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2010年     6月号
Essay……
BOX版(ネットストーレッジ)……





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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【感情論】

++++++++++++++++

人間のもつ感情は、いったいどのようにして
生まれ、私たちの心を支配するのか。
それを考えているうち、私は「反感情」という
言葉を考えついた。

++++++++++++++++

●感情の行動命令と抑制命令

 自律神経には、交感神経と副交感神経がある(注※)。
行動の行動を司るのが、行動命令。
行動の抑制を司るのが、抑制命令。
この両者がバランスよく機能したとき、行動はスムーズな動きとなって現れる。
行動命令が強すぎれば、(あるいは抑制命令が弱すぎれば)、行動は、興奮性をもつ。

反対に抑制命令が強すぎれば、(あるいは行動命令が弱すぎれば)、行動は、鈍くなる。

(理屈の上では、行動命令と抑制命令の両方が、同じように強くなったり、弱くなったり
することもある。
kろえは蛇足だが、ニンニクの中には、興奮性をもつ物質と、鎮静性をもつ物質の両方が
含まれているという。
いつだったか、どこかの科学者が話してくれたのを記憶している。)

 ともかくも私たちの何気ない行動も、実はその裏で、交感神経と副交感神経の絶妙なバ
ランスの上で成り立っているということになる。

つまり腕の上げ下げするときも、交感神経は「上げろ」と命令し、副交感神経は「上げる
な」と命令する。
それがうまく調和しているとき、なめらかな行動となって、それは現れる。
その調和が崩れたとき、行動はなめらかさを失ったり、反対に、鈍くなったりする。

 同じように、感情も、興奮命令と抑制命令によって支配されていると、考えられる。
たとえば「怒り」。
怒りを覚えたとき、脳の中では、同時に2つの命令がくだされる。
「怒れ」という命令。
「怒るな」という命令。

 「怒れ」という命令が強く、「怒るな」という命令が弱くなったとき、「怒り」という感
情となって、外に現れる。
一方、いくら「怒り」を感ずるような場面でも、「怒るな」という抑制命令が強く働けば、
その人の感情が、外に現れることはない。
理屈で考えれば、つぎの4つのパターンに分類できる。

(1)(怒れ)という命令と(怒るな)という命令が、ともに強いケース。
(2)(怒れ)という命令が強く、(怒るな)という命令が弱いケース。
(3)(怒れ)という命令が弱く、(怒るな)という命令が強いケース。
(4)(怒れ)という命令と(怒るな)という命令が、ともに弱いケース。

この中で、(2)のような状態になったとき、人はそれを(怒り)という形で、表現する。

●行動命令と抑制命令

 ここでいう行動命令と抑制命令は、よく知られた脳の中の反応である。
それについて、6年前(04年)に、こんな原稿を書いたことがある。
私はこの小さな事件を通して、行動命令と抑制命令が、どういうものであるかを実感する
ことができた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●心のバランス感覚


 駅構内のキオスクで、週刊誌とお茶を買って、レジに並んだときのこと。突然、横から
二人の女子高校生が割りこんできた。


 前の人との間に、ちょうど二人分くらいの空間をあけたのが、まずかった。


 それでそのとき私は、その女子高校生にこう言った。「ぼくのほうが、先ですが……」と。
するとその中の一人が、こう言った。「私たちのほうが、先だわよねえ」と。


 私「だって、私は、あなたたちが、私のうしろで、買い物をしているのを、見ていまし
たが……」

 女「どこを見てんのよ。私たち、ずっと前から、ここに並んでいたわよねエ〜」と。


 私は、そのまま引きさがった。そして改めて、その女子高校生のうしろに並んだ。


 で、そのあと、私がレジでお金を払って、駅の構内を見ると、先ほどの二人の高校生が、
10メートルくらい先を、どこかプリプリした様子で、急ぎ足に歩いていくところだった。


 事件は、ここで終わった、が、私は、この一連の流れの中で、自分の中のおもしろい変
化に気づいた。


 まず、二人の女子高校生が、割りこんできたときのこと。私の中の二人の「私」が、意
見を戦わせた。


 「注意してやろう」という私と、「こんなこと程度で、カリカリするな。無視しろ」とい
う私。この二人の私が、対立した。



 つぎに、女子高校生が反論してきたとき、「別の女子高校生と見まちがえたのかもしれな
い。
だからあやまれ」とささやく私と、「いや、まちがいない。私のほうが先に並んだ」と怒っ
ている私、。この二人の私が、対立した。


 そして最後に、二人の女子高校生を見送ったとき、「ああいう気の強い女の子もいるんだ
な。
学校の先生もたいへんだな」と同情する私と、「ああいう女の子は、傲慢(ごうまん)な分
だけ、いろいろな面で損をするだろうな」と思う私。この二人の私が対立した。


 つまり、そのつど、私の中に二人の私がいて、それぞれが、反対の立場で、意見を言っ
た。
そしてそのつど、私は、一方の「私」を選択しながら、そのときの心のあり方や、行動を
決めた。


 こういう現象は、私だけのものなのか。


 もっとも日本人というのは、もともと精神構造が、二重になっている。よく知られた例
としては、本音と建て前がある。心の奥底にある部分と、外面上の体裁を、そのつど、う
まく使い分ける。


 私もその日本人だから、本音と建て前を、いつもうまく使い分けながら生きている。こ
うした精神構造は、外国の人には、ない。もし外国で、本音と建て前を使い分けたら、そ
れだけで二重人格を疑われるかもしれない。


 そこで改めて、そのときの私の心理状態を考えてみる。


 私の中で、たしかに二人の「私」が対立した。しかしそれは心のバランス感覚のような
ものだった。運動神経の、行動命令と、抑制命令の働きに似ている。「怒れ」という私と、
「無視しろ」という私。考えようによっては、そういう二人の私が、そのつどバランスを
とっていたことになる。


 もし一方だけの私になってしまっていたら、激怒して、その女子高校生を怒鳴りつけて
いたかもしれない。反対に、何ら考えることなく、平静に、その場をやりすごしていたか
もしれない。


 もちろんそんなくだらないことで、喧嘩しても、始まらない。しかし心のどこかには、
正義感もあって、それが顔を出した。それに相手は、高校生という子どもである。私の職
業がら、無視できる相手でもなかった。それでどうしても、黙って無視することもできな
かった。


 こうした状態を、「迷い」という。そしてその状態はというと、二人の自分が、たがいに
対立している状態をいう。だからこうした現象は、私だけの、私特有のものではないと思
う。


もともと脳も、神経細胞でできている。運動に、交感神経(行動命令)と副交感神経(抑
制命令)があるように、精神の活動にも、それに似た働きがあっても、おかしくない。


 そして人間は、その二つの命令の中で、バランスをとりながら、そのつどそのときの心
の状態を決めていく。そのとき、その二つの命令を、やや上の視点から、客観的に判断す
る感覚を、私は、「心のバランス感覚」と呼んでいる。つまりそのバランス感覚のすぐれた
人を、常識豊かな人といい、そうでない人を、そうでないという。


 キオスクから離れて、プラットフォームに立ったとき、私はそんなことを考えていた。
 

(040224)(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
はやし浩司 心のバランス感覚 心のバランス)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●反感情

 東洋医学では、さらに一歩話を進めて、感情には、「相生性」と「相克性」があると教え
る。
(詳しくは、はやし浩司著『目で見る漢方診断』を参考にしてほしい。)

たとえば(怒り)と(思い)、(思い)は(恐れ)、(恐れ)は(喜び)、(喜び)は(悲しみ)、
(悲しみ)は(怒り)と、相克性があると説く(素問・陰陽応象大論)。

 わかりやすく言うと、たとえば「怒りがはげしいときは、肝の機能が傷害される。
そして怒りがはなはだしいときは、悲しみを与えてやると、怒りが収まる」。
同じように「あまりにも喜びがはげしいと、心の機能が傷害されるので、そんなときは恐
れを与えてやると、その感情が中和される」(以上、『目で見る漢方診断』P146)。

 ここでもう一度、フロイトが説いた、「サナトス」と「リビドー」という言葉を思い出し
てみよう。

 サナトスというのは、「死への欲求」をいう。
リビドーというのは、「生(性)への欲求」をいう。
フロイトは、人間の感情にはつねに相反する2つのエネルギーが、同時に働くと教える。
「生への欲求」があれば、当然、「死への欲求」もある、と。

 この理論を応用すれば、こういうことも言える。

 ひとつの感情が表出するときは、その裏で、その反対の感情が、心の内側に向かう、と。
「愛している」と口に出して言うときは、「愛していない」という感情が、同時に内側に
向かう。
あるいは「愛していない」という感情が内側に向かうときは、それを打ち消すために、
「愛している」という感情が、外側に向かう。

 喜怒哀楽について言えば、そして東洋医学(黄帝内経)の理論に従えば、それぞれの感
情には、「反感情」があることがわかる。
(「反感情」というのは、はやし浩司の造語。)

 たとえば人は深い悲しみを覚えたとき、同時にその反対側では、別の感情、つまり(怒
り)が働く。
同じようにはげしい怒りを覚えたとき、同時にその反対側では、別の感情、つまり(思い)
が働く。

 つまりそれぞれの感情が、バランスを保っているとき、感情は安定する。
そうでなければそうでない。

 この東洋医学的な考え方を、そのまま「サナトス」「リビドー」に当てはめることはでき
ない。
しかし類似性というか、共通性はある。
さらにこうした一連の情意的反応も、交感神経、副交感神経論で、説明できる。

●感情ホルモン説

 さらに最近では、感情ホルモン説が有力にねってきている。
私たちが感ずる感情は、ホルモンの支配下に置かれているという説である。
たとえば何かよいことをすると、その情報は辺縁系の扁桃核というところに送られる。
その情報を受けて、扁桃核は、モルヒネ様のホルモンを分泌する。
それが脳内を甘い陶酔感で満たす。
つまりもろもろの感情は、こうして生まれる。

 さらに話が一歩進んで、最近の大脳生理学によれば、「悲しいから泣く」のではなく、「泣
くから悲しくなる」というようなことを唱える学者もいる。
私たちが(悲しみ)を意識する前に、無意識の世界ですでに(悲しみ)は作られ、それが
(泣く)という行為を引き起こすというものである。

 それはともかくも、感情ホルモン説には、もうひとつ大きな合理性がある。
言うまでもなく、「脳内ホルモンのフィードバック(作用)」である。

 脳内にある種のホルモンが分泌されると、それを中和(もしくは打ち消す)ために、同
時に別のホルモンが分泌される。
こうして脳は、自分の脳内をつねにクリーンにしておこうとする。

 この考え方は、そのまま「反感情」の説明にも結びつく。
(悲しい)という感情が起こると、同時に脳内では、(怒り)の感情を起こす。
こうして脳は、自分の脳を中和しようとする。
(よく悲しみが高じて、怒りをともなって爆発する人がいる。
こうした日常的な経験とも、合致する。)

●仮説のまとめ

 以上は、言うなれば「仮説」ということになる。
しかしこの仮説は、日常生活において、即、有効に機能する。
言うまでもなく、心の平安を保つために、である。

(1)まず感情にも、交感神経と副交感神経という、自律神経系の機能が働く。
「怒れ」という命令と、「怒るな」という命令は、いつも同時進行的に発生する。
そのバランスの強弱によって、人は怒ったり、自分をなだめたりする。

(2)ひとつの感情が露出すると、その反対側で、別の反作用的な感情が引き起こされる。
東洋医学(黄帝内経)は、それをうまく説明する。
その反作用的な感情を、「反感情」(はやし浩司)という。

(3)こうした一連の脳内における感情反応は、脳内ホルモン説でも、うまく説明できる。

 以上が、私が考えた「感情論」である。
科学的にどうこうというよりも、東洋医学的に、現象的に、うまく説明できる。
このつづきは、しばらく間を置いて、また考えてみたい。
2010年6月5日


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※:参考)

(ウィキペディア百科事典より)

随意神経系である体性神経系と対照して、不随意である「自律神経系」は循環、呼吸、消化、
発汗・体温調節、内分泌機能、生殖機能、および代謝のような不随意な機能を制御す
る。自律神経系はホルモンによる調節機構である内分泌系と協調しながら、種々の生理的
パラメータを調節しホメオスタシスの維持に貢献している。近年では、自律神経系、内分
泌系に免疫系を加え「ホメオスタシスの三角形」として扱われることもあり、古典的な生
理学、神経学としての自律神経学のみならず、学際領域のひとつである神経免疫学、精神
神経免疫学における研究もなされている。

交感神経と副交感神経の二つの神経系からなり、双方がひとつの臓器を支配することも多
く(二重支配)、またひとつの臓器に及ぼす両者の作用は一般に拮抗的に働く(相反支配)。
交感神経系の機能は、闘争か逃走か(fight or flight)と総称されるような、身体的活動や侵害
刺激,恐怖といった広義のストレスの多い状況において重要となる。以下に運動時の生体
反応を例にして、交感神経系の機能を述べる。交感神経系の行動により血管が収縮し、
心拍数が増加する。この結果血圧が上昇し末梢組織の還流量が増加する。このような作用
の結果消化管、皮膚への血液量が減少するが、一方で骨格筋への血液供給量が増加する。
これは骨格筋の運動に伴う局所因子の影響に加えて、筋血管では血管拡張に関与するβ受
容体が豊富なことも一因である。気管支平滑筋は弛緩するがこれは気管径の増加をもたら
し結果として、一回換気量の増加つまりガス交換効率を向上させることとなる。一方、代
謝系に視点を移す。運動時には骨格筋において多量のエネルギー基質(グルコース)を消
費するため血糖維持が重要である。なかでも肝臓からのグルコース放出は重要である。交
感神経は肝臓でのグリコーゲン分解と脂肪組織での脂肪分解を促し血液中に必要なエネル
ギーを与える。交感神経は内分泌器官にも作用し副腎髄質ホルモン分泌、グルカゴン分泌
を刺激しやはり末梢組織へのエネルギー供給に促進的に作用する。結果として、骨格筋を
中心とした組織において豊富な酸素とグルコースが供給される一方で、皮膚や消化管へは
供給が乏しくなる。このように,自律神経系は各臓器の機能を統合的に調節することで,
結果として個体の内部環境を合目的にする。
(以上、ウィキペディア百科事典より)


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 交感神経 副交感神経 行動の抑制 感情の抑制 行動と抑制 感情
論 東洋医学 感情の相克性 サナトス リビドー 感情ホルモン説)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●感謝(老人たちのよく使う言葉)

+++++++++++++++++

老人の中に、「感謝」という言葉を
よく使う人がいる。
「生きていること自体が、感謝」と。
「感謝! 感謝! 感謝!」と。

私の母も、晩年、「ありがとう」という
言葉をよく使った。 
何かあると、すぐ、「ありがとう!」と。
「ありがとう! ありがとう!」と。

+++++++++++++++++

●違和感

ときとして人は、裏腹の言葉を繰り返すことによって、自分の心を
ごまかすことがある。
最初に私がそれに気づいたのは、10年ほど前のこと。
ある女性(当時、40歳くらい)が、電話で私にこう言った。
「私は、今の夫を、愛しています」と。
どこかのキリスト教系の、カルト教団に属している女性だった。
日本では、あまりそういう言い方をする人はいない。
そのため私は、その言葉に違和感を覚えた。

 つぎにそれに気づいたのは、やはりある女性(当時、60歳くらい)と、
話していたときのこと。
その女性は、こちらが何も聞きもしないうちから、こう言った。
「私は、今の夫と結婚できて、よかったと思います」と。
そして何度も、「私の夫は、すばらしい人です」と。

●本心?

 たまたまその両方の場面に、私のワイフも近くにいたので、あとで、
ワイフにこう聞いた。

私「お前なア、どこかの人に、『私は夫を愛しています』とか、
『私の夫はすばらしい人です』などと言ったことがあるか?」
ワ「・・・ないわねエ・・・」
私「だろ! ぼくも、ない」
ワ「でも、どうしてあんなこと、こちらが聞きもしないうちから、あの
人たちは、言うのかしら?」
私「そこなんだよな。人間の心理のおもしろいところは・・・」と。

 私たち夫婦も、それなりに愛しあっているとは思う。
が、それでも、そんな言葉は、めったに使わない。
いわんや他人には、使わない。

私「自分の愛に不安を感ずるからではないかな?」
ワ「そうね。それをあえて打ち消すために、ああいう言葉を使うのよ」と。

●疑っているから、「信じている」と言う?

 もう少しわかりやすい例に、若い人たちがよく使う、「愛している」
「私を信じて」「あなたを信じているわ」という言葉がある。

 相手を愛していない、あるいは疑っているから、そういう言葉を使う。
相手を本当に愛していたり、信じていたら、そういう言葉は、口から
出てこない。
たとえば私のワイフが私に、「あなたを信じているわ」と言ったら、私は、
すかさず、こう解釈する。
「ワイフは、ぼくを疑っている。疑っているから、そういう言葉を
使うのだ」と。

ワ「友だちもこんなことを言っていたわ。2人の息子がいるんだけど、1人は、
いつも手紙に、『ぼくたち(夫婦)は仲よくやっています』と書いてくるそうよ」
私「ハハハ、それは喧嘩ばかりしているという意味だよ」
ワ「そうね。私もそう思うわ」
私「本当に夫婦が仲よくやっていたら、そんなことは書かない。仲よくやって
いないから、『仲よくやっている』と書く」と。

●裏の心

 先の例で言えば、夫を愛しきれない何かがあるから、人には、「私は、今の夫を、
愛しています」と言う。
あるいは夫に対して、大きな不満を感じているから、「私の夫は、すばら
しい人です」と言う。

 こういう現象を心理学の世界では、どう説明するのか。
しかしあのフロイトは、こんな興味深い言葉を残している。
「サナトス」と「リビドー」という言葉である。

 サナトスというのは、「死への欲求」をいう。
リビドーというのは、「生(性)への欲求」をいう。
フロイトは、人間の感情にはつねに相反する2つのエネルギーが、同時に働くと
教える。
「生への欲求」があれば、当然、「死への欲求」もある、と。

 この理論を応用すれば、こういうことも言える。

 ひとつの感情を表出するときは、その裏で、その反対の感情が、心の内側に向かう、と。
「愛している」と口に出して言うときは、「愛していない」という感情が、同時に内側に
向かう。
あるいは「愛していない」という感情が内側に向かうときは、それを打ち消すために、
「愛している」という感情が、外側に向かう。

●武士道

 ところで「死への欲求」とは何か?
わかりやすく言えば、「死ねば楽になる」と思うのが、その一例ということになる。
もう少し掘り下げて考えると、こうも解釈できる。

 私たちが「生きたい」と思うのは、同時に「死にたい」という
欲求を、無意識のうちにも打ち消しているためとも考えられる。
「死」を恐怖と考えるのは、「死」そのものが恐怖だからではなく、
(もちろんその一部ではあるが・・・)、「死」へと自分を引きずりこんで
いくエネルギーに、恐怖感を覚えるため、と。
その恐怖感を打ち消すために、「生きたい」という言葉を口にする。

 こうした感覚は、西洋人には理解しがたいものかもしれない。
しかし日本人の私たちには、意外と理解しやすい。

 「死への欲求」というのは、たとえば日本の武士道に、それが象徴化
されている。
武士道では、「どう死ぬべきか」で、その人の生き様が決まる。

●裏腹の言葉

 最初の話に戻る。

 老人が、「感謝」とか「ありがとう」という言葉を使うときには、
2つの意味がある。

 ひとつは、感謝できない状況、あるいは「ありがとう」と言えない
状況がその周辺にあることをいう。
つまり自分の置かれた状況に不満があり、その不満を裏返して、「感謝」
とか、「ありがとう」とかいう言葉を使う。
使って、自分の中にたまった不満をごまかす(?)。

 もうひとつは、そう言いながら、相手に向かって、「感謝できるような
状況を作れ」とか、「ありがとうと言えるような状況を作れ」と要求して
いる。
つまり催促。

 もちろん状況によっては、そうでないばあいもる。
本当に、本心から、そう言うべきケースもある。
が、そのばあいには、「自然さ」が伴う。
言われた方も、違和感を覚えない。
そうでないときは、そうでない。
どこか不自然。
何かヘン?

それを言うべきときでないときに、(まただれもそれを期待していないときに)、
そういった言葉を口に出して言う。
言われたほうが、ふと「?」に思う。
そういう言い方をする。

●結論

 老人たちは、よくこれらの言葉を使う。
が、世界的にみても、こうした言葉をよく使うのは、日本の老人たちだけではないのか?
英語で、「I am in good health. Thanks, thanks.」などと書くと、書いただけで、
奇異な感じがする。
言い替えると、こうした言葉を、日本の老人たちは、無理に使いすぎる。
つまり無理をしている(?)。

 だから……。

 こと私に関して言えば、努めてこれらの言葉は使わないようにしたい。
意味もなく、「感謝」とか、「ありがとう」という言葉は、使いたくない。

たとえば今日も私は健康だ。
気力は弱くなった。
耐久力も弱くなった。
集中力も弱くなった。
しかし健康は、健康。
で、「私は健康だ。生きている。感謝!」などというようには、使いたくない。

 だいたい、だれに対して感謝するのか?
「感謝の念を忘れるな」という意味では、「感謝」という言葉は、尊い。
しかしそれは自分に向かって使う言葉。
外の世界に向かって、表出する言葉ではない。

 それにたまたま私は健康に恵まれている。
だから「感謝」という言葉を使えば使うほど、今、現在、病気と闘っている
人たちに、申し訳ない気分になる。
そのひとたちは、たまたま病気になっている。
そういう人たちは、どうなのか?
世を恨んでいるのか?
「恨んでいる」と言うべきなのか?
が、そういうことは、ありえない。
またそういうふうに、考えてはいけない。

 ……ちょっと考え過ぎかもしれないが、気になったので、老人たちがよく
使う「感謝」と「ありがとう」という言葉について、書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 感謝 感謝の念 老人の言葉 老人心理 老人性心理 老人の感謝)


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

●閉所恐怖症(恐ろしい実験)

+++++++++++++++++

私なら、ぜったい「NO!」と断わる。
いくらお金を積まれても、できることと、
できないことがある。
私には、それができない!
そんな実験が、今度、ロシアで始まった。
何と、520日間も、窓のない部屋に
閉じこめられるという。
想像するだけで、ゾッとする。

私は、何を隠そう、閉所が苦手。
窓のない部屋に入っただけで、すぐ
息苦しさを覚える。

TBS−iニュースは、つぎのように
伝える(2010−6−4)。

+++++++++++++以下、TBS−iより+++++++++++++++++

 ロシアの研究チームは3日、将来の有人火星飛行を見据え、地上に設置した宇宙船に6
人の男性を520日間閉じ込める実験を開始しました。

 「MARS‐500」と呼ばれるこの実験は、人を地上に設置した宇宙船の中だけで5
20日間生活をさせるものです。モスクワ西部に設置された模擬宇宙船は、バス9台分の
広さがあり、書籍やトレーニングマシンなど生活に必要なものはすべてそろっていますが
窓はありません。

 将来の有人火星飛行を想定したこの実験では、火星への往復にかかるといわれる520
日間を閉鎖された空間に隔離された際、精神や健康の状態に変化がないかを観察するとい
います……。

+++++++++++++以上、TBS−iより+++++++++++++++++

●私なら……

 私なら、数日で、気がへんになる(?)。
たとえば私は、学生のとき、刑法学の教授に連れられて、
刑務所見学なるものをしたことがある。

あのとき見た刑務所が、そのままトラウマになってしまった。
だから今でも、ときどき、こう思う。
「私が悪いことをしないのは、犯罪者になるのが、こわいからではない。
ああいう部屋に閉じこめられるのが、こわいから」と。

 刑務所のばあいは、(懲役と禁錮ではちがうが……)、外の世界との
つながりが、まだある。
しかしバスのような部屋の中では、それがない。
そんな中で、520日間!
私には、とんでもない実験である。
考えられない実験である。
この記事を読んだだけで、ぞっとした。

●疑問

 記事を読んで、「窓ぐらい、つければよい……」と思った。
しかし宇宙では、見えるのは、こまかい星だけ。
窓があったところで、どうしようもない?
しかし火星に近づいたら、どうするのか?
窓の外を監視するカメラが故障したら、どうするのか?
高層マンションの高層階に住む母親ほど、マタニティ・ブルーに
なる確率が高くなるという調査結果もある。
「閉所」には、未知の問題が隠されている。
それを知るための実験ということらしいが、私は、ごめん!

 それにしても、恐ろしい実験ではないか。
私はそう思った。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●読み・書きのできない子どもたちと、その診断

+++++++++++++++++

日本人の5%前後、アメリカ人の
10〜15%が、難読症もしくは
失読症と言われている。

+++++++++++++++++

【識字障害・文献資料】(「Brain −Mind Com.、アメリカの文献より)
       http://brainmind.com/Dyslexia43.html

Dyslexia & Alexia 
From: Neuropsychiatry, Neuropsychology, Clinical Neuroscience (Williams & Wilkins, 
1996) 
by Rhawn Joseph, Ph.D.


Dyslexia(難読症) & Alexia(失読症) 
The Inability to Read (読むことができない人たち)

Dyslexia is a disturbances in the ability to read, whereas alexia refers to a complete loss 
of reading ability. In general, whereas dyslexia is primarily a congenital disturbance, 
alexia is an acquired disorder and is due to a neurological injury generally in the 
vicinity of the temporal, occipital, parietal lobe. ALEXIA 
難読症というのは、読解力が混乱した状態をいう。
失読症というのは、読解力が完全に欠落した状態をいう。

There are a variety of theories which purport to explain the mechanisms involved in 
reading and the comprehension of written language. Reading, of course, requires 
activation of the visual areas in the occipital and temporal lobes, so that the symbolic 
form of the letter or word is perceived, which in turn enables the viewer to determine 
that the form is a letter or a series of letters making up a word. 

However, not only must letters or groups of letters be recognized and their temporal 
order ascertained (referred to as "orthographic" processing); but there must be semantic 
processing. That is, the letters and words are perceived and then the relation of a series 
of letters or words to each other are recognized so that the meaning of the word or 
sentence can be derived. 

Words are not only seen and thus read, but the sound of the written word, as it is read 
(or written) may "be heared" within the privacy of one's head. This is referred to as the 
"phonological" aspect of reading. 

The phonological stages of reading and linguistic analysis involves activation of
 Wernicke's receptive speech area (in the temporal lobe) and Broca's expressive speech 
area (in the frontal lobe). In some cases, individuals will move their lips as they read, 
which is due to activation and participation of Broca's area which programs the oral 
musculature for the purposes of speech. 

Yet another region of the brain that contributes significantly to reading ability is the 
inferior parietal lobe (IPL). The IPL becomes highly active when reading, as 
demonstrated by functional imaging (Demonet, et al., 1994; Paulesu, et al., 1993; Price, 
1997). 

Different regions of the brain, therefore, interact during various stages of reading, such 
that in consequence, abnormalities of or lesions to different areas can result in different 
types of reading abnormalities. 

For example, a small lesion to one area of the brain, may result in an inability to 
recognize sentences or long words, whereas the ability to recognize letters and short 
words remains intact. With damage to yet another brain area, the patient may suffer 
fraom an inability to derive semantic meaning from words once they are read. 

In some cases,the patient may lose the ability to read, but retains the ability to write, 
and can spell and write the very words he cannot read. (Coltheart, 1998; Miceli et al., 
1999; Miozzo & Caramazza, 1998; Goodglass & Kaplan, 2000). 

For example, injuries the left IPL can disrupt the ability to read and spell. This is 
because the IPL matches auditory images to visual images and associates both so as to 
form multimodal concepts including those necessary for reading and the comprehension 
of written language. However, this disorder is due not only to IPL damage, but to 
disconnection from the occipital and temporal lobes which perform visual and auditory 
functions. 

Damage to the IPL or to the superior temporal lobe, can also disrupt the ability to spell 
by sound and to engage in phonological processing, such that patients can no longer 
hear (in their head) the sound of the words they are reading, nor can they match the 
sounds they hear to the visual-motor components of reading (the generation and 
comprehension of visual symbols, i.e. words and letters). 

The Loss of the ability to engage in phonological processing or to spell by sound is a 
common feature of dyslexia and alexia (Brady & Shankweiler, 1991; Miceli et al., 1999) 
and is common with middle temporal lobe injuries. 

Injuries to Wernicke's area (and thus the left superior temporal lobe) also disrupts 
reading, writing, and all aspects of linguistic comprehension. Not only is reading 
compromised but patients may lose the ability to comprehend spoken language. 

Individuals diagnosed as suffering from developmental dyslexia have frequently been 
found to have abnormalities in temporal lobe and IPL , 1997) as well as in the IPL and 
left superior temporal lobe (Denays et al., 1989; Galaburda et al., 1985); Rumsey et al., 
1992; Tzourio et al.,1994). The IPL and the temporal lobe thus appear to be the primary 
structures involved in reading. 

The IPL, middle temporal lobe, and Wernicke's area are richly interconnected, and in 
some respects coextensive. These areas are also linked to Broca's Expressive speech 
area and the frontal motor areas, which is why some people move their lips when they 
read. 

THE NEUROLOGY OF READING. 
(神経病学からの考察)

From a neurodynamic perspective the process of reading involves the perception and 
analysis of visual impulses in the primary and association visual receiving areas (in the 
occipital lobes). This information is next transferred to the visual association cortex 
where higher level information processing is carried out and visual associations formed. 
These visual associations are next transmitted to a variety of areas (Haxby, et al., 1991; 
Peterson, et al., 1988, 1990; Price, 1997; Zeki, 1997) including Broca's and Wernicke's 
area, the inferior and middle temporal lobe and the IPL. It is in these latter cortical 
regions where multimodal and linguistic assimilation take place so that the auditory 
equivalent of the visual stimulus may be retrieved. That is, via these interactions visual 
grapheme clusters become translated into phonological sound images. In this manner 
we know what a written word looks and sounds like. It is also possible, however, to 
bypass this phonological transcoding phase so that word meanings can be directly 
accessed (i.e. lexical reading). 

THE DEVELOPMENT OF READING.
(読解力の発達)

 It is generally believed, in learning to read, that visual symbols are recognized as 
graphemes (letters) and that these graphemes are decoded and then converted to 
phonemes (via the IPL which performs an auditory matching function), i.e. phonological 
analysis. In this manner, the child learns to associate written symbols with spoken 
words. 

This requires that written (and verbal) language also be broken down into syllables and 
phonemes so that auditory-visual associations can be made; i.e. "phonological 
awareness." The sound of the word is matched with its visual image. 
The greater a child's phonological awareness, the greater is their reading ability (Brady 
& Shankweiler, 1991). 

Presumably, it is only after the child develops their phonological awareness, and after 
increased experience with reading, that they are able to bypass the phonological 
transcoding phase and engage in lexical reading. Thus, as the childs ages and learns to 
read, phonological processing becomes subsumed and employed only secondarily when 
confronted with unfamiliar words. 

THE NEUROLOGY OF READING 

Although it is likely that most individuals utilize both lexical and phonological 
strategies when reading, in either case the temporal-parietal-occipital lobes are all 
implicated. These structures all participate, to varying degrees in phonological and 
lexical processing. Indeed, as demonstrated through functional imaging, reading 
activates Wernicke's area and the left posterior temporal lobe (Bookheimer, et al., 1995; 
Howard et al., 199), including the supramarginal gyrus (Bookheimer, et al., 1995), and 
angular gyrus (Price, 1997), the latter structures comprising the inferior parietal lobe. 
Conversely lesions to these different areas produce alexic disturbances. 

SUBTYPES OF ALEXIA AND DYSLEXIA DEPEND ON LESION SITE 
(障害部位の違いによる、別の種類の難読症、失読症)

With lesions of the angular gyrus, or when damage occurs between the fiber pathways 
linking the left inferior parietal lobule with the visual cortex (i.e. disconnection), 
patients may suffer from Pure Word Blindness--also referred to as Pure Alexia 
(Coltheart 1998; Miozzo & Caramazza, 1998). Patients can see without difficulty, but 
are unable to recognize written language. Written words evoke no meaning. 

However, because the left posterior basal temporal lobe is a convergence zone for visual, 
auditory, and tactile information, and becomes activated during a variety of language 
tasks, including reading and object and letter naming (Buchel et al., 1998; Price, 1997), 
if injured, patients may suffer from reading and naming deficits (Rapcsak, et al., 1987); 
a condition referred to as phonological alexia. Moreover, patients with developmental 
dyslexia have been found to have abnormalities in this latter area (Rumsey et al., 1997). 

Thus there are several subtypes of reading disturbances which may occur with left 
cerebral damage or congenital disturbances involving these tissues (Coltheart 1998; 
Miceli et al., 1999; Miozzo & Caramazza, 1998). These include literal, verbal, and global 
alexia, and alexia for sentences, as well as developmental dyslexia. In addition, alexia 
can sometimes result from right hemisphere lesions, a condition referred to as Spatial 
Alexia. All these disorders, however, are acquired and should be distinguished from 
developmental dyslexia which is present since childhood (see Njiokiktjien, 1988). 

DEVELOPMENTAL DYSLEXIA 

Developmental dyslexia is one of the most common of all learning disabilities, effecting 
up to 8% of the school aged population. There is an obvious genetic foundation to this 
disorder, as is evident from the high familial risk rates that range from 35% to 45% 
(Smith et al., 1990) and many of these children suffered from even more profound 
language disorders during their preschool years, e.g. developmental dysphasia. 
Developmental dysphasias affect from 8% to 15% of all preschool children and most of 
these children, even as they acquire language, continue to suffer severe disturbances in 
reading and spelling (Aram et al. 1984); a function, in part, of not only brain 
abnormalities, but persisting deficits in phonological processing. 

Congenital disturbances involving these tissues (dysplasia, ectopias), including the 
middle temporal lobes, the perisylvian regions and the planum temporal, are associated 
with developmental dyslexia (Galaburda et al., 1985). Using functional imaging, 
Rumsey et al. (1992) and Tzourio et al., (1994) found that dyslexic children failed to 
activate the left temporal-parietal cortex when engaged in word tasks, whereas Denays 
et al. (1989) found hypoperfusion in this same area. 

PURE WORD BLINDESS. ALEXIA WITHOUT AGRAPHA 
(文字表出能力障害を伴わない、失読症)

Pure alexia, or alexia without agraphia (due to the preservation of the ability to write) is 
a condition where patients are unable to read written words, or even recognize single 
letters (Coltheart 1998; Miozzo & Caramazza, 1998). However, if words are spelled out 
loud, they have little difficulty with comprehension (due to intact pathways from 
Wernicke's to the angular gyrus). Moreover, they are able to speak, spell as well as write 
without difficulty. Nevertheless, although able to write, they are unable to read what 
they have written. 

In general, the lesion appears to be between the left angular gyrus and the occipital lobe 
(in the arterial distribution of the left posterior cerebral artery), and extends to within 
the splenium of the corpus callosum (Benson, 1979; Vignolo, 1983) which prevents right 
hemisphere visual input from being transferred to the inferior parietal lobe of the left 
half of the brain. Sometimes this condition is due to a tumor or following a head injury 
accompanied by a hemotoma involving the white matter underlying the inferior parietal 
lobule (Greenblatt, 1983) and or the temporal-parietal cortex (Rumsey et al. 1992). In 
these instances the left angular gyrus is unable to receive visual input from the left and 
right visual cortex and visual input cannot be linguistically translated. The patient 
cannot gain access to the auditory equivalent of a written word. 

Although unable to read written language, this syndrome is not always accompanied by 
a visual field defect (hemianopsia). Moreover, objects may be named correctly (Hecaen & 
Kremimin, 1977). However, patients may suffer from color agnosia (Benson & 
Geschwind, 1969), i.e. an inability to correctly name colors. There is often (but not 
always) an inability to copy written material (because of disconnection from the visual 
areas) and many patients have difficulty performing math problems. In some cases the 
patient suffers not only pure word blindness but blindness for numbers as well. 
This condition has been described as Global Alexia by some authors. However, global 
alexia is a more pervasive disorder in which the ability to write (agraphia) and name 
objects is also compromised. 

ALEXIA FOR SENTENCES 
(長い文章の失読症)

Patients suffering from alexia for sentences are able to read letters and single words but 
are unable to comprehend sentences. However, patients may have difficulty with 
unfamiliar or particularly long words whereas more familiar material is easily 
understood. Lesions are usually localized within the dominant occipital lobe but may 
extend into the inferior parietal area. 

VERBAL ALEXIA 

When patienta are able to read and recognize letters but are unable to comprehend or 
recognize whole words they are said to be suffering from verbal alexia. However, if 
presented with short words their reading ability improves. Hence, the longer the word 
the greater the difficulty reading (Hecaen & Albert, 1978). Verbal alexia usually results 
from lesion involving the dominant medial occipital lobe (Hecaen & ALbert, 1978; 
Hecaen & Kremin, 1977). 

LITERAL/FRONTAL ALEXIA 

When the patient is unable to recognize or read letters this is referred to as Pure Letter 
Blindness. Pateints are usually unable to read by spelling a word out loud, and the 
abilty to read numbers and even musical notion is often disturbed. Some authors have 
attributed literal alexia to left inferior occipital lesions (Hecaen & Kremin, 1977). 
This disorder has also been referred to as Frontal Alexia. This is because individuals 
with Broca's aphasia or lesions involving the left frontal convexity have difficulty 
reading aloud, and have the most difficulty with single letters rather than whole words 
(Benson, 1977). 

SPATIAL ALEXIA 

Spatial alexia is associated predominantly with right hemisphere lesions. In part this 
disorder is due to visual-spatial abnormalities including neglect and inattention. That 
is, 
with right cerebral lesions the patient may fail to read the left half of words or 
sentences, 
and may in fact fail to perceive or respond to the entire left half of a written page. 

Right posterior injuries may also give rise to spatial disorientation such that the patient 
is unable to properly visually track and keep place, their eyes darting half hazzardly 
across the page. For example, they may skip to the wrong line. Spatial alexia may also 
result from left cerebral injuries in which case it is the right half of letters, words and 
sentences which are ignored (Marshall & Newcomb, 1973). Indeed, patients not only 
ignore words, but sometimes the left half of the bodies and the entire left half of visual 
space. Hence if they are presented with the words "help me"they may only see help. Of if 
they read: "toothbrush" they may only see the word "tooth." However, if they were 
presented only with the word "tooth" they would see only "too." This latter form of 
spatial alexia is thus really a subtype of generalized left sided neglect and is common 
with right cerebral injuries.

【識字障害の診断基準】(ウィキペディア百科事典・英語版より)

Pre-school age children(就学前幼児)

It is difficult to obtain a certain diagnosis of dyslexia before a child begins school, but 
many dyslexic individuals have a history of difficulties that began well before 
kindergarten. Children who exhibit these symptoms have a higher risk of being 
diagnosed as dyslexic than other children. Some of these symptoms are:

就学前の子どもについて、難読症(dyslexia)の一定の診断をくだすのは、むずかしい。
しかし多くの難読症の子どもは、幼稚園へ入園する前に、何らかの問題を示すことがある。
以下の兆候を示す子どもは、他の子どもと比べて、将来、難読症と診断される可能性が高い。
その兆候について。

【幼児期】

Delays in speech 
言葉の発達の遅れ。
Learns new words slowly 
新しい言葉を学ぶのが遅い。
Has difficulty rhyming words, as in nursery rhymes 
話す言葉がどこかぎこちない。ぎこちなさを感ずる。
Low letter knowledge 
文字について能力が遅れる。
Letter reversal, ex: e b f p (normal)
鏡文字を書く。

【学童期】
Early primary school-age children(小学低学年児)

Difficulty learning the alphabet or in order 
アルファベットを学ぶのが困難。
Difficulty with associating sounds with the letters that represent them 
(sound-symbol correspondence) 
その音を示す、文字と音を組み合わせるのが困難。
Difficulty identifying or generating rhyming words, or counting syllables in 
words (phonological awareness) 
文字を認識し、なめらかに文字を読むのが困難、あるいは単語の中の音節を数える
のが困難。
Difficulty segmenting words into individual sounds, or blending sounds to make 
words (phonemic awareness) 
単語をそれぞれの音に分離するのが困難。あるいは単語を作るため、音を混ぜるが
困難。
Difficulty with word retrieval or naming problems 
言葉の訂正が困難、あるいはものと名前の結びつけるのが困難。
Difficulty learning to decode written words 
表記文字を理解するのが困難。
Difficulty distinguishing between similar sounds in words; mixing up sounds in 
multisyllable words (auditory discrimination) (for example, "aminal" for animal, 
"bisghetti" for spaghetti)
単語の中の同じような音を区別するのが困難;たとえば「動物(どうぶつ)」を、「ど
うふづ」、「スパゲッティ」を「ビスゲッティ」と読むように、音節の多い単語の音
を混ぜてしまう。

【後期学童期】(小学、高学年児)
Older primary school children

Slow or inaccurate reading, although these individuals can read to an extent. 
ある程度は読むことができるが、読むのが遅く、不正確。
Very poor spelling 
綴りが苦手。
Difficulty reading out loud, reads word in the wrong order, skips words and 
sometimes says a word similar to another word (auditory processing disorder) 
大きな声で読むのが困難。前後の単語を入れ替えて読む、単語を飛ばす、あるいは
ほかの似たような単語に置き換えて文章を読む。
Difficulty associating individual words with their correct meanings 
それぞれの単語を、正しい意味と結びつけるのが困難。
Difficulty with time keeping and concept of time, when doing a certain task 
何かの作業をしているとき、時間を守るのが困難。時間の概念がない。
Difficulty with organization skills (working memory) 
系統立てて作業するのが困難。
Children with dyslexia may fail to see (and occasionally to hear) similarities and 
differences in letters and words, may not recognize the spacing that organizes 
letters into separate words, and may be unable to sound out the pronunciation of 
an unfamiliar word. (auditory processing disorder)
難読症の子どもは、文や単語の中の類似性や相違性を判断することができない。文
章の中の単語がスペース(空白)で区切られていることを認識することができない。
新しく出会った単語のようなばあい、それを発音することができない。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 失読症 難読症 識字障害 文字表出能力障害 Dyslexia  Alexia 
ディスレクシア アレクシア)

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●雑感・あれこれ

●日本経済

 書店で、何冊か、経済誌を立ち読みした。
どれも共通して説いているのは、日本経済の破綻は、すでに可能性の問題ではないという
こと。
時間の問題。
現在、日本経済は、薄い氷の上を恐る恐る歩いているようなもの。
何かのきっかけがあれば、そのまま奈落の底へ・・・。

 朝鮮半島で何か起これば、あぶない。
韓国や中国の住宅バブルがはじければ、あぶない。
アメリカ経済がつまずけば、あぶない。
EUの経済破綻については、現在進行中!

 その前兆として、日本円が海外へ逃避し始める。
円売りが加速し、円安になったときが、あぶない。
それをきっかけに雪崩(なだれ)をうったように、円は暴落する。
同時に日本を、ハイパーインフレが襲う。
どうやらそういうシナリオで進むらしい。
 
 頼みの綱は政治だが、その政治は、ご覧のとおり。
鳩山内閣は、すでに政権担当能力を喪失している。
(昨日、辞職した。)
こうなれば、わが身は自分で守るしかない。
・・・ということで、考えることはみな、同じ。

金(ゴールド)価格は、目下、暴騰中。
ニッケルやアルミなど、金属価格がこの数か月低迷している。
それを勘案すると、金価格の暴騰は、尋常ではない。
まさに金バブル。
ここで金(ゴールド)に手を出せば、ババを引くことにもなりかねない。

 要するに現在、世界経済は、メチャメチャ。
収拾のつかない泥沼に向かって、まっしぐら。
10分の1、あるいはそれ以下になることを覚悟で、タンス預金をつづけるか。
それとも危険な外債に手を出して、ハラハラしながら、毎日を過ごすか。
まさに八方ふさがり。


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

●5月の総括

++++++++++++++++++

5月・・・頭の活動は、低調だった。
新しい発見も、ほとんどなかった。
ただひとつ、こんなことに気づいた。
その土地、地域、地方の人たちは、
ともに似たような言いまわしの仕方、
似たような考え方をするということ。

+++++++++++++++++

●郷里

たとえば私は岐阜県の田舎町で生まれ育った。
恐らくというより、ぜったい、その町に生まれ育った人は、それに気づかないだろう。
しかし一歩離れた、この浜松という地方から見ると、それがよくわかる。

あの町の人たちは、似たような言い回しをする。
似たようなものの考え方をする。
つまり「独特」。

たとえば何か、ものを送ったとする。
盆暮れのつけ届けでもよい。
するとたいていみな、こう言う。
「大事に使わしてもらうで・・・」と。
「大切に使わせていただきますので・・・」
という意味である。
「悪いねエ・・・」と、言葉を濁す人も多い。

一方、この浜松では、「ありがとう」と言う。
それで終わる。

●「大事に使わしてもらうで・・・」

 「悪いねエ・・・」にしてもそうだが、
この浜松で、「大切に使わせていただきますので・・・」
と言われると、言われたほうは、返答に困ってしまう。
「大切に使わせていただきますので、もっとほしい」
という意味にも、解釈できる。
(これは私の考えすぎか?)
「悪いねエ・・・」と言われると、やはり言われたほうは、返答に困ってしまう。
まさか「悪くないですよ」とは、言えない。

●アメリカ人は、ストレート

 こうしたちがいは、アメリカ人とくらべてみると、よくわかる。
彼らは、何かにつけて、ストレート。
「遠慮」という言葉の意味すら、知らない。
ほとんどのばあい、「サンキュー」で終わってしまう。
わかりすぎるほど、わかりやすい。

 つまり私の印象では、浜松の人たちは、岐阜の郷里の人たちと、アメリカ人の中間、も
しくは郷里の人たちに近い方の、中間にいるということになる。

●本音と建前

 岐阜の郷里の人たちは、それだけ(奥ゆかしい)ということになる。
が、その分だけ、心が読みにくい。
ときに何を考えているか、さっぱりわからなくなるときがある。

 たとえば本音と建前を、そのつど、実にうまく使い分ける。
もっと言えば、裏で悪口を言いながら、表では平気でつきあう。
そういうことが、みな、平気でできる。
またそれができないと、あの町では生きていくことがむずかしい。

●視点を広める

 で、さらに視点を外国に置いてみたらどうか。
私は今、浜松という町から、岐阜の郷里を見ている。
しかし外国という世界から、日本を見たら、どうか。
やはり同じように、そこに「日本人」が浮かび上がって
くるにちがいない。

 さらに、視点を宇宙に置いてみたらどうか。
宇宙人の目で、地球人を見てみる。
やはりおなじように、そこに「地球人」が浮かび上がってくるにちがいない。

●ウソ

 視野を広めるというのは、そういうことをいう。
(1)と(2)の関係を知ったら、それを(2)から(3)への関係へと、
視野を移動していく。
外国と比較してみるのもよい。
ここで私は、アメリカ人と比較してみたが、それはたいへん重要なことでもある。

 先に私は本音と建前について触れた。
しかしアメリカ人には、それは通用しない。
彼らはそれを「ウソ」ととらえる。
欧米人がいかにウソにきびしいかは、今さらここに改めて書くまでもない。
ふつう一度ウソを言ったら、人間関係は、それで終わる。

●悪口

 話を戻す。

 私はこうしてものを書いているが、いろいろな鉄則を守っている。
そのひとつが、悪口を書いた人ととは、つきあわない。
つきあっている人の悪口は、書かない。

 当然のことだが、郷里のあの町では、それが通用しない。
みなというわけではない。
私の周辺の人たちだけかもしれない。
が、私が知るかぎり、ほとんどの人は、平気でそれができる。
つまり裏で悪口を言いながら、表では平気でつきあう。

●原点は邑(むら)意識 

 岐阜の郷里の町は、それだけ日本的ということになる。
たとえばさらに一歩、山奥の部落に入ると、こんな会話が今でも、残っている。
通りでだれかに出会ったとすると、こう言って声をかける。
「オーイ、昼飯でも食っていかんけエ」と。

 しかしこれは、ただのあいさつ。
そう言われたほうは、腹が減っていても、こう答える。
「おう、今、食ってきたところでノウ」と。

 ウソにはウソで答える。
そういった日常的な会話が、ジグソーパズルのように寄り集まって、あの地域の文化を作
り上げている。
それを総称して、「邑(むら)意識」という。
(ちょっと意味がちがうかな?)
現在では死語になってしまったが、亡霊のようなものは、あちこちに残っている。
それがあの独特の言い回しということになる。

●依存性

 「邑(むら)」の中では、みながみな、たがいに依存しあいながら、生きている。
受け入れてしまえば、それは居心地のよい世界である。
が、一度それに反目すると、そのまま外の世界へ、はじき飛ばされてしまう。
『村八分』という言葉もある。
村に住む人にとっては、これほど恐ろしい言葉はない。

 依存できないだけではない。
依存できない分だけ、自分で生きていかねばならない。
しかしそういう訓練を受けていない。
邑社会そのものがもつシステムが、それを許さない。

 ただ誤解がないように一言。

 どちらがよくて、どちらが悪いかということは、私にはわからない。
人、それぞれ。
郷里の人たちには、郷里のほうが、住みやすい。
浜松の人たちには、浜松のほうが、住みやすい。
どうであれ、その人が「住みやすければ」、それでよい。


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

●嫉妬、攻撃、恐怖

+++++++++++++++

乳幼児期の大敵。
タブー。
その3つが、嫉妬、攻撃、恐怖。

+++++++++++++++

嫉妬は原始的な感情であるがゆえに、
扱い方をまちがえると、確実に
子どもの心をゆがめる。
「原始的」というのは、他の哺乳動物に
共通する感情のひとつであるということ。

攻撃というのは、はげしい闘争心を
呼び起こすような感情をいう。
結果として言動が攻撃的になる。

またはげしい家庭内騒動、夫婦喧嘩など、
恐怖体験は、子どもの心をゆがめる。
「ゆがめる」というのは、ばあいによっては
精神障害につながる、重篤なケースを含む。

乳幼児期の母子関係の不全が、後々の
うつ病の「種」となるという説もある(九州大学Y)。

みなさん、気をつけましょう。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2010++++++はやし浩司

●こわばり

++++++++++++++++++++

このところ体のこわばりが、気になる。
筋肉が、そのまま固まってしまう。
しばらく同じ姿勢を保つ。
そのあと、体が、思うように動かなくなる。

最初に気がついたのは、今から5、6年ほど前のこと。
どこかの会場で、和室に案内された。
何人かの人たちと、正座したまま話をした。

時間にすれば、20〜30分ほどだっただろうか。
そのあとのこと。
立ち上がろうとしたが、立ち上がれなくなってしまった。
足がこわばったまま、動かなくなってしまった。
ヨロヨロ……という感じではなく、ギコンギコンという
感じだった。

以来、正座するのを、できるだけ避けている。
が、足だけではない。
腕にせよ、首にせよ、なにかにつけ、体がこわばり
やすくなった。

が、この(こわばり)を軽くみてはいけない……そうだ。
ネットで調べてみると、重篤な病名がズラリと並ぶ。
とくにこわいのが、首から肩にかけての、こわばり。
脳梗塞の前兆ということも、あるそうだ。

+++++++++++++++++++++
 
●相談

 こういうときは、5、6歳、あるいは10歳くらい年上の人に相談するとよい。
私が経験するようなことは、たいていみな、経験している。
「私もそうです」というような回答をもらって、それで解決する。

 で、最近、50代の人と話すたびに、私はこう言う。
「老人研究をしたらいいですよ」と。

 私のばあい、とくに老人の歩き方が気になった。
80歳を過ぎても、スタスタと歩ける人もいる。
70歳になったばかりというのに、ヨタヨタと歩く人もいる。
そんなとき、「どうしてこの人は、こんなふうに歩けるのだろう?」
「どうしてこの人は、歩けないのだろう?」と、考えるようになった。

 以来、10年。
この分野では、私はかなり詳しくなった。

 「老人研究」といっても、もちろん歩き方だけがテーマではない。
最終的には、人生観そのものも、テーマとなる。

●老後の人生観

 「老人の人生観」というよりは、「老後の人生観」。
「どう生きるか」に併せて、「どう死ぬか」。
この2つを並行して考える。
それが老後の人生観ということになる。

 つまり若いときは、生きることだけを考えればよかった。
しかし老後になると、それに(死に方)が加わるようになった。
それにはいろいろな意味が含まれる。

+++++++++++++++

09年の1月に書いた原稿を、
再掲載します。

+++++++++++++++

●統合性の確立

++++++++++++++++++++++++

今日の成果。
私とワイフは、ずっとトップランナーだった。
諏訪湖の湖畔を歩くとき、いつもうしろを見ながら歩いた。
こんなところで順位を競っても意味はない。
わかっているが、私たちは、それを目標にしている。
週に2、3度、10キロ近く歩いているのも、そのため。

それぞれの人には、それぞれの目的がある。
観光を楽しみたい人。
友だちとおしゃべりを楽しみたい人。
ほかにも、いろいろあるだろう。
しかし私たちは、運動のため。
そのためには、タラタラと歩いていたのでは、意味がない。
サクサクと歩く。
汗をかく。
有酸素運動をする。

そのために歩く。
目標は、トップ。
目的地、一番乗り。

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●帰りのバスの中で

それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「あなたの人生の縮図みたいね」と。

いつもトップだったというわけではないが、しかしその緊張感は
忘れなかった。
先手、先手で、人の前に立つ。
それは私のように一匹狼で生きていく人間にとっては、鉄則のようなもの。
二番手になったとたん、押しつぶされてしまう。

が、目的地に着いたら、そこで遊ぶ。
時間にも余裕がある。
その周辺の店をのぞいたりする。
これもワイフに言わせると、私の人生の縮図みたいということになる。

私はいつも、まず(すべきこと)を先にする。
それが終わったら、自分の(したいこと)をする。
その余裕がないときは、がまんする。
つまり(すべきこと)が残っているときは、(したいこと)をがまんする。

いつもこの鉄則を守っているというわけではないが……。

●60歳の統合性

(やるべきこと)と、(したいこと)は、基本的にちがう。
(やるべきこと)には、常に、ある種の苦痛がともなう。
できるなら、やらないですまそうとする。
そういうブレーキも働く。
人間は本来、怠けもの。
が、その(苦痛)を乗りこえなければ、(やるべきこと)は、できない。

エリクソンは、人生の正午と言われる満40歳前後から、(やるべきこと)の
基礎を作れというようなことを説いている。
(やるべきこと)を見つけ、その基礎固めをしていく。
それが5年とか10年とかいう年月を経て、その人の中で熟成していく。
何度も書くが、「60歳になりました。明日からゴビの砂漠でヤナギの木を
植える」というわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、身につかない。

(やるべきこと)を見つけ、現実にそれを実行していく。
それを「統合性の確立」という。

●統合性の失敗

私も含めてということになるかもしれないが、こうした統合性の確立に
失敗している人は、多い。
60歳という、年齢の節目に立ってみると、それがよくわかる。

明日は今日と同じ。
来月は今月と同じ。
来年は今年と同じ、と。

家ですることといえば、テレビを見て、雑誌を読んで、あとは眠るだけ。
たまの休みには、野球中継。
雨の日は、パチンコ。
読むのは、スポーツ新聞だけ。
体のためと称して、畑を借りて家庭菜園。
ときどき旅行をしたり、孫の世話をする。
楽しむことイコール、老後のあるべき姿と考えている人も多い。
しかしそれこそ、まさに死の待合室に入ったようなもの。
1か月を1日にして、生きるだけ。
1年を、1か月にして生きるだけ。

そんな人生に、どれほどの意味があるというのか(失礼!)。

●今、40歳前後の方へ、

エリクソンは40歳と言ったが、40歳では遅いかもしれない。
30歳でもよい。
20歳でもよい。
将来に向けて、統合性の確立のため、今からその下地を作っていく。
それは何も老後のためだけではない。
いつか「私は自分の人生を生きた」という実感を、
自分のものにするため。

もしこの統合性の確立に失敗すると、老後そのものがみじめになるだけではない。
自分が生きてきたという証(あかし)、さらには足跡まで、無駄になってしまう。
人生も晩年になって、「私は何をしてきたのだ」と思うことほど、苦しいことは
ない。
(今の私もそうだが……。)
自分の人生を振り返っても、そこには何もない。
いや、いつの間にか、自分に替わって、別の人間が、それをしている。
私がしたことをしている。
私より、ずっとじょうずにしている。
それはそのまま自己否定へとつながってしまう。

●無私無欲

(やるべきこと)は、無私無欲でなければならない。
金銭的な利益、名誉や地位のためというのであれば、それは(やるべきこと)
ではない。
損得勘定をしない。
仮にその結果として、金銭的な利益を得たり、名誉や地位がもたらされた
としても、それはあくまでも結果。
結果であるから、一喜一憂することもない。
淡々とそれを迎える。

仕事で忙しい人もいるだろう。
家事で忙しい人もいるだろう。
子育てで忙しい人もいるだろう。
しかしそういう間でも、統合性のための基礎づくりを忘れてはいけない。
それは長くて苦しい道かもしれない。
先にも書いたように、できればやりたくないことかもしれない。
しかしそれでもつづける。
それがここでいう統合性につながる。

●燃える

一方、70歳を過ぎても若々しい人というのは、たしかにいる。
私の義兄もその1人。

先週訪ねたら、そこにピカピカのベンツが置いてあった。
義兄のベンツは、たしか中古だったはず。
しかし、ピカピカ。

「どうしたの?」と聞いたら、「塗装しなおした」と。
「メッキは磨きなおした。パッチ(ゴム部)は、新品に取り替えた。
シートは、張り替えてもらった」と。

そして先月(08年12月)は、長野県の奥まで、奥さん(=ワイフの
姉)とドライブしてきた、と。
生き様が前向きというか、若々しい。
ゴルフのクラブにしても、自分で設計して、それを業者に作らせたり
している。
趣味はバイクだが、40年前、50年前のバイクを拾ってきては、
それを修理して走らせたりしている。
「夢は、いつかバイクの展示場をかねた喫茶店を開くこと」と。
年齢は、正確には、今年76歳になる。

そういう義兄と話していると、こちらまで若返る。
話がはずむ。

●あなたの未来

あなたの未来を知りたかったら、あなたの両親を見ることだ。
遺伝子学的にも、満20歳くらいまでは、親子といっても、様子は大きくちがう。
が、20歳まで。
満20歳を過ぎると、親子は急速に似てくる。
似てくるというよりは、実際には、同一化する。
子どもが親に似るわけではない。
同一化する。

子どもである(あなたは)は、「私は親とはちがう」「親のようにはならない」と
思っているかもしれない。
が、それは甘い。
世の中には、「進化論」というものもあるが、それは100代とか、1000代
単位で起こることであって、あなたの代の1代や2代くらいでは、起こるはずも
ない。

40代を過ぎれば、あなたもあなたの両親も同じ。
50代を過ぎれば、さらにあなたもあなたの両親も同じ。

こんな例がある。

●反面教師は、未来のあなた

ある女性は若いころから、自分の母親を批判していた。
「私の母は、ずるい」「私の母は、世間体ばかり気にしている」と。
しかしその母親がなくなってしばらくすると、今度はその女性が
母親そっくりの人間になっていた。
こういう例は、いくらでもある。

こうした世代連鎖は、どうすれば防ぐことができるか。
そこで登場するのが、「精進(しょうじん)」ということになる。
日々の絶え間ない研さんのみによって、こうした世代連鎖を断ち切ることができる。

たとえばあなたの父親が、インチキな人だったとしよう。
女遊びは、当たり前。
親戚中から借金を重ね、そのつどそれを踏み倒す。
親をだます子はいるが、あなたの父親は、あなたという子をだます。

あなたはそういう父親を批判する。
父親を反面教師にしながら、自分はそうしないと心に誓う。
「私は父親とはちがう」と言う。
しかし反面教師のこわいところは、ここから始まる。

反面教師とするのは勝手でも、別のところで別の人格を作りあげないと、
結局は、今度はあなたがその反面教師そっくりの人間になる。
理由は明白。
あなたはその反面教師しか、知らないからである。
親子のばあいは、さらによく似る。
自分ではそれはわからないが、他人から見ると、それがわかる。

●私のほうが、マシ?

しかしこんなことも言える
たぶんに自己弁解がましいが、悩んだり苦しんだりするところに、
実は価値があるのだ、と。

統合性の一致にしても、ほとんどの人は、それが何であるかもわからず、
悶々とした日々を送っている。
しかしその(悶々とすること)自体に価値がある。
というのも、少し前、そういうことをまったく考えない人に出会った。
そのとき私が感じた(落差)というか、(驚き)には、格別なものがあった。

私とて、統合性の確立ができたわけではない。
いまだに、悶々としている。
懸命にさがそうとしている。
が、その男性は、ノー天気というか、統合性の「ト」の字も考えていなかった。

のんき?
無神経?
無頓着?
楽天的?
享楽的?
せつな的?

しばらくいっしょに話したが、打ち返ってくるものが、何もない。
同じように、人生を60年近く生きてきたはずなのに、何もない。
本当に、何もない。

そこで私が、「退職後は何をしているの?」と聞くと、「家でブラブラしている」と。
ブラブラしていることが悪いというのではない。
で、「どんなことをしているの?」と聞くと、先に書いたような答が返ってきた。

「野球中継があるときは、テレビでそれを見て過ごす」
「休みには魚釣り。雨が降ればパチンコ」と。

本は読まない。
読むのはスポーツ新聞だけ。
音楽は聴かない。
映画も見ない。
あとは孫ができたとかで、ときどき孫の世話をしている、と。

統合性の確立どころか、その入り口にも立っていない(失礼!)。
だからこう思った。
まだ、私のほうが、マシ、と。

●やってくる老後

老後は、確実にやってくる。
あっという間にやってくる。
しかも老後というのは、意外に長い。

60歳から始まったとしても、20年近くある。
幼児が成人するまでの年月に等しい。
しかしこれは、「どう過ごすか」という問題ではない。
「やるべきことをやらないと、死ぬこともできない」という問題である。

現実に私もその年齢になり、老後の入り口に立って、その恐ろしさを
実感しつつある。
仕事がなくなる恐怖。
役目がなくなる恐怖。
だれにも相手にされなくなる恐怖。
こうした恐怖は、そのまま自分をどんどんと小さくしていく。
そんな状態で、この先、20年を、どうやって生きていったらよいのか。
またそんな状態で、生きていかれるはずもない。

まず手始めに、仕事を失ってはいけない。
どんな小さな仕事でも、それにしがみついていく。
それに町内の仕事にしても、それができるなら、どんどんとしていく。
みなの役に立つ。
みなから、役に立つ人間として評価される。

●私の経験

これは私の経験だが、私は今にしてみると、1円もお金をもらわなかったのが、
うれしい。
40代〜55歳くらいまでは、電話相談に明け暮れた。
それ以後は、無料でマガジンを出したり、無料で相談に応じている。
そのときは、「どうしてこんなバカなことをしているのだ」という思いとの
闘いでもあった。
しかしそれが今、少しずつだが、光り始めている。

もしあのとき、そして今、お金を受け取っていたら、私のささやかな
統合性は、その時点で霧散していただろう。

もちろん今していることが、(私のすべきこと)とは、思っていない。
しかし私が今、住んでいる世界では、それしか思いつかない。
それこそ「では、これからゴビの砂漠に行って、ヤナギの木を植えてきます」と
いうようなことは、私にはできない。
だいたい、その下地がない。
だから、やるしかない。
その先に何があるかわからないが、ともかくも、やるしかない。

●最後に……

むずかしい話はさておき、朝起きたとき、(やるべきこと)がそこにあるだけでも、
うれしい。
感謝しなければならない。

その(やるべきこと)が、あなたには、あるだろうか。
あればよし。
そうでなければ、あとは自分の心と体に、ムチを打つしかない。
「楽をしたい」という思いはだれにでもある。
が、その(思い)に敗れたとたん、あなたは一気に、孤独の世界へと落ちていく。

……ということで、明日からまた新しい週が始まる。
「がんばるぞ」と自分に掛け声をかけて、この話は、おしまい。
どうであるにせよ、私は生きていかねばならない。
今までもそうして生きてきたし、今も生きている。
これからもそうして生きていくだろう。
(2009年1月記)

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休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【新・胡蝶の夢】(人生、夢のごとし)
Life is but an empty dream.

