と一方的に決め
つけている。
さらにいつの論文かは知らないが、「脳神経学的に胎児期や乳幼児期の早期教育の有効性を
正当化する科学的根拠はないとしている」(お茶の水女子大学の榊原洋一教授は、著書『子
どもの脳の発達臨界期・敏感期』)と。

 だったら、「野生児」の問題など、なかったはず!
ある時期、親子のふれあいのなかった子どもが、どうなるか?
野生児と呼ばれた子どもを知っていれば、こんな意見は出てこないはず。
「科学的根拠」というが、その研究は、今、始まったばかり。
「臨界期」という言葉が、再びクローズアップされてきたのは、ここ数年のこと。

 そこでこの本(『子どもの脳の発達臨界期・敏感期』)の発行年月日を調べてみたら、2
004年とわかった。
6年前!
現在は、廃刊になっている。
当時は「科学的に」は、無理だったかもしれない。
が、ここ数年の、脳科学の進歩には、著しいものがある。
脳の中の動きを、リアルタイムで観察することもできるようになった。

●野生児

 野生児については、資料のみを添付する。

+++++++++++++++++++++

●オオカミ姉妹

++++++++++++++++++

オオカミ姉妹(カマラとアマラ)について、
たびたび書いてきた。
「野生児」とも呼ばれる。
1920年10月に、インドで見つかった
2人の姉妹をいう。

この2人の姉妹について、私はあちこちで
ものを書いてきたし、講演会でも、よく
話した。

が、正確でない部分も多々、あった。
いろいろな資料をもとに、もう一度、
オオカミ姉妹について、整理しておきたい。

+++++++++++++++++++

(1)1920年10月、カルカッタの南、ゴダムリという村で見つかった。
(2)オオカミが住んでいた、シロアリの塚の中から、見つかった。
(3)2人の少女は、そのまま孤児院に入れられた。
(4)名前を、カマラ(姉、推定年齢8歳)、アマラ(推定年齢1歳)と名づけられた。
(5)A.L.シング夫妻らによって、養育された。
(6)当初、2人の姉妹は、オオカミのようにひざまづいてものを食べた。
(7)4つ足で走り、オオカミのような叫び声をあげた。
(8)アマラは約1年後に死亡。
(9)カマラは推定年齢17歳まで、生きた。
(10)その過程で、衣食住の生活習慣を身につけた。
(11)6年後には直立して歩行した。(推定年齢、14歳。)
(12)7年後には、45語を話せるようになった。
(13)中枢神経系に、器質的な異常は認められなかった。

(以上、「心理学とは何だろうか」(無藤驕E新曜社)より)

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 BW はやし浩司 オオカミ姉妹、アマラ タマラ アマラ はやし浩司 野生児 オオ
カミ少女)

+++++++++++++++

●「塾通いは悪」という偏見

 このライターは、世界の潮流というものを、知らないらしい。
EUでは、むしろ逆に、学校教育より、クラブ制のほうに、教育の重点を移動している。
子どもたちがそれぞれ放課後、好き勝手なクラブに通い、好き勝手なことをしている。
たとえばドイツでは、中学校では単位制を導入し、午後はみな、それぞれのクラブに通ってい
る。

 その費用は、チャイルドマネーとして、満27歳になるまで、一律に支給されている。
額は1万5000円前後。
クラブの月謝が、1000円程度だから、その額だけで、約15のクラブに通えることに
なる。
学校の内部にクラブがあることもある。
日本がこの先めざすべき教育は、むしろ、そちらのほうではないのか。
10年一律というか、AERA(朝日新聞社)のばあいは、30年一律のごとく、「塾、必
要悪論」を展開している。

 そこには、「学校や幼稚園でやることは問題なし」という、ぬぐいがたい偏見すら覚える。
が、事実は逆で、むしろ「民活」、つまり民間の活力を利用したほうが、よい面も多い。
たとえば英会話にしても、民間に任せた方が、ずっとよい教育をする。
実際に、よい教育をしている。

 それに第一、今時、泣きながらいやがっている子どもを、無理に塾へ通わせる親は、い・
な・い!
いったいこの話も、何年前の話かと、聞きたくなる。
(20〜30年前には、こういう話はよく耳にしたが……。)

その部分を、ここに転載させてもらう。

「…… Aさんの長女は、大学入学後に幼い頃の塾通いについて、
「辛かった。お母さんにはいやだとは言えずに我慢していた。幼稚園の友達と、もっと遊
びたかった。中学受験なんて必要なかった」
 と涙を溢れさせながら訴えた」(AERAより)と。

 このライターは、自説の偏見を補強するため、ペタペタとあちこちの悪例を張りつけて
いる。
わかるかな?

●塾で勉強したら……?

 さらにAERAの記事は、つづく。

「日本には飛び級制度はないし、習熟度別クラスも少ない。塾などで勉強したことを学校
で「復習」する状態が常に続くと、学校での勉強がつまらなくなる」(AERAより)と。

 ヘエ〜〜?

 今時、こんなことを書くライターがいること自体、信じられない。
学校第一主義というか、学校神話信仰者というか。
つい先日、韓国で発表された調査結果をもう一度、ここにあげてみる。

●居眠りする高校生たち

(授業中、居眠りをしている高校生)

居眠りについて、「普通の行動」、または「たびたびおこなっている行動」

    日本人    45.1%    
    韓国人    32.3%
    アメリカ   20.8%
    中国      4.7%

 「学校の勉強がつまらない」のは、塾で先取り教育をしているからではない。
構造的な問題。
つまり公教育がかかえる構造的な問題に起因する。
これは高校生についての調査だが、中学校でも似たような現象が起きている。
小学校でも似たような現象が起きている。

また「塾」といっても、今時、このライターが書いているような授業をしていたら、生徒
など、1人も集まらないだろう。
たとえて言うなら、「まずい料理を並べるレストラン」のようなもの。
それを「食べろ!」と押しつけても、今時の子どもは、食べない。
親だって、食べさせない。

●結論

 また動き盛りの子どもを、無理に机にしばりつけ、「読み書き」を教えれば、ストレスが
たまるに決まっている。
体や心が変調をきたすのも、当然。
あえて「尿検査」をするまでもなく、子どもたちの表情を見れば、それがわかる。
「教育」というのは、そういうもの。
子どもの表情と様子を見て、判断する。

それを「……1997年に幼稚園児の尿を採取してストレス値を比較したところ、早期教
育を受けている幼児は、受けていない幼児に比べてストレスが高かった」と。

1997年当時といえば、「早期教育」の定義も、まだあいまいだったはず。
またそのころから、不登校児が急増し、不登校が社会問題化した。
が、その一方で、水泳教室、書道など、おけいこ塾へ通っていない子どもなど、いなかっ
たはず。
都会地域では、ほぼ100%。
地方の農村地帯でも、70%。
(この数字は記憶によるものなので、不正確。)

 ここでも「読み書き」と「早期教育」を混同させるという、言葉のトリックを使ってい
る。
さらに言えば、ライターの思いこみを(柱)にし、あちこちから寄せ集め的に、古い資料
をペタペタと張りつけている。

 で、問題があるとするなら、なぜ親たちが、こうまで過熱するのか。
(過熱しているなら、という前提だが……。)
その中まで、メスを入れる必要がある。
またそういう視点で、この問題を切り込んでほしい。
またメスを入れてこそ、「さずがAERA!」ということになる。
こうした記事を書くことによって、どういう問題が、どう解決するとういうのか?
ハシゴをはずすのは、簡単なこと。
「では、どうすればいいのか?」。

 親たちは、この日本にはびこる不平等性を、いやというほど、毎日見聞きしている。
人生の入り口で幸運に恵まれた人は、生涯、恵まれた生活を楽しむことができる。
そうでない人は、そうでない。
「受験」がその関門になっていることは、だれの目にも明らか。
親たちは日常的に、(あせり)と、(不安)を感じている。
そういう事実をさておいて、「読み書き」を「早期教育」にすりかえて、「早期教育は危険」
と警鐘(?)を鳴らす。

 AERAが書くべきことがあるとすれば、「では、どうすればよいか」ということ。
「幼児をどう楽しく指導すればよいか」ということ。
ものごとは、後ろ向きに考えるのではなく、前向きに考える。
 
●AERAを、そのまま転載

 誤解があるといけないので、インターネット上に配信された、AERAの記事をそのま
ま転載させてもらう。

++++++++++++以下、AERAよりそのまま+++++++++++

AERAより 2010年4月19日(月) 

 都内に住む30代の母親は最近、4歳の女の子が図書館で読んでいる本を見て驚いた。
絵はなく、漢字まじりの文字ばかり並ぶ小学校中学年用の読み物だ。自分の小学1年生の
子どもは、入学してようやくひらがなを習ったばかりだというのに。思わず「すごいね」
と声をかけると、女の子は「漢字も書けるよ」と言って、スラスラと漢字を書いた。女の
子の母親と話すと、通っている有名私立幼稚園では珍しくない光景だという。

■所得よりも養育態度

 最近、地方都市から東京に転居してきた40代の母親の長男が通った保育園は、外遊びを
重視し、幼児の読み書きなど早期教育には批判的な方針だった。長男は文字をほとんど書
けないまま小学校に入学した。入学後、近所の5歳の女の子が持っていた「お勉強ノート」
を見て圧倒された。画数の多い小学校中学年向けの漢字がびっしりとノートのマスを埋め
ていた。入学後も、わが子がカタカナに四苦八苦する傍らで「5年生の漢字が書けるよ」「九
九できるよ」と豪語する級友の存在を知り、長男が勉強についていけるか心配になった。
 しかし、お茶の水女子大学の内田伸子教授(発達心理学)は、文字の読み書きなどの早
期教育に批判的だ。内田教授は昨年秋の東アジア学術交流会議で「幼児のリテラシー習得
に及ぼす社会文化的要因の影響」調査を発表した。

 ちょうどその2カ月ほど前、文部科学省は全国学力テストの結果を分析し、親の所得が
高いほど子どもの学力が高いという調査を発表していた。親の年収が1200万円以上では国
語、算数の正答率が全体の平均より8〜10ポイント高く、200万円未満では逆に10ポイン
ト以上低かった。

 だが、内田教授の調査では、子どもの学力格差は親の所得格差ではなく、親子のかかわ
り方が大きく影響していた。たしかに「読み・書き」能力だけみれば、3歳では親の所得
や教育投資額が多いほど高かった。しかし、その差は子どもの年齢が上がるにつれて縮ま
り、小学校入学前に消滅した。文字などの早期教育の効果はわずか、数年しか続かないの
だ。

 すでに内田教授は20年以上前に実施した調査で、3、4歳で文字を習得している子と、
習得していない子との差は、小学校入学後に急速に縮まり、1年生の9月には両者の差は
消えてしまうということを指摘してきた。また、別の研究でも、漢字の習得では、早期教
育を受けなかった子どもとの差は小学校2年生ごろに消滅し、むしろ国語嫌いは早期教育
を受けた子に多かったということもわかっている(黒田実郎、「保育研究」)。

■想像力豊かな子は…

 一方、幼児の語彙力については、親の所得や教育投資額が多いほど高かった。しかし、
詳細な分析をした結果、語彙の成績を左右するのは所得や教育投資額ではなく、親の養育
態度であるとわかった。

 内田教授は、こう話す。

「語彙力というのは自律的思考力を支えるものです。所得が低い家庭であっても、子ども
とのふれあいを大事にして、楽しい経験を共有するような『共有型』の養育スタイルの家
庭の子どもの語彙得点は高いのですが、所得が高くても大人の思いを押しつけ、トップダ
ウンで禁止や命令、体罰などを多用する場合は子どもの語彙の成績は低いのです。他の子
どもとの比較や勝ち負けの言葉を多用するとか、子ども中心で親が犠牲となる教育も、学
力基盤を育むのに効果はありません」

 つまり親の「人間力」こそ、子どもの語彙力の発達には重要だということだ。しかも、
この語彙力こそ学童期以降の子どもの学力と関連があると話す。

 また内田教授が文字を習得している幼児と習得していない幼児に、それぞれ空想でお話
をつくってもらったところ、文字を習得していない子どもの方が想像力豊かな内容だった
という。こうした研究を通じて、過熱する一方の早期教育に警鐘を鳴らしてきた内田教授
は、こう話す。

「幼児期には五感を使って親子で体験を共有することが大切です。親子のコミュニケーシ
ョンや会話のやりとりを通じて、子ども自身が考えて判断し、親子の絆が深まっていく中
で子どもの語彙力は豊かになる。お金をかけなくても子どもは伸びるのです」

■鈍る昼間の活動

 研究者の間では以前から「早期教育」の効果に懐疑的な声は多かった。小児科医でもあ
る、お茶の水女子大学の榊原洋一教授は、著書『子どもの脳の発達臨界期・敏感期』の中
で、脳神経学的に胎児期や乳幼児期の早期教育の有効性を正当化する科学的根拠はないと
している。

 むしろ、早期教育の弊害として一番心配されるのは、子どものストレスだ。東北生活文
化大学の土井豊教授らが、1997年に幼稚園児の尿を採取してストレス値を比較したところ、
早期教育を受けている幼児は、受けていない幼児に比べてストレスが高かった。さらに早
期教育を受けている幼児は、昼間の幼稚園での活動が鈍くなっていた。幼稚園後の「お勉
強」に備え、日中は活動を休止して子どもなりに心と体のバランスをとっているのだろう。
日中の活動の低下は子どもの発育にとってよくはない。ほかにも早期教育を受けた子ども
がストレスで情緒障害を引き起こしたケースや、親子の愛着関係に悪影響を及ぼした事例
も報告されている。

 都内に住むAさんは、長女の妊娠中からクラシック音楽や絵本の読み聞かせで胎教した。
乳児期からは水泳、リトミックのほか、有名幼児教室にも電車で通った。自宅では幼児教
室の教材やパズル、フラッシュカードで毎日1時間以上の早期教育を実践した。友達と自
由に遊ぶ時間は少なかったが、長女に嫌がる様子も見えなかった。どんどん子どもが吸収
していくのが嬉しかったし、何よりも子どものためと信じていた。

 早期教育熱はやがて中学受験熱に変わる。Aさんの長女は、過酷な競争を勝ち抜き都内
の難関の中高一貫進学校への入学を果たしたが、その後勉強熱が急速に冷めてしまった。
競争の激しい進学校で成績は伸びず、大学受験は苦労した。

 有名中学に合格し、張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れてしまったかのように、そ
の後の成績が伸び悩む例は多い。子どものストレスは早期教育で終わらない。小学校に入
れば塾通い、中学受験、それが終わっても大学受験と、常に急き立てられていく。

■のしかかるストレス

 先の榊原教授は、こうした塾や学習教室での先取り学習も逆の効果を生む危険性がある
と話す。日本には飛び級制度はないし、習熟度別クラスも少ない。塾などで勉強したこと
を学校で「復習」する状態が常に続くと、学校での勉強がつまらなくなる。

 先の40代の母親の長男が通う小学校では「(学校の勉強は)簡単すぎてばからしい」と
言う子どももいる。こうした子どもたちは、結果として学校の勉強に対するモチベーショ
ンが低下し、集中力も低下する。それこそが中学校以降の学力低下につながりかねないの
だ。

 だが、榊原教授は早期教育や中学受験に熱心な親たちを一概には非難できないと話す。
格差が広がるばかりの社会で、親が子どもの幸せのためにできることといえば、よりよい
教育を受けさせることと思いつめるのも無理からぬことだからだ。フラッシュカードで天
才児が育つかのような、教育産業のマニュアル化した教材は魅力的に見える。
 榊原教授はこう話す。

「早期教育が子どものストレスにならず『親子のふれあい』に寄与する程度なら使っても
良いでしょう」
 フラッシュカードは、知能開発のためではなく、親子のコミュニケーションのために使
えばよい。

 Aさんの長女は、大学入学後に幼い頃の塾通いについて、
「辛かった。お母さんにはいやだとは言えずに我慢していた。幼稚園の友達と、もっと遊
びたかった。中学受験なんて必要なかった」
 と涙を溢れさせながら訴えた。

 Aさんは「頭にガツンとパンチをもらった感じ」だった。今まで注ぎ込んだお金と時間
と苦労を思うと「間違いだった」とは認めたくない気持ちも残る。でも、「ごめんね」と、
長女に心の底から詫びた。
 早期教育の効果はわずか数年足らず。だが、子どものストレスは成長した後も心に長く
重くのしかかる。内田教授は、

「子どもはお母さんが大好きだから嫌とは言わない。だからこそ、親は子どものストレス
のサインを見逃してはいけない」
 と話している。
ライター AS
(4月26日号)

++++++++++++以上、AERAよりそのまま+++++++++++

●反響

 ネットを使ってこのAERAの記事の反響を調べてみた。
その結果、「だから早期教育は無駄」と反応している親たちが多いことがわかった。
「さずがAERA!」と思ったのは、そのとき。
つまりそれだけ影響力が大きいから、記事は、もう少し慎重に書いてほしい。

●私の指導法から

 ここに紹介するのは、4月に入って2回目のレッスンの様子である。
このビデオを見て、塾に対する偏見を少しでも解いてもらえば、うれしい。
今時、泣きながら勉強する子どもなど、いない。
親も、そこまでバカではない!

 2回目のテーマは、「声を出す」である。
「あいうえお」という文字を、使って指導してみた。
私の教室で、笑いながら学習する子どもはいるが、泣きながら学習する子どもは、いない。

50分のレッスンを、編集、削除することなく、ありのまますべてを紹介する。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 AERA AERA 読み書き 早期教育 偏見と誤解 言葉のトリック)

4月20日記

Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●思考の浅薄化

++++++++++++++++++

昨日、バスに乗った。
一日中、雨が降っていた。
そのときのこと。
うしろの席に座った女性2人が、
ペチャペチャとしゃべっていた。
それとなく振り返ってみると、
年齢は、ともに70歳前後。
会話の内容が、そのまま聞こえてきた。

「H男は、1周忌のとき、遅刻してきた」
「帰りはタクシーで、そそくさと帰っていった」
「喪服のかわりに、黒いジーパンをはいてきた」
「仏前に、1万円しか、供えなかった」などなど。

話の内容からすると、その中の1人が、
亡くなった兄の1周忌を、最近、したらしい。
その席に、H男という弟がやってきた。
1人の女性は、さかんにそのH男の批判をしていた。

姉と弟。
その間に、何か、大きな(わだかまり)があるらしい。
その(わだかまり)を、その女性は、(批判)に転化させていた。
簡単に言えば、(腹いせのためのグチ)。

私はその会話を聞きながら、思考の浅薄性について
考えた。

+++++++++++++++++++

●脳の老化

 脳が老化すると、当然のことながら、思考が浅薄化する。
いくつかの特徴がある。

(1)ループ化(同じことを、何度も考える。)
(2)針小棒大化(ささいなことに、こだわる。)
(3)浅薄化(思考力が浅くなる。)

 ひとつの問題を考えながらも、それに切り込んでいくことができない。
脳に飛来した情報を、繰り返し考えたり(ループ化)、どうでもよいことを、おおげさに
考えたりする(針小棒大化)。

●バケツの底の穴

 脳みそというのは、加齢とともに、退化する。
バケツの底に穴があいたような状態になる。
そうでなくても、知識や経験、知恵は、その穴から外へ、どんどんとこぼれ落ちていく。
わかりやすい例が、英語の単語。

 若いときに覚えた単語は、今でもよく覚えている。
しかし40代、50代に覚えた単語は、よほど何かの努力をしないかぎり、そのまま
忘れていく。
60代になるとなおさらで、へたをすれば、数日ももたない。

●「私は昔のまま」

 たとえば40代のとき、100の知識や経験、知恵があったとする。
が、50代になると、それが半減する。
40代のころ身につけた知識や経験、知恵にしても、そうだ。
50代になると、それが半減する。
 
 が、悲劇的なのは、そうして半減していること自体に、当の本人が気がつかないこと。
「私は昔のまま」と思いこむ。
特別な努力をしていない人ほど、そう思いこむ。
「私は若いころと同じように、賢い」と。

●特別な努力

 そういう意味では、「思考力」は、「健康論」に似ている。
健康を保つためには、日々の運動が欠かせない。
それを怠ったとたん、あとは下り坂。
50代になると、1週間も運動をしないでいると、体の調子が悪くなる。
60代になると、さらに悪くなる。

 同じように、思考力についても、日々の鍛錬が欠かせない。
たとえばパソコンに新しいソフトをインストールする。
マニュアルを読む。
そのときは、そこそこに、それを使いこなすことができるようになる。
が、1か月もそれを使わないでいると、操作方法そのものを忘れてしまう。

 それを防ぐためには、数日おきにでもよいから、そのソフトを使ってみる。
これが「日々の鍛錬」ということになる。

●火花

 先にも書いたように、思考力というのは、脳のCPU(中央演算装置)と密接に
関連している。
CPUの能力が低下してくると、脳の機能そのものが低下していることに気づかない。
わかりやすく言えば、自分がバカになっていることにさえ、気づかない。
バカな話をしながら、それがバカな話であるということが、わからない。

 たとえばバスの中の2人の女性の会話が、それである。
もしその2人の女性が、「法事論」、「宗教論」、さらに「地蔵十王経(=日本製のニセ経)」
の話でも始めれば、すばらしい。
が、同じ話を、何度も繰り返す。
中身は、どうでもよいようなことばかり。

 私はその会話を聞きながら、「遅刻ねえ?」「タクシーねえ?」「黒いズボンねえ?」
「仏前ねえ?」と、頭の中で、火花がバチバチと飛ぶのを感じた。

●脳の老化

 脳の老化は、だれにでもやってくる。
避けようがない。
脳細胞にしても、日々に死滅していく。
が、その一方で、脳は鍛錬によって、その活動を維持することができる。
恩師の田丸謙二先生は、50歳を過ぎて中国語を学び始め、中国の科学院総会で、
中国語による講演をしている。
80歳を過ぎて、英語の教育書の翻訳もしている。
今でも、その聡明さはまったく衰えていない。

 最近の脳科学も、こうした鍛錬の有効性を認めている。
脳細胞(ニューロン)は死滅するが、シナプスは、鍛錬によって増加する。
それには年齢制限はない。

 健康にしてもそうだ。

 その田丸謙二先生は、数年前に会ったときには、杖をついて歩いていた。
が、先月会ったときには、駅の階段を杖なしで上り下りしていた。

●まず気づく

 まず、気づく。
それが脳の老化を防ぐ、第一歩。
「私はだいじょうぶ」と、高を括(くく)っている人ほど、あぶない。
努力しない。
だからそういう人にかぎって、脳の老化は一気に進む。

 一方、それに気がついている人は、その恐怖感と闘いながらも、努力する。
その努力が、脳の老化を防ぐ。

 バスはやがて市内へと入り、私はバスを下りた。
下りながら、こう思った。

「あの人たちも、やがて、ボケバーさんになるのだな」と。
というのも、人は階段をおりるように、段階的にボケるのではない。
マイナスの一時曲線的に、徐々に徐々にボケていく。
当人が、気がつかないまま……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 脳の老化 ボケ 浅薄化 脳の浅薄化 ループ性)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

【年中児・あいうえお】(BW教室の風景から)4−20、2010

(1)
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(2)
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(3)
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(4)
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(5)
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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 BW子どもクラブ BW教室 年中児 4歳児 4歳児の知能 4歳児の学
習 あいうえお)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●反響(AERA・アエラの記事への反論)

+++++++++++++++++++++

数日前、雑誌「AERA」の記事に対して、
反論原稿を書いた。
その原稿にたいする反響には、ものすごい
ものがある。
直接的な意見はまだ届いていないが、「アラーム」
という機能を使うと、反響の大きさが、数字でわかる。
私の原稿を取り上げたBLOGやHPの数が、
そのまま、数字として、表示されるしくみになっている。

+++++++++++++++++++++

●「AERA」の記事

 「早期教育効果は小学生で消える」と題した、雑誌「AERA」の記事を要約すると、
こうなる。

 早期教育の一例として、「読み書き」をあげ、幼児期に読み書きを教えても、その効果は
小学校で消える。
そればかりか、無理な学習が、子どもを勉強嫌いにしてしまう。
「臨界期」というのは、科学的に証明されたものではない。
むしろ家で、先取り教育をすると、子どもは学校での勉強をつまらなく思ってしまうよう
になる……などなど。

 その一例として、5〜6歳児が、小学5年生で学ぶ漢字を書いた子どもの例、高校へ入
ったとたん、無気力になってしまった子どもの例などが、書いてあった。

 その底流に見え隠れするのは、「塾必要悪論」、もしくは、「家庭教育不要論」。

結論は、「あわてて教育しても、無駄」と。

私はその記事を一読して、「これはいつの原稿か?」と、ライターの常識というよりは、年
齢を疑った。
今から25年ほど前の原稿というのなら、まだ話もわかる。
しかし今、どうしてこの時代に?

●親子のふれあい

 たまたま先月、私は、「ママターナル・デプリベイション(Maternal Deprivation)(母
性愛欠乏)」についての原稿を書いた。

マターナル・デプリベイションというのは、「乳幼児期の母子関係の不全」をいう。
乳幼児期に、母子関係が不全だったりすると、それが後々、さまざまな症状の遠因となる
ことがある。
その一部を、転載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の
中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が
築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。
また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、
8〜10%はいる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の
症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。

その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、自分より弱い者をいじめたり、
自分より弱い立場にある動物を、虐待したりするようになる。

さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。

もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デプリベイション
が原因というわけではない。
その疑いがあると、私が思うだけの話である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●早期教育

 雑誌「AERA」では、「親子のふれあいこそ大切」と書いている。
しかしそんなことは、今では、常識。
常識中の常識。
が、それはここにも書いたように、「マターナル・デプリベイション」という分野で、考え
られるべき問題。

が、どうしてそれが、「早期教育」と結びつくのか?
「早期教育不要論」と結びつくのか?

 要するにAERAのライターは、「無理な早期教育の結果、親子のふれあいが犠牲になる」
と言いたいのだろう。
が、ここでライターは、巧みに言葉のトリックを使っている。
(あるいは、「早期教育」の意味さえ、知らないのでは?
「先取り教育」と「早期教育」を混同している?)
何も文字の「読み書き」だけが、早期教育ではない。
また早期教育をしたからといって、親子関係が破壊されるというものでもない。

 AERAでは、無理に進学塾へ通わされた子どもの例や、目的の学校へ入学したとたん、
無気力になってしまった子どもの例などをあげている。
そしてその上で、「臨界期なるものは、科学的に証明されたものではない」と。

 ?????

 ライターは、自説を補強するため、20年前、40年前の資料を、(〜〜教授)などと実
名を添えて、並べている。
こうした手法は、多くのライターが使う。
自説に不安を感じたとき、権威者の名を借りて、それを補強する。
それにしても古すぎる!

 が、「臨界期」はある。
また臨界期をはずすと、人間は人間でなくなってしまうこともある。
その一例が、「野生児」である。
インドで1920年代に見つかったオオカミ姉妹にしても、同じころフランスで見つかっ
た、ビクトールという少年にしても、それ以後、人間生活に復帰することはなかった。
言葉すら、覚えなかった。
人間らしい人間の心を取り戻すこともなかった。

 もっと簡単な例で言えば、小学校へ入学してから、音楽教育をほどこしても、そこそこ
の才能を見せるようになることはあっても、そこまで。
あえて言うなら、「読み書き」(=国語能力)について言えば、親子のふれあいというより
は、母親の言語能力が子どもに大きな影響を与える。
母親が、「ホラホラ、バスバス、ハンカチ、もった?」というような話し方を日常的にして
いて、どうして子どもに国語力がつくというのか。
こういうとき母親は、子どもには、こう言う。

「もうすぐ、お迎えのバスが来ます。あなたはハンカチをもっていますか」と。
つまりこれが、わかりやすく言えば、「早期教育」である。

 AERAは、5〜6歳の子どもが、小学5年生で習う漢字を書いている例をあげている。
が、私は、40年近く幼児と接しているが、そんな子どもを見たことがない!
もしいるとしたら、自閉症(アスペルガー)の子どもということになる。
このタイプの子どもは、ある特定のことがらに、ふつうでない(こだわり)をもつことが
ある。

●小学校で消失?

 「計算力」と「算数の力」は、別。
計算力は、訓練で身につく。
しかし算数の力は、簡単には身につかない。
生活環境やその子どもの知的能力が、大きく影響する。

 同じように、「読み書き」と「国語の力」は、別。
読み書きは、訓練で身につく。
しかし国語の力は、簡単には身につかない。
生活環境やその子どもの知的能力が、大きく影響する。
ともに「思考力」の問題ということになる。

 その「思考力」を養うのに、早すぎるということはない。
乳幼児期でも、早すぎるということはない。

 が、AERAは、(読み書き)を例にあげ、そうした力は、小学校で消失する、と。
だから「早期教育は不要」と。
バカバカしいというか(失礼!)、反論するのも、疲れる。

●過熱する幼児教育

 少子化の問題もある。
それもあって、たしかに幼児教育が加熱している。
しかし問題は、なぜ加熱しているかということ。
その背景にまで、メスを入れないと、この問題は解決しない。
「早期教育は無駄」と、ハシゴをはずすのは簡単。
しかしハシゴをはずされた親たちは、どうすればよいのか。
どこへ向かえばよいのか。
それを書いてこそ、「さすがAERA!」ということになる。
まことにもって、無責任というか、乱暴なコラムということになる。

 もっとも朝日新聞社(AERAの出版元)の「塾必要悪論」は、今に始まったものでは
ない。
私が37歳前後のことだったから、今から25年ほど前ということになる。
朝日新聞は、連日、「塾必要悪論」を展開していた。
が、そのときすでに、「塾で勉強した子どもは、学校での勉強をつまらなく思う」というよ
うな意見はあった。
教職員の間から、さかんにそういう意見が出てきた。
が、当のライターは、その時代から、一歩も進歩していない。
(使っている資料を見ても、それがよくわかる。)

 しかし、時代は変わった。
教え方も変わった。
親たちの意識も変わった。
今時、泣いていやがる子どもを、(幼児でもよいが)、無理矢理塾通いさせる親はいない。
またそんな教え方をしている塾は、ない。
さらに言えば、学校の勉強をつまらなくさせるように教えている塾は、ない。
ライターは、自分が受けた古い教育(=古傷)を原点に、自説を、自分流に料理している
だけ。
私はAERAの記事を読んだとき、「辛かった。お母さんにはいやだとは言えずに我慢して
いた。幼稚園の友達と、もっと遊びたかった。中学受験なんて必要なかった」と言った少
女は、ライター自身のことではないかと疑った。

●反響

 世界の教育は自由化に向けて、まっしぐらに進んでいる。
アメリカのホームスクール、カナダの学校設立自由化、EUのクラブ制(塾制)などなど。
EUでは、大学の単位すら共通化された。
私が学んだオーストラリアのメルボルン大学では、40年も前から、世界の大学と単位交
換をしていた。

 二男は、アメリカの私立大学で2年学んだあと、州立大学へ移籍。
しばらく民間企業に勤めたあと、現在はI大学(アメリカ)で、CERNのコンピュータ
技師として仕事をしている。
また二男の嫁は、文学部出身だが、主婦業をするかたわら、司法試験に合格。
現在はロースクールに席を置いている。

 これを「自由化」という。
世界の若者たちは、自分の力とやる気に応じて、好き勝手なことをしている。
わかるかな、AERAさん?
そういう環境作りをする。
それを「自由化」という。
私たち日本人も、そういう世界を目指す。

 話が脱線したが、「読み書き」や、極端な例を取り上げ、「早期教育は小学校で消失」と
いう意見は、まことにもって、暴論。
暴論というよりは、無知。
もしそうだとするなら、幼児教育とは何かということになってしまう。

 で、最後に「早期教育」について。

もちろんまだ未熟で不完全かもしれないが、その重要性は、年々、さらに大きく高まって
きている。
脳科学の発達とともに、(近年、急速に発達しているが)、早期教育がどうあるべきか、そ
の道筋も示されつつある。

繰り返すが、今時、「読み書き」?
日本人に与える影響の大きい雑誌だけに、残念。
これからも、AERAのコラムをテーマに、この問題について、書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 AERA アエラ 早期教育は小学校で消失 早期教育無用論)

【補足】

++++++++++++++++++

数日前に書いた原稿を、添付する。

++++++++++++++++++

●早期教育効果は小学生で消える(?)「AERAの記事に、疑問あり!」(改訂版)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

こんな記事が、AERAという雑誌に載っていた。
いわく「早期教育効果は、小学生で消える」と。

つづいて、
「……小学校入学前に読み書きを習得する子どもは多い。その風潮に警鐘を
鳴らす研究が報告されている。本質的な学力を決めるのは親子関係だという」と。

しかしこの原稿には、いくつかの言葉のトリックがある。
その第一、「早期教育」を、「読み書き」にすり替えている。

たしかに「読み書き」については、その効果は「小学校で消える」。
たとえば計算力にしても、幼児期に速くできるようになったからといって、
それがそのまま「数の力」に結びつくとはかぎらない。

よい例が、幼稚園によっては、かけ算の九九を暗唱させているところがある。
が、九九が言えるようになったからといって、「算数の力」が身についた
ということには、ならない。

が、こんなことは常識。
その常識を、逆手に取って、「小学生で消える」とは?

さらに言えば、消えたところで、無駄とは言い切れない。
その上に、さらに新しい知識を組みあげていく子どももいる。
(そうでない子どもも、もちろんいるが……。)

あえて言えば、「早期教育」と言っても、「知識教育」から離れ、最近では「考える子ども」
にするのが、ひとつのテーマになってきている。
ごく最近では、「Active Learning」という言葉も使われるようになった。
「ものごとに積極的に取り組む子どもにするための指導」という意味である。

「文字の読み書き」ではない!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++

●読み書き

 「読み書き」をもって、早期教育と位置づける。
「だから、早い時期から学んでも、意味がない」と。
この原稿の最大のミスは、ここにある。
つまりこの原稿を書いた人は、「幼児教育」というのが、何であるか、よくわかっていない。
「早期教育」、さらには「先取り教育」の意味もよくわかっていない。
さらに最近話題になっている、「臨界期」という言葉も、知らない?

 たとえば、こんなことも書いてある。

「また、別の研究でも、漢字の習得では、早期教育を受けなかった子どもとの差は小学校
2年生ごろに消滅し、むしろ国語嫌いは早期教育を受けた子に多かったということもわか
っている(黒田実郎、「保育研究」)」(AERA)と。

(しかしこの資料も、調べてみたところ、1969年「日本保育学会」「就学前の幼児の恐
怖」の中に収録されているものとわかった。
1969年といえば、40年以上も前!
大阪万博の前の年の資料!)

 それはさておき、それはその通り。
無理な文字指導が、子どもを文字嫌いにするという例は、多い。
その(文字嫌い)が悪循環となって、子どもを(国語)から、遠ざける。
たとえば年中児でも、「名前を書いてごらん」と声をかけただけで、体をこわばらせる子ど
もは、いくらでもいる。
中には涙ぐむ子どもさえいる。
文字に対して恐怖心をもっているためである。

 こんなことは、少し幼児に接してみれば、だれにでもわかること。
また幼児に接した経験のある人なら、だれでも知っている。
それを、ことさら学者名まで出して強調するところが、わざとらしい。

 逆に、世界広しといえども、幼児期の幼稚園教育で、文字の読み書きを教えないのは、
この日本だけ。
そういう事実をさておいて、あたかも「幼児期に、文字教育は必要なし」というような印
象を与えるのは、どうか。
誤解というより、偏見。

 そして「文字教育」を例にあげながら、「幼児期には何もしないほうがいい」というよう
な印象を読者に与える。

こうした論法には、「?」マークを10個くらい、並べたい。
大切なことは、「教える」ではなく、「文字の読み書きは楽しい」ということを教えること。
それが幼児教育。
またそれが重要!

●偏見

 さらに……。

「……早期教育熱はやがて中学受験熱に変わる。Aさんの長女は、過酷な競争を勝ち抜き
都内の難関の中高一貫進学校への入学を果たしたが、その後勉強熱が急速に冷めてしまっ
た。競争の激しい進学校で成績は伸びず、大学受験は苦労した。

 有名中学に合格し、張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れてしまったかのように、そ
の後の成績が伸び悩む例は多い。子どものストレスは早期教育で終わらない。小学校に入
れば塾通い、中学受験、それが終わっても大学受験と、常に急き立てられていく」(AER
A)と。

 これを読んだときには、ア然とした。
このライターは、「燃え尽き症候群」「荷下ろし症候群」という言葉さえ、知らない?
そんな印象すらもった。

 たしかにこのタイプの子どもは、多い。
浜松市内の進学高校でも、高校入学と同時に、約20%の子どもが、燃え尽きる。
そのため無気力になったり、怠学に陥ったりする。
それはそれだが、だからといって、みながみな、そうなるわけではない。
何も受験競争の肩をもつわけではないが、「だから教育は無駄」式の論法には、首をかしげ
る。

 つまりここでも、「受験競争」と「早期教育」を、言葉のトリックを使ってすりかえ、読
者を煙に巻いている。

●親子のかかわり

 幼児教育の第一は、「親子のかかわり」で始まる。
またそれで終わる。
その重要性は、基本的信頼関係に始まって、心の育成などなど、今さらあえて説くまでも
ない。
が、ここでも、このライターは、言葉のトリックを使っている。
つぎの文章を、よく読んでほしい。

 「……長男は文字をほとんど書けないまま小学校に入学した。入学後、近所の5歳の女
の子が持っていた「お勉強ノート」を見て圧倒された。画数の多い小学校中学年向けの漢
字がびっしりとノートのマスを埋めていた。入学後も、わが子がカタカナに四苦八苦する
傍らで「5年生の漢字が書けるよ」「九九できるよ」と豪語する級友の存在を知り、長男が
勉強についていけるか心配になった。

 しかし、お茶の水女子大学の内田伸子教授(発達心理学)は、文字の読み書きなどの早
期教育に批判的だ。内田教授は昨年秋の東アジア学術交流会議で「幼児のリテラシー習得
に及ぼす社会文化的要因の影響」調査を発表した」(AERAより)と。

 ある親は、ほかの子どもが、スラスラと漢字を書いている子どもを見て、ショックを受
けたという。

(5〜6歳の子どもが、5年生の漢字を書く?
しかし私は幼児教育を40年もしているが、そんな子どもを見たことがない!
本をスラスラと読む子どもはいたが、漢字を書いた子どもは知らない。
もし本当にいるとするなら、心に何らかの障害をもった子どもということになる。
その子どもがそうというわけではないが、たとえば自閉症の子どもは、ある特定のことが
らに、ふつうでない(こだわり)を示すことがある。
全国の駅名を暗記する、どんな音楽でも一小節を聞いただけで、曲名を当てる、など。
5歳児が、5年生の漢字を書くというのは、おおげさというか、きわめてマレなケース。)

 つまりそういうトンデモナイ例を引きながら、その一方で自分の原稿に権威付けをする
ため、大学の教授名を並べる。
いわく、「……すでに内田教授は20年以上前に実施した調査で、3、4歳で文字を習得し
ている子と、習得していない子との差は、小学校入学後に急速に縮まり、1年生の9月に
は両者の差は消えてしまうということを指摘してきた」と。

 (この資料も、20年前の資料!)

●過熱する幼児教育?

 早期教育というと、文字教育と考える。
早計というか、無知。
無知というか、誤解。
あるいは偏見。
私も「文字」をテーマに、レッスンを進めることは多い。
しかし「文字を教えよう」という気持ちは、さらさらない。
先にも書いたように、「文字は楽しい」ということは、教える。
もっと言えば、子どもたちを、楽しませる。
「文字は楽しい」という思いが、良循環となって、その子どもを前向きに引っ張っていく。
それが幼児教育。
その重要性は、ここに改めて書くまでもない。

 それをさておいて、「子どもには、必要な栄養食品だけを与えておけばいい」
「料理は無駄」と。
さらに言えば、こんなことも言える。
「大学へ入っても、無駄。人生の結論は、死ぬときの死に際の様子で決まる」と。
どこかのカルト教団が、信者たちにさかんに説いている言葉である。
このライターの(おかしさ)は、その一点に集約される。

●不適切な指導

 このライターの意見によるまでもなく、不適切な指導で、伸びる芽すら摘まれていく子
どもは、多い。
たとえばここでは「読み書き」がひとつのテーマになっている。
実のところ私の二男もそうだった。

 私の二男は、生まれつき、左利き。
私たち夫婦は、自然の流れに任せた。
が、小学校へ入学して一変した。
学校の先生から、「文字は右手で書かせてください」と。
担任の先生が、書道の先生であったことも、災いした。

 毎晩、二男は泣きながらノートに漢字を書いていた。
鏡文字はもちろんのこと、書き順もめちゃめちゃ。
で、1年もたったころ、私は学校の先生に向かって、こう宣言した。
「息子は、左利きで通します。無理な指導は結構です」と。

 それに対して先生は、こう反論してきた。

「冷蔵庫でも、何でも、右利き用にできています。
不便を感ずるのは、あなたのお子さんですよ」と。

 が、さらに私は反論した。
「そんなことは、慣れれば何でもないことです!」と。

 そういう問題はある。
あるが、一方的に、「消滅するから無駄」という論法には、かなり強い違和感を覚える。

●針小棒大論

 受験塾の受験競争には、私も批判的。
擁護したことは、一度もない。
しかしそれは「学習」という面からではなく、「心の育成」という面から、問題にしてきた。
またそのような趣旨で、原稿を書いてきた。

 それをストレス説と結びつけて、「子どもの教育はストレスにつながる」と一方的に決め
つけている。
さらにいつの論文かは知らないが、「脳神経学的に胎児期や乳幼児期の早期教育の有効性を
正当化する科学的根拠はないとしている」(お茶の水女子大学の榊原洋一教授は、著書『子
どもの脳の発達臨界期・敏感期』)と。

 だったら、「野生児」の問題など、なかったはず!
ある時期、親子のふれあいのなかった子どもが、どうなるか?
野生児と呼ばれた子どもを知っていれば、こんな意見は出てこないはず。
「科学的根拠」というが、その研究は、今、始まったばかり。
「臨界期」という言葉が、再びクローズアップされてきたのは、ここ数年のこと。

 そこでこの本(『子どもの脳の発達臨界期・敏感期』)の発行年月日を調べてみたら、2
004年とわかった。
6年前!
現在は、廃刊になっている。
当時は「科学的に」は、無理だったかもしれない。
が、ここ数年の、脳科学の進歩には、著しいものがある。
脳の中の動きを、リアルタイムで観察することもできるようになった。

●「塾通いは悪」という偏見

 このライターは、世界の潮流というものを、知らないらしい。
EUでは、むしろ逆に、学校教育より、クラブ制のほうに、教育の重点を移動している。
子どもたちがそれぞれ放課後、好き勝手なクラブに通い、好き勝手なことをしている。
たとえばドイツでは、中学校では単位制を導入し、午後はみな、それぞれのクラブに通っ
ている。

 その費用は、チャイルドマネーとして、満27歳になるまで、一律に支給されている。
額は1万5000円前後。
クラブの月謝が、1000円程度だから、その額だけで、約15のクラブに通えることに
なる。
学校の内部にクラブがあることもある。
日本がこの先めざすべき教育は、むしろ、そちらのほうではないのか。
10年一律というか、AERA(朝日新聞社)のばあいは、30年一律のごとく、「塾、必
要悪論」を展開している。

 そこには、「学校や幼稚園でやることは問題なし」という、ぬぐいがたい偏見すら覚える。
が、事実は逆で、むしろ「民活」、つまり民間の活力を利用したほうが、よい面も多い。
たとえば英会話にしても、民間に任せた方が、ずっとよい教育をする。
実際に、よい教育をしている。

 それに第一、今時、泣きながらいやがっている子どもを、無理に塾へ通わせる親は、い・
な・い!
いったいこの話も、何年前の話かと、聞きたくなる。
(20〜30年前には、こういう話はよく耳にしたが……。)

その部分を、ここに転載させてもらう。

「…… Aさんの長女は、大学入学後に幼い頃の塾通いについて、
「辛かった。お母さんにはいやだとは言えずに我慢していた。幼稚園の友達と、もっと遊
びたかった。中学受験なんて必要なかった」
 と涙を溢れさせながら訴えた」(AERAより)と。

 このライターは、自説の偏見を補強するため、ペタペタとあちこちの悪例を張りつけて
いる。
わかるかな?

●塾で勉強したら……?

 さらにAERAの記事は、つづく。

「日本には飛び級制度はないし、習熟度別クラスも少ない。塾などで勉強したことを学校
で「復習」する状態が常に続くと、学校での勉強がつまらなくなる」(AERAより)と。

 ヘエ〜〜?