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時として、現実が夢なのか、
それとも、夢が現実なのか、
それがわからなくなる。

そこに(現実)があるはずなのに、
日々はまるで夢のように過ぎていく。
そこに(過去)があるはずなのに、
どれも色あせて、つかみどころがない。

「人生、夢のごとし」とだれかに言われても、
今の私は、「そうだな」と、
すなおにそれに従うことができる。

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●マイ・S

 医院で、(マイ・S)という睡眠薬を、処方してもらっている。
睡眠薬にもいろいろあって、(マイ・S)というのは、言うなれば朝方に効く、睡眠持続剤
のようなもの。……らしい。
「朝早く目が覚めてしまう」と訴えたら、医師は、それを処方してくれた。
 
 以来、もう10年以上になる。
といっても、毎晩のむわけではない。
週に1、2度、それも4分の1から8分の1に割ってのむ。
1錠ものんだら、気がへんになってしまう。
朝方、現実と区別のつかない、幻覚作用が起こる。
一度、そういうことがあって、こわくなった。
だからそのときの状態に応じて、割ってのむ。
そのことを医師に告げると、「それでは効かない」というようなことを言った。
しかし私には、それでじゅうぶん。
多くて4分の1。
たいていは8分の1。
舌の下で溶かしながら、のむ。

●幻覚

 (マイ・S)をのむと、それでも、朝方、幻覚作用が起きることがある。
超リアルな夢であったり、夢の中で、それが夢とわかったりする。
数日前の朝も、そうだった。
私はどこかの駅のプラットフォームに立っていた。
そこで一度ローカル線に乗り、近くの大きな駅で長距離列車に乗り換えるつもりだった。

 その前に少し、海岸沿いの細い道を歩いていたように思う。
舗装のない、茶色の道だった。
眼下に豊かな森が見え、その向こうに海が見えた。
たぶんそんなわけで、その駅までは、バスか何かでやってきたのだと思う。
私は長距離列車に乗って、自宅のある浜松市まで帰るつもりでいた。

●床屋

 駅の前には坂道があった。
以前、見覚えのある坂道だった。
……というより、別の道から、坂の上にある、みやげ屋まで来たことがある。
そのときは、つまり反対コースを、下から見たことになる。
急な坂道で、歩いては登れるが、車では無理。
そう思いながら、私は坂道を登った。
駅のことは、忘れていた。
たぶんローカル線に乗り遅れて、つぎの電車を待っていたのだと思う。
坂道の途中には、いくつかの店があった。
民宿、菓子屋、それに床屋。

 私は床屋へ入った。
大正時代にできたような木造の古い家だった。

●2人の男

 そのころだったと思う。
私は「ああ、これは夢だな」と気がついた。
ふつうなら、そう思ったとたん、目が覚める。
が、目は覚めなかった。
私は夢を見つづけた。

 床屋には、2人の人がいた。
1人は男で、年齢は50歳くらい。
もう1人は女で、年齢は40歳くらい。
ひまそうに客を待ちながら、テレビを見あげていた。
私は声をかけた。
男が返事をした。
女も返事をした。
しかしそこはもう床屋ではなかった。
旅館だった。
古い、木造の旅館だった。
長い板間の廊下が、奥へとつづいていた。

●幻覚

 男が言った。
「奥の部屋があいています」「温泉は、12時までです」と。
女が部屋へ案内してくれた。
私はワイフの姿が見えなくなって、かなり不安になっていた。
電車で先に行ってしまったのかもしれない。
もしそうなら、つぎの駅で私を待っているはず。 
……と思った瞬間、私はみやげ屋の中にいて、そこから駅をながめていた。

 「これは夢だ」と、私はまた思った。
「私は今、夢を見ている」と。

 こんなにクルクルと場面が変わることは、おかしい。
おかしいから、「夢だ」と。

●男

 先ほどの男が、話しかけてきた。
「あなたは、どこから来たのか」と。
私は、「旅行中だ」と答えた。

男「どこへ行くのか」
私「電車に乗って、家に帰る」
男「家は、どこだ?」
私「なぜ、そんなことを聞くのか?」
男「なぜって、それはあなたが、この世の人間とは思えないからだ」
私「この世? ハハハ、ここはぼくの夢の中の世界だよ」と。

 男は一瞬驚いた顔をしてみせたが、今度は怒ったような声で言った。
「バカなことを言うな。ここがあなたの夢の中の世界なら、私は何だ?」と。

私「……あなたは、ぼくが勝手に創りあげた人間だ」
男「あなたが、ぼくを創ったって? とんでもないこと言うね、あなたは」
私「だって、これはぼくが見ている夢なんだから、しかたないだろ」と。

●やり取り

 男の顔はよく覚えていない。
が、夢の中では、その場にいる人のように、輪郭がはっきりしていた。
印象としては、陰険な顔つきをしていた。
暗い表情で、私をにらみつけていた。

男「あなたの頭は、おかしい。見ろ、あそこに海が見えるだろ。あなたはあの海まで、自
分で創ったというのか?」
私「創ったわけではないが、この世界では、ぼくが想像した通りの世界になる」
男「だったら、あなたはこの世界の神か?」
私「少なくとも、あなたに関しては、そうだ。ぼくが目を覚ましたら、あなたは消える」
男「……消える! とんでもないことを言うな。君は。ぼくは消えない。夢だかなんだか
知らないが、あなたが目をさましても、ぼくは、ここにいる。この世界に、だ」と。

 かなりはげしいやり取りだった。
私もその男も、同じように興奮状態になっていた。

●荘子の『胡蝶の夢』

 荘子と言えば、『胡蝶の夢』。
荘子の思想を表す逸話に、こんな話がある。

 ある日荘子は夢を見る。
荘子が蝶になり、あちこちを舞ったあと、そこで目が覚める。
そこで荘子はこう考える。
「荘子が夢を見て蝶になったのか。それとも蝶が夢を見て荘子になったのか」と。

 もちろん夢の中で、私が荘子のことを思い出したわけではない。
ただその男というのが、はたして夢の中に出てきた男なのか、それとも私自身だったのか、
今、こうして夢の中の私を思い出しながら書いていると、それがよくわからない。
会話をしているのは、私と1人の男。
しかし私がその1人の男になったり、その男が、私になったりする。
あるいは夢の中で、私は、もう1人の「私」と対話をしていたのかもしれない。
「私が夢を見て、その男と話したのか。それとも、私がその男となって、私と話したのか」
と。

●目を覚ます

 ……このあたりで、夢が覚め始めた。
というより、思い切って目を開いた。
とたん、目の前にいた、その男は消えた。
どこか生意気そうな男だった。
目を覚ます前、かなり強い反感を私は覚えていた。
だからふと、「ザマーミロ!」と思った。
その男が消えたことが、楽しかった。

 「あの男は今ごろ、自分が消されて、悔しい思いをしているかもしれないな」と。
しかしすぐ私は現実に戻った。
横を見ると、ワイフが朝の薄日の中で、軽いいびきをかいて眠っていた。
私はそれまで見ていた夢のことを、しばらく考えた。
時刻は午前5時を過ぎていた。
遠くで、スズメが鳴いたような気がした。

●夢判断

 私は夢を見た。
私が見た夢だから、自分の姿は見えなかった。
が、男の顔や姿は、よく見えた。
しかしその男が、私でなかったとは、とても思えない。
私が見た夢なら、私自身ということになる。
私の一部が、その男となって、夢の中に出てきた。
不愉快そうな顔をしていた。

 その男は、私が、「あなたは、ぼくが勝手に創りあげた人間だ」と言ったとき、本気にな
って怒った。
それがおかしかった。
私は、自分の夢の中では、神以上の神だった。
すべての創造主。
その気になれば、(もちろん夢と気づいているときの間だけだが)、自分の思い通りの世界
を創ることができる。
別の夢で、「これは夢」とわかったようなとき、私はわざと高い山から飛び降りて、空を飛
ぶこともある。
そういう神業(わざ)的なことも、可能。
つまり何でもできる。

●逆転

 が、ここでおもしろいことに気づく。
もし、仮に今、この世界が、だれかの夢の中の世界だったとしたら……ということ。
そこに1人の男が立っていて、「ここは私の夢の中の世界だ。あなたは私によって創られた
人間だ」と言ったとしたら……。

 つまり夢の中の「私」が、ちょうど反対の立場になったとする。
するとこの世界の見方が、一変する。
私はその男に向かって、こう言い返すだろう。

私「あなたの頭は、おかしい。見ろ、あそこに海が見えるだろ。あなたはあの海まで、自
分で創ったというのか?」
男「創ったわけではないが、ぼくが想像した通りの世界になる」
私「だったら、あなたはこの世の神か?」
男「少なくとも、あなたに関しては、そうだ。ぼくが目を覚ましたら、あなたは消える」
私「……消えるだと! とんでもないことを言うね、君は。ぼくは消えないよ。夢だかな
んだか知らないが、あなたが目をさましても、ぼくは、ここにいる。この世界に、ね」と。

●現実

 実のところ、私は今、私が生きているこの世界そのものが、よくわからない。
そこに見えるのは、光と分子の織りなす世界。
それを見て、(もちろん音も聞いて)、そこにモノがあることを知る。
しかし目を閉じれば、一瞬にして、それらのモノは、視界から消える。
そこにモノが見えるのは、たまたまそれが見えるように目ができているからにほかならな
い。

 たとえば暗い闇の世界を泳ぐイルカは、音波探知機のような機能を鼻先にもっていて、
それでモノがあることを知るという。
一方、土の中に生きるミミズは、目が退化してしまっていて、モノを見ることができない。
(現実)といっても、それは人間にとっての現実であり、その(現実)は、動物によって
みなちがう。

 で、死ねば、どうなるか?
モノを見る「私」自身が消えるわけだから、モノを見ることはもうない。
その時点で、私たちが「現実」と呼んでいるものすべてが、消える。
この大宇宙もろとも、消える。

●すべてが夢の中

 もちろん(現実)は(現実)。
(夢)は(夢)。
しかし私の年齢になると、どちらがどちらでも、もう構わないという心境になる。
「夢の中の方が現実」とだれかが言っても、「そうだな」と思う。
「現実は夢のようなもの」とまただれかが言っても、「そうだな」と思う。
自分の過去を振り返っても、それが(現実)というよりは、すべてが(夢)の中のできご
とだったような気がする。
少なくとも「今」という時点から振り返ると、数日前に見た夢も、50年前に経験したこ
とも、同じように見える。
夢の中で見た床屋も、どこか知らない土地で見かけた床屋も、同じように見える。
頭の中で区別するのが、むずかしい。

 だから荘子のように……というふうに考えるのは危険なことかもしれないが、この世の
中のモノすべてが、ナッシング(Nothing)のように思えてくる。
もっとわかりやすく言えば、私たちは、だれかが見ている夢の中で、それがそのだれかの
夢とも気づかず、踊らされているだけ(?)。
そのだれかが目を覚ませば、私もろとも、この世の中のモノすべてが、消える。

●現実主義者

 ……といっても、私は現実主義者。
今までもずっとそうだった。
これからも、死ぬまでそうだろう。
霊的な世界の存在を信じていない。
が、冷酷な現実主義者ではない。
ちょうど子どもがサンタクロースの存在を信ずるように、「この世は、ひょっとしたら夢の
ようなものかもしれない」と思うことはある。
やがて私もあの世へ行くわけだが、その程度、つまりサンタクロース程度には死後の世界
を信じている。

 ……とまあ、自分でも何を書いているか、よくわからなくなってきた。
ただ私がここに書きたいことは、現実だけがけっしてすべてではないということ。
現実にとらわれすぎると、かえって自分を見失ってしまうこともある。
ときには、そこに見える(現実)を疑ってみる必要もある。
そこにある世界がけっしてすべてではない。
同時に、そこにないからといって、別の世界を否定してはいけない。

 窓の外から注ぎ込む白い光を見ながら、私はそんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 夢と現実 現実と夢 荘子 胡蝶の夢 荘周 新胡蝶の夢 夢論)

(補記)

 私自身の過去を振り返っても、すべて夢の中のできごとだったように思うことは、よく
ある。
ただ(過去)といっても、それぞれの人や場所と、つながりがある。
そういった人に出会うと、それが現実だったことを知る。
しかしもしそういう人もいなくなってしまったら……。
そういう場所もなくなってしまったとしたら……。
そのとき私は、現実と夢を区別できるだろうか。
加齢とともに、だんだんとその自信が薄らいできた。

人生は夢のように短くはかないものである(李白「春夜宴従弟桃李園序」)。


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

【老後の受諾】

++++++++++++++++++

どう老後を受け入れるか?
これは私の年齢の者たちにとっては、大問題。
いくら「私はまだ若い!」と叫んでも、その声は、
暗い闇の向こうに、そのまま吸い込まれてしまう。

もがく、苦しむ、抵抗する。
希望と失望、これを繰り返す。
しかしやがてそれも限界にたどりつく。
たどりついて、受け入れる。
老後を受け入れる。

+++++++++++++++++++

●葛藤期

 ときとして事実を認めるのは、つらい。
受け入れるのは、さらに、つらい。
しかし事実は事実。
その事実は、だれにも曲げられない。
避けられない。
「老後」も、そのひとつ。

 だから葛藤する。
「拒否」と「受諾」、
「絶望」と「希望」、
「依存」と「独立」、
「悲哀」と「感謝」、
「怒り」と「喜び」……。
交互にそれらが心の中で行き交う。
が、何よりもつらいことに、加齢とともに、「不安」と「心配」が、増大する。

●老後の準備

 が、人は、それほど長い期間、不安や心配に耐えられない。
やがて大きな選択に迫られ、老後を受け入れる。
そこにある「事実」を受け入れる。
そして一歩ずつだが、老後の準備を始める。
が、それはけっして「終わりの始まり」ではない。
老後イコール、人生の終わりではない。
まさに別世界。

 私とワイフは、つい先日、こんな結論を出した。

(1)どちらか一方が、先に死ぬまで、2人でがんばる。
(2)どちらか一方が死んだら、残されたほうは、有料老人ホームに入る。
(3)自活できなくなったら、そのまま特養老人ホームに入る。
(4)そこで静かに死を迎える、と。

 とたん、気が楽になった。
葛藤から、解放された。

●「遊ぶ」

 私は若いころ、仕事ばかりしていた。
その反動かもしれない。
この年齢になってはじめて、「遊ぶ」という言葉の意味がわかった。

「遊ぶ」といっても、享楽的に、欲望を追求することではない。
「遊ぶ」というのは、心の中に風を通すこと。
無駄なことをして、(本当は無駄ではないが)、「損」を心の中で克服すること。
それはたとえて言うなら、見知らぬ土地で、花の種を植えるようなことをいう。
二度と行かない土地かもしれないが、そこで花の種を植える。
それが「遊ぶ」という言葉の意味。

 それだけではない。 
この年齢になってはじめて、……つまり老後を受け入れるようになってはじめて、
「損」の意味もわかるようになった。

 人は死によって、すべてを失う。
その「損」にくらべたら、私たちが日常的に経験する「損」など、何でもない。
生きていること自体が、「得」。
その「得」にくらべたら、そこらにある「損」など、何でもない。
いくら損をしても、それを「損」と感じるようなら、まだ幸い。
生きているから、そう感ずる。

●あとは風任せ

 あとは風任せ。
「命」など、私がいくらがんばっても、どうにもならない。
そう、先日、悪性リンパ腫にかかって、闘病生活をしているOKさん(59歳)が、
こう教えてくれた。

「林先生、死の宣告なんてものはね、前から来るんじゃありませんよ。
うしろから突然やってきて、肩をたたきながらやってきますよ」と。

 ただ健康だけは、自分の意思と力で何とかなる。
完ぺきではないが、多少は動かせる。
だから運動をする。
体を鍛える。
肉体の健康と併せて、脳みその健康もそうだ。
ただぼんやりと日々を過ごし、それで「私は健康でいたい」は、ない。

 ……本当のところ、まだ葛藤はつづいている。
しかし方向性が定まったことで、かなり気が楽になった。
あとはその方向性に従って、準備を始めるだけ。
今は、そのとき。
(2010/06/01)


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

【就学前の学習・5歳児・数の学習・BW教室byはやし浩司】+小学2年生

【幼児教室byはやし浩司】幼児の指導&BW子どもクラブ・BW教室の公開教室(浜松市)
byはやし浩司 BW Children's Club, Hamamatsu Japan by Hiroshi Hayashi はやし浩
司の実践教室と幼児の指導およびレッスン風景+子育てのポイント、指導法ほか


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【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【脳みそ問題】

●ファイルの暗号化

話せば長くなる。
説明するのも、めんどう。
要するに、昨日(6月1日)から、HP(ホームページ)の
アプロードが、突然、できなくなった。
サーバーのほうで、「今後は、暗号化されていないファイルは
受け付けない」と言い出した。
今、流行しているガンブラーというウィルス対策のため、とか。

で、あわてて昨日、FAというソフトをダウンロードした。
ファイルを一度、暗号化するソフトである。
が、説明書どおり作業してみたが、エラーの連続。
昨夜は午前1時ごろまで悪戦苦闘を繰り返したが、そのあたりでギブアップ。

●頭重

 おかげで今朝は、起きたときから頭が重かった。
その前に目を覚ましたあと、ふとんの中であれこれ、考えた。
どこかで操作方法を誤っているはず。
それを考えた。
考えたが、わからない。
FAというソフトは、外国のソフト。
日本語も専門用語が多くて、読んでもよくわからない。
「プロキシー」「リモートディレクトリー」「同期プラウズ」などなど。
そんな言葉が、ズラリと並ぶ。
それを考えているうちに、頭が重くなった。

 もしうまくアプロードできなくなれば、最悪のばあい、
ホームページのサーバーをすべて変更しなければならない。
が、それは簡単にできることではない。
ホームページとホームページが、網の目のようにリンク
している。
またサーバーを替えれば、それで解決するという問題ではない。
からみあったコードを一本、一本ほぐしながら、つなぎなおさな
ければならない。
そんな作業がつづく。
それを考えているうちに、さらに頭が重くなった。
重くなったまま、起きた。

●批評
 
 人間の脳みそは、それほど器用にはできていない。
脳みそが、不快ホルモンで満たされると、その影響はあらゆる
面に現れてくる。

 で、起きてパソコンを立ち上げると、私のBLOGに、どこか
悪意を感ずるコメントが寄せられていた。
ふだんなら一読して、削除。
しかし脳みその調子が悪いときは、そういうコメントが、いやに
気になる。
頭の内側にペタリと張りついたような状態になる。

 ついでに言うと、パソコンの世界では、からんでくる読者は、
相手にしないほうがよい。
相手がわかっているばあいは、よい。
そうでなければ、相手にしないほうがよい。

 「八つ当たり」という言葉がある。
それと似たような状態になる。
パソコンのことで、うつ状態になっているから、ものごとにこだわりやすくなる。

●昼寝

 昼ごろになると、軽い頭痛が始まった。
偏頭痛かと心配したが、それとはちがった。
前頭部が全体に重かった。
それを話すと、ワイフが湿布薬を張ってくれた。
首をマッサージしてくれた。
が、頭は重かった。

 私は昼寝をした。
30分程度の昼寝は、ボケ防止になるが、1時間半前後の昼寝は
かえって頭をボケさせるそうだ。
そんな俗説をどこかで聞いた。
安定剤をのんで、30分ほど昼寝をした。
が、ここであきらめたのでは、パソコン歴37年が泣く。

 私は方法を考えた。

●対策

 まずダミーのホームページを開設する。
それを使って、そのファイルを暗号化してみる。
そのファイルを、サーバーに送信してみる。
簡単なファイルだから、失敗の原因もわかりやすいはず。
失敗して、ダメもと。

(実際には、FAというソフトは、ファイルがパソコンから
送信される直前に、いわばゲートのような役割をする。
ゲートから出るとき、ファイルは暗号化される。)

 ところでときどき、「BLOGをいくつも発行して、たいへんでしょう」と
心配してくれる人がいる。
しかしそれはこの世界の(恐ろしさ)を知らない人の言葉。
最近は少なくなったが、BLOGにせよ、無料のHPサービスにせよ、
ある日突然、「閉鎖!」ということはよくある。
そのたびに、それまで蓄積した原稿が、みな、消えてしまう。
私もこの3、4年の間に、数回経験している。

 今回も、いつの間にか、「1ファイル、最大3GBまでしかアプロード
できない」という条件がついてしまった。
私がメインに利用させてもらっている、HPサービスである。
私のHPのばあい、3GBを超えるファイルは、珍しくない。
そういうことがあるから、いつも複数のサービスを使って、同時に、
原稿を発表している。
つまり予防のため。
好きで、いくつも発行しているわけではない。

●解決!

 で、この方法は、たいへん有効だった。
つまり小さなファイルを暗号化し、それを転送してみるという実験である。
あれほど悪戦苦闘したにもかかわらず、30分ほどで、その手順がわかった。
無事転送ができるようになった。

たとえて言うなら、1週間ほど便秘がつづいて、それが治ったとき
のような気分(?)。
とたん頭痛が消えた。
あの批判めいた書き込みも、気にならなくなった。

 それをワイフに話すと、ワイフはこう言った。
「きっとみんな困っているわ。教えてあげたら」と。 

 が、私は断った。
こうしてひとつの「山」を越えるたびに、ある種の優越感を覚える。
しばらくは、その優越感に浸りたい。
つまりたいていのユーザーは、「山」に当たるたびに、そこでくじける。
くじけて、パソコンから遠ざかる。
「山」を越えた者だけが、つぎのステップに進むことができる。
そこはまさしく弱肉強食の世界・・・というほど、おおげさな
ものではないが、それに近い。

 もちろんコンピューターのプロなら、何でもないかもしれない。
が、私はコンピューターのプロではない。
1人のユーザーにすぎない。
コンピューターを使って仕事をする、ユーザーにすぎない。

・・・それにしても不親切なマニュアルである。
英語をそのまま直訳しただけ(?)。
しかも訳せない単語は、そのままカタカナ表示。

●結論

 今回のことで学んだことは多い。
先にも書いたように、脳みそは、それほど器用にはできていない。
つまりそれぞれのばあいに応じて、使い分けることができない。
脳内のホルモンというのは、そういうもの。
一度ある種のホルモンが分泌されると、フィードバックが起きるまで、
そのホルモンに支配される。
(「フィードバック」というのは、そのホルモンを中和するために、
別のホルモンが分泌されることをいう。)

 今回、解決したとたん、時間にすれば、10〜20分足らずで、
頭重感は消えた。
同時に気分も晴れた。

 しかしホルモン説だけで、こうした一連の感情の変化を説明できる
わけではない。
ホルモンの作用を受けて、神経伝達物質も影響を受ける。
悶々と悩んでいる間、私は何もやる気が起きなかった。
軽いうつ状態になった。
食事をしている間も、何か思いつめたような雰囲気だったと思う。
ワイフが見るに見かねて(?)、首をマッサージしてくれた。

●回復

 夕方になっていつもの調子がやっと戻ってきた。
雑誌やビデオカメラのカタログに目を通すほどの余裕も、出てきた。
よかった!

 いつまで続くかわからないが、今の私にとって最大の生きがいは、
こうして文章を書くこと。
考えて、何か新しいことを発見すること。
その緊張感とスリル。
それが楽しい。

 ・・・ということで、今夜は満足感をしっかりと実感しながら、
ぐっすりと眠られそう。
NG先生に頼まれた、「識字障害」についての原稿は、明日、書こう!


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司


【K市家庭教育学級研修会での講話】
2010年5月29日 (はやし浩司)

●K市で、研修会で話しました。
「子どもの見方、考え方」という題で話しました。
そのときの様子を、自分のビデオカメラで撮影してみました。

(1)前半(総論)
(2)後半(各論)……過干渉、過保護、溺愛、です。

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 子育て自由論 過干渉 過保護 溺愛 湖西市 講演会 研修会)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

【緊急・警告】Emergent Warning

(韓国に迎合しすぎるな!)
 (Keep 20% Nihilism)

Concerning the patrol ship bombing 
the Korean peninsula is now under 
hairtrigger condition.

+++++++++++++++++++++

哨戒艦爆破事件に関し、朝鮮半島が一触即発
の状態になった。
魚雷で爆破したのは、紛れもなく北朝鮮。
その北朝鮮は、最期の悪あがきを繰り返している。

が、それはそれ。
一方、日本は日本。

日本の鳩山首相は、韓国まで出かけて行って、
つぎのように述べている。
「許し難い行為」と。

ヤフーNEWSの記事をそのまま紹介させて
もらう。

+++++++++++++++++++++

*************以下、ヤフーNEW**************

……鳩山由紀夫首相は29日、韓国・済州島内のホテルで、李明博大統領と会談した。首
相は、北朝鮮による韓国哨戒艦沈没事件を「許し難い行為」と非難し、韓国支持の立場を
強調。大統領は、北朝鮮に対する日本の独自の追加制裁措置に謝意を伝えた。また、大統
領は、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の移設問題に関する日米合意に
ついても高く評価した。

 哨戒艦事件について、大統領は「北朝鮮に対して日本が単独の(制裁)措置を迅速に講
じたことは今後、国際社会で協力を図っていく中で、非常に大きな意義があった」と評価。
首相は「日本は国際社会とともに北朝鮮を強く非難しており、韓国を強く支持している」
と応じた。

*************以上、ヤフーNEW**************

 このままの状況で進めば、現時点では、戦争は必死!

(韓国:心理戦のための拡声器設置)→(北朝鮮:拡声器撃破とケソン工業団地への交通
路遮断)→(北朝鮮:韓国人労働者の帰国阻止)→(韓国:人質救出作戦のための武力行
使)→……、と。

●日本の工作員

 かねてから北朝鮮は、繰り返し、日本攻撃を公言している。
相手が日本なら、北朝鮮にしても、大義名分が立つ。
その日本が、韓国と北朝鮮が交戦状態になったとき、無事ですむはずがない。
これは憶測でも何でもない。
韓国のある軍事評論家は、「つぎの攻撃は、(反撃能力をもたない)日本」と言明している。
が、北朝鮮だって、そこまでバカではない。
「攻撃」イコール、テロ活動ということになる。

 忘れていけないのは、この日本にはすでに、100人以上の工作員が侵入していること
(公安当局)。
実際の数は、その10倍以上とも言われている。
こうした工作員が、朝鮮半島の動乱に乗じて、日本国内で後方かく乱戦術に出ることは、
目に見えている。
「確実」と断言してもよい。
新幹線の爆破、航空機の爆破程度では、すまないだろう。

●姑息な小細工

 ゆいいつの救いは、北朝鮮の指導者に、そこまでの度胸がないこと。
韓国へ亡命した、ファン氏もそう述べている。
今の今も、姑息な小細工を繰り返している。
が、油断は禁物。
追い詰めすぎると、何をするかわからない。
『窮鼠、猫をもかむ』とかいう。

 そのとき、日本があぶない!
わかるか?
日本があぶない!

 この場に及んで日本は韓国に急接近しているが、いい子ぶるのはやめよう。
お人好しはやめよう。
韓国は今も昔も、そして将来も韓国。
たまたま今は、北朝鮮という共通の大問題をかかえているから、こうして会談を繰り返す。
しかしそれが終われば、韓国は、またもとの韓国に戻る。

●20%のニヒリズム

 10%では少ないかもしれない。
50%では、無責任と呼ばれる。
だから20%!

 日本は、日本のために、20%のニヒリズムをしっかりともつ。
韓国はたいへんな状態に置かれている。
それはよくわかる。
しかしその「種」を蒔いたのは、韓国。
韓国の前政権。
さんざん日本をカヤの外に置きながら、好き勝手なことをした。
わかりやすく言えば、今の北朝鮮を、大増上慢にしたのは、ほかならぬ韓国である。
はっきり言えば、朝鮮半島の動乱について、日本がそこまで肩入れしなければならない理
由はない。

●最悪の反日国家

 敗戦まではともあれ、戦後、日本は一貫して、韓国を援助してきた。
「屋台骨を1本も、2本も抜くような」(某外交官)援助をしてきた。
が、それで韓国は変わったわけではない。

 一方、北朝鮮にしても、そうだ。
当時のK外務大臣は、「これで北朝鮮が動かなければ、私が責任を取る」などと、大見得を
切って、何と120万トンもの米を無償で与えた。
が、北朝鮮は、何も動かなかった。
K外務大臣は、何も責任を取らなかった。

 で、韓国の政権は、その後も、竹島問題を見てもわかるように、きわめて反日的な政策
を繰り返した。
日本にとっては、「許し難い行為」(鳩山首相)である。
韓国最大の揚陸艦の名前は、ズバリ『独島(たけしま)』。
ほんの1年前まで、韓国は、日本にとって「最悪の反日国家」と位置づけられていた(某
誌)。
こうした流れが、この先、大きく変わるとは思わない。
つまり結局は裏切られ、またまた傷つくのは、この日本!

●丸裸

 日本は日本の国益と安全、それに平和を最優先に考える。
理由がある。
つまり日本は、丸裸!
まったくの丸裸!

 都市部においてですら、シェルターひとつ用意されていない。
核シェルターなど、さらに、ない。
国民の大半は、銃の扱い方すら、知らない。
こんな状態で、仮にノドン一発でも、東京都に撃ち込まれたら、この日本は、どうなる?
(もちろんそれで北朝鮮も最期を迎えるが……。)
化学兵器にせよ、生物兵器にせよ、1発で20万人の死傷者が出ると言われている。
その準備さえ、していない。

●アメリカは甘くない

 またまた日本は、戦後最大の危機を迎えつつある。
が、このノー天気ぶりは、いったい、どうしたものか?
どこから来るのか?
みな、何ごともないかのように、平然としている?
朝鮮半島の動乱だからと決めつけすぎている?
それともアメリカが何とかしてくれると、過信しすぎている?

 残念ながら、答は「ノー」。

 北朝鮮の思考回路は、私たち日本人の常識を、はるかに逸脱している。
またアメリカにしても、そんな甘い国ではない。
先の第一次イラク湾岸戦争のときだけでも、日本は、1兆円もの戦費を負担している。
現金で、だ。
今度戦争が起きたら、1兆円ではすまない。
10〜20兆円は、ふっかけてくる。

●私なら……

 日本よ、テロ活動に対する準備は始めているのか?
私が首相なら、緊急対策本部を設置し、今すぐその準備に取りかかる。
日本中に、韓国並みの厳戒態勢を敷く。
また今は、それをして当然の時期である。

 私は日本の鳩山首相が何を考えているか、さっぱり理解できない。
向こうが頭をさげて日本に来るのなら、まだ話もわかる。
が、何もこちらから頭をさげて行って話すような内容ではない。
まず、日本を守る。
それが日本の首相の使命ではないのか。

 ……ではどうするか?

 私たちの命は、私たち自身で守るしかない。
朝鮮半島で動乱が勃発したら、私たちは、私たちの命は、私たち自身で守るしかない。
テロリストたちは、今の今も、この瞬間において、すでにその準備活動に入っている。
そのための工作員である。
どこがどう狙われるかは、金xxの思考回路に自分を置いてみれば、わかるはず。

 私なら、その日は、新幹線には乗らない。
飛行機にも乗らない。
人の集まるところには、いかない。
もちろん米軍基地には、近寄らない。
(2010年5月30日記)


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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●愛情の勝利(2人のてんかん症の子どもをもって)

+++++++++++++++++

現在、小学3年生のM男君と、小学
6年生のS男君が、同じ教室で
肩を並べて、学習している。
私の教室へ来るようになって、もう
5、6年になる。

そのM男君と、S男君のすばらしい点は、
何よりも、心が暖かいこと。
だれよりも、心が暖かいこと。
ほかの子どもたちと比較してみると、それが
よくわかる。
比較してみないと、わからない。
子どもが生来的にもつ(温もり)というのは、
そういうもの。

理由は、もちろん、愛情豊かな家庭環境で
育てられたこと。
とくに母親の、子どもたちにかける愛情が
すばらしい。
何もかも溶かし込んでしまうような、
おおらかな愛情で、お母さんはいつも
子どもたちを包んだ。

もちろん溺愛ではない。
テストの点数がどんなに悪くても、お母さんは、
いつも笑っていた。
そういうおおらかさである。

が、M男君も、S男君も、ともに、
小児てんかん症に苦しんだ。
長い闘病生活だった。
が、お母さんはめげなかった。
いつも明るい笑顔を絶やさなかった。
その病気についても、勉強した。
結果、「この子たちは叱ってはだめ」という
ことを学んだ。
だから父親には、いつもこう言ったという。

「お願いだから、どんなことがあっても、
この子たちを、叱らないで」と。
それがお母さんの口癖だったという。

その結果、……というより、こんなメールが
届いた。
読んだ。
うれしかった。
そのまま紹介する。
(一部省略したものの、原文のまま。)

バンザーイ!
おめでとう!
お母さんの勝利ですよ!!

++++++++++++++++++++++++++

●林先生へ
 
おはようございます!
 
昨夜は、楽しいお話を聞かせていただき、有難うございました。
こちらこそお礼の連絡が遅くなり、
お詫びのメールまで頂いて、申し訳ありません。
  
弟のM男(小3)ですが、てんかんの症状が脳波にでなくなり、
薬(テグレトール)の服用を終了しました。
5/10で終了し、そろそろ薬の効果が消えている頃だとおもいます。
 
兄のS男(小6)が発病してから弟のM男もなり、その間8年間本当につらかったですが、
一番辛かったのは、毎日薬を飲んでいた本人達でしょう。
(二人とも最後の薬を飲んだ後、万歳しました。)
 
昨年夏S男は完治し、M男も今年の夏の検査で脳波に以上が無ければ、
完治に至ります。(病院に行かなくて良くなります)
 
「現実を受け入れる」中々出来なかったけど、
振り返れば、生きていく事の辛さや大切さを学んできたと思います。
 
仕事に追われる中、留守がちな母ですが、
今もまだ「本当にこれでいいのかな?」と思いながら
毎日を大切に生活してます。
 
まだまだ親子共々未熟ですが、はやし先生にお世話になりながら、
先生にお願いしたいと思います。
 
これからも、宜しくお願いします。
 
☆弟のM男の成長!!!
 
 昨年まで、授業態度を参観会で見ていたところ、
席に座っているのがやっとの事!(一人殻に閉じこもった状態)
授業なんて全然聞いていませんでした。
 
 今年4月の参観会では、回りの友達と楽しそうに話していて、
授業を聞いていないけど、ようやく授業に溶け込んでいる姿を見ました。
 嬉しかったです!
 
学校の先生方と色々ありましたが、明らかに変わった姿
M男は、担任の先生が好きなようで、話をしてくれます。
「今度の先生!美人だよ」って始業式に話してくれました。
 
 これからも二人の成長がたのしみです。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●空の巣症候群

+++++++++++++++++

60歳という年齢は、男性にとっても、
女性にとっても、たいへんな節目である。
この年齢前後に、多くの男性は仕事を離れ、
家庭に入る。
仕事をつづける人もいるが、現役時代の
ようなわけにはいかない。
量的にも、時間的にも、ぐんと減少する。
当然、収入も減少する。

一方、この年齢前後に、子どもたちは、
親の手を離れ、巣立っていく。
それまで「お父さん、お母さん……」と
近くにいた子どもが、そのままどこかへ
行ってしまう。
結婚すれば、なおさら。
家の中……というより、心の中に、ポッカリと
穴があく。

無気力感と脱力感。
それに空虚感。
中には、それが高じて絶望感すら覚える人もいる。
仕事一筋で生きてきた人ほど、その症状は重い。
子育て一筋で生きてきた人ほど、その症状は重い。

そうした症状を総称して、「空の巣症候群」という。

ある男性は、こう言った。
「退職と同時に、何もやる気が起きなくなってしまった」と。
またある女性は、こう言った。
「私の人生は、何だったの!」と。

男性が家庭に戻ったとき、歓迎されるとはかぎらない。
そのまま粗大ゴミとなるケースも少なくない。
それまで家庭を守ってきた(?)女が、外へ出る
ケースも少なくない。
「うちのダンナな家の中で、ゴロゴロしているだけ。
いっしょにいると、息が詰まる」と。

また子どもが巣立ちが原因となって、それが夫婦の関係が
ギクシャクすることもある。
間に、キレツが走ることもある。
ある男性はこう言った。
「息子が出て行ったとき、それまで夫婦をつないでいた
絆(きずな)が切れたような感じがしました」と。

『子はかすがい』とは、よく言う。
子どもが、夫婦の接着剤となっているケースは多い。
ほとんどが、そうではないか。
その子ども、つまり接着剤がなくなれば、当然、
夫婦の間に、すきま風が吹くようになる。

砂をかむような味気ない日々。
目標を見失って、フラフラと漂うような日々。
そこにいつものような時間があるはずなのに、
どれも色あせて見える。
輝きもない。

『空の巣症候群』がこじれて、離婚問題に発展する
ケースも少なくない。
男性にとっても、女性にとっても、この節目で人生の
一大転機を迎える。

が、転機といっても、先のある転機ではない。
その先に見えるのは、先細りの、暗いトンネル。
さんさんと輝く未来など、どこをさがしてもない。
が、それでも自分の体にムチを打って、仕事に行く。
「仕事」と言えるような仕事ではない。
「サラリーマン生活など、もうこりごり」と。
しかし、それしかすることがない。
……それしか、できない。
大きなビルの裏手に立って、車の交通整理をする。
ビルやマンションの管理人になったりする。

遊ぶといっても、余分なお金など、どこにもない。
仲間を連れ立って、安いバス旅行に行く。
それが精一杯。
ワイワイ騒いで、うっぷんを張らす。
しかし家に帰ってみても、そこにはだれもいない。
電気をつけて、冷めたご飯に、お茶をかけて口に運ぶ。

中には……ほどんどの男性と女性が、そうかもしれないが、
「それでも……」と思って、歯を食いしばる。
歯を食いしばって、立ち上がる。
かきむしるようにして、草の中から、小さな夢と
希望をさがす。
しがみつく。
『空の巣症候群』という症候群は、そうした一連の
症状を総称したもの。
言葉では理解できるかもしれない。
しかしその中身は、空の巣の中に身を落としたもの
でないと、わからない。

++++++++++++++++++++

●ではどうするか

 60歳なら60歳でよい。
多少の前後はあるかもしれない。
しかしその年齢を、第二の転機とするなら、その準備は、50歳のときから始めたらよい。
40歳でも早すぎるということは、ない。
そのころ収入にしてもピークを迎え、以後、下り坂へと向かう。
準備もなしに60歳を迎えると、ほとんどの人はまちがいなく、空の巣症候群に陥る。
この問題は、「どうすればいいか」ではなく、「どう予防したらいいか」、
そういう問題である。

 で、もしあなたが50歳なら、(40歳でもよいが)、自分が(すべきこと)の基礎を作
る。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)である。
それを発見するだけでもよい。
あとは、それを少しずつ、育てていく。

●子育ての「限界」

 この時期、子育てに埋没する人もいる。
子育てに生きがいを見出し、「子育てこそ、私のすべて」と言う人もいる。
が、子育ては、けっして(生きがい)にはならない。
またしてはいけない。
そこに100%、自分を注入してはいけない。
100%、注入すればするほど、やがていつか子どもは、それを負担に思うようになる。
あるいはあなた自身が、子どもの望まない行動に出ることもある。
それが親子の間を、かえって遠ざけてしまう。

 今、若い人たちは、ささいなことを理由にし、またそれにこじつけて、親を見捨ててい
く。
ある男(=父親)は、自分の父母が、自分の子どもの運動会に来なかったという理由だけ
で、「親子の縁」(?)を切っている。
それまでに、いろいろあったのかもしれない。
そのときそれが爆発したのかもしれない。
どうであるにせよ、その結果、一方的に傷つくのは、いつも親の方ということになる。

●子離れの完成

 親は親で、できるだけ早い時期に子離れを完成させる。
わかりやすく言えば、子どもへの依存心を捨て去る。
子どもへの甘い期待と決別する。
そしてここが重要だが、「限度」(バートランド・ラッセル)をしっかりとわきまえる。
その時期には、個人差があり、家庭の状況によってもちがうだろう。
しかし早ければ、子どもが中学生になること。
遅くとも大学生になるころ。
そのころまでの完成させる。

 バートランド・ラッセルは、こう書き残している。

『私たちは子どもに対して、必要なことはする。
しかし限度を超えてはいけない。
その限度をわきまえている親子のみが、真の家族の喜びを与えられる』と。

●老後

 あとは自分の人生を考える。
自分の(命)を考える。
さらに具体的には、自分の老後を考える。
が、若い父親や母親には、それがわからない。
目が(下=子ども)のほうばかり向いている。
下ばかり向いているから、自分の顔にシワがふえ、体がたるんでいくことに気がつかない。

 しかし……。
子どもが巣立ったその瞬間、そこにドカッと待っているのは、老後。
そんなことは簡単な足し算をしてみれば、だれにでもわかること。
現在のあなたの年齢に、子どもが巣立つまでの年齢を足してみればよい。
それが現実ということになる。

●統合性

 話を戻す。

 何度も書いてきたが、老後の生きがいは、「統合性」によって決まる。
(すべきこと)と(現実にしていること)を一致させる。
それが「統合性」。

 いろいろな条件が、ある。
(すべきこと)は、無私、無欲でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は霧散する。

 ある男性は、無料の植物観察会を開いていた。
毎月1回の観察会である。
参加者の数は、その日によってちがう。
雨の日になると、ときにゼロになることもある。
しかしその男性は、その場に行って、参加者が集まるのを待つ。
で、しばらく待って、だれもこないとわかると、そのまま帰っていく。

 その男性というのは、元理科教師。
年齢は80歳くらいと聞いた。
それを「統合性」という。

++++++++++++++++++

空の巣症候群と統合性について書いた
原稿を、さがしてみる。
日付は、2009年の11月となっている。

++++++++++++++++++

●ヒマ(暇)論

++++++++++++++++++

「どうやって1日を 過ごそうか?」
……それを考えるのも、苦痛。
ヒマなときというのは、そういうもの。
もちろんヒマであることも、苦痛。

こういうのを ぜいたくな 悩みという。
しかし 世の中には、そういう
恵まれた人(?)も いる。

「毎日、ヒマでヒマで、どうしようもない」と。

++++++++++++++++++

●「ヒマでヒマで……」

 M氏は、今年65歳になる。
息子と娘がいたが、今は 2人とも、遠くに住んでいる。
私はどこか知らないが、M氏は、そう言った。

 公務員を退職し、つい数か月前まで、郊外の公共施設で 働いていた。
週3日だけの 勤務だった。
が、そこも退職。
今は、悠々自適の隠居生活。
親の代からの 財産も ある。
そのM氏が、こう言った。

 「毎日、ヒマでヒマで、どうしようもない」と。
「朝起きて考えること言えば、今日、1日を どうやって 過ごそうかということです」と。

●気がヘンになる

 M氏は、こう言った。
「日中は まだ何とかなります。
草を買ったり、バイクを直したりします。
問題は、夕食後です。
昨夜も、2時間も 音楽を聴いて、ぼんやりとしていました」と。

 で、私にこう聞いた。
「林さんは、どうしていますか?」と。

 たまたまその前日、私は友人への クリスマス・カードを 作っていた。
今年は、手作りカードに 挑戦している。
色紙に 写真や絵を張りつけ、それを 本のように仕立てる。

「ぼくもねエ、ヒマだと気がヘンになってしまいます。
だからいつも 何かをしています」と。

●生きがい

 M氏には話さなかったが、私のヒマつぶしといえば、インターネット。
ヒマなときは、まずパソコンに 電源を入れる。
とたん、したいこと、すべきことが、ドカッと、目の前に広がる。
趣味でもある。
道楽でもある。
が、それ以上に、今は、それが生きがいになっている。

 文章を書くために、本や雑誌を読んだりする。
マガジンを発行するために、写真を撮ったりする。
HPの更新も、そのつど しなければならない。

 やりたいこと、やるべきことが、あまりにも多い。
ヒマだとか、そんなことを言っている ヒマもない。
が、時として、ヒマになることがある。

●貧乏症

 私のばあいは、軽いパニック障害がある。
少し前までは、「不安神経症」と言った。
簡単に言えば、「貧乏症」。
いつも何かに 追い立てられているような感じがする。
乳幼児期の 不全な家庭環境が、原因と考えている。

 だからヒマであること自体が、苦痛。
何かをしていないと、気がすまない。
いつも、何かを している。

 そういう私の反対側にいるのが、無気力な人。
燃え尽き症候群とか、荷降ろし症候群とかいう。
私の年代には、「空の巣症候群」というのも ある。
子育ても終わり、子どもたちが巣立ってしまうと、とたんに 無気力状態になる。

 が、M氏のばあいは、少しちがうようだ。
「やりたいことは あるはずなのに、それが わからない」と。

●自己の統合性

 青年期には、「自己の同一性」という問題がある。
同じように、退職後には、「自己の統合性」という問題がある。
(やるべきこと)をもち、現実に、(それをする)。
これを「統合性」という。

 この構築に失敗すると、老後は、あわれで みじめなものになる。
M氏が そうだというのではない。
M氏はMしなりに、今のような老後を 夢見ながら、がんばって生きてきた。
しかし実際、それを手にすると、「何をしてよいか、わからない」、となる。

 孤独であるのも いやなこと。
老後になっても、息子や娘のことで、心配の種が尽きない人もいる。
それも いやなこと。
そういう人たちから見ると、M氏の置かれた立場は、うらやましいとなる。
先に「ぜいたくな悩み」と書いたのは、そういう意味。

●「だから、それが どうしたの?」

 そこでM氏が 見せてくれたのは、「太平洋一周、船の旅」という、パンフレット。
1人、150万円前後で、太平洋一周の旅ができるという。
行程は、日本→ハワイ→サンフランシスコ→ニュージーランド→オーストラリア
→東南アジア→中国→日本。

40日間の旅だという。

 「で、それに参加しようかどうかで、迷っている」と。

 私もときどき そうした旅行を考える。
が、そのまま シャボン玉のアワのように消えてしまう。

私のばあい、そういう旅行が、こわくて できない。
帰ってきたときの 虚しさを 想像するだけで、ゾッとする。
かえって虚脱感に襲われる……と思う。

 つまりそうした旅行には、「だから、それが どうしたの」と、そのあとに
つづくものがない。
たとえばそれぞれの国の 教育事情を調べるとか、そういうことなら楽しい。
あるいは私自身が 子どもたちを連れて、何かの指導をするというのでもよい。

 しかし帰ってきたとき、「ただいま!」だけでは、あまりにも さみしい。
一時的に ヒマをつぶすことは できても、そのあと、もっと大きなヒマが 
襲ってくる。
それに耐える自信が、私には、ない。

●老人観察

 老後には いろいろな問題がある。
しかし「ヒマ(暇)」について 考えたことはない。
M氏の話を聞きながら、「そういう問題もあったのか」と、驚いた。

 で、さっそく、あちこちの 老人観察を始めた。
「みんな、どうして いるのだろう?」と。

 もちろん 旅行を繰り返している人も いる。
趣味ざんまいの人も いる。
スポーツをしたり、孫の世話をしている人もいる。
人によって、みなちがう。

 が、こういうことは 言える。
人間というのは 勝手なもの。
忙しいときには、休みが来るのを、何よりも楽しみにする。
が、休みになったとたん、何をしてよいかわからず、ヒマをもてあます。
人生を「曜日」にたとえるなら、月曜日から土曜日までが、仕事。
日曜日が、つまり退職後ということになる。

 毎日が日曜日!

 しかし、これも考えもの。

●私のばあい

 で、私のばあいは、1、2年前に、ひとつの結論を すでに出した。
「私は 死ぬまで、現役で働く」と。
「過去は振り返らない。
前だけを見て、働く」と。

 わかりやすく言えば、身のまわりに、「ヒマ」を作らない。
そういう私の人生を 横から見ながら、「かわいそうなヤツ」と思う人もいる
かもしれない。
自分でも、それがよくわかっている。

 しかし いまだに(やるべきこと)が、何であるか、それがよくわからない。
統合性の確立があやふやなまま、今の仕事をやめてしまったら、それこそ 
たいへんなことになる。

 そのままボケ老人に向かって、まっしぐら!

 ただ幸いなことに、先にも書いたように、私にはまだ、やりたいことが
山のようにある。
どこから手をつけてよいのか、わからなくなることもある。

 で、今は、とりあえずは、新しいパソコンがほしい。
超高性能の、WINDOW7搭載の64ビット・マシン。
今夜も、ワイフに、それをねだったばかり。

 誤解がないように言っておくが、パソコンというのは、電気製品ではない。
買ったあとも、実際、使えるようになるまでに、いろいろな作業がつづく。
その作業が、楽しい。
だから買うとしても、長い休暇の前。

 ……ということで、改めて、究極の選択。

(1) 一生、ヒマで遊んで暮らす。
(2) 一生、仕事で、死ぬ寸前まで働く。

 どちらかを選べと言われたら、私は、迷わず、後者の(2)を選ぶ。
(すでに選んでいるが……。)

 M氏の話を聞いて、ますます強く、そう思うようになった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 空の巣症候群 荷下ろし症候群 老後の統合性 統合性の確立 老後
の生きがい)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●独り暮らし

++++++++++++++++++++

現在、独り暮らしの老人の方(年齢は81歳)
から、メールが届いた(5月25日)。

一部をそのまま紹介させてもらう。
ここに書いてあることは、明日の「私」のこと。
暗い話で、申し訳ないが、この問題だけは、
だれも避けて通ることはできない。

++++++++++++++++++++

【兵庫県にお住まいのMH氏より、はやし浩司へ】

わたくしは一人で住んでいます。一日中一言もしゃべらない日もあります。
しゃべる相手がいないからです。 
着実に歳をとって行きます。 
この先どうなるものか、何時何が起こるのか、いくら考えても分かるはずはないのですが、
確実に何時か、お迎えが来るはずですが、どうなるものか、生きる苦しみが増して行くで
しょうが、なるようにしかならない、それだけです。 
死んだら、ちょうど10年前に亡くなった妻にあちらで会えるような、ほのかな明るい期
待も致します。
いい人でした。 
一人暮らしは歳と共に辛くなります。 
ただ介護の人たちがよくしてくれるので、どうにか「生きておれる」のです。 
一日一日、毎日が感謝です。 
先日も書きましたが、幸せな人生でした。 
沢山の人のお世話になりながらご恩返しもしなかったのが唯一の悔いになっています。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●MH氏

 MH氏とのつきあいは、もう40年以上になる。
当時MH氏は、ある国で、領事館の領事をしていた。
何かと便宜を図ってもらった。
そのMH氏も、今年81歳。
息子氏と娘氏がいるが、現在は東京と京都に、離れて住んでいる。
数年前、ころんで腰を痛めてからは、マンションの中で、車椅子生活をしている。
最近は、ほとんど寝たままとのこと。

●老後のわびしさ

 老後のわびしさは、この一文に集約されている。
読めば読むほど、考えさせられる。
「明日は我が身」というような、生やさしいものではない。
またそういう言葉でごまかせるような、一文でもない。
が、「これが人生」と言い切るのは、あまりにもわびしい。
じんとした切なさが、私の心を塞ぐ。

●老後の孤独

 若い人たちからみれば、老人はみな、愚かで、バカに見えるかもしれない。
死ぬのが当然だから、死ぬことに対して、恐怖心もないだろうと思うかもしれない。
気力が衰える分だけ、孤独にも鈍感になると思うかもしれない。
が、これは誤解。
まったくの誤解。
老人だって、1人の人間である。
今の(あなた)と、どこもちがわない。
ちがわないことは、この文を読めばわかる。

 私たちだって、さみしい。
孤独。
死ぬのは、こわい。

●感謝

 老後の生き方には、大きく分けて2つある。
ひとつは、バカに徹し、何もかも忘れて生きる。
もうひとつは、老後と戦って戦って、戦い抜いて生きる。
が、どちらにせよ、それにも限度がある。
バカになればなるほど、そのあと襲ってくるのは、虚しさ。
戦うといっても、体力や気力が衰弱すれば、おしまい。
戦いようが、ない。

 が、MH氏は、「感謝」という言葉を使っている。

●喜び

 昨日、たまたま長男に、こんな話をした。
「今のお前にはまだわからないかもしれないけど、ぼくの年齢になるとね、
歩けるということだけも、喜びなんだよ」と。
そこらにある(当たり前)のことが、実は(当たり前)でないことが、よくわかる。
「感謝」という言葉は、その延長線のずっと先にある。
だから私は歩く。
時間さえ許せば、車から降りて、歩く。
「楽をしたい」という思いは、あまりない。
そのかわり、「明日も、元気であればいい」と願う。
それができたとき、「感謝」という言葉が口から出てくる。
毎日が、その繰り返し。
私にはまだよくわからないが、生きるということはそういうことか。

●メール

 たった今、MH氏にメールを送った。
「起きていたら、電話で話をしましょう」と書いた。
それからすでに30分以上。
MH氏は、もう眠ったのかもしれない。
返事がない。
起きていれば、すぐ返事をくれる人である。
もう少し、待ってみよう。

(午前1:00まで待ってみたが、MH氏からは連絡なし。
おやすみなさい!)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●森鴎外

++++++++++++++++++

思いつくまま、森鴎外について……。

私の記憶にまちがいがなければ、
森鴎外は、60歳の年に、亡くなっている。
東京で亡くなったが、遺骨は、東京と
津和野の両地に葬られている。
津和野の森鴎外の生家には、一度、観光客として、
行ったことがある。

代表作というわけでもないが、やや長編の小説に
『雁(がん)』がある。
その中に、「お玉」という女性が出てくる。
私の祖母の名前と同じだったから、よく覚えている。
ただ「雁」の中の「お玉」は、美しくて可憐な
女性だった。
一方、私の祖母は、勝ち気で、気性の荒い女性だった。
こんなことはどうでもよいが、「60歳」という
年齢が、どうも心にひかかる。
当時としては、長命のほうだったのかもしれない。
しかし自分がもうすぐ63歳になることを考えると、
「若くして死んだんだなあ」と思ってしまう。

で、『雁』は、森鴎外が東大の医学生だったころのことを
書いた小説である。
小説の中には、そのあたりの地名がたくさん出てくる。
私が若いころには、森鴎外が散歩したのと同じコース
を歩くのが、ひとつの流行になっていた。
私も一度、その近くで幼稚園を経営している男性と、
いっしょにそのあたりを歩いたことがある。
10年ほど、前のことである。
小説の中に出てきたソバ屋かどうかは知らないが、
その男性は、不忍池の近くにあるソバ屋へ連れて
行ってくれた。

小路に入ったところにあるソバ屋で、おいしかった。
「ノリをかけたのが、ざるソバ。
ノリのかかっていないのが、かけソバ……」と、
その男性が話してくれたのを、覚えている。
ひょっとしたらその男性は、森鴎外の『雁』を
よく知っていて、そのソバ屋へ連れて行って
くれたのかもしれない。
上野方面から歩いて、大通りを右へ曲がり、
10件目くらいの、左側にあるソバ屋だった。
そのあたりでは、その店を知らない人はいない
という。

それからもう10年ほどになる。
「もう一度、行ってみたい」と思いつつ、もう10年!
上野のほうへ行く機会が、ほとんどない……。

そうだ、グーグル・マップで調べてみよう!
……ということで、今、調べてみた。

……私の記憶にまちがいがなければ、そのとき
行った店は、『そば屋・蓮玉庵(れんぎょくあん)』という
店だった。
不忍池の沿った不忍通りから一本、南側に
並行して走る小路である。
その小路に、そのソバ屋はある。
(今ではそんなことまで、ネットを使えばわかる!)

……今度は、グーグルの検索を使って調べてみる。
で、やはりそうだった。
だれかのHPに、こう紹介されていた。

「……お花見シーズン到来と言うことで、
上野の花見の後に上野の蕎麦の名店、
蓮玉庵(れんぎょくあん)に行ってきました。
森鴎外の「雁」の文中に登場する蓮玉庵は、
創業安政六年(1860年)の老舗蕎麦屋……」
(こくばんBLOG・リボン・ハッカ・キッズ)と。

やはりそうだった!
その男性は、森鴎外ゆかりのそば屋として、その
店に連れて行ってくれた!
そう言えば、その男性がそんなような話を
してくれたのを、記憶のどこかに残っている。

……とまあ、話がどんどんと脱線してしまったが、
今にして思うと、森鴎外が食べたそばと、10年ほど
前に私が食べたそばが、同じものだったような
気がする。
10年前も、100年前も、同じ。
それよりも、60歳と62歳。
森鴎外が『雁』を書き終えたころの60歳と、
現在の私の62歳。
そちらのほうが気になる。
つまり私は森鴎外が死んだあと、プラス2年目を
生きている!

そうそう津和野の森鴎外の生家だが、小さな質素な
家だった。
近くに観光バスが止まり、歩いて数分のところだった
ように記憶している。
父親も医者で、当時としては立派な屋敷だったのかも
しれない。
今、そんな記憶が、あちこちから集まってきて、
頭の中で、ひとつの形をつくる。

……そう言えば、森鴎外の『雁』は、私の家にもある。
朝食が終わったら、読み直してみよう。
62歳の森鴎外になったつもりで……。
今なら、森鴎外の当時の気持ちが、より深く理解できる
かもしれない。

みなさん、おはようございます。
5月27日、朝。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 森鴎外 雁 津和野 蓮玉庵(れんぎょくあん) 上野 不忍池)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●風当たり

+++++++++++++++++

このところ私のhpやblogに対する
風当たりが強くなってきた。
どこかの団体(?)は、刑法を散らつかせて、
私の書いた原稿を批判してきた。
それだけ影響力も、大きくなってきたという
ことか。

が、本来なら、喜んでよいはずなのに、その
喜びがない(?)。
私にはサッカーでいうような、サポーター
がいない。
私を陰で応援してくれている人もいるの
だろうが、そういう人たちの声や姿が
見えない。
聞こえない。
だからとって、これはグチではない。
最初から、そういうものと、割り切っている。
しかしこのところやや疲れを感じ始めたのも、事実。
「どうしてこんなことをしているのだろう?」と。
いつだったか、どこかの男性(30歳くらい)が、
こう言った。
「あなたは奇特な人だ」と。

ほめてくれたのか、バカにされたのか。
今でもよくわからない。
たぶん、バカにされたのだろう。
自分でも、それがよくわかっている。

ゆいいつの収入といえば、メルマガ(電子マガジン)
のコマーシャル料だった。
だれかがクリックしてくれると、1クリックごとに
20円の収入になった。
それがたまって、2〜3か月ごとに、2000円
前後になった。

どういうわけか、私は、その2000円がうれしかった。
ほかで得る収入とは、まったくちがった。
が、そのメルマガの経営母体がかわり、その収入も
途絶えた。
今は、広告収入は、そんなわけでゼロ。

さきほどマガジンの6月号の配信をすませたが、
「もうやめようか」という迷いが、何度も、
頭の中を横切った。
今は、マガジンというより、blogの時代。
読者数が、一桁ちがう。
一方マガジンのほうは、一向に読者がふえない。

また最近では、twitterがある。
全盛期と言ってもよい。
「私も……」と思って参加してみたが、みな、
若い人ばかり。
どうも居心地が悪い。
で、やはりこうしてまたまた意味のない
文章を書き始めてしまう。

……やはり、これはグチか。
アメリカではグチ(COMPLAINMENT)は、
精神疾患(うつ病)の立派な主症状のひとつになっている。
つまり精神疾患の診断項目のひとつになっている。
だからグチはやめよう。

ともかくも、私はめげない。
前に進むしかない。
そこに何があるかわからないが、
前に進むしかない。
「がんばれ!」と自分にムチを打つ。
負けてたまるか!

2010年5月26日朝

Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

【5歳児・大小感覚+数の大小】

●BW教室より、おうちの方へ


今週は、大小感覚+数の大小についての学習を進めました。
途中、ひとり声をあまり出さない子どもがいましたので、
何とか声を出させようと、ややふざけたシーンもありますが、
許してください。
(これも指導のうち?、です。)

大小弁別→相対的な見方、考え方→数の大小と学習を進めました。
子どもたちが「数は楽しい」と思ってくれたら、それで成功!
あとは子どもたちは自分の力で伸びてくれます。

(1)
<object width="425" height="344"><param name="movie" 
value="http://www.youtube.com/v/XZNVk7l7aX8&hl=ja&fs=1"></param><param 
name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" 
value="always"></param><embed 
src="http://www.youtube.com/v/XZNVk7l7aX8&hl=ja&fs=1" 
type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" 
width="425" height="344"></embed></object>

(2)

<object width="425" height="344"><param name="movie" 
value="http://www.youtube.com/v/hamUaLVUs_Y&hl=ja&fs=1"></param><param 
name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" 
value="always"></param><embed 
src="http://www.youtube.com/v/hamUaLVUs_Y&hl=ja&fs=1" 
type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>

(3)

<object width="425" height="344"><param name="movie" 
value="http://www.youtube.com/v/uwjr4GAFP-0&hl=ja&fs=1"></param><param 
name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" 
value="always"></param><embed 
src="http://www.youtube.com/v/uwjr4GAFP-0&hl=ja&fs=1" 
type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>

(4)

<object width="425" height="344"><param name="movie" 
value="http://www.youtube.com/v/f5T7bhBx_38&hl=ja&fs=1"></param><param 
name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" 
value="always"></param><embed 
src="http://www.youtube.com/v/f5T7bhBx_38&hl=ja&fs=1" 
type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>

(5)

<object width="425" height="344"><param name="movie" 
value="http://www.youtube.com/v/Cp_P1QpD-TI&hl=ja&fs=1"></param><param 
name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" 
value="always"></param><embed 
src="http://www.youtube.com/v/Cp_P1QpD-TI&hl=ja&fs=1" 
type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>

(6)

<object width="425" height="344"><param name="movie" 
value="http://www.youtube.com/v/Cp_P1QpD-TI&hl=ja&fs=1"></param><param 
name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" 
value="always"></param><embed 
src="http://www.youtube.com/v/Cp_P1QpD-TI&hl=ja&fs=1" 
type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" 
allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【5月25日】May 25th 2010

●悪夢

o Nightmare

++++++++++++++++

These few days, my mental state seems not to be very good.
I have had Nightmares.

++++++++++++++++

この数日、精神状態があまりよくないようだ。
悪夢が、つづく。

昨日は、どこかの家にいたら、私宛に
大きな小包が届いた。
開けてみたら、何と、墓石!

手でもちあげようとしたが、ビクとも動かない。
ハラハラ、ドキドキ……。
そこで目が覚めた。

今朝もそうだ。
どこかの家にいたら、大学の同級生たちが
どやどやと部屋の中に入ってきた。
みな、楽しそう。
見ると、二男もその中にいた。

私だけ、のけ者?
ワイフが近くにいたので、「どうしてぼくに
声をかけてくれないのかなア」と言うと、
「あなたといると、おもしろくないからよ」と。

ハラハラ、ドキドキ……。
いやな思いをした。
そこで目が覚めた。

++++++++++++++++

●夢分析

 こういう話をすると、ワイフがすかさず夢分析をしてくれる。
「あなたはこうだからよ」とか、「きっとあのことが気になっているからよ」とか。
私のばあい、精神状態が変調してくると、不安感が増大する。
「不安神経症」?

 自分で勝手に病名をつけているが、本当のところはわからない。
心理学的には、「基底不安」ということになる。
乳幼児期の母子関係の不全が、今につづいている。
で、この数日、ほとんど原稿を書いていない。
……書けない。

そのかわりというわけでもないが、今は、電気店巡りをしている。
ねらっている製品は、ソニーのビデオカメラ!
私には若いころから、おかしなクセがあって、何かそうした新しい製品をいじっていると
心が安まる。

 が、買わない。(……買えない。)
近く、車を買い換える。
そのこともあって、今は、じっと我慢のとき。
8年乗ったTOYOTAのビッツに別れを告げ、今度は、プリウス。
いよいよプリウス。
7月ごろ納車してくれるという。
楽しみ。

で、どこへ行っても、まずプリウスをさがす。
駐車場に止まっているプリウスを、さがす。
注文したのは、パールホワイト。
プラス5万円高。
パールホワイトのプリウスを見つけると、そばまで行って中をのぞく。
「今度、お前に乗ってやるからな」と。

 で、ワイフと昨日、こんなことを話し合った。
「しばらくは、だれも乗せてやらないよ」「それに車内では、スリッパに履き替えよう」と。

 スリッパに履き替えるという方法は、義兄から学んだ。
大の車好き(ただしマツダ車)で、いつも車の中で、履き物を履き替えている。

 しかしビデオカメラもほしい。
ネットで調べたら、今、いちばん人気の機種は、ソニーのXXXとか。
やや大ぶりだが、ゴチャゴチャと機能がついているところがよい。
店頭では、7万円弱。
ネットでは、6万円弱。

 高価なおもちゃだが、今の精神状態から抜け出すには、買い物しかない。
視床下部から出るシグナルを受けて、ドーパミンがドクドクと分泌される。
線条体にできた受容体をそれが刺激する。
がまんしていると、よけいにイライラ感がます。
今は、そんな状態か?

 「カメラをかってくれたら、静かになるよ」とワイフに言うと、「しかたない人ねエ」と。
「今、使っているカメラは、S(アメリカにいる二男)にあげればいい」と言ったが、返
事はなかった。

 それは「No!」という、シグナル。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●慣らし運転

 調子が悪いときは、こうして「慣らし運転」をする。
何でもよいから、思いついたことを書く。
目的はない。
方向も決まっていない。

 しばらく書いていると、指がより自然に動くようになる。
「自然」というのは、「何も考えなくても」という意味。
(思ったこと)が、そのまま画面の上に、文字となって現われる。
脳みそとパソコンが一体化する。

 私も、キーボードを見なくても、文字が打てる。
が、しかし私はあえてキーボードを見ながら打つ。
画面ばかり見ていると、目が疲れる。
そのためできるだけ、キーボードを見ながら、打つ。
たぶん、ほとんどの人は画面を見ながら、キーボードを打つ。
どんな文章になっているかを確かめながら、打つ。

 が、私のばあいは、その逆。
頭の中に浮かんでいる文字と、画面の文字が一致しているかどうかを確かめるために、打
ち終わったあと、画面を見る。
ときどき、見る。

 今もそうだ。
キーボードだけを見ながら、文字を打つ。
とたん文字が頭の中に、浮かんでくる。
そのとおりの文章になっているかどうか、画面をチラッチラッと目で確かめる。

 こうして「慣らし運転」をつづける。
時間にすれば、30分前後か。
読んでくれる人には申し訳ないが、意味のない文章である。
それを打ちつづける。

 やがて頭の中にモヤモヤしたものが、出てくる。
その中から、(書きたいこと)が定まってくる。
あとは、それについて書く。

 ……といっても、もうすぐ朝食。
そのあと運動もしなければならない。
講演会のレジュメの書き直しもしなければならない。
ああ、時間がほしい。
どうしてこうまで時間がないのか。
時間だけが、どんどんと過ぎていく。

 そう言えば、昨日、新しいパソコンソフトを手に入れた。
「モーフィング」といって、ひとつのものから、別のものに、少しずつ変化させるソフト
である。
顔を少しずつ変化させるソフトとして、おなじみのソフトである。

 が、昨日手に入れたのは、モノからモノへと変身させるソフトである。
たとえば寿司を、焼き鳥にする……とか。
おもしろそう。
何か作って、私のHPに載せてみたい。

 では、みなさん、おはようございます。
5月25日、火曜日。
今日は久しぶりによい天気。
外ではスズメの親子たちが、私のまくエサを待っている!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●おはようございます。(5月24日)

●翻訳

++++++++++++++++++++

(1)「Bing Translator」という
無料の翻訳サービスを見つけた。
これを使えば、世界各国の言葉に、日本語を
瞬時に翻訳してくれる。
もちろんその逆も、できる。

さっそく昨日、北朝鮮問題についてエッセーを
書いたので、それを韓国語に翻訳してみた。
量的には、日本語で、2〜3000文字程度が
限界のようだ。
が、長い文章なら、いくつかに分けて翻訳すれ
ばよい。

以上、ここまでを、一度英語に翻訳してみる。
つづいて中国語に翻訳してみる。
はたして結果は、どうか?

Named "Bing Translator"
Found a free translation service.
Using it to Word all over the world, Japanese
Will translate instantly.
Of course you can also vice versa.

Immediately yesterday, about North Korea issues to essay
Wrote, so it was translated into Korean.
Quantitative, in Japanese, is about 2-3000 characters
Seems to limit.
But separately for some long sentences if we translate.
Good server.

Over the far, once translated into English by it.
Try it continues and translated into Chinese.
Really results?

名為"Bing Translator"
發現一個免費的翻譯服務。
word 使用在全世界日語
將即時翻譯。
當然?也可以相反。

立即昨天,有關北韓問題專題報導
所以它被翻譯成朝鮮語給寫了。
量化,在日本,是有關 2ー3000 字元
似乎限制。
但分別為一些長句如果我們翻譯。
良好的伺服器。

通過在遠一次譯成英文的。
請嘗試它繼續並翻譯成中文。
真正的結果?

++++++++++++++

結果としてみると、こうした翻訳ソフトを
使うときは、日本語を書くとき、注意しな
ければならない点が、いくつかあるようだ。
たとえば(主語)(述語)の関係を、明確
にすること。
とくに(主語)を省略すると、わけのわから
ない翻訳になってしまう。
だいたいの感じはわかるが、それを読んだ
相手の人は、何とへたな文章と思うことだろう。

それにもうひとつ。
長い文章は避けるというのもある。
1つの文章の中に、(主語)がふたつもあるような
文章は、避ける。
そんなことに注意しながら、もう一度、
先の日本語を、書き改め、それを翻訳して
みる。

++++++++++++++

(2)私は「Bing Translator」という
無料の翻訳サービスを見つけた。
このサービスを使うと、それは日本語を世界各国の言葉に、
瞬時に翻訳してくれる。
それはもちろんその逆も、できる。

さっそく昨日、私は北朝鮮問題についてエッセーを
書いたので、私はそれを韓国語に翻訳してみた。
量的には、日本語で、2ー3000文字程度が
限界のようだ。
が、長い文章なら、私はいくつかに分けて翻訳すれ
ばよい。

以上、ここまでを、私は一度英語に翻訳してみる。
つづいて私は中国語に翻訳してみる。
はたして結果は、どうなるか。

I say "Bing Translator"
Found a free translation service.
To use this service and it is Japanese word all over the world
Will translate instantly.
It can be and vice versa, of course.

Immediately yesterday, I about North Korea issue to essay
Wrote, so I into Korean translate it and tried.
Quantitative, in Japanese, is about 2-3000 characters
Seems to limit.
But I divided into some long sentences if we translate.
Good server.

Over here, I once translated into English and try.
It continues I Chinese translated into it.
What really what happens is the result.

英文のほうは、多少よくなったかな?、という程度。
では、どうするか?
こうなったら、翻訳用の日本語を別に、書くしかない。

++++++++++++++++++

(3)「Bing Translator」という翻訳サービスがある。
それは無料の翻訳サービスである。
このサービスは、日本語を、世界の言葉に翻訳する。
もちろんこのサービスは、その逆のこともできる。

私は昨日、北朝鮮についてのエッセーを書いた。
私はそれを韓国語に翻訳した。
一度に翻訳できる量は、2000−3000語程度である。
が、長い文章なら、私はいくつかに分けて翻訳すればよい。

ここまでを、私は一度英語に翻訳してみる。
つづいて私は中国語にも、翻訳してみる。
はたしてその結果は、どうなるか?

There the translation service called "Bing Translator".
It is in free translation service.
This service is Japanese, world word translated to.
Of course this service can also reverse that.

Yesterday, I wrote essays about North Korea.
I translated it into Korean.
Quantity that can be translated at a time is around 2000-3000 words.
But the long sentences if I some good if translated.

So far, I once translated into English by it.
It continues I Chinese, translated into it.
Really what happens as a result is.

ぐんとよくなった。

で、私は昨日、このサービスを知ったとき、
ポッと頭の中が明るくなったのを感じた。
「これを使えば、また新しい世界にチャレンジできる」と。

……ということで、今日も始まった。
今週も始まった。
がんばるぞ!

みなさん、おはようございます。

5月24日、午前5時45分。


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●『地方公務員SS物語(別)』のコラム

 私は、自分のBLOGの中に、つぎのようなコラムを書いた。
まず、それをそのまま再掲載する。
この中で注目してほしいのは、「産経新聞」という文字と、「平成13年度の国民経済計算
年報」という文字である。
それだけをしっかりと念頭に置いて、私の書いたコラムを、もう一度、よく読んでみてほ
しい。

 なおこの元の原稿を最初に書いたのは、2005年。
少し古い原稿である。

******以下、私の書いたコラムより******

 ……現在、国家公務員や地方公務員が、いったい、いくらの給料を手にしているか、そ
れを正確に知っている人は、ほとんどいない。公表している団体も、自治体もない。しか
し計算方法がないわけではない。

 そこで国家公務員の給料を知るための、もっとも簡単な方法は、(総人件費)を(公務員
数)で割るというもの。産経新聞は、この方法で、国家公務員(行政職国家公務員)の給
料を算出している。それによれば、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費
の総額は、4兆6571億円だそうだ(産経新聞05・06)。

 この数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1403万円
(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2万人で計算)
そして社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っていることになる(ギ
ョッ!)。

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、
つぎのようになっている。

 1人当たりの人件費

    (国家公務員)          ……1403万円(上記算出方法)
     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

******以上、私の書いたコラムより******

●反論

 これらの数字をもとに、私は、保護司という「無給の国家公務員」について書いた。
「もし保護司を国家公務員に加えるとなると、(総人件費)÷(国家公務員数)における、
分母を大きくすることになるのではないか」と、あくまでも、私が感じた疑問をそのまま
書いた。

 それが『地方公務員SS物語(別)』を主宰しているライターの逆鱗に(?)触れたらし
い。
手厳しい反論記事が載っていた。
それをそのまま紹介させてもらう。

******以下『地方公務員SS物語(別)』のコラムより******

●(はやし浩司の誤った官民給与比較論)


毎度おなじみ、誤った官民給与比較論者にツッコミを入れるコーナーです。
今回のお題は、「はやし浩二」氏という方の書いた記事。内容的には、相手様にコメントを
書き込めば済むかと思ったのですが、ちょっと、下書きしているうちに、予想外の展開と
なりまして、そうはいかなくなりました・・・

↓とりあえす、下記の斜体の記事は、下記より引用です。
http://blog.goo.ne.jp/bwhayashi/e/52db2bd8a068f3bd2640edfea5b1f884

全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4兆6571億円だそう
だ。(注※ 平成17年度予算に占める国家公務員の人件費)
つまり、これらの数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1
403万円(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2
万人で計算。)

何故、国家公務員の人件費を、行政職国家公務員の数で割り戻すのでしょうか?
全国30万人の特別職国家公務員のみなさんは、国から給料をもらっていないのでしょう
か?
そんなおかしなコトはありません。

人件費総額を全職員数の半分で割って、どうすんですか?

この記事の論証は、この時点から、狂っていたのです。

この数字を見て、驚かない人はいないだろうと思う。もうメチャメチャな数字と言ってよ
い。

はい。私は、この記事を書いた、はやし浩二氏の無茶苦茶さに、驚きました。
しかし、これは、まだ、序曲にすぎなかったのです・・・

平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、つぎのよう
になっている。

1人当たりの人件費
公務員   ……1018万円
電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
金融・保険業           ……678万円
トヨタなどの自動車産業      ……629万円
日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

この表は、最後の1行を除き、某・ゴシップ紙に掲載されていたものですが、若干、言葉
回しが違いますね。(どうでもいいけど)

国民経済計算年報は、給料(給与所得)ではなく、退職金や雇用保険、社会保障費等の雇
用者負担の総計であり、この資料は、「雇用者所得」と呼ばれるものです。

↓ で、ツッコむと、最後の1行は、513.0万円が正解です。
http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/menu.html

↓ ちなみに、448万円は、同年の国税庁民間給与所得実態調査の数値に合致します。
http://www.nta.go.jp/kohyo/tokei/kokuzeicho/minkan2002/menu/03.htm

つまり、わざと「雇用者所得」と「給与所得」を比べているわけですね。
これを、情報操作と言わずして、何と言うのでしょう。

また、雇用者所得とは、個人業主と無給の家族従事者を除くすべての者と定義されていま
す。

↓こちらがその定義。
http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/yougo/d03.html#4

つまり、雇用者所得とは、国税庁民間給与所得実態調査と同様に、パートやアルバイト等
を含めた定義と類推されます。
フルタイム労働の正規公務員とアルバイトを比べて、給与格差を論じることに、意味はあ
りません。

え?
国民経済計算年報の公務員雇用者所得にも、非正規雇用公務員が入ってるんじゃないかっ
て??

ありえません。

公務員の非正規率は3割強(※自治労資料)。
その条件で、「アルバイト込みの公務員の平均雇用者所得」が1,000万円超というモデルを
構築しようとすると、正規公務員の「平均給与所得」が、1,300万円を軽々突破・1,400万
円に迫ることとなります。
「雇用者所得」で、計算すると、平均2,000万円/年ほどになってしまいます。

ありえるかぁぁぁぁぁ!!!

おっと、脱線ww
ということで、そんな荒唐無稽な数値と、人事院・総務省が公表している資料と比べれば、
国民経済計算年報の公務員雇用者所得が、正規職員のみの数値であるなことは明白です。

日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均人
件費は、448万円! 
しかし国家公務員は、1400万円以上!
ナ、何と、3倍近いもの給料を手にしていることになる。

どこまで、ウソを並べれば気が済むのでしょう?

↓ 448万円という数値は、統計上、従業員1人以上の事業所で、パート・アルバイトを含
むことが、データ元に明記されています。
http://www.nta.go.jp/kohyo/tokei/kokuzeicho/minkan/top.htm#a-03

また、ここでも「給与所得」と「雇用者所得」を、同列に並べて比較しています。

正直、このような情報操作には、うんざりします。
あまりに汚い手口です。

以上、ツッコミ終了。

そう、ツッコミが終了しただけなのです・・・

これで、トラバを打ち込んで、すべて終わると思ったのですが、コトは私の想像を超えて
いました。

はやし浩二氏は、この記事を、複数のサイト・ブログに、何度も繰り返し、アップしてい
たのです・・・onz

↓こんな感じ・・

(※注:以下、当問題を扱った、私のBLOGの各ページ、12ページを並べる。はやし
浩司記)

なんと迷惑な・・・

刑法第233条 
虚偽の風説を流布し、又は偽計を用いて、人の信用を毀損し、又はその業務を妨害した者
は、三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。 

まぁ、刑法のこの条文が適用されることはないでしょうが、ちょっと、はやし浩二氏には、
この条文の精神をご一考願いたいと思います。

とりあえず、気付いた全サイトにトラバ打ち込んで、注意喚起しようと思いますが、まさ
か、このような大量のTBを打ち込むコトをする羽目になろうとは・・・当初の想像を完
全に超えていました。

まぁ、これだけ、トラバ打ち込めば、気付かないことはないでしょうし(溜息)。
前向きに、良いリアクションがあることを期待しましょう。


******以上、『地方公務員SS物語(別)』のコラムより******

●私たちが知りたいのは、「反論」ではなく、「事実」。

 「地方公務員SS物語(別)」を主宰しているライターがどういう人物なのか、私にはわ
からない。
上記コラムを掲載している、BLOG(ウェブリブログ)上で調べてみたが、「公務員の人
らしい?」というところまではわかったが、それ以上は不明。
「地方公務員捨遺物語」というBLOG名からして、現在、「地方公務員をしている人」ら
しい。
しかたないので、ここではライターを、「X氏」としておく。

 それはさておき、私たちが知りたいのは、「反論」ではなく、「事実」。
つまり給与実態。
ならば、現在、地方公務員にせよ、国家公務員にせよ、手にしている給料を公開すれば、
それですむ話。
何も個人の給料を公開せよと言っているのではない。
「株式年報」に記載されているような、「平均給与」でよい。
それすらしないから、私たちは疑心暗鬼になる。

「私たちは、平均〜〜〜万円、もらっています」「だからここに書いてある数字は、デタラ
メです」と。
が、そういうことをしないで、一方的に、「どこまで、ウソを並べれば気が済むのでしょう?」と
は?


 私が書いた数字は、冒頭にも書いたように、「産経新聞」に掲載した記事と、「平成13
年度の国民経済計算年報」をもとにしている。
「某・ゴシップ紙」ではなく、「産経新聞紙」である。
ただ私も誤解していた点もある(※)。
その誤解を大きくとらえて、あたかもすべてウソとは!

仮にもし、このライターが公務員であり、当BLOGを隠れ蓑に、こうした記事を書いて
いるとするなら、それこそまさに「言論の自由の圧殺行為」ということになる。
言うまでもなく、「言論の自由」は、憲法で保障された基本的権利。
刑法233条どころではないのである。
しかも残念ながら、私が書いたことは、「特定の人」の名誉を毀損したという「構成要件」
を、充足しない。
「業務を妨害した」という「構成要件」をも、充足しない。

(注※)「誤解」というのは、「先に書いた無給の国家公務員」についてである。
X氏が指摘するように、無給の国家公務員を分母に入れると、国家公務員の給料は、「雇用
者所得」で、計算すると、平均2,000万円/年ほど……」ということになってしまうらし
い。
しかし私はそう断定して書いたわけではない。
「無給の国家公務員数が、分母に含まれているのではないか」という疑問を投げかけた。
そういうコラムである。

●公務員「1018万円」

 で、X氏には悪いが、もう一度、「国民経済計算年報」をここに掲載する。

ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、
つぎのようになっている。

++++++++++++++++

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

++++++++++++++++

 百歩譲っても、公務員の「1018万円」(平成13年度)という数字は、そのまま残る。
この金額を多い額とみるか、納得できる額とみるか?

●終わりに……

 現在、民主党与党を中心に、「仕分け作業」なるものが、進んでいる。
それを見ていて、驚くことしきり。
まさに「出てくるわ、出てくるわ!」といった感じ。
「へえ、そんなことまでしていたのか!」と。
改めて、国民一般のもつ(意識)と、官僚世界で働く人たちのもつ(意識)のちがいに、
驚く。
同じような(意識のちがい)を、私は『地方公務員SS物語(別)』のコラムの中にも感じ
た。
とても残念なことだが……。

 ……ということで、あとの判断は、読者のみなさんに任せる。
このつづきは、私ももう少し資料を集めてから書いてみたい。

 なおトラックバックを寄せてくれたX氏の指摘には、感謝する。
「この日本をよくしたい」という思いは、共通している。

 なお私は「はやし浩司」で、「はやし浩二」では、ない。
(あえて実名を伏せてくれたのかもしれないが……?)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
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Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●朝鮮半島(2010年5月22日夜記)

少し前、韓国の哨戒艦が、北朝鮮の魚雷によって攻撃され、沈没した。
50名前後の若い兵士の命が奪われた。
この攻撃について、最初からどこの国が哨戒艦を攻撃したか、わかっていた。
わかりすぎるほど、わかっていた。
しかし相手を名指しするには、それなりの儀式が必要だった。
何しろその相手というのは、北朝鮮。
あの北朝鮮。
ふつうの論理の通ずる国ではない。

 ……と書いたところで、自然と筆が止まる。
「ふつうの論理」と書いたが、では「ふつうの論理」とは何か?
それがよくわからない。
私たちが「ふつうの論理」というときは、私たちを基準にした論理をいう。
その基準は、人によってみなちがう。
国や民族がちがえば、なおさら。
日本の論理は、けっして世界の論理ではない。
となると「ふつうの論理」とは、何か?

●北朝鮮の立場で

 少しだけ、北朝鮮の立場になって考えてみよう。
(だからといって、北朝鮮を擁護するつもりは、まったくない。
ないが、「ふつうの論理」とは何か、それを考えるには、この問題は、よいテーマである。)

 彼らの論理は、(在日の朝鮮人にしても、韓国のノ前大統領にしてもそうだが)、「自分た
ちは、あの戦争の犠牲者だった」ということを大前提にして成り立っている。
それが、すべての始まり。

日本の植民地になった。
やりたくもない戦争に巻き込まれた。
日本が敗れ、やっと平和になったと思った直後、今度は、アメリカとソ連の代理戦争をさ
せられた。
その結果として、多くの民が犠牲になり、国を2つに分断された。
「だから悪いのは日本だ、アメリカだ」となる。

 が、北朝鮮には、もうひとつ別の論理が働く。

●何をしても裏目

 韓国は戦後、日本の戦後補償金を得て、「漢江の奇跡」を成し遂げた。
今に見る経済大国になった。

が、一方北朝鮮は、何をしても裏目、裏目、また裏目。
今では世界の中でも、最貧国。
1990年代の後半には、数百万人の餓死者が出たとも言われている。
つまりここで北朝鮮には、別の論理が働くようになった。

 「オレたちが貧しいのは、お前たちが富を独占するからだ」、
「同じ人間なのに、給料にしても、なぜこうまでちがうのか」、
「働いても働いても、生活は一向によくならない」と。

 挫折感と劣等感、嫉妬と被害妄想。
これらが混在して、つぎの「論理」へとつながっていく。
「まちがっているのは、我々ではない。
世界がまちがっているのだ」と。
これを「貧者の論理」という。

●ひもじさ

 こうした貧者の論理なるものを、今の若い人たちに説いても理解できないだろう。
生まれたときから、日本は今の日本だった。
言いかえると、今の若い人たちは、「貧しさ」そのものを知らない。
今では「ひもじい」という日本語すら、死語になっている。

 が、私たちの世代はそれを知っている。
たとえば私たちが小学2〜3年生のころ、バヤリース・オレンジというジュースが日本へ
入ってきた。
「♪バ、バ、バヤリース……」というあのコマーシャルソングが、毎日のようにテレビで
流された。
今でもよく覚えている。

そのジュースが、菓子屋の、一番奥の棚の、一番高いところに、5〜6本並んでいた。
私たちは店先でラムネを買いながら、「あんな高いものをだれが飲むのだろう?」と思った。
値段は、一本、100円。
ラムネは一本、10円か15円だった(ラムネの値段は、記憶によるので、不正確)。
その場で飲んで、ビンを返した。
ビンを返すと、たしか5円を戻ってきた。
それで一日の小遣いは、消えた。
そういう時代の、100円である。
 
 もっともだからといって、私たちが卑屈になったわけではない。
ただ私は、こう思った。
「アメリカって、すごい国だなあ」ということ。
「毎日、あんなすごいものを飲んでいる!」と。

●日本の高度成長期

 が、そのあと日本は、世界の歴史の中でも類をみないほどの、経済発展を遂げた。
私たちが「矛盾」が露呈する前に、日本はアメリカに追いついていった。
私が商社へ入社したころ、1ドルは360円(固定相場制)。
商社にいるとき、1ドルが305円になった(1971年)。
その後、日本の「円(えん)」は、急速に力をつけていった。

 日本は力を蓄え、同時に、覇者として世界に躍り出た。
が、もし日本があの当時のままだったとしたら……。
今でも棚の上のバヤリース・オレンジをながめながら、ラムネを飲んでいるとしたら……。
私たちははたして、矛盾を感じないまま、日々を過ごせるだろうか。

 しかももし、世界の労働者の賃金が平等なら、まだ納得できる。
日本人が1時間働いた賃金と、アメリカ人が1時間働いた賃金が同じなら、納得できる。
しかし現実には、そうではない。
そうでないから、矛盾を覚える。

●2つの論理

 言うなれば、北朝鮮の論理は、その「矛盾」を原点にしている。
その矛盾を肥大化させ、妄想に妄想を重ね、その上で、自分たちの独裁制を正当化してい
る。
 
 つまりここで私たちは、彼らの論理を2つに分けなければならない。
ひとつは、(戦争の犠牲となった民族が覚える矛盾)。
もうひとつは、(独裁政治そのものがもつ矛盾)。
北朝鮮の指導者たちは、後者の矛盾を前者の矛盾でくるむことによって、後者の矛盾を正
当化している。
わかりやすく言えば、「弱者」と「悪(ワル)」。
「悪(ワル)」を「弱者」でカモフラージュしながら、自分たちを正当化している。
今回の哨戒艦爆破事件は、そういう流れの中で起きた。
このことが北朝鮮問題を、複雑にする。
現在の韓国の中身を見れば、それがよくわかる。

 これほどまでに明白な事件であるにもかかわらず、韓国内部には、北朝鮮を擁護する政
党がある。
金大中→ノ前大統領の流れをくむ政党である。
けっして一部の人たちではない。
事件が起きた当初から、「北朝鮮の攻撃のはずがない」と主張していた。
明らかな証拠が出てきても、北朝鮮の蛮行を非難する前に、「現政権がだらしないから、こ
ういう事件が起きた」と。
現政権を非難する。
日本の中にも、そういう勢力がある。
独裁制の矛盾を見せつけられながらも、北朝鮮を擁護し、弁護する。

 その延長線上にいるのが、中国であり、ロシアということになる。
あのマルクス・レーニン主義は、そのロシアで生まれた。

 が、だからといって、同時に、前者の論理、つまり(戦争の犠牲者となった民族が覚え
る矛盾)を無視してよいというわけではない。
日本は、戦時中、してはいけないことをしてしまった。
いろいろに弁解し、日本を擁護する人は多いが、ともかくもしてしまった。
現在の北朝鮮が、戦時中の日本以上に日本的なのは、皮肉と言えば皮肉。
これほど大きな皮肉はない。

●ふつうの論理

 つまり私たち日本人が考える「ふつうの論理」というのは、あくまでも日本人の論理。
それも現在の日本人の論理。
一見、まともに見えるが、けっしてまともではない。
たまたま日本人が今、現在のような豊かな(?)生活ができるのも、簡単に言えば、資本
主義がもつ矛盾に支えられているから。
その上に、日本の繁栄が乗っている。
「強い通貨」と「弱い通貨」。
「強い軍隊」と「弱い軍隊」。
それが「強い国」と「弱い国」をつくり、さまざまな矛盾を生み出している。

 アメリカドルといえば、世界中で通用する。
日本の円も通用する。
北朝鮮ウォンといえば、北朝鮮国内においてですら、ただの紙くず。
そこでだれしもこう思うだろう。

「北朝鮮よ、豊かになりたかったら、自ら努力しなさい」と。
しかしそれこそまさにアメリカの論理、日本の論理ということになる。
もちろんこの論理は、北朝鮮には通用しない。
通用しないから、そうした論理を北朝鮮にぶつけても意味はない。

●保護と依存

 で、これはあくまでも補足だが、「保護と依存」について、少し書いておきたい。

 保護と依存……。
2者の間に一度、この関係ができると、保護する側は、いつも保護する側に置かれるよう
になる。
依存する側は、最初こそ感謝するが、やがて依存することを当然と思うようになる。
「私たちは、助けてもらって、当然」と。

が、ここで止まるわけではない。
さらにその関係が進むと、今度は、依存する側の立場の者が、保護を請求するようになる。
「オレたちを、助けろ!」と。
現在の韓国と北朝鮮の関係が、それである。

 戦後、一貫して北朝鮮を保護しているのは、韓国のほう。
北朝鮮のほうが、韓国に対して、何かの施(ほどこ)しをしたという話は、まったく聞い
ていない。
そういう事実もない。
が、それがさらに進んだ。
それが、今の状況。

 韓国政府は、「援助を停止する」と発表した。
それについて北朝鮮は、「敵対行為だ」と。
わかるかな?
「助けてくれないから、敵」と。
「保護と依存」の関係というのは、そういうもの。

●もうひとつ補足

 ついでに、もうひとつ補足……。

 独裁色が濃い国家ほど、独裁者の心理状態が、そのまま強く繁栄される。
そういう意味では、現在の北朝鮮は、独裁者である金xxの心理状態を、そのまま反映し
ているとみてよい。

 そこで問題。

 金xxは、さまざまな病気にかかっている。
糖尿病もそのひとつだが、人工透析を受けなければならないほど、病状は重いという。
そこでこんなことも考えられる。

 私も過去、この種の病気の人たちを、何人か見てきた。
最近、その病気で亡くなった男性(58歳)もいる。

 で、共通しているのは、どの人も、晩年、精神的にまともではなかったということ。
かなりおかしかった。
夜中に突然暴れ出した人もいる。
大声で、息子の嫁の名を呼びつづけた人もいる。
怒りっぽくなり、ささいなことで錯乱状態になった人もいる。
そういう人たちを順に頭の中に思い浮かべみると、では金xxは、だいじょうぶか?……
ということになる。
そんな疑惑の念がわいてくる。

 『……精神科医で透析療法も行っているHK医師(松江青葉クリニック)によれば、病
気の予後、肉体能力・体力、経済面、仕事などに対する「現実的な不安」、人間関係、孤立
感、自尊心の低下、同病者の死、将来計画の挫折などの「実存的な不安を抱えている人が
多く、睡眠障害、食欲不振、意欲の減退、自殺願望、自殺企画といったうつ状態を示す人
もいるという……』(岩波新書の椎貝達夫著「腎臓病の話」)と。

 金xxは、はたして、だいじょうぶか?
もっと端的に言えば、今回の攻撃にからんで、北朝鮮の意図について多くの論者が、自分
の意見を書いている。
しかしそういうことを論じても意味は、ない。
「頭のまともでない人が、突発的な思いつきで、韓国の哨戒艦を攻撃した」。
それでじゅうぶん。

●一触即発?

 ……というわけで、にわかに朝鮮半島がきな臭くなってきた。
一触即発……とまではいかないにしても、何が起きてもおかしくない状態になってきた。
アメリカと韓国は、東シナ海の双方で、大規模な軍事演習をするという。
ひとつまちがえば、演習は、そのまま戦争になる。
その可能性は、きわめて高い。

しかし私たちは、ここで冷静にならなければならない。
独裁制の矛盾だけを一方的にとりあげて、北朝鮮を攻撃しても意味はない。
またそんなことをしてはいけない。

 もし朝鮮半島で有事ということにでもなれば、この日本だって、ただですまない。
そうでなくても日本経済は今、薄い氷の上を歩いているようなもの。
日本……というより日本経済は、そのまま奈落の底に叩き落される。
株価は大暴落。
債権も円も大暴落。
赤字国債(=国の借金)にしても、だれが日本の国債など買ってくれるだろうか。
仮に戦争ということになったら、その被害は計り知れない。
戦後、朝鮮半島で起きたあの「朝鮮動乱」のときとはわけがちがう。
日本は韓国とはもちろん、ほかの国々と、網の目のように細かいネットワークでつながれ
ている。
日本だけが無事ということは、ありえない。
仮にたった一発でも、東京にミサイルが撃ち込まれたら……。
想像するだけでも、ゾッとする。

●では、どうするか

 結論を先に言えば、日本は、北朝鮮と心中してはいけない。
あんな国と心中してはいけない。
その価値もない。
その必要もない。

 韓国にしてもそうだ。
あんな国と心中してはいけない。
その価値もない。
その必要もない。

ただひとつ追加したいことは、こういう状況になってはじめてわかるのだろうが、このア
ジアで、韓国の真の友人はだれであるか、それを知ってほしい。
肝に銘じておいてほしい。
過去はともあれ、今の今は、韓国にとって真の友人は、この日本をおいてほかにない。

 その上で、あとは国連という場で、粛々と、国際法にのっとり、事務的に北朝鮮を追い
つめていけばよい。
それ以外のことは、無視。
ただひたすら、無視。

 で、ひとつ忘れていけないのは、同じように2つの論理で動いている中国。
その中国が動かないかぎり、北朝鮮問題は解決しない。
その中国は、北朝鮮という「利権」を手放すことを、何よりも恐れている。
アメリカ軍が38度線を越えて、現在の中朝国境までのびてくるのを、何よりも恐れてい
る。
さらに言えば、朝鮮半島の混乱を何よりも恐れている。

 つまり北朝鮮の問題は、対中国問題と考えてよい。
そう考えた上で、中国を追い詰める。
「さあ、お前の血友ではないか。何とかしろ!」と。
多くのマスコミが書いているように、「中国に責任を取ってもらう」。

●6か国協議

 6か国協議など、最初から失敗するに決まっていた。
同じ2つの論理をかかえる中国と北朝鮮。
あのおバカ・ヒル(前国務次官補)が北朝鮮に与えたのは、時間と金と音楽(ニューヨー
ク・フィル)。
それに「テロ支援国家解除」という、おまけつき。
が、何よりも(時間)が痛い!
その間に、北朝鮮は核兵器を完成させてしまった!
 
 で、具体的には、北朝鮮のもつ独裁制という矛盾を、しっかりとついていく。
人権問題で攻めるのもよい。
韓国も日本も、けっして武力を使ってはいけない。
武力を使ったら最後、今度は収拾がつかなくなる。
いつの時代も、「戦争」というのは、そういうプロセスを経て、一気に拡大する。
「勝つ」とか「敗れる」という話ではない。
仮に勝った(?)としても、その収拾には、その何十倍ものエネルギーとマネーが必要に
なる。

 日本にその覚悟があるなら、よし。
そうでないなら、ただひたすら無視。
無視して、北朝鮮を、(自然死)に追い込む。
北朝鮮といおうより、金xx体制を、崩壊に導く。
それが北朝鮮の人たちにとっても、もっともよいシナリオということになる。

もちろん中国は、それでは困るだろう。
だったら、38度線以北は、中国に任せればよい。
任せて、核兵器のない、親中政権を樹立させればよい。

 あとは時間が解決してくれる。
10年とか20年はかかるかもしれない。
しかしやがて韓国からはアメリカ軍が撤退し、北朝鮮からは中国が撤退する。
もともとはひとつの民族。
やがて合流する。

 最後に、もう一度。
日本よ、韓国よ、あんなつまらない国を本気で相手にしてはいけない。
それとも日本よ、韓国よ、あんなつまらない国と、本気で心中でもするつもりなのか。

●最後に……

 ふつうの論理とは何か?
さらに言えば、「ふつう」とは何か?
北朝鮮をテーマに、それを考えてみた。

たとえば現在の北朝鮮を見て、「あの国はふつうではない」と言うのは簡単なこと。
(実際、ふつうではないが……。)
しかし同時に、では私たちのもつ論理がふつうかどうか、それを疑ってみる。

日本だって、無数の矛盾をかかえている。
矛盾だらけと言ってもよい。
そういう矛盾を棚にあげ、「私たち日本人の論理は、ふつう」と、果たして私たちは胸を張
って言えるだろうか。
それを北朝鮮に押しつけることができるだろうか。

 いくら日本人の私たちが、「私たちは戦前の日本とはちがう」と叫んでみたところで、世
界の人たちから見れば、「戦前の日本も、戦後の日本も同じ」。
「北朝鮮も日本も同じ」。
そういうことになる。

つまり私が言いたいのは、「日本よ、日本人よ、もっと謙虚になれ」ということ。
さらに言えば、「日本よ、日本人よ、もう一度、原点に立ち返ってものを考え直してみよう」
ということ。
「私たちの論理は、はたしてふつうなのか?」と。

 北朝鮮問題は、そういう点で、私たち日本人にとっては、すばらしい反面教師というこ
とになる。
2010年5月23日記

++++++++++++++++

以下、翻訳

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【母子分離不安について】(けっして軽く考えてはいけない)

++++++++++++++++++

母子分離不安をけっして、軽く考えてはいけない。
「嫉妬」がからむだけに、扱い方をまちがえると、
子どもの心を大きく変調させる。
そのまま何かの「障害」につながることもある。
母子分離不安がこじれ、はげしい赤ちゃん返りを
起こす例となると、ゴマンとある。

さらにその赤ちゃん返りがこじれて、常時発熱状態に
なった子ども(6歳女児)の例もある。

たまたま昨日、ある母親と母子分離不安について
会話をしたので、古い原稿だが、ここに再掲載する。
(2010−5−21)

++++++++++++++++++

●対人恐怖症

+++++++++++++++++++++

ある母親から、掲示板のほうに、こんな相談
があった。

明らかに、分離不安がこじれた対人恐怖症に
よるものと思われる子どもについてである。

+++++++++++++++++++++

【Yさんより、はやし浩司へ】

はやし先生、初めまして。HP拝見させて頂きまして、こちらの掲示板の存在を知りまし
た。

実は今私にはある悩みがあるのですが、その解決策になる情報がないものかと

にて探しておりましたところ、こちらにたどりついたわけなのです。

そうしてはやし先生のご意見等を拝見いたしまして、ぜひ、はやし先生にご相談にのって
頂きければと思い、書き込みさせて頂きました。

前置きが長くなってしまい申し訳ありません。以下、長文・乱文で大変失礼致しますが、
お目にかけて頂ければ幸いです。

私には、今月末で2歳になる息子が1人おります。

息子は、会ったことのない人や、会ったことがありましても回数の少ない人と会った場合
は人見知りをします。女の人にはあまりそうでもないのですが、男の人は少し苦手なよう
で、私の後ろに隠れたり、時には泣いたり。しかし平気な時もありますし、少し時間がた
てば慣れて一緒に遊んだりします。

私の目から見て(素人判断で恐縮なのですが)比較的、人見知りが酷い方だとは思わない
のです。しかし一つ気になることがあるのです。

私の主人の両親が、毎月に1、2回息子に会いに来てくれたり、私達の方から主人の両親
のいる実家へ遊びに行ったりするのですが、息子は主人の両親に会う度、決まって泣くの
です。特に主人の実家へ行った時などは、車から降ろした途端泣きだします。

私や主人の友人宅へ遊びに行った時は、玄関先で泣きはしますが、抱っこをして部屋の中
へ入りしばらくすれば、慣れてくるのか泣き止むのです。ところが主人の実家だと、いつ
までも泣いて私や主人にしがみつき、一人で歩き回ったりするまでに、とにかく時間がか
かります。ですから最近主人の実家に行った時には、まず、家の周りを少し散歩してから
中に入るようにしているのですが、あまり効果は無いようで、家に入ればまた泣き出しま
す。

悩みというのは、その息子の両親に対する態度なのです。

最近どうもそのことが気にかかるようになり、そういえば息子は初対面の人と会ってもこ
んなにひどくなくことはないな、と感じるようになってきたのです。そして今までに何か
こう、似たようなことはあっただろうかと思い返してみたところ、息子が予防接種や、風
邪を引いたときにお世話になる病院の医師の顔を見て必ず泣き出す…。この時の反応が唯
一近いと思われます。

もしも息子の中で医師に対して、『この人は注射という痛いことをする人だから、怖いし、
嫌』という思いを持って泣き出すのであれば、主人の両親に対しても何か泣く理由がある
のではと思ったのです。そうして思い当る節が出てきたのです。

主人の両親にしてみれば、息子は初孫で本当に本当に可愛くて可愛くて仕方ない様子です。
ところがあまりにも可愛すぎるのか、息子が泣いているのに無理やり抱っこし続けたり、
お義父さんとお義母さんの間で、息子を抱くために取り合いになることもありました。息
子が生まれてまだ1か月の時も、私や主人や私の実母以外の人が抱くと泣くのですが、主
人の義母は泣いている息子をいつまでも抱っこし続けた結果、主人の両親が帰った後も、
息子には4時間も延々と泣き続けられました。

先日も主人の両親が私達の家に遊びにこられて、泣く息子を無理やり外に連れ出し、散歩
に連れて行こうとしたことがありました。しかし息子があまりにもひどく泣くものですか
ら(泣きすぎてむせるくらいです)私がとりあえず落ち着かせるために一度抱っこをしよ
うとしたのですが、結局泣き続ける息子に構わず、主人の両親は息子を連れて散歩に行っ
てしまいました。

1時間程して帰ってきた息子は、ケロッとしていたので、その時はあまり気にもとめなか
ったのですが、先程申し上げた「思い当たる節」というのは、主人の両親のこういう『強
引』なところが、もしかしたら息子は嫌で泣くのではないかということなのです。しかし
当のお義父さんとお義母さんは「まだ私達の顔を覚えてないから泣くのね」といった具合
いで、息子が泣くのは顔を覚えていないための人見知りが原因だと思っているようです。
確かに私にも、どちらが正しいのかはハッキリと分かりません。ですから息子の気持ちや
考えを分かってやれない事が口惜しくて歯痒くてならないのです。

主人の両親は更に「慣れさせるためには、泣いてでも強引に3人だけで(主人の両親と私
の息子)だけで出かけないと駄目だな、そうしないといつまでたっても慣れないから泣く
んだよ」と言っていたのですが、そういうものなのでしょうか? 私にすれば、そんな強
引なことをしなくても少しずつ慣らしていけばいいのでは…と思うのですが、これは過保
護な考えでしょうか?最近、主人の両親に会う息子がなんだか可哀相に思えてならないの
です。

はやし先生、どうかご意見をお聞かせ願えませんでしょうか?もしも主人の両親の考え方
が間違いでなく正しいのであれば私も安心して子供をみてもらうのですが…。

私のような悩みは小さいことでしょうし、もっと大きな悩みを抱えた方のお気持ちを考え
れば、こんな相談をもちかけて申し訳なくも思うのですが、どうにも不安でたまりません。
はやし先生もご多忙かとは思いますが、どうぞ宜しくお願い致します

【はやし浩司よりYさんへ】

 お子さんには、何ら問題はありません。ただの対人恐怖症です。2歳ということですか
ら、人見知りの時期が少し延び、分離不安へとつながり、それがこじれたケースと考える
とわかりやすいでしょう。

 恐怖症については、このあと、別の原稿を添付しておきます。

 ただ恐怖症については、理由も原因もさまざまであり、どれがそうであるか、特定する
ことはできません。また特定しても意味はありません。

 子どもの世界でよく知られた恐怖症としては、高所恐怖症、閉所恐怖症、お面恐怖症(お
面をかぶった人をこわがる)、先端恐怖症(とがったものをこわがる)、人形恐怖症(大き
な人形をこわがる)などなどがあります。

 一度何かのことで恐怖症を覚えると、さまざまに形を変えて、それが出てきます。私も、
子どものころ、閉所恐怖症でした。(今も、そうです。)で、飛行機事故に遭遇してから、
今度は、飛行機恐怖症になりました。そういうものです。

 こうした恐怖症をなおす方法はありません。またなおそうと思わないこと。大切なこと
は、そういう場面からできるだけ、子どもを遠ざけることです。もっとわかりやすく言え
ば、忘れさせること。

 あとは自己意識が育つまで、時期を待ちます。自己意識が育ってくれば、自分で自分を
コントロールできるようになります。

 Yさんのお子さんは、ここにも書いたように、何でもない対人恐怖症です。子どもの世
界では、珍しくも何ともありません。ただ子どもの心理は複雑です。もう少し大きくなっ
てから、「メガネがこわかった」「ひげがこわかった」「男の人がこわかった」と、理由を言
うことがあります。が、それはあくまでも、あとになってから、わかることです。

 Yさんのお子さんは、何かにおおきなこだわりをもち、そうなったと考えるべきです。
無理に、いやがるのに慣れさせようとしても、かえって心がこじれるだけです。ご両親に
は悪いですが、そのあたりをよく理解してもらい、強引なやり方、乱暴なやり方をひかえ
てもらうようにしてはどうでしょうか。
 
 あまりぐずりがひどいようであれば、心の緊張感をとるためにも、カルシウム、マグネ
シウム、カリウムの豊富な海産物を中心とした献立に切り替えてみてください。それで症
状は、かなり落ちついてくるはずです。(同時に、甘い食べ物は控えてください。)

 あくまでも子どもの立場で、子どもの視線でものを考えることです。子どもにしてみれ
ば、両親の前に立つと、あなたが数百人もいる会場の演壇に立たされているのと同じ心理
状態になるのです。

++++++++++++++++

●子どもの恐怖症

 先日私は、交通事故で、危うく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こ
うして文を書いているのが、不思議なくらいだ。

が、それはそれとして、そのあと、妙な現象が現れた。夜、自転車に乗っていたのだが、
すれ違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるように感じたのだ。私は少し走っては
自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった…。恐怖症である。

子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。たとえば以前、「学校の怪談」と
いうドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたくない」と言う園児が続出
した。これは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。
それが恐怖症だが、この恐怖症は子どもの場合、何に対して恐怖心をだくかによって、ふ
つう、次の三つに分けて考える。

 【対人(集団)恐怖症】子ども、特に幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある
程度の警戒心を持つことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子ども
や、注意力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無とんちゃくで、はじめ
て行ったような場所でも、我が物顔で騒いだりする。

が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失語
症)、顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる(不
登校)などの症状が現れる。

 【場面恐怖症】その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベーターに
乗れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。私も子どものころ、
暗いトイレがこわくて、用を足すことができなかった。そのせいかどうかは知らないが、
今でもトンネルなどに入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚える。

 【そのほかの恐怖症】動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、手の汚れやにおいを嫌う(疑
惑症)、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。ペットの死をきっかけに
死を極端にこわがるようになった子ども(年長男児)もいた。

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、し
かっても意味がない。一般に「心」の問題は、1年単位、2年単位で考える。子どもの立
場で、子どもの視点で、子どもの心を考える。無理な誘動や強引な押し付けは、タブー。
無理をすればするほど、逆効果。ますます子どもは物事をこわがるようになる。

いわば心が風邪をひいたと思い、できるだけそのことを忘れさせるような環境を用意する。
症状だけをみると、神経症と区別がつきにくい。私の場合も、その事故から数日間は、車
の速度が五十キロ前後を超えると、目が回るような状態になってしまった。「気のせいだ」
とは分かっていても、あとで見ると、手のひらがびっしょりと汗をかいていた。が、少し
ずつ自分をスピードに慣れさせ、何度も何度も自分に、「こわくない」と言いきかせること
で、克服することができた。

いや、今でも時々、あのときの模様を思い出すと、夜中でも興奮状態になってしまう。恐
怖症というのはそういうもので、自分の理性や道理ではどうにもならない。そういう前提
で、子どもの恐怖症に対処する。

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●分離不安について

子どもの情緒不安

 子どもの発達をみるときは、次の四分野をみる。(1)情緒の安定度、(2)精神の完成
度、(3)知能の発達度、それに(4)運動能力。

そのうちの情緒の安定度は、体力的に疲れたと思われるときに観察して、判断する。たと
えば運動会や遠足から帰ってきたようなとき。そういうときでも、不安定症状(ぐずる、
ふさぎ込む、ピリピリする、イライラするなどの精神的動揺)がなければ、情緒の安定し
た子どもとみる。

あるいは子どもは寝起きをみる。毎朝、不機嫌なら不機嫌でもよい。寝起きの様子が安定
していれば、情緒の安定した子どもとみる。子どもは2〜4歳の第一反抗期、思春期の第
二反抗期に、特に動揺しやすいということがわかっている。経験的には、乳幼児期から少
年少女期への移行期(4〜5歳)、および小学2年から4年ぐらいにかけても、不安定にな
ることがわかっている。この時期を中間反抗期と呼ぶ人もいる。

 情緒が不安定な子どもは、心が絶えず緊張状態にあるのが知られている。外見にだまさ
れてはいけない。柔和な笑みを浮かべながら、心はまったく別の方向を向いているという
ことは、よくある。このタイプの子どもは、気を許さない、気を抜かない、周囲に気をつ
かう、他人の目を気にする。よい子ぶることもある。

そういう状態の中に、不安や心配が入り込むと、それを解消しようと一挙に緊張感が高ま
り、情緒が不安定になる。症状としては、攻撃的、暴力的になるプラス型。周囲に溶け込
めず、引きこもったり、怠学、不登校を繰り返したりするマイナス型に分けて考える。プ
ラス型は、ささいなことでカッとなることが多い。

さらに症状が進むと、集団的な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴
えるようになったりする。原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になる
ことが多い。たとえば親の放任的態度、無教養で無責任な子育て、神経質な子育て、家庭
騒動、家庭不和、恐怖体験など。

ある子ども(5歳男児)は、たった一度だが、祖父にはげしく叱られたのが原因で、自閉
傾向(親と心が通い合わない状態)を示すようになった。また別の子ども(3歳男児)は、
母親が入院している間、祖母に預けられたことが原因で、分離不安(親の姿が見えないと
混乱状態になる)になってしまった。

 子どもの情緒が不安定になると、親はその原因を外の世界に求めようとする。しかし原
因の第一は、家庭環境にあると考え、反省する。子どもの側から見て、息が抜けないよう
な環境など。子どもの心に負担になっているもの、心を束縛しているようなものがあれば、
取り除く。

いちばんよい方法は、家庭の中に、誰にも干渉されないような場所と時間を用意すること。
あれこれ親が気をつかうこと(過関心)は、かえって逆効果。子どもが情緒不安症状を示
したら、スキンシップを大切にし、温かい語りかけを大切にする。叱ったり、冷たく突き
放すのは、かえって子どもの情緒を不安定にする。

なお一般的には、情緒不安は、神経症の原因となることが多い。たとえば、夜驚(やきょ
う)、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指しゃぶり、チック症、爪か
み、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強迫傾向、潔癖症、
嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、緩慢行動、夜尿症、頻尿症など。
症状は千差万別で、定型がない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
分離不安 恐怖症 子供の心理 情緒不安)

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●子どもの分離不安

 ある女性週刊誌の子育てコラム欄に、こんな手記が載っていた。日本でもよく知られた
コラムニストのものだが、いわく、「うちの娘(むすめ)(3歳児)をはじめて幼稚園へ連
れていったときのこと。娘ははげしく泣きじゃくり、私との別れに抵抗した。私はそれを
見て、親子の絆の深さに感動した」と。

とんでもない! 

ほかにも詳しくあれこれ症状が書かれていたが、それを読むと、それは、「別れをつらがっ
て泣く子どもの姿」ではない。分離不安の症状そのものだった。

 分離不安症。親の姿が見えなくなると、混乱して泣き叫んだり暴れたりする。大声をあ
げて泣き叫ぶタイプ(プラス型)と、思考そのものが混乱状態になり、オドオドするタイ
プ(マイナス型)に分けて考える。

私はこのほかに、ひとりで行動ができなくなってしまうタイプ(孤立恐怖)にも分けて考
えているが、それはともかくも、このタイプの子どもは多い。4〜6歳児についていうな
ら、15〜20人に1人くらいの割合で経験する。親がそばにいるうちは、静かに落ち着
いているが、親の姿が見えなくなったとたん、ギャーッとものすごい声をはりあげて、そ
のあとを追いかけたりする。

 原因は……、というより、分離不安の子どもをみていくと、必ずといってよいほど、そ
のきっかけとなった事件が、過去にあるのがわかる。はげしい家庭内騒動、離婚騒動など。
母親が病気で入院したことや、置き去りや迷子を経験して、分離不安になった子どももい
た。

さらには育児拒否、虐待、下の子どもが生まれたことが引き金となった例もある。子ども
の側からみて、「捨てられるのではないか」という被害妄想が、分離不安の原因と考えると
わかりやすい。

無意識下で起こる現象であるため、叱ったりしても意味がない。表面的な症状だけを見て、
「集団生活になれていないため」とか、「わがまま」とか考える人もいる。無理をすればか
えって症状をこじらせてしまう。いや、実際には無理に引き離せば、しばらくは混乱状態
になるものの、やがて静かに収まることが多い。

しかしそれで症状が消えるのではない。「もぐる」のである。一度キズついた心は、そんな
に簡単になおらない。この分離不安についても、そのつど繰り返し繰り返し症状が現われ
る。

 こうした症状が出てきたら、鉄則はただ一つ。無理をしない。その場ではやさしくてい
ねいに説得を繰り返す。まさに根気との勝負ということになるが、これが難しい。現場で、
そういう親子を観察すると、たいてい親のほうが短気で、顔をしかめて子どもを叱ったり
しているのがわかる。「いいかげんにしなさい!」とか、「私はもう行きますからね」とか。
こういう親子のリズムの乱れが、症状を悪化させる。子どもはますます被害妄想をもつよ
うになる。

 分離不安は4〜5歳をピークとして、症状は急速に収まっていく。しかしここにも書い
たように、一度キズついた心は、簡単にはなおらない。

ある母親はこう言った。「今でも、夫の帰宅が予定より遅くなっただけで、言いようのない
不安感に襲われます」と。姿や形を変えて、おとなになってからも症状が現われることが
ある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
分離不安 子供の分離不安 後追い人見知り 人見知り)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●退職後の夫婦生活

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「みんな今ごろ、どうしているんだろう?」と、
そんなことをよく考える。
健康問題、経済問題、そして家族問題などなど。
60歳を過ぎてから、こうした問題が、質的に
変化したのを、私は直接、肌で感じている。

それまでは、かなり楽天的だった。
「どうにかなる」という思いが強かった。
しかし今は、ちがう。
どのひとつをとっても、深刻さがましている。
あるいは考えれば考えるほど、袋小路に入って
しまう。

夫婦関係についても、そうだ。
たとえば私たち夫婦は、よく喧嘩する。
喧嘩といっても、私の側からの一方的なもの。
が、たいへん幸いなことに、私のワイフは、精神的に、
きわめて安定している。
だからふつうだったら、喧嘩にならないはず。
ワイフは、いつも私を軽くあしらう。
私を無視する。
だから喧嘩する(?)。

が、喧嘩が悪いというのではない。
たいてい1〜2日で、仲直りする。
私のほうがあやまれば、それですむ。
つまりは、いつも私のひとり芝居?

が、その喧嘩も、このところ(さみしさ)を帯びてきた。
若いときのような「お祭り」では、すまなくなってきた。
あれほど気丈夫だったワイフも、60歳。
気弱になった。
「私には、あなたしかいない……」と、そんな弱音を
吐くこともある。

が、この年齢で、マンネリほど、恐ろしいものはない。
「そこにあなたがいて、ここに私がいる」というような
状態では、たがいに息が詰まってしまう。
そこで私たちは、この危機(?)を乗り越えるため、
2010年に入って、こんなことをするようになった。
「一泊旅行」である。

講演に招かれるたびに、それを利用して、2人で旅行をする。
何かネットでよい情報が飛び込んできたら、すかさず、それを
利用する。
たがいの倦怠感を吹き飛ばすには、旅行がいちばん。

……ということで、今夜は、細江町にある国民宿舎にやってきた。
キャンペーン中ということで、一泊9000円弱で泊まれた。
新装、増改築したばかりで、星はもちろん5つの★★★★★。
(星の数は、(料金の満足度)x(サービスの満足度)で計算。)

【注:国民宿舎奥浜名湖、電話、053−522−1115。
〒431−1305 静岡県浜松市北区細江町気賀1023−1
JR浜松駅からは、車で40分ほど。
東名西インターからは、15分ほど。
この国民宿舎の売り物は、何と言っても、窓からの景色。
小高い丘の山頂にあって、見晴らしがすばらしい。】

何といっても、風呂が清潔なのがよい。
食事も、料金が料金だから、ぜいたくは言えない。
満足+大満足。

またこういう旅館でワイフを見ると、別人(愛人かな?)のように
新鮮に見えるから不思議。
遠くへ行くのもよいが、こうして近くにある温泉をめぐるのも、
また楽しい。

60歳を過ぎて、夫婦関係に悩んでいる人は、ぜひ一度、
旅行を試してみてほしい。
行くまでは何かと迷うが、こうして来てしまうと、いつも
「よかったね」となる。

そう、今夜も食事が終わった後、ワイフに「来てよかったね」と
声をかけると、ワイフもうれしそうに笑った。
これでしばらくは(?)、我が家も平穏な日々がつづきそう。
……と言いながら、すでに来週の行動計画を立て始めている。

そうそう、6月は、あちこちへ講演で呼ばれる。
その前後にどこかの旅館に、一泊する。
忙しくなりそう!

(はやし浩司 国民宿舎 奥浜名湖 夫婦の倦怠期 老後の夫婦 夫婦問題)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2010++++++はやし浩司

【感情論】(感情と感動、そして教育とは)

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人は悲しいから、泣くのか。
泣くから、悲しいのか。

「悲しいから、泣く」という説を、
中枢神経起源説という。
「泣くから、悲しい」という説を、
末梢神経起源説という。
(以上、齋藤勇著「心理学の基本が
すべてわかる本」より)。

ほかにも、
(1)ジェームス・ランゲの末梢神経説
(2)キャノン・バードの中枢神経説
(3)アーノルドの情緒評価説
(4)プルチックの心理進化説
(5)シャクターの認知―生理説
があるという(同書、P53)。

 どれも一長一短というか、納得できる部分もあれば、
そうでない部分もある。
人がもつ「感情」というのは、それぞれの
ばあいにおいて、複雑なメカニズムを通して
生まれるものらしい。

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●共鳴性

 私たちは、「心の暖かい人」というとき、どういう人を、心の暖かい人というのか。
また「心が暖かい」というのは、心のどういう状態をいうのか。
一方、「心の冷たい人」というとき、どういう人を、心の冷たい人というのか。
また「心が冷たい」
というのは、心のどういう状態をいうのか。

 EQ論(情緒指数=人格の完成論)では、他者との共鳴性の高い人を、人格の完成度の
高い人という。
わかりやすく言えば、「心のポケット」が多い人を、共鳴性の高い人という。
その分だけ、他人の悲しみや苦しみを、よりよく理解できる。
相手の立場で、相手の気持ちになって、ものを考えることができる。
ただ、そういう人を、短絡的に、「心の暖かい人」と言ってよいかどうかはわからない。
共鳴性が高い人は、概して、「心の暖かい人」とみる。
しかし共鳴性が低いからといって、「心の冷たい人」ということにはならない。

 たとえば私は、実兄、実母の介護を経験してはじめて、介護の苦労というものがわかっ
た。
それまでの私には、わからなかった。
「私」という人間は同じ人間なのに、介護の経験をする前と後とでは、介護をする人に対
する共鳴性は、大きく変わった。
今だと、介護で苦労している人の気持ちがよく理解できる。
相手の立場で、ものを考えることができる。
心のポケットができたためと考えてよい。
が、つまりだからといって、私が「心の暖かい人間」になったとは、言えない。

 心が暖かい、冷たいという基本的な部分は、ポケットの有無によっては、変わらない。
ポケットの有無にかかわらず、それ以前に、その人の性質として備わっている。
それが共鳴性ということになる。

●脳のCPU(中央演算装置)

 一方、私の知人にこんな人(男性、65歳くらい)がいる。
他人の不幸が、何よりも楽しいらしい。
用もないのに他人の家の不幸をのぞいては、それを酒の肴(さかな)にして、楽しんでい
る。
心の壊れた人だが、当人は、そうは思っていない。
おかしなことに、自分では、他人の面倒をよくみる、心の暖かい人物と思い込んでいる。
脳のCPU(中央演算装置)が狂っているから、自分を客観的に評価することができない。
自分を基準にして、自分を見る。

 心の冷たい人というには、そういう人をいう。
……と断言するのも、むずかしい(?)。
で、そこで登場するのが、「感情論」。

 私たちがもつ「感情」というのは、いったい、脳のどの部分で、どのようにして生まれ
るのか。
それがわかれば、心の暖かい人と、そうでない人を、大脳生理学的に分類することができ
る。
感情が豊かで、何かにつけ共鳴性の高い人を、「心の暖かい人」という。
たとえば映画『男はつらいよ』の中に出てくる、寅さん的な人を、想像すればよい。
感情が平坦で、共鳴性の乏しい人を、「心の冷たい人」という。
たとえばコミック『ゴルゴ13』に出てくる、ゴルゴ13的な人を、想像すればよい。

●泣くから悲しい

 冒頭に書いたことを、もう一度、考えてみる。

人は悲しいから、泣くのか。
泣くから、悲しいのか。

「悲しいから、泣く」という説を、中枢神経起源説という。
「泣くから、悲しい」という説を、末梢神経起源説という。
が、同書によれば、現在は、「このふたつの中間のような生理・認知二因説をとっている」
「感情は生理的興奮と認知のふたつによって起こるという説」(同書、P54)ということ
らしい(シャクター)。

 「悲しいから、泣く」というのは、常識的な考え方ということになる。
が、「泣くから、悲しい」というのも、合理性がある。
同書は、こんな例をあげている。

 たとえば車を運転していて、突然道路に人が飛び出してきた。
運転していた人は、あわててブレーキを踏む。
すべてが終わったあと、「ああ、こわかった」と。

 つまり「こわかった」という感情は、このばあい、あとから出てきた感情と考える。
こわかったから、ブレーキを踏んだのではない。
ブレーキを踏んだから、こわかった(?)。

もう少し専門的にいうと、(脳があることがらに反応する)→(それが脳に向かう求心性神
経を経て)→(脳の中枢神経)に伝わる。
その情報を得て、(脳の中枢神経)が、「これは悲しむべきことだ」と知り、「悲しみという
感情を覚える」(同書)と。

●シャクターの認知―生理説

 シャクターの認知―生理説は、つぎのように説明する(同書P53)。

(刺激)→(身体的反応の高まり、状況検討)→(情緒判断)→(情緒)。

 つまり(刺激)があって、それを脳の中枢神経が判断し、それが情緒、つまり感情へと
つながっていく、と。

 この説で重要なところは、(とくに心の暖かさという点で重要なことは)、「脳の中枢神経
が判断する」という部分。
「判断する部分」の状態で、大きな(差)が生まれる。
ここが重要!
私にもこんな経験がある。

●映画『ベン・ハー』

 私はビデオを手に入れてからというもの、毎年のように、映画『ベン・ハー』を観た。
その映画を観ているとき、こんな奇妙な現象が現れた。
涙が出てくるシーンが決まっていたこと。
またそのシーンが近づいてくると、まだそのシーンになっていないのに、先に、涙が出て
くるようになったこと。
ここ10年ほどは、あまり観ていないが、つい先月、BS放送で、久しぶりに『ベン・ハ
ー』を観た。
そのときも、そうだった。
涙が出てくるシーンが近づいてくると、やはり先に目頭がジーンとしてきた。

 これはパバロフの条件反射によるものなのか。
それとも脳の中枢神経が、先に判断して、それを遠心性神経系を通じて、末梢神経に「涙
を流せ」と命令しているためなのか。
どうであるにせよ、脳の中枢部にある判断力が、感情に大きな影響を与えているのは事実。
(判断力が強く働く)……それが強い感情となって、末梢神経に伝わる。
そこで「悲しい」「うれしい」という感情が生まれて、涙腺を刺激する。

●脳とが支配する感情

 この話を、つまり先に書いた、ブレーキを踏んだ話を、たまたま中学2年生の女子にし
てみた。
聡明な子どもである。
その子どもはそれを聞いて、「へえ〜、そうなんだ!」と驚いて見せた。
このばあいも、脳の中枢神経がまず、「おもしろい!」と判断したことになる。
それを遠心性神経が末梢神経に情報を伝え、(驚く)という感情につなげた。

 が、このばあい、もし中枢神経が「おもしろい!」と思わなかったら、どうなるか。
あるいはその子どもが、それが理解できるほど、聡明でなかったとしたら……?
その子どもは、(驚く)という感情を示さなかったことになる。

●なぜ人間なのか

 このことは、感情について、重要な教訓を示唆している。
つまり感情は、訓練によって、その幅を深みを増すことができるということ。
それはちょうど、学習することによって、知識や経験を深めることができるのに似ている。
が、そうでなければ、そうでない。
感情も、退化する(?)。

 どちらがよいかということになれば、当然、感情というのは、豊かであればあるほど、
よい。
もしだれかが、「人間はなぜ人間なのか」と問えば、私は迷わず、「感情があるから」と答
える。
たとえば人間が、映画『スタートレック』の中に出てくる、ミスター・スポックのように
なってしまったら、人間の織りなす世界は、まさに昆虫の世界と同じ。
味気なく、つまらないものになる。
どちらがよいかということになれば、感情は豊かであればあるほどよい。
もしだれかが、「人間はなぜ生きるか」と問えば、私は迷わず、「感動があるから」と答え
る。

 感情のない人間、感動のない人生……。
それは即、人間性の否定、さらには命の否定と考えてよい。

●では、どうすればよいか

 「感情」というと、どこか得体の知れないものに考える人もいるかもしれない。
しかしそうではなく、脳の中枢神経が支配するものと考えると、先にも書いたように、「訓
練」という言葉を、そのまま使うことができるようになる。

 感情は、訓練によって、その幅を深みを増すことができる!
あとはその方法をさがし、訓練すればよい。

 たとえば音楽を聴く。
たとえばすばらしい映画を観る。
旅行をする。
方法はいろいろある。
要するに日常の生活の中に、「感動」を呼び込む。
その感動が、中枢神経を刺激する。
私も、日常的に、こんなことを経験している。

 先日も、リチャード・ギア主演の『HACHI(忠犬ハチ公)』というDVDを観た。
よかった。
何度も涙をもらした。
そのあとのこと。
家で飼っているハナ(ポインター犬)が、それまでになく、いとおしく見えた。
庭に出て、何度もハナをさすってやった。

 あるいはYOUTUBEをサーフィンしながら、いろいろな音楽を聴く。
1〜2時間も聴いていると、頭の中に、いろいろな音楽が浮かんでくるようになる。
テーブルの上の果物を見ても、浮かんでくる。
庭先の菜園を見ても、浮かんでくる。
ワイフと話していても、食事をしていても、浮かんでくる。
中枢神経が、音楽でいっぱいになる。

●感情

 ……ということで、子どもの世界では、「感動させる」ことが、いかに重要なことかがわ
かってくる。
たとえば教育を通して、「知識」を教えるのではない。
「知識をもつ喜び」を教える。
「学ぶ喜び」を分かち合う。
その感動が大切。
知識を覚えたかどうかということは、つぎのつぎ。
(だからといって、知識を否定しているのではない。誤解のないように!)