 今時、こんなことを書くライターがいること自体、信じられない。
学校第一主義というか、学校神話信仰者というか。
つい先日、韓国で発表された調査結果をもう一度、ここにあげてみる。

●居眠りする高校生たち

(授業中、居眠りをしている高校生)

居眠りについて、「普通の行動」、または「たびたびおこなっている行動」

    日本人    45.1%    
    韓国人    32.3%
    アメリカ   20.8%
    中国      4.7%

 「学校の勉強がつまらない」のは、塾で先取り教育をしているからではない。
構造的な問題。
つまり公教育がかかえる構造的な問題に起因する。
これは高校生についての調査だが、中学校でも似たような現象が起きている。
小学校でも似たような現象が起きている。

また「塾」といっても、今時、このライターが書いているような授業をしていたら、生徒
など、1人も集まらないだろう。
たとえて言うなら、「まずい料理を並べるレストラン」のようなもの。
それを「食べろ!」と押しつけても、今時の子どもは、食べない。
親だって、食べさせない。

●結論

 また動き盛りの子どもを、無理に机にしばりつけ、「読み書き」を教えれば、ストレスが
たまるに決まっている。
体や心が変調をきたすのも、当然。
あえて「尿検査」をするまでもなく、子どもたちの表情を見れば、それがわかる。
「教育」というのは、そういうもの。
子どもの表情と様子を見て、判断する。

それを「……1997年に幼稚園児の尿を採取してストレス値を比較したところ、早期教
育を受けている幼児は、受けていない幼児に比べてストレスが高かった」と。

1997年当時といえば、「早期教育」の定義も、まだあいまいだったはず。
またそのころから、不登校児が急増し、不登校が社会問題化した。
が、その一方で、水泳教室、書道など、おけいこ塾へ通っていない子どもなど、いなかっ
たはず。
都会地域では、ほぼ100%。
地方の農村地帯でも、70%。
(この数字は記憶によるものなので、不正確。)

 ここでも「読み書き」と「早期教育」を混同させるという、言葉のトリックを使ってい
る。
さらに言えば、ライターの思いこみを(柱)にし、あちこちから寄せ集め的に、古い資料
をペタペタと張りつけている。

 で、問題があるとするなら、なぜ親たちが、こうまで過熱するのか。
(過熱しているなら、という前提だが……。)
その中まで、メスを入れる必要がある。
またそういう視点で、この問題を切り込んでほしい。
またメスを入れてこそ、「さずがAERA!」ということになる。
こうした記事を書くことによって、どういう問題が、どう解決するとういうのか?
ハシゴをはずすのは、簡単なこと。
「では、どうすればいいのか?」。

 親たちは、この日本にはびこる不平等性を、いやというほど、毎日見聞きしている。
人生の入り口で幸運に恵まれた人は、生涯、恵まれた生活を楽しむことができる。
そうでない人は、そうでない。
「受験」がその関門になっていることは、だれの目にも明らか。
親たちは日常的に、(あせり)と、(不安)を感じている。
そういう事実をさておいて、「読み書き」を「早期教育」にすりかえて、「早期教育は危険」
と警鐘(?)を鳴らす。

 AERAが書くべきことがあるとすれば、「では、どうすればよいか」ということ。
「幼児をどう楽しく指導すればよいか」ということ。
ものごとは、後ろ向きに考えるのではなく、前向きに考える。
 

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●田丸謙二先生

 昨日、田丸先生について原稿を書いた。
それを先生に送ると、返事が届いていた。

(私は先生についての原稿を書いたときには、
発表する前に、かならず、先生に前もって
原稿を届けるようにしている。
当然のこととして……。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

林様: メール有り難うございました。私のホームページに短く書き足しました。 「八
十を過ぎて…」の項の最後にです。何時お迎えが来るか、です。 
田丸謙二

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●先生のhpより

 『齢が八十を超えて来ると、何時お迎えが来る
かが気になります。いくら考えても分かる話ではない
のですが、遅かれ早かれ遠からずに何時かは寿命
が来ることは明らかなことです。それだけに自分の死
に対処することも気になりますし、死んだあとに後継
ぎの人たちが困らないように気を配ることにもなりま
す。やらなければいけないことはできるだけ翌日に
伸ばすことは避けなければという意味で気が短くセッ
カチにもなるわけです。自分の身体のどこかが痛ん
だりしても、いよいよ来たかとか、何かの前兆ではな
いかと気にもなるわけです。携帯電話には救急車を
呼ぶ番号、病院やタクシイのも入れておきます。よろ
け易くなっているだけにその注意も肝要です。一日一
日無事に過ぎるだけでも、毎日が感謝で満ちるように
もなるわけです。本当に有難いことです。
(2010年4月18日: 86歳)』

 何度も読んでいると、先生の一言一句が、そのまま私の
人生観の骨になっていく。
私にとって、田丸謙二先生というのは、そういう人である。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 5月 24日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【夫婦喧嘩】

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C県のXさん(妻)より、夫婦喧嘩
についての相談をもらった。

メールの転載については、「不許可」という
ことなので、一般論として、それについて
書いた原稿をさがしてみた。

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●DV(ドメステック・バイロレンス)

【ドメスティック・バイオレンス】

++++++++++++++++++++

家庭内暴力、称して、「ドメスティック・バイオレンス」。
略して、「DV」。

「配偶者(たいていは夫)、もしくは、恋人からの暴力」
をいう。

++++++++++++++++++++

●夫婦喧嘩のリズム

 周期的に夫婦喧嘩を繰りかえす人がいる。(私たち夫婦も、そうだが……。)その夫婦喧
嘩には、一定のリズムがあることがわかる。【安定期】→【緊張期】→【爆発期】→【反省
期】というパターンで、繰りかえされる。

【安定期】

 夫婦として、何ごともなく、淡々とすぎていく。朝起きると、夫がそこにいて、妻がそ
こにいる。それぞれが自分の持ち場で、自分勝手なことをしている。日々は平穏に過ぎ、
昨日のまま、今日となり、今日のまま、明日となる。

【緊張期】

 たがいの間に、おかしな、不協和音が流れ始める。夫は妻に不満を覚える。妻も、夫に
不満を覚える。忍耐と寛容。それが交互にたがいを襲う。何か物足りない。何かぎこちな
い。会話をしていても、どこかトゲトゲしい……。ピリピリとした雰囲気になる。

【爆発期】

 ささいなことがきっかけで、どちらか一方が、爆発する。相手の言葉尻をつかまえて、
口論になったり、言い争いになったりする。それが一気に加速し、爆発する。それまでの
鬱積(うっせき)した不満が、口をついて出てくる。はげしい口答え。もしくは無視、無
言。

【反省期】

 爆発が一巡すると、やがて、反省期を迎える。自分の愚かさを、たがいにわびたり、謝
ったりする。が、それも終わると、今度は反対に、相手に、いとおしさを覚えたりする。
たがいに安定期より、深い愛情を感ずることもある。心はどこか落ち着かないが、「これで
いいのだ」と、たがいに納得する。

 これが夫婦喧嘩のリズムだが、そのうちの【爆発期】に、どのような様相を示すかで、
それがただ単なる夫婦喧嘩で終わるのか、DV(ドメスティック・バイオレンス)になる
かが、決まる。

●ドメスティック・バイオレンス

 東京都生活文化局の調査によれば、

   精神的暴力を(夫から)受けたことがある人……55・9%
   身体的暴力を(夫から)受けたことがある人……33%、ということだそうだ。
 (1997年、女性からの有効回答者数、1553人の調査結果)

 DVの特徴は、大きくわけて、つぎの2つがあるとされる(渋谷昌三・心理学用語)。

(1)非挑発性……ふつうならば攻撃性を誘発することのないことに対して、攻撃性を感
ずること(同書)。
(2)非機能性……攻撃しても、何の問題解決にもならないこと(同書)と。

 わかりやすく言うと、DVが、ふつうの夫婦喧嘩と異なる点は、攻撃される側にしてみ
れば、夫が、どうして急に激怒するか、その理由さえわからないということ。またそうし
て夫が激怒したからといって、問題は何も解決しないということ。もともと、何か具体的
な問題があって、夫が激怒するわけではないからである。

 ではなぜ、夫は、理由もなく(?)、急激に暴力行為におよぶのか。

 私は、その根底に、夫側に自己嫌悪感があるからではないかとみている。つまり妻側に
何か問題があるから、夫が暴力をふるうというよりは、夫側が、はげしい自己嫌悪におち
いり、その自己嫌悪感を攻撃的に解消しようとして、夫は、妻に対して、暴力行為におよ
ぶ。(もちろんその逆、つまり妻が夫に暴力をふるうケースもあるが……。)

 ただ暴力といっても、身体的暴力にかぎらない。心理的暴力、経済的暴力、性的暴力、
子どもを利用した暴力、強要・脅迫・威嚇、否認、責任転嫁、社会的隔離などもある(か
ながわ女性センター)。

 アメリカの臨床心理学者のウォーカーは、妻に暴力をふるう夫の特徴として、つぎの4
つをあげている(同書)。

(1)自己評価が低い
(2)男性至上主義者である
(3)病的なほど嫉妬深い
(4)自分のストレス解消のため、妻を虐待する、と。

 これら4つを総合すると、(夫の自己嫌悪)→(自己管理能力の欠落)→(暴力)という
構図が浮かびあがってくる。

 実は私も、ときどき、はげしい自己嫌悪におちいるときがある。自分がいやになる。自
分のしていることが、たまらなくつまらなく思えてくる。ウォーカーがいうところの、「自
己評価」が、限りなく低くなる。

 そういうとき、その嫌悪感を代償的に解消しようとする力が、働く。俗にいう『八つ当
たり』である。その八つ当たりが、一番身近にいる、妻に向く。それがDVということに
なる。

 が、それだけではない。その瞬間、自分自身の問題をタナにあげて、妻側に完ぺき性を
求めることもある。自分に対する、絶対的な忠誠と徹底的な服従性。それを求めきれない
と知り、あるいはそれを求めるため、妻に対して暴力をふるう。

 こうした暴力行為は、本来なら、その夫自身がもつ自己管理能力によってコントロール
されるものである。自己管理能力が強い人は、自分を管理しながら、そうした暴力が理不
尽なものであることを知る。が、それが弱い人や、そうした暴力行為を、日常的な行為と
して見て育った人は、そのまま妻に暴力をふるう。

 マザコンタイプの夫ほど妻に暴力をふるいやすいというのは、それだけ、妻に、(女とし
ての理想像)を求めやすいということがある。

 で、自己管理能力を弱くするものとしては、その人自身の精神的欠陥、情緒的未熟性、
あるいは、慢性化したストレス、精神的疾患などが考えられる。うつ病(もしくはうつ病
タイプ)の夫が、突発的にキレた状態になり、妻に暴力をふるうというケースは、よく知
られている。

●対処方法

 妻側の対処方法としては、(あくまでも通常の夫婦喧嘩のワクを超えているばあいだが)、
その雰囲気を事前に察したら、

(1)逆らわない
(2)口答えしない
(3)「すみません」「ごめんなさい」と言って逃げる、に尽きる。

 決して口答えしたり、反論したり、言い訳をしてはいけない。夫が心の病気におかされ
ていると考え、ただひたすら、「すみません」「ごめんなさい」を繰りかえす。この段階で、
反論したりすると、それが瞬時に、夫側を激怒させ、暴力につながる。

 で、DVも、冒頭に書いたように、4つのパターンを繰りかえしながら起きるとされて
いる。(学者によっては、【緊張期】→【爆発期】→【反省期】の3相に分けて考える人も
いる。)つまりその緊張期に、どうそれを知り、どう夫をコントロールするかが重要という
こと。

 方法としては、気分転換ということになる。要するに、「内」にこもらないということ。
サークル活動をするのもよし、旅行をするのもよし。とくにこのタイプの夫婦は、たがい
に見つめあってはいけない。たがいに前だけを見て、前に進む。

 ただこの世界には、「共依存」(注※)というのもある。暴力を繰りかえす夫。それに耐
える妻。その両者の間に、おかしな共依存関係ができることもある。

 ここでいう【反省期】に、夫が、ふだん以上に妻にやさしくする。一方、やさしくされ
る妻は、「それが夫の本当の姿」と思いこんでしまう。こうしてますますたがいに、依存し
あうようになる。夫の暴力を、許容してしまうようになる。

 DVは、夫婦という、本来は、何人も割って入れない世界の問題であるだけに、対処の
しかたがむずかしい。今では、DVに対する理解も進み、また各地に、相談窓口もふえて
きた。

 この問題だけは、決してひとりでは悩んではいけない。もし夫の暴力が、耐え難いもの
であれば、そういう相談窓口に相談してみるのもよい。

なおこの日本では、『配偶者からの暴力の防止および被害者の保護に関する法律』も、20
01年度から施行されている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
DV ドメスティック・バイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力 暴力行為 ドメスティックバイオレン
ス (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 夫婦喧嘩 共依存 共依存関係 自己嫌悪 夫婦喧サ
イクル論)


++++++++++++++++

共依存について書いた原稿を
添付します。

++++++++++++++++

注※……共依存

依存症にも、いろいろある。よく知られているのが、アルコール依存症や、
パチンコ依存症など。

もちろん、人間が人間に依存することもある。さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。

しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。それを「共依存」という。典型的
な例としては、つぎのようなものがある。

夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。仕事はしない。何かいやなことがあると、妻に
怒鳴り散らす。しかし決定的なところまでは、しない。妻の寛容度の限界をよく知ってい
て、その寸前でやめる。(それ以上すれば、本当に、妻は家を出ていってしまう。)

それに、いつも、暴力を振るっているのではない。日ごろは、やさしい夫といった感じ。
サービス精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。お前のようないい女房をもちながら、
苦労ばかりかけている」と、謝ったりする。

一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。私は、この人には必要なのだ。
だからこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と、夫の世話をする。

こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうをみ
ることで、依存する。

ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。そして夜、遅く帰ってくる。子どもは
いない。その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。そして仕事から帰
ってくるときは、必ず、夕食の材料を買って帰るという。

それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバイ
スした。しかしその妻には、聞く耳がなかった。そうすることが、妻の努めと思いこんで
いるようなところがあった。

つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。本来なら、夫に、依
存性をもたせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫にさせるとい
ったことが必要だった。当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。

が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。夫は、自分から離れて
いってしまうかもしれない。そんな不安感があった。だから無意識のうちにも、妻は、夫
に、依存心をもたせ、自分の立場を守っていた。

ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に大
きなキズを負うことが知られている。「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったというこ
とで、アダルト・チェルドレンになる可能性が高くなるという」(松原達哉「臨床心理学」
ナツメ社)。

「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えます。
このような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられるのでは
ないかという不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特徴があり
ます。

子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかりの
よさを見につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『アダル
ト・チェルドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。

ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルト・チェルドレン
依存症とも考えられなくはない。もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルト・チェルドレンにな
るわけではない。ほかにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄などによっ
ても、ここでいうような症状は現れる。

で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか……
という疑問をもつ人がいるかもしれない。

理由は、簡単。このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠牲
心、貢献心、服従性を、そのつど、確認しているのである。

一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしている。
世間的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。だからますます、夫に依存
するようになる。

こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。これが「共依存」
であるが、しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。

親子、兄弟の間でも、生まれやすい。他人との関係においても、生まれやすい。

生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、息
子)。親子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。わざ
と、弱々しい母親を演じてみせるなど。

娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、先
週買ってきた、イモを食べているから……」と。

その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依存
していたことになる。こういう例は多い。

息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せってみ
せたりするなど。前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとスタス
タと歩いている自分の母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。
その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかまり
ながら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。その同じ母親が、その翌日には、
友人たちとスタスタと歩いていた!

その女性は、つぎのようなメールをくれた。

「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」
と。

いわゆる自立できない親は、そこまでする。「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題で
はない。言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンといる。
決して珍しくない。

で、その先は……。

今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、子
ども自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例である。

そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを想
像するが、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。むしろ、女児、女性の
マザコンのほうが、男性のそれより、強烈であることが知られている。

女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。母と成人した息子がいっし
ょに風呂に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風呂に入っても、それほ
ど、話題にはならない。

こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。

このつづきは、また別の機会に考えてみたい。

(はやし浩司 共依存 アダルトチェルドレン アダルト チェルドレン 依存性
 マザコン 女性のマザコン 自立 自立できない子供 相互依存 はやし浩司 DV
 夫の暴力 ドメスティックバイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力行為 ドメスチック
 バイオレンス)

+++++++++++++++++++++

DVとは関係ありませんが、
人間関係の複雑さを教えてくれるのが、
つぎの人からのメールです。

参考までに……。

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【親子の確執】

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現在、東京都F市にお住まいの、NEさんという
方から、親子の問題についてのメールをいただき
ました。

転載を許可していただけましたので、みなさんに
紹介します。

このメールの中でのポイントは、2つあります。

子離れできない、未熟な母親。
家族自我群の束縛に苦しむ娘、です。

旧来型の親意識をもつ、親と、人間的な解放を
求める娘。この両者が、真正面からぶつかって
いるのがわかります。

NEさんの事例は、私たちが、子どもに対して、
どういう親であるべきか、それを示唆しているように
思います。

みなさんといっしょに、NEさんの問題を
考えてみましょう。

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【NEより、はやし浩司へ】

はやし浩司さま

突然のメールで、失礼します。
暑いですが、いかがお過ごしですか?

今回のメールは、悩み相談の形をとってはいますが、ただ単に自分の気持ちを整理するた

に書いているものです。返信を求めているものではないので、どうかご安心ください。

結婚後、三重県S市で生活していた私たち夫婦は、主人が東京都の環境保護検査師採用試
験に合格したこともあり、今春から東京で生活することになりました。実は、そのことを
めぐって私の両親と大衝突しています。

嫁姑問題ならまだしも、実の親子関係でこじれて悩んでいるなんて、当事者以外にはなか
なか理解できない話かもしれません。このような身内の恥は、あまり誰にも相談もできま
せん。人生経験の浅い同年代の友人ではわからない部分も多いと感じ、人生の先輩である
方のご意見を聞かせていただけたら…(今すぐにということではなく、やはり問題解決に
至らなくて、どうにもならなくなったときに、いつか…)と思い、メールを出させていた
だきました。

まずはざっと話させていただきます。

事の発端は、私たち夫婦が東京に住むことになったことです。
表面上は…。

私の実家は、和歌山市にあります。夫の実家は、東京都のH市にあります。東京へ移る前
は、三重県のS市に住んでいました。

けれども、日頃積もり積もった不満が、たまたま今回爆発してしまったというほうが正確
なのかもしれません。

母は、私たちが三重県のS市を離れるとき、こう言いました。

「結婚後しばらくは三重県勤務だが、(私の実家のある)和歌山県の採用試験を受験しなお
すと言っていたではないか。都道府県どうしの検査師の交換制度に申し込んで、三重県か
ら和歌山県に移るとかして、いつかは和歌山市にくるチャンスがあれば…と、待っていた。
それがだめでも、三重県なら隣の県で、まあまあ近いからとあきらめて結婚を許した。そ
れが突然、東京に行くと聞いて驚いた。同居できなくてもいいが、できれば、親元近くに
いてほしかった。あなたに見棄てられたという気分だ」と。

親の不安と孤独を、あらためて痛感させられた一件でした。「いつか和歌山市にくるかもし
れない」というのは、あくまで両親の希望的観測であり、私たちが約束したことではあり
ません。母も体が丈夫なほうではないので、確かにその思いは強かったかも知れませんが
…。

ですので、いちいち明言化しなくても、娘なら両親の気持ちを察して、親元近くに住むの
が当然だろう、という思いが、母には強かったようです。

しかし、最初からどんな条件をクリアしようと、結婚に賛成だったかといえば疑問です。
昔風の理想像を、娘の私に押しつけるきらいがありました。

たとえ社会的地位や財産のある(彼らの基準でみて)申し分ない結婚相手であっても、相
手を自分たちの理想像に押し込めようとするのをやめない限り、いつかは結局、同様の問
題が噴き出していたと思うのです。

配偶者(夫)に対して、貧乏ゆすりが気に入らないだとか、食べ物の好き嫌いがあるのが
イヤだなどと…。配偶者(夫)と結婚したのか、親と結婚したのかわからないほど、結婚
当初は、親の顔色をうかがってばかりいました。両親の言い分を尊重しすぎて、つまらぬ
夫婦喧嘩に発展したこともしばしばありました。

いつまでも頑固に、私の夫を「気に入らない!」と、わだかまりを抱えているようでは、
近くに住んでもうまくいくとは思えません。両親にとって、娘という私の結婚は、越えら
れないハードルだったのかもしれませんね。

結婚後、実家を離れ、三重県で生活していても、「そんな田舎なんかに住んで」とバカにし
て電話の一本もくれませんでした。私が妊娠しても「誰が喜ぶと思ってるんだ」という調
子。結局、流産してしまったときも「私が言った(暴言)せいじゃない(←それはそうか
もしれませんが、ひどいことを言ってしまって謝るという気持ちがみられない)」と。

出産後も頼れるのは、夫の母親、つまり義母だけでした。実の母は「バカなあんたの子ど
もだから、バカにきまってる」「いまは紙おむつなんかあるからバカでも子育てできていい
ね」などなど。なんでそんなことまでいわれなければならないのかと、夢にまでうなされ
夜中に叫んで目がさめたこともしばしば…

そんな調子ですから、結婚後、実家にかえったことも、数えるほどしかありません。行く
たびに面とむかってさらに罵詈雑言を浴びせられ、必要以上に緊張してしまうことの繰り
返しです。

このまま三重県生活を続けていてもいいと考えたのですが、子どもが生まれると近くに親
兄弟の誰もいない土地での生活は大変な苦労の連続。私の実家のある和歌山市と、旦那の
実家のある東京のそれぞれに帰省するのも負担で、盆正月からずらして休みをとってやっ
と帰る…などをくりかえしていました。そのためお彼岸のお墓参りのときには、何もせず
に家にいるだけというふうでした。

さらに子どもの将来の進路・進学の選択肢の多さ少なさを比較すると、このまま三重県で
暮らしていていいのだろうかと思い、それで夫婦ではなしあった結果、今回思いきって旦
那が東京を受験しました。ただでさえ少子化の今の時代ですから、近くに義父母や親戚、
兄弟が住んでいる街で、多くの目や手に支えられた環境の中で子育てしていこう!、との
結論にいたったのでした。

このことについて実の母に相談をしませんでした。事後報告だったので、(といっても相談
なんてできるような関係ではなかったですし)、和歌山市の両親を激怒させたことは悪かっ
たとは思います。しかし、これが発端となり、母や父からも猛攻撃が始まりました。

「親孝行だなんて、東京に遠く離れて、一体何ができるっていうの? 調子いいこと言わ
ないで!」
「孫は無条件にかわいいだろうなんて、馬鹿にしないで! もう孫の写真なんか送ってこ
なくていいから」
「偽善者ぶって母の日に花なんかよこさないで!」
「言っとくけど東京人なんて世間の嫌われ者だからね」云々…。

電話は怖くて鳴っただけで体のふるえがとまらなくなり、いつ三重までおしかけてこられ
るかと恐怖でカーテンをしめきったまま、部屋にとじこもる日々でした。それでも子ども
をつれて散歩にいかなければならないと外出すれば、路上で和歌山の両親の車と同じ車種
の車とでくわしたりすると、足がすくんでうごけなくなってしまい、職場にいる主人に助
けをもとめて電話する…そんな日々がしばらく続きました。

いつしか『親棄て』などと感情的な言葉をあびせかけられ、話が大上段で感情的な応酬に
なってしまっています。親の気持ちも決して理解できないわけではないのですが…。

ふりかえると、両親も、夫婦仲が悪く、弟も進学・就職で家を離れ、私がまるで一人っ娘
状態となり、過剰な期待に圧迫されて共依存関係が強まり、「一卵性母娘」関係になりかけ
た時期がありました。

もしかするとその頃から、親子関係にほころびが生じてしまったのかもしれません。こち
らの言い分があっても、パラサイト生活の状態だったので、最後には「上げ膳据え膳の身
で、何を生意気言ってるの!」とピシャリ! 何も反論できませんでした。

親が憎いとか、断絶するとか、そんな気持ちはこちらにはないのです。実の親子なのです
から、ケンカしても、必ず関係修復できることはわかっています。でも、うまく距離がと
れず、ちょっと苦しくなってしまったというだけ。

「おまえは楽なほうに逃げるためにあんな男つれてきて、仕事もやめて田舎にひっこんで
結婚しようとしてるんだ」
「連中はこっちが金持ちだとおもってウハウハしてるんだ」
「人間はいつのまにか染まっていくもの。あんたもあんな汚らしい長家に住んでる人間た
ちと一緒になりたければ、出て行けばいい」などなどと、吐かれた暴言は、心にくいとな
ってつきささり、ひどく傷つきました。

結婚に反対され、家をとびだし一人暮らしを始めたのも、「このままの関係ではまずい」と
思ったことがきっかけでした。ついに一人ではそんな暴言の嵐を消化しきれず、旦那や義
父母に泣いてすがると、私の両親は「お前が何も言わなければ、そんなことあっちには伝
わらなかったのに。余計なことしゃべりやがって。あっちの親ばっかりたてて、自分の親
は責めてこきおろして…。よくもそんなに人バカにしてくれたね。もう私達の立場はない
じゃないか。親が地獄のような日々おくっているのに、自分だけが幸せになれるなんて思
うなよ」と。

そんな我が家の場合、もう一度、適切な親子の距離をとり直すために、もめるだけもめて、
これまでの膿を全部出し切っていくという、痛みをともなうプロセスを、避けて通れない
ようです。

本や雑誌で、家族や親子の問題を扱った記事を目にすると、子ども側だけが一方的に悪い
わけではないようだと知り安心するものの、それは所詮こじつけではないか?、と堂々巡
りに迷いこみ、訳がわからなくなってしまいます。

娘の幸せに嫉妬してしまう母、愛情が抑圧に転じてしまう親、アダルトチルドレン、
心理学用語でいう「癒着」、育ててもらった恩に縛られすぎて、自分の意思で生きていけな
い子ども…などなど。そんな事例もあるのだなーと飽くまで参考にする程度ですが、どこ
かしらあてはまる話には、共感させられることも多いです。

世間一般には、「スープの冷めない距離」に住むことが親孝行だとされています。私の母は、
「近所のだれそれさんはちゃんと親近くに住んでいる。いい子だね」という調子で、それ
にあてはまらない子は、「ヘンな子ね、いやだわ」で終わり。スープの冷めない距離に住め
なかった私は「親不孝者だ…」と己を責め、自分そのものを肯定できなくなることもあり
ます。

こんな親不孝者には、子育ても人間関係も仕事もうまくいくわけがないのだ。親を棄てて、
幸せだなんて自己満足で、いつか必ずしっぺ返しをくらって当然だ。父母の理想から外れ
た人生を選び、それによってますます彼らを傷つけている私に、存在価値なんてあるのだ
ろうか…などと。

子どもは24時間待ったなしで愛情もとめてすりよってきますが、東大に入れて外交官にし
て、おまけにプロのピアニスト&バイオリニストなどにでもしなければ、子育てを認めな
いような、かたよった価値観の両親のものさしを前に、無気力感でいっぱいになってしま
います。よってくる我が子をたきしめることもできずに、ただただ涙…そんな日々もあり
ます。

実はこの親子関係がらみの問題は、私の弟の問題でもあります。

彼は転職する際、両親と大衝突し、罵詈雑言の矛先が選択そのものにではなく、人格にま
で向けられたことに対して、相当トラウマを感じているようです。(事実、1年近く、実家
との一切の関わりを断ち切った時期もあったほどです)。

結局、転職先は両親の許容範囲におさまり、表層は解決したように見えるのですが、本質
的な信頼の回復には至っていません。子の人生を受け入れることができない両親の狭量さ
を、彼はいまだに許していません。

弟は「親は親の人生、子は子の人生。親の期待に子が応えるという、狭い了見から脱して、
成人した子どもとの関係を築こうとしない限り、両親が子どもの生き方にストレスをため
る悪循環からは抜け出せないよ」と、両親を諭そうとした経験があります(もちろん人間
そう簡単には変わりませんが…)。

今回の私の件も、問題の根本は同じであると受け止め、(今後、彼の人生にもあれこれ影響
が出てくるのは必至なので)、「他人事ではない」と味方についてくれました。

まだ人生経験が浅い私には、親が遠距離にいるという事実が、将来的に、今は予想もつか
ないどんな事態を覚悟しておかねばならないのか、具体的なシミュレーションすらできて
いません。(せめて今後の参考に…と思い、ある方が書いた、「親と離れて暮らす長男長女
のための本」を借りてきて、眺めたりしています。)

親の不安と孤独を軽減するには、一にも二にも顔を見せることですね。夫の実家に子ども
を預けて、和歌山市にどんどん帰省しようと思います。そういう面では、親戚など誰も頼
る人のいない三重県S市在住の今よりも、ずっと帰省しやすくなるはずです。あとはお互
いの気持ちの問題です。そう前向きに思うようにはしたいのですが…

人は誰にも遠慮することなく、幸せをつかむ権利があり、そうした自己完結的な充足の中
に、ある面では躊躇を感じる気質も持ち合わせていて、そこに人間の心の美しさがあるの
かもしれない…そんなことを言っている人がいました。

私はこれまで両親から受けた恩に限りない感謝を覚えていますし、折に触れてその感謝を
形に表していきたいと思っています。が、今はそんな思いは看過ごされ、けんかばかり。「親
棄て」の感情論のみ先行してしまっていることが残念です。

我が家の親子関係再構築の闘いは、まだまだ続きそうです。でも性急さは何の解決も生み
出しません。まずは悲観的にならず、感情的にならず、静かに思慮深く、自分の子どもに
しっかり愛情注いで過ごしていくしかないと思います。

そして、原因を親にばかりなすりつけるのではなく、これまで育ててもらった愛情に限り
ない感謝の気持ちを忘れずに、折々に言葉や態度で示しつつ、前進していかなければ…と
思っています。

理想の親子関係って何でしょうね?
親孝行って何でしょうね?

勝手なおしゃべりで失礼しました。
誰かの助言ですぐに好転する問題ではないので、急ぎの回答など気にしないでください!
こうして打ち明けることで、もう既にカウンセリング効果を得たようなものですから。(と、
言っている間にも、状況はどんどん変わりつつあり、解決しているといいのですが…)

ただ、私が最近思うことは、私の両親の意識改革も必要なのではないかということです。
彼らの親戚も、数少ない友人もほとんどつきあいのない隣り近所も誰も、彼らのかたよっ
た親意識にメスを入れることのできる人はいない状況です。

先日は父の還暦祝いに…と、弟と二人でだしあって送った旅行券もうけとってもらえず、
ふだんご無沙汰している弟が、母の日や父の日にひとことだけ電話をいれたときにも話し
たくなさそうに、さも、めんどくさそうに、短く応答してすぐブツリときられてしまった
そうです。

彼らはパソコン世代ではありません。親の心に染入るような書物を紹介する読書案内のダ
イレクトメールですとか、講演会のお知らせなどを、(私がしむけているなどとは決してわ
からないように)、ある日突然郵送で何度か、繰り返し送っていただくことはできませんで
しょうか?

そのハガキに目がとまるかどうかが、彼らが意識を改革できるかどうかの最後のきっかけ
であるような気がしてならないのです。

そういうふうに、相手にかわってくれ!、と望んでいる私の姿勢も無駄なんですよね。

はやしさんのHPにあった親離れの事例などは、うちよりもさらに深刻な実の母親の
ストーカーの話でしたから、最近の世の中には増えてきていることなのだろうと思いまし
た。

友達に相談しても、早くから親元はなれてそういう衝突したことのない人からみれば、ま
ったくわからない話ですし、「あなたを今まで育ててくれたご両親に対する、そういう態度
みてあきれた」と、去っていった友人もいました。また、あまり親しくない人たちのまえ
では、実の親子なんですからもちろんうまくいっているかのようにとりつくろわなければ
ならず、非常に疲れます。

時間はかかるでしょうが、両親があきらめてくれるかもしれないきっかけとしては、いろ
いろやるべきことがあるようです。たとえば両親の家は、新築したばかりの家ですので、
和歌山市に帰って年老いた両親のかわりに、家の掃除や手入れなどをひきうけること。私
が仕事(検査助手)に復帰し、英検・通検などを取得すること。小さい頃から習い続けて
きて途中で放棄されたままのピアノも、もういちど始めること(和歌山市の実家に置き去
りになっているアップライトのピアノがある)。母の着物一式をゆずりうけるために気付な
ど着物の知識をしっかり勉強すること。同じく母の花器をつかって玄関先に生けてもはず
かしくないくらいのいけばなができるようになること。梅干やおせち料理、郷土料理など
母から(TVや雑誌などでは学べない)母の味をしっかり受け継ぐこと…などなどが考えら
れます。

東京で勤務し続ける弟とは、両親に何かあればひきとる考えでいることを話し合っていま
す(実際にはかなり難しいでしょうが…)。弟も私が和歌山市に戻り、ここまでこじれても
一言子どもの立場から折れて謝罪すれば、ずいぶん状況が違うだろうといってくれてはい
るのですが、ほんとうに謝る気もないのにくちさきだけ謝ったとしても、いつかは親の枕
もとに包丁をもって立っていた…なんてことにもなりかねません。謝ってしまうと親のね
じまがった価値観を認めることになりそうでそれは絶対にできません。

万一のときには実家に駆けつけるつもりですが、正直、今の気持ちとしては何があろうと
親の顔も見たくありません。

すみません。長くなりました。

急ぎではありませんので、多くの事例をご覧になってきたはやしさんの立場から何かご意
見がございましたら、いつかお時間に余裕ができましたときにお聞かせいただければと思
いました。

HPでは現在ご多忙中につき、相談おことわり…とありましたのに、それを承知でお便りし
てしまいまして、勢いでまとまらない文章におつきあいくださいましてありがとうござい
ました。

暑さはこれからが本番です。
どうぞお体ご自愛なさってお過ごしください。

現在は東京都F市に住んでいます。 NEより

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 親子の確執 親子問題 口をきかない親子 家庭問題)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

【親の失望論】(以下、2010年4月17日記)

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「失望」という言葉がある。
「希望を失う」という意味だが、ときに
それが「絶望感」をともなうことがある。

親とて、ときにはその絶望感を覚える
ときがある。
いきさつはともかくも、ここにあげた、NEさんの
親は、NEさんの気がつかないところで、
絶望感を覚えたのかもしれない。

(ここに書いてあるのは、NEさんの一方的な
意見なので、注意!)

それにNEさんは、気がついていない。
気がつかないまま、親を責め、自分を責めている。
しかし親の立場から、一言。

親子であるがゆえに、(たがいに許せない)
ということもある。
相手が他人なら、「はい、さようなら」と言って
別れることができる。
しかし肉親だとそれができない。
強力な呪縛感の中で、たがいに悶絶する。
それはふつうの苦しみではない。
本能を切り裂くような苦しみと言ってもよい。

が、親子でも、その関係が壊れるときには、
壊れる。
親のほうから、関係を断つこともある。
子どものほうから、関係を断つこともある。
しかしそれで心が晴れるわけではない。
たがいに傷つけあい、悶々とした日々を過ごす。

「だったら、仲直りすればいい」と、だれしも思う。
が、親子であるがゆえに、その溝も深い。
「こんにちは!」というわけにはいかない。

そこで重要なことは、こうした亀裂を感じたら、
即、対応すること。

数日置いたら、その関係は決定的に破壊される。
日本には、「ほとぼりを冷ます」という言い方がある。
しかしこと、親子関係について言えば、1か月も
間を置いたら、それでおしまい。
猛烈な勢いで、関係が崩れる。
修復不能のレベルまで、崩れる。

こんな例がある。

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●実家に寄りつかない、K氏(40歳)

 K氏の実家は、M村(現在は浜松市に編入)にある。
近くに、いとこたちが、数人、住んでいる。
そのK氏だが、何かにつけて、実家のあるM村にはよく帰る。
が、M村に行っても、いとこたちに会うだけで、実家には立ち寄らない。
立ち寄らないまま、そのまままたこの浜松市に帰ってくる。

 理由は、「親父(=K氏の父親)と、顔を合わせたくない」。

 それを知った、父親の弟(叔父)が、K氏にこう言って諭した。
「父親に会いたくない気持ちはわかるが、お前の母さん(=K氏の実母)は、さみしい思
いをしている。親父に会いたくなくても、母さんには、会ってやれ」と。

 しかしK氏は、母親にも会わない。
またそういう状態になって、すでに20年近くになる。

●確執

 こういう話は、合理的に判断するのは、むずかしい。
「確執」というのは、そういうもの。
いろいろな(思い)が、複雑に交錯し、それが糸のようにからんでいる。
その叔父にすれば、「親子ではないか!」ということになる。
「父親と母親は別」と。

 しかし親を捨てる子どもは、同時に、父親と母親を捨てる。
つまりそれほどまでに、確執が深い。
またそこまでしないと、自分の心を割り切ることができない。

 子どもを捨てる親にしてもそうだ。
子どもを捨てるときには、子どもの配偶者(義理の息子、嫁)、さらには、孫まで捨てる。
またそこまでしないと、自分の心を割り切ることができない。
「孫はかわいいが、息子とは顔を合わせたくない」というわけいにはいかない。

 ……という例は多い。

 そこで私はこう考える。

●親子でるという幻想

 幻想は幻想。
「親子という幻想に、しがみつくな」と。
つまり壊れるものは、壊れる。
こんな例もある。

 Y氏(60歳)の息子は、ウソつきだった。
ウソをウソとも思わない。
口がうまく、女性を口説くのもうまかった。
そこで毎年のように、新しい女性を連れて、Y氏のところにやってきた。
ときに1週間前後、いっしょに泊まることもあったという。

 が、それでもY氏は、息子を信じていた。
「私という親だけは、だまさない」と。

 しかし息子は、就職してからも、Y氏をだましつづけた。
「何かの資格試験に必要だ。給料だけでは、払えない」とか言って、そのつど、Y氏から
30万円、20万円という金をせびった。
車を買うときもそうだった。

●親をだます子

 が、その息子が、Y氏をだました。
息子は、嫁の両親を連れて、温泉旅行に行った。
そのとき息子は、Y氏に、「仕事で、北海道へ行くから、法事(Y氏の母親の3周忌)には、
帰れない」と言った。
他人から見れば、ささいなウソだったかもしれない。
しかしY氏にしてみれば、ちがった。
ショックは強烈だった。
はげしい絶望感を覚えた。
それまでのいきさつが、そこで一気に爆発した。

 が、相手は実の子。
で、Y氏は、はげしい自己嫌悪に陥り、ついで自分を責めた。
Y氏は、息子と絶縁した。
やがて孫(女児)が生まれた。
しかしY氏は、会いに行かなかった。
会いたくもなかった。

 この話を、先に掲載した、NEさんの話と重ね合わせてみる。
もちろんここに書いたY氏というのは、NEさんの親のことではない。
ないが、「一方的な意見を聞いて、判断するのはむずかしい」という意味が、これでわかっ
てもらえたと思う。

●理想論

 「親だから、子どもの幸福を願っているはず」「子どもが幸福になるのだから、親は、文
句がないはず」と子どもの側は、考えやすい。
しかし親には、親の立場がある。
それまでの(思い)が累積されている。
そういう(思い)を、ときとして子どもは、理想論だけで、片づけやすい。
しかし親とて、生身の人間。
それこそ学費を作るために、爪に火をともしながら、苦労する。
苦労に苦労を重ねる。
自分の食費すら、削る。
が、子どものほうは、大学を卒業すると同時に、「はい、さようなら!」。
いくら理解のある親でも、これでは浮かばれない。
「子どもが幸せになればそれでいい」と、割り切ることはできない。

●無私の愛?

 「無私の愛」「無条件の愛」は、子育ての基本だが、だからといって、それを逆手に取っ
て、「あなたという親もそうであれ」「そうでなければあなたという親、失格」と言われる
と、「待て!」と言いたくもなる。
それが親子の確執につながる。
そしてそれから生まれる絶望感が大きければ大きいほど、たがいの間の溝も深くなる。

 10年前に私だったら、NEさんの話を聞いたら、NEさんの親を責めただろう。
しかし今は、ちがう。
私はNEさんの親の気持ちも、よく理解できる。
NEさんの親は、NEさんにこう言っている。

「孫は無条件にかわいいだろうなんて、馬鹿にしないで! もう孫の写真なんか送ってこ
なくていいから」
「偽善者ぶって母の日に花なんかよこさないで!」と。

 私には、そう言った、NEさんの親の気持ちも、親という立場で、よく理解できる。
つまりこの問題だけは、一筋縄ではいかない。

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BW はやし浩司 親子の確執 溝 断絶 亀裂 親子の断絶 断絶する親子 憎み合う親
子 親子の憎しみ 嫉妬 絶縁 親と縁を切る 子どもと縁を切る)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

(4月17日)(日記)

●携帯電話

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今日、W社の携帯端末機から、A社の
携帯電話に、機種を変更した。
かなりの「後退」ということになる。
世は携帯端末機時代。
つい最近も、D社から、「XPERIA」
なるものが、発売になったばかり。
ものすごい人気だそうだ。
が、私はあえて、それに背を向けた。
背を向けて、携帯端末機をやめ、携帯電話にした。
それには理由がある。

(1)携帯電話は携帯電話だけに使う。
つまり電話機として、特化する。
(2)ネット用には、無線モデムを
使用し、携帯電話としては、使用しない。

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●分厚い説明書

 A社の携帯電話にした。
カメラ機能がついただけの(?)、簡単な機種である。
それでもマニュアルは、1センチ強の厚さがある。
ズシリと重量感がある。
この2年で、またまたこの世界は、大きく進歩した。
それはそれでよいのだが、その分だけ、使い勝手が悪くなった。
複雑になった。
つまりわかりにくくなった。

 A社の携帯電話のばあい、初期メニュー画面だけでも、3種類ある。
カラーバリが3種類あって、それぞれにメニュー画面がちがう。
そこまでの説明は、マニュアルに書いてある。
(機種の色によって、初期メニュー画面がちがう!)
が、それぞれの初期メニュー画面への変更方法が書いてない!
どうすればよいのだ!、と、あちこちをいじってみた。
携帯電話といっても、バカにしてはいけない。
……というような操作を繰り返した。
が、こういうときが、いちばん楽しい。

●「白」

 ところで今、私にはおもしろい現象が起きている。
理由はわからないが、何を買うにも、「白いもの」を選ぶ。
昨日は、白い旅行用バッグを買った。
今日は白い携帯電話を買った。
近く車を買い換える。
その車も、今度は、白にするつもり。
どうしてだろう?

 パソコンのみならず、関連機器も、みな、そうである。
キーボードも白、スピーカーも白……。
「カメラ類は、赤」と決めていたが、たぶん、つぎに買うのは、白。
店でながめる機種は、どれも白。
どうしてこうなったのか。
何か心理的な影響が作用しているのか。

 ひとつには、「白」と決めておけば、こと色については、迷わずにすむ。
それに白ほど、飽きない色はない。
もともと「色」でないこともある。
(白や黒は、明暗を示す。色ではない。)
だから飽きない。

 心理的には、純粋なものを求める志向性が強くなったためとも考えられる。
無駄なものをどんどんと省いていくと、形にしても、シンプルなものになる。
思想や文章にしても、そうだ。
色もそうだ。
無駄な色をどんどんと省いていくと、残るのは白。
ここしばらくは、「白もの」が、私の周辺では多くなるはず。
そうそうシャツも、このところ白を着ることが多くなった。
白が、いちばん、落ち着く。

●時事問題

 韓国の哨戒艇が、爆破された。
魚雷によって、爆破された。
で、やったのは、あの国。
わかりすぎるほど、わかっている。
が、当のあの国は、こう言っている。
「K国のしわざに見せかけた、アメリカと韓国の陰謀」と。
そして昨日は、5億円もかけて、P市で花火大会を開いたとか(韓国紙)。
そう言えば、昔、似たようなシーンを、映画で見たことがある。
『ゴッド・ファーザー』という映画だった。

 一方で大量殺戮をしておきながら、それをカモフラージュするために、自分は盛大なパ
ーティを開いて見せる。
「私は関係ありません」と。
身近な事件では、毒入りカレーを作ったHMという女性がいた。
あの女性も、その夜、家族とともに、近くのスナックで、カラオケを楽しんでいた。

 心に余裕がないから、わざとその(余裕)を演出して見せる。
ワルの考えることには、どこか共通性がある。

●韓国の経済バブル

 韓国の経済バブルが、臨界点に達しつつある。
「好景気」「好景気」とはしゃいでいるが、それはどうか?
ソウルの土地にしても、この数年で、価格が7〜8倍になったという。
さらに日本でも有名な映画俳優が、33億円近い邸宅を購入したという話も伝わってきて
いる。
これをバブルと言わずして、何と言う?
08年末のリーマンショックで、一時、冷や水をかぶせられたが、ここにきて、またまた
バブルが過熱してきた。

 どうなるか?

●金バブル

 「バブル」と言えば、金(ゴールド)バブルもある。
先週は、1グラムが、3600円以上(田中貴金属)になった。
中、長期的に見れば、金価格は上昇する。
これだけ世界が、市中に札をばらまけば、上昇するに決まっている。
しかし短期的にはどうか?

 一度、この金バブルは、はじける。
私の予想では、(あくまでも私の予想だが……)、一般庶民がババを引く形で、一度、はじ
ける。
一般論として、そこらのオバチャンやオジチャン(失礼!)が、血相を変えて動くように
なったときが、あぶない。
今が、そのとき。
「国家破綻」というタイトルの本が、売れに売れている。
要旨は明快。
要するに、「金に投資せよ」というもの。
今、日本中が、そのかけ声に踊らされている。
だからあぶない。

 その本がそうというわけではないが、金を動かすトレーダーたちにしてみれば、そこら
のオバチャンやオジチャンを動かすことなど、朝飯前。
本や雑誌に、それらしい記事を載せればよい。
金をもらって、つごうのよいことを書くライターは、いくらでもいる。
つまりこうして一般庶民にババを引かせたあと、自分たちは市場から逃げる。

 私の古い友人がそういう仕事をしていたから、私はその手口をよく知っている。
みなさん、気をつけろ!

●外出せず

 今日、4月17日(土曜日)は、ほとんど家の中にいた。
朝から、頭痛。
ときどき薬をのんで、昼寝を繰り返した。
夕方、買い物に行ったついでに、携帯電話を買った。
これはかなりの衝動買い。
それだけ。
今も少し頭が重い。
偏頭痛のようでもあるが、偏頭痛とも様子がちがう。

 やりたいことは、いっぱいある。
が、どれから手をつけたらよいのか、わからない。
借金に追われる多重債務者のよう。

 明日は、気分一新。
朝からダッシュするつもり。
だらけた今日の分を、明日、取り返す。
そんなわけで、今日の成果は、ほとんどゼロ。
新しい発見もなし。
ということで、今日の日記は、ここまで。
おやすみなさい!

2010年4月17日(土曜日)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

 (教室の案内)

    http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

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よろしくお願いします。              はやし浩司
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.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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.QQ ∩ ∩ QQ         
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 5月 21日
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どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタ
イトル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img 
src="http://farm5.static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" 
height="250" alt="●BLOGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>


●今日から、レッスン(年少児+年中児クラス)BW教室byはやし浩司(浜松市)

テーマ「声を出そう!」
「あ」の音

+++++++++++++++++++++++++++

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<object width="425" height="344"><param name="movie" 
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【URL版】

http://www.youtube.com/watch?v=grQpUYfQ200

http://www.youtube.com/watch?v=CNsWrzyPPr4

http://www.youtube.com/watch?v=-HsOWJpRCfY

http://www.youtube.com/watch?v=XCyijmXxdKU

http://www.youtube.com/watch?v=DS1W8zGuXt4


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●老後の資金

++++++++++++++++

年金機構のHPに
こんな記事が載っていた。
そのまま紹介させてもらう。
(HOKEN MALLのHPより)

++++++++++++++++

●老後資金の確保

【ポイント】
保険以外の資産状況や公的年金を検討し、月に10,000円から20,000円程度積み立てのつ
もりで老後資金を準備しましょう。

【必要な保険】
年金保険
養老保険

【ゆとりある老後を送るための生活費はいくら?】
平均的な老後生活費= 21万円
※世帯主60歳以上の日常生活の生活費 <総務省統計局 「平成20年家計調査年報」より

最低の日常生活費平均= 23.2万円
ゆとりある老後生活費= 38.3万円

※夫婦二人の場合 
<生命保険文化センター 「生活保障に関する調査」/平成19年 アンケートより>

公的年金の上乗せとして、月に10,000円から20,000円程度を年金保険や養老保険で準備
しましょう。

また、下記の条件を満たす個人年金保険は「個人年金保険料控除」として、所得税と住民
税の負担が軽減されます。退職まで10年以上ある方は、まだ現役で資金的に余裕のあるう
ちに老後資金を準備できますね。

年金受取人が契約者またはその配偶者のいずれかであること。
年金受取人は被保険者と同一人であること。

保険料払込期間が10年以上であること(一時払は対象外)。
年金の種類が確定年金や有期年金の場合、年金受取開始が60歳以降で、かつ年金受取期

が10年以上であること。
 
+++++++++++以上、(HOKEN MALLのHPより)+++++++++++
 
●私のばあい

 私は現在、62歳と6か月。
60歳は、とっくの昔に過ぎている。
が、これによれば、最低の日常生活費として、平均、 23・2万円、必要とか。
23・2万円!

 が、まだ年金らしいものは、1円も手にしていない。
あと3、4年で、国民年金がもらえるそうだが、夫婦2人で、合わせて13万円前後。
今はまだ仕事をつづけているからなんとかなるが、仕事をやめたら、あとは財産を切り売
りして
生きていくしかない。

 もっともその一方で、先日経営破綻したJALのOBのように、月額40〜50万円の
年金を手にしている人もいる。
企業や最終の役職によっては、もっと多い人もいる。

 しかしそれにしても、「最低」という言葉が恐ろしい。
最低以下だったら、どうなるのか。
どうすればよいのか。
まさか餓死?

 もうすぐこの日本に、ハイパーインフレの大波が押し寄せてくる。
そのうち13万円では、月々のガソリン代にもならない(?)。
38・3万円(ゆとりある老後生活費)でも、きびしい。

 この問題は、データだけを記録し、また別の機会に考えてみたい。
(考えたところで、どうにもならないが……。)

(付記)

仮に30万円(月)必要として、13万円を引くと、私のばあい、17万円の不足。
その分を貯蓄で補うとすると、平均寿命までの20年間で、4080万円!
(17x12x20=4080万円。)
4080万円の貯蓄が必要ということになる。


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●『たちあがれ日本』

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


自民党に離党届を提出した与謝野馨元財務相や無所属の平沼赳夫元経済産業相らが10日
に結成する新党の党名は 「たちあがれ日本」 となる事が7日、決まった。与謝野氏らは
5日から党名や基本政策の協議を進めてきた。新党関係者は 「党名はほぼ合意が出来た」 
と語った。(読売新聞・4月7日・2010)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●Ambitious Japan(立て、日本!)

 『たちあがれ日本』という言葉を聞いて、10年ほど前に書いた原稿を、思い出した。
「Ambitious Japan」という言葉について書いた原稿である。
それをそのままここに紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 今、東海道新幹線(JR)の車両の横に、「Ambitious Japan」と書いて
ある。

 「Ambitious」と言えば、W・クラーク博士。明治10年、札幌農学校(現在
の北海道大学)を退任するときに、クラーク博士は、「Boys, be ambitio
us!」と言ったという。

 日本では、「少年よ、大志を抱け」と翻訳されている。

 その後、この翻訳は、正しくないという議論が、あちこちから起きた。実は、私も、そ
う思う。つまり、正しくないと思う。「ambitious」というと、「野心的な」とい
う意味。反対に、小さな世界で、こじんまりと生きている人のことを、「ambitiou
s」とは、言わない。

 そういう意味での、「ambitious」である。「大志」というと、どこか出世主義
のにおいが、プンプンとする。明治という時代は、そういう時代だったかもしれないが、
しかしアメリカ人のクラーク博士に、そういう意識があったかどうかは、疑問である。

 あえて訳すなら、「生徒たちよ、こじんまり生きないで、もっと元気を出せ」という意味
ではないのか。英語で、「ambitious」というと、どこか「他人を蹴落としてでも、
前に進め」というニュアンスを感ずる。どこか荒々しく、乱暴。

 たとえば会話でも、「He is an ambitious man.」と言ったとき
は、その彼をほめるというよりは、「彼はやり手」という意味で使う。

 私のpoorな英語力で、こういう解釈を加えるのは、危険なことかもしれないが、少
なくとも、「大志を抱け」という意味ではない。

 で、その新幹線。私は、「Ambitious Japan」という言葉が好きである。
この不況下。みんな、どこか元気をなくしている。自信をなくしている。

 しかしあの新幹線が、轟音とともに走りすぎるのを見るたびに、「日本も、まだまだがん
ばっているな」と思う。「捨てたものではないな」と思う。

先日も、オーストラリアの友人が、日本へ来て、新幹線が走っていることよりも、すでに
その新幹線が、35年以上も前から走っていることに、驚いていた。

 韓国の新幹線は、やっと今年になってから走った。中国は、これからである。が、日本
では、35年以上!

 「さあ、日本よ、元気だそう。まだ俺たちには、パワーがある」という意味での、「Am
bitious Japan」である。

 多分、JRのことだから、その道の英語の達人を、アドバイザーにしながら、この言葉
を考えたのだろう。けだし、正解である!

 で、一つだけ心配するのは、あの「Ambitious Japan」という英語を見
て、中には、「日本よ、大志を抱け」と翻訳する人も、いるのではないかということ。それ
については、ここで、「その訳は、まちがっている」ということを、改めて、確認しておき
たい。

 さあ、みんな、元気を出して、前に進もう! Let's be ambitious!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ひらがな?

 この原稿を書くとき、本当に「たちあがれ日本」でよいのか、不安に思った。
「立ち上がれ」あるいは、「立ちあがれ」ではないのか、と。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「2010年4月7日に新党の名称を「たちあがれ日本」にすることが固まった。命名したの
は新党を後押しする石原慎太郎東京都知事。「すすめ日本」「がんばろう日本」「まもれ日本」
「新党ちから」「よあけ」「れいめい」または「れいめいの会」なども候補にあがったが、
平沼は「今の時代に合っているのは、ひらがながいいんじゃないか」と述べている。翌8
日には平沼が「代表」、与謝野が「共同代表」に就任することが合意された」(ウィキペデ
ィア百科事典より)と。

 やはり「たちあがれ日本」が正しいということになる。
しかし私なら、「立て日本」とする。
そのほうが短くて、わかりやすい。
「たちあがれ日本」とすると、党名を覚えるとき、まちがえやすい。
私もすぐには、思い出せなかった。
「たちあがろう日本」?
「たとう日本」?
いろいろ迷った。

●虚しさ

 が、「たちあがれ日本」という新党が生まれたとき、私はそこにある種の虚しさを覚えた。
「またか?」という思い。
それには2つの意味がある。
ひとつは、そのつどこうした調子のよい言葉(失礼!)が生まれる。
しかしいつも空振り。
先に載せた「Ambitious Japan」にしても、そうだ。
もう10年近くも前に書いた原稿である。

 もうひとつは、民主党。
民主党が私たち(浮動票層)に与えた失望感には、相当なものがある。
国民の80%以上が、「やめろ・コール」を出しているのに、小沢幹事長は、いまだにその
立場にしがみついている。
その見苦しさ。
その醜悪さ。
浮動票層は、民主党や小沢幹事長を選んだのではない。
反麻生勢力が、たまたま民主党に向かっただけ。

 たしかに浮動票層は、今、行き場をなくし、右往左往している。
が、小沢幹事長はそれをそれ見越してか、「民主党しかない」と、勝手なことを言っている。
まるで国民の気持ちがわかっていない。
またそういう人物が、国政の頂点にいることを、とても残念に思う。

●立て、日本!

 党名はともかくも、今の日本には、この言葉しかない。
ただし私なら、先にも書いたように、こう言う。
「立て、日本!」。
「たちあがろう日本」では、どこか弱々しい。
「Let's be ambitous」よりは、「Be ambitious」のほうが、よい。
だから、「立て、日本!」。
英語に訳すなら、「Ambitious Japan」となる。

 自民党もだめ。
民主党もだめ。
だったら、私たち浮動票層はどこへ向かえばよいのか……という意味で、「たちあがろう日
本」に、おおいに期待したい。
期待したいが、どうも道筋がはっきりと見えてこない。
悪く見れば、自民党残党の「生き残り政党」ということになる。
となると、おいそれと支持できない。
民主党に一度、裏切られているから、そこはどうしても慎重になってしまう。
「はい、では、たちあがろう日本にします」というわけいには、いかない。

 もう少し様子をみよう。

 ただすでに結果が出始めている。
各地でなされる首長選挙では、民主党の連敗がつづいている。
当然のことである。


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●老人性無気力症候群

++++++++++++++++++

気力が弱くなると、何をするにも、
おっくうになる。
何か冒険をする前に、
不便であることを、がまんしてしまう。
新しいことを学ぼうとする前に、
自分の知っている古いやり方に、戻ってしまう。
無難な道を選んでしまう。
そのため自分の住む世界を小さくしてしまう。

だれかれのことではない。
私自身のことである。
加齢とともに、気力が徐々に弱く
なっていく。
それが、自分でもよくわかる。
称して、「老人性無気力症候群」。
これは私がつけた名称。

++++++++++++++++++

●無難

 そこに新しい何かがあっても、わざと顔をそむけて、通り過ぎてしまう。
たとえば「方法」。
新しい方法に手を出すよりも先に、自分が慣れ親しんだ方法を優先する。
「より便利になるかもしれない」。
そんな淡い期待をもつことはあるが、あえてそれを心の中で避けてしまう。
近くに、こんな人がいる。

 今では、あらゆるものを、ネットで買うことができる。
大型店で買うよりも、2〜3割は安い。
その上、翌日配達。
代引きで商品を受け取るので、安心。

 そのことを教えてやっても、その人は、「店で買うほうがいい」と。
返す刀で、「ネットはめんどうだから」とか、「直接、商品を見て、
自分で確かめてから買いたい」などと言う。
あるいはインターネットそのもを、毛嫌いする。
「あそこの嫁さんは、インターネットばかりしていて……」と。
「つまり、悪い嫁」と。

●私自身も

 かく言う私も、若い人たちから見ると、その人とそれほど変わらない。
それが自分でも、よくわかる。
立場は逆でも、また中身はちがっても、その人と同じようなことをしている。
ときに若い人たちがしていることを、「つまらない」とか、「バカくさい」とか
言って、はねのけてしまう。

 たまたま昨日も、中学生の女の子は、私の服装を見て、「ダサイ」と言った。
そこで私が「どんな服装が似合うか、絵に描いてよ」と言った。
その女の子は、しばらくすると、一枚の絵を見せてくれた。
それを見て、思わず、私は笑ってしまった。

「服は緑。ズボンは、足下までふくらんだ、とび職風。色は茶色……」。
が、それではいけない。
私は、「来週は、このかっこうで来るから、笑うなよ」と言った。
その女の子は、「笑わない」と約束した。

 つまり若い人たちを笑ってはいけない。
それを繰り返していると、自分が住む世界が、どんどんと小さくなってしまう。
小さくなるだけではない。
冒頭に書いたように、へたをすれば、老人性無気力症候群に陥ってしまう。
が、こうなると、「進歩」など、もう望むべくもない。

●自己診断

 そこで自分なりに、自己診断テストを考えてみた。
これは「老人性無気力症候群」の初期症状を知るためのテストということになる。

( )若いときの知り覚えた歌や、音楽を聴くことが多い。
( )「冒険」よりも、「無難」を選ぶことのほうが、多い。
( )融通がきかず、ときに無理をしてでも、伝統的なやり方を押し通す。
( )若い人たちのしていることに、興味がない。
( )過去をなつかしむことが多くなった。

 ひとつの目安として、携帯電話やインターネットがある。
たぶんに手前味噌的ではあるが、60歳で、インターネットをしているかどうかを
みるとよい。
インターネットをするにも、段階的な進歩がある。
まずキーボードが叩き方を覚えなければならない。
メールの送受信ができなければならない。
ネットでものを売買できるようになるのは、そのつぎの段階ということになる。
怠けた心では、インターネットはできるようにはならない。

 つまり60歳を過ぎて、インターネットを楽しんでいる人は、それだけでも
進歩的な人と判断してよい。

●ワイフの生き方

 この老人性無気力症候群の恐ろしいところは、それだけではない。
一度、そこへ陥ると、あとは悪循環となって、どんどんと深みに
はまってしまう。
そうでなくても、体力の低下とともに、気力が弱くなる。
そこにある壁を乗り越える力が弱くなる。
そこで「闘う」という姿勢が、どうしても必要ということになる。
「待ち」の姿勢では、いけない。
「闘う」。
闘いながら、壁をそのつど、乗り越える。
けっして安楽な道を選んではいけない。

 が、これはたいへんなこと。
私も、今、その老人性無気力症候群と闘っている。
もともと私は鬱(うつ)気質だから、鬱症状のひとつとして、無気力になりやすい。
だからそうでない人よりも、2倍とか、3倍の努力をしなければならない。
たとえばそこに何か新しいことがあれば、あえて、それに向かって進んでいく。
何でもやってみなければ、わからない。
そういうふうに、自分を奮い立たせる。

 その点、私のワイフは、ありがたい。
見た目には、静かでおとなしい女性。
しかし内に秘めたエネルギーには、ものすごいものがある。
精神が安定している分だけ、行動力もある。
私を、ぐんぐんと別の世界へ引き込んでくれる。

 で、最初はしぶしぶながら、私はついていく。
が、そのあと、いつもこう言う。
「してよかった」「来てよかった」と。

●では、どうするか

 いくつかコツがある。
これは私自身の努力目標ということになる。

(1)過去を回顧しない。
(2)新しいことは、何でもやってみる。
(3)若い人たちの世界を、いつものぞく。
(4)不平不満、愚痴(ぐち)は言わない。
(5)いつも大きな話題について考える。

 老齢期を迎えたからといって、何も生活をコンパクトにする必要はない。
明日は今日の結果として、かならずやってくる。
健康にせよ、気力にせよ、今日がんばれば、明日もだいじょうぶ。
あとはそれを繰り返す。

●子どもの世界でも・・・

 ついでながら、子どもの世界でも似たようなことがある。
たとえば何かむずかしい問題を出したとする。
そのとき、「やりたい!」と言って、食いついてくる子どももいれば、
そうでない子どももいる。
問題を見る前に、逃げてしまう。
「どうせできないから・・・」と。

 が「やりたい!」と言って食いついてくる子どもにしても、能力を
はるかに超えた問題だと、やはり逃げてしまう。
一度、こんなことをしてみたことがある。

 その子ども(小4男児)は、かなり鼻っぱしの強い子どもだった。
生意気な子どもだった。
「どんな漢字でも書ける」と言った。
そこで私は漢字検定試験1級(小6レベル)のテスト問題をもってきて、
その子どもにさせてみた。

 数学とちがって、漢字のばあい、(書ける・書けない)がはっきりしている。
いくら考えても、習い覚えたことのない漢字は書けない。
5分もすると、プライドが傷つけられたと感じたのか、ふてくされてしまった。
テスト用紙を払いのけてしまった。

 で、つぎの漢字点綴試験3級(小4レベル)のテスト問題をやらせようと
した。
が、その子どもは、それに対して、拒否反応を示した。
同じようにテスト用紙を、手で払いのけてしまった。

●教訓

 このことからもわかるように、「気力」というのは、じょうずに
引き出さなければならない。
これには、子どもも、(自分)もない。
やり方をまちがえると、気力そのものを失ってしまう。
「段階的に追っていくもの」と書くほうが、正確。
いきなり「ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」は、無理。
やっても挫折感が大きいと、そこで頓挫(とんざ)してしまう。

まず自分のできる範囲で、それに挑戦してみる。
それができたら、徐々に、段階を経て、レベルアップしていく。
「身の丈にあった世界」で、自分を生かす。
あとはこれを繰り返す。

 老人性無気力症候群・・・こわいぞ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 老人性無気力 無気力症候群 老人の気力)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●一個人の自己宣伝について

++++++++++++++++

 つい先日、私はある「人名辞典」サイトに、
自己紹介記事を書いた。
軽い気持ちで、そうした。
それについて、「はやし浩司は、一個人に過ぎない」
「自己宣伝にすぎない」ということで、そのまま
削除されてしまった。
少なからず、カチンときた。

若いころ、クリジットカードを申し込んだとき、
拒否されたことがある。
「審査の結果・・・なんとかなんとか」と。
久しぶりに、そのとき感じたような不快感を覚えた。

 で、審査をしたという人の、ペンネームが
載っていた。
そこでその人物を検索しながら、素性を調べてみた。
が、その人自身も、名もない個人。
「教育関係の仕事をしている」などと書いてあった。

 が、どうしてそんな程度の人物に、「私」が
評価されなければならないのか。

自己主張を「利益」につなげれば、
それは自己宣伝。
それはわかる。
しかし私の場合は、少し違う。
「違う」というのではない。
「少し違う」。
「少し」というのは、利益を求めない
心が、まったくないわけではないということ。
お金は嫌いではないし、何らかの形で
収入につながれば、それはそれでうれしい。
しかしこの世の中で、収入を考えないで、
何かをしている人など、いるのか。
さらに言えば、仮にそれが自己宣伝で
あったところで、それがどうして
悪いことなのか。

たとえば会社の広告。
あれなどは、自己宣伝そのもの。
「組織」と「個人」はちがうと思う人も
いるかもしれない。
ならば聞くが、どうして組織だと問題がなく、
個人だと問題があるのか。

さらに言えば、作家や画家など、個人で
プレーしている人は、どうなのか。
俳優でもよい。
「個人」も「商品」と同じで、まず「売りに出す」。
その売りに出すという段階で、どうしても
宣伝をしなければならない。
それが自己宣伝。

が、こんなことがある。

++++++++++++++++++

●マンション建設反対運動

 10年近く前、近所に、10階建てのマンションが建設される
ことになった。
とたん、近隣の人たちの間から、猛烈な反対運動が起きた。
もっともこうした反対運動は、珍しくない。
が、そのマンションのばあいは、少し、ちがった。
建設予定地周辺の民家に、つぎつぎと新しい看板が並んだ。
「地獄の3丁目」とか、「のぞき見、反対」とか。
「ここは元墓地」とか、「マンション住民にも責任を取ってもらいます」
というのもあった。
中には、ほとんど隙間なく、まるで塀のように、看板を並べている家もあった。
過激といえば、過激。
ふつうの反対運動とは、かなり内容が違っていた。

●パラドックス

 が、それからほぼ10年。
マンションは建設され、販売も始まった。
すでに何割かの部屋には、新しい住民が住んでいる。
が、立て看板は、そのまま。
そこはまさにパラドックスの世界。

「看板を立てるな」という、看板を立てる。
「張り紙をするな」という、張り紙をする。
それと同じ。
「美観をそこねるマンション建設、反対」という看板を無数に立てて、
美観を損ねている(?)。

が、それが悪いと言うのではない。
それぞれの住民には、それぞれの思いというものがある。
私たちの知らない、(いきさつ)もあるだろう。
どこかで話し合いが、こじれてしまった。
その可能性もある。
それに建設会社は、大手。
反対する人は、個人。
最初から力関係がちがう。
反対する人たちは、それぞれの思いの中で、自分の意思を外に向かって示す。
個人が、大手を相手に向かって、闘っている。

 が、今、どうして反対運動なのか?
マンションは、先にも書いたように、すでに完成している。
しかも当初予想されたような、日照問題も、電波障害も起きていない。
マンション業者は、きちんと法律にのっとって、マンションを建設した。

●匿名

 そこで私は、「反対反対の反対運動」というのを考えた。
「見苦しい看板を、撤去しましょう」というチラシを配ってあることを
考えた。
考えただけで、もちろん実行していない。
理由がある。

 仮に私が、「見苦しい立て看板を、撤去しましょう」というチラシを配って
歩いたとする。
しかし「見苦しい」と思うのは、ひょっと私だけかもしれない。
周辺の人たちは、それ以上に(怒り)を覚えているのかもしれない。

それに私は、こうしたチラシを書くにしても、匿名では書きたくない。
しっかりと「はやし浩司」という実名をつけて書きたい。
匿名で、何かを書くというのは、私のやり方ではない。
そういうやり方は、卑怯者のすること。
陰に隠れて、コソコソ書くことなら、だれにだってできる。

●無私無欲

 が、私のばあいは、実名を使う。
こうしてささいなエッセーを書くときも、実名を使う。
実名を使って、「私」を前に出す。
それを「自己宣伝」とは?

また書く以上、できるだけ多くの人に読んでもらいたい。
そのために、HPを開き、BLOGを書く。
もちろん実名入りで、書く。
書く以上、すべての責任は、私が負う。
が、どうしてそれが「自己宣伝」なのか?
自己宣伝と判断されるのか?

 さらに言えば、私はこうしてものを書くのが、自分の墓づくりと
位置づけている。
「墓イコール、本」と考えたこともある。
しかし金儲けのために文章を書くのは、10年ほど前にやめた。
それまでの私は、稼ぐために、文章を書いた。
ものを書くことイコール、金儲けと考えていた。
(その逆でもよいが・・・。)
ちょうど不景気になりかけていたころで、出版社と印税のことでもめた
こともある。
それで嫌気がさした。
出版の世界から遠ざかった。

 で、今は、フリーもフリー、まったくフリー(無料)で、文章を
書いている。
こうして書いている文章にしても、「どこかで金儲けにつながるかも
しれない」という思いは、微塵(みじん)もない。
もとから「無」の状態。
(金儲けにつながるような文章でもないが……。) 

 それ以上に、私は私の中から、つぎつぎと湧いてくる(思い)を、
文章にしておきたい。
だれのためでもない。
自分のためである。
またそうでないと、よい文章は書けない。

●よい文章

 「よい文章」という言葉を書いたので、一言。

 よい文章というのは、あとで読み返したとき、「これは私だ」と思える
ような文章をいう。
私の、心の足跡がしっかりと残っているような文章をいう。
そういう意味で、ありのままの自分を書く。
飾ったり、偽ったりしない。
そういう文章は、あとで読み返してみても、後味が悪い。
読みやすく、内容がしっかりしていれば、なおよい。
しかしそれは、他人の判断すること。
私は第一義的には、私のために書く。
私にとって、よい文章かどうかというのは、あくまでも内容。
文のじょうず、へたではない。

 またよい文章というのは、たとえ内容を忘れてしまっていても、
目を通した瞬間、自分の文章とわかる。
その文章と共鳴する、「私」が、そこに残っている。
文章と「私」が共鳴する。
だから自分の文章とわかる。

●読者

 そんなわけで、今の私にとって最大の励みは、読者ということになる。
読者がふえるというのは、本当にうれしい。
昨年(2009年)の5月、HPとBLOGへのアクセス数が、
累計だが、月間30万件を超えた。

 それぞれのHPでは、アクセス数がカウントされる。
その累計が、「30万件」という数字である。
もちろん1人で、何回もアクセスしてくれる人も多い。
だから30万件イコール、30万人ということではない。
しかしその一方で、ハイパーリンクといって、トップページを介さないで
アクセスしてくる人もいる。
(アクセス数がカウントされるのは、それぞれのHPのトップページ
だけ。)
だから実際には、もっと多いかもしれない。

 近くまた累計してみようと考えているが、昨年より減っているという
ことはない。
ちなみに、ヤフーで、「はやし浩司」を検索してみると、昨年は、12万件程度
だったが、最近(2010年4月)になって、20万件を超えた。
毎月その数は、数1000件ずつ、ふえている。

 つまりこれが私の「地位?」ということになる。
私の「立場?」ということになる。

●一個人の自己宣伝

 言うまでもなく世の中には、私のような個人のほうが多い。
99・99%が、そうだ。
ただ誤解していけないのは、有名人イコール、人格者ではないということ。
金持ちイコール、成功者ではないということ。
もちろん「個人」と言われる人の中には、あやしげな人も多い。
が、そういう人たちとともに、まじめに生きている「個人」までもが、
いっしょくたに、闇へと葬られてしまう。
つまりこういう形で、個人が、封殺されてしまう。
しかも悲劇的なのは、同じ個人が、同類の個人を封殺する。
言うなれば、個人の共食い。

 その一方で、組織で肩書きや地位のある人を、ヨイショする。
テレビなどのマスコミで騒ぐ人を、ヨイショする。
その悲しさ。
その心の薄さ。
日本という、どうしようもないほど小さな国で、互いに足を引っ張り
あっている。
「一個人の自己宣伝」という言葉には、そういうニュアンスが隠されている。
そういう形で、つまり自分はジャッジになったつもりで、その個人を
見下す。

 「どうぞ、ご勝手に!」と言って、この問題は、おしまい。
改めて自分の力のなさを思い知らされた形になったが、まだまだ時間はある。
平均寿命まで、あと16年。
まだ何かできる。
まだがんばれる。
そこに何があるかわからないが、私は私で、前に進むだけ。

『我らが目的は成功することではない。
失敗にめげず、前に進むことである』(スティーブンソン)。
改めて、この言葉を、自分の胸に刻む。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 自己宣伝 自己主張 無私無欲 文章を書く)


Hiroshi Hayashi++++++April.2010++++++はやし浩司

●「戦争」という悪魔

+++++++++++++++++++++++

戦争は、悪魔をつくる。
想像もつかないような悪魔をつくる。
今、「私はだいじょうぶ」と言っている
あなただって、戦争にばれば、わからない。
私だって、わからない。
自信がない。

先日、ある記録を読んでいたら、こんなことを
告白した女性がいた。
あの戦時下のサラエボで起きた事件である。

あるときクロアチア軍が、そこへやってきた。
そして女性ばかりを、何十名も捕虜にした。
クロアチア軍は、若い女性については、繰り返し
性的暴行を繰り返した。
年配の女性については、膣の中に銃口をつっこみ、
つぎつぎと射殺していった。

どんな光景だったか。
想像するだけで、背筋が冷たくなる。

が、そんなことをしたクロアチア軍の兵士にしても、
戦争前は、ごくふつうの兵士だったにちがいない。
そして今も、もし生きているなら、何食わぬ顔して、
平然と日々の生活を過ごしているにちがいない。

戦争の、本当の恐ろしさは、ここにある。

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 5月 19日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【声を出そう!】(新年長児クラス)4月12日(2010年)

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【小2・かけ算の基礎】BW教室byはやし浩司

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*********************

以下、

【URL】

●「声を出そう!」(年長児)

http://www.youtube.com/watch?v=fjADTUwoA8A

http://www.youtube.com/watch?v=To00SRd0XIs

http://www.youtube.com/watch?v=L175iuUGYEo

http://www.youtube.com/watch?v=0qnYabH-eX8

http://www.youtube.com/watch?v=ySC_IWtJWaU

http://www.youtube.com/watch?v=1dkZd2O54X0

●「かけ算の基礎」(小2児)

http://www.youtube.com/watch?v=58eG2Q_iZv4

http://www.youtube.com/watch?v=YiE4rHd-gdw

http://www.youtube.com/watch?v=YJgMTRt0RsA

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 BW教室 BW子どもクラブ BW子ども教室)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●なし崩し的既成事実化

+++++++++++++++++++++

「独島(日本名、竹島)と、K国の核兵器と
かけて、何と、説く?」。

答……「なし崩し的、既成事実化」。
共に、ものごとをなし崩し的に、既成事実化しよう
としている。

+++++++++++++++++++++

●矛盾する論理

 韓国の人たちは、「オレたちは、K国とはちがう」と思っているかもしれない。
とくに、K国の核開発問題については、そうであろう。
K国は事実上、核兵器を所有し、核保有国であることを、既成事実化しようとしている。
韓国政府も、「それは認めない」とがんばっている。

が、同じように韓国は、K国と同じことをしている。
竹島(独島)への実効的支配を強化し(中央N報)、竹島は韓国領土であることを、
既成事実化しようとしている。
同じ民族。
発想が、よく似ている。
……というより、K国は、韓国のあとを、懸命に追いかけている。

今日(4月10日)の韓国・中央N報は、つぎのように伝えている。

 「…… 鄭総理は日本の独島(ドクト、日本名・竹島)領有権の主張に関し、『日本がこの
問題を持続的に取り上げるのは、韓日間の未来の発展に決して役立たない。すでに韓国の
国民が居住しているが、独島に対する実効的支配をさらに強化していく必要がある』と強
調した」と。

 つまり事実上、支配しているから、竹島は、韓国の領土だ、と。
しかしこんな論理がまかりとおるなら、K国の核兵器開発問題は、どうなる?
K国も同じ論理をふりかざして、「自分たちの国を核保有国として認めろ」と騒いでいる。

●シャドウ論

 韓国とK国を並べてながめていると、ユングのシャドウ論が、頭の中を横切った。
韓国のもつシャドウを、K国が受け継いでいる。
そんな感じがした。
そんな感じがしたので、韓国とK国、それにシャドウ論をからめて考えてみたい。
うまくまとめられるかどうか自信はないが、一度、書いてみる。

 シャドウ論……「シャドウ(影)」として、心の裏に閉じこめられた人間性は、その近く
にいる人に伝染しやすい。その一例として、佐木隆三の『復讐するは我にあり』がある。

 昨年(09年3月)に書いた原稿を、もう一度、ここでとりあげてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

++++++++++++++++++++

ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。

で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、
人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。

といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

++++++++++++++++++++

●みな、かぶっている

 たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、
「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、
お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

 今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で
作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。

私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。
ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

 映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で
作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

 以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

 もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、
読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。

たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

 が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、
(現実)とは、しっかりと切り離すこと。

たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、
「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、
「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

 しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、
よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたり
する。

 が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、
自分のことを(神)と思いこんでしまう。

が、それだけではすまない。

●シャドウ

 このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を
繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。

が、さらに恐ろしいことが起きる。

 このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付
しておく。

こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

 ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と
言っていた。
が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に
閉じことによって、善人を演じていただけである。

そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。

では、どうするか。

 私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、
泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。

この私だって、そうだ。

 で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++

【シャドウ論】

++++++++++++++++

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。
するとやがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分
で、自分は善人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも
私は善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体
に演技ぽい。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。
それがシャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、
まあ、それに近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身
近にいる人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の
醜いところをそっくりそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、お
だやかで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜
い欲望が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好
きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、
そのシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができ
た。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単
位の話ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねた
まれると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみ
ならず、自分の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っ
ていました。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚
く、その人をののしっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなか
ったかと思います。母には、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの一
面を、そっくりそのまま受け継いでしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシ
ャドウのもつ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらな
いこと。といっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての
仮面。店員としての仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰っ
て家族を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、
それだけではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受
けつがれてしまう。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 
幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ユング 仮面 ペルソナ 
シャドウ論)

++++++++++++++++++

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、
夫としての仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴
られても、にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよ
い。ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、
ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事
件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないこ
とがわかる。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンシ
ョンに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育に
も熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言った
とする。「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰
よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思
って、そう言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウが
つきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断
している人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところ
がある。「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですって
ねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、その
まま学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場
町であったがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断す
る基準が、出身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きつい
でしまう。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れよ
うとしている」と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる
基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』で
ある。佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みご
とな演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさるこ
とながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、
とるけん」と言う。そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た
人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印
象を与える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握ら
せる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不
倫関係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、
そっくりそのまま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげ
る原動力になった。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、そ
の仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけ
ならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言え
る。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのま
まの自分を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、
まし。もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子
どもにとっては、好ましいということになる。

(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャド
ウ論 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●韓国とK国

 K国は韓国に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、韓国は、何もしてこないだろう」と。
一方、韓国は日本に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、日本は、何もしてこないだろう」と。

 そしてK国は、韓国に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをして
いる。
韓国は、日本に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをしている。
ともにその根底にあるのは、被害妄想と「甘えの構造」。

 たしかに韓国はK国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。
南北統一についても、今、統一したら、それこそたいへんなことになる。
南北統一を望んでいないのは、当の韓国ということになる。

 一方日本は韓国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。
竹島の実効的支配を進めれば進めるほど、世界に向かって、「竹島は韓国の領土ではない」
と、宣言しているようなもの。
どうしてあんな島に、ヘリポートを作り、一般人を住まわせるのか?
その(無理)が、不自然!
不自然だから、無理をする!
世界の人は、だれしも、そう思う。
本当に自分の領土なら、もっと堂々としていればよい。
姑息なことをするから、かえって疑われる。

●で、シャドウ論

 K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ。
わかるか?
表では正論をぶっているが、仮面の下では、姑息なことを繰り返している。
自動車にしても、「前から見れば、TOYOTA車、うしろから見れば、NISSAN車」。
そんな車を、平気で作っていた。
ほんの10年前の話である。

 日本中の、それこそ津々浦々にまで産業スパイをはびこらせ、日本から奪えるものは、
何でも奪っていった。
その結果が今である。
ウソだと思うなら、韓国の現在の産業構造を見ればよい。
20〜40年前の日本の産業構造そのもの。
自動車、鉄鋼、電子産業などなど。
反対に韓国が独自に発展させた産業は、ひとつもない!
 
 それをK国は、横から見ている。
そして韓国が生来的にもっていた(姑息さ)を、K国がそっくりそのまま引き継いでいる。
先に「K国は、韓国のあとを追いかけている」と書いたのは、そういう意味。

 ……と書くのは、書き過ぎ。
かなり過激。
私もそれをよくわかっている。
しかしこれだけは言える。

 韓国の人よ、K国の人よ、なし崩し的に、ものごとを既成事実化するのは、やめよう。
「竹島」にしても、韓国の人よ、日本人がおとなしいからといって、それをよいことに、
言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをやるのは、やめよう。
いいか、韓国の人よ、K国が崩壊したら、竹島どころではなくなるぞ。
へたをすれば、38度線以北は、中国の領土となる。
「渤海国」になる。
わかっているのか。
そのとき日本に泣きついてきても、遅いぞ。

 ここは冷静に!
この極東アジアで、だれが友人で、だれが友人でないか、少しは頭を冷やして考えろ。
謙虚になれ。

 「自分たちの領土でない」ということを、心の奥で自覚しているからこそ、日本政府の
発言に、そのつどビクつく。
大騒ぎする。
それがいやなら、もっと正々堂々と、国際裁判所という「場」で、たがいに証拠をあげて
闘おうではないか。
どうしてそれがまずいのか?
何かまずいことでもあるのか?

 以上、「竹島(独島)」問題を、シャドウ論をからめて、考えてみた。
どこか「木に竹を接ぐ」ようなエッセーになってしまったが、許してほしい。
竹島問題の記事を読んだとき、ふと「シャドウ論」が頭の中を横切った。
「K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ」と。
それでこんなエッセーになってしまった。

 「?」と思われる人がいるなら、このエッセイを、「朝鮮問題」と、「シャドウ論」の2
つに、頭の中で分けて読んでほしい。
勝手な願いで、ごめん!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 竹島問題 独島問題 シャドウ論 はやし浩司 ユング シャドウ論 
実効的支配 なし崩し的支配)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【井上ひさし氏と、死生論】

●明日から仕事!

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長い春休みも、終わった。
楽しかった。
で、今日は、5キロ近く、ランニングした。
ほかに30〜40分ほどの散歩。
明日からの仕事に、備えた。

体調、OK!
脳みそ、OK!
新年度も、この調子で乗り切るぞ!

+++++++++++++++++

●井上ひさし氏

+++++++++++++++++

井上ひさし氏という作家が、死んだ。
面識はないが、何度か、近くに感じたことはある。
「この喫茶店に、よく来ますよ」と、
そんな話を、ある雑誌社の編集部の人がしてくれたのを
覚えている。
喫茶店というのは、G出版社(大手出版社、大田区)
の本社前にある、喫茶店をいう。

「いつも座る席が決まっていましてね。
ほら、あそこですよ」と。

当時は毎週のようにG社に足を運んでいた。
以来、その喫茶店へ入るたびに、井上ひさし氏を
探した。
が、一度も、見たことはない。
ないが、井上ひさし氏がいつも座るという
席に、ときどきすわってみたことはある。
それで「近くに感じた」。

私は井上ひさし氏の書く文章が好きだった。
あるときは、10冊くらい、本をまとめて買い
したことがある。
ワイフが何かの手術で、3〜4日、入院した
ときのことだった。
「井上ひさしの本が読みたい」と言ったので、
そうした。

++++++++++++++++++

●死

 「死」は人生、最大のテーマ。
賢人たちの言葉を拾ってみる。

I live now on borrowed time, waiting in the anteroom for the summons that will 
inevitably come. And then ーI go on to the next thing, whatever it is. One doesn't 
luckily have to bother about that. 
ーAgatha Christie, "An Autobiography" (アガサ・クリスティ、自叙伝)

私は、かならずやってくる召還を、待合室で待ちながら、今は、借りた時間の上で生きて
いる。
どうであれ、私はつぎの世界へ行く。
人は、幸運なことに、それについて心を煩わす必要はない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

I shall tell you a great secret my friend. Do not wait for the last judgement, it 
takes place every day. 
ーAlbert Camus

友よ、最大の秘密を話してやろう。
最後の審判を待ってはいけない。
それは毎日、なされている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

To the wellーorganised mind, death is but the next great adventure. 
ー Albus Dumbledore

たいへんよく組織された心には、死は、ただのつぎの大きな冒険にすぎない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

A Lizard continues it's life into the wilderness like a human into heaven. Our fate 
is entirely dependent on our life 
ーAndrew Cornish

とかげは、人間が天国で生きるように、野生の中でまた生きる。
我々の運命は、我々の生命次第ということ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Even in the desolate wilderness, stars can still shine. 
ー Aoi Jiyuu Shiroi Nozomi 

どんな荒野にいても、星は輝き続ける。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

This existence of ours is as transient as autumn clouds.To watch the birth and death 
of beings is like looking at the movements of a dance. A lifetime is a flash of lightning 
in the sky. Rushing by,like a torrent down a steep mountain. 
ー Buddha (c.563-c.483 B.C.)(釈迦)

我々の存在は、秋の雲のように、移りやすいもの。
人の生死を見るのは、踊りの動きを見るようなもの。
人生は、稲妻の閃光のようなもの。
険しい山から流れ落ちる、急流のようなもの。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

100 per cent of us die, and the percentage cannot be increased. 
ー C.S. Lewis, "The Weight of Glory" 

100%、我々は死ぬ。
そしてそのパーセンテイジは、それ以上増えることはない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●希望

 この中で、私はつぎの言葉に、希望をいだく。

To the wellーorganised mind, death is but the next great adventure. 
ー Albus Dumbledore

たいへんよく組織された心には、死は、つぎの大きな冒険にすぎない。

 わかりやすく言えば、しっかりと、スキがないほどまでに、心を準備すれば、死がやっ
てきても、冒険に出かけるように、自分を取り乱すこともなく、死を迎えることができる
ということ。

 ただほとんどの人は、「死はやってくるもの」と思っている。
しかしこれは誤解。
自分自身が内部から崩壊すること。
それが死。
「やってくるもの」ではない。
つまりDNAには、あらかじめ自己崩壊が、プログラムされている。
思春期になって、ひげが生え、初潮を迎えるように、死もまた、プログラムされている。

 が、死を恐れる必要はない。
「死」があるから、今、私やあなたは、ここに存在する。
もし死がなければ、この地球は、生き物だらけになってしまう。
平安時代以後の人間だけを積分しても、たいへんな数になる。
毎年100万人ずつ生まれたとしても、1000年で、20億人!
毎年1000万人ずつ生まれたとしても、1000年で、200億人!

 先人たちが死んでくれたおかげで、そこに「空き」ができ、私たちは、その「空き」の
中で生まれることができた。
言い替えると、私たちが死ななければ、つぎの世代の人たちは、生まれてくることができ
ない。
つまり私たちは死ぬことで、席を、つぎの世代の人たちに譲る。
私たちはこうして、常に新しい生命と、入れ替わる。

●wellーorganised mind

 で、「死」について。
どう考えたらよいのか。
が、それにはいくつか、ポイントがある。

 その第一は、「生命を自分だけのものと考えてはいけない」ということ。
私たちの生命は、私たち個人のものではない。
そうでないと思うなら、一度、自分の手先をじっくりとながめて見たらよい。
あなたは、指一本、自分で作ったわけではない。
爪ひとつ、自分で作ったわけではない。
「生命」という大きな流れを、あなたは受け継いだにすぎない。
その「生命」を、自分のものと思うこと自体、バカげている。

 その第二は、自分の「生命」を、つぎの「生命」に伝えていくこと。
自分のところだけに、とどめてはいけない。
「自分の命は、わたしのもの」と、そう考えてはいけない。
私的所有物か何かのように考えてはいけない。
あなたは、自分の中の(あなた)を、つぎの世代に伝えていく。
方法はいろいろあるだろう。
教育も、そのひとつ。
が、大切なことは、つぎの世代の人たちが、より有意義に、より真・善・美に
近づけるように、その踏み台となること。

 その第三は、今あなたが受け継いだ「生命」を完全燃焼させること。
中途半端はいけない。
完全燃焼。
それは「今」を生きる人間の義務と考えてよい。
つまりこの世の中には、生きたくても生きられない人は、いくらでもいる。
そういう人たちの分まで、生きる。
その一語に尽きる。

これは私の勝手な解釈だが、それが「wellーorganised mind」、つまり、それが
「じゅうぶん組織化された心」ということになる。
言い替えると、それこそが死を克服するための、ゆいいつの方法ということになる。

 ところで、ここでひとつ気になったことがある。

 老齢期をさして、「死の待合室」という。
よくそういう言葉が出てくる。
私も何度か使ったことがある。
その「死の待合室」というのは、アガサ・クリスティの「in the anteroom for the summons
(召喚状を待つ控え室)」という言葉から、出てきたのでは?
「anteroom」というのは、「待合室」を意味する。
少なくとも日本人の発想ではない。
余計なことだが……。

 なお「wellーorganised mind」という言葉を使った、アルバス・ダンブルドアという
人が、どんな人か、私は知らない。
「ハリーポッター」の中に、出てくる老人に、同姓同名の人がいる。
その人のことか?

 さようなら、井上ひさし。
ご冥福をお祈り申し上げます。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 死 死について 賢者の言葉 死の待合室 アガサ・クリスティ 井上
ひさし)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●偏頭痛(映画『シャッター・アイランド』)

++++++++++++++++

朝方、偏頭痛で目が覚めた。
理由は、すぐわかった。
昨夜、映画『シャッター・アイランド』を見てきた。
深夜劇場だった。

激しい光の点滅。
めまぐるしい動き。
それに「超字幕」という字幕。
「超字幕」というのは、ふだんの字幕より、
字数が多いということか?
(ところで字幕の翻訳は、めちゃめちゃ。
字幕英語というのがあるのはわかるが、それにしても……?)

それがよくなかった。
おかげで今朝は、偏頭痛。
評価は、星2つの、★★。
実に思わせぶりの、不親切な映画。
『シックス・センス』『ミラーズ』『ビジター』『マトリックス』
などとは、比較にならない。
意外性を期待していたが、がっかり。

「謎解き」とか、「あなたにはこの謎が解けるか」とか、
映画案内に書いてあった。
しかし謎でないものを、おおげさに謎らしくしただけ。
謎でくるんだだけ。
簡単に言えば、「テディ・ダニエルズ(保安官、ブラッド・ピット)は、
ただのxxの1人」だった。
それですむ話。
(「映画のはじめに、結末を他人に話さないでくれ」と、
おかしな注意書きもあったので、「xx」にした。)

久しぶりに偏頭痛薬をのんで、ふたたび眠りなおす。
それにしても、不親切な映画だった。
観客をもてあそんだだけ。
つまり、もてあそばされただけ。
だから星は2つ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●不忘念(ふもうねん)

++++++++++++++++++

『一念岩をも通す』。
そうした強い意志(=念)を、「不忘念(ふもうねん)」という。
この言葉を頭のどこかに置きながら、自分の過去を
振り返ってみる。

たいしたことはできなかったが、それでも、
私はそのつど、何かをしてきた。
そのひとつが、ある宗教団体を相手に、5冊の本を
書いたこと。
命がけだった。
が、結果として、東洋第一と言われるほど豪華な
正本堂を、私は解体に追い込むことができた。

もうひとつは、山荘。
6年かけて土地作りをし、そこに山荘を建てた。
一度はトラックごと、崖下に落ちて死にかけたこともある。
そういう過去を振り返ってみると、その裏に、私なりの
「不忘念」があったことがわかる。

まず(したい)という思いをもつ。
そのほとんどは、そのまま消えてなくなってしまう。
そこでさらに強く(したい)と思う。
するとその先に道が見えてくる。
が、道が見えたからといって、願いがかなうという
わけではない。
やはりそのほとんどは、そのまま消えてなくなってしまう。
しかしこれだけは言える。

「〜〜をしたい」という思いがなければ、
何ごとも始まらないということ。
たとえ無駄に終わることがわかっていても、まず、「したい」と
思う。
まず、動く。
機関車にたとえるなら、石炭をくべて、車輪を回す。
人生はそこから始まる。

++++++++++++++++++

●70歳まで現役

 私は決めた。
「70歳まで現役」と。
そのための準備作りも始めた。
とりあえずは、(1)体力作りと、(2)ボケ防止。
健康第一だが、それは当然。

 で、60歳になる少し前、私は、仕事を縮小することばかりを考えていた。
「あと、2〜3年働ければ、それでいい」と。
それにどこかの男が、「老齢期を迎えたら、生活をコンパクトにしなさい」と言った。
私は一時、その言葉を、真に受けた。
土地を切り売りしたり、人づきあいを制限したりしようとした。
が、どうしてコンパクトにしなければならないのか。
また、何のために?

 私はまちがっていた。
おかしな寄り道をしてしまった。
そこで一念発起。
「70歳まで現役」と。
心に誓った。
とたん、(やるべきこと)が、ズラズラと並んだ。
その第一が、(1)体力作りと、(2)ボケ防止。

●体力作り

 先月、恩師のTK先生に会った。
その前会ったときは、杖をついて歩いていた。
が、今回は、杖なし。
右足の人工関節の調子も悪くなさそうだった。
万歩計を見せながら、「毎日1万歩、歩いています」と。
横にいた、お嬢さん(立教大学教授)は、こう言った。
「どうしてこうまでがんばるのでしょうね」と。

 それを聞いて、私は心底うれしくなった。
TK先生はいつも、「健康は不可逆的に悪くなる」と。
が、その反対のことが起きた。
健康だって、がんばれば、取り戻せる。
TK先生は、それ教えてくれた。

 で、このところ自転車で、20〜30キロ、走破することがある。
暇さえあれば、歩行器の上で歩く。
汗をかく。
70歳まで現役をつづけるためには、それなりの準備が必要。
「かろうじて今日はだいじょうぶ」という程度では、70歳まではがんばれない。
70歳までがんばるためには、50歳の体力を作り上げなければならない。
それではじめて、60歳から70歳までの10年間を、現役を通すことができる。

●ボケ防止

 こわいのは、「ボケ」。
それに「気力の弱化」。
……というわけでもないが、今は、携帯端末に興味をもっている。
現在はE−mobileの携帯端末を使っている。
すでに3年目になる。
が、どうも使い勝手がよくない。

 そこで今度発売になった、DOCOMOの「XPeria」。
それに目をつけた。
超小型のパソコンのようなもの。
昨日もドコモショップへ行って、あれこれと相談してみた。
デザインというか、その洗練された機能に驚いた。
「すごい!」の一言。

 「電話機能だけあればいい」という、怠けた声も聞こえないわけではないが、
それではいけない。
「いけない」と思って、自分の体にムチを打つ。
今度高校生の前で、サッサと、XPeriaを披露してやろう。
高校生たち、びっくりするだろう。
が、それが楽しみ。

 ヒヒヒヒ……。

 つまりボケ防止のためには、どんどんと新しい分野に切り込んでいく。
またそれにまさる方法はない。

●不忘念

 さて、不忘念。
体力と気力は、密接に連動している。
東洋医学でも、そう教える。
というより、体力イコール、気力と教える。
区別していない。

 そんなわけで体力が弱くなると、気力も弱くなる。
気力が弱くなると、何をするにも、おっくうになる。
だからこそ不忘念。
あえて不忘念。
いくつか「念」を立ててみる。

(1)どんなことがあっても、電子マガジンの発行をやめない。

 現在、週に3回、電子マガジンを発行している。
1回で、原稿20枚以上(40字x36行)と決めている。
それを守る。

(2)自転車通勤をふやす。

 現在、週に3〜4単位(1単位=40分)にまで少なくなっている。
それをこの4月から、再び、5〜6単位にもどす。

 ただし、「結果」は求めない。
やるべきことはやる。
しかしあとは、「なるようになれ!」。

また30〜40代のころは、有名になりたいと思ったこともある。
が、今は、もうない。
ないというより、望んでも意味はない。
どうでもよい。

 「結果」として収入があれば、それでハイブリッド車を買う。
老後用の、終の棲家(ついのすみか)を建てる。
終の棲家は、私が死んだあとのワイフのため。

 「不忘念」というほどおおげさなものではないかもしれないが、
そのつもりでがんばる。

 2010年4月10日。
書斎まで朝食のにおいが、あがってきた。
もうすぐワイフが、「できたわよ」と声をかけてくれるはず。
みなさん、今日もがんばりましょう!
「不忘念」で、がんばりましょう!



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. みなさん、   o o β       
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 5月 17日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【教育のダイナミズム】

●教育の自由化論byはやし浩司

++++++++++++++++++

読売新聞の調査結果が、韓国の東亜B報に
掲載された。

(日本)→(韓国)→(日本)と迂回した
ことになる。
興味深い調査結果だったので、ここに
収録させてもらう。

++++++++++++++++++

●居眠りする高校生

++++++++++++++以下、東亜N報より++++++++++++++

「韓国人生徒は居眠りし、日本人生徒はぼうっと座っていて、米国人生徒は食べたり、私
語がやまない…」 
日本の文部科学省傘下の教育機関が、韓国や米国、中国、日本の4カ国の高校生を対象
に、
授業に臨む態度について調査した結果、国ごとにこのような傾向を見せたと、読売新聞が
8日付で報じた。今回の調査は、4ヵ国の高校生6200人を対象に、昨年夏から秋にか
けて実施された。 
この調査の結果によると、韓国人生徒らの32.3%が授業時間に居眠りするのを、「普
通の行動」、または「たびたびおこなっている行動」だと答え、日本(45.1%)に次
き2位だった。一方、米国や中国人生徒らはそれぞれ20.8%と4.7%に止まった。
韓国人生徒らはまた、「授業内容をノートにこまめに書いている」と回答した比率は68.
1%と、日本(93.1%)や中国(90.1%)、米国(89.1%)より低かった。
「授業時間に積極的に発表する」という回答も、韓国人生徒らは16.3%に止まり、米
国(51.5%)や中国(46.2%)より一段と低かった。 
一方、日本人生徒らは、「(授業時間に)ぼうっと座っている」という回答が45.8%
と、米国(59.4%)と同様高い割合を示した。また、米国人生徒らは、「隣の友人と
私語をする」や、「授業中におやつを食べる」という回答もそれぞれ64.2%と46.
9%と、4カ国の生徒のうちもっとも高かった。また、「メールを送ったり、授業内容と
は関係のない本を読む」という生徒も、38.9%ともっとも多かった。 
一方、中国人生徒らは、授業への参加度が高く、授業態度も全般的に良好であり、韓米日
の生徒らとは対照的な姿を見せた。

++++++++++++++以上、東亜N報より++++++++++++++

●データの整理

(授業中、居眠りをしている)

居眠りについて、「普通の行動」、または「たびたびおこなっている行動」

    日本人    45.1%    
    韓国人    32.3%
    アメリカ   20.8%
    中国      4.7%

(授業内容をノートにこまめに書いている)

    日本人    93.1% 
    中国     90.1%
    アメリカ   89.1%
    韓国人    68.1%

(授業時間に積極的に発表する)

    アメリカ   51.5%
    中国     46.2%
    韓国     16.3%

(授業時間に、ぼうっと座っている)

    アメリカ   59.4%
    日本     45.8%
    
 結論として、「中国人生徒らは、授業への参加度が高く、授業態度も全般的に良好であ
り、韓米日の生徒らとは対照的な姿を見せた」とのこと。

●「必須科目」という幻想

 この数字を見ただけで、日本の子どもたちが今、学校でどのような様子なのか、よくわ
かる。
参観日に見せる様子を、(すべて)と思ってはいけない。
あれはあくまでも、「ショー」。
ショーということは、あなた自身が、いちばんよく知っているはず。

 では、どうすればよいのか?

 私はいまだに「必須科目」という科目の意味がよくわからない。
たとえば私は毎年暮れに発売になる、「IMIDAS」という総合用語辞典がある。
私は毎年、その本を買っている。
で、一度、「必須科目」と言われる科目に相当する部分が、どの程度の分野なのか、こまめ
に調べたことがある。
そのとき、私は、「学校で習う分野(内容ではなく、分野)は、20分の1から、30分の
1であることを知った。

(たったの20分の1だぞ!)

 その20分の1のことのために、それを「人格形成に必要不可欠な知識、教養」と思い
こまされ、日夜学校でしごかれている子どもが、あわれ。

 ちなみにオーストラリアでは、「キャンピング」という科目が、必須科目(コンパルサリ
ィ)になっている。
理由を聞くと、「荒れ地で独りになっても、生きていかれるように」と。
また語学にしても、フランス語、ドイツ語に並んで、中国語、日本語、インドネシア語か
ら選択できる(中1レベル)。
インドネシア語が選択できるのは、「隣国だから」と。

以前書いたエッセーを、ここに紹介する。
日付は、2007年の9月になっている。

++++++以下、2007年9月、発表のエッセーより++++++++

●実用的なことを教える

++++++++++++++

この日本では、実用的なことを
教えるのは、邪道であるというふうに
考えている教師は多い。

統計的な数字があるわけではないが、
そういう風潮は、たしかにある。

このことは、アメリカの中学校で
使う教科書と比較してみると、
よくわかる。

アメリカの中学校では、「中古車の
買い方」(代数)というテーマから
数学の学習に入る(プレンティス版、
「代数」)。

金利計算(=小数の計算)、さらには
小切手の切り方などまで、その(流れ)
の中で教えている。

どうして教育が実用的であっては
いけないのか。アカデミックな部分も
必要かもしれないが、みながみな、
その道の学者になるわけではない。

+++++++++++++++

 「勉強は役に立たない」と考えている子どもは、多い。このほどベネッセが発表した「学
習基本調査」によると、「役に立つ」と答えた小学生の割合は、東京、ソウル、北京、ロン
ドン、ワシントンDC、ヘルシンキの中で、最低だったという。

 希望の進学段階も、北京の小学生の65・2%が、「大学院まで」と答えているが、東京
の小学生は、「高校まで」という回答が、相対的に多かったという。

 さらに学習時間数についても、東京では1時間以下が、49・3%いる一方で、3時間
半以上が、18・1%いるそうだ。

 全体の平均も、

 東京 ……101・1分
 ソウル……145・8分
 北京 ……131・6分、とか。
(以上、「学習基本調査の国際比較」、ベネッセ、東京、ソウル、北京、ロンドン、ワシン
トン、ヘルシンキの、小学5年生(10〜11歳、公立校)で調査。06年6月〜07年
1月、産経新聞より)
 
 私が住むこのあたりでも、「高校は部活動を一生懸命やって、推薦で高校へ入る」という
中学生が多い。北区にある、ある中学校の校長は、「そういう子どもが、全体の60%はい
る」と話してくれたのを覚えている。

 最近の子どもたちは、勉強をしなくなった。……というより、勉強する子どもと、しな
い子どもの二極化が、ますます進んでいる。その一方で、進学を目的とした受験競争は、
はげしくなっている。それが「東京では1時間以下が、49・3%いる一方で、3時間半
以上が、18・1%」という数字になって、表れている。

 なぜ学校の勉強はおもしろくないか? それについては、今まで繰りかえし書いてきた。

+++++++++++

【日本の教育が遅れるとき】 

●英語教育はムダ?

 D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日本語もよくわからない子ども
に、英語を教える必要はない」と。つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。

しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、
外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るの
はムダ」と。私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。
しっかりとした日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論をする前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校で
は、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている(※1)。

たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、
4歳児から子どもを預かり、コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立大
学で講師をしている知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。

「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、
教育の目標だ」と。

事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。
「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること(※2)」(長野県経営
者協会会合の席)と。オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達し
ていて、子どもたちは学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こう
いう時代に、「英語を教える必要はない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文
法学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者
になるには、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体
系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立たない。

こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっ
とかわいそうだ。

たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分
の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、3人称単数だの、そんなことばか
りにこだわっているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。ちなみに中学1年の入
学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、1年の終わりには、ほとん
どの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なも
のなのか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切
なものなのか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つ
というのか。

こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活
を営む上で必要な基礎学力だ」と。

もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほし
い。「なぜ中学一年で一次方程式を学び、三年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねばなら
ないのか」と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上から押しつ
けても、子どもたちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなけれ
ばいけないのかと思う」と、疑問に感じているというではないか(ベネッセコーポレーシ
ョン・「第三回学習基本調査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さて冒頭の話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。
こういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから英語
を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子どもが
いる。早くから学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。
早くから教える必要はないという人もいる。

要は、それぞれの自由にすればよい。そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのよ
うにクラブ制にすればよい。またそれができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」
ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべ
き姿ではないのか。それでほとんどの問題は解決する。

※1……州政府は学習内容を六つの領域に分け、一応のガイダンスを各学校に提示してい
るが、「それはたいへんゆるやかなもの」(同小学校、オクーイン校長)とのこと。各学校
はそのガイダンスの範囲内で、自由にカリキュラムを編成することができる。

※2……ブレア首相は、教育改革を最優先事項として、選挙に当選した。それについて在
日イギリス大使館のS・ジャック公使は、次のように述べている。「イギリスでは、一九九
〇年代半ば、教育水準がほかの国の水準に達しておらず、その結果、国家の誇りが失われ
た認識があった。このことが教育改革への挑戦の原動力となった」「さらに、現代社会はI
T(情報技術)革命、産業再編成、地球的規模の相互関連性の促進、社会的価値の変化に
直面しているが、これも教育改革への挑戦的動機の一つとなった。つまり子どもたちが急
激に変化する世界で生活し、仕事に取り組むうえで求められる要求に対応できる教育制度
が必要と考えたからである」(長野県経営者協会会合の席で)と。そして「当初は教師や教
職員組合の抵抗にあったが、国民からの支持を得て、少しずつ理解を得ることができた」
とも。イギリスでの教育改革は、サッチャー首相の時代から、もう丸4年になろうとして
いる(2001年11月)。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【実用的な教育】

● すべての国民は、国の教育機関で、平等な教育を受ける権利がある。……ということで、
学校教育は発達した。しかしそれが達成されたあとは、「教育」そのものに対する考え方は
変わってくる。変わって当然である。それはちょうど、食事に似ている。貧しい時代には、
腹がふくれれば、それでよかった。しかし人々の意識が、ある一定のレベルを超えると、
それは必要なことかもしれないが、それでは足りない。料理が発達し、人々が食生活に楽
しみを求めるようになったのと同じように、親や子どもたちは、教育に、「中身」を求める
ようになった。

+++++++++++++++

●何のための歴史教育

 生きた歴史教育は、「今」という時点で考えて、はじめて可能である。それはたとえて言
うなら、料理の教育に似ている。料理にしても、自分で作ってみて、はじめてそれがわか
る。

 昨夜も高校受験をひかえた中学生と話しあってみた。彼はこのあたりでも一番と呼ばれ
る進学校を受験することになっている。たまたまアヘン戦争の話をしたが、こう言った。

「道光帝が、林則徐を広州に派遣した。で、アヘンを没収し、イギリス貿易を中止したん
だ。それで一八四〇年に、イギリス議会が、清に対して宣戦を布告した……」と。

 そんな彼でも、私が「では、どうして今の北朝鮮が日本を目の仇(かたき)にしている
のか」と聞いても、「知らない」「わからない」と言う。「あんな国は、あっという間にやっ
つけてやる」とも言う。「しかし向こうは、100万人の兵隊をもっているよ。日本は20
万人だよ」と、私が言うと、「アメリカが、核兵器で始末してくれるさ」と。

●実用的でないのが教育?