 つまり、少しおおげさな言い方に聞こえるかもしれないが、「教育」で大切なことは、「人
間を育てる」こと。
その第一歩が、「感動を与える」ということになる。

感情論。
一読すると、無意味な論争に見えるかもしれないが、その奥は深い。
久々に、新しい知識を得て、私は、今、感動している。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 感情 感情論 感情と感動 感動の大切さ ジェームス・ランゲの末梢
神経説 キャノン・バードの中枢神経説 アーノルドの情緒評価説 プルチックの心理進
化説 シャクターの認知―生理説 感情はどこで生まれるか)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

【心のメカニズム】(脳内ホルモン支配説)

●扁桃核(扁桃体) 

+++++++++++++++++

脳の辺縁系の中に、扁桃核(扁桃体)
という組織がある。
調べれば調べるほど、(私のばあい、
「聞けば聞くほど」ということになるが)、
不思議な組織である。

私たちが「人間性」と呼んでいる部分は、
どうやらこの扁桃核が司っているらしい。
「人間性」イコール、「心」と考えてもよい。
そんなことが、近年、少しずつわかってきた。

+++++++++++++++++

●扁桃核

 扁桃核(扁桃体ともいう)については、たびたび書いてきた。
たった今、グーグルの検索エンジンを使って、「はやし浩司 
扁桃核」で検索してみたら、504件、
「はやし浩司 扁桃体」で、602件、ヒットした。

 その扁桃核について、こんな記事が載っていた。
2007年に中日新聞に載っていた記事である。
当時書いた原稿の一部を、そのまま紹介する。

++++++++++++++++++++

こんな興味ある研究結果が公表されたので、
ここに紹介する。

「いじめは、立派な傷害罪」という内容の
記事である。

++++++++++++++++++++

 東北大学名誉教授の松沢大樹(80)氏によれば、「すべての精神疾患は、脳内の扁桃核
に生ずる傷によって起きる」と結論づけている。

 松沢氏によれば、「深刻ないじめによっても、子どもたちの扁桃核に傷は生じている」と。

 傷といっても、本物の傷。最近は、脳の奥深くを、MRI(磁気共鳴断層撮影)や、P
ET(ポジトロン断層撮影)などで、映像化して調べることができる。実際、その(傷)
が、こうした機器を使って、撮影されている。

 中日新聞の記事をそのまま紹介する(07年3月18日)。

 『扁桃核に傷がつくと、愛が憎しみに変わる。さらに記憶認識系、意志行動系など、お
よそ心身のあらゆることに影響を与える。……松沢氏は、念を押すように繰りかえした。『い
じめは、脳を壊す。だからいじめは犯罪行為、れっきとした傷害罪なんです』と。

 今、(心)そのものが、大脳生理学の分野で解明されようよしている。

+++++++++++++++++++++++

 これだけでも扁桃核が、重大な組織であることがわかる。
この扁桃核が、大脳皮質部からの信号を受けて、エンドロフィン系、エンケファリン系の
モルヒネ様のホルモンを分泌する。
それが脳内を甘い陶酔感で満たす。
何かよいことをすると、気持ちがよくなる。
そういった現象は、この扁桃核の機能によって、引き起こされる。

 が、その扁桃核は、かなりデリケートな組織らしい。
もろく、傷つきやすい。
それを東北大学名誉教授の松沢氏が、科学的に証明した。

 言い換えると、子育てをする上において、扁桃核に悪影響を与えるような環境や
行為は、タブー中のタブーということになる。
万が一、扁桃核に傷をつけるようなことがあると、その子どもの人間性そのものに大きな
影響を与えることになる。

●心の傷

 では、「心の傷」とは何かということになる。
それについては、まさに千差万別。
定型がない。
つまり症状には、定型がない。
どこに傷がついたかによっても、ちがう。
ひがみやすい、ひねくれやすい、いじけやすい……などの性格的症状に始まって、
さまざまな身体的症状や精神的となって現れることもある。
最近の研究によれば、うつ病の「種」すらも、乳幼児期に作られるということまで
わかってきた。

 ともかくも、扁桃核に傷がついたばあい、「心」、つまり、「人間性」に影響を与える
ことになる。
「あの人は、心の温かい人だ」「冷たい人だ」というときの、(温もり)を決定する。

++++++++++++++++++++

九州大学の吉田敬子氏は、つぎのように説く。
母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、
子どもは、『母親から保護される価値のない、
自信のない自己像』(九州大学・吉田敬子・
母子保健情報54・06年11月)と。

さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、
強迫性障害、不安障害の(種)になることもあるという。
それが成人してから、うつ病につながっていく、と。

++++++++++++++++++++

●子どもの世界

 ほかにもいろいろある。
そのことは、子どもたちの世界を見ていると、よくわかる。
というのも、子どもはおとなとちがい、ありのままの姿を、外に表現する。
隠すということをしない。
だからよくわかる。

 言い換えると、子どもにとって望ましい環境で、心安らかに育てられた子どもは、
共通した性格、性質を示す。
穏やかで、やさしく、表情も豊かで、心が静かに落ち着いている。
もちろんそれ以前の問題として、何らかの障害をもった子どもは別だが、ともかくも、
ほっとした温もりを感ずる。
が、そうでない子どもは、そうでない。

親にようる虐待、無視、冷淡、拒否的態度、暴力など。
こうした衝撃が日常的に繰り返されたりすると、子どもの心には大きな影響を与える。
たった一度でも、それが強烈だと、子どもの心をゆがめることがある。
どこかに不自然さや、違和感を覚えたりする。

 何かあると、つっぱってしまう。
ひがみやすく、いじけやすい。
嫉妬深く、根に持ちやすく、いつまでもこだわる。
ちょっとしたことで、別人格になってしまう、など。それが「心の傷」ということになる。
私が直接経験した例を、いくつか、あげてみる。

●症例

 ある女の子(当時2歳)は、何かのことで母親に強く叱られた。
あとで母親は、こう言った。
「それまではほとんど叱ったことのない子でした。
しかしその日だけは、私のほうがおかしかったかもしれません」と。
ともかくもその日を境に、その女の子は、1人2役の、(ときには、3役、4役の)、
独り言を言うようになってしまった。
「まったく別人のように、たがいに会話をするので、不気味です」と。

 また別の男の子は、4歳くらいのときに、風呂に水を入れて遊んでいた。
(風呂は2階にあった。)
その水があふれて、2階から1階を、水びたしにしてしまった。
それを見た祖父が激怒。
その子どもを激しく叱った。
以後、その子どもは、ニタニタと意味のわからない笑みを浮かべるようになって
しまった。
病院へ連れていくと、「自閉症」と診断された(当時)。

 先にも書いたように、心の傷というのは、症状は多岐に渡る。

(1) 性格的症状(性格から、(すなおさ)が消える)。
(2) 身体的症状(さまざまな身体的変調が現われる)。
(3) 精神的症状(精神不安、恐怖症、神経症、パニック障害など)。

 傷という(損傷)が、脳のどこにつくかによって、異なる。
扁桃核のばあい、その子ども(人)の人間性にまで、影響を与える。
他者との共鳴性の欠落、自己中心性、無表情、無感動、無反応など。
わかりやすく言えば、心の温もりが消える。
 
●私たちの問題

 が、この問題は、即、私たち自身の問題として、はね返ってくる。
私はどうなのか?
あなたはどうなのか?、と。
というのも、心の傷のない人のほうが、少ない。
程度の差こそあれ、みな、もっている。
それが扁桃核によるものなら、なおさらで、心というのは、そういう意味では、
たいへんもろい。
薄いガラス箱のようなもの。
ちょっとしたことで、すぐ壊れる。

 そこで重要なことは、心の傷があるという前提で、私自身、あなた自身をながめて
みるということ。
まずいのは、そういう傷があることに気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
そしてそれでもって、「これが私」と思い込むこと。
「他人もそうだ」と思いこむこと。

●心の冷たい人

 心理学的には、心の冷たい人は、それだけ人格の完成度が低いということになる。
その人格の完成度は、(1)他者との共鳴性、(2)いかに自己中心的でないか、の2点で
判断される(EQ論)。
心の冷たい人というのは、その反対側に位置するということになる。
目の前でだれかが悲しんでいても、平気。
考えることは、自分のことだけ、と。
(だからといって、心の冷たい人が、すべて扁桃核に傷をもっているということにはなら
ない。誤解のないように!)

 そこで重要なことは、まずそういう自分自身に気がつく。
つぎに、そういう自分を改造していく。
「心理療法」というのもある。
が、これは簡単なことではない。
それこそ10年単位の時間がかかる。
「一生かかる」とだれかが言っても、私は同意する。

この問題だけは、本能に近い部分にまで根ざしているため、それを変えることは、
容易ではない。
それこそ『三つ子の魂、百まで』ということになる。
基本的には、つまりよほどのことがないかぎり、心の温かい人は、一生温かい。
心の冷たい人は、一生、冷たい。

●心の温もりとは

 心の温もりについて、大脳生理学では、つぎのように説明する。

 何かよいことをしたとする。
弱い人を助けたり、だれかを手伝ったとする。
その意識は信号となって、扁桃核に伝えられる。
扁桃核はその信号を受けて、エンケファリン系、エンドロフィン系のホルモンで、脳内を
満たす。
モルヒネ様のホルモンである。
それが心地よい感覚をもたらす。
「よいことをすると、気持ちがいい」という感覚は、こうして生まれる。
音楽や絵画、そのほかの芸術に感動したり、他人の不幸や悲しみに共鳴するというのも、
それに含まれる。

 反対に何か悪いことをしたときは、どうか?
これについては私の不勉強かもしれないが、まだ明確な解答はない。
ただ考えられることは、あくまでも私の推察だが、何らかのホルモンが分泌され、脳内を
不快感で満たすのではないか。

 わかりやすく言えば、よいことをすれば、気持ちよくなる。
悪いことをすれば、不快感を覚えるようになる。

●性善説

 少し回り道をするが、この点からも、私は「性善説」を支持する。
よいことをすれば、気持ちよくなる。
楽しくなる。
それが免疫機能を高め、病気に対する抵抗力を高める。
つまりより長生きできる。

 反対に悪いことをすれば、それがストレッサーとなり、免疫機能を低める。
つまり命を縮める。

 ……とまあ、脳の機能がこうまで単純とは言えないが、おおまかに言えば、それほど
まちがっていないと思う。
つまり人間が、過去20数万年も生き延びてこられたのは、性善説に基づいているからと
考えてよい。
もし性悪説に基づくものであれば、人間は、とっくの昔に滅びていたことになる。

●「心」

 人間には知恵がある。
それを司るのが、大脳皮質部であるとしても、知恵だけでは人間は人間たりえない。
コンピューターにたとえるまでもない。
「心」があってはじめて、人間は人間たりえる。
それを「人間性」という。

たとえば喜怒哀楽の判断は、大脳皮質部でもできる。
しかしその信号を受けて、「心」として反応するのは、辺縁系という組織ということになる。
その組織が、さまざまな「心的反応」を示す。
つまり「心」も、脳の機能の一部ということになる。
言うまでもなく、その人の人間性は、その「心」で決まる。
最近では、心の原点は、脳内の化学物質、つまり脳内ホルモンであるという説が、
半ば常識化している。
その鍵を握るのが、扁桃核ということになる。

●終わりに……

 いろいろと話が脱線したが、「心」も、脳の機能のひとつということになる。
その鍵を握るのが、脳の中心部にある辺縁系ということになる。
この部分には、ほかに、やる気を司る帯状回とか、記憶を司る海馬などと呼ばれる
組織もある。
私たちが学生のころは、このあたりを「原始脳」と呼び、「すでに機能を失った脳」として
学んだ。
が、それがとんでもない誤解であったことは、ここに書いたことからでも、わかる。

 「心」……この不可思議にして、得体がつかめない「内的現象」は、いつの時代にも
人間を悩ませる。
できれば心の傷など、なければないほうがよいに決まっている。
しかし時として、その傷が、人間のさまざまなドラマを生み出す。
1億人、人がいれば、1億種類のドラマを生み出す。
「おもしろい」と言えば語弊があるが、それが人間社会の豊かさということになる。

(ほかの動物たちと比べてみると、それがよくわかる。
北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
それぞれ個性的な動きをしていても、スズメはスズメ。
その範囲を超えることはない。)

つまり「心の傷」を、「悪いもの」と決めてかかるのではなく、「それが人間」と考える。
あとは、それと仲よくつきあう。
自分の傷ならなおさら、他人の傷であっても、仲よくつきあう。
扁桃核に焦点をあて、「心」と「心の傷」について、考えてみた。
(2010−4−2)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 扁桃核 扁桃体 心の正体 心のメカニズム 心はどこに 人間性と
心 心と人間性)

●補記

 「心」も脳の機能的活動のひとつということになる。
そういう意味では、けっして霊的(スピリチュアル)な存在ではない。
またそう考えてはいけない。

 すこし話が突飛もない方向に進むが、以前、特養に母を見舞ったときのこと。
私とワイフは、こんな会話をしたことがある。
「この人たちもみな、やがてすぐ、あの世へ行くことになる。
しかしどの段階で、あの世へ行くのだろうか」と。

 「どの段階」というのは、20代のころの段階をいうのか、30代のころの
段階をいうのか、と。
もし死ぬ直前の状態のままあの世へ行くとしたら、死んだ人たちは、ほとんど思考能力を
失ったままあの世へ行くことになる。
特養の中には、一日中、「飯(めし)はまだか!」と、怒鳴り散らしている女性もいた。
そんな状態のままあの世へ行くというのも、おかしな話ではないか。

 で、ワイフが言うには、「いちばんよい段階のときに、行くんじゃない?」と。
つまり一番美しく、輝いていた(段階)で、あの世へ行く、と。
またそう考えないと、矛盾が生じてくる。

 たとえば死ぬとき、眠るようにして死ぬ人もいる。
しかしほとんどは、長く病気を患い、苦しんで死ぬ。
交通事故にしても、そうだ。
そんな状態のまま、あの世へ行ったら、あの世は、そういう人たちばかりになる。
となると、あの世というところは、病院のようなところかということになってしまう。
特別養護老人ホームのようなところを想像してもよい。
ここに「あの世」と書いたが、「天国」でもよい。

 そこで人間は、肉体と霊(心)を分けた。
そうすれば、この矛盾を解消できる。
が、「心も脳の機能的活動のひとつ」ということになると、心的現象としての「霊」
の存在も、否定されることになる。
昔は、「心は心臓にある」と考えられていたが、今では「脳にある」と考える。
が、その脳にも「ない」ということになる。
「ある」とか、「ない」とか、考えるほうが、おかしい。
「ない」のである。

 たとえば恋愛感情にしても、今ではホルモン説で説明される。
以前、「恋の寿命」※という原稿を書いたことがある。
性欲、食欲については、脳の視床下部が司っている。
そうしたものが、こん然一体となって、人間の「心」をつくりあげている。

 が、誤解しないでほしい。
だからといって、「人間の心はつまらない」と書いているのではない。
またそういうふうに思ってもらっては困る。
私が書きたいのは、その逆。
「だから、おもしろい」である。
というのも、「心」の奥は深い。
かぎりなく深い。
ひとつの例をあげて、それを説明してみたい。

 たとえば夫婦の間の性行為がある。
女性のばあいはどうなのか、本当のところはよくわからない。
しかし男性のばあい、射S前と、射S後では、「女性の体」に対する感覚は、180度
変化する。
(「S」にしたのは、BLOGによっては、禁止語になっているから。「精」のことである。)

それが瞬間に、おもしろいほど、変化する。
射S後は、そこにあるのは、ただの肉塊。
射S前には、あれほどまでに狂おしく見えた肉体でも、そう見える。

 が、ここからが人間のすばらしいところ。
ワイフの肉体ですら、ただの「肉塊」になるが、そのとたん、そこに(いとおしさ)を
覚える。
しわもふえ、肌には、つやもない。
弾力性もないばかりか、シミが出ている。
が、そこに(いとおしさ)を覚える。
もし人間の心が機能だけで動くとしたら、こうした(いとおしさ)を説明することは
できない。

 いつだったか、「人間の脳のニューロンの数は、DNAの数より多い」ということを
書いた。
つまり人間がもつ創造性は、DNAの限界を超えて、無限性と多様性を秘めている。
心もまた同じ。
つまり人間の脳の機能を、すべて科学で説明することはできない。
それが「奥が深い」という意味になる。 
もっとわかりやすく言えば、脳の機能は、1+1=2であっても、それがときには、
1+1=∞になったりする。
 
 私は、それが「おもしろい」と言う。
蛇足だが、私は心の否定論者ではないことをわかってもらいため、この補記部分を書いた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 心 ホルモン説 脳内ホルモン 脳内ホルモン説)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの虚言癖



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兵庫県にお住まいの、HGさんより、

子どもの虚言癖についての相談があった。

子どもの虚言癖についての相談は多い。

以前のもらった相談と重ねて、この

問題を考えてみたい。



++++++++++++++++++



はじめまして。小学校2年生の男子(長男)についての相談です。 

子供の嘘について相談します。 



息子のばあい、空想の世界を言っているような嘘ではなく、

「自分の非を絶対に認めない」嘘です。 



先日担任の先生からお電話があり、こんなことがあったそうです。 



(1)何かの試合の後、「○○君のせいで負けたんだ」と発言。直接その子に言ったようでは
なかったが、言われた子は泣き出してしまった。 担任が注意しようとすると、「僕、言っ
ていない」の一点張り。しかし、先生も周囲にいた複数のクラスメートが、言ったことを
聞いている。 



(2)工作の材料にバルサの板のようなものを4枚、持ってきた子がいた。気がつくと3
枚しかなく、探していたところ、いつのまにかうちの子が1枚持っており、「自分が持って
きたものだ」と言い張る。 



そこで本当に家から持ってきたものなのかどうか、先生から問い合わせという形で、電話
がありました。



しかし、当日家から持っていた形跡はなく、問いつめると 



子:「家の近所で拾った」 

私:「どこで拾ったか、連れて行って」 

子:「わかんない。通学路で拾った」 

私:「通学路のどのあたり?」 

子:「○○の坂を上がって、右に曲がったところ」 

私:「○○君は教室まで4枚、あったって」 

子:「・・・」 



という感じで、つじつまを合わせようと必死。最後に私が「○○君が持っていたのが欲しく
なっちゃったんだ?」と聞くと、小さくコクリ。最後まで「自分が取ってしまった」とは
言いませんでした。 



また、休日においても、先日お友達と野球場に行った際、お友達(4生)と弟(5歳)と
の3人で、高いところから通路へ石投げに興じてしまいました。そこへ野球場を管理する
おじさんから「そんなことしちゃいかん!」と一喝。



私は現場を見ていなかったので、「何やったの!?」と聞くと、またしても「僕、何にもや
っていない」の一点張り。(お友達は「自分もやったが、○○(うちの子)も一緒にやった」
と言いました)。しばらくして父親が登場(草野球の試合をしていました)、「おまえもやっ
たんだろ?」と威厳ある態度で聞くと小さくコクリ、でした。 

石投げについては、私の聞き方がまずかったかな? (嘘を言うことが可能な質問)とも
思いますが、平然と周知の事実について頑なに嘘を突き通すことについて、子供の心の中
がどうなっているのかわからなくなりそうです。



小学校1年の頃までは嘘を言うと、なんとなく顔や態度に出るのであまり気にはしていま
せんでしたが、最近はそれがなくなり「絶対正しい!」という自信さえ漂わせています。 



生きていくうえでは嘘は必要なものでもありますが、それより以前に自分に打ちかって、
正直に言うことや誠実であることの大切さをわかってもらうには、今後、どう対応してい
ったら良いのでしょうか? 



どうぞよろしくお願いします。 

(兵庫県A市在住、HGより)



++++++++++++++++++



【HGさんへ】



 以前、書いた原稿を、まずここに掲載しておきます。



++++++++++++++++++



子どものウソ



Q 何かにつけてウソをよく言います。それもシャーシャーと言って、平然としています。
(小二男)



A 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障
害による虚言、それに(3)虚言。



空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるか
のように錯覚してつく、ウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状の
ひとつとして考える。習慣的な万引きや、不要なものを集めるなどの、随伴症状をともな
うことが多い。



これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。



ふつうウソというのは、自己防衛(言いわけ、言い逃れ)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、
自慢、見栄)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。



母「だれ、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せな
さい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから…」と。



 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソを
つく。「ゆうべ幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのが、それ。  



その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想
的虚言という。こんなことがあった。



 ある日一人の母親から、電話がかかってきた。ものすごい剣幕である。「先生は、うちの
子の手をつねって、アザをつくったというじゃありませんか。どうしてそういうことをす
るのですか!」と。私にはまったく身に覚えがなかった。そこで「知りません」と言うと、
「相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。



 結局、その子は、だれかにつけられたアザを、私のせいのにしたらしい。



イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせて
はならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想
の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。



このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなく、現実の世界に空想をもちこんだり、
反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界
をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」
式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、特徴である。



どんなウソであるにせよ、子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」
だけを繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子ども
を責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソの世界に入っていく。



++++++++++++++++++++++++



 ここまでは、いわば一般論。雑誌の性格上、この程度までしか書けない。つぎにもう少
し、踏みこんで考えてみる。



 子どものウソで、重要なポイントは、子ども自身に、ウソという自覚があるかどうかと
いうこと。さらにそのウソが、人格的な障害をともなうものかどうかということ。たとえ
ばもっとも心配なウソに、人格の分離がある。



 子どものばあい、何らかの強烈な恐怖体験が原因となって、人格が分離することがある。
たとえばある女の子(二歳)は、それまでになくはげしく母親に叱られたのが原因で、一
人二役(ときには、三人役)の独り言を言うようになったしまった。それを見た母親が、「気
味が悪い」といって、相談してきた。



 このタイプの子どものウソは、まったくつかみどころがないのが特徴。ウソというより、
まったく別人になって、別の人格をもったウソをつく。私の知っている女の子(小三、オ
ーストラリア人)がいる。「私は、イタリアの女王」と言うのだ。そこで私が「イタリアに
は、女王はいない」と説明すると、ものごしまで女王ぽくなり、「私はやがて宮殿に迎えい
れられる」というようなことを繰りかえした。



 つぎに心の中に、別の部屋をつくり、その中に閉じこもってしまうようなウソもある。
これを心理学では、「隔離」という。記憶そのものまで、架空の記憶をつくってしまう。そ
してそのウソを繰りかえすうちに、何が本当で、何がウソなのか、本人さえもわからなく
なってしまう。親に虐待されながらも、「この体のキズは、ころんでけがをしてできたもの
だ」と言っていた、子ども(小学男児)がいた。



 つぎに空想的虚言があるが、こうしたウソの特徴は、本人にその自覚がないということ。
そのためウソを指摘しても、あまり意味がない。あるいはそれを指摘すると、極度の混乱
状態になることが多い。



私が経験したケースに、中学一年生の女の子がいた。あることでその子どものウソを追及
していたら、突然、その女の子は、金切り声をあげて、「そんなことを言ったら、死んでや
る!」と叫び始めた。



 で、こうした子どもの虚言癖に気づいたら、どうするか、である。



 ある母親は、メールでこう言ってきた。「こういう虚言癖は、できるだけ早くなおしたい。
だから子どもを、きびしく指導する」と。その子どもは、小学一年生の男の子だった。



 しかしこうした虚言癖は、小学一年生では、もう手のほどこしようがない。なおすとか、
なおさないというレベルの話ではない。反対になおそうと思えば思うほど、その子どもは、
ますます虚構の世界に入りこんでしまう。症状としては、さらに複雑になる。



 小学一年生といえば、すでに自意識が芽生え、少年期へ突入している。あなたの記憶が
そのころから始まっていることからわかるように、子ども自身も、そのころ人格の「核」
をつくり始める。その核をいじるのは、たいへん危険なことでもある。へたをすれば、自
我そのものをつぶしてしまうことにも、なりかねない。



そのためこの時期できることは、せいぜい、今の状態をより悪くしない程度。あるいは、
ウソをつく環境を、できるだけ子どもから遠ざけることでしかない。仮に子どもがウソを
ついても、相手にしないとか、あるいは無視する。やがて子ども自身が、自分で自分をコ
ントロールするようになる。年齢的には、小学三,四年生とみる。その時期を待つ。



 ところで私も、もともとウソつきである。風土的なもの、環境的なものもあるが、私は
やはり母の影響ではないかと思う。それはともかくも、私はある時期、そういう自分がつ
くづくいやになったことがある。ウソをつくということは、自分を偽ることである。自分
を偽るということは、時間をムダにすることである。だからあるときから、ウソをつかな
いと心に決めた。



 で、ウソはぐんと少なくなったが、しかし私の体質が変わったわけではない。今でも、
私は自分の体のどこかにその体質を感ずる。かろうじて私が私なのは、そういう体質を押
さえこむ気力が、まだ残っているからにほかならない。もしその気力が弱くなれば……。
ゾーッ!



 そんなわけで小学一年生ともなれば、そういう体質を変えることはできない。相談して
きた母親には悪いが、虚言癖というのはそういうもの。その子ども自身がおとなになり、
ウソで相手をキズつけたり、キズつけられたりしながら、ウソがもつ原罪感に自分で気が
つくしかない。また親としては、そういうときのために、子どもの心の中に、そういう方
向性をつくることでしかない。
それがどんなウソであるにせよ……。
(030605)



【補足】

 以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を書いた。内容が重複するが、参考までに……。



+++++++++++++++++



●子どもがウソをつくとき



●ウソにもいろいろ



 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのよ
うにしてつくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。



 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示
(誇示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついてい
るという自覚がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、
母「手を見せなさい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。



 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソを
つく。「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というの
がそれ。その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態
を、空想的虚言という。
こんなことがあった。



 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。
「うちの子(年長男児)が手に大きなアザをつくってきました。
子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではありませんか。
どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」と。
ものすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。
そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相
手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。



 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバ
スの中で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげ
た。が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない……」と。
結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそらすために、自分でわざとアザをつく
ったらしい……、ということになった。



 イギリスの格言に、
『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはならない』とい
うのがある。
子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界にハマるようであれば、
注意せよという意味である。
このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想を
もちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。
そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさ
に「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。
ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。



 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。
「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。
必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソがうまく
なる。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

おとなの世界とて、例外ではない。
おとなといっても、もとは、子ども。
おとなになっても、虚言癖の残る人は多い。
最近聞いた話に、こんなのがある。
これは「おとなの虚言癖」について。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【空想的虚言vs思い込み】

●思い込み

+++++++++++++++++++++++++

私の知り合いに、思い込みのはげしい女性がいる。
年齢は、65歳くらい。
こだわりも強い。
ひとつのことにこだわり始めると、ずっとそのことに
こだわる。
それもあって、最近は、心療内科に通っている。
うつ病薬を常用している。

+++++++++++++++++++++++++

●空想的虚言

 空想的虚言と思い込み。
空想的虚言は思い込みによって生まれ、思い込みが強いと、それはしばしば空想的虚言へ
と変身する。
この2つは、かなりの部分で重なり合う。
その女性について、知っていることをそのまま書くわけにはいかない。
その女性は私のことを、よく知っている。
私もその女性のことを、よく知っている。
ここでは、あくまでも、「例」として、その女性について書く。
名前をMKさん(もちろん仮名)としておく。
またここに書くMKさんは、実在の人物ではない。
いろいろな人をまぜて、1人のMKさんとした。
架空の人物である。

●ウソ

 だれしも、ある程度のウソはつく。
しかしウソはウソ。
ウソと自覚しながら、ウソをつく。

 が、そのウソが、ウソの範囲を超えて、心の別の世界へ入ってしまう。
心の別の世界へ入ってしまい、ウソと現実の区別がつかなくなってしまう。
そういうウソを、空想的虚言という。
「妄言」ともいう。

 イギリスの教育格言にも、こういうのがある。
『空中の楼閣を想像するのは、かまわない。しかし空中の楼閣に住まわせてはいけない』
と。
子どもは空想が好き。
が、空想が勝手に肥大化し、現実と空想の区別がつかなくなってしまうことがある。
昔、「私はイタリアの女王」と言い張った女の子(6歳女児、オーストラリア人)がいた。
子どもの世界では、空想的虚言に注意しなければならない。
おとなの世界とて、例外ではない。

●MKさんのケース

 MKさんの近くに、ひとりで住んでいる女性がいる。
年齢は80歳を超えている。
独居老人である。
MKさんは、何らかの形で、その女性を助けたことはあるらしい。
助けたといっても、使い走り程度ではなかったか?

 ところがその後、MKさんの口から出てくる言葉は、はるかに現実離れをしていた。

「見るに見かねて、私、風呂に入れてあげました」
「毎週、そのおばあちゃんを訪問し、夕食を作ってあげています」
「先日は、相続問題で、名古屋市に住む息子さんのところまで、印鑑を取りに行ってあげ
ました」と。

 どんどんと話がふくらんでいく。
他人がしたことまで、自分の話の中に、織り交ぜていく。

●ぜんぶ、ウソ

 MKさんの話は、もちろんぜんぶ、ウソ。
よくよく考えると、矛盾だらけ。
今は介護制度もあり、必要な人は、それなりの公的サービスを受けられる。
入浴サービスもあるし、訪問介護制度もある。
ところが、MKさん自身は、そうは思っていない。
「自分がした」と思い込んでしまっている。
その上で、ウソにウソを塗り重ねていく。

心のどこかでは、ウソということを感じているのかもしれない。
が、自ら、それを打ち消してしまう。
自分の中に別人格を作り上げ、それが本当の自分と思い込んでしまう。

 MKさんの脳の中の様子は、私には、わからない。
が、ひとつだけはっきりしている。
だれかがMKさんの言ったことについて、まちがいや矛盾を指摘したりすると、MKさん
は、パニック状態になるということ。
ギャーと叫んで、そのまま混乱状態になる。

●自己愛者

 自己中心性が極端に肥大化した人を、自己愛者という。
「自分を愛する」という意味ではない。
「極端な自己中心主義者」という意味で、「自己愛者」という。

 その自己愛者の特徴のひとつに、「否定(批判)されると、パニック状態になる」という
のがある。
自己愛者は、自分の「非」を認めない。
まちがいも、認めない。
だれかがその人を批判したりすると、今度は逆に、その相手を、徹底的に攻撃する。
ふつうの攻撃ではない。
どこまでも激しく、執拗に攻撃する。
ウソにウソを混ぜて、攻撃する。

 MKさんも、そうだ。
「私はぜったい正しい」と思うのは、MKさんの勝手。
が、いつもその返す刀で、自分の意見と合わない人を、「まちがっている」と決めつける。
まさに「ああ言えば、こう言う」式の反論を重ねる。
ときに感情的になり、それを制御できなくなる。

●2人の弟氏

 こんなことがあった。
MKさんには、2人の弟氏がいた。
上の弟氏とは仲がよかった。
しかし下の弟氏とは、ウマが合わなかった。
下の弟氏は、MKさんのことを、ズバリ、「タヌキ」と呼んでいた。
その地方では、「ウソつき」という意味である。

 MKさんと、弟氏が、駅で待ち合わせて会うことになった。
MKさんは、「10時にA駅の前で」と言った。
A駅あたりで、私鉄とJRの2本の路線が交差している。
私鉄は「A駅」、JRは「JR・A」と、そのあたりの人たちは言い分けている。
で、弟氏のほうは、「A駅と言えば、私鉄のほう」と、理解した。
それ以前に一度、そこでたがいに待ち合わせたことがある。
で、弟氏が10時にA駅へ行ってみると、MKさんは、いなかった。
そのため30分以上、たがいに待たされることになった。
が、そのあと、MKさんは、ものすごい剣幕で弟氏を叱った。

 弟氏は、「あなたはA駅と言った。メモまでしたからまちがいない」と言った。
MKさんは、「JRのA駅とちゃんと言った。メモを取ったというウソを言うな」と言った。
「私が言いまちがえるはずはない」と。

 駅前でのできごとで、通りがかった人たちが振り返って見るほど、MKさんは大声で弟
氏を怒鳴りつづけた。

●さらに……

 この事件のときも、そうだった。
MKさんの言ったことが本当なのか。
それともMKさんの弟氏の言ったことのほうが、本当なのか。
私は今までのつきあいの中で、弟氏の言っているほうを信用する。
弟氏は、実直な人だった。

 つまりMKさんは、実際には「10時にA駅で」と言っただけだった。
しかし思い込みがはげしく、それが自分では「JRのA駅で」と言ったつもりになってし
まった。

 もしこのときMKさんに、正常な(?)判断力があるなら、自分のまちがいをすなおに
認めるはず。
認めて、「ごめん」で、すむはず。
が、MKさんには、それができなかった。

●仮面

 空想的虚言と思い込み。
この2つは、かなりの部分で、重なり合う。
ときにどちらが優勢で、どちらがそうでないか、それが、よくわからなくなる。
MKさんのケースがそうである。

 現実とウソの区別がつかなくなってしまい、ウソの世界を正しいと思い込んでしまう。
あるいは思い込みがはげしくなり、現実を見失ってしまう。
加えてMKさんには、自己愛者的な要素があった。
まちがいを認めることは、MKさんには、できなかった。
自分勝手でわがまま。
それに勝気。
一見、やさしくおだやかに見えるが、それは仮面。
人当たりもよく、初対面の人は、みなこう言う。
「すばらしくよくできた人ですね」と。
長い間、仮面をかぶっていると、どれが本当の自分の顔か、わからなくなってしまうこと
がある。
MKさんは、自分では、「私はすばらしい女性」と思い込んでいた。

●MKさんの人間性

 私がよく覚えている事件にこんなのがある。
ある日、何かの話の拍子に、MKさんは、ふとこう言った。
「弟(=下の弟)の嫁さんは、浮気をしているのよ」と。

 私は弟氏の妻もよく知っているが、とてもそういう女性には見えなかった。
驚いていると、MKさんは、こう言った。
「奥さんがちょっと席を離れたとき、私、バッグの中を見たら、バッグの中に、コンドー
ムが何個か入っていた」と。

 私は奥さんのバッグの中にコンドームがあったということよりも、バッグの中をのぞい
たMKさんの行為に仰天した。
私はワイフと結婚して40年になるが、いまだかって、ワイフのバッグの中をのぞいたこ
とがない。
だからその話には、背筋がぞっとするような嫌悪感を覚えた。
一事が万事、万事が一事。
MKさんという女性は、そういう人だった。

●自分を知る

が、最大の問題は、MKさん自身が、自分のそういう姿に気がつくときがくるだろうか
ということ。
自分の妄想癖、自己中心性、さらには人間性の崩壊などなど。
が、私は65歳前後というMKさんの年齢からして、それはむずかしいと思う。
MKさんによほどの向学心と、自分を見つめる真摯な姿勢でもあれば、それもわかるだろ
う。
自分を静かに見つめて、それに気づくだろう。
が、その雰囲気は、ない。
むしろ、MKさんは年々、ますます低劣化している。
いつ見ても、セカセカと、せわしなく動き回っている。
それに老人性の痴呆性も加わってきた。
「3桁の数字もまちがえる」と、数年前になるが、MKさんの夫が話していたのを覚えて
いる。

●私の印象

 私が受ける印象では、MKさんのケースでは、ますますウソが多くなってきたように思
う。
弟氏も、先日会ったとき、そう言っていた。
最近では、他人がしたボランティア活動ですら、あたかも自分がしたかのように話すこと
もあるという。
弟氏はこう言う。

「最近は、姉(=MKさん)に会うのが、こわいです。
ささいなミスをとらえては、大げさに騒ぐからです」と。

 弟氏が父親の七回忌に行ったときのこと。
弟氏はタクシーで行き、そのタクシーを寺の外で待たせておいた。
それで寺での法要が終わると、そのまま墓地まで、タクシーで向かった。
それについても、「みなにロクにあいさつもせず、急いで行った」と。
弟氏は、その旨、みなにあいさつをしたつもりだったと言っているが……。

●老齢

 私の母もそのとき90歳を過ぎていた。
脳梗塞で、脳をCTスキャンで検査したが、脳は半分程度に萎縮していた。
ドクターは、「90歳を過ぎると、みなこうなりますよ」と言った。
そうでなくても、私たちの脳神経は、毎日20数万個ずつ死滅している。
10日で、200万個。
100日で、2000万個。
1年で、約7億個。
10年で、約70億個!

 90歳で脳そのものが半分になったところで、何もおかしくない。
つまり私たちの脳みそは、そうでなくても、日々に劣化している。
平たく言えば、底に穴のあいたバケツのようになる。
知恵や知識は、どんどんと、その穴から外へ、こぼれ出て行く。

 MKさん(もちろん架空の女性)についても、そうだ。
補充する前に、それまであった知識や経験、常識や技術、さらには人間性まで、こぼれ出
ていく。
だから「精進(しょうじん)」、つまり日々の研鑽あるのみということになる。
が、このタイプの女性にかぎって、それをしない。
極端な自己中心性が、自分の目と耳を、ふさいでしまう。
「私は完成された人間である」という思い込みが、自らを盲目にしてしまう。

●終わりに……

 最近の研究によれば、脳の活動量は、脳の酸素の消費量を見て判断するのだそうだ。
たとえばある特定部分の脳の活動が活発であるからといって、脳全体が活発に活動してい
るということにはならない。
ほかの部分が眠った状態になることも、ありえる。
よい例が、「ゲーム脳」と呼ばれる脳である。
ある特定部分の脳は、きわめて活発に活動する。
しかしその他の部分は、眠ったような状態になる。

 「こだわり」についても、同じことが言える。
ひとつのことにこだわるあまり、ほかの部分が眠ってしまった状態になる。
よい例が、私が特別擁護老人ホームで出会った女性(90歳前後)である。

 その女性は、一日中、「飯(めし)は、まだかア!」と叫んでいた。
食事に対して異常なこだわりを示していたが、ほかの部分は、眠ったままだった。

 むしろ人間は、リラックスした状態のほうが、脳全体の酸素の消費量がふえるという。
(この部分は、雑誌『サイエンス』の立ち読み情報なので、不正確。)
言い換えると、音楽を聴いたり、映画を観たり、雑誌に目を通したり、あるいは旅行先で
窓の外の景色を見たりしたほうが、脳は活発に活動する(?)。
つまり脳の健康ということを考えるなら、(こだわり)は、百害あって一利なし。
へたをすれば、そのままうつ病の世界に、落ち込んでしまう。

 話が脱線したが、空想的虚言と思い込み。
この両者は、同一のものではない。
ないが、ある部分で、大きく重なり合う。
つまり空想的虚言を口にしやすい人は、それだけ思い込みがはげしいということ。
(その反対でもよい。)
だから、ウソにせよ、思い込みにせよ、それを自分の中に感じたら、それと闘う。
それは同時に、脳の老化との闘いであるといってもよい。
放置すればやがていつかあなたも、あのセンターの一室で、「飯はまだかア!」と叫んでい
た、あの女性のようになる。(2010-5-16)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 空想的虚言 虚言癖 子どものウソ 嘘 子供の嘘 妄言 妄想 は
やし浩司 思いこみ 思い込み こだわり こだわりと鬱 鬱とこだわり)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●家族自我群

+++++++++++++++++++

家族として、ひとつのまとまった自我の
集団を、「家族自我群」という。
ボーエンという学者が使った言葉だが、
日本人のばあい、それがどういうものかは、
改めて説明するまでもない。
「家」意識、家父長意識、上下意識をともなった
親子関係、夫婦関係などなど。
さらにこの日本には、「家族」を超えた、「親族
意識」というものがある。

こうした自我の集団は、その(個人)を、
がんじがらめに、縛りつける。
縛りつけて、その「幻惑」に苦しむ。
そのため日本人は、(日本の若者たちは)、自分の
確立に悩む。
そのまま「家」の奴隷となる人も少なくない。

言うまでもなく「家族」と「個」は、常に
対立関係にある。
家族自我群が強ければ強いほど、「個」の確立、
これを「個人化」というが、その「個」の確立が
むずかしくなる。
が、それだけではない。

+++++++++++++++++++++

●「家族」vs「個」

 私たちがもっている(意識)ほど、あてにならないものはない。
最近、改めてそれを知ったのは、あるパキスタン人と話していたときのこと。
彼は現在、浜松市内で、インド料理店を経営している。
その男性が、こう言った。

「パキスタン人は、貯金しない」と。

 イスラムの世界には、「イスラム金融」と呼ばれる、特殊な金融制度がある。
他人にお金(マネー)を貸し、利息を取ることは、イスラム教により、きびしく禁止され
ている。
そのためイスラムの世界では、説明するのに何時間もかかるほど、複雑な方法を使って、
日常の商取引をする。
(興味のある人は、「はやし浩司 イスラム金融」で検索してみるとよい。)

で、そのパキスタンでは、「仕事は必要なときに、必要な分だけしながら、その日を過ごす」
そうだ。
それが彼らの生活の基本になっている。

私が「日本では考えられないね」と言うと、「日本とは正反対!」と説明してくれた。
たとえばパキスタンでは、組織(会社)の肩書きや地位など、ほとんど意味をもたないと
いう。

 「日本では、70歳になっても、現役時代の肩書きを引きずって生きている人は多いよ」
と話すと、そのパキスタン人は、首をかしげてニヤリと笑った。
「パキスタンでは考えられない」という意味で、ニヤリと笑った。
つまり「意識」というのは、そういうもの。
国や民族、宗教がちがうと、意識そのものが、正反対になることもある。
もちろん哲学や価値観も、影響を受ける。

 わかりやすい例として、「家族意識」がある。

●日本人の家族自我群

 私は「家族」を否定しているのではない。
共同体としての家族は、「個」を生み、育(はぐく)む場として、必要である。
しかし同時に、家族という共同体は、「個」の生育を、さまたげる場所となることもある。
21世紀になった今でも、江戸時代の「家制度」そのものに縛られ、身動きがとれず、苦
しんでいる人は多い。

 そうでない人からみれば信じられないことかもしれないが、事実は事実。
「家あっての個」と考える。
「家」が「個」を縛り、干渉し、支配し、その進むべき道まで決めてしまう。
そのため「個」が犠牲になる。
「家」に縛られ、そこで一生を終える。

 そこで大切なことは、そのときどきにおいて、「家」と「個」をうまく調和させながら、
生きていくといくこと。
「個」が「家」の犠牲になることは、実際、バカげている。
しかし「個」は、「家」の温もりなくして、生きていくことはできない。
もちろん「家」イコール、「家族」ではない。
ボーエンが言った「家族」というのは、「親子関係」をいう。
「兄弟・姉妹関係」も、それに含まれるかもしれない。

●私の経験から

 私は家族自我群が濃密な「家」で、生まれ育った。
しかし「濃密だった」ということを知ったのは、私が40代になったころのこと。
それまでは、それが私にとっての常識であり、私の知る社会の常識だった。
それ以外の「家」を、あまり知らなかった。
知ってはいたが、むしろそちらのほうを、異質と考えていた。

 今でもそうだが、私の生まれ育った「家」では、親類縁者ともに、上下意識が強く、「家」
を中心に、みなものを考えている。
母の実家では、いまだに、「本家」「新家」という言葉が、日常的に使われている。
その意識のない人たちからみれば、バカげた風習だが、その意識のある人たちからみれば、
私たちのそうした意識は理解できない。
できないばかりか、自分たちの意識を、そのまま私たちに押しつけてくる。

 それは先にも書いたように、一方では「温もりのある社会」を形成する。
「家」という一体性に融和することは、それ自体、心地よい。
人間が本来的にもつ孤独感が、そのまま癒される。
が、同時に、「家」は、それから抜け出る者を許さない。

●呪縛感

 が、その一方で、「家」には、ものすごい呪縛感がある。
先にも書いたが、「家あっての個」と考える。
だから「個」が「家」の犠牲になっても、その社会の中に住む人たちは、それを当然と考
える。
「本家」と「新家」の関係でいうなら、本家あっての新家ということになる。
家族の関係でいうなら、親あっての子ということになる。

 だから私たちの時代(戦後生まれの団塊の世代)には、「外」に出た者は、実家への仕送
りを、当然と考えていた。
親も、当然と考えていた。
今の時代では考えられないことだが、私の母にしても、そのつど私の家にやってきては、
そのつど10万円単位(当時)のお金を、もって帰っていった。

 だから私は今、むしろ逆に、今の時代のほうに、違和感を覚えることが多い。
私の息子たちにしても、(当然のことだが)、「親を助ける」という意識は、まったくない。
いわんや「家」を助けるという意識は、さらにない。
どちらが正しくて、どちらがまちがっているとか、そういうことを書いているのではない。
意識のちがいというのは、そういうもの。

●個人化

 その人が「個人」としての「個」を確立することを、「個人化」という。
「私は私」という生き様をいう。
この個人化の確立に失敗すると、その人の生き様は、世俗を意識したものへと変化する。
わかりやすく言えば、「世間体」の中に身を置いた生き様になる。
日本人の中には、このタイプの人が、たいへん多い。
「多い」というより、少なくとも私の知る欧米人の中には、そういう人はいない。

 となると、話を進める前に、ひとつの疑問が生じてくる。
ボーエンは、「家族」のどの部分を見て、「家族自我群」という言葉を考えたのかという疑
問である。
日本的な「家」では、なかったはず。
日本的な「家族」でも、なかったはず。

 もともとボーエンは、精神科医であり、精神分裂病患者の家族研究をしていた。
その過程の中で、家族療法を体系化し、家族と個人の関係に行き着いた。
その多くが、家族との融和の中で、「個」の確立に失敗していることを発見したのかもしれ
ない。
そして「個」を、家族のもつ自我群から切り離し、「個別化」と「自立性」の確立を、その
治療目的とした。

 つまり私たちが日本で考える「家族」イコール、ボーエンの説く、「家族自我群」の「家
族」ではない。
さらに厳密に言えば、ボーエンが頭に描いた「家族」というのは、「濃密な親子関係」だっ
たかもしれない。
異常なまでの過干渉と過関心が日常化している、そんな親子関係である。

●幻惑

 「家」に押し殺される人は多い。
「家族」でもよい。
たとえば子どもでも、不安先行型の母親に養育されると、ハキのない子どもになる。
「うちの子は、何をしても心配」という思いが、子どもの心を萎縮させる。
(反対に、自分の子どもに自信をもっている親の子どもは、明るく、生き様が前向き。)

 子どもの側で考えてみよう。
もしあなたが親に、「あなたはダメな子」といつも言われつづけていたとする。
するとあなたは何をしても、不安になる。
自分がやりたいこと、できることについても、自信をなくしてしまう。
「私はダメな人間」と。

 そういう思いが、あなたを負の方向へと引っ張っていく。
それが「幻惑」である。
つまり「家」もしくは、「家族」のもつ重圧感が大きければ大きいほど、そしてそれから受
ける呪縛感が大きければ大きいほど、あなたは幻惑に苦しむことになる。

 ボーエンは、そのあたりに精神疾患の原点を見たのかもしれない。

●保護vs依存

 どうであるにせよ、「家族」と「個」は、常に対立関係にある。
(だからといって、敵対関係というわけではない。誤解のないように!)

 そこでさらにこの問題を掘り下げていくと、そこに(保護)と(依存)の関係が見えて
くる。
「家族は個を保護し、個は家族に依存する」と。
が、ここで誤解していけないことは、子(下の立場の者)が、親(上の立場の者)に依存
するだけが、保護と依存の関係ではないということ。
親(上の立場の者)が、子(下の立場の者)に依存するケースも、同じくらいの割合で多
い。
その保護と依存関係が変形して、親は子を束縛し、子は、親に束縛される。
というのも、私は、つぎのような親を、教育の場で、よく見かける。

 親はこう言う。
「うちの子は、甘えん坊で(=依存性が強くて)困ります」と。
が、よくよく調べてみると、親自身が、依存性が強い場合が、多い。
自分が依存性が強いから、つい子どもの依存性に甘くなる。
つまり「甘えん坊で困ります」と言いながら、子どもを甘えさせている。
またそういう関係を、「良好な親子関係」と誤解している。

 つまりこの問題は、世代から世代へと連鎖しやすく、家族、あるいは親類縁者が全体と
して、「家族自我群」を形成するということ。
それくらい「根」が深く、また解決には、時間を要する。
(あるいは1世代や2世代程度では、解決しないかもしれない。)

●怨憎会苦(おんぞうえく)

 「家族」がもつ呪縛感には相当なものがある。
またそれから生まれる苦しみは、仏教でいう四苦のひとつ、「怨憎会苦」に似たものがある。
(私自身は、「幻惑」と「怨憎会苦」の区別ができない。)
へたをすれば、「個」は、幻惑そのものに、押し殺されてしまう。
またそういう例は、多い。
私のまわりにも、そうした人がいる。
あなたのまわりにも、そうした人がいる。

 では、どうするか?

●「私」の復活

 たとえばこんな問題が、私の近辺で起きつつある。

 もうすぐ実兄と実母の3周忌がやってくる。
が、今ではこのあたりでも、(宗派にもよるが)、初盆さえしない家庭がふえている。
浜名湖に面して、昔からの漁村がある。
私のワイフの母親の実家だが、そこでも、7世帯のうち、初盆をしたのは、3〜4世帯の
みと聞いている。

 で、自分なりに、「周忌」について調べてみた。
が、結果は、釈迦仏教とは縁もゆかりもない、日本独特の奇習ということがわかった。
「地蔵十王経」という、だれが読んでもそれとわかる、日本製のニセ経が原点になってい
る。
だからといって、死者への弔いが無意味と書いているのではない。
それはそれ。
しかし、自分の理性をねじまげてまで、死者を弔うのは、かえって死者を冒涜することに
なるのでは……?
(私の知人の中には、生前中は、さんざん親を苦しめておきながら、今になって墓参りだ
けは一生懸命している人もいる?)

 が、一方で、先日郷里へ帰ったら、親類たちが、こう言い合っているのを聞いた。

「あのAさんは、親の33回忌をしたんですってねえ。偉いもんですな」とか、反対に、「あ
の息子は、親の3回忌にすら、顔を出さなかったんですよ。人間のクズですね」とか。

 そういう話を横で聞いていると、その瞬間、私が「私」でなくなってしまう。
幻惑と言うほど、おおげさなものではないかもしれないが、しかしそうした「家族自我群」
が集合されると、たいへんな力(パワー)をもつ。
いわんやそういう社会の中で毎日生きていたら、(私だったら)、気がヘンになってしまう
(?)。

 で、私を復活するためには、どうすればよいか。
方法は2つある。

(1)私なりの生き様を貫く。
(2)妥協して、笑ってすます。

 多くの人は(2)の方法を選ぶだろう。
いらぬ波風を立てるくらいなら、「丸く」生きた方が得。
しかしそれでは、この日本は、何も変わっていかない。
私も変わらない。
もうすぐ3周忌をするかしないか、その結論を出すが、この年齢になると、「妥協」という
言葉に、大きな抵抗感を覚える。
妥協して生きるのは、もうたくさん。
うんざり!

●終わりに…… 

 このエッセーの中で、私は、「家」「家族」、それに「個」「個人」「私」を、区別すること
なく、家族自我群について書いた。
日本でいう「家制度」と「家族」とは、もちろんちがう。
「個」と「私」も、もちろんちがう。
だから専門の心理学者が読んだら、「はやし浩司は、心理学の基礎も知らない」と笑うだろ
う。

 実際、私も、このエッセーを書きながら、「家制度」と「家族」を頭の中で、あまり区別
しなかった。
書いているうちに、その両者が頭の中で、混ざってしまった。
その第一の理由は、私が日本人だからではないか。
日本には日本の独特の文化や風習が残っている。
だから私にしても、「家」イコール、「家族」ということになる。
(あるいはその反対でもよい。)

 ついでに一言。

 では、なぜ私が20数歳のときから欠かさず、収入の半分を実家に仕送りしていたか。
それには理由がある。

 私は子どものころから親たち(とくに母親や叔父たち)から、こんな話を聞かされて育
った。

「あそこのAさんの息子さんは、立派なもんじゃ。今度、親のために、離れを建ててやっ
たそうだ」
「あそこのBさんの嫁は、ひどいもんじゃ。親に渡す小遣いを、今月は、半分にしたそう
だ」などなど。

 こうして私は自分の中に「家族像」をつくりあげ、それが、そのあとの家族自我群へと
なっていった。
「幻惑」に苦しんだことは、言うまでもない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 家族自我群 幻惑 家制度 家族という束縛 自縛感 ボーエン 個
別化 個人化 個の確立 はやし浩司 個の確立)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【防衛機制】(Defence Mechanism)

●心を守る

++++++++++++++++++++++

人は、大きく分けて、「他責型」と「自責型」がある。
これについては、何度も書いてきた。
たとえばお茶を自分の不注意でこぼしたとする。
そのときすかさず「こんなところにお茶を置いた
人が悪い!」と切り返すタイプの人を、「他責型」
つまり他責型人間という。

反対に、他人がこぼしても、「そこへお茶を置いた
私が悪い」と、自分を責めるタイプの人を、「自責型」
つまり自責型人間という。
見た目の様子で判断してはいけない。
明るく、かっ達な人が、自責型人間であったり、反対に、
静かでおとなしい人が、他責型人間であったりする。

この問題は、あなた自身はどうかという視点で
考えてみると、わかりやすい。

私自身は、いつもこうして攻撃的にものを書いて
いる。
たいていの人は、他席型人間と思うかも知れない。
が、実は、典型的な自責型人間。
何か問題が起きるたびに、内へ内へと、それを
ためこんでしまう。
日本の経済がおかしくなっても、自分の責任の
ように感じてしまう。
だからワイフはときどき、こう言う。
「あなたは、ひとりで、日本を背負っているみたい」と。
そういうおバカなところが、私には、ある。

が、これでは心はボロボロになってしまう。
……というのは、一例だが、心は、自分を守ろうとして、
さまざまな反応を示す。
フロイトは、こうした一連の反応を、「防衛機制」と
呼んだ。

ひとつずつ、例をあげて考えてみよう。

+++++++++++++++++++++

●抑圧

 何か不愉快なことがあると、人は、心の中に別室をつくり、そこへその不愉快な部分を
押し込もうとする。
それを「抑圧」という。
「心の別室」という言葉は、私が考えた。
が、一度、心の別室へ入ると、そこだけがほかの心から隔離されてしまい、(1)時間、(2)
上書き、(3)修正の3つが、働かなくなる。

 「時間が働かない」というのは、10年前、20年前のことが、心の別室の中では、つ
い先日のできごとのように固定化され、そこに残ることをいう。
本来の人格とは別の、「別人格」が、そこにできるとわかりやすい。

私たち夫婦なども、よく夫婦喧嘩をするが、そのとき30年前、40年前のことを持ち
出すことがある。
「あのときお前は!」「あのときあなたは!」と。
とっくの昔に忘れてよいはずなのに、それがそのまま口から出てくる。
ある老夫婦(ともに80歳を過ぎている)のばあいも、それこそ50年以上も前のことを
持ち出して喧嘩しているという。
(私たち夫婦は、そうはなりたくないと思っているが……。)

 子どもの世界でもよく見られる。
親子で喧嘩したようなとき、とっくの昔に忘れてしまってよいようなことを持ち出して、
たがいに言い合ったりする。
「お父さんは、あのとき……!」「お前だって、あのときは……!」と。

 「上書きが働かない」というのは、たとえばその後に、楽しい思い出がいくつか重なっ
たとしても、心の別室に入った記憶は、そのまま。
たとえばふつうの記憶のばあい、仮にいやなことがあったとしても、そのあと別の楽しい
思い出ができれば、それ以前のいやな記憶は消え、楽しい思い出がその上にのる。
仲直りも、それでできる。
これを「上書き」という。

 また心の別室に入った記憶は、そのため、修正がきかない。
平常なとき、心の別室に入った記憶を修正しようとしても、心の別室の記憶は、そのまま。
話し合いを通して、「わかった」と当人は納得しても、またときとばあいに応じて、それが
そのまま心の別室から飛び出してくる。
 
 私のばあいも、「今度、喧嘩しても、もう過去の古い話はやめよう」と思うことはある。
が、喧嘩が始まってしまうと、元の木阿弥。
いつもと同じように言い合ってしまう。
「あのときお前は!」「あのときあなたは!」と。
 
 子育てにおいては、子どもの心に、心の別室を作らないようにする。
はげしい恐怖、怒り、不満、嫉妬、闘争などは、子どもの心にとっては、タブーと心得る。
つまり幼少期であるならなおさら、「抑圧」に警戒する。
親がきつく叱ったりすると、子どもによっては、一見、しおらしくおとなしくなるが、そ
れはあくまでも「表面」。
もっと言えば、「仮面」。
子どもは心に別室を作り、そこに不愉快なものを閉じ込めようとする。
たった一度でも、それが衝撃的なものであったりすると、心の別室ができることがある。

ある女の子(2歳児)は、母親に強く叱られたのがきっかけで、それ以後、1人2役のひ
とり言をするようになってしまった。
母親は「不気味です。どうしたらいいでしょう」と相談してきた。
さらにひどくなると、多重人格性をもつこともある。
これは心の別室とは関係ないが、心というのは、ときとしてそれほどまでにデリケートと
いうこと。

●悲惨な事件

 私の住む隣町で、たいへん悲惨な事件が起きた。
30歳になる男性(無職、NEET)が、家族5、6人をつぎつぎと殺害するという事件
である。
きっかけは、家族のだれかが、インターネットを止めたことだった。
それに激怒して、その男性は、家族をつぎつぎと殺害してしまった(2010年5月)。

 父親は、何かの職人をしていたが、給料は全額、その男性(息子)に渡していたという。
その中から、逆に、息子のほうから親たちが生活費をもらっていた(?)という。

 こういう事件を聞くと、おおかたの人は、「どうして?」と思う。
「世話になっている側が、世話をしている側を殺すなんて!」と。

 新聞で報道された範囲内でのことしかわからないが、その理由のひとつに、先に書いた
「抑圧」があると考えてよい。
その男性は、幼少期に、何らかの形で、心の中に心の別室を作ってしまった。
そこで別人格を作ってしまった。
それが最後に、こういう形で爆発してしまった、と。
ワイフは、こう言った。

「……だって、父親が死ねば、困るのは自分でしょ?」と。

 そこが「抑圧」の、こわいところ。
当の男性は、平常なときには、それを理解する能力はある。
冷静に話し合えば、それなりの道理も通ずる。
(すでに断絶してしまって、会話が途絶えているケースも多いが……。)

しかし何かの拍子に、別室から出てきた「別人格」は、そうは思っていない。
「オレを産んだのは、お前だ。その責任を取れ!」となる。
あるいは「こんなオレにしたのは、お前だ! 責任を取れ!」となる。
意識の方向が、逆。
「親の世話になっている」と考える前に、「自分は親の犠牲者」と考える。
だからそのときになると、見境なく、親を殺してしまう。

●投影

 自分の心の中に、何か受け入れがたいことがあったとする。
よくある例は、(私たち夫婦がそうかもしれないが)、本当は自分が相手を嫌っているのに、
相手が自分を嫌っていると決めつけ、相手を責める。
(ハハハ!)
それを「投影」という。
 
つまり自分の心を相手の中に投影して、自分を正当化する。
もう少し具体的に話すと、こうなる。
(ここから先は、私たち夫婦のことではない。)

 たとえば定年を迎えると、そこにドカッと待っているのは、老後。
それまでの生活のリズムが、人によっては、根底から狂うことがある。
ある妻は、こう言った。
「夫が、本当に粗大ごみに見えるようになった」と。
が、自分のほうから、夫を嫌っているとは言えない。
そこでそのかわり、「夫は私を嫌っている」と、自分でそう思い込んでしまう。
「夫が私を嫌っているから、私は夫から遠ざかる」と。
さらに進むと、「あなたは私を嫌っている」「私はそのたびに、つらい思いをする」「だから
あなたのために、離婚してあげる」となる。

 もう少しわかりやすい例に、こんなのがある。

 これだけ騒がれても、受験生や受験生の親を相手にした悪徳商法は、後を絶たない。
書店で買えば、数万円ですむような教材を、「FAX指導付」「電話指導付」とかいうサー
ビスをつけて、80万円近い値段で、受験生に売りつける。
そんな業者が、この浜松市内にも、支店を構えている。

(余計なことだが、FAX指導にせよ、電話指導にせよ、その程度の指導で、子どもの学
力があがるということは、常識から考えても、ありえない。
もしそうなら、学校という教育機関は、不要ということになる。)

 そういうセールスマンに罪悪感がないかといえば、ないことはない。
しかし彼らは、こう言って、自分の職業(?)を正当化する。
「この世は不公平だ。人生の入り口で、ほんの少し努力すれば、一生、楽な人生が送れる。
そういう不公平があるから、オレたちは苦労する。80万円なんて、安いもの」と。
つまり受験生や受験生の親たちを、「悪者」に仕立て、自分の立場を正当化する。
「だから自分たちのしていることは、まちがっていない」と。

●合理化

 よく私たちは、自分の心をだます。
だましながら生きている。
何か失敗をしたり、損をしたようなときなど。
「どうせ、失敗するに決まっていた」とか、「大損でなくてよかった」とか思い直して、自
分を納得させる。
こうした心理操作を、「合理化」という。

 今までに書いてきた、「抑圧」にせよ、「投影」にせよ、用語としては理解しにくい。
しかしこの「合理化」は、理解しやすい。
日本語でも、そのまま使う。
あえて言うなら、「正当化」というニュアンスも、それに含まれる。
「自己正当化」でもよい。
それには「弁解」「言い訳」「言い逃れ」「あと付け理由」「とりつくろい」「つじつま合わせ」
などが含まれる。
ものごとを、自分の都合のよいように合理化しながら、自分の心をだます。

 先にあげた悪徳教材会社の社員の心理も、合理化で説明できなくはない。
「相手は悪人だ。だからそういう悪人をだましても、自分は悪くない」と。
この中で、「相手が悪人に見える」部分が、投影であり、「だから私は悪くない」と考える
部分が、合理化ということになる。

 さらにこんな話を、私が商社マンだったころ、聞いたことがある。
中国には、『相手にだまされる前に、相手をだませ』という格言があるという。
そのため中国人は、「だまされるほうが、悪いと考える」と。

 これなども、「合理化」ということになる。
戦争について言えば、「殺される前に、殺せ」となる。
「自分を殺しにかかってくる人間は、どうせ悪人。だから殺してもいい」と。

 子どもの世界にも、似たような話がある。
受験競争の世界では、「相手を蹴落としてでも、合格せよ」とか、「相手が合格すれば、自
分が不合格になるだけ」と考える。
だから相手の成績がさがれば、(あるいは全体の成績がさがれば)、相対的に、自分にとっ
ては有利。
そういう形で、自分の行動や考え方を、合理化していく。
しかしここで悲劇が始まる。

 こうした合理化が一時的なもので終わればよし。
目的の学校に入学したとき、それで終わればよし。
が、たいていは、一生、そのままつづく。
思考回路というのはそういうもので、一度できると、そのまま残る。
何かのことでまずいことがあると、常に、責任を相手に転嫁しながら、自分を合理化して
いく。

 だから合理化も、ほどほどに!