 こうした例は、英語にも、国語にもある。恩師のT教授も、理科もそうだという。(私に
は理科教育はよくわからないが……。)日本の教育は、伝統的に、どこかおかしい? 本当
におかしい? 教えるべきことを教えないで、教えなくてもよいようなことばかり、教え
ている? 何かしら役にたたないようなことを教えるのが教育と、誤解しているような面
すらある。反対に、実用的なことは教えてはいけないというような風潮すら、ある。

 アメリカでは、中学校での上級数学(Advance Math)では、中古車の買い方から教え始
め、小切手の切り方まで教える。高校で車の運転のし方を教えるところも多い。もちろん
免許も学校で取れる(地方の高校など)。

●学者になるには、すぐれた体系
 
が、この日本では、その道のエラーイ先生がたが、教科書をつくる。だから日本の教科書
は、将来、数学者や歴史学者、英語の文法学者になるには、きわめてすぐれた体系をもっ
ている。しかしみながみな、数学者や歴史学者、さらには、英語の文法学者になるわけで
はない。そういう道に進むのは、全体の1%もいないのでは? 

 歴史教育にしても、なぜ私たちが歴史を学ぶかといえば、過去を学び、未来にその経験
や失敗を生かすためである。頭でっかちのモノ知りを育てるためではない。少し前だが、
こんなことを暗記している中学3年生がいた。

 「富山のチューリップ、長野の高原野菜、浜名湖のウナギ……」と。

そこで私が、「高原野菜って何?」と聞くと、「知らない……」と。さらに「浜名湖でウナ
ギの養殖なんか、もうしてないよ。みんな台湾や中国から輸入しているよ」と言うと、「い
いの、そんなことは!」と。こういう教育の現実を、いったい、どれほどの人が知ってい
るだろうか。

英語にしても、学校で習う英語は、まったく役にたたない。そんなことは、40年も前か
ら言われつづけてきた。50年かもしれない。しかしやっと重い腰をあげたのは、ほんの
数年前。その成果が出てくるのは、これから先、さらに20年後?

●教育の自由化を

 みなさん、もっと教育を自由化しよう。もっと教育を自由に考えよう。もっと教育を自
由の流れの中に置こう。ドイツやイタリアのように。カナダやオーストラリアのように。
今の日本の教育は、いまだに戦前のあの軍国主義時代の亡霊を引きずっている。学校万能
主義。第一主義。絶対主義などなど。私たちは、あの北朝鮮の教育体制を見て笑うが、ど
こがどう違うのか。私には、その「違い」がわからない。

 たとえばドイツでは、子どもたち(中学生)は、たいてい午前中で授業を終え、そのあ
と、好きなクラブに通っている。いろいろなクラブがある。月謝は1000円程度。費用
はチャイルドマネーによって、国によって補助されている。イタリアもそうだ。

大学についても、ヨーロッパは、全体として、すでに完全に共通化された。こういう時代
が、もう世界の常識だというのに、いまだに、学歴社会だのなんのと、バカみたい。いい
学校だの、いい大学だのと、バカみたい。学生たちは、その道のプロになるために大学へ
行く。大学院へ行く。しかも、だ。欧米では、奨学金を手にした学生たちは、自由に大学
間を渡りあるいている。

●人間選別の弊害

 今ごろ教育改革しても、遅い。遅過ぎる。この日本では、せっかくすぐれた才能をもっ
ていても、進学という関門を通りすぎるたびに、ふるい落されていく。つい先日も、O君
というマレにみる、優秀な子ども(小学生)がいた。小学3年生のときには、中学3年生
でもできないような難解な数学を、自分で考えた方法で解いていた。

しかしこういう子どもを伸ばす機関が、日本にはない。理解もない。そこで東京の私立中
学を受験したが、残念ながら、どこも不合格。「社会ができなかったから……」と、O君は
言った。

 こういうO君のような例は、本当に多い。が、これからは、もうそういう時代ではない。
貧しい時代の学校教育から、豊かな時代の学校教育へと変身しなければならない。その豊
かな時代とは何かといえば、それぞれの人が、自分の個性を光らせて生きる時代をいう。

これに対して、「全教科、まんべんなくできる子どものほうが、望ましい」という意見もあ
る。しかしその「全教科」にしても、本当に全教科なのか。私は以前、毎年、冬に刊行さ
れる「時事辞典」※を調べてみたが、学校で習う勉強など、その辞典の20分の1から3
0分の1にもならない。「全教科」「基礎学力」といいながら、何をもって全教科というの
か。何をもって、基礎学力というのか。

 たとえばオーストラリアのグラマースクールでは、中学1年レベルで、外国語にしても、
ドイツ語、フランス語、中国語、インドネシア語、日本語から選択できる。芸術にしても、
美術、音楽、演劇などが、それぞれ独立している。ほかに宗教もあれば、読書、キャンピ
ング、コンピュータなどもある。全体に広く浅く教えながら、子どもの多様性を認める教
育システムになっている。そして学外クラブも発達していて、それ以上に学びたい子ども
は、それぞれのクラブに通っている。

●自由度で決まる、国の力

 国家の力は、いかに民衆が自由であるかによって決まる。教育とて例外ではない。すぐ
れた教育というのは、いかに多くの、将来への選択肢を子どもに与えることができるかで
決まる。

 話がぐんぐんと脱線してしまったが、なぜ私たちが子どもを教育するかといえば、子ど
もたちが将来、多様性のある社会の中で、柔軟(フレキシブル)に、力強く生きていくこ
とができるようにするためである。

とくに歴史教育は、先にも書いたように、過去を学び、未来にその経験や失敗を生かすた
めである。しかしその歴史教育一つとっても、子どもたちの世界では、まったく役にたっ
ていない。日本よ、日本の親たちよ、本当にこんなことでよいのか?

注※「イミダス」の索引の中から、学校の授業(英数国社理)で扱うような項目と、そう
でない項目を分けてみた。その結果、ここでいう20分の1から30分の1という数字を
算出した。

++++++以上、2007年9月、発表のエッセーより++++++++

●教育の自由化を!

 今となっては手遅れ。
なぜ日本の教育が、こうまで硬直してしまったのか?
ダイナミズムを失ってしまったのか?
その理由の一つとして、私は「ぬるま湯」論をあげる。

 たとえば幼稚園教育。
幼稚園そのものが、学校法人の名のもと、国から手厚い保護を受けている。
そこそこの指導(教育ではなく、指導)をしていれば、経営は安定する。
そういう中で、「これが幼児教育です」という「形」を作ってしまった。
もちろん「そうであってはいけない」と、がんばっている幼稚園も多い。
が、そういう幼稚園は、少数派。
たいはんの幼稚園が、ぬるま湯につかったまま、そこに安住してしまっている。

 では、どうするか?

 英語の格言に、『空の飛び方は、崖から飛び降りてから考えろ』というのがある。
つまりそれくらいまで追いつめられないと、だめという意味。
人は自分のもつ力を、引き出すことはできない。
そのためには、教育を自由化する。
ひとつの例として、郵便局と宅配会社の関係を、私はあげる。

 当初、宅配会社が全国規模で宅配を開始すると言ったとき、時の郵政省は、それに猛烈
に反対した。
無数の理由をこじつけた。
が、結果は、どうか?
今ではネットを使って、宅配物はどこにあるか、何時ころ配達されるか、リアルタイムに
それがわかるようになった。
しかも配達時間まで、指定できる。
これが「自由化」である。
自由化の恩恵である。

 文科省は、サラミ戦術(少しずつ切り出しする方式)で、改革なるもの(?)を進めて
いる。
が、こんな方法では、日本の教育は何も変わらない。
変わらないばかりか、ますます世界の潮流から、取り残されてしまう。

●夢

 私は夢見る。
子どもたちが、毎日の授業を楽しみにし、生き生きと学ぶ姿を!
 私は夢見る。
子どもたちが、自分の目標をもち、その目標に向かって進んでいく姿を!
 私は夢見る。
子どもたちが、自分たちの力で、自分たちの未来を作っていく姿を!

 ……キング牧師の演説風に書いてみた。

 具体的には、何度も書くが、(1)単位制の導入、(2)クラブ制の導入ということにな
る。
(3)教師の雑務からの解放も重要。
それについては、10年以上も前から、繰り返し書いてきたので、ここではここまで。

 結論として、もう一度、冒頭にあげたデータをながめてみてほしい。
あなた自身の学生時代を思い出してみてほしい。
あなたは、それでよいと思っているのか?
これでよいと思っているのか?

もし「NO!」なら、私がここに書いたようなことを、あなたも一言、口にしてみてほし
い。
そういう声が集合されたとき、日本の教育は変わる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 居眠りする子ども 教育の自由化 イミダス はやし浩司 教科書論 
実用的な教育 おもしろくない教育)
2010年4月9日記

【NG先生からのコメント】

はやし浩司 様
 
専門学校で感じていることです。
資格をとって仕事に就くという目的をもって入学してきているはずなのに、何という体た
らく、学ぶ意欲はあるのだろうか?
送っていただいた原稿にあったように、多くの学生が寝ているのです。勿論、授業の仕方
に一因があることは認めるのですが、それにしてもと思います。
 
先生の原稿にあった「私は夢を見る 生き生きと学ぶ姿・・」、小生もこのことを期待し、
それなりに工夫をしているのです。最近では小学生ですら、話の聞けない子が目立つよう
になり、放課後子ども教室における課題の一つとなっています。
 
学ぶことは、本来、楽しいもの(苦痛は当然伴います)であると思います。学ぶ意欲はど
こから生まれ、どのように高まっていくか、解決したい課題の一つです。
学校現場は目先のことに追われ、教育の全体像を見失いがちですし、政策としての教育に
も欠けている部分があります。どのような日本人の育成を目指すのかが分かりづらいこと
です。教基法には書かれているものの、国民に浸透してはいません。ブレアのように「1
に教育、2に教育・・」と力強く政策を展開することは今の政治に期待できそうもありま
せん。
 
不勉強な小生ですらこの先に不安を感じます。どうしたらいいのか悩む日々です。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「20年したら灰になってる……」(老人問題)(改)

●老人よ、若者たちの世界で、もっと意見を言おう!

+++++++++++++++++

最近、……ここ10年のことだが、
若者たちの老人観が、急速に変わりつつある。
あるチャット・サイトでの議論の1つを
紹介する。
この中で、若者たちは、こう言っている。

(1)老人の医療費は無駄……どうせ20年もしたら、灰になって死ぬから。
(2)寿命を半年短くすればよい……医療費の半分は、死亡前の6か月に使われる。
(3)老人の延命は、税金の無駄遣い以外のなにものでもない、と。

 誤解があるといけないので、そのまま紹介させてもらう。
これはほんの一部で、こうした議論が、延々とつづく。
ここに紹介するのは、その議論の結論的な部分。

++++++++++以下、転載+++++++++++

……生活保護受給者は死ねとか、低年収の者は生かさず殺さずとかってならわかるけどな。 
道徳的には別として。 

136 名前:名無しさん@十S年 

国家予算の大半が、老人の、介護、年金、医療費に費やされて破綻寸前なわけだが。 
老人にいくら金使っても、20年したら灰になってるんだから、完全な無駄だ。 

137 名前:名無しさん@十S年

お前も老人になるんだよ 
まさか自分は年を取らないとでも思ってるの? 

138 名前:名無しさん@十S年

医療費の半分は、患者の死亡前6ヶ月以内に使われている。 
平均寿命をたった半年短くするだけで、医療費は半減できる。 

139 名前:名無しさん@十S年 

元気で長生きするのは良いが、病気なら無駄な抵抗は止めて、さっさと死なせるべき。 
老人の延命など、医療資源の無駄遣い以外のなにものでもない……。 

++++++++++以上、転載+++++++++++

●「20年したら灰」

 「20年したら灰」?
平均寿命(約80歳)から逆算すると、私たちの年代ということになる。
80−20=60。
つまり私たち60代の人間をさして、「20年したら灰」と。
この言葉には、少なからず、ショックを受けた。
本音と言えば、本音。
若者たちが抱いている本音。
しかしこんな本音が、今、少しずつだが、表の世界に出始めている。

●医療費の半分

 医療費の半分は、患者の死亡前6か月以内に使われているとか。
私もこの事実を、(これが事実であるとするならばの話だが)、知らなかった。
だからその若者は、「平均寿命を半年短くすれば、医療費は半減できる」と。

 人間の命を、「数字」に置き換えているところが、恐ろしい。
私たちにも青春時代があったが、そういう視点で老人や医療費を考えたことはない。
平均寿命が年を追うごとに延びていくことを、率直に喜んだ。
「世界一の長寿国」と言われることを、誇りに思ったこともある。

●無駄な抵抗

 「病気なら無駄な抵抗は止めて、さっさと死なせるべき」と。
このセリフは、私たちが使うなら、問題ない。
私自身も内々では、そう言っている。
が、あくまでもそれは、(私個人)についての話。
「家族に迷惑をかけるくらいなら、さっさと死にたい」と。
しかし一般論として、若者たちに言われると、驚くというより、ぞっとする。

●40年後の心配

 私はこの年齢になっても、40年後の心配をしている。
2050年には、日本はアジアの中でも小国になってしまう(G・S経済調査部)。
が、それにとどまらない。
資源がないから、「所得」はとどまることなく、「流出」する。
日本は世界第一の、所得流出国。
わかりやすく言えば、50万円稼いでも、そのうちの何割かは、
そのまま外国へと流出していく。
ほんのちょっとつまずいただけで、貧乏国へと、そのまま転落してしまう。
日本の経済構造は、基本的に、そうなっている。

この数日間、それについてエッセーを書いてきた。
しかしこのチャットを読んだとき、空虚感を伴った、バカらしさを覚えた。
「どうしてこの私が、40年後の日本を心配しなければならないのか!」と。

●幻の繁栄

 「今に見る経済的な繁栄は、私たちが作った」などとは、言わない。
若者たちに恩を着せる意図は、みじんもない。
が、私たちはがむしゃらに生きてきた。
私たち自身のために、がむしゃらに生きてきた。
「ひもじさ」の恐ろしさを知っている。
その「ひもじさ」から逃れるため、がむしゃらに働いてきた。
その結果として、現在の繁栄がもたらされた。

 しかし今の若者たちは、(ボットン便所)から(水洗便所)になったときの、
あの喜びを知らない。
車を運転し、アメリカのジュースを飲むときの、あの喜びを知らない。
その気になれば、毎日だって寿司を食べられる、あの喜びを知らない。
が、私たちは知っている。
私たちはそのつど、「ぼくたちはすごいことをしている」と、それを喜んだ。

 が、若者たちよ、これだけは忘れないでほしい。

 現在のこの繁栄は、薄い氷の上に、かろうじて乗っている幻のようなもの。
壊れるときには、あっという間にこわれる。

●今の若者たちへ

 もちろんこうした意見は、若者たちの中でも、一部のひとたちのものである。
みながみな、そう考えているわけではない。(……と信じたい。)
ただこのことも、どうか忘れないでほしい。

 私たちにも、今の若者たちと同じような青春時代があった。
そのときも、今と同じような青い空があり、緑の山々があった。
その色は、この年齢になっても、まったくあせていない。
つまり私が言いたいのはこのこと。
肉体という「箱」は、ボロボロになっても、中身は同じ。
若いときも、老いた今も、同じ。

 若者たちから見れば、用なしの役立たずに見えるかもしれないが、私たち自身は
そうは思っていない。
何かしたいと願っているし、だれかの役に立ちたいと思っている。

 が、ひとつだけ大きくちがう点がある。
それは私たちには、未来がないということ。
どこをさがしても、ない。
「20年たったら、灰」というのは、あまりにも明白な事実。
あまりにも明白であるがゆえに、そんな残酷なことを、わざわざ口にしないでほしい。
私たちを、さらなる悲しみへと、追い込まないでほしい。

 私たちだって、懸命に生きてきた。
今も、懸命に生きている。
老人の仲間になったからといって、心に刺さる矢の痛さが、軽くなるということはない。
今の若者たちと同じように、痛い。

●では、どうすればよいか

 ともかくも否定的なことばかりを考えてはいけない。
若者たちを批判しても、意味はない。
私たち老人にも、いろいろと問題はある。
それは認める。
では、どうすればよいのか。
それを前向きに考える。

 これには2つの方向性がある。

(1)私たち老人は、どうあるべきか。
(2)若者たちに、どう「命」を教えていくべきか。

 この2つを考える。

●老人は、どうあるべきか

 老人は人生の先輩である。
よりよく生きるための知恵やノウハウをもっている。
それをもっと生かしながら、老人は老人としての存在感を高める。
肉体で勝負できなければ、精神で勝負する。
決して老人という(隠居の世界)に、安住してはいけない。

 私たちにも、(やるべきこと)がある。
その(やるべきこと)を見つけ、それを現実化していく。
若者たちの目から見たとき、「老人がいなければ、困る」というような状況を、
老人たち自らが作っていく。

 たとえば私は以前、「60歳からの徴兵制度」について書いた。
満60歳になったら、2年間、不定期でもよいから、軍事教練を受ける。
軍事教練が無理なら、せめて銃や大砲の使い方くらいは、覚える。
いざとなったら、予備兵として、日本の防衛に立ちあがる。

 ……というようなことを、老人の立場で、もっともっと主張してもよいのでは
ないか。
さがせば、やるべきことは、いくらでもあるはず。

●命の教育

 しかし、それにしても……。
教育の立場で、一言。

こういうことを平気で書き、論ずる若者たちがいること自体、教育の敗北と
とらえてよい。
もちろん政治も悪い。
正義を示せないばかりか、政治そのものが、利権・欲得の追求の場になっている。
で、「教育だけは……」と思いたいが、その教育までもが、受験を目的とした
予備校化している。

 先のチャットサイトの少し前では、こんな議論もなされている。

++++++++++以下、転載+++++++++++

110 名前:名無しさん@十S年 

少なくとも、年収200万以下の税収のたしにもならん低所得者に医療を与える必要
はないだろ。 
所得比例で健康保険料取ってるんだから、使える医療費も、所得比例で上限を作れ
ばいい。 
上限を超えたら、治療中断して諦めてもらう。 
年収200万の低所得者を、何千万も掛けて治療するのは無駄だよ。 
50万の価値しかない車を、100万使って修理するようなもの。 
111 名前:名無しさん@十S年 

貧乏人は早く死ぬ方が経済にはプラス。 
患者を治療するかどうかは、治療してまた働かせる方が得か、死なせる方が得かで
判断するべき。 
社会復帰すれば年収1000万の患者と、社会復帰してもせいぜい年収300万の患者
じゃ、治療の経済価値が違う。 
年金を食いつぶすだけの高齢者なんか、治療の経済価値はマイナスでしかない。 
今でも、家畜を対象としてる獣医はそうやってる。 
患畜を治して太らせてから出荷する方が得か、さっさと殺す方が得かの判断で、治
療するかどうか決める。 

え?人の命は地球より重いだって? 
平和ボケ乙 

112 名前:名無しさん@十S年

余命幾日なんて、厳密に予言できるものではないけどなー 
割と適当よ 

++++++++++以上、転載+++++++++++

 つまり「命の教育」といっても、学校という場でなされる教育をいうのではない。
私たちがそのつど、若者たちと接する場で、直接的になされる教育をいう。
そういう場で、それを示すことができればそれでよし。
そうでなければ、それこそ私たちは、いったい何のために生きてきたのかということに
なる。
何のためにがんばってきたのかということになる。
私が今、感じている敗北感は、それに近い。

 ちなみに、私もこれからは、こうしたチャットサイトにどんどんと参加して、
自分の意見を書いてやる。
私たちの生き様を示してやる。

●終わりに……

 こうした若者は一部と思いたいが、しかし先にも書いたように、こういう意見が
(表の世界)に出てくるようになった。
そのこと自体が、問題。
またこういう(力)が、現実に世の中を、そういう方向に動かし始めている。
そこに私は近未来的な恐怖を感ずる。

 ……というより、これはもう「覚悟」の問題かもしれない。
現在、がんを患い、闘病生活を送っている義兄(75歳)もこう言った。

「浩司君(=私のこと)、治療にも暗黙の申し合わせ事項のようなものがあってね、
満75歳以上のがん患者については、どうも手術はしないことになっているらしい」と。

 その「75歳」が、やがて「70歳」になり、さらに「65歳」になる。
そういう時代が、すぐそこまで来ている。
私たちはそれを覚悟するしかない。
覚悟して、その上で、これからの老後を考えるしかない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●老人よ、パソコン片手に、もっと若者たちの世界に切り込んで行こう!
●老人よ、携帯端末機を片手に、もっと若者たちの世界で、意見を言おう。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●さあ、今日も始まった!(4月9日)

●畑作

+++++++++++++++++++++

1週間ほど前、畑に苗を植え足した。
キュウリやシシトウの苗など。
そのうちの数本が、枯れ始めた。
トマトも寝ころんだまま。
「風のせいだろう……」と思っていた。
しかし葉先から枯れ始めているところをみると、
肥料の与えすぎ(?)。
昔からこう言う。
『肥料のやりすぎは、根を枯らす』と。
教育の世界でも、よく使われる格言である。

で、昨日、近くのショッピングセンターで、
新たに10本あまりを、買い足してきた。
ところが、である。
店で見たときは、生き生きとしていた苗だが、
もって帰って家で見ると、みな、横に倒れて
しまっていた。

店で並んでいるときは、密集した状態。
おまけに屋根の下。
つまり「温室」。
苗がみな、ヒョロヒョロになっていた。
気がつかなかった。
で、分けたとたん、自分では体を
支えきれなくなってしまった。

『温室育ち、外の世界で、すぐ風邪をひく』
という。
これも教育の世界で、よく使われる格言である。
昨日買ってきた苗は、まさにそれ。
「大きく育っているから、安いな」と思った。
背丈は、15〜20センチくらいになっていた。

しかたないので、ビニールで囲った上、細い
棒で茎を支えてやった。
ワイフは「たぶん、だめね」と言う。
私もそう思うが、しかしだからといって、
見捨てるわけにはいかない。

あとは、その苗のもつ生命力に期待するしかない。
育つものは、育つ。
育たないものは、育たない。

ところで、教訓。
あの苗というのは、「大きいから安い」と
考えてはいけない。
小さくても、茎が太くて、しっかりしたものを買う。
こんなことはこの世界では常識で、私もよく知っていた。
畑作をするようになって、もう25年以上になる。
が、今回、失敗した。
なぜだろう?
「ショッピングセンターで売っている苗だから、
だいじょうぶだろう」と思ったのが、まちがいだった。
そそくさと、あわてて買ったのもいけなかった。

これから先、こういうミスが多くなりそう。
気をつけよう。
つまり油断というより、注意力が散漫になる。
それが失敗につながる。
なにごとも慎重に!

+++++++++++++++++++++++

●作曲(リズム音)ソフト

 オーストラリアの友人が、おもしろいソフトを届けてくれた。
「aM Laboratory」というのが、それ。
称して、「作曲ソフト」。
正確には、「リズム作成ソフト」と書くべきか。
日本ではまだ紹介されていない。(……と思う。)
製品版では、YAMAHAが似たようなものを出している。
しかしこの「作曲ソフト」は、無料。

 昨夜、私も一通り遊んでみた。
結構、楽しかった。
おもしろかった。
方法は簡単。

 ブロックになったマスが現われるので、適当にあちこちを左クリック
する。
たとえば漢字の「林」となるように、クリックしてみるなど。
それで自動的に音楽(リズム)が始まる。
消去するときは、(スペース・バー)を押せばよい。

興味のある人は、(↓)から。

http://lab.andre-michelle.com/tonematrix

 リズムに合わせて、何か適当な歌を口ずさんでみるとよい。
説明書きによれば、i−phoneの着メロとして、張りつけることが
できるとか。
(残念ながら、私は、i−phoneを使っていない。)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【貪欲とは】

●自分を「縛(しば)る」もの

 私たちの体は、無数の「糸」によって、縛られている。
社会の糸、家族の糸、過去の糸、生い立ちの糸、能力の糸、年齢の糸、健康の糸
……などなど。
そうした「糸」が、ときとして私たちの進むべき道を決めてしまう。
それを「運命」というなら、人間には、「運命」がある。

 ただ誤解してはいけないのは、私はスピリチュアル(霊的)な、運命というものは
認めない。
ここでいう「運命」というのは、無数の「糸(ファクター)」が集合したもの。
「結果として、そうなる」というだけ。

 もちろんそうした「糸」と、闘うことはできる。
進むべき道は決まっているとは言いながら、糸は糸。
進むべき道を、自分の力で変えることもできる。
だから運命というのは、それを通り過ぎたとき、はじめてそこにあったことを知る。
先に、「私たちの進むべき道を決めてしまう」と書いたが、それは決定的なものではない。
またそう考えてはいけない。
運命を感じたとしても、それに身を任せてはいけない。

 で、もちろんその「糸」には、強弱がある。
強い「糸」もあれば、弱い「糸」もある。

●強い「糸」

 強い「糸」は、当然のことながら、私たちの体を縛りつけてくる。
たとえば親の介護がある。
現在、私の友人のNG氏は、その介護をしている。
数日前に届いたメールには、こうあった。

 「母は目が見えないため、2時間おきに介護しなければなりません」と。

 介護がいかにたいへんなものであるかは、私にもよくわかる。
1日とて、……というより、1時間とて、気が休まるときがない。
私の母のばあいも、1年目は、私の家にいて、2年目は、特養に入居した。
特養に入居したからといって、それで気が楽になったわけではない。
電話のベルが鳴るたびに、「もしや……」と思った。
何かのことで外泊するときもそうだった。

 まず特養へ電話を入れて、様子を聞く。
外泊先からも、電話を入れて、様子を聞く。
心の壁に、何か、重い鉛が張りついたような感じになる。
私がいう「糸」というのは、それをいう。

●あきらめて、受け入れる

 こうした「糸」を考えるときには、ひとつのコツがある。
(自分の力では、どうしようもない糸)と(自分の力で、何とかなる糸)。
まず、この2つを分ける。
(自分の力では、どうしようもない糸)については、あきらめて、受け入れるしかない。
親の介護も、そのひとつということになる。
いくら「いやだ」と思っていても、あきらめて、受け入れるしかない。
へたにあがいたり、もがいたりすれば、運命はキバをむいて、私たちに襲いかかってくる。
が、ひとたびあきらめ、受け入れてしまえば、運命は、向こうからシッポを巻いて、
逃げていく。

 私のばあいがそうだった。
それまで姉から、さんざん苦情を聞かされていたから、母の介護をすることについて、
少なからず、私はおびえていた。
しかしひとたびそれが始まってみると、私は、こう思った。
「子どもの世話より、はるかに楽」と。
「少なくとも、孫の世話より、はるかに楽」と。

 私の家に来た直後……というより、車で浜松へ来る途中から、母は下痢を繰り返した。
いろいろあった。
母との間には、いろいろあった。
しかし母の汚れた体を拭いてやったその瞬間、それまでのわだかまりが、ウソのように
消えた。

 たいへんは、たいへんだったが、その直後から、母の介護を日課のひとつとして、
こなすことができるようになった。

●貪欲な人

 同じ「糸」でも、今度は(外面的な糸)と(内面的な糸)に分けることができる。
ここに書いた母の介護は、言うなれば(外面的な糸)ということになる。
これに対して、(内面的な糸)がある。
(心の糸)と言い替えてもよい。
仏教的に表現すれば、「貪欲の糸」「執着の糸」「ねたみの糸」などが、それに含まれる。

 本当に恐ろしいのは、こうした(内面的な糸)ということになる。
「私」自身が、操り人形のように、その「糸」に操られてしまう。
操られながら、操られていることにすら、気づかない。
私が私でなくなってしまう。
それこそ運命の中に、埋没してしまう。
だから、恐ろしい!

 ある男性は、まさに金(マネー)の亡者だった。
明けても暮れても、考えるのは、金のことばかり。
自分の妻ですら、家政婦、あるいは従業員くらいにしか考えていなかった。
もちろん家族への思いなど、ゼロ。
「仕事のためなら、家族は犠牲になって当然」と考えていた。

 もちろんケチ。
法事のお返しに、100円ショップで買った商品を包んだというから、ふつうではない。
すべての価値を、金に置き換えていた。
人間関係も、損得計算をしてから決めていた。
貪欲な人というのは、そういう男性のことをいう。

 で、問題は私たち自身。
そういう男性を身近に見ると、だれしも、「私はちがう」と思う。
「私は、あいつとはちがう」と。
しかしその実、それほどちがわない。
程度の差こそあれ、みな、同じ。
というのも、貪欲かどうかは、あくまでも相対的なもの。
マザーテレサのような女性から見れば、この日本には、貪欲でない人はいない。
またどんな貪欲な人でも、どこかの国の、あの独裁者と比べたら、聖人のようなもの。

 「執着」「ねたみ」についても、また同じ。

●魂のかいほう

 「自由」とは、こうした「糸」からの解放をいう。
とくに(内面的な糸)からの解放をいう。
一言で言えば、「魂の解放」をいう。
好き勝手なことをするのを、「自由」とは言わない。

 で、キリスト教というと、「愛の宗教」と考えている人は多い。
しかしキリスト教には、もう一本の柱がある。
それが「自由」。

 つまり横軸を「愛」とするなら、縦軸が「自由」ということになる。
これは私の勝手な解釈によるものだが、この両者があいまって、私たちは「渇き」、
つまり「孤独」から解放される。
言うまでもなく、「孤独」ほど、恐ろしい「罪(sin)」はない。
仏教でも、「無間地獄」と位置づけている。

 簡単に図示してみると、こうなる。
          
          自由
          |
          | 
  愛ーーーーーーーーーーーーー愛
          |
          |
          自由

 「愛」については、何度も書いてきたように、「許して、忘れる」。
英語では「Forgive & Forget」。
「どこまで相手に愛を与えるために許し、どこまで相手から愛を得るために忘れる」か、
その度量の深さで決まる。

 「自由」については、ここに書いたように、「魂の解放」をいう。

●さあ、今日も始まった

 ともかくも、私たちの体は、無数の糸によって、がんじがらめになっている。
私たちは日々に、その糸の中で、もがき、苦しむ。
「それが人間」と言えば、相手によっては、たいへん失礼な言い方になることは
よく知っている。
しかし私たちがなぜ、ここにいて、なぜ生きているかと聞かれれば、それから生まれる
無数のドラマに価値があるからということになる。

 平凡は美徳だが、その平凡からは何も生まれない。
ヘタをすれば、ただ息(いき)ているだけという状態になる。
これには老いも若きもない。

年老いても、(生きている)人は、いくらでもいる。
若くても、ただ、(息ている)人は、いくらでもいる。
前にも書いたが、「老い」は、肉体という(入れ物)では決まらない。
年齢という(数字)でも決まらない。
中身。
中身で決まる。
今、どう生きているかで、決まる。

 また人間が生きる美しさは、運命と闘う、そのドラマの中から生まれる。
またそのドラマに価値がある。
それが真の幸福につながる。
あのトルストイもこう言っている。

『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛
すること。信ずること』(第五編四節)と。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、
最終的には幸福になるピエール。
そのピエールの言葉である。

 ……ということで、今朝も始まった。
4月9日。
昨日は長男の誕生日だった。
みなで温泉へ行き、レストランでパーティを開いた。
楽しかった。

+++++++++++++++

(付記)貪欲さについて

●あらゆる動物において、もっともはげしい欲望は、肉欲と飢餓である。(アディソン「ス
ペクテーター」)

●われわれをいちばん強く支配する欲望は、淫欲のそれである。
この種の欲望は、これで足りるということがない。
満足させればさせるほど、ますます増長する。(トルストイ「読書の輪」)

●貪欲は、偶像礼拝にほかならず。(新約聖書・コロサイ人への手紙)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 自由論 運命論 糸論 貪欲論 生きる意味 愛と自由)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司


【寸又峡温泉、「翠紅苑(すいこうえん)」にて】

●『逢わせ屋』

 旅館も、ネットで調べ、ネットで申し込む時代になった。
またそのほうが、料金も安い。
私はいつも、そうしている。

 で、夕食後、2度目の入浴。
湯が体にあたると、ヌルッとした感じになる。
「美人作りの湯」だ、そうだ。

 で、今は、ワイフはテレビを見ている。
番組名は、『逢わせ屋』とかいうもの。
生き別れになった人を、会いたい人の側に立って、探し出すという番組。
今夜見たのは3例だったが、3例とも、生き別れになった親をさがすというものだった。
当初、「他人の不幸を、もてあそんでいる!」と、かなり強い反発を覚えたが、3例とも、
最後には、もらい泣きをしてしまった。
テレビ局の意図はどうであれ、その向こうにある人間ドラマに感動した。
親を探す子ども。
子どもを思う親。
それぞれに複雑な事情があり、それぞれがそれぞれの思いの中で、懸命に生きている。
それに感動した。

●紙一重

 で、その番組に、1人の女性が出てきた。
年齢は35歳という。
女性がいちばん美しく輝く年齢だが、その女性はどこか疲れて見えた。
それもそのはず。
父親がみなちがう、5人の子どもをかかえていた。
しかもシングルマザー。

 話を聞くと、自分を捨てていった父親に一度会って、父親の本心を聞いてみたい、と。
父親が家を出て行ったあと、その女性は、継父に育てられていた。
いろいろあったらしい。
少女のころから、非行グループに入り、荒れるに荒れた。
で、その番組を見ながら、その女性について、当初は、「ずいぶんと勝手な母親だなあ」と
思った。
ここにも書いたように、父親がみなちがう5人の子どもをかかえている。
(5人だぞ!)

 もしそういう子どもたちがおとなになり、同じように、「父親に会いたい」と言ったら、
どうなるのか、と。
その母親は、それぞれの子どもの父親探しを手伝うのだろうか、と。

 が、幸福な人も、不幸な人も、(その女性が不幸と言っているのではない。誤解のない
ように!)、紙一重。
見た目には大きく違っても、紙一重。
不幸な人は、何をやっても裏目、裏目と出て、不幸になっていく。
自分の意思とは無関係に、不幸になっていく。
どうしようもない(糸)に引きずられるうちに、そうなっていく。

 画面を通して話を聞いているうちに、目頭が熱くなってしまった。

●「刷り込み」

 人間にも鳥類に似た、「刷り込み(インプリンティング)」があることがわかって
いる。
生後まもなくから、7か月くらいまでの間が、その時期。
この時期を通して、親子関係(とくに母子関係)は、本能に近い部分にまで、脳の
中に、深く刻み込まれる。
この時期を「敏感期」という。

 で、こういう書き方は、それ自体が、たいへん不謹慎なこととは思う。
思うが、もし番組に出てきた人たちが、敏感期を経験していなかったら、こうまで
涙ながらに親をさがすことはしなかっただろう、と。
たとえば先の女性には、5人の子どもがいる。
みな、父親がちがうという。
ほとんどが妻子もちの、年上の男性という。
話の雰囲気からすると、5人の子どもたちは、生まれながらにして、父親には
会っていないということになる。
ということは、「刷り込み」はなされていないということになる。
つまり将来的に、「お父さんに会いたい」と、涙ながらに訴えることはない。

 不謹慎な書き方になるが、そういう心配はない。
発達心理学的に考えると、そうなる。
言い換えると、その女性がああまで父親に会いたがっていたのは、そこに
「刷り込み」があったからと考えられる。
さらに言い換えると、「刷り込み」による「力」には、それほどまでに強力な
パワーがあるということになる。

 ともかくも、番組の中で、その女性は父親と再会する。
抱き合って再開を喜ぶ。
泣きあう。
それを見て、私も、思わずもらい泣きをしてしまった。
「よかった」と思った。

●残酷な番組

 ……しかし、一言。
 それにしても残酷な番組である。
一見、不幸な人を助けるような番組に思えるが、その実、不幸な人を、食い物に
している。

 本来なら、つまり本当に人助けが目的なら、そうした(人探し)は、人知れず、
それがだれともわからないまま、したらよい。
番組にするにしても、ショー化(=見世ものに)するのは、最小限にしたらよい。
が、見た人ならわかると思うが、最初から最後まで、ただの「ショー」。
「お父さんは……!」と言って、ボックスになった部屋の取っ手に手をかける。
そこでコマーシャル。

 説得に応じて父親が来ていれば、親はそのボックスの中にいる。
そうでなければ、一通の手紙が置いてある。
「さあ、どうかな?」と視聴者に思わせながら、コマーシャル。
これを「ショー」と言わずして、何と言う?

 だいたいテレビ局が、人探しをすること自体、基本的な部分で、おかしい!
テレビ局が、そうした人探しをしているNPO団体なり、探偵社を取材と
いう形で報道するなら、まだ話もわかる。
どうしてテレビ局が、人探しなのか?
どこでどうつながるというのか?

 ……という回りくどい言い方は、やめよう。
こうした番組は、まずプロダクションが企画を出してくる。
「こういう番組なら、視聴率を稼げますよ」とか、何とか言って、出してくる。
それに応じてテレビ局側は、企画会議を開く。
その場でOKが出れば、プロダクション側は、番組の制作に取りかかる。
私はその間のやり取りを、番組の向こうに感じた。
ある種の(薄汚さ)を感じた。
だから、ここに「不幸な人を、食いものにしている」と書いた。

 ついもらい泣きしてしまった私だが、だからといって、こういう番組を支持
しているわけではない。
すばらしい番組だったと言っているのでもない。
低劣番組であることには、ちがいない。
それも、どうか誤解しないでほしい。

●翠紅苑(すいこうえん)

 実名を書いた以上、悪口は書けない。
書く必要もない。
これからその翠紅苑を出て、岐路につく。
料金を少しケチったので、料理はまあまあといったところ。
しかし旅館のもつ雰囲気は、最高!
食堂には、昭和30年代のテレビが並べてあるところかもわかるように、
われら団塊の世代には、グッとくる。

 そう、団塊の世代、お勧め旅館。
風呂もきれいで、清潔だった。
湯質もよい。
先にも書いたが、都会の一流旅館のような洗練された旅館とはちがうが、
一級旅館であることには、ちがいない。
寸又峡という山奥にあることを勘案するなら、「超」をつけてもよい。
私はじゅうぶん満足した。
ワイフと2人で、「よかったね」と言い合って、この部屋を出る。

(交通)
JR金谷駅から大井川鉄道。
1時間30分。
千頭(せんず)で下車、寸又峡温泉行きのバスで、約40分。

では……。


Hiroshi Hayashi+++++++April 2010++++++はやし浩司

●帰りの電車

++++++++++++++++

千頭(せんず)からJR金谷まで。
電車の中で、ほとんど眠っていた。
ワイフも眠っていた。
「昨夜は、よく眠れなかった」と、
一言、つぶやいた。
「旅館のふとんって、寝にくいわ」とも。

JR金谷で、東海道線に乗り換える。
いつだったか昔、オーストラリア人と
同じ行程を旅したとき、そのオースト
ラリア人が、こう言ったのを覚えている。
「電車を乗り換えるたびに、電車が
大きくなっていく」と。

(トロッコ列車)→(大井川鉄道)→
(東海道線)→(新幹線)と。

そのときは、「おもしろいことを言うな」と、
私は思った。

++++++++++++++++

●3人の女性

 目の前の席に、3人の女性が座っている。
民主党の小沢幹事長を、そのまま女性にしたような感じ。
たいへん失礼な言い方とは思うが、顔を見たとたん、そう思った。

3人とも、欲求不満のかたまりといった感じ。
鋭い視線と、それ以上に、不満そうな顔。
「女」であることを、とっくの昔に捨てきっている。
そのオバタリアンたちが、小声だが、間断なくしゃべりつづけている。

 その向かって左隣には、4歳くらいの女の子を連れた南米人。
窓の外の景色を、楽しそうにながめている。

今、その3人の女性たちが、大きなバッグからスルメを出して食べ始めた。
少し前まで、3人そろって、ガムをかんでいた。
恐ろしいほどの迫力。
傍若無人(ぼうじゃくぶじん)。
年齢は65歳前後か。
顔の上半部よりも、下半部のほうが、大きい。
かみつかれたら、痛そう。

 そう言えば、うち1人は、どこか、見覚えがある。
浜松の女性かもしれない。
もしそうだとすると、この原稿は、ヤバイ!
だからこの話は、ここまで。

●女を捨てる

 「人は女に生まれない、女になるのだ」と書いたのは、ボーボワール。
その言葉をもじると、こうなる。
「女は女を捨てるのではなく、女として相手にされなくなる」と。

 ところで60歳という人生の峠(とうげ)に立つと、こんなことが
わかる。
60歳というそのときを見ると、その人は80歳を過ぎて生きるか、
70歳までに死ぬか、おおよその見当がつく。
80歳を過ぎて生きる人は、健康に留意し、それなりの努力をしている。
70歳までに死ぬ人は、酒を飲み、タバコを吸い、運動もほとんど
していない。
もちろん何かの大病をすれば話はちがってくるが、ひとつの目安としては
正しい。

 人間性も、またしかり。
60歳というそのときを見ると、その人がやがてオバタリアン(オジタリアン
でもよいが)になっていくか、それなりの人間性を保持していくか、おおよその
見当がつく。
(その3人の女性のことを書いているのではない。誤解のないように!)

 人間性を保持していく人は、それなりの努力をしている。
そうでない人は、そうでない。
日々を怠惰に過ごしながら、怠惰に過ごしているという意識すらない。
また「そうであってはいけない」と、自分にムチを打つこともない。
むしろ、「私は完成された人間」と、居直ってしまう。
そのとたん、その人がもつ人間性は、かぎりなく後退していく。

●温泉で……

 今朝は、5時ごろ起きて、温泉につかった。
出て脱衣所のところで、72歳という男性と知り合いになった。
長く造船所で、造船技師をしていたという。
退職後は、パイプに内側に、塩ビを張りつける……というような特殊な
仕事をしていたという。
健康的な肉体。
シャキシャキとした、話し方。

 私はその男性を知ってうれしくなった。
「健康の秘訣は何ですか?」と聞くと、こう話してくれた。
「朝と夕に、毎日2回、45分間ずつ、散歩をしています」
「それと食事には、たいへん気をつかっています」と。

 私はその男性を見ながら、「ぼくも、まだまだがんばれる」と実感した。
私より10歳、年上ということになる。
あとでワイフに、「ぼくはまだ、10年はだいじょうぶだよ」と告げた。
その男性の話をした。

 健康でがんばっている男性と話をするのは、楽しい。
生きる力そものを、もらうことができる。
それに生きる目標になる。
 
 電車はあと数分で、JR浜松駅に到着する。
では……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ボーボワール 人は女に生まれない。女になる 女は女に作られる 健
康 寸又峡温泉 シモーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴ
ォワール )


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 5月 14日
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page008.html

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●固定観念

++++++++++++++++

固定観念。
その固定観念というのは、一度できると
それを打ち破るのは、容易なことではない。
その人の「常識」となって、脳の中で
固定化してしまう。
(だから、「固定観念」という。)
固定化してしまうのみならず、新しい観念の流入を
阻止してしまう。

「私はだいじょうぶ」と思っている人も
いるかもしれない。
「私はいつもものごとをフレキシブルに
考えている」と。

しかし私たちは、無意識のまま、その
固定観念に縛られている。
そしてそれが当たり前と思うあまり、
もっと大切なことを、置き去りにしてしまう。
たとえば……。

+++++++++++++++++

●寸又峡へ

 今日は寸又峡(すまたきょう)という温泉地へ、
やってきた。
静岡県ではよく知られた温泉地である。
JR東海の金谷(かなや)駅から千頭(せんず)へ。
大井川鉄道に乗り換え、そこから寸又峡へ。
(金谷から千頭まで、1時間30分。)

 その寸又峡へは、今回で3度目。
今回は、『翠紅苑(すいこうえん)』という旅館に、一泊することにした。
5つ星の、★★★★★。
寸又峡イチ……というか、「これだけの旅館は、静岡県にも、そうはない」と
言われるほど、評価の高い旅館。
以前からうわさには聞いていたが、そのとおりだった。
玄関を入ったとたん、それがわかった。

都会にある大きな洗練された旅館とは、ちがう。
田舎の小さな旅館である。
が、ズシリとした重みが伝わってきた。
慣れ親しんだ田舎の家を訪れたような、そんななつかしささえ、私は感じた。
 
 で、その途中でのこと。
ここからが「固定観念」の話。

千頭から寸又峡温泉までバスに乗った。
その車内で、またまたあのガイド。
日本独特の、あのガイド。
録音テープによる、あのガイド。

「当地は、江戸時代は○○藩のxxの領地で……何とか何とか」
「中部電力が……何とか何とか」
「発電電力は、十数万キロワット……何とか何とか」
「右手奥に見ます山が……何とか何とか」
「前方に見えてきます山が……何とか何とか」
「ここが峠で、右下の谷は……何とか何とか」と。

 うるさいのなんのと言ったらない。
そういうのが旅のサービスと、バス会社は思い込んでいる。
聞いても、すぐ忘れる。
意味のない情報。
それがなんと40分もつづいた。
こういうのを「固定観念」という。
わかるかな?

 では、外国ではどうか?
……というより、旅には旅の、もっとふさわしいガイドというのがあるはず。
たとえば「このあたりには、ニホンザルやニホンカモシカが出没します。
運がよければ、山の肌にそれを見ることができます。
また木の種類も多く、数百種が生育しています。
春には、20種類以上の野鳥が観察されます。
珍しい鳥にxxがいます」とか、など。

 私たちは静かな旅を楽しむためにやってきた。
自然を楽しむためにやってきた。
社会科の勉強にやってきたのではない。
が、話すほうも、聞くほうも、何も疑問をもたない。
車内ガイドというのは、そういうものと、それぞれが勝手に思い込んでいる。
それが固定観念ということになる。

(ついでに言うと、この時期、ふだんは観光客も少なく、静かな旅になるはずだった。
しかしたまたまどこかの歩く会の人たち、15、6人と乗り合わせた。
その人たちのおしゃべりの、うるさいことといったらなかった。
車内ガイドなど、何も聞いていない。
音声に負けじと、みながさらに大声で話し合っていた。)

●流転

 で、少しまじめな話。

 ますます世の中の動きが速くなってきた。
こうまで動きが速くなってくると、ついていくだけでたいへん。
昨日の常識が、今日は、非常識となる。
が、もっともそれに気づいている間はよい。
動きに合わせて、自分を変えていくことができる。
しかし時として、固定観念にしばられ、世の中の動きを見失うことがある。

 たとえば私たちが子どものころは、「出世」という言葉が、もてはやされた。
「末は博士か、大臣か」と。
そんな言葉もあった。
しかし今は、時代も変わった。
権威主義そのものが、崩壊した。
価値観も変った。
出世主義に替わって、家族主義が台頭した。
ちょうど2000年ごろを境に、この2つが逆転した。

それまでは「仕事のためなら、家族は犠牲になって当然」と、みなが
考えていた。
しかし2000年を境に、仕事より家族を優先する人のほうが、多くなった。
「家族主義」を唱える人も現れた。
(この私のことだが……。)

 が、固定観念というのは、恐ろしい。
60代になっても、70代になっても、さらに80代になっても、
出世主義に毒されている人は多い。
毒されるならまだしも、「私は正しい」と、自分の価値観を他人に押しつけてくる。
言葉に出して言うことはないが、雰囲気でそれがわかる。
そういう人に出会うと、どう話を合わせてよいか、困ってしまう。
またどう話したところで、理解してもらえないだろう。
こんなことがあった。

●ある男性
 
 その人(男性・75歳)はある都市銀行の部長職を最後に、銀行を退職した。
そのあとしばらく子会社の金融調査会社に籍を置いた。
現役時代は、それこそ名刺一枚で、どこの会社でも社長室まで、素通りできた。
輝かしいキャリアである。 
が、退職と同時に悲劇が始まった。

「オレは偉い」といくら叫んでも、だれも相手にしない。
しないばかりか、「あいつはつきあいにくい」と、みながその人を敬遠し始めた。
本来ならここで世の流れの変化に気づき、それに自分を合わせるべきだった。
退職と同時に、自分を変えるべきだった。
しかしそれを認めることは、その人にとっては、自己否定につながってしまう。
出世だけを目標に、家族を犠牲にしてきた。
友人を犠牲にしてきた。
「一社懸命」でがんばってきた。
その結果が「今」ということになる。
まわりの人にしても、「あなたは、もっと大切なものを犠牲にしてきましたね」とは、
とても言えない。

 だからその人は、75歳になった今でも、過去の亡霊にしがみついている。
20歳になった孫娘が2人いるが、そのうちの1人が、工場勤務の工員と結婚することに
なったときのこと。
その人は、孫娘に、こう言って反対したという。
「まともな仕事をしている男と結婚しなさい!」と。

●偏見

 まともな仕事?

 私も・・・と書くのは、今でも気が引けるが、私もこうした偏見に、かなり
苦しんだ。
仕事にまともな仕事も、まともでない仕事もない。
もちろん犯罪がらみの仕事は別だが、稼ぐ金(=マネー)に、名前はつかない。

が、40年前の日本には、「まともな仕事論」というのがあった。
今でも、残っている。
どこかの企業(大きければ大きいほどよい)に勤めて、その年齢にふさわしい地位
で仕事をするのが、「まともな仕事」と考えられていた。
が、それこそまさに士農工商時代の亡霊!

 で、今は私のような仕事をしている人を、「フリーター」という。

フリーターねえ……?
この言葉を考えた人は、相当のセンスの持ち主と考えてよい。
「フリーマン(自由人)」でもない。
「フリー」に「ター」をつけて、ややバカにしたニュアンスを加味した。

が、当時は、風来坊とか無頼(ぶらい)とか、無宿者とか呼ばれた。
そういうレッテルを張られて、社会のワクの外に置かれた。
私もそうだった。
たとえば大手の銀行で、カードを発行してもらおうとしたことがある。
カードがやっと流通し始めたころのこと。
が、「審査の結果・・・」というような返事が来て、拒否されてしまった。
銀行の預金残高を示すコピーをつけて申し込んだが、だめだった。

(念のため申し添えるなら、フリーターが不利なのは、職業的に問題があるからではない。
社会制度上、不利になるようにできている。
日本という国は、どこかの組織に属する労働者については、手厚く保護する。
組織に属さない個人は、保護しない。
公務員とフリーターの(差)を見れば、それがわかる。

しかしこれだけは忘れてはいけない。
むしろ社会の活力、エネルギー、それにダイナミズムは、フリーターと呼ばれる
人たちの間から生まれる。
豊田佐吉も本田宗一郎も、日本を背負って立った人は、みんなフリーターだった!)

 こうした偏見もまた、それぞれの人の固定観念によって生まれる。
その固定観念が集合されて、その時代の社会通念となっていく。
が、それは同時に社会を硬直化させる原因となる。

●これからの日本
 
 話が大上段になるが、これからの日本が、これからの未来を生き残るには、
こうした固定観念を、ひとつひとつ、ていねいに打ち砕いていく以外に、道はない。
何度も書くが、2050年には、このままでは、日本はアジアの中だけでも、
ごくふつうの小さな国になってしまう。
2050年というと、40年後である。
現在の小学生たちが、50歳前後になるころである。

 が、さらに心配されるのは、そこで日本の衰退が止まるわけではないということ。
60年後・・・、80年後・・・。
それを思うと、ぞっとする。
そのときのことを考えて、日本がどうあるべきかを考える。

一説によれば、「アジアもEUのように連合化される」と説く人もいる。
それもそのひとつの選択肢かもしれない。
あるいはアジア大陸を飛び越えて、日本がEUの一員になることも考えられる。
しかし今の日本を思うと、中国や韓国と、連合するということは、ありえない。
その間に横たわる民族的な溝(みぞ)は、あまりにも深い。

 で、固定観念を破る。
たとえば現在、アジアの経済の中心地は、シンガポールである。
東京でもないし、北京でもない。
シンガポールである。
たとえばアジアの経済ニュースは、一度シンガポールに集約され、そこから世界に
発信される。
そのシンガポールは、ありとあらゆる制度を、世界に向けて自由化してきた。
アメリカ人の医師だって、シンガポールでは、自由に開業できる。
アメリカやオーストラリアで取得した資格を、そのまま生かして仕事ができる。
もちろん使用する第一言語は、英語。

 今からでも遅くない。
日本も40年後を見据えながら、これからの日本がどうあるべきかを考える。
そのために私たち1人ひとりがもっている固定観念を、打ち破る。
シンガポールは、40年をかけて、ここまでの地位を築いた。
日本だって、その気になれば、つぎの40年で、現在の地位を取り返すことが
できる。

●具体的に・・・

 言うまでもなく、日本の資産は、「人」。
その人を育てる。
その要(かなめ)となるのが、「教育」。
そこで教育の世界では、こうする。

(1)主要教科以外のクラブ化。
  主要教科は、学校での単位制にする。
  そのほかの科目(語学、絵画、音楽、体育、技術など)は、クラブ制にする。
 「民活」を導入する。

(2)教科書検定制度の廃止と教科書の廃止
 「教科書」ではなく、「テキスト」という感覚にする。
  テキストの選択は、学校単位、教師単位の自由裁量に任せる。
  学力は、各種の検定制度を使って、学外で判断する。

(3)無学年制の採用とカリキュラムの多様化
 「単位制」というのは、無学年制を意味する。
  同時に、カリキュラムはその子どもの能力、才能、やる気に応じて、多様化
  する。
  数学の得意な子どもは、毎日数学の授業を受けられるようにする。
  さらに「電子テキスト」ができれば、学校の外でも、授業は可能になる。
「学校」というワクの中の教育に、こだわらなければならない理由はない。
  これからはそういう時代になる。

 「電子テキスト」というのは、最近アップル社から発売になった、i−Pad
  のようなものをいう。
  それ1台をもっていれば、1台の中に、数百冊分の教科書を保存できる。
  もちろん毎年、更新することもできる。

 少し乱暴な書き方をしたが、ショックを感じてほしかったから、そうした。
ともかくも今の日本の教育に欠けるのは、「活力」。
「教育の活力」ではない。
「子どもたちの活力」。
教師も生徒も、固定観念にしばられ、身動きができないでいる。
子どもたちが窒息してしまっている。
これでは日本の未来は、お先真っ暗!
たとえばここに書いた電子テキストにしても、韓国では2011年から、
すべての学校で採用するという。
が、この日本では、そういう話すら、出てこない。

「予算がない」(つまり、予算的な余裕がない。)
「教科書会社がYESと言わない」(文科省の天下り先になっている。)と。

考え方のひとつとして、参考にしてほしい。

●再び、固定観念

 ただ誤解しないでほしい。
固定観念がすべて悪いというのではない。
それがあるからこそ、日々の生活はスムーズに流れる。
たとえば冒頭に書いた、車内ガイド。
あのガイドにしてもそうだ。
バス会社も、またそのバスに乗る客も、それがガイドというのは、そういうものと
思っている。
だからこそ、問題なく、……というより、それほど深く考えることなく、ガイドを流し、
また客も安心して、それを聞く。
「無難」という言葉は、そういうときのためにある。

 そういうこともあるが、一方で、私たちがもつ固定観念を一度、疑ってみる。
それによって、ひょっとしたら、そこに潜む「真理」に、一歩近づくことができる
かもしれない。
たとえば先のガイドも、20年後には、こう変わるかもしれない。

「……このあたりの開発は、自然保護のため、きびしく規制されています。
野生のニホンザル、ニホンカモシカの保護のため、保護区も制定されました。
保護区の制定のために、地元の人たちが闘ってきた様子は、映画にもなり、
みなさんご存知の通りです……」と。

(はやし浩司 固定観念 固定観念論 こだわり 教育のこだわり 常識 硬直した教育
行政 教育のクラブ化 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 固定観念 常識論)

++++++++++++++++++++++++++

(補記)

●子どもの活力

 先日、こんなことがあった。
ある生徒の母親から、その生徒にパソコンを選んでやってほしいという依頼を受けた。
こういう依頼は、楽しい。
私は自分のパソコンを選ぶようなつもりで、1台を選んでやった。
同時に、私もそれがほしくなり、同じものを買った。

 で、そのパソコンをその生徒に渡した。
そのときのこと。
ふだんから明るい子どもだった。
活発な子どもで、頭もよい。
そんな子どもだったが、パソコンを渡したとき、さらに別人のようにその子どもの顔が、
輝いた。

 私はその顔を見て、驚いた。
私はその子どもがそんなふうに輝いたのを見たことがない。
すでに6年近くつきあっていたのだが、はじめて見る顔だった。

 「ああ、子どもって、こんなふうに輝くのか!」と。
言い換えると、今の教育には、子どもを輝かせる「力」がない。
もともと子ども本来の立場になって、組み立てられていない。

 どこかのエラーイ先生が、「教育とはこういうもの」と勝手に決め込み、
それを子どもたちに押しつけているだけ。
これでは子どもたちの力を引き出す(=educe)ことはできない。
ばあいによっては、子ども本来がもつ活力を、押し殺してしまうことにもなりかねない。

 日本の教育が、基本的な部分でもつ欠陥は、こんなところに隠されている。
だからこそ私は、声高に訴える。
「教育を自由化しろ!」と。

(はやし浩司 教科書の自由化 教育の自由化 子どもたちの活力 子供の活力 教育の
活力。)

●電子テキスト

 最近、アップル社から、i−padなるものが、発売になった。
値段は、4万円前後とか。

 そこで計算してみる。
それ1台あれば、本体だけで、数百冊分のテキストを収納することができる。
100冊分だけでもよい。
1冊、300〜400円前後として、それだけで、3〜4万円分ということになる。
もちろん必要に応じて、メモリーの内容を更新することもできる。
さらに通信機能をつければ、もっとビジュアルな表示も可能。
テキストを音声で読みあげたり、図形の変化を、動画にして示すなど。
 
 「紙」という資源の節約にもなるだろうが、それについては、おそらく教科書会社
が、猛烈な反対運動をしかけてくるにちがいない。

「電子テキスト(教科書)になったら、私たちは生きてはいかれない」とか何とか。
文科省と教科書会社の癒着については、過去、たびたび問題になっている。
中央官僚たちの天下り先にもなっている。
一筋縄ではいかないだろうが、それがここでいう「硬直性」ということになる。

 しかし長い目で見て、こうした流れは、もうだれにも止められない。
紙製のテキスト(教科書)はなくなり、やがてすぐ電子化される。
参考書や辞書などは、必要に応じて、それぞれの子どもがダウンロードして使う。
そういう時代は、すぐそこまできている。
また日本には、その技術がある。
なのに、どうして日本は韓国のあとばかり、追いかけなければならないのか。

(はやし浩司 電子ブック 電子教科書 教科書の電子化 電子ブック化 (はやし浩司 
家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし
浩司 電子教科書)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【国家破綻】(Default of Japan)

●国家公務員制度改革

++++++++++++++++

公務員(職員)の天下り制度にメスを
入れるために、内閣府に、「官民人材
交流センター」がもうけられた(07年
6月)。
それについて当時の渡辺行政改革担当相は、
「細部で骨抜きにされないようにする」と
言っていた。
が、実際は、どうか?
3年たった現実は、どうか?

天下りは、何も中央省庁の公務員(職員)
だけの問題ではない。
こうした天下りは、全国市町村の「村」
レベルでも、慣習的に行われている。
根が深いというか、深すぎる。

つい先日も日本郵政の天下りが、問題に
なった。
「株式会社」になったというのは、あく
までも表向き(?)。
実際には、日本郵政と、天下り先の
癒着(ゆちゃく)ぶりは、以前のまま。
日本郵政は、天下り先となっている外郭団体に
仕事を丸投げ。
本体の日本郵政は赤字でも、外郭団体は、黒字。
我が世の春を謳歌している。

++++++++++++++++++

●ショック!

 ゴールドマン・サックス経済調査部の予測によれば、2050年には、日本はGDPに
おいて、世界第8位に転落する。
中国の10分の1。
アメリカ、インドの5分の1。

 この数字を見てまっさきに思い出いだしたのが、2008年の8月に書いた原稿。
それをそのまま転載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●無給の国家公務員?

そんな国家公務員がいることなど、
私は、今まで知らなかった!

私は、今まで、国家公務員の給料というのは、
(総人件費)÷(国家公務員数)で計算する
ものばかりと思っていた。

しかし無給の国家公務員がいるとなれば、
この算出方法は、役に立たなくなる!

つまり国家公務員の給料は、無休の国家公務員をふやすこと(=分母を大きくすること)
で、ごまかされている?

++++++++++++++++++

 保護司という役職(?)は、「無給の国家公務員」だそうだ。「法務大臣から委嘱(いし
ょく)されたボランティアで、保護監察官と協力して、環境調整と、保護観察の仕事に当
たっています」(保護観察所配布パンフ)とある。

 そしてここが重要だが、別のパンフには、こうある。「保護司は、非常勤で一般職の国家
公務員とされています。給料は、至急されません」と。

 全国のみなさん、わかるか? この不透明感。

 現在、国家公務員や地方公務員が、いったい、いくらの給料を手にしているか、それを
正確に知っている人は、ほとんどいない。公表している団体も、自治体もない。しかし計
算方法がないわけではない。

 そこで国家公務員の給料を知るための、もっとも簡単な方法は、(総人件費)を(公務員
数)で割るというもの。産経新聞は、この方法で、国家公務員(行政職国家公務員)の給
料を算出している。それによれば、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費
の総額は、4兆6571億円だそうだ(産経新聞・05・06)。

 この数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1403万円
(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2万人で計算)
そして社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っていることになる(ギ
ョッ!)。

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、
つぎのようになっている。

 1人当たりの人件費

    (国家公務員)          ……1403万円(上記算出方法)
     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均
人件費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! ナ、何と、3倍近
いもの給料(人件費)を手にしていることになる。

 しかし保護司のような、無給の国家公務員までいるとは知らなかった。ということは、(総
人件費)÷(国家公務員数)で、国家公務員の給料を算出しても、意味がないということ
になる。

 その保護司だけでも、全国に、5万2500人(保護司法、第2条第2項、定数)もい
る。この無給の国家公務員、5万2500人を国家公務員に加えて、総人件費を割れば、
当然のことながら、みかけ上、国家公務員の給料は、低く算出される。

 言いかえると、その分だけ、さらに国家公務員は、手厚く保護されることになる。つま
りもし保護司のような無給の国家公務員を、国家公務員としてその数に算入すれば、国家
公務員の給料は、さらにあがることになる! わかりやすく言えば、1403万円という
数字そのものが、あやしくなる! 保護司のほか、無給の国家公務員は、いったい、何人
いるのか? 無給ではなくても、非常勤で、安い給料に甘んじながら、身分だけは国家公
務員という人もいるだろう。そういう人たちは、何人いるのか?

 知らなかった!

 しかしまあ、いろいろなところに、カラクリがあるものだ。日本は官僚主義国家という
ことになっているが、ここまでやっているとは、夢にも思わなかった。全国には、まじめ
な気持ちで保護司というボランティア活動をしている人も多いはず。

 が、その仕事そのものが、別のところで、官僚たちの利益に利用されていると知ったら、
保護司の人たちは、どう思うだろうか。考えれば考えるほど、頭にくる話ではないか!

+++++++++++++++++

昨年(05)書いた原稿を、ここに
そのまま添付します。

+++++++++++++++++

●国家公務員の給料

 このほど、はじめて、国家公務員の人件費が、公表された(産経新聞・05・06月)。

 それによると、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4兆6
571億円だそうだ※。

 人件費については、たとえば、社会保障費の場合、総額は20兆3808億円と公表さ
れているが、これには335億円の人件費が含まれている。公共事業費など他の項目にも
紛れ込んでいる人件費を抜き出すと、一般歳出総額の9・8%にのぼる(同)。

 つまり、これらの数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間
1403万円(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・
2万人で計算。)そして社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っている
ことになる(ギョッ!)。

 この数字を見て、驚かない人はいないだろうと思う。もうメチャメチャな数字と言って
よい。

 その上、天下り、インチキ、ごまかし、諸手当……。もう、何でもござれ!

 が、人件費削減など、どこ吹く風。一方で、人件費削減をにおわせながら、その一方で、
たとえば「地域手当」を、新設。「都市部を中心に、基本給の3〜18%を上積みし、地方
の出先機関に出向した職員も、基本給の3〜6%に当たる(広域異動手当)、最大3年間受
給できる」(同)という。

 道理で、みなさん、3年以内ごとに、人事異動するわけ(?)。これではじめて、そのカ
ラクリがわかったぞ!

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、
つぎのようになっている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※
(国家公務員)          ……1403万円

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均
人件費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! ナ、何と、3倍近
いもの給料を手にしていることになる。

 それぞれの国家公務員の人に責任があるわけではないが、こんなところにも、日本が、
官僚主義国家と呼ばれる理由がある。「新社会主義国家」と呼んでいる、社会学者もいる。

 そしてこうした国家、地方の公務員の人件費だけで、38兆円。国家税収の、実に89%
を使っている! (国家税収を、43兆円で計算。)

 私も、同じ日本人だが、こんなメチャメチャな、財政運営をしている国を、ほかに知ら
ない。おまけに、「箱物行政」と言われることからもわかるように、公共の建物だけは、全
国津々浦々、どこへ行っても、超立派! 超豪華!

 それらはすべて、国民からの借金。お金が足りなくなると、(当然、足りなくなる)、赤
字国債(=借金)をどんどんと発行。その額、もうすぐ1000兆円! 国家税収の約4
0倍! それでも足りないから、増税、また増税! が、それでも足りなくなると、介護
保険制度に例をみるまでもなく、直接、強制徴収!

 年収の約25倍の借金をかかえたら、どうなる? ほんの少しだけ、あなたの給料をも
とに、計算してみるとよい。たとえば年収500万円の人なら、2億円の借金ということ
になる!

 あなたなら、どうやって、その借金を、返す?

 まあ、しかし私も、驚いた。本当に、驚いた。もう、知〜らない。ハハハ。ハハハ。

(注※) 平成17年度予算に占める国家公務員の人件費が、一般歳出総額四17兆28
29億円のうち4兆6571億円と約一割に上り、文教・科学振興費に次ぐ多額の支出に
なることが6月15日、財務省などの調べでわかった。公表ベースの歳出項目ごとの人件
費はこれまで明らかにされておらず、それぞれの人件費が「隠れみの」(首相官邸筋)にな
って予算を圧迫してきた形だ。政府は人件費削減によって財政再建を加速させたい考えだ
が、省庁側の抵抗は激しさを増しそうだ(産経新聞)。

(はやし浩司 公務員の給料 人件費 国家公務員の給料 人件費)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●行政改革

 話を戻す。

 「官民人材交流センター」と並んで、国家公務員制度改革では、(1)幹部人事の一元化、
(2)キャリア制度の廃止、(3)政治家と官僚の接触の規制が盛り込まれた。

 幹部人事の一元化というのは、それまでは各省庁の幹部人事については、それぞれの省
庁で決定できたものを、内閣人事局が一元管理するというもの。
それまでは各閣僚が、追認の形で判を押していた。(……だけ。)

 キャリア制度の廃止というのは、それまでは国家公務員T種の合格者のみが、幹部に抜
擢されていたのを、廃止するという制度。
これによって全職員に、幹部登用の機会が与えられるようになった。

 また政治家と官僚の規制というのは、それまでは自由に行き来できたものを、「接触の記
録を文書にして、公開する」というもの。

 これらの行政改革は、目下進行中。
実際に運用されるのは、2013年から。
しかしすでにあちこちで「骨抜き」にされつつある。
「官民人材センター」の骨抜きについては、たびたび書いてきた。
また内閣人事局についても、官僚から抜擢(ばってき)された職員が勤務するのでは、意
味がない。

●衰退する日本

 肥大化した日本の官僚制度。
このスタグフレーション(物価上昇と景気後退が同時に起こること)すら危惧される中、
公務員たちだけは、どこ吹く風。
我が世の春を謳歌している。
が、こんなことをつづけていれば、日本経済は、ほんとうに破綻してしまう。
ゴールドマン・サックス経済調査部の予想は、まだよいほう。
へたをすれば、さらに日本経済は転落する。
8位の日本以下には、イギリス、ドイツ、ナイジェリア……とつづく。
総人口が日本の3分の1程度しかない韓国が、そのあとにつづく!

 そこで日本が取るべき道は、知的財産の育成と保有。
つまり「教育」。
しかし現在の予算配分では、その充実など望むべくもない。
「どこにそんな金(=マネー)があるのだ!」となる。

 国家税収のほとんどが、公務員の人件費に消える。
足りない分は、国債という借金でまかなう。
しかもそのうちの20〜30%が、土木建設費。
こんなバカげた経済運営をしている国が、ほかに、どこにある!
日本よ、日本人よ、少しは目を覚ませ!

(1)公務員による過剰サービスは、不要!
(2)公務員の職務能率にメスを入れてこそ、「行政改革」。

 私は、それあえず、この2点をあげる。

●国家破綻

 公務員の世界がいかに非効率、非能率であるかは、公務員自身がいちばんよく知ってい
る。
私の知人(元公務員、地方公共団体の元部長)ですら、こう言っている。
「林さん(=私)、公務員の数は2分の1でもいいですよ。3分の1でもいいかな」と。

 そこで「公務員の削減」が叫ばれるたびに、公務員たちは「行政サービスの低下」を口
にする。
つまり、私たちを脅す。

 もちろん私たち自身にも、問題がある。
「国」に依存心をもちすぎてしまった。

 たとえば私がこの町に住み始めたころには、近くの川沿いの草刈りは、私たち住民の仕
事だった。
年に2回、みなで草を刈った。
が、今では、それを市の外郭団体が、まとめて請け負っている。
道路に街路樹の落ち葉が落ちても、このあたりの住民は市役所に電話を入れ、苦情を申し
立てている。
こういう私たちの生活習慣が悪循環となり、公務員社会をますます肥大化させている。
公務員に言わせれば、「いくら税金をもらっても、足りない」となる。

 そこで「公務員の削減」となる。
仮に10%減らせば、3・8兆円が浮く。
3・8兆円を、全国600万人の小学生で割れば、1人あたり、600万円強。
3・8兆円という金額は、そういう金額である。

 本来なら40年後を見据えて、日本は国家的な戦略を立てなければならない。
どうあるべきかを考えなければならない。
しかしそういう重要なときに、日本は現在、身動きが取れない状態にある。
よく(公務員の数)を、列車にたとえる人がいる。
日本の国力を(機関車)とするなら、公務員の数は(列車)ということになる。
列車が多ければ多いほど、機関車への負担は重くなる。
動きが鈍くなる。
今はその機関車が動きを止めた状態から、坂の下に向かって後退し始めている。
多くの経済専門家は、異口同音に、こう言う。

 「来年度(2011年)は、国家予算が組めなくなるかもしれない」と。
つまり「国家破綻」!
中国のバブル経済が崩壊したら、その時期はもっと早まるかもしれない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 国家破綻 公務員の人件費 行政改革)

(参考)

●国家公務員の人件費、1403万円!(05年に書いた原稿より)

 このほど、はじめて、(はじめてだぞ!)、国家公務員の人件費が、公表された(産経新
聞・05年・06月)。

 それによると、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4兆6
571億円でだそうだ※。

 人件費については、たとえば、社会保障費の場合、総額は20兆3808億円と公表さ
れているが、これには335億円の人件費が含まれている。公共事業費など他の項目にも
紛れ込んでいる人件費を抜き出すと、一般歳出総額の9・8%にのぼる(同)。

 つまり、これらの数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間
1403万円(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・
2万人で計算。)そして社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っている
ことになる(ギョッ!)。

 この数字を見て、驚かない人はいないだろうと思う。もうメチャメチャな数字と言って
よい。

 その上、天下り、インチキ、ごまかし、諸手当……。もう、何でもござれ!

 が、人件費削減など、どこ吹く風。一方で、人件費削減をにおわせながら、その一方で、
たとえば「地域手当」を、新設。「都市部を中心に、基本給の3〜18%を上積みし、地方
の出先機関に出向した職員も、基本給の3〜6%に当たる(広域異動手当)、最大3年間受
給できる」(同)という。

 道理で、みなさん、3年以内ごとに、人事異動するわけ(?)。これではじめて、そのカ
ラクリがわかったぞ!

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、
つぎのようになっている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均
人件費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! (公務員の平均で、
1018万円!) ナ、何と、3倍近いもの給料を手にしていることになる。

 それぞれの国家公務員の人に責任があるわけではないが、こんなところにも、日本が、
官僚主義国家と呼ばれる理由がある。「新社会主義国家」と呼んでいる、社会学者もいる。

 そしてこうした国家、地方の公務員の人件費だけで、38兆円。国家税収の、実に89%
を使っている! (国家税収を、43兆円で計算。)

 私も、同じ日本人だが、こんなメチャメチャな、財政運営をしている国を、ほかに知ら
ない。おまけに、「箱物行政」と言われることからもわかるように、公共の建物だけは、全
国津々浦々、どこへ行っても、超立派! 超豪華!

 それらはすべて、国民からの借金。お金が足りなくなると、(当然、足りなくなる)、赤
字国債(=借金)をどんどんと発行。その額、もうすぐ1000兆円! 国家税収の約4
0倍! それでも足りないから、増税、また増税! が、それでも足りなくなると、介護
保険制度に例をみるまでもなく、直接、強制徴収!

 年収の約25倍の借金をかかえたら、どうなる? ほんの少しだけ、あなたの給料をも
とに、計算してみるとよい。たとえば年収500万円の人なら、2億円の借金ということ
になる!

 あなたなら、どうやって、その借金を、返す?

 まあ、しかし私も、驚いた。本当に、驚いた。もう、知〜らない。ハハハ。ハハハ。

(注※) 平成17年度予算に占める国家公務員の人件費が、一般歳出総額417兆28
29億円のうち4兆6571億円と約一割に上り、文教・科学振興費に次ぐ多額の支出に
なることが6月15日、財務省などの調べでわかった。

公表ベースの歳出項目ごとの人件費はこれまで明らかにされておらず、それぞれの人件費
が「隠れみの」(首相官邸筋)になって予算を圧迫してきた形だ。政府は人件費削減によっ
て財政再建を加速させたい考えだが、「省庁側の抵抗は激しさを増しそう」(産経新聞)と
のこと。
(はやし浩司 公務員の給料 人件費 国家公務員の給料 人件費)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●韓国の駆逐艦

 韓国の駆逐艦が爆発、沈没してから、もう10日以上が過ぎた。
が、いまだに原因がつかめず、ああでもない、こうでもないと、
議論がつづいている。

 しかしこれなども、だれがやったか、わかりすぎるほど、わかっている。
どんな方法を使ったかも、わかっている。
わかっているが、証拠がないため、だれも何も言えない。
『悪人は、自ら悪あがきをする』というのは、私が考えた格言だが、たまたま
今朝、こんなニュースが、ニュースサイトに載っていた。

 何でも韓国が、K国に対して、砲撃をしかけたというのだ。
肝心の韓国側は、「そんな事実はない」と否定している。
「古い地雷が爆発した可能性はある」とも。

「?」

 もうすぐ駆逐艦が引き上げられる。
爆発、沈没した原因が、わかる。
それを恐れてか、K国は、先手を打った。
つまり悪あがきを始めた。
わかりすぎるほど、わかりきったことなのだが、このばあいも、
証拠がないため、話はここまで。

●口にフタはできない

 わかりすぎるほど、わかっている。
が、証拠がない。
どこかの政党の幹事長の、汚職事件もそうだ。
結局、立件が難しいということで、不起訴処分になってしまった。
が、それでその幹事長がシロというわけではない。
見る人は見ている。

 似たような事件に、昔、アメリカで、ある男性の妻が射殺されるというのがあった。
あの事件のときも、犯人がだれか、わかりすぎるほど、わかっていた。
が、同じように、証拠不十分で、その男性は逃げ切ってしまった。

 しかし世論(=有権者)は、それほどバカではない。
こうした事件を外からながめながら、だれが犯人なのか、しっかりと見抜いている。
それから生まれる(怒り)を、しっかりと心の中にためている。
一見、静かなのは、「証拠がないから」。
理性というブレーキが働くから。
が、行動に出るときは、出る。

 今朝の中日新聞によれば、どこかの政党の支持率は、低下の一途。
33%前後を低迷し、不支持率は、53%を超えた(共同通信社)。
(比例代表投票先では、支持率は、たったの26%!)
どこかの政党の幹事長に対しては、「やめるべき」と答えた人が、81%にも達している。

 ここでいう「どこかの政党」というのは、どこの政党をさすか、
わかりすぎるほど、わかっている。
わかっているが、それを口に出すことはできない。
が、こうして数字には出てくる。

 ……というようなことは、この世の中には、多い。


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【これからの日本の教育】

●伸びたゴム

++++++++++++++++++

「ゆとり教育」を見直し、今年の4月から、
教科書の厚さが、3割、ふえるという。
しかし一度伸びたゴムは、簡単には、
もどらない。
あるいはどうやって、もどすのか。

フィンランド・メソドと言われる「5つの
柱」を参考に、ここでは具体的に考えて
みたい。

++++++++++++++++++

●フィンランド・メソド

 以前、TK先生より、「フィンランド・メソド」に関する資料を送ってもらったことがある(文科省
資料)。
それによれば、フィンランド・メソドは、つぎの5つに分析される。

(1)発想力
(2)表現力
(3)コミュニケーション力
(4)批判的思考力
(5)論理力

 順に考えてみる。

(1)発想力

 発想力、つまりクリエイティブな考え方について、TK先生から先月、「どうすればいいか」とい
うような質問をもらった。
で、ここでフィンランド・メソドをまねたのでは、パラドックスに陥ってしまう。
「発想力をどうすればよいか」と言いながら、フィンランド・メソドをまねる。
これでは「張り紙をするな」という張り紙を張るようなもの。

 そこで自分なりに、具体的に子どもに与える(設問)として、考えてみる。

+++++++++++++++++

(問1)「食料が不足することで、どんな問題が起きるか、深刻な問題から順に、5つ書きなさ
い」

(問2)「それぞれの問題について、どんな解決方法があるか、3つずつ書きなさい」

+++++++++++++++++

(問1)「科学の進歩は人間にどのような恩恵を与えたか。重大な事実から順に、5つ書きなさ
い」

(問2)「科学の進歩は人間にどのような脅威と恐怖を与えたか。重大な事実から順に、5つ書
きなさい」

(問3)「(問2)について、それぞれの問題を、ではどうすればよいか、3つずつ書きなさい」

+++++++++++++++++

(問1)「インターネットによってもたらされたメリットを、大きなメリットから、順に5つあげなさい」

(問2)「インターネットによってもたらされる、デメリットについて、深刻な問題から5つ、書きなさ
い」

(問3)「それぞれの問題について、解決策を3つずつ書きなさい」

+++++++++++++++++

 以上、思いつくまま、オリジナルの問題を考えてみた。
つまりこれらの問題では、(基本的な常識)の中で、(推論)と(分析)を重ねながら、(論理的な
解答)を考えていくことを、ねらいとしている。
言うまでもなく、発想力が何よりも、モノを言う。

(2)表現力

 ここでいう表現力というのは、作文力ということになる。
頭の中に浮かんだ(抽象的概念)を、いかに(言葉として表現し)、他者に(適切に伝達できる
か)によって、決まる。

 そこでその(抽象的概念)の部分を、「絵」にしたり、「動画」にしたりする。
それを言葉として表現させる。

 たとえば、

(問)「小鳥が死んで悲しんでいる子どもと、それをうしろから、心配そうにのぞきこんでいる友
だちの絵」を見せる。

 「この2人の子どもの気持ちは、どのようですか。このあと、2人はどんな会話をするでしょう
か。またどんな会話をすれば、悲しんでいる友だちの心を、和らげることができるでしょうか。そ
れを400字の作文にして、まとめなさい」

(3)コミュニケーション力

 TK先生は、先日、アクティブ・ラーニング(能動的な学習)という言葉を使った。
英会話教室などでは、以前から使われている言葉である。
教室から出て、実際の現場での会話を通して、英会話を学ぶという方法である。
TK先生が言った意味とは少しちがうかもしれないが、日本の教育では、そういう意味でのアク
ティブ・ラーニングは、たいへん貧弱。

 たとえばオーストラリアの小学校では、教師はつねに子どもたちを戸外へ連れ出し、そこで教
育をしている。
日本ではそういう光景を、めったに目にしない。

 そこでコミュニケーション力ということになる。
わかりやすく言えば、「共鳴性の養成」ということ。
常に相手の立場に立って、ものを考える。
そのためには、ドラマ(演技)性のある教育が望ましい。

 言うまでもなく、欧米では、「ドラマ」という科目が、芸術のひとつとして独立している。
ドラマを通して、そのドラマの中の役者の(心)になりきる。

(問)「あなたは今、京都に向かって急いでいる坂本龍馬です。どんな気持ちで、どんなことをし
ようとしているか、わかりやすく400字で表現しなさい」

(注:欧米では、たとえばシェークスピア劇に登場する人物について、どういう気持ちなのかを、
子どもたちに表現させている。)

(4)批判的思考力

 (批判)はつねに(相対立した概念)から、相互に生まれる。
そこでたとえば、つぎのような問題が考えられる。

(問1)「あなたは死刑廃止論者です。目の前に死刑肯定論者がいることを想定して、相手を説
得するには、どういうふうに言えばよいか、意見をまとめなさい」

(問2)「あなたは今度は、死刑肯定論者です。目の前に死刑廃止論者がいることを想定して、
相手を説得するには、どういうふうに言えばよいか、意見をまとめなさい」

(5)論理力

 (論理)は、(証明された事実)を組み合わせながら、段階を追って、目的とされた(結論)に帰
結することをいう。
「三段論法」という言葉もある。
A=B、B=C、よって、A=C、と。
(証明された事実)というのは、科学性、普遍性、常識性をともなった事実をいう。

(問)「運動をすると、汗をかく。しかし寒い日には、汗をかかない。そこで寒い日に運動をする
と、燃焼された体内脂肪は、どう体内で処理されていくと考えられるか。あなたの経験をふまえ
て、論理的にそれを説明しなさい」

++++++++++++++++

 以上、5つの観点から、フィンランド・メソドを、私なりに考えてみた。
「私なり」というのは、日本の教育ではおろそかになっている部分という意味である。
つまり日本の教育は、「教え育てる」という部分は重要視する(TK先生、指摘)。
しかし「自分で独立して考える」という部分については、システムそのものが、まだ確立していな
い。
「学ぶ」=「まねる」が主体になっている(TK先生、指摘)。

 が、これでは、日本の教育には未来はない。
(日本の教育)=(日本の未来)ということになる。
ゴールドマン・サックス経済調査部の予想によれば、2050年には、日本のGDPは、世界第8
位に転落する。

(中国→アメリカ→インド→ブラジル→メキシコ→ロシア→インドネシアにつづく。
日本のGDP規模は、中国の10分の1程度。)

 そういう近未来を前にして、日本が生き残る道は、ただひとつ。
「教育」しかない。
これは、本腰を入れて、私たちひとりひとりが、真剣に考え、取り組まねばならない問題なので
ある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 日本の教育 フィンランド・メソド 日本の将来 新しい教育 2050年の日本)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司
 
●学力低下(Learning Ability of Japanese students)(2008年1月発表の原稿より)

+++++++++++++++

OECD(経済協力開発機構)が、06年度に、
15か国、15歳、約40万人を対象にした、
「生徒の学習到達度調査」結果が、このほど、
公表された。

それによると、日本の高校1年生(15歳)は、
前回2003年度にくらべ、読解力が、14位から、
15位。数学応用力が、6位から10位になった。

科学応用力も、2位から6位に後退した。

実施3分野すべてで、順位が低下。前回につづき、
高校生の学力低下傾向が、数字で示された形と
なった。(中日新聞07−12−5、要約)

The result of "student's ability of learning", which made 15 countries, 15 years old and 
about 400thousand students done by OECD is announced on Dec. 5th 2007.
According to the result, Japanese the 1st grade (15 years old) in the high school was 
compared with 2003 last time, and reading comprehension ability was downed from the 
15th from the 14th.

The mathematical application ability was the 10th from the sixth prize.
The science application ability was downed in the sixth from the second prize, too.
All decreases in the execution in 3 fields .
It became clearer that the learning abiluity of Japanese students have been downed in 
three fields.

++++++++++++++

●世界の子どもたちの学力(learning Ability of the youth of the wrorld)

(読解力)(Reading Ability)

1位  韓国(Korea)
2位  フィンランド(Finland)
3位  香港(Hong-Kong)
……
15位 日本(Japan)

(数学的応用力)(Math Application)

1位  台湾(Twaiwan)
2位  フィンランド(Finland)
3位  香港(Hong-Kong)
……
10位 日本

(科学的応用力)(Science Application)

1位  フィンランド(Finland)
2位  香港(Hong-Kong)
3位  カナダ(Canada)
……
6位  日本(Japan)

++++++++++++++

 この結果を、小学5年生の子どもたち(6人)に話してみた。子どもたちは、読書につ
いて話し始めた。

I talked about this result to some six kids of Grade 5th of school. They started talking 
about themselves.

 驚いたことに、その中の2人が、1年に、300冊近くも本を読んでいることを知った。
300冊といえば、1日に、ほぼ1冊ということになる。

With my surprise I know two of them are reading 300 books per year. Almost one book a 
day!

 「どうしてそんなにたくさん読むの?」と聞いたら、「学校で、読書競争があるから」と。
中に1人、親から、読書時間を制限されている子どもがいることもわかった。その子ども
は、1日に、1時間までと決められているそうだ。

I asked them why you read so many books a year and one of them told me that there is a 
class-competition of reading. Moreover I was surprised to know that one of them is 
limitied to read books less than an hour a day!

 読書は、あらゆる学力の基本である。社会科にしても、理科にしても、読書が基本。と
くに小学生のばあい、社会科は、社会科的な国語、理科は、理科的な国語と理解するとよ
い。

Reading is essential and we say in Japanese "reading is the pillar of education". As for 
socioloy and scienace, they are only parts of reading.

 が、それだけではない。

But it is not all.

 読書を日常的にしている子どもには、ある種、独特の(深み)がある。沈思黙考タイプ
というか、目つきが、いつも静かに落ち着いている。理知的というか、じっと周囲の様子
を観察しているといった雰囲気がある。

Those kids who read books in their daily life look different from those who do not. Those 
kids who read more books have a kind of a very special mood and they give us an 
impression of deep-thinking. They are more logical and even when we do our 
conversation, they always try to observe things around them.

 読書がいかに大切かは、今さら言うまでもない。欧米では、読書(reading)を、教育の
柱にしている。学校教育は、読書に始まり、読書に終わると言っても過言ではない。

It is no use to say that reading is so important. In western world, reading is one of the 
most important subject to learn. School education starts from reading and it is 
everything.

 一方、読書をまったくと言ってよいほど、しない子どももいる。このタイプの子どもは、
どこか、軽い。中身がない。バラエティ番組の中のタレント風といった感じ。ものの考え
方が、表面的。直感的。よくしゃべる。小学5、6年生になると、その差がはっきりとし
てくる。

On the contrary there are some who do not read books at all. This type of kids also have 
a kind of special mood. They are "light" in thinking and we feel no deepness in their 
thoughts just like TV talents of cheap varaiety programs. They talk a lot. The difference 
comes clear when they are about the age of thre grade 5th.

 さらに日常的に作文をしている子どもは、ものの考え方が論理的。言葉の使い方そのも
のが、ちがう。読書、作文は、子どもの教育の(要=かなめ)と考える。

And also there are some who write things in their daily life. They are more logical and 
when they talk they use more proper words to express themselves. Reading and writing 
are the "pillar" of education, I am quite sure.

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist reading writing learning 
ability of the Japanese students)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●わかりすぎるほど、わかっているが……

+++++++++++++++++

わかりすぎるほどわかっているが、あまりにも
わかりすぎているため、慎重に
ならざるをえない。
こういう場面に出会うことは、よくある。

+++++++++++++++++

●X氏(60歳)のケース

 穏やかでない事件が、起きた。
X氏(60歳)の塀のコンクリート壁が、放火されたという。
見ると、塀の一部が、黒くこげていた。
その下には、枯れ草が燃えた痕跡が残っていた。
X氏はそれを見て、即座に、道路をはさんだ、
隣のY氏のしわざとわかった。

 放火というのは、ふつうのいたずらとは、ちがう。
一線を画す。
そこでX氏は警察に連絡をした。
パトカーがやってきた。
しかしコンクリート壁ということで、そのまま警察官は
帰ってしまった。

 Y氏によるX氏への、(いやがらせ)は、毎年のようにあった。
が、「証拠がない」という理由だけで、X氏は、何もできなかった。
言い忘れたが、Y氏は、何かの痴呆症にかかっていた。
言動がおかしくなって、すでに10年以上になる。

●子どもの世界でも……

 盗癖のある子どもというのは、いる。
盗むのがうまいというよりは、人目を盗むのがうまい。
ちょっと油断したスキに、サッと盗んでいく。
加えて、ウソもうまい。

 が、何年もつきあっていると、同じパターンでそれが起こるため、
その子どもの(しわざ)ということがわかる。
しかし証拠がないため、何も言えない。
いじめの世界でも、似たようなことがある。
もう15年になるだろうか。
いじめについて、こんな原稿を書いたことがある。

+++++++++++++++++++++++

●いじめの陰に嫉妬(中日新聞にて発表済み)

Jealousy often drive man and woman crazy and it is the same in the world of children.

 陰湿かつ執拗ないじめには、たいていその裏で嫉妬がからんでいる。この嫉妬というのは、
恐らく人間が下等動物の時代からもっていた、いわば原始的な感情の一つと言える。それだけ
に扱いかたをまちがえると、とんでもない結果を招く。

 市内のある幼稚園でこんなことがあった。その母親は、その幼稚園でPTAの役員をしてい
た。その立場をよいことに、いつもその幼稚園に出入りしていたのだが、ライバルの母親の娘
(年中児)を見つけると、その子どもに執拗ないじめを繰り返していた。手口はこうだ。

その子どもの横を通り過ぎながら、わざとその子どもを足蹴りにして倒す。そして「ごめんなさい
ね」と作り笑いをしながら、その子どもを抱きかかえて起こす。起こしながら、その勢いで、また
その子どもを放り投げて倒す。

以後、その子どもはその母親の姿を見かけただけで、顔を真っ青にしておびえるようになった
という。ことのいきさつを子どもから聞いた母親は、相手の母親に、それとなく話をしてみたが、
その母親は最後までとぼけて、取りあわなかったという。父親同士が、同じ病院に勤める医師
だったということもあった。被害にあった母親はそれ以上に強く、問いただすことができなかっ
た。

似たようなケースだが、ほかにマンションのエレベータの中で、隣人の子ども(三歳男児)を、や
はり足蹴りにしていた母親もいた。この話を、八〇歳を過ぎた私の母にすると、母は、こう言っ
て笑った。「昔は、田舎のほうでは、子殺しというものまであったからね」と。

 子どものいじめとて例外ではない。Tさん(小三女児)は、陰湿なもの隠しで悩んでいた。体操
着やカバン、スリッパは言うに及ばず、成績表まで隠されてしまった。しかもそれが一年以上も
続いた。Tさんは転校まで考えていたが、もの隠しをしていたのは、Tさんの親友と思われてい
たUという女の子だった。

それがわかったとき、Tさんの母親は言葉を失ってしまった。「いつも最後まで学校に残って、
なくなったものを一緒にさがしていてくれたのはUさんでした」と。Tさんは、クラスの人気者。背
が高くて、スポーツマンだった。一方、Uは、ずんぐりした体格の、どうみてもできがよい子ども
には見えなかった。Uは、親友のふりをしながら、いつもTさんのスキをねらっていた。そして最
近でも、こんなことがあった。

 ある母親から、「うちの娘(中二)が、陰湿なもの隠しに悩んでいます。どうしたらいいでしょう
か」と。先のTさんの事件のときもそうだったが、こうしたもの隠しが長期にわたって続くときは、
身近にいる子どもをまず疑ってみる。

そこで私が、「今一番、身近にいる友人は誰か」と聞くと、その母親は、「そういえば、毎朝、迎
えにきてくれる子がいます」と。そこで私は、こうアドバイスした。「朝、その子どもが迎えにきた
ら、じっとその子どもの目をみつめて、『おばさんは、何でも知っていますからね』とだけ言いな
さい」と。その母親は、私のアドバイス通りに、その子どもにそう言った。以後、その日を境に、
もの隠しはウソのように消えた。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【不安について】(What is the Anxiety?)

●不安の構造

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(こうしたい)(こうでありたい)という欲望や欲求。
その欲望や欲求に対して、障壁(障害)が現われたとき、
欲望や欲求は、不安へと変異する。
つまり障壁(障害)の一方にあるのが、欲望や欲求。
もう一方にあるのが、不安ということになる。

私たちは、日常的に、この不安にさらされている。
欲望や欲求が強ければ強いほど、不安は増大する。

そこで問題は、こうした不安を克服する方法は
あるかということ。
私のばあいを中心に、この問題について考えてみたい。

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●不安の分析

 大村政男氏は、不安の(因子)を、つぎの24項目に分けている(心理学、ナツメ社)。
この表は、そのまま、自己診断のひとつの方法として、応用できる(P157)。

〔身体的症候群〕

(  )皮膚にできものができることが多い。
(  )しばしば尿意をもよおす。
(  )食欲不振なことが多い。
(  )緊張すると汗が出がちである。

〔集中力欠乏〕

(  )興味があれこれと変わりやすい。
(  )じっとしておられないほど、落ちつきを失うことがしばしばある。
(  )1つのことに気持ちを集中できないほうである。
(  )待たされるといらいらしてしまう。

〔自信欠乏〕

(  )一度決めたことでも、他人の意見ですぐ変わってしまう。
(  )人生にいつも重荷を感じている。
(  )自信がないために、ものをあきらめてしまうことがよくある。
(  )自分はまったく役に立たない人間と思うことが多い。

〔赤面恐怖〕

(  )なにかあると、顔がほてってくる。
(  )人に会うのがおっくうなほうである。
(  )大勢の人の前に立つと、赤面しがちである。
(  )恥ずかしがり屋である。

〔睡眠障害〕

(  )睡眠薬をのまないと、眠れないこともある。
(  )うなされて目を覚ますことが、ときどきある。
(  )よく寝言を言うと、言われる。
(  )眠りがいつも浅いうような感じがする。

〔取り越し苦労〕

(  )いつも緊張して生活している。
(  )なにかにつけて心配しがちである。
(  )他の人よりも神経過敏である。
(  )不幸なことが起こりはしないかとしばしば心配する。

(以上、大村政男氏による、診断項目。)

●自己診断 

 大村政男氏の因子論(前述)を使って、自己診断をしてみる。
で、これは私のばあいだが、自分では基底不安型の人間と思っていたが、意外と該当項目
が少ないのに、驚いた。

〔身体的症候群〕〔集中力欠乏〕〔自信欠乏〕〔赤面恐怖〕の4項目まで、該当なし。
〔睡眠障害〕については、慢性化しているというか、昼寝が習慣化しているため、さほど
気にならない。
が、最後の〔取り越し苦労〕については、4項目中、ほぼ4項目とも、私に当てはまる。

 私は日常的に緊張している(?)。
それに心配性(しょう)。
神経過敏なところもあるし、将来についてよく心配する。
大村政男氏の診断方法によれば、典型的な〔取り越し苦労〕型タイプの人間ということに
なる。
実際、よく取り越し苦労をする。
ひとつのことを心配し始めると、それが勝手にどんどんとふくらんでいってしまう。
が、あとになって、それが取り越し苦労だったことを知る。
そういうことは、よくある。

●では、どうすればよいのか

 これは私のばあいだが、私はそういう弱点を、自分でもよく知っている。
そのためそういう状態になり始めたら、つぎのことに心がけるようにしている。

(1)重大な判断はくださない。
(2)ワイフに、自分の状態を聞く。
(3)ものを書いて、不安の中身を文章にして、たたき出す。

 もちろん気分転換も重要。
趣味に没頭する。
現在は、畑づくりと、ミニ・ヘリコプター、それに映画。
週に1度は、近くの温泉旅館で、温泉につかるようにしている。
しかし何よりも重要なことをは、「今の私は正常ではない」と、自分に言って聞かせること。
不安が勝手にふくらみ始めたら、「正常ではない」と、何度も心の中で繰り返す。
その場を静かにやり過ごす。

 というのも、脳のCPU(中央演算装置)がおかしくなってくるから、正常でないこと
に気づくのは、たいへんむずかしい。
おかしくなりながら、「これが本当の私」と思ったり、「他人が不安でないほうがおかしい」
と思ったりする。

 ただ誤解しないでほしいことが、ひとつある。
私はいつもこうしてものを考え、パソコンを相手に文章を書いている。
それについて、「不安だから書いているのでは」と思う人がいるかもしれない。
が、これは楽しいから、そうしている。
不安だからしているのではない。
心の緊張感があるから、しているのでもない。
楽しい。
見知らぬ原野を散歩しているような楽しさである。

 そう言えば、ワイフもときどき、こう言う。
「よくもまあ、毎日ものを書いていて、タネ切れにならないわね」とか、「毎日考えてばか
りいて、頭がおかしくならない?」とか。

 タネ切れになることはない。
今でもそうだが、ひとつのことを書いていると、別のところからつぎつぎと、書きたいこ
とがわいてくる。
それに「頭がおかしくならない?」については、たぶん、そうはならないと思う。
むしろ逆で、頭の中をモヤモヤした状態のままにしておくと、かえってイライラしてくる。
「便秘のときの腹のよう」と、私はワイフによく言うが、それに似たような状態になる。

 が、だからといって、私は不安に強いわけではない。
弱い。
だから若いころから、先手主義。
後手に回ったとたん、調子がおかしくなる。
その分だけ、よけいに不安になる。
つまり自分を、不安になるような状況に追い込まないようにしている。

 ……ということで、みなさんの参考になるかどうかはわからないが、私のことについて
書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 不安の構造 不安の診断 不安神経症 強迫観念 不安とは)

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不安を考えるとき、同時に思いつくのが、
強迫神経症と不安神経症。
それについて書いた原稿をさがしてみる。

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●強迫性障害

 一つのことに執着すると、そのことばかりが気になって、悶々と悩む。悩むだけならま
だしも、それが原因となって、日常生活に支障が出るようになることがある。これを「強
迫性障害」という。

 ある女性(36歳)は、マンションの上の階の足音が気になってしかたなかった。夫は、
「聞こえない」「たいしたこない」と言ったが、その女性には、聞こえた(?)。たまたま
上の階の部屋と自分の部屋の間取りが同じということもあった。その女性には、音だけで
はなく、上の階の住人の生活ぶりまでが、すべて手に取るようにわかった。

 が、そのうち、その女性は、「(上の階の人が使う)掃除機の出す音がうるさい」と言い
だすようになった。「掃除といっても、1日、1回程度なら、がまんできる。しかし1日、
5回は多すぎる、と。

 その女性は、毎日、上の階の人がどのような騒音(?)を出すか、その内容と回数をノ
ートに記入するようになった。が、それだけではない。自分が買い物などで、家をあける
ときには、小学2年生になった息子に、その回数を数えさせた。

 息子は、その女性(母親)が帰ってくると、「今夜は、掃除機が1回で、洗濯機が1回…
…」というように、報告していたという。

 そしてある日、その女性はそれらの記録をもって、上の階の住人のところへ怒鳴りこん
でいった……。

 そのあとどうなったかは、容易に想像がつくことと思う。

●ある学校で

 実は、こうした強迫性障害は、教育の世界でも、よく経験する。数年前のことだが、あ
る小学校へ講演に行ったら、その学校の教師が、こんな話をしてくれた。

 その学級で、「よい子は、みんな、仲よし。友だちも、多い」というような内容の、学級
通信を出した。

 が、1人の母親が、これに猛反発した。たまたまその母親の子ども(小2女児)が、学
校でいじめにあい、仲間はずれにされていた。そのことを、その母親は、悩んでいた。

 その母親は、校長に、「うちの子は、よい子ではないのか!」と。「よい子とは何だ!」「仲
よしって何だ!」「どうしてそれが学級の方針なのか!」と、くいさがった。

 拡大解釈と被害妄想。一言で言えば、そういうことになるが、その母親の怒りは、それ
で収まらなかった。「子どもの人権問題だ」「名誉毀損だ」と。さらには「校長不適格」な
どとも言い出したという。つまりその母親は、その問題に固執するあまり、自分の姿を見
失ってしまった。

 こうした強迫性障害の延長に、買い物依存症(女性に多い)や、パチンコ依存症、賭博
(とばく)依存症(男性に多い)がある。これらの依存症の人も、一つのことにこだわり
始めると、それが頭から離れなくなる。

●満足感を満たすため

 たとえば買い物依存症の女性にしても、「それがほしい」と一度思いこむと、あとは、明
けても暮れても、考えることは、そのことばかりという状態になる。そして一度、それを
買うと、その満足感と同時に、解放感を味わう。あとは、この繰りかえし。

 が、こうした強迫性障害の人に、悩みや苦しみがないかといえば、そうではない。

 悶々と、そのことに執着している間は、ふつうの人以上に、悩んだり苦しんだりする。「気
になってしかたない」というのは、苦しみである。

 またその問題が解決したからといって、実は、その苦しみから解放されるというわけで
はない。たとえば買い物依存症の女性にしても、そのあと、今度は、強い自責の念にから
れる。「どうして買ってしまったんだろう」と。

 さらに病的になると、借金をしてまで、自分のほしいものを手に入れるようになる。こ
うなると、あとは、奈落の底! こうして破産していく人は、少なくない。

 先の「掃除機の音がうるさい」と怒鳴りこんでいった女性のケースでは、当然のことな
がら、そのあと、上の階の住人とは、険悪な関係になってしまった。当然である。が、運
の悪いことに、上の階の住人は、そのマンションの中でも、指導的な立場にあった。以後、
その女性が、マンションの住民たちの間で、どのような扱いを受けたかについても、容易
に想像がつくことと思う。

 で、そのあとのことだが、その女性と夫は、何度も、上の階の住人に謝罪に行ったが、
受けつけてもらえなかったという。

 ただ一度、こうした強迫性障害になった人は、そのつど、テーマを変えて、同じ障害に
なりやすいと言われている。

 そのときは、上の階の住人の出す騒音であっても、それが解決すると、今度は、外を走
る車の騒音になったり、ここにあげた、学校通信の文面になったりする。さらにそれが子
どもの教育におよぶようになると、ことは、深刻になる。

 明けても暮れても、考えることは、子どもの成績ばかり……というようであれば、あな
たも、その強迫性障害を疑ってみたらよい。

(はやし浩司 強迫性障害 買い物依存症 依存症 育児ノイローゼ 強迫神経症 強迫
観念 強迫症)

【あなたの心診断―女性用】

 つぎの項目のうち、いくつか当てはまるようなら、強迫性障害を疑い、子育ての場で、
子どもの心に影響を与えないように、注意する。

(  )かつて、買い物依存症など、何かの依存症になったことがある。
(  )ひとつのことが気になると、そのことばかり考えることがよくある。
(  )子どもに問題が起きると、先生や、子どもの友人に、原因を求める。
(  )かっとなると、見境なく行動してしまうことがあり、あとで後悔しやすい。
(  )被害妄想をもちやすく、ものごとを何でも悪いほうに解釈してしまう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもの神経不安症

●情緒が不安定な子ども

 子どもの成長は、次の四つをみる。(1)精神の完成度、(2)情緒の安定度、(3)知育
の発達度、それに(4)運動能力。

このうち情緒の安定度は、子どもが肉体的に疲れていると思われるときをみて、判断す
る。運動会や遠足のあと、など。そういうときでも、ぐずり、ふさぎ込み、不機嫌、無
口(以上、マイナス型)、あるいは、暴言、暴力、イライラ、激怒(以上、プラス型)が
なければ、情緒が安定した子どもとみる。

子どもは、肉体的に疲れたときは、「疲れた」とは言わない。「眠い」と言う。子どもが
「疲れた」というときは、神経的な疲れを疑う。子どもはこの神経的な疲れにたいへん
弱い。それこそ日中、5〜10分、神経をつかっただけで、ヘトヘトに疲れてしまう。

●情緒不安とは……?