●反動形成

 好きなのに、「嫌い」と言う。 
嫌いなのに、「好き」と言う。
子どもの世界でよく見られる現象だが、それが進んだ状態が、「反動形成」。
上の子(兄あるいは姉)に、よく見られる。

本当は下の子(弟あるいは妹)が、憎くてたまらないのだが、親の前では、「いい兄」「い
い姉」を演じてみせる。
「演ずる」というよりは、本能的な部分で、そういう様子をしてみせる。

 「弟は好き?」と聞くと、「大好き」と答えたりする。
が、実際には、親の目を盗んでは、巧妙かつ執拗、かつ陰湿に、下の子(弟あるいは妹)
をいじめたりする。
殺す寸前のところまで、する。
「弟(妹)が嫌い」などと言うと、自分の立場がなくなる。

 こうした現象は、おとなの世界でも見られる。
牧師などの聖職者が、ことさら「性」の話を、忌み嫌ってみせるのも、その一例。

 この「反動形成」は、今まで書いてきた、「抑圧」「投影」「合理化」と、大きな共通点が
ある。
つまりどれも、自分の「心」を偽ること。
が、それがどんなばあいであれ、けっして望ましいことではない。

●すなおな心

 「すなおな子ども」というときには、(おとなでもよいが)、2つの意味がある。
ひとつは、心のゆがみ、たとえばいじける、ひがむ、つっぱる、ねたむなどのゆがみがな
いこと。
もうひとつは、心の状態(情意)と、顔の様子(表情)が一致していること。
思ったことを言い、それを表情でそのまま表現する。
簡単なことのようだが、できない人には、できない。
幼児でも、表情が乏しい子どもは、20%はいる。
(表情が乏しいから、すなおでないということにはならないが……。)
抑圧、投影、合理化、それに反動軽形成にしても、それらはすべて心を偽ることにつなが
る。

 短期であれ、(長期であればなおさらだが)、心に与える悪影響には、計り知れないもの
がある。
仮にそうせざるをえない状況であるにしても、そういう自分をどこかで客観的に評価しな
がら、そうする。
あるいはそうであることを知る。

 まずいのは、そういう自分であることに気がつかないまま、それを「性格」として定着
化してしまうこと。
同じ失敗を繰り返すこと。

 反動形成にしても、先に書いたように、「聖職者」と呼ばれる人ほど、そのワナにハマり
やすい。
「先生」「先生」と呼ばれているうちに、自分を見失ってしまう。
そのうち本当の自分が、わからなくなってしまう。
これがこわい。

●否認

 そのものがほしい。
しかし手に入らない。
そういうとき、人は、「否認」することによって、自分の心を防衛する。

 たとえばそこ自分が心寄せる女性(男性)がいたとする。
が、その女性は、別の男性と、よい関係にある。
そういうとき、その人はそれを知って、「本当はあんな男、大嫌い」と、言ったりする。
「ああいうのは、私のタイプではない」と。
それが「否認」である。

 私にもこんな経験がある。

 小学5年生のときのこと。
私はAMさんという女の子に、好意を寄せていた。
が、その女の子は、私に一向に関心を示さなかった。
そこで私がつぎにとった行動は、(意地悪)だった。
わざとその女の子を無視したり、悪口を言ったりした。
廊下ですれ違っても、わざと避けてみせた。

 その女の子は、ますます私から遠ざかってしまった。
そしてあの事件が起きた。
「起きた」のではなく、私が「起こした」。

 私はその女の子が教室にいない間に、その女の子の机の中から、その女の子ノートを取
り出し、鉛筆で、落書きをしてしまった。
グイグイと手の動くまま、線を描いてしまった。

 ……そのあと記憶は、とだえている。
私が覚えているのは、その女の子が泣いている姿。
さめざめと泣いていた。
私はそのあと、担任の先生にひどく叱られたと思うが、それはよく覚えていない。

 これは、否認が高じて、(いじめ)に発展したケースである。
ただそのときの自分の心の状態を、今でもよく覚えている。
「何てことをしたのだ!」と、自分を責める「私」。
「ザマーミロ!」と、それを笑う「私」。
2人の「私」が、交互に私の中に現れたり、消えたりした。

 そういう点では、私の心は、かなりゆがんでいた。
原因はいろいろ考えられるが、ともかくも、かなりゆがんでいた。
今もし、身近にそういう子どもがいたら、私は迷わずその子どもの親に、こう言うだろう。
「あなたのお子さんの心は、かなりゆがんでいますね」と。

 否認にしても、心を偽ることを意味する。
子どもの世界では、けっして好ましいことではない。
だから今、私たちは子どもたち(幼児)を教えながら、ときどき、こういう会話をする。

私「君たちは、ママのおっぱいが好きか?」
子「……嫌いだよ〜」
私「ウソをつくな! 好きだったら、好きだと言え! ウソをつくな!」と。

 こういう言い方をして、子どもの心を開放させていく。

●補償

 以上は、(このましくない防衛機制)ということになる。
これに対して、(好ましい防衛機制)というのもある。
それが「補償」である。
(中には、好ましくない「補償」もあるには、ある。)

 何か自分の中に欠点を見つけたら、それを克服しようと努力するのが、それ。
あるいは、勉強が苦手だから、スポーツでがんばるというのも、それ。
が、このタイプの補償は、えてして補償は、自虐的になりやすい。
たとえば現在、有名になっているスポーツ選手の中には、それを思わせる人は少なくない。
朝は暗いうちに起き、バットの素振り練習をし、夜はみなが寝る時刻まで、やはり練習を
した、など。
スポーツを楽しむというよりは、スポーツを通して、自分の立場をつくる。
心を防衛する。

 ただ中には、好ましくない補償もある。
たとえば子どもの世界には、(おとなの世界にもあるが)、「いじめ」がある。
子どものいじめは、複雑である。
いじめるためにいじめるというのもあるが、じめられる前にいじめるというのもある。
あるいはいじめのグループに加わり、自分がいじめられるのを、避けようとするのもある。
中には、学校でいつもいじめられている子どもが、別の世界では、いじめを繰り返すとい
うケースもある。
いじめられる前にいじめる、あるいはいじめる側に回って、いじめられるのを避けるとい
うのも、広い意味で、「補償」ということになる。

●置き換え 

 これは広い意味での「合理化」に似ている。
たとえばA君に恋を打ち明けたが、断られてしまった。
そこでA君に代わりに、今度はB君に恋を打ち明ける、など。

自分の満たされない欲求を、別の対象に置き換えて、満足させる。
だから「置き換え」という。

 私のばあいは、これを置き換えと言ってよいかどうかはわからないが、心が塞いだよう
なとき、何か買い物をして、心を紛らわすことがある。
おかしな癖があって、複雑な電子製品を買うと、心がよく紛れる。

 考えてみれば、人生には、いつも「選択」がついて回る。
何かの映画のテーマにも、なっていた。
私たちは毎日、何かの選択をしながら、生きている。
その選択するという部分で、人はいつも、置き換えを経験する。
たとえば今の私にしても、そうだ。
本当は孤独。
友がほしい。
わかりあえる友がほしい。
が、そういう友が近くにいない。
だから、そのかわりに、こうして文章を書いて、一般世間に向かって自分の気持ちを訴え
る。
「置き換え」である。

●心

 こうした一連の言葉をフロイトは使ったが、ほかにもいろいろ考えられる。
はやし浩司流、補足ということになる。

(1)八つ当たり(関係ない人に、怒りを転嫁する。)
(2)徘徊(近くをブラブラあるいて、気を紛らわす。)
(3)愚痴(愚痴をこぼして、気を晴らす。)
(4)運動転嫁(汗を出すような運動をして、忘れる。)
(5)思想昇華(文章を書いて、自分を昇華する。)
(6)復讐(憎い相手を、窮地に追い込む。)、などなど。

 フロイト学説にとらわれる必要はない。
また言葉の解釈は、心理学者と呼ばれる人たちに、任せておけばよい。
(私もときどき、「君の解釈はまちがっている」というようなコメントをもらう。)

 大切なことは、私たちの「心」というのは、それほどまでにデリケートで、傷つきやす
いということ。
それがわかるだけでも、心の見方が大きく、変わってくる。
自分の見方も変わってくる。

 では、どうするか?

 要するに、ありのままの自分を見つめながら、すなおに生きていくということ。
一見簡単そうに見えるが、実際には、むずかしい。
むずかしいが、それが正道。
その努力だけは、怠ってはいけない。

私「おっぱいが好きだったら、好きと言え」
子「……?」
私「自分の心を偽ってはいけない」
子「……先生は、好き?」
私「好きだよ」
子「……だったら、ぼくも、好き」と。

 あなたも一度、そんな会話を、子どもとしてみるとよい。

((はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩
司 BW はやし浩司 フロイト 防衛機制 抑圧 置き換え 代償 補償 反動形成 
心の防衛 はやし浩司 素直な心 素直論 合理化 投影 子どもの心理 子供の心理 
心の問題 心を守る)

【補記】

 昔、「ぼくは台風が大好き」と言った、アメリカ人がいた。
「台風が来ると、ベランダに椅子を置いて、そこから外をながめている」と。
私はそれを聞いて、驚いた。
私も内心では好きと思っていたが、それをこの日本で口に出して言うことは、どこかタブ
ー視されていた。
とくにあの伊勢湾台風を経験した私たちの世代は、そうだった。

 が、それを聞いて、「ナーンダ、そうだったのか」と、私は安心した。
「台風が好き」と思う私を、私はどこかおかしいと思っていた。
だからそれを口に出して言うことはできなかった。

 またこんな男性もいた。
その人の母親は、特別擁護老人ホームに入って、もう10年になるという。
その母親について、その男性は、こう言った。
「見舞いに行くといっても、年に1、2度かな?」と。

 年に1、2度?

 もし私の郷里の人たちが聞いたら、「何という親不孝者!」と、思うことだろう。
しかし私はその男性に、ほかでは感じない、すがすがしさを覚えた。
まったく自分を飾らない。
偽らない。
そう感じた。
その男性は、ありのままに生きていた。
自分の心を正直に表現していた。
(それがよいことか、悪いことかという判断は別にして……。)

 自分にすなおに生きる。
それが心を偽らない、第一歩ということになる。
他人がとやかく言っても、気にすることはない。
それを恐れる必要もない。
私は私。
あなたはあなた。
いつも心の中に、さわやかな風を通しながら生きる。
それが「私」ということになる。


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●B・T氏の『アウトxxx』

++++++++++++++++

劇場へは、毎週のように足を運んでいる。
「ボケ防止のため」と、心に決めて、
そうしている。

で、この数週間、毎回、『アウトxxx』の
予告編が流される。
私はそれを見るたびに、顔をそむける。

……無表情のまま、突発的にキレて、相手を
蹴り飛ばすB・T。
それにつづく暴力、また暴力。
「悪」という文字も、繰り返し使われる。

で、こんなセリフも……。
「おまえ1人くらい生きていなければ、
結果はわからんだろ」(記憶)と。

まさに汚い言葉。
罵声。
怒鳴り声。

B・T氏は、フランスでは受けが
よいらしい。
フランス政府からも、「日本を代表する文化人」(?)
として表彰されている。

しかしみなさん、もう一度、ここで冷静に
考えてみよう。
「ああした映画が、日本の文化なのか?」と。
あるいは「ああした人物が、日本を代表する
文化人なのか?」と。

フランス人の目を通して、この日本を眺めて
みるのもよい。

TBS・iは、つぎのように伝える。

++++++++++++以下、TBS-iニュースより++++++++++++++

フランスのカンヌ映画祭で、B・T監督の「アウトxxx」が公式上映されました。最高
賞パルム・ドールを競う北野監督、「進化した自分をみせられた」と自信を見せています。

 カンヌ映画祭は6日目、栄えある赤じゅうたんに、はにかみながらタキシード姿の北野
武監督が登場しました。コンペ部門への参加こそ「菊次郎の夏」以来、11年ぶりですが、
監督としてカンヌ出品は5回目と、既に「常連」。観衆の盛んな拍手で迎えられました。

 今回の新作「アウトxxx」は、暴力団の内部抗争の末路を描いた異色作。久々に暴力
シーンが目立ちますが、北野監督は「進化した自分を見せられた」と自負しています。
 
 「見事に客をKOしたっていう感じで。本当は半分以上席を立つかと思ったが、しびれ
て立てなかったんじゃないか。料理の鉄人と言われた人が、カツ丼を作ってみろと言われ
たような感じがして、じゃあ、作ってやろうじゃないかと作ったのが今度の映画。いい味
してるだろう? でもクセありますって・・・」(B・T監督)

 既に賛否両論、大きな話題となっていますが、ヴェネチアに続き、賞獲りが成るかは2
3日の授賞式で判明します。帰ってきた大物として歓迎された北野監督。また強烈な印象
をカンヌに残したことは間違いありません。(18日07:24)

++++++++++++以上、TBS-iニュースより++++++++++++++

●日本を代表する文化人?

 みなが寄ってたかって、B・Tをもちあげる。
フランス人にしても、そうだろう。
何しろ、日本でもっとも知名度の高い、タレントである。
東京あたりで、B・Tを批判したら、それだけでマスコミの世界から、叩き出されて
しまう。

 しかし『アウトxxx』の試写会で、「途中で席を立つ人が多かった」(ヤフー)という
部分に、私は賛辞を送りたい。
2年前に、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●近代性と人間の幸福(Modernization of the Society and its pursuit of Happiness)
Modernization of the society does not promise us to be happy, or rather more often 
modernization of the society brings us to get lost. For one of the examples of the 
modernization, Tokyo is always understood as a corrupted city in the Hollywood movies
, where all kinds of desires have been wound whirlpool, desires such as drugs, sex, and 
money. Is this the future that we wish to pursuit? The answer should be No.

++++++++++++++++++++

社会の近代性が、人間を幸福にしたかというと、
それは、疑わしい。

逆に言うと、それ以前の人間は、みな、
不幸だったのかということになる。

一方、私たちは半世紀前の人間からしても、
夢のような生活をしている。が、それでいて、
より幸福になったという実感は、あまりない。

逆に言うと、この先、半世紀後の人たちが、
より幸福になるという保証は、どこにもない。
へたをすれば、今より、不幸になるかもしれない。
むしろ、その可能性のほうが、高い。

……となると、社会の近代性とは何かということに
なる。
もっとつきつめて言えば、現在の私たちは、
いったい、何を求めて生きているのかという
ことになる。さらに言えば、何のために生きて
いるのかということになる。

ここに社会の近代性がもつ、構造的な欠陥というべきか、
きわめて深刻な問題が、隠されている。

++++++++++++++++++++

●近代的な都市国家

 日本が外国に与えている印象は、あまりよくない。ハリウッド映画に出てくる日本を見
れば、それがわかる。少し前、「KILL BILL」という映画があった。最近でも、「バ
ベル」という映画があった。これらの映画に共通する点は、日本、とくに東京は、いつも
退廃した都市として描かれているということ。

 内心では、「?」と思うのだが、外国の人たちもまた、日本に、そういう日本像を求めて
いる。外国で賞を取るような日本映画は、退廃的なものばかり。どこか薄汚く、どこか貧
しい。B・T氏が監督する映画を、例にあげるまでもない。

 で、そういう映画を通してこの日本をながめると、この私ですら、この日本に住むこと
に、嫌悪感を覚える。

 東京では、まさに人間の、ありとあらゆる欲望が渦巻いている。モノ、金、セックス、
電子製品、食べ物、何でもござれ。映画、「バベル」の中では、麻薬を楽しむ若者たちのほ
か、パンティを脱いだ女子高校生が、男子高校生たちに、それをのぞかせるというシーン
まであった。

 そういうシーンが、何ら違和感なく、……というか、東京というのは、そういう都市で
あると、当然のように描かれている。それを見る私たちも、「そうではないのだがなア」と
思いつつも、画面からあふれ出てくる迫力の前では、無力でしかない。そこにあるのは、
確かに東京である。どこかのスタジオやセットではない。で、やがてこの私ですら、「東京
って、そういう都市だったんだ」と、自分で自分を納得させてしまう。

 が、そういう東京、つまり東京がもつ近代性は、私たちが求めてきたものかどうかとい
うと、答は、NO! 私たちは、東京を現在の東京にするために、生きてきたのではない。
子どもたちを、今の子どもたちにするために、生きてきたのではない。

 どこか、おかしい。狂っている。

 10年前には、援助交際が問題になった。しかし今では、それを問題にする人すら、少
ない。ごく当たり前の、日常的な光景にすら、なってしまった。それがわからなければ、
夕方のコンビニをのぞいてみることだ。

 どこかあやしげな雰囲気で、女子高校生や女子中学生たちが、携帯電話で話をしている。
そのすぐ外には、車を止めた男たちが、ニヤニヤと笑いながら、同じように携帯電話で話
をしている。そうやってたがいに連絡を取りあいながら、女の子たちは、やがて車の中へ
と消えていく……。

 しかしそれを「進歩」と呼ぶ人は、いない。「退廃」と呼ぶ。私たちが求める「幸福」と
は、似ても似つかぬものである。

 ……といっても、だからといって、この私が聖人というわけではない。つい昨日も、K
市のK高校校長が、交際していた女性(20歳)を脅迫したとかで、逮捕されるという事
件が起きた。報道によれば、その女性は、その校長の教え子だったという。その教え子が
高校生のときから、つきあい始めたらしい。

 そういう事件が明るみになると、みな、「ここぞ」とばかり、校長を責めたてる。しかし
こういう世界で、だれが、そういう校長を、石をもって打てるのか。S県の教育委員会の
幹部たちがズラリと並んで、いっせいに頭をさげていたが、だからといって、そういう幹
部たちが、聖人かというと、それはない。そういうことは、ぜったいに、ありえない。

 この私だって、相手とチャンスがあれば、若い女性とそういう関係をもちたいと、いつ
も心の中で願っている。願っているというよりは、いつも空想している。脳みその奥にあ
る、視床下部から発せられる信号には、ものすごいものがある。辺縁系や大脳の前頭前野
くらいで、コントロールできるような代物では、ない。

 肉体が健康であればなおさらで、私の年齢で、若い女性に興味がないという人がいたら、
糖尿病かうつ病か、そんなような病気を疑ってみたほうがよい(失礼!)。

 ……話がそれたが、だからといって、そうした欲望の追求を、野放しにしておいてよい
ということではない。欲望の追求は、原始の世界への退行を意味する。つまり私たちが求
める近代性とは何かと問われれば、まさにこの一点に集約される。

 つまり、近代性とは、欲望の追求であってはいけないということ。その視点を見失うと、
冒頭に書いたように、私たちは、何を求めて生きているのかということになってしまう。
さらに言えば、何のために生きているのかということになってしまう。

 ここに書いた携帯電話にしても、それが援助交際の手段として使われたとたん、欲望を
追求するための道具になってしまう。DVDにしても、インターネットにしても、そうだ。
便利な機器であるならなおさら、心のどこかで一線を引く。引いて、欲望の追求から遠ざ
ける。

 そのちょっとした心理的操作が、日々に積み重なり、月となり、年となって、やがて私
やあなたを、より豊かな世界へと導く。それで私たちが、より幸福になるというわけでは
ない。しかし、より幸福な世界に近づくことだけは、できる。もちろん、そうでなければ、
そうでない。

 悪人になるのは簡単なことだ。ほんの少しだけ気を緩(ゆる)めれば、それでなれる。

 で、この年齢になってはじめて気がついたことがある。つまりこの時期になって、「絶望
感」を味わうことくらい、恐ろしいことはないということ。一時の欲望に身を任せたとた
ん、私たちは遠い、遠い、回り道をすることになる。時間を無駄にすることになる。

 それについてはたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 ともかくも、社会の近代性イコール、幸福の追求ではないということ。それだけは確か
である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●無力感

 たまたま(?)、私とB・Tとは、同年齢である。
それだけに、どういうわけか、あの人の精神構造というか、基盤のようなものが、よくわ
かる。
私たちは、そういう時代を生きてきた。

 が、私は私だし、あの人は、あの人。
マスコミを背負っている分だけ、私には、勝ち目はない。
(ない)分だけ、いつも無力感に襲われる。
たとえて言うなら、懸命に野原に花の苗を植えていたところ、うしろから大きなブルドー
ザーがやってきて、それを踏みつぶされたような気分。
怒りの声など、そのままブルドーザーの騒音にかき消されてしまう。

 が、その責任は、私たちにないわけではない。
批判力をもたない日本人。
大勢にのまれてしまう日本人。
そういう無責任さが、一方で、ああいう人物をのさばらせてしまう。
でないというのなら、予告編だけでもよいから、一度、『アウトxxx』なる映画を観てみ
ることだ。
「観たい」と思う前に、目を背ける。

 何が「料理の鉄人」だ!
自らを、「料理の鉄人」と称し、「カツ丼を作ってみた」?
観客をこれほどバカにした言葉もない。
ないが、今の日本人には、それすらもわからない。
わからないまま、またもちあげる。
「フランスでもちあげられた。すごい人だ」と。

 これからはフランス語でも、BLOGを書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 B・T B・T アウトxxx)

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\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      6月   14日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【BW子どもクラブ】(BW教室)

●5月13日のレッスン

 昨日、OBの子どもの、Yさんが、BW教室に入会してくれた。
小学1年生の子どもである。
現在、OBの子どもが、20%ほどいる。
自分がお父さん、お母さんになり、その子どもを私の教室によこしてくれる。

 私は不運にも(?)、孫がいても、自分の孫を教えることはできない。
これから先も、ないだろう。
だから生徒を自分の孫と思いながら、教える。
少しさみしいが、教室で子どもたちの顔を見たとたん、そのさみしさが消える。

 だから今はもう、「教えてやろう」などという気持ちは、ない。
「子どもたちといっしょに、楽しもう」という気持ちだけ。
教える側が楽しめば、その気持ちは、そのまま子どもたちに伝わる。
それが子どもたちを前向きに伸ばす。
子どもたちの楽しそうな顔を見るのが、何よりも、うれしい。
楽しい。

 「幼児教室」というと、いろいろな誤解がある。
「幼児を苦しめる教室」というイメージも強い。
しかしこと私の教室(BW子どもクラブ・BW教室)について言えば、いやがって
来る子どもはいない。
毎回、みな、その日を楽しみにして、来てくれる。
最初は警戒してくる子どもも、1〜2か月もすると、私といっしょにゲラゲラと
笑い出す。
ウソだと思うなら、YOUTUBEを見たらよい。
YOUTUBEを見てから、私の教室を批判したらよい。


【BW公開教室】

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より、どうぞ!

【5月13日のレッスンより】

はやし浩司のHP ……→「公開教室」


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


【3】(【SD式教育メソドへの疑問】

●乗馬マシン

昨日、乗馬マシンが届いた。
ネットで購入した。
庭の見える窓際に置いた。

またがって座ると、まるで馬に乗っているかのような動きをする。
前後・左右の動きに合わせて、さらにひねりや回転運動まで加えてくれる。
手綱をつかみながら、その上でバランスを取る。
乗りながら、こんなことを考えた。

「パカパカ……」という音が出れば、もっとよい。
ついでに横に、銃を入れるホルダーでもあれば、もっとよい。
気分は最高。
まるでカウボーイ(クリント・イーストウッド)にでもなったような気分。

驚いたのは、15分もすると、ただ座っていただけなのに、
背中に汗がジワーッと出てきたこと。
腰、背中の運動になっているらしい。
ついでに腸の運動にも。

生徒の親の中にも、乗馬マシンをもっている人は多い。
そういう生徒に、「お父さんやお母さんは、使っている?」と聞いてみた。
ほとんどが「よく使っている」と答えた。

同じ健康器具でも、すぐあきてしまうものもあれば、習慣的に使うようになるものもある。
乗馬マシンは、習慣化しやすい健康器具ということになる。

これからは、ウォーキングマシンで、10〜20分、運動したあと、つづいて
乗馬マシンで運動することにした。
今日でまだ2日目だが、仲よくなれそう。
またがって乗っているだけで、楽しい。
外をながめているだけで、楽しい。


●映画『グリーン・ゾーン』

 久々に迫力のある戦争映画を観た。
『グリーン・ゾーン』。
星は4つの、★★★★。
動きが激しいので、老人向けではない。
しかしボケ防止には、よい。

 今夜は、「1000円DAY」(毎月14日は、入場料が1000円)
ということで、結構、混んでいた。


●パキスタン

 映画の帰りに、友人が経営している、パキスタン料理の店に寄った。
「カラワン」という店。
星はもちろん、★★★★★。
 
 そのカラワン。
しばらく休業していた。
友人が、生まれ故郷のパキスタンに、しばらく帰省していたため。

 その友人が、こんな話をしてくれた。
「パキスタン人は、働かない」と。

私「働かないってエ?」
友「その日一日、食べていかれるだけのお金が手に入れば、それでいいと考える」
私「貯金は?」
友「パキスタン人は、しない。貯金するという考え方そのものがない」
私「家は、どうするの? 家を買うときは?」
友「家は、ある」
私「フ〜〜ン」と。

 パキスタン人は、会社勤めをしない。
組織に入って、働いて、給料をもらうという考え方そのものがない。
「みな、お金がなくなると、何とか働いて、それでおしまい」と。

私「驚いたか?」
友「驚くって? ぼくはパキスタンで生まれ育ったから、驚かないよ」
私「日本人は、どこかの組織に属していないと、落ち着かない」
友「日本人は、そうだね。パキスタン人には、理解できない」と。

 国がちがうと、基本的な意識そのものがちがう。
考え方そのものも、ちがう。
言うなれば、パキスタンでは、その日暮らしのフリーターが、主流。
それがふつう。

 日本人の意識は、けっして世界の標準でもないし、常識でもない。
むしろ異質。
江戸時代の昔からの、身分制度そのものが、亡霊のように、いまだにのさばっている。
店から出たとき、そんなことを考えた。


●低劣な人

 おととい、バスに乗った。
うしろに座った、2人の女性の会話が聞こえてきた。
年齢は、ともに65歳くらい。
例によって、例のごとく、低劣な話。
2人の女性を、AとBにしておく。

A「弟が母を介護しているんだけどね、介護士の人に聞いたら、月に1、2度しか
見舞いにこないんだってエ」
B「月に、1、2度? 少ないわねエ……」
A「でね、私、母のベッドのふとんをめくってみたら、ズボンがクルクルとまるめて、
ペッタンコになっていたの。
あの嫁さん、母のめんどうを、ぜんぜん、みていないみたい」と。

 話の内容からすると、Aという女性の母親は、現在、特別養護老人ホームに入居して
いるらしい。
その母親を、Aという女性の弟夫婦が引き取って、めんどうをみているらしい。
それについて、Aという女性が、Bという女性に、グチをこぼしていた。

 が、この話を聞いたとき、あまりの低劣さで、気分が悪くなった。
その第一。
「弟が、月に何回見舞いに来るか、それをスパイする姉など、いるのだろうか」と。
その「聞く」という行為そのものが、低劣。

その第二。
「老人ホームで、ふとんをめくって、その下を確かめるような人はいるのだろうか」と。
その「ふとんをめくって調べる」という行為そのものが、低劣。

 話の内容もさることながら、それから感ずる人間性そのものが、低劣。

 それに答えて、Bという女性が、「そうよねエ」「そうよねエ」と。
類は友を呼ぶということか。
Aという女性も低劣だが、Bという女性も低劣。
こうして人は、老後に向かって、低劣になっていく。
否応なしに、低劣になっていく。
みながみな、そうなるわけではないが、脳みそが萎縮し始めると、そうなる。


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

【SD式教育メソドへの疑問】

+++++++++++++++++

「右脳教育」という、「エセ科学」とまでは
言えなくても、まだ安全性が確認されて
いない教育法(?)が、一時期、一世を風靡
した。
ネコもシャクシも、「右脳」「右脳」と騒いだ。
今も、その信奉者は多い。

が、右脳教育に疑問をもつ学者は、少なくなかった。
で、それから10数年。
そろそろその「結果」が出てくるころだが、
果たしてそれだけの「成果」はあったのだろうか。

以前、私が書いたエッセー(中日新聞)を、
もう一度、読んでほしい。
(2010−5−15)

++++++++++++++++++

●ギャグ化する子どもの世界

+++++++++++++

「IQサプリ」という言葉がある。
いわば、「トンチ」のことだが、
そのトンチが、明らかに子どもたちの
世界を侵襲し始めている。

わかりやすく言えば、子どもたち
の世界も、ギャグ化し始めている。

たとえば作文を書かせても、
「ぼくの夢は、ゴジラと戦って、
ゴジラの肉を食べること」などと、
平気で書いたりする。

昨日も、こんなことがあった。

+++++++++++++

【問】
14人の友だちに、4分以内で連絡が届くように、連絡網をつくりたいと思っています。
連絡は、電話でします。また電話は、1人、1分かかるものとします。どのような連絡網
を作ればよいですか。(たとえば、A→Bで、1分。B→Cで、1分、計2分……かかりま
す。)(浜松市内N高校中等部・07年出題問題より)

 この問題を、小5の子どもたちにやらせてみた。学校ではみな、トップクラスの子ども
たちである。が、この問題を出すやいなや、みなが、こう言い始めた。

A「電話を14台、もってくればいい」
B「でも、やっぱり、14分、かかってしまう」
A「だったら、3分以内に、みなに電話をかけ、受話器を並べておいて、残りの1分で、
大声で、しゃべればいい」
C「電話を14台も、もってこれないよ」
A「どこかの病院の電話を借りればいい。病院になら、電話がたくさんある」と。

 つまり数学の問題ですら、彼らはすぐギャグ化してしまう。

私「もう少し、まじめに考えろ!」
D「だったら、1分もかけないで、早口で、30秒ですませばいい」
私「これはそういう問題ではないの!」
A「私だったら、早口だから、30秒で、できる」
私「だったら、答にそう書けばいい。ぼくがバツをつけてあげる」
D「どうしてバツなの?」と。

 多くの人は、思考と情報を混同している。情報量の多い子どもを、「賢い子ども」と錯覚
している。さらにこうしたトンチ的発想のできる子どもを、「賢い子ども」と錯覚している。

 何度も書くが、思考力は、分析力と論理力で決まる。子どもたちが言っていることは、
論理ではなく、トンチである。トンチは、「頓知」と書く。国語大辞典には、「即座の知恵、
機転、機知、ウィット=quick wit」とある。

 子どもの賢さは、(おとなの賢さもそうだが)、思考力で決まる。トンチではない。思考
力である。トンチなら、まだよいが、それが最近では、ここにも書いたように、ギャグ化
している。つまりものごとを、まじめに考えようとする前に、それを茶化してしまう。

 で、私は、本気で怒った。

私「お前たち、もっとまじめに考えろ。電話は1台しかない。連絡するのに、1人、1分、
かかる。それが条件だ」
A「もし、友だちが、外出していたら、どうするの?」
私「そういう偶然性は、考えないの。もし外出していたら、留守番電話に伝言を残してお
けばいい」
A「留守番電話がなかったら?」
私「そんなこと、知らない。だまって考えろ!」と。

 こうした傾向は、冒頭に書いた、「IQサプリ」という言葉が耳に入るようになってから、
大きくなった。ある時期は、毎晩のように、こうした番組がテレビで流されるようになっ
た。たしかに頭の体操にはなるだろう。しかしだからといって、つまりそれを繰りかえし
たからといって、「賢い子ども」には、ならない。

 それに(機転)程度のことだったら、私の飼っている犬のハナにだって、できる。追い
かけていたトカゲが柵の中にもぐったようなとき、ハナは、先回りして、柵の向こうへ行
く。が、そういうことができるからといって、私は、ハナに思考力があるとは思わない。
頭はよいが、それと思考力とは、まったく異質のものである。

 それがわからなければ、最初の問題を、あなた自身で解いてみたらよい。かなり難解な
問題である。

 たとえば……

 (A)→(B)→(C)→(D)→(E)で、4分、かかる。

 そこで、

(A)→(B)→(C)→(D)→(E)
↓  ↓   ↓   ↓
(F)→……
 ↓
(G)
 ↓
(H)
 
 ……というように連絡網をつくっていく。たいていの人は、この段階で、「ああでもない」
「こうでもない」と頭をかかえ始めるだろう。つまりその(苦しみ)こそが、思考の特徴
ということになる。条件といってもよい。最近の子どもたちは、その苦しむということを
しない。あるいは、それを意図的に避けようとする。

 その結果が……。話が飛躍するが、大阪府の元知事の、横山N氏であり、宮崎県の知事
の、S氏ということになる。昨日も、こんなニュースが伝わってきた。

 自民党の総裁選挙で敗れたA氏は、こう言ったという。「これから家に帰って、たまった
コミック本(ゴルゴ13)を、みんな読む」と。政治そのものが、ギャグ化している。が、
悲しいかな、日本全体がギャグ化しているから、それをギャグとは、だれも気づかない。

 日本人、1億、総ギャク化!、……と、子どもたちを見ながら、私は、そんなことを考
えていた。

+++++++++++++++

これに関連して、以前書いた
原稿を、ここに添付します。

+++++++++++++++

●右脳教育

++++++++++++++++++++++

右脳教育は、果たして安全なのでしょうか?
まだその安全性も、確認されていない段階で、
幼児の頭脳に応用する危険性。みなさんは、
それを、お考えになったことがありますか。

たった一晩で、あの百人一首を暗記してしま
った子ども(小学生)がいました。

しかしそんな能力を、本当にすばらしい能力
と安易に評価してよいのでしょうか。

ゲームづけになった子どもたち。幼いころか
らテレビづけになった子どもたち。今さら、
イメージ教育は必要ないと説く学者もいます。

それに右脳と左脳は、別々に機能しているわけ
ではありません。その間は、「交連繊維」と呼ば
れる神経線維で結ばれ、一番大きな回路である、
「脳梁(のうりょう)」は、2億本以上の繊維
でできています。

右脳と左脳は、これらの繊維をとおして、交互
に連絡を保ちながら、機能しています。

脳のしくみは、そんな単純なものではないよう
です。

そうそう、言い忘れましたが、一晩で百人一首
を暗記したのは、あの「少年A」です。

イメージの世界ばかりが極端にふくらんでしま
うと、どうなるか。そのこわさを、少年Aは、
私たちに教えてくれました。

++++++++++++++++++++++++

 アカデミックな学者の多くは、「右脳教育」なるものに、疑問を抱いています。渋谷昌三
氏もその1人で、著書「心理学」(西東社)の中で、こう書いています。

 「なにやら、右脳のほうが、多彩な機能をもっていて、右脳が発達している人のほうが、
すぐれているといわんばかりです。

 一時巻き起こった、(現在でも信者は多いようですが)、「右脳ブーム」は、こういった理
論から生まれたのではないでしょうか。

 これらの説の中には、まったくウソとはいえないものもありますが、大半は科学的な根
拠のあるものとは言えません」(同書、P33)。

++++++++++++++++++++++++++

●右脳教育への警鐘

 論理的な思考力をなくす子どもたち。ものの考え方が直感的で飛躍的。今、静かにもの
を考えられる子どもが、少なくなってきています。

 そうした危惧感を覚えながら書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞発表済み)。

+++++++++++++++++++++

親が右脳教育を信奉するとき

●左脳と右脳

 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳
をきたえると、たとえば次のようなことができるようになるという(SD眞氏)。

(1)インスピレーション、ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、
(2)受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直
観像化)、
(3)見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、
(4)計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。こうした事
例は、現場でもしばしば経験する。

●こだわりは能力ではない

 たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろ
ばんを使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読
むというよりは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解
してしまう。

 しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、「神童」というのは認めない。
もう少しわかりやすい例で言えば、一〇〇種類近い自動車の、その一部を見ただけでメー
カーや車種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。

 たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうで
ないこだわりを見せることが知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の
最初の一小節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうした
こだわりが強ければ強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。

●論理や分析をつかさどるのは左脳

 そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を出し、そうした成
果の陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、
変人というイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた
人物にしたと考えられなくもない。

 言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あ
るべき人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(論
理)、他人の心を静かに思いやること(分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもと
いうことになる。
その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

●右脳教育は慎重に

 右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。
しかしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でな
ければならない。脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析
を学ぶ。右脳ばかりを刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺
害事件』をあげる研究家がいる(福岡T氏ほか)。

●少年Aは直観像素質者

 あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)
画数の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、
五〇〇〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったことも
あります」(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。

 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の
区別がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。

その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年Aは)直観像素質者(一瞬見た映像をま
るで目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことができる能力のある人)であって、(そ
れがこの非行の)一因子を構成している」(同書)という結論をくだしている。

 要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。
子どもに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●才能とこだわり

 自閉症の子どもが、ふつうでない「こだわり」を見せることは、よく知られている。た
とえば列車の時刻表を暗記したり、全国の駅名をソラで言うなど。車のほんの一部を見た
だけで、車種からメーカーまで言い当てた子どももいた。クラッシック音楽の、最初の一
小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い当てた子どももいた。

 こうした「こだわり」は、才能なのか。それとも才能ではないのか。一般論としては、
教育の世界では、たとえそれが並はずれた「力」であっても、こうした特異な「力」は、
才能とは認めない。たとえば瞬時に、難解な計算ができる。あるいは、20ケタの数字を
暗記できるなど。あるいは一回、サーッと曲を聞いただけで、それをそっくりそのまま、
ピアノで演奏できた子どももいた。
まさに神業(わざ)的な「力」ということになるが、やはり「才能」とは認めない。「こだ
わり」とみる。

 たとえばよく知られた例としては、少し前、話題になった子どもに、「少年A」がいる。
あの「淳君殺害事件」を起こした少年である。彼は精神鑑定の結果、「直観像素質者※」と
鑑定されている。直観像素質者というのは、瞬間見ただけで、見たものをそのまま脳裏に
焼きつけてしまうことができる子どもをいう。

少年Aも、一晩で百人一首を暗記できたと、少年Aの母親は、本の中で書いている(「少年
A、この子を生んで」文藝春秋)。そういう特異な「力」が、あの悲惨な事件を引き起こす
遠因になったとされる。

 と、なると、改めて才能とは何かということになる。ひとつの条件として、子ども自身
が、その「力」を、意識しているかどうかということがある。たとえば練習に練習を重ね
て、サッカーの技術をみがくというのは才能だが、列車の時刻表を見ただけで、それを暗
記できてしまうというのは、才能ではない。

 つぎに、才能というのは、人格のほかの部分とバランスがとれていなければならない。
まさにそれだけしかできないというのであれば、それは才能ではない。たとえば豊かな知
性、感性、理性、経験が背景にあって、その上ですばらしい曲を作曲できるのは、才能だ
が、まだそうした背景のない子どもが、一回聞いただけで、その曲が演奏できるというの
は、才能ではない。
 
 脳というのは、ともすれば欠陥だらけの症状を示すが、同じように、ともすれば、並は
ずれた、「とんでもない力」を示すこともある。私も、こうした「とんでもない力」を、し
ばしば経験している。印象に残っている子どもに、S君(中学生)がいた。

ここに書いた、「クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い
当てた子ども」というのが、その子どもだが、一方で、金銭感覚がまったくなかった。あ
る程度の計算はできたが、「得をした」「損をした」「増えた」「減った」ということが、ま
ったく理解できなかった。

 1000円と2000円のどちらが多いかと聞いても、それがわからなかった。100
0円程度のものを、200円くらいのものと交換しても、損をしたという意識そのものが
なかった。母親は、S君の特殊な能力(?)ばかりをほめ、「うちの子は、もっとできるは
ず」とがんばったが、しかしそれはS君の「力」ではなかった。

 教育の世界で「才能」というときは、当然のことながら、教育とかみあわなければなら
ない。

「かみあう」というのは、それ自体が、教育できるものでなければならないということ。「教
育することによって、伸ばすことができること」を、才能という。が、それだけでは足り
ない。その方法が、ほかの子どもにも、同じように応用できなければならない。またそれ
ができるから、教育という。つまりその子どもしかできないような、特異な「力」は、才
能ではない。

 こう書くと、こだわりをもちつつ、懸命にがんばっている子どもを否定しているように
とらえられるかもしれないが、それは誤解である。多かれ少なかれ、私たちは、ものごと
にこだわることで、さらに自分の才能を伸ばすことができる。

現に今、私は電子マガジンを、ほとんど2日おきに出版している。毎日そのために、数時
間。土日には、4、5時間を費やしている。その原動力となっているのは、実は、ここで
いう「こだわり」かもしれない。

時刻表を覚えたり、音楽の一小節を聞いただけで曲名を当てるというのは、あまり役にた
たない「こだわり」ということになる。が、中には、そうした「こだわり」が花を咲かせ、
みごとな才能となって、世界的に評価されるようになった人もいる。あるいはひょっとし
たら、私たちが今、名前を知っている多くの作曲家も、幼少年時代、そういう「こだわり」
をもった子どもだったかもしれない。そういう意味では、「こだわり」を、頭から否定する
こともできない。
(02ー11ー27)※

(はやし浩司 右脳教育 右脳教育への疑問 こだわり 少年A イメージが乱舞する子
ども 子供 才能とこだわり 思考のバランス (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評
論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 SD教育 右脳教
育への疑問)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2005年に、静岡県教育委員会発行の
「ファミリス」に発表した原稿を、
再掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●右脳教育ブームの中で

左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(スペリー)。その右脳をきたえる
と、たとえば次のようなことができるようになるという(SD氏)。
ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの
映像を心に描くことができる(直観像化)、見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶するこ
とができる(フォトコピー化)、計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動
処理)など。

 しかしこういう説に対して、疑問を投げかける学者も少なくない。目白大学の渋谷氏も
その1人で、著書「心理学」の中で、こう書いている。

 『なにやら、右脳のほうが、多彩な機能をもっていて、右脳が発達している人のほうが、
すぐれているといわんばかりです。一時巻き起こった、(現在でも信者は多いようですが)、
「右脳ブーム」は、こういった理論から生まれたのではないでしょうか。これらの説の中
には、まったくウソとはいえないものもありますが、大半は科学的な根拠のあるものとは
言えません』と。

●だから、どうなの?

 ときどき、右脳教育の成果(?)として、神業的な能力を示す子どもが紹介される。ま
さに神業。しかし「だからどうなの?」という部分がないまま、子どもにそういう訓練を
ほどこしてよいものか。はたしてそれが能力と言えるのか?
 昔、「一晩で百人一首を覚えたら、5000円あげる」と母親に言われ、本当に、一晩で
暗記してしまった子どもがいた。その子どもというのは、あの忌まわしい殺人事件を起こ
した、「少年A」である。彼は専門家の鑑定により、「直観像素質者」という診断名がくだ
された。

 イメージの世界ばかりが、極端にふくらんでしまい、空想と現実の世界の区別がつかな
くなってしまった子どもと考えるとわかりやすい。

●大切なのは、静かに考える子ども

右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべき人間の理想
像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(=論理)、他人の心
を静かに思いやること(=分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということに
なる。その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

 で、今、その静かに考えることができる子どもが、むしろ減っているのではないか。私
は、個人的には、これだけ映像文化が発達しているのだから、あえて右脳を刺激しなくて
も、よいのではと考えている。

 要はバランスの問題。右脳教育にせよ、左脳教育にせよ、いつもバランスを考えながら
する。

++++++++++++++++++

●絶えない疑問

 ここにきて、SD式教育メソドに対する風当たりが、急速に強くなっている。
そうした傾向は、ネットを使えば、即時にわかる。
私には、これが一時的な現象なのか、それとも、右脳教育ブームに対する「揺り戻し」
なのか、判断できない。

 ただ言えることは、教育には「正道」はあっても、それ以外の「道」はないということ。
それは健康法に似ている。
日々の肉体の鍛錬のみが、その人の健康を保証する。
つまり、まず、それが基本。
その基本の上に、さまざまな健康法が存在する。
子どもの教育も、またしかり。
「右脳教育」といっても、それは「教育」の一部であり、さらに言えば、亜流に過ぎない。
利用するにしても、そうした視点を、しっかりともってする。

 この先も、SD式教育メソドは、さまざまな分野で検証が加えられていくだろう。


近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●教材作り

 このところ毎日、1〜2時間は、教材づくりをしている。
たいていワイフが手伝ってくれる。
ときどき長男も手伝ってくれる。
そんなとき、子どものころ、どこかの家で見た、内職仕事を
思い出す。
窓からのぞくと、その一家の人たちが、黙々と仕事をしていた。
たしかキャラメルの粒を、紙でくるんでいた。
神業のようにすばやい作業だった。

 私の仕事はそれとはちがうが、似たようなもの。
紙を切り、ノリでくつけ、教材に仕上げていく。
それが楽しい。
・・・というより、子どもたちの反応がその時点で、たいてい
予想がつくので、楽しい。
「こういう出し方をすれば、子どもたちが喜ぶだろうな」と。


●仕事

 今の私から「仕事」を取ったら、何も残らない。
自分でもそれがよくわかっている。
もし仕事がなくなったら、毎日、貯金の残高ばかり気にしながら、
悶々とした日々を過ごすようになるだろう。
実際、身近に、そういう女性(70歳くらい)がいる。
何かするたびに、「そんなことをすれば、貯金が減る」が、口癖になっている。
それを最初聞いたときには、意味がよくわからなかった。
が、今は、よくわかる。
生き様(ざま)が、うしろ向きになると、そういうことを気にするようになる。

 気をつけよう。


●うつ

 この数日、どうも気分が晴れない。
うつ状態。
おまけに今日は、朝から雨。
雨は、心を重くする。
その雨を見ながら、この原稿を書いている。
意味のない、日誌にもならない、原稿。

 言うなれば、知的な(遊び)のようなもの。
脳に飛来する雑感を、そのまま文章にしている。
楽しくはないが、退屈しのぎには、よい。


●ギリシャの破綻

 うつ状態になったら、もっとも警戒しなければならないのが、「こだわり」。
何かのことにこだわり始めたら、要注意。
そのままどんどんと、深みにはまってしまう。
だからそういうときは、自分にこう言って聞かせる。

「これは本当のぼくではないぞ!」と。
そう言い聞かせながら、気分転換を図る。
要するに、クヨクヨしないこと。

 ところで暗い話だが、とうとうギリシャが、事実上、デフォルト(国家破綻)した。
公務員の年金額が、現役時代の95%というから、すごい。
両親が死んでも、娘が独身なら、その娘にも、年金が出ていたというから、すごい。
つまり退職後も、ほぼ同額の年金が手に入る。
日本も似たようなものだが、そのためほかの国々からの支援が受けられなかった。
報道によれば、ドイツが「NO!」と言ったらしい。

 この話は、先ごろ経営破たんした、JALの内情と、よく似ている。
JALのOBたちは、企業年金も合わせると、45万円前後の年金をもらっていた。


●債権投資

 ユーロが下落した。
一時は、1ユーロが、140円以上もあった(09年)。
が、今は、115円前後。
そのあおりを受けて、世界の株価が大暴落。

 この先、世界はどうなるのだろう?
私はたまたま先週、最後までもっていた株価連動型の債権投資から、手を引いた。
いわゆる「損切り」。
損を覚悟で、売却した。
数年前に買ったときと比べて、15%前後の損をした。
が、もし先週、売却しなかったら、今ごろは、半額程度になっていたはず。
(あやうくセーフ!)

 為替連動型の債権は、まだ少し残っているが、これはしばらく塩漬け。
円高基調がつづいているから、今は様子を見るしかない。
満期は2017年。
それまでには、何とかなるだろう。

 
●6か国協議

 中国が議長国?
6か国協議の議長国?
言葉はきついが、これでは泥棒の管理を、泥棒に任せるようなもの。
韓国の天安掃海艇事件以来、それがはっきりした。

結局、この10年間、6か国協議に進展はなし。
それもそのはず。
議長国の中国には、その意思はない。
最初から、K国の核開発など、どうでもよかった。
仮にK国が核兵器を保有しても、痛くもかゆくもない。
大切なことは、K国を自国の支配下におくこと。
K国の地下資源を、自分のものにすること。
そのため西側世界が騒げば騒ぐほど、中国にとっては、思う壺。
つまり他の4か国(日本、アメリカ、韓国、ロシア)を、よいように、
もてあそんだだけ。
議長国として、大きな顔をしただけ。
今となってみると、それがよくわかる。


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●舘山寺温泉一泊(ホテル・ウェルシーズン浜名湖、舘山寺温泉)すばらしいホテル

++++++++++++++++++++

5月の連休中は、毎年、家の中で静かにしている。
人ごみは、どうも肌に合わない。
苦手。
けばけばしい色を見ただけでも、疲れる。
それもあって連休中は、穴にこもる。
連休が終わったら、穴から出る。
それがここ10年、我が家のならわし。

で、その連休が終わると、毎年、こうしてどこかへ
旅行に行くことにしている。
で、今日は、舘山寺温泉。
自宅から、車で、20分ほど!
たったの20分!

泊まったホテルは、「ホテル・ウェルシーズン浜名湖」。
この温泉街には、「九重」「花の井」などの豪華なホテルがある。
「ホテル・ウェルシーズン浜名湖」は、それに並ぶ。
ホテルからそのまま、パルパル(遊園地)へ入場することもできる。
星は4つの、★★★★。
(「九重」を5つとするなら……という話。
「九重」は、浜松イチの最高級旅館。
私も、この浜松に住んで40年になるが、
1度しか、泊まったことがない。
宿泊料金は、1泊、4〜6万円。)

+++++++++++++++++++++++++

●ホテル・ウェルシーズン浜名湖

 このホテルの自慢は、温泉。
大浴場。
あちこちの大浴場を利用したが、このホテルほどの大浴場を備えたホテルはない。
広くて、清潔。
それに新しい。
時間帯をうまくねらえば、いつもガラガラ。
外来客として、毎週、利用している。
が、今回は、宿泊客として、やってきた。
ちょっとリッチな気分。
言い忘れたが、3人1部屋。
平日で、料金は、1名分、1万2200円。
3人分で、3万6600円。
夕食、朝食ともに、バイキング。

 初夏の今ごろ、秋になりかけたころ、パルパルで遊ぶつもりで宿泊するなら、お勧め。

 が、ほめてばかりいては、いけない。

私は、「ウェルシーズン」という名前に、どうしても違和感を覚える。
「ウェル」というのは、「well」という意味。
もしそうだとするなら、「じょうずに」とか、「うまく」とかいう、副詞ということになる。
(形容詞もあるが、めったに使わない。
それに形容詞で使うときは、「健康な」「じゅぶんな」という意味になる。)

だから「ウェル・シーズン」は、英語で考えるとおかしい。
どういう季節(シーズン)を、「ウェル」と言うのか?
これだけ立派なホテルなのだから、それなりの語学力のあるブレーンもいたはず。
どうして「ウェルシーズン」にしたのだろう?

●気分転換

 歳をとると、気分転換の大切さが、よくわかるようになる。
つまり「落差」が、よくわかるようになる。
(家の中にいるときの気分)と、(外へ出たときの気分)が、まるでちがう。
その(ちがい)が、よくわかるようになる。

 だから歳を取ったら、できるだけ、外の世界へ飛び出したほうがよい。
家の中に閉じこもっていてはいけない。
閉じこもっていると、肉体も精神も、腐ってしまう。
それが自分でも、よくわかる。
それを「落差」という。

 で、今、時刻は午後4時48分。
5時になったら、風呂に入る。
夕食は、6時半から。

 まず長男が、横になって眠り始めた。
つづいてワイフが眠り始めた。
部屋の中は、初夏の陽気が入り込んできて、暑いくらい。
私は眠いまなこを懸命にあけながら、(どこかぼんやりとした頭を
奮い立たせながら)、この文章を書いている。

 使っているパソコンは、TOSHIBAのMX33。
旅行に行くときは、いつもこのパソコンをもって歩く。
よいパソコンだ。
「ウェル・パソコン?」。

●新緑

 先ほど、パルパルの中をワイフと2人で、歩いてみた。
客は、全部で、私たちも含めて10人ほど。
(たったの10人!)
のんびりと、園内を散策することができた。
(経営者の方には、申し訳ないが……。)

 シーズンオフ(平日)のすばらしいところは、ここにある。
観覧車に乗ったが、あとにも先にも、乗ったのは私たちだけ。
私は子どものように、窓の外の景色を、デジカメに収めた。
楽しかった。
まわりの景色が、夢の中のようだった。

 深い緑の山々が、いつもよりずっと、くっきりと見えた。
浜名湖の水が、空の青さをそのまま映していた。
風は強いが、乾いた風。
さわやかな風。

●バイキング料理

 たった今、温泉から帰ってきた。
が、ここで大問題!
何と体重が、63・5キロ!
私の基準体重より、3キロもオーバー。
ア〜ア!

 これからバイキング料理というのに、何たるザマ!
湯船につかりながら、こう考えた。

「食べなければ、損なのか?」、それとも「食べたら、損(そこ)ねるのか?」と。
当然、今の状態で食べたら、「損(そこ)ねる」。
だからこう決意した。
「決意」という言葉を使わなければならないほど、深刻!
「今夜は、食欲と闘う」と。

 太らない料理だけを選び、それを少量食べて、おしまいにする。
それができるかどうか、自信はない。
ないが、やるしかない。
今夜こそ、私の「前頭連合野」が試される。
がんばろう。
食べたら、損(そこ)ねる。
それを念じながら、夕食をとる。

 意思の弱い私に、できるかな?

 ところでこの「ホテル・ウェルシーズン浜名湖」。
先ほど、星は4つと評価したが、料金を勘案すると、5つでもよい。
脱衣所を出たところにも、生け花が飾ってあった。
休息所には、冷たい水も用意してあった。
そうした気配りが、うれしい。
だから、こう言う。

 もし浜松へ来るようなことがあれば、「ホテル・ウェルシーズン浜名湖」がよい。
料金を勘案するなら、イチオシのホテル。
満足度、★★★★★。
(予算に余裕のある人は、「九重(ここのえ)」が、お勧め。)

●リラックス

 若いころは、旅館と言っても、楽しむところだった。
が、今は、リラックスするところ。
50歳を過ぎるころから、それがわかるようになった。
しかもできれば、同じ温泉に、10回、20回と通ってみるとよい。
体と心が、やがてその温泉になじんでくる。
何も考えないで、温泉の湯の中に、自分の体をひたすことができるようになる。

 この温泉にしても、そうだ。
毎週通うようになって、もう1年以上になる。
だから使い勝手というか、どうすればリラックスできるか、それがわかるように
なった。

 ポイントは、団体客を避けること。
平日で言えば、〜時から〜時までの間がよい。
(こんなことを書くと、みなが、その時間帯に集中してやってくる。)
毎週のように通っていると、それがわかるようになる。

 だから今もそうだったが、客は、私を含めて、2〜3人。
のんびりと窓の外の竹やぶをながめながら、1時間ほどを過ごした。

●夕食

 いろいろなバイキング料理を食べたが、このホテルのバイキング料理は、今まで
食べた中でも、最高級クラス。
ステーキも、蒲焼も、テンプラも、その場で料理してくれる。
おいしかった。
……ということで、あえなく私は完敗。
ふつう程度に、食べてしまった。
明日の朝は、体重は65キロに達しているはず。
「食べたら、損(そこ)ねる」。
何度も自分に言い聞かせたが、食欲のほうが、前頭連合野の「理性」よりも、強力
だった。
平たく言えば、そういうこと。

 で、部屋ではビデオを見た。
題名は、最初から、忘れた。
お粗末なビデオだった。

眠くなったので、再び、温泉へ。
大浴場には、私、1人だけ。
気持ちよかった。
のんびりできた。

 いつもだったら、脱衣場にある体重計で体重を量るが、今夜はやめた。
恐ろしくて、できなかった。

●深夜

 長男は寝息をたてて眠っている。
ワイフは、ベランダで外を見ながら、ビールを飲んでいる。
私は、行灯(あんどん)の光の下で、こうしてパソコンと遊んでいる。
私にとっては、至極の時。

 この一瞬のために、私の1日がある。
……と書いて、指の動きが止まった。
「そうだなあ……」と、何度も自分にそう言って聞かせる。
つまりなぜ私がこうして今、生きているかといえば、この一瞬のため。
そういうことになる。

 安らいだ一瞬。
満足した一瞬。
心穏やかな一瞬。
不安もなければ、心配もない。
平和。
静か。

 キーボードに触れる指先の感触が、心地よい。
……そう言えば、脳の奥から、白い雲に包まれたような睡魔が襲ってきた。
床に入る時刻が近づいてきた。

 5月12日、水曜日。
こうして私の今日は、終わる。
みなさん、おやすみなさい。

(帰り道の様子を、ビデオに収めた。)

http://www.youtube.com/watch?v=uGm-synJoFs


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

【X損害保険会社というインチキ会社】

+++++++++++++++++

「インチキ」と断言してよい。
世の中に、こういう会社が、堂々と存在する
こと自体、これこそまさに「不正義」。
私は、Dさん(交通事故被害者)の話を
聞いていて、それを強く感じた。
久々に、ムラムラと、腹の底から怒りが
わきあがってくるのを感じた。

+++++++++++++++++

●交通事故、Dさんのケース

 Dさん(女性、40歳)の夫は、2年6か月前、交通事故に遭った。
朝の通勤中のできごとだった。
Dさんの夫の名前を、Y氏(43歳)としておく。
Y氏はいつものようにバイク(50CC)に乗り、会社に向かっていた。
通い慣れた道である。

 で、いつものように信号のある交差点に入った。
信号は青だった。
3車線ある広い道。
Y氏はその3車線のいちばん、外側を走っていた。
信号は緑。
Y氏は直進。
そのとき前方から、右折してきた軽自動車にはねられた。
明らかに右折してきた軽自動車が、悪い。
100%、悪い!

●植物状態

 救急車が来るまで、30分近く、時間がかかった。
不運だった。
が、Y氏はそのときは、自分で救急車に歩いて入るほど、気力はしっかりしていた。
しかしそれが最後だった。

 Y氏は、以後、2年半、植物人間状態で、病院で過ごすことになった。
ときどき意識は戻ることはあったが、会話はできなかった。
家族を見分けることもできなかった。

 が、2年半。
おととい(5月10日)治療を打ち切り、Y氏は、郊外にある専門の障害者施設に転居し
た。
これから先、生涯を、死ぬまでそこで過ごすという。
完全看護だが、回復の見込みはない。
つまり医師に見放された。

●損害保険金

 Dさんは、Y氏(夫)が入院してからというもの、女手ひとつで、家族を支えてきた。
一度、「仕事をしていたよかったです」と言ったことがある。
Dさんは、ずっと夫と共働きをしていた。
2人の子どもがいたが、気丈夫な女性で、笑顔を絶やさなかった。
ハツラツとした、前向きな生き方が、すてきだった。

 が、おととい(5月10日)の夜、Dさんに久しぶりに会って、驚いた。
Dさんは、疲れきった表情をしていた。
「どうしたのですか?」と聞くと、「今日、病院から、施設に移りました」と。

 その手続きなどで、たいへんだったらしい。

私「……で、いらぬことを聞きますが、損害保険のほうはどうなっていますか?」
D「……治療費を払ってもらっています」
私「治療費? そんなものは当然でしょう。損害賠償金とか、慰謝料はどうなっています
か?」
D「えっ、そんなもの、もらえるのですか!」と。

●損害保険会社

 ほとんどの損害保険会社内部には、3種類のマニュアルが用意してある(友人の弁護士
談)。

(1)「素人向けマニュアル」
(2)「内部向けマニュアル」
(3)「専門家(弁護士、対訴訟用)マニュアル」の3種類である。

 相手が素人とわかると、損害保険会社は、損害保険額(=任意保険)の支払いをできる
だけ安くすまそうとする。
わかりやすく言えば、自賠責の範囲で、かつ当事者どうしの示談ですまそうとする。
そのほうが、支払額が、ぐんと安くすむ。
で、そのための特別のマニュアルが用意してある。
しかも相手の損害保険会社の名前を聞くと、あの悪名高い、X保険会社。
つい先日も、保険金の未払い問題で、国会で取りあげられた会社である。

 簡単に言えば、被害者とは適当に連絡を取り合い、訴訟沙汰にさせないこと。
保険会社にすれば、支払いを安くすますことが、利益につながる。
そのため、最初の6か月くらいの間は、ひんぱんに連絡を入れ、あたかも被害者の味方の
ようにふるまう。
被害者の動向をうかがい、示談で話をすませようとする。

●司法書士のN君

 学生時代の友人のN君は、開口一番、こう言い切った。
長野市で、司法書士を開業している。

「林君、それはひどいよ。
死亡事故より、ひどいよ。
保険金額は、満額でも足りないよ。
これは億単位(1億円以上)の損害保険になるよな。
裁判しかないよ。
すぐ裁判しろよ!」と。

 この一言で、決まった。
N君自身も、ひどい交通事故を起こし、損害保険会社を相手に、4年近くも闘った。

私「相手(損害保険会社)は、示談へもっていこうとしているようだ」
N「あいつら、そういう手を使うんだよな。
許せないね」
私「許せない」と。

●3年の消滅時効

 交通事故の損害保険請求は、3年で消滅時効が成立する。
3年たったら、請求権そのものが、消滅する。
Dさんのケースでは、すでに2年と6か月が経過している。
ギリギリである。

 私は即、金沢市で弁護士を開業しているK君に電話を入れた。
「弁護士を紹介してほしい」と。
K君は、こう言った。

「簡単な事件だから、だれにでもできる。
残念だが、浜松には知り合いはいない。
まず、交通事故無料法律相談所へ行くべきだ。
そこで弁護士を選任しろ」と。
そして長野市のN君と同じように、「これは弁護士を立てる事案だ。すぐ弁護士を立てろ」
とアドバイスしてくれた。

 私は、電話を切るとすぐ、紹介された相談所へ電話を入れた。
予約制になっていた。
私は翌々日の木曜日の午後に、予約を入れた。
私はその時間帯には、Dさんに同行できないので、ワイフに同行してもらうよう、頼んだ。
ワイフは、快く引き受けてくれた。

●損害保険

 損害保険といっても、幅は広い。
夫のY氏の損害は当然としても、妻であるDさんが受けた精神的苦痛、損害、さらに2人
の子どもの受けた精神的苦痛となると、量り知れない。
もちろん慰謝料、さらには、Dさん自身が、そのため休業したことなどによる損害も含ま
れる。

 「治療費どころではない」というのは、そういう意味である。

 が、いまだに損害保険会社は、治療費のみを払って、あとはノラリクラリと時間稼ぎを
している。
Dさんの話を聞いていて、それがよくわかった。
たとえば必要な書類を送ってこない。
そこでDさんがそれを請求すると、「えっ、送っていませんでした? すぐ送ります」など
と、とぼけてみせる、など。
ほかにいろいろと小細工もしているようだ。

 が、Dさんは、女性。
一方で仕事をもちながら、2人の子どもの世話で日々を追われている。
静かに自分を見つめる時間もない
もちろん法律的知識もない。
そういう人を、損害保険会社は、「素人」と位置づける。
「素人」と位置づけて、よいようにもてあそぶ。
許せない!

(つづく)

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【BW幼児教室+小1クラス】

●指導2か月目に入った。
幼児クラスでは、今回は、「文字」をテーマにした。
小1クラスでは、「大きな数」をテーマにした。
最近は、外国のサイトが、私のビデオを特集してくれることが多くなった。
今ではどの国のどのサイトが、どのように私のBLOGやビデオを取りあげているか、
それが即日に、わかるようになった。
がぜん、やる気が出てきた。

幼児教室というと、誤解も多い。
泣き叫んでいやがる子どもを、無理矢理押し込めて教えるのが、幼児教室と思っている人
も多い。
しかしそれは誤解。
幼児は知的遊戯に飢えている。
私のビデオを観て、その誤解を解いてもらえれば、うれしい。

【幼児・年長児クラス】

【小学1年生クラス】

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/5/mQFTKtgMlnA

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/8/3HOD9ErU51g

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/7/6xXFkAmoXFo

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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●有料老人ホーム

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昨日、近くの有料老人ホームを訪れてみた。
満60歳から入居できるいという。
入居時の入居費は不要だが、毎月の入居費は、
収入によって異なるという。
自立支援型の老人ホームで、健康で、自立して
生活できることが、入居の条件とか。
「平均年齢は?」と聞くと、「80歳くらいです」
とのこと。
もっとも若い人で、65歳の人もいるそうだ。

++++++++++++++++++++

●老後の準備

 「まだ先の話……」と思っていたが、いつの間にか、私もそういう年齢になってしまっ
た。
今は、まだ体も動くからよい。
頭もボケていないよう。
(ボケてくると、自分がボケていることも、わからなくなるとか……。)
仕事もある。
収入もある。
しかし10年など、あっという間に過ぎる。
今までの10年をみれば、それがわかる。
だから準備だけは、……というより、その心づもりだけは、しっかりとしておく。
そのための情報集め。

●ワイフ

 私の心配より、ワイフの心配。
私は死ねば、それでよい。
しかしあとに残されたワイフは、どうなる。
(先に、ワイフのほうが死ぬかもしれないが……。)
ここでいう情報集めには、そういう意味も含まれる。
私が先に死んだら、ワイフが、そういう施設の世話にならなければならない。
そのための財産を、残しておかねばならない。

 仮に月々の費用を、17万円とすると、1年間で200万円。
10年間で、2000万円。
プラス、もろもろの生活費。
平均寿命を82、3歳とするなら、それまで生きられれば、御の字。
が、ここで大問題!

 今の今ですら、その有料老人ホームのばあい、35人待ちとか。
年に、4〜5人の人の入れ替えがあるということだから、単純に計算すれば、7年待ち。
つまり今から申し込んでも、7年後!

 有料老人ホームといっても、ピンからキリまである。
昨日訪れた有料老人ホームは、6畳間+小さなキッチンとトイレ。
全体では、10畳間程度。
「こんな狭い所じゃ、パソコン置くのもたいへんだな」と思った。

●私のために犠牲

 ワイフは、私のために犠牲になってしまった。
それがこの年齢になると、よくわかる。
もともと私とは結婚したくなかった(……らしい。)
昨日になってはじめて、「何度か離婚を考えた」と、告白した。
「だからあなたの祖父の葬儀には、行かなかった」とも。

 そういう気持ちが、わからなかったわけではない。
しかしそれを言葉として聞かされた、私は、つらい。
私のために、がまんにがまんを重ねた。
それがよくわかる。
だからこのところ、ときどき、ワイフにこう聞く。
「離婚してあげようか?」と。
それでワイフが私から解放されるなら、私としてはそれに耐えるしかない。
さみしいが、私としては、どうすることもできない。

●夫婦の定型

 ところで私は、この浜松では、「よそ者」。
幼いときからの知り合いは、いない。
一方、ワイフは、地元の人。
いくつかのクラブにも入り、友だちも多い。
おとといも、どこかで会食をしてきた。

 うらやましいと思う前に、私が感ずる疎外感は、ワイフには、理解できない。
そのさみしさが、心の隅で、ボヤボヤと、冷たい火となって燃える。
そのワイフは、一度とて、私をそうしたクラブに誘ってくれたことはない。
「一日中、あなたといっしょにいると、気が滅入る」と言われたこともある。
私のほうも、遠慮する。

 夫婦といっても、いろいろな夫婦がいる。
「形」はない。
「定型」も「スタンダード」もない。
無数の方程式がからみあって、その夫婦を作る。
私は私。
私たちは私たち。
しかしそこに今度は、「年齢」という壁が立ちはだかるようになった。

●知人

 知人の男性は、こう言った。
「ぼくなんか、過去、一度だって、妻のほうから、いっしょに寝ようと言われたことない
よ」と。
その男性のばあい、毎晩のように妻に、こう聞くのだそうだ。
「今夜は、いっしょに寝ていいか?」と。
するとその妻は、いつもこう答えるそうだ。
「寝ればア?」と。

 で、最近は、できるだけ別々の部屋で寝るようにしているという。
「一応、ときどき寝る前に、『(私と)いっしょに寝たら?』と聞くこともあるけど、形だ
けの会話でね。
ぼくが『ひとりで寝るよ』と答えると、言い終わらないうちに、『あら、そう』とか言って、
部屋を出て行くよ」と。

 そういうさみしい(?)夫婦もいる。
が、さみしい思いをしているのは、夫のほうだけ。
妻の方には、その意識はない。
夫がさみしい思いをしていることさえ、理解できないらしい。
その知人は、そう言った。

●切実な問題

 夫婦といっても、最後は、他人。
仲のよい友人にはなれるかもしれないが、過大な期待は禁物。
またそう割り切るほうが、かえってうまくいく。
ほどほどのところでつきあって、ほどほどに仲よくやっていく。
夫も1人の人間なら、妻も1人の人間。

 しかし私のほうは、ときどきこう思う。
もしワイフが認知症か何かになって、便をたれ流すようになっても、私はワイフの面倒は
最後の最後までみる、と。
しかし私が観察するところ、ワイフには、その意識はないようだ。
即座に、「(そうなったら)、施設に入ればいい」というような答がはね返ってくる。
病気になったときも、そうだ。
「頭が痛い」と訴えると、すぐ「薬をのんだら?」とか、「病院へ行ってきたら?」とか言
う。
「そういうものでもないのだがなあ」とは私は思うが、ワイフの思考回路は、そうなって
いる。

 生まれも育ちもちがう。
考え方もちがう。
ちがって、当然。
私はワイフの思考回路を、尊重するしかない。
だから有料老人ホームと、なる。
私にとっては、切実な問題である。

●私の問題点

 もちろん私も、いくつかの問題点がある。
40年近くもいっしょに暮らしていると、わずかなちがいが積み重ねられ、「今」を作る。
だから「今」だけを見て、「それはおかしい」とか、「それはまちがっている」とか言って
はいけない。
また今さら、軌道修正など、不可能。
あるがままを認め、それを受け入れていくしかない。
残りの人生を考えるなら、なおさら。
やがてすぐどちらかが大病を患う。

さらに今まで40年かかってできなかったことが、この先、10年でできるわけがない。
脳みそはさらに硬直化する。
ボケも加わる。

 もちろん私にも問題がある。
言うなれば、心はボロボロ。
ときどきワイフですら、こう言う。
「あなたがみんなに嫌われるのは、あなた自身に原因があるからよ」と。

 そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
みなに好かれるためには、万事、おだやかに、事なかれ主義で、静かに暮らすのがよい。
反論したり、言い争ったりするのも、タブー。
もちろん、モノは書かない方がよい。
何を言われても、「そうです」「そうです」と、相手の意見に合わせていればよい。

 事実、私のような人間は、毎日が孤独との闘い。
昔から『英雄は孤独』という。
同じように、『モノを書く人間は孤独』となる。
私はその道を選んでしまった。

●5月9日

 大型連休も終わり、今日は、最初の日曜日。
とくに予定はないが、F市まで行って、友人に会ってこようか……と考えている。
ワイフも私がいないほうが、気が楽だろう。
のんびりできるらしい。
このところ、関係がどうもギクシャクしている。
昨日も、「どこかへ行こうか?」と声をかけると、「行く気がしない」と、あっさりと断わ
られてしまった。

 ああいうのは、すぐトラウマになる。
だから今日は、誘わない。
私の年代には、「定年離婚」という言葉がある。
「ぼくたちも、あぶないなア〜」と、このところ、よくそう思う。
毎日、ハラハラしながら、生きている。
ハハハ。
+ハラハラ。

しかしそれをつづけるのも結構、疲れる。
だから今は、「老人ホームへ入った方が、気が楽」と思うようになった。
オーストラリアでも、ある一定の年齢になると、みな、そうしている。
子どもと同居している親はいない。(……少ない。)
むしろ親と同居している子どもは、どこかおかしいと見られる。

 早めに、つまり健康なうちに老人ホームへ入って、自分なりの新しい友人を、早めに作
ったほうが、よいのかも?
ゲートボールでもして……。
これから先、あちこちの老人ホーム巡りがつづきそう。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●狂った頭

++++++++++++++++++++

4、5年前にも、1度、あった。
そして再び、昨日も、あった。
私の頭が、狂った!

4、5年前のときは、バレンタイン・デー
でもらったチョコレートを食べ過ぎた。
それが原因だった(?)。

で、昨日は、炎天下で草刈りをした。
ふだんでも水をよく飲む私が、ほとんど
水を飲まなかった。
草刈りが終わってからも、飲まなかった。
のどが渇きすぎて、その(渇き)が、
どうかなってしまった(?)。

頭が狂ったのは、それからしばらくしてからの
ことだった。

まず、昨日の早朝に見た夢と、現実の区別が
つかなくなった。
「いつ見た夢だろう?」と考えてみたが、
それがわからない。
「夢だったのか? それとも現実だったのか?」と。

で、そのうち、頭の中に箸(はし)が、思い浮かんできた。
食事のときに使う、あの箸である。
その箸が、頭の中に浮かんでは消え、そのつど、あちこちの
思い出と重なり始めた。
が、ふと我に返ると、その箸が消えていた。
消えて、今度は、川の水が思い浮かんできた。
その中に、数字の形をした魚が泳いでいた。
私は、数学の問題を解き始めた……。

で、またふと、我に返る。
こういう状態が、1時間ほどつづいた。
理由も、原因もわからない。
脱水症状が、脳の中で、何らかの変化を引き起こしたらしい。
あるいは塩分の低下?

 家に帰って、あわてて甘いパンを食べた。
牛乳に、ハチミツを入れて飲んだ。
しばらくすると、思考が、正常に戻った。
軽い頭痛は残ったが、それは頭痛薬で収まった。

●原因

 ……ということで、私は、脳の機能が正常でない人の状態が、よく理解できる。
もしああした状態が、日常的に、かつはげしくつづいたら、私も病院へ入らなければ
ならない。
脳が勝手に乱舞するというのは、恐怖そのもの。
(思考)が、自分のコントロールの外に出る。
「夢」とはちがう。
そこには、「私」はない。
実際に経験してみると、こ・わ・い。
自分で自分でなくなってしまう。

●予言

 あえて言うなら、予言者と呼ばれる人たちの脳の構造に似ているのでは(?)。
予言者と呼ばれる人たちは、自分で考えて、ものごとを予言するわけではない。
頭の中に、勝手に、いろいろなことがらが思い浮かんでくるそうだ。

 よく知られた人に、ジュセリーノとか、ジーン・ディクソンとか、そういう人たちがい
る。
それ以前はというと、エドガー・ケイシーとか、さらには、ノストラダムスとかいう人た
ちがいた。
日本にも出口王仁三郎という人もいた。
が、私は基本的には、私は予言なるものを信じていない。
「未来」は、常に現在の「事実」が集合されて、作られていく。

 そうした人たちの脳について、ここでとやかく書くつもりはない。
しかしもし本当に、自分の意思とは別に、未来なるものが勝手に脳に思い浮かんでくると
したら、それは「予言」というよりは、「脳の乱舞」に近いのでは?

 この世界も、ややカルト化しているから、こういう意見を書くと、袋だたきにあうかも
しれない。
が、「当たった」「当たった」という割には、彼らの予言は、それほど当たっていない。
厳密に調べていくと、そうなる。
たとえば……。

●2012年

 最近、「2012」という映画を観てきた。
が、あまり印象に残っていない。
それ以上に、「2012年」に関する情報が多すぎて、その中に埋没してしまった。
その2012年に、「地球は滅ぶ」と。
何でも宇宙から大隕石が落ちてくるという。
可能性のある隕石として、「トータチス」と名づけられた隕石がある。
直径が1キロ近くもあるという。

 仮にそんな巨大な隕石が地球と激突したら、(速度にもよるが)、ツングースカに落ちた
隕石の2000倍の威力になるという。
ツングースカに落ちた隕石というのは、……まあ、何かの本で読んでほしい。
わかりやすく言えば、もしトータチスが、秒速30万キロメートルの速度で、地球に落下
したら、広島型の原爆の、約1万倍の威力になるということ。
海面に落ちれば、半径1000キロメートルの範囲で、高さ300メートルの津波が発生
する。

 しかしこれは予言ではない。
「可能性として、ないことはない」という、科学の世界の話である。
しかもこの話には、こんな余談がある。

 こうした隕石があるにせよ、その隕石に接近し、たとえば爆薬を取りつける技術力があ
るのは、この日本だけだそうだ。
何とも心強い話ではないか!

 ……ということで、私は、あまり心配していない。
いろいろ言われているが、あの「ノストラダムスの大予言」にしても、ことごとく、ハズ
レ!
大切なことは、冷静な思考力と判断力。
それがいかに重要なものであるかは、自分の頭が狂ったときに、わかる。

●脳の老化とともに

 脳の病気というと、機能的な病気では、認知症がある。
が、それ以上にこわいのは、「暴走」。
しかし「脳の暴走」については、ほとんど問題になっていない。
話題にもなっていない。

 これはどうしたことか。
似たような現象だが、ときどき子どもの世界にも、観察される。
たいていは一時的なものだが、ないわけではない。

 さらに私自身は経験ないが、何かの薬物を摂取すると、似たような暴走が起きるという
ことは、よく知られている。
つまり私は原因はよくわからないが、昨日、その疑似体験をしたことになる。
が、正直言って、恐ろしかった。
ただ2度目ということで、冷静に対処できたが、恐ろしかったことは事実。
先にも書いたが、私は、水分と塩分を補給し、甘いものを食べた。
しばらくすると、自分で自分の思考をコントロールすることができるようになった。
夢の内容と、現実を、明確に区別することができるようになった。

 しかし……。

 これからは脳の老化とともに、こうした現象がたびたび起こるようになるのかもしれな
い。
脳をコントロールする前頭連合野の働きそのものが、鈍くなる。
注意しよう!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 脳の異常 脳の乱舞 恐怖体験)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

【5月11日・離婚問題・小沢一郎・やめろコール】+時事問題

●離婚問題

+++++++++++++++++

私たち夫婦も、よく離婚を考える。
考えるが、考えるだけで、いつもそのままどこかへ
消えてしまう。
理由がある。

頭の中でいろいろとシュミレーションしてみる。
が、「結婚」とちがって、「離婚」には、
さまざまな問題が、そこに立ちはだかる。
家族の問題、財産(生活費)の問題、人間関係の問題などなど。
心の問題もある。
いままでに積み重ねてきた(思い出)の問題もある。
さらにこれから先の、老後の問題もある。
「はい、さようなら!」というわけにはいかない。
2÷2は1ではなく、0・5になったり、それ以下になったりする。
夫婦であるというだけで、1+1が、3になったり、4になったりする。
で、それを考えているうちに、ゆううつになる。
「離婚はやめよう!」となる。

男と女。
出会うのは簡単。
結婚するのも簡単。
しかし「別れる」のは、むずかしい。
たいへんむずかしい。
(思い出)にしても、パソコンの電源を落として、
画面上の画像を消すようなわけには、いかない。

が、最大の問題は、離婚によって、それまでの
私たちの人生が、無駄だったと思い知らされること。
もちろんそうでない離婚もあるだろう。
しかし私のばあい、そうなる可能性は高い。
「家族のためにがんばってきた」という思いが、
心のどこかにある。
「犠牲になった」という部分も、ないわけではない。
離婚によって、そうした努力が、一気に吹き飛んでしまう。

さらに……。
こうした憂鬱な問題を、数日も考えていると、
まず頭が重くなり、つづいて偏頭痛が始まる。
心がふさぐ。
健康にもよくない。

……ということで、「離婚の話はやめよう」となる。
そしてそのままいつもの生活にもどる。
つまりいろいろ不都合な面はあるが、妥協する。
妥協しながら、生きる。
どうあがいたところで、あと10年。
よくて20年。
今さらジタバタしたところで、どうしようもない。
それよりも大切なことは、「今」を常に「原点」として、
前に向かって生きていく。
「今」、そこにあるものを大切にしながら、前に向かって
生きていく。

健康であることに感謝し、生きていることに感謝し、
「今」があることに感謝しながら……。

5月8日(月)は、こうして始まった。
今週もがんばろう。

+++++++++++++++++++

●鳩山内閣支持率(小沢いちろう、やめろコール)

 読売新聞は、つぎのように報道する(2010−5−10)。

『…… 民主党の支持率は、内閣発足直後の緊急調査では過去最高の51%だったが、今
回は22%となった。鳩山内閣は、すっかり目減りした民主支持層からも見放され始めて
いるようだ。

 この間、支持政党のない無党派層の内閣支持率は60%から12%に下落した。無党派
層の割合は20%から50%に増えており、鳩山内閣に失望した民主支持層が無党派層に
移行したと見られる』と。

 とくに後半部に注目してほしい。

『……支持政党のない無党派層の内閣支持率は60%から12%に下落した』という部分
と、『無党派層の割合は20%から50%に増えており、鳩山内閣に失望した民主支持層が
無党派層に移行したと見られる』という部分。

 ここでいう「無党派層」というのは、我ら、浮動票層のことをいう。
が、こんな結果は、小沢幹事長が「続投」「続投」と叫んだときから、わかっていたこと。
その小沢幹事長についてだが、「やめろコール」が、90%近くにも達している。
当の小沢幹事長自身は、まだがんばると言っている。
「私は国民を信じている」とか何とか。
まことにもって、トンチンカン。
このままでは、民主党の支持率は、さらにさがる。
「民主党の支持者が、まだ22%もいるの?」と、むしろそちらのほうの数字に驚く。

 ……しかし党の小沢一郎幹事長は、やめない?
やめたら最後、政治的威光が消え、「ウミ」が、どっと出てくる。
悪事の数々が、日の下(もと)にさらされる。
小沢一郎は、それを恐れている。
(10年5月10日記)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●経済問題

 たった今(10年5月10日、午前10時20分)、今日の為替相場が、画面に出てきた。
それによれば、

アメリカ1ドル=92・68円
EU1ユーロ=118・85円

 先週のギリシャ・ショックで肝を冷やした人も多いかと思う。
(私も肝を冷やした。)

 しかしこの為替相場をみるかぎり、為替市場は、それほど動揺していないようだ(?)。
で、今朝の株価の動きを見てみる。

日本経済新聞の速報によれば、「上げ幅が100円を超えた」とある。
「よかった!」と書きたいが、そのツケはやがて、私たち庶民が背負うことになる。
「ユーロ防衛のために、最大7500億ユーロの緊急支援を……」とある。
つまり印刷機を回して、マネーを市中にバラまくということ。
それで「上げ幅が100円を超えた」。
が、その分だけ、金(マネー)の価値がさがるということ。

 そこで今度は、金(ゴールド)の動きを見る。
ニューヨーク金は、ジワジワと上昇傾向がつづいたまま。
田中貴金属工業の今朝の売値は、グラム、3765円!
ここ数年でも、最高値に近い!
メチャメチャな額といってよい。
その一方で、ニッケル、アルミ、銅は5月に入ってから、大急落している。
これらの数字を総合して読むと、こうなる。

 世界は、今、大不況。
部分的には明るい日差しが見えるが、厚い雲の切れ端からもれるこぼれ陽(び)のような
もの。
そこで世界の各国中央銀行は、印刷機を回して、金(マネー)を市中にばらまいている。
アメリカも日本も、そしてEUも。
が、問題は、その金(マネー)の行き先。
本来なら「投資」ということになるが、投資先そのものがない。
だから「金(ゴールド)」ということになる。

 金(ゴールド)は、ほかの金属や資源とちがい、いくら値段があがっても、困る人はい
ない。
だから天井知らず、となる。

 が、こんなバカげた経済運営が、いつまでもつづくはずがない。
言うなれば、世界中が、バブル経済で踊っている。
薄い氷の上で、踊っている。

 とくに注目すべきは、中国。
現在、上海万博が進行中。
が、もしこれが低調に終わるようなことにでもなれば、中国は「赤信号」!
理由がある。

 中国人というのは、日本人とは、ものの考え方が、かなりちがう。
国を信じていない。
組織を信じていない。
信じられるのは、金(マネー)だけ。
そこで現在、中国人の貯蓄率は、70%前後もあると言われている。
日本人が、最盛期でも、20〜30%だったから、これはとんでもない数字と言ってよい。
つまり中国人は、お金を使わず、せっこらせっこらと、内へ内へと溜めている。
溜めたお金を、これまたせっこらせっこらと、株に投資している。

 そこで中国政府は、入場者1億人を見込んで、上海万博を開いた。
溜め込んだお金を、外へはき出させようという魂胆である。
が、そうはうまくいかない?
上海万博がうまくいかなければ、つまり予定入場者数を、大きく下回るようなことにでも
なれば、そのとき中国のバブル経済は、崩壊する。
その危険性が、ぐんと高まる。

 こういうときの鉄則は、ただひとつ。
「私のようなド素人は、こういう世界から早く、逃げた方がよい」。


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●JAL問題

JALが再び、経営危機に陥り始めている。
先日、経営再建中に倒産したばかり。
借金を帳消しにした上、1兆円という国税を
投入した。
にもかかわらず、経営は一向に改善していない。
むしろ悪化している。

JALの問題を考えるとき、「国内」という「下」
から見てはいけない。
「国外」というグローバルな視点から見なければ
ならない。

たとえば世界から、日本の各都市へ外国人がやって
くるようなばあいを考えてみよう。
彼らはJALを利用しない。
不便だからだ。

たとえばヨーロッパから福岡へ来るときは、
韓国の仁川(インチョン)へ、やってくる。
大韓航空を使ってやってくる。
そこから同じ、大韓航空に乗り換えて、福岡へ。
大韓航空は、日本国内へ60路線あまりを投入している。

一方、日本からヨーロッパの各都市へ行くときも、
そうだ。
JALでフランクフルト(ドイツ)までは行くことが
できる。
しかしその先は、それぞれのEUの飛行機に乗り換えねば
ならない。
だったら、最初から、たとえばルフトハンザ機に乗って、
フランクフルトまで行ったほうがよい。
そのほうが、便利で、楽。

加えて、JALは、何かにつけて割高。
つまりJALを利用するのは、金持ちの日本人だけ。
国際競争力という観点からは、JALは、完全に、
その競争力を失っている。

事情はANAも同じ。
JALとANAの合併も、よくうわさされるが、こと
航空業界では、それはありえない。
ANAの社長自身が、そのつど明確に「NO!」と明言している。
へたにJALをかかえこんだら、ANAの経営そのものまで、おかしくなる。

となるとJALにしても、ANAにしても、生き残る
道は、ただひとつ。
鎖国主義を貫き、国内専用便に徹すること。

が、そうなると、日本という島国は、マーケットとしては、あまりにも狭い。
小さい。
それにあと10年もすれば、日本はアジアにおいてですら、中小国になる。
本来なら、いまごろは、JALは、(ANAでもよいが)、中国国内を、
ビュンビュンと飛び回っていなければならない。
アメリカ国内を、ビュンビュンと飛び回っていなければならない。
が、その元気は、もうない。
余力もない。
それを支える、日本の経済力もない。

否定的なことばかり書いたが、調べれば調べるほど、JALには、未来がない。

(補記)
羽田のハブ空港化には、大賛成だが、しかし遅すぎた!
今ごろハブ空港をめざしたところで、どうにもならない。
20年は後れた。
「成田だの、羽田だの」と、政治家たちがバカな利権争いをしているうちに、こう
なってしまった。
見かけの航空路線はともかくも、JALにしても、単独で飛ばしている国際線は、
すでに1桁もないのではないか?
しかもそのほとんどは、アジア路線。
チャンギ(シンガポール)、香港、仁川(韓国)は、そうした日本の衰退を尻目に、さらに
そのつぎの段階へと、戦略を進めつつある。

JAL問題を考えるときは、こういう現実を知った上で、考えなければならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 JAL問題 JALの経営問題 JALの再建問題)。


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

【ギリシャ発、世界恐慌】

+++++++++++++++++

昨日、突然、ギリシャがこけた。
「こけた」という書き方は不謹慎な
書き方とは思うが、しかしまだ国家破綻
(デフォルト)したわけではない。
が、実質上の国家破綻。
だから「こけた」という、あいまいな
言い方のほうが、かえって適切という
ことになる。

で、その流れを受けて、ニューヨーク
市場は、1000ドル近く株価をさげ、
つづく東京でも、400円近く、株価を
さげた。

が、だれも、これで終わるとは思っていない。
つづくポルトガルもあぶない。
スペインもあぶない。
仮にスペインに火がつくようなことにでも
なれば、万事休す。
ギリシャとは、経済規模がちがう。
今、EUは、大揺れに揺れている。
(2010年5月8火朝記)

++++++++++++++++++

●日本もあぶない!

 しかしほんとうにあぶないのは、この日本。
2011年度は、国債の買い手がつかず、国家予算が成立しない可能性すらある。
つまり「金を貸してくれる人がいなくなる」。
(2011年度は何とかクリアしても、2012年度は、かなりむずかしい?)
先頃、JALが経営破綻したが、それが日本国規模で起こると考えるとわかりやすい。
ただギリシャやスペインとちがい、産業力があるから、まだ何とかもちこたえるかもしれ
ない。
しかし仮にTOYOTAのような会社が、こけたら、……想像するだけでも、ゾッとする。
TOYOTAだけの問題ではすまない。
連鎖が連鎖を呼ぶ。
これがこわい。

頼みの綱は、中国ということになる。
が、その中国も、ヨーロッパ市場、ニューヨーク市場の流れを受けて、株価(上海B株)
をさげている。

 不気味。
注視。
つい先週、私はBLOGの中で、こう書いた。
「巨大な暗雲がそこまで来ている。
今は、嵐の前の静けさ」と。
同時に私は、株価連動型の債権投資から、損切り覚悟で、すべて手を引いた。
間一髪とは、このことか。

●JAL問題

 そのJAL。

 経営再建中のJALが、経営再建中に、経営破綻した。
株価は、0円になった。
で、再度、経営再建ということになった。
が、それもいつまでもつか、わからない。
再々度の経営破綻もうわさされている。
が、再々々度の経営再建は、ありえない。
JALは、日本から消える。

 それもそのはず。
飛行機といっても、今や、「空のタクシー」。
日本という国は、マーケット規模からしても、小さすぎる。
アメリカでいえば、カルフォルニア州ひとつぶんの大きさしかない。

たとえて言うなら、佐渡島のタクシー会社が、日本中のタクシー会社と競争するようなも
の。
はじめから勝ち目はない。
そこで佐渡島のタクシー会社は、新潟県に直談判して、佐渡島全体を鎖国化した。
佐渡島以外のタクシーを閉め出した。
が、それは同時に、相互主義の原則から、佐渡島のタクシーは、日本本土を走れないこと
を意味する。

 で、JALが最後に生き残る道は、ただひとつ。
佐渡島の中だけを走る、ローカルタクシー会社になること。
それに徹すること。
少し遅れて、ANAも同じ運命を、たどる。

●結局は教育の問題

 が、国際競争力を失ったのは、JALだけではない。
今では、ありとあらゆる産業が、国際競争力を失いつつある。
私の地元では、Y発動機が、経営に苦しんでいる。
そのニュースが最初飛び込んできたとき(2010年はじめ)、「まさか!」と、私は我が
耳を疑った。
Y発動機といえば、この地方では、基幹産業。
(赤字)→(リストラ)→(経営規模の縮小)とつづいた。

 では、どうするか……という問題ではない。
みなさん、ご存知ないようだが、これはすべて「教育」の問題。
教育というのは、そのときは、わからない。
その「結果」が出るのは、20年後、30年後ということになる。
今がそのときということになるが、こうなることは、20年前、30年前には、すでにわ
かっていた。
いまごろ「ゆとり教育」の見直しをして、いったい、何になる?
その「結果」が出るのは、20年後、30年後ということになる。

 言い替えると、「教育」というのは、20年後、30年後を見越して、「形」を作らねば
ならない。
が、時の文部省は、あえて時の流れに背を向けた。
コンピュータ教育にしても、韓国と比べただけでも、20年は後れている!

●公務員の人件費

 乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、日本も、一度、リシャッフルするしかない。
まず手をつけるべきは、公務員の給料。
20〜30%の賃金カットは当然。
大企業の社員なみの給料にまで、引き下げる。

 ちなみに公務員の人件費は、つぎのようになっている。

+++++++++++++

●公務員の給料

 現在、国家公務員や地方公務員が、いったい、いくらの給料を手にしているか、それを
正確に知っている人は、ほとんどいない。
公表している団体も、自治体もない。しかし計算方法がないわけではない。

 そこで国家公務員の給料を知るための、もっとも簡単な方法は、(総人件費)を(公務員
数)で割るというもの。
産経新聞は、この方法で、国家公務員(行政職国家公務員)の給料を算出している。それ
によれば、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4兆6571
億円だそうだ(産経新聞・05・06)。

 この数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1403万円
(!)ということになる。
(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2万人で計算)そして社会保障費だけで、
国家税収、約43兆円の約半分を、使っていることになる(ギョッ!)。

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、
つぎのようになっている。

●1人当たりの人件費

    (国家公務員)          ……1403万円(上記算出方法)
     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均※……448万円(この数字のみ02年)

(※企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。
つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均
人件費は、448万円! 
しかし国家公務員は、1400万円以上! 
ナ、何と、3倍近いもの給料を手にしていることになる。

++++++++++++++++

 これを見ただけで、だれがギリシャを笑うことができるか……ということになる。
もちろんそれぞれの公務員の人に、その責任があるわけではない。
責任を求めているわけでもない。
この問題は、仮にあなたという公務員は、それでよいとしても、あなたの子ども、さらに
は孫はどうなるかという視点で、考えてみてほしい。
「私は公務員で、ラッキーだった」ですませてはいけない。
事実、すでに15年近くも前、私にこう言った公務員(浜松市の職員)がいた。

「林さん(=私)、これだけデフレが進むとですね、公務員になっていて、よかったと思い
ますよ」と。

 物価は安くなる。
給料はさがらない。
世の景気など、どこ吹く風。
だから、そう言った。

●準公務員

 教育は手遅れとしても、経済改革については、今なら、まだ間に合う。
間に合うから、今すぐ、手をつけるべき。
消費税をあげるとか、税金をあげるとか、そういう議論をする前に、公務員の数(現在、
450万人弱)を減らし、給料をさげる。
年金を減らすなどということは、当然のことではないか。
それとも、国家破綻してから、あわててデモでも繰り返すつもりなのか。

 なお政府は、ことあるごとに、「公務員の数は、欧米先進国と比べても、多くない」など
というウソを言いつづけている。
たしかに公務員そのものの数は、多くない。
しかし日本には、準公務員と言われる人たちがいる。

+++++++++++++++++

7年前に書いた原稿です。
3年前に、一度、再掲載しました。
改めて、「児童福祉」という視点から、
再掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本の福祉政策

++++++++++++++

母子家庭の子どもが、194万人、
父子家庭の子どもが、27万人(03年度)。

政府は「福祉よりも雇用」と、母親の
就労支援事業を進めているというが、
常用雇用に結びついているのは、
「ほんの一部」(中日新聞)にすぎ
ないとか。

02年度から公的支援制度が変わり、
公的手当は、実質、減額されることに
なった。

さらに08年4月から、受給開始から
5年後の減額も決定。

母子家庭の母親たちは、ますます
きびしい状況に置かれることに
なる。

++++++++++++++

 日本の福祉政策は、どこか、おかしい。たとえば私の住んでいる地域は、旧国鉄村と呼
ばれるほど、旧国鉄の退職者たちが多く住んでいる。みな、満55歳で退職した人たちで
ある。

 そういう人たちが、月額33〜35万円前後の年金を受け取っている。その額は、
旧三公社五現業の中でも、最高である。話を聞くと、旧国鉄職員だけは、退職日を、3月
31日ではなく、4月1日にずらしている。つまりたった1日ずらすことによって、1年
分、就労年月を長くしている。

 (だからといって、旧国鉄職員の人を責めているのではない。私は制度がおかしいと言
っている。誤解のないように!)

 で、最近、近所の男性が亡くなった。85歳でなくなったが、55歳で定年退職してか
らというもの、働いたのはただの1日だけ。1日だけ勤めて、そのままその仕事をやめて
しまった。つまりこの30年間、何もしなかったことになる。

 で、それで年金の支給が終わったわけではない。残された妻には、「転籍特権」という特
権がある。夫が亡くなっても、妻がいれば、その妻に、連続的に年金が支払われる。

 まさに至れり尽くせりの、年金制度である。

 その一方で、母子家庭への支援制度は、削減につづく削減。(全国母子世帯等調査)によ
れば、母子家庭の平均年収は、212万円だそうだ。

 内訳は、就労収入、162万円。それに児童手当、養育費、仕送りなどで、50万円、
つまり計212万円! たったの212万円だぞ。

 旧国鉄職員のばあい、月額37万円も年金を受け取っている人もいるという(某郵便局
長の話)。年収でみると、444万円ということになる。

 このおかしさこそが、日本の福祉政策の矛盾ということになる。

 3年前に書いた原稿を、そのまま掲載する。

++++++++++++++++++

●年金、この不公平!

 官民の年金の不公平さについては、いまさら、言うまでもない。しかし、金額だけの問
題ではない。こんな事実も指摘されている(「文藝春秋」04・5月号・伊藤惇夫氏)。

 公務員には、「転籍特権」という、特権がある。

 たとえば公務員のばあい、それを受給していた夫が死亡したようなとき、その遺族が、
ひきつづき、その年金の4分の3程度を、「遺族年金」として受給することができる。妻が
亡くなっても、その遺族年金の権利は子供(18歳迄)や父母にも引き継がれる※。

 わかりやすく言えば、夫が死んだあとも、遺族年金を受け取ることができるということ。
が、それだけではない。さらに妻が死んでも、子どもが18歳未満のときは、今度はその
子ども、もしくは、父母が、その遺族年金を受け取ることができる。

 そんなわけで、「官民格差は、死んでからも、生きている」(伊藤惇夫氏)と。

 もちろん、一般企業のサラリーマンや、自営業者には、こんな転籍特権はない。本人が
死んだら、それでおしまい! ゼロ! 遺族は、1円も、もらえない。

 だれでもおかしいと思う。おかしいと思うが、何もできない。日本には、そういうしく
みが、できあがってしまっている。官僚主義国家という「しくみ」である。

 こうしたしくみの中で、もっとも、「?」なのは、あの「審議会」という「会」。

 ほとんどの審議会は、担当の役人が、開く。方法は簡単。まず、イエスマンや、その道
のド素人だけを集める。人選に関する基準など、どこにもない。その指針もない。座長に
は、たいてい著名人を起用する。

 審議会はたいてい数回程度で終わる。重要案件でさえも、10回を超えることは、まず
ない。

 シナリオは、最初から、役人によって用意されている。たいていは、「資料」という形で、
委員に配布される。あとは、それに添って、審議していくだけ。一応、議論という形をと
るということもあるが、ほとんどのばあい、一人の委員の発言は、一回、5〜10分程度。
ふつうは議論になる前に、審議打ち切り。

 (議論になりそうな案件については、委員の数を多くする。こうして各自の発言時間を
少なくする。)

 こうした審議会に多く参加してきたことのある、M東大元教授ですら、こう言っている。
「テレビタレントやスポーツ選手ばかりを集めて、何が、審議会だ」と。もともと議論ら
しい議論ができる雰囲気ではない。

 で、こうした審議会から出される「答申」は、抽象的であればあるほど、よい。わけの
わからないものであれば、あるほど、役人にとっては、よい。自分たちのつごうのよいに、
どのようにでも解釈できる。

 で、あとは、役人たちは、その答申に従って、やりたい放題。まさにやりたい放題。

 ……これが、日本の官僚主義の基本になっている。そしてその結果が、今の日本である。
年金の官民不公平などは、氷山の一角の、そのまた一角にすぎない。

私「まさに、日本は、官僚主義国家。最終的には、『天皇』という最高権威をもちだすこと
で、民を従わせる。この図式は、奈良時代の昔から、まったく変わっていない」
ワイフ「じゃあ、この日本を変えるには、どうしたらいいの?」
私「無理だろうね。与党の党首も、野党の党首も、皆、元中央官僚。主だった県の
県知事も、副知事も、皆、元中央官僚。大都市の市長も、皆、元中央官僚。そんな日本を
変えるとなると、それこそフランス革命のような革命でも起こさないかぎり、無理」

ワイフ「役人の権限を小さくするとか、そういうことはできないの?」
私「それこそ、絶対に無理。国家公務員や地方公務員だけでも、今の今でさえ、ふえつづ
けている。その数、450万人。日本には、このほか、準公務員と呼ばれる人たちが、そ
の数倍は、いる」
ワイフ「給料はどうなっているの?」

私「いまだかって、地方自治体ですら、その手当て額を公表したことがない。しかし予算
から逆算すると、公務員は、一人あたり、800〜1000万円の年収(伊藤惇夫氏)と
いうことになるそうだ」
ワイフ「すごい、高額ね」
私「そうだよ。大企業でさえ、平均して、650万円程度だからね」

 ひょっとしたら、この文章を読んでいるあなたも、公務員かもしれない。あなたの家族
の中に、1、2人に公務員がいるかもしれない。私は、何も、そういう一人一人の
公務員が悪いと言っているのではない。

 ただ、こんなバカな政治をつづけていたら、遅かれ早かれ、日本は、本当にダメになっ
てしまうということ。今の「あなた」は、それでとりあえずは、よいとしても、あなたの
子どもは、どうする? あなたの孫はどうする? そういう視点で、日本の未来を考えて
みてほしい。

ワイフ「公務員の人たちって、死んでからも、年金がもらえるなんて、知らなかった……」
私「そうだね。ぼくも、驚いた。そういうような、つまり、自分たちにとって、どこかつ
ごうの悪い情報は、絶対に公表しないからね……」
ワイフ「でも、ずるいわ。議会は何をしているのかしら? 日本は民主主義国家なんでし
ょ」
私「一応ね。しかし議会の議員は、もっと手厚く保護されている。いろいろな恩恵にもあ
やかっている。だから、官僚主義社会を批判できない。批判したとたん、その世界から、
はじき飛ばされてしまう」と。

 私の親しい知人のS市(50歳)は、ある都市で、ある役職のある仕事をしている。そ
のS氏が、こう言った。

 「林さん、市議会の議員たちね、自分で作文できる人は、まずいないよ。議会での質問
書も、それに対する答弁書も、みんな、ぼくたちが書いてやっているんだよ。ぼくたちに
嫌われたら、議場に立つことすらできないよ」と。

 日本のみなさんは、こういう現実を、いったい、どこまで知っているのだろうか。
(040417)

++++++++++++++

 ものを言うことすらできない、母子家庭の母親たち。組織もない。知識もない。力もな
い。しかもだ、これからの日本を支える子どもたちを支援するために、たったの、1〜4
万円(月額)とは!!

 (母1人、子ども1人のばあいの手当て支給額、07年実績、中日新聞7月22日)

   所得           手当の額(月額)
   57万円         41720円
  130万円         28270円
  220万円         11690円

 その一方で、リストラも、首切りも、転勤もない世界で、仕事をしてきた人たちが、満
額の退職金を手にしたあと、毎月33〜35万円の年金とは!!

 しばらくこの怒りは、収まりそうもない!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
母子家庭 支援制度 児童扶養手当 福祉制度 転籍特権)

(注※、「国民新聞」より)

通常、夫が亡くなった時、厚生年金の場合は、妻に夫の老齢年金の報酬比例部分の4分の
3相当が遺族厚生年金として支払われる。その妻が亡くなればその時点で終了する。

 ところが公務員は違う。妻が亡くなっても、その遺族年金の権利は子ども(18歳まで)
や父母にも引き継がれる。民間に比べ、公務員は死んだ後まで手厚く保護されている。

●日本があぶない!

 何度も書くが、公務員の総人件費だけで、38兆円。
国家税収(モノ、サービスの貿易などで稼ぐ、いわゆる収入)は、40兆円前後。
(ここ数年、その税収すら、減少ぎみ。)
38÷40=95%!
95%が、公務員の人件費!

 こんなバカげた財政運営をしている国が、ほかにどこにある!
ギリシャだって、していない!
……ということを、もう一度、みんなでよく考えよう。
やがて日本中が、JALになる。
「確実にそうなる」とは書きたくないが、すでに「時間の問題」。
「ギリシャなんて、遠い海の向こうの話」などと思っていると、それこそたいへんなこと
になる。

 私はそれを伝えたくて、この原稿を書いた。

 で、今日は土曜日。
暗い話を書いて、気分が滅入った。
朝風呂をあびて、気分を一新!

 みなさん、おはようございます。
(2010年5月8日、午前6時30分)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●Active Learning(生きた教育)vs Silent People(もの言わぬ民)

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バートランド・ラッセルは、つぎのように述べている。

Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls.
教師の知恵をそのまま受け入れることは、生徒たちにとっては楽なこと。

 It involves no effort of independent thought, and seems rational because the teacher 
knows more than his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher 
unless he is a very exceptional man. 
自分で考えるという努力を必要としないし、それに教師は生徒たちよりもよく知っている
という点で、教師のもつ知恵は、より道理的である。

Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life. 
が、ものごとを受動的に受け入れるという習慣は、あとになって、たいへんなことだとわ
かる。

It causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that 
position... 
受動的であると、リーダーを求めるようになり、その地位にある人ならだれであっても、
その人をリーダーと受け入れてしまうようになる。

It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are few who can 
appreciate it, and that ordinary education can take no account of so aristocratic a good.
精神的な冒険による喜びというのは、稀なことであり、それゆえにそれを楽しむ人はほと
んどいない。そのためふつうの教育というのは、規律正しく貴族主義的であればあるほど、
よいと言われる。

 I do not believe this.
しかし私は、こんなことを信じない。

 The joy of mental adventure is far commoner in the young than in grown men and 
women. 
若い人たちのほうが、成人した人たちより、ずっとしばしば、精神的な冒険の喜びを経験
している。

Among children it is very common, and grows naturally out of the period of 
make-believe and fancy.
幼い子どもたちほどそうで、成長とともに、空想の世界から自然と抜け出ていく。

 It is rare in later life because everything is done to kill it during education... 
むしろ歳をとればとるほど、教育を通して、それをつぶされてしまうため、そういうこと
が稀になる。

The wish to preserve the past rather than the hope of creating the future dominates the 
minds of those who control the teaching of the young.
未来を創造するという希望よりも、過去を保全するという願いのほうが、若い人たちを教
育する教師の心を、より強く支配する。

 Education should not aim at passive awareness of dead facts, but at an activity 
directed towards the world that our efforts are to create. 
教育というのは、死んだ事実を、生徒たちに押しつけることを目的としてはいけない。そ
うではなくて、私たちの努力が創りあげる世界に向かって、生徒たちを活動的にすること
を目的としなければならない。

++++++++++++++++++++

●死んだ教育vs生きた教育

 教師はどうしても、保守主義に陥りやすい。
「教育」本来のシステムそのものが、そういう趣旨から出発している。
とくに日本のばあい、明治以来、「教え、育てる」が、教育の基本になっている。
最初に「教科書」を用意し、それを子どもたちに植えつける。
それが教育の基本になっている。

 しかしオーストラリアでは、(当時は批判的な声も多く聞かれたが)、すでに小学3年生
まで、教科書を使っていなかった(南オーストラリア州)。
それも私が直接確認したのは、25年以上も前のことである。
(最近のことは、知らない。)
また「教科書」という概念ではなく、彼らが使っているのは、「テキスト」である。
テキストブック、イコール、教科書ではない。

 つまり世界的にみれば、日本の教育はバートランド・ラッセル風に言えば、「死んだ教育」
ということになっている。
それが、基本になっている。
「創りあげる教育」ではなく、「上から下へ、押しつける教育」。
だからおもそろくない。
つまらない。
だから子どもたちは、よくこう言う。

「まだ、習っていない!」と。
何か新しい漢字を書かせようとしたり、新しい問題を解かせようとしたとき、など。
決まって、そう言う。
教育の受け方そのものが、受動的。
わかりやすく言えば、小学低学年時においてすら、すでにそう飼い慣らされてしまってい
る!

●では、どうするか?

 教科書の廃止は当然としても、それに代わるシステムを創りあげなければならない。
「指針」のようなものでよい。
また教育現場にダイナミズムをもたらすために、EUのように大学の単位を共通化する。
同時に教育のクラブ化を進める。
重要な必須科目は、「学校」という場で教える。
しかしそうでない科目は、学校を離れたクラブで教える。
クラブを選ぶのは、子どもたちの自由。

 フランスに住んでいるSさんは、最近、こんなメールをくれた。
「(2人)の子どもたちは、自転車クラブに夢中です」と。
まだ小学生である。
そういう子どもたちが、クラブを通して、夢中になれるものをもっている。
それをすばらしいと言わずして、何という。

 もちろんその前に、やるべきことがひとつある。
職業の公平化である。

 親たちは日々の生活を通して、社会の「格差」「差別」「不公平」を、いやというほど、
感じ取っている。
こうした問題を解決しないまま、今、教育を自由化すれば、いわゆる受験産業だけが「ク
ラブ」になってしまう。
それでは元の木阿弥。

 が、皮肉なことに、この日本では、そうした格差、差別、不公平の恩恵を受けているの
が、官僚たち、なかんずく文部科学省。
天下り先として機能している外郭団体にしても、ダントツに多い。
1800団体近くもある。
中には、ほとんど意味のない団体もある。
こうした団体が、日本の教育をがんじがらめにし、硬直化させている。
1500年もつづいた日本の官僚制度の壁は、あなたが考えているより、はるかに厚い。

 その結果、どんな子どもが生まれるか?
それはあなた自身が、いちばんよく知っている。
「もの言わぬ、従順な民」。
あるいは、「もの考えぬ、従順な民」でもよい。
それがあなた自身ということになる。

 日本の教育を真正面から批判してみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 生きた教育 バートランド・ラッセル もの言わぬ従順な民 格差 差
別 自由な教育論)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●子育ての山と谷(子育ての限度)

++++++++++++++++++

「山」だからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。
「谷」だからといって、取り越し苦労をしてはいけない。

子育てには、山もあれば、谷もある。
山がすべてではないし、谷がすべてでもない。
山を基準に子育てを見てはいけない。
谷を基準に子育てを見てもいけない。

子育ては、常に平常心。
「限度」をよくわきまえ、動揺しない。
親は親で、マイペースで進む。

ここでは、その「限度」について。

+++++++++++++++++++

●限度

 あのバートランド・ラッセルは、「限度」という言葉を使った。
「限度をわきまえている親のみが、真の家族の喜びを与えられる」と。

 それはその通りで、仮にあなたが長男に、新車をプレゼントしたとしよう。
結婚祝いでも何でもよい。
すると、二男は、それを見て、「自分も買ってもらって当然」と思うようになる。
だから買ってあげても、二男は、「ありがとう」とは言うかもしれないが、そこまで。
で、その話を聞いた三男は、今度は、あなたに、車を買ってくれと請求するかも
しれない。
「兄たちが買ってもらったんだから、ぼくも、買ってほしい」と。
買ってあげても、もちろん、感謝などしない。
「当然」と考える。

 これが「限度」である。
わかるかな?
子育てには、その限度がある。
やるべきことは、やる。
しかしそれ以上のことは、しない。
したら最後、限度がなくなる。
「その限度をわきまえている親のみが、真の家族の喜びを与えられる」(バートランド・
ラッセル)と。

 つまり子どもに車など、買ってやってはいけない。
それは親のすべきことではない。

●親孝行

 はっきり言おう。
最近の若者に、親孝行を説いても無駄。
その意識すらない。
「親孝行」の意味すら、知らない。

 親は自分の意識を基準に、子どもにもそれがあると思うかもしれない。
しかしどんな調査結果をみても、今、日本人(成人男女)で、「将来、
親のめんどうをみる」と考えている若者は、20%前後しかいない。
多くは、「経済的に余裕があれば」という条件をつけている。
つまり「みない」と。
(この世の中に、経済的に余裕のある若者は、いない!)

 あとはささいなきっかけを理由に、「縁を切る」と言って、親を捨てる。
ある男性(40歳)は、「息子(=孫)の運動会に来てくれなかった」という理由だけで、
父親との縁を切っている。
「だからそんな親のめんどうは、みない」と。
つまり(めんどうをみたくない)という思いが先にあり、その口実として、「運動会
に来てくれなかった」という理由にもならない理由を、こじつける。

こういう現状を、いったい、どれだけの人が知っているだろうか。

●きびしくなる老後

 あなたが40代、50代の人なら、こうアドバイスしたい。
「無駄な教育費など、子どもにかけるな!」と。
よほどの余裕があるなら、話は別。
そうでなければ、自分の老後をしっかりと見据え、あまったお金は、自分の
老後の資金に回す。
「息子(娘)に、学資をかけておけば、その見返りはあるだろう」などと考えるのは、
幻想以外の、何ものでもない。
子どもも幸福になり、感謝されるはずというのも、幻想以外の、何ものでもない。

 冷たいことを書いているようだが、これがそこにある「現実」であり、それから
生まれる悲劇が、今、いたるところで起きている。
そうでなくても、やがて人口の3分の1が、高齢者になる。
2人の働き手が、1人の老人を支えることなど、不可能。
むずかしい経済学を知らなくても、そんなことは、だれにでもわかる。
それが「現実」。

 で、学資をかけた分だけ、子どもが親に感謝しているかと言えば、それはない。
よほどの子どもでも、それはない。
今、親に感謝しながら、高校に通っている子どもは、ゼロ!
大学生でも、ほぼゼロ!
親の金で遊びまくったとしても、子どもには、罪の意識はない。
「ぼくたちは、子どものころから、やりたくもない勉強をさせられた」と。

●毒された社会

 どうして、日本は、こうなってしまったか?
そのひとつのヒントが、中国にある。
あの国では、すべてが、マネー、マネー、マネー。
ちょうど30年遅れで、日本を追いかけている。
その結果、中国人は、「心」を見失ってしまった。
ありとあらゆることを、金儲けにつなげて考える。
道徳も倫理も、あったものではない。
そうした中国人たちを見ていると、30年前の日本を思い出す。

 さらにこのことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。
私は、幼児期の子どもから、高校3年生まで教えている。
1日というサイクルの中で、教えている。
だから子どもたちの「心」が、どのように変化していくかが、よくわかる。
そのひとつが、受験期の子ども。

 受験期にかかると、子どもは、急速に暖かい「心」を見失っていく。
ものの考え方が功利的、打算的になる。
人間関係も殺伐したものになる。
親子関係、教師との関係も、無難というわけにはいかない。

 が、最大の悲劇は、そうした「心」を見失いながらも、子ども自身がそれに気づかない
ということ。
さらに悲劇は、そういう子どもほど、親は、「できのいい子」と言って、喜ぶ。
言うまでもなく、親自身が、すでに暖かい「心」を見失っている。

●私の時代

 私の時代には、まだ温もりがあった。
今の若い人たちに、こんなことを言っても理解されないだろう。
しかし私たちの時代には、親への仕送りは、当然のことだった。
私も、結婚する前から、収入の半分を、岐阜の実家へ毎月、送っていた。
ワイフと結婚するときも、それが条件だった。
だから、ワイフは、何も迷わず、結婚してからも、実家へ毎月、お金を送っていた。

(ただし経済的負担感というより、その社会的負担感には、相当なものがあった。
けっして楽しくて、仕送りしていたわけではない。……念のため!)

 が、今はちがう。
私の息子たちにしても、懸命に働かざるをえなかった私を、むしろ反対に責める。
「パパは、家庭を顧(かえり)みなかった」と。
そういう言葉を聞くたびに、私はこう思う。
「貧しさを知らない世代は、かわいそう」と。
そう、私たちは、いつも(貧しさ)というよりは、(ひもじさ)と闘っていた。
毎日、空腹だった。
毎日が、その闘いだった。

 ワイフにしても、生まれたとき(昭和24年生まれだが)、やせ細り、いつ死んでも
おかしくない子どもだったという。
私も、ひざの骨が変形している。
成長期の栄養不足(カルシウム不足)が、原因という。

 が、若い人たちには、それが理解できない。
豊かさがあることについても、「当たり前」と考える。
だからこんな会話をしたことがある。

「ぼくらは、戦後、きびしい時代を生きてきた」と、こぼしたときのこと。
その青年(25歳くらい)は、こう言った。
「そんなの、あんたたちの責任だろ。あんたたちが、勝手に起こした戦争だから」と。

 そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
どうであれ、私はこう言いたい。

 子どもの学費も結構。
子どもの教育も結構。
しかし自分の老後を見ながら、お金は大切に使え、と。
車なんか買ってやるのは、もってのほか。
「ありがとう」と言うのは、そのときだけ。
私が経験者だから、それをよく知っている。

●再び限度

 かなり否定的なことを書いた。
もちろん親子仲よく、むつまじく過ごしている人たちも多い。
しかしそういう人たちほど、「競争」とは無縁の世界で、子ども時代を送っている。
受験競争を経験していない。
「心」を見失っていない。
つまりその分だけ、お金に毒されていない。

 しかしこれだけは、最後に言える。

 こうして「心」を見失った若者たちにせよ、結局は、被害者ということ。
そのツケは、その子ども自身に回っていく。
今は、わからない。
しかし今度は自分が老後を迎えたとき、その悲惨さを、自ら体験する。
「私はだいじょうぶ」と、高をくくっている若い親ほど、あぶない。
「私たちは、良好な親子関係を築いている」と、うぬぼれている親ほど、あぶない。
すでにその時点で、子どもの心を見失っている。
それもそのはず。

 「心」というのは、外から見えている部分よりも、見えていない部分のほうが、
はるかに大きい。
自分の「心」にしてもそうだ。
ましてや肉体を別にした、子どもの心など、親がいくら想像力を働かせても、わかる
はずはない。

 その一例として、冒頭に、車の話を書いた。
親は、「息子たちは感謝しているはず」と思うかもしれない。
しかしそれはまさに幻想。
わかりやすく言えば、「意識のズレ」。
学費にしても、結婚費用にしても、また新居費用にしても、そこには「限度」がある。
その「限度」をしっかりと守りつつ、子育てをする。
これは、子育ての第一の基本と考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 子育ての限度 ラッセル 親のすべきこと してはいけないこと)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●脳と健康(私の推論)

++++++++++++++++++

うつ病の最大の敵は、「こだわり」。
うつ病イコール、こだわり。
こだわりイコール、うつ病。
うつ病とこだわりは、紙でいえば
表と裏の関係。
両者は、いつも同時進行の形で始まり、
そして同時進行の形で終わる。
言い換えると、ひとつのことにこだわり
始めたら、要注意。
それがうつ病の始まり。

・・・と、私は勝手に解釈している。
が、大筋では、それほどまちがっていない
と思う。
書店で、「サイエンス」の最新号を読んだとき、
それを確信した。

+++++++++++++++++++

●エネルギー

 脳細胞は、ものすごい量のエネルギーを消耗している。
脳とコンピュータを直接比較することはできないが、コンピュータが消費する
電力を思い浮かべればよい。
一説によると、人体の消費するエネルギーの3分の1とか、あるいは80%とか、
その程度を消費している。

が、昨日、面白い論文を読んだ。
「サイエンス」(最新号)に載っていた論文だが、人間の脳というのは、常時、
ものすごい量のエネルギーを消費しているという。
何かを考えているときも、反対に何も考えず、リラックスしているときも、
同じように消費しているという。
むしろ何かを懸命に考えているときのほうが、その部分の脳は活発に活動するが、
全体としてみると、かえってエネルギーの消費量が少なくなる、とも。

 従来は、使用される脳細胞をみて、脳の働きをみたが、最近は、消費する
エネルギーの量をみながら、脳の働きをみるそうだ。
(以上、立ち読みで得た知識なので、内容は不正確。)

●こだわり

 サイエンスという雑誌で得た知識を、「こだわり」に当てはめて考えてみる。
つまり人が何かのことに、強いこだわりをもったとする。
するとそのこだわりをもった部分については、脳は活発にエネルギーを消費する。
そればかりを懸命に考えるために、そうなる。

 しかし全体としてみると、ほかの部分が、休止状態になるため、エネルギーの
消費は低下する(?)。
「リラックスしているときのほうが、エネルギーの消費量が多くなる」というのは、
そういう意味と考えられる。
が、このことは、実生活に当てはめてみると、納得できる。

●こだわりとボケ症状

 私の実兄は、晩年、ものごとに対するこだわりが、たいへん強くなった。
たとえば見知らぬ人が、私の家の前に無断駐車をしたりする。
すると、実兄はその車が気になってしかたなかったらしい。
車のことでブツブツ言いながら、車のことばかり気にした。
ときにそのまま、精神状態がおかしくなったりした。

 同時に、実兄のボケ症状は、進んだ。
うつ病とボケ。
専門家でも、その区別がむずかしいという。
つまり、うつ病からボケ症状を併発する人もいれば、反対に、ボケ症状から、うつ病を
併発する人もいる。
どちらが先で、どちらが後か。
あるいはどちらが本病で、どちらが表病か。
専門家でも、その区別がむずかしいという。

 つまりものごとに対するこだわりが強ければ強いほど、一方でうつ病を引き起こし、
他方で、脳全体の働きを鈍らせる。
うつ病とボケ症状は、いわばペアの関係にあるということになる。
(注:ボケ症状イコール、認知症ではない。)

●私の推論

 ずいぶんと乱暴な推論なので、このあたりは適当に読んでもらえばよい。
しかしこう考えると、「こだわり」「うつ病」「ボケ症状」の関係が、スッキリと
頭の中で整理できる。
それにサイエンスに載っていた記事を重ね合わせてみる。
全体がひとつの論理で、さらにうまく説明ができる。
もう一度、復習すると、こうなる。

 脳全体は、常時、大量のエネルギーを消費している。
リラックスしているときも、そうでないときも、だ。
が、ひとつのことにこだわると、その部分でのエネルギーの消費は増大するが、
脳のほかの部分でのエネルギーの消費量は、低下する。
その一例として、「こだわり」がある。
こだわりが強ければ強いほど、脳のその部分でのエネルギーの消費は増大する。
が、脳のほかの部分でのエネルギーの消費量は低下する。
それがボケ症状につながる。
「こだわり」と「ボケ症状」との関係は、こうしてうまく説明できる。

●研究バカ(失礼!)

 似たような体験は、日常的によくする。
たとえば「研究バカ」(失礼!)と呼ばれる人たちがいる。
その分野では、特異にすぐれた業績を残すが、ほかの部分では、まるで常識ハズレ、
というような人のことをいう。
子どもの世界にも、ときどき、このタイプの子どもがいる。
印象に残っているのに、S君(当時、高校生)という子どもがいた。

 私が予備校でアルバイト講師していたときのことだった。
私はS君に出会った。
成績だけはメチャメチャよかった。
難解な数学の問題を、スラスラと解いた。
が、どこからどう見ても、おかしい。
どうおかしかったかということは、ここには書けない。
しかしおかしい。
まともではない。

そのS君が、ある日、こう言った。
「先生、この世の中のことは、すべて数学で説明できる」と。
私は彼に意見に首をかしげたが、S君は真顔だった。

●ボケ防止

 つまりS君は、「勉強」という脳の中でも一部の分野では、特異な能力を見せた。
が、それ以外の分野では、むしろ眠ったような状態になっていた。
おそらく「醤油」と「ソース」の使い分けも知らなかったのでは?
またそう考えると、当時のS君が、よりよく理解できる。
「刺身に、ソースをかけて食べる」と言ったこともある。

 が、この推論は、そのまま我ら老人族にも、重要な意味をもつ。
結論を先に言えば、こだわりは、ボケの始まり、ということ。
うつ病は、ボケの初期症状と言い換えてもよい。
つまりある特定のことだけに、悶々と悩んだりするのは、脳の健康のためによくない。
むしろ脳の健康のためには、脳をリラックスさせ、四方八方、あらゆることに
興味をもつようにする。
そのための努力を怠らない。

・・・そう言えば、亡母が入居していた特別擁護老人ホームに、こんな女性がいた。
朝起きてから、夜眠るまで、「飯(めし)はまだかア!」と叫んでいた女性である。
年齢は90歳を過ぎていたと思う。
若いころの美しさをそのまま残したような女性で、それだけによけいに気になった。
その女性のばあい、「食べ物」に対して、異常なこだわりをもっていた。
つまりその分だけ、脳のほかの部分が、空白になっていた。

●リラックスさせる

 最近の脳科学の進歩には、目を見張るものがある。
ポジティブMRIができてから、さらに進歩した。
今では、脳の働きを、リアルタイムで観察することができる。
サイエンスの中の、その記事の中にも、それが書いてあった。
つまりその人の思考程度、内容に応じて、脳のどの部分がどのように機能するか、
それをまるでレーダーに映して見るかのように、わかる。
「リラックスしているときも、脳は活発に活動している」ということも、それで
わかるようになったらしい。
(以前は、脳波の動きによって、それが推察されてはいたが・・・。)

 このことは、ひとつの教訓を私たちに与えている。
つまり、リラックスすることは、脳の健康を維持するためには、大切なこと、と。
音楽を聴いたり、旅をしたり、あるいはぼんやりと窓の外をながめたりするだけでもよい。
それによって、(こだわり)を弱くし、脳のほかの部分を活発化させることができる。

私の印象では、とくに「笑う」ということがよいのではと考える。
子どもでも、大声で笑う子どもほど、心がまっすぐ伸びる。
思考も柔軟になり、常識的になる。
反対にボケ症状が進んでくると、人は笑うことさえ忘れてしまう。
もちろんユーモアは通じない。

 以上、推論に推論を重ねて、持論を展開してみた。
仮にまちがっているとしても、ダメもと。
害はない。
脳の健康のために、ここに書いたことが、何らかの役に立てば、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 脳の健康 エネルギー こだわり うつ病 鬱病 ボケ ボケ症状 
こだわりとボケ症状 うつ病とこだわり 認知症)


Hiroshi Hayashi++++++May.2010++++++はやし浩司

●老齢期の性格特性

+++++++++++++++++

「心理学のすべて」(日本実業出版社)の
中で、深堀氏は、老齢期の性格について、
興味深い分類をしている。
称して、「老齢期の性格特性」(P133)。

それによれば老齢期になると、人は、つぎの
5つのタイプに分類されるという。

(1)円熟型
(2)依存型
(3)自己防衛型
(4)外罰型
(5)自責型

+++++++++++++++++

●5つのタイプ

(1)円熟型

過去の自分を後悔することなく、未来に対しても現実的で、建設的な展望をもっているタ
イプ。

(2)依存型

受け身、消極的な態度で現実を受け入れ、引退後は家族や子どもに頼って安楽に暮らそう
とするタイプ。

(3)自己防衛型

老化への不安から、若いときの活動水準をできるだけ維持しようとするタイプ。

(4)外罰型

自分の過去や老化への現実をなかなか受け入れられず、その態度が他人への非難や攻撃と
いう行動にあらわれてしまうタイプ。

(5)自責型

外罰型とは反対に、自分の過去の人生を失敗だと考え、自分を責めてふさぎ込んでしまう
タイプ。
(以上、同書よりそのまま転載。)

●安定

 どれでもよい。
ひとつのタイプに安定すること。
依存型なら依存型でよい。
自己防衛型なら自己防衛型でよい。
それが老後を、安定的に(?)暮らす、ひとつのコツということになる。

 まずいのは、その途中で、タイプの変更を余儀なくさせられること。
老齢期になると、その転換が、たいへんむずかしい。
思考の柔軟性が失われ、そのため、行動の柔軟性も弱くなる。
たとえばそれまで依存型で生きてきた老人が、何らかの事情で、自立を迫られるようなケ
ース。
老人にはそれを処理するだけのじゅうぶんな能力はない。
たいていは、混乱し、狼狽する。
体力のある老人なら、泣き叫んで、それに抵抗する。
あるいはそのショックから、急に老け込んでしまったり、そのままボケてしまう人もいる。

●私のばあい

 私、つまりはやし浩司のばあいは、どうか?

 実は、ごく最近まで、自分では気づかなかったが、依存型だった。
「いつかは息子たちが……」という淡い期待を、心のどこかで抱いていた。
だからいつも息子たちには、媚(こび)を売るようなところがあった。
が、その期待は、この正月に、粉々に破壊された。
で、それからの混乱が、たいへんだった。
心臓の調子がおかしくなるほどだった。
そのため正月早々から、病院通いをするハメに!

 しかし私は基本的には、自責型。
息子たちを責める前に、親バカだった、自分を責めた。
はげしい自己嫌悪も覚えた。
理想としては円熟型を求めるが、目の前につり下げられたニンジンのようなもの。
行けども行けども、いつもニンジンは、私の目の前につり下げられたまま。

 で、現実的には、深堀氏が説く、「自己防衛型」ということになる。
今は、老化に強い不安感を覚える。
何とか現状維持をしたいと、いつも願っている。

●はやし浩司説

 このまま深堀氏の説を引用しただけでは、はやし浩司が泣く。
私流に、「老齢期の性格特性」を考えてみたい。
とりあえず、つぎの5つのタイプを考えてみた。

(1)攻撃、能動型
(2)厭世、引退型
(3)隔離、自己愛型
(4)悲嘆、失望型
(5)過去、執着型
(6)還元、博愛型

●各論

(1)攻撃、能動型

年齢、体力を気にせず、ものごとを前向きにとらえて、それに向かって積極的かつ攻撃的
に取り組んでいくタイプ。

(2)厭世、引退型

「コンパクトに生きる」を目標に、現実世界から遠ざかり、自分の小さな世界だけで、こ
じんまりと生きるタイプ。

(3)隔離、自己愛型

徹底した自己中心型。自分さえよければ、それでよいと考え、趣味三昧、道楽三昧の生活
に没頭するタイプ。

(4)悲嘆、失望型

自分の人生を悲嘆し、毎日嘆き悲しみながら過ごすタイプ。ときに「オレの人生は何だっ
たのか!」と、過去を悔やむことも多い。

(5)過去、執着型

現職時代の肩書きや地位、名誉にしがみつきながら生きるタイプ。「オレはすばらしい人間
だった」と。それを認める相手には尊大ぶり、そうでな相手には憤慨してみせる。

(6)還元、博愛型

自分の「生命」を、後世に残したいと願うタイプ。そのため広く人類愛にめざめ、無私無
欲で、他人のために命を燃やすことをいとわない。

●若々しく過ごす

 どれがよくて、悪いかなどということは、とてもおこがましくて書けない。
で、深堀氏は、こう書いている。

「……大川らは、老齢期を若々しく過ごすためのポイントとして、つぎのような項目をあ
げています。

・学びつづける姿勢をもつ。
・責任ある仕事をする。
・本を読む、新聞を読む、文化系的な活動をする。
・現状維持に満足しない。
・くよくよしない」(同書、P132)と。

 どれもたいへん重要なことである。
その上での「老後」ということになる。

この年齢(60代)になると、知恵や知識は、向こうの方からどんどんと逃げていく。
だから「学びつづける」ということは、重要。
現状維持を願ったとたん、そこを頂点にして、知恵や知識は、どんどんと失われていく。

 また「仕事をする」という緊張感は、失ってはいけない。
緊張感を失ったとたん、糸の切れた凧のようになってしまう。
それに重要なのは、「社会」との接点。

私のばあい、基底不安型人間ということもあって、「休暇」になったとたん、かえって不安
になってしまう。
自分でも損な性格とはわかるが、ここまできたら、居直るしかない。
今さら「私」を変えることなど不可能。

 「くよくよしない」については、精神の健康を守るために、重要。
「こだわり」は、うつ病の初期症状。
初老性のうつ病は、何よりも警戒しなければならない。
へたをすれば、そのまま自殺へと、突っ走ってしまう。

 ただ「若々しく過ごす」という言い方には、やや抵抗を覚える。
私たちは何も、若々しく過ごしたいのではない。
他人の目など、気にしたくない。
また「若い」ということに、それほど、興味はない。
(この点、男性と女性とでは、基本的に、ものの考え方がちがうのかもしれない。)
反対に、若々しく見せるために、化粧をしたり、カツラをかぶっている男性を見かけたり
すると、私のばあい、大きな違和感を覚える。
一方、若いのに、ジジ臭い考え方をしている人はいくらでもいる……。

 私は私らしく生きる。
それが基本であって、「若々しい」という言葉は、あくまでも結果として追いかけてくるも
の。

……深堀氏の「心理学のすべて」を読んで、そんなことを考えた。

(補記)

 理想としては、(6)還元、博愛型がよい。
しかしそれには経済的な裏づけが必要。
だから(1)攻撃、能動型を併用する。
そのためには、私のばあい、つぎのことに心がけている。

・やりたいことは、即、実行。あとに回さない。
・生活にリズム感をもたせる。曜日ごとに、やることを決めている。
・運動を欠かさない。日課運動に併せて、週4単位(1単位=40分)以上のランニング
を自分に課す。
・若い人たちとの接触を怠らない。これは仕事上、毎日、否応なしに実行している。
・常に新しいことに興味をもつ。月に1〜2度は、1泊旅行をする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 老齢期の性格特性 性格分類 老齢期の過ごし方 性格特性 老人の
心理 老人の性格)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●浜松・凧揚げ祭り(通称、「凧祭り」)

+++++++++++++++++

昨日、運動もかねて、入野町(自宅)から、
凧揚げ会場(中田島砂丘)まで、歩いた。
片道、3時間、約25キロ。
一度、遠州浜まで出て、海岸沿いに中田島
まで。

+++++++++++++++++

●凧揚げ祭り

 当地方最大の祭りと言えば、浜松の凧祭り。
浜松市は、名古屋市に次いで、東海地方最大の都市。
その浜松市でも、最重要の祭りと言えば、「凧祭り」。
1年を通して、浜松市民は、この日を目標に、
祭りの準備をする。

会場へ着いたのが、午後3時ごろ。
祭りは、4時までということだったので、みなさん、ほぼ疲れ切ったころの時刻。
「勇壮な」というほど、活気はなかった。
残念!