 外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という。2〜4歳
の第一反抗期、思春期の第二反抗期に、とくに子どもは動揺しやすくなる。

 その情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を
許さない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。そ
の緊張状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、
情緒が不安定になる。

症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり(マイ
ナス型)、反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりする(プラス型)。
表情にだまされてはいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらでもい
る。このタイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、激変する。

母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と言っただけで、激怒し、母親に包丁を投げつ
けた子ども(年長女児)がいた。また集団的な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹
痛、体の不調を訴えることもある。

●原因の多くは異常な体験

 原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。たとえば親
自身の情緒不安のほか、親の放任的態度、無教養で無責任な子育て、神経質な子育て、家
庭騒動、家庭不和、何らかの恐怖体験など。

ある子ども(五歳男児)は、たった一度だが、祖父にはげしく叱られたのが原因で、自
閉傾向(人と心が通い合わない状態)を示すようになった。また別の子ども(三歳男児)
は、母親が入院している間、祖母に預けられたことが原因で、分離不安(親の姿が見え
ないと混乱状態になる)になってしまった。

 ふつう子どもの情緒不安は、神経症による症状をともなうことが多い。ここにあげた体
の不調のほか、たとえば夜驚、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指し
ゃぶり、チック、爪かみ、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、
強迫傾向、潔癖症、嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、緩慢行動、夜
尿症、頻尿症など。

●原因は、家庭に!

 子どもの情緒が不安定になると、たいていの親は原因さがしを、外の世界に求める。し
かしまず反省すべきは、家庭である。

強度の過干渉(子どもにガミガミと押しつける)、過関心(子どもの側からみて神経質で、
気が抜けない環境)、家庭不和(不安定な家庭環境、愛情不足、家庭崩壊、暴力、虐待)、
威圧的な家庭環境など。夫婦喧嘩もある一定のワク内でなされているなら、子どもには
それほど大きな影響を与えない。が、そのワクを越えると、大きな影響を与える。子ど
もは愛情の変化には、とくに敏感に反応する。

 子どもが小学生になったら、家庭は、「体を休め、疲れた心をいやす、いこいの場」でな
ければならない。アメリカの随筆家のソロー(1817〜62)も、『ビロードのクッショ
ンの上より、カボチャの頭』と書いている。

人というのは、高価なビロードのクッションの上に座るよりも、カボチャの頭の上に座
ったほうが気が休まるという意味だが、多くの母親にはそれがわからない。わからない
まま、家庭を「しつけの場」と位置づける。学校という「しごきの場」で、いいかげん
疲れてきた子どもに対して、家の中でも「勉強しなさい」と子どもを追いまくる。「宿題
は終わったの」「テストは何点だったの」「こんなことでは、いい高校へ入れない」と。
これでは子どもの心は休まらない。

●子どもの情緒を安定させるために

 子どもの情緒が不安定になったら、スキンシップをより濃厚にし、温かい語りかけを大
切にする。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって情緒を不安定にする。一番よい方法
は、子どもがひとりで誰にも干渉されず、のんびりとくつろげるような時間と場所をもて
るようにすること。親があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。

 ほかにカルシウムやマグネシウム分の多い食生活に心がける。とくにカルシウムは天然
の精神安定剤と呼ばれている。戦前までは、日本では精神安定剤として使われていた。錠
剤で与えるという方法もあるが、牛乳や煮干など、食品として与えるほうがよいことは言
うまでもない。

なお情緒というのは一度不安定になると、その症状は数か月から数年単位で推移する。
親があせって何とかしようと思えば思うほど、ふつう子どもの情緒は不安定になる。ま
た一度不安定になった心は、そんなに簡単にはなおらない。今の状態をより悪くしない
ことだけを考えながら、子どものリズムに合わせた生活に心がける。

 (参考)

●子どもの神経症について

心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。子ど
もの神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。

(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫
症状(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理
由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言
ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすること
もある。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿
症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、
下痢、便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)
など。一般的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが
多く、身体面での神経症を黄信号ととらえて警戒する。


(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって
行動面に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、
無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こ
るようになる。パンツ一枚で出歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子供の情緒 情緒不安定 情緒が不安定な子供 子ども 情緒不安 強迫観念 心配性 
不安神経症)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●60歳以上、7割が不安(内閣府)

++++++++++++++++++

内閣府は4月2日(2010)、60歳
以上を対象に、「高齢者の日常生活に
関する意識調査」を実施し、その結果を
公表した。

それに対して、「将来の生活に不安を
感じるか」という問に対して、
71・9%が、「不安を感ずる」と回答。
5年前の前回調査より、4・0%もふえた。

++++++++++++++++++

●調査結果

 調査結果を並べてみる。

(1)自分や配偶者の健康や病気……77・8%
(2)介護          ……52・8%
(3)生活のための収入    ……33・2%

さらに、
(4)不安をとても強く感ずる ……15・6%
(5)多少は感ずる      ……56・3%、とつづく。

 「60歳以上」といっても、前期高齢者と、後期高齢者(75歳以上)とでは、
不安に対する感じ方も、大きくちがうはず。
私ももうすぐ満63歳になるが、今のところまだ現役で働いていることもあって、
それほど強くは、不安を感じていない。
私なら、上述、(1)(2)(5)に、(レ)を入れる。
しかし今のような状態が、70歳以上になっても維持できるとは、思っていない。
つまりこの調査を、70歳以上の人にしぼって行えば、もっときびしい結果が出てくる
はず。

 なお全体としてみると、(収入)が、ひとつのポイントになっているのがわかる。
収入のない人ほど、不安を強く感じている。
「家計が苦しいと感じている人の、90%以上が、将来の不安を訴えた」(中日新聞)と
ある。

●親子の断絶

 義兄は、こう言った。
「親子で断絶している家庭は多いよ。
子どもの方は、親を負担に思っているから、ささいな理由をこじつけて、子どもは親から
去っていくよ」と。
「つまりね、親のめんどうをみたくないから、何か理由をさがして、親を棄てるというわ
け」と。

 こんな例を話してくれた。

 その家には、2人の息子がいる。
で、現在、父親は、独り暮らし。
宅地と農地(いつでも宅地化できる)の両方で、500坪の土地をもっている。
そこでその父親は、自分の死後、息子たちが言い争いをしないようにと、土地を均等に
2つに分け、その旨、2人の息子に伝えた。
が、これに長男が猛反発。
「均等は、おかしい!」「あんたのめんどうを近くでみてきたのは、オレだ」と。

 そこで父親は、預金通帳や株券を見せ、「これはお前にやるから」と、長男をなだめた。
が、以後、長男は、家に寄りつかなくなってしまった。
二男も、家に寄りつかなくなってしまった。
長男と二男は、会ってもたがいに口をきくこともない。
つまり家族が、バラバラになってしまった。

●家族の耐性

 「家族の耐性」が、弱くなった。
ちょっとしたことで、親子がバラバラになってしまう。
親の方はともかくも、子どものほうが、去っていく。
そして理由にもならないような理由を並び立てて、「私はあんな親のめんどうはみない」と。
ある男性(40歳くらい)は、親類の人にこう言ったという。
「もう何年も、電話一本もくれない」「親なら息子のことを心配して、『元気か』くらいの
電話くらい、してくれてもいい」と。

 その男性の父親(75歳くらい)も、田舎で独り暮らしをしていた。
が、一度ころんで骨折してからは、寝たきりの状態になった。
そこで見るに見かねて、親類の人が、その男性に電話を入れた。
その返事が、これ!

 つまり父親が息子に電話を入れなかった。
それを理由に、「私は、父親のめんどうをみる義務はない」と。

 さらにひどい(?)話となると、こんなものもある。

 息子が結婚するとき、親は、息子に土地と家を買い与えた。
息子は、1時間ほど離れたところにある都会に移り住んだ。
で、しばらくしてからのこと。
その息子の嫁から電話が入った。
「固定資産税の請求が来たが、どうすればいいか」と。

 さらにひどい話(!)。

 両親は年齢も年齢ということで、有料の老人ホームに入った。
もともと住んでいた家は、長男に明け渡した。
が、その長男。
毎月のようにその老人ホームへやってきて、生活費をせびっているという。
(これは、ほんとうの話!)

しかし今、そういう家庭がふえている。
ほとんどがそうでないかと思われるほど、多い。

 こうした問題を考えるときの、キーワードが「依存性」。
一度、(保護)(依存)の関係ができると、保護する側は、ずっと保護する。
依存する側は、依存する。
依存性というのは、そういうもの。
が、それで終わらない。
依存する側は、「依存して当然」と考える。
つまり今では、最後の最後まで、「親は、死ぬまで、子どものめんどうをみるべき」と、
考える。
(親のめんどうではない。
子どものめんどうを、だ!)

そういう子どもが、ふえている。
そういう家庭が、ふえている。

++++++++++++++++

これについても、何度も書いてきた。
以前書いた原稿を、さがしてみる。

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【親バカ論】

●就職率50%

 大不況。
目下、進行中。
大卒の就職率も、50〜60%とか。
事務所の隣人は、個人でリクルートの会社を経営している。
その隣人が、こう言った。
「実感としては、50%前後ではないですかね?」と。
つまり大卒のうち、2人に1人しか、就職できない。
きびしい!

 浜松市といえば、昔から工業都市として知られている。
HONDA、SUZUKI、YAMAHAなどの各社は、この浜松市で生まれた。
その浜松市でも、「50%」!

●親、貧乏盛り

 『子ども大学生、親、貧乏盛り』という。
私が考えた諺(ことわざ)である。
それについては、何度も書いてきた。

 で、子どもを大学へ送ることは、得か損かという計算をしてみる。
・・・といっても、学部によって、大きく、異なる。
医学部のばあい、勤務医になれば、勤務後2〜3年目には、年収は2000万円を超える。
開業医になれば、月収は500万円を超える。
(月収だぞ!)

 一方、文科系の学部のばあい、学費も安いが、その分、学歴も、ティシュペーパーのよ
うに軽い。
英文学部にしても、高校の教科書より簡単なテキストで勉強しているところは、いくらで
もある。
そんな学部を出ても、実際には、何ら、役に立たない。

 全体としてみると、それなりの資格のともなった学歴であれば、得。
資格をともなわない、ただの学歴であれば、損。
その結果、就職率50%ということになれば、何のための苦労だったのかということにな
る。

●3人に1人が、高齢者

 3人に1人が、高齢者。
そんな時代が、すぐそこまでやってきている。
現在、40歳以上の人は、老後になっても、満足な介護は受けられないと知るべし。
実際には、不可能。

 となると、自分の老後は、自分でみるしかない。
つまりそれだけの蓄(たくわ)えを用意するしかない。
で、たいていの人は、「自分の子どもがめんどうをみてくれる」と考えている。
が、今、あなたが高齢になった親のめんどうをみていないように、あなたの子どもも、ま
たあなたのめんどうをみない。
60%近い若者たちは、「経済的に余裕があれば・・・」という条件をつけている。
「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と。
(この数字とて、ほぼ10年前の数字。)
実際には、みな、目一杯の生活をしている。
経済的に余裕のある人など、いない。
若い世代では、さらにいない。

●親バカ

 こうして順に考えていくと、子どもに学費をかけることが、いかに無駄かがわかってく
る。
あえて言うなら、子どもを遊ばせるために、その遊興費を提供するようなもの。
が、何よりも悲劇なのは、そのためにする親の苦労など、今時の大学生にじゃ通じない。
当たり前。
「電話をかけてくるのは、お金がほしいときだけ」というのは、親たちの共通した認識で
ある。
むしろ逆に、(してくれないこと)を、怒る。
「みなは、毎月20万円、送金してもらっている」
「どうして結婚の支度金を出してくれないのか」と。

保護、依存の関係も行き過ぎると、そうなる。
保護される側(子ども)は、保護されて当然と考える。
一方、保護するほうは、一度、そういう関係ができてしまうと、簡単には、それを崩すわ
けにはいかない。
罪の意識(?)が先に立ってしまう。

 どこか一方的な、つまり否定的な意見に聞こえるかもしれないが、こうして世の親たち
は、みな、つぎつぎと親バカになっていく。

●老後の用意

 しかし私たちの老後は、さみしい。
蓄(たくわ)えも乏しい。
社会保障制度も、立派なのは、一部の施設だけ。
3人のうちの1人が老人という世界で、手厚い介護など、期待する方がおかしい。
となると、自分の息子や娘たちに、となる。
しかし肝心の息子や娘たちには、その意識はまるでない。

 ある友人は、こう言った。
「うちの息子夫婦なんか、結婚して3年目になるが、嫁さんなど、来ても、家事はいっさ
い手伝わない。いつもお客様だよ」と。
別の友人もこう言った。
その友人の趣味は魚釣り。
そこで釣ってきた魚を、嫁に料理をさせようとしたら、こう言ったという。
「キモ〜イ、こんなこと、私にさせるのオ?」と。

 この話をワイフにすると、ワイフもこう言った。
「私の友だちのSさんなんかね、長男は、歩いて数分のところに住んでいるだけどね、毎
週、実家へ子どもたちを連れて夕食を食べに来るんだってエ」と。

 で、私が、「食費はだれが出すの?」と聞くと、「もちろん友だちのSさんよ。長男たち
は、それで食費を浮かせようとしているのね」と。
さらに「料理は、だれがするの?」と聞くと、「Sさんよ。嫁さんは、デンと座っているだ
けだそうよ。たまに食器は洗ってくれるそうよ。でもそれだけ」と。

 私が「ヘエ〜〜」と驚いていると、さらにワイフは、驚くべきことを口にした。
「それでいて、長男は、親のめんどうをみているのは自分と、思いこんでいるみたいね」
と。

私「親のめんどう・・・?」
ワ「そうよ。弟夫婦たちが実家へ来ると、兄貴風を吹かして、弟夫婦に、『お前たちも、と
きには、親のめんどうをみろ』って言ってるんだってエ」
私「あきれるね」
ワ「そうね。孫の顔を見せるだけでも、ありがたく思えというところかしら」と。

●何かおかしい?

 何か、おかしい。
何か、まちがっている。
しかし今は、そういう時代と思って、その上でものを考えるしかない。
子どもたちというより、その上の親たちが、そういう世代になっている。
その親たちに向かって、「子育てとは・・・」と説いても、意味はない。
言うなれば、ドラ息子、ドラ娘になりきった親たちに向かって、ドラ息子論、ドラ娘論を
説くようなもの。
意味はない。

 言い換えると、私たち自身が、「甘えの構造」から脱却するしかない。
「子どもたちに依存したい」「依存できるかもしれない」「子どもたちが世話をしてくれる
かもしれない」と。
そういう(甘え)から、脱却するしかない。
さらに言えば、「私たちの老後には、息子や娘はいない」。
そういう前提で、自分たちの老後を考える。

●私のケース

 私の息子たちが特殊というわけではない。
見た目には、ごく平均的な息子たちである。
中身も、ごく平均的な息子たちである。
だからこう書くといって、息子たちを責めているわけではない。
しかしときどき会話をしながら、その中に、「老後の親たちのめんどうをみる」という発想
が、まったくないのには、驚く。
まったく、ない。
むしろ逆。
こう言う。

「相手の親(=嫁の親)は、〜〜してくれた」「どうしてパパ(=私)は、してくれないの
か?」と。

 息子夫婦にしても、「家族」というのは、自分と自分たちの子どもを中心とした(親子関
係)をいう。
目が下ばかり向いている。
が、それはそれでしかたのないこと。
息子たちは息子たちで、自分たちの生活を支えるだけで、精一杯。
私たち夫婦だって、そうだった。
が、それでも、お・か・し・い。

●満62歳にして完成

 ・・・こうして親は、子離れを成しとげる。
(甘え)を、自分の心の中から、断ち切る。
そして一個の独立した人間として、自分の老後を考える。

 というのも、私たちの世代は、まさに「両取られの世代」。
親にむしり取られ、子どもたちにむしり取られる。
最近の若い人たちに、「ぼくたちは、収入の半分を実家に送っていた」と話しても、理解で
きないだろう。
それが当たり前だった時代に、私たちは、生まれ育った。

 が、今は、それが逆転した。
今では子どもの、その子ども(つまり孫)の養育費まで、親(つまり祖父母)が援助する。
それが親(つまり祖父母)ということになっている。

 が、そこまでしてはいけない。
このあたりでブレーキをかける。
かけなければ、この日本は、本当に狂ってしまう。
(すでに狂いぱなし、狂っているが・・・。)

 少し前も、私は「車がほしい」というから、息子に、現金を渡してしまった。
それで私たちは、H社のハイブリッドカーを買うつもりだった。
それについて、まずオーストラリアの友人が、「渡してはだめだ」と忠告してくれた。
義兄も、「ぜったいに、そんなことをしてはだめだ」と言った。
「息子のほうが、今までのお礼にと、新車を買ってくれるという話ならわかるが、逆だ」
と。

 私も親バカだった。
息子たちに怒れるというよりは、自分に怒れた。
心底、自分に怒れた。
何日か眠れない日がつづいた。
が、それが終わると、私の心はさっぱりとしていた。
息子たちの姿が、心の中から消えていた。
はやし浩司、満62歳にして、子離れ完成、と。

 それをワイフに話すと、ワイフは、こう言って笑った。
「あなたも、やっと気がついたのね」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 子離れ 親離れ 依存性 甘えの構造 甘え 子どもへの依存性 老

●親バカにならないための10か条

(1)必要なことはしろ。しかしやり過ぎるな。
(2)求めてきたら、与えろ。先回りして与えるな。
(3)一度は、頭をさげさせろ。「お願いします」と言わせろ。
(4)子どもに期待するな。甘えるな。
(5)親は親で、自分の人生を生きろ。子どもに依存するな。
(6)社会人になったら、現金は、1円も渡すな。
(7)嫁や婿の機嫌を取るな。嫌われて当然と思え。
(8)自分の老後を冷静にみろ。無駄な出費をするな。
(9)遺産は残すな。自分たちで使ってしまえ。
(10)少なくとも子どもが高校生になるころには、子離れを完成させろ。

 何を隠そう、私も、その親バカだった。
「超」をつけてもよいほどの、親バカだった。
ハハハ……と笑って、ここはごまかす。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

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□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 5月 10日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【心のメカニズム】(脳内ホルモン支配説)

●扁桃核(扁桃体) 

+++++++++++++++++

脳の辺縁系の中に、扁桃核(扁桃体)
という組織がある。
調べれば調べるほど、(私のばあい、
「聞けば聞くほど」ということになるが)、
不思議な組織である。

私たちが「人間性」と呼んでいる部分は、
どうやらこの扁桃核が司っているらしい。
「人間性」イコール、「心」と考えてもよい。
そんなことが、近年、少しずつわかってきた。

+++++++++++++++++

●扁桃核

 扁桃核(扁桃体ともいう)については、たびたび書いてきた。
たった今、グーグルの検索エンジンを使って、「はやし浩司 
扁桃核」で検索してみたら、504件、
「はやし浩司 扁桃体」で、602件、ヒットした。

 その扁桃核について、こんな記事が載っていた。
2007年に中日新聞に載っていた記事である。
当時書いた原稿の一部を、そのまま紹介する。

++++++++++++++++++++

こんな興味ある研究結果が公表されたので、
ここに紹介する。

「いじめは、立派な傷害罪」という内容の
記事である。

++++++++++++++++++++

 東北大学名誉教授の松沢大樹(80)氏によれば、「すべての精神疾患は、脳内の扁桃核
に生ずる傷によって起きる」と結論づけている。

 松沢氏によれば、「深刻ないじめによっても、子どもたちの扁桃核に傷は生じている」と。

 傷といっても、本物の傷。最近は、脳の奥深くを、MRI(磁気共鳴断層撮影)や、P
ET(ポジトロン断層撮影)などで、映像化して調べることができる。実際、その(傷)
が、こうした機器を使って、撮影されている。

 中日新聞の記事をそのまま紹介する(07年3月18日)。

 『扁桃核に傷がつくと、愛が憎しみに変わる。さらに記憶認識系、意志行動系など、お
よそ心身のあらゆることに影響を与える。……松沢氏は、念を押すように繰りかえした。『い
じめは、脳を壊す。だからいじめは犯罪行為、れっきとした傷害罪なんです』と。

 今、(心)そのものが、大脳生理学の分野で解明されようよしている。

+++++++++++++++++++++++

 これだけでも扁桃核が、重大な組織であることがわかる。
この扁桃核が、大脳皮質部からの信号を受けて、エンドロフィン系、エンケファリン系の
モルヒネ様のホルモンを分泌する。
それが脳内を甘い陶酔感で満たす。
何かよいことをすると、気持ちがよくなる。
そういった現象は、この扁桃核の機能によって、引き起こされる。

 が、その扁桃核は、かなりデリケートな組織らしい。
もろく、傷つきやすい。
それを東北大学名誉教授の松沢氏が、科学的に証明した。

 言い換えると、子育てをする上において、扁桃核に悪影響を与えるような環境や
行為は、タブー中のタブーということになる。
万が一、扁桃核に傷をつけるようなことがあると、その子どもの人間性そのものに大きな
影響を与えることになる。

●心の傷

 では、「心の傷」とは何かということになる。
それについては、まさに千差万別。
定型がない。
つまり症状には、定型がない。
どこに傷がついたかによっても、ちがう。
ひがみやすい、ひねくれやすい、いじけやすい……などの性格的症状に始まって、
さまざまな身体的症状や精神的となって現れることもある。
最近の研究によれば、うつ病の「種」すらも、乳幼児期に作られるということまで
わかってきた。

 ともかくも、扁桃核に傷がついたばあい、「心」、つまり、「人間性」に影響を与える
ことになる。
「あの人は、心の温かい人だ」「冷たい人だ」というときの、(温もり)を決定する。

++++++++++++++++++++

九州大学の吉田敬子氏は、つぎのように説く。
母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、
子どもは、『母親から保護される価値のない、
自信のない自己像』(九州大学・吉田敬子・
母子保健情報54・06年11月)と。

さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、
強迫性障害、不安障害の(種)になることもあるという。
それが成人してから、うつ病につながっていく、と。

++++++++++++++++++++

●子どもの世界

 ほかにもいろいろある。
そのことは、子どもたちの世界を見ていると、よくわかる。
というのも、子どもはおとなとちがい、ありのままの姿を、外に表現する。
隠すということをしない。
だからよくわかる。

 言い換えると、子どもにとって望ましい環境で、心安らかに育てられた子どもは、
共通した性格、性質を示す。
穏やかで、やさしく、表情も豊かで、心が静かに落ち着いている。
もちろんそれ以前の問題として、何らかの障害をもった子どもは別だが、ともかくも、
ほっとした温もりを感ずる。
が、そうでない子どもは、そうでない。

親にようる虐待、無視、冷淡、拒否的態度、暴力など。
こうした衝撃が日常的に繰り返されたりすると、子どもの心には大きな影響を与える。
たった一度でも、それが強烈だと、子どもの心をゆがめることがある。
どこかに不自然さや、違和感を覚えたりする。

 何かあると、つっぱってしまう。
ひがみやすく、いじけやすい。
嫉妬深く、根に持ちやすく、いつまでもこだわる。
ちょっとしたことで、別人格になってしまう、など。それが「心の傷」ということになる。
私が直接経験した例を、いくつか、あげてみる。

●症例

 ある女の子(当時2歳)は、何かのことで母親に強く叱られた。
あとで母親は、こう言った。
「それまではほとんど叱ったことのない子でした。
しかしその日だけは、私のほうがおかしかったかもしれません」と。
ともかくもその日を境に、その女の子は、1人2役の、(ときには、3役、4役の)、
独り言を言うようになってしまった。
「まったく別人のように、たがいに会話をするので、不気味です」と。

 また別の男の子は、4歳くらいのときに、風呂に水を入れて遊んでいた。
(風呂は2階にあった。)
その水があふれて、2階から1階を、水びたしにしてしまった。
それを見た祖父が激怒。
その子どもを激しく叱った。
以後、その子どもは、ニタニタと意味のわからない笑みを浮かべるようになって
しまった。
病院へ連れていくと、「自閉症」と診断された(当時)。

 先にも書いたように、心の傷というのは、症状は多岐に渡る。

(1)性格的症状(性格から、(すなおさ)が消える)。
(2)身体的症状(さまざまな身体的変調が現われる)。
(3)精神的症状(精神不安、恐怖症、神経症、パニック障害など)。

 傷という(損傷)が、脳のどこにつくかによって、異なる。
扁桃核のばあい、その子ども(人)の人間性にまで、影響を与える。
他者との共鳴性の欠落、自己中心性、無表情、無感動、無反応など。
わかりやすく言えば、心の温もりが消える。
 
●私たちの問題

 が、この問題は、即、私たち自身の問題として、はね返ってくる。
私はどうなのか?
あなたはどうなのか?、と。
というのも、心の傷のない人のほうが、少ない。
程度の差こそあれ、みな、もっている。
それが扁桃核によるものなら、なおさらで、心というのは、そういう意味では、
たいへんもろい。
薄いガラス箱のようなもの。
ちょっとしたことで、すぐ壊れる。

 そこで重要なことは、心の傷があるという前提で、私自身、あなた自身をながめて
みるということ。
まずいのは、そういう傷があることに気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
そしてそれでもって、「これが私」と思い込むこと。
「他人もそうだ」と思いこむこと。

●心の冷たい人

 心理学的には、心の冷たい人は、それだけ人格の完成度が低いということになる。
その人格の完成度は、(1)他者との共鳴性、(2)いかに自己中心的でないか、の2点で
判断される(EQ論)。
心の冷たい人というのは、その反対側に位置するということになる。
目の前でだれかが悲しんでいても、平気。
考えることは、自分のことだけ、と。
(だからといって、心の冷たい人が、すべて扁桃核に傷をもっているということにはなら
ない。誤解のないように!)

 そこで重要なことは、まずそういう自分自身に気がつく。
つぎに、そういう自分を改造していく。
「心理療法」というのもある。
が、これは簡単なことではない。
それこそ10年単位の時間がかかる。
「一生かかる」とだれかが言っても、私は同意する。

この問題だけは、本能に近い部分にまで根ざしているため、それを変えることは、
容易ではない。
それこそ『三つ子の魂、百まで』ということになる。
基本的には、つまりよほどのことがないかぎり、心の温かい人は、一生温かい。
心の冷たい人は、一生、冷たい。

●心の温もりとは

 心の温もりについて、大脳生理学では、つぎのように説明する。

 何かよいことをしたとする。
弱い人を助けたり、だれかを手伝ったとする。
その意識は信号となって、扁桃核に伝えられる。
扁桃核はその信号を受けて、エンケファリン系、エンドロフィン系のホルモンで、脳内を
満たす。
モルヒネ様のホルモンである。
それが心地よい感覚をもたらす。
「よいことをすると、気持ちがいい」という感覚は、こうして生まれる。
音楽や絵画、そのほかの芸術に感動したり、他人の不幸や悲しみに共鳴するというのも、
それに含まれる。

 反対に何か悪いことをしたときは、どうか?
これについては私の不勉強かもしれないが、まだ明確な解答はない。
ただ考えられることは、あくまでも私の推察だが、何らかのホルモンが分泌され、脳内を
不快感で満たすのではないか。

 わかりやすく言えば、よいことをすれば、気持ちよくなる。
悪いことをすれば、不快感を覚えるようになる。

●性善説

 少し回り道をするが、この点からも、私は「性善説」を支持する。
よいことをすれば、気持ちよくなる。
楽しくなる。
それが免疫機能を高め、病気に対する抵抗力を高める。
つまりより長生きできる。

 反対に悪いことをすれば、それがストレッサーとなり、免疫機能を低める。
つまり命を縮める。

 ……とまあ、脳の機能がこうまで単純とは言えないが、おおまかに言えば、それほど
まちがっていないと思う。
つまり人間が、過去20数万年も生き延びてこられたのは、性善説に基づいているからと
考えてよい。
もし性悪説に基づくものであれば、人間は、とっくの昔に滅びていたことになる。

●「心」

 人間には知恵がある。
それを司るのが、大脳皮質部であるとしても、知恵だけでは人間は人間たりえない。
コンピューターにたとえるまでもない。
「心」があってはじめて、人間は人間たりえる。
それを「人間性」という。

たとえば喜怒哀楽の判断は、大脳皮質部でもできる。
しかしその信号を受けて、「心」として反応するのは、辺縁系という組織ということになる。
その組織が、さまざまな「心的反応」を示す。
つまり「心」も、脳の機能の一部ということになる。
言うまでもなく、その人の人間性は、その「心」で決まる。
最近では、心の原点は、脳内の化学物質、つまり脳内ホルモンであるという説が、
半ば常識化している。
その鍵を握るのが、扁桃核ということになる。

●終わりに……

 いろいろと話が脱線したが、「心」も、脳の機能のひとつということになる。
その鍵を握るのが、脳の中心部にある辺縁系ということになる。
この部分には、ほかに、やる気を司る帯状回とか、記憶を司る海馬などと呼ばれる
組織もある。
私たちが学生のころは、このあたりを「原始脳」と呼び、「すでに機能を失った脳」として
学んだ。
が、それがとんでもない誤解であったことは、ここに書いたことからでも、わかる。

 「心」……この不可思議にして、得体がつかめない「内的現象」は、いつの時代にも
人間を悩ませる。
できれば心の傷など、なければないほうがよいに決まっている。
しかし時として、その傷が、人間のさまざまなドラマを生み出す。
1億人、人がいれば、1億種類のドラマを生み出す。
「おもしろい」と言えば語弊があるが、それが人間社会の豊かさということになる。

(ほかの動物たちと比べてみると、それがよくわかる。
北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
それぞれ個性的な動きをしていても、スズメはスズメ。
その範囲を超えることはない。)

つまり「心の傷」を、「悪いもの」と決めてかかるのではなく、「それが人間」と考える。
あとは、それと仲よくつきあう。
自分の傷ならなおさら、他人の傷であっても、仲よくつきあう。
扁桃核に焦点をあて、「心」と「心の傷」について、考えてみた。
(2010−4−2)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 扁桃核 扁桃体 心の正体 心のメカニズム 心はどこに 人間性と
心 心と人間性)

●補記

 「心」も脳の機能的活動のひとつということになる。
そういう意味では、けっして霊的(スピリチュアル)な存在ではない。
またそう考えてはいけない。

 すこし話が突飛もない方向に進むが、以前、特養に母を見舞ったときのこと。
私とワイフは、こんな会話をしたことがある。
「この人たちもみな、やがてすぐ、あの世へ行くことになる。
しかしどの段階で、あの世へ行くのだろうか」と。

 「どの段階」というのは、20代のころの段階をいうのか、30代のころの
段階をいうのか、と。
もし死ぬ直前の状態のままあの世へ行くとしたら、死んだ人たちは、ほとんど思考能力を
失ったままあの世へ行くことになる。
特養の中には、一日中、「飯(めし)はまだか!」と、怒鳴り散らしている女性もいた。
そんな状態のままあの世へ行くというのも、おかしな話ではないか。

 で、ワイフが言うには、「いちばんよい段階のときに、行くんじゃない?」と。
つまり一番美しく、輝いていた(段階)で、あの世へ行く、と。
またそう考えないと、矛盾が生じてくる。

 たとえば死ぬとき、眠るようにして死ぬ人もいる。
しかしほとんどは、長く病気を患い、苦しんで死ぬ。
交通事故にしても、そうだ。
そんな状態のまま、あの世へ行ったら、あの世は、そういう人たちばかりになる。
となると、あの世というところは、病院のようなところかということになってしまう。
特別養護老人ホームのようなところを想像してもよい。
ここに「あの世」と書いたが、「天国」でもよい。

 そこで人間は、肉体と霊(心)を分けた。
そうすれば、この矛盾を解消できる。
が、「心も脳の機能的活動のひとつ」ということになると、心的現象としての「霊」
の存在も、否定されることになる。
昔は、「心は心臓にある」と考えられていたが、今では「脳にある」と考える。
が、その脳にも「ない」ということになる。
「ある」とか、「ない」とか、考えるほうが、おかしい。
「ない」のである。

 たとえば恋愛感情にしても、今ではホルモン説で説明される。
以前、「恋の寿命」※という原稿を書いたことがある。
性欲、食欲については、脳の視床下部が司っている。
そうしたものが、こん然一体となって、人間の「心」をつくりあげている。

 が、誤解しないでほしい。
だからといって、「人間の心はつまらない」と書いているのではない。
またそういうふうに思ってもらっては困る。
私が書きたいのは、その逆。
「だから、おもしろい」である。
というのも、「心」の奥は深い。
かぎりなく深い。
ひとつの例をあげて、それを説明してみたい。

 たとえば夫婦の間の性行為がある。
女性のばあいはどうなのか、本当のところはよくわからない。
しかし男性のばあい、射S前と、射S後では、「女性の体」に対する感覚は、180度
変化する。
(「S」にしたのは、BLOGによっては、禁止語になっているから。「精」のことである。)

それが瞬間に、おもしろいほど、変化する。
射S後は、そこにあるのは、ただの肉塊。
射S前には、あれほどまでに狂おしく見えた肉体でも、そう見える。

 が、ここからが人間のすばらしいところ。
ワイフの肉体ですら、ただの「肉塊」になるが、そのとたん、そこに(いとおしさ)を
覚える。
しわもふえ、肌には、つやもない。
弾力性もないばかりか、シミが出ている。
が、そこに(いとおしさ)を覚える。
もし人間の心が機能だけで動くとしたら、こうした(いとおしさ)を説明することは
できない。

 いつだったか、「人間の脳のニューロンの数は、DNAの数より多い」ということを
書いた。
つまり人間がもつ創造性は、DNAの限界を超えて、無限性と多様性を秘めている。
心もまた同じ。
つまり人間の脳の機能を、すべて科学で説明することはできない。
それが「奥が深い」という意味になる。 
もっとわかりやすく言えば、脳の機能は、1+1=2であっても、それがときには、
1+1=∞になったりする。
 
 私は、それが「おもしろい」と言う。
蛇足だが、私は心の否定論者ではないことをわかってもらいため、この補記部分を書いた。


Hiroshi Hayashi+++++++April.2010++++++はやし浩司

(参考)【心の原点(心のメカニズム)】(2009年5月24日作)

++++++++++++++++

脳の活動は、「ニューロン」と呼ばれる
神経細胞が司っている。
それは常識だが、しかしでは、その
神経細胞が、「心」を司っているかというと、
そうではない。

最近では、心の原点は、脳内の化学物質、
つまり脳内ホルモンであるという説が、
半ば常識化している。
私たちの心は、常に、この脳内ホルモンに
よって、影響を受け、コントロールされて
いる。

その例としてわかりやすいのが、
フェニルエチルアミンというホルモン
ということになる。
そのフェニルエチルアミンについて書いた
原稿がつぎのものである。

+++++++++++++++++

●恋愛の寿命

+++++++++++++++++

心ときめかす、恋心。しかしその恋心
にも、寿命がある。

+++++++++++++++++

 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたよ
うになる……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるも
のだということが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦が
すような甘い陶酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というわけである。

その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろ
ん、麻薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の
寿命は、それほど長くない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると
今度は、それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が
分泌されるからこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態、つまり平常の状態
が保たれる。体が、その物質に慣れてしまったら、つぎから、その物質が分泌されても、
その効果が、なくなってしまう。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌さ
れない。脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較
的長くつづくことになる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほ
うが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。も
って、3年とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはな
い」というような、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったという
ような恋愛であれば、半年くらい(?)。(これらの年数は、私自身の経験によるもの。)

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋
愛をしても、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界
も、やがて色あせて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

 ……と考えると、では、結婚生活も、4年程度が限度かというと、それは正しくない。
恋愛と、結婚生活は、別。その4年の間に、その2人は、熱烈な恋愛を繰りかえし、つぎ
のステップへ進むための、心の準備を始める。

 それが出産であり、育児ということになる。一連のこうした変化をとおして、今度は、
別の新しい人間関係をつくりあげていく。それが結婚生活へとつながっていく。

 が、中には、そのフェニルエチルアミン効果による、甘い陶酔感が忘れられず、繰りか
えし、恋愛関係を結ぶ人もいる。たとえばそれが原因かどうかは別にして、よく4〜5年
ごとに、離婚、再婚を繰りかえす人がいる。

 そういう人は、相手をかえることによって、そのつど甘い陶酔感を楽しんでいるのかも
しれない。

 ただここで注意しなければならないのは、このフェニルエチルアミンには、先にも書い
たように麻薬性があるということ。繰りかえせば繰りかえすほど、その効果は鈍麻し、ま
すますはげしい刺激を求めるようになる。

 男と女の関係について言うなら、ますますはげしい恋愛をもとめて、さ迷い歩くという
ことにもなりかねない。あるいは、体がそれに慣れるまでの期間が、より短くなる。はじ
めての恋のときは、フェニルエチルアミン効果が、4年間、つづいたとしても、2度目の
恋のときは、1年間。3度目の恋のときは、数か月……というようになる(?)。

 まあ、そんなわけで、恋愛は、ふつうは、若いときの一時期だけで、じゅうぶん。しか
も、はげしければはげしいほど、よい。二度も、三度も、恋愛を経験する必要はない。回
を重ねれ重ねるほど、恋も色あせてくる。

が、中には、「死ぬまで恋を繰りかえしたい」と言う人もいるが、そういう人は、このフ
ェニルエチルアミン中毒にかかっている人とも考えられる。あるいはフェニルエチルア
ミンという麻薬様の物質の虜(とりこ)になっているだけ。

 このことを私のワイフに説明すると、ワイフは、こう言った。

 「私なんか、半年くらいで、フェニルエチルアミン効果は消えたわ」と。私はそれを横
で聞きながら、「フ〜ン、そんなものか」と思った。さて、みなさんは、どうか?

(はやし浩司 恋愛 恋愛の寿命 フェニルエチルアミン ドーパミン効果 麻薬性 は
やし浩司 恋の寿命 恋の命 恋愛の命 脳内ホルモン フィードバック (はやし浩司 
家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 恋のホルモン)

+++++++++++++++++++++

話を戻す。
ここで「フィードバック」について、もう一度、説明してみたい。

脳というのは、それ自体がいつもカラの状態を保とうとする。
たとえば驚いたようなとき、脳は直接、副腎に作用して、アドレナリンを分泌させる。
ドキドキしたり、ハラハラしたりするのは、そのためである。
発汗を促すこともある。

が、同時に脳の中では別の反応が起こる。
視床下部にある脳下垂体が、それを感知して、副腎に対して、副腎皮質刺激ホルモン
を分泌するようにと、言うなれば、指令ホルモンを分泌する。
このホルモンによって、副腎が刺激を受け、副腎は、副腎皮質ホルモンを分泌する。
わかりやすく言えば、脳内に分泌されたアドレナリンを、副腎皮質ホルモンが
今度は中和しようとする。

こうして脳内はいつもカラの状態、つまり平常な状態を保とうとする。
それをフィードバック(作用)という。

●生殖

(私が男性ということもあって)、私は、男性のことはよく知っている。
女性も、それほどちがわないと思うが、男女の行為の前と後とでは、異性の肉体の見方が、
まったくちがう。

男性のばあいは、180度、変化することも珍しくない。
あれほど狂おしく求めた相手でも、行為が終わったとたん、スーッと興味が
しぼんでいく。
消えていく。
それは満腹感ともちがう。
心そのものが、変化してしまう。
男性のばあい、それがおもしろいほど急激な変化となって現れる。

こうした現象をどう考えたらよいのか。

先に副腎の話を書いたが、脳からの指令を受けてホルモンを分泌する器官は、
ほかにもたとえば、甲状腺や生殖腺などがある。
さらにごく最近の研究によれば、胃や、大腿筋でも、ある種のホルモンが
分泌されることもわかってきた。
肉体、すべてがホルモンの分泌器官と考えてよい。

では、生殖腺でも、副腎と同じような化学変化が起きているとみてよいのか。
というのも、男女の(心)を説くとき、(行為の変化)ほど、顕著に現れる変化は、
ほかにそうはない。

(行為……最近、BLOGでは、使用禁止用語を設定しているところが多いので、
こういう言葉を使う。つまりSxxのことをいう。)

さらに言えば、「私は私」と思っているしている思いや行動といったものも、
実は、脳内ホルモンによってコントロールされているということになる。

その証拠に、先ほども書いたように、(男性のばあい)、行為の前と後とでは、
心の状態が、180度変わってしまう。

●知性と心

たとえばここに難解な数学の問題があるとする。
「1から5ずつふえていく数列がある。この数列の数を、5番目から、20番目まで
を合計すると、いくつになるか」と。

高校で習う公式を使えば、簡単に解ける。
公式を知らない人でも、電卓を片手に、足し算を繰り返せば解ける。
こうした作業を受け持つのは、大脳連合野の中でも、比較的外側にある、皮質部という
ことになる。

一方、(心)というのは、そういう知的な活動とは、異質のものである。
どこかモヤモヤとしていて、つかみどころがない。
ときに理性のコントロールからはずれるときがある。
つまりそれが脳内ホルモンの作用によるものということになる。

たとえば何かよいことをしたとする。
人助けでもよい。
そういうときそういう情報は、辺縁系の中にある扁桃核(扁桃体)に信号として
送られる。
それに応じて、扁桃核は、モルヒネに似たホルモンである、エンケファリン系、
エンドロフィン系のホルモンを分泌する。
それが脳内を甘い陶酔感で満たす。
それが(人助けをした)→(気持ちよい)という感覚へとつながっていく。

こうして考えていくと、(あくまでも私という素人の考えだが)、知的活動は、
ニューロンと呼ばれる神経細胞が司るとしても、心のほとんどは、脳内ホルモンの
作用によるものと考えてよいのではということになる。
またそういうふうに分けることによって、心のメカにズムが理解できる。
しかしこの考え方は、両刃の剣。

●「私は私」

心のメカニズムはそれで説明できる。
それはそれでよい。
が、心が脳内ホルモンによるもの、あるいは脳内ホルモンに大きく影響を受けるものと
すると、(1)「心なんて、ずいぶんといいかげなんなもの」と思う人が出てくる
かもしれない。
さらに(2)「では、私とは何か、それがわからなくなってしまう」と考える人も
出てくるかもしれない。

心をときめかすあの恋にしても、フェニルエチルアミン効果によるものということに
なれば、それにまつわる求愛、デートなどの行動のすべてが、結局は脳内ホルモンに
よって操られているということになってしまう。
(実際に、そうなのだが……。)

となると、つまり(心)を自分から取り除いてしまうと、では、いったい、私は何か
ということになってしまう。
さらにつきつめていくと、私という私がなくなってしまう。
その一例として、先に、男女の行為のあとの、あの変化をあげた。
そこに妻の(あるいは夫の)肉体を見ながら、「行為の前の私は何だったのか?」と。

が、男女の行為だけに終わらない。
実は人間が織りなす行為のほとんどが、またそのほとんどの部分において、こうした
脳内ホルモンの作用に影響を受けているということになる。
どの人も、「私は私」と思って、それぞれの行動をしている。
が、その「私」など、どこにもないということになる。
「私たちの心は、脳内ホルモンに操られているだけ」と。
しかもいいように操られているだけ、と。

……と書くのは、危険かもしれないが、反対に、「どこからどこまでが私で、どこから
先が私でないか」と考えてみると、それがわかる。

「私は私」と思っている部分など、きわめて少ないのがわかる。
さらに言いかえると、人間もそこらに遊ぶ動物と、どこもちがわないということ。
あるいは、そこらの動物と同じということ。
ちがわないというより、ちがいを見つけることのほうが、むずかしい。

●「私」論

たいへん悲観的というか、絶望的なことを書いてしまったが、自分を知るためには、
脳内ホルモンの問題は、避けては通れない。
たとえば今、私は空腹感を覚えている。
この4〜5日、ダイエットをつづけている。
胃袋が小さくなったような感じがする。
それでも空腹感を覚える。
ワイフがまな板をたたく音を聞いただけで、ググーッと、食欲がわいてくる。
条件反射反応が起きている。

恐らく脳内の視床下部にあるセンサーが、血糖値を感知し、ドーパミンンを
放出しているのだろう。
それが線条体にある受容体を刺激し始めている(?)。

その私は、「私は私」と思いながら、これからさまざまな行動を起こすはず。
庭へ出て、畑から、サラダ菜を採ってくる。
それにドレッシングをかける。
食卓に並べる……。

こうした一連の行為にしても、ドーパミンという脳間伝達物質に操られているだけ
ということになる。
もしそこに「私」がいるとするなら、空腹感を抑えながら、サラダ菜だけで、今朝の
食事をすますこと。
体重が適正体重に減るまで、それをつづけること。
つまり「私」というのは、ここでの結論を言えば、脳内ホルモンと闘うところに、ある。
けっして、脳内ホルモンに操られるまま、操られてはいけない。
その意思が、「私」ということになる。

(新しい思想、ゲット!)

……かなり乱暴な結論だが、今の私は、そう考える。

今朝(09年5月24日)も、こうして始まった。
今日はこのことをテーマに、自分の行動を静かに観察してみたい。
つづきは、また今夜!