いちばんの見頃は、5月5日の最終日。
やはり開始から昼頃までが見ごろ、とか。

浜松駅からは会場まで、シャトルバスが往復していた。
料金は、片道250円。
往復500円。

私たちは会場を出たところで、体力が消えた。
タクシーで、自宅まで。

疲れた。
しかし楽しかった。

(批評)

浜松の凧祭りは、「見る祭り」ではない。
「参加して楽しむ祭り」。
つまり参加型の祭り。
だから機会があれば、かつ知り合いがいれば、祭りに参加させてもらうのがよい。
凧揚げ会場でも、観客は、遠くから、指をくわえて(?)、見ているだけ。
これといった見物席もなく、みな、それぞれが隅のほうに座って見ているだけ。

参加できれば、楽しい。
あの連帯感、あの一体感は、ほかでは味わえない。
町の人たち、近所の人たち、それに親類が、一体化する。
それを傍から見ているだけでも、楽しい。
が、やはりその連帯感、一体感の中に入ってこそ、浜松祭り。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 浜松 凧祭り 凧揚げ祭り 凧上げ祭り たこ祭り 浜松の祭り)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●人の心

+++++++++++++++++++

円柱がある。
上方向から見れば、「円」。
真横から見れば、「長方形」。
見る角度によって、まったくちがった形に見える。

人の心も、また同じ。

+++++++++++++++++++

●60数人のいとこ

 私には60数人のいとこがいる。
たいへんな数である。
その中でも、親密に交際しているのは、現在では、3〜4人に過ぎない。
が、最近、おもしろいことに気づいた。

 数人のいとこを、A、B、C、Dとする。
で、そのいとこたちの話を聞いていると、同一人物、たとえば同じXさんについて、まっ
たく別の評価をする
ことがある。

Aさんは、「あのXさん(=いとこ)は、すばらしい人だ」と言う。
Bさんは、「あのXさんは、ひどい男だ」と言う。
Cさんは、「あのXさんは、鼻つまみ者だ」と言う。
Dさんは、「あのXさんは、人間のカガミだ」と言う。

 ときに、評価が、180度ちがうから、おもしろい。
……というより、驚く。
そういうとき私は、どう返事してよいかわからなくなる。
というのも、私は私なりに、Xさんに対して、私の印象をもっている。
「はあ……」「はあ……」と答えるだけで、精一杯。

●白と黒

 どうして人によって、同じ人の評価が、180度もちがうのか。
その理由の第一が、ときとして人は、(好き・嫌い)を、(白・黒)に置き換えて
考える傾向がある。
中間的な「灰色」の状態にしておくよりは、白・黒をはっきりさせながら、自分の
心を整理する。
わかりやすくする。
「Xさんは悪人」と決めつけて、遠ざかる。
「Xさんは善人」と決めつけて、交際をつづける。

 若いときは、あいまいなままでも、自分の心をごまかすことができる。
しかし歳を取ると、そういうあいまいな評価をすることに、疲れを覚えるようになる。
つきあうべき人と、そうでない人を、区別するようになる。
結果として評価の仕方が、極端化する。

●上下意識

 つきあうといっても、今では、たがいにあいさつ程度。
みな、遠い昔の人たちである。
それに当時は、私も、ただの子どもだった。
それほど深いつきあいがあったわけではない。
心を通わせたこともない。
「血のつながり」とはよく言うが、捕らえ方は、人、それぞれ。
私のように、それを何でもないと思う人もいれば、反対に、何よりも大切と思う人も
いる。

 私のばあいは、親戚づきあいというのは、あまり得意ではない。
とくの私の家系の人たちは、上下意識が強く、それに何かにつけて、浪曲調。
演歌調と言うべきか。
サラサラと流れる清流というよりは、どこかドロドロしている。
その上、江戸時代そのままの封建意識を引きずっている人も多い。
最近になっては、法事だとか、墓参りだとか、葬儀だとか、何かにつけて、ものの
考え方が、うしろ向き。
それに暗い。

●印象

 話を戻す。

 いとこたちの話で興味深いのは、それぞれについて家庭環境がよくわかっていること。
どうしてそういう考え方をするのか、またするようになったのか、その背景がよくわかる。
話を聞きながら、「相続問題がこじれたから」とか、「生活問題がからんでいるから」とか、
その向こうに隠された問題まで、よくわかる。

 が、いとこたちについて書くのは、ここまで。
「みんないい人たちです」という書き方で、ここでは、終わりたい。
ただこと私自身について言うなら、私のことを悪人と思っている人もいる。
善人と思っている人もいる。
悪い印象をいだいている人もいる。
よい印象をいだいている人もいる。
それがときとして、間接的だが、わかるときがある。

 で、そういうとき、私のばあい、「なるほどなあ」で終わる。
弁解もしない。
喜ぶこともない。
何しろその背景には、半世紀近い、時の流れというものがある。
その(流れ)の中で、熟成されている。
聞いたからといって、自分の印象が変わるわけではない。
話したからといって、相手の印象を変えられるわけではない。
一方、残された時間は、短い。
はっきり言えば、どうでもよい。
どう思われたところで、どうということはない。

 だからこの「私」についても、人によっては、印象が180度ちがうこともある
だろう。
私という人間は、1人の人間なのだが、上から見れば「円」。
横から見れば「長方形」。
どれも正しい。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【4月30日のレッスンより】

テーマは、あいさつ。
(声を出す。)

この時期、(とくに私の教室では)、心の中にたまったものを、
声としてはき出させる訓練を重ねます。
こうして子どもの心を開放させます。

加えて、今日は、「あいさつ」をテーマにしました。
年少児、年中児(3〜4歳児)のテンポの速い指導を、
どうかお楽しみください。
お子さんといっしょに観てくださると、楽しんで
いただけます。

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Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●子育て失敗論

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子育てには「失敗」はつきものだが、
親は自分で失敗してみて、はじめて、それを
失敗と気づく。
それまでは、わからない。
「私にかぎって……」とか、
「うちの子はだいじょうぶ……」とか考えて、
その兆候を見過ごしてしまう。

今までにいろいろな例がある。
私の立場で言えば、いろいろな経験をしてきた。
が、そのつど、私は口を閉じてきた。
今も、閉じている。
というのも、子育てには、その人の
全人格、全人生、さらには哲学が集約される。
それを批判するなどということは、
危険と言うより、あってはならないこと。
また私のような者が、それを指摘したところで、
親は納得しない。

よく誤解されるが、受験産業があるから、
受験競争が過熱するのではない。
親たちが、それを求めるから、受験産業は
存在する。
だから今日も、一式80万円もするような
教材を、なけなしのサイフをはたいて買う。
そういう親がいる。
子どもがそれを求めるわけではない。
親は親で、自分の人生を通して、社会の
不公平性をいやというほど、感じている。
だから「何としても……」となる。

++++++++++++++++++++

●内政不干渉

 この浜松市には、静岡県でもナンバーワンと言われる進学高校がある。
K公立高校である。
しかしそのK公立高校でも、満足しない親たちがいる。
理由はさまざま。
それぞれの親には、それぞれの事情がある。
もちろん子どもの能力の問題もからんでくる。
中には飛び抜けて優秀で、「田舎のK高校なんて!」と言って、都会の高校を
求めていく子どももいる。

 一方、私たちには、『内政不干渉の大原則』というのがある。
その親や子どもが、どんな選択をしようとも、内政には干渉しない。
言われた範囲で、かつ与えられた範囲で、自分の仕事をする。
できるだけ親や子どもの希望に添うような形で、自分の仕事をする。
しかし明らかに失敗するだろうなというケースも、少なくない。
それでも黙って、仕事をする。

●80万円の教材 

 冒頭で、80万円の教材について書いた。
悪徳商法として、ネットでも叩かれている。
こえについて、少し書いておきたい。
方式はこうだ。

 「一式、80万円。中学3年分の教材」。
そんな教材を売りつける。
80万円の中には、テキスト代はもちろんのこと、FAXによる添削、電話相談料が
含まれている。
で、80万円を、3年分の36か月で割ると、月額約2万2000円となる。

ワークブックということなら、自分で書店で選んだ方がよい。
ワークブックには、「相性」というのがある。
その相性が合わないと、高価な教材と共に、「勉強心中」ということにもなりかねない。
「勉強心中」というのは、教材が負担で、方向転換できず、そのまま教材と共に、
勉強ができなくなってしまうことをいう。

 大切なのは、「達成感」。
その達成感が、子どもに自信をつけさせ、子どもを伸ばす原動力となる。

 それはともかく、月に1冊、1000円のワークブックをこなすだけでも、たいへんな
こと。
それを考えただけでも、2万2000円というのは、メチャメチャな額といってよい。
が、買う人は買う。
子どもにやらせる。

●私の経験

 私もある時期、市販の教材づくりに命をかけた。
毎晩、2時、3時まで、ワークブックの原案を考えた。
そんなある日、奇妙な仕事が依頼された。

 大手出版社のX社からのものだった。
「都内の小学校の入試問題集を制作してほしい」という依頼だった。
わたしは即断で、それを承諾した。

 で、しばらくすると、ダンボール箱に入った資料が、ドサッと送られてきた。
過去問題に関する資料である。
全部で、40校あまりあった。
が、傾向はどれも似たようなもの。
たがいに隣の小学校の入試問題を見ながら、自分の学校の入試問題を制作していた。
それが私にも、よくわかった。
つまり私には、楽な仕事だった。

●別会社

 が、「?」と思われるような申し入れが、つづいた。
まずその教材は、「X社」の名前では売らない。
書店にも並ばない。
もちろん「はやし浩司」の名前は入れない、と。
そのかわり、高額な制作料を支払う、と。
私には、どういうことか理解できなかった。
が、やがてわかった。

 X社は、ダミーの子会社(販売会社)を立ち上げた。
その子会社名で、セールスマンを雇った。
そのセールスマンに、訪問販売の形で、教材を売らせた。
あとで聞いたら、40校あまりの問題集が、1セット、200万円とか!
この金額には驚いた。
当時はバブル経済、華やかりしころで、200万円でも、飛ぶように売れた。

 が、この方式、つまり親会社がダミー会社を立ち上げ、自分の名前をけがさない
ように、悪徳商法を繰り返すという方式は、けっして珍しいものではなかった。
さらにあくどい販売会社となると、倒産した教材制作会社の教材群をまとめて
買い上げ、それを再印刷し、同じ方式で売っているところもあった。
(今も、それがふつうのやり方になっている。)

昨年(09年)も、この浜松で、悪徳教材会社が摘発された。
同じような手口で、親をだまし、高額な教材を売りつけていた。
が、刑法上の罪は軽い。
表紙だけを取り替えて、また別の販売会社を立ち上げる。
社長(=責任者)は、そのつど、別の人物にすえ替える。

 いろいろな教材を手がけてきたが、これほどまでに後味の悪い仕事はなかった。

●勉強心中

 「勉強心中」の話が出たので、一言。

 たとえば難解な、その子どもの能力を超えたワークブックを1冊、買ったとする。
するとそのワークブックが足かせとなって、子どもの勉強がそこでストップしてしまう。
「あのワークブックがあるから、つぎの新しいのが買えない」と。
こうしてそのワークブックとともに、心中する。
それを「勉強心中」という。

 よくあるケースは、(1)こまかい文字で、たくさん問題が出ているワークブック
ほど、よいワークブックと誤解すること。
ワークブックは、ショッピングセンターの商品とは、ちがう!

(2)「○×大学教授監修」という「飾り」のあるワークブックほど、よいワークブック
と誤解すること。
大学の教授で、そんなヒマな教授はいない。
いるとしても、タレント教授。
はっきり言えば、インチキ教授。
そういう教授なら、自分が指導したこともない教材に、自分の名前を貸しても、みじんも
恥じない。

 ほかにもいろいろあるが、たかが1000円、2000円程度のワークブックで、
「勉強心中」するほど、バカげたことはない。
そういうときは、そういうワークブックは、思い切って捨てる。
ワークブックは、「本」ではない。
「トイレットペーパー」である。
一度、だれかが使ったら、つぎの人は、使えない!

●思春期

 話が脱線した。
もとに戻す。

 浜松市内から都会の学校へ、子どもを送る。
先にも書いたように、それぞれの家庭には、それぞれの事情がある。
考え方もある。
だから「内政不干渉」。
それはそれとして、失敗するかどうかは、私には、わかる。
「失敗」というのは、親の思惑どおりには、いかないことをいう。
というのも、この時期、子どもは、心理的にも大きな転換期を迎える。
「思春期」という転換期である。
この思春期という転換期は、人間が動物的になるという意味で、扱い方をまちがえると、
たいへんなことになる。
勉強どころか、そのまま「遊び」の世界に転落してしまう子どもも、少なくない。
非行に走る子どもさえ、いる。

 親は、小学生の子どもを見て、「うちの子は、すなおで、明るい」と思うかもしれない。
が、そうはいかない。
そうはいかないことは、あなた自身が、いちばんよく知っているはず。

●ドラ息子性

 私の経験でも、浜松市を離れて、たとえば東京の有名中学校(こういう言い方は、
本当に不愉快だが)に、入学して、そのままうまくいくケースと、そうでないケースは、
フィフティ・フィフティとみている。
つまり50%。

 その(差)は何かというと、その子どものもつ(ドラ息子性)ということになる。
自分勝手でわがまま。
享楽的で精神的基盤が軟弱。
そういう子どもが親元を離れて都会へ出ると、とたんに(誘惑)の餌食になる。
もちろん勉強など、そっちのけ。
遊びに遊んで、そのまま……?

 もちろん、そうでない子どももいる。
そういう子どもは、小学生のとき、すでにどっしりとした(重み)を感ずる。
目的意識も強いため、(誘惑)にも強い。
そういう子どもなら、都会へ出ても、それなりに学生生活をやりこなす。

●「やればできる」と思ったら、「やってここまで」

 どんな親も、自分の子どもに対して、「やればできる」と信じている。
「できないのは、やらないから」と。
しかしそういうふうに思ったら、すかさず、「やってここまで」と思いなおす。
それが子どもの心を救う。

 その子どもに能力があるかないかということは、小学3、4年生ごろになると、
はっきりしてくる。
能力のある子ども、つまりいわゆる(Gifted Children=恵まれた
子ども)のばあい、この時期、メキメキと頭角を現してくる。
が、そうでない子どもは、そうでない。
いくら教えても、ザルで水をすくうような感じになる。
その(差)を埋めることは、容易ではない。
実際には、不可能。

 が、親にはそれがわからない。
わからないから、無理をする。
「やればできるはず」と。
少しでも成績があがったりすると、「もっと……」「さらに……」と、がんばる。
親の希望には際限がない。
この無理が、子どもを勉強から遠ざける。
遠ざけるだけならまだしも、そこで子どもをつぶしてしまう。

 だから「やってここまで」と思いなおす。
親としてはつらいところかもしれない。
それまでの人生観を、へし曲げるような衝撃を感ずる人もいる。
しかし「やってここまで」。

●結論

 私はこうした「失敗」(失敗という言葉には、少なからず抵抗を感ずるが、ほかに
適切な言葉がないので、「失敗」と書く)を、無数に見てきた。
が、この問題だけは、親自身が、自分で気がつくしかない。
それまでは、わからない。

 一方、私たちの世界には、『10%のニヒリズム』という言葉がある。
どこかの塾教師の人が、教えてくれた言葉である。
「どんなに子どもの教育に没頭しても、最後の10%は自分のために、残しておく」。
それを守らないと、時に、火傷(やけど)する。
さらに身も心も、ズタズタにされる。
予期しないトラブルに巻き込まれることもある。

 だから明らかに失敗するとわかっていても、黙る。
そっと見守る。

が、あえて言えば、もしあなたが今、子どもの勉強問題で悩んでいるなら、この
エッセーを何度も読み返してみてほしい。
読み返せば、今のあなたが抱えている問題に、解決の糸口を見つけるかもしれない。
そのために、このエッセーを書いた。

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争 受験競争 悪徳商法 悪徳教材 悪徳教材商法 教材の悪徳セールス)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【暗くて悲惨な話】

●「有料老人ホーム問題」→「国家経済問題」

+++++++++++++++++

この浜松市にも、有料老人ホームと
呼ばれるホームが、あちこちにできた。
入居時の入居費が、300万円前後。
月々の費用、20万円弱。
が、これでも安いほう。
都会地域では、入居費が、2000〜
3000万円。
月々の費用、30〜40万円とか。

ある雑誌が、有料老人ホームを特集
していた。
その中で、いくつかのモデルケースが
紹介されていた。

夫婦で、ともに元教師(公務員)のばあい、
年金が、合計で月70万円(35万x2)。
預貯金が、2億円。
ほかに土地が2か所など。
現在、年齢はともに74歳、とか。

この夫婦のばあい、有料老人ホームと
自宅の間を行き来しながら、それぞれの
生活を楽しんでいるという。

これからは、そういう「形」がふえてくるという。
つまり、ある程度元気なうちに、有料老人
ホームに入居する。
自宅と老人ホームの間を行き来しながら、
やがて常時介護が必要になるようになったら、
そのまま老人ホームで最期を迎える。

しかしそれにしても、老後も楽ではない。
お金がかかる。
有料老人ホームにしても、ピンからキリまである。
サービスの内容も、金額に応じて、もちろん、
ちがう。

+++++++++++++++++

●簡単な数学

 「お金があれば、老後も何とかなる」と考えている人は多い。
(もちろんお金がなければ、老後は、悲惨なものになるが・・・。)

 しかしものごとは、常識で考えてみよう。
簡単な数学である。

 この先、15年を待たずして、日本人のうち3人に1人は、高齢者になる。
言い換えると、1人の高齢者を支えるために、2人の働き手しかいないことに
なる。
(たった2人だぞ!)
その元教師(公務員)のばあい、夫婦2人で月70万円の年金を受け取っている。
たいへん恵まれた人たちだが、2人の働き手で、月70万円の支援するのは、不可能。
つまりその分だけ、そうした恩恵からはずされた人は、悲惨な老後を送ることに
なる。

たとえばこの私にしても、あるのは国民年金だけ。
夫婦2人で、計13万円弱。
その13万円弱で、どうやって老後を暮らすのか?
安いと言われる、この浜松市での有料老人ホームにさえ、入居することはできない。
そこに見えてくるのは、ぞっとするほど、悲惨な老後!

(これに対して、元公務員の人たちは、こう反論する。
「私たちは、納めた積立金を返してもらっているだけ」と。
しかしこれはウソ。
積立金そのものが、国の補助で補てんされている。
またこういう私の意見に対して、どうか怒らないでほしい。
こうした問題は、あなたの子ども、さらに孫の問題として考えてほしい。
仮に今のあなたはよくても、子どもの代、孫の代にはどうなるか。
そういう視点で考えてほしい。)

●息子や娘たち

 で、頼みの綱は、息子や娘たちということになる。
しかし息子や娘たちにしても、自分たちの生活で、精一杯。
経済的な余裕など、どこにもない。
内閣府の調査によっても、日本人の若者の大半(60〜70%)は、「経済的に
余裕があれば、(老後の)親のめんどうをみる」と答えている。
つまり、息子や娘たちは、アテにならない。

・・・だんだんと暗い話になってきた。
書いているだけで、イヤ〜ナ気分になってくる。
このエッセーを読んでいる、あなただってそうだろう。
しかしそこにある現実から、目をそらしてはいけない。
「何とかなる」などと考えていたら、それこそたいへんなことになる。

 そこで私たちに残された選択肢は、つぎの2つ。
(実際には、1つ。)

 それまでにじゅうぶんな貯金をしておくか、あるいは最後の最後まで働くか。
最後の最後まで働いて、ポックリと死ぬ。
どうやら私たちに残された道は、後者しかないようだ。
今の今でさえ、特別擁護老人ホームに入居するのは、たいへんむずかしい。
1年待ち、2年待ち・・・。
順番で言うなら、100番待ち、200番待ち・・・。
ほとんど寝たきり状態の老人ですら、入居がむずかしい。

●経済破綻

 このエッセーでは、「老後問題」を書くつもりだった。
最初は、そういうつもりだった。
しかしここでテーマを変える。
つまりこのままでは、日本経済は、確実に破綻する。
また破綻に向かって、すでにまっしぐらに進んでいる。
さらに言えば、一度破綻しないことには、この問題は解決しない。

 数日前、ギリシャの国家経済が破綻(デフォルト)した。
そのあおりを受けて、EU全体の経済がぐらついている。
が、国家の負債比率をみるかぎり、日本のほうがギリシャより、状況は、はるかに悪い。
日本がかろうじて国家破綻しないですんでいるのは、日本にはまだ産業力があるから。
それに日本は、外国には借金をしていない。
国債の持ち率にしても、外人の持ち率は、5%前後と言われている。
つまり日本は身内の借金で、何とかまかなっている。
加えて日本には、国有財産が、1000兆円近くある(・・・と言われている。
しかし実際には、それほどないのではないかと、最近疑いをもつ人がふえている。
たとえば国有林にしても、財産価値は、ほとんどない。)

 そこでアメリカは、日本の大黒柱である自動車産業に目をつけ、TOYOTAを
ねらいうちにしてきた?
・・・という話まで書き出すと、収拾がつかなくなるので、話を戻す。

 要するに、老人問題ひとつみても、日本経済の破綻は、確実に時間の問題。
1人ひとりの公務員の人に責任があるわけではない。
また私も、それぞれの公務員の人に、責任を求めているのではない。
ないが、国家税収(約40兆円)のうちの95%以上(38兆円)を、公務員の
人権費にあてている国は、そうはない。
実際には、ない!

日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
今の今もそうで、日本が民主主義国家と思っているのは、どこかのバカだけ。
その結果が「今」ということになる。
そしてさらに悪いことに、この「現実」は、一度、国家経済を破綻させないかぎり、
変らない。
つまりそこまで日本の国家財政は、悪化している!

 ギリシャでは、連日公務員たちによるストライキがつづいている。
給料が40%前後にまで減らされたとか。
が、40%前後なら、まだよいほう。
一般大衆は、収入がさらに減って、青息吐息。
日本もやがて、そうなる。
つまりそのツケは、組織も力もない、私たち一般民衆がかぶることになる。

●薄氷の上でダンス

 現在、世界中の国々が、我も我もと、札を印刷して、市中にどんどんとばらまいている。
08年のリーマンショック以来、この日本でも、ジャブジャブにばらまいている。
が、一向に円安に向かわない。
向かわないということは、それ以上に、世界中が札をばらまいているということ。

 韓国経済も中国経済も、現在、バブル状態。
土地の値段にしても、この数年だけで、7〜8倍前後に高騰している。

(7〜8倍という数字がどういうものかは、あなた自身が今住んでいる家の土地で考えて
みればわかるはず。
現在、私が住んでいる家の土地の売買価格は、坪30万円前後。
それが240万円になるに等しい。
あの日本のバブル経済のときですら、100万円が最高額だった。)

本来ならそれぞれの国の中央銀行が金利を引き上げ、札を印刷する輪転機を
止めなければならない。
が、それもできない。
止めた国から順に、奈落の底へと落ちていく。

 その1番手が、ギリシャ。
つづいてポルトガルとアイスランド。
スウェーデンもあぶない。
中国にしてもいつまでもつか、わからない。
中国がこければ、もちろん日本もこける。
世界中が今、薄い氷の上で、狂ったように踊りまくっている。

●ハイパーインフレ

 金(ゴールド)が暴騰しつづけている。
原油も、このところ上昇傾向にある。
アルミ、銅などの先物価格も、この数か月で、最高値を示しつつある。
簡単に言えば、ジャブジャブになったお金(マネー)が、現物に回り始めている。
「回る」というより、「逃避」と書くべきか。

 ただひとつはっきりしていることは、そのあと世界中を、ハイパーインフレが
襲ってくるということ。
やがてこの日本でも、ラーメン一杯が、2万円、3万円となる。
あるいはそうでもならないかぎり、今の「ジャブジャブ状態」は、解消されない。
が、これは予想でも予言でもない。
現実に今、そうなりつつある。

●結論
 
 「老後問題」を書いているうちに、いつの間にか「経済問題」になってしまった。
言うなれば、老後問題イコール、経済問題。
経済問題のひとつが、老後問題ということになる。
つまりあくまでも、老後問題は経済問題の一部分。

 冒頭にあげた、ある雑誌に載っていたモデルケース。
それを読んでいたとき、私は別の心で、「?」と思った。
その理由のひとつが、ここに書いた経済問題ということになる。

 けっしてそうなればよいと願っているのではない。
しかしこの日本でも、やがてすぐ公務員たちが、ストライキをするようになる。
給料を40%に減らされ、年金を半額にされた元公務員たちが・・・。
が、それ以上に、社会のどん底に叩き落とされるのが、私たち一般大衆ということに
なる。
そのことは今のギリシャの現状を見ればわかる。
ギリシャの現状は、そのまま日本の近未来図と考えてよい。

 では、どうするか。

 ここでも結論は、ただひとつ。
最後の最後まで懸命に働いて、そのときがきたら、ポックリと死ぬ。
ひとつだけ条件があるとするなら、「健康」。
何とか健康だけは、維持する。
最後の最後まで、維持する。
今の私たちに残された道は、もう、それしかない。

●補記

 ついでに一言。

 「最後の最後まで仕事をする」といっても、老人のばあい、そこに(生きがい)の
問題がからんでくる。
ほとんどの老人は、サラリーマン生活のむなしさを、いやというほど、知っている。
だから「仕事をする」といっても、退職前のようなサラリーマン生活では、満足できない。
できないばかりか、そこに絶望感すら覚える。
「もう、コリゴリ」と。

 そこで「働く」ということを、「生きがい」、さらに「収入」とどう結びつけていくか。
「収入」といっても、多大な期待をしているわけではない。
足りない分は、貯金で補う。
その程度の収入でよい。

私もこの年齢になってはじめてわかったことがある。
それは「遊んで暮らすこと」が、けっして理想の老後生活ではないということ。
またそんなことを繰りかえしていても、むなしいだけ。
「毎日、遊べ」と言われても、遊べるものではない。
若いときは、みなでよくこう言いあった。
「老後は、孫の世話と庭いじり。悠々自適の年金生活」と。
しかしそんな生活に、どんな意味があるというのか。
またそれが老人の魂の救済に、どれほど役に立つというのか。
はっきり言えば、バカげている。

 そこで再び、生きがい論。

 我ら老人組は、風に舞うようなささやかな希望であればよい。
それさえあれば、そこに夢を託し、クモの糸のような細い糸で、それを目的へと
つなげることができる。
ぜいたくは言わないし、言えない。
「ささやかな希望」でよい。
我ら老人組は、それにしがみついて生きる。

・・・とまあ、本当に暗い話になってしまった。
イヤーナ話になってしまった。
私もここまで暗い話を書くつもりは、なかった。
しかしここで重要なことは、ここを原点として、自分たちの未来を前向きに
考えるということ。
「今」が結論ということでもないし、ここで人生が終わるわけでもない。
私たちにはそれぞれ、やるべきことがある。
それをさがしながら、ともかくも前に向かって進む。 
とりあえず、その第一は、「健康」ということになる。
今日もこれから4キロ近くを、ランニングするつもり。
「つもり」ではなく、「する」。
午後は、浜松の凧揚げ祭りを、凧揚げ会場まで歩いて見に行く。
このつづきは、それが終わってから、また書きたい。

 5月3日月曜日、早朝。
みなさん、おはようございます。
ただ今の時刻は、午前6時50分。
ともかくも、今日も始まった。
がんばりましょう。
がんばるしかないのです!


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●4月29日(昭和の日)(改)

●歩き方

+++++++++++++++++++

毎朝、起きると同時に、ウォーキングマシンで、
運動をする。
それが1日の始まり。
が、今朝は、とりあえず、10分だけ。
気分があまりよくない。

そのウォーキングマシンを使うようになってから、
1年あまり。
「人の歩行」に興味をもつようになった。

若い人はともかくも、50代、60代の人に
ついては、歩き方を見ると、その人の
健康度を、おおよそ知ることができる。

+++++++++++++++++++++

●ウォーキングマシン

 歩き方にも、いろいろある。
いろいろあることを、ウォーキングマシンを使うようになってから、知った。
専門用語は知らないので、自分流の(用語)を使う。

 まず、私のようにO脚ぎみの人は、足の裏の外側(小指からかかとにかけての外側)
から地面に足をつける。
そのため、歩くとき、ペッタン、ペッタン・・・というような音がする。

 そこで歩き方を変える。
足の裏の内側(親指からかかとにかけての内側)から地面に足をつける。
とたんにスタスタ・・・という感じになる。

 つぎに大切なのは、大またで歩くこと。
大またで歩こうとすると、ウォーキングマシンの性質として、さらに足を後方へ、
ぐいぐいと引っ張ってくれる。
床が電動で回転している。
それが相乗効果となって、ますます大またで歩くようになる。

 で、こうして自分の歩き方を矯正しながら、20分も歩いていると、
背中の下部から上部にかけて、ジワーッと、血が上ってくるのがわかる。
東洋医学では「気」という。
それが首筋あたりまで、上ってくるのがわかる。
同時に、ぼんやりとした頭がすっきりしてくる。

 最後は軽くジョギング風に早足で歩いて、すます。
が、このときも、つま先で走るようにする。
ひざをできるだけ高くもちあげて走るようにする。
これを1〜2分するだけで、とたんにウォーキングが、有酸素運動に変わる。
ハーハーとあえぐようになる。
少し暖かい日だと、汗が上半身ににじみ出てくる。

●老人の歩き方

 で、私はこの半年ほど、通りで歩いている人を見かけると、その人を観察するように
なった。

 まず若くて健康な人だが、そういう人は、つま先を使って、ひざを高くあげて
歩いているのが、わかる。
反対に老人になればなるほど、足のかかとのほうを使って、足を引きずるように
して歩いているのが、わかる。
ひざもあがらない。

 さらに何らかの脳の病気をかかえている人は、それぞれ独特の歩き方をする。
たとえばP病の人は、足がもつれるような歩き方をする。
前かがみになって、小またで歩く。
脳梗塞の人は、片方の足を、腰の回転をうまく使って、前へ差し出すようにして歩く、
などなど。
腰痛もちの人は、腰痛をかばうような歩き方をするし、骨に異常のある人は、腰を
曲げて歩く。
またひざに故障がある人は、脚そのものが、外側に大きく歪曲する。
ヨタヨタした歩き方になる。

 だから……というわけでもないが、私はひとつの健康法を編み出した。
その第一。
大またで、足をまっすぐ前に差し出して歩く。
足をまっすぐ伸ばして歩くことも、大切。
あとはつま先をよく使い、軽くかかとをあげながら、歩く。
(つま先で歩いていると、アキレス腱の上部のふくらはぎがあとで痛むこともあるが、
それはよい徴候とみる。)
さらにひざを高くあげながら、歩く。
また私のようにO脚気味の人は、足の内側から地面につけるようにし、左右のひざを
できるだけ近づけて歩くとよい。

 ……以上のことを、日常的に心がける。
それがウォーキングマシンを使って学んだ、歩き方の健康法ということになる。
なお、近く、乗馬マシンというのも買うつもり。
ときどき近くのショッピングセンターで試乗させてもらっている。
あれはたしかに腰の運動になる。
それを昨日、自分なりに確認した。

 老化は、腰とひざからやってくる。
腰やひざが痛くなってからでは、遅い。
まだ健康なうちから、予防に心がる。

●不気味な足音

 昨日、ギリシアの国家経済が破綻した。
つづいてポルトガル、アイスランドもあぶない。
EU全体も、大きくぐらついている。
しかし忘れてならないのは、この日本もあぶないということ。
「2011年度の予算は成り立たなくなるのでは?」と危惧されている。
この日本は、国家税収(40兆円前後)の大半(38兆円前後)を、公務員の人件費に
投入している。
そのほかの必要経費は、すべて借金。
「国債」という借金で、まかなっている。
こんなメチャメチャな財政運営をしている国は、そうはない。

 が、もし国債が売れなくなったら……つまりお金を貸してくれる人がいなく
なったら、日本は、そのとたん、破産。
予算そのものが、成り立たなくなる。

 それを避けるためには、内需を拡大して、日本経済を活性化させる。
簡単に言えば、みながもっているタンス預金を引き出して、それを市中へ流す。
が、あらゆる指標が、悪いほうへ、悪いほうへと向っている。
日本の国際的格付けも、そのつど、下方修正されている。

 中国のバブル経済もひどいが、韓国のバブル経済も、ひどい。
日本も今、ミニバブルから中型バブルへと向っている。
つまり世界中の国々が、お金をバラまいている。
が、こんなことをつづけていたら、それこそ、世界は、おしまい。
いつか……といっても、その時期はすぐそこまで迫ってきているが、世界経済は、
まとめて破綻する。
世界中の札束が、紙くずと化す。

 どうしたらよいのだろう……?

要するに、個人資産は、私たち個人が守るしかない。
方法については、ここには書けないが、大衆に迎合し、いっしょになって
ザザーッ、ザザーッと動いていたら、そのまま奈落の底に。
08年末のリーマンショックで、金融資産を、100分の1程度にしてしまった
人さえいる。
その人は、1億円の金融資産を、100万円にしてしまった!

 こわいぞ!
今度の嵐は!
中国のバブル経済がはじけたら、ドバイショックの1000倍の威力があるとか
(某経済誌)。
「1000倍」と言われてもピンとこないが、そのあと世界は、未曾有の大恐慌へ
と突入する。
(2010・4・29記)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2010++++++はやし浩司

●生物の「多様性」

(新・進化推論・仮説)

++++++++++++++++++++++

生物は、形質(形態、機能、成分)が似たものどうし、
分けられ、体系づける分類方式がとられている。
これを自然体系(自然分類)という。

「分類階級」は、上位のものから、

「界(かい)」
「門(もん)」
「綱(こう)」
「目(もく)」
「科(か)」
「属(ぞく)」
「種(しゅ)」の順になる。

分類階級が上のものほど、より広い共通点や相違点で
より分けられる。
「種」は生物分類上の基本的な単位で、
通常は、同じ種の個体間でしか繁殖しない。

一方、同じ種でも分布する地域により
色や形に違いがみられ、地域間で異なる
集団と認められる場合、これらを「亜種」という。
(例えば、「ニホンザル」という種に対して、
「ヤクシマザル」は亜種)。
亜種の中で最初に学会に登録されたものを、
「基亜種」という。
(以上、参考、EICネット)

たとえば私たち人間、つまりヒトは、つぎのように
分類される。

「界(かい)」……動物界
「門(もん)」……脊椎動物
「綱(こう)」……哺乳綱
「目(もく)」……サル目
「科(か)」 ……ヒト科
「属(ぞく)」……ヒト属
「種(しゅ)」……サピエンス

「界」より上に、「ドメイン」というのもある。
ヒトは、「真核生物」に分類される。
これに対して大腸菌などは、「細菌」に分類される。

+++++++++++++++++++++

●名倉智道先生からのメール

 昨日、名倉智道先生(浜松市湖西市在住)から、こんなメールが届いた。
先生は、シダ植物の研究家としても、知られている。

「はやし 浩司 様
 
爽やかで、よい気候となりました。
ここ何日かシダを探して歩いています。歩くといっても1株1株じっくり見るので、とて
も歩くなんて言えたものではありません。まだ新葉の展開中で柔らかく、標本には向かな
い種類がたくさんあります。
 
気合いを入れて探しているのはイノデという仲間の雑種です。
イノデは「猪の手」が語源で、葉の根元の部分・葉柄に毛のような鱗片というものが沢山
あって、イノシシの手のようだからと名付けられたのです。
 
このイノデ属は雑種を作りやすいのか多くの雑種が確認されています。今回探しているの
はミウライノデとオオタニイノデです。それぞれの親となるアスカイノデとアイアスカイ
ノデ、それにこの地域では一般的なイノデの3種類が同じ谷間に生育していることは分か
りました。それらを片親とする雑種の存在の可能性が考えられますから、これぞと思う株
をしらみつぶしにあたって見ているのです。雑種は両親種の特徴を併せ持っているので、
検索表などでははっきりと違いが示されています。現物もどちらかなあと迷うタイプは雑
種である可能性を秘めています。
 
アスカイノデ   × アイアスカイノデ  =  オオタニイノデ
アスカイノデ   × イノデ        =  ミウライノデ
アイアスカイノデ × イノデ      =  ドウリョウイノデ
 
 
ところが、経験の少ない小生にはあれもこれも同じように見えたり違うように見えたり、
なかなか判断できません。いきおい沢山の標本を採集することになってしまいます。

 
1970年代、伊豆で採集した標本まで引っ張り出して「ウンウン」うなりながら見比べ
ています。
昨日は、田原市の百々(どうどう)海岸の谷間へも行ってみました。ここに先に挙げた種
類の混生地だと教えてもらっていたからです。ここでじっくり観察すれば分かるようにな
るはず、そう考えたのです。しかし、現実はそうは甘くありませんでした。
やはり、あれかこれかと迷うばかりなのです。
 
伊豆の標本、百々海岸の標本をもとに雄踏の採集品を見てみるとオオタニイノデか?と考
えられる株が含まれています。小生の知っているドウリョウイノデという雑種のほかに新
たに記録を加えることができたかも知れません。いずれ分類の専門家に標本を送って同定
してもらうつもりで、結果はそれから先ということになります。
 
雑種の難しさは、両親種の形質をきっぱり半分ずつを受け継いでいるのではなく、片親か
らもう片方へと移行していることです。人間でも父親似と言えばそうだよなあと感じても
やっぱり母親に似ているところはある、というようなことです。両親から少しずつその形
質をもらっているのですから当然のことです。
 
探す楽しみはもちろんです。加えて、そうしている間は他のことを全く忘れていること、
気分転換には欠かせません。
 
近況をお伝えしました。   名倉智道」

●生物の多様性

 私はこれを読んだとき、生物の「多様性」に、改めて驚いた。
「多様性」というのは、進化の過程で、分化と進化を重ね、多様な生物になって
いくという、生物本来の「特質」をいう。
もちろん個体としての特定性を確保し、環境に適応していくためである。

 たとえば海の中には、私たち人間が想像もつかないような生物がいる。
たとえば地上の動物を例にあげてみると、目が口の下についていたり、
耳が顔の真ん中についていたりする、など。
現実にそういう生物がいるというのではない。
それくらい奇想天外な生物がいるということ。
それを「生物の多様性」という。

 が、何も海の生物だけではない。
陸上の生物、しかも植物の中にも、こうした多様性をもった生物がいる。
それがシダ植物ということになる。

 もっとも、「植物」の種類そのものは、多い。
多いが、「歴史※1」「分化の過程がわかっている」「分類学が進んでいる」という
点では、シダ植物にかなうものはない。
シダ植物は、この地球に「緑」が芽生え始めたことから、存在する。

(注※1)
陸上植物の中ではコケ植物がまず現れ、苔類、蘚類、ツノゴケ類の順に古い起源を持つ。
維管束植物は、ツノゴケ類と同一の起源から進化してきたと考えられる(以上、
ウィキペディア百科事典より)。

●シダ植物

 シダ植物(真葉シダ植物)の「科」「属」については、現在、
つぎのように分類されている。

(表は、HPのほうに収録。
BLOG、メールのほうでは、ハナヤスリ科のみを例とあげて、
あとは省略。

(科)              (属)
ハナヤスリ科          ハナワラビ属
                ミヤコジマハナワラビ属
                ハナヤスリ属

(以下、30種以上の「科(か)」および100種類の「属」に分類。)
   
●真葉シダ植物
●多様な植物

 わかりやすく言えば、「種類(種ではない)」の豊富さもさることながら、
特異な生活形態をもっているものも多いということ。

 たとえば、マツバラン類は、ほぼ全体が茎のみからなり、根も、葉もない、
構造は茎だけで、葉がなく、地中に向かって伸び、その「上に」、根を生ずるもの
もあるという(担根体)。
しかもクラマゴケ類では、根に見える根をもつが、ミズニラ類では、短くつまった
形であるという。
さらに、茎が「限定成長」し、その上に、「胞子葉と栄養葉」をつけるものもあると
いう。

 これだけでも私たちがもっている植物観をひっくり返すには、じゅうぶんである。
(参考:ウィキペディア百科事典)

●仮説

 そこで私のもった仮説というのは、こうだ。

あるひとつの生物が、ひとつの「目(もく)」から、10の「科(か)」に進化、
分化したとする。 
さらにひとつの「科(か)」から、10の「属(ぞく)」に進化、分化したとする。
で最終的に、ひとつの「属(ぞく)」から、10の「種(しゅ)」に進化、分化した
とする。

 これを短冊様に並べると、つぎのようになる。

1つの目(もく)→10の「科(か)」→100の「属」→1000の「種」。

 実際には、数字がこれほど単純に表されるわけではない。
あくまでも仮定として、そう考える。

 で、現在、シダ植物に、100の属があり、1000の種があったと仮定する。
その「100」という数字と、「1000」という数字で、シダ植物の「歴史」を
割ってみる。

(植物の起源は、古生代オルドビス紀〜デボン紀までさかのぼることができる。
そのころ世界最古の陸上植物の化石が見つかっている。
シダ植物が地上に現われるのは、そのつぎの「石炭紀」ということになる。
このころ、初期の木本性植物、前裸子植物が地上に現われる。)

 石炭紀というのは、古生代の後半、デボン紀のあと、ペルム紀までの間をいう。
年代的には、3億6700万年前から、2億8900万年前までに当たる。
このころ、昆虫や両生類が誕生し、つづいて爬虫類も誕生した。

 平均して、「3億年」とする。
(おおざっぱな数字で、ごめん。)

 その3億年を、100で割ると、「属(ぞく)」は、300万年ごとに進化、分化し、
「種(しゅ)」は、30万年ごとに進化、分化するということになる。
つまりこの方法を使えば、進化、分化の過程を、「定数的」に、表示することが
できるようになる。

シダ植物には、その「歴史」があり、また私が知るかぎり、シダ植物ほど、分類学の
進んだ植物は、ほかにない。
シダ植物には、そういう「秘密」と、「秘密を解く鍵」が隠されている。
一説によるとあのダーウィンですら、「忌まわしい植物」と呼んで、シダ植物には、
手をつけなかったという。
あまりにも複雑に分化しているからである。

●あくまでも仮説

 もちろんこれはひとつの仮説であり、仮にシダ植物については正当性をもったとしても、
ほかの植物は、またべつの定数が算出されるかもしれない。
さらに「植物」と「動物」はちがう。

しかし「進化」「分化」が、すでにDNAレベルで予定されたものであるとするなら、
「定数」で表示されても、何ら、おかしくない。
また「突然変異」という言葉もあるように、何らかの外的な影響がDNAレベルに影響を
もたらすということも考えられる。
そうした変数はあるが、それとて「数値化」することは、不可能でない。
それを「変異指数」という。

 つまり生物の多様性と、進化の過程を、「数字」として、公式化することができる。
またそれができると、逆に計算して、生物の未来的進化と分化を、予想することができる。
さらに応用すれば、未知の生物を、公式に従って探し出すことも可能になる。
(もちろん絶滅したものも、あるだろうが……。)

地球規模で、探し出すことも可能になるし、地域規模で、探し出すことも可能になる。
さらに近年のコンピュータ・アルゴリズムを使えば、新種そのものを、コンピュータ上で、
再現することもできる。
(もちろん絶滅したシダ植物を、再現して示すことも可能になる。)

●モンタージュ写真付きの捜索

 名倉智道先生は、そうしたシダ植物の新種の発見に努力している。
が、それはある意味で、地図のない宝探しのようなもの。
が、この公式と定数がわかれば、どの地域に、どの程度の数の未発見のシダ植物があるか、
おおよその見当をつけることができる。

 もちろんそのためには、基礎となるデータが必要である。
「種(しゅ)」「属(ぞく)」「科(か)」「目(もく)」……の、正確な数字がわかればよい。

 つぎにそれぞれのシダ植物の特徴を、できるだけ細かく、短冊化して並べる。
それをコンピュータ・アルゴリズムを使えば、いわゆるミッシングリンクとなっている
シダ植物を、コンピュータ上で、再現できる。
あとは、その再現されたシダ植物を、統計学的な手法を使って、探し出せばよい。
たとえば「A大陸のB地方には、B1種と、B3種のシダ植物が見つかっている。
その間のB2種もあるはず」と。

 つまり地図のない宝探しから、地図と、それにモンタージュ写真付きの情報をもとに、
新種のシダ植物を発見することができる。

 実に突飛もない仮説かもしれないが、名倉智道先生からのメールを読んだとき、
私はそれを真っ先に思いついた。
言うまでもなく、生物のもつ「多様性」は無限であり、それぞれの「種(しゅ)」は、
連続した「リンク」でつながっている。

 ところでもう20年ほども前のことだろうか。
恩師の田丸謙二先生は、私にこう教えてくれた。
「遺伝子工学が、ここまで進歩するとは、思ってもみませんでした」と。
田丸先生が、東大の理学部長をしていたころの時代と比べると、という意味である。
その遺伝子工学を使えば、ミッシングリンクとして、今は絶滅したシダ植物を、
現実の植物として、再出現させることもできるようになるかもしれない。
もっともそこまでできるようになると、おもしろいというよりは、こわい。
それにひょっとしたら、「楽しさ」という点では、地図のない宝探しのほうが、
おもしろいかもしれない。
時間はかかるが、そこにロマンを覚える。

名倉智道先生は、毎週のように、その宝探しを楽しんでいる。

(補記)

名倉智道先生へ、

 以上、この道のド素人が思いつくまま、仮説を立ててみました。
どうか笑わないでください。
しかしいつか本当に、「変異指数」のようなものが、見つかるかもしれませんね。
(あるいはそれよりも先に、人間が人工的に変異種を作り出してしまうかも
しれません。)

 しかしその一方で、生物のもつ多様性が、人間の手で破壊されつつあるというのも、
悲しいことです。
たまたま昨日ですが、夕刊にこんな記事が載っていました。

「生物多様性・国際目標、達成できず」(中日新聞・4月30日)と。

「国連などの科学者の分析によると、個体数の減少が続いている」というのです。
いわく「自然保護区の拡大は進んでいるが、生物種の個体数の減少や、外来種の
増加傾向に歯止めがかからず、『2010年までに生物多様性の損失速度を顕著に
減少させる』との国際目標は、達成できなかったとの分析を、国際環境計画
(UNEP)などの科学者チームがまとめ、アメリカ科学誌サイエンスに30日、
発表した」と。

「・・・生物多様性への圧力に関する、5指標すべてが、悪化傾向で、「生物多様性
の損失が穏やかになる傾向は認められないと結論づけた」とも。

 シダ植物という目立たない植物であるだけに、先生たちのご努力が、しっかりと
実を結ぶことを願ってやみません。
生物の多様性が失われるということは、即、生物体系の崩壊を意味します。

 では、おやすみなさい。
今夜は、ボケ防止のため、劇場で、『ウルフマン』という、まったくナンセンスな
映画を観てきました。
週に1、2度は、劇場に足を運び、脳みそを刺激しています。
観たいとか観たくないとか、そういう選択はしていません。
先週は、『不思議な国のアリス』とか、『タイタンの戦い』とか、途中で眠くなる
ような映画を、がんばって観てきました。

 ついでに星評価をするなら、
『不思議な国のアリス』・・・★★
『タイタンの戦い』  ・・・★★
『ウルフマン』    ・・・★★

 制作技術にはものすごいものがありますが、どれもパッとしません。
あくまでもボケ防止用です。

 おやすみなさい。

 はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 シダ植物 種 属 科 目 仮説 進化仮説 新進化論 生物 多様
性 進化の定数化 進化定数 進化の公式 公式化)

【NG先生から、はやし浩司へ】

はやし浩司 様
 
おはようございます。
生物多様性の原稿興味深く拝読いたしました。
先生のように自分で考えるということをほとんどしない小生にとっては大変刺激的な内容
でした。
 
学生のころ「花はなぜ咲くのか?」という植物学上の大きな課題が話題となっていました。
当時はフロリゲンなど開花に作用する物質の研究に関心も多く集まっていたものです。
昆虫では、「蛹から蝶へ」という変化の過程も関心事の一つでした。
 
こうした一つ一つの事象から生物全体をとらえて論議するようになり、現在では種の分化
に関心が集まっているようです。研究技法としても光学顕微鏡から電子顕微鏡へ、染色体
からDNAへと飛躍的に深化し、ゲノムを語らずに生物のことを語ることができないよう
な状況になってきています。素人には手も足もでない世界となりつつあります。
 
現に、シダ植物の分類体系も変わりはじめています。これまでの分類表のうちのイノモト
ソウ科だけをとっても新しい説に取って代わろうとしています。
 誤解を恐れず申し上げると「イノモトソウ科」「ホウライシダ科」「シシラン科」に分け
られていたシダ類は一つの系統樹で説明できるようになったというようなことです。
 
先日、国立科学博物館筑波実験園の主任研究員の方に同行して田原(29日に行った同じ場
所)などを歩きました。その折、ゲノムの解析が進んでコケシノブ類も大きく書き換えら
れたたと聞きました。その研究を行った研究員に現物を同定してもらえば完璧のように思
えるのですが、実は「見た目だけだは100%同定することは難しい」というのです。研
究者ですら肉眼での同定は困難な時代となって、ゲノムに頼らねばならないのだそうです。
 
これまでに刊行されている図鑑は、名前を調べるだけならいざ知らず、学名まで必要な人
たちにはすでに役にたたなくなってきているようです。
 
この先、ゲノム解析が一段落すると、いよいよ分化についての研究が本格化するのでしょ
うか。なぜ、その姿にならなくてはいけなかったのか、地域による変異の問題など興味は
尽きません。しかし、素人が趣味で取り組むには高度になりすぎてしまいます。

NG


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ゲーム脳(ゲーム中毒)

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この日本では、どうして「ゲーム脳」が
問題にならないのか。
「ゲーム脳」という言葉が悪いなら、
「ゲーム中毒」でもよい。

隣の韓国では、すでに10年以上も前から、
また最近では中国でも、「ゲーム中毒」の
若者たちが、問題になりつつある。
ゲーム中毒の子ども(若者も)を集めた
更正施設や、更正プログラムまで、用意
されている※。

が、この日本では、問題にならない。
「ゲーム脳」という言葉を使って、エッセーを
書いただけで、猛烈な抗議に嵐にさらされる。
ゲームの世界そのものが、カルト化している。
ゲームに日夜夢中になっている子ども(若者)は、
まさにその信者ということになる。

(ためしに、「はやし浩司」で検索してみるとよい。
私を、口汚く中傷しているサイトやBLOGがある。
そのほとんどが、ここでいう「信者」たちである。
私が書いた『ポケモンカルト』(三一書房)などは、
出版してから11年になるが、いまだに叩かれつづ
けている!)

が、日本人だけが特別ということは、ありえない。
日本人の脳みそだけが、韓国人や中国人と、構造が
ちがうということは、ありえない。
今の今も、この日本には、ゲーム中毒の子ども(若者)は、
いる。
日に、何時間も何時間も、ゲームに夢中になっている。
真夜中でも、ゲームに夢中になっている。
が、日本では、そういう子ども(若者)が、どういうわけか、
問題にならない。
考えてみれば、これほどおかしな話はない。

ここでは、別の角度から、「ゲーム脳」について
考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++++

●まねる(観察学習)

 発達心理学の世界には、「観察学習」という言葉がある。
子どもは、教えられて学ぶことよりも、まわりを観察しながら、自ら学ぶことの
ほうが多い。
量的に、はるかに多い。
「学習効果」ということを考えるなら、またそのほうがはるかに効果的。

 たとえば以前、何かにつけ、ツッパリ始めた子ども(小5男児)がいた。
言動が粗野になり、独特の目つきで、独特の話し方で話すようになった。
「ウッセー」「コノヤロー」と。
紫の地に、金色の刺繍をほどこしたコートを着てきたこともあった。

 で、その子どもを、高校生の受験クラスに入れてみた。
高校生の間に座らせて、好きな勉強をさせてみた。
最初は、体をかたくしていたが、週を追うごとに、ぐんぐんと変化していった。
あとで聞いたら、高校生の中の1人を、自分の理想像のように思いようになったらしい。
その高校生は、野球部の部員だった。

その子どもは、日曜日など、こっそりとその試合の応援に出かけたりしていた。
家に帰っても、その高校生の話ばかりするようになった。

 これは観察学習というわけではないが、その子どもは、まわりの様子から、
多くのものを学んだことになる。
それは「学ぶ」という行為というよりは、「まねる」に近い。
その「まねる」という行為を、「モデリング」という。

●自己認識能力

 ものごとは常識で考えよう。
まだ判断力や自己管理能力がじゅうぶん育っていない子どもが、ゲームを相手に、
「殺せ!」「やっつけろ!」と叫んで、心によい影響を与えるはずがない。
こんな実験が知られている。

 ある一定時間、暴力映画を見せた子どもは、その直後、行動が暴力的になるという
(バンデュラ、ほか)。
多くの研究者が、同じような実験結果を報告しているので、今さら改めて説明する
までもない。
つまり子どもというのは、そのつど環境の中で、自分を作っていく。
作られていく。
それもそのはず。

 子どもが現実検証能力、つまり自分、あるいは自分と他者との関係、さらには自分の
置かれた立場を、客観的に判断できるようになるのは、小学3年生(9歳)以上。
それ以前の子どもには、その能力はない。
たとえば病院や図書館で騒いでいる幼児がいる。
そういう幼児に向かって、「静かにしなさい!」と叱っても、意味はない。
「騒いでいる」「迷惑をかけている」という意識そのものがない。
そういう行為がどういうものかさえ、わかっていない。
叱られたあと静かになるのは、こわいからそうしているだけ。

 つまり小学3年生(9歳)以前の子どもに、その判断能力はない。
判断能力がないというよりは、思考力が未熟。
だからこの時期の子どもは、理性や知性を使って「学ぶ」ことよりも、周囲を
観察し、それを「まねる」ことによって、自分の思考パターンや行動パターンを
形成していく。
それがモデリングということになる。

●疑わしきは罰する

 法律の世界では、『疑わしきは罰せず』という。
が、教育の世界では、『疑わしきは罰する』という。
なんでもあやしいものは、先手先手で、子どもの世界から遠ざける。
安全性が確認されるまで待っていたら、それこそ手遅れになってしまう。

 ゲームにしても、しかり。
もちろん中には、良質なソフトもある。
そういうものまで、ひとまとめにして、「反対!」と、私は言っているわけではない。
しかし良質なソフトにまぎれて、悪質なソフトがあるのも事実。
そういう悪質なソフトまで野放しにしては、いけない。
有害とは証明できないかもしれない。
しかし少なくとも、安全と証明されたわけでもない。
だったら、遠ざける。
それくらいの配慮というか、子どもの世界に対する思いやりは、あって当然の
ことではないか。

……と私は書いている。

●付記

 あるBLOGには、こうあった。
「(右脳教育を創始者の)SDも、(ゲームを批判する)はやし浩司も、
同じようなもの。
一度、この2人を、バトルさせてみたい」と。

 SD氏(2009年死去)は、ゲームは、右脳の刺激になると説いていた。
そのSD氏と私も、同じ、と。
しかし(右脳教育)と(ゲーム脳)とは、どこでどう結びつくのか。
その右脳教育にしても、安全が確認されたわけではない。
むしろ幼児期においては、左脳教育(論理と分析)こそ、重要。
そうでなくても、映像文化に発達とともに、あえて右脳を刺激しなくても、
子どもたちは、じゅうぶん過ぎるほどの刺激を受けている。
反対に、今、静かにものを考える子どもが少なくなった。

頭に飛来した情報を、ペラペラと口にする。
しかし中身がない。
薄っぺらい。
子どもたちの世界が、バラエティ番組化している。
「これでいいのか!」と叫んだところで、この話はおしまい。

【補記】

 私は、右脳教育には、懐疑的である。
10年以上も前から、そういう趣旨で、原稿を書いてきた。
その気持ちは、いささかもゆらいでいない。
「まちがっている」と言っているのではない。
「あえて必要ない」と言っている。
フォト化とか、直観像とか、いろいろ言われているが、安全が確認された
わけではない。
ある幼児教室の案内書には、こうあった。

「これからは、右脳教育を受けた子どもたちが、ゾロゾロと(東大の)
赤門をくぐることになるでしょう」と。

それから10年。
そろそろその結果が出ているはず。
もしSD氏とバトルするようなことがあれば、(天国なら天国でもよいが)、まず
そのあたりの資料を出してもらうところから始めたい。

(注※)

●ゲーム脳

+++++++++++++++++

「ゲーム脳」というのは、大脳生理学上の
問題ではない。
「現象」の問題である。
「大脳生理学上、ゲーム脳というのはない」と
説く学者もいる。
その世界では神格化され、「つぎつぎと商品企画
が、もちこまれている」(某雑誌)とか。

結構な話だが、こういう学者は、つぎのような
現象を、どう考えるのだろうか。
産経新聞をそのまま転載させてもらう。

+++++++++++++以下、産経新聞より++++++++++++++

【産経新聞・10−02−08】

『・・・世界最大となる3億3800万人のインターネット人口を抱える中国で、240
0万人の青少年がオンラインゲームやチャットにのめり込む(ネット中毒)に陥っている。
中国青少年インターネット協会が8日までに発表した調査結果で明らかになった。 

 中国のネット人口のうち3分の1は、19歳以下の青少年が占めている。6〜29歳の
青少年7千人を対象に行われた調査結果によると、ネットに依存している青少年は200
7年の9・7%から14%に増加。「ネット中毒」が社会問題化し始めた05年ごろは40
0万人程度で、4年間で6倍に増えた計算だ。娯楽の少ない発展が遅れている地域に中毒
者が多いことも、特徴の一つに挙げられている。

 中毒を誘因している一番の原因はオンラインゲームだ。「ネットを通じて何をしている
か?」との問いに対し、47・9%が「ゲーム」と回答。2位の「アニメや映画、音楽の
ダウンロード」の23・2%、3位の「チャットで友達を作る」の13・2%を大きく引
き離した。

 中国では08年11月、人民解放軍北京軍区総医院が策定した「ネット中毒臨床診断基
準」を公表し、ネット中毒を「繰り返しネットを使用することで一種の精神障害をきたし
た状態」と定義付けた。今回の調査でも、ネット中毒になっていない人の66・5%は「他
人を殴るのは間違っている」と答えたのに対し、中毒者は48%にとどまった。

 国際情報紙、環球時報(英語版)によると、中国青少年精神保健センターの創設者は「ネ
ット中毒者の40%は、(不注意や衝動的な症状などが出る)注意欠陥・多動性障害といっ
た精神疾患にかかっている」と警鐘を鳴らしている』(以上、産経新聞)。

+++++++++++++以上、産経新聞より++++++++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ゲーム脳 中国の現状 ゲーム中毒 ネット中毒者 障害 中国のネ
ット中毒者 ゲーム 疑わしきは罰する)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自己評価と現実検証能力(見舞い論)

+++++++++++++++++

「自分」を客観的に評価するのはむずかしい。
「自分」と「他者」との関係を、客観的に
評価するのは、むずかしい。
さらに「自分」が置かれた立場を、客観的に
評価するのは、むずかしい。

+++++++++++++++++

●自己評価力

 「自分」をどう見るか。
どう判断するか。
それが「自己評価」ということになる。
「私はすぐれた人間」と思うのも、また反対に、「私はつまらない人間」と思うのも、
自己評価のなせるワザということになる。

 子どもの世界では、自己評価の高い子どもほど、よく伸びる。
わかりやすく言えば、ややうぬぼれ気味の子どものほうが、よく伸びる。
「私はできる!」という自信が、子どもを前向きに引っ張っていく。
(あまりうぬぼれすぎるのも、よくないが……。)

 この自己評価の基本となるのが、現実検証能力。
まず現実の「自分」を知る。
それが自分を評価する、第一歩ということになる。

●現実検証能力

 一方、「自分」というものを、客観的に検証する能力を、「現実検証能力」という。
これには、

(1)自分を客観的に検証する。
(2)自分と他者との関係を客観的に検証する。
(3)自分の置かれた立場を客観的に検証する、の3つが含まれる。

(3)の「立場」には、現在の立場と未来の立場がある。
「今、自分はどういう立場に置かれているか」
「将来、自分はどのような立場に置かれるか」
……それを客観的に検証する。
(「過去の立場」もあるが、すんだことを、とやかく悩んだところで、しかたない。)

 「あの人は、自分のことが、まるでわかっていない」というときの、「あの人」は、
それだけ現実検証能力の劣っている人ということになる。
たとえば現在(2010・4・28)の、民主党の小沢幹事長。

 検察審議会が「起訴相当」と判断したにもかかわらず、「職務をまっとうする」などと、
トンチンカンなことを平然と述べている。
いわく、「私といたしましては、意外な結果で驚いておるところでございます。私自身、何
もやましいこともありませんので、与えられた職務を淡々と全力でこなしていくというこ
とに尽きると」(TBS、iニュース)と。

●程度の問題

 とは言っても、「自分」を知ることはむずかしい。
程度の問題ということになるが、「自分」を知れば知るほど、自分がわからなくなる。
ひとつの例として、すばらしい肩書きをもった、1人の男性を想定してみる。

彼は、大会社の部長という肩書きを背負っていた。
彼は部下からも、また取引先の人たちからも、一目、置かれていた。
盆暮れには、山のようなつけ届けが届き、年に数回は、家族と海外旅行を楽しんでいた。

 そこでその男性は、「私はすばらしい人間」と思うようになった。
「すばらしい人間だから、それにふさわしい生活をしているだけ」と。

 が、それから10数年後。
その男性は退職する。
現在は年金生活。
企業年金も含めて、50万円弱の年金がある。
生活には困らない。
しかし今、その男性は、だれからも相手にされない。

 こういうケースのばあい、その男性に、現実検証能力を期待することはできるだろうか。
が、私が知るかぎり、それはたいへんむずかしい。
ある女性(60歳)は、こう言った。
「私の兄がそうですが、いまだに威張っています。
自分を軽んじる人がいたりすると、ものすごく怒ります」と。

 みながその人に頭をさげたのは、その人がそれだけすばらしかったからではない。
その人の「肩書き」に頭をさげた。
現実検証能力のある人には、それがわかる。
しかしそれがない人には、それがわからない。

●謙虚になる

 要するに「程度の問題」ということになる。
「自分のことは、私がいちばんよく知っている」と言う人ほど、意外と自分のこと
を知らない。
反対に「自分がよくわからない」と思っている人ほど、意外と自分のことを、
よく知っている。

 わかりやすく言えば、「謙虚になる」ということ。
『謙虚さこそ、自分を知る最大の武器』ということになる。
たとえばMさん(65歳、女性)は、ことあるごとに、「私はだまされた」と
言いつづけている。
「私は兄に、親の財産をすべて奪われました」と。

 しかしそういうMさんだが、自分の小ずるさには、気がついていない。
それまで、さんざん、小ずるいことを重ねてきた。
小ずるく生きることが、Mさんの処世術にもなっていた。
親の葬儀のときも、なんだかんだと理由にもならない理由を並べて、1円も、葬儀費用を
負担しなかった。
実際には、親がタンス預金としてもっていた現金を、すべて自分のものにしている。
そういうことを棚にあげて、「私はだまされた」は、ない。

●では、どうするか

 「自分」を知るためには、まわりにいる「相手」が、自分をどう思っているか、
それを冷静に想像してみる。
配偶者でもよい。
子どもでもよい。
親でもよい。
友人でも、親類でもよい。
そういう人たちを、1人1人、頭の中で思い浮かべながら、「自分」をどう見ているか、と。
相手の視点の中に、自分を置くという方法もある。
相手の目を通して、自分を見る。

 その結果として、「自分」が、そこに浮かんでくる。
かなりの空想力と想像力が必要となるが、裏を返していうと、自己中心的な人というのは、
その空想力と想像力のとぼしい人ということになる。
他者から見た自分が想像できないから、自分勝手なことを繰り返す。

たとえば「見舞い」。
病気の人を見舞うときは、相手の気持ち、相手の気持ちがわからないときは、介護する
家族の気持ちを確かめてからする。
それが、常識。
いきなり押しかけて行って、「見舞いに来ました」は、ない。
相手によっては、見舞いに来られた人は、それを苦痛にすら思うことがある。

●今日の目標

 今日は4月28日。
今日の目標ができた。
私はそのつど、相手の視点の中に自分を置いてみる。
そしてその人から、自分がどう見えるかを想像しながら、自分を見つめてみる。
これから朝食だから、とりあえず、私のワイフの中に、自分を置いてみる。
どう見えるだろうか?
どんな姿に見えるだろうか?