みなさん、おはようございます!
Hiroshi Hayashi+++++++April. 2010++++++はやし浩司

●(注※)サイトカイン

++++++++++++++以下、「ウィキペディア百科事典」より+++++++++

サイトカインは細胞表面の膜上にある受容体(それ自体がチロシンキナーゼまたはチロシ
ンキナーゼと共役するものが多い)に結合して働き、それぞれに特有の細胞内シグナル伝
達経路の引き金を引き、結果的には細胞に生化学的あるいは形態的な変化をもたらす。

サイトカインは多機能的、つまり単一のサイトカインが標的細胞の状態によって異なる効
果をもたらす。例えば免疫応答に対して促進と抑制の両作用をもつサイトカインがいくつ
か知られている。

またサイトカインは他のサイトカインの発現を調節する働きをもち、連鎖的反応(サイト
カインカスケード)を起こすことが多い。このカスケードに含まれるサイトカインとそれ
を産生する細胞は相互作用して複雑なサイトカインネットワークを作る。

たとえば炎症応答では白血球がサイトカインを放出しそれがリンパ球を誘引して血管壁を
透過させ炎症部位に誘導する。またサイトカインの遊離により、創傷治癒カスケードの引
き金が引かれる。

サイトカインはまた脳卒中における血液の再還流による組織へのダメージにも関与する。
さらに臨床的にはサイトカインの精神症状への影響(抑鬱)も指摘されている。

サイトカインの過剰産生(サイトカイン・ストームと呼ばれる)は致死的であり、スペイ
ン風邪やトリインフルエンザによる死亡原因と考えられている。この場合サイトカインは
免疫系による感染症への防御反応として産生されるのだが、それが過剰なレベルになると
気道閉塞や多臓器不全を引き起こす(アレルギー反応と似ている)。

これらの疾患では免疫系の活発な反応がサイトカインの過剰産生につながるため、若くて
健康な人がかえって罹患しやすいと考えられる。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 5月 7日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●『許して忘れる』と、その限界
Beyond the words, "Forgive and Forget"
++++++++++++++++

『許して忘れる』は、生きる原則。
しかしその『許して忘れる』にも、限界がある。
他者に向かう(怒り)は、これは許して、
忘れることができる。
For・give&For・get。
「相手に愛を与えるために許し、相手から愛を
得るために忘れる」。

しかし自分に向かう(怒り)はどうか。
許して忘れることは可能なのか。
いくつかのケースを並べて、考えて
みたい。

++++++++++++++++

【ケース1】

 何かの失敗をして、自分の人生をメチャメチャにしてしまうということは、よくある。
私のことではない。
マスコミをにぎわす事件として、よくある。
どこかの学者は、手鏡で若い女性のスカートの中をのぞいて、自分の人生をメチャメチャ
にしてしまった。
地位も名誉も失った。

 仮に私がその学者なら、(怒り)は、まっさきに自分に向かう。
「何というバカなことをしてしまったのだろう」と。
(あるいは「何と運が悪かったのだろう」と思うかもしれないが……。)

 しかしこのばあい、(怒り)そのものも、それほど強くないはず。
その学者は、自分でしたいことをしただけ。
欲望の奴隷となり、欲望を抑えることができなかっただけ。
言うなれば債権投資で、大金を失ったようなもの。
だから逮捕され、職を追われたとしても、「損をした」と後悔することはあるだろう。
しかし(怒り)が、自分に向かうことはない。
だから(自分を許す)ということ自体、ないとは言わないが、その衝撃は小さい。

【ケース2】

 ある宗教教団では、輸血そのものを禁止している。
「禁止」という言葉は使っていないが、私が電話で問い合わせると、こう教えてくれた。
「禁止はしていません。しかし熱心な信者なら、自ら、輸血を拒否するでしょう」と。
実に巧妙な言い方である。

 で、その結果、交通事故にあった、自分の子どもが死んでしまったとする。
私の子どもでもよいし、あなたの子どもでもよい。
輸血を適切にしていれば、助かったかもしれない。
で、それから何年かたった。
その人は、信仰をやめ、その宗教団体から抜けた。
そのとき、その人は、(私やあなたでもよいが)、どう考えるだろうか。
自分の愚かさを恥じ、悩み苦しむだろうか。

 あくまでもこれは私の想像だが、その人は、自分に向かう(怒り)に苦しむことになる。
「何と、バカなことをしてしまったのだろう」と。

 このばあい、果たして、『許して忘れる』ことは、可能だろうか。
「私もだまされていました」と、忘れることはできるだろうか。
もちろん教団に責任を求めることはできない。
教団は、輸血を禁止していたわけではない。

 私がその人なら、生涯にわたって、もがき苦しむことになるだろう。
つまり自分を、許して忘れることはできない。

(実際には、こういうケースのばあい、そういう信者は、ますます信仰にのめり込んでい
く。
まちがいを認めることは、そのまま自己否定につながる。
「自分の子どもを殺してしまった」という苦しみに耐えられる親は、いない。)

【ケース3】

 過保護や過干渉、過関心で、子どもをダメに(?)にしていく親は多い。
過負担、過剰期待でもよい。

 ある子どもは猛烈な受験競争の結果、何とか、市内でもいちばんという、進学高校に入
学した。
それまで毎晩のように、母親とその子どもの間で、「勉強しなさい」「うるさい」の大げん
かがつづいた。
しかし入学したとたん、バーントアウト。
燃え尽きてしまった。
無気力から怠学となり、前期も終わるころには、不登校を繰り返すようになってしまった。
病院で診察を受けると、うつ病と診断された。

 こういうケースのばあい、その母親が、自分に対して(怒り)を覚えることは、まずな
い。
それ以前の問題として、罪の意識そのものがない。
「私はまちがったことをした」という自覚そのものがない。
むしろこう考える。
「私は子どものために、必要なことをしただけ」と。

 その母親が自責の念にかられるためには、(まちがったことをした)という、客観的な自
覚がなければならない。
それを知るためには、母親自身が賢くなり、自分の過ちに気がつかなければならない。
しかしほとんどのばあい、それは期待できない。
へたをすれば、「なぜあなたはそうなってしまったの!」と、子どもを責めつづけるかもし
れない。
つまり(怒り)が、自分に向かうということはない。

【ケース4】
 
 つまらない結婚、つまらない子育てをし、その結果、自分の人生を棒に振ってしまった
と感じたときは、どうだろうか。
数日前も、どこかのBLOGに、こんな書き込みがしてあった。
記憶によるものなので、内容は正確ではないが、こういう内容だった。

 つまりその女性(50歳くらい)は、毎日のように夫に向かって、「人生を返せ!」「青
春を返せ!」と、怒鳴り散らしているという。
はげしい文句が並べてあった。

 こういうケースは少なくない。
私も身近の人で、妻が夫にそう言っているという話を聞いたことがある。

こういうケースのばあい、自分に対する(怒り)を、相手である夫にぶつけているという
ふうに解釈できる。
不本意な結婚した自分を責めるあまり、それを夫のせいにして、夫を責める。

結婚したことを後悔しているというより、気がついてみたら、人生も終わっていた。
鏡に映るのは、すでに老人顔。
息子や娘たちからは、「バーさん」と言われ、相手にされない。
「私の人生は何だったの!」と叫んだとたん、(怒り)がこだまのように、はね返ってくる。
その(怒り)が、そこにいる夫に向かう。

 で、『許して忘れる』ということになる。
が、それは果たして可能なのか。
まただれを許し、だれを忘れればよいのか。

 このばあいでも、(怒り)が自分に向かっている間は、『許して忘れる』は、できないと
いうことになる。
夫にしても、手のほどこしようがない。

【ケース5】

 こうして考えてみると、他者を『許して忘れる』ことはできても、(それも難しいことだ
が)、自分を『許して忘れる』ということは、ほぼ不可能と断言してよい。
私も、数年前、こういうことがあった。

 私は1人の知人にだまされて、ほとんど価値のない山林を買ってしまった。
俗に言う「山師」だった。
で、それから30年以上。
いつまでももっていても仕方ないということで、その山林を売りに出そうとした。
しかし住宅地とちがって、山林には、そうした土地を売買するしくみそのものがない。
そこで私は新聞に、折り込み広告を入れた。
反応がまったくなかったので、私はそれを6回、つづけて出した。

 が、それがその知人の逆鱗に触れた。
「オレに恥をかかせた」ということになったらしい。
で、結局、その山林は、買ったときの値段の10分の1程度で、地元の別の人が買ってく
れた。
が、以来、私の方が悪者になってしまった。
(しかし、どうしてこの私が悪者なのか?)

 こういうケースのばあい、(怒り)は、私のばあいは、自分に向かう。
私は完全な、自責型人間。
私をだました知人に、(怒り)が向かうのではなく、「愚かだった」ということで、自分に
向かった。
「もっと調べて買うべきだった」とか、「親しいからといって、信用した私がバカだった」
と。
 
 で、やはりここでも、『許して忘れる』という問題がたちはだかる。
自分を許し、忘れることはできるのか、と。
が、答は「NO!」。
今でも心のどこかに、悶々とした燃えかすのようなものが、くすぶりつづけている。
それがその答ということになる。

●結論

 『許して忘れる』……、つまり、それによって「愛」の深さが決まる。
その度量の深さが、愛の深さということになる。

 しかしそれにはいくつかの条件がある。

 その第一は、ここにも書いてきたように、「他者」が、そこにいること。
相手が(自分)では、どうしようもない。
とくにそこに自分の愚かさがからむときは、そうである。
ここにも書いたように、いつ晴れるともなく、悶々とした燃えかすのようなものが残る。

 さらに言えば、「他者」といっても、それにふさわしい他者でなければならないというこ
と。
相手が「山師」のような人間では、そもそも「許す」という対象にならない。
「相手にした私が愚かだった」ということになる。

 ……ということで、(ケース1)から(ケース5)まで、いろいろな場面を想定して、『許
して忘れる』の限界について、考えてみた。
この言葉を宗教的に解釈する人たちは、たぶん、こう言うだろう。
「それでも、許して忘れなさい。その向こうに愛があり、真理が隠されています」と。

 しかし私には、その度量はない。
ごくふつうの、平凡な男である。
だからその限界を乗り越えることはできない。
それがここでいう「許して忘れるの限界」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 許して忘れる 許して忘れろ 許して忘れるの限界 愛の限界 はや
し浩司 愛の限界論 自責 他者を許す 自分を許す)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【児童心理・思いつくまま】(わんぱく少年+子どもの服従的態度)

●おとなしくなった男児

++++++++++++++++++

最近の子どもたち、とくに男児が、
おとなしすぎる。
柔和で、やさしく、覇気がない。
小学1〜2年生でも、いじめられて泣くのは
男児。
いじめるのは女児と決まっている。
こうした逆転現象(?)は、すでに15〜20
年以上も前から始まっている。
そうした傾向が、このところ、少子化の進行とともに、
さらに加速している。
今では、小学3、4年生でも、いじめられて
泣くのは男児。
いじめるのは女児と決まっている。

++++++++++++++++++

●わんぱく少年

私たちが子どものころには、わんぱく少年は
どこにでもいた。
私も、その1人だった。
乱暴で、喧嘩ばやかった。
しかしその半面、学校の「教室」という場では、
おとなしかった。

当時、近くの山をはさんで、山の反対側に住む
子どもたちと、戦争ごっこをよくした。
「ごっこ」というレベルを超えていたかもしれない。
はげしかった。
山の中で相手を見つけると、リンチをした。
私たちも、リンチされた。
私も一度、つかまってしまい、チxチxの先に、
かぶれの木の樹液を塗られたことがある。
あれをやられると、そのあと1週間ほど、
痛くて排尿がうまくできなくなる。

しかし学校という場では、おとなしかった。
私たちは「敵」と呼んでいたが、学校で
敵を見つけても、あいさつこそしなかったが、
たがいに知らぬ顔をして、その場をやり過ごした。

●荒れる教室

 つまり私たちが子どものころは、子どもが本来もつ
エネルギーを発散する場所を、別にもっていた。
私のばあい、「山」だった。
が、最近の子どもには、それがない。
家の中に閉じこもったまま。

 数年前のこと。
浜松の郊外、郊外といっても、山奥に近いが、そこで
講演をさせてもらったときのこと。
校長から、こんな話を聞いた。
「このあたりの子どもも、外で遊ばなくなりました」と。

 いろいろな調査結果を見ても、農村や山村地域の子どもの
ほうが、都会に住む子どもよりも、家の中にいる時間が長い。
理由は言わずと知れた、テレビゲーム、ゲーム機器。
つまりそれでは、エネルギーを発散できない。
そこでそのエネルギーを学校の教室という場で、
発散するようになった(?)。
つまり子どもたちを取り巻く環境が、質的に変化してきた。
それに並行して、少子化。
それぞれの子どもが、必要以上に、ていねいに(?)、
育てられるようになった。
とくに男児。

 言葉は悪いが、母親に(飼い殺されてしまっている)。
「飼いつぶされてしまっている」のほうが、よいかも
しれない。
過関心と過干渉。
それに溺愛と過保護。
今では昔風のわんぱくな男児というと、10人に
2〜3人程度しかいない(年長児)。
これとて多めにみた数字。

 こうして「荒れる教室」が生まれ、「女児化した
男児」が生まれた。
もっとも、ほかにもいろいろな見方があるだろうが、
ひとつの見方として、参考にしてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 わんぱく少年 男児の女児化 環境の質的な変化)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●服従的態度

+++++++++++++++++

だれかに服従して生きるというのは、
一見すると、「たいへんだな」と思う
人もいるかもしれない。
しかし実際には、楽。
何も考えなくてよい。

+++++++++++++++++

●リーダー不在

 良好な人間関係が結べない子どもは、(1)攻撃的態度、(2)依存的態度、(3)同情
的態度、それに(4)服従的態度のうちの、どれかをとることが知られている。
これらについては何度も書いてきたので、ここでは(4)の服従的態度について、考えて
みたい。

 つまりだれかに徹底的に服従することによって、自分の立場を確保しようとする。
よくあるケースが、親分・子分の関係。
思春期の子どもによく見られる現象である。

 ところで少し話が脱線するが、私たちが子どものころは、子どもたちが集まる場所では、
すぐこの親分・子分関係が生まれた。
私もずっと子分だったときがあり、それが終わると、今度は親分になった。
が、今は、それがない。

 すでに15年ほど前に書いた本の中で、私はこの問題を指摘した。
たとえば幼稚園の砂場でも、珍現象が起きていた。
40年前には、砂場でも、すぐ親分・子分関係が生まれ、リーダー格の子どもの指示に
従って、みなが動いた。
みなが力を合わせて、大きな山を作ったりした。
が、最近は砂場でも、子どもたちが互いに背を向けあいながら、それぞれがチマチマと、
勝手に遊んでいる。
こうした傾向は、さらに最近、強くなってきている。
「ぼくがリーダーだ」と声をあげる子どもが、いない。
その雰囲気さえ、ない。

 それはそれとして、服従的態度にも、さまざまな問題がある。

●カルト教団

 話は一足飛びに飛躍するが、世の中には、「カルト教団」と呼ばれる宗教団体が、数
多くある。
そういう教団の中では、信者たちは、それを意識することもなく、人間ロボットとして、
幹部の指導者の意のままに動いている。
一度、そういう信者の1人と、個人的に話したことがある。
(詳しくは私の書いた『ポケモンカルト』の中に収録。)

 私が「あなたは、だれかに操られていると思いませんか」と聞いたときのこと。
その信者は、こう答えた。
「私は自分の意思で動いています。
それに教祖様(=指導者)は、万巻の本を読んでおられます。
まちがっていません」と。
こうした盲目性が、カルト教団の信者の特徴のひとつということになる。

 が、同時に、そこは甘美な世界でもある。
教団を中心に、信者どうしが、兄弟以上の兄弟、親子以上の親子になったりする。
一瞬にして、孤独感が消える。
その魅力があるからこそ、信者は、その教団から離れることができない。
またそういう力を利用して、教団は、自らの勢力を拡大していく。
つまり信者は徹底した服従を誓うことによって、自らの立場を確保していく。

 私の知っているK教団では、信仰年数によって、序列が決まる。
当然「信仰年数」が長い信者ほど、立場が上。
だから50歳くらいの信者が、30歳くらいの信者に頭をさげたりする。
そういう光景をよく目撃する。

 しかし子どもの世界では、この服従的態度は、心理的な発育ということを考えると、
好ましくない。

●自己の同一性(アイデンティティ)

 「自分はこうありたい」「こうしたい」という(自己概念)。
「私は、今、こうだ」「現実に、こうしている」という(現実自己)。
この2つが一致した状態を、「自己の同一性」という。

 思春期前夜から思春期にかけて、子どもは、この自己の同一性を確立する。
またそれができるよう、周囲の者(教師や親)は、子どもを声援し、見守らなければ
ならない。
が、そうした確立が軟弱なまま、思春期を過ごしてしまう子どもも多い。
その原因のひとつとして、服従的態度がある。

 もっとも服従することが、すべてまちがっているわけではない。
それによって、そのノウハウが蓄積され、今度はそれが親分(リーダー)としての素質に
つながっていくこともある。
先に、私は子分時代を経て、親分になったと書いた。
具体的には、幼稚園へ通っているころは、ずっと子分だった。
小学2、3年生になって、親分になった。
現在、そのころの経験が、自分の仕事(=幼児教室)で、役に立っている。

 が、一方的に服従する。
言われたまま行動する……というよりは、自分でものを考えない。
自分がどうあるべきかも、考えない。
こうした姿勢が一度身につくと、ここに書いた、自己の同一性の確立がおぼつかなくなる。
自分が何をしたいのか、何をすべきなのかも、わからなくなる。
ついで、何をしてはいけないのかもわからなくなる。
これはよくない。
「危険な態度」と断言してもよい。

 そのため思春期の服従的態度は、えてして非行、犯罪行為につながりやすい。
またそういう集団を組みやすくなる。
それを避けるためには、どうするか。

 要するに、(自分で考え)、(自分で行動し)、(自分で責任を取る)という、「自由の
3原則」を、子育てに生かす。
これについては、たびたび書いてきたので、ここに、その原稿をさがして添付する。

+++++++++++++

子育て自由論。

+++++++++++++

●自由

 自由のもともとの意味は、「自らに由(よ)る」、あるいは、「自らに由らせる」という意
味である。

 この自由には、3つの柱がある。(1)まず自分で考えさせること。(2)自分で行動さ
せること。(3)自分で責任を取らせること。

(1)まず自分で考えさせること……日本人は、どうしても子どもを「下」に見る傾向が
強いので、「〜〜しなさい」「〜〜してはダメ」式の命令口調が多くなる。しかしこういう
言い方は、子どもを手っ取り早く指導するには、たいへん効果的だが、しかしその一方で、
子どもから考える力を奪う。そういうときは、こう言いかえる。「あなたはどう思うの?」
「あなたは何をしたいの?」「あなたは何をしてほしいの?」「あなたは今、どうすべきな
の?」と。時間は、ずっとかかるようになるが、子どもが何かを言うまでじっと待つ。そ
の姿勢が、子どもを考える子どもにする。

(2)自分で行動させること……行動させない親の典型が、過保護ママということになる。
しかし過保護といっても、いろいろある。食事面で過保護になるケース。運動面で過保護
になるケースなど。親はそれぞれの思い(心配)があって、子どもを過保護にする。しか
し何が悪いかといって、子どもを精神面で過保護にするケース。子どもは俗にいう「温室
育ち」になり、「外の世界へ出すと、すぐ風邪をひく」。たとえばブランコを横取りされて
も、メソメソするだけで、それに対処できないなど。

(3)自分で責任を取らせること……もしあなたの子どもが、寝る直前になって、「ママ、
明日の宿題をやっていない……」と言い出したとしたら、あなたはどうするだろうか。子
どもを起こし、いっしょに宿題を片づけてやるだろうか。それとも、「あなたが悪い。さっ
さと寝て、明日先生に叱られてきなさい」と言うだろうか。もちろんその中間のケースも
あり、宿題といっても、いろいろな宿題がある。しかし子どもに責任を取らせるという意
味では、後者の母親のほうが、望ましい。日本人は、元来、責任ということに甘い民族で
ある。ことを荒だてるより、ものごとをナーナーですまそうとする。こうした民族性が、
子育てにも反映されている。

 子育ての目標は、「よき家庭人として、子どもを自立させる」こと。すべてはこの一点に
集中する。そのためには、子どもを自由にする。よく「自由」というと、子どもに好き勝
手なことをさせることと誤解する人もいるが、それは誤解。誤解であることがわかっても
らえれば、それでよい。
(01−11−7)

● 子どもは自由にして育てよう。
● 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として、自立させること。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子育て自由論 自由 自らに由る 自らに由らせる。)

+++++++++++++++++

が、過関心、過干渉が日常化すると、
子どもは自立できなくなってしまう。
もちろん人格の核(コア)形成も遅れる。
それについて、つぎのような原稿を
書いたことがある。

+++++++++++++++++

【子どもの人格】

●幼児性の残った子ども

++++++++++++++++

人格の核形成が遅れ、その年齢に
ふさわしい人格の発達が見られない。

全体として、しぐさ、動作が、
幼稚ぽい。子どもぽい。

そういう子どもは、少なくない。

++++++++++++++++

 「幼稚」という言い方には、語弊がある。たとえば幼稚園児イコール、幼稚ぽいという
ことではない。幼稚園児でも、人格の完成度が高く、はっと驚くような子どもは、いくら
でもいる。

 が、その一方で、そうでない子どもも、少なくない。こうした(差)は、小学1、2年
生ごろになると、はっきりとしてくる。その年齢のほかの子どもに比べて、人格の核形成
が遅れ、乳幼児期の幼児性をそのまま持続してしまう。特徴としては、つぎのようなもの
がある。

(1) 独特の幼児ぽい動作や言動。
(2) 無責任で無秩序な行動や言動。
(3) しまりのない生活態度。
(4) 自己管理能力の欠落。
(5) 現実検証能力の欠落。

 わかりやすく言えば、(すべきこと)と、(してはいけないこと)の判断が、そのつど、
できない。自分の行動を律することができず、状況に応じて、安易に周囲に迎合してしま
う。

 原因の多くは、家庭での親の育児姿勢にあると考えてよい。でき愛と過干渉、過保護と
過関心など。そのときどきにおいて変化する、一貫性のない親の育児姿勢が、子どもの人
格の核形成を遅らせる。

 「人格の核形成」という言葉は、私が使い始めた言葉である。「この子は、こういう子ど
も」という(つかみどころ)を「核」と呼んでいる。人格の核形成の進んでいる子どもは、
YES・NOがはっきりしている。そうでない子どもは、優柔不断。そのときどきの雰囲
気に流されて、周囲に迎合しやすくなる。

 そこであなたの子どもは、どうか?

【人格の完成度の高い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、年上に見える。
○自己管理能力にすぐれ、自分の行動を正しく律することができる。
○YES・NOをはっきりと言い、それに従って行動できる。
○ハキハキとしていて、いつも目的をもって行動できる。

【人格の完成度の低い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、幼児性が強く残っている。
○自己管理能力が弱く、その場の雰囲気に流されて行動しやすい。
○優柔不断で、何を考えているかわからないところがある。
○グズグズすることが多く、ダラダラと時間を過ごすことが多い。

 では、どうするか?

 子どもの人格の核形成をうながすためには、つぎの3つの方法がある。

(1) まず子どもを、子どもではなく、1人の人間として、その人格を認める。
(2) 親の育児姿勢に一貫性をもたせる。
(3) 『自らに由(よ)らせる』という意味での、子育て自由論を大切にする。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 以上、子どもの服従的態度について考えてみた。
古来より日本では、「親や先生の指示に、ハイハイと従う子どもほど、いい子」と
考える。
またそれを教育の目標にしてきた。
しかしそういう子どもほど、あとあと心配。
子ども自身も、「私探し」に苦労する。

 要するに、おとなしく覇気がないというのは、子ども本来のあるべき姿ではない。
アメリカでは、このタイプの子どもを、「問題児」として位置づけている。
そういうことも考えながら、子どもの服従的態度を、改めて見なおしてみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 服従的態度 自由の3原則 三原則 問題児 育児姿勢)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●TOYOTA車は、宇宙船ではない!(Re-written on April 1st)
(改作・10−04−01)
Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?

(2日前の3月30日に書いた、「TOYOTA車は、宇宙線ではない」の
原稿が、あちこちのサイトで紹介され、今までにない波紋を広げている。
その原稿を補足してみる。)
2010年4月1日。

++++++++++++++++++++

交通事故の95%は、運転手の操作ミスに
よるもの。
そのうちの何割かは、アクセルとブレーキの
不適切な操作によるもの。

ところで、こんな仰天ニュースが、読売
新聞に載っていた。
そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、読売新聞、2010−3−30日++++++++++

【ワシントン=岡田章裕】トヨタ自動車の車の急加速問題で、米航空宇宙局(NASA)
と全米科学アカデミー(NAS)が、米高速道路交通安全局(NHTSA)の要請を受け
て事故原因の調査に乗り出すことが30日、明らかになった。

 米ワシントン・ポスト紙が報じた。

 トヨタ車の急加速問題では、ラフード米運輸長官が2月に電子制御系の調査を数か月か
けて行う方針を表明したが、事故原因は特定されていない。放射線などが電子制御系に影
響を与えているとの見方もあり、NHTSAは両機関の協力を得てより科学的な調査を行
う考えだ。

+++++++++++以上、読売新聞、2010−3−30日++++++++++

●悪玉づくり

 米高速道路交通安全局(NHTSA)は、何としても、TOYOTA車を、悪玉に仕立
てあげたいらしい。
つまり引くに引けなくなった。
そこで今度は、NASAに事故調査依頼をいたという。
「放射線などが電子制御系に影響を与えているとの見方もある」とか?

 ハア〜〜〜?

 電子制御装置を使用していない車など、いまどき、ない。
何らかの形で、使用している。
TOYOTA車だけが、電子制御装置を使用しているわけではない。
仮に放射線が電子制御装置に影響を与えるとするなら、すべての車に影響を与えるはず。
また与えるとしたら、平均して、すべての車に影響を与えるはず。
すべてのTOYOTA車に影響を与えるはず、でもよい。

 つまりすべてのTOYOTA車が、急加速現象を起こすはず。
そこでまたまた論理学の話。

●疑問

(1)「放射線が影響を与える」というのなら、(仮にそれがわかったとしても)、では、そ
の放射線とやらは、どこから発せられたのか。
そこまで解明しなければならない。
仮に宇宙からの放射線ということであれば、すべての車にまんべんなく、影響を与えるは
ず。
アメリカを走るTOYOTA車全体が、急加速現象を起こしてもおかしくない。

(2)この発想は、絶縁体をはがして、電線をショートさせてみた、どこかのアホ教授の
それと、どこもちがわない。
「通常では起こりえない状態を人為的に作り、それでもって、急加速の原因」と。
もしこんな手法がまかり通るなら、あちこちの電線を切ってつないでみればよい。
それでおかしくならない車など、ない!
つまりバカげている。

(3)米航空宇宙局(NASA)と全米科学アカデミー(NAS)に、調査を依頼したと
か?
TOYOTA車は、宇宙船ではない。
地上を走る車である。
素人の私でも、放射線が、(強弱の程度にもよるのだろうが)、電子制御装置に影響を与え
るかもしれないという程度のことは、おおかた予想がつく。
もしそうなら、さらに宇宙線の影響を受けやすい、航空機はどうなのかという問題がある。
もし「YES」という結果が出たら、車の心配より、飛行機やミサイルの心配をしたほう
がよい。

(4)仮に「YES」という調査結果が出たとしても、それでもって、急加速現象の証拠
とはならない。
もしこんな論法がまかりとおるなら、この先、運転の操作ミスで事故を起こした人は、こぞって、
放射線影響説を唱えるようになるだろう。
「運転ミスではない」と。

●論理学(必要・十分条件)

 もう一度、論理学の世界で、この問題を考えてみたい。
つぎの問題を考えてみてほしい。

【問】

 ここに4枚のカードがある。
表には、(△)か(□)が描いてある。
『表が(△)のときは、裏には赤の(●)が、かならず描いてある』。
このことが正しいことを証明するために、あなたはつぎの4枚のカードのうち、
どれをめくってみるか。

1枚目……(△) 
2枚目……(□) 
3枚目……赤の(●) 
4枚目……青の(●)

 単純に考えれば、1枚目と3枚目をめくればよいということになる。
1枚目をめくってみて、赤の(●)。
3枚目をめくってみて、(△)。

 しかしこれでは先の命題を、正しいと証明したことにはならない。
1枚目をめくったとき、裏に赤の(●)があれば、命題の条件に合致する。
3枚目の赤の(●)をめくってみたときも、そうだ。
表に(△)があれば、命題の条件に合致する。
が、これでは十分ではない。
だからといって、「(△)のカードの裏は、赤の(●)」ということが、証明された
わけではない。
つまり先の命題が、正しいことを証明したことにはならない。

 この命題が正しいと証明するためには、この命題はまちがっていない
ことを明らかにしなければならない。
が、その前に書いておかねばならない。
3枚目は、めくっても意味はない。 
仮に3枚目をめくったとき、表に(△)が描いてなくても、(つまり(□)で
あったとしても)、この命題の証明には、影響を与えない。

 では、どれをめくればよいのか。

 1枚目をめくって、赤の(●)が出てくることは、命題の証明には必要。
しかし十分ではない。
そこでこの命題はまちがっていないことを証明しなければならない。
それを決定するのは、4枚目のカードということになる。
4枚目は青の(●)。
もしこのカードをめくってみて、(△)が出てこなければ、この命題はまちがって
いることになる。
そこで4枚目をめくってみる。
表に(△)が出てくる。
この段階ではじめて、命題は、まちがっていないということになる。

 これが「論理」である。

●必要・十分

 話を戻す。

 「放射線が、TOYOTAの車の電子機器に影響を与える」ことを証明するためには、
TOYOTAの車に、放射線を照射して、不具合を起こすだけでは足りない。
「必要な実験」かもしれないが、「十分」ではない。
ほかのメーカーの車にも、照射してみなければならない。
つまり「ほかの車では、何ともなかった」ということを証明しなければならない。
(いまどき何らかの形で、電子機器を搭載していない車は、ない。)

さらに、もし放射線が原因であるとするなら、(放射線というのは、すべてのTOYOTA
車に、まんべんなく降り注いでいるものだから)、「なぜ特定の車だけに、影響が出たのか」
も証明しなければならない。
まだある。
「どうしてアメリカのTOYOTA車だけに、集中的に影響を与えたか」についても、
証明しなければならない。
そこまで証明して、はじめて、「十分」となる。

 また仮に放射線が原因であったとしても、そこまで予測可能であったかという問題も残
る。
私もコンピュータを使うようになって、すでに35年になる。
コモドール社のPETの時代から、使っている。
が、今にいたるまで、一度だって、「放射線の影響」など、考えたこともない。
パソコン雑誌を書かさず読んでいるが、それが話題になった記事を見たこともない。

 「放射線」という言葉は、いったい、どこから出てきたのか?

●振り上げた拳(こぶし)

 調査が進むにつれて、話がおかしくなってきた。
米高速道路交通安全局(NHTSA)は、ふりあげた拳(こぶし)を、おろすにおろせな
くなってしまった。
そこで言うに事欠いて、今度は、NASAに調査依頼?

 バカげているというか、常軌を逸している。
もし米高速道路交通安全局(NHTSA)が調査すべきことがあるとするなら、両足を、
アクセルとブレーキにかけて走っているドライバーが、アメリカには、何%いるか、だ。
飲酒運転をしているドライバーの数や、携帯電話をかけながら走っているドライバーの数
でもよい。

 最後に、現在、TOYOTAのハイブリッド車は、アメリカだけで、600万台以上も
走っている。
そのうちの数百台に急加速現象が起きたという。
が、全体からみれば、1万分の1。
0・01%!

事故の95%は運転手の運転操作ミスという数字は、いったい、どうなるのか。
先にも書いたように、その大部分は、アクセルとブレーキの踏みまちがいによるもの。
アクセルとブレーキを踏みまちがえれば、どんな車だって、急加速する。

●統計的調査(補足)

 ここで私は、冗談ぽく、「両足を、アクセルとブレーキにかけて走っているドライバーが、
アメリカには、何%いるか」を調べたらよいと書いた。
しかしこれは冗談ではない。

 たまたま昨日も、近くのTOYOTAの販売会社のディーラーの人と話した。
その人(50歳くらい)も、こう言っていた。
「アクセルとブレーキを同時に踏んで運転するなどということは、日本では考えられない」
と。
つまり車の運転の仕方が、日本とアメリカとでは、ちがうらしい、と。

 そこでこんなことを調査してみたらどうだろう。

(1)両足を乗せて運転する人の割合(%)と、急加速問題が起きた割合(%)。

 たとえばA国では、両足を乗せて運転する人が、10%いたとする。
そしてそのA国では、TOYOTA車につき、100件の急加速現象が起きたとする。
割合が、全体の、0・01%だったとする。

これが基礎データ。

 つぎにB国について調べる。
B国では、両足を乗せて運転する人が、5%いたとする(A国の10%の半分)。
同じようにB国でも急加速現象が起きたとする。
そのときその割合が、0・01÷2(半分)=0・005%と同じか、かぎりなくその数
値に近ければ、急加速現象は、TOYOTA車の欠陥ではなく、運転の仕方に原因がある
ということになる。

 同じように、(2)TOYOTA車における、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)
と、ほかのメーカーにおける、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)でもよい。

●車の欠陥

 交通事故の95%は、ドライバーの運転操作ミスによるものだという(米高速道路交通
安全局(NHTSA))。
残りの5%が、車の欠陥によるものということになる。

 そこで改めて数字を拾ってみる。

 現在、アメリカでは、600万台のTOYOTAのハイブリッド車が走っている。
うち数百台が急加速現象を起こし、事故につながった可能性があるという(米高速道路交
通安全局(NHTSA))。
仮に600台としても、0・01%。

 もし私が米高速道路交通安全局(NHTSA)の幹部なら、TOYOTAの車を問題に
する前に、車の車検制度を考える。
私の二男もアメリカで学生をしているころ、車を買った。
が、ドアを満足に開けることさえできなかった。
そういう日本では考えられないような車が、アメリカでは、平気で走っている。
どうしてそういうことを、問題にしないのか。

 さらにドライバーの教育問題もある。
アメリカでは、高校生のとき、授業のひとつとして、運転教習を受け、免許を手にしてい
る。
どういう教習をしているのかは知らないが、そのあたりにまで一度、メスを入れてみる必
要があるのでは?

●放射線?

 それにしても、今度は、「放射線」というところがすごい!
その少し前にも、TOYOTAのディーラーの人と話したが、この日本では、急加速問題
は起きていないという。
(このところ車の買い換えもあって、たびたびTOYOTAの販売会社に、足を運んでい
る。)

つまり放射線なるものは、どうして日本には降り注がないのか、そのあたりもきちんと証
明しなければならない。
(あるいは大病院の放射線照射ルームの近くで、そういう事故が多発したというデータで
もあれば、話は別だが……。)

 また論理学の世界で考えるなら、先にも書いたように、「放射線が、電子制御装置に影響
を与える」というだけでは、十分ではない。
「ほかの車の電子制御装置が、なぜ影響を受けないか」ということまで証明して、はじめ
て十分となる。
これ、称して、「必要・十分条件」という。
(私たちが子どものころは、こんなことは、中学校で学んだぞ!)

●だいじょうぶか、アメリカ!

 私は、今度ほど、アメリカ人の脳みその程度を疑ったことはない。
また調査依頼を受けたNASAもNASA。
そのあたりの情報は、すでにもっているはず。
改めて調査するまでもなく、その情報を公開したらよい。

 なお私なら放射線より先に、たとえば静電気とか、稲妻とか、あるいは走行中の振動が
与える影響について調べる。
ついでに肉食人種たちが出す、あの臭いおならでもよい。
さらに悪霊のたたりでもよい。
一度、そのあたりも、調査してみてほしい。

 NASAに調査依頼するよりは、スカリーとモウルダーに依頼したほうがよいのでは?
これぞまさしく、X−File!

 ……というのは、少し書き過ぎということはわかっている。
先に「どこかのアホ教授」とも書いた。
しかしアホはアホ。
そういう常識では考えられないような実験を真に受け、それでもって、「急加速現象が証明
できた」とした、米高速道路交通安全局(NHTSA)も、アホ。
まともに相手にするのもバカバカしいほど、常識をはずれている。
だから「アホ」と書いてしまう。
言葉は汚いが、私はそれ以外の言葉を思いつかない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 トヨタ車の急加速問題 米高速道路交通安全局(NHTSA) NA
SA 放射線の影響 放射線と電子制御装置 宇宙線と電子制御装置 影響 TOYOT
A ハイブリッド車)


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【雑感・あれこれ】

●55年目の夢実現

+++++++++++++++++

当時すでにヘリコプターという乗り物は、
よく知られていた。
私が小学2年生のときのことである。
私はそのヘリコプターのおもちゃが
ほしかった。

で、ある朝のこと。
その光景はよく覚えている。
みなでぞろぞろと、学校に向かっている
ときのこと。
私はおもちゃのヘリコプターと
いっしょに歩いている自分を想像した。
たいへんよくできたおもちゃで、
私の操縦どおりに、空を飛んだ。
おもちゃのヘリコプターが、
私のあとをかけてくる・・・。
どういうわけか、そのときの光景や、
私が思ったことを、よく覚えている。

が、その当時すでに、おもちゃで、
空を飛ぶというのは、あるにはあった。
手元にハンドルを回す箱があって、そのハンドルを回すと、
その動力が、ヘリコプターの本体へ伝えらる。
その力で空を飛ぶというものだった。

私は手のどこかに、そのハンドルを回した
記憶がある。
買ってもらったのか、それともおもちゃ屋で
遊ばせてもらったのかは、覚えていない。
しかし、まったくと言ってよいほど、
飛ばなかった。
それはよく覚えている。

飛び上がると同時に、墜落した。
それであの朝、学校へ行く途中、頭の中で、
そんなヘリコプターを想像したのだろう。

以来、55年。
その間、ラジコンの飛行機は、10機以上、
飛ばしてみた。
「みた」というのは、一応、「どれもあっと
いう間に墜落した」という意味。
ヘリコプターも、3機ほど、飛ばしてみた。
エンジン付の、かなり大きなものだった。
が、どれも長つづきしなかった。

が、10年ほど前から室内用のヘリコプターという
のが、売りに出されるようになった。
小型のおもちゃだったので、ミニ・ヘリコプター
ともいう。
当初は、本体だけで、3〜4万円もした。
それが数年前から、5000円前後で買える
ようになった。

全部で、10〜15機は買っただろうか。
当初は、ただ上昇するだけという簡単な
ものだった。
それがすぐ、2チャンネル、つまり(上昇・
下降)と、(左右・回転)のものになった。
何とか操縦はできたが、思うようには
飛ばなかった。

が、最近、3チャンネル仕様の、しかも
ジャイロスコープ付のものが売りに出された。
今までのミニ・ヘリコプターとちがい、
ボディは、金属製。
格段の進歩だった。
さっそく、購入。
イマイチという感じはあるが、それでも
10〜15年前の、ラジコンヘリに匹敵
するほどの性能をもちわせている。
驚いた!

私はこのところ毎日のように、それを飛ばして
遊んでいる。
回を重ねるごとに、操縦もうまくなってきた。
まだ子どものころ想像したようには、
飛ばせないが、しかしほぼ満足。
ミニ・ヘリコプターを飛ばしながら、
別の心で、夢がかなった!、と、
まあ、そんなふうに思っている。

+++++++++++++++++

●夢

 「夢」には、2つの意味がある。
ひとつは、眠っているときに見る「夢」。
もうひとつは、将来に向かって描く希望的な像。
しかし考えてみれば、この2つはまったく異質のもの。
どうして日本語では、この2つをまとめて「夢」と言うのだろう。
しかし考えてみれば、これはおかしい。

 で、英語ではどうだろう。
英語でも「dream」というときは、2つの意味を兼ねる。
しかし悪夢は、「ナイト・メア」という。
眠っているときに見る夢も、「dream」と言うときがある。
が、あまり、そういう使い方をしない。

だから「dream」というときは、将来に向かって描く希望的な像ということになる。
だれかが「I had a dream last night.(ぼくは昨夜、
夢をもった)」と言えば、眠っているときに見る夢ではなく、「昨夜、将来に向かって
こんな希望をもった」というふうに解釈する。

 その夢だが、みなが同じ夢をもてば、やがてそれは集合され、実現される。
(眠っているときに見る「夢」ではなく、将来に向かって描く希望的な「夢」のこと。)
おもちゃのヘリコプターも、そのひとつということになる。
言い換えると、夢をもつことの大切さは、ここにある。
夢が、みなを、前向きに引っ張っていく。
そしてそれがいつか、大きな力となって、実現する。

 だからみなさん、夢をもとう。
みなで頭の中で、理想像を描こう。
みながいっしょにその理想像を描けば、やがてそれが集合され、大きな力となる。
人間の心を変え、社会そのものを変えていく。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 夢論 夢について dream)

+++++++++++++++

以前、「day dreamer」について書いた。
あのエジソンも、その1人。
以上の原稿とは関係ないが、
ここに拾ってみる。

+++++++++++++++

●ボンヤリは心の掃除

 日中、ときどきもの思いにふけってぼんやりすることがある。これを英語では「デイ・
ドリーム」という。日本語に訳すと、「白昼夢」となるが、その言葉から受ける印象ほどお
おげさに考える必要はない。

むしろ最近の研究では、このデイ・ドリームは、心のバランスをとるためには必要なもの
とわかってきた。それだけではない。すばらしい創造性や独創的なアイディアは、そのデ
イ・ドリームをしている間に生まれるとされる。たとえばエジソンやニュートンは、「デイ・
ドリーマー(夢見る人)」というニックネームがつけられていた。

 幼児のばあい、ふとしたきっかけで、このデイ・ドリームの状態になる。時間的には数
分程度から、長くても5分程度だが、ぽかっと魂が抜けてしまったかのようになる。時と
場所に関係なく、運動場で体操をしているようなときにでも、そうなることがある。車の
中やソファの上だったりすると、そのまま眠ってしまうこともある。そういうとき親は、「気
がゆるんでいるからだ」とか、「学習に集中できないからだ」と考えるが、そのデイ・ドリ
ームを無理に妨げると、子どもの情緒はかえって不安定になる。

私の印象では、子どもは(おとなもそうだが)、デイ・ドリームを見ることにより、心の緊
張感をほぐすのではないかと思う。その証拠に、デイ・ドリームから戻った子どもは、実
におだやかな表情を見せる。

 もちろんデイ・ドリームと集中力、あるいはデイ・ドリームと昼寝グセや睡眠不足は区
別しなければならない。同じぼんやりといっても、それが日常的につづくようであれば、
今度は別の問題を疑ってみなければならない。それはともかくも、そういった問題もなく、
子どもがふとしたきっかけで、どこかぼんやりとするような様子を見せたら、できるだけ
そっとしておくのがよい。

(付記)私もときどき仕事の合間にぼんやりとすることがある。半覚半眠の状態になるの
だが、そういうとき電話がかかってきたりすると、それだけで心臓の鼓動が変化するのが
わかる。あるいは授業と授業の間の休み時間に、別の仕事が入ったりすると、そのあとの
授業で強い疲れを感ずることがある。私のばあいも、ぼんやりとすることで、心を調整し
ているのだと思う。
 

Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●ブーメラン効果

 子どもを説教しているとき、かえって逆効果に感ずることがある。ときに、子ども自身
が、こちら側の下心を読んでしまうときがある。そうなると、いくら説教しても、効果が
ないばかりか、かえって子どもの反発心をかってしまう。

 たとえば時間つぶしをしている子どもがいる。時計ばかり気にして、少しも勉強しない。
私の前では、まじめに勉強しているフリをしているだけ。

 そういうとき、私が、ふと、「では、まじめに勉強して人から順に、採点して、今日のレ
ッスンは、終わります」と言ったとする。そう言えば、たいていのばあい、子どもたちは、
自らに拍車をかけて、勉強し始める。

 が、そういうとき、時間つぶしをしている子どもは、先に、私の下心を読んでしまう。「ぼ
くに、勉強させたいために、先生は、そう言っている」と。

 とたん、それまでのフリをやめ、堂々と、勉強をサボり始める。「どうせ、ぼくが最後に
なるんだろ!」とか言ったりする。

 こういうのを、(ブーメラン効果)という。こちらの意図したことが、逆効果となって、
返ってきてしまう。

 子どもと接するときは、いつも本音で接するようにする。下心はもたない。子どもとの
信頼関係を守るためにも、そうする。
(はやし浩司 ブーメラン効果 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 
子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 逆効果 教師の下心)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●ほめることの重要性

+++++++++++++++++

ほめることの重要性については、
繰り返し書いてきた。
『子どもはほめて伸ばせ』が、私の
持論にもなっている。
あちこちの本の中でも、そう書いた。

このほどその効果が、アカデミック
な立場で、証明された。

その記事を、そのままここに、
記録用として、保存させてもらう。

+++++++++++++++++

++++++++以下、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++

 親にほめられたり、やさしい言葉をかけられた乳幼児ほど、主体性や思いやりなど社会
適応力の高い子に育つことが、3年以上に及ぶ科学技術振興機構の調査で分かった。父親
の育児参加も同様の効果があった。「ほめる育児」の利点が長期調査で示されたのは初とい
う。東京都で27日午後に開かれる応用脳科学研究会で発表する。

 調査は、大阪府と三重県の親子約400組を対象に、生後4カ月の赤ちゃんが3歳半に
なる09年まで追跡。親については、子とのかかわり方などをアンケートと行動観察で調
べた。子に対しては、親に自分から働きかける「主体性」、親にほほ笑み返す「共感性」な
ど5分野30項目で評価した。

 その結果、1歳半以降の行動観察で、親によくほめられた乳幼児は、ほめられない乳幼
児に比べ、3歳半まで社会適応力が高い状態を保つ子が約2倍いることが分かった。また、
ほめる以外に、目をしっかり見つめる▽一緒に歌ったり、リズムに合わせて体を揺らす▽
たたかない▽生活習慣を整える▽一緒に本を読んだり出かける−−などが社会適応力を高
める傾向があった。

 一方、父親が1歳半から2歳半に継続して育児参加すると、そうでない親子に比べ、2
歳半の時点で社会適応力が1.8倍高いことも判明した。母親の育児負担感が低かったり、
育児の相談相手がいる場合も子の社会適応力が高くなった。

 調査を主導した安梅勅江(あんめときえ)・筑波大教授(発達心理学)は「経験として知
られていたことを、科学的に明らかにできた。成果を親と子双方の支援に生かしたい」と
話す。【須田桃子】

++++++++以上、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 ほめる ほめる効用 子どもをほめる ほめることの大切さ はや
し浩司 子どもはほめて伸ばす 伸ばせ 子供はほめて伸ばせ)

++++++++++++++++++++

●2007年4月の原稿より

【子どもを伸ばす】

●やる気論

 人にやる気を起こさせるものに、二つある。一つは、自我の追求。もう一つは、絶壁(ぜ
っぺき)性。

 大脳生理学の分野では、人のやる気は、大脳辺縁系の中にある、帯状回という組織が、
重要なカギを握っているとされている(伊藤正男氏)。が、問題は、何がその帯状回を刺激
するか、だ。そこで私は、ここで(1)自我の追求と、(2)絶壁性をあげる。

 自我の追求というのは、自己的利益の追求ということになる。ビジネスマンがビジネス
をとおして利潤を追求するというのが、もっともわかりやすい例ということになる。科学
者にとっては、名誉、政治家にとっては、地位、あるいは芸術家にとっては、評価という
ことになるのか。こう決めてかかることは危険なことかもしれないが、わかりやすく言え
ば、そういうことになる。こうした自己的利益の追求が、原動力となって、その人の帯状
回(あくまでも伊藤氏の説に従えばということだが)を刺激する。

 しかしこれだけでは足りない。人間は追いつめられてはじめて、やる気を発揮する。こ
れを私は「絶壁性」と呼んでいる。つまり崖っぷちに立たされるという危機感があって、
人ははじめてやる気を出す。たとえば生活が安定し、来月の生活も、さらに来年の生活も
変わりなく保障されるというような状態では、やる気は生まれない。「明日はどうなるかわ
からない」「来月はどうなるかわからない」という、切羽つまった思いがあるから、人はが
んばる。が、それがなければ、そうでない。

 さて私のこと。私がなぜ、こうして毎日、文を書いているかといえば、結局は、この二
つに集約される。「その先に何があるかを知りたい」というのは、立派な我欲である。ただ
私のばあい、名誉や地位はほとんど関係ない。とくにインターネットに原稿を載せても、
利益はほとんど、ない。ふつうの人の我欲とは、少し内容が違うが、ともかくも、その自
我が原動力になっていることはまちがいない。

 つぎに絶壁性だが、これはもうはっきりしている。私のように、まったく保障のワクの
外で生きている人間にとっては、病気や事故が一番、恐ろしい。明日、病気か事故で倒れ
れば、それでおしまい。そういう危機感があるから、健康や安全に最大限の注意を払う。
毎日、自転車で体を鍛えているのも、そのひとつということになる。あるいは必要最低限
の生活をしながら、余力をいつも未来のためにとっておく。そういう生活態度も、そうい
う危機感の中から生まれた。もしこの絶壁性がなかったら、私はこうまでがんばらないだ
ろうと思う。

 そこで子どものこと。子どものやる気がよく話題になるが、要は、いかにすれば、その
我欲の追求性を子どもに自覚させ、ほどよい危機感をもたせるか、ということ。順に考え
てみよう。

(自我の追求)

 教育の世界では、(1)動機づけ、(2)忍耐性(努力)、(3)達成感という、三つの段
階に分けて、子どもを導く。幼児期にとくに大切なのは、動機づけである。この動機づけ
がうまくいけば、あとは子ども自身が、自らの力で伸びる。英語流の言い方をすれば、『種
をまいて、引き出す』の要領である。

 忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。そのためには、『子どもは使えば使うほど
いい子』と覚えておくとよい。多くの日本人は、「子どもにいい思いをさせること」「子ど
もに楽をさせること」が、「子どもをかわいがること」「親子のキズナ(きずな)を太くす
るコツ」と考えている。しかしこれは誤解。まったくの誤解。

 3つ目に、達成感。「やりとげた」という思いが、子どもをつぎに前向きに引っぱってい
く原動力となる。もっとも効果的な方法は、それを前向きに評価し、ほめること。

(絶壁性)

 酸素もエサも自動的に与えられ、水温も調整されたような水槽のような世界では、子ど
もは伸びない。子どもを伸ばすためには、ある程度の危機感をもたせる。(しかし危機感を
もたせすぎると、今度は失敗する。)日本では、受験勉強がそれにあたるが、しかし問題も
多い。

 そこでどうすれば、子どもがその危機感を自覚するか、だ。しかし残念ながら、ここま
で飽食とぜいたくが蔓延(まんえん)すると、その危機感をもたせること自体、むずかし
い。仮に生活の質を落としたりすると、子どもは、それを不満に転化させてしまう。子ど
もの心をコントロールするのは、そういう意味でもむずかしい。

 とこかくも、子どものみならず、人は追いつめられてはじめて自分の力を奮い立たせる。
E君という子どもだが、こんなことがあった。

 小学六年のとき、何かの会で、スピーチをすることになった。そのときのE君は、はた
から見ても、かわいそうなくらい緊張したという。数日前から不眠症になり、当日は朝食
もとらず、会場へでかけていった。で、結果は、結構、自分でも満足するようなできだっ
たらしい。それ以後、度胸がついたというか、自信をもったというか、児童会長(小学校)
や、生徒会長(中学校)、文化祭実行委員長(高校)を、総ナメにしながら、大きくなって
いった。そのときどきは、親としてつらいときもあるが、子どもをある程度、その絶壁に
立たせるというのは、子どもを伸ばすためには大切なことではないか。

 つきつめれば、子どもを伸ばすということは、いかにしてやる気を引き出すかというこ
と。その一言につきる。この問題は、これから先、もう少し煮つめてみたい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●生きがいを決めるのは、帯状回?