 少し楽しみ?
少しこわい?
この結果は、また明日にでも、報告の形で、書いてみたい。

 最後に一言。

民主党の小沢さん、もうやめなさい!
今となっては手遅れかもしれないが、もうこれ以上、民主党をどん底から、さらに
どん底へ落とす必要はないでしょ。
あなたは権力の座に溺れるあまり、現実検証能力、つまり自分を見失ってしまった。
その姿は、醜いというより、醜悪。
ぞっとするほど、醜悪。
一度でよいから、私たちの目の中に自分を置いて、自分の姿を見てみてみたらいい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 自分 現実検証能力 自己評価力 私探し 自分探し 自分を知る 
己を知る 民主党 小沢幹事長 小沢一郎 小沢一郎幹事長)

【補記】

●自分が見えない人たち

 私の知人の中には、退職してもう10年以上もなるのに、いまだに退職前の
肩書きを背負って生きている人がいる。
一見すると腰が低く、ヘラヘラしているが、しかしそれは演技。
人に軽く扱われたりすると、とたんに不機嫌になったりする。
つまり、まるで自分のことがわかっていない。

 その知人だが、親類に入院者が出たりすると、足軽く見舞いに行ったりする。
「自分が行けば、相手は喜ぶはず」と考えて、(あるいは何も考えないで)、
そうする。
が、来られたほうこそ、えらい迷惑。
中には、自分の無様な姿を、人に見せたくない人もいる。
あの故・山城新吾について書いた原稿を思い出した。
まだ母が生きていたころに書いた原稿である。

それを先に、紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●見舞い

+++++++++++++++++

週刊B春の中で、映画俳優のYS(山城新伍)は、こう語っている。

記者が、「友人の方々が心配しているようです」と語りかけたことに対して、
「そんなもん、会いたくないやろ。それで連絡もとっていない。このまま
消えてしまいたいぐらいや」(「週刊B春・08・9・4日号」と。

YS(69歳)は、現在、特別養護老人ホームに入居している。
持病の糖尿病が悪化、今は介護なしでは、生活できないような状態らしい。
週刊B春のほうは、「消えてしまいたい」という言葉を、新聞広告の
見出しに並べていたが、私はその前の言葉のほうが、気になった。

YSは、こう言っている。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

同じような言葉を、以前、ある末期がんの人が言っていたのを思い出した。
「だれにも会いたくない」「本当に心が安まる人だけと、静かに時間を過ごしたい」と。
それを心配するまわりの人たちは、(本気で心配しているかどうかという問題もあるが)、
「会いたい」と思うかもしれない。
「相手は、私に会いたがっているはず」と思うかもしれない。
しかし当の本人にとっては、ありがた迷惑。
私も母の介護をしていて、それを感じたことがある。

ときどき親類の人たちや、元近所の人たちから、「見舞いに行きたい」などというような
連絡を受ける。
しかし私はそういう申し出を、たいてい、ていねいに断るようにしている。
私の立場というよりは、母の立場で、断わるようにしている。
仮に私が母なら、だれにも会いたくない。
「だれも見舞いに来なければ、さみしいだろう」と、その人は思うかもしれない。
が、それこそ、いらぬお節介。

母にしても、本当に会い人などというのは、そうはいない。
家族とか親友、その範囲の数人と考えてよい。
母にしても、自分の無様(ぶざま)な姿など、見せたくもないだろう。
が、無神経な人は、それほど親しくもないのに、「喜んでくれるはず」と、
勝手にそう決めて、やってくる。
さらに無神経な人は、興味本位で電話をかけてくる。
「お母さんの、具合はいかがですか?」と。
母は元気なころ、陰で、その人の悪口ばかり言っていた。
そういう母の気持ちを私はよく知っている。
だから、断る。

YSは、そういう心情を、率直に表現した。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。
週刊B春によれば、こうある。

「実は今年の春先、山城の友人や知人の間で、山城の所在を
めぐり、ちょっとした騒動が持ちあがっていたのである。
『S伍の携帯に何度かけても、つながらないんだ。こっちが
いやがっても電話をしてくるような男なのに、何かあったんじゃ
ないだろうか」
「どこかの病院に入院したと聞いたんだが、S吾が、『面会に
来ないでくれ』と言っているそうだ」と。
治る見込みのある病気ならまだしも、そうでない病気なら、
そうかもしれない。
私自身は、まだそういう大病を経験していないので、本当の
ところ、YSの心情を理解できるというわけではない。
しかし私がYSの立場なら、おそらくYSと同じように考えるに
ちがいない。

希薄な人間関係など、いくら重ねても、自分の心の隙間を
埋めることはできない。
かえって騒々しいだけ。
わずらわしいだけ。

それがわからなければ、都会の雑踏の中をひとりで歩いてみることだ。
相手がそういう状態なら、そっとしておいてやることこそ、思いやり。
相手から「会いたい」という連絡でもあれば、話は別だが、
そうでないなら、そっとしておいてやる。
これは人生の末期にいる人たちへの、たいへん重要なマナーのひとつと
考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●「形」だけの人間社会

++++++++++++++++++++

形だけの言葉、形だけのあいさつ、形だけの心配、
形だけの喜び、形だけの行為、形だけの悲しみ……。
ふと気がついてみると、私のまわりには、「形」だけ……
ということは多い。
私も他人に対してそうだし、他人も、私に対してそうである。
身内にも、それがある。
親子にも、それがある。
夫婦にも、それがある。

++++++++++++++++++++

総じてみれば、この世は「形」だけ。
そう言い切るのは、少し乱暴すぎるかもしれないが、
否定するのは、もっとむずかしい。
つまりまず形をつくって、自分への責任を回避しようとする。
それだけ人間関係が希薄になったとも考えられる。
あるいは人間関係が広がりすぎ、その分だけ複雑になったとも考えられる。
そのつどいちいち心を入れていたら、それこそ身がもたない。
よい例が、冠婚葬祭
とくに葬儀。

葬儀は、「形」の集合。
私は兄の葬儀のときに、そう感じた。
何からなにまで「形」が決まっていて、まるで流れ作業のよう。
形、形、形……また、形。

線香の立て方から、焼香のしかた、さらには僧侶への礼の仕方まで。
「形」から踏み出すことを、みな、恐れているかのようですらあった。喪主ということで、
葬儀社の人から、ことこまかく、指示を受けた。
それぞれが自分のやり方をしたら、かえって葬儀が混乱してしまう。
参列する人にしても、そうだろう。
しかし、葬儀といえども、どうして個性的であってはいけないのか。
自分で考えた葬儀では、どうしていけないのか。
「形」を決めておけば、楽は楽。
しかしそうした葬儀のあり方には、疑問ばかりが残る。

というのも、兄は、生前において人間関係が、きわめて希薄だった。
弟という私に対しても、一度だって、何かの祝いをしてくれたことはない。
結婚したときも、子どもが生まれたときも……。
そういう意味では、生まれながらにして、きわめて依存心の強い人だった。
生活能力も、ほとんどなかった。
そういう兄を、母は、よく「生まれつき」と言ったが、
生まれつきそうであるかどうか、そんなことがわかる親はいない。
病院の医師だってそうだろう。
母の異常なまでの溺愛と過関心、過干渉が、兄をして、兄のような
人間にした。

だから葬儀に来た人の中でも、兄と個人的な思い出、あるいは
つながりのある人は、ほとんどいなかった。
この私ですら、9歳、齢が離れていることもあったが、
一度とて、兄といっしょに遊んだ記憶そのものがない。
むしろそういう兄であったがために、私に対する社会的重圧感には、
相当なものがあった。

経済的重圧感というより、社会的重圧感である。
とくにあのG県の郷里では、それを許してくれなかった。
「家意識」も色濃く残っている。

それこそ「借金をしてでも、実家を守れ」と言う人さえいる。
「兄のめんどうは、弟のお前がみるべき」と。
だから参列に来てくれた人たちが、それなりにしおらしい顔をして、
「ご愁傷様です」などと言ってくれても、私にはピンとこなかった。
私のほうも、それらしい顔をして、「ありがとうございます」と答える。
形だけの心配、形だけのあいさつ、形だけの言葉。
晩年の兄が感じていただろう(孤独)にしても、それを孤独として
本当に理解していた人は、何人いただろう。
仮に理解していたとしても、だれにも、何もできなかった。
だからといって、いいかげんな葬儀でよかったと言っているのではない。
むしろ、その逆。

そういう兄だったからこそ、私は人並み以上の葬儀に……と思った。
広い会場だったこともあり、参列者はガラガラだった。
空いている椅子は、参列者の数倍は、あった。
で、結局、何ごともなかったかのように、葬儀は終わった。
だれも、兄が背負ったであろう孤独感や絶望感について話題にしなかった。
(もちろん私も、しなかった。)

死んだ人は、仏……ということか。
あるいは「終わった人は、終わり」ということか。
食べて、飲んで、雑談をして、おしまい。
それも「形」なのかもしれない。

が、だとするなら
葬儀というよりは、「人の死」とは何かということになる。
さらに言えば、「命」とは何かということになる。
こうして1人の人間が、あたかも何ごともなかったかのように、
この世から消えた。

その人間にしてみれば、この宇宙もろともに、である。
葬儀……もっと心を大切にすべきではないか。
故人の心を、である。
でないと、それこそ兄の死は、本当に無駄死で終わってしまう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 山城新伍 山城S伍 形だけの人間関係)

+++++++++++++以上、08年8月記+++++++++++++

●「そんなもん、会いたくないやろ」

 山城新伍は、こう言ったという。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。
 この一言だけで、山城新伍を判断するわけではないが、しかしこの
一言だけでも、山城新伍は、ものすごい人ということがわかる。
大物というか、自分に正直。

だれしも山城新伍のような生き方をしたいと思いつつ、それができないでいる。
見栄や体裁に振り回される。

 こんなことがあった。

 私の母が死んでちょうど1年になる。
その当時を思い出しながら、ある女性(66歳)がこう言った。
「もっと、あなたのお母さんを見舞ってやればよかった」と。

 私はその言葉を聞いて、その女性の自己中心性に驚いた。
まるで自分のことがわかっていない。
生前、母は、その女性のことをたいへん嫌っていた。
私が知るかぎり、死ぬ間際まで、嫌っていた。
母にしてみれば、見舞いに来てほしくない第一の女性だった。
そんな女性が、自分だけの判断で、「もっと見舞ってやればよかった」とは!

 またこんな話もある。

 ワイフの友人(55歳・女性)が、子宮筋腫の手術で、1週間ほど
病院に入院した。
それについて、ワイフの友人は、そのことをだれにも話さなかった。
自分の夫にすら、「だれにも言わないでほしい」と念を押していたという。

 さらにこんな話もある。
このことは以前にも書いたが、Yさんという友人の夫(43歳)が、交通事故
で入院した。
それについて夫の友人の1人が、その日のうちにあちこちへ電話をかけ、みなに
知らせてしまった。
親切心からそうしたのだろうが、Yさんの気持ちを、先に確かめるべきだった。
Yさんは、こう言った。

「入院したその日に、ドヤドヤと、いろいろな人が見舞いに来て、その応対だけで
疲れてしまいました」と。

 見舞いといっても、みながみな、それを望んでいるわけではない。
また来てほしい人というのは、かぎられている。
で、それなりの立場でないなら、安易に見舞うというのは、やめたほうがよい。
かえってありがた迷惑になるだけ。

Yさんのケースにしても、そっとしておいてやることこそ、大切。
 もう一例、こんな話もある。

 2年前に、私の友人が亡くなった。
で、その初盆が昨年の7月にあった。
私はすっかりその日を忘れてしまっていた。
(私の生まれ故郷では、8月に盆供養をする習わしになっている。)

 それでそれをわびるために出向くと、奥さんは、こう言った。
「正直に言いますとね、初盆のほうが、葬式よりたいへんでした。
そのあと体の調子を崩してしまい、1週間ほど、寝込んでしまいました」と。

 周囲の人にしても、そうだ。
「親だから・・・」「子だから・・・」という理由だけで、それを前提として
ものを考えてはいけない。
親といってもさまざま。
子どもといってもさまざま。
親子関係となると、さらにざまざま。
「親の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
「子の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
それがわからないのは、あなただけ。

 いろいろなケースがある。

しかしこと病気の見舞いとなると、それを望まない人のほうが多いのでは?
(あるいは私の意見が、否定的すぎるかな?)
そこで大切なことは、一度家族の人の意見を聞いてみるということ。
その上で、見舞いに行くかどうかを決めればよい。

「私が見舞いに行けば、相手は喜ぶはず」という、「ハズ論」だけでものを
考えてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 見舞い 病気見舞い エチケット)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●一貫性

 現実検証能力のない人は、悪い意味で、一貫性がある。
自分のことがわからないと同時に、他人の心も、わからない。
自分の置かれた立場もわからない。
先に書いた、3つの分野で、共通して、現実検証能力が乏しい。

(1)自分を客観的に検証する。(2)自分と他者との関係を客観的に検証する。
(3)自分の置かれた立場を客観的に検証する。

つまり、ノー天気。
そうそうその知人だが、そのときの気分に応じて、盆や正月時でも、平気で
親類を訪ねて、寝泊まりしているそうだ。
「自分は尊敬されているはず」「歓迎されているはず」という、強い思いこみが
あって、そうしている。
本当は、みな、迷惑しているのだが、そういうことすらわからない?

 私は「あの男は、ボケているんじゃない?」と言っている。
ワイフは、「ああいう人を、おバカと言うのね」と言っている。
どうであるにせよ、現実検証能力の欠ける人というのは、そういう人をいう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 自分のわからない人 迷惑な人 現実検証能力 自己評価 自己評価
力 はやし浩司 無神経な人 病気の見舞い)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【自分のない人たち】
  
●虚栄

+++++++++++++++++++

虚栄の世界に生きる人は多い。
概して、女性に多い。
つまりそれだけ他人の目を気にしている。
が、さらにそのルーツをたどれば、
自我の確立に失敗した人ということになる。
わかりやすく言えば、「自分がない」。

+++++++++++++++++++

●1万円のチップ

 虚栄を張る人は、いくらでもいる。
家計は火の車なのに、冠婚葬祭に金をかける人から、学歴や経歴、
さらには家系を偽る人まで、さまざま。
年金生活をしながら、美容院で、1万円のチップを払っていた女性
もいた。
しかも驚くなかれ、年齢は、80歳!

ふつうの常識のある人なら、他人の目など気にしない。
気にしたところで、どうにもならない。
どうにもならないことを、よく知っている。

●自我の確立

 思春期から青年期にかけての最大のテーマは、自我の確立。
(したいこと=自己概念)と(していること=現実自己)を、一致させる。
「私」は、その上に積み上げられる。

 が、この自我の確立に失敗すると、人生そのものが、混乱する。
糸の切れた凧のようになる。
概して女性にこのタイプの人が多いのは、結婚という(関門)をくぐり抜ける
とき、それまでの(私)を捨てるように強要されることによる。
結婚と同時に、それまでのキャリアをあきらめる女性は多い。
またそれから生まれる欲求不満には、相当なものがある。
それが変形して、子どもの教育に狂奔するようになったり、ここに書いたように、
虚栄で身を飾ったりするようになる。

●限りない自己中心性

 自己中心性が肥大化した状態を、「自己愛」という。
その自己中心性が肥大化すればするほど、その人の住む世界は狭小化する。
つまり小さくなる。
本当はだれも、その人のことを気にかけてはいないのに、自分が世界の中心にいるかの
ように錯覚する。
みなが、自分を注目しているかのように錯覚する。
そのため、世間体を気にする。
見栄やメンツを気にする。
  
●見栄を張る人たち

 見栄を張る人は、どこまでも見栄を張る。
おかしいほど、見栄を張る。
コミカル漫画とまちがえるほど、見栄を張る。
その張り方には、際限がない。
定型もない。
自分のことだけではない。
配偶者のこと。
子どものこと。
さらには孫のこと。
家系や先祖のこと。
学歴や財産のこと。

 わかりやすく言えば、ウソにウソを塗りかためる。
そしてそれを他人に吹聴する。
吹聴してもしかたのない人にまで、吹聴する。

●ふつうの行為

 ……といっても、だれしも、ある程度の見栄は気にする。
無意識のまま、気にする。
こんなことがあった。

 私は講演に招かれるたびに、服装に気をつかう。
私というより、ワイフのほうが、気をつかう。
そんなある日、二男が、ある中学校での講師に招かれた。
そのときのこと。

 二男は、ヨリヨレのシャツに、ジーパン姿で出かけていった。
シャツには、いくつか、穴まであいていた!
(これは本当の話。)

 そこで私が、「人前で話をするなら、それなりのかっこうをしていけ」と忠告した。
が、二男は平気だった。
ギターをかつついで、そのまま出かけていった。

 つまり見栄や体裁を気にしないと言いながら、私は私で、結構、見栄や体裁を
気にしていることを知った。
言い替えると、傍から見るとおかしいほど虚栄を張っている人でも、その人にとっては
それがふつうの行為ということになる。
その人自身は、それに気づいていない(?)。
またそう考えないと、そういう人たちの心理が理解できない。

●例

 いろいろな例がある。

★N氏(農業)は、車検の切れた、古いが、しかし見た目にはそれほど傷んでない
大型高級車を納屋の裏に、カバーをかけて、隠し持っていた。
都会から大切な客が来たときだけ、こっそりとそれを出して使っていた。

★T女は、いつもサイフに札束を入れて、もち歩いていた。
いちばん上と下だけ、1万円札。
間はすべて1000円札。
買い物をするときも、レジの人に、いちいちサイフの中身を見せつけるかのようにして、
お金を払っていた。

★G女は、家の居間に、東京のT女子大学の同窓会名簿を飾って、置いていた。
それとなく、客に、自分の出身校を示すためだったというが、実際には、G女は、
高校しか出ていなかった。

★Y女は老齢年金と、息子からの仕送りだけで生活していた。
しかし近所の人たちには、「祖父の代からの財産で、遊んで暮らしています」と、
死ぬまで言いつづけていた。

★B氏は官庁を退職してからも、過去の役職と肩書きにしがみついていた。
そしてことあるごとに、大物ぶって見せていた。
たとえば大型店がその地方に進出するという計画を耳にすると、その地域に住む
親類に、こう言って電話をかけたりしていた。
(そのため経済情報誌だけは、片時も離さず持ち歩いていた。)
「今度、ぼくの友人が、そちらに大型店を出すことになりましたから、よろしく」と。
もちろんB氏とその大型店は、縁もゆかりもない。
つまりホラ!

●特徴

 こうした虚栄を張る人には、いくつかの特徴がある。

(1)慢性的な欲求不満が根底にある。
(2)異常なまでの自尊心や、過去へのこだわりをもっている。
(3)表面的には、努めて善人ぶり、他人の評価を気にする。
(4)口がうまく、それとなく自分を大物に見せる術にたけている。
(5)自己愛者の特徴として、他人が批判するのを許さない。
(6)自分がない分だけ、ものの考え方が流動的で、コロコロと変わる。
(7)いつも自分がその場の(中心)にいなければ、気が済まない。
(8)他人との良好な人間関係を築きにくい。そのため、孤独。
(9)虚栄を気にする一方、他人を見かけだけで判断しやすい。
(10)幸福観が相対的。「他人より幸福なら、自分は幸福」と考える。
(11)そのため、他人の不幸話を、何よりも楽しむ。

 が、虚栄は虚栄。
わかりやすく言えば、「化けの皮」。
いつかは、はがれる。
そしてそのとき虚栄を張った分だけ、今度は自分が苦しむ。
ある母親は、自分の娘が高校に入学したときのこと。
毎日駅まで娘を車で送り、そこで衣服を制服に着替えさせていた。
娘の通学校を、近所の人に隠すためである。

●私の問題

 しかしこれは他人の問題ではない。
先にも書いたように、虚栄というのは、(もちろん程度の差はあるが……)、
だれしも気にしている。
しかも無意識。
そこで大切なことは、「では、私はどうか?」と自問してみること。
「私は虚栄心はない」と思っている人でも、意外といろいろな場面で、虚栄を
張っていることが多い。

 で、あえて言うなら、こうなる。

 まず、ありのままの自分をさらけ出してみる。
飾らない。
偽らない。
ウソをつかない。
(もちろん言いたくないこともあるだろう。
そういうときは黙っていればよい。)

その結果として、それまでの自分が、虚栄を張っていたことを知る。
自分自身のステージがあがったとき、それまでの自分が、低いステージにいたことを知る。
こうして少しずつ、自分のステージをあげていく。
その結果として、虚栄から脱却することができる。
「私」は、「私」らしく生きることができる。
自分を取り戻すことができる。

●補記

 この問題は、「生き様」の問題ということになる。
先に、「虚栄を張る人は、それだけ自分のない人」と書いた。
言い替えると、虚栄と闘うためには、自分を確立すること。
自分の生き様を確立すること。

 そのためには、考え、自分の生きる哲学をもつ。
そういう意味で、私は、二男には教えられた。
二男は、まったくと言ってよいほど、虚栄を張らない。
ありのままの姿で生きている。
「すばらしい」と思う前に、自分の息子ではないような気がする。
たとえば今、二男は、コンピュータの世界では、(ものすごいこと)をしている。
スイスにあるCERN(世界最大の量子加速器研究所)のコンピュータ技師をしている。
といっても、スイスにいるわけではない。
アメリカのインディアナ大学の研究室に籍を置いている。
全世界の研究者のコンピュータをつなぎ、CERNから出てくるデータを分析している。
(実際には、コンピュータをつなぐプログラムの開発に携わっている。)
が、一度だって、それを自慢したことはない。
(自慢しているのは、この親バカの私のほう。)

 「すごいなあ!」といくら言っても、「何でもないよ」と。
名誉にも、地位にも興味はない。
「東京ではできないのか?」と言っても、「東京には、ぼくのできる仕事はない」と。
そういう二男を見ていると、その反射的効果として、自分の愚かさを知る。
哲学のなさを知る。
そういうこともある。

 さて、今日も始まった。
今日こそ、虚栄と無縁の一日を過ごしてみたい。
(100427)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 虚栄 虚栄心 虚栄に生きる人 身を飾る人 見栄 メンツ 世間体 
はやし浩司 自分のない人 自我の確立 確立の失敗)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●怠けた心

++++++++++++++++++

今夜は、仕事が終わるのが9時半ごろ。
それはそれとして、今夜は、ワイフが、
仕事を手伝いに来てくれる。
そのため、家に帰るには、2つの方法が
ある。

(1)いつものように自転車で帰る。
(2)ワイフの車で、ワイフといっしょに
帰る。

4月もあと少しというのに、外はまだ肌寒い。
風は弱まったとはいえ、向かい風。
ワイフと自動車に乗って帰れば、楽。
しかし健康のためには、自転車のほうがよい。
こういうとき、私はどう判断したらよいのか。
どう行動したらよいのか。

++++++++++++++++++

●怠け者

 人間は、基本的には、怠け者。
できるだけ体を動かさずに、楽にしたい。
心のどこかで、いつもそう願っている。
もし私の肉体が、肉体自身の健康を考えるなら、肉体は何らかの形で、
脳に、「運動したい」という信号を伝えるはず。
このところやや(1〜2キロ)、体重もオーバーぎみ。
が、どういうわけか脳のほうは、「自動車に乗って帰ろう」という方向に、
私を導きつつある。
肉体の側からの働きかけは、まったくない。
考えてみれば、これはおかしなことだ。

●無駄な運動?

 もし人間が基本的に怠け者なら、ヒト(人類)は、とっくの昔に絶滅していたはず。
が、今にいたるまで、20数万年を生き延びてきたということは、それなりの健康
管理を自分でしてきたということになる。
運動もそのひとつだが、原始のヒトたちは、生きるために体を動かしていた。
運動のための運動ということは、しなかった。
そのことは、野に遊ぶ、鳥や動物を見ればわかる。
彼らの動きは、すべて、(生きること)と直結している。
無駄な(?)運動はしない。

 が、人間の生活は便利になった。
私などは、一日の大半を、座って過ごす。
私の仕事は、そういうもの。
となると、(運動不足)→(不健康)の悪循環に陥りやすい。
が、それを判断するのは、肉体のほうではなく、脳のほうである。
肉体のほうは、むしろ「休め」「休め」と、私に命令している。

●肉体

 が、これはおかしい。
冒頭の話に戻るが、肉体にしてみれば、自身の健康を考えるなら、自転車で
帰るほうがよいに決まっている。
よいに決まっているが、それについては沈黙を守っている。

 たとえばエネルギーが不足してくれば、血糖値がさがり、それを視床下部にある
センサーが感知して、空腹感を引き起こす。
睡眠不足のときも、そうだ。
病気になったときも、そうだ。
しかしこと運動不足については、そういうセンサーが働かない。
エネルギー不足のときは、「腹が減った!」という意思を、脳に伝える。
が、運動不足については、それがない。
「運動したい!」という意思は、生まれてこない。
むしろ、「楽をしたい」と。

●矛盾

 つまり(肉体の状態)と(脳の反応)が、矛盾している。
本来なら運動不足を感知した肉体が、「運動したい」という意思を、脳に
伝えてもよいはず。
あるいは運動することによる快感を、引き起こさせてもよいはず。
が、そういう反応は、どこからも起きてこない。
で、ここでもし私が肉体の誘惑に負けたとしたら、明日は、もっと太ってしまうはず。
体の調子も悪くなるはず。

 一方、今夜家に帰るとき、ひと汗かけば、明日の朝は、爽快な気分で迎えられるはず。
もっともそれを知っているのは、肉体のほうではなく、脳のほう。

●命令

 そこで私の脳は、肉体に、あえて(「あえて」だ)、命令をくだす。
「今夜は自転車で帰れ!」と。
が、肉体のほうは、それにすなおに従うわけではない。
どこか躊躇している。
「できれば、車に乗って帰りたい」と。
これはどうしたことか?

 基本的には、やや疲れぎみということもある。
今日も、けっこう、忙しかった。
それに年齢的にも、江戸時代なら、とっくの昔に死んでいた年齢である。
つまり(怠け心)の正体は、実は、「寿命」と関係があるのではないかということになる。
話が少し飛躍したので、わかりにくいかもしれない。
つまり肉体は、すでに死に向かいつつある。
そのため、「怠けろ」「怠けろ」と、私に命令している。
またそういった意識が、DNAそのものの中に、組み込まれているのかもしれない。

 「怠けろ」「不健康になれ」「死ね」と。
しかしそう考えると、先にあげた「矛盾」が、説明できる。

●健康論

 私は決定した。
今夜はどんなことがあっても、自転車に乗って帰る。
このまま怠けた心の言いなりになっていたら、私はそのまま「死」に向かって
まっしぐら。
・・・というほど、大げさな問題ではないかもしれないが、日々の積み重ねが、
その人の健康を決める。
寿命を決める。

 が、ひとつだけ、誤解しないでほしい。

 運動というのは、それを始めるときには、いつも(つらさ)が伴う。
しかしひとたび始めてしまうと、私のばあい自転車にまたがったとたん、言いようのない
解放感を覚える。

 帰り道の途中には、ゆるい上り坂があって、その坂を上りきると、今度は、長い
下り坂になる。
その峠の部分までは苦しいが、下り坂を下っていくときの爽快感は、何とも言えない。
私はスキーをしたことはないが、スキーで、白銀の世界を突っ切っていくときは、
こんなものだろうなと、よく想像する。

 また汗をかき、家に帰って扇風機の前に立ったときもそうだ。
つまり肉体自身は怠け者だが、そうした爽快感を、肉体はよく知っている。
だから強くは抵抗しない。
「怠け心」というのは、そういうもの。
「がんばれるものなら、がんばってみな」と。

●センサー

 やがて人間もさらに進化すれば、脳の中に、こんなセンサーができるように
なるかもしれない。

「運動不足だから、運動せよ」と。
もっとも(命令)では、人間の肉体は動かない。
そこでエネルギー不足のときと同じように、空腹感に似たものを引き起こす。
それに応じて、脳のほうは、つぎの行動を決定する。
「自転車に乗って、運動せよ」と。
さらに進化すれば、「脚力をつけろ」「背筋力をつけろ」と、そうなるかもしれない。

 が、今はまだそういうセンサーはない。
ないから、どうしても脳のほうからの命令がないと、肉体は動かない。
動こうとしない。
つまりは、これも脳の自己管理能力の問題ということになる。

 私のばあい、まだその自己管理能力が、健在ということか。
この能力が衰退したら、私は楽なことばかりを願うようになる。
不健康になる。
「死」に向かう。
そのとき寿命が尽きる。


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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年   6月   2日号
 ================================  
6月2日……1367号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●心の壊れた人

++++++++++++++++++++

世の中には、心の壊れた人がいる。
他人の不幸を興味本位でのぞいて、
それを酒の肴(さかな)にして、楽しんで
いる人がいる。
さらに進んで、「他人の不幸話ほど、おもしろい
ものはない」と言ったバカさえいる。

A氏(65歳)は、私にこう言った。
「あいつ(A氏の従兄)が、パーキンソン病に
なったそうだ。
今度見に行ってやろう」と。

A氏とA氏の従兄は、仲が悪かった。
10年にわたって、いがみあったこともある。
そのためA氏の従兄がパーキンソン病に
なったことが、うれしくてしかたないと
いったふうだった。

が、A氏には、それがわからない。
つまり自分の心が、すでに壊れていることが
わからない。
不幸にして不幸な乳幼児期を過ごしている。
それが直接的な原因ではないにしても、
「見に行こう」はない。
まさに、悪魔。
悪魔の言葉。

で、何と、そのあとしばらくしてから、A氏は
こう言った。
何でも妹氏(6歳下)を連れて、見舞いに
行ってきた、と。

もちろん「見舞い」ではない。
「見物」である。
一見、同情するフリをしていたが、その言葉には、
心がこもっていない。
口先だけで、「かわいそう」という言葉を
繰り返していた。

++++++++++++++++++++

●他人の不幸をのぞく人

 他人の不幸を、興味本位でのぞける人というのは、そうはいない。
いないが、少なくないことも事実。
が、のぞくのはその人の勝手としても、のぞかれる人は、たまらない。
そのとたん、苦しみや悲しみが倍加する。
(倍加程度では、すまない。)

 友人のT氏(63歳)が、こんな話をしてくれた。

 T氏が、兄や母の介護問題で苦しんでいたとき、同じようにして、のぞかれた
ことがあるという。
そういう人たちは、いかにも心配していますというフリをしながら、近づいて
くる。
が、その実、何も心配などしていない。

 こんなことがあったという。

 T氏の兄が胃潰瘍がこじれて入院したときのこと。
見舞いに行ったら、T氏の兄は家の商売のことを心配していたという。
そこでT氏は、またその翌日、再び、今度は、小遣いをもって、兄を見舞った。
で、その数日後のこと。
T氏の親類のB氏(従兄)から、電話があった。
皮肉たっぷりの言い方だったという。
いわく、「おまえの兄さん、入院したぞ。入院したぞ。知っているか?」と。

 間延びした、どこかネチネチした言い方だった。
そこでT氏が、「知っています。おととい見舞ってきましたから」と。

 その言葉に驚いて、B氏は、「えっ、……見舞っ……た?」と。

 以後、T氏はB氏とは、関係を断ったという。

●自己認識

 心の壊れた人には、奇妙な一貫性がある。
一事が万事。
万事が一事。
脳のCPU(中央演算装置)が壊れているため、自分の心が壊れていることに
気づくことはない。
ないばかりか、自己中心性が強いため、他人もまた自分と同じと考える。
あるいは自分を基準として、ものを考える。
他人を見る。
つまりどこまでも心のさみしい人ということになる。

●他人の不幸はのぞかない

 生きていくことには、いくつかの大原則がある。
そのひとつ。
『他人の不幸はのぞかない』。

 それとわかっていても、あるいが気がついていても、そっとしておいてやる。
もちろん相手から相談でもあれば、話は別。
そうでなければ、そっとしておいてやる。
見舞いにしても、一度、家人に相談してから行くのが、常識。
いきなり相手の家に押しかけて、「見舞いに来ました」はない。
来られたほうも、困る。
ばあいによっては、(多くのばあいそうなのだが……)、かえって不愉快。

 が、そういう常識の備わっていない人が多いから、困る。
もしそれがわからなければ、自分のこととして考えてみればよい。
どこのだれが、自分の無様(ぶざま)な姿を、人前にさらけ出したいか?
いきなり来られたのでは、かえってそのままそれをさらけ出すことになる。

 そういう見舞いが平気でできる人というのは、相手の気持ちが理解できない。
「見舞いに来てやったから、喜んでいるはず」という、きわめて自己中心的な
『ハズ論』だけで、自分の行為を正当化してしまう。
これが先に書いた、「一貫性」ということになる。

●さらに……!

 さらにこんな話も聞いた。

 その人、Kさん(75歳女性)は、1年近く、うつ病で家の中に閉じこもっていた。
家の中でもいちばん暗いところに、身を横たえていた。
そんな女性のところへ、ある日、親類の女性(70歳)が見舞いにやってきた。
Kさんは、最初、面会を拒否した。
「だれにも会いたくない」と言った。
が、見舞いに来た親類の女性は、強引に部屋の奥まで入っていき、Kさんの枕元に
ひざまづいたという。
そして何と、あろうことか、お経を読み始めた……!

 その親類の女性というのは、どこかの宗教団体に属していた。
そこで覚えたお経を、Kさんの前で唱えたというのだ。
狂信性もここまでくると、怒れるより先に、笑えてくる。
(もちろんKさんの病気を笑っているのではない。
見舞いに来た親類の、その女性の頭(おつむ)のほうを笑う。)

 無神経な人は、どこにでもいる。
そんなバカなことで鬱病が治るくらいなら、医者などいらない。
もっともその女性のばあいは、本気で(?)、Kさんのことを心配していたのかも
しれないが……。

●精進(しょうじん)

 あなたの周りにも、ここに書いたような人がいるかもしれない。
しかしそういう人とは、できるだけ早く、離れたほうがよい。
長くつきあって、よいことは何もない。
ないばかりか、その人の毒気に染まってしまうことすら、ある。

 一方、あなたはあなたで、もしそういう傾向があるなら、あとは「精進」あるのみ。
そういう自分と闘う。
闘って、そういう自分を自分の中から、追い出す。

 方法は簡単。
いくつかの原則論を定め、それに従って生きる。

(1)ウソはつかない。
(2)約束は守る。
(3)人の悪口は言わない。
(4)グチは言わない。
(5)他人の不幸には干渉しない。
(6)他人の不幸は、自分のものと考える。
(7)他人の不幸を望まない。
(8)他人の不幸を笑わない。

 そして何よりも大切なことは、(9)心の壊れた人とは、つきあわない。

●奇妙な一貫性

 奇妙な一貫性について、補記する。

 ここに書いたB氏(T氏の従兄)に、直接会ったことはない。
ないが、その周辺の人から、こんな話を聞いた。

 B氏には2人の息子がいる。
そのうちの1人が、D症という、生まれながらの病気にかかっている。
現在は、35歳前後とか。

 B氏は、その息子のことを、隠している。
ぜったいに表(外)には、出さないという。
最近、もう1人の息子が結婚式をあげたが、その結婚式にも列席させなかったという。
「インフルエンザで急に熱を出しまして……」と、結婚式の場では、そう言って、
弁解していたという。

 これが私が言う「奇妙な一貫性」である。

 (他人の不幸を笑う)→(自分の不幸も、他人に笑われると思う)、と。

 つまり他人の不幸を笑った分だけ、今度は、その人自身が苦しむということ。
だから私はあえて(6)の「他人の不幸は、自分のものと考える」という原則を並べた。
それが日常的にできるようになると、その分だけ、心が広くなる。
その心で、自分の不幸まで、包み込むことができるようになる。

(付記)

 先日、近くのショッピングセンターの食堂へ行ったら、家族で食事をしている
人たちを見かけた。
6〜7人のグループだった。
祖父母、若い父母、それに2〜3人の子ども。
その子どもの中の1人(6歳くらい)が、ここに書いたD症の子どもだった。

 が、そのグループの人たちは、まったく平然と、楽しそうにみなで食事をしていた。
それを見た私の方まで、楽しくなるような雰囲気だった。
その子どもは、D症だったが、家族の暖かい愛情に包まれていた。
その温もりが、私のほうまで伝わってきた。
私の心まで暖かくした。

 よい家族というのは、そういう家族をいう。
よい人たちというのは、そういう人たちをいう。
ここに書いた、「他人の不幸を笑う人」というのは、その(よい人)と、ちょうど反対の
位置にいる人と考えると、わかりやすい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 他人の不幸 他人の不幸を笑う人 他人の不幸論 不幸をのぞく人
 よい人たち 愚かな人たち。はやし浩司 よい人 心の暖かい人 心の温もり)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●その人の基本

++++++++++++++++++

その人とは、何か?
その人の基本とは、何か?
それが60歳を過ぎると、「輪郭」として
わかるようになる。
おおざっぱに、わかるようになる。
自分のことでもよい。
配偶者のことでもよい。
親類のことでもよい。

「あの人は、こういう人」と。

その「輪郭」は、実は乳幼児期に作られる。
乳幼児期に作られたまま、それが原型となって、
みな、おとなになっていく。
四角い人は、四角い人のまま、。おとなになっていく。
丸い人は、丸い人のまま、おとなになっていく。

+++++++++++++++++

●オオカミ姉妹

 ここ数日、オオカミ姉妹の話が気になる。
もう一度、昨日書いた原稿を、ここに書き出してみる。

●オオカミに育てられた姉妹

++++++++++++++++++

オオカミ姉妹(カマラとアマラ)について、
たびたび書いてきた。
「野生児」とも呼ばれる。
1920年10月に、インドで見つかった
2人の姉妹をいう。

この2人の姉妹について、私はあちこちで
書いてきたし、講演会でも、よく話してきた。

が、正確でない部分も多々、あった。
いろいろな資料をもとに、もう一度、
オオカミ姉妹について、整理しておきたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(1)1920年10月、カルカッタの南、ゴダムリという村で見つかった。
(2)オオカミが住んでいた、シロアリの塚の中から、見つかった。
(3)2人の少女は、そのまま孤児院に入れられた。
(4)名前を、カマラ(姉、推定年齢8歳)、アマラ(推定年齢1歳)と名づけられた。
(5)A.L.シング夫妻らによって、養育された。
(6)当初、2人の姉妹は、オオカミのようにひざまづいてものを食べた。
(7)4つ足で走り、オオカミのような叫び声をあげた。
(8)アマラは約1年後に死亡。
(9)カマラは推定年齢17歳まで、生きた。
(10)その過程で、衣食住の生活習慣を身につけた。
(11)6年後には直立して歩行した。(推定年齢、14歳。)
(12)7年後には、45語を話せるようになった。
(13)中枢神経系に、器質的な異常は認められなかった。

(以上、「心理学とは何だろうか」(無藤驕E新曜社)より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 この中でとくに注意しなければならないことは、(10)〜(12)。
年齢を追って、もう一度、整理してみる。

 姉のカマラは、推定年齢8歳で見つかっている。
その姉は、「6年後」、つまり推定年齢、14歳で、やっと直立して歩行するようになった。
「7年後」、つまり推定年齢、15歳で、45語の言葉を話せるようになった。
もしカマラが、ごくふつうの家庭で生まれ育ったなら、満1歳前後には、直立して歩き、
満2歳前後には、ある程度の会話ができるようになっていただろう。

 しかしカマラのばあい、直立して歩けるようになるまでに、見つかってから6年も
かかっている!
45語の言葉を話せるようになるまでに、7年もかかっている!

 さらに別の記録によれば、カマラにしても、また同じころフランスで見つかった
ビクトールという少年にしても、最後まで、人間らしい感情や心を取り戻すことは
なかったという。

●三つ子の魂

 この野生児の例は、乳幼児期における(親子のふれあい)がいかに重要なもので
あるかを説明するために、よく取り上げられる。
と、同時に、そのころその人の「輪郭」ができるということも、明確に示している。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。
しかしその実、その「私」は、乳幼児期にその「輪郭」ができあがったとみてよい。
その結果が今であり、今の「私」は、その結果に過ぎない。

 心のやさしい人、心の冷たい人。
穏やかな性質の人、はげしい気性の人。
何ごともやる気満々の人、いつも逃げ腰の人。
ものごとをよく考える人、考えない人。
他人に感動しやすい人、感動しない人などなど。

 わかりやすい例としては、ケチ(ためこみ屋)と呼ばれる人がいる。
発達心理学的に説明すれば、肛門期(フロイト)に、愛情飢餓を経験すると、内へ内へと、
ものをためやすくなる。
それがケチになったり、ためこみ屋になったりする。

 長男、長女のこのタイプの人が多いのは、下の子(弟、妹)が生まれたことにより、
愛情飢餓の状態に陥ったためと考えられている。
まさに『三つ子の魂、百まで』ということになる。

●自己診断法

 そこで「自分探し」ということになる。
が、言い替えると、「自分の輪郭探し」ということになる。
つまり自分で自分の輪郭を知る。
それは可能なのか。
またその方法は、あるのか。

 「私」という人間の輪郭が、乳幼児期に作られたことはわかる。
が、その輪郭といったものは、どういうものなのか。
ひとつの診断法として、こんなものがある。
「私は子どものころから……」という文章につなげて、自分のことを書いてみる。
あまり深く考えないで、思いついたままを書くのがコツ。
あなたも一度、この診断をしてみるとよい。

===============

「私」を知る、自己診断法

===============

○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(

○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(

○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(

○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(

===============

以上、20問用意してみた。
その結果を見ながら、自己分析をしていく。

●私のばあい

 私も、してみる。
(ヨーイ、スタート!)

○私は、子どものころから……(何にでも興味をもった。
○私は、子どものころから……(捜し物が、苦手だった。
○私は、子どものころから……(さみしがり屋だった。
○私は、子どものころから……(外ではにぎやかな子どもだった。
○私は、子どものころから……(甘い食べ物が好きだった。

○私は、子どものころから……(負けん気が強かった。
○私は、子どものころから……(個人的に活動することが多かった。
○私は、子どものころから……(集団行動が苦手だった。
○私は、子どものころから……(寒がりだった。
○私は、子どものころから……(ものを作るのが好きだった。

○私は、子どものころから……(他人の心を読むのが苦手だった。
○私は、子どものころから……(女の子が苦手だった。
○私は、子どものころから……(絵を描くのが好きだった。
○私は、子どものころから……(好奇心が旺盛だった。
○私は、子どものころから……(いじけやすく、ささいなことをよく気にした。

○私は、子どものころから……(庭のある家に住みたかった。
○私は、子どものころから……(貧乏がこわかった。
○私は、子どものころから……(酒や酒のにおいが、嫌いだった。
○私は、子どものころから……(行動的だった。
○私は、子どものころから……(正義感が強かった。

=================

●自己分析

 同じようなテストを、私のワイフや、生徒たち(中高校生)にしてもらったことが
ある。
が、不思議なことに、他人のばあいは、「輪郭」がよく見える。
「この子は、こういう子だな」と。
しかし自分のこととなると、「輪郭」がよくわからない。
あのフロイトも、自分の夢判断を、弟子のユングに頼んでいる。
そういう意味でも、自分のことを知るのは、むずかしい(?)。

 それはさておき、そこであなたは、私の回答を読んで、私の「輪郭」をどのように
思っただろうか。
あなたは私を、どのような「輪郭」をもった人間と思っただろうか。
が、ここではその内容は、あまり重要ではない。
また私の自己分析をするのが、目的ではない。

 あなたが私についてどんな印象をもったにせよ、その印象、つまりここでいう「輪郭」
は、私の乳幼児期に作られたものということ。
それが現在の「私」の骨格になっている。
もちろんこのことは、あなた自身についても、当てはまる。

●臨界期仮説(critical period hypotheses)

 「臨界期」という言葉が、ここ数年、急速に注目されるようになってきた。
もともとは、「言葉の発達についての仮説」として生まれた。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

+++++++++以下、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

言語学および第二言語習得における臨界期仮説(英: critical period hypotheses)とは、臨界
期とよばれる年齢を過ぎると自然な言語能力の習得が不可能になる、という仮説である。
母語の習得および外国語の習得の両方に対して使われる。

臨界期の時期には諸説あるが、だいたい出生から思春期(12歳から15歳ごろ)までである
とされている。第一(L1)・第二言語(L2)両方の習得に関して年齢が重要な要素となって
いることは定説となっているが、はたして臨界期なるものが本当に存在するのか、また存
在するとしたらそれがいつなのかなどについては長い議論があり、仮説の域を出ていない。

野生児または孤立児と呼ばれる幼児期に人間社会から隔絶されて育った子供は、後に教育
を受けても言語能力、特に文法に従った文を作る能力については著しく劣ることが知られ
ている[1]。

また、外国語の学習でも、一家で国外へ移住した移民の親より子供のほうが外国語を早く、
また上手に使いこなせるようになることは広く知られている。母語・外国語両方の習得の
成否について年齢が大きな影響を与えていることは、日常の経験からも、言語学の研究結
果[2]からも納得されることである。

年齢が上がると言語を習得することが困難になる原因についてはさまざまな説が提唱され
ている。しかし、年齢以外のファクターを除外できていない可能性があるという批判もあ
り、たとえば脳生理学的な変化や心理的影響を原因とする説などもあるが、21世紀初頭現
在でははっきりとは解明されていない。

それに加え、個々の言語能力についての臨界期は異なるという説もある。たとえば発音に
ついてはかなり低い年齢に臨界期が存在するという強い証拠があるが、語順などの統語的
規則についての臨界期は遅いという主張もある[3]。また、語彙については明確な臨界期が存
在しないとの説もある[4]。

+++++++++以上、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

 だからといって、「臨界期仮説」を、言語に限ることはない。
先にあげたオオカミ姉妹についても、「言語」だけが問題になっているわけではない。
「言語」は、もろもろの才能の一部でしかない。
とくに注目すべきは、「人間らしい心」ということになる。
少し拡大解釈すれば、「人間らしい心」にも、臨界期があるということになる。
またそう解釈してよいことは、冒頭に書いたように、それが60歳を過ぎると、「輪郭」
としてわかるようになる。

 たとえば身近にいる、X氏ならX氏に焦点を当ててみる。
Yさんでもよいし、Z氏でもよい。
そういう人たちの人生を、全体としてながめてみる。
するとそこにその人の「輪郭」が浮かびあがってくる。
心の暖かい人は、暖かい。
心の冷たい人は、冷たい。
ウソのつけない人もいる。
一方、ウソばかりついている人もいる。

そしてその「輪郭」というのは、その人が子どものときのそれと、現在のそれと、
それほど違わないことに気づく。
つまりそれぞれの人は、「心」も、いくつかの臨界期を経て、作られていくのがわかる。
言い替えると、そのときどきの適切な時期に、適切な環境の中で、適切な(ふれあい)を
経験することによって、「心」も作られていくということ。

 繰り返しになるが、60歳を過ぎると、それがよくわかるようになる。
そこで結論。

 かつてアインシュタインは、こう言った。
「教育というのは、学校で学んだことをすべて忘れてしまったあとに、残っているもの」
と。
この言葉を拝借すると、こうなる。

「私というのは、私をすべて忘れてしまったあとに、そこにぼんやりと浮かびあがって
くるもの」と。(100426)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 私とは 私論 野生児 カマラ アマラ オオカミ少女 オオカミ姉
妹 輪郭論 臨界期)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●道徳とMoral(モラル)

++++++++++++++++++

私はずっと、「道徳」イコール、「Moral」、
「Moral」イコール、「道徳」と考えていた。
しかし日本語と英語は、必ずしも一致しない。
よい例が、「尊敬」と「respect」である。

日本語で、「尊敬する」というと、「相手を尊く、
敬う」という意味で使われる。
英語で「respect」というと、日本語の
「尊敬」よりは、ずっと意味が軽い。
「一目置く」とか、「敬愛する」とか、そんな
ニュアンスになる。
日常的にもよく使う。

たとえば自分の子どもが発表会の場なので、
堂々と自分の意見を言ったりすると、親は
自分の子どもに向かって、「I respect 
you.」などと言ったりする。
「よくやったね!」という意味に近い。
「尊敬する」という意味では、むしろ、
「I am proud of you.(あなたを
誇りに思う)」のほうが、よく使われる。

そういうちがいを無視して、日米の子どもの意識を
比較調査しても、あまり意味がない。
たとえば「あなたはあなたの父親を尊敬しますか」
という質問項目があったとする。
質問を受けた日本の子どもは、そう聞かれると、身を
構えてしまう。
真顔になってしまう。

一方、英語国の子どもなら、「Do you respect
your father?(あなたの父親を尊敬しますか)」
と聞かれれば、あまり深く考えないで、「Yes!」と答えるだろう。

同じことが、「道徳」についても言える。

「道徳」というと、日本では、「すでに規範として確立された、
守るべき規律」という意味で使われている。
道徳を否定する人はいない。

一方、「Moral」というと、辞書などには、
「規律」という訳語が載っている。
「規律一般」をいう。
大修館ジーニアス英和辞典にも、「原義、風俗習慣」とある。
その中には、「よい規律」もあれば、「悪い規律」も
ある。
日本語でいう「道徳」とは、かなり意味がちがう。
ただ「モラル」というカタカナ言葉は、「道徳」と同じ意味で
使われることが多い。
そのあたりに、誤解の元(もと)がある。

日本語で、「モラル」というと、そのまま「道徳」という
意味で使われる。
たとえば「モラルが低下した」と言えば、道徳心が低下
したという意味になる。
「それはモラルの問題」というような言い方をするときもある。

で、誤解というのは、コールバーグの説いた、「脱道徳論」
である。

コールバーグは、道徳の完成度が高くなればなるほど、
人は、「脱道徳」になると説く。
最終的には、「人間は普遍的価値を求め、命を中心に置いた
ものの考え方をする」(新曜社・「心理学とは何だろうか」)と。

が、ここで首をかしげる。
日本人なら、みな、首をかしげる。
道徳というのは、先にも書いたように、「確立された規範」をいう。
「それから脱するということは、どういうことか?」と。
実際、「このような発達段階が真に存在するだろうか」と
疑問を投げかけている学者もいる(お茶の水大学M教授)。

しかしここに、今まで書いてきたことを当てはめてみると、
謎が解ける。
コールバーグは、「規律などというものは、必要最低限のものである。
自ら考え、行動し、責任を取ることこそ重要」と説いている。
そういう意味で、「脱・規律」という言葉を使った。
そしてそれを誤訳ではないが、「脱道徳」としたから、
日本人には、理解できなくなってしまった。
(注:「心理学とは何だろうか」の中では、「脱慣習的段階」と
なっている。)

本来なら、コールバーグの書いた論文を原書で読んだ
上で、この原稿を書かねばならない。
コールバーグは、本当に「Moral」という言葉を
使ったのだろうか?
そういう疑問がないわけではない。
それもわからず、こういう原稿を書くこと自体、
いいかげん。
私にもそれがよくわかっている。
わかっているが、あえてそれを調べて書く必要もない。
私は私のやり方で、つまり勝手にコールバーグの「脱道徳論」
を、考えなおしてみればよい。

+++++++++++++++++

●脱・規律論

 規律に対しては、3つの段階に分けられる。
(道徳ではなく、あくまでも「規律」。)

(1)前規律段階

 「規律」に盲目的に従い、自立した思考力のない段階。
たとえば「軍規にはこうあるから」などという理由で、批判を加える
ことなく、それに従ったりすること。

(2)規律段階

 「規律」といっても、そのつど取捨選択しながら従うという段階。
たとえば「規則ではそうなっているが、今は、緊急事態だから、別の考え方
をする」というのが、それ。

(3)脱規律段階

 規律の存在は認めながらも、自分で考え、行動し、責任を取る段階。
一般的な規律よりもさらにきびしい規律を、自分に課すことが多い。
たとえば主義主張を守るため、あえて既存の規律に背を向けて、行動するなど。

 当然のことながら、後者ほど、道徳(Moral)の完成度が高い人
ということになる。
が、このことは、フロイトが説いた、(1)エスの人、(2)自我の人、
(3)超自我の人の分類法に、どこか似ている。
フロイトは、欲望のおもむくまま行動するする人を、「エスの人」、
臨機応変にそのつど理性的に判断する人を、「自我の人」、
そしてどんなばあいも、理性に従い、まちがったことをしない人を、
「超自我の人」と呼んだ。

●道徳

 それが人間が守るべき規範として確立された「規律」である
とするなら、守るのが当然。
「規則」とは、ちがう。
「規律」とも、ちがう。
「基準」とも、ちがう。
道徳は、道徳。

しかしここで最大の疑問が生じてくる。
そも道徳なるものは、存在するのかという疑問である。

 わかりやすくするため、「道徳」を、「善悪判断」と
言い換えてもよい。
が、ここでも問題が生ずる。
「善とは何か?」「悪とは何か?」と。
またそれは教育によって、子どもたちに伝えられるものなのだろうか。
NG先生(元小学校校長)は、こう述べている。
「道徳の時間で道徳を教えていると、先生好みの、きれいごとばかり
並べる子どもが出てくる」と。

 つまりこう言ったり、書いたりすれば、先生が喜ぶだろうという意見や
解答を、先回りして子どもが発表したり、書くようになる、と。
また「そういう技術ばかり、先に身につけてしまう」(NG先生)と。
が、それでは道徳教育にならない。

●仮面

 が、さらに不都合なことが起きる。
見てくれの「善」を子どもに押しつけると、やがて子どもは仮面をかぶる
ようになる。
俗に言う、「いい子」ぶるようになる。
親の過干渉や過関心、あるいは過剰期待が強すぎても、子どもは、いい子ぶる
ようになる。

イプセンの『人形の家』の中の。「人形子」(後述、原稿添付)を、思い起こすまでもない。
つまり仮面をかぶることによって、本来の自分、もっと言えば、本来の子ども自身、
さらには本来の人間性まで、心の隅に押し殺してしまう。
それがいかに危険なものであるかは、ユングのシャドウ論を読めばわかる。
(シャドウ論については、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。)

●結論

 人間が、社会的動物として生きていくためには、「規律」は必要である。
それは当然であるとしても、しかしその規律は、絶対的なものではない。
臨機応変に、変化し、そのつど柔軟さをもっていなければならない。
が、さらに一歩進んで、「規律があるから・・・」という、規律依存型の
考え方から、「規律のあるなしにかかわらず、自らを律する」という、自立型の
考え方に進んでいく。

 それが「脱・規律」ということになる。
コールバーグが説いた、「脱・道徳」とは、ちがうものかもしれない。
本当のことを言えば、「道徳」でも、「モラル」でも、はたまた「Moral」でもよい。
コールバーグにこだわる必要はない。
私たちは私たち自身の頭で考え、行動すればよい。
自分で責任を取ればよい。
コールバーグの決めたことを、「規範」とするなら、それを超えた理論を展開する。
それこそがまさに、「脱・規律」ということになる。
(100426)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 脱規律論 脱道徳論 脱規範 道徳 道徳教育 コールバーグ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●人形子について

+++++++++++++++

●人形子(にんぎょうし)
08年6月の原稿より。

++++++++++++++++++++

A小学校のA先生と、電話で話す。
その中で、東京のA原で起きた、凶悪事件が、
話題になった。

あの事件を起こした男性は、中学生のころまで、
非のうちどころのない、優等生であったという。
成績は優秀で、まじめで、従順で……、と。

そんな男性が、トラックを借り、通行人の中に
突っ込んでいった!
何人かの人を殺した。

そんな話をしながら、私は「人形子」という言葉を使った。

++++++++++++++++++++

ペットというよりは、人形。
そんな子どもが、10人のうち、1〜2人はいる。
イプセンの『人形の家』にならって、私は「人形子
(にんぎょうし)」と呼ぶ。

できは、よい。
見た感じ、人格の完成度も高い。
ものわかりもよく、先生の指示に対しても、すなおに
従う。

やることに無駄がなく、ソツがない。
宿題もきちんとやってくる。
何か質問をしても、いつも模範解答が返ってくる。

先生「拾ったお金は、どうしますか?」
子 「交番へ届けます」
先生「自分で使ってしまう人もいますが・・・」
子 「そんなことをすれば、落とした人が困ります」と。

学習面でもすぐれている。
「あなたは家から帰ったら、何をしているの?」と
聞くと、「お母さんが買ってくれた、本を読んでいます」
などと答える。

そんなわけで、幼稚園でも学校でも、「いい子」という
評価を受ける。(・・・受けやすい。)

冒頭で、「10人のうち、1〜2人はいる」と書いたが、
もちろん程度の差もある。
もし基準をさげたら、10人のうち、2〜3人に
なるかもしれない。

が、反対に、「これではいけない」と思う子どもも、いる。
そういう子どもが、20人に1人とか、30人に
1人とかいる。

というのも、人形子になるには、ひとつの条件がある。
子ども自身、ある程度、できがよくなければならない。
できがよいから、親が、子どもの教育にますます
のめりこむ。

つまり子どもは、親の期待にこたえようと、ますます人形子に
なっていく。
「いい子」を演ずることによって、自分の立場を確保しよう
とする。
わかりやすく言うと、仮面をかぶる。
が、そのうち、その仮面をはずせなくなってしまう。
幼稚園や学校に教師に対しても、そうである。

こうして幼稚園の年長期を迎えるころには、独特の
雰囲気をもった子どもになる。

一口で言えば、子どもらしさそのものが、ない。
子どもっぽさを、感じない。
子どものはずなのに、妙に、おとなびている。
が、親は、そういう自分の子どもを見ながら、むしろ
できのよい子どもと思ってしまう。
反対に、そうでない子どもを、できの悪い子どもとして、
遠ざけてしまう。

親の過関心、過干渉、それに溺愛が混ぜんいったいとなって、
その子どもの世界を包む。
明けても暮れても、頭の中にあるのは、子どものことばかり。

「ゲームのような低劣なものは、家には置きません」
「うちの子は、受験勉強とは無縁の世界で育てます」
「歌は、プロの先生に指導していただいています」
「毎週、1冊は、本を読ませています」などなど。

「ある程度は、俗世間に融和させないと、お子さん
自身が、つらい思いをするのでは?」と、教師がアドバイスしても、
聞く耳、そのものをもっていない。

自ら厚いカプセルの中に入ってしまっている。
その狭い世界の中だけで、独自の教育観(?)を、
熟成させてしまっている。

「英語の先生は、ネイティブでないと困ります」
「理科教育は、何でも実験を先にしてから、教えてほしい」
「備え付けの楽器は、不潔だから、使わせないでほしい」などなど。

学校の教育についても、あれこれと注文をつけていく。

しかしこういう親が一人いるだけで、その教室の教育は
マヒしてしまう(A先生)。

では、どうするか?、・・・という問題よりも、そういう
親は、一度、先に書いた、イプセンの『人形の家』を
読んでみたらよい。

が、その程度ではすまない。
幼児期から、思春期前後まで、「いい子」で通した子どもほど、
あとがこわい。

何度も書いているが、子どもというのは、その発達段階ごとに、
昆虫がカラを脱ぐようにして、成長していく。
第一次反抗期には、第一次反抗期の子どものように、
中間反抗期には、中間反抗期の子どものように・・・。

非行が好ましいというわけではないが、非行を経験した
子どもほど、あとあと常識豊かな子どもになるということは、
この世界では常識。

(そもそも「非行」とは何か? その定義もあやしい?)

たとえば思春期前後から、はげしい家庭内暴力を繰りかえす
ようになる子どもがいる。

このタイプの子どもほど、それまで、「いい子?」だった
というケースがほとんどである。
だから子どもが家庭内暴力を繰りかえすようになると、
ほとんどの親は、泣きながら、こう叫ぶ。

「どうして?」「子どものころは、あんないい子だったのに!」と。

しかしそれは親の目から見て、「いい子?」だったにすぎない。

(以上、A先生の許可をいただき、A先生の話の内容を、
まとめさせていただきました。08年6月23日。)

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【引きこもりvs家庭内暴力】

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将来的に、引きこもったり、家庭内暴力を
起こす子どもというのは、その前の段階で、
独特の雰囲気を、もつようになる。

それについては、何度も書いてきたので、
ここでは省略する。

問題は、そういう雰囲気を感知したとき、
それをどこまで親に告げるべきか。
教師は、その問題で、悩む。

この段階では、たいていの親たちは、
「自分の子どもはできがいい」とか、
「うちの子にかぎって」とか思っている。
大半は、「私の育児のし方こそ、ぜったい」と
思っている。

思っているというよりも、信じている。
そういう親に向かって、「お宅のお子さんには
問題があります」などとは、言えない。
言ったとたん、親はパニック状態になる。
ついで、教師と親の人間関係は、終わる。

そんなわけで、たいていの教師は、「もしまちがっていたら・・・」
という迷いもあり、かたく口を閉ざす。

つまりここに書いた、人形子も、そうである。
人形子とわかっていても、それを口にするのは、
タブー中のタブー。

が、このタイプの子どもほど、思春期を迎えるころ、
はげしく豹変する。
年齢的は、12〜14歳前後か。

ふつうの豹変ではない。
ある日を境に、突然、狂ったように暴れだしたりする。
「オレをこんなオレにしたのは、テメエだア!」と。

中には、豹変しないで、人形子のまま
おとなになる子どももいる。
イプセンの『人形の家』の中の主人公が、
その一例かもしれない。

そういう意味では、この時期にはげしく親に
抵抗する子どものほうが、まだマシという
ことになる。
心の内にたまったエネルギーは、できるだけ
早い時期に吐き出したほうがよい。

が、反対に引きこもるタイプの子どももいる。
よく誤解されるが、引きこもるから暴力をふるわない
ということではない。

ちょっとしたことで錯乱状態になって、暴れたりする。

そこであなたの子どもは、どうか?

あなたの前で、子どもらしく、自由に、伸び伸び
しているだろうか。
言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。

もしそうなら、それでよし。
が、反対に、「うちの子は、できがいい」と思っているなら、
ここに書いたことを、もう一度、読みなおしてみてほしい。

子育てというのは、自分で失敗してみて(失礼!)、
はじめて失敗と気づく。
これは子育てそのものがもつ、宿命のようなものかも
しれない。

賢い親は、それに事前に気づき、そうでない親は、
失敗(失礼!)してから、それに気づく。
(「失敗」という言葉を使うのは、好きではないが・・・。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 自分を演ずる子ども 仮面をかぶる子供 仮面をかぶる子ども)


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