 脳の中に、辺縁系と呼ばれる古い脳がある。脳のこの部分は、人間が原始動物であった
ときからあるものらしい。イヌやネコにも、たいへんよく似た脳がある。

その辺縁系の中に、帯状回とか扁桃体と呼ばれるところがある。最近の研究によれば、
どうやら人間の「やる気」に、これらの帯状回や扁桃体が関係していることがわかって
きた(伊藤正男氏)。

 たとえば人にほめられたりとすると、人は快感を覚える。反対にみなの前でけなされた
りすると、不快感を覚える。その快感や不快感を覚えるのが、扁桃体だそうだ。その快感
や不快感を受けて、大脳連合野の新皮質部が、満足したり、満足しなかったりする。

一方、その扁桃体の感覚を受けて、「やる気」を命令するのが、帯状回だそうだ(同氏)。
やる気があれば、ものごとは前に進み、それに楽しい。しかしいやいやにしていれば、
何をするのも苦痛になる。

 これは脳のメカニズムの話だが、現象的にも、この説には合理性がある。たとえば他人
にやさしくしたり、親切にしたりすると、心地よい響きがする。しかし反対に、他人をい
じめたり、意地悪したりすると、後味が悪い。この感覚は、きわめて原始的なもので、つ
まりは理屈では説明できないような感覚である。しかしそういう感覚を、人間がまだ原始
動物のときからもっていたと考えるのは、進化論から考えても正しい。もし人間が、もと
もと邪悪な感覚をもっていたら、たとえば仲間を殺しても、平気でいられるような感覚を
もっていたら、とっくの昔に絶滅していたはずである。

 こうした快感や不快感を受けて、つぎに大脳連合野の新皮質部が判断をくだす。新皮質
部というのは、いわゆる知的な活動をする部分である。たとえば正直に生きたとする。す
ると、そのあとすがすがしい気分になる。このすがすがしい気分は、扁桃体によるものだ
が、それを受けて、新皮質部が、「もっと正直に生きよう」「どうすれば正直に生きられる
か」とか考える。そしてそれをもとに、自分を律したり、行動の中身を決めたりする。

 そしていよいよ帯状回の出番である。帯状回は、こうした扁桃体の感覚や、新皮質部の
判断を受けて、やる気を引き起こす。「もっとやろう」とか、「やってやろう」とか、そう
いう前向きな姿勢を生み出す。そしてそういう感覚が、反対にまた新皮質部に働きかけ、
思考や行動を活発にしたりする。

●私のばあい

 さて私のこと。こうしてマガジンを発行することによって、読者の数がふえるというこ
とは、ひょっとしたら、それだけ役にたっているということになる。(中には、「コノヤロ
ー」と怒っている人もいるかもしれないが……。)

さらに読者の方や、講演に来てくれた人から、礼状などが届いたりすると、どういうわ
けだか、それがうれしい。そのうれしさが、私の脳(新皮質部)を刺激し、脳細胞を活
発化する。そしてそれが私のやる気を引き起こす。そしてそのやる気が、ますますこう
してマガジンを発行しようという意欲に結びついてくる。が、読者が減ったり、ふえな
かったりすると、扁桃体が活動せず、つづいて新皮質部の機能が低下する。そしてそれ
が帯状回の機能を低下させる。

 何とも理屈っぽい話になってしまったが、こうして考えることによって、同時に、子ど
ものやる気を考えることができる。よく「子どもにはプラスの暗示をかけろ」「子どもはほ
めて伸ばせ」「子どもは前向きに伸ばせ」というが、なぜそうなのかということは、脳の機
能そのものが、そうなっているからである。

 さてさて私のマガジンのこと。私のばあい、「やる気」というレベルを超えて、「やらな
ければならない」という気持ちが強い。では、その気持ちは、どこから生まれてくるのか。
ここでいう「やる気論」だけでは説明できない。どこか絶壁に立たされたかのような緊張
感がある。では、その緊張感はどこから生まれるのか。

●ほどよいストレスが、その人を伸ばす

 ある種のストレスが加えられると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まる。このア
ドレナリンが、心拍を高め、脳や筋肉の活動を高める。そして脳や筋肉により多くの酸素
を送りこみ、危急の行動を可能にする。こうしたストレス反応が過剰になることは、決し
て好ましいことではない。そうした状態が長く続くと、副腎機能が亢進し、免疫機能の低
下や低体温などの、さまざまの弊害が現れてくる。しかし一方で、ほどよいストレスが、
全体の機能を高めることも事実で、要は、そのストレスの内容と量ということになる。

 たとえば同じ「追われる」といっても、借金取りに借金の催促をされながら、毎月5万
円を返済するのと、家を建てるため、毎月5万円ずつ貯金するのとでは、気持ちはまるで
違う。子どもの成績でいうなら、いつも100点を取っていた子どもが80点を取るのと、
いつも50点しか取れなかった子どもが、80点を取るのとでは、同じ80点でも、子ど
ものよって、感じ方はまったく違う。

私のばあい、マガジンの読者の数が、やっと100人を超えたときのうれしさを忘れる
ことができない一方、450人から445人に減ったときのさみしさも忘れることがで
きない。100人を超えたときには、モリモリとやる気が起きてきた。しかし445人
に減ったときは、そのやる気を支えるだけで精一杯だった。

●子どものやる気

 子どものやる気も同じに考えてよい。そのやる気を引き出すためには、子どもにある程
度の緊張感を与える。しかしその緊張感は、子ども自身が、その内部から沸き起こるよう
な緊張感でなければならない。私のばあい、「自分の時間が、どんどん短くなってきている
ように感ずる。ひょっとしたら、明日にでも死の宣告を受けるかもしれない。あるいは交
通事故にあうかもしれない」というのが、ほどよく自分に作用しているのではないかと思
う。

 人は、何らかの使命を自分に課し、そしてその使命感で、自分で自分にムチを打って、
前に進むものか。そうした努力も一方でしないと、結局はやる気もしぼんでしまう。ただ
パンと水だけを与えられ、「がんばれ」と言われても、がんばれるものではない。今、こう
して自分のマガジンを発行しながら、私はそんなことを考えている。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」とは何かと考える。どこからどこまでが私で、どこからどこまでが私ではないか
と。よく「私の手」とか、「私の顔」とか言うが、その手にしても、顔にしても、本当に「私」
なのか。手に生える一本の毛にしても、私には、それを自分でつくったという覚え(意識)
がない。あるはずもない。

ただ顔については、長い間の生き様が、そこに反映されることはある。だから、「私の顔」
と言えなくもない。しかしほかの部分はどうなのか。あるいは心は。あるいは思想は。

 たとえば私は今、こうしてものを書いている。しかしなぜ書くかといえば、それがわか
らない。多分私の中にひそむ、貪欲さや闘争心が、そうさせているのかもしれない。それ
はサッカー選手が、サッカーの試合をするのに似ている。本人は自分の意思で動いている
と思っているかもしれないが、実際には、その選手は「私」であって「私」でないものに、
動かされているだけ? 

同じように私も、こうしてものを書いているが、私であって私でないものに動かされて
いるだけかもしれない。となると、ますますわからなくなる。私とは何か。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。映画『タイタニック』に出てくる、ジャック
とローズを思い浮かべてみよう。彼らは電撃に打たれるような恋をして、そして結ばれる。
そして数日のうちに、あの運命の日を迎える。

 その事件が、あの映画の柱になっていて、それによって起こる悲劇が、多くの観客の心
をとらえた。それはわかるが、あのジャックとローズにしても、もとはといえば、本能に
翻弄(ほんろう)されただけかもしれない。電撃的な恋そのものにしても、本人たちの意
思というよりは、その意思すらも支配する、本能によって引き起こされたと考えられる。

いや、だいたい男と女の関係は、すべてそうであると考えてよい。つまりジャックにし
てもローズにしても、「私は私」と思ってそうしたかもしれないが、実はそうではなく、
もっと別の力によって、そのように動かされただけということになる。このことは、子
どもたちを観察してみると、わかる。

 幼児期、だいたい満四歳半から五歳半にかけて、子どもは、大きく変化する。この時期
は、乳幼児から少年、少女期への移行期と考えるとわかりやすい。この時期をすぎると、
子どもは急に生意気になる。人格の「核」形成がすすみ、教える側からみても、「この子は
こういう子だ」という、とらえどころができてくる。そのころから自意識による記憶も残
るようになる。(それ以前の子どもには、自意識による記憶は残らないとされる。これは脳
の中の、辺縁系にある海馬という組織が、まだ未発達のためと言われている。)

 で、その時期にあわせて、もちろん個人差や、程度の差はあるが、もろもろの、いわゆ
るふつうの人間がもっている感情や、行動パターンができてくる。ここに書いた、貪欲さ
や闘争心も、それに含まれる。嫉妬心(しっとしん)や猜疑心(さいぎしん)も含まれる。

子ども、一人ひとりは、「私は私だ」と思って、そうしているかもしれないが、もう少し
高い視点から見ると、どの子どもも、それほど変わらない。ある一定のワクの中で動い
ている。もちろん方向性が違うということはある。ある子どもは、作文で、あるいは別
の子どもは、運動で、というように、そうした貪欲さや闘争心を、昇華させていく。反
対に中には、昇華できないで、くじけたり、いじけたり、さらには心をゆがめる子ども
もいる。しかし全体としてみれば、やはり人間というハバの中で、そうしているにすぎ
ない。

 となると、私は、どうなのか。私は今、こうしてものを書いているが、それとて、結局
はそのハバの中で踊らされているだけなのか。もっと言えば、私は私だと思っているが、
本当に私は私なのか。もしそうだとするなら、どこからどこまでが私で、どこから先が私
ではないのか。

 ……実のところ、この問題は、すでに今朝から数時間も考えている。ムダにした原稿も、
もう一〇枚(1600字x10枚)以上になる。どうやら、私はたいへんな問題にぶつか
ってしまったようだ。手ごわいというか、そう簡単には結論が出ないような気がする。こ
れから先、ゆっくりと時間をかけて、この問題と取り組んでみたい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 たとえば腹が減る。すると私は立ちあがり、台所へでかけ、何かの食べ物をさがす。カ
ップヌードルか、パンか。

 そのとき、私は自分の意思で動いていると思うが、実際には、空腹という本能に命じら
れて、そうしているだけ。つまり、それは、「私」ではない。

 さらに台所へ行って、何もなければどうする? サイフからいくらかのお金を取り出し
て、近くのコンビニへ向かう。そしてそこで何かの食物を買う。これも、私であって、「私」
ではない。だれでも多少形は違うだろうが、そういう状況に置かれた同じような行動をす
る。

 が、そのとき、お金がなかったどうする? 私は何かの仕事をして、そのお金を手に入
れる。となると、働くという行為も、これまた必然であって、やはり「私」でないという
ことになる。

 こうして考えていくと、「私」と思っている大部分のものは、実は、「私」ではないこと
になる。そのことは、野山を飛びかうスズメを見ればわかる。

 北海道のスズメも、九州のスズメも、それほど姿や形は違わない。そしてどこでどう連
絡しあっているのか、行動パターンもよく似ている。違いを見だすほうが、むずかしい。
しかしどのスズメも、それぞれが別の行動をし、別の生活をしている。スズメにはそうい
う意識はないだろうが、恐らくスズメも、もし言葉をもっているなら、こう考えるだろう。
「私は私よ」と。

 ……と考えて、もう一度、人間に戻る。そしてこう考える。私たちは、何をもって、「私」
というのか、と。

 街を歩きながら、若い人たちの会話に耳を傾ける。たまたま今日は日曜日で、広場には
楽器をもった人たちが集まっている。ふと、「場違いなところへきたな」と思うほど、まわ
りは若さで華やいでいる。

「Aさん、今、どうしてる?」
「ああ、多分、今日、来てくれるわ」
「ああ、そう……」と。

 楽器とアンプをつなぎながら、そんな会話をしている。しかしそれは言葉という道具を
使って、コミュニケーションしているにすぎない。もっと言えば、スズメがチッチッと鳴
きあうのと、それほど、違わない。本人たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、
「私」ではない。

 私が私であるためには、私を動かす、その裏にあるものを超えなければならない。その
裏にあるものを、超えたとき、私は私となる。

 ここまで書いて、私はワイフに相談した。「その裏になるものというのを、どう表現した
らいいのかね」と。本能ではおかしい。潜在意識では、もっとおかしい。私たちを、その
裏から基本的に操っているもの。それは何か。ワイフは、「さあねエ……。何か、新しい言
葉をつくらないといけないね」と。

 ひとつのヒントが、コンピュータにあった。コンピュータには、OSと呼ばれる部分が
ある。「オペレーティングシステム」のことだが、日本語では、「基本ソフト」という。い
わばコンピュータのハードウエアと、その上で動くソフトウエアを総合的に管理するプロ
グラムと考えるとわかりやすい。コンピュータというのは、いわば、スイッチのかたまり
にすぎない。そのスイッチを機能的に動かすのが、OSということになる。人間の脳にあ
る神経細胞からのびる無数のシナプスも、このスイッチにたいへんよく似ている。

 そこで人間の脳にも、そのスイッチを統合するようなシステムがあるとするなら、「脳の
OS」と表現できる。つまり私たちは、意識するとしないにかかわらず、その脳のOSに
支配され、その範囲で行動している。つまりその範囲で行動している間は、「私」ではない。

 では、どうすれば、私は、自分自身の脳のOSを超えることができるか。その前に、そ
れは可能なのか。可能だとするなら、方法はあるのか。

 たまたま私は、「私」という問題にぶつかってしまったが、この問題は、本当に大きい。
のんびりと山の散歩道を歩いていたら、突然、道をふさぐ、巨大な岩石に行き当たったよ
うな感じだ。とても今日だけでは、考えられそうもない。このつづきは、一度、頭を冷や
してから考える。
(02−10−27)※

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」というのは、昔から、哲学の世界では、大きなテーマだった。スパルタの七賢人
の一人のキロンも、『汝自身を知れ』と言っている。自分を知ることが、哲学の究極の目的
というわけだ。ほかに調べてみると、たとえばパスカル(フランスの哲学者、1623〜
62)も、『パンセ』の中で、こう書いている。

 「人間は不断に学ぶ、唯一の存在である」と。別のところでは、「思考が人間の偉大さを
なす」ともある。

 この言葉を裏から読むと、「不断に学ぶからこそ、人間」ということになる。この言葉は、
釈迦が説いた、「精進」という言葉に共通する。精進というのは、「一心に仏道に修行する
こと。ひたすら努力すること」(講談社「日本語大辞典」)という意味である。釈迦は「死
ぬまで精進しろ。それが仏の道だ」(「ダンマパダ」)というようなことを言い残している。

となると、答は出たようなものか。つまり「私」というのは、その「考える部分」とい
うことになる。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 あなたが今、政治家であったとする。そんなある日、一人の事業家がやってきて、あな
たの目の前に大金を積んで、こう言ったとする。「今度の工事のことで、私に便宜(べんぎ)
をはかってほしい」と。

 このとき、考えない人間は、エサに飛びつく魚のように、その大金を手にしながら、こ
う言うにちがいない。「わかりました。私にまかせておきなさい」と。

 しかしこれでは、脳のOS(基本ソフト)の範囲内での行動である。そこであなたとい
う政治家が、人間であるためには、考えなければならない。考えて、脳のOSの外に出な
くてはいけない。そしてあれこれ考えながら、「私はそういうまちがったことはできない」
と言って、そのお金をつき返したら、そのとき、その部分が「私」ということになる。

 これはほんの一例だが、こうした場面は、私たちの日常生活の中では、茶飯事的に起こ
る。そのとき、何も考えないで、同じようなことをしていれば、その人には、「私」はない
ことになる。しかしそのつど考え、そしてその考えに従って行動すれば、その人には「私」
があることになる。

 そこで私にとって「私」は何かということになる。考えるといっても、あまりにも漠然
(ばくぜん)としている。つかみどころがない。考えというのは、方法をまちがえると、
ループ状態に入ってしまう。同じことを繰り返し考えたりする。いくら考えても、同じこ
とを繰り返し考えるというのであれば、それは何も考えていないのと同じである。

 そこで私は、「考えることは、書くことである」という、一つの方法を導いた。そのヒン
トとなったのが、モンテーニュ(フランスの哲学者、1533−92)の『随想録』であ
る。彼は、こう書いている。

 「私は『考える』という言葉を聞くが、私は何かを書いているときのほか、考えたこと
がない」と。

 思想は言葉によるものだから、それを考えるには、言葉しかない。そのために「書く」
ということか。私はいつしか、こうしてものを書くことで、「考える」ようになった。もち
ろんこれは私の方法であり、それぞれの人には、それぞれの方法があって、少しもおかし
くない。しかしあえて言うなら、書くことによって、人ははじめてものごとを論理的に考
えることができる。書くことイコール、考えることと言ってもよい。

 「私」が私であるためには、考えること。そしてその考えるためには、書くこと。今の
ところ、それが私の結論ということになるが、昨年(〇一年)、こんなエッセーを書いた。
中日新聞で掲載してもらった、『子どもの世界』(タイトル)で、最後を飾った記事である。
書いたのは、ちょうど一年前だが、ここに書いた気持ちは、今も、まったく変わっていな
い。

++++++++++++++++++++

〜02年終わりまでだけでも、これだけの
原稿が集まった。

それ以後も、現在に至るまで、たびたび、
私は辺縁系について書いてきた。

最後に、こんな興味ある研究結果が公表されたので、
ここに紹介する。

「いじめは、立派な傷害罪」という内容の
記事である。

++++++++++++++++++++

 東北大学名誉教授の松沢大樹(80)氏によれば、「すべての精神疾患は、脳内の扁桃核
に生ずる傷によって起きる」と結論づけている。

 松沢氏によれば、「深刻ないじめによっても、子どもたちの扁桃核に傷は生じている」と
いうのである。

 傷といっても、本物の傷。最近は、脳の奥深くを、MRI(磁気共鳴断層撮影)や、P
ET(ポジトロン断層撮影)などで、映像化して調べることができる。実際、その(傷)
が、こうした機器を使って、撮影されている。

 中日新聞の記事をそのまま紹介する(07年3月18日)。

 『扁桃核に傷がつくと、愛が憎しみに変わる。さらに記憶認識系、意志行動系など、お
よそ心身のあらゆることに影響を与える。……松沢氏は、念を押すように繰りかえした。『い
じめは、脳を壊す。だからいじめは犯罪行為、れっきとした傷害罪なんです』と。

 今、(心)そのものが、大脳生理学の分野で解明されようよしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
扁桃体 辺縁系 扁桃核 心 心の傷)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●TOYOTA車は、宇宙船ではない!
Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?

++++++++++++++++++++

交通事故の95%は、運転手の操作ミスに
よるもの。
そのうちの何割かは、アクセルとブレーキの
不適切な操作によるもの。

ところで、こんな仰天ニュースが、読売
新聞に載っていた。
そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、読売新聞、2010−3−30日++++++++++

【ワシントン=岡田章裕】トヨタ自動車の車の急加速問題で、米航空宇宙局(NASA)
と全米科学アカデミー(NAS)が、米高速道路交通安全局(NHTSA)の要請を受け
て事故原因の調査に乗り出すことが30日、明らかになった。

 米ワシントン・ポスト紙が報じた。

 トヨタ車の急加速問題では、ラフード米運輸長官が2月に電子制御系の調査を数か月か
けて行う方針を表明したが、事故原因は特定されていない。放射線などが電子制御系に影
響を与えているとの見方もあり、NHTSAは両機関の協力を得てより科学的な調査を行
う考えだ。

+++++++++++以上、読売新聞、2010−3−30日++++++++++

●悪玉づくり

 米高速道路交通安全局(NHTSA)は、何としても、TOYOTA車を、悪玉に仕立
てあげたいらしい。
つまり引くに引けなくなった。
そこで今度は、NASAに事故調査依頼をいたという。
「放射線などが電子制御系に影響を与えているとの見方もある」とか?

 ハア〜〜〜?

 電子制御装置を使用していない車など、いまどき、ない。
何らかの形で、使用している。
TOYOTA車だけが、電子制御装置を使用しているわけではない。
仮に放射線が電子制御装置に影響を与えるとするなら、すべての車に影響を与えるはず。
また与えるとしたら、平均して、すべての車に影響を与えるはず。
すべてのTOYOTA車に影響を与えるはず、でもよい。

 つまりすべてのTOYOTA車が、急加速現象を起こすはず。
そこでまたまた論理学の話。

●疑問

(1)「放射線が影響を与える」というのなら、(仮にそれがわかったとしても)、では、そ
の放射線とやらは、どこから発せられたのか。
そこまで解明しなければならない。
仮に宇宙からの放射線ということであれば、すべての車にまんべんなく、影響を与えるは
ず。
アメリカを走るTOYOTA車全体が、急加速現象を起こしてもおかしくない。

(2)この発想は、絶縁体をはがして、電線をショートさせてみた、どこかのアホ教授の
それと、どこもちがわない。
「通常では起こりえない状態を人為的に作り、それでもって、急加速の原因」と。
もしこんな手法がまかり通るなら、あちこちの電線を切ってつないでみればよい。
それでおかしくならない車など、ない!
つまりバカげている。

(3)米航空宇宙局(NASA)と全米科学アカデミー(NAS)に、調査を依頼したと
か?
TOYOTA車は、宇宙船ではない。
地上を走る車である。
素人の私でも、放射線が、(強弱の程度にもよるのだろうが)、電子制御装置に影響を与え
るかもしれないという程度のことは、おおかた予想がつく。
もしそうなら、さらに宇宙線の影響を受けやすい、航空機はどうなのかという問題がある。
もし「YES」という結果が出たら、車の心配より、飛行機やミサイルの心配をしたほう
がよい。

(4)仮に「YES」という調査結果が出たとしても、それでもって、急加速現象の証拠
とはならない。
もしこんな論法がまかりとおるなら、この先、運転の操作ミスで事故を起こした人は、こ
ぞって、放射線影響説を唱えるようになるだろう。
「運転ミスではない」と。

●振り上げた拳(こぶし)

 調査が進むにつれて、話がおかしくなってきた。
米高速道路交通安全局(NHTSA)は、ふりあげた拳(こぶし)を、おろすにおろせな
くなってしまった。
そこで言うに事欠いて、今度は、NASAに調査依頼?

 バカげているというか、常軌を逸している。
もし米高速道路交通安全局(NHTSA)が調査すべきことがあるとするなら、両足を、
アクセルとブレーキにかけて走っているドライバーが、アメリカには、何%いるか、だ。
飲酒運転をしているドライバーの数や、携帯電話をかけながら走っているドライバーの数
でもよい。

 最後に、現在、TOYOTAのハイブリッド車は、全世界で、600万台以上も走って
いる。
そのうちの数百台に急加速現象が起きたという。
が、全体からみれば、1万分の1。
0・01%!
事故の95%は運転手の運転操作ミスという数字は、いったい、どうなるのか。
先にも書いたように、その大部分は、アクセルとブレーキの踏みまちがいによるもの。
アクセルとブレーキを踏みまちがえれば、どんな車だって、急加速する。

●放射線?

 それにしても、今度は、「放射線」というところがすごい!
先日も、TOYOTAのディーラーの人と話したが、この日本では、急加速問題は起きて
いないという。
つまり放射線なるものは、どうして日本には降り注がないのか、そのあたりもきちんと証
明しなければならない。
(あるいは大病院の放射線照射ルームの近くで、そういう事故が多発したというデータで
もあれば、話は別だが……。)

 また論理学の世界で考えるなら、「放射線が、電子制御装置に影響を与える」というだけ
では、十分ではない。
「ほかの車の電子制御装置が、なぜ影響を受けないか」ということまで証明して、はじめ
て十分となる。
これ、称して、「必要十分条件」という。

●だいじょうぶか、アメリカ!

 私は、今度ほど、アメリカ人の脳みその程度を疑ったことはない。
また調査依頼を受けたNASAもNASA。
そのあたりの情報は、すでにもっているはず。
改めて調査するまでもなく、その情報を公開したらよい。

 なお私なら放射線より先に、たとえば静電気とか、稲妻とか、あるいは走行中の振動が
与える影響について調べる。
ついでに肉食人種たちが出す、あの臭いおならでもよい。
さらに悪霊のたたりでもよい。
一度、そのあたりも、調査してみてほしい。

 NASAに調査依頼するよりは、スカリーとモウルダーに依頼したほうがよいのでは?
これぞまさしく、X−File!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 トヨタ車の急加速問題 米高速道路交通安全局(NHTSA) NA
SA 放射線の影響 放射線と電子制御装置 宇宙線と電子制御装置 影響 TOYOT
A ハイブリッド車)


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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   2010年 5月 3日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================

3月2日  第1168号になりました!

★★★HTML版★★★
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どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【Active Learning & 考える教育(Positive Educat
ion】

●春休み

 春休みになって、ひとつ心がけていることがある。
「遊ぶ」こと。
思い立ったら、即、実行!

 ……ということで、昨日は、掛川にある「つま恋・リゾートセンター」で一泊した。
が、寝苦しかった。
夜中に何度も、目が覚めた。
このままだと、今日の昼までもたない。
家に帰ったら、そのまま昼寝。

●近況

 ……おととい、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)の原稿を書かせてもらった。
子育て相談に関する原稿。
そのあと、TK先生から、Active Learningについての資料がないか、
問い合わせのメールが入った。
Active Learning(アクティブ・ラーニング)。
はじめて聞く言葉だが、意味は、すぐわかった。
要するに「実体験を伴った教育」をいう。

YOUTUBEにひとつ、こんなパロディが載っていた。
子どもに「火」を教える。
そのとき子どもは、マッチを使い、何かを爆発させる。
子どもは火傷(やけど)を負う。
子どもは火(fire)の意味を知る。
「これがActive Learning」と。

 もちろんパロディである。
もちろん実際に、こんな教え方をしてはいけない。
が、これからの教育のひとつの方向性を示している。
具体的に、実体験をさせながら、ものごとを教えていく。
わかりやすく言えば、子どもを教室に閉じこめておくのではなく、教室から
子どもを外の世界へ連れ出し、そこでものを教えていく。

●考える教育

 ついでに、「考える教育」について。

 子どもによって、何か新しい問題を出したとき、大きく2つに分かれる。
ひとつは、自分の学習経験に照らし合わせて、「まだ習ってない」「できない」と逃げて
しまう子ども。
もうひとつは、「やってやる」「やらせて」と、食いついてくる子ども。
この(食いつき)を、私はそのまま「食いつき」と呼んでいる。

 「食いつき」のある子どもは、すばらしい。
「食いつきのない」子どもは、教えていても、つまらない。
学習態度が、万事、受動的。
つまりpassive(パッシブ)。
言われたことはやるが、そこまで。
発展性がない。
どこか自分勝手。
私は、そういう子どもを、「満腹児」と呼んでいる。
何もかも満たされているため、ガッツ(=野生味)がない。

 そこで重要なことは、いかにすれば、その「食いつきのある子ども」に
することができるかということ。
以前、「満腹児」について書いた原稿をさがしてみた。

++++++++++++++++

2006年の原稿より。

++++++++++++++++

●満腹児

 「こうであってほしい」と思う描く自分。しかしそこには、現実の自分がいる。この両
者のギャップが大きいとき、そこから「渇望感」が生まれる。

 この「渇望感」のでわかりやすいのが、性欲。フロイトも、リビドーという言葉を使っ
て、それを説明している。「性欲こそが、生きるためのすべてのエネルギーの根源である」
と。

 性欲が、ムラムラと起きてきたとき、そこに性のはけ口としての、相手がいれば、その
時点で、性欲は解消される。しかし相手がいないとき、相手をもとめられそうにないとき、
渇望感は、さらに強くなる。

 渇望感は、性欲だけには、かぎらない。しかしこの渇望感が、姿を変えて、外の世界に
向っては、「欲」となって現れる。

 名誉欲、金銭欲、支配欲、独占欲などなど。

 そういう意味で、「欲」があるからこそ、人は自分らしさを保つことができるのかもしれ
ない。食欲にたとえていうなら、空腹感という渇望感を満たす、食物のようなもの。欲が
あるから、人は生きられる。

 しかしこの渇望感を、悪と考えてはいけない。渇望感は、性欲にかぎらず、その人を動
かす原動力となる。子どもの世界にも、「満腹児」(この名称は、私がつけた)と呼ばれる
子どもがいる。

 あらゆる面で満たされているため、渇望感がない。そのため、いつも満足げで、おっと
しりしている。欲がないというというだけではなく、生活力もない。ハキもない。

 子どもをじょうずに伸ばすためには、子どものどこかに、この渇望感を用意するとよい。
実際、伸びる子どもというのは、あらゆる方向に触覚がのびていて、好奇心が旺盛である。

(はやし浩司 渇望感 欲 欲望 欲望 満腹児 Active Learning 食いつき 子ども
の積極性 考える子ども 独立して考える) 

+++++++++++++++

●この日本では……

 この日本では、子どもを批判的に評価する方法は、一般化している。
つまり後ろ向き。
たとえばやる気を示さない子どもについては、「燃え尽き症候群」「荷下ろし症候群」
「無気力児」などなど。
そういったいわゆる診断名らしきものをつけたあと、教育を考える。

 一方欧米では、ものの考え方が前向き。
言うなれば(できる子ども)を、さらに伸ばすには、どうしたらよいかという観点で
教育を組み立てる。
つまり「勉強ができない子どもがいてもよいではないか。
そういった子どもは、別の方面で、別の才能を伸ばせばよい。
それよりも、できる子どもを、さらに伸ばしてやろう」と。
そういう発想が強い。

 一方、この日本では、伝統的に、「落ちこぼれ」を嫌う。
たとえば子どもがズルをして、学校を休んだとする。
すると学校(幼稚園)の先生は、「後(おく)れる」という言葉を平気で使う。
後れる?
つまり一定のワクの中に、子どもを押し込もうとする。
(もちろん、出る釘も叩くが……。)

 で、こうしたちがいが、大きく現われているのが、Active Learning
ということになる。
「能動指導」とでも訳すのか。

 私もTK先生に教えてもらったばかりだから、中身はよくわからない。
これからしばらく、この問題について考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 アクティブ教育 能動教育 能動指導 active learning active 
education)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司
 
●IAP教育

+++++++++++++++++++++++++++

できない子どもを問題視してはいけない。
できる子どもは、さらにできるようにすればよい。
できない子どもについては、何かよい面を見つけ、それを伸
ばせばよい。
それがこれからの教育ということになる。

+++++++++++++++++++++++++++

 日本では、何かにつけて、(できない子ども)を問題視する。
しかしその一方で、(できる子ども)を伸ばすシステムもない。
むしろ「出る釘は叩く」式の教育が、平気でなされている。
これには日本人特有の、「型ワク意識」が、影響している。
明治以来の「もの言わぬ従順な民づくり」の亡霊と言ってもよい。

 一方、欧米では、できる子どもは、さらにできるようにする。
できない子どもについては、その子どもの才能を見つけ、それを伸ばすように
している。
私の想像ではない。

 メルボルンの郊外に、ジーロン・グラマー・スクールがある。
小学1年生から高校3年生までの一貫教育を施している。
(実際には、幼稚部も含まれている。)
あのチャールズ皇太子も1年間学んだことがある。
その学校では、子どもの能力と、方向性に応じて、自由にカリキュラムを
組んでいる。
自由にだぞ!
たとえば水泳の才能のある子どもは、毎日水泳の授業が受けられる。
木工が好きな子どもは、毎日木工の授業が受けられる。
何も、主要5教科(日本)だけが、教育ではない!
人間が学ばなければならない、知識と経験ではない!

 どうしてこの日本では、そういう教育を目指さないのか。
つまりそれが日本と欧米の、教育の基本的な姿勢のちがいということになる。

●自分で考える子ども
 
 TK先生は、かねてから、「Independent Thinker」という言葉をよく使う。
「自分で考える子ども」という意味である。
「これからは知識の時代ではない。
知識など、インターネットを使えば、その場で手に入る」と。

 そこでTK先生は、自身が東京R大の理学部長をしていたとき、独自の
入試方法を実施した。
それが今に見る、AO入試の原型となった。
で、今度はさらにそれを一歩進め、「Active Learning」という言葉を私に
教えてくれた。
意味はよくわからないが、直訳すれば、「行動的な学習」ということになる。
「教室の中だけではなく、外の世界に飛び出し、そこで能動的にものを
教え、学ぶ」ということか。
これから先、いろいろな情報が入ってくることと思う。

 で、「Active」があれば、当然、「Positive」もあるということになる。
つまり「積極的な学習」。
何でも前向きに、「やる!」「やりたい!」と、積極的に食いついてくる子どもを
育てる。

 で、これら3つを並べると、「Independent」「Active」「Positive」となり、
それらの3つの頭文字を取ると、「IAP」となる。
つまり「IAP教育」!

 「IPA教育」は、これからの日本の教育の(柱)とすべき理念ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 IAP教育 Independent Thinker Active Learning Positive 
Learning Active Education Positive Student)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●掛川へ

++++++++++++++++++++++

今、掛川へ向っている。
電車の中。
今日は、YAMAHAリゾート・センター、「つま恋」で一泊するつもり。
軽く運動をし、温泉につかる。
そう、今日から春休み。

で、今日のお供は、TOSHIBAのダイナブック(MX33)。
純白のパソコン。
それにワイフと長男。

++++++++++++++++++++++

●日本破綻

 相向かいの席の男が、週刊誌を読んでいる。
「週刊現代」。
その表紙に、「日本破綻……2012」と並んで、「人生は60歳から」とある。
それを見て、「ありえるなあ」「何言ってるんだ」と思う。

 日本破綻については、たいへん(ありえる)。
へたをすれば、2012年度ではない。
2011年度の国家予算すら、あやうい。
組めなくなる。
しかし日本破綻は、日本だけの問題にとどまらない。
世界を巻き込む。
日本破綻イコール、世界破綻と考えてよい。
正確には、「日本発、世界破綻」。

もっともそれ以前に、世界にばらまいた(円)が、日本へ逆流し始める。
そうなったとたん、ハイパーインフレが、日本を襲う。
が、これはきわめて短期間のうちに起こる。
たとえば逆流が土曜日に始まったとする。
その2日後の月曜日には、日本の経済は破綻する。
リーマンショック、ドバイショックのときもそうだった。
「あぶないぞ」とうわさが出ている段階では、まだだいじょうぶ。
「まだ、だいじょうぶかな?」と思っているときが、あぶない。

「逆流」という言葉で思い出したが、私はときどき逆流性食道炎になる。
今朝、知り合いの漢方医(薬剤師)に、たまたま電話でそれについて相談したところ。
「水気(すいき)逆上だから、半夏(ハンゲ)……半夏写心湯かな?」と。
漢方医の彼は、そう言った。
半夏厚朴湯(ハンゲコウボウトウ)なら、毎晩、眠る前にのんでいる。
これはもともとは、胃腸薬。
女性の精神安定剤としても、効く。
量を多くして、しばらく半夏厚朴湯をのんでみることにした。

 つまり、言うなれば、日本経済が、逆流性食道炎状態になる。
あまりよいたとえではないかもしれないが、そういった状態になる。
が、ほんとうに心配なのは、中国経済。
バブル経済はバブル経済だが、そのバブル経済が狂乱じみてきた。
つい先週末も公定歩合(貸し出し金利)をあげたが、まさに焼け石に水。
猛烈な勢いで、元が、市中に流れ込んでいる。
ドドーッ、ドドーッ、と。
近く、何か恐ろしいことが起きるような気がする。

●人生は60歳から
 
 「人生は60歳から……」という言い方には、大きな違和感を覚える。
お世辞?
励まし?
慰め?

何も「60歳」という数字にこだわる必要はない。
あえて「60歳」にする必要もない。
「30歳」でもよい。
「40歳」でもよい。
「60歳」としたところに、意図的なイヤミを感ずる。
裏を返して言うと、つまり裏から解釈すると、「人生は60歳で終わる」となる。

また記事の内容など、読まなくても、おおよその推察がつく。
いろいろな人の老後の設計図を示しながら、60歳を過ぎても、こうして
がんばっている人もいるという内容。

 しかし実際には、私の年齢の人は、だれも「人生は60歳から……」とは思っていない。
この年齢になると、自分を支えるだけで、精一杯。
私も「人生は60歳から」と思いたいが、それ以上に強いパワーで、
容赦なく、押し戻されてしまう。

 ただこういうことは言える。
「人生の結論は、60歳で出る。
あとはその結論を、どう生かして生きるか」と。
その結論が、60歳以後の人生の内容を決める。

●論理

 論理学を使って、もう一度、「人生は60歳から……」を考えてみよう。
つぎのような問題がある。
あなたは、どう考えるだろうか。

【問】

 ここに4枚のカードがある。
表には、(△)か(□)が描いてある。
表が(△)のときは、裏には赤の(●)が、かならず描いてある。
このことが正しいことを証明するために、あなたはつぎの4枚のカードのうち、
どれをめくってみるか。

1枚目……(△) 
2枚目……(□) 
3枚目……赤の(●) 
4枚目……青の(●)

 単純に考えれば、1枚目と3枚目をめくればよいということになる。
1枚目をめくってみて、赤の(●)。
3枚目をめくってみて、(△)。

 しかしこれでは先の命題を、正しいと証明したことにはならない。
1枚目をめくったとき、裏に赤の(●)があれば、命題の条件に合致する。
3枚目の赤の(●)をめくってみたときも、そうだ。
表に(△)があれば、命題の条件に合致する。
が、これでは十分ではない。
だからといって、「(△)のカードの裏は、赤の(●)」ということが、証明された
わけではない。
つまり先の命題が、正しいことを証明したことにはならない。

 この命題が正しいと証明するためには、この命題はまちがっていない
ことを明らかにしなければならない。
が、その前に書いておかねばならない。
3枚目は、めくっても意味はない。 
仮に3枚目をめくったとき、表に(△)が描いてなくても、(つまり(□)で
あったとしても)、この命題の証明には、影響を与えない。

 では、どれをめくればよいのか。

 1枚目をめくって、赤の(●)が出てくることは、命題の証明には必要。
しかし十分ではない。
そこでこの命題はまちがっていないことを証明しなければならない。
それを決定するのは、4枚目のカードということになる。
4枚目は青の(●)。
もしこのカードをめくってみて、(△)が出てこなければ、この命題はまちがって
いることになる。
そこで4枚目をめくってみる。
表に(△)が出てくる。
この段階ではじめて、命題は、まちがっていないということになる。

 これが「論理」である。

●言葉の遊び

 話を戻す。
「人生は60歳から」というのは、一応正しいと仮定しよう。
「一応正しい」というのは、一応必要な条件を満たしているということ。
しかしこの命題が正しいというためには、「ほかの年齢からは人生は始まらない」という
ことを証明しなければならない。

「人生は、30歳からではない」
「人生は、40歳からではない」
「人生は、50歳からではない」と。
 それを証明しなければ、十分とは言えない。

 しかし人生は何も、60歳だけから始まるわけではない。
さらに言えば、「人生は70歳から」と言っても、何もおかしくない。
「人生は80歳から」と言っても、何もおかしくない。

 つまり「人生は60歳から」というのは、論理学的には、きわめて非論理的な
言い方ということになる。
わかりやすく言えば、ただの言葉の遊び。
人目を引くための、ただのキャッチフレーズ。

●掛川駅

 あっという間に、電車は掛川駅に着いた。
私のばあい、こうしてパソコンのキーボードを叩いていると、あっという間に時間が
過ぎていく。
電車に乗っているときは、とくにそうだ。
そういう意味では、退屈しのぎには、よい。

 そうそう、あえて言われなくても、60歳台の人たちは、みながんばっている。
「人生はこれからだ」と、自分をだましながら、がんばっている。
が、実際には、どうにもならない。
あっちを見ても、壁。
こっちを見ても、壁。
壁、壁、壁……。
それだけではない。

電話番号を聞いても、「覚えておられるだろうか?」という不安が、頭の中を、
ふと横切る。
「本当は人生は、終わっている」と、だれもが心のどこかで、感じている。
が、それを認めるのは、敗北。
だから、「まだまだ……」と。

 最後に、私はこう思った。
「あの原稿を書いた人は、本当に60歳なのだろうか」と。
本当に60歳なら、ラッキーな人だと思う。
私も、もうすぐ63歳になるが、とてもおこがましくて、そういう言葉は出てこない。
私がラッキーであるとするなら、よけいに、そうでない人たちに申し訳なくて、
そういう言葉は出てこない。
それはたまたま健康な人が、病気の人たちを前に、「健康は大切ですよ」と言うに
似ている。
励まされているというよりは、先にも書いたように、どこかイヤミに感ずる。

 もうひとつの「日本破綻……2012」というほうの記事は読んでみたい。
が、「人生は60歳から」という記事のほうは、読みたくない。
読む前から内容がわかる。
そんなことを考えながら、そそくさと電車を下りた。

++++++++++++++++

●つま恋

 敷地面積、55万坪!
約170万平方メートル。
総合健康スポーツ施設。
環境は最高。
ちょうど桜が満開のころで、感激!

 YAMAHA製品というと、高級ブランドイメージが強い。
それもあってか、施設内は、全体になにもかも、豪華+高額。
私たちは古いほうのホテル(サウス・ウィング)に泊まった。
それでも料金は、1人1泊、1万2000円(夕食なし、朝食のみ)。
部屋は都市のビジネスホテルの、約2倍ほど。
高いね!

 しかし本来なら、公共団体が開発、運営してもおかしくない施設。
それを一企業が、ここまで成し遂げたというところが、すごい!
さすがYAMAHA!

 ただし温泉(つま恋温泉・森林之湯)は、星が2つの、★★。
料金を考えると、星は1つの、★。
脱衣用のロッカーは、数がたいへん多い割に、化粧室は、たったの4席しかない。
脱衣用のロッカーは、200〜250個。
化粧室は、6畳間くらいの部屋に、4席だけ。
たまたま春休みの日曜日ということで、入浴客で、中はごったがえしていた。
子どもが10〜15人前後、走り回っていた。
ゆっくり、静かに……というわけにはいかなかった。

 食事は、中央棟(SMC)のレストランで。
スパゲッティ、カレーライスが、1800円前後。
おいしかった!

 ……今、ワイフと長男は、DVDを観ている。
私は背中を向けて、エッセーを書いている。


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2010++++++はやし浩司

●27キロ、走破!

++++++++++++++++++

昨夜遅く、自宅から山荘までを、
自転車で走ってみた。
片道、27キロ。
寒かった。
手が痛いほど、空気が冷たかった。
夜10時ごろ出発して、着いたのは、午前
1時半。

3時間半もかかったことになる。
その間、いろいろなドラマがあったが、
忘れた。
よく覚えているのは、コンビニのありがたさが、
改めてよくわかったということ。
「セブンiさん、ありがとう!」

+++++++++++++++++++

●静かな朝

 起きて、雨戸をみな、開けた。
とたん緑の山々と、水色の空がどっと視界に入ってきた。
手前のほうでは、枯れ木がやさしく揺れている。
冬の景色だが、どこか春めいてきた。

 ところでなぜ、昨夜、自転車で走ったか?
それにはいろいろな理由がある。
その第一。
家族のことをあれこれと考えていたら、
そのうち収拾がつかなくなった。
ほかのテーマなら、文章にして、モヤモヤを
はき出すということもできる。
しかし「家族」では、それができない。

●自責型人間

 ときどき自分がいやになるときがある。
このところめったに、他者という(個人)に対しては、(怒り)を
覚えることはない。
家族であれ、近隣の人たちであれ、あるいは親類の人たちであれ、
(怒り)を覚えることはない。
(怒り)を覚えても、どういうわけか、それがすぐ自分にはね返って
きてしまう。

 私は典型的な自責型人間。
外見的には、他責型人間に見えるかもしれないが、自責型。
何があっても、自分を責めてしまう。
そういう(怒り)が、自分に向かった。
それが頂点に達した。
だから自転車で家を飛び出した。

●徘徊

 言うなればボケ老人の徘徊(はいかい)のようなもの。
反対に、徘徊するボケ老人の気持ちが、私にはよくわかる。
体を動かしていれば、身のまわりのわずらわしいことを、
すべて忘れられる。
遠ざかれば遠ざかるほど、自分を忘れられる。
が、それだけではない。

 昨夜の私がそうだったが、孤独感すらどこかへ消える。
おかしな現象に思う人がいるかもしれない。
孤独な世界に自ら飛び込みながら、孤独感が消える?

 そこに(孤独)があるなら、思い切って、飛び込んでみる。
「こわい、こわい」と言って逃げ回っている間は、孤独の
ほうが、どんどんと追いかけてくる。
だから飛び込んでいく。
こちらから飛び込んでいく。
それは、子どもの喧嘩と同じ。

●暴力団の男

 私は子どものころから、気が小さいくせに、喧嘩ばやかった。
悶々と悩むことが苦手だった。
だからそこに相手がいるなら、その場で解決する。
パンパンと喧嘩して、それですます。
それが私のやり方だった。

 浜松へ来たころも、こんなことがあった。

 たまたま知り合った男が、アパートを探していた。
で、私の知り合いの人が、アパートを経営していので、
たがいに紹介してやった。
で、男は、その人のアパートに住むようになった。
が、数か月もすると、アパートの経営者から苦情が入るようになった。
「部屋代を払ってくれない」
「おかしな人たちが、出入りしている」と。

 で、私は即座に、アパートを借りた男に電話を入れた。
知り合ったときとは、声の調子がまったく変わっていた。
「貴様、命が惜しくなければ、○○町のxxという喫茶店へ来い。
部屋代は、そこで払ってやる」と。

 私は即刻、そこへ出かけた。
喫茶店へ入ると、一番奥のソファに、その男がいた。
両脇を、別の2人の男が囲んでいた。
見るからに暴力団の組員とわかる様子だった。

 私は自分の体が震えていることを隠しながら、ツカツカとその男の
前まで行った。
そして「部屋代を払って、今月中にアパートを出てくれ」と言った。
とたんその人の顔は、和らいだ。

 「お前って、度胸、あるな。気に入った」と。

●途中で

 以後、この私の行動パターンは、変わっていない。
昨夜も家を出るとき、「だいじょうぶかな?」と思った。
思ったが、そのときは、すでにペダルをこぎ始めていた。
最後の3分の1は、山の上り坂。
気温も、さらに下がる。
ここ数日、強力な寒気団が太平洋岸までおりてきて、最低気温は、
3〜4度。
昨夜も、その程度だった。
山荘へ着いてストーブにスイッチを入れると、部屋の中で、3度を
示していた。

 が、私は来てしまった。
かかった時間は、先にも書いたように、3時間半!
途中で、何度か歩いて自転車を引いたが、そのつど、左足がこむら返しを
起こした。
痛かった。
床に入ったときも、こむら返しを起こした。
痛かった。

●今朝

 で、今朝は気分は悪くない。
何かをやり遂げたような充実感がある。
孤独感はそのままだが、どこかでその孤独感を楽しんでいる。
そんな自分が、別のところにいる。
時刻は現在、午前11時ちょうど。
もうすぐワイフも車で、ここへ来るはず。
ポットの湯もわいた。
これからカップヌードルを作って、食べる。
それと庭に除草剤をまく。
春草があちこちで、背丈をかなり伸ばしている。

●1+1=0 

 話を戻す。

 孤独といえば、みな、孤独。
孤独でない人はいない。
その孤独を見つめるのがこわいから、自分をごまかして生きている。
家族や、友だちや、仕事の輪に入って、自分をごまかして生きている。
しかし孤独は、ちゃんとそこにいる。
しっかりとそこに、いる。

 が、ここで不思議な足し算が成り立つ。
たとえばここに孤独な2人がいたとする。
その2人が寄り添えば、1+1=2になるはず。
が、こと孤独について言えば、1+1=0になる。
1+1+1も、0。
1+1+1+1も、0。

 が、それには条件がある。
たがいに無私無欲でなければならないということ。
たがいに相手を思い、たがいの孤独感を共鳴しあうこと。

●体重

 ・・・という話はここまでにして、ひとつだけがっかりしたこと。
このところ体重オーバーの日々がつづいている。
で、起きてすぐ、体重計に乗ってみた。
が、ぜんぜん、減っていなかった!
27キロもがんばったのだから、1〜2キロは減っていると期待していた。
が、前日と同じ。

 これはどういう理由によるものなのか。
かなりのエネルギー(カロリー)を消耗したのだから、その分、体重が
減っていてもおかしくない。
が、同じ?

 ただおかしいなと思ったのは、昨夜、あれほど寒いのに、途中で、2度も
尿意をもよおしたということ。
それと山荘に着いてから、のどが渇いたので、お茶を数杯飲んだということ。
汗の替わりに、小便になった。
これはわかる。
その分だけ、お茶を飲んだ。
スポーツ医学については、まったく門外漢。
いちど、それについて調べてみたい。

 たった今、ワイフが来たので、この話はここまで。
あとは楽しむ。
せっかくの春休み。

●サガンの「悲しみよ、こんにちは」

 数日前、ワイフがDVDを借りてきた。
サガン原作の、「悲しみよ、こんにちは」というタイトルだった。
サガンの名前も、小説の名前もよく知っている。
が、本を読んだことはない。
映画化されていることも、知らなかった。
それについて、ワイフが、横に座って、内容を説明してくれた。

 その一部に、こんな話があった。

 何かのことで、母親と息子が絶交する。
以来、母親と息子は、何10年もたがいに会わない。
が、母親が臨終のときを迎える。
見るに見かねて、母親の近くにいた人が、息子を呼び寄せる。
息子は連絡を受けて、やってくる。
しかし母親は、息子に、会わない。
会わないまま、死んでいく。
(以上、ワイフの話なので、不正確。)

 それについてワイフは、「どうして会わなかったのかしら」と。
で、私はこう言った。
「ぼくだって、会わないよ」と。

ワ「どうして?」
私「母親のほうは、毎日のように自分と闘って生きてきた。
息子への恋慕を否定しながらね・・・。
いくら最後でも、会えば、そういう自分を否定することになる」
ワ「息子の方だって、さみしい思いをしたはずよ」
私「ちがうよ。息子は、母親を恨んだだけだよ。
しかし母親のほうは、そのつどはげしく自分を責めた。
(怒り)の向きがちがう。
愛する人どうしが離反したときは、その向きは、母親と息子とでは、ちがう。
母親は自分を責める。
息子は母親を責める。
だから会わなかった・・・」

ワ「映画『エデンの東』とは、逆ね」
私「あのときは、息子は父親から離反していない。
父親もそれをよく知っていた。
だから父親は、息子を許すことができた」
ワ「サガンのほうは、どうだったの?」
私「ぼくは小説は読んでないけど、母親の気持ちがよくわかるよ。
母親は、息子を恨んだり、息子を怒っているのではない。
そういう息子にした、自分に対して怒っている。
それは絶望感との闘いと言ってもいい。
最後の最後で、『お母さん!』『息子よ!』と抱き合うわけにはいかない。
日本映画なら、そういう終わり方をするだろうけどね・・・」と。

 『許して忘れる』は、子育ての基本。
相手が他者なら、許すことができる。
しかし相手が自分では、許すことができない。
サガンは、最後の最後まで、自分を許すことができなかった。
私はワイフの話を聞いて、そう解釈した。

●3月30日

 たった今、庭に除草剤をまいてきた。
焚き火をしようかと思ったが、風が強いのでやめた。
今年は30年に1度という寒い春という。
たしかに寒い。
風も強い。
(風が強いのは、毎年のことだが・・・。
このあたりでは、「遠州の空っ風」という。)

 こういう寒い日は、体の動きも鈍くなる。
何かをしたいという意欲も半減する。
「このまま山荘で午後を過ごそうか」という怠けた心もある。
「どうしよう?」と思ったところで、おしまい。

 やはりこういうときは、行動を開始するのが、いちばん!
悶々としていると、うつ状態になってしまう。
では、みなさん、今朝はここまで。
3月30日は、いつもとちがって始まった。

(補記)

フランソワーズ・サガン
『悲しみよこんにちは』
ウィキペディア百科事典より、転載。

『……ヒロインのセシルと鰥夫(やもめ)である父のレエモンはコート・ダジュールの別
荘で夏を過ごしていた。セシルは近くの別荘に滞在している大学生のシリルと恋仲になる。
そんな彼らの別荘に亡き母の友人のアンヌがやってくる。アンヌは聡明で美しく、セシル
もアンヌを慕う。だが、アンヌと父が再婚する気配を見せ始めると、アンヌは母親然とし
てセシルに勉強のことやシリルのことについて厳しく接し始める。セシルは今までの父と
の気楽な生活が変わってしまったり、父をアンヌに取られるのではないかという懸念に駆
られ、アンヌに対して反感の気持ちを抱くようになる。やがて、セシルは父とアンヌの再
婚を阻止する計画を思いつき、シリルと父の愛人だったエルザを巻き込んで実行に移すが
…』(以上、ウィキペディア百科事典より)


